--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2010
09.30

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 56 ―チベット仏教の叡智─

 9月29日の講座は、DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」を観て、勉強しました。

2208301.jpg

1 瞑想の意義と目的

 ダライ・ラマ法王瞑想について説かれました。

 瞑想には二種類ある。
 一つは、心を一点に集中させる瞑想法であり「止」と呼ばれる。
 心を安定させ、心のエネルギーを正しく流す方法である。
もう一つは、分析的瞑想法であり「観」と呼ばれる。
 これが智慧をもたらす。
「観」は心の安定があって初めて可能になる。
 「止」の力によって心が研ぎ澄まされ、「観」の力によって分析の対象、瞑想の対象が理解できる。

 一ヶ月ほどの瞑想修行では、得られるのはリラックス程度である。
 短期間で精神的な進歩を求めてはならない。
 精神的変化が起きるまでには長い期間がかかるので、毎日、努力を続けねばならない。
 変化は徐々に生じる。
 悟りの境地へ至るという目的を明確に抱き、日々の修行体験を積むのが正道である。
 仏教へ過大な期待を抱き過ぎると、すぐに熱意ややる気が失せてしまう怖れがある。


 瞑想を行うと、いつも自己中心で動いている心が動かなくなります。
 その代表が「世俗八法(ハッポウ)」です。
 ①利得 ②損失 ③称賛 ④非難 ⑤名誉 ⑥不名誉 ⑦楽 ⑧苦です。
 得をすれば喜び、損をすれば悔やむ、賞賛されれば嬉しく、避難されれば悔しい、名誉を得られれば誇り高くなり、不名誉なことには卑下し、楽はいつまでもあって欲しいと執着し、苦からは逃げたくなる。
 こうして揺れ動いたままでは、自他へ真の喜びと安心をもたらす生き方は困難です。
 たとえば、木になっている一個の柿の実が落ちてくるのを待っている二匹のサルのように、〈自分の喜びを求める心〉は必ずぶつかり合うからです。
 瞑想は、瞑想に入っている間だけ通用するのではなく、必ず日常生活への視点を変えます。
 ぶつかり合う世界ではなく、〈ただ、そうして在る世界〉をかいま見ると、生き方が変わります。
 死を間近にした人が持つ「末期の目」に通じるものがあれば、「世俗八法」は遠ざかります。
 世俗を離れる修行で得られた心は、世俗の中で自他がより良く生きるために必ず役立ちます。
 自分だけの楽を求めないのが菩薩道なので当然と言えましょう。

 さて、法王が「急いで目に見える結果を求めてはならない」と説かれているのは重要な指摘です。
 キーを押せばすぐに新しい画面が現れるパソコンに親しみ、欲しいものと代金があっという間に交換されるコンビニへ出入りする生活をしている私たちの頭の中では、「すぐに結果を求める心」が育っています。
 しかし、その心だけでは、自分を変えるという大仕事は行えません。
「千里の道も一歩から」といった姿勢でなければ、仏法を血肉にはできません。
 教えを知っても、すぐに、生き方は変わらないのです。
 学んだならばくり返し復習し、瞑想もくり返し行うといった地道な努力しか、自分を変え、人生丸という大きな船の航路を変えられないことを覚悟した上で、学び、実践するようにしたいものです。

 この続きは「住職の話を聞きたい方へ」ではなく、「仏教・密教について」のカテゴリーへ引き継ぎます。




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2010
09.29

『大日経』が説く心のありさま六十景 その12「闘心(トウシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第12回目です。

12 闘心(トウシン)
 これは、他の教えを論ずる性向です。

「互相(タガイ)に是非するを性とす」


 互いに他から聞いた教えを持ちだしてあれこれ論争するだけでは、議論が魂の周囲をウロウロするだけです。
 悟りへの道で何よりも大切なのは、縁となって授けられた教えを信じ、柱として忽(ユルガ)せにしないことです。
 そうして生きる行者にとって、目の前へまな板を置き、魚を並べてどちらがどうという論議をする場面は縁のないものです。

 眼は、救いを求める人を慈悲の心で見る〈み仏の眼〉になり、耳はみ仏の耳になり、鼻はみ仏の鼻になり、舌はみ仏の舌になり、肌はみ仏の肌になり、心はみ仏の心になって智慧をはたらかせるのが修行の目的なので、あらゆるできごとへ第三者的な姿勢で対応することはあり得ません。
 み仏は常に私たちと共におられ、私たちとみ仏との距離はありません。
 あるとすれば、それは私たちの迷った心がつくっている〈かりそめの距離〉です。
 お大師様が

仏法遙かにあらず、心中にして即ち近し」

と説かれたのはこのことです。
 迷いも悟りも、鬼も仏も、心のありようで生じ、消えます。

 最近、道理とは思えないお話を聞きました。
「うっかり般若心経を唱えると、未成仏霊にすがられる」、「素人が般若心経を唱えるのは怖い」といったものです。
 これは経典を信じていない人が自分の不安を経典のせいにしている状態です。

 般若心経には、こうかいてあります。

「能(ヨ)く一切の苦を除く。
 真実なり。
 虚しから不(ザ)る故(ユエ)に。
 般若波羅蜜多(ハンニャハラミタ)の呪(シュ)を説かん」

(これがすべての苦悩を除く。
 これが究極の真実である。
 虚しいものではない。
 すなわち、般若波羅蜜多の瞑想修行法において唱えるべき真言は、こう説かれている)
 そして

「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじ そわか」

と示されます。
 つまり、般若心経は一切の苦を除き真実世界へ導く真言の功徳を説き、最後に

「無等等呪(ムトウドウシュ…比べられるもののないほど勝れた真言)」

である真言を提示して終わる極めて内容のはっきりした経典です。
 
 これほど強力な経典を読誦するのが怖い人は、せっかく切れ味の良い包丁を持っていながら、「これを使うと指がスパッと切れてしまうのではないか、あるいは誰かをスパッと切るのではなかろうか」と怖れ、なまくら包丁しか使えない人に似ています。
 料理の達人は、最高の包丁をこともなげにサッサッと使います。
 居合の達人は、目でサヤを確かめもせず、サッと剣を納めます。
 躊躇(チュウチョ)しません。
 迷いがないのです。
 不安がないのです。
 そうなるにはどうすれば良いか?
 魂が感応して「これだ」と信じたならば、それに懸け、全身全霊で修行するのみです。
  
 包丁を並べて吟味するばかりでさっさと料理をせず、あるいは剣を眺め能書きを言うだけで稽古をしない姿勢が「闘心」であるとも言えそうです。
 決心して定めた包丁や剣を手にし、自分の手と同じになるまで使いこなす修行を続ける人には、闘心が起こりません。
 心して励みましょう。

〈太陽が去り、修行の一日が終わります〉
220926 012_edited-1



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.28

10月の守本尊様

 10月は、寒露(カンロ)と霜降(ソウコウ)の神無月(カンナヅキ…10月8日より11月6日まで)です。
 10月は戌(トリ)の月なので、守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様です。

21080819 014


 阿弥陀如来様は、『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。
 そのお力により、正しく念ずるならば、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。
 ご供養し、ご守護いただき、文化の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

阿弥陀如来様は、戌年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた阿弥陀如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)〉




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.28

『四十二章経』第二十八章 ─鎮火(チンカ)─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

第二十八章 鎮火(チンカ)

「仏の言(ノタマ)わく、
『人の道(ドウ)を為(ナ)し、情欲を去るは、當(マサ)に草に大火(タイカ)の來(キタ)るを見て、巳(スデ)に却(ハラ)うが如(ゴト)くすべし。
 道人(ドウニン)、愛欲を見れば、必ず當(マサ)に之(コレ)を遠(トオザ)くべし。』


 釈尊は弟子たちへ説かれました。
仏道を歩み、色情に惑わされないためには、草原で火事が起こった時に、周囲の草を刈りはらって火が来ないようにしなければならない。
 行者は、愛欲を生じさせるものを目にしたならば、情欲が生じる前に離れねばならない」

 私たちは、見える対象物を目でとらえる時、心が動きます。
 異性を目にする自分が情欲を起こします。
 修行の妨げになるこうした心の動きを起こさせないためには、二つの方法があります。

 一つは、対象物を見ないこと、見たら離れることです。
 修行がきちんとできないうちは、対象物を遠ざけるしかありません。
 釈尊が悟りを開く最後の段階で、魔ものたちが脅しや誘惑を仕掛けてきた時にことごとくはね除けたという逸話は、法のバリアを張ったと考えられます。
 その形は今に受け継がれ、ご祈祷でもご供養でもご加持でも、法を結ぶ行者は必ず結界を張ってから行います。
 大地と四方と天とを法によって塞ぎ、魔障を容れません。

 もう一つは、対象物に惑わない心になることです。
 修行がきちんとできてしまえば、対象物が近づいても何の問題もありません。
 釈尊もお大師様も、いつ、どこで、いかなる状況にぶつかろうと、惑わなかったはずです。
 たくさんの逸話はそれを物語っています。
 それは、内面が完成しておられたので、わざわざ法を結ぶまでもなく、心そのものが金剛のようになっておられたのでしょう。

 私たち凡夫は、心を磨きながら、一方では煩悩(ボンノウ)をかき立てる対象物との距離を測りながら、大過なく過ごすよう努力するしかありません。
 この「近づけない」、「近づかない」、「距離感を考える」という教えは生涯の導きです。

〈花を見るように…〉
220926 0322




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.28

10月の行事

 10月行事予定です。

[第一例祭 2010/10/3(日)午前10:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。
 法話もあります。
 皆でうどんの昼食を食べましょう。

[「ゆかりびとの会」主催の芋煮会] 2010/10/3(日)午前11:30
 親睦会の一環として芋煮会を行います。
ゆかりびとの会」会員だけでなく、法楽寺に御縁のあるすべての方々を歓迎いたします。
 寺苑でかまどをつくり、大鍋で調理します。
 おにぎり等も用意します。
 カラオケもあります。
・場所 法楽寺境内及び講堂(雨天決行)
・参加費 一人1500円、小学生500円、5才以下無料
・申込 電話などにて
・送迎車 午前9時30分「イズミティ21」より発車(要事前予約)

寺子屋法楽舘』] 2010/10/9(土)午後2:00
・場所 法楽寺講堂
・参加志納金 1000円
・送迎車 午前9時30分「イズミティ21」より発車(要事前予約)

 講堂にて、第11回目を開催します。
 今月は、アカデミー外国語映画賞受賞作『おくりびと』において主演した本木雅弘氏などを指導した納棺師橋畑正人氏の講演を聴きます。
 私たちは逝く人をこまやかな心づかいでお送りします。
 その原点となる仕事に携わり、多くの納棺師を育てつつある橋畑正人氏のお話は、死と生を考える新しい視点をもたらすことと期待しています。
 橋畑正人氏と住職とのディスカッションや質疑応答などもあります。
 どうぞお誘い合わせてご参加ください。

 映画の下地となった『納棺夫日記』を書いた青木新門さんの意見です。
「送られてきたシナリオを見るとね、親を思ったり、家族を思ったり、人間の死の尊厳について描かれているのは、伝わってきて、すばらしいんです。
 ただ、最後がヒューマニズム、人間中心主義で終わっている。
 私が強調した宗教とか永遠が描かれていない。
 着地点が違うから、では原作という文字をタイトルからはずしてくれって、身を引いたんです」
「死者と生者のきずなが大事だよと映画は教えてくれるけど、最後は『癒やし』なんですよね。
 そこで止まっていたら、やがて人間中心主義・ヒューマニズムは、自己中心主義になるのではないでしょうか。
 癒やしだけだと、その場を取り繕うことになりかねません。
 におい消しみたいなもので、においそのものを断っているわけではない。
 においそのものを断つには、宗教的なものが必要になるんです」

 プロ橋畑正人氏のお話が楽しみです。

講話「生活と仏法」] 2010/10/13(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

[第二例祭 2010/10/16(土)午後2:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

瞑想会] 2010/10/16(土)午後4:00
「阿息観(アソクカン)」、「月輪観(ガチリンカン)」などを行います。
 呼吸法と瞑想法を学び、心身を整えましょう。

[機関誌『法楽』作り] 2010/10/25(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

講話「生活と仏法」] 2010/10/27(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

[お焚きあげ] 2010/10/28(木)午前10:00
お不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。28日とは限りません。いつでも結構です。

[隠形流居合道場] 毎週金曜日午後7:00
仙台市青葉区旭ヶ丘「青年文化センター」にて「隠形流居合」の稽古を行っています。
入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
--------------------------------------------------------------------------------

※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

〈自由に……〉
220926 0372




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.27

10月の真言

 10月の守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あみりたていせい から うん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


〈ただ、無心に〉
220926 0452




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.27

さようならは言わない

 事故で急逝されたAさんのご葬儀を行った時のことです。
 10代の仲間たちそれぞれが短い別れの言葉をしたため、代表者が読み上げました。
 まるで示し合わせたかのように、全員が「さようならは言わない」と締めくくっています。

 ご葬儀の後で法話を行いました。
「皆さんは、さようならを言わないと語りかけましたね。
 では、これから先、Aさんと、どう生きてゆくのですか?」
 ご年配の方々はもちろん、黒い服を着た若者たちは一人残らずこちらを凝視しています。
「何がAさんとの接点になるのでしょうか?
 ──それは供養でしょう。
 これから皆さんはお線香を捧げ、お花を捧げて供養するはずです。
 その時、どのような心になるか、Aさんと、どのように向き合うかが共に生きて行けるかどうかを決めます。
 ただ何となく手を合わせただけでは、やがて、Aさんはただの過去の人になり、記憶は薄れることでしょう。
 しかし、お線香を捧げた時、『このお線香のように精進して生きるから安心してくれよ。精進できるよう見守っていてくれよ』と誓い、語りかけるならば、Aさんは、み仏の世界で喜び、きっと守っていてくれることでしょう。
 これが〈共に生きる〉最高の形です。
 Aさんは、あまりに早すぎる死をもって、皆さんへ生と死を見せ、供養という人生修行の機会を与えてくれました。
 これで供養と修行をしなければ、皆さんはAさんの死を無駄死ににしてしまいます。
 お線香では精進、お花では忍耐、お水では布施などの誓いを固め、かけがえのないAさんと共に、かけがえのない人生を歩んでください」

 帰りしな、何人もの方々から質問を受け、受付に置いた六波羅密のメモはすべてなくなりました。
「俺たちは、きっと、無駄死ににはしないぞ」
 確かな空気を感じながら帰山しました。

〈六つの誓い
220927 004

220927 005
※高さ15㎝の手作り品です。ご希望の方はご連絡ください。




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.26

10月の聖語

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

「道をいひ、道をいふに百種の道あり。
 書死(タ)え諷(フウ)死(タ)えなましかば、本(モト)何(イカン)がなさん。
 知らじ知らじ吾も知るじ……。
 思ひ思ひ思ひ思ふとも聖(ショウ)も心(シ)ることなけん」


(さまざまな道を説く教えは百種類もある。
 それらが書き残されず、暗記されもしなかったならば、教えの根本をどうして知ることができるだろうか。
 誰も知らない、私も知らないだろう。
 教えをどれほど考えてみても、いかなる聖者であれ、自分一人で考えるだけでは、伝えられている教えのすべてを考え出すことはできない)

 唐の長安という当時世界最大の都市で、あらゆる思想を学んだお大師様は、あるいは書物で、あるいは口伝えで残されている教えの数々に深く打たれたのでしょう。
 そして、人間が尊ぶ仏神、あるいは感性で掴む目に見えない存在といったすべてを表現するマンダラにとても納得できたことでしょう。
 しかも密教には、そうした異次元の世界と確かに感応同交できる膨大な方法が伝えられています。
 学び、実践し、身を以て宇宙の原理を確かめる過程で、お大師様は思われたことでしょう。
「いかなる聖者であろうと、これらをすべてたった一人で考え出すことなどできはしない。いかに多くの聖者行者たちが求め、掴み、確かめつつ生きられたか……。そして、いかに多くの先人が研究し、伝えてくれたか……」

般若心経の内容を悟り、「一切の苦を除く真言」を伝えてくださった観音菩薩様〉
kannnonn22.jpg




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.26

例祭だより(9月の第二例祭)

 9月18日(土)は第二例祭日です。
 風はもう、ちょっと冷たさの混ざった秋風です。
 講堂も広いのでほどよく涼しく、朝、高橋さんから「今日は涼しくていいですね」と言われましたが、私はというと、まだ、少し動いただけですでに汗ばんでいます。
 やはり減量したほうがいいのでしょうか。

 本日も護摩の炎の勢いはすごいです。
 煙が抜けやすく講堂の中もカラッとしている感じです。
 警報機の心配はなさそうです。
 なんとなく、涼しい護摩という感じでした。
 住職がおっしゃった「秋の護摩」という表現がぴったりでした。
「冬の護摩」までの間あと何回秋の護摩と感じる日かあるか数えておこうと思います。
「春の護摩」、「夏の護摩」、「秋の護摩」、「冬の護摩」、それぞれですが、これから来る冬の護摩も楽しみです。

 そういえば例祭の日は、観音様の横のポールに五色旗を揚げることになっています。
 少し弱い風でもパタパタとなびいてくれます。
 猛暑が続いた日は風が無く旗も下を向いたままでした。
 朝、五色旗を揚げて、その日の風具合を見ています。
 みなさん例祭にお越しの時は五色旗を見て、当日の風具合もご覧になって下さい。

 本日の住職の講話は、マンションの耐震偽装で問題になった姉歯事件でした。
 いろいろな方が関わった事件でしたが、あれは何だったのでしょうか?
 あれだけマスコミが騒いでその後の結果がほとんど報道されてなかったので、私も少し忘れていました。
 許可(この事件以外にも同じ仕様のマンションの許可)を出していた国が一番の加害者のような気がしますが・・・・・。
 真実はどこにあるのでしょう?
 真相が書いてある本が出版されているとのことで、ぜひじっくり読んでみたいと思います。

(この稿は、行者丹野明宏君が書きました)

〈秋の法を結んだ護摩行〉
2209201 015




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.26

寺務所のメモ(9月号)

 お盆から早や一ヶ月、お彼岸も過ぎました。
 この夏の猛暑を耐え抜きました皆様大変お疲さまでした。
 がんばりましたー!

 菩薩となる六つの誓いの中に一つに「我、雨風に負けず咲く花のごとく、耐え忍び、心の花を咲かせん」とありますが、ようやく涼しくなって秋めいてきたので、きっと皆様のお心にもコスモスのような美しい花が咲いたようにほっとされてるかもしれません。

 彼岸供養会の日は急に気温が下がり、あいにく朝から雨模様。一番に到着されたAさんは「今朝はストーブ焚いたわ~!」と話されてました。
「暑さ寒さも彼岸まで」とは本当ですね。
 おかげさまで供養会も無事終わりました。
 お心を寄せていただいた皆様、雨の中ご参詣の皆様本当にご苦労様でし た。
 当日池の鯉を川に放す予定でしたが、雨だったので延期になりました。
 さていつになるでしょうか♪
 ミケ子の仔猫も生まれて2ヶ月、ますます可愛 いくなってきてたまりません~。
 飼ってくださる方大募集中です。

 お寺では扇風機もまだ出ているままにとうとう暖房が入りましたよ。
 10月初めの芋煮会は晴れて暖かいといいですね☆

(この稿は行者橋里佳さんが書きました)

〈涼やかに〉
2209201 036




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.26

ペットのお骨を庭へ埋めてはいけないか

 ペットを亡くされた方が「お骨にしたけれど、どうしても手放せない」、「いつも側で供養したい」などという気持が強く、「いっそ、庭へ埋めようか」と考える場合があります。
 しかし、誰かに「それは良くない」と指摘されて混乱し、人生相談へ訪れる方もおられます。

 考えるヒントは3つです。

1 死は、抜け殻が天地へ還って完結すること。
 動物のお骨埋める行為は「墓埋法」の範囲外ですから、誰かへ迷惑をかけない限り、自由です。
 どうぞ、希望通り庭へ埋めてあげてください。

2 人間であれ、動物であれ、亡き相手へ対して最も大切なのは供養であること。
 ペットの死をなかなか受け容れられないのは一時の感情とすれば当然ですが、〈いつまでも〉となっては問題です。
 諸行無常の真理に反した心理状態は決して自然ではないからです。
 何かを〈供〉えて手を合わせれば心に徳が生じ、それをくり返せば徳が〈養〉われ、人格を高めます。
 貴方は真理に反したままで過ごしますか?
 それとも、人格を高める行為に勤しみながら過ごしますか?
 可愛がっていたペットの霊はどちらを喜ぶと思いますか?
 
3 人間として行ってはいけない悪行と、いわゆるタブーとは必ずしも結びついていないこと。
 人間社会にタブーはつきものです。
 近親相姦を考えてもわかるとおり、それは、種と社会を守るための智慧を含んでいる場合があります。
 しかし、6歳以下の子供や妊婦は親族のお葬式に出てはならないなど、不安や怖れが道理のないタブーを生んでいる場合があります。
 また、誰かが自分を権威付けるために「~はいけない」と道理のないタブーを設ける場合もあります。
 他人を従わせることによって自分の方が仏神へ近い存在であると位置づけたいのです。
 それを示す典型的な例があります。

 ある拝屋さんが代替わりをしました。
 まだ若い二代目は意気込んで、「近親者の葬儀へ行った人は、翌月の例祭に参加してはならない」と新たなタブーを決めました。
 出入りしていた人々は、いぶかしがりながらも、従いました。
 その結果、足を運ぶ人が減った拝屋さんはつぶれました。

4 埋めた場所へ花を植えたい場合はそれも大切な供養であること。
 何かを唱えてあげたいならば、花などをお地蔵さまへ見立て、以下の御宝号か真言をお唱えになるのも一法です。
「南無大施徳菩薩地蔵尊(ナムダイセトクボサジゾウソン)」
「おん かかか びさんまえい そわか」

 タブーに迷ったならば、どうぞ、人生相談へおでかけください。
 なお、ホームページにも明記してあるとおり、ネット上では受けつけかねます。
 その理由は、私は一人しかおらず、1日は24時間しかなく、修法で生きる私は、所定の法を結ばず皆さんの真剣な悩みに世間話をもってお応えするわけには行かないからです。
 遠方で「どうしても」という場合は、手紙にご本尊様をご供養するお布施を同封してお送りください。
 すぐにはご返事できかねますが、ご本尊様へ祈り、どうにかしてお応えできるようがんばります。
 どうぞ皆さん、道理をもって考え、それでも不明な場合は、それぞれの道のプロへお訊ねください。
 そして、ヒントを明かりとして前へお進みください。

〈共に学び、共に咲きましょう〉
2209222 001




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.25

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 55 ―同行二人と決断─

 9月22日の講座は、お彼岸中につき、質疑応答としました。
 ボランティア活動にいそしむAさんから、「老人クラブなどでよく聞くお話なのですが」とご意見がありました。

「皆さんの話題は第一に病気のこと、そして異口同音に言うのは、世代間の断絶と死後の心配です。
 断絶は、核家族化が進んで若い人が年寄りと同居しなくなったことです。
 伝えたいことが伝えられないのが淋しく、体調が悪い時は不安で、多くのお年寄りにとって孤独死は人ごとでありません。
 死後についてはもちろん、自分のお墓をちゃんと建てられるか、あるいは、子供が自分と同じくお寺さんとおつき合いして行けるかなど、心配の種は尽きません。
 ここで学んだことを少しでも皆さんに伝えて安心してもらいたいと思っています」

 世代間の断絶については、戦後、「どんどん家を建てましょう」と持ち家政策を復興の柱においた国策の結果なので、如何ともし難い面があります。
 大都市から順に復興が進み、若い人材が田舎を離れたこともまた、核家族化へ拍車をかけました。
 驚異の復興がなし遂げられた陰で核家族化が猛スピードで進んでいたのは時代の明暗というものです。

 いつの世も道徳観念は変化し続けていますが、戦争でもないのに親子が殺し合い、飢饉でもないのに亡くなった家族が放置され、憂さ晴らしに人が殺される今の世相をもたらした原因の一つに核家族化が挙げられるのは正鵠を射ていると言えましょう。
 これ以上、家族がバラバラにならないよう制度改革などによって手は打たれつつありますが、文化と社会構造が変化するスピードは凄まじく、「針を戻す」のは不可能と思われます。
 異なる世代の感覚と価値観があまりに遠くなり過ぎました。
 これからできるのは、若い世代も共感できるはずの〈不変の価値観〉を共有する「新しい家族像」をめざすことではないでしょうか。
 時代を超えて伝えられている仏法がそれを担う一角であるのは当然です。

 そうした中で、〈安く、手軽に〉という日常生活のセンスによって非日常的できごとである死までが扱われるようになって来ている事態は、とても重いと感じています。
 もちろん、家族で静かに見送りたいという尊い動機は尊ばねばなりません。
 しかし、〈形に心が表れる〉、〈心を形で表したい〉という真実が簡単に脇へ置かれ、「あれもやめよう、これもやめよう」と形がうち捨てられてしまうならば、文化はとても薄っぺらなものになります。
 人と人とが面と向かって言葉と心を交わし合うところから生まれる人情が紙のように薄くなりつつあるのはその証拠です。

 ともあれ、断絶の現場で悩む方々は、まず一人でできることを行い、自力で淋しさや不安を解消するよう智慧をはたらかせる必要があります。

 そのキーワードの一つは「同行二人(ドウギョウニニン)」です。
 これは四国八十八霊場巡りを行う際にまとう白装束の背中や、かぶる菅笠に書かれる文字です。
 いつもお大師様が一緒にいてくださるという信仰であり、4つの文字に祈りがこめられています。
 これがあるから巡拝する行者は何も心配しません。
 もしも途中で行き倒れても、お大師様が治してくださるか、あるいはあの世へ導いてくださるか、お任せしきっている身には何の不安もないのです。

 それと同じように、信じられるみ仏があれば、どこでどうなろうと、あとはお任せするだけのことです。
 いずれにしても、死ぬ時は一人で旅立つしかなく、導いてくださるのはみ仏だけです。
 家族に頼ろうとすると不安や不満が出ます。
 自分で自分の心を自立させるのです。
 今、老年期を迎えた方々は、国が試練を受けていた時代に汗を流しながら意志を強く持って生き抜いた方々ばかりではありませんか。
 できないはずはありません。
 又、必ずしも信仰ではなくとも、自分をかけられるものに打ち込んでおられる方は強い心で生きられます。
 二人で歩む相手は、この世の人でもよし、み仏でもよし、あるいはボランティア活動でも絵画でも短歌でも、あるいは秘かな決心でもよいのではないでしょうか。
 今のままの自分を〈懸けられる〉ものが見つかれば別世界が開けます。

 もう一つのキーワードは「決断」です。
 子供がお墓が建てられるかどうか心配であり、かつ、自分に建てるお金がないのならば、家族と話し合いの上で、共同墓や樹木葬の契約をしておけばよいではありませんか。
 当山には、こうした契約を済ませ、年金の中から毎月納める方々がおられます。
 生前戒名を求める方も少なくありません。
 安心した皆さんは活き活きと生き、おりおりにご本尊様へお詣りをされます。
 心配なのは、〈決まっていない〉からです。
 ならば、決められることは決めておくのが一番です。

 こんなやりとりをしているうちに、たちまち2時間が過ぎ、弱冠、〈時間外ゼミ〉まで行いました。
 学びましょう。
 考えましょう。
 そして、できることを行い、自分で安心を得ようではありませんか。

〈導く月〉
2209224 022




「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
09.24

脱「檀家」宣言の紹介文(その6)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。

【食えなければ托鉢すればいい】

 住職の苦労を見てきた人の中には「せっかく檀家が増えてきているのにもったいない」「安定のためには従来の檀家制度がいいのでは」と心配する声もあった。
 だが、遠藤住職は「目先のことだけ考えていてはいけないと思うのです。
 それに食えなくなったら托鉢をすれば生かせていただける」と迷いがない。
 今後の目標を聞くと
「いま、直葬が増えていますが大変です。
 なぜ供養が必要だと思いますか?と聞いても『分からない』『聞いたことがない』と多くの方がおっしゃいます。
 僧侶がきちんと説明してこなかったせいではないでしょうか。
 葬儀や枕経の時に意味をきちっと話し、人生相談などで仏法を説く。
 そういう地道な活動を続けます」
と熱い。
 そんな中、近所の人が車で来て玄関先に食べ物の入った包みを置いていった。
 住職と正恵さんは外に出て、車が見えなくなっても、じっと合掌を続けていた。 
 遠藤住職は「この夏は一度も野菜を買っていません。ありがたいことです」と微笑む。
 近所の農家の人たちが「まだ野菜ある?」とよく声をかけてくれるのだという。
 理想を掲げ、一歩一歩進んできた住職の姿を周囲の人はきちんと見ているのだろう。

〈午前2時。明るさに惹かれて外へ出てみたら、やはり……〉
2209224 023




「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
09.23

脱「檀家」宣言の紹介文(その5)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。

寺子屋建立から本堂建立】

 遠藤住職には、出家をしたころからの夢があった。子供向けの文武両道の塾を開くことだ。
「人生相談で多いのは、子供に関する悩みです。
 子供たちが武道や芸術などを体験し、健全な心と体を育てられる場を作りたいと思ってきました」という。

 だが、狭い民家の本堂では難しい。
 そこで平成十一年、寺子屋建立運動を開始。
 托鉢や自費出版の本などで熱心に思いを伝えた。
 賛同した人が、現在の境内地を寄進してくれたが、建物を建てる資金のあてはない。
 もとより壇信徒へ頭割りのお布施の依頼はしないと決めていた。
 そこで、平成十九年八月に「守本尊道場建立」の願をかけて、虚空蔵菩薩の真言を百万返唱える「虚空蔵求聞持法」を開始した。
 本来は百日間で修法するが、法務を離れられないため、日中は法務に励み、早朝や夜に堂に籠もった。

 同時に、一体十万円の志納金で、高さ三十六㌢の守本尊の供養を受け付けたら、約百五十体が上がった。
 定期預金の満期が来るからと、老後の生活資金を志納してくれたお婆さんや、一カ月十万円の年金の中から毎月定額を入金してくれるお爺さんもいた。

 平成二十年八月に行を成満。
 約二千万円の浄財が集まった。
 少ない資金でも協力してくれる建築会社との出会いもあり、残りは住職が銀行から融資を受け、昨年八月、念願の本堂兼寺子屋が完成したのである。

 さっそく十二月から、毎月第二土曜日に寺子屋『法楽館』を開講した。
 しかし、予想外のこともあった。
 いざ寺子屋をしようとして分かったのは、地域には子供が少なく、駅からも離れているため、子供だけが通うのも難しかった。
 そこで、対象を老若男女に広げた。
 様々なゲストの講演を聞き、仏教関係の映画を鑑賞。
 仏教についての質疑応答も活発に交わされる。
 毎回二十人から七十人が参加する。

 また、境内には身寄りのない人向けの無縁墓「五輪の塔」と、宗教を問わずに入れる永代供養墓「法楽の礎」も完成した。
 いずれも、周囲の人々の願いに耳を傾け、相談しながら作ったものだ。

 行事も活発だ。
 お寺を始めた時から続けている月二回の例祭と瞑想、写経・写仏の会。
 不動明王の縁日のお焚き上げ。
 NHKのカルチャーセンターで月二回、法話の会もしている。
 年中行事もお正月の修正会、立春の厄ばらい、お花見、弘法大師の誕生を祝う青葉祭、お盆やお彼岸の供養などを行い、皆が集えるお寺作りを着々と進めてきた。

 そして、冒頭で紹介した今年六月の脱「檀家」宣言だ。
 宣言した時点ではサポーターという言葉を使っていたが、遠藤住職は名称を募集。
 同寺を護持してきた人の案で「ゆかりびと」となり、「ゆかりびとの会」も結成された。
 今後、同寺を護持するのは檀家ではなく、「ゆかりびと」というわけ。
「語感が柔らかく、当山がイメージする自主的なサポーターというのにぴったり」と遠藤住職は喜ぶ。

 ゆかりびとの会は、法楽寺を護持したいという人が、気軽に参加できる会という位置づけ。
 年会費三千円で毎月A3サイズ二ページの『法楽新聞』が送られてくる。
 会則には、入会も脱会も自由で一切の縛りを設けないと明記した。
 すでに会員は百四十人を超えた。

〈咲いた〉
2209222 005



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 


2010
09.23

脱「檀家」宣言の紹介文(その4)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。
 感謝をこめて連載します。

【インターネットと文書の力で】

 新しいお寺に移っても、托鉢人生相談の日々が続いた。
 ストレスがたまったのだろうか。
 住職の活動を支えてきた妻の正恵さん(六十一歳)がある日突然、うつ病にかかり、まったく話せず、動けない状況になってしまったのだ。
「私は導かれて仏道に進みましたが、かわいそうなのは女房です。
 はやっている質屋に嫁いだはずなのに、明日の米もない生活になってしまいました」
 収入は主に住職の托鉢
 一つのイワシ缶を二人で分け合ったり、おかずがなく、道端のタンポポやツクシを摘んで帰ることもあった。
 住居にしていたプレハブは水道もトイレもなかった。
 床がくさり、冬は寒く、夏は虫が這い回った。
 風呂は独立した娘の家に借りにいって入った。
 医者からは入院した方がいいと勧められたが「自分のせいだから、なんとしても、自分が治す」と遠藤住職は暗いうちに起きて、家事をすべてこなし、正恵さんの病気が治るように懸命に修法を続けた。
 正恵さんに「ここに座っているように」と告げて隣の本堂に出かけると、数時間後も同じ姿勢で座っている状態だった。

 二カ月が経ったころ。
 電話が鳴ったので住職が駆けつけると、正恵さんが「はい」と出て応対していた。
 奇しくもお不動様の縁日
 さらに、み仏の力を実感する出来事だったという。
「今も薬は飲んでいますが、コントロールできています。
 人生相談でもうつ病の方を深く理解できるようになりました。
 絶対に望みを捨てないでと思います」

 最初、相談者は口コミで訪れたが、インターネットが普及すると、全国からやって来るようになった。
「インターネットの存在はありがたいことです。
 もしインターネットがなければ、田舎で伽藍もないお寺を知ってもらうことは難しかったでしょう」と話す。
 ホームページを立ち上げ、お布施は一切強要しないこと、お金がなくても対応するので安心して来てほしいことを強調した。
 ブログも毎日、綴っている。
 一日に千人もの読者がいるという。
 また、遠藤住職が力を入れたのは〃文書布教〃だ。
 お寺を始めた平成六年から、機関紙『法楽』を毎月手作りしている。
 托鉢でのできごとや法句経の説明、仏事についてなどを綴る。
 最初はA4版で毎月二回各十ページ、現在は月一回六十ページもの分量があるからすごい。
 機関誌やブログの文章をまとめた自費出版の本もこれまで四冊出版した。
 住職の思いに共感し、檀家も増えていった。



〈しっかりと〉
2209222 0032



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 


2010
09.23

脱「檀家」宣言の紹介文(その3)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。
 感謝をこめて連載します。

【必ず人生相談にのりなさい】

 遠藤住職に大きな影響を与えたのは、托鉢中に聞いた人々の声だ。
「お寺や僧侶への不信や不満、怒りの声を数限りなく聞かせていただきました」
 なかでも多いのは「菩提寺から、お布施を割り当てられて困っている」という訴えだった。
 今度はいくら請求されるかとビクビクしているのだった。
「寺院墓地から公営墓地に移ったという人も多いのです。
 理由は『お寺にいたらお金がかかり、子供や孫に申し訳ない』というのです。
 お寺が救いではなく、苦しみの場となっているのを知りました」

 出家から七年が過ぎた平成六年。
 独立の許可が出たため、自宅をお寺にすることにした。
 このとき師僧から言われたのは「人生相談にのりなさい」ということだった。
 だが、遠藤師は疑問だった。
「自分のように人生に失敗した者が、人生相談などできるのでしょうか、と聞きました。
 師は『必ずみ仏はお答えをくださる。
 お前の能力を超えた相談は来ないから、安心してやりなさい』とおっしゃいました。
 実際、その通りでした」

 また、「法楽の会」を作り、月二回の例祭を開くことにした。
 毎月、第一日曜日の午前と第三土曜日の午後、護摩を焚き、みんなで祈る。
 最初は十人ほどだったという。
 二年後の平成八年には「法楽の会」を母体に、宗教法人格も取得した。
 申請から取得までは約一年かかった。
「書類をすべて揃え、何回も県庁に足を運びましたが、なかなか認められませんでした。
『あと何をすれば認めてもらえるんですか?』と担当者に聞くと、『宗教法人はそんなに簡単にとれるものじゃありませんよ』というばかりでした」

 平成九年には、黒川郡大和町宮床に移った。
 そこは以前、息子が父親を殺害するという不幸な事件があった場所だ。
 ある日、放置されたままになっている家を供養してほしいと頼まれた。
 遠藤住職は三カ月間、毎晩通い、真剣に祈った。
 すると、土地の権利者が、土地と家屋を寄進してくれることになった。
 平屋建ての住宅を本堂にし、近くにあった作業用のプレハブをもらい、住居にすることにした。
 草の生い茂る土地を、夫婦二人で整備した。
 見かねたのか、タンクローリーに乗った工事現場の人が、仕事帰りに余ったコンクリートで荒れ果てていた通路を整備してくれた。
「多くの方に支えていただきました」と、遠藤住職は感無量の面持ちで振り返る。



〈いつしか開いていた花〉
2209201 0312_edited-1



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 




2010
09.23

脱「檀家」宣言の紹介文(その2)

 月刊『寺門興隆』の記事は当山の核心を明確に伝えてくださっており、数度にわたり、転載しておきます。
 冒頭で、脱「檀家」宣言へ至った経緯を「それはまさに無一物から始まった悪戦苦闘の末のことだったのだ」と書いてくださったのには涙の出るような思いがしました。
 今も続いており、これからも続くであろう「あるべき姿に徹する」悪戦苦闘をやり抜く力が強まりました。
 感謝をこめて連載します。

自己破産をして仏道へ導かれ】

 遠藤住職は昭和二十一年、宮城県角田市に生まれた。
 実家は質屋を営んでいた。
 体が弱く、学校を休みがちだったが、新聞を隅から隅まで読む子供だった。
 社会の動きにとくに関心を持ち、「政治家になろう」と志した。
 政治家といえば、東大法学部と思いこんだが、二浪しても受からず、やむなく早稲田大学政経学部に進んだ。
 大きな挫折だった。
「夢が絶たれ、すべてが終わりだと絶望しました。いつのまにか、手段が目的になってしまっていたのです」
 目標を失った遠藤青年は禅寺に通ったり、新興宗教の門も叩いたが、納得のいく答えは見つけられなかった。
 学業にも身が入らず、二年で中退して帰郷した。
 そこで見たのは、高齢の祖父母を介護しながら働く、疲れ切った両親の姿だった。
「質屋は三百六十五日、二十四時間の仕事です。
 これまで親不孝をしてきたので、もう、見捨てておけないなと」

 質屋を継いだ遠藤青年は、ディスカウントショップも開き、事業を拡大していった。
 二十六歳で結婚し、二人の女の子にも恵まれた。
 しかし、遠藤住職は
「してはいけないことをしてしました。社員には本当に申し訳ない」と振り返る。
 折りしも時代はバブル真っ盛り。
 遠藤青年は不動産投資にも手を出すようになった。
 ところが、札幌の土地に投資をしたところ、悪質な業者にだまされた。
 結局、数億円の借金を抱えて自己破産
 昭和六十二年、四十二歳のときだった。

 無一文になって、導かれたのが仏の道だった。
 宮城県の松島に高野山真言宗の僧侶が開いた単立寺院があった。
「事業がうまくいかなくなってきた三十代のとき、知人に紹介されたお寺でした。
 住職の説教と修法に納得がいきました。
 迷わず門を叩きました」
 得度し、お寺の徒弟となり、遠藤師が打ち込んだのが托鉢だ。
 知人が無償で貸してくれた仙台市青葉区の古い民家に家族と住み、毎朝、托鉢に出た。
 托鉢は一軒一軒のベルを押し、「修行の者です。お経をあげさせてください」と告げる。
 受け入れてもらえると『般若心経』を唱え、お札と趣意書を差し出し、お布施をいただく。
 とはいえ、容易ではなかった。
 ちょうどオウムのサリン事件が起きたころだったので、警戒された。
「まだ仏さんねえがらっしゃ」「おら自分でおがんでっから何もいらねよ」「布施する米は一粒もねえがら」。
 様々な理由で断られた。
「今若い者いねえがら」という高齢者は、自由になるお金がなく、若夫婦に遠慮して暮らす人が多かった。
 一方、お経に真剣に耳を傾けてくれ、お札を差し出すと「おいくらですか」と聞いてくる若い人もいた。
 遠藤住職は「お心が大切です。みかん一つでも、お米一握りでも結構です」と説明した。
「一休みしていきなさい」と家に上げてくれるお年寄りや、一年ぶりに再訪すると「お待ちしていました」と家族で歓迎してくれる家もあった。
「数え切れないほどのご加護をいただき、おまかせしていれば、み仏は必ずは救ってくださると確信しました」と遠藤師。

 たとえばこんなことがあった。
 猛暑の中、朝から何軒訪問しても断られた。
 壊れかけた家に住んでいるお婆さんに声をかけると、「これ、今持ってる全部だがら」と十円玉と五十円玉をかき集めて「挫けないでしっかりやらいよ!」と送り出してくれた。
 その後、軒並み受けてもらえるようになったという。
 また、所持金が五百円しかなかったが、夕方まで回っても断られっぱなしでへとへとに。
 だが最後に訪れた家がちょうど家族の命日で「よく来てくれた」と一万円をいただけ、一家が救われたこともある。
 宮城県のほか、山形、福島、岩手など、東北一帯を回った。
 歩くごとに迷いがなくなった。
 最初は生活のため友人の仕事も手伝っていたが、僧侶一本に絞った。
 昼は托鉢を続け、夜は師僧の下に通い、真言宗の修法と居合も学んだ。



不二の構え〉
コピー ~ 型 0462



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 


2010
09.23

【現代の偉人伝】第108話 ─国家の責任を追及し続ける小嶋進氏─

 やっと待ちに待った本が出版された。
 有川靖夫著『国家の偽装 これでも小嶋進は有罪か』(講談社)である。

220922422.jpg

 小嶋進氏は、販売するマンションの一戸当たりの面積が日本一になり、自ら飛行機を操縦していた頃、当山へ人生相談に訪れた。
 そして、解決をみるや、3800坪もの土地などを寄進した。
 現在の境内地である。
 東京都八重洲口にある超高層ビルの最上階を事務所とする会社へ足を運ぶと、役員や社員たちと家族同様の雰囲気で接しており、近くの店へぶらりとでかけた食事会ではそれぞれに夢を語り合っていた。
 生まれ故郷の学校などへ寄附を続ける彼は、「右手で稼いだものは、左手で使わないと腐ります」との持論を人知れず実践していた。

 そんな小嶋進氏に、平成17年、驚天動地のできごとが起こった。
 一級建築士姉歯秀次による耐震偽装事件である。
 マスコミがこぞって「悪のトライアングル」と書きたてた事件は、小嶋進氏のまっすぐな性格を知る者にとって、とうてい信じがたいものだった。
 当時、検察とマスコミが描いた事件の構図はこうだった。
「マンション販売会社ヒューザーの小嶋進氏が一級建築士姉歯秀次、及び建築会社木村建設と共謀し、耐震偽装マンションを造った」
 構図どおり連日報道したマスコミの狂態ぶりは全国民周知の事実である。
 しかし、実態は構図や報道とはまったくかけ離れたものだった。
 事件は姉歯秀次の金欲しさによる単独犯行であり、偽装のできるソフトに頼って安易に建築確認を下ろした建築行政にこそ最大の責任があった。
 その証拠に、その後、全国で似たような事件が発覚したが、不思議なことにそれらは小嶋氏のようにしつこく報道されず尻つぼみとなり、行政の責任は不問のまま今日に至っている。
 ただ一人、国家の責任を明確にせよと孤軍奮闘を続けているのが小嶋進氏である。

 報道の内容を疑い、小嶋氏の人間性を信じている私は、東京地裁、東京高裁いずれの判決も最前席で傍聴した。
 しかし、納得できなかった。
 高裁の判決文で「被告は被害者の面もある」とされたが、詐欺罪での有罪判決は覆らなかった。
 小嶋進氏は「犯罪を行ったということは一切ございません」と述べ、最高裁へ上告した。

 さて、この事件は「耐震強度構造計算書偽装事件」であるが、異様なことに、逮捕された人々は姉歯秀次以外、全員が別件逮捕である。
 そして、判決内容を見ると、姉歯秀次以外は、有罪となった人々の罪状と失ったものの乖離に愕然とさせられる。
 たとえば、木村建設の社長だった木村盛好氏は、事件のあおりで200人近い社員を抱える会社が倒産するという憂き目に遭い、粉飾決算(!)及びホテルの強度不足を知りながら建築代金を受け取ったとされる不作為の詐欺で有罪となった。
 金を騙し取ろうと企てたことはないと無罪を主張してきたが、高齢で全財産を失った身には裁判を続けられないとして控訴しなかった。
 姉歯秀次に構造設計を依頼した設計事務所代表森田信秀氏55歳)は遺書を残し、自殺した。
 遺書の内容は報道されたにもかかわらず、なぜか、事件の核心にかかわる肝心のくだりはカットされた。

「これだけは言っておきます。
 姉歯の計算書偽造は全く知りませんでした。
 これはヒューザーの設計3社、木村建設も同じだと思います。
 こんなことを知っていて、隠すバカがどこにいますか。
 報道により世の中が姉歯の仲間と思っていることに耐えられなくなりました」


 この本は、「今に見よ!小嶋をこのまま終わらせてなるものか。一度はマンション販売業界のトップに躍り出た男である。それが今、不当な国策裁判によって社会から抹殺されようとしている。何としても司法の誤りを明らかにしなければならない。そして、彼には再び不死鳥の如く蘇ってもらいたい」と立ち上がった男の、人生をかけた告発の書である。
 彼は数年にわたって小嶋進氏からことの顛末を聴き、詳細に調べ上げた。
 そして、小嶋進氏が主張するとおり、事件の背景には偽装を安易に行わせた行政システム(大臣認定プログラム)の根本的な誤りがあり、それが全国規模で問題となることを怖れた人々によって小嶋進氏が抹殺されようとしていることを確信した。
 国家権力は、作られた〈構図〉を最後まで否定し続ける人間を許せないのだろう。

「このまま小嶋を野放しにしておいては、耐震偽装が蔓延したカラクリを国民に知られてしまい、国の責任が問われ出すだろう。
 そうなっては、国の行政や財政は窮地に追い込まれかねない。
 ここはなんとしても、国並びに地方自治体に対する損害賠償請求を先導する小嶋の動きだけは早めに摘み取っておかねばならない。
 そのためには一日でも早く小嶋の身柄を拘束するしかない。
 しかし、耐震偽装が姉歯建築士の単独犯であることが本人の証言で明らかとなり、当局が描いた共謀犯罪が崩れ、小嶋が白となるからには、別件逮捕で起訴するしかない。
 そこで考え抜いた末の苦肉の策が、詐欺罪ということでの逮捕だったのであろう。
 そして、証拠隠滅の危険性などゼロに等しい小嶋を、一年近くも拘留し、彼が釈放された頃には、国にとって都合のよい国民感情の地ならしが終わり、事件の幕引きは完結していたのである。
 なんとも腹が立つ話ではないか」



 時あたかも、厚生労働省の村木厚子元局長が無罪となったばかりの事件にからみ、大阪地検特捜部の主任検事・前田恒彦容疑者が証拠隠滅の疑いで逮捕された。
 村木厚子元局長は「恐ろしい」、「一人の問題として終わらせないで欲しい」と語った。
 局長という地位にある人間ですら、何者かによって描かれた構図によって〈標的〉になり、無罪を獲得するためには筆舌に尽くせないであろう困苦や、こうした妨害を乗り越えねばならなかった。
 一民間人、それも国会で役人を怒鳴りつけるようなまっすぐな男を巨大な力で叩きのめすことなど容易いに違いない。
 しかし、小嶋進氏はまだ、死んではいない。
 著者へこう言ったそうである。

「姉歯や、その偽装をチェックできなかった杜撰な確認検査機関イー・ホームズ藤田氏、そしてそれらを管轄する国交省の役人等の企みで、私は卑劣な詐欺犯に仕立て上げられてしまった。
 マスコミや警察からは犯罪組織の本丸扱いをされ、刑が確定したわけでもないのに、329日の長きに渡って投獄生活を強いられた。
 私は家も車も会社も仕事もすべて失った。
 しかしそんな金銭的な財産よりも何よりも『人間としての名誉を失う苦しみ』には耐え難いものがあった。
 ひと思いに死んでしまった方がどれほど楽か、そう思わない日はなかった。
 人間には死ぬこと以上の苦しみがあるということを痛感した。
 私は人に怨みをかうような悪いことは何一つしていない。
 それなのに何故このような目に遭わなければならないのか。
 未だに答がつかめないでいる。
 この世には神や仏はいないのか。
 無一文となった私に存在価値があるとすれば唯一、『無実な者が無罪になる』という当然の判決が出ることしかない。
 この有川先生の労作が小狡い役人どもの手先と化している司法界の国家的詐欺判決を真っ向から断罪することを願ってやまない」


 
 この本にはCDがついている。
 事件発覚直後、小嶋進氏が車の中から関係者へ電話している音声をたまたま、従業員が携帯電話で録音していたのである。
 これこそ、み仏のご加護であると信じている。
 もちろん、小嶋進氏は知らず従業員も忘れていたが、3ヶ月以上たってから従業員が思いだし、SDカードへデータを記録して弁護人へ渡した。
 弁護人は、嫌疑となっている詐欺を行う意志がまったくなかったことを立証する証拠として申請したが、検察が裁判長へ「このデータを聞くと、判断を誤ってしまうので取り上げないで欲しい」と主張し、1年以上も無視されてきたというから恐ろしい。
 CDによって明らかなように、小嶋進氏は事件発覚まで姉歯秀次の偽装を知らず、発覚直後はただちに販売中止を指示し、倒産を覚悟の上で、被害者となるはずのマンション住民と共に国家賠償責任を追及しようと決心しているのである。
 これまで、当局の発表とマスコミの情報によって実態とかけ離れた〈事件像〉と〈小嶋進像〉を植え付けられている方々にぜひ、本を読み、CDを聴いていただきたい。

 今、小嶋進氏は、爪を真っ黒にしながらはたらいている。
 資格を取ってビルのメンテナンスを始めたところ、かつて販売したマンションの住人たちが続々と注文してくれるそうである。
 東京で会った時も、当山で会った時も、静けさが加わった不屈の面魂は変わっていない。
 不死鳥が飛び立つ日の一日も早からんことを願ってやまない。

〈生きている〉
2209222 0022



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 


2010
09.22

近況報告

 最近、ご案内やご意見やご質問などのお手紙をたくさんいただくようになりました。
 ご返事はほとんど出せません。
 恩師の病気見舞いを兼ねたある同級会への手紙を差しつかえのない範囲でご披露し、ご無礼している皆さんへのお詫びとさせていただきます。




 恩師の消息と、同期だった仲間のお祝い会のご連絡をいただき、ありがとうございました。
 忘れられていないことはありがたく思いますが、私はもう、皆さんの〈記憶にある人そのもの〉ではなくなり果てました。

 出家した身は出世間をめざす存在でもあり、冠婚葬祭や同窓会といった世間的つながりの中で行われる諸行事に参加する時間はありません。
 事業に失敗して娑婆から離れた当初は、抱えたままの諸問題もあって行者そのものとして生きられない時期もありましたが、もはや還暦も過ぎ、ピュアで単純に生きるしか、いのちを費やす方法はなくなりました。
 日々、午前三時前後に起き、勉学や執筆や修行を行い、午前九時からは、人生相談やご祈祷など、皆さんからの求めに応じた法務を行います。
 そして、年間を通して例祭や講座や道場や寺子屋などの活動、あるいはお正月、お盆、お彼岸といった行事の日程があり、また各種講演会、そしてご祈祷やご供養やご葬儀やなどの法務、またターミナル・ケアやグリーフ・ケアなどが次々に予定表を埋め、土日を利用してお祝い事などを行う娑婆の方々の生活とはまったく異なった生活パターンで生きています。
 会う人はすべて行者としての私を求めておられる方々であり、常にそうした方々の願いを背負っている以上、世間話や思い出話に時間を費やすわけにはゆきません。
 菩薩をめざす行者は仙人になるのではありません。
 み仏の教えや救いを求める方々の心になり、共に人生苦へ立ち向かう終わりのない祈りの日々、安穏と過ごす時間のない日々です。
 前を向いて祈りつつ死を迎えたいと切に願いながら、一日、一日を過ごしています。
 だから、もう、皆さんと一緒に子供の頃の自分に帰ることはできないのです。

 もちろん、アポイントをとって来山する同級生はいます。
 しかし、それは「あの頃」に帰る世間話が目的ではなく、自分がどうやって死を迎えれば良いか、あるいは子供の病気平癒を祈って欲しい、あるいは世間の不条理と闘う力が欲しいといったみ仏のご加護や教えを求めてのことです。
 当山の法務を知り、行者としての私を求める方ばかりです。
 当然のことながら求めに応じ、できるかぎりの修法を行います。
 ただし、法務には「同級生だから」といった特別な部分はまったくありません。
 いかなる縁であろうと求めへは平等に対応するのが務めだからです。

 ところで、私は師の恩を忘れてはいません。日々の修行に師の恩を忘れず正しく生きる誓いがあるのです。
 皆さんと一緒になって師のために何かを行うことはありませんが、世間的なつき合いの形式で連絡はせずとも、祈りは通じていると信じています。
 また、命日だからということではなく、おりおりに亡き師やお世話になった方々の墓前へお詣りをしています。

 私は、好きな人や懐かしい人と会い、食べたいものを食べ飲みたいものを飲む生き方を疾うに離れました。
 み仏の教えに基づいて法務上会うべき人と会い、学ぶべきものを学び、求められたことに全力を尽くす以外なく、二十四時間はあっという間に過ぎ、毎日が〈やり残し〉の連続です。
 自分の無知も愚かさも、この世にある苦も不条理もあまりに膨大で、死を迎える瞬間ににやり遂げられていないことは山ほどありましょうが、まったく心配してはいません。
 永遠に菩薩行の道を歩む決心をした行者にとって、この世に苦がある限りやらねばならないことは尽きず、次の世でも、その次の世でも苦と闘う日々が待っており、そこで続きの法務を行えるからです。

 これが現状であり、無一物で本堂裏の一間を寝起きの場所としています。

 ちなみに、三島由紀夫の人生をかけた四部作『豊饒の海』の完結編『天人五衰』の最終盤です。
 老境に入った本多は、亡き友人の出家した恋人のいる寺を訪ねます。そして、老尼の恋人だった友人の生涯について語ります。
 じっと聴いていた老尼は、「松江清顕さん(恋人)という方は、お名をきいたこともありません。そんなお方は、もともとあらしやらなかつたのと違ひますか」と言います。
 呆然となった本多は更に問いかけますが、老尼は「それも心々ですさかい」という言葉を最後に永い沈黙へ入り、庭へと誘います。
 本多の前には確たるものがもう、何もありません。
 三島由紀夫は世界の文学史に残る傑作の幕をこう閉じ、自決へ向かいます。
「庭は蝉の聲のほかは何一つ音とてなく、寂然としてゐる。この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまつたと本多は思つた。 庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしてゐる……」
 
 誰がどうという個人の私事については知っている内容を一切お伝えできませんし、お聞きする時間もありませんが、こんな世界に住んでいる私を必要になった際は、いつでも電話をください。
 どうぞ皆さん、人生の最終時期をしっかりと過ごされますよう。
 ご多幸を祈っています。

(毎日、皆さんの悩み・苦しみや自分の愚かさと闘っているので、たまには息抜きをします。
 そうした様子を見かけたならば、どうぞ、笑ってください)

〈彼は毅然としています〉
2209201 298




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.22

新しい宗教難民 ─離檀の増加─

 最近また、寺院を離れたいというご相談が多くなりました。
「割り当て」に悩み苦しむ方々です。

 まだお墓にお骨が納められていない家は30万円、ご先祖様が眠っておられる家は50万円、ずっと協力してきた家は80万円などという話には、驚いてしまいます。
 離檀料に道理がないことは何度か書きましたが、同じ理由でこうした行為も到底理解できません。
「ずっと協力してきた」とは、「寺院の存続に大きな力を尽くしてきた」という意味です。
 つまり、寺院にとっては大恩のある家です。
 そうした相手へ更に大きな負担を求める理由はどこにあるのでしょうか?

 おおよその予想はつきます。
 一つは、資産家であることです。
「お宅はたくさん持っているのだから、たくさん出しなさい」
 もう一つは、長く檀家だったことです。
「お宅は代々めんどうを見てきたのだから、その恩に報いなさい」
 これが理由でしょう。
 第一のケースについては、他人様の懐具合を推しはかって請求する姿勢は、資産のある家に対しても、あまりない家に対しても無礼であり、非宗教的です。
 第二のケースについては、恩のおしつけであり、「我、恩を着せず、恩を忘れぬは、人の道を忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」と日々心をつくっている当山には反宗教的としか思えません。
 
 あるいは、戒名の違いによって、ご先祖様が信士の家は30万円、居士の家は50万円、院号の家は100万円という話にも、驚いてしまいます。
 亡き方々をランク付けし、そのまま檀家の上下としてお金の世界とリンクさせるのは、「人は仏性を持った存在として平等である」と説く仏法と整合性がありません。
 また、「良い戒名をもらっているのだから多く出しなさい」と請求するのは、戒名に値打ちをつけるという点でも、これまで多くお布施をしていたから今度も出しなさいと請求する点でも、道理とは思えません。

 当山へご相談に来られるのは、同じ宗派内の他の寺院では離檀した家を受け入れないという不文律があるからでしょう。
 これもまた、理解できないやり方です。
 ご相談に来られる方々は、皆さん、現世的な面では怒りを覚え、宗教的な面では不安を抱えておられます。
「宗派が変わって、ご先祖様は大丈夫でしょうか?」

 理論的なことはさておき、まず、こう考えれば一つの納得を得られることでしょう。
「自分があの世からこの世を見ていると想像しましょう。
 どんな光景に悲しみ、どんな光景に喜ぶでしょうか。
 この世の人々が精神的に、あるいは物質的に苦しんでいれば悲しいはずです。
 精神的に、あるいは物質的に安心していれば喜ぶはずです。
 ならば、この世の人々が安心や納得や感動の得られる宗教を信じ、心豊かで活き活きとした暮らしをしていて嬉しくないはずがありません。
 この世の人々が不安や反発や辛さをもたらす宗教と離れられずにいて嬉しいはずがありません。
 この世は無常であり、すべてのものは変化から免れません。
 人は一生の間に、学び、成長しつつ信じるものが変わって当然です。
 ならば、何十年も何百年もの間に、守る子孫の宗教が変わって何の不思議や不都合がありましょうか」

 寺院とのトラブルについては、まず、道理を持って話し合い、納得点が見いだせるようにアドバイスを行います。
 各寺院こぞって〈今のやり方〉を見なおすことが仏法の復興に不可欠だからです。
 寺院が見捨てられれば、仏法が見捨てられかねないからです。
 また、こうした厳しいご時世にお墓を移動するのは、どなたにとってもできれば避けたいはずの出費を伴うからです。
 そして何よりも、せっかく仏法とご縁になった皆さんが〈寺院のやり方〉によって仏法そのものへ不信を抱くようであれば、皆さんへも、仏法を守ってきた先徳の方々へも、申しわけないからです。

 皆さんそれぞれに努力をしてもどうにもならない場合は離檀に至ります。
 その後、どこかの寺院とご縁になればまた新しい段階が開けましょうが、「もう、たくさんだ」と仏法から離れるケースも少なくないと聞きます。
 これはもう、新しいタイプの宗教難民というべきではないでしょうか。

 藤井學氏は、これまで批判の対象でしかなかった感のある江戸時代の仏法と暮らしの関係へ新しい光を当てました。

「近世の仏教は、一面では民衆支配の末端に位置したが、他方では、かれらの多様な救済の要求を解決し、民衆社会に先祖供養を通じて人生の尊厳を教え、あるいは倫理道徳や年中行事を育て、過去のどの時代よりも国民の中に定着したのである」

 私たちの心と文化の基礎になっている仏法をこれ以上、貶めないよう、宗教難民の問題を解決できるよう、皆で努力したいものです。

〈お彼岸を待って咲きました〉
2209222 009_edited-1




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.21

亡くなった方は不浄でしょうか・ご先祖様へ願いをかけてはいけないのでしょうか

「Aさんは仏様願いをかけるから不幸が続いているのです」
 ある人からこう言われたAさんが来山されました。
「本当でしょうか?」と真剣です。
 辛いできごとが続いたので、仏壇にある母親の位牌へ「お母さん、どうぞお守りください」と言いたいのに、朝は「お母さん、行ってくるね」、帰れば「ただいま」しか言えないのがもどかしいと胸に手を当てます。

 仏法は原因があれば必ず結果が出ると説き、仏教徒は、この世とあの世が響きあうと信じています。
 さて、私たちはこの世にあって家族や友人知人などの幸せを願います。
 年配になれば、あの世に行っても、この世にいる家族などを守ってやりたいと考えます。
 そして、死が近づいた時、感謝の気持やみ仏に守られている実感などが持てる方は幸せです。
 また、可愛い孫や知人などをあの世から見守りたいと願います。
 送った側もまた、「あっ、お祖父ちゃんが守ってくれたんだ」と感じたりします。
 現に、お大師様は弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土から私たちを見ていてくださると約束され、私もまた、あの世からこの世の人々へ関わりたいと願い、転生したならば再び法楽寺で励もうと決心しています。

 こうした真実をすなおに考えれば、日常生活において、あるいはいざという時、信じる観音様やお大師様やご先祖様などへご加護を願うのはあまりに当然であり、災いの元となる理由は何ひとつありません。
 経典は説いています。
「自分の功徳の力とみ仏のご加持の力と縁の力をもってことを行うのが一番である」

 さて、私が最も神経を使い頭をはたらかせる場面の一つは、修法後に皆さんとお茶をいただく時間です。
 さまざまな思いを持って参加された方々の思いを受け止めたい、それぞれの方が役立つ教えをお伝えしたい、もちろん、ゆっくりくつろいでいただきたい、こんなことを考えてテーブルについていると、「千手観音様だったらなあ」と切に思う場合があります。
 Aさんと話をしていると、BさんがCさんへおかしなことを話していたり、Dさんが言いたいことがあったようなそぶりをしたり、Eさんが早々に帰ろうとしたり、Fさんが手持ちぶさたにぼんやりしていたりします。
 こんな時、千手観音様なら、こともなくすべての方々へ適切な対応をされるのだろうと想像します。
 また、人生相談にこられた方が、申し上げたポイントをきちんと理解し実践しなかったために、せっかく変わりつつあった運勢を元に戻し、同じ苦境に立つ場合があります。
 自分の無力を実感し、きっと、お不動様ならばバシッと行くべき方向へお導きになられるのだろうなあと、切に思います。

 このように、人生相談を受け、皆さんの善願を自分の願いとして祈っていると、千手観音様もお不動様も、あるいはお地蔵様も阿弥陀如来も大日如来も、〈おられなければならない方〉であり、〈おられるはずの方〉であり、お大師様のような卓越した行者にとっては〈ありありとおられる方〉であるとしか思えません。
 私たちの故郷はこうした光にあふれたみ仏方の世界であり、私たちはそこからこの世へ修行の旅にやってきた旅人であり、死とは故郷へ帰ることです。
 だからこそ、三途の川の向こうには花畑が広がっており、チベット密教は「クリア・ライトが待っている」と説きます。
 逝った方々はみ仏の光の世界へ同化する過程をたどっているに違いありません。

 ならば、み仏や逝った方々へ祈り、願いをかけてはいけない理由がどこにありましょうか?
 国家神道を創ろうとした明治時代に始まる「神は浄を扱い、仏は不浄を扱う」といったマインドコントロールは、そろそろ卒業すべきです。
 大日如来の徳の顕れであるこの世のものはすべて清浄な仏性を具えています。
 時に穢れた面が表面で動き、時に清らかな面が表面で動くのは、迷いにある私たちの心です。
 それはまるで、海面の波でありしぶきです。
 表面の様相がどうであろうと、海は大地と共に永遠にいのちの源であり、深層海流は静かに流れ続けています。
 私たちの心もまた、同じです。
 喜怒哀楽は表面の動きであり、それをもたらす潜在意識があり、生まれ持った深層意識があり、最奥ではみ仏の世界を共有しています。

 道理のないタブーは離れましょう。
 深く清浄な心をはたらかせ、清浄な世界と感応し、豊かな精神生活を送りましょう。

〈あるべくしてあるものの気高さ……〉
2209201 0301_edited-1




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2010
09.20

2010年10月の運勢

 平成22年10月運勢(10月8日から11月6日まで)です。
 運気の流れを知り、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 今月は心が高揚するできごとに遇いやすく、自分を揺り動かしている相手の正体を確かめてみる必要があります。
 真実のものや清浄なものなら結構ですが、そうでない場合もあります。
 特に、世間の多くがいっせいになびく(いつの間にかなびかせられている)時は要注意です。
 かつて古代アテナイに陶片追放という制度がありました。
 市民が追放したいと思う人の名前を陶片に書いて投票し、該当者となった人は十年間、国外追放されるシステムです。
 日本に同じシステムはありませんが、権力者やマスコミがこぞってレッテル貼りにいそしむ時は、「本当にそうなのか?」と疑ってみるのが健全な精神です。
 乗せられない、流されない自立した判断能力を持ちたいものです。

二 各界に新しい流れが芽生えます。
 自力を伴ったものは、人もモノも集まって伸び、声やスローガンだけのものは、まもなく消えます。
 何かを打ち出す場合は地固めをしてからにしましょう。
 また、芽の実態をよく観察し、取捨選択を誤らないようにしましょう。

三 余裕のあるなしによって成否が分かれることを考えておきましょう。
 かつてお大師様の乗った船が風雨波浪を乗り越えてようやく唐へたどりついた時、目的地から遠く離れていたので、怪しまれた一行は船から引きずりおろされ、船は封印されるというピンチに立ちました。
 大使は何度も文章を書いて役所へ提出しましたがなかなか相手にされません。
 そこで、船に乗り合わせていたお大師様へ代筆を頼んだところ、唐の文章家ですら唸るような名文だったので役人は驚き、一行は国賓扱いで長安へ出立できました。
 有名ではなくともずば抜けた力を持ったお大師様が静かに乗船していたので国を代表する一行が救われたできごとに学びたいものです。

四 何かをやろうとして準備ができたからといって、成就したかのように気が緩んではなりません。
 いかに順調でも準備は準備です。
 たとえば好調な自動車産業の下請け企業が、増産に備えていかに万全の体制を調えても、予想を超えた円高になれば親会社はたちまち拠点を海外へ移すかも知れません。
 今は、変化が早く、しかもこの例でもわかるとおり、命運を左右するような変化の原因へ手のくだしようがないケースもあたり前に起こる世の中です。
 慎重にやりましょう。

五 やっとやってきた佳い時候を存分に楽しみましょう。
 ただし、不意の大雨などを甘く見てはなりません。
 気象情報には充分に注意して行動しましょう。

六 困難の解消には若い力や若い発想が役立ちます。
 そうしたものが塞がれると発展は難しくなります。
 考えましょう。

 それぞれのものを供え、誓うのは、自他の苦を除く菩薩(ボサツ)になる修行です。
布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は自立心を持ち、私欲へはしらず、分を弁えて無事安全です。
 不精進の人は引き立ててくれる人を当てにし過ぎてて失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は節操を守り時を観て行動し成功します。
 不精進の人は私欲で放逸になり、決断に見放されて失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は自分だけ前に出ようとせず、良い仲間と組んで成功します。
 不精進の人はへつらう人と組み、不和を生じて失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は上昇気流に乗り、困窮者へも手を差しのべて成功します。
 不精進の人は勢いを過信して目上や恩人などに礼を失し、災いを招きがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は師や目上や友人の言葉に耳を貸して無事安全です。
 不精進の人は忠告を無視し、酒色や一人よがりへ走って失敗しがちです。
智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は自戒し、身内や組織の内部を固めてから外へ向かい、吉祥を得ます。
 不精進の人は足元が弱いまま早く走ろうとして失敗しがちです。

〈夢のように、現(ウツツ)のように〉
2209201 0292




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.19

お骨を家に置いてはいけないか(その2)

 前回、「なかなか手元から離せないお骨を手放す決断に必要な材料」として、一つのポイントを提示しました。
は、お骨が自然に還って完結する」というものです。
 これは逝かれた方の立場に立った視点です。

 今回は、もう一つのポイントを書いておきます。
 それは「お骨を手放して初めて、を受け容れられる」という考え方です。
 これは送った方々の立場に立った視点です。

 は逝った方に起こったできごとですが、による〈喪失〉は、まぎれもなく、周囲の人々に起こったできごとです。
 お骨をなかなか手放せないのは送った方の心の問題であり、そこに生じている悲しみや淋しさや不安には送った方の人生観が反映されています。

 人間は理性を持っていると同時に感情も併せ持っており、は頭で理解できても、心はすぐに順応できないのが当然です。
 そして、悲しみや淋しさや不安は頭ではなく心に生じ、胸が締めつけられたり、塞がったり、つぶれたりする感覚に襲われます。
 詩人ならばそこへ入り込み、何年でも言葉を紡ぎ出せるかも知れませんが、市井の人々はいつまでもそうしているわけにゆかず、立ち直って以前の日常生活を取り戻さねばなりません。
 しかし、なかなか戻れない場合があります。
 お骨を手放せないのも、そうした心のなせるわざです。

 お骨を手放せないでおられる方々のほとんどは、手放すことを苦と感じてそうしているのに、意外にも、お骨が目の前にあることによってあまり救われてはいません。
 目にすると切ないのに、切なさをひき起こす対象物をなくせないのです。
 ここから脱するにはお骨を手放すことです。
 でもそれができないから苦しい。
 この堂々巡りを解くためには、やはり、道理を腑に落とすしかありません。
 言い換えれば、道理が腑に落ちる体験を必要としているのです。

 釈尊は、苦を抱えた人へその〈体験〉を与えて救われました。

 裕福な家に嫁いだキーサゴータミーは、やっと生まれた男の子を亡くしました。
 どうしてもを受け容れられず、骸(ムクロ)を手にして狂ったように病気を治す(蘇らせる)人を探し回ります。
 見かねた釈尊の信者が、釈尊のおられる祇園精舎(ギオンショウジャ)へ行くように勧めました。
 釈尊は約束します。
「貴女が芥子の実を数粒持ってくれば、病気を治しましょう。
 ただし、芥子の実は、一度も死者を出したことのない家からもらったものでなければなりません」
(この場合の「死者を出したことのない家」とは、「肉親に死者のいない家」の意味です)
 キーサゴータミーは町中を歩きますが、そうした家は一軒もなく、ついに手ぶらで精舎へ戻ります。
 釈尊は黙って座っていました。
 静謐な間で無常を悟ったキーサゴータミーは亡骸を埋めてから再び釈尊のもとへ行き、弟子入りしました。


 この成り行きを「無常を知らなかった女がやっとわかった」と括ってしまうのは簡単ですが、ここにはいくつもの真実が示されています。
 我が子を失った人の心がいかなるものか──。
 きっと、キーサゴータミーは行く先々で、あるいは同情され、あるいは諭され、あるいは叱られ、あるいは癒され、あるいは激励され、あるいは嘲られたことでしょう。
 そうしたことごとがいつしか迷いを脱するための力を与え、とっくに知っていたはずの「人は必ず死ぬ」という逃れようがない現実に向き合わせたのではないでしょうか。
 釈尊が訪れたキーサゴータミーへ「この世は無常です。人は必ず死ぬのです」と説くのは簡単でも、〈その時〉のキーサゴータミーにとって、言葉はフワッとやってきてフワッと去るだけのものだったはずです。
 だから、釈尊は行動を指示しました。
 キーサゴータミーはたくさんの人々との接触を重ねてやっと、単純な真理が腑に落ちました。
 釈尊は慈悲と智慧でそれを促し、見届けました。
 
 今さらながらに釈尊の対機説法の力を想います。
 そして自分をふり返ると、托鉢の先々での出会いが微力で無知な一行者へとてつもない力と智慧を与え、それが志を創り、支えていたことが理解されます。

 さて、釈尊ならぬ私は、ここで道理を書いておくしかありません。
 言うまでもなく、すべてのものは、原因とそれに関係するものによって仮に姿をとっているだけです。
 人間自体、両親からもらった身体がたまたま、地なる骨格も、水(スイ)なる血流も、火(カ)なる体温も、風(フウ)なる呼吸も、(クウ)なるバランスも、そして識なる意識も和合しているから存在できているだけの儚い存在であり、病気や事故などで全体的な機能が失われれば、たちまちこの世を去るしかありません。
 どんなに可愛がっているネコやイヌも必ず死にます。
 モノはいつか壊れ、財もまた永遠ではありません。
 現象世界にあるこの世のすべては(クウ)です。

 先に逝った方は、私たちへ(クウ)の真理を示してくださったのです。
 そして、供養というかけがえのない人生修行の機会をつくってくださったのです。
 逝った方に対して深い思いがあるのならば、私たちへ遺してくださった真理や機会をしっかり受けとめ、それに応えるしかないではありませんか。
 悲しいのも、淋しいのも〈自分の事情〉です。
 いつまでもそれに閉じこもっていたままでは、逝った方へもうしわけないではありませんか。
 前回書いたとおり、お骨を自然に還さねば、逝った方にとっての死は完結しません。
 同様に、逝った方が遺してくださったものをしっかり受けとめねば、送った方にとっての死もまた、完結しません。
 そのためには、目に見え、執着心のきっかけとなるお骨を自然に還し、供養する必要があります。

 以上を判断材料としてお骨の扱い方を考えてみられてはいかがでしょうか。

〈真実を示すもの〉
2209173 008



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.18

子供たちにはかなわない(その5)

 長田弘著202人の子供たち こどもの詩2004-2009』より。

2分前の自分 佐藤かの子(東京都渋谷区・小5)

朝 学校へ行く時2分出おくれた
私は集中して
2分前に出た自分を探した
走って走って追いついた
走って走って追いぬいた
ふり返ると もう1人の自分は
いなくなっていた

 時間の観念が身につき、ものごとを行う際のイメージを自分で創っています。
 創造的な仕事のできる大人になることでしょう。

えんぴつさん 芝原由貴(大阪市・小4)

えんぴつさんの成長は
大きい人から小さい人へ
だんだんかわってく
人間達の成長は
小さい人から大きい人へ
だんだんかわってく

 対比の感覚があります。
 理解力の高いお子さんではないでしょうか?

かぶとむしはどうやってうごくか 大塚隆史(名古屋市・ドルトンスクール名古屋5歳)

いきているいのちを
たいせつにして
しんぞうのおとをききながらうごく
せなかにちからをいれて
ぱかっとはねをひらく

 いのちを大切にというあたりは、教育の成果でしょう。
 いのちを頭ではなくて感性、感覚、想像力を全部駆使してつかんでいます。
 乾いた人にはならないはずです。

イカをさばいた 石黒優莉渚(さいたま市・小2)

「グニョッ」
さわると ウーッ 気もちわるい
足が10本もあった
はらわたを出し
ほねとかわをとり……
やっとイカのにものができた
うん おいしい!

 やってみせ、やらせる親御さんの力です。
 石黒家のように「うん おいしい!」という体験をさせれば勝ちなのですが……。

 子供たちの詩には、心にかぶさっているものを取り払う浄化作用があります。
 宝ものです。

〈憩う場所はここで良いのかな〉
2209173 004



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.18

お骨を家に置いてはいけないか(その1)

 人生相談がありました。
「亡き母親のお骨をなかなか手放せません。
 周囲からは、早く納めないとお母さんが浮かばれないよと言われます。
 運勢が悪くなるとか、時々に出るなどと脅されもします。
 でもなかなか決断できないのです。
 仏教では、いつまでにおを造ることになっているのでしょうか?」

 これまでに、お骨を管理している当人からも、周囲の方々からも、同じようなご相談を数多く受けてきました。
 どう考えるべきでしょうか。

 まず、「仏法上、埋骨の時期は決まっていない」ことが大前提となります。
 四十九日という「この世へ残した気配」が消える時期が、お位牌や仏壇などの用意も含めて一つの大きな目安とはなりますが、だからといって、四十九日を過ぎてお骨のままで供養していると何か悪いことが起きるなどと怖れる必要はありません。
 だから、お骨をいつどうするかは、もしも生前、個人から意思表示があったならばそれを尊重し、そうでなければ管理責任者の気持で決めればよいと考えます。

 では、お骨を手放す決断に必要な材料は何か?

 まず一つは、「は、お骨が自然に還って完結する」という考え方です。
『法句経』が説くとおり、「が去る」状態を「ぬ」といいます。
 は、この世とは異なる世界へ旅立ちます。
 しかし、抜け殻であるお骨は残ります。
 が、いわば無限定な世界へ溶けこもうとしているのに、お骨がそのままでは不釣り合いです。
 そうかといってこの世にあるモノは消せません。
 だから、自然へ還すしかありません。
 還す方法は、生まれ落ちた私たちを生涯にわたって育て支えてくれた大地へ戻すことです。
 抜け殻であるお骨も自然という無限定な世界へ溶けこんで初めて、別世界からやってきた1人の人間の別世界への旅立ちが完成すると考えるのが道理です。

 また、この世のすべてのものは「生・住・異・滅(ショウ・ジュウ・イ・メツ)」の四相(シソウ)にあります。
 あらゆるものが生じ、とどまり、変化し、滅するのです。
 ならば、が去った抜け殻もまた、その真理に合わせて滅するよう管理者が手を貸すのが自然な対応ではないでしょうか。
 
 そこで、「お粗末にできない」のが霊性のなせるわざであり、目に見えるモノへの対応に、目に見えないへの思いを込めるのが人間の人間たる所以です。
 斎場でご遺族などがていねいにお骨を拾い、担当者がていねいにお骨を壺に納め、責任者がしっかりと胸に抱いて帰宅する一連の行為には、人間が人間たる資格が表れていると言えましょう。
 私たちは行為へ思いを込め、思いはの向かった世界へ届いているのです。

 お骨はていねいに扱い、ていねいに自然へ還し、を完結させましょう。

〈還る先は〉
2209173 0093



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.17

『大日経』が説く心のありさま六十景 その11「積聚心(シャクジュシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする心の曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪り怒り迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の私たちの心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第11回目です。

11 積聚心(シャクジュシン)
 これは、単純に「ひとまとめ」にしてしまう状態です。

「無量を一とするを性とす」


 量り知れないほど多くのものをたった一つにまとめてしまい、思考停止する状態です。
 一つの教えを聞くと、魔法の眼鏡を手に入れたような気持になり、他の教えを裸眼でよく観られなくなる場合があります。
 イデオロギーにはこうした硬直性がつきまとい、宗教もまた、同じ危険性を持っています。
 もちろん、私たちは意識しようとしまいと、自分の色眼鏡で世界を観るしかありません。
 自分はそうした存在なので、自分なりにできるかぎりの〈客観的〉視点を確保しておこうとする心構えがあるかないかが大切なのです。
 こうした心構えとは両立します。
 それができているかいないかは調べられます。
「言葉が仲間内だけでしか通用していないのではないか?」

 私の学生時代は、昭和35年の安保闘争から約10年間続く、学生運動が激しい時期でした。
 当時の私は道に迷いながらも、三つの視点から運動の思想性を疑い、参加しませんでした。
 一つは、唯物論に立ち、歴史を必然と決めつける硬直性を持ったマルクス主義は虚構であり、共産主義国家が理想郷とは信じられないこと。
(もちろん、虐げられている人々を救おうとする情熱は評価、納得できても、モノの原理で世界中の人々を一つの思想に染め上げる道筋には同感できませんでした)
 怨みと戦いの思想は、人間を救済する根本思想ではないこと。
 同じ思想を持った人たちの間でしか通用しない言葉を用いている限り、運動は広い理解を得られないこと。

 み仏へ帰依した今、ご縁の方々と接する時はいつも、み仏の世界を皆さんにわかりやすい言葉でお伝えしようと心がけています。
 通じ、共感や共鳴が起こらなければとても残念で、自分のいたらなさを省みます。
 また、こんな話を思い出したりもします。

 ある時、詩人リルケは、女性へインドの寓話を教えました。

 インドの海岸で、3人の修行僧が法衣を木の枝にかけ、水浴をしました。
 すると、サッと舞い降りた鷲が海面から魚をくわえ、飛び去りました。
 1人は叫びました。
「こんちくしょう!」
 すると法衣は、風もないのに枝からサラリと落ちました。
 もう1人も小声で言いました。
「かわいそうに」
 法衣は同じように落ちました。
 沈黙したままの修行僧の衣は落ちなかったそうです。

 言葉にいのちをかけている詩人がなぜ、こうした寓話を大切に心へしまっておくのでしょうか。
 私たちはわりあい簡単に、「~って、結局~なんだよね」「~は所詮、~さ」と〈終わり〉にします。
 そこで少々、立ち止まってみてはいかがでしょうか。

〈とどまるところを知らず流れ去る水、静かに見守る緑、絶えない瀬音〉
2209173 007



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.17

子供たちにはかなわない(その4)

 長田弘著『202人の子供たち こどもの詩2004-2009』より。

19さいの僕の目ひょう 小寺龍太(青森市・小4)

19さいになったら みがき屋になる
ぴかぴかにみがくための
ぞうきんを買いにゆくんだ
なんだってみがくんだ
みがき屋の仕事は いいぞ
夏 自転車にみがき道具をつんで
どこへだっていけるぞ

 大人がものをきれいにする家庭環境と、嬉々として手伝う子どもを想像させられます。「みがき屋の仕事は いいぞ」。この力強さ、スパッと切れの良い夢は、伸びるいのちの特権です。

成長 石井めぐみ(茨城県笠間市・中1)

1年生の時は
見上げていたのに
今はおばあちゃんが
私を見上げている
やってもらっていたことを
やってあげる番が来たのだ

おかげさま」。「今度は私が」。この気づき以上に大切な気づき、この心以上に大切な心がありましょうか。

今日のかわったこと 杉山葉月(北九州市・小4)

お姉ちゃんが 学校に来ない
もう そつ業したから
1人で歩く道は いつもとちがう
歩くだけで何かが出てきそう
しゃべる口も 1人だとだんまり
顔も 1人だとしょんぼり
いつもの1日 いつもとちがう私

 自分の姿も心もきちんととらえる目があり、言葉には落ちついたリズムがあります。もう、立派な詩人です。

コンクリの海 大滝裕美(千葉県松戸市・中2)

学校後の雨あがりコンクリート
雨がくっつきすぎずはなれすぎず
海のようにちっていた
日の光にあたって光っていた
子供と母親の声に合わせ光る
なにげない道の海は私の心には
とても大きく強く見えた

「学校後の雨あがりコンクリート」は秀逸な出だしです。余分な〈自分〉は顔を出さず、目と耳が世界をまるごとつかんでいます。作者には絵心もあるのではないでしょうか。

 子供たちの詩には、心にかぶさっているものを取り払う浄化作用があります。
 宝ものです。

〈「仏教イラスト大図典」からお借りして加工しました〉
22091722_edited-1.jpg



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.16

9月の行事

 9月の行事です。

[第一例祭 2010/9/5(日)午前10:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。
 法話もあります。
 皆でうどんの昼食を食べましょう。

瞑想会] 2010/9/5(日)午後2:00
「阿息観(アソクカン)」を行います。
 呼吸法と瞑想法を学び、心身を整えましょう。

[講話「生活と仏法」] 2010/9/8(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』を読み、自由な質疑応答を行います。

寺子屋『法楽舘』] 2010/9/11(土)午後2:0
 講堂にて、第10回目を開催します。
 交通手段のない方は、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ乗り合わせる車がまいりますので、お気軽にご連絡ください。
 ご遠慮なくお申し出ください。
 今月の寺子屋『法楽舘』は、映画『チベット 死者の書』を鑑賞し、それを題材にしたお法と、前回に引き続き、「運勢」と「生き方の25の指針」についてのお話を申し上げます。
 質疑応答も行います。
 ふるってご参加ください。
 老若男女が、フランクに人生の大事や疑問を語り合いましょう。
 詳しくは、ブログ「寺子屋『法楽舘』開講 ─第十回の予定─」をご覧ください。

2208018.jpg

[第二例祭 2010/9/18(土)午後2:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

写経会] 2010/9/18(土)午後4:00
『理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)』を浄書します。(納経される場合のご志納金は一枚千円です)
 百の文字に願いをこめて書きましょう。

[講話「生活と仏法」] 2010/9/22(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』を読み、自由な質疑応答を行います。

[お彼岸供養会] 2010/9/23(木)午前10:00より
 供養会に続き、自分でできる修行などについての法話もあります。
 また、池で増えた鯉の子を集めて近くの川へ放流する「放生会」もあります。
 交通手段のない方は、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ乗り合わせる車がまいりますので、事前にご連絡ください。
 詳しくは、ブログ「お彼岸供養会」をご覧ください。

お焚きあげ] 2010/9/28(火)午前10:00
お不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。28日とは限りません。いつでも結構です。

[講話「生活と仏法」] 2010/8/29(水)午前10:0
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』を読み、自由な質疑応答を行います。




[機関誌『法楽』作り] 2010/9/27(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

[隠形流居合道場] 毎週金曜日午後7:00
仙台市青葉区旭ヶ丘「青年文化センター」にて「隠形流居合」の稽古を行っています。
入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
--------------------------------------------------------------------------------

※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2010
09.16

遺すもの

 お焚きあげには、さまざまなものが送ってこられ、持ち込まれもします。
 失恋して手放す手紙や指輪などはともかく、遺品に接すると、人の営みというものを考えさせられます。

 私たちの意志の多くは、モノを手に入れるために使われます。
 日本が〈戦後〉から脱しようとしていた時期には『三種の神器』である白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫が求められました。
 高度成長期になると、カー(車)とカラーテレビとクーラーが人気になりました。
 今はさしずめ、デジタルカメラ・DVDレコーダー・薄型テレビといったところでしょうか。
 もちろん、いわゆる内需の柱である家の需要はずっと続いています。
 こうしたモノは豊かさを感じさせ、便利さを感じさせ、満足感を感じさせます。

 しかし、家や車からシャツや蒲団のはてまで、亡き人の残したものはすべて人生の抜け殻です。
 遺品を前に、私は日々、故人やご遺族に代わって抜け殻に感謝し、因縁を解き、天地へ還します。
 家や車もやがては朽ちます。

 一方、なかなか朽ちないものもあります。
 それは生きている人たちの心へ刻まれた思い出です。
 平成18年に、ゆかりの方をお送りした時、小学校4年生のお孫さんが書いた「送る言葉」は忘れられません。
 再掲します。

 『大好きだったじいちゃん』

 じいちゃんは、六月二日に亡くなりました。みんなにそんけいされていました。
 じいちゃんは、いろいろな能力を持っています。ぼくが骨を折った時も、かべの絵が落ちて、「いやな予感がするな。」と思ったそうです。
 ほかにもあります。
 ぼくが生まれるとき、前の日にお母さんが東京に単身ふにんしているじいちゃんに電話をしました。
「一週間だって。」と言ったのに、おばあちゃんにすぐ電話をかけて、「こんばんか、明日だから準備しておくように。」と言ったそうです。
 その後、急におなかがいたくなって次の日にぼくが生まれました。
 ぼくは「テレパシーみたいだな」と思いました。

 まだあります。
 東京で電車に乗ってあばれている人がいて、その人をじいちゃんは止めました。
 お母さん達は、やめてほしいと思ったそうです。
 しかし、ぼくは包丁を持っている人を止めるなんてすごいなと思いました。
 けいさつにも名乗りでなかった所も「すごい」と思いました。
 じいちゃんは、家族をとても大切にしていました。
 まごたち七人と、おばあちゃんとみんなで出かけるのが好きでした。

 特に楽しかったのは、木ノ下大サーカスです。
 そのとき、ぜん息のぼくの声が出なくなりました。
 病院へ行ってからみんなと見に行くことができてよかったです。
 一番すごかったのは、バイクです。
 大きなあみの中を通りました。
 大きなブランコもありました。
 みんなとてもおどろいていました。
 他にも「まるまつ」とか、おろいろなレストランにも連れて行ってくれました。

 じいちゃんは、頭が良いので自分でトランプの手品を考えました。
 その手品をぼくだけが教えてもらいました。
 それは、すごい手品でした。
 その手品ができるのには時間がかかりました。
 むずかしすぎて、少し忘れてしまったからくやしいです。

 ぼくは、四年生の春から野球を始めました。
 じいちゃんは、病室でぼくと野球の話がしたいと言っていたそうです。
 野球が大好きなじいちゃんと一しょに、楽天の試合を見る約束をしていたのに残念です。
 じいちゃんのグローブを形見にもらいました。
 今、家でかざってあります。
「もらったよ」とお母さんから言われたときにはすごくうれしかったです。
 ぼくは右ききだから、じいちゃんにもらったグローブは、はめられません。
 ぼくは、野球をがんばっていて、今レフトを守っています。
 ぐう然、じいちゃんもレフトを守っていたそうです。
 それを聞いて、とてもうれしかったです。
 野球は、じいちゃんのためにもがんばろうと思っています。

 じいちゃんのおはかには、こだわりの石でできたいすとテーブルがあります。
 去年の夏に、まだ元気だったじいちゃんが自分で建てたおはかとテーブルです。
 そこはけしきがよくていい所です。
「何かなやみがあった時は、おはかに行ってすわっておにぎりでも食べてじいちゃんに話すんだよ。
 じいちゃんは必ず守ってあげるからね。」と言いました。
 いとこ達と話を聞いたとき、ぼくはこんなに早く、じいちゃんがいなくなるとは思っていなかったので、不思議なことを言うのだなと思っていました。
 じいちゃんは、すごい力を持っています。
 だから、じいちゃんは自分で分っていたのかもしれません。

 ぼくはじいちゃんともっと話がしたかったです。
 じいちゃんが亡くなってから、いろいろなことが分ったような気がしています。

 おかあさんから聞いたけれど、いつも行っていた老人ホームのひいおばあさんとじいちゃんは、小さいときに離れてくらしていて、やっとおじいさんの年齢になってから、自分のお母さんと会えるようになったから、家族をとても大切にしているのかなと思いました。

 ぼくは、本当にじいちゃんともっと話がしたかったです。
 そして、これからは、たまにはおにぎりを持っておはか参りに行きたいです。

 皆さんから持ち込まれた品々から気配が立ち昇る場合もあります。
 そんな時は祈りを深めます。
 み仏は、私たちの心に残るべきものと残さない方が良いものとを必ず区別してくださると信じています。
 お焚きあげのお品を前に、今日も祈ります。

〈いつしか、赤とんぼの時節になりました〉
22091522 0182_edited-1




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン




2010
09.16

子供たちにはかなわない(その3)

 長田弘著『202人の子供たち こどもの詩2004-2009』より。

あなだらけのキャベツ 森山翔太(兵庫県高砂市・小4)

おじいさんが つくったやさいは
ピカピカで どれもおいしい
でもキャベツは あなだらけ
お母さんが「あながあるのは
おいしいしょうこ 虫もおいしい
やさいがわかるのよ」と言った
ぼくは虫はすごいなと思った

 おじいさんの野菜をピカピカと思いながら育った子どもは、成長してもお年寄りを粗末にしないはずです。
 大人は「虫はすごい」を忘れつつあります。

夜の雲 高津光希(大津市・小)

ぼくがくもをながめていると
トラがカニをおそい
せんしゃとピストルで
せんそうをしていた
きょ大な鳥にのっている
きしが
ドラゴンをたおしていた

 子どもの想像力には脱帽です。
 私たちも子どものころはこうした豊かな世界を持っていたはずなのに……。

けんか 中村風太(茨城県常陸大宮市・小5)

言葉の意味調べ十九問
ものしり国語辞典君登場
いろいろ書いてある
あ おもしろい読み方発見
おー こんな意味だったのか
脱線につぐ脱線
時点で遊べるって知った

 「脱線」のおもしろさを知った子どもは、うるさく言われなくても宿題をこなすことでしょう。

シャーペンの芯が 渋谷愛(茨城県常陸大宮市・小5)

友だちの家で宿題をしていた
急に芯がパキッと折れた
瞬間 時間が止まった
変な緊張感
何もしゃべらないで
目だけでの会話
不思議な感覚だけ残った

 心次第で、日常的に流れている時間は止まったり速さを変えたりします。
 それは自分の心がもたらす場合もあり、ふとしたできごとに〈自分〉を奪われた場合もあります。
 空間的に、世界が裂けたり凍ったりするように感じられもします。
「不思議な感覚」は、立派な詩人の感覚です。

プリン 大武日文(山形県白鷹町・小5)

母は弟が生まれない時から
3こ入りのものを二つ買ってきた
姉と私でけんかにならないように
でも3人姉弟になってから
3こ入りのものは一つしか
買ってこなくなった
母の知恵おそるべし

 「母の知恵おそるべし」には、暖かなユーモアがあります。「3」と「二」と「一」の使い分けも巧みです。

杉浦日向子百物語』より〉
22091612_edited-1.jpg




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。