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2010
10.31

絵本と中学生

 10月29日の読売新聞には驚きました。
中学生絵本朗読」という見出しがあったからです。
 全国学力テストに伴う調査によると、中学3年生の4割近くが平日、学校以外で一冊の本も読んでいません。
 国際学力テストでも、読解力において日本の生徒はどんどん順位を下げているようです。
 こうした状況を変えるために、余郷裕次(ヨゴウユウジ)・鳴門教育大教授(52歳)は、絵本読み聞かせを勧めています。

「言葉をイメージにする力が養われ、読書の喜びを実感できる。
 学力の底上げも可能で、大人と子供の信頼関係も回復できる」

 実際、徳島県吉野川市立鴨島東中学校では、国語担当の大椋寿子(オオムクヒサコ)教諭(49歳)が授業の最初に絵本読み聞かせています。
 生徒は絵本に集中し、引き続き通常の授業を行っても、生徒たちは「教諭の目を見て声を聞く姿勢」は変わらなくなりました。

「生徒は絵本に触れて聞く心地よさを知り、ほかの人の話を聞く姿勢につながっていきます。
 授業での集中力も増しました」

〈聴かせる〉ことを伴うやり方には考えさせられました。

 絵本と対照的なゲームを考えてみましょう。
 ゲームでは〈見る〉、そしてすばやく反応することのくり返しが延々と続きます。
 音は途切れずに付随していますが、それはパチンコ屋の軍艦マーチと同じで、決して〈聴く〉対象になってはいません。
 ところが、絵本を読み聞かせられる時、目は絵を〈観る〉と同時に、耳は言葉を〈聴く〉態勢に入っています。
 絵は見えているだけではありません。
 言葉もまた、聞こえているだけではありません。
 絵は視覚への刺激として反射的に見られているだけでなく、意味を求められつつ観られています。
 言葉は聴覚への刺激として反射的に聞かれているだけでなく、意味を求められつつ聴かれています。
 これはもう、読書へあと一歩まできている状態です。

 読書では、文字が言葉として読まれ、響きを持った言葉は、声にならない声で心からイメージを引き出します。
 声によって心の引き出しがあけられるのです。
 くり返し読むと、引き出しの中身がよりはっきりと確認されます。
 いつしか中身は増えたり、変わったりしています。
 絵本によって〈観る〉ことと〈聴く〉ことに慣れた心は、絵としての情報だけでなく、文字としての情報である言葉をも〈観る〉ことに移行しやすくなっています。
 そして、言葉から発した響きを〈聴いた〉心から豊かなイメージがあふれ出ることでしょう。

 こうなれば、大椋寿子教諭の言うとおり、「ほかの人の話を聞く姿勢」ができて、社会人として成長して行く基盤もできるはずです。
 他人の心を推しはかり、思いやるといった自己中心とは反対の大切な心も育つはずです。
 本当は幼い頃に行われるべきこうした指導が中学生になってから行われるのは残念ですが、とにかく、見えるものや聞こえるものに素早く反応し、流され、深まりにくい子供たちの心を何とかせねばなりません。
 絵本に関する活動を支えてきた「子ども夢基金」は事業仕分けで廃止されましたが、先生や親が絵本の大切さを再認識されることを願ってやみません。

〈当山常備の絵本〉
221031.jpg



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
10.30

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (5の4)

 行者が魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖」の読み下し文を区切って解説しています。
 第五番目の文です。

第五条 六道教化(ロクドウキョウカ)

「まさに衆生(シュジョウ)を願うべし。
 檀波羅蜜(ダンパラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、尸羅波羅蜜(シラハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、羼提波羅蜜(センダイハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、毘梨耶波羅蜜(ビリヤハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、禅那波羅蜜(ゼンナハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲し、般若波羅蜜(ハンニャハラミツ)によって一切の衆生を大慈悲しよう」


(衆生のために願おう。
 布施波羅蜜(フセハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽(バックヨラク)しよう。
 持戒波羅蜜(ジカイハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 忍辱波羅蜜(ニンニクハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 精進波羅蜜(ショウジンハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 禅定波羅蜜(ゼンジョウハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。
 智慧波羅蜜(チエハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう)

 行者は一心に願います。
 何を願うかといえば、菩薩(ボサツ)になるための6つの修行を行うことによって、生きとし生けるもののためになり切ろうということです。
 今回は、その5番目を学びます。

5 禅定波羅蜜(ゼンジョウハラミツ)を行じ、一切の衆生を大慈大悲によって抜苦与楽しよう。

 禅定とは、智慧をはたらかせるために心身を安定的に調えることです。
 当山の修行にあっては

「我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん」


と誓い、菩薩の心をつくります。
 ここで大切なのは、食べもののイメージです。

 私たちがまっとうな心をつくろうとした場合、まず、生きるために必用な飲食物が確保されていなければなりません。
 飢えも渇きも、暑い寒いという耐え難さも、痛い苦しいという辛さも、肉体から発する危険信号であり、こうしたものに苛まれていればじっくり人の道を考える余裕はなかなか持てません。
 人間といえども、自分の死を前にすれば飲みものや食べものを奪い合わざるを得ません。
 釈尊は死の一歩手前まで肉体を痛めつける難行苦行を行った上で、それらを捨て、空腹を満たしてゆったりと座った結果、真理を掴みとりました。
 飲みものや食べものが〈ある〉ということは、実に、人間が人間であり続けるための絶対条件とも言えるでしょう。
 
 出世間食(シュッセケンショク)という言葉があり、修行者にとっての食べものは、5つの方面から説かれています。
①善悦(ゼンエツ)食
 心身の落ち着きを得ます。
②法喜(ホウキ)食
 仏法を学べることを喜びます。
③念食
 心に保つべき臆念をゆるがせにしません。
④願食
 善き願いを持ち続けます。
⑤解脱(ゲダツ)食
 煩悩から離れられます。

 考えてみれば、これらは、私たちの日常生活にも当てはめられます。
①適度な食べものがあれば安心であり、ものごとを落ちついて考えられます。
 今日の食べものに困っていれば、食べものを探す以上の関心事がありましょうか。
②仏法を学べるのも、飲食ができていればのことです。
③ウソを言うまい、他人様のものへは決して手をかけまい、などという人の道を歩む覚悟も、飢えや渇きの前では風前の灯火となります。
④試験に合格したい、仕事を成功させたいといった願いは、食べられればこそ成就へ向かいます。
⑤飢えからは、貪りの心、怒りの心、愚かさの心など、ありとあらゆる煩悩(ボンノウ)が飛び出します。

 そして、食べものはすべて〈いのちあるもの〉であることを忘れないようにしましょう。
 米も野菜も魚もすべて、私たちのためにいのちを差し出してくれます。
 そのおかげで私たちは今日も生きられます。
 そうした生きものたちは、地球規模の大きな〈いのちの輪〉の中にあってこそ生きて私たちのいのちを潤し、心を潤してくれます。
 私たち人間もまた〈いのちの輪〉の小さな小さな構成員であり、輪の存続発展のために役割を果たさねばなりません。

 お大師様は説かれました。

「無辺の生死(ショウジ)、何(イカ)んがよく断つ、ただ、禅那(ゼンナ…禅定)と正思惟(ショウシユイ)のみあってす」

(生まれてから死ぬまでのあらゆる迷いはどうやって断つことができるかといえば、心身を安定させ正しい思慮を深める修行によるのである)

 食べものに感謝し、いのちの輪に感謝し、自然に感謝し、み仏に感謝し、農家の方から店員さんまで、食べものを手に取られる環境のためにはたらいてくださっている方々に感謝し、適度な飲食によってまっとうな心をつくりましょう。

〈仙南の町に住む方々が、4人がかりで六地蔵様の衣裳を作ってくださいました〉
221025128 001



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2010
10.28

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 58 ―『法句経』無常品第一─

 10月13日の講座「生活と仏法」では、『法句経』の続きを行いました。
 教材に手を施し、以前よりも読みやすく、わかりやすいものになりました。
 勉強を始める方が増えたこともあり、経典の最初から再スタートを行っています。

「咄嗟(トッサ)に老(ロウ)至れば、色(シキ)変じて耄(モウ)と作(ナ)る。
 少(ワカ)き時は意(ココロ)の如(ゴト)くなるも、老ゆれば蹈藉(トウセキ)せらる」

(ふと、気づくと、老いがやってきていて、容貌は衰えています。
 若い頃は意のままに装い、ふるまっていても、老いれば肉体は破壊され、意のままにならなくなります)

 若くて元気なうちは、自分が老いた時のことなど、ほとんど考えません。
 しかし、老いは否応なく忍びよってきており、身体の変化がそれを伝えます。
 いくら抵抗しようが、五十歩百歩です。
 年配者になると「年よりも若い」と言われるのが小さな喜びとなりますが、他からどう見えようと、自分は自分の老いの実体を知っており、自分をごまかすことはできません。

 私たちは、自分という意識が生じた時、すでに肉体という衣をまとっています。
 それはどんどん成長し、自他共に喜びますが、すべては昇って没する太陽と同じ運命にあります。
 勢い盛んな中天を過ぎれば衰退の時期へ入り、誰も下り坂から逃れられません。
 徐々に衣は破れ、そして崩れ落ちる時がやってきます。

 しかし、衣を用いて育んだ心はなくなりません。
 もしも、卑怯者として生まれ、卑怯者のまま生涯を終えれば、来世もまた必ず、卑怯者として生まれることでしょう。
 自分が卑怯な心を持って生まれた原因は過去世にしかなく、死んで今世が過去となれば、その過去が原因となり、ある特定の未来が生ずるのは理の当然です。
 だから、卑怯な心を恥じるならば、遠からず老いと死がやってくる〈つかの間の今世〉に、それを処理しておかねばなりません。
 いつ、やるか。
 それは〈今〉しかありません。
 過去を愚癡っても無意味です。
 未来を頼めば不確実です。
 なすべきことは今、やる以外ありません。

「是(コ)の日已(スデ)に過ぐれば、命則ち随いて減ず。
 少水の魚の如(ゴト)し。
 斯(コ)れ何の楽しみか有(ア)らん」

(一日過ぎればそれだけ、いのちも減ります。
 太陽が照れば干あがる水たまりにいる小さな魚のような儚いいのちに、何の楽しみがあろうか)

 この「少水の魚」を始めて目にしたのは、40歳前後の頃でした。
 衝撃を受け、一瞬にして自分の一生がつかめたように思えました。
 やがて始めた托鉢行の途中で、道路にできた雨上がりの水たまりへ一心に卵を落とす赤トンボが目に飛び込み、あまりの哀れさに泣かされました。
 赤トンボこそ、自分だったのです。
 それからの20年は夢のように過ぎ去りました。
 同期の友人たちがすでに鬼籍へ入り、寄ると障ると病気の話題です。
 もはや〈自分の病気〉が最大の関心事であり、その一喜一憂の前では、いかなる財物も名誉も地位もあまりに小さなものでしかありません。

 勉強会で皆さんと「達観」について考えました。
 諦めというイメージにしっくりきていなかったAさんは言いました。
達観は『覚悟を決めること』と知って気が楽になりました」
 当山には、覚悟を決めようとご来山される方が後を絶ちません。
 若い方も年配の方も、あるいは眠る場所を決め、あるいは生前戒名を求め、あるいは導きのみ仏を礼拝し、覚悟を胸にされた方々は皆さん、晴々とした面持ちで帰宅されます。
 合掌でお送りしながら思います。
 きっと、以前とは〈楽しみ〉の受け止め方が変わることでしょう。。
 たとえ小さなできごとも感謝と喜びが伴った愉しみとして輝くことでしょう。
 心は、その場だけの楽しみでなく、消えない愉しみに満たされることでしょう。

〈確かな今を生きる者〉
221025 004
 
 


「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
10.26

『四十二章経』第二十九章 ─取り違え─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

〈ボランティアの方々と共に、印刷の仕上がった資料を延々と一日がかりで整理し、『法楽』や『法楽新聞』などができあがり、発送されます〉
221025126 001

第二九章 取り違え

 仏の言(ノタマ)わく、
「人あり、婬情の止(ヤ)まざるを患(ウレ)い、斧刃(フジン)の上に踞(スワ)りて、以(モッ)て自ら其(ソノ)陰(オン)を除く。
 仏、之(コレ)に謂(イ)いて曰(ノタマ)わく、
『若(モ)し陰(オン)を斷ぜんよりは、心を斷ぜんには如(シ)かず。
 心は功曹(クソウ)為(タ)り、若(モ)し功曹(クソウ)を止(ヤ)めば、従者も都(スベ)て息(ヤ)まん。
 邪心止(ヤ)まずんば、陰(オン)を斷ずるとも何の益(ヤク)かあらん。
 斯(コ)れ須(スベカラ)く即(スナワ)ち死すべし』」
 仏の言(ノタマ)わく、
「世俗の倒見(トウケン)は、斯(コノ)癡人(チニン)の如(ゴト)し」と。

 釈尊は弟子たちへ説かれました。
色情をもてあました人が男根を断ち切ろうとしていたので諭した。
『男根という肉体を切るよりも、色情を制御できない心の問題をこそ断ち切らねばならない。
 心こそが人を動かす指揮官である。
 指揮官の問題が解決できれば、肉体の問題も解決できる。
 邪心をそのままにしておきながら、肉体を傷つけたとて、何の益もない。
 ただ、死ぬだけではないか』」
 また、説かれました。
「人々がものごとを取り違えて考えがちなのは、この愚かな男に似ている」

 このとてもわかりやすい教えは他の経典にも現れます。
 弟子たちを悩ませた最大の難物一つが色欲であったことは理解できます。
 そして、熱心でまじめな行者の中には「いっそのこと」と考える人がいてもおかしくはありません。
 釈尊はそれに対して、ごく当たり前なことを説かれました。

 この経文を読んで、
「そんな理屈はとくとわかっているが、衝動は理屈どおりに動かせない。
 この人だって、さんざん努力し苦しんだあげく、こうした行動に出たに違い。
 今さらわかっていることを言われても役になど立たないのではないか」
と思う方もおられることでしょう。
 もちろん、釈尊はこうしたことは百も承知の上で、
「そこを克服せよ。
 克服できなければ、取り違えを正せない」
と説かれました。
 大切なのは、取り違えを正すことであり、それは、〈自分にいいわけを許さない〉ところまで行かねば実現できません。
 なぜなら、私たちには「苦より楽を選びたい」という煩悩があり、それが「取り違え」と「いいわけ」を生むからです。

 釈尊は悟りの段階として、まず「この世は(私たちの根本的ありようは)、苦である」と気づかれました。
 そして、そうなっている原因を取り除く方法として「八正道(ハッショウドウ)」を知り、その第一番目を「正見(ショウケン…正しい見解)」と説かれました。
 私たちは、正しい見解を持たない限り、苦を克服する道を一歩も踏み出せません。
 そして、〈取り違え〉こそが正見の反対であり、般若心経は「遠離一切顚倒(オンリイッサイテンドウ…一切の取り違えを遠く離れる)」と説いています。
 煩悩によって〈取り違えはわかっちゃいるけどやめられない〉状態に陥り、それを、〈いいわけというその場しのぎ〉でとり繕いながら生きているのが私たち凡夫の姿です。
 決して楽ではないけれども、いいわけを止め、取り違えを正さねば、まっとうに生きられません。
 釈尊がこの例をもって示された警鐘について、よく考えたいものです。

〈お大師様の前で、いいわけはできません〉
221025126 0052





「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2010
10.26

師は要らないか

 生まれ落ちた私たちは、すぐ、の手に抱かれます。
 ランドセルを背負えば、教の手がさし伸べられます。
 学問を行えば先生、社会へ出れば先輩や上司の指導を受けて一人前の人間になります。
 心に敬虔さが育てば仏神への尊崇が自然に起こり、ご加護やお導きを感じます。

 さらには兄弟や祖父祖母などの族、あるいは同輩や仲間、また、出会う人々や経験するできごと、さらには社会や大自然など、私たちはこの世に生を承けた瞬間から、あらゆる導きを受けてこそ、まっとうな人間として成長し、生きられます。
 オオカミに育てられた少女マカラは、心が育つ時期に人間として生きられなかった結果、〈人間〉になれないまま、短い生涯を終えるしかなかったのです。
 母の生きざまが胎児の心へ少なからぬ影響を及ぼしていることを考えると、母の胎内に宿っているうちから、私たちは「導き手」のおかげを蒙っていると言えます。

 こうした導き手を「」といいます。
 人間が人間として育ち、人間として生き抜くためにはの恩が欠かせません。
 
 さて、のおかげで生き抜いた私たちは、肉体という衣を脱げば、み仏を唯一の導き手として安心の世界へ旅立ちます。
 み仏は、葬式では引導の力となり、仏壇では本尊としてお守りくださり、お墓では開眼供養した墓石へ宿ってお導きくださるのです。
 み仏こそが「あの世の」です。

 しかし、今、「~は要らない」という風潮が蔓延している中、亡くなった方をそのままお骨にし、祈りのない墓地へ埋めるスタイルが流行りつつあります。
 それでは、「死んだ人には要らない」ことになり、墓地はお骨置き場でしかなくなります。
 本当に師は要らないのでしょうか?
 私たちはお骨を置き場へ入れるだけで本当に安心でしょうか?
 遺族や知人が手を合わせるだけで、先に逝った人への感謝などの思いは、行動として尽くされているでしょうか?

 自分を省み、さまざまな師なくして人間たり得なかったことを思う時、この世では『守本尊』として、あの世では『十三仏』としてお導きくださるみ仏のありがたさに、自然と合掌してしまいます。
 み仏の恩は、師の恩の象徴です。

 枕経からあの世の導きは始まります。
 亡き人は、この世と同じく師の導きによって安心の道を歩まれます。
 導かれる道行きを用意できるのは、生きている私たちです。
 こうした理を真剣に考えてみていただきたいと願ってやみません。

〈私たちは、あの世の花をも想像できます〉
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2010
10.25

ダライ・ラマ法王の独占インタビュー ―チベット仏教の叡智(その8の1)─

 DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」について記します。
※(その1)は、「NHK文化講座『生活と仏法』講義録 56 ―チベット仏教の叡智─」にあります。

【現代人には輪廻転生や、化身(ケシン)、通称、活仏(カツブツ)と言われている存在はなかなか受け容れがたい】
 
 輪廻転生の起源は「四聖諦(シショウタイ…苦・集・滅・道)」にある。
 特に、苦諦(クタイ…この世は苦であるという真理)と集諦(ジッタイ…苦には原因があるという真理)に関わっている。
 さらなる説明は無明(ムミョウ…真の智慧の明かりが無い状態)から死までへの「十二縁起」となる。
 そこでは異なる生の存在が明確に述べられている。
 ある人生において無明が生じ、それが原因で転生し、新たな生から死へのサイクルをつくり出す。
 ブッダ自身が生の連続性を受け容れていると明言している。

「化身(ケシン)」とは、来世、いつ、どこに生まれるかコントロールする力を持った人である。
 皆が用いる活仏(カツブツ)という意味は、チベット語やサンスクリット語にはない。
 中国語で「生き仏」を意味しているのはまちがいである。
 チベット語の「ラマ」はサンスクリット語の「グル」であり、深い精神的な体験をした人である。
 そうした徳性を備えているために、より高い存在とみなされる。

 ブッダはグルであり、ラマである。
 私たちの究極のラマはブッダである。
 しかし、すべてのラマが仏陀であるとは限らない。
 なぜなら、ラマとは単に「師」を意味するからである。
 仏陀は師であり創造主ではない。
 師の責任は教え説くこと。
 私たちの将来は仏陀ではなく、私たちの双肩にかかっている。
 弟子の将来は彼等自身にかかっている。
 
 化身ラマとは、しかるべき目的を持って、自らの意志と精神力で生まれ変わった存在である。
 また、過去の記憶を持ち、特定の行為を行ってその証拠を見せる。
 それなら正式な化身ラマである。

 不幸なことに現在のチベット社会では、化身ラマというだけで高い地位を得る。
 堕落である。
 何ら「印」もないのに化身ラマに選ばれる人もいる。
 何らかの「印」が現れている子供でなければならない。
 まず、その子が、過去世の記憶なり能力なりを示さねばならない。
 それを根拠に選び決定するのが正式なやり方だが、今のチベットではそうでない化身ラマもいる。

 釈尊は、まず、「四聖諦(シショウタイ…4つの真理)」に気づかれました。
 この世(生の根本的なありよう)は「苦」であり、それには原因である「集」があり、原因を無くす「滅」によって苦は克服され、その方法としての「道」があるというものです。
 苦である私たちのありようには当然、そうなっている原因があり、原因が除去されない限り、いつ、いかなる世にあっても私たちは苦に生きる(苦を生きる)しかありません。
 この真理を深く見つめた釈尊は生と死のくり返し、つまり輪廻転生を「十二縁起」として説かれました。
 仏教は輪廻転生を説かないなどという俗論もありますが、おかしな話です。
 釈尊が最初に悟られた内容であるとされている「四聖諦」と「十二縁起」をはずした仏教などあり得ません。
 それをダライ・ラマ法王は「生の連続性を受け容れていると明言している」と指摘されました。
 ただし、聖者となったほどの器量を持った釈尊ですら徹底した修行の末でなければつかみ切れなかった「十二縁起」はとても難解です。
 そして、ここには輪廻転生の秘密が説かれているので、仏教を宗教としてではなく、哲学や理論としてだけ受け入れたい人々には、飛ばしてしまいたくなるのかも知れません。

 十二縁起は煩悩を原因として業(ゴウ)がなされ苦を生じ、このサイクルが永遠に続くというものであり、12の段階が明確になっています。
 ちなみに、般若心経には
「無明も無く、亦(マタ)無明の盡(ツ)くることも無く、乃至(ナイシ)、老死も無く、亦(マタ)老死の盡(ツ)くることも無し」
と説かれています。
 このように、般若心経は、十二縁起を超越するというとてつもない内容を含んでおり、「こだわるな」などというものではありません。
 だからこそ、古来、〈ここ一番〉あるいは〈窮まった〉状況で最後のよりどころとされて唱えられ、書かれてきました。
 真実世界を信じ、そこに懸けようとする人々のまごころがみ仏に通じ、末尾にある真言が導きとなって私たちの思慮を超えた結果をもたらすこともありました。
 ハーパワーの経典であればこそ、仏教でも神道でも祈りの場に欠かせないものであり続けました。
 密教では、まず、こう敬ってから読経を始めます。

般若心経は仏教の精要(セイヨウ)、密蔵(ミツゾウ)の肝心なり。
 このゆえに誦持(ジュジ)講供(コウク)すれば苦を抜き楽を与え 修習思惟(シュジュウシユイ)すれば道を得、通を起す。
 まことにこれ世間の闇を照らす明燈(ミョウトウ)にして 生死(ショウジ)の海を渡す船筏(イカダ)なり。
 深く鑽仰(サンゴウ)し、至心に読誦(ドクジュ)したてまつる」

 空(クウ)の理論を大成したとされている龍樹菩薩(リュウジュボサツ…ナーガールジュナ)は説いています。

煩悩と業と苦の三者にことごとく収まる」
「十二のものはただ、三者に収まる」
「三から二が生じる。二から七が生じる。七から三が生じる。
 このようにまさしく生存の輪は、次から次へと転ずる」

 ナーガールジュナは、こう示したのです。
私たちの生のありようは、『無明』から『死へ』至る十二縁起、つまり12の段階に尽くされています。 十二の段階は大きく分けると三つに収まります。
 煩悩と業と苦です。
 煩悩の中に、12のうちの3つが含まれます。
 業の中に、12のうちの7つが含まれます。
 苦の中に、12のうちの3つが含まれます。
 これで合計12となります。
 こうして、私たちの生存は、12の段階を踏む輪となってくり返されます
 
 このように十二縁起として説かれた輪廻転生は、仏教の大前提です。
 そして、悟りを開いて輪廻転生の輪から脱することが修行の第一の目的であり、悟って菩薩となり、菩薩としてこの世へ再び舞い戻ってくるのが修行の第二の目的です。
 般若心経

「無明も無く、亦(マタ)無明の盡(ツ)くることも無く、乃至(ナイシ)、老死も無く、亦(マタ)老死の盡(ツ)くることも無し」

と説くのは、十二因縁つまり、無明から死へ至る輪廻転生を克服させようとするからであり、般若心経は行者にとって欠かせない経典なのです。

〈生〉 ※『地球巡礼(野町和嘉著)』より拝借し加工しました
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2010
10.24

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その7)

 かつては寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

6 慈悲兄弟

兄弟(キョウダイ)、常(ツネ)に合(ア)わず。
 慈悲(ジヒ)を兄弟(キョウダイ)とす」



 私たちは兄弟と親しみ、兄弟とぶつかり合うことによって父母を相手にする場合とは異なる〈他者〉との関係を学び、大人になってゆきます。
 同じ父母によって兄弟となっても、気持がぴったり合う場合もあれば、あまり合わない場合もあります。
 いわゆる「兄弟は他人の始まり」です。
 戦国時代ならば権力をめぐって戦場で殺し合い、現代ならば相続をめぐって法廷で争ったりもします。
 それは「情」による関係だからであり、「骨肉の争い」と言われるように、近いがゆえに結びつきが強くもなり、反発が強くもなります。
 情に翻弄されるのは、恋愛が男女を最も結びつけ、時として、男女を最も憎み合わせるのと似ています。

 とは言え、兄弟の縁は切っても切れません。
 法的には別として、同じ血肉を分けた者同士の縁は、生じた時点で永遠です。
 今回の教えは、慈悲をこそ、それほど近く強い対象として保つように説いています。

 慈悲の心は「四無量(シムリョウシン)」に代表されます。
(ジ)・(ヒ)・喜(キ)・捨(シャ)」の4つです。
」は、誰かへ楽を与えることです。
」は、誰かの苦を抜くことです。
「喜」は、誰かの喜びを喜ぶことです。
「捨」は、相手の区別なく、「慈」や「悲」や「喜」を実践することです。
 
 たとえば、乗りものの席を譲る場合を考えてみましょう。
 腰かけている自分の目の前にご老人が立った時に、席を譲れば、相手は楽になります。
 そして、立っている苦がなくなります。
 そして、相手の喜ぶ様子に、こちらも嬉しくなります。
 もちろん、相手が知っている人だから、知らない人だからなどという判断はなく実践されてこそ、真の布施行になります。
 
 こうした心で生きていれば、いつでもどこでも誰かのためになれるし、自分もまた、誰かを縁として布施行の実践によって魂が磨かれます。
 今回の教えは、自他を救い向上させる慈悲心をこそ、最も親しく切っても切れない相手として人生の同伴者とするよう求めています。

 慈悲心のある人にとって、人は皆、兄弟です。
 実際の兄弟と変わりありません。
論語』は説きます。

「君子敬ありて失なく、人と恭しくして礼あれば四海の内皆兄弟なり、君子何ぞ兄弟なきを患(ウレ)へんや」

 ある人が、兄弟のいないかのような淋しさを嘆きました。
 それに対して、諭しました。
「人の生死も、貧富も、尊卑も天命というものです。
 君子たる人格者となり、他人を敬って人間関係を過たず、恭しくふるまい礼を尽くしていれば、相手が誰であれ、兄弟のように接することができるものです。
 実際の兄弟や兄弟のように親しい人が今、いなくても、嘆く必用はないのではありませんか」

「人は皆兄弟(のようなもの)である」という考え方は、世界中で理想とされ、求められています。
 こうありたいものです。

〈共に咲く〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
10.23

チベットの高校生

 10月21日、朝日新聞に小さな記事が掲載されました。
チベット族生徒数千人規模デモ 中国語強制教育抗議」です。
 わずか2段11行の記事ですが、抹殺されそうになっている魂の叫びは私の心へ大きく飛び込んできました。
 全文を掲載しておきます。

 中国青海省黄南チベット自治州同仁県で19日朝、六つのチベット族学校の高校生ら5千~9千人が、中国語による教育の強制に反発して、抗議デモをした。
 チベット独立を支援する国際団体「自由チベット・キャンペーン」(本部・ロンドン)が20日、明らかにした。
 地元当局は最近、チベット語と英語の授業を除く、すべての教科を中国語で教えるように変更した。
 高校生らは地元政府庁舎前で、「民族文化の平等を要求する」などと叫んだという。【北京=峯村健司】

 自分の高校生時代をふり返ると、自分と現実を知りかけ、一人の人間としての旅が始まった時期であることが懐かしく思い出されます。
 何もわからないままでは始められません。
 わかり始めたからこそ、噴出するものがありました。
 それをぶつけ合った高校生時代の友人が結局、人生の友となったことを考えると、精神的圧死へ抵抗し、手を取り合い、家族や友人たちから切り離され場合によっては殺されることをも厭わずいのちがけで立ち上がった使徒たちの思いは、あまりに強く響いてきます。
 言葉を奪われることは魂を奪われることであり、伝統と文化の根を断ち切られることです。
 特にチベットの場合、仏教を理解し伝えることを主目的として創られたチベット語の破壊がもたらす若者たちの心の砂漠化は、想像するだけで身震いが出るほど恐ろしく感じられます。

 旧日本軍がアジア各国で日本語教育を進めようとした過去を持っている私たちこそ、最も大きく抗議の声を挙げねばならないのではないでしょうか。
 小さな記事を小さなままで終わらせないよう政治が動くことは、叶えられない望みなのでしょうか。

〈この色を消されて生きられましょうか〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
10.23

「知命 ─茨木のり子─」を読む

 茨木のり子の「知命」です。

他のひとがやってきて
この小包の紐 どうしたら
ほどけるのかしらと言う
他のひとがやってきては
こんがらかった糸の束
なんとかしてよ と言う
鋏で切れいと進言するが
肯(ガエン)じない
仕方なく手伝う もそもそと
生きてるよしみに
こういうのが生きてるってことの
おおよそか それにしてもあんまりな
まきこまれ
ふりまわされ
くたびれはてて
ある日 卒然と悟らされる
もしかしたら だぶんそう
沢山のやさしい手が添えられたのだ
一人で処理してきたと思っている
わたしの幾つかの結節点にも
今日までそれと気づかせぬほどのさりげなさで

 昭和52年、51歳で発表した作品です。
知命」は、有名な論語の「五十にして天命を知る」です。
 自分のいのちのはたらき具合を知ると、そこに映っている世間世界もわかります。
 さらによく観ていると、「自分」と声高に言い立てる必用のないことがわかります。
 世間世界も、自分と対立してはおらず、断絶してもおらず、自分に〈たち顕れている〉ものだからです。
 作者の「沢山のやさしい手が添えられた」は、そのことです。

 作者は、自分に関わるもつれを敢然と処理して生きているつもりだったので、自分自身でもつれを処理できず作者の手を借りたそうな、それでいてこちらの進言どおりにもしない周囲の人々のありさまに納得できない思いを抱えていました。
 傍観者として眺めてばかりもおられず「もそもそと」手伝いはしても、「あんまりな」という気持にもなります。
 しかし、そうして生きて50年、「卒然と悟らされ」ます。
 自分もまた、誰かに「それと気づかせぬほどのさりげなさ」で、もつれをほどく手伝いをしてもらっていたのです。
 今までの自分の過去がそうだったと知れば、もはや、鎌首をもたげて「自分!」と叫ぶことはできません。
 感謝や恥ずかしさが謙虚さをもたらすのです。
 作者はその成り行きを潔く書きました。

 こうした解釈はきっと、「知命」についての儒教の主張とかなり異なっていることでしょうが、国粋主義の教育で育ち、敗戦と文化の溶解を体験して30年、一貫して自由さと勁さと柔らかさを保っている詩人の魂には憧れを感じます。
 そして、チベット弾圧を想います。
 この詩は、日本だからこそ生まれました。
 思想統制や武力による弾圧下のチベットで、こうした魂は自由な表現の公表を許されていません。
 心底、恐ろしい状況です。
 チベットの〈茨木のり子〉たちは、どうしているのでしょうか。

〈http://www.linkstyle.co.jp/free/nature_scene/sor/sor0142-001.htmlより〉

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2010
10.22

時間と死

 私たちは、「時間過去から未来へ流れる」と思っています。
 誰しもがいわば〈時間という電車〉の乗客です。
 そして、多くの場合、長く乗っている乗客から順番に降りて行きます。
 という別れが延々と続きます。
 もちろん、この電車では、誕生という出会いもまた延々と続き、出会いと別れがくり返されます。
 いつからか意識しないうちに乗客の一人となっていた私たちは、いつか必ず否応なく降りねばならない時を迎えます。
 おおよそ、こんな感覚が私たちの「時間」のイメージでしょう。
 確かに時間は不可逆性の象徴で、決して遡られません。
 こうした考え方にあっては、〈自分の〉は〈誰かの〉と同じです。
「いつか自分も次々と降りて行く乗客の一人になるんだ」と、を自分の向こう側へ置いています。

 しかし、たとえば、医者から「あなたのいのちはあと半年ですよ」と告げられた場合の〈自分の〉は、誰かの死と同列のものでしょうか?
 こうした状況にあっては、誰しもが〈半年先の自分〉を想像し、戦慄します。
 そして、〈それまでの自分〉を考えます。
 もう〈自分の死〉は〈誰かの死〉と同列ではありません。
 ここで時間意識の逆転が生じます。
 自分だけの時間においては〈未来の自分〉の視点から〈今の自分〉を眺めます。
 そして〈未来の自分〉が〈今の自分〉へ呼びかけます。
「今のうちに~をしておかねばならない」

 映画『チベット 死者の書』に登場する住民のすべてが不思議な明るさの中にいるのは、一人一人が死の視点を持ち、今のうちにしておかねばならないことへの根元的不安や疑問が少ないからではないでしょうか。
 チベット密教を信じ、自分を導く導師を信じ、人皆等しく死の準備をしつつ生きる文化の空気は、日本のように乾いてはいません。
 その点、映画『蕨野行』では時間が未来へと流れていました。
 観賞したAさんは「胸の芯々にピンとこない」、Bさんは「残酷で苛酷」「体力のない高齢者の方々が観賞するのは大変でした」と感想文を寄せられました。
 確かに、共同生活を続け、死の直前まで〈生きる苦〉が続く勇気の物語にあって、死は皆の死として描かれ、自分の死を受け容れつつ安心を生きるという面は薄いように思われます。
 もちろん、気候の具合がそのまま人間の生死に結びつく昔の農村の苛酷な環境にあっては、生も死も常に村人全体のものであり、この映画は、そこで「我」が克服された世界を表現することが主眼だったので、次々と死んで行く一人一人の安心への不満によって評価が下がるものではないでしょう。

 それにしても、今の日本の精神状況は、あまりにも死が〈ないもの〉として排斥されているように思えてなりません。
 冒頭の電車の感覚すら、あまり意識されていないのではないでしょうか。
 チベットの高校生たちは、チベット語ではなく中国語で授業が行われることに抗議して立ち上がりました。
 彼らは、言葉と文化を守るためにいのちすらかけています。
 今の私たちがそうしてまで守りたい何を持っているか、考えてみたいものです。
 時間の視点から。死の視点から──。

〈この生〉
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2010
10.21

子猫の導き ─超能力研究の先駆者福来友吉博士─

 おかげさまにて、ミケ子が生んだ子猫5匹は、無事、育ての親が決まりました。
 ところで、最後のキジトラの雌猫は、意外な縁を結んでくれました。

 仙南在住のご老人Aさん(87歳)から、出かけられないけれどもどうしても猫を欲しいというお申し出があったので、猫係の妻と二人で、法務を終えてからでかけました。
 Aさんはとても喜ばれ、「今夜から抱いて寝る」と言われました。
 さて、ごていねいにも「猫の子授受の記念として」と書かれた紙袋をいただいて帰山し、開けてびっくりでした。
 そこには、昭和52年4月1日発行の『文藝春秋デラックス』が入っており、同書97ページから9ページにわたって博士の生涯が特集されていました。

221021 002

 Aさんは東京の古書即売会の案内状でこの本を見つけ、大事に保管しておられました。
「死・生の難問に苦しんだ」Aさんは、医者のインターンだった頃、最後には「一週間に1日だけ、来訪を許します」と言われるほど熱心に毎日、福来友吉博士を訪ねた時期があったからです。

 福来友吉博士は明治2年、飛騨の高山で生まれました。
 東京帝国大学哲学科を卒業後、同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、明治39年に「催眠術の心理学的研究」で文学博士号を授与され、その2年後には東京帝国大学助教授になりました。
 明治43年、月の裏側を写真の乾板へ念写し、世界百科事典に「念写」という言葉を登場させた三田光一氏や透視力を持った御船千鶴子といった超能力者を探し出して公開実験などを行いましたが、学会から白眼視され、大学を追放されました。
 太平洋戦争の敗戦後は仙台二高出身の縁で仙台市へ疎開し、そのまま83年の生涯を閉じました。

 さて、真言密教を学び始めた私にとって最大の関心事は「法力」でした。
 宗教による救いが可能なのは、教えによる納得と、修法によるご加護の実感だからです。
 この二つは別ものでありながら、不可分です。
 なぜなら、「人は必ず死ぬ」という真理が迷っている人の目を覚まさせるのは、法を結んで語る人の力が事実を納得させるからです。
『法句譬喩経』が説くとおり、子供を失って半狂乱になった母親がこの真理に気づいて救われたのは、〈釈尊が説かれた〉からであって、同じことを周囲の人からいくら言われても耳に入らなかったことを考えればすぐにわかります。
 また、ご加護が本当に救いとなるためには、教えの理解が支えとなります。
 当山が『法楽の会』と『ゆかりびとの会』に力を入れているのは、修法によるご加護と、教えの理解による日常的な生活態度の向上があいまってこそ、み仏の救いの掌で生きられるからです。
 こうした救いの源泉はもちろん、ご本尊様としてのみ仏にあります。
 そして、源泉から流れ出ている目に見えない聖水が必用とする方へ確かにもたらされるための流れをつくるのがご加持法であり、つくる力が法力です。
 行者としての僧侶は、教えの理解と法力の習熟にすべてをかける存在であり、プロであるかどうかは、この二つが血肉となり求めに応じて役立てるかどうかにかかっています。

 行者である私は、一時、福来友吉博士が研究した超能力に興味を持ち、主著はすべて読みました。
 お大師様に深く傾倒していた三田光一氏が数枚重ねた乾板の一枚へ念写したというお大師様の像も持っています。
 しかし、師から諭されました。
念力法力は別であり、ただただ、定められた法を結ぶこと」
 念力は個人的な能力であり、法力は修法によってみ仏の世界へ入れば知らぬ間にみ仏からもたらされているものであると理解しています。
 それにしても、当時の学会では誰も見向きしなかった分野を切り拓こうとした福来友吉博士の真摯な研究ぶりには頭が下がります。
 科学的実験をくり返し苦労した結果、超能力についてこうした言葉を残されました。
 ご加持の修法を行う者にはよく理解できます。
「一本のピンの上の板のバランスのように微妙なものだ」

 ところで、この本には、驚くべき「猫の超能力」が紹介されています。

 1949年、北米フロリダ州のチャールズ・B・スミス夫妻は、家をロバート・ハンソンへ売り、飼い猫トムもハンソンに託してカリフォルニアへ引っ越しました。
 ところが半月後、トムは行方不明になります。
 それから2年と49日後、スミス夫人は庭で猫の声を聞きます。
 出て行った夫人の足元へやせこけた猫が駆け寄り、「体をすりつけ、ごろごろとはげしく咽喉をならし」ました。
 夫妻は体の特徴や食べものの好みからトムであると確信し、「倒れそうにおどろいた」そうです。
 何しろ、「大河、山岳、砂漠地帯、大都会、森林」などを行く2500マイル(約4000キロ)の旅でした。

 当山を真言宗の寺院とも知らず、大切にしていた本を用意して待っておられたAさん。
 世代は離れていても福来友吉博士への共通する強い関心と共感。
 福来友吉博士は仙台二高の大先輩。
 不思議なご縁でした。
 5匹の子猫たちは、きっと、育ての親のそばで元気に生活することでしょう。
 よもや、トムのようなことには……。

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2010
10.20

ダライ・ラマ法王の独占インタビュー ―チベット仏教の叡智(その7)─

 DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」について記します。
※(その1)は、「NHK文化講座『生活と仏法』講義録 56 ―チベット仏教の叡智─」にあります。

 ダライ・ラマ法王は「輪廻転生(リンネエンショウ)」について説かれました。 

【7 輪廻転生

 輪廻の理論を受け容れるのは難しい。
 しかし、過去世の記憶を持っている人がいる。
 そうした人には過去世の〈感覚〉がある。
 こうした事実を直視しなければ、輪廻を信じるのは難しいであろう。
 
 森羅万象は常に変化し、因と縁(直接因と間接因)を持っている。
 因と縁がなければ、肉体も物質化されない。
 肉体の究極の因は両親の精髄。
 両親の因もまたその両親の精髄という風に、どこまでも過去へと遡られる。

 私たちの肉体や染色体や細胞の因は、人間が地球に現れる前からどこかに存在していた。
 全宇宙が形成される以前から、この肉体の微細な因子は存在していたはずである。
 密教の経典には、宇宙が形成される以前にも微粒子が存在していたとある。
 これらは現在の全宇宙の因である。
 すべての因は微粒子に遡られる。
 微粒子なしでは、私たちは肉体を所有できない。
 この肉体がうまく機能するための間接因は食事、天候、運動などいろいろある。
 しかし、肉体の究極的な因は微粒子。
 
 私たちは肉体と共に何かを記憶し、感じている。
 それがおおざっぱに言うところの「心」である。
 科学者には受け容れられがたく、過激な物質主義者は、肉体と別の心の存在をも否定する。
 いかなる意見にもなにがしかの根拠はあろう。
 しかし、それを受け容れてもさらに疑問が生じる。
 この宇宙はなぜ、生じたのか?
 創造主の存在は受け容れがたく、何の原因もなく生まれたとも思えない。
 どうして万物が存在するのかという疑問についても、何らかの原因、説明があるはずである。

 50億人の人口の中で、数百人が過去世の明瞭な記憶を持っている。
 これも一つの現象であり、一つの事実である。
 創造主の存在は考えがたく、受け容れがたい。
 仏教では輪廻転生の理論を、無限のいのちを、心の連続性を信じている。
 これですべての疑問に答えられるわけではない。
 未だに答えられない問題もある。
 通常、私たち仏教徒はこれを「本質」と呼んでいる。
 固有の「本質」のレベルへ至ったならば、それ以上、追求する必要はない。
 
 肉体の因子は微粒子である。
 なぜか?
 それが肉体の本質だからである。
 心にも本質がある。
 経験から、私たちは心が常に変化していることを知っている。
 心は肉体的環境が変化したから変わることもあれば、それに関わりなく変化することもある。
 それは誰にでも実感できる。
 一瞬一瞬に変化する心も因と縁を持っているはずである。
 粗いレベルの心の間接因は脳であり、究極の直接因は、一瞬前の心より微細な心。
 このように心は流れて行く。
 
 私たちは一瞬前の心があると認める。
 それなくして、今の心はない。
 将来、コンピューターが心を持つと言われている。
 すべての外的条件が満たされたならあり得る。
 無限の数の心が、生きものが、存在しているからである。
 そうしてコンピューターに宿る心ですら、一瞬前の心から現在の心へと連続性を持っていると信じている。
 これが仏教の基本的な考え方である。

 建物は建設者がいるからである。
 どうしてこの宇宙ができたのか?
 それは宇宙を利用するであろう生きものがいるからである。
 生きものはその行為によって宇宙創生の間接因をつくり出し、結果、宇宙が生まれた。
 しばらく後にその宇宙は消滅し、何もない虚無の空間となる。
 そしてまた、新たな宇宙が生成される。
 ビッグバン説を信じようと信じまいと、宇宙は生成と消滅をくり返している。
 それが本質である。
 
 心は連続性を持っているがゆえに、生もまた、連続している。
 肉体は刻々、変化しており、生まれ変わって新たな肉体を得る。
 これが輪廻転生の理論の基盤である。

 なかなか難しい理論ですが、要は、こうなります。
「無から有は生じない。
 あらゆるものに直接原因である『因』と、間接原因である『縁』がある」
「自分には変化し続ける心と肉体がある。
 一瞬前の自分がいたから、今の自分がいる。
 原因はどこまでも遡(サカノボ)って考えられるはずであり、自分は、永遠の昔も、どこかで、どうかしていたはずである。
 ごくまれに現れる『前世の記憶を持った人』の存在は、その証拠である」

 こうした理を『大日経』は「本不生(ホンプショウ)」と呼びます。
「本より生ぜず」です。
 今ある自分や世界の原因をどこまで探求しても、探求しきれません。
 原因にはそのまた原因があるからです。
 タマネギをどんどん剥いてゆけば最後にはなくなるのとは、わけが違います。
 つまり、自分や世界は、いつかどこかで突然「生じた」のでないのなら、本よりあった(不生)と言うしかないのです。
 お大師様は説きました。

「体と言葉と心をみ仏に一致させる修行によって、『すべては本より生じたのではない』と感得できたならば、初めて、自分自身の心の本源へたどりついたことになる。
 それを知るのが、み仏の智慧である」

 半世紀前に亡くなった哲学者ウィトゲンシュタインは言葉について研究し、言いました。

「語り得ないことについては、人は沈黙せねばならない」

 思考が行きつく「本不生(ホンプショウ)」は、もはや、つかまえるしかありません。
「今、確かにこうしている自分は、いつか、どこかにもいた」つまり輪廻転生という感覚をつかめるかどうかは、私たち自身にかかっています。

〈いつか、どこかでも咲いていた花〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
10.19

『大日経』が説く心のありさま六十景 その14「無諍心(ムジョウシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第14回目です。

14 無諍心(ムジョウシン))
 これは、何も決められない優柔不断な性向です。

「是非倶(トモ)に捨つ」

 仏法は人と人がぶつかり合わないで互いのためになる生き方をする道を説きます。
 しかし、それは、正邪善悪の判断をしないということではありません。
 正しい判断力を身につけた上で、「正」や「善」の実現には心のコントロールという方法で立ち向かいます。

 釈尊の高弟として有名な舎利弗(シャリホツ)と目蓮(モクレン)は、二人ともバラモンの家に生まれ、誕生日が同じでした。
 利発な少年二人は、当時名高かった聖者サンジャヤを訪ね、教えを請いました。
 サンジャヤは典型的な懐疑論者で、自分から何かを主張せず、相手の判断を崩します。
 その典型が、「死後の世界はあるか?」との問への答です。

「私が『死後の世界は存在する』と考えれば、『死後の世界は存在する』と応えるだろう。
 しかし、私は、そうだと考えない。
 そうだろうとも考えない。
 それと違うとも考えないし、そうではないとも考えない。
 そうでないのではないとも考えない」

 二人は、誰にも負けそうにないこの論理をたちまちマスターしましたが、当然、飽き足りません。
 やがて舎利弗(シャリホツ)が釈尊と出会い、目蓮(モクレン)と一緒に弟子入りする際、それまでの師であったサンジャヤにも声をかけました。
 サンジャヤは拒否しましたが、その弟子500人のうち250人は二人と行動を共にしました。

 自分の主張をはっきりさせないのも一つの態度ではありますが、それは自分を可愛がるだけで、創造性が欠如しています。
 やがて釈尊の両腕とも称された二人が、こうしたところで満足できなかったのは当然です。
 カメのように頭を出したり引っこめたりして、いつも自分を安全なところにおいて生きようとする人は少なくありません。
 しかし、信頼される人、人望の厚い人、人徳のある人は必ず、〈自分を懸けて行う〉人です。
 西郷隆盛などはその典型と言えましょう。

 無諍心に安住していたのでは、智慧も慈悲も眠ったままになります。
 眼を覚ましましょう。

〈はっきりしています〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
10.19

「ペット霊園やすらぎ」さんの慰霊祭

 10月17日、今年も青天に恵まれ、「ペット霊園やすらぎ」さんにて、恒例の慰霊祭が行われました。
 ジュース類は飲み放題、手作りの玉こんにゃくとフランクフルトは食べ放題です。
 8年目となった今回は、年々増えるご参詣の方々であふれ、お焼香を待つ長蛇の列ができました。
 よくぞご夫婦二人でここまでご縁を積み重ねられたものだと、今までに増して感慨深いものがありました。
 火葬炉などのお清め、個別墓のご供養、共同墓のご供養と進み、午前9時に始まった行事は午後4時30分、間断ないバスのピストン輸送などでの事故もなく、無事、終了しました。
 今回は前日にも修法し、二日にわたった慰霊でした。
 いったいどれだけの方々が足をはこばれたのか想像すると、ご夫婦のまごころをこめた仕事ぶりはもはや〈偉業〉ではないかと思え、ため息がでました。

 高任和夫氏の新刊『天下商人』では、大岡越前は「親分」と呼ばれ、三井一族の頭領は「親方」と呼ばれます。
 組織人の面目躍如といった小説ですが、そうした人々の活躍する舞台もあり、このご夫婦の活ような人々の躍する舞台もあるという人生の真実をあらためて感じさせられました。
ペット霊園やすらぎ」さんが、たくさんの人々へ、より大きな安らぎを与えるよい仕事ができるよう、また、ご縁の糸をつなぐ善男善女と、先に逝ったその〈子供〉たちが安らげるよう祈ってやみません。

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
10.18

11月の聖悟

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

 我身(ガシン)と仏身(ブッシン)と衆生身(シュジョウシン)は

「不同にして同なり、不異(フイ)にして異なり」

(私たちの心身と、み仏の心身と、人々の心身は同じではないが、本質的には同じである。そして、本質的に異なるものではないが、現象としては異なっている)
 お大師様は、即身成仏(ソクシンジョウブツ)について端的に述べておられます。
 自分の本源を悟れば、それはみ仏と同じであり、自分がみ仏と同じであるならば、同時に、み仏と同じである一切の人々とも同じでなければなりません。
 三者は別々なので、同じ名ではありませんが、本源は同じなので、自分という意識に縛られている日常次元を離れれば、同じであるとわかります。
 三者は本源が異なってはおらず、現れとして異なっているだけです。

 芥川龍之介は詠みました。

落ち葉焚いて葉守りの神を見し夜かな」

 陽が落ちる頃、少年は一人で落ち葉を焚いています。
 いつの間にか、夕闇に包まれていました。
 少年はふと、周囲の樹々が神となって見守る気配を感じて、目は炎と闇へ向いていても、心は深閑とした世界へ解き放たれます。
 瞑目して想像する筆者の心は今、少年と同じ〈解放次元〉にあります。
 この稿を読む方もまた、同じような次元へ心を広げられることでしょう。
 こうした万人が共有する〈解放された場〉を発見するのが即身成仏であるといえます。

〈焚き火の炎が十三仏の足元へ映りました〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
10.18

2010年11月の運勢

 平成22年11月運勢11月7日から12月6日まで)です。
 運気の流れを知り、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

① 今月は、問題の大小を見誤らず、腰を落とすべき段階であると判断したならばしっかりと立ち止まって考え、必用なら仕切りなおしも行う勇気が求められます。
 私たちには「希望的観測」という性向があります。
 これが苦しい状況に打ちのめされないために役立つ場合もありますが、これによって、小さな石だと思ったものに大きくつまづく場合もあります。
 今は事実を事実として見すえ、危うさを過小評価せずに過ごしましょう。

②「大事の前の小事」には、相反する二つの意味があります。
 一つは「大事を行うためには、小事にかまわぬ方が良い」であり、もう一つは「大事を行うためには、小事を軽んずることなく、慎重に行った方が良い」です。
 今は後者を忘れずに進みましょう。
「やるぞ!」と勇む気持が先に立つあまり、視線が遠くばかりへ飛んでいれば、すぐ前の水たまりを見落としてひどいめに遭いかねません。

③ 自分より優れた人に接し、勝れた本を読み、積極的にレベルアップをはかりましょう。
 勉強会や趣味の会やセミナーなどへ積極的に参加し、人間力を高めましょう。
 厳しい世の中になると、どうしても目先の役に立つ道具が欲しくなります。
 もちろん、そうしたものを活用して生きて行かねばなりませんが、力強く運命を創ってゆくためには、道具を使う〈人間そのもの〉のありようが最も大切です。
 チリの落盤事故から三十三人が生還しできたのは、科学技術の力と、絶望的状況でも互いに自己中心を離れ、支え合っていた心の力が車の両輪だったからです。

④ 抱えた困難を解決するためには、自分のことばかりを考えていては、なかなか新しい展望が開けません。
 急ぐ時ほど道を譲れば案外順調に目的地へ到達できるのと同じく、「皆のためなら」、「この人のためなら」という我欲を離れた布施の心が、結果として意外な展開をもたらすかも知れません。
 対価を求めぬ清浄な心の力は偉大です。

⑤ 誰を仲間とするかが明暗を分けます。
 モノを持っているかどうか、役に立つかどうかではなく、尊いものをすなおに尊ぶ心をもっているかどうかで判断しましょう。
 芸能界ならともかく、一般人のなりわいにあっては、人間関係の品位で当人のレベルが推しはかられます。

⑥「独断と偏見」を慎みましょう。
 今は、一風変わったものや、頑固なものや、奇をてらうものや、面白おかしいものが本当に受け容れられるような、ゆとりのある世情ではありません。
 謙虚に、すなおに、万人から理解や納得や共感を得られるような本道を歩むしかありません。

⑦ 山登りには充分、気をつけましょう。
 クマばかりが危険なのではありません。

 今月の六波羅密(ロッパラミツ)行です。
 それぞれのものを供え、誓うのは、自他の苦を除く菩薩(ボサツ)になる修行です。

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は功を焦らず、相手の出方に合わせて成功します。
 不精進の人は艱難辛苦に耐えられず守る場面で攻勢をかけ、自滅しがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は隠忍自重し、優れた人と出会います。
 不精進の人はヤケになって二またをかけ、虻蜂取らずになりがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は仲間の信頼と団結で成功します。
 不精進の人は他人を利用しようして馬脚が表れ、かりそめの和が消えて失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は謙虚さが目上の理解と協力につながり、成功します。
 不精進の人は自己過信から独断に走り、上位者や強い相手に潰されがちです。
禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は前進しようとする姿勢が買われて成功します。
 不精進の人は停滞の運気を引きずり、知人や友人からもガッカリされがちです。
智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は地道に積んだ修養の力が人を集め成功します。
 不精進の人は野心やはかりごとがむき出しになり、賢者や目上から評価されず叩かれがちです。

〈路傍にあるいのち〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
10.17

【現代の偉人伝】第110話 ─チリの落盤事故から生還した人々─

 8月5日にチリのサンホセ鉱山で起こった落盤事故から69日後、閉じこめられた全員が地下700メートルの避難所から救出された。
 世界中の人々が奇跡と感じた。
 しかし、報道で明らかなとおり、奇跡は人間がもたらしたものである。
 穴を掘って人々をつり上げたのは科学の力である。
 そして、救助された人々は神に祈って心を崩さず、地上へ戻って神の救いを感じた。
 科学は斬新な「モノの方法」で、宗教は魂の奥にある光を導き出す「心の方法」で、奇跡と思える結果をもたらした。

 それにしても、私たちは一体、このできごとの何に最も感銘を受けるのだろうか?
 それはやはり、閉じこめられた33人の団結力であり、「自分の救出を最後に」としたリーダーのたぐいまれな統率力であり、つまりは33人の地下におけるふるまいなのではなかろうか。
 では、私たちは彼らのふるまいに何を見たのか?
 それは協調心である。
 彼らは〈自己中心〉の正反対である心に導かれたからこそ、科学の力が届くまで耐えられた。

 無意識の裡に自己中心となり、互いの自己中心がぶつかり合って生きにくい現実を生きている私たちであればこそ、彼らのふるまいに魂が震える。
 釈尊はこうしたふるまいをこそ「正しい行い」と言い「善なる行い」と言われた。

 釈尊は、仏教の教えを端的に述べられた。

諸悪莫作(ショアクマクサ) 衆善奉行(シュゼンブギョウ) 自浄其意(ジジョウゴイ) 是諸仏教(ゼショブッキョウ)」

(もろもろの悪しきことを行わず、もろもろの善きことを行い、みずから心を浄めること、これがもろもろの仏の教えである)
 私たちは、煩悩(ボンノウ)の表れである(ガ)によって動かされれば悪しきことを行う。
 しかし、を離れ、本来持っている清浄な仏心によって動けば善きことを行う。
 こうして自分の心を清める生き方が、過去から聖者の説かれた教えの根幹であると指摘した。

 33人は仏教徒ではない。
 しかし、やはり、普遍の真理を確認させてくれた人々である。
 彼らは想像を絶する悩み、苦しみ、淋しさ、辛さ、そして死の恐怖に襲われ続けたに違いない。
 特に、地上との交信が確認されるまでの10数日間、33人全員が絶望に負けず自暴自棄に走らなかったのは驚異と言うしかない。
 状況も、彼らの気持も想像を遙かに遙かに超えており、いかに考えてみてもどうにもならないが、感動を省みれば「理」を見いだすことはできる。
 それは、自己中心の克服である。

 たぐいまれな体験をした人々が一日も早く日常生活を取りもどし、心身の傷を癒し、この先の人生のどこかでこの体験を活かす判断と行動をとられるよう祈りたい。

〈無条件の清浄さ〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
10.16

寺子屋『法楽舘』 ─第十二回の予定─

 11月13日(土)午後2時より、法楽寺講堂にて、寺子屋法楽舘』の第11回目を開催します。
 
 今年もそろそろ終わりになりますね。
 おかげさまで、寺子屋法楽舘』も12回目を迎えました。
 このあたりで、仏法へ最初に気づかせてくださったお釈迦様の教えの基本を勉強しなおし、新たな気持で新年を迎えようではありませんか。
 11月と12月の二回にわたり、お釈迦様の出家、ご活躍、あるいは最期、そして最初に説かれた「四諦(シタイ)」や「八正道(ハッショウドウ)」などについて、映像や資料を用いながら、わかりやすくお話します。
 質問の時間も用意しますので、どうぞ、メモを持っておでかけください。
 事前にご質問をおよせいただいても結構です。
 寺院は学びの場です。
 共に学びましょう。
 
○日時:11月13日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

〈すべてはこの探求から始まりました〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
10.16

「わたしが一番きれいだったとき ─茨木のり子─」を読む 

 茨木のり子の「わたしが一番きれいだったとき」です。

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

 昭和の幕開けと共に生を承けた作者は、青春時代を戦争と一緒に過ごしました。
 詩人はよく、〈裂け目〉を観ます。
 私たちに気づかれない時代の裂け目や、社会に広がる空気の裂け目や、あるいは心の裂け目に気づき、煩悶(ハンモン)します。
 だから、明るさと広さと自由さに満ちた青空がそのまま、嬉しい青空として眺められず、崩壊の隙間から奇跡のように現れるものでしかなかったりします。
 作者はいつも〈崩れ〉に囲まれつつ生きていました。

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島で
わたしはおしゃれのきっかけを落としてしまった

 作者の真骨頂は「落としてしまった」にあります。
 私たちはこういう感慨を持った時、「きっかけを失う」あるいは「きっかけをなくす」と表現します。
 しかし、「落とす」とは、新鮮です。
 そうしようと思いはしないのに手から離れてしまったという不如意の実感があります。
 また、起こったことはしようがないとして、事実を冷静に眺めている雰囲気も感じられます。

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

 男たちは軍人として仕立て上げられ、誰もが挙手だけはきっぱりと行いますが、それだけです。
 女性へ思いを告げたくても、いつ死ぬかわからない身には許されないと考えているのでしょう。
 この詩は敗戦後しばらくしてから作られたので、もう、戦争の実体はかなり知られていたはずです。
 それでも、作者がすなおに「きれいな眼差し」を記憶として記したのは、自分の「きれい」に、精一杯対応してくれたと感謝しているからでしょうか。
 それとも、戦死した男たちの「きれい」も、生き延びた自分の「きれい」も一緒に去ってしまったという回顧がこめられているのでしょうか。

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

 戦時中は、国民全てが勝つことに懸けていました。
「からっぽ」は、創造的発想が起こらないことです。
 そうした中では心が一色に染められていました。
「かたくな」は、心がしなやかに、柔軟にはたらかないことです。
 そしてただただ、いのちは戦争を遂行するための作業についやされ、励んだ成果は日焼けに表れただけです。

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり
卑屈な町をのし歩いた

「そんな馬鹿なことってあるものか」は、敗戦を認めないのではありません。
 戦争に負けたからといって、国を守ろうとした気概は簡単に失われません。
 でも、周囲には、すっかり萎(シボ)んでしまった人々や、急に自己弁護を始めた人々や、たちまち新しい空気に染められる人々があふれていたのでしょう。
 こうした中で、作者は真剣に励んだ者の矜持(キョウジ)を失いませんでした。
 だから「卑屈」に染まった空気を切り裂き、闊歩(カッポ)したのでよう。

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

 異国の人々が異国の文化をもたらしました。
「からっぽ」にさせられていた頭と、「かたくな」にさせられていた心が解放された時、いのちの勢いをそのままに表現する文化の誘惑には抗しがたいものがありました。
 挙手の緊張はジャズのリズムが吹き飛ばし、日本古来の文化以外へ反応しないよう抑圧されていた情緒は、ポピュラー音楽の軽さと性的アピールがわしづかみにしました。
 もはや「こうあれ」と命令はされません。
 ただただ委ねる時代がやってきたのです。

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

 作者は「ふしあわせ」「とんちんかん」「さびしかった」とふり返っています。
 これらの言葉はいずれもマイナスの状態であり、そうでありたかったと考えていないのは明らかです。
 でも、ここまで読んできてこうした言葉にぶつかると、不思議にマイナス面を空中へ解き放ったような身軽さを感じます。
「ふしあわせ」だけど不幸でなく、「とんちんかん」でも充実していて、「さびしかった」けれど落ちこんではいなかったと、頭をまっすぐに立てている気配に満ちています。
 しなやかな勁さは天性のものなのでしょう。

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
              ね

「決めた」とおり、作者は80歳まで生き、73歳で発表した詩集『倚りかからず』は、異例ともいうべき15万部の売れ行きとなりました。
 晩年になるほど作品に深みが増し87歳で生涯を閉じたルオーを理想としていたことは理解できます。
「凄く美しい」というプロらしからぬ表現には、ルオーの作品が持つ美しさを至上とする気持があふれています。
 最期の「ね」は、何と温かいことでしょう。
 戦中戦後という時代の激流を沼に、詩人の魂を睡蓮に例えたくなりました。

〈しっかりと〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
10.15

【現代の偉人伝】第109話 ─教えてくださる方々①─

 NHKカルチャーセンターの勉強会では、受講者から教えていただくことが多い。
 この世の知らぬことごとが皆さんの口から出て、すべてが私の肥やしとなる。
 ありがたいこと、この上ない。
 拙い講師にとっては、皆さんそれぞれ、偉人伝に書きとめておきたい方々である。

○Aさん

 中学校へ赴任したばかりのA先生は、自分の未熟さをよく知っているだけに、子供たちをうまく導けるかどうか不安でいっぱいだった。
 第一回目の父兄会で、緊張しながら挨拶した。
「まだ何もわかりません。
 どうぞご指導ください」
 すぐに、発言があった。
「先生!うちの子供は先生へお任せしたんです。
 叱っても、叩いても、何をしても結構です。
 どうぞ、お願いですから、よい子に育ててください」
 いっせいに、先生よろしくお願いしますと声が上がった。
 A先生は胸がいっぱいになった。
 今からもう半世紀近くも前のできごとである。
 先生や学校側をつるし上げようと、虎視眈々(コシタンタン)、待っているのでないかと思われるような父兄の存在に悩む、今の先生方には信じられないかも知れない。
 信頼と熱意が交錯する夢のような時代だった。

 A先生の教師人生は、決して平穏なものではなかった。
 教育方針がころころ変わったことが最大の問題だった。
 また、心の教育についての手引き書もなかった。
 ゆとり教育が叫ばれた時代、生徒をどのように評価したら良いか、考えに考えた。
 その結果、生徒の長所を最大に評価し、これからの指導方針や、生徒の努力目標なども生徒や家族全員がわかるよう、寝る間も惜しんで書きに書いた。
 生徒の点数を並べて順番をつければ、作業はたちまちに終わる。
 しかし、テストの都度、生徒一人一人の答案に表れた生徒の能力や気持、あるいは学校での生活ぶりなどのすべてを勘案してメッセージを書くためには、時間がいくらあっても足りなかった。
 
 敬老会の案内を受けるようになったA先生は今、地域住民のために、物語を読む会を続けている。
 芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、あるいは『笠地蔵』などの童話、あるいは地域に伝わる民話などを、原文と自分の言葉とをとりまぜながら、やさしく読み聞かせている。
 そして、自分をより高めようと、『法句経』を柱とした勉強会へ参加しておられる。
 A先生のご苦労を想う時、自分の甘さを痛感する。
 これからもA先生にお導きいただきたいと、切に願う。

○Bさん

 Bさんは先祖代々の御霊を篤く供養し、さらに仏教を学ぼうと、はるばる勉強会へ通っておられる。
 地域の人々とさかんに情報交換し、より良く生きることを求めている。
 Bさんのお話は、私の知らない情報で溢れている。
 
 ある寺院には、住職だけが歩くことになっている参道がある。
 地域住民や檀家は皆、そのことを知っており、同時に、住職が〈瞬間湯沸かし器〉であるのも有名なので、誰一人としてそこへ足を踏み入れる人はいない。
 ある暑い日、身障者の車いすを押していた人が近道をしようとして、うっかり、車いすごと〈聖なる通路〉へ入ってしまった。
 案の定、二人へとてつもない雷が落ちたという。

 ある寺院では、檀家のすべてへお正月の挨拶を義務づけている。
 お正月になると、習いごとのお師匠さんよろしく、息子と二人で上座に座った住職は次々と積まれるお布施袋を脇にして、にこやかに応対する。
 一方、足をはこばない家は決して許されない。
 じきじきに厳しい督促の電話が入るので、参拝率は、ほぼ100パーセントだという。

 ある寺院では、古くなった本堂を建て替えねばならなくなり、役員会で議論された。
 歴史のある寺院だが、檀家数は多くない。
 討議の結果、一軒当たり数十万円の負担をしようということになった。
 一度に用意できない家は、もちろん、無理のない範囲で数十ヶ月に分けて納めるのも可能である。
 檀家へ知らせたところ、ただの一軒からも反対や不満の声が出なかったという。

 こうした〈今時の奇跡〉を可能にした住職の人徳を想像すると、自分の至らなさを深く省みざるを得ない。
 日常生活にしっかり足を踏んばっているBさんに、これからも教師となることごと、反面教師となることごとをたくさん教えていただきたい。

 やはり、勉強会は講師も受講者も共に学べる大切な機会である。
 体力、気力の続く限り、クビにならない限り、務めたい。

〈凛々しく〉

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2010
10.15

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 57 ―『法句経』無常品第一─

 10月13日の講座「生活と仏法」では、『法句経』の続きを行いました。
 教材に手を施し、以前よりも読みやすく、わかりやすいものになりました。
 勉強を始める方が増えたこともあり、経典の最初から再スタートを行っています。

「常なる者も皆(ミ)な尽き、高き者も亦(マ)た堕(オ)つ。
 合会(ゴウカイ)に離(リ)有(ア)り、生者には死有(ア)り」

(いつまでもあって欲しいものも、必ず滅びます。
 高々とそびえているものも、必ず落ちます。
 会ったものも、必ず別れがきます。
 生きているものにも、必ず死が訪れます)
 この教えには物語があります。

 あるバラモン行者に、うら若く美しい娘がいました。
 才色兼備で、父親はこの上なく可愛がっていました。
 ところが、熟れた麦が野火で燃えてしまうように、急病が娘のいのちを奪い、行者は深い悲しみと憂いに襲われて自分を失い、廃人同様になりました。
 見かねた人から、聖者として名高い釈尊を訪ねるように勧められ、行者は礼を尽くして教えを請いました。
「娘は私を残して逝ってしまいました。
 人間の情として哀れむ心に耐えられません。
 どうかこの憂いを晴らしてください」
 釈尊は告げました。

「この世に、避けられないことが四つあります。
 一つは、いかにいつまでもあり続けそうなものでも、滅しないものは何一つないのです。
 一つは、いかにたくさん蓄えられた富でも、いつかはなくなるのです。
 一つは、この世で出会い、いかに離れがたい者でも、必ず別れが来るのです。
 一つは、いかに頑健な身体でも、死は避けられないのです」

 そして、最後に冒頭の教えを説かれました。
 深く真理に納得したバラモンの頭髪は自然に落ちて釈尊の弟子となり、やがてアラカンとなりました。

 釈尊の説かれたことは決して難しい理論ではなく、事実の指摘です。
 それが感情の激流によって忘れていた真理を思い出させたのは、やはり、聖者の力というものでしょう。
「人は必ず死ぬ」という子供でも知っている真理が人生における真実であると深く納得されるためには、暴れる感情に翻弄されないで真理を観る力が必用です。
 聖者の聖性には、それを引き出させる何かが伴っているのでしょう。

「衆生(シュジョウ)相剋(ソウコク)して、以(モッ)て其(ソ)の命を喪(ウシナ)う。
 行いに随いて堕(ダ)する所、自(オノ)ずから殃福(オウフク)を受(ウ)く」

(人々はぶつかり合いながら、いのちをくしけずっています。
 いかに自己主張を通そうが、悪しき行いには災いが待ち、善き行いには福が待っていることを忘れてはなりません)

勝ち組」「負け組」という愚かしく、乾いた言葉が一時、流行りました。
 楽で収入の多い仕事に就く、金持ちになる、有名人になる、恵まれた結婚をするといったイメージが「プラス」とされました。
 その反対が「マイナス」です。
「プラス思考」という誰も否定できそうにない言葉の氾濫によって、人生は明と暗、白と黒に二分されました。
 しかし、こうした単純な割り切りには重大な勘違いと落とし穴が隠れています。
 明と暗、白と黒は決して1体1の比になってはいません。
 いずれもピラミッドの形をとっており、底辺が暗であり黒です。
 底辺には膨大な人々がおり、頂点には僅かな人々しかいません。
 もっともわかりやすいのが芸能人の世界です。
 スターに憧れた(憧れさせられた)少年少女はさまざまな養成所へと足を運びますが、遠からず、夢は幻想だったことに気づかされます。
 膨大な「負け組」が発生し、その膨大さに比例して、どこかに富が蓄えられます。
 
 一方、懸命に勝ち抜いて「勝ち組」となったプラス思考信者には、傲慢さや、軽薄さや、非情さという魔ものが近づくことを警告した人がいたでしょうか?

 より良き人生を求めるのは自然なことです。
 意欲そのものには善も悪もありません。
 そして、この世は望もうと望むまいと競争社会です。
 競争のない社会はあり得ません。
 それが、多くの人々へ生きがい豊かさや安心感をもたらす競争になるのか、それとも多くの人々へ空しさや貧しさや絶望感をもたらす競争になるのかは、私たちの智慧慈悲にかかっています。
 悪しき行いには災いが待ち、善き行いには福が待つという教えが忘れられなければ、意欲に智慧慈悲が伴い、「愚かな競争」「悪しき競争」「非情な競争」を避けられるのではないでしょうか。

〈共に〉
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2010
10.14

天下商人 ─大岡越前と三井一族─

 10月7日、作家の高任和夫氏が『天下商人』を上梓(ジョウシ…出版)した。
 勘定奉行大岡越前三井一族がつかず離れず絡み合い、著者の言う「江戸時代三部作」は完成した。

 前二作は、平成21年3月の『青雲の梯』、平成21年11月の『月華の銀橋』である。
青雲の梯』は「老中と狂歌師」という副題があり、老中田沼意次と狂歌師大田南畝を描いた。
 田沼意次は享保4年(1719年)に生まれ、天明8年(1788年)にこの世を去った。
月華の銀橋』は「勘定奉行と御用儒者」という副題があり、勘定奉行荻原重秀と儒者新井白石を描いた。
 荻原重秀は万治元年(1658年)に生まれ、 正徳3年(1713年)にこの世を去った。

 そして、大岡越前は1686年(貞享3年)に生まれ、1752年(寛延5年)にこの世を去っており、高任和夫氏は荻原重秀、大岡越前、田沼意次を通じて江戸幕府の屋台骨がどのように支えられたかを明らかにした。
 小説なので当然、主人公の活躍が描かれる。
天下商人』にも、徳川吉宗に〈使いきられる〉まではたらく大岡越前の姿がある。
 しかし、この作品はもう、人を描くよりも仕事を描いていると言った方が当たっていると思われるほど執拗に仕事のうねりが続く。
 二度、読み、考えた。
高任和夫氏は結局、仕事を書きたかったのではなかろうか。
 仕事ぶりを通じて人物像を描くなどというまわりくどいことはもうやめてしまった──」
 そして、かつて『エンデの島』を読んだ時の感慨を思い出した。

「経済はじつは愛の領域なんだよ。人が幸せになるためのものだ。ものをつくる喜びを味わったり、人の役に立つビジネスをやったり、コミュニティを支えたりするのが経済というものなんだ」

 57歳の作家・門倉のセリフに理想を託し、もう、書ききってしまったという心境ではないかと危惧した。
 それは杞憂だったが、今度もまた、心配が兆す。

 50歳になった大岡越前は、将軍吉宗から寺社奉行を命ぜられた。
 旗本の身分ではあり得ない人事である。
 だから、吉宗は同時に、大岡越前を大名にとりたてた。
 破格の栄達に本人も周囲も驚き、さっそく大岡家では祝宴が催された。
 しかし、大岡越前は「微妙なことを言った」のである。

「わしは大名になりたくて、仕事をやってきたわけではないわ」
「おれは仕事をやっているときだけ、心底、救われた、それだけだ」
「なあ、男という生き物は、仕事をやっているときだけ、救われるのではあるまいか。挫折しようが失敗しようが、そんなことはどうでもよい。全力を尽くして励めれば、こんなに幸せなことはない」

 主人公は仕事の中に溶解してしまっている。
 そして『天下商人』では登場人物が主人公なのか、仕事が主人公なのか、判然としない。
 ここまで〈仕事そのもの〉を書いたなら、この先はあるのだろうか?
 同時に、こうも思う。
 作家は書くことが仕事なのだから、もしかして最大のテーマである仕事については表現し尽くしたと感じたとしても、きっと、書ける限り筆を置かないだろう。
 
 作家は、発表し終えた作品に振り向かないという。
 読者もまた読み終えると、いかに魂がうち震えても、すぐ、「今度はどんな作品に出会えるのか」と、心待ちにする。
 高任和夫氏はこの三部作で主役を張った登場人物たちへ新しい光を当て、いかに困難な状況下にあっても続く仕事を、人間の崇高な営みとし、救いとした。
 彼の営みと救いの過程は、この先、私たちへどのような結実を見せてくれるのだろうか。

2208263 0092




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
10.13

「自分に実体がない」とは?

 私たちは、〈自分〉は、自分の肉体によって〈自分〉と確認できると思っています。
 しかし、仏教は「そうだろうか?」と考えます。

 たとえば、〈自分〉が水を飲む際には自分の手を使います。
 だから手は〈自分〉の一部です。
 では、手を誤って切ってしまったならどうでしょうか?
 同じように、目を失ったらどうでしょうか?
 相変わらず〈自分〉はあるでしょう。

 では、〈自分〉という意識が〈自分〉なのでしょうか。
 もしも「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
 翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
 意識は確認できません。
 もしも、見たくもないを見た場合などは、何かが自分へを見させたように思えたりします。
 また、病気によっては、〈自分〉という意識が危うくなります。
 考えてみれば、自分はどこにあるのか解らなくなります。

「自分だと思うから自分がいる」のだとすると、眠っている間はどうなのかということになります。
 翌朝、目覚めた時に、眠っている間も自分の肉体は連続して存在していたはずだと推定できるだけです。
 見たくもないを見た場合などは、何かが自分へを見させたように思えたりします。
 あるいは、朝、起きてトイレへ行く時、「さあ起きた」「次は、ふとんをはがそう」「次は、立ち上がろう」「次はトイレへ向かって歩こう」などと、いちいち考えません。
 ほとんど自動的に、〈いつもの行動〉をとります。
 自分の身体は確かにそのように動きますが、〈自分〉という意識がさせているのではありません。
 このあたりに来ると、気づかない〈自分〉もあることがわかります。
 過去の行動が蓄えられて、〈気づかない自分〉となっているものをマナ識といいます。
 心理学の潜在意識に似ています。


 また、〈自分〉は男性か女性かどちらかです。
 丸顔、細長い顔など、見た目にも特徴があります。
 そして、穏やかな性格だったりケンカ早かったり、あるいは飽きやすかったり根気強かったりします。
 これらはすべて〈自分〉の特徴ですが、別段、自分で決めたわけではなく、だんだんそうなってきたわけでもなく、そのように生まれついたのです。
 なぜでしょう?
 生まれる前に今の〈自分〉を特徴づける原因があったと考えるしかありません。
 その原因は今の〈自分〉と無関係だと考える理由がありますか?
 生まれる前からあり、今の自分を生まれながらに特徴づけている〈気づかない自分〉をアラヤ識といいます。
 心理学の深層意識に似ています。


 さらに、〈自分〉の思いが誰かにわかってもらえるということを考えてみましょう。
 また、〈自分〉がまごころから仏神へ祈るということを考えてみましょう。
 これらは、〈通じる〉できごとです。
 なぜ通じるのでしょうか?
 電気なら電線で通じるように、何か共通のネットワークなりベースがあると考える以外ありません。
 お互いの〈自分〉を通じ合わせている無限定で広大な心をアンマラ識といいます。
 そこはもはや、目で見て、耳で聞いて煩悩がはたらく〈自分〉の世界ではありません。
 超越した霊性の海であり、み仏の世界です。
 私たち全員がひとしく仏性を持っているとは、こうした意味です。

 自分とは、自己意識だけではありません。
 いわゆる自己意識を「第六識」といいます。
 見たり聞いたりして動き、「第六識」につながる5つの意識を「前五識」といいます。
 マナ識は「第七識」、アラヤ識は「第八識」、アンマラ識は「第九識」です。
 三島由紀夫は最期を迎える前に、すべてをかけて「第八識」までの意識のうねりを書きました。
『豊饒の海』全四巻です。
 自己意識にとらわれず教えによって想像できる、あるいは魂が震える体験や修行によって感得できる不可思議な世界もまた、自分です。
 そして、仏性の大海が私たちのふるさとであることを想う時、至心にみ仏へ祈る時、今の〈自分〉という狭い自己意識は幻のように淡くなっています。

 仏教が「自分に実体はない」と説く場合、こうした内容を含んでいます。

〈幽玄へみちびくもの〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
10.12

寺離れ・布施の明朗化

 ゆかりびとの会会員の方からファクスをいただいた。
 10月11日、経済学者中島隆信氏が読売新聞へ「寺離れ布施明朗化」という論文を載せている。

 同文は、イオン葬儀システムに関して

「注目すべきは僧侶への布施までが料金化されている点である」

とし、

「『こっそりやるならいいが、全国津々浦々に広げないでくれ』というお坊さんの悲鳴が聞こえてくる」

と、鬼の首を取ったがごとき勢いである。

葬儀という儀式の宗教性が薄れてサービス化し、そのなかで僧侶は読経し戒名を授ける仕事を請け負う事業者になった」

そして、

「『お気持でと言われて差し出した布施が足りないと突き返された』『型どおり経をあげてくれればお坊さんは誰でもいい』という遺族の声が聞こえてくるなか、イオンはそれに応えただけである」

イオンの行動を、現況に合わせた妥当なやり方と認めている。

 では、「布施明朗化」とは何を指すのだろう。
 この文章全体からすると、「料金体系化」を意味するとしか思えない。
 では、ある寺院は10万円とし、ある寺院は100万円と発表すれば、それで良いのだろうか。
 そして、利用者へ〈サービス〉と〈料金〉を天秤にかけさせ、寺院同士で自由競争を行うことが「明朗化」なのだろうか。

 最近、こうした議論がさまざまな形でマスコミをにぎわしているが、議論の前提となっている根本的な勘違いについては、ほとんど指摘されていない。
 それは、「布施を差し出すのは宗教行為であり、布施は商取引の対価ではない」という単純な真実の見落としである。
 僧侶が引導を渡して死者に安心を得ていただき、ご遺族も死を受け容れる心になっていただくための葬儀は、宗教行為以外の何ものでもない。
 僧侶は葬儀を通じて法による布施、つまり「法施(ホウセ)」を行う。
 ご遺族は、その修法を信じ、寺院の存続を支えるための布施を渡す。
 こうしてご遺族は財物による布施、つまり「財施(ザイセ)」を行う。
 葬儀における布施の真実はこれ以外にあり得ない。

 そして、布施は、見返りを求めず空の心で差し出し、受ける側も空の心で受け取り、そして受け渡される布施は汚れを伴っていてはならないことも指摘する必用がある。
 布施のやりとりという清浄な宗教行為は、渡す側、受け取る側、やりとりされるもの、この三つが清浄でなければならない。
 だから、基本的に、受け取る側が自分の都合で金額を決められないのが布施である。
「世間的経済行為としての〈料金〉でない布施は、体系化できない」
 これが忘れてはならない第一の真実である。

 こうした点からすれば「お気持でと言われて差し出した布施が足りないと突き返された」ご遺族の困惑や不安や怒りはもっともであり、僧侶の側に弁護の余地はない。
 愚かしい一部の僧侶が仏法を貶めているのはまぎれもない事実であり、当山は仏法の危機を痛感すればこそ「脱『檀家』宣言」を行った。
 しかし、だからといって「型どおり経をあげてくれればお坊さんは誰でもいい」という考え方が人間として理想に近いとは思えない。
 なぜなら、葬儀を形式としてしか考えていないからである。
 真に亡き人の安心を願うならば、いかなる僧侶にその役割を託すかは、近親者の死に際して最も肝心な判断ではなかろうか。
 たとえば、ガンにかかり手術が必用になった時、どの病院のどの医師に執刀を託すかを最も肝心な判断とするのと同じである。
 もしも母親の死後の安心は誰でも良い、それも安ければ安いほど好都合であると考え、自分の病気の治療にはいくらでも時間と金をつぎ込もうとするならば、人倫は崩壊していると言えるのではなかろうか。
 だから、この2つの文章は僧侶の堕落と遺族の堕落を示しており、殺伐とした世相を憂いるならば、両方の堕落へメスを入れねばならない。
 つまり、「僧侶が堕落しているから、お経は誰でも良い」とはならないのだが、この論文では、こうした視点が欠如している。
「たとえ根本原因が寺院にあろうと、葬儀を単なる儀式と考えれば、人倫は崩壊する」
 これが第二の真実である。

 今、世間でもてはやされている議論の多くは、寺院の堕落を糾弾することには熱心だが、葬儀が形式化することに危機感を持ってはいない。
 それどころか、この際、葬儀というものがなくなれば良いと考えていると推測されるものがほとんどである。
 では、2千年以上の歴史を持ち、幾多の宗教的天才によって磨かれ伝えられてきた仏法に導かれる以上安心な送り方があるのだろうか?
 死という逝く人にとっても送る人にとっても人生最大の試練に際して、仏法は役立たせない方が良いという理由があるのだろうか?
 送り、供養するという宗教行為を通じて人倫を養ってきた叡智を弊履の如くうち捨てたまま、これほど殺伐とした世の中に人倫の潤いは取り戻せるだろうか?

 行者としては、もてはやされている流行りの議論に、とほうもない危うさを感じている。

 さて、論文は例によって、「寺離れは歓迎する」「でも、仏教は生き残っている」というパターンで終わる。

「唯一の救いは、進んでいるのは寺離れであって仏教離れではないという点だ」

 そして、その証拠として、阿修羅像の見せ物がはやり、四国廻りに人気があるとしている。

「『こだわりを捨てよ』『欲少なくして足るを知る』など仏教の基本思想は、競争心を煽る現代社会において、傷ついた人の心を癒し、絶望の淵から人間を救う力をもっている」

 だから、国民が寺に求めているものを僧侶たちは考えよと締めくくられている。

 言いにくいが、第三の真実を述べねばならない。
「真の仏法による癒しや救いは、深い納得や魂の震える体験などによってしかもたらされず、それは、興味や流行りとは次元が違う世界のできごとである」
 現実の窮状も救済も、論文の感覚とはかけ離れて厳しく、厳粛である。
 妻子を抱えて不治の病気にかかり、どうしても今、死ねない人が『こだわりを捨てよ』で救われようか。
 会社が危機的状況になり自殺を考えている人が『欲少なくして足るを知る』で救われようか。
 大切にしていた木が突然枯れて占い師から「友人の怨み」と言われ、あるいは、生まれた子供が突然死して周囲から「水子の祟り」と言われ、不安に襲われた人々が『私たちは怨み怨まれるのが宿命です』、『この世は無常です』と教えられたからといって救われようか。

 私自身、会社を倒産させ、たくさんの信頼を裏切り、二代目として苦労した父親から譲られた財物をすべて失い、両親に深い傷を負わせ、子供たちに学校で辛い思いをさせ、妻には筆舌に尽くせない苦労かけた。
 まさにそうした「絶望の淵」から「人間を救う力」によって救われ、今、パソコンのキーをたたいている。
 ではその〈力〉とは何か?
 真の行者の口から伝えられた〈教え〉であり、深い宗教的体験を与えてくれた真の行者の〈法力〉である。
 つまり「法宝(ホウボウ…仏法という宝)」である。
 当山を訪れて人生相談を行い、あるいはご祈祷を受け、あるいは亡き人を送り供養する善男善女が〈癒され〉〈救われ〉ているのは、法宝がはたらいているからである。
 そして、法宝は「仏宝(ブッポウ…み仏)」という泉から流れ出ており、泉は「僧宝(ソウボウ…み仏と法を守り伝える僧俗の人々)」によって守られている。
 この三つの宝もの(三宝)がある場所を寺院という。
 だから、寺院がだめになり、仏教が活き活きと人々を救うということはあり得ない。
 お大師様は

「仏法は人によって起こり、人によって亡ぶ」

と説かれた。
 第一の「人」は仏法を尊ぶ人であり、第二の「人」は仏法を尊ばない人である。
 そして、仏教徒の定義は「三宝を敬う人」なのである。

 当山は、数万軒のドアを叩いた托鉢を通じて「国民が寺に求めているもの」を教えていただいた。
 そして現在の危機的状況を打破するべく「脱『檀家』宣言」を行った。
 葬儀について思う。
 真の行者として祈り、み仏からいただく戒名をお渡しし、法力のすべてをかけて引導を渡し、戒名や葬儀や供養に込められた真実をお伝えしたい。
 そして、故人が自らの死をもって用意した「送る」という人生で最も厳粛な場において、ご縁の方々に生と死について、供養を通じて人間を磨く生き方を考えていただきたい。
 それを、仏法を復興させる一里塚としたい。

 これが一行者の願いのすべてである。
 もちろん、お布施の金額は、善男善女のまごころへお任せするのみである。

寺離れと布施の明朗化」を読まれた方々や、戒名はいらない、葬式はいらない、僧侶はいらないと考えておられる方々に、〈現場の真実〉をかいま見ていただけただろうか──。

〈現場の真実〉
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2010
10.12

『大日経』が説く心のありさま六十景 その13「諍心(ジョウシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第13回目です。

13 諍心(ジョウシン)
 これは、決めたことにもくよくよする性向です。

「自己に於いて、しかも是非を生ず」

 自分の心ですでに決していることについても、あれこれと思い迷い、くよくよと是非を論じないではいられない状態です。
 
 自分の思うことを「所感」といいます。
 自分の為すことを「所作」といいます。
 志によって所感や所作の方向性が定まったならば、あとは、やるだけです。
 そうしてこそ思う存分、力が発揮できます。
 
 小説家高任和夫氏は、最新作『天下商人』で、大岡越前守忠相(オオオカエチゼンノカミタダスケ)に、こう言わせています。
「役人は仕事に没頭するしかない。わたしには、そのような生き方しかできぬ」
「お勤めというものは、精一杯やらねばならん。やってこそ仕事の愉しみがわかる」
「おれは仕事をやっているときだけ、心底救われた。それだけだ」
 同書によれば、「大岡裁き」で人気の大岡越前守は、テレビで演じられる名裁判官というよりも、将軍徳川吉宗の信頼を得て危機に陥っていた幕府の台所を立て直した名経営者だったようです。
 大岡越前守に諍心は、かけらもありませんでした。

 また、平成21年8月、今をときめく石川遼選手と最後まで接戦を演じたブレンダン・ジョーンズ選手(豪・34才)の戦いぶりと言動にも〈揺るがぬプロ〉の魂を感じ取りました。
 最終18番ホールでバーディパットを外して敗戦が決まっただけでなく、心ないファンの拍手が聞こえてなお、彼は遙かに年若い石川選手を抱擁し、祝福しました。
「今日の経験は将来、必ず生きてくるはずだ」
 石川選手は、7つもスコアを伸ばして猛追したジョーンズ選手へ涙ながらに感謝しました。
「BJがいなければ、こんなにいいプレーはできなかった。彼は最高のゴルファーです」
 また、ジョーンズ選手は、スター選手の相手役がミスをした時に拍手するようなマナーを知らない観客もいる日本ツァーを見下すアメリカ人の記者へ、毅然として反論しました。
「日本のグリーンは世界一すばらしい。外国選手にも信じられないほど親切で、プレーしていて楽しい場所だ」

 大岡越前守もジョーンズ選手も、まっすぐ前を向いており、〈くよくよ〉とは無縁です。
 諍心のない人は爽やかで、信頼が持てます。
 そうありたいと心底、思います。

〈テレビでは知られない大岡越前の奮闘ぶりと三井の厳しさに驚かされます〉
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2010
10.11

ダライ・ラマ法王の独占インタビュー ―チベット仏教の叡智(その6)─

 DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」について記します。
※(その1)は、「NHK文化講座『生活と仏法』講義録 56 ―チベット仏教の叡智─」にあります。

 ダライ・ラマ法王は「光明」について説かれました。

6 光明

 光明とは最も奥深い微細な心。
 微細な心が結果としてブッダの心に、悟りの心になる。
 光明の心とはブッダの心の究極的な源。
 より、独立した心。

 粗いレベルの心はどれも頭脳の所産に過ぎない。
 それは、頭脳が停止すれば機能を停止する。
 頭脳の機能が完全に停止すると、これとは別の種類の心が活性化する。
 それが最も奥深いところにある微細な心、光明の心である。
 それは肉体から離れることができ、肉体から比較的独立している。

 光明は他のすべての心の種子。
 心には8つある。
 完全に覚醒した意識から始まってどんどん深層の意識に至る。
 1番目から5番目の脳に由来する意識は、死の際に停止する。
 6番目、7番目と停止し、8番目の最も奥深い心が現れる。
 普通の人はこの時、失神した状態にあり、ただ、そこを通り過ぎる。
 しかし、実は、これが究極的な悟りの源。


 ここでは、霊性の源となっている仏心の存在を具体的に伸べておられます。
 私たちは、生きている間、①目でモノを見て心が動き、②耳で音を聞いて心が動き、③鼻で香りを嗅いで心が動き、④舌で味を味わって心が動き、⑤皮膚で感触を感じて心が動きます。
 死ねば目以下の機能が停止するので、それらに付随していた心もはたらくなくなります。
 それが「1番目から5番目の脳に由来する意識は、死の際に停止する」の意味です。
 見えず、聞こえずという状況になっても自分という意識は残りますがそれもやがてはたらかなくなり、無意識形で行動にかかわっていた潜在意識もまた、静まります。
 見えて動く心や聞いて動く心を統括してきた表面の心も、生活しつつあらゆる体験を蓄えてきた潜在的な心も役割を終えます。
 それが「6番目、7番目と停止し」の意味です。
 ここから先は真言密教の立場と全く一致しているわけではありませんが、いずれにしても、時間の制約を超えて連続する因果応報を実現する主体としての〈何ものか〉は残ります。
 それを法王は「光明」「最も奥深い微細な心」と説かれました。
 いわゆる仏心です。

 仏心が光明となっていることは納得できます。
 私たちはそれをイメージとして知っています。
 良き心、善き心 佳き心、好き心のイメージは決して暗くありません。
 明るい心、輝く心、温かな心、つまり太陽のイメージではないでしょうか。
 心の奥底から肯定できる状態、つまり最高の状態はまぎれもなく太陽のような心なのです。
 
 また、あの世へ行ってしまいそうになって戻って来た方々は異口同音に「向こうの世界は明るく、思わず、行きたくなった」と口にします。
 それは、待っているあの世が明るいだけでなく、苦をもたらす煩悩の覆いから解放された心が本来の明るさを放ち、向こうの明るさと同化したいと感じるからではないでしょうか。
 溶け込みたいのです。
 異質な対象へはこうした感覚が持てないはずです。
 仏心は光明なのです。

 月輪観(ガチリンカン)や阿字観(アジカン)などの瞑想は、こうした真実世界をありありと体験させます。

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2010
10.11

千枚護摩法

 1日あたり1枚づつ護摩木のご供養をし、千日かけての因縁解脱を願い続けているSさんから、また近況報告をいただきました。
 2歩進んではひと休み、あるいは1歩退がりまた進むという、波に浮かぶ椰子の実がうねりへ身を任せながらながら岸をめざすような流れですが、早朝の空が白み徐々に紅色を帯び、やがて地平線に真っ赤な舌の先のようなものがチョロリと姿を現し、ついには私たちのいのちをはぐくむ太陽が大空へ昇り始めるのと同じく、Sさんは着実に変わって来ました。
 
 硬い強さがしなやかな強さに変わりました。
 かかえた難題へ真剣に挑戦して心も身体も硬くなり、石と石とがぶつかって互いを傷つけるような毎日だったのが、相手の石を柔らかい布で磨くような姿勢になりました。
 相手と自分と一対一の真剣勝負だったのが、相手を見ると同時に自分を見る目もはたらき、勝負全体が見えるようになりました。
 ゆとりが出たのです。
 それを仏教では〈(ジョウ)〉と言います。
 これがないと智慧も忍耐する力もなかなか十分には発揮されません。
 には苦を半減させ、時にはほとんど滅してくれる力があるのです。
 
「生まれの因縁」は無始の過去から、「育ちの因縁」はこれまでの人生のすべての瞬間をかけてつくられ、積まれたもので、一朝一夕にパッと変えられるものではありません。
 そのためにこそ千枚護摩法があります。
 千は仏教においては無限を意味します。
 無限の功徳を積み無限の時間をかけても人として向かうべき陽光をめざすという決心ができれば、それはもうすでにみ仏の救いのみ手にあり、ただただまっとうしようとする歩みは迷いの道ではなく、まぎれもなく一筋の救いの道にあるのです。
 
 あと1年半、Sさんの到着点を楽しみに修法を続けています。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから行者高橋里佳さんがピックアップし、加筆修正の上、再掲しています。平成16年のものです。

〈準備万端整った。さあ、──勝負
220930 019





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2010
10.10

ダライ・ラマ法王の独占インタビュー ―チベット仏教の叡智(その5)─

 DVDになっているNHKライブラリー『チベット 死者の書』へ特典として付いている「ダライ・ラマ法王の独占インタビュー」について記します。
※(その1)は、「NHK文化講座『生活と仏法』講義録 56 ―チベット仏教の叡智─」にあります。

 ダライ・ラマ法王は「ポワ」について説かれました。

5 ポワ

 チベットの儀礼には慣習化したものもある。
 そのレベルではさほどの意味はなく、単なる伝統習慣である。

 実際のポワの行は、修行体験を通じて自分のエネルギーと心をコントロールできる人が、数週間前に死が迫りつつあり、避けがたいと知ったなら、身体が衰弱し過ぎないうちに心を肉体から切り離した方が良い。
 身体が衰弱し過ぎると、必要とされるエネルギーも低下し、本来、すべき修行も困難になる。
 そこで、ポワを行うタイミングを見計らう必要がある。
 ポワは時に「跳ぶ」ことを意味する。
 自然な死のプロセスを迎える前に、自分の心を肉体から切り離してしまう。
 肉体から微細な心を切り離す。
 身体が衰弱しきらないうちに。

 自分のための行であるが、熟達すれば、死に行く人の手助けも可能である。
 死に行く人は、完全に死んでしまう直前に、ポワに精通した者の手を借りてある種の意志力を、新たな体験を得る。
 他人のために最も良いのは死のプロセスが起きる前。
 身体が充分機能しているうちにポワの行を行い、瞑想体験を得て行になじんでおく。
 死の瞬間がきたら、ポワを実践する。

 一種の慣習になっているポワもある。
 ポワの儀式を行う者も、死に行く者も、深い内面的体験を経ていなければ、芝居と変わりなく、何の意味もない。
 何もしないよりはましだが…。
 ポワの実践と比較すれば、真言を唱える、経典を読むなどは、さほどの意味がない。


 ポワについてはラマ・ケツン・サンポ師による『虹の階梯』が明確に書いています。

「ポワは、たとえいつ死が訪れても動ずることなく、確実に心(意識)を身体からぬきだして、より高い状態へと移し変えるための身体技法であり、チベットでは密教行者ばかりではなく、一般の人々にも広く学ばれてきたものである」


 つまり「意識の転移」がポワです。
 同書は5つの種類を示しており、一般の人も、「〈道〉を〈旅人〉が〈旅〉をする」というイメージをしっかり持てれば、阿弥陀の浄土へたどりつくポワが実践できます。
 とても納得できるのは以下の記述です。

「老人の場合、ポワは比較的簡単にできる。
 これはものにたとえれば、夏にはまだ青く振り落とすことも難しい果実が、秋になればすっかり熟れ切って、ちょっとさわっただけでぽろりと落ちてくるようなものである」


 息が絶えた瞬間から中有(チュウウ)という転生(テンショウ)前の状態へ入って行くまでの状態についての記述もまた、説得力があります。

「息絶える。普通いわれる死である。
 しかし、それですべて終わりと考えるのは、意識と生命の本質についてあまりにも無知な者たちの考えである」


 そのとおりです。
 息が絶えた瞬間ですべて終わりであれば、なぜ「枕経」が必用なのでしょうか。
 枕経は、この世に別れを告げたばかりの状態はとても不安定なので、迷わぬよう、悪しき者が近づかぬよう、死後の7日間をお守りくださる不動明王のご加護をいただくために修法します。
 ここにはいくつかの動かせないポイントがあります。
○人は「死んで終わり」ではない。
○死後の導きが必用である。
○導きはみ仏によって行われ、お力をくださるみ仏との縁を結ぶのが、法力を具えた行者である僧侶の仕事である。
 この三つを認めない方にとって、枕経は不要です。
 しかし、ご遺族の方々と共に、枕経によるとしか考えられない感動的な体験を重ねている者にとっては、「意義を知らないままに思考停止してしまうのはいかななものでしょうか」と言いたくなります。
 修法中に、苦悶の中で生命活動を終えたはずの方が「フーッ」と長く吐いた息の音を聞いたこと。
 残虐な事件で亡くなった方の表情が、修法後、見違えるように穏やかになったこと。
 修法後、臨終に間に合わなかったお身内の方が、修法後、死者のメッセージを感得したこと。
 こうしたできごとは、息が絶えた瞬間をもって故人は無になり、ご遺体もまた、ただのモノになったのではないという真実を示しています。

 真言密教における死後のポワは、引導法によって行われます。
 これまでに何度か書いたとおり、ご加持法によって疲労を感じることはほとんどありませんが、引導法を行うと心底疲れます。
 全身全霊でお送りするには、法力はもちろんですが、気力と体力が不可欠です。
 修法の力を確信できなくなった時が引退の時期であると思い定めています。
 もちろん、ご加持法は意識のある限り可能ですが、引導法だけは別ものです。
 だから、冒頭の言葉と最後の言葉は、そのまま真実であると確信できます。
チベットの儀礼には慣習化したものもある。そのレベルではさほどの意味はなく、単なる伝統習慣である」
「ポワの実践と比較すれば、真言を唱える、経典を読むなどは、さほどの意味がない」
 
 形をなぞっても法は動きません。
 そして、最近は、引導法がきちんと行われないまま、荼毘に付されてしまう御霊が増えています。
 人間の歴史が始まって以来さまざまな方法で行われてきた「送る」作業から、宗教的な手法がこれだけ疎かにさる時代があったでしょうか?
 生を謳歌するだけで死の尊厳を脇へ置き、さようならと手を振るだけで死者を彷徨わせたまま、私たちのこの世から〈乾いた〉〈無慈悲な〉〈愚かしい〉考えや行動がなくなるとは思えません。
 この世の荒(スサ)みの一因は送る心の荒みにあると考えているのは私だけなのでしょうか?

 ところで、死の真実を求めて足をはこんだ劇場で観た映画『必死剣 鳥刺し』もまた、以下の教えに合った成り行きになっています。 

「ポワは時に『跳ぶ』ことを意味する。
 自然な死のプロセスを迎える前に、自分の心を肉体から切り離してしまう。
 肉体から微細な心を切り離す。
 身体が衰弱しきらないうちに」


 豊川悦司が演ずる主人公兼見三左ェ門は秘剣「必死剣 鳥刺し」の使い手です。
 最後の場面で、大勢の侍に取り囲まれた三左ェ門はさんざんに斬られ、突っ伏したまま動かなくなります。
 恐る恐る近づいた者が息のないことを確認し、三左ェ門を裏切って死へ至らしめた上司は、哄笑を浮かべながら近づきます。
 その瞬間、三左ェ門の身体は飛鳥を刺すかのような鋭さで跳躍し、まっすぐに伸びた切っ先は確実に上司の心臓を一突きにします。

 以前、上司から秘剣を見たいと言われ、こう返事しています。

「この技を使う時、使い手はほとんど死んでいます」


 この秘剣が「必殺剣」ではなく「必死剣」である秘密はここにあります。
 必死剣の実践が可能だったのは、三左ェ門が武術者として「意識の転移」を含む修行をしていたからであると考えられます。

 人間の死は、モノを見るだけではつかめません。
 聖者の教えや、こうしたレベルの芸術などによって感性を磨き、真実へ迫る心を忘れないようにしたいものです。

〈この絶対性〉
221008 001




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
10.09

10月9日の予定が変更になりました

 10月9日に予定していた納棺師の方に急用があり、お話の会は延期になりました。
 お詫び申し上げます。
 10月9日午後2時より始まる寺子屋法楽舘』では、DVD『蕨野行(「わらびのこう)』を観賞し、語り合いましょう。
 村田喜代子氏の同名小説を映画化したもので市原悦子氏が主演しています。

 姥捨て山の物語ですが、年代を超えた信頼やお互いのためになりたいという真心や、やがてまた里へ輪廻転生する姿などが懐かしさを伴った映像となりました。
 数々の受賞に輝いた恩地日出夫監督の大傑作です。

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2010
10.09

御来迎(ゴライゴウ)

 新聞などの報道によると、今年6月に川村学園女子大の斎藤哲瑯教授が関東周辺の小学5年生から中学3年生までの子供たちに訊ねたところ、日の出・日の入りのどちらも見たことがない子供は全体の52パーセントにのぼるそうです。
 平成10年に当時の文部省が小中学校の子供たちの体験調査をした時は日の出・日の入りをほとんど見たことがないと答えた子供は3人に1人でし た。

 大寒のさ中、四国八十八霊場をお詣りしたおりに見た御来迎(ゴライゴウ)は忘れられません。
 海に面した高台にある宿の前にはそう大きくない湾と民家の集落があり、左 前方に低い陸島が張り出し、右手から正面へ向かって海が広がるという絶好の眺めでした。
 周囲に集う善男善女は皆、今か今かと太陽が顔を出すのを待ち、一瞬の光芒があたりを包むと安堵と喜びの空気が流れ、ゆっくりと、しかしよく見ると意外な早さで昇る太陽をそれぞれの形で伏し拝んでおられました。

 太陽から受ける神々(コウゴウ)しいという〈感じ〉、それを「字」といいます。
 あれは太陽だとわかる〈らしさ〉、それをといいます。
 太陽の〈姿〉、それを「形」といいます。
 太陽のはたらきぶり、その〈ふり〉を「業用(ゴウヨウ)」といいます。
 あらゆるものはこの4つの方面から成り立っており、私たちはその全体を受け止めて、「ああありがたい」と合掌します。
 お大師様は、4つの観点を「四種曼陀羅(マンダラ)」と名づけ、それらがそれぞれでありながら同時に離れることなくこの世をつくっている真実をしっかりと観よと説かれました。

 御来迎を観る子供たちは、歓声を挙げるかも知れません。
 必ず「あっ、お陽様だ!」と判るでしょう。
 うわあ赤いな、大きいなと思うでしょう。
 そして、輝きや暖かさを感じるでことでしょう。
 それは、トンボに対しても、猫に対しても、コスモスに対しても、川に対しても、そして人に対しても同じです。
 この世の真実は四種曼陀羅を観るところに顕われるのであり、言い方を変えるならば、それを観ない限り真実は永遠につかめません。
 ご来迎に〈感動する〉ことと、教科書を読んで太陽の大きさを知り構造を〈知る〉こと、情報を集め覚えた結果としてテストの成績が上がることとは、それほど関係がないのです。

 もちろん知識は必要です。
 しかし、それよりも、子供たちの瑞々(ミズミズ)しい感性を伸ばし真実を感じとる力をつけさせることの方が大切なのではないでしょうか。
 仏教では、ものごとの軽重や順番をまちがえない、あるいは無いものと有るものを見まちがわないのは「正見(ショウケン)」であり、ひっくり返したり、逆に見ていたりすれば「顛倒(テンドウ)」です。
 般若心経で説く「遠離一切顛倒(オンリイッサイテンドウ)」とはこのことです。
 頭が作り出しただけのものを「有る」とし、そのメガネを通してしかこの世を見られなければ、真実はつかめず、覆いを超越すれば真実がつかめます。
 般若心経は、超越した状態をこう説きます。

「遠離一切顛倒夢想(オンリイッサイテンドウムソウ)究竟涅槃(クキョウネハン)」

「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」という真言を唱えれば、勘違いし誤った見方を超越し、解き放たれた境地を完成させられます。
 我を忘れて御来迎と一体になり、ただただありがたく、言葉を失って佇んでいる時は、涅槃の境地へ導く扉の前に立っているのかも知れません。

。※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから行者高橋里佳さんがピックアップし、加筆修正の上、再掲しています。平成16年のものです。

〈りりしい雄ネコを欲しい方はおられませんか〉
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〈おちゃめな雌ネコを欲しい方はおられませんか〉
221008 005_edited-1




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