--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
04.30

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 47 ―『法句経(ホックキョウ)』塵垢品(ジンクホン)第二十六─

 4月28日の「生活仏法」では、煩悩(ボンノウ)の動きについて学びました。
 釈尊は、見たり聞いたりして接する現象世界が私たちの穢れた生き方をつくる過程を説かれました。

「垢(ク)に著(ジャク)するを塵(ジン)と為(ナ)し、染塵(ゼンジン)に従うを(ロ)となす、染(ゼン)せず、行ぜざるは、浄(ジョウ)にしてを離る」

(世間には心の垢となるものがあり、それに接してもサラリと流せば良いが執着する場合もある。
 そうして心は塵に染まってゆく。
 やがて汚れた心は、身体にも、言葉にも、心にもかしいはたらきを生じさせてしまう。
 汚れが外へれ出るのである。
 心の垢となるものからはっきりと離れ、塵に染まらず、汚れがれ出なければ、かしい生き方はしなくなる)

 たとえば、美しい桜が目に入ります。
「ああ、美しい」と思う。
 そのまま立ち去れば良いのに、これを自分の机に飾りたいと思い、人目を盗んで枝を折ってしまう。
 釈尊は、こうした意識の流れを指摘し、「二の矢」の教えを説かれました。

 釈尊が弟子たちへ質問します。
「誰でも美しいものに出会えば楽しくなり、酷い目に遭えば苦と感じる。
 それは人々に共通している。
 では、教えを学んだ人と学ばない人とでは、どこが違うのだろうか?」
 弟子たちは答を請い、釈尊は説かれます。
「教えに学ばない人は、楽しい思いをすると『もっと楽しみたい』と貪りの心を起こす。
 苦を感じると怒りの心を起こす。
 こうして、自ら迷いを深めるのである」


 楽しくなったり、苦を感じたりするのは〈一の矢〉です。
 桜の例に当てはめれば、花の美しさに感動した段階です。
 そして「もっと」となったのが、「我が家に持ち帰りたい」と考えた段階であり、〈二の矢〉に射られました。
 心に塵が付着してしまいました。
 そうして枝を手折る人は、同じ様な経過をくり返すうちに心は塵にまみれ、やがては人生に重大な影響を及ぼす行動や、発言や、考えが生まれることでしょう。

 一の矢は人生を彩り、二の矢は人生を壊します。
 よく考えてみましょう。
 そして、二の矢に射られない生き方をしたいものです。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


スポンサーサイト
2010
04.29

市原悦子氏の舞台論 ─「悟り」小考 その2─

 市原悦子氏が映画『蕨野行(ワラビノコウ)』のDVDで恩地日出夫監督と対談しています。
 そこでくり広げられる市原悦子氏の舞台と役者に関する議論が、修法と行者の世界にとても通じると感じました。
 以下、私なりに受けとった市原悦子氏の主張と要点を述べてみます。

「テレビや映画の映像作りには段取りがあり、一つの場面を決めるために同じことを何度もくり返して乾涸らびる感じもあって、『ここぞ』という時に勝負できるフリーな気持になりにくい。
 演技の形としてリアリティがなければならず、いわば『日常の世界』である」
舞台は次元の高いところで決めねばならず、ナチュラルではそこへ届かない。
 いわば『非日常の世界』である。
 異次元へ飛ばねばならず、時間もセリフも止めるので、自然体ではない。
 稽古で演技のレベルを高めてゴツゴツと造形せねばならず、ものを組み立てて形を造る建築と同じである」


 修法もまた『非日常の世界』であり、行者は、「これを目ざすためには、このように行う」と定められた次第を自分の血肉にするため、修行を行います。
 覚える段階では、印を結ぶ身体のはたらきと、真言を唱える言葉のはたらきと、観想する心のはたらきが三つとも、バラバラです。
 それは、役者がセリフを文字として記憶し、動作を工夫する段階に相当するのでしょう。
 修行は三つを一つにするために行う同じことのくり返しですが、そこで乾涸らびないのは、「一瞬間、うまく行けば良い」では済まないからです。
 だんだんレベルが上がり、やがて飛べれば、その先は『非日常の世界』です。
 そこへ行かない限り、『日常の世界』のままです。
 修行が進むのは市原悦子氏が「建築」と表現した通りの成り行きであり、霊感などでどうこうというものではありません。
 職人の世界にも似て、要は、1ミリの何分の1の精度でカンナをかけられる大工さんのようになるところまでやるかやらないかだけです。
 その過程を市原悦子氏はこう述べています。

「昨日の自分のままではダメであり、今日の自分のままでもダメであり、幕の開く初日に向かって階段を登る」


 さて、開幕し、何日も同じストーリーで演技を行いますが、当然、演技がまったく同じではあり得ず、日々、微妙な違いが出ます。

舞台での演技は毎日が違い、『違っても良い』というところまで稽古が行っていれば違うことの佳さがでる。
 そこまで行かないと、違いは下へ堕ちるものとなる。
 稽古を積み、ある一線から上がってしまえば自由になれる。
 そこへ行きたいからしつこく、周囲から嫌われる寸前まで稽古する」
「日々、体調も気分も違うのに、同じ芝居を毎日続けねばならないのは拷問である。
 そこを乗り越えねばならないし、どう乗り越えるかが永遠のテーマである」


 行者もまた、血肉になった法を何度も何度も結びます。
 たとえば斎場でご遺体が炉へ入る直前になると、毎回、炉の前の空気はまったく違います。
 凍りそうに沈みきった場面、「行かないで!」と奥さんが夫の棺へ語りかける場面、安心感が漂う場面など、いずれの場合も同じように低く真言を唱え、不動明王のご加護を祈ります。
 もちろん、体調がどうであれ、気分がどうであれ、言いわけは利きません。
 炉の扉が閉まり、私へ挨拶したご遺族は控え室へ向かいます。
 私はトボトボと車へ戻りますが、やはり「拷問」と感じ、自分がこうした場面に幾度となく立ち会うのは、まぎれもなく自分の積んだ悪業の結果であると、深く思い知らされます。
 しかし、自分のような者もいなければならない必要性を考え、立ち直ります。
 さっきのあの場面──、取りすがるような目で会釈した奥さんの気持を自分の気持ちとしながら黙って受けとめる人間が必要なのです。
 必要性を納得する以外、救いはありません。

「俳優は毎日同じことをやっているが、お客様にとっては初めてである。
 今、ここでドラマが起こることを、毎日新鮮にやらねばならない。
 そこへ羽ばたけること、自由に解き放たれることが一番大事である。
 そのためには稽古しかない」
「芝居は毎日同じことをやっても、お客様をごまかせない。
 そこに役者の醍醐味がある」
「拍手は要らない。
 空間を自由に支配して世界を創ること。
 小さな舞台の上に永遠の大きな舞台を造ってお客様を乗せること。
 そこへ誘って行くことがすべてである」


 ご来山される方と行者の関係も同じです。
 私にとっては幾度となく結んだ安産守護の法であっても、ご本尊様の前にぬかづく方にとっては初めての体験です。
 結ぶ法の次第に何らの違いもないけれど、毎回、結ばれる法は新鮮です。
 法には生きたいのちがあるからです。
 法ははたらきます。
 それを信じるからこそ、ぬかづく方がおられ、法を結ぶ行者が居るのです。

 法によってつくられる結界の中は時間も空間も異次元です。
 そこに入っていただかなければ、何ごとも始まりません。
 異次元の体験をされた方々は、瞳の光を増し、頬の周囲に暖かな空気を漂わせながら帰られます。
 修法後に「こうした体験は初めてです」という言葉をいただく場合があります。
 こんなお答えもします。
「皆さんはさっき、魔法のじゅうたんに乗っておられたようなものです」
 
 市原悦子氏に導かれ、修法の一面を書いてみました。




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.28

「東北大学大学院ニューベンチャー研究会」にて法話を行いました ─「悟り」小考─

 4月27日、仙台市戦災復興記念館において「TNVR・東北大学大学院ニューベンチャー研究会」様のお招きにより、以下の次第で拙いお話を申し上げました。

一 これまでのこと
二 法務点描
   対機説法
    多様な対応を可能にする根本道理
   釈尊と弘法大師の最期
    死生観の真実
三 根本としていること
   人生の目的
    菩薩になるための六波羅密(ろっぱらみつ)行
   永遠の懺悔
    死と再生

 悟りについてのご質問がありました。
 その補足となった文章の一部を掲載しておきます。

 私は、プロは準備についてなるべく語るべきでないと考えています。
 たとえば、王貞治選手は世界記録をうち立てるまでの猛練習について自分からほとんど語らず、真剣まで用いた夜ごとの素振りによって寄宿舎の畳がすり減ったなどの事実は、周囲から漏れ聞こえてきたものです。
 優秀な医師も研鑽時代の苛酷さを語りません。
 同じように、骨と皮だけになるほど修行した釈尊も、文字どおりいのちがけの荒行を重ねたお大師様も、ある境地に達して深い納得を得、法力を体得するまでの準備についてはほとんど語らないまま、縁に応じて教えと法力によって人々と社会を救い続けられました。
 祈りのプロである私たち行者もまた、日々、救いを求めて寺院を訪れる方々のために結果を出すことがすべてであると覚悟しています。

 そうした姿勢から、「悟り」といった件に関するご質問へも、極力、皆さんが日常体験を基にして「ああ、そうか」と腑に落ち、納得や安心につながるようなお答えをしています。
 求める方へは、お渡しできるものを確実にお渡ししたいのです。
 しかし、やはり、もう少しお話しせねばなりません。
 昨夜の代表幹事の悟りに関するご質問は、〈その先〉をも求めておられたと感じていたからです。

 私は小松島にお借りした一軒家を道場とし、日中は托鉢や祈祷や人生相談などを行い、夜は師のおられる寺院へ通ったり、道場で護摩を焚いたり隠形流居合の稽古に没頭したりする夜学行者でした。
 真夏には眼鏡のガラスが熱で割れるほど護摩の火と一体になった時、真冬には山を行く托鉢行で降りしきる雪に包み込まれ、自分の真言しか聞こえなくなった時、お大師様の説かれた即身成仏がいくらかつかめたような気持になりました
 登壇して修法へ入れば、必ず〈その境地〉へ入られるよう修行しました。
 善男善女が救いを求めてご来山されれば、〈その境地〉へ入って対応することが、最低限求められていると考えてきました。
 いのちがけの相手へ拙い行者ができることといえば、それしかなかったからです。
 だから私は、袈裟衣をまとい、一定の法を結んでからしか人生相談に入りません。
 そして、もとより、人生相談にせよ、祈祷や供養や加持にせよ、結果はすべてみ仏へお任せするしかありませんが、〈その境地〉のレベルを生涯上げ続けるのが行者の務めであると考えています。

 こうした日々をスタートさせた頃、当然の疑問が頭をもたげました。
「こんな未熟者の自分に他人様をお救いすることなど、できるのだろうか?」
 師へ尋ねました。
 回答は明確でした。
「お前のレベルで救われる人しか来ないであろう。
 だから、自信を持って対応せよ。
 もしも、これは難しいと感じたならば、本山へ救いを求めよ」
 人が正しく生きるとは恩を忘れずに日々を送ることであり、み仏の説かれた五恩の中に「師の恩」がある意味を骨の髄まで知った瞬間でした。

 また、修行を支えたのは『法句経』の一句でした。
「自らの罪や愚かさを悔い改め、二度と同じ過ちをくり返さずに生きるるならば、やかては世間を照らす灯火ともなれるであろう」
 事実、空(クウ)の哲学を完成させたとされる龍樹菩薩様は、死罪の一歩手前まで行くほど罪の深い行為に明け暮れていましたが、劇的に人生を変えて行者となり、菩薩と呼ばれるまでになりました。

 さて、法話の最後に懺悔と五体投地について若干のお話を申し上げました。
 この方法こそが行者の出発点であると同時に、まじめに行えば、どなたでも日常生活において動いている範囲でない部分の魂が動く体験をし、その方なりに〈目の覚めるような思い〉ができる重要なものであると考えています。
 ただし、懺悔は「あんなことをするなんて、俺は何てバカだったんだろう」といった個別具体的なできごとや自分自身の心の傾向を対象とするのでなく、無始の太古から今の一瞬にいたるまでのすべてを悔い改めようとします。
 今の自分をもたらしたすべての時間と、今の自分が占めているすべての空間、そして積まれたすべての業(ゴウ)が問題なのであり、それは自分のすべてであると言って過言ではありません。
 自分という存在がひれ伏すことによって地へ還り、菩薩として生きることを〈誓う者〉として新たに再生する死と再生のくり返しが、私の感得し続けている〈その境地〉に通じていることは確かです。

〈目の覚めるような思い〉を心の引き出しに入れておられる方は、きっと、「その方なりの人生で最高の心の状態=その方なりの悟り」をつかみやすいのではないか、また何度でも最高の状態に入られるならば、それは限りなく菩薩に近づいていることではないかと考えています。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.27

『四十二章経』第二十三章 ─焼くもの─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

 4月26日に学ぶ予定だったテーマは、「焼くもの」です。
 急用により講義ができませんでした。
 ご奉仕してくださった皆さん、ここで一緒に学んでください。

「仏の言(ノタマ)わく、『愛欲の人に於けるや、猶(ナオ)し炬火(コカ)を執(ト)りて、風に逆いて行くに、愚者、炬(コ)を釈(ケ)さずんば、必ず手を焼くの患(ウレイ)有るがごとし。貪婬(トンイン)、恚怒(イヌ)、愚癡(グチ)の毒、人の身に處在(ア)り。早く道を以(モッ)て斯(コノ)禍(ワザワイ)を除かずんば、必ず危殃(キオウ)有らん。猶(ナオ)し愚貪(グドン)のものの、炬(コ)を執(ト)りて自(ミズカ)ら其(ソノ)手を焼くがごとし』」


 釈尊は説かれました。
「人を縛りつける欲望の持つ危険性は、松明を手にして風上へ向かう場合、火を消さないままでいる愚か者が手にやけどをする危険性があるのと同じである。
 私たちは、確かに、貪りと怒りと愚かさといった煩悩を抱えている。
 仏道修行によって、煩悩がもたらす危険性をすみやかに取り除かなければ、愚か者が自分で自分の手にやけどを負わせるような目に遭うであろう」

 この経典には、鮮やかなイメージを喚起する文章がたくさんあります。
〈火を手にしていながら危険性を察知しない人〉は、私たちそのものです。
 無風の時や風下へ向かっている時ならば、危険性は弱い可能性だけにとどまっていますが、一旦、向かい風となればそうはゆきません。
 きっと、誰しもがやけどを負ってしまうことでしょう。
 風向きはいつ変わるかも知れません。
 私たちの歩みも、いつ、どちらへ向かうことになるかわかりません。
「これを持ったままではいけない」と気づいたならば、火は早く消しておく必要があります。

 また、この教えにおける松明の役割をよく考えてみましょう。
 行く先を照らす明かりは私たちにとって必要ですが、きっと、この松明は、迷いの道へ誘う明かりなのでしょう。
 常に照らす智慧の明かりはどんな雨風にも消えず、やけどを負わせたりするはずもありません。
 火のように燃えさかる煩悩は、無明(ムミョウ)という〈智慧のない状態〉ではたらきます。

 煩悩松明はただちに手放しましょう。
 智慧松明は決して手放さないようにしましょう。
 
 

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.27

『四十二章経』第二十二章 ─愛欲─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。


 3月29日に学んだテーマは、「愛欲」です。

仏の言(ノタマ)わく、『愛欲は色(シキ)より甚(ハナハダ)しきは莫(ナ)し。色(シキ)の欲焉(タ)る、其(ソノ)大なること外(ホカ)無し。(サイワイ)に一(イチ)有るのみ。假(ヨ)し其(ソノ)二あらば、普天(フテン)の民(タミ)能(ヨ)く道(ドウ)を為す者無けん』


 釈尊は説かれました。
「人を縛りつける欲望のうち、最も強力なのは色欲である。
 それでも、色欲に負けているだけならまだ救いはあるが、もしも他の財欲などが加わるようであれば、広いこの世で仏道をまっとうできる者はないであろう」

 意欲が煩悩となった姿が、色欲・財欲・食欲・名誉欲・睡眠欲の五欲です。
 育ち、生きる間に自己中心の「(ガ)」を強くしてしまう私たちは、そうした欲に負けがちです。
 それでも、生まれの因縁と育ちの因縁によってどれか一つが強く現れているだけなら、仏道の修行によってそれを清浄な大欲(タイヨク)に変えれば、運命を転化させさられます。
 しかし、いくつもが重なって出るようであれば、仏道の成就は困難になると説かれています。

 仏法に救い漏れはありません。
 また、多かれ少なかれ、私たちは五欲を抱えています。
 だから、この教えは、算数として「1つなら大丈夫だが、2つになればアウト」といった単純なものではありません。
「あっ、自分は色欲に負けつつあるな──」と気づいたなら、放置せず、ただちにそれに立ち向かう姿勢の大切さを説かれたのではないでしょうか。
 色欲にまかせたまま怠惰にしているところへ他の煩悩もどんどん重なるようであれば、よほど痛い目に遭わない限り、生き方を変えられなくなってしまうに違いありません。

 自分の五欲はどうなっているか、対処すべき順番はどうか、よく考えてみましょう。
 そして、五欲大欲に変える因縁解脱の修行をしましょう。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.26

青葉祭のご案内

 常々の当山へのご理解、ご協力へあたらめて心よりお礼申し上げます。
 さて、おかげさまにて昨年8月に念願の講堂が完成し、お大師様の法を承け嗣ぐ寺院として必ず行いたいと考えていた青葉祭(お大師様生誕祝いの法会)がようやく実現するはこびとなりました。
 つきましては、ご本尊様とお大師様の威光増益を願い、仏舎利供養を行いたく存じます。

 釈尊の滅後、その徳を慕う方々がどこにいてもお詣りできるよう仏舎利(ブッシャリ…ご遺骨)を納めた仏塔がインド中に造られ、やがて仏塔は世界へ広がりました。
 それぞれの国の文化や、修法の違いからさまざまな形に変化し、日本においては、お大師様が提唱された多宝塔(タホウトウ)をもって完成形となりました。
 その間、仏舎利に対する考え方、祈り方も深められました。
 そもそも、仏舎利へ合掌するのは功徳を求めるからです。
 悟りを開かれた釈尊の功徳はこれ以上ない力を持ち、それは何でも成就させる如意宝珠(ニョイホウジュ)に象徴されることから、如意宝珠仏舎利とみなすようになりました。
 また、その宝前に供える宝石も、加持(カジ)法を修すれば仏舎利如意宝珠と同じ功徳力を発揮すると考えられ、三者を一体とみなす修法が行われてきました。
 
 ご本尊様の正面に安置する多宝塔の中へ、仏舎利となった宝石を納めれば、日々、祈りを受けられます。
 記念すべき第一回青葉祭に際し、仏舎利供養によって如意宝珠のような永遠のご加護を受けていただきたいと願っています。
 ご希望の方は、左記の要領にてお祭に参加、あるいはご供養を行ってください。
 皆々様のご多幸と開運を祈っております。合掌

〈本尊大日如来の前にある大壇上へ安置された多宝塔
舎利塔0162

[日   時]  平成22年6月13日(日)※実際のお誕生日は15日です。
          午前10時より修法
          午前11時より法話「誰でもできる『五智如来マンダラ修行法』」
          正午より会食
         (9時30分に「イズミティ21」前を発車する送迎車は要予約)
[場   所]  当山講堂
[申   込]  電話・ファクス・メール・ハガキなど
[参 加 費]  1000円(昼食付、仏舎利奉納者と午前中でお帰りの方は無料)
[仏舎利奉納] 1体1万円
          多宝塔内の袋へ納め、専用のご寄進帳へ記載して永代に供養します。
          なお、祈願の内容は、如意宝珠と同体なのであらゆる善願が叶うよう「心願成就」となります。
[志納金納入] 郵便振替 02260―3―4604
          七十七銀行吉岡支店 普通預金 5446007
          名義はいずれも(宗)大師山法楽寺です。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.25

5月の守本尊様

 守本尊様は、生まれの縁により「一代守本尊様」として一生をご守護くださるだけではありません。
 年齢には年齢なりの守本尊様がおられ、年も、月も、頭も、足も、それぞれにご守護くださる方がおられます。

 さて、5月5月5日より6月5日まで)の守本尊様は普賢菩薩様です。
『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩による苦を解決し、心の平穏を保つための道筋を知る智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩は、自分を迷わせるだけでなく、他からの邪魔を受ける具体的な魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。

nettohugen.gif




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.25

5月の真言

 5月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.25

成就する予言

 最新の研究によれば、心を特定のイメージへ集中させ、特定の行動をくり返すことによって、イメージ通りの行動を行う能力が向上するという事実が確認されています。
 また、「予言の自己成就」といい、こうなるだろうと考えてそれに添った行動を行っていると、そうなってしまう場合がでてきます。
 
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)を掲げ、この身このままでみ仏になることを目標とする真言密教では、特定のイメージをくり返し心に抱く「観想」と、真言をくり返す修行が重んじられています。
 み仏の尊いイメージを心に焼きつけながら行じ、イメージと自分の同化をめざします。
 心に悪しきものを探して退治しようとするよりも、心にある善なるものと一体化することによって、本来は幻である悪しきものが消えた世界へ一気に入ってしまおうとします。
 煩悩を敵と思い定めて戦うのではなく、霊性仏性)を発揮することによって、〈意欲が煩悩として動かない清浄な生き方〉をつかむのです。
 功徳が早く得られ、密教では「速疾」という語が多く用いられるゆえんです。

 また、右脳と左脳をバランスよく使うことによって脳のはたらきが高まることも立証されています。
 身体でみ仏の形となり、み仏の言葉を口にし、心にみ仏やその徳を観想して両方の脳を動かす身・口・意「三密の行」のすばらしさが、科学的にも納得できます。

 み仏の説かれる救済と能力開発の方法を感得し、まとめ、伝えてくださったお大師様の偉大さに驚嘆させられつつの毎日です。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.24

五つの蓋

 釈尊は、本来の心のはたらきを邪魔するものとして『五蓋(ゴガイ)』を説かれました。
 まず、「貪り」です。
法句経(ホックキョウ)』は「熱のように人をとりこにし浮つかせてしまうのは淫である」と指摘しています。
 貪ってやまない時は、道を失います。
 セックスのみでなく、食べることにしても飲むことにしても、儲けることも同じです。
 腹八分あるいは適量なら栄養であり薬ともなる飲食が欲の暴走に負けたばかりに成人病などを招いてしまい、急に得た大金で身を持ち崩す例は巷にあふれています。

 次は「怒り」です。
 カッとなったままで、まともな判断や発想が生まれるはずはありません。
 やはり『法句経』は、「人を害する心の毒は、怒り以上のものはない」と教えています。
 殺人事件で怒りが直接の引き金となるケースが多いのは、古今東西を問わないのではないでしょうか。

 次は「落ち込んだ状態」です。
 愚痴が口からこぼれ、暗いイメージへと想像が傾き、判断に迷い、意欲が減退し、やがては身体機能も低下します。
 一線を越えれば病気になる道です。

 次は「心が騒がしくおちつかない状態」です。
 自分で自分を追い立てて冷静さを失い、気持は高まっているのに正常な思考・判断・行動ができにくくなります。
 これも、一線を越えれば病気の烙印を押されてしまいます。

 そして「疑い」です。
 信じられない人には心にある宝物の光が見えないし、真の感謝もありません。

 これらの蓋を取り除くためには、自分の心に蓋のあることに気づかねばなりません。
 気づいたならば、あとは行の実践のみです。
 すぐどなたにでもできる呼吸法や読経や写経などもあり、正式な指導を受けて行えば必ず良い結果が待っています。
 ただし、病気になってしまった場合は、お大師様がくり返し説かれたとおり、医者の治療とみ仏のご加護と両方を信じて対処することです。

 さて、自分に今、蓋はあるでしょうか、ないでしょうか。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.24

5月の聖悟 ─弘法大師の教え(3)─

 お大師様は、恵果和尚から密教のすべてを伝授されて帰国する際に、その根本がいかなるものであるかを示されました。
 仏法(密教)の意義、仏法のはたらき、仏法の救い、仏法の導きです。

「この法たるやすなわち仏の心(シン)、国の鎮(チン)なり。氛(フン)を攘(ハラ)い祉(サイワイ)を招くの摩尼(マニ)、凡を脱れ聖に入るの虚径(キョケイ)なり」


(この法こそが、仏の要である。
 この法こそが、国の鎮めである。
 この法こそが、災いを除き福を招く宝珠である。
 この法こそが、悟りを開く近道である)

 3月は、「この法こそが、仏の要である」について考えました。
 4月は、「この法こそが、国の鎮めである」を考えました。
 5月は、「この法こそが、災いを除き福を招く宝珠である」を考えてみましょう。

3 密教は、除災招福(ジョサイショウフク)をもたらす如意宝珠(ニョイホウジュ)ともいうべきものである。

 宗教は目に見えない世界と私たちの心がつながっているという感覚を土台にしています。
 過去の聖者方が偉大な力でその世界と通じるためのシンボルと方法を練り上げ、私たちへ遺してくれたのが今に伝えられている「宗教」です。

 さて、私たちはどういう場面で宗教に目覚め、どういう場面で宗教を求めるのでしょうか。
 現在の状況は知りませんが、かつて、宇宙で漂う体験をした飛行士の多くは宗教体験をしたと報じられました。
 また、戦死する兵士が夢枕に立ったという体験は、多くの国で語られてきました。
 仏神の訪れです。
 一方、釈尊やお大師様は、人生への疑問を解く方法を追い求めた結果、普遍的真理としか考えられないものをつかみ、同時にそれが日常生活では得られない真実体験をもたらしました。
 釈尊はあまりの安心と充足感にしばし、動けなくなり、お大師様は、修行が満願する日に明けの明星が真言を唱える口へ飛び込むという体験をしました。
 仏神の救済です。

 では、仏神が訪れや救済は、いかなる状況で起こるのでしょうか。
 経典は、それを「我の功徳(クドク)力と如来の加持(カジ)力と及び、法界(ホウカイ)の救済力を以て」と説いています。
 一つには自分の努力、一つにはみ仏のご加護、そしてもう一つには、目に見える世界と目に見えない世界とを含む縁の力です。
 その最も理解しやすい例が、病気になった時の状態です。
 医者の指示に従うなど、自分でできるかぎりのことを行い、早く治りますようにと、仏神へ祈り、医者や家族を初め、周囲の人たちが協力してくれます。
 これが、経典の説く三力(サンリキ)です。
 三つ揃って闘病できる患者さんは幸せです。
 病気を克服するためには、これ以上の方法がないからです。

 そうすれば必ず救済が起こります。
 もしも快癒すれば「おかげさま」と感謝します。
 もしも快癒が遠ざかっても、やはり、感謝は生じます。
 心の底からありがたいと思えることこそが最高の救済なのです。
 三力を備えて闘病生活を送る方は、試練の中で必ず心のレベルが上がっています。
 自分の願い通りになってもならなくても感謝できる心になったのが、その証拠です。

 密教には、能力を「増す」、他人と気持を「合わせる」、因縁を「消滅させる」、病魔を「封じる」、悪癖を「止める」など、具体的な祈りの方法が確立されています。
 自分で努力し、縁の力も借り、そして祈りを仏神へ届けたい私たちへ、具体的な祈りが用意されています。
 お大師様は、そのことを如意宝珠に例えられました。
 密教の祈りは単なる観念ではありません。
 お大師様は、この身このままで仏に成ることをめざす即身成仏(ソクシンジョウブツ)の説明として、最後にこう説かれました。
「円鏡力(エンキョウリキ)のゆえに実覚智(ジッカクチ)なり」。
(み仏と一体になる修法によってあらゆるものを円かに映す鏡のような智慧がはたらけば、悟りを自覚できる境地へ入られる)
 祈る目的が何であろうと、心に正しい目的を持ち、身体をみ仏の姿に合わせ、目的に応じた経文や真言を唱えるならば、み仏の心へ入られるのです。
 その時は、きっと、私たちの持っている精神力も体力も最大限に発揮されているはずです。
 得られるだけのものは得られるに違いありません。
 私たちは、如意宝珠を手にしているのです。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.23

聖地チベット ─ポタラ宮と天空の至宝─

 仙台市博物館で開催中の「聖地チベット ─ポタラ宮と天空の至宝─」を観ました。
 思い切って約二時間かけましたが、それでもまだ、よくつかめない思いのまま帰山し、夜中に約二百四十ページに及ぶカタログで内容を確認した結果、観たものが訴えかけている内容にいささかの納得を得ました。
 憤怒慈悲智慧を持った尊像であると頭では解っても、形としてそう知るだけであり、人格の響き合いといったところへなかなか行けなかったのは、表情が当然異国風であり、身体の形や姿勢もまた見慣れないものだったからでしょう。
 また、カタログによって、第一の原因は、尊像の住む世界が私の観念にほとんどなかったからであることを知りました。

 おそらく、今回の催しへ足をはこんだ方々の多くは、美的感覚で眺める方はともかく、仏教の尊像として観た時、私が感じたような薄膜に似た違和感を持たれたのではないでしょうか。
 こちらの心に何らの情報もない状態で臨めば、見慣れない風情を漂わせる尊像の形も、そこからやってきた聖なる世界も、こちらの心の音叉から宗教的共鳴を引き出すことは難しいようです。

 そうした意味で、カタログの役割はとても大きいと言えます。
 見たことのないお姿で立っていた釈尊も、千手観音も、実際に寺院で祈られている姿としては初めて目にしたダーキニーも、写真を眺めてからあらためて会場で観たお姿を思い出すと、もう一度お会いしたいという気持が強く起こってきます。
 深い海の底へ馳せるような思いが湧いてきます。
 憤怒や歓喜が尊像と私の間で行き来する感じすら生じてきます。
 冒頭の「仏教の聖地チベットの歴史と芸術」を始め、解説のレベルはとても高く、基礎的知識の少ない方には読みにくいかも知れませんが、内容の割には驚異的に安いカタログはとてもお買い得であり、よく知りたい方には必須です。

 ご縁のみ仏を知る「おみくじ」はお勧めです。
 ちなみに私は白傘蓋仏母(ビャクサンガイブツモ)という聞いたことのない方を引いたので、いかなる方かとワクワクしながら歩を進めたところ、想像を絶するお姿に驚いてしまいました。
 でも、黒衣の女尊は魔除けを司ると知り、何となく自分にふさわしいと思えるのが愉快でした。

 最後につけ加えておきます。
 カタログにある文章のどこにも、1950年に中国の軍隊が聖地を蹂躙して僧侶たちを虐待し、その後百120万人もの人々が殺されたこと、そして、それから現在まで続く宗教弾圧や固有の生活様式の破壊などについてはまったく触れられていません。
 こうしたすばらしい仏教文化が生きていたチベットの人々が自由に仏教を信ずることが許されず(ダライ・ラマ法王の写真を持つことすら厳禁です)、仏教寺院は政府が儲けるための見せ物でしかなくなりつつあるという恐ろしい現実を知っていただきたいと、強く願わないではいられません。
 当山は、五月八日に開催する寺子屋「法楽館」にて映画「チベット チベット」の鑑賞会と解説を行います。
 ぜひ足をお運びください。
 そして、すばらしいチベットの仏教がチベットの人々のために、世界の人々のために再び心の支えになるよう、一緒に願いましょう。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.22

2010年5月の運勢(その2)

 平成22年5月5日から6月5日までの運勢です。
 六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

布施行と運勢
お水を供えましょう。
精進の人は広い心になって焦らず、災厄を避けられます。
精進の人は不要な争論を起こし、引き受けさせられたものごとに足を引っぱられがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢
塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
精進の人は利他の行為が結果的に自分にも良果をもたらします。
精進の人は努力の割に功なき結果となりがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢
お花を供えましょう。
精進の人はすべてを軽視せず安泰です。
精進の人は誤解を招いたり、不謹慎が厳しく咎められたりして苦労となりがちです。
[精進行と運勢
 お線香を供えましょう。
 精進の人は愚癡を言わず、孤独な努力が認められ、前途は開けます。
 不精進の人は人心が離れ、不平不満が口に出て孤独を一層深めがちです。
禅定行と運勢
 飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は信じる心が理解され協力者や和解が生じます。
 不精進の人は独善に陥り、得ようとして得られない結果になりがちです。
智慧行と運勢]
 灯明を供えましょう。
 精進の人は落ち着いた省察と手順の確かさで、不安のない解決法を見いだせます。
 不精進の人は疑心暗鬼となり、無用の紛糾を起こしがちです。

 皆さんの開運を祈っています。

〈境内地の花々です〉

220421 007_edited-1

220421 010

220421 015

220421 0172



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.21

平成22年5月の運勢(その1)

 平成22年5月運勢です。

一 意図するとしないとにかかわらず、生まれてしまった偽りが不信を招き、背反を生じ、和を壊し、決定的な対立を招きかねない時です。
 こういう時期には他者を当てにせず、腹を決めてから言葉に出し、ぶれないで進むしかありません。
「検討事項」と「決定事項」を峻別するのがポイントです。
 他者の言葉を聞く場合も、表面の言い方に惑わされず、アドバルーンを上げているのか、それとも勝負をかけているのかを見極める必要があります。
 共同で何かを行う場合は、知恵者や頑固者など、同質の人同士で対立する危険性があり、事前の調整が成否を分けることでしょう。
 特に、自己主張の強い女性同士の関係には、くれぐれも要注意です。
「女性だから」「女性なのに」といった感覚は通用しないかも知れません。
 ただし、男性同士の対立を解消するのに女性が意外なはたらきをする場合もあり、その智慧は大いに生かしましょう。

二 天地万物は、矛盾と調和によって時々刻々新たな表情を創っています。
 たとえば火と水は、対立すれば相手を消滅させます。
 火によって沸騰させられた水は鍋から消え、雨が降れば焚き火は消えます。
 一方、上手にコントロールされれば私たちの生活を潤します。
 火はおいしいみそ汁を作り、水は湯加減を調整します。
 東洋哲学に「五行」という考え方があります。
 木・火・土・金・水(モッカドゴンスイ)のはたらきと関係を観るものです。五つの要素がこの順番に並べば、次々に相手を生じさせます。
 木は火の勢いを強め、火が燃えれば土となり、土中には金属があり、金属のある山から清浄な清水が湧き出します。
 ところが、順番が変われば、次々に相手を克します。
 木の根は土を動かし、土は水をせき止め、水は火を消し、火は金属を溶かし、金属でできた刃物は木を斬ります。
 神はこうして火水(カミ)となって文明を守ります。
 同様に、対立する要素や矛盾する要素をよく考え、呑み込んで大きく和することができれば、とてつもない活力を生む可能性があります。

三 モノや眼前の利に飛びつかず、精神生活の向上を目ざせば、混乱に巻き込まれず、仕事も日常生活も充実し、落ち着いたものになります。
 そもそも、心も森羅万象も変化し続けるところにその存在意義がある以上、状況の変化に応じて「考え方や判断が変わる」のは当たり前です。
 感性も理性も活き活きとはたらいている場合は、必ず柔軟性に富んでいるものです。
 他人の言葉を聞き、心を観る場合も、こちらが頑固で意固地になってはいないか、事態の変化を察知しているかを自省してからにしないと、「あいつは変わってばかりいてろくな者ではない」と、邪慳で見当違いな判断をする怖れがあります。
 もちろん、こちらだって「ろくな者でない」と思われているかも知れないのです。
「変化」は宇宙の性質であり、現象はすべて「空(クウ)」です。
 相手を眺め、自分を眺め、こうした真実がきちんと腑に落ちるよう、変化の多いこの時期に学びましょう。

四 新鮮な感覚、新しい発想、人としての尊さを発揮する行動が運勢を明るくする牽引車となります。

五 親和を軽視して自分から失敗の種を蒔かないようにしましょう。
 頑固者に叩かれないよう気をつけましょう。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.20

色情因縁の解決 7 ─タイプ別解決法(その3─3)─

3  素直に楽しんだり話したりできないのに異性への興味が強いタイプ
 一旦親しくなると、善悪を忘れ、困難な状況に陥ります。
 水中に発生したオタマジャクシがうごめくように新たなトラブルの種が後から後から芽を出し、災いが続きかねません。
 因縁解脱によって、瑞々しい感覚を持ち、新しい世界の扉を開く人になりましょう。

 こういう因縁のある方は、み仏やご先祖様へ花を捧げる供養をしましょう。
 そして、合掌して誓い、人生修行を支えてくださる守本尊様を供養する真言を唱えましょう。




 こうしたタイプの方の心構えです。

3 三番目に、意のままにならない状況にぶつかって自暴自棄になったり、正邪善悪の判断を投げ出したりしたくなる場合を考えてみましょう。

 釈尊は、苦を脱するための日々の過ごし方を「八正道(ハッショウドウ)」として示されました。
 人間として践むべき8つの正しい道です。
 その1つに「正命(ショウミョウ)」があります。

 正しい姿で日々、いのちをつなぐことです。
 出家修行者にとっては、当然、戒律を守り、営利活動をせず、一身をご本尊様へお任せして修行などの法務に励むことです。
 金儲けをする行者という観念は成り立ちません。
 在家の方々にとっては、正しいなりわいで日々の糧を得ながら生きることです。
 泥棒がまっとうな生活者であることもまた、あり得ません。

 出家・在家いずれにも共通して求められているのは、規則正しい生活態度です。
 ふしだらだったり、自堕落だったりしては、正命の実践は不可能です。
 規則正しい生活は、どこかへ飛んでいってしまいそうな心を、引き戻します。
 朝、起きて、何となく気持が重くなっていても、時計の針に従ってとにかく朝食を摂りましょう。
 そうすると身体がエネルギーを出したくなり、足が前へ進みやすくなります。
 ぼんやりとしていた頭脳も、次に行わねばならないことを求めていつものように動き始めます。
 朝食をきちんと食べる子供がそうでない子供より心身共に健全であるのには、わけがあります。

 同様に、規則正しく祈れば必ず功徳が生じます。
 五恩や十善戒八正道六波羅密(ロッパラミツ…菩薩を目ざす修行道)などを、規則正しく誓いましょう。
 誓い続ければ、その思いが潜在意識へ溜まり、知らぬ間に身体も言葉も心も、そうした方向ではたらくようになります。
 袋小路を脱したいならば、たとえ5分や10分でも、とにかく、できることを実践するしかありません。
 考えるだけでは、運勢はいつまでも転換しないのです。

「どうしても意のままにならない」というのは、一つの状況です。
 それにイライラしても、それを冷静に眺めても、事態に変わりはないのに、自分の心を歪め、頭のはたらきを低下させるイライラに身を任せては人生がもったいないですね。
 イライラを惹きおこす状況への反射的対応を変えるのには、当面の相手を動かすのもさることながら、自分自身を変えるのが最も確実に変化を呼ぶやり方です。
 もしも「職場で、あの人の声を聞いただけで虫ずが走る」場合、「あの人をいなくならせる」ことと、「虫ずが走るという形で条件反射してしまう自分の受信機を変える」ことを比べてみれば一目瞭然です。
 気まま勝手に前者的な対応へ走ってしまうと、ついには気に入らない人を殺してしまうといった事件にも結びつきかねません。
 
 自分を変える有力な方法の一つとして、規則正しく祈ることをお勧めします。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.20

お花見を行いました

 悪天候が続く合間をぬうように現れた好天の日、講堂で初めてのお花見が行われました。
 障子を外した窓外には青空と笹倉山、そして新たに植えた大きな松や工事中の池などが広がっています。
 善男善女からご寄進いただく樹木や石などをふんだんに使い、日々、景観が変わります。

 会では、体調の良い方も、車イスになった方も、飲む方も、飲まない方も、それぞれに心を解放してくださり、〈親戚以上に〉温かい親睦の空気が流れました。
 縦にはお一人のお一人のご誠心とご本尊様がつながり、横にはこうして手を携え合い、「皆でこの世の幸せとあの世の安心をめざす寺院でありたい」と願いを新たにしました。
 親輪会の故佐藤会長が遺された最新式のカラオケ機械がご遺族から寄贈され、さながら歌謡大会の様相となり、遂に、Sさんから怖れていた提案が出されました。
「皆さん、カラオケ同好会を作りませんか!」
 
 今後は、発足した護持会がこうした催しの主役となってくださることでしょう。
 笑顔の皆さんと、出席できないけれども心をお寄せくださった皆さんのご多幸を祈りつつ、足早に法務へとでかけました。

〈皆で笹倉山を眺めました〉
220418 002_edited-2

〈唄う人も、笑う人も、語る人も、食べる人も、誰もが極楽の住人です〉
220418 010_edited-1



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.20

例祭だより(4月の第二例祭)

 17日は四月の第二例祭でした。
 四月の下旬にもかかわらずなんと当日は朝から雪が降り積もりました。;;;
 いや~、びっくりですね。
 今年の春はなかなか暖かくならないなぁと思っていたらとうとう雪まで降ってきて・・・体がついていけない時がありますが皆様はどうでしょうか?
 先週タイヤ交換しようかと思ったのをなんとなく延期したのが幸いでした。

 今回の護摩は炎が高く上り、煙がかなり講堂に満ちたのでお経を唱えていると喉が痛くなって涙が出る時がありました。
 今世界各地でいろいろな災害や事件が起きていることを思いだされました。
 第二例祭の蝋燭には「天下泰平」「萬民富楽」と書いて灯しますが、まさにその通りになることをお祈りしました。

 住職のお話では、善き願いは必ず届くということです。
 世の中から不幸が少なくなるよう、みんなでお祈りしましょう。

 桜も仙台の中心部からだんだんと咲いてきました。
 この春は遅いようですが、それだけに咲いた時の感激は大きいですね♪楽しみに待ちましょう。
 お寺の外猫「ミケ子」はどこかでお子を産んできたみたいですっかりスマートになっています。
 そのうち子猫が見られるのでしょうか^^


※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/から転載させていただきました。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.19

【現代の偉人伝】第99話 ─金本知憲選手─

 プロ野球阪神タイガースで10年以上連続してすべての試合、全ての回に出場し続けてきた金本知憲選手(42歳)がスターティングメンバーから外れた。
 平成11年7月21日に始まった連続出場の圧倒的な世界記録は、ついに途切れた。
 原因は右肩の故障である。
 3月の発症時には、すでに「完全に治すには手術が必要なレベル」であったにもかかわらず、座薬を用いても黙ってプレーしてきた。
 しかし、4月18日の試合を前に、監督へ自ら欠場を申し入れたのである。

 この日、早々に球場へ入り、20分以上もキャッチボールを行い右肩へ可能な限りのテーピングを施してもみたが、決断の時がきた。
「これ以上出てもチームに迷惑をかけるし、特に投手に、あのスローイングじゃ迷惑をかけている。勝つための手段として、僕は外れるということを(首脳陣に)伝えました」。
 それでも監督などから出場を勧められた。
「その気持ちはすごくありがたかった」。
 監督が最終決断をしたのは、メンバー表提出のわずか5分前だったという。

 先発メンバーが発表され、通称「アニキ」と慕われている金本知憲選手の名前がないのを知った観衆の間に大きなどよめきが起こった。
 チームメートは一丸となって試合に逆転勝ちし、自分の記録よりチームの勝利を優先した〈男〉の気持に応えた。
 八回に金本知憲選手が代打出場した時、観衆は「この日一番」の歓声を挙げて勇者を迎えた。

 一メンバーとして試合を行う選手にとって、自分の名誉よりもチームの勝利を優先するのはあまりに当然の責務である。
 その当然の行為が時として私たちに深い感銘を与え、選手への憧れを膨らませ、ゲームへの期待を高める。
 考えてみれば、私たちが記憶に残したいと願う尊い行為とはすべて、人間としての〈あたりまえ〉を徹底したものではなかろうか。
 溺れている人を救おうとして水へ飛び込み、自分のいのちを落とした方。
 線路へ飛び降り、ホームへ落ちた人を救った方。
 相手の負傷ヶ所を責めずに闘い、敗れたスポーツ選手。
 すべて霊性が輝き、迷いの暗雲を消し去った人々である。
 私たちは自明である〈あたりまえ〉に導かれれば、必ず霊性に導かれた尊い人生を生きられる。

 金本知憲選手の輝きはどれだけたくさんの人々を導いてくれたことだろうか。

※「」の範囲は、「日刊スポーツ」紙によります。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.18

5月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

日の誘ひなければ摘まず蕗の薹(フキノトウ

 もうフキノトウが出ている頃だなあと思っても、寒さに怯えて摘みに出られなかったが、ようやく春らしい暖かさを感じさせる日がやってきて、勇んででかけた。
 誘ってくれた陽の惠みを身体いっぱいに受けながら探すと、ここにも、そこにも待っていた。

希望てふ光点(トモ)すや蕗の薹


 フキノトウは春の確かさを教える。必ず廻って来ることそのものが、「希望は持って良いよ」という自然からの保証になる。
「シルバーネット」さんのアンケート調査では、四季のうち、春が好きという方は七十一パーセントに達している。
 希望は春にこそふさわしい。

石垣の隙をうづめて犬ふぐり


 犬ふぐりは地表近くに密生し、群青色の小さな花を咲かせる。
 石垣の隙間などのわずかな土しかない場所でも、芽を出せるところならどこででも育つ。
 黒い土に鮮緑の葉と薄茶色の茎、そして瑞々しい群青色。
 可憐さと力強さが和ませ、勇気を与えてくれる。

もの芽出ず土やはらかく盛り上がり


 何かの芽が地中で育っているらしく、小さく土が盛り上がっている。
 やがて周りの土を突き破り従えるように芽が出て、いのちの息吹が目に見える形となる。
 盛り上がる土の柔らかさに春の優しさを感じ、廻り来た季節への期待感を膨らませ、それを確認している。

笹鳴きや袋小路の小さき庭


笹鳴き」は、まだ鳴きなれていないウグイスがチチチチと鳴くことであり、季語としては、冬の終わりに相当する。
 やっとウグイスがやってきたが、まだへたくそだ。
 でも、それが愛おしい。
 朗々と鳴く声も、もちろん佳いが、小さな庭では笹鳴きに一段と風情がある。

日差し春鉢植の土動き初(ソ)む


 春になると地中の虫や微生物が動き始め、地中に変化が起きる。
 植物にとって良い土ができるのである。
 霜が降り、溶ければ土はほぐされる。
 こうして種や球根が芽を出しやすい環境がつくられ、やがて、土を押し破って陽光の下へ出た新たないのちの息吹が始まる。

一人居(ヒトリイ)の馴れたる部屋に来る余寒(ヨカン)


余寒」は、立春になり、寒(カン)の時期がもう明けたにもかかわらず残っている寒さである。
 桜が咲く頃には「花冷え」になる日もあって、体調管理が難しい。
 気ままな一人暮らしだから何でもどうにでもなりそうなのに、忍び込んでくる冷えは避けられない。
 慌てて暖をとる。

入学児交通安全黄の帽子


 大きなランドセルをまじめに背負って歩く一年生は皆、健気だ。
 帽子は頭の大きさに合わせて作られているが、膨張色の黄色だけに大きく感じられ、いっそう健気さが増す。
 帽子の陰の瞳は同じように輝きながら、先行の運勢は天地に分かれる。
 幸多かれと願う。

蕗の薹(フキノトウ)摘ゐて園児の手に一つ


 作者が陽当たりの良い土手でフキノトウを摘んでいたところ、通りかかった園児が「何をしているの?」と尋ねた。
嬉しくなった作者は、小さな子供の手の大きさに合わせてフキノトウを一本渡した。
光景と空気の暖かさ、心の温もりまでが伝わってくるようだ。

初音きく隣寂と春昼下がり


 ウグイスが隣家の庭にある梅の古木へ飛来して、鳴いた。
隣人は一人暮らしで、気配はいつもひっそりとしている。
それだけに一層、ウグイスの春を告げる声がはっきりと聞こえる。
春の空気と庭の静けさとウグイスの声が立体的に表現された昼下がりである。



〈「rose555さんの写真ページ」からお借りした犬ふぐりを加工しました〉
b7ab52a525959c76fee5-LL.jpg




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.17

お授け 11 (最終回)

 例祭で行われるお授けです。

8 三身仏(サンジンブツ)への礼拝

「あん ばん らん かん けん [法身仏(ホッシンブツ)への礼拝]
 おん あびらうんけん そわか [報身仏(ホウジンブツ)への礼拝]
 おん あらはしゃのう [応身仏(オウジンブツ)への礼拝]」


 み仏のお体には三種あります。

 最初に、宇宙全体をつかさどり、あらゆるいのちを育み守っておられる「法身仏(ホッシンブツ)」を礼拝するのは、尊きものをすなおに尊び、その前に己(オノレ)を投げ出すことが、日常生活の迷いや汚れを脱し、自己を高め運命を切り開くための入り口だからです。
 この根本仏の具体的お姿が大日如来です。
 帰依(キエ)は自分自身を清める最高の方法であり、願いをかける大前提として欠かせません。
 なぜなら、穢れた心で持つ願いに穢れがまといついていないはずはないからです。
 たとえば、自分を引きずり降ろそうとしている相手がいた場合、憎しみが募れば、最後は「死ね!」という気持が頭をもたげます。
 そうした心のままでいれば、合掌は嘘になります。
 合掌とは、左手の自分が右手のみ仏と一体になることだからです。
 我が心の持つ黒い影に苦しみつつ行う合掌が聖なるものとなるためには、たとえ震えたままであろうと至心に帰依し、右手をアンテナとして加持されるみ仏のお慈悲が左手を通じて心の影へ届くよう祈るしかありません。

 次に、お不動様やお地蔵様として、きら星のごとく宇宙に現れ、私たちがお姿を感じ取りお力を実感できる「報身仏(ホウジンブツ)」を礼拝するのは、それぞれの役割を持っておられるみ仏へ、具体的な願いをお届けするためです。
 家内安全・交通安全・当病平癒・厄除開運・先祖供養・水子供養・商売繁盛・夫婦円満・所願皆達(カイダツ)など、善なる願いに制限はありません。
 そもそも、願いに発しない祈りはありません。
 もしも願いがないとするならば、意欲が減退し、いただいたいのちが活かされていない状態です。
 病気なら休養し、復活を待ちましょう。
 病気でなければ、清められた心は、必ず清い願いを起こさせるものです。
 それは人類の平和などという大それたものでなくて当然であり、むしろ「近所にゴミを捨てる人の心が清らかになり、悪しき業を積まない人になりますように」と具体的なイメージを伴った願いを持つことが大切です。
 善き〈考え〉が浮かべば、善き〈願い〉が生じ、それが強まればやがては善き〈祈り〉へと昇華します。
 こうして人の心は深まり、高まります、清まります。
 あらゆる願いの先にあらゆるみ仏がおられ、不断に救いの光を発しておられます。
 それを感得できるかどうかは、自分の心次第です。

 最後に、お釈迦様やお大師様として地上に現れた「応身仏(オウジンブツ)」を礼拝するのは、目に見え耳で聞こえる形で教えを説き、法力を動かして無数の人々を救われ、今もお救いくださっているみ仏へ感謝するためです。

 この三種のお姿でいつも私たちを守っていてくださるみ仏をご供養することは、人としてまっとうに生きることにつながり、その功徳(クドク)を廻向(エコウ…廻し向けること)すれば、先に逝った御霊や万霊魂への最高の追善供養となります。
 感謝がなければ、正しく生きられません。
 なぜなら、生かし、生かされているというこの世のありようを魂でつかまねば、大きな勘違いに立って生きるしかないからです。
 だから、仏弟子として出発する場合、最初に、師から「これから先、恩を忘れないで生きますか?」と問われ、「はい」と覚悟を決めるのです。
 それは、結婚式で「伴侶を尊重し、伴侶へ誠実に生きますか?」と問われ、仏神の前で「はい」と決心するのと同じことです。
 出発点がぐらついていたり、覚悟を決めずに新たな旅へ出たりすれば、行く先はすぐ暗雲に見まわれ、進むべき方向を見失うことでしょう。
 
 こうして、帰依し、願いをかけ、感謝します。
 浄化をお導きくださるすべてのみ仏方へ礼拝し、導師の誓願を待って、最後にまた光明真言を唱え、「お授け」は終わります。
 1ヶ月間、陽の時期と陰の時期を無事安全に生き、まっとうに人生修行を続けられるようにと月に二回行う例祭は、心の浄化と強化を願うものなのです。
 ぜひ例祭へ参加して心を清め、焚く護摩木に願いをかけ、共に経典を読み真言を読誦し、霊性をよりはっきりと発揮できる生き方をしていただきたいと願っています。




 今日からの18日間は、土用です。
 やがて立夏(5月5日)へ向かう今日、雪が降るとは、尋常ならざる気候です。
 お大師様は、「生きる環境と人の心は照らし合う鏡のようなものである」と説かれました。
 私たちの心に何があるか、自省したいものです。
 これ以上、異様な気候と異様な社会にならないために………。




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.16

里山霊苑と「ベイシー」と

 もうすぐ64歳になる老体を気づかい、行者里佳さんは「先生、たまには休んでください」と控え目に言い、懇願してもくれるのだが、こちらは〝やらねばならぬことがある〟と意地を張る場合がほとんどだ。
 でも、言外に〝いいかげんにしてくださいよ〟と、自分の歳を忘れている点を厳しく注意をしてくださっているありがたさに、たまにはそうしようと思う。
 とは言え、一旦、出家した以上はもう、娑婆の人間ではない。
 たとえ道路脇に停めた車中で短い仮眠をとっていて訝しがられても、料理屋の片隅で作家ととりとめのないヒソヒソ話をしていても、あるいは銭湯でアゴに手を当てて瞑目していても、あるいは9時前に寝ようとして妻にあきれられても、24時間、行者である。
 と、いう次第で、今回は、午後から一関市にある樹木葬の墓苑「長倉山知勝院」を訪ねた。

 田舎に住んでいる者には見慣れた里山だが、きちんと間伐され、墓園の手前には三枚の棚田がある。
 チップを敷き詰めた狭い参道を歩きつつ、始めた時から手伝っているという中年の女性が案内してくれる。
 墓地そのものの入り口には二本の角塔婆が立てられており、見学者はここから先へは入れないという。
 そうだろうなと納得する。
 何しろ、里山として管理するプロの手になっている聖地である。
 納める時か供養する時でなければ、極力、管理人以外は入らない方が良いに決まっている。
 しかし、数珠を手にしていたせいか、少々足を踏み入れることを許可してくださった。

 お聞かせいただいた内容には、あえて、触れない。
 ただ、里山を守るという、とてつもなく手間と根気の要る、決して手を緩められない事業を永遠に続けるのには、巌のような覚悟が不可欠であると理解できた。
 10分ほどの説明が終わり、山門を離れる時、「質問はありませんか?」と尋ねられた。
「こちらの方針に理解・納得・共感・満足できた方々がご縁になられるのでしょうね」
 何しろ、JR一関駅から車で片道5000円かかる立地である。
 そうですという待っていた答に、またまた「志」の力を再確認させられた。
 カメラを手にして入山したが、墓苑となっている地帯へレンズを向けはしなかった。

 帰り道、全国有数のジャズ喫茶「ベイシー」を覗き、20分間ほど懐かしい音を聴いた。
 カウンター奥にいた店主に目で挨拶をして席に着いたらユラリと立ち上がって注文をとりにきた。
 耳元近くで「コーヒーと紅茶を」と小さく告げる。
 店内ではアベックが一組じっと大音量のジャズに身をまかせているだけだが、これが礼儀である。
 彼は黙って角張った肩に垂直な頭を立てたまま去り、やがて腰から上体を折りながら飲み物をセットしてくれた。
 前の演奏がすぐ終わり、次はセロニアス・モンクだった。
 静寂を背景にした嵐が起こる。
 彼のいのちと彼の時代が音と空気になって奇跡のようによみがえり、私の魂で眠っていた部分もまたよみがえった。

 帰りの車中で、極楽は花畑の向こうで待っているというイメージが強烈に浮かんだ。
 ぶつくさつぶやき、時には確信的に語る言葉に、助手席で聞き役になっている妻は「また始まった」とあきれている。
 急いで帰山し、イメージに導かれた法務の夢をとり憑かれたように語り出すと、里佳さんは「しょうがないわねえ」と、これまた(心で)あきれ顔になった。

 夜になり、「ベイシー」で買い求めたステレオサウンド誌発行の「聴く鏡」を読んだところ、おもしろいエピソードがあった。
 著者(店主)菅原正二氏が手術のため入院することになったが、9時消灯なので原稿が書けず、待合いロビーで「原稿用紙と筆記用具を持って転々としていた」そうである。
 私も四国八十八霊場巡拝のおり、夜中しかメモの整理ができないので、やはり旅館の寒いロビーでウロウロと明かりを求めたことがあり、苦笑してしまった。

 さて、里山霊苑と「ベイシー」は何に結実するのか。
 今日もご本尊様へ懺悔し、結果を待ちましょう。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.15

水子地蔵供養会のご案内

 5月4日(火)午前10時より、鳴子温泉郷の名湯『琢』さんにおいて、恒例となった水子地蔵供養会を行います。
 熱帯植物園なども楽しめます。
 どうぞ、おそろいでおでかけください。

2204143.jpg



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン





2010
04.15

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 46 ―蕨野行(ワラビノコウ)(その2)─

 4月14日は、映写機とスクリーンを持参し、恩地日出夫監督作品『蕨野行(ワラビノコウ)』を鑑賞しました。
日本の原風景映画で考える会」がバックアップした映画です。
 前回の残りを観ました。
 
 場面は一面雪の原です。
 8人いたワラビ(還暦になって里を離れた人たち)たちは次々に旅立ち、もう3人しかいません。
 雪に閉ざされた小屋の中には食べられるものとてなく、寒さに打ち克つ力もなくなったワラビたちは、敷いたワラに身体を横たえているだけです。 

 ある夜、長男団右衛門の亡児長太郎がマツの夢枕に立ちます。
 長太郎は、団右衛門の前妻ツヨとの間に生まれましたが、母子共に、まもなく息を引き取ったのです。
 長太郎は驚くことを言い出します。
 長らく中有(チュウウ…この世とあの世の中間的存在)にいたけれども、やっと念願かなって再びこの世へ生まれる時期が決まったと告げます。
 ところがそれには条件があり、団右衛門の後妻ヌイにまず長子が生まれないと、その次が予定されている自分は、この世へ来る機会を失うのです。
 しかも、ヌイの長子になるのはもうすぐあの世へ旅立とうとしているレンだから、何としても生まれて欲しいとレンへ懇請します。
 レンは不思議としか思いつつも、来年レンが宿れば、再来年に長太郎が宿るのは〈冥府(メイフ…あの世)の順番〉であると聞き、その気になります。

 時あたかも、里では、身ごもった団右衛門の妻ヌイがどうやって流そうかと悩んでいます。
 凶作を乗りきるためには里の人々の団結が欠かせません。
 限られた作物で皆が生き延びるため、小作人の妻などが宿った子供を流しているのに、庄屋の嫁である自分だけが生めば嫉妬され、信頼を失うのではないかと怖れます。
 姑レンの指導どおり、これまで着るものも食べものも皆と同じにしてやってきた努力が水泡に帰し、里に団結はなくなると考えたのです。
 しかし、夫団右衛門は「生むべし」と決断します。
 
 ワラビ野では、やがて3人とも死に絶えますが、肉体の束縛を離れたワラビたちは全員が雪の原で再会し、童子のような軽やかな気持になって雪を投げ合い、戯れます。
 そして、レンは、懐かしい我が家へと足を運びます。
 「この押伏の地に未練残りて有るならば、励みて今一度生きたしと思いつる。
 良き所ならば未練も残らず。
 苦の土地なればこそうしろ髪を引かれけり。
 されば次の世にても人身を得て、里へ帰りて参ろうなり」
 嫁の腹に宿るべく、嬉々として苦海へ向かいます。

220414 0031_edited-1

 この映画をたくさんの方々に観ていただきたいということになりましたが、年配者はいざ知らず、はて、若者がきちんと理解してくれるだろうかと議論が起こりました。
 Aさんが言いました。
「16歳の少年の投書を読んだことがあります。
 同居していた祖父が亡くなって人の死を実感しました。
 これからは、生と死をしっかり見つめて生きて行きたいと書いてありました。
 若い方々の中にも、きっと真剣に考える人がいるはずです。
 鑑賞会をやるのなら、幅広く声をかけても良いのではないでしょうか」
 いつか、きっとその機会を設けたいと願っています。

220414 0012



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.14

色情因縁の解決 7 ─タイプ別解決法(その3─2)─

3  素直に楽しんだり話したりできないのに異性への興味が強いタイプ
 一旦親しくなると、善悪を忘れ、困難な状況に陥ります。
 水中に発生したオタマジャクシがうごめくように新たなトラブルの種が後から後から芽を出し、災いが続きかねません。
 因縁解脱によって、瑞々しい感覚を持ち、新しい世界の扉を開く人になりましょう。

 こういう因縁のある方は、み仏やご先祖様へ花を捧げる供養をしましょう。
 そして、合掌して誓い、人生修行を支えてくださる守本尊様を供養する真言を唱えましょう。




 こうしたタイプの方の心構えです。


3 二番目に、意のままにならない状況にぶつかり、心が萎縮してしまう場合を考えてみましょう。

 思い通りにならなくて、先行きを悲観したり、意欲がなくなったりするとはどういうことでしょうか。
 そこには、「この世は、思い通りになるところだ」という勝手な思いこみがあります。
 私たちには「こうもしたい」「ああもしたい」という欲があるので、まっさらな未来にはいつも希望の虹がかけられており、その橋を渡られるか渡られないかわからないにもかかわらず、虹を眺めないではいられません。
 だから、人生の実態を知らないうちは、胸いっぱいの希望を抱き、何でも実現できそうな気がして「思いは叶う」と考えてしまうのです。

 しかし、経典は説きます。

「幸せの原因は希にしか生じない。しかし、しみの原因は大変多い」


 恐ろしい指摘です。
 冒頭の思いこみの反対ですが、どんなに楽観的な方でも、長年、人間をやっていれば納得できるはずです。
 こうなる理由は簡単で、私たちが真理を悟らず、他人をさておき自分を先にしないではいられない煩悩(ボンノウ)に突き動かされて生きているからです。
 考えてみましょう。
 たとえば、私たちの心に、(ガ)を捨てた「与える」という良い姿勢が半分あり、に支配された「奪う」という悪い姿勢が半分あるとします。
 そうすると、「与える」姿勢で誰かと接した時、相手も「与える」人であれば与え合って幸せになれますが、相手が「奪う」人であれば与える前に奪われたり、与えようとする以上に奪われてしまうことでしょう。
 〈良い人〉が騙され、利用され、奪われ、あるいは被害者となる現実を観れば明らかです。
 もしも「奪う」姿勢で誰かと接した時、相手が「与える」人であれば、奪う悪行はたやすく成就して悪業(アクゴウ)を積み、相手が「奪う」人であれば、奪い合いになることでしょう。
 私たちは、お互いが与え合わない限り幸せになれませんが、そうなるのは簡単ではないのです。

 では、どうすれば救われるか?

 まず、考えるべきは、「原因があるから結果がある」という真理です。
 今のは、過去の悪業(アクゴウ)が原因で起こっており、時間を遡れない以上、消しゴムで消すように原因を消すことはできません。
 ならば、を脱するためには、原因の量だけ、結果を受けてしまうしかありません。
 泥水が流れてきて汚れた側溝は、上流に溜まった分量だけ流れ去らなければ、きれいにならないのです。
 今、目の前を泥水が流れているのは、それだけ上流の泥が減っているということです。
 それをきちんと理解していれば、「何でこんなに家の前の側溝が汚くなるんだろう」と嘆かず、「そのうちに泥水が流れてこなくなれば大丈夫」と待つ気持になれます。
 泥の汚さに打ちのめされたり、逆上したりするか、それとも道理を考えてジタバタせず時を待つか、ここで、日々の暮らし方に天地の差がでます。

 また、私たちが、誰かに心のモヤモヤを聞いてもらっただけでも何となくすっきりすることを考えてみましょう。
 それは、〈の肩代わり〉が行われていると考えられませんか。
 誰でも嫌な話を聞くのは嬉しくなく、思いやりの深い人ほど、相手の辛さが身につまされて自分もひどく辛くなったりします。
 でも、不思議なことに、聞く自分の胸を締め付けられるひとときが過ぎれば、親友は、「ありがとう」と涙を浮かべてくれたりします。
 このように、自分にが起こったのは、誰かにとりついた深い原因の一部を共有しているからかも知れません。
 それがご先祖様なのか、あるいは過去に出会った人なのかは特定できませんが、「今、自分が誰かを救う尊い役割を果たしているはずだ」と考えられれば、使命感も勇気も湧いてくることでしょう。

 さらに〈やって来るべくしてやって来た〉には、大きな役割もあります。
 たとえば私は、全財産を無くしましたが、ああした極限状態にならなければ、浮き草のような不安を抱えたま一生を送っていた可能性が高いと考えています。
 そして、もしも何とかやっていたとしても、いつか必ず、人間としてもっともっと大きな失敗をしていたに違いないと確信できます。
 だから、今になってふりかえれば、あの苦は、私たち家族をどん底へたたき落とし、信頼してくださっていた方々を裏切るとんでもないできごとによってもたらされましたが、私の愚かさに発する苦があったればこそ、今、人としてどうにかまっとうな道を歩んでいられるのです。

 苦は、慢心の鼻をへし折ってくれました。
 苦は、自分の罪科に向き合わせてくれました。
 苦は、悪を離れ、善を求める気持を強めてくれました。
 苦は、他人様の苦をおもんばかることのできる心をつくってくれました。
 そして、苦は、不安を一掃し、生かしてくださっている人々や天地万物の「おかげ」を実感させてくれました。
 また、苦を生きる中で、「おたがいさま」と手を差しのべてくださる方々のまごころを知りました。

 苦には、こうした他には変えられない役割があります。
 苦の原因は、苦を受けとめ苦を生きる中で理解でき、その過程において、必ず、苦は減少しています。
 教えと道理に導かれ、打ちのめされず、居直らず、守本尊様に手を合わせながら共に進もうではありませんか。



「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.13

人生相談に来られた師

 ホームページで当山の活動を知ったAさんが仙南の農村から来山されました。

「しばらく一緒にいた夫の遺骨を、ようやく思い切って納めました。
 代々続く家なので、古いお墓にはご先祖様のお骨でまだ骨壺のままのものもあり、この際、すべて土に還すことにしました。
 何か私にできることをしたいと思い、お骨を入れる布袋を5枚、手縫いで縫い上げました。
 そうして臨んだ納骨でしたが、私には決して忘れられない嫌な思い出になってしまいました。
 前日、お寺へ確認の電話を入れたところ、3ヶ月前に予約していたにもかかわらず、住職は急用で忙しいから息子さんが拝むというのです。
 いつものことだと思い、別に怒りもしませんでしたが、お経が2分くらいで終わり、質問を無視していなくなってしまったのには、がっかりしました。
 私の家はずっと貧しかったので、こうした扱いを受けるのが初めてではありませんでしたが、このままでは夫にもご先祖様にも申しわけないという気持が強くなり、自分にできることを教えていただきたいと思い、でかけてきました」

 お寺へ頼むだけではなく、自分でも供養したいと考えるのはとても尊いことであり、Aさんのように相手の〈仕打ち〉を怨まず、自分の努力を考えるのは大したものです。
 この方は花のような方だなあと、あらためて、百合のように白い光がうっすらと漂っているお顔のあたりを拝見しました。

「我、雨風に負けず咲く花のごとく、耐え忍び、心の花を咲かせん」

が見事に実践されています。
 当山では、どなたも守本尊様や年忌供養のみ仏をご供養できるように、経典CDを用意しています。
 兎年生まれの方なら文殊菩薩様の「おん あらはしゃのう」を唱えれば良いし、三回忌なら阿弥陀如来様の「おん あみりたていせい から うん」で立派なご供養ができます。
 また、光明真言は、いかなる仏神にも通じるスペードのAのような万能の真言ですから、覚えておけば安心です。

〈ご本尊様へ捧げられた百合が咲きました〉
22041122 0022

〈生まれ年の守本尊様や、年忌供養のご本尊様の真言、あるいは般若心経などを、大きな文字でB5版にまとめました。CDを聴けば唱え方がわかります〉
2204112 001_edited-1

供養の意味や、供養する際の真言などをまとめました〉
2204112 002

 Aさんのお話は続きます。

「私の叔母は身体に不具合があり、いじめに遭って故郷を離れました。
 生涯独り者だった叔母が遠方で孤独死となり、私がお骨の行方を決めなければならない立場に立ちました。
 親族は皆が叔母へ批判的で、手を出すな、無縁にしてしまえといった雰囲気でしたが、私は、亡くなった方を生きている人が裁くことはどうかと思っています。
 財産や名誉をつかんだ人は『あの人は立派だった』と言われ、貧乏で亡くなったりすると目もかけられませんが、その人の本当の値打ちを他人が判断することなどできないのではないでしょうか。
 たとえば、大富豪になる過程で弱い者を踏みにじっているかも知れないし、名もない人が、誰かを死の瀬戸際から助けているかも知れません。
 叔母がどういう生き方をしていたのかまったく知りませんが、縁あって連絡が来た以上、やはり、身内として、自分が手を合わせてあげたいのです。
 周囲の誰もが振り向こうとしないからこそ、自分にその役割があると考えるのです。
 これで良いのでしょうか」
 
 回答するまでもありません。
 Aさんは本ものの僧侶が行う仕事を、もう、立派にやっておられます。
 そうしたわけへだてない姿勢で亡くなった御霊へ接し、等しく引導を渡し、等しく安心を得ていただくのが行者としての僧侶の務めですが、現実的には、いかがなものかと思われる話題が多すぎます。
 特に、「亡くなった方を生きている人が裁くことはどうか」には心底、唸らされました。
 Aさんは、娑婆を離れてみ仏へいのちをお任せし切った僧侶顔負けの気持になっておられます。
 私たち僧侶がこうした謙虚で敬虔な姿勢で、一切、わけへだてせず祈らねばならないことを再確認させていただきました。

 娑婆にも、本筋の考えや心構えで生きている方がおられるのは、本当に嬉しいことです。
 同志を得た心持ちになり、真言の唱え方など、祈り方をお伝えしました。 
 人生相談に来られたはずのAさんは、どうやら私の師だったようです。

菩薩(ボサツ)として生きる道をわかりやすくまとめました。すべて手作りです〉
2204112 003



「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


 
2010
04.12

寺子屋『法楽舘』開講 ─第六回の予定─

 5月はいつもと異なり、講師をお招きするのではなく、映画の鑑賞会と解説を行います。

「チベットの現状を知りましょう」
─映画『チベット チベット』を観る会─

○日時:5月8日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

 映画は約1時間40分、その後、約20分間、ダライ・ラマ法王に会ったことのある住職が法話を行います。
 この企画は政治的立場からではなく、インドで滅ぼされる寸前の仏教が正確に伝えられたチベットで人権が踏みにじられ、〈生きた仏教が滅びることを見捨てておけない〉という仏法行者としての信念によるものです。
 ぜひ映像を観て、事実を知ってください。

コピー ~ 2204112

○真実を知ってください

 もうすぐ、仙台市博物館で展覧会「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」が開かれます。
 この「至宝」は本来、チベット人にとって身近な信仰の対象でした。
 しかし、現在、中国政府によって宗教が弾圧され、文化伝統が破壊され、元々住んでいたチベット人は激減させられています。
 ポタラ宮はチベット人の心のよりどころではなく、高い入館料を設けた観光地になり果てました。
 心を失いたくない人々は標高6千㍍のヒマラヤを越え、いのちがけで亡命し、ダライ・ラマ法王を先頭に世界中で不屈の活動を続けています。
 この映画は、在日韓国人三世の映画監督金森太郎こと金昇龍(キム・ヨンスン)氏が約10年前のチベットの現実とダライ・ラマ法王の活動を撮ったドキュメンタリー映画です。
 仏法の危機に際し、当山は25回にわたってこの映画を上映し続けています。

22041134.jpg

 
○在日コリアンの青年が見たチベット

 DVBのジャケットです。

22041135.jpg


寺子屋「法楽舘」について

 平成11年に『托鉢日記第二集』を出版し、寺子屋建立運動を開始してから10年、ようやく講堂が完成し、寺子屋を開くことができました。
 ご助力くださった方々へ心よりお礼申し上げます。
 寺子屋では毎回、各界で活躍しておられる方々のお話をお聞きし、質疑応答を通じて生き方を考えます。
 また、参加された方々の間でも自由に対話をしていただき、老若男女あらゆる垣根を超えて共に学ぶ機会とします。
 そして、最後に住職が法話と質疑応答を行います。
 考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。
 基本的には毎月、第二土曜日の午後2時より開催します。時刻や場所など予定の変更もあり得るので、参加される場合は電話などで事前にご確認の上、お申し込みください。



「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.12

第二十五回 「映画『チベット チベット』を観る会」のご案内

 5月8日、午後2時より、寺子屋法楽館』にて映画『チベット チベット』の上映会を行い、ダライ・ラマ法王と会ったことのある住職が法話を行います。

コピー ~ 2204112

 場所は大師山法楽寺講堂です。
 午後1時30分に、『イズミティ21』から送迎車が出ますので、乗車ご希望の方は必ず事前にお申し込みください。
 なお、寺子屋の参加費は1000円(未成年者は500円)です。

○真実を知ってください

 もうすぐ、仙台市博物館で展覧会「聖地チベット ポタラ宮と天空の至宝」が開かれます。
 この「至宝」は本来、チベット人にとって身近な信仰の対象でした。
 しかし、現在、中国政府によって宗教が弾圧され、文化伝統が破壊され、元々住んでいたチベット人は激減させられています。
 ポタラ宮チベット人の心のよりどころではなく、高い入館料を設けた観光地になり果てました。
 心を失いたくない人々は標高6千㍍のヒマラヤを越え、いのちがけで亡命し、ダライ・ラマ法王を先頭に世界中で不屈の活動を続けています。
 この映画は、在日韓国人三世の映画監督金森太郎こと金昇龍(キム・ヨンスン)氏が約10年前のチベットの現実とダライ・ラマ法王の活動を撮ったドキュメンタリー映画です。
 仏法の危機に際し、当山は25回にわたってこの映画を上映し続けています

22041134.jpg
 
○在日コリアンの青年が見たチベット

 DVBのジャケットです。

22041135.jpg

寺子屋「法楽舘」について

 平成11年に『托鉢日記第二集』を出版し、寺子屋建立運動を開始してから10年、ようやく講堂が完成し、寺子屋を開くことができました。
 ご助力くださった方々へ心よりお礼申し上げます。
 寺子屋では毎回、各界で活躍しておられる方々のお話をお聞きし、質疑応答を通じて生き方を考えます。
 また、参加された方々の間でも自由に対話をしていただき、老若男女あらゆる垣根を超えて共に学ぶ機会とします。
 そして、最後に住職が法話と質疑応答を行います。
 考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。
 基本的には毎月、第二土曜日の午後2時より開催します。時刻や場所など予定の変更もあり得るので、参加される場合は電話などで事前にご確認の上、お申し込みください。



「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
04.11

寺子屋『法楽舘』開講 ─第五回を終わりました─

 暖かな晴れた日、ウグイスの声に迎えられて善男善女が寺子屋法楽館』へ来られました。
 講師は、10年の長きにわたりカンボジアの子供たちの教育支援及びカンボジアからの留学生の支援に当たってこられた熊谷千枝子さんと2人の元留学生です。
 昨年、在仙留学生さんたちへ「カンボジア小学生教育支援の会・仙台(CES・SENDAI)」をバトンタッチされた熊谷さんは、会の活動を何枚もの資料にまとめてくださいました。
 また、現地の様子を撮った貴重な映像を用意されました。

 戦争と政治の混乱は子供たちから教育の機会を奪いました(生きるためにはたらかねばなりません)が、熊谷さんなどのボランティア団体が小学校に代わる施設を運営して識字率を高め、国を創る若者たちを育てようと努力してこられました。
 カンボジアの子供たちは、誰一人として「雨が降ろうと風が吹こうと学校などへ行かない言いわけをしない」そうです。
 学べることが嬉しく、立ち上がって欲しいと願う親の気持を知っているからです。
 地道な活動が実り、政治が安定し経済復興が順調なこともあいまって、最近では子供たちの学習環境が飛躍的に良くなり、見せていただいた映像にもそれははっきりと示されています。
 施設が変わり、子供たちの服装も変わりました。
 また、戦乱の時代には、子供たちへ「夢」を尋ねると「兵士になりたい」が圧倒的だったのに比べ、今は日本とほぼ同じく、「医者や先生になりたい」と目を輝かすそうです。

 カンボジアでは、勤労者や学生や主婦などは日本同様に、お正月やお盆にしかお寺へ足を運びませんが、お年寄りは毎日、僧侶のための食事を手にお寺へ行き、お経を教えてもらいます。
 僧侶はとても尊敬されており、それは国旗の図案にも表れています。
 上下にある紺色の帯は国民であり、それは国旗全体の地色です。
 中央の赤色の帯は国王であり、国民の上にいます。
 そして、真ん中に描かれる白いアンコールワットは宗教であり、僧侶は国王よりも上の存在とされています。
 どんなに小さな子供でであっても、一旦出家したならば、たとえ親であろうと帰依の姿勢で接し、どんなに偉い人でも僧侶へは恭順を表すそうです。

 それにはわけがあります。
 カンボジアの仏教ではとても戒律が厳しく、出家者は妻帯せず、お金に触らず、食事は朝と昼だけであり、毎月断食を行い、肉類はお盆など決まった日しか口にしません。
 お盆には、御霊を慰めるため、供養にと供えられたものはすべて僧侶が食べます。
 み仏の世界の住人となった僧侶が食べることにより、供物は確実に御霊へ届くと信じられているからです。
 修行のみに専念する僧侶たちのお世話役として寺院にいる人々は皆、白い服を着ており、女性がこの役を務め場合は剃髪をしなければなりません。
 尼僧は存在しません。
 女性は僧侶に触れてはならず、お金やモノをなどを直接渡すこともできず、巻きスカート風のロングスカートなどで肌を隠しています。

 こうした厳しい条件の中で聖職者として生きる僧侶であればこそ、尊敬の対象となるのでしょう。
 ちなみに、カンボジアの僧侶は日本と反対にご本尊様を背にして祈りますが、それは、み仏の代わりに人々へ教えを説き、救うためです。
 人々が合掌する場合の手の位置には、段階があります。
 額の上へ上げるのは対象がみ仏の場合、その下は僧侶の場合、その下は国王の場合、その下は親や目上などの場合です。

 最後に熊谷さんは、東北大学などへの留学を終えて帰国する青年との印象的なやりとりの一部を披露しました。
「日本はアジアのお兄さんだから勉強に行きなさい」と言われて来日した学生Aさんは、卒業して帰国する際に「もう一度、日本に来られたらどんな仕事に就きたいですか?」と尋ねられ、「日本は嫌いだから来ません」と答えました。
 もちろん、こうしたできごとを一般論とすることはできないけれども、熊谷さんは「私たちは何かが問われている」と考えています。
「自分が考えていた日本とは違っていて、裏切られたと感じたのかも知れません。
 アジアの国である日本がどれだけアジアを向いているか、私たちの自省も必要でしょう」
 また、東北大学経済学部を卒業し社会人となっている元留学生Bさんは、慎重に言葉を選んで感想を述べました。
「上を目ざさないと発展はできません。
 そういう意味では、日本がより発展した国として欧米を見ているのはよく解ります。
 私たちも、カンボジアと日本の発展を願っています」

 最後に住職が法話を行いました。
 共同墓『法楽の礎』がいかなる経緯でできあがったか、共同墓の存在意義はいかなるものか、また、皆さんとの仏縁を法楽寺はどう考えているかといったことをテーマにしました。
 当山は常に、根本を問い、本筋の思考を行い、基本を大切にして法務に励む覚悟でいます。
 カンボジアの子供たちや留学生の思いや願い、またそうしたものへ手を差しのべて来られた熊谷さんなどのまごころをしっかり受けとめ、自省しながら確かな歩みを続けたいと願っています。

〈熱心に耳をかたむける善男善女〉
220411 010

〈カンボジアの子供たちが生きるために作った品々など〉
220411 016

〈現地での活動を記録した貴重な映像〉
220411 026

〈民族衣装をまとって熱弁をふるう熊谷さん〉
220411 031

〈元留学生Bさん〉
220411 0272

〈Bさんが留学する際に母親から渡されたお守の仏像が机上から見守っておられました〉
220411 0223




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.10

夢がかなった方・修行する方

 仙北の町から中年のご婦人とそのご両親が訪ねて来られました。
 知人から共同墓があると聞いたので、内容を詳しく知りたいとのことでした。
「今、20万円お支払いして生前に契約しても、亡くなった時に物価が上がっていたらどうなるんでしょう。追加の費用がかかりますか?」
 そうしたものは発生しません。
「もし亡くなった時は、このお堂で送っていただけるんですか」
 もちろん、そうです。ご遺体のまま、安置することもできます。
「A家はこちらと宗派が違うんですが、きちんと送っていただけますか?」
 み仏が差しのべる救いの手に差別はなく、修法は引導を渡す相手を選びません。
「私たちの住んでいるあたりでは、亡くなってから何日も家に安置しておきますが、こちらでは3日目くらいに送っていただくことができますか?」
 それは皆さんの感覚と気持次第であり、長く家へ安置しておけば亡くなった方も送る方々も〈より救われる〉とは言い切れないでしょう。

 三人は、口々に「安心しました」と言いつつ帰られました。
 特にお爺さんの言葉は忘れられません。
「これで、心配なく、夫婦して百歳まで生きられるようがんばります。やっと、夢がかないました」

 近くの方々が共同墓の契約に来られました。
 兄弟夫婦4人が、仲良く並んで碑盤を貼りたいというご希望です。
 ご両家ともまだ仏様は出していませんが、仏壇を用意して毎日お経を読み、在家なりの修行をしたいとのご希望です。
 仏壇は仏道のミニチュア版であり、それが本来のあり方です。
 まずご本尊様を定め、ご供養することが安心を得るスタートです。
 大日如来なり、観音様なり、お不動様なりに日々導かれ、救われつつ生活していれば、死後不安はなくなります。
 祈りによって積まれる功徳は人格を高め、心を定め、運命を明るくするので、満たされている思いと感謝がいつも支えとなり、死は、それを保ったまま向こうへ渡ることに過ぎなくなるのです。

 経典と、お経を録音したCDを手にした皆さんは、「さあ、やるぞ」という意欲に満ちて帰られました。
「今度はご本尊様の魂入れをお願いします」
 降りてくださったことを実感していただけるよう、しっかり修法せなねばなりません。
 修行した甲斐があります。
 皆さんも救いの道へ入られましたが、「このままやってください」と理解・納得・支持していただくことにより、当山も救われます。
 仏縁の糸は、救いと感謝を共有する糸でもあります

〈早朝のモヤは春のものです〉
220409 0022
220409 0042
220409 0052
220409 0062
220409 0092
220409 0112
220409 0122
220409 0132_edited-1

〈ウグイスが鳴き、梅が咲き始めました〉
220409 0332



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
04.09

色情因縁の解決 7 ─タイプ別解決法(その3─1)─

3  素直に楽しんだり話したりできないのに異性への興味が強いタイプ
 一旦親しくなると、善悪を忘れ、困難な状況に陥ります。
 水中に発生したオタマジャクシがうごめくように新たなトラブルの種が後から後から芽を出し、災いが続きかねません。
 因縁解脱によって、瑞々しい感覚を持ち新しい世界の扉を開く人になりましょう。

 こういう因縁のある方は、み仏やご先祖様へ花を捧げる供養をしましょう。
 そして、合掌して誓い、人生修行を支えてくださる守本尊様を供養する真言を唱えましょう。
 回数は、1・3・7・21・108回が基本です。
「我、雨風に負けず咲く花のごとく、耐え忍び、心の花を咲かせん」
「おん あらはしゃのう」

 合掌するのは〈身体〉をみ仏に合わせる修行です。
 お唱えするのは〈言葉〉をみ仏に合わせる修行です。
 そして、〈心〉をみ仏に合わせる修行として、誓いの言葉はもちろんですが、以下の3点をよく考え、生活において実践することが大切です。
 こうして身・口・意がみ仏と一体になる即身成仏(ソクシンジョウブツ)体験を重ねれば、因縁解脱へ向かいます。

1 人生には追い風の時期も向かい風の時期もありますが、向かい風の時期をどう過ごすかが、特にその後の運命を大きく左右します。
 耐えつつ踏んばって歩くことは人生修行の中心です。
 意のままにならない状況にぶつかった時、私たちは3つの危機を迎えます。
 一つには怒りがこみ上げてくること、もう一つには心が萎縮してしまうこと、もう一つには正しい道から外れることです。
 この3つによって人生を破壊しないためには、忍耐力を身につける必要があります。
 それは自分自身の心の問題です。

「粗暴な人々は虚空のように無限にいて、すべてを滅ぼすことはできない。
 しかし、怒りという心の敵を滅ぼしたなら、すべての敵を滅ぼしたようなものである」


2 まず、他人から害されて怒り、怨んで報復しようとする場合を考えてみましょう。
 たとえば、悪口を言われたならば、なぜ、相手がそうした行為を行ったのかを、道理によって調べるのです。
 できごとには、必ず因と縁があるはずです。
 相手には、そうした粗暴な心を作る過去からの悪が積まれていたはずです。
 そして、こちらへの曲解や誤解などという直接的なきっかけがあって悪口を言ったにちがいありません。
 因と縁によって当然、起こったできごとにすぎない問題によってこちらの心に怒りの炎が燃え上がり、もしも粗暴なふるまいを行ったならば、自分自身の積んだ功徳を一瞬に消し去ってしまいます。
 これは愚かしいやり方ではないでしょうか。
 そうするしかなかった相手の因縁を憐れみ、相手を支配している煩悩が自分にも潜んでいることを自覚し、共に煩悩の克服ができるように願うのが、菩薩になる道であると説かれています。
 悪口に対して悪口で応えたならば、共に菩薩になる道は閉ざされ、共に地獄行きになりかねません。
 愚かしいことです。

 できごとは必然か偶然かによって起こります。
 もしも相手の煩悩が必然的に起こしたできごとならば、相手の人間そのものよりも、煩悩をこそ責めるべきではないでしょうか。
 相手を怨んだり、罵ったり、殴ったりするのは、自分も煩悩を持っていることを忘れた愚かしい行為です。
 もしも肩が触れた偶然が起こしたできごとならば、誰を責めることもできません。
 それは、せっかく楽しんでいた満月にたまたま群雲がかかったからと不満を抱き、雲に文句を言うようなものです。

 さらに考えるべきは、自分の中に相手の悪口を引き出すものはないかどうかという自省です。
 心に刺々しいものはないか、相手への妬みや蔑みはないか、生意気な態度はないか、傲慢なふるまいはないか、つけいられるようなひ弱さはないか……。
 あるいは、自分も過去に悪口を言ったことはないか、それはこの世に生まれてから、生まれる前の遙かな過去から……。
 悪しきを浄化し、因縁から脱するためには、自分自身で修行を行う方法と、悪の報いをしっかり受けとめて懺悔するという二つの方法があります。
 もしも自分の生意気さが相手の悪口を呼び込んだならば、それは自分の悪因縁を消滅させるチャンスです!
 しかも相手は、悪口という自分自身を地獄へ堕としかねないリスクを負って、こちらへ貴重なチャンスを与えてくれるのです。
 懺悔し、同時に相手の悪因縁もまた早く消えるようにと願うのが道理というものではないでしょうか。

 こうしたことごとをよく考えておけば、決して〈瞬間湯沸かし器〉にはならないで済むはずです。
 自他を守り、清める仏法の道理に導かれようではありませんか。
 


「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。