--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
06.30

【現代の偉人伝】第103話 ─画家長谷川潾二郎─

 現代偉人伝として書き残しておきたい方々である。

長谷川潾二郎画文集』は驚愕の宝庫である。
 画も文も、観れば観るほど、読めば読むほど、そのたびに驚き、そのたびにため息がでる。
 いったい、いつになれば、驚きとため息から解放されるのだろうか。

「巴里生活をこのよに愛した私が、どうして一年程で、すぐ日本へ帰って来たのだろう。
 私の予定では、五年、または十年位と考えていたのだった。
 人々は疑問に思うに相違ない。
 私は一度もホームシックにならなかった。
 知り合いの日本人画家の家で、お昼をごちそうになって、奥さんが貴重品のように『これはおみおつけですよ』と言って、出されても、私はあまり感激しないのだった。
 事実おみおつけを飲みたいと思ったことは一度もなかった。
 私は巴里の食事で満足していた。

 私は巴里へ芭蕉蕪村の俳句集をもって行った。
 最初の頃は手にしなかったが、秋頃から、(巴里には春から次の春まで滞在)夜、時に寝椅子にねころんで読んだ。
 すると日本の風景が、季節の風物が、目前の巴里とは、まったく異なった別世界の美しさで浮かびあがってきた。
 私は北海道で生まれ育ち、東京を少し知っているだけで巴里へ来た。
 私は日本について外国人のように無知であることに、気がついたのだった。
 日本を出発した時、汽車が京都附近を通った時、私は窓外の風景の、なごやかな美しさに強いショックを受けた。
 ぜひ此処へ来たいと、その時思ったのだが、その気持が芭蕉蕪村の俳句の中に交じり合って行くのだった。
 やがて、巴里の風景は巴里人にまかせればいい、私は日本の自然を研究することが、私達の仕事ではないかと思うようになってきた。
 其処にはまだ誰も手をつけない分野があるように思われて来るのだった。

 私は故郷が懐かしくて帰るのではなく、強い好奇心と期待と、野心を持って帰ったのだ。
 私の作画についての信念を、日本の自然について成長させ、新しい画を造ろうと思ったのだ」


 昭和6年に27歳でパリへ行き、翌年帰国した時のことを書いた文章である。
 いかに、報道記者の父と歌人の母から誕生したとはいえ、京都、パリ、芭蕉蕪村、そして日本をこのようにつかんでしまった青年の能力には圧倒される。
 そして、創造者の意欲がいかに力強いものか──。
 この文章が教科書に掲載されているかどうかは知らないが、日本の青少年に、ぜひ、読ませたいと熱望してしまう。
 いや、世界中の青少年へ読ませる価値があるのではなかろうか。

「目前にあるものが美に輝く時、それは神秘の世界から現れた贈物のように見える」


 長谷川潾二郎の画は、日常生活で目に触れるものをモチーフにし、素朴に表現していながら、モノを見る目のはたらきを超えた世界になっている。
 画ににあるのは贈り物の投影だ。
 画家は、贈り物をいただける資格のある人である。

「私の考えでは、『この世のものとは思われない』のは目前の現実で、目前にある現実が、『この世のものとは思われない』ような美に輝いている事実です。
 しかし、この事実を信じない人が以外に多いのです」


 批評家州之内徹氏が、長谷川潾二郎氏の画を『この世のものとは思われない趣きさえある』と評したことに関して述べた文章です。
 州之内氏にとっては、長谷川潾二郎氏の画が〈現実〉離れしているから、画が〈この世〉と隔離していると思えた。
 しかし、長谷川潾二郎氏にとっては、美に満ちた〈現実〉こそが、日常感覚でいう〈この世〉を超えているのであって、美に満ちた〈現実〉は、画家にとってまぎれもない〈事実〉なのだ。
 このような〈事実〉は、誰にでも知られるわけではない。
 だから、長谷川潾二郎氏は「この事実を信じない人が以外に多い」と指摘している。
 感動から出発する画家は〈事実〉を深く信じている。
 画はその信念で描かれている。
 なかなか感動に満ちた〈事実〉をつかまえにくい私たちから見れば、信念の世界は、やはり「この世のものとは思われない」と感じてしまうしかない。 

「『この世のものとは思われない趣きさえある』のは私の画ではなくそれは目前の現実である」


 この世がままならぬ苦の世界であると喝破しながら、心の持ちよう一つでこの世を極楽にできるとされた釈尊、そして、真実が観える心になれば、この世にありながらそのままみ仏の世界へ入られるとされたお大師様と、長谷川潾二郎氏との距離はいかに近いか……。
『長谷川潾二郎画文集』は、画と文とによってその事実を余すところなく伝えている。

220630.jpg




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


スポンサーサイト
2010
06.29

寺院葬を終えました

 本堂に生仏様をお迎えし、本堂でお送りする最初のご葬儀が終わりました。
 A家様は事前の打ち合わせを怠らず、「私たちが寺院葬第一号だから、しっかりやらなきゃ」と綿密な準備をされました。
 その結果、お身内だけのこじんまりとしたお別れ会でしたが、厳粛で安心感に満ちたものとなりました。
 葬儀屋さんも、秋田県からのお迎えに始まり、翌日の納骨まで至れり尽くせりの誠意溢れた仕事ぶりで、すっかり信頼を獲得されました。
 すべてが終わり、帰られる喪主様から「第一号の私たちがこんなに立派にできたなんて、本当にありがたいことです」との言葉をいただいて、疲れは吹き飛びました。

 思えば、秋田県から墓所を移されるための修法にでかけたのは暑い日でした。
 山と田んぼの自然に包まれて道に迷い、たまたま墓所の位置をお尋ねした相手が本家のご当主様で、わざわざ現地までご案内いただき、浅からぬ仏縁を感じました。
 最初はご高齢なので参列できないということでしたが、わざわざ新幹線で駆けつけられ、献杯のお話で当時のエピソードを話されました。
 そして「こんなに感動した葬式を知らない」と言ってくださったことは、行者にとって最高の励ましでした。

 たまたま当日は『法楽』を作る日に当たっており、お手伝いくださる方々があらかじめ予定に組んでくださっていることもあって作業の日程を動かせず、午後からのご葬儀となりました。
 その結果、いつも『法楽』作りなどで一緒に汗を流している仲間が、本堂の様子に〈こと〉を知って平服のまま参列してくださることになり、強い絆で結ばれた方々が加わるご葬儀となったことは、Aさんご夫婦にとって望外の喜びだったそうです。

 また、『法楽』作りの作業中に衆議院議員石山敬貴先生ご夫婦がぶらりと来山され、急遽、皆さんの前でミニ国政報告会をしていただき、その中で、先生がご専門の第一次産業分野の充実に言及されたことも、私にはとてもありがたいできごとでした。
 午後に送られる予定の故人は長年、山ではたらき、80歳を過ぎても自然を相手に一人で生きておられた方だからです。
「山を大切にするのは里を守り、人々の食生活と健康を守ることです」。
 石山敬貴先生の言葉は、故人への最高のはなむけとなりました。

 Aさんは、当山とのご縁に始まる一連のできごとが、すべて仏縁の糸で結ばれた「不思議なできごと」と感じておられます。
 ことごとに、感動が輝いています。
 画家長谷川潾二郎氏は書きました。

「感動は頭脳的な思考を越える。
 感動によって『あるもの』が、私たちに加わるのだ。
『あるもの』が何処から来るか?
 それは私たちの知らない測ることの出来ない不可知の世界から来るのだ」


 死者と生者が交錯するご葬儀は、私たちが霊性を持った人間らしく生きるために欠かせない『あるもの』が私たちへ加わる、かけがえのない機会です。
 ご葬儀は、決してただの形式ではありません。
 み仏と死者が、私たちへ霊性を高める『あるもの』をくださるまたとない導きの機会なのです。
 今回、Aさんとご親族も、『法楽』作りの仲間も、葬儀屋さんも、そして当山も、確かに『あるもの』をいただきました。合掌

〈Aさんが作ってくださった赤い帽子〉
2206282 011

〈準備の整った本堂(A家様のご了解をいただいて掲載しました)〉
220627 011

〈修法後の法話〉
2206272 014

石山敬貴先生の熱弁は、きっと御霊へも届いたことでしょう〉
220628 0072

〈煙るように降る雨〉
220628 014_edited-1




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.29

7月の真言

 7月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.29

7月の守本尊様

7月は、小暑(ショウショ)と大暑(タイショ)の文月(フヅキ…7月7日より8月6日まで)です。
7月は未(ヒツジ)の月なので、守本尊大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

21080819 012

大日如来様は、未年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.29

『四十二章経』第二十五章 ─成就─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

第二十五章 成就

「仏の言(ノタマ)わく、
『夫(ソ)れ道を為す者は、猶(ナオ)し木の水に在って、流(ナガレ)を尋ねて行くに、左に岸に觸れず、亦(マタ)右に岸に觸れず、人の取る所と為(ナ)らず、鬼神(キジン)の遮(サエギ)る所と為(ナ)らず、流(エル…渦巻)の住(トド)むる所と為(ナ)らず、亦(マタ)腐敗せず、吾(ワレ)、其(ソノ)海に入るを保せんがごとし。
 人の道を為(ナ)すや、情欲の惑す所と為(ナ)らず、衆邪(シュジャ)の誑(マド)わす所と為(ナ)らず、精進して疑(ウタガイ)無くんば、吾(ワレ)、其(ソノ)道を得るを保せん』」


 釈尊は説かれました。
仏道を歩む者は、水に浮かぶ木片が、川の流れに沿って海を目ざす場合に、左右の岸にぶつからず、誰かに拾い上げられず、魔ものに妨害されず、渦巻に巻き込まれず、腐らず、必ず大海へ到達するように、正しく修行するならば、必ず悟りを得られることを保証しよう。
 人が仏道を歩む際には、情欲に惑わされず、邪魔ものに誑(タブラ)かされず、信じて精進するならば、成就できることを保証しよう」

 実践者釈尊の力強い教えです。
 私たちが川を流れる木片であるというのも、実にイメージしやすいたとえです。
「左右の岸にぶつかる」とは、見るもの、聞くものに左右される迷いです。
「誰かに拾い上げられる」とは、おかしな説に取り憑かれてしまうことです。
「魔ものに妨害される」とは、善行を邪魔しようとする天魔などに狙われることです。
 天魔とは天界にあって善行を妨げる魔ものですが、「好事(コウジ)魔有り」というように、順調な時や、ここぞという時に突然やってくる不慮の事態、あるいは、妬み嫉みによる妨害なども含みます。
「渦巻に巻き込まれる」とは、五欲に溺れてしまうことです。
 たとえば受験勉強に打ち込んでいる時に強い恋愛感情が起こり、勉強も恋愛もうまくゆかなくてグチャグチャになる状態などは、溺れていると言えましょう。
「腐敗する」とは、修行に慣れたり嫌気が差したりしていいかげんになることです。
 弟子たちがばれないように戒律を破ったり、修行に励んでいるふりしてサボったりしても、きっと釈尊にはお見通しだったことでしょう。
 それにしても、釈尊の「保証しよう」には千金の重みがあります。

〈衆議院議員の石山敬貴先生が飛び入りでミニ講演をされました〉
220628 002

〈突然のお天気雨です〉
220628 010

〈上がりかけたお天気雨〉
220628 012





「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.28

長谷川潾二郎さんを知っていますか?

 明治末期に生まれ、昭和の時代をめいっぱい生きた長谷川潾二郎氏を知ったのは、書評に興味を持ったからでした。
 画もうまいが、文はもっとうまいと紹介してあったのです。
 それに、昭和41年、62歳の時に描いた「」も記憶のどこかにあったので、画集を注文しました。

 さて、届いた『長谷川潾二郎画文集』は、その帯からして興奮ものでした。
 何しろ

現実は 精巧に出来た である」


というのです。
 一旦、現実(クウ)を観て、その奥の真実世界へ迫ろうとする仏教の世界観に重なっていました。

「よい画はその周囲をよい匂いで染める。
 よい画は絶えずよい匂いを発散する。
 よい匂い、それは人間の魂の匂いだ。
 人間の美しい魂の匂い、それが人類の持つ最高の宝である」


 仏性が邪魔物を吹き払えば、こうなります。
 経典は「徳の香りは天までも届く」と説いています。

「私はすべての知的なイデアをしりぞける。
 感動は頭脳的な思考を越える。
 感動によって『あるもの』が、私たちに加わるのだ。

『あるもの』が何処から来るか?
 それは私たちの知らない測ることの出来ない不可知の世界から来るのだ。

 私たちを越えている神秘な世界を信じない一画家には私はくみすることが出来ない」


 哲学者プラトンが提唱したイデアとは、現実の奥にある完全なもので、現象はその投影であると考えました。
 たとえば三角形という完全なイデアがあればこそ、目の前のいろいろな三角形をいずれも「三角形である」と認識できるというのです。
 潾二郎氏は、そうした思考を用いては、感動によって日常感覚ではとらえられない『あるもの』に迫れないと断言しています。
 宮大工を指揮するAさんの言葉を思い出しました。
「大学で勉強してから宮大工になろうとする人が大成するのはとても難しいのです。
 何も知らずに、とにかく大工になろうと飛び込んでくる人の方が、結局は宮大工として生きられる確立が高いものです」

「朝起きて夜具をたたむ
 面積が突然変わる
 大がたちまち小になる
 このような奇蹟に驚かずに
 私達は生きている」


 この奇蹟こそが、潾二郎氏が大切にする『あるもの』の証拠です。
 確かに、私たちは「奇蹟」を見過ごしながら生きています。
 潾二郎氏が生きた世界の豊饒さは、とても想像できません。
 その豊饒さは、傑作『』が証明しています。

「私が口にしようと思っても、躊躇して口に出来ない問題、私にとって一番大切な問題がある。
 誰かが私の画の中にその事情を読みとってくれるだろうか」


 皆さん、潾二郎氏の画に潜む「一番大切な問題」に迫ってみましょう。
 それは、私たちが忘れている『あるもの』に気づくきっかけになるかも知れません。

〈『』です〉
2206274.jpg


※今日28日はお不動様のご縁日です。そしてたまたま、「酉」の日でもあります。お不動様をしっかりご供養しましょう。




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.27

地獄へ行くか行かないか

 A君は、数ヶ月ぶりに、お祖父さんとバイパス添いにある百円寿司へ行く約束をとりつけました。
 ところが車に乗った途端、A君は意外なことを言い出します。
「お祖父ちゃん、ジャスコへ行こうよ」
 お祖父さんは、驚いて「どうしたの?」と訊きました。
「お寿司やさん、あるでしょう」
 確かにありますが、その店は全品百円ではないので、やや高上がりになります。
 でも、お祖父さんは、しばらくぶりだから、と奮発することにしました。

 ジャスコに近づいたら、また、何か考えていた風のA君が提案しました。
「お祖父ちゃん、1ゲームだけやらせてよ」
 以前、親から止められていたことを知っているお祖父さんが、怒られないのかと確認したら、A君は1ゲームなら大丈夫と答えました。

 さんざん選んだあげく、思い切って機会を決めて遊んだA君はとても満足そうでした。
 お寿司もお祖父さんに負けないぐらいたいらげて、帰途につきました。

 ところが、A君は、またもやお祖父さんをびっくりさせます。
「お祖父ちゃん、本当はゲームやっちゃいけないんだよ。
 お父さんにしかられちゃう──」
 もう泣き顔になりかけています。
 お祖父さんは問いました。
「そうか。じゃあ、どうする?」

 うーんと唸ったA君は、お父さんに言わないでよと頼みます。
「A君、内緒にしてあげてもいいけど、帰ってくるのが早すぎるよね。どうする?」
 バイパスの百円寿司は遠いので、帰宅があまりにも早すぎます。
 しかし、忙しいお祖父さんは、A君を家へ送り届けた後、また、仕事をしたいので、むだな時間は潰せません。
 それをよく知っているA君はまた、うーんと考え、今までとは違う顔でゆっくり言いました。
「お祖父ちゃん。ついたら地獄行くんだったよね?」
「そうだよ」
「じゃあ、お祖父ちゃんも地獄行くの?」
「そうだよ。A君と一緒に地獄へ行って、一緒に酷い目に遭ってから、鬼さんたちへお詫びしてA君を助けてあげるよ。
 心からお詫びすれば、み仏が助けてくださるんだよ」

 小考したAくんは、きっぱりと言いました。
「お祖父ちゃん!俺、本当のことを言うよ」
 言葉は勇ましいのに声は細く、顔はこわばっています。
 よほど、叱られるのでしょう。
「偉いぞ!A君。それじゃあ、お祖父さんも一緒に謝ってあげるからね。
 なあに、心配しなくていいよ」
 ありがとうと口では言っても、A君は全然、喜んでいません。
 きっと心は、悲壮な決意と叱られる不安とでメチャクチャなのです。

 メチャクチャ体験は心をレベルアップさせます。
 その意味で、ストレス絶対悪ではありません。
 お祖父さんはA君の成長が嬉しくてたまらず、A君が玄関でおずおずとお父さんへ告白するのを待ってから、たたみかけるように助け船を出しました。

 地獄物語は、子供を正しい道へ導く大きな力になります。
 与えるべき時期に適切な物語を与えることには、小さくない意義があります。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.26

2010年7月の運勢

 平成22年7月運勢7月7日から8月6日まで)です。
 人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 教えの道、人の道、天の道、芸の道など、道を尊び、我を抑えれば真の満足が得られます。
 また、喜びは共に喜んでこそ、心へ深く大きな力を与えます。
 その相手は、仏神、先駆者、師、同志など、実際に言葉を交わせる人とは限りません。
 悟りを開いた釈尊は「自分も、過去に目覚めた方々の境地になれた」と考え、法楽という安心と喜びの思いに浸られました。
 きっと「過去七仏(カコシチブツ)と呼ばれる聖者たちと釈尊は、共に喜んでおられたことでしょう。

二 言葉はコミュニケーションの有効な道具ですが、似たような言葉を用いても、状況にそぐわないと災いの元にもなります。
 故森繁久彌氏は、向田邦子氏の脚本にあった「父さん嫌ね。いつもお便所あけっ放しで入って…」に感服していました。
 老いた自分を省みて観察眼の鋭さが実感できたのです。
 しかしこのセリフは、使う相手とタイミングを誤れば弱者を殴打するのと変わりないことになりかねません。
 要注意で過ごしましょう。

三 日本語の美しさや奥深さは敬語にも現れており、立場なりの敬語などを適切に使えるかどうかで人間性や教養のレベルが推しはかられことがあるので、感覚を鈍磨させず、不注意にならないよう気をつけましょう。
 小説『青雲の梯』で、老中田沼意次が狂歌師大田南卯畝(オオタナンポ)へ言います。
「青雲の志をいだくというのは、よいものじゃな。この歳になるとそれがよくわかる」。
 立場なりでありながら、一町民への思いやりが溢れています。
 学びましょう。

四 仕事や運転の最中に不注意な言葉を発しないようにしましょう。
 失敗を招きかねません。
 まして、祈りの場では注意が必要です。
 ご葬儀の際に、お焼香が終わるとすぐに話し始める方がおられますが、導師が引きあげるまでは、御霊へまことを捧げる峻厳な空間であることを忘れないようにしましょう。
 軽率な言葉で大切なものを壊しては残念です。
 沈黙は空虚と違います。

五 「尻切れトンボ」になると、せっかくの努力がそれに見合う花を咲かせません。
 始める時に「やり遂げる」という強い意志を持つことが大切です。
 そして、途中では、み仏やご先祖様などへお線香の供養を行い「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最期までやりぬかん」と誓いましょう。
 お線香の煙がたゆたう様子、小さく赤い火、時折崩れ落ちる灰、そして、立ち姿がなくなった後も残る香りの教えてくれるものは小さくありません。

【開運の六波羅密(ロッパラミツ)行】

[布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は目上へ気を配り、状況を確かめ徐々に進んで成功します。
 不精進の人は欲に駆られて慌てふためき、家と身を破ってしまいがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は慎み深く、意地でケンカを買わず無事安全です。
 不精進の人は自信過剰で危険を察知せず失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は妄りに大言壮語せず攻撃を受けないで進めます。
 不精進の人は自己主張が敵を作り、妬みや嫉妬や嫌悪を呼び込みがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は他人を尊敬する態度が尊敬を集め、順調です。
 不精進の人は内心で受けたい尊敬を受けられず、自己顕示の潜在意識で失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は常に変わらぬ誠意が自然に成就をもたらます。
 不精進の人は才能や知恵や力を過信し、強引に結果を求めて失敗しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は自分を戒め、地位の低い人へも敬意を払い、成功します。
 不精進の人は世間的知恵を過信し、他人へのまごころを失って孤立しがちです。
 
 皆さんの開運を祈っています。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.25

7月の聖語

 お大師様の説かれた密教の精髄です。

三密(サンミツ)加持(カジ)すれば速疾(ソクシツ)に顕(アラワ)る」


(み仏のご加護により、み仏の精妙なお身体と、精妙なお言葉と、精妙なお心と、衆生の身口意とが一つになれば、たちまちに悟りの世界が開ける)

 私たちは身体で、言葉で、心で、善きことも悪しきことも行い、業(ゴウ)を積むので三業(サンゴウ)といいます。
 業とは、事実そのものだけではなく、結果へとつながる影響力や、習慣をもたらす可能性なども含んでいます。
 だから、善いことを行えば、いつか、どこかで、自分や周囲へ善い結果がもたらされることが約束されているだけでなく、また、くり返し善いことができる準備をするようなものです。
 悪しきことは反対になります。
 人間の一生を考えると、どうやって〈善い人〉や〈悪い人〉ができあがってゆくのか、その流れが想像できます。

 一方、私たちの心や感性が澄むと感得できるみ仏の身体と言葉と心のはたらきは、穢れた凡夫のままではつかめないので秘密の密という意味で三密(サンミツ)といいます。
 ムシャクシャしていると、山鳥の声がうるさく聞こえるかも知れません。
 しかし、行基菩薩は詠みました。

「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かとぞ思ふ母かとぞ思ふ」


 そして、およそ千年後、松尾芭蕉は詠みました。

「ほろほろと山吹散るか瀧の音」
「ちゝはゝのしきりにこひし雉の聲」


 澄んだ耳には、鳥の声が亡き親の言葉に聞こえ、その感動は長い時を超えて魂の共鳴を呼び、私たちの心へも響きます。
 秘密の世界が開示される扉は万人に与えられており、心を澄ませば誰でもその扉を開けられます。  

 ところで、音叉がなければ共振は起こりません。
 だから、山鳥の声にもある種の音叉があり、行基菩薩の心にも同様な音叉があり、芭蕉の心にもまた、同様の音叉があったのです。
 普段は気づかず、鳴らない音叉こそが、み仏の三密の源です。
 それは私たちの心にありますが、月に雲がかかって光を遮るように、音叉に邪魔物が触れているので、いつもは鳴らないだけのことです。

 冒頭の教えは、み仏へ帰依して合掌し、経文や真言を口にし、心を経文や真言と一つにすれば、み仏のご加護の力により、音叉から邪魔物が離れることを意味しています。
 祈る姿がみ仏のご加護をもたらし、澄んだ心がそれを水に映る満月のように受けとめれば、満月の光と心の光は一つになります。
 それを加持といい「三密(サンミツ)加持(カジ)すれば」の状態です。
 私たちが本来の音叉そのものになれば、即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 「速疾(ソクシツ)に顕(アラワ)る」とは、私たちが本来、み仏であるという真実がたちまちにして明らかになることをいいます。

 このように、私たちの三業は本来、清浄で活き活きした三密なのに、それを業にしてしまっているのは、私たち自身です。
 業は幻であり、密こそが真姿です。
 真姿に還らせてくださるのがみ仏の加持力であり、それは、私たちが身口意のはたらきをみ仏の身口意のおはたらきに一致させようとすれば、すぐに実現します。
 この教えに立つので、密教といいます。
 


「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.24

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 51 ―「脱『檀家』宣言!」─

 6月9日のNHKカルチャーセンターの講座「生活と仏法」では、「檀家』宣言!」について受講者の方々からご意見をお聞きしました。
 皆さん、一様に驚かれましたが、すぐに、問題事例がいろいろと報告され、いずれの問題も、根本をふまえれば解決へ向かうことが共通の認識になりました。
 ただし、問題があった場合、円満に状況を変えるためには、現在、檀家になっている方々が勇気を持って寺院へ改善を申し入れることが不可欠です。
「どうせ、聞いてくれないから」、「どうせ、怒鳴られるだけだから」と引っ込み思案になっていれば、結局は櫛の歯が抜けるように檀家が減り、やがて寺院が衰退し、檀家の方々も厳しい対応が迫られる日を免れません。
 当分は大丈夫だろうと甘く見ているうちに、仏法のはたらきを破壊する燎原の火は静かに、そして確かに寺々へ迫っています。

 さて、「お寺を都合良く利用するだけで良いのでしょうか?」というご質問がありましたが、「檀家』宣言!」の真意は、「必要な時だけ便利にお寺を使えば良い」といった考えを助長しようとするものではありません。
 反対に、そうした場当たり的な姿勢で人生の大事へ臨む危険性に気づいていただきたいと考えています。
 
 たとえば風邪をひいたけれど病院へ行く時間がない場合、薬局から薬を買います。
 その時に、たくさんある薬のどれが自分の症状と体質などに最もよく適合しているかを知らないと、これを買ってもダメ、あれを買ってもダメという結果になりかねません。
 そうした状態を避けるためには、常備薬が必要です。
 風邪にはA薬、お腹を壊したらB薬、頭が痛い時はC薬と自分に合ったものを選んでおけば安心です。

 このように、寺院を常備薬と考えてはいかがでしょうか。
 近いから、便利だから、安いから、同じ宗派だから、葬儀屋さんに勧められたから、といった理由でご不幸があった際にバタバタと寺院を決め、あるいは墓地を求めてから問題が起こり、人生相談に来られる方が後を絶ちません。
 手っ取り早く手近なところにある薬を飲んで副作用やアレルギー症状に悩まされるような結果になるのは残念なことです。
 普段、ラーメン一杯食べるにもおいしい店を選び、テレビ一台買うのにも安くアフターの確かな店を選ぶのに、家族が亡くなった時に寺院も僧侶も確かめないで縁を結ぶのは、いかがなものでしょうか。

 寺院は〈日常的なやり方〉だけでは処置できない問題へぶつかった時に、〈非日常的な方法や視点〉などから解決をはかる場所です。
 たとえば、岐路に立って、どうしても右へ行くべきか左へ行くべきか決断できない時。
 たとえば、自殺を考える時。
 たとえば、人知れず送った水子霊へ供養をしたい時。
 たとえば、自分や家族が死を迎えようとしている時。
 いずれの場合も人生という旅路で酷い風邪をひいたようなもので、薬をまちがえば大変です。
 その時に、「これを飲めば大丈夫」という常備薬のあるなしは旅路の行方を大きく左右することでしょう。
 
檀家』宣言!」の真意は、檀家という言葉の縛りや壁を離れ、「自分の眼と耳と感性とで、納得できる、自分に合った寺院を見つけよう」というところにあります。
 それは簡単ではありません。
 場当たり的に、便利にできるものではありません。
 しかし、人生の大事を真剣に考えるまじめさがあれば、必ず「納得できる、自分に合った寺院」は見つかります。
 なぜなら、み仏はわけへだて無く万人へ救いの手を差しのべておられ、気づきさえすれば、手のぬくもりを感じられない人はいないからです。
 その手がある寺院を見つけるための努力は一人一人へ課せられています。
 目的を成就させる「三力」を思い出しましょう。
 一つは「自分の努力」です。
 もう一つは、まっとうに生きている人に必ず与えられている「縁の力」です。
 そしてもう一つは「み仏のご加護」です。

 真剣に常備薬を求め、常々大事にしておくこと、それが、人生の岐路で過たず、危機を乗り越える方法です。
 ぜひ、自分の眼と耳と感性とで、納得できる、自分に合った寺院を見つけてください。
 念のため、選択のポイントをいくつか挙げておきましょう。
①門戸が広く開かれているかどうか。
 寺院は公器であり、住職一家の私物ではありません。
 仏法は求める方をわけへだて無く救うものであり、求めてくる相手を選びません。
 もちろん、教えは万人へ向かって説かれるものです。
②僧侶は行者であるかどうか。
 僧侶とは一生、修行道を歩む決心をし、一度死んで生まれ変わった行者です。
 行者がいのちを預けているのが寺院です。
③わけへだて無く修法が行われ、清浄な布施によって成り立っているかどうか。
 寺院がわけへだて無く施すのが「法施(ホウセ)」、救いを求める方が自発的に差し出す財物が「財施(ザイセ)」であり、この二つが円満に成就してこそ寺院に存在価値があり、救いを求める方は救われ、寺院は存続できます。
 こうした寺院は、どなたのそばにもきっとあることでしょう。
 ぜひ、見つけてください。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.23

【現代の偉人伝】第102話 ─漫画家寺田ヒロオ─

 現代の偉人伝として書き残しておきたい方々である。

 6月22日付の読売新聞は、「時代の証言者」において、藤子不二雄(A)氏の談話を掲載した。
「まんが道60年」と題された連載の10回目は「兄貴分だったテラさん」について書かれている。
「テラさん」こと寺田ヒロオ氏は、有名なトキワ荘の住人で、藤子不二雄(A)、石森章太郎、赤塚不二夫、鈴木伸一、つのだじろう各氏の兄貴分的な存在だった。

「いろんなメンバーが毎日のようにテラさんの部屋に集まりました。
 テラさんにサイダーに焼酎をちょっと足した『チューダー』を作ってもらい、飲みながらみんなで話すと、ワーッと元気が出てきて。
 3000円の家賃をいつも貸してくれたのも、テラさん。藤本氏と『お金がないけど、また借りるわけには……』と困っていたら、向こうからやって来て『君たち家賃あるの?』と聞いてくれる。
 石森氏も赤塚氏も借りていて『寺田バンク』なんて言ってました。
 テラさんだって、生活は苦しかったはずなのに」


「テラさんは暴力とか性的な漫画は、一切許さない。
『こんな漫画載せちゃダメだ』と編集長に抗議する。
『これ人気あるんですよ』と言われると、自分からその雑誌の連載を降りちゃう。
 どんどん降りて、70年代後半には、完全に筆を折ってしまいました」


「90年ごろ、結婚して神奈川県茅ヶ崎市に移ったテラさんに、久しぶりに会いに行ったことがありました。
 藤本氏、赤塚氏、石森氏、鈴木氏と5人で行ったら、えらく喜んでくれて。
 飲んで騒いで帰ったんですが、テラさんの家の前はずーっと一本道なんですよ。
 振り返っても振り返っても、テラさんが手を振っている。
 僕はふと『最期の別れみたいだなあ』と思いました。
 次の日、お礼の電話をしたら奥さんが、『寺田は一切人と会わなくなりました』と言うんです。
 庭の離れに住み、食事は奥さんが玄関に届ける。
 家族とも顔を合わさない。
 ある時、ご飯がそのままだったので部屋に入ったら、亡くなっていたらしいです。
 92年9月、61歳。
 あまりに高潔ゆえの、何とも悲しい、緩慢なる自殺でした。
 テラさんがいなかったら、トキワ荘の仲間たちのその後はなかったと思います」


 敗戦後、法に反するヤミ米を口にせず亡くなったとされる日本人を思い出した。

 一人は、昭和20年10月11日に亡くなった旧制東京高校ドイツ語教授の亀尾栄四郎氏である。
 乏しい配給米は1ヶ月以上の遅配もあり、ヤミ米なしには生きられないのが現実だった。
 氏は、6人の家族へ食物を与え、自分は信念を通した。

「いやしくも教育者たる者、表裏があってはならぬ。どんな苦しくても、国策に従う」


 もう一人は、昭和22年10月11日に亡くなった東京地裁判事山口良忠氏である。

「経済犯を裁くには、その人たちが罪に落ちる直前の苦しみ、立場に立たないと、正しい裁きは出来ないと思う。これから僕の食事は、必ず配給だけで賄ってくれ」


 食糧の遅配によってヤミ米犯の検挙数が激増し、氏は100件を肥える審理を抱え、東京地裁の階段で倒れた。
 栄養失調による肺浸潤は佐賀の実家へ帰っても回復せず、冥界へ旅立った。

 次いで、昭和45年11月25日に、陸上自衛隊東部方面総監部で割腹自殺した三島由紀夫氏と、平成5年10月20日に、朝日新聞社で拳銃自殺した野村秋介氏を思い出した。
 三島由紀夫氏は「後に続く者あるを信ず」と書き遺し、「天皇陛下万歳」を三唱してから腹を切った。
 作法通り、長さ13センチ、深さ約5センチにわたってまっすぐに切り、介錯の森田必勝氏が二度に渡って失敗しても倒れず、代わった古賀浩靖氏によって首は切り落とされた。
 野村秋介氏は、創った政治団体を揶揄されたとして朝日新聞社へ抗議に訪れ、社長たちと話し合った末に「天皇弥栄(スメラミコトイヤサカ)」と三度言い、拳銃で自決した。
 その際、同行した息子(18歳)へ「いままではお母さんがお前を守った。これからはお前がお母さんを守れ」と告げたことは語りぐさとなっている。

 寺田ヒロオ氏、亀尾栄四郎氏、山口良忠氏、三島由紀夫氏、野村秋介氏それぞれの思想もスタンスも違う。
 しかし、共通しているのは、自分のいのちと引き替えにしても正義の実現をはかるという姿勢である。
 注意しなければならないのは、誰かを犠牲にして自己実現をはかるテロリストとはまったく異なっているという点である。
 ただ愚直に人生をかけて信じ、それを守るためにいのち一つをポンと捨て、従容として逝った人々は永遠の勝者として青天におられるのではなかろうか。
 三島由紀夫氏の笑顔も、野村秋介氏の笑顔も知っている。
 晴れた日は、夏空からあの哄笑が聞こえそうだ。

〈隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者たち〉
19年8月15日お盆 138



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.23

天空のチベット

 Aさんから、4枚のポストカードをいただきました。
「住職、チベットへ行って撮ってきたんですよ」。
 ご友人の写真家佐々木俊明氏が開いた写真展用に作ったものです。
 宮殿も嶺も聖なる別世界です。
〝人は聖地で何ということを行っているのか──〟
 仏神のおわす聖地を都合良く利用しようと先祖代々住んでいた人々を殺し、追い出し、文化を破壊する権力の恐ろしさと、そうした深い人間たちの妄動に関わりなくそびえるエベレストの力にひれ伏す思いでした。

220623 011
220623 012
220623 013
220623 014




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.23

座敷童子(ざしきわらし)

 仙台在住のAさんから「ウチに座敷童子ざしきわらし)がいるんだけど、どうしましょう」と質問されました。
 パイロットから商社員と陽の当たる場所を歩いてきたAさんは勤め上げ、マンションで暮らしています。
 質問しました。
「で、どうです。問題はありますか?」
 Aさんは笑顔です。
「追い出す気にはなれません。でも、ペットがいるのとはわけが違うし、ただ、放っておいてはどうかと気になります」
「では、供養しましょう」
「そうしてください」

 座敷童子ざしきわらし)は妖怪変化に類するけれども、悪さをするとは限りません。
 むしろ、家にとどまっていればその家は隆盛となり、去れば衰運を招くとされているので、Aさんの判断は正しいのでしょう。
 修法し、お札を送りました。
 相前後して、Aさんから果汁100%、無添加のリンゴジュースがドカンと届きました。
 青森県弘前市門外で作られた製品です。
 座敷童子ざしきわらし)と「門外」の取り合わせが面白いなあと思いながらコップに注いで飲みました。
 なぜか、顔をしかめ、全存在をかけて「君がすべてさー♪」と唄う千昌夫が思い出されました。

220623 009




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.22

安心したお骨 ─供養と面影─

 石巻市からご両親のお骨を抱いてAさんが来山されました。
 まず父親が脳梗塞で倒れ、奇跡的にいのちをとりとめたものの、寝たきりとなったため、はたらきながら看病をする母親も1年後に心臓を患いました。
 夫の回復を信じて尽くす妻の気持が通じたのか、父親は手足がやや動くようになりました。
 しかし、過労が祟り、前日まではたらきにでかけていた母親は、急死してしまいました。
 その後、ベットから立ち上がり、自分で歩けるまでに回復した父親はガンを発症し、妻の後を追うように逝きました。
 母親の懸命のはたらきで大学を卒業したばかりのAさんはどうしようもなく、密葬にした二人のお骨をアパートの自室で供養しながら1年が経ちました。
 
 そのうちに「このままではいけないのではないか」と気づき、父親の実家と同じ宗派の寺院を探して相談に行きましたが、とり合ってもらえません。
 やがて、当山を知っている叔母の薦めで相談に来られました。
 宗教宗派にかかわりなくお骨を預かったり、共同墓で弔ったり、さまざまな対応が可能であることをご説明申し上げたところ、Aさんは「3年間、お骨を預かり、きっとおを建てる」という決心をし、今日を迎えました。

 何も法を結ばれていないままのお骨と俗名のままの位牌を並べ、供養法を行いました。
 終わった途端、母親の骨壺が音を立てて父親の骨壺の方へ動きました。

 Aさんは涙目で言います。
「父も母も、最後の様子はとても酷いものでした。
 無理を重ねていた母の腕は子供のように細く、骨壺のあまりの軽さに泣けました。
 ガンになった父は口から血を流し、眠れぬ数日を送って逝きました。
 さっき、お骨を並べていただくまで、ずっと瞼から消えなかった両親の最期の顔が浮かんだり消えたりしていましたが、修法が終わった直後に、顔が切り替わりました。
 元気だった頃の両親の笑顔が、しばらくぶりで記憶に蘇りました。
 真っ白なベッドに横たわった両親の姿がトラウマのようになり、ずっと胸苦しさに悩まされていましたが、もう、大丈夫です。
 両親はきっと安心できていないのだろうなあという不安も、嘘のようになくなりました。
 これから3年、がんばってはたらきます。
 きっとおを建てますから、どうぞよろしくお願いします!」
 説明を受けて戒名意義を知り、戒名も求められました。

 この瞬間こそが、行者を奮い立たせます。
 この瞬間があるからこそ、修行し、法を結ぶ甲斐があります。
 明朝、法を結んでみ仏からいただく戒名も、きっと、Aさんにもご親族にも納得していただけるものになることでしょう。
 Aさん、そして、お父さん、お母さん、叔母さん、ありがとうございました。
 この世にも、あの世にも、み仏のご加護が確かにあり続けますよう。

〈今年も並んで咲きました〉
220618 0162



「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.21

千昌夫菩薩

 6月20日、法務を終え、鳴子中山平温泉『琢』さんで行われる「千昌夫ケーシー高峯ショー」へ駆けつけました。
 5月4日に行った水子地蔵様の供養会で女将さんと約束していたからです。
 開演間近にかけ込んだ2階の大広間は、続々と詰めかけた観客がパイプイスに腰かけ、すし詰め状態。
 女将を含む花柳流の日舞に続き、ケーシー高峯ショーが始まりました。
 約1時間、トレードマークとなったドクター姿で客席中央の通路を歩いて登場した彼は、一瞬のスキもつくらず観客の目と耳を集め続けて離しません。
「今、テレビを観ていたら、あの野球賭博の琴光喜関が自殺!………してません」など、ギャグは目新しく珍奇なものではありませんでしたが、それだけに安心して笑えました。
 無意識のうちに心の奥へしまって置きたいようなものごとを遠慮なく掴みだして「ホレッ!」と目の前に投げ出す手法は、「きみまろ」などの先駆となった貫禄がありました。
 ネタはもちろん、高齢者となった観客にとって最も関心が深く、〈ドクター〉の中庭である健康・身体・セックスなど、身近な材料で飽きさせません。
 特段のオチもなく、「健康が一番、死ぬまで長生きしてください」と陳腐な去り方でしたが、観客の満足度は高かったはずです。

 さて、開館20周年の記念となった「夢のような(女将の挨拶)」千昌夫ショーが始まりました。
 さして大きくない旅館の舞台はカラオケ大会にふさわしいようなスペースしかなく、「ケーシー高峯ショー」は黒板一つで何とかなりましたが、どうなることかと心配でした。
 ところが、音響と証明の技術は一流ステージと遜色ない雰囲気をつくり出しました。

 大音響の音楽が流れ、舞台隅にはヴァイオリンを手にした美女が微かなライトを受けて立っています。
 音楽が止んでから彼が登場するのかと思いきや、音楽をバックに、度肝を抜くほど、とてつもなく太く強い歌声が流れ、ショーは始まりました。
 もちろん、歌は、マイクボリュームの調整によってアンプからスピーカーを通り観客へ届いているのですが、文字どおり全身全霊を捧げて唄う歌の持つ力そのものの持つ凄みは超一流でした。
 口と咽と胸と丹田と全身を楽器と化して磨き上げられ、鍛え上げられた声は、故郷・野山・大自然、そしてそこへつながる彼の心とが一つになった広大な世界を創り、観客を引き入れました。
 唄う時間はピンと張りつめた一本の糸のようで一瞬の揺るぎもなく、ベテラン歌手にありがちな遊びもありませんでした。
 唄には抑揚も間もありますが、声の小さな時もブレスの時も、めいっぱい大きな声を出している瞬間とまったく変わらず、どの一瞬も100%プロでした。
 おそらく、ビデオ録画のどの1コマを取りだしても、プロらしい絵になっているはずです。

 感服しながら聴いているうちに、突然、ゾッとなりした。
 63歳になっている彼の存在が奇跡に思えたからです。
 人いきれでムンムン、団扇を使う観客に見守られた舞台にきっちりとしたスーツ姿で立ち、スポットライトを浴びている彼の状態は、蒸し風呂に浸かっているのと同じはずです。
 それなのに、一時間以上歌い続け、さらに熱狂的なアンコールに応えて唄う様子には鬼気迫るものがありました。
 観客の全員が「もうこれ以上、やらなくていいだろう」と思ったはずです。
 もしかすると「もう、やめてください」と願った方すら、おられたことでしょう。
 アンコールの三曲目に「夕焼け雲」を唄い終え、「らららー」と声の余韻を残しながら舞台を去る彼に送られた万雷の拍手は、観客の満足度を示して余りあるものでした。
 わずかな入場料で1時間半以上も唄った彼は、常々いかなる精進と自己管理をしているのか、舞台の鬼気を支える日常を想像し、圧倒されました。
 もちろん、一介の行者には比べようもありませんが、同じ「プロ」として自分が恥ずかしくてたまらず、少しでも彼の域へ近づきたいと願い、こっそり「南無千昌夫菩薩」と合掌しました。

 舞台衣裳のままの彼は、出口近くでCDなどのグッズが並ぶ特設コーナーに立ち、握手し、写真撮影に(無料で)応じていました。
 いかなる事情があるにせよ、倒れないでいることが不思議であるほどのプロ根性は、菩薩の世界につながっています。
 およそこうした催しとは無縁で、グッズにも趣味はないけれど、「ようし、自分も」と奮い立たせてくださった「千昌夫菩薩」との巡り会いを記念してタオルを一枚、買いました。
 今日から、私の精進ぶりは「千昌夫菩薩」にチェックされます。
 確かに、経典の説くとおり、観音様もお地蔵様も、あらゆるものと化して私たちを導き、お救いくださっているのです。

220621 004_edited-1




「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.21

例祭だより(6月の第二例祭)

 とうとう梅雨に入りました。
 とはいうものの、今のところ梅雨の晴れ間も多く気温も高めになってきました。
 5月は気温がかなり低めで、ストーブを焚くくらいの日もあったので、ようやく夏らしくなってきていいですね。
 
 6月も後半です。
 19日は第二例祭が行われました。
 雨の予報が曇りになり、午後は時々お日様も顔を出しかなり蒸し暑くなってきました。
 例祭の初めの「お授け」では窓の障子を閉めて電気を消します。
 さすがに暑い!
 「南無守本尊法楽寺如来ー。」と何回もお唱えしているうちに汗がでてきました。
(冷や汗&あぶら汗はしょっちゅうですが;;;)
そんなことは言ってられませんっ。
 住職は毎回汗だくで護摩の修法をされているのですから。
 これからさらに厳しい季節ですー。
 
 皆さんの願いを届けるべく、護摩も力強く高く燃え上がりました↑

 住職のお話は・・・
 檀家」宣言でした。
 6月15日、真言宗開祖弘法大師の誕生日を期して、はっきり「檀家』宣言」を行い、本来の清浄なる布施のみにすべてを託して法務を行う寺院であり続けることを表明することにしました。

 詳しい内容はホームページ(http://www.hourakuji.net/pg131.html)をご覧ください。

 今は「檀家にはなりたくない」と思う方がほんとに多いと思います。
 本当なら信頼の置けるお寺の檀家になることによって安心していられるはずが、檀家であるということで寺院に縛られているような感じがあり、何かあるごとにいくら請
求されるか分からないとビクビクして安心どころか不安になるような現実があるようです。
 それはとてもおかしな話です。
 お金がなければお寺と縁を結べない、「檀家」にはなれないということがとっても多いのでしょうね・・・。
 法楽寺は今まで、檀家さんにそのようなご心配をおかけしたことはないと思います。

 これからは法楽寺を支えてくださる皆様を「サポーターさん」とお呼びして、共に歩んでいくのですね。
 どうぞよろしくお願いいたします。

 もうすぐ夏至。夏がやってきますね~。
 暑さが弱い方もおられると思いますが、梅雨の間も体調にお気をつけて元気に夏をお迎えください♪

※この原稿は、橋里佳さんのブログ「大日如life」http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal/から転載させていただきました。

〈早朝の開運不動明王様〉
220620 037

〈善男善女をお迎えする平和観音様〉
220620 003

〈善男善女の願いを込めた護摩木によって燃え上がる炎〉
220620 0052

〈夕べの境内地〉
220620 042

22061825 0052



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.20

6月の俳句 (2)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の6月の俳句です。

老猫のころころと肥えて梅雨遲(オク)る

 連休あたりから過ごしやすく、食べ物もおいしい期間が続く。
 花冷えが過ぎて、はっきり「過ごしやすくなったなあ」と実感できる。
 今年はなかなか梅雨入りしそうでしなかった。
 そのうちについ食べ過ぎたりしたが、猫も一緒に太ってしまった。

立ちどまり又立ちどまり黒日傘

 これまでは黒は熱を吸収する色だからと、日傘では敬遠されていたが、最近、黒は白よりも紫外線をカットすることがわかり、事情は一変した。
 何と、黒い日傘が出現した。
 暑い日は時折、汗をぬぐいながら歩く。
 黒い日傘を用いていても立ち止まり、立ちどまる。

蚕豆の走りを茹でて一人なる

 サヤが空へつき立つように延びるから空豆といい、サヤが蚕に似ているので「蚕豆」とも書く。
 テレビや店頭で空豆が出たことを知り、いち早く買ってくる。
 旬のものをいただくとそれだけで一日が嬉しくもなるが、食べている自分の姿を見るもう一人の自分がいる。

和草子好き到来とて新茶汲む

 和風好みにとって、新茶は堪えられない。
 色、香り、味、どれをとっても味わい深い。
 日本でお茶が嗜まれるようになったのは奈良時代以降らしく、薬用として中国から輸入された。
 主たる利用者は修行僧たちで、眠気覚ましが目的だったという。
 今も目が覚める。

新茶汲む湯呑の欠けしひとところ

 湯呑の一ヶ所が欠けている。
 気づいたが、「これも佳いか」と、楽しむ気持には変わりがない。
 むしろ、完璧な新茶と小さい欠陥のある茶碗とのとりあわせが興趣を感じさせもする。
 こうしたゆとりは日本人になじみ深い。
 それにしても、「欠け」が句になったとは…。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.20

回向(エコウ)は決め手

 修法の最後は回向(エコウ)文です。

「願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん」


(まごころ込めて行ったことごとの功徳をわけへだてなく一切の人々へ回し向け、今ここで祈った私たちもここにいない人々も皆共に、悟りの境地へ向かいましょう)

 ここに大乗仏教(ダイジョウブッキョウ…皆一緒に安心の世界をめざそうとする仏教)の真髄があります。
 自利(ジリ…自分の利益)と利他(リタ…他人の利益)を平等に願う心になれば、一緒に苦を離れようと大乗仏教の船に乗りあわせた人として合格です。

 因果応報は真理です。
 だから、自分がお経を唱えたり、道路のゴミを片づけたりするなどの善行は、必ず自分へ善き結果をもたらします。
 ただし、凡夫は、原因と結果の因果の糸を必ずしもはっきりとは認識できません。
 むしろ「自分がこんなにまじめにはたらいているのにさっぱりうだつが上がらなく、ちゃらんぽらんやっているあいつが出世するなんて、この世はおかしい」などと不条理に嘆くのが私たちの日常です。
 しかし、時には「あっ、やっぱりみ仏は観ていてくださったんだ!」と感激する場面もあることでしょう。
 いずれにしても因果応報を信じることは仏法に救いを求める私たちの心構えの根本です。
 結果を信じないで祈ることはあり得ません。

 さて、そうすると「善いことを行い、自分に善い結果がもたらされるのを待つ」という形になりますが、これではちょっとおかしいと感じる方もおられるのではないでしょうか。
 そもそも自己中心という我欲が苦の原因だから、これを克服しようとするのが仏法だったはずなのに、結局は〈自分のため〉では、善行に穢れが伴ってしまうのではなかろうかという心配です。
 当たりです。
 だから、善行は〈自分のため〉ではなく〈自他のため〉まで思いが深まってこそ、真の善行になります。
 この心になろうとするのが冒頭の「回向(エコウ)文」なのです。

 では、回し向ける功徳とは何か?
 横断歩道をなかなか渡れないでいるお年寄りの手を引く、身体による善行功徳となります。
 郵便配達をしてくれる人へ「ありがとう」と声をかけるのも、言葉による功徳となります。
 病魔と闘っている友人の当病平癒を祈るのも、心による功徳となります。
 これが身・口・意による功徳ですが、回向の心構えとしては、こうした「徳」を回し向けるだけでなく、さらに一段進むことが求められます。
 それは、自分へ善なる〈結果〉をもたらすであろうこうした善行という〈原因〉そのものをそっくり、回し向けようというものです。

 ここで言う〈原因〉を善根(ゼンコン)と呼びます。
 善なる花を必ず咲かせる根っこです。
 善根まで根こそぎ捧げよう、しかも、相手を選ばず、すべての人へ回し向けようというのですから、考えてみれば凄まじい話です。
 まず、自分に咲くはずの美しい花が咲かないかも知れません。
 それに、自分に嫌がらせをする人も、もちろん〈すべての人〉に含まれますから、「どうして私があんな人のために善根という宝ものを渡さなければならないの!」と怒るかも知れません。
 しかし、ここまで行って初めて自己中心という魔ものを克服できるのです。
 それほどまでにこの魔ものは強力で、自他へ苦を与え、自他を対立させ、自他を傷つけ合わせるという現実をよく観て、考える必要があります。
 そして、「惜しまず、相手を選ばず、見返りを求めず、与える」この行為こそが真の布施(フセ)行であることも、よく考えたいものです。

 当山が、「脱『檀家』宣言!」を行ったのは、檀家という縛りを伴った言葉が介在すると寺院も檀家もこうした真実を考えるところまで思考が及ばず、結局は大乗仏教を完成させる真の布施行が行われない現実を危惧しているからです。

 いわば「決め手」である回向文をしっかりと考え、しっかりとこの心になってさまざまな供養を行いたいものです。
 回向のない年忌供養などはあり得ないのです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.19

揺るがぬ安心

法楽の苑』で、キリスト教を信ずるご家族を含むご一家の納骨を行いました。
 墓石には「」の一文字が大きく刻まれ、それに八つの徳目が続いています。
 もちろん開眼供養はきっちりと法を結びましたが、お焼香は自由としました。
 宗教上の信念でお焼香ができぬ方は、ご自身の安心できる形で御霊へまごころを捧げれば良いのです。
 それによって結んだ法が揺らぐことはまったくありません。

 終わってから、八つの徳目についてクリスチャンの方へお訊ねしたところ、大きな帽子がとてもよく似合う女性が、眼鏡の奥に柔和なほほえみをにじませながら教えてくれました。
が中心で合計九つです。聖書にある一節ですが、大変気に入っています」

 誰に何の違和感もなく安心の基が固まり、ありがとうございましたと低頭するご一家を後にして本堂へ戻る車中で、温かいものがこみ上げてきました。
 世界のどこでどのような惨たらしい殺し合いが神の名のもとに行われていても、ここには絶対の平和と安心があります。
 いがみ合い排斥し合う宗教宗派がどんなに巨大化し世間に瀰漫(ビマン…風潮などが広がること)しても、当山は揺るぎません。
「ご本尊様ありがとうございます」がすべてです。

220618 005_edited-1

※この文章は、かなり前に書き、ネット上にはないものの中から行者里佳さんが選び、住職が加筆修正し、再掲しています。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 
2010
06.19

6月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の6月俳句です。

夏めく日スカイブルーの入浴剤

「夏めく」は、夏らしくなった、あるいは夏らしい気配が感じられるという意味である。
 そんな日は入浴剤からトロリと流れ出てバスタブのお湯へ広がる空色が嬉しい。
 夏空を水面へ写し取ったような清涼感があり、視覚的でシャープな一句である。

小さいまま今年の牡丹散りにけり

 牡丹は桜に続いて咲く。
 薄桃色から紅色までを含み、中央に小さく黄色を散らした牡丹の花は、どっかりとした存在感がある。
「立てば芍薬、坐れば牡丹」は、草である芍薬は立って上から、木である牡丹は坐って横から眺めることに発し、美人の姿を例えたもの。

日傘買ふ軽きを選ぶ齢かな

 日傘を買いにでかけた。色や模様がとりどりで、形もさまざまだ。若い頃は何にでも自分の感性を反映させたい気持が強く、デザイン第一で選んだ。「これが素敵!」となったら、重さや大きさや時には値段も無視してエイヤッと買ったものだ。今は身体を労りたい。

才もなく智もなく生きての花

 は清水を好み、「あっ、ここにもある」といった感じで、小さな流れの横などに発見される。
 若い茎葉は「春の七草」の一つとして吸い物にフワッと広がる香りで楽しませ、夏になると白い小花が観る者を和ませる。
 季節感のある人には決して欠かせない。

老いて尚ものぐさとなる

」はヒキガエルである。
 四肢が短くずんぐりした形で主にゆっくり歩く。
 危険の際に出す毒液は「六神丸」として珍重される。
 冬眠から起きると卵を産むが、一仕事の後は再度春眠を楽しむ。
 夜に虫などを食べるだけで、あとはゲロゲロと鳴いている。
 優雅である。



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 
2010
06.18

寺子屋『法楽舘』開講 ─第八回の予定─

檀家とは何か、本当の布施とは何か、仏法は救いとなるか?】
 
 皆さん、「檀家」って何でしょうか?
 本当は布施行をする徳積みの方々です。しかし、寺院が檀家さんへお布施を〈請求〉するために、檀家さんは怖れ、自主的で清浄な布施行は成り立たなくなりました。もう、イメージの悪い檀家という言葉はやめにしましょう。皆さんは縛りのないサポーターとなって信じる寺院を支えてください。当山は来る人を拒まず、去る人を追いません。み仏の前で、共に「この世の幸せとあの世の安心」を祈ろうではありませんか。

【当山が「脱『檀家』宣言!」を行った理由】

 本来、寺院は相手を選ばず、お布施の多寡に関わらず、供養でも祈願でも平等にきちんと修法すべきです。これが空(クウ)の心で行われる真の法施(ホウセ)です。
 仏縁を求める方は、修法に納得したならば、求められなくとも、惜しまずに空(クウ)の心でご本尊様へ布施を差し出します。これが真の財施(ザイセ)です。
 このように、お布施は、差し出す側も受ける側も、やりとりされる金品も清浄でなければなりません。
 しかし、今の寺院と檀家さんの間では、もう、真の布施行はほとんど成り立たなくなりつつあります。「強制」と「しぶしぶ」によって、穢れたからです。

 さて、檀家とは、檀(インドの言葉でダーナといい、布施を意味します)を行う人々ですが、上記のとおり、寺院側も檀家側も布施の意味を忘れ、檀家は、ご先祖様を預かることによって寺院に縛られる人々になり果てました。
 こうした状況が引き起こした「檀家離れ」は、仏法の危機です。
 そこで、当山は、檀家という言葉を離れる決意をしました。
 これまでも当山は入檀料などを設けず、戒名料も決めず、皆さんのご誠心に支えられてやってきましたが、あらためて、「自主的なサポーター」の方々と共に進もうと思いを新たにし、旗を掲げました。
 どうぞ、ご理解とご意見をお願いします。

 さて、7月は、法話に先立って、「蘇る空海」というDVDを鑑賞します。
 住職も会員になっている『密教21フォーラム』が製作したお大師様と仏法について学ぶための貴重な映像です。
 観賞後、前回に引き続き、「八方塞がり」や「葬儀」など、身近な問題を題材に、いろいろと考え、話し合いをしたいと考えています。
 どうぞ、ふるってご参加ください。

22061824.jpg


○日時:7月10日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

寺子屋法楽舘」について】

 寺子屋では、み仏の教えによってきちんとものごとを見、なかなか変えられない心を願う方向へ変え、明るい運命を創る方法を身につけていただきたいと願っています。
 真実を知り、考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。

 実践の日記『戒名の真実 ─住職による現場からの証言─』(製本:法楽寺・B5版187ページ・ご志納金1000円送料込)をお分けしています。
※これは、ブログ『想いの記 ─住職の本音・本心・本気─』へ書いた過去5年間の記事から戒名に関する文章を抜粋して加筆修正したものです。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.18

たけしの凄み

 フランスのカルティエ現代美術財団で、『Gosse de peintre(絵描き小僧)』と銘打った「ビートたけし/北野武の展覧会」が行われている。
 ネットで観るだけでその凄みが伝わってくる。
 巨大で巧みに組み立てられ、動きもするけれど仕えない「北野式ソーイングマシン『秀吉』」。
 抽象表現主義のポロックに似た絵を描くロボット「ムッシュ・ポロック」。
 自分の脳を取りだして見せているオブジェ「オレを見ているオマエは誰だ?!」。
 いずれも、目にした時は息を呑む思いだった。
 特に、本人もお気に入りの「オレを見ているオマエは誰だ?!」は大傑作である。
 脳を取り出すというモチーフは珍しくない。
 しかし、人物がリアルで、しかも笑顔には奇をてらうところが微塵もない。
 誰しもが自分を知ってもらいたい、自分をよく見せたいと思う心の半歩先に、「いっそのこと、直接、脳みそを確認してもらおう」というこの作品は成立している。
 確かに姿は異様だが、実は、私たちの日常からほんの少し前へ行ったに過ぎない。
 この微妙なところが彼の芸域と言える。

 たけしは、展覧会の目的について、「大人も子供もウフフと笑って欲しい」と言う。
 たけし笑いの源泉は、日常を〈突きつめる〉ところにある。
 芸に触れる観客は「そこまでやるか」と驚くと同時に、「笑うしかない」となる。
 
 人は楽しいから、あるいは面白いから笑うのだが、笑い日常生活にあふれている。
 では、わざわざ、芸術家たけしが創る笑いとは何か?
 それは、〈日常〉を半歩、超えてみせる技術がもたらす「計算されつくした創造物」である。

 たとえば、以前、テレビの高視聴率を誇った番組で、巨大な鉄板焼きの上からうつ伏せに吊された芸人が、実際に鉄板焼きを作って食べるシーンがあった。
 テレビ番組「世界丸見え」の冒頭、たけしが登場する時の衣裳も又、常人の感覚で奇抜というレベルを超えている。
 あまりのことにバカバカしくなると、笑いが起こる。
 ただし、この笑いは、日常にはない。
 健康のために推奨される笑いとは異質である。
 しかし、確かに笑いであり、それはどこか「行きついた」という感を伴っている。

 読売新聞に「北野武 芸と映画」が載った。
 彼は言う。
「おれはテレビも映画も両方とも同じバランスで見てるだけで、入ってないんだよね。好きだけど、愛するとかそういう感情的なことはあんまりない。北野武に対しては、映画もやらせるし、お笑いもテレビもやらせる。でも、その二つの商品に関してはあやつってるのは自分だ」
 このあたりに彼の芸術が特にヨーロッパで高い評価を得ている秘密があるのではなかろうか。
 たけしは実に、凄みのある創造者である。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.17

ご加持と影向(ヨウゴウ)

 ご加持法を受けると、多くの方々はパタンと横になり、心身を解放します。
 初めてご加持へこられたAさんは、やったことのない腹式呼吸や暗く閉ざされた秘密の空間に慣れず、心が揺れてなかなか横になれません。
 もちろん、導師は目を開けて確認しませんが受者の状態はわかるのでいろいろと法を結びます。
 両肘を張ってグッと押す法へ入った時、誰かが私の左肘を後から押しました。
 あまりのリアルさに一瞬、鳥肌が立ちました。
 しかし、押してくださったのがお大師様であることをただちに知り、力を得てさらに法を進めました。

 導師の左側は受者の右側にあたります。
 Aさんは女性なので、「ああ、やはりそうか」と納得しました。
「これからのこと」が心配で来山し、ご加持を受けておられますが、Aさんの心の中に「これまでのこと」で、自信を持って前へ進ませない何かがあるのです。
 力を増す法に加えて、因縁を解く法も行い、Aさんはすっかり明るい顔で帰られました。

 初めて正面へお大師様をお迎えした13日の青葉祭以来、日々、「あっ!」と感じることが続いています。
 お大師様のお約束「影向(ヨウゴウ)…現れてくださること」は確かです。

220614 0043_edited-1





「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.17

お札と感謝状

 青葉祭では参会者の方々と、仏舎利を奉納された方々へ特製のお守り札をお渡し、お送りもしました。
 また、昨年の落慶法要に引き続き、特段の功労があった方々へ感謝状をお渡しし、思いをお伝えしました。
 感謝状はご縁となったすべての方々にお上げしたい気持ですがそれは叶わないので、26名の方々に代表してお受けいただきました。
 それぞれの方々は、いわゆる檀家さんばかりではありません。
 青森や東京など、ほとんど足を運ばれない遠方の方もおられます。
 しかし、サポーターとしてのご誠心はご本尊様へ届き、修法する私の心へもしっかりとどいています。
 また、ご主人は大活躍しておられますが、支える奥さんはあまりめだたないケースもあります。
 こうしたサポーターの心を持ち、陰で祈りながら当山をお支えくださっている方々へも、感謝状をお送りしました。
 当山は財務に余裕がなく、紙一枚のみで記念品もご用意できません。
 お渡しする時は「貴方様なくして、当山はありません」とお声をかけ、お送りする時も同じ気持で合掌を行います。
 お守り札も感謝状も、サポーターとなってお支えくださる方々への小さなご恩返しです。
 皆さんのご多幸を願ってやみません。

仏舎利奉納の方へお送りする特製のお札です。奉納は随時お受けしています〉
220617 005




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.16

脱「檀家」宣言!(2)

 昨日の「檀家』宣言!」に対し、当山でお身内のご葬儀を行い、多方面でご助力くださっている檀家(!)Aさんからさっそく心強いお励ましをいただきました。

「全てのお寺がそうではないのでしょうが、間違いなく世間の人はお寺に対してそのように考えているでしょうね。
 縛られるのではなく、自主的に応援する、素晴らしいことですし、時代の流れは既にそうなってきています。
 お人好しの仙台市民も市議会議員の政務調査費の問題で少し目覚めたようですし、あらゆるものに厳しい目が注がれ、仕分けされ、無駄は省かれ、反面、良いものには注目が集まり、サポーターも増えていくことでしょう。
 難しく険しい道のりかも知れませんが、そこに真の光が差しているのが目に浮かびます」


 まことにありがたいお手紙です。
 自主的に、いわゆる「檀家」になることを申し出られ、ご祈祷など当山で修される法を受けて安心しておられる方からご理解をいただくと、一段と力が漲る思いになります。
 当山だけ、あるいは当山の檀家さんだけの都合を考えるならば、周囲の状況がどうであろうと「法楽寺の檀家」という絆を増やし、強くして行けば当面はやって行けるかも知れません。
 しかし、それでは、草原に火事が起こった時、自分たちの周りの草を刈って自分たちだけが生き残ろうとするようなものです。
 やがて火災がやみ、行動しようとした時に、周囲が焼け野原になっていれば、どうしようもないのです。
 草を刈り、周囲の火も消してこそ、皆が笑顔で草原の恵みに生きられるのではないでしょうか。

 寺院は、檀家さんを囲い込めば、目先は安心です。
 檀家さんもどこかの寺院へお任せしておけば、いろいろな判断をする必要もなく、当面は安心です。
 でも、今のような状況になれば、それは一時的な避難でしかありません。
 心から誰かのためになる、何かのためになる、自己中心を離れるという人間が人間であるための布施行が忘れられれば、結局は、寺院の堕落と檀家さんの不満に帰着してしまうこと必定です。
 現在の仏法の危機を乗り越えるためには、本来の意義が穢されてしまった檀家という言葉による呪縛を離れ、新しい感覚で布施行の自主性を取り戻さねばならないと考えています。

 寺院は、いわゆる檀家であろうとなかろうと、お布施が多かろうと少なかろうと、一切の差別なく、求めに応じて修法すべきです。
 これが真の法による布施法施(ホウセ)です。
 寺院へ救いを求める方は、自分の頭できちんと判断して、信頼できる寺院へ修法を依頼し、み仏へまごころからお布施を差し出すべきです。
 これが真の財による布施、財施(ザイセ)です。
 法施と財施に徹することは、Aさんの言葉どおり「難しく険しい道のり」かも知れませんが、双方がここから再出発をするならば、釈尊から流れ始めた仏法の清流は、東の果て、ここ日本でさらにレベルアップし、やがては世界を清め潤す力にもなると信じています。




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.15

脱「檀家」宣言!

 当山はこれまで、たくさんの人生相談をお受けしてきました。
 また、托鉢行において、たくさんのお声をお聞きしてきました。
 その中で最も多い問題だったのが、いわゆる「檀家」にまつわるお話です。
 端的に言えば、皆さんには「檀家になっていると大変だ」という抜きがたい意識がおありになり、寺院の側は、その深刻さをほとんど認識していない、もしくは無視しているというのが現状です。

 檀家とは、インドの言葉でダーナ(檀)すなわち、布施をする家であり、人です。
 だから本来、檀家は、仏宝・法宝・僧宝という「三宝」を守るすばらしい家であり、人を指す言葉でした。
 しかし、中村元博士の『仏教語大辞典』によれば、「檀家」はこう定義されています。

「『だんけ』とも読む。檀は檀那・檀越の略。寺院に所属する信徒の称。特定の寺院に所属してこれに布施をなす家のこと。」


 問題は、この「所属」にあります。
 そもそもは、どこかの寺院に所属していれば、ご先祖様の供養に心配がなく、万が一の時に安心でした。
 また、子供が寺子屋へ通って勉強したり、生まれた子供の名前について相談に行ったり、当事者の話し合いだけでは解決できない問題の相談に行ったり、夫の暴力に耐えかねた妻が駆け込んだりというように、地域社会の人々と寺院には、切っても切れない安心と信頼の関係がありました。
 しかし、時代が変わり、今の寺院のほとんどは常日頃、固く門を閉ざし、万が一の時は「いくら請求されるか」と皆さんがビクビクする対象になり果てました。
 人生相談に来られた方へ「お寺へでかけて、こんな風に話してみたらどうですか?」と提案しても、「話を聞いてなどくれません。怒鳴られるのが関の山です」という諦めと怒りに満ちた答を何度お聞かせいただいたことでしょうか。
 寺院が、「所属」している檀家さんを縛り、自分の都合良く利用するという一方的な関係になってしまったために、「所属」に伴う檀家さんのプラスは消し飛び、僧侶は堕落したのです。
 布施はあくまでも自主的でなければ穢れてしまい、真の布施行はできなくなります。
 寺院が法施(ホウセ)という仏法による布施を行い、善男善女が財施(ザイセ)という金銭や物品、あるいは労力提供による布施を行い、三宝が守られると同時に、善男善女が人間性を磨くためには、自主性が絶対的に欠かせないのです。
 自主的でなければ成り立たない布施行と、縛り縛られる関係とは対立するものであり、縛りの伴う布施行はあり得ません。

 当山はこれまで、人生相談を通じ、法話を通じて正しい布施について説き、善男善女が道を過たないよう、寺院が本来の清浄な布施のみによって運営されるよう、願ってここまで来ました。
 しかし、今、寺院への不信は頂点にまで高まり、檀家離れどころか、葬儀や戒名の否定などにも及び、日本の文化に根ざした尊い仏法そのものが危機に瀕しつつあります。
 そこで、悪しきイメージが固定してしまった「檀家」という言葉を離れ、現代人になじみやすい「サポーター」という言葉を用いて、誰かを自主的に応援する本来の尊い布施行を仏法の世界においても復活させようと決意しました。

 政治の世界では、本来は有能な政治家を大きく育てるための企業献金が、癒着の温床となり果てたために排除され、政治家は自分の政治活動を理解し支えてくださるサポーターによる政治献金へ命運を託す時代になりました。
 宗教の世界も同じです。
 檀家も寺院も本来の布施から離れた檀家意識を捨てるべきではないでしょうか。

 寺院へ足を運ぶ方は、寺院の法務と僧侶の姿勢ををよく見てサポーターとして支えたいかどうか自主的に判断し、清浄な布施行を実践しましょう。
 寺院は法務を公開し、布施の「請求」をやめ、サポーターから自主的にご本尊様へ納められる布施のみに僧侶はいのちを託し、寺院は経営を託しましょう。

 こうした考えから、真言宗開祖弘法大師ご生誕の佳き日に、「檀家」宣言を行います。
 もしも当山の提言にご理解とご支援をいただける場合は、ホームページ(http://www.hourakuji.net/pg131.html)をご覧ください。
 善男善女のご明察と仏法の興隆を心より祈っています。合掌



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.14

青葉祭が終わりました ─五智の法話─

 善男善女の参加とご協力をいただき、おかげさまにて、青葉祭をとどこおりなく終了しました。
 全員参加の百味供(ヒャクミク)に始まり、お焼香をはさんだ修法は1時間を優に超え、最後に、特段の功労があった方々へ感謝状をお渡ししました。
 本当はご縁の方すべてが感謝の対象ですが、代表として18名の方々へお礼を申し上げました。
 感謝の気持はこれで尽きるものではありません。
 トイレ休憩を挟み、法話を行いました。

 まず、修法の最初と最後に唱える声明(ショウミョウ)についてお話ししました。
 初めは、四方におられるみ仏方の智慧を讃える「四智讃(シチサン)」、最後は、大日如来の使者として具体的なご加護をくださる不動明王を讃える「不動讃(フドウサン)」です。
 四方しかないのは、中央におられる大日如来がすべての智徳を兼ね備えた存在だからです。
 意識が四方をぐるりと廻り、「四智讃」が終わる頃は、北を仏国土とする釈迦如来が燦然と輝く仏身で立っておられる観想に入っています。

 必ず最後に不動明王を讃えるのは、常に私たちの僕となってはたらいておられるからです。
 多くのみ仏は蓮華座に座られますが、不動明王だけは盤石を座とし、頭上へ蓮華を載せておられます。
 なぜなら、私たち救いを求める者たちを蓮華へ載せて下から持ち上げ、支えるのが使命だからです。
 み仏にお仕えする僧侶も又、不動明王を目ざし、万人の僕であらねばなりません。
 僧侶がさまざまな袈裟や衣を身にまとうのは、それがみ仏の世界を表現するものであり、法の中ではそうしたさまざまなみ仏方と一体になるからです。
 姿がみ仏、口に唱える経文や真言もみ仏、そして心に抱く観想もみ仏となるのが行者の修行であり、プロとしての仕事なので、いわば、ユニフォームとして袈裟衣を用います。
 だからといって、一介の行者が、高い場所にいる人になったわけではありません。
 所定の修法であれ、人生相談であれ、修行をやればやるほど未熟さを知る行者は、高いどころか、むしろ、ご縁の方々の僕である以外のありようがないことを身に染みて知っているものです。
 そもそも、営利活動を行わず、み仏へいただくお布施をみ仏にお仕えする者として分けいただき、いのちをつなぐ行者にとって、お布施をくださる善男善女なしに生きられません。
 僧侶の主がご縁の方々であるのは、あまりに当然な事実です。

 引き続き、み仏の智慧「五智」について若干の法話を行いました。
 円満な心は、優しさ、厳しさ、正しさ、優雅さ、尊さの5つを学び、それを体した生き方をすることによってもたらされます。
 ジョギングをして健康な身体をつくるのと同じく、心の健康もまた、訓練によってもたらされます。
 他人への優しさは、ただ善意を向けるだけで成就するわけではありません。
 そもそも、誰しもが等しく苦を生きている存在であることが腑に落ちていなければ、真の優しさははたらきません。

 映画『ヒマラヤを越える子供たち』についてはこれまでも書きました。
 親元から離され、いのちがけでヒマラヤを越えてインドへ亡命した15才のA君は言いました。
「私たちに酷いことをする中国人は大嫌いでした。しかし、中国人もチベット人も同じく苦を背負った人間同士であることを知り、今は彼らへ同情しています」
 これは、宗教の力を示す途方もない言葉です。
 A君がチベットで何を見聞きしたかはわかりませんが、A君の家族や周囲のチベット人たちが筆舌に尽くせぬ仕打ちを受けたからこそ、A君の親は、チベット人らしく生きられる人間になって欲しいと願い、ヒマラヤ越えに向かわせたはずです。
 おそらくその時点でのA君は、中国人を信じられなかったことでしょう。
 しかし、彼はまたたくまに、心のステージを上げました。
 み仏の視点を得たのです。
 み仏から見れば、加害者である中国人も被害者であるチベット人も等しく愛おしい人間であり、等しく愚かな人間であり、等しく健気な人間であり、等しく哀しい人間なのでしょう。
 ここに立って「人間を根本から信じられること」が、実は、真の優しさを生きるための入り口なのです。
 このように信じ、そして認め、教え、与え、守られる人間になって初めて優しさは円満に完成し、こうした5つの心の完成が「五智」の完成へ向かう第一歩です。

 法話を終え、和やかな昼食になりました。
 お一人づつ、簡単な自己紹介をしていただきました。
 仏縁を結ばれた経緯や、日々の暮らし方など、皆さんのお話は、すべてが心に沁みる真実を述べておられました。

〈何をやっても和気藹々(ワキアイアイ)です〉
220613 002

 一体づつお大師様の法を結ばれた手作りのクリスタル宝珠は、善男善女を守り、当山を守り、訪れる方々を守る仏舎利として正面壇上の多宝塔内へ納められます。
 これからも仏舎利供養を継続してお受けしています。

〈一体づつ手作りされ、刻印されて仏舎利となるクリスタル宝珠 ─宝珠は高橋昇氏、写真は佐藤直行氏の作品です─〉
kurisutaru1.jpg

 平成22年の青葉祭は「この世の幸せとあの世の安心」のための大きな一歩になりました。

仏舎利を祀る金色の多宝塔です〉
220614 0022



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.13

『法楽寺護持会』の第二回役員会を行いました

 18名の役員が集まり、『法楽寺護持会』の第二回役員会が行われました。
 組織図、役員名簿などの確認に始まり、7月の除草作業、皆さんに植樹していただいた桜の手入れ、あるいは『法楽新聞』の編集についてなど、2時間にわたって活発な議論が交わされました。
 7枚の資料を前にした事務局・総務委員会・業務委員会・広報委員会の各責任者から、それぞれ「自分たちのこと」という姿勢の発言がなされ、出席者皆さんが同じ心で奇譚のないご意見を披露されました。
 開山の理想を実現するため、そして開かれた寺院としての足腰を鍛えるために何が足りないか、何を進めるべきかをとことん考えようといった皆さんのお心はまことにありがたく、千万人の力をいただいたような気持になりました。
 日々の法務と、理想実現の努力と二本のレールをまっすぐに全力疾走します。
 サポーターの方々、役員さん方と当山へどうぞ、ご理解とご協力をお願いします。
 なお、『法楽寺護持会』の愛称(ニックネーム)を公募します。
 会員であるとないとを問いません。
 ファクス(0223462107)やメール(houraku.gojikai@gmail.com)などでの投稿をお待ちしています。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
06.13

寺子屋『法楽舘』開講 ─第七回を終わりました─

 絶好の好天のもと、たくさんの善男善女が来山され、寺子屋法楽舘』を開きました。
「仏法は心の灯台になるか、葬儀戒名は要らないか」と題し、映画『ヒマラヤを越える子供たち』(約30分)の鑑賞に続いて、住職が法話祖を行いました。

 映画でわかるとおり、私たちはギリギリの場面に立つと、自然に仏神への祈りが生じます。
 ヒマラヤ越えに挑む子供たちも、送り出す親たちも、付き添う案内人も、そして、一行の無事を願う僧侶も、皆、祈りの中で亡命を決行します。
 では、祈られる対象である「み仏」とは誰か?
 その最も身近な方が、守本尊様です。
 寅年生まれの方なら虚空蔵菩薩、酉年生まれの方なら不動明王様が、一生をお守りくださっており、「ここ一番」の時は、こうした「私たちのいのちと共にある方」へ祈ります。
 守本尊様は、こうした「一代守本尊」としてだけでなく、変化する時間それぞれをも役割分担してお守りくださっています。
 たとえば前厄では勢至菩薩、本厄では千手観音様が担当してくださいます。
 人生の関所を無事乗り越えて一段と心の足腰が強くなるよう、お支えくださっています。
 だから、厄払いのご祈祷では、そうしたみ仏の法を結び、善男善女の無事安全・除災招福・開運を祈ります。

 こうした「この世の幸せ」に関する法話に引き続き「あの世の安心」についての法話も行いました。
 このところ最も話題になっている戒名についてその根本的な意味と意義をご説明しました。
 亡くなってからの戒名は、み仏の世界へ旅立つ「み仏の子そのものとしての名」であり、生前に受ける戒名は、死後も見つめて「生き直す者としての名」であることなどをご説明しました。
 過去五年間の間に書いた文章をまとめた自家製本『戒名の真実』もご紹介しました。

 質疑応答は活発に行われました。
「そもそも〈み仏〉って誰ですか?ご先祖様は、み仏なのですか」。
戒名を自分でつけてはいけませんか?」。
 こうした素朴な疑問に加え、「自分のご先祖様を頼んでいるお寺の固く閉ざされた門を開かせるには?」、「伴侶と一緒に眠りたくない」など、深刻なお話もありました。

 次回も引き続き、守本尊様や八方塞がりになる年の注意点など、「この世の幸せ」に関する法話、そして葬儀では何が行われているのかなど、「あの世の安心」についての法話を行います。
 次回、七月10日(土)も、たくさんのご質問やご意見をお待ちしています。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
06.13

聖なるイチロー

 平成16年は、イチローにとって特別な年になりました。
 アメリカメジャーリーグ記録だったシーズン最多安打記録を更新したからです。
 もう破られることはなかろうと思われていたジョージ・シスラーが持つ84年前の記録257安打を上回る262安打を打ったのです。
 ウィキペディアで調べて驚きましたが、同年、イチローは数々の部門でリーグ1位を記録していました。
 得点圏打率(.372)、得点圏出塁率(.484)、2死得点圏打率(.472)、2死得点圏出塁率(.600)、走者あり打率(.364)、走者あり出塁率(.439)、対左投手打率(.404)、敬遠数(19)、出塁数(315)です。
 出塁率(.414)、盗塁数(36)は2位です。
「打席に立ったら、とにかく塁へ出る。
 打てば点が入る場面では、確実に打って得点する。
 誰かが塁へ出ていて、打てばチャンスの広がる場面では、自分も打つ。
 ツーアウトになっていて、ここでアウトになればチームに点が入らないという打者として最も緊張する場面では、プレッシャーのない場面よりも確実に打つ。
 左バッターにとっては打ちにくいとされているサウスポーを苦手とせず、右利きのピッチャーを相手にするよりもよく打つ。
 ピッチャーに嫌がられ、敬遠で塁に出る。
 一旦、塁へ出れば、果敢に盗塁する」
 イチローは、こうした夢のようなバッターになっていました。

 これまで何度もイチローについて書きましたが、奇跡とすら称される記録達成に接し、やはり彼は世界の超一流だなあと感無量です。
 彼の言葉は一つ一つが野球人の経典ともなりそうなばかりでなく、私たち行者にとっても深くうなづけるところがあって、驚異としか言いようがありません。
 今回特にそういった面で記しておきたいのは二点です。

好きだからできた」
 偉業達成の原動力を問われての回答です。
 ちょっと聞けば何でもなさそうですが、彼の場合は「好き」に導かれて行く先が普通の人とは違います。
 好きでプロ野球の選手になった自分は「プロとして何をしたいか、何を見せたいか」を自分自身へ問い、その答によってなすべきことに邁進したというのです。
 大魔神佐々木投手が「彼は野球小僧ですよ」と表現していたとおり、自分のすべてを〈なすべきこと〉にかけていたのでしょう。
 
 この〈したいこと〉が〈すべきこと〉となり、好きなことのできる嬉しさがエネルギーとなってそれを達成させた姿は、まさに煩悩となり得る〈好き〉が人間にすばらしい生き方をさせるエネルギーであることを証明し、人間の尊さを目の当たりにしてくれたとも言えるのではないでしょうか。

 最近、若い頃は法事の後に好きな酒をさんざん飲んだあげく『さんさしぐれ』を唄ってひんしゅくを買い、隠居になってからはママさん方を呼び寄せてお寺で宴会をやる僧侶がいることを聞いて唖然としました。
 教えてくださったそのお寺の檀家の方は大したもんだなどと笑いながら好意的にみていてくださるようですが、私には、直接聞こえる声になっていない周囲の人々の侮蔑の思いがこの人の背後からゆらゆらと立ち昇っているような気がして、言葉を失いました。
 それは僧侶というもの全体への侮蔑でもあるからです。
 
 当然のことながら、プロはプロとして評価されねばなりません。
 もしもイチローが酒好きだからといって飲み過ぎて試合に遅れたり、車好きで高級車を飛ばしすぎて事故を起こしたりした場合、いったい誰が大したもんだと言ってくれるでしょうか。
〈好き〉によって聖なる道へ行く姿と煩悩へ堕ちる姿は、天国と地獄ほど違います。

 もう一つは「自分自身の可能性をつぶしてはいけない」という言葉です。
 これは、日本の野球少年たちへのメッセージをと請われて発せられました。
 日本にいてもそうでしたが、細身でプロ野球の選手としては決して大柄でないイチローは、アメリカに渡ればなおさら小さく、小柄な選手の代表のようなものです。
 その彼が身をもって「身体が大きいだけが能ではないよ」と証明しました。
 だから、〝自分は大きくないし力も強くないから、どうせだめだ……〟とあきらめてはなりません。
 自分の可能性をつぶすのも伸ばすのも結局は自分次第だと言うのです。
 
 何という励ましでしょうか。
 やはり彼は聖なる次元へ行ったなあと、今さらながらに感心することしきりです。

※この文章は、もうネット上では読めなくなっている古いものの中から行者里佳さんが選び、住職が加筆修正し、再掲しています。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。