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2011
01.31

感謝から悟りまで

 私たちが我欲を離れ、互いに傷つけ合うのではなく、互いに思いやりを持ち支え合って生きる人間になるためには段階があります。

①一切の生きとし生けるもののおかげで今の自分が生きていることを認識する。 
 過去の無限に長い時間の中で、いのちあるものたちが〈いのちの世界〉を守り保ってきてくれたおかげで、今の〈いのちの世界〉があり、自分がいます。
 その代表者が親であり、ご先祖様です。
 また、いのちあるものたちが無限の広がりの中で〈いのちの世界〉というネットワークを守り保ってきてくれたおかげで、今の〈いのちの世界〉があり、自分がいます。
 その代表者がご近所様などの人々であり、米などの食物であり、ネコなどのペットたちです。

②生きとし生けるものの恩を思い、感謝する。
 ①の認識ができれば、感謝しないではいられなくなります。
 父母は、放置されれば決して生きて行けない自分を育ててくれました。
 見ず知らずのお百姓さんが汗水たらして作ってくれたおかげで米のご飯が食べられます。
 社会を構成する人々のおかげで、日々が暮らせます。
 
③生きとし生けるものの恩に報いようとする。
 恩を受けて今、生きていることを深く実感し「おかげさま」と思えれば、自分の中にある思いやりの心が目覚めます。

④生きとし生けるものの幸せのために役立とうとする。
 目覚めた思いやりは、自分が与えられたように、他者へも何かを与えないではいられない思いをもたらします。

⑤生きとし生けるもののを除こうとする。
 思いやりの心で世界を観れば、生きとし生けるものの〈〉に気づき、放置できなくなります。
 人類の母を生んだアフリカの人々は飢餓や貧困にしめられ、日本では主として年配者たちが孤独死の淵に立たされつつあります。
 そして、私たちはすべて、無常を生き、死んで行く者として平等であることにも思いをいたさねばなりません。
 たとえ今、裕福で安全な暮らしをしている人々といえども、医者や薬の世話になったことがないという人々といえども、無常の鬼は決して見逃しはしません。
 いつ何時、賊や災害によって財が失われ、病気や事故によって健康が奪われても不思議ではないのです。
 愛しい相手と別れねばならず、憎み怨まないではいられない相手とめぐり遭わねばならず、「もっと」とも思い、万人が抜きがたいを抱えた存在です。

思いやりを実践しようという強い意欲を持つ。
 思いやりが強まり、放置できない気持が持続すれば、「やらねばいられない」という強固な意志が生まれます。
 そうすると、自分の微力さに気づきます。
 たとえば難病に罹った親を救いたい一心で医者を志すように、「自分を高めないではいられない」という強固な意志が生まれます。

⑦思いやりの実践ができる人間になろうとする。
 他者のために自分を高めないではいられず、どうすれば良いかを考えると、人それぞれに得意分野や、生きている環境やなどによって千差万別の方法が見つかることでしょう。
 前述のように医者になろうとする人もいれば、伊達直人(タイガーマスク)のような行動に出る人もいれば、奉仕活動に励む人もいれば、自他のを根元から除こうとして仏道を志す人もいることでしょう。
 どのような道を歩もうと、「他者のためを思う慈悲心によって自分を高めないではいられない存在」であれば、菩薩(ボサツ)道を生きている人です。

 私たちはこのようにして、我欲を離れ、菩薩になれると説かれています。
 さあ、やりますか、やりませんか。

〈朝空を行く〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
01.30

不安の克服

 現代は「不安の時代」であると言われるようになって久しいのですが、不安は濃くなりこそすれ、一向に薄れません。
 私たちは、仕事に関し、人間関係に関し、健康に関し、老後に関し、死に関し、環境に関し、不安だらけに思えます。
 では、不安とは何でしょうか?

 危険があると感じながら、それを回避したり、それから自己防衛できないと思える場合、「不安」が生じます。
 また、実際に危険が身に及びそうな場合、「恐怖」が生じます。
 そして、危険が身に及んだ場合、「苦痛」が生じます。
 武士が剣を腰に差していた時代に有名な話があります。

 主命を受けた茶坊主が、武士の姿で江戸へ向かう途中、浪人者と諍いになり、立ち会わねばならなくなりました。
 腕に覚えのない茶坊主は一計を案じ、浪人者へ、「江戸で主命を果たしたなら必ず立ち会うので、それまで待ってくれ」と申し入れました。
 そして、江戸で剣道の道場へ飛び込み、指南番へ、主君の名に恥じない斬られ方を教えてくれと頼みました。
 伝授されたのは「剣を抜いたならまっすぐ上段に振りかぶって目をつむり、相手の剣が自分の体に触れた瞬間に剣を振り下ろせ」というものでした。
 やがて立ち会いの日を迎え、習ったとおりに構えた茶坊主は微動だにしません。
 これには修羅場をくぐり抜けてきた浪人者も度肝を抜かれました。
 見たことも聞いたこともない構えにたじろいだ浪人者は、斬りつけることなく降参しました。

 茶坊主はきっと、諍いになった時、「しまった」と不安になったことでしょう。
 そして、相手が今にも剣を抜きそうに剣幕になった時は、強い恐怖に駆られたはずです。
 そのまま我を失えば、いのちを落としていたはずです。
 しかし、さすが主命を帯びる人物であるだけに、自分のいのちはなくなることを覚悟し、主君の名を辱めない形で死のうと腹を決めました。
 きっと浪人者は、覚悟に納得したからこそ、申し入れに応じたのでしょう。
 今の時代なら、そのまま逃げるなり、交番へ駆けこむなり、助っ人と一緒に立ち向かうなり、いろいろな方法を考えるはずですが、舞台は江戸時代なのでそうは行きません。
 剣法では「皮を斬らせて肉を斬る。肉を斬らせて骨を断つ」と言います。
 実際に木刀などを手にして相手と向かいあえばすぐわかるように、斬り合う間合いは剣の長さの範囲であり、とても狭いものです。
 恐怖心や我が身可愛さを克服せねば勝てません。
 江戸開城を目前に西郷隆盛と一人で面会した幕末の英傑山岡鉄舟は詠みました。

「打ち合わす剣の下に迷いなく、身を捨ててこそ生きる道あれ」

 不安にうち克つには、まず、「貴方ならきっと負けませんよ」という医師の一言、あるいは力をくれそうなお守など、すなおに何かを信じることです。
 不安は〈よるべない状態〉なので、その反対の〈すがれるもの〉を持つことが必要です。
 そして、医師の注意を守ったり、お守を肌身離さず持ち歩いたり、自分のできることを実行しましょう。
 そうしているうちに、不安は薄れるものです。
 自分自身を含め、絶えざる変化の中で生きている私たちにとって「不安」は人生の同伴者のようなものです。
 ならば、不安と反対の同伴者が必要です。
 仏法はいかなる場合も安心をもたらす最も強力で信頼できる同伴者です。
 しかも、花開く仏法の種は私たちの心に備わっています。
 最近、「地域の『あるものさがし』」を旗印にしている方とお会いしました。
 仏性という種は、まさに〈あるもの〉です。
 多くの方々に、この宝ものを活かし不安を克服していただきたいと願っています。

〈導き〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
01.29

2月の聖語

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

加持(カジ)とは如来の大悲と衆生(シュジョウ)の信心とを表す。
仏日(ブツニチ)の影、衆生の心水に現ずるを加(カ)といい、行者の心水よく仏日を感ずるを持(ジ)と名づく」

加持」という言葉は、大日如来の大きなお慈悲と人々の信心とを表しています。
 水が陽光を受けてきらめくのと同じく、大日如来の太陽のようなお力が人々の心へ届くことを「加(加わること)」といいます。
 水がきらめくのと同じく、大日如来のお力を心がしっかり感じとることを「持(持つこと)」といいます。
 ご加持密教の特徴的な修法です。
 行者自身が修法によってご加持の世界へ入る方法もあれば、体調回復や因縁解脱などを願う方と一緒に、ご加持の世界へ入る方法もあります。
 いずれの場合も、お慈悲の力と一体になるので、行者も願う方も即身成仏(ソクシンジョウブツ)し、道場は体験者のみに実感可能な異次元へワープします。
 
 ちなみに、詩人のワープは、こんな具合です。

銀河」より ─水沼靖夫

 銀河は死んだ乳児の集まるところだ。
 その河に流れるという乳を飲みたい、といって集まってくる。
 年々、銀河の光は薄くなっている。
 星々は離れて行くのだ。
 離れるにつれ、闇が広がる。
 流域がふえ、河に入りやすくなるが、流れは見えにくくなる。
 俺達の死んだ児も、濃い乳の流れをさがして、あの流域を歩いているのだろうか。
 渡る瀬が少なくなり、難儀しているだろう。


〈何者?2〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.29

『大日経』が説く心のありさま六十景 その26井心(セイシン)

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第26回目です。

25 井心(セイシン)
 これは、本心を隠す心です。

「かくの如く思惟(シユイ)すること深くして、また甚深(ジンジン)なり」


 上から眺めてもどれだけ深いか判断できない井戸のように、深く考えた内容を人に知られたくなくて、じっと隠してしまう人がいます。
 いわゆる「腹黒い」、あるいは「陰険な」タイプです。

 こうした人は、師へも先輩へも本心を隠しているので修行のレベルが明らかにならず、自分にふさわしい指導が受けられません。
 指導する側も、すなおでなく、どこまで理解しているか、何を考えているかわからないのでは段階を経た指導のしようがありません。
 修行の場にあって自分勝手に自分の利を求め、自分が欲しい情報を得るだけならば心は浄化されず、智慧も磨かれず、行者としては失格です。

 ただし、世間にあっては、こうしたタイプが活躍する場もあります。
 たとえば企業買収や、政権争いなどにあっては、〈隠密裏(オンミツリ)…知られないように気をつけること〉にことを運ばねば、成功も勝利もありません。
 成果を得るために、相手側に防衛させない、あるいは反撃させないよう内堀も外堀も埋め尽くしてから鬨(トキ)の声を挙げ、一気に勝負をつけようとします。
 戦国時代における軍師や内通者のような人々は、今も目立たないところで「井心」を武器に、活躍しています。

 余談ですが、何となく政治が幼稚化したように感じられてなりません。
 剣での立ち会いならば、お互いに腰が引けた状態で手を前に伸ばし、剣先でカチャカチャと打ち合っている光景です。
 しかも、必要でない大声でワーワーと相手を威嚇したり罵倒したりしながら。
 こんな立ち会いでは、小傷を負う者が続出するばかりで、世の中の帰趨を決める大勝負は成り立ちません。
 腕のたつ者同士が立ち会えば勝負は明らかになり、結果は厳粛なものとして重んじられます。
 しかも、勝負は斬り合わずして決まる場合すらあるのに……。
 いったい、どうしたのでしょう?
 急に、腕のたつ人物がいなくなったとも思えません。
 情報化社会が〈手の内〉というものを許さなくなったからでしょうか?

 いずれにしても、本心を隠しておくタイプの人はいるし、そうしてことを運ばねばならない場合があるし、そうしたい時もあります。
 大切なのは、「心が通じる」とは、お互いに「相手の心が観える・自分の心が観られている」という安心感がもたらす信頼感を共有するところに成り立つ幸せな状態であるということです。
 誰にでもあるはずの〈心の井戸〉をのぞいてみましょう。
 自分だけは、どのあたりが底であるか知っているはずなので、大丈夫です。

〈何者?〉
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.28

「お風呂場建築基金」に強力な助っ人が登場しました

ゆかり人の会」会員伊藤さんが、パッチワークの作品を玄関に展示して、「お風呂場建築基金」に当ててくださることになりました。
 どの作品にもまごころが感じられ、こうしたお支えこそが寺院を〈護持する〉最高の形の一つであると確信します。
 当山は、こうしたまごころが集まり、皆さんがまごころで交流し合う場であり続けたいと念願しています。

〈並んでいるのは、まごころです〉
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ゆかり人の会」にも法楽寺にも、たくさんお励ましの声をお寄せいただいており、ありがたくてなりません。
 しかし、住職はなかなかご返事を出せないような状況です。
 皆さんの尊いお心をご縁の方々と共有したいと願い、プライバシーの保護に充分注意しながら、あたたかな血の通った言の葉をところどころ抜粋してご紹介します。

○「ゆかり人の会」会員Aさん

 昨年は法縁をたくさん結んでいただき、人生最後のまとめをする上で心に刻むところが多かったと思います。
 まず、
・私自身のこれからの生き方
・家族のあり様(よう)
先祖に対する供養のあり方
不遜ではございますがぼんやりと見えてまいりました。
 法縁によりご住職とお会いできたことが最大の喜びでございました。
 そして、知り合えた方々のお話しを通して、小さな穴から外の世界をかい間見驚き喜ぶ小兎のような気分でございました。
 しかし、はたと心を落ちつけ、自分の心の中を正直に見つめてみました。
 次から次へと押し寄せてくる大波にたじろぐ自分を見出しました。
 むずかしい数々の御仏の教え、真理、有難く拝受するばかりで、どの位自分のものにしているものやら、なさけなく、恐ろしくさえなってまいりました。
 私の年令と不勉強だったこれまでの人生を思うと、少々焦りさえ覚えます。
 百ある小石の一つでも拾えたなら、一つも拾えないよりよいではないか、自分の能力の範囲内で、御仏の教えに一歩でも近づければそれでよいと思い定めました。
 乱筆、乱文、お許しくださいませ。

○「ゆかり人の会」会員Bさん

 寺門興隆における遠藤住職の人間像、改めて心静かに拝読させて頂きました。
 二十余年前の当時を私も住職と立場こそ異なれ、今静かに想い浮かべて感無量です。
 宿命・運命・天命、この命のある限り一日一日を感謝し、大切にし、余命を全うしたいものとつくづく想い、念いの今頃です。
 折角に頂きましたこの機会に少々想いを述べさせて頂きます。
「慈はよく楽をあたへ、悲はよく苦を抜く
 抜苦与楽の基、人に正路を示す、これなり」
 空海の訓えを訓えとして日夜ご苦労されている住職に心から敬意を表し、ご努力に対し感謝申し上げます。
 人の世で、人との出会いとはまことに不思議でなりません。
 平成二十年春、偶然に葛岡墓地霊園にて遠藤住職との出会いを頂きました。
 高橋さんといい、住職といい、何か私には偶然とは云い切れない運命との出会いを感じました。
 今、法楽寺が開山十六年目を迎え、母胎となる「ゆかりびとの会」も発足し、これから、一歩一歩、遠藤住職が発願の原点となった「空海」のみ訓えを開山の原点として広くあまねく、地域社会の人々に空海の訓えである「抜苦与楽の基として人々にそのに正路を示す」一人としての遠藤住職に私は心から尊敬し、その小さな一足ともなって、私の人生を果たしたいと念願しています。
 出会いを大切にし、感謝し、今后共、微力を法楽寺が地域の多くの人達に訪ねて来られるような寺院でありますようつくしたいと念じております。
 今后、機会ある度に私なりに思うこと、やってほしいこと、こうありたいと念じ、願うことを申し上げ、役員の皆さんの一助ともなれるように、勤めたいものです。
※平成22年9月、月刊誌『寺門興隆』さんが当山の「脱『檀家』宣言」を紹介されました。

○「ゆかり人の会」会員Cさん

 先日はお正月のご祈祷と有難いお品をいろいろと沢山、有難うございました。
 何とも不信心ですが、雰囲気は伝わり、身がまっすぐになる気がいたします。
 お茶をいただくと、これが又おいしくて、本当に有難うございました。
 今年も又、ご住職のご精進は増すのだと思いますが、どうぞお体を大切になさって、みな様の本柱になり続けられることを願っています。




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.27

厄除のご祈祷を行います

 立春を期して、2月6日午前10時より、厄除開運のために、それぞれの方の立春から翌年の節分までの一年間をお守りくださる守本尊様を供養する『春祭厄除千枚護摩祈祷』を行います。

 私たちは毎年、運勢が変わり、お守りくださる守本尊様も変わります。
 たとえば八方塞がりの年には地蔵菩薩、本厄年には千手観音が守本尊としてお救いくださいます。
 だから、本厄払いのご祈祷では千手観音様へ祈るのです。

【年齢別運勢表】年齢は数え年で見てください。

●● 八方塞がりの年 守本尊は地蔵菩薩様…天地は通じ開く。
一・一〇・一九・二八・三七・四六・五五・六四・七三・八二・九一・百才
精進者は、身分・実力に応じた幸いあり。尊きものを大切に。
不精進者は迷い、天災・方災を受けやすい。

○● 種蒔きと開運の年 守本尊は阿弥陀如来様…積徳には開運あり。
二・一一・二〇・二九・三八・四七・五六・六五・七四・八三・九二・百一才
精進者は、目上の引き立て・天運あり。
不精進者は、ただ忙しく金銭の損失・目上との争い・事故多い。

●○ 歓喜と散財の年 守本尊は不動明王様…質素倹約を第一に。
三・一二・二一・三〇・三九・四八・五七・六六・七五・八四・九三・百二才
精進者は、楽しく悦びごと多い。
足るを知らぬ不精進者は、口舌の災い・異性難・飲食の難・水難多い。

○● 運命変化の年 守本尊は虚空蔵菩薩様…悲運を打開するチャンスあり。
四・一三・二二・三一・四〇・四九・五八・六七・七六・八五・九四・百三才
精進者は、障害の打破・公私共に幸いあり。
不精進者は、仕事や家族や親族の難・手足関節などの病気多い。

○○ 前厄の年 守本尊は勢至菩薩様…虚実が明鏡に映る如く明らかになる。 
五・一四・二三・三二・四一・五〇・五九・六八・七七・八六・九五・百四才
精進者は、悪を断ち、陰徳積善が認められ身分の向上あり。
不精進者は、旧悪露呈・離別・火難・公難多い。

●● 本厄の年 守本尊は千手観音様…外は穏でも内には乱の危険あり。
六・一五・二四・三三・四二・五一・六〇・六九・七八・八七・九六・百五才
精進者は、内に喜びあり。
不精進者は、万事悩み多く、目下の問題・異性難・水難・病難・盗難・誤解多い。

●● 後厄の年 一陽来復 守本尊は大日如来様…再び陽が廻りくる。
七・一六・二五・三四・四三・五二・六一・七〇・七九・八八・九七・百六才
精進者は、進展遅くとも後に収穫あり。
不精進者は、古物・偽物・不動産・母方に関する問題発生しやすい。

○○ 仮の縁多い年 守本尊は文殊菩薩様…善悪虚実を見分けて安全と発展あり。
八・一七・二六・三五・四四・五三・六二・七一・八〇・八九・九八・百七才
精進者は、新展開あり、魚が水を得るが如し。
不精進者は、声あれど成就せず、雑音・中傷・突発事故あり。

○○ 良縁多く盛運の年 守本尊は普賢菩薩様…良縁多く福が来る。
九・一八・二七・三六・四五・五四・六三・七二・八一・九〇・九九・百八
忍耐ある精進者は、万事花開き、声望・吉事・成就あり。
不精進者は、信用失墜・生霊の妨害・破れあり。


【授与品】

〔お守錫杖〕
 わりと小ぶりですが、左右に三個づつ、ぶらさがっている合計六個の輪は、六道の迷いを覚めさせる重要な役割を担っています。
 地獄界の人や修羅界の人にひきずられないよう、しっかり法を結びましたので、身近なところへ置き、魔除け厄除けにしてください。
〔八方除けの御守〕
 お子さんが何も考えずに塞がりの方角や破れの方角へ走っても大丈夫なように、八方天地十方世界の守本尊様にご守護いただく法を結びました。
 祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』でも厄除祈祷拝受となり、当山経由で〔祈祷札〕と〔御守〕が送られます。

◎くわしくは、ブログ「お正月と立春のご祈祷について(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2524.html)」をご覧ください。

〈入魂の一品〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
01.27

寺子屋『法楽舘』 ─第十五回を行います─

 2月12日(土)午後2時より、法楽寺講堂にて、寺子屋法楽舘』の第15回目を開催します。
 
○日時:2月12日(土) 14:00~16:00 定員80名
    13時30分、地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前へ送迎車が出ます。
    乗車希望の方は必ず前日までにお申し込みください。
○会場:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1
○参加者:老若男女を問いません
○参加志納金:1000円(未成年者500円)
○申込方法:電話・ファクス・メールなど

「仏法を学ぶ(第二回)」は、皆さんにおなじみの「諸行無常(ショギョウムジョウ)」などについて一緒に考えましょう。
 質疑応答もあります。
 どうぞふるっておでかけください。
 ちなみに、当日学ぶポイントの一つです。            

○四法印(シホウイン)

 仏法の根本的見解は、以下の四つに示されます。

諸行無常(ショギョウムジョウ)
 現象として生じているものはすべて無常です。
②一切行苦(イッサイギョウク)
 煩悩に汚されたすべてのものは苦から逃れられません。
③諸法無我(ショホウムガ)
 存在するすべてのものは空であり、不動の実体はありません。
涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)
 涅槃では苦をもたらすものは消え、鎮まっています。


〈寄り添って……〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
01.27

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 64 ―『法句経』─

 1月26日、NHK文化講座生活と仏法」において受講者の皆さんと対話を行いました。
 教材は『法句経(ホックキョウ)』の教学品(キョウガクホン)第二の教えです。

正見(ショウケン)にして、学び務めて増やさば、是(コ)れを世間の明(ミョウ)と為(な)す。
 所生の福千倍し、終(ツイ)に悪道に堕せず」

(正しいものの見方を学び、精進すれば、世間を照らす明かりとなり、ついには覚者ともなる。
 福はいや増し、決して地獄などの悪道に堕ちない)

 釈尊は、を脱する生き方として「八正道」を示しました。
 身体と言葉と心を正しくする8つの道です。
 その最初にあるのが「正見」です。
 正しいものの見方ができなければ、正しい考えも、正しい言葉も、正しい動きもあり得ません。
 正見には3つのポイントがあります。

①ありのままに観ているか。
 歪んだ鏡や汚れた鏡は、決してありのままの風景を映し出しません。
 同じように、自己中心の心で現象世界や自分の心を観れば、決して自他を幸せにする正しい生き方はできません。
②取り違えや顚倒はないか。
 心が曲がっていれば、相手の善意を悪意と解釈したりします。
 あるいは気まま勝手な希望的観測をしていると、意のままにならず、周囲とあつれきを起こしたりします。
③極論や極端に走ってはいないか。
 釈尊は、気ままに生きれば煩悩の火で焼かれ、自分を責める行に生きれば心は解放されないことを熟知していました。
 極端に走らず、心身をきちんと調えれば心もおさまり、智慧や慈悲が生じて正しい生き方ができます。
 また、「~は所詮、~である」と決めつけてしまえば思考停止になり、発展も対話もありません。
 極論は逃避であり、対立を生みます。

「小道(ショウドウ)を学びて、以(モッ)て邪見(ジャケン)を信ずること莫(ナ)かれ。
 放蕩(ホウトウ)を習いて、欲意を増さしむること莫(ナ)かれ」

(外道を学び、正しいものの見方に背くものを信じてはならない。
 放蕩にふけり、煩悩のままになってはならない)

 釈尊の時代は、およそ考えられる限りの哲学的・宗教的命題が議論され、主張され、さまざまな修行も行われていました。
 そんな中にあって、釈尊は「自分もやっと過去の覚者が到達した地点に立った」と考え、正見などに反する主張や宗教を外道としました。
 注目すべきは、釈尊が「道理をもって判断せよ」と説いていることです。
 釈尊は決して預言者ではなく、煽動者でもありません。
 それは、次の言葉が証明しています。
「焼いて、切って、擦って、それが金であるかどうかを吟味するように、僧侶と智者は私を尊敬するがゆえに私の言葉を採用するのでなく、それを充分に吟味することによって私の言葉を採用しなければならない」。
 天下万民が道理・論理をもって判断し、誤っていないと確信したならば教えを採用しなさいと説きました。
 仏教は、預言やお告げで縛る宗教とはまったく異なっています。

 ちなみに、仏法を理解する観点は、四依(シエ)とされる以下の4つです。

①説く人ではなく、教義によって判断すること。
②教義は、書かれている言葉でなく、示している意味によって判断すること。
③意味は、さまざまな解釈ができるレベルでなく、複数の解釈が成り立たないレベルによって判断すること。
④普通の知恵でなく、仏法の智慧に依って判断すること。

 質疑応答では、いろいろな意見が出ました。
「余生を与生と考えようと主張する話を聞きました。
 与えていただいたいのちという意識で生きれば、年配者の心も豊かになるのではないでしょうか」。
「いくら仏法を学んでいても、困難な状況にぶつかり、『どうして自分だけがこんな目に遭うのか』と袋小路へ入る場合があります。
 諸行無常、おかげさま、おたがいさま、などが実際に役立つよう心を鍛えることは簡単でありません」。
「『日にち薬』という言葉があります。
 辛い思いになっても、学びながらじっと堪えているうちに時が過ぎれば、薬を服用したかのように回復できます。
 時が経つのは、死へ向かっているとはいえ、ありがたいことです」。

〈払暁の空を自由に翔るもの〉

230126 0092




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.26

新しい祈り

 1月21日の初大師から、当山では新しい祈りが始まりました。
 密教の根本経典である『理趣経(リシュキョウ)』の「百字偈(ゲ)」を皆さんと共に唱えるのです。
 この百文字が仏法の理想を示し、人間が生きる意味を明確に示していることは、これまで何度も書きました。
 これからは、皆さんと共に唱え、み仏からのメッセージが皆さんの心へはっきりと届くよう、さらに精進を重ねます。

 その第一号となったA家は、お身内の十三回忌で来山された方々でした。
 皆さんとご縁になったのは、当山が宮床へ移ってまだ間もない頃でした。
 七回忌以来となり、始めて講堂へ足をはこばれた方は、寺子屋建立運動が大きな実を結んだありさまに心から喜ばれました。
 古い小さな平屋の一部を本堂にしていた当山を信じ、ご葬儀からご供養までずっと仏縁を守った皆さんは、全員がしっかり唱えられました。
 そして、手にした経文を「我が家の宝ものにします!」と言い、日々の読誦を誓われたのです。
「もちろん、内容はよくわかりませんが、ありがたさは心に沁みました。
 これから何度も読めば少しづつわかってくるのでしょう。
 今度来た時は質問できるようにしっかりやります」。
 経典を信じる者として、こんなにありがたい言葉はありません。
 理による納得は仏法の入り口であり、の感応こそが〈経典を生きる〉力になるからです。

 1月22日付の読売新聞は「ローマ遺跡も亡ぶ」という記事を掲載しました。
 ポンペイの中心にある剣闘士の訓練場だった石の建造物が22年11月、大雨で全壊しました。
 世界遺産である一帯では、地域にある建物の8割は崩壊寸前だという声もあります。
 ポンペイ遺跡の保護運動に取り組むアントニオ・イルランド氏(54歳)によると、保存・修復などに携わる常勤職員は30年前に76人だったのが、今は4人しかいません。
 ローマでも名だたる遺跡が徐々に崩壊しつつあり、「国中の文化財が危機に直面している。予算削減は犯罪だ」と指摘する声が上がっています。
 危機に瀕している国家財政の赤字の削減と、遺跡の維持・管理よりも遺跡を活用した展示施設の新設に限られた予算を当てる政策がこうした状況を招いたという見方もあります。

 実に諸行無常、形あるものは必ず滅びます。
 人は、人が生きること以上に優先させるものを持ちません。
 しかし、人のいのちがバトンタッチされている限り、心にある宝ものを心から心へとバトンタッチし続けるのは可能です。
 明らかに、「百字偈(ゲ)」はそうした宝ものの一つです。
 の感応を広げるべく、当山は皆さんと共に唱え続けます。

菩薩勝慧者(ホサショウケイシャ) 乃至尽生死(ダイシシンセイシ)
恒作衆生利(コウサクシュウセイリ) 而不趣涅槃(ジフシュデンッパン)
般若及方便(ハンジャキュウホウベン) 智度悉加持(チトシッカチ)
諸法及諸有(ショホウキュウショユウ) 一切皆清浄(イッセイカイセイセイ)
欲等調世間(ヨウトウチョウセイカン) 令得浄除故(レイトクセイチョコ)
有頂及悪趣(ユウテイキュウアクシュ) 調伏尽諸有(チョウフクシンショウユウ)
如蓮體本染(ジョレイテイホンゼン) 不為垢所染(フイコソゼン)
諸欲性亦然(ショヨウセイエキゼン) 不染利群生(フゼンリキンセイ)
大欲得清浄(タイヨクトクセイセイ) 大安楽富饒(タイアンラクフジョウ)
三界得自在(サンカイトクシサイ) 能作堅固利(ノウサケンコリ)

菩薩(ボサツ)の勝慧(ショウケイ)ある者は 乃至(ナイシ)生死(ショウジ)を尽くすまで
恒(ツネ)に衆生(シュジョウ)の利を作(ナ)して 而(シカ)も涅槃(ネハン)に趣かず
般若(ハンニャ)及び方便(ホウベン)の 智度(チト)をもちて悉く加持(カジ)し
諸法及び諸有(ショユウ)をして 一切皆清浄ならしむ 
欲等(ヨクトウ)をもちて世間を調し 浄除(ジョウジョ)することを得せしむるが故に
有頂(ウチョウ)より悪趣に及ぶまで 調伏(チョウフク)して諸有(ショウ)を尽くす
蓮體(レンタイ)の本染(ンホンゼン)にして 垢の為に染められ不(ザ)るが如く
諸欲の性も亦(マタ)然(シカ)り 不染(フゼン)にして群生(グンジョウ)を利す
大欲(タイヨク)清浄を得て 大安楽にして富饒(フジョウ)なり
三界(サンカイ)に自在を得て 能(ヨ)く堅固の利を作(ナ)す

こよなき智慧の         ひじりらは
いましこの世の         つきるまで
つねに救いの          わざをなし
涅槃(ヤスライ)にゆく     こころなし。
般若(メザメ)と方便(テダテ) たぐいなき
加持(メグミ)のちから     てり映えて
この世のまよい         すべてみな
きよけきものと         なりぬべし。
大欲(タイヨク)などの     ちからもて
世のなかきよめ         調えて
この世の涯(ハテ)の      辺際(ハテ)までも
すべてのまよい         つくさなん。
蓮華(ハナ)に深紅(シンク)の いろあるも
泥のけがれに          染まぬごと
けがれに染まぬ         大欲は
あらゆるものを         すくいなす。
きよき大欲           あるゆえに
安楽(タノシミ)ありて     富みさかえ
この世のなかに         おもうまま
すくいのねもと         堅むべし。



〈朝〉
230126 002




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2011
01.25

例祭だより(1月の第二例祭)

 1月15日(土)は第二例祭日です。
 外はとても寒いですが、中は程良くあたたかです。

 本日の法話の中で、今話題になっているタイガーマスクのお話しがありました。
 日本人の助け合い精神、さりげない善意が形になったという内容です。
 児童施設の今度小学一年生に新入学する子供にタイガーマスク伊達直人と名乗りランドセルを人数分プレゼ
ントする方が全国で何件も出た出来事のお話しです。
 考えつくことはできると思いますが、実行するという一歩が踏み出せない人は多いと思います。
 その中でも一歩を踏み出した方はすごいですし、そこが日本人の誇るべき所なのであれだけマスモミにも出たんだと思います。
 年明け早々ホッとするニュースでした。

 さて、話しは変わりますが・・・。
 1月のある日、一本の電話が鳴りました。
「お寺にFAXを送っていますが全然送れません。
 プープープーと鳴るだけなんですが」
とMさんから電話が入りました。
 そして約1時間半位格闘が始まりました。
 まずこちらからMさんにFAXを送りました ・・・・・・送れます。
 再度Mさんからもう一度FAXを送っていただきました・・・・送れません。
 Mさんは、自分の所のFAXもおかしいかもしれないので、他の方に送ってみますと一旦お互い確認に入りました。
 お寺のFAXで別の所にも送受信してみました。
 送信はできましたが受信はできません。
「いよいよおかしい」。
 NTTに電話したり警備会社に確認したりしましたが、いっこうに直る見込みがたちません。
 奥さんは、「クロ(猫)が電話機の前でいたずらしてる時あるけど、犯人はクロじゃないの?」と言いましたが、住職も私も電話回線の問題でそんなことあるわけがないと思ってました。

 そんな中、クロがたびたび電話機の所にジャンプします。
 ・・・・んっ、・
 ・・・よく見ると電話機の所のFAXボタンが赤く光ってます。
 なんと、クロが電話機のFAXボタンを押していてその間FAX回線が通話中になり、FAXが受信出来なかったのです。
 振り返ってみると、今迄受信出来なかったりするケースがたびたびあったようですが、おそらくクロが電話機をいたずらしたためのようです。

 やってくれましたクロちゃん。
 FAXを何回も送っていただいたMさん、大変申し訳ありませんでした。
 そんな、とある一月の出来事でした。

※この稿は、行者丹野明宏君が書きました。

〈外の寒さも何のその〉
2301232 012




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2011
01.25

煩悩(ボンノウ)の実態

 この世がままならないに覆われているのは、私たちが真実でないものを真実と観て生きているからです。
 その状態は煩悩(ボンノウ)という心の曇りによってもたらされています。
 私たちは、他人を害さず、他人のためになれる生き方をしようとするならば、自分の心の曇り具合を時々、調べてみる必要があります。
 さあ、以下の6つにあてはまる心のはたらきに支配されてはいないでしょうか。

1 貪欲(トンヨク)
 執着する〈とらわれ〉の心です。
 その対象は、心の中にあるものであり、外にあるものです。
 中にあるものとしては、憎い相手のイメージや、ふと、思いついた計画などです。
 外にあるものとしては、パチンコや偏った食事などです。
 こうしたものを冷静に判断し、処置し、離れるべきものから離れ、伸ばすべきものは次のステップへと伸ばさないと、心は歪んだり、停滞したり、暗くなったりします。

2 憎悪
 憎しみ、怒る心です。
 その相手は9種類あります。
 自分を傷つけた人。
 自分を今、傷つけている人。
 自分をこれから傷つけるであろう人。
 私たちはいつまでも、「あいつにやられた」と、相手を思い出すたびに憎しみをあらたにします。
 同様に、今、酷いめに遭わされているなら「許せない」し、「そのうちにあいつにやられるだろう」と思うと、それだけで憎らしくなったりします。
 過去・現在・未来を通して憎み、怒るのは、自分だけでなく、自分の友人など、親しい人を傷つける相手に対しても同様です。
 つまり、友人を過去に傷つけ、今、傷つけ、これから傷つけるであろう人も憎みます。
 また、自分にとって敵である人を助けた人も憎しみの対象です。
 たとえば織田信長は、敵対する朝倉軍を助け、自分を窮地へ陥れた浅井一族を決して許しませんでした。
 そして、私たちは、今、敵を助けている人を憎み、これから敵を助けるであろう人をも憎むものです。

3 慢心
 自分を高いものとしないではいられない心です。
 これには7種類あります。
①我慢
 自分はいつまでもガンとして存在しているという勘違いであり、高ぶりです。
②慢
 自分と同等の相手や、自分より劣っていると思われる相手へ対する慢心です。
③過慢(カマン)
 相手が自分と同等なのに、自分が勝れていると思わないではいられない無理な慢心です。
④卑慢(ヒマン)
 自分より格段に優れている相手に対してすなおに事実を認めず、「何!自分だって!」と肩を並べていると思いたい無理な気持です。
⑤慢過慢(マンカマン)
 自分より優れている相手に対して、自分の方が勝れていると考える錯覚です。
⑥邪慢(ジャマン)
 自称「皇室の血族」や「透視能力者」など、実際は持っていない能力などを持っていると称して、邪に自分を飾る心です。
⑦増長慢(ゾウジョウマン)
 悟りを開いたり、真理を見つけたりしてもいないのに、自分は達成したと誇る、偽りの心です。

4 無知
 真理真実を観られない無知の状態です。

5 疑惑
 真理真実をすなおに受け容れられず、疑い、惑った状態です。

6 誤った見解
 真理真実へと到達できない見解です。
無常な身体などを実体視し、いつまでも存在し続けるとする見方。
②自分を神のごとく存在し続けるものとしたり、因果応報を否定してすべては虚無であると逃げたりする極論な見方。
③論理や道理によって誤りであると理解できるはずの誤った見方を、正しいとする見方。
④悪を善とし、戒めを無視する生活態度を正しいとする見方。
⑤明らかに存在しているものを「知らない」と否定したり、明らかに存在していないものを「持っている」「見えている」などと主張する見方。

 これらが、主たる煩悩の実態です。
 み仏の教えの鋭さ、緻密さは驚嘆します。

〈ランプは内と外に?〉
2301232 0132




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2011
01.24

『法句経』物語19 明哲品(メイテツボン)第十四「第一話」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 昔、20歳になるバラモンがいました。
 才能豊かで、自分は聡明であると自覚し、「ありとあらゆることを会得しよう、不明なものがあっては高名に恥じる」とばかり、天文・地理・医学・妓楽などを、手当たり次第に学びました。
 やがて、「諸国を漫遊して、あらゆる勝れた人々と競ってうち勝ち、我が名を永久に留めたい」と旅に出ました。

 ある町で、角を用いて弓矢を作る職人と出会いました。
 作る先からどんどん売れているほどの腕前です。
 感嘆し、「これはまだ会得していない」と気づいたバラモンは弟子入りしました。
 たちどころに師を超えるほどの腕になったバラモンは、職人へ布施し、礼を尽くして去りました。

 また、ある町では、飛ぶように船を操縦する船頭に惚れ込みました。
「船頭は卑しい仕事だが、自分ができないままではいられらない」と考えて、船頭を師と仰ぎ、またまた師を超えたバラモンは布施し、礼を尽くして去りました。

 ある国では豪壮な宮殿を造った大工の技に眼を瞠り、「自分はたまたま、まだ大工仕事を学んでいないだけであり、本気になって技術を身につければすぐに勝てる」とばかり、棟梁へ弟子入りしました。
 またしても短時日に悉く会得したバラモンは布施し、礼を尽くして去りました。

 こうしてあらゆる技術を駆使できるようになったバラモンは、手当たり次第に名人たちと技を競い、ことごとく勝利をおさめて「天地の間に、私に勝る者はいない」と高言するまでになりました。
 
 遠くからこの様子を観た釈尊は「悟らせねばならない」と考え、杖と鉢を手にした托鉢行者の姿でバラモンの前に現れました。
 バラモンが歩いた地域にはまだ仏法が伝わっていなかったので、バラモンは驚きました。
「どんな時代にも君のような服装で歩く人はいなかった。一体、君は何者なのか?」
 行者は答えました。
「私は身を調える者である」
 聞いたことのない話に、バラモンは重ねて訊ねます。
「身を調えるとはどういうことか?」
 行者は詩の形で説きました。
「弓を作る者は角を調え、船頭は船を調え、大工は木を調え、智者は身を調える。
 たとえば厚く大きな石はいかなる風も動かせないのと同じく、
 智者は心が定まり、いかなる毀誉褒貶(キヨホウヘン…謗られたり誉められたりすること)にも動じない。
 たとえば深い淵の水は澄んで清らかなのと同じく、
 智者は人の道を学び心を清めて、じっとその喜びを抱きつつ生きている」。
 説き終えた行者は空中へ飛翔して仏身となり、その光明は天地を遍く照らしました。

 仏の姿と化した釈尊はバラモンの前に降り立ち、告げました。
「仏となったのは身を調える力による
 高慢心を打ち砕かれたバラモンは五体投地して請いました。
「どうか身を調える方法をお示しください。その要点はいかなるものでしょうか?」
 釈尊は告げました。
「さまざまな戒律を守り、さまざまな修行を行い、さまざまなレベルの解脱を得るのが身を調える方法である。
 世間的な技術はいずれも輪廻の中で役立つものである。
 輪廻を超えるのが身を調える目的である」

 理解したバラモンは欣喜雀躍(キンキジャクヤク…躍り上がって喜ぶこと)して弟子入りを願い、許された瞬間にバラモンは行者の姿になりました。
 釈尊は4つの真理、8つの正しい路を示し、聡明な元バラモンはやがて阿羅漢(アラカン)の悟りを得ました。


 私たちは肉体を得てこの世へ現れます。
 肉体を養うにはモノの世界にあるものを得ねばなりません。
 得るための方法が「世間的な技術」です。
 もちろん、技術を磨く先に心の向上もあり、さまざまな分野のプロや名人の到達する境地は尊敬に値しますが、技術を磨く日々を過ごすだけで、必ずしも自他へ、社会へ、真の幸せをもたらすような心になれるとは限りません。
 一方、仏法は、自他へ、社会へ、真の幸せをもたらす方法を説き、誰しもがその道を歩めます。

 江戸時代の傑僧慈雲尊者は13歳で出家し、法楽寺(大阪市東住吉区)で修行し、十善戒を重んじて「人となる道」を生涯、説き続けました。
 人は人に〈なる〉のです。
 当山も慈雲尊者を尊び、ブログ「十善戒の歌」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-646.html)などを題材にして、常に学んでいます。
 肉体を養う方法と、を向上させる方法、二つを考えながら生きたいものです。

〈いとなみ〉
230118 007




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2011
01.23

例祭だより(1月の第一例祭)

 平成23年のスタートです。
 今年初めての例祭は、1月2日のお正月修正会祈祷会と一緒の修法となりました。
 大晦日から大荒れという天気予報は幸いにもハズレvvv
 とても穏やかなお正月を迎えました。

 お正月修正会は三が日、一日2回づつ護摩を焚きますのでなかなかの忙しさです。
 丹野さんと護摩壇を準備するのですが、元日は修法後に皆さんとお茶を飲んだりしていましたら、かなりあたふた状態。
 ようやく三日目にして、コツが つかめました。
 午前の護摩が終わったら、すぐさま仏器を磨きつつ、護摩をお掃除(あちちーーーっ!となりながら丹野さんは必死でした。)、掃除機をかけて、午 後の護摩木を組んで・・・仏器を並べて・・・諸々。という感じです。
 これなら毎日でも護摩の準備ができそうだわ~!と思ったところで三が日が終わりました。

 住職のお話は・・・
 今年は(かのと・う)の年です。という字は「ぼう」ともよび、冒険にあてはまるそうです。
 いろいろと新しいことにチャレンジして冒険してみるのも吉。ただし、物事の裏側、水面下では何が起こっているかも考えて行動するといいということ でした。
 池の金魚がピョーン!と跳ねた様子を見て、「ああ、元気がよくていいわ!」と思っても実際、水面下では大きな魚に追われてその金魚が飛び跳ねてい た。と
いう具合です。
 う~ん、冒険はしても、慎重にですね☆

 今年はほどほどに雪が積もっています。(意外と宮床を出ると雪がないのですが)
 法楽寺は本当に雪が似合うな~と外に出ると境内地に見とれてしまいます。
 このところ、最低気温が毎日マイナスなのでお寺の雪は溶けません。
 朝、文殊堂にお茶とお水をお供えに行きます。
 長靴をはいて真っ白いふかふかの粉雪の上に足跡をつけながら歩くのは至福の時でありました。
 皆様にとって佳い年になりますように☆

〈薄い夕陽に融け行く小さな氷塊〉
2301232 025

※この稿は、行者橋里佳さんのブログ「大日如Life」(http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal)からいただきました。




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2011
01.23

伊達直人(タイガーマスク)になれない人

 タイガーマスク運動が起こっています。
 これまであまり知られていなかった有名人たちの隠れた善行なども報じられ始めました。
「一過性である」、「日本人の思いやりが吹き出した」などなど、いろいろ言われてもいます。

 現象は確かに布施行そのものであり、何がきっかけでいかなる布施を行っても仏性のなせる善行であることに変わりはありません。

 仏性は万人に具わっているのであれば、他のためになりたいと思い実践できる人とそうでない人とはどこが違うのか?

 仏法はチェックポイントを説いています。

①強い執着心

 いったん我がものにしたなら、もう、手放したくないという所有へのこだわりです。
『梵網経』は、我欲による物惜しみは「悪心」であり、「自ら慳(オシ)み、人へも慳(オシ)む心を起こさせれば、悪をつくり、悪行を行い、悪業を積む」と説きます。
 自己中心を離れる修行で執着心を克服しましょう。
 
②見えない結果

 原があれば結果が出るとわかっていても、善き行いが善き結果をもたらすと信じられない場合があります。
 悪党が羽振りをきかせている現実に出くわしたりすると、「正直者はバカを見る」などと感じたりもします。
 しかし、心から他のためになろうとして何かを行った時の爽やかな満足感そのものが、すでに、善き結果であると考えられないでしょうか?
 そうした思いは確実に心の深い場所へ蓄えられ、善きに反応して天運をつかまえさせます。

③不慣れ

 喜捨とは、他のために見返りを求めず喜んで自分のものを差し出すことですが、②で指摘したように、差し出す時には必ず爽やかな満足感が伴うので、喜びは布施という行為の前にも後にもあります。
 喜びのない布施行はあり得ません。
 これだけすばらしい行いなのに、なかなか最初の一回が行えないばかりに、布施行と無な方がおられます。
 菩薩になるきっかけがないのは残念なことです。
 ぜひ、「惜しい」あるいは「恥ずかしい」などという気持を振り切って〈喜び体験〉をしていただきたいものです。
 タイガーマスク運動という社会現象は、「よし、自分も」という善ききっかけになるのではないでしょうか。
「習い性」という言葉があるように、習慣は人間性を変え、人間性が変われば習慣も変わります。
 自他へ喜びをもたらす善き習慣を身につけ、善き人間性を育み、善き人生を歩みたいものです。

④苦しい生活

 今、自分や家族の食べる米がなければ、他へ分け与えることはできません。
 今の自分が自分自身の業(ゴウ)や、社会的共業(グウゴウ)によってもたらされたものであるとの認識があれば、自分が苦しくとも、むしろ、自分が苦しいなら余計に他者の苦しみにも心は向くはずです。
 他者の苦しみを魂で受け止めれば、たとえ今すぐには行えなくても、何かをしないではいられない気持になります。
 昨年12月、当山の墓地『法楽の苑』に、『NPO法人ワンファミリー仙台』さんのお墓『一家族の墓』ができました。
 辛い人生体験をした方々と。そうした方々を守ろうとする方々が協力して、皆が入れるお墓を建てました。
 苦しい生活も、心一つですばらしい善行に結びつきます。
「自分が苦しいから」を言い訳にせず、自分の心を見つめてみましょう。

 さあ、自分はタイガーマスクになれるでしょうか、伊達直人になれるでしょうか。

〈一緒に〉
230118 010

〈河北新報12月23日号より〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2011
01.22

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (8)

 行者が魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 第八番目の経文です。

第八条 三途八難消滅(サンヅハチナンショウメツ)

「まさに衆生(シュジョウ)のために願うべし。
 十方一切(ジッポウイッサイ)の、
 地獄餓鬼畜生など八難の処にて、
 苦を受ける衆生(シュジョウ)は、
 錫杖の声を聞かば、
 速やかに惑癡(ワクチ)の二障と、
 百八の煩悩解脱(ゲダツ)することを得て、
 菩提心(ボダイシン)を發(ハッ)し、
 具(ツブサ)に萬行(マンギョウ)を修して、
 速かに菩提(ボダイ)を證せん」


 行者は衆生のために願います。
 あらゆるところのすべての、
 地獄界や餓鬼界や畜生界の三途(サンヅ)など、八難の世界で、
 苦を受ける衆生は、
 錫杖の声を聞いたならば、
 速やかに惑障(ワクショウ)と癡障(ギショウ)と、
 百八の煩悩から解き放たれて、
 菩提心を発し、
 あらゆる善根功徳を積む修行を行って、
 早く悟りを得られますように。

 私たちは、八つの世界に堕ちていると仏縁が薄いとされています。
 ①地獄
 ここは火に焼かれるような苦しみがあるので「火途(カズ…火の道)」ともいいます。
 戒律を破った因縁で堕ちるとされています。
 ②餓鬼
 ここは刀で切られるような苦しみがあるので「刀途(トウズ…刀の道)」ともいいます。
 物惜しみをし、我欲に走った因縁で堕ちるとされています。
 ③畜生
 ここはお互いに喰い合い血を流す苦しみがあるので「血途(ケツズ…血の道)」ともいいます。
 恥知らずになった因縁で堕ちるとされています。
 以上の三つは最悪の途(ミチ)であり、「三途(サンヅ)」と呼びます。
 ④長寿天
 寿命が長く安楽であると自己を深く省みたり、問題意識を持ったりできず、教えを学び実践する意識が起こらなくなります。
 お大師様が弱冠18歳の頃、道教的で安楽な不老長寿を求める道でなく、厳しい菩薩の道を選んだことに通じます。
 ⑤辺地
 いわゆる僻地ではありません。
 大切な教えが情報としてもたらされないように離れ、隔離された場所にいては、仏法に帰依できません。
 ⑥身体不全
 身体に重い病気を抱えて苦しんでいる場合には、業(ゴウ)を深く考えたりする余裕がありません。
 当病平癒などの現世利益は、眼前の苦しみを脱し、み仏の子として生きる意識や意欲を持てるようになって真の成就といえます。
 ⑦世智弁聡(セチベンソウ)
 知恵がまわり口も達者で世渡りに長け、世間的才知でうまくやれる人は、自分の抱えている根元的な心の闇に気づかなかったりします。
 人が大成するパターンの一つが「大きな挫折体験」とされているのは、才知の役立たない場面に遭遇することの価値を示しています。
 ⑧仏前仏後
 み仏の教えが説かれる前やそれが消滅してしまった後では、学ぶ機会がありません。
 いわゆる「焚書(フンショ…書物を焼却すること)」は、人類への破壊行為です。

 もしもこうした世界にいる人々でも、『錫杖経』によって救われると説かれています。
 煩悩から解脱できます。
 それを邪魔する障りとして二つ挙げられています。
 一つは惑障(ワクショウ)です。
 煩悩障(ボンノウショウ)ともいい、貪り、怒り、愚かさなどは心の平安を破り、悟りから遠ざけます。
 もう一つは癡障(ギショウ)です。
 所知障(ショチショウ)ともいい、自分や世界を観て考える際の見解が誤っていれば、鏡が曇り、定規が狂っているようなものであり、悟りへ向かう心が起こりません。
 錫杖をうち振る行者の祈りは、必ずやこうした悟りへの障害を取り除くことでしょう。

〈勁きもの〉
230118 0132



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.21

2011年2月の運勢

 2011年2月運勢──平成23年2月2月4日から3月5日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にして人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 今月は「笑顔が第一」で過ごしましょう。

 顔に感謝や悦びの気持を表して相手の心を和ませることは誰にでもできる尊い布施行であり、正式名称を「和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)」といいます。
 私たちは「布施」と聞くと何となく堅苦しい感じを持ったりしますが、本来は、誰でも、どこでも、誰に対してもできて、しかも、自分の心をも和ませる嬉しい行為です。
 相手は人間でなくてもかまいません。
 たとえば寒風に咲く一輪の梅の花が目に入り、「おお、よくやっているねえ」と心でつぶやけば、自然と、目には輝きが、頬には緩みが出て、立派な〈和顔〉になるではありませんか。

二 「笑う門には福来たる」です。
 
 ただし、「笑う」は「笑(エ)む」であり、もともとは、口を細くして笑うのが本意です。
 いわゆるお笑い番組などで芸人と称する人々から「これでもか!」とばかり仕掛けられて、「わっはっは」と大口を開くものではなかったことを考えてみたいものです。
 笑みは、心の深いところへ「真・善・美」に反応するものを蓄えておけば、自然にこぼれ、そうした現象をもたらした特定の印象は佳い気持を持続させます。
 前述の寒風に咲く梅や、幼子の何かに懸命な様子などがもたらす印象は、それ自体がすでに〈もたらされた福〉と言えるかも知れません。

三 やって来るものや集まるものの取捨選択が禍福を分けます。

 そこで大切なのが虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)の「是所非所智力(ゼショヒショチリキ…是非・善悪虚実を見極める力)です。
 この菩薩様は福徳と智慧を司るとされ、鬼門である丑寅(ウシトラ)の方位(北東)を守り、朝へと続く丑寅の時刻を守る守本尊様です。
 空間・時間、共に〈終わり〉と〈始まり〉の境目であり、そこでこうした智慧の力が必要であること、そして、是非・善悪虚実を見極める先に福徳も智慧も、もたらされることを考えてみましょう。
 近づいてきたのが善人か悪人か、提案されたのは善行か悪行か、耳にした話は虚ろな噂なのか、それとも真実なのか、慎重な判断が求められます。
 迷ったならば、虚空蔵菩薩様へ祈り、お智慧をいただきましょう。

四 新旧のバランスをうまくとりましょう。

『論語』は「温故知新(オンコチシン)」(過去に学び、新しい発想のできる人こそが師たるにふさわしい)と説きました。
 一方、『新約聖書』は「新しい酒を古い革袋に入れてはならない」(新しい発想は新しい形で表現されねばならない)と説きました。
 日本の政界では、中央でも地方でも慌ただしく〈改革〉を競い合っていますが、叡智が発揮されているとあまり感じられないのは私だけでしょうか。
 そもそも、私たちは未来を考えることはできても、未来から考えることはできず、思考・判断の材料は過去にしかありません。
 西郷隆盛の「急速は事を破り寧耐(ネイタイ)は事を成す」(慌てれば失敗しがちであり、熟考してこそ、ことは成る)という絞り出されたような思いをかみ締めたいものです。

【六波羅密(ロッパラミツ)行】

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は、方針を定めて意志をはっき表明し、前進します。
 不精進の人は自分の考えをまとめられず、保身などへ走り、失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は誠実さが目上の信頼を招き成功します。
 不精進の人は周囲とぶつかり、同志が得られず孤立しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は忠告や指導に従い、無事安全です。
 不精進の人は優柔不断なのに他へ耳を貸さず、せっかくのチャンスを逸しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は出しゃばらず、同志と共に進んで成功します。
 不精進の人は自力を頼んで強引に進み、目上や同輩に厭われ、疎んじられがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は寛大さと慎重さを兼ね備え、無事安全です。
 不精進の人は他人を信じられず、守護のバリアーを失い悪漢に利用されがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は口先に頼らず誠心をもって行い、開運します。
 不精進の人は上に立とう、自分が一番良い思いをしようと欲張り、自滅しがちです。

〈過ぎ去った時の贈り物〉
230118 014




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.20

【現代の偉人伝】第115話 ─モハメド・ベン・キアリ機長─

 1月18日付の河北新報は、「前大統領親族の搭乗拒否」と題して、モハメド・ベン・キアリ機長の行動を紹介した。

 大統領が家族と共に国外へ亡命し、混乱の続くチュニジアでチュニス航空のコックピットを守る機長は、フランスのリヨンへ向けて飛び立とうと指令を待っていた14日午後、緊急連絡を受けた。
 5人の乗客を追加で搭乗させよという。
 名前を読んだ機長は、亡命した前大統領の親族と察し、命令を拒否して離陸した。
「拒否することが、どほど危険か分かっていた。
 でも治安部隊が若者に発砲している映像が、とっさに頭に浮かんだ。
 犯罪者の逃亡には荷担しないと決めた」。
 欲15日、チュニスへ戻った機長は報道陣に囲まれ、事実を知った乗客らに勇喜を讃えられたという。
 出国できなかった5人は拘束されているとみられる。

 政治的行動には常に賛否がつきまとう。
 きっとチュニジアでも評価は分かれていることだろう。
 しかし、「治安部隊が若者に発砲している映像」を思い浮かべ、発砲を命じたであろう側の関係者が逃亡することに荷担すべきでないという魂の声に従い、自分や家族の身の安全を二の次にして行動した勇喜は高評価に値する。
 もしも5人を搭乗させたからといって誰に非難されるわけでもなく、帰国時の身の安全は保証されていてまったく危険性はなかったにもかかわらず、状況次第では帰国後に非難されたり、あるいはただちに逮捕されてもおかしくないような〈たった一人の決断〉を行ったことは、とてつもなく重い。
 5人の取り調べは、これまで続いた政治の解明と新たな国家作りに大きく役立つことだろう。

〈確固たるもの〉 
230118 027




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
01.19

1月の俳句(その2)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った1月の俳句です。

元日時間の流れ町静か

 元日になると、野山も町々も普段と違う気配に覆われる。
 敬虔な気持にさせる静けさが世界に広がる。
 時間は静けさを運びながら粛々と流れる。
 普段は背後から見守っていてくださる仏神が不意に身近に感じられる。
 人の営みにかかわりなく、静けさが時空を支配する。

三ヶ日あっと言ふ間に過ぎにけり

 お正月が来たと思っているうちに、もう、三が日は終わっている。
 死者が出ると四十九日はすぐにやって来るのと同じである。
 途中の時間は文字どおりあっと言う間でしかない。
 びっしりと法務で埋め尽くされた時間を生きながら、傘寿を越えた作者の時間を想う。

穏やかな年でありたしお正月

 お正月の穏やかさは一種独特である。年の区切りを越えたことが人を敬虔にさせるからだろう。
 この穏やかさを保つにはそうした気持が欠かせないはずである。
 現実はなかなか穏やかさを保てない。
 喧噪が再開するのと同時に、敬虔な気持を忘れるからだろう。

生かされて啜るひとりのなづな

 一月七日に食べると長生きするとされる七草と同じく、七草の一つである「なづな」を入れたおが食される。
 なづなの花言葉には「すべてを捧げる」というものがある。
 生かされている身を捧げるならば、もう、何一つ過不足はない。安心で厳粛な食事……。

木枯のをんをん泣いてゐるやうな

 木枯らしは「鳴く」という。
「泣いてゐる」と表現した人があろうか?
「鳴く」は「鳴る」に通じ、自然界のできごとである。
 しかし「泣く」となれば人間界に通じ、ことは穏やかでない。
 木々にも人間にも抵抗されるだけの木枯は、吹きつつ泣いているのだろうか。

木枯らしと太陽
230118 002




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
01.19

『大日経』が説く心のありさま六十景 その25「陂池心(ハチシン)」 (その2)

 前回、み仏が迷いであると指摘した「陂池心(ハチシン)」について考えました。
 この心は、立派な堤に守られた池に満々と水をたたえているのに、なお飽き足りなくて、「もっと、もっと水が欲しい」と、どんどん池を大きくしないではいられない「足るを知らぬ」状態になっています。

 欲望は放置すれば膨張する習性があり、それを妨げるものを破壊しないではいられなくなります。
 だから、「小欲知足(ショウヨクチソク)」が説かれました。
 出典は「遺教経(ユイキョウギョウ)」の教えが代表的なものです。
「少欲有る者は、すなわち涅槃(ネハン)あり、これを少欲と名ずく、知足(チソク)の法は、即ち是れ富楽安穏の処なり」
(欲の少ない者には深い安楽があり、手にしているもので〈足りている〉と考えるところに真の満ち足りた喜びも安穏もある)
 初期の仏教においては〈欲を無くす〉方向が目指され、小乗仏教では今なお、少欲知足が根本姿勢となっています。

 しかし、自分の(ゴウ)を見つめて恐ろしいと感じ、清浄な生き方に憧れる行者も、社会の共(グウゴウ)を見つめて不条理を感じ、皆が仏性を輝かせながら生きられる世の中を希求する行者も、気づきます。
「欲の問題は、欲を少なくしたり、無くしたりすることによって解決できるのだろうか?
 個人的な不共(フグウゴウ)であれ、共(グウゴウ)であれ問題意識を持ち、自己変革を行い社会のありようを変えたいと願う人間は、人一倍強い意欲を持って生きようとする。
 そもそも、強い意欲無しには修行自体が続けられない。
 煩悩となる欲望と、善行を後押しする清浄な意欲とは別物ではなかろうか?」

 やがて仏教は、〈自他共に〉こそが慈悲の根本であり、自分を清らかなものにすることと他人の幸せを願うことは一体であると考える大乗仏教へと発展し、欲の問題は、自己中心の欲でない清められた意欲を大きく伸ばそうとする密教の大欲(タイヨク)の発見へと行き着きました。
「大」は無限を意味し、観音菩薩も、地蔵菩薩も、文殊菩薩も、虚空蔵菩薩もすべて、人々を余すところなく救い尽くそうとする大欲を持ったみ仏であり、私たちは誰でも大欲に生きることによって菩薩になれます。
 人々へおいしく身体に良い食事を提供し、はたらける限りはたらいて人々の健康と長生きに貢献したいと願う食堂の経営者は大欲の持ち主であり、菩薩です。
 人々を病苦から救い、安心と長生きをもたらそうとする医師は大欲の持ち主であり、菩薩です。
 人々の足となり、安全に行きたい所へ連れて行きたいと考えて黙々とハンドルを握るバスの運転手は大欲の持ち主であり、菩薩です。

 ここで、前回の稿をふり返りましょう。
「善願の成就を祈るすなおで意欲にあふれた心と、欲望が諸悪の根元であるとする考え方とを、どのように理解すればよいのでしょうか。
 ここに『羅漢(ラカン)』から『菩薩(ボサツ)』へのジャンプがあります」
と書きました。

 密教は善男善女の尊い善願が成就するよう、祈祷法や加持法や供養法を修します。
 皆さんの自分でおこなう〈努力〉に、み仏の〈ご加護の力〉が加わり、それが周囲の〈縁の力〉をも引き出すよう祈ります。
 この三つを「三力」といい、目的を達成するために「最善を尽くす」とは、「三力を結集する」ことです。
 たとえば、受験であれスポーツの試合であれ、自分が努力するだけではなく、神社仏閣で祈ったり、お守を持ったり、あるいは験(ゲン)を担いだりし、周囲の人々も協力するではありませんか。
 私たちは、無意識のうちに〈ご加護の力〉と〈縁の力〉へ感謝する「おかげさま」というすばらしい言葉を持っています。
 何の世界であっても、およそ大成した人で「おかげさま」と思わない人はいないと思われます。

 さて、み仏は、なぜ、こうした〈自分の願い〉という欲へ力を貸してくださるのでしょうか?
 それは、自分の善き願いが成就して「おかげさま」と感謝すれば、他人の善願へも思いが至り、他人の善願成就を共に祈り自分のできることで手を貸す菩薩の心が開けるからです。
 もしも自分が病気で苦しんでいたならば、なかなか他の病人の快癒を願ったり、リハビリへ手を貸したりできないではありませんか。
 つまり、み仏のご加護は、私たちへ菩薩として生きる扉を開くところに真の意義があるのです。
 だから、当山ではできる限り、願いをかける方々へ菩薩の心を説いています。
 それをワンフレーズにすれば「自他共に」です。
「自分のために」善き願いを持つことが「自他共に」という善き願いへとステップアップすること、それが「『羅漢(ラカン)』から『菩薩(ボサツ)』へのジャンプ」です。
 
 さあ、せっかく生まれ持った欲を敵視せず、自己中心的にはたらく欲をできるかぎり小さく、少なくし、「自他共に」を願って止まない大欲(タイヨク)を伸ばすよう学び、実践しましょう。
 最後に大欲を説く経文である『理趣経(リシュキョウ)百字の偈(ゲ)』を書いておきます。
 

こよなき智慧の ひじりらは
いましこの世の つきるまで
つねに救いの わざをなし
涅槃(ヤスライ)にゆく こころなし。

般若(メザメ)と方便(テダテ) たぐいなき
加持(メグミ)のちから てり映えて
この世のまよい すべてみな
きよけきものと なりぬべし。

大欲(タイヨク)などの ちからもて
世のなかきよめ 調えて
この世の涯(ハテ)の 辺際(ハテ)までも
すべてのまよい つくさなん。

蓮華(ハナ)に深紅(シンク)の いろあるも
泥のけがれに 染まぬごと
けがれに染まぬ 大欲(タイヨク)は
あらゆるものを すくいなす。

きよき大欲(タイヨク) あるゆえに
安楽(タノシミ)ありて 富みさかえ
この世のなかに おもうまま
すくいのねもと 堅(カタ)むべし。



〈木漏れ日〉
230118 001




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2011
01.18

1月の俳句(その1)

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った1月の俳句です。

老いのよろよろ跨(マタ)ぐ去年(コゾ)今年

 飼いはもう老いて、家の中を歩く足取りもだんだんおぼつかない様子となっている。
 一緒に師走を過ごし、お正月を迎えた。
 相手は人間でなくとも立派な〈同居人〉であり、時を走る列車の同乗者である。
「ああ、年の境を越えた」という実感が伝わってくる。

暇さうな師走と過しけり

 世間は師走とて、慌ただしく波立ち騒いでいるが、家のは外の様子など、どこ吹く風とばかり、のんびり暮らしている。
 世間の気配は、の暇さ加減をいっそう際だたせる。
 そんなと自分は何も変わらない。
師走」は「暇さうな」にもかかっていて面白い。

もしかしてとも歳末のジャンボ籤

 宝籤は「庶民のささやかな夢」と言われているが、夢というほどのこともなく買う人々が多いのではなかろうか。
「冗談」と言っては軽すぎるが「夢」と言っては重すぎるのである。
「とも」はそのあたりの事情を正確に示している。
「風物詩」では少し寂しいだろうか。

いい加減てふ暮らしあり冬日和

「いい加減」は、なかなか佳い言葉である。「ほどが良い」というプラスの面と「ちょっと抜いている」というマイナスの面があり、いずれのメモリも、本来は「ほどほど」である。
 冬日和が持つ穏やかさのプラスと寒さのマイナスがまた「ほどほど」で、佳い句である。

今年とて気負うことなしあるがまま

今年とて」は、「さあ、新しい年になったから!といって……」という意味である。
 私たちは「新しい」と聞いただけで、何か気持が切りかわるものだが、作者は新年を迎えても「あるがまま」と流している。
「気負う」は「競」である。作者とは縁の遠い世界であろう。

モカモアコーヒーさんの外〉
230118 0032

モカモアコーヒーさんの内〉
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2011
01.18

『大日経』が説く心のありさま六十景 その24「陂池心(ハチシン)」 (その1)

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第24回目です。

24 陂池心(ハチシン)
 これは、財や地位を求めてやまない心です。

「渇(カツ)して厭足(エンソク)無き法に随順す」

「陂」は堤です。
 立派な堤に守られた池に満々と水をたたえているのに、なお飽き足りなくて、「もっと、もっと水が欲しい」と、どんどん池を大きくしないではいられない「足るを知らぬ」状態です。
 仏法では、こうした厭くなき欲求の根元を、喉の渇きに堪えられず水を求める切実さのような強い衝動として「渇愛(カツアイ)」と呼びます。
 渇愛には三種類あります。

①欲愛(ヨクアイ)…身体的快楽を求めてやまない欲望。
②有愛(ウアイ)…有り続けたい、つまり、いつまでも生き続けたい欲望。
③無有愛(ムウアイ)…有りたくない、つまり、死んでしまいたい欲望。

 こうした抜きがたい欲望が、財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲の「五欲」として展開し、止むことがありません。
 そして、自分の五欲は誰かの五欲とぶつかりがちです。
 たとえば、同じ宗派の寺院同士が伽藍の大きさや檀家の数を競ったりします。
 たとえば、選挙では対立候補と戦います。
 たとえば、恋敵と争います。
 たとえば、おいしい店を知っていることを自慢したり、自分だけ少しでも長く寝ていたいと思ったりします。

 では、こうした欲望をなくせば、人は幸せに生きられるのでしょうか?
 日本人には、仏法をそのような方向へ導く教えであると考える誤解が根強くあります。
 不安がたかまった今、欲望をなくす瞑想法がさまざまに披瀝され、まるで透明人間になったかのような感のある人もいます。
 顔には穏やかな笑みをたたえ、静かな物腰で、じっとこちらを見る目には動きがないといった人が歩いています。
 最近、Aさんがお詣りに来られ、「今年はどういう年にしたいと考えていますか?」と訊ねてみました。
 家族や仕事についていろいろ苦労し、不満も言いながら意欲を絶やさなかったはたらき盛りのAさんが口ごもっています。
 そして、驚くべき言葉を発しました。
「───特にないんです」。
 顔の表面には透明なアクリル板がかかったような気配があります。
 心は不動でありながら、どこか頼りなげです。
 研究熱心なAさんがたどりついた心のありようが観え、「今はそこにおられるのか」と察しました。
 やがて、もうしわけ程度に希望を小さく口にして去るAさんを送りながら、不安な心を〈導く先〉について考えさせられました。

 さて、密教には心願成就の法が大きく分けて四種類あります。
①息災(ソクサイ)法…災いをなくす。
②増益(ゾウヤク)法…利益を増す。
③調伏(チョウブク)法…悪しきものを抑える。
④敬愛(キョウアイ)法…信頼を得る。
 病気をなくしたい、仕事を得たい、悪縁を切りたい、人間関係を円満にしたいといった様々な善願を持った善男善女がみ仏のご加護を信じて来山され、修法を受けます。
 こうした善願の成就を祈るすなおで意欲にあふれた心と、欲望が諸悪の根元であるとする考え方とを、どのように理解すればよいのでしょうか。

 ここに「羅漢(ラカン)」から「菩薩(ボサツ)」へのジャンプがあります。

〈仏法の旗のもとに〉
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2011
01.17

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その13)─家族・師弟の門─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

12 家族・師弟の門

父母(フボ)は天地(テンチ)の如(ゴト)く、
師君(シクン)は日月(ジツ)の如(ゴト)し。
親族(シンゾク)は譬(タト)えば葦(アシ)の如(ゴト)し。
夫妻(フサイ)は猶(ナオ)瓦(カワラ)の如(ゴト)し。
父母(フボ)には朝夕(チョウセキ)に孝(コウ)せよ。
師君(シクン)には昼(夜(チュウヤ)に仕(ツカ)えよ。
友(トモ)に交(マジ)わって諍(アラソ)う事(コト)なかれ。
己(オノレ)が兄(アニ)には礼敬(レイケイ)を尽(ツ)くし、
己(オノレ)が弟(オトト)には愛顧(アイコ)を致(イタ)せ。



①父と母の縁で自分が生まれました。
 今、天と地との間で自分が生きているのは、ひとえに父と母のおかげです。
 そして、父母は生んでくれただけでなく、父はいつも見守り導く「天」のようなものであり、母はいつも支え育む「地」のようなものです。
 父に象徴される智慧と、母に象徴される慈悲とによって、人は人として成長できます。
 人はそうした天と地の間にあって生きるので、〈間にある存在〉の意味で人間といいます。
 また、古来、天と人と地とを三才(サンサイ)といいますが、「才」は「はたらき」を意味し、天のはたらきと地のはたらきと人のはたらきによってこの世は時々刻々生成されていると考えられました。

②師と君、つまり個人的指導者と社会的責任者とは、人が成長し、社会が成り立つためになければならない存在です。
 師は学校では教師であり、習い事をしていれば先生であり、あるいは本を読んで秘かに「この人を師としよう」と心に決めたりもします。
 君は校長や社長や市長など、組織の責任者です。
 こうした方々が指導し、守ってくれていればこそ人はざまざまな面で成長でき、どこにいても安心して生きられます。
 昼には太陽、夜には月のように日夜、育み守ってくれています。

③親族は、葦がびっしりと生えているから強風にも倒れないように、何かのおりには支え合える大切なものです。
 冠婚葬祭において親族は、誰もが自分のことや自分の家族に起こったできごとのように喜び、悲しみます。
 夫婦は、瓦が屋根に設置される際、ぴったりと合わされなければ充分に役割を果たせないように、ウマが合い呼吸が合っていればこそ社会の単位としてしっかり生き、次の世代を生み育てても行けます。
 夫婦間が地震などでずれたような状態になれば個でしかなくなり、次世代への責任を果たすのも困難になりかねません。

④親の恩を思えば、孝行しないではいられません。

⑤師や君の恩を思えば、礼を尽くさないではいられません。

⑥友は理解し、支え、心を磨いてくれるかけがえのない他人です。
 つまらぬことで争い、絶交になったりするのは愚かしいことです。

⑦兄や姉は守り、鍛えてくれます。
 最も身近にいる「目上」として接することが、社会人になるための重要な修行ともなります。

⑧弟や妹は自分が守り、導かねばなりません。
 最も身近な「目下」であり、目上として思いやりと責任感を持つことが、社会人になるための重要な修行ともなります。

 この章では、身近な人間関係における心構えが説かれています。
 あるいは「古い」、「封建的だ」と感じられるかも知れません。
 しかし、『実語教』の「山高きが故に貴からず」などは『平家物語』などにも登場しており、私たちが「日本的」と感じる文化の多くが発展した室町時代などを通って指針となってきたことを想う必要があります。
 私たちには「個」からものごとを見る習慣があります。
 しかし、「」からものごとを観る視点も、「」の意義を考える習慣も必要ではないでしょうか。
 ともすれば忘れられがちな「」のありがたさを思い出し、ともすれば自他を傷つけがちな(ガ)の暴走を抑え、魂を磨く素養とするために。

〈伝えられしもの〉
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2011
01.16

無縁社会と寺子屋

 1月11日付の読売新聞は、「『無縁社会』の話をしよう」と題してマイケル・サンデル教授の話を掲載しました。
 教授は、無縁社会がやってきた原因の一つは、「現代の市場主義がもたらした豊かさ」そして、「極端な個人主義」であると指摘しました。

 家族であろうがご近所さんであろうが、肩を寄せ合わねば生きて行けない社会でなく、自分の財布さえしっかり握っていれば生きて行けるようになったので、他者が必要なくなったというのです。
 また、戦後民主主義が絶大な威力を発揮して敗戦までの規範や価値観をいっしょくたに排除し、「家のため」「会社のため」「国のため」などの縛りを解き、堂々と「自分のため」を考え、「自分が第一」としてはばからない姿勢を正義としている思想状況が問題であるとしました。

 教授は
「市民としての義務は何か。我々は、若者や高齢者にどんな義務を負っていsるのか。こうしたディベートは避けて通れない」

と議論を勧めました。
 ディベートとは

「互いを尊敬し、相手に耳を傾け、共通点を見いだそうとすること」

であり、我(ガ)を脇へ置きつつ他者の考えや意見や希望へ対して真摯に対応する対話です。

「コミュニティーが高齢者に対して責任を共有できる、新たな仕組みを作る必要がある。
解決策は地域ごとに異なるだろうが、コミュニティーが『共通善』とみなしたものでなくてはならない」
「かつて大家族が担った役割を果たすには、市民社会から発生したものが好ましい」

も重要な指摘です。
 地域ごとに方言があり慣習が違うように、文化が違うので、地域ごとの生活感覚に根ざした自然発生的なコミュニティーが理想なのです。
 
 そしてアリストテレスの思想を紹介しました。

「善き生とは、市民が美徳を育んでいける生き方だ。
 美徳は、市民が個人としてだけでなく、共に生きることによってはじめて育まれる」。

 これを読んで、本来、日本の社会にはこうした考えや感覚があったのではないか、教授が言うように

「個人の自律を第一に考える立場と緊張関係にある」

はずの〈共生〉の智慧があったはずであるという気がしました。
 美徳を育むには素養が必要であり、社会に素養を育む姿勢も仕組みもあったのです。
 それが江戸時代までの寺子屋であり、藩校ではなかったでしょうか。
 読み書きそろばんも、武術や学問も、生きるために役に立つものではあるとはいえ、むしろ、そうした実利よりは人間の土台を創るために果たした役割の方が大きかったのではないでしょうか。
 寺子屋の教材となっていた『実語教・童子教』を読むと、こうした簡明な道徳が言葉として子供たちの頭へ入っていれば、人間が人間として生きるための最大の敵である我(ガ)が自然に抑制され、他者の存在を無視しない潤いのある人間性が形成されたに違いないと思われます。
(「朝日スポーツボイス」へ『実語教・童子教』のわかりやすい紹介を始めたので、ぜひ、親子で役立てていただきたいと願っています)
 もちろん、「カントが唱えた自律的な行動を重視する考え方」の洗礼を受けてしまった私たちは、江戸時代へ逆戻りできません。
 自立心を備えた上で、コミュニティーを形成しようとする心や智慧を磨く必要があります。

「日本でのディベートでも、伝統的、歴史的な価値観についての考察が出発点になるだろう。
 だが、それだけでなく、伝統に根ざす価値観をどう現在に生かすかについても考えなければならない」

は、至極もっともです。

ディベートでは、人によって異なった結論を導き出し、意見の不一致が浮き上がることもある。
 重要なのはディベートを通して、大きな哲学的な考えや、価値観を明るみに出すことだ」。

 これを怖れていれば、ディベートはできません。
 当山の寺子屋「法楽舘」も、NHK文化センターでの講座「生活と仏法」も、あるいは各所で行う法話の会も、教授の言う

「ささやかなディベートの場を生活の中で作ればいい」

という考えそのもので行っています。
 プロの宗教者が宗教者として皆さんと率直な意見のやりとりを行うことは、きっと、皆さんがそれぞれ生活の場で理想や人生を考え、人生の大事と向き合う際に役立つと信じています。

 教授の警鐘にもまったく同感です。

「倫理問題から大衆の目がそらされ、公共の重大な問題が置き去りにされてしまう」。
「どうでもいいゴシップが巾を利かせる傾向が強まっている」。

 社会の片隅で行われている地道で真摯なディベートが、やがてはメディアや政治を動かす力になって行くよう願っています。

〈願い〉
230115 0062




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.15

お風呂場建築基金について(2)

 おかげさまにて、「ゆかりびとの会」の方々がスタートさせてくださった「お風呂場建築基金」は順調なすべり出しになっています。
 会へも当山へもさまざまなご意見が寄せられ、役員さんたちと共に、感激したり勉強させられたりしながら、感動の毎日を送っています。
 そうしたお手紙の一部を抜き書きしてご紹介します。
(プライバシー保護のため、一部の内容を変更しています)



○会員Aさん

法楽新聞1月号」の「住職だより」から、自分なりに感じたことを述べさせていただきます。

寄附集め」に関しては、何もないゼロから立ち上げてこられ、自分たちの大切な「法楽寺」とその御住職と「ご家族」をお護りし、日本の「法楽寺」へと発展させる為には、多少は必要不可欠かと思われます。
「振替用紙」には賛同したメンバーが各自の生活にひびかない範囲内で、小分けに何回にしても協力するというのはいかがでしょうか。

 自分個人にしてみれば、現役を退いた身で、年金生活では、そんなに沢山は協力できません。
 又、これまで信じてきた宗教上の理由で、今まで平泉とか奈良とかへ行っても仏像は拝まない様にして来たので、正直なところ、〝大日如来像〟を拝むのもあまり本気にはなれません。
 ただ、最近、こんなことがありました。
 尊敬しているキリスト教信者の方が、数年前、ご主人を亡くされました。
 ご実家が真言宗だったこともあるのでしょうか、その後、近くにある真言宗の寺院へでかけては〝大日如来像〟を拝みに通っているという言葉を聞いて、少々安心しました。

 恐る恐る好奇心でとび込んだ、法楽寺の寺子屋でしたが、一方通行になりがちな教会の礼拝とは違って、大変面白く、読書の意欲も湧き、〝法楽寺〟と〝法楽寺の寺子屋〟は今は大切な存在になって居ります。
 微力な個人個人が沢山集まればと願っています。

○会員Bさん

 毎日、何不自由ない生活ができることにただ有難く、住職はじめ皆さんのおかげと思っています。
 足腰も弱くなりましたが、自分にむちを打って日々担々と生きています。
 あんなに悲しかった夫の死も乗り越えることができました。
 今は自然の美しさに見とれ、ゆっくりのんびりした日々を送っています。
 又、人の悲しみ、苦しみも理解できるようになり、日本人、世界中の人々が戦争のない安らかな日々をと祈るばかりです。
 
 夜中、自分が寒くて眠れないと、「本堂で座布団に寝ている住職と奥さんは寒さにふるえているのでは」と心配しています。
 何もできませんのでただご夫婦の健やかな日々を祈るばかりです。

○同級生Cさん

 先日、貴君のお寺の会報を読み、君の為のお風呂場の建設に協力をする運動を知りました。
 君の寺に風呂場が無かった事を初めて知り、自分の普通と思っている生活の甘さに心が痛みました。
 本当に頭が下がります。
 自分の日頃の生活に感謝をすると同時に理解者の下、早く風呂場が出来る事を祈ります。
 年明け早々に少しですがお布施をさせて頂きます。
 檀家さんたちの自発的な運動であることをはっきりさせるために、檀家さんからでた寄付や寄贈などの提案はお寺とは別の用紙にするとか別便などで檀家さんたちの有志の名前で郵送した方が良いかも知れませんね。
 ただ郵送料が無駄なら、同封をさせて戴きましたとの断りを入れれば大丈夫かなと思います。
 君を理解し、頼る人がいるうちは大変でしょうが、仏を信じ、人を信じて頑張って下さい。
 陰より応援しております。体を留意し、風邪など召されませんよう!!



 この運動を始めていただいてから起こった誤解の一つは「本堂を建設していながら、一緒に自分の住居を造らなかったのはおかしい」というものであり、「住職が今、どこでどうやって寝起きしているのか、現実を知らせて欲しい」といったご要望もありました。
 本堂(講堂と呼んでいます)建立は「寺子屋建立運動」の果てに成ったものであり、頭割りのお布施依頼を行わない当山は、完成まで10年以上の年月を要しました。
 また、いただいた浄財だけでは寺子屋や居合道場などを開く広さが確保できず、結局、銀行さんや協力業者さん方のお世話になってようやく完成にぎつけたのが実態です。
 当然、自分たち夫婦の寝起きする場所など考える余裕はありませんでした。
 その後、状況を見捨ててはおけないと立ち上がってくださった「ゆかりびとの会」の皆様のお心一つでこの運動は開始されました。
 おりおりに役員さんから運動の現況報告をいただき、真の布施行が粛々と実践されている様子に、涙の出るような思いで法務に励んでいます。
 皆さんの願いは必ず成就すると信じています。合掌



※「お風呂場建築基金」郵便振替口座は以下のとおりです。
 ご協力をお待ちしています。

ゆかりびとの会」02250ー8ー133419
お風呂場建築基金」と明示し、〒番号、ご住所、ご芳名、℡番号を書き添えてくださるようお願いします。

〈皆さんの善願成就を祈って〉
230102 070




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.14

お葬式では何が行われているのか

 百か日までの法要後、「お葬式では何をやっているのかわからない」というご意見をいただいたので、参列者の視点から、あらためて簡単に書いておきます。

①三度、礼拝を行い、着座しかてら少し沈黙があります。
 これは導師が、み仏と一体になる法を結んでいるのです。
 密教では、即身成仏した行者が修法を行う」以外、いかなる祈りも行われません。
 また、これで明らかなとおり、読経以外にいろいろなことを行います。
 だから、開式にあたり、司会者が「ただ今から、読経を行います」と言いますが、正確には「ただ今から、修法(シュウホウ、スホウ)が行われます」と言うべきです。
 
②やがて、カランカランという音が聞こえます。
 これは、仏器に入っている水を清めているのです。
 そして棒が振られます。
 これは、清めた水をつけた棒の先で何度か十文字を描いているのです。
 この世を清め、壇やご供物を清め、仏界やあの世を清め、式場を清め、故人を送る場の準備をします。

③次に、ご供物を加持(カジ)します。
 捧げられたご供物はすべて、み仏と故人へ捧げられており、重ねて清めてからお渡ししします。

④読経の最初は、唄うような声明(ショウミョウ)です。
 大日如来の徳を讃え、四方の仏様方を供養し、式場をみ仏の光にあふれたご加護の場に変えます。
 私は、読経と共に会場が光で包まれてゆく変化を実感し、声明の最後では、大日如来と化した釈尊がおられることを確信します。
 式場は、異次元の世界になります。
 修法後、たくさんの方々から「こういう雰囲気のお葬式は初めてだった」と言われるのは、きっと皆さんも、み仏のご加護を感じておられるからでしょう。

⑤続いて、真言と共に魔除け、結界(ケッカイ)、そして故人へのご加持(カジ)が行われます。
 病死や変死などによって、真言が違ったりします。

⑥続いて、み仏を礼拝する経文が唱えられ、「表白(ヒョウビャク)」が読み上げられて大日如来を初めとする諸仏菩薩へご挨拶が行われます。

⑦続いて、法によって剃髪(テイハツ)が行われます。
 故人は髪を落として出家者の姿となり、み仏のお導きの中へ進みます。

⑧続いて、引導を受ける者として心を定められるように、お授けが行われます。
 導師が懺悔(サンゲ)、帰依(キエ)、受戒(ジュカイ)と覚悟を決める心構えを授けます。

⑨続いて、戒名が授けられます。
 お通夜にお位牌が用意され、戒名も示されていますが、いよいよ、み仏の御許へ旅立つ際に、受戒と共に新たな名前がきちんと渡されるのです。

⑩続いて、阿字(アジ…存在の根本、仏界の全体を示す梵字)が授けられます。
 根元へと旅立つための確認です。

⑪続いて、印と共に光明真言が唱えられます。
 大日如来の世界が示されます。

⑫続いて、再び「表白(ヒョウビャク)」が読み上げられ、故人へ行く先が示されます。

⑬続いて、引導が渡されます。
 葬儀におけるすべての修法は、この瞬間のために行われてきました。
 ここで導師は、自分の全存在をかけて故人へ〈この世とあの世の区切り〉をつけます。
 それは執刀医が患部を切除するのと同じであり、切腹する者へ介錯を行うのと同じです。
 行者が修行する目的の一つは、引導を渡すという成仏に欠かせないすぐれて専門的な法力を身につけることにあります。
 もし、寺院選びに迷ったならば、住職に会い、「この人は仏様になれる」「この人に引導を渡してもらえれば安心だ」と信じられるかどうかを重要なバロメーターとすることをお勧めします。
 決して、「便利であれば誰でもよい」、「その場限りだから誰でもよい」のではありません。
 自分が手術を受けることになって執刀医を選ぶ時、誰でもよいと思われるでしょうか?
 また、切腹する人が下手な介錯人に首を斬られたならばどうなるでしょうか?
 修法は、み仏のご加護と行者の法力によって真実世界が顕れる厳粛なものであり、決して上辺だけの〈形式〉ではありません。
 人が仏界へ帰るという誕生と匹敵する〈人生の大事〉をきちんと考え、きちんと選択することは、その後の御霊の行く末と、送った人々のその後の人生にとってとても重大な意義を持つと信じています。

⑭その後の修法はすべて引導後の安心のためのものであり、参列者のお焼香もこのあたりから行われます。

 以上、とても大まかな説明ですが、こうしたことを知っておられれば、参列していて、「ああ、もうすぐ引導が渡されるんだな」などとご理解が進むのではないでしょうか。

2301011 0693
 



「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.13

【現代の偉人伝】第114話 ─戦争体験を綴る方─

 ゆかりびとの会会員熊谷千枝子氏は戦争体験者である。
 お身内の詩人西ふみ氏を励まし、忘れたかったはずの戦争体験は綴られた。
 半世紀以上前のできごとが甦った。
 偉人伝に遺したい。
 読む人も聞く人も忘れないで欲しい。

十一才の夏・釜石  西 ふみ(奈良県生駒市 74才)


リモコンの数字を ひとつ押すと

毎日、どこかの国の 戦争が 写っている

建物や、ひと形に ピンポイントで照準が合わされ

3(スリー)・2(ツー)・1(ワン)・0(ゼロ)

テレビの薄い被膜に 花のように爆裂する

あれが戦争だろうか?



十一才の夏は
アツク
アスファルトが、赤い緒の下駄にはりつく
朝鮮部落のトタン屋根にのせられた
大小のゴロ石が、叫ぶばかりの
遠い道を歩いていた
飯盒(ハンゴウ)の玄米の粥が こぼれないように
肩からゆらさないように

木々が深い影をつくった坂を上ると
古い木造の「女学校」
黒くみがかれた長い廊下、扉のない教室

板の間に 一列 五人、ござの上
頭と頭が向かいあって 二列 十人
足と足が向かいあって三列め
四列
五列
母もそこに寝ていた

左隣の人は、腕がなかった
肩先を 丸く、おじゃみのように絞ってあった
目を閉じた母
右隣は若い男
涙をながさずふるえ 泣いていた
〝哀号〟〝アイゴー〟〝哀号〟

十九のお兄さんの背中には
何発もの弾が入ったまま
だから天井を向いて 寝られない
お兄さんには 何人も友達が来た
朝鮮語で話し 麦飯の〝おにぎり〟を持って来た

大きな目で見詰める 女の子に
〝あにぎり〟は差し出され
涙と鼻水といっしょに飲みこまれた

母の臑から膝は まっ白になって
薄きいろの膿が拡がって
深緑の膿になった
緑色の膿の上に〝うじ〟が涌いた
ピンセットで 何匹も何匹も捕っても涌いた
赤チンキとバノールをつけて繃帯した
女学校の裏の川で繃帯を洗った
川が増水した日、赤い鼻緒の下駄が片っぽ流れた

うめき声だけがする 薄暗がりの長い廊下は
こわい
女の子の目の高さに 鉱物の標本のケースが
ひっそりしていた
真紅の石ルビー きれい
教室の前の廊下に
真鍮の金盥(ベースン)、切断された足が入れられ
置かれたいた 母の足



その日は、音もないのにざわついて
寝ていた人達は起き上がろうとしていた
となりのお兄さんの足許に
ラジオが置かれ
みんなラジオの方を見ていた

昭和二十年
八月十五日、まひる 零時

ガーガーザーザザ、シノビガタキヲシノビ
タエガタキヲタエ、ザーザザガー
しんとして だれも 何も言わず
無くなった腕、足をおよがせ
崩れおれ 横になった



小川の第四部落は、釜石製鉄所の職員住宅
町から離れて山陰に軒を並べていた
河原に 月見草が ぼうぼうと咲く
川を渡って 子供達は
小佐野国民学校へ通った



その日、七月十四日
朝から日が照りつけているのに
母と、近所のきれいなおばちゃんと
押入の前に、布団にくるまっていた

空襲警報が鳴って まもなく
轟音、空は真暗になり 巨大な黒い鉄板で
押しつぶすように B29が襲来した
家ごと掴み上げる怪鳥のように
飛び去った

つかのま
母がいひるご飯を炊いていた台所に
足を踏み入れ、お釜の蓋に手をかけた時
地響き 爆弾の炸裂音
音と同時に爆弾の破片が左臑を貫通した

臑の外側から貫孔は小さく
内側一瞬回転して えぐられ
ざくろのように開いた
だくだく血が流れた
きれいなおばちゃんが 手拭で
腿の付根を
きつくきつく縛った

それからどうしたろう
あのおばちゃんは 口紅を付けていて
非国民といわれていたのだっけ

兄ちゃんが 釜工(高)から帰って
かんぽうしゃげき、艦砲射撃を語り
製鉄所や、大橋のあたりのもようを言ってた
「友達が防空壕から頭を出して、
首を飛ばされた」
「怪我をした人が、流れる血を必死で腕にすくって飲んだ」と

六時すぎに 第四部落の入り口に
負傷者を収容するトラックが来た
トラックは怪我人でいっぱいになり
何処かへ 行ってしまった ───

「母ちゃん」「母ちゃん」
トラックを追いかけて はしった

かぞえ十一才の夏、せんそう

女学校の病舎で
九月に母は死んだ 四十二才


〈祈る〉
2301011 042




「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.13

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 63 ―年の初めに─

 1月12日、NHK文化講座生活と仏法」の第一回講義となりました。
 Sさんからのご提案で、「これまで身についたことやこれから学びたいこと」などについて、忌憚のないご意見をお聞きしました。

Aさん
○これまでになかった視点ができ、ものを見る目が変わった。
○講座へ向かってでかける時は気持がピリッとする。
○月に二回、心の洗濯ができる。
○心の支えができつつあるという気がする。

Bさん
因果応報というが、死んだ人が持っていたこの世での思いが死後どうなるのかを知りたかった。
○自分の気持をコントロールできるようになり、振幅の大きかった感情の高ぶりや落ち込みが静かになった。
四苦八苦のうち、病苦と死苦がいかんともしがたく、この二つへ立ち向かう心がけを知りたかった。
○心の支えが欲しいと願っていた。

Cさん
○いつも楽しいことなどを求めた生活をしているが、ボランティア活動などを通じて、〈あるべき生き方〉を考えるようになった。
○夫婦して出逢った霊能者から指摘された憑き物を祓いたいと思っていて、この講座があることを思い出した。
除霊の方法を知りたかった。
○講座は自分をふり返り、襟を正すきっかけになる。

Dさん
○老いと共に周囲も自分も変わってきたので、これからどう変わって行くべきかを考えたかった。
○子供の頃に親から教えられたことを思い出すが、そこにある仏性というようなものが体系づけられて説かれることに興味を持った。
○講座へ通うようになってから「自分の人生は独りよがりだったのではないか」と気づいた。
○自分・他人・世の中を「見つめる」ようになった。
○毎回、何か一つでもつかんで帰りたいと願っている。

Eさん
○これまで約7年近く講座へ通って死が怖くなくなり、もし許されるのなら今、逝っても良いが、そうもできない事情があるから、まだ生きていられるのもありがたい。
○世の中を厳しく観る父がだんだん無宗教になり、「葬儀は無用、献体せよ」と言い遺して逝った。
○その子供たちもそれぞれ自分でお寺や葬儀のことを考えながら生きてきたが、過日、衆議一決して供養会を行い、本当に大きな安心を得られた。
○どんなことにもじたばたせず、〈受け容れる〉構えができた。

※自分で紙芝居を作ってぶらりとでかけ、あちこちでそれを見せる僧侶をテレビで観た。
 ほとんど説法はせず、ただ、見せて去る。
 そこからくみ取るものは観客それぞれに任されている。
 こうした〈わかりやすい〉説法や布教も考えられるのではないか。

「皆さんのそばへ出かけて行って説法を行うことは、とても大切なことだと考えています。
 そのことは托鉢を通じてしっかり教えていただきました。
 高野山から全国へでかけ、法を説きながら勧進(カンジン…信仰を勧め、浄罪を集めること)した高野聖が思い出されます。
 十三仏様のお導きなど、『チベットの死者の書』にも匹敵するような日本古来の教えを何としても皆さんに知っていただきたいと願っています。
 真の宗教者は、自分の周囲へ集まる信者だけでなく、釈尊やお大師様のように広く大衆を相手にした説法や対話を行うべきであると考えています」

※お釈迦様の説かれた「四諦(シタイ)」の「諦」は「諦める」と読める。
 ある僧侶が、諦めれば救われると説いている。
 そう聞いて安心したような気もする。
 あきらめれば良いのだろうか?

四諦の諦は真理という意味であり、あきらめは真理を明らめるところに発しなければなりません。
 最初から放り投げることからは何も生まれません。
 明らめる努力の結果、人それぞれに、どこかの時点で肝心なものをつかんだり、心のおさまりを得たりします。
 あるいは、もうこのあたりで良いと区切りをつけるかも知れません。
 ピリオドを打った時、いわゆる〈あきらめ〉が到来します。
 皆さんのまじめな努力は、きっと、納得を伴ったよい諦めへ連れて行ってくれることでしょう」

〈この絶対性……〉
230109 013




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2011
01.12

たけしの教科書に載らない日本人の謎 高野山

 1月3日に日本テレビ系列で放映された「たけしの教科書に載らない日本人の謎 高野山」をDVDで撮っておられた方からお借りしました。

 身近な仏様方を手際よく分類したり、さまざまな宗派が興った背景を示したり、全体的によくできた番組と感じました。
 同時に、ひんぱんに聞こえる「えーっ」「ふーん」などという感嘆詞があまりに多く、番組の構成上、そうした音を目立つように入れる必要性があるとしても、「こんなことが驚かれるのか」と、びっくりさせられもしました。
 戦後教育の宗教アレルギーが影を落としているのはもちろん、高校で日本史が選択科目になるなど、覚えるべき時期に知識として与えられていない状況が浮き彫りになった気がしました。
 こうした番組は、「えーっ」や「ふーん」をきっかけにしてまず、「知らなかった」という事実に気づかせます。
 中には興味や勉強の段階まで行く人もあることでしょう。
 あの〈崩し〉の名人であるたけしが、一度もおちゃらけた瞬間をつくらず、特に高野山奥の院では神妙な表情そのものでした。
 2時間半の真剣勝負が心の乾きかけている世相へ一石を投じたのは確かでです。

 さて、やはり突っ込めなかったかと感じたのは、最澄とお大師様が絶縁状態となるきっかけに関する場面でした。
 最澄は『理趣釈経』などの教本を研究して密教の奥義を知りたいと願い、師となったお大師様は、奥義は教本を読んだだけでは決して会得できないから、いつまでも読んでばかりいないで所定の修行を行いなさいと指導しました。
 ところが最澄は自分のスタイルを遠そうとしたので、伝法が成り立たなくなりました。

 そもそも、お大師様が海を渡ったのは、出逢った密教経典である『大日経』の生かし方がわからなかったからです。
 修行に修行を重ねていた天才は、師なくして会得できない領域があることに気づいたのです。
 そして唐の恵果(ケイカ)阿闍梨(アジャリ)から密教のすべてを伝授され、帰国後に熟考をした結果、究極の体系が完成しました。
 こうした密教は、伝授された通りの修行を経なければ決して身につきません。
 読んで知るのは山を眺めるようなものです。
 師によって示された登山道の入り口から所定の装備で所定のルートを登らない限り、登山の醍醐味を味わうことはできません。
 もちろん、登らずに眺めて写真を撮ったり、絵を描いたり、俳句を詠んだりするのは結構ですが、そうした興趣の楽しみ方と登山の楽しみ方は違うのであり、身体と心のすべてを使って山の精気と一体になりたいならば、登るしかありません。
 だから、お大師様は、伝法と修行なくして密教を体得しようとする最澄へ「それは不可能です」と言うしかなかったのです。
 法華経を中心としてあらゆる仏教をまとめようとしていた最澄は「自分の体系」へ密教をも含めたかったのでしょうが、無理な願いでした。

 テレビカメラの入ったことがない奥の院が映ったのは画期的でした。
 暗い堂内に『理趣経』が流れ、導師は、今も説法を続けておられるお大師様を供養する修法を行っていました。
 この根本経典『理趣経』については、セックスすらも清浄であると読める一節があり、そこに興味を持った評論家や作家や他宗派の僧侶などがいろいろ書いたり発言したりしていますが、やはり〈眺めている人〉にはなかなか根っこがつかめないようです。
 ほとんどの方は、こう勘違いします。
「セックスをしても悟れると書いてある」。
 そして、評論や小説を書いたり、密教を誹謗したりと、さまざまなことが行われます。

 当山では、『理趣経』の説く、「人間はなぜ生きているか」あるいは「人間はどう生きるべきか」といった疑問への明快な回答について、常々、お話し申し上げています。
 この回答の視点に立てば、決して「セックスをしても悟れると書いてある」とは解釈できません。
 つまり、密教経典を〈自分の視点〉から読んだだけでは、そのエッセンスは掴めないのです。

 天才たけしは、奥の院の空気に触れて瞬時に「これは掴み得ない」、「軽々に言葉にできない」と悟ったのではないでしょうか。
 フィルムの中でも、司会者の席でも、寡黙で表情を崩さない様子が印象的でした。
 今後もこうしたまじめな番組ができるよう願っています。

〈秘法〉
2301011 0232




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2011
01.11

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その12)─(その1)についての質問─

 1月10日を第一回とし、「朝日スポーツボイス」へ「実語教童子教」の連載を始めました。
江戸時代からの贈り物』です。

 第一回でとりあげた(その1)は、

山(ヤマ)高(タカ)きが故(ユエ)に貴(タット)からず。
樹(キ)有(ア)るを以(モッ)て貴(タット)しとす。

です。

 こう書きました。

「私たちが高い山を眺めてしみじみと『佳いなあ』と思うのは、ただ、『山が高いから』だけではありません。
 樹木が茂り、近づけば鳥の鳴き声がしたり、沢の水が流れていたり、虫が飛んでいたり、花が咲いていたりして、いのちの息吹が感じられればこそ魂がふるえるのです」。
「子どもが親孝行をするのも同じです。
 親がこの世へ生んでくれた恩があるからだけではありません。
 一生懸命に育ててくれていることを知っているから、親を喜ばせたい、孝行したいと思うのです」。
「人間が『万物の長』と呼ばれているのは、言葉を話したり、車をつくったりするからだけではありません。
 人間は自分で勉強して心を成長させるからです。
 また、太陽や自然の恵みを知って感謝するからです。
 また、世の中 全体を考えて、お米をつくってくれるお百姓さんや社会を守ってくれるおまわりさんなどへ感謝するからです。
 そして、だれかのためになりたいという尊い考えを持つからです」。

 さっそく質問がありました。
「親はとにかく自分を生んでくれたのだから、どのような親でも尊いのではないでしょうか?
 人間も、人間として生きていることは等しく尊いのではないでしょうか?」。
 
 当山が書いた内容を仮にAとし、質問した方の考え方をBとして考えてみましょう。
 確かに、Bは当たっています。
 その通りです。
 それにひき換え、Aには外れもあります。
 たとえば、子供をほったらかしにしてパチンコに狂う親もいれば、我が強く、まるで感謝を知らないかのように自分勝手な人もいます。
 そうした親や人は尊くないのかと突っ込まれそうです。
 しかし、子供へいきなりAを示したなら、すんなり理解できるでしょうか。
「(君を)生んでくれたから親孝行しましょう」、「君へご飯を食べさせてくれいるから親孝行しましょう」と言われた場合、押しつけられていると感じるかも知れません。
「(誰でも)等しく尊い」と言われた場合、何のことなのか見当がつかないかも知れません。

 だから、子供へはまず、本来あるべき〈理想〉や〈目標〉を示し、理想や目標にそった美点を見出させ、そうした思いを持たせる必要があります。

 もしも、父親が仕事に追われてさっぱり家にいない場合、
「お父さんはあなたの目に見えないところで家族のために頑張ってくれていいます。
 お父さんがあなたと直接話す時間はなかなかないけいれど、いつもあなたのことを考えてくれているのです。
 だから、あなたもしっかり勉強してお父さんを喜ばせてあげましょう」
と聞かせ、〈子供を思う心〉を伝えてあげましょう。
 その心に子供の心が感応すれば、自然に親孝行をしたくなることでしょう。

 もしも、口うるさくて有名な近所のお婆さんがゴミ収集所を掃除している場合、
「Cちゃんの家のお祖母さんは、いつも収集所を掃除してくれているのです。
 ああして皆のためになっているのだから、皆にとってありがたいのに、お祖母さんは『ありがたい』が口癖だよねえ。
 お祖母さんは、お百姓さんやおまわりさんに感謝する気持があるから、感謝されるような善いことができるのです。
 君も、君のことを考えていろいろ注意してくれるお祖母さんの気持をありがたいと思わなきゃならないよ。
 相手が思ってくれる気持をすなおに受け止めて感謝できるようになれば、君も誰かに感謝される善いことができるようになります。
 善いことをすると気持がすがすがしくなり、嬉しくなります。
 そうした心になれるから人間は尊いのです」
と聞かせ、〈感謝の心〉を意識させましょう。
 子供の心から感謝がどんどん出てくれば、自然に尊い生き方ができるようになることでしょう。

 こうして親孝行になり、尊い生き方ができるようになった時、Bの指摘する〈本質〉が理解できるのではないでしょうか。
 Aの真実の先にBの真実があると考えてはいかがでしょうか。

〈嬉しい気持が起こります〉
230109 010



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
01.10

寺子屋『法楽舘』第十四回が終わりました ─仏法を学ぶ(第一回)─

 今年の寺子屋は12回続きで、仏法の基本をお話し申し上げます。
 第一回は「四諦(シタイ)」と「八正道(ハッショウドウ)」でした。

 まず、説法の初めに行う作法や読経の内容を話しました。
 導師が登壇するとまもなく、カランカランという音が聞こえます。
 これは、数珠と三鈷杵(サンコショ…魔を祓う仏器)を用いて水を清めている音です。
 やがて短い棒何度か十文字に動かしますが、それは、棒の先につけた水で道場などを清めているのです。
 読経の最初は、唄うようにゆったりした声明(ショウミョウ)です。
 四方のみ仏へご挨拶をし、大日如大を讃えています。
 さらに般若心経を唱え、み仏をご供養してから説法へ入ります。

 法話のおおむねは末尾の資料に基づいて行われましたが、質疑応答も活発でした。
「住職にとって一番大変な修行は何ですか?」。
 即座に「引導(インドウ)を渡すことです」と申し上げたところ、とても驚かれました。
 葬送法をきちんと行って死者へ〈この世とあの世の区切りをつける〉のはプロとして行う法務における核心の一つであり、それは執刀医の行う手術と同じです。
 切除の一瞬を間違いなく行うためにあらゆる勉強や稽古や準備があるのであって、それらがいくら大変でも、執刀に勝る大変さはないはずです。
 行者としての僧侶がいかなる修行を行おうと、それはすべて準備段階であり、大した問題ではありません。
 イチロー選手がトレーニングを売り物にしますか?
 難しい玉を打つところにこそプロとしてのイチロー選手の価値があり、いかなる厳しいトレーニングを行ったとて、打てなくなれば引退せねばなりません。
「死者と向き合う真剣勝負の引導に勝る修行はありません。
 プロである以上、引導を渡せるかどうかは自分で判断できるし、自分でしか判断できはしません。
 引導を渡せなくなれば、引退するだけです」。

 翌日、「じったん」の愛称で呼ばれ、周囲の人々から親しまれていたAさんのご葬儀を行いました。
 まだ、70才、若すぎる別れでした。
 誰彼なく子供たちをこよなく愛でたじったんの葬儀には、はるばる岩手県の近くから〈近所の子供たち〉までが参列し、異例の雰囲気でした。
 孫Aちゃんの1才の誕生日には、1キロの米袋を2つに分けて首の前と後にかけさせ、歩かせようとしましたが、Aちゃんのパワーは予想を遙かに超えており、駆け回って皆を驚かせました。
 その様子を一番喜んでいたじったんは、安心したのか、2日後、7年間にわたる闘病生活に終止符を打ちました。

 じったんの遺体の前で夜を過ごすことになったAちゃんの寝付けない様子に、お母さんは「じったんが横にいるよ」と教え、安心させようとしました。
 Aちゃんは、じったんの方へ手を伸ばし、何か話しながら頭をなでてもらっているようです。
 やがてAちゃんは、すやすやと眠りました。
 ご家族は「まるで、亡くなったばかりのじったんがあやしてくれいるようだった」と教えてくれました。

 引導を渡す前は、これ以上ないほど辛い思いをします。
 じったんと皆さんへ永遠の別れをさせねばならないからです。
 しかし、引導を渡すのは切腹に介錯人がつくのと同じくです。
 しっかりと首が切り落とれさねば、腹を切った人は長い苦しみの時間を持つことになります。
 介錯人の辛さは、現代ならば死刑執行人と同じでしょう。
 執行人は、一人では辛さに堪えられないので数人して同時に執行のボタンを押し、〈自分がやったかどうか〉決してわからない仕組みになっています。
 きちんと向こうへ渡すのは、厳粛で苛酷な仕事です。
 じったんを送り、いつものように力の抜けた足取りで帰山しました。

 以下は、開講で用いた資料です。

一 四諦(シタイ)

 私たちの根本的ありようは、以下の四つに示されます。

①苦諦(クタイ)…知り尽くさねばなりません。(遍知)
 この世はままならないということです。ままならない中でも最たるものは、「原因には必ず結果が伴うので、迷いを根本的に脱しない限り、この世で地獄を見たり修羅になって争ったりするだけでなく、死後そうした世界へ再生する輪廻転生から抜け出られない」ということです。
②集諦(ジッタイ)…滅せねばなりません。(滅除)
 苦には原因があるということです。原因の最たるものは、真理が観えない状態すなわち無明(ムミョウ)です。
③滅諦(メッタイ)…実現せねばなりません。(成就)
 原因を滅すれば結果も出ないということです。無明という原因を滅すれば、苦という結果は出ません。
④道諦(ドウタイ)…実践せねばなりません。(修習)
 無明を滅する方法(道)があるということです。それが、八つの正しく聖なる道すなわち「八正道(ハッショウドウ)」です。

①苦諦について

 私たちが生存していること自体、すでにままならないのであり、それを「苦」と言います。苦には大きく分けて三種類あります。

○苦苦(クク)…感覚的に苦しいと感ずること。肉体的な苦しみ。
 たとえば、マラソンで限界に近づいたり、溺れそうになったりした時の苦しみです。
 ケガや病気に伴う苦痛なども代表的なものです。
○壊苦(エク)…何かが壊れたり失われたりする時に感ずる精神的な苦しみ。
 たとえば、勤めていた会社が倒産したり、大切にしていた盆栽が枯れたりした時の苦しみです。病気になったばかりに、仕上げる寸前だった仕事がだめになったという悔しくてどうにもならない状態なども代表的なものです。無常という動かしがたい原理がもたらす心の苦しみです。
○行苦(ギョウク)…「行」すなわち現象世界そのものがままならぬこと。
 たとえば、自分がこの世に生まれたのは、自分の過去世が因となり、両親の存在が縁となったからですが、感覚的には、自分の意志とは無関係に突然、自分の存在が始まったようにしか思えません。不遇をかこったり、衰運で悩む時などは、「思い通りに生まれなかった」不満や悲嘆や疑問などに苛まれたりします。また、いかに快楽を貪ろうと、輪廻転生から解脱しない限り、永遠に続く「楽」は得られません。たとえば楽しく安楽な天界に生まれたとしても必ず寿命はあり、いつかは地獄界や修羅界などへ旅立たねばなりません、天人五衰(テンジンゴスイ)です。天界の楽が大きければ大きいほど、後に待つ苦は恐ろしく、厳しいと説かれています。

 苦は、四苦八苦として現れます。

①生まれること
②老いること
③病気になること
④死ぬこと
⑤愛する相手と別れること
⑥憎い相手とめぐり会うこと
⑦求めても得られないこと
⑧人間として存在することに伴って苦しみを避けられないこと

②集諦について

 六つの大きな煩悩があります。

①欲しい惜しいと貪ること
②怒り怨むこと
③道理に反する勝手な考えで、怨み妬むこと
仏法の真理を疑うこと
⑤慢心すること
⑥悪しき見解を持つこと

③滅諦について

 苦を滅する道は二つあります。

①見惑(ケンワク)という誤った見解に陥っている状況を脱すること。つまり、理論から入る道です。
②修惑(シュワク)という身にまとっている煩悩を滅し、迷いにひきずられない涅槃(ネハン)というこの上なく心地好い境地へ入ること。つまり、修行から入る道です。

④道諦について

 具体的方法には八つの道があります。

二 八正道(ハッショウドウ)

八正道」は人間の根底にあるみ仏の心を発揮させる聖なる道なので、「八聖道(ハッショウドウ)」とも書きます。

正見(ショウケン)
正しい見解
「この世には、どんな人にもなし遂げられぬことが五つある。
 一つには、老いてゆく身でありながら、老いないということ。
 二つには、病む身でありながら、病まないということ。
 三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。
 四つには、滅びるべきものでありながら、滅びないということ。
 五つには、尽きるものでありながら、尽きないということである」
②正思(ショウシ)
 正しい思念
③正語(ショウゴ)
 正しい言語行為
④正業(ショウゴウ)
 正しい身体的行為
⑤正命(ショウミョウ)
 正しい生業(ナリワイ)
⑥正精進(ショウショウジン)
 正しい努力
⑦正念(ショウネン)
 正しい臆念
⑧正定(ショウジョウ)
 正しい心のおさまり

〈寒波にめげず、善男善女が清浄な道場へ集まりました〉

230101 018



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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