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2010
03.31

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (4)

 行者魔除けのために使う錫杖の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第四番目の経文です。

4 第四条 三諦修習(サンタイシュジュウ)

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。
 真諦(シンタイ)を修習(シュジュウ)して、一切の衆生を大慈大悲し、俗諦(ゾクタイ)を修習(シュジュウ)して、一切の衆生を大慈大悲し、一乗を修習(シュジュウ)して、一切の衆生を大慈大悲し、仏宝と法宝と僧宝との一体三宝(イッタイサンボウ)を恭敬(クギョウ)し供養せん」


(衆生のために願おう。
 仏界の究極的真理を修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与(バックヨラク)しよう。俗界の真理を修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与しよう。中道真実の教えを修め習い、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与しよう。仏宝と法宝と僧宝との一体三宝を恭敬し供養しよう)

 行者は一心に願います。

1 仏界の真理である「(クウ)」を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、を与えよう。

 一切のものは因と縁によって、今、かりそめに存在しているだけで、永遠にり続けるものは何一つありません。
 たとえばお気に入りの車を考えてみましょう。
 いかに毎日磨いていても、モノである以上、必ず壊れ、いつかはなくなります。
 酸性雨に当たっただけでも、塩分や化学物質を含んだ土埃を舞い上げただけでも、腐食します。
 の意識がないと、ちょっとしたトラブルで「大事な車を傷つけられた!」と憤り、とんでもない結果を招いたりします。

 こうした〈の眼〉をきちんと持つためには、正しい修行が欠かせません。
 仏性を発揮したの視点から生きとし生けるものを観た時、を悟らずに我が身を守ろうとするだけの姿勢から発する苦にあえいでいる姿に、大きな悲しみが起こります。
 そこで、「苦を抜こう」という意志が起こります。
 また、大きな慈しみが起こり、「を与えよう」という意志が起こります。
 こうして行者菩薩(ボサツ)の道を歩みます。
 自分だけが安心・安泰になろうとはしません。
 第三者的に見ているだけではいられなくなるのが菩薩です。

2 俗界の真理である「心とモノの扱い方」を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、を与えよう。

 すべてはであっても、私たちの五感は確かに姿を見、音を聞き、香りを嗅ぎ、舌で味わい、触れて感触を確かめます。
 そうした刺激へ適切に対応し、適切に自己を表現できなければ、まっとうに生きられません。
 身だしなみを整えて公の場へ出るのは社会人として当然のたしなみです。
 はっきりした言葉で挨拶を交わすことも人間関係を円滑にするために欠かせません。
 おかしな匂いで周囲の人々へ迷惑をかけぬよう気をつけることも社会にある者として当然の心配りです。
 また、おいしい料理を作って食べる人のためになるのは尊い行為です。
 肌触りの良い服を作れば赤ちゃんは笑顔になります。

 こうした〈るもの〉への道理にかなった対処法を身につけなければ、社会人として通用しません。
 一切は空であるからといって世間の動きと無関係に一人超然としている仙人のような人は、仏法の説く理想の人間像である菩薩とは遙かに隔たっています。

3 空にも(ウ)にも偏らない深く広い智慧を正しく学び、正しく考え、正しく実践して、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。
 
 大きな慈しみの菩薩である弥勒菩薩(ミロクボサツ)様は、56億7000万年もの長い間、浄土から私たちを見守り続け、どうしても悟りきれない最後の一人をも必ず救い上げてくださる使命を持っておられます。
 だから、別名を慈氏菩薩といいます。
 大きな悲しみの菩薩である観音菩薩様は、どんな悲しみや危機をも見逃さず、癒し、救ってくださいます。
 だから、大悲観音と称され、代表的なものに狩野芳崖の描いた悲母観音などがあります。
 こうした方々は、すでに悟りを開いたにもかかわらず、慈悲心の大きさゆえに悲しみや苦しみやストレスに満ちたこの世と常に関わっておられます。
 その救いの手は、空の真理とへの対処法という二つの真実によって確かなものとなり、私たちはいっときなりともそのご加護から漏れることはありません。
 何とありがたいことでしょう。
 
 私たちは、菩薩様方を手本として弥勒様や観音様と同じ菩薩道を歩むべく、この世に生まれたのではないでしょうか。
 等しく仏性を持っていることがその証拠ではないでしょうか。

4 仏法僧を尊び、供養して、しっかりと仏道を歩もう。

 み仏が仏宝、教えと法が法宝、それを守り伝える者が僧宝ですが、これは本来、一体です。
 み仏といってもただ超然としておられるわけではなく、仏身は絶えず説法され、私たちは仏身から切り離されてはいません。
 また、学び実践しようとする者にとって、み仏の存在と、教えと救済力の確かさは、自明の前提であり、み仏を観じ、教えを理解し、通じる相手へ伝えるという実践のない僧侶はあり得ません。
 つまり、仏法僧は常に一体です。

 これはプロの僧侶に限ったことではなく、み仏を信じ、救済を願い、教えを学び、共に仏法を守って行こうとする方々はすべて僧宝です。
 錫杖に導かれつつ、しっかりやりましょう。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.30

4月の守本尊は普賢菩薩様です

 今月(4月5日より5月4日まで)の守本尊普賢菩薩様です。
『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩(ボンノウ)による苦を解決し、心の平穏を保つための道筋を知る智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩は、自分を迷わせるだけでなく、他からの邪魔を呼び込む魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
03.30

4月の真言

 4月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
03.30

『大日経』が説く心のありさま六十景 その2「無貪心」

 私たちが怒り〉や〈り〉や〈怒り〉や〈迷い〉を脱し、〈感謝〉や〈平安〉や〈智慧〉を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があります。
大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、まずは、しっかり省みることにしましょう。
 第二回目です。

2 無心(ムトンシン)

りの無い心」と読めるのでとても良いように思われるかも知れませんが、この場合の「」は煩悩(ボンノウ)に負けて「もっと、もっと」と食欲や色欲を膨らませる状態ではありません。
 人間として追い求めるべき真理や真実に無関心な状態です。
 経典は「無染(ムゼン)の法に随順す」と説き、いわば、何かで染められることを怖れるあまり、引っ込み思案になっている姿勢です。
 これではいけません。
 
 仏教においては欲を無くすことが理想であるという誤解が広がっています。
 小乗仏教ではそうした色合いが見られないこともありませんが、大乗仏教はそこを超えています。
 アラカンさんが何にもこだわらず何も欲しくなくなり、ただ無邪気に泣いたり笑ったりしているしているだけの姿は、大乗仏教の理想像ではありません。
 自分だけが安心で安泰で、およそストレスの発生がないところでのんびりと憩う姿は、理想像である菩薩(ボサツ)から最も遠いものです。
 仙人と菩薩はまったく異なります。
 菩薩は、世間に不安や危険やストレスの発生があるならば、自分もまたそうしたものを相手にする覚悟を持って、そうしたものに悩み苦しむ方々と共に歩もうとします。

 聖徳太子が大切にした『維摩経(ユイマキョウ)』の主人公維摩居士(ユイマコジ)が病気で伏せっているところへ、いつも言い負かされている釈尊のお弟子さんが訪ねて意地の悪い問いを発します。
「あなたほどの神通力を持っている方が病気で休んでいるとはどういうことですか?」
 得意の神通力で治してしまわないのはおかしいと詰問しています。
 維摩居士は悠然と応えます。
「皆さんに病気があるかぎり、私もまた病気を引き受けるのです」
 同じ苦しみを自分の身に受けてみてこそ、本当の慈悲も、克服するための本当の智慧も湧いてくるということです。

 こうした菩薩の姿勢は、お地蔵様の「代受苦(ダイジュク)」に結晶します。
 身代わりとなって苦を引き受けてでも、信じすがる者を救うのです。
 お地蔵様が「地獄の底までも行く」というのはこのことです。

 大乗仏教における修行の目的は、小乗仏教や仙人を目ざす道とはまったく違います。
 自分の心身を安泰にし、ストレスから逃れるのではなく、あらゆる縁の人々と共にあらゆる苦を共に脱することができる力を体得する志がなければなりません。
 菩薩道とは、この力をつけるための修行道です。
 僧侶は当然、法力を目ざし、医師なら治療力、歌手なら歌唱力、書道家なら筆力、漁師さんや農家の方なら胆力や忍耐力が必要になりましょう。
 志があり、力を求める姿勢があれば、どの世界で生きても菩薩道を歩めます。
 大乗仏教に至り、仏教が在家の方々と身近なものになったとはこのことであって、僧侶が行者たる姿やふるまいを捨ててしまうことではありません。
 むしろ、僧侶は祈りのプロとして存在価値を保てるよう、世間の方々の何倍も身を慎み、法力を磨くべきであると考えています。

 幻の「自分」という殻に閉じこもり、我が身を大切にしてばかりいるのではなく、〈生かされている〉身であることを自覚し、「無心(ムトンシン)」を離れ、生かしてくださっている天地自然・国家社会・地域や家族のために、たとえ小さなはたらきであろうと何かのできる菩薩を目ざして生きたいものです。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
03.28

お焚きあげが終わりました。

 今月も、お焚きあげが終わりました。
 遠く関西から送られたお品もあり、関東方面からかけつけた方もおられ、厳粛な一時間でした。

〈お焼香をしていただきます〉
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〈終了後、簡単な法話を行います〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.28

生前戒名をお授けしました。

 中年のAさんご夫婦へ生前戒名をお授けしました。
 ご本尊様の前で、恩を忘れず、戒めを守り、善なる目的へ向かってまっすぐに歩む決心をされ、ご夫婦そろっていつもの穏やかな瞳が強さを増しました。
 文字通りの「生き直し」です。

 大乗仏教における仏道の歩みは、自分の(ゴウ)を清めたり、ストレスを溜めない方法を身につけるといったところに目的があるのではなく、人間として備わった徳を磨き、自分を生かしている天地万物へ感謝し、恩返しのできる人間になることが真骨頂です。
 ありていに言えば、「おかげさま」と感謝し、「おたがいさま」と見知らぬ人へも手を差しのべつつ生きる「まっとうな人間」になるためにこそ、み仏のお導きがあると考えています。
「悪を積んでしまった人も、これではいけないと生き直し、他人の悪行や困難を目にしたならば、ストレスになるからといって逃げず、見返りを求めずに自分のできることを行う」。
 こうした道が菩薩(ボサツ)道ではないでしょうか。
 仏道=菩薩道は万人へ開かれ、大工さんも、看護士さんも、床屋さんも、誰でもが歩めるのです。

 こうして、この世の幸せは、あの世の安心につながります。
 Aさんご夫婦の仏弟子としての未来は、きっと、これまで以上に感謝と安心と福徳に満ちたものになることでしょう。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.28

護持会を発足していただきました。

 3月27日、檀信徒有志の方々によって「大師山法楽寺護持会」を発足していただきました。
 その「目的」です。

「本会は法楽寺に集う檀信徒が仏心を学び人間性を高めて法楽寺を護持することを目的とし、会員はその目的達成のために親睦をはかる」


 また、会則にはユニークな一項目があります。

「役員の伴侶及び住職の伴侶は、いつにても役員会及び総会へ出席できる」


 人生の苦楽を共にしている伴侶が、心のよりどころをどうするかという大事な場面に同席することには、少なからぬ意義があると考えています。

 かねて、たくさんの方々からご要望が寄せられていましたが、時期を待っていました。
 ようやく、天の時地の利人の和が調い、この日が来たことは、まことにありがたく、身が引き締まります。
 孟子は団結の重要さを説きました。
「天のもたらす幸運は、地勢の有利さに及ばぬ。
 地勢の有利さは、人の和に及ばぬ」
 しかし、やはり、〈天〉運の動きを観て時を待つことは大切です。
 そして、足元がどうなっているか、〈地〉の状態もよくチェックせねばなりません。
 
 世間では、お布施集めや僧職者のふるまいなど、寺院にまつわる醜聞が絶えません。
 何ごとも「他山の石」として我が身を省みつつ、前へ進みます。

 順次、ご縁の方々へ正式なご連絡が届くことでしょう。
 25名もの役員の皆さん、そして、当山へ心をお寄せ下さっておられる方々、これからご縁になられる方々、ご指導・ご鞭撻・ご助力をどうぞよろしくお願いします。合掌
 


「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.28

住職の履歴が月刊誌『りらく』さんに掲載されました

 月刊誌『りらく』4月号の「思い出写真館」に履歴が紹介され、恐縮し、若干とまどってもいます。
 一つには、倒産によって世間様へさんざんご迷惑をおかけし、現在も多くの方々のお支えでやっと仕事を続けている者が履歴などをとりあげていただくことは不遜であると考えるからです。
 もう一つには、私は現在もなすべきことを山ほど抱えている〈現職〉であり、ご縁を求める皆さんと願いも哀しみも安心も共有しようとする現場の人間なので、過去へ頭をはたらかせる余裕がないからです。
 編集者から何か適当な写真を探してくださいと要請された時も、写真を整理する習慣のない私は何がどこにあるかわからず、大いにご迷惑をおかけしました。
 地位や名誉と縁がなく、ただただ走り続け、やがては前のめりに倒れるであろう私のような者には不向きなお話であろうと感じましたが、やはり、いつもどおり「失敗者であっても、一人の人間の苦しみや生きざまを見ていただくことが、誰かの何かの役に立てれば良い」と思い直し、恥を忍んで愚かしい過去のお話を申し上げました。
 記事はあまりにも好意的におまとめいただいていると感じ、こそばゆくてなりません。

 わざわざデータをお送りくださったので、掲載させていただきます。
 ただただ「皆さんに、この世の幸せとあの世の安心がもたらされますように」と念じつつ──。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.28

2010年4月の運勢(その2)

4 急いで結果を求めることなく、信ずるところを何度でも根気強く行えば達成できます。
 古人は、冬至から日が長くなるので、冬至を太陽が復活する日と考えたそうです。
 努力が目に見える形に結晶しないうちは「この先どうなるのか…」と不安にもなりますが、それは冬至へ向かっているようなものだと考えてしっかり歩みましょう。

5 自分の身からそぎ落とすべきものを観て、実行しましょう。
 事業家Aさんは、盛んに活躍していた頃
「右手で稼いだ財は左手で使わなければならない。貯めておけば(財も心も)腐る」
と考え、公私共に見事な使いぶりを通しました。
 もちろん無定見な浪費ではありません。
 そのおかげで、事件に巻き込まれ、財をすっかり失った際も心にかけていた事業は見事に残り、功績は永久に称えられます。
 このように、我が身から取り去るべき対象は心の穢れだけではありません。
 穢れをもたらしそうなモノも智慧の目で観てきちんと処置したいものです。

 六波羅密(ロッパラミツ)行で開運しましょう。

布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人は我が身を捨てる覚悟で信じる人に従い、納得できる結果を得られます。
 不精進の人は善悪を見誤り、苦労が実らなくなりがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)を供えましょう。
 精進の人は地道に進んで安泰です。
 不精進の人は誘惑に負けたり情に流されたり怒りに駆られたりして失敗を招きがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は雨風に負けない初志貫徹で成功します。
 不精進の人は目移りしたり、多情になったりして他人に足を引っぱられがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は学んでいち早く力不足を補い、障害を打ち破って成功します。
 不精進の人は持ちかけられた難題に軽率に取り組み、失敗しがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は思いがけない福が舞い込み、公的にも吉事があります。
 不精進の人は和を失い、福もまた、目の前から逃げがちです。
智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は信仰心と誠実さが遠くの人にまで知られ、吉果をもたらします。
 不精進の人は生来のいいかげんさと焦りが祟って失敗しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.27

平成22年4月の運勢(その1)

 2010年4月の運勢について記します。
 この場合の4月とは、4月5日から5月4日までの間(清明穀雨)です。

1 自分の損を厭わず全体のために身を呈する器量のある人が現れれば〈こと〉が成る時です。
 誰しもが自分の利益を第一にして動きがちですが、そうして成るのは私的な小事です。
 聖徳太子は説かれました。

「公のものごとを行う際に私情が入れば恨みが生じ、公正さがなくなり、円滑に進まず決まりも破られる」。


 釈尊は説かれました。

「この世は皆が長過ぎる箸を持って食事しているようなものである。とても食べにくい。誰かが誰かに自分の箸で食べさせてやればお互いが食べやすくなる。苦を脱するためには、自分を第一とする我欲を離れて与えよ」。


2 今月は、力のある者が力の弱い者へ力を分け与えたり加勢したりすることによって膠着状態を打開できることでしょう。
 人の持つ能力は全差万別であり、得るものに差がつきます。
 差がほどほどであれば、組織も社会も公正であり得ます。
 しかし、それが多くの人々の理解・納得できる限度を超えれば不公正となります。
 階層が固定化し、恨みと蔑みが生まれ、皆が刺々しく渇いた空気を緊張して吸いながら暮らすようになります。
 現世的な力をたくさん持った人は、修養と実践とにより、我欲高慢さを離れて初めてまっとうな人格者になれます。
 釈尊は説かれました。

「豪貴(ゴウキ)にして道を学ぶは天下の難事である」。


 しかし、天下の苦を解くためには、権力や財力や地位のある人々が「道を学ぶ」ことは必須です。
 お大師様はそのためにこそ、天皇などへ説法されました。

3 座して待っていても棚からボタモチが落ちてはきません。
 待つことなく、自ら動いて通じさせられる時です。
 意志は表情に表れ、言葉に表れ、行動に表れます。そこに共鳴や共感が生まれれば心が通じ、ものごとが動き始めます。
 意志を固めることを「発心(ホッシン)」といい、お大師様は

「発心すれば即ち到る」


と説かれました。
 覚悟が決まれば、あとは一本道です。
 歩む人の道ばたを共鳴・共感という心の花々が飾ってくれることでしょう。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
03.26

4月の聖悟 ─弘法大師の教え(2)─

 お大師様は、恵果尚から密教のすべてを伝授されて帰国する際に、その根本がいかなるものであるかを示されました。
 仏法密教)の意義、仏法のはたらき、仏法の救い、仏法の導きです。

「この法たるやすなわち仏の心(シン)、国の鎮(チン)なり。氛(フン)を攘(ハラ)い祉(サイワイ)を招くの摩尼(マニ)、凡を脱れ聖に入るの虚径(キョケイ)なり」


(この法こそが、仏の要である。
 この法こそが、国の鎮めである。
 この法こそが、災いを除き福を招く宝珠である。
 この法こそが、悟りを開く近道である)

 3月は、「この法こそが、仏の要である」について考えました。
 4月は「この法こそが、国の鎮めである」を考えてみましょう。

2 密教は、国の安泰と世界の平和を説く。

 釈尊は、人間を神と階級制度から解放しました。
「人間を含む万物は、因と縁により、この世でかりそめの姿を現しているだけであって、固定的・絶対的な存在物はない」
「人間の持つ徳の違いは生き方によるものであり、生まれによるものではない」
 こうした教えは、人間のぶつかり合いを最も先鋭化させる「神による争い」と「階級による争い」が迷いによるものであることを明確にしています。
 それから2500経っても、人間は神や民族や階級の違いをベースにした紛争や戦争を延々と続けています。
 真の平和をもたらす思想は何であるか、そろそろ、世界が気づくべきではないでしょうか。

 聖徳太子は、仏法から導き出された平和論として、「人々はの心で交わり、政治は謙虚で寛容でなければならない」と説かれました。
 愚かな私たちは、「それ三宝に帰せずんば、何をもってか枉(マガ)れるを直(タダ)さん」つまり、仏法僧に帰依し導かれなければ、迷いや争いを離れて安心で平和な社会に生きられないのです。
 聖徳太子は、儒教などをことごとく学び研究した上で、仏法を導きの要と位置づけ、真理に導かれてこそ個人も国家も安泰であると喝破されました。
 そして、同時に、神道による祖先への祭祀を欠かさず、以来、明治維新まで天皇家は仏教と神道を大切にしてきました。
 神や仏をあげつらって争わず、寛容な姿勢で人智を超えた存在を尊ぶ私たちの宗教文化は、一朝一夕にできたものではありません。
 おりおりに神社と仏閣両方へお詣りする日本人の宗教感覚があいまいであるという批判はありますが、宗教による対立を超える心と社会のありようとして、私たちは誇りこそすれ、卑下する必要はまったくありません。
 心の平安と社会的融和があれば、それ以上、何を求めるというのでしょうか。

 お大師様は、伝授された密教を完成させました。
 ありとあらゆる神も仏も鬼も共存し、感応し合うマンダラがその象徴です。
 お大師様は個人が仏法へ帰依するだけでなく、政治も又、仏法思想によって行われてこそ平和が保たれると考え、天皇を初めとする国家の中枢を担う人々へ布教を行いました。
 ─弘法大師の教え(1)─にも書いたとおり、「お大師様へ帰依した嵯峨天皇が『薬子の変』の後、西暦818年に死罪(死刑)を廃止してから保元の乱によって源為義が首を斬られるまで、347年間にわたって死刑が行われなかった」のは、世界でも奇跡的なできごとです。
 釈尊に始まった安心と平和をもたらす仏法の清流は、聖徳太子によって日本中に流れ出し、お大師様によって広く深い流れとなりました。

 互いに「(クウ)」であればこそかけがえのない輝きを持っていることを認め合いましょう。
「和」を離れた安心は個人的にも社会的にもあり得ないことをはっきりと認識しましょう。
 マンダラにおける「共存」の思想が、個人的には公と私の関係を円滑にし、社会的には世界平和の根本となることを考えましょう。
 平和を願うならば、釈尊と聖徳太子とお大師様によくよく学びたいものです。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.25

寺子屋『法楽舘』開講 ─第五回の予定─

「カンボジアの小学生を支援して」
─留学生と共に、カンボジアと日本を観る─

○日時:4月10日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

 寺子屋の特別ゲストはカンボジア小学生教育支援の会・仙台/CES』代表熊谷千枝子さん留学生(大学生)さんです。
 熊谷千枝子さんは、平成13年に発足した会について、こう述べておられます。

「仙台市を拠点にカンボジアの子供たちの識字教育支援活動を行う草の根NGO。
 旧活動母体『プリズム』での活動を経て、2001年に『カンボジア小学生教育支援の会・仙台(以下CES)』として独立、以来歴代の在仙カンボジア留学生、そして在カンボジアNGOである『We love Canbodia』と共に、カンボジアの子供たちの識字教育支援活動を行っています。
 2004年からはJICA/独立行政法人国際協力機構が実施する『市民参加協力事業(海外プログラム)』の認可を受けるなど、仙台発のカンボジア支援団体として多彩な活動を行っています」


 以下、財団法人国際交流協会広報誌『さいらういんど』vol.59の記事を紹介します。

「一期一会 はじまりの経緯」
 
 もともと『難民を助ける会』の活動を通して東南アジア地域情勢や当時深刻であったインドシナ難民問題を勉強する他、カンボジアの子供たちへの文房具支援にも携わっていました。
 ただ、現在まで続く私とカンボジアの関係の始まりは96年、当時東北大学学部生として留学していたカンボジア留学生ジム・ソピアープ君との出会いでした。
 彼はカンボジアを長い混迷に陥れた紛争終了後再開されたカンボジア留学生第一期生の一人。
 全留学生7名の内3名が仙台へ来ていたことは非常に幸運であったと思います。
 ジム君との出会いは今でも鮮明に覚えています。
 当時発足したばかりの『プリズム』として、どんな活動をすればいいのかと考えながら、宮城国際交流年鑑をめくっていた時、『在日カンボジア留学生協会』の存在を知りました。
 ジム君と待ち合わせをしたのは奇しくも仙台国際センターの交流コーナーでした。
 ジム君の佇まいの中に仏教の連綿たる潮流を見、その真摯さに共感したというのでしょうか。
 その後にカンボジア留学生と共に行った教育支援活動を通じて、現在まで続く活動の原動力である信頼関係を築いてきたと言えるのかもしれません。

「活動 仙台発!カンボジア草の根支援と交流の波」

 初期の活動としては、帰国するカンボジア留学生に支援金を託し、現地の支援ネットワークを通じて最も支援が必要とされる地域への教育物資支援などを行っていました。
 現在の支援の中心は、現地カンボジアNGO『We love Canbodia』を通じた識字教育施設『Asian Future School』の運営となっています。
 また日本国内の活動としては『カンボジアフォーラム』と題して地域の皆様を対象にカンボジアとCESの取り組みを紹介し、CESの目的と活動に賛同いただけるよう支援の輪を広めてきました。

「メッセージ 一番大事なこと、そしてこれから」

 日本で国際交流が叫ばれて随分たちますが、『交流』が意味することは何でしょうか?
 字が示す〝交わって流れる〟ことが交流であるとして、国や文化を超えた2者の間で交わし合い流し合うものは一体何なのでしょう。
 もう一度私にとっての交流、足元から始まる国際交流の意味を考えていきたいと思っています。
 CES初代代表のリムフォンさんの言葉に『希望こそが(カンボジア)再生の鍵、そして子供たちは希望そのもの』、があります。
 CESは今後ともカンボジアの地で一人でも多くの子供に学習の機会を与え、そしてその中からカンボジアの発展を担う青年たちが育つことを願って、全国にネットワークを広げている『在日カンボジア留学生協会』、そして現在NGOである『We love Canbodia』と共に活動を継続していく所存です。
 CESにとって、カンボジア小学生教育支援に関わる3者の信頼関係と支援の輪こそが活動を継続させていく原動力です。
 人と人とのつながりを大切に今後の活動につなげたいと思います。
 また今年はCESにとって『JICA市民参加協力事業(海外プログラム)』の最終年度であり、節目の年を迎えています。
 CESとしてこれまでの、そしてこれからの活動の目的・指針・成果を確認し、この節目を越えていきたいと思います。
 今後の予定としては報告会、勉強会などを開催し、より多くの方々にカンボジアについて関心を持っていただくこと、そしてカンボジアが抱える課題の背景にあるものの本質について、理解、交流、支援の視点から一緒に考えていきたいと思っています。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.25

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 45 ―蕨野行(ワラビノコウ)─

 3月24日は、映写機とスクリーンを持参し、映画『蕨野行(ワラビノコウ)』を鑑賞しました。
 熱心な受講生の方々にどうしても観ていただきたかったからです。

 小説『蕨野行』については、これまで何度かブログ「想いの記」へ書いています。
 ちなみに、「姥捨て山 ─『蕨野行』を読む (その1)─」では、こう紹介しました。

 無縁社会無縁死を考えつつ、村田喜代子作「蕨野行(ワラビノコウ)」を読んでいる。 
 これは姥捨て山の物語である。
 
 ある村には古来の約定がある。
 還暦を迎えた者たちは春の土用が来れば家を出て、半里ほど先にある丘「ワラビ野」へ行く。
 その日から、老人っちはこの世での姓名を離れ、等しく「ワラビ」と呼ばれる。
 ワラビ野に食べ物はない。
 ワラビは毎日、揃って里へ降りてきては里人の生活を扶け、食にありつく。
 掟により、ワラビは里で口をきかない。
〈いない〉ことになっている者が黙って必要な役割を果たすのは、能舞台の黒子と同じである。
 秋の終わりになると、ワラビは家へ戻る。

 ワラビは当然、年齢を重ね、だんだん弱って里へ降りられなくなる。
 一日休めば一日飢え、やがては死を迎える。
「命強く活きる年寄は残し、弱え年寄りは早々に逝かせるべし」
 数年に一度くる凶作によって里人が全滅するのを避けるための智慧だという。
「若え者、小児の糧をばワラビのジジババの命と替えて養わんか」
 還暦を迎えたお姑(ババ)ヌイは、還暦前に亡くなった者たちを思うと、ワラビ野へ行く「野入り」を迎えられたことは「快事」であると言う。
 小川にかかる丸木橋がワラビ野と里の境界である。
 一旦境界を越えた者は名を捨て言葉を捨て、黒子となる。
 再び境界を越えて里へやってくるのは、もはやA家のジジでなければB家のババでもない。


 映画は小説のセリフをかなり忠実になぞっており、山形県に残っている里や山の原風景とあいまって、人間が自然の一部としてすなおに生きていた時代を見事に表現しています。
 製作が「日本の原風景を映像で考える会、タイムズイン」によるものであることは、よく理解できました。
 原風景とは、「文明が節度を守り、人間の生活がまるごと自然に抱かれて風景の中へ溶けこんでいる」こんな景色ではないでしょうか。
 自然はワラビたちをほどほどに生かし、やがて殺します。
 自然の懐へ赴く老いた人間は、生きものとして生きられるうちは生き、やがて衰え、自然に呑み込まれて自然へ還ります。
 原風景にあっては、人間はまぎれもなく自然の一部です。
 鳥や魚と同じくその恩恵を被って生を謳歌し、与えられた一個の生命としてその苛酷さへ対抗できるうちは対抗し、力が尽きれば次の世代へいのちをつないで役割を終えます。
 人間は、草や木とすら、何ら変わるものではありません。
 生々流転の主役はあくまでも自然の王である山であり川であり、雨であり、風であり、雪です。

 この映画は、そうした原風景にあって、人間としての節度を守り、智慧をはたらかせ、覚悟を決めて振る舞う人々の物語です。
 冒頭に「これは姥捨て山の物語である」と書きましたが、Aさんから「むしろ、グループホームではないでしょうか」とのご指摘をいただきました。
 確かにその見方の方が正確でしょう。
 限られたメンバーが各々の持つ力を出し合って共生する形は、現代でも理想像として考えられています。

 ところで、農耕文化に欠かせないものは稲ですが、稲の品種が世界中で激減していることは広く知られているでしょうか。
 品種が減った、つまり、だんだん均一化されている理由は、「F1」と称される生産性の高いものが流通するようになったからです。
 多様性は生きものの世界の健全度を示すバロメーターであり、それが損なわれること自体、大問題です。
 しかも、多様性を破壊している「F1」は遺伝子操作などによる人工の稲であり、恐ろしいことに一代限りという特性を持っています。
 植物であれ動物であれ、生きものが生きものであるとは、いのちを次世代へつなぐ力を持った存在であるということです。
 もちろん、個体ごとの事情によってはそれができない場合もありますが、基本的な構造はすべてそうなっています。
 そもそも、いのちのバトンタッチを受けなければ、いかなる生きものも、この世へ誕生できません。
 それなのに、人間は今、目の前に作り出す便利で格好が良く安価な、しかし、生きものとして致命的な欠陥を持った食べものを食べて、自分のいのちを養おうとしています。
 何と恐ろしいことでしょうか。
 
 私は、狂牛病が報じられた時、恐ろしさとおぞましさに戦慄しました。
 本来植物を喰う牛に動物性の食べものを与えていたこと、しかも共食いをさせていたことは、私たちの文明が根底的なところで節度を失ってしまった象徴であると考えました。
 天罰が下るのは当然です。
 あの事件は、現代文明への警鐘であり、鉄槌を含んでいます。
 私たちは厳しく私たちのありようをふり返るべきでした。
 しかし、日本では狂牛病という呼び方を嫌悪し、BSEと言い換えることにしました。
 私は深く失望したことを今も覚えています。
 人間によって牛のいのちが狂わされた、人間が狂わせたのだという意志を伴った〈真実〉が脇へ追いやられ、いかなる真実をも示さない記号を用いることによって、巨大な悪業は、ただの〈できごと〉でしかなくなりました。

 そして猛威を振るい始めたF1です。
 3月21日の黄砂は、いつも眺めていた笹倉山を覆い隠しました。
 自然を破壊し続ける中国では、干魃などによる未曾有の飢饉が近づいているといわれています。
 人間が〈自然の一部である〉という節度を守って生きることはもう、できないのでしょうか。
 節度を失った文明にもっともっと大きな鉄槌がくだらないで済むなどということが予想できましょうか。

 恩地日出夫監督はこうつぶやいたそうです。
「この映画が今、必要なんだよ」
 今なら、間に合うのでしょうか。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
03.24

梅、たんぽぽ

 戦後すぐに仙北へ住み着き、開拓民としてはたらいたAさんが亡くなりました。
 まったく医者要らずの頑健な身体で、90歳を過ぎてもかくしゃくとしていたそうです。
 ひ孫にも恵まれ、自分と4世代の家族とが力を合わせて作った生活環境の中で生涯を終えられました。

 戒名の一字が出て、面識がなかったAさんのお人柄の一端を感じとれたと思いました。
 お通夜の修法後、戒名についての法話でこのことを話したところ、Aさんはが大好きで、何本ものの木を育て、毎年たくさん干しを作っていたと教えられました。
 今では実がなりすぎるために一家では食べきれず、近所の人々へ解放しています。

 斎場を一足先に離れ、部落の墓地で立ち並ぶお墓を順番に供養していたところ、句が刻まれた法名碑を見つけました。

220323 003

「蒲公英(タンポポ)の絮(ワタ)の如きか遠く来て開拓の地に根付きし我は」


 毎日托鉢行に明け暮れていた時代を思い出しました。
 あの頃は、私もたんぽぽのワタのような気持でいたものですが、この作者とは少し思いが異なります。
 行の途中では多くを語らないけれども、袈裟衣を着けて歩く姿を見ていただく托鉢行は、まぎれもなく布教活動であると考えていました。
 たんぽぽの種はみ仏の教えであり、種を運ぶたんぽぽのワタは私でした。
 飛んだ意識をもう一度、法名碑へ戻してみると、「根付きし我は」が心の表面からずうっと沈みはじめ、しばらく放然となりました。
 この部落の皆さんは荒れ地を切り開き、作物を作り、家畜を育て、家族を養いながら生き、亡くなればこうして日当たりの良い所で共に眠っておられるのだ………。

220323 001
 
 葬儀の開始を待つ間に外を見回りました。
 南へかけて平地が広がっており、荒れ地の想像もできません。
 寄せ集めの材木と塗り壁で造られた大きな小屋はおそらく家畜用だったのでしょう。
 ところどころ壁土がはげ落ちてはいても、しっかりと建っています。
 年月や風雨や地震を考えてみると、「根付きし」人々の持っている勁さの象徴に思えました。
 大きな老がところどころに白い花を咲かせ、小さな樹は赤茶色の蕾を膨らませています。

 の咲く3月に生まれ、梅を愛し、梅に送られて3月に逝ったAさん、本当にご苦労さまでした。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.23

哀しみは人をつくる

 柳田邦男氏は、とても大切な指摘をしています。

「根元的な意味での『悲嘆癒し』とは、哀しみを消すのではなく、むしろ哀しみを土壌にして、新しい『生きていく自分』、あるいは新しい『自己イメージ』をつくる仕事であってみれば、どこかで自分が、受け身にでなく主体的に、何かに向かって一歩を踏み出さなければならない時期がやって来る」


 こうして瞳の光が深くなり、笑顔に柔らかさが増し、心に納まりがついて家族・肉親・友人などのから立ち直る方々を幾人となく目にしてきた身としては、まったく同感と言うしかありません。

 母親を亡くした方が、親から受けた恩をようやく実感し、懺悔し、供養をします。
 妻を亡くした方が、よろける身を立て直し立て直ししているうちに、静かにまっすぐ生きてゆくようになります。
 子供を亡くした方が、悲嘆の涙を流し流した末に、笑顔で無常を話すようになります。

 悲嘆が霊性を深め、高め、清め、磨いたのでしょう。
 こうしたプロセスに立ち会っていると、「成功よりも失敗が人間をつくる」といわれている意味が解ります。

 しかし、中には、を簡単に放り出す方もおられます。
 あるいはへ歪んだイメージを持ち、忌避し、いわれのないタブーに怯えるあまり恩も愛も忘れ、自己保身のつもりが自己溶解や自己破壊になってしまう方もおられます。
 こうした無視や逃げや曲解は決して人をつくりません。
 生きものとしての人間にとって、誕生と並んで最も厳粛なできごとであるは、いつしか「何かに向かって一歩を踏み出さ」せ、やがて〈深いふるまい〉をもたらします。
 きっとその時、私たちは、たとえ無意識にではあっても無常を悟り、(クウ)を悟り、そうした真実をふまえて生きるようになっているのでしょう。

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
03.22

4月の俳句 (その2)

 俳人信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

しづる音しみじみと独りなる


しづる」は「垂る」であり、木の枝などに積もっている雪が、太陽を浴びたり気温が上がったりして少しづつ融けて落ちること。
「ササッ」といった微かな音しか伴わないが、独りで静寂を相手にしている身には充分すぎるほどはっきり聞こえている。

屋根の雪ばさと落ちけり猫の道


 屋根に積もった雪が、ときおり、バサッと落ち、広がって壁近くまで雪だらけになる。
 軒下は猫が行き来するための大切なスペースだが、雪がとうせんぼをしてしまった。
 かわいそうだと思っても、作者は「あらら、まあ」と思うだけで手を出せないでいる。

さらさらと坂道下る雪解水


 雪解けの水は、問答無用に清浄である。
 壕(ホリ)であれ、道ばたの側溝であれ、あるいは道の端であれ、一心に低きを目ざす。
 触れなくとも冷たさが実感できそうだ。
 車の通らないアスファルト道にくねりながら細い筋を作って流れる水が、キラキラと光っていたりする。

下萌(シタモエ)や石の割目にあるいのち


下萌」は、春になり草の芽が地中から出始めることである。
 芽は朽ちた葉の間からのぞき、黒い土の表面で点になり、石の割れ目で、「ここにいたよ」といのちのありかを示す。
「萌」に含まれる「明」は、いのちの明かりであり、希望の明かりではないだろうか。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
03.22

まいぐるり

 毎月イラストを投稿してくださっているAさんは、未成年ということもあって、ずっと素性を伏せていましたが、ある日、突然、一緒に来山していたお母さんが居合わせた方々へ紹介しました。
「『法楽』にイラストを描いているのはウチの子なんです」
 時が来たのなあだと、なぜか安心しました。

まいるくるり



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2010
03.21

例祭だより(3月の第二例祭)

 3月20日。ちょうど春のお彼岸に第二例祭が行われました。

 ここのところまるで5月?というくらい温かくなったと思えば、雪が降ったりと寒暖の差が激しい日々です。
「暑さ寒さも彼岸まで」
といいますから、これからはほんとに春本番♪花粉も本番ですね(汗;)

 当日はとても温かく、お墓参りの方が講堂にもたくさんお参りに来られてとてもありがたかったです。

 例祭にも多くの方が参加されました。
 護摩の炎も高く燃え上がり、なにやら煙がいつもよりたくさんこもっているような?!気がしてしましたら・・・
 例祭が終わりに近づいた頃、なんと火災報知機が鳴り出しました!
 慌てて丹野さんが寺務所に設置してある警備会社のコントローラを見にいき、音を止めました。
 煙が抜けていくようにいつも大日如来様の後ろの高窓をあけているのですが、当日は外気温が高くなってきたせいか煙がなかなか抜けていかなかったようです。
 しかも・・・換気扇を回すのを忘れておりました;;;すみません!

 住職のお話は・・・

 最近話題の「葬式は、要らない」という本のお話です。
 住職は「亡くなった方を送る」いう現場に常におられる立場から語られます。

 大切なご家族が突然亡くなった時、悲しみに暮れている方、放心状態の方、気丈にされてても心はとても動揺されているのが分かる。
 そこに、住職が駆けつけ法を結ぶ。葬儀ではあの世に旅立つ為の「引導」を渡し、祈る。
 この人生最後の大仕事である「死」の悲しみをご家族と一緒に乗り越えるべく、ひたすら修法し祈る。

 儀式が終わると、皆さんは「ありがとうございました・・・ありがとうございました。」と心から言われるそうです。
 そんな時、ご家族の皆様のお心は何らかで癒されるを感じ、僧侶のやるべきことは無用とは思えない。
 お葬式は亡くなった方をお送りする儀式で、ご家族も区切りをつけ、安心し、悲しみを乗り越えるために「要らない」とはとても言い難い。と・・・

 わたしもお葬式の現場にはいなくともお寺にいるとそれはよく分かり、同感です。
 実際、母親のようだった祖母を亡くした時に、遠藤住職に駆けつけていただき、葬儀をしていただきました。初めて住職とお会いした時でした。(それがご縁で今法楽寺にいるのが不思議です)
 96歳だった祖母のお葬式は家族親戚だけのとても簡素なものでしたが、遠藤住職は立派な葬儀をしてくださいました。
 おかげで、直後の悲しみもだいぶ癒され、安心しました。
 院号が付いている立派な戒名もいただき、その戒名を見ると、
「ああ、おばあちゃんは仏様になったんだなぁ」
と納得し、ちょっと崇高な雰囲気をも感じます。
「苦労の多かったおばあちゃんも立派に仏様の名前が付いて、天国で安心しているんだな」
と実感できほっとするものです。

 現在は亡くなった方の送り方がいろいろあったり、様々なお寺さんでの心無い対応などに触れたり、聞いたりすると、「葬式は要らない」という風潮が出てきても無理はないような気がしますが、本来のお寺の役割として果たすべきことが皆様にお役に立つことができれば、お葬式は決して「要らない」と断言できるものではないと思うのでした。

 では、このへんで、
 ものすごい突風が吹いた21日の春彼岸会の日に・・・。

〈午後4時から写経会を行いました。 photo by Rika Takahashi〉

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2010
03.21

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その5)」─

 ここまで書いてきて気づいた。

 一つは、「これを続ければ、あげつらいになる」ということである。
 一方的に『葬式は、要らない』についてこまごまと書きっぱなしにするのは、フェアでない。
 生き残った者や、相手を打ち倒して権力を握った者が自分の立場を第一にして歴史を書くのと同じになりかねない。
 問題点の指摘で終わりにし、後は、それを参考にして著者と異なる視点からも問題を考えてみる方々がおられることを願うしかない。

 もう一つは、「この本に挙げられている事実のほとんどが、当山における現実とは異なったものばかりである」ということである。
 たとえば「檀家という贅沢」に書かれている、「檀家にはあずけている故人の冥福を祈ってもらっているという自覚がほとんどない」とか、「寺で供養するのは檀家の先祖でしかない」とか、まるで、〈あり得ない〉別世界が著者の批判を受けている。
 だからこれ以上反論しても、それは、隣の子がその隣の家人からいわれなく叱られたからといって、自分の子が叱られたと勘違いして文句を言うのと同じになってしまう。

 もう一つは、「葬式は要らない」、「葬式坊主は要らない」という姿勢は、「問題を是正しながら尊い葬式を洗練してゆく」、「僧侶本来の生き方で、あるべき寺院を創ってゆく」という姿勢とは交わらないということである。
 それは「政治が悪いから国会をなくせ」という主張と、「政治のありようをただして、国会を民主主義が実現できる場にしようと努力する」という姿勢が交わらないのと似ている。
 二者の議論はなかなか創造的に高まらない。

 そして最後には、著者の論点を突き詰めれば、葬式とそれにまつわる戒名などは「昔はなかった」、「贅沢だ」、「無意味だ」といった判断が根にあり、葬式などの本義を実現すべく〈現在〉にすべてを集中させている者とは、見えている世界がまったく違うということである。
 用いる言葉の意味も意義も異なっているのだから、実りのある議論はあまり期待できない。
 冒頭で、これ以上進めればあげつらいにしかならないと危惧した根拠はここにもある。

 あるできごとを書き、葬式は要るか要らないか、皆さんのご判断を待ちたい。

 Aさんは、生後数ヶ月のお子さんを亡くされ、当山へ葬儀を依頼された。
 枕経で目にしたご遺体は、突然死だったので司法解剖を受けたにもかかわらず血色がよく、まるで眠っているかのようだった。
 オモチャやミルクが周囲をとりまき、守り刀は大きすぎ重すぎるので脇へ置かれている。
 ご遺族はどなたも放心の気配であり、衝撃の強さがひしひしと感じられた。
 お通夜戒名をお渡しし、修法後にその意味をお話し申し上げた時は、こちらも崩れ落ちそうになるほど辛かった。
 参会者はすすり泣き、喪主ご夫婦は拳を握りしめ、肩を震わせておられる。
 両親もおそらくは家族の方々も一生懸命考えてつけられたこの世の名前は、もう、役に立たない。
 亡きお子さんは戒名を自分の名前としてまっすぐにみ仏の世界を目ざす。
 短かかったいのちも儚ければ、同時に、名前も儚い。
 新たな名前を前にしたご遺族は、無常の哀しみを骨の髄まで染み込ませられる。
 喪主は挨拶で述べられた。
「父親にしてくれてありがとう」
 葬儀で別れの言葉を述べたのは母親である。
「まだちっちゃくて、よくわからないだろうから、ママがお話するね。
 生まれてくれてありがとう。
 お祖父ちゃんたちに、いっぱい、遊んでもらってね」
 二人の声は終生忘れられないだろう。
 
 皆さんが無常を突きつけられる場に立ち会い、できる限り同じ気持ちで無常を受けとめる。
 ご遺族の気持を体して一心にみ仏へ祈り、哀しみを超えてゆくためのシンボルとして戒名を授かり、お伝えする。
 そして、歴史によって洗練された正統な修法をもって引導を渡す。
 こうして皆さんと共に無常に泣き、祈り、哀しみや辛さを超えつつ、無常の理に即した思考・生き方を共に創ってゆく共同作業をコツコツと続けたい。
 その作業やそれに伴うシンボルやお次第や、そして一連の作業すなわち法務を行えるプロが必要であるかどうかの判断は、皆さんへ委ねるしかない。

 突然の終幕になってしまいました。
 もしも、〈これから〉を期待していてくださった方がおられたならば、心からお詫び申し上げます。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.20

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その4)」─

 お彼岸になり、生前戒名のお申し出も複数あるので、『葬式は、要らない』における章の順番と関係なく「生前戒名は増えている」事実をのべておきたい。

 島田裕巳氏は前掲書第6章で「生前戒名が広まらない理由」とし、2つを挙げている。

1 「戒名が死後の勲章の性格をもち、亡くなってからでないと、本当はつけるのが難しいからである」


 例として手塚治虫の「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士」などを示す。
 そして、寺が儲けるためにこうした長い戒名をつけたかも知れないとし、生前に得度して戒名を授かっていたならこうしたものにはならないだろうという。

 反論である。

 寺が儲けようとしているとの指摘は、残念ながら人生相談などで、相手かまわず高額なお布施を要求する例を数多く耳にしており、当たっている場合もある。
 しかし、当山は戒名の本義に基づき、戒名料として下さるお布施の多少とまったく無関係に、魂の色合いが顕れる「院号」と、いかに生きてきたを示す「道号」と、得度し、生き直して授かる徳を含む「法名」とを等しくみ仏から授かり、お伝えしている。
 皆さん「~院~~居士」あるいは「~院~~大姉」となる。
 まっとうであろうと努力している寺にとって、主張は暗い憶測であるというしかない。

 また、生前に得度した場合はこうなっていなかっただろうにと心配しておられるが、無用である。
 生前戒名を求める方は教えの実践を決心し、恩を忘れず、戒めを守って生きる努力をされる。
 その結果、とてつもない社会的貢献をしたからといって、「私の戒名をもっと立派なものにして欲しい」などと亡くなる前に、あるいは亡くなってから希望するはずはない。
 これまで生前戒名を求められた方々は例外なく、その方なりに、み仏を信じ教えの実践に励みつつ人生を送っておられ、あるいは人生を送られた。
 仏弟子として生き直しをされた方は、そうした下世話なことを考えなくなるのである。
 こうして生き抜いた方が亡くなられた場合、故人の生きざまを知っている家族や周囲の方々は、おそらく誰一人として「もっと長い戒名にしないと故人にすまない」などと考えないはずである。
 もしも、見栄からそうした願いを持つ方が相談に来られたならば、「それは戒名の本義に背いており、故人がそうした考えを喜ばれるかどうか考えてみてください」とお話し申し上げ、道理に基づく判断を求めるのみである。

 だから、「早く戒名を授かると、死んだ後問題が起こる」という考え方は、戒名の本義を無視しており、本義を理解し求める方と授けるみ仏の間で行われる生前戒名の授受という真実からすれば、あまり意味はないと判断する。

2 「戒名の中に使われることばは、どれも基本的に仏教の教えとは関係しない」


 例として山本五十六の「大義院殿誠忠長陵大居士」を挙げて仏教よりも儒教との関連を感じさせるとし、「仏教の各宗派が、自分たちの養成する僧侶に戒名のつけ方を教えないのも、戒名と仏教徒の関係が明確ではなく、むしろ縁がない可能性が高いからである」と類推する。

 反論である。

 まず、たった1例でこうした結論を出すとは、信じがたい議論である。
 こう書かれた前のページには、冒頭の手塚治虫他、2例がある。
 渋沢栄一は「奉徳院殿仁智義譲青淵大居士」である。
 田中角栄は「政覚院殿越山徳栄大居士」である。
「奉」「徳」「仁」「智」「義」「譲」「淵」「覚」「山」「徳」「栄」すべて、仏教において用いる文字である。
 著者は、不都合だからご自身で書かれた前のページを無視されたのだろうか。
 信じられないやり方である。
 ちなみに、当山では、善男善女の求めに応じてみ仏の前で祈り、み仏から降りた戒名が「仏教の教えとは関係しない」もので埋められていた例は、たった一つもない。
 戒名の本義に照らして行う者にとっては、ありがたい文字や言葉が授かるのはあまりに当然な事実であり、真実である。

 また、「僧侶に戒名のつけ方を教えない」も暴論である。
 当山では正統な伝授を受けた私が正統な修法を行い、結果をお伝えし、喜んでいただいている。
 お伝えする場では、涙が伴う場合も少なくない。
 生前戒名は、まぎれもなく誰しもが本来み仏の子である真実を明らかにし、受者の行く手を照らすからである。

 以上が反論と現場における真実であり、当山においては「生前戒名は増えている」のが歴然たる事実である。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
03.19

【現代の偉人伝】第97話 ─和紙クリエーターの堀木エリ子氏─

 和紙クリエーターの堀木エリ子氏が、朝日新聞に書いています。

「私はこの仕事で面白い教訓を得た。それは『できるかどうか』と思っているうちは結局何もできないが、できないかもしれないという考えを捨ててしまえば、人間はできる前提でしか前に進まないということだ。できる前提で取り組むことによってプロ意識が芽生え、失敗を肥やしとし、結果もおのずと現れる」


 これは、平成12年のハノーバー博覧会に際し、最高時速125キロメートルで走行可能な和紙の車を造るプロジェクトに参加した時の感想です。
 同感としか言いようがありません。

 行者が修行や祈祷や伽藍建立などに取り組む場合、「できないかもしれない」とは一瞬も思いません。
 なすべきことと思い定めたならば、あとは、やるだけです。
 結果はご本尊様へお任せする以外ないので、成就の可否は自分の問題とはなり得ません。
 考えても仕方がない結果についてあれこれ惑う瞬間など時間の浪費であり、人生の浪費です。
 何ごとかで埋められない瞬間はありません。
 人生は瞬間を何で埋めるかの連続です。
 結果に不安を持たなければ、堀木エリ子氏が指摘するとおり、「人間はできる前提でしか前に進まない」のです。

 プロ意識は「できる前提で取り組む」ことによって芽生えるのも確かです。
 精神科医のなだいなだ氏は「人間は正しく立派に生きようと思ってもなかなかできないが、意地を持って生きることならできる」と言ったそうですが、プロ意識とはそうしたものではないでしょうか。
 これができなければ自分の存在価値はないというプロ意識を持っていれば、ギリギリの場面を意地が支えます。
 これがなければ、〈なまくら〉になります。
「あいまい」「ファジー」が喜ばれる風潮ですが、お医者さんであれ、大工さんであれ、駅員さんであれ、きちんとことをなせるのはこうした意識を持った方々ではないでしょうか。

「不可能と思えることにこそ、新たな技術の可能性がある。新たな技術から新たな表現が可能になり、そこから新たな感動がわき上がって、美の領域や文化の深さが増していく」


 息もつかせぬ表現です。
 惚れ惚れするとはこのことです。
 爪の垢を煎じて飲みながら、このように明確な意識を持ったプロの方々の背中を追いたいと願っています。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.19

お彼岸と六波羅密(ロッパラミツ)

 一年に二回、昼と夜の長さが同じ日に、み仏へ帰依する気持を新たにし、一家揃ってご先祖様をご供養する大切な一週間であるお彼岸についてのおさらいをしておきましょう。

 お彼岸が「此の岸から彼(カ)の岸へ」渡る気持を堅固にする期間であることは広く知られています。
 そして、彼の岸とは、迷いのなくなった悟りの境地であるとされていることもまた、多くの方々がご存じでしょう。
 しかし、「その方法が六波羅密(ロッパラミツ)行の実践である」というあたりになると、知っておられる方はぐっと少なくなるのではないでしょうか。
 六波羅密(ロッパラミツ)に話が及ばない日はないような毎日を送っている者としては、とても残念に思っています。
 せっかく「お仏壇に水とお線香を欠かしたことはありません」、「夫の月命日には必ずお膳を供えます」、「お寺は遠いのですが、お盆とお彼岸には必ず家族全員でお詣りします」などの精進をしている方々が、なぜお線香を点すのかという根本的な意義をほとんど知らされていない現状には悲しくなり、使命感に武者震いもします。

 そもそも、お彼岸の法会は、ご先祖様を大切にしておりおりに魂(タマ)祀りの行事を行う慣習が仏法と結びついて確立しました。
 夜と昼の長さが同じになる日を中日とするなど、太陽崇拝も混じった日本人古来の大切な宗教行事です。
 どこの国や地方でも、歴史と共に受け継がれてきた行事があり、各々の行事にはその国や地方独特の形があり、香りがあります。
 私たち一人一人がそれぞれ生まれの因縁と生き方の因縁によって個別の人生を創りながら生き、何かをバトンタッチしながら死ぬように、宗教行事も伝統が洗練を受け、変化しつつ伝えられます。
 先人の思いと智慧が結晶している行事を活かしながら生きれば、心が深まります。
 ぜひご先祖様や先亡の方々や万霊へ感謝し、供養のまことを捧げ、ご自身の霊性を向上させていただきたいものです。

 せっかく彫られた仏像も、拝まれなければただの置物です。
「仏作って魂入れず」ならば仏像本来の活きた存在ではあり得ません。
 同じように、ご先祖様のお墓参りも、単なる家族旅行に近いもので終わらせることなく、六波羅密(ロッパラミツ)行であるとの意識を明確にし、活きた時間にしていただきたいものです。
 これまで何度も書いてきた「六つの誓い」を再掲し、麗しい行事が清々しい空気をもたらすよう祈っています。

【六つの誓い(六種供養)】お供えしたら合掌して誓い、尊い心を捧げましょう。
布施(フセ)…水の心      
「我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」
持戒(ジカイ)…塗香(ズコウ))の心
「我、塗香(ズコウ)のごとく、自他を清め、浄戒(ジョウカイ)そのものになり果てん」
忍辱(ニンニク)…花の心 
「我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん」
精進…線香の心
「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」
禅定(ゼンジョウ)…飯食(オンジキ)の心
「我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん」
智慧…灯明の心
「我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん」



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.18

拝む心 ─お彼岸には合掌を見なおしましょう─

 お彼岸に入りました。
 皆さんそれぞれ合掌して拝む機会が増えることでしょう。
 古来、こういわれてきました。

「右仏左は我と合わす手の中ぞゆかしき南無の一声」


「右仏左は我と合わす手の中ぞゆかしき南無大師


 もちろん、「大師」は弘法大師です。
 合掌は、み仏と拝む自分とが一体になることを意味し、み仏の子である本来の自分を祈り出すことが目的です。

 よく「自分探し」という言葉を耳にしますが、自分そのものがわからなくなったなら、どこか遠くへでかけたり、飲んだり唄ったりするよりも、合掌すれば良いのです。
 お大師様は説かれました。

「それ仏法遙かに非ず、心中(シンジュウ)にして即ち近し。
 真如、外(ホカ)にあらず、身を棄てて何くんか求めん。
 迷悟(メイゴ)我にあれば、即ち発心(ホッシン)すれば即ち到る。
 明暗他に非ざれば即ち信修(シンシュ)すれば忽(タチマ)ちに証す」


 み仏の法によって守られる絶対安心の世界は、遙かな彼方にあるのではなく、私たち一人一人の心の中に必ずあります。
 真実(マコト)にあふれた世界や生き方は自分から離れた別世界のことではなく、自分をだめな人間だと否定したり、自分を捨てて何ものかになろうとしても無益です。
 あれやこれやと迷うのも、深い納得や充実感や安心を得るのも、自分自身の心の問題であり、「ああ、仏様!」と真の合掌ができれば、その時、その場が最高の境地になります。
 幸せな明るい心で生きるのも、不幸な暗い心で生きるのも、自分の心のありよう次第であり、合掌してみ仏へすがり、教えを学び実践すれば、大日如来のお慈悲に包まれた明るい世界にいることを実感できることでしょう。

 形だけの合掌ではなく、真実の合掌をしましょう。
 それは、姿と心が一つになることです。
 真言やお経を唱えれば言葉も合わせて三つの面が合致し、そこに真実世界が顕れます。
 私たちの日常は、態度と気持がバラバラだったり、言葉と心が相反していたり、言うことと行うことが別々だったりしがちです。
 こうした身・口・意(シン・ク・イ)がバラバラな様子を「迷い」といいます。
 正しく一致すれば自然に「悟り」の状態になります。

 では、どういう心で合掌すれば良いか。
 5つのポイントがあります。

1 尊敬の心
 ご本尊様やご先祖様や先に逝った方々の御霊などを尊ぶ心がなければ、合掌は嘘になり、善き業(ゴウ)とはなりません。
「善き業とならない」とは、運命を明るい方向へ向かわせない、あるいは幸せをつかみにくいということを意味します。
 これでは残念です。
 尊ぶべきものを尊ぶすなおで謙虚な心になりましょう。

2 感謝の心
「おかげさま」無しの合掌はありません。
 祈願をかける際、感謝なくして「ただただ合格させてください」だけでは、我欲の表明でしかありません。
 こうした心で合格しても、善き心を育てながら良き目標のための勉学が進むとは思われません。
「いつもお守りいただいてありがとうございます」が祈願の前提であるべきです。
 そうすれば、願いは必ず善きものとなり、結果のいかんを問わず、良き人生を歩めることでしょう。
 まず、感謝です。
 もちろん、願いが叶ったならばお礼の合掌を忘れないようにしましょう。
 もしも叶わずとも、正しい心でチャレンジできたことにお礼する気持を持てれば、それもご加護です。

3 懺悔の心
 自分をふり返ることが大切です。
 合掌してみ仏へ向かい、「こんな自分」と思えれば、その謙虚さは清浄な帰依をもたらします。
 傲慢な人はなかなか真の帰依ができません。
 だから、私たちは祈りの初めにこう唱えます。

「無始よりこのかた貪瞋痴(トンジンチ)の煩悩(ボンノウ)にまつわれて身と口と心とにつくるところのもろもろの罪科(ツミトガ)を、皆ことごとく懺悔(サンゲ)したてまつる」


 いのちも心もバトンタッチされ輪廻転生している私たちは、遠い過去に過ちを犯していないはずがありません。
 そのことは、自分の心をよく観ればすぐに気づくことでしょう。
 気づいたならばただちに懺悔しましょう。
 その素直さがとても大切です。
 正しい祈りにおける「こんな自分」という姿勢は決して人を卑屈にさせず、いじけさせません。
 それは、必ずご加護があるからです。
 帰依する人を見捨てるみ仏はおられません。
 謙虚になりましょう。

4 祈願の心
 願いを持たない人はいません。
 たとえ無意識であれ、起きればご飯を食べたいと願って朝食を摂り、生活の糧を得たいと願って仕事にでかけ、風邪をひけば体調を取りもどそうと願って医者を訪ねます。
 尊いものへ向かう時は、尊い願いが起こるものです。
 あるいは尊い願いを持って全力を尽くしている人は、どこかの時点で尊いものへ心が向かうはずです。
 最高の能力を持ったアスリートたちが、オリンピックなどの〈いざ〉という場面で祈る美しい姿はどなたも目にしておられることでしょう。
 受験をひかえた人や大病にかかった人のほとんどは、祈願の思いが強く起こるものです。
 善き願いをはっきりと意識しましょう。

5 融合の心
 はっきりと「右手はみ仏」「左手は自分」と意識して合掌しましょう。
 左右のてのひらが合わさっている感触は、み仏と自分が一体であることの実感へとつながります。
〈漠然と〉や〈ボンヤリと〉ではなく、クリアなイメージを持って合掌すれば、それはみ仏の印(イン)となり、自分を浄め大きな力を発揮できるきっかけになります。

 これが拝む心の持ちようです。
 合掌して悟りへの一本道を歩みましょう。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.17

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その3)」─

 お彼岸でもあり、お葬式はなぜ行うかについて簡単に述べたい。

 経典によれば、釈尊の父親であるスッドーダナ王が亡くなり七宝の棺へ納められて火葬に向かう際、釈尊と弟子ナンダが先導し、釈尊の子供ラーフラと弟子アーナンダが後に付き従った。
 釈尊は、あの世に棲む凶暴なものたちから父親を守ろうとして、自ら棺を捧げ持った。
 その時、この世は六種類の震動を起こし、現れた四天王が釈尊に代わって棺を捧げ持った。
 ちなみに六種類の震動とは、まず大地の動きが起こり、揺れ、地鳴りや生き物たちの騒ぎ声がし、水や溶岩が湧きだし、大きな地鳴りや激しい揺れとなり、軋む大地が地崩れなどを起こす様子をいう。
 香炉を手にした釈尊は先頭で〈引導(インドウ)〉し、葬送した。

 また、経典は、「葬送無常を観じて厭離(オンリ)の念を生ぜしむるがゆえに」と説いている。
 送る人たちが近親者などをきちんとした儀式で送ることにより、死をしっかりと受けとめ、無常の理を深く思い、欲に追われて右往左往する生き方を変えるきっかけとするのが、葬送の第二の目的である。
 当山ではここのところをさらに一歩進め、葬儀後の法話で必ず供養について説く。
「供養は、故人が自分の死をもって作ってくださった大切な人生修行の機会です。
 それをしっかり生かすことが何よりの供養です」
 無常が身に染みている方々は、「お線香を点けたならば、このお線香のように精進しますと誓い、そのように生きる」という〈供養の大事〉が耳から心へ届いておられると信じている。

 このように、死者が迷わぬため、そして送る人たちは普段忘れている無常を思い起こし、真理に添った生き方をするために葬送の儀式は行われる。
 歴史と共にその国の文化や宗派の信念によって様式が整えられ、洗練されて今日に至っていることを確認しておきたい。

 さて、〈引導〉とあったとおり、葬送の中心は引導にある。
 修法において「引導を渡す」というのはこのことである。
 経典によれば、釈尊は、叔母マハー・パジャーパティを送るにあたり、栴檀(センダン)の香木を遺体へ当て、法を説いた。
「この世の一切は無常である。
 生ずる者には必ず死が訪れる。
 生じなければ死もない。
 こうした輪廻(リンネ)からの解脱(ゲダツ)が最楽である」
 そっくりな教えが、当山で根本経典の一つとして講義を続けている『法句経(ホックキョウ)』の「無常品(ムジョウホン)」にある。
「この世のすべては無常であり、興れば滅す。
 生じたものは必ず滅ぶ。
 こうした無常な現象に惑わぬ心になれば最も安楽である」

 当山では、葬儀にあたり、故人へ法を説き、「カーッ」という気合と共に、説いた教えと法力とをもって確実に安心世界へと旅立っていただく。
 まさにこの一瞬は全身全霊をかけたものになる。
 だから葬儀はこの上なく膨大なエネルギーを費やし、修法後はぐったりする。
 行者としてこの法を動かせるうちは導師が務まる。
 心身の力が失せれば、決して導師は務まらない。
 
 これが釈尊に発し、今日に伝わっている葬送葬儀葬式の実態である。
 無用ではあり得ない。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.17

4月の俳句 (その1)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

立ちかけて又坐りこむ春炬燵(コタツ)


春炬燵」とは、春になっても寒い日があるので、片づけてしまわずそのままにしておいた炬燵である。
「寒さ暑さも彼岸まで」といわれるように、春分のあたりまでは急な寒気があるので、立春と共に冬支度をすべてなくするわけにはゆかない。

こんな日は不精もよしと春の雪


 冬の間に降る雪は当然ととらえ、大雪でも敢然として何かをやったりするが、春の陽気を味わってからドッと降られると、「あーあ」と嫌になったりする。
「今頃降るなんて、困ってしまうよ」。
 不精の言い訳ができる。
 作者はそうした心理を楽しんでいる。

何してもひとりの昼や春の雪


 独り住まいをしていると、ときおり、〈時〉が絶え間なく流れ去っていると実感させられる。
 作者を家に閉じこめた春の雪は、特に強い力で〈時〉へ対峙させる。
 しかし、こう詠んでしまうと、狭く限られた住空間は雪という繭で守られているかのようである。

春雪のたえまなく降り重なり降り重なり


 数十㎝にもなった時ならぬ大雪に、作者は「どうなる事か」と心配でたまらなかったそうである。
「重なり」には、「積もり」のように時の経過と平行して淡々と厚みを増してゆくのではなく、ドッと降り、またドッと降るといった迫力がある。

追伸のごと舞ひ積もる春の雪


追伸」はとても理解できる。
「コロンブスの卵」と同じく言われてしまえばあたりまえだが、よくもこう詠まれたものだなあと頭が下がる。
 春の雪だけに、「舞い積もる」は、薄く軽い雪のかけらがヒラヒラと天から舞い降り、いつしか厚くなるイメージを伴っている。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.16

【現代の偉人伝】第96話 ─托鉢行を支えてくださったAさんご夫婦─

 すっかり春らしいほんのりとした暖かさに恵まれた午後、玄関で小さな声がした。
「ごめんください」
 逆光の中で、帽子をかぶり眼鏡をつけた初老の女性が、はにかんでおられる。
 すがるような気持がストレートに届き、どこかで会ったような気がするけれど、どなただったか思い出せない。
「鶴巣のAです」
 遠慮がちに言いながら、帽子を取り、こんなに立派なお寺ができたんですねと涙ぐんでおられる。
「ああ!」
 わかった。
 わかって良かったと深く安堵した。
 毎日托鉢へでかけていた頃、鶴巣の古い通りに面した明るいお宅で必ず祈りを受け、お布施をくださったAさんだったからである。
 こうした毎年〈待っておられる方々〉が当山を守り、住職一家を生かしてくださった。
 もしもどなたであるかわからなかったならば、どれだけ恥ずかしかったか、顔や名前の記憶が悪い粗雑な人間としては冷や汗の出る思いである。

「あれっ、ご主人は?」。
 気づいた奥さんはすかさず、二年前に倒れたけれども、今、車に乗っていると告げた。
 勝手にでかけて来たんですからと固辞するところをむりやり引き止め、車までお迎えに行く。
 気丈なご主人は脳梗塞による後遺症と闘い、右手はほとんど麻痺したにもかかわらず、わずか7ヶ月で車を運転できるところまで回復されたという。
 もちろん、左手一本で運転可能な特別仕様の車である。
 ようやく砂利の上へ自力で降り立ったご主人はあまり口をきかず、表情にも薄い幕がかかっている印象だが、貌の艶は昔のままで、お互いの間にはたちまち〈あの頃の時間〉が流れた。
 杖をつき、脚を棒のように伸ばしたまま20㎝くらいづつ歩む。
 玄関で一旦イスへ腰かけ、奥さんの手を借りて靴を脱ぐ。
 車のついたイスを用意してあるので、そこに坐っていただき、後から押そうとしたが、本堂の入り口に立ったご主人はご本尊様を目にしてしばし息を呑んだままになり、やがてきっぱり、「歩いて行きます」と宣言された。
 杖をつき、また、一歩づつ、一歩づつの歩みが始まった。
 奥さんは「ああ、ありがたいね。お父さん、これできっと良くなるね」とくり返しつつ、寄り添う。
 ご本尊様の正面間近でイスに坐っていただき、奥さんがお線香を二本、手にする。
「これ、お父さんの分ね」
 ふり返ってご主人へ声をかけ、わざわざゆっくりと立てる。
 またふり返る。
「お父さんの分もね」
 そして二回、鐘を打つ。
 広がって流れる煙がゆらゆらと二人を包み、夢慧氏による万葉集の歌が澄んだ声で続いている。
 三度目にふり返った奥さんは、また、声をかける。
「お父さん、これで、きっと良くなるわね」
 脇にいて涙が出そうになった。

 もう、5年以上も前のできごとになる。
 旧本堂をわざわざ訪ねて来たAさんご夫婦は、およそ寺とは思えない古い民家の本堂に驚きもせず、ご本尊様の前で坐り、深く上体を折ってから今日と同じくお線香を二本立てて合掌された。
 間もなく、托鉢へでかける時間がないほど本堂での法務が多くなり、いつしかAさん宅からも足が遠のいた。
 あの時代、当山を支えてくださったAさんご夫婦が、「回復できる」と願い、今度はご恩返しの機会をつくってくださった。
 この感謝の気持は必ずや、結ぶご加持の法へ勢いをつけることだろう。

 ご夫婦はまた、ゆっくりと玄関を目ざし、さんさんと降りそそぐ春の光の中へ出られた。
「今日はご一緒できなかったけど、お隣さんもぜひ行ってみたいと言っていたので、今度は一緒に来ます!」
 必ず、ご主人に回復していただこう。
 誓いながら、拳を握った。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
03.15

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その2)」─

 本論へ入る前に、「おわりに」を読む。
 一般的に、「はじめに」には挨拶と目的、「おわりに」には結論(本音)と感謝が表わされているからである。

「近年、葬式の簡略化が大幅に進んでいる。それはやがて、葬式を実質的に無用なものにしていくであろう」
「村落共同体の力が衰え、もう一つの共同体である家族の役割が低下して、共同体の行事としての葬式の意味は変わった。死はあくまでも個人のものとなり、共同体のものではなくなった。そうなれば葬式の必要性は薄れていく」


 事実を述べ、人間がバラバラになり、死が限りなく孤独なものになりつつあることに、何の問題意識も表明しておられない。
 次いで、ご自身が歴史の先取りをしていると述べ、この本は終わる。

「葬式仏教が衰退し、葬式を無用なものにする動きが強まっていく。それは歴史の必然であり、その流れをおしとどめることは難しい」
「自分自身のことを考えてみても、死んだとき、どうしても葬式をして欲しいとは思わない。戒名については、本文中でも述べたように、俗名で葬られるのが我が家のしきたりにもなってきている。別に自分から指図をするつもりはなく、すべては家族へ任せたいと思うが、その頃には、葬式無用の流れはいっそうはっきりしたものになっているに違いない」


 これで、著者の姿と本音がはっきりした。
 生まれも育ちも仏法とは無関係であり、慣習も正面から無視した生き方をしておられる。
 そして、目に見えない世界にはかまわず、ご自身の死に関しても「家族任せ」と放り出し、歴史に必然のみを観てそれに任せようとするところから類推するに、唯物論者であり進歩主義者でおられるのではなかろうか。

 読者は、〈こうした方が、葬式無用というご自身の信念を歴史的必然であると結論づける意図を含んでこの本を書かれた〉ということに注意して読まねばならない。
 さもないと、「これが客観的真理だからそれに従いなさい」という巧みな誘導によって、著者のいう「厄介な」葬式の面倒から離れ、著者のいう「贅沢」をやめて倹約することにし、死んだ人は手間暇も費用もかけずなるべく簡単に埋める、あるいはお骨を撒くなどの方向へ安易に向かってしまいかねない。
 そこには、楽をしたいといった誘惑も潜んでいる。
 もちろん、こうした生き方をなんぴとも否定できない。
 仏神を信じようが信じまいが、お骨のある場所や故人の依り代(ヨリシロ)に向かって手を合わせようが合わせまいが、まったく自由であり、なんぴとにも否定されるべきではない。
 当山も、否定もしなければ非難もしない。
 しかし、当山は、葬式を通じてご遺族と共に、故人の御霊と共に、静かで深く忘れがたい感動を伴うドラマへ立ち会ってきた当事者である。
 人の死が日常生活で忘れられがちな尊い世界への扉を開け、仏法によって救われる方々を数多く見てきた。
 一連の宗教行為が「要らない」と声高に叫ばれれば、「要る」と反論しておくのが社会人としての義務である。

 そもそも、事実がどうであるかという問題と、人間や社会がどうあるべきであるかという問題は別である。
 たとえば、核家族化利己主義の蔓延、学級崩壊などは明らかな事実である。
 ではこの先、どうするかと考える場合、「だんだんこうなって来たのだから、人間は限りなくバラバラになって行くだろう」と流れを眺める方もあれば、「人間がこれ以上我欲をはり合い、お互いを傷つけ苦しめ合ってはならない。人々が心を通わせ合う社会へと転換せねばならない」と流れを変える志を持つ方もあるだろう。
 私たちはあらゆる場面において、良かれ悪しかれこうした二つの姿勢があることを忘れず、自分自身の判断力を鈍らせずに生きたいものである。

 さて、著者の本音へ対して、私も本音を明らかにしておかねばならない。

「まさに人間がバラバラになりつつある時代だからこそ、真の安心、真の弔い方、真の供養を考えねばならない。
 そうした場合、葬式は要ると判断せざるを得ない。
 第一には、正統な修法による葬式とその後の法話によって明らかに安心を得ていただいている手応えが重なっており、法を結んだ後で皆さんの雰囲気が変わらなかった経験はただの一度もないからである。
 安心には、〈送る側〉が近親者や知人の死によるダメージを癒される面と、「これできっと安らぎの世界へ行けるだろう」と感じる〈送られる側〉にとっての安心の予感とがある。
 だから、第二には、死という、人間にとって生誕に匹敵する最もドラマチックなできごとを心の向上、深化、清めの大切な機会として厳粛な儀式を行うことが一人一人の救いとなり、ひいては個人の孤立化による無慈悲社会への道行きを変えるために役立つと考えるからである」

 今、当山では、社会から見捨てられつつある方々が死後について安心できるよう、姓も思想も異なった方々が一緒に入られるお墓を造る計画が進んでいる。
 一つのグループとして支え合い助け合い心を通わせ合う人々が送り、送られる共通の聖なる場所を確保することが、眼前の苦労や困難に耐える力となることを信じ、当山は協力している。
 以上の理由により、葬式やお墓が要らないとはとても思えないのである。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.14

寺子屋『法楽舘』開講 ─第四回が終わりました─

 朝からの雨が上がり、春らしい光の中で寺子屋「法楽舘」第四回目を開講しました。
 講師を務めてくださったのは、タウン誌『シルバーネット』を発行している千葉雅俊さんです。

 子供のころから書物や文章に親しみ、とにかくお年寄りの話を聞くとすなおな気持になり、諭されてしまい、癒されるので、シニア向けの情報誌を作ることにしたそうです。
 スタートした当初は、デザイナーと営業のスタッフがいたけれど、半年くらいで給料がまかなえなくなり、ついに一人でやることになりました。
 取材から、営業から、編集から、配達まですべて一人やっておられるというから驚きです。
 これまで幾度となく「もうだめか」と思う場面に遭遇しても、その都度「神風が吹いて(公告が入って)」救われ、「不思議だと思いました」とのことです。

 川柳コーナーが当たり、現在は毎月200通ものお便りが届きます。
 常連さんの作品が載らなくなると、「具合が悪くなったのですか?」とファンから問い合わせがあったり、大病を読んだ方が励ましのお便りで元気になったり、恋が生まれたりと、川柳にまつわるドラマは尽きません。
 

 特に、平成14年に「読者をつないだ大撤退作戦」として特集を組んだできごとは印象的でした。
「終戦直後、攻めてくるソ連軍からモンゴル高原に住む四万人の日本人を救い出す撤退作戦について、二人の読者が投稿を寄せてくれました。
 当時、兵士だった方と救い出された女性。紙面での対面です」。
 まず、元国鉄職員の藤島勇雄さん(80歳)が、終戦を迎えて間もない頃、「自らが所属していた二万人の部隊が四万人の民間人を進攻してくるソ連兵から守るため決行した撤退作戦について記され」ました。
シルバーネット」で「エッセイ大賞」を受賞した文章『張家口大撤退作戦』です。
 終戦後にソ連軍が内蒙古へ侵攻するという非常事態に際し、日本軍が大きな犠牲を払いながら民間人を救出したできごとを書いています。
 それを読んだ方々の中に、実際この作戦で救われた方がおられ、「私もこの作戦の中で救出されたうちの一人で、なんとか帰国できた事を初めて知り、しみじみと感謝の念で胸がいっぱいです」といった手紙を寄せられました。
 そして、救った兵士と救われた女性は、「シルバーネット」の仲介により長い年月を経て対面されました。
 まもなく兵士だった藤島勇雄さんは亡くなられましたが、忘れられないできごとです。


 また、こうした川柳を寄せておられた方が亡くなられた後で知った事情にも励まされました。
「嬉しいな毎日カーテン開ける朝」
「ドクターの笑顔優しい往診日」
「遺産ない私は感謝の手紙だけ」
 この方の主治医と知り合い、肺ガンで余命3ヶ月のいのちだったにもかかわらず、いつも紙とペンを手放さない方だったと聞かされました。
 主治医は、川柳の投稿が明らかに患者さんの生きる力になっていたと教えてくれました。
 日本の伝統文化が持つ不思議な力に驚かされました。



 当日朝、千葉雅俊さん当てに大きな花束が届けられました。
「お台場デザイナーズオフィス」代表平嶋敬義さんからのものです。
 手紙が添えられていました。
 かつて、千葉雅俊さんは、仙台市青葉区にある高齢者向け優良賃貸住宅「ザ・キャッスル北仙台」を取材しました。
 オーナーが平嶋敬義さんです。
 直接取材した方の一人に、Aさんがおられました。
 Aさんは、食事の配達をしてくださる方としか交わらないので、月に4回しか会話しない人だったそうです。
 ところが千葉雅俊さんのていねいな取材を受けてから自信がつき、ものごとへ積極的になり、今では入居者のリーダーとしてカラオケや旅行を楽しんでおられます。
 寺子屋に参加できない平嶋敬義さんはこのできごとへの感謝をこめ、手紙を添えて花束を贈られました。

 千葉雅俊さんは、手紙や取材を通じての出会いに励まされ、孤軍奮闘しておられます。
 相手の方々はご年配の場合が多いので、別れは次々にやってきますが、「出会えたことに感謝しながら別れに耐えている」そうです。
 たった一人でやっている仕事であり、事故や病気に見舞われれば「それでおしまい」になる覚悟で毎号を発行しておられます。
 自らの身にすべてを引き受けながら淡々と信念を形にし続ける千葉雅俊さんは、まるで求道者のようです。
 読者も、寄稿者も、スポンサーも協力し合い、この孤独で大きな輪を持つかけがえのない事業を支えようではありませんか。

 なお、法話は最近流行りの「葬式は要らない」に関するちょっとした感想と、危ない宗教団体の見分け方、そして、釈尊の最期などについて行いました。

〈救った人と救われた人の再会です〉
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〈古い歌を思い出しつつ唄う人の心が残されています〉
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〈くだけた対談をしてみました。私の持ちだす内容は固苦しくてすみませんでした〉
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平嶋敬義さんからの思わぬプレゼントに、にっこりです〉
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〈最後に法話を行いました〉
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 次回(4月10日)は、長年にわたりカンボジアからの留学生の世話をしてこられた熊谷千枝子さんと留学生の方々による講話を予定しています。
 老若男女ふるってのご参加をお待ちしています。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
03.13

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その1)─

 島田裕巳著「葬式は、要らない」に関する憤慨や、疑問や、共感などをたくさんお聞かせいただくようになった。
 そして、日々、実際に亡くなった方やご遺族、あるいはご自身やお身内にとって死が身近なものになりつつある方々と共に死を考え、死へ対応している〈現場の者〉としての意見を明確にしておく必要があると考え、皆さんと共に読みながら胸の裡(ウチ)を述べてゆきたい。

「はじめに」について

「今、私たちが知るべきは、もっと根本的なことである。
 いったい私たちにとって、葬式はどんな意味をもつのか。
 それは今、どう変化しているのか。
 何が変わり、何が変わっていないのか。
 そもそも、本当に葬式は必要なものなのか」


 問題提起は納得できる。
 なぜなら、こうした「知るべき」ことは、日々、皆さんと共に考え、人生相談などにおいては、常にこうした「根本的なこと」からお話申し上げているからである。
 そして、当山の門を叩かれた方々は、そのほとんどが当山との仏縁を結ばれる。
 もちろん、当山では何事であれ、常に最終決断はご本人へお任せしている。
 皆さんを縛らず、追わない。
 それでいてこうした結果になっている現実は、仏法による救いの確かさを示しているのではないだろうか。
(もちろん、仏法のみが救いをもたらすなどというつもりは毛頭、ない)

「なぜ戒名というものは存在するのか、そこにはどういう意味があるのか。
 院号は必要なのか。
 戒名料はなぜとられるのか。
 戒名がないと成仏できないのか。
 戒名にかんしては、次々と疑問がわく。僧侶に聞けば、その意味を解説してくれるはずだが、それを聞いても、どこか納得できない部分がある」


 この文章が、著者の姿勢を暗示している。
 お布施になじんでおられる方々は、決して「とられる」とは言わない。
 確かに戒名料の高額さや、寺院からの強圧的な請求などに問題があり、戒名に関するトラブルを抱えた方からのご相談も絶えない。
 しかし、「あそこの坊さんにとられた」と個別具体的なことについてはこうしたもの言いをしても、一般論を口にする場合は、こうは言わない。
 なぜなら、お布施は本質的に「させていただく」ものであり、「させられる」ものではないからである。
 もし、「させる」「させられる」関係になったとすれば、それはさせた方か、させられた方、もしくは双方に問題があり、お布施の本義が脇へ置かれてしまったからである。
 著者は無造作に「とられる」と言う。
 仏法が彼にとっていかなるものか、お布施と彼との関係がいかなるものかが、ほぼ推しはかられた。

 そして、「僧侶に聞けば、その意味を解説してくれるはずだが、それを聞いても、どこか納得できない部分がある」そうだが、いかなる僧侶に尋ね、いかなる回答を得て、そこにいかなる「納得できない部分」を見いだしたのか、何が納得できないのか、本文中で明確にされていることを期待しつつ読み進みたい。
 さもなければ、この文章は「僧侶はろくな説明ができない」という一般的感想、もしくは予断に過ぎないからである。

「葬式の細かなやり方や作法については、他の本を参考にしてもらいたい。むしろ重要なのは、葬式に臨むにあたっての基本的な考え方や態度であり、方針である」


 私も同じ姿勢である。
 分析的な話については、詳しい本が山ほどあるからそれを読んでいただければ良い。
 まさに皆さんと共に日々、「基本的な考え方や態度」そして「方針」について考えているので、同じ問題意識を持った者同士として、この先へ進みたい。

 ただし、一つだけはっきりさせておかねばならないことがある。
 釈尊は「毒矢に射られたならば、あれこれ詮索する前に矢を抜き、手当てせよ」と説かれた。
 当山も同じである。
 私は釈尊の弟子として、実際に問題を抱えた方々と同じ心の位置に立つよう努力しながら、常に、個別具体的な対応を重ねており、これから先の文章は、「実践者からの告白」となることである。
 一介の行者にとって歴史的考察や現状分析を行い、そこに必然的未来像を予想したりするする暇はない。
 もちろん、能力もない。
 著者とは研究者と実践者との違いがあり、私の浅学非才ぶりが明らかになろうが、読者の方々にはご容赦いただきたい。
 そして、この先をご笑覧いただければ、もしかすると、著者の希望にも合致する結果を得ていただけるかも知れない。
 それが拙稿を書く小さな願いである。

「本書が、少しでも納得できる人生のしめくくり方に結びつくなら、著者としてこれほど嬉しいことはない」





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2010
03.12

信心とは (その2)

 以前、「信心とは」という稿を書きました。
 そのおりに、何かに没頭すると、亡くなった方や観音様に会うなどの非日常的な体験をする場合がありますが、それは「そういうこともある」という程度の受け止め方でとどめておかないと危険であると指摘しました。
 スピリチュアルブーム、カルト宗教やカルト集団の跋扈(バッコ)、明らかに付け焼き刃と思われる瞑想法の蔓延、こうしたものの危険性は日々、高まっていると感じられます。
〈いかにも優しげで、どこかにこだわりと確信を隠し持ち、それでいて微妙に社会とずれており、言葉がはっきりしているわりには非現実性がまといつき、表面の明るさと裏腹に存在感が希薄で、何となく頼りない〉、こうした方々が実に多くなりました。
 彷徨っておられるのではないでしょうか。

 彷徨った結果たどりつく姿として最も恐ろしいのが、「~の気がする」を「~だ」と実体的に判断するクセがついてしまい、ついには虚実の判断、ひいては善悪の判断をも誤ってしまうケースです。
 自分のあらゆる体験が絶対性を持つという姿勢は、自分を狭い場所へ追いやりますが、本人は気づきません。
 むしろ、常人には体験できない高く広い次元に出入りしているという優越感を持つようになり、自分の言葉を神の言葉のように自分で尊び、誇らしげに〈お告げ〉を行ったり、あるいは頼まれてもいない忠告をしたりといった行動に陥るケースも少なくありません。
 こうした心性を巧みに利用して信者を増やす新興宗教や、宗教でないという仮面をつけて会員を増やす集団もあり、常識と良識を兼ねそなえた社会人としての資格を奪われる人々が発生していることは大きな問題です。

 呼吸の仕方を普段とは変えて瞑想を行い、日常的にはたらいている感覚と違う部分を動かせば、心は当然、忙しく動き回っている時とは異なった〈状態〉になります。
 千年の単位で伝えられ、深められ、確認されてきた方法をきちんと踏襲(トウシュウ)すれば、その〈状態〉は入り口であることが解るので、非日常的な体験が一時的な幻であると判断して迷わされずに進めます。
 しかし、思いつきであちらこちらから集めてきた材料を組み合わせた付け焼き刃の教義では、危険性の認識も、そしてそこを超えて行く方法も危ういのではないでしょうか。
 なぜなら、伝統的な瞑想は、入り口から出口までが一貫した方法として完成されており、危険でなく、目的へ到達できる〈脇道〉はあり得ないからです。
 超人的な行者たちが途方もない年月をかけて組み上げた〈方法〉をあちこちから寄せ集め、便利に利用するという姿勢で、伝統的体系を超えた安全で確かな心の訓練法を構築するなど、あり得ないと考えるのが道理ではないでしょうか。

 ここに「勝手な瞑想魔境(マキョウ)へ陥ってはならない」という戒めの根拠があります。
 オウム真理教が陥った典型です。

 まっとうな宗教は必ず万人に通じる道理をふまえています。
 かつて、世界的数学者岡潔博士は大乗仏教最奥の経典とされる「華厳経(ケゴンキョウ)」をつぶさに学び、「一つの矛盾もない」と断じました。
 まっとうな宗教は魔境魔境と断じ、「惑わされずにそこを通り過ぎなければならない」と指導します。
 決して魔境に入った人をもてはやしたり、放置したりして利用しません。
 正しく訓練された心はクリアになり、その心から流れ出る言葉は常識と良識のフィルターを難なく通り、誰とでも違和感なく通じます。
 もちろん、因習やタブーなどとずれる場合はありますが、道理を尺度としてとことん話をすれば、お互いが受け容れるかどうかは別として、理解されないはずはありません。

 どの宗教も「良いこと」を掲げ、「似たような主張」を行います。
 しかし、いかなる方法で、いかなる心が作られるか、ここが問題です。
 怪しい集団であるかどうかのチェックポイントは各方面から指摘されており、ぜひ、認識していただきたいと願っています。
 たとえば、やめようとする人を強く引き留めないか。
 また、他の宗教を否定したり、特定の宗教を敵としていないか。
 また、周囲の人々や社会との断絶を招いていないか。
 また、教祖が広く一般の人々と交わっているか。

 こうした面が見られたならば、一歩退いて客観的にその集団を眺め、周囲の人々の目にどう映っているかを聞いてみてはいかがでしょうか。

 まっとうな方法でまっとうな心が作られればどうなるか。
 もう一度、お大師様の教えを書いておきましょう。

1 澄浄(チョウジョウ)の義………澄んで清らかになる。

2 決定(ケツジョウ)の義…………定まり揺るがなくなる。

3 歓喜(カンギ)の義………………歓びにあふれる。

4 無厭(ムエン)の義………………飽きず怠けなくなる。

5 随喜(ズイキ)の義………………善行へ素直に共感するようになる。

6 尊重(ソンチョウ)の義…………価値あるものを素直に尊重するようになる。

7 随順(ズイジュン)の義…………気高い対象へ素直に従うようになる。

8 讃歎(サンタン)の義……………気高い対象を素直に誉め称えるようになる。

9 不壊(フエ)の義 …………………心の柱が揺るがないようになる。

10 愛楽(アイギョウ)の義 …………他へ「良かれ」と願うようになる。


 このような心をこそ、目ざそうではありませんか。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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