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2009
11.30

お焚きあげの思い

 お焚きあげを願う方々の思いはさまざまです。
 11月28日の開運不動供養会・お焚きあげに際しても、善男善女の読経と共に、あるいは持参あるいは送付された仏壇や、人形や、御守など、さまざまなものへ供養・魂抜き・因縁解消の法を結びました。

「愛していた人に裏切られました。
 アルバムなど、二度と開く気はしません。
 記憶につながるものは皆、燃やしてしまいたいのです」

「ストーカー被害に遭いました。
 問題は解決したのですが、気持はおさまりません。
 相手が送りつけてきたものを因縁切りしてください」

「気に入って買った古い大黒様なのに、家に飾った時から、何となく、ここに置いて良いのかなという不安感がありました。
 こんな事故に遭うなんて、考えられません。
 大黒様から変な因縁を背負い込んだのかも知れないと怖くなりました。
 因縁を切ってください」

「娘が病死しました。
 娘が使っていたおひな様は、もう、飾ることはないでしょう。
 お焚きあげしてください」

「母が亡くなって仏壇を整理していたら、御守が出てきました。
 お焚きあげしてください」

「ウチの施設に入居していた一人暮らしの方が亡くなりました。
 仏壇を嗣ぐ方もいないので、お焚きあげしてください」

「後を嗣ぐ人がいなくなって、公営墓地のお墓を整理します。
 お塔婆をお焚きあげしてください」

 善男善女に新鮮な再出発がもたらされますよう。

211128 058

211128 069



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなた様にとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
11.29

いじめ

 いじめに遭い、学校へ行けなくなっているAさんが人生相談に来ました。
 寺子屋は実質的に、もう、始まっています。

 唯々諾々と女王様Bさんに従わない独立系のAさんは、目の敵です。
 
 Aさんは事態を明確に認識しています。

 1 Bさんは簡単に変わらない。
 2 先生などがいろいろやってくれても、いじめはなくならない。
 3 卒業できないと、自分も親も困る。
 4 学校は、卒業できるように取りはからってくれている。

 だから、自分がもう少し強くなって登校したいと願っています。
 質問しました。
「Aさんは、自分がされたように誰かをいじめたいと思いますか?」
「いいえ、こんな思いは自分以外、絶対に味わって欲しくありません。
 でも、同じような酷い目に遭っている子がいるんです……。」
 まっすぐにこちらを見て答える目には力があり、普通の良い子には少ないであろうふてぶてしさがあり、頼もしい。
 自分をストレートにぶつけてくる姿勢もたくましい。
 こういう子に下手な説教は要りません。
 もう、〈解っている〉からです。

 反対に質問されました。
「何でも他人のせいにしていながら、自分を目立たせようとして、いろいろやる子がいます。
 何でも自分が悪いと考えて、自分を虐める子がいます。
 どちらが良いと思いますか?」
 答えました。
「どうして自分はこんなに愚かなんだろうという気づきはとても大切です。
 自分の甘さから事業に失敗して無一文になった私などは、み仏から、そういう気づきをとても厳しい形でお与えいただいたのだろうと考えています。
 〈こんな自分〉と、自分への視線を忘れずにやっているうちに、こんな自分でもこんなことができるんだという感激、感謝のできごとが起こるものです。
 この感謝の積み重ねが、だんだんに、しっかり歩む足腰を作ってくれます。
 『まず、得よう』とするのは感謝体験に遠い道です。
 乗り物の座席を譲ったり、ゴミを拾ったり、落書きを消したり、何でも良いから『見返りを求めずに誰かのためになることをやる』のが、感謝体験への近道です。
 これが布施行です。
 反対のようですが、反対ではありません。
 そのうちに、自分を虐めている子も誘って、テント暮らしをしている大変な方々へそっとおにぎりをお配りしにでかけますか?
 他人のせいにして自分をかばう子は、親が甘やかし過ぎたか、厳しすぎたかのどちらかによるもので、この因縁を解くのは大変ですが、その早い遅いは本人の自覚次第です」
 
 いろいろ話し合い、最後にこう言いました。
いじめをやる子は、可哀想な人です。
 他人を苦しめるという因縁が、必ず自分に悪い結果をもたらすからです。
 それは、流されている川が滝壺に向かっていることも知らず、気に入らない人を船から追い出しながら仲間だけで船遊びをしているようなものです。
 だんだん大人になってゆくうちに、今のやり方が通じなくなり、気づいた時は周囲に信頼できる人は誰もおらず、認めてくれる人もいなくなるのです。
 未来に待っているこうした破滅を知らずに、いい気分になっているなんて、可哀想だと思いませんか。
 Bさんを憎む気持はそう簡単になくならないでしょうが『この人は可哀想な人なんだ』という視点も持てれば、Aさんの心は必ず変わります。
 Bさんを見下したり、卑下したりするのではありません。
 大事なのは、心から可哀想だと観られるかどうかです。
 そして、その〈可哀想〉は、多かれ少なかれ皆に共通したものであることを感じられるようになれば、Aさんは、最高の形でこの問題から卒業できるでしょう」 
「はいっ、考え方が変わりました!」

 当山は、足を運んだ方が何か一つでも〈み仏からのおみやげ〉をお持ち帰りいただければと願いながら、法務を行っています。
 今日は、反対に、Aさんからとても嬉しいプレゼントをいただいたような気分です。
 Aさん、ありがとうございました!



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
11.28

厄除け詩集 ─「さよなら」だけが人生だ─

 当山は守本尊法による厄除けの寺なので、井伏鱒二の画本『厄除け詩集』を読んでみました。
 さすがの名作で、特に漢詩を訳したものは超傑作です。
 金井田英津子氏の挿絵も見飽きません。
 明治時代から活躍した井伏鱒二の時代へタイムスリップする感覚を充分に味わえます。

 以下、二篇を書いておきます。

照鏡見白髮
[鏡に照らして白髪を見る] ─張九齡(チョウキュウレイ)

シュッセシヨウト思ウテキタニ
ドウカスル間ニトシバカリヨル
ヒトリカガミニウチヨリミレバ
皺ノヨッタヲアハレムバカリ


宿昔青雲志
[宿昔(シュクセキ)青雲の志]
蹉跎白髪年
[蹉跎(サタ)たり白髪の年]
誰知明鏡裏
[誰(タレ)か知らん明鏡(メイキョウ)の裏(ウチ)]
形影自相憐
[形影(ケイエイ)自(オノ)ずから相(アイ)憐(アワ)れまんとは]

勸酒
[酒を勧む] ─于武陵(ウブリョウ)

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
サヨナラ」ダケガ人生


勸君金屈巵
[君に勧む金屈卮(キンクツシ)]
滿酌不須辭
[満酌(マンシャク)辞するを須(モチ)いず]
花發多風雨
[花発(ヒラ)いて風雨多し ]
人生足別離
人生別離足(タ)る]

 酒の機会が多いシーズンです。
 過去を嘆かず、酒はほどほどにしておきましょう。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2009
11.27

第二十回 映画「チベット チベット」を観る会

 毎月1回開いてきたこの会も、20回目を迎えました。
 当日はお通夜があり、上映終了間際に会場へ入りました。

 伝授され、くり返し行うことにより行者の血肉となった法を結んだ後で観た映画は、文化破壊される恐ろしさをあらためて感じさせました。
 
 私たちの、意識されない深い意識は、混沌の靄の奥で万人につながっているとされています。
 葬儀を行って安心するのは、ある様式に導かれた意識のありようが故人への慰撫となり、それが同席する人々に共通して感得されるという暗黙の前提があるからです。
 言い換えれば、人は皆、深い意識でつながっていおり、様式が深い意識へ届く方法を実践しているからです。

 これこそが文化の姿であり、原理がもっとも端的に現れる葬送のない文化はありません。
 葬儀が形式だけのものではなく、修法という様式がまぎれもなく心を動かし、それはこの世とあの世の壁を通り抜けて導師と故人をつなぐものであるからこそ、人々は日常の活動をストップして厳粛な場と時間を用意します。
 導師の全身全霊をかけた引導によって故人が成仏すると信じ、実感されるからこそ、修法の次第が時代を超えて磨かれ、伝授され、行者の修行を導いてきました。

 こうした事情は、深い意識につながる情緒を表現する詩や俳句にも共通しています。
「古池や 蛙飛び込む 水の音」が時代と場所を超えて理解され共鳴を呼ぶのは、洗練された形が、惑い揺らぐ表面の心からズバッと深層へ切り込んでいるからです。

 チベットでは、信仰を支える寺院が破壊され、信じるみ仏やダライ・ラマ法王の写真を持つことすら禁止されています。
 お経を唱える言葉も破壊され、中国語を話せない人は生きて行けない状況になっています。
 想像してみましょう。
 ある日、突然、軍隊が侵入して寺院を破壊し、僧侶を連れ去り、代々行ってきた葬送や供養が禁止されたならば、肉親や知人の死をいかにして悼めましょうか。
 父母に抱かれていた頃から心を創ってきた言葉が通じず、新しい言葉を話さなければ生きてゆけない日々が具体的に想像されましょうか。

 文化破壊は心の破壊であり、人間性の否定です。
 チベットの置かれた状況を想像し、身震いする感覚を保ち続けたいものです。
 それは、私たちが人間である重要な証ではないでしょうか。 



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2009
11.26

『愛だけを残せ』

 ご供養に向かう車中で中島みゆきの『愛だけを残せ』を聞いた。
 この人はジャンヌ・ダルクかと思った。
 情緒のマグマが言葉となって吹き上がり、大輪の花火になる。
 花火は鼓舞する。
「自分をかけて生きよ!」
 見る間に消える儚い花火を通じて顕わになるマグマの言葉を超えたメッセージには、人間中島みゆきの精がホロスコープのように結晶している。
 それは、『地上の星』よりもいっそう明確だ。

 あらためて、歌詞を調べた。 
 中島みゆきの「愛」は、惜しむことなく何かへ自分をかけ尽くす誠(マコト)であり、そこにこそ人間の真(マコト)がある。
 真に生きる者は己の名を名乗る資格を持つ。
 弱い者は、臆さず、しなやかに名乗ればよい。
 強い者は、誇らず、ささやかに名乗ればよい。
 いずれにしても、名は儚く忘れ去られる。
 しかし、真は永遠に消えない。

 仏法では、仏性そのものになり切り、覚りを開いた人を覚者といい、真人ともいう。
 この歌を聞いた私たちが奮い立つならば、それは、仏性が起きあがっているのである。
 春の呼びかけを聞いた福寿草の芽が、固く凍った土を暗黒の地中から突き破って陽光を目ざすのと同じである。
 我(ガ)が外と内からうち破られるのである。

 大なるかな、花火の力。
 大なるかな、──ホロスコープの力。

愛だけを残せ 壊れない愛を
激流のような時の中で
愛だけを残せ 名さえも残さず
生命(イノチ)の証(アカシ)に愛だけを残せ

やむにやまれぬ人生は綱渡りだ
選ぶつもりで選ばされる手品だ
闇の中の風のように
突然に愛は居所を求める
弱き者汝の名を名乗れ しなやかに
強き者汝の名を名乗れ ささやかに
みんな儚くて みんな愛しくて
ふり返ってしまうから

(以下、略)


「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2009
11.25

12月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

いまといふ今を大事に地虫鳴く


「いま」へさらに「今」と重ねて念を押している。
 寒い夜、大地に広がって鳴く虫たちの声を聞いていると過ぎてゆく時間が実感され、常に今であることも実感される。
 過去未来も空間も時間も、観念でしかない。
 ここにいる自分の確かな居場所は〈今〉しかない。

人恋ふは風錆ぶ夕べ雁来紅


「錆(サ)ふ」は「錆ぶ=寂ぶ=荒ぶ」であり、もの寂しい様子である。
「雁来紅(ガンライコウ)」は、風が冷たくなり雁が渡ってくる頃に色とりどりの葉で楽しませてくれる葉鶏頭。
 茎についている花は目立たず葉が主人公になっているそれは、寂しさによく似合う。

街騒に遠き朝夕うろこ雲


 都会の喧噪から遠く離れた地域での生活は、心を自然へと傾斜させる。
 早朝にも夕暮にも空の色へ目が行き、雲の変化を察知しては感興を覚える。
 白い帯状になり幕状になってゆっくり空を移動するうろこ雲は、そんな視線をつかまえて離さない。

新聞を束ねてをりぬ九月逝く


 暑さがはっきりと遠ざかり、衣替えの時期を迎えた。
 着るものを代えるために、しまっておいた秋物を出し、夏物は片づける。
 そうした作業の流れにのって、重なっていた新聞の整理といった多少面倒なことにもとりかかっている。
 酷暑では、こうは行かない。

ほどほどと云ふ安けさよ今日の月


 月を詠む場合のほとんどは、満月の明るさとか、半月の鋭さとか、満月と群雲の対比とか、朧月の緩さなど、〈月からのメッセージ〉をはっきりと受け取っている。
 ここで、「ほどほど」と、特段のメッセージ性がない姿に安心を感じているのは異色である。

月落ちて煌めき戻る星座かな


 天空にあって夜空を支配する月は断然たる主役であり、小さな星たちが束になっても敵わない。
 しかし、月が地平から没してしまえば、今度は星たちの天下である。
 今まで目立たなかったキラキラと光る星々が夜空一面に広がり、あちこちに星座を作っている。

一病のおびえや今宵肌寒う


 一病息災という言葉もあるが、やはり、病気はない方がよい。
 寒さは気持を不安に結びつけるだけではなく、実際に免疫力の低下という危険をもたらす。
 だから、インフルエンザは、寒さによる疲労が溜まった正月明けから大流行する可能性が高くなる。

香り良き紅茶に添ふる林檎パイ


 紅茶に林檎パイのとりあわせは大人のおやつの定番とでも言うべきもので、とりたてて珍しいものではない。
 しかし、こうして手練れの作者が詠むと、香りや甘さのもたらす嬉しい気持が実感される。
 何の変哲もないものが輝き出すのは言葉の力である。

赤とんぼ捕らへそこねて陽をつまむ

 
 驚嘆した。
「荒海や佐渡に横たう天の川(芭蕉)」では天地の全体がダイナミックな姿で現れているが、ここでは、天地を紅に染める夕陽が手の届くところへ引き寄せられている。
 ゴーギャンやルソーのように、外界を隅々まで眼と手の届くところへ置いている。

膝痛み腰痛みして神無月(カンナヅキ)


 神無月十月には、神々の集まる出雲で「神在月」の神事が行われる一方、各地は「神無」の状態になる。
 晩秋の風は一段と冷たさを増し、年配の方々にとって足腰の痛みがはっきりと出てくるやっかいな時期の到来である。
 時として「神無」の実感もあるのだろうか。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2009
11.24

平成21年12月の運勢と開運法

 12月運勢について記します。

 12月は、大いに脚光を浴びてめざましい活躍をする人と、出すぎて失敗する人とが、人生と社会を考えさせる教師や反面教師としてマスコミをにぎわすことでしょう。
 このような時期には、「分をわきまえる」・「志を固める」・「方針を決める」の三点が大切です。
 高任和夫氏の小説『月華の銀橋』における荻原重秀と友人石原平十郎の生きざまはとても参考になるはずなので、お勧めです。
 志のある人は、どこかで、見る眼のある人に見いだされます。
 また、志のある人は、自分の言動に「出すぎか…」とチェック機能をはたらかせる瞬間があるものです。
 いずれ、百年もないこの世の生を使い惜しみすることなく燃焼させたいものです。

 最近、白血病を克服したAさんのお話を聞きました。
 生存率20パーセントという骨髄移植手術に挑んだAさんは、目に鉛の板を乗せられて横たわった全身に強い放射線を浴び、血液がまったく新しくなったために本来のA型からO型になってしまいました。
 当然、これまであった細胞たちと血液との激烈な軋轢が起こり、とてつもない苦しみを味わいました。
 そして、仕事に復帰したAさんは「怖いものは何もない」、「ただ、仕事がしたい」そうです。

 やろうと願ってもできない時期もあり、勢い余ってしまい転びそうになる時期もあります。
 いずれにしても、できる時にできることを行うしか悔いのない人生の過ごしようはありません。
 己の分を省みてなお、「やろう!」と燃える志があれば、やるしかありません。
 そのためには「不惜身命・但惜身命」です。
 百㍍走の選手は、勝負において、脚も折れよ心臓も破裂せよとばかりに激走しますが、わずか十秒の〈その時〉にそなえ日々のトレーニングと節制を欠かしません。

 今月は車など、交通機関での事故と通信関係のトラブルに要注意です。
 特に、メールや電話を用いたやりとりで意思疎通に不具合が起こらぬよう、慎重を期して無事安全です。
 もちろん、新型インフルエンザには、引き続き、最高に用心しましょう。
 み仏のご加護を祈っています。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

[布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は分を知り、功を焦らずに進んで成功します。
 不精進の人は他を利用しようとして逆に邪悪の輩に利用され、信用失墜や損失を被りがちです。
[持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は謙虚さが年配者から認められ、成功します。
 不精進の人は親和が保てず、無理に進む途中で問題が起こり、失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は誘惑や依頼ごとへ適切に対応して無事安全です。
 不精進の人は圧力に負けたり色情に溺れたりして失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は慎重に人を観察し、希望的観測を離れて安全です。
 不精進の人は不用心に人を信じ、ものごとの楽観視や軽視も重なり失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は運気や交通の渋滞に巻き込まれてもうまく良き縁をつかみ成功します。
 不精進の人は実力と現実がずれて苦労しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は慢心や傲慢に陥らず危険から遠去かり、未然に遠去けもします。
 不精進の人は高望みし、自他の策謀にのめりこんで失敗しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2009
11.23

例祭だより(11月の第二例祭)

 11月21日は第二例祭でした。

 その日の朝、家を出た時に空にが架かっていました~☆
 とっても大きなでアーチが全部見えたんです。そのアーチをくぐっての出勤v

「なんだか朝から縁起がいいなぁ~♪」なんて思いながらお寺につくと

 なななんとぉー。
 またもや大きな笹倉山に架かっているではないですかー!しかもまたはっきりアーチ☆

 住職はしっかりカメラを向けておられました^^

 そんなの祝福を受け^^新しい講堂にて初めての護摩を焚きました。
 二日前に急遽、住職と奥さんと私と三人で護摩壇を運びいれたのです=3

 とにかく今までみたことがないほど大きな炎が上がり、びっくりしましたー。
 大きな大日如来様の右前に置かれた護摩壇には、使者とされる不動明王様が奉られています。
 大日如来様に届くようにお不動様は大きな炎を上げられたのでしょうか・・・。
 久々に住職の太鼓の音と一緒にお経と真言を唱え、やっぱり元気が出てきます!
 太鼓が後押ししてくれるんです。
 護摩の煙が目に沁みるもの久しぶり。
 懐かしいぃ~~~っ。

 これからは講堂での護摩法ができるようになり、冬の寒さも心配いりませんね。
 お正月の大護摩祈祷も楽しみです☆皆様おそろいでお出かけください♪

 この日は18時より映画「チベットチベット」の上映会でした。
 住職はお通夜の大切なお勤めが急遽入ったので、奥さんが一緒に行ってくださいまいした。
 奥さんをお乗せして会場の青年文化センターへ向かう車の中ん???
 クンクンと作務衣の匂いを嗅ぐと煙の香りが・・・

 思わず
「ああ~、久々ですね~この煙臭!例祭だったって感じですよね~!」
と言ってしまう。

「うふふ・・・」と奥さん。

 また新たな始まりです。
 皆様が佳い冬を過ごせますように☆

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/から転載させていただきました。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2009
11.23

道祖神

 兎野の田圃を通る道ばたに道祖神が祀られています。
 11月28日には、おも行われます。
 魔除けや五穀豊穣、あるいは子宝を願う素朴な祈りが、今も続いています。
 この道を、イヌに声をかけながらベテランらしい風情の狩人が歩いて行きました。
 仙台市の中心部から車で半時間ほどの大和町宮床には、こうした地域が残っています。

211116 011

211116 008

211116 006

211116 0072



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2009
11.22

例祭にて

 朝の笹倉山にかかった虹の橋は、新たな一日を祝福しているかのようでした。

 講堂に持ち込まれた護摩壇で、不動明王の炎は高く高く立ち昇りました。
 これまでになく静謐な炎は、本源たる大日如来のすぐ脇に座ることになった使者「大日大聖(ダイショウ)不動明王」の安心を表していたのでしょうか。

 修法の最後に梵語(ボンゴ)で唱える「不動讃」の和訳です。

「ほとけを礼し 菩薩(ヒジリ)をも
 わけて不動の 救世尊(グゼソン)に
 我は頂礼(チョウライ) たてまつる
 あまねく開く 智慧の華
 神通(ジンズウ)自在の 明王(チエキミ)
 汝(オンミ)に帰命(キミョウ)が あれよかし」


 お茶タイムになって、Aさんからおもしろい話題が提供されました。
「ウチの実家あたりでは、『一服茶にすると和尚さんに会う』と言うんですが、どういう意味なんでしょうか?」
 私見をお話しました。
一服茶を不吉とするのは、人が亡くなると、ご遺体のそばに最後のお茶を供えることになっているので、それを忌むのでしょうね。
 それに、来客へお茶を出して、飲み干されていてもそのままにしておくのは、もうお茶を飲んではいられないから早く帰れというシグナルと解釈され、失礼にあたるということもあるでしょう。
 嫌な相手なら、出すお茶は形式でしかありません。
 重ねて勧める姿勢にもてなしの心がこめられるのは確かですよね」

 ストーカーも話題になりましたが、個々の事例については、あらためて袈裟衣を着けた上での人生相談でなければ、軽々に「こうすれば良い」というわけにはゆきません。
 いのちがかかりかねない問題は世間話でどうこうできず、ご本尊様に守られた法の中で検討することにしています。
 一般論としては、『法句経』にも『四十二章経』にも、解き方が明かされています。
 
 ある時、女性が恋しい男性とデートしました。
 ところが待っても待っても彼は来ませんでした。
 そこで悶々としましたが、やがて心をおちつかせた彼女は、はたと気づきました。
「私の恋する彼は、私の心が生じさせているものではないだろうか。
 愛しいと思い、来なければ憎いと思っても、そう思うのは私の心のはたらきでしかない。
 彼を思い出して、ああだこうだと考えたり想像したりしなければ、私を悩ます〈彼〉はどこにも居はしない」

 要は正しい心のコントロールです。
 解っているけどそれができないから大変なんだと言うならば、肺ガンになる確率が格段に高いのは知っているけれども止められないからタバコを吸い続けているんだと言うのと同じです。
 しかし、出不精な方でも、糖尿病の気があるから散歩しなさいと医者から指導されれば否応なく靴を履くではありませんか。
 いのちが惜しくて身体をコントロールしようとするならば、それ以上に、人間が人間たる心を愛(オ)しまねばならないはずですが、それがなかなかできないのは、心が見えないものだからでしょう。
 とにかく、このままであればどうなるかとはっきり想像し、その未来像を受け容れないならば、これまでと生き方を変えるしか道はありません。
 行き着くところ、想像力と危機感と実行力の問題です。
 私たちがこの三つを充分に兼ねそなえていないからこそ、み仏の教えがあり、ご加護があります。

 お不動様の経典は、「我が子を見るようにお慈悲をくださっている」と説いています。
 信じ、行い、因縁解脱をやりましょう。



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2009
11.21

【現代の偉人伝】第88話 ─「FC東京」城福浩監督─

 11月3日、サッカーナビスコ杯で優勝した「FC東京」の城福浩監督は、勝利の瞬間、絶叫したという。
 選手達たちはゴールを決めたりすると派手なパフォーマンスを行うが、普通、背広姿の監督はそうしたシーンに縁遠い。
 11月14日付の読売新聞「切らなきゃならない時」は、この監督を紹介している。

 早稲田大学・富士通と現役だった城福浩氏は、「サッカーでは食べていけない」と企業人になった。
 そして地方工場で工場統合に伴うリストラの担当者になった。
 車のタイヤをパンクさせられることもある厳しい仕事だが、首を切られる人たちと「納得いくまで酒を酌み交わし」、「人を切り、人を活かす」職務をまっとうした。

 さて、ナビスコ杯である。
 監督は、決勝戦の前日、登録メンバーを発表した。
 その中に、チームの中心として活躍し、これが現役最後の試合となる浅利悟選手(35歳)の名前はなかった。
 浅利悟選手は高校時代から花形選手であり、今年行われたリーグ戦・ナビスコカップ・天皇杯の公式戦全てをメンバーとして闘っている。
 おそらくは誰よりもこの試合にかける思いの強かったであろう浅利悟選手は、ロッカールームで号泣した。
 その姿に、さすがの城福浩監督も声をかけられなかった。

 翌日、先輩のためにもと奮い立った選手たちはすさまじい結束で見事、優勝を果たした。
 監督は夜になって初めて、浅利悟選手と言葉を交わした。
「お前の涙で優勝できた」
 そして、優勝祝賀会では浅利悟選手の練習ぶりなどを讃え、涙ながらに「サリの涙で優勝できた」と報告した。

 小説家高任和夫氏の最新作『月華の銀橋』における勘定奉行荻原重秀を思い出した。
 若く、抜群に切れる頭脳と果断な決断力と夜叉のような実行力を兼ねそなえた荻原重秀は、幕府の危機的財政を立て直すべく、非情とも思われる施策を次々に現実化する。
 論理だけで研ぎ澄まされた立案に周囲は皆驚き、あきれ、怒り、怖れ、不安になり、怨むが、案は常に、慢性化し波状的に訪れもする数々の危機を脱するための最善策だった。
 同書における荻原重秀像は、〈プロの仕事師はかくあるもの〉と示して余りない。

 自分の一身にすべてを負い、最善策と考えられるリストを作った城福浩監督もまた、まぎれもなく、超一流の仕事師と言えるのではなかろうか。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
11.20

講堂にて護摩法を修します

 本尊大日如来の横へ壇をしつらえ、11月21日の例祭より、講堂にて護摩法を行うことになりました。
 ご参詣いただけるスペースが広くなり、寒さも心配要りませんので、どうぞ、ふるってご参加ください。

211120006.jpg

 

「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。






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2009
11.20

『四十二章経』第十六章 無常

 9月28日、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと『四十二章経』を学びました。
 テーマは無常です。

 仏の言(ノタマ)わく、『天地を覩(ミ)て非常と念じ、山川を覩(ミ)て非常と念じ、満物(マンモツ)の形體(ギョウタイ)豊熾(ホウシ)なるを覩(ミ)て非常(ヒジョウ)と念ず。執心(シュウシン)此(カク)の如くんば、道を得ること疾(ハヤ)し』


 釈尊は言われました。
天地を観て、すべては無常であると心に刻み、山川草木を観て、すべては無常であると心に刻み、万物のいのちが盛んな様を観て、すべては無常であると心に刻む。
 心がこのように定まれば、速やかに仏道を成就できる」

 四季の移り変わりは諸行無常を教え、落花流水にこの世の儚さを感じる感覚は日本人にとって自然なものです。
 しかし、「形體豊熾」な現象にも無常、すなわち崩壊と死が孕んでいることを同じように感得するのは、そう、容易ではありません。
 たとえば、青年が若い女性に恋した時、「ああ、この人も、やがては彼女のお母さんのようになり、お祖母さんのようになり、白骨になってお墓へ入るんだ」と心の底から思えるでしょうか。

 藤原新也氏が平成20年11月に25年ぶりの大幅な改訂を行った名著『メメント・モリ』にたった一枚、ヌード写真があります。
 この本に掲載された写真は、自然であれ、街や村であれ、人間であれ、シャッターによって止められた時間が、見えない死の影を濃厚に写していますが、豊満な女性の裸体にそれを同じように観ることは困難です。
 赤と紫の花模様いっぱいの夜具に両手足をついた女性は満面の笑みを浮かべています。
 そこに「人間は肉でしょ。気持いっぱいあるでしょ」と短かな文章が添えられています。
 健康な男性ならきっと食指が動く場面をもなお、著者は死の観点から眺めています。
 ──肉、──いっぱい動く気持。
 その生の営みもまた、落花流水と同じ世界のものであると観られるようになって初めて「道を得る」ことができるとは……。

 釈尊は、この世から逃れる方法を説いたのではなく、この世を仏として生きる方法を説きました。
 その一つが〈死から生を観る視点〉です。
 かつては、死人が腐敗し、鳥獣に喰われ、白骨が風に吹かれる過程を見すえる修行が行われました。
 藤原新也氏は、「本当の死が見えないと本当の生も生きられない」と書きました。

 無常を忘れず、無常なればこそ、〈今〉を精いっぱい生きようではありませんか。

 

「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。






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2009
11.19

私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか 3

 前回、「私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか 2」において、こう書きました。

 せっかく釈尊が苦を脱する八正道を示されても、実践されない限り宝の持ち腐れになってしまいます。
 ここを突破する方法をもって最終回とします。


 最近、ある事業家Aさんからこんな質問をいただきました。
「これまで無我夢中で走ってきましたが、友人が急死して立ち止まってみると、『おれは、このまま死ぬんだ』ということが深く実感され、正直なところ、とても怖くなりました。
 私のような生き方をしている人は、口に出さなくても、ある瞬間にこうした不安を抱えてしまい、どうしようもない気持を持ったまま生きている場合が多いのではないでしょうか?」
 Aさんは創造性の固まりのような方です。
 斬新な作品を次々と完成させ、目に見えるものによって自他共に満足感を得られる日を重ねておられますが、目に見えない世界へ意識が向かった時、普段モノを創っている力では解決できない問題にぶつかりました。
 Aさんのあの世への不安は、この世で解消するしかありません。
 あの世へ行ってからでは間に合いません。
 だから、端的にお答えしました。
「後ろめたいことをなくしましょう」
 つまり、未来へ向かっては八正道実践であり、過去へのはたらきかけとしては懺悔です。

 さて、実践方法です。
 まず自分をふり返り、生まれつき(トン・ジン・チ)の三毒を抱えた病人なので、治療する必要があると理解することです。
 ったばかりに良からぬ結果を招き、つまらぬことに怒って悔いが残り、勝手な考えで失敗し、誰かを傷つけはしなかったでしょうか?
 このままの自分で、また、似たようなことをやらかしはしないでしょうか。
 たった今、あの世からお迎えが来た場合、──しまった!と良心がうずくことなく、「──そうですか。じゃあ、ぼちぼち行きますか」と青空を見上げる心境で死に神に随えるでしょうか。
 この時点で、治療の必要性を感じない方は治療と無縁です。

 必要性を感じた方は、「治療はこれまでの日常生活の延長ではない」と理解しましょう。
 たとえば禁酒も禁煙も安静も服薬注射も、規則正しい早寝早起きも、気ままで忙しい日常生活では無縁だったものです。
 そのように、姿勢を正して合掌などの印を結び、経典や真言を読誦し、正しく観想するという〈別に便利で役に立つわけではない〉ことをきちんとやらねばなりません。

 そして、「生き延びたい」のと同じように、「不安から脱したい」、あるいは「もう、他人を傷つけたくない」のならば、薬を飲むのと同じく、身・口・意による修行をせねばなりません。
 ただし、普通の病気と違うのは、めったに入院という非常手段には及ばないという点です。
 信頼できる病院へ足をはこぶように、信頼できる寺院で正統に学び、あとは日常生活で過ぎる時間のうち、どれだけを治療すなわち修行に費やすかを自分で決めれば良いのです。
 そして、寺院の発行物などを参考にしたり生活態度を省みたりして自分の修行の進展度合いを考え、たまには寺院へでかけて健康度を確認し、ご本尊様からパワーアップするお力をいただけば、まっとうに生きられること請け合いです。

『理趣経』は、こう約束しています。

仏の胸に いだかれて
妙適(タエ)なるめぐみ 身に染みつ
深き慈愛(ナサケ)に つつまれる
われを知るこそ 菩薩(ヒジリ)なれ

すくい求むる 慾の箭(ヤ)は
やがて摂取(セッシュ)の み手に触れ
きよきみ愛に つながれて
おもいのままに 生きてゆく

まこと仏を 見ることも
仏に触れる 適悦(ヨロコビ)も
いやます愛は なおさらに
きよき慢(ホコリ)と なりぬべし

仏の智慧に かざられて
こころはとわに 滋沢(ウルオ)えり
み光のもと 身はつねに
楽しからぬは なかりけり

眼に見る色は 仏なり
耳に聞く音は み声なり
鼻に嗅ぐ香は 真如(マコト)なり
舌に嘗む味 み法(ノリ)なり

それはなぜにと たずぬれば
すべてのものは そのままに
いずれも浄き ものなれば
ものその性に 目覚むれば
きよき悟りの 彼の岸に
到れる真実(マコト) そこにあり


 

「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。






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2009
11.18

映画『宗像姉妹』 ─新しいもの 古いもの─

 夫婦間の人生相談があると、こんなお話をする場合があります。

 映画『宗像姉妹』で田中絹代が演じる貞淑な妻、節子は夫との確執に耐えかね、離婚して若い頃に惚れていた男と一緒になろうかと考えます。
 しかし、夫は急死し、節子は再婚を諦めます。
 高峰秀子が演じる妹満里子へ、亡き夫の視線をありありと感じており、今初めて本当の夫婦になれたような気がすると告白します。

 昭和28年に封切られた作品ですが、夫婦という年月をかけて作りあげてゆく関係の根本を衝いた作品です。
 お姉さんは旧い、どうして耐えてばかりいるのと離婚を勧める行動的な満里子へ、こう諭します。
「私は旧くならないことが新しいことだと思っているの。
 本当に新しいことは 旧くならないの。
 あんたの言う新しいことは、昨日の長いスカートが今日は短くなること?
 みんなが爪を赤く塗ること?
 それがあんたの新しいことね」
 
 この「古くならないことが新しいことであり、本当に新しいことは古くならない」というのは、とても示唆に富んだセリフです。

 スカートの丈も、爪に塗るマニキュアの色も、世間の現象です。
 それらは諸行無常というよりは、常に目新しいものを提供しようとする産業界の努力によってめまぐるしく変化が演出されます。
 その渦に巻き込まれている私たちは、見たことのないものを新しいと感じ、その瞬間から、今まであったものは古いと感じます。
 そこに所有したいという欲が生じ、経済活動が動きます。

 しかし、節子は、そうした世間の現象によって動かされる心ではなく、自分で創る自分の心を問題にしています。
「古くならない」とは、心が新鮮さを失わないということではないでしょうか?
「新しいこと」とは、新鮮な心が生み出し続ける清流のようなものではないでしょうか?
 傍目には、ただ何もしないで耐えているだけにしか見えなくとも、節子は、耐える日々が生み、育てるものを確かにつかんでいたのでしょう。
 もう葛藤を引き起こさなくなった亡き夫の目から発する視線は、いかに優しいものであるか、それに応える節子の心の視線もまた、いかに安心と充実感に満ちたものであるか──。

 名作は大切なことを教えてくれているようですね。

 

「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 佳き一日となりますよう。






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2009
11.17

良縁をつかみ、悪縁を断つ方法(その4)

 もしも仮の良縁ができたなら「優しさ」を第一にして過ごしましょう。
 たとえば部下ができたならば、自分の心にある優しさを育てるのです。

 それには、教えることです。
 教えて成長を喜ばなければ、部下はまっすぐに育ちません。
 自分が利を得るために部下を利用するのではありません。

 み仏が衆生を救い仏道へ導く4つの方法「四摂法(シショウボウ)」の1つが「利行(リギョウ)」です。
 人々のために役立つことを行って心を開かせることです。
 祈りの先に待つ利益(リヤク)はそのためにあります。

 受験に合格するようにと祈ったり、病気が治るようにと祈ったりして「現世利益(ゲンセリヤク)」を求めることを卑下し、「仏教はただ悟るためにだけある」という考え方もあるようですが、いかがなものでしょうか。
 たとえば弁護士になって理不尽な境遇で苦しむ人を救おうと合格を願い、早く健康を取りもどして家族のためにはたらきたいと願ってみ仏へすがることが卑しいと言えるでしょうか。
 全力を尽くし、周囲の縁の力もあり、目的を果たして明らかにご利益を感じる時、聖なる世界へ対するすなおな畏敬や感謝の気持が生じています。
 自分の目的を達成しようと頑張った後で、我(ガ)が後へ引っ込んでいる心持ちになります。
 ここが仏道への大切な入り口になります。
 釈尊やお大師様がさまざまな場面で超人的な力を発揮して人々を救ったのは、この「利行(リギョウ)」に他なりません。

 ところで、仏法に不思議はあっても奇跡はありません。
 奇跡といえば『奇跡体験!アンビリバボー』という番組が有名です。
「ビートたけしが案内役となって、世界中の希望あふれる幸福な奇跡、世の中の常識や科学では解明できない超常現象、そして思わずぞっとする怪奇現象などアンビリバボーな話をお送りしています」と紹介され、番組の最後にはビートたけし氏がこう言います。
『アンビリバボーはあなたの身に明日起こるかも知れない』
 私たちはこうした場合、奇跡とは「起こりえないこと」と考えています。
 とうてい起こりえないことが起こった現象を集めたから番組は成り立っています。
 
 しかし、縁起因果応報を真理とする仏法の考え方では、「起こりえないこと」は起こらず、「いかなる道理を用いても原因と結果を結びつけられないような、人間の思議を超えたこと」は起こると考えます。
 そうした意味で、釈尊やお大師様の救済力は不思議ですが、奇跡ではありません。
不思議」においては、〈思議しきれない私たち〉と〈思議しきれない世界〉はつながっており、時として、私たちはその世界へ入ってしまう場合もあります。
 それが、即身成仏です。
 一方、「奇跡」においては、〈奇跡として受けとめるしかない私たち〉と〈奇跡を起こす者〉とは隔絶しています。

 さて、釈尊やお大師様の偉大な救済物語には不思議と言うしかないものがたくさんありますが、それはすべて利行です。
 そして、私たちの行う利行もまた、不思議な結果をもたらす場合があります。
 ただただ「良かれ」と思って行った先に、思いもよらなかったできごとが起こったりします。

 教える場合は、こうした心で行うことです。
「あくまでも相手の立場に立ち、教えるべきことは教え、教えるべきことでないことは教えない」
 これが優しさを育てる方法です。


「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。






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2009
11.16

住職一人の納骨

 ご遺族が共同墓法楽の礎』への埋骨を契約しておられたAさんの納骨を行いました。
 仙南に在住しておられるA家の方々は、全員にご事情があり、当山でご葬儀を終えた後、『法楽の礎』の納骨永代供養料の分割払いを申し出られ、無事完納して今日を迎えられました。
 お立ち会いはありませんでしたが、写真をお送りして安心していただきます。
 生前、あるいは事後と、契約はいつでも可能であり、一切宗教宗派を問わずいかなるご事情の方でも受けつけているので安心を求める方が多く、このたび拡張工事を終えたところです。
 入檀料や年間管理料はなく、A家のように目安としている供養料が用意できない場合なども必ず対応できるので、安心してご縁の糸を結んでいただきたいと願っています。

 本来の空(クウ)へ還れば、皆、等しくみ仏のいのちの大海へ溶けこみます。
 十三仏様のご加護により万霊が安寧でありますよう。

共同墓法楽の礎』を守り、墓地『法楽の苑』を守る十三仏様〉
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〈拡張された『法楽の礎』全景〉
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〈石版の十三仏様に祈る納骨堂内〉
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十三仏様のご加持法を結んだ骨袋〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。





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2009
11.16

高任和夫氏作『月華の銀橋』と実務者の戦い

 小説家高任和夫氏が『月華の銀橋』を上梓した。
 前作『青雲の梯(カケハシ)』に次ぐ歴史時代小説第二弾である。

 すでに前作において経済の観点から歴史を見なおし、実務者が創る歴史模様を鮮烈に描いた作者は、この作品においてさらに個人と組織、理性と感情の関係に新たな視点を示し、これまでになかったジャンルを確立した。
 あまり知られていない勘定奉行荻原重秀の衝立を真っ向から切り下ろすような行動、そして、思想家新井白石が標榜する正義の実態を克明に描ききった傑作である。

 野心を持って組織を動かす男は戦い、勝利者となり、敗者となる。
 時間が局面を転換させ、時間がことを成就させ、時間の招く老いが否応なく主役の交代を促す。
 人は時間に生き、時間は歴史となる。
 天の時、地の利、人の和を得た運勢は運命を創り、歴史を創る。

 渦中にいる勘定奉行荻原重秀の苛烈な日々において救いとなるのは客観的な情勢をそっと示す友人石原平十郎、そして、現場の鬼ならではの発想で目を見開かせる河村瑞賢である。
 信頼できる同志や先輩や師なくしては、巨大な組織を用いてことを成就することは不可能である。
 単なる味方は当てにならない。
 隠居した柳沢吉保は、「今のところは」支持してくれている老中たちをバックに突き進む荻原重秀へ諭す。
「しょせんは日和見、風向き次第でどう動くかわからぬ」
 読者は明滅しつつゆっくり回転するミラーボールを眺めるように、安心と不安、友情と敵意、明知と暗愚のおりなすドラマに引き入れられる。
 人間模様は万華鏡のように変化し、狂気が暗転を呼ぶ。
 衝撃の結末は、真の破壊をもたらす魔ものが古今東西変わらぬことを示し尽くす。

 戦後もっとも大きな変化が日本に訪れつつある今、この真摯な作品が多くの方々に読まれることを願ってやまない。

〈かけ橋〉
211111gekka.jpg

〈生きるもの 生かすもの〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。





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2009
11.15

故夢慧氏の追討DVDコンサートを行いました

 11月14日、午後2時k10月11日に逝去された夢慧氏の追討DVDコンサートを行いました。
 鑑賞したのは最期の作品となったアルバム「聖山を行く」です。
 万葉集の中から花・恋・抒情・里をテーマにした作品に曲をつけました。
 画像は高野山・熊野・吉野・四国の仏像と風景です。

 最初の曲「橘」は合掌瞑目して聞きました。
「ほととぎす 花橘の 枝に居て
 鳴き響(トヨ)もせば 花は散りつつ
 風に散る 花橘を 袖に受けて
 君がみあとと 偲びつるかも
 あしひきの 山橘の 色に出でよ
 語らひ継ぎて 逢うこともあらむ」
(橘の枝にいて盛んに鳴くほととぎすの声へ合わせるかのように、橘の花が散ってゆく。
 風に散る花を袖に受けて、もう会えない君を偲ぶきっかけにしようか。
 山橘の鮮やかな赤色のように思いを表面に出そうか。
 そうすれば話題が広まり、逢う機会ができるかも知れない)

 全10曲の最後は写真家櫻井恵武氏の作詩による「うつりゆくまま」です。
 そして、平成20年6月29日に新橋ヤクルトホールで行われた「第三回 夢慧 日本を謳う」から冒頭の3曲を鑑賞しました。
 当時64歳でおられたとはとても思えない精気に満ちた演奏で、4月26日に当山で行ってくださった「 夢慧 抒情歌を唄う ━寺子屋チャリティコンサート━」のシーンがダブって見えました。
 逝去後数日して奥さんから「法楽寺で唄えなくて残念です」との故人の言葉をお聞かせいただいたことを思い出し、12月12日に(土)開講する寺子屋において、夢慧氏の表現しようとした抒情の大切さも伝えてゆこうと決意を新たにしました。


 コンサート後は、佐藤さんと里佳さんが腕によりをかけた軽食をいただきました。
 パンや紅茶やコーヒーのあまりのおいしさに、皆さん、びっくり仰天でした。
 松の木と葉で茶葉をいぶしたラプサンスーチョンも絶品でした。

 今後、「ラジオ番組にリクエストしよう」などど語り合いました。
 小椋佳氏が絶賛した夢慧氏の曲想や表現力のすばらしさは、まだまだ広く知られてはいません。
 決して喉先でごまかさず、すべての音を勁い糸のように発して妥協しない歌唱法は、私たち僧侶にとっても永遠の模範となるものです。
 これからも、おりにふれて鑑賞会を催してゆきたいものです。
 そして、寺子屋を見守っていただきたいと願っています。

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〈クリームチーズのホカッチャサンド、プレーンスコーンのブルーベリジャム・クリーム添え、抹茶のケーキ小豆と生クリーム添え〉
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〈仏前にも供えられました〉
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「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。





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2009
11.14

ウサギ

 信徒Sさんの投稿です。
 ウサギもかわいいですが、かわいがっている少女の優しさが佳いですね。

「お寺で兎のイラストを募集していたので便乗出来ればなぁと思いましたが遅れて投稿です(笑)
 最近寒くなってきて朝布団から出るのが少し憂鬱です」

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。



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2009
11.14

良縁をつかみ、悪縁を断つ方法(その3)

 もしも仮の良縁ができたなら「優しさ」を第一にして過ごしましょう。
 たとえば子供ができたならば、自分の心にある優しさを育てるのです。

 それには、認めることです。
 認めなければ、まごころははたらきません。
 認めるとは、相手にある気に入った部分を褒めたり嬉しがったりするだけではありません。
 気に入らない部分をも含めて、〈丸ごと〉〈そっくり〉、〈そのような存在〉として受け容れることです。
 たとえば、赤ん坊がおとなしくて助かるから「ああ、良い子だ」と可愛がる一方で、なかなかお乳を呑まないからといって、「この忙しいのに!」といじめるようではなりません。
 おとなしい子でありお乳への吸いつきが悪い子を、そのまま全体として受け容れる広い心が必要です。
 これが本当に認める心です。

 もちろん、どんどんお乳を呑んですくすく育って欲しいのは当然の願いです。
 そのための努力をする時、認めるという前提がないと、方法を誤ってしまう場合があります。
 「この子はこういう子だ」というふうに受け容れた上で指導・訓練・教育するならば、決して虐待などは起こりません。
 しかし、「何て子だろう!」と思いどおりにならない部分へ強い拒否反応が起こると、虐待に結びつく虞があります。

 認める心をつくるために、感謝を大切にしましょう。
 赤ん坊ができたのは、親にとって最高にありがたいことです。
 「ああ、ありがたいなあ」という大きな感謝があれば、否が応でも認めてしまいます。
 ありがたい相手を自分の好みで分けられないではありませんか。
 その感謝は、渇いた時に水を得た時と同じです。
 真夏のカンカン照りの中を托鉢してヘトヘトになった時、あるいは降りしきる雪の中を托鉢して身体が芯から冷えた時に「どうぞ」といただく飲み物は、真水であろうとジュースであろうとお茶であろうと、等しくありがたいものです。
 好みを言うわけにはゆきません。
 み仏からの授かりものだからです。
 
 子供はみ仏からの授かりものです。
 子供にとって、親もまた、み仏からの授かりもの以外ではありません。
 親友も、夫婦も同じです。
 こうした観点に立ち、広い心を持てば、お互いに持つ欠点をも認め合い、補い合いながら優しさの行き交う人間関係を生きることができましょう。
 マスコミをにぎわすような事件が起こるはずもありません。
 かけがえのない関係が実りある「実の良縁」となるかどうか、「認める」心をよく考えてみましょう。


「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。



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2009
11.13

良縁をつかみ、悪縁を断つ方法(その2)

 もしも仮の良縁ができたなら「優しさ」を第一にして過ごしましょう。
 たとえば誰かを好きになったならば、自分の心にある優しさを育てるのです。

 それには、信じることです。
 信じなければ、まごころははたらきません。
 信じるとは、やみくもに言葉を鵜呑みにすることではなく、何があっても悔いがないほど、相手の存在価値のかけがえのなさに自分自身をかけることです。
 たとえば親友「Aさん」は他の誰かと取り替えられるでしょうか。
 自分にとって「Aさん」が「Bさん」や「Cさん」と違うことは決定的であり、「Aさん」が信頼でき尊敬できる「Aさん」そのものであることは、自分がこの世の存在を信じられるほど明確です。
 だから、信じた人に裏切られた時は、この世の終わりを感じたりする場合もあります。
 花の美しさも、音楽の楽しさも、食べ物のおいしさも、急に色あせてしまいます。
 それは、「信」というものへ自分をかけ、この世への信頼そのものをかけているからです。
 
 信じる相手は人間に限りません。
 たとえば、菊やネコならば、目をかけ、「元気かな」と心で言葉をかけ、をやったり肥料や餌をやったりして、そのかけがえのなさにふさわしいできるかぎりのことをするのです。
 そうしたことができるのは、菊もネコも本当にかけがえがないと感じているからです。
 
「対象を信じられる人」になることが、優しさを育てる第一歩です。
 さあ、こうしたのようにすなおな心になれるでしょうか。
 は丸い入れ物へ入れば丸くなり、四角い入れ物へ入れれば四角くなります。
 そのように自分を〈かけられる〉でしょうか。
 自分を〈とって置く〉ようでは、優しさは、まだまだ伸びる余地があります。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。



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2009
11.12

良縁をつかみ、悪縁を断つ方法(その1)

 縁はまず、仮のものとして現れます。
 良縁悪縁も、最初は自分自身に直接つながらない形をとります。

 たとえば、結婚願望の女性が友人の結婚式に呼ばれたならば、「えっ!何で私でなくあの人が先に相手を見つけたの」と悔しがったり妬んだりしてはなりません。
 周囲に良きことが起こる時は、自分にとって仮の良縁が生じていると考えましょう。
 そして、幸せそうな友人に、心から「おめでとう」を言いましょう。
 良き心が、仮の縁を自分に直接結びつく実の縁にするきっかけとなります。
 もしも反対の心になったならば、せっかくの仮の縁が逃げていってしまいます。

 たとえば、友人の家に泥棒が入ったならば、「ああ、我が家でなくて良かった」と胸をなでおろすだけではなりません。
 周囲に悪しきことが起こる時は、自分にとって仮の悪縁が生じていると考えましょう。
 そして、不安になっている友人に、心から「大変だったねえ」と慰撫の言葉をかけましょう。
 良き心が、仮の縁を自分に直接結びつかせないきっかけとなります。
 もしも反対の心になったならば、他人事だった仮の悪縁を呼び寄せかねません。

 このように、仮の縁は「予告するもの」です。
 きちんと心のアンテナを磨き、善悪をよく考えていれば、ただちにキャッチして、適切な対応ができます。
 しかし周囲のできごとに無関心で、自己中心的に生きていれば、仮の縁に気づかず、運気を上手に活かせません。

 以下、五回にわたって、良縁をつかみ、悪縁を断つ方法を書きましょう。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。

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2009
11.12

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 38 ―「そしる」愚かさ─

 他を謗(ソシ)って自分の自尊心を満足させようとするのは愚かしいことです。
 人はすべてみ仏の子であり、我欲だけではない尊い心を持っています。
 そこを観て尊び合ってこそ、〈人の世〉はケダモノではなく人の世らしいものとなります。
 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは説きました。
ダルマを人間社会から取り去ったならば何が残ろうか。そこは、ただ獣類の住む森でしかない」

 11月11日に学んだ『法句経ダンマパダ)』の「忿怒品(フンヌホン)第二十五」は、尊い心を理解できない哀しさと愚かさを指摘しています。

「人、相謗毀(ボウキ)するは、古より今に至る。既に多言を毀(ソシ)り、又訥忍を毀(ソシ)り、亦中和を毀(ソシ)り、世に毀(ソシ)らざる無し」

(人は、昔から今に至るまで、お互いに謗り合いながらやってきた。多く語る者を謗り、あまり語らない者を謗り、程よく語る者を謗る。誰でもが謗られるのである)

 私たちは誰でも人として生まれた以上、人として環境に接し、人として生きています。
 人として周囲を観て、見聞きする世界に人としてのイメージを持ちながら、社会生活を送っています。
 キツネやタヌキは、生きている環境に対して人としてのイメージは持てません。
 スワミ・ヴィヴェーカーナンダは、そのことを言ったのではないでしょうか。

 もしもパン屋さんのウィンドウが目に入り、「あのパンを食べたい」と思って周囲をうかがい、パッと盗ったなら、それはキツネが食物を獲ったのと同じです。
 しかし、私たちは、そうはしません。
 キツネではないからです。
 お互いがキツネでないからこそ社会は保たれ、人間らしい生活が可能になります。
 もしも右隣の住人はタヌキであり、左隣の住人はクマであったなら、日常の安心は確保できましょうか。

 互いを尊ぶ心こそが安心できる社会を創ります。
 謗る心はその正反対です。
 釈尊の時代に「昔から今に至るまで」という状態でしたが、さて、それから2500年、私たちの生きている今はどうなっているでしょうか。


「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言



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2009
11.11

神も仏もいなければ

 11月10日、ようやく、リンゼイ・アン・ホーカーさんが殺害され遺体で見つかった事件の市橋達也容疑者(30歳)が逮捕された。
 事件から4年半が経っている。
 それにしても、最近は、殺人事件の報道がいかに多いことか。
 よくもまあ、こうも簡単に人を殺すようになったものだとあきれてしまう。
 逮捕された容疑者の言葉として「弁解することは何もない。何も話したくない」と報じられた。
 一方、10日午後8時過ぎ、岐阜県羽島市の自宅前で報道陣の取材に応じた父親はこう語った。
「事件からこれまで、ずっと苦しい思いだった。捕まってホッとしている。警察に真実をすべて話して罪を償ってほしい」
 そして、父親は申し訳なく、極刑もやむなしと心境を述べた。
 我が子の死刑を認めざるを得ない親御さんの気持は──。
 想像を絶する。

 ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』を思い出す。
 煩悩にまみれつつ殺されてしまった地主ヒョードルが生前、子供たちとこんな話をした。
などない。の不死もない。人間は死んだらそれまで。などの話を信じられるものか」
 哲学者で無論者の次男イワンは答える。
などなく、の不死もありません」
 我が子の同意に父親は喜ぶ。
「そうだ。や不死を言って人をたぶらかす聖職者は縛り首だ」
 それに対してはイワンは何と言ったか。
「しかし、がなければ文明もありません」

 人は〈何をしても良い〉のではない。
 何ものかが、〈この先は行くべきでない〉と行動にストップをかける。
 良心である。
 それを広げれば道徳になる。
 それを探求すれば宗教になる。
 良心がはたらかなければ、つまり道徳も、その源泉となる宗教もなければ、イワンが指摘したとおり文明のない状態になる。
 私たちの置かれている〈何でもあり〉の状況は、そこへ向かう過程ではなかろうか。

 日本の格差拡大は想像以上のスピードで進み、貧困大国へと没落する一方、個人の金融資産は75%以上が50歳以上に偏在している。
 30歳以下では10%にも満たない。
 持っている年配者は社会制度に不安を持ち、お金を使わない。
 若年者は、貯めるどころか生活すら、ままならなくなっている。
 世界一安全・安心な国などという幻想はあっという間に去った。
 心が枯れ、モノにも満たされない時代になった。

 これまで、さまざまな文明宗教に支えられて高い峯々を創った。
 その歴史と遺産は私たちを異次元へと誘う。
 しかし、外側にそうしたものを眺めているばかりでは状況を変えられない。
 嘆いてばかりいても始まらない。
 枯れた心は必ず潤いを求める。
 潤いは、一人一人の心におわすみ仏からもたらされる。
 泉の覆いをうち払い、清流をとりもどそう。
 群雲をうち払い、満月の霊光をとりもどそう。
「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言



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2009
11.10

寺子屋『法楽』を開講します

 ようやく態勢が調い、12月12日(土)の午後3時から5時までを第一回目とし、寺子屋『法楽』を開講します。
 参加される方は前日までにお申し込みください。
 初日は、寺子屋法楽舘』を始めた目的や、これからの進め方などについてお話します。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の体験も予定しています。

 なお、生徒の対称は主として中学生ですが、講義や稽古に支障がない限り、兄弟姉妹や保護者などの見学、参加もかまいません。
 また、14時30分に地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前に車が出ます。利用を希望される場合は、必ず事前にお申し込みください。
 参加志納金は1000円です。

〈他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、優雅さを保ち、尊いものを認識できる〉心と、正しい言葉と、活き活きした身体をつくっていただきたいと願っています。
 金剛のような強さを秘め、蓮華のように花開く人になっていただきたいと願っています。

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2009
11.09

『法句経』物語16 心意品(シンイボン)第十一

 法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。
 
 昔、一行者がいました。
 川縁の大樹を家として修行していましたが、12年間経っても何ら得るところがありません。
 心は落ちつかず、思いはあれこれと走り回って欲に引きずられているばかりです。
 目では形、耳では音、鼻では香り、舌では味、皮膚では触感、意識では想念がはたらきかけ、例えじっとしていても心はあちこちと遊び回ります。
 そうこうして12年が過ぎたのです。

 行者を救わねばならないと考えた釈尊は出家修行者の姿となってでかけ、行者と一緒に大樹の下で宿をとりました。
 月明かりが皎々と照らす夜、一匹の亀が川から上がり、大樹のそばに来ました。
 そこへ飢えたカワウソがやってきて亀を食べようとしましたが、亀は四肢を甲羅に入れたのでどうにもなりません。
 カワウソが去った後、亀は危機を脱して前のように歩み始めました。
 それを見た行者は、出家修行者へ問いました。
「この亀はいのちを護る鎧を持っている。
 カワウソは食べられなかった。
 これは何を意味しているのでしょうか?」
 
 出家修行者は答えました。
「私は、世の人々はこの亀と同じであると考えます。
 いのちの無常を知らずに、目や耳などの六感の命ずるままに生きています。
 しかし、やがては無常の魔ものに負け、身体が朽ち果て魂が離れる時が来ます。
 このくり返しで、地獄などの六道輪廻転生するのみです。
 百千の苦悩はすべて、心を目や耳のはたらくままに任せる放恣が作り出しています。
 自分自身で心を正しく制御し、放恣を滅して迷いの岸を脱しなければなりません」
 そして、詩をもって教えを説きました。

「今ある肉体は永遠ではない、やがては必ず土へ還る。
 身体が朽ち果て魂が離れれば、もはや目や耳で貪ることはできない。
 心は因縁により輪廻転生し、止まらない。
 心に邪なものが多ければ、悪しきところで呻吟するのみである。
 これは自分自身の生き方が決める運命であり、父母因縁のせいではない。
 心を正しくして福徳を得、放恣へ戻ってはならない。
 目や耳などの六根を亀のように制御し、放恣を城のような堅固な意志で抑制せよ。
 こうした智慧が魔ものと闘って勝利を得れば、この先の憂いはない」


 
 教えを聞いた行者は六根の貪りを断ち、六根の引き起こす欲に負けなくなり、アラカンとなりました。
 そして、導いた方が釈尊であると知り、威儀を正して礼拝しました。
 天神もも竜神も鬼神も皆、歓喜しました。




 いのちは時間です。
「いかに時間を用いるか」は「いかに生きるか」とイコールです。
 時間は一切のものに左右されず、淡々と過ぎてゆきます。
 砂時計を眺めるなどすれば、そのことは具体的に実感されます。
 一瞬前に落ちた砂は、一粒たりともくびれの上へ戻せません。
 それは、見ている自分のいのちがすり減り、決して取り戻せないのと同じです。
 私たちは、未来への旅に誘うアインシュタインや、過去へ回帰する可能性を示唆するクルト・ゲーデルの理論についてあれこれと議論し、想像するのは自由ですが、そうしている間にも、砂時計の砂は落ち続けているのです。
 釈尊は説かれました。

「教えを学び実践する一日の尊さは、放恣に生きる百年にも勝る」



ディベルティーレ様(http://divertire.net/)の砂時計
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〈黄色の権化イチョウ〉
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〈雨後にかかった早朝の虹〉
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2009
11.08

同情疲れ

同情疲れ」とは、文字どおり、相手に同情することによって引き起こされる疲労です。
 そもそも同情とは、相手の悲しみや苦しみや辛さを自分の身に降りかかっているのと同じであると受けとめ、相手を思いやり労(イタワ)ることなので、心の負担にならないはずはありません。
 人生相談を行っていると、精神科医の方々のご苦労が慮(オモンバカ)られます。
 もっとも、最近では、「同情をやめなさい」という専門家もおられ、生(ナマ)の苦をまな板へ載せて調理するようなスタイルで行う心のケアがあり得るのかと考えさせられます。

 さて、11月5日、米テキサス州のフォートフッド陸軍基地で、近々イラクへ派遣される予定だった精神科医陸軍少佐ニダル・マリク・ハサン容疑者(39歳)が銃を乱射し、兵士ら13人が亡くなりました。
 現場は、派遣される兵士への説明会や健康診断などが行われ、家族も集う施設です。
 容疑者はイラクやアフガニスタンから帰還した兵士や派遣を前にした兵士を担当していました。
 また、容疑者は熱心なイスラム教徒で自分がイラクへ派遣されることを気にしており、アメリカの対テロ戦争に反対してもいました。
 その後の調べによると、容疑者は事前に家具の処分などを行っており、覚悟の実行だったのは明白です。
 今年の5月、バグダッドの米軍基地では、精神科医の診察を命じられた兵士が当の精神科医など5人を射殺する事件がありました。
 アメリカの対テロ戦争は兵士へ深刻な精神的ダメージを与え続け、今年に入って軍隊で発生した自殺は165件に上っています。
 人間にとって最も強い戒めである殺人を強要する戦争は、鍛えられた兵士や、心の処置をする専門家である精神科医ですら抗し得ないほどのストレスを生むのです。

同情疲れ」に戻りましょう。
 タカに襲われる小鳥を憐れみ、見知らぬ病人や死人を憐れんだ釈尊は、恵まれた環境を捨てて行者となり、苦の根元を探求しました。
 第一に悟ったのは、この世が矛盾に満ちた苦の姿を呈しているのには原因があり、原因を滅すれば苦を克服できるという「四諦(シタイ)」の原理です。
 苦を克服する8つの実践法「八正道」もはっきりと自覚しました。
 そして、釈尊の悟りへまっすぐに入ろうと研鑽した行者たちの感得した究極の生き方が『大日経』に説かれる「三句の法門」です。

菩提心(ボダイシン)を因とし、大悲(だいひ)を根(コン)とし、方便(ホウベン)を究竟(クキョウ)とす」。


「本来仏である私たちの心の真姿に立つことを出発点とし、あらゆるものを思いやり、共に苦を脱することを目的とし、その方法の実践を生き甲斐とする」という教えです。

 日々、人生相談を行っていると、「同情」という情に傾いた言葉のイメージよりも、相手の立場に立つ、あるいは相手の側に寄りそうといった「同苦」や「共苦」の感覚なしにはやれないという確信があります。
「大悲」が根っこになければなりません。
 その感覚が起こっている時は、心で涙が流れています。
 実際に下瞼から涙があふれそうになる場合もあります。
 では、なぜ、「同情疲れ」を起こさないのか?
 答は三句の法門に明らかです。
 密教行者は「菩提心」に住むための基本であり究極点である護身法(ゴシンポウ)を生涯かけて探求する行者であり、護身法を結ばずに人生相談などの法務は一切、行わないからです。
(ちなみに、隠形流居合の行者は護身法を結んでからしか、剣を手にしません)
 大日如来の説かれた〈生きる出発点〉に立っていながら、苦に潰されるはずはありません。

 本来仏である私たちの「心の真姿に立つ方法」は、出家者にも在家者にも開示されています。
 他人様の心へ直に触れるというとてつもなく深く恐ろしいことを行うためには、確固たるものを抱いていなければなりません。
 そうでないと、泳げない人を救おうとして一緒に溺れるのと同じ事態に陥ってしまいます。
 不安に満ち、カウンセラー流行りの現代であればこそ、同情し、思いやることから逃げないよう、そして同情疲れにならないよう、み仏の説かれた「本来仏である私たちの心の真姿に立つ方法」が多くの人々によって実践されることを願ってやみません。 



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2009
11.07

仏法の導く先は ─法身仏(ホッシンブツ)・報身仏(ホウジンブツ)・応身仏(オウジンブツ)─

 昨日も、よくあるご質問を受けました。
「いろいろな宗派があるようですが、結局、行く先は同じなんでしょう?」
 時により、相手により返事の仕方は変えますが、ほとんどの場合「まあ、そんなものでしょう」と答えています。
 修行の結果得られる境地がさまざまなのは経典に説かれているとおりであっても、冒頭の質問をする方は質問しながら実際は同意を求めており、それに一理あるのは確かだからです。
 こうしたやりとりをしながら詳しく内容を吟味せずとも互いの間で通じている〈行く先〉のイメージを法身仏(ホッシンブツ)といいます。
 私たちがそこからやってきたいのちと心の故郷、宇宙であり海であるような無限で豊かな世界、俗世のいがみ合いや愛憎を離れた聖なる世界──。
 こうした「万人共通」と確信できる聖性を持ち、想像と実感でとらえられる永遠なる存在──。
 それを法身仏といい、大日如来といいます。
 
 釈尊は、心をその世界そのものにして見せ、煩悩の巷でのたうち回る人々へその世界をかいま見せるたぐいまれな力で生涯、法を結び説法されました。
 み仏になり切っておられた時の存在を応身仏(オウジンブツ)といいます。
 私たちはその業績を学び、釈尊が法身仏の世界へ入られた方法を実践することによって、釈尊の悟りを追体験しようと修行します。
 お大師様も同じく応身仏であり、実証して見せられた即身成仏(ソクシンジョウブツ)の方法を実践して法身仏となることが密教僧の共通した願いです。
 即身成仏を信じない密教僧はあり得ません。

 ところで、法身仏はその性格上、永遠や無限などの徳をお身体としておられ、いわば無限定の存在とでもいうべきものなので、私たちはなかなか具体的なイメージをもって近づくことができません。
 だから、人により、願いにより、時代により、様々なみ仏が「法身仏の世界へ入るのに解りやすいお姿」として感得されてきました。
 願いという原因が報いという結果をもたらすので報身仏(ホウジンブツ)といいます。
 仏法が日本へ入って来た頃は、真理を具体的に説かれた釈尊の信仰が広まりました。
 さまざまな経典を通じて、文殊菩薩の智慧や、薬師如来の治病や、普賢菩薩の延命などのお力が信じられ、信仰されました。
 母なるイメージの観音菩薩、身近なイメージの地蔵菩薩、魔除けのイメージの不動明王などの信仰も広がりました。
 社会に不安が増した時代は、極楽へ連れて行ってくださる阿弥陀如来が救いの王でした。
 命がけの日々を過ごした山本勘助は摩利支天(マリシテン)、上杉謙信は毘沙門天(ビシャモンテン)を守り神としました。
 私たちは、仏神をこうした報身仏に対する感覚で祀っており、それを支えているのは法身仏の世界があるという無意識の安心感です。
 だから、「行く先は同じ」という感覚はとても大切なものです。

 さて、釈尊もお大師様も応身仏として崇められています。
 釈尊は、ご自身が覚る以前にも覚った方々がおられると言明し、自分もその境地を知ったと述懐されました。
 釈尊のように覚り真実世界の住人となった聖者はどれだけおられるか判りません。
 お大師様の師である恵果様は、「やがてお前の弟子として転生しよう」と約束されました。
 さあ、そうなると、今のこの世にも、隠れた応身仏がおられるに違いありません。
 布施を行う時、戒めを守る時、忍耐する時、精進する時、心を清浄に安定させている時、我欲を離れた智慧をはたらかせている時は、誰でもが応身仏に近づいているはずです。
 み仏の子である私たちは、例え一日数分間でも、応身仏である時間を持ちたいものです。



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2009
11.07

はつね

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