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2009
09.30

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 36 ―仏道・天界・地獄界─

 9月30日は『法句経ダンマパダ)』の「好喜品(コウキホン)」第二十四についてお話しました。

「近と不近とは、住する所は異なる、道に近づかばに昇り、近づかずんば獄に堕す」


仏道に近づく人と、近づかない人とでは、住まう所が違う。近づく人は界へも昇ろうが、近づかない人は地獄界へも堕ちよう)

 仏道は人の道を説きます。
 それは、心中におわすみ仏(自心仏…ジシンブツ)に会う方法を知ることでもあります。
 み仏に導かれれば、地獄界や餓鬼界へ堕ちるはずはありません。
 なぜなら、我(ガ)という煩悩の主人公に引きずられないからです。

 人の道を知らなければ、我に引きずられ、煩悩のままにいのちのエネルギーを燃やすことになります。
 その炎が盛んであればあるほど、迷いの深い世界へと堕ちこみます。
 色情因縁で苦しむ知人を救いたいと願う方の叫びは忘れられません。
「彼女が欲しいのは愛なんですよ。寂しさの塊なんです。 でも狂わされてる。」
 愛という名の色情こそ、煩悩の代表です。
 狂わせているものが引き起こす自他の破壊を直視し、身震いしない限り、因縁解脱は困難です。
 善悪が交差する人間界にいればまだしも、互いを傷つけ倒し合う修羅界や恩知らずの畜生界、そして自分が喰らおうとするだけの餓鬼界や出口のない地獄界へ行けば、もはや、教えを聞く耳は塞がり、長らく迷宮から出られなくなってしまいます。

 私たちは、悟らない限り、六つの世界のいずれかの住人ですが、み仏に導かれれば人間界を大過なく過ごし、精進が進めば界へ行くことも可能です。
 しかし、界にいてすら、寿命が尽きれば地獄界や修羅界へ行かざるを得ません。
 故三島由紀夫は、人生の最後にその遍歴を綴りました。
 四部作『豊饒(ホウジョウ)の海』です。
 悪業は解脱しない限り、埋もれ火のように何かを燃やす機会を狙っているのです。

 仏道に学び、六道を経巡る真実を知り、自他共に煩悩から解放され、輪廻を脱する方向へと進みましょう。

 さて、私たちは、地獄界などをよく観る必要があります。
 そして慈悲心を喚起せねばなりません。
 また、自分はその住人にならぬよう生き方を考えねばなりません。
 目をつぶるのは、自分だけが安穏であろうとする煩悩のしわざです。
 悪人の悪業は、悪そのものの荒みを教えるだけではなく、やがて訪れる悪果への怖れをもって、悪への拒否反応を起こさせます。

 しかし、地獄界を観ても、決して地獄道へ足を踏み入れてはなりません。
 踏み入れたら最後、地獄界の住人になるからです。
 それは、麻薬に手を出す行為に似ています。
 麻薬が蔓延している実態を知り、中毒患者の悲惨におののき、手を差しのべられればできることを行うのは結構ですが、いかに魅惑的であっても決して用いてはなりません。
 それは道へ踏み入ったことになるからです。
 その世界の住人になるのは、あっという間でしょう。

 世界は観ましょう。
 住人になる道は選びましょう。



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2009
09.30

石一つ

「石一つ叡智のごとくだまりたる雨のまつただ中にああ光るのみ」

 
 加藤克巳氏(94歳)が、かつて詠んだ一句である。

 雨に濡れている石がある。
 彼は動かない。
 ただ、黙している。
 雨は容赦なく降りそそぎ、石は水のベールに覆われるが、それはただ、外側だけを流れるだけで、石に染み入ることはない。
 ───確たるもの───。
 叡智か……。

 黒く光る。
 光っているのは雨水ではない。
 濡れた石の表面である。
 ───石は光る───。
 雨水は虚しく流れ消えるのみ。

 ああ、光る石よ……。

 軍人、教師、社長を経験した彼は平成20年、脳梗塞に倒れ、リハビリを続けながら創作活動を行っている。
克巳かるた』を刊行し、読売新聞にこう述べている。
「今回のかるたは私の短歌人生にとって一つの到達点であると同時に、新たな出発点でもある。
 命あるある限り歌い続けたいですね」
 
 観る力は、病気によって衰えても、老いによって衰えるとは限らない。
 の意識が明確になると、自分の心が本当に観えるのではなかろうか。
 人は必ずぬが、病気や老いに強く背中を押されないと、なかなか「自分はぬ存在である」と実感されない。
 万人にとって絶対に確実なものであるの到来を正面から見すえた時、自分の心が本当に観え、〈光る石〉が観えるのではなかろうか。
 きっと、詠む人は、早く観える人なのだろう。



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2009
09.29

10月の聖悟 ─弘法大師の教え─

 今月も、お大師様の言葉をひもとき、教えに学びましょう。

六大(リクダイ)法界(ホッカイ)体性(タイショウ)所成(ショジョウ)の身は、無障無碍(ムショウムゲ)にして互相に渉入相応し、常住不変にして同じく実在に住せり」 ─弘法大師


、識の徳によって宇宙は成り立っており、そこに存在するみ仏も、生きとし生けるものも、天万物も、何ものに妨げられることもなく自在にはたらく永遠の徳と共にある)

 塔婆の表には、「」を示す梵字が書かれています。

」は、真実世界が無始無終であることを意味しています。
」は、真実世界が言葉を超えたものであることを意味しています。
」は、真実世界が汚れなきものであることを意味しています。
」は、真実世界が因縁を離れたものであることを意味しています。
」は、真実世界が虚のようなものであることを意味しています。

 塔婆の裏には、「識」を示す梵字が書かれています。
「識」は、真実世界が明らかであることを意味しています。

 お大師様は、宇宙がそれぞれ独立したものでありながら、決して妨げ合わない六つの徳によって成り立ち、それこそが、み仏のお身体そのものであると喝破されました。
 私たちは、普段、「自分の身体は自分のものである」「自分の心は自分のものである」という感覚の範囲で生きていますが、いかがなものでしょうか。
 たとえば、私たちの腸内には300種類もの最近がおり、100兆個もの目に見えない者たちが生きているのです。
 彼らとの共存がいのちをつなぐ必須の要件であるなど、意識されていないのではないでしょうか。
 また、私たちは何かを知っていると思っていますが、その内容は、何かにぶつかって初めてそれと確認されます。
 自分の心の中を自分一人でそっくり観られる人など、どこにもいません。
 身体も心も、「世界の中でそのようにある」ことでしか存在しないのです。
「自分一人で生きている自分」「そのものだけで存在しているもの」などは、幻想でしかありません。
 それは、友人も、ネコも、カラスも、ミミズも、そして、車やビルも、山や川も同じです。

 、識がたった今、完璧に共存しているからこそ、今があり、自分がいて、環境世界があります。
 それは、み仏と自分が一体であることを意味します。
 何と不思議なことでしょうか。
 何とありがたいことでしょうか。

 お大師様の教えを学び、塔婆を立てる供養によって真実世界を実感しながら生きたいものです。



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2009
09.28

10月の守本尊様

 10月10月8日から11月6日まで)の守本尊様は阿弥陀如来様です



遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。そのお力により、正しく念ずるならば、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。



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2009
09.28

10月の真言

 10月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して阿弥陀如来様の真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

阿弥陀如来(あ・み・だ・にょ・らい)

「オン アミリタテイセイ カラ ウン」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




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2009
09.27

毘沙門天(ビシャモンテン)と呪文

 釈尊が森林で瞑想修行にいそしんでいる時、四天王が家来たちを引き連れて現れました。
 統率者である毘沙門天が言います。
「上位の者であれ、中位の者であれ、下位の者であれ、夜叉たちには世尊に信心を持たない者がおります。持つ者もおります。しかし、夜叉はほとんど信心を持たない者たちです」
「この森には、そうしたおおぜいの悪魔がいるので、世尊をお護りするために家来たちを置いてゆきます」
 そして、呪文を唱えます。

 夜叉とは、釈尊の説く五戒に背く日々を送り、釈尊の説法と教化を喜ばず不快に思う者たちです。
 だから毘沙門天をはじめ呪文を唱える者たちは、夜叉から釈尊を護り、出家修行者を護り、在家修行者を護ろうとします。
 そして、自分たちのはたらきによって夜叉を教化し、五戒を守らせ、仏法の守護神に変えようとします。
 毘沙門天のはたらきには、大なるものがあります。
 釈尊はそれを喜び、出家修行者にも、在家修行者にも、呪文を唱えることを勧めます。

 また、釈尊は、修行中、毒蛇に噛まれないよう弟子たちへ注意します。
慈悲心のない者は毒蛇に攻撃される。懺悔し、防護の呪文を唱えなさい」
 修行をまっとうするには、慈悲心という心の核を確立し、それを穢す心を祓い、外からの攻撃を防ぐため、諸天善神に護られる呪文を唱える必要があります。

 このように、仏法はその初めから呪文を大切にし、神々をも教化し、神々に護られ、すべてをみ仏の光明中へ引き入れつつ発展してきました。
 マンダラ光明世界全体を示すものです。
 堂奥のマンダラをじっと眺めていると、神々に護られて座する釈尊がおられた森林の気配を感じ、深々とした真言が聞こえてくるような気がします。



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2009
09.26

ご本尊様について

 お大師様は、こう説いておられます。

「我が本来自性清浄(ジショウショウジョウ)の心は世間出世間において最勝最尊なり。ゆえに本尊という」


(自分の持っている本来清らかな心は、世間にいようと、世間から離れた世界にいようと、どこにあっても最も優れ、最も尊いものである。だから本尊というのである)

 密教において修法する際は、護摩法なら火天や不動明王など、必ず、ご本尊様と一体になっています。
 そもそも、あらゆる修法の前に行う護身法において「一切諸法は自性清浄なるがゆえに、我もまた、自性清浄なり」と観想している以上、ご本尊様と一体にならない行者はあり得ません。

 そうすると、自分にある清浄な心こそがご本尊様であるということになります。
 では、尊ばないではいられない「本来自性清浄の心」とは、どういう心でしょうか?

 仏法の理論は別として、要は「より良く生きようとする心」であり、それが「良心に恥じない」ことが必須の条件であると言えましょう。
「安全でおいしいお米を作って消費者に喜んでもらおう」
「より効く薬を開発して難病の人を救おう」
 これらはまさしく清浄な心です。
 しかし、それが表面的であれば、ご本尊様とまでは言えません。
 もしも、「古い米を混ぜて売っても、どうせばれないだろう」「まだ安全が確認しきれていないけれど、早く売って大儲けしよう」などという穢れがつくかも知れないからです。
 お百姓さんにも薬屋さんにも清浄な心はありますが、本来の穢れをまとわず揺るぎない清浄な心へ行き着かない限り、ご本尊様とは呼べません。

 では、どうなれば、自分におられるご本尊様と会ったことになるのか?

 それは、「良心に恥じないことしかできなくなった」時ではないでしょうか。

 しかし、気をつけねばなりません。
 もしも良心という鏡に布をかけていれば、恥じるという心がはたらかないからです。
 良心が呵責するという機能を果たさなければ、良心は無いのと同じです。
 だから、良心の鏡は常に磨いておかねばなりません。
 さもないと、その奥にましますご本尊様には会えないのです。

 もう、ご本尊様と会うための方法が明らかになりました。
 それは鏡を磨き続けることです。
 鏡を磨くとは、あらゆる良きイメージをくり返し想起することです。
 そのために大日如来や観音様などの尊像があり、般若心経や理趣経などの経典があり、お地蔵様やお不動様の真言があるのです。
 仏法は、あらゆる良きイメージの宮殿です。

 前述のように、その入り口はどこにでもあります。
 田んぼにも、実験室にもあります。
 もちろん、学校にもあります。
 
 良心に恥じない生き方ができれば、それはご本尊様と共に生きていることになります。
「生き甲斐を感じている」とは、ご本尊様が輝いておられることです。
「今日の一日を感謝しながら寝床につける」とは、ご本尊様に護られていることです。
 そうなれるよう、共に励もうではありませんか。



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2009
09.25

平成21年10月の運勢と開運法

 平成21年10月運勢と世間の動きを記します。

 今月は、信頼し合い尊敬し合う人間関係が大きな力を発揮する時期です。
 そうした人々が集まったグループや組織などは、良い活動や仕事ができましょう。
 常々の友愛や親和が本ものかどうか試されるとも言えます。
 ここで大切なのは、目上・同輩・目下の関係です。
 目上の人は目下の人の手本になり、指導してレベルアップさせねばなりません。
 さもないと、孤立してしまいます。
 同輩たちは切磋琢磨して共にレベルアップせねばなりません。
 さもないと、共に自滅します。
 目下の人は目上の人を尊敬しもり立てつつ自らのレベルアップをはからねばなりません。
 さもないと、人間関係はバラバラになってしまいます。
 こうして、力を発揮できる人たちとそうでない人たちがはっきりすることでしょう。

 リーダーは言葉に充分、注意する必要があります。
 言葉は当然、思考内容を示すからですが、沈黙もまた、思考内容と大いに関係があることを認識したいものです。
 リーダーが何を考えているか知りたい人は、その話を頼りにします。
 しかし、話されなければ、想像する以外ありません。
 この〈想像させる〉ことには少なからぬ意義があるものです。
 古来、「沈黙は金、雄弁は銀」と言われているではありませんか。
 ただし、名言を口にした雄弁家デモステネスがいた頃の古代ギリシャでは、製錬技術の関係上、銀の方が金の十倍もの値打ちがあり、彼は雄弁の価値を主張したのだという説もあります。
 今の解釈に至った成り行きは面白いものです。

 さて、いつの世も嫉妬はなくならず、「出る釘は打たれる」ものですが、嫉妬したり、出る釘を打ったりする人は、結局、自分の運勢を損ねることになるものです。
 それは、せっかく自分のそばにある上昇気流にわざと乗らないのだから当然です。
 ものごとは、自分の努力と、仏神のご加護と、周囲の縁の力によって前へ進みます。
 恥ずべき心になり、良き縁を壊す人は、自分で自分自身の発展の芽を摘んでいるのです。
 こうなっては残念です。
 特殊な天才は別にして、伸びる人は他人の幸せを喜べる人であることを肝に銘じたいものです。

 今月は、不用意な言葉で失敗しないよう、つまらぬことで口論しないよう気をつけましょう。
 特に、飲み食いの席ではめを外すのは危険です。
 読書の秋です。
 沈黙の金と銀の関係などに思いを馳せるゆったりとした時間を持ちたいものですね。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は飾らぬ人柄が大地を潤す雨のように受け容れられます。
 不精進の人は不用意な一言がせっかく築いた信頼関係を壊したりしがちです。
[持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は自然に人徳が滲み出て親和を得られます。
 不精進の人は隠しておきたいものや良からぬ本性が顕れたりして失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は相手の実態や計画の実現性を的確に判断し、無事安全です。
 不精進の人は怪しげな人や眉唾の話に乗せられがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は広い視野と目上を尊ぶ姿勢が認められて成功します。
 不精進の人は勝手な思いこみと自己過信で墓穴を掘り失敗しがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は自分の利だけを追い求めず、周囲から徳を慕われます。
 不精進の人は自己主張から人を追いつめ、敬遠されがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は自省を深めて相手を責めず、困難を自力で乗り切ります。
 不精進の人は見放され、不調を他人のせいにして浮上の機会を逸しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



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2009
09.24

【現代の偉人伝】第83話 ─カエル・タヌキ・虫─

 今回の偉人は「人」ではない。

 講堂前でヘッドライトを点灯し、参道へとハンドルを切ったら、十㎝近い茶色のカエルが通路の端を歩いていた。
 彼は草むらへと方向を変え、私は一段とスピードを落として通過した。

 思えば、彼らの棲む草むらは、当山がここへ侵入してからどんどん減らされた。
 伸び放題だった草むらに草苅機を手にして踏入り、花や実をつけていた草をなぎ倒した時、すがっていたカタツムリやテントウムシなどは一緒に地に落ち、バッタなどは一目散に跳ねて逃げ、羽を広げられる虫たちは必死に飛び上がり、地を這うしかないものたちは踏みつぶされた。
「すまない」と心で謝りつつ陽光の下で行った行為を私は忘れられない。
 その後、極力樹木を植え、草むらを確保し、彼らの住処を少しでも回復できるよう気を配ってはきた。 境内地を森にして樹間の通路を通って伽藍へ行くようにしたいと構想している。
 今もキジやキツネと会えるが、将来はリスも見られるところまで整備したいと願い、樹木や草花や石などのご寄進を募っている。
 おかげさまで「来るたびに景色が変わっていて楽しいです」などと言っていただけるようになった。
 緑を深めるスピードを上げたい。

 さて、一般道へ出たら、久方ぶりの雨に喜んだ小さなカエルたちが、あちこちで跳びはねている。
 踏みたくない。
 後続車に気を使いつつ走るが、踏んでしまったような気がした時は気持が滅入る。

 山道ではタヌキが死んでいた。
 いつものように路端で目を剥き、仰向けになっている。
 交通事故で死ぬ彼らの姿は決まっている。
「オンアボキャベイロシャノウ~」と唱えつつ、踏まずに通り抜けるのが精いっぱいだった。
 すぐ後にいた車は避けられなかったのではなかろうか。
 きっと彼らは、道路で切断された自分のテリトリーをいつものように歩こうとしていただけなのだろう。

 T字路になっている交差点の青信号で止まった。
 目の前を体長五㎝ほどの黒っぽくて平べったい虫がゆっくりと歩いている。
 横断歩道を渡ろうとしているのだ。
 左側から右折車が来て交差点の中央が照らされ、虫は手前で止まった。
 通過するとまた中央へ向かってゆっくり歩く。
 立ち止まりつつ、しかし、まっすぐ進む。
 眺めているうちに信号が変わり発射しなければならなくなった。
 分離帯近くまで行った虫を私は踏まないで済む。
 しかし、対向車線を来る車がなくなるまで彼は待ち、無事に渡り終えるとは思えない。
 生きとし生けるものは皆、自分の五感で把握できる世界しか認識できない。
 疾駆してくる車を決して認識できない彼が無事交差点を渡りきる可能性はほとんどゼロに近いだろう。
 通り過ぎた交差点近くに白い花が咲いていた。
 しかし、町中で夜咲く花があるだろうか。
 背の低い花が五輪ほど見えたのは錯覚だったのだろうか。
 このあたりで起こった交通事故の犠牲者を慰めるために誰かが立てた造化かも知れない。
 もしそうだとしたら、慰められねばならないのは犠牲となった人間だけではない。
 あの花をもって、日々殺され続けている虫たちをも慰霊せねばならない。

 出逢ったカエルタヌキも虫も、生きものたちの住処を奪い、いのちを奪う私たちの文明が持つ傲慢さをあらためて教えてくれた。
 かつて清教徒はアメリカ大陸の先住民を滅ぼし、日本人はアイヌを追いつめた。
 漢人は今、チベット人やウィグル人を追いつめている。
 同じ人間同士ならこうした行為を「非道」であると理解できるが、膨大な生きものたちの中でほとんどゼロに近い存在でしかない人間が、ありとあらゆる先住のものたちを追いつめ滅ぼすことは、普段、非道とは感じられない。
 限りある地球で節理を重んじながら共存するのでなく、自分の都合に合わせて地球をただただ便利に使おうとしている非道な人間に鉄槌の下らないはずがあろうか。
 先住のものたちを一方的に追い出してやまない者が仏神に喜ばれようか。

 こうした文明、こうした時代に生きている私たちが菩薩として生きるには一人一人ができることを行うしかない。
 生きものはできるだけ殺さないことである。
 やむを得ず殺したならば慰霊の気持を持つことである。
 食べ物を口にする時もそうである。
 緑をつぶしたならば、たとえその何割かでも緑を回復させることである。
 こうした実践は誰にでも可能である。
 生きているもののいのちを実感する感覚を失わずにいなければ、無慈悲は心を占領する勢いで増殖するに違いない。
 このことをこそ、怖れたい。
 警鐘を鳴らすカエルタヌキや虫に感謝したい。



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2009
09.23

10月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

今日白露(ハクロ)日射すいきほひ緩みそめ


 今年の白露は九月七日だった。
 大気の冷えは朝夕に始まり、身体がブルッとする時、秋の到来を深く実感させられる。
 同時に、その原因となっている太陽の位置の変化もはっきりと認識できる。
 斜めになった陽光は、明らかにその勢いを緩めるのである。

高空に光る九月の雲一朶(ダ)


 秋の空気は澄み、空の青は遠く感じられる。
 どこからかやってきてポツンと浮かび光り輝く一片の雲は、まるで天空にぶら下がっているかのようである。
「朶」には垂れ下がった枝という意味があり、唐代の韋陟が書いた署名は流麗さゆえに五朶雲と称せられた。

秋めくや夕日を孕む雲の彩


 透明な空気と高い空は雲の色を否が応にも引き立たせる。
 夕陽を背にして向こう側から照らされた雲は、空色や橙色や紫色や灰色など多様な色合を見せる。「めく」は、「らしい」や「のような状態になる」だが、自分の心に秋が「入り込む」感じではなかろうか。

ちぎれ雲並木に秋の風見ゆる


 見上げた目に映るちぎれ雲は、大空を太く強く吹き抜ける風を想像させる。
 ふと、頬や首筋のあたりに触れてくる空気の感触に目線を下げると、並木通りに風の走る気配がある。
「見ゆる」は、もちろん目に見えるのではない。
 魂が風に「出逢う」のだろう。

鰯雲今日のこころに広ごりぬ


 鰯雲はとても高い位置に発生し、薄いので光がよく通って真っ白に光り、影は作らない。
 ウロコのように広がり、うろこ雲とも呼ばれる。
 作者の「今日のこころ」がいかなるものであるかはうかがい知れないが、白片が広がった状態は、佳なるものではなかろうか。

秋立つと思へば軽き裁ち鋏


「立つ」は、はっきりと存在を主張するといった意味である。
 四季のそれぞれは必ず、先行する十八日間の土曜の後にやってくる。
 前の季節が土曜の作用を受けて溶解し、その中で萌芽した新たな季節がやがて「立つ」のである。 落ちついて裁縫のできる時期になった。

山焼けて空焼けて夏逝けり


「山焼け」は、山の強い直射日光によって日焼けすること。
空焼け」は主に夕焼けを指すが、茜色の朝焼けも含む。
 夏の名残が日焼けとして肌に残り、そして彩り鮮やかな夕焼けの時期になると、もう天地万物がいのちを謳歌した夏は去ってしまったことが胸に迫る。

秋の風外さなければちんちろりん
伴奏の風のまま鳴るちんちろりん
何がなし未だ此の世にチンチロリン


 作者は風鈴の音を聴き、様子を眺めている。
 そのうちに音といのちが共鳴し、我を忘れてしまった。
 やがて〈自分〉が戻ってきて、そうしている自分に声をかけた。
「やあ、まだ何とはなしに、この世にいるんだね」。
 作者は自在の人になったのだろうか。



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2009
09.23

例祭だより(9月の第二例祭)

 お盆が終わったと思いきや。もう、秋のお彼岸ですねー。

 お寺にはたくさんの方がお墓参りに来られ、講堂のご本尊様にもお参りされています。

 先日の第二例祭も、たくさんの方がご参詣されました。

 とてもさわやかな秋晴れのもと護摩の炎も力強く燃え上がりました。
 お天道様も燦燦とほどよくあたたかく、おだやかな日でした。
 例祭の後は講堂にて、大きな大日如来様に見守られながらみなさんとお茶の時間。

 お集まりになられる皆様それぞれご苦労がおありでも、こうして互いを尊びあいながら笑顔を交わせるひととき・・・
 なんだかほんわかした雰囲気で、極楽ってこういうとこ?思ってしまいました^^
 皆で笑顔を交わすとご苦労(ゴクロウ)がたちまち極楽(ゴクラク)になるんだなぁ~♪って。

 この週はお寺の奥の部屋に生仏様をお迎えしておりましたが、まるで静かに休んでおられるかのような気配がありました。
 お祭りやお彼岸でにぎやかなお寺でしたが、かえって生仏様もなんだかご安心されてるんじゃないかなと思えてしまいました。
 今頃はもう住職がしっかりと引導を渡されて、高~~い高いところからご家族を見守ってくれていることでしょう。

 今年は秋の訪れも早い感じがしますね。
 境内には秋桜がところどころに咲き誇っています。
 晴れた日の夕方は笹倉山の夕映えがあまりにも美しすぎて・・・うっとり☆
 思わず携帯でカシャっとやりましたv(書き手…橋里佳)

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/からほとんど転載させていただきました。

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2009
09.23

ミュージカル

 信徒Sさんの投稿です。


 今日は後輩とミュージカルを見てきました★
 大迫力ですごかったです!
 そして今日は中学校の文化祭もあり、なんだか充実した一日でした。
 あとは来週の期末をなんとかせねば・・・!

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2009
09.22

月見の会

 秋の夜に講堂で月見の会を催した方々が集めた万葉集などの歌です。
 当日発表されたAさんの解釈も書き留めておきます。

秋の夜のほがらほがらと天の原 照る月かげに雁鳴きわたる ─賀茂真淵・賀茂翁家集─ 


(秋の夜に、東の空から十三夜の月が昇ってきて、大空はしだいに明るくかってきた。その月の光を背にして、雁が鳴きながら飛んでいる)

秋の夜の月の光はきよけれど 人の心の隈は照らさず ─後撰集─


(秋夜の月光は冴え冴えと濁りないが、あの人の心の奥までは見えないということでしょうか)

世のなかは空しきものとあらむとぞ この照る月は満ち欠けしける ─万葉集


(この世が虚しいものだと教え諭すために、月は満ち欠けするのか)

月読みの光に来ませ あしひきの山きへなりて遠からなくに ─湯原王・万葉集


(月の光の中を来てくださいな。山を隔てて遠くというわけではないのだから…)

何ばかり心づくしにながめれど 見しに暮れぬる秋の月影 ─紫式部紫式部集─


(それほど思いつめて眺めているわけじゃないが、見ている間に涙に暮れた。秋の月も暗く沈んでいる。私はやはり物思いをしていたらしい)

 ご本尊様を礼拝し、こうした会を開かれるのはありがたいことです。
 橙色の空を背景に暮れなずむ笹倉山の描く真っ黒な稜線は、目を奪い、言葉も奪いました。
 そして、時をやすやすと超えた秀歌は、たちまちに心をワープさせました。

笹倉山と角塔婆
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2009
09.21

医師の言い分

 A医師と対話しました。
 彼の言い分には100%納得できました。

「医者はガンで死にたいと願っている。
 ガンになればある程度、死期が判り、死の準備ができる」
「人は皆、60歳を過ぎれば、多かれ少なかれ体内にガンを抱える。
 ガンは失敗が元で発生し、失敗のない人生を送られる人はいないのだから」
「私はガンで死にたい。
 自分が死ぬまでの苦しみを見せ、生きざま死にざまを見せることが、子供などへ人間の尊厳を確認させるために大切だ」
「人は必ず死ぬ。
 このことをふまえない訴訟事件が多く、医療従事者の環境はだんだん過酷になってきている」
医師の判断内容を医学関係者以外の人へ理解してもらえるまで説明するには、膨大な時間が必要だ。
 プロが何年も、何十年もかけて積み上げた理論的技術的背景を、素人へ簡単に説明し尽くせるはずはない。
 しかも医師は日々、現場にいるのだから、どうやって説明する時間が作られるのだろう」
「病院へ電話が入り、担当者が応対に出ているうちに、たまたま、誰かが電話の内容と関係なく笑った笑い声が聞こえたからといって、電話の主が病院を訴えるケースもある」
「とにかく、寛容の精神がなくなった。
 トゲトゲ、ギスギスしている。
 疑われ、怨まれ、すぐに訴えられる外科や産婦人科を志望する人がどんどんいなくなるのは当然だ」

 人はだれでも年をとるとガンを抱えるという指摘には目を瞠らせられました。
 この世のあらゆるものは「生・住・異・滅」(ショウ・ジュウ・イ・メツ)のどこかにあります。
 生じているか、とどまっているか、変化しているか、滅しているかの「四相(シソウ)」が転変するもののありようを示します。
 ガンは、まさに、「異」に当たるのでしょう。
 どんなに元気を保っていても、必ずいつかは死(滅)への階段を降り始めねばならず、「異」は避けられないのです。
 相手が必ずやってくるのならば、問題の根本は「いかに迎えるか」ということになりはしないでしょうか。

 ところで、私は医師という専門家へ身体のチェックやメンテナンスはすべてお任せしています。
 プロとして信頼している以上、判断や治療が適切かどうかなどということは考えたこともありません。
 そもそもプロでない自分には判断できる能力がないので、最初からできないことはしないだけのことです。
 できることをして生きる以外、生きようはないのだから、自分の能力を超えたことに時間を使わないのは当然です。
 だから、信頼がすべてです。
 そして、人間は未完成な生きものであり、誰の人生にも失敗はつきものなので、医師にだけ無謬を求めたりはしません。
 万が一、誤診や治療ミスがあったとしても、任せた以上は仕方がないではありませんか。
 治療がうまくいって風邪が治ればあたりまえと考え、うまくいかないで長引いた時だけ「病院のせいだ!」と居丈高になるのはおかしなことです。
 治ったのも長引いたのも同じく病院にかかった結果であり、〈任せる〉とはそうした〈全体〉について自分勝手な判断を言い立てないということです。
 もちろん、意図的に害を加えられれば黙っているわけにはゆきませんが、そうした心配はまったくしていません。
 信頼する段階において、医師が自分へ意図的に害を加えることはないという判断をしてしまっているのですから当然です。
 身体のチェックやメンテナンスに関しては、信頼できる医師を見つけるかどうかがすべてではないでしょうか。



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2009
09.20

恐怖新聞

 若者たちの間で支持されているという『恐怖新聞』を読みました。
 作者つのだじろう氏は、目に見えない世界とこの世とのかかわりについて、時には科学的な立場から、時には想像力たくましく、解きほぐしました。
 いたずらに不安や恐怖心を起こさせる姿勢はまったくなく、むしろ、理解しにくい状況へ「そうなのかもしれない」という一定の解釈を与え、不安を解消させようとしています。
 また、何でも思いどおりにしようという人間の傲慢さへ警告を発する場面もあり、昭和11年生まれの作者が抱く思いに共感させられました。
 UFOに乗ってやってきた少女は「宇宙連合」からの警告について語ります。

「地球の人類はいま、自分たちの星〝地球〟を滅亡させようとしているわ!」
「軍事力を持つ大国は一瞬にして国をふっとばすような水爆をあらそってつくり実験し…」
「科学は公害を続出させ 空や海をよごしている…」
「このまま何十年かたつうちにやがて…」
「生物がまったく住めなくなるようになり…人類も滅亡してしまうでしょう!」


 この力作を読んだ人々はどう考えるのか、とても興味深いところです。

 ただし、四谷怪談の伝説についても、人間の因果応報の視点から描き問題提起をしてはいますが、周囲へ不吉なできごとをもたらす因縁が現在までも影響を及ぼしているといったところで終りになるのは、この本が味わい深い余韻を残す一方で、私たち行者へ責任の重さを痛感させるものでもあります。
 また、良からぬできごとが起こった場合、自分自身の日常生活の過ごし方や考え方に主たる原因があるにもかかわらず、容易に〈目に見えない〉もののせいにしてしまい、それを〈祓いたい〉という執着にとりつかれる人々が少なくないのは大問題です。
 道理をもって考えれば判断できるはずなのに、それをやらず悪霊のせいにしてしまえば、出口のない袋小路へ入り込む危険性があります。
 袋小路をそっくり絡め取って商売にする輩も横行し、実に難しい時代になりました。

 道理で考える面と感性でつかむ面とを混同せず、バランスよく生きる道を追求したいものです。



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2009
09.19

写経について

 写経を本格的に始めました。
 書くのは『理趣経(リシュキョウ)』のエッセンス「百字偈(ゲ)」です。
 この教えを学べば、大乗仏教の根本である菩薩(ボサツ)のイメージが明確になります。
 「百字偈(ゲ)」によって大乗仏教の核心が簡明に示されました。
 
 当山独自の写経セットを用意しました。
 また、B5版43ページの『理趣経百字偈について』も用意し、大きな文字で解りやすく説明しました。
  
 同書より。

 密教の根本経典である『理趣経(りしゅきょう)』に「百字(ひゃくじ)偈(げ)」があります。
 わずか百の文字にこめられたエッセンスにこそ仏法のめざす境地があり、それは「人間は何者か?」「生きる意味とは何か?」という人類共通の問いへの答でもあります。


 私たちは皆、み仏の子であり、親たるみ仏の世界からこの世へやってきた修行者です。ならば、み仏の教えを心の柱として生きねばなりません。
 それはいかなる生き方かといえば、「菩薩(ぼさつ)として生きる」ということです。
 では菩薩(ぼさつ)とは何か?
 この百文字にその答があります。
 人類の歴史と共にある普遍の問いはここに答え尽くされています。


 釈尊は、入滅に際して説かれました。
「この後、未来永劫(えいごう)にわたって、弟子たちがこの自利利他(じりりた)の法を行じてゆけば、そこに如来は常におられるのであり、私が今、死んでも如来は決して滅することはない」
 お大師様は般若心経の解説書において説かれました。
「仏法はどこか遠くにあるのではない。一人一人の胸中にある。迷うのも悟るのも自らの決するところである。胸中の仏法に目覚めれば、たちどころにみ仏のいのちを生きられるのである」


 こうして、み仏の子としての私たちが、大日如来の徳を発揮する菩薩(ぼさつ)として生きる姿が明示されました。
 極楽は遠くにあるのではなく、生きている今、ここにこそ、確かにあります。



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〈当山では、いつでも写経をしていただく用意があります。ご希望の場合は、必ず事前に連絡してください。
※セットの発送も可能です。〉
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2009
09.18

生(ナマ)仏様をお迎えしました

 老人ホームにおられた方が病院で亡くなり、そのまま当山でお迎えしました。
 生(ナマ)仏様をお受けする寺院は少なく、ご遺体をお引き受けするのはなかなか大変ですが、寺院として大切な役割であると考えています。
 建物ができてそれが果たせるようになったのは、とてもありがたいことです。
 これからはこうしたケースが増えるでしょう。

 亡くなられた方は無になったのではなく、生きている人とは異なった気配があります。
 その気配が崇高さを伴うからこそ、ご遺族ばかりでなく、葬儀社の方も、斎場の方も、もちろん僧侶も神へ対するがごときふるまいをもって接します。
 こちらの気持は変わりませんが、気配全体の濃密さは時の経過と共に薄れます。
 きっと去るのでしょう。
 もちろん、行く先は、み仏のおられる故郷です。
 去る早さと、ご遺族や友人などの心が死を受け容れる早さが近いものなら、この世の日常生活は比較的順調に回復できますが、ずれが大きい場合は、いろいろな支障が起こるものです。
 去るスピードが上回れば、空虚感がなかなか消えません。
 去るスピードが遅ければ、納骨する気になれないなど、こだわりがなかなか消えません。

 いずれにしても、御霊十三仏様に守られて成仏の道を歩まれます。
 供養する私たちもまた、合掌するたびに、み仏へ近づきます。
 み仏のご加護により、成仏は、あの世とこの世で不断に目ざされています。
 合掌即身成仏(ソクシンジョウブツ)の道です。



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2009
09.17

虫の知らせと宗教心

 Aさんは船乗りです。
 岡へ上がると実家へ帰り、お墓参りをします。
 最近、Aさんが老いた母親と並んで寝ていた時のことです。

 真夜中、母親がふと気づくと、Aさんが洗面所でジャブジャブと顔を洗っています。
 目をこすってみたらそれは夢で、横ではAさんが寝息をたてています。
 どうにも気になってしかたがない母親は、お嫁さんに、Aさんが今度船に乗る時はお祓いをした着物を着せるように話しました。
 お嫁さんはただちに言われたとおり、真新しい下着類を調え、お寺で修法してもらい、次の出航を待ちました。
 さて、予定の日が来ました。
 ところが、Aさんは「忙しいから」と、そのままでかけようとしました。
 奥さんが頼み込んでようやく着替えをさせたところへ、船会社から電話が入りました。
「今回は別な人を乗せることにしたので、Aさんは次の船にしてください」
 夫婦はびっくりしましたが、会社からの指令なので従わねばなりません。
 がっかりしたAさんを陸へ残し、船は出航しました。
 数日後、大時化に遭った船は沈み、三人の乗組員がいのちを落としました。
 もしも予定どおり乗っていたなら、Aさんは海の藻屑となっていたかも知れず、一家はご加護を確信したそうです。

 9月13日に放映されたNHK大河ドラマ「天地人」に印象的なシーンがありました。
 上杉討伐に向かった徳川軍が石田三成の挙兵を知って大阪へ引き返そうとした際、直江兼続など上杉軍の諸将たちは、徳川軍を後から攻めて挟み撃ちにするチャンスであると主張します。
 しかし、上杉景勝はただ一人、「敵を背後から討つのはに背く。に背く者は一時的に勝者になったとしても、必ず天に見放される」として首を縦に振りません。
 そうこうしているおり、最上郡が領内へ攻め入ってきました。
 上杉軍はただちに応戦しましたが、もしも全軍が徳川討伐へと走っていたならどうなったかわかりません。

 仏神を信じ、大いなるものへの畏敬を忘れない人は、こうした「おかげ」に満ちた人生を送られます。
 仏神を信じていれば、いかなる祈りも、必ず意深い結果をもたらします。
 たとえば必勝を祈り敗れたとしても「神は我を見捨てたのか」と嘆き絶望することはありません。
 敗れたという新たな現実は、勝とうとしていた時には知り得なかった新たな人生の局面に目を見開かせ、敬虔な心はそこに必ず教えを見いだします。
 最近、大河ドラマの主人公が人気を集めているのは、必ずしも超人的活躍の面が支持されているからではありません。
 むしろ、自分や周囲の人々が辛い場面にあっても清く、直(ナオ)い心を汚さず、高い志を捨てず、節操を守り、深く強い闘志を保ち続けるところに共感と信頼を覚えるからではないでしょうか。

 宗教は、必ずしも特定の仏神を信ずるという形をとるわけではありません。
 たとえばにしても、にしても、守ろうとする道的価値の向こうには、栄枯盛衰転変してやまない人間世界を越えたイメージがあり、畏敬の念がともなうそれは、明らかに宗教心の核となるものです。
 安心で健全な社会とは、人間がこの〈核〉を失わない社会でありましょう。
 私たちは直感的にこのことを知っているからこそ、Aさんご一家のできごとも、上杉景勝の決断も、心に染み込むのでしょう。
 特定の仏神や教についてあれこれと言い立て、あるいは争う前に、お互いの心に潜む〈核〉を尊び合い、認め合うことが大切なのではないでしょうか。



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2009
09.16

めざすは即身成仏(ソクシンジョウブツ)

 隠形流(オンギョウリュウ)居合は、み仏体験を行うものです。
 体でを結び、口に真言を唱え、心でその徳を念じ、み仏と行者の間にあるものを断ち切ります。

〈めざすは地蔵菩薩
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〈めざすは地蔵菩薩
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〈めざすは地蔵菩薩
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〈めざすは千手観音菩薩〉
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〈めざすは千手観音菩薩〉
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2009
09.16

苦について

 釈尊が悟られた第一の真理

「こ(これ)はなり」


です。
 仏法のすべてはここから始まりました。
 はサンスクリット語のドゥッカ(ドウクハ)を訳したものです。
「ドウ」は「い」、「クハ」は「状態」です。
「クハ」には「運命」という意味もあり、冒頭の一句は「私たちが今、ここで生きていることはい状態であるように運命づけられている」ということになります。
 何と恐ろしい指摘でしょうか。

 釈尊は、続いて、

「この状態には原因がある」
原因を滅すれば悟られる」
「悟るには方法がある」


と見極め、仏法の根本が確立しました。
 この三つは道理に導かれていますが、第一の真理真実を表現したものであり、前提がありません。

 であるとは、いったいどういうことか?
 これは、この道へ入って以来、ずっと抱き続けてきた問題です。

 吉凶綾なす人生が根本的に〈ままならない〉ことは骨の髄まで知りました。
 還暦を過ぎると、多くの人々は「人生は所詮、こんなものさ」と達観し、ものごとにあまり〈こだわらなく〉なります。
〈ままならない〉ことに慣れます。
 だから、「『こだわるな』が般若心経の説く真理です」などと俗耳に入りやすい教えを説く人も現れますが、年老いて「モノ金がいらなくなれば、寿命にもこだわらなくなれば悟りだ」などということがあり得ましょうか。
 もしもそうであるならば、人類はとっくの昔にこの世を極楽にできたはずです。
 年寄りの言うとおりにすればよいのですから。
 しかし、原因であるを滅する方法を実行しない以上、はなくなるはずもなく、相変わらずこの世はの巷です。
 釈尊がはっきりと真理を説かれて以来2500年も経つのに人類がさっぱり向上していないらしいのは、第一の真理がよく解っていないので、原因を知り方法を実践するという強い意志があまりはたらかなかったからではないでしょうか。

 最近、「生きている状態が苦である」とは「善からぬことは結局、自分のせいである」ではないかと考えています。
 意図するとしないとを別にして、結果的に他人を傷つけたのも、裏切ったのも、路頭に迷う人のそばを知らん顔ですり抜けたのも、すべて自分です。
 自分が生きているこの世界にの灰を振りまくのが自分であるならば、〈自分が生きていることそのもの〉がしきことが起こる根本原因であるということになります。
 そして、自分のいのちには煩悩が影のように貼りついていることを実感すると、凍りつくような思いになります。
「こは苦なり」と思い至った時、釈尊の心は、のたうち回っていたのではないでしょうか。
 そこを乗り越えて「この状態には原因がある」以下の真理の発見へとつながるまでには、膨大な葛藤と心理的時間の経過があったことでしょう。
 また、「悟るには方法がある」へと行き着いた時、釈尊の心に広がった空の青さはいかばかりだったか、想像するに涙の流れる思いがします。

 善からぬことは明らかに自分の煩悩のせいであり、善きことには必ず周囲の「おかげ」がからんでいます。
 自省しましょう、感謝しましょう。
 そして、自分が人の道を履み行わねばこの世は決して極楽にならないことを肝に銘じましょう。



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2009
09.15

呪い返し ─魔ものにとり憑かれないために─

悪霊にとり憑かれやすくて困っています」
 こんなご相談に来られる方へ決まって申し上げるのは、
「弱みを見せるな」
という単純なアドバイスです。
 
 勝負に勝とうとする者は、狙いをつけた相手の弱点や無防備になっている部分につけ込み、自分に有利な状況で戦いに臨もうとします。
 宮本武蔵は図抜けた武術の力を持っていただけでなく、そうした点においても、たぐいまれな才能を持った大天才でした。
 元捕手だった時代に、ささやき戦術でバッターの調子を狂わせたプロ野球『楽天』監督野村克也氏もそうです。
 落とし穴は「好み」と「苦手」にあります。
 お金に執着している経営者がうまい融資話に乗せられて資産を奪われたり、女性に弱い官僚がスパイに機密を漏らして人生を棒に振ったりします。
 嫉妬は「苦手」の部類です。
 嫉妬の炎を燃やして何度も何度も心中で相手をこきおろし、いざ、面と向かった時に平常心で話のできない人を作ってしまえば、自分で自分を追いつめるようなものです。

 こうした落とし穽(アナ)を掘らないよう、「隠形流居合」の稽古では欠かさず誓います。
「我、好むと好まざるを語らぬは、人に付け入られず、自他の発展を願うがゆえなり」

「呪いを返してください」というご依頼も絶えません。
 み仏の法は、悪人を地獄に落とすものではなく、悪人に気づかせるものなので、依頼人が満足するような結果はまず、得られないと考えねばなりません。
「呪いによって私を不幸にしている人へその呪いの毒がまわって、相手が不幸になったことを確認し、自分が安心したい」という望みは、そのままの形では叶わないのです。
 たとえ誰かに呪いをかけるような悪人であろうと、その人なりの救いとなるようなものをもたらすのがみ仏のお慈悲です。
 悪人がどのような形で悪行の恐ろしさに気づかされるかは、一行者などに予言できるものではありません。
 また、呪い返しを望む人の心にも、意識するとしないとにかかわらず、他人の不幸を願うという悪心があることを忘れてはなりません。
 
 だから、呪い返しのご依頼には、
守本尊様の結界を張って貴方をお護りできるよう修法しますが、貴方も自分を省みて、付け入られる弱点を克服し、生き方を変える努力をしてください」
と、申し上げます。
 必ずしも実践してくださる方ばかりでないのは残念ですが、皆さんに道理を考えて生きて欲しいと願っています。



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2009
09.14

祈りと、それ以外のこと

 当山は、チベットの現実を描いた映画の上映会など、本来の修行修法以外にさまざまな活動を行っています。
 こうした〈本分〉と〈それ以外のこと〉との関係について、高村光太郎は実に明確な告白を遺しています。
 昭和15年に発表した『自分と詩との関係』です。

 私は何を措(オ)いても彫刻家である。
 彫刻は私の血の中にある。
 私の彫刻がたとい善くても悪くても、私の宿命的な彫刻家である事には変りがない。



 自分の彫刻を純粋であらしめるため、彫刻に他の分子の夾雑(キョウザツ…まぎれ込むこと)して来るのを防ぐため、彫刻を文学から独立せしめるために、詩を書くのである。
 私には多分に彫刻の範囲を逸脱した表現上の欲望が内在していて、これを如何(イカン)とも為(ナシ)がたい。



 こういう風に私はどうしても彫刻で何かを語らずには居られなかったのである。
 この愚劣な彫刻の病気に気づいた私は、その頃ついに短歌を書く事によって自分の彫刻を護ろうと思うに至った。
 その延長が今日の私の詩である。



 私の彫刻がほんとに物になるのは六十歳を越えてからの事であろう。
 私の詩が安全弁的役割から蝉脱(センダツ…脱皮すること)して独立の生命を持つに至るかどうか、それは恐らくもっと後になってみなければ分からない事であろう。



 当山はもちろん、高村光太郎のように高邁で高レベルの判断を行っているわけではありません。
 しかし、「何としてもこのことを解って欲しい」と願う弘法(コウボウ…仏法を広めること)の意欲はいかんともしがたいものがあります。
 それは自分の未熟さをさらけ出すことにつながりますが、現実を知っていただくことが説得力になるのであればありがたいとしか考えていません。
 これからも、当山は祈り、それ以外の活動も行います。
 ──すべてが大日如来の光に包まれていますよう。

〈いのち輝く仙台ジャズフェスティバル
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〈蜜を運ぶ者〉
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〈あふれるいのち、あふれる蜜〉
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2009
09.13

本堂で法要と会食を行えるようになりました

 これまでは、本堂が狭く、多人数での法要修法後の会食などができませんでした。
 おかげさまにて、ゆったりと行えるようになりました。
 Aさんご一族に喜んでいただき、本当に安心しました。

〈皆さんのまごころがこもった花々で荘厳されたご本尊様〉
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〈ご本尊さまのご加護のもとで、御霊を供養し、互いの消息を確かめ合います〉
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〈また元気で再会できますよう〉※写真はご了解をいただいて公開しています
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2009
09.12

ご葬儀と試練

「よく来てくださいました」と笑顔さえ見せながら枕経に訪れた僧侶を迎えた奥さんが、修法に入ると徐々に嗚咽をもらし、最後は「またお話してよ」と泣き崩れることもあります。
 斎場によっては、修法が終わり、炉の前へ行ってから顔の窓を開けて最後のお別れを勧める場合があり、そこで、「いやだ!いやだ!」と棺へとりすがって離れない方もおられます。
 葬儀が終わって精も根も尽き果て、控え室で起き上がれず、百ヶ日までの繰り上げ法要へ不参加になってしまう喪主もおられます。
 こちらも泣きたくなります。
 手を取りたくなり、肩を抱きかかえてあげたくなります。
 引導を渡し終えてから『理趣経』を読み、へとへと状態でようやく法要を終わると、もう、すっかり脱力してしまいます。
 法事の席で酒を飲むことなど、まったく考えられません。
 こうした〈現場〉の雰囲気に慣れることはなく、心身を苛み、気力の限りを尽くす試練は絶えません。

 実に「自分のがここへ連れてきた」ことを実感させられます。
 因果が廻り、〈引き裂かれた人々〉の悲嘆を自分も受け止めねばながら、ご尊家の方々とは異なって決して沈み込むことが許されず、最大の法力を発揮して引導を渡さねばならない運命──。
 これをやるのはやはり愚かで罪深い自分なのだという深い納得が、いく度となく胸に去来します。

 しかし「二度とごめんだ」と考えることは許されません。
理趣経・百字の偈(ゲ)』によれば、一旦、菩薩道(ボサツドウ)を歩み始めた者は、自分だけが安楽の世界で憩うことが決して許されません。
 舟に乗せた人々を全力で苦界から安楽の地へお連れしたならば、必ず、また、Uターンして苦界へ戻らねばなりません。
 救済を待つ人々がおられる限り、役割である往復は終わらないのです。

 アルベール・カミュの「シジフォスの神話」でも、永劫の繰り返しを宿命づけられた男が登場しますが、彼は、極楽を行き来するわけではなく、終わりそうで終わらない無意味な作をくり返すだけです。
 絶望の中に実存を見いだす世界と、地獄と極楽を往復すること自体が迷いの六道(地獄・餓鬼・畜生など)からの救いとなる世界の違いを痛感します。
 いかなる悲嘆絶望も、すぐれて個人的なものでありながら、菩薩にとっては共有するものです。
 特に地蔵菩薩は、如来の前ではっきりとその決心を述べておられます。
 生身の肉体を持ちながら〈悲嘆絶望引き受けて修法する〉奮闘の日々を、心からありがたいと感じています。

 今日もいのちの限りを尽くす試練の日です。



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2009
09.11

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 35 ―約束─

 9月9日は『法句経(ダンマパダ)』の「好喜品(コウキホン)」第二十四についてお話しました。

「好んで福を行ずる者は、此(ココ)より彼(コシコ)に到り、自ら福祚(フクソ)を受くる。親の来り喜ぶがごとし」


善行を好み実践する者は、この世からあの世へ行った時に、自分自身で福徳という結果を得られる。それは、親しい人が待っていて、来訪を喜んでくれるようなものである)

 この教えを初めて読んだ時は、〈聖者約束〉というものの存在感を知りました。
 信じるか信じないかは、客観的に確認や証明ができるかどうかにかかわらないということを実感もしました。
 死に方も含めた釈尊の生き様と教えに日々、接していると、「確かであることに違いない」という直感がはたらきます。
 それは、いかに有名でも、いかに大きな組織を作っていても、「あの人は怪しい」と直感が教えてくれるのと同じです。
「善きことを行っていれば、死後、あの世で、とても親しい人が喜んで出迎えてくれますよ」
 親しい人とは、親かも知れず、親友かも知れず、師かも知れず、信じるみ仏かも知れません。
 何とありがたいメッセージでしょうか。

 また、「此(ココ)より彼(コシコ)に到り」は、必ずしも死後とは限りません。
「迷いの世界から悟りの世界へ入れば」という意味でもあります。
 悟られた釈尊の行く手には、世間的な意味での敵はいなかったことでしょう。
 もちろん、初めて説法を耳にする人々の中には、疑問を感じたり、否定したり、バカにしたりする人がいたにちがいありません。
 何しろ、当時は当たり前と思われていた階級制度を否定したので、歓迎される一方で、風当たりも相当だったと想像されます。
 しかし釈尊には、教えをすなおに受け入れてくれる人も、反発する人も、等しく〈我が子〉のようなものであり、〈親しい人〉だったのではないでしょうか。

「福祚」は「福を示す」です。
 因果応報が真理である以上、たとえこの世善行が報われていると感じられなくとも、少なくともあの世では必ずそれにふさわしい結果が示されます。
 目先の結果に惑わされず、善行を続けましょう。
 信じて行えば、あの世を待たずして福祚を受けられるかも知れないではありませんか。
 善行を行っていること自体に喜びや感謝が伴えば、あるいは善行を受ける人の喜びや感謝を自分の喜びや感謝にできれば、すでに、福祚は明らかです。
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)の成就です。



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2009
09.10

十力 (7) ─種々解智力(シュジュゲチリキ)について─

 み仏のお智慧十力」の第五は、人々の好みを知る種々解智力(シュジュゲチリキ)です。
 経典には、楽欲(ギョウヨク)を知る智慧の力であると説かれています。
楽欲」は見慣れない言葉ですが、『徒然草』に出てきます。

「まことに、愛著(アイジャク)の道、その根深く、源遠し。六塵(ロクジン)の楽欲(ギョウヨク)多しといへども、みな厭離(オンリ)しつべし。その中に、たゞ、かの惑ひのひとつ止めがたきのみぞ。老いたるも、若きも、智あるも、愚かなるも、変る所なしと見ゆる」


(まことに恋愛の道は根深く、心の奥深いところにその始まりの源がある。見たり聞いたりして楽しみとするものは、どれでも離れることができる。しかし、恋愛で惑う心だけは止められない。それは年齢にも、智慧のあるなしにもかかわらないのである)

「六塵」とは、感覚器官である六根(ロッコン…眼・耳・鼻・舌・身・意)で感じとる色・声・香・味・触・法の6つです。
 姿形も、声や音も、香りも、味も、触感も、思い浮かべるものも、離れよう、止めにしようと決断すればその影響力から脱することができます。
 しかし、恋愛だけは表面的な好みや楽しみの問題ではないので、、意志だけではどうにもならないと書いています。

 さて、楽には「たのしい」と「ねがう」の意味があります。
 何を楽しいと感じるかは人それぞれですが、楽しい時はとにかく笑顔になり、元気が出てきます。
 元気とは、いのちの根元にある生命力です。
 生命力が湧いてくれば心身の力が発揮され、運命を創る力も強くなります。
 こうした状態でありたいという心のはたらきが「願う」です。
「病気を治したい」「安定収入を得たい」「受験に合格したい」などの願いの先には、必ず、はつらつとした元気な日々のイメージがあり、そこには必ず「楽しさ」があります。
「楽しさ」と「願い」は切り離せません。

 つまり「楽」は人生を明るくする積極的な意味を持つものですが、「欲」が付くと雲行きが怪しくなります。
 いのちと切り離せない欲のありようを探求し、それをコントロールする方法を研究し続けたのが仏教だからです。

 私たちの心には善き欲が生まれるだけでなく、悪しき欲も生まれます。
 そして、善きものを楽しむだけでなく、悪しきものを楽しいと感じる場合があります。
 あるいは善きことを楽(ネガ)うだけでなく、悪しきことを楽(ネガ)う場合もあります。
 ライバルの失脚や、他人の財物の簒奪どです。
 だから、楽欲(ギョウヨク)とは、私たちが楽しいと感じ、願い、欲するはたらきすべてを意味します。
 み仏にはその全体を知ってお導きくださる力があります。
 なぜでしょうか?

 いのちをエネルギーとするならば、それを燃料として走る電車こそが楽欲(ギョウヨク)であり、もしも向かう方向がまちがっていたなら、決して乗車してはならないからです。
 み仏は、「貴方はこの電車に乗りなさい」「貴方はそのまま景色を楽しんでいて大丈夫です」「貴方はすぐに降りないと危険です」「ここまでは大丈夫だったけれども、そろそろ乗り換えた方が無難ですよ」などと、お導きくださるのです。
 人生にはフグを食べるような味わいがあり、善悪は、白か黒かの二者択一だけではありません。
 人生を豊かで潤いのあるものにするのも、破滅させるのも、楽欲(ギョウヨク)のありようにかかっていると言って過言ではないでしょう。
 私たちは、微妙で深遠なその〈頃合い〉の判断をどこかで誤ってしまいがちです。
 み仏へ祈らずにいられましょうか。



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2009
09.09

涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)へ (1)

 瞑想によって心が定まり、落ちた枯れ葉が深い湖の底へゆっくりと沈み込むように意識の闇へと降り始めると、微動だにしない身体は限りなく存在感を失い、呼吸は細くなります。
 死は、きっと、〈二度と戻らない下降〉をどこまでも続けた先に待っているのでしょう。
 涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)は、煩悩(ボンノウ)をまとったいのちの炎が消え、寂寞(ジャクマク)とした究極的安らぎの境地を指す言葉であることが理解されます。
 この底なしの境地へ際限なく入り込むのが〈死を伴う悟りの獲得〉であるならば、下降するエレベーターがどこかでストップするように、落ちきらない所まで降りるのが〈修行によって得られる悟りの獲得〉ということになるのでしょう。 
 仏法上の「悟り」は、釈尊が見つけた方法によって得られたものであり、その方法は、永い年月をかけ、聖者たちによって追体験され、検証され確認され磨かれて、今日に伝えられました。
 境地と修行法は切っても切れません。
 言い換えれば、確かな方法によって修行を続ければ、境地は必ず待っているのです。

 さて、人生の達人たちは、私たちの人生があくまでも個別具体的なものであることを鋭く指摘しています。

 たとえば、萩原朔太郎です。
 彼は、昭和10年、『絶望の逃走』において「成功者の談話」という一篇を発表しました。

長寿者の養生法ほど、各人各説に一致がなく、でらめの者はないであろう。
或る者は欲望の節制を説き、或る者は自然性への順応を説き、或る者は活動的生活を言い、或る者は悠々無為の生活を言い、或る者は禁酒をすすめ、或る者は飲酒を教える。
そして要するに長寿者は、彼らの体質が適しているところの、各々の自己流の仕方によって、自己の遺伝されただけの寿命を、無意識に養生して来たにすぎないのである。
それ故に長寿の秘訣は一つしかない。
「汝の自然的な仕方によって、汝の意志の欲する通りに生活せよ」
所謂(イワユル)成功者の談話が、またこれと同じである。
「余はいかにして成功したか。」
百万長者によって得意気に物語られる、この所謂成功の秘訣を聞く時ほど、人生の馬鹿馬鹿しく、無意味な錯覚に過ぎないことを知るものはない。
なぜといって成功者等は、彼等が生まれた天性の気質の中に、実社会の活躍に適する意志や才能を有して居り、夫々の境遇に処世しながら、機会をつかんだに過ぎないのだから。



 最後には、こう述べています。

成功立志伝を読んだ後で、或る青年が嘆息して言った。
どんな境遇の下に於いても、此等の成功者が成功して居る如くに、どんな境遇の下に於いても、多くの失敗者が失敗して居る。
これほど人生の真理について、私を興奮させた物語はないと。



 これを読んだ時、本居宣長(モトオリノリナガ)の『古事記伝』の一節を思い出しました。
 本居宣長は、神の世界はこの世の世界の影のように実在しており、吉凶こもごも綾成してやまない神の世界の転変は、そのままこの世の転変であると書きました。
 そうした中で、凶悪(マガゴト)は吉善(ヨゴト)に勝てず、「凶悪(マガゴト)を忌去(キライ)て、吉善(ヨゴト)を行うべきはおのずからなる理(コトワリ)である」としました。
 最後はこうなっています。

奇(アヤ)しきかも、霊(クス)しきかも、妙(タエ)なるかも、妙(タエ)なるかも。



 真実世界を観た宣長の存在をかけた言葉ですね。

 長生きも短命も、成功も失敗も、あくまで個別具体的なできごとで、誰もなり代わることはできません。
 それぞれの運命は厳粛であり、第三者が軽々にうんぬんできるものではありません。
 善きことを行うべきであり、悪しきことを行ってはならないのは承知していながら、人は創造神のようにふるまうかと思えば、破壊神のようにふるまい、錐もみ状態で人生を過ごします。
 一人一人の運命は、よく観るとそれぞれに不思議なものです。
 ご自身の人生を語る年配者の話は奇跡に満ちたものになりがちです。

 こうした〈個別具体性〉と、不変の涅槃へ入る〈定まった方法〉とは、どういう関係になっているのでしょうか。



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2009
09.08

お不動様の心

 行者橋里佳さんが、「大日如Life」に書いていました。

「一通り終わった後、住職は『今まで一番いい護摩でした。先が定まった』とお話されてました。
きっと護摩堂が出来た時のイメージが浮かんでらしたのでしょうか。」

 そのとおりです。
 百万返堂の護摩壇正面にお祀りしたご本尊様は、四国八十八霊場巡りの最終第八十八番札所でめぐり会い、当山へお招きできた不動明王です。
 これほどまでにお不動様のイメージを完璧に表現した方には、本でも、インターネットでも、もちろん、他の寺院でもお会いしたことがありません。
 もちろん、そのイメージは〈私にとって〉のものですが、イメージとはすべからくこうしたものでしょう。

 そもそも、私たちに把握できる世界とは、私たちそれぞれにとって千差万別であり、同じものは決してありません。
 個体が違い、見える範囲、聞こえる範囲が違うのですから当然です。
 感覚のとらえる世界はあくまでも個別的です。
 しかし、「お不動様」を話題にでき、他者と思いが通じ合うのは、言葉の力によります。
 言葉によって共通の意識がはたらくので会話が成立します。

 さて、そうした言葉を用いて私のイメージを書くならば、動ぜず、敗れず、仕える方ということになりましょうか。
 「聖不動経」に「大定(ダイジョウ…決して揺るがないこと)の徳のゆえに金剛石(コンゴウセキ…堅固な岩石)に坐し」と説かれ、お不動様は微動だにせず、救済という形で大日如来のお慈悲を私たちへもたらします。
 やはり「大智の剣をとっては貪瞋癡(トンジンチ…貪り・怒り・愚かさ)を害し」と説かれ、最悪の煩悩をも、無限の智慧の光を発する剣で断ち切ってくださいます。
 いかなる悪魔もお不動様の敵ではありません。
 そして、「大悲(ダイヒ…無限の慈悲)の徳のゆえに青黒(ショウコク)の形を現じ」とは、奴隷の姿形で、いかなる困難を抱えた人へでも僕(シモベ)として仕え、救ってくださるのです。
 こうした〈大日如来の使者〉としてのお不動様こそ、行者の理想です。
 行者である以上、法へ入ったならば不動で、結ぶ剣の印によって魔切りを行い、ご縁の方々の僕として全力を尽くしたいと願っています。

 お盆が第一回目、そして、第二回目の護摩法を終え、やがて護摩堂ができたならば、このご本尊様のために宮殿を造って思い切り荘厳してさし上げたいとの気持が強まりました。
 それまでは、お堂が狭く、ご参詣の方々にはテントでお詣りしていただかねばなりませんが、日々、ご供養を重ねて行きます。
 百満返堂には、虚空蔵求聞持法(グモンジホウ)を行った時に住職が手描きした虚空蔵菩薩様も祀られているので、どうぞお詣りしてください。



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2009
09.07

例祭だより(9月の第一例祭)

 新しいお寺に移ってから二度目の例祭が行われました。
 9月の第一例祭です。

 例祭とは・・・簡単に説明するとですね^^
 皆さんの願い事を書いた護摩木を何百枚も燃やしながらお経を唱えご加護をいただき、有縁無縁の御霊のご供養と生きとし生けるものの除災招福を祈ります。
 どなたでも参加できます。
 悪しきものを護摩の火で焼き尽くし、大きなご加護をいただきます。
(毎月第一日曜の10時と第三土曜の14時からやります☆)

 さて、護摩を焚くといっても、以前使っていた本堂は使えず、まだ護摩堂はないので・・・;

 はてさて?どうしたものか

と住職は考えておられましたが、お盆前には決定しました!!

 住職が虚空蔵求聞持法(虚空蔵菩薩の真言を100万返唱える行)を行った百万返堂で護摩を焚きましょう~ということに^^

 お堂はこぢんまりしているので火の近くにお参りする時にだけ一人づつ入るようになるので、外にテントを張ってパイプ椅子を並べました。

 お授けとお焼香を講堂で行ってから百万返堂に移動。
 護摩木に火が入りお経を読み始めたころ・・・お堂の換気扇に目をやると、ななんと回ってないではありませんかー
 このままでは煙が充満して大変なことになるかも!と思ってお経をつっかえながら様子をうかがっていると、ちゃ~んと入口から穏やかに風が入り煙もうまく抜けていっているようでほっとしました。
 護摩の炎もなんとも清浄で爽やかに正面のお不動様の像と一体になって燃えておりました

 一通り終わった後、住職は「今まで一番いい護摩でした。先が定まった。」とお話されてました。
 きっと護摩堂が出来た時のイメージが浮かんでらしたのでしょうか。

 みんなお寺の隣りのお堂にずっといたので、お寺では猫のクロちゃんがお留守番していましたが、さすがに淋しくなったらしく、
お寺の窓からこちらをみて「ニャ~~ン」(そっちにいきたいよぉ)と鳴いています。

 クロちゃんは頭がいいので人のしぐさや様子、言葉を理解して自分がどうしたらいいかがわかります。やっぱりまるで犬系(笑)

「いいよ~、クロ。おいで~~~」
というと
「ニャンニャ~~~ン」と炎天下の砂利は熱いでしょうに・・・必死に歩いてこちらにやってきました。

みんな一緒

 まずは新たな一歩を踏み出しました。
 ジリジリとした太陽が照っていましたが、風はもうすっかり秋の気配です。(書き手…橋里佳)

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/からほとんど転載させていただきました。



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2009
09.07

9月の聖悟 ─弘法大師の教えより「怨親(オンシン)平等」─

「没駄(ボウダ)の力、以て為(ナ)さざるところ無し。これを憑(タノ)みこれを仰がば、怨親(オンシン)も猶(ナオ)子のごとし」 ─弘法大師─

(仏陀《ブッダ》のお力をもってすれば何でもできる。これを信じ、これを仰ぐ者は、怨みある者も親しむ者もすべて我が子同様にお救いくださる)

 ブッダとは覚者、つまり覚りを開いた人であり、釈尊をはじめとするみ仏方を指します。
 怨親とは、自分へ怨みをもって接してくる人と親しみをもって接してくる人を指し、「敵味方」あるいは「害意を持っている人と守ろうとしてくれる人」など、「相手のタイプのすべて」を意味します。
「怨親が子供のようである」とは、み仏からすれば、どんなタイプの人間であってもすべてそのいのちと心を分け与えた我が子であり、差別をせずに親のような慈悲をくださることです。
 ここにある怨親平等の思想は仏法の核です。
 慈悲喜捨の四無量心(シムリョウシン)のうち、相手を選んで思いやりをかけたりかけなかったりといった区別を捨てる「捨」がこの心の核です。

 なお、四無量心については、当山のブログ「自他を幸せする『四無量心』」に詳しく書いてあります。
 怨親平等の実践例としては、鶴見警察署長大川常吉の行動が白眉です。

 また、ここにおける「無量」については、「無量の衆生」「無量の福」「無量の果」の三つがあるとされています。
「無量の衆生」とは、無限の人々です。
 つまり、あらゆる人々がこの心によって救われるのです。
「無量の福」とは、無限の福徳です。
 つまり、あらゆる福徳がこの心によって生ずるのです。
「無量の果」とは、無限の結果です。
 つまり、あらゆる幸いがこの心によって感じられるのです。

 映画「チベット チベット」の鑑賞会に参加したAさんが、帰り際に言われました。
「他人の喜びを喜べる以上の幸せはありません」
 世界中の国々で生じているさまざまな悲惨を見捨てておけず、地道な活動をしているAさんは、まさに四無量心の実践者であり、菩薩道を歩む人です。
 きっと、Aさんの目には、アフガンの人もタイの人も、もちろん日本の人も同じ苦を背負った存在に見えているのでしょう。
 苦しんでいる人々のために自分の時間を割くのは、人生をかけることです。
 救援施設を造るのは、財をかけることです。
 危険な所へ出むくのは、いのちをかけることです。
 こうしたことができるのは、我が子を前にした親と同じ心があるからに違いありません。
「子のごとし」は、み仏の心を示し、菩薩の心を示しています。
 それは決して単なる言葉ではなく、真実世界において生じている事実なのです。 




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