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2010
01.31

女性と信仰 (その2)

 そもそも、先祖供養女性の化粧と共通するところがあります。
 誰かのために自分を美しく装おうのは、合掌という美しい姿になってご先祖様をご供養することに通じています。
 合掌するすなおな心が、自然に内面をも美しくします。
 そうして姿も心も美しくなって良き人生を送る徳を回向(エコウ…回し向けること)するのが最高の先祖供養です。
 女性先祖供養の主たる役割を担ってきたのには、家事の主役だった(現在はずいぶん様子が変わりましたが)というだけでなく、〈装う感覚〉にも理由があるようです。
 ただし、学校で料理をさせてみると女生徒と男生徒ではまったく気配の異なったものをつくるというベテラン調理師のお話には考えさせられます。
 それと同じように、男性には男性なりの、いわば思いきった信仰といったものが見られるからです。
 身体全体の構成はもちろん脳の形やはたらきも明らかに異なっている女性と男性とでは、信仰においてもそれぞれの色合があるのは当然ですね。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
01.31

女性と信仰 (その1)

 ご参詣の女性Aさんから「どうして男の人はあまり例祭へ来ないんでしょうねえ。休日なのにねえ」とご質問がありました。
 男性よりも女性の方が信仰による行動を起こす機会が多いのは、おそらく太古の昔から変わらぬ傾向だろうと思われます。
 
 理由の一つは、女性の方が〈他を立てる〉感覚が強いからです。
 その証拠に、賢い妻は夫を立てているはずです。(──二人だけの間ではともかくとして……)
 プロ棋士の米長邦雄氏は、母親が父親を立てる家風の家庭に育っていることが、プロの勝負師となるための必要条件であるとまで言っておられます。
 米長邦雄氏は、天才的な子供を連れて入門を求める親御さんの様子を観て可否を判定されるそうです。
 また、人は〈誰かが近くや上にいてくれると安心〉であるという心理もあります。
 女性は男性がそばにいてくれると安心するものですが、男性には自分が上にいなければという心理が強いので、自分を投げ出して仏神へ帰依することが難しいのでしょうか。
 また、女性は〈誤りを改めるのが早い〉ということもあります。
 基本的に女性の方が何かを受け入れるのにすなおなのではないでしょうか。

 ただし、以上はすべて一般論でしかありませんが……。

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
01.31

2月の聖悟 ─弘法大師の教え─

 今月も、お大師様の言葉をひもとき、教えに学びましょう。
 主題は福徳智慧です。

「もし善男善女ありて、生死(ショウジ)の苦根(クコン)を断じ、菩提(ボダイ)の妙楽(ミョウラク)に至らんと欲せば、まず、福智の因を積んで、しかして後、無上の果を感致(カンチ)せよ」


(もしも善男善女が、生まれてから死ぬまでの間に経験する苦を根本から解消し、悟りの世界でこれ以上ない安楽を得ようとするならば、まず、福徳智慧の原因となる実践をなすべきである。そして、その結果として最高の境地を感得せよ)

 四苦八苦から脱しようとするならば、具体的な実践が不可欠です。
 「福徳」は、布施精進など、菩薩になるための六波羅密(ロッパラミツ)を行ずることによって得られます。
 「智慧」は、経典を書写し、読誦することによって得られます。
 こうした実践なくして真の安心と幸せは得られません。

 この教えに接すると、高い境地は決して棚ぼた式にやってこないことが解ります。
 それは、老年になって生命力が衰え、「欲も得もなくなった」、「いつお迎えがきても良い」などの状態は、そのままでは悟りと何の関係もないことを意味してもいます。
 欲がなくなれば自動的に悟りへ入られるのではありません。
 自分の持ちモノが〈自分〉ではない、モノは〈徳〉ではない、と気づいたならば、より切実に必要としていると思われる相手へ布施を行って初めて悟りへ近づけます。
 
 「釣りバカ日誌」の最終回で、三国廉太郎扮する建設会社のオーナー会長「スーさん」は、重篤な病気を体験し、会長職を退きます。
 その際、全社員へ向かって、「会社は株主のものでなく、役員のものでなく、はたらく君たちのものである」と宣言した後、「持っている会社の株式をすべて会社へ寄贈する」と発表します。
 生涯かけて育てた会社が不況に苦しんでいる以上、彼は、会社に関わることなく相続をあてにしているだけの娘たちへ株式を渡さず、会社に賭けてくれている人々へそれを渡す決心をしたのです。
 彼の満足感、達成感、安心感などを想像すると、ここまでが人間としての彼の仕事であったと痛感します。
 これでこそ仕事は完結し、欲得の次元を超えて福徳の次元へと人生の質を高められたのです。

 昨夜、たまたま目にしたテレビ番組で、末期の肺ガンを抱える女性Aさん(77歳)が、生活の質を落としたくない一心で副作用の少ない治療法を探し、福祉施設ではたらき続けている様子が流れていました。
 いつお迎えがきてもおかしくない状態であるとはっきり認識した時、他人様に喜んでもらうことを行いつつ最期を迎えるのは布施行そのものです。
 Aさんは、ご自身の生涯にとても納得できる生き方を選ばれたなあ、望み得る最高の死に方を選ばれたなあと感心しました。
 
 スーさんもAさんも、決断と行動で福徳を得、それぞれの立場にあってこれ以上望めないほどの安楽に憩いつつ生き抜くことでしょう。
 モノもいのちも、「いかに用いるか」が悟りへの道を歩めるかどうかの分かれ目となるのです。



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2010
01.30

2月の守本尊様

 今月(2月4日から3月5日まで)は「立春」と「雨水」の如月(キサラギ)です。
 守本尊虚空蔵菩薩様です。
『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。





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2010
01.30

2月の真言

 2月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ) 

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




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2010
01.30

マイベストプロ

 最近、河北新報社さんの「マイベストプロ」へ参加するようお勧めを受け、メンバーへ入れていただきました。
 寄せられた疑問・質問へ各界のプロたちが応えるという趣旨ですが、当山の場合は、個別具体的な問題へネット上で対応することはできません。
 その理由の一つを、今日のコラムへ書きました。

「人生航路の方向に関わる個別具体的な問題について、必ず袈裟衣を着けてのみ対応しているのには、たくさんの理由があります。
 たとえば、『言葉に表れている内容が本心ではない』などもその一例です。

 ご主人と離婚する覚悟で人生相談に来られたAさんのお話をじっとお聞きした後、ご加持(カジ)という法を結ぶことにしました。
 ご加持へ入ると、法を受ける方は、ご本尊様の前でパタンと横になってしまいます。
 そして、真言が流れる中で、Aさんは、先ほど速射砲のように口から流していたご主人への怨みつらみではなく、ご主人への恋慕、あるいは子供たちへの懺悔などを涙声で語り始めました。
 修法が終わり、上体を起こしたAさんは、涙と笑顔を交え、来山された時とは正反対の覚悟を述べられました。
『もう一度、主人とやりなおしてみます』

 このように、当山の人生相談は、難問との真剣勝負であり、み仏のご加護なくしては不可能です。
 罪だらけ傷だらけの一介の行者が皆さんの難問を解けるなど思いもよりませんし、皆さんをお救いするなどと考えたこともありません。
 み仏のお側へ足を運ばれる皆さんのご誠心へご加護が降りるよう、信じる修法を行い、み仏へお任せするしか能がないのです」


 迷い、悩む人々を前にした釈尊の対機説法は常に、ご自身をかけて行われたことでしょう。
 もちろん凡夫ではありませんから、み仏となられたお姿で自然に話される内容は傷つき渇いた心へ染み入り、み前へ額づくすべての人々を救われたはずです。

 釈尊の入滅後数百年が経ち、言葉と偉業とを聞き伝えた人々がまとめ始めました。
 それ以来、文字となった内容の解釈と、そこに潜む釈尊の境地、そして、その境地へ入られた方法などが幾多の聖者たちによって研究され、結果の積み重なりが膨大な経典として今日に伝えられました。
 もちろん、現在も研鑽と研究は続けられており、この作業は永遠に続くことでしょう。
 個別具体的な救いが、万人への救いとして普遍の力といのちを持ちつつ永遠に伝えられ、発展・深化し続ける不可思議は、思えば目が眩むようです。
 個別と普遍が一如になる世界は、やはり、み仏の次元なのです。

マイベストプロ」において、当山は、質問へ一般論でしかお答えできません。
 しかし、難問を抱えた方々が、こうした次元でそれを根底から解決される糸口になれればありがたいことであると考えています。


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2010
01.29

チベット子供村

 信徒さんから、NHKテレビが放映した「アジアンスマイルチベット子供村』の祈り」をDVDにしていただいた。
 7歳の時にインドのダラムサラへ亡命し、育てられた恩返しに教師となった青年ノルブの目線で『チベット子供村』の様子を伝えている。

 『チベット子供村』は1960年にチベットの自由を実現する人材を育てることを目的に造られ、現在は幼稚園から高校まで1900人の子供たちと236人の教師が学んでいる。
ダラムサラ全体では約1万人の子供たちがいる)
 子供たちの生活費と教育費は無料、経費は世界中のチベット人や支援者から送られてくる。
 チベット語の授業が中心だが、国際性のある若者を育てるため、英語は必須科目となっている。
 民族のアイデンティティーを教えるため、民族の証として、チベットの手工芸「カデン」を見せたりする。

 チベットから亡命した子供たちはまず、「難民受け入れセンター」に到着する。
 初めはホームシックで泣いても、すぐに子供たち同士が仲良くなり、いつまでも泣いている子はいないという。
 子供たちが描いた故郷の様子は恐ろしく、哀れでもある。
 町中のいたるところに銃を持った中国人が立ち、住民や僧侶はあちこちで脅されている。
 いかに自由がないか、その緊迫感が推し量られる。
 チベットに未来がないと考えた親は、もう、二度と会えないかも知れないと覚悟しつつ、可愛い我が子を危険な旅に出す。
「ダライ・ラマ法王のもとで、教育を受けさせたい」一心が、苛酷な決断をさせる。
 そして、7歳ほどの子供も含め、2週間以上かかるいのちがけの亡命が行われる。

 授業の柱はチベット仏教である。
 まだ小学生ほどの幼い子供も、専門の僧侶が行うような「問答」を行う。
 教師が「時は永遠か?」「空は永遠か?」「写真に写った花は花か?」などと問い、子供は「天気が変わるから空は変化している。変化するものは永遠ではない」などと答えている。
 宗教が見事に排除された学校で教育を受け、刺激的なアニメなどに見入って時を過ごしがちな日本の子供たちとはまったく異なる心の世界が形成されることだろう。
 拝金主義を背景にして異様な経済成長を続ける中国では、宗教への取締が厳しい。
 日本も中国も欲望を解放するのに熱心で、宗教を逼塞(ヒッソク…閉じこめること)させたままであれば、国の未来はどうなることだろう。

 ダラムサラには、子供たちが共同生活する寄宿舎が42棟ある。
 寮母が母代わりとなり、年長の子供が小さな子供の面倒をみている。
 朝食のチャイは、感謝の祈りを捧げない限り食べられない。
 カメラは祈る子供たちの清浄な表情を追うが、父親から「お前はがんばって勉強し、大きくなったらチベットへ帰れ」と言われて送り出されたばかりの子供は、家族の身を案じて顔を出せない。

 学校では、高校生が後輩へ歌や踊りを通じて文化を伝えるために「文化祭」を行う。
 参加する難民二世の高校生は言う。
「私たちには国がないから、他の国の子供が一歩前進する時、二歩も三歩も進まねばならない」
 自分で壊れたリンブー(横笛のようなもの)を修理して「チベットの母を讃える曲」の演奏に挑む男子は言う。
「親と遠く離れて暮らす子供たちの心へ響くようにやります。リンブーはチベット文化の一つなので一生、演奏を続けてゆきたい」
 教師となったノルブは言う。
「ここで生まれてチベットを知らない子供たちと、チベットから逃れてきた子供たちが文化祭を通じて一つになるようにしたい」

 いつの日かチベットへ帰られることを信じ、次の世代へチベットの心を伝えようとする『チベット子供村』の活動は尊厳に満ちている。
 故郷チベットで待つ父母が元気でいるうちに故郷へ帰られるよう、帰るはずのチベットが地上から抹殺されないよう祈りたい。

 最後に、アルピニスト野口健氏のブログを紹介しておきます。
 平成20年3月22日付の「チベット動乱~北京五輪出場への条件~」は、こう締めくくられています。

「チョモランマは私にとっての聖地でもあります。
 中国にとってタブー中のタブーであるチベット問題について発言を繰り返せば二度とチベットに入れなくなるかもしれない。
 すでにその手の忠告がないはずもない。
 ひょっとすると、もう二度とチョモランマに帰れないかもしれない。
 私の故郷が一つ奪われてしまうかもしれない。
 極めてデリケートなテーマだけに正直、発言に躊躇もしたが、しかし、現場を知っている人間は逃げられない。
 そして語らないことは加担する事と同じだ。
 確かに一登山家に出来る事は限られている。
 しかし、私にも何かが出来るはず。
 そうせめて声を上げ続けていきたい」


 実際、これ以降、中国政府は野口健氏へ入山許可を出さず、野口健氏を支えていたスポンサーで降りるところも現れました。
 しかし、野口健氏は臆することなく人権侵害への抗議の声を挙げ続けています。
 まぎれもなく、菩薩です。

「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.28

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 41 ―垢─

 知らぬ間に身体を覆うのが垢です。
 心にも行動にも垢が付着し、人生を苦で染めてしまいがちです。
 すぐに目で確認できなくとも、垢を知っていれば、定期的に風呂へ入るなどして身体を清潔に保ち、社会生活の円滑にも支障を招きません。
 釈尊は四つの垢を指摘し、注意を喚起されました。
 
 1月27日、NHK文化講座で共に学んだのは『法句経(ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。

「誦(ジュ)せざるを言(ゴン)の垢と為し、勤めざるを家の垢と為し、厳(ゴン)ならざるを色(シキ)の垢と為し、放逸なるを事(ジ)の垢と為す」


(経典を読誦しなければ言葉に垢が付き、生活空間を清掃しなければ家に垢が付き、身だしなみを整えなければ身体や服装に垢が付き、気ままであれば生活に垢が付く)

 いつもながら厳しく、的確で、解りやすい指摘です。
 垢は群雲であり、いのちという満月にかかって清浄な光にベールをかけます。
 それを吹き払うかどうかは、自分の意志と行動にかかっています。

 さて、今日も活発な質疑応答がありました。

「すべてが因果応報であるならば、たとえばハンセン病に罹って苦しむ方や、通り魔事件で被害者になった方などは、どういった因縁を持っていると考えれば良いのでしょうか?」
 ハンセン病が癩(ライ)病と称されて怖れられていた頃、その患者さんやご家族や地域の方々が特殊な目で見られ、差別された歴史があります。
 肉体的状態が悲惨なことに加え、因縁についても周囲から不安を持たれ、関わりたくないと蔑視されもしました。
 しかし、研究が進み病気の全体像が解明されつつある現在では、結核菌と同類の抗酸菌が原因とされ、今の日本では、新たに発病したハンセン病そのものによって死に至る例はほとんどありません。
 病気の実態が広く理解され、社会意識が変わるにつれて偏見や差別も薄れてきたのは喜ぶべきことです。

 質問に戻ります。
 仏法を信じる者はどう答えるべきか?
 私見では、釈尊やお大師様が説かれた具体的な因縁譚(タン…話)は、聖者という高い次元から、苦しむ人を救うために有効と判断された方便です。
 よほどの聖者でなければそのレベルまで到達できません。
 つまり、他人様の過去因縁について言及できる資格のある人物はほとんどいないということです。
 経典を読めば読むほど釈尊やお大師様の偉大さに打たれ、我が身の愚かさが深く深く実感されて頭が下がる思いです。
 だから、私はよほどのことがない限り他人様の過去因縁を申し上げません。
 テレビなどで軽々しく飛び交う前世物語などの因縁譚には、人々の心に垢を付け、自省する姿勢や道理によって判断する力を削いでしまうことへの深い憂いを持っています。

 ではどうすべきか?
 やはり、釈尊が説かれた毒矢の例えに学ぶべきではないでしょうか。
 毒矢に当たったならば、いつ、誰が、どこで、どうやって、いかなる目的で自分を狙ったのかなどと詮索する前に、とにかく矢を抜いて手当せなばなりません。
 まずなすべきはそのこと一つであり、すべては健康回復後の仕事です。
 釈尊は、この例えをもって、まず煩悩を直視し、無明を知り、学び実践することによってそれらを克服せよと説かれました。
 煩悩も無明も、知というまな板へ乗せた観念ではありません。
 私たち一人一人が自分自身の内へ抱えている苦の種そのものです。
 私たちのいのちへ、へばりついている垢です。
 私たちは明らかに毒矢で射られており、苦の世界に生きているのがその証拠ではありませんか。

 気づくべきは、私たち全員が、ハンセン病に罹って苦しむ方や、通り魔事件で被害者になった方と同じ構造を生きている存在であり、いつ、自分がそうした方々と同じ状況へ陥っても不思議ではないということです。
 そこを深く考えてみれば、他人様の過去因縁を云々するなどという気持の起こりようはありません。
 そうした傲慢で愚かしい過去因縁話に左右されることもなくなるはずです。
 釈尊やお大師様の説かれた因縁譚は謙虚に学び、驚異的な思考方法や、それを方便とされた深いお慈悲に思い至れば充分ではないでしょうか。

 因縁という観念にとらわれず、謙虚に学び、まっとうに生きましょう。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
01.27

愛の賛歌

 訃報はいつも突然やってくる。
 Aさんがスペインで客死されたという一報が入ったのは早朝だった。
 お勤めの支度をしているところに鳴った電話を急いで取った耳に、聞き覚えのある勁い声が届いた。
「姉が外国で亡くなりました」
 エッと言ったまま、動けなくなった。
 病気を抱え、医者に入院を勧められている身で、飛行場へ向かったのだという。
「今度だけはやめてと強く言ったのですが……」
 Sさんの死をどうにか受け容れようとしているところに今度はAさんの死。
 病魔と闘っておられる方々の顔が次々と思い出され、頽(クズオ)れそうになった。

 ホテルの一室で体調が急変し、そのまま逝ったらしいが、とにかく旅行会社の連絡を待つしかないという。
 ご主人を亡くした時に見ず知らずの当山を選んで送られ、どうにか立ち直りつつあるかに見えたAさんだったが、口から額までをかけて笑う笑顔にはいつも哀しみが重なっており、密かな心配は続いていた。
 ご主人の死とご自身の病気に耐えようと手を出していた酒も、タバコも「やめました」という力強いお便りをいただいてから、まだ半年も経っていない。
 次はご自身が生きる力を回復されれば良いがと祈るような気持でいた。
 才気煥発で賢明なAさんはもうすべてを知っているのではないか、もうすべてを捨てているのではないかという危惧がぬぐい去れなかったからである。

 今回の渡航も当然、覚悟を決めてかかったものだったことだろう。
 吐血したAさんは、苦しみの中でも笑顔になろうとしたのではないかと思えてならない。
 修法すると、Aさんの脳裏に亡きご主人と、絶対の味方だった妹さんと、そして当山が浮かんだように思えてならず、文字どおり胸が締めつけられる。

 訪れたDIYのレジ近くにCDの安売りコーナーがあり、エディット・ピアフの名前が眼に飛び込んできた。
 エディット・ピアフは、どの曲も血を吐くように唄った不滅のシャンソン歌手である。
「ああ、Aさん!」
 迷わず買って車へ急ぎ、かけた。
 冒頭を飾るのは当然「愛の賛歌」である。
 後半で、背後に合唱が流れる。
 ──これはご主人など、Aさんを励ましていた人々の声ではないか。
 涙で視界をぼやけさせつつ帰山する車中で曲は終わった。
 きっぱりと歌い終えた歌声に合わせて伴奏もパタンと終わり、静寂はすぐにやってきた。
 Aさんは「愛の賛歌」で、祈る私へご自身の生涯を示したのではないか。
 生前戒名を介して師弟となった師への礼儀だったのではないかと思えてならない。
 手抜きのできないAさんは死してなお、こうまでされるのかと思うと、また、涙をこらえるのが苦しくなる。

 Aさん、祈りつつ貴方の帰山を待っています。

※岩谷時子氏の訳詞による「愛の賛歌」である。

あなたの燃える手で
私を抱きしめて
ただ二人だけで 生きていたいの
ただ命の限り わたしは愛したい
命の限りに あなたを愛するの

頬と頬よせ 燃える口づけを
交わすよろこび
あなたと二人で 暮らせるものなら
なんにもいらない
なんにもいらない
あなたと二人で 生きていくのよ
私の願いは ただそれだけよ
あなたと二人

固くいだきあい 燃える指に髪を
からませながら いとしみながら
くちづけを交わすの
愛こそ燃える火よ
私を燃やす火 心とかす恋よ



 日本では故越路吹雪が唄って有名だが、岩谷時子氏の訳詞はエディット・ピアフの唄いぶりと少々ちぐはぐな感じがあり、ネットで探したところ、「世界の民謡・童謡」さんのページにぴったりくるものがあった。

空が落ちてこようと 大地が崩れ去ろうと
そんなことはどうでもいいの
貴方が愛してさえくれれば
世の中なんてどうでもいいの
愛で満ちた朝があれば
貴方の手の中に包まれていれば
世の中の問題なんてどうでもいいの
愛しい人 貴方が私を愛してくれるから




「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
01.27

【現代の偉人伝】第91話 ─障害者父母の会役員Aさん─

 長らく交通誘導員をやっておられたAさんと久方ぶりに会った。
 もう70歳を超え、日に焼けた顔に深く刻まれた皺と、心がそっくり視えておられるようなゆったりした眼は、正面に立つ者へ安心感を与える。
 18歳になるネコのご葬儀を行う時、ペット霊園「やすらぎ」のご主人が漏らした言葉を思い出す。
「さすがに、もう、充分、風格がありますねえ」
 法を結ぶ前に眼に入った横顔は、確かに厳粛ささえ感じさせるものだった。
「──今度は人間に生まれるか」
 あり得ないことがチラッと頭に浮かんだほどだった。

 いつものように(と、言っても、言葉を交わすのは、もう2~3年ぶりだと思うが)、招き猫が前足で何かを引き寄るかのごとき前のめりの姿勢で声をかけてくださる。
「住職さん!いつもどうも!」
 公務員だったAさんは、定年後、ずっと交通誘導員だった。
 寒い日も暑い日も道路に立つことを誇りにしておられた。
 抱えた人生の難問は、Aさんの皺を一段と深くした。
 しかし、Aさんはいつも積極的だった。
 難問へ対して、人間に対して。
 倒されるかどうかの勝負から逃げなかった。
 克つか負けるか、二つに一つの勝負を全勝されたかに思える。

 Aさんは交通指導員を卒業した。
 障害を抱えたお子さんの「障害者父母の会」へ、一段と深く関わるようになった。
 そして、驚いたことに、全国レベルの幹部を務めておられ、東奔西走の毎日だという。
 Aさんのものごとへの熱心さを知っている者にとって、果たしている役割の大きさは特段、驚くことではない。
 失礼ながら、私生活の厳しさとどうやってバランスをとるのかと思ったのである。
「それは大変なことですねえ」
 Aさんは、力をこめて言われた。
「子供のおかげで良い仕事をもらいました。
 この仕事は動けなくなるまでやれます。
 腕一本、失くしたからもうできないということはありません。
 生きていればやれるんですよ、住職さん!」

 言葉で返事をすることは不可能だった。
 苦労を積極的に自分の力とする姿勢の驚異。
 これまで、どれだけの「腕一本失って」仕事を失った人々の苦悩に接してこられたことか。
 皺と眼に、微笑みの頬と口元が重なって迫ってきた。
 生き仏となった人の風圧を感じた。
 経典が説くとおり、「風に逆らって」も薫ずる徳の力はお線香の香り以上だ。
 微笑みを返した。

 お互いに「元気でやりましょう」と声をかけ合いながら別れた。
 また、力をいただいた。
 Aさんはまぎれもなく、生き仏である。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
01.26

遺骨収集

 篤信の渡邉拓氏が、太平洋戦争の激戦地・沖縄「真嘉比の丘ハーフムーン)」で遺骨収集作業を行った際の写真を納められました。
 敬意を表しつつ、ご紹介します。

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「戦後」は終わっていません。
 ずうっと戦後です。



「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.26

『四十二章経』第二十章 ─財欲と色欲─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

 1月25日に学んだテーマは、「財欲色欲」です。

「仏の言(ノタマ)わく、『財色(ザイシキ)の人に於けるや、譬(タト)えば小兒の刀を貪りて、刃の蜜を舐むるに、一食(イチジキ)の美に足らずして、然(シカ)も舌を截るの患(ウレイ)有るが如し』」


 釈尊は説かれました。
財欲色欲が人を損なわせるのは、幼い子供が刃物に付いた蜜を嘗めるようなものである。
 ちょっと嘗めてみて甘いことを知ると、それに飽きたらず、すっかり嘗めてしまおうとしているうちに舌を切ってしまうではないか」

 快楽は一時のものであり、発生する苦は長く続きます。
 生きて行くうちにそうした成り行きの苦さは何度も体験しますが、やはり〈蜜の味〉には敵わず、またくり返してしまう。
「わかっちゃいるけどやめられない」のが煩悩の根深さであり、恐ろしさです。

 人は食べてゆけるようになれば、次には、家財道具を求めます。
 生活にゆとりが出てくると性的関心が解放されます。
 この流れは、敗戦後の日本が復興した半世紀を見れば明らかです。
 問題はその次ではないでしょうか。
 
 私たちは、〈舌を切り〉始めています。
 あちこちで、〈微細な毒があるフグを食べ過ぎつつある〉とも言えます。
「まだ大丈夫だろう」は「もうすぐ堕ちる」ことと同義なのに、気づかぬ方々が少なくありません。
 やっかいなことに、危険や不安には暗い魅力が潜んでいるものです。
 誰しもが危険や不安から逃れたいはずなのに、それがカラリと晴れてしまうことを必ずしも望まないような心のはたらきがあったりします。
 こうした時代になると、危険や不安を脱するための手助けをするように見せかけながら、ほんの少しそれを相手へ残しておき、ずうっと飯の種にする器用な人々が活躍するものです。
 そうした人々の餌食にならないための注意点は二つあります。

 一つは、もちろん、癒してくれるはずの〈聖者〉がいかなる人物であるか、よく調べることです。
 自分の好みではなく、道理という物差しでその言動をチェックせねばなりません。
 なぜなら、器用な人は、多くの人々から好まれるようにふるまっているからです。

 一つには、自分の抱えている問題をきちんと見なおすことです。
 ちょっとした会話や、一分幾らの電話をかけてみるだけで手軽で便利に解決し得るものかどうか、よく考えてみましょう。
 いつの世も、求めるものと払う努力のバランスを忘れた「棚ぼた」を願う勘違いにつけ込む人々はなくなりません。
 お大師様が人里離れた高野山を拓かれ、四国八十八霊場の多くが当時は参詣に困難だった峻険の地に造られたのには、理由があります。
 深い苦を抜こうとするならば、その先に待っている平安の大きさに足る努力が当然、必要なのです。
 もちろん、誰でもが険しい山道を踏破できるわけではありません。
 しかし、何か自分でできる限りのことをしよう、自分へ何か日課を課そうといった覚悟はできます。
 その覚悟こそが真の救いを得るための第一歩です。
 子供の病気が早く治るように、あるいは受験に合格するようにとお百度参りをする人々の清らかさに学びたいものです。

 現在の日本は、四苦八苦の「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)」に当たる状態です。
 何でも手に入り、欲が度を超えて解放されすぎました。
 誰しもが、「もっともっと」と甘い蜜を嘗め過ぎつつありました。
 その日本が経済的には曲がり角を曲がりました。
 精神も方向転換をせねばなりません。
「自らを節すること」こそがまっとうに生きるために欠かせないと説かれた釈尊の教えこそが、そのための柱となることでしょう。



「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.26

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (2)

2 第二条 信発願(シンホツガン)

 錫杖経の読み下し、第二番目です。

「清浄な信心をもって三宝供養し、悟りを求める清浄な心を発して三宝供養し、人々を教化する清浄な願いをもって三宝供養せん」


(まっすぐな信心と、悟りを求めてやまない向上心と、人々を救う願いとによって仏法僧を供養しよう)

 魔除けにもなるお経が、第一条では「他のためになろうとする心」、第二条では「三宝供養するにふさわしい清浄な心」から始まるのは象徴的です。

 どんなに良さそうな願いでも、自分が儲けたり有名になったりしようとする「我がため」だけのものでは、み仏へうまく届きません。
 たとえばきちんと生活できるような収入を願うならば、そうして生きながら、人間として何をなしたいのかが明確でなければなりません。
 罹っている病気を治したいのならば、健康を回復してどう生きたいかが、あらかじめ問われると考えるべきでしょう。
「自分のことだけ」という我欲に発しているのでは、そのことがすでに魔ものを呼ぶ因縁となる可能性が高く、せっかく困窮や病気というモヤを抜けるためにアクセルを踏んでいながら、同時にブレーキを踏むのと同じです。

 誰かの何かのためになりたいという姿勢と、三宝供養する清浄な心へこそ、み仏のご加護が降ります。
 もしかして、「貧しくて、日々を食いつなぐので精いっぱい。何もできない」あるいは「自分は高齢だし、自分が生きるので精いっぱい。何もできない」などとお考えの方がおられるかも知れません。
 しかし、そういう方でも、笑顔を伴った「ありがとうございます」という言葉で感謝の心を伝えることはできるはずです。
 笑顔も立派な布施であり、モノがなくとも三宝の供養はいつでも可能です。

 まず、布施と供養を心がけましょう。

 当山の機関誌『法楽』作りなどへたくさんの方々が参加されるのは心強いかぎりです。
 六波羅密(ロッパラミツ)の実践を誓い、真言を唱え、「四十二章経」を読誦してみ仏をご供養し、その内容を学び、奉仕活動という布施行を行うのは教えの実践そのものです。
 当山の錫杖は、ますます高く鮮やかな音で鳴ることでしょう。



「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.25

不問

 石材業者さんのご紹介により、仙台市営泉墓苑で納骨をしました。
 最近、お葬式を終えてから当山に縁を結ばれるというケースが多く、仏教界の混乱を感じます。
 それは、お葬式を行った寺院に納骨や回忌の供養を依頼するのが当然だからです。
 今や、お寺を変え、墓地を変えることは決して珍しくありません。
 むしろ、寺院もようやく「選択」される時代に入ったのかと、納得しています。

 こういった場合、こちらからは「なぜこうなったのか」「どういうお考えなのか」など一切お訊ねしないことにしています。
 事情や考え方や疑問について話す気持があれば話されるでしょうし、話したくないなら何も言わないのがあたりまえで、問いただす筋合いのものではありません。
 
 しかし、ご参列された皆さんの様子で何となく解る部分もあります。
 納骨前に戒名を求め、喜びの涙を流されたご遺族もあれば、年忌法要でみ仏のご加護を実感し、ようやく安心した方もおられます。
 皆さんがこれまで得られなかったものが解るのです。
 こうした体験はすべて自らへの戒めとなります。

 今日は好天に恵まれました。
 静かな墓苑に読経と鐘の音、そしてお線香の煙と香り、ご遺族の祈り───。
 修法が終わっても去りがたい様子の皆さんに安堵し、帰山しました。




「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.25

【現代の偉人伝】第94話 ─伝統を守る市川団十郎氏─

 朝日新聞の1月23日号へ掲載された歌舞伎俳優市川団十郎氏の記事は、短いにもかかわらず、伝統の価値を余すところなく訴えて秀逸だった。

 彼は、民主党筆頭副幹事長高嶋良充氏と向き合い、名高い「事業仕分け」に注文をつけた。
「子どものための優れた舞台芸術体験事業」などの予算が、仕分けによってはじかれそうになっていたからである。
 以下、記事の文章を引用する。

「子供たちが伝統芸術に接する機会を狭めれば、日本の未来の顔を奪うことにもなります」


 人の顔にも、国の顔にも、過去が表れる。
 積み重なったものが、深みや輝きとなって滲み出る。
 6年前に発症した急性前骨髄球性白血病を克服しつつ伝統に生きる彼の顔には、まぎれもなく〈日本〉がある。

「国は武力ではなくならない。相手の国の文化、言語、芸術をなくすことでなくなるんです。ヨーロッパの国々には、国の存亡にかかわるという観点から、『国防省』とほぼ同格の『文化省』や『文化保存省』があります」


 チベットを思う。
 土地を奪われ、宗教を禁じられ、言葉も失われつつあるチベットは、明らかになくなりつつある。
 ダライ・ラマ法王は、亡命者たちへ説く。
「忘れるな。たとえ最後の一人になろうとも、チベットはお前たちと共に生きてあるものだということを」

「将棋にも組み上がった最高の型がある。型には、合理的な理由がある。そこから一歩出ようとするなら、たいへんな工夫をしないといけない」


 確かに、整った将棋の陣形は美しい。
 しかも強さと柔軟さを秘めている。
 大天才たちの叡智が作りあげた型には、犯しがたい崇高ささえある。
 将棋における勝負とは、崩し合いではなかろうか。

 また、彼の言う「合理的」には、鍛錬を続けた人間ならではの確信がある。
 ある歌舞伎役者の話を思い出す。
「きちんと決まった型はとても美しく、不自然な感じはどこにもないけれど、実際は、肉体が最高に頑張っている状態なのです」
 水面を滑る優雅な動きを見せる水鳥が水面下で激しく足を動かしているのと同じである。
 楽で、気ままで、儲かるうまい方法を「合理的」と考える世界とはまったく異なっている。
 伝統の「合理」は尊厳がある。

「歌舞伎で新しいことをするといっても、98%は昔からしていたことと大差がない。結局、400年間、作り込まれてきた古典的な歌舞伎に落ち着いていくのではないか。古典的歌舞伎という狭い枠の中で、宇宙に飛び出すような気概を持たねばならない」


 98%をきちんと行えるようになるだけでも、志すほとんどの人々の生涯は終わることだろう。
 むしろ、ほとんどの人々が、98%をきちんと行おうと努力しつつ行いきれないまま生涯を終えるのかも知れない。
 これは、伝授によって仏法を行ずる行者としての感覚であり、彼の指摘にはまったく同感である。
 練り上げ、伝えられた修法は、「これで良い」と行き着くことを許さない。
 私のごとき凡人には底まで潜りきれない深淵である。
 それをつかみ切った聖者にだけ、残りの2%が見えてくるのだろう。
 彼の「宇宙に飛び出すような気概を持たねばならない」は、ほとんど飛び出し得ない世界に住む人の言葉として、あまりにも重い。

「歌舞伎がよければ、着物も和楽器もよくなる。そうした文化の連鎖を断ち切らせないぞ、と自分に言い聞かせています。大げさに言えば、それが日本のためになると信じて」


 伝統仏教が態勢を立て直せば、日本人の倫理観もよみがえる。
「おかげさま」「おたがいさま」を呼吸のように口から出させる心の核を枯らさせないぞ、と自分に言い聞かせつつ励みたい。



「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.24

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について(その1)

 当山のホームページにある「お経を聞きたい方へ」は、たくさんの方々にお聞きいただいている様子で、とてもありがたいことです。
 お経は、文字を目で追うだけでなく、自分の言葉として声に出し、自分の、あるいは誰かの声を耳から聞くことが血肉にする方法として欠かせません。
 血肉は肉体です。
 お経は、頭へ入るだけでなく、肉体化してこそ導きとなります。
「経典を生きる」とは、文字どおり全身全霊を挙げてお経と一体になることであり、身体感覚の動員は不可欠です。
 そうした意味で、当山の拙い読誦がどなたかの役にたっているならば、とても嬉しいことです。

 とは言え、「何が何だか、からきし解らない」では、血肉化するのに長い時間を要しかねません。
 ある程度理解した上で読んだり聴いたりしていれば、吸収はきっと早まることでしょう。
 そこで、人気の割には行者による解説書が少ないと思われる「錫杖(シャクジョウ)経」について9回にわたり、簡単に記すことにしました。

 このお経が「九条錫杖」とも呼ばれているのは9条からなっていることに由来しているので、1条づつ読み下し文にしてみます。

1 第一条 平等施会(セエ)

「手に錫杖を執(ト)りて、まさに衆生を願い、大施会(ダイセエ)を設け、如実の道を示し、三宝供養すべし。
 大施会(ダイセエ)を設け、如実の道を示し、三宝供養せん」

(手に錫杖を持ち、衆生のためを願って分けへだてなく施し、悟りへの道を示して仏法僧を供養せねばならない。
 衆生のためを願って分けへだてなく施し、悟りへの道を示して仏法僧を供養しよう)

 山伏などが持って歩くこともある錫杖は、カシャカシャと鳴らします。
 それは、危害を加えようとする魔ものやケモノや虫などへの警告でもあり、また、「ごめんください」という挨拶にも用いられます。
 ひいては、み仏方が悟りの瞑想から立ち上がってお慈悲をくださるようにと願うこととなり、私たち凡夫が迷いの眠りから覚めるようにと驚愕させる方法ともなりました。

 錫杖を手にする行者がまずなすべきことは、必要なものを求めている人々へ施すことです。
 施しを布施といい、法施(ホウセ)と財施(ザイセ)があります。
 法施とは、迷って行くべき道が見えない人へ教えを説くことです。
 財施とは、喉が渇いていれば水を、お腹がすいていれば食べ物をといったように、モノを施すことです。
 たった一つの施しでも、それが万人への救いとなるようにと願い、差別なく行うのを大施会といいます。

 施しの中で最高のものは悟りへ導くことです。
 なぜなら、悟りは究極の救いだからです。
 そのためには、救いの力があるみ仏を供養し、その教えと法力を供養し、仏法を守ろうとする行者や支える人々を供養せねばなりません。

 供養とは、花や線香を捧げる形だけを指すのではありません。
 雨風に耐えて咲く花のような忍辱(ニンニク…深い忍耐)、あるいは自分を燃やし尽くして姿がなくなった後に佳い香りを残す線香のような精進を誓い、実践せねば空虚です。
 こうした誓いと実践の徳をたむけてこそ、真の供養です。
 私たちがみ仏のお導きによってすなおに霊性を高め、仏性をはたらかせて生きることが最高の供養であり、真の供養となることを確認しましょう。

錫杖経」の最初に供養の誓いがあるのは、迷いを離れ悟りへ近づくための六波羅密(ロッパラミツ…悟りへ導く6つの徳)行の最初に布施行があることと一致しています。
 この経典を聴き、唱える人は、自己中心を離れ、縁に応じて、自分のできる布施を実践しましょう。
 さもないと、せっかくの経典との縁が生きません。
 そうなっては残念です。
 経典は〈導く者〉として、目にし、口にする私たちへ問いかけています。
「さあ、どうしますか?」



「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
01.23

寺子屋『法楽舘』開講 ─第三回の予定(その2)─

 2月13日の寺子屋「法楽舘」へお招きし、ブータンに関するお話をお聞きするお二人のデータをいただきました。
 なお、紹介文は、高橋直子さんからいただいたものをそのまま掲載しています。

○プブ テンジン(PHUB TENZIN)さん
プブさん

 1970年11月ブータン国ブムタン県生まれ。
 ブータンでは建設省住宅局にて現場監督。
 1997年に結婚のため来日。さまざまなアルバイトを経て、現在㈱ニットーホーム(栃木県)にて輸入住宅の現場監督を務める。
 単身赴任歴もうすぐ6年。
 1娘の父。
 6人兄弟(4男2女)の下から2番目。
 在日のブータン人としては、2番目に長くなっている。
 日本の食生活にもすっかりなれ、来日以降、毎年2キロ程度の増量。
 納豆を食する、順応性の高い外国人として通っている。

○高橋直子さん
直子さん3

 1965年6月 盛岡生まれ。
 宮城県第二女子高等学校卒。東京理科大学卒。
 神奈川大学大学院修了。
 設計事務所勤務の後、海外青年協力隊にてブータンへ。
 2年半の活動。
 その後、寺院サービスにて修行。
 現在、伝統建築研究所代表。
 1娘の母。
(法楽寺の講堂を設計していただきました。
 何度となく図面の修正をかさね、土壇場では、とうとう確認申請書の再提出までしながら、「より、思いを表現できるよう」協力してくださいました)

りらく」さんから、とてもわかりやすい地図をいただきました。感謝です。
法楽寺様地図データ22



「のうまくさんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2010
01.23

極楽を創る方法 (その2)

 さて、梅原猛氏は、仏教道徳を中心にして儒教・神道・キリスト教などを総合した新しい道徳体系の樹立が必要不可欠と論じておられますが、私は同意できません。
 行者として得た確信の一つは、絶対の世界へ入った聖者が残し、今に伝えられた「法」というものは完成体だということです。
 何よりも大切なのは〈そのままに行ずること〉であって、聖者ならざる凡夫が付け加えたり省略したりするなど思いもよりません。
 私たちがこの世に極楽を創ろうとするならば、方法はただ一つ、縁の仏神の前で心から謙虚になりその教えを実践し、他の仏神を信ずる人々の持つ真心をも大切にすることです。
 もし、み仏を信ずるのなら、己れの愚かさを直視し、み仏のみ前へありのままの己れを投げ出し、説かれた行を実践しましょう。
 己れを懸けて十善戒を守りましょう。
 そうして己れを清めれば、他の宗教でどう説いているかなど気にしなくとも充分に〈道徳的な生き方〉ができます。

 肝心なのは、国民に教える道徳を創るよりも、一人一人が信じる心を取りもどすことではないでしょうか。
 その方法は簡単です。
 気づいた人が自分から実践すること。
 その姿をもって結果的に周囲へ感化を及ぼすことです。
 たった今、氏と同じような道徳崩壊の危機感を持った人々全員が心から縁のある仏神の前ですなおな気持になるならば、そして、心からお互いの真心を認め合えば、たちどころに(危機)など雲散霧消してしまうに違いありません。



「のうまくさんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2010
01.22

死後の旅 (その8 普賢菩薩)

 我執(ガシュウ)という抜きがたい煩悩(ボンノウ)が、である自分と周囲に広がる世界とを固定的にとらえさせている。
 常に自分を第一とし、損得や快不快など自分中心の物差しで周囲を計り、いつも「得よう」「得よう」と躍起になっている。
 その様子は、目も耳も持たないアメーバが、触った得物を食物として取りこもうと懸命なのと変わらない。
 お互いが、自分こそまっ先に得ようと望んでいるのだから、世界は争いと不満に満ちてしまう。
 観音菩薩はそうした苦を克服するために修行し、悟りを開いた。
 悟りの中心にあるのは(クウ)である。
 観音菩薩は苦の次元からの次元へ昇るための扉を開く真言を示した。
「ぎゃーてー ぎゃーてー はーらーぎゃーてー はらそうぎゃーてー ぼうじーそわか」

 自分のいのちはたった今しかないのに、時の永遠を感ずることができる。
 自分の身体はここにありながら、宇宙の無限を観ずることができる。
 真言を唱え、悟れば、いつ、どこにでもいられるのだ。
 龍太の口から、習い覚えた真言がゆるゆると流れ出る。

 真言と一体になった龍太の耳へ、どこからか、読経の声が聞こえてきた。
 H寺で聴いた声だ。
 耳を澄ます。

「あらゆる我と同行せん者と
 一切の処において同じく集会(シュウエ)し」


 普賢菩薩様は、どこででも、一緒にいたい者と親しくお会いくださると約束された。
 それは、いつでも自分が普賢菩薩様のおられるところへ行けるということでもあるのだ。
 である本来の自分へと次元を上げれば、祈った瞬間、普賢菩薩様の御許にいられるはずだ。

 声は続いている。

「極悪なる五無間(ムケン)も
 この普賢の大願王を誦せば
 一念に速疾(ソクシツ)に皆、銷滅(ショウメツ)せん」


 地獄行きのいかなる悪業を積んだ者も、普賢菩薩様へおすがりすれば、ただちにその因縁から解脱させてくださるという。
 修行してを悟れば普賢菩薩様に救われる……。
 ああ、観音菩薩様、普賢菩薩様。
 
 普賢菩薩の「華厳経」は続いている──。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来(胎蔵界)様の真言です。
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2010
01.21

2月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

冬将軍大手を振って抜けゆけり


冬将軍」は厳しい寒さを伴った冬の異称だが、ただ寒いだけでなく、天地を凍てつかせ、いのちを滅ぼしてしまう恐ろしさを含んでいる。
「抜け」るには、来て去ったという意味に加えて、雪を連れた突風が屋根を揺るがしながらゴーッと吹くイメージもある。

しきたりは年毎うすれ去年(コゾ)今年


 しきたりは仕来り・為来りと書く。時代を超えてずうっと続けてきた行為だ。
 おりおりの飾り付けや料理を心がけていても、独りでいるとだんだん億劫になる。
 世間でも年々やらなくなってきているという風潮もまた「今年はこれでいいよ」と背中を押してしまう。

葛湯(クズユ)吹き薬飲む事忘れけり


 熱くてほの甘い葛湯をふうふう吹きながらいただくと、とても満足で、一仕事終えた気分になる。
 ホッと気が抜ける。
 そして、つい、薬を飲まないでしまう。
 ここには、飲み忘れへの不安を忘れさせてくれるほどの幸せがある。
 他の〈葛湯〉も沢山お持ちなのだろう。

何するとなく短日を口ぐせに


短日」は日の短い期間で、冬の季語である。
 冬はなかなか夜が明けず、あっという間に夕暮れがやってきて活動的な気分になれる時間が短い。
 しかも寒いと、どうしても身体の動きが小さくなってしまう。
 今日はこれをやってしまうぞと決めない一日は、すぐに去る。

冬寒し犬にもオーバー着せてをり


 今や、衣をまとった犬の散歩は珍しくない。
 それも決まって、とても美しいお衣が着せられている。
 古い作務衣姿のこちらが恥ずかしくなりそうだ。
 着飾った犬を抱いて散歩している方もおられる。
 高そうなコートだなあなどと、余計な思考がはたらくこともある。

一人居に小さく添えし鏡餅


 鏡餅の由来は定かでないが、重ねた餅へ霊力が降りると信じられ、古くは鎧甲の前、あるいは鏡台の前にも飾られたという。
 子供の頃から見慣れているせいか、どこで目にする鏡餅であれ、その向こうには仏神の異次元世界が感じられる。
 作者も必ず祀るに違いない。

雪嶺の蔵王連峰朝日初(ソ)む


「朝日初む」は、初日の出をいう。
 正月には「書き初め」「出初め」などが行われる。
「初」は衣+刀(ハサミの意味)であり、ハサミで布を切って産着を作ることを指した文字である。
「初(ソ)める」には奥ゆかしさを感じる。
 漢字の文化をありがたいと思う。

まだ眠る街に届きし初明かり


 大晦日には夜更かしをする人が多いことだろう。
 初日の出が迫っても未だ街は深い眠りの気配に覆われている。
 そんな黒々としたビルや家々へ鮮やかな橙色の曙光(ショウコウ)が射す。
 曙光は苦しみの淵から見える小さな希望の光でもある。雄大な視点である。

朝寝して少し淋しき元日


 作者は、御来迎へ手を合わせようとしていたけれど、朝寝坊で失敗したから淋しいのか。
 それとも、一緒に祝う家族がいない独り居の淋しさから、エイッと起きる力が出なかったのか。
 それとも、気が向くままの朝寝坊と、起きてからの淋しさを対比させたのか……。

見事さにぼうっと佇(タ)てり冬落暉(ラッキ)


 落暉は入り日である。
 乾燥した冬の夕暮は、一緒に輝く雲を従えた太陽が没する様子も、残光に染まる赤紫色の雲々も、そして僅かな光を背後から受けた家々などのシルエットも、見飽きさせることがない。
 寒さを忘れて佇んだままになってしまうのも当然ではある。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来(胎蔵界)様の真言です。
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2010
01.21

死後の旅 (その7 空の2)

 思考の回転が始まる。
 (シキ)とは、知覚の対象となる形あるものや、音や、香りや、味や、触って確かめられるものや、思い浮かぶものなどの全てだ。
 それらの目や耳でとらえられる具体的なものたちに囲まれ、〈反応する存在〉として、自分はここにいる。
 だから、とは、自分を自分たらしめているもの、自分を存在させてくれているものの全てである。
 もしも、見えるものも、聞こえるものも、触れるものも、思い浮かべるものもなければ、自分は一体、どこにどういうものとして存在しているのだろう。
 考えるだに、ゾッとする。

 それが(クウ)と本来、同じであるとはいかなる意味か。

 固定的な本質を持たず、解放された状態をと言うはずだ。
 それなら──、いわば自分がここにいることを保証してくれるはずのが、カスミやモヤのように不安定で不確定で不確実でしかないならば、自分はどうなるのだろう。
 融けてしまうではないか。
 しかも、恐ろしいことに、般若心経は、「(ジュ)・(ソウ)・(ギョウ)・(シキ)もまた同じことである」と説いている。
 周囲に広がる「」だけでなく、それを感覚的にけ取る「」も、さらにイメージとしてつかむ「」も、整理する「」も、言葉に置き換えて意味を知る「」も皆、であるならば、自分はもはやどこにもいないのと同じではないか!

 周囲が真っ白な雲に囲まれていても、自分がここにいることだけは確かだと信じていた。
 しかし、釈尊に導かれ、お大師様の声に教えられて思いをこらしてみると、どんどん、自分がいなくなってしまう。
 自分はいるのかいないのか………。

 龍太は再び、瞼の裏側に広がる光へと意を解放した。

 やがて、時は来た。
 ──待てよ!
 ──そうか………!
 自分がここでこうしていると思っているのに、実体は流砂のようにとらえどころがないのならば、〈ここ〉、〈こうして〉は、自分で自分を勝手に限定している思考に過ぎない。
 さっき、自分がどこにもいなくなる恐怖を感じた。
 しかし、〈ここ〉、〈こうして〉が幻であると知ってもなお、自分はいる。
 ならば──。
 自分は〈いつ、どこにでも〉いられるのではないか!



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来(胎蔵界)様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.21

極楽を創る方法 (その1)

 NHK講座「生活と仏法」の終了後、受講生の方から新聞の切り抜きをいただきました。
 梅原猛氏の「民主主義道徳の創造」です。
 その中で、氏は

「不殺の戒は、仏教の方がキリスト教のもとをなしたユダヤ教及びイスラム教よりはるかに厳しい。
 ユダヤ教及びイスラム教においては、殺していけないのは人間にかぎられ、しかも同じ神を信じる人間のみである。
 他の神を信じる人間を殺してはいけないとは旧約聖書にもコーランにも書かれていない」


と指摘しておられますが、そのとおりです。

 私たちは、誰でもが〈つかの間の生〉を生きている者であり、しかも、環境や人類を含めたこの世のすべての〈おかげ〉で生きている奇跡的存在なのです。
 この真理をしっかり観た人は、人々をいたわらずにいられましょうか、人にも木にも虫にも雲にも感謝せずにいられましょうか。
 
 仏教における不殺生戒の深意は、「殺すなかれの戒」を守り行ずることによって「殺せない」人間になること、つまり、み仏になることです。
 また、この戒を含む十善戒には罰則規定はありません。
 無益な殺生を行う人は、因果応報の理の当然として自分の身に罪の報いを受けるからです。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来(胎蔵界)様の真言です。
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2010
01.21

死後の旅 (その6 空の1)

 ──(クウ)とは何か。
 四方八方を白雲に囲まれ上下すらあいまいになりそうな意識の中で、思案する耳の奥からお経が流れ出した。

「かんじーざいぼーさーぎょうじんはんにゃーはーらーみーたーじー(観自在菩薩行深般若波羅蜜多時)」


 とっくに亡くなっている祖母の声だ。

 子供の頃、小さくなった祖母は、龍太を呼んでは並んで仏壇の前に座り、いつも同じ調子で般若心経を唱えていた。
 「門前の小僧習わぬ経を読む」の成り行きで、龍太はいつしか、般若心経が口をついて出るようになっていた。
 もちろん、文字にすらすらと書けるるわけでなく、意味もあまり解らない。
 祖母も、内容についてはほとんど知らなかったのではないか。
 ただ「ありがたいお経だよ」としか言わなかったが、背を丸め合掌してお経を唱えている時の祖母は岩のように感じられた。

 龍太の頭で紡がれる経文が声に重なる。

「しきふーいーくう くうふーいーしき(色不異 不異色)しきそくぜーくう くうそくぜーしき(色即是空 即是色)」


 ──そうだ。ここにがあった……。
 ある本は「こだわるな」と書き、ある本は「無常である」と書いてあったことをチラリと思い出したが、あぶくのように、すぐ消えた。
 知識は何の役にも立たない。
 ──今こそ修行せねばならない。
 龍太はH寺で習い覚えた月輪観(ガチリンカン)へ入ろうとした。
 その瞬間、龍太は群青色の空を明々と照らす巨大な満月を前にし、半跏座(ハンカザ)で座っていた。
 満月は胸へ入り、徐々に宇宙へと広がる。

 龍太は皎々たる光のみが満ちる世界にいた。

 どれだけ経ったろうか。
 あの声がした。

「色空(シキクウ)本(モト)より同なり」


 その声は低く、しかし明瞭に天空へ響き渡った。



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2010
01.20

平成22年2月の運勢

 2010年2月(2月4日から3月5日までの小寒大寒)の運勢について記します。

1 今月は、や名誉について考えさせられるできごとが起こりやすく、自分の内面と、身にまとうものとをきちんとするように心がけましょう。
 人間が社会的生きものである厳粛な事実を直視しましょう。
 他から生かされている存在としては花や鳥や獣と同じですが、言葉によって社会を考え、天下を考え、宇宙を考えるのは人間だけです。
 だからこそ身だしなみを整え、名誉を重んじます。
 犬猫には自分のためにする毛繕いはあってもの観念はありません。
 私たちは自分に対してずかしくないか、そして世間様へ対してずかしくないか、いつも自省しながら生きてこそ、まっとうな人生を送られます。

2 儀礼のありようを問うできごとが起こりやすくなります。
 根拠のあいまいな儀礼もたくさんあり、普段何気なく行っている行動を立ち止まって考えてみると、「どうしてこうなんだろう」と疑問に思わざるを得ないものも少なくありません。
 そうした場合、お勧めなのは信頼できるプロに訊ねることです。
 疑問が生じた時は精神的にステップアップできる貴重なチャンスです。
「こうすることになっているんだから」といった思考停止や、「やってもやらなくても大差ないようだから止めておこう」といった投げやりな姿勢や、安易な姿勢で通り過ぎるのは、もったいないことです。
 大切に伝えられている儀礼には精神の根幹に関わるようなものや、文化の底を支えているようなものがあります。
 こうした混沌とした時代であればこそ、感性に照らし、道理で判断し、価値ある儀礼を積極的に生かすべきです。
 矮小な自分と悠久の歴史とを対比させる謙虚さを失わないようにしたいものです。

3 交流や交際を滞らせ、信頼にヒビを入れるような妨害や邪魔が発生しやすくなります。
 情報化社会になり、膨大な知識を得られるようになった反面、
 ふとしたきっかけで不測の情報が流され、窮地に陥る危険性もあります。
 噂話から始まるネットや学校や町内会でのイジメや、企業内あるいは企業間での謀略、また、痴漢行為でのえん罪など、私たちの身の回りには意図して陥れられ、あるいは意図せずして陥れられる落とし穴が無数にあることを忘れないようにしたいものです。
 いつも「自分だけが高みの見物」を楽しむ観客でいられるわけではありません。
 誰しもが、いつ川に投げ入れられ、なおかつ石を投げつけられるかわからない不安定な存在であるという認識を持つのは、こうした時代の〈たしなみ〉とも言えましょう。 なぜなら、そうした視点を持てば、つまらぬ噂話をせず、噂話に乗せられず、非人間的な謀略に荷担せず、陥れられた不幸な人へ石を投げず、沸き立つ情報の裏にひっそりと隠されているかも知れない真実を自分の眼で確かめる冷静さや勇気を失わないで済むからです。

4 ぴったり、しっくりといった感覚を求めて報われます。
 ある作家は「美は乱調にあり」という小説を書きましたが、乱調は、一つの物語にまとめられてこそ、持てる力を読者へ知らしめることができました。
 題材がいかに乱れていても、小説として全体の調和があればこそ芸術たり得るのです。
 ピカソやダリの画も、人物やモノの「ずれ」や「崩れ」に埋め尽くされていながら、全体的に眺めると一枚の作品として見事な調和がとれています。
 古来、「割れ鍋に綴(ト)じ蓋」といいます。
 壊れた鍋であっても、それ用にうまく修繕したフタをセットすればぴったり合って使いものになります。
 同じように、この世のどこかに、自分にぴったりと合う人がいるはずです。
 また、この格言は、共通するところを持った同志はしっくりやれるものであることも教えています。
 
 み仏のご加護を祈っています。

 今月も、人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人は内容・実質を尊び、目下と力を合わせて成功します。
 不精進の人は天狗になり、分を超えた行為で予期せぬ妨害を招き、失敗しがちです。
持戒行と運勢]塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は節制が目上から評価され、順調です。
 不精進の人は目下へ我を張る一方で、安易に目上の言うがままになり利用されがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は志が堅固でありながら人と温和に接し、人格識見が認められます。
 不精進の人は志操を固めないまま熱心に虚礼へ走り、立場を失ったりしがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は予期せぬ事態に備え、争いを避け、無事安全です。
 不精進の人は猜疑心が強い割に安全面で怠り、不意のできごとにやられがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は樹木を育てるような根気と質素篤実さで力を蓄え発展します。
 不精進の人は必要な知識などの準備不足で諸事滞りがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は外見やモノよりも精神的な価値へ意識を向け、満足が得られます。
 不精進の人は華やかさを求める気持が葛藤や不満を招きがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.19

罪と罰 (その3)

4 恥知らずになれば、犯した罪によって確実に自他を苦しめる災厄がもたらされます。

 恥じる心を慚愧(ザンギ)といいます。
 み仏は、「恥知らずは人間ではない」と説かれました。

「慚は自ら罪を作らず、愧は他へ教えて為さしめず。
 慚は内に自ら羞恥す、愧は発露(ホツロ)して人に向かう。
 慚は人に恥じ、愧は天に恥ず。
 これを慚愧と名づく。
 慚愧無き者は名づけて人と為さず、畜生と為す」

 慚愧があって初めて人間であり、それがなければ畜生でしかないというのですから大変です。
 
畜生とは、言葉によって善悪を考えられない存在です。
 道理を考えられず、未来を志向できない蛾は自ら火へ入って「飛んで火に入る夏の虫」となり、魚は釣り人の獲物となります。
畜生はいつも、飢えや乾きの恐怖と隣り合わせです。
 常に空腹を満たすことに追われ、創造の喜びや情緒の感激を知りません。
畜生はいつも対人間関係において使役される立場です。
 隷属が宿命となれば、希望はありません。
畜生はいつも弱肉強食の原理にあり、安心はありません。
 私たちは、常に誰かからいのちを狙われている日々に耐えられましょうか。

 こうなっては困ります。
 さて、やってしまった悪行が悪果をもたらさないで済むような努力「慚愧」を考えてみましょう。

○「慚は自ら罪を作らず、愧は他へ教えて為さしめず」
 犯した罪の重大さを認識し、これから先、自分が同じように罪作りな行為をくり返さないだけでなく、他の人も悪しき行為へ走らないように努力をすることです。
 たとえば、思慮不足で誰かを傷つける言葉を吐いてしまったならば、反省するだけでなく、失敗談を話すことなどによって、他の人も同じ失敗をしないようし向けることがそうです。
○「慚は内に自ら羞恥す、愧は発露して人に向かう」
 恥じる意識は自分自身の良心へ対して起こり、他人様の視線へ対して起こります。
 当山が五欲の一つである名誉欲を頭から否定しないのは、ここに理由があります。
 名誉そのものを目的として求め、名誉を看板として高慢心を満足させるのは愚かしいことですが、他人様からどう見えるかという意味で自分をしっかり保つ姿勢は、まっとうに生きる上で欠かせないものです。
 名誉を得た人生の達人は往々にして名誉を誇らず、名誉を軽んずる人は往々にして恥知らずな生き方をするものです。
 名誉欲が五欲の一つとして注意されるのは、それが高慢心を育てかねないからであって、名誉自体は決して無意味なものでなく、むしろ、人間の背骨をまっすぐに保たせる大切な観念であることを忘れないようにしましょう。
○「慚は人に恥じ、愧は天に恥ず」
 恥じる心は、自他・人間社会へ対して発せられるだけでなく、仏神へ対しても同じように生じます。
 この点については、中国に有名な故事があります。
 人格識見共に抜きんでて高級官僚となった楊震の元へ、取り立ててもらった王密が訪ねてきて、お金を渡そうとしました。
 楊震は断りましたが、王密は「ここには二人しかおらず、誰にも知られません」と言い、どうしても受け取らせようとします。
 その時、楊震は有名な言葉を発しました。
天知る、地知る、子知る、我知る」
 まず、天が知っている、地も知っている、君が知っている、私だって知っているではないかと諭したのです。
 天地万物として現れている〈大いなるもの〉への畏敬の念が楊震を大人物たらしめたことを忘れないようにしましょう。

 恥知らずになることを恥と思い、やらかした失敗がこれからの糧となるよう、しっかりやろうではありませんか。 



「おん あみりたていせい からうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
01.18

罪と罰  (その2)

3 罪を喜べば良心の明かりが限りなく細くなり、冥界行きとなります。

 罪を喜ぶのは、犯した罪よりも深い罪を犯すことです。
 もしもカッとなって誰かを殴った時、苦痛に歪む相手の顔を見て喜んだならば、その魂は果てしなく救いから遠ざかります。
 殴った直後には、興奮・驚愕・後悔・恐怖・不安など、さまざまな心の動きが生じます。
 時には爽快感も生まれましょう。
 もしかすると、松の廊下で吉良上野介へ斬りつけた浅野内匠頭にも「思いをぶつけた」という微かなカタルシスがあったのでしょうか。
 心のモヤモヤを吐き出したいけれども自然に、あるいは穏やかに、あるいはストレートにそれができない場合、強烈な行動を引き起こす場合があります。
 溜まりすぎたマグマは叡智によって冷やされない限り、噴出するしかエネルギーを解消する方法がなくなる場合があるのです。

 かつて、尾崎豊は「15の夜」で唄いました。

「盜んだバイクで走り出す
 行き先も解らぬまま
 暗い夜の帳の中へ
 誰にも縛られたくないと逃げこんだこの夜に
 自由になれた氣がした15の夜」

 大人たちが眉をひそめる一方で大勢の若者たちは熱狂し、尾崎豊を圧倒的に支持しましたが、ファンが次々にバイクを盗んだわけではありません。
 むしろ、聴き、唄い、叫ぶことによって若者たちが心のマグマを解き放ったからこそ、尾崎豊はいまだに伝説の人たり得ているのでしょう。
 若者たちはいつの世も、歌とスポーツに夢中です。
 健全なカタルシスが可能な社会は健全です。

 横道へそれました。
 やってはいけないことをやってしまえば、当人は必ずそれに気づきます。
 問題は〈その後〉です。
 悔い改めなければ、悪行は恐ろしい実を結ぶ種である悪業となり、毒の実である悪果を招きますが、悪行を悔い改めないだけでなく喜ぶならば、悪果のもたらす害毒の影響は、はかり知れません。

 ベトナム戦争からの帰還兵が語る体験談に接し、最も恐ろしく、最も兵士の心を蝕んでいると感じた心の傾向は、「殺戮の快感」でした。
 やっと助かったいのちを引っさげて再び戦場へ赴く職業軍人たちの中には、高額の報酬や名誉を求めるだけでなく、麻薬のように取り憑いた〈その行為〉に惹かれている人が少なくないという話ほど戦慄を感じさせたものはありませんでした。
 また、良心の声に従って戦場から離れたものの、こうした心の傾向を是正できず、家庭や社会から疎外されまっとうな日常生活を回復できない人々の姿は悲惨です。
 そして、貧しい若者たちをまっ先に危険な最前線へ送り、殺人という罪を犯させるだけでなく、染みついた心の傾向に一生涯苦しむ人々を作ってしまう現代文明の罪科を深く考えさせられました。

 やってしまったならば、続いて動く良心の声へすなおに従い、もしも冥界へ導く心の傾向が生じたならば必ず克服しましょう。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
01.18

罪と罰  (その1)

 私たちは、意図して他人を傷つけ、あるいは知らぬ間に他人を傷つけます。
 前者は悪心により、後者は愚かさによります。
 たとえば嫌いな人を貶めるならば前者であり、障害者の話しぶりを揶揄するならば後者です。

 さて、私たち凡夫のこうした悪しき行いは悪業(アクゴウ)を作りますが、それらが悪果をもたらすものとして定まるには4つの条件があります。 

1 罪を悔やまないこと
2 罪に耽り、正さないこと
3 罪を喜ぶこと
4 恥を知らないこと


1 懺悔がなければ、救いはありません。

 み仏の救いがあるのは、私たちが凡夫であるからであり、凡夫であることそのものを卑下し萎縮する必要はありません。
 問題は、犯してしまった罪へ真摯に向き合い、「何ということをしてしまったのだろう」と深く悔い、懺悔するかどうかです。
 懺悔する者を、み仏は決して見放しません。
 必ず救いの手を差しのべてくださいます。
 だからこそ、私たちは祈りの最初に懺悔します。
「無始よりこのかた 貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて 身と心と口とにつくるところの諸々の罪科(ツミトガ)を みな悉く懺悔(サンゲ)したてまつる」
 懺悔は救いの扉を開けるカギです。

2 罪に溺れれば、より深い闇へ堕ちます。

 悪業によって自他へ災厄が及ばないようにするためには、改める必要があります。
 時間は不可逆であって犯した行為は消せませんが、それが悪しき結果に結びつけないための方法はあります。
 悪しき行為が「因」であるならば、それをはたらかせないようにするものは「縁」だからです。
 たとえば植物の種があっても、温度や光や水や養分がなければ発芽せず成長しません。
 同じように、悪しき行為を悔い改めて再び犯さないと強く決心し、生き方を変えれば、悪業善行というコンクリートで固められてしまい、悪しき結果へと展開できません。
 釈尊はそれを約束しておられます。
「もし悪しき行為を行ってしまっても、悔い改めて二度とくり返さないならば、世間を照らす灯火のような人物にすらなれるのである」



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
01.18

例祭だより(1月の例祭)

 今年初めての例祭は3日でしたのでお正月の修正会と一緒の修法でした。

 三が日は一日午前午後と二回、合計六回護摩を焚いての修法でしたが、ほんとにたくさんの方々がご参詣に来られました。嬉しい限りです。
 一番はやはり!元日の午後です。気がつけば広い講堂はいっぱいに!^^☆
 元日は大晦日から雪が降って真っ白で清浄な空気でした。寒いので高窓から護摩の煙は順調に抜けていってくれてほんとに煙くなかったのです。

 三が日は特製?!甘茶(風邪に効くとされる黒糖生姜紅茶ですv)をお飲みいただきましたが、なかなかご好評でありがたかったです。(でも「普通のお茶がいいなぁ~」と思われる方もいらしたと思いますが・・・笑)

 そして・・・

 16日は第二例祭が行われました。
 ここのところ寒さが続いていて、お寺もずっと雪景色です。
 例祭当日もすごく寒い日でしたがお日様が照ってくれたので助かりました。

 法楽寺の護持会運営に多大なご尽力をされていたSさんが急逝され、ショックと悲しみで胸がいっぱいの状態ではありましたが、Sさんに近しい方々のご参詣もあって支えられ、いつものように護摩の炎も勢いよく燃え上がりました。

 この冬一番の寒い日でしたが、例祭中の堂内は窓から陽が差しておだやかであたたかい雰囲気でした。皆さんでSさんのまだ白木の位牌に手を合わせましたが、終始Sさんが一緒にいて下さりあたたかく見守って応援してくださっているような感じがありました。

 仏様になられたSさん・・・
 生前から菩薩様でした。

 お寺で写経をしている理趣経百字偈にこう記してあります。
 住職から聞きしました。
 菩薩とは、迷いの岸から悟りの岸へ渡る船の船頭さんで、船頭さんは決して悟りの岸で降りず、何度でも迷いの岸へ引き返して私たちを助けてくれるそうです。

 きっと菩薩だった方は皆さんいつもこの世の私たちを護って下さっているんだなぁと思いました。

 今年も幸せなこと、辛いこと、たくさんあると思いますが、菩薩になるべく助け合いながら☆共に生きていきましょう♪

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/から転載、加工させていただきました。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
01.17

なりきりほりほ共和国

 信徒Sさんの投稿です。
 最近、せっかく描いた作品が保存したつもりなのに消えていたりするそうです。
 忍辱と精進が試されているのかも知れませんね。

narikiri.jpg



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
01.17

第二十二回 映画「チベット チベット」を観る会

 おかげさまにて、今年最初の映画「チベット チベット」を観る会が終わりました。
 たびたび中国へ出張する方が来場され、中国の現状についてマスコミに載らない情報を伝えられました。
 予想していたこととはいえ、交通事故や殺人事件が頻繁に起こっており、「都市部や保養地で生活する特権階級にとっては天国で、地方の民衆にとっては地獄です」との指摘には黙ってしまうしかありませんでした。

 映画にとても印象的なシーンがありました。
 中国人によって管理されているチベットポタラ宮殿は完全に観光地化され、内部の撮影料は想像を絶するほど高価に設定されています。
 監督が隠しカメラで撮影した張り紙には、日本円で約2万5千円にもなる金額が示されていました。
 この映画は10年以上も前に作られたものですが、今でも中国の農民は年間所得が5万円ほどではないかと言われており、すさまじい貧富の差が明らかになっています。
 以前は乞食いのいなかったチベットで、首都ラサが物乞いに溢れている光景も忘れられません。

 中国軍の侵略後50年間で120万人が殺されたチベット、囚人までもが送り込まれたチベットで何が起き、どうなっているのか、米国や日本の優秀な衛星カメラは実態をとらえているはずです。
 人道的見地から、それを世界へ公開すべきではないでしょうか。
 チベットという伝統文化が花開き、安定していた平和な地域の様子が一切報道されなくなったという異常事態に世界中が黙っているのは、おかしなことです。
 もしも「中国で儲けたいから見て見ぬふりをする。口をつむぐ」のであれば、それは悪しき共業(グウゴウ)へ荷担していることに他なりません。
 地球上にある地獄極楽も、決して私たち一人一人と無関係ではないことを再認識したいものです。

 次回の上映会は、2月13日(土)午後5時より法楽寺講堂で行います。
 午後4時30分に「イズミティ21」前へお迎えの車が出ますので、利用される方は事前にお申し込みください。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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