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2010
05.31

檀家とは何か(2) ─檀家離れの理由─

 檀家檀越(ダンオツ)としての清浄な布施行が敬遠されるようになった理由は二つあります。

1 「布施を行う家」である檀家や、「布施を行う人」である檀越(ダンオツ)は、み仏の子である人間としてあるべき姿なのに、「そうなりたくない」方々が増えつつある最大の原因は、悪名高いお布施の強要です。

 ご葬儀のおりに「お通夜までに200万円用意するように」、「長い戒名を欲しければ一文字あたり10万円出しなさい」などと指示されれば、面食らったり、困ったり、怒ったりされるのは当然です。
 また、檀信徒さんの理解をきちんと得られないままに、突然、「本堂を改修するから一軒当たり30万円寄附してください」といった依頼が来れば、誰しもが疑問を抱きます。
 布施は自発的で見返りを求めないからこそ清浄なのであり、受ける方が相手を無視して金額を決めたり、渡す方が嫌々だったり苦しんだりすれば、双方にとって、菩薩(ボサツ)となるための布施行ではなく、立場と義理と人情にからまってドロドロした世界のできごとでしかありません。
 世間では、どうしても損得や、見栄や、思惑といったものが外せないので、〈意に添わない〉やりとりが避けられません。
 しかし布施行は、そうした世間で生きながら、つかの間、出世間(シュッセケン…世間の価値判断などを超えた真実世界)の世界へ入る清浄な修行です。
 モノやお金や労力を提供する側も、提供される側も、やりとりされる材料にも〈意に添わない〉穢れがあってはなりません。
 このように、寺院の姿勢が本当の布施行を行わせなくしている実情には悲しいものがあります。

2 もう一つの原因は、自分を中心にして、便利さや手軽さや安さや都合などを絶対の価値判断基準とする感覚が、そうしたものを超えた世界をも呑みこみつつあることです。

 そもそも、ご葬儀やご供養やご祈祷は、なにがしか日常生活の次元を超えた世界と関係することによって、人間として存在している自分にとってかけがえのない尊さに接し、モノ金では手に入らない安心がもたらされる特別なできごとです。
 たとえば家族が亡くなり、旅立つ際に戒名を受けるのは、私たちが生まれ、この世へ修行にやってきた時、良い人生を歩んで欲しいと願う親から良い名前をもらうようなものです。
 それを、今度は、魂の故郷で待っているみ仏が決めてくださり、僧侶という行者を通じて亡き方とご遺族へ示されるのです。
 これまで何度も書きましたが、戒名は、一行者に過ぎない僧侶が勝手に決められるものではありません。
 もちろん、コンピューター任せにしたり、一文字いくらで売り買いするのもおかしなやり方です。
 行者が祈ってみ仏からいただく以外、方法はないと信じています。
 だから、戒名料も決められません。
 そもそも、親が一生懸命考えてくれた名前に値段がつけられますか?
 それが不可能であるのと同じく、戒名にも値段はないのです。
 ではどうするか。
 受ける側がこうした真実を知った上で熟慮し、価値判断をする以外、お布施のやりとりを行う方法はありません。
 その上で、今度は財布との相談になります。
 たとえ100万円だと感じても、生活に支障を来すような出費は不可能です。
 だから、当山では、お布施の金額についてのご相談があると、決まって、こうお答えしています。
「意味を学び、自分で価値判断をし、あとは財布と相談してください。こちらから請求はできません」

 こうしたできごとに遭遇し、まっとうに対処しようとするならば、〈便利に、手軽に、安く〉済ませるわけにはゆきません。
 価値判断の基準が、テレビを買ったり、遊びにでかけたりするのとは全く異なっているからです。
「親の戒名をどう考えるか?」といった場面では、判断する人の人間性が問われています。
 こうした場面を軽々に〈いつものような〉モノを売り買いする感覚で通り抜けるならば、堕落と言うべきです。
 堕落する危険性といつも一緒にいる私たちを堕落させないのは霊性であり、仏性であり、み仏のご加護です。
 だから、人間として肝心な場面では、立ち止まり、宗教的真実を知る必要性があります。

 しかし、ややもすれば、宗教行為にかかわる業界の方々も聖職者も、宗教的真実を脇へ置き、宗教行為を必要としている方々の〈日常的価値感覚〉に迎合し、あるいはそれを利用しようとしてしまいがちです。
 悪しき商業主義の蔓延です。
 もちろん、業者さんが経済的合理性を第一にするのは当然です。
 しかし、聖職者がしっかりしていれば、金銭に置き換えられる部分と置き換えられない部分との微妙な関係が生きた形でものごとが行われ、宗教行為を求める方が真の安心と満足が得られ、結果的に業者さんも聖職者も生きてゆけるのではないでしょうか。

3 こうして、本当の布施行について知られず、「よく解らないから、あまりお金を出したくない」といった感覚だけが広がった結果、数千年にわたって私たちへ受け継がれた「清浄な布施行」が危機に瀕しています。
 外側から見た歴史的事実などは云々されても、真の意味を知られぬままに「檀家」が敬遠され、戒名は「料金」だけが問題にされ、人々は心を清める布施行から離れるに至ったのです。

 では、どうすれば良いか?



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.30

檀家とは何か(1) ─檀家になるか、ならないか─

 お身内のご葬儀が終わり、Aさんがご相談に来られました。
「皆で相談したら、檀家にならない方が良いということになりましたが、これからも法楽寺さんへ年忌供養などをお願いしたいのです。
 つけていただいた戒名にも皆、とても納得しているし、感謝しています。
 でも、檀家になるのは怖いのです。
 すみませんが、市営の墓地へ申し込みました。 
 檀家を、どう考えたら良いのでしょうか?」
 とても正直で、研究熱心な方です。
 大切な問題へ正面からぶつかる姿勢に感服しました。

 Aさんは当山でご葬儀をされましたが、他の寺院に墓地がある方々や、ご葬儀が終わった方々も様々な問題にぶつかり、当山の門を叩かれます。
 根本的な問題は「檀家とは何か」という点にあります。
 
 おそらく、多くの方々の持つ檀家のイメージは以下のようなものでしょう。
「特定の寺院に墓地があり、ご先祖様などを託している家」

 ちなみに、『仏教語大辞典』では、檀家はこう定義されています。

「檀は檀那・檀越の略。寺院に所属する信徒の称。特定の寺院に所属してこれに布施をなす家のこと」


 また、檀家制度はこうなっています。

「檀家が特定の寺院に、一家の法事・葬式などの諸仏事、墓地管理などを依頼し、これに大して寺院の側からは堂の建築・修復、その直接、間接の寺院経営費を檀家に負担させるという関係が制度として固定したもの。中世末期に自然に成立したが、徳川幕府はこれをとりあげて強行した」

 そして、檀越(ダンオツ)という言葉もあります。

「①恵みを与える人の意。施主。②寺や僧にものを施す信者。寺院の檀信徒。寺の後援者」

 では、「檀」とは何か?
 インドの言葉「ダーナ」が中国で「檀那」と当て字され、それが省略されたものです。
 では「ダーナ」の意味は?
 布施です。
 では布施の意味は?
 自己中心の執着を離れ、見返りを求めず、時に応じ、ことに応じ、相手に応じて、自分ができる限りのことを行う善行です。
 もちろん、相手は特定されません。
 たとえば、道に迷っている人がいれば近寄って声をかけ、道順を教えるのも立派な布施であり、横断歩道を渡ろうとしている子供がいたら車を停めて渡すのも、それに対して子供が「ありがとうございました」と感謝の心を伝えるのも、もちろん、布施なのです。
 こうした布施行をしないではいられないのが菩薩様です。
 だから、布施行を行っている時の私たちは、一時的に菩薩になっていると言えます。
 清らかに生きるとはこういう生き方であり、ぜひ、こうありたいものです。

 そうすると、檀家とは本来、「布施を行う家」であり、檀越とは「布施を行う人」であることが解ります。
 いつからか、こういう人間としての尊い善行が寺院へ向かった場合を特定して檀家や檀越と称することになったのでしょう。
 つまり、檀家とは「縁になっている寺院のために、自主的に自分のできる限りのことを行い、役立とうとする家」であり、檀越とは、「縁になっている寺院のために、自主的に自分のできる限りのことを行って役立とうとする人」を指すのが現在のありようです。

 では、なぜ、こうした〈人間としてあるべき尊い姿〉が忌避されるようになったのでしょうか?



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.29

6月の真言

 6月6月6日から7月6日まで)の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

 勢至菩薩(セイシボサツ)様真言です。

「おん さんざんざんさく そわか」

※お唱えする時は、唸ったり、余計な節をつけたりせず、ただただまっすぐに声を出しましょう。
 明瞭で、臭みがなく、いのちの力がこもっている状態をイメージしてください。

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
05.29

6月の守本尊様

 6月(ウマ)の月なので、守本尊勢至菩薩(セイシボサツ)様です。

勢至菩薩様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた勢至菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできたが体内へ納められています(奉納受付中)〉

seisi011.jpg

 芒種(ボウシュ)と夏至の水無月(ミナヅキ…6月6日より7月6日まで)をお守りくださる守本尊勢至菩薩(セイシボサツ)様です。
 勢至菩薩様は、『根上下智力(コンジョウゲチリキ)』という、人の性根を見分ける力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は、生まれにより育ちにより違った性根を持って運命を創り、お救いいただく道筋も、当然異なります。
 勢至菩薩様は、それぞれが持っている蓮華のような尊い心を性根に応じた方法で開けるよう、勢いをつけてくださるのです。



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
05.28

6月の聖悟

 お大師様の説かれた密教の精髄です。

六大無碍(ムゲ)にして常に瑜伽(ユガ)なり」


(この世を成り立たせている・空・識という六つの要素は、互いに妨げ合わず、一つに溶け合っている)
 お大師様の説かれた六つを六大と言います。
「大」は無限の大きさ、広がり、深さを意味します。
大」は、真実世界が広い大のように、無始無終であること。
大」は、低きへ流れてやまないのように、真実世界が言葉を超えたものであること。
大」は、すべてを燃やすのように、真実世界が汚れなきものであること。
大」は、自在に吹き抜けるのように、真実世界が因縁を離れたものであること。
「空大」は、太陽や星々を自由に浮かべる空のように、真実世界が虚空のようなものであること。
「識大」は、心があらゆるものを見たり思い浮かべたりできるように、真実世界が明らかであること。
 そして、お大師様は、六大がみ仏のお身体であるとされました。
 私たちの身体と心と環境のすべてがみ仏です。
 そう言えば、のような骨格とのような血液とのような体温と、のような呼吸と、空のようなバランスと、そして心によって私たちは生きています。
 私たちは確かに、み仏なのです。
 笹倉山も鯉の泳ぐ池も護摩のも吹き渡るも星空も、み仏なのです。
 大日如来への合掌は、この世の全てへの感謝であり祈りです。

 ちなみに、お塔婆の表には「・空」、裏には「識」を象徴する梵字が書かれており、目に見える世界と目に見えない世界の徳、自分が持っている徳のすべてを捧げるという意味があります。
 


「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
05.28

寺子屋『法楽舘』開講 ─第七回の予定─

 今月の寺子屋法楽舘』には講師をお招きせず、「仏法は心の灯台になるか、葬儀戒名は要らないか」と題する住職の法話をもとにして、生き方と弔い方を考えていただきます。
 このところ、祈りや嘆きの〈現場〉とずれた視点に立っているとしか思えない刺激的な本や発言が、物議をかもしています。
 損得や思惑や自己中心的な考えでは処置できない〈現場の真実〉が脇へおかれたままです。
 肝心なものが、簡単かつ安易に、あれも要らない、これも要らないと切り捨てられつつあります。
 皆さんの願いに応じた修法の現場で明らかになる真実はいかなるものかをお伝えしたいと願っています。

【お寺の門を叩くのは億劫ですか?】

 今月は、皆さんに「この世の安心とあの世の幸せ」を得ていただくため、一生を目に見えないところから動かしている運気の流れや、み仏の説かれた人生の目的や、葬儀では何が行われているのかなど、基本的な問題についてお話します。
 それを参考にして、生き方や弔い方などを考えるきっかけにしてください。
 また、ふだん、何気なくおこなっている仏事の内容(戒名はどうやって決まるのか?百か日供養や三回忌供養などをお守りくださり、お導きくださるみ仏はどなたか?)なども、意外に知られていないので、どんなことでも、この機会にご遠慮なく質問してください。

 現代は「心の時代」と言われて久しいけれど、評論家や学者さんの意見は広く知られても、仏法に生きる行者の信念は、あまり、皆さんへ伝わっていないという実感があります。
 たとえば、修行に直結している「なぜ、お線香を点すのか」といった基本的なことがらも、その根本はほとんど知られていません。
 これでは「心の危機」です。
 仏法は、この世の生き方を示し、あの世の安心をもたらす生きた教えです。
 今の時代まで守り伝えてくださった方々へ感謝し、共に学び、共に守り、共に活かそうではありませんか。

【み仏の説かれた真理です】

「学び方に二種類ある。教えを知ることと、それを自分でよく考え、行動に結びつくよう理解・納得を深めることである」

「憂いの苦しみは刀で切られる傷よりも酷く、病難などの苦しみは矢で射られる傷よりも酷い。その苦しみは剛勇の者でも耐えられず、ただ、真理を学び心を創ることによってのみ、解消できる」

「人は生まれながらにして、口の中に斧を持っているようなものである。斧のもたらす悪言は、自分をも他人をも傷つける」

「悪しきことを行っているのに幸せを満喫しているのは、悪行の報いが熟しきっていないからである。時が至れば、必ず自分で報いを受けなければならない」

「正しく生きているのに災いに見舞われるのは、善行の報いが熟しきっていないからである。時が至れば、必ず自分へ福徳がやってくるのである」


※いずれも、当山の基本経典『法句経』にある教えです。

○日時:6月12日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

寺子屋法楽舘」について】

 寺子屋では、み仏の教えによってきちんとものごとを見、なかなか変えられない心を願う方向へ変え、明るい運命を創る方法を身につけていただきたいと願っています。
 真実を知り、考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。

 実践の日記戒名に関する66の思い』(製本:法楽寺・B5版200ページ・ご志納金1000円送料込)をお分けしています。
※これは、ブログ『想いの記 ─住職の本音・本心・本気─』の記事から戒名に関する文章を抜粋して加筆修正したものです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
05.28

舎利礼(シャリライ) ─なぜお骨を大切にするのか─

 私たちは、なぜ、お骨を粗末にせず、お骨へ祈り、供養するのでしょうか?
 それは、亡くなった方は、み仏の子として、み仏の世界という故郷へ還る旅の旅人だからです。
 お骨は、私たちが五感六根を用いてその魂へ、その旅へと祈りを届けるための象徴として故人が遺してくださった宝ものだからです。
 祈りは、私たちそのものが悟りへ入るための修行でもあります。
 先に逝かれた方は、私たちへ祈りという修行の機会をつくってくださったのです。
 感謝し、お骨を大切に扱い、祈りましょう。

 さて、一旦、肉体という衣を脱ぎ捨てれば、もう、み仏の子そのものであり、それは、み仏の分身であるとも言えます。
 だから、故人のお骨へ祈ることは、釈尊のお骨へ祈ることと何ら変わるものではありません。
 そして、お骨に見立て、お骨として修法する宝珠もまた、そうしたお骨と変わるものではなく、必ずみ仏からご加持のお力をいただけます。
 お大師様はこのように、み仏が真理を真実として表わされる様子を、「体(タイ)…お身体」・「相(ソウ)…お姿」・「用(ユウ)…おはたらき」の三面から説かれました。
 故人のお骨、釈尊のお舎利、如意宝珠と、目に見える姿である「相」は異なっていても、そこを象徴とするドアを開ければ、向こうには、等しくみ仏のおはたらきに満ちた真実世界があります。
 
 私たちが日常、何気なく唱えている短い「舎利礼文(シャリライモン)」には、こうした深い真理が含まれています。

1  一心頂礼(イッシンチョウライ)
2  萬圓満(マンドクエンマン)
3  釈迦如来(シャカニョライ)
4  真身舎利(シンジンシャリ)
5  本地法身(ホンジホッシン)
6  法界塔婆 ホウカウトウバ)
7  我等礼敬(ガトライキョウ)
8  為我現身(イガゲンシン)
9  入我我入(ニュウガガニュウ)
10 仏加持故(ブツカジコ)
11 我證菩提(ガショウボダイ)
12 以仏力(イブツジンリキ)
13 利益衆生(リヤクユジョウ)
14 発菩提心(ホツボダイシン)
15 修菩薩行(シュウボサツギョウ) 
16 同入圓寂(ドウニュウエンジャク)
17 平等大智(ビョウドウダイチ)
18 今将頂礼(コンショウチョウライ)


1  み仏と一体になった心で、み仏の御み足を頂き、礼拝します
2  すべての功徳を円満に備えておられる
3  釈迦如来の
4  御いのちそのものであるお舎利
5  本源のいのちである真理のお身体と
6  真実世界の顕れたお塔婆を
7  私は等しく敬礼します
8  み仏は私のためにお身体を現され
9  私へ流れ込み、私もみ仏のお身体へ流れ込み
10 み仏がご加持されるおかげで
11 私は悟りを実証できます
12 み仏の不思議なお力で
13 人々を利益し
14 菩提心(ボダイシ…悟りを求める心)を起こさせ
15 菩薩行(ボサツギョウ…悟りへ至る修行)を実践させ
16 私も人々もすべて等しく完全な安寧の世界へお導きくださる
17 わけへだて無い偉大なる智慧を
18 今、まさに礼拝します

(4)の舎利は、実際に目に見えるみ仏のお姿なので、「相(ソウ)」といいます。
(5)の法身は、真理として目に見えない姿で存在しているみ仏の本体なので、「体(タイ)」といいます。
(6)の塔婆は、実際にはたらくみ仏の現れなので、「用(ユウ)」といいます。
 このように、み仏は体と相と用の3つのありようで私たちをお導きくださっています。
 そのすべてを心から礼拝することによって、私たちのいのちと心は、み仏のそれと感応し合い、一つになれます。
 真の祈りは、こうして即身成仏(ソクシンジョウブツ)へと到達します。
 そこでみ仏のご加持くださるお力は明らかになり、祈る自分だけでなく、あらゆる人々へみ仏の加持力と祈る功徳が届きます。

 仏舎利を祀り、塔婆を立て、祈るとは、こうして真実世界へ入り、この世を真実世界へ変える偉大な修行を実践することです。
 み仏の教えは真理です。
 ぜひ、共に、実践しようではありませんか。



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2010
05.27

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 49 ―『法句経(ホックキョウ)』塵垢品(ジンクホン)第二十六─

 5月26日の「生活と仏法」では、煩悩(ボンノウ)の動きについて学びました。
 釈尊は外面・迷い・無常を題材にして、私たちのありさまと、煩悩を離れたみ仏の世界とを示されました。

虚空に轍迹(テツジャク)無く、沙門(シャモン)に外意(ゲイ)無し、衆人(シュニン)盡(コトゴト)く悪を楽しみ、唯仏のみ淨(キヨ)くして穢(ケガレ)無し。


虚空には轍(ワダチ)の跡がなく、行者は外面を作らない。人々は迷いにあって悪を為すこともあるが、み仏は清浄で悪を離れている)

虚空に轍迹(テツジャク)無く、沙門(シャモン)に外意(ゲイ)無し、世間は皆無常なり、仏のみ(ガ)の所有(ショウ)無し。


虚空には轍(ワダチ)の跡がなく、行者は外面を作らない。世間因縁によって無常であるが、み仏は執着によらず動揺しない)

 大には飛ぶ鳥の跡が残らないのと同じように、出家修行者は、ただ自分の修行に集中するだけで、外見を作ろうとしません。
 修行へ溶けこめば、周囲の目を気にし、〈見てくれ〉の服装や態度をどうこうしている暇はありません。
 そうした行者を導くみ仏は、世間とまったく異なった世界におられます。
 迷いがなく清浄で、因縁を離れた絶対の安心世界です。

1 私たちは行動する時、「どう見えるか」と他人の目を気にし、本来の目的だけでなく「どう見せようか」と余計なことに頭を使います。
 また、認められたいとか、誉められたいとか、有名になりたいといった穢れがまといつきます。
 み仏には、そうしたはからいがなく、行者もまた、世間的はからいという外面を離れていなければなりません。

2 私たちは根本的な道理に気づかず、気づいても(ガ)がはたらいて気ままに生きてしまい、苦の貼りついた人生を送ります。
 また、お互いに道理に従って生きられないこの世では、どうしても過ちを犯しがちです。
 私たちは、み仏の説かれた教えと道理に導かれ、悪業を積まない生き方をこそ目ざさねばなりません。

3 私たちは希望や夢を持てばこそ活き活きと生きられますが、ともするとすべては因縁果の理によって仮に現れているだけであることを忘れ、執着心に苦しまされます。
 また、一生懸命はたらき、成功しても、無常にやられれれば失意のどん底へ落ちる場合があります。
 成功しようと失敗しようと、すべては移りゆく(クウ)の世界のできごとであることが腹に入っていれば、成功して驕らず、失敗して落ちこまず、淡々と、堂々と、人生の大道を歩まれます。

4 こうした生き方は、ただ出家者にとって大切なだけでなく、人間すべてにとって大切です。
 心そのもののありようを最も大事と考え、ではなく人の道に従い、空の理を真実と信じて生きたいものです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
05.26

【現代の偉人伝】第100話 ─魁皇関─

 5月23日、大相撲夏場所千秋楽で、大関魁皇は、史上二人目の通算1000勝を達成した。
 市立直方第2中学校卒業後、すぐに相撲界へ飛び込んだ〈たたき上げ〉力士である。
 昭和63年に初土俵を踏んだ同期には、後の横綱曙・横綱貴乃花・横綱若乃花といった逸材がいた。
 横綱候補の筆頭と目された時期もあったが、不運やケガで大願成就はならず、大関の地位に甘んじたまま、じっと戦い続けた。
 その結果、十両以上の関取在位場所数第一位となり、大関以上の最高齢記録も超え、通算勝ち星の記録では頭上に千代の富士が挙げた1045勝があるものの、大鵬(872勝)や貴乃花(794勝)を遙かに凌駕するに至った。
 大相撲界きっての人気力士であり、特に出身地福岡では圧倒的な声援を受けている。

 達成の瞬間も、その後も、22年余りの土俵生活の成果に沸き立つ周囲にあって、当人はいつものとおり静かで謙虚なままだった。
 インタビューではこう答えている。
「いろんな人が応援してくれた。その声で気合が入って、とにかく絶対、自分の形で行こうと、それだけ考えていました」
 ガッツポーズの写真要求は断った。
 そして、決定的な言葉を口にした。

「いろいろなことを我慢し、犠牲にしながら、相撲のことばかり考えてきた。それが今につながっているのかな」


 飾り気のない述懐は、「いろいろなことを我慢し、犠牲にしながら」コツコツとやっている日本中の人々の心へ、まっすぐに届いたことだろう。
 同期だった貴乃花は「若い人たちはあの姿を目ざして欲しい」と讃えた。
 魁皇の姿は、まっとうな生き方の手本である。
 釈尊の教えを思い出した。

忍耐は行の尊である」


(最も尊い修行煩悩と戦い続ける忍耐である)




「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
05.26

戒名の不思議 (3)

 とても情に厚く、同窓会や町内会のまとめ役などを長年務めたAさんが、ほぼ平均寿命まで生きて、去りました。
 外へ、社会へと、役割を求めて走るご主人を支える奥さんは、人の道を深く考えるようになりました。
 五代目古今亭志ん生大津絵冬の夜』に登場する火消しではありませんが、〈求められる自分〉を生き尽くそうとする人と一緒に人生を歩むのは大変です。
 だから、人生の大事をなし終えた男性の多くは、「妻のおかげ」を口にします。
 たとえ闘っている最中は弾薬の補給などを当然と思っていた人も、勝敗が決する頃には必ず、そのありがたさがわかるのです。

 奥さんはいろいろと心について勉強し、自分を省み、夫の行動へ自分なりの価値判断は行いながらも、懸命に杖となり続けました。
 あらん限りの介護を受け、スーッと眠るように逝ってしまった夫を前にして、後悔と感謝の入り交じった気持でいます。
 後悔しているのは、「ありのままの夫を丸ごとそのまま受け容れてやれなかった」という念が残ったからです。
 感謝しているのは、妻へ向かって感謝の言葉を口にしたことのない昔気質(ムカシカタギ)の夫が、なくなる前日、何気なく「ありがとう」と言ってくれたからです。

 さて、戒名が出ました。
 そこには、とても強い力を思わせる文字がありました。
 お通夜の修法が終わり、戒名についてご説明申し上げた時、「ハイパワー」という言葉を用いたほどです。
 しかし、実際のAさんは、三度も手術を受けて死ぬか生きるかのところをくぐり抜け、最後の10年ほどはずっと闘病生活でした。
 ではなぜ、み仏は、そうした文字をくださったのか?
 小学校以来の友人が読む切々たる弔辞に、謎を解くカギがありました。
「貴男は、手術室へ入るたびに、お別れだと言っていたのに、たちまち元気になりました。
 貴男は、俺は50歳まで生きられたら本望だと言っていたのに、皆のお世話役を立派に務めながらここまで頑張りました。
 とても病弱とは思えない力強さで生き抜きました」
 み仏は、弱い身体を抱えながら全力疾走したAさんの真の力を観ていてくださったのです。

 また、すべてが終わった後の会食で、Aさんの妹さんから告げられました。
「住職さんは、姉の名前を知っていて戒名をつけられたのですか?」
 そんなことはありません。
 奥さんの名前にある文字が戒名へ入ったという事実を知り、奥さんの気持がこうした形で結晶したことに深く納得できました。
「思い」一つで走るご主人と、「考え」つつ生きる自分とのズレを感じながらも懸命に〈一つの人生〉を生きてきた奥さんの願いが、最後の最後に成就したのではないでしょうか。

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「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.25

2010年6月の運勢

 平成22年6月運勢6月6日から7月6日まで)です。
 人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

1 良くも悪しくも言葉運命に関わります。
 日本語にはこまやかな人間関係に即した言葉づかいがあり、礼儀とあいまった言葉を適切に用いる能力のあるなしは、信用を得られるかどうかに直結します。
 家庭できちんとしつけが行われ、育ちの因縁が良き後押しになっていれば結構ですが、さもない場合は、このあたりで基礎を学んでおくことも一考です。
 また、上質の小説や随筆に親しむ習慣もお勧めです。
 最近、受験に失敗して腐っている後輩に「友だちと呑んでいるかい?遊んだ方がいいよ」と声をかけました。
 自分の失敗体験をふまえてはいますが、梅崎春生の文章が頭に入っていたことに関係があるかも知れません。

「人間の一生がかけがえがないのと同時に、良い友達もまたかけがえがないものだ」。


2 立場なりに、臆せず、傲慢にならず、自然体でやればうまく行きますが、ビクビクしたり、威張ったりすると和が破れ、ケガをしかねません。
 教えは説いています。

「砂の家が壊れた時、子供が疲れるまで泣き続けるように、賞賛と名声が失われた時、自分の心は子供のごとくになる」。


 名声も地位も財物も自分そのものではないのに、幻を頼み、幻にとりすがろうとします。
 立場は位置を示しているだけであって、立場に本質的な価値はなく、一個の肉体を備えた人間は皆、平等に、自分の心で世界を眺め、世界と接しているだけです。
 心に満月を、言葉に涼風を、眼に思いやりを、行動に芳香を宿すイメージでやりましょう。

3 今月、空気が広がりやすい色情因縁は、畢竟、引力の問題です。
 異性の引力に負けやすい人も、自分から余分な引力を発している人も、悪心はないのに過ちを呼び込みがちです。
 この引力は煩悩であり、問題はそのコントロールにあります。
 何かに〈惹かれる〉感性は情緒が根にあってはたらき、加齢とは無関係です。
 日本画家片岡球子は七十歳を過ぎてから新境地を開き、コメディアンボブ・ホープは八十歳を過ぎても軍人慰問活動を続け、共に百歳を超える長寿をまっとうしました。
 感性を磨くには、見るものや聴くものや接するものを選び、潜在意識を変えることです。
 また、動物が異性を〈呼ぶ〉ような雰囲気に浸っているだけでは、そうした次元で呼び込める相手しか現れません。
 発する電波は周波数の合った相手にキャッチされるだけのことです。
 自分が発しているものをふり返る謙虚さや用心深さが大切です。

[布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は目上へ気を配り、状況を確かめ徐々に進んで成功します。
 不精進の人は欲に駆られて慌てふためき、家と身を破ってしまいがちです。

[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は慎み深く、意地でケンカを買わず無事安全です。
 不精進の人は自信過剰で危険を察知せず失敗しがちです。

[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は妄りに大言壮語せず攻撃を受けないで進めます。
 不精進の人は自己主張が敵を作り、妬みや嫉妬や嫌悪を呼び込みがちです。

[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は他人を尊敬する態度が尊敬を集め、順調です。
 不精進の人は内心で受けたい尊敬を受けられず、自己顕示の潜在意識で失敗しがちです。

[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は常に変わらぬ誠意が自然に成就をもたらます。
 不精進の人は才能や知恵や力を過信し、強引に結果を求めて失敗しがちです。

[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は自分を戒め、地位の低い人へも敬意を払い、成功します。
 不精進の人は世間的知恵を過信し、他人へのまごころを失って孤立しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.24

五代目古今亭志ん生の大津絵 ─冬の夜─

 五代目古今亭志ん生の唄った大津絵冬の夜」が歴史的名演であると知り、聴いてみました。
 火事の知らせを耳にした火消しの夫は勇み立ってでかけますが、一人、家に残る妻は夫の身を案じ、無事帰宅できるよう祈るしかないという作品です。
冬の夜に♪」で始まった瞬間から約7分ほどの間、歌には一瞬のスキもなく、出る声も息を吸う時の沈黙も、聴き手の意識をつかんで離しません。
 独特のしわがれ声は抑揚にリズムとメリハリがあり、2オクターブという広い音域を完全に支配しつつ物語を繙(ヒモト)きます。
 この歌詞はCDからの転載です。
(実際に録音されているものとは一致していない部分があります)

冬の夜に風が吹く
知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ
これさ女房わらじ出せ
刺子襦袢(サシコジュバン)に火事頭巾(ズキン)
四十八組おいおいと
お掛り衆の下知(ゲチ)を受け
出て行きゃ女房はその後で
うがい手洗(チョウズ)にその身をきよめ
今宵うちの人になァ
怪我のないように
南無妙法蓮華経(ナムミョウホウレンゲキョウ)
清正公菩薩(セイショウコウボサツ)
ありゃりゃんりゅうの掛け声で
勇みゆく
ほんにおまえはままならぬ
もしも生まれたこの子が男の子なら
お前の商売させやせぬぞえ
じゃもの


 唄の中では、「今宵うちの人になァ 怪我のないように」と「南無妙法蓮華経」を何度かくり返します。
 祈る声は切々として聴く者へ迫り、まるで江戸時代に暮らしていた長屋の女房が志ん生に乗り移ったかのようです。
「ありゃりゃんりゅうの掛け声で」から調子が変わります。
 それは、み仏へ祈っていた心が、自分の気持へ戻ってきたからです。
 気持の吐露は「もしも生まれたこの子が男の子なら」でさらに明確になり、最後の「じゃもの」は思いのたけを細めの声で表現し、弱く消え入ってしまう芸は絶品という以外ありません。
 
 火消しの夫は、「いざ!」となればもう、自分の身も、妻の身も眼中になく、ただただ、役割へ没頭してしまいます。
 現場への怖れなどはみじんも見せず「これさ女房わらじ出せ」と手早く準備にかかり、あとは「ありゃりゃん」「りゅう」と気合を入れて駆け出します。
 それだけに、留守を預かる身としては祈らないでいられません。
 ここで行われる祈りには、人間に共通の真実が顕れています。
 絶対の〈ままならなさ〉に直面した時、絶望しない限り、必ず祈りが頭をもたげます。
 その切なさ、健気さは、古今東西変わらないのではないでしょうか。

 妻は「じゃもの」と作りな夫、そして、夫に象徴される〈男の姿勢〉を怨みますが、もてあます夫(男)をそのまま認め、包んでしまいつつ暮らす妻(女)の真情が感じられ、ここにあるのは夫婦の理想像ではないかとすら思わされます。
 賢(サカ)しらな理屈をポンと超えてしまっている人間の真実は、永遠へつながっています。
 慶應大学の塾長を務めた故小泉信三氏が大のファンだったというエピソードには、「さもありなん」と言うのみです。
 ちなみに、行者里佳さんに聴いてもらったら、「先生、これはロックですねえ」とため息をついてくれました。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.23

自死(自殺)と成仏

 自死自殺)された方を送ったご家族が、寺院から「自殺された方の御霊はしばらく近辺を彷徨ってから向こうへ行くので、心得ておくように」と告げられました。
「もしかして、成仏できないのではないか?」
 皆さんは不安になりました。
 当山は、俗信はともかくとして、そのような思想に根本的な道理はないと考えています。

 理由の一つは、自死や病死や自然死や事故死など、死ぬ〈原因の違い〉はあっても、それがそのまま〈成仏の違い〉になるなどと説かれてはいないからです。
 私は、釈尊の最期とお大師様の最後は、〈覚悟の上の選択〉だったと判断しています。
 他所に何度も書きましたが、釈尊は、おかゆを捧げて供養する貧しいチュンダの心づかいを無にしないため、前世で何度もくり返したとされる捨身供養(自分の身を差し出して相手を救うこと)を行ったと考える以外、生きながらみ仏になっておられた釈尊が中毒死された場面は理解できません。
 また、やはり生きながらみ仏になっておられたお大師様が事前に死期を知り、延命をはかるどころかむしろ食事制限などを行い、その日に向かっての準備を進め、悠然と弥勒菩薩の浄土へ行かれた成り行きにも、明らかに選択がありました。
 そして、「もう良いよ」とベッドの上に横たわる病人が治療の継続を断るケースもまた、尊い選択です。
 このように自分が選択した死を迎えることは、自死でなくて何でしょうか。
 当山は決して自死を勧めませんが、自死を〈特別の死〉として忌み嫌う姿勢は、み仏の教えとずれているのではないかと考えています。

 当山はこれまで、幾度となく自死された方々をお送りしてきました。
 現場の悲惨さや、第一発見者となった方の精神的打撃や、原因に関係があったと思われる方の尽きない後悔などもお聞かせいただきました。
 そして今、思うのです。
「いのちが失われたという事実が重ければ重いほど、人間としての尊厳をかけた選択にもまた計り知れない重さがあり、それをそのまましっかり受けとめることがまず最初に行われなければならない」

 理由のもう一つは、葬儀の核心が、教えと法力によって「この世あの世の区切りをつけること」であり、行者としての僧侶が修行を続ける大きな理由の一つは、プロとしてこの役割を果たすためだからです。
 それは、外科医が研鑽と自己管理を怠らず、腫瘍をきちんと切除するのと同じです。
 御霊を慰め、ご遺族が安心するために経文を〈読む〉だけならば、朗読家やアナウンサーにも僧侶を兼務できるはずであり、むしろそうした職業の方が僧侶より〈上手に〉読めるかも知れません。
 しかし、法を結ぶことは行者以外、誰にもできません。
 死の理由や状況が悲惨であればあるほど、修法には、御霊とご遺族にとって確かな救いとなる最後の砦として大きな役割が課せられます。
 刃の上を渡るような覚悟で法を結び引導を渡さねば、導師としての存在意義も存在価値もないと常に自省しています。
 
 以上の理由により、葬儀法がしっかりと行われればいかなる形で向こうへ旅立たれた御霊も決して彷徨わないと断言できます。
 自死された方のご家族や知人や友人の方々、どうぞご安心ください。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.22

5月の俳句(その2)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

徒垂(ツレタ)れて唯閑(ノド)かなり棚の藤


「徒」には「仲間」の意味も、「いたずらに」などの含意もあり、「徒垂れる」は、連なってブランと垂れている様子。
 藤棚は風が無ければ無いで眼と心の安まる景色、風が出てくれば枝がゾロッと揺れて、それもまた一興です。
 長閑藤棚のためにある言葉のようです。

藤蔭に少女笑へば藤揺るる


 少女の笑顔も、笑い声も、温かいさざ波を心へ送ってきます。直射日光の下でなく、ちょっと影のある藤棚の陰から発するそれは一気に空中分解せず、確かな存在感を保ったまとまりとして、サワサワとやってきます。藤の枝も共振し、揺れています。

内緒ごと聞かされてをり藤の下


 藤棚四阿(アズマヤ)に似ています。
 屋根のようにかぶさる枝と花によって作られるちょっとした薄暗がりは、〈隠れている〉安心感をもたらします。
 その昔、草原に棲んでいた頃の古い記憶が残っているのでしょうか。
 外が見渡せ、内緒事を語るには最高です。

物忘れしても追ふ春の暮


春の暮」は、なま暖かくなった春の夕暮れ時で、乾燥した時期を過ぎた湿気と気温がどうしても頭をボンヤリさせてしまいがちです。
 そのせいもあって物忘れしがちになったけれど、「しても」には、見るような気分に合わせて自分のもまた追う力が感じられます。

衰への身にあつめたる余寒かな


「あつめたる」とは何という潔さでしょう。
 凄まじいリアリズムです。
 もう立春を過ぎたので、まだ残る余寒は余計なものであり、厄介ものです。
 しかし、確かに在って避けられない以上、老いた身には厳しいけれど黙って引き受けるしかありません。


「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.22

5月の俳句(その1)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

木々の香の外出を誘ふ五月来る


 五月五日は立夏。霜注意の天気予報を聞きつつも、夏がやってきました。
 生きているか枯れているか素人には判りにくかった木々が緑色の葉を伸ばし、香りを発し、「生きていたよ」と語りかけます。
 次々に増える小さなひらひらの数々は、千手観音様の手のようです。

食ぶ屋根すれすれに二羽の


 の味は夏の確かさを教えてくれます。独特の香りはショウガやニンニクのそれとタッグを組んで強力なコンビとなり、気の漲ってくる時期にマッチして元気づけます。
 ふと見上げるとが屋根すれすれに急降下して来ました。
 餌を見つけたのでしょうか。

天心を舞はして五月晴


 天心とは空の中央で、中天とも言います。別に空に区分があるわけではないのに、私たちは見上げた範囲で球面と感じ、最も遠いあたりを中心と意識するものです。
 上昇気流に乗って舞い上がったは、驚くほど遠く青い中天のあたりでゆっくりと円を描きます。

鶯を聴きしわはせに老いゆくよ


 鶯は桜の開花に先んじて鳴き始め、気温が上がるに従って上手になり、拍手させられる頃はもう、夏です。
 とてもよく響き渡る声は、心地良さの増す時期とあいまって聴く者の心をほぐしてくれます。
 心が温かくなれば幸せもまた増し、老いは優しく包まれます。

藤咲きて届きし便りは藤の色


 藤の薄紫色は古来、藤色と呼ばれ、高貴さを象徴します。
 紫色には神秘さが伴っていても藤の花の色はやや淡くて際立たず、揺れる姿とあいまってかもし出す独特の優しさが花の下へ誘います。
 届いた便りの藤色もまた優しく、作者へ微笑みをもたらしました。

〈当山の藤棚はまだ蕾ですが……〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
05.21

心の浄化 ─魂・因縁を浄化する方法─

 因縁)を浄化するには、まず懺悔し、そして戒律を守って清浄に生きねばなりません。
 自分のにある汚れは、自分以外の誰かがもたらしたものでなく、自分ののはたらきによって生じ、付着し、が発している本来の光を遮っています。
 それを拭き取るのは自分の仕事です。
 お腹に溜まった排泄物は、自分で自分の内蔵から体外へ絞り出すしかないではありませんか。
 もちろん、病気になればさまざまな方法が必要となります。
 の垢も同様に、強い性癖や依存症や中毒といった段階では、特別な方法がとられるようになります。

 さて、戒律は、大きく分けて以下の3つになります。

(1) 悪行を行わない。
(2) 善行を行う。
(3) 他のためになる。

 浄化を行うためには、ネックレスや指輪など特別なモノや、巫女さんや占い師のような人や、人里離れた深山といったお膳立てに頼らねばならないわけではありません。
(1)から(3)までを心がけ、実行するば良いだけのことです。
 それは、病気を治す主人公が自己快癒力であり、医療は手助けであるのと同じです。
 モノも、人も、場所も、時には必要であっても、目的達成のための主人公ではあり得ないことをきちんと認識しておきましょう。

 さて、(1)を実践できる人になるためには、心にストッパーをかける必要があります。
 悪しき心を抑える習慣は、「十善戒」などの誓いをくり返すことによってもたらされます。
 日々、「無益な殺生をしません」と、み仏へ誓っている人は、必ず、「無益な殺生のできない人」になるための道を歩みます。
 なぜなら、思ったことも行ったことも、私たちが生きている一瞬一瞬のできごとはすべて潜在意識へ溜めこまれ、潜在意識のありようが精神世界の色合いを決める最も大きな要素だからです。
 くり返しに力添えをしてくださるのが、守本尊様です。
 たとえばウサギ年生まれの方なら、守本尊である文殊様の真言「おん あらはしゃのう」を唱えてから、十善戒を誓いましょう。
 心への染みこみ方が違います。
 
 次に、(2)を実践できる人になるためには、善きイメージを作り、保つ必要があります。
 善行は六波羅密(ロッパラミツ)に集約され、イメージ作りは普段、身の回りにあるものにによって簡単に行われます。
 それが、お線香を捧げての「精進の誓い」であり、水を捧げての「布施行の誓い」であり、六種供養こそが善行へと向かわせる最強の方法なのです。
 これまで幾度となく書きましたが、あらためて眺めましょう。
 善行はここに尽くされている実感が出てきませんか。
 当山は、かねて、「菩薩(ボサツ)になろう」を合い言葉に、写経や法話などを通じて、六波羅密行の実践を勧めています。
 そして、
「人間性の完成は、この修行を通じて菩薩になることです。
 それは、この身このままでみ仏になる即身成仏(ソクシンジョウブツ)でもあります」
と、くり返し法話などを行っています。

布施…水の心     
  「我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」
持戒…塗香(ズコウ)の心
  「我、塗香(ズコウ)のごとく、自他を清め、浄戒(ジョウカイ)そのものになり果てん」
忍辱(ニンニク)…花の心     
  「我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん」
精進…線香の心    
  「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」
禅定…飯食の心    
  「我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん」
智慧…灯明の心    
  「我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん」


 次に(3)を実践できる人になるためには、すなおな心の眼で、静かに「自分とこの世がいかにして存在しているか」を眺めることが欠かせません。
 それは「おかげさま」と「おたがいさま」へ行きつきます。
 太陽があり、水があり、米があり、はたらく人々がいて、親や友や師があってこそ、自分は、今、ここで人間としての生を燃やしていられるのではありませんか。
 また、自分が今、ここに居ることは、何ごとでもないはずはありません。
 一輪のタンポポも一羽のスズメも皆、この世界を構成している不可欠の存在である以上、自分が不可欠の存在でないはずはありません。
 耕治人氏は、傑作『一條の光』において、古びた畳の上に落ちている小さなゴミが太陽の光に輝く瞬間を見て救われる主人公を描きました。
 ひとかけらのゴミですら、人間を救うことができるのです。
 み仏の子として輝いている私たちの存在価値は小さくありません。
 自分を含め、ありとあらゆるものは、輝いているのです。
 合掌せずにいられましょうか。
「おかげさま」と「おたがいさま」は「相互礼拝」と「相互供養」へ行きつきます。
 合掌し、何かをしないではいられない心が起きあがってきます。

 こうして、心を浄化し、浄化しようではありませんか。

〈聖地を見守ってくださる笹倉山〉
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〈当山は、樹木や草花と共に在る聖地を目ざしています〉
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〈花も草も、キジやタヌキや水にいる生きものたちも皆、共に生きている仲間たちです〉
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2010
05.20

押しつけ

 AさんとBさんが一緒に花畑を作ることになり、花屋さんへでかけました。
 Aさんは、Bさんが選んだ花を見て、「佳い花を選びましたね」と喜びます。
 ところがBさんは、Aさんが選んだ花を見て「それは赤過ぎませんか」と言い、Aさんは「そうですか」と別の花にしました。
 そのうちに、Bさんが花を選び、Aさんは「佳い花を選びましたね」と誉めます。
 今度はAさんが花を選びましたが、Bさんはやはり、「それは背が高すぎませんか」と言うので、Aさんは別の花にしました。
 もう一度似たようなやりとりがあり、Aさんは提案しました。
「私はあなたが選んだ花に一切文句を言いませんでしたね。
 でもあなたは、私の選んだ花をことごとくけなします。
 これでは共同して選べませんから、あなたはあなたで選んでください。
 私は私で選びます。
 そして植えることにしましょう」
 それに対してBさんは反論しました。
「あなたはそうやって自分の好みを〈押しつける〉のですか」
 Aさんは面食らいました。
 相手の好みを受け容れ、否定しないのは自分なのに、自分の好みを主張するBさんから押しつけると非難されたからです。
 Aさんはクラクラしました。
 Bさんの思考回路が理解できなかったからです。
 でも、頭を混乱させたまま、気力を振りしぼって提案しました。
「これでは、一緒に選ぶ作業は成り立たず時間のムダですから、私はこの仕事から降ります。
 どうぞ、あなたが好きなようにやってください」
 Bさんは憮然としています。

 さて、押しつける人はどちらでしょうか?

 しばらく経ってから、Aさんは落ち着いて考えてみました。
「ああ、Bさんは、自分の目に映る花畑に気にくわないものがあると、無理矢理そこへ植えられたと感じるのだ。
 自分の目に見え耳から聞こえる世界に嫌なものがある状態に耐えられない。
 好まざるものを強く遠ざけようとするBさんは、好まざるものへの抵抗力が弱い。
 私は、自分の好きな花で花畑をいっぱいにするよりも、Bさんの気持をささくれ立たせないようにすることを優先させたい。
 Bさんへ任せた判断は正しかった」



 かねて、「押しつけ反対!」を声高に叫ぶ方の姿勢に、自分の自由を周囲へ〈押しつける〉頑なさを感じていました。
 思考に柔軟さがあれば、それは柳の枝のように、吹き付ける風を吸収しつつ自分をに保てるので、風に向かって「勝手に吹いてくるな!」と文句を言う必要はありません。
 しかし、思考が硬ければ、一本足で立つ看板のように、風が吹き付けると、たちまち、自分が倒れないで済むかそれとも吹き倒されるかという問題に直面するので、いつも風に対して身構えてしまい、緊張が解けません。
 明らかに、を張らない〈柳の枝〉の方が対立を生みにくい姿勢ではあるけれど、世の中には〈看板〉的な方も少なくはありません。
 どちらがどうと言えば角が立ちます。
 ここは、やはり、教えに学ぶことにしましょう。

「一切の生きとし生けるものは、を離れ、を得たいと願う根本的ありようにおいて平等である」


 こうした〈み仏の御眼〉になって自分と他人と世の中を観れば、景色が変わり、自分の心が広がること必定です。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
05.19

全宝協(全国宝石学協会)疑惑・不同意堕胎事件

 5月18日の新聞は、揃って2つの事件を掲載していました。

 一つは全宝協(全国宝石学協会)が、ダイヤモンドの鑑定を行う際に、カラー(色)の鑑定を甘くして品物のランクを不正に上げていた疑いをかけられている事件です。
 ダイヤモンドの価値は、「4C」と称される4つの基準によって決まります。
 カラット(重さ)・カット(形)・クラリティ(透明度・内包物)・カラー(色)です。
 このうち、カラットは重量計によって誰の目にも明らかに判断できますが、残りの3つは、鑑定士が肉眼でランクを決めています。
 カットは形の総合評価であり、フィギュアスケートの採点に似ています。
 クラリティは通称「キズ」とも言われていますが、ダイヤモンドは天然の結晶なのでその中にいろいろなものが含まれているのは当然であり、不純物のような透明度を妨げる要素が少ないほど上位にランクされます。
 カラーは、「この石はF色とG色の間で、このあたりだ」といった具合に、基準石との比較によって判断されます。

 こうした仕組みなので、カラット以外は、門外漢の判断を許しません。
 だから鑑定書の存在価値があるわけですが、そのあいまいさといい加減さは、宝石の取引にたずさわったことのある方なら、どなたもご存じのはずです。
 肉眼による鑑定なので鑑定士が「こう見た」という事実だけが頼りであって、たとえいかに黄色みがかった石でも、「ほとんど無色」という鑑定書があれば、上位ランクの品物として流通します。
 ただし、自分の眼に確かな基準石を備えた(鑑定眼を持った)プロは自分の眼による判断を信じるので、鑑定書をあまり当てにしません。
 鑑定書を鑑定し、その発行元にランクをつけてしまいます。

 だから、全宝協は、自信のない業者にとって「最後のよりどころ」的な鑑定機関でした。
 売買しようとしている宝石についているA社の鑑定書がどうもおかしいと思った場合、「全宝協に出してみる」のは常道でした。
 正しい取引をしようとする業者は全宝協の鑑定書を〈黄門様の印籠〉として用いました。
 甘い鑑定書を発行して業者に喜ばれようとする悪徳鑑定所まがいのものが横行し、トラブルが絶えず、決着は印籠以外ないというのが現実でした。
(表現が過去形なのは、私が娑婆にいた頃、鑑定眼を頼りに宝石を取り扱っていた体験を基にしているからです)

 もしも報道された内容が事実なら、今回の事件は、日本の宝石取引業界に柱がなくなったことを意味します。
 まるで裁判所がなくなったようなものです。
 業界の衝撃は推して知るべしです。

 もう一つは、交際していた女性に堕胎させようとした医師が、ビタミン剤と偽って子宮収縮剤を点滴した不同意堕胎事件です。
 薬物というすぐれて専門的なものを扱うプロが、その知識と立場を利用し、女性にとって最も崇高で希望の灯火となる出産を妨害しました。
 
 毎日のように「とうとう、ここまで来たか」といったできごとが続いていますが、この二つの事件は、矜持(キョウジ)が喪失しかかっている時代を象徴しています。
 矜持とは、「これを外せば自分は~でなくなる」といった自分の存在をかけたありようを守り、それに殉ずる気構えのことです。
 冒頭の事件であれば、プロの鑑定士として自分の鑑定眼による判断のみで鑑定書を書くことです。
 余分な思惑や損得によって偽ものの鑑定書を書く瞬間に、矜持は崩壊しています。
 第二の事件であれば、医療に関する知識と立場は医師の使命以外のものに決して用いず、医療のプロへ対する信頼へ全身全霊を挙げて応えることです。
 自分の都合や我欲へ走って知識を悪用した瞬間に、矜持は崩壊しています。

 言葉思考となり、思考言葉によって行われます。
 言葉が失われるとは思考が行われなくなることであり、思考が行われなくなれば言葉は忘れ去られます。
 矜持が喪失しかかっている今、それに代わって私たちの精神を支え、肝を据わらせる言葉はあるでしょうか。
 もしも無いならば、私たちはふんだんなモノに囲まれながら、不安狂気に満ちた世界へ向かっているのではないでしょうか。

 最近、ある若者から聞きました。
「もう、戦争しかない。ガラガラポンをやってやり直すしかないと思うのですが」
 至極まっとうな彼にこう言わせてしまう時代をもたらした私たちの愚かさと罪の深さ……。
 静岡市の登呂遺跡で、中学生が復元住居のカヤを抜いてチャンバラごっこを行い書類送検されました。
 具体的に「ここでこういうことをしてはいけないよ」と教えられなくとも判るはずの彼らに、善悪の判断をもたらす心の根を育てさせなかった教育の欠陥……。

 不安狂気をうち払って私たちを救い、守ってくれるのは聖者・賢者の思考であり、それは言葉によってたどることができます。
 経典・古典に学び、言葉をかみしめ、正気を保って生きたいものです。
 たとえば、経典はこう説いています。

「自分の心が執着し、怒りが生じるような時は、何も行為をせず、口を開かず、木のごとくあれ」(入菩薩行論)




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.18

ありがとう

 Aさんは、人を相手にする商売が大好きで、動けなくなるまではたらいていました。
 自分の身内であるとないとに関わらず、周囲の人々へいつも目配り気配りを怠らず、言葉をかけ、手を差しのべ、共に笑い、泣きました。
 70歳を過ぎてまで現場に立っていたAさんは突然、病魔に襲われ、入院するはめに陥りました。
 やがて病気は進行し、子供たちが「その時」のことを考えねばならなくなり、長女が家に置かれたままになっていた小さなポーチへ手をかけました。
 いつも身ぎれいなAさんの化粧品入れに残っていたのは、古くなった口紅だけでした。
 気丈なはずの長女は涙を止められません。
「お母さんは何もかも、私たちへ与えてくれていた……」

 そんなAさんが亡くなられ、み仏へ祈りました。
 戒名を降ろしていただくためです。
 魂の色合いを示す熟語に「華星」と出ました。
 それはAさんが生まれた冬の季語であり、枯れ果てた冬景色にふさわしくないような濃い橙色でポツンと枝に残る柿の実です。

 お身内だけのささやかなお通夜となり、いつものように戒名の意義とAさんの戒名について法話を行いました。
 もはや80歳に手が届こうとするところまで命分をつくしたAさんは、お孫さんを迎えて喜んだ表情のまま、祭壇から会葬者へ婉然と微笑んでおられます。
 脳梗塞でもはや意志の疎通はできていないと思われたAさんは、亡くなる2日前、泊まり込み、声をかけ続ける長女へ絞り出すように最後の一言を発したそうです。
ありがとう
 戒名の意味を知った皆さんは、無言のままの遺影へ心の声をかけておられたように思えました。
ありがとう

〈荒れを予感させる冬空を背景にしっかりぶら下がる華星
201129守大日 024



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.17

共に………

「我當(マサ)に六道(ロクドウ…地獄などの迷いの世界)の衆生を抜濟(バッサイ)すべし。若(モ)し重苦(ジュウク)あらば我代わって苦を受けむ」


(私はしっかり六道の者たちを救います。もし重い苦を背負った者があるならば、私が代わってその苦を受けもしましょう)

 お地蔵様のお経を読んでいて、行が輝き、浮き出るかのように強く心へ響いてくるのはこの部分です。
身代わりになりましょう」
 こうまではっきりおっしゃっておられるお地蔵様を信じられるとは何という果報者でしょうか。
 お地蔵様の法で実際に救われる方々の喜びに接することができるのは、さらにさらに幸せなことです。

延命菩薩(エンメイボサツ)は有情の親友なり衆生(シュジョウ)生する時は其の身命となり滅すれば導師となる」


 苦から救い命分のある限りを生き抜かせてくださるお地蔵様は、生きとし生けるものの親友です。
 生まれる時は自分の命を私たちに分け与え、死ぬ時は良き所へと導いてくださいます。
「共に合掌しましょう。共に救済の道へ入りましょう」
 あまりはっきりは申し上げませんが、ご来山の方々へいつも心で、こう呼びかけています。 




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.17

例祭だより(5月の第二例祭)

 早いもので、ゴールデンウィークが過ぎたと思ったらもう5月も後半戦です。
 お寺からの山景色は新緑がだんだんと増えてきて、笹倉山もモコモコになってきましたよ。
 今週はまた肌寒い日が続いていましたね。お寺の講堂でもストーブを焚いていました。

 そして、朝から晩までずっと頑張ってらした片桐さん力作の滝が流れ込む池が出来上がりました。
 瓢箪型の池の水は澄んできて大きな鯉から小さな金魚まで嬉しそうに泳いでいます。
 周りもたくさんの樹木が植えられて庭園になり、ここはどこかの高級旅館か料亭か?という感じです。
 石屋さんの大変なご尽力により、平和観音様も講堂の隣りに無事お引越しされました^^
 法楽寺はどんどん素敵に変わってきましたー☆

 15日は第二例祭でした。やはりちょっと肌寒い日でしたが、午後からはお天道様も現れ清々しい空気の中、参詣の方々がお集まりになられました。

 護摩の炎もさわやかに燃え上がり、今回は講堂の窓を開けておいたので煙もちゃんと抜けていってくれて涙は流さずにすみました^^
 例祭の次第は毎回同じことをやっているのですが、毎回何かが違うのが不思議ですね~。

 住職のお話は、多くの方から「仏教の教えはとても難しい」と言われる。ということでした。

 膨大な仏教の教えを全て学ぶことはまず不可能です。
 教えを大きな大きな像と例えると、像の全体は分からずに像のしっぽだけ触る人、鼻だけ触る人、足だけ触る人。。。
 皆さんそれぞれ「いったいこれはなんだろう?」ということになります。
 これはなんだろう?と調べようとしてもなかなか難しいのが教えだそうです。

 では、教えを目の前にそびえる山に例えてみます。
 その山が気になったなら眺めているだけでなく、どんな山なのかまずは登ってみるということです。
 取っ掛かりは、自分がご縁になったことを実践してみることからはじまります。
 ご自分の守本尊様の真言を唱える。
 好きな仏様のお経を唱えることなど・・・
 やれることからやってみることだそうです。

 宗派はいろいろありますが、山の登山口が違うということでしょうか。
 まずは実践してみることで心身で何かを感じることが大事なのですね。
 やがて山全体が見えてくるようになるのでしょうか。
「教え」は調べるということより、やってみることが肝心なのですね。

 私は気になったお経を読むことから始まりました。
 前にも書きましたが、祖母の葬儀の時に初めて住職にお会いしたのですが、斎場でお棺が炉に入る前に住職が「般若心経」を唱えてくださいました。
 そのお経がとても心に響いたのです。(その時はどこかで聞いたことがあるな~?くらいでした)
 それから早速、葬祭会館で「般若心経」を入手し、毎日お仏壇の前で唱えはじめました。
 ただ、単にそれがなんだか気持ちがよかったのです。
 ・・・その段階からあまり進歩のない自分ですが、やれることからがんばっていきます(汗;)

 ではではこのへんで。
 また来月も皆さんと例祭でお経を読むのを楽しみにしています。

 境内では、新緑の中滝の水音と鶯の饗宴♪が清々しく響いています。

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/から転載させていただきました。

〈早朝の平和観音様〉
220516 002

〈早朝の法楽池
220516 006

〈早朝の宮床開運不動明王様〉
220516 007

〈早朝の笹倉山
220516 008



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.16

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (5の1)

 行者魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第五番目の経文です。

5 第五条 六道教化(ロクドウキョウカ)

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。
 檀波羅蜜(ダンパラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、尸羅波羅蜜(シラハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、羼提波羅蜜(センダイハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、毘梨耶波羅蜜(ビリヤハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、禅那波羅蜜(ゼンナハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、般若波羅蜜(ハンニャハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲しよう」


(衆生のために願おう。
 布施波羅蜜(フセハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽(バックヨラク)しよう。
 持戒波羅蜜(ジカイハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 忍辱波羅蜜(ニンニクハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 精進波羅蜜(ショウジンハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 禅定波羅蜜(ゼンジョウハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 智慧波羅蜜(チエハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう)

 行者は一心に願います。
 何を願うかといえば、菩薩(ボサツ)になるための6つの修行を行うことによって生きとし生けるもののためになり切ろうということです。

1 布施波羅蜜(フセハラミツ)の修行を実践し、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。
 
「檀波羅蜜(ダンパラミツ)」の「壇」は「檀那(ダンナ)」の壇です。
 檀那はインドの言葉「ダーナ」の当て字であり、清浄な施し、つまり布施を意味します。
 それは「惜しみなく与える」菩薩の第一の役割です。
 清浄とは、与える側と、受け取る側、と与えられるものの三つに汚れがない状態です。
 見返りを求めずにあたえねばならないし、ずる賢く取ろうとしてはならないし、盗品やだまし取ったものをやりとりしてはなりません。
 また、目に見えるモノのやりとりを「財施(ザイセ)」と言い、目に見えない心のやりとりを「法施(ホウセ)」と言います。
 後者には、恐怖心や不安を取り除くこと、あるいは、み仏の教えを伝えてしっかり生きられるような手助けをすることなどが含まれます。
 いずれにしても、物惜しみがあってはならず、請求するものでもありません。
「与えずにはいられない心」一つで行われる救済が布施です。

「波羅蜜(ハラミツ)」はインドの言葉「パーラミター」の当て字であり、迷いの岸から悟りの岸へ渡ることを意味します。
 その方法が6つあり、六波羅蜜(ロッパラミツ)あるいは六度(ロクド…渡る6つの方法)と呼ばれています。
 これは「人間のなすべきこと」と言い換えることも可能であり、功徳となるあらゆる善行はこの6つに集約されるので「完成」と訳される場合もあります。
 
2 持戒波羅蜜(ジカイハラミツ)の修行を実践し、一切の生きとし生けるものの苦を抜き去り、楽を与えよう。

 尸羅波羅蜜(シラハラミツ)の「尸羅」はインドの言葉「シーラ」の当て字であり、戒律を守ることです。
 持戒は、非を防ぎ悪を止めるための方法です。
 自己中心という性情が離れない私たちは、戒めがなければ、自分のためにたやすく非道を行い、他人を無視した悪へ走る危険性があります。
「好善(善を好む)」につながる持戒がなければ、人の道を歩み通すのは困難です。
 無益な殺生をせず、奪おうとせず、いい加減なことを言わず、カッとならず、貪らない人の周りには清らかな気配があります。
 尸羅は、心身を悩ます熱病のような煩悩から離れさせるので「清涼」とも訳されます。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.15

気配

 なかなかお焚きあげしきれない手紙があります。
 亡くなった信徒Aさんからいただいた一通です。
 ジングルベルの鳴り響く年末を迎え、夫を失っているAさんは訴えます。
「この時期になると、皆がTVが、街中が楽しそうにすればする程、主人を思い出してどうしようもない淋しさにおそわれ、どうしてもウツ状態になってしまいます。
 もう少しで嵐もすぎるだろうから、それまではじっとしてます」
 これほど伴侶の喪失感を訴えてくる文章にめぐり会ったことはありません。

 うつ病を抱えながら、たぐいまれな精神力で自分をコントロールしようとしていたAさんは、8月のある日からタバコをやめていました。
 毎日40本以上楽しんでいた時間の同伴者をスパッと離したのですから、脱帽ものです。
 しかも、独り居の気持を紛らすために通っていたパチンコもやめていました。
「二つとも依存症気味だったので、断ち切っても毎日、暇さえあればつい、やりたい!という考えが何度も頭をよぎります。
 そんな時には住職のお顔を思い出し、ふっ切るようにしてます」
 戦いの相棒に選んでいただいたことがこれほど嬉しかったこともありません。

 暗い早朝、あるいは夜半、ご本尊様の前に座っていると、こんなAさんだけでなく、BさんもCさんもDさんもEさんも、間近におられるのが感じられます。
 少しも恐ろしくはなく、死の冷たさもなく、見守っている気配はあくまでも温かく包み込んでくれます。
 よく、「寺院は葬式仏教に堕落している」と批判されますが、それは寺院をあずかる者の甘さを指摘するという意味では的を射ています。
 しかし、引導を渡し、以後、永久に菩提(ボダイ)を弔う場が不要であるとは決して考えられません。
「千の風になって」ではありませんが、肉体の束縛を離れて自在になった御霊は、お大師様が「どこへでもでかけて目をかけてやるぞ」と約束されたとおり、縁の深かった所や祈る人の側へでかけて憩うのでしょう。
 墓地も位牌も、大切なよりしろです。
 そして、墓地がどうなろうと、位牌がどこにあろうと変わらずに祈りを続ける寺院もまた、最も安心できる憩いの場であるに違いありません。

 仏法・法宝・僧宝のある寺院は、この世の人々へ幸せをもたらすよう教えを説き、法力で祈願する場である一面、あの世の方々が安心を保つための場です。
 そのことは、皆さんのご依頼を受けて法を結んでいる者の偽らざる実感です。
 温かな〈気配〉はあまりに確かなのです。
 葬式は要るし、戒名も要るし、供養も要ります。
 仏壇の前にぬかづく皆さん、お墓へお詣りする皆さん、そしてあの世におられる方々と共に、損得や理屈や一時の風潮と別次元の真実世界に通じている寺院を、何としても守ってゆきたいと願っています。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
05.14

マブバニ氏に思う

 シンガポール元国連大使キショール・マブバニ氏が来日しました。
 新聞のインタビューに答え、日本人の志気を鼓舞しています。
 以下、読売新聞の記事から抜粋します。

「西欧の繁栄は過去200年ほどの短期間の出来事。それまで最大の経済大国だったのは中国とインドで、現在のアジア諸国の経済成長は復興(ルネサンス)と言える」


 スペインとポルトガルが世界を2分割しようとして1494年6月7日に結んだ「トルデシリャス条約」が西欧の世界蹂躙を決定づけ、第二次世界大戦までの約半世紀は、アフリカ大陸もアメリカ大陸もアジア大陸もすべて、西欧文明が銃と聖書でローラーをかけた歴史だったのではないでしょうか。
 私たちは、学校で「アメリカ大陸の発見」と学び、カウボーイが活躍する西部劇に夢中になりましたが、おちついて考えてみれば、あれは元々住んでいた人々が、船でやってきたキリスト教徒に住まいを奪われ、殺され、使役されたできごとでした。
 インディアンと呼ばれた人々は、「新しいエルサレムとしてのアメリカ」を創ろうとする侵略者に屈服させられたのです。
 もう、そろそろ、「アメリカ大陸の発見」という教育をやめるべきではないでしょうか。

 今、エジプトを中心にして、不法に国外へ持ち出されたと判断できる文化財の返還を求める声が世界中で高まっています。
 ロゼッタストーンや古代エジプトの王妃のネフェルティティの胸像など、諸国が取りもどしたいと願う文化財の多くがヨーロッパの美術館に所蔵されており、日本でも、敗戦後、約10万振りの日本刀がアメリカへ持ち去られたとされています。
 当時は、戦車や砲弾を作るため、どこの家庭でも泣く泣く日本刀を供出しましたが、溶かされずに残ったもののほとんどがどさくさまぎれに持ち去られたのは、やはり、残念なことです。

 西欧文明圏以外の国々の経済復興がきっかけとなり、武器と宗教で世界を制覇してきた西欧諸国中心の歴史観を見なおし、いかにも理不尽な形で残っている歴史の遺物を互いの良識で精算できれば、現代文明は一歩、成熟の度を増すのではないでしょうか。

「日本は世界で最もエネルギー効率の良い国だ。気候変動への対応策で世界の模範になる」
「日本のいち早い成功がなければ、アジアの繁栄はなかった。平和で安定した社会と、素晴らしい文化。アジアの繁栄という大きな波に乗る準備が最も整っているのは日本だと言える」


 国際日本文化研究センター教授の安田喜憲氏は、「山は市場原理と闘っている」において、肉食の畑作牧畜民が森を破壊し、現在の環境破壊問題の元凶となっていることを厳しく指摘しています。
 氏は8つの文明類型を考えました。

①半栽培漁労文明
②雑穀農耕文明
③稲作漁労文明
④根栽作物漁労文明
⑤トウモロコシ農耕文明
⑥ジャガイモ農耕文明
⑦牧畜乳製品文明
⑧畑作牧畜文明


 そして、①から⑥までの文明を「ヒツジやヤギなどの肉食用の家畜を飼わず、バターやチーズを食べない、ミルクの香りのしない文明」、「森の文明・植物文明グループ」としました。
 ⑦と⑧の文明を「肉食用の家畜を飼い、ミルクの香りのプンプンする文明」、「家畜の文明・動物文明グループ」としました。
 加えて、前者は「美と慈悲の文明・植物文明」であり「多神教・アニミズムの世界を長らく温存した」と指摘しています。
 また、後者は「力と闘争の文明・動物文明」であり「一神教を生んだ」と指摘しています。

 文明の優劣を軽々にうんぬんすべきではありませんが、森と山の破壊が深刻な問題であり、それが文明のありようと密接に関係している点は、世界中が考えねばならないはずです。
 私たちに、脱出するために乗る「ノアの箱船」はなく、足で立っている地球をどうにかする以外、どんどん種を滅ぼしつつ破滅へ向かっている文明の暴走を止める方法はありません。
 アイスランド南部エイヤフィヤトラヨークトル氷河で噴火した火山、メキシコ湾のリグ(石油掘削装置)「ディープウォーター・ホライズン」で起こった爆発事故によって流出し続けている石油、こうしたニュースを見聞きし、「人間は思い上がってはいけない」とつくづく思わされます。
 自然の力の前ではひとたまりもない人間が、いのちの基盤である自然を回復できないレベルまで破壊し、人間以外の種を猛スピードで絶滅させるなど、狂気の沙汰であると考えねばならないのではないでしょうか。

 5月10日、世界保健機構が発表した平均寿命によると、83歳の日本人はサンマリノと並んで一位でした。
 生きものとして、長く生きられる環境で生活できるのは、とてもありがたいことです。
 日々の生活と日本の文化を省み、長所も短所も冷静に観て、自分の生き方、社会のありようを考えてみたいものです。




「おん ばざらたらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
05.13

お告げの恐怖(その2)

 Aさんの目はやや力をとりもどしましたが、まだ目の上半分に曇りがかかったままであり、視線は時折、宙をさまよいます。
 断定的なお告げを行い、恐怖心をかき立てるやりかたによって行われるマインドコントロールは、心の弱い人や優しい人や迷う人の心を強い力でつかみます。
 心を縛られた人が失うのは自己決定力であり、人間の尊厳です。

 まっとうな宗教は、門を叩いた方の自由意志を尊重した上で、弱った判断力を高めるために教えを説き、法を結びます。
 なぜなら、み仏の子としての自己回復と溌剌とした再生こそが救いの目的だからです。
 そして、まっとうな行者なら、他人様の未来については最高の慎重さをもって語り、無責任な断言ができないのではないかと考えています。
 なぜなら、まっとうな行者は仏神ならぬ自分の未熟さを骨の髄まで知っており、人もこの世も時々刻々と変化し続け、自分の一瞬後のいのちさえどうなるかを知り得ない諸行無常・有為転変の真実を観ているからです。
 相手を救うための方便としてどうしても語らねばならないケースは避けられませんが、その場合は決して恐怖心をかきたてません。
 なぜなら、よほど適切に用いられなければ、不安と恐怖心は強いトゲとなって心に残り、運勢を暗い方向へと暗転させる可能性が高いからです。
 実際、不安と恐怖にとりつかれたAさんは、この世の人ならぬ悄然とした気配を漂わせつつ、人生相談の席に着かれました。

 宗教が本ものであるかどうかは、門を叩いた人が迷いや塞がりから解放され、真の自由意志を発揮できる方向で教えを説くかどうかで判断できましょう。
 宗教家が本ものであるかどうかは、他人様のことごとに関して軽々しく断定的なお告げを行わないかどうかで判断できましょう。
 これは一介の行者の感想であり、世間知らずの考える一般論に過ぎませんが、修法と人生相談の現場で生きる者として、真実から大きく離れていはしないと判断しています。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.13

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 48 ―『法句経(ホックキョウ)』塵垢品(ジンクホン)第二十六─

 5月12日の「生活と仏法」でも、煩悩(ボンノウ)の動きについて学びました。
 釈尊は、煩悩の魔ものが私たちをとらえるさまについて示されました。

「火は婬より熱きは莫(ナ)く、捷(ハヤ)きは怒より疾(スミヤ)かなるは莫(ナ)く、網は癡(チ)よりも密なるは莫(ナ)く、愛の流(ナガレ)は河より駛(ハヤ)し」

(貪りは火よりも熱く燃え、怒りは速やかに捕らえ、愚かさは網よりも密に覆い、渇愛は河よりも速く流す)

 心のおもむくがままに任せているならば、私たちの身体も言葉も心も、自己中心の煩悩によって突き動かされます。
 一旦、貪り始めたなら、草原に起こった火がとどまるところを知らぬかのように広がるのと同じく、「これで良い」と、ほどほどのところで自制できなくなりがちです。
 一旦、カッと怒りがこみ上げたなら、意識はガッチリと捕まり、自分ではどうしようもないほど翻弄されがちです。
 一旦、自分本位の気ままな考えが浮かぶと、どこまでも進行して希望的観測や思いこみが膨らみ、道理という縮尺を用いて客観的に判断してみることができなくなりがちです。
 一旦、乾いた喉が水を求めるように、対象へ向かって反射的に起こる煩悩が動き始めると、身体も言葉も心もどんどんと動かされ、止めることができなくなりがちです。
 
 自分の不幸も、世の中の世知辛さも、すべては自分本位の者同士がぶつかり合って生きるありように原因があります。
 釈尊は、それを「」と説かれました。
 人も、社会も、心を野放しにしたままでは「」であるありようから逃れられません。
 仏法は、いのちに貼りついているこうした自己保存の欲望に根を持つ煩悩への対処法を考え、実践するところに本分があります。
 そのために心のありようを深く観察し、道理によってそれをコントロールする具体的方法を研究と実践によって積み上げてきたのが仏法の歴史です。
 だから、教えは時間の経過とともにどんどん増え、実践方法は時代と共に、あるいは地域によってさまざまに深められ変化し続けています。
 チベットと、インドと、タイと、ドイツと日本とでは、文化が違い歴史が違うので、実践方法に違いがあるのは当然です。
 仏法は決して固定した予言ではなく、未来を一枚の絵として縛りもしません。
 歴史の進行と共に、その瞬間瞬間に生きる人間を最も根底から救う方法として変化し続けて止みません。
 しかし、何もかもが変わってしまうのではなく、釈尊の説かれた「・集・滅・道」あるいは「八正道」の教えや、龍樹菩薩(ナーガールジュナ)が究めた「(クウ)」の観点や、無著(アサンガ)と世親(ヴァスバンドゥ)がまとめた「唯識」の心理分析や、菩薩行として定められた「六波羅密(ロッパラミツ)」の実践方法や、お大師様が確立された「即身成仏」の修法などは、いつの時代も不変の土台として救済の根底を支え続けることでしょう。

 密教の主要経典である『大日経』は、こうした仏法のありようを端的に指摘しています。

「菩提心(ボダイシン)を因とし、大悲を根とし、方便を究竟(クキョウ)とす」


(悟りを求める心が原因となり、無限の思いやりを根本とし、具体的な実践を行うことが人間として最高の生き方である)
 仏法は、いつの時代も、世界中のどこの国にあっても、この「方便」を求め、それによって人間が心底から救われるようはたらき続けます。
大日経』は、それを「獅子奮迅(シシフンジン)」と説きます。
 み仏が獅子奮迅のおはたらきをしておられるのです。
 私たちがボーッとしていられましょうか。

 釈尊は2500年前、すでに私たちを叱咤激励しておられ、『法句経』が記しています。

「こら!お前たちはなぜそんなふうに目を覚まさず、我が身可愛さに怠けいるのか。
 それでは、物陰に隠れてただ生き延びようとしている哀れな虫や貝たちと変わりないではないか」


 煩悩に翻弄されている私たちのありようを直視しましょう。
 そして、教えの実践により、身体と言葉と心のはたらきを清浄なものへと変えましょう。
 さもなければ、何を食べようと、何を得ようと、仏性は目を〈寝ている〉ままなのです。
 仏性を持った人間として目覚めないままにせっかくの生を終えるなんて、あまりにも情けないではありませんか。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.12

疳の虫封じ

 Aさんご一家が3歳になるBちゃんの「疳の虫封じ」に来山され、伝授どおりの修法を行いました。
 秘密九字法というものを用いるのでかなり大きな声を出しますが、Bちゃんは泣きません。
 中には始める前から泣き出す子もいたりしてなかなか大変な場合もあります。
 お祖父ちゃんの心配ほどのこともなくBちゃんはとてもすなおで、修法は順調に進みました。
 まるで疳の虫はいないようです。
 
 修法が終わっても白い虫は出ません。
 一回目で出なくとも四回行えば四魔封じられるので必ず良い結果が得られるとされていますが、Bちゃんはもう充分にご加持の中へ入り心配ないので、そのまま帰っていただきました。
 しばらくして、Aさんから電話が入りました。
「あのあと、娘から電話が入りました。
 家に帰ってよく見たら、Bちゃんの指紋に添うように白いものがついていたけれど、拭いても良いかとのことでした」
 翌朝、もう一度Aさんから電話がありました。
 朝起きて母親がBちゃんの様子をみたところ、ご加持を行った右手の指先が、5本とも金粉のようなもので光っていたそうです。
 
 伝授書は、疳の虫による症状を列挙しています。

○甲高い声で火のついたように泣く
○飴色の大便を出す
○顔色悪く、活気に乏しい
○気むずかしくむやみに怒り、かきむしり、喰らいつく
○睡眠中にビクビクしたり、突然泣き出したり、夢遊病のようになったりする
 
こうした症状の多くは現代医学でその原因が特定されつつあり、爪の間や指の間などから出る糸のような虫との因果関係は、おそらくつかめていないことでしょう。
 しかし、修法を受けた子の多くがやがて落ち着きます。
 ご加持法を受ければ、因果の法則により、自分で自覚できなくとも心身に変化が生じているはずです。
 また、虫を目にすれば、「ああ、このせいだったんだ」との安心感が生まれ、これもまた心身に変化をもたらすことは容易に想像できます。
 今は一般の家庭でも虫を出す方法が実践されており、「虫が出た」という現象にこだわることが大切なのではありません。
 み仏へおすがりし、ご本尊様の前で親子揃って敬虔な気持になり、修法を受けること自体がご加護の中へ入る尊い行為です。
 ご本尊様へ頭を垂れる心にご加護のなかろうはずはないのです。

 お大師様は説かれました。
「病気には、薬によって治すものと祈祷によって治すものがある」
 現代医学による治療は病気に対し明らかに有効であり、ご祈祷もまた、何ごとでもないはずはありません。
 何しろ世界的大天才であり、天皇の前で即身成仏を具体的に見せたお大師様が心魂傾けて研究、実践した結果を遺してくださったお次第です。
 現代科学ではまだ因果関係の解明しきれない力が備わっています。
 これからも信じて修法を重ねます。

 現代医学に頼るばかりでなく、ご祈祷に頼るばかりでなく、道理に従って生活する方法を考え、教えを参考にして生きる姿勢を考えることをベースにして初めて、科学と宗教による救いが確かなものとなると信じています。




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2010
05.12

懺悔 ─生き直しの方法(2)─

 私たちが失敗をやらかすのはしかたがありません。
 悟っていない人間の宿命です。
 失敗は、目に見えるできごとばかりではなく、誰かを憎んだり、怨んだりすることもまた、霊性を曇らせる失敗です。
 霊性に汚れがまとえば、すべて、仏性に生きるべき人間としては、「み仏の子」としての失敗と言えます。
 しかし、だからといって性悪説で姿勢を斜めにし、性悪(ショウワル)になったり落ち込んだりする必要はありません。
 四苦八苦に悩めばこそ、懺悔(サンゲ)の心が起こり、五体投地を実践する意志力がでてきます。

 ここでは、五体投地懺悔を行う場合、いかなる考えや覚悟が必要かについて述べます。

 経典には、こうした懺悔文(サンゲモン)があります。

「私は、昔から、さまざまな悪いことを行ってきました。
 それはすべて、遙かな過去から現在にいたるまで、貪りと、怒りと、愚かさゆえの迷いがさせたことです。
 身体と言葉と心のはたらきによる悪行を、
 私は今、すべて懺悔いたします」

「無始(ムシ)よりこのかた 貪瞋痴(トンジンチ)の煩悩(ボンノウ)にまつわれて 身と口と意(ココロ)とに造るところの もろもろの つみとがを みな悉く懺悔(サンゲ)したてまつる」
「我昔所造諸悪業(ガシャクショゾウショアクゴウ)
 皆由無始貪瞋痴(カイユムシトンジンチ)
 従身語意之所生(ジュウシンゴイシショショウ)
 一切我今皆懺悔(イッサイガコンカイサンゲ)」

 こうした懺悔につき、『入菩薩行論(ニュウボサツギョウロン)』に有名な一句があり、チベット仏教はとてもわかりやすく説いています。

「無始以来、輪廻(リンネ)において今生(コンジョウ)と他生(タショウ)に私が知らずに犯した罪、あるいは他者に強いたこと、無知の過ちにより私が挫けたこと、すべての過った随喜、このような過ちを目のあたりにして、心より救世者(グゼシャ)へ懺悔します」


 以下、『入菩薩行論』(チベット仏教協会発行)を参照し、実践の力を考えます。

1 後悔の力

 まず、後悔する対象ですが、それは、「この間、つい、怒鳴ってしまった」などという具体的な過ちではなく、生きものとしてこの世に生を承けて以来のすべてになります。
 魚の時代にも、けものの時代にも、縄文時代にも、戦国時代にも、「この私」は数え切れないほど誰かを傷つけ、裏切り、悲しませてきたことは明らかです。
 その原因は悟りの智慧がない無明(ムミョウ)と、自分本位の煩悩(ボンノウ)にあります。
 懺悔する相手は、仏宝・法宝・僧宝の三宝であり、親であり、先祖です。
 さらに言えば、あらゆる生きとし生けるものへ詫びる心も必要なのではないでしょうか。
 行った主体は、まぎれもなく自分の身体であり、口であり、心です。
 悪行を詳しく考えてみれば、自分が直接叩いたり、罵ったり、怨んだりしたのもさることながら、誰かをそうした悪行に走らせたこともあり、自他の悪行を快く思ったことすらあったはずです。
 そして、こうした恐ろしい悪行は、悟りへの妨げになっているだけでなく、その報いとして自他を地獄道や餓鬼道や畜生道や修羅道へ堕とし、輪廻する先もまたそうした悪道になるという因果応報について、心から怖れなければなりません。

2 よりどころの力

 私たちが救われるのは、救ってくださる方がおられるからです。
 病気を治すのは医者であり、当事者で解決できない争いごとに客観的判断を下すのは裁判官であり、米を作るのは農家の方々です。
 同じように、悪業から救い出すのは、仏宝・法宝・僧宝の三宝です。
 み仏がおられなければ救いはなく、その教えと法力がなければみ仏の存在は遠いものになり、み仏と教えを守り、法力をはたらかせる人がいなければ仏法はないも同然になってしまいます。
 だから、仏教徒の定義は「三宝を尊ぶ人」と言うべきです。

3 悪業の報いを消す力

 ただ「お不動様ごめんなさい」でも清めにはなりますが、深い懺悔の心が起きると具体的な行動をしないではいられなくなるものです。
 経典を読誦することも、教えを学ぶことも、真言を唱えることも、み仏やご先祖様を供養することも、仏像などを寄進して寺院を護持・発展させることも、そして礼拝行をくり返すこともすべて、悪業の黒いカンパスに白い色を塗るような力となります。

4 誓いの力

 懺悔したなら、二度と同じ過ちをくり返さないという誓いが必要です。
 さもないと、一度目はついやってしまった愚かな行為でも、二度目はわかっていながらやった確信犯となり、悪業は消しがたいものになってしまいます。
 この世の刑罰が初犯と再犯について異なるのは当然なのです。
 この「誓い」こそが懺悔の価値であり、しっかりした誓いは強い力となって他の悪行も抑えるばかりでなく、善行へ向かう時に背中を押す力になりもします。
 自分の愚かさから事業に失敗して無一文となり、たくさんの方々にご迷惑をおかけした身でありながらここまで生かされてきたのは、「三帰(サンキ)」「三竟(サンキョウ)」の教えをくり返したことと深い関係があると考えています。
 
三帰(サンキ)」です。

「弟子某甲(デシムコウ)
 盡未来際(ジンミライサイ)
 帰依仏(キエブツ)
 帰依法(キエホウ)
 帰依僧(キエソウ)」


(この身今生(コンジョウ)より未来際を盡くすまで、深く三宝に帰依したてまつらん)

三竟(サンキョウ)です。

「弟子某甲(デシムコウ)
 盡未来際(ジンミライサイ)
 帰依仏竟(キエブッキョウ)
 帰依法竟(キエホウキョウ)
 帰依僧竟(キエソウキョウ)」


(この身今生より未来際を盡くすまで、深く三宝に帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん)

 こうしたことを学びつつ、五体投地を行いましょう。
 そのご利益は保証付きです。




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2010
05.11

お告げの恐怖(その1)

 Aさんが沈みきった面持ちで来山されました。
 
 トラブルが絶えない家族の問題に悩み、ある霊能者を訪ねたところ、家族の中で家族としてのを続けるべき人とを切るべき人について指示されました。
 ところが、情にもろいAさんはそのとおりに分けられません。
 家族を「み仏の子」と「魔ものの子」に分けられず、どうしても〈お告げ〉に従えなかったのです。
 神のお告げを実行できない自分を恥じ、自分を責め、苦しい気持を正直に霊能者へ伝えたところ、次のお告げが降りました。
「迷いを断ちきれないお前は、先祖地獄へ堕とすだけでなく、神に見放され、仏に見放され、先祖にも見放されるであろう」

 家族間のトラブルによってご先祖様がさぞかし悲しんでいるだろう、このままではもうしわけないという気持から霊能者を頼ったAさんは震え上がり、うちひしがれました。
 そして、たとえ自分はどうなろうとご先祖様だけは地獄行きから守ってもらいたいという一心で当山の門を叩かれました。

 お答えする代わりに問答をしました。

「貴男があの世からこの世を見ていると想像してください。
 貴男の子孫や友人などが幸せだったなら、貴男はどう思いますか?」
「もちろん、嬉しいです」
「では、子孫や友人などが不幸だったなら、貴男はどう思いますか?」
「もちろん、悲しみます」
「では、悲しんだ貴男はどう願いますか?」
「もちろん、助けたいと思うでしょう」

 そしてお答えしました。
「それが人間であり、貴男を含め、私たちがみ仏の子であるという証拠です。
 さて、裕福な人のそばには人が集まり、貧しくなれば人が離れるはこの世のありさまです。
 しかし、肉体という衣を脱ぎ捨てて、み仏の子そのものとなってみ仏のおそばへ向かう御霊は、この世のありさまとは違う世界におられます。
 どう違うか?
 打算や自分の都合などという自分中心の心を離れ、み仏の子そのものになりつつある御霊は、今、貴男がみ仏の子の心になって答えられたとおり、相手がどうであろうと決して〈見放さず救いの手を差しのべる〉のです。
 その思いやりは決して相手を選ばず、決して誰かを見放しません。
 それどころか、この世の誰かが貧しければ貧しいほど、苦しければ苦しいほど、より強く、救いたいと願うことでしょう。
 それが御霊のありようであり、救いたいと願う善き心の本体がみ仏なのです。

 だから、貴男が受けたお告げは、み仏の教えとかなりずれていることがわかりますね。

 貴男が『家族を分けられない』自然な気持こそが人間として大切なのであり、立場を代えた時に気づく道理こそが真理に近いのです。
 思いやり道理を大切にし、お告げにとらわれるべきかどうか、よく考えてください。
 貴男がどうするかは、貴男以外の誰も決めることはできません。
 み仏の教えすら、鵜呑みにしてはなりません。
 自分で考えてみて、納得できたなら取り入れれば良いのです。
 いかなる霊能者も貴男の人生を決することはできず、貴男の人生に責任は持てません。
 自分の人生へは自分の判断と責任でぶつかってください」

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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
05.10

池ができました

 おかげさまにて、願っていたができました。
 石も木も、石製のイステーブルセットも、皆さんからご寄進いただいたものです。
 庭師の片桐さんは、日が昇ってから暗くなるまでご奉仕作業に勤しんでくださいました。
 これは、皆さんのお心が造ったです。

 木と石とのある光景は、の象徴です。
 私たちの文化は、遙かな畏敬の念を抱き、そこに淵源を持つ清浄な感謝し、共同して自然を守りながらその恵みをいただくことを根底にしています。
 稲作は、人間が自然へ寄り添い、人間同士も寄り添う「の心」を育てました。
 豊かな自然と、この心の二つこそが、私たちの宝ものです。

 に遊ぶ魚たちを眺めていると、人間もそもそもは魚であったこと、実は今もこうした自然の〈恵み〉があって初めて生きていられる魚と同じ存在であることが深く実感されます。

 佳い時候になりました。
 どうぞをご覧になり、心を解放するひとときを持ってください。
 そして、ご本尊様とお会いになってください。
 皆さんの幸せを生む縁となりますよう。

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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