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2009
07.31

大日如来像の到着

Category: 本堂建立計画
 7月30日、大日如来像が到着しました。
 お座りになる蓮華座の上と下、光背、それに本体です。
 それぞれ、屈強の男が約20人がかりでやっと動かせるほど重く、仮置きするまでに半日以上を要しました。

 降水確率が午前、午後共に60パーセント、特に午後からは大きく崩れるという予報にもかかわらず、雨はほとんど降らなかったので、無事、堂内へ運び込むことができました。
 特に高さ3メートルにもなる本体の木枠を解体した時は、青空から陽光が射し、先に解かれ梱包材にくるまれたままの巨大な光背を白く輝かせたので、皆が驚きました。
 後にも先にも、青空がのぞいたのはこの一瞬だけでした。
 皆さんはご加護を信じ、とても困難な人力だけの移動と組み立てに挑戦しました。
 ミリ単位で何度も動かし、おかげさまで台座の位置は決まりましたが、頭の高さほどもある台座へどうやって本体を載せるかは難題です。
 しかし、手をかけるのは宮大工さんなどのチームです。
 工夫をこらして道具や台を作り、必ず完成させてくださることでしょう。

 この段階までに、地域の方々が代わる代わる様子を見にこられ、遅い夕食を作るために立ち寄った生協では、見知らぬ方から「もうすぐですね。がんばってください」と励まされました。
 お大師様は、高野山を開くにあたり、諸天善神によるご加護を祈りました。
 山や自然に宿る自然神も、長く祀られて神となった祖霊神も、共に仏法の行われる場を護り、今日に至っています。
 当山が、壇信徒だけでなく幅広い方々から期待されているのは同様の加護力がはたらいていることであり、ありがたくてなりません。
 
「南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛」

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2009
07.30

『四十二章経』第十四章 ─智慧の光─

 今月も、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと『四十二章経』を学びました。

仏の言(ノタマ)わく、
『夫(ソ)れ道(ドウ)を為(ナ)す者は、譬(タト)えば、炬火(コカ)を持ちて、冥(クラ)き室の中に入るに、其(ソノ)冥(ミョウ)即ち滅して、而(シカ)も明(ミョウ)のみ猶(ナオ)在(ア)るが如(ゴト)し。
 道(ドウ)を学び、諦(タイ)を見れば、愚癡都(スベ)て滅す。
 見ざること無きを得るなり』



 釈尊は言われました。
「仏道を歩む者は、松明を持って暗い部屋へ入ると暗さはなくなり、明かりだけがあるような日々となる。
 仏道を学び真理を知れば、愚かさはすべて滅する。
 見えないものはなくなるのである。」

 仏法道理によって万人が理解できる真理に立ち、真実を観る心眼を得る教えです。
 道理を用いてよくよく考えれば、縁となった教えは誰にでも理解できるはずです。
 教えにある智慧は松明のようなものです。

 たとえば、自分を裏切った相手を怨み、怨む相手の不幸を願う自分の心が嫌になっていたとします。
 そこで釈尊の説く教えを知ったとします。

怨み怨まれる関係をなくすには、自分の心から怨みをなくすことである」


「そうか!」と膝を叩ければ、澱のように溜まっていた怨みがたちまち薄れてゆくことでしょう。
 そして、心を変える訓練をすれば、まるで蜃気楼が消えるように怨みはなくなります。
 智慧の明かりによって怨みという暗さがなくなり、〈常にあるのはただ明かりだけ〉といった状態になります。

 智慧は、私たちが生まれながらにして持っている霊性の光であり、作ったものでも、借りたものでもありません。
 その光は大日如来の光であり、すべてを余すところなく照らします。
 だから、暗くて見えないものはなくなります。
「見ざること無きを得るなり」です。

 ただし、ここで言う「見る」とは、肉眼で針の穴を見て糸を通すような意味での「見る」ではありません。
 いわば「正確に知って、誤りない判断ができる」といった状態です。
 たとえば、私たちが心の揺れに耐えきれなくなり、誰かに相談したくなったとします。
 その相手はどういうイメージの人でしょうか?
 決して〈もの知り〉ではなく、〈信頼のおける人物〉に違いありません。
 その信頼は相手の人間性への確信に基づいています。
 一つは、「私の心をきちんと理解してくれること」であり、もう一つは「私の立場に立った最善の道を考えてくれること」です。
 まさに「正確に知って、誤りない判断ができる」状態です。

 み仏の教えは真実世界に生きるための道しるべです。
 互いに信頼できる同士が共に陽光に照らされた大道を歩めるよう、学び実践しようではありませんか。



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2009
07.29

『法句経』物語 13 慈仁品(ジニンボン)第七 (第二話 後編)

法句経』のお話です。

 釈尊は王様へ告げました。
「よく聴きなさい。
 穀物を得ようとすれば、その穀物が実る種を植えねばなりません。
 大きなを得ようとすれば、布施を行わねばなりません。
 長命を得ようとすれば、広く慈悲を施さねばなりません。
 智慧を得ようとすれば、学問を行わねばなりません。
 この4つを行えば、それぞれ、植えた種を因とした果が得られます。

 そもそも、のある貴人の家では、貧しく賤しい人々の食事と同じものを食べません。
 同じように、神々は七宝によって造られた宮殿に住み、衣食は思いのままです。
 どうして甘露のような食事をせず、粗末で穢れたものを食べましょうか。

 あなた方は、乱れた欲望による穢れたものをもって神々を祀り、邪を正としています。
 殺生を因として生命を求めても、生命から離れるばかりです。
 多くの生命を奪いながら一人の生命を救おうとするのは誤りです。
 貴方の願いは叶わないのです」

 そして、釈尊は詩をもって説きました。
「もしも百歳になるまであらゆる神々に仕え、像や馬などを捧げて祀ろうと、たった一つの慈悲ある行為の尊さにも及ばない」

 釈尊は詩を説きつつ光明を放ち、激しく天地を照らしました。
 地獄にいる者も、常には正しい法を聴けない者もすべて歓喜しました。
 皆それぞれに救われ、王様は黙って妙なる法を聴き、光明を観て大いに歓喜し、たちまちアラカンの悟りを得ました。
 法を聴いた病気の母親はあらゆる感覚が悦びで満たされ、快癒しました。
 二百人のバラモンたちは、み仏となった目映い姿を目にし、重ねて教えを受けたので慚愧し、過ちを悔い改めて「弟子にしてください」と申し出ました。
 釈尊は全員を弟子とし、バラモンたちは出家修行者になりました。
 王様も家臣たちも釈尊を供養し、一ヶ月にわたって教えを受けました。
 仏法によって政治が行われた国は、ついに興隆しました。



 釈尊は、因果応報を説かれました。
 善なる願いを叶えたいならば、善なる行為をせねばなりません。
 特に、「が必要ならば布施を行う」、「自分が長生きしたいならば、他の生きものに慈悲をもって接する」は肝に銘じておきたいものです。
 因縁の糸はあらゆるものをもらさず、他へ思いやりをかけない者が自分だけ思い通りに得られることなどありません。
 一時的にそうなるように見えても、自他を生かす真実のや真実のいのちは決して得られません。
 布施を行う人は、行わない人の何万倍もの価値を知り、慈悲心の深い人は、慈悲心の薄い人の何万倍もいのちの価値を知っています。
 いのちも〈幸・不幸〉と密接につながっており、計量する絶対的な尺度はありません。
 布施慈悲は、確かに、富といのちをもたらすのです。

 また「多くの生命を奪いながら一人の生命を救おうとするのは誤りです」も忘れられない教えです。
 この問題は改めて考えてみましょう。



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2009
07.28

平成21年8月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 平成21年8月運勢を記します。
 今月は、難事に難事が重なる場合を想定し、希望的観測でなく、しっかりした見通しと不屈の信念をもってことに当たるべき時期です。
 水はいかなる場合も「低きへ流れる」という本性を変えません。
 時には窪地に溜まり動けなくなってしまいますが、雨が降って溢れれば必ずまた動き出します。
 それと同じように、あるいは壁にぶつかり、あるいは落とし穴にはまっても志を失わず、魂を腐らせず干涸らびさせない意志力が必要です。

 当山の信徒さんにA先生がおられます。
 声楽家を目ざしていたA先生は大学でも海外でも頭角を現し、招来を嘱望されていたにもかかわらず、不慮の病気で声帯をやられてしまいました。
 四国八十八霊場を巡拝して覚悟を決め、高校へ奉職しましたが、進学校ゆえの悲哀で、音楽の授業はあまり認めてもらえません。
 それでも生徒を引き連れて病院や各種施設を慰問するなど信念をつらぬき、現在は大学で教壇に立っておられます。
 A先生にとって、いかなる状況下にあっても音楽がいのちの泉だったのでしょう。
「四国では、何度、お大師様にお救いいただいたかわかりません」と言われるA先生。
 きっと、音楽という宝ものから流れる水が途切れそうになった時、お大師様がつなぎ続けてくださったのでしょう。

 こうした時期には、過去に学ぶ謙虚な姿勢と人の性根を見分ける力も肝要です。
 水の時期を守る守本尊千手観音様と、水を温める火の守本尊勢至菩薩様が、その智慧を授けてくださいます。
 自分の発想がひとりよがりではないか、先徳の方々は難関をどうして乗り越えられたのか、いまだ〈無〉である未来からは、そうした問いに何の答も返ってきはしません。
 私たちが学び得る対象は過去にしかありません。
 思い込みにとらわれず、お告げによる妄想に惑わされず、澄んだ道理を持って歴史に学び、ご先祖様を供養してご加護をいただきましょう。

 また、今月は、二種類の人々との縁ができやすいものです。
 一つは「同類」です。
 自分で泳げ、なおかつ、他を救う能力があるならば溺れている人を泳いで救おうとしても大丈夫ですが、相手の状態と自分の状態を両方ともきちんと把握してかからなければ、危険千万です。
 情は確かに、失ってはならないものです。
 しかし今は、決して情に溺れてはなりません。
 自分のためにも、もちろん、相手のためにもならないのです。
 もう一つは「肝胆相照らす仲」です。
 それは「同類」である場合も、そうでない場合もあります。
 いずれにせよ、相手を利用しようとする心が一分もなく、相手を認め、尊び、共に同時代の空気を呼吸していることがありがたくてならないような気持になり合っている同士。
 こうした相手に巡り会えれば最高です。

 今月の守本尊大日如来様ですが、「ここはどうしよう」という場面では千手観音様と勢至菩薩様へも祈り、お智慧とご加護ををいただきましょう。

 さて、今月は水難への備え、集団で高所や閉所へ行く場合の注意も怠ってはなりません。
 皆さん元気で過ごされ、開運の一ヶ月となりますよう。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。
布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は苦労しても正しさを忘れず、人の輪が生きて安泰です。
 不精進の人は私利私欲に駆られて無理や無茶へ走り、失敗しがちになります。
[持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は一条の光が行く手を照らし、親和を得られます。
 不精進の人はうまい話や扇動に乗せられて空騒ぎし、骨折り損になりがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は悪縁を離れ、螺旋を描いて上昇します。
 不精進の人は何度も同じ失敗をくり返し、泥沼にはまった状態になりがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は積んだ陰徳が認められ、困難を克服できます。
 不精進の人は調子に乗って肝腎なものを忘れ、モノも人も失うことになりかりがちです。
禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は準備万端怠りなく、新しい力をも得て、しっかり前進します。
 不精進の人は一気に進もうとして不毛の争いを起こしがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は抱えていた問題をきれいさっぱり解消します。
 不精進の人は八方が塞がり、無理な悪あがきによってますます困窮しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



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2009
07.28

両部マンダラ

 托鉢護摩行に明け暮れた日々、護摩壇の正面にあってお導きくださったのは高野山で求めた金胎両部マンダラでした。
 幅80㎝、丈160㎝の掛軸は熱によって激しく捩れ、煤によって、み仏のお姿が判別できないほどになりました。
 後、大日如来や不動明王の尊像をお祀りできるようになったので外し、大切に保管していましたが、今回、額装して講堂へお祀りしてはどうかという話が持ち上がりました。
 さっそく表具の技術を持つ信徒Kさんへご相談申し上げたところ、「材料の原価だけの請求という条件で、ぜひ、やらせてください」と望外の申し出をいただきました。

 しかし、完成間近の現場を眺め、すさまじい状態の現物を持ち帰ったKさんは、翌日、一時間半以上もの道のりを運転し、再び来山されました。
 ご自身にとってあまりに荷が重いと感じられること、掲げる現場が完成し、堂内の様子をよく観た上でなければいかなるものを創れば良いか判断がつかないこと、以上の二点により、一旦、返却すると言われます。
 Kさんは、以前、当山で念写によって乾板へ現れたお大師様のお姿を見ておられ、お大師様を深く念じ、とうとう念写した人のような思いに近づくことができなければ手がけられないとも言われます。
 娑婆の方の深い気持に、しばらく言葉が出ませんでした。
 これほどの方が、田舎町で普通に生活しておられるのです。
 私たち、袈裟衣をまとう者は己を鑑み、素直に頭を垂れ、奮起せねばなりません。

 Kさんにこそ、ぜひ制作をお願いし、その心で永久に講堂を見守っていただきたいと願っています。

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2009
07.28

草刈りが終わりました

 7月26日午前、思いがけぬほどの好天に恵まれ、善男善女十七人によって、無事、草刈りを終えました。
 とにかく境内は地く日差しが強いので、皆さん相当に苦労されましたが、参道などが見違えるほどきれいになりました。
 幸いにして具合を悪くする方もおられず、お昼は一緒に弁当を食べていただいたので、とても安心しました。

「冷たいものでも用意してください」と差し入れをしてくださったAさん、「用があるので」と早朝、奥さんと一緒にこっそり草取りをしてくださったBさん、「残念ながら参加できません。皆さんによろしく」とご連絡をくださった方々も含め、壇信徒の皆さん、本当にありがとうございました。

 私たちは、普段、「世間八法」を基準にして行動する場合が多いものです。
 それは、「①利得 ②損失 ③称賛 ④非難 ⑤名誉 ⑥不名誉 ⑦楽 ⑧苦」です。
 得をし、評判が上がり、楽ができれば一番良いと考えます。
 しかし、ご本尊様のため、御霊のため、寺のため、ご先祖様のためという気持だけで炎天下に身をさらす時、さまざまな形で協力を行う時、あるいは遠くから善行へ思いを寄せる時、そうした〈勘定〉は消えています。
心の訓練』にある「執着がなくなり、捕らわれの状態から解き放たれますように」が実現されています。
 参加し、一緒にお茶を飲みお弁当を頬ばる皆さんの顔が輝き、感謝しながら思い出すAさん、Bさん、励ましのご連絡をくださった皆さんの顔も輝いています。

 あの尊い数時間は、〈即身成仏〉も〈この世の極楽〉も実現していました。
 あらためて感謝申し上げます。



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2009
07.27

落慶法要について

 8月8日、大日如来の縁日にご本尊様を講堂へお移し申し上げ、寺務所も移転します。
 落慶法要開眼供養会は8月23日ですが、先行して講堂での修法が始まります。
 現在の大日如来や不動明王などのみ仏方は、魂抜きをせず移動、安置するので、法務にまったく支障はありません。
 
 さて、「法楽寺は独立した宗教法人なのに、なぜ、本山から導師や職衆をお招きして法要を行うのですか?」とのご質問が複数あったので、お答えしておきます。
 そもそも僧侶は行者であり、修行し、会得した法を結んで生きる者です。
 医学を学び研鑽を重ねて執刀医となる外科医などと同じです。
 実際にメスで患部を除去するように、葬儀で引導を渡す際はもちろん、位牌への魂入れも、厄払いや地鎮祭も、すべては法力によって行います。
 この法力は、法力を動かせる師から伝授された次第を信じ、血肉としない限り如何ともできません。
 堂宇が完成し新たなご本尊様をお迎えするという寺院にとって普通は数十年、あるいは数百年に一度の慶事にあたり、行者としてのいのちをいただいた〈法の親〉をお招きしてお導きいただくのは当然です。
 その際、本山のご本尊様を供養し、新たな袈裟などをお納めして導師方をもご供養申し上げます。
 餓鬼界へ堕ちた母親を救う方法を訊ねたモクレン尊者は、釈尊から「衆僧を供養して修法してもらいなさい」と指導され、お盆の法要が始まりました。
 み仏と法力でお導きくださる方々を信じ、供養し、まごころを尽くしてこそ、祈りは仏界へ届きます。

 皆さん、ご都合がつくならば、体調が大丈夫ならば、ぜひ参列し、共に祈ってください。(特段のお布施依頼は行っておりません)
 当日が仏滅であることを気にする方がおられるかも知れませんが、人は仏滅にも生まれ大安にも亡くなるので、仏法上、六曜はまったく問題にしておりません。
 もちろん、密教の判断法により最良の日を選んでありますので、心配はご無用です!



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2009
07.26

『法句経』物語 12 慈仁品(ジニンボン)第七 (第二話 前編)

法句経』のお話です。

 昔、辺境の大国に王様がいました。
 仏法僧による救いを知らず、み仏の教えではない宗教や怪しい呪いを尊び、国を挙げて邪道を奉じ、殺生した生きものたちを捧げて祭祀していました。

 ある時、王様の母親が病気になり、寝込みました。
 医者に薬をもらい、病気を治す女性に看護させましたが何年経っても癒えません。
 そこで、国内のバラモン200人を招いて供養し、告げました。
「私の母親は病気に苦しむようになって久しいが、原因が分かりません。
 智慧のあるあなた方は人相を観たり、星宿を観たりして判断できるはずです。
 いったい、いかなる問題があるのか教えてください」
 バラモンたちは言いました。
星宿の運行に異変があり、陰陽のバランスが崩れたことによります」
 王様は言いました。
「それでは、どんな方法で問題を解決し、苦しみを除くことができるのですか?」
 バラモンは答えました。
「城外の清浄な場所を選び、周囲の山々や日月星宿をお祀りしなさい。
 さまざまな種類の畜生百頭と一人の小児を殺し、天に捧げなさい。
 王様は自分でそこへ母親と一緒に行き、跪いて礼拝し、身代わりになることを請い願いなさい。
 そうすれば快癒します」
 王様は、たちまちそのとおりに実行しました。
 つかまった像や牛や馬や羊やそして子供は、天地が振動するほどの悲鳴を上げました。
 そして、東の門に集まった一行は、祭壇へ行って天を祀るための殺生を始めようとしました。

 大慈悲をもって普く生きとし生けるものを救う釈尊は、王様の頑なで愚かしいことを憐れみました。
「なぜ彼は悪心をもってたくさんの生きものを殺し、たった一人を救おうとするのだろう。
 こんなことをさせておいてはならない」
 そこで釈尊は大勢の人々と一緒にその国へ出向き、東の門で王様やバラモンたちと会いました。
 畜生たちは悲鳴を上げて釈尊のそばへ行こうとしました。
 遠くから釈尊を眺めた王様の目には、まるで見たことのない太陽が昇り、満月が皓々と輝いているようです。
 その光るお姿は、あらゆるものを隈無く明らかに照らし、天地すべてが輝きました。
 誰もが釈尊を敬愛し、捧げられようとしていた畜生たちも皆、おすがりしました。

 釈尊のそばへ進んだ王様は車から降り、跪いて礼拝しました。
 釈尊は座るように命じ、問いました。
「どこへ行こうとしているのですか?」
 両手の指を合わせて組んだ王様は答えました。
「私の母親が病気になって久しいのですが、近くには良き医者も霊験ある神様もいません。
 今、始めてでかけ、星宿や山々を礼拝し、神々を祀ってお祓いをするところです。
 母親のために身代わりになっても救いたいと願っています」





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2009
07.25

7月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

梅雨暗し合はぬ眼鏡をはめはずし


梅雨暗し」は、梅雨どきの厚雲のせいで昼間なのにほの暗い様子である。
 そこで眼鏡をかけるわけだが、度数が合わないにもかかわらず、はめてみたり外してみたりするところにおかしみがあり、そうせざるを得ないほどの暗さが実感される。
 深さのある句である。

水無月(ミナヅキ)やバラード流す昼ラジオ


水無月」は旧暦六月の異名であり、現在は新暦の六月を指すようになった。
 いずれにしても、梅雨の時期である。
 どんよりした空の下では雨が降ろうが降るまいが心の動きが遅くなり、身体も連動する。
 ラジオから流れるバラードはそうした気分を助長する。

カレンダー剥げば七月海溢る


 月ごとにめくるカレンダーを剥がす。
 そこには明るい太陽のもとで輝く海がある。
「溢る」は一直線で鋭い。
 いや、もしかすると海は描かれておらず、うっとうしい思いでカレンダーをビリッとやった瞬間に海を感じたのかも知れない。
 何しろ大暑・小暑だから……。

七月の碧空奪ふ迷ひ雲


 雲は天空のどの位置にあってもほぼ同じ動きをする。
 しかし、時に、そうした群れとは別の動きを見せる雲がある。
 それが迷い雲である。
 梅雨の晴れ間に現れた碧空に気持も晴れ晴れしている時、どこからか迷い雲が視界へ乱入してきた。
 奪われたのは気分である。

青嵐(アオアラシ)雲小気味よく走るかな


青嵐」とは、青葉の輝く初夏の風である。
 陽光が眩しく風の強い日、空を見上げると素早く雲が走って行く。
 小気味よい。
 昭和四十八年、若手議員三十一名が血判状を作り「青嵐会(セイランカイ)」を設立した。
 趣意書の「一命を賭して、右、実践する」はいかにも青嵐である。

目玉焼黄身こんもりと梅雨籠り


 目玉焼きを作る。
 上手にできた。
 黄身はちょうど良い具合にこんもりとしており、しばし、視線が奪われる。
 こうした小さな事象に気持が収斂するのは、家に籠もっているからである。
「こんもり」と「籠り」がつながっている。
 黄身と気象。
 点は三次元に広がる。

梅雨深し手紙一通書きかけて


 雲が厚くなる。
 雨が続く。
 いつまでも太陽が見られない。
 いたるところで湿気が感じられる。
 外出が億劫になる。
 家でじっとしてばかりはいられず友人へ手紙を書こうとしてペンを取る。
 しかし、書きかけたものの、記すべき内容が溢れてこない。
 気持が沈んでいる。

雨の日は雨の色して金魚玉


 金魚玉とは、金魚を買った際に用いる丸いガラス製の入れ物である。
 風鈴を逆さにしたような器の紐を持ってぶら下げ、帰宅して金魚鉢や池に放す。
 ビニール袋によって駆逐された。
 その金魚玉へ雨の気配が映っているというのである。
 観る眼の違いに驚くしかない。

打水(ウチミズ)もなくて団地の夕暮れは


 玄関先や道路へ水を撒く打水は、ゆかしさを伴う夏の風物詩である。
 客商売の店先などではよく見られるが、一般住居においてはあまり行われていない。
 撒いている場面に出くわせばなお一層感興が起こり、涼しくなったようなホッとした気持にさせる。

梅雨ごもりますます忘れぐせが付き


 雨が降り続き、家へ籠もってばかりいると、何をするということもないままに一日が過ぎてしまう。
 ふと、何かを思い出そうとして、なかなか思い出せない。
忘れぐせがついたか……」と苦笑するが、どうする手だてがあるわけでもなく、どうこうしようとも思わない。



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2009
07.24

兼業・戒名料・入檀料について

 勉強会での質問です。
「お寺さんは収入が安定していないから、お葬式の時に戒名料などたくさん請求するんでしょうね?」
「今は多くの住職が他所ではたらきながらお寺を維持しているようですが、兼業せねばならないほど大変なのですか?」
「主人が急逝してしまったので近くのお寺へ駆け込んだところ、『檀家にならないと枕経ができない』と言われ、多額の入檀料を請求されました。今でも納得できません」

 こうした問題はすべて、二つの原因がもたらした寺院衰退の相です。

(1) 一つは、「僧侶は行者であり、ご本尊様を信じて供養し修法し修行して生活すれば、必ず生かしていただける」という信念の欠如です。

 何もなく、托鉢から始めた当山は、当初、食うや食わずの生活でした。
 救いの手を差し伸べてくださる方があって、娑婆の仕事と修行の二足のワラジを履いた時期もありましたが、仕事は失敗し、修行も堕落し、さんざんな結果になりました。
 もちろん、私自身の精神と能力が至らないためでしたが、修行を離れた収入を得るための〈はからい〉がいかに修行をダメにするか、その恐ろしさが骨の髄まで染み込みました。
 それ以来、托鉢護摩行と隠形流居合と人生相談のみの生活へ戻り、家計をきりもりする妻へはとてつもない苦労をかけましたが、どうにか現在に至っています。
 この過程で教えていただいたこと、それは、「み仏は、祈る者を決して見捨てない」という真実です。
 そもそも出家得度して一行者になった以上、信念をもって修行と法務を行っていも誰一人お布施をくださらなくなったなら、それは〈それまで〉ではありませんか。
 四国八十八ヵ所へ巡拝にでかける時、修行に専念し、途中で倒れたなら〈それまで〉という覚悟を決めて白装束をまとうのと同じです。

 収入が不定期であることを怖れては行者として徹底できません。
 そして、生活が苦しくなり、「誰か亡くなってお葬式の依頼がないかなあ」と思った瞬間、僧侶としての資格を失うことも肝に銘じておかねばなりません。
 最近は、お葬式を堂々と商売にする僧侶すら現れました。
 心ある娑婆の方々が「寺院離れ」を起こすのも当然です。

(2) もう一つは、寺院が、葬儀や年忌供養などの弔いに関する法務以外ほとんど行っていないことです。

 そもそもお寺は教えを学び実践する修行の場であり、救いを求める方々の願いを自分の願いとししつつ修行と修法を行ってこそ、行者はそこで生きる資格があると言えます。
 お大師様は「行者は修行し、娑婆の方々は支え、両者共に寺院を維持する菩薩である」と説かれました。
 だから、当山は、人生相談を行わない寺院はあり得ないと考えています。
 救いを求める方々へ扉を閉ざしてはならないのです。
 たとえ行者は未熟でも、ご本尊様を信じて扉を開けば必ず救いを求める方々が現れ、法話であれ、祈祷であれ、供養であれ、それによって救われた方々は必ず寺院を維持してくださるものです。
 そして、多様な悩みへ直面し呻吟する以上の修行はなく、行者としての能力も、僧侶としての人徳も、そうした〈現場〉でこそ磨かれます。
 どんなに大きな本山でどんなに厳しい修行をしたとしても、それは野球のバッターが黙々と素振りの練習をするようなものです。
 試合でピッチャーと真剣勝負する以上、得るものの大きな機会はありません。
 イチロー選手が練習を誇ったことがありましょうか?
 イチロー選手の値打ちはグラウンドを通じてしか発揮できません。
 こうした〈現場〉がなく、他人の不幸があった時に崇め奉られるだけの日々では、行者としての向上は難しくなるのではないでしょうか。

(3) 最後に指摘せねばならないのは、寺院や僧侶へ疑問を抱き不満を持ったならば、放置してはならないということです。

 政治家の質が選挙民の質を反映しているのと同じであり、寺院や僧侶にしっかりして欲しいと願うならば、信念を持って投票するように、具体的な行動を起こさねばなりません。
 壇信徒以外、寺院を向上させ、存続させる立場と力を持った存在はないのです。
 たとえご先祖様を預かっているからといって寺院へ遠慮する必要はなく、むしろ大切なご先祖様を預かっている以上、「ご先祖様のためにも問題は見捨てておけない」と考えるべきでしょう。

 行者の信念と壇信徒の方々の信頼とが一本の太い糸になり、しっかりした未来を紡ぐ寺院が増えるよう祈っています。
 


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2009
07.23

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 33 ―人生を棄てるなかれ─

 7月22日は『法句経』の「安寧品(アンネイボン)」第二十三についてお話しました。

寿命は鮮少(センショウ)なるに、而(シカ)も、世の多くは棄つ。
 学してまさに要を取るべく、老に至って安からしめよ」


寿命はわずかばかりなのに、多くの人々は空しく過ごしてしまう。
 仏法を学んで人生の真実を会得し、老いては心安らかでありたい)

「棄つ」は非常に激しい表現です。
「限られた貴重ないのちをまるでドブへ棄てるように空しく浪費していて、悔いはないか!」という叱責であり、問いかけでもあります。
 そして、老いて心安らかに過ごしたいと願うならば、元気なうちに仏法を学び、人生の要諦をしっかりつかんでおかねばならないと説きます。
〈人生50年〉の時代が、今はどんどん〈人生100年〉の時代へと向かっています。
 夢中ではたらく時期はあっという間に過ぎ去り、24時間の過ごし方を毎日考えねばならない人生があと半分残ります。
 老後はたちまちやってくるのです。
 そこで老苦と病苦、そして孤独のみを相手にせねばならぬようでは、いかにも寂しいではありませんか。
 老苦と病苦と死苦は宿命であり、人生の終盤になれば避けるべくもなく必ず襲ってくる魔ものです。
 それまでに怨憎会苦(オンゾウエク…憎い者とめぐり会う苦しみ)や愛別離苦(アイベツリク…愛する者と別れる苦しみ)や求不得苦(グフトクク…求めるものが得られない苦しき)や五蘊盛苦(ゴウンジョウク…身体があるがゆえの苦しみ)などの魔ものに翻弄されたままの生き方をしていれば、残りの魔ものに勝てようはずはありません。

 み仏の教えは真理に拠り、真実を観る眼を開かせ、「要を取る」生き方を可能にさせます。
 釈尊の問いかけへ応えるかどうかは、心一つです。
「棄つ」ことなく、充実の人生を生きようではありませんか。



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2009
07.22

幻の『ル・ブルー&ひとつぶカフェ』

 二日間だけの限定喫茶店が開かれました。
 平成20年8月に閉店した『ル・ブルーひとつぶカフェ』さんです。

 かなり日が陰った閉店間際にかけつけ、クリスタルボウルを聴いた後で、時ならぬランチを出していただきました。
 佐藤さんが橋里佳さんと共に腕をふるった力作は、とても力があり、唸らされました。
 すべてを植物性のもので仕上げたとはとても思えません。
 新日鉄が開発したという肉のような食感のある豆料理には、心底、驚きました。
 あまりにも手が込んでいる様子に、客であることを忘れて「これでは成り立たないんじゃないですか?」などと余計な心配をしてしまいました。

 ラックスの真空管アンプで駆動される小ぶりで控え目なスペンドール製のスピーカーは上質なジャズを流し、気配りの届いた部屋の照明効果とあいまって、緩やかな時の流れを演出していました。
 願わくば、常設の喫茶店ができますよう。

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2009
07.22

十三仏様のご加護

 枕経から初七日までを守る不動明王様を初め、十三仏様それぞれがくださる冥加を信じ、修法の法力を信じればこそ、年忌供養などが可能になります。
 以下、経典を読誦し修法を重ねるうちに掴みつつあるご加護のイメージです。
 御霊が安らかであり、祈る方々も魂が浄められ、転迷開悟因縁解脱となりますよう。

[ご守護のイメージ]

1  不動明王 初七日…………結界
2  釈迦如来 二七日…………真理
3  文殊菩薩 三七日…………空
4  普賢菩薩 四七日…………慈悲
5  地蔵菩薩 五七日…………道標
6  弥勒菩薩 六七日…………梯
7  薬師如来 七七日…………法薬
8  観音菩薩 百か日…………蓮華
9  勢至菩薩 一周忌…………威勢
10 阿弥陀如来 三回忌………極楽
11 阿閦如来 七回忌…………転生
12 大日如来 十三回忌………光明
13 虚空蔵菩薩 三十三回忌…無尽蔵



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2009
07.21

議員報酬と「おかげさま」

 久方ぶりに、県議会の長老Aさんと多少話をすることができました。
 仕事上、会話のチャンスがどうしても悲しい席になる場合が多いのは、やむを得ません。
 故人が明るくハイパワーのスポーツマンだったので、お集まりの方々もご遺族も武勇伝の思い出などに花を咲かせておられ、いろいろな話題が飛び交いました。

 いつも誠実なAさんの〈訴え〉は、想像を遙かに超えた重みで迫ってきました。
議員報酬必要経費とのバランスがとれず、このままでは、優秀な人材が政界へ入ってこなくなります。
 他に収入のある人しか、安心して議員になれません」
 資産家でありながら派手な生活をせず、何でも自分でやってこられたAさんの真摯な仕事ぶりを知っているだけに、状況はかなり深刻なものであろうと推測しました。

 以前、議員Bさんからも同じような本音を聞かせていただきました。
「このままでは、若く、自分のすべてを公のためにかけよういう志の高い議員がいなくなるでしょう。
 ある程度の仕事をしてきた年配者や、他に収入源のある人でなければ、議員になどなりません。
 事実上、なれません。
 だから、議員数をカットしてでも一人当たりの年収を上げねばならないのですが、議員バッジをつけていながらこうした主張をするのには、かなりの勇気が要るのです」

 Aさんから、具体的に年収と手取りを教えていただきましたが、それは書けません。
 ただ、いかに厳しい経済情勢であるとはいえ、私たちがより良い社会になって欲しいと願って活動をお願いする議員の方々には他のことに脇目もふらずに仕事をしていただけるよう、しっかりした環境整備をすべきであると、強く確信しました。
 選挙民は、議員さん方へ実にさまざまな注文を出し、時には、「いつまでもやってくれない」と文句も言います。
 聞き、調べ、考え、動く議員さんの時間の多くはこうした選挙民のために費やされているのに、収入は銀行の支店長以下です。
 各種経費は厳しくチェックされ、アリの這い出る隙もないほど監視の目が周囲を見張っている現状は、過酷過ぎると言えないでしょうか。

「庶民が苦労しているのだから、議員も役人も、無駄をもっとなくすよう努力すべきである」との主張は、正しさに疑いがありません。
 しかし、選挙民が、「私たちがバッジをつけさせてやったのだから、言う通りにはたらいて欲しい」と要求するだけではいかがなものでしょう。
 私たちの身代わりとなって、私たちの理想を実現するためにご自身の人生をかけてくださる政治家の方々へ、「どうぞ、安心して存分にはたらいてください」と、せめて、それなりの企業の役員報酬程度はお渡ししても良いのではないでしょうか。
 おかげさまという感謝をもって遇してこそ、はたらく側もやりがいが出ることでしょう。
 税制を変えたり、ネット募金をやりやすくするなど、政治献金が集まりやすくするのも焦眉の急です。

 批判はたやすく、批判される立場に立ってみるのは難しいものです。
 どうしても世襲に偏りがちな政治風土を変えるためにも、地盤・看板・カバンに関係なく優秀な人材が政界を目指せるよう、選挙制度と共に議員報酬政治資金の規正などについても冷静な議論を行うことが必要です。
 それが代議制民主主義の筋というものではないでしょうか。



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2009
07.20

酒と戒律の話

 愛称「トラさん」が逝かれ、お送りしました。
 この世とあの世の境目をきっちりとつける引導を渡す前に、戒律をお授けします。
 「不殺生・不偸盗(フチュウトウ…盗まない)・不邪淫・不妄語(フモウゴ…ウソを言わない)・不飲酒(フオンジュ…酒を飲まない)」
 仏法の戒律には『十善戒』など何種類もありますが、ここでは『五戒』を用いることになっています。

 さて、大問題があります。
 トラさんは無類の酒好きで、数知れないほどの武勇伝が遺されているからです。
 昨夜のお通夜では、供養膳を前にしたほぼ全員が、エピソードを語り合いながら故人を偲んでいました。
 仏前には小さな酒の瓶も供えられています。

 もちろん、戒律は絶対です。
 しかし、『五戒』に入っている不飲酒の戒めは『十善戒』に入っていません。
 不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語までは、どちらも共通しています。
 そうすると、不飲酒の戒めは酒そのものを悪と断ずるのではなく、『十善戒』における残りの6つが飲酒によって破られがちであることを戒めたと解釈できます。
 「そうした解釈は詭弁だ。ダメなものはダメ」とする考え方もあり、私自身、還暦以来、酒は何かの場合しか口にしないことに決めました。
 でも、トラさんへは、「この世でさんざんやらかしたのだから、み仏のもとへ歩む道程では、やたらに貪ったり怒ったりしないよう、ほどほどにしておいてください」と呼びかけることが許されるのではないでしょうか。

 歌と踊りと酒は、人間の歴史が始まって以来、離れたことはないとされています。
 ずうっと一緒なのは煩悩と同じです。
 歌って踊って飲むことが煩悩の手引きによって苦を引き起こすか、それとも智慧に導かれて苦を離れさせるかは、自分の心一つです。
 酒は毒になり得る一方、薬ともなり得ます。
 理趣経に説くとおり、真実世界の眼で観れば、すべては清浄なのです。

 さて、皆さん、ビールの季節をほどほどに楽しんでください。
 老婆心ながら、酒に酔って破られがちな6つの戒めを書いておきます。
不綺語(フキゴ)・いい加減なたわごとを言わない。
 不悪口(フアック)・粗暴な言葉づかいをせず、悪口を言わない。
 不両舌(フリョウゼツ)・二枚舌を使わない。
 不慳貪(フケンドン)・もの慳みをせず、貪らない。
 不瞋恚(フシンニ)・むやみと怒らない。
 不邪見(フジャケン)・勝手で誤った考え方をしない」



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2009
07.19

お星様とお月様

 信徒Sさんの投稿です。
 繊細さが増し、成績もアップして万々歳です。

「部活用に描いたイラストです。
 テーマはお星様とお月様でした。
 色をたくさん使い、線も一本一本丁寧に仕上げました。
 手間はかかるけど、こういう絵もいいなぁと自分で思いましたv

 おかげ様成績がめっちゃアップしました!!(笑)」

学校用



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2009
07.19

例祭だより(7月の第二例祭)

 7月も後半が始まりました。
 梅雨明けが待たれますが、晴れる日も多く毎日暑くてすっかり夏ですね。
 蝉もいよいよ動き出したようで・・・お寺の夕方は蝉時雨に包まれます。

 昨日までは猛暑日が続きましたが、今日は曇り&小雨模様でとっても過ごしやすい日です。
 連日のカンカン照りの後にしっとりと雨が降ったりすると、なにやら気持ちがほっとして”すぅーーーっと”なりますね~☆

 そんな雰囲気の中、本日は第二例祭でした。

 住職のお話は・・・

 今の時代、分相応の行動をとるというのはとても大事だと思います。
 お金が無い=負け組というのではなく、いかに心豊かに智慧をもって生きていくかになっていくでしょう。
 そして、お金持ち(富裕者、有名人、権力者)の方は社会の模範となるように振る舞うべきだという社会的責任(ノブレスオブリージュ)を実践していくのが大事になるしょう。

 う~ん、いずれにしてもお金はあったにこしたことはないですが^^;あまりありすぎて人をおかしくしてしまうパターンもあります。
 しかし、無くてはほんとに困ります!
 自分の分をわきまえて智慧を働かせて生きていかなければ・・・。ですね。
 大変で難しいことではありますが、やりがいがあると思って頑張って生きていきましょう♪

 講堂も着々と出来上がってきましたよ。
 宮大工さんや業者さん方が炎天下に汗を流しながら頑張ってくださっています。

 いよいよ来月初めには引越しなんですね~。新しいことが始まるのはいくつになっても?!やっぱりドキドキワクワクです☆(書き手─高橋里佳)



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2009
07.18

落慶法要の日取りが決まりました

Category: 本堂建立計画
 おかげさまにて、大日如来の開眼式及び講堂の落慶法要の日取りが決まりました。
 以下のとおりです。
 平成9年、リスのお出迎えを受けて供養した一軒家に移り、無から始まった当山がここまでこれたのは、み仏のご加護とご縁の方々のご理解そしてご支援のたまものです。
 心よりお礼申し上げます。

[日時]平成21年8月23日午前10時より
[場所]宮城県黒川郡大和町宮床字兎野1番地11-1
[送迎]午前9時に地下鉄泉中央駅前『イズミティ21』前にお迎えの車がまいります。乗車を希望される方は、事前にお申し込みください。

[宮大工の方々の仕事ぶりには、毎日、ほとほと感心しています]
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[石の職人さん、板金の職人さん、鉄工関係の職人さん、壁の職人さん、電気工事の職人さんなど、どなたも最高です]
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2009
07.18

自殺(自死)を想う方々へ

 自殺を考えつつ生を選び、生きる姿勢はとても誠実です。
 もちろん、去りゆく方を不誠実であるというつもりは全くありません。
 それは、ブログ「自死自殺〉はか ─『妻と私』─」へ書いたとおりです。

 皆さんの自殺自死)に関する人生相談(「地獄行き」といったもの言いで悩まされている方々のいかに多いことか……)を受け、こうしたことごとを考えていて気がついたのは、死が〈生の行き詰まり〉ではなく〈生の極まり〉だということである。
 いかなる形で迎えた死であろうと、それは尊厳の結晶であり、云々することは何ぴとにも赦されないのではないか。
 ──たとえ仏や神の名において、であろうとも。


 しかし、かつて死を選択肢へ乗せたことがあり、今は死を迎えた方々や送る方々と日々、接し、同輩の死を何度も受け止める年齢となった身としては、死の淵をのぞき込みながらなお生きる方々の神々しさを「誠実」としか言いようがないのです。

 24才の時、長崎で被爆した片岡津代(カタオカツヨ)さん(88才)は、鏡の破片に映った顔を見てから幾度となく「死にたい」と思ったそうです。
 しかし、クリスチャンであるがゆえに踏みとどまり、昭和36年にめぐり会った写真家東松照明(トウマツショウメイ)さんにケロイドの残る顔を撮影させてから人生が変わりました。
 その写真が、世界中の人々へ戦争と原爆の恐ろしさを無言で強く訴えかけたからです。
 片岡さんの述懐です。

「若い時は苦しかった。
 今は、平和のために私を見てください、と言える」


 米寿を迎えた片岡さんの写真にある神々しさ、祝福されている気配──。
 生きてこられた過程のすべてが結晶した美しさに息をのむ思いです。

 落語家十代目金原亭馬生(キンゲンテイバショウ)さんは、ガンにかかっても、生活を変えませんでした。
 昭和57年に54歳で逝去するまで、仕事も作句も酒も続け、数々の秀句を遺しました。

 陽炎やこまかく動く猫の耳
 蝉の声老尼は石のごとくなり


 いずれの句も秀逸ですが、病苦を家人に気づかせまいとして詠んだ一句は忘れられません。

 晩秋やひとり寝好む身の弱り


 独り寝なら、呻くことも寝返りをうつことも気兼ねなくできるというのです。
 秋の夜長をそうして過ごしつつ高座を務めていた気持を想像すると、身動きできなくなってしまいます。

 死を想う方々には、生きていただきたい。
 何としても生かしていただけますようにと、み仏へ祈りながら、皆さんと接しています。



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2009
07.16

臓器移植法改正と仏教 その3 ─弱者と拙速─

(5) 最弱者への充分な留意が人道を支え、無慈悲な社会への防波堤となることを肝に銘じたい。

 臓器移植の問題における最弱者は誰であろうか?
 それは脳死に瀕している患者、あるいは脳死と判定された患者である。
 彼らは生まれたての嬰児と同じである。
 百パーセント周囲の手を借りねば生きられない。
 自分の意志で生をつなぐことはできない。

 もちろん、臓器移植を待つ方々やご家族の思いも、いささかは解る。
 調子の良い心臓と入れ替えれることによって当分元気で生きられるならば、どうにかしてそれを手に入れたいのは切実な願望である。
 ご来山される方々は、心から当病平癒の祈願を行う。
 その思いを自分の思いとして修法を行い、何とか心臓がもって欲しいと願いながらも、やはり、脳死という〈精神活動が恐らくは停止する状態〉へと向かう人々のいのちをないがしろにするわけには行かない。
 
 いつの時代であろうと、最弱者を踏み台にして進もうとする文明は野蛮と言うべきではなかろうか。
 野蛮とは霊性が抑えられた状態であり、そこに住む人々の心は無慈悲という色に染められる。
 その色が濃くなればどうなるかは、「改革」の美名のもとに政治と経済が暴走したあげくこうなった日本の状態を観ればよく解る。
 もしも「人命救助」という美名のもとに最弱者が安易に死者として扱われれば、文明の行く先に希望は薄い。

(6) 日本人の死生観にかかわる重要な法案が、政権交代前夜かという混迷のどさくさに紛れて強引に可決されたことは禍根を残すおそれがある。

 平成13年の小泉政権誕生以来、日本人は、単純な思想で割り切ろうとする原理主義的雰囲気に呑み込まれて熱狂し、やがて悲哀を味わうことになった。
 市場原理主義が絶対化され、これまであったものはすべて古いから改めるという破壊は常に喜ばれ、〈多数決の正義〉が良識を踏みつぶしつつここまで来てしまった。

 松尾芭蕉

「おもしろうてやがて悲しき鵜舟哉(カナ)」


と詠んだ。
 鵜飼を行うための鵜舟には1人の鵜匠と12羽の鵜がいる。
 月の出ない夜、明々とかがり火を焚いた船が川を下る途中に漁が行われる。
 川岸で見守る観客の目の前を船が通り過ぎる時に感興は高まるが、船が後ろ姿になった途端、それは醒め始め、やがて、明かりのない夜同様の空しさがやってくる。
 むろん、あまり空しさに襲われず満足感を持ったまま現場を離れる方もおられようが、芭蕉は哀感にこそ、真実を見つけた。

 今の日本はまさに「やがて悲しき」の状態である。
 だからこそ、東京都議選で劇的変化があったのだろう。
 私たちはおもしろがって拍手するだけで思考停止してしまう恐ろしさを充分すぎるほどに味わった。
 複雑な世の中を簡単に導く魔法の杖などありはしない。

 今回可決された法案にはいかにも強引な面があり、法案を考えた方々の中にすら訂正する動きがあったにもかかわらず、会期末が迫っているという理由で多数決にかけられてしまった。
 移植を待ち望んでおられる方々や手術を行いたい医師の方々はむしろ「遅きに失した」と考えておられようが、ことの重大性と、実施する現場に残されたあいまいさを客観的に考慮すれば、「拙速」と考えられはしないだろうか。

 最後にもう一度、〈脳死から生き返った人〉ビルマ・トーマスさんの存在と、臓器移植先進国では、脳死の判定時期が早過ぎるのではないかと問題になる事例や、権力者や資産家や有名人が優先して移植を受けるという疑惑があることを指摘しておきたい。
 そして、ことは生死観と密接に結びつく大問題であり、決して「日本は遅れている」という比較論に惑わされず、大多数の日本人に納得できる制度を目ざして各方面の方々に地道な努力をしていただきたいと願う。
 脳死という深淵に向かう方々の尊厳を守りつつ、献体布施行を完遂し、臓移植によって救われ得る方々の希望をかなえるにはどうすれば良いか……。
 また、私たち国民全体も、よく考え、必要な意思表示をせねばならないと思う。



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2009
07.15

臓器移植法改正と仏教 その2 ─脳死から生き返った人─

(4)  平成18年5月17日に脳死から生還した人の実例がある。

 当山のブログ「生き返る」全文を再掲しておきたい。
 臓器移植を目的として人間の生と死を法律で定める場合は、こうした事実をふまえて熟慮・熟考されるべきであると思う。

 新華社ワシントンや新聞社の報道によると、脳死と判定されてから17時間後に蘇生した人がいます。
 ウェストバージニア州に住むビルマ・トーマスさん(59歳)は5月17日に心臓発作を起こし、地域医療センターへ搬送されましたが、すでに心肺停止状態になっており、低温治療などによって心臓は動き出したものの、17時間にわたって脳波がなく、やがて心拍が消え、血圧もゼロになったので医師は死亡と判断しました。
 そして、家族の同意を得た上で生命維持装置が外され、家族は葬儀の準備のために病室を離れ、医師は、臓器提供の意思を示していたビルマさんの身体から臓器を摘出するための準備にとりかかりました。
 医師が呼吸器を外してから約10分後、看護師たちが肺へ空気を送る管を取り外そうとした瞬間、トーマスさんの目が開き、手も動き出しました。
 医師も看護師も卒倒しかけたほど驚いたそうです。
 
 やがてトーマスさんは「息子はどこ?」と尋ね、急いで病院へかけもどった息子ティムさんは、まるで朝に目覚めたばかりの人のようにベッドで寝ている母親を見て仰天しました。
 彼はこう語っています。
「僕達はずっと病院で、母が意識を回復するよう祈っていたんだ。
 でも、母の心臓は止まってしまい、身体も次第に硬直していった。
 僕達家族も、牧師さんも、先生も、みんな人工呼吸器を外すことに同意したよ」
 トーマスさんは後遺症もなく全快へ向かい、「数日前よりずいぶん気分は良くなりました」と話す様子がトーク番組で報道されました。
 担当医ケビン・エレグストン医師の話です。
「世の中には医者や看護師が説明できない現象が時として起こるが、今回もそのひとつだと思う」

 これを奇跡と呼ぶかどうかは別として、生と死には私たちの知らない領域がまだまだあるのだということを肝に銘じておきたいものです。
 もしも、臓器を取り出す作業にとりかかってから目覚めたならどうなっていたでしょうか。
 想像するだに恐ろしいことです。
 たった一件でもこうした事例がある以上、「人間が蘇生する可能性」は現在の医学で判断できるレベルよりはるかに大きいことが明白になったと言わざるを得ません。
 脳死を人間の死とする考え方や、より〈生きの良い〉臓器を取り出そうとする姿勢は仕切り直しが求められます。



 厳密な統一基準もないままに安易に脳死を死とすることには、こうした危険性がある。
 それは、証拠の確認やDNA鑑定が粗かった時代に冤罪が生まれたことと酷似している。
 1人の生者を殺しながら100人の患者を救うことが文明の名に値する行為であろうか。



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2009
07.15

臓器移植法改正と仏教 その1

(1) 「脳死は人の死」という考え方は明らかに国民的コンセンサスを得ておらず、脳死を人の死とする今回の改正には根本的な無理がある。

 これまで、死は万人が確認できた。
 呼吸が止まり、心臓が止まり、瞳孔が開く(中枢の停止)ことだからである。
 しかし、これから、この法案に基づいて脳死を死とする場合は、死を確認できるのは医学的に脳死を判断する医師のみである。
 心臓が動いているからである。
 家族は、心臓が動き、体温があり、脊髄反射によって身体を動かすことすらある身内を簡単に死人と見なすことができようか。

 もちろん、中には、「本人が臓器移植を望んでいたし、困っている人を助けたいから目をつぶって死体と認めます」という例もあろうが、本人が望んでいなかったにもかかわらず、「もう、死体になったと認めるので、切り刻んで結構です」と考える人が大多数であるとはとうてい考えられない。
 それは、法が施行されて12年間に臓器提供が81例しかないことが証明している。
 国民的コンセンサスを前提としているはずの今回の臓器移植法改正は誤りである。
 
(2) 裁判において「1人の冤罪も発生させない」のが道義的要請であるのと同じく、医療において「1人の生者も死者と判定しない」ことが最重要な要請であるが、現行の「脳死」判定には多くの未解決な問題があり、「誤って死者とされる」可能性がきわめて高い。

 事件が起これば誰しもが被害者へ同情する。
 早く犯人を検挙し、罰を加えることによって社会を危険から守り、被害者を慰撫したいのが国民感情である。
 もちろん、警察も検察も裁判所も社会正義のために一刻も早い解決を目ざして日夜努力している。
 しかし、いかんせん、人間は不完全な生きものであり、最善を尽くしても誤る場合がある。
 冤罪の発生である。
 だから、人権思想が高まった今日、事件の解決が第一であるのはもちろんだが、冤罪を生まないことも同じレベルの重要性を認められるようになった。
 いかにすれば冤罪を防げるかは、法に関わるすべての人々の最重要課題である。

 人間の死の判定においては、冤罪の問題に勝るとも劣らない厳密さが求められるはずである。
 しかし、日本にある80の医科大学ないし大学医学部のうち、30以上の大学が〈独自の〉脳死の判断基準を持っている。
 つまり、人の死を決める現場ごとに、判定基準が異なっているのである。
 しかも(1)で見たように、家族はこれまでのように自分で死を確認できない。
 この1例を見ても、今の日本において脳死を死とすることは、あまりにも危険であり、無謀であると言わねばならない。

(3) 自分の身体を提供するのは布施であり、善行であるが、自分や家族などが助かるために他人の脳死を待つのは、善行であろうか。

 人道的行為の根本は布施である。
 見返りを求めることなく誰かのために自分のできることを行うことこそ、菩薩の仕事である。
 自分の死後、その肉体を必要としている人のために役立てたいと願うのは菩薩行であり、なんぴとも妨げるべきではない。
 だから、「与えたい」という側に問題はない。

 一方、自分が助かるために誰かの肉体の一部を分けてもらいたいと願うのは、生きものとして当然のことである。
 なぜなら、食べものとなる生きもののいのちをもらわずして生きられる生きものはいないからである。
 現に、私たちは、米であれ、野菜であれ、魚であれ、いきものたちへ感謝しつつ生きながらえている。
 しかし、「生きたままの他の人間の肉体を欲しい」となれば問題である。
 自分の肉体の一部を分け与えたいという布施行により、生体間の臓器移植は普通に行われているが、たとえ本人の希望であろうと、臓器移植のために脳死状態で生を維持している患者の心臓を止めてしまう行為は限りなく殺人に近い。
 だからこそ、これまでの臓器移植法は「本人の意志が確認でき」「臓器移植の場合に限って」脳死を人の死とし、医師を殺人者の汚名から守ってきた。
 それにもかかわらず、脳死を死とする今度の改正は、この微妙な問題をやすやすと踏み越えた。
 こうなれば、重篤な患者や家族が、瀕死の人々を脳死と判定してもらいたいと望む気持がますます強くなる。
 早くたくさんの〈細胞が生きている〉死者に出て欲しいと願う。
 患者も医師も、より〈生きの良い〉臓器を奪い合うことだろう。

 当山にかかる祈願の多くは当病平癒であり心身堅護である。
 臓器を移植すれば延命の確率が格段に高くなる方々も来山されている。
 だから、〈生きたい〉人々の気持ちはいささか理解できるつもりではある。
 しかし、それでもなお、誰かの脳死を待つ心には深い問題があると言わねばならない。
 仏教における慈悲と「自分の利のために他人の不幸を願う」心は相反するからである。



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2009
07.14

『法句経』物語 11 慈仁品(ジニンボン)第七

 昔、深山に一家が住んでいました。
 122人の家族は山林で狩猟を行い、肉を食べ、皮をとしてまとい、鬼神を拝み、仏法僧を知りませんでした。
 そのことを知った釈尊は家に行き、樹木の下で座りました。
 男性たちは皆、狩りにでかけ、残っていた女性たちは、み仏となった釈尊の身体から発する光明が周囲を照らし、山中の石も木もすべて金色に輝く光景を目の当たりにしました。
 それぞれ驚き、喜び、釈尊がいかに尊い人であるかを知って礼拝し、「どうぞこちらへ」と席を設けました。
 釈尊は、母親となった女性などのために、殺生が罪となる行いであること、慈悲が福となる行いであること、そして、愛欲は一時的なものであり、執着は別離の苦を深くする真理を説きました。
 女性たちが言うには、
「私たち山の民は、獣たちを狩り、その肉を食べています。
 肉をもって供養させてください」
 釈尊は応えました。
「悟りを開いた聖者たちは肉を食べないので、結構です。
 どうぞ手間をかけないでください」
 そして告げました。
「この世に生まれた人間の食べものは無数にあります。
 なぜ食べものとして役立つ食材を摂らず、生きものたちを殺して生活するのですか。
 殺生をすれば死後は悪道へ堕ちてしまいます。
 人間は五穀を食べ、生きものを憐れむべきです。
 動くものたちは、たとえ虫けらであっても、生きようと懸命になっています。
 そうしたものたちを殺して自分が生きようとすれば、罪は災いとなってふりかかることでしょう。
 慈悲心で生きものたちに接し、殺生をしなければこの世でもあの世でも悪道へ堕ちる心配はなく、安心です」
 そして、詩をもって真理を説きました。
慈悲心を大切にして殺生せず、常に自分自身を制御していれば安寧であり、どこにいても憂いは生じない。
 殺生せず、慈悲心を大切にし、言葉を慎み悪心を抑えれば安寧であり、どこにいても憂いは生じない。
 手をこまねいて悪事をなさず、生きとし生けるものを害さず、心を悩ますことがなければまさに神の世界にいるようなものである。
 常に慈哀を持ち、聖者の教えに従って清浄に生き、足を知って煩悩を抑えればやがて輪廻転生から解脱するであろう」

 釈尊の説法が終わった時、男性たちが狩猟から戻りました。
 教えに耳を傾けていた女性たちが出迎えないので、男性たちは変事があったに違いないと驚き怪しみ、肉を放ったままで説法していた所へやって来ました。
 女性たちはすべて釈尊の前に跪き、両手両腕を合わせて恭順の意を示し、教えを聴いています。
 怒った男性たちは大声を上げて釈尊を倒そうとしましたが、女性たちは「尊い方へ悪意を起こしてはなりません」と諫めました。
 過ちに気づいた男性たちもまた釈尊を礼拝したので、釈尊は重ねて、殺生が罪となる行いであること、慈悲が福となる行いであることを説きました。
 
 心が煩悩束縛から解放された男性たちは、両膝を地へつけ、足の指を支えとして腰を浮かす恭順の姿勢で質問しました。
「私たちはこうした深山に住み、狩猟という殺生をなりわいとしてきました。
 積もった罪科による悪しき報いは、どうすれば免れることができましょうか」
 釈尊は詩をもって真理を説きました。
慈悲を心に抱き、実践し、広く慈しんで生きとし生けるものを救えば、やがて十一の良き報いがやって来るであろう。
 福徳が人生の伴走者となる。
 安眠できる。
 目覚めが爽やかである。
 悪夢を見ない。
 天神に守られる。
 人に愛される。
 毒物に縁がない。
 争いに巻き込まれない。
 水害や火災に遭わない。
 どこでも有利な立場でいられる。
 死後は天界へ行く。
 これが十一の良き報いである」
 釈尊が説き終わった時、122人の家族は全員歓喜して教えを信じ、五戒を奉じました。

 釈尊は王のもとへ出向き、語りました。
「あの一族へ田地を与え、食物として穀類を施してはくれまいか。
 人々が慈悲心で生きるように教化すれば、国中が安寧になることだろう」


 この経文などが、「仏教徒は四つ足を食べない」「仏教徒は生臭いものを食べない」といった戒律や慣習などにつながったのでしょう。
 しかし、世界中にはそれぞれの住環境に応じた食生活があり、この教えはタブーの問題ではなく、害され、殺されて苦しむ生きものを目にして起こる慈悲心に無頓着だったり、無益な殺生をして平然としていたりする心のありように警鐘を鳴らしたものと考えられます。
 現在は、人間があらゆる生きものとの縁によって生きていることに鑑み、いのちを捧げてくれる相手への感謝を忘れないかぎり、できるだけ偏らない食生活を営むことが偏らない心を作ると考えられ、タブーはありません。
 ただし、食生活と病気の関係について研究が進んだ現在、日本やアメリカをはじめ世界中が菜食中心へと傾きつつある状況を見ると、穀類や野菜を多く食べ、肉類を少なく食するという方向性は理にかなっていると言えましょう。



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2009
07.13

7月のお焚きあげ

 21年7月28日(火)午前10時より、開運不動明王前でお焚きあげを行います。
 お焚きあげをご希望の方は、事前にご一報の上、お品とご志納金をお送りください。

開運不動明王様です〉
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2009
07.13

説法と例祭

NHK文化講座 ─生活と仏法

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。
 教材は、釈尊の説法がそのままの形で残された最も古い経典の一つ『法句経』などです。
 身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

[日時]平成21年7月22日(水)午前10時より12時まで
[場所]NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
[主催]NHK文化センター
[申込]NHK文化センター

7月の例祭
○7月の第二例祭 4月18日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
  また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
 声明では高橋里佳さんのクリスタルボウルも演奏されます。
 伝統ある密教の音楽と新しい楽器とのコラボレーションは、新たな世界を開きます。

〈名人佐藤さんが撮影した護摩の炎です〉
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2009
07.13

仏壇のお焚きあげ

 仙北在住のAさんが、何度も電話で打ち合わせをした上で、お骨と一緒に仏壇を持って来られました。
 事情があってお骨を家へ置いたままにできず、仏壇お焚きあげをするしかなくなったからです。
「大きな仏壇ですが大丈夫ですか?」と心配しておられたAさんは、ご自身でちゃんと拝んだ上で家族の手を借りて解体し、部材の大きさによって分類し、きれいに縛りました。
 ここまで決断する数十日間、考え、悩み、相談されたことでしょう。
 そして、大切にしていた仏壇を皆さんで解体する間も、言うに言えない感慨に襲われたことでしょう。
 しかし、当山へ渡された後は、どなたも深い安らぎをたたえた笑顔でした。
 お骨の納め方や仏壇の処置はいかにあるべきか、お骨を預け仏壇お焚きあげを依頼する寺院はどういう活動を行っているかなどなど、考えるべきことを徹底して考え、決断し、実行した方々の得られた安心を思うと、ありがたくてなりません。

 早く結果を出す、より効率的にやるといった〈姿勢〉、便利だから、手軽だからといった〈判断基準〉、こうしたものは商売や日常生活を行う上では役に立ちますが、供養においては第一義的に大切なものではありません。
 悩むことや時間をかけることが、より供養の根本にそった決断を導き出します。
 Aさんご一家へ、心より敬意を表します。

〈紫陽花の向こうに笹倉山が見えます〉
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2009
07.13

お骨を預ける

 このところ、お骨預ける方が相次いでいます。
 身内が亡くなられても、種々の事情によってすぐにお墓を建てらない方々が増えていると考えられます。
 資金の問題、跡継ぎの問題、転勤の問題、家族内での信仰の違いなど、理由は多種多様です。
 また、寺院側が、行方の定まらないお骨をいつまでも預かっていられないと判断する場合もあって、お骨を家庭で守る方々の悩みは深まるばかりです。

 当山では、宗教宗派にこだわらず、何年でもお骨を預かる方針を貫いています。
 それは、困っておられる方を見捨てられないからであり、お預かりしている間に、ご家族が供養を通じて仏法を学び、生き方を考えていただきたいからです。
 最終的に当山で墓地を求められようと、共同墓を選ばれようと、あるいはどこかへ行かれようと自由です。
 まず、安心していただきたい、そして、学んでいただきたいと願っています。

〈お預かりしたお骨を守ってくださる十三仏様です〉
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2009
07.12

食物に感謝し、心身を安定させましょう ─六波羅密における飯食と禅定─ (2)

 飯食(オンジキ…食べ物)と禅定禅定…心身の安定)の問題を理解するためのポイントの第二は、適当な食べものや飲み物があってはじめて、人間は人間らしく生活できるということです。
 私たちは、水道の蛇口を捻ればいつでも安全な水を飲み、コンビニへ駆けつければいつでもパンやおにぎりを食べて空腹を満たせます。
 そして、これが普通だと思っています。
 しかし、6月19日に国連食糧農業機関(FAO)が発表した予測によれば、今年は世界の飢餓人口(十分な栄養が取れない状態にある人々)が前年比で1億500万人増加し、10億2000万人に達するとされています。
 地球上に住む人の6人に1人が飢えに苦しんでいるのです。
 なかなか実感できないかも知れませんが、友人や知人などの顔を思い出しながら数を数え、そうした人々の6人に1人が飢えに苦しむ様子を想像すれば、いくらか実感できることでしょう。
 医学の発達にもかかわらず10年前から約2億人増えている現実は、世界規模で生活格差を広げながら進む現代文明の非情さを示してはいないでしょうか。

 柳田国男の「山の人生」には、炭焼きをしていて困窮した男が、自分たちから「口べらし」を申し出た子供2人を殺した実話が紹介されています。
 また、太平洋戦争の末期には米がなくて芋を食べ、日本から食料が運べない激戦地では路傍の草やカエルを食べ、最後は人肉も食べたそうですが、それでも膨大な餓死者や病死者が出ました。
 エベレストで飛行機が遭難した時も、人肉を食べたとされています。
 こうした極限状態では、精神を安定させ、笑顔と希望のある人間らしい生活ができません。
 そして、かつてアメリカで原住民が西部へ追いやられ抹殺されたように、先住民でありながら差別と搾取と文化の破壊を受けてどんどん社会の片隅に追いつめられ、乞食となりつつあるるチベット人やウィグル人などの悲惨、あるいは職場や住処を失って彷徨う人々が増加している日本の現実を思うと、〈安定的に食べられる〉ことがいかに重大であるかを実感させられます。

 きれいな空気を吸えること、安心な場所で寝起きができること、そして適度な食事が確保できるありがたさを再確認しましょう。
 生活格差生み増大することの非人間性を直視しましょう。
 そこからきっと〈菩薩の行動〉が生まれることでしょう。



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2009
07.11

食物に感謝し、心身を安定させましょう ─六波羅密における飯食と禅定─ (1)

 五種供養とみ仏や御霊へ捧げるものとの関係をお話すると、ほとんどの方から「始めて聞きました」「目から鱗が落ちました」と言われます。
 そして「これからは、意味を考えながら供養します」と言われます。
 しかし、自分を燃やし続けて燃え尽きた後も佳い香りを残すお線香精進の象徴であることなどは理解していただけやすい一方、飯食(オンジキ…食べ物)と禅定禅定…心身の安定)との関係は一番理解しにくいようです。
 
 理解するためのポイントの第一は、「食べものは皆、捧げられたいのちである」ということです。
 仏壇に供えるご飯は稲、味噌汁の味噌も豆腐も大豆、そしてリンゴやミカン、捧げられているのは、形あるものに宿るいのちです。
 人間を含む生きものは、他の生きもののいのちをもらって生きる存在であり、ライオンがシマウマを食べ、馬がニンジンを食べても、それは節理に従って生きているだけのことですが、精神のある人間だけは、そこにとどまれません。
 何を考え、どう食べて生きるかという日々の行動は、一人一人の身体の状態を左右するだけでなく、心のはたらきにも大きく影響し、運勢と運命の方向性にも関わるからです。
「人がものを喰って生きるのは当然だ」だけで思考停止しては、健康で心豊かな人生を送れないのです。

 ライオンにも馬にも感謝はありませんが、人間は感謝できます。
 他のいきもののいのちをもらうという事実の持つ意味を理解できるからです。
 小さな米粒が苗となり、雨風に耐えて稲穂に育ち、刈り取られて脱穀され、炊かれて温かなご飯として私たちの口に入ります。
 卵から孵って稚魚となり、大きな魚にも食べられず、元気に成長したカレイが網にかかり、料理されて私たちの口に入ります。
 それらが大きくなる過程は、肥料や餌となるいろいろなもののいのちが支えています。
 私たちはこうした事実を知り、いのちが繋がっている神秘を感じ、無数の生きものたちの「おかげ」によって今、ここで呼吸していることに感動できます。
 生きものたちを育み生きものたちによって創られている世界、人間が生きている環境の「おかげ」を感得することができます。
 そこにおのづから生じている感謝こそが、人間が人間たる証と言えるのではないでしょうか。

おかげ」を感じとれなければ霊性ははたらきを弱めており、節理だけで生きるライオンや馬に近づいています。
 生きもののいのちを粗末にし、環境を破壊すれば霊性は狂っており、節理に反しないライオンや馬以下に堕ちてしまいます。
 私たちに節理を教え、生活を支えてくれているものたちの恩を教える「食べもの」の意義をよく考えてみたいものです。



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2009
07.10

エンヤを聴く

 映画「チベット チベット」の中に青年がエンヤを聴いているシーンがあります。
 何だろうと思っていたら、橋里佳さんが、「これがエンヤです」と一枚のCD「THE MEMORY OF TREES」を貸してくれました。
 精霊・バッハ・星空などを感じて解説書を読んだところ、アイルランドケルトと知り、とても納得できました。
 全11曲の印象です。

1  太古の森
2  軽快な歩み
3  死の静寂へ
4  清浄な泉
5  悠久の時
6  天国への梯
7  運命を観る目の静けさ
8  生きている月光
9  祝福された抒情
10 精霊のつぶやき
11 歓びと安寧

 橋さんによると、「エンヤを流している店は流行らない」というジンクスがあるそうです。
 それはそうでしょう。

 かつて、民俗学者柳田国男は、無き祖母の撫でていた蝋石を握った時、真昼の空に瞬く星が見えて呆然となったそうです。
 そして、鳥の鋭い一声を聞かなければ向こう側の世界へ行ってしまっていただろうと述懐しました。

 この蝋石と同じように、エンヤの作品には、ただ癒すだけでなく、アイルランドケルトの世界へ連れて行ってしまう力があります。
 異空間に入った人は異次元にたゆたい、時間を売る商売は別として、儲けさせてくれるお客様たり得ません。

 緑の中で生まれ、広く住んだケルト人の文化には敬虔さ・勁さ・素朴さがあります。
 現代文明が失いかけているものを感じればこそ、世界中で愛好されるのではないでしょうか。



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