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2010
07.31

道具と道理

 隠形流(オンギョウリュウ)居合では、を浄め、生き方を穢さず、を結ぶ力をつけることが目標です。
 最近は「斬る」イメージの稽古も行っています。
 は高度に洗練された道具であり、道具は個別の道理を持ち、使う人間の動きが道理に合っていれば道具は本来のはたらきを示し、必然的に動きは美しさを伴うからです。

 初めは手で動かすコツを覚えます。
 次いで、身体の流れをイメージします。
 次いで、と身体を一つにした動きを身につけます。
 次いで、スピードや力に濃淡を施すポイントを知り、全体にメリハリがつきます。
 次いで、動きが切り替わる時と形を知り、実際に安全を保ちながら斬られる力がつきます。
 次いで、斬る対象との距離感を精密にします。
 そして、を正確に目的物へ通されるようになります。

 実際に巻わらなどを斬るのは、がイメージ通り動いているかどうかを確認するためです。
 だから、巻わらは、子供でも斬られるもので構いません。
 
 稽古は、前後左右どちらへであれ、瞬時に対応できるよう行います。
 稽古が進めば、来るもの、去るもの、動かないもの、いずれへも正確にを通されるようになります。
 身についたイメージと動きは、現実世界で起こる不意の危険へ持てる力を動員して対処する能力となります。
 また、イメージによってを動かせるようになれば、私たちを地獄界や餓鬼界へと誘う霊障にとり憑かれません。
 もちろん、稽古に先立って必ず結ぶ護身と、自らを厳しく鍛える「七言法」は、それだけで霊障をはね除ける力になりますが、四季の変化に乗じて内外からやってくる四魔などへ適切に対処するためには、進んだ修も必要です。

 行者たちは、すなおに、正しく学んでいます。

〈あるべくしてある精密に作られた花〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.31

六道輪廻(リンネ)は確かです (その2) ─餓鬼界─

 地獄界も、餓鬼界も、畜生界も、修羅界も、この世にあり、私たちが確かに経巡っていることを直視しましょう。
 経典が説く餓鬼界のありさまです。

 飲みものも食べものも、なかなか見つかりません。
 ようやく川を見つけ、木の実を見つけても、武器を持った番人に追い払われます。
 また、近づいて見ると膿や汚物に見えてしまいます。
 また、近づこうとすると見えなくなってしまいます。


 たくさんの飲みものや食べものを入れようと大きな腹を持っているのに、手足は草のように細く、口は針の先のように小さく、咽は馬の毛のように細いので、ようやく見つけたものを口にしても、なかなかお腹いっぱいになりません。
 いつも探し回り、見つけても充分に摂れないのです。


 細い手足で食べものを探す餓鬼は、いつも疲れています。
 夏の月光も暑く感じ、冬の太陽も寒く感じます。
 弱い餓鬼同士が少ない飲みものや食べものをめぐって弱肉強食の争いをします。
 弱い餓鬼にとっては、人間も犬猫もすべて恐怖の対象です。
 燃える数珠が手から離れない餓鬼は、手にした食べものが燃えてしまいます。
 汚物しか摂れない餓鬼は、便や、毒物や、食べてはならないものしか口にできません。
 自分の肉しか摂れない餓鬼は、自分を苛み続けます。



 私たちがチンパンジーから分かれて二本足で草原に立ち、人間として暮らし始めた頃からしばらくは、当然、栖からでかけて帰ってこられる範囲にあるものを飲みものや食べものとしていました。
 やがて農耕や交易が発達し、食べものに余裕ができ、遠方にあるものも飲んだり食べたりできるようになりました。
 現代に生きる私たちは地球の裏側からも運ばれる品々に舌鼓を打っていますが、深刻な問題も進行しつつあります。

「食べられない」という観点から何よりも深刻なのは、富の偏在と同じように食物も偏在しつつあり、また、必要な場所へ行き渡らないことです。
 地球環境の変化や経済状況などにより、飢餓人口は増えつつあります。
 平成21年の世界飢餓人口は10億人と推定されています。
 実に7人に一人が餓えているのです。
 中国の人口増加と経済発展は、食料の争奪戦に拍車をかけています。
 地域の人々が摂って生きるためではなく、売って利益を上げることを主たる目的として自然を利用するために、自然の破壊が猛スピードで進んでいます。
 私たちの未来は、地球規模で不正義を正し、弱者を救うルールづくりができるかどうかにかかっています。

 また、「安全な食べもの」という観点から見過ごせないのは、あまりにも多様なアレルギーの発生が、食生活に主たる原因があるのではないかという指摘です。
 生きものとして本来、口にするはずのないものを摂っているのが問題ではないかというのです。
 日本でもマクロビオティックなどが広く知られ、一定の原理によって食べものを制限し、免疫力や自己回復力を高めることによって病気を克服しようという試みが各方面から行われています。
 有名人が厳しい症状を克服したなどの成功例も語られていますが、ややもすすると教条主義や原理主義へ走りかねず、思想的・方法論的成熟はこれからです。

 遺伝子組み換えで作られた米が、アメリカではイタリアレストランに売られ、一部は人間の食用として日本へ輸出されたことがあります。
 アメリカの上流社会へは一粒も流れていません。
 中国から日本へ輸出された毒入りギョーザ事件や、中国から世界中へ輸出されたペット用の餌による犬猫の被害は記憶に新しい事件です。
 私たちは、まったく知り得ない世界中の人々の〈善意〉へいのちの糧を託しているという現実を直視せねばならない段階に来ています。
 最近、「地産地消」が提唱され、提供者まで特定できるシステムが進みつつあります。
 食の安全は、一人一人の意識のありようにかかっています。
 
 いくら不景気になっても、今の日本人は、世界的視野からすればとても恵まれた食生活を確保していると言えましょう。
 それだけに、この餓鬼界を想う想像力と、一切を地獄界餓鬼界へ堕とす戦争を絶対に行わないという意志力を失わないようにしたいものです。

〈確かな生〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
07.30

六道輪廻(リンネ)は確かです (その1) ─地獄界─

 地獄界も、餓鬼界も、畜生界も、修羅界も、この世にあり、私たちが確かに経巡っていることを直視しましょう。
 経典が説く地獄のありさまです。

 過去の業に応じた武器を持って戦います。
 倒れるまで戦い、破れて地に伏しても決して終わりにはなりません。
 立ち上がれという命令によって、再び戦い、決して終わりはありません。


 今、まさに、子供たちはゲームによってこうした世界へ没頭しています。
 勝っても負けても戦い続けるイメージが何をもたらすか、考えるだに恐ろしいことです。

 地面に引かれた線上を歩く間中、左右から斬りつけられます。
 線はいつまでも引かれ続けます。


 映画「チベット チベット」でネパールへ亡命した僧侶が証言しています。
 僧侶たちは侵略した中国軍に左右を挟まれて歩かされ、左右から殴られ続けました。
 映像が伝える真実も悲惨を極めます。

 集められた人々は取り囲む山が迫ってきて押しつぶされます。


 私たちは、資金繰りに窮した時や受験の日が近づいた時など、心が押しつぶされてしまうような圧迫感に襲われ、心優しい方などはこうした状況が重なると心身に病気を発症したりします。

 燃えている鉄製の家の中で焼かれる。
 頭頂から肛門まで串刺しにされ、そのまま焼かれる。
 溶けた鉄を飲まされる。


 家や事務所に火をつけて焼き殺す事件は絶えません。
 また、世界各地で行われた、あるいは行われている拷問には、こうしたものがあります。

 熱灰や大便の沼を歩かされながら斬られ、虫に食われます。
 剣の林を歩かされ、鳥につつかれ、食われます。


 人間の歴史が始まって以来行われ続けてきた戦争地獄をもたらします。
 武器を持った敵に囲まれ、傷口にウジのわいた身体を抱えながら、人々は戦ってきました。
 いったい、どれだけの人々がこうした現場で死を迎えたことでしょうか。

 雪と氷に閉ざされ、凍りつき、叫ぼうとしても呻くだけで、声が出ません。
 やがて身体が割れ、裂け、こなごなに砕けます。


 シベリア抑留で亡くなった方々の悲惨は、現実化した地獄でした。

 皆で苦しむ地獄の周りには、焼かれても孤独、凍っても孤独の世界があります。

 
 内閣府が7月23日に発表した統計によると、「ひきこもり群」は約70万人です。
 男性が66%を占め、30代が46%と最も多くなっています。

・普段は家にいるが、自分の趣味に関する用事の時だけ外出する。
・普段は家にいるが、近所のコンビニなどにはでかける
・自室からは出るが、家からは出ない
・自室からほとんど出ない
 こうした状態が6ヶ月以上、続いている人々です。
 
 また、「ひきこもり親和群」は約155万人です。
 女性が63%を占め、10代が31%と最も多くなっています。
 
・家や自室に閉じこもって外に出ない人たちの気持が分かる
・自分も家や自室に閉じこもりたいと思うことがある
・嫌なできごとがあると、外に出たくなくなる
・理由があるなら家や自室に閉じこもるのも仕方がないと思う
 4項目すべてを「はい」と答えたか、3項目を「はい」、1項目を「どちらかといえばはい」と回答した人たちです。

地獄はこの世にある」と思えませんか?
 地獄は、私たち一人一人がつくる業(ゴウ)、そして、知らない間に皆でつくっている共業(グウゴウ)によってもたらされています。

〈いつの間にか玄関を闊歩(カッポ)していた誇り高い闖入(チンユウ)者に、すっかり見とれてしまいました〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様の真言です。
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2010
07.30

8月の真言

 8月守本尊大日如来様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


〈儚げに、しっかりと……〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様の真言です。
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2010
07.30

8月の守本尊様

 8月は、立秋(リッシュウ)と処暑(ショショ)の葉月(ハヅキ…8月7日より9月7日まで)です。
 8月は(ヒツジ)の月なので、守本尊大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

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大日如来様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉

猛暑に咲くもの、はたらくもの〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様の真言です。
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2010
07.29

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 52・53 ―霊魂はあるかないか─

 7月14日は、講義に先立ち、編集工学研究所所長松岡正剛氏渾身のマルチアーカイブビデオ『蘇る空海』の上巻を観ました。
 神童の誉れ高かった若き日の弘法大師空海が高位高官への道を捨て、一介の行者になり、大日経と巡り会った日をスタート地点として、日本の仏教は一気に世界最高レベルへと飛翔しました。
 お大師様は、万物がつながり合い響き合ってうねり、変化してやまない世界の構造を仏法行者として解明し、私たちが人間や世界とまごころで交感し合う道筋を明らかにしました。
 そうした密教世界への誘いは、聴講者の皆さんに新鮮な驚きをもたらし、後半の一時間は「なぜ、多数のみ仏がおられるのか?」、「なぜマンダラは一対になっているのか?」、「丑年生まれの守本尊が虚空蔵菩薩であるのはなぜなのか?」などの質問がどんどんと出され、あっという間の2時間でした。 

 7月28日は講義に先立ち、平成21年110月11日に逝去された歌手夢慧(ユメサト)氏のDVD『夢慧 幻想抒情の世界』の前半を観ました。
 西条八十の詩へ夢慧氏が作曲した「燈火」、「秋の踊り子」、また金子みすゞの詩へ作曲した「玩具のない子が」、あるいはNHKの番組「土曜サロン」でテーマソングとなった「いにしえ」、そして、弘法大師ご生誕の日を期して小椋佳が作った「君と遊ぶ時」を鑑賞しました。
 今日のテーマとして、『四十二章経』と『法句経』に説かれている人の道の大切さについてお話申し上げ、質疑応答へ入りました。

 活発に提起された問題のうち、ここでは一つのテーマについて記しておきます。
「ある寺院では、霊魂を絶対視し、死後7日ごとの供養をはじめ、指示通りの供養をしないと霊魂は成仏できず、一族にも悪しきことが起こると説いています。
 そして、時間的にも経済的にも、普通の生活者にはあまりに過大な供養を強制しています。
 そもそも、仏教では霊魂の存在をどう考えているのでしょうか?」

 お答えしました。

1 仏教は釈尊が創ったのでもなければ、釈尊が唯一の悟った人でもありません。
 釈尊ご自身が「私は過去に悟りを開いた聖者の仲間入りができた」と説かれていることからも明らかなように、真理は誰かに創られたものではなく、気づかれるものです。
 だから、仏教は、釈尊が気づかれた真理の内容を説かれたところから始まりはしましたが、それはあくまでも、インドに生まれ育ち、生き、死んだ釈尊にとっての真理です。
 因果応報の道理や、空(クウ)としての現象の把握法や、不殺生などの戒め、あるいは菩薩をめざす生き方など、釈尊が説いた教えの泉から流れ出た清水は発展し膨らみながら私たちを潤し、導き、救う流れとなっています。
 釈尊の後からも、頭抜けた聖者方がそこに含まれている宝ものを発見して私たちへ教え、与えてくださっています。
 今現在も、これからも、行者、聖者、賢者方は、新鮮な宝ものを発見し続けることでしょう。

2 仏法における霊魂の問題は、釈尊の「無記」から始まりました。 
 釈尊は、死後の世界があるかないか、あるいは身体といのちは同じものかどうかといった問題について「無記」つまり、「どちらとも決めない」と答えておられます。
 私は、こうした二者択一の問題は、人智による言葉をもって答えられる能力を超えていると考えています。
 そもそも人間は、生きながら精神的に成長し続け、ものの観方、判断の仕方を深めて行く以上、抽象的な問題をどうとらえるかというあり方が変化するのは当然です。
 判断主体が変化するということは、たとえて言えば持っている物差しが変わるのと同じです。
 手にする物差しが変わるのなら、計る相手を数値で特定することはできません。
 み仏の智慧のすべてである「十力」を備えた釈尊は、過去・現在・未来を観て絶対的な答はでないことを見通されたのでしょう。
 だから、毒矢の譬えをもって、抽象的な思弁にふけるよりも、たった今、現実に動き、善悪こもごもの業(ゴウ)を積みつつある心を清め、正しくはたらかせるためのトレーニングに励むよう指示されたのです。
 毒矢に射られたならば、誰がいかなる目的で射たのかなどと詮索している間に毒が回り死んでしまうので、まず、抜き取り解毒をはからねばなりません。
 現実に迷い、苦しみ、他人を傷つけつつ生きている私たちは、そうさせている煩悩や無明へ立ち向かうことこそ、ただちになすべきことなのです。

3 霊魂をどう考えるべきかといえば、「霊性の次元で対処すれば良い」と考えています。
 自分が心を澄ませた時などに感得できる範囲へ誠実であるのが一番です。
 かつて、親思い一筋に生きてきた方のためにご本尊様へ祈って降りた戒名の院号に、両親の戒名の頭にある二文字が並んで唖然としました。
 もちろん両親の戒名を知らずに祈ってこうした結果を得られたことは、偶然といえば偶然でしょうが、あまりにも尊く重いものを含んでおり、すぐに〈向こう側〉へ置いてしまうわけには行きません。
 求めた方々も、私も、黙ったまま涙が滲んできました。
 人智を超え、日常生活の次元を超えた尊いもののおはたらきを感得したかからです。
 祈りの場は、こうしたできごとに事欠きません。
 清らかな心で当山へ足を運ばれる皆さんは、誰一人、「魂があるかないか」を真剣に議論したりしません。
 必要がないからです。

4 冒頭の寺院の姿勢には「タブーで縛っている」という看過できない問題があります。
 ある宗教が真に万人を救うレベルであるかどうかを推しはかるための二つの視点があります。

 一つは、特定の経典や仏神やあるいは教祖を唯一絶対とし、排他的な姿勢を持っていないかどうかです。
 もしも、他の宗教宗派を邪宗呼ばわりすれば、その時点で失格です。
 独断的、排他的でありながら、いかにして万人を救えましょうか。
 救う相手と救わない相手を決めることほど、非宗教的なことはありません。
 現実の人間を現実のレベルで色分けし、どうして異次元の救済がもたらされましょうか。

 もう一つは、やたらとタブーを設けていないかどうかです。
 タブーの管理者として自分へ威厳をつけようとするのは、まっとうな宗教家の行うことではありません。
「怖がらせ」によって縛りつけるほど、低レベルで、心優しい人や、臆病な人や、信じやすい人へ害をもたらす悪事はありません。
 甘い餌で組へ引きずり込んだ暴力団が暴力をちらつかせて脱退を引き止めるのと同じ構図ではありませんか。
 ある拝み屋さんが、代替わりした途端に衰退してしまった話を聞いたことがあります。
 そこでは、月に何度か信者さんたちが集まって熱心に拝んでいました。
 しかし、新しく教祖の座に坐った人が「身内へ不幸があった場合は、一定期間、ここへ来てはならない」というタブーを決めました。
 それをきっかけとして徐々に信者さんの足が遠のき、ついに潰れたそうです。

5 そもそも、僧侶は行者であり、修法を行う祈りのプロです。
 亡くなった方のために、祈るのが僧侶の仕事です。
 まず必要な祈りは僧侶が捧げ、ご遺族は、それぞれが時間的、金銭的に可能な範囲でその場に参加し、追善のまことを捧げればそれで充分です。
 皆さんが集まらなければ御霊が迷うとか、定めた供養を行わなければ祟られるといったお話は到底、道理とは思えません。

 次回も、有意義なテーマをお待ちしています。

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2010
07.28

『四十二章経』第二十六章 ─信と意─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

第二六章 信と意

「仏、沙門(シャモン)に告げたまわく、
『慎んで汝が意(ココロ)を信ずること無かれ、意(ココロ)終(ツイ)に信ずべからず。
 慎んで色(シキ)と會(エ)すること無かれ、色(シキ)と會(エ)すれば、即ち禍(ワザワイ)生ず。
 阿羅漢(アラカン)道を得て、乃(スナワ)ち汝が意を信ずべきのみ』」。


 釈尊は弟子たちへ説かれました。
「我が身を慎み、自分の心を信じてはならない。心は結局信じられるものではない。我が身を慎み、心を情欲の対象となるものと接してはならない。対象によって動かされた情欲が災いを生ずるからだ。アラカンの悟りを得て初めて、自分の心は信じられるものとなる」。

 極めて根本的な教えです。
 まず、私たちの心は、生まれたままの状態であれば信ずるに足らないと厳しく指摘されました。
 なぜなら、の智慧がはたらかない無明(ムミョウ)の状態にあるからです。
 の智慧がはたらかないのは、自己中心という生きものとして抜きがたい煩悩があるからです。
 究極の智慧を得られた釈尊は、きっと最初にこの事実に気づかれたことでしょう。

 ではどうすれば良いか?

 釈尊は、目には目によって動く心があり、耳には耳によって動く心があり、感覚器官それぞれに心を動かすと考えられました。
 確かに美しい花を見れば、我を忘れてつかの間、憂いを離れられます。
 一方、美しい花だからと勝手に枝からもぎ取って我が家へ持ち帰る人もあるし、美しい人を見たばかりに、ストーカー行為で逮捕される場合もあります。
 花や人のように感覚器官へ刺激を与える現象世界にあるものを「色(シキ)」といいます。
 釈尊は、「動かされる心が煩悩に覆われているうちは、不用意に見たり聞いたりすることを控えよ」と説かれました。
 それが「色(シキ)と會(エ)すること無かれ」です。
 ここで言うところの「色」は、本当は見聞きする対象一般ですが、最も理解しやすいのが性欲を刺激するものなので、「情欲の対象となるもの」としました。

 指導を受けて修行している釈尊の弟子たちは、師へ、たくさんの質問をしたことでしょう。
 その中で最も多いものの一つが「性欲による心の安定の妨げ」であっただろうことは想像に難くありません。
 事実、そうした質問と釈尊の指導が経典に記されています。
 指導するおりに、対象物によって否応なく動く欲一般の代表として、釈尊は色欲をとりあげておられます。

 だから、「修行中の者は、色欲の対象となる異性と接しないように務めよ」と説かれたのです。
 煩悩によって心が動かされているうちは、煩悩を刺激する対象を遠ざけよという指導です。
 釈尊は、他の経典で、具体的に、「見てはならない」、「話してはならない」などと具体的な指示を与えてもいます。
 こうして心が乱されない状態で理を観る訓練を続け、我が心のありようを理解し、そのコントロール法をしっかり身につけたアラカンになって初めて、自分の心を信じ、自在に現象世界のものを見聞きしても失敗しないようになります。

 私は、正式に仏門を叩いて間もなく、師から教えを授けられました。

「人の道を主とせよ。我が心を従者とせよ」。


 自分の心をみ仏の教えに従わせなさいというのです。
 さんざん「自分探し」「自分らしく」「自己実現」といったフレーズに染められて生き、大失敗をやらかした私には、頭を強く殴られたような衝撃でした。
 学生時代からいわゆる仏教書を読みあさり、さまざまな宗教の門を叩いてきたのに、「自分が自分の主ではならない」という単純な原理が腑に落ちたことはなかったからです。
 ここから始まった〈生き直し〉は未だ道半ばまでも及ばず、悪戦苦闘していますが、どうすべきであるかを思い定めた状態はありがたく、とても安心で勇気にこと欠きません。

 最後に、NHKカルチャーセンターで講義を続けている『法句経』に強い教えがあることを書いておきましょう。 

を以(モッ)て(ギ)と為(ナ)し、(ギ)を以(モッ)てと為(ナ)す、是(コレ)を邪計(ジャケ)と為(ナ)す、利(シンリ)を得ず」。
「真を知りて真と為(ナ)し、(ギ)を見て(ギ)を知る、是(コレ)を正計(ショウケ)と為(ナ)す、必ず真利(シンリ)を得(え)ん」。

 
 今回学んだ『四十二章経』は、私たちの迷いの状態を煩悩から説いていますが、この教えは無明から説いています。
 
 私たちが無明の状態で周囲を見れば、真理を真理と知り得ず、りをりと知り得ません。
 だから真理を偽りと考え、偽りを真理と考えます。
 これでは、いかなる計らいもすべて邪なものとなり、人生における〈真実の利〉を得られません。
 真理を真理とし、偽りと偽りと見極めてものごとを計るならば、必ず人生における〈真実の利〉を得られることでしょう。

 ぜひ、多くの方々に、こうした教えを知っていただき、み仏の教えにもっともっと耳を傾けていただきたいと願っています。




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2010
07.27

冷蔵庫のある霊安室

 出所者Aさんが亡くなられ、送って欲しいとのご依頼を受けました。
 NPOの方は、
生活保護を受けておられました。
 身内も一切関係していないのでそれほどのこともできず、お骨の状態で来山したいのですが……」
と電話口で話されます。
 ちょうどその日は夜の予定がなかったので、勝手に枕経へでかけました。
 枕経の主尊不動明王の守護もなく、斎場で因縁を解かれることもなく、身内の涙もないままにお骨になるのを見過ごせなかったからです。

 明らかにこうした身の上の方々のために設けられた霊安室は殺風景なものでした。
 ドアを開けるとすぐに目に飛び込んできたのは、左側の壁際に置かれた人の背丈ほどもある巨大なステンレス製冷蔵庫です。
 上下に扉があるところを見ると、ご遺体が2体、収容できるのでしょう。
 その右側に無人の寝床を載せた台車と簡素な祈りの壇があります。
 壇は普通のテーブルに白いペンキが塗られただけで、正面に大きな香炉、左手にはミカンとバナナが載った皿、そして手前に鐘、右側にはハガキ大の遺影と大きなどんぶりにてんこ盛りの一杯飯、トマトの載った皿などが置かれていました。 
 エアコンもなく、換気扇が回っているだけの室内は結構な高温です。

 挨拶に出向いた本館の担当者が灯明に火をつけ、中天香と焼香セットを用意されました。
「ご遺体の損傷が激しいのでこうした形ですみません。
 お会いになられますか?
 冷蔵庫がうるさかったら止めますが……」
と訊かれたので、このままで結構ですと答え、すぐに修法へ入りました。
 遺影には喜びや落ち着きやレンズへ向かってくる気持がありません。
 どこか投げやりで無関心そうにも見えます。
 開いていても明かりが届いてこない目と向かい合い、来て良かったと思いました。
 真言は狭い空間に響き渡り、名前の張り紙があったお隣とそのお隣へも法を結びました。

 修法が終わり、礼をしてドアを閉めると、隣の霊安室のドアを開けたまま、35~6歳とおぼしき女性が放心したような、何かをやり過ごそうとしているような表情で入り口のパイプいすに腰かけておられます。
「お通夜ですか?」と低く声をかけました。
 薄く頬をほころばせた彼女は、小さく頷くだけでした。
 ご苦労様ですと腰を折った目の端にご年配の女性が映りました。
 もしかすると、Aさんに近い状況のご一族なのでしょうか。

 お礼の挨拶に訪れた事務所から、どんどん人が出て来たのには驚きました。
 皆さん、ご苦労様でしたと最敬礼をされ、車の案内をし、出口では見送ってくれました。
 おそらくは不如意なものをたくさん抱えたまま最期を迎えられたであろう御霊を数多く送る人々の誠意は確かでした。
 形は質素でも篤く送ろうとする日本の文化の潤いに、沈みかけていた心は幾ばくかの安堵を覚えました。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.26

白鵬関の涙

 弱冠25歳の一人横綱白鵬関が優勝で見せた涙には胸が閉ざされような気持になりました。。

 もはや超少数派となった〈語らず、行う〉タイプの代表格である白鵬関は、優勝インタビューで「応援してくれた名古屋の皆さまに感謝です」と、短く謝意を表しました。
 そして、史上3位の連勝記録達成については、笑顔がなく「うれしいですが、こういう場所で残念」と絞り出すように答えました。

 野球賭博問題を重視した日本相撲協会は、大正15年春場所から始まった天皇賜杯の授与をはじめ、内閣総理大臣杯なども含め、協会外から授与されるすべての表彰を辞退しました。
 その結果、見事という言葉以上のはたらきを示した大横綱への賞賛は、とても淋しい形になりました。
 大相撲という世界の土俵が崩れかねない危機的状況にあって、黙々と励み、全勝優勝を果たしたばかりか、年間6場所となってからは史上最高となる驚異の47連勝を成し遂げた偉業にふさわしい表彰が行われなかったのはまことに残念です。
 
 私たちは、見て、聞いて、身体で、魂で学びます。
 見て、聞いて、身体で、魂で励みます。
 そして、見て、聞いて、身体で、魂で感動します。
 私たちに視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚・知覚が与えられているのは、そのいずれもが霊性を磨く機縁になるからです。
 ヘレン・ケラーや、盲目のピアニスト・辻井伸行氏など、時にはその一部が欠けていながら、超絶的な能力を発揮する人々もいますが、いずれにしても、私たちの身体と心は私たちを活かし、感動を与え、憩わせる貴重な道具です。

 若き日に絶望し、道に迷った私は、数日、都内のアパートに目張りをし、外界との接触を断ち、ほとんど飲まず食わずで過ごした経験があります。
 鎌倉で伝授された座禅を組んだりしましたが、〈断つ〉ことによって得られたものはほとんどありませんでした。
 そして、近所の酒屋で雇ってもらい、酒の配達などで収入を得、溜まっていた書店への借金を払いました。
 近所の小さなバーの用心棒になり、閉店まで報酬の酒を舐めながら本を読み、売春婦やヤクザの親分や新興宗教にのめりこむ居酒屋の女将さんなどと語り合ったりもしました。
 結局、迷ったまま大学を中退して仙台へ帰りましたが、短い期間ではあってもさまざまな人々と接した体験がその後の迷いの期間をどうにか支え、托鉢の試練にもたじろがせず、今、行っている人生相談の糧となっていることに気づいてみると、目で見て、耳で聞き、言葉を交わしたことの大きさを改めて実感します。
 驚き、恐がり、愛おしみ、そして共に喜び、悲しみ、嘆き、笑い、泣いた、いわば社会の底辺で生きる人々と過ごした体験が、前のめりに倒れるまではたらこうとしている私の土性骨を大きく支えていてくれるのは不思議としか言いようがありません。

 思うのは、白鵬関が、目で見て、耳で聞いて、手で確認できるはずだった天皇陛下や内閣総理大臣の賞賛を得られない悔しさです。
 それは、「誉められたい」という欲が満足されない不満でなどはありません。
 名誉欲という煩悩が暗く燃えているのとも違います。
 すべてをかけ、死ぬほどはたらいても、当然と思われる、あるいは妥当と思われる報いを得られない歯ぎしりしても解消できない無念さなのです。
 あの売春婦やヤクザの親分や居酒屋の女将さんなどの日々は、その人なりのひたむきさと斜めに構えないではいられない無念さに満ちたものでした。
 それは迷っている私の心の音叉と共振しました。
 この世が不条理に満ちていればこそ、試練の場であればこそ、そうした皆さんの思いに寄り添わないではいられません。

 白鵬関の無念さも、私が過去に出会った人々の無念さも、そして、人生相談に来られる方々が抱えておられる無念さも、同質のものを含んでいます。
 次回の大相撲の優勝者には、ふさわしい賞賛がもたらされるよう、底辺の人々には政治の光が当たるよう、ご来山される方々にはみ仏のご加護がありますよう、それが目に見え、耳で聞き、手に受けることのできる確かなものとなるよう祈る気持です。

 

「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.25

葬儀と結婚式 ─なぜ葬式には僧侶が必要か?─

 とても素朴な疑問が投げかけられました。
和尚さんのいるお葬式といないお葬式とでは、どう違うのでしょうか?」

 要は「葬儀における僧侶の役割は何か?」、「葬儀はなぜ行うのか?」ということです。

 葬儀における「引導の修法」は、結婚披露宴における「仏前・神前の誓い」と同じです。
 新たな出発を行う二人は、たとえ豪華な披露宴ができなくても、み仏や神様の前で永遠の愛を誓わずにいられません。
 同じように、この世を旅立つ御霊は、たとえ誰に見送られなくとも、み仏から「こちらへ来なさい」とはっきり行く手を示していただかなければ、迷ってしまうかも知れません。
 葬儀は、み仏のお導きを確かなものにするために行者がその橋渡しとなる法を結ぶ場です。

 最近、イオンの僧侶紹介サービスが論議のまととなっています。
「読経と戒名のセット価格」なるものにより、「信士・信女」「居士・大姉」「院号居士・大姉」などによってお布施の目安が示され、利用者は財布に合わせて戒名を選び、会社から斡旋される僧侶へ「読経」を頼むシステムです。
 まず金額ありきで儀式の流れが決まり、僧侶は与えられたレベルの戒名を決め与えられた金額に合わせたお経の読み手として採用されます。
 そして、お布施はご本尊様へ捧げられるのではなくイオンが受け取り、契約に従って手数料を差し引きした上で、僧侶へ支払われます。
 これでは、僧侶は営利目的の事業における一部門の担当者でしかありません。
 
 そもそも、寺院の修法という宗教行為へ対して宗教行為として行われる「布施行」が、戒名を手に入れ、経文を読んでもらう「対価の支払い」となること自体、宗教の冒涜であり、宗教を儀礼へ堕落させる行為です。
 ある高名な僧侶A氏は「布施は贈与であるから、贈与する側が決める」と言い、高名な学者B氏は「イオンのやり方は日本の死者儀礼を痩せさせる」と言って警鐘を鳴らしていますが、当山の見解は、全く異なります。
 寺院への布施は差し出す人と僧侶とがやりとりするものではないと考えています。
 布施はみ仏へ納められ、僧侶は、み仏へ納められた布施を分けいただいていのちをつなぐ行者です。

 贈与といった観念はありません。

 また葬儀は単なる儀礼でなく、僧侶は朗読家のような〈読む人〉でもありません。
 釈尊が亡き父の棺を先導し、お大師様が人を送る時、そこはいかなる空間だったでしょうか。
 法の力によって、死者はこの世とあの世の区切りがはっきりとつき、追善回向によって絶対安心の世界へと送られる〈あの世とこの世が交錯する異次元の場〉だったはずです。
 み仏の僕である僧侶は死者へも、送る方々へも、み仏のご加護をもたらすための修法を行うからこそ、プロとして生きる資格があります。
 葬儀では死者も生者も共に厳粛な異次元の世界へ入るのです。

 冒頭の問いへの答はこうなりましょうか。
「僧侶が修法を行わないお葬式は、結婚式を伴わない結婚披露宴のようなものです」

 

「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.25

2010年8月の運勢

 平成22年8月運勢8月7日から9月7日まで)です。
 人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 困窮した時こそ、人間性が顕わになります。
 35歳の王陽明は、独断的な宦官の政治へ抗議すべく、皇帝武宗へ書状を送りました。
 しかし、容れられず僻地へ左遷された王陽明は身の上を嘆かず、清貧に暮らしながら勉学に勤しみ、ついに陽明学を創りました。
 何かがあってもなくても、人には等しく一日の二十四時間があります。
 時間が平等に与えられている人生の活かし方は簡単です。
 立場がある時は立場を、財がある時は財を、体力がある時は体力を、時間がある時は時間を、智慧がある人は智慧を生かせば良いのです。
 立場を失った〈役人王陽明〉はピンチに立ちましたが、〈人間王陽明〉は時間や智慧を上手に生かし、人生のステージを上げました。

二 辛い時や失敗した時、言い訳に逃れるのは危険です。
 言い訳に慣れると、いつも何かを持ちだして終わりにしてしまい、問題のある実態を覆い隠したままやり過ごすようになります。
 たとえば約束の時間に遅れた場合、やむを得ない事情であっても奥歯を噛んで、ただ静かに頭を下げる人は、決して〈約束を守らないのが普通の人〉にはなりません。
 しかし、すぐに理由を持ちだす人は、無意識のうちに「理由があれば良い」と考え、どんどん〈約束を守らないのが普通の人〉になりかねません。

三 窮地にあって安易に他人を当てにすると、危機が募りかねません。
 いざという時、言葉で「大変だね」と言ってくれる人が実際に手助けをしてくれるとは限りません。
 むしろ、黙って奮闘を見てくれている人から、意外な強力が得られたりします。
 特にご不幸があった場合など、「こうせいああせい」と言う人と、実質的な援助をしてくださる人とは一致しない場合が少なくありません。
 ギリギリであればあるほど、自分の地力を信じ、最後まで〈自力〉を追求しましょう。
 その姿勢が真の〈他力〉への呼び水になるかも知れません。

四 軽く節操を失うと、果てしなくだらけてしまう危険性があります。
 節操とは「信条に自分をかけること」であり、「志を曲げないこと」です。
 この姿勢は人の背骨をまっすぐにします。
 節操を保つには、胸を張るのでなく、背骨を伸ばしてみましょう。
 勇気凛々で胸を張れる日も、心が沈んで胸を晴れない日も、スックと伸びた背骨は、人知れず、からだと人生の裏側からしっかり支えていてくれます。
 節操背骨には深い関係があります。

開運六波羅密(ロッパラミツ)行】

布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は現在師事している賢者を大切にし、守られて無事安全です。
 不精進の人はむやみと新機軸を求めて不安定化し、失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は心がけの良さが意外な人間関係を生んで成功します。
 不精進の人は自分からもめごとの種を蒔きがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は運気の波が落ちた時も対抗が適切で大丈夫です。
 不精進の人はちょっとした変化に右往左往し、空中分解を招きがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は辛い場面でも意外な人の応援で切り抜けられます。
 不精進の人は自分の立場や持ち味が生かせず、結果に文句を言われがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は柱となるものへ一点集中して難事にぐらつきません。
 不精進の人は周囲からの理解と協力が薄く、不如意になりがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は我を張らず誠意が認められて前進できます。
 不精進の人は見込み違いに言い訳の失敗が重なり、目上の信頼を失って失墜しがちです。

〈忍耐を教えてくれる花〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
07.24

ここに猫がいたら、あなたは生きられる?

 7月23日付の朝日新聞は「うつの娘を救った」という投稿文を掲載しました。

 埼玉県在住の主婦Aさん(49歳)は、去年の春、重度のうつ病にかかり、「死にたい」と繰り返す娘Bさんへ尋ねました。
「ここにがいたら、あなたは生きられる?」。
 その気になったBさんは、二人で出向いた捨てを斡旋する施設で、「がりがりにやせて悲しげに鳴き続ける1匹の茶色の」を気に入りました。
 当初なつかなかったはやがて、家族の膝で寝るようになりました。
 の寝顔を見ているAさんは、「いとおしいと思う気持ちと同時に切なさがこみ上げて」きます。
「こんな穏やかな時間を、私は娘にどれだけ与えられたのだろう」。
 そして、姉弟間で面倒見の良い姉らしくふるまう役割を求めるばかりで、愛情をたっぷり注がなかったと悔います。
 でも、「できなかったことはこれからすればいい」と気をとりなおし、猫に感謝します。
「殺処分となっていたかもしれない小さな猫は、私の心に温かな灯をともし、娘の命を救ってくれた」。
 猫が家族となって一年後、徐々に笑顔が戻りつつあるBさんは、ついにこの夏、仕事を見つけてはたらくようになりました。

 当山にも、野良猫エリザベスが境内地で産んだクロという小ぶりな猫がいます。
 元来、犬や猫にそれほど興味を持たなかった妻は、突然発症した重度のうつ病からの回復過程にあった頃、クロをうるさがっていました。
「猫がうるさい」という言葉に、私は、妻がただならぬ世界にいることを強く実感しました。
 クロを前にして「猫」と名指しするのは、家族の誰かを「人」と呼ぶのと同じだからです。
 当山を訪れる方との会話で、クロを猫と表現すべき場面では私もそうしますが、家族間の会話でクロを猫と呼ぶことはありません。
 妻の心は情緒が出ない状態だと考えました。

 ところが、回復の進行に伴い、妻は、目に見えてクロを可愛がるようになりました。
 一緒に昼寝をしたり、熱心に餌を与えたり、トイレの掃除をしたりと、別人と思うほど世話をやきます。
 もちろん、猫と呼ぶことはなくなりました。
 情緒の復活は、病気が克服されつつある証拠であろうと考えています。
 日常生活にもほとんど支障のなくなった妻は、年老いたせいもあり、最近は草花の世話にまで乗り出しました。

 それにしても不思議です。
 猫は人を可愛がりません。
 しかし、人は猫を可愛がります。
 もちろん、猫はなついてくれますが、おそらく人になつかないであろうと想像される水母や亀を可愛がる方々もおられます。
 だから、可愛がるのは、基本的に、愛おしいと感じて動く心のエネルギーが対象へ向かって一方的に放射されている状態ではないでしょうか。
 そして対象の中に生じたいかに小さな変化にも「あっ、応えてくれている」と感じ、愛おしさは深まります。

 外界へ向かってエネルギーが放射されなくなった心から、ある時、外界を照らす光がふたたびもれ始めることは驚愕です。
 ほとんど口のきけなかった妻が、ある朝、それまでの日々が嘘だったかのように「はい、法楽寺です」と受話器をとり、数ヶ月前まであった生活が戻った時の驚きと感謝は生涯、忘れられません。
 やってきた瞬間は想像もできなかったものであり、ほとんど奇跡と思えました。
 ご加護と気づき、涙が流れたのは驚きが薄れてからのことです。

 あの奇跡には、猫がほとんど絡んでいませんでした。
 しかし、回復と猫が密接な関係にあり、今の心の安定に猫の果たしている役割が小さくないのはまぎれもない事実です。
 猫が回復させたのか、それとも回復したから猫を可愛がるようになったのかは詮索しても始まりません。
 Bさんは、明らかに猫のいる生活によって、はたらく人になりました。
 妻もまた、明らかに猫のいる生活によってはたらく人であり続けられます。
 最近、人生の達人Sさんがケガをされ、「飼っておられる猫を何とかしますから、入院されたらいかがですか?」と打診したところ、生活は多少不便でも猫と一緒にいた方が強い気持で暮らし、ケガから早く回復できますといった返事をいただきました。

 こんなことを考え、あらためて足元にいるクロを猫の目線で眺めてみたら人間と同じ存在感があり、「偉い」とつぶやいてしまいました。

〈偉いクロ〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
07.23

8月の聖語

 お大師様の説かれた密教精髄です。

「一切の仏法は此の一句を出ず」。


(仏教における一切の法は、即身成仏の一句に表現されつくしている)。

 お大師様は、この教えの前文に、即身成仏の全体像を示されました。
 それはたった56の文字で書かれていますが、とても深遠であり、凡夫の理解力では、遙かな星を求めて近くの山へ登る程度しか近づけないといった感があります。
 レオナルド・ダ・ヴィンチにも匹敵するとされる最高の叡智をもって仏法の根本と全体像を説いた内容なので、当然です。
 そこで、宮坂宥勝師をはじめそうそうたる方々が書かれた『真言宗読誦偈文全書』の「即身成仏儀」における訳を転載します。

「人はだれでも、そのままで、仏の智慧(薩般若)を身にそなえ、すべての人はおのおのに、心数(シンジュ)、心王(シンノウ)いずれをも、数かぎりなく身にそなえ、心数、心王それぞれに、五智と無際智を与えられ、それが欠けることはない。
 この智慧によって、明らかな鏡のように照らすとき、真理にめざめた智者となる(成仏)」


 なお、「心数、心王」の解説はこうなっています。
「心数はチャイッタ、またはチャイタシカの訳で心のはたらきのこと。心王はチッタの訳で心自体、心の主体」。
五智」は、完全無欠な大日如来の智慧を5つの面からとらえたものであり、「無際智」は、み仏の無限なる智慧です。

 さて、この訳を読み、凡夫にもおおよその内容は読みとれます。

「私たちには広大な心があり、そこに、み仏の限りない智慧が宿っています。
 この智慧をもってすべてを明らかにできれば、真理に目覚め、成仏できます」と。
 何と素晴らしいことでしょうか!
 仏法はこうした内容を含み、目覚めるための方法も示していたのです。
 お大師様は数々の経典を引用し、それまで気づかれなかった悟りの全体像と、成仏法とを解き明かされました。

 人間には人格があります。
 み仏とは最高の人格を持った存在です。
 釈尊は、生きながらにしてそうした存在そのものになってみせました。
 だから覚者(仏)と呼ばれ、永遠に憧れられるのです。
 私たちが憧れるのは、私たちに備わっているそれなりの人格は最高のものからかけ離れており、〈このままではいけない〉と思っているからです。
 憧れれば、少しでも近づこうとし、その方法を調べます。
 過去の行者たちはすべて、そうやって〈近づく努力〉をしてきました。
 今も世界中のどこかで、人知れず、無数の人々が努力を続けています。

 お大師様は、その努力とは結局、「み仏そのものに成るためである」と喝破されました。
 一切の法が即身成仏へと収斂するのは当然です。
 なぜなら、み仏に成れれば、もう、他の一切は不要になるからです。
 
「かけ離れた至高のみ仏と汚れた私たち──。
 しかし、み仏は私たちの心におわして、定められた法を実践すれば、み仏そのものに成れるという真実。
 目くるめくような異次元への飛翔の約束と、伝えられた秘儀の持つ力への確信」。
 お大師様の言葉を信じ、決して頭だけでは理解できないジャンプをめざして、今日も、密教の行者は試行錯誤しています。
 もしかすると、黙って乗り物の席を譲る少女や、何年も町内にあるゴミ捨て場の掃除を続けるお婆さんや、線路へ飛び降りて落ちた人を救う青年などがすでに〈ジャンプ体験をした人々〉ではないかと直感し、尊敬しつつ………。

 行者でない方々は、身体で善い行いをし、善い言葉を口にし、心を清めれば身体も言葉も心もみ仏に成れます。
 そのために、「おかげさま」と恩を忘れず、「おたがいさま」と思いやり、戒めを守り、お線香や水などを供えて心の修行をしましょう。
 お線香を捧げては「我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」と精進し、お水を供えては「我、水のごとくすなおに他を潤し、心の汚れを洗い流さん」と布施を行い、心をみ仏へ近づけるのです。
 いつの間にか、そうするのが普通になった時、立派に「即身成仏」していると言えましょう。
 菩薩になる六波羅密(ロッパラミツ)の行により、成仏の道はは万人へ開かれています。

〈「ゆかりびと」の方々からいただいた花〉
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2010
07.22

例祭だより(7月の第二例祭)

 皆さんはじめまして、昨年から法楽寺でお世話になっております丹野明宏と申します。
 宜しくお願いします。
 住職・高橋さんの下、日々勉強させていただいております。

 今回、当ブログと、法楽寺機関誌・法楽の「例祭だより」へこのような文章を掲載するのに恐縮しながら書いております。
 これまでずっと「例祭だより」を読ませていただいて、高橋さんの文章力・表現力・感性・等々、尊敬しながら読んでいましたが、まさか私が誌面に文章を載せるなど思ってもいませんでした。
 ちょっと、いやいや、すごく緊張しております。

 前回6月号の「大日如life」へ載せていただいたように、例祭では太鼓を叩かせていただいております。
 住職からお教えいただいた太鼓です。
 実は、私が叩かせていただいている太鼓は法楽太鼓と名付けられて、一つの流派となっております。
 びっくりです。
 教本もCDもあります。
 まだまだぜんぜん、住職の叩いていた太鼓とは天と地の底との差です。
 以前、住職の太鼓を聞いていた方でしたらすぐにお分かりになると思います。
 まだまだです・・・。
 強弱もリズムも日々勉強です。

 7月18日(日)お寺の除草作業が行われました。
 ご参加された皆様、本当にお疲れ様でした。
 本当に御苦労さまでした。
 私はというと、住職と掲示板の設置で汗だくで作業をしておりました。
 汗だくの私を見て、見かねた住職が少し水分を取りながら作業しようと言っていただき、お墓の入口にあるお大師様の所の水場に案内されて水を頂きました。
 最初は、ぬるくて・ちょっと土まじりの水ではと思って飲んで見ました。
 が、びっくりです。
 おいしくて、そして冷たいのです。
 結構コンビニで水を購入して飲んでいる私にとってはショックでした。
 後で住職にお聞きしたところ、宮床弘法水と命名されていて各方面の方々からの御墨付きとのことです。
 私の中では宮城県大和町宮床の法楽寺の名水となっております。
 ぜひ、機会がありましたらお試し下さい。
 絶対、お試しの価値ありです。

 8月はいよいよお盆です。
 昨年の慌ただしい時からもう一年です。
 太鼓もがんばって、宮床弘法水を飲んで日々がんばります。




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2010
07.22

【現代の偉人伝】第104話 ─英語教師・プロボクサーチャーリー太田氏─

 現代偉人伝として書き残しておきたい方々である。

 7月18日の朝日新聞「五線譜」は、東洋太平洋・日本スーパーウェルター級チャンピオン、チャーリー太田(28歳)氏を紹介している。
 氏は英会話学校の講師や小中学校の外国語指導助手を務めるかたわら、プロボクサーとしての精進も重ねている。

 そんな氏が、6月29日夜、東京・後楽園ホールで、初の防衛戦を迎えた。
 リングサイドでは小さな子供たちが声援を送っている。
 第一ラウンド、氏は挑戦者のフックでダウンする。
「チャーリー立ってぇ!」木田恵鈴奈(10歳)さんは、両目に涙をためながら叫ぶ。
 王者はふらつきながらも立ち上がる。
 高木真菜(10歳)さんも「がんばれ!」と応援する。
 氏は第二ラウンド以降、たびたびわき上がる「チャーリー」コールに後押しされ、12ラウンドを闘い抜いた。
 ダウンは奪えなかったものの、判定は2対1の勝利となった。
 声を嗄れさせ、固唾を呑んでいた木田恵鈴奈さんも高木真菜さんも、手をたたき合って喜んだ。
「最後まであきらめちゃだめなんだね」。

 リングを降りた氏は笑みをこぼし、子供たちへ言った。
「みんなも一生懸命がんばれるものを見つけるんだよ」。

 氏は平成13年、米軍の艦船整備士として横須賀基地へ赴任してきた。
 ダイエットのために始めたボクシングで頭角を現し、7戦全勝でプロになった。
 平成22年3月に東洋太平洋と日本と両方のベルトを手にした。
 昼間は英語教師としてはたらき、午後9時頃から練習を始める。
 早朝のロードワークも欠かさない。
「僕のお母さんは仕事をかけもちしながら女手一つで4人兄弟を育ててくれた」からと、二足のわらじによる睡眠不足も一笑に付する。
「先生として子供たちの成長を見られるのは嬉しい。ボクシングは『修行』。やれるところまで両方やりたい」。

 子供たちは勉強し、サッカーなどの部活に励む。
 どっちが大事とも言えない充実した毎日を送られる子供は幸せ者だ。
 チャーリー太田氏にとっての教師は子供の勉強、ボクシングは子供にとってのサッカーに当たると言えるのではなかろうか。
 子供にとっての勉強は、人生のその時期に「なさねばならないこと」だ。
 そしてサッカーは「やりたいこと」だ。

 大人は生きるためにはたらき、生きられる範囲で「やりたいこと」をも行おうとする。
 二つがしっかりと車の両輪になる大人は幸せ者だが、なかなかそうは問屋が卸さないのがこの世の厳しさだ。
 氏は、自分の意志で二つをまっとうし尽くそうとしている姿を子供に見せた。
 活き活きしている大人に接する子供は大人を尊敬する。
 やがて大人になる未来へ希望を持つ。
 それは人生への積極的な姿勢をつくる。
 氏は最も大切な教育を行っておられる。
 自分の生を輝かすことがそのまま教育になっている氏は、最高の教育者である。

〈明け方の薄光を受け、体調10センチのオニヤンマがまっすぐに笹倉山を望み、息絶えていました。
 日中、開け放っていた窓から入り込み、外へ出るチャンスを失ったのでしょう。
 閉じられたサッシのガラス戸から外を眺めつつ悠然と逝った姿の神々しさに合掌しました〉
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2010
07.22

墓地特別相談会について

 7月22日から7月25日まで、当山の墓苑「法楽の苑」において、墓石販売業者である「創寿苑(仙台市泉区)」様が、特別相談会を催されます。
 7月22日に河北新報へ折り込まれた「河北ウィークリー仙台」に、その旨が掲載されています。
 この機会に「法楽の苑」へ足をはこび、一般墓地(永代使用料10万円~30万円)や共同墓「法楽の礎」、あるいは規格墓などをご覧いただきたく存じます。

 なお、当山は一切、特定の業者様と特定の関係にならず、県内外からたくさんの業者様が来て自由にお墓を造っておられることを明記しておきます。
 今回の企画は、開山以来、ご協力をいただいている創寿苑様が、「安心できる寺院を紹介しようとの姿勢でやります」とのことで、ありがたくお受けしました。
「河北ウィークリー仙台」の広告内容もそのとおりであり、恐縮しています。

 文中にある「老若男女、寺子屋に集え!」は、以前、河北新報様が当山の寺子屋を取材して作った記事につけられたものです。
 今回そのまま掲載されましたが、もちろん、当山の意識としては「老若男女の皆さん、どうぞ寺子屋へおでかけください」です。
 もしも、広告をお読みになり、「高圧的ではないか」と感じた方がおられましたなら、当山の校正の甘さを心よりお詫び申し上げます。
 8月7日(土)午後2時からの寺子屋法楽舘』は広く、公開しています。
 午後1時30分に地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ますので、ご利用される方は前日までにお申し込みください。

 今回の催事において、高さ170㎝の規格墓が、墓地の永代使用料から墓石代、文字彫刻まで一切を含み50万円で提供されます。
 これは、あまり例をみない価格と思われます。
 どうぞ猛暑に気をつけておでかけください。

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2010
07.22

悪行者の不幸な人生

悪行者の幸福な人生」で、「行動の〈悪〉がそのまま〈不幸な人生〉に結びついていない方」を考えました。
 その方は、前世で「善を行いながら、心では悪を志向していた」のです。
 善行の報いは、この世での幸福となって表れ、悪心の報いは、この世での悪行となって表れるのがその理です。

 では、行いが悪く、運命も暗い方はどう考えれば良いのか?
 悪行は悪心の顕れであり、不幸悪行の顕れなので、前世において良からぬことを考え、行動にも問題があったのでしょう。
 このままでは、何度生まれ変わっても、辛い人生を歩まねばなりません。

 だから、悪い流れに本人が自分で気づくか、あるいは家族や友人が気づいたならば、考え方と生き方を変えて、明るい人生をめざしましょう。
 過去の悪行に怖れ、運気の弱さにうなだれてばかりいないで、立ち上がるのです。
 その方法は、「善行者の不幸な人生」と「悪行者の幸福な人生」へ書いたとおり、二つあります。
 一つは、「幸不幸は自分の心が決める」という教えを知り、信じること。
 もう一つは、「おかげさま」に気づき「自分を戒める」ことです。

「法句経」は説いています。

「正見(ショウケン)を学びて務めて増さば、これを世間の明(ミョウ)となす。
 所生の福は千倍し、終(ツイ)に悪道に堕せず」。


(教えを学び、実践し、道理によって正しいものの観方ができるようになれば、自分が明るい運命を生きられるだけでなく、周囲をも明るくできる。
 福徳はどんどん大きくなり、決して悪道に堕ちないであろう)。

 たとえば、敬虔なAさんを想定しましょう。
 生活に何不自由ないAさんが病気になったとします。
 その場合、Aさんは、きっと、病気にグチることなく、
「人は必ず病気にかかる。世の中には住むところさえない方々がおられる。私が心配なく病気と闘えるのはありがたい。大病をしてみて、やっと闘病生活を送る他人様の気持がわかった」
と考えることでしょう。
 ところが、人の道を学ばず、欲に引きずられているだけのBさんなら、
「どうして、よりによってこの私が病気になったのだろう。私は何て運が悪いのだろう。財産なんか要らないから、外で遊んでいる子供のような元気が欲しい」
とグチるかも知れません。
 結局「幸不幸は自分の心が決める」のであり、その心は、正しい教えを学び実践するかしないかで天と地ほどの違いになります。

 また、おりにふれて「おかげさま」に気づき「自分を戒める」毎日を送れば、行動は必ず善へと向かいます。
 ワールドカップでの日本チームに感謝し、暑い日のかき氷に感謝し、ニャーと甘えるネコに感謝し、「不殺生」、「不偸盗」、「不瞋恚」と自分へ言い聞かせ、「我、水のごとく他を潤し、心の汚れを洗い流さん」、「我、花のごとく雨風に耐え、心の花を咲かせん」と誓って生きれば、内外の魔ものは退散します。
 
 人格の完成を妨げる罪障という悪業因縁、必ずいつかは心身を襲う病気、そして、招かざる霊障などに負けず、暗い運命を明るく変える方法は、仏法が明確に示しています。
 今の不幸に嘆いてばかりいないで、聖地へ足を運ぶ、経典を読誦する、守本尊様の真言を一心に唱えるなど、できることから実践しましょう。
 み仏は「人は皆、私の子供である。その本心を輝かせ、み仏として生きよ。その方法は示してある。さあ、立ち上がりなさい」と、私たちを救いの光で照らしておられます。
 実践者は、きっとこの真実に気づかれるはずです。




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
07.21

「脱『檀家』宣言」が河北新報に掲載されました

檀家宣言」が、7月21日付の河北新報に掲載されました。
 仏法の復興へ、真の布施行の回復へと、拳を握りしめる思いです。
 ご理解くださる方々、お力添えをくださる方々、そして「ゆかりびと」の方々と共に、前進します。

220721.jpg

 以下、全文です。

檀家宣言

 宮城県大和町にある大師山法楽寺(真言宗系)は、わたしが開いた寺で、平成9(1997)年に活動を始めた。
 その13年後の今年6月15日、昨今の仏教界への危機感を募らせた末、「檀家宣言」を行った。
 高額な戒名料など、お布施に関する檀家の疑問や不安が寺への不信を招いたと世間でいわれるようになって久しい。
 仏法の危機を痛感しての決断について記してみたい。

 そもそも檀家とはインドの言葉でダーナ(檀)すなわち布施をする家であり人である。
 だから本来、檀家は仏宝・法宝・僧宝という三宝を守るすばらしい家と人を指す言葉だった。
 しかし日本では「ご先祖様を託している家」に限定して使われるようになり、問題が生じた。
 檀家は寺に所属する信徒の称だが、問題は「所属」にある。
 以前は、どこかの寺院に所属していればご先祖様の供養に心配がなく、万が一の時にも安心だった。
 また、子供が寺子屋へ通って勉強したり、病気平癒を願って祈祷を依頼したり、夫婦げんかの仲裁を頼んだりというように、地域の人々と寺には切っても切れない安心と信頼の関係があった。
 しかし、今の寺院の多くは普段、門を閉ざし、会話や法話の機会を十分に設けていない。
 檀家は何かの折には「いくら請求されるか」とビクビクする。
 安心よりも、不安の方がはるかに大きい。
 戒名料などで意のままにお布施を請求することに慣れた寺院はお布施本来の意義とありようを忘れ、堕落したかにみえる。
 それは仏教界の習俗に浸り切った姿を表している。

 お布施には「(クウ)」と「自主性」が欠かせない。
 渡す側は真心を込める。
 受ける側は相手や多寡に惑わず、真心を受け止め、感謝する。
 これが真の布施である。
「嫌々ながら差し出す布施」も「請求する布施」もあり得ない。
 こうして「所属」がもたらした縛り縛られる関係を基礎とするやりとりは檀家と寺双方の布施行を破壊した。
 だから、今や、縛り感覚が抜き難い「檀家」という言葉から離れる必要があるのではないか。

 しかし、営利事業を行わない寺院はお布施が納められなければ寺院を維持し法務を継続できない。
 この問題を解決するには、仏縁を求める人が自由意志で「サポーター」になればよい。
 寺院は、サポーターに対し、来るを拒まず、去るを追わなければよい。
 例えば、当寺には無縁だが、世間では確かに存在する、檀家への入檀料、離檀料は廃止すべきである。

 檀家300を超す当寺は宣言したが、サポーターという形をとるようになり、むしろその数は増えた。
 寺とサポーターの変わらぬ交流が続いており、それは、檀家という縛りから解き放たれ、双方がより自由になったことの証といえる。
 寺には葬儀、ペット供養などさまざまな任務があるが、布施はあくまで皆さんの常識と良識にお任せしている。

 寺院は法務内容を公開し、誰に対しても平等に祈ることはもちろん、勝手な請求をせず、真の布施のみで運営すべきである。
 真剣にサポートしてもらえるかどうかに存否をかけねばならない。
 寺院へ仏縁を求める方には、寺院の法務と僧侶の姿勢をよく見て自主的に判断し、布施行を実践していただきたい。
 こうした方法は、難しく険しい道のりになるかも知れないが、双方がここから再出発するならば、釈尊から流れ始めた仏法の清流は日本でレベルアップし、やがては世界を清め潤す力にもなると信じている。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
07.21

『大日経』が説く心のありさま六十景 その6「智心(チシン)」

 私たちの仏性が輝こうとする時、邪魔をする心の曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 私たちが貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第6回目です。

6 智心(チシン)

 これは、いわゆる「賢(サカ)しら」の心です。
 知恵があり、賢いといっても、世間知を集めるだけで、人生上の問題を深く掘り下げる賢者の叡智に欠けた状態です。

 何でも知っているようでありながら、自分でものごとの根本を考えず、「こういう時はこうする」、「こういう場面ではこう言う」などと、その場その場を〈まちがいのない形〉で進めようとする人です。
 人が亡くなった時、こうしたタイプの人が役に立つ場合もありますが、何人もが「こういうものだ」とそれぞれ違うことを言い立てて喪主が苦労する場合も少なくありません。
 また、他人の言動を軽々に云々し、対岸の火事を眺めるような評論をしたり、揚げ足を取ったりするのも同じタイプです。

 そして、何でも調べたり分析したりするものの、真なる対象や、善なる対象や、美なる対象へ自分を投げ込むことなく、時には、み仏の教えすらそうしたレベルでどうこう言います。
 人智を超えた世界に魂が震えたりおののいたりせず、常に人生の真実は〈そちら側〉にあって、信・心・新・真・神・芯・深へと霊性が深まりません。

 画家の長谷川潾二郎の言葉は何度も書きましたが、ここでも光芒を放ちます。

「私の考えでは、『この世のものとは思われない』のは目前の現実で、目前にある現実が、『この世のものとは思われない』ような美に輝いている事実です。
 しかし、この事実を信じない人が以外に多いのです」


 彼が指摘する『この世のものとは思われない』ものと無縁なままで知識を集める姿勢こそ、「賢(サカ)しら」と言えましょう。

 お大師様の説かれる即身成仏(ソクシンジョウブツ)の世界は、『この世のものとは思われない』真・善・美に輝いています。
 悩み、苦しみ、その世界で救われたいならば、般若心経を調べるだけでなく、声を出して読んでみましょう。
 一人で声を出せないなら、例祭などで周囲の声を聞いてみましょう。
 あるいは、願いをかけて写経してみましょう。
 あるいは、目を閉じて、その核である真言「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじ そわか」を口ずさみ、胸へ響かせてみましょう。
 そうすれば、般若心経が〈説明しているものを知る〉のではなく、〈開き、誘っている世界をかいま見る〉ことができるはずです。
 もしも魂が震えれば、心に青空が広がれば、心に清水が流れれば、心に透明な湖の底へ降りて行くような静けさが満ちてくれば、「智心」の克服までは、あと一歩です。

〈曇天の下で健気に咲いている彼らに微笑めますか〉
220721 002

〈「グラスハウス ル・ブルー」の壁を飾る小さなフジコ・ヘミングさんに吸い込まれますか〉
220721 021

〈近くの山へ足を運んでみてください。
 午前4時ちょうど、まるで待っていたかのように突如としてヒグラシの大合唱が始まります。
 世界を染め始めた幽かな橙色やバラ色とあいまって、「賢しら」を超えた世界が顕れますよ。
 ただし、たった30分間でヒグラシは1匹残らず沈黙し、他の蝉や鳥たちと選手交代します〉
2207212 001



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
07.20

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (5の2)

 行者が魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第五番目の経文です。

5 第五条 六道教化(ロクドウキョウカ)

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。
 檀波羅蜜(ダンパラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、尸羅波羅蜜(シラハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、羼提波羅蜜(センダイハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、毘梨耶波羅蜜(ビリヤハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、禅那波羅蜜(ゼンナハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、般若波羅蜜(ハンニャハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲しよう」


(衆生のために願おう。
 布施波羅蜜(フセハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽(バックヨラク)しよう。
 持戒波羅蜜(ジカイハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 忍辱波羅蜜(ニンニクハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 精進波羅蜜(ショウジンハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 禅定波羅蜜(ゼンジョウハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 智慧波羅蜜(チエハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう)

 行者は一心に願います。
 何を願うかといえば、菩薩(ボサツ)になるための6つの修行を行うことによって生きとし生けるもののためになり切ろうということです。

3 忍辱波羅蜜(ニンニクハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。

「羼提波羅蜜(センダイハラミツ)」の「羼提」は「忍辱(ニンニク)」です。
「忍」は、辱めを受けても耐え忍ぶことです。
「辱」は、侮辱へ対して怒りを起こさないことです。
 自己中心に発する高慢心が正面から斬りつけられる時、慌てず、騒がず、うろたえず、逆上せず、やり過ごすのは容易ではありません。
 しかし、これができなければ、菩薩(ボサツ)を目指せません。

 真理を生きていないがゆえに迷っている衆生を救おうとする以上、多くの相手が、無理解や反発や無視や妨害などの〈誤った姿勢〉でぶつかってくるのは当たり前です。
 そして、それを正して教えの道へ導くためには、何としてもこちらの土俵へ上げる必要があります。
 言い換えれば、50度のお湯に浸かって騒いでいる相手の耳へ教えを届けるなら、こちらも同じお湯に浸かるのではなく、まず、40度のお湯がたたえられた湯船へ誘わねばなりません。
 落ち着いていなければ、自信を持っていなければ、根気強くなければ、そして、それが言葉や態度に出ていなければ不可能です。
 錫杖を振り、誓いを重ねてこの心をつくるのが修行です。

 また、忍辱行は、他人との関係においてのみ行われるものではありません。

 修行に繰り返しは欠かせず、正しく機械的に繰り返す修行は、慣れや退屈や怠惰などをもたらす場合があります。
 繰り返しに耐えることも忍辱です。
 また、疲れたり、不安になったり、誘惑がやってきたりもします。
 そうしたものにも負けず、淡々と所定の修行を続けるのも忍辱の力です。
 
 この修行は不動心をつくります。
 唐の時代、稠禅師が座禅にいそしんでいたところ、二匹の虎が庭で闘い始めました。
 禅師はじっと2時間、騒動に左右されず修行を続けていましたが、このままでは二匹ともいのちを落とすと判断し、やにわに、錫杖を振りました。
 たった三度、打ち鳴らされた錫杖の力によって虎たちは闘いをやめ、去りました。
 忍辱の力、不動心の力、錫杖の力は偉大です。



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2010
07.19

ゆかりびとの会

 このたび、「檀家宣言」に関連し、「法楽寺護持会」の愛称を募集していたところ、たくさんの応募をいただき、ありがとうございました。
 結果として、今後、「ゆかりびとの会」と呼ぶことになります。

ゆかり」は和語であり、漢字にあてはめれば「縁」です。
 つながり、かかわりあい、縁、といった意味があり、語感が柔らかく、「因縁」のようなきつさは伴っていません。
 また、何となく歴史的香りもあり、空間的に「結びつける」感じへ時間的な「深まり」のイメージも重なって、味わい深い言葉です。
 自発的に寺院を支え、寺院に守られる方々のゆかしい心映えが表現された佳い言葉であると考えています。

 どうぞ、「ゆかりびとの会」へ入会して「ゆかりびと」になり、当山とのゆかりによって、み仏に守られる心豊かな日々を送ってください。

〈皆さんを待っている花〉
2207018 043

仙哉君も待っています〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
07.19

脱「檀家」宣言が記事になりました

 檀家宣言産経新聞の記事になりました。
 ありがたいことです。
 たとえ半歩でも、現実理想へ近づくきっかけになるよう願ってやみません。

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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
07.19

寺子屋『法楽舘』開講 ─第九回の予定─

 講堂にて、寺子屋法楽舘』の第9回目を開催します。
 交通手段のない方は、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ乗り合わせる車がまいりますので、前日までにご連絡ください。

 今月の寺子屋法楽舘』は、前回できなかった映画「蘇る空海」の鑑賞を行い、それを題材にしたお話と、前回に引き続き、「運勢」と「生き方の25の指針」についてお話を申し上げます。
蘇る空海」は、住職も会員になっている『密教21フォーラム』が製作したお大師様と仏法について学ぶための貴重な映像です。
 質疑応答も行います。
 ふるってご参加ください。
 老若男女が、フランクに人生の大事や疑問を語り合いましょう。
 詳しくは、ブログ「寺子屋法楽舘』開講 ─第九回の予定─」をご覧ください。

○日時:7月10日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

寺子屋法楽舘」について】

 寺子屋では、み仏の教えによってきちんとものごとを見、なかなか変えられない心を願う方向へ変え、明るい運命を創る方法を身につけていただきたいと願っています。
 真実を知り、考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。

 実践の日記『戒名の真実 ─住職による現場からの証言─』(製本:法楽寺・B5版187ページ・ご志納金1000円送料込)をお分けしています。
 実践の日記檀家」宣言 ─仏法の復興をめざす現場からの報告と提案─』(製本:法楽寺・B5版296ページ・ご志納金1000円送料込)もお分けしています。
※これは、ブログ『想いの記 ─住職の本音・本心・本気─』へ書いた過去5年間の記事から戒名や檀家や葬儀に関する文章を抜粋して加筆修正したものです。



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2010
07.19

「脱『檀家』宣言」への提言 (その3)

 篤信のAさんからいただいたご意見への回答を続けます。

 前回、Aさんからの「檀家という言葉をなくせば、家観念も薄れ、希薄になりつつある家族も危うくなりはしないか?」との疑問へお答えすべく二つのポイントを考えました。
 一つは、非原理主義的な仏教の寛容性や柔軟性です。
 もう一つは、日本的仏教における「祖先崇拝」と「親の恩」と「家感覚」の結びつきが果たしてきた役割です
 ここまでで解ることは、柔軟な仏教が日本的風土とあいまって、個人を救いつつ、家や一族を安心させ、日本の文化を彩ってきたということです。

 だから、「釈尊はこう言わなかった」と目くじらを立てて原理主義になろうとしたり、その反対に、どっぷりと日本的習俗へ浸って肝心要の救済力を忘れてしまうのは、いかがなものかと考えます。
 問題は、宗教としての仏教が本来の役割を果たせているかどうか(①とします)、衰退や堕落があれば(②とします)、原因は何か(③とします)、その解消方法(④とします)はいかなるものかという点にあります。

 ①について考えましょう。
 伝統仏教を奉ずる寺院は、個々人を救う救済力をほとんど発揮していません。
 葬儀年忌供養以外の日常的な宗教的活動があまりに少なく、住職が己をかけた説法をせず、せいぜいが花見や芸能などのイベントしかできない現状は、まことに憂うべきものがあります。

 ②について考えましょう。
 個々人の救済は新興宗教の独壇場となり、救いを求めて伝統仏教寺院の門を叩く人がほとんどいないのは、伝統仏教の衰退を示しています。
 僧侶が豪勢な暮らしを楽しみ、その原資が、思うがままに請求するお布施や不動産収入などであるという実態は、伝統仏教の堕落です。

 ③について考えましょう。
 衰退と堕落の原因は、寺院が、もはや土台も柱もシロアリに喰われ、壁もボロボロになった建物でしかない檀家制度にすがっていることです。
 檀家さんも、ほとんど習俗の範囲でしか寺院とつき合わず、寺院に問題があっても「ウチの住職には困ったものだ」とつぶやくのみで、強く改革を迫りませんでした。
 そして、戦後急速に広がった個人主義が、「ウチは~宗だから」という〈家の宗教〉を疑わせました。
 前述のごとく、寺院の側にも親などの側にも、仏教を真の宗教たらしめない理由があり、個人主義の洗礼を受けた世代から後は、もはや〈黙って墓を守る〉人々ではなくなりました。

 ④について考えましょう。
 当然のことながら、寺院は形骸化どころか、幻でしかなくなりつつある檀家制度にすがらず、法を説き、真の布施のみで法務をまっとうする〈行者の舘〉として再出発せねばなりません。
 これまでは「檀家だから」と習俗のみでつき合い、問題点を放ったままにしておいた方々も、きちんと寺院と向き合って〈自分の代で〉問題を解決しようとするべきです。
 その解決方法が檀家離れでしかないのはとても残念であり、寺院が見放されつつあるのは悲しくてなりません。
 また、檀家でない方々は、寺院の活動をよく調べて門を叩き、人生の大事について積極的にみ仏の教えを聞き、み仏のご加護を求めるべきです。

 以上のような①から④までの共通認識が持てるならば、「檀家」という観念から離れ、個人個人が真の宗教としての仏教と向き合えることでしょう。
 寺院は、行者である僧侶がご縁の方々と心を一つにし、共に人生の大事へ向かう救済の場となることでしょう。
 そのあかつきには、日本的仏教が持つ「祖先を敬う心」、「親を大切にする心」、「家族を信じる心」が必ずや息を吹き返すはずです。
 なぜなら、「四恩」を説かない寺院はなく、「おかげさま」と「おたがいさま」が私たちの血肉となった仏教の精髄だからです。
 それを真言宗では「相互礼拝」、「相互供養」という二本柱で説いています。

 以上の理由から、檀家という言葉から離れることによって家や家族が危うくなるとは判断しておりません。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
07.18

お盆供養会のご案内

 皆様お変わりなくお過ごしでしょうか。
 さて、今年も左記の要領でお盆供養会と施餓鬼法会を行いますので、ご案内申し上げます。
 もし、貴家あるいは御知人のお宅でご供養をご希望される御霊がおありの場合は、お申込みください。
 また、どなたであれ、ご先祖様のない方は一人もおられません。
 無限の過去までさかのぼる「~家先祖供養」は万人にとって大切な、いただいたいのちへの感謝の第一歩であることを忘れないようにしましょう。

 宇宙法界を表すお塔婆を作り、護摩法に加えて追福の秘法による施餓鬼法も行って御霊と万霊をご供養し、重ねて魔切追善の奉納剣を行い、お盆の修法といたします。
 供養会の終了後は、恒例となっている隠形流(オンギョウリュウ)居合の奉納剣を行います。

 なお、交通手段のご不便な方のために、午前九時三十分に〔地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前〕へお迎えの車がまいります。ご遠慮なくお申し出ください。
 皆々様のご健勝とご多幸をご祈念申し上げ、ご案内といたします。     合掌

一  日   時   平成22年8月15日(日曜日)午前10時より
一  場   所   大師山法楽寺講堂(大和町宮床字兎野1-11-1)
一  申込方法   ホームページ上にあるメール欄などで、8月10日までにお申込みください。
一  送られるもの 『回向の証』

※ご志納金は、皆様のご誠心に基づいてお納めください。納入先は、「郵便振替02260ー3ー4604」です。
※修法したお塔婆を持ち帰り、それぞれのお墓へ立ててください。持ち帰らない方の分と、お骨がない先祖供養・万霊供養・戦没者供養などのお塔婆は、『法楽の苑』内、十三仏様のおそばへ立てます。
※修法に距離は関係なく、当然のことながら、いずこの地で眠っておられる御霊のご供養も可能です。ご懸念なくお申し込みください。

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
07.18

草苅が終わりました

 恒例の草苅は絶好の日和のもと、過去最高となる35名もの善男善女のご参加をいただき、無事、終了しました。
 この夏で一番の好天気で猛暑の中、老若男女皆さんに大変なご苦労をおかけしました。
 草苅機を使う方々、草むしりをしてくださる方々、飲み物を準備し補充してくださる方々、中で食べ物などを並べて準備してくださる方々皆さんが、一丸となって行事を進めていただきました。
 娘さんと二人で全員分のおにぎりを握りパックへ入れて持参された方、普段はスーツを着ておられるような方々が炎天下で作業をし、汗をしたたらせながらげっそりして講堂へ戻ってこられる姿、その入り口で冷たい飲み物を用意し、最後のの一人が帰ってくるまで立ち続ける女性、夫が帰らないうちは決して食事の席へつかない奥さん方、皆さんは崇高でさえあります。

 作業の後、手作りのおにぎりや漬け物、差し入れの笹かまや飲み物、そして、隠形流(オンギョウリュウ)居合を学んだ若者が作ってくれたケーキなどをいただき、和気藹々のひとときを過ごしました。
 全員、「檀家宣言」を知った皆さんです。
 口には出さなくても、「そうだ!がんばれ!」と背中を押していてくださるように思われ、奮い立つ気持になりました。
 
 とてもさっぱりした境内地でお盆供養会を迎えられます。
 御霊には、さぞやお喜びいただけることでしょう。
 当日、参加できないからと差し入れをしてくださった方々へも、心から感謝申し上げます。

笹倉山と夏雲に迎えられ、いざ、スタート〉
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善行を見守る花〉
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〈心づくしの食事〉
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〈ゆったりしたひととき〉
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〈心優しい若者が早起きして作ったケーキ〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.18

8月の行事

 8月行事です。

[第一例祭 2010/8/1(日)午前10:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。
 法話もあります。
 皆でうどんの昼食を食べましょう。

写経会] 2010/8/1(土)午後4:00
『理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)』を浄書します。(納経される場合のご志納金は一枚千円です)
 百の文字に願いをこめて書きましょう。

[寺子屋『法楽舘』] 2010/8/7(土)午後2:0
 講堂にて、第9回目を開催します。
 交通手段のない方は、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ乗り合わせる車がまいりますので、お気軽にご連絡ください。
 ご遠慮なくお申し出ください。

 今月の寺子屋『法楽舘』は、映画を鑑賞し、それを題材にしたお法と、前回に引き続き、「運勢」と「生き方の25の指針」についてのお話を申し上げます。
 質疑応答も行います。
 ふるってご参加ください。
 老若男女が、フランクに人生の大事や疑問を語り合いましょう。
 詳しくは、ブログ「寺子屋『法楽舘』開講 ─第九回の予定─」をご覧ください。

[講話「生活と仏法」] 2010/8/20(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』を読み、自由な質疑応答を行います。

お盆供養会] 2010/8/15(日)午前10:00より
 隠形流居合の行者による魔切り奉納剣もあります。
 交通手段のない方は、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ乗り合わせる車がまいりますので、お気軽にご連絡ください。
 ご遠慮なくお申し出ください。
 詳しくは、ブログ「お盆供養会」をご覧ください。

[第二例祭 2010/8/21(土)午後2:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

瞑想会] 2010/8/21(土)午後4:00
「阿息観(アソクカン)」を行います。
 呼吸法と瞑想法を学び、心身を整えましょう。

[講話「生活と仏法」] 2010/8/27(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』を読み、自由な質疑応答を行います。

お焚きあげ] 2009/8/28(土)午前10:00
不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、電話などで日時を連絡の上、お品をご持参ください。28日とは限りません。いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2010/8/30(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

隠形流居合道場] 毎週金曜日午後7:00
仙台市青葉区旭ヶ丘「青年文化センター」にて「隠形流居合」の稽古を行っています。
入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
07.18

「脱『檀家』宣言」への提言 (その2)

 篤信のAさんからいただいたご意見の続きです(抜粋)。

「戦後~現行の憲法内での民法では『』の概念はなくなり(長子相続とか世襲制度)職業選択の自由にはなりましたが、家族まで否定された訳ではありません。
 従って、ここで考えたいのは、「」の定義を否定したいがための「個」の強調は先祖の供養まで否定し、(最近、墓碑の~の表記はやめるべきの考えあり)ひいては家族まで否定しかねないということではないのかということです」
 
○確かに、「檀家」には個人と家が含まれています。
 この言葉は、「梵漢混じっている」と説かれた「般若心経」と同じ成り立ちです。

「般若心経」は、正確には「般若波羅蜜多心経」であり、「般若波羅蜜多」までが「プラジュニャーパーラミター」というインドの言葉を音として漢字に置き換えたものです。
 「心」と「経」は、漢字としての意味を含んで用いられています。
 それと同じく、檀家の「檀」はインドの言葉で布施を表す「ダーナ」の音だけが置き換えられたものであり、「家」は、そのまま漢字としての意味を含んで用いられています。
 つまり、「檀家」の本義は、布施をする一個人のみを指すのではなく、布施をする家であり、その一族も含んでいます。

 Aさんは、檀家という幅広い意味合いを含んだ言葉を用いなくなれば、家の観念も否定され、家族の崩壊を助長するのではないかと危惧しておられるのでしょう。
 私もここの部分は考えました。
 そして、「根本と応用」によって解決できると判断しました。

 まず、仏教の根本はあくまでも迷っている個々人の救済にあり、それも、現世での救済としての「解脱」が目的とされていることを押さえておきましょう。
 迷いは個々人の心にあり、個々人が考え方と生き方を変えるしか、迷いを脱する方法はありません。
(社会的な業である共業という教えもありますが、それはここで論じません)
 こうした観点からすると、「家」観念を否定するタイプの仏教教団にも一理ありそうですが、当山はそうした姿勢に与(クミ)しません。
 また、その反対に、先祖代々の戒名を並べさせて吉凶を言ったり、戒名を変えさせたりするタイプの仏教教団もありますが、そうした姿勢にも与(クミ)しません。
 なぜなら、仏教は硬直した原理主義ではなく、習俗を支えるものでもないからです。

1 釈尊は「自分は過去にもおられた聖者方の仲間入りをした」と言われました。
 それは、「これからも聖者が現れる」ことを意味しています。
 そして聖者はいつ、どこに現れるかわかりません。
 それは、聖者がさまざまな時代にさまざまな場所に現れて説かれる以上、教えは多様になることを意味しています。
 だから、仏教は最初から、「一個人である釈尊が口にされたことのみが真理のすべてである」という立場にはありません。
 原理主義とは無関係なのです。
 事実、仏教は、釈尊が示した真理を尊びつつ、さまざまな時代にさまざまな国でそれまであった宗教や習俗と争わず、その国なりの変容と発展を遂げて今日に至りました。
 人を救う宗教が人を争わせ、殺し合いをさせている世界の現状を眺める時、仏教の価値を再確認させられます。
 
 今、生きている私たちが信じる仏教は、そうした形で伝えられ発展してきた今の〈日本における仏教〉です。
〈日本における仏教〉は、仏教を日本へ定着させた聖徳太子と、あらゆる祖師方が学んだ密教を完成させたお大師様の存在抜きにはあり得ません。
 そして、古来行われてきた習俗の核となっている神道、道教、儒教と無関係な〈日本における仏教〉もまたあり得ないことを押さえておきましょう。

2 原理をもう少し具体的に観ましょう。
 仏教徒とは仏法僧の三宝を尊ぶ信者であり、仏教徒として救済の道を歩むには、恩知らずにならず、戒めを守ることが欠かせません。
「仏法僧へ帰依する」ことと、「四恩を忘れず、十善戒を守る」ことが、仏教徒の条件です。

 四恩とは、「父母の恩・衆生の恩・国王の恩・三宝の恩」です。
 この「父母の恩」に注目しましょう。
 私たちが、今、こうしていられるのは、父母がいのちをバトンタッチしてくれたからです。
 父母なくしてこの世に生まれる人はいません。
 その父母の恩を忘れた人が仏教徒たりえましょうか、いや、まっとうな人間たりえましょうか。
 いのちを与えてくれた父母の恩を忘れたならば、仏教のみならず、仏神を尊ぶ敬虔な姿勢を持った人間として生きるということ自体が成り立ちません。
 いかに「いのちの尊さ」や、「生きとし生けるものへの思いやり」や、「環境の保護」を声高に叫ぼうと、親の恩を忘れているならば、そうしたものは観念の遊びでしかないと言えましょう。

 自分のいのちの尊さを真に知るとは、いのちが友人ともウグイスともネコとも山とも通じた真実であり、その全体が〈たった今〉〈ここで〉輝いている実感を持つことです。
 実感は四恩を思い出させ、四恩を深く念ずることがいのちの尊さを真に知る重要な方法であることがわかります。

 さて、古来、祖先崇拝が日本人の宗教的感覚を育て、磨いてきました。
 それは文化の中心を形成しているともいえましょう。
 そして、「家」という言葉が、重要な役割を果たしてきました。
 家は、もちろん、モノとしての建物だけを指してはいません。
 家族が含まれることは確かですが、言外に、家族を見守るご先祖様をも排除してはいません。
「ご先祖様のない人も家もない」のが、無意識の了解事項だからです。
 祖先の恩を忘れず四季折々に行われる風習の中で、遙かな山や雲の果てから帰ってくる祖霊との心温まる交流もあり、日本の子供たちは、いのちも心も親とつながり祖先とつながっている感覚によってこの世への信頼を得て、健全な心を育てます。
 こうした麗しい風習と仏教における「親の恩」の教えとはすんなり溶け合い、一家一族を挙げてご先祖様を敬うところにポイントを置いた日本的な仏教が形成されてきました。


 だから、「家」と結びついた「檀家」という言葉は、他に置き換えられないほど深い意味と価値をもって今日まで用いられてきました。




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2010
07.17

ランチとくつろぎのティータイム

 7月19日~20日、『グラスハウスル・ブルー』で、スペシャルランチが楽しめます!
 まず、080ー1846ー2651へ電話予約をしてください。
 行者高橋里佳さんのクリスタルボウルも聴けますよ。

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2010
07.17

以心伝心

 仙北の町で行った葬儀の帰り道、「兎野仙哉(ウサギノセンヤ)君をポスターにして、野外デビューさせたいな。どの画を使おうか」と考えていました。
 仙哉君のにっこり笑った笑顔は、見る人をも笑顔にさせる力があります。
 経済疲弊や、政界の混乱や、荒れた気候のもたらす災害や、いのちが観えない人々の殺人・放火・いじめなど、笑顔を忘れさせる世相にあって、仙哉君の笑顔は小さな清涼剤になりそうです。

 帰山してびっくりしました。
 行者高橋さんの机上に新しい仙哉君がいるのです!
 思わず、「こんなことって、あるんですねえ」と、何度も口にしてしまいました。

 青森にいる隠形流行者Aさんの手紙では「夏バージョン」を同封したとのことです。
「もしかすると、そのうち、作者Bさんは秋バージョンを描いてくださるのかも……」。
「じゃあ、四季仙哉君が揃うのでしょうか」。
 寺務所の三人は、つい、欲を深くしてしまいました。

 使えなくなった大きなボードがあるので、近々、ラミネートした画を貼り付け、境内地へ展示します。
 ぜひ、仙哉君のいるここ、兎野へおでかけください。

〈何となく、高橋さんに似ていると思えるのですが〉 
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〈今度の日曜日、当山近くの中野地蔵様でお祭があります〉
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〈夏の風味はスイカ、夏の音は風鈴です〉
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〈庭の花火はなぜか懐かしさを伴っています〉
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※実はもう一枚、傑作があります。ワケがあって一旦、秘蔵ということにしておきます。




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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