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2009
08.31

お彼岸について

 お彼岸は、此岸(シガン)すなわち「此(コ)の岸」から「彼(カ)の岸」へ渡る心を練る時期です。
 此岸とは迷いのこの世であり、彼岸とは悟りのあの世です。
 あの世といっても、この場合は、死んでから行く先ではありません。
 大事故や大病などで自分の死を強く意識した方などが持つ「末期(マツゴ)の眼」から見ると、見慣れた町も空も樹木も皆ことごとく美しく、人間や生きものたちもまたすべて愛しくてならないと言われます。
 心の眼が変わっただけで、同じ世界がまるで別もののように見えるのです。
 そのように、凡夫の心を離れてみ仏の心になれば、この世はたちまち感謝と喜びに満ちた極楽となるはずです。
 この〈心の転換〉が「渡る」ということです。

「徒然草」に明恵上人(ミョウエショウニン)の故事が紹介されています。
阿字(アジ)」という文字と一体になる修行に励んでいた上人は、馬の足を洗いながら「足、足」と声をかけていた男に深く感動しました。
 ここには、勘違いと笑って済ませられない重要な示唆があります。
 尊い心で生きていれば何もかもが尊い世界に見え、そのことは、周囲の人々へも感動を与えるのです。
 明恵上人の時代は今からおよそ八百年も昔、徒然草は六百八十年も昔の作品です。

 お彼岸にはお経を読誦し、写経を行い、少しでもみ仏の世界へ渡りたいものです。
 ちなみに、上人は亡き人へ何か手向けてくれと頼まれて光明真言を書き、こう詠みました。
「書きつくる跡に光のかかやけば冥(クラ)き道にも闇ははるらむ」
(書きとめた文字が真言となって輝けば、きっと、冥土(メイド)の旅の闇を照らすことだろう)



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2009
08.31

平成21年9月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 平成21年9月運勢を記します。
 あちこちで親和が生じ、仲間が夢や願いを語り合う場面が多くなりましょう。
 人は社会にあって大なり小なり望みを達成しつつ生きますが、まったく一人で成し遂げられることなど、何ひとつありません。
 孤独な作家や画家といえども、創作に没頭できる環境があってこそ魂の鼓動は作品となり、陽の眼を見ます。
 環境とは家庭であり、社会です。
 社会とは縁によってつながるひとまとまりの人々の総体です。
 電力会社ではたらく人々、水道局ではたらく人々、新聞屋さん、などなど、皆さんが力を合わせてこそ、社会は社会として存在し、人は生きられます。
 社会は水であり、人は魚です。

 人が幸せに生きられるかどうかは、社会により、自分自身によります。
 社会のありようは共業(グウゴウ)によって決まり、自分のありようは自分独自の不共業(フグウゴウ)によって決まります。
 しかしこの二つは互いに影響し合っており、二つに分けることはできません。
 ひとたび戦争になれば、子煩悩の父親が殺人罪を犯し、惨たらしい戦争の多くは「正義を確信する人々」によって起こされます。
 いかなる人々の間で親和が起こるか、いかなるグループと親和するかが問題です。
 そこにと不共業が生まれるからです。
 
 我欲を通すのではなく、水のように自分を状況へ合わせて社会のためになろうとする人々が親和したグループは良き共業を作ることでしょう。
 こうしたグループと親和する人々は良きを作ることでしょう。
 柱とすべきは「孚(マコト)」であり、姿勢とすべきは「比(シタシム)」です。
「自分の独自性」にこだわれば、グループも個人もなかなか伸びられません。
 水のごとく淡き交わりの中から生まれる〈価値ある方向性〉へすなおに自分の羅針盤を合わせて進むならば、きっと、濃く、味わいの深い時間を過ごせることでしょう。
 今月は、会食やおしゃべりに楽しいひとときを得られる一方、不用意な言葉や気分まかせの行動で人間性を問われるような失敗をしでかす危険性が高まります。
 留意して楽しみましょう。

 また、特に肺や心臓に疾患を抱えた方などは新型インフルエンザに注意し、予防を怠らぬようにしてください。
 皆さん元気で過ごされ、開運の一ヶ月となりますよう。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。
布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は陰徳が華開き、予想もしなかった吉報があります。
 不精進の人は失せものが見つからず困ったり、旅行先で戸惑ったりしがちになります。
[持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人はまごころが通じて認められ、励まされます。
 不精進の人は精神的満足に気づかず、モノや名声を追って不満になりがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は良い交友関係が生きて成功します。
 不精進の人は悪者から甘い話を持ちかけられたり、無闇に猛進したりで失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は自信を持って正攻法に出れば成功します。
 不精進の人は後に隠れて他人をうまく利用しようとし、信用と親和が破れて失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は自信を持って正攻法に出れば成功します。
 不精進の人は後に隠れて他人をうまく利用しようとし、信用と親和が破れて失敗しがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は自分の至らなさを知り、不明を恥じて成長します。
 不精進の人は世間や人の心の変化に疎く、硬直性が敬遠されて失敗しがちです。。

 皆さんの開運を祈っています。



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2009
08.30

闇の力

 去年の暮れ、Aさんの広い庭で子狸が死んでいました。
 Aさんは、それまで動物の死骸を見つけると穴に埋めていましたが、なぜか、「どうなるか見よう」と思いました。
 一日目も二日目も、もっこりした死体はそのまま横たわっていました。
 しかし、三日目の早朝、まだの気配が残る中で見た狸はペタンとなり、急に中身が消えたようでした。
 そして、五日目には、跡形もなくなっていました。
 Aさんは、かねて感じていた〈〉のせいだろうと思いました。

 今年の春、やはり同じようなできごとがありました。
 子猫が死に、数日後の朝、急にペタンとなっており、翌日の朝には三毛猫のまだら模様が薄れ、その翌日にはやはり跡形もなくなっていたそうです。

 Aさんは言います。
「昼との空気は違います。入れ替わるのは明け方です。は無ではなく、昼の光と違ったを持っています」



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2009
08.30

選良とは

 いよいよ選挙投票日である。
 当山は皆さんの願いに応じてご祈祷を行い、ご相談もお受けしている。
 政治についても同じである。

 さて、今般の選挙では、「マニフェスト」と「政権交代」がキーワードとなった。
 各党がこれまで以上に具体的な政策を競い、政権交代の是非を訴えた。
 選挙民の多くは、どこの政党が自分の望みを託せるかと考え、政権交代を行った方が良いかどうかと考えることだろう。
 もちろん、このあたりが大切であるのは言うまでもないが、少々違った面から考えてみる必要もありそうだ。

 それは、政治家は経験と勉強とによって常により良い政策を考え、変化を止めない世の中にとって「より良い政策」もまた変化し続けるということである。
 一方、一人一人の人間性は、そうそう簡単に変わるものではない。
 実際、この十年で各政党の掲げる政策は大なり小なり変化したが、役者の方々の生きざまは変わらず、その人らしい行動で政治活動を行い、今回の選挙にのぞんでいる。

 ならば、候補者の人間性を見極めることもまた、掲げている政策を調べることに劣らないほど重要なのではなかろうか。
 特にこれから先は天変地異であれ、周辺国との関係であれ、環境問題であれ、「いざ」という場面がこれまでになくたくさん出来するだろうと想像される以上、心から信頼できる人物を選んでおかねばならない。
 では、これからの政治家として、どういった人物がふさわしいのか?
 それは言うまでもなく、選挙民の思いや願いや辛さなどを本当に自分のことと考え、それに応えることに政治生命をかけられる人物である。
 
 A候補は、まじめで熱心で信頼に足る人物だが、謙虚さが情熱の直截的表現を控えさせていた。
 困っている人々と接しては心で涙を流していたが、演説では政策の訴え主とし、内容を理解してもらおうと一所懸命だった。
 ところが、徐々に思いが熱くなり、困っている人々への共感や、現状への怒りなどが強く前面へ出るようになった。
 最後は涙も見せた。
 弁士が言った。
「A候補の涙は、よくあるような、『どうか自分を当選させてください。お願いします』というお願いの涙ではありません。
 皆さん、訴えをお聞きになったとおり、A候補は辛い思いをして泣いている人々と同じ心になっているのです」

 こういう人物こそ、当選に値するのではなかろうか。



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2009
08.29

9月の真言

 9月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

不動明王(ふ・どう・みょう・おう)

「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




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2009
08.29

9月の守本尊様

 今月(9月8日から10月7日まで)の守本尊様は不動明王様です。









種々界智力(シュジュカイチリキ)』をもって、人々がどのような境遇にありどのような心の世界に住んでいるかを見極めて、人それぞれに合った教えと救いをお与えくださり、どんな奈落の底にいる人をも、頭上の蓮華(よく見ると小さな蓮華があります)へ載せてその下からヨイショと押し上げてくださいます。



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2009
08.28

【現代の偉人伝】第82話 ─モハメド・ラシュワン─

 8月27日付の読売新聞は、柔道家モハメド・ラシュワン氏を指導したエジプトの監督山本信明氏の思い出を紹介した。
 以前、この欄でとりあげたモハメド・ラシュワン氏を、もう一度思い出しておきたい。

 17才頃のラシュワン氏は「気が優しい」バスケットボールの選手だった。
 柔道に転じてからは、体が細いため、先輩にいじめられた。
 やがて体力がつき強くなるとミーティングで中央に座るようになったが、変わらぬ優しさが勝敗に結びつくこともあった。
 1984年のオリンピックロサンゼルス大会。
 勝ち上がったラシュワン選手は、決勝戦で山下泰裕選手と対戦した。

 2回戦で右足ふくらはぎの肉離れを起こしていた山下選手との決勝戦を控え、山本監督はラシュワン選手へ二つの指示を出す。
 一つは、「最初の一分は攻めないこと」だった。
 山下選手が身体的限界を感じて棄権する可能性があると判断したからである。
 もう一つは、「正しい姿勢でよい所を持ったらすぐに技をかけること」だった。
 引きずり回せば、どんどん有利になるからである。

 しかし、「ラシュワンはそういうやり方を望んでいなかった」。
「周囲が何と言おうと『正しい柔道で戦いたい』と強く主張した」のである。
 ラシュワン選手は、ケガをした山下選手の右足を狙わず真っ向勝負に出た。
 一瞬のスキをついた山下選手の寝技横四方固めが決まり、金メダルとなった山下選手は天を仰ぎ、流れる涙をぬぐおうともしなかった。
 破れたラシュワン選手は、中央の表彰台へ登る山下選手を支えるかのように手を伸ばした。

 勝負にかける者は、勝つために最善を尽くす。
 しかし、いかに勝つか、いかに負けるかは、勝敗の結果以上に大切である。
 
 ルールは、社会における法律のようなものである。
 違反すれば、罰則が待っており、勝利は認められない。
 有罪になれば社会的制裁を受けねばならないのと同じである。
 ただし、ルールを守れば〈それで良い〉のではない。
 ルールより上にはスポーツマンシップがある。
 いかに高度にそれを発揮するかによって、賞讃の質が変わる。
 選手としての完成度も高まる。
 それは社会生活における道徳のようなものである。
 法律に反しなければ何をしても許されるわけではなく、道徳を重んじたまっとうな活動であればこそ評価され、手本とされるのである。

 ラシュワン選手は、めざす高みを「正しい柔道」とし、実践した。
 人々は、山下選手が金メダルをとったことを忘れない。
 しかし、ラシュワン選手のスポーツマンシップを最高度に発揮した行動もまた、記憶から薄れない。
 金メダルの獲得が超難事なら、ラシュワン選手の行動もまた超難事であり、感動と賞讃に甲乙はつけられないのである。
正しい柔道」よ、永遠なれ。



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2009
08.28

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 35 ―好き嫌い─

 8月26日は『法句経ダンマパダ)』の「好喜品(コウキホン)」第二十四についてお話しました。

「好楽は憂いを生じ、好楽は畏れを生ず。好楽する所無くんば、何をか憂い、何をか畏れん」


えり好み憂いを生じ、畏れを生じる。えり好みをしなければ、何を憂い、何を畏れることもない)

 私たちの眼前には、縁によってさまざまなものが現れては消えます。
 スーパーへ行けば、トマト、レタス、キュウリ、ダイコン、ホウレンソウなどが並んでおり、「今日はこれにしよう」と選んで買い物をします。
 その時に、「昨日は~だったから」「一昨日は~だったから」と考え、まんべんなくたくさんの種類を食卓へ載せようとするならば、家族の健康は維持できることでしょう。
 しかし、好きなものだけに偏ったならば、家族の健康を害する大きな原因をつくることになります。

「好き」からは「それを得たい」というとらわれの心が生まれ、思うように得られなければストレスが起こり、得られても、「もっと欲しい」となり、際限はありません。
「嫌い」からは「それと関わりたくない」というとらわれの心が生まれ、意に反してかかわらなければならない状況になるとストレスが起こるだけでなく、またかかわらねばならないのではないかという不安が起こります。
「好きなハンバーガーは毎日食べたいけれども、嫌いな野菜は見るのも嫌だ」といった精神状態の持続は、健康を損ねるだけでなく、食べ物以外のものについても同様なパターンで白か黒に分けてしまう心の傾向をつくりがちです。
 もしも「音楽は好きだけれども社会は嫌いだ」を通してしまうならば、頭脳の健全な発育にマイナスです。
 そして、最も恐ろしいのは、白黒を分ける自分を絶対視しないではいられない自己中心の心を育てることです。
 自己中心で生きれば、慢心によって自分を見失い、気ままと邪慳によって他人との関係を構築できず、自分で自分の未来を塞いでしまうことでしょう。

 また、「好き」も「嫌い」も弱点となる畏れがあります。
 好きなものを与えられれば、利用されやすくなります。
 お金をもらい、飲み食いさせられ、贈収賄事件が起こります。
 嫌いなものを与えられれば、自分を発展させにくくなります。
 気に入らない仕事を与えられて離職に追い込まれるケースなどは、このパターンです。

 しかし、私たちは、「好き嫌い」から離れられません。
 だから仏法は、えり好み煩悩といい、智慧と慈悲によってそれをコントロールする心の訓練を行い、あまりに偏ってしまった心は、ご加持などの修法によって改善させます。
 誰でもできる煩悩に負けない方法は、子供の頃からなるべく嫌いなものをつくらないことです。
 食べものであれ、勉強の科目であれ、最初は口に合わなかったり興味が持てなかったりしても、努力して「嫌い」を克服する体験をさせることです。
 そして、好きなものは人の道を踏み外さない範囲で探求すれば良いのです。
 
「嫌い」に負けないことは、法律を守るようなものです。
 社会人として周囲から認められます。
「好き」を適正に伸ばすことは、道徳を重んじるようなものです。
 社会人として周囲から尊敬されます。
 喜怒哀楽へ結びついてゆく煩悩をうまくコントロールして、潤いのある人生を送りたいものです。



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2009
08.27

九月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

ガラス拭き梅雨の晴間の空の碧(アオ)


 雨が降り続いて室内は湿っぽく、窓ガラスも曇ったままだった。
 久方ぶりに晴れ渡り、ガラスを拭く。
 空は驚くほど碧く、異次元に入ったかのような錯覚すら覚える。
「碧」はミドリであり、カラッとした青でなく、澄んだ湖の深さがもたらす趣を伴っている。

長梅雨に些(イササ)か困惑草の丈


 あまりに梅雨が長く、気温もそれほど上がらないために草が伸び悩んでいる。
 降る雨と高い気温と時折差す日光とのバランスによって急激に成長するはずなのに、条件が整わないばかりにオタオタしている。
「困惑」は、草の身になり切って状況を言い表している。

梅雨長し今日のお昼はイタリアン


 ダラダラと続く梅雨にしびれを切らし、気分転換にでかける。
 こういう時は琴の音が流れる和食の店や、油の匂いがする中華食堂ではなく、陽気なイメージのあるイタリア料理の店に限る。
「今日のお昼はイタリアン」言葉のリズムと浮き立とうとする心が共鳴した。

梅雨の蝶白き小花に紛れけり


 梅雨にもかかわらず蝶は蜜を求めて飛んでいる。
 大丈夫だろうか、濡れて落ちはしないだろうかと心配になる。
 と、見ているうちに、ゆらゆらと小花の陰へ入った。
 姿は見えないがもう大丈夫だ。
 作者は蝶と安心感を共有している。
 蝶は白かったのか黄色だったのか…。

小抽斗(コヒキダシ)開けるたび鳴く梅雨じめり


 愛用の小さな抽斗をいつものように開ける。
 最近は、開け閉(タ)てをするたびに湿気のせいでキキッと音がする。木製なので、かなり膨張しているのだろう。
 湿気が隅々まで侵入する梅雨の間は、どこもかしこもじめじめして、気分が晴れない。
 鳴く音が耳に障る。

父も居て母も居たころ真桑瓜(マクワウリ)


 真桑瓜とスイカが並んでいたのは、いつ頃までだったろうか。
 味の淡泊さからか、西洋のメロンとかけ合わせたプリンスメロンに負け、食卓から急速に退却した。 
 今は、主として漬け物やみそ汁の具として用いられている。
 冷やして父母と食べた日は、遠くなった。

むかご飯むかしの親は子沢山


「むかご」は、山芋の葉の根本に現れる丸い芽である。
 ご飯に炊き込むと独特の味わいがあり、食が進む。
 小さな子供たちは、小さな芋の入ったご飯を競うように食べる。
 簡単に作れるので親は大助かりである。
 八百屋の店頭でむかごを見つけ、昔が懐かしくなる。

落し文(ブミ)電子メールの世に拾ふ


「落し文」とは、オトシブミという虫が卵を産み付けた木の葉が地上に落ちたものをいう。
 実に器用に丸められている。
 古人は、密やかな気持を相手へ届けようと、わざと目につくように文(フミ)を落としたという。
 今の世でも、虫はせっせと落し文を作り続ける。

雷鳴に思はず猫を呼び寄せる


 外へでかけにくい梅雨時は、二人暮らしの猫との親密さが、いや増すばかり。
 突然、近くでゴロゴロッと鳴り、「あっ、大変!」と思う。
 猫が心配になり、とにかく呼び寄せる。
 一緒にどこかへ隠れるわけでもないが、共にいるだけでお互いに小さな安心感がある。

ひとりの居ひたすら雷鳴聞いてをり


 雷鳴が轟き、天地がその存在を知らしめてくる。
 圧倒的な力。
 逃れようもない。
 一人で対峙し、耐え、畏怖のままにただ、居るしかない。
 最初の雷鳴には驚かされたが、いつしか耳をそばだて、息を詰めて次の一撃を待っている。
 広大な天地とただ一人の自分…。



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2009
08.25

忙しい

 信徒Sさんの投稿です。

 部活に、宿題に、高校生忙しいのです。

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2009
08.24

講堂での誓い

 おかげさまにて、講堂落慶及び大日如来開眼供養会は、会場へ入りきれないほどの善男善女によってお支えいただき、無事、終わりました。
 曇っていた空は修法の終了を待つように晴れ渡り、聖地は清浄な気配で満たされました。
 また、河北新報に掲載されたお礼の文章を目にされた方々から、たくさんのお励ましやお祝いをいただきました。
 この場を借りて深くお礼申し上げます。
 この上は、さらに精進し、法務に邁進します。
 聖なる目を開かれた大日如来智慧慈悲の光がこの世あの世も照らし、皆さんへ幸せと安心をもたらしますよう祈り続けます。

 表白文です。

謹み敬いて密教教主大日如来、あらゆる仏神、高祖弘法大師、仏法僧の三宝へ申し上げ奉る。
大日如来智慧の光は遍くすべてのものを照らし、闇を消すと説かるる。
太陽の光は必ず影をつくり、大日如来の光は隅々まで照らし、一切影をつくらぬ。
また、慈悲の光は、存在するものたちが生じ、滅する過程すべてにおいてお支えくださると説かるる。
たとえ糸トンボ一匹といえども、人間が無から生じさせ生かすことはできぬが、大日如来はすべてを生み育む。
また、大日如来の智慧慈悲の光は世界と共にあり、永遠であると説かるる。
太陽には寿命があり、大日如来は不滅なり。
よって、大日如来はあらゆる仏神の総徳を集むる根本仏にして中心仏なり。
徳を開けば守本尊となり、仏界擁護の諸天善神となり、現象界と生ずれば山川草木天地宇宙万物となり、心象世界と生ずれば九識・十識とはたらく。
願わくば、かかる仏徳を顕現し、一切衆生が除災招福・転迷開悟の道を歩み、この世が幸せの楽土となり、あの世が安心の花園となるよう、智慧慈悲を授けたまえ。
永遠の導きを垂れたまえ。
当山に務むる者は、その導きにより、いついかなる時も我欲を第一とせず人の道を第一とし、その生
きざまをもって清浄なる湖へ落ちた一枚の花びらが水面に波紋を拡げるように修行と布教の道を歩み、ご縁となるすべての方々は、その導きにより悩みを、苦しみを離れ、安心と喜びが得られるよう、この世の真実の姿が極楽であることを実感できるよう、永久のご加護を願いたてまつる。
この願いは今生のみにあらず、次の世も、また次の世も、永遠に尽きざるものなり。
重ねて祈りたてまつる。
天長地久、即身成仏、密厳国土、万邦協和、諸人快楽、ことに別いては本日参詣の善男子善女人、現当二世離苦得楽、乃至法界平等利益。

平成二十一年葉月二十三日

大師山法楽寺住職遠藤龍地

敬白



〈荘厳されて開始を待つ〉
21080823 007

〈訪れる善男善女〉
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〈式次第〉
21080823 029

〈角塔婆の前で〉
21080823 0123

講堂へ〉
21080823 0212
21080823 0222

21080823 025

21080823 0302

21080823 039

〈導師の脇で表白を読む〉
21080823 03323

21080823 04222

21080824 015

21080824 022

〈いつの間にか咲いていた二輪〉
21080824 0262

21080823 047



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2009
08.23

皆で極楽に住みましょう

 いよいよ今日から、新しい法楽寺がスタートする。
 み仏のご加護と、ご縁の方々のお心、そして、真実世界が貸してくれた不思議な力のおかげである。
 昨日も、一昨日も、宮大工さんや植木屋さんや水道工事屋さんや電気屋さんや石屋さんや葬儀屋さんなど、数多くの方々が、それぞれ自分の領分を一生懸命やるだけでなく、協力し合いながら、新しい法楽寺づくりに励んでくださった。
 どなたもが、決して〈頼まれ仕事〉でなく〈我がこと〉として、まごころのこもった汗を流してくださっているのが痛いほど感じられる。
 それは、どなたにも、この世を幸せに生きたい、あの世が安心できるところであって欲しいという気持があるからではなかろうか。
 ただただそのための場でありたいと願っている微力な当山へ手助けすることが、皆さんの心のどこかに小さな納得を生んでいるのかも知れない。

 いのちの消えゆくスピードを速めるように時間を用い、同居している孫の顔もろくに見ず、やってきたことが何であるのか、今日、式典へ参加する孫に感じとってもらえたなら嬉しい。
「じっち、何をやっているの?」と訊かれたら、こう答えたい。
「皆で一緒に極楽に住むためだよ」

 み仏とご縁の方々への感謝を新たにし、「この世の幸せとあの世の安心」を得ていただくための場がさらに確固たるものとなるよう祈りつつ、今日も励みたい。



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2009
08.22

コツコツと

 勤勉な日本人は、コツコツとはたらき、コツコツと蓄えてきた。
 はたらいて貯蓄した財は、過去の結晶であり、未来の安心を担保してくれる宝ものだった。
 過去が作った歴史は生きた証(アカシ)であり、庶民は貯蓄の数字に証を確認し、憂き世で耐えつつ生きてきた自分を肯定する根拠にできた。
 あらゆる職業、あらゆる階層の人々がこうして積み上げた350兆円は、日本人の文化の象徴だった。
 小泉内閣の「貯蓄から投資へ」の功罪はいろいろ議論されているが、こうした、「コツコツとはたらき、コツコツと蓄える」姿勢を尊ぶ思想と文化の破壊こそが最大の問題点だったのではなかろうか。

 数日前、再会した山形県鶴岡市の古民家は、朽ち果てつつも、威厳を保っていた。
 たかだか60年しか生きていない者が逆立ちしてもかなわない柱石の風合いは、350年という時間の熟成作用によって創られた文化の重みを示していた。
 私たちは、この重みの前で立ち尽くす心を忘れなければ、砂漠のように乾いて無慈悲な未来を創らずに済むことだろう。

 今、ここにいる自分の、あるいは家族の、あるいは猫の、あるいは山の〈犯しがたさ〉は、すべて過去が育てた聖性である。
 落ち着いて聖性を確認する時を持ちたい。
 聖性を示すものを大切にしたい。
 一人一人がこうした落ちつきを取りもどせば、日本の文化も失いつつあったものを取りもどすことだろう。

 庶民の貯蓄は、まぎれもなく、日本人の文化と密接に結びついていた。
 投資をする心と貯蓄をする心は違うのである。
 投資を否定する必要はないが、貯蓄する心を軽視してもならないと思う。
 皆が〈儲かる〉社会になれば、皆が〈豊かに暮らせる〉わけではない。
 
 私たちはいかなる社会を求めているのか、よく考えたいものである。



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2009
08.21

お祓いと因縁解脱

 最近、「お祓いをしてください」というご要望が多いので、当山の考え方を書いておきます。
 ご来山された方へ「どうしてお祓いをしたいと思うのですか?」あるいは「何を祓いたいのですか?」とお訊ねすると、動機の多くは人間関係にあり、取り除きたいものの多くは思い通りにならない運勢や、邪魔ものとしての他人の怨念悪霊、ひいてはよからぬ祖霊や水子霊などということになります。
 
 A子さんは、変な夢を見る、恋人に突っかかるなどという状況を心配した母親に連れられて来山されました。
 すでに、霊感の強い人や占い師などに「憑いている」と言われています。
 お話を聞いたところ、プライバシーにかかわるので夢の内容は書けませんが、恋人とアツアツの若いA子さんにとって健全なもので、何の心配も要りません。
 むしろ、不安の原因は、巷にあふれている「~は良くない」というたわいもないタブーにあったようです。

 態度においても、すぐに〈邪悪な第三者〉を想定したくなる霊感の流行にこそ、不安の原因はありました。
 実態は、まだ若いA子さんが感情の起伏を調整する術をよく知らないだけのことです。
 恋人に突っかかるのは自分の心の問題であるにもかかわらず、悪霊といったものを持ち出してしまうところに現代人の心の弱さと恐ろしさがあり、霊感を流行させて商売にしている人々の罪深さがあります。

 そこで、「ご祈祷因縁解脱でやりましょう」と提案しました。
因縁解脱とは、別におどろおどろしいものではありません。
 生まれの因縁とこれまでの生き方によって作られた貴女の現在の心を揺り動かすのです。
 好きな人へ突っかかるのは元気な証拠であり、正義感の顕れでもあります。
 これは心の良い面です。
 しかし、同じ心の力が、我がまま気ままや、好き嫌いによって動くと、相手を傷つける凶器になります。
 これは心の悪い面です。
 因縁解脱とは、過去から逃げるのではなく、自分の外にあるものを取り除くのでもありません。
 自分の心の悪い面を知ってそれを克服し、良い面を知ってそれを伸ばそうとするのです。
 ただし、心はなかなかやっかいで、こう変わりたいと思っても、そうたやくすく変われるものではありません。
 だから、自分の努力だけでなく、祈ることによって仏神の後押しもいただくのです」
 こう申し上げると、A子さんも、正座して一緒に聞いていた彼氏も、とても納得されました。

 ご祈祷を終え、神妙に合掌していた二人へ具体的な注意点や感情をコントロールする方法をお伝えしたところ、来山した時の不安そうな表情は消え、溌剌として帰られました。
 今こそ釈尊の教えとお大師様の修法によって現代人に特有な黒雲を〈祓う〉必要があると痛感しています。



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2009
08.20

古民家の解体

 いよいよ、築350年と言われている山形県鶴岡市の古民家が解体されます。
 あらためて対峙してみると、気配の濃さに圧倒される思いです。

〈土地の神々へご挨拶を行い、御霊に成仏していただき、結界を結んで工事にたずさわる方々を護ります〉
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〈待つブルーシート〉
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〈夢と祈り〉
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〈猛烈な勢いで伸びる緑に埋もれてしまいそうな民家、そして敬虔な思いで研究と再生へかける人々〉
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2009
08.19

講堂建立に携わってくださった方々へのお詫び

 本日、河北新報紙上にて、講堂完成に関するお礼を述べさせていただきました。
 8月16日付当ブログ「講堂で行われる最初の大法」に書いた一文も掲載する予定でしたが、当山の不手際によりスッポリと抜け落ちてしまいました。
 施工業者様をはじめ、工事でご苦労された方々への配慮のない挨拶となってしまったことを心よりお詫び申し上げ、ここに再掲いたします。

 なお、講堂の完成にこぎつけたのは、寺院サービス株式会社(宮城県黒川郡大和町吉岡東2-8-4)社長三浦忠夫氏のご助力があったればこそです。
 限られた予算の中で、いかに必要な面積を確保するか、み仏の総徳を体現しておられる大日如来様をどのように表現するか、全体的な構想を練り上げるのに一年以上を要しました。
 その結果、横長のフォルムと特徴的な破風を持った外観、そして、漆黒の宇宙に金色の大日如来が浮かぶ内陣という形ができあがりました。
 企画・設計・施工すべてを行っていただいた社長を始め宮大工など各専門家の方々、そして、雨の中で濡れながら、あるいは酷暑に堪えながら、毎日毎日早朝から暗くなるまで汗を流し誠心誠意はたらいて下さったすべての業者様方、また、有形無形のご協力を下さった地域の方々へ心より深くお礼申し上げます。





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2009
08.19

例祭だより(8月の第二例祭はお盆供養会と一緒でした)

 8月15日は新しいお寺に引越しをして初めての大きな供養会が行われました。
 毎年、この日は猛暑の炎天下を駆け回り汗だくなのですが(笑)今年は梅雨明けもなく、とても涼しいお盆でした。
 でも住職は護摩の修法でやっぱり汗だくです(いつもお疲れ様です)

 供養会の前日までは、皆さんからお申し込みいただいたお塔婆書きに書道の上手なHさんと居合仲間のTさんと三日間ひたすら集中しました。
 前々から手がけてはいたのですが、なかなか集中してできなかったのであまり進んでいなかったのです。
 お二人にご助力いただいたおかげで、100本を越えるお塔婆は供養会まではなんとか間に合いましたvありがとうございました。

 当日は新しいお寺がいっぱいになるくらいの皆さんがお越しになりました~!
 皆さんのおかげで大きなお寺が出来上がって、皆さんもとても喜んでおられるのが伝わってきて本当に感激です。
 天上が高い大きな講堂で、これまた大きな大きな大日如来様を前に住職がお経をお唱えになるとものすごく響きがよく、住職が何人もおられるかのようなんです。

 修法が終わって、内陣を皆さんが参拝しながらお塔婆をほっとしたご様子でお持ちになり、お墓参りに向かわれるとなんだかこちらもほ~っとしました。

 昨日は自宅で送り火の花火をしました。
 お盆に帰ってきてくれたあの世の方々も無事お帰りになったのでしょうか
 お盆期間中はどこか神秘的な雰囲気に包まれている感じがしますよね。
 これからも私たちを見守っていてください・・・☆(書き手─高橋里佳)



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2009
08.18

木の自由

 ジャコメッティという画家が恐ろしい指摘をしている。
人間は、樹木自由である程度にしか自由ではない」

 私たちは、普通、植物より動物の方が自由だと思っている。
 動物よりも人間の方が自由だと思っている。
 鳥を見てうらやましいと思ったりもする。
 それは、動ける範囲の大きさが自由度の大きさだと考えるからである。

 しかし、樹林を自由に飛び回るサルにも、草原を疾駆するライオンにも一定の活動範囲がある。
 いかに遠くまで飛ぶ渡り鳥でも、リーダーが「いつも西へ向かうが、今年は東へ行ってみよう」などと目的地を変えたりはしない。
 このように、動ける範囲というものがあり、それは、生きものの種類によって定まっている。
 生きられる能力と生活範囲は深く結びついている。
 そうすると、違った種類の生きものを並べて「どちらがより自由か?」などと考えることは無意味ではなかろうか。

 では、自由とは、自分で生き方を決める選択の自由を指すのだろうか。
 自分自身を考えてみる。
 まず、日本人として、両親から生まれた男である。
 三つの条件と一緒に育つしかなかった。
 国籍と家庭と性別である。
 自分という人間の土台はこうした強い限定条件の中で作られており、できしまったものは、後から変えようがない。
 もちろん、育ての親が別の人間になったり、国籍を変えたり、あるいは性転換を行うことすらあり得るが、だからといって、それまでの条件下で培われた人生を無にすることはできない。
 
 そして、還暦を過ぎてつくづく思う。
 今の自分がやっていることが、いかに昔やっていたことと違って見えても、その萌芽は、まぎれもなく昔の自分にあったのである。
 若い日の失敗の萌芽は少年時代にあり、中年の出家も学生時代の自分と無関係ではない。
 黄色の人間が急に青い人間に、しかも、自分の意志で入れ替わるなどということはない。
 そもそも「選択の自由」とは幻想ではなかろうか?

 事実、ジャコメッティは、こうも言っている。
「私は絵画も彫刻も選択しなかった。私は選択されていたのだ」
 自分をふりかえってみると、まったく同感というしかない。
 自分で僧侶という職業を選択したなどという意識はなく、むろん、真言宗を選んだというわけでもない。
 知らぬ間にみ仏に導かれており、「ある日、托鉢をしている自分を発見した」とでも表現した方が真実に近い。

 そうすると、冒頭の話はこうなりそうだ。
 樹木は種が落ち芽をふいた場所で育ち、サルは生まれた森で育ち、人間も生まれた家庭で育つ。
 樹木は一カ所に根を張りサルや人間はあちこちと動き回るが、そうしたことはさしたる問題ではない。
 肝心なことは、樹木が光や水や養分を得て生長するように、限定条件の中で生まれ育った人間も、周囲の条件を自分に生かすことである。
「自由に選びたい」という欲にとらわれて右往左往するよりも、今の自分を精一杯生きようとする方が、真実の生き方ではないか。
 真実の生き方はそこにしかないのではなかろうか。



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2009
08.17

座布団と額をいただきました

 お盆供養会に座布団が足りず、修法後にお詫びを申し上げたところ、仙台市在住のAさんが、「使っていないので役立ててください」と10枚持参されました。
 こうした皆さんのお心が、当山の運営方針「清浄なお布施のみですべてを行う」を支えてくださっています。
 当山は、これまでも、皆さんからいただいた座布団を大切に使ってきました。
 並べれば柄がまちまちではありますが、それは心と歴史を表しており、誇りに思っています。
 これからもこうした姿勢は変えずに進みます。
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 また、美里町在住のBさんは、平成18年に行った「み仏は あなたのそばに」出版記念コンサートで隠形流居合を観て思うところがあり、書家に書いてもらって大切にしていた額を寄贈されました。
 この言葉は、斬ったり斬られたりする剣の修行も、徹底して行えば、仏法の修行によって得られるのと同じ不動の境地へたどりくつくことを示すものです。
 当山の隠形流居合は、〈まず信仰ありき〉です。
 み仏の教えを体得するために剣を用い、もって心身を健全に保ち、菩薩道を歩むのが目的です。
 このように、武道の剣とは出発点が違っていても、人の道をまっとうに歩む人間になるという結果は似ています。
 額は、入り口正面にかかっています。
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2009
08.16

抜苦(バック)与楽(ヨラク)に区別はない

 講堂いっぱいの善男善女が御霊と万霊のために祈りました。
 修法の終了後、内陣へ入った皆さんは、ご本尊様の後を廻ってから位牌棚で拝み、塔婆を受け取って帰られました。
 残念ながら準備の関係上、隠形流の居合はできませんでしたが、安心したお顔を見てお送りしながら、お大師ざまの言葉を思い出していました。

抜苦(バック)は軽重を問うことなく、与楽(ヨラク)は親疎(シンソ)を論ぜず」


 抜苦とはの「」であり、苦しんでいる人の気持ちになって、苦しみを取り除くことです。
 人は等しく苦を抱えた存在であり、苦しみに襲われている時の辛さには、偉い偉くないは関係ありません。
 また、Aさんの辛さはBさんの辛さより酷いなどという比較も成り立ちません。
 み仏は、そうした区別や比較などを超えて、等しく苦を取り除いてくださるのです。

 与楽とはの「」であり、楽を求めている人の気持ちになって、楽を与えることです。
 人は等しく楽を求める存在であり、楽しく活き活きして安心な日々を送りたいという願いを持っているのは、親しい人もそうでない人も同じです。
 み仏がお与えくださる甘露のような幸せは、それを感じとる人々へ等しくもたらされます。

 ご参詣の方々のご事情やお気持はさまざまです。
 しかし、ご本尊様の前へでかけ、合掌する方々へふりそそぐおの光は、等しく救いと安心をもたらします。
 私たちは自分を先にして他人を後にするために、お互いがお互いにとって苦の種となる面がありますが、み仏はそうした苦を離れた世界から必ず見守っておられます。
 絶対的なおを感じる時、私たちは自ずから敬虔な気持になり、救いの中へ入ります。
 
 大日如来の前でこうしたおを感じていただけたのではないかと思い、あらためてご本尊様と皆さんへ合掌しました。

〈修法後の当山を見守る笹倉山
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2009
08.15

講堂で行われる最初の大法

 今日は、午前9時から例祭としての護摩法を行い、ひき続き、お盆供養会を行います。
 この日のために、以前、虚空蔵求聞持法(グモンジホウ)を満願した百万返堂へ護摩壇を入れました。
 講堂で大きな修法を行うのは、8日に移転して以来、初めてです。
 ご来山の皆さんに喜んでいただければありがたいことです。

 なお、講堂の完成にこぎつけたのは、寺院サービス株式会社(宮城県黒川郡大和町吉岡東2-8-4)社長三浦忠夫氏のご助力があったればこそです。
 限られた予算の中で、いかに必要な面積を確保するか、み仏の総徳を体現しておられる大日如来様をどのように表現するか、全体的な構想を練り上げるのに一年以上を要しました。
 その結果、横長のフォルムと特徴的な破風を持った外観、そして、漆黒の宇宙に金色の大日如来が浮かぶ内陣という形ができあがりました。
 企画・設計・施工すべてを行っていただいた社長を始め宮大工など各専門家の方々、そして、雨の中で濡れながら、あるいは酷暑に堪えながら、毎日毎日早朝から暗くなるまで汗を流し誠心誠意はたらいて下さったすべての業者様方、また、有形無形のご協力を下さった地域の方々へ心より深くお礼申し上げます。

〈おはようございます〉
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2009
08.14

盆棚を巡って

 お盆の供養が始まりました。
 お訪ねするお宅では、皆さん、心づくしのものを供えて御霊をお迎えする準備を整え、待っておられます。
 いずれの盆棚にもゆかしさがあふれ、この世あの世とがつながっているという素朴な信仰に支えられた文化の精妙さを感じます。

 人が亡くなった時、もはや息をしなくなったをいかに扱うかは、人間が人間となった時からの、最大の課題だったのではないでしょうか。
 遙かな過去のご先祖様方に始まり、私たちは魂が天に昇ると考え、あるいは山へ遠ざかると考え、あるいは夕日の沈む方角へ去ると考え、あるいは大地の奥深く沈み込むと考えつつ、その安寧が確保されるようにとの願いをこめて祈りつつ、を大切にとり扱ってきました。
 弔いは、この世で苦労した魂がホトケとなり、カミとなって崇高な存在へと高まることを期待して行います。
 たとえ自然へ還るという思想であっても、行く先へは、凡夫の穢れを離れた崇高なイメージが必ず伴っています。

 先亡の方々は、身体が息をしなくなった途端に消えてしまったのではなく、居場所を変えられたのです。
 だからこそ、弔いを行い、新たな居場所がこの世よりもすばらしい場所であって欲しいと望み、あの世のイメージが創られてきました。
 私たちは、意識せずとも、この世に生きた人が無にならないはずであることを直感しているのです。

 直感は、仏様や神様をもつかみました。
 仏様や神様はたくさんおられ、それぞれの個性があります。
 しかし、いずれも、目には見えない世界に〈おられる〉ことは共通しています。

 私たちは、御霊も、み仏も、神様も〈おられる〉ことを前提として供養し、祀り、まことを捧げます。
 そのために盆棚をしつらえるなど目に見える形を調え、その過程において、そしてできあがった場所で合掌することによって、心も美しくなります。
 この世における損得苦楽という尺度を離れ、あの世のために無心になる時、私たち自身も確かに、崇高な存在へと一歩近づいているのです。
 今日も祈りましょう。

〈朝の笹倉山です〉
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2009
08.12

第十七回 映画「チベット チベット」を観る会

 鑑賞後、ご質問をいただきました。
戦争を知っている私は、隣国である北朝鮮の状態や、中国におけるチベットウィグルの弾圧を考えると、またああした悲惨がもたらされるのではないかと心配になります。
 安定した社会だった日本を知っている私は、仕事のない人や、食事がちゃんと食べられない人や、自分の住処に住めない人がどんどん増えていることを考えると、若い方々は希望が持てないのではないかと心配になります。
 世界一と言われるほど安心な社会で生きてきた私は、家庭や学校での殺人事件、あるいは街頭での通り魔事件、あるいは振り込め詐欺事件などが続発している報道に接すると、家でも外でも安心できない国になってしまったことが残念でなりません。
 政治は数の問題だという理屈は解ります。
 しかし、議席数の多い勢力が本当に多くの国民の願いを実現しようとしているかどうかは別問題としか思えません。
 また、社会内で発言力の小さな、陽の当たりにくいところで黙々と生きる人々へ光を当てる政治でなければならないと思います。
 どういう面から観ても、日本の行く末が心配です。
 チベットの悲惨と日本の悲惨は異質ですが、こうした悲惨は解消されるのでしょうか?」

 まだまだ若輩者の私などに、人生の大先輩からのご質問にお答えできる資格などありませんが、この道に生きていると、〈どういう現象も、突き詰めれば心の問題である〉と思えてなりません。
 確かに、今の日本にはさまざまな崩れや腐敗が生じており、不安が高まっていることも事実でしょう。
 政治が当てにならないという感じも、多くの国民が共有しているものでしょう。
 こうした状況がもたらされた理由は、私たち一人一人が、自分の幸せや家族の幸せをモノや金によって得られると思い込み、競って〈幸せ獲得競争〉をくり返してきたからに他なりません。
 そして、国は、より競争をしやすくすれば、社会全体の幸せの量が増えるという原理主義的な考えで、国民へ究極の競争を強いる仕組みを作り、今の破綻を招きました。
 私たちの不安や不幸は誰のせいでもなく、私たち自身の心のありようのもたらした結果でしかありません。

 しかし、私たちは、求めていた方向に問題があったことを知りました。
 もはや、自分だけの幸せや家族だけの幸せはどこにもありません。
 皆で力を合わせて得られる安心や満足を〈分かち合う〉以外、一人一人が安心して生きられないのです。
 こうした方向性は、霊性を高める方向性でもあると考えます。
 今こそ、お大師様の説かれた「相互供養相互礼拝」の精神がその力強い導き手になることでしょう。
 お互いがお互いのためになろうとすること、お互いがお互いを尊ぶこと、この二つが心をはこぶ車の両輪となれば、日本の社会はより成熟して行くことでしょう。

 私たちの社会や精神について深く心配することは、解決策を求める原動力です。
「これではだめだ」という気持が強い人々こそ、「こうしなければならない」と力強い発言や行動ができましょう。
 大いに心配し、大いに解決策を推進したいものです。



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2009
08.11

ご本尊様として金色で巨大な大日如来を安置した理由

 当山は、まず、家の守本尊様として如来像を授かり、次いで、開山の本尊として金剛界大日如来像を授かりました。
 それ以来、如来像をもって先祖供養や御霊供養を祈り、開山後は、金剛界大日如来像と、守本尊法の尊である守本尊八尊像と地蔵菩薩像、そして弘法大師像へ祈りつつ今日まで来ました。
 守本尊八尊とは、子年生まれの方は千手観音、丑寅年生まれの方は虚空蔵菩薩といった方々です。

 今回、大きな大日如来像を安置したのは、ご縁の方々に経典の説く大日如来をイメージしていただきたいからです。

 私たちの心は、目で見るものにより、耳で聞くものにより、鼻で嗅ぐものにより、舌で味わうものにより、肌で触れるものにより、心に思い描くものにより、無意識のうちにはたらきようが作られてゆきます。
 至心に仏像を見れば仏像の心に近づき、敬虔な気持で読経を聴けば経典の心に近づき、色欲でポルノを観ればポルノの心に近づき、怨念で殺人法を聞けば殺人者の心に近づきます。
 経典を読み、僧侶の説明を聞けば宇宙の根本仏大日如来様の姿やご利益の内容を理解できますが、視覚のはたらきは〈感覚の王〉であり、やはり「百聞は一見にしかず」です。
 大日如来像を仰ぎ観て「ああ、そうなのか」となれば、読んだり聞いたりしたものの内容がより深く実感できることでしょう。

 ところで、大日如来がご本尊様となっている寺院はあまりありません。
 観音様やお不動様やお地蔵様などの方が圧倒的に多いはずです。
 その理由は、大日如来が、あらゆるみ仏方の徳全体を体現しておられる方であり、あらゆるみ仏方の徳の泉のようなものだからです。
 観音様ならまず〈お優しい方〉といったイメージがあり、お不動様ならまず〈厳しく恐ろしい方〉といったイメージがあり、お地蔵様ならまず〈親しみやすい方〉といったイメージがありますが、大日如来はきっとイメージしにくいことでしょう。
「光無消滅」と説かれ、決して消滅することなく影を作らない最高の光を放つ如来様なのですが、阿弥陀如来の浄土信仰が深まった時代を経ているので、〈光の仏様〉といえば、まず、阿弥陀を連想される方が多いのではいないでしょうか。

 しかし、当山は、宇宙の根本仏にお会いしていただき、真実の宇宙はみ仏のお慈悲と智慧の光に満ちた世界であり、私たちの居場所こそが宇宙の中心であることを実感していただきたいのです。
 いつでも綴じた瞼の裏側に金色の大日如来像が浮かべば、きっと、いかなる困難に遭っても乗り越える力が出ることでしょう。
 誰しもが〈できることしかできない〉けれど、誰しもが自分の思っている以上の力を持っているものです。
 思わずカッとなった時、暗く落ち込んだ時、固い壁にぶつかった時、なかなか眠れない時など、いつでも瞼の裏の暗闇で輝く金色の大日如来様は救いの手を差し伸べてくださるはずです。
 まして、その真言「おん ばざらだとばん」がお像へかぶされば言うことはありません。

 最近、作家の高任和夫氏から藪から棒に「いつ、死んでも良いと思わないか?」と訊ねられ、「ああ、そうだな」と応じました。
 もちろん、今回の講堂建立についての借金があり、これまで娑婆でお世話になかった方々への恩返しやご迷惑をおかけした方々へのお詫びなどが山積してるので、今、死ぬわけにはゆかないのが実情ではありますが、そこはもう、み仏へお任せしてあるのでいかんともできません。
 さりながら、とっさにそうだと口から出た理由の一つが、もう、私の心の奥深く金色の大日如来様が住まわれ、いつ、いかなる時でも瞼の裏側で確認できるという確信であることはまちがいありません。
 ご縁の方々が煩悩魔(ボンノウマ)、天魔(テンマ)、死魔(シマ)、蘊魔(ウンマ)の四魔に襲われた時など、いつでもお救いいただけるよう、日々祈り続けます。

〈小雨が降ったり止んだりの日、安置するためのパイプやぐらを外したお姿へ合掌した瞬間、陽光が窓から差し込みました。立って合掌した私の手が光っているようにも見えます。不思議な一瞬でした。撮影していただけたのも驚きです

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2009
08.09

十力 5 ─根上下智力(コンジョウゲチリキ)について─ (1)

 み仏のお智慧「十力」の第四は、人々の根性のありようを知る根上下智力(コンジョウゲチリキ)です。
 この場合の根性とは、スポーツの練習で「根性が足りない!」などとと言う時の忍耐力を指すのでもありません。
 また、厳密な意味では、「あの人は、まっすぐな人だ」と言う時の性根(ショウネ)を指すのでもありません。
 仏法を水にたとえるならば、根性は器です。
 問題は、水がどれだけ入りやすく、どれだけの量が入り、どれだけ保持できるかという点にあります。

 み仏は、この〈器〉の状態をよくご覧になり、器に合わせて教えや力をお与えくださいます。
 この問題は、密教の説く「如来秘密」にからんでいます。
 そもそも、密教の密は秘密を意味し、それには、如来秘密と衆生秘密の両面があります。
 如来秘密とは、み仏の世界全体は凡夫の知り得るところではなく、仏法の全体は秘密であり、み仏は人々の求めにふさわしい宝ものを秘密の蔵から取り出してお与えくださるという教えです。
 たとえば、誰かを憎んで「あの人を呪い殺したい」と望んでも、み仏は決してそのような力をお与えにはなりません。
 しかし、善き心で生き、善きことを望んでいれば、やがて時が至り、凡夫には想像できないほど大きな力や智慧が与えられます。
 秘密の蔵が開かれるのです。

 野球評論家の張本勲(69歳)氏は、球界で唯一、被爆者手帳を持つ在日韓国人二世です。
 プロ野球の花形選手として活躍し、韓国の英雄となった張本氏は、現役時代、年に一回の健康診断を受けるのが不安だったそうです。
 いつ、被爆した影響が出るか判らなかったからです。
 また、広島の平和記念資料館の前まで2回、足を運んだけれども、入れなかったそうです。
 いつも並んで食事をしていた自慢の姉が原爆にやられ、無残な姿となって「じわじわと死んで」行った記憶がいつまでも鮮明だったからです。
 しかし、2年前、勇気を出して資料館を見た小学生から手紙をもらい、ついに入館してから張本氏の行動は変わりました。
 被爆体験を語り始めたのです。
 張本氏は、どこへ原爆が落とされたのかも知らない若者がいることを知って衝撃を受け、語らない自分がまちがっていた」と言われます。
(張本氏に関する稿は、7月31日付の朝日新聞によります)

 6歳上の姉の死と、それを見届ける家族の地獄体験は、張本氏の心に深く重いものを作り、口を固く閉ざさせたのでしょう。
 しかし、「熱いよ」「痛いよ」と呻き続けた姉の声は、いつしか「決して二度とあってはならない」との思いを育み、それを感得した子供から手紙を受け取るという重大な転換点を迎えました。
 そして、平和記念資料館で目にした「焼けただれた女の子の服」を前にして「手に取りたい衝動にかられ」るという決定的なできごとが起こりました。
 死に行く姉への思いが「痛かったろう」「熱かったろう」とたった今のことのようによみがえった時、張本氏は、強い力で背中を押されたに違いありません。
 地獄体験を語るのは、心にある固い果実の皮を自分で剥くようなものです。
 実践する方々がどれだけの血を流し、どれだけの痛みに耐えるものかは、第三者の想像を絶しています。
 しかし、皮を剥いて欲している人々へ差し出し、涙と共に食べてもらっているうちに、きっと、実践者そのものも救済の階段を登っているはずです。
 張本氏は、黙して語らないうちに、とてつもなく大きな器を作っていました。
 やがて時が来て慈悲と智慧が流れ込み、別世界へ足を踏み入れる力が与えられました。
 そして「核廃絶」という人類の悲願に向けて人々を強く導くようになりました。

 このように、如来秘密の教えは、仏教徒のみのものではありません。
 私たちが何かを抱え、何かをできないでいる時、私たちは〈それはいかなることなのか〉を必ずしも知り得ません。
 抱えているものやできないでいるものの〈真の姿〉すらよく解っていない場合があります。
 しかし、善き心をもって生きていれば、それらのものは腐り、毒となるはずはありません。
 時が至れば、必ずや自他を潤す甘露となって流れ出すことでしょう。
 心を器とする考え方、そして偉大なるみ仏の世界からそこへ仏法が流れ込むイメージ、善き心は辛く苦しい体験すら宝ものとして成熟させること、こうした教えは私たちへ勇気を与え、導きの燈火となっています。
 


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2009
08.08

寺院の移動

 本日と明日の二日がかりで、寺院の移動を行います。
 現在の本堂も寺務所も、講堂へ移ります。
 新しい住所は、宮城県黒川郡大和町宮床兎野1番地11-1です。
 電話番号などは以前のままです。

 思えば平成8年の暮れ、供養を求めているお宅をお訪ねするために初めて宮床を訪れた早朝、道路の真ん中で一匹のリスが待っていました。
 ちょこんと立っていた姿は忘れられません。
 深い縁を感じつつ御霊の供養を行うこと3ヶ月、「ここで活動してください」と土地家屋の寄進を受けました。
 平成9年12月に宗教法人の移転登記が済み、宮床の地で開基となりました。
 まったく思いもよらない展開でした。

 その後、『守本尊道場』建立予定地と『法楽の苑』用地をご寄進いただき、墓地と共同墓『法楽の礎』が動き始めました。
 そして、寺子屋建立運動を始めて10年、寺子屋も行える講堂が完成しました。

 早朝、足を運んだ講堂の前で、一羽の白鷺が羽を休めていました。
 じっと見ていたら、意外に広い翼をふんわりと拡げて高く舞い上がり、お焚きあげを行う不動堂近くの梢へ降りました。
 急いで車から取り出したカメラのシャッターをきってから講堂へ目を移すと、今度は、白っぽいネコが悠然と寝そべっています。
 四国八十八霊場を巡拝した時、境内地にいるイヌやネコが人間を怖れるでもなく、人間へ媚びるでもなく、伽藍があるのと同じ存在感で風景に溶けこんでいたことを思い出しました。
 そういえば、釈尊が入滅した光景を描いた涅槃図には、無数の動物たちがいます。
 鳥たちがさえずる安心の場には、生きとし生けるものが集まるのでしょう。

「ご縁日に、一目だけでも招来した大日如来様とお会いしたい」と強く願われ、引っ越し中でお詣りしていただく準備もできないうちに来山される方もおられます。
 講堂におわす金色の大日如来様は、すでに確かなおはたらきを始められました。

厄払い因縁解脱、ご加持、ご供養など、12年間、祈った本堂です〉
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〈白鷺がとまっています〉
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〈ネコがいます〉
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大日如来様です〉
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2009
08.07

学術書と著者の生活について

 今般、7月8日に書いた「上口裕博士の『刑事訴訟法』」につき、「学術書となった研究の成果は研究者の生活から独立したものであり、個人情報が流れるのは好ましくない」というご意見があり、納得し、文章を削除しました。
 学問の世界とは厳しいものです。

 研究成果が真理を表現したものである以上、それは、同じ真理を探究している学問共同体に属するのみであり、(法的な問題は別として)研究者が私有するものではないのでしょう。

 あるいは、真理を探究する学問の世界とプライバシーとの関係は、スポーツにおける練習や稽古と試合との関係に似ているのかも知れません。

 いずれにしても、ただただ上口先生の研究が進むよう、祈るのみです。



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2009
08.06

伝統仏教と新興宗教

「なぜ、新興宗教が流行り、伝統仏教がどんどん衰退しているのか?」との問いは重く、伝統仏教寺院である当山も、ご縁の方々からさまざまなご意見やご指導をいただいていますが、原因究明はとりあえず脇へ置きます。
 釈尊は、「毒矢に射られたならば、まず、矢を抜け」と説かれました。

 新興宗教に学ぶ点は二つあります。
 一つは、娑婆の方々にとって身近であることです。
 信徒さんたちは、常に施設を訪ねて教えを聞き、同志と接して安心を得られます。
 もう一つには、教えが解りやすいということです。
 仏教や神道やキリスト教などの〈良いとこ取り〉で組み立てたような感じがする教団もありますが、いずれにしても、信教宗教には、仏典のように最初から歯が立たない経典はありません。

 では、私たち伝統仏教の行者たちはどうすべきか?
 まさに、矢を抜く方法をこそ問い、考えねばなりません。

 第一には、〈人の心と社会の現実〉を知ることです。

 釈尊が生涯、出逢う人々すべてへ対機説法を続けられたように、教えが生きた力となって人を救うには、医師の診察と同じく、まず、診断が必要です。
 この場合の問診や触診に当たるのが一軒づつ訪ねる托鉢であり、人生相談です。
 私は、托鉢行によって一山を開く過程で、行く先々の見知らぬ方々からさまざまな質問や相談を受けました。
 また日々の人生相談を通じて、人間と社会が抱えている〈問題〉と、人々の〈願い〉を教えていただいています。
 そして、寺院と僧侶へ対する不満や非難や怒り、あるいは励ましなど、生の声を聞き、「どうあってはならないか」「どうあるべきか」を常に我が身へ突きつけない日はありません。
 自他の悩みや苦しみや迷いの実態と本質とを、痛みを伴って実感せねば何ごとも始まりません。

 第二には、医師が処方箋を書くように問題への対処法を明確にし、治療をせねばなりません。
 それには、経典を徹底的に読み抜き、所定の修行に励み、教えを血肉とし、仏界と通じる法力を身につける以外の便利で効果的な方法はありません。
 こうした意味において、僧侶は生涯、一行者でなければならないと考えています。
 上手に読むなら朗読家や歌手にかなわず、勉強するなら学者にかなわず、文章を書くなら作家にかなわず、癒すならカウンセラーにかないません。
 しかし、僧侶が宗教者たるゆえんは、世間の方々よりも深く確かに仏界へ通じる力を持っていることです。
 それを法力と称します。
 これは怪しげな話でも何でもありません。
 外科医が素人にできない執刀を行うのと同じく、プロの僧侶が娑婆の方にできない〈祈りの実効力〉を持つのは当然であって、さもなければ、いつまでも執刀できない学生やインターンでしかないのです。
 成道後の釈尊は、倒れる日まで〈治療の旅〉を続けられました。
 仏法に生きる行者は、生涯にわたり、そのお姿へ、より近づこうと努力せねばなりません。

 第三には、医師が病人へ日常生活の心構えを諭すように、問題を解決するためのポイントを、教えに則して説かねばなりません。
 そのためには、血肉となった教えを〈自分の言葉〉で語ることです。
「経典にはこう書いてあります」だけではなく、具体的に「こうして救われました」「こうして救われます」と信念をもって口に出さねばなりません。
 これを可能にする道は一つだけです。
 日々、悩み苦しみ、苦しみをもった方々と接して心の痛みを共有し、思いを共にして考え、願いを我がこととして祈る以外、やはり便利で効果的な方法はないのです。
 そうすれば、み仏は必ずや適切な言葉を口から溢れさせてくださることでしょう。
 また、経典の内容を、より容易に理解していただくため、当山では、読み下し文を研究し、多用しています。
 たとえば百か日忌には観音経を唱え、観音様が必ずお救いくださることを感じていただきます。
 三回忌には阿弥陀経を唱え、極楽がいかに安心に満ちた浄土かを感じていただきます。
 こうしたお導きや経典についてお話しし、適宜、ご質問を受けてもいます。
 み仏の教えを身近なものと受け止めていただけない限り、寺院は、永遠に〈敷居の高い場所〉から脱することはできません。

 いずれにしても、お大師様が「人によって興り、人によって廃れる」と説かれたとおり、2500年の歴史を持つ仏法が活きるか埋もれるかは、僧侶の生き方にかかっています。
 興廃は、仏法に生きるものに託せられており、他のものへ責任転嫁はできません。
 たとえ何歳になろうと、僧侶が自分を未熟な一行者と観じ、人生相談やご祈祷など、人々と接する〈現場〉における実践こそが、み仏から課せられた最大で最高の修行であると覚悟して日々を生きること。
 仏法興隆の方法は他にありません。



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2009
08.05

磯崎憲一郎氏の言葉「希望は過去にある」とは(1)

 第141回芥川賞受賞した磯崎憲一郎氏が、朝日新聞へ「遙かな過去の上に立つ」という文章を載せた。
 その締めくくりである。(注:原文に段落はない)

 ~いま、つくづく思うことは、誤解を恐れず正直にいえば、「もう、芥川賞以前ではないのだなあ」ということなのだ。
 無名時代に帰りたいとか、大きな賞をいただいてしまって本当にこれから小説家としてやっていけるのか?という不安な気持ちは自分でも拍子抜けするほど感じていらず、生活のペースも周囲の人たちとの接し方も、何ら変わるところはないのだが、しかし、つい半月前の、芥川賞受賞以前の私というのは、私自身でありながらもはや私ではない、どう足掻いても触れることすらできない、遙かな遠い存在になってしまった。
 過去というのはどうしてこんなにも堅固で、悠然とそびえ立って、堂々としているのだろう。
 だが過去のこの遙かさ、侵しがたさこそが、私にとっては大きな希望なのだ。私の書く小説もまた、その希望の上に成り立っている。


 こういう人が受賞したのは、やはり時代のせいだろう。
 時代がこういう人を生んだとも言える。
 
 日本は高度成長時代以来、小泉構造改革の破綻まで、アメリカの西部開拓と似た精神風土が時代を牽引してきた。
 実際、小泉純一郎氏と竹中平蔵氏のコンビほど、アメリカと深く手を組んだ者はいないと思われる。

 ピューリタンがアメリカ大陸へ上陸したのは1620年。
 彼らは未来のみを見つめ、原住民を駆逐しつつ可能性を信じてひたすら西へと進み、1776年、ついに独立を果たした。
「やろう!」「やらねばならない!」「やればできる!」という未来志向100パーセントの姿勢は、「自由の女神」像の台座にあるエマ・ラザロの詩が端的に表現している。 

疲れし者、貧しき者を我に与えよ。
自由の空気を吸わんと熱望する人たちよ-----。
身を寄せ合う哀れな人たちよ。
住む家なく、嵐にもまれし者を我に送りたまえ。
我は、黄金の扉にて灯を掲げん。


 神が、過去から離れるための扉を開けてくれるのである。
 そして、扉は西部だけでなく地球全体へと開かれ、推定で世界中に約1000カ所もの軍事基地を有し、約200万人もの軍人が配置される史上かつてない大帝国が築かれた。
 人種差別は根強く残っているものの、自由は高度に認められ、兵器の開発に牽引されて科学は発達し、ドルは国際通貨となった。

 しかし、さしもの世界帝国も明らかに中天を過ぎ、斜陽にさしかかっている。
 日本も同様なのだが、政治は、借金を増やしながら〈過去の豊かさ〉を取りもどそうとするだけで、社会と国民の多くが無意識のうちに求めている〈生活の質的変化〉への対応がなかなかできない。
 私たち自身もまた、小学生にしてすでに明らかな家計と学力との相関関係などに慄然とするだけで、いかなる生活、いかなる社会を目ざせば日本全体を覆っている不安を払拭できるのか、よく解っていない。

 そうした今、磯崎憲一郎氏によって語られた「過去のこの遙かさ、侵しがたさこそが、私にとっては大きな希望なのだ」という言葉の持つ意味は大きい。



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2009
08.04

人は真人間になれるのか (1)

 裁判員制度が動き出しました。
 第一番目は殺人事件についての裁判です。

 さて、当山は、死刑制度について、「今の日本の社会にこの制度があることはやむを得ない面があるが、死刑囚が真人間に生まれ変わったならば罪一等を減じ、合法的殺人を回避する道を開くべきである」と考えています。
 それは、人間は仏性を持ちながらも〈過ち得る者〉であり、哀しい人間の最終的な救済は本人の生まれ変わりと周囲の赦しにしかないと考えるからです。
 死刑執行は、〈過ち得る者〉に対する〈過ち得る者〉の殺人であり、刑務官にとっては最も辛い仕事です。
 だからこそ、首にロープをかけられた死刑囚の床板を開くボタンを押す刑務官は複数おり、刑檀室の見えない部屋で待機し、送られる合図によって同時にボタンを押すので、誰が死刑執行したか判らない仕組みになっています。

 いかなる凶悪犯も真人間生まれ変わり、社会が生まれ変わった犯人を許せるにようになった時、私たちは初めて死刑という桎梏から解き放たれ、戦争と並ぶ〈最後の野蛮〉を解消することができるのではないでしょうか。
 その可能性は、人間がすべて仏性を持ちそれを開顕できるのかという問題と、社会が、特に被害者や関係者が犯罪者をどこまで許せるかという問題にかかっています。
 この稿では、前者について考えてみます。

 古来、仏教界では一閳提(イッセンダイ)が議論されてきました。
 み仏に救われ得ない人間がいるかどうかということです。
「決して真人間になれない人間はいるのだろうか?」と言い換えることもできます。
 犯罪者、あるいは小説や映画の登場人物、もしくは知人などを考えると、どうしようもない、救いようのない人間は確かにいそうですが、大乗仏教では救われる可能性の閉ざされた人間はいないとされています。
 それは、「人間には、必ず仏性という成仏の原因が具わっている」と経典が説いているからです。
 本当にそうでしょうか?



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