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2011
02.28

『法句経』物語22 述千品(ラカンボン)第十六「第一話」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 釈尊がシュラーヴァスティーにおられた時のできごとです。
 知恵がまわらない性分なのに出家修行者となったチューラパンタカは、三年間学んでも、たった一つの文章すら覚えられませんでした。
 行者たちで彼の愚かなことを知らぬ者はいません。
 そこで釈尊はこう指導されました。
「口ではつまらぬことを言うな。
 心では我がままを抑えよ。
 身体では悪いことをするな。
 こうして生きれば、悟りを開けるであろう」
 わざわざ自分のために一句を説いてくださったお慈悲に深く感じ入ったチューラパンタカは、愚かな心の扉が開かれ、聞いた教えを暗唱できました。
 そこで釈尊は、重ねて言いました。
「お前はもう、年老いた。
 そして今、貴重な教えを知った。
 他の行者たちはこの教えをすでに知っているあるが、だからといって彼等が特に勝れているというわけでもない。
 今からその内容を説くので、銘記せよ」
 釈尊は、身体と言葉と心との三つにそれぞれ戒めがあり、三つを通じていかに迷いが起こるか、そしていかにすれば三つを清められるかを説きました。
 身口意のはたらき方によって地獄界や天界などへ輪廻転生し、あるいは仏道を成就して覚り、何ものにも左右されない境地へも入られなど、身口意に関するたくさんの教えを説きました。
 チューラパンタカの心はさらに開け、アラカンの悟りを得ました。

 その頃、五百人の尼僧がいる精舎へ毎日一人、釈尊の弟子が説法へ行くことになっていました。
 明日、チューラパンタカが訪れると知った尼僧たちは、「どうせろくな説法などできはしないだろうから、皆で逆に説法してやり、グーの根も出ないようにしてやりましょう」と笑いあいました。
 さて、翌日、チューラパンタカを迎えに出た尼僧たちは老いも若きも笑いを含んだ目配せを交わしました。
 作法通り、食事をいただき、手を洗って説法の座に登ったチューラパンタカは、謙遜の態度をもって説法し始めました。
「徳が薄く才能もない私は、年老いてから出家しました。
 才知が鈍い性分なのでたくさんは学べませんでした。
 たった一つの教えを知り、その意味するところを大まかに理解しているだけです。
 これからその話をしましょう。
 どうぞ、ご静粛に耳を貸してください」
 逆に説法してやろうと待ちかまえていた尼僧たちは声も出せず、チューラパンタカの変貌ぶりに驚き、悔い改めて深く敬いました。
 チューラパンタカは、釈尊から学んだとおり、身体と言葉と心とがはたらいている状態、そうなっている原因、精神的罪福と肉体的罪福、あるいは精神集中して心を安定させる方法などを説きました。
 説法を聞いた尼僧たちは、自分たちのありようが道に外れていたことに深く気づき、真理を知って喜び、揃ってアラカンの悟りを得ました。

 後日、国王が釈尊と修行者たちを儀式用の御殿へ招きました。
 釈尊はチューラパンタカの法力を発揮させようと、一行の後から鉢を持ってついてくるように命じました。
 御殿の門番は、正装をせず、愚鈍で名高いチューラパンタカを押しとどめました。
「お前は、行者になったからといって何も会得していないそうではないか。
 こうした場に招かれたからといって一体、何ができるのか。
 私は俗人だが、教えの一つぐらいは知っているぞ。
 智慧なき行者などあるものか。
 お前に施したからといった何の役にも立たない。
 ここから入ってはならない」
 こうしてチューラパンタカは一人、門外に残されました。
 さて、釈尊が聖水を注ぐ作法に入った時です。
 外にいるチューラパンタカが鉢を捧げて腕を伸ばすと、どこからともなく聖水をたたえた鉢を持った腕が現れ、上座に座る釈尊へ渡しました。
 国王はじめ皆は奇瑞に驚き、釈尊へ、いったい誰の腕ですかと訊ねました。
「これはチューラパンタカのものです。
 彼は最近、悟りを開いたので私は鉢を持たせたのですが、門番が入れてくれません。
 だから、チューラパンタカはこうやって私へ鉢を届けたのです」
 ただちに招き入れられたチューラパンタカは、いつもに増して威厳に満ちています。
 国王は訊ねました。
「愚鈍なチューラパンタカは、たった一つの文しか知らないと聞き及んでいますが、いかなる方法で覚ったのですか?」
 釈尊は答えました。
「必ずしもたくさん学んでいなくとも、教えを実践する方が悟りへ近づけるのです。
 チューラパンタカは確かにたった一つしか知りませんが、それを熟考し、実践し、奥義に到達し、もはや彼の身口意は煩悩による乱れから離れきりました。
 彼の心身は、天界でじっと光っている金のように清浄です。
 人々はいかにたくさん学んだからといって、熟考せず、理解せず、実践しなければ、ただ知識を増やしただけに過ぎず、悟りは開けません」
 そして、詩の形で教えを説きました。
「たとえ千の教えを暗唱できたとて、その真理真実を正しく理解できなければ
 たった一つの教えを聞いて修行の要とし、煩悩の火を滅することに及ばない。
 たとえ千の教えを暗唱できたとて、その意義を理解していなければ一体何の役に立とうか。
 たった一つの教えであっても聞いて意義に気づき、実践して覚ることが肝要である。
 たとえ多くの教えを暗唱したからといって、きちんと理解していなければ一体何の役に立とうか。
 たった一つの教えであっても理解し、実践すれば、仏道を成就できるのである」
 釈尊が説き終わった瞬間、三百人の行者たちはアラカンの悟りを開き、国王はじめ全員が歓喜しました。

 次回、この物語について考えてみましょう。


〈それぞれに〉
230225 0262



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.27

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 66 ―惻隠(ソクイン)の情─

 2月23日、NHK文化講座「生活と仏法」において、朝日新聞2月19日号に掲載された「ああ相撲! 勝ち負け、すべてではない」を題材にしました。
 音楽評論家吉田秀和氏は、勝ち負けのおもしろさだけではない大相撲の醍醐味を述べ、「今相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。」と指摘しています。

 印象深いのは、〈そうなるべくしてなった〉ような勝負の結果について、当事者間でしかわからない阿吽の意志があったように感じても、それに目くじらを立てるのではなく、そこも又、文化のもたらす繊細な面としてとらえている点です。
 闘病から復帰した第一戦で大鵬に勝った柏戸、憎らしいほど強い横綱北の湖を破った人気絶頂の大関貴ノ花などを取りあげ、言外に主張しています。
「皆、その結果に喜んだではないか。
 勝者をも敗者をも、八百長と糾弾しなかったではないか。
 むしろ、言葉には出さずとも、よくやってくれたと敗者を惻隠(ソクイン)の情で讃えたではないか。
 プロの真剣勝負と観客があっての娯楽、その両面が繊細なバランスで成り立っている国技を守ろう。」
 大相撲の力士には、プロとしての圧倒的な力量と、興業を成り立たせる役者という二面性が求められており、ギリギリのところでは、観客へ歓呼の声をもたらす結果を出しても咎められるべきではないということです。

 もちろん、今回の事件では堂々と金銭がからみ、十両へ上がるかどうかなど低レベルでの調整があったらしいという報道であり、そうした取引が常態化すれば大相撲は堕落します。
 真相解明はなされねばなりません。
 その一方で、大人の文化として深められ、磨かれ、伝えられてきた国技をどのように運営してゆけば良いのか、創造的な智慧が求められています。

 Aさんが言いました。
「もう、『惻隠の情』は死語になたのではないでしょうか?
 かつて、作家の故井上ひさし氏が離婚した時、記者たちから心境を訊ねられ、一言『惻隠の情』とだけ答えたのが印象に残っています。
 あえて言挙(コトア)げしないでおくという文化が薄れて、何でも白か黒かに分けてしまうギスギスした時代になったような気がします。」
 井上ひさし氏はかなりの暴力亭主で、奥さんはよく耐えていたという説もあり、夫婦間のあれこれはわかりませんが、さすが言葉のプロといった感があるエピソードです。
 確かに死語になりかけているらしく、日本語入力システム「ATOK15」で「そくいん」と入力しても漢字に変換されないのにはガッカリさせられました。

 Bさんが言いました。
「小学校の教師時代に、障害を抱えたお子さんの学級を進んで受け持たせていただきましたが、その数年は人生で最も勉強させられた時期になりました。
 私は〈できる子〉も〈できない子〉も正しい意味でまったく平等に扱い、〈できない子〉に何とか〈できる子〉と同じような達成感や自信をつけさせようと努力しましたが、障害を抱えたお子さんの親御さんたちは、とても強硬な姿勢を持っておられる方が少なくありません。
 父兄への対応には、肝心のお子さんへの教育に勝るとも劣らない時間と神経を使わされました。
 黙って精一杯の思いやりをかけているのに、重箱の隅をつつくような問題で声高に『正論』を唱え、決して譲ろうとしない姿勢にはほとほと困りました。
 お互いに惻隠の情を持てば、もっと気持ち良く子供を教育できる現場になるのになあと思ったものです。」

 心が失われれば言葉が失われ、言葉が失われれば心が失われます。
惻隠の情」は、消えるにはあまりに惜しい言葉です。
 結局2時間、この言葉に関する論議で過ぎてしまいましたが、その価値は充分にありました。

 ところで、辺見庸氏は詩「剥がれて」において、言(コトバ)の喪失を衝いています。
 その抜粋です。

「意味から剥離し。
 意味が剥がれ。
 ~
 砂鉄を表現しえず、錬鉄に拒まれ、錬鉄を言いえず。
 ~
 実体はかえって消失し。
 言は実体の消失をもはや言いえず。
 あるいはただ符帳のみ。
 記号のみ。
 痕を消され。
 消去され。
 コード化され。
 角のコンビニで売られ。
 ~
 コピーされ。
 転換され。
 複雑骨折し。
 画面を浮遊し。
 サマライズされて。
 くびられ。
 吊され。
 ダウンロードされ。
 ワード検索され。
 脱臼し。
 崩落し。
 紛状化し。
 晒され。
 添付され。
 跡形もなく飛散し。
 ~
 言霊から剥離し。
 二束三文となり。
 パスワードとして涸れ。
 ブログで転がり。
 ~
 神の舌からはがれ。
 猛る神にさわりえず。
 どう祟られたか知りもせず。
 祟られて祟り。
 ~
 哀しみの幽暗を言いえず。
 幽暗の奥に入りえず。
 ただはがれ。
 彷徨い。
 ~
 無を語りえず。
 沈黙から疎まれ。
 窒息し。
 それでもヘラヘラ笑い。
 ~
 もはなにもの曳航せず。
 なにものにも曳航されず。
 言は粉砕され。
 瀕死の遊離魂として。
 プカリプカリ浮き流れ。
 漂い。
 ただ漂い。
 それでもうたわれて。
 すべての無意の語群として。
 あるいはすでに死にたえた遊離魂として。
 宇宙の塵になるか。
 ほろほろと宙を回るか。
 ほろほろと薄命の宙を回り。
 はがれ。
 すべての愛から言が剥がれて
 愛が剥がれて
 剥がされて。
 くり抜かれて。
 無の峡谷をどこまでもどこまでも堕ちていけ。
 言は剥がれ剥がれて剥がされて……。」


〈伊藤さんのフクロウ〉
230228 001



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2011
02.26

なぜ仏・法・僧(ブッポウソウ)は宝ものなのか

 なぜ仏・法・僧(ブッポウソウ)は三宝(サンポウ)と称されるのでしょうか。

 み仏は、救済された姿と世界を示しておられます。
 そして、私たちは、菩薩(ボサツ)として生きればそのまま、み仏となった自分が救われており、他をも救える可能性を持つ者となれます。

 法は救済される道筋を明らかに示しています。
 同時に、法の中へ入る者へ自他を救う力を与えます。

 僧は、み仏と法を信じ、守り、法に生き、法を護持発展させる人々です。
 それは、救済を求める人々の杖となり、先導者ともなります。

 私たちはこうした仏・法・僧三宝があればこそ、希望を捨てず、自己を清め、高め、人間社会の向上を信じながら、共に生き抜くことができます。
 私たちが仏法を生きようとする時に障碍となるのがであり、病気であり、霊的障りです。
 は、善行を重ね、心の流れを清めて克服しましょう。
 病気は、医学の力を借りて自己快癒力を高め、み仏からの加持力にもお支えいただきながら克服しましょう。
 霊的障りは、日常生活的な次元と異なる世界での障碍なので、その世界へ入る力を持った行者の協力を得て克服しましょう。

 お大師様は説かれました。

四大(シダイ…地・水・火・風)のそむけるには、薬を服して除き、
 (キゴウ)の祟りには、呪悔(ジュカイ…真言を唱えるなどの修法)をもってよく消す。
 薬力は(ゴウキ)をしりぞくこと、あたわず。
 呪功(ジュク)は通じて一切の病を治(ジ)す。」

 地・水・火・風で示される骨格・血液・体温・呼吸などに問題が起こった身体的病気は、医学・薬学で退治できます。
 しかし、病とされる霊的次元の障碍や、病とされる過去の因縁を深く受けた障害については、修法なしにはなかなか解決できません。

 如来の別名に「医王」があります。
 み仏は、心身を癒す最高の力を持っておられます。
 み仏を信じ、教えに導かれ、み仏と教えを守る清浄な人々と共に心身の不調を克服しながら、人の道を歩みましょう。

「私は解脱(ゲダツ)への道を教えよう。
 しかし、解脱はあなた自身が実現せねばならない。」

 自分で食べるように、排泄するように、自分でやるかやらないかがすべてです。

〈つながるいのち〉
230225 025




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.25

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その15)─学びと修行の門─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

14 学びと修行の門

三学(サンガク)の友(トモ)に交(マジ)わらずんば、
何(ナン)ぞ七覚(シチカク)の林(ハヤシ)に遊(アソ)ばん。


三学をめざす友と交わらなければ、七覚の修行はできない)

①どう生きたらよいかを考えるなら、人の道を教える仏法を学びましょう。
 学んだ内容が心の血肉となり、智慧となれば、まっとうな判断ができるようになり、生きる目標もみつかります。
 「三学」とは、「(カイ)」「定(ジョウ)」「慧(エ)」です。
 仏法を学ぶとは、・定・慧の三学を探求することです。
 まず、「」はめです。
 「不殺生(フセッショウ)」や「不偸盗(フチュウトウ)」などのめを守り、みだりな殺生や、自分のものでないものを自由にすることができなくなれば、煩悩によって乱れ騒ぐ心は清浄に澄んできます。
 ここが入り口であり、日々の生活をきちんと制御できない人はその先へ進めません。
 生活ぶりを整えることが第一です。
 次の「定」は心の平安です。
 瞑想などによって心に安らぎがもたらされなければ、その場しのぎの知恵は浮かんでも、人の道に沿った智慧は輝きません。
 そして、「慧」は自己中心と反対の考え方を与え、身体のはたらきも、言葉のはたらきも、心のはたらきも仏性に導かれた方向へと解放します。
 によって煩悩の支配を脱し、定によって煩悩の隅々まで見通し、慧によって煩悩が生じなくなり、欲は自他を救わずにいられない大欲(タイヨク)へとレベルアップします。

修行の進み具合が7つの面から説かれ、「七覚支」となっています。
 覚りへ向かう道筋です。
 まず、智慧をはたらかせて、教えの真偽を確かめます。
 次に、信じた教えの実践に励みます。
 次に、教えのありがたさが身に染みて、喜びが生じます
 次に、心身が解放されます。
 次に、教えがいつも心に保たれているようになります。
 次に、教えが煩悩を消して、心が乱れないようになります。
 次に、教えを一々考えなくても、自然にその通りの生き方ができるようになり、悟りは完成します。
 ここには、学んだことが実践され、生き方の変化してゆく様子がありありと示されています。
 仏道に限らず、およそ「道」と言われるものは、こうした順番を経て生きざまを変えることがよくわかります。
 
 この句は、わずか150年前ほどまで、小さな子供も含めて庶民の間で広く学ばれ、おそらくは暗唱されていました。
 江戸時代の人々が世界でトップクラスの素養を身につけていたことが実感されます。
 最近、10才の女の子と5才の男の子が、とても好きだったひいお祖母ちゃんのお通夜で受付をしていました。
 二人は亡くなるまで、弱ったひいお祖母ちゃんの手を握って励ましていたそうです。
 人の道は、あれこれと声高に言挙げされなくても、庶民によって目立たないところで守られ、導きとなっています。
 二人の姿はみ仏そのもの──、大きな励ましをいただきました。 

〈清浄な……〉
230225 023




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
02.24

四摂事(シショウジ) ─徳のネットワークをつくりましょう─

「自分が生きてゆく」ことは「皆と生きてゆく」ことと同義です。
 いのちも心も〈ネットワーク〉の中でしか生じられず、保てないからです。

 たとえば、ご飯を考えてみましょう。
 いただきますと自分の口へ届くまでの経過において、自分の果たした役割は、いくつあるでしょう?
 また、米を作るところから、ご飯として炊き上がって茶碗に盛られ箸を添えられるところまで、いったいどれだけの人々が関わっているでしょうか?
 一粒の米も、種として蒔かれ、害虫や干魃などにやられずに実り、刈り取られるまでの間、どれだけのプラスの条件とマイナスの条件を受けつつ過ごしたことでしょうか。

 たとえば、心ならずも引きこもりの状態に陥った人々が人間としての矜持や倫理感を失わないで日々を過ごせるのは、文字であれ、映像であれ、電話であれ、精神活動に発する情報と接しているからではないでしょうか。
 私は、道に迷った若き日、窓を塞いだアパートの一室を真っ暗にして鍵をかけ、数日間閉じこもったことがあります。
 本も読まず、もちろん、電話にも出ません。
 そして、こうしたシャットアウトの状況は「安」よりも「狂」へ向かわせることを知りました。

 たとえば、自死をはかり、思いもよらない形で一命をとりとめた方が生き直しへ踏み出せるのは、いかなる形であれ、「」や「」という言葉で表されるネットワークの持つ力によるのではないでしょうか。

 生きるとは、共に生きることです。
 では、共に生きるための根本的な心構えは何であるか?
 それは四摂事(シショウジ)です。

布施(フセ)
 自分が率先して誰かの何かのためになり、結果的に、の人々をも、自己中心を離れる布施の実践へと導くのです。
 匿名でも、実名でも、タイガーマスク現象が根付くことを祈っています。
愛語(アイゴ)
 思いやりに発する言葉を用い、結果的に、の人々をも、悪意や怒りや怨みを離れた愛護の実践へと導くのです。
 釈尊にも、お大師様にも、粗暴な心と言葉でぶつかってきた相手を愛護で救った物語があります。
 北風と太陽のイメージも大切です。
利行(リギョウ)
 教えに基づく実践を行い、結果的に、の人々をも、十善戒や六波羅密などの実践へと導くのです。
 精進している人の姿には徳の香りがあります。
同事(ドウジ)
 他人の心や立場を忖度し、それをふまえた善行を実践し、結果的に、の人々をも、他人の心や立場を考える実践へと導くのです。
 仏法の慈悲は、神の立場から下へ施す愛ではなく、隣にそっと寄り添う友情から発する思いやりです。
 心を寄り添わせる同事慈悲の実践です。

 このように学び、実践し、〈自分がまっとうに〉生きれば、必ず〈共にまっとうに〉生きられるこの世になります。
 互いが発する徳の香りこそ、最も信頼できるネットワークをもたらすのではないでしょうか。

〈共に咲いています〉
夢慧3月20福寿草 004_edited-1




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
02.24

例祭だより(2月の第二例祭)

 2月19日(土)第二例祭日です。
 
 2月の護摩終了です。 
 風邪ぎみになり今日はちょっと鼻声まじりでしたが、なんとか無事に終えてほっとします。
 本日の法話は、修法するのも、参加するのも仏様体験であるというお話でした。
「線路に落ちた人を助けたり、前回お話ししたタイガーマスクの行いも一つの仏様体験である。
 自己中心ではない。
 自己中心ではそんなことはできない。
 また例祭のときもお経をお唱えしている時に、『今日何を食べようか』とか考えている人はいないわけで、みんなで仏様の世界を創って護摩を焚いて仏様の世界を体験している」
という内容でした。
〝なんと分かりやすい〟
 ……そういえば修法中、自分はなにを考えているのだろう、と思いつつ今日の例祭は終了です。

 さて、法楽寺では習字教室が始まりました。
 私は小学校低学年の授業以来です。
 最初の課題は「三年」で普段字もあまり書かないのと、下手の部類に入る私にとっては難しい、の一言でした。 今回私は「年」まで進まず「三」をひたすら書いたのですが、一つ一つの角度・はねかた・バランス・がまとまっていないと間の抜けた字になり何回書いてもうまく書けません……。
 が、考えて見ると、こんなに字を書くのに集中してまじめに書くのは初めてかもしれません。
 小学校のときなども少しいいかげんに書いていたような記憶があります。
 なかなかいいものだなと思いながら「三」をひたすら書いていました。
 回りを見渡すと、習字の先生が住職に、字にありがたみがありますねと声をかけてます。
 高橋さんには、さすがに習字をやったことがあるし普段からきれいな字を書いているので先生からも整ったいい字ですと声をかけられています。
 奥さんも習字の先生から上手な字と話しかけられています。
 私が緊張して「三」の一番下の字を書いていると習字の先生が前でじっと見ています。
 なにかおっしゃるかなと思ったらスッと別な所に移動しました。
 ……う~む……。
 何回も練習して少しでも「字」らしいもの書きたいと心の奥でひそかに目標をたてている私でした。

 教室は第一日曜日の午後2時、第三土曜日の午後4時からやっています。
 どうぞお気軽におでかけください。
 お待ちしています。

※この稿は、行者丹野明宏君が書きました。

〈まじめで研究熱心な丹野君は、誰かさんの作品を自分の机の前へ貼って目標としています〉
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2011
02.23

3月の聖語 ─この世を極楽に─

 お大師様が説かれた密教の精髄です。

身(ブッシン)即ちこれ衆生身(シュジョウシン)。
 衆生身これすなわち身なり。
 不同にして同、不異にして異なり」

(みのお身体はそのままにして生きとし生けるものの身体です。
 生きとし生けるものの身体はそのままにしてみのお身体です。
 不同でありながら、そのままにして同一であり、不異でありながら、そのままにして異なっています)

 この世を離れてみの世界はなく、この世は本来、みの世界です。
 ただ、私たちの智慧の欠けている無明(ムミョウ)と、自己中心の煩悩(ボンノウ)とが邪魔をして、その真姿を実現できないでいるだけのことです。
 枕経を依頼されてAさん宅をお訪ねし、修法後、故人の〈お人なり〉についてご家族から話を聞きました。
 亡くなったお祖母ちゃんは家族思いで優しく、弱音を吐きませんでした。
 家族が買い物にでかける時、いつも家にいるだけのお祖母ちゃんを連れ出そうとしますが、下の世話などで迷惑をかけたくないと遠慮してなかなか首を縦に振りません。
 そこで一計を案じました。
「お祖母ちゃん、駐車場で車イス専用の所に停められると、買ったものを積む時にドアの近くで楽だから、協力してよ」。
 とっくに意図を見抜いているお祖母ちゃんは承諾します。
 十才にならないひ孫たちも、心を込めて祖祖母の世話をしました。
〝ああ、この居間こそ、み仏の世界だ〝と確信したものです。

 ところで、宗教は、他人(ヒト)を幸せにしたいという強烈な思いから起こるのではないでしょうか。
 心の〈彷徨い人〉だった私は、事業の失敗によって家族や友人や関係者などに、とてつもない苦を与えました。
 懺悔の思いは、恩返しをしたい、他人様の役に立ちたいという思いへと昇華し、開山を認められた時には、自然に、誰でもが「この世の幸せとあの世の安心」を得られる場でありたいという心の旗が立っていました。
 聖なる若き釈尊が、鷹に獲られる生きものを見、苦役に汗する奴隷を見、病苦や労苦を抱えた人を見て、「見捨てておけない(抜苦)」気持になり、「何とかしたい(与楽)」一心で道を求められたのとはまったく異なるスタートでしたが、「誰かの何かのためになる」ことに自分を捧げたいという思いは通じていたと考えています。
 聖人は聖なる苦しみから出発し、凡人は懺悔の苦しみから出発しますが、苦を抜き楽を与えたいという同じ志にたどりつけば、すでにそこで自分が救われています。
 やがて聖人は大いなる宗教を起こし、凡人はささやかな罪滅ぼしを行います。
 それが可能なのは、〈救われている人〉だからです。
 もちろん、聖人には、もはや一切の苦はなく、凡人には生活苦などが伴います。
 聖人は輝きつつ、凡人は苦しみつつ、共に「他人(ヒト)を幸せにしたい」一心で宗教の道を歩みます。

 確かに、「文化人類学の父」エドワード・タイラーが指摘するとおり、「宗教の基本は霊的存在への信念にある」という見方もありましょう。
 しかし、それは宗教的感覚とでも言うべきものであり、宗教心の根幹をなすものではありません。
 いとも簡単に「貴方の肩に悪霊が乗っている」などと口走る昨今の風潮が孕む大きな危険性を考えてみればすぐにわかります。
 故亀井勝一郎氏は「大和古寺風物誌」に書きました。

「芸術にあっては、党派というものは最も拙劣な空想だ。
 人は身をもたせかけるところもなく、暗黒の橋をただひとり渡らねばならぬ。
 危うさに生き、いつでも転落の可能性を有し、たえず転落し、七転八倒し、或る刹那に、かろうじて或る均衡を保って美は生まれる。
 その地獄とも醍醐味ともいえるとこに静かにあぐらをかき、守本尊を念じつつ微笑をもって仕事する、そういう職人気質こそ私の理想とする人格なのだ。」

 行者も同じです。
 苦を抱えた相手を前にして、自分が相手よりも楽をしようと思った瞬間に堕落します。
 開かれた宗教活動を行っている限り堕落との孤独な闘いは日々続き、行者が凡人である限り決して絶えません。
 行者を堕落から守るのは「他人(ヒト)を幸せにしたい」という志であり、志をエネルギーに変えてくださるみ仏です。

 A家の人々は、まぎれもなく、心から支え合って生きておられます。
 大きな仏壇はありませんが、ご先祖様に香がたむけられ、人の道(宗教)が実践されています。
 だから、娑婆でありながらそのまま極楽であると感じたのです。
 心一つで、たった今、どなたのおられる空間も極楽になります。
 私たちは等しくその可能性を生きている真実を忘れないようにしたいものです。

〈「宮床弘法水」をお守りくださるお大師様〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
02.22

2011年3月の運勢

 2011年2月運勢──平成23年3月(3月6日から4月4日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にして人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 今月は「忍耐が第一」で過ごしましょう。
 昨年亡くなった歌手の竜鉄也氏は、中学生の頃から視力が落ち始め、マッサージ師をしていた二十六才の時に全盲となりました。
 心の支えを歌に求めて流しの演歌師となり、自ら作詞作曲した『奥飛騨慕情』で紅白歌合戦にも出場しました。
「演歌とは人の世に踏まれて咲く花」と考え、儲かるショーよりも福祉施設や刑務所の慰問に励みました。
 花は人の目があろうとなかろうと雨風に耐えて〈自分の花〉を咲かせます。
 いよいよ、花の季節になります。
 花の心を大切にしましょう。

二 「他人(ヒト)のせいにしない」姿勢も大切です。
 結果として現れたものごとには必ず直接的な原因と、それにはたらきかけた縁とがあり、自分に起こったできごとで自分に原因も縁もまったくないということはあり得ません。
 その「人となり」が否応なく明らかになるのは、失敗や病気や左遷などの不遇に陥った時です。
 愚癡には二つの罪があります。
 一つは、前述した因縁の道理から目をそらすこと。
 もう一つは、帰らぬ過去にこだわり未来への扉を閉ざしつつ時間を潰すことです。
 しかも、聞き手をも闇の時間へ引き込みます。
 愚癡を言う時間があるなら、じっと花を眺めて過ごしましょう。
 服部嵐雪は「梅一輪(イチリン)一輪ほどのあたたかさ」と詠みました。

三 どうせやるなら、腹をきめてやることです。
 中国の舞踏家揚麗萍(ヤンリーピン)氏は少数民族のペー族に生まれ、貧農の暮らしをしていましたが、11才で踊りの才能を認められ歌舞団員になりました。
 そして、「土から離れたものはやりたくなかった。少数民族の文化は豊かで深い」という信念から、減俸処分を受けてもバレエのレッスンは断固、拒否し、生活に根ざした踊りのみを探求しました。
 やがてソロダンス「孔雀の精霊」で押しも押されもせぬ立場を固め、奥地を訪ね歩いては若者を発掘し自宅を売って民族歌舞団を結成しました。
 幼き日に祖母から聞いた「踊るのは神様と話をするためなんだよ」を実感し、「私の踊りは作り物ではなく、〝原生態〟(自然のありのままの姿)の芸術。そして私の魂そのもの」と語りつつ活躍しています。

四 自分の言葉の持つ力は徳の如何(イカン)によって決まることを銘記しておきましょう。 
 それは政治家を見ればすぐにわかります。
 権力者は何であれ言うことを通せると思っても、選挙民から信頼されていなければ、言葉の内容が当たっているかどうかと関わりなく、言葉が選挙民の心へ届きません。
 古今東西、徳に勝る真の力はありません。

五 肝心なものの状態は、常にチェックしておきましょう。
 たとえば非常時のためにと溜めておいた水が腐ったり、漏れていたりするかも知れません。
 最近、「ねむの木学園」で、園長の宮城まり子さん(八十三才)の口座から二年半にわたり五億円もの大金が不正に引き出されていたことが発覚しました。
 まり子さんは「私の死んだ後、身体が悪く、不自由で、父母のいない子にあげたいと思っていました」と述べましたが、後の祭です。

 六波羅密(ロッパラミツ)による今月の修行です。

[布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は、身近な目上や賢人の力で前進します。
 不精進の人は自分の力を過信して新規なものごとを進め、不安定な状況に陥りがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は信仰心や日頃の心がけが認められ、成功します。
 不精進の人は欲に駆られて飛び出し、失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は不慮の事態への備えによって無事安全です。
 不精進の人は予期せぬ事態に遭遇し、慌てふためいて対応を誤り、失敗がちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は我が身を省みない真剣さが思わぬ加勢を招き、前進します。
 不精進の人は自分の立場や力を頼んで進み、より大きな力にやられがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は人の和によってホッとする時間を持てます。
 不精進の人は迷って行う多様なチャレンジが和を崩し、安心から遠ざかりがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は言葉に信頼感が伴い、誤解を招きません。
 不精進の人は謙虚さに欠け、言葉を飾るその場しのぎに走り、馬脚が現れて失敗しがちです。

 皆さんの開運を祈っています。


〈「仰烏帽子山の福寿草」さんからお借りして加工しました〉


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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.21

【現代の偉人伝】第117話 ─「ああ相撲! 勝ち負け、すべてではない」を書いた吉田秀和氏─

 音楽評論家吉田秀和氏は、朝日新聞2月19日号に「ああ相撲! 勝ち負け、すべてではない」という一文を載せた。
 この欄は「音楽展望」と題されているので、異例である。

 氏は、小学生になる前、大工の棟梁から教えられた相撲の醍醐味をこう書いている。

「彼にいわせると、相撲は勝ち負けがすべてではない。
 鍛えに鍛えて艶光りする肉体同士が全力を挙げてぶつかる時、そこに生まれる何か快いもの、美しく燃えるもの。
 瞬時にして相手の巨体を一転さす技の冴え、剛力無双相手をぐいぐい土俵の外に持ってゆく力業。
 そういった一切を味わうのが相撲の醍醐味。
 それに花道の奥から現れ、土俵下にどっかと座り、腕組みして自分の取り組みを待つ姿から土俵上の格闘を経て、また花道をさがってゆく。
 その間の立ち居振る舞いの一切が全部大事なのだ。
 これがおよそ私の受けた最初の相撲に関するレッスンであり、この時の話は酒臭い息の匂いと共に今も私は忘れない。」


 氏の幼い頃、相撲は「歌舞伎につならる」興業だったという。
 際どい勝負で勝ち負けを決められなかったり、長時間かかってなかなか決着がつかなかったりした場合は「この勝負引き分けに候」もあった
 立ち会いに時間の制限はなく、にらみ合う両者の呼吸に任されていた。

 氏は嘆く。

「時代の好み、社会の要請に従って、相撲もほかの近代的スポーツ一般に歩調を合わせ、勝敗の帰趨に焦点を合わせるように次第に変質してゆく。
 勝敗に拘泥しないような取組には精神の緊張がみられなくなり、緊張の欠けた巨体のぶつかり合いは、むしろ、醜く見るに堪えないものになる。」


 氏は指摘する。
 場所の開催が増えて力士の負担が増しても、戦争をくぐり抜けても大相撲の伝統は生き残ってきた。

「当事者達の絶大な工夫努力の賜物であると共に、日本の社会の中に相撲を愛し、支える力が働いていたからでもある。
 それを忘れてはいけない、と私は考える。」


 昭和38年、休場明けの横綱柏戸が全勝のまま千秋楽を迎え、同じく白星を重ねてきた横綱大鵬と激突、ついに全勝優勝を飾った時、石原慎太郎氏が八百長ではないかと指摘した事件があった。
 復活優勝で号泣した柏戸はもちろん、理事長に問いただされた大鵬も激怒しながら否定し、日本相撲協会は石原氏を告訴する準備をしたが、石原氏の謝罪で和解となった。
 時のNHK解説者玉の海が、取組前に思わず「柏戸に勝たせたいねえ」と口走った勝負につき、氏はこう感じた。

「話は示談に落ちつき、世論もいつとはなしに沈静化した。
 私は『オヤッと思ったのはその前にもあったがな』と思ったものである。」


 実績の大鵬と人情を集める柏戸の関係は、王貞治と長嶋茂雄の関係に似ている。
 きっと相撲ファンの多くが柏戸の優勝を祈る状況で、そうなった流れに、〈できすぎている〉と感じたことは、何かの真実に通じているかも知れない。
 しかし、重大なのは、氏が「以前にもあった」にもかかわらず、石原氏がことさらに騒ぎ出した事実に違和感を抱いたということである。
 相撲は真剣勝負であると同時に見せ物でもある。
 観客の多くは、〈こうなって欲しい〉と願う結果に喜ぶ。
 赤穂浪士の事件が毎年、繰り返し繰り返し映像となって流され、いつまでも人気を保っているのがその証拠である。
 大相撲には力士の側における勝負の真剣さと、観客の側における結果の満足感との微妙なバランスがあり、石原氏は初めてそこを崩しかけた人なのだろう。

 氏は続ける。

「楽日の優勝をかけた熱戦といえば、ある年の大阪春場所での貴ノ花と北の海の一戦も忘れ難い。
 当時の北の海は『憎らしいほど強い』といわれ、実力抜群。
 一方、貴ノ花は猛稽古で鍛えた強靱な足腰と業の冴え。
 貴公子然とした容姿で絶大な人気を博していたが、相手の大太刀に対して細身の剣のような感があり、勝にはどうかと思われたが、それがまた観客の判官びいきの熱を一層高める。
 そんな中で、かなり長い攻防の末、勝ち名乗りを受けたのは貴ノ花だった。
 その時の満場の歓呼、歓喜の凄まじさ!
 あれはもう喜びの陶酔、祭典だった。
 あとで北の海は『四方八方、耳に入るのはみんな相手への声援ばかり』といっていたが、私はTVを前に『北の海、よく負けた』とつぶやいた。」


 私にも忘れられない一番がある。
 平成7年九州場所の優勝決定戦、弟である横綱貴乃花が兄である大関若乃花に破れ、若乃花は横綱昇進を決め、大相撲は若貴の兄弟横綱に湧いた。
 土俵に崩れ落ちる瞬間、貴乃花の表情に「これで良い」と自分へ言い聞かせているかのような静かで小さな安堵が浮かんだ。
 私はその心に涙した。
 自然な成り行きであると思ったからである。
 ところが後に、兄との確執が生じている貴乃花親方は、テレビ番組でそれらしい発言を行ったという。
 当時の二子山親方から負けるよう強制されたという報道もある。
 情けない。
 必ずしもそりの会わなかった柏戸大鵬は、八百長と騒がれた後、互いに信頼関係を深めたというのに……。
 大相撲であれ、仏教であれ、何ごとであれ、結局はその世界に生きる人間がその世界のレベルを決める。
 レベルは必ず顕れる。
 誰も止められない。

 氏は締めくくる。

「今相撲は非難の大合唱の前に立ちすくみ、存亡の淵に立つ。
 救いは当事者の渾身の努力と世論の支持にしかない。
 あなたはまだ相撲を見たいと思っていますか。」

 八百長を糾弾し、破壊を助長する大合唱の中でこの文を書いたことは特筆に値する。
 教えによれば「優しさ」をつくる5つの徳は「守る」ことをもって完結する。
 氏は、真の意味で大相撲を愛しておられるのだろう。
 大相撲は日本人の細やかな感性が育てた〈大人の文化〉である。
 政治にすら大人気(オトナゲ)がなくなった今、せめて、守って行きたい貴重な宝ものである。

〈柏戸と大鵬 http://mainichi.jp/showa/image/comeback/showa0926.jpgさんからお借りしました〉
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2011
02.21

2月の俳句

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)が作った2月俳句です。

降り癖のついて音なく又も

 これでもかとばかり降り続くを「降り癖」がついたとは……。
 窓ガラス外を、白片が間断なく舞い降りる。
 落下はしきりに続き、──続く。
 見えるだけでしかなく、音がまったく伴っていない光景を眺めていると、この世ならぬ思いすら起こる。

独り居の項(ウナジ)に残るさかな

 さは項に受け、後頭部と背中に伝わる。たった一枚のマフラーが、ブルッとする感じを遠ざける。
 マフラーを着ける理由は項を守るためだろうか。
 独り暮らしの空間では、いつまでも気が去らない。
 小さな項は、家中の気すべてを引き受けてしまう。

おろそかになりがち一人居(カン)(クリヤ)

 家を一軒丸ごと暖房してしまう現代人に「」はイメージしにくいかも知れない。
 ガランとした台所がある古いタイプの家では、いつも人のいる居間は暖房で暖かくても、調理の時しか使わない(台所)はとびきり寒い。
 一人暮らしでいると、寒さが余計に足を遠のかせる。

腰痛にヅカヅカと来し寒さかな

 腰痛の強敵は寒さ。
 腰痛持ちの人は人一倍、天気予報が気になる。
 気にしたからといってどうなるものでもないが、やはり気にする。
 そして、やって来た寒気は情け容赦なく痛みをもたらす。
「ヅカヅカと」は、自然と自分との境にあるベールを一枚矧いだ言葉である。

熱あつの飯に割り入れ寒玉子

 小寒から節分までを「寒の時期」といい、その間にできた卵は特に滋養が豊富で身体に良いだけでなく、金運をももたらすと言われ、珍重される。
 高浜虚子は「ぬく飯に落して円か寒玉子」と詠んだ。
 虚子の卵は飯の表面を丸く覆ったが、作者は真ん中の穴に入れた。

ぽたぽたと(ユキシズク)の日のひかり

 春が来て氷のように固く積もっていたが融け出すと、屋根や樹木からが垂れて陽光に光る。
 高い樹の枝から落ちるも、しゃがんで見る盆栽から落ちるも、等しく一瞬の光をもたらす。
 廻り来た陽の気配は喜びと安心と勇気を与え、煌めきには希望も芽生える。

転ばぬやうの朝は滑らぬやう

 切実な句だが、どこかユーモアもある。
 年をとると転倒は最大の恐怖だ。
 ケガが治りにくいだけでなく、じっとしているとたちまち精気が薄れ、パワーを回復するのに時間がかかる。
 文字どおり恐る恐る動く自分を観る〈もう一人の自分〉の眼は優しい。

妖し気なの啼き声春隣

 故美空ひばりは「七色の声」とうたわれたが、ネコも負けてはいない。
 ネコ好きはちゃんと声を聞き分ける。
(西洋の人々は、日本人と違って蝉などの声を聞き分けないらしい。ネコはどうなのだろう)
「節」が来ると、それぞれなりに凝った声を出して賑やかになる。

などはどこ吹く風かうちの

 作者の相棒は、いかにも〈犬でないネコ〉らしく、悠然と我が道を行く性格だ。
 年をとるといっそう、堂々としているのだろう。
 それにしても、我が家のクロは寂しがり屋で、ネコなのに人間の側を好む。
 しかし、やはり年のせいか、静寂をも好むようになった。

昨夜の風つめたく朝に残す

 夕べの風は酷く冷たいと思っていたら、夜半に降り出したであろう雪が朝になっても降り続いているといった状況なのだろうか?
「雪残す」には、「もう、そろそろ降らなくても良い時期なのに、朝になってまだ、降っているの?」という気持が隠れているのだろうか。

〈その一瞬(c0124256_21365980.jpgさんからお借りして加工しました)〉
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2011
02.20

【現代の偉人伝】第116話 ─『カンボジア民話集』を発行した熊谷千枝子氏─

 平成22年11月25日、「カンボジア小学生教育支援の会・仙台」が、『カンボジア民話集』(非売品)を発行した。
 事務局は代表者熊谷千枝子氏の自宅にある。
 
 平成5年、内線がおさまったカンボジアからの留学生受け入れを再開した日本へやってきた3人の青年を支援するNGO「CES・仙台」(カンボジア小学生教育支援の会・仙台)が設立された。
 平成15年、「CES・仙台」のメンバーは、プノンペンの識字教育施設「AFS」(アジア未来学校)が閉校状態になっているのを知り、それ以来、「敷地・建物・教師・子供たちのすべてに係わる運営費を支援」して来た。
 平成22年3月、「CES・仙台」最後の留学生メンバーが帰国し、9月には「AFS」が現地の開発の進行を受けて10年にわたる役割を終えた。
 7年間、「AFS」は3回の転居を余儀なくされても現地で活動を続け、6才から15才まで、巣立った子供たちは300人にものぼる。
 
 熊谷千枝子氏は「まえがき」に書く。

「交流と支援活動を通して知ったこと、得たこと、学んだことは多々ありますが、熱い思いや矜持、真摯な姿勢、未来へ向ける深い眼差しは、かつての日本人を彷彿させ、失ったものの大きさを改めて思い起こさせるものでもありました。
 この青年たちを育んだ国、土壌となる精神文化への関心が、おのずとカンボジアの民話へと向いて行ったのです。」

 そして、これまで研修用資料として用いていた資料をまとめ、「15年にも及ぶカンボジア留学生と市民との交流の証として、また彼等が仙台に残した確かな足跡の一つとして」の『カンボジア民話集』を発行した。
 原本は、10冊の『クメール民話集』である。
 9冊のクメール文字で書かれた文章は留学生の口述筆記により、英文の1冊は会員の訳出により4年かかってまとめた21の物語がおさめられている。
 熊谷千枝子氏は願う。

「国際理解の一助として、カンボジアという国、そこに生きる人々に関心の一端とお寄せいただかれば幸いです。」


 以下、数回にわたり、物語のあらすじを紹介します。
 この「失ったものの大きさ」を感じさせるかけがえのない一冊を求められる方は、当山へご連絡ください。

【第一話 アマラデビ王女の話】

 昔、小さな国に才色兼備のアマラデビという王女がいました。
 4人の大臣は、財産目当てに王女との結婚をたくらんでいました。
 ところが王女は相思相愛のマハセ・パンディディ青年と結婚したので、4人は悔しくてなりません。
 そこで4人は、王様へ「マハセがあなたを殺して座を奪おうとしています」と告げ口をし、でっちあげた証拠も示しました。
 マハセは国外へ追放されました。

 4人は示し合わせました。
「しばらく待ってから誰かが王女と結婚し、その暁には財産を山分けしよう。」
 2週間が経ち、第一大臣セナクはプロポーズしました。
 一計をめぐらせた王女は、「今夜7時に、もう一度来てください」と告げました。
 そして、次々と訪れた3人の大臣に対し、8時、9時、10時と面会の時刻を約束しました。

 王女は、面会室の一部に泥と糊の入った大きな落とし穴を作り、テーブルの上へたくさんの宝石を置きました。
 召使いの先導でやってきた大臣は、王女を待つ間にすばやく宝石を盗みました。
 その瞬間、カーテンの陰で見ていた王女と召使いは紐を引き、大臣を落として思い蓋をしっかり閉めました。
 こうして4人とも宝石を手にしてつかまり、翌朝、大臣を連れて王様の前へ行き、ことの次第を述べました。
 悲しみ、怒った王様は、4人を市中敷き回しの刑にするよう命じました。
「アマラデビは静かに、王様に会釈をし、自分の部屋に戻って行かれました。
 マハセ・パンディディが帰ってきたのは言うまでもありません。」

 注釈があります。

「十三世紀の終わり、カンボジアを訪れたチョウ・タ・クワンという中国の旅人は、この国の女の人たちがとても尊敬され、裁判で多くの重要な国政のポストについていることを知ってとても驚きました。
 彼の帰国後、皇帝への報告には彼女たちの天文学や政治についての知識をほめたたえ、中でもその中の一人の女性は高い教育を受け、才能豊かなので夫の伝記をサンスクリットの壺に美しく書き込んでいたことを報告しています。
 世界のほとんどの国が女性を低くみなしていた時代に、カンボジア人は女性たちが重要な人間として同等に扱われているという尊敬に値する古代文化をもっていたのです。」


〈手にすると敬虔な気持になります〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
02.19

『大日経』が説く心のありさま六十景 その28 ─慳心(ケンシン)─

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第28回目です。

27 慳心(ケンシン)
 何でも自分のためだけに取り込み、他へ与えない心です。

「己(オノ)れが為にして他に与えざる法に随順す」


 これはどの世界でも起こり、教えの現場ですら吝嗇(リンショク…けち)な気持はあり得ます。
 強く心に響く教えに接した場合、自分だけがそれを知っていて、他へ教えたくないと思うのです。
 自分が優位に立とうという〈〉の心は、他が必要としているものを与えないではいられない菩薩の心と反対です。
 自己中心なので汚れており、〈おかげさま〉を忘れているので、恩知らずでもあります。

 私たちは「けち」が強いマイナスの力を含んでいることを知っています。
 語源は「「怪事(ケジ)」であり、あって欲しくない不吉なできごとを指しました。
 何かやろうとしている時に出鼻をくじくようなトラブルがあると「ケチがついたからやめよう」となったりします。
 せっかくスタートしようとしているのに、いきなり思ってもいないマイナスのできごとが起こるようでは、この先が思いやられると考えてしまいます。
 怪事が時代と共に意味を広げ、怪事によって貧乏になったり貧弱になったりした様子をも指し、「私はケチな人間です」、「ケチな賞品だなあ」と言うようになりました。
 そうしたことを嫌がるあまり自分のものを手放したくない狭い了見が、いわゆる「ケチ」と言われるものです。

 さて、質素倹約は美徳ですが、問題は、そうして〈手放さないでいるもの〉を何に使うかということです。
 目的が自分の利だけでは淋しい話であり、お互いがそうであった場合、世の中はどうなるでしょうか。
 自己中心でしかないケチは、多少の財をつくっても、実際は良い運気を呼び込んだり人徳によっ人望を高めたりする「気(ケ)」を「散らす」一方で、たとえ本人が小さな満足を得ても所詮はそれだけでしかなく、人格への社会的評価は高まりません。
 互いに支え合わねば成り立たない世の中で、〈おかげさま〉〈おたがいさま〉を忘れた人が世の中を良くするはずがないからです。
 いわゆるケチは、運気を損ない、社会人として成長できない「気散(ケチ)」であると心得ましょう。

 布施の心をつくり、守ってくださる檀波羅蜜菩薩(ダンパラミツボサツ)は、左手の金剛盤に七宝からなる花々を盛り、煩悩や怒りや怨みを抑えた印を結ぶ右手で衆生へ分け与えられます。
〈他に与えざる〉慳心の持つ汚れと恐ろしさ、その反対である布施の清らかさと優しさをよく考えてみましょう。

〈「マンダラ図典」からお借りしました〉
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2011
02.18

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その14)─孝行の門─

 かつては江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教童子教』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

13 孝行の門

人として智(チ)無きは、
木石(ボクセキ)に異(コト)ならず。
人として孝(コウ)無きは、
畜生(チクショウ)に異(コト)ならず。


 もしも智慧がなかったならば、自分で自分のいのちの火をどう燃やすかを考え、自分で運命を創ってゆくことができません。
 それでは、まるで、物理的法則と自然環境によって以下にあるかを左右されるだけで、意志のない木や石のようなものでしかありません。
 また、恩を知り報いようとする孝行の心がなければ、自分のいのちの保全をはかるだけの畜生と同じになってしまいます。

 私たち人間がのいきものたちと区別されるのは、一つの生命体として〈自分のいのちの存続〉だけにかかわって生き、死ぬのではないという点にあります。
 周囲との関係を知り、理性と感性とで関係を生かし、その生かし方が正しければ自分のためだけでなく、必ずのためにもなります。
 正しいか正しくないかは、自共に生きられる方法であるかどうかで決まります。
 正しさのレベルは、〈〉の範囲によって決まります。
 それは具体的に考えてみればすぐにわかります。
 たとえば「自分と友人だけ」のためになれば良いと考え、電車の中でおしゃべりを続けていれば、の乗客はどうなるでしょうか。
 たとえば「自分と会社だけ」のためになれば良いと考え、住民の意思を無視して開発を行ったり、企業を乗っ取ったりしたならば、住民や乗っ取られた企業の人々はどうなるでしょうか。
 たとえば「自分と国家だけ」のためになれば良いと考え、武力に任せての国の領海や領土へ侵入したならば、侵入された国民はどうなるでしょうか。

 だから、〈最も正しく生きる道〉を求める仏教は、人間として正しく生きるために、〈他〉の範囲を極小から極大にまで広げて五つの恩を心に刻む修行を行います。
①国家社会の恩
②親とご先祖様の恩
③天地自然と生きとし生けるものの恩
④師の恩
⑤仏法僧の恩
 生み育んでくれた親から天地自然まで、過去世の人々から今を生きる見たこともない人々(米を作る人々、水道を守る人々など)まで、ありとあらゆる〈他〉のおかげで自分の生があることを認識できるのは人間だけです。
 その認識を感謝報恩へ結びつけるのが霊性であり、仏性です。
 心の曇りや障りを除き、ありのままに正しく認識できるための智慧と、報恩の慈悲心を発揮できるよう、行者は日々、修行に励みます。

 親のいない人はおらず、親は、誰でもが〈おかげ〉を理解できる対象です。
 すなおに「おかげさま」と思えれば、そこには認識と感謝があり、あとは報恩の気持をどう表すかだけです。
 親孝行という行為もまた、誰でもが実践できる報恩の表現です。
 親孝行の実践により、だんだんに「おかげさま」と感じ、「おたがいさま」と支え合う対象が広がれば、人はより〈人〉になり、木石や畜生でない〈万物の長〉たる尊い生き方ができるようになるのではないでしょうか。

〈在るもの……、居るもの?〉
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2011
02.17

『法句経』物語21 羅漢品(ラカンボン)第十五「第一話」その2

法句経』物語の続きです。

 敬虔な気持になった主人はすぐに供養の支度をし、シュラーヴァスティー国の方を向いて、み仏へ通じるよう祈りました。
「願わくば、なにとぞ尊い時間を割き、恐縮ながらこちらへお越しになられ、あまねく人々をお救いください」。
 心を察知した釈尊は500人の羅漢を伴い、神通力をもって主人とブンナのいる家へ現れました。
 ナリ国の国王を始め、すべての人々が厳粛にお迎えし、五体投地して敬いました。
 供養膳を食べた釈尊は、主人や国王などすべての人々のために明らかな真理の教えを説かれました。
 全員が五戒を受け、仏弟子となりました。
 主人は、釈尊の前に進み出て訊ねました。
「ブンナは、家にあっては精勤し、出家しては悟りを開きました。
 そして今、お招き申し上げた釈尊の神のように高い徳は、人々をも国をも救いました。
 私はいったい、どうすればブンナと釈尊のご恩にお応えできるでしょうか?」。
 
 釈尊は重ねてブンナを讃え、詩の形で教えを説かれました。

「乱れ騒いでいた心はすでに平安になり、言葉も行いも煩悩の支配を脱した。
 正しい解脱に伴い、煩悩の火は消え果てた。
 我欲を捨て、執着心がなく、過去・現在・未来の障りを消滅させ、世間的願望を断った者が上人と呼ばれる。
 村であっても、野原であっても、平地でも高原でも、阿羅漢の行き過ぎる場所で救われない者はいない。
 阿羅漢は世間的願望から離れた境地を楽しむが、人々はなかなかそうはゆかない。
 世間的望みがなく、自分のために求めるものがないとは、なんとすばらしい心地だろう」。

 教えに接した人々はますます歓喜し、引き続き7日間、供養を続け、さらに高い悟りを得ました。

 私たちはまず、ブンナの眼力に驚きます。
 流木を薪としか見ない多くの人々は、高価な栴檀が混じっていても見分けられません。
 お大師様は、経典の深意をつかむにはこうした智慧と感性が必要であると説かれました。
「道端の薬草も薬石も、見分ける力のある者にはそれと知られるが、わからない者にとってはただの雑草であり、石ころでしかない」。

 ブンナは、自分の才覚で窮乏した主人を救ったのに、手柄を誇らず、分け前を求めず、賤民の身分から解放されたことに感謝するのみでした。
 そして、自分のために財を得ようとせず、人の道を求めて釈尊の門を叩きました。
 現在、チベットに住む人々の中には、自分の文化を捨てて中国人のいいなりになることを拒否し、出世や財を求めず、いのちの危険を冒して標高6000メートルのヒマラヤを越え、ダライ・ラマ法王のおられるインドをめざすして亡命者がたくさんいます。
 何を求め、自分を何にかけて生きるかは、自分で決めることです。

 悟ったブンナは、解放してくれた主人の恩を忘れず、その恩は出家と修行という自分の決断や努力よりも重いと考えました。
 そして、仏法によって主人が救われること以上の恩返しはないと判断しました。
 主人を大金持にしたことで恩返しは充分に済んでいるはずなのに、聡明なブンナはその先へ進みました。
父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』を思い出します。

 ある時、釈尊は父母の恩が山よりも高く海よりも深いことを説き、在家出家の別なく、外出したならおいしいものを買って帰り、お供えしてから一緒に食べることや、病気にはねんごろに看護することなどを勧めました。
 それを聞いたアーナンダは「私たち出家者もそれでよろしいのですか?」と問いました。
 釈尊は答えました。
「それだけでは、父母の恩へ報じたことにはならない。
 仏法僧の三宝を奉じなければ、帰依を勧め、悟りを求めて安心するよう勧めねばならない。
 もしも通じなければ、断食してでも諫めねばならない。
 いかに慈悲深く、礼節を知り、学問を探究し、禅定に努めていても、ひとたび煩悩によって酒色に溺れたりすれば、たちまち、〈行いを禽獣に等しくする〉であろう。
 だから、最も重要な報恩とは、悟りの道へ導くことである」。


 私たちは、過去も、現在も、未来も、生きとし生けるものの〈おかげ〉で生きられます。
 すべてが私たちを育む母なのです。
 その恩を直視したならば、生きとし生けるものの苦を除かないではいられません。
 誰かの何かの役に立たないではいられません。
 そうして自分をふり返ってみると、いかに無知であるか、微力であるかがわかります。
 ならば、学び、自分を高めないでいられましょうか。
 このように真実を観て、楽を与え苦を除く〈慈悲心〉が起これば、必ず〈向上心〉が起こり、〈智慧〉と実践方法である真の意味での〈方便〉を求めます。

 私たちは、「利他の心」で生きる以上の人生の意味も価値もありません。
 なぜなら、より苦がなくより良い人生を送りたいと望まない人はなく、皆がそうなるためにはお互いが他のためになる以外、方法はなく、実際、他のためになった時に感じる以上深く、継続し、満足感を伴い、さらなる意欲と勇気をもたらす喜びもないからです。
 釈尊、ブンナ、アーナンダ、こうした先人たちのおかげで、私たちの前に確固たる道があるのは何とありがたいことでしょうか。

〈「ゆかり人の会」会員片桐さんの母親(86才)が書いてくださいました〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.16

『法句経』物語20 羅漢品(ラカンボン)第十五「第一話」

法句経(ホックキョウ)』にまつわるお話です。

 昔、海に誓い南の国ナリでは、人々が真珠や栴檀をなりわいにしていました。
 その国に、父母が亡くなり、家を分割せねばならない兄弟がいました。
 その家に仕える下男ブンナはまだ若いのにとても聡明で、商売をしても真珠採りをしても他人に勝り、知らぬものはないと思われるほどの物知りでした。
 兄弟はくじ引きで財産を二つに分けることにしました。
 一つは家屋敷であり、一つはブンナです。
 
 ブンナを引き当てた弟は、徒手空拳で妻子を伴い、家を出ました。
 不作で食物を得るのも困難な時代です。
 弟は、いかにブンナがいるとは言え、この先を考えると、憂いに胸塞がらざるを得ませんでした。
 それを察知したブンナは言いました。
「ご主人様。
 どうか心配なさらないでください。
 私は一計を案じて、そう遠くない将来、お兄様に負けぬほどの財を為してご覧に入れましょう」。
 主人は、もしそうなったなら、お前を奴隷から自由の身にしてやろうと約束しました。
 そこで、信じた奥さんは、元手として、かねて大切にしていた宝石をブンナに与えました。

 時あたかも大潮となり、人々は海辺へ出て薪を拾いました。
 ブンナは海へ行かず城外へでかけ、一物乞いが背負っている薪の中に、重病をも治すとされる赤い栴檀があるのに気づきました。
 金銭一両の重さがある赤檀の値打は千両とされ、めったにない宝ものです。
 持っている金銭二枚をはたいて薪を買ったブンナは、赤檀を数十に分けました。
 その頃、重病人になった大金持ちが、二両分の赤檀を薬にしたいのにモノがなくて困っていました。
 長者に赤檀を分け与えたブンナは、二千両を持ち帰りました。
 このようにしてたちまち主人へ兄の十倍もの富を得させたブンナは、約束を守り、ブンナを自由の身にしてやりました。

 学道を志したブンナは、シュラーヴァスティーへ行き、釈尊へ礼を尽くして教えを請いました。
「私は賤民の出ですが心は道徳を求めています。
 どうかお慈悲により、修行の道へお導きください」。
 釈尊が認めるやいなや、たちまち頭髪は落ち、法衣姿となり、釈尊の説法を聞いたブンナはほどなく阿羅漢の悟りを得ました。
 ブンナは沈思黙考しました。
「私はもう、悟りによって六つの神通力を得た。
 生きるも死ぬも自由の身となれたのは、ご主人様のおかげだ。
 故郷へ帰ってご主人様を仏道でお救いし、国中の人々をもお救いしよう」。

 ナリへ到着したブンナは元の主人を訪ね、歓待されました。
 食後、空中へ舞い上がり、分身の法によって分けた身体から水や火を発し、大光明で家を包んだブンナは降りたって言いました。
「こうした神のような徳力はすべて、ご主人様が私を自由の身にしてくださったおかげです。
 み仏の元へ行って修行した結果、このとおりの悟りを得ました」。
 主人は答えました。
「み仏がお導きくださるお力は、そのように神のごときものがあるのか。
 できるものならば私も、み仏の教訓を得たいものだ」。
 ブンナは言いました。
「お供えものを調えてお迎えする準備をしてお待ちすれば、み仏は神通力でそれを知り、必ずここへ現れてくださることでしょう」。


栴檀の木 http://www.hana300.com/sendan7.jpgさんからお借りして加工しました〉
sendan7.jpg



「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.15

慈悲と怒り ─お布施からリベート・お風呂場基金─

 2月12日に書いた「お布施からリベート」には、「檀家』宣言」以来の反響がありました。
「私は住職に引導を渡してもらいたいから、私より長生きしてください」。
 涙がこぼれました。
「法楽寺が嫌がらせをされるのではないかと心配です」。
 そんなことはないし、あっても、もちろん、くじけません。
「少しは妥協しながら、ゆとりを持ってやってはどうですか?」。
 子供の頃の恩師は、今でも〈生徒〉の安全を願っておられます。

ゆかり人の会」会員伊藤さんが「お風呂場基金」のためにと提供してくださったパッチワークの作品へ皆さんの手がどんどん伸びて、2月14日、伊藤さんは手元にあった作品を補充されました。
「お風呂場基金」への関心も高まり、Aさんからメールをいただきました。
「お風呂や寝るところがないのを初めて知りました。
 3月にマイホームが完成するのですが、アパートで使用していた洗濯機、給湯器、温水器、ウォシュレットがあるのですが、もしお使いになるのであれば寄付したいと思いましてメールしました。
 使用していた中古なので新品のものとは違いますが、まだまだ大活躍してくれると思うので新品ではないとダメだとか使い道がないとかでなければ、よければ・・・と^-^
 少しでもお役に立てればと思います。」
 おかげさまで、「ゆかり人の会」の方々が自主的に初めてくださった「お風呂場基金」への賛同者は130名を越え、金額も180万円に達しています。
 庫裡(クリ…住職などの住居を主とした建物)を造るといっては億単位の資金を集めてきた慣習に比べれば「ケタが違う」と笑われるかも知れませんが、私はこうした成り行きに誇りを持ち、真の布施行が着々と広まっている事実に大きな手応えを感じています。

 長いこと仏教界を見守ってきたBさんが来山されました。
「戦後の日本では、アメリカをはじめとする占領軍によるセックスの解放、スポーツの奨励、シネマの発展という『3S(スリーエス)政策』が徹底されました。
 自由の名のもとに、日本人の心と文化の基盤である仏教と神道が教育などの場から追放され、一人一人がバラバラに自分の欲を満たそうとする方向へ突き進んだ結果が、今、問題とされている〈無縁社会〉の到来です。
 NHKの特集をなるべく欠かさず観ていますが、たとえ超一流企業で活躍していてすら、一旦、何かの原因で歯車が狂えば、もうどうすることもできない成り行きで〈孤独死〉へ向かってしまう事実に、心底、恐ろしくなります。
 大手メディアの流す情報を注意深く見てみると、いまだに日本人の10人に1人以下の信者しかいないキリスト教に関する記事は、仏教や神道に関する記事の10分の1を遙かに超え、報道の多くは〈善行〉に関するものです。
 しかも、バチカンや教会など世界中で長期間にわたって続いている性的虐待などのおぞましい事実は、たまに、小さくしか報道されません。
 寺院や僧侶や葬儀などに関する〈問題〉はしばしば大々的にとり上げられ、まじめな活動はそれほど報道されません。
 仏教界のお布施は四六時中問題視されているのに、あまりお布施が集まらないように見える教会がなぜ町の真ん中にできるのか、キリスト教はいかなる戦略で世界の津々浦々にまで莫大な資金を流して教会を建て続けているのか、キリスト教は世界規模の金融資本や軍需産業とどうリンクしているのか、などの文明的問題はほとんど論議されません。
 住職の行動は小さなものでしょうが、私たち日本人が長い歴史の中で培ってきた大切な心のよりどころを着実に復活させてください。
 日本がこのまま、本来の日本と正反対の無縁社会になり果ててしまわないよう、頑張ってください」。
 
『雪の下の炎』で、バルデン・ギャツォ師は言われます。

「チベット人が迫害されている情報に接すると、じっとしていられなくなるのです」。

 そして、不屈の活動を続けておられます。

 上田紀行氏は「静けさの中の闘志」に書いておられます。

 仏教の僧侶と〝闘志〟とは似つかわしくない、と思う人もいるだろう。
 仏教徒は心の平安を追求する教えだ。それが「闘い」とは何事だ。特に日本の僧侶達はそんなことを言いそうだ。
 しかし、2年前にダラムサラでダライ・ラマ14世と2日間対談させていただいたとき、
「弱者への差別や暴力を見ると、怒りの気持が湧き上がってきます。
 しかし、日本の僧侶達の中には、そんなことで怒っているのは修行がたりない。
 何が起こってもニコニコ暮らせ、と言わんばかりの人もいます。
 仏教徒は怒ってはいけないのでしょうか?」
という私の質問に、ダライ・ラマ14世は毅然として答えた。
「怒りには、慈悲から生じるものと、悪意から生じるものという、二つのタイプがあります。
 心の根底に他者に対する思いやりや慈悲があって生じている怒りは、有益なものであり、持つべき怒りです。
 他者を傷つけたいという悪意から生じる怒りは、有害で鎮めるべき怒りです。
 悪意からの怒りは人に向けられます。
 しかし、慈悲からの怒りは人に対してではなく、行為に対して向けられます。
 ですから原因となる行為がなくなれば、怒りも消滅するのです」
 それまで快活に話されていたダライ・ラマ14世が、俄然エキサイトし、身を乗り出して熱く語り出した瞬間だった。
 そして、
「それでは社会的不正に対する怒りは、その不正がなくなるまで、ずっと持ち続けるべきなのでしょうか」
と問いかけると、
「そうです。
 その目的が果たされるまで怒りの気持は維持されるべきです。
 たとえば、中国が人権を侵害し、拷問を続けているといったような、ネガティブな行為が続いている場合、そういった間違った行いが存続している限り、それをやめさせようとしう怒りの気持は最後まで維持されるべきなのです」
と答えられたのだった。(『目覚めよ仏教!─ダライ・ラマとの対話』NHKブックス)

 まことに、慈悲行は不屈の闘志をもって行われます。
 自分の平安や安穏たる生活を求めるのは仙人への道であり、仏法の理想的人間像である菩薩(ボサツ)をめざす道とはかけ離れています。
ゆかり人の会」役員であるCさんから質問を受けました。
「住職は後継者を選ぶ場合、子供と無心に遊ぶ良寛さんのようなイメージの人ではだめなんですか?」。
 即座にダメですと答えました。
 観音様の慈悲とお不動様の憤怒を兼ねそなえた僧侶が輩出しなければ、限りなく無慈悲な社会へ向かっている日本丸の進路を変えさせられないと信じているからです。
 これからも、皆さんと共に、真の菩薩行を実践して行きたいと願っています。

〈追加されたまごころ〉

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2011
02.14

密教の行者は悪霊が見えるか ─十縁生句(ジュウエンショウク)とは─

 人生相談にご来山された35才のAさん。
 ある日突然、職場にいる〈霊能者〉から悪霊に憑かれていると指摘され、塩をふりかけなさい、神様にお祈りしなさいなどといろ〈指導〉を受けているうちに、すっかり疲れ果てました。
「ご住職は悪霊が見えますか?」。
 青い顔をして真剣そのものです。
 即座にお答えしました。
「見えません」。
「エッ!」
 Aさんは固まってしまいました。
 大丈夫ですよと笑って、言葉を継ぎました。

 正当な行者は、観るべきものは観え、聴くべきものは聴こえるための修行をしています。
 だから、無いものや、妄念がつくる妄想は見えません。
 密教行者は、『大日経』の説く「十縁生句(ジュウエンショウク)」を修行しているので、妄想に取り憑かれません。
 心に浮かんで修行を妨害する十種類の勘違いを断つのです。

①幻(ゲン)
 いわゆる「まぼろし」です。
 手品師が見せたり、薬物や呪術で見えたりする奇妙なものです。
②陽炎(ヨウエン)
 いわゆる「かげろう」です。 
③夢(ム)
 いわゆる「夢」です。
 よく「夢か現(ウツツ)か」と言いますが、ボーっとしていたり、過労になったりすると二つのものの境界があいまいになります。
④影(ヨウ)
 鏡に映った像などは、現実そのものにしか見えません。
⑤乾闥婆城(ゲンダツバジョウ)
 乾闥婆は、天上界で音楽を奏でる妖精のような神であり、その根城が乾闥婆城とされています。
 私たちの現実においては、いわゆる「蜃気楼(シンキロウ)」です。
 実体はないのに、いかにもありそうに見えます。
⑥響(コウ)
 音声によって生ずる空気の振動です。
⑦水月(スイガチ)
 水面に映った月です。
⑧浮泡(フホウ)
 水に浮かぶ泡です。
⑨虚空華(コクウゲ)
 目が眩んで星や花が飛ぶように見える場合があります。
 空に浮かぶ虹も、橋に見えますが橋がかかってはいません。
⑩旋火輪(センカリン)
 火のついた松明をぐるぐる回すと火の輪が見えます。
 しかし、輪はありません。

 これらはすべて無自性(ムジショウ)で、幻も陽炎も夢も、それ自体が確たる存在ではありません。
 密教行者は、「十縁生句(ジュウエンショウク)」を心に刻んでいます。
 だから、ご本尊様と一体になる修法によってたとえ霊感らしきものを得て何かを見たり聞いたり、あるいはみ仏とお会いしたりする場面があっても、その状況にとらわれず、淡々と目的に向かって修法を行うのみで、体験に執着したり、縛られたりはしません。
 幻や陽炎や、心の生み出すものたちに迷わぬよう、厳しく戒められています。

「あらゆる悟りへの手だては、この十縁生句によって心の垢を清めることに帰着する。
 ゆえに、十縁生句が最も肝心である」。


 私たちは、心のありように応じてさまざまなものを、さまざまに見たり聞いたりします。
 臆病な人が暗い山道を一人で歩くと、ガサッと聞けば「クマか!」と飛び上がり、サワサワと吹いてきた生温かい風にオバケを感じてブルッとなったりします。
 思いこみの強い人は、〈そんな気がする〉だけで、いとも簡単に「~が見える」「~が聞こえる」という言葉を口にし、正しいものの見方である「正見(ショウケン)」から離れる怖れがあります。
 そうなると、情報を正確に分析し、その関係を見極め、全体を組み立てて適切な判断を下すことができなくなり、自分の判断を誤るだけでなく、冒頭の霊能者のように、周囲へ困惑や不安や迷惑を振りまくことにもなりかねません。
 行者ならずとも、思いこみに陥らないための「十縁生句(ジュウエンショウク)」は学んでおきたいものです。

 では、密教の修法には何も〈非日常的な次元〉はないのかと言えば、そうではありません。
 たとえば、人生相談において、ご質問に応じて相手の近未来と目的達成の手だてをお話ししている最中、「そう聞こえるのですか?」と問われる場合があります。
 そんな成り行きではなく、誰かの言葉で聞こえなくても、きっと虚空蔵(コクゾウ)求聞持法(グモンジホウ)などの修練が適切な言葉を紡ぎ出させているのでしょう。
 決して、行者は誰かから〈お告げ〉を聞いているのではなく、行者の話も、決して相手への〈お告げ〉ではありません。
 み仏と一体になった状態が語らせるので、言葉は自分の言葉であると同時に、み仏の言葉でもあり、会話は当然、道理で成り立っています。

 また、何度か特殊なご加持(カジ)を受けているBさんが、こんな感想を口にしたこともあります。
「ご加持の最中に動きが出る場合、引力や催眠術などで否応なく動かされているようには感じられません。
 自分で動いているとも思えるのですが、よく観察してみると、普段、意識的に、あるいは無意識のうちに動くのとは明らかに違っています。
『これ何?』といった感じなのですが……」。
 Bさんは明らかに、ご加持で救済されています。
 これはトランス状態や妄想につかまった状態ではなく、理性は冷静なはたらきを失っていません。
〈動き〉が誰の力によるのかを詮索するよりも、救済されていることが大切なのであり、他力、自力といった区別をするのは無意味です。
 そもそも、自分が〈本来み仏〉である状態に近づいている時、み仏と自分を区別する必要がありましょうか。

 二つの例を考えると、袈裟衣をまとって人生相談を受ける行者は法によって、み仏と一体になっており、ご加持を受ける人もまた、み仏と一体になっています。
 これが密教の即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 このあたりが〈非日常的〉と言えば、そういうことになるのでしょう。

 Aさんは、話にとても興味を持たれたようです。
 すなおなAさんはきっと、み仏へ近づく生き方をされることでしょう。

〈隠形流(オンギョウリュウ)の本尊摩利支天(マリシテン)〉
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2011
02.13

寺子屋『法楽舘』 ─第十五回が終わりました─

 おかげさまで、春らしからぬ寒波と大雪の情報にもかかわらず、善男善女の熱気に包まれ、寺子屋の第15回目は無事、終了しました。
 今回は急遽、予定を変更してDVD『雪の下の炎』を観賞し、引き続き2月11日付の朝日新聞へ掲載された「お布施からリベート」についてお話ししました。

雪の下の炎』は、中国の侵略に対してチベット民族が蜂起した1959年に逮捕され、拷問にも屈せず33年間の獄中生活を耐え抜いたバルデン・ギャツォ師を描くドキュメンタリー映画です。
チベットに人権など存在しません。私がその生き証人です」。
 このフレーズに導かれて始まる75分間は、文字どおり想像を絶する権力者の暴虐と、死を覚悟して抵抗する不屈の魂を見せ、日常生活の惰眠をうち砕きます。
 
 2006年、トリノで行われた冬季オリンピックの会場外で、バルデン・ギャツォ師は、同志と共にハンガーストライキに入りました。
 2008年のオリンピックが中国で行われるという決定に反対するためです。
「人権侵害と女性差別でオリンピックから外されたパキスタンと、チベット全体を破壊し、殺人と自殺と飢餓で120万人ものいのちを奪い、今なお弾圧を続けている中国とどこが違うのか」というのが、その主張でした。

 78才になるバルデン・ギャツォ師は、世界中でチベットを救うための活動に邁進しています。

「獄中で仲間から言われた『もし君がこの苦難を生き延びたら、チベットのために闘ってほしい』という言葉は決して忘れない。
『この年齢になってもまだ闘い続けるのは、非業の死を遂げた彼らのため』。
 バルデンは、現在も世界各地を訪れ、チベットの自由を取り戻すために活動している。」

 監督楽真琴(サキ・マコト)氏は、ニューヨーク在住のおりにバルデン・ギャツォ師の自叙伝『雪の下の炎』に出会い、映画作成を決意しました。
 映画評論家佐藤忠男氏はコメントを寄せています。

「チベット人の苦難の途方もない重さに力いっぱい迫ろうとしている貴重なドキュメンタリーです」。

 ぜひ、多くの方々に本を読み、DVDを観ていただいきたいと願っています。

 法話では、釈尊が説かれた「苦・集・滅・道」と、苦を脱するための生き方「八正道(ハッショウドウ)」と、具体的実践方法としての「六波羅密(ロッパラミツ)」の関係をお話しし、バルデン・ギャツォ師こそ菩薩(ボサツ)であり、また、仏性を発揮しておられる皆さんも菩薩に見えると申し上げました。
 また、当山は「お布施からリベート」なる記事と無関係であること、寺院と僧侶のあるべき姿についての信念などにも言及しました。
 次回は、諸行無常を中心とした教えと、〈中国的な仏教〉〈日本的な仏教〉〈インド的な仏教〉の色合いなどについてお話し申し上げる予定です。

〈神々しい姿〉
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
02.12

お布施からリベート

 2月11日付の朝日新聞に「お布施からリベート 僧侶葬祭業者不透明な慣習」なる大見出しが踊った。
 当山にとっては、まことに驚天動地の情報である。
 一読したが、看過できない。

「葬儀で僧侶に包む『お布施』。
 その一部を僧侶葬祭業者に渡している慣習があることが朝日新聞の調べでわかった。
 読経の『仕事』を紹介してくれた業者に対する一種のリベートとみられる。
 お葬式の舞台裏で何が起きているのか」

 当山はこうした慣習を聞いたこともなければ、もちろん、たった一度たりとも葬祭業者リベートのやりとりをした歴史もない。
 リベートは売上割戻(ワリモドシ)あるいは仕入割戻(ワリモドシ)という商習慣であり、リベート=悪ではない。
 しかし、僧侶の修法は宗教行為であり、商習慣に取りこまれてはならない。

「『ご遺族をだましてお布施をつり上げているのも同然で申し訳ない。
 悪習でやめるべきだが、我々は弱い立場でどうしようもない』
 東京都品川区に住む浄土真宗本願寺派の僧侶(65)は、朝日新聞の取材にこう打ち明けた。
 葬祭業者から斎場に派遣され、読経する『仕事』を週2~3回ほど請け負っているという。
「拠点にしていた長野県内の寺の檀家が激減し、15年ほど前に東京に出てきた。
 初めて葬祭業者から仕事を紹介されたとき、リベートを求められた。
 驚いたが、『関東では慣習ですから』と言われ、渋々応じたという。
 半年後、別の業者からお布施の7割の支払いを要求された。
 『そんな罰当たりな』と断ると、『二度と頼まない』と言われ、その後3ヶ月ほどは、どの業者からも依頼が無くなった。
 今では自ら葬祭業者に『営業』をかけて、仕事をもらっているという。」
「横浜市にすむ僧侶(69)は、遺族からお布施を受け取ると、けさ姿のまま近くの銀行に行き、4割を現金自動出入機(ATM)から振り込んでいた。
 葬祭業者に指定された振込先は、聞いたこともない宗教法人名義の口座だったという。」

「食えないから」という理由で世俗の世界へ入るならば、衣を着ている資格はない。
 僧侶は法を結ぶ出世間の行者である。
 出世間で生きていればこそ、人の死において引導の修法を行い、せっぱ詰まって世間的解決方法に窮した皆さんの人生相談に乗り、み仏のご加護で、共に苦へ立ち向かうことができる。
 出世間でない者が衣を身にまとうのは、手術の技術がないのに手術室でメスを手にする外科医のようなものであり、欺瞞でしかない。
 僧侶が業者の使い走りになったら、おしまいである。
 僧侶はお経の〈読み上げ手〉として、一連の儀式に参加しているに過ぎなくなり、〈亡き人へ修法をもってこの世とあの世の区切りをつける〉厳粛な宗教行為である葬儀の根幹は崩壊する。
 僧侶の存在意義は、求めに応じて仏法を具現化できる法力を身につけ、世間的方法ではなし得ない宗教行為を行うところにあり、そのためにこそ出世間で生き、修行し、衣をまとって修法を行う。

 これまで数多くの他寺院の檀家さんたちが人生相談にご来山された。
お布施をお包みすると『これでは食えない』と言って突き返されました」。
 こうした類のお話は聞き飽きるほど耳にした。
 大寺の住職であろうが、貧乏寺の弟子であろうが、僧侶はひとしく生涯、〈一介の行者〉である。
 食えようが食えまいが、祈り、法務に邁進する以外、生きようはない。
 篤信の方からいただいた山里の古家で興した当山は当初、托鉢に歩いても文字どおり食うや食わずであり、夫婦してタンポポやツクシも食べた。
 百円のイワシの缶詰を分け合って食べた。
 しかし、生かしていただき、こうして息をしている。
 生きられるか生きられないかはご本尊様がお決めくださることである。
 なぜなら、たとえダイコン一本であろうとも、寺院へのお布施はすべてご本尊様へ対する善男善女からの尊い捧げものであり、世間的なりわいを離れ、み仏へお仕えする行者はその捧げものをご本尊様としてのみ仏からいただくしか、生きる方法はないからである。
「こんな愚かしく未熟な自分が、これをいただいて良いのか?」という自らへの問いかけを忘れた瞬間、行者としての堕落が始まる。

「かつては地元の葬祭業者が『うちで手伝わせてください』と頼んで来たが、檀家の減少に伴って読経の依頼も減り、立場が逆転した。
『檀家は先祖代々引き継がれてきたので、さしたる〈努力〉をしなくても食べていけたが、今では普通の自営業者と同じ。
 寺の存続のためにはやむを得ない』」
「葬祭業者へのリベート分は、結果的に喪主側の支払うお布施に上乗せされている。
 千葉県柏市の会社員の男性(59)は一昨年、市内の斎場で父親の葬式をあげた。
 広島県にある菩提寺と付き合いが無くなり、斎場側に同じ宗派の僧侶を紹介してもらった。
『戒名料』として20万円を僧侶に包むと、お通夜でのお経は20分で終わった。
 斎場の係員に『20万円は最低ランクですから』と言われ、翌日に『お車代』として10万円包むと、告別式での読経は40分に伸びたという。
 この斎場を運営する業者も、お布施の一部を僧侶から受け取っていた。
 男性は『悪い慣習はやめて、きちんと個人の安楽を祈ってもらいたい』と話した。」

 なぜ、出世間的修法が金額によって左右されるのか?
 そこには、いかなる宗教的回答もない。
 だから、宗教行為しか行わない当山は一切、お布施の金額とかかわりなく祈ってご本尊様から戒名をいただき、引導を渡し、年忌供養を行う。
 よほどの事情がない限り、修法についての法話も行う。
 今、何が行われたかをお伝えしないでは申し訳ないし、教えに接していただくところまでが法務であると考えているからである。
 たとえ生活保護を受けておられる方であっても、100人以上の会葬者がある方であっても、一切区別も差別もしない。
 できないのである。
 なぜなら、修法が出世間的に確立された行為であるのはもちろん、「死者とは、肉体という衣を脱いでこの世での修行を終え、故郷である本源なる〈み仏の世界〉へ還り行く〈み仏の子〉である」という信念で引導を渡し、お送りするからである。
 死者は、たとえてみれば温泉につかる客のようなものであり、裸のつき合いとなる時、脱いだ衣裳が立派な背広であっても粗末なシャツであっても関係ないではないか。

 続いて、「宗教法人経由 課逃れも」と題し、慣習宗教法人の問題に切り込んでいる。
 北日本を中心に活動している冠婚葬祭業者は提携する各宗派の寺院に依頼して僧侶を斎場へ派遣し、僧侶は受け取ったお布施の2~5割を業者指定の口座へ振り込むが、口座名は宗教法人になっている。
 宗教法人は葬祭会館にあり、業者の役員が代表役員を勤めている。

「東京国局は、休眠状態の宗教法人を使い、僧侶からのリベートを『お布施』と偽って申告していなかった東京の準大手の葬儀会社に対し、05年6月期までの7年間で約8億円の所得隠しを指摘している。」

 実に、僧侶は〈派遣され〉、〈便利に使われる〉存在になり果てている。
 業者も、僧侶も、そして、葬儀を安易に安くしあげようと肝心の導師をきちんと選ばない会館利用者も、気づかぬうちに宗教行為を汚し、貶めている。
 最近は、各宗派の僧侶を取り揃え、堂々とカンバンを掲げて僧侶の派遣業を営む僧侶もある。
 人材派遣業なるれっきとした商売は、宗教行為であり得ようか?
 葬祭業者が宗教法人を手に入れてお寺を建てるなどという話もある。
 商売人がそうした建物を造る目的は何であろうか?

 当山は、葬祭業者も、納棺師も、仕出し業者も、花屋も、石材業者も、人を送るという尊い仕事を共に行う〈同志〉であると考え、おつき合いいただいている。
 同志に必要なのはただ一つ、〈プロとしての信頼〉である。
 確かに紹介する、あるいは紹介してもらうといった仕事への入り口はあるが、同志としての気持はまったく平等、上も下もなく、義理や恩義の貸し借りもない。
 プロとして恥ずかしくない仕事をしたい、同時に、ご縁の方に喜んでもらいたいという一心で、同志は信頼し合い、手を取り合い、支え合っている。
 当山は信念一つで法務を行い続けられることを、ただただ感謝している。
 かけがえのない同志へ、当山を信じ、金剛のような仏縁の糸を結んでくださる方々へ──。

〈出世間の祈りを共に祈る〉
230206 011




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
02.11

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 65 ―日本と中国の仏教交流─

 2月9日、NHK文化講座「生活仏法」において受講者の皆さんと対話を行いました。
 教材はDVD『チベットの風』です。
 発祥の地インドにおいてイスラム教勢力が仏教を滅ぼす間際まで、最も精緻に構築された最後の仏教である密教はチベットへ伝えられ続け、チベットの人々は、仏教を学ぶために整えたチベット語でそれを学び伝えてきました。
 密教には中国から日本へ渡った流れと、チベットで成熟した流れと、二つの系統があります。
 日本では真言宗と、天台宗の一部が千年の時を超えて守り発展させています。
 しかし、チベットではその存在が許されず、半世紀にわたって寺院が破壊され僧侶が殺されてきただけでなく、仏教を根幹としたチベット人の生活そのものが抹殺されようとしています。
 映像は雄弁です。
 このDVDは、私たちへほとんど知らされていない恐ろしい現実を突きつけます。
 ぜひ、たくさんの人に観ていただきたいと願っています。

 さて、文化大革命によって破壊された仏教はチベットを除き、改革・解放政策の中で復活した面もあります。
 2月5日付の河北新報は、「時空超え僧の魂交流 真言宗のルーツ」と題した特集を掲載しました。

 お大師様へ密教のすべてを伝授した直後、「日本で広めよ。私は生まれ変わってお前の弟子になろう」と言った青竜寺恵果和尚は遷化し、日本で即身成仏(ソクシンジョウブツ)法が確立した一方、中国における密教は845年の仏教弾圧によって破壊され尽くしました。
 しかし、昭和59年、廃れていた青竜寺の跡地に「恵果・空海記念堂」が建てられ、平成9年に記念堂は青竜寺となり、住職の寛旭(カンギョク40才)師が再建を進めてきました。
 今回、来日した寛旭師は信徒5人と共に、高野山へ参詣し、お大師様が日本へ伝えた『理趣経』を読誦しました。

「空海、恵果が日中仏教徒の友好交流をお守りくださるよう、青竜寺が一日も早く完全復興できるよう心から祈りました」。
「来る度に空海の偉大さを感じる。
 彼は短期間で唐代の密教を学びとった。
 書や道教、土木技術にも通じた天才だ」。


 記事は、「経済成長に伴って、寺への寄進や参拝者も増えた。仏教研究も盛んになり、今は『仏教ブーム』とさえ言われる」と書いています。
 寛旭師。

「急激な経済成長により、物質生活は豊かになったが、精神生活が追いつかない。
 人生はむなしいと感じて宗教に救いを求める人が増えた」。 
「自分自身と人生の大切さを知ることだ。
 仏に帰依すれば、心は愉快になり、煩悩は減り、仕事への活力もわく。
 信仰で人々の生活を良くし、精神面を豊かにしたい」。
「唐代に密教寺院だった青竜寺と大興善寺を拠点に密教を復活させたい」。
「3年後には九重塔建設などすべての復興計画を完成させたい。密教道場もつくり、僧侶を日本へ留学させて密教を還流させたい」。


 昨年の中国漁船による衝突事故に際し起こった反日デモなどについては……。

「問題を解決するのは政治家の仕事だが、日中の国民が交流を深め、互いに理解をし合えば、矛盾は大きくならないでしょう」。

 ダライ・ラマ法王は、DVD『チベットの風』で指摘されました。

「チベットを守るための中国へのアプローチには二つの道がある。
 一つは政府との交渉、一つは中国の民衆との相互理解である」。

 まことに、賢者は道筋を見極めておられます。

 あまねく分けへだてなく人々を救う仏法が、人々を対立させ傷つけるものを克服させてくださるよう祈り続けます。

〈河北新報掲載の写真〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2011
02.11

2月の第一例祭

 年が明けたと思いきや、暦ではいよいよ春。
 立春です。
 2月6日は春祭厄除千枚護摩祈祷会と第一例祭でした。

 今年はお天気もよく穏やかな春祭です。
 昨年は前夜に最高の寒波が来て道路はツルツルに凍り大渋滞で、私も帰宅途中に遭難しました(笑)
 今年は無事、たくさんの方々がお越しになりました。
 ああよかった。

 今回は文字通り護摩木を1000枚以上用意していましたので、お経は2時間弱なのでその間で燃やしきれるかなと住職と話しておりましたが、本番ではもう~どんどん燃え上がりました!
 あんなに高く力強い火柱は初めて見たかもしれません。
 しかし本堂は煙くなりません。
 お参りされた方は、「厄」を焼き払ってくださった感覚があったことと思います。
 皆さんも一生懸命お経を唱えておられます。
 途中の般若心経三巻と丹野さんの太鼓は力強く本堂に響きわたりました。
 約2時間の厳修で、住職は汗だくだくです。
 お不動様の前の蝋燭は溶けて曲がっていて、お花もほとんどドライフラワーになっていました。
「炎の勢いがすごいのでどんどん護摩木を入れないと間に合わないくらいだったんですよ。」
と住職。
 ご参加の皆様もお心を寄せてくださった皆様も大変ご苦労様でした。
 今年一年の厄を除け、佳いご縁とお力をいただけることと思います。

 昨年の猛暑に続き、地域によっては大雪に見舞われ厳しい冬でしたが、春が近づいてきました。
(例によって花粉も凄いらしいですが・・・)
 今年も自然の厳しさに耐えつつ恵をいただき無事過ごされますように☆
 外猫のミケ子も無事冬を越しました。
 クロ子も毛が生えかわりはじめましたよ。

※この稿は、行者橋里佳さんのブログ「大日如Life」(http://blog.goo.ne.jp/lebleucrystal)からいただきました。

〈曲がった三宝、焦げたバナナ〉
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〈火の対極〉
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2011
02.10

『大日経』が説く心のありさま六十景 その27守護心(シュゴシン)

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪り怒り迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第27回目です。

25 守護心(シュゴシン)
 これは、自分の心だけを大切にする心です。

「唯しこの心のみ実(ジツ)なり、余心は不実(フジツ)なり」


 自分の心のみが信じられる真実であり、他人の心は信じられないと考えれば、〈自己中心〉の悪魔がムクムクと起き上がります。
 そもそも、自分の心が連続性を持ったものとして〈ここにある〉ならば、他人の心も同じく連続性を持って〈そこにある〉はずであり、〈あそこにある〉のも当然です。
 それぞれがいてこの世があり、社会がある以上、自分に喜びも悲しみも、楽しさも苦しさもあるならば、他人にも同じくそれぞれの心があり、自分の心にしか真実はないと考える根拠はどこにもありません。
 なぜこうした錯覚が起こるかといえば、無意識の裡に、「自分は永遠にここにいる」と錯覚しているからです。
 他人の死に遭っても、「自分もまた一瞬後に同じ状態になっても不思議ではなく、たまたま眼前の人は自分より先に逝っただけであり、自分もまたいつ逝っても当然の儚い存在である」という真実を直視、実感していないからです。
 私たちは、それぞれの生まれや育ちやはたらきの因と縁があってそれぞれに呼吸し、ものを喰い、言葉を交わしている〈たまたまこの世に一緒にいる〉友であると気づけば、自分だけを特別視することなどできはしません。
 
慈悲」が憐憫ではなく、むしろ友情であるところにこそ仏法の特色があります。
「慈」は、他人や生きとし生けるものを「我」によって分け隔てすることなく平等に観た上で友情を持ち、自分の幸せと同じ幸せを感じてもらいたいと願う心です。
「悲」は、他人や生きとし生けるものを「我」によって分け隔てすることなく平等に観た上で、他の呻きを見捨てず自分の呻きとして感じ取り、そこから救い出さないではいられない心です。
 この心を発揮するのが菩薩です。
 菩薩は智慧によって自分の煩悩(ボンノウ)を断ち、意欲を大欲(タイヨク)へと昇華させ、その力をもって方便(ホウベン…手だて)を実践し、分け隔てなく縁の相手を救います。
 方便は、布施持戒などの六波羅密(ロッパラミツ)として明確に示されています。

 一人暮らしをしているうちに体調を崩したAさんが人生相談に来られました。
「不安です。どう生きたら良いのかわかりません」。
 Aさんはヘルパーですが、一時的に休んでいます。
 身を乗り出さんばかりのAさんへ、身を乗り出しつつ、お答えしました。
「誰でも〈自分で生きる〉しかありません。
 生きるとは呼吸をすることであり、食べることであり、排泄することであり、寝ることでしょう。
 そのどれも、誰かに代わってはもらえません。
 誰でもが同じなのです。
 誰でも生・老・病・死から逃れられません。
 いずれも自分の思い通りになどならないので、釈尊は〈苦〉であると説かれました。
 しかし、それを実際に、いわゆる苦と感じてがんじがらめに取り憑かれ、袋小路に入って苦しむかかどうかはその人の心次第です。
 あなたは、特に仕事上『ありがとう』と言われた体験が多いのではありませんか?
 あなたにとって、その言葉は、心身に大きな負担をかける仕事で頑張る力になりませんでしたか?
 相手があなたへその言葉を発したのは、あなたが〈お金とひき換えに労力を提供している〉だけでなく、むしろ、そうした形を縁として〈見捨てておけずに手を差しのべる〉心を察知したからではありませんか?
 あなたの行為という布施が、相手の言葉という布施を生まれさせたのです。
 行為による布施は「身施(シンセ)」、言葉による布施は「言辞施(ゴンジセ)」と呼ばれます。
 そのやりとりにあって、あなたも相手も菩薩でした。
 二人とも、人間としての理想の姿、これ以上ない最高の姿になっていたのです。
 こうした瞬間を大切にすること以外、〈こう生きれば良い〉やり方はありません。
 肝心なのは、はたらくあなたも、不自由を抱えてあなたの世話にならなければ生きられない相手も、心一つで布施行の実践ができ、等しく菩薩になれることです。
〈自分がどう生きるか〉は、〈社会内でどう生きるか〉、そして、〈生きとし生けるものの中でどう生きるか〉と同義です。
 ぜひ、今までどおり、〈感謝の行き交う世界〉で生き抜いてください。
 もしも、パワーダウンしていると感じたならば、ご加持を受けに来て、心身をリフレッシュし、力を取り戻し、さらなる力を発揮してください」。

 菩薩の心になれば、「守護心」の迷いは消し飛ぶことでしょう。

〈相手が人間であれ、ネコであれ、信頼感が行き交うのは同じです〉
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2011
02.09

チベットの風(2)

 DVD『チベットの風』の続きである。 

 最盛期には世界一と称されたデプン寺には現在700人の僧侶がいる。
 中国が来て、文化大革命に襲われる前は7000人が修行していた。
 殺され、亡命し、還俗させられ、僧侶は激減した。

 ガンデン寺もまた最盛期には9000人が修行する世界最大規模の寺院だったが、文化大革命で、僧侶は一人残らず殺された。
 ガンデン寺で、ある宗派が成立していたのが理由である。
 ダライ・ラマ法王とパンチェン・ラマがゲルク派のため、ゲルク派の創始者ツォンカパが建立した寺院は完全に破壊され尽くした。
 西チベットの高僧と支持者によって4寺が再建されているものの、今も破壊の跡が生々しく残っている。
 青年は言う。
「5年前まではダライ・ラマ法王の写真を家に置けましたが、今ではそれさえも許されません」。

 パンチェン・ラマの本山タシルンポ僧院はダライ・ラマ一世の創建によるが、今は4ヵ寺しかない。
 ラサから来た男性の話。
「一番目の寺院には、パンチェン・ラマ10世が造った世界一大きな銅製の仏像が安置されています。
 二番目の寺院には、1989年に亡くなったパンチェン・ラマ10世の墓があります。
 仏塔中にある遺体に、当局が防腐処理をしました。
 三番目の寺院には、パンチェン・ラマ4世の墓があります。
 中国が来るまでは、たくさんの寺院がありました。
 それらはすべて破壊され、パンチェン・ラマ5世から9世の墓は、最後の墓へ一緒に納められました。
 6000人いた僧侶は800人になってしまったのです」。

 チベットには転生ラマ(トゥルク)として崇められる高僧がたくさんいる。
 13世紀に転生ラマ制度が始まってからは、歴代ダライ・ラマ法王と歴代パンチェン・ラマが転生ラマの代表とされた。
 歴代ダライ・ラマ法王は、5世から政治と宗教の実験を握る国家元首となった。
 歴代パンチェン・ラマは、タシルンポ僧院の座主を務め、阿弥陀仏の化身として尊ばれている。
 パンチェン・ラマが亡くなると、ダライ・ラマ法王が次のパンチェン・ラマの転生者を承認・選定する。

 1989年、パンチェン・ラマ10世は、こうした声明を発表した4日後、謎の死を遂げた。
「中国のチベット支配は、チベット人へ対し、利益よりも多くの害をもたらした」。
 パンチェン・ラマ10世亡き後、11世を建てる必要が生じた。
 亡命中のダライ・ラマ法14世は、チベットにいるゲントゥン・チューキ・ニマ少年を、ダライ・ラマ法王認定のパンチェン・ラマ11世とした。
 しかし、すぐに、この少年は家族と共に行方不明となった。
 中国政府は後に、ニマ少年の拉致を認めている。
「本当のパンチェン・ラマ11世はチベット人ですが、家族共々、どこにいるかわかりません。
 中国の刑務所に拘束しているのでしょう」。
 政府はギエンツェン・ノルブ少年を11世として立た。
「パンチェン・ラマ11世は二人います。
 一人はダライ・ラマ法王に認定され、もう一人は中国政府が立てました。
 北京にいるのは中国擁立のパンチェン・ラマです。
 北京のパンチェン・ラマがツガツェやラサの訪問に際して、政府は法律を作りました。
 民衆は外に出、スカーフ(カター)を持って歓迎しなくてはいけません。
 皆は彼がパンチェン・ラマだと信じていると言いますが、内心ではまったく信じてはいません。
 中国政府が立てたからです」。
 少年だったパンチェン・ラマは現在20才になり、活動させられている。
 もちろん、中国政府が立てたパンチェン・ラマはダライ・ラマ法王に認定されてはいない。
 だからこのパンチェン・ラマを信じているチベット人は誰もいないのである。
 中国人すら信じるだろうか?


 これは何世紀も前の遥か昔にあったできごとではなく、わずか半世紀前に始まり、たった今、この地球上で継続している現実である。
 人権侵害という耳慣れた言葉でくくってしまえないほど現実離れし、想像を絶する弾圧である。
 人間を人間扱いしない政治体制の中国が軍事・経済・政治各方面で世界へ大きな影響力を及ぼしつつあるという事実、数百万人の人々が暮らす一国が丸ごと簒奪され、民族が一人もいなくなるようにし向けられているという事実の途方もなく巨大な暗黒。
 私たちは、国会で誰一人この問題を採りあげようともしない国に安閑と暮らすことを恥じないでいられようか。

〈真実〉
230207 008




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2011
02.09

チベットの風

 DVD『チベットの風』を観た。
 冒頭に「ただ真実を知りたい一心で、私はカメラを片手にチベットに向かった」とある。
 撮影したのは「日本に住む一般の日本人」である。
 以後、Aさんとしておく。
 本人の姿はカメラに写っているが、撮影に協力した現地の人々は、身の危険が予想されるため、本名はもちろん、顔も一切明らかにされていない。
 14年前の映画『チベット チベット』では多くの人々が写っていた。
 中国政府による恐怖政治は弾圧の度を強めている。

 Aさんは、33年間の拷問に耐えたチベット僧パルデン・ギャッツォ氏の講演を聞き、平成18年、チベット行きを決意した。
 パルデン・ギャッツォ氏の生涯は「雪の下の炎」という書籍とDVDになっている。 

 観音菩薩の住まう宮殿とされるポタラ宮は、ダライ・ラマ法王亡命後、一大観光地になっている。
 平成18年3月のチベット人による抗議行動以来、周囲は警察と軍に警戒されている。
 町には硬い空気が感じられる。

 富士山と同等の標高にあるので高山病に罹り、3日間、飲まず食わずの状態で、チベット人の案内を探した。
 なかなか見つからなかったが、ようやく亡命経験があり英語の話せるチベット人と出会った。
 周辺には立派な道路ができ、道路際は真新しい整然とした町並みになっているが、3年前に政府が新築を義務づけたことによる。
 日本円にして一軒あたり700~800万円かかる。
 政府が半額を払い残りをチベット人が払うが、中国人の半分ほどしか給料をもらえないチベット人には支払い困難である。
 チベット人住民は次々と整備される道路を歓迎していない。
 ネパールやインドへ物資を運ぶのが目的であり、それで儲ける中国人の役にしか立っていないからである。

 一人っ子政策は厳しく、子供は二人までしか認められず、それ以上になると税金がかかる。
 しかし、チベットに住む中国人は例外であり、子供は5人でも6人でも構わない。
 チベット人の住民を減らし、中国人の住民を増やすためである。
 チベットに住むチベット人は600万人、中国人は750万人と言われている。
 住民はこっそり言う。
「私たちは、幸せではありません」。

 チベット人の半分は教育を受けられず、教育を受けていないと仕事に就けない。
 ラサでは一部のチベット人に教育の機会が与えられるが、東部や西部の放牧民や農民は学校へ行けず、職がないので食うや食わずである。
 3年前に鉄道が開通し、大量の中国人が来た。
 レストランなどの店のほとんどは中国人が経営している。
 仕事にありつくのは70パーセントが中国人であり、サインすらできないチベット人は排除されている。

 チベット人の放牧民や農民は強制的に、政府の指定によって移住や定住を余儀なくさせられている。
 放牧などが生態系を破壊しているという名目だが、自然の破壊は気候変動が主な原因であり、チベット人は半農半牧で自給自足の生活をずっと続けてきた。
 強制移住させられた人々は生きるために中国人から仕事をもらうしかなく、100万人以上のチベット人は失業・貧困・アル中などで苦しむ。
 中国政府は、堂々と発表している。
「農民と放牧民の強制改革は、経済成長の促進だけでなく、ダライ・ラマの影響力に対抗するためである」。

 もうすぐ空港もオープンする。

「3月14日にチベット人のデモが起こりましたが、チベットで放送されたのは大勢の中国人が殺される場面だけです。
 当時、3日か4日の間に3000人ものチベット人が殺されたのに、政府は決して発表しません」。

 チベットの三大寺院であるデプン寺・ガンデン寺・セラ寺を訪ねた。
 セラ寺には明治から大正にかけて、多田等観、河口慧海などが日本人として始めて訪れ、学んだ。
「中国人が文化大革命で来る前は、5000人ほどの僧侶が住んでいました。
 その後、死んだり、殺されたり、亡命したりして、今では250人になりました」。
 修行僧は20分の1になったのである。
「政府はこれ以上、僧侶を認めないので、チベット人は皆、心配しています。
 寺院の破壊や僧侶の殺戮は、文化大革命が行ったのです」。
 しかし、実際は1958年頃から侵略が行われ、僧侶は強制的に還俗させられ、寺院は破壊され、寺院はその機能を失わされていたのである。
 昔のことを知らないチベット人は、政府による「一連の破壊や僧侶殺戮は文化大革命のせいであり、中国政府に責任はない」という歴史教育によって洗脳されている。

「不幸や問題などがあれば、僧侶へ2千,3千、6千元などのお布施をします。
 僧侶は法要や祈りを行います。
 参拝者は賽銭箱にわずかな寄附を行います。
 一年経つとこれらのお金が集められ、仏像再建やお寺の装飾などに使います。
 政府からの補助はありません。
 観光客の拝観料は、お寺に30パーセントだけが与えられ、ビジネスを行わない僧侶たちにとってそれが全収入です」。

 寺院は、明らかに、観光資源に過ぎなくなっている。



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2011
02.08

「錫杖経(シャクジョウキョウ)」について (9)

 行者魔除けのために使う錫杖(シャクジョウ)の威力は偉大です。
 ここでは、カシャカシャカシャと錫杖を振りながら唱える「錫杖経」の読み下し文を区切って解説しています。
 いよいよ最終回、第九番目の経文です。

第九条 行願円満(ギョウガンエンマン)

過去世の諸仏は、
 錫杖を執持(シュウジ)して、
 已(スデ)に成仏したまいき。
 現在の諸仏も、
 錫杖を執持して、
 現に成仏したまう。
 未来の諸仏も、
 錫杖を執持して、
 まさにに成仏したまわん」


 過去のみ仏方は、
 錫杖をしっかり持った功徳によって、
 すでに成仏されました。
 現在のみ仏方も、
 錫杖をしっかり持つ功徳によって、
 現に成仏しておられます。
 未来のみ仏方も、
 錫杖をしっかり持つ功徳によって、
 必ずや成仏されることでしょう。

 過去現在未来は「三世(サンゼ)」といい、「永遠なる時間のすべてにおいて」という意味があります。
 それと対になる言葉が「十方(ジッポウ)」です。
 四方八方の方位と上下の方位をもって立体的な世界を表し、「無限なる空間のすべてにおいて」という意味があります。
 ここでは三世であり、そこにおられるみ仏は、「過去荘厳劫(ショウゴンゴウ)一千仏」、「現在賢劫(ゲンゴウ)一千仏」、「未来星宿劫(ショウシュクゴウ)一千仏」となります。

 仏法における時間は「生・住・異・滅(ショウ・ジュウ・イ・メツ)」の「四相(シソウ)」で表されます。
 読んで字のごとしであり、時間は、あらゆるものが生まれ、とどまり、変化し、滅するところに成立しています。
 成劫・住劫・壊劫・空劫(ジョウゴウ・ジュウゴウ・エゴウ・クウゴウ)、略して「成・住・壊・空(ジョウ・ジュウ・エ・クウ)」の「四劫(シゴウ)」とも言い、成立したものは存在する力を持ちますが、因と縁によって成り立っている以上、変化を免れず、存続する力を徐々に失って崩壊へ向かい、やがては姿を滅し去ります。
 その成り行きは政治権力を観れば、よくわかります。
 政権が樹立された時は飛ぶ鳥を落とす勢いがあるので強い上昇力を示しますが、最大の力を発揮している時期は太陽が中天にあるのと同じく、必ず沈んで行くしかなく、どんなにあがいても崩壊は逃れられません。
 そして、ガラガラポンとなった状態は〈無〉ではなく、次の政権を生む土壌である〈空〉です。
 四劫はあらゆる分野で無限に繰り返され、過去にも現在にも未来にもあります。

 過去における四劫の中の「住劫ジュウゴウ」が、過去にあった荘厳された時代つまり「過去荘厳劫(ショウゴンゴウ)」です。
 その時には、一千仏がおられました。
 なお、仏法における「千」は無限を意味しており、当山が厄除け護摩祈祷で千枚の護摩木を奉じて祈ったのは、ご本尊様をご供養しようとする無限の誠心を示すためです。
 現在における四劫の中の「住劫ジュウゴウ」が、今ある智慧の発揮されている時代つまり「現在賢劫(ゲンゴウ)」です。
 今も一千仏がおられます。
 未来における四劫の中の「住劫ジュウゴウ」が、星の廻りと共に成立する時代つまり「未来星宿劫(ショウシュクゴウ)」です。
 未来にも一千仏が現れます。

 この行願円満(ギョウガンエンマン)の最終条では、錫杖は成仏への導きであり、あらゆるみ仏の持つ法具であることが示されました。

〈雪が閉ざし清める世界〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.07

2月の行事予定

 2月行事予定です。

[春祭厄除千枚護摩祈祷] 2011/2/6日 午前10:00 
 講堂にて護摩を焚き、ご祈祷を行います。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。

[第一例祭 2011/2/6(日)午前10:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 ※今年は厄除祈祷と一緒の修法になります。

[お習字会] 2011/2/6(日)午後2:00
 地域の婦人部長などを長く勤められた安部よしゑさんに、基礎から教えていただきます。
 自分の「曲がり具合」に気づかされます。
 イスも用意しますので、正座が苦手な方も、どうぞふるってご参加下さい。
 参加ご志納金は1000円です。(未成年者は500円)
 お手本などの関係上、参加される場合は事前にご連絡ください。
 なお、用具はご持参ください。

[寺子屋『法楽舘』] 2011/2/12(土)午後2:00
・場所 法楽寺講堂
・参加志納金 1000円(未成年者500円)
・申込方法:電話・ファクス・メールなど
・送迎車 午前9時30分「イズミティ21」より発車(要事前予約)
 1年間かけ、釈尊の教えを系統立てて学びます。
 その第二回目です。
 質問の時間も用意しますので、どうぞ、メモを持っておでかけください。
 事前にご質問をおよせいただいても結構です。
 寺院は学びの場です。
 共に学びましょう。
 詳しくはブログ「寺子屋『法楽舘』だより」をご覧ください。

[講話「生活と仏法」] 2011/2/9(水)午前10:00
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

[第二例祭 2011/2/19(土)午後2:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

[お習字会] 2011/2/19(日)午後4:00
 地域の婦人部長などを長く勤められた安部よしゑさんに、基礎から教えていただきます。
 自分の「曲がり具合」に気づかされます。
 イスも用意しますので、正座が苦手な方も、どうぞふるってご参加下さい。
 参加ご志納金は1000円です。(未成年者は500円)
 お手本などの関係上、参加される場合は事前にご連絡ください。
 なお、用具はご持参ください。

[講話「生活と仏法」] 2011/2/23(水)午前10:00
 NHKカルチャーセンターで「生活と仏法」の講座を開きます。
『法句経(ホックキョウ)』や『実語教・童子教』などを読み、自由な質疑応答を行います。

お焚きあげ] 2011/2/26(土)午前10:00
お不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。28日とは限りません。いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2011/2/28(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

隠形流居合道場] 毎週金曜日午後7:00(第一週のみ土曜日に法楽寺にて午後6:00)
仙台市青葉区旭ヶ丘「青年文化センター」にて「隠形流居合」の稽古を行っています。
入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

〈おかげさまにて千枚護摩祈祷は無事、終了し、善男善女の厄除祈願はご本尊様へ届けられました〉
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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
02.07

めざそう!善い心(4)

 11の善い心はこれで完結です。

⑪不(フガイ)…さない心
 文字どおり、「他をさない心」です。

「諸の有情において,損悩をなさざる無瞋(ムシン)をもって性となし,を対治し悲愍するをもって業となす」。

 生きとし生けるものへ対して、怒ったり憎んだり怨んだりしてさずしめない心を本性とし、そうした悪心を退治して憐れみの心でものごとを行うのがあるべき姿です。
 慈悲心の「慈」は、他へを与えようとする心ですが、それを戒めの面からとらえれば、「無瞋」です。
 怒りや憎しみや怨みをぶつける相手へ、同時にを与えることは決してできません。
 同じように、慈悲心の「悲」は、他のを抜く心ですが、それを戒めの面からとらえれば、「不」です。
 害している相手から、同時にを抜いてあげることはできません。
 つまり、ここで説く「不害」は、ただ単に「誰かを傷つけてはいけませんよ」という注意だけの問題ではなく、「誰かを決して傷つけられない心をめざしなさい」と積極的に後押しするものであり、それは慈悲心を磨くところへ行き着きます。

 そもそも仏法で説く十善戒は、「不殺生(フセッショウ…みだりな殺生を行ってはならない)」などと戒めの形をとっていますが、真意は、み仏が私たちを縛りつけ、言うことをきかないと、その罪に対して罰を与えるというものではありません。
 みだりな殺生を行えない心が〈み仏の心〉であり、本来み仏である私たちが、その本性で生きることをめざすよう導いてくださっているのです。

 戒律を説く経典に『梵網経(ボンモウキョウ)』があります。
 不偸盗(フチュウトウ)に関しての記述です。

菩薩(ボサツ)は仏性を発揮して慈悲心を生じ、常に一切の人を助け、福を生ぜしめ、を生ぜしめなばならない。
 なのに、他人の財物を盗むなら、もはや菩薩ではない」。

 菩薩とは、私たちが残忍なワニの心や狡猾なネズミの心でなく、仏性を持った人間の心で生きる理想像であり、私たちが抱く「人はなぜ生きるか?」「人が生きる目的は何か?」という疑問への解答がここに示されています。
 4回に分けて考えてきた、「善い心」とは、菩薩として生きる心構えでもあります。
 これが道理として納得できれば、もはや、迷う必要はありません。

 2月6日を第一回として、お習字の会がスタートしました。
 6人の善男善女が筆の持ち方、墨の擦り方から学び始めました。
 教えていただく一つ一つが、勝手なクセを正し、本来の美しい字が書ける心と身体になるための一歩一歩です。
 先生は「私も一緒に学ばせていただきます」と言い、お手本を書かれました。
 その通り書こうとしても、簡単にはできません。
 み仏が経典や仏像をもってお手本を示してくださり、私たちが仏弟子としてそこへ一体化しようとするのと同じです。
 示されている理想像へ向かって進もうではありませんか。
 
※次回の「お習字会」は2月19日午後4時より行います。
 事前に電話などでお申し込みください。
 イスも用意しますので、正座が手な方もどうぞ、ふるってご参加ください。

〈西方浄土への誘い〉
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2011
02.06

四国八十八霊場の御影に守られる屏風を創りました

 門弟の藁科さんが四国八十八霊場を巡拝し、各札所で受けたご本尊様の御影(オミエ)を屏風へ貼りました。
 皆で手分けし、準備から完成まで2時間かけて完成した屏風をバックに、全員でご加持(カジ)法を行いました。
 合掌した手が願うように動く法を体験した後は、背に立つ屏風と敷かれた地蔵様の梵字に引かれて仰臥しました。
「臨・兵・闘・者・皆・陳・烈・在・前」と何度も九字を切り、心身を清めてから合掌した両手と全身に意識を集中し、ご本尊様に動かしていただくのです。
 少しでもきれいな空気で行おうと、メインのストーブを消してしまったので、座布団を敷いたとはいえ、皆さん、大分寒そうでした。
 いつもは電気敷き毛布を使うのですが、8名分はなかったので、皆さんにがまんしていただきました。
 電気敷き毛布を使わない場合は、もっと室温を上げねばなりません。
 屏風の一ヶ所が空いているのは高野山へお礼詣りをして受ける御影を貼るためです。
 3月、予定通り完成したならばもう一度、皆揃ってやりたいものです。

 ご加持法によって、他と競う強さや我ではなく、心の奥から仏性による法力が出ると、ご本尊様の「皆を救い尽くす」というご誓願に基づくご利益が降ります。
 自分が〈願う〉ようになり、心の歪みや身体のアンバランスが解消され、心身が本来の力を取り戻します。
 自他を幸せにする方向へと身口意がはたらき、迷いやオバケに取り憑かれません。
 自心魔ものや生霊怨霊を祓う「体祓」、心身のコントロール法である「体固」、病気見舞いなどへ行っても感染しない「五臓固」の稽古と法もあります。
 自分を清めてから行う法は、勝手な〈思い〉ではなく、清浄な〈願い〉によって動きます。
 私たちはいろいろと〈思い〉ますが、「ここ一番」の時は、必ず〈願い〉の形をとるものです。
 大いなるものへ我をひれ伏せさせる清らかな心が、願いの成就をもたらします。
 自分を清め、法力が出るよう、自他を幸せにできる人になれるよう、願っています。

 師弟が共に法の場で祈っていた同じ5日の夜、昭和46年から47年にかけて連合赤軍事件を起こした首謀者永田洋子死刑囚(65)が、東京拘置所でこの世に別れを告げていました。
 私と同じ年令で、昭和45年に割腹自決した三島由紀夫や西田哲学の京都学派に学んでいた私とは正反対の国家観を持った活動家でした。
 真剣に国家社会を憂いて悩み、求めた若者たちが、良きにつけ悪しきしつけ、ぶつかり、議論し、躍動していたあの時代……。
 若き日に一方の旗頭だった彼女の逝去は、時代が移ったという感を深めます。
 私は私なりにこの屏風や修法など残すべきものを残して去りたいと願いつつ、冥福を祈ります。

 印象の深い一夜でした。
 四国八十八霊場のご加護をいただきたいという願いが形になりつつあります。
 祈りがこめられ法の場を守る屏風は、ご加護を求めて当山を訪れる善男善女へ大きな安心と幸せをもたらすことでしょう。

〈ハイパワーの屏風〉
230206 004




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2011
02.05

めざそう!善い心(3)

 めざしましょう。善い心を。

⑨不放逸(フホウイツ)…気ままでない心
 自己中心の「我(ガ)」に引きずられれば、必ず、「欲しい」「惜しい」と貪ります。
 カッと「怒り」、「憎らしい」と怨みます。
 執着し、自分に都合の良い「勝手で愚かな」考えを持ちます。
 自己中心のままになる放逸は、こうして自他を害する「三毒」を発します。
三毒通じて三界の一切煩悩を摂し、一切煩悩は能(よ)く衆生を毒すること、それ毒蛇の如く、また毒龍の如し」
三毒はすべての煩悩を含んでおり、それらが生きとし生けるものを毒害で傷つけるのはあたかも毒蛇や毒龍のようである)
 ここで説く「不放逸」とは、精進によってそうした毒を発生させないことです。
 言い換えれば、三毒の反対である三つの善い心になり、毒を抑えることです。
 必ず自他へ善い結果をもたらす善い心とは「布施」「慈悲」「智慧」です。
 施し、慈しみ、賢くなれば、毒は出ません。

 人の心は瞬間瞬間に生じる無限の点が連なる形で構成されており、例えばまっ白な点として心が生じている時は、真っ黒な点はどこにもありません。
 心を真っ黒な点で紡ぐことが放逸であり、心をまっ白な点で紡ぐことが不放逸なのです。
 精進は勇猛心で悪を断じ、不放逸は絶えざる精進で悪を発生させません。
 黒い点を多くして心を暗くするか、白い点を多くして心を明るくするか、暗い運命を創るか、明るい運命を創るかは、私たちの努力にかかっています。

⑩行捨(ギョウシャ)…波立たない心
 私たちは、見たり聞いたりすれば、必ず、好い、好き、楽しいといったプラスの受け止め方をするか、悪い、嫌い、しいといったマイナスの受け止め方をするか、それともどちらでもないか、三様の状態になります。
 そして、プラスのものに近づき、マイナスのものから遠ざかり、どちらでもないものへは関心が動きません。
 こうした心は「好・悪・平・楽・・不楽不」の六つにまとめられ、これらが目や耳などの六つの感覚器官を縁として起こり、それが過去にも現在にも未来にも続くので、6×6×3=108となって「百八煩悩」と言われます。
 除夜の鐘を108回打つのは、百八煩悩を断ち切って清々しい心で新たな年を迎えようとするからです。

 だからといってこうした感受作用を否定はできません。
 なぜなら、私たちが「楽しい」と感じてそうしたことを望み、「しい」と感じてそうしたことを厭わないならば、自分自身を安全に保てないばかりか、他と争うことすら何ともなくなり、人倫は崩壊するからです。
 ここで問題は二つあります。
 一つは、残忍なワニに似た脳や、狡猾なネズミに似た脳のレベルで「楽しい」と感じるものへ身を投じるか、それとも仏性の光が輝いて「楽しい」と感じるものへ身を投ずるかという点です。
 いじめたり、騙したりして喜んではなりません。
 感謝されて心があたたかくなるような喜びを喜ぶならばまっとうな人間になります。
 もう一つは、好きや嫌いや無関心などの状態にとらわれるかどうかという問題です。
 折角、身を養ってくれるおいしい食事も、過度に摂れば成人病の元になります。
 また、一旦誰かを嫌いになったからといって、いつまでも口をきかないようでは人間関係に円滑を欠き、その相手が持っているはずの長所に気づかないままで、尊い〈一期一会〉を台なしにしてしまいます。
 好きや嫌いというフィルターの向こう側まで観る冷静な視点を持ちましょう。
 それが「行捨」です。
 好きな人も、嫌いな人も、善い人も、悪い人もそのままに観て、等しくいのちの輝きを見出し、を除き楽を与えようとするのが真の慈悲です。

〈黙っていますが〉
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2011
02.04

めざそう!善い心(2)

 善い心の2回目です。

⑥無痴(ムチ)…無智でない心
 仏法では、智慧のないことを愚癡(グチ)と言います。
 愚癡は普通、「口にしても仕方がなく、何の意味もないこと」を指しますが、そもそもは仏教用語です。
 ここでは、愚癡のない心を「無痴」とし、善い心であると説いています。

「諸(モロモロ)の理と事とのうえに明に解するをもって性となし,愚癡を対治し善を作す」。

(さまざまに展開する縁起道理と、現象世界に起こるできごとを、智慧によってきちんと理解して愚かさを離れ、善行がなされる)
 仏法は明らかに、智慧を尊ぶ〈道理の宗教〉です。
 目に見え耳に聞こえる世界に潜み支配している〈ものの道理〉を知り、目に見え耳に聞こえる世界に起こっている〈ことの内容〉が何であるかを知ってこそ、善行は可能になります。

 道理をもって考えず、山勘に頼ったり、何かあればすぐオバケのせいにするようでは、善行は遠ざかります。
 私たちは「眼に諸々の不浄を見て、心に諸々の不浄を見ず」と誓い、煩悩によってもたらされている不浄な現実を目のあたりにしても、敵が煩悩であることを忘れず、心の仏性に導かれて生きようとしています。
 敵をオバケと見誤っては、「愚癡を対治」できません。
 
⑦精進(ショウジン)…怠らない心
 勇猛心(ユウミョウシン)がなければ煩悩と戦えません。
 煩悩は目先の心地良さや安楽へ誘うからです。
 後に苦という報いがやってくることを知らず、あるいはそれに気づいても目先の快楽に負ければ、煩悩の命ずるがままに悪行にひたるしかありません。
 覚醒剤に蝕まれるのと同じパターンです。
 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「仏教の修行者は本当の意味での戦士と言えます。
 ただし彼が戦っているのは外の敵でなく、わたしたちの心の中の敵、すなわち怒り、憎悪、執着などです。
 これこそが本当の敵です。
 わたしたちは一度、これらの心理に支配されるや、悪い・カルマを蓄積することになり、そしてその結果として苦しみを受けることになるのです」


⑧軽安(キョウアン)…頑なでない心
 仏道修行は三学(サンガク)によって行われます。
 まず、戒律を守ること。
 これがなければ、心は右往左往するばかりで、どうにもなりません。
 こうした散乱の状態は、心に鳥やヘビやサルなどを飼っているようなものであると指摘されています。
 気まま勝手に動く心を鎮めるためには、戒めを意識して自分をそれに〈合わせる〉訓練が必要なのです。
 次に、瞑想を行うこと。
 これによって、心が舞い上がったり落ちこんだりして傾かず、バランスが良くなります。
 そして、智慧による実践です。
 深い理解と納得によって疑問や不安がなくなり、心が解放されます。
 これが軽やかで自由な「軽安」です。

 そもそも、私たちは生まれながら、心に蓋をしています。
 たとえば「五蓋(ゴガイ)」です。
 欲情・憤怒・睡眠・散漫・疑念、こうしたものが目に見えない蓋となって心を覆い、仏性によるあたたかで潤いのある心の邪魔をしています。
 修行によって心のステージが上がれば、もはや蓋は、どこにもありません。
 飛行機が上昇して雲を突っ切れば、遮るものがなくなるのと同じです。
 自分を煩悩へ解放するのではなく、煩悩から解放しましょう。

〈春めいた日〉
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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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