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2010
12.31

お正月のご祈祷について

 1日から3日までの正月祈祷は、午前10時~11時、午後2時~3時と、合計6回修法します。
 当日、護摩木を書いて供養したり、護摩の火にあたったりするのも、途中から参加するのも自由です。
 どうぞ、いつでもお立ち寄りください。合掌

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.31

義母の死・摩耶夫人(マヤブニン)・ゆかりびとの会

 文殊堂へお祀りする摩耶夫人(マヤブニン…釈尊の生母)について考えていたところ、容態の悪化していた義母が亡くなりました。
 義父の時は私がたまたま病院へ泊まり込んでおり、最期を見届けましたが、今回は夫婦共に叶いませんでした。
 まっすぐに運ばれた会館では、倒れた時と同じく眠っているかのような穏やかさで、安心感さえ漂わせていました。
 檀那寺は他寺なので枕経は唱えませんでしたが、じっと法を結びました。
 もちろん、初七日を守る不動明王の結界法です。
 いつぞやの故人のようにフーッと息を吐いたりはしませんでしたが、ふっくらした頬に生気が戻ったかのようでした。

 先に逝った義父と義母にはずいぶん世話になりました。
 結婚当初はいろいろありましたが、義父亡きあとに問題となった方々との折衝など、少しでも義母の思いを叶えようともしました。
 結果はともかくとして、信頼という糸がつながっていたことはありがたく、妻のよりどころとしても長生きを望んでいました。
 それなりに生きて80歳の坂を越え、「お迎えが来る」のを公言していた義母が眠った状態で同居していた家族に発見され、送られる寝床を家族が囲んだ状態は、釈尊の涅槃図と変わりありません。
 やや丸顔ではあるものの、やはり妻にそっくりで、妻が死んだらこうなるのかと思うとなぜか安心しました。
 皆が隣部屋へ移ったのを見計らって髪を撫で、耳元で言いました。
「ありがとう」

 この時期ゆえ、葬儀への出席は不可能でしたが、電報を打ちました。
「貴女様の娘と孫と伴侶とひ孫を必ず守りますから、どうぞ安心してお休みください」

 

 摩耶夫人(マヤブニン)は釈尊の生母であり、出産後七日目にこの世を去りました。
 釈尊はその後、母親の妹である摩訶波闍波提(マハー・プラジャパティー)に養育されました。
 釈尊は、悟りを開いた後、天界にいる生母と再会しますが、来訪を知った夫人は自分が授乳できなかった悲しみを表すため、雨のように母乳を降らせたといいます。

 このお像は、夫人が生まれたばかりの釈尊を掌へ載せています。
 釈尊は有名な
「天上天下、唯(タダ)我のみ尊しと為す。
 三界(サンガイ)は皆、苦なり。
 我(ワレ)当(マサ)に之(コレ)を安んずべし」
と宣言されているお姿です。
(世界中にあって、悟りを求め悟りを得ようとする者のみが真に尊いのである。
 いかなる生存も皆、苦である。
 私は、苦しみにある者たちすべてに安心を与えよう)
 小さな小さな釈尊と、生まれたばかりで聖人としての資質を示した釈尊を両手に載せてどっしりと立っている摩耶夫人との対比には、母親の偉大さが感じられます。

 思えば、10年来の「寺子屋建立」の願いが昨年実現したことに、このお像は大きく関わっていたのかも知れません。
 あの明恵上人も早く亡くした母を慕い、摩耶夫人を敬愛していました。
 出産、子育て、自分の向上、あるいは何かを大きく伸ばしたいと願う方などへご加護をいただけるよう祈り続けます。



 今年は、ブログや河北新報で「檀家』宣言」を行い、真の布施の意義を回復しましょうと呼びかけたこと、そして、ご先祖様の供養を依頼するかどうかという枠を離れた真の仏縁を求める方々の「ゆかりびとの会」が自発的に結成されたことが特記すべきできごとでした。
 当山をお守りくださるみ仏の母親のようなお慈悲が、新しい形となって動きだしたのでしょう。
 集うお一人お一人が当山にとっては摩耶夫人そのものです。
 現に、住居も風呂もないことを憂いて「お風呂場基金」を設立されました。
 来年は法務の後でゆっくり風呂へ入る時間を持てるのでしょうか。(鬼がどこかで笑っていますか……)
 いずれにしても、ご縁の方々のお心から思いやりという母のような慈光が発していることはありがたくてなりません。
 み仏の教え、人の道を学び実践する場であってこそ、寺院に存立意義があると考えているからです。

 来たる23年は「」であり「」です。
 運気にかかわるは、表面に立たないものがはたらきかけるという意味を持っています。
 そしては冒険に通じており、開発・開拓・ステップアップです。
 み仏の母心が力となり、人々の慈光が強まり、この世に幸せがあふれ、あの世は安心の世界となりますよう。
 これで今年最期のブログを終わります。
 ちなみに今日は「の日」です。
 明日からのジャンプを準備してくれたのでしょうか。合掌

〈ラブ姫ちゃん、ジャンプ!〉
ラブ姫1

〈ウサギ野仙哉君、おっとり〉

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2010
12.30

『大日経』が説く心のありさま六十景 その22「農夫心(ノウフシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第21回目です。

22 農夫心(ノウフシン)
 これは、すなおに修行へ没入できない心です。

「初めに広く聞いて、しかして後に求むる法に随順す」

 初めに長老や先輩などによくよくやり方を聞いてからでないとなかなか実行できないような〈逡巡する姿勢〉です。

 伝統と工夫によって成り立っている稲作などの農業を否定しているのではありません。
 この教えの意味するところは、有名な「毒箭(ヤ)の喩え」にあります。

 ある時、バラモン教の行者が釈尊を訪ねて問いました。
「人間の死後はどうなるのだろうか?
 霊魂は不滅であろうか?
 あなたが答え、その証拠を見せてくれるのなら、私はすぐに仏弟子となろう」
 釈尊は一言も発しません。
 怒り、軽蔑した行者は罵りの言葉を残して立ち去りました。
 弟子のアーナンダは訝しそうに問いました。
「仏陀はなぜお答えにならなかったのですか?」
「アーナンダよ。
 彼の姿勢は、身体に毒箭が刺さっているのに、矢はどこから来たか、射たのは男か女か老人か若者か、鏃は石か獣骨か金属か、こうしたことがわからないうちは矢を抜かないと言っているのと同じである。
 それを知りたいと右往左往しているうちに毒が回って死ぬであろう。
 死後のことを考える時間があるのなら、最高の智慧と人格の完成を求めて精進しなければならない。
 だから、私は質問へ答えなかったのだ」

 釈尊は、道理を持っては答のでない形而上的なことへ答えなかったのです。
 特に「十無記」として、以下が有名です。

 一、この世は永遠か? 
 二、この世は永遠でないか?
 三、この世は有限か?
 四、この世は無限か?
 五、霊魂と肉体は同一か?
 六、霊魂と肉体は同一でないか?
 七、如来は死後存在するか?
 八、如来は死後存在しないか?
 九、如来は死後存在するものであり、かつ、存在するものでもないのか?
 十、如来は死後存在しないものであり、かつ、存在しないものでもないのか?

 この件については、おりおりに申し上げる問題があります。
 それは、仏教を「知ろう」とするのは尊いことですが、「すべてはわからないから何もしない」のはいかがなものかということです?
 他のためになならいではいられないと説く布施の教えも、戒めを破ろうとしてリミッターがはたらくと説く持戒の教えも、清浄な心で聞けばすぐに理解と実践が可能なのにできない方々がおられます。
 ちょうど、せっかく緑深い山を前にしているのに、最も早く頂上へ登られそうな道を探していつまでも周囲をウロウロしているようなものです。
 たとえ100メートルであろうと縁になった道を進み、息吹を感じ、鳥の声やせせらぎを耳にしようとしないのが、ここで説く「農夫心」です。
 そもそも、すべての教えを知ろうとするのは、星々をすべて自分の肉眼で確かめようとするのと同じであり、無理な試みと言うべきです。
 また、仏法には、つかんだ道理を信じ、すなおに実践することによって一気に核心が体得できるという性質があり、体得は読書だけでは決して得られません。
 肉体の根元には精気があるように、宗教は心の根元にあって、感応が欠かせない生きた世界なのです。

 すべての人間の平等を説いた釈尊の教えですからあまりに当然ではありますが、「農夫」という言葉は喩えであり、伝統的智慧とたゆまざる工夫によって待ったなしの季節の変化に添った努力を続けておられる農業従事者の方々を決して蔑むものではないことを重ねて明記しておきます。

〈旅行安全の祈祷を申し込まれ、無事、帰国したAさんからいただいた絵はがきです〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.29

喪中のお正月・仏壇を開ける

「身内を亡くしたのですが、お正月はやれないんですよね?」
 毎年必ず、こうした質問をいただきます。
 喪中のお正月をどう過ごすかという問題です。
 詳しくは当ブログ『喪中でお正月を迎える時』に書きましたが、もう一度簡単に心がけを書いておきます。

 そもそもお正月とは、ブログ『お正月に不幸が起こった時』に『徒然草』の一節を紹介した通り、祖霊を祀る時期です。
 年神や年徳神は祖霊であり、ご先祖様方は「夏にはお盆、冬にはお正月」と先祖供養をされたのです。
 柳田國男は年神のルーツを「一年を守護する神、農作を守護する田の神、家を守護する祖霊(ウィキペディアより)」としましたが、祖霊が根本であるのは、晦日(ツゴモリ…大晦日)が祖霊を迎える大切な日であることから明らかです。
 吉田兼好は書きました。

「亡き人の来る夜とて魂(タマ)まつるわざは、このごろ都にはなきを、東(アズマ)の方には、なほする事にてありしこそ、あはれなりしか」

(この頃、都の人々はお正月を祝う気持ばかり強くなって年内から浮かれ、大晦日にも祖霊を祀らなくなったが、東国の人々の魂(タマ)まつりをしっかり行う様子はゆかしい)
 だから、喪中にお正月を迎える方々の心がけとしては、御霊を悼む慎みの姿勢は保ちながらも、仏壇におられるご本尊様へ御霊の供養と一族へのご加護を祈り、家族揃って新しい年への希望を語りあうことが大切です。
 お墓詣りをし、仏壇がなければ、菩提寺や近くの寺院へお詣りしましょう。

 当山では、常々「自分が相手になったつもりで考えてみましょう」と申し上げています。
 もしも自分があの世へ行ってまもない状態だったとします。
 家族がいつまでもメソメソしていたり、死を忌み嫌う姿勢で畏れ、萎縮してばかりいたならば、あの世から眺める自分は安心できましょうか?
 この世もあの世もお導きくださりご加護くださるご本尊様へ新たな御霊と祖霊の安心を祈り、それぞれが抱き語り合う希望へのご加護を祈るならば、どれほど嬉しいことでしょう。

 だから、仏壇を開けて花や水やご供物を供え、燈火を灯し、塗香を手に塗り、お線香を立てて合掌しましょう。
 そして、六波羅密(ロッパラミツ)を誓い、あの世が安心の世界となり、この世が幸せの世界となるよう祈りましょう。

布施の心】         我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん
【持戒の心】         我、塗香(ズコウ)のごとく、自他を清め、浄戒そのものになり果てん
【忍辱(ニンニク)の心】   我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん
【精進の心】         我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん
【禅定(ゼンジョウ)の心】 我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん
【智慧の心】         我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん

 呼吸も脈拍も続き、いのちは365日、一刻の休みもなくはたらいています。
 み仏のご加護もまた同じです。
 ならば、何があろうとも、日々、いのちの清めと心の向上をはかり、この世とあの世のために祈り続けるのが当然ではないでしょうか。
 俗信や習俗にも深い意義はありますが、根本と道理を考えて行動したいものです。
 かけがえのないいのち、かけがえのない一日、かけがえのない一年のために。

お焚きあげ堂冬景色〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.28

お正月と立春のご祈祷について

【Q1】お正月立春には、どういうご祈祷をするのですか?

○お正月のご祈祷(1月1日から3日まで)
 午前10時と午後2時の合計六回修法します。
 ご都合のよい時間帯におでかけください。
 護摩の火と古来より伝わる大師茶などで、心も身体も暖まってください。
 私たちは生まれながらにして一生を守ってくださる守本尊様がおられます。
 たとえば兎(ウ)年生まれの方なら文殊菩薩、酉(トリ)年生まれの方なら不動明王です。
 お正月には、新しい年の過ごし方を考え、さまざまな願いを込めてこうした一代ご本尊様を供養する『修正会(シュショウエ)』を行います。

立春のご祈祷(2月6日 ※第一日曜日)
 午前10時より千枚の護摩木を焚いて厄除けを行います。
 私たちは毎年、運勢が変わり、お守りくださる守本尊様も変わります。
 たとえば八方塞がりの年には地蔵菩薩、本厄年には千手観音が守本尊としてお救いくださいます。
 だから、厄払いのご祈祷では千手観音様へ祈るのです。
 立春を期して、厄除け開運のために、それぞれの方の立春から翌年の節分までの一年間をお守りくださる守本尊様を供養する『春祭厄除千枚護摩祈祷』を行います。

【Q2】では、両方のご祈祷を受けなければならないのですか?

 お正月を迎え、自分の一生を守る守本尊様をあらためてご供養し、願いをかけることも大切、めぐってきた一年間を守る守本尊様をご供養することも大切です。
 両方大切ですが、もし一方を選ぶとしたならば、何か特別な目標を持って願いをかけるならばお正月、厄払いを主として安全祈願したいならば立春ということになります。
 どうぞ自在にご検討ください。

【Q3】ご祈祷は、自分のことだけを考えればよいのですか?

 自分が正しい目的を持ち、災厄を避けながらしっかり生きることは基本ですが、同時に、周囲の人々の幸せも祈る心が仏心を開く力になります。
 自己中心は、仏心から最も遠い心です。
 誰かの幸せや安心を願ってお申し込みをするのは尊い布施行です。
 願いはどんな遠くへも届きます。
 どうぞ、お申し込みください。

【Q4】願い事はどう書けばよいのですか?自分の運勢はどう判断すればよいのですか?

〔お正月の申込み例〕
 商売繁盛 社運隆盛 社内安全 業績順調 就職実現 交渉円満 五穀豊饒 
 大漁満足 因縁解脱 除災招福 厄除開運 心願成就 運命転化 家内安全 
 家運隆盛 夫婦円満 身体健護 無病息災 当病平癒 交際円満 良縁吉祥 
 安産守護 方災解除 怪異消滅 交通安全 旅行安全 工事安全 学業成就 
 試験合格 災害不到 訴訟必勝 諸事順調 福徳長栄 福寿如意 金銀如意


〔年齢別運勢表〕年齢は数え年で見てください。

●● 八方塞がりの年 守本尊は地蔵菩薩様…天地は通じ開く。
 一・一〇・一九・二八・三七・四六・五五・六四・七三・八二・九一・百才
 精進者は、身分・実力に応じた幸いあり。尊きものを大切に。
 不精進者は迷い、天災・方災を受けやすい。
○● 種蒔きと開運の年 守本尊は阿弥陀如来様…積徳には開運あり。
 二・一一・二〇・二九・三八・四七・五六・六五・七四・八三・九二・百一才
 精進者は、目上の引き立て・天運あり。
 不精進者は、ただ忙しく金銭の損失・目上との争い・事故多い。
●○ 歓喜と散財の年 守本尊は不動明王様…質素倹約を第一に。
 三・一二・二一・三〇・三九・四八・五七・六六・七五・八四・九三・百二才
 精進者は、楽しく悦びごと多い。
 足るを知らぬ不精進者は、口舌の災い・異性難・飲食の難・水難多い。
○● 運命変化の年 守本尊は虚空蔵菩薩様…悲運を打開するチャンスあり。
 四・一三・二二・三一・四〇・四九・五八・六七・七六・八五・九四・百三才
 精進者は、障害の打破・公私共に幸いあり。
 不精進者は、仕事や家族や親族の難・手足関節などの病気多い。
○○ 前厄の年 守本尊は勢至菩薩様…虚実が明鏡に映る如く明らかになる。 
 五・一四・二三・三二・四一・五〇・五九・六八・七七・八六・九五・百四才
 精進者は、悪を断ち、陰徳積善が認められ身分の向上あり。
 不精進者は、旧悪露呈・離別・火難・公難多い。
●● 本厄の年 守本尊は千手観音様…外は穏でも内には乱の危険あり。
 六・一五・二四・三三・四二・五一・六〇・六九・七八・八七・九六・百五才
 精進者は、内に喜びあり。
 不精進者は、万事悩み多く、目下の問題・異性難・水難・病難・盗難・誤解多い。
●● 後厄の年 一陽来復 守本尊は大日如来様…再び陽が廻りくる。
 七・一六・二五・三四・四三・五二・六一・七〇・七九・八八・九七・百六才
 精進者は、進展遅くとも後に収穫あり。
 不精進者は、古物・偽物・不動産・母方に関する問題発生しやすい。
○○ 仮の縁多い年 守本尊は文殊菩薩様…善悪虚実を見分けて安全と発展あり。
 八・一七・二六・三五・四四・五三・六二・七一・八〇・八九・九八・百七才
 精進者は、新展開あり、魚が水を得るが如し。
 不精進者は、声あれど成就せず、雑音・中傷・突発事故あり。
○○ 良縁多く盛運の年 守本尊は普賢菩薩様…良縁多く福が来る。
 九・一八・二七・三六・四五・五四・六三・七二・八一・九〇・九九・百八
 忍耐ある精進者は、万事花開き、声望・吉事・成就あり。
 不精進者は、信用失墜・生霊の妨害・破れあり。


【Q5】申込めば何が授与されますか?

〔お正月修正会祈祷授与品〕
 御札・御守・高野山御線香・御清め塩・大師茶・御加持米・絵馬
(ご志納金によって異なります)

・護摩木供養(1体300円)
・守本尊守護旗建立(1旒5000円)
・提灯供養(1本3000円)
もお受けしています。

〔春祭厄除千枚護摩祈祷授与品〕
・御守錫杖
 小ぶりですが、左右に三個づつ、ぶらさがっている合計六個の輪は、六道の迷いを覚めさせる重要な役割を担っています。
 地獄界の人や修羅界の人にひきずられないよう、しっかり法を結びましたので、身近なところへ置き、魔除け厄除けにしてください。
・八方除御守
 お子さんが何も考えずに塞がりの方角や破れの方角へ走っても大丈夫なように、八方天地十方世界の守本尊様にご守護いただく法を結びました。
・総本山開悟峯寺の御札・御守
 祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』で厄除け祈祷拝受となります。

【Q6】申込みはどうすればよいのですか?

 住所・氏名・生年月日・願い事を書き込み、郵送か、ファクスでお申し込みください。
 ホームページのメールからも可能です。
 ご志納金は、以下へご入金ください。 
・郵便局 02260-3-4604
・七十七銀行吉岡支店 普通口座 5446007
・古川信用組合吉岡支店 3383332
(いずれも、名義は宗教法人大師山法楽寺です)
(なお、お申込みは、正月祈祷は12月30日、春祭祈祷は1月31日までにお願いします)
(わかないことは022ー346ー2106へお問い合わせください)

【Q7】参加はどうすればよいのですか?

 自由参加です。
 参加できない場合はお札やお守などをお送りします。
 なお、いずれの修法においても開始30分前に『イズミティ21』から乗れる車をご用意できますので、乗車希望の方は、必ず前日までにお申し込みください。

【Q8】参加してはいけない人がいますか?

 み仏はすべての人々と御霊をいつも平等にお守りくださっています。
 お身内にご不幸があった人だからといって、良き願いをこめた祈りを拒否などされません。
 私たちがまっとうに、幸せに生きてこそ、み仏も御霊も喜ばれ、安心されます。
 どうぞ、一切にこだわりなく、良き願いを固めて新たな年をお始めください。

 皆さんの幸せを祈っています。

〈聖なる炎〉

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2010
12.28

『四十二章経』第三十一章 ─根元─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、3年半かけて学び通す予定です。

 の言(ノタマ)わく、
『人、愛從(ヨ)り憂(ウレイ)を生じ、憂(ウレイ)從(ヨ)り畏(オソレ)を生ず。
 愛無くんば即ち憂(ウレイ)無く、憂(ウレ)えずんば即ち畏(オソレ)無し』

 釈尊は説かれました。
「人は愛などの煩悩によって憂いを生じ、憂い畏れを生じます。
 煩悩が無くなれば憂いは無くなり、憂いが無くなれば畏れもなくなるのです」

 私たちは生きものなので、自分の生命の維持を最優先とします。
 その点はけだものと同じです。
 しかし、私たちは、そのレベルにとどまらない思考で生きます。
 霊性があり言葉があるからです。
 霊性と言葉が〈生きたい〉という求をむき出しにさせず、文化を創ります。

 一方、けだものと共通するワニのような残忍な暴力性とネズミのようなすばしこい自己中心性は、言葉による思考によって無限に肥大化します。
 一個の生命体がいのちを維持するために必要な範囲を超えて持ち前のを暴走させるのです。
 けだものは自分が満腹になれば、それ以上の狩りをやりません。
 けだものは子孫を残すための性行動を越えません。
 けだものは自分が寝られる以上広い巣を作りません。
 けだものは休息をとる以上の惰眠を貪りません。
 けだものは権力そのものを愉しみません。
 しかし、人間は違います。
 霊性が覆われた状態で貪り、怒り、道理を離れて考え、語り、行うところに人間特有の〈悪〉が発生します。
 悪を発生させないためには、霊性を活性化させる以外の方法はありません。

 釈尊は、こうした私たちが人間本来の生き方を失う順序と、それを取り戻す順序を説かれました。

 を暴走させれば必ずままならいところへ追い込まれ、憂いが生じます。
 憂いが心へ拡がれば行く先が見えなくなって畏れが生じ、未来が閉ざされたような不安に襲われます。
 そして、萎縮してしまったり、暴発的行動へ走ったりします。
 しかし、を暴走させなければ自分で自分を追いつめず、憂いも生じません。
 憂いのないところに畏れも不安も生じようがありません。
 行く先が見え、萎縮も暴発も起こらないのです。

 いつの世も、人間が善悪の(ゴウ)を積む限り、社会も善悪の共(グウゴウ…社会的)を積みます。
 時として多くの人々が共に押しつぶされそうになる時代もありますが、それを克服するには、やはり、社会を構成している人々がそれぞれのを善に向かわせるしか方法はありません。
 明らかに日本は共によって大量の弱者を生み、萎縮や暴発が蔓延しつつあります。
 今こそ私たちはいっそう、みの教えに学び実践し、仏性という霊性を発揮して個人的・社会的業を清めねばならないと考えています。

〈本格的な雪となりました〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2010
12.27

文殊堂を開きます(2)

 昨日、文殊堂の壇などができあがり、「1月1日に文殊堂を開きます」と書きました。
 夜になって、驚くできごとがありました。
 仙台市から帰山する山道でに出逢ったのです。
 を目にしたのは2回目、山里でも最近は目撃の話を聞かなくなり、もちろん、ここ兎野でもパッタリ姿を消していました。
 それが、山道の真ん中にちょこんと座っており、車を先導するかのようにしばらく走った後、左側の藪へと去りました。
 耳を立てて雪道を走るしっかりした後ろ足、横を向いて見せた赤い目、一連のありさまは今もはっきりと思い出せます。
 きっと、当山がお祀りする文殊菩薩様は多くの方々へ手を差しのべてくださることでしょう。

〈フロントガラス越しに撮ったの姿〉
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 当山の文殊菩薩様は「稚児(チゴ)文殊」と言われる童子の姿をしておられ、純粋無垢な智慧を示します。
 密教においては頭に結った髻(モトドリ)の数で修法における役割が違い、当山のようにそれが1つであれば「増益(ゾウヤク)」法における本尊となります。
 増益とは利益を増やすことであり、学業進展・智慧自在・健康増進・福徳増進・商売繁昌などにつながります。

 経典は、文殊菩薩様の名を聞くだけでも罪過が滅し、供養礼拝するならば常にお守りいただけると説いています。
 7日間、文殊菩薩様のお姿を瞼に浮かべながら名号を唱えれば、必ず現れてお救いくださいます。
 宿業の深い人の夢に現れ、悟りの境地を求めたならば、必ずアラカンになれます。
 ただし、文殊菩薩様のお救いを求める人は、慈悲心を持たねばなりません。
 思いやりの心を忘れて自分の利益になることを求めるだけでは我欲が仏縁を妨げてしまうのです。
 思いやりの心を持って、文殊菩薩様へ善き願いをかけ、真言を唱えましょう。
「おん あらはしゃのう」
 



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
12.26

文殊堂を開きます

 平成23年が卯年であり、一年間この世をお守りくださるご本尊様が文殊菩薩様であることから、当山を訪れる善男善女が当山の秘仏文殊菩薩様へお詣りしていただけるよう、虚空蔵求聞持法を行った「百萬返堂」へ虚空蔵菩薩様、お釈迦様と共にお祀りすることにしました。
 当山を守り、ここ野を守る文殊菩薩様が、皆さんへ大きなご加護をくださるよう祈っています。
 
文殊菩薩様について

 本尊文殊菩薩様は、住職が娑婆にいた時から念持仏として大切に供養し続けていたみ仏で、卯年生まれの方の一代守本尊様です。
 出逢ってから宮床字野へ講堂を建立するまでの約三十年間に及ぶ道のりではいろいろありましたが、ついに縁が切れることなく今日に至りました。
 仙台に住んでいた住職は宮床へ来たことがなく、地名すら知りませんでした。
 しかし、不思議な縁のつながりで宮床が修行の場となり、たくさんの方々からご理解、ご助力をいただき、ついにここが宗教者としての本拠地になりました。
 今になって考えてみると、無一文になり、境内地に生えたツクシやタンポポまで食べるような生活をしながら自分の守本尊様でもない文殊菩薩様を決して手放せなかった理由は、お会いした時から、〈野〉へとお導きいただいていたからだろうとしか思えません。
 右手に迷いを断つ剣を、左手に経典を持つ文殊菩薩様は、因と縁とが結果をもたらすという因果の真理を教え、智慧を正しくはたらかせてくださるみ仏です。
 ぜひ、善男善女にも真理を伝え、ご加護を授けていただきたいと願っています。

虚空蔵菩薩様について

 平成19年8月28日、住職は、「守本尊道場(寺子屋)」建立の願をかけて真言を百万返唱える虚空蔵求聞持法(グモンジホウ)を開始し、翌20年8月17日に成満、8月24日には地鎮祭を行い、21年8月23日、講堂落慶法要に至りました。
 平成11年8月28日の『托鉢日記第二集』出版以来10年間に及ぶ寺子屋建立運動が成就したのです。
 虚空蔵求聞持法の本尊は虚空蔵菩薩様であり、住職は作法通りに円形の板へお像を描き、(株)寺院サービスさんが造ってくださった「百萬返堂」で真言を唱えました。
 この修行は、お大師様が何度も成満された秘法です。
「聞持」すなわち「聞いた教えを固く持つ」聡明法で、普通は50日あるいは100日間お堂へ籠もって修法しますが、住職は普通に法務をこなしながらの修行なので早朝と深夜に行い、約1年間かかりました。
 虚空蔵菩薩様は虚空のように無限の智慧福徳とを持っておられ、至心に帰依するならば必ずその二つの宝ものをお授けいただけます。
 描かれたお像へ合掌する善男善女にもぜひ、宝ものをお授けいただきたいと願っています。

※ご開帳は1月1日となる予定です。

〈朝の百萬返堂〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
12.25

1月の守本尊様

 1月は、小寒(ショウカン)と大寒(ダイカン)の睦月(ムツキ…1月6日より2月3日まで)です。
 1月(ウシ)の月なので、守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様です。

21080819 008

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力を与え、行くべき道をお示しくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、出発の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた千手観音様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.25

1月の真言

 1月守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


ワンファミリー仙台さん「一家族の墓」〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.24

寺子屋『法楽舘』 ─第十四回を行います─

 1月8日(土)午後2時より、法楽寺講堂にて、寺子屋法楽舘』の第14回目を開催します。
 
○日時:1月8日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

 昨年一年間、いろいろと試行錯誤を行いましたが、今年は十二回にわたり、じっくりと仏法の根幹を皆さんと共に考えて行きます。
 具体的には、毎回、仏教のベースとなっている教えをお伝えし、それが納得できるか、また、教えが生活にどう実現できるか、よくよく話し合い、ぜひとも、皆さんお一人お一人に「自分なりの仏法の生かし方方」をつかんでいただきたいと願っています。

 もしもなかなか消えない憎悪に苦しんだならば、いかにして心の平穏を保つか──。
 もしも世間の理不尽に義憤が生じたならば、自分に何ができるか──。
 もしも大病に罹ったならば、科学の力や仏神のご加護を総動員して正面から闘うのか、あるいは自己快癒力を信じて闘うのか、あるいは病気と共存しながら運を天に任せるのか──。
 もしも近親者やペットとの不意の別れにとまどったならば、いかにして立ち直るか──。

 仏法には道理と、信じるところに発する救済力があります。決して習俗や慣習だけではありません。
「なぜ、よりによって、自分へこうした不幸が起こったのか?」というやりきれない疑問は、この世と私たちのありようをきちんと知ることによって解消されます。
 私たちは「苦」なる存在であり、四苦八苦はまぎれもなく、ありとあらゆる人にとっての宿命なのです。
 これは、み仏の智慧の力です。
「なぜ、自分はこんなに恵まれないのか?」という淋しさは、他の恵まれない人々への共感と、自分から起こる思いやりとによって解消されます。
 これは、み仏の慈悲の力です。

 仏法を学び実践する人には必ず納得と安心が訪れます。
 そして、納得と安心を持った人にとって、この世はまぎれもなくありがたい修行の場なのです。
 一年間、未熟者なりに自分をかけて皆さんと向かい合い、ぜひとも「生きる道を照らす灯明」という宝ものを一人残らず手に入れていただきたいと念じています。
 特段の事情がない限り、毎月、第二土曜日の午後から開催します。
 どうぞ、ふるってご参加されますよう。
 そして、み仏のご加護を実感していただけますよう祈っています。

〈真実を求めて〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.24

2011年1月の運勢

 平成23年1月の運勢(1月6日から2月3日まで)です。
 運気の流れを参考にして、人間修行六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 今月は自他のためになる智慧で生きるか、それとも自己中心の知恵でやろうとするかによって壁の乗り越えられようが違います。
 仏法を守り広めたアショーカ王は、インドを統一する八年の間に数十万人のいのちを奪った後、深く省みて気づきました。
真理による勝利こそ最上の勝利でなければならない」。
 釈尊の言葉が実感されたのでしょう。

「戦争で百万人に勝つよりも、一人の自分にうち克つ者こそ、真の勝者である」。

 大きな壁が立ちふさがった時に霊性を損なわず、乗り越えるための最も強く確かな力は、真理・真実へ自分を殉じさせようとするところに発します。

二 親しむべき友には、三つの姿勢があれば最高とされています。
①他のため、社会のためを思い、布施行を行っているか。
②自分へ戒めを課し、しばしば確認しているか。
③つまらぬことに動じず耐えられる胆力を養っているか。
 心は環境によって左右されますが、実に、友は最も大切な〈環境〉なのです。
 また、釈尊は説かれました。

「隊商の首長は旅人の友である。
 母は自分の家における友である。
 朋友は事件の起こった時、幾たびも彼の友である。
 自らなした功徳は未来の彼の友である」。


三 辛い時、困難な時、追いつめられた時ほど、人間性が露わになります。
「貧すれば鈍す」に言いわけは効きません。
 現代文明は「生活の利便化」を絶対正義と考え、経済の発展を最重要課題として猛進して来ました。
 その結果、生物の種は生まれる速さの百倍を超える速度で絶滅しつつあります。
 日本もまた数々の難問を抱え、社会の性格を考え直すところに来ています。
 それは、私たち一人一人が根本的に生き方を問われていることを意味します。
 何を大切にして生きるか、いかなる社会であって欲しいと望み、理想のためいかに行動するか。
 他人の主張に惑わされずよく考えてみましょう。

四 異次元を感得したならば臆せず、怖れずに得た感触を確認し、何を意味しているか考えてみましょう。
 私たちの目も耳も鼻も舌も皮膚も、環境世界のごく一部しか、しかも、かなり限定されたレベルでしかとらえられません。
 目は鷹に劣り、耳は兎に劣り、鼻は犬に劣っています。
 第六感に至っては、地震を予知して暴れるナマズや、船の沈没を予知して逃げるネズミはもちろん、近づく猛獣を察知する原始人にすら劣っているかも知れません。
 そんな私たちが五感を飛び越えたような魂の震える感じ方をした場合は、すなおに立ち止まりたいものです。

五 歴史を超えて伝えられているものを見直しましょう。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は、心を定めてなすべきことを淡々と行い開運します。
 不精進の人は倹約せず、みやみに新しいものごとへ走り、失敗しがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は相手の理解力を判断して失敗しません。
 不精進の人は能力の追いつかない人を相手にして失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は時期を失することなく方向転換して無事安全です。
 不精進の人は強情さが災いして意志の通じないままに進み失敗しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は足元を固め内部の充実をはかり成功します。
 不精進の人はチームの和が乱れたままで前進しようとし、予想外の障害にぶつかりがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人はおのずから和ができて新たな場面が開けます。
 不精進の人は思慮の足りないもの言いで不和を生じ、停滞しがちです。
智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は怠らない姿勢が自然に評価されるようになり成功します。
 不精進の人は妄りに動いて自分を売り込もうとし、かえって反発されがちです。

 皆さんのご多幸を祈っています。

〈どうしてこのような色が?姿が?〉
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2010
12.24

例祭だより(12月の第二例祭)

 12月18日(土)第二例祭日です。
 2010年最後の護摩です。
「冬の護摩」で、さすがに寒くめっきり汗の量も減りました。
 今日は風が強く、本堂の横ではためく五色の仏旗も強風でロープがすぐ緩んでしまい、ポールも折れるんじゃないかなというくらい大きくしなってます。
 雨や雪でなかったのが幸いでした。
 年間二十四回続く例祭護摩が無事終わりました。
 ちょっと、ほっとした気持ちです。
 前回の第一例祭と今回の第二例祭では、講堂の灯りを消したままで護摩を焚きました。
 いくらか暗いだけで護摩の炎がいつもより一段と映えて見えます。
 まわりが暗いと炎が本当にきれいです。

 本日の法話の中で、「ままならない」という言葉と「おかげ様で」という言葉が印象に残りました。
 人生の中で自分の意のままにならないということがいっぱいあること。
 おかげ様でという言葉も自分にとっていい時は心から思えるが、つらい時にはとてもそう思えないことがあること。
 自分自身でそういったことをどう考え答えを出していくか……。
私はというと、普段からままならないことだらけです。2011年はままならないことがあっても、つらいことがあっても、「お
かげ様で」と言えるような行動をしたいものです。

 ところで、講堂のわきに御寄進の方々のお名前ボード(すごく大きいボードです)が建ちました。
 講堂の裏にしばらく置いていたものです。
 当初六人がかりで移動して建てる予定だったようですが、Kさんが一人で重機を器用に使い、建ててしまいました。
 びっくりです。
 ご覧になるとおわかりになると思いますが、とても一人で移動設置できると思う大きさではないのです。
 いっそうお寺の外の感じが変わりました。

 すみません、今回の例祭だよりも何を書いているのかなぁと思いながら……。
 2011年もどうぞ宜しくお願いします。

※この稿は、行者丹野明宏君が書きました。

〈厳粛で、温かく〉
221218222 0184




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2010
12.23

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 62 ―導き─

 NHKカルチャーセンターで、今年最後の講話「生活と仏法」を行いました。
 その一句です。

「思いて放逸ならず、仁をなし、仁の迹(アト)を学べば、これによりて憂いあること無く、常に念じてみずから意を滅す」 『法句経(ホックキョウ)』教学品(キョウガクボン)第二

(気まま勝手な思考にふけることなく、慈悲を行い、慈悲ある人の教えを学べば憂いは消える。常にこのことを心に抱き、煩悩を克服せよ)

 釈尊は生涯かけて、放逸を堕落の道であると指摘し続けました。
 自らを律する心構えがなければ、私たちは古い脳に動かされてワニのような弱肉強食の残忍さを発揮し、ネズミのように自己本意ですばしこく立ち回ろうとしかねません。
 人間がけだものと違う人間本来の生き方をするためには、〈人の間〉にあって、ワニやネズミの面を抑制しつつ、人間でなければ発揮できない尊さを発揮できるようになる必要があります。
 オオカミに育てられ、発見された後、懸命の指導にもかかわらずほとんどけだもののままで逝った少女マカラは、このことを最も悲惨な形で証明しました。

 12月21日付の読売新聞は、人の間にあることを避け、自分の都合でのみ人と接しようとする現代人の性向に潜む問題点を指摘しています。
「警官も拒む『城』」という記事です。

 横浜市港北区の「新横浜地区」では、60棟以上の高層マンションに1万人近くが住んでいます。
 大半はオートロック付きで、街頭には市の設置による防犯カメラが約40台あります。
 この地区では、今年の1月から11月までの間に、ひったくり8件、車上狙い10件、自動車盗9件など237件の刑法犯が発生し、発生率は隣接地区の約4倍にのぼっています。
 6月以降に起きたひったくり事件では、まったく目撃者がいません。
 平成20年8月に東京都心の高層マンションで起きた事件は、こうした世情の持つ恐ろしさを示しています。
 8月のある日、敷地内で血を流して倒れている男性(後に自殺と判明)が発見され、警察官が駆けつけました。
 ところが、警備員は「事前の立ち入り許可がない」と立ち入りを拒否し、警察官が男性のもとへ行くまで1時間を要しました。
 男性は死亡しました。
 マンションの管理会社は、警視庁の厳重抗議にもかかわらず、今後も、事前許可なしの警察官立ち入りを拒否し続ける方針です。
 大義名分は「住民のプライバシーの保護」です。
 住民の多くはこのできごとを知らず、事実に驚いた女性住民は記者へこう言いました。
「私は、何か犯罪が起きても、警察がすぐに入れない建物に住んでいるということですか?」
 こうしたマンションでは地域住民が作った「防犯ニュース」などの配布にも関心が薄く、港区のマンションで二人一組の警察官が1棟づつ訪問して「連絡カード」を回収した際の状況には驚嘆させられました。
 約500世帯へ犯罪や事故が起きた時の連絡先を書き込んでもらうカードを各戸へ配布したのは8月。
 以後、3ヶ月で50回近く(!)足を運んでも回収できたのは200戸だけです。
 記者が同行した日は未回収になっている約150戸のチャイムを鳴らしましたが、回収できたのは4戸分でした。

 読売新聞社論説委員の辻篤子氏は警鐘を鳴らしています。

「約6500万年前、地球上5度目の大絶滅では巨大隕石が恐竜を滅ぼした。
 6度目の今度は、人類が現代の巨大隕石だという。
 それが私たち自身の危機でもあることに気づかねばならない」
「『都市周辺のさなぎのような世界』では、人間は本来、健全に生きられないのだ」

 限りなく〈人の間〉にあることを避けようとする私たちは、果たして、人間が〈より人間たり得る〉社会をめざしているのでしょうか?
 他人から切り離され限りなく閉ざされた空間で、私たちは、秘かに放逸になってはいないでしょうか?
 この先、孤立し、放逸になった人間が暴発して引き起こす犯罪が増えはしないでしょうか?
 閉ざされた空間の安全性と、〈外〉の安全性は反比例となりはしないでしょうか?
 〈外〉への不安は互いの人間性を高めるでしょうか?
 他人への不信は自分への不信へと跳ね返り、個々人の人間性が歪み、崩壊する危険性はないでしょうか?
 人間への不信をどんどん深めた文明は、健全な創造力を保てるでしょうか?
 破滅しないで済むでしょうか?

 さて、「仁」は慈悲と同じですが、原文では「沈黙の行」と相応しており、瞑想という修行が放逸を抑え、憂いを除き、煩悩を滅する方法であるということです。
 心を深めた先に、おのづから智慧がはたらき、慈悲心が起こります。
 慈悲心は思いやりという形で発揮され、その核心は、他人への優しさです。
 当山では真の優しさをつくるために以下の誓いを立て、瞑想を行います。

①我、人を信じ、優しさに生きん
②我、人を認め、優しさに生きん
③我、人に教え、優しさに生きん
④我、人に与え、優しさに生きん
⑤我、人を守り、優しさに生きん

 放逸にならず、慈悲心を育てましょう。

〈雨が降ろうと風が吹こうと、ただ、咲く〉
221210 017




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2010
12.22

『大日経』が説く心のありさま六十景 その21「商人心(ショウニンシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第21回目です。

21 商人心(ショウニンシン)
 これは、儲けようとする心です。

「初めには収聚(シュウジュ)して、後には分析(ブンシャク)する法に順修(ジュンシュ)す」

 初めに商売になりそうなものを安く集めて、後に分類して売り、利益を出そうとする心です。

 み仏の教えは膨大です。
 無限です。
 目先のきく人は、教えが宝の山に見えるかも知れません。
 なぜなら、あたかも薬のように、欲しい人々へうまく教えれば、尊敬やお布施をたくさん得られるかも知れないからです。
 事実、さまざまな経典を切り張りしたようにして興る新興宗教は後を絶たず、仏教だけでなく、さまざまな宗教をモザイクのように利用して新説を装う教祖も珍しくありません。
 そして、教説のまとめ方やアピールの仕方や組織作りなどいわゆるマネジメントに長けていれば、教団が一気に膨張する場合もあります。

 大日如来は、こうした「はからい」を否定しました。
 もちろん、世間で行われている商売そのものを否定しているのではありません。
 教えを学ぶ者が、それを我がために利用しようとする心を戒めたのです。
 仏法を学び実践する行者はすべて、菩薩への道を歩んでいます。
 たとえ教えの一句しか頭に入っていなくても、それを宝もののような導きの灯火とし、悩み苦しむ人々と接する時に惜しみなく伝えずにいられないのが真の行者です。
 いかに万巻の経典が頭に入っていても、それをうまく利用して尊敬やお布施を集めようとするならば、行者としては失格なのです。

 慈悲の「悲」は憐れむ心ですが、仏法における憐れみには大きな特徴があります。
 それは、相手を選ばない、生きとし生けるものへ対して平等にはたらかねばならない、という点です。
 武田信玄が今川・北条連合軍と戦っていた時のことです。
 領土が海に面していない武田勢を困窮させるため、連合軍が「塩止め」を行いました。
 生活に欠かせない塩を武田領内へ持ち込ませないという兵糧責めに出たのです。
 それを見た越後の上杉謙信は、武田信玄が、場合によっては上杉を滅ぼしかねない長年の宿敵であるにもかかわらず、領内から信濃へ塩を送って救いました。
 自らを毘沙門天の生まれ変わりと信じ常に「義」を第一としていた上杉謙信は、後に「女性説」が出るほど憐れみの心が深い武将でした。

 仏法を学び実践して培われる智慧慈悲は、決して「我がための利用」という手段に結びつきません。
 縁の相手へ与えずにはいられないからです。
 この「相手を選ばず与える心」が慈悲の「慈」です。
 母親は、できの良い子供を可愛がり、手のかかる子供を厭うことはありません。
 むしろ、「手のかかる子供ほど可愛い」といいます。
 私がこの道へ入って間もなく、師僧から言われました。
「お前のようなのはとても手がかかる」
 娑婆でさんざんやらかした人間には、「うまくやろう」とする習性が甲羅のようにこびりついているからでしょう。
 実際、いまだに自分の心がどうなっているかを検証しては祈らずにいられないのが現実です。
 あの時、師の目からあふれていた慈悲の光は忘れられません。

 与えずにいられず、憐れまずにいられない慈悲心と、宗教を自分のために利用しようとする心とは相容れません。
 仏法を商人心で利用してはいないか、自分を省み、周囲の宗教団体をチェックしてみたいものです。

〈陽だまりに〉
221210 011




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。






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2010
12.21

12月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った12月の俳句です。
 毎月の投稿も、とうとう、師走俳句となりました。

小春とは時がやさしく過ぐること

 晩秋から初冬にかけて、暖かく穏やかな一日の訪れに喜ぶことがある。
 寒さが日に日に増して厳しいと感じ始めた頃、思いもよらぬ暖かさに会うと、優しさや救いを感じる。
 作者はその中に身を置き、時の流れにたゆたう心地よさをまっすぐに詠んだ。

淋しさのかたちさまざま日向ぼこ

「日向ぼっこ」には動きや遊びのイメージが強く、「日向ぼこ」には静けさや優雅さが感じられる。
 外は寒風でもガラス一枚隔てた廊下は温室。
 陽光を浴び、心が解き放たれているうちに淋しさが兆した。
 それはきっと、刃のようなものではないはず……。

小恙(ショウヨウ)の一日が愛(イト)し日向ぼこ

「恙」は病気であり、「小恙」はちょっとした患い。
 作者は、深刻でない病気にかかった身体を陽当たりの良い場所に置いて休んでいる。
 あまり動き回らないようにしたい状況と日向ぼこがぴったりして、流れる時間を限りなく愛おしく感じている。

冬帽子かぶりて老をかくしけり

 帽子の庇で光が遮られると顔の表情に微妙な陰が射して美人に見えることを「帽子美人」と言う。
 また、帽子をかぶると、自分が普段とは違って見えることが意識され、そのことによって少しおすまし顔になったりもする。
 隠したいものを隠せれば結構。

冬帽の眼深に星の濃き夜かな

 作者は冬用の帽子を目が隠れるほど深くかぶり、寒い夜道を歩いている。
 寒さで身を縮こまらせ、目線をやや落とし気味にしていたが、ふと、風のない穏やかさに誘われ、夜空へ目を転じた。
 冷たい空気に星々がよく光り、暗い夜空は思いもよらず賑やかだ。

散りきって広き空あり冬木立

 すっかり葉を落とした木々は、葉が茂っていた頃には見えなかった空を見せている。
 葉を抱え強い力で空を遮っていた枝たちは、空の広さを隠しきれないにもかかわらず、頑張って細々と痩せた手や指を伸ばしている。
 高い空は何くわぬ顔で広がっている。

陽のひかり薄く短く師走かな

 冬の日光はどこか頼りなく物足りない。
 ましてや師走の時期は、「終わり」というイメージがあるのでいっそう〈衰弱〉と感じる。
 もしかして、「薄い」には、年越しが辛い境遇にいる人々が感じているであろう「世間の薄情さ」も隠されているのだろうか。

あっと言う間の一年や年の暮

 今月の作品群には、とても簡素でまっすぐな趣がある。
 この句などはその代表と言える。
 種田山頭火、尾崎放哉、金子兜太といった面々の俳句を調べてみた限りでは、類するものはない。
 よく「年をとるほど時が早く過ぎる」という。
「えっ!もうお正月?」が実感。

信号を誰もが信じ街師走

 師走になると、歩く人の速度も、通る車の速度もいつもより速く感じる。
 横断歩道で青信号になるのを待っていた人々のうち数人は、色が変わりきらないうちにもう、脇目もふらず小走りになる。
 じっと眺めている作者は思う。
「信じているのねえ」。
 斬新な視点である。

豆腐や茶箪笥(チャダンス)卓袱台(チャブダイ)遠き日よ

 作者は使い慣れたちゃぶ台で湯豆腐を食べている。
 壁際には、やはり使い慣れた茶だんすがあり、馴染んだ空間はいつもと変わらない。
 安心へ身を委ねているうちに記憶が時間を遡る。
〝……あの頃も同じような空間にいた〟
 帰らぬ光景は湯豆腐へいかなる味をもたらしたのだろう。

台ケ森温泉のお迎え〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.20

平成23年の運勢(2011年の運勢は?)

 平成23年運勢です。
 2011年はいかなる年になるのでしょうか?

 運勢は運の勢いであり、その方向性や力や影響力などを知っているのと知らないのとでは、当然、結果が違います。
 ただし、運勢運命を決めるものではありません。
 その追い風の面も、逆風の面も、すべては生かす智慧のあるなしが、運命をいかに創るかを決めます。
 いのちに宿る宿命を学び、時に伴う運勢を知り、智慧と慈悲の力で佳き運命を創ってください。

【臨】新規のものは順番第一
 およそ、ものごとには必ず手順があります。
 挨拶する相手の順番、料理の下ごしらえの順番、溜まった仕事を片づける順番など。
 孔子は「相手へはまず、思いやりである。余力があるならば書を開きなさい」と説きました。
 特に、新しいことを始めたり、新しい事態へ対応したり、初めて人と会う場合などは、よく順番を考えましょう。

【兵】裏方の活躍
 若き日の故竹下登(元総理大臣)は家が大地主であるにもかかわらず、戦後、率先して農地解放にとり組み、「汗は自分でかきましょう、手柄は人にあげましょう」と生きて、ついに最高の権力を手にしました。
 表で輝くタイプも、裏で力をつけたり、裏から表を動かすタイプもあります。
 故後藤田正晴氏が「カミソリ」と呼ばれる抜群の政治力で中曽根康弘内閣と宮澤喜一内閣を支えたのは有名です。

【闘】動く・待つのバランス
 待つべき時や場面で動いたり、動くべき時や場面で待ったりしてはチャンスを失い、失敗しかねません。
「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス(家康)」か「鳴かせてみせようホトトギス(秀吉)」か、柔軟に判断しましょう。

【者】拒否への対応
 怒りを発し、時には事件や事故をもたらすきっかけは〈拒否〉にあることが多いものです。
 現代人の最も弱いところです。
 すぐに切れたり、逃避したり、いい訳で繕ったりして正面から対応できません。
「おん あらはしゃのう」と何度か念じて心を落ち着け、深呼吸をし、無事、難局を乗りこえましょう。

【皆】渋滞への対応
 ウサギが今年の象徴ですが、跳びはねるようにばかりは行きません。
「滞り」が発生した場合の対応で結果の明暗が大きく左右されたりします。
 渋滞に巻き込まれてイライラするか、真言を唱えるか、懸案を考え直してみるか、心一つで、時の流れの質に天地ほどの差が出ます。

【陳】思いこみは危険
 過度の思いこみは、自滅の第一原因となりかねません。
 新しい発想が生まれたならば、信頼できる人から意見を聞いたり、よく調査したりといった慎重さが求められます。
 振り出しへ戻るだけならまだしも、大きなマイナスとなっては大変です。

【烈】言葉の功罪
 智慧に発した明瞭な言葉は未来を拓く大きな力を持ちます。
 理想はまず、語られねばなりません。
 未来を示す旗は立てられねばなりません。
 一方で、口から一旦出た言葉はもう、飲み込めません。
「覆水盆に返らず」とならぬよう、要注意。

【在】嘘は明らかになる
 手前勝手な嘘や、その場しのぎのごまかしは決して通用しません。
 必ず明らかになると考えるべきです。
 自分を〈この世の王〉として自己中心の言動に走れば運勢は暗転します。
 仏神を崇める心で言動を行えば運勢は好転します。
 言葉は思考の道具であり、思考の表現手段です。
 語られる場合も書かれる場合も人間性が否応なく顕れます。
 適切な言葉が人々の心を動かして未来を拓く一方、「うまくやろう」「うまく逃げよう」は通じないと肝に銘じておきましょう。

【前】離陸時に最警戒
 よく「終わりよければすべてよし」と言います。
 また、離陸時の飛行機事故が発生する確率は着陸時の十分の一以下というデータもあるそうです。
 しかし、今年は「スタートを決められる」かどうかが、その後の経過と結果に大きな影響を与えます。
「ここ一番」の時は卯年の守本尊文殊菩薩様へ念じ正確なロケットスタートを決めてください。

 皆さんの開運を祈っています。

〈護摩の秘法〉
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2010
12.19

苦集滅道(その2)

 釈尊が説かれた『四聖諦(4つの聖なる真理)』から仏法のすべてが始まりました。
 このことは人間が行った最も崇高なできごとだったのではないかと、考えるたびに、泉から清水が流れ出るような気持になります。

苦諦(クタイ)……苦についての真理。すべては苦であるという真理。
②集諦(ジッタイ)…苦の原因についての真理。苦には原因があるという真理。
③滅諦(メッタイ)…苦の原因の生滅についての真理。苦は滅せられるいう真理。
④道諦(ドウタイ)…苦の原因の生滅についての真理。苦を滅する方法があるという真理



③滅諦(メッタイ)…釈尊の言葉「こは苦の滅尽なり」

 病気になれば、必ず「治りたい」と願います。
 健康をとり戻さねばいられません。
 恵まれた環境にいながらにして他人の老いる苦、病気になる苦、死ぬ苦を直視し、それを克服しようとしている行者の姿にうたれた若き日の釈尊は、目覚めました。
 他人の苦を自分の苦と感じ、それは人々の人生のすべてに、影のように伴っていることを知りました。
 知った以上、真摯な若者は放っておけませんでした。
 人生の課題を見つけたのです。
 苦から逃れられない存在として、どう生きるべきか?
「苦は克服されねばならない」とは、人間として最も切実な、根元的な願いなのです。

 そして、悟った釈尊は言われました。

「苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々、──。
 彼らは、心の解脱を具現し、また智慧解脱を具現する。
 彼らは迷いの生存を終滅させることができる。
 彼らは生と老いとの苦しみを受けることがない」

 実に、苦は悟りによってこそ生滅させられるのです。
 悟った釈尊は、万人の願いは必ず達成され得ることを確信しました。
 そこで、釈尊は「成就」を人生の課題とされました。

④道諦(ドウタイ)…釈尊の言葉「こは苦の滅尽にいたる道なり」

 では、釈尊は、人間としての根元的希望をいかなる〈方法〉で成就させたか?
 それが答としてさまざまに説かれています。
 基本的には8つの正しい生き方「八正道」であり、・定(ジョウ)・慧(エ)の「三学」です。
 これを外れた根元的救いはありません。
 根元的とは、苦とその原因を完全に克服すれば、人は二度と苦に襲われず、不幸にはならないという意味です。
 たとえば、酒に溺れる、麻薬に溺れる、怪しい宗教にのめり込むといった方法による〈まやかしの救い〉と比べてみればすぐにわかります。

 正しい見解、正しい生活態度、正しい精進といった道は、めを守らない放逸な人には決して歩めません。
 めを守れば必ず心が平穏になり、心身がその人なりに調ってきます。
 これが「定」です。
 そうして正しく制御された心身の内奥からこそ智慧の光は発します。
 これが「八正道」と「三学」のありようです。
 仏教のいかなる教えも、正しい思考(正思)などを離れてはあり得ず、めを守らない破の先に苦の滅尽が成就することもあり得ません。

 仏教の歴史とは実に、この「八正道」と「三学」に立った〈方法〉の探求にこそあったと言うべきです。
 釈尊はいかに説かれたか、また、史実として遺されていない、あるいは成道後45年間には説かれなかった、あるいは意図して説かれなかった、あるいは入滅後発見された、あるいはまだ発見されていない方法は何か?
 行者、聖者のすべてはこの一事にかけて修行を行ったし、行ってもいます。
 現在、大乗仏教の根幹をなしている布施や、精進の修行道「六波羅密(ロッパラミツ)」も、当然、その精華として伝えられている大切な宝ものです。
 そこで、釈尊は「修習」を人生の課題とされました。

 苦集滅道を考える際、どうしても思い出してしまう釈尊の言葉があります。

「苦しみを知らず、また苦しみの生起するもとをも知らず、また苦しみのすべて残りなく滅びるところをも、また苦しみの消滅に達する道をも知らない人々、──。
 彼らは心の解脱を欠き、また智慧解脱を欠く。
 彼らは迷いの生存を終滅させることができない。
 彼らは実に生と老いとの苦を受ける」

 
 苦しみを知らないなら、どんなにか幸せなことでしょう。
 しかし、釈尊が説く「苦しみを知らない人」とは「人生が根本的にままならないことにまだ、気づいていない人」という意味です。
 身体は健康、頭も良い、お金に不自由なく、地位もあるといった〈傍目には何の苦労もなさそうな人〉も、〈そうでない人〉も、長い人生のうちには等しく〈ままならない思い〉に襲われるのです。
 億万長者が貧しい人から鬼のように憤りながら1万円を取り立てる場面には涙が流れそうになりました。
 彼の苦、あさましさ、哀れさ──。
 権力者が放任した息子の不祥事で没落する場面にも涙が流れそうになりました。
 彼の苦、無念、後悔──。
 彼らが手にしたものが大きいだけ、それにまつわる執着心も、そして苦も大きいのです。

 現実的な苦を感じている人はむしろ、あと一歩で「苦しみを知り、また苦しみの生起するもとを知り、また苦しみのすべて残りなく滅びるところを知り、また苦しみの消滅に達する道を知った人々」になれるかも知れません。
 あるいは恵まれた人生を送っていながらも、若き日の釈尊のように、他人の苦を我がことと感じ取れる心を持った人も又、同じように人生の霊的レベルを上げ、真の幸せを得られる人と言えるでしょう。
 悟りへの契機は、地位や名誉や財産のあるなしにかかわらず、心次第で平等に訪れるのではないかと感じています。

 学びましょう。
 実践しましょう。
 自他の幸せのために──。
 それがすべてです。

〈道理と信じたならば、あとは……〉
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2010
12.18

年忌供養はなぜ行うか?(その3)

 いよいよ、私たちの死後を導くみ仏の順番です。
 私たちが亡き人の供養を行うのは、亡き人が死後の世界で安心の境地へ向かうことを願うからであり、仏法を司るみ仏方がその役割を担ってくださることを信じればこそではないでしょうか。
 日々、ご縁に応じて修法を行っている一行者としてつくづく感じるのは、十三仏による「死後の物語」は、チベットの「死者の書」と同じく、深い安らぎをもたらすありがたさです。
 修法を行う行者に安らぎがもたらされ、供養の祈りを捧げる方に安らぎがもたらされている時、供養されている御霊に安らぎがもたらされていないなどということがあり得ましょうか。

 最近、自分が病気になっただけでなく、ご家族にも重病人が出てとても厳しい状況に陥り、絶望しかけた若者が沈んだ顔でお詣りに来ました。
 お大師様から伸びている金剛の紐を手にし、しばらく「南無大師遍照金剛」とつぶやいていました。
 家へ帰ったところ、伏せっていた病人が「寝てばかりもいられない」と言って起き上がり、若者は車に乗せて外出したそうです。
 お礼参りに来た若者はこう言いました。
「祈りは通じるんですね。
 私も、こうして元気でお詣りできるのはありがたいことだと思い至りました。
 自分でどうにもならない時は、おすがりすれば大丈夫なんですね。
 また、お詣りに来ます!」
 笑顔と力強い声は、初めに来山した時と別人のようでした。

〈大日如来の世界へ入ったお大師様につながっている紐〉

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 み仏へ通じる祈りはこの世の人へ通じ、あの世の御霊へも必ず通じています。
  
 さあ、十三仏様です。
 なお、()内は、修法をしているうちに行者として確立されてきたイメージです。

①初七日…不動明王
 大日如来の使者として迷いを断つ。
 今世の良き業が来世の良き因となるよう、息が静かに収まるよう、導く。
 秘密の名を常住金剛という。
(故人が迷わぬよう、悪しき者が近づかぬよう不動結界で守る)

②二七日…釈迦如来
 無明、煩悩を解き、悟りへ導く。
 怖れを消して安心を与える。
 秘密の名を寂黙金剛という。
(この世で知りそこなった教えを説く)

③三七日…文殊菩薩
 妄想の迷いを断つ。
 諸仏の智慧を一身に体し、理をもって衆生を導き、愚かさを除き、智慧を与える。
 秘密の名を吉祥金剛という。
(仏教の智慧の面を説く)

④四七日…普賢(フゲン)菩薩
 大日如来の教えを聴いて人々へ伝える役割を持つ。
 如意宝に例えられ、悟りを求める心を開発し、清浄な信心を起こさせ、悪しき業障を消滅させる。
 秘密の名を真如金剛という。
(仏教の救済の面を説く)

⑤五七日…地蔵菩薩
 良き結果をもたらす善根を育てる。
 極悪の心を持っていたり、極悪の環境にあったりして幸せ薄い人々を救う。
 秘密の名を悲願金剛という。
(方向の見えない御霊へ安心への道を示す)

⑥六七日…弥勒(ミロク)菩薩
 慈・悲・喜・捨の「四無量心」を体とする慈悲の権化。
 釈尊入滅の56億7千万年後、この世に現れて最後の一人まで救い尽くす。
 秘密の名を迅疾金剛という。
(未来への扉を開ける)

⑦七七日(四十九日)…薬師如来
 生き死にの苦を除くので「薬師」といい、迷いの闇を照らすので「瑠璃光如来」という。
 大日如来や釈迦如来や阿しゅく如来と同体とされる。
 日光菩薩・月光菩薩を左右に従え、とりまく十二神将は十二支に合わせて守護する。
安心世界への足取りを強める)
 
⑧百ヵ日…聖観音菩薩
 誰しもが持っている蓮華のように清浄な仏心を開かせる。
 地獄界や餓鬼界などの苦を見、苦界より引き上げる。
 秘密の名を蓮華金剛という。
(阿弥陀如来の浄土へ導く)

⑨一周忌…勢至(セイシ)菩薩
 苦の闇を照らし、大きな力で貪り、怒り、愚かさを除く。
 次々と心の蓮華を生じさせる。
 秘密の名を持輪金剛という。
(阿弥陀如来の浄土への道行きに勢いをつける)

⑩三回忌…阿弥陀如来
 あらゆるものの真実の姿を照らし出し、永遠に悩み苦しみを離れさせる。
 散乱する心を安定させ、不安を解く。
 秘密の名を清浄金剛という。
(この世で受けた苦を離れさせ、悪業を清め尽くし、太陽の沈む西方浄土で安心を与える)

⑪七回忌…阿閦(アシュク)如来
 悟りを求める不動心が煩悩の悪魔を怖れさせるよう導く。
 鏡へ映すようにすべてをありのままに観る智慧をはたらかせる。
 秘密の名を不動金剛という。
(太陽の昇る東方浄土から転生を始めさせる)

⑫十三回忌…大日如来
 常にくまなく一切を照らし、あらゆる仏徳をもって導く。
 森羅万象の真実の姿を示す。
 秘密の名を遍照金剛という。
 修法に入ったお大師様は天皇の前で生きながら大日如来となったので「遍照金剛」という名を授かった。
(転生へ向かう御霊の行方を照らす)

⑬三十三回忌…虚空蔵菩薩
 虚空から福徳と智慧を初めとして無限の宝ものをもたらす。
 明星を化身として導く。
 秘密の名を如意金剛という。
(人間として転生するための大きな徳を授ける)

 ダライ・ラマ法王は、「死ねば、生きているうちに行った修行内容を確証できる。楽しみだ」と言われました。
 チベット密教を信じる人々は、その心があの世の世界を開くことでしょう。
 十三仏を信じる人々にもまた、その心に応じたあの世の世界がきっと開けることでしょう。

 


「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.17

年忌供養はなぜ行うか?(その2)

 前回、誰へ何を供養するかを考えました。
 み仏と御霊へ、まごころと、まごころを込めたものを捧げるのが供養です。
 そして、たとえば、供えるお線香は精進の象徴であり、お線香のように精進して行くことを誓い、そのように生きる姿を見ていただくことが真の供養であるところまで学びました。
 そうした供養が、供養という行為を実践する人の人間性を高めるのは確かですが、「自分のため」が供養の主たる目的ではなく、あくまでも「み仏と御霊のため」に行うのが正しいことも学びました。

 ところで、Aさんからのご質問には「残された家族が一堂に会して、故人の思い出などを語り合う」のが年忌供養の目的かというものもあります。
 語り合ったり食事をしたりといった行為は、供養に付随したものです。
 葬送に例えるならば、み仏の導きによって故人へこの世とあの世の区切りをつける引導を渡す葬儀が核心であり、告別式は付随した行為であるのと同じです。
 結婚に例えるならば、仏神へ誓う結婚式が新たな出発の核心であり、披露宴は付随した行為であるのと同じです。
 供養は「残された家族」のためでなく、あくまでも、み仏と御霊のために行うのです。

 さて、今回は、初七日から始まる仏事の内容を具体的に検討しましょう。

 そもそも、『梵網経(ボンモウキョウ)』などの経典にある供養は、四十九日までで終わりです。
 文武天皇の大宝3年、太上天皇の七七日供養のために四天王寺など三十三ヵ寺へ使を遣わして斎(トキ)を設けました。
 斎とは僧侶へ斎食をもって供養することで、僧侶の修法という法施(ホウセ)に対して行われる在家信者による財施(ザイセ)です。
 また聖武天皇の天平7年には、親王の薨去に際して7日ごとに斎を設け、七七斎(四十九日忌)まで続け、「以後、例としてこれを行え」と命じました。
 しかし、天武天皇や持統天皇の百ヵ日忌、あるいは聖武天皇の一周忌が行われ、平重衡の三回忌も記録があります。
 後代になると、後白河法皇や明恵上人の十三回忌、あるいは北条顕時の三十三回忌などが行われました。

 年忌供養はインドから伝わった仏教経典ではなく、唐で作られた『十王経』などを根拠にしています。
 中国では儒教の影響で7日ごとの供養法が定まり、さらに、地獄を司る道教の十王思想によって三回忌までが定まりました。
 だから、中国に七回忌、十三回忌、三十三回忌はありません。
 しかし、それを受け継いだ日本では、御霊を厳しく裁く十王へ任せるという思想は育ちませんでした。
 死後の道行きが、み仏のご加護で救われるよう願わずにはいられなかったご先祖様方の心によって十王に対応する十仏が成立し、そして、密教十三仏の信仰を成立させたのでしょう。
 十三仏を配置する十三回の供養法は、いつしか日本で確立した日本独特の供養法です。

 ここで私たちが思いをいたすべきは、死後を導き救う十三仏供養は生前に「逆修(ギャクシュ)」「預修(ヨシュ)」として盛んに行われた点です。
 戦乱などで明日をも知れぬ儚い日々を生きているご先祖様方は、自分の死後、一族さえも滅びたならばもはや供養は行われないので、生きているうちに十三仏をねんごろに供養し、自分や一族の死後の安心を願ったのです。
 貴族や武士は十三仏マンダラを描き、十三仏堂を建て、庶民は石や板へ十三仏を刻んで祈りました。
 私たちへ脈々と受け継がれている十三仏信仰には切実な願いや祈りを重ねた歴史があり、ご先祖様方の智慧や思いが込められていることを忘れぬようにしたいものです。

 十三仏については、これまで、根拠らしいものが語られてきました。
 その例です。
①弘法大師の説
 古来、お大師様の作とされている『弘法大師逆修日記事(ギャクシュニッキノコト)』には十三仏の供養が詳しく説かれていますが、研究の進んだ現在では偽作と見なされています。
②明恵上人の説
 上人が、雲に乗った十三仏のご来臨を夢に見て画に描いたとされていますが、確かめようはありません。
③文観僧正の説
 立川流を開いた僧正ですが、十三仏の編者としての確証はありません。
④満米上人の説
 冥土で十三仏が亡者を救う光景を目撃したという話。

 このように十三仏信仰の起源は定かでありませんが、『弘法大師逆修日記事』が室町時代以前の作であることからしても、日本における信仰の歴史は古く、特に、すべてのみ仏へ祈る真言宗においては、各尊の修法が行われてきました。
 そのマンダラは真言宗における胎蔵界マンダラに拠っており、十三仏もまた、東西南北中央の「五智如来」と、四隅の「四菩薩」と、虚空蔵菩薩、地蔵菩薩、薬師如来、不動明王の構成は金剛界と胎蔵界を合わせたものとも考えられ、真言宗と深い関係があるのは確かです。
 そもそも、「いろは歌」もまた、長くお大師様の作とされており、近年の研究によれば、お大師様より後代の真言僧たちによる合作ではないかと言われています。
 いずれにしても、こうした高度で総合的な信仰上の創造は日本文化の精緻さを示しており、伝承されている修法を大切に守り、実践して行きたいものです。

 なお、注意しておきたいのは、釈尊が口にされたと伝えられているものが仏教のすべてではないということです。
 釈尊が「私は過去に悟られた聖者のレベルに達した」と言われたように、釈尊後も、心を深めることによって広大で新たな悟りへと達した方々(例えば龍樹菩薩や弥勒菩薩やお大師様など)がおられ、時と所を問わず永遠に世界中で聖者たちが深化させ発展させ続けるのが仏教という思想、哲学、信仰の大河です。

〈今日、沈む夕陽は明日また、昇ります。輪廻転生を想います〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2010
12.16

年忌供養はなぜ行うか?(その1)

 青森在住の〈ゆかり人〉Aさんからご質問がありました。

「来年の1月に妻の一周忌を迎えます。
 そこで、伺いたいのですが、一周忌の意味合いというのは、残された家族が一堂に会して、故人の思い出などを語り合う、生きている者のための供養なのか?
 それとも、仏様になっていくために必要な引導としての意味も持つものなのか?
 こうしたことが分かりません」

 年忌供養はとても大切な、そして、意外に本当の意義が知られていない問題です。

①まず、「供養」を考えましょう。

 供養は、「供え養う」と書きます。
 誰に供えるか?
 それは、み仏であり、御霊(ミタマ)です。
 仏教は「人間は死ねばゴミになる」とは考えません。
 死んでも何かが残ると考えます。
 〈何か〉は物理的に〈在る〉とされる実体は持たないけれど、私たち現代人のレベルでは存在の仕方がはっきりとはわからないままに、〈何ものか〉として〈在る〉と感じられ、信じられる〈異界〉の存在です。
 それを当山では御霊とお呼びしています。

 私たちは、手を合わせて心を深めれば通じる〈尊い〉としか言いようのない方々へお供えをします。
 合掌自体がすでに心を供えることですが、それだけでは到底もの足りず、何か形あるものを捧げなくてはいられないので、自発的にお線香やお花などを用意します。
 私たちへそうさせる尊さを持っておられるのが御霊です。
 
 さて、勉強会では時折、こうした質問が出ます。

「仏教は創造神も、魂も、何も認めず、すべては空(クウ)であるという立場ではありませんか?」

 確かにそうです。
 しかし、ダライ・ラマ法王は、ハーバード大学で明確に説かれました。

大事なことは、科学によっては見出すことのできないものと、存在しないことが科学によって証明されたものとを区別することです。
 科学によって『存在しない』と帰結されたことについては仏教徒も従わなければなりません。
 しかし、そのことと科学では確認できないものがあるいうこととは全く別のことなのです。
 
 世の中にはきわめて多くの神秘的な事柄があるのは明らかです。
 人間の感性には限界があります。
 しかし、わたしたちはわたしたちの五感を越えたものについて、それが存在しないということはできないのです。
 わたしたちの祖先が五感によって知覚できなかったもので、現在のわたしたちが目の当たりにしているものは山ほどあります。
 それと同様に、現在わたしたちが知覚できないことでも、将来理解できようになることがたくさんあるに違いないのです」


 感得できる尊い存在へ、尊い心の促すところに従ってまごころと、まごころをこめた供物を供えましょう。

②何を供えるか?

 もちろん、供えないではいられない〈まごころ〉を供えますが、五感のある私たちはその表現方法として、目に見え、耳に聞こえ、鼻で嗅げ、舌で味わえ、肌で触れる〈佳いもの〉として、お線香や、お花や、お水や、灯明や、食べものや、塗香を供え、そして読経や写経をも行います。
 これらの意義については、供養を行う場合の『六つの誓い』を書いておきます。
 誓いが実現されれば、理想の人間像である菩薩(ボサツ)になれます。

布施の心】
 我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん
持戒(ジカイ)の心】
 我、塗(づ)香(こう)のごとく、自他を清め、浄戒そのものになり果てん
忍辱(ニンニク)の心】
 我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん
精進の心】
 我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん
【禅定(ゼンジョウ)の心】
 我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん
智慧の心】
 我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん

③次に、誰のためなのかを考えましょう。

 これまで考えてきた通り、得も言われぬ尊さを感じるみ仏や御霊のためにそうしないではいられない気持から行うのが供養であり、当然、供養の相手はみ仏であり御霊です。
 だから、Aさんの場合は、まず、御霊と私たちをお導きくださる本尊としてのみ仏へ供養し、同時に、一周忌を迎える奥さんの御霊へ供養することになります。
 これもよく聞く説ですが、当山は、そう判断してはおりません。
「供養は、いなくなった人のためでなく、自分のために行うのです」
 供養の真の動機、純粋な動機をよく考えれば、「自分のため」はいかがなものであるか、理解されることでしょう。

④前項をふまえた上で、何を捧げるかをもう一度、考えます。

 たとえば、水を捧げる場合、「我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」と誓います。
 それは、水というモノを供えるのは、モノ自体に真の意味があるのではなく、モノに託す心にこそ真の意義があるからです。
 心を伴わせなければ、行為は、ただの慣習でしかありません。
 水を供える時は、生きとし生けるものを潤し、汚れを清める水のように、自分も誰かの何かのためになり我欲を清めようとする尊い「布施の心」をこそ、供えねばなりません。
 み仏と御霊へそのように誓い、そのように生きる姿を見ていただくことが真の供養なのです。
 これで初めて、人間にしかできない〈生きた宗教行為〉となります。

 古来、行われている六種供養はすべて、人格を高める誓いを伴います。
 だから、真の供養を行えば、それによって供養する本人が必ず、人間的に向上します。
 徳が〈養われ〉ます。
 モノと一緒に、養われた徳を供えて初めて、供養は完成します。
 自分のためになるのはあくまで「結果として」であり、「自分のために」供養を行うということにはなりません。
 ここを勘違いしないようにしましょう。

※自分のための修行としては、供養によって運勢を変える願のかけ方があります。
 以前、ブログ「幸せをもたらす五種供養 ―五輪と供養―」に書きました。
 再掲しておきましょう。

 み仏を供養してご加護をいただくための「願(ガン)」について記します。
 地・水・火・風・空の五輪に合わせて、どのように願をかければ良いか。

1 花を捧げるのは「地」の徳をいただく供養法です。
 大地のように堅固な身体と生活の根である家庭の安定を願いましょう。
 体調不良が続いたり、家庭生活に波風が立ったりしたなら、この供養法で修行しましょう。
 ※忍辱行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」
 
2 水やお茶などを捧げるのは「水」の徳をいただく供養法です。
 水が入れ物に合わせて姿を変えるように、人間関係を含めた環境に適応した生き方ができることを願いましょう。
 環境とうまくやれないなら、この供養法で修行しましょう。
 ※布施行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」

3 灯明を捧げるのは「火」の徳をいただく供養法です。
 マッチの火で灯明を点すように、み仏の智慧を分けいただくことを願いましょう。
 もっと智慧があればと願うならば、この供養法で修行しましょう。
 ※智慧行を護る菩薩様の真言
 「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」

4 供物を捧げるのは「風」の徳をいただく供養法です。
 心の塵を吹き払って清らかな人間になることを願いましょう。
 悪縁を祓ったり、過去の因縁から脱したいならば、この供養法で修行しましょう。
 ※禅定行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」

5 線香を捧げるのは「空」の徳をいただく供養法です。
 線香が燃え尽きた後も佳い香りが漂うように、子孫や後の世代へ徳の香りを残すことを願いましょう。
 未来へ良きものや善きものを残したいならば、この供養法で修行しましょう。
 ※精進行を護る菩薩様の真言
 「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」


〈ついにやってきた冬将軍〉
221210116 002




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.15

苦集滅道(その1)

 釈尊が説かれた『四聖諦(4つの聖なる真理)』から仏法のすべてが始まりました。
 このことは人間が行った最も崇高なできごとだったのではないかと、考えるたびに、泉から清水が流れ出るような気持になります。

苦諦(クタイ)……についての真理。すべてはであるという真理。
集諦(ジッタイ)…の原因についての真理。には原因があるという真理。
諦(メッタイ)…の原因の生についての真理。苦はせられるいう真理。
諦(ドウタイ)…苦の原因の生についての真理。苦をする方法があるという真理。

苦諦…釈尊の言葉「こは苦なり」

 最近の講演で、〈苦〉をこう話しました。
「私たちは誰でも、『──何で、私がこういう目に遭うのだろう』と、決して答の出ない疑問に悩まされる時が必ずあります。
 ここに釈尊の説かれた苦が顕わになっています。
 私たちは、そうした場面でのみ苦悩しますが、釈尊は違います。
 智慧の眼が開き、私たちの存在は根本的にこうした苦的構造になっているのであり、喜怒哀楽に流されているうちは気づかないだけのことであると知ったのです。
 だから、『人生、苦あれば楽ありだから、苦ばかりではない』というレベルの判断とは違います」
 タイタニック号はたまたま氷山にぶつかって沈没しましたが、私たちの世界は、水面下にぎっしりと氷山がある海を航行しているようなものであるとイメージできます。
 そこで、釈尊は「遍知」を人生の課題とされました。
 まず、こうしたありようをきちんと知らねばなりません。
 人生をまっとうに、活き活きと生きるためには、自分と世界の存在がどうしたものなのかを知らねばなりません。
 それは、体調に異変を感じたならば、放っておかず、病院へ行って、病気であるという現実を知るのと同じです。
 弥勒菩薩(ミロクボサツ)は説かれました。

「病は認識されるべきである
 病の原因は除去されるべきである。
 健康な状態は達成されるべきである。
 薬は採るべきである。
 同様に、苦しみは認識されるべきであり、原因は除去されるべきであり、苦しみの生は達成されるべきであり、そしては採用されるべきである
(『ダライ・ラマの仏教哲学講義』より)」

集諦…釈尊の言葉「こは苦の生起なり」

 現象世界のすべては、原因があって生じています。
 たとえ一輪のタンポポでも、ゴキブリ一匹でも、愛する人でも、憎い人でも、原因があってこの世へ生じています。
 私たちは、小さなタンポポを見れば「可愛いな」と思います。
 私たちは、ゴキブリを見れば「嫌だな」と思います。
 私たちは、愛する人を思い出すと「会いたいな」と思います。
 私たちは、憎い人を思い出すと「顔も思い出したくない」と思います。
 こうしているだけでは、いつまでたっても真理を知ることはできません。
 景色を眺めていながら乗っている船が滝壺へ向かっていることに気づけません。
 同乗者と歓談しても、松や岩に眼を奪われていても、すべては、恐怖が訪れるまでの儚い夢でしかありません。
「法眼(ホウゲン…真理を観る眼)によって法(真理)は観られる」と説かれており、子供と同じ心でタンポポやゴキブリや愛する人や憎い人と接しているだけでは、現象世界を成り立たせている原因を知らず、苦から脱することはできないのです。
 いつか必ず「何で……」という果てしない慟哭に襲われ、人生行路を暗い方向へと向かわせてしまう危険性と隣り合わせで生きる私たちは苦を抱えた存在であり、ひとしく、病人なのです。
 病気であると知ったならば、原因を調べ取り除かないでいられましょうか。
 弥勒菩薩が説かれた通り、病気の原因が特定され除去されるのと同じく、苦の原因がはっきりと認識され、取り除かれねばなりません。
 そこで釈尊は、「滅除」を人生の課題とされました。

〈いかなる原因で……〉
221210 025




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
12.14

『NPO法人ワンファミリー仙台』さんにて ─自殺(自死)について─

『NPO法人ワンファミリー仙台』さんにてお話を申し上げました。
 自殺自死)に関する講演だったはずが、すっかり釈尊と仏法の話に飛んでしまい、とても申しわけない事態になったことを、ここで再びお詫び申し上げておきます。
 大変失礼しました。

 理事長の立岡氏に促されて気づき、釈尊とお大師様の最期についての感想を申し上げました。
 釈尊もお大師様も「ご自身で死を選ばれた」と信じており、死の形によって厳粛な死を区別するのは誤りであると考えているからです。

 以下は「自死自殺〉は罪か 3 ─『妻と私』─」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-1593.html)よりの抜粋です。

 思えば、釈尊は、貧しいチュンダから心を込めて作ったキノコ入りの食事を差し出された時、そう遠くない時期に訪れるであろう自分の死を、自ら引き寄せたのではないか。
 釈尊は「生涯で最もおいしい食事だった」と述べ、供養の本質はモノでなく心にあることを教え、施す心の比類ない尊さを称え、チュンダの救済を最後の仕事とされたのだと考えている。
 もしも、釈尊が食事を断れば、哀れなチュンダは供養できなかったからである。
 釈尊が倒れたのでチュンダは狼狽し、後悔の念や罪の意識で狂いそうになったかも知れないが、釈尊の言葉とまなざしによって救われ、真実世界へ誘われたと信じて疑わない。
 
 お大師様もまた、死の到来を正確に悟り、約二年間、〈その日〉を目標に最後の仕事をこなされた。
 偉大な法力を持ったお大師様が死を先へ延ばそうとせず、むしろそれを利用して信念を永久に示されたのもまた、自ら決した死と言えるのではなかろうか。


 以下は「自死自殺)と成仏」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2186.html)よりの抜粋です。

 自死自殺)された方を送ったご家族が、寺院から「自殺された方の御霊はしばらく近辺を彷徨ってから向こうへ行くので、心得ておくように」と告げられました。
「もしかして、成仏できないのではないか?」
 皆さんは不安になりました。
 当山は、俗信はともかくとして、そのような思想に根本的な道理はないと考えています。

 理由の一つは、自死や病死や自然死や事故死など、死ぬ〈原因の違い〉はあっても、それがそのまま〈成仏の違い〉になるなどと説かれてはいないからです。
 私は、釈尊の最期とお大師様の最後は、〈覚悟の上の選択〉だったと判断しています。
 そして、「もう良いよ」とベッドの上に横たわる病人が治療の継続を断るケースもまた、尊い選択です。
 このように自分が選択した死を迎えることは、自死でなくて何でしょうか。
 当山は決して自死を勧めませんが、自死を〈特別の死〉として忌み嫌う姿勢は、み仏の教えとずれているのではないかと考えています。

 理由のもう一つは、葬儀の核心が、教えと法力によって「この世とあの世の区切りをつけること」であり、行者としての僧侶が修行を続ける大きな理由の一つは、プロとしてこの役割を果たすためだからです。
 それは、外科医が研鑽と自己管理を怠らず、腫瘍をきちんと切除するのと同じです。

 以上の理由により、葬儀法がしっかりと行われればいかなる形で向こうへ旅立たれた御霊も決して彷徨わないと断言できます。
 自死された方のご家族や知人や友人の方々、どうぞご安心ください。


 さて、人が自殺に追いやられるような社会的構造は、断固、変えねばなりません。
 社会に最も求められるのは、自由、平等、公平、安心など、社会的正義の実現だからです。
 しかし、自殺を倫理的問題のある〈特殊な死〉として扱うことに根本的な理由はないと考えています。
 もちろん、いのちあるのもはすべて、自分のいのちの存続を最優先させるので、自殺が〈特殊な死〉であるとあると言えないこともありませんが、生きものとして不自然だから忌み嫌われるのが当然であるということにはなりません。

 ただし、考慮せねばならないのは、同じ自殺でも、チューブだらけになった病院のベッドで「もう、いいよ」と自分から帰宅を求め、自宅で逝った人と、仕事に行き詰まって自殺した人とでは、逝く当人はもちろん、ご遺族の気持にも天と地の違いがあるという点です。
 病死であろうと、事故死であろうと、自殺であろうと、無常を示す死の厳粛さは誕生の厳粛さと同じく平等で比べられるべきではありませんが、死の形がご遺族の心へもたらすものは大きく異なり、この面において周囲の人々や社会の心づかいに細やかさが必要であるのは言を待ちません。
 それだけに、「自殺へ決して〈悪〉のイメージをまとわりつかせてはならない」と強く考えています。
 自殺者のご遺族は、得てして自分で自分を問いつめがちであり、そこへ周囲から無言の問いつめを重ねることは、断固、避けねばなりません。
 周囲の人々は、あくまでも厳粛なできごととして真摯に対応すべきではないでしょうか。

 最近、太白区が行った調査では、およそ一日に二人が孤独死を遂げているというショッキングな事実が明らかになりました。
 そのうち自殺者がどれほどおられたのかはわかりません。
 とにかく、社会の無慈悲さによってもたらされる自殺をなくすよう、温かな社会をめざしましょう。

 そして、自殺を考えておられる方は、み仏から授かったかけがえのないいのちを断つという〈この世で最後の決断〉を行う前に、親であるみ仏のご加護を求められるよう、あるいは『NPO法人ワンファミリー仙台』さんなどの信頼できる組織へご相談されるよう強く願ってやみません。
※当山は、宗教者としての信念上、そして物理的問題上、ご来山されての人生相談のみを行っております。
 電話でのご相談は『NPO法人ワンファミリー仙台』さんをご紹介しておきます。022(274)9533です。
 悩めるすべての方々へみ仏のご加護がありますよう。

〈しっかりと……〉
221210 021




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
12.13

お風呂場基金について

 以下は『法楽新聞 護持会だより』12月1日号よりの抜粋です。

『お風呂場建築について』   法楽寺ゆかりびとの会会長 大須賀隆

 私たちは高齢を迎え、さまざまな事情を抱えながらも、前向きに生きて行きたいものと願っております。
 私たちは色々な御縁の中で法楽寺に集い、今ここにおります。
 私たちにとりまして、法楽寺の掲げる明るさや輝きのようなものは、日々の生活を営んで行くうえで、私たちの支えとなっております。

 ゆかりびとの会会員である氏家与資子さんより、御住職と奥様がお風呂場も寝室もない状況のなかで生活されていることについて、10月号法楽新聞に投稿頂きました。
 私たち役員も、御住職のそのような生活状況について十分把握していなかったことについて深く反省するとともに、役員会において話し合いを重ねて参りました。
 そのなかで、講堂建築に際し財政的事情により御住職の住居部分を後回しにせざるを得なかったこと、また、現段階においても住居建築に向ける資金の手当てがつかない状況にあることについて、御住職をふくめた役員会において理解を深めてまいりました。

 ゆかりびとの会としての今後の進む方向につきまして、紙上をお借りし、次のようにお知らせいたします。

(一)お風呂に入りゆっくり疲れを癒すことは、誰しも日々の生活には欠かせません。
 御住職が日々のお勤めや修行を続けて行くには、奥様とともに健康に過ごしていける居住スペースが必要です。

(二)お風呂場建築資金として、約225万円が必要となります。
 お風呂場建築を進めるにあたり、2通りの見積書を取っております。
①お風呂場をふくめた住宅一棟建築の場合:約705万円(消費税込)
 建築規模は15.3坪で、講堂とは別棟で建築することとしております。
②お風呂場のみ建築の場合:約225万円(消費税込)
 講堂にお風呂場を付加する形で増築することとしております。
 この場合、講堂と外観を合わせる必要があり、一般的な場合より割高となっております。
 本来、お風呂場をふくめた住居建築が望ましいところではありますが、高額な資金が必要となります。
 現在141名の会員数では皆様の負担が大きすぎるのではとの危惧もあり、当面、②お風呂場のみ建築することで進めることになりました。

(三)「お風呂場建築基金」を発足します。
 法楽寺の現在の実情では、ゆかりびとの会が主体となり、お気持ちを寄せて頂ける方々を広く募って行くことが必要です。
 基金は一口3千円とし、ご寄付を呼びかけてまいります。

(四)事業を進めて行くにあたり、役員の姿勢について次のように考えております。
 役員は経済的に余裕のある人が選出されているわけではありません。
 さまざまな実情のなかで日々生活をしており、皆様方と同様であります。
 役員だけが責任をとることになってはならないと思います。
 したがいまして、会員の皆様やその他の方々に実情をお知らせし、ご寄付をお願いするにあたり、中心となる役員は10口から20口(役員会全体としては10口以上)を目標に努力して行きたいと考えております。

(五)今後は次のようなスケジュールで進めてまいります。
ゆかりびとの会の口座を郵便局に作り、振替払込口座の開設手続きを行う。
 12月中旬頃に手続き完了の見込み。
②「趣意書」を作成し、「ゆかりびとの会」及び「法楽の会」会員の方々に12月中にご案内をさしあげる。
③その他ご縁の方々には、一月号法楽新聞に同封しご案内をさしあげる。
 以上、役員会として進めております現在の状況についてお知らせ申しあげます。


 以下は『法楽新聞 護持会だより』10月1日号よりの抜粋です。

『ご提案』   会員氏家与資子

 例年にない暑さの日々、残暑も厳しいとか。
 夏バテになる方も多いかと思います。
 突然の書簡お許しください。

 法楽寺のお世話になっている者です。
 盆の墓参りの折、ご本尊に手を合わせてと寺院に立ち寄りました折、御住職より風呂がなく身体を拭いてやすむと話を聞き、百坪もの本堂に生活の場も全部揃っているものと思って居りましたのでびっくりして帰路につきました。
 寺院へのかかわりも、私は仙台に生まれ空襲にあい田舎で寺院を替え、再び仙台の嫁と同居の折、義母の他界で法楽寺の御住職との出会いにて三度目の寺院となり、墓所も移し安心をもらって居ります。
 昨年肺ガンの大手術を受け、第二の命をいただいたような気持でマイペースの日々です。

 さて、法楽寺についてです。
 各々の寺院運営の中で私宅は御住職が建てる場合もあり、又、護持会が本堂も私宅も全てなど色々の様です。  私が仙台にいたころは父が寺にお布施をその都度お渡ししていました。
 三代目の御住職も父のことはお聞きになっており、ご協力しました。
 もしかすると法楽寺は、布施心による寺院への協力がなければ、生活の場をつくれないほど大変なのかも知れません。
 今回、全員賛同とはいかないかとも思いますが、どうぞ会長様より役員の方々におはからいいただき、御住職様の生活の場を考えていただくこと、心よりお願い申し上げます。
 皆様の賛同が多ければ出費もお互い少ないことになります。
 多くの方々の御協力を希い、大変なことと存じますが、一筆をと思いました。御無礼お許し下さい。
 暑さきびしく御自愛下さい。

〈関東の神社前にて〉
221210 016




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
12.12

寺子屋『法楽舘』第十三回が終わりました ─仏教徒の条件─

 おかげさまで、今年最後の寺子屋法楽舘』も無事、終えることができました。
 ご参加いただいた方々、ご助力いただいた方々へ心よりお礼申し上げます。
 まことにありがとうございました。

 さて、相変わらず活発なご意見やご質問が相次ぎましたが、ここで、仏教が仏教であるための三宝(サンポウ)について復習しておきます。

①仏宝(ブッポウ)
 仏陀は悟った存在を指します。
 それは宇宙人や、この世を創った神などではなく人格の完成者であり、私たちはすべて仏陀になる可能性を持っています。
 仏像を作って合掌し経典を読誦するのは、私たちの心におわす仏陀の目覚めをうながすためであり、修行は目や口や耳などを総動員して行われます。
②法宝(ホウボウ)
 教えが宝であるのは、教え通りに生きれば苦を克服できるからです。
 戒めを守り、心を正しく定め、み仏の智慧がはたらく時、あらゆる悩みも苦しみも消えます。
 そして、一旦、この状態に入れば、二度と苦はやって来ません。
 なぜなら、苦をもたらす原因が除去されているからです。
③僧宝(ソウボウ)
 広くは仏宝と法宝へ帰依し、守り、伝える人々であり、それは出家修行者も在家の信者も含まれます。
 狭義では声聞(ショウモン)、縁覚(エンガク)というレベルの悟りを開いたり、菩薩になったりした人々であり、必ず周囲へ救いをもたらします。

 三宝を尊び、4つの真理に納得できれば、すばらしい仏教徒です。

諸行無常
 生じているものはすべて無常である。
②一切行苦
 煩悩をもっているものはすべて〈ままならない〉という苦を抱えている。
諸法無我
 ありとあらゆるものはすべて空(クウ)である。
涅槃寂静
 煩悩が鎮まった境地は寂静である。

 さて、会場から、「皆、空である、無常であるという仏教は寂しく思える」というご意見がありました。
 お答えしました。
「空であり無常であることを悟れば、もう、苦はなくなり、大欲が溢れてきます。
 そして、自分だけが楽になるのではなく、周囲の人々をも楽にしないではいられなくなります。
 つまり、正しく悟れば菩薩になります。
 菩薩は忙しいのです。
 何しろ、船に乗せられる限りの人々を乗せて悟りの境地をめざすのですから。
 そして無事、そこへ降ろしたならば、また、苦の渦巻く世界へ戻り、どんどん船へ乗せねばならず、こうした行き来は、すべての人々から苦がなくなるまで続きます。
 決して寂しくなどありません」

 来年も楽しくやりましょう。

〈ある食堂の前で出逢いました〉
221210 013





「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.11

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その10) ─君子と小人─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

10 君子小人

君子(クンシ)は智者(チシャ)を愛(アイ)す。
小人(ショウジン)は福人(フクジン)を愛(アイ)す。

 君子智慧のある愛します。
 小人は財産のある人を愛します。

 君子とは、必ずしも社会的位の高い王などではなく、学び、心を磨き、自分を高める意欲のある立派な人格者のことです。
 小人とは、その反対に、学ばず、心の成長を求めず我欲に従い、人格的に貧しい人です。

 君子小人の違いは、求めるものの違いがもたらします。
 君子と称されるほどの人は、まっとうに生きるための智慧を求めてやみません。
 書を読み、賢者と会い、精進します。
 一方、小人は自分中心のことごとのみに関心を持ち、財物や地位などを求め、そうしたものに恵まれている人へ近づくことによって自分も得たいと望みます。
 しかし、それではいつまでたっても人間的に成長せず、社会生活上最も大切な信頼や親和や安心が得られません。

 君子と小人とでは、人を観る際の視点が違います。
 君子は人格という〈魂〉を観ますが、小人は財物や地位などの社会的〈衣〉までしか見えません。
 だから、接したいと思う人に違いが出ます。
 目の違いは心の違いによります。
 心を養うには、学び、精進することです。

 君子と小人についての教えはたくさんあります。

「君子は儀に喩(サト)り、小人は利に喩(サト)る」 (『論語』より)
 君子は正義を考え、その実現を求めます。
 小人は自分の利益を考え、それを得ようとします。

「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」 (『論語』より)
 君子は協調性を発揮して他人と交わっても主体性を失わず、つまらぬ妥協もしません。
 小人は表面的に親和し、たやすく妥協しても真の協調性がなく、我を張ったり、皆で決めたことに反したりします。

「君子は豹変し、小人は面(オモテ)を革(アラタ)む」 (『易経』より)
 君子は方向性を変えねばならない時は、豹が模様を変えるように大胆な変革を行います。
 小人は周囲の変化に表向きは合わせても、つまらぬことにこだわったり、言い訳を行ったりして根本的な変革ができません。

「君子はを懐(オモ)い、小人は土を懐(オモ)う。
 君子は刑を懐(オモ)い、小人は恵を懐(オモ)う」
 (『論語』より)
 君子はを考え、求め、小人は土地などの財物を考え、求めます。
 君子は刑罰という法の効果を考えますが、小人は自分への恵み、つまり自分へもたらされる利益のみを考えます。

「君子は泰にして驕(オゴ)らず、小人は驕(オゴ)りて泰ならず」 (『論語』より)
 君子は何があっても泰然としており、つまらぬことに驕ったり高ぶったりしません。
 小人はすぐに驕り高ぶり、泰然と構えていられません。

 正邪善悪を考え、真理真実を求めながら生きましょう。

〈子供たちのサッカー教室〉
221210 001111




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2010
12.10

『大日経』が説く心のありさま六十景 その20「自在心(ジザイシン)」

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第20回目です。

20 自在心(ジザイシン)
 これは、気まま心の極みです。

「思惟(シユイ)して我、一切を意の如く為さんと欲(オモ)う」

 あたかも自在天(ジザイテン)のように、一切を意のままにしようと願う心です。

 自在天は他化自在天(タケジザイテン)の略称で、他人が化した(作った)ものを奪い、自分に在るものとして楽しむ魔ものです。
 中国では、諸外国の文化として表れている音楽や映画や文学作品や工業製品などがどんどんコピーされ、勝手に流通しています。
 まさに他化自在天的状況ではないでしょうか。

 釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)された時、最後に戦ったのがこの魔ものであるとされています。
 なぜ、他化自在天は真理が明らかにされ、この世が真実世界となることに抵抗したのか?
 それは、他化自在天の居場所がなくなるからです。
 他化自在天が迷いの産物であり、朝陽が昇れば朝靄が晴れるように、悟りの陽光に照らされれば存在し得ないからです。

〈「マンダラ図典」より〉
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 さて、密教における最奥の経典である『理趣経(リシュキョウ)』が説かれたのは、他化自在天の宮殿であるとされています。
 なぜか?
 一つには、菩薩(ボサツ)に十波羅蜜(ハラミツ)という修行の段階があり、他化自在天宮は、布施波羅蜜から始まって6番目の智慧波羅蜜が成就された世界であるからです。
 それにしては、魔ものが住むことと智慧の修行が完成することとは、あまりにそぐわない感じがあります。
 だから、この問題には、もう一段進んだ深い解釈があります。
 
 そもそも、私たちが持つ気まま心は、何でも思い通りにしたくていつも悪の近くをウロウロしていますが、何とか持ち堪える人が多いために、社会はおおむね平安を保っています。
 もしも、殺したり、奪ったり、犯したりする悪へ傾く人が多くなれば、社会は不安に満ちてしまいます。
 こうした危うい気まま心ですが、智慧が発揮されれば、それはたちまち大いなる意欲として自己を高め、他のためにならないではいられない大欲(タイヨク)になります。
 だから、迷いの世界で欲の極みを発揮している他化自在天は、悟りの世界(本源の世界)では、大欲にあふれた存在なのです。

 意欲のない人が他のため社会のため、大いに役立てるはずはありません。
 意欲のある人こそが役立てる、つまり、菩薩になれるのです。
 最近、ある寺院でお聞きしました。
 若い頃、暴れまくった不良少年だった人が、ふとしたきっかけから仏心に目覚め、今では寺院を支える陰の功労者になっているそうです。
 それと同じく、智慧のあるなしによって天と地ほども異なる欲の権化が住む他化自在天宮こそ、大欲に輝く真実世界を明らかにする『理趣経(リシュキョウ)』が説かれるべき場所だったのです。
 他化自在天が、仏法を守護する神としてマンダラ内にその位置を占めているのも当然です。

 私たちが持つ、「何でも思い通りにしたい」という気まま心(自在心)は、私たちが「おかげさま」「おたがいさま」の世界にいることに気づきさえすれば、「自分も誰かの何かのためになりたい」という菩薩の心に切り替わります。
 そのために必要なのは、そうした真実世界を知る智慧であり、真実世界を観る目です。
 み仏の教えを学び、せっかく持って生まれた意欲大欲として発揮ながら生きようではありませんか。

〈この力〉

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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2010
12.09

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 60・61 ―戦争の話─

 11月24日はビデオ『蘇る空海』の下巻を観賞し、開戦の日と重なった12月8日は太平洋戦争について語り合いました。

 仏法は徹底して平和を説きます。
 なぜなら「他を害すること」を悪と観るからです。
 それが悪である理由は、誰も害されることを望まないからです。
 釈尊もお大師様も、為政者が人の道を踏まなければ多くの人々へ不幸がもたらされると考え、国王や天皇などの教化にも熱心にとり組みました。

 質疑応答では、戦時を生き抜いた方々から貴重なお話をお聞きしました。

「兄は江田島海軍兵学校で学んでおり、家族は皆、いつ出征の連絡が来るかと思っていました。
 ところが終戦間際のある日、パリッとした軍服を着て帰宅したから大騒ぎになりました。
 そして、兄の話を聞いた家族はさらに驚かされます。
 担当教官は訓辞しました。
『この戦争は負ける。
 君たち前途有為の若者たちをこれ以上、死なせるわけにはゆかない。
 君たちは、敗戦後の日本を背負わねばならない。
 すぐに荷物をまとめて帰省せよ。
 学校はやがて閉校とする』
 兄は命令に従って帰省したのでした。
 こうした事実はほとんど知られていません」


 戦争が始まり、陸軍士官学校は英語教育を廃止しました。
 しかし、海軍兵学校の井上成美校長は、世界を相手にする人間が世界中で使われている英語ができなくてどうするのかと強く主張し、最後まで英語教育を行いました。
 きっと、そうした自由闊達な校風が引き起こしたできごとだったのでしょう。
 ちなみに、当時の生徒たちは、「五省(ゴセイ)」による一日の締めくくりを日課としていました。

一、至誠(シセイ)に悖(モト)る勿(ナ)かりしか
 誠を尽くしたか
一、言行に恥づる勿(ナ)かりしか
 言葉と行動が一致していたか
一、気力に缺(カ)くる勿(ナ)かりしか
 充分な精神力をもってなすべきことを行ったか
一、努力に憾(ウラ)み勿(ナ)かりしか
 できる限りの努力を尽くしたか
一、不精に亘(ワタ)る勿(ナ)かりしか
 精一杯の精進を行ったか


 戦後、「五省(ゴセイ)」に感銘を受けた占領軍は、アメリカの兵学校などでもこれを用いるようになりました。

「叔母は、空襲のサイレンを聞き、子供を蒲団にくるみ押入へ隠してから、食べさせるものを取ろうと外へ出て、機銃掃射にやられました。
 空襲がやみ、負傷者を集めるトラックが来て、倒れていた叔母は投げ入れられるように荷台へ積まれ、燃え残っていた近くの学校へ運ばれました。
 医師もいなければ薬もありません。
 横たえられ、呻き声を上げる負傷者たちへ女学生が赤チンキを塗り、誰かの布で血止めをし、かいがいしく看護をするだけです。
 その夫と幼い娘が薄いお粥を持って駆けつけた時、叔母の横には背中を撃たれた韓国の青年が横たわり、まっ先に学校へ駆けつけた仲間たちに手当を受けていました。
 韓国の人々は、持っていた貴重なおにぎりを娘へ分けてくれました。
 やがて叔母は息を引き取りましたが、おにぎりに支えられた小さないのちは大きく伸びて教師となりました」


 こうした実話を聞かせてくださったお二人は、若い世代に『はだしのゲン』と『火垂るの墓』へ関心を持ってもらいたいと願っています。
「お前も麦のようになれ。踏まれても踏まれても、たくましい芽を出す麦になれ」( 『はだしのゲン』より)
「節子、何舐めとるんや。これおはじきやろ」(『火垂るの墓』より)
 来年、この2本を観賞する機会をつくります。
 決して戦争を起こさない日本にするため、皆で真剣に考えましょう。

〈共に咲いてこそ〉

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2010
12.09

寺子屋『法楽舘』 ─第十三回を行います─

 12月11日(土)午後2時より、法楽寺講堂にて、寺子屋法楽舘』の第11回目を開催します。
 
 今年最後の開講となります。
 おかげさまで、毎月一度づつ継続できました。
 皆さんのおかげであり、心より感謝申し上げます。
 今回は、前回に引き続き、大映映画『釈迦』の後篇を観賞し、釈尊の入滅までを考えましょう。
 質問の時間もありますので、どうぞふるっておでかけください。

○日時:12月11日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

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真実智慧とは】
○自己を確立する
  主体性があり、心が安定している状態になる。
正法を弁(ワキマ)える
  真実をきちんととらえ、理想を持つ。
信仰を確立する
 「信」とは人の言葉に偽りのない、明白で純粋な状態。
○自己に衆生(シュジョウ))を観る
  自分の心もいのちも衆生とつながっていることをつかむ。

【人生の楽しみとは】
○生涯、徳行を続ける
  人格を高潔に磨き続ける。
○信念を確立する
  人生に疑いがなくなる。
智慧を得る
  明確な心で生きる。
を為さなくなる
  行ができなければ、自分への不安はなくなる。




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2010
12.08

少女と死と虚無と ─小柳玲子著『黄泉のうさぎ』─

 詩人小柳玲子氏は、息絶え絶えで生きる少女終戦前後を書いた。

 数学者の父。

「考えても考えなくても死は勝手にやってくるさ、と父は言った。
 私の数式は考えなければいつまでも闇の中にいる。
 それだけのことだよ。
 ただし闇のなかから引きずり出したらいいというばかりのものではないさね、此の世では。
 闇の中で美しく眠っているものもいる。」

 寝ても起きても〈解〉を求めてやまない数学者がなぜ、「闇の中で美しく眠っているものもいる」と言ったのだろう。
 横綱白鵬が双葉山の連勝記録を越えかけていた時に感じた、聖なる領域への畏怖といった感覚を、数学者も、時として持つのではなかろうか。
 理性の限界という扉の向こうに限りなく美しいものがあることは直感できる。
 扉を向こうへ押し開けたいと願う一方で、開ければまた、その向こうに扉があることはわかっており、最奥へは決して到達できない。
 そこは聖域であるがゆえに絶対の美に満ちており、美はふれられないがゆえに、眠りから覚めない。

 空襲が終わり、被災者には一かたまりの蒸しパンが与えられた。
 二つに分けた父は、大きい方を少女の分として渡し、小さい方を「三口ほどで」食べてしまった。
 熱と悪寒のに襲われて食べられない少女へ、「熱がさがるまで、とっておこうね」と言う。

「しかし父にはそれができなかった。ほとんど聞きとれない言い訳の言葉をつぶやいて、父は私のパンの半分を口に入れた。
 それから、さらに残りの全部をほおばった。
 一分とかからなかった。
 その二、三日、かぶの葉と一切れの干し魚しか入っていなかった父の胃の腑に蒸しパンは小さすぎたのだ。
 最後のパンが喉を通っていく時、たとえようもなく悲しげに父は泣いた。」

 作者がこの場面を書いたのは、父が泣いてから半世紀後である。
 詩人の魂は鬼神のような力を持っている。
 子供の食糧を口にして生き延びるほどの悲しみが他にあろうか。

 昭和20年、8月15日、父は「とても、とても大事なお話しがあるそうだ、天皇陛下からね」と言い、ラジオを聴きに村長の家へ向かった。
 作者は伏せっている。

「私の熱は高かった。
 父が村長宅へ行ってしまうと、土蔵の暗がりは不思議なものたちでいっぱいになった。
 オキキさんや、小さな叔母、曽祖父は片腕がなかった。
 風売りの小さな男が秋の風をひとつまみ私の掌ににぎらせた。
 『おやすみ』『おやすみ』とみんな声をあわせて歌った。
 それが幼い私が迎えた終戦だった。」

 異界のものたちに囲まれながら病床で迎える終戦もあったのだ。
 この8年後、胸を患った私も病床でじっと仰臥していた。
 西側の障子が橙色になり、やがて紫色になる頃、天上の真下を火の玉たちが東から西へと、西から東へと列になって飛ぶ。
 闇が部屋を閉ざし、寝たままで本が読める装置(父が作ってくれた)から視線を瞼の裏側へ移すと、宇宙には紫色や紅色の渦巻が飛び交い、やがて、この世の終わりを告げつつ、火の玉群が雨のように落下する。
 病床では、異界のものや破滅の使者も親しい。
 やってくるものだけが親しいのだ。

 周囲へ苦を及ぼしつつ生きた叔父が天城の山中で服毒自殺した。
 少女へいつも寄り添っている〈うさぎ〉が言う。

「叔父には辛いことが多すぎたので『みんな許しておやり』とうさぎは言った。
 許してやれないほど悪いことは、この世にそんなにありはしないさね」

 うさぎに託した作者のつぶやきは重い。
 わずか8歳の胸から、本当にこうした思いが湧き出たのだろうか?
 釈尊は「心のやすらぎは最上の幸福」と説かれた。
 もう、それを得ているではないか……。

 不幸な家庭環境にあった少女は「お母さんやその兄弟を憎んでおいでかな」と尋ねられる。

「──憎んでいるほうがましなくらいです。
 憎しみは人を接近させる力があります。
 私のは無関心です。」

 少女は危ういところにいる。

 10歳になり、父の引くリヤカーで転居した少女は夕闇の中で危険な者の〈訪れ〉を知る。

放心荒廃が、戸袋や床の下から姿をあらわし始めていた。
 彼らは二人の間に生まれた、小さな子供を抱いていた。
 その奇態な赤ん坊は白いカビのような掌で夕闇を掴んでは吸った」

 しかし〈うさぎ〉が救う。

「突然『あいつらには気をつけなさいよ』と言った。
 放心荒廃にね。
 もっと悪いのはあいつら二人から生まれた赤ん坊です。
『あれは育つのが早いんです。ことにこういうじきにはね』
 うさぎは(きょむ)という赤ん坊の名前を教えてくれた。
 その耳新しい名前は、うさぎの嫌悪にもかかわらず、何故か私には親しいひびきがあった。
『小さいうちに追い出しなさいよ』とうさぎは言った。
 ──あれはとてもみにくい顔をしています。
 あれを蔓延らせてはいけません。」

 夜明け近くに、壁からはい出す赤ん坊と少女は対決する。

「『来ないで!』私は思わず、手をあげて、その赤ん坊を拒もうとした。
 すると(きょむ)も嗄れた声をたてて、私の方へ、そのやせた手をふりあげた。」

 勝敗の帰結はわからない。
 しかし、成長した少女はやがて、画家長谷川潾二郎を見いだし、その画集を発行した。
 赤ん坊に克ったのだと思いたい。

〈黄泉のうさぎ〉
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