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2010
02.27

【現代の偉人伝】第95話 ─しらかし台中学校野球部監督猿渡善宏氏─

「朝日新聞スポーツボイス」の2月15日号で、しらかし台中学校野球部監督猿渡善宏氏が語っておられる。

 僕は、国民の一人として、国権の最高機関の品性を疑い、この国、「日本」の未来を憂いている。
 このまま行くと、僕らは「ビジョンなき混乱」の続く実社会に、生徒たちを送り出さなくてはいけない。
 それは、ものすごく辛い。
 僕らも生徒も。


 月曜の朝、業務員の加藤さんから、『学校の先生が国を滅ぼす』という本を題材にした同じテーマのテレビ番組について聞かされた。
「凄くないですか。『学校の先生が国を滅ぼす』っていうタイトル。TVって影響大きいじゃないですか。こうやって朝練とかやって、生徒も先生も一生懸命にやっているのに。みんなが変な目で学校を見るようになるの、イヤじゃないですか」

 僕は、最近この手のことにあまり動揺しなくなった。本は「バカの○○」から始まってセンセーショナルなタイトルを付ければ売れるようになった。


 世論はメディアを通して巧みに操作され、人々は右へ左へといっせいになびかせられる。
 猿橋氏は言う。

 そんなんで一々踊ってられない。僕らには、目の前にいる生徒に伝えなくてはならないことがある。
 本当の意味で、豊かで平和に暮らせる「日本」をつくりあげたいという思いは、今の子供たちの中にもしっかりと存在し、目覚めの時を待っている。


 そして彼は練習に出てノックバットを握る。選手たちへメッセージを発する。

「限界を自分で決めるな」
「仲間のためにそのボールにくらいついてみろ」
「声をかけ合え。ボールと思いをつなげ」
「考えろ。すべてのものには原因がある。徹底的に究明して改善しろ」
「情熱を持て。情熱なしでやり遂げられる価値のあることなんてこの世にはないんだ」


 やがて彼らが、自分と自分に関わる人々を守る強さを身につけ、「公共の利益」を最優先に、「日本」を衰退の危機からすくい上げ、社会全体の繁栄のために行動する新しい大人になる日を願い、僕は打ち、彼らは捕る。
 夕闇の中、互いの背中に湯気が上って揺れるまで。



 さて、斎場へ着くと、空(クウ)になり果て絶対の安心境へ入っていただくように転法輪の法を結び、全員でお焼香をしてから炉の前へ行く。
 私語を発する方はおられない。
 扉が開いて遺体が納められる直前、泣いてとり縋る方もある。
「嫌だ─」「行かないで─」「お母さん!」。
 こうした声に胸を締め付けられそうになりつつ、皆さんの後方から不動明王の真言を低く唱え続ける。
 やがて家族にいたわられ、慰められ、諫められた方々がおちつくころには準備が終わり、静かに炉の扉が閉まる。
 真言が終わるとほぼ同時に、炉へ向かって合掌していた係官が向き直り、火葬が終わるまでの時間を告げ、葬儀屋さんがあとを引き継いでご遺族を控え室へご案内する。
 位牌を持った方も、遺影を持った方も、だんごを持った方も、手に何も持たない方も私に会釈をしてから場を去る。
 私は黙ったまま、お一人お一人の心情をそのままに受けとめ、首を垂れているのみである。
 
 斎場での様子を客観的に観る時、皆さんと心を一つにして祈る第三者(それも、仏神へいのちを捧げた者)がいるのといないのと同じであるとは到底、思えない。
 すべてを終えた後のくだけた会食で、皆さんから「安心しました」「感動しました」「いろいろなことが解りました」「これからもずっとよろしくお願いします」といった言葉をいただくと、疲れが吹き飛ぶ。
 祈りは通じる。
 祈る者同士の祈りは通じ合う。
 そこには、この世もあの世もなく、凡夫もみ仏もない。
 
 最近は特に、仏教や葬祭や寺院の問題点を突く刺激的なタイトルの本が目につく。
 もちろん、いろいろな意見に耳を傾けながら謙虚にふり返る姿勢はなくせない。
 しかし、やはり猿渡氏と同じ感想を持っていると言わざるを得ない。
「そんなんで一々踊ってられない。私は、目の前の故人へも、ご遺族へも、み仏の救いを確実にもたらさねばならない」。
 利便、損得、効率といった価値基準では判断できない仏神の次元へ皆さんをご案内し続けたい。

 猿渡氏はノックバットを握り、私は法を結ぶ。
 猿渡氏のように、現場で真摯に力を尽くす人であり続けたい。



「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.26

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 43 ―区別─

 前回は、「穢れて生きる人」の姿を学びました。
 ならば、「清らかに生きる人」はいかなる者か。
 釈尊はという観点から答を示されました。
 もう一度、その清らかさを考えてみます。
 2月24日、NHK文化講座で共に学んだのは『法句経ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。

「廉(レンチ)は苦なりと雖(イエド)も、義は清白(ショウビャク)を取り、辱(ニク)を避けて妄ならざるを、名(ナヅ)けて潔生(ケッショウ)と曰(イ)う」


を知り、苦しくとも清廉潔白であろうと心がけ、辱められるようなことを行わず誠実に生きる者を「潔く生きる人」という)

 私たちの心の本体は霊性であり仏性です。
 それは、強い我欲で動こうとする時や動いた後に、の意識、あるいは罪の意識として警告を発します。
 目の前にあるモノが欲しくて盗みたくなった時にタブーの意識が正常にはたらけば、踏みとどまれます。
 もし、盗んでしまっても、その行為の薄汚さに耐えられなくなれば、返しに行きます。
 しかし、どの段階でもそうした意識がはたらかなければ、自分自身へ対して、そして社会へ対して「穢れた人」となります。

 釈尊は、「廉は苦なり」と説かれました。
 を知り清らかに生きるのは苦しいのです。
 なぜか。
 心の修行をしなければ、表面の意識はいつも〈自己の維持〉と〈種の保存〉が第一であり、食欲や性欲や財欲が「欲しい」「惜しい」とはたらいています。
 だから、何も考えず、そのはたらきに流されるのは気楽なのです。
 私たちは、弁護士が詐欺を行い、警察官がわいせつ行為を行った事件などに接すると、「何て奴だ」と嘲ったり怒ったりしますが、日常生活はいつもこうした危険と隣り合わせであることをきちんと認識しておく必要があります。
 私たちは「やりたい放題にやりたい存在」なのです。
 これほどの情報化社会になってなお、明らかに呑み放題に呑み、食べ放題に食べた結果として成人病にかかったと思われる方々が激減してはいません。

 では、「やりたい放題」でなく生きるにはどうすれば良いか。
 正邪善悪・虚実をきちんと区別できる心を作ることです。
 それには教えに学び、心に判断基準を保たねばなりません。
 我欲ではなく霊性・仏性が心の主人公となり、釈尊が説かれた「八正道(ハッショウドウ)」を践みつつ生きれば、いつも恥を忘れず、罪を犯さなくなることでしょう。
 8つの正しい道は以下のとおりです。

1 正見……正しいものの観方を行う。
2 正思惟…正しい考え方を行う。
3 正語……言葉を正しく用いる。
4 正業……行動を正しくする。
5 正命……正しい生活を送る。
6 正精進…正しく精進する。
7 正念……正しいものを念ずる。
8 正定……心を正しく修める。


 そもそも何が正しいのかがよく解らないし難しいと思うかも知れませんが、誰にでもすぐに実践できるのが「正命」です。
 まず、まっとうななりわいで生きること。
 たとえ収入が少なくとも、麻薬売買や振り込め詐欺などに手を染めず、こつこつと額に汗して過ごすことです。
 そして、自分なりに「やりたい放題」を抑えること。
 たとえば呑む時も食べる時も、足るを知って7~8分にとどめ、「あいつはけしからん」という議論も、言いたいことの7~8分までにしておくことです。
 こうして身を慎みながら生きていると、それが習い性となって我欲が自然に抑えられ、ものの観方や言葉づかいも変わってくるものです。
 そうすると、ものごとの区別ができるようになり、正邪善悪・虚実が見分けられるようにもなります。

 最近では、歩きながらカップラーメンを食べたり、子供が親へ、あるいは目下が目上へ「あんた」と呼びかけたりするようになりました。
 このように恥や礼儀が破壊されたのは、歴然として存在する「区別」を無視し、我欲がいつでもどこでも解放されるようになったからです。
 親と子の区別、教師と生徒の区別、上司と部下の区別、先輩と後輩の区別、男性と女性の区別、公の場と私的な場における言葉づかいや服装の区別といったものが次々と無視された結果、「区別」の意識そのものが薄れてしまい、恥の感覚がなくなりました。
 正邪善悪・虚実の区別もあいまいになり、とうとう、全国中を監視カメラで見張らねばならない日本になり果てたのは当然です。

 釈尊が説かれた「八正道」は、この危機を克服するための道しるべです。
 教えを学び、ものごとの区別がはっきりできる心を取りもどし、恥の感覚を忘れずに生きましょう。



「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.25

例祭だより(2月の第二例祭)

 立春の時はこの冬最高の冷え込みで真冬日だったのもつい2週間前・・・
 お日様が高くなってきて、晴れた日はだんだん温かくなってきましたね。
 もう、10℃を越えてきました。春なんですね~♪(花粉がオソロシイ私ですが;)

 最近お寺は行事が続いておりました。
 先週は前のブログでご案内した第三回目の寺子屋でしたが、あまりにたくさんの参加者の方がおいでになられましてびっくり!
 お申し込みが30名代だったので、資料を50部作っておいたのですが足りなかったのです;送迎バスも出動しました^^
河北新報に載せていただいて、初めて参加された方が増えてありがたい限りでした。
「幸せの国ブータン」のお話に皆さん興味津々耳を傾け、質問も飛び交って盛り上がっておりました。

 20日は第二例祭でした。
 7日に千枚の護摩木を焚いたので、護摩壇の横に用意した護摩木の量が急に減った気がしました(笑)が順調に火が付き燃え上がりました。
 皆さんの護摩木に書いた「願い」がきっと届いたことでしょう。

 例祭の後は「瞑想会」です。
 真言密教の瞑想法の「阿息観」をやりました。
丹田に息をゆっくりと吸い込み全身にエネルギーを行き渡らせ、次に自分の中の悪いものを口からゆっくりと吐き出して行くというイメージでやります。
 その呼吸法に慣れたら、息を吐く時に「阿(あ)~~~~~~~~」と声を出します。
 瞑想の時間というのは日常生活の中でなかなかとれないものです。
 こうした正式な瞑想法を学んで、生活の中に取り入れられたらいいですね。

 そのうちに、「阿字観」という瞑想もする予定ですよ。
 3月7日(日)第一例祭(10:00~)の後、14:00~(約1時間)です。

 様々なお寺の行事がありますので、皆さんピンときて「行ってみたいな」と思われたらぜひぜひご参加くださいね☆

 まもなく3月。待ちに待った春がやってきます♪



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.24

戒名料について ─戒名の意義、値打ち、値段─

 当山が、葬儀屋さんにかかる費用と当山へのお布施の合計五十万円でできるご葬儀について発表したところ、さまざまなご意見をいただきました。
 その中に、とても気がかりなものがあったので、戒名の本義と、当山の信念について、あらためて明確にしておきます。

「住職さん、そんな風に発表したら、〈戒名の安売り〉をしていると思われるのではありませんか?いつも住職さんが説いている〈戒名の本当の値打ち〉がどこかへ飛んでしまうのではありませんか?」。

 戒名とは、その名のとおり、戒律と共にみ仏から授かる名前であり、生前にあっては「生き直し」、死後にあっては「み仏のもとへの旅立ち」において必要なものです。
 ここでは死後の場合についてのみ、簡単に記しておきます。
 私たちがこの世へ誕生した時、親は「幸せであって欲しい。良い人生を歩んでもらいたい。まっとうな人間になってなるように」などと願って精いっぱい考え、名前をつけてくれます。
 だから、名前には、必ずその時代感覚に合った「佳いイメージ、プラスのイメージ」が伴っています。
 その姓名をもって一生を生き抜く私たちは、亡くなって肉体という衣を脱ぎ、故郷であるみ仏の世界へと還って行く時、今度は「み仏の子」そのものとしての名前をみ仏からいただきます。
 一方、戒名とは、〈あの世での名前〉です。
 親が懸命に考えてつけてくれる姓名に匹敵する、あるいは、永遠であるという意味ではそれ以上の価値がある戒名を、一介の行者などが決められるはずはありません。
 だから、行者は、故人がいかなる方であったか、生年月日はいつかなどの情報をご遺族からお聞きした上で、祈ります。そしてみ仏から降りた名前をお伝えするのです。
 当山が

「戒名は売り買いするものではない。長さを競うものではない。値段はつけられない」


と指摘している理由は、

「戒名は、み仏からの授かりものである」


という一点にあります。
 それは、み仏の世界からこの世へ修行の旅にやってくる私たちが「利用され売り買いされるものではない。寿命の長さや財産の多寡を競うものではない。生まれや育ちに関係なく本来平等であり、いかなる人間同士の人生の値打ちも比べようがない」のと同じです。
 だから、当山では、この世の功労やお布施の金額によって、戒名の中身や長さなどを変えるといった区別をしていません。
 そうした〈はからい〉ができないからです。

 戒名の歴史を調べると、これまでの経緯はいろいろあったようです。
 評論家の方々は、戒名が「要る」「要らない」などといろいろ議論しています。
 それはそれとして、行者は〈現場の者〉であり、お身内を亡くして悲嘆に暮れ、故人のあの世での安心をひたすら願う方々のお心になり、伝授された法を修して故人とご遺族の安心を確かなものにするために全力を尽くす以外の役割はありません。
 だから、日本における仏法の精華の一つである戒名がきちんとみ仏からいただけるよう、戒名が故人とご遺族の安心の基となるよう、み仏と一体になる法の世界へ入ります。
 そしてご葬儀では、戒名をもって確かな旅立ちをされるよう、全身全霊をかけて引導を渡します。
 引導の瞬間は行者として最大のエネルギーを放射するので、ご葬儀があった日は、この上なく疲れます。
 こうした日々を送る行者は、歴史的考察の議論や毀誉褒貶に揺れ惑ってはいられません。

 戒名が精華であるとは、以下の意味です。

「戒名における一番上の二文字は〈院号(インゴウ)〉で、魂の総体的な色合を示し、次の二文字は仏道悟入を意味する〈道号(ドウゴウ)〉で、生き抜いた徳功を表わし、次の二文字は法の受持を意味する〈法名(ホウミョウ)〉で、この世を生き受戒した結果、み仏の子として授かる徳を顕わします。
 戒名は、翻迷還本(ホンメイゲンポン…迷った状態を脱して、み仏の子であるという根本に戻ること)を志し、導師によって戒律を授けられ、仏弟子として究極の安心世界をめざすあらたな出発をする時に、み仏から降ります」。


 これは、当山が戒名をお知らせする際にさし上げる文面の一部です。

 なお、生前戒名を受けて生き直しをする方は、最後の「法名」をもって自分を名乗ることができます。
 たとえば俳人である当山の檀家さんは「妙朋」と名乗り、当山が発行する機関誌『法楽』へ毎月、俳句を寄稿してくださいます。
 また、法名は出家得度者の僧名でもあります。

 この世での論功行賞によっていろいろ長さや文字を変えるといった現在のありように一定の理解は持っており、一概に否定をするつもりはありません。
 しかし、行者としては、こう判断するのみです。

「この世に生まれ、まだ海のものとも山のものともつかぬ赤子が『用意、どん』を行う時に、名前による差別はない。
 あの世へ旅立つ御霊は、確かにこの世で善悪諸々の業を積んだ存在である。
 だから、私たち人間の眼から観れば、『あの人はすばらしい業績を残した』、『あの人はとんでもない人間だった』という区別がある。
 しかし、み仏の眼からご覧になられた場合はどうだろう。
 この世での成功者が、裏で他人には言えぬ悪事を行い、人知れず罪の意識に苛まれていたかも知れないし、名もない市井の人が、いのちを捨てる覚悟で行った知る人とてない善行を心の支えとして一生を過ごしたかも知れない。
 まして、我が身をふり返ると、とても、『他人様のご生涯を云々する』などできなしない。
 純粋にみ仏の子としてあの世で『用意、どん』を行う時、み仏は差別をされようか?
 自分は今、血肉となった仏法の伝統に基づく手順を踏んで、み仏から戒名を授かり、一切のはからいを離れてご遺族へお渡しする以外に、法務の行いようはなく、行者としての生きようもない」


 これが、「戒名は売り買いするものではない。長さを競うものではない。値段はつけられない」という信念の概略です。

 冒頭の、「葬儀屋さんにかかる費用と当山へのお布施の合計五十万円でできるご葬儀」という提案は、こうした内容を前提にしたものであり、一例に過ぎません。
 お布施の準備がなかなか大変な方や、引き受け手のないお骨で悩んでいる方など、いかなる問題でもどうぞご相談下さい。
 決して「見放さない」のがみ仏の世界です。
 こうした当山の信念をどう判断されるかは娑婆の皆さんへお任せする以外ありません。
 ご理解、納得されたならば、ご縁の糸を結んでください。
 また、疑問や批判は、どうぞご遠慮なくお寄せいただきたく存じます。
 皆々様のこの世の幸せとあの世の安心を祈っています。合掌



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
02.23

平成22年3月の運勢

 2010年3月の運勢について記します。
 この場合の3月とは、3月6日から4月4日までの間(啓蟄春分)です。

1 今月は、正しい人や組織、あるいは尊いものが妨害などによって本来の力を発揮できない流れに陥る危険性があります。
 正しいからといっていつでも押し通せるわけではなく、尊いからといって誰にでも尊ばれるとは限りません。
 むしろ、正しいがゆえに疎まれ、尊いがゆえに横を向かれることもあるのが〈この世のありよう〉と、冷静に覚悟しておく必要があります。
 私たちの脳は、思考活動を司る部位がヒダを作って飛躍的に能力を増大させた一方、個体の生存と種の保存を司る部位ではあまり変化していません。
 そのために、発達した脳がモノをどんどん作り出すようになったのは結構ですが、発達しない脳の命ずる「自分を第一とする傾向」と「性欲に従う傾向」は何ら変わらないままにここまで来ました。

 モンタルチーニは恐ろしい指摘をしています。
 脳のはたらきにズレができたために

「権力と技術革新を利用し凶暴な本能を発揮する」

私たちのありようが助長されているかも知れないというのです。
 だから

「科学技術の急速な発展は、その知が人間によって正当かつ理性的に利用されるという保証をまったく与えてくれない」

だけでなく、この傾向が続けば

「科学技術の発展が破壊的目的のために利用される危険性」

は大きくならざるを得ません。
 こうしてみると、2500年も前に釈尊が「我欲をコントロールせよ」と説き、大乗仏教が「他のためになろう」と呼びかけ、密教が「み仏そのものになり切る」方法を確立した仏法の歴史をあらためてふり返る気持になります。

 このような「一筋縄ではゆかない」時期にあっては決して焦らず、「我に理あり」と自信があっても油断したり強気を全面へ押し出したりせず、凍土が緩むのを見計らって植物が芽を出すように、自分を鍛えつつ慎重に時を待つ必要があります。
 さもないと「振り出しに戻る」危険性すらあります。

2 今月は、増幅された情報に踊らされないよう、気をつけましょう。
 くり返し流される題材や大きく取り上げられる記事がそうして報道されるべき社会的価値を持っているとは限らないことは、多くの方々の気づいておられる事実でしょう。
 しかし、いつしか「慣れさせられている」かも知れません。
 くり返しやってくる刺激へ対抗するには、しっかりした視点を持っている必要があります。
 いつも「そう?」「本当?」「どうして?」「その根拠は何?」と自分の頭で判断しなおし、流されないよう気をつけたいものです。
 この場合、こうした言葉を頭へ思い浮かべるだけでなく、実際につぶやくことには絶大な効果があります。
 やってみれば、結果的に、真言や経典を読誦する意義を再確認できることでしょう。

3 今月は、棚から落ちてくるボタモチを待っているよりも、積極的に金鉱を探してみましょう。
 それには五感六根のクリーニングが有効です。
 例祭などに参加し、経典を読み、真言を唱え、あるいは写経をして「真」を実感しましょう。
 他人の善行をすなおに讃え、自分もみかえりを求めず誰かのために何かを行って、「善」を心へ定着させましょう。
 音楽でも、絵でも、映画でも、これは本ものだ!という体験をして「美」に打たれましょう。
 真・善・美に魂が震える時、「我がこと」だけに向きがちな日々にあって付着しつつあった眼や耳などのサビが落ち、活き活きとはたらきだします。
 そうなれば眠っている第六感も動き、予期せぬ発見や出会いをもたらすことでしょう。
 釈尊は、弟子たちへ「起きよ!」と呼びかけました。
 魂がハッとしなければ、眼も耳も心も日常生活がもたらす惰性の中で眠ってしまいます。
 これでは人生がもったいないではありませんか。

4 今月は、身体を冷やさないようにしましょう。
 ようやく温かくなったと思っても、春は秋よりかなり気温が低いものです。
 また、飲物や水に関する事故などにも充分な注意が必要です。

 今月も、人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

[布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人はうぬぼれず、慎重に計画と準備を進めて無事安全です。
 不精進の人は目先の木は見えても山全体が観えず、暴走して失敗しがちです。
[持戒行と運勢]塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は自分の実力を過大評価せず力の範囲で行い、成功します。
 不精進の人は柱となっているものを忽せにして崩れがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は目上や賢者の意見に従って堅実に行い成功します。
 不精進の人は攻めるべき時期と相手をまちがい、予定が狂いがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は他人を伸ばし、将来への禍根を断って成功します。
 不精進の人は感情に負けて人物判断を誤り、争いや失敗に翻弄されがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は諸事、廻り合わせに恵まれ、発展します。
 不精進の人は望まぬ情報の漏れなどによって足を引っぱられがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は立場や財や信用がだんだんに大きくなり、望みが叶います。
 不精進の人は錯覚や思いこみや希望的観測などによって自滅しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.22

3月の聖悟 ─弘法大師の教え(1)─

 お大師様は、恵果和尚から密教のすべてを伝授されて帰国する際に、その根本がいかなるものであるかを示されました。
 仏法密教)の意義、仏法のはたらき、仏法の救い、仏法の導きです。

「この法たるやすなわち仏の心(シン)、国の鎮(チン)なり。氛(フン)を攘(ハラ)い祉(サイワイ)を招くの摩尼(マニ)、凡を脱れ聖に入るの虚径(キョケイ)なり」


(この法こそが、仏の要である。
 この法こそが、国の鎮めである。
 この法こそが、災いを除き福を招く宝珠である。
 この法こそが、悟りを開く近道である)

1 密教は、仏の要、根本、心髄を説く。

 密教は、悟りの世界、救済の世界、真実の世界、そうしたものをそのまま説いています。
 マンダラには究極の根本仏である大日如来も、その顕れである観音菩薩などのみ仏方も、神々も、鬼も描かれています。
 神や鬼だからといって排除されていません。
 真実世界において救われない者はなく、神も鬼も一緒になって円満な真実世界をつくっています。

 最近、当山の信徒Aさんがなくなり、さまざまな事情によって、弟さんであるBさんがご葬儀の一切をとり行いました。
 もちろん、当山の修法でお送りし、ご供養しました。
 すべてが終わった後で、Bさんは言われました。
「私は神道で、おりおりの祈りを欠かしません。
 しかし、兄はこちらの教えを深く信じており、こちらでは他の宗教宗派も尊んでおられるので、兄の気持を尊び、私どもも納得してお願いしました。
 本当にこれで良かったと、家族一同安心しています。
 私が学んでいる宮司さんは、神道でお送りする際に、ご参詣の方々のためのお焼香台をきちんと用意するので、神道でない方々もまったくこだわりなくご参列されます。
 今回、私も兄の形見の数珠を手にしてお焼香しましたが、修法の世界に入れていただき、ただ、ありがたいだけで、何の違和感もありません。
 家族や一族は、神道の行事にも仏教の行事にも揃って参加し、仲良くやってきました。
 これからも、このようにありたいと願っています」

 世界中で、宗教の違いが差別はもちろん、殺人に至るほどの決定的な対立をもひき起こしており、大量虐殺や戦争になるケースすら山ほどあります。
 宗教と軍隊、あるいは宗教と政治、あるいは宗教と経済が一緒になって世界制覇をもくろむ動きも絶えません。
 そうした中で、互いを尊びつつ仏教と神道が共存する日本のありよう、宗教が慣習や年中行事へ自然に溶けこんだ日本のありようは、世界が真の平和を目ざすための究極のモデルであると確信しています。
 この精神風土は、高野山を拓く際にまず神社を造ったお大師様の教えが基盤となっているものと思われます。
 お大師様へ帰依した嵯峨天皇が「薬子の変」の後、西暦818年に死罪(死刑)を廃止してから保元の乱によって源為義が首を斬られるまで、347年間にわたって死刑が行われなかったのは世界史的にも奇跡と言われていますが、密教を中心とする仏法の果たした役割は大なるものがありました。

 認め合い、許し合い、排除しない、そして、万人に共通する絶対の安心を求める姿勢はガンジーにもあったし、これほどの状態になってなお中国共産党を敵視せず、「お互い共通の問題を、話し合いで解決しよう」と訴え続けるダライ・ラマ法王にもあります。
 ネルソン・マンデラも、白人と黒人という絶対的な違いと思われていたものの根底に通じる真実を信じていたからこそ、アパルトヘイトを打破できました。
 ノーベル平和賞を受賞したおりのスピーチです。

「この賞によって世界中の活動家たちが貧困に囚われた人びとのための希望の明かりを灯す手助けになればと願う。
 奴隷制やアパルトヘイトのように、貧困も自然現象ではない。
 貧困をつくり出し、苦しむのも人びとであり、貧困を克服するのも人びとなのである。」


 お大師様は、宗教と思想のすべてを解き明かした論書で述べられました。

仏法を知らない者は、蜃気楼のような現象世界が実在であると思って執着し、眼の前にあるものによって右往左往させられ、自分で苦を招いている。
 天界も地獄界も、自分の心がつくり出したものであることに気づかない」


 お互いの心の底に共通している霊性を信じ、そこに立つ方法を学び、この世がマンダラの真実世界であることを多くの方々に実感していただきたいものです。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.21

道理と劣化ウラン弾 (その2)

 人間は、今や、与えられた脳細胞を飛躍的に使うようになり、原理が探求された結果、科学が急速に発達しました。
 そして、意志を通すための道具をたくさんつくりました。
 車・電化製品・薬品などなど、そして劣化ウラン弾もその成果です。
 しかし、一方で、道具を用いるための道理はあまり探求されず、かつて聖者の説かれた道理は、人々の脳へさほど浸透していない、あるいは忘れられつつあるように見うけられます。

 いかに原理をつきつめても、そこから道理は出てきません。
 原理に道を与えるのが道理だからです。
 ちなみに、人間以外の生き物たちに道理はありません。
 食物連鎖や種の保存などの節理という原理だけで生きているからです。
 しかし、人間には精神があり、正邪善悪を峻別し、福徳を得たり罪を犯したりします。
 その判断基準が道理です。
 
 ところで、釈尊は仏陀になられました。
 仏陀とは覚った者すなわち、真理と道理を見きわめた人です。
 釈尊が示された真理の一つは「すべてのものは変化して止まない」こと、もう一つは「すべてのものは、それ自体として独立して存在しているのではなく、他との関係性の中にある」ということです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.21

インビクタス

 映画「インビクタス」について、Aさんは言いました。
「これまで観た中で最高の映画だった。
 自分の、自分の言葉通りに生き抜く人もいるんだ」

 27年という投獄生活を超えて白人と黒人との融和にいのちをかけた南アフリカ共和国の第9代大統領ネルソン・マンデラを描いた映画のキャッチコピーです。
「我が運命を決めるのは我なり」
「我が魂を征するのは我なり」

 Aさんは、かねて、パターン化された歴史観に疑問を持っていました。
「明治時代の人は偉かったが、だんだん指導者たちの質が落ちてきて、太平洋戦争を戦った軍人などは誤りだらけだったというが、本当にそうだろうか?
 テレビでおもしろおかしくやっているように、国を考える坂本龍馬は偉くて、経済活動を考える岩崎弥太郎は卑しかったなどということがあるのだろうか?
 一代で大財閥をつくりあげるほどの人物が、人をひきつけるたぐいまれな魅力を持っていなかったなどということはあり得ない」
 
 そもそも、指導者や国民が偉かった時代とか、指導者や国民が愚かだった時代とかがあるのでしょうか?

 Aさんは考えます。
「『海軍反省会』というものがあった。
 太平洋戦争で指導的立場にあった人々が、あの戦争の成り行きと自分たちの思考や行動をふりかえっているが、結局、〈流れができるとなかなか止められない〉ということだったのではないか。
 そして、自分をかけた〈自分の行為の総括〉がなかなかできないのも我々のありようだ。
 特攻隊の隊員たちへ、俺も後から行くぞと肩をたたいて送り出した人々のほとんどは後から行かず、総括をあいまいにして生き延びただけでなく、政治家になって国を動かしたりもした。
 要は、流されてしまうのがいつも変わらぬ人間の姿であって、政治家の言葉が軽いのは今に始まったことではない。
 だから、~の時代を指導した人々は偉くて、~の時代を指導した人々は愚かだったなどという幻想にとらわれず、ネルソン・マンデラのような人そのものをきちんと観る必要がある」

 そして、Aさんは憧れるような目つきで言うのです。
「釈尊や弘法大師やネルソン・マンデラのような人々は、天が遣わしたとしか思えない」
 確かに、釈尊も弘法大師もネルソン・マンデラも、あの時代に生まれあのように生きたのは、あまりに〈でき過ぎ〉ています。
 何億人の中のたった一人として生まれるかけがえのなさは誰しも平等ですが、そこで、その時点で、歴史上最高の光芒を放つ人の登場は、特に「必然」と思えてしまいます。
 きっと、天が遣わしたのでしょう。
 
 映画「インビクタス」をぜひ、観たいと思いました。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.20

道理と劣化ウラン弾 (1)

 劣化ウラン弾は、人類がつくり出した悪魔の兵器です。
 たった1発が半径数10㎞にも及ぶ広範囲を永久に放射能で汚染し、そこにいるあらゆる生物をいのちの根っこから破壊してしまうのです。

 この悪魔の兵器については、1996年8月に国連人権小委員会で禁止の決議が行われています。
 しかし、アメリカは、原料費が格安であり、核分裂しないウランは原子数が多く非常に重くて頑丈なので弾丸として使えば戦車なども簡単に打ち抜くという強さがあるという理由で、つまり、経済性と利便性だけで使い続けています。
 災厄は前線の兵士に及び、湾岸戦争では約70万人のアメリカ兵士のうち約60%が被爆しました。
 帰国後、自分がつらい症状に苦しむだけでなく、後にもうけた子供たちの多くが、目が見えないあるいは目が無い、指がくっついているなどの障害を持ったり、肝臓や腎臓や肺臓の不調をかかえたりして生れました。
 アフガンやイラクに住む人々の惨状は言うまでもありません。
「狂気の沙汰」とはこのことではないでしょうか。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
02.19

 毎回、投稿してくださるSさんの最新作「」です。
 Sさんが大人になるに従って作品もかなり変化してきています。
 こうした瑞々しい感性を持った若い方々が希望を持ってくらせる社会にしたいものです。

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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.19

色情因縁の解決 5 ─タイプ別解決法(その1)─

色情因縁タイプ1] 煩悩に妨げられて知恵がはたらかず失敗するタイプ
 ご先祖様やみ仏の戒めを受けたり、上司や指導者から叱られたりし、重大な問題で失敗をやらかします。
 争いごとを起こしたり、居直ったりすれば、大きな傷を負うことになりかねません。
 因縁解脱によって、悩みを抱えた人の心を深く理解する大悲の人になりましょう。

 こういう因縁のある方は、み仏やご先祖様へ水を捧げる供養をしましょう。
 そして、合掌して誓い、真言(マントラ)を唱えて人生修行の支えとなるみ仏を供養しましょう。
 回数は、1・3・7・21・108回が基本です。
「我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」
「おん ばざら たらま きりく」

 合掌するのは〈身体〉をみ仏に合わせる修行です。
 お唱えするのは〈言葉〉をみ仏に合わせる修行です。
 そして、〈心〉をみ仏に合わせる修行として、誓いの言葉はもちろんですが、以下の3つをよく考え、生活において実践することが大切です。
 こうして身・口・意がみ仏と一体になる即身成仏(ソクシンジョウブツ)体験を重ねれば、因縁解脱へ向かいます。

1 災難に遭った方々や生活に困っている方々のために、たとえ1円でも、募金などに協力しましょう。
 要らなくなったモノは簡単に捨ててしまわず、社会福祉協議会などに相談して、日本や世界のどこかで役立てましょう。
2 仏法や真理・真実などについての信念を、迷っている方々や落ち込んでいる方々のために勇気を持って話しましょう。
 自分にとっての救いは、必ず、同じような問題で悩む方々にとっての救いにもなるはずです。
3 困り果て、小さく縮まってしまった方々のために、目をかけ、言葉をかけ、手をかけましょう。
 本当に困っている時は、それを解ってくれる人がいるだけでも力強く感じられ、小さな援助も神仏からの施しのように思えるものです。
 他人様の怖れや不安や落ち込みを「他人ごと」と思わず、心を添わせる姿勢が大切です。
 慈悲は、心を添わせるところからしか生まれません。

 自分の修行に加えてみ仏のご加護を求めたい場合は、ご祈祷・ご加持などの方法がありますから、どうぞお申し出ください。
 皆さんの因縁解脱を願っています。
 


「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
02.18

3月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

晩年の逃げ足早き二月かな

 二月は二十八日しかなく、ちょうど四週間経つと、もう翌月になってしまう。
 あっという間に去る二月は、確かに、逃げ足が早い。
 晩年になると自然に動きが遅くなるので、それほどのことをやらなくても一日は〈早く〉なる。
 逃げ足は一層、強く感じられる。

明日も咲く力を見せてシクラメン

 シクラメンは形にも色にも、必ずどこかに微妙で不思議な変化を含んでいる。
 この「一ひねり」はいかなる造化の神がなせるわざか、と思わせる。
 多様性は、それを生む力を予想させる。
 群れて咲いている様子は頼もしくもある。
 作者は陽の面に励まされている。

蕾抱き水仙の葉のしたたかに

 水仙の葉は密集して茎を取り囲み、強く立つ。
 蕾はまぎれもなく守られている。
 それは母親のしたたかさか。
 こう指摘されてみると、色の濃さもシルエットの鋭さも一段と際立ってイメージされる。
「勁(ツヨ)い」が「莖(クキ)」に通じる事情は理解できる。

水仙に今年の寒さ春遅し

 水仙は緑色のままで風に震えている。
 蕾は見えているが、この寒さではいつ開くことやら、見当もつかない。
 立春とはいうものの、春の実感はあまりに遠すぎる。
 秋の桔梗は五枚、水仙は六枚だが花の形は似ていて葉の勢いは全く違う。
 陽と陰なのだろうか。

春立つ日足はおのづと花屋かな

「春」と聞けば「花」である。
 時を待って咲く花を買いにゆくのは自然なことであり、「おのづと」足は動く。
 季候と心と自然は連動している。
 連動の中にある心が俳句を生む。
 心が連動から離れて俳句が詠めなくなれば、それは枯渇であり、死に近いのではないか。

冬見舞筆すすまぬに昏(クレ)かかる

 寒中見舞は、寒の入り(一月五日頃)から節分までの間に投函する。
「風邪をひかないように」と相手を労る自分も寒さに縮こまっている。
 同じく寒い時期に出す年賀状には新年への希望があるが、寒中見舞には「もう少し」というガマンがある。
 筆は進みにくい。

黄昏(タソガレ)の雲飛ぶ空や風花(カザハナ)す

 雲は飛んでいても、ちっとも雪雲らしくないのに、チラリチラリと雪片が舞い降りてくる。
 風花である。
 風花を見ると散華(サンゲ)を思い出す。
 特殊な法要の際などに撒かれる花びらに見立てた色紙である。
 悪鬼神を除け、み仏を供養する花びらはヒラヒラと舞う。

寒椿蕾は色を握りしめ

 寒椿の蕾は薄緑色だが、ところどころに紅色が見え隠れしている。内側にたっぷりとある紫がかった紅色を隠しきれないのである。
「握りしめ」には思わず手を握らされた。
 内側からはじけようとしている力を「まだ早い」と抑えている固い蕾が乗り移ってきた。

寒明ける花無き庭に風走る

 立春となり寒の時期は去った。
 しかし、まだ凍えさせられるような寒気は去らず庭には花もない。
 そこを一陣の風が走り抜ける。
 それは冬の風なのか、それとも春の風なのかよく判らない。
 もう、土用ではないが、気候がはっきりと移る前の陰陽の交錯がある。

ひとり言聞いてほしくてシクラメン

 小椋佳シクラメンを「清しい」、「まぶしい」、「淋しい」花と詠んだ。
 いずれも、情を強く喚起されている表現である。
 シクラメンは、そこに「在(ア)って」、そこに「居る」ように思わせる花だ。
 格好の話し相手になれる資格がある。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
02.18

「知る」ことと、「行う」こと

 なぜ、仏教に関する本が売れ、寺院巡りも盛んなのに、仏法の浸透がそれほど感じられないのでしょうか?
 きっと、教えを知り、せっかく「そうだなあ」と思っても、それっきりになる場合が多いのではなかろうかと考えています。

 仏法では、まず、知ることをとても大切にしています。
 教えを知らなければ、やりたいようにやるしかなく、それは煩悩(ボンノウ)の奴隷であることを意味します。
 だから、たとえば、こう聞いて目が覚める必要があります。
「皆が我がままのままであれば、結局、誰もが思い通りにならなくて、皆が苦しむだけですよ」。
 釈尊は、最初にこう気づかれました。
 この教えに接すれば、多くの方々は「そうか」と思われることでしょう。
「なあんだ。当たり前じゃないか」と思う方もおられるはずです。
 問題はその次です。

「なぜ、『皆が我がまま』なんだろう?」。
「私の我がままが周囲の人たちに嫌な思いをさせているのは確かだ」。
「思い通りにならなくて苦しんでいるのは、私だけじゃないんだ」。
 このように、〈そう思った〉後で〈それについて考える〉必要があります。
 ここが第二段階です。
 そして「これは大問題だ」と深く受けとめ、「じゃあ、どうすれば苦の連鎖を断ち切ることができるんだろう?」となれば、次の段階へ進めます。
 そうでないと、何度、釈尊の悟りについての話を聞いても、「そうか」でしかなく、なかなか自分の生き方を変える力にはなりません。

 さて、どうすれば良いかという問題意識を持っていると、その方法を知った時に実践してみようと思うかも知れません。
 そもそも、問題意識のあるなしが、情報というフワフワした様子で漂っている「方法」を掴まえられるかどうかの分かれ目になっています。
 方法を知ったなら、考えてみて「よし、やろう」となる場合もあり、そうならない場合もあるはずです。
 いずれにしても、この辺が第三段階です。

 そして、掴んだ方法に信頼性を感じたならば、読経であれ、写経であれ、何であれ、あとは継続することです。
 生き方とは結局、習慣の問題であり、習慣とはくり返しに他ならず、それを変えるには「新たなくり返し」あるのみです。
 ここまで行けば、最初の「聞いた」という体験が、「生き方を変える」ところに結晶します。
 それは、〈我がまま〉という形で表れていた心といのちのはたらきが、〈おかげさま、おたがいさま〉へ変質することを意味します。
 生きる意欲は煩悩(ボンノウ)から大欲(タイヨク)へと転換し、世間の見え方が変わります。

 こうして仏法を活かしていただきたいものです。
 そうすれば、読んだ本も、拝観したお地蔵様も、確かな生きる糧になることでしょう。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
02.17

【現代の偉人伝】第93話 ─線路へ降りて女性を救った会社員佐藤弘樹氏─

 2月15日午後9時15分頃、JR東京高円寺駅の中央線快速の上り線ホームで、女性(20歳)が線路に転落した。
 近くにいた東京都昭島市の会社員佐藤弘樹氏(24歳)は、「とっさに助けなければと思った」。
 ためらわずに線路へ飛び降りたが、酔って落ち、頭を打ったらしい女性は動かない。
 汽笛に振り向くと、電車が迫っていた。
 女性を線路の間(巾1・06メートル)へ手足を揃えて寝かせ、自分は線路脇の待避スペース(奥行き約60センチ、高さ約1メートル)へもぐり込んだ。
 ホーム手前100メートルで非常ブレーキがかけられた電車(10両編成)は、4両が女性の上を通過した。
 佐藤弘樹氏は、「必死だったのでよく覚えていない。無我夢中でやった」が、実際に目の前を電車が通過した時は「怖い」と感じたそうである。
 電車が止まりホッとした二人は「死んじゃったかもしれない」などと言葉を交わし、女性は感謝したという。

 それにしても、佐藤弘樹氏が線路へ飛び降りてから電車が入るまでわずか1分、電車の下部と枕木の感覚はわずか30センチメートル、二人共ギリギリの生還だった。
「『何で』と聞かれても困ってしまう。考えてやったことじゃない。体が勝手に動いちゃったとしか言いようがない」。

 考えれば、きっと、できない。
 まず、「もしも自分も巻き込まれたら」と思うに違いない。
 怖いし、自分を守りたいし、家族などのことも思い浮かべれば、いくらでも言いわけができる。
 だから、考えたら最後、足は動かない。
「助けなきゃと思ったら、体が勝手に動いていた」。
「助けなきゃ」は、思考であるが、むしろ反応と言うべきだろう。
 やらないではいられなかったのである。
 だから、「体が勝手に動い」た。
 
 この覧に登場する方々はすべて菩薩である。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
02.17

第二十二回 映画「チベット チベット」を観る会

 2月13日、初めて当山の本堂で映画「チベット チベット」の鑑賞会を行いました。
 寺子屋に引き続いて参加した方々は、侵略の残虐さ、亡命の苛酷さ、自立への熱情にとても驚かれました。
 ダライ・ラマ法王とオバマ大統領の会談が、ホワイトハウスの報道官の指摘「ダライ・ラマは国際的に尊敬されている宗教・文化的指導者であり、オバマ大統領の会談もその範疇でのものとなる」どおりなのかどうかも話題になりました。

 古来、人口が爆発的に増える民族は受け皿を世界に求め、周辺地域への侵略が行われてきました。
 チベットの問題も、その典型的なものです。
 これだけ情報が世界へ流れ、互いの人権を尊重し合おうとする機運が高まっている現代にあって、堂々と簒奪(サンダツ…奪い取ること)と蹂躙(ジュウリン…踏みにじること)が行われ続けている現実は、時折、大発生しては被害をもたらすイナゴなどと何も変わらないのではないかと思えてしまいます。

 ある詩人は

「勝者になるのは悲しい」

と書きました。
法句経』は

「勝てばたちまち怨みを受け、負ければたちまち卑屈になる。勝った負けたという心を捨て、心から争いがなくなれば、安らかに過ごせる」

と説いています。
「雀鬼」阿佐田哲也(アサダテツヤ)は、

「勝っても負けても大切なものを失う。特に、勝ったときは失うものが大きい」

と述懐しました。
 釈尊は、人間が苦に迷う弱き者だからこそ、生涯、慈悲の眼を持ち続けられたのでしょう。
 しかし、いたいけない時分からバトルを主としたゲームなどに親しんでいる子供たちは、こうした深い感覚を持てるでしょうか。

 一人やれば犯罪であり、誰しもの良心が疼くはずである「奪う」、「殺す」などの行為が、国家という集団で行われれば罪を問われません。
 しかし、人間の行為である以上、悪業であることに変わりはなく、因縁は、被害者からも加害者からも消えません。
 脳裏から離れないシーンの一つが、チベットにできた美容院の様子です。
 タバコをくわえ、物乞いに訪れた貧しいチベット人夫婦を無視したまま傲然と高価なパーマをかけてもらっている女性客、そして、「シッシッ」とイヌネコ扱いで夫婦を追い出し、腕組みしたまま睨む女性店員。
 店内を支配する氷のような冷たさを感じていないであろう漢人たちに、まっとうな未来のあろうはずはなく、追い出された者の哀れさと追い出した者の哀れさに立ちつくす思いです。

 観れば観るほど、人間を考え、国家を考え、自らを省みるようになるこの映画をたくさんの方々に観ていただきたいと、いつも願っています。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
02.16

夢の中のご加持

 Sさんが亡くなられて五七日が過ぎた日、信徒Kさんがご供養のための写経を届けられ、あらためて供養しました。
 その夜、Sさんが夢に現れました。
 
 肘掛けイスにどっかりとイスに坐っておられます。
 なぜか座像で作られることが多い法力無比の役行者(エンノギョウジャ)に似ています。
 左目はほとんど閉じ、右目ははっきりと開いています。
「住職さん、俺、片方しか見えなくなってさあ」
 声はSさんの口から出たのではなく、テレパシーのように私の頭で鳴りました。
 表情はいつもと変わらず柔和なのに、異界にいるようで、まったく動きの感じられない平面的な光景です。
 思わず手をとりました。
 それは砂のようで紙のようで頼りなく、握ろうとして伸ばした手は触れたところで凍りつきました。
 強く握れば壊れそうで、「無い」のが実感されることを瞬間的に怖れたのかも知れません。
 瞑目して光明真言(コウミョウシンゴン)を唱え、ご加持(カジ)の法に入りました。
 どれだけ経ったか判りませんが、目を開けたらそこにはぼんやりと明るいパール色の背景があるばかりで、Sさんの姿はありませんでした。
 漂っていた穏やかな雰囲気に大きく安堵しました。
 そして目が覚めました。

 光明真言和讃は説きます。

光明真言功徳力(クドクリキ) 諸仏菩薩の光明を 二十三字に蔵(オサ)めたり」


 また、光明真言の功徳力は、こう説かれています。

1 237返聞けば、罪障が除滅する。
2 108返加持された土砂をかければ、地獄界や修羅界などの亡者も浄土へ導かれる。
3 1080返唱えれば、宿業(シュクゴウ…積もった業)罪障が除去される。

 耳にしても、加持された土砂をかけられても、唱えても、確かな救済が得らます。
 光明真言に感謝し、Sさんの安心を願うばかりです。
 


「のうまくさんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2010
02.15

寺子屋『法楽舘』開講 ─第三回が終わりました(その2)─

 さて、2月13日の法話に少々つけ加えて整理しておきます。

 このところ、釈尊が悟りを開かれ(成道…ジョウドウと言います)てからしばらく経ち、説法の旅に出るまでの思いがとても気にかかっています。
 経典によれば、こう考えたとされています。

「私の悟ったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである」
「もしも他の人々が私の言うことを理解してくれなければ、私には疲労が残るだけだ。
 私には憂慮があるだけだ」
「苦労して私が得たことを、今、説く必要があろうか。
 貪りと憎しみにとりつかれた人々が、この真理を悟ることは容易ではない。
 これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見がたく、微細であるから、欲を貪り闇黒に覆われた人々は見ることができないのだ」

 そこにバラモン教の最高神である梵天(ボンテン)が登場し、説法を勧めます。

「ああ、この世は滅びる。
 ああ、この世は破滅する。
 実に修行を完成させた人・尊敬されるべき人・正しく悟った人の心が、何もしたくないという気持ちに傾いて、説法しようとは思わないのだ」
「尊い方 ! 尊師は教え(真理)をお説きください。
 幸ある人は教えをお説きください。
 この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。
 彼らは教えを聞かねば退歩しますが、聞けば真理を悟る者となりましょう」


 ここで、大事なポイントが二つあります。
 まず、梵天は、悟った人が導かなければこの世は滅びると考えたことです。
 そして、せっかくこの世に聞く耳を持った人がいて、学べば悟りを開けるのに、学ばねばダメになるということです。
 やがて、観想をこらす釈尊の脳裏に、泥中から茎を伸ばし花を咲かせる蓮華が浮かびます。
 そして、苦海であるこの世にも蓮華のように泥に染まらぬ心があると観透し、それを信じて人々を救おうと決意されます。

 もう一説があります。

 釈尊は最高の真理を悟ったので、もう、この世には尊敬するものも恭敬するものもありません。
 利益をもたらすバラモン教の神々も、敬虔な行者たちも、釈尊の師とはなり得ません。
 最高の境地にいながらこの世で生きている釈尊は、導き手のない道をいかに歩めばよいかが判らなかったことでしょう。
 しかし、ゆったりと法楽の境地に憩ううちに、「私は悟った真理をこそ尊びつつ生きよう」と決心します。

 いずれにしても、悟りはあくまでも一個人の心のありようですが、それを得た人はそのままではいられないのでしょう。
 悟りは宝ものであり、仏性を持った私たちに共有されて初めて本来の輝きを放ち、この世を救うのです。

 同じように、年月を重ねつつ生きる皆さんの心に結晶したさまざまな人生への確信もまた、そのままにしておいては宝の持ち腐れになりかねません。
 それを自他のために活かすためには、やはり六波羅密(ロッパラミツ)行が必要です。
 水を捧げては布施(フセ)、灯明を灯しては智慧、線香を立てては精進(ショウジン)などを誓っていれば、人それぞれにつかんだ人生の要諦が、時を待ち、所を待ち、人の縁を待って活き活きとはたらき、社会を照らす光となりましょう。
「誰かのためになれば、それは必ず自分へ返ってくる」
「我欲を離れて何かをやれば、この上なく清々しい心になれる」
「志は最も強い人生の柱となる」
「じっと耐えている人を、仏神は決して見捨てない」
「まじめに生きているうちに一つの歯車がかみ合ってくると、その流れに応じた何かが起こるから、それまで慌てずにやればよい」
 こうした信念が周囲を動かす身体のはたらき、言葉のはたらき、心のはたらきとなるのです。

 皆さんの人生への確信が、互いの明かりとなり、支えとなり、救いとなるよう、常々、供物を捧げ花を捧げつつ六波羅密(ロッパラミツ)を誓いたいものです。

布施…水の心     
  「我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」
持戒…塗香(ズコウ)の心
  「我、塗香(ズコウ)のごとく、自他を清め、浄戒(ジョウカイ)そのものになり果てん」
忍辱(ニンニク)…花の心     
  「我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん」
精進…線香の心    
  「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」
禅定…飯食の心    
  「我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん」
智慧…灯明の心    
  「我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん」


 さて、次回3月13日(土)に開講する寺子屋法楽舘」の特別ゲストは、「みやぎシルバーネット」発行人の千葉雅俊さんです。
「戦争・死・介護・恋も生まれたタウン紙」という演題で、タウン誌を立ち上げた時からの14年間にわたる貴重な体験談などをお聞かせいただきます。
『せんだいシニア事典』のプレゼントもあります。(参加お申し込み順に、先着50様限り)
 老若男女お誘い合わせの上、どうぞふるってご参加ください。



「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
02.15

良縁をつかみ、悪縁を断つ方法(その5)

 もしも仮の良縁ができたなら「優しさ」を第一にして過ごしましょう。
 たとえば友人が宝くじに当たり、自分も当たれば親孝行したいと思うなら、心にある優しさを育てるのです。

 それには、与えることです。
 与えるといっても、子供にせがまれれば何でも買ってやるといったことではなく、「相手にとって与えられるべきものは与え、相手にとって与えられるべきでないものは与えない」といった信念に基づく行為です。

 最も解りやすいのは、子供に買い与える食べ物です。
 子供が好きだからといって甘いお菓子をやみくもに買い与えたならば、健全育成はおぼつきません。
 成長段階に合わせて与えるものをコントロールするのは当然です。
 食生活の習慣も同じです。
 子供の好きなものばかり与えていたなら必ず偏食になります。
 偏食は、栄養の偏りによる不健康だけでなく、「~が食べられない」という弱点を持つことにも大きな問題があります。
 親は、子供の心も身体も偏らず円満に発達するように導きたいものです。

 こんな話があります。
 Aさんは、ある組織の長です。
 こうした時勢を乗りきるために、部下たちの給与を削らねばならなくなりました。
 そこで、Aさんは、まず、自分の報酬をカットします。
 その上でBさんにも協力を求めましたが、話し合いは難航しました。
 Aさんは、同時にBさんの部下であるCさんにも協力を求め、Cさんは黙って納得しました。
 当然、Bさんのカット額はCさんより大きいけれども、Bさんは何不自由ない暮らしぶりであり、いろいろ問題を抱えたCさんは苦労しています。
 人情家であるAさんは憤ります。
「Cさんが協力してくれているのに、Bさんの姿勢はどういうことなのか。BさんはCさんの家庭事情をよく知っているのだから、むしろ『私はCさんの分も合わせてカットしていただいて結構です。だからCさんは今のままにしてやってはいただけませんか』と申し出るのが人の情けではないか」
 リストラが普通になり、「与える」、あるいは「与えない」の判断と思いやりのバランスをいかにとるか、とても難しい局面がごく日常的になってしまった時代をどう乗りきるか、智慧慈悲も試されています。

 私たちの運気の波に、「持てる力を充分に発揮しにくい時期」があります。
 その時は、施行(セギョウ)がポイントになります。
 布施という人間修行を行うのです。
 誰かのために見返りを求めず何かを差し出すことによって周囲へ徳の震動が広がり、それが共鳴を読んで眠っている力を呼び覚まします。
「得たいなら、まず、差し出すこと」。
 これは悪因縁解消にも通じる大切な姿勢です。
 だから釈尊は修行の最初に布施行をおかれました。
 与えることの意義には大なるものがあります。



「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.14

寺子屋『法楽舘』開講 ─第三回が終わりました(その1)─

 好天に恵まれ、寺子屋「法楽舘」第三回目を開講しました。
 講師を務めてくださった高橋直子さんとプブテンジンさんのお話はとても新鮮で、会場の声は「えっ!」、「ほう」の連続でした。
 高橋直子さんは、「国民総生産ではなく、国民総幸福度を尺度とする政策で運営されているブータンの雰囲気は、戦前の日本に近い」と言いました。
 第一次産業に従事する従事する人が90パーセントを超え、主たる収入源は、水力発電した電気をインドへ売っての収入です。
 コンビニも、マクドナルドも、信号も、電車も、日本食レストランもありません。
 工場もほんのわずかで、必要なモノは皆、外国から買っています。
 医療と教育は無料でありながら、サラリーマンの所得税は2%で済むなど、人々は、とても安定した平和な暮らしをしています。
 もちろん先進国に学び、物質的な発展もはかってはいますが、国土の60パーセントは自然でなければならないと憲法で定められているように、豊かな自然を守りながら、ゆっくりとしたスピードでの開発や発展を目ざしています。
 それでいて、ここ数年は、1年間で約6%づつ経済成長が進んでいるそうです。

 一番驚かされたのは、小学生の勉強ぶりでした。
 学校まで4キロメートル以内に住む子供たちは通学しますが、それより遠い所に住んでいる子供たちは、6歳になると寮生活に入ります。
 5時に起床すると、自習室で読書を中心に、1時間自習します。
 朝のお努めや学校周辺の清掃を行ってから朝食をとり、前日に暗記したお経の発表を行います。
 きちんと覚えていないとムチで叩かれ、翌朝、またチェックを受けます。
 8時10分から12時10分までが午前の授業、13時10分から16時10分までが午後の授業です。
 お茶を飲んでから1時間スポーツを行い、夕方の自習をします。
 その後、約30分、夕方のお努めを行いますが、大安のような吉日には読経の時間は長くなります。
 19時15分から20時15分までの夜の自習が終わると、走って寮へ帰ります。
 21時には消灯なのでぐずぐずできません。
 英語教育は徹底しており、小学生は皆、ブータン語と英語を達者に使いこなし、数カ国語を自由にあやつる子供は珍しくありません。

 鉛筆から石けんの果てまで配給されるので、大事に使って残った石けんは家に帰る時のおみやげになります。
 プブテンジンさんも6か国語が使えます。
 
 こんなブータンですが、とても困ったことが起きています。
 2年前、中国で発行する世界地図が勝手に北部の山岳地帯を中国領として線引きしました。
 抗議しても、なしのつぶてです。
 今や中国国内で流通する全ての地図では、まだ登山する人もほとんどない標高7700メートル級の山々が中国領土になっています。
 しかも、ブータンの国内へ勝手に道路を造り、抗議を受けつけることもなく、道路の建設はどんどん進んでいます。
 わずか4000人しかいない軍人たちはなすすべがありません。
 ここでもチベット化が進んでいるのかと背筋が寒くなりました。
 この話の時ばかりは、会場が静まりかえりました。

 お子さんと高橋直子さんのお母さんも来場され、皆さんから温かい視線を浴びていました。

 法話については、(その2)へ記します。

〈スライドを交えての熱弁です〉 
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〈民族衣裳がお気に入りの高橋直子さん〉
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〈質疑応答も、流暢な日本語でスイスイとこなされます〉
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〈約60人の方々が熱心に耳を傾けました〉
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〈法話とお礼を申し上げました〉
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〈ほほえましいご一家です〉
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〈嬉しい記念撮影でした〉
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〈再会を約して帰られる皆さん〉
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「のうまくさんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.13

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (2)

3 第三条 六道教化(ロクドウキョウカ)

 カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第三番目の経文です。

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。天人の師となり、虚空の願を満たし、苦の衆生を度し、法界に囲繞(イニョウ)し、三宝を供養し、諸仏に値遇(チグウ)し、速やかに菩提(ボダイ)を証せん」


(衆生のために願おう。六道に迷う衆生の師となり、虚空のように無限の願いを満たし、苦しむ衆生を救い、真実世界に遍在し、仏法僧を供養し、諸仏に会って教えを受け、速やかに無上の悟りを得よう)

 行者は一心に願います。

1 み仏のような救済者になろう。
「天人師」とは、み仏のことです。
 地獄界や餓鬼界にいると、なかなかみ仏の教えが心へ届かず、天人界と人間界にいる者がもっとも教えに教化されやすいので、そこにいる二者を代表させて六道全体の師とします。

2 虚空のように限りない願いを成就させよう。
 行者の願いは自他の迷いを解き、共に救われることであり、虚空のように限りありません。
 迷いも救済の方法も無限ですが、それでは願いの内容が明確にならないので、「五大願」に集約させて誓います。

「衆生は無辺なり、誓って度せんことを願う。
 福智は無辺なり、誓って集めんことを願う。
 法門は無辺なり、誓って学ばんことを願う。
 如来は無辺なり、誓って事(ツカ)えんことを願う。
 菩提は無上なり、誓って証せんことを願う」


 行者はこうした願いの円満成就を目ざします。

3 苦海に行き悩む衆生を救おう。
 釈尊は、この世はままならない苦の海であると説かれました。
 根本的な智慧の明かりがない無明(ムミョウ)と、自己中心による煩悩(ボンノウ)とを抱えた者同士が暮らすこの世は、苦の世界です。
 無明煩悩を克服し、共に迷いの岸から悟りの岸へと渡(仏教用語としては「度」と書きます)ることこそ、菩薩(ボサツ)を目ざす行者の使命です。

4 み仏と一体になろう。
「法界」とは、み仏の眼から観た宇宙万物であり、真実世界です。
 それはどこか遠くにあるのではなく、み仏の悟りの次元へ入れば、この世はそのまま真実世界である本当の姿を顕します。
「繞(ニョウ)」は「廻る」なので、「囲繞(イニョウ)する」とは、その世界の隅々まで行き渡っていることであり、どこにでも居ることです。
「法界に囲繞する」のであれば、真実世界のどこにでもいるのですから、それはとりもなおさず、真実世界つまり、み仏と一体になることを意味します。
 行者の修行は即身成仏(ソクシンジョウブツ)が終着点です。

5 三宝を供養しよう。
 み仏は、この世とあの世を存在せしめ、人間を人間たらしめている根本的存在なので、「仏宝(ブッポウ)」と言います。
 仏法は、み仏の教えであり、具体的な救済力なので、「法宝(ホウボウ)」と言います。
 僧はみ仏と仏法を守り伝える者なので、「僧宝(ソウボウ)」と言います。
 これで三宝となりますが、「僧宝」は出家修行者だけでなく、信じ、帰依(キエ)する人はすべてひとしく僧宝です。

6 あらゆるところで、あらゆるみ仏にお会いしよう。
 地獄界では阿弥陀如来様、畜生界では虚空蔵菩薩様が救い主となられます。
 手を治すのは大日如来様と普賢菩薩様、腹腰なら千手観音様が救い主となられます。
 前厄の年には勢至菩薩様、八方塞がりの年には地蔵菩薩様が救い主となられます。
 このように、自他を救う法に入れば、行者は縁に応じた守本尊様方とお会いできます。

7 速やかに悟りを開こう。
 泳げない人は溺れている人を救えません。
 明日まで待たないと泳げないならば、今、目の前で溺れている人のためには何の役にも立てません。
 また、人間の寿命はいつ尽きるか判りません。
 だから、「速やかに」と願わないではいられないのです。



「おん さざんざんざく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.12

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 42 ―恥─(その2)

 受講者Aさんから、作家辺見庸氏が河北新報に書いているエピソードを教えていただき、さっそく確認しました。
 2月9日付の朝刊に掲載された「水の透視画法」です。

 辺見庸が乗っていた電車の車内で、つり革につかまっていた男性が急に影のような黒いものを吐き、床に膝をつきました。
 その時の模様です。

「乗客たちがひくくどよめいた。
 と同時に、影を吐いた男をのぞいて、みなが風紋のように規則的に動作を展開した。
 その場をいっせいにすばやくはなれ、車両の隅や別の車両に無言で移動したのだ」。


 身体が不自由な辺見庸氏は「お体のご不自由な方」用の座席に座ったままで息をつめていました。
 その時、メガネをかけた一人の青年が倒れた男へ声をかけ、空いたシートへ横たえようとしました。
 青年の発音は「だ」や「で」といった濁音の濁りが弱いことから、外国人と思われます。
 青年は「遠巻きにながめる、あるいは眼のはしに二人を入れながら見えないふりをする乗客たちに、眼鏡の奥から助力をうったえた」。
 しかし、誰一人動こうとはしません。
 青年はたった一人でぐったりした老人をシートへ乗せ、集めた新聞紙で吐瀉物を片づけました。
 静かに作業を終えた青年は仁王立ちになり、遠巻きしたままの人々へ涙をうかべつつ叫びます。

「問いの趣旨ははっきりしなかったけれども、断言できることがただひとつあった。
 彼がたとえようもなく怒っていたということ。
 憤怒といってよい。
 おそらくそれまでの人生で彼がこれほどまでに激したことはなかっただろうし、これからもないであろうと想像できるほど身も世もなく怒っていた。
 もうひとつ、疑いないことがあった。
 遠巻きにする砂紋のだれも青年の憤怒にこたえてはいないこと、いっこうに傷ついてはいないらしいことである。
 深く傷ついたのは、眼鏡の青年のほうなのだ。
 大事なことをつけくわえるならば、問いかけられた人の砂紋のなかには私もいた」。


 電車は駅につき、降りる人々に混じって、青年も老人も去ります。
 辺見庸氏は、彼の叫びを忘れられません。

「アナタタチハ、ハカデスカ。ハカデスカ」。


 それはこういう罵りだったと得心したそうです。

「あなたたちはですか。ですか」。


 おそらく人の情けが失われていない国から来たであろう青年には、「臭い」「汚い」「怖い」「面倒だ」「関わりたくない」あるいは「邪魔だ」と潮が引くように去った乗客たちの非人間性が許せなかったのでしょう。
 もしかすると日本での生活は、「信じられない」できごとの連続だったのかも知れません。

 1月21日付の読売新聞にもこんなコラムがありました。
 年末のできごとです。
 車イスに乗り駅前でじっとしているホームレスらしい老人がAさんの目にとまりました。
 用事を済ませて駅前に戻ると、さっきの老人はそのままの格好でいます。
 そこに、オシャレな若者が立ち食いソバ屋のうどんを手にしてやってきました。
 中腰になった若者は、自分も老人と同じ目線のまま、いっしょにうどんを食べています。
 光景を見ていたAさんは、「なぜだか涙が込み上げてきた」そうです。
 きっとその日は、若者も、老人もそしてAさんも、心に灯火がともったまま眠りに就いたことでしょう。

 電車の青年も、うどんを食べさせた青年も、菩薩です。
 仏心の声を無視する〈恥知らず〉ではないのです。
 ただし、密かに怖れるのは、電車に乗っていた人たちの仏心がほとんど眠っていて、か細い声すら発していないように思え、恥と感じる〈因〉そのものがなくなりかけているのではないかということなのですが……。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
02.11

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 42 ―恥─

 の意識は良心からの警告です。
 それは、あたかもガス漏れ警報のようなものであり、無視し続ければ、事故やケガや死が待っているのと同じく、精神が破壊され、行き着くところは〈人間としての死〉です。
 知らずな人はまっとうな人間として生きられなくなり、社会人として通用しなくなります。
 釈尊は、を知って良心(仏心)に違わぬ生き方をする者を「潔く生きる人」とし、知らずを「穢れて生きる人」と説かれました。

 2月10日、NHK文化講座で共に学んだのは『法句経(ダンマパダ)』の「塵垢品(ジンクホン)第二十六」です。

「生を苟(イヤシク)もして耻(ハジ)無く、鳥の如く長喙(チョウケイ)に、強顔(ゴウガン)にして辱(ニク)に耐うるを、名けて穢生(エショウ)という」
「廉(レンチ)は苦なりと雖(イエド)も、義は清白(ショウビャク)を取り、辱(ニク)を避けて妄ならざるを、名けて潔生(ケッショウ)という」


(「人間として生きているのにを知らず、鳥のクチバシのように勝手気ままな口出しや自己主張を行い、厚かましく、恥じることなく平気の平左で生きる者を『穢れて生きる人』という」
「恥を知り、苦しくとも清廉潔白であろうと心がけ、辱められるようなことを行わず誠実に生きる者を『潔く生きる人』という」)

 かつて当山のブログ「罪と罰 (その3)」に釈尊の言葉を記しました。

(ザン)とは、自分の良心に従って罪を犯さないことであり、(キ)とは、他人へ良心に従う大切さを教えて罪を犯させないことである。
 は自分の羞恥心に正直なことであり、は他人様を意識して恥をかかぬようにすることである。
 は人に恥じることであり、は仏神天地に恥じることである。
 これをという。 
 の念が無い者は人とは言えず、畜生と呼ぶべきである」


 まことに厳しく、一点の疑念もない水晶のような、あるいはダイヤモンドのような教えです。

 また、高級官僚の楊震を訊ねた王密が「誰にもわかりませんから」とワイロを渡そうとしたおりの有名な言葉も記しました。

天知る、地知る、子知る、我知る」


 秘密が漏れやすいという意味では「壁に耳あり障子に目あり(源平盛衰記)」が有名で、朝鮮では「昼間の話は鳥が聞き、夜の話はねずみが聞いている」と言うそうです。
 いずれにしても、「どうせバレないから」という考え方は仏神を無視し、良心を無視したもので、そうした醜い生き方をすれば、因果応報の結果になるのは当然です。

 あなたは畜生になるのですかという釈尊の教えを、自分の胸できちんと受けとめておきたいものです。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
02.10

完全なシステム

 大東文化大学で哲学を教えておられる吉永良正氏の説が新聞に紹介されていました。

リハビリテーションの五段階説というものがあります。
 突然の障害に見舞われた場合、それを受容するまでに五つの段階─ショック期、否認期、混乱期、解決への努力期、受容期─をたどるというものです。
 私は〝ひらめき〝に恵まれるのも同じプロセスをたどると思うのです」

 
 古い原理で説明できない事態に遭遇した時に、人はこのそれぞれの段階を経て「あっ、そうか!」と突然ひらめき、納得へ至るというのです。
 受容も同じ過程をたどるとありましたが、まったく同感と言うしかありません。

 思えば、十三仏のご守護はまさにそれぞれの心の段階に即しており、受容へと導く法のシステムは人知をはるかに超えています。
 おそらく、いかなるコンピューターをもってしても、数千に及ぶみ仏・明王の徳を分析・分類・総合してこのシステムをつくりあげることは不可能ではないでしょうか。

完全〉とは、まさにみ仏へこそ冠せられるべき形容です。
 信ずるというただ一つの心のありようでその世界へ入られる私たち人間は、実に果報者です。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
02.10

例祭だより(2月の第一例祭)

 2月7日は第一例祭を兼ねた「春祭厄除千枚護摩祈祷会」でした。
 前日は今年一番の寒さと吹雪でお寺も雪がもりもり、道路はテカテカで大変な日でしたが、7日当日は晴れて気温が上がって雪も溶け始めました。
 当日ご参詣の方が「昨日は地獄で今日は天国だね~~~!」などとおっしゃってましたが、まさにその通りでした^v^

 それにしても素晴らしい護摩でした。
 いつもの2倍くらいの炎がぐんぐん上がりました。
 煙もすごかったですが^^;なにしろ千枚も護摩木を焚くので、約1時間半太くて高い火柱を前にされている住職はもう汗だくです。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前!」
九字を何度も切っておられました。
 その間私達はご参詣の方達とともにひたすらお経を唱えました。
 すべて終わったあとは皆さんすっきり一安心。
 これできっと今年の厄も祓えたに違いない!という実感がありました。

 当日の朝に花瓶の水代えをしているときに発見がありました。
 白い菊と黄色い小菊の水につかっている部分の茎からなんと、根っこと新芽が出ていたのです。
 そのお花は1月の初旬に逝かれた元親輪会会長の佐藤さんのご葬儀のお花でした。
 ずいぶん長持ちする花束だなぁと思っていたところ、ついに根が生えてきました。
「さすが、佐藤さん・・・・」
 住職に早速お知らせしたところ、びっくりされてカメラを片手に走ってこられました^^

 いろいろなところからメッセージをいただけます。
 佐藤さんのパワーをいただきながら、今年もコツコツ精進します。

 もうすぐ本当の春ですね・・・・♪

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
02.09

お寺でご葬儀をされませんか ─寺院葬のご提案─

 最近、ご葬儀に関するご相談が多く、皆さんのご意見をお聞きしているうちに、一番の問題は「全部でいくらかかるのか」というシンプルなところにあると気づきました。
 しかし、葬祭業者さんの仕事の分野もあり、寺院で行う分野もあります。
 まして当山は、お布施の額を決めてはおりません。
 そこで、信頼できる葬祭業者さんのご協力を得て、「病院へのお迎えから、百か日の法要まで」のすべてを含めて50万円でお送りできるプランを用意しました。
 
○お通夜はご自宅でも、寺院ででもできます。寺院葬です。
○ご葬儀と百か日までの法要は寺院で行います。(ご自宅での密葬もご相談ください)
戒名はすべて、ご希望されない場合を除き、男性なら「院居士」、女性なら「院大姉」となります。
○当山で行う修法を信頼される方なら、何宗何派の方でも、家族葬でも一般葬でも一切の区別なく、しっかりお送りいたします。
○墓地がどこにある方でも区別なく、しっかりお送りいたします。
生前戒名を含め、事前の契約もできます。
○この中には、ご自宅で枕経を行うための準備や、納棺、ご遺体の安置、お通夜の準備、霊柩車を含めた斎場関係の一式、ご葬儀関係の一式、百か日までの法要関係の一式、そして、戒名も含め寺院へのお布施一切が含まれており、各所で用いるお花や、ご供物なども心配いりません。
※ただし、法要後に会席を行う場合の「お料理」と「お香典返し」と「送迎バス」と「ご遺体の安置供養料」については別途、葬祭業者さんとご相談いだかねばなりません。

 そもそも、ご葬儀寺院、あるいはご自宅で行われていたものです。
 それが最近では、葬祭会館さんのご努力で、とても便利でスムーズなお別れができるようになりました。
 ご葬儀が心配なく行われるようになったことに関して、大いなる功績がありました。
 当山も仙台市はもちろん、県内外各地の葬祭会館さんへ出向いて修法を行ってきました。
 しかし、一面、寺院側の問題もあり、ご本尊様がおられる聖地でお別れをするという本来の姿が見失われつつあることも確かです。
 また、葬祭業者さんの料金設定に関する疑問、そして、寺院のお布施に関する疑問も生じています。
 
 寺院でお別れを行えば、仏法上、これ以上の安心はありません。
 かかる費用を葬祭業者さんと寺院の間で調整すれば、ご尊家様が、「細かな計算で上下する料金」と、「本来金額を決めて提示されるべきでないお布施」との足し算で悩む必要はありません。
 これが、人の死という人生最大の辛いできごとにぶつかった方々へお別れのお手伝いをさせていただく者からの一つのご提案です。

 もちろん、生活保護を受けておられる方など、このプランでも大変な方々はおられましょう。
 古来、「駆け込み寺」と称されてきたとおり、寺院は拠り所であり、皆さんの人生相談は絶えません。
 どのようなことでも、出来る限りの対応を行いますので、どうぞ、ご安心の上、ご相談ください。
 悩まず、諦めず、とにかく、み仏が説かれ、ご先祖様方が導かれてきた修法によってしっかりと「この世とあの世の区切りをつけ」、「確かな安心の世界へ旅立っていただく」ために、智慧を寄せ合いましょう。
 
 皆さん、どうぞこのご提案をご検討下さい。
 また、ぜひ、ご意見をお寄せいただきたく存じます。
 送る立場としては、ご尊家様も葬祭業者さんも寺院も同じです。
 協力し合いながら、より安心で納得できる方法を考えてゆきたいと願っています。
 慈悲と智慧とによって生み出された方法を、仏法上、「方便(ホウベン)」と呼びます。
『大日経』は、「方便の実行こそが最高の行為である」と説きます。
 それをめざそうではありませんか。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
02.08

春祭厄除千枚護摩祈祷が無事終わりました

 おかげさまにて、春祭厄除千枚護摩祈祷は無事、終わりました。
 前日の豪雪にもめげずご参詣された方々と共に祈り、修法後は、窓の外に広がる青空と真っ白な笹倉山を目にしながら、ゆっくりお茶をいただきました。
 お菓子は、皆さんからご本尊様へ捧げられたご供物です。
 目には青空、皆さんの笑顔。耳には皆さんの笑い声。鼻には護摩法の匂い、お茶とお菓子の香り。舌にはご加持したご供物。そしてご加護と親和の気配。
 五感六根を楽しませつつ皆さんと過ごした1時間は、溜まった疲れを吹き飛ばしてくれました。

〈守本尊様方は清浄な炎に住し、輝いておられました〉
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 昭和22年に発行された正岡子規の「病床六尺」が目にとまりました。

「人の目障りになるといふのは誰でも眼の高さと同じ位のものか、又はそれよりも高いものかゞ我が前にある時にうるさく感ずるのである。
 それであるから病人の如くいつも横にねて居るものには眼の高さといっても僅に五寸乃至一尺位なものである。
 今病人の眼前三尺の處に高さ一尺の火鉢が置いてあるとすると、それは坐って居る人の眼の前三尺の處に凡そ三四尺の高さの火鉢が置いてあるのと同じ割合になる。
 此場合には坐って居る人でも多少の窮屈を感ずるであらう。
 まして病人の如く身田體も動かず、手足も動かず如何なる危険があってもそれを手足で防ぐとか身を動かして逃げるとかすることの出来ないものは只さへ危険を感じるのであるから其上に呼吸器の弱いものは非常な壓迫を感じて精神も呼吸も同時に苦しくなる事は当たり前の事である」


 35歳の正岡子規が死の2日前まで書きつづけたこの随筆は、観るべきものを観通してしまう眼の澄浄さで読む者を圧倒します。
 善男善女の厄除開運を祈る護摩祈祷を終えた身で、なぜこの書物へ手が伸びたのか、よく考えて皆さんと共にこの春夏秋冬を過ごすつもりです。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
02.08

伝えられた思い ─切り花から出た根と新芽─

 本堂の花瓶で3週間以上も生き続けているがあり、よく保つものだなあと関心していたところ、水を換えたばかりの橋さんがとんでもない発見をしました。
「先生、切りから新芽がでていますよ!」
 珍しく素っ頓狂な声に、私思わず、もエッと大きな声になってしまいました。
「どれどれ」
 カメラを抱えてご本尊様の前へ走り(寺の中では決してゆっくり歩かず、いつも走っていますが…)、花瓶から出してもらった本へ目を凝らしました。
 よく判りません。
 見たことのないものは、すぐに発見できないのです。
「ここですよ」
 指さす先をあたらめてよく見ると、ヒゲのようなが横へ伸びています。
 それに、茎に添って新芽らしいものも上をめざして伸びています。
 うーんと黙ってしまいましたが、高橋さんの頭にも私の頭にも、同じ思いが去来していました。
「佐藤さん、貴男は何をおっしゃりたいんですか?」
 は、元親輪会会長の佐藤さんを供養するために捧げられたものだったからです。

 いつも当山のことを心にかけ、突然の死を迎える直前も愛用のパソコンに当山のことを打ち込んでおられた佐藤さんは、あの笑顔でこう言っておられるのでしょう。
「私の法楽寺への思いはなくなっていません。私の心は、いつも完成を楽しみにしていた本堂にありますよ」
「私の法楽寺への思いを未来へ伝えてください」

 花に詳しく、ハーブ系統のものを水栽培している橋さんも、花瓶を伸ばし、新芽を出した話は聞いたことがないそうです。
 どうやったらこのを生かせるか、さっそく調べることになりました。
 また一つ、当山で言い伝えたい物語ができました。
 佐藤さん、本当にありがとうございます。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
02.07

【現代の偉人伝】第92話 ─NGO「家(JIA)」を運営する原田燎太郎氏─

 2月6日付の朝日新聞は、中国で元ハンセン病患者を支援する原田燎太郎氏を取りあげた。
 彼は、早大4年生だった平成14年、中国広東省潮州市郊外にある嶺後(リンホウ)村を訪れた。
 今でも街まで自転車で1時間かかる奥地の村は、昭和35年にハンセン病患者300人以上が隔離されてできた。
 現地の支援者団体に案内され、回復者の帰宅が許されるようになってなお村に残るしかない14人と会った彼の心は定まった。

「進路が決まらず、居場所を探していた。そんな心に村がすぽっとはまった。深くかかわれば自分を磨ける気がした」


 約20年間、心の根無し草だった身には、〈居場所のない〉感覚がよく理解できる。
 下地がきちんとできていない壁は、いかに見た目は見事であっても長持ちせず、内から崩れる。
 下地の失敗を知っていながら上塗りを重ねているのが〈居場所のない〉感覚であり、やり直さない限り、そこから脱出できない。
 彼の言う「深くかかわる」は、新しい下地を作ることに匹敵する。

「電気や水道はない。建物は古く、トイレもない。雨が降ると地面がぬかるむ」村の住宅を整備するため、募金にとりかかった。
 空き家に住み、筆談で方言を身につけるところから始めた彼は地元の大学でも協力を呼びかけた。
 しかし、最初は感染を警戒したり、言い訳をしたりする学生が多かった。
 そんな中で、トイレを造った学生がこうした手紙をくれた。

「通訳だけのつもりが、想像を超えた現実が待っていた、君が村人と握手するのを見て本当に感動した。人生の大事な教訓を学んだ。人を愛することを教えてもらった」

 
 やがてテレビの取材などもあって活動は拡大し、今は、中国南部約50ヶ所に活動拠点ができ、2000人もの会員を擁するまでになった。
 日本の財団の支援に頼らず、会員の寄附で活動できるところを目ざしているという。

 現在の村長(63歳)は述懐する。

「日本人を憎んでいたが、彼らは私たちを差別せず、家まで建ててくれた。信じられないことだ。時代は変わったと思った」


 かつて日本軍に占領された村では、日本兵が食料を奪いにきた話が言い伝えられている。
「信じられない」のは当然である。
 しかし、原田燎太郎氏の活動で、村人たちの日本観が変わった。
 それは当初、とても小さなできごとでしかなかったはずである。
 しかし、差別され、虐げられた人々の心に灯った灯火は真実の明かりだった。
 いかなる風も消すことはできず、明かりは明かりを呼び、社会を大きく照らし始めた。
 だからこそ、団体活動を厳しく取り締まる中国で、日本人主導のNGOでありながら、ここまで発展したのだろう。
 たった一人の決断、知った以上は放っておけないというまごころが時代を変えた。

 広州に住んで中国人と結婚した彼は、長女の名前を村の名前と同じ「りんほう」とした。

「人と人との関係を壊してきたハンセン病が、今度は人を結びつけた」


 きっと、1万人のうち9999人にとって、ハンセン病は忌み嫌う対象でしかないことだろう。
 あって欲しくない、いわば絶対悪である。
 しかし、取り組むたった一人の心によって、それは、患者への偏見の解消、日本へのわだかまりの解消、そして、喚起された思いやりによる人々の連帯感の醸成をももたらすきっかけとなった。
 原田燎太郎氏へ確固たる居場所を与えたのはもちろんである。

 やはり、この世は大日如来の顕現であると思う。
 お大師様は説かれた。

「心原(シンゲン)を悟るがゆえに、一大の水、澄静(チョウジョウ)なり」


 欲しい、惜しい、損した、得した、好きだ、嫌いだと揺れ動く心のままでは、何もかもが自分にとって〈白いもの〉か〈黒いもの〉でしかない。
 しかも、心一つで、何もかもが白く見えたり黒く見えたりして、この世は動揺の巷となる。
 ところが、心のステージを変えれば、森羅万象は澄み切った水が映し出す美しい世界となり、ありとあらゆるものの活き活きとしている真実が観えるようになる。
 ハンセン病を人々が結びつく機縁とした原田燎太郎氏は、それを教えてくれた。
 菩薩である。



「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
02.06

菩薩とは ─「蕨野行」を読む (その3)─

 村田喜代子作「蕨野行(ワラビノコウ)」を再読し、読誦している虚空蔵菩薩の経典を思い出した。

「救世(グゼ)の大仙(ダイセン)は、四つの無尽を説きたもう
 (クウ)及び道心(ドウシン)と、衆生(シュジョウ)と仏の行となり。
 もし財これ実ならば、則ち貯え聚(アツ)むべきなるも
 実と無実にはあらず、これをもて無尽なり。
 究竟(クキョウ)の法は、すでに無尽を尽くし
 尽きるも尽きざるもなし、これを無尽という。
 この門を知る者は、菩提(ボダイ)に近づき
 この門に住するが故に、速やかに菩提を成ず」

(世の人々を救う偉大なる釈尊は、4つの無尽を説かれた。
 という存在の根本的なあり方、道を求める心、生きとし生けるもの、悟った聖者のはたらきである。
 これらは無尽である。
 もしも財物が確固としてあり続けるものならば、それをたくさん蓄えることもできようが、
 財物はそうしたものではなく、また、まったくどこにもないということはなく縁に応じて現れるので、尽きるとも尽きないとも言えない。
 究極的な真理も、尽きるとか尽きないとかといった尺度を超えているので、
 尽きることなく、尽きないこともない、これを無尽というのである。
 この教えを知る者は、悟りへ近づき、
 この教えそのものになり切るので、速やかに悟りを開けるのである)

 ここで言う「無尽」は、普段、私たちが一般的思考で「尽きない」と考えるのとは違う。
 尽きる尽きないという次元を超えた次元にあるという意味である。
 似ている言葉に「無学」がある。
 仏法で言う「無学」は、普段、私たちが一般的思考で「学がない」と考えるのとは違う。
 学びを究め、もう学ぶ学ばないという次元を超えた智慧を持つこと、あるいはそういう状態へ到った聖者を指す。

 かつて、功徳荘厳王と父とし徳光を母とてして生まれた獅子進は、出家して悟りを開き、虚空蔵菩薩となった。
 その境地では、もはや何ものも、尽きる、尽きないという次元を超えている。
 だからそこにいれば、あらゆるものは余すことなく、不足もせず、充ち満ちている。
 何もないかのような虚があればこそ、一切妨げられることなく万物が生じ、滅するのと同じである。
 その境地には、あたかも虚いっぱいに蓄えるかのように宝ものが蔵されており、虚空蔵菩薩へ祈る者へは、祈りにふさわしいいかなるものも、もたらされる。
 真の祈りは空へ到る。
 その祈りの世界には飢餓も飽食も、貧困も富貴もない。
 食物も金銭も空(クウ)となっているからである。
 有るものはあって空、無いものはなくて空である。

蕨野行」では、里から山へ入った2種類の人々がいる。
 第一のグループは、村の掟を定めと心得、還暦をもって里を離れ、野に生えるワラビのように自然へいのちを預けた人々である。
 彼らは自由に里の人と会うことはできないが、死ぬまで里の人と心を通わせ合いながら、老いに任せ、自然の恵みに任せつつ枯れたように死んで行く。
 第二のグループは、村に適応して生きられず、里を捨てた人々である。
 獣のようにたくましくなり、生き抜くことがすべてとなっている。

 第二のグループの一人は、姉である第一のグループのババへ言う。
「姉さんは里の人から山へ捨てられた身ではありませんか。その姉さんを私が拾って救うのです。
 もう人の世を離れた姉さんが死を待つ小屋から出て、生きられる場所を求めても良いのではありませんか」
 姉は言う。

「おめだちは人の世を離れて有りつる。おれだちワラビは人の世に棲みてこの齢を経るなり。生き方に二種ありなん。ワラビ野は人の世が作りてある所なり」

 そして妹の誘いを断り、掟どおり小屋で苛酷な冬を迎え、この世を去る。
 ワラビ野へ行入って里を離れはしたが、里にいる人々と同じ村人であることは変わりなく、村の運命にかかわりつつ生き、死んで行く。
「人の世」の人としての務めを果たすことにおいては、里の人も、ワラビと称されるジジババも同じである。
 生からも死からも決して逃げない。
 一人一人の生も死も、村全体のできごとであり、村のできごとは一人一人のできごとである。

 第二のグループにある人々は終生、空(クウ)を感得できないことだろう。
 食べ物が「有る」か「無い」かという世界で生き、死ぬ。
 しかし、第一のグループにあるワラビにとっては、自分たちから食物を奪い、凍死させる役目を持って訪れた雪までもが、驚喜の対象となる。
 冬にきちんと雪が降れば、翌年の気候はきっと不順にならず、豊作をもたらすからである。
 自分たちは雪に埋もれて死ぬが、里にいる家族や村人たちが来年たっぷり米にありつけるという知らせを受けたならば、喜ばないではおられない。
 ワラビこそが空(クウ)を生き、「無尽」を生きる人々である。

 村という共同体にいる人々一人一人と自分は同じであり、そうした一人一人へ思いをかけ、そこから離れない。
 まさに菩薩である。
 描かれた村は貧困であり、悲惨に満ちてはいるが、よく観ると虚空蔵菩薩の世界である。
 だからこそ、ワラビとなって死ぬババは、「次の世にても人身を得て、里へ帰りて参ろうなり」と覚悟し、死後、転生のために、里にいる嫁の腹へと向かう。
蕨野行」は菩薩を考えるすべての人々にぜひ読んでいただきたい宝ものである。



「おん あみりたていせいからうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
02.05

朝青龍の引退

 2月4日、新しい季節が始まった日は冬を迎えて以来一番の冷えこみとなり、「早春賦」どおりの「春は名のみの風の寒さ」に日本中が震えた。
 そんな中、横綱朝青龍引退した。
 平成14年に若干22歳の若さで横綱へ昇進し、幕内優勝回数は25回(歴代3位)を数えた。
 角界にあっては小柄なので、強い足腰をさらに鍛え、体重を増やす努力も重ねた。
 最も思い出に残る一番として、故国から初めて両親を呼んだ平成13年夏場所初日、小結になったばかりの身で巨漢横綱武蔵丸関を破った一番を挙げた。
 後輩の白鳳が横綱になるまでの4年間はたった一人で横綱の位を守り続けた。
 平成17年には一年間、すべての場所を制覇した。
 そんな彼が、日本中から後ろ指を指され、優勝したばかりで土俵を去る。

 平成18年、フランス代表とイタリア代表が戦ったFIFAワールドカップの決勝戦において、フランスのジダン選手がイタリアのマテラッツィ選手へ頭突きを行って退場となり、そのまま引退した事件を思い出した。
 当時、私はブログへこう書いた。
「泣けました。もしそばにいられれば一緒に泣きたいと、心から思いました」
「彼の姿は、私たちの姿です」
「ああ、ジダン選手―――。
 人間というものの実態を見せてくれた英雄―――。
 一日も早く、胸を張って歩く日が来ますように」

 今、人間朝青龍へ同じ気持を抱いている。
 日本中の人々が石を投げようと、彼の側にいられるものなら、黙ってそうしていてやりたい。
 後輩白鳳の勢いに押されながら横綱として対抗し優勝を目ざさねばならない彼は、稽古も飲酒も含めてあれが〈精いっぱいの日々〉だったに違いない。
 もちろん、素行に問題はある。
 言い訳は許されない。
 しかし、彼の精いっぱいだけは丸ごと、認めたい。

 もう、ほとんど覚えておられる方はおられないだろうが、ジダン選手の事件後、フランスのマスコミは一時、事件の発端となったマテラッツィ選手の言葉には許し難い家族への侮辱や人種的差別が含まれていたと報道し、フランスの英雄を擁護する世論が高まった。
 しかし、平成20年、「マテラッツィはジダンに対し、人種差別的な侮辱発言はなかった」との判決が下り、英紙デイリー・スターから謝罪と共に約4000万円の賠償金を受け取ったマテラッツィ選手は、激しい非難にさらされた日々を「辛かった」と話している。
 ことほど左様に、こうしたできごとの真実は、当事者以外になかなか判らないものである。
 そして、世論も報道も、一色に染められがちである。

 これまでの朝青龍の言動には、横綱という立場にありながらいかがなものかと思われる点があったことは確かなのだろう。
 今回、何らかのトラブルがあったのも確かだろう。
 朝青龍は朝まで飲んでも勝負には勝って優勝カップを獲得し、事件も示談になったが、それでも許されないのは「権威」が守られねばならないからだ。
 異国から来日し、普通なら大学を卒業する年齢で伝統社会の頂点に立った若者には、権威が重すぎたのだろう。
 それでも、頻繁にマスコミから、世間から、上層部から叩かれつつ、投げ出さずにここまでよく耐え、相撲人気を守ってくれたものだと思う。
 やはり、彼の〈精いっぱい〉だけは丸ごと、認めたい。

〈春は到来したものの、まだ、雪空。名残雪を踏みつつ、車がご参詣の方々を講堂へお連れする〉
コピー ~ 220205 029



「おん あみりたていせいからうん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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