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2010
08.31

『四十二章経』第二十七章 ─異性(イショウ)─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

第二十七章 異性

「仏、諸(モロモロ)の沙門(シャモン)に告げたまわく、
『慎んで女人(ニョニン)を視(ミ)ること無かれ。
 若(モ)し見(オモイ)無くして視(ミ)るも、慎んで與(トモ)に言うこと無かれ。
 若(モ)し與(トモ)に言わば、心を勅(イマシ)め正しく行じて曰(イ)わく、
「吾は沙門(シャモン)為(ナ)り。濁世(ショクセ)に處(オ)るも、當(マサ)に蓮花の、泥に汚されざるが如くなるべし」と。
 老いたる者は母と以為(オモ)い、長じたる者は姉と以為(オモ)い、少(オサナ)き者は妹と以為(オモ)い、幼き者は子として、之を敬うに禮を以(モッ)てせよ。
 意(イ)殊(コト)に當(マサ)に諦(アキラカ)に惟觀(ユイカン)すべし。
 頭自(ヨ)り足に至るまで自ら内に視(ミ)よ。
「彼(カノ)身(シン)は何の有(ウ)ぞや、唯(タダ)悪露(アクロ)と諸(モロモロ)の不浄種を盛るのみ」と。
 以(モッ)て其(ソノ)意(イ)を釋(サト)れ。』」


 釈尊は弟子たちへ説かれました。
「心を慎み、女性を見ないようにせよ。
 もし、目に入っても語り合ってはならない。
 もし、はからずも、言葉を交わした場合は、心に残った残像や気持を消すべく、正しく考え、修行せよ。
『私は出家修行者である。
 煩悩の巷にいてさまざまな刺激を受けても、泥に作蓮華が泥の色をまとわぬように、清浄でいよう』
 老いた女性は母とも思うべし。
 年長の女性は姉とも思うべし。
 年少の女性は妹とも思うべし。
 幼い女性は子供とも思うべし。
 そして、人間として礼を尽くし敬わねばならない。
 また、女性の存在の根本的なありようを考えよ。
 頭から足までの全身は、心眼をもって観れば次の通りである。
『いかに魅惑的に見えても、価値と考え正面から対応すべき何らの実体もない。
 その身体は、ただ、内を血が流れ、内蔵に満ち、外へ鼻汁や便などを漏れさせるかりそめの袋ではないか』」

 釈尊は、出家修行者へ、異性関係を厳しく制限しました。
『法句経』には、異性への関心に悩む行者が男根を断とうとし、釈尊が「そうやっても、心の問題は解決しない」と諭す場面もあります。

 真理真実の探求に心を澄ます修行にある時、最も心を悩ます問題の一つが異性の存在です。
 皆さんも、受験勉強のおりなどにこうした悩みにぶつかったりはしなかったでしょうか。
 釈尊は対処法を明確に示されました。
 とにかく「目に入れるな」というのです。
 入り口をシャットする方法は最も原始的でありながら、最も有効な方法です。
 しかし、感覚器官は常にはたらいているので、時には、見えたり、聞こえたりします。
 その場合は、「それっきりにせよ」というのです。
 有名な「二の矢を受けず」の教えです。
 美人が目に入り「あっ、美しい!」と思っても、ふり返ったり、思い出したりしないということです。
 行者にとって、空も、山も、花も美しく、人もまた美しく思えるのは当然です。
 しかし、異性が対象になった場合には心に特有のさざなみが立ちます。
 それをすんなりやり過ごしなさいと説かれます。
 そうした覚悟でいても、托鉢の途中などで言葉を交わしたりする場面はあり得ます。
 その時は、「家族と思いなさい」というのです。
 タブーの心理を用い、異性と観る視点を薄れさせようとの教えです。
 そしてこの章の核である教えが説かれます。
「礼を尽くし、敬いなさい」
 天地万物のありがたさ、仏神の崇高さ、そしていのちあるものの尊さを深く観ずる行者にとって、出会う人は皆、礼拝の対象であるはずです。
 男女の区別も老少の区別もありません。
 ここへ至るよう、修行するのが行者の務めです。
 最後に、無常と空の観点から、理性的に対象を観る方法が説かれます。
「いかに魅惑的な女性であっても、一皮剥けば、所詮、糞袋ではないか。
 老い、病めば萎れ、死ねば腐ってしまうまでの存在である。
 そうした対象にとらわれ、真理真実を求める修行をとどまらせるなど、愚かしい」

 ここでは男性の側から説かれていますが、女性出家者にとっても、同じように説かれます。
 実際、異性に迷う女性出家者へ戒める教えもあります。
 仏法における「女人禁制」は差別であるとする考え方はいかがなものでしょうか。
 釈尊の頃はもちろん、男性であれ女性であれ、その時代なりに、行者は男女の区別をしっかり行った上で修行を重ねました。
 心を清め深める教えの真意とするところをよく学びたいものです。

〈健気に、清浄に〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.30

9月の守本尊様

 9月は、白露(ハクロ)と秋分(シュウブン)の長月(ナガツキ…9月8日より10月7日まで)です。
 9月は酉(トリ)の月なので、守本尊は不動明王(フドウミョウオウ)様です。

 不動明王様は『種々界智力(シュジュカイチリキ)』という、人の居る世界を知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 地獄界にいる人にとっては光明こそが救いであり、餓鬼界にいる人にとっては飲食できることが救いです。
 住む世界によって何が救いになるかは違います。
 密かな恋の成就にかけている人にとってに、おいしい食べ物も上の空ではありませんか。
 大日如来の使者である不動明王様は、一人一人の救いとなるものをよく見極め、力をお与えくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、文化の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

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〈不動明王様は、酉年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた不動明王様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.30

9月の真言

 9月守本尊不動明王(フドウミョウオウ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


〈影から陽光へ、しかし……〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.30

仔猫が生まれました

 ミケ子が生んだ5匹の仔猫は行方不明になっていましたが、無事、全員、発見されました。
 どなたか一匹でもお引き取りいただけないでしょうか?
 血統証はありませんが、ミケ子の品性は保証できます。
 ご連絡をお待ちしています。
 電話022(346)2106、ファクス022(346)2107です。
 (午前9時から午後5時までの間にお願いします)

〈写真が不鮮明なのは、近くで撮ると警戒して全員がバラバラになるので、遠くから急いで撮ったからです〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.29

神部眞理子著『松籟』─狩野永徳伝─

 仙石病院消化器内科部長である神部眞理子氏の小説『松籟』─狩野永徳伝─を読みました。
 松籟とは松を吹き過ぎる風の音です。
 安土室町時代を駆け抜けた天才絵師狩野永徳を、作者は「不運」と書きました。

「彼の描いた莫大な絵は現在ほとんど残っていない。
 わずか十点ばかりがその手になると見なされるにすぎない。
 己の絵が残っていないほど絵師にとって不幸なことはないだろう」

 作者は、わずかな絵とたった2冊を参考文献にし、不運な絵師がまるで乗りうつったかのような筆勢で、その生涯を書きました。

 幼い狩野源四郎(後の永徳)は、祖父狩野元信に才能を見いだされ、手本となる粉本を徹底的に写す稽古に入ります。
 戦乱の京を離れ、奈良へ移った源四郎は源平の合戦後ずっと平和だった奈良にある仏像や寺院に圧倒されつつ、疑問を抱きます。

「だけど不思議だね。
 古い仏様は残っているけど、新しいものがまったくないのはなぜだろう。
 お坊様方からはすべてが鎌倉時代までに造られたと聞いたけれど、それ以来、新しく仏様の像を造ることはなかったのだろうか」
「それに昔の絵がほとんどないのもおかしいよね。
 焼けたのかもしれないけれど、焼けそうになった時に持ちだすには大きな仏様の像よりずっと簡単なはずなのに、残っていない」


 これは、きっと、寺社や仏像を廻って飽きない作者の心に浮かんだ疑問なのでしょう。
 祖父は答を出します。

「彫刻の隆盛期はもう過ぎてしまったのだ。
 ……理由をつけることはなかなか難しいが、あまりに写実を求めすぎたせいといえるかのう。
 例えば、衣紋の揺れている様を彫るより実物が揺れているほうがどんなにかそれらしい。
 どんなに細かい彫り物でも実物にはかなわないからの。
 そういった考えから、仏様のお体だけを彫り、その上に本物の衣を着せる、そんなことになってしまった。
 そして彫刻は廃れていったのだ。
 代わって、絵画が隆盛となった」


 作者は観ぬいています。

 将軍足利義輝から、ある意図をもった作品を依頼された源四郎は迷ったあげく山鉾巡行を見物し、気がつきます。

「……そうだ、
 これだ。
 戦乱に怯えつつ生きているかに見える民衆は、実は計り知れない情熱と行動を内に秘めているのだ。
 それが発揮できる場があれば、一挙に爆発させてしまう力も持っている。
 これを描こう」


 そして、斬新な作品へ挑戦します。 

 作品には時代をつくる人々も、絵師たちも生きている人のように描かれ、文字が映像の幻をもたらします。
 上泉伊勢守と塚原卜伝に師事した剣豪であった足利義輝の描写は鋭く、辞世の句での締めくくりも圧巻です。

「五月雨は露か涙かほととぎすわが名をとげん雲の上まで」


 斬られて死ぬ前にこうした句を詠める精神力は超絶としか言いようがありません。

 永徳が48才でこの世を去る場面は、他人ごとではありません。
 生涯現役でありたい私には「明日の我が身」と思わされます。
 永徳は妻からひんぱんに「お前さま、体に気をつけてくださいね」と言われ、生命力の減退を実感しながらも、「彼はあとふたつのことをなさねば、休むことなどできないと考えている」状態を続け、倒れます。
 その瞬間です。

「……もう少し、もう少し時間が欲しい。まだやるべきことがあるのだ」


 もしかすると、医師である作者は走り続ける自分の行く先を知っているのかも知れません。

 医師であり理事長でもある夫君神部廣一氏へ尋ねました。
「あれほど多忙な奥さんは、いつ、書くの?」
「病院で、時間を見つけて書くみたいだね」
 さらに尋ねました。
「時代背景やら、人間関係やら、調査が大変じゃないのかなあ」
「女房は系図が好きなんだ。いつまでも見飽きないみたいだね」
 これでは、言われた言葉の意味はわかっても、作者の実態を理解も想像もできません。
 もう、つまらぬ詮索は諦めました。
 別世界なのです。
 早暁から一気に読みました。
 今は一人でも多くの方々が、人間味あふれる天才の心と生きざまに触れてくださるよう願うのみです。
 きっと、胸が高まり、涙があふれ、いのちに新鮮な力が伴いますよ。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
08.28

「頭が良くなる薬」と「頭の活性化法」の危険性

 8月28日の読売新聞は、「スマートドラッグ」の危険性を書きました。
 スマートドラッグは「脳の神経を刺激したり、脳内血流を増やしたりして頭をよくする」薬で、認知症などの治療薬です。
 当然、医師の処方箋に基づいて服用されますが、処方箋なしで海外から購入できるサイトの存在により、弊害が拡がりつつあります。
 「頭を良くする薬がある」といった類の話はまず疑ってかかるという霊性に発する第六感を、私たちはますます失いつつあるようです。

 第一におかしいのは、病人の治療薬を健常者が用いるという点です。
 第二に、国内で規制されているものを、海外から買えるからといって簡単に手を出す不用心さです。
 そして、大工さんがカンナの精度を上げるためにはくり返し作業に励み、作家も棋士も「脳に汗をかく」が実感されるほどの精進を行ってこそ良い仕事ができるのであり、人生の基本として「成功への早道はないと考えるのが健全な精神である」という健全な常識を忘れていることです。

 記事は、医者一家の長男が国家試験の合格をめざし、医師である母親から勧められた向精神薬リタリンを服用して依存症になった例を採りあげています。
 のめり込んだ長男はついに覚醒剤に手を染め、逮捕されました。
 母親は「息子かわいさに安易に薬を与えてしまった」と後悔し、長男は、自分なら子供に薬を与えるかとの質問に「薬で身体をいじるのはもう嫌だ」とうなだれました。

 過日、たまたま眺めたテレビ番組が、学者さん方の驚くべき場面を流していました。
 新聞を読むよりも、引き算を暗算しながらウォーキングした方が脳内血流が増すので、脳の活性化にお勧めであると力を込めて主張しているのです。
 それでは、明らかに〈脳内血流が激しくなくなる〉深い瞑想により悟った釈尊はさんざんバカになったあげく、真理を説かれたのでしょうか。
 お大師様やチベット密教の説くマンダラの瞑想法が英語文化圏の人々へ大きな救いとなりつつあるのは、バカ作りをしているからでしょうか。
 一定の見識がある方々の取捨選択によって載せられた紙面の多様な情報に接することは、機械的に続ける暗算よりも劣るというのでしょうか。
 あきれかえり、口角泡を飛ばしてさかんに自説を目立たせようとしている知識人方のお顔を見たら、失礼ながら、どなたにも叡智は感じられませんでした。

 真善美いずれの世界であれ、精神的高みに達した方々の叡智のレベルは科学的に計れません。
 私たちの霊性が感応するのみです。
 数量化されない感性と知性で共鳴するしかありません。
 情報化社会になり、私たちは何でも知り得ているようでありながら、どんどん叡智から遠ざかりつつあるのではないでしょうか。
 霊性、第六感、叡智、こういったものを、さまざまなできごとをきっかけとして自分の頭で考えてみましょう。
 新聞は、そのきっかけを与えてくれる貴重な情報源です。
 ウォーキングも暗算も結構ですが、それはそれ、これはこれ、と考える健全な精神を失いたくないものです。

〈こうした存在に眼をとめ、何かを深く感じている時、脳内血流は激しく流れているのでしょうか〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
08.28

寺務所のメモ(8月号)

 今年の夏は特別暑~い夏となりました。にもかかわらずお盆供養会には広い講堂から溢れるくらいたくさんの皆様が参詣され、感動でした!
 朝は雨が降っていたにもかかわらず供養会が始まる頃には上がり、奉納剣の時には太陽が燦燦と照っておりました。
 これは毎回不思議なのですが、奉納剣の時は必ず晴れるのです。(やはり大日様でしょうか・・・)
 ご覧になる方も大変ですし、行者達は暑さと緊張との戦いです(笑)
 住職は護摩法の後ですからもっと大変です;
 でも暑いからこそ「頑張ったーーー!」「佳いご供養会ができた~!」という達成感がありその後のお昼ご飯(たくさんのお母さん方がまたおにぎりを作ってくださいました)が美味しいこと美味しいこと。
 皆様のご助力で無事お盆を終えることが出来ました。
 ありがとうございました。
 早くも陽が短くなってきましたね。
 まもなく収穫の秋、お彼岸芋煮会と続きます☆

 ※この欄は行者橋里佳さんが書きました。

〈どんなに暑くても当山へ足を運ばれる方々の心は、この花のように清浄です〉
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2010
08.27

代替療法(ホメオパシー)と宗教

 8月24日、日本学術会議は、代替療法ホメオパシー)について「科学的な根拠は明確に否定されている」とし、治療に用いないよう求める会長談話を発表しました。

 ホメオパシーとは、トリカブト、水銀、水晶、ミツバチ、ヘビなどの成分を水などに溶かし100分の1に薄める方法を数十回くり返し、限りなく薄めたものを砂糖玉に染み込ませ、飲み薬のように使う療法です。
 自然治癒力が高まるとしてこの療法を推薦する団体は、あたかも万能療法であるかのように宣伝し、ガンや精神疾患も治療できるとしています。
 ヨーロッパを中心にした長い歴史はありますが、ドイツやスイスでは保健の適用をやめ、イギリスでも治療効果を否定する論文が発表され、平成22年2月、世界保健機構(WHO)はホメオパシーの安全性に関する勧告を出しました。

 日本学術会議は、約84万人の科学者の代表として選ばれた210人の会員と、約2千人の連携会員からなる日本の「頭脳集団」(朝日新聞の説明による)です。
 この日本を代表する頭脳集団が一年半をかけて検討した結果、今回の発表となりました。
 ホメオパシーにすがった人たちが病状を悪化させたり、死に至ったりするケースが続発し、平成22年5月には、ビタミンK2を与えられるべき新生児に与えずホメオパシー療法を行って死に至らしめたとし、助産士が損害賠償を求められています。

 何をじるのも自由ですが、日本学術会議の副学長はこう指摘しました。

「科学的に全否定されているものを医療従事者が使えば患者を通常医療から遠ざけかねず危険だ。
ホメオパシー』は効かないというメッセージを伝えることが重要と考えた」。


 私は以前、自分や妻の病気に際し、「自然界にあるものを用いる」、「自己快癒力を高める」といった主張に興味を持って調べた時期もありますが、道理ではないと考え、離れました。
 明らかに「しい」と判断したからです。
 たとえば、通常のガン治療法には副作用が伴いがちであり、自然界にあるものを超微量用いるホメオパシーには副作用が少ないという主張は理できますが、だからといって、ガンを克服するために通常療法よりもホメオパシーが効くことにはなりません。
 あるいはホメオパシーの主張する「好転反応」も、とうてい納得できませんでした。
 ホメオパシーを受けて症状が悪化すのは自然治癒力が上がった証拠であり、ここを過ぎると症状はなくなるが、通常療法による薬を併用すると、好転反応を抑制して治りにくくなるという主張は恐ろしくさえ思えました。
 ホメオパシーは全能なのか、「好転反応」の先に快癒ではなく悪化が訪れた場合、通常医療を拒否していて一体、どうするのか、団体や療法士はそこまで責任を負う覚悟で自説を主張しているのか。
 事実、新聞記事には、風邪をひきやすい娘をホメオパシーで失いかけた例が挙げられていますが、当然としか言いようがありません。
 これから、全国で恐ろしい例が続々と明らかになり、裁判が続発することでしょう。

 さて、こうした事件の際によく用いられるのが「宗教のようだ」という言い方です。
 それは「真理、真実ではなく、およそじられないはずのものを頭からじ込む」、「洗脳して広める」といった内容を含んでいます。
 これは宗教を構成する二つの要素「」と「」のうち「」に関係していますが、まっとうな宗教における「」とは別ものです。
 信とについては、最近のブログ「『大日経』が説く心のありさま六十景 その7決定心(ケツジョウシン)」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2310.html)にも書きました。

「涅槃(ネハン)経」は説きます。
「信あって(ゲ)なければ無明(ムミョウ)を増長し、(ゲ)あって信なければ邪見を増長する。
 信(シンゲ)円通(エンツウ)してまさに行(ギョウ)の本(モト)となる」

(信仰心だけがあって理解力がなければ、根本的な無知が強まり、理解力があって信仰心がなければ正しくない見解が強まる。
 信仰心と理解力が円かに備わってはじめて、修行の土台ができる)

 ただやみくもに信じるだけでは、無知の状態を深めてしまいます。
 ただやみくもに理解するだけでは、勝手な見解を深めてしまいます。
 すなおに信じる姿勢と、教えの意とするところを理解する姿勢とが円満にあいまって修行の土台がつくられます。


 当山は感性と理性のありったけを動員して真実を求めるのが真の宗教であると考えています。
 釈尊は弟子へ道理をもって考えるように説き、お大師様も理をつくした教えを残されました。
 だから、それをまっとうに学び実践する人は、宗教による害毒を周囲へ及ぼすはずがありません。
 道理に照らして不審としか思えないような主張や信じ方をしたり、無茶な布教活動を行って不信をかうのは、まっとうでなくつくられた宗教か、まっとうでない信じ方をした人の問題であり、用いられる伝統的経典の責任ではありません。
 たとえば大乗仏教で最高レベルにあるとされる「華厳経」を生涯の友とした世界的数学者である故岡潔博士はこう言いました。
「矛盾は発見できない」。

 相手が科学界のものであっても、宗教界ものであっても、感性と理性で判断し、道理に合わないものは等しく「しい」のです。
 今回のできごとで私たちが学ぶべき要点はここにあるのではないでしょうか。

〈この無心さ、この真実〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
08.26

【現代の偉人伝】第106話 ─友人知人へ鎮魂の句をしたためる千坂勝弥氏─

 これは、宮床在住の千坂勝弥氏(94才)が、ご近所の方々の御霊へ手向けた句の一部です。

となりとなりて後の世を 君がみたまは守りゆくらん

なき人をついのわかれと弔えど こころは消えずありし面影

うちつけに聞くぞ悲しき君なしと 言うはまことか夢かあらぬか

 
 たくさんの方々を自分の身内とも思いつつ送った体験が、平明で温かな句を生みました。
 94年の道のりは想像もできませんが、人生の長さに孕む力、それも、他に代えられない魂の昇華作用とでもいうべきものに、ただ、頭を垂れてしまいます。

 軍医として戦場へ赴き、年輪を重ねてから長く老人クラブ活動を続けている千坂勝弥氏は、今も自分で車を繰り、仙台まで新刊書を買いに出かけます。
 学んだことは整理し、自分でやってみて、各種研修会などで披露します。
 千坂勝弥氏から学んだ人々が、師より先に、次々と送られています。

 8月15日付の朝日新聞「五線譜」は、三重県・志摩の越賀で「一番の海女(アマ)」中村とみさん(78才)の最期を報じました。
 夫の源司さん(77才)と二人だけで漁に出る「舟人(フナド)」の最後の一人であるとみさんは、普段、「海でねたら本望だ」を口癖にしていました。
 6月1日、アワビや伊勢エビを狙ったとみさんは、20キロの重りを抱えて深さ10メートルの海へ潜りました。
 やげて船上の源司さんに合図が届き、源司さんはいつもどおり命綱を引きあげましたが、海面に浮かんだとみさんは意識を失っており、急性心不全のため、そのまま息を引き取りました。
 その場面です。

 まるでうたた寝をしているような、静かな表情だった。
 ただ、口はしっかり結ばれ、海水を一滴も飲んでいなかった。
「引き上げるのが遅くて、おぼれさせてしまった」と源司さんが悔やむことがないよう、最期も気遣ったのだろうか。


 ──ああ、源司さんととみさん。
 人はいかに親しくとも、を迎える時は一人です。
 別れをどう迎えるか。
 その心はに行く人の言葉や行動に、送る人の言葉や行動に、表れます。
法句経」は説きます。

「人はただ長生きすれば良いというものではない。
 白髪になったからといって賢者になったわけではない。
 人の道を探求しなければ、根元的な愚かさは変わらない」。


 千坂勝弥氏も、源司さんととみさんも、長く生きた人でなければ到達できないところにおられます。
 真の賢者とは、こういう方々ではないでしょうか。
 私のような若輩者には仰ぎ見るしかない偉人の方々です。

〈誰か居そうな、居なそうな……〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
08.26

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 54 ―「チベット 死者の書」─

 8月25日は、講義に先立ち、NHK製作のDVD『チベット 死者の書』を観ました。
 8世紀に、インドからチベットへ仏教を伝えたパドマ・サンババによって書かれたこの経典「バルド・トドゥル」は、必要とされる〈その時〉が来れば力を発揮する埋蔵経として世に埋もれ、15世紀に発見されて以来、世界中へ救いの光を発しています。
 イギリスの大学教授エヴァンス・ヴェンツは、チベットで偶然手にした古い「バルド・トドゥル」に命の秘密が隠されていると直感し、1927年に英訳『チベット 死者の書』として発表しました。
 刊行にあたり、心理学者カール・ユングは、「魂の秘密を説き明かす涯の伴侶に出会った」と前書きを寄せました。

 は本来光である意識が肉体という束縛から解き放たれる瞬間であり、前からその瞬間へ向けた訓練をしておけば、はたやすく迎えられると説きます。
 実際、チベットの人々ばかりでなく、エイズなどでに行く人々もまた、をそう考えることによって不安や恐怖を克服し、安楽に旅立っています。
「良き死のためには、死後のことをきているうちに学ばねばならない」と説くダライ・ラマ法王は、「死ねば修行の結果が確認できる」と笑顔で語りました。

 1970年代になり、死者を導く仏教がアメリカで注目されるようになりました。
 そして、西洋社会にはない「死に方の技法の書」として、エイズや末期ガン患者の救いとなりました。
 ターミナル・ケアの団体を創始した元ハーバード大学教授ラム・ダスは語ります。

「物質主義の現代社会が失ったと死の意味を取り戻すため、このプロジェクトをつくりました。
 当時、人の本当の意味を考え始めたのは、皮肉にも、死に行く人々でした。
 その人々を救うには、まず、死に対する考え方を変える必要がありました。
 当時、死は自然の節理がつくり出した唯一の誤りとして否定され、死と闘う病院の集中治療室が正義の神殿でした。
 医者が死を敗北として隠したため、死は恐怖になってしまいました。
 しかし、死から逃げたために、私たちは死ぬことの本当の意味を見失いました。
 そこで、死をあるがままに受け容れることから始めたのです」。


 インタビューに答えるチベットの人々です。
・お爺さん
「人は必ず死ぬものです。
 人は肩に死に神を背負って生まれるのです」。
・青年
「私は悪いことをしていないので、死ぬのが怖くありません」。
・若い女性
「死ぬのが運命です。
 また生まれることができるから、死は怖くありません」。
・子供を背負った母親
「この子は誰かの生まれ変わりです。
 この子が誰の生まれ変わりかは知りませんが、人は必ず生まれ変わります」。
・中年男性
「肉体が滅びても意識は残り、生と死をくり返します」
ダライ・ラマ法王
「意識が肉体から離れる死と、転生は、古くなった服を新しい服に着替えるのと同じです。
 活力に溢れた新しい身体でまた、出直すのです。
 こう考えられれば、死は生の一分という存在を超え、生命の本質を追究する絶好の機会になります」。

 観賞後、新しく作りなおした『法句経』の講義に入りました。
 第一章は無常を説くものです。
 映画鑑賞で思考力も感性も高まっている受講生の方々からたくさんのご意見や質問が出され、終了の鐘が鳴ってもしばらく自由なやりとりが行われました。
 活き活きと闊達な講座は、これからも続きます。

 DVD『チベット 死者の書』は、9月9日の寺子屋『法楽舘』でも上映します。
 ぜひ、たくさんの方々にご覧いただきたいと願っています。

〈共に……〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
08.25

9月の聖語

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

六大(ロクダイ)とは、五大(ギダイ)と及び識となり」。


(「六大」とは、の5つの粗大な構成要素に象徴されるみ仏の徳である「五大」と、それを認識するみ仏の意識である「識」とを指す)。

 お大師様は、「大日経」を読み解き、この世の構成を明確にされました。
 それは、私たちがとして認識できる〈現象世界に顕れているみ仏の徳〉と、認識するものとして在る〈み仏の意識の徳〉によって成り立っています。
 の「四大」は古来、世界中で考えられ、素朴な認識論では、固い大、流れる、暖かな、吹くとしてとらえられてきました。
 そして、それらを容れる大(ダイクウ)も考えられました。
 これで「五大」になります。
 しかし、み仏の絶対的な悟りの境から説かれた「大日経」においては、そうした構成要素は、もはや現象そのものではなく、現象として私たちへ示されている仏の徳として存在していることが説かれています。
 その徳は、意識をみ仏のレベルへと深めた意識によって把握されます。

 お大師様は、冒頭の一句に続き、大日如来の説く「大日経」の経文を示されました。

「私は、森羅万象が本来的に生滅を超越した真実世界の顕れであると悟った。
 それが『本不生(ホンプショウ…本来生じない)』である。
 その境は、凡夫の言葉では示しきれない。
 罪過から解放され、因縁からも離れている。
 たる悟りの境地は、大のようにあらゆるものから自由であり、一切の妨げはない」

 大日如来は、凡夫の言葉では示しきれない境地を真言で説かれました。
 それが地・を意味する大日如来の真言です。
 お大師様は大日如来の境地から、真言の文字一つ一つについて説かれました。

「あ」は、すべては本来、生滅を超えているという意味を持つ梵字の頭文字です。
 真実世界としての森羅万象は生じたり滅したりせず、本来、厳然として存在しており、その揺るぎなさを大〈地〉の堅固さに例え、象徴として示されています。

「ば」は、言葉という意味を持つ梵字の頭文字です。
 悟りの内容は凡夫の言葉では説明しきれず、炎天下の清が持つ〈水〉の清涼感に例え、象徴として示されています。

「ら」は、塵垢という意味を持つ梵字の頭文字です。
 悟りの境地が清浄で汚れのないことを、〈〉の力で焼き浄められた状態に例え、象徴として示されています。

「か」は、因という意味を持つ梵字の頭文字です。
 悟りの境地はあらゆる因縁や宿業を離れているので、〈〉が塵を吹き払う状態に例え、象徴として示されています。

「きゃ」は、虚空いう意味を持つ梵字の頭文字です。
 悟りの境地は何ものにも妨げられず自在であることを、虚〈空〉に例え、象徴として示されています。

 私たちは、手に印を結び、悟りの世界を観想し、「あばらかきゃ」に通じる「あびらうんけん」の真言を唱えることによって意〈識〉を真実世界へ入れられます。
 本来すでに即身成仏している世界へ、我が心身を一体化させられます。

 特殊な修行はさておき、こうした教えに学び、合掌し、大日如来をイメージして真言を唱えれば、必ず、不動で、清涼で、清浄で、ストレスがなく、自在な気持を体験できることでしょう。

〈横から指した朝日が一瞬、仏舎利宝珠の多宝塔のみを照らし、真実世界をかいまみせました〉
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〈祈りの空間では、こんなことが起こるのです〉
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2010
08.24

2010年9月の運勢

 平成22年9月の運勢(9月8日から10月7日まで)です。
 人間修行六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 今月は、人々の集団的行動が運勢を大きく作用します。
 人が集まれば力を生じますが、問題は、力を使う目的です。
 当然、それは正しくなければならず、正しさは自分を省み、恩を思い出すところから生まれます。
 力の強い人は、自力だけで何ごとかを成し遂げられると考えるかも知れません。
 他人を頼るのは弱い心だと言う人もいます。
 しかし、それは勘違いです。
 自力しか見えていないだけのことです。
 あれだけ自分を追い込みつつ鍛えている水泳の北島康介選手でさえ、勝負の場面では握った右拳を胸のあたりに当てます。
「私は験をかつぐ人間ではありませんが、ああすると、より多くの人々から力をいただける気がするのです」。
 当山はこれまで、たくさんの家族葬やそれに近いご葬儀を行ってきました。
 しかし、棺が家を出る時、あるいは火葬場で意外なほどの方々から見送られるケースがあります。
 どんなに「近親者だけで」と言っていたご遺族も、これには必ず感激し、感謝します。
 自分や自分たちだけでひっそり生きているつもりでも、事実はそうではありません。
 知らぬ間に直接的・間接的に社会の支えがあってこそ人はことをなし、生きられます。
 正しい目的を持った集団が大いに力を発揮するよう祈ります。

二 人が集まれば未来が開けるとは限りません。
 烏合の衆は道を閉ざしもします。
 最近はめっきり減りましたが、暴走族と観衆の関係はこの典型です。
 走る車が多ければ観衆も多く集まり、集まった観衆の熱気に刺激されて暴走族はさらに過激な行動へ走ります。
 集まって煽る観衆にも罰則規定が設けられ、暴走族は急減しました。
 烏合の衆へ入らないよう。

三 仏神を敬い感謝する心を持った人がリーダーになれば組織は発展します。
 なぜなら、感謝は招福の方法だからです。
 しかし、表面だけの敬虔な態度では、いずれ馬脚を現すことでしょう。
 人間は騙せても、仏神は決して騙せないからです。

四 人や名声や富が集まる人や集団のもとへは、おこぼれに与ろう、あわよくばむしり取ろうとする人種も近づいてきます。
 こうした悲しい人々へは心で合掌するしか対応策はありません。

五 人が集まる場所での事件や事故に注意しましょう。
 チリ北部鉱山の落盤事故では、手はずどおり避難所へ逃げ込んだ作業員たちの無事が確認されました。
 普段の心構えが明暗を分けます。

六 電子機器のトラブルにやられないよう「備えあれば憂いなし」で仕事をしましょう。

【開運の六波羅密(ロッパラミツ)行】

布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は他へ施す清浄な心が正しい方針の発見へとつながり発展します。
 不精進の人は我利我利亡者ぶりに眉をひそめられ、失敗しがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は温和さで人望を集め、守られます。
 不精進の人は理のない争いに巻き込まれ、見捨てられがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は人徳のある人に導かれ、チャンスをつかみます。
 不精進の人は優柔不断さと独断が思わぬ孤独を招き、失敗しがちです。。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は自分だけが前に出ようとせず、良い仲間と組んで成功します。
 不精進の人は他人の顔色ばかりうかがう人と組み、失敗しがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は内なる人々へ寛大な気持を持ち、外なる人々へは警戒を怠らず順調です。
 不精進の人は仲間を疑い、外から騙されがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は失敗しても自分の利を求めて言い訳せず、かえって信頼を回復します。
 不精進の人はせっかくの立場を「舌先三寸」のために失いがちです。

〈皆で咲く、自分も咲く〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
08.24

北島康介選手とプレッシャー

 水泳の金メダリスト北島康介選手がNHKの番組でプールへ通う子供たちの質問に答えていました。
 水泳に励む子供たちにとって、プレッシャーをものともせず結果を出した彼は、まばゆい英雄です。
 どのシーンも彼のひたむきさに満ちていましたが、圧巻はやはり、「なぜ、大一番に強いのか?」への回答でした。 

 アテネオリンピックで金メダルを取り、北京オリンピックでは日本選手団の主将を務めた柔道家鈴木桂治選手は、ある時期まで、2才年上のシドニーオリンピック金メダリスト井上康生選手に煮え湯を飲まされ続けていました。
 居合の名手を相手にする時のように、「いつ、やられるかわからない」という気持があったそうです。
 実際、絶頂期の井上康生選手は内股の技を必殺の武器とし、ナンバーウェブによると、「意識しなくても一本を取るべきときに掛けられる。無意識にタイミングが分かる。体が反応する」ほどでした。

 北島康介選手は「挫折のしまくりでした」とは言うものの、北京オリンピックで史上初の平泳ぎ2大会連続2冠を達成したように、肝心な場面で自分の能力を最高に発揮する達人です。
 おそらく、彼と戦った選手たちには、井上康生選手の内股へ抱く恐怖と同じく、「いつ、とてつもないスピードを出されるかわからない」といった不安があったのではないでしょうか。
 事実、北京オリンピック男子100m平泳ぎの準決勝で彼は2位通過でしたが、ヨーロッパ・チャンピオンのノルウェーのダーレン・オーウェン選手は、準決勝で当季世界最高記録をマークしていました。
 しかし、決勝では途中まで3位だったのに、残り26メートルから神懸かり的なラストスパートを行い、世界新記録で優勝したのです。

 この快挙を知っているであろう子供たちにとって、「なぜ、彼にはできるのか?」が最大の関心事でないはずはありません。
 彼は答えました。
「自分でできる限りの練習をしておくこと。
 もう、自分はやれるだけのことをやったという気持を持てるまで、練習を行うこと」。

 子供たちのキャプテンA君はプレッシャーに弱く、スタート台に上がる時は「フライングをするんじゃないか」などと不安でいっぱいです。
 番組収録の大会では、自己最高記録から1秒以上も遅れる始末でした。
 しかし、北島康介選手の話を聞いて一念発起した彼は、次の大会で何と、自己最高記録を1秒以上も上回る記録を出して優勝しました。
 時には練習をサボっていた自分を省みて、やり直した結果です。

 北島康介選手のように「ことをなした」人の言葉には力が伴っています。
 言い方や表情などが、裏付けとなっている事実の確かさを突きつけるからです。
 偉人伝では、文章の力が書き手の思いと事実の確かさを伝えます。

 番組は、大人が子供たちへ渡すべきものを余すところなく教えていました。
 それは同時に、大人たちがいかにあるべきかをも示していたのではないでしょうか。

〈確かな力〉
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2010
08.23

家族承諾による臓器移植と脳死判定について

 8月22日「日本臓器移植ネットワーク」は、改正臓器移植法に基づき、50才代の女性が脳死と判定された要旨を発表しました。
 女性は、書面でも口頭でも臓器提供の意志を表示していませんでしたが、家族が「本人は臓器移植を拒否していなかった」と判断し、加えて、家族が臓器を「誰かの役に立てたい」と考えて承諾したとされています。
 脳死判定は21日午後6時5分に始まり、22日午前5時41分に終了しました。
 時間がかかったのは、判定が2名以上の医師で行われ、6時間後にも同所見であることが必要だからです。
 ただちに準備が行われ、臓器摘出は22日午後4時頃に始まり、午後7時頃までに終了しました。

 私たちは、「ご臨終です」と医師に告げられ、「~年~月~日~時~分」に亡くなったと届け出ますが、それは、実際に人間が生命活動の全てを終えたことを確認したのではなく、「死んだことにする」目安でしかないという厳粛な事実を忘れてはなりません。
 だからこそ、「死体(もしくは妊娠7カ月以上の胎児)は、死後(もしくは死産後)24時間以内は火葬してはならない」という定めがあります。

 そもそも脳死は「個体の死」とはまったく異なります。
 心臓が動き、体温もあり、人工呼吸器によって呼吸もしています。
 そのような状態にある人が、臓器移植を目的とした脳死判定の手順に入れば、確実に死にます。
 なぜなら、人工呼吸器を外して調査項目の確認を行う必要があるからです。
 確かな死を予想せずに、臓器移植を目的とした脳死判定はできません。
 言い換えるなら、臓器移植を目的とした脳死の判定を行うのは、〈生きている人を、臓器が活き活きしている程度まで、殺し、臓器を取り出す過程で完全に殺す〉ことに他なりません。

 こうして、人は合法的にとどめを刺されますが、24時間経たなければ火葬できないはずの人は、特例として、たちまちに切り刻まれます。
 死んだ人の持ち物で役に立つのは角膜など、わずかしかないからです。
 暖かく活きの良い内臓などが手早く切り出され、運ばれます。
 私には、この場面を「生きている人を切り刻む」としか想像できません。
 実際、法的にも、脳死は「個体死」とされていないのです。

 そもそも、個体はなかなか生命活動をやめません。
 呼吸と心臓が止まり、瞳孔が開いて数日たっても、髪や爪は伸び続けています。
 そして、長期脳死という現実があることも看過できません。
 脳死と判定された後(臓器移植を目的としていない判定では、人工呼吸器は外されません)、20年以上も心臓が動き続けていた例さえあります。
 また、「ラザロ徴候」といわれるものもあります。
 脳死と判定された人が自分で両手を動かし、合掌するような仕草を行う場合があります。
 実際にこうした場面に遭遇したならば、温かい身体を切り刻めましょうか。
 衝撃が大きすぎるので、脳死と判定された人の身体はご遺族へ見せない方が良いという議論すらあります。
 
 当山はかつて、「臓器移植法改正と仏教 その2 ─脳死から生き返った人─」として、脳死から生還した人の記録を再掲しました。
 ブログ「想いの記」http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-1724.htmlです。
 平成18年5月17日、臓器提供の意思を示していた米国在住のビルマ・トーマスさん(59歳)は、心臓が止まり、血圧もゼロになったので、家族が生命維持装置の取り外しに同意しました。
 そして、人工呼吸器を外して約10分後、看護師たちが肺へ空気を送る管を取り外そうとした瞬間、トーマスさんの目が開き、手も動き出して「息子はどこ?」と尋ねたのです。
 やがてビルマ・トーマスさんは全快しました。
 担当医ケビン・エレグストン医師の話です。
「世の中には医者や看護師が説明できない現象が時として起こるが、今回もそのひとつだと思う」。
 ケビン・エレグストン医師も、ラザロ徴候を発表した脳神経学者A・H・ロッパーも良心的です。
 脳死判定後に、眼が動いたり手や足が動いたり、鳥肌が立つといった〈生〉の証に立ち会った経験のある医師は少なからずいるはずです。
 そうした人々は、脊髄反射だろう、延髄反射だろうなどという議論は議論として、事実を公にするべきです。
 臨床で起こる事実は、人々が脳死や臓器移植について考える上でとても重要な情報ではないでしょうか。
 
 こうして考えてみると、臓器移植を目的とした脳死の判定基準は死に行く人の立場ではなく、活きの良い臓器を待っている人の立場で作られており、それは、「人間の死」からあまりにも遠く、あまりにもいのちを軽視した方法であると言えましょう。
 自分の身体であれ、いのちであれ、財物であれ、労力であれ、他のために差し出すのは尊い布施行です。
 しかし、それは、あくまでも自発的で空(クウ)の心によってなされねばなりません。
 医師が誰かの暖かい身体を切り刻むのは、死に行く本人の自発的な意志が確認されればこそ可能でした。
〈死への途中〉にある人を〈死〉へ導く行為が法的にだけでなく、道徳的にも〈殺人〉ではないという救いなくして温かな身体を切り刻める医師がおられるとは想像したくありません。
(もちろん、臓器移植という考え方そのものにも大きな問題がありますが、ここでは触れません)

 はっきり指摘しておきたいのは、たとえ家族であれ、誰かのいのちや身体を勝手に破壊するのは、最も人間の尊厳を踏みにじる行為であるということです。
「本人は臓器移植を拒否していなかった」という家族の証言を殺人には当たらない根拠として、死んでいない人が切り刻まれるなど、あってはならないことです。
 今回のケースがそうだと言うわけではありませんが、こうした状態が放置されれば、「早く死んでもらいたい」理由がある家族によって、続々と「臓器移植を目的とした脳死判定」の申し出があるのは火を見るよりも明らかです。

 病気の人を救うという美名のもとで、恐ろしく、悍(オゾ)ましい行為が白昼堂々と行われています。
「悍」の文字は、心を犯すという意味を含んでいます。
 決して、「家族承諾」を流行語にしてはなりません。
 臓器移植、脳死という人間の尊厳にかかわり、文化にかかわる問題を、しっかり考えて行きましょう。

〈一輪〉
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2010
08.22

「必死剣鳥刺し」

 藤沢周平原作の映画「必死剣鳥刺し」を観ました。

 普段、あまり目立たない下級武士兼見三左エ門は、藩政を歪める主君の妾を刺し殺します。
 周囲の論議を黙って聞いているだけの口数少ない男は、決意をおくびにも出さず、決行しました。
 死罪にならず閉門一年で済み、周囲の心配をよそに、男は毎日、黙って藩内を歩きます。
 大小を腰に差していても、たたずまいは托鉢僧と変わりません。
 殺した女の墓石に詣で、かつて女に仕えていた尼僧から「なぜ殺したのか?」と尋ねられても答えずに去ります。
 衝撃的な行為も、耐えるだけに見える日々も、一色に塗られています。
 説明の要らない真実という色です。
 
 兼見三左エ門の一挙手一投足すべてに、偽りはありません。
 スクリーンに映し出される真実の実在生は、聖徳太子が説かれた「世間(セケン)虚仮(コケ)、唯仏是真(ユイブツゼシン) 」を思い出させます。
 自分を含め、この世のことごとはかりそめのものに過ぎず、ただ、み仏のみが真実であるというのです。
 我が身にひき比べ、なぜ、男は一分の隙もなく真実を生きているのか?
 その謎は、天心独名流の達人である男が極めた秘剣にあります。

 「必死剣鳥刺し」と名づけられた秘剣は、半ば死にかけている時に用いられます。
 いかなる技であるかは独自で会得した男しか知らず、もちろん、眼にした人はいません。
 ラストシーンでくり出される一生に一度の秘剣が謎を解き明かします。
 自分の死の一瞬手前を想定して修行し、そこに一剣客としてのすべてをかけられるべく「その時」を待つ男に「虚仮」がなかったのは、生きようとあがくのではなく、死を生きていたからです。

 最近、共同墓『法楽の礎』へのお問い合わせが増えています。
 今あるお骨を納めたい方がある一方で、ご自身やご夫婦のために契約をする方も少なくありません。
 さらに、生前戒名を求める方も珍しくなくなりました。
 自分の死を具体的に考え、死後の行く先を決めるのは、死を同伴者として意識へ入れることを意味します。
 生前に契約される方々に心の澄浄さや静安さを感じるのは、気のせいでなかろうと考えています。
 
 豊川悦司の兼見三左エ門は出色のできばえです。
 各流派それぞれに「秘剣」があり、伝授を受けた修行者は、相手をその流れへ引き込めば必ず仕留められるよう、密かに稽古に励みます。
 突く形が多いとされているのは、返し技として工夫しやすく、動きも単純で、剣が相手へ届く時間を最も短縮できるからです。
 秘剣は当隠形(オンギョウ)流にもあり、特に技が勝れた者と限らず、稽古をしています。
 ただし、口外せず、動画に残さないのは当然です。
 豊川悦司のくり出した秘剣は、他を寄せつけず、目にもとまらぬ電光のような必殺剣でした。
 
 真実を求める方にも、「虚仮」に悩む方にも、そして、もちろん、剣の道に励む方にもぜひ、観ていただきたい作品です。

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2010
08.21

四国遍路 19

杖杉庵】(その2)

 このあたりの道路は狭く、車がすれ違う余裕もないところすら珍しくない。
 驚くのは、お遍路さんの車と察した対向車の多くが道を譲ることである。
 かなり遠くで待機してくれるトラックもある。
 他所では見られない光景だ。
 細い山道で、数台が連なってバックしてくれた時は、感謝を超えて感動してしまった。
 運転主席の後におられる師が、道を譲ってくれた対向車の運転手さんに必ず会釈するか手を挙げるかして謝意を表するので、私もそうしないではいられない。
 遍路バスの後からクラクションを鳴らす車も、無理な追い越しをする車もまったくない。
 バスの運転手も心得たもので、それなりの場所にくると道端に寄って徐行し、後続車を先にやる。
 お互いの心配りと信仰心によって、限られた道路が実に見事に使われ、天下の公道にお大師様の教えが息づいている。

 昨日、常楽寺で見かけた若い修行僧が、コンビニエンスストアの駐車場で杖を置き、地図らしきものを広げながら休んでいた。
 真昼の太陽の下で自動販売機の前にしゃがむ〈非日常的な〉はずの存在は、行き過ぎる人々の日常世界に溶けこみ、何の違和感も感じさせない。
 やはり、四国は不思議なところだ。
 
 通りかかった「源義経上陸の地」は町や田んぼのあるところで、昔、近くが海だったとは信じがたく、黙るしかなかった。

「四国八十八カ所巡礼の会」が唄う御詠歌に「同行和讃」がある。

1 我等覚りの行者(ヒト)として
  朝な夕なのかたときも
  仏の教え身につけて
  たつきの日々にいそしまん
2 我等大師の弟子として
  同じ覚りに行き歩む
  法のはらから手をとりて
  道の友垣(トモガキ)広めなん
3 我等仏のみ子として
  至心に唱うる真言の
  功徳遍く世に照りて
  平和の浄土いたりなん


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 人生の年輪を重ねた方々の歌声を聴き、杖杉庵の光景を思い起こすと、救いは自分の心にしか求められないことが深く納得できる。
 ますます高齢化が進む日本において、社会的生産力を失った膨大な人々を充分に支えられるだけの〈富の創出〉は望むべくもない。
 これからは、〈徳の創出〉で時代を乗りきらねばならない。
 老い行く一人一人が、自分で徳を創出し、自分で自分を救うのである。
 それは自らを救うだけでなく、開国によって世界が驚嘆した輝かしい「徳の幸(サキワ)う国」、「言霊の幸(サキワ)う国」として日本が復興する土台となるのではなかろうか。
 社会や若者にすがろうとすれば、人間としての肝心なものを失い、哀しい結果となるだろう。
 毅然と頭を立て、目線を下げずに前を向き、徳一つで生き、モノやいのちが尽きたならそのまま前向きに倒れ臥し、あとはお大師様とみ仏のお導きにお任せするまでである。

 お大師様の救いは確かである。
 同行二人の道に、怖れる何ものがあろうか。

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
08.20

『法句経』物語18 愚闇品(グアンボン)第十三「第一話(その2)」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 いかなる因縁でいかなる運勢が生じ、いかなる結果となるか、前回書いた物語の後半です。

 釈尊は、数十人のバラモンと出会いました。
 彼らは釈尊の前に進み出て問いました。
「貴方様はどこから来られたのですか?」
 釈尊は答えました。
「たまたま、先ほど亡くなったばかりの老翁の家へ行き、彼に教えを説いたけれど、とうとう仏の言葉を信じることなく、無常も知らないままでした。
 忽然とこの世を去った今は、後世へと旅立ってしまいました」。
 そして、バラモンたちのために、老翁へ示した教えについて詳しく説き明かしたところ、彼らは大いに喜び、悟りへの道筋を知りました。
 それを見た釈尊は、さらに説きました。
「愚か者はせっかく智慧者に近づいても、ヒョウタンが入れた液体の味を知らないのと同じく、長く教えに接してすら、法を知らない。
 道理に明るい者が智慧者に近づけば、舌が舐めるものの味をわかるように、少し教えに接しただけでも、仏道の根幹を理解する。
 愚か者の行いは、自分へ憂いを招き、やりたい放題にやりながら、重ねて災いを受ける。
 不の行いは、後に後悔と妬みをもたらし、泣きを見るであろう。
 こうした辛い報いは、すべて、前世からの宿業による」。
 重ねて教えを聞いたバラモンたちは、ますます篤く釈尊を信じ、礼をつくして喜び、教えを奉じました。



 私たちは、どれほど目先のことごとに追われていても、必ず人の道を示すものに出会っているはずです。
 会話を交わす相手の言葉、運転している車中で聞くニュース、見上げた空に飛ぶ鳥、足元に咲く花、思い出す恩人の顔、……などなど。
 そこに何を感じ、何を思い、何を考えるかはすべて、自分の心のありよう一つにかかっています。
 釈尊は、それを、ヒョウタンと舌に例えました。
 もしもどれほどおいしい蜜に満たされていようと、入れ物でしかないヒョウタンにはその味がわかりません。
 しかし、味覚を持つ舌は、ちょっと触れただけでおいしさを脳へ伝えます。

 お大師様は、般若心経の秘密を明らかにした文章で説かれました。

「医王の目には途(ミチ)に触れてみな薬なり。
 解宝(ゲホウ)の人は鉱石を宝と見る。
 知ると知らざると何誰(タレ)か罪過(ザイカ)ぞ」。


(医学に通じている人が歩けば、道ばたの草や石も皆、薬になる宝ものとして目に映る。
 周囲に宝ものがあるのを知るか知らないかは、誰の罪科であるわけでもなく、判断レベルの問題である)。

 物語の前半では、大富豪が豪邸のさらなる普請に夢中になっている時、せっかく釈尊の教えに接しながら〈聞く耳を持たない〉状態が示されました。
 大富豪は「もっと、もっと」と物欲に追われ、「すべては無常であり、周囲の世界はもちろん、自分の存在もかりそめのものである」という真実から自分とこの世を観る心の目を持たないまま、急死しました。
 釈尊がバラモンたちへ、やがて泣きを見るであろう「不の行い」としたのは、真理や道理を知らず我欲のままに生きる大富豪の生きざまです。
 別に誰かを叩くとか、誰かを騙すなどの事でなくても、我欲によって行われる行為は業(アクゴウ)として積まれ、現世であれ、来世であれ、やがて必ず訪れる恐ろしい報いを避けられはしません。

 釈尊の眼に映る何がであり、何がなのかが、ここではっきりしています。
 釈尊は、我欲による自己中心的な行為はであり、それを離れた行為はである」とされました。
 他人から騙し取れば罰せられ、罪とされるかされないかボーダーラインならセーフもあり得る法律の世界。
 ウソをついてはならないと子供も知っている道徳の世界。
 たとえ事実でないことを口にしても、自分のためをはかるのではなく、結果を自分が引き受ける覚悟を持って誰かのためと信じて行うならばではないとされる宗教の世界。
 法律と道徳と宗教、を、よく考えたいものです。

〈小さな実りの奇跡〉
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〈この尊厳の確かさ〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.19

「法楽寺青山会」が発足しました

 8月18日、住職の母校である仙台二高の同期生有志によって「法楽寺青山会」が発足しました。
檀家』」的な、根本を問う発想で、皆さんの「この世の幸せとあの世の安心」のために役に立ちたいという願いに呼応していただいたものであり、まことにありがたくてなりません。
 会長に選ばれた高橋浩一氏(宮城県加美町)をはじめ、法楽寺にお墓を持っていない方々によって結成され、「檀家』」で理想を求めるグループができました。
 ここで、つけ加えておかねばならないのは、賛同者全員が、自分のご先祖様を頼んでいる寺院へ不満があって会へはせ参じたのではないということです。
 8月17日、大阪府高槻市で、小学校6年生の女児が首をつって自殺しました。
 今年になって転入した女児の教科書、ドリル計12冊に、「しね」という落書きがあったそうです。
 こうした日本の精神状況に強い危機感を持った方々が、慈悲と叡智の仏法へ期待をこめ、立ち上がってくださったのです。

 まずは、対話集会など、法楽寺の法務を広く知っていただくための活動を行うことが主たる目的となりました。
 
 住職からは、二つのポイントについてお話しました。

1 ターミナルケア・グリーフケアにおいて仏法の役割を果たす。

 DVDによるNHKライブラリー『チベット死者の書』を観てもわかるとおり、死を怖れぬことで知られるチベット人は「死者の書」を生前に学び、死後もその教えで送られ、ご遺族も同じ教えで救われます。
 輪廻転生を説く教えは、死に行く世界中の人々を救い、近親者を失った世界中の人々の支えとなってもいます。

 同様に、私たち日本人は十三仏信仰という宝ものを持っています。
死者の書」は8世紀頃に成立したと思われる埋蔵経であり、14世紀に聖者リクジン・カルマリンパが発掘しました。
 日本では、14世紀に十三仏を確定する「弘法大師逆修日記事」が成立しており、十三仏信仰は、広く、人々へ安心を与えてきました。
 当山は、枕経では初七日を守るお不動様のお話をし、百か日のご供養では修法の本尊となる観音様のお話をし、三回忌では阿弥陀様のお話を行っています。
 ちなみに、その順番は以下のとおりです。

不動明王(初七日)
釈迦如来(二七日)
文殊菩薩(三七日)
普賢菩薩(四七日)
地蔵菩薩(五七日)
弥勒菩薩(六七日)
薬師如来(七七日)※四十九日
観音菩薩(百か日)
勢至菩薩(一周忌)
阿弥陀如来(三回忌)
阿閦(アシュク)如来(七回忌)
大日如来(十三回忌)
虚空蔵菩薩(三十三回忌)

 古来、いかなる文明も、同じ自然環境に生まれ、死んで行く人々が心の深い部分で共鳴できる物語を生みました。
 そして、〈死後の物語〉を尊んできました。
 たとえ死後への不安がきっかけであっても、死を考え、何らかの納得を得ることが今を生きる人の心を深め、磨き、豊かにするからではないでしょうか。
 物語を信じようと信じまいと、まず、知らなければ何ごとも始まりません。
 当山では、これかまでも各種の法話で十三仏様の物語をお話してきましたが、もっと具体的にターミナルケア・グリーフケアの場面で役立ってゆきたいと願っています。

2 死後の具体的な処置に関し、皆さんの考え方や希望に応じた多様な対応を可能にする準備を行う。
  
 現在、一般墓地、規格墓『法楽の廟』、共同墓『法楽の礎』、無縁墓『五輪の塔』があります。
 加えて、樹木葬を行う準備にとりかかっています。
 また、やむを得ず直葬(ジキソウ)される場合も、御霊とご尊家様方の安心のため、できるかぎりの修法を行っています。
 お骨がいかなる形で弔われようと仏法による守護をきちんと行い、葬送のスタイルにかかわらない安心を得ていただきたいと願っています。

 池へ落ちた木の実から始まる波紋が拡がるように、「法楽寺青山会」の活動が仏法の復興をもたらし、社会の潤いとなるよう願っています。

〈潤いの嬉しさ、ありがたさ〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.18

寺子屋『法楽舘』開講 ─第十回の予定(変更)─

 9月11日(土)午後2時より、法楽寺講堂にて、寺子屋法楽舘』の第10回目を開催します。

 第10回目では、前回に引き続き映画「蘇る空海」(下巻)の鑑賞を行う予定でしたが、NHKライブラリー『チベット死者の書』を題材にお話し申し上げます。

 チベットの人々は死を怖れません。
 なぜなら、「死者の書バルド・トドゥル)」を学び、死後の世界を明確にイメージしているからです。
 死は生の断絶ではなく、生の続きとしてやってくる状態であり、生じたり滅したりしているのはモノとしての肉体だけであって、心はなくなりならないと説かれています。
 それを「心相続」といいます。
 このドキュメンタリー映画で、やしゃ孫までいるお祖父さんは述懐します。
「この世での役割は終わりました。
 望みは早く死を迎えたいことだけです」。
「来世は何に生まれてもよい。
 み仏の導きに従うだけです」。

 心理学者カール・ユングは、晩年、密教のマンダラを知り、『チベット死者の書』を読み、「魂の秘密を解き明かす生涯の伴侶に出会った」と言いました。
 映画監督宮崎駿は、「もののけ姫」を作る過程で、この映像をくり返し観たそうです。

 死後、バルド(日本では「中有」)と呼ばれる49日間、転生するまで毎日読まれ続ける「死者の書バルド・トドゥル)」はこう終わります。
「よく聞くがよい。
 今こそ頭をまっすぐ上に立てて行け。
 残してきた者たちへの執着を捨て、人間界へ至る青い薄明かりに近づくのだ」。

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 ナレーター尾形拳の声は忘れられません。
「死を思い、死を見つめることだけが真実の人生をつくり出すという生と死の秘密がこめられているのだ」。
 共に鑑賞し、共に考えましょう。

〈この花の「いのち」はどこへ行くのでしょう〉

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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.17

『法句経』物語18 愚闇品(グアンボン)第十三「第一話(その1)」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 昔、あるところに大富豪のバラモンがいました。
 もうすぐ80才になろうという彼は、抜きがたい愚かさを抱え、物惜しみと財欲のままに生きており、箸にも棒にもかかりません。
 道徳を意識せず、死が迫る無常を考えず、別荘などこれ以上求められないほどの家屋敷を手にしてすら、なお、普請に精を出しています。
 今また、自分で人々を差配して立派な日よけを作ろうとしています。

 彼を観た釈尊は、今日の日没までに亡くなることを知りました。
 ところがそれとも知らぬ彼は、モノにかまけるだけで心に福徳を持たず、来世にこそ苦界が待っているとも知らないやせ細った老人でしかありません。
 哀れとおぼしめした釈尊はアーナンダを連れて彼の邸宅を訪ねました。
「そんなに一生懸命になって、さぞやお疲れでしょう。
 これほどの邸宅は何を安んずるためなのですか?」。
「表座敷は来客をもてなすため、奥座敷は自分が居るため、両脇の座敷はそれぞれ、子供たちや財物や使用人などが用います。
 暑い夏には涼しい台上で過ごし、寒い冬には暖かい部屋で過ごすのです」。

 釈尊は老翁に語りました。
「貴方のご人格は耳にしていました。
 少しお話しませんか。
 たまたま、すばらしい経文を聞いたところです。
 人生に役立つように思われるのでお伝えしたいのです。
 どうもよくわからないところもあり、一緒に考えませんか」。
「今は忙しくて時間がありません。
 後日あらためて考えましょう。
 今日は、経文だけを説いてください」。
 釈尊は説きました。
「愚かな人は、子供や財産だけに汲々としている。
 そもそも、自分すら確たる自分のものではないのに、なぜ、そうした〈我がもの〉に執着するのか。
 愚かな人は、暑い時はあそこで過ごそう、寒い時はあそこで過ごそうと思いめぐらすばかりである。
 どこにいようとも、自分の人生が時々刻々とすり減っている現実を考えない。
 愚かな人は自分の愚かさに気づかず、自分を智慧ある賢者と思っている。
 最も愚かな人とは、自分を真の賢者だと思っている人である」。

 彼は言いました。
「よく、この経文を説いてくださいました。
 とにかく今は慌ただしいので、後日、さらに論じてください」。
 こと、ここに至ってはやむを得ません。
 釈尊は深く憐れみつつ、その場を去りました。

 すぐ後、落ちた垂木が頭に当たって彼のいのちは過ぎ去りました。
 家族は泣きながら周囲へ知らせ、釈尊はそれほど遠くまで行かないうちに、この変事を聞きました。



 私はご葬儀の導師を幾度となく務め、数多くの「お別れの言葉」や「弔辞」を聞いてきました。
 故人は大富豪から生活保護を受けておられる方まで、さまざまですが、聞く者の胸に響くのはやはり、故人のお人柄です。
 人生を生き抜いた人が去った後、この世に残る真実とは、結局のところ、生者の心に残る死者の心であるとつくづく感じます。
 お祖父ちゃんはモノを遺さなかったけれど、キャッチボールした手に残した強いボールの感触が、孫にとっての宝ものだったりします。
 モノはあってもなくても、それなりです。
 しかし、佳き人格の香りを遺せなかった方は、やはり、淋しく感じられます。

 次回は物語の後半です。

〈清涼・高潔〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
08.16

お盆供養会が終わりました

 朝はどしゃぶりの雨で涼しく、修法が始まる頃は笹倉山をバックに糸のような雨、そして、平和観音様の前で奉納剣を始めた時は晴れと、お天気に恵まれ、講堂いっぱいの善男善女のお心を受けたお盆供養会は、無事、終了しました。
ゆかりびとの会」役員のメンバー、隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者たち、そして清浄な布施行をされる方々の有形無形のお支えがあってはじめて、ご本尊様、ご先祖様、戦没者の御霊、有縁無縁の諸精霊をしっかりごくようできましたことを、あらためてお礼申し上げます。
 供養の功徳がこの世もあの世も照らし、潤すよう祈っています。

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隠形流居合の行者たち〉
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〈守本尊様と私たちの感応を妨げる魔ものを切ります〉
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〈私たちを迷わせる四魔を切ります〉
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〈夕暮れに咲く花と『法楽の礎』の仏神〉
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〈五如来様の意を体してお救いくださる十一面観音様〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
08.15

お盆供養会・施餓鬼について(2)

 四国霊場を巡拝する方々が唱える「万霊供養盂蘭盆和讃(バンレイクヨウウラボンワサン)」があります。

 夕べ涼しき 迎え火の
 火影(ホカゲ)に法(ノリ)の道慕い
 親族(ウカラ)の御霊(ミタマ)帰ります
 迎えていざや供養せん

 思えば我らは久遠(クオン)より
 七世(シチセ)の父母や六親と
 恩愛契り浅からぬ
 (エニシ)をつなぐ身なりけり

「迎え火」
 諸人(モロビト)の 深き(エニシ)ぞ忍ばるる
 御霊祭(ミタママツリ)の灯火(トモシビ)の影

 ここには、火を目印として親族が迎える家へ帰る御霊を迎える嫋々とした思いがあります。
 いつもは忙しく過ごし、今のいのちと未来への希望だけで生きている私たちが、足を止め、伴走者として影のように走り、あるいは後から見守る者として過去世を担った方々がゆっくり追いついて休息し、共に過ごすひとときを持つというイメージが色濃く表されています。
 お盆には、私たちも、御霊方も、足を止めているのです。
 未来への視線が一旦〈今〉へ向けられ、異次元の存在でありながら共に居てくださる方々と一緒に、ゆっくり流れる時間を共有します。

 異次元には、自分の血につながる御霊だけではない有御霊もおられます。
 中には、供養を受けられない境遇の御霊もおられます。
 自分とのある御霊だけを選んで供養するのは、「自己中心を離れ、見返りを計算せず、相手を選ばず、時に応じ、事に応じて相手のためになることを行う」という布施の精神に反します。
 だから、
「南無先祖代々一切精霊(ショウリョウ)」
「南無三界万霊(サンガイバンレイ)」
と唱え、異次元の方々すべてを供養する中に、最近逝ったお祖母ちゃんやお祖父ちゃんも含まれるという形で供養するのが人の道です。

 そして、特に、餓鬼道に堕ち、生きものとして最も悲しい「飲めない、食べられない」という境遇で苦しむ御霊をお救いくださる如来様や観音様をご供養申し上げ、自分のご先祖様を供養する功徳の一部もお分けして回向を行い、餓鬼道からの脱出を願う「施餓鬼」も行うのです。
 あるいは、いまだに人知れず北方のシベリアなどで、南方の島々などで遺骨を曝しておられる戦没者の御霊も供養するのです。

 ぜひ、共に広く供養を行うお盆供養会へご参加ください。
 当山へご先祖様を託しておられるかおられないかに関係なく、お詣りし、み仏方と万霊をご供養してください。

〈共に……〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2010
08.14

お盆供養会・施餓鬼について

 お盆供養会においては、先祖供養を通じて自分が生かされている事実を新鮮な感覚で受け止め、いのちのバトンタッチへ敬虔な気持を持つことが大切です。
 ご先祖様の数は、10代さかのぼると1、248人になり、20代さかのぼると2、097、150人になります。
 そして、自分がいま生きていることに直接、間接にかかわってくださっている人々の数を考えてみれば、ご先祖様方も同じようにたくさんの人々のおかげで生き、いのちをつないでくださったわけですから、「自分のいのちは自分だけのもの」などとは、とうてい言えません。
 そして、人間が生きていられるのは、食べものとなっていのちを差し出してくれる生きものたちなど、環境世界の〈おかげ〉もあることを忘れないようにしましょう。

 また、お盆には施餓鬼(セガキ)の修法が合わせて行われることに留意しておきましょう。
 私たちは、どれほど一生懸命に生きているつもりでも、必ず後悔するような失敗をやらかすものです。
 それは人生という旅路の途中で起こる試練であり、修行へ誘う機会にもなりますが、失敗の内容によっては、この世でももちろん、死後に地獄界や餓鬼界へ堕ちる可能性があります。
 そして、この世の人々の追善供養によって苦しみを脱する御霊もあれば、供養を受けられず、苦しみの世界で彷徨ったままになる御霊もおられます。
 私たちが今、ここで人間として生きていられる事実を直視する時、直接、縁のあった御霊はもちろん、そうでない御霊の方々へもまた感謝の心が起こるならば、もしかすると苦しみの世界におられるかも知れない方々へ供養し、その功徳を回向(エコウ…回し向けること)しないではいられなくなります。
 そこで、特に、飲めず食べられない、生きものとして最大の苦を味わっている餓鬼界の御霊へ法のお布施を行う施餓鬼が行われます。

 経典は、五如来様方が餓鬼界からお救いくださる内容を詳細に説いています。

 宝生如来(ホウショウニョライ)様は、貪りの心から生じた悪を除き、自らを浄め、他のためになろうとする心を復活させます。
 妙色身如来(ミョウシキシンニョライ)様は、餓鬼の醜悪な姿形から、清らかな心にふさわしい姿に変えます。
 甘露王如来(カンロオウニョライ)様は、浄められた心身へ、最高の教えを伝え、真の喜びを与えます。
 広博身如来(コウハクシンニョライ)様は、針のように細くなった喉を広げ、飲食の自由をもたらします。
 離怖畏如来(リフイニョライ)様は、恐怖を除き、餓鬼界から解脱させます。
 こうした法によって導く如来様方の使者として、観音菩薩様がこの世で苦しむ私たちのそばで、あるいは餓鬼界の御霊に寄り添い、苦を除いてくださるのです。
 だから、供養会では、「南無(ナム)先祖代々一切精霊(ショウリョウ)、南無(ナム)三界万霊(サンガイバンレイ)」とお唱えするのです。

 無限の過去にさかのぼるご先祖様方、ご先祖様を支えてくださった方々、今を生きる私たちを支えてくださっている方々、そして、この世でもあの世でも因縁によって苦しんでおられる有縁無縁の方々、すべてへ供養のまことを捧げるのがお盆供養会です。
 ぜひ、供養会へ参加し、感謝と供養のまことを捧げてください。

〈白く咲く花〉
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2010
08.13

驚きは導き

「生活のために大学教師をしている武道家」とまで言う思想家内田樹氏は、とても肝心な指摘をしています。

「武道では胆力というんですけれど、驚かされちゃいけないということを教える。
 驚かされないための秘訣は、いつも驚いていることなんです」


 そして、「驚かされる」は受動的だけれども、「驚く」は能動的であるとし、自分から「へえ、こんなことがあるんだ」「これはびっくり」と「説明できないことを日常化」しておくことを勧めています。
 そうすると、人智を超えるようなできごとに遭遇しても「そういうことってあるよね」と考えて平然と対応できるので、目を閉じて動けなくなって被害を被ったり、怪しいオカルティストに騙されたりすることもなくなるとしています。

 哲学者九鬼周造

「哲学は驚きに始まり驚きに終わる」


と言いました。
 驚かされるだけでなく、驚く人は「なぜ?」、「これは何?」などと考えます。
 驚きは謎を提供します。
 そして、私たちは謎へ挑戦します。

 釈尊が恵まれた境遇を捨てて行者になったのも、お大師様が出世コースを捨てて行者になったのも、「なぜ?」を決して脇へ置けなかったからだろうと考えています。
 若き日の釈尊は無常に打たれ、お大師様は探求心を止められなかったのでしょう。
 だから、釈尊の仏教をふまえてお大師様の法を行ずる密教では、自他の救いとなる悟りを求める「菩提心(ボダイシン)」と、より高いレベルを求めてやまない無限向上心である「勝義心(ショウギシン)」とを二本柱として修行します。

 新鮮な驚きは、すなおで、清浄で、感受性のある心に生じます。
 澄んだ鏡はあらゆるものの輪郭を明らかに映し出し、あらゆるものの持つ本来成仏している証である輝きを隠しません。

 画家長谷川潾二郎は書いています。

「朝起きて夜具をたたむ
 面積が突然変わる
 大がたちまち小になる
 このような奇蹟に驚かずに
 私達は生きている」


「目前にあるものが美に輝く時、それは神秘の世界から現れた贈物のように見える」


 さまに〈美〉に驚く人の面目躍如です。
 前述の哲学者九鬼周造は、〈真〉に驚く人と言えます。
 そして、〈真・善・美〉に驚くお大師様は、
「真実を観る目で眺めれば、世界はみ仏の智慧と慈悲に満ちている浄土であり、身体と言葉と心のはたらきをみ仏に合わせれば、私たちはみ仏の子であることが実感できる」
と喝破し、即身成仏の真理を明らかにされました。

 内田樹氏はこうも言いました。

「どうふるまっていいかわからないときに、適切にふるまいというのは、生物の生存戦略の根幹なんだけれど、そういうことを教えるのが文学の一つの仕事なんです。
 文学は人知を超えるような経験をしたときのふるまいかたを教えてくれる。
 人間の理解を超えたものとコミュニケーションをとるときにはどうすればいいかを教えてくれる。
 わりと簡単なんですけどね。
 あわてない。
 じっくり出来事を観察する。
 それから、どうしていいか知っていそうな人を探し出して、その人から助言なり支援なりを得る。
 それだけのことなんです」


 ここでは、文学の仕事と賢者の仕事を教え、二つが活き活きと生きる上で欠かせないことを示唆しています。

 尊いものをすなおに尊び、合掌しましょう。
 文学や新聞に親しみましょう。
 み仏の教えに学びましょう。
 そして、新鮮な驚きに満ちた人生を揺るがずに生き抜きたいものです。

 ──さあ、お墓詣りで合掌し、何かを感じられるでしょうか。

〈驚かされ、驚きます〉
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2010
08.12

魂入れ・開眼供養とは何か?

 おを建てても、ご本尊様として仏像を購入しても、魂入れ開眼供養を行わなければ、地の目印であり、飾る美術品であるだけです。
 行者修法を行い聖なるものが宿ることによって初めて真の祈りの対象となり、救済の力を発揮します。
 ではその場合の修法とは何か?

 ここにお次第は示せませんが、イメージ上のポイントを書いてみます。

 まず、目的とする対象へ結界を張ります。
 結界とは、法によって内と外を分けることです。
 たとえばご祈祷を行う時は、祈祷するスペースの四方に柱を立て、地の不浄を祓い、周囲と上方へ壁を廻らせ、魔の侵入を防ぎます。
 そして、深い迷いを持った方や、因縁のある人形などへも結界を張り、対象となるものを限定して法を届かせるようにします。
 たとえば石の魂入れであれば、地の区画と、参列者のいる一帯とへ二重に結界を張り、魔の侵入を防ぎます。
 そして、石へも結界を張り、対象となるものを限定して法を届かせるようにします。
 必ず魔の侵入を防ぐのは、異次元に入ると、日常的な感覚ではキャッチできない次元にあるものとの感応が起こりやすく、そこで障りなどが起こらないようにするためです。
 悟りを開く直前の釈尊も、魔ものたちの来襲を結界によってはね返しました。
 欲を引き出そうとするあらゆる誘惑も、智慧をもたらす心のおさまりを乱そうとする脅迫も結界の内側へは届かず、魔ものは退散するしかなかったのです。

 次に結界内を浄め、み仏のお力をいただいたり、み仏に降りていただいたりする準備を行います。
 キャンバスは白くなければなりません。

 そして目的に合った力を対象へ集中的に投入します。
 ちょうどレーザーによってガン細胞を照射するのと同じです。
 また、み仏に降りていただく場合には、そこへお呼び申し上げ、俗世間との間にあるベールを消すようなイメージで修法します。
 すると、石であれ、仏像であれ、存在の力がまったく異なるように感じられます。

 仙台市在住のAさんから人生相談がありました。
 ご家族が急逝され、混乱の中で僧侶の派遣を受けたところ、枕経とお通夜とご葬儀が別々の僧侶によって行われました。
 3人ともそそくさと帰り、法話や修法についての説明も一切なく、手元に残った白木のお位牌を眺めるにつれ「決して魂が入っていないに違いない」としか思えず、修法をやり直して欲しいという内容でした。
 恐ろしいお話です。
 修法で行われることは、モノのやりとりではありません。
 行われるべきことがきちんと行われるかどうかを判断してから依頼せねば、とんでもないことになります。
 風邪気味で医者にかかる場合ですら「あそこが良い」と調べてから足を運ぶのに、人を送るという人生の大事を託す場合、紹介者任せにするのはいかがなものでしょうか。
 便利で、手軽で、安いといった誰にでもわかりやすい価値判断の基準は、モノの世界でのみ有効です。
 宗教行為について頼りになるのは自分の霊性であり、価値判断の基準は自分の魂にしかありません。

 では、行者魂入れを行った墓石の前にぬかづくと気持がスッと故人へ届くように感じられるのはなぜなのか?
 もちろん、そこに導き手としてのみ仏がおわすので当然ですが、こうしたできごとは、やはり、霊性仏性という万人に共通の精神世界があるから起こると考えざるを得ません。
 修法を行っている時の行者は、限りなく霊性そのものの存在に近づいています。
 そこで結ばれた法は、いわば修法の痕跡です。
 墓石の前で至心に手を合わせる人は、霊性がその痕跡と共鳴し、共振するのではないでしょうか。
 ユングをはじめとして精神科学は無意識の世界の広大さに気づきましたが、仏法の行者たちは、とうの昔に意識下の意識を考え、表面の意識を動かしてそこへ至る手順を練りに練って今日に伝えています。
 それが修法のお次第です。

 行者はただただ、お次第を信じ、み仏を信じて修法を行います。
 善男善女は、ぜひ、心を澄ませて魂入れの行われたお墓やご本尊様の前で合掌していただきたいものです。
 そこで感じられる何かが、「魂入れ開眼供養とは何か?」への確かな答となることでしょう。

〈確かな存在〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.11

『大日経』が説く心のありさま六十景 その8「疑心(ギシン)」

 私たちの仏性が輝こうとする時、邪魔をする心の曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第8回目です。

8 疑心(ギシン)
 これは、心に不確定なものを抱えたままになっている状態です。
「常に不定(フジョウ)などのことを収持(シュウジ)す」。
 ものを真剣に考える人であれば、すべてを知り尽くして安心するのは不可能であると知っておられることでしょう。

 たとえば、自分が生まれてから3才あたりまでの記憶は消えており、「この世に出て何を考え、どう生きてきて今の自分があるのか」は、事実として知り得ません。
 それは、脳が発達する段階で、立って歩くなどの〈考えなくてもできるプログラム〉を刷り込むために、胎内にいた時の記憶を含めて邪魔なものは意識の表面から切り離し、隠してしまわねばならないからです。
 しかし、私たちは、それすらも知りたいと願うことは可能であり、「私は1才時の記憶がある」などという話に興味を持ったりします。

 たとえば私は、青春のある時期、未来に絶望してから中年で出家するまで、ずっと「自分の居るべき世界はどこだろう」という意識が消えず、浮き草状態でした。
 何をやっても、何を得ても、表面的な充足感や表面的な満足感でしかありません。
 決して離れない「不定」を伴走者として突っ走り、高転びに転びました。
 出家して後、いつからかこの意識は消えていましたが、それは結果でしかなく、自分では回答を見つけられませんでした。

 このように、知り得ないはずの事実まで知りたいと望む意識を持っている私たちは、「不定」を抱えた存在です。
 ではどうすれば良いか?
 大きな定まりを心に保ち、消えない「不定」を相対的に小さな存在にしてしまうことです。

 たとえば商売であれ、家事や育児であれ、生きがいのある仕事に没頭しているならば、「3才時の自分が思い出せない」、「自分は今、こうやっているべきなのだろうか」などと悩む余裕はないはずです。
 自分の与えられた環境で自分に求められていることを真剣にやってみましょう。
 そして、そうやって生きている自分はまっとうな人間であるかどうか、時折チェックしてみましょう。
 仏法はこのチェックポイントを明確に示しています。
 もちろん、完全な人間はいません。
 いたならば生き仏です。
 だから、至らないところだらけであるのは当然です。
 それを抱えたままでまっとうに生きているかどうかだけが問題なのです。
 この件に関して悩む必要はありません。
 ただ、省みる姿勢を失わければ良いのです。
 省みる姿勢自体、すでにまっとうであると言えるからです。

 こうして、今日も「よしっ!」と一日を始められるならば、「不定」は、はたらきを静め、疑心という魔ものは消えることでしょう。

〈眺める者を無心にさせつつ、無心に咲く花々〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.10

最後の一歩 ─柔道家鈴木桂治氏─

 平成20年8月14日、北京オリンピックの柔道男子100キロ級の一回戦で、金メダル獲得が濃厚と思われた鈴木桂治氏は、モンゴルの選手に両足を取られて一本負けを喫しました。
 敗者復活戦でもドイツの選手に一本負けして28才のオリンピックは終わりました。
 
 選手団の主将を務める大会前に「北京オリンピックを柔道人生の区切りにしたい」と宣言していたとおり、身体を極限まで酷使する稽古によって万全を期していました。
 衆目もそれを認め、実力は誰しもが評価していました。
 それでいながらなぜ、柔道人生初の〈1日に2敗〉の屈辱にまみれたのか──。
 
 朝日新聞の「順風満帆」で、30才になった鈴木桂治氏は率直に告白しました。
「試合の前日、僕はもう終わっていた」。
「宿舎の自室でふと思ったんです。
 明日で引退だ、やっと解放されるんだ、と。
 外国選手の捨て身技にやられるような半端な練習を、僕は積んできていない。
 でも、やられた。
 100㍍競走でいえば、98㍍地点で力を抜いたんです。
 あんな負け方をするのは当然だった」。

 あまりの負け方に一旦、引退を決意した鈴木桂治氏は先輩たちのひたむきな姿に勇気づけられ、意地が頭をもたげました。
「負け方が、どうしても納得できなかった。
 このままやめれば、徐々にみんなに忘れられていく。
 それでもいいのか」。

 平成18年の秋、国士舘大学出身選手の五輪出場祝賀会に出席した鈴木桂治氏は、ついに再起をめざして立ち上がります。
「僕は日本選手団の主将をやりました。
 でも、その重圧で負けたわけではありません。
 ここに福田団長がおられますが、もし僕がロンドンオリンピックに出られたならば、もう一度、僕を主将に選んで下さい」。

 実際、彼が試合前日に〈一日早く味わってしまった〉開放感によって敗れたのかどうかは、穿鑿しても意味がありません。
 そうした因果関係を事実として確認するのは、できない相談です。
 彼が後日、自分の心の状態を省みて、そこにしか原因を求められないと気づいた真実のみが彼の人生で意味を持ち、逆襲の狼煙を上げさせました。

 この記事には衝撃を受けました。
 私にも充分すぎるほど思い当たるできごとがあったからです。
 それに気づかず、還暦を疾うに超えていました。
 ふり返るといささか慚愧の思いも起こりますが、もはや、過去の一ページでしかありません。
 準備である修行と本番である法務は表裏一体となり、波濤に不自由しない毎日は流れるように過ぎゆきます。
 短い声明(ショウミョウ)の中で、引き絞られた弓の糸のように揺るがせることなく声を保たせる部分と、経典に従って声を揺らす部分とを精密に分け、イメージどおりに唱え終わられるかどうか。
 こうした小さな務めに行者生命をかけて実践と確認をしながら何とかいのちをつないでいます。

 これからの若い方々には、開放感を一日早く味わいたくなる誘惑に負けず、最後の一歩をしっかり踏み出していただきたいと切に願っています。
 そして、もはや脇目を振らずただ歩むだけになってしまった方々には、きっとある日、咽が渇くようにやってくるであろう開放感への渇望にはすなおに従い、み仏の救いを味わっていただきたいと願うのみです。

〈再びの朝〉
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2010
08.09

平和の泉 ─宗教心の原点─

 8月9日、長崎は65回目の「原爆の日」を迎えます。
 そこで行われる献水は、私たちが〈この世〉でない魂の世界を信じていることを示しています。
 清浄な宗教心の原点が明らかになっています。
 建前上「宗教行為ではない」から、誰も宗教的見地から問題にしてはいません。
(もっとも、宗教行為ではないかと不満を持ちながら、世界的規模の平和式典のゆえに声を上げない方々もおられましょうが)
 しかし、特定の仏神の導きによるかよらないかという形式の問題ではなく、〈あの世〉の存在を前提にして敬虔な気持になる以上、まぎれもない宗教行為です。

 長崎市の平和公園内にある「平和の泉」には、9歳で被爆した橋口幸子氏(74才)の言葉が刻まれています。

「のどが乾いてたまりませんでした 水にはあぶらのようなものが一面に浮いていました どうしても水が欲しくて とうとうあぶらの浮いたまま飲みました」。


 被爆後、弟と二人で爆心地から2キロにあった防空壕を出て200㍍先の川へ行った橋口幸子氏は、原爆によって油が浮いていた川面を見て一瞬躊躇したものの、飲まずにはおられず、二人とも無言のまま、ひらすら飲んだといいます。

 式典では、水を求めながら得られずに死んでいった、あるいは橋口幸子氏と同じく油だらけの水を飲んだ御霊に清浄な水を飲んでいただきたいという趣旨で、「平和の泉」から汲んだ水が捧げられます。
 参加する人々は、誰も、御霊が水を飲むかどうかなどという〈行為の科学的根拠〉などを求めません。
 ひたすら「飲んでいただきたい」と念じて捧げます。

 ここにある真実は三つです。
 まず、御霊の存在。
 そして、思いが届くという確信。
 そして、有縁無縁の御霊の思いを忖度し、65年を経た今も水を捧げないではいられない霊性から発する尊い気持です。

 こうした真実を考えた上で献水を行うかどうかは問題でありません。
 実際に献水を行う方々は尊い心に導かれ、それを知って手を合わせる方々は、心の命ずるまますなおに御霊との交流が行われる事実の尊さを共有するところに、宗教的真実が顕わになっています。

 個人の自由を確保したいがために、社会的宗教行為を抹殺しようと血眼になってきた日本の半世紀──。
 世界にほとんど類を見ないほど徹底的に町内会や学校での行為がチェックされ、「いただきます」の合掌すらできなくなってしまった私たちの日本……。
 見事なまでに公的な面を持つ仏事や神事が排斥された今でも、「世界の平和」のためであるというお題目の陰に隠れているとはいえ、霊性から発する光によってこうした社会的宗教行為が行われるのは大きな救いです。
 何よりも、未来を担う子供たちへ、社会が大切な倫理教育、宗教教育を行えるからです。
 尊いものを尊いと感じる宗教心が薄れ、親子や生徒同士ですら殺し合う殺伐とした精神状況を転化するきっかけになり得るからです。

 今は、家庭においてしか、子供たちへ宗教教育ができません。
 隣のおじさんやおばさんですら、うっかり「食事の前には合掌して、いただきますを言おうね」と教えられない異様な社会になりました。
 (ガ)の解放が無条件の社会的正義とされ、霊性が教えてくれる尊い世界との交流は特殊な宗教団体や、非宗教的雰囲気の各種カウンセリング団体などに委ねられています。

 私たちは、宗教的空気を吸いながら生きないと霊性が塞がれてしまう恐ろしさに気づかねばなりません。
 また、霊性が正しく開かれないとたやすく妄想が生まれる恐ろしさにも気づかねばなりません。
 日本の現況はそれを如実に教えています。

 もちろん、社会が特定の宗教で個人を縛ってはなりませんが、現在の日本の状況は、敗戦によって「羮(アツモノ)に懲りて膾(ナマス)を吹く」姿になったままではないでしょうか。
 国家神道が戦争の道具にされたからといって社会から宗教行為を撲滅しようという行動には、口にした羮(熱いお吸い物)がひどく熱かったので、冷たい膾までふうふう吹いて冷まそうとする滑稽さが感じられます。
 こうした機会に、社会的に開かれた状況で霊性が輝くことの価値をしっかり再確認しておきたいものです。
 また、日本人の伝統的宗教感覚を破戒して自分たちの宗教を広めようとする特定の宗教団体による執念が、社会から宗教行為を撲滅しようとする風潮を煽っているという事実もまた知っておきたいものです。

〈大地に根ざす真実〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
08.08

寺子屋『法楽舘』開講 ─第十回の予定─

 講堂にて、寺子屋法楽舘』の第10回目を開催します。

 第10回目では、前回に引き続き映画「蘇る空海」(下巻)の鑑賞を行い、それを題材にしたお話と、「生き方の25の指針」についてのお話を申し上げます。
蘇る空海」は、住職も会員になっている『密教21フォーラム』が製作したお大師様と仏法について学ぶための貴重な映像です。
 下巻では、いよいよ密教のシステムと、「人間の意識と精神の未来のために(ナビゲーター松岡正剛氏の言葉)」お大師様が行った精神レベルの分析についてわかりやすく説明されます。
 また、即身成仏の真実、お大師様が21世紀の私たちへ遺してくださったものなども示されます。
 宗教心はどのような構造になっているのか、私たちはどこから来てどこへ行くのか、などなど、考えさせられるポイントが山積みです。
 質疑応答も行います。

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 どうぞ、ふるってご参加ください。
 老若男女が、フランクに人生の大事や疑問を語り合いましょう。

○日時:9月11日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

寺子屋法楽舘」について】

 寺子屋では、み仏の教えによってきちんとものごとを見、なかなか変えられない心を願う方向へ変え、明るい運命を創る方法を身につけていただきたいと願っています。
 真実を知り、考え、学び、自分にできる善行を実践しましょう。
 そして、他人へ優しく、自分へ厳しく、社会的に正しく、親しい間では和やかさを保ち、尊いものをすなおに認め尊ぶ円満な「心」と、適切に用いられる「言葉」と、活き活きした「身体」をつくるきっかけにしていただきたいと願っています。

 実践の日記『戒名の真実 ─住職による現場からの証言─』(製本:法楽寺・B5版187ページ・ご志納金1000円)をお分けしています。
 実践の日記『脱「檀家」宣言 ─仏法の復興をめざす現場からの報告と提案─』(製本:法楽寺・B5版296ページ・ご志納金1000円)もお分けしています。
※これは、ブログ『想いの記 ─住職の本音・本心・本気─』へ書いた過去5年間の記事から戒名や檀家や葬儀に関する文章を抜粋して加筆修正したものです。



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
08.08

寺子屋『法楽舘』第九回が終わりました

 8月7日、予定通り、寺子屋法楽舘』を開講しました。
密教21フォーラム』の作製によるVTR「蘇る空海」が示す密教世界の成り立ちはとてもわかりやすく、楽しみにしておられた皆さんにとてもご納得いただけた感があります。
 密教のスタートはなぜ釈尊でなく大日如来なのか、世界の宗教あるいは思想史上でまれに見る一対のマンダラは何を表しているのか、五輪の塔は何の象徴なのか、あるいはご本尊様と導師の間になぜ四角く巨大な壇があるのか、などなど、皆さんは目からウロコの落ちる思いをされたのではないでしょうか。
 次回は「蘇る空海」の下巻を観ていただき、質疑応答も行う予定です。

 法話においては、私たちの心を円満に成熟させるための5つの心構えのうち、第三番目「正しさ」についてお話しました。

 どうすれば人は正しく生きられるのでしょうか?
 もちろん、釈尊の説かれた「八正道」はその完全版というべきですが、他人へ対しする「優しさ」や、自分へ対する「厳しさ」などと並列に考える場合は、「を忘れずに生きる」ことが指摘されます。

①国家社会のを忘れない 私たちが朝、起きて水道の蛇口をひねると水が流れ出て、飲んだり、顔を洗ったりできます。
 これは、日本が生活インフラの整備されている社会だからです。
 そもそも、夜の安眠が保証されるのは、日本人の道徳水準が高く、社会のシステムが治安を確保しているからです。
 不満をそれぞれにあっても、こうした社会で日々を生きられるのは「おかげさま」と言わねばなりません。

②親と先祖のを忘れない
 自分が今、ここにいられるのは、無限のご先祖様がいのちのバトンタッチをしてくださり、直接的には親がそれを受け継ぎ、渡してくれたからです。
 喜びも怒りも、悲しみも楽しみも、満足も不満も、皆、生きていればこそです。
 たとえ内容がどうであれ、生きてものを考え、口にしている以上は、生きていることへの肯定が前提であり、「生きている」事実を深く観ずる時、霊性は自然に感謝の思いをもたらします。

③衆生と自然のを忘れない
 人がいて、食べものとなる生きものがいて、空気や自然があってこそ生きていられます。
 器となって自分を受け容れている自分以外の環境世界を「器世間(キセケン)」と言います。
 大地も、川の水も、太陽の熱も、風も、大空も、人間の存在を支えてくれています。

④師のを忘れない
 この場合の師とは、第一義的には仏法を伝えてくださった師僧を指します。
 広く考えれば、学校の先生も、会社の先輩も、習い事の指導者も皆、師です。
 さらに考えてみれば、心を和ませ自然界の不思議を教えてくれる一輪の野辺の花も、いのちの尊さを教えてくれる闘病中の方も、皆、師です。
 生涯「阿字観(アジカン)」、「月輪観(ガチリンカン)」という瞑想修行を続け、「月の行者」とも称される明恵上人にまつわる逸話です。
 上人は、馬を洗う人が馬の足を上げる際に「あじ(足)」と口にするのを聞き、庶民が「阿字」と言っていると受け止め、感動して合掌したとされています。
 心がけ次第で、ありとあらゆるものが師となります。
 何とありがたいことでしょうか。

⑤仏宝、法宝、僧宝のを忘れない
 こうしたことごとを考えていられるのは、み仏がおられ、その教えと法が今に伝わり、それを学び、守る人々がいるからです。
 僧宝は僧侶とは限りません。
 仏法を守る心のある方であれば、たとえトマト一個を寄進される方も立派な僧宝と言うべきです。

 恩を思い、感謝を忘れない姿勢こそ、人間として正しく生きる土台です。
 老若男女がこの教えを学び、誰しもが「おかげさま」と口にするようになれば、どれほど明るい社会になることでしょうか。

 ご質問の中に「百歳を超える方々の行方不明をどう考えるか?」がありました。
 もちろん、直接的には、家族間の絆が壊れたことが原因ですが、さらに考えてみれば、無意識のうちに自分が中心にいて泣いたり笑ったり、儲けたり損したりといった〈日常的意識〉の奥にある自己中心を離れた宗教的感覚の喪失が深くかかわっています。
 戦後、教育の現場から宗教心の涵養がまったくなくなり、核家族化によって家庭でも宗教心を教え伝える機会が薄れ、むしろ社会全体が宗教アレルギーの様相を呈しているとさえ感じられます。
 組織の拡大を競う新興宗教に不信を抱く人々は、心に問題を抱えた時、〈非宗教〉的雰囲気のある各種カウンセリングへと意識と足を向け、伝統仏教はどんどん不要なものになりつつあります。
 霊性から直接流れ出る清水のような自己中心を離れた宗教的感覚を取り戻せば、人間と人間との間にも、人間と自然との間にも、人間と仏神の間にも響き合いが取り戻せます。
 この響き合いがベースにあって日常意識がはたらけば、こうした事件も、親子や友人間の虐待や殺し合いといった殺伐たる悲劇も姿を消すことでしょう。

 
 社会へ清らかな宗教的感覚を取り戻すために伝統仏教は蘇らねばなりません。
 当山は寺離れに右往左往せず、修法の深化と布教活動の拡大に務めます。
 ゆかりびとの方々にぜひ、ご理解とお支えをいただきたいと願っています。

〈二輪〉
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〈確かな痕跡〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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