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2010
11.30

例祭だより(11月の第二例祭)

 11月20日(土)は第二例祭の日です。
 本日の護摩は「冬の護摩」です。
 ずいぶん寒くなりました。
 今朝、来てみると正面の御本尊様の前に紫色の幕が天井から飾ってあります。
 ゆかりびとの会さんからの奉納いただいたもので、すごく見栄えが変わってありがたさが増したように見えます。
 幕があることでずいぶん雰囲気が変わるなぁと思いました。

 今日は護摩の煙がすごく不思議な感じでした。
 講堂の上にはあまり煙っておらず下の方だけがかなり煙っています。
 よく見ると幕が影響しているようです。
 天井の換気口からの空気が幕を堺に下を通るようです。
 夕方にかけての護摩ですので、うっすらとした煙にちょうど外からの夕日の光が差し込みとても幻想的な空間になっていました。
 高橋さんも写真を撮っておけば良かったと悔しがっていました。
 幕があるおかげで見栄えだけでなく護摩の時の楽しみがひとつ増えた気がします。

 今日、住職のお話の中に、後二回の例祭護摩)で今年も終わりとありました。
 そうです、今年ももう終わりになってしまうんです。
 ふりかえってみると、何にもできずに一年が終わるような気がします。
 後二回と言われるとなおさらです。

 例祭が終わった後かたずけをしていると、護摩壇の周りにポップコーンがたまに何個か落ちています。
 五穀やお米やその他を護摩の炎に捧げた時にその中のとうもろこしが熱で揚がったものです。
 ポップコーンを拾って見ながら、またあらためて、今年ももう少しだなぁとしみじみしました。

(護摩のではじけた米やポップコーンは、薬になるとされています)

※この稿は、行者丹野明宏君が書きました。

南無転迷開悟不動明王
221123.jpg





「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.30

『大日経』が説く心のありさま六十景 その19「女心(ニョシン)」

 大日如来は、修行者へ迷った状態を指摘されました。

19 女心(ニョシン)
 これは、多欲な向です。

「欲法(ヨクホウ)に随順(ズイジュン)す」

 この心の曇りは、強すぎる欲望に翻弄される迷いです。
 注意せねばならないのは、決して女というを差別や否定するものではないということです。
 現に、釈尊は女出家も認め、「比丘(ビク…男出家修行者)、比丘尼比丘尼…女出家修行者)」と話しかけ、問いかけておられました。
 
 しかし、出家という重い決断ができるのはどうしても男性の方が多いので、性に関する指導も男性中心になっているやに見受けられます。
 これは当然であり、極めて自然なことでもありましょう。
 なぜなら、女性は実際に出産するかどうか、あるいは出産する能力があるかどうかは別として、男性と区別される「生むことのできる性」であり、それに付随して「生み、育てる」といった〈種の保存の主役〉だからです。
 女性がファッションや化粧やおいしいものや部屋の飾りなどに強い興味を持つのは、異性と出会い一緒に住むといった性と出産への関心が強いからです。
 そして子供ができれば、やはり出家は困難です。
 家を離れるという決断がしにくい役割を負いつつ子供や家庭を守り社会を構成していることは、時代を問わず、洋の東西もまた問わない事実ではないでしょうか。

 さて、「強すぎる欲望」はどう考えるべきでしょうか?
 ポイントは女性の「性(サガ)」と呼ばれる部分にあります。
 いわゆる性的欲望が男性より強いかどうかという問題ではなく、出産や安定した生活への関心が強く、獲得した生活などへの執着心もまた強いということです。
 そうした「生の現場」では、否応なく目の前の現実への対応が迫られ、「人はなぜ生きているのか?」「この苦の根本的な原因は何なのか?」などと沈思黙考してばかりはいられません。

 ところで、学生時代に一定期間、禅寺で修行生活をした時のことです。
 男子学生は〈ひげぼうぼうで乞食か仙人か〉となった者が何人かいました(私もそうです)が、女性でそうした雰囲気になった人はいませんでした。
 四国霊場を巡拝したおりに見かけた人々でも、〈なりふり構わぬ〉行者風の人は、やはり、ほとんどが男性でした。
 しかし、だからといって女性は修行に熱心ではないのかといえば、決してそうではなく、いつも身ぎれいにしないではいられないという性向には、肯定されようとも、否定されるべき根拠はありません。
 老いてなお美の気配を失わない、あるいは失うまいとする女性には尊敬の念を抱いてしまいます。
 やはり、問題なのはこうしたレベルのことではなく、根元的執着心にあるのでしょう。

 ふりかえって見ると、男性にもまた、根元的執着心がありそうです。
 対象になるのは地位や名誉であり、そうしたものに絡む闘争心や嫉妬心には、これまた、「性(サガ)」を感じます。
 高任和夫氏が書いた一連の企業小説群は、情け容赦なくここを暴いています。
 また、宗教的関心、あるいは宗教活動への関わり、あるいは家庭における供養の実践などといった面においても、男性は主役ではありません。
 地道な実践者としては、女性の方が多いといえるのではないでしょうか。

 こう考えて気づくのは、釈尊が「欲法(ヨクホウ)」と言われたのは、男女共に「それどころではない」と夢中になっている対象全般を指すのではないかということです。
 恋愛し、家庭をつくり、子供を育てることも、社会的仕事に励み、成果を上げ、出世し、財産を蓄えることも、実りある人生を築く立派な生き方です。
 お別れの際に、善男善女が「まじめに仕事に励んだ」「家庭を大切にしてくれた」「子供をよく育ててくれた」「孫を可愛がってくれた」などと心から故人を讃える言葉を聞くと、一人一人の人間がそれぞれの生をまっとうする尊厳にうたれます。
 実に、生きて生き尽くすことは大事業であり、そこに優劣はありません。
 しかし、釈尊はそうした人間の営みを慈悲と智慧の眼でご覧になられた上で、
「世間的欲望で生きるだけではなりません。
 ぜひ、人の道を考え、人格の向上に励む大切さを知り、その方法を実践してください。
 なぜなら、皆がそうしないと、〈ままならず、生きにくい〉この世も、人生につきまとう〈苦〉も変わらないからです」
と説かれました。
女心(ニョシン)」の教えに含まれる男女それぞれの「性(サガ)」についてよく考えてみたいものです。

〈修法により、結んだ法や因縁が解かれ、供養された品々が天地へ還るための清浄なる「お焚きあげ」用の炉です〉

19年11月12日額 002




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2010
11.29

12月の守本尊様

 12月は、大雪(ダイセツ)と冬至(トウジ)の師走(シワス…12月7日より1月5日まで)です。
 12月は亥(イ)の月なので、守本尊千手観音(センジュカンノン)様です。

21080819 007

 千手観音〈センジュカンノン)様は天眼無礙智力(テンゲンムゲチリキ)をもって、人々の過去までも見通し、どのような因縁で何に苦しみ何を求めているかをご覧になり、求めに応じて無限の(仏教における「千」は無限を意味します)慈悲の手を差しのべ、無限の智慧の眼をもってお導きくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、締めくくりの月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 千手観音〈センジュカンノン)様は、亥年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた千手観音様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)




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2010
11.29

12月の真言

 12月12月7日から1月5日まで)の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して千手観音(センジュカンノン)様の真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。
 除災開運されますよう。 

「おん ばざら たらま きりく」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


〈自分で立つ〉
221127 025




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2010
11.28

『大日経』が説く心のありさま六十景 その18「人心(ニンジン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第18回目です。

18 人心(ニンジン)
 これは、恩を着せる心です。

「他(タ)を利(リ)するを思念(シネン)す」

 この心の曇りは、自己本位の〈打算〉から離れられない迷いです。
 自分以外は皆、他人です。
 社会的行為はすべて他人と関わりがあります。
 たとえば選挙に立候補する新人がいたとします。
 Aさんは、「こういう人に政治を行って欲しい」と考え、手弁当で応援します。
 もし、落選しても、次回を期して頑張ろうと励まします。
 Bさんは、「今のうちに後援会に入れば仕事をもらえるだろう。応援しておけば何かの時に役に立ってもらえる」と考え、最低額の会費を払って会員となり、事務用品の購入やチラシの印刷などを求めます。
 もし、首尾良く仕事をもらえなかったり、落選したりすると、「あいつは恩知らずだ」と吹聴したり、「ああ、損した」と次の獲物を探します。
 同じように見えても両者の心は正反対であり、Aさんの心は「菩薩心(ボサツシン)」であり、Bさんの心は、ここでとりあげる「人心(ニンジン)」です。

「そんなのは青臭い理想論に過ぎないよ」
「きれいごとなど、生きて行く現場では通用しないよ」
世知辛い世の中を生きて行くことが並大抵ではないという現実から離れているよ」
 うそぶく声が聞こえて来そうです。
 確かに現実の指摘という点では当たっていると言えるかも知れません。
 しかし、現実の直視は、ものを考える出発点です。
 問題は、観えた現実をどうとらえるかであり、そこからいかなる理想が生まれるかであり、理想を実現する手段が見つかるかどうかです。
 うそぶく方々はいつまでも出発点で足踏みをしておられるだけです。
 かつて、宮城県知事だった浅野四郎氏はこう表現しました。
「もんじゃの人々」。
 業績への評価はさまざまでしょうが、「こういうもんじゃ」と前例などにとらわれたままで新しい発想のない人々の呪縛と戦った彼の姿勢は鮮烈でした。

 み仏は、こう言っておられます。
「そうやって〈世知辛い世の中〉をつくっているのは、あなた方自身ですよ。
 それはお互いが自己中心だからです。
 お互いが打算を最優先させて生きているからです。
 このように〈世知辛い世の中〉になっている理由がはっきりしているのに、いつまでも原因を除去して住みやすい世の中にしようとしないのは、あなた方自身の責任です。
 さあ、自己中心を離れる方法を実践しましょう!」


 仏法は「自分を自分の主とせよ。その自分とは放逸に走る心を正しく抑制できた自分である」と説きます。
 だから、徹底して個人の自立を尊重する立場ですが、その個人が煩悩に引きずられたままの個人ではないことに注意せねばなりません。
 そもそも、ここで言う「主」とはインドの言葉でナータです。
 ナータには、保護者の他に、絶対者、あるいは本尊という意味が含まれています。
 だから、正確にはこうなります。
「自分を守るのは自分でしかない。
 自分をこそ本尊として尊ぶべきである。
 その自分とは、本尊にふさわしく清められた自分である」

 この釈尊の言葉と悟りの境地が探求された結果、密教の「即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままでみ仏に成っている真実に気づくこと)」へたどりついたのは、理の当然と言わねばなりません。
 だから、密教兵法である隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者はご本尊様へ誓います。
「我、恩を着せず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、 自他の発展を願うがゆえなり」

 人心(ニンジン)を汚らわしいと感じる人々が多くなれば、きっと、この世の世知辛さは薄れることでしょう。

〈寒風に輝くもの〉
221127 017




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
11.27

うつ病との一日

 最近は24時間を長く感じられるようになりました。
 起きている時間が延びたのは事実ですが、むしろ時間の密度が増したのです。
 何よりも、トイレ、駐車場、待ち合わせでの空き時間などを有効利用する頻度が上がり、これまでよりたくさんのが読めるようになりました。
「忙しいほどが読める」のは真実です。
 第二に、間(マ)ができました。
 これも不思議なもので、堂や家や境内地を駆け回っているうちに身体の動きが今までより格段に早くなめらかになり、立ち止まれる瞬間がポツポツとできました。
 第三に、心身が軽くなりました。
 以前はなかった家事看病が24時間の中へ入って来て重荷ができたようでも、さにあらず、重荷はどこにもありません。
 むしろ世界は重力が減り透明になり、より生きやすくなりました。

 3時4時に一日を始めるありがたさ、陽のめぐる一日のありがたさをしみじみ味わっていたところに、こんなご質問をいただきました。
 小中学生の半分が日の出日の入りを見たことがないという調査結果についてお話していた時のことです。
「東の空にご来迎を仰いで感謝や希望や勇気を感じとる体験が大切なのは解りました。
 そうすると西の空の夕焼けはどういうイメージになるんですか?」

 教えによれば〈東・明け方・午前3時から午前9時まで〉は発心(ホッシン)です。
〈南・真昼・午前9時から午後3時まで〉は修行です。
〈西・夕 暮れ時・午後3時から午後9時まで〉は菩提(ボダイ)です。
〈北・真夜中・午後9時から午前3時まで〉は涅槃(ネハン)です。
 朝は「さあ、やるぞ」と決心し準備を整えます。そして昼は一所懸命に精進します。夕刻になればやることをやった充実感に満たされ、夜は感謝し安心して寝床につく。
 そんな当たり前のことなのです。
 
 天地のバイオリズムに呼応したバイオリズムを持った生きものである人間は、来のリズムにのればメリハリのある生活となり、いのちに勢いが増すのではないでしょうか。
 今日も払暁に観た星たちのともす天の明かりに導かれた一日でした。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。平成16年のものです。

 当時、妻は、ある事件をきっかけに重度のうつ病を発症し、電話に出られず人と話ができないのはもちろん、自分で身の回りのことすら一切手につかなくなっていました。
 入院を勧められましたが、断り、自分で介護しました。
 そして、文章の2日後、お不動様のご縁日の朝、突然、以前とまったく同じように受話器をとるという奇跡的な回復の瞬間が訪れ、現在に至っています。
 おかげで、心の病気に関する人生相談でご来山される方々が、より、身近に感じられるようになりました。
 同時に、3時か4時に寝床を離れる習慣がつきました。
 以来、日々、15時間程度は法務を行っていますが、それでもやり切れません。
 釈尊の説かれた通り、まことに「こは(この世は、人生は)苦なり」なので、当然と考えています。

 うつ病の皆さん。
 自分なりに最善を尽くし、周囲に温かい縁があれば、一瞬後にぐっと良くなるかも知れません。
 縁が薄いかなあと感じる方は、どうぞ、み仏のお力へすがってください。
 そして、人生の一時期を焦らずに過ごしてください。
 ご加護がありますよう……。

〈冬の緑〉
2212122 019




「おん さんまやさとばん」※今日の守尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.26

『大日経』が説く心のありさま六十景 その17「竜心(リュウシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みることにしましょう。
 第17回目です。

17 竜心(リュウシン)
 これは、贅沢な生活を求める性向です。

「広大(コウダイ)の資材(シザイ)を思念(シネン)す」

 広大な私生活を営もうと莫大な財物を求めてやまない心です。

 この心の曇りは、無明(ムミョウ…智慧の明かりがない状態)から生じる典型的な迷いです。
 私たちの生を突きつめてみると、どう考えても不条理と感じてしまうありようが観えてきます。

 まず、気づいた時は、もう〈他にない特定の存在〉としてこの世にいます。
 意識的に選んだわけではないのに、日本人であり、男であり、気が強く、身体が弱い人間としていつの間にかもう〈居る〉のです。
 そして、生きていれば、必ず老います。
 そして、必ず病気になります。
 そして、死にたかろうが、死にたくなかろうが、否応なく死にます。
 また、人であれ、ネコであれ、ギターであれ、バラであれ、愛する相手との別れは避けられません。
 また、会いたくもなかった憎らしく許せない誰かとの出会いも避けられません。
 また、得たいもので手に入らないものがあることも避けられません。
 また、身体であれ、立場であれ、財産であれ、必ず何かにとらわれてしまうことも避けられません。
 私たちは、自分から選んで〈こんな自分〉の人生を得たのではないとしか思えないのです。

 しかし、釈尊は、不条理と思えてしまうのは智慧の明かりがないからであると説かれました。
 智慧の明かりがないために、いのちにともなう渇望が抑えられないのです。
 ワニのように残忍な心、ネズミのように我先な心に支配されてしまうのです。
 それは、情欲的な欲望として表れます。
 また、自分のいのちを永らえることを最優先したいという欲望として表れます。
 また、安全で楽に暮らしたいという欲望として表れます。

 渇望は苦悩を生みます。
 生まれたことも、老いることも、病気になることも、死ぬことも苦悩をもたらします。
 月へ生きたいと思うのに行けない、別の性に憧れてもなれない、お金持ちになりたいのに、有名人になりたいのになれないなど、思ったり願ったりしても実現できないことも苦悩をもたらします。
 隣人がうるさく感じる、雑踏を歩いているとたまらない孤独感に襲われるなど、環境のありようも苦悩をもたらします。

 この稿で考える竜心は、苦悩の元である渇望の典型的な表れです。
 何でも思いのままになるような「何不自由ない恵まれた暮らし」を求めるのは、誰にとっても当然であるようであって、実は迷いの状態なのです。
 どう迷っているのか?

 まず、無常を観ていません。
 自分も、家族も、友人も、家も、車も、すべては刻々と変化しており、生じたものはすべて滅するのです。
 執着するのは、自分が川に流されていながら、途中のどこかで目に入った特定の景色をいつまでも見ていたいと願うのと同じく、決して叶えられない望みを持つことでしかありません。 

 そして、縁起を観ていません。
 自分がこの世に生まれたのも、愛する人と出会ったのも、大好きな犬と別れねばならないのも、すべては原因があり、原因を結果へ結びつける縁があってのことです。
 喜怒哀楽の対象はすべて因縁の産物であって、愛する人と出会ったことを感謝するならば、憎らしい人と出遭ったこともまた、受け容れるしかないのです。

 また、自分自身が時々刻々と変わり、死へ向かっている存在であることを魂で受け止めていません。
 〈変わる〉ことが〈居る〉ことの本質ならば、良く変わろうとする以外、真の安心や満足が得られる生き方がありましょうか?
 死ぬことが避けられないのならば、〈生きている今〉をきちんと生きる以外、今を活かす方法があるでしょうか?
 このようにきちんと考えれば、安逸で豪華な暮らしを夢見ることの浅はかさに気づかれることでしょう。

 作家三島由紀夫が自決して40年経ちました。
 彼は人生における真実の価値を求めた求道者でした。
 彼を想起する私たちに突きつけられているのは、「君たちは人生上の真の価値を求めているか?」との問いではないでしょうか。
 竜心に流されず、釈尊を想い、三島由紀夫を偲んで真理・真実を求めたいものです。

〈彼らとて〉
2211062 003




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2010
11.25

この世の息 ─河野裕子絶筆─

 とんでもない一首が目の中へ飛び込んで来ました。

「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」

 息が足りないとは!
 ……一体誰が。
 まるで、藤沢周平作『必死剣鳥刺し』の主人公、兼見三左エ門がいのちを捨てて振るった最後の一太刀ではないか。
 こんな一太刀を使える人がいるとは……。
 信じがたい思いで過ぎた数十秒の後、朝日新聞掲載の「愛する家族 絶筆の中に」を一気に読みました。

 句は、歌人河野裕子が死の枕元に寄り添う夫へ遺した辞世ともいうべき作品です。
 夫和宏氏は言います。
「私の耳で聞き、私の手で書きとめられたことは誇り。
 どれだけの時間を共有したか、思いがめぐった。
 最後まで歌人として、ほんとうによく生きたと思う。
 そして、いい妻として、いい母として」。
 平成22年8月12日、64年の生涯を閉じた河野裕子は、乳ガンによって一ヶ月を在宅看護で過ごし、死の前日、11首を口述しました。
 うつらうつらしながらも、時折、口から五七五となった言葉が漏れ、夫・長男・長女の家族たちは必死で書きとめたそうです。 

「心細くこの世の道は続きゐぬ階段おりてありがたうといふ」
「昼ごろは茶碗かちゃつかせ食ひおへぬ茗荷の花と鰯が二尾と」
「昼前に月の光がすうすうす家族四人がひるんでしまふ」
「すうすうと四人の誰もが寒くなり茗荷の花の透くを回せり」
「あなたらの気持ちがこんなにわかるのに言ひのこすことの何ぞ少なき」
「さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ」

 言葉はあくまでもまっすぐで、文字が含む情緒は否応なく魂へ染み込んできます。
 最近読んだノーベル文学賞作家ヴィスワヴァ・シンボルスカ(ポーランド)氏の詩『終わりと始まり』を思い出しました。

「戦争が終わるたびに
 誰かが後片づけをしなければならない
 物事がひとりでに
 片づいてくれるわけではないのだから

 誰かが瓦礫を道端に
 押しやらなければならない
 死体をいっぱい積んだ
 荷車が通れるように」

 こうした表現者は、私たちの目には映っても心が見えないでいる、あるいは、心で感じてもそれとはっきり掴めないでいる真実を明らかにします。
 心の目を目覚めさせ、魂を真実と共鳴させる力には圧倒されます。

 河野裕子氏は湿潤な句を詠みました。

「ブラウスの中まで明るき初夏の陽にけぶれるごときわが乳房あり」
「まがなしくいのち二つとなりし身を泉のごとき夜の湯に浸す」
「しんしんとひとすぢ続く蝉のこゑ産みたる後の薄明に聴こゆ」
「われの血の重さかと抱きあげぬ暖かき息して眠りゐる子を」

 悶えつつ詠みました。

「君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る」

 慟哭もあります。

「病むまへの身体が欲しい雨あがりの土の匂ひしてゐた女のからだ」
「死んでゆく母に届かぬ何もできぬ蛇口の水に顔を洗ひ泣く」
「死ぬことが大きな仕事と言ひゐし母自分の死の中にひとり死にゆく」

 そして寂寥。

「振りむけばなくなりさうな追憶の ゆふやみに咲くいちめんの菜の花」
「さびしさよこの世のほかの世を知らず夜の駅舎に雪を見てをり」
「露地裏に夕顔咲かせて前(サキ)の世は小さな無口の婆さんであつた」

 また、寂寞。

「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏(くら)き器を近江と言へり」

 達観。

「もう一度生のあらぬを悲しまずやはらかに水の広がる河口まで来ぬ」

 ご冥福を祈ります。

〈一輪〉
2212122 0172_edited-1




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2010
11.25

墓地でゴザを広げる

 本堂でのご供養が始まる前、鹿児島県の大島から飛行機で遺骨を移されたHさんご一家が「電気を貸してください」と言われます。
 どうしたのかなと思いつつ、「そこですよ」と指さすと、しっかり者のお嫁さんが炊飯器らしきものを風呂敷包みからとり出され、一瞬みそ汁の芳香が漂いました。
 何か言われたものの、こちらも準備中のことゆえ内容はよく判りません。
 いずれ、故人へお供えするのだろうと思っていました。

 喪主となった奥さんは春先から当病平癒を祈願して健康をとり戻し、この日のために何度も打ち合わせを重ねました。
 おかげで、台風の合間をぬってはるか南からお移りいただいた御霊のご供養は、つつがなく終わりました。
 いよいよ納骨です。
 カロート壁に般若心経を刻み込んだお墓には、たくさんの写経と一緒に南の島の樹木から採った木の葉も納められました。
 徳利から年代物のお猪口に酒が注がれ、供えられました。
 幾種類もの花々が飾られました。
 かなり雲が厚くどんよりとしてはいたものの、予報に反して雨が降らず、静謐な空気の中ですべての修法が終わりました。
 空はやや明るくなったようです。

「ここで食事をしても良いでしょうか?」。
 奥さんの声にエッとあたりを見回すと、いつの間にかお墓の脇にはすでにコンパネが敷いてあります。
 シートも、畳んだテントらしきものも見えます。
 かねて石屋さんと相談しておられたのでしょう。
 故郷では、こうした時には一族揃って墓前でくつろぐ習わしがあるのだそうです。
 佳い香りを発していたみそ汁は、文字通り御霊と一緒にいただくものだったのです。
 
 いそいそと準備にとりかかった皆さんの顔には安堵と喜びがあります。
 残念ながら予定が詰まっており、せっかくのお誘いをお断りしてしまいましたが、御霊にもご参詣の方々にもゆっくりしていただきたいと願い、参道を広くとり、ゆったりしたレイアウトして良かった、「ああ喜んでおられる」とただただありがたく、涙の出るような思いで『法楽の苑』を後にしました。

 当山の墓地では、お天気の良い日にのんびり佇む方や、周囲の石へ腰かけておにぎりやお茶を楽しむ方の姿が見られます。
「ここは淋しくありません」と言われるたびに、理想が実現しつつある手応えを感じます。

 ※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。平成16年のものです。

〈笑顔で善男善女をお迎えする白い花
2212122 001




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.24

2010年12月の運勢

 平成22年12月の運勢(12月7日から1月5日まで)です。
 運気の流れを参考にして、人間修行六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

①今月は、頑迷固陋(ガンメイコロウ…意固地で道理に従わないこと)な者が大衆とぶつかり、頑なな心が周囲の力に圧せられる時期です。
 大衆が正しいとは限りませんが、まずは胸襟を開く姿勢が大切です。
 そもそも、百人いれば、それぞれが眼にしている世界は百通りと考えねばなりません。
 心の鏡に映る世界は心の数だけあるからです。
 そこで言葉が役に立ち、実りある合意を形成するためには、心の通じ合いが大前提となります。
 世間をよく眺め、自分の心を省みながらやりましょう。

②筋を通しながら相手の心や立場を思いやることで敵は味方に変わります。
 筋を通そうとすると、必ず誰かとぶつかりますが、それを避けて周囲に迎合してばかりいれば、一時は「良い人」と見られても、やがては「利用しやすい人」「頼りない人」などとなり、あげくのはては悪人にやられてしまう危険性もあります。
 勝海舟と西郷隆盛が江戸城の無血開城を実現したのは、異なった立場で主張を曲げずに進んだ者同士が、日本国のために、自分と相手の主張を斟酌し合ったからです。
 お互いを真に認め合えるためには、両方がしっかりしていなければなりません。

③困難に耐えることが隠れた力を育み、思わぬ時に陰徳が認められてものごとを前進させられます。
 能「鉢木(ハチノキ)」は、一夜の宿を借りた見知らぬ僧侶へ暖をとらせようと、丹精込めて育てた盆栽を切った貧乏な武士が、後に、前執権・北条時頼に取り立てられる物語です。
 善行も悪行も、み仏は必ず観ておられます。
 辛い状況でも試練と捉え、ますます人の道を考えつつやりましょう。

④出る杭は打たれ、頭を垂れる稲穂は人々へ福をもたらします。
 功を焦って目立とうとするのは危険です。
 粛々と役割を果たしつつ、何ごとも「おかげさま」という姿勢でいれば、「おかげさまで……」と喜ぶ人々によって支えられ、担ぎ上げられることでしょう。
 同じ行為が心がけ次第で天地ほど違う結果を生む場合もあります。

⑤何ごとも、最後の一歩をきちんと踏み終えるまで気を緩めぬようにしましょう。
「九仞(ジン)の功を一簣(キ)に虧(カ)く」という警句があります。
 仞は七~八尺、簣は土を運ぶ籠で、せっかく立派な山ができかかっていても、最後の一籠分の土がちゃんと盛られなければ完成しないという意味です。
 ホームランを打っても、途中のベースを飛ばしたり、ホームベースを踏まなかったりすれば、アウトになってしまいます。

⑥今月は、生育、布施、酒、雪、寒気、困難、悪人など、「水」から喚起されるイメージに留意して過ごしましょう。

 今月の六波羅密(ロッパラミツ)行です。
 それぞれのものを供え、誓うのは、自他の苦を除く菩薩(ボサツ)になる修行です。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は誇らず、驕らず、理のない攻撃を受けずに過ごせます。
 不精進の人は強気で上に立とうとし、思わぬ攻撃や災いに苦しみがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は先人の跡を尊び、信用を得て成功します。
 不精進の人は我流で行おうとし、受け継いだものを失いがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は労を厭わずに励み、高く評価されます。
 不精進の人は小さな徳行を誇り、慢心を利用されて陥れられ、失敗しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は自分から仕切ろうとせず、座は丸く収まります。
 不精進の人は頼まれもしないのに仕切ろうとし、反発を招いて孤立しがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は必用とされる場でお金を生かして使い、感謝されます。
 不精進の人は使うべきお金を出し惜しみ、信用を落としがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は名誉や栄誉を他へ譲り、かえって大きく認められます。
 不精進の人は自分を大きく見せようとして心根を見透かされ、軽蔑されがちです。

〈十三仏様ご守護の共同墓へ安心を求める方が増えています〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.23

12月の行事予定

 12月の行事予定です。

[第一例祭 2010/12/5(日)午前10:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。
 法話もあります。
 皆でうどんの昼食を食べましょう。

[写経会] 2010/12/5(土)午後2:00
「理趣経」の「百字偈」を書きます。
 仏教のめざすものは何か、菩薩とは何か、こうしたことが百の文字に納められています。

[講話「生活と仏法」] 2010/12/8(水)午前10:00
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

寺子屋法楽舘』] 2010/12/11(土)午後2:00
・場所 法楽寺講堂
・参加志納金 1000円(未成年者500円)
・申込方法:電話・ファクス・メールなど
・送迎車 午前9時30分「イズミティ21」より発車(要事前予約)
 今年最後の開講です。
 前回に引き続き、映画『釈迦』の後篇を観賞し、釈尊のご生涯を偲び、その教えの核心についてお話し申し上げます。
 質問の時間も用意しますので、どうぞ、メモを持っておでかけください。
 事前にご質問をおよせいただいても結構です。
 寺院は学びの場です。
 共に学びましょう。
 詳しくは「寺子屋法楽舘』だより」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-category-70.html)をご覧ください。

[第二例祭 2010/12/18(土)午後2:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

[講話「生活と仏法」] 2010/12/22(水)午前10:00
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

お焚きあげ] 2010/12/25(土)午前10:00
お不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。28日とは限りません。いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2010/12/27(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

[隠形流居合道場] 毎週金曜日午後7:00
仙台市青葉区旭ヶ丘「青年文化センター」にて「隠形流居合」の稽古を行っています。
入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

〈玄関での日向ぼっこ〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
11.23

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その9) ─学習と復習─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

9 学習復習

故(カルガユエ)に書(ショ)を読(ヨ)んで倦(ウ)むこと勿(ナカ)れ。
学文(ガクモン)に怠(オコタ)る時(トキ)勿(ナカ)れ。
眠(ネム)りを除(ノゾ)いて通夜(ヨモスガラ)誦(ジュ)せよ。
飢(ウ)えを忍(シノ)んで終日(ヒネモス)習(ナラ)え。
(シ)に会(ア)うと雖(イエド)も、学(マナ)ばずんば、
徒(イタズラ)に市人(イチビト)に向(ムカ)うが如(ゴト)し。
習(ナラ)い読(ヨ)むと雖(イエド)も、復(マタ)せざれば、
只(タダ)隣(トナリ)の財(ザイ)を計(カゾ)うるが如(ゴト)し。

 時は矢のように過ぎ、学ぶべき若い日々もまた、すぐに通り過ぎてしまうので、感受性豊かで心を自由に遊ばせられる時期を大切にして、たくさん読書しましょう。
 怠らず勉強しましょう。
 眠いからといって自分を甘やかさず、「ここまでやろう」と決めたなら、何時になってもやり抜きましょう。
 若い頃は、多少の寝不足など問題ではありません。
 ゲームなどでダラダラと時間を費やしただけの寝不足は人生の浪費ですが、勉強して活性化された脳は、一時的な寝不足など吹き飛ばす力をつけているものです。
 また、お腹がすいたからといって、すぐに、おいしい夜食に飛びつくと集中力や緊張感がなくなってだらけてしまいがちです。
 満腹の安心感から眠くなりもします。
 やり始めたなら、一気にやり抜きましょう。

 さて、せっかく導いてくれるにめぐり会っても、その人から学ぼうとしなければ、智慧や知識などを与えるではなく、それぞれ自分のことに勤しんでいる普通の人々との出会いと変わりありません。
 求めなければ得られないのです。
 これではもったいないですね。
 学ぶ意欲や感じとる心の新鮮さがあれば、人も本も風もネコも皆、魂の糧を与えてくれるになりますが、ボーッとしているだけでは、周囲の環境は無関係な景色でしかなく、魂は活き活きしません。
「この人は何か凄い。高い。接すると心の霧が晴れるようだ」
と感じたならば、どんどん質問し、どんどん吸収しましょう。
 そして、自分の知性と感性でそれをよくかみ砕いてみましょう。
 そもそも、「学ぶ」とは吸収すること、「習う」とは、復習し心の血肉にすることです。
 そうしないと、走っている乗り物の窓から漫然と景色を眺めているようなもので、せっかくの佳さがなかなか心に残りません。
 たとえ5分でも、心を澄ませながら歩いて眺めた風景は、長く印象をとどめるものです。
 せっかく教えてもらっても、復習しなければ「隣の人の財産をあれこれ勘定してみる」ように、実際の役に立ちません。

 ちなみに、孔子様は言われました。

「学(マナ)びて思(オモ)わざれば、すなわち罔(クラ)し。
 思(オモ)いて学(マナ)ばざれば、すなわち殆(アヤウ))し」

 学ぶのは、情報を取りこむことです。
 思うのは、道理に合わせ、感性もはたらかせながら考えてみることです。
 せっかくたくさんの情報を集めても、それを心で整理し、正邪善悪などの判断によって取捨選択しなければ情報は役に立たず、場合によっては混乱や失敗を招く原因にすらなりかねません。
 その反対に、あれこれ考えてばかりいて、良き情報や新たな情報を取りこむ姿勢がないと、独りよがりになったり、とり残されたりしかねません。
 現代人は「情報化社会」と言われるほど情報にあふれた環境に住んでいます。
「学ぶ」、「思う」両方のバランスをとってこそ、自分を向上させながら過たず人生を歩めるのではないでしょうか。

 を大切にして学習し、自分でよくよく復習しましょう。

〈水子地蔵様〉
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2010
11.22

【現代の偉人伝】第111話 ─いじめへ立ち向かう父親─

 北海道在住のAさんから便りが届いた。
 小学校3年生のB君がいじめられているという。
 
 Aさんはいつも、子供たちへ「人は正しく生きよう」と教えている。
 B君は、「フランス革命で、自由のために命がけで戦った」、「日本は法治国家で、消しゴムを盗むのは窃盗という罪だ」などの話に眼を輝かす。
 そんなB君がある日、クラスで水筒を奪うといういじめを目撃し、止めに入った。
 ところが、それ以来、B君はいじめる連中の標的にされてしまった。
 
 もちろん、Aさんは負けないようにと励ます。
 担任へも相談する。
 しかし、事態はなかなか改善しない。
 いじめる連中の親御さんが毅然と対応できないからだ。
 でも、Aさんは、息子を正しく生きる人間に育てようという教育方針を変えない。
 B君を励ます。
 そして、今月がB君の注意月なので、み仏のご加護を申し込まれた。

 注意月とは、一年に数度訪れる他動的災いのふりかかりやすい時期である。
 交通事故に遭ったり、仕事に妨害が入ったりしやすいので、三宝(仏法僧)を大切にする敬虔な気持を忘れず、敵へも味方へも学ぶ柔軟な思考をもって過ごす必用がある。
 強風にも倒れない秋桜のような芯の強さが求められる。
 自力を強め、周囲の縁を生かすと共に、その月を守ってくださる守本尊様のご供養を行うことが望ましい。

 もはや、「いじめ」は巨大な悪しき共業(グウゴウ…社会的な業)となっている。
 無慈悲さという悪魔は深く、広く蔓延し、打ち倒す特効薬はない。
 加害者は暗い悦びを育て、良心の疼きを無視する悪しき英雄気取りに慣れ、卑劣さで自他の人生に墨を塗る。
 被害者は人と社会への不信感を育て、曲がった反発心が暴発の時を秘かに待ったりもして、いつ加害者に変身しないとも限らない。
 悪魔と戦う有効な方法は一つしかない。
 自分の子供や周囲の子供たちが卑劣な心を育てないように導き、修行によって自分の心中にいる悪魔を克服することである。
 運動不足だから、高血圧だから、糖尿病だからと身体を健全に保つための散歩やジョギングに励む人々はたくさんいても、心を健全に保つためのトレーニングを行っている話があまり耳に入らないのは訝しい。

 Aさんは、円満な心をつくるカギが「優しさ、厳しさ、正しさ、優雅さ、尊さ」のバランスであることを知っている。
 自他を幸せな方向へ導く修行方法が「水を捧げては布施、花を捧げては忍耐、線香を捧げては精進、灯明を捧げては智慧、食べものを捧げては感謝、塗香を塗っては持戒」を誓うことであると知り、実践している。
 そして、み仏のご加護を求めている。
 Aさんも、B君も、必ずや救われるに違いない。
 こうした〈成功例〉が増えれば、悪魔は住処を失う。
 悪しき共業は、良き不共業(フグウゴウ…個人的な業)が集まれば克服できる。
 全国のAさんやB君のために祈りたい。

※特定の方に起こった特定のできごとであると判らぬよう、内容を変えるなど細心の注意をはらって文章化しており、決してプライバシーの侵害はいたしませんので、ご安心ください。

〈群雲に負けぬ清涼光〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.21

御幕ができました

 脱檀家宣言に伴い当山にご縁の方々は日々、増え、そして団結心を強めておられます。
 結成した「ゆかり人の会」は、お不動様のご縁日を期して御幕を寄進されました。
 おかげさまで、内陣と外陣がはっきりしました。

 五色の紐はお大師様と皆さんをつなぐ法縁の紐です。
 どうぞ、金剛の紐を手にして「南無大師遍照金剛」とお唱えください。
 必ずや、法縁は金剛のように堅固になることでしょう。

 この御幕と紐が完成して最初の個人的ご祈祷を受けた仙北在住のAさんご夫婦は、不思議な体験をされました。
 修法に入って間もなく、大日如来様のお顔が恐ろしい形相に変わり、掌に汗が滲んだそうです。
 最後はとてもお優しく見えただけに、「あれは何だったのでしょう?」と不思議そうです。
 それは、厄除と安全祈願を行う際にお不動様の法を結んだので、悪しきものをうち祓う気配が出たものと思われます。
 お不動様も、お大師様も、無限の力を持つ大日如来の表れとして私たちのそばへ来られます。
 信じて祈れば必ず通じます。

 これからも、ご縁の善男善女と一緒に真の法務、真の布施、真の檀信徒のありようを考え、〈本もの〉を求めて行きます。
ゆかり人の会」の皆さん、まことにありがとうございました。

〈雰囲気が変わりました〉

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
11.21

そよ風

 風の強い午後、遅い昼食が終わる頃、本堂前に人の気配がしました。
「こんにちわ!」
 あのはりきった声は駐在所のお巡りさんです。
 何があったのかと奥の部屋から走り出ると、彼はもう帰り足です。
 事件ではありません。
「はーい!」
 振り向いた顔には、はたして満面の笑み。
銀杏を拾って良いですか?」
 寺門付近には25~26歳の夫婦らしい二人連れがいます。
「さっき、交番へこの方々が訪れて、法楽寺の入り口から参道にかけて銀杏がたくさん落ちているので拾いたいのだがどうしたものでしょうかと訊ねられました。
 それで、『よし、一緒に行ってあげましょう』となりました。
 許可していただけるでしょうか?」

 これにはちょっと驚きました。
 毎年毎年、境内入り口近くに立っている銀杏の木は信じられないほどいっぱい銀杏を落とすので、今日のように風の強い日やその翌日はビニール袋などを手にした善男善女が腰をかがめている姿がよく見られます。
 しかし、未だかつて事前に許可を求めた方は一人もおられません。
 それどころか、黙って拾っているのが恥ずかしいのか、こちらの姿を眼にしても挨拶すらしない方もおられます。
 今の世相からすればこんなものだろうと諦めていたので、目立たぬ服装で遠慮がちにたたずんでいる若夫婦は宝もののように思えました。

 もちろんいくらでも拾ってくださいと返事をし、ここは良いお寺さんですよなどと話しておられるお巡りさんにも声をかけて、すぐに踵を返しまし た。
 肝心なところがすうっと通ればそれで一件落着。
 どこから来たのかとか、何をしている人なのかなどとあまり相手の詮索をしないのが当山流です。
 法務も待っています。
 良い香りは嗅ぎ尽くそうとせず後に残してその場を去れば余韻が長く、続く時間に清涼な〈そよ風〉が伴うものです。
 反対に、悪い香りや後に残してはならぬ思いなどは徹底的に浄め尽くすことにしています。
 嬉しい〈そよ風〉は、寝るまで続きました。

 このできごとが起こったのは以前の本堂があった場所で、参道の入り口に大きなイチョウの木がそびえ立っていたのです。
 根元あたり豪華なヤマユリが咲く老木は今でも残っていますが、なぜか年々、銀杏が小さくなり、拾う人の姿も減りました。
 しかし、記憶は、ちっとも色あせません。
 ただ、ゆっくり思い出してみると、あまりの〈現実離れ〉ぶりに、かと思えてきます。
 ──とても残念なのですが……。
 
 ※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りから行者高橋里佳さんがピックアップし、加筆修正の上、再掲しています。平成16年のものです。

〈現在の境内地に植えていただいたイチョウ
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2010
11.20

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その8) ─後悔先に立たず─

 かつては寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

8 後悔先に立たず

四大(シダイ)、日々(ヒビ)に衰(オトロ)え、
心神(シンシン)、夜々(ヤヤ)に暗(クラ)し。
幼(イトケナ)き時(トキ)、勤(ツト)め学(マナ)ばずんば、
(オ)いて後(ノチ)、恨(ウラ)み悔(ク)ゆると雖(イエド)も、
尚(ナオ)所益(ショエキ)有(ア)ること無(ナ)し。
故(カルガユエ)に書(ショ)を読(ヨ)んで倦(ウ)むこと勿(ナカ)れ。
学文(ガクモン)に怠(オコタ)る時(トキ)勿(ナカ)れ。

 四大とは、地・水・火・風を指します。
 その徳により私たちの身体は固い骨格、流れる血液、ほどよい体温、続く呼吸が保たれて生きています。
 しかし、年齢を重ねると共に、いずれのはたらきも衰えます。
 いるのです。
 同時に、根気が続かなくなり、気力もだんだん弱くなります。
 こうして年をとってから「あの頃、もっと勉強しておけば良かった」と後悔しても、時間は逆戻りできません。
 過去についてあれこれ愚癡を言っても役に立ちません。
 だから、本を読み、基礎的な勉強をすべき時期には、嫌がらず、飽きず、怠らず、しっかり勉強しておくことです。

 子供の頃は、お年寄りの体調や気持はなかなかわからないものです。
 成長過程にあって、「いた自分」をなかなか創造できないのは当然です。
 だから、お年寄りは自分のありのままを見せて、
「年をとると、あれをしておけば良かった……、これをしておかなかったばっかりに……、といろいろ後悔する。
 こういう風に弱くなってからでは、もう、間に合わない。
 元気なうちにしっかり学び、身体の成長と一緒に心も成長させておかないと、まっとうな大人になれないよ
と諭す必用があります。
 それが、〈やりたいこと〉と〈やらねばならないこと〉のバランスのとり方を考えさせ、耐えて結果を出す喜びを覚えさせる指導にも結びつきます。

 人生の成功者となった有名人は、多くの場合、「やりたいことを貫いた」と言いがちです。
 もちろん、その道のりが桁外れの忍耐と共にあったことも話すのですが、一つまちがうと、子供たちに「自分の好きなことをやれば良いんだ」との偏ったイメージを与えてしまいます。
 ほとんどの人々は、悪事を少なく、良いことを多く行おうとしつつ、ほどほどの人生を歩みます。
 歩みが大きく人の道からそれないために必用なのが基礎的学力であり、基礎的素養です。
 それは、与えられ、指導され、習慣づけられてこそ、身につきます。
 たとえあまりやりたくない勉強でも、やるべき時期にやっておいた場合と、精進せず、我欲や自己中心の気持ばかりを育ててしまった場合とでは、天と地の違いになることを知っている大人は、しっかり導かねばなりません。

 あとから後悔するのは、本人ばかりではなく、育てた大人も同じであることを肝に銘じておきたいものです。

〈寒気の中でも粛々と続く営み〉
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2010
11.19

人生相談・就職難・守本尊(その2)

 人生相談にご来山される方々には何よりもまず、心を開き、〈思い〉を吐き出していただきます。
 そして、場合によっては、自分をあまり責めないことをお勧めします。
 因果応報である限り、自分の運命についての責任が第一義的に、自分にあるのは確かです。
 しかし、私たちが日々つくり、積み上げつつある(ゴウ)には共業(グウゴウ)と不共業(フグウゴウ)があります。
 共業とは社会的因縁がもたらすものであり、不共業とは個人的因縁がもたらすものです。
 考えてみてもください。
 大卒者の半分、短大卒者の5人に1人、高卒者の10人に7人、中卒者の5人に2人しか就職できません。
 しかもそれは職種を選ばず、どれかに就いた場合のことです。
 本当に自分のやりたい道へ進める人の割合がどうなるか、考えるだに恐ろしい時代になりました。
 そうした中で、もしも職が見つからないならば、原因の7割は国がつくった共業によるのであって、個人的な不共業の関与はせいぜいが3割と考えるのが妥当ではないでしょうか。
 もはや個人的努力だけで全員が突破できるレベルの苦境ではありません。
 安保闘争を知っている私には、「職よこせデモ」が国会を取り巻かないのが不思議です。
 だから、自分をあまり責めないでいただきたいのです。

 心が落ちつけば、いよいよ守本尊様です。
 守本尊様の慈眼と救いの手はいかなる時でも決して離れません。
 これは自分の体験上、どなたへもはっきりと眼を直視して断言できる真実です。
 だから、その方その状況や運勢などに応じて、み仏の教えをお伝えし、守本尊様のお話を申し上げ、真言の唱え方や心構えなどをお伝えし、申し出があれば修法を行います。

 やっと就職できた大卒2年目のBさんは言いました。
「もう、いつでも真言が頭に浮かぶようになりました。
 職安でプライドをズタズタにされても、同期の仲間に引け目を感じても、親の心配への思いに押しつぶされそうになっても、へこたれなかったのは真言によって、いつでも静かな所へ戻れたからです。
 今は、揺るがない静かな心ができたのは挫折のおかげだとすら思えます。

 奥さんがガンで腸、そして胃を失っても笑顔で生き、ご自身もまた難病を患ってなお、二人暮らしをしておられるCさんは言いました。
「もう80歳を超えましたが、自分の足腰で立って生きる気力は失っていません。
 それでも、夜半、目が覚めて隣で寝息を立てている妻を見ると、不安の黒雲が起こって眠れなくなる時があります。
 すぐに仏壇へ向かい、守本尊様の真言を唱えてご加護に入り、般若心経一巻を唱え終わる頃には、黒雲は嘘のようになくなっています。
 そして安眠が取り戻せます。
 だんだん『理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)』へ挑戦する予定です。
 息子も、娘も、守本尊様のおかげさまで災厄に負けず生きています」

 当山は、社会のもたらす共業に負けぬよう、自分自身のつくる不共業に負けぬよう、運命を切り拓けるよう守本尊様の教えをお伝えして行きます。
 本尊大日如来様の後の檀には、すべての守本尊様が秘仏としてお守りくださっています。
 皆さんがご参詣される本堂では、善男善女からご寄進いただいたすべての守本尊様が見守ってくださっています。
 悩み、苦しむ方は、ご遠慮なく人生相談へおでかけください。
(当山は、ご本尊様の前で袈裟衣を着け、ご本尊様と一体になる法を結ばないかぎりご相談へ応じておりません。
 それは、いかなる内容であっても皆さんそれぞれの人生がかかった問題であり、雑談で応じることはできないからです。
 人生相談も修法も、医師が診察室で治療を行うのと同じだからです。
 大事をご本尊様へ告げようとされる方は、必ず日時をお約束の上、ご来山されるようお願いします)

〈例祭や正月祈祷やお盆供養会などで皆さんにお詣りしていただく今年の守本尊虚空蔵菩薩様〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
11.18

人生相談・就職難・守本尊(その1)

 最近、人生相談にも、ご祈祷にも「就職」に関するものがとても多くなりました。
 就職希望者本人も親御さんなどご家族も心配し、苦しむ姿には、耐えられないような切なさ、傷ましさに襲われます。
 そして、まじめな方々ほど、自分自身のせいであると自分を責め、あるいは周囲の方が自分の悪因縁のせいではないかと苦しんでおられ、中には、おかしな占い師やカウンセラーによって荒唐無稽な〈原因〉を断定され、苦しみを増す方も少なくはありません。
 いわく、過去の因縁、先祖の祟り、生霊の呪い、悪霊の憑依などなど、おどろおどろしく禍々(マガマガ)しい脅しには頽廃の影が色濃く貼りついています。

 さて、お聞きしていて心配なのは、失敗体験の重なりがもたらす悪影響です。
 きちんと学び、単位も取得し、進路も思い定めて入社試験に向かって失敗した大卒のAさんは、たった一回の挫折で自分と自分の将来へのイメージが揺らいだそうです。
 何度かのくり返しは不安を募らせ、「未来がぼんやりしてきた」と言います。
 そして、何よりも深刻なのは、チャレンジする心身の足がすくんでしまったことです。

 托鉢行からこの道を始めた私には〈すくむ〉恐ろしさ、情けなさ、哀しさ、心に氷塊ができたような不安、そして、周囲の人々の言葉や態度への反発や嫌悪、あるいは逃げ出したくなる気持などが手に取るようにわかります。
 一軒、一軒とチャイムを鳴らして修行に訪れたことを告げ、玄関先での読経を申し込みますが、10軒、20軒と連続で断られることも珍しくはありません。
 そうした場合、だんだん、足が重くなり、やめてしまいたくなります。
 歩く予定の地域へ車で到着し、やっと駐車する場所を見つけたものの、「今日も断られるのではないだろうか」との不安にすっかり襟首をつかまれ、車から降りられなくなった体験も一度や二度ではありません。
 こうした〈すくみ〉の克服は並大抵のものでなく、托鉢行をやり通せれば、たいていのことには動じなくなるという気がしています。
 幾度となくチャレンジしておられる方々の心を思うと、当時の気持がよみがえり、皆さんの切なさに涙してしまいます。

 私の場合は、とっくにプライドが打ち砕かれてはいても、やはり、やらねば行者として失格であり、道場の経費を払い自分も家族も生きるためには歯を食いしばってやるしか道はないので、どうにかこうにか、やり通せました。
 そこで心の柱となり、力が出ずよろけそうになる身体の杖ともなったのが守本尊様の真言でした。
 何度、「もう、これまでか」と思ったかわかりません。
 しかし、落ちつくため、気力を回復するため、泣きたくなる思いを解くため、生来弱い胃腸を支えるため、怒りを鎮めるため、どんな場合でも守本尊様は確かなご加護をくださり、窮乏も、未熟さも、不調も、乗りこえてここまで来られました。
 守本尊様のご加護がなければとっくの昔に崩れていたはずです。

 だから、日々、皆さんにも、守本尊様がお守りくださっている真実に気づいていただきたいと願っています。

〈年月を経たもの〉

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.18

十力 (12) ─漏尽智力(ロジンチリキ)について─

 これまで、み仏が備えておられるお智慧の力「十力」のうち、9つまでを学んできました。
 虚空蔵菩薩様が司る是非・善悪・虚実などを見極める力など「十力」の最後は、あらゆるみ仏の総体である金剛界大日如来様のお力、尽智力(ロジンチリキ)です。

「深法(ジンポウ)に自在なるがゆえに、一切の衆生(シュジョウ)の心行(シンギョウ)と趣く所を知るがゆえに、無礙智(ムゲチ)を具足(グソク)する力」

(深い真理を知り、自在に用いることができる。
 人々の思考と行動が因縁によっていかに動くかを知っている。
 それゆえ、み仏は、あらゆる問題を解決するために智慧の力を縦横無尽にはたらかせる)
 
」は「ウロウロ(有)する」の「」であり、「れるもの」です。
 それは煩悩であり、煩悩が尽き果てた境地を悟り、そこへ行く方法を知っているのがこの智慧です。

 ところで、煩悩が漏れるとはいかなる状態でしょうか。
 それは、〈貪り〉や〈怒り〉や〈愚かさ〉が、身体のはたらきにも、言葉のはたらきにも、心のはたらきにも、否応なく滲み出るといったイメージです。
 こうした汚らわしさがなくなった「漏尽」の状態は、一見、欲がないのと同じように思われ、欲がなくなれば悟りであるという解説書もあります。
 では、高齢になったり、重篤な病気になったりして何をする意欲も出ず、もう「財も名誉もいらないよ。どうせあの世まで持ってゆけないのだから」といった心境になれば、大日如来のように悟ったと言えるのでしょうか。
 明らかに違います。
 身体や言葉や心のはたらきに汚れがなくなり、それらの持つ本来の力が活き活きと充分に発揮されている状態こそが理想であり、悟った聖者が救済者となる理はここにあります。
 私たちは〈意欲のない救済者〉がイメージできましょうか?

 この世には、大地の堅固な徳も、水の潤す徳も、火の暖める徳も、風の吹き払う徳も、それらを妨げない虚空の徳も充ち満ちており、それを感じ取る私たちの精神の徳も、それらと絶妙にあいまっています。
 この真実こそが、〈如来の身体〉に汚れのない状態です。
 ありとあらゆるものは、心の耳を澄ませる者へ教えや真理を語りかけ、聴く者は無意識の裡にそれを言葉として受けとめます。
 姿も、音も、香りも、味も、すべてが教えを含んでおり、救いとなる可能性をもっています。
 この真実こそが、〈如来の言葉〉に汚れのない状態です。
 この世は、すべてのもののバランスが完全であり、しかも、常に変化してはたらきは止みません。
 空を舞う鳥は羽を主とした身体自体のバランスと、流れる風とのバランスに恵まれて自由に滑空し、草原を疾駆するチーターも、うねる親潮を庭とするカツオもそれぞれが完璧な存在として生き、それらの集合体である地球そのものが太陽の恵みを受けた一つの生命体として生きています。
 この真実こそが、〈如来の心〉に汚れのない状態です。

 こうした真実の総体を大日如来とお呼びし、大日如来と一体になるために、行者は身体と言葉を心を用いて即身成仏(ソクシンジョウブツ)の修行を行います。
 その法を完成されたお大師様は、きっと生きた大日如来でおられたことでしょう。
 大日如来を示す「遍照金剛」という灌頂名(カンジョウメイ…正統な継承者であることを認めれた時に決まる名前)を授かったのが証拠です。
「すべてを遍く照らす不動で最高の者」
 まことに、法力によって天皇の前で大日如来のお姿となられたお大師様にふさわしい名前です。
 私たちは「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」と唱えればお大師様につながり、大日如来の徳に浴することができるのです。
 み仏の「十力」は、智慧の極みとも言うべき大日如来の漏尽智力をもって完結します。

〈宇宙の根本仏大日如来〉
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2010
11.17

『「脳」を変える「心」』を読む(2)

 平成16年10月、チベット亡命政権があるインドのダラムサラにおいて、世界の脳神経科学者たちとダライ・ラマ法王との1週間にわたる対話が行われました。
 主催は「と生命研究所」、テーマは「神経可塑性─の変化しうる能力」です。
「神経科学では100年もの間、は子供のうちに形成され、以降は構造が変化することはないという考え方が定説になっていた」が、今や「が生涯自らを再形成し続けるさまざまな方法を研究することが、神経科学の活気ある一分野をなすまでに」なりました。

 この集いで、法王は問いかけました。

を変化させることができるだろうか?」

 法王はこれまでも多くの研究者へ同じ問いを投げかけましたが、これまでは、いつも同じ答が返ってきました。

を生み、形成しているのであり、その逆は起こらない」

 しかし、この集会で報告されたデータは「原因と結果に双方向の関係が存在し、系統的な精神活動が脳の構造そのものに変化をもたらす可能性があることを示唆」していました。

 長い間、「脳は成長期を終えると同時に自らの構造と機能を根本的に変える力─神経可塑性(カソセイ)を失う」と考えられてきたので、これは画期的なできごとです。
 生き方は脳に支配されるだけでなく、生き方が脳を変え、思考も、言葉も、行動も、変わり得るというのです。
 たとえば、バイオリニストが演奏の流れをイメージするだけで脳の運動野に物理的変化が起きるのも、うつ病の患者が絶望的な考えを持った場合、そのとらえ方を変えれば、今まではたらいていた領域とは別の脳の領域がはたらくようになって症状が改善されるのも、〈変われる〉証拠です。
 私たち行者にとって当然の真実が、やっと科学者に認められ、これまで科学真理とされているものを変えようとしています。
 何という画期的なできごとでしょうか!


 アラン・ウォレス博士は重要な説明を行っています。

科学にとって真理とは、つねに次の実験によって反証にさらされる運命にある仮のものだ。
 仏教においても、少なくともダライ・ラマは、たとえ核となる重要な教えであろうと、科学によって誤りと証明されれば覆されるであろうし、また、そうでなければならないと考えている。
 おそらく仏教の修行が真実真理の探究を、内に向けてだけでなく、外に向けても行うことが大きくかかわっているのだろう」

 仏教は「イワシの頭も信から」といったものではありません。
 真理とされている教えは、行者の理性と感性によってチェックされます。
 そして、道理であると理解されれば信念になります。
 また、目的とする方向へ行くための修行方法は実践され、結果が確認されて確信となります。
 こうした信念と確信があってこそ、真の信仰となり、真の宗教となります。
 道理を重んずる宗教である仏教には「これだけが絶対である」「これだけを信じよ」といった教条主義や排他主義はありません。

 真理は普遍でも、諸行無常であり、人間もまた、変化し続けています。
 真理とはあくまでも人間にとっての真理である以上、とらえられ方や、活かされ方が常に研究され、発展し続けるのは当然ではないでしょうか。
 
 いつの世も、真の仏教徒はこうした姿勢で真理を求め続けてきました。
 その典型が法王です。
 修行の目的が、自他が幸せに正しく生きるためであるならば、方法は「理にかなった主張や経験実利に従う」べきであり、こうした意味で宗教と科学は親密な兄弟でなければなりません。
 普遍的真理に立脚する仏教が科学と矛盾するはずはなく、ホセ・イグナシオ・カベソン博士は、「仏教と科学は、人と万物の発達を支配する自然法が存在するという同じ見解を持っている」と述べました。

 仏教は創造神を想定しません。
 だから、科学で説明がつかないことまでも主張する必用はないのです。
 僧侶の経験があるカベソン博士は、真の行者の姿を適切に表現しました。

「普遍的な法則の存在を慎重に、批判的に検討し、独断的になることなく立証しようと励んでいる」

 その通りと言うのみです。
 ケンブリッジ大学で博士となったトゥプテン・ジンパの報告は力強いものです。

ダライ・ラマ猊下は現在の支配的な世界観は科学的世界観であると考え、科学と交流することで仏教を成長させ、発達させていきたいと願っていらっしゃいます」

 最後に法王の言葉を記しておきます。

「厳密に言えば、仏教には、論理と経験にもとづく理解より経典の権威の方が重要だということはありえません」

 至言です。
 仏教は変化する万物、変化する人間、変化するへ不変の真理をもって柔軟に対応します。
 仏教が一個人の予言や一冊の経典の内容を〈唯一絶対の真理〉とすることはありません。
 仏教は永遠の実践と検証を伴う〈道理の宗教〉なのです。

〈真理をめざして〉
2211062 013




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2010
11.16

寺子屋『法楽舘』 ─第十二回を終えました─

 11月13日の寺子屋では、大映映画『釈迦』の一部を観賞し、釈尊の出家などについて参加者の方々と語り合いました。
 昭和36年の作品なので、もう、半世紀も前の大〈スペクタクル〉作品です。
 釈尊に扮したのは本郷功次郎で、悟るまでは姿を見せ、成道後は影としてしか表現されていなかったのは秀逸です。
 ただし、やはり娯楽映画としてのサービスも行き届いており、「大日如来様のすぐそばで上映されるのには、少し、違和感を感じました」とのご意見もいただきました。
 いずれにせよ、12月11日には後篇も観ながら勉強する予定です。

 さて、釈尊の出家から成道までについて学んだポイントは以下のとおりです。

○天上天下(テンジョウテンゲ)唯我独尊(ユイガドクソン)のこと
「天上天下、唯(タダ)我のみ尊しと為す。三界(サンガイ)は皆、苦なり。我(ワレ)当(マサ)に之(コレ)を安んずべし」
(世界中にあって、悟りを求め悟りを得ようとする者のみが真に尊いのである。いかなる生存も皆、苦である。私は、苦しみにある者たちすべてに安心を与えよう)

 お生まれになった釈尊が7歩歩き、「天上天下(テンジョウテンゲ)唯我独尊(ユイガドクソン)」と語ったとされる故事はあまりに有名ですが、冒頭に挙げたところまで一緒に考えないと、解釈を誤ります。
 釈尊は、「自分だけが偉い」と言われたのではなく、「人はだれしも、それぞれかけがえのないものだ」と説かれたのでもなく、「悟りを開き、あまねく人々を救う仏陀こそが最も尊い存在であり、自分は仏陀となるべき運命を背負って生まれたのである」と宣言されたのです。

〈日本映画が全盛時代へ向かう頃の作品です〉
22116.jpg

四門出遊(シモンシュツユウ)のこと 
 虫をついばむ小鳥、その小鳥を狙う鷹を見て、いのちのありさまを直視されました。
 東の門で老人、南の門で病人、西の門で死人、北の門で行者を見たて、苦に耐えられなくなり、克服を決心されました。
 人間の現実から眼を背けたままの歓楽や饗宴は虚しく、激しい嫌悪と悟りへの渇望が出家を実行させました。

○農夫の歌とスジャータのこと
 難行苦行によって真理はつかめず、迷い、苦しんでいた時に農民の歌を聞き、苦行と放逸の両極端では悟りを開けないと気づき、心身をゆったりと調えた上での求道に切り換えられました。
「琵琶の絃(イト) きりり締めれば ぷつり切れ さりとて弛(ユル)めりゃ べろんべろん」
(緊張の極限まで自分を追いつめる苦行は琵琶の糸を締めすぎるようなものであり、いつか切れる運命にある。
 自分を甘やかす放逸は琵琶の糸を締めないようなものであり、役に立たない。
 ほどの良さが琵琶に本来の佳い音色を奏でさせるように、人間もまた、心身がゆったりした状態で探求心を深めれば真理がつかめる。
 極端に走らない中道こそが、歩むべき道である)

 そして、村娘スジャータが捧げる甘露(カンロ)によって、悟りへの態勢が調いました。
 甘露はソーマ酒(アミリタ)であり、天人たちが摂る不老不死(生死を超越した境地)の霊薬とされています。
「甘露(カンロ)の法雨」、「甘露の門」という言葉があり、阿弥陀如来の真言は「おん あみりたていせい から うん」(帰命したてまつる、甘露の威光ある尊よ、導きたまえ)です。

 余談ですが、釈尊の物語には、悪妻として同じスジャータの名前が登場します。
 釈尊は嫁の種類を挙げ、「お前は自分でどのタイプに該当すると思うか」と諭されました。

一 人殺しのような嫁
 心が穢れ、夫を敬愛せず、他の男へ心を移す。
二 盗人のような嫁
 夫の仕事を理解せず、自分の虚栄心と食欲などを満足させようと収入を浪費する。
三 主人のような嫁
 家事家政に怠惰で、自分の食欲などを満足させようと夫を荒々しく叱咤する。
四 母のような嫁
 細やかな心づかいで夫を助け、守り、収入を大切にする。
五 妹のような嫁
 情愛で夫へ接し、自分への慚愧(ザンキ)の念を忘れない。
六 友人のような嫁
 旧友に会った時のような嬉しさで夫へ接し、まことがあり、しとやかで、夫を敬う。
七 女中のような嫁
 奉仕の心で夫へ接し、敬い、耐え、怨まず、夫を立てる。

 参加者の方々は女性が多く、「一つだけでなく、いろんな面を持っているよね」などと語り合っておられました。
 12月11日(土)は『釈迦』の後篇を参考にして、釈尊のご活躍についてお話し申し上げる予定です。
 どうぞ、ふるってご参加ください。

〈和やかで真剣な対話〉
22114 012




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
11.16

11月の俳句 (2)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った11月俳句です。

天高く黙礼で過ぐ知らぬ人

 作者は秋晴れの公園にでもいたのだろうか。
 高い天を見上げている目線を横切る人がいる。
 やや斜めにこちらへ向けた顔を小さく傾け、遠慮がちに行き過ぎる。
黙礼」は、久々に眼にした。
 他人様の目線を遮ることを無礼と感ずる心は、ほとんど失われている……。

入浴車止まる小門に花八手

 腕を動かせない作者は入浴車を頼んだ。
 約束の時間がきて、さして大きくない家の門の前に止まる。
 玄関から迎えに出るのは自分だけだが、門の内側にある八つ手も、いっぱいの白い小花で来訪者を歓迎する。
 ここにも、「黙礼」と同じく、挨拶のゆかしい気配がある。

近道は落葉の褥(シトネ)踏みてかな

 近道をしようと樹の繁る小径を通ったら、敷きつめたかのように落葉が折り重なっている。
 落葉は一歩一歩を柔らかく受け止め、足取りが楽しい。
 古来、落葉は動物や人間の寝床になった。
 大映映画『釈迦』では、修行中の釈尊が落葉を敷いた石に座っておられる。

姿なき木犀匂ふ垣根ごし

 木犀の香りは濃く、特に風のない夜は周囲を圧する。
 夜目には垣根しか見えなくとも、香りがあれば木の存在は確かである。
 花言葉「初恋」「陶酔」と並んで、「謙遜」があるのはおもしろい。
 ──控えているからなのか。
 それにしては主張が強過ぎはしないか……。

一人には一人生活つぼに菊

 独り住まいには独り住まいの流儀がある。
 菊の花を思い通りに活けて「これで良し!」と生きる流儀を確認し、同時に強い気持をも再確認しておられるのではなかろうか。
 作者のお人柄を知っているだけに、その潔い姿勢がはっきりと感じられる一句である。

〈金木犀。画像は、http://pds.exblog.jp/pds/1/201010/08/12/f0221612_9555218.jpgをお借りして加工しました〉

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2010
11.15

11月の俳句 (1)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った11月俳句です。
 骨折をきっかけになかなか詠めなかった鈴木妙朋さんが、ついに復活されました。
 嬉しくてなりません。
 待っておられたファンの方々も、さぞかし安心されたことでしょう。
 ようやく作ってみたので半分だけ選んで欲しいということでしたが、もちろん全作品をご紹介します。

ヘリコプター消え鱗雲の広ごれり

 秋の空高くヘリコプターが飛んで行った。あとには、ただ、鱗雲がつながり広がっているだけである。
 凝然と眺めていると、さっき、爆音を鳴らす機械が見上げる位置を横切ったことが本当だったかどうか疑わしくなる。
 密集する鰯雲の存在感が際だつ。

紅葉の句余白に添へて友へ文

 手紙をもらうのはいつも嬉しいが、俳句が含まれている手紙は特に味わい深い。
 作者は何ヶ月も俳句を詠めない状態が続いたので、余白に「添へ」ることができるのはどんなに心を浮き立たせることか…。
 読んでくれる相手の気持への想像も詠み込まれている。

老後の老後託す一室秋灯濃し

 作者は独り住まい。
 共同生活を離れて一匹のネコと暮らす。
 時折、風邪をひいたり転んだりすると強く老いを感じる。
 しかし、生活上の不安を乗りこえつつ、心を自由に保つ生き方を選び、がんばっている。
 秋は深まり、窓外の闇も深まって灯火が際立つ。

養身の窓の借景秋深し

 いつも季節を意識し、暮らし方を四季の廻りに合わせてきた作者は、骨折の影響で、ほとんど外出できないでいる。
 秋の風も紅葉の揺らぎも、焼き芋の香りも窓を通して感じるばかりである。
 それにしても、作者の心の受信機はちっとも錆びついてはおらず、嬉しい。

街路樹の大ゆれ小ゆれ冬近し

 街路樹が大きく、小さく揺れ、風が見えるようだ。
 すうっと寒さを感じる。
 風に伴う寒さが室内へ染み込んできたらしい。
 もう、冬は近い。
 それにしても街路樹は強い。
 枝が翻弄され、盛んに茂らせていた葉が次々と吹き飛ばされても、微動だにしない。

〈雲間から漏れた薄い朝陽を浴びる笹倉山
22114 006




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2010
11.14

釈尊の布施 ─無限向上心─(その2)

釈尊布施 ─無限向上心─」を読んだAさんからご意見をいただきました。
「この教えは、住職になった人にも通じるのではないでしょうか?
 檀家が集まる時にはなにか説法をしたらどうですかと水を向けても、『仏教は難しいから、皆さんには理解できないでしょう』などと答えられると首をかしげてしまいます。
 檀家としては、国分町やゴルフ場へ足繁く通うヒマがあったら6番目をやって欲しいのですが……」

 こんな厳しいご意見をいただくと、身の引き締まる思いがします。
 釈尊の説かれた「仏陀(悟りを開いた人)の精進」を再掲して、もう一度、考えてみましょう。

1 布施
 他のために施す行に終わりはない。
2 教誨(キョウカイ)
 弟子の指導に終わりはない。
3 忍辱(ニンニク)
 耐えてことを為す行に終わりはない
4 説法
 信者へ法を説くのに終わりはない。
5 衆生の愛護
 生きとし生けるものを救うのに終わりはない。
6 無上正真の法の探求
 最高の真理を求める行に終わりはない。

 もちろん、住職になったからといって仏陀になったわけではなく、仏陀をめざす行者の一人に過ぎません。
 だから、この教えをそのまま受ける資格があるわけではありませんが、弟子たちとご縁の方々が迷いを解くお手伝いをする立場では、当然、参考にすべきです。

1 布施
 求めに応じて行者が法を結ぶのは、法による施しである法施(ホウセ)です。
 そして法施が布施である以上、まず、対価をいただき、それに見合ったものを行うのではありません。
 代金を受け取って何かを渡すのは娑婆の〈取引〉であり、宗教行為とは無関係です。
 対価としてのお布施がいくらいただけようと、まず、相手にとって必用な法を結び、ご本尊様へいただくお布施は多寡内容にかかわらず感謝して受け取るのが当然です。
 こうした真の法施と財施(いわゆるお布施を渡すこと)の関係からすれば、イオンの行っている「戒名の長さなどによって異なる料金体系」に合わせて僧侶が修法を行い〈料金を受け取る取引方法〉は、取引の論理で宗教行為を律しようとするものであり、本質からずれていると言わざるを得ません。
 娑婆の方々が、行者から受ける非日常的な法施の意味と価値を自分自身で考え判断し、不明な点は質問して納得し、心から自主的にお布施を渡してこそ、宗教行為が完成します。
 一方、娑婆の方々に「宗教行為は取引でない」ことを説かねばならない住職が、自分から「戒名料は~円持ってきなさい」などと金銭を要求することもまた、当然、布施の本質を見失った過ちです。

2 教誨
4 説法
 当山では常に、例祭でも、ご葬儀でも、あるいはペット供養でも、必ず修行者と参会者の方々のために説法を行います。
 あちこちへ説法にでかけもします。
 ご葬儀であれ、地鎮祭であれ、受けた修法の内容をお伝えしないままでは、申しわけありません。
 何か入っているか説明せず、開けられもしない箱を渡して「はい、あげましたよ」と、お布施を受け取るのは、とてもおかしなことです。
 修法について説明し、場合によっては質疑応答を行い、皆さんに何がしかの納得を得ていただくところまでのすべてを修法と考えています。

3 忍辱
 この世が苦の海であり、苦を抱えた方々と共に苦へ立ち向かう毎日を過ごしている以上、毎日が忍耐の連続です。
 そしてまた、教えをより深く理解し、法力を高めるために耐え忍んで学び修練を積む修行にも終わりはありません。

5 衆生の愛護
 慈悲と智慧の完成をめざす行者にとって、いついかなる時も、生きとし生けるものを見捨てられないのは当然です。

6 無上正真の法の探求
 仏道に志した以上、自分を清め、自他のためになれる力を求め続ける道は、永遠に歩み続けねばなりません。
 菩薩(ボサツ)行にゴールはありません。

 Aさんのご意見は、まったくその通りです。
 あらためて自らを戒める気持になりました。
 まことにありがとうございました。

山形市の会館でご葬儀を行いました。お求めに応じ、可能な限りどこへでもでかけて法を結びます〉

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2010
11.13

釈尊の布施 ─無限向上心─

 釈尊を慕って出家した王子の一人にアヌルッダがいます。
 釈迦族から出家者が相次ぐ中にあって、ひ弱なアヌルッダは修行に耐えられないと見られていましたが、母親の反対などを押し切って行者になりました。
 そんな彼は、在家の人々も出家した人々も一緒に釈尊の説法を聞いている場で、つい、居眠りをしてしまいました。
 周囲が笑っても、釈尊は責めません。
「法を聴きながら眠るのもまた、楽しいではないか」
 釈尊は、在家の人々の前で弟子を叱らなかったのです。
 しかし、二人きりになった時には、厳しく諭しました。
「睡眠欲に負けてはならない、懈怠であってはならない。心を入れ替えよ」
 やり直すことを誓ったアヌルッダは、釈尊の前では必ず眼を開き続け、視力が衰えました。
 釈尊が侍医ジーワカの診察を勧めても聞かずに修行を行い、ついに失明しました。
 しかし、ものが見えなくなった代わりに天眼(テンゲン)が開け、「天眼第一」とされる聖者になりました。
 天眼とは、表面を見るのではなく、本質を観通す力です。
 
 さて、ある日、ほころびを繕うために針と糸を持っていたアヌルッダは、どうしても糸が通せなくて、「誰か私に手伝って功徳を積みませんか」と言いました。
 道場では、自分のことを自分で行うのが鉄則です。
 しかし、アヌルッダは例外で、いつも周囲の仲間が助けていました。
 ところが、「それでは…」と声をかけたのは、意外にも釈尊です。
 驚いたアヌルッダは、当然、手を引っこめます。
「悟りを開かれた方は、功徳を積んで幸福を願う必用がありましょうか」
 アヌルッダが恐縮したのは当然ですが、いわゆる「徳積み」は迷いから脱するための修行なので、言い分もまた、当然です。
 
 釈尊は答えました。

「悟りを開いた仏陀(ブッダ)といえども、精進(ショウジン)に終着点はない。
 仏陀の精進は以下のとおりである。
1 布施
 他のために施す行に終わりはない。
2 教誨(キョウカイ)
 弟子の指導に終わりはない。
3 忍辱(ニンニク)
 耐えてことを為す行に終わりはない
4 説法
 信者へ法を説くのに終わりはない。
5 衆生の愛護
 生きとし生けるものを救うのに終わりはない。
6 無上正真の法の探求
 最高の真理を求める行に終わりはない」

 釈尊の言葉から1000年以上もの後、お大師様も説かれました。

「もし善男子(ゼンナンシ)、善女人(ゼンニョニン)、比丘(ビク)、比丘尼(ビクニ)、清信男女(ショウシンナンニョ)等あってこの乗(ジョウ)に入(イ)って修行せんと思わんものはまず四種の心を発(オコ)すべし。 
1つには信心、2つには大悲心、3つには勝義心(ショウギシン)、4つには大菩提心(ダイボダイシン)なり」

(善き男性、善き女性、男性の出家修行者、女性の出家修行者、清らかな心の男女、この真言密教の道へ入って修行したいならば、まず、4つの心を固めねばならない。
1 信心
 仏法が真理を説くことを心から認め、信じること。
2 大悲心
 あらゆる生きとし生けるものへ思いやりの心を持つこと。
3 勝義心
 これでいいと慢心したり、安心したりせず、より高度で深いレベルを求めてやまないこと。
4 大菩提心
 何としても即身成仏しようと思い定めて揺るがないこと)

 この勝義心こそが、大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)と密教の根幹を成しています。
 大乗仏教の理想像である菩薩(ボサツ)に「これでいい」という諦めはありません。
 この世に苦がある限り、自他のために必用なことは無限です。
 菩薩は「これがいい」と求め続けてやみません。

 たとえ足の皮が破れようと、老い衰えようと、病もうと、一歩でも先へ向かって歩み続けるのが菩薩です。
 釈尊の生涯も、お大師様の生涯も、そうだったではありませんか。
 仙人になろう、好々爺になろうとした瞬間に、行者ではなくなります。
 釈尊の道、お大師様の道を歩み続けたいものです。

〈「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」の祈りは根本仏大日如来へと届きます〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.12

例祭だより(11月の第一例祭)

 今年のカレンダーもあと2枚となりましたね。
 もう立冬です。
 お盆が過ぎるとあっという間にお正月が来るな~といつも思います。

 今日は11月の第一例祭でした。
 境内地の草木は紅葉し始めました。
 ドウダンツツジの赤が素晴らしく鮮やかです。
 今日はまさしく小春日和。
 出勤途中の道路にある温度計は5℃でしたが、日中は20℃くらいありました。

 護摩は久々に煙がもくもく。
 目から涙。;。;私達を燻してくれました。
 最近はほとんど煙は立ち込める時がなかったせいか、前の本堂での護摩を思い出し懐かしかったです。
 たまには燻されるのもいいものです^^;(いろいろわが身を振り返ってしまうのは何故でしょうか)
 でも、最後にはどんどん燃え上がりましたー!
 途中でアナウンスします。
「お不動様の智慧慈悲の火で疲れや悩みを全て焼き滅ぼし、善き願いに大きなお力をいただいてください。」
 ぜひぜひ、皆様例祭にご参加ください☆

 住職のお話は・・・

 お釈迦様が亡くなる直前に説かれたお話についてでした。

自灯明」と「法灯明」の教えです。

 人は真っ暗闇の中では灯りがないと歩くことができない。
 他人をあてにせず、自分を灯明としてよりどころにし、自分自身で運命を切り開いていきなさい。

 その自分とはどういうものか?

 仏法をよりどころとして導かれ、きちんと生きられるようになった自分のこと。

 だそうです。
 これは「自分が一番大事、大切!」ということではないのですね。
 まずは人としてきちんと生きられるようにならないといけないのです。
 その自分を灯火としていくということなんですね。

 もう一つ、お釈迦様が最後におっしゃった感動のお言葉のお話です。

 高齢となった身でありつつも托鉢の旅をされていたお釈迦様に、貧乏で何もお布施をすることができない「チュンダ」は必死になって山からきのこを 採ってきて料理をつくりお出しした。
 その後お釈迦様は激しい食中毒のようになり、倒れ伏し、亡くなる前にチュンダに告げたそうです。

「この供養は今までで最も重要で、最も美味しいものだった」と。

 高齢で衰弱しつつあったお釈迦様はご自分の寿命を察知されたのでしょう。

 チュンダはそれはそれは悲しんだり苦しんだと思いますが、きっと素晴らしい仏弟子として生き抜いたに違いないと思いました。
 正しい生き方を考えさせられる素晴らしいお話でした。

 陽が沈むのがどんどん早まってきましたね。
 ストーブは一度焚いたらもう焚かずにいられなくなりました。
 そろそろ本格的に冬支度を始めましょうか ♪

※この稿は、行者橋里佳さんのブログ「大日如Life」(http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal)からいただきました。

〈生きています〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.12

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その7) ─真の財物─

 かつては寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

7 真の財物

「財物(ザイモツ)、永(ナガ)く存(ソン)せず。
 才智(サイチ)を財物(ザイモツ)とす」

 財産は常にあるものではなく、常に頼りになるものでもありません。
 天変地異や事故や盗難や火難、あるいは世の中の激変、あるいは病気など、周囲で起こるできごとや自分自身の状態により、たちまち、それは失われてしまいます。
 いつなくなってもおかしくないのが財産です。
 しかも、「足りない」と不足を感じた時点で、いま在る財産は自分へ満足を与えるのではなく、不満を与えるものになります。
 また、なまじな財産があるばかりに、財産を減らしたくないという一心にこり固まっている人は、いつも財産がどうなるかを第一にしてものごとを判断し、人間関係を決めます。
 その結果、人間として行うべきことごとを行わず、他人を信用できず、他人から利用はされても信頼されない人になりかねません。

 西洋にあるノブレス・オブリージュ(ノーブル・オブリゲーション)と日本の武士道も、何をもって真の財産とするかを考えさせます。
 地位や名誉や財産のある人には、相応の義務や責任があり、それをきちんと果たしてこそ、社会的立場がまっとうされ、真に認められるという考え方がノブレス・オブリージュです。
 階級意識が強いイギリスやアメリカでは特にこうした観念が強くはたらいており、イギリスの王族が戦争にでかけたり、孤児救済に励んだり、あるいはアメリカの富豪や芸能人がボランティア活動に熱心だったりします。
 武士道は、もう書くまでもありません。
 藤沢周平の一連の時代小説を読めば、財産や地位を頼りとせず、矜持や志をこそ柱として生きる人間の尊さがわかります。

 仏法も明確に解いています。
 入滅を目前にした80歳の釈尊が最後に行っ説法が『仏遺教経(ブツユイキョウギョウ)』にまとめられています。

「汝等(ナンダチ)比丘(ビク)、若(モ)し智慧あれば則ち貪著(トンジャク)なし。
 常に自ら省察して失(シツ)あらしめざれ」

(行者のお前たちよ、真の智慧があれば貪りも執着もなくなるはずである。
 常に自分自身を省みて、過ちのないように励むべし)
 大切なのは真の智慧であり、獲得された不動の智慧がはたらく世界を生きれば、貪りも執着もなくなります。
 貪りの対象である地位も財産も名誉も、もはや、そのあるなしや多寡や高低などが関心の対象とはなり得ません。
 仏性、霊性のままに生きる人間にとっては、自分のそれがしっかりはたらいているかどうかこそ関心と省察の対象であり、同時に他人を観る場合の第一の関心事もそこにあります。
 仏性、霊性がよく発揮されている人は幸せな人であり、あまり発揮されていない人は不幸な人です。
 だから当山は、自他の「この世の幸せのために」共に仏法を学び、実践しましょうと呼びかけているのです。
 
 こうして考えてみると、世間的財産の頼りなさと智慧の価値がわかります。
 冒頭の教えで説く「才智」は、才能と知恵です。
 自分なりに生まれ持った才能を大切に伸ばし、まっとうに世を渡る知恵を獲得するためには、真の智慧が必用です。
 人の道を学び、才智を磨きながら進みましょう。

〈この不足なき世界〉
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2010
11.11

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 59 ―いじめをなくす「十善戒」─

 11月10日の講座「生活と仏法」では、休んでおられた方々の復帰もあり、いじめ問題に対する対話を行いながらの2時間となりました。
 中心テーマは「十善戒」です。
 なぜなら、子供たちが十善戒を心に抱いているならば、現在のような卑劣で陰湿ないじめなど、起こりようもないからです。
 生涯にわたってこの戒律を説き、江戸時代に生きた人々の精神レベルを下支えした慈雲尊者の心を偲びつつ、受講者の皆さんと語り合いました。

第一 慈悲不殺生(ジヒ、フセッショウカイ)
 慈しみと憐れみによって、みだりな殺生をせずに生きよ。

 なぜ殺生が悪かと言えば、殺されることは、誰しもが最も受け入れがたいことだからです。
 たとえば、自分はもう充分に生きたからいつ死んでも良いと覚悟を決めているお年寄りでも、あるいは自殺しようと思い定めている人でも、橋の欄干にもたれていて不意に突き落とされそうになったならば、必ず抵抗するはずです。
 殺されることを心から願う人は一人もおらず、殺されることを喜ぶ生きものもいません。
 生を承けた生きものはすべて〈生きたい〉のです。
 そうした無条件の願いを踏みにじるのは、相手の最も嫌がることを強制することであり、極悪と言わねばなりません。
 ここには、「相手の嫌がることをしてはならない」という道の根本があります。

 受講者Aさんが発言されました。
「教師をしていた時代、いじめの問題で父兄会が喧々諤々 (ケンケンガクガク…めいめい勝手な議論になり収拾がつかないこと) となったことがありました。
 保護者の中にたった一人、家庭の事情でいつも孫の面倒を見ているお婆さんがいました。
 この方が発言を求め、聞き耳を立てたところ、こう言いました。
『私は無学なので、孫にたった一つのことしか教えていません。人の嫌がることをしてはならない。
これだけです』
 そして着席しました。
 会場はシーンとしたままでした」

第二 高行、不偸盗戒(コウギョウ、フチュウトウカイ)
 節操を高く保ち、他人の領分へ手をかけずに生きよ。

第三 浄潔、不邪淫戒(ジョウケツ、フジャインカイ)
 行いを清らかにし、邪な獣性に導かれずに生きよ。

第四 正直、不妄語(ショウジキ、フモウゴカイ)
 正直な心で言葉を用い、嘘をつかずに生きよ。

 妄語の代表は「悟らないのに悟ったと言う」嘘です。
 このことは、仏教が道理を重んじる宗教であることを物語っています。
 釈尊を中心とした修行の現場では、教えを本当に理解できたかどうか、教えがきちんと腑に落ちたかどうか厳しく問われ、検証されていたのでしょう。
 わかってもいないのにわかったとするのは、修行を貶める欺瞞であり、そうした心では修行をする資格がありません。
 たとえば、板前として弟子入りし、教えられたとおりできないにもかかわらず「はい、できました」と言って卒業しようとするようなものです。
 師匠を愚弄(グロウ)し、自分を偽り、まっとうな人生を歩めるはずはありません。
 釈尊は理解能力の低い者にはそれなりの修行法を与えました。
 チューラパンダカが手に箒を持ち、「塵をはらわん。垢をのぞかん」と唱えただけで悟りを開けたのはその典型です。
 密教にも難行道(高度な修行)と易行道(簡素な修行)があり、み仏に近づきたいと思い定めたならば、即身成仏への道は必ず開かれます。

第五 尊尚、不綺語戒(ソンショウ、フキゴカイ)
 高く尊い志を汚さず、言葉を飾らずに生きよ。

第六 従順、不悪口(ジュウジュン、フアックカイ)
 柔軟な心で言葉を用い、粗野な言葉で罵らずに生きよ。

 悪口とはいわゆる「わるくち」ではありません。
 思いやりも、智慧もない粗暴な言葉づかいはすべて悪口です。
 相手の言葉に聞く耳を持たず、相手を貶めるような強い調子でものを言うのは愚かしいことです。
 他人の心に寄り添うしなやかで温かい心を持ち、その心なりに表現できる自分になることをめざしましょう。
 それにしても、テレビのまじめな番組であれ、ふざけた番組であれ、大きな声で相手を言い負かすシーンが氾濫しているのはいかがなものでしょうか?

第七 交友、不両舌戒(コウユウ、フリョウゼツカイ)
 誠の交流を尊び、人を離反させずに生きよ。

 これはいわゆる二枚舌だけでなく、悪心を持ってAさんとBさんへ異なる情報をもたらしたり、AさんとBさんへ仲違いさせる話をするようなことです。
 面と向かっては相手をおだてておき、相手のいないお茶のみ話では悪口を言うような曲がった心です。
 
 受講者Dさんが発言されました。
「私の住んでいる地域では『開けた口は閉じられない』と言います。
 他人の悪口や、出任せの話はすぐに伝わり、人間関係がおかしなことになります」

第八 知足、不貪欲戒(チソク、フドンヨクカイ)
 己の分を守り、貪らずに生きよ。

第九 忍辱、不瞋恚戒(ニンニク、フシンニカイ)
 耐えて動揺せず、つまらぬ怒りを起こさず生きよ。

第十 正智、不邪見戒(ショウチ、フジャケンカイ)
 正しい智慧を発揮し、真理に背く考えを持たずに生きよ。

 お大師様は説かれました。
「戒めを守れば、身体は潤いあるものとなる。
 それは諸天の飲み物である甘露(カンロ)を飲み、病気がとり除かれるようなものである」
 戒めに反しない生き方になれば潤いのある心で生きられるだけでなく、身体も又、老若男女を問わず潤います。
 慈悲、高行、浄潔、正直、尊尚、従順、交友、知足、忍辱、正智の目をイメージしながら生きましょう。

の花々を咲かせましょう〉
2211062 015



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2010
11.10

テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち

 野村路子編著の「テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち」は第二次世界大戦において収容所で殺された子供たちの絵と詩を紹介しています。

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 子供たちはすべてユダヤ人です。
 ナチスは、ユダヤ人の存在を第一次世界大戦に負けた理由の一つとし、「両親の片方でも、あるいは祖父母のうち一人でもユダヤ人であれば、その子、あるいは孫はユダヤ人である」と定義しました。
 そして、戦争勃発3年後の1942年からユダヤ人絶滅計画が実行に移されました。
 その行動はホロコースト(焼いて神殿に供えられる生贄)と呼ばれています。

 アウシュヴィッツなどの収容所で殺された子供たちは150万人とされています。
 150万人は想像しにくい膨大な数ですが、仙台市民の人口がおよそ100万人であることと比較すれば、いくらかは実感できるのではないでしょうか。
 ユダヤ人を集める8000~9000ヶ所の収容所はヨーロッパ中に点在しています。
 捕虜収容所、軍需工業に附属する収容所、収容所や道路を建設するための収容所、ガス室と人体焼却場を持つ収容所、絶滅収容所、中継地・移送中継所としての収容所、人体実験の収容所、女性専用収容所、子供収容所など、名前を見ただけでもおぞましさに襲われます。

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 10歳から15歳までの子供たちが入れられたテレジン収容所では、三段ベッドに押し込まれ、朝から晩まではたらかされ、順番にガス室へ送られました。
 朝食は「コーヒーと呼ばれる」茶色の水一杯。
 昼食は小さな小麦粉の玉が入った薄い塩味のスープ
 晩飯は、同じスープに、腐りかけたジャガイモ一個かパンの一欠片。
 収容所の幹部たちは花に飾られた家に住んでいましたが、子供たちの生活する空間には雑草すらありません。
 芽をみつけると必ず誰かが摘んで食べるからです。

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 15歳の少年イェフェダ・バコンはガス室で死んだ遺体から金歯をとりだす任務を与えられました。
 ある時、死体の山に父親を見つけました。
 奇跡的に生き残った彼は言います。
「私はその口をこじあけて金歯を抜きました。
 ほかの死体と同じように……。
 涙は出なかったです。
 ……そう、あのときの私は、泣くという人間的な感情すら無くしていました」

 しかし、こうした絶望的な状況下にあっても、子供たちは絵を描き、詩を書き、希望を抱き続けました。

22111 002

私はひとりで行きたい

私はひとりで行きたい
どこか別の よい人たちの住むところへ
どこか 知らないところへ
だれも人をころしたり しないところへ
夢に見ていた その目的地に
行きつくことができるのかしら
おおぜい 1000人もの人が
行きつくことができると良いのだけれど



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 実に、「表現」は救いです。
 いつ、いかなる所でも表現を可能にするものは、やはり霊性の力ではないでしょうか。
 お大師様は、「世界の実相は表現されている」と説かれました。
 表現を感得するのも、表現によって他の感得を生むのも霊性、仏性の力です。
 絶望と救済を考え、絶望をもたらすものを考えましょう。

〈写真と引用文は「テレジン収容所の小さな画家たち詩人たち」からお借りしました〉




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
11.09

『「脳」を変える「心」』を読む(1)

 脳科学者茂木健一郎氏の訳による『「脳」を変える「心」』が出版されました。
 帯にはこうあります。

「人間の脳のもっとも素晴らしい性質は、『変わる』ことができるということである」

 この宣言は、私たちを100年近くにわたって縛り続けてきた定説をくつがえすものです。
 1913年にノーベル生理学・医学賞を受賞したサンティアゴ・ラモン・イ・カハールは断定しました。
「生体脳の神経回路は固定し、完成された、不可変のものである」
 私たちは身体が成長するに従って脳も成長しますが、やがて完成すると、あとは壊れる一方であるという考え方です。
 そうすると、神経回路によって精神や心がもたらされている以上、心が神経回路つまり脳の仕組みを変えることはできず、心は変えられないというしかありません。
 この宣言は、カハールの「変えられない」という定説へ対して「そうではない」と言っており、快哉を叫ばねばなりません。

 実際に自分が〈変わった〉体験を持つ私は、「宗教の役割は心を変え、人生行路を望む方向へ動かすところにある」と考え、「科学者の言うことは、それはそれとしておき、ご縁の方々には良い方向へ変わっていただきたい」と願いつつここまで来ました。
 願いは、封筒などへ印刷する一文にこめられています。
「法灯に因り、法友と共に、法楽に住せん」(仏法に帰依し、信念を同じくする方々と一緒に、この世を幸せに満ちたものにしよう)
 言い換えれば、「共に仏法の説く運命転化の方法を信じて学び実践し、み仏の子として本来の生き方ができるように自己変革し、それを世の中へ及ぼそう」ということです。
 だから、今回の宣言は文字どおり「我が意を得たり」なのです。

 そして、このコペルニクス的大転換が「ダライ・ラマ法王と脳科学者たちによる心と脳についての対話」によってもたらされたことも充分、納得できます。
 平成18年10月31日、東京都品川の新品川プリンスホテルにて、『密教21フォーラム』と『全真言宗国際救援機構(ASIRA)』の共催によるチベットの最高指導者ダライ・ラマ法王テンジン・ギャツォ猊下の講演と謁見・懇親会が行なわれました。
『密教21フォーラム』の会員として東北北海道地方からただ一人参加した私は、講演に先立って上映された映画『チベットチベット』における猊下の一言が忘れられません。

「新しい科学の知識と伝統ある宗教の智慧が一つになって初めて、完全な人間になる」

 さて、『「脳」を変える「心」』は393ページに及ぶ大作であり、手応えがあり過ぎるので、これから数度にわたり、多くの方々にご理解いただけるよう行者の視点から読んでみます。
 それに先立ち、まず、当山の姿勢を明確にしておきます。
ダライ・ラマ法王講演会 3(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-516.html)」からの転載です。

 質疑応答となり、私はまっさきに質問しました。
「聞く耳を持たぬ者は、いかにして救われ得るでしょうか?」
 人生相談や祈祷の現場における最も切実な問題の一つです。
 以下は、猊下の答と私の感想です。

「宗教は世界中にさまざまあり、何を信じるかは自由である。
 仏教を信じるかどうかも自由である。
 一般論としては、先祖から受け継いだものを信じれば良い」
「信じない人へは教えを説いても無意味である。
 しかし、愛と慈悲は、どのような人にとっても特に信じ実践すべきものである。
 それには普遍的な価値があるからである。
 それがある人は幸せになり、ない人は不幸になる

四諦(シタイ…この世と私たちのありようは苦・集・滅・道にあるという釈尊の指摘)の真理と、愛と慈悲の力は、必ずコモンセンスを動かす。
 だから、私は、いかなる場合もこれらの根本を話すのである

 法王は、
「世界中の人々に仏教を信じさせて世界に平和をもたらそう」
と考えてはおられない。
「人間にとって普遍的な価値のあるものを共有することによって平和になろう」
と訴えておられる。
 他の宗教宗派を否定し、他宗で信じる神や仏を要らぬものとし、自分の宗教へ改宗させようと争う姿勢とは正反対である。
 何が世界にとって必要なのか、あらためて教えられた。

 法王は、こちらの目と通訳の目を交互に見ながら、はっきりと説かれた。
 そして、次の質問者の声が小さくて聞き取りにくいので、前へ出るようにと指示されてから、わずかの時間、もう一度じっと私の目を見つめ、にっこりと笑顔になられた。
 目と目を合わせていたのは10秒もなかったはすだが、法王は心で
「解ったかな?行者よ」
と言っておられた。
 後の呼びかけは「仏弟子よ」あるいは「法友よ」だったかも知れない。
 しかし、私は、視線の絡み合った数秒の間に、まぎれもなく法王の弟子となった。
 法統の問題ではなく、私淑(人知れず尊敬し、模範とすること)の問題である。
 法王は、会場を去られるまでに、何回もこちらを見られた。
 師であり、父であると確信した。

 こうした立場から、『「脳」を変える「心」』を読んで行きます。

〈心を変え、人生を変えてくださるご本尊様。大日如来、弘法大師、如意宝珠

2211065 014

 


「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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