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2011
05.31

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その53)言葉と祈り

 最近は、大震災の〈間接的被災者〉とでも言うべき方々のご相談が増えました。
 何ら直接的被害は受けていないのに、「とても親族に集まってもらうことなどできず、年忌供養の機会を失い、亡き妻がかわいそうですっかり落ち込んでしまった」方や、「ただでさえ仕事がきついのに、辛い避難所生活をテレビで見せられると参ってしまう」などなど、心がつまる一方です。

 故田村隆一の詩「帰途」を思い出します。

言葉なんかおぼえるんじあなかった
 言葉のない世界
 意味が意味にならない世界に生きてたら
 どんなによかったか

 貴方が美しい言葉に復習されても
 そいつは 僕とは無関係だ
 君が静かな意味に血を流したところで
 そいつも無関係だ

 あなたのやさしい眼のなかにある
 きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
 ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
 ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

 あなたのに 果実の核ほどの意味があるか
 きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
 ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

 言葉なんかおぼえるんじあなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
 ぼくはあなたののなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる」


 言葉には意味があり、私たちができごとに意味を感じる時は、必ず、言葉が立ち上がってきています。
 言葉は、理解する人同士の間では同じ意味を有するので、通じ合いが生まれます。
 かわいい赤ん坊が生まれたという一つの事実が、生んだ母親と見守る父親だけでなく、それを伝え聞いた友人にも、母親と父親の持つ喜びに似た喜びをもたらします。
 営々として築きあげたすべてを失ったという事実が、失った人だけでなく、同心円状に伝わる情報を心でキャッチする人々へ、不安に満ちた喪失感をもたらします。
 
 この世には、言葉を、自己中心世界を確固たるものにするために用いようとする人々がいます。
 もう一方には、言葉による共感の海に漂う人々もいます。
 後者は、「あなたののなかに立ちどまる」し、「静かな意味に血を流し」ている人と心の音叉が共振し、放ったままどこかへ行けず「きみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる」しかありません。
 ご相談来山され、ご加持を受ける方々は詩人の魂を持った方々なのでしょう。

 さて、5月29日、日本赤軍の幹部で「ドバイ事件」と「ダッカ事件」を起こした丸岡修受刑者(60才)が八王子医療刑務所で亡くなりました。
 無期懲役の刑が確定しても生涯、無罪を主張し続けていましたが、2月22日に書き、3月10日に追記が書かれた遺書には、自分が犯人であるとの真実が記載されていました。
 受刑者は、有罪が確定した後、「(有罪を認めていれば)人々への公的な謝罪の場があり、(量刑も)有期となる可能性があった」と悔いています。
 また、「墓場まで過ちを持ち込むわけにはいかない。死が現実になったところで決心した」とも述べています。
 重大事件の犯人とはいえ、受刑者は人間や社会をよく考えた人物です。
 さまざまな理想は次々に砕け散っても、言葉への信頼性だけは失っていなかったのでしょう。
 死を前にして人間らしく悔悟し、〈吐きだして〉しまわずにいられなかったのでしょう。
 受刑者は、言葉を利用して虚妄の戦いを続けてきましたが、最後には言葉が救いになったのです。

 私たちは感じ、思い、情緒の海に漂います。
 それが苦となる場合もあります。
 詩人は凄まじい覚悟で「たつたひとりで帰つてくる」のですが、皆が同じように生きるわけにはゆきません。
 では、どうするか。
 苦となり、辛くなったなら、〈思う〉だけでなく、〈祈る〉ことです。
 冒頭のご主人なら、
「供養会ができなくてごめんよ。でも僕は君をいまでも想い、君と一緒に残りの人生を歩んでいるのだよ。どうか安心しておくれ」
と祈るのです。
 冒頭のはたらきびとなら、
「皆さんどんなにか辛いことでしょうね。心からお見舞いします。でも、今の僕には駆けつけて手伝ったりすることはできません。一日も早く不通の日常生活に戻れるよう、心から祈るしか、できないのです」
と祈るのです。
 心で血が流れ、も浮かぶことでしょう。
 そこで大切なのは、非力な自分だけではどうしようもないので、仏神へおすがりもすることです。
 被災地から来られた方は言われました。

「子供が熱を出しても病院も、薬もなく、だた身体を抱きしめ、頭を冷やすしかありませんでした。
 夜中に泣くと他の方々の迷惑になるので、主人と代わる代わる廊下であやしました。
 そして、どの神様でも仏様でもいいからとにかく熱を下げて欲しいと心から思いました。
 祖母は、信仰している観音様へ祈ってくれていました」。

 
 言葉と祈りは必ず、忌日に供養を受けられない亡妻も、供養する人も、心優しい思いやりの人も、必ず救うと信じています。

210101 004



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2011
05.30

弟子を送る ─生前戒名と別れ─

 これまで何人かの弟子へ引導を渡しました。
 弟子とは、生前戒名を受けた人です。
 死である私よりも年下の方もおられれば、年上の方もおられます。
 その都度、釈尊が目蓮と舎利弗を失われたこと、お大師様が智泉を失われたことを思い出します。

 釈尊の高弟目連(モクレン…モッガラーナ)は、「神通力第一」と称されていました。
 亡き母親が餓鬼界で苦しんでいるのを知って釈尊へ供養を依頼したことが「お盆」の始まりになったとされる人です。
 彼は托鉢中にバラモンたちの襲撃を受け、無抵抗のままに打たれ続けました。
 どうやら精舎(ショウジャ…修行道場)ヘたどりついたものの、そのまま息絶えました。
「智慧第一」の誉れ高く、目連と幼なじみの舎利弗(シャリホツ…サーリプッタ)は目連の死を深く悲しみ、故郷へ帰った後、ほどなく息を引き取りました。
 戦争で故郷を失い、高弟二人をも失った釈尊は、自分のいのちもそう長くないことを悟りました。
 そして、いつも師のそばにいて教えを聞いているので「多聞第一」と呼ばれる阿難(アナン…アーナンダ)などと共に、旅立ちます。

「私はふたたび、旅に出よう。
 いのちの限り、人々を苦から救いたい。
 お前たちも今までどおり、戒律を守り、心を安定させ、修行を続けよ」。

 80才の釈尊が立ち上がる様子には奮い立たされます。
 昭和50年に中島みゆきがヒットさせた「時代」を思い出したりもします。

「今はこんなに悲しくて 涙も涸れ果てて
 もう二度と笑顔にはなれそうもないけど
 そんな時代もあったねと いつか話せる日が来るわ
 あんな時代もあったねと きっと笑って話せるわ
 だから今日はくよくよしないで 今日の風に吹かれましょう
 まわる まわるよ 時代はまわる 喜び悲しみ 繰り返し
 今日は別れた恋人たちも 生まれ変わって巡り会うよ
 旅を続ける人々は いつか故郷に出逢う日を
 たとえ今夜は倒れても きっと信じてドアを出る
 たとえ今日は果てしもなく 冷たい雨が降っていても
 めぐる めぐるよ 時代はめぐる 別れと出逢いを繰り返し
 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
 まわる まわるよ 時代はまわる 別れと出逢いを繰り返し
 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ
 今日は倒れた旅人たちも 生まれ変わって歩き出すよ」


 甥である9才の智泉(チセン)を見込んだお大師様は、自分の師である大安寺の勤操(ゴンゾウ)へ預けました。
 14才からお大師様のそばで励んだ智泉は高野山の開発を担当し、自ら絵筆をとるなどして励んでいましたが、天長2年(825年)2月14日、風をこじらせて遷化(センゲ)しました。
 お大師様に先立つこと10年、あまりに惜しい死でした。
 心配したお大師様から医者へ行くように勧められても、厳寒の高野山で遅れ気味の建築物に留まり続けた結果の悲劇でした。
 智泉はお大師様から授かった「うどん」を広めたことでも有名で、腰が強くあっさりした讃岐うどんはお遍路さんに喜ばれ、全国に専門店があるほどです。
 
 弟子を送るにあたり万感の思いを込めたお大師様の文章が残っています。

「哀しい哉(カナ)、哀しい哉、復(マタ)哀しい哉。
 悲しい哉、悲しい哉、重ねて悲しい哉」。

(ああ、哀しい、ああ、哀しい、またまた、哀しい。
 ああ、悲しい、ああ、悲しい、重ね重ね、悲しい)
 生と死を見極め、苦の超克をなし遂げたお大師様も、深い悲しみを受けられました。

 ところで、「かなしい」には三種類あります。
1 哀しい
 この言葉には、切々と胸に迫り、思いが深く沈み込んでゆく感じを伴っています。
 俳優で演出もてがけた芥川比呂志氏の最期について、妻の瑠璃子氏が「美を見し人は」へ書いています。
 驚異的な生命力で、医師から見放された後も活動を続けた氏は、61才で臨終を迎えます。

「目をつむるちょっと一寸前、確認するように『今日は何日だ?』と傍らに付き添う娘にきき、暫くして『何時だ?』と重ねてきいている。
 まるで自分の死の日時を確かめでもするかのように。
 脈をとり続けていた長女尚子が小声で『脈がない』と慌てて言った。
 途端に私と三女歌子の腕の中に、彼はがくんと倒れかかり、慌てて支えた拍子に、その頃痩せてゆるんでいた入れ歯が外れかかった。
 歌子が『あ、入れ歯が……』と慌てて言い、私が口中に手を伸ばした途端、彼は自分でそれを直そうとしたが、終にそのままこと切れた。
 脈のない人間が、幾らか残っている意識のすみに娘の声をきき、最後の最後まで自分でしようとした行為を、生涯私は忘れないだろう」。

2 悲しい
 この言葉には、心が引き裂かれるような、胸をかきむしりたくなる感じがあります。
 そもそも「非」は、鳥の両翼で、別々にあって決して一つにならない様子を表しています。
「あらず」なので、否定を含み、肯定や納得の正反対です。
 そうした内容を含んだ「悲」には、最初から悲劇や悲恋へつながる〈どうにもならない〉強烈な辛さがあります。

3 愛しい
 愛は、胸が詰まる意識に発しています。
 胸に満ちてくる感情です。
 だから、「いとしさ」は、「かなしさ」でもあります。

 こうして考えてみると、お大師様が「哀しい」「悲しい」と言われた裏には「愛しい」もおありになったのではないかと思われます。
 最近お送りした弟子は、少し年上でした。
 奥様と共に生前戒名を受け、戒名のように、善く生きようと精進されました。
 遺影の笑顔があまりに哀しく、悲しく、愛しく、忘れられません。

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2011
05.29

手紙・糸

 皆さんからたくさんのお便りをいただきますが、ほとんどお返事を書けません。
 それを知ってなお、皆さんはお心を伝えて来られます。
 ありがたくてなりません。
 あたたかいお心を共有したいとの皆さんのお声もあり、おりおりに「月刊ゆかりびと」へ掲載しています。
 もちろん、プライバシーの保護には気をつけています。
 どうしてもご紹介したいお手紙があり、転載します。

法楽の会会員Aさん

 先生・奥様お元気ですか。
 私は目の病気がまたまた再発し、大学病院で治療中です。
 外での活動は少々制限がありますが、家に居て家族と一緒に過ごせるだけ幸せと思っています。
 いつも法楽をお送りいただきありがとうございます。
 法楽は今を生きる私達への経典と思い読ませていただいております。


生前戒名を受けられたBさん

 御本尊大日如来様の、み心を有難く感じますと共に、それも、これも、御住職様が私どものために、真心を込めてお祈り下された賜物と存じ深く厚く御礼申し上げております。
「仏のみ子」として再出発にあたり、お授けいただいた「戒律」をこれまで以上に守りながら一層精進したいと誓っておりますことを申し添え御礼の御挨拶といたします。


・お風呂場基金を提唱されたCさん

 人生乗り越えることの多かった中での三月十一日の大地震は、今まで色々経験したことで最大のものでした。
 毎日放映される被災地。今の無縁社会に警告を……と私なりに感じて居ります。
 一人では生きられないお互いの結びつきの大切さを知る機会になったと思います。
 昨年夏、住職より聞いてびっくりの私。お風呂場をぜひと声を出し、今に至り、月刊ゆかりびとで基金の集計などを知ることができますが、又、夏をひかえ、早くできあがって安心をしていただきたいと願っています。


 こうしたお手紙を読み、日々、修法していると、あらためて「じる」ことのシンプルさに気づかされます。
 み仏と皆さんとの間にも、皆さんと寺院との間にも、もちろん、み仏と寺院との間にも、一切、よけいな夾雑物はありません。
 という目に見えない糸は、み仏と皆さんと寺院との間でつながっており、その確かさは驚くべきほどです。
 時間も空間もたやすく超えるほど強い一方で、結ぶも切るも自由であるなどという糸は、他にありません。
 真実の持つ不思議な能力とでもいうべきでしょうか。
 今日も、皆さんとつながっている糸を感じながら、ひたすらに励みます。
 皆さん、佳い一日でありますよう。


230526 011



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2011
05.28

2011年6月の運勢

 2011年6月の運勢──平成23年6月(6月6日から7月6日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 皆が「上を上を」あるいは「前へ前へ」とめざす機運が高まります。
 流れに乗れる人はどんどん先へ行き、周囲をリードしましょう。
 開拓は骨の折れる辛い仕事ですが、無から有を創りだす喜びもあります。
 宮本常一の名著に『忘れられた日本人』があります。
 そこに登場する「世間師(セケンシ)」は、自分という道具一つを頼りに世間を渡り歩きます。
 彼らのおもしろいところは、定住を求めはしないけれども、腕を上げないではいられないところにあります。
 ここに登場する伊太郎は、土佐で木こりとして暮らし、後に熊本で大工になり、東京でも腕をふるいますが大都会に違和感を感じて、美濃へ行きます。
 やがて日清戦争が起こると台湾で大活躍をするという痛快さです。
 昭和三十五年に橋幸夫が引っさげて登場したのは『潮来笠』でした。
「潮来の伊太郎 ちょっと見なれば薄情そうな 渡り鳥♪」。
 この伊太郎はやくざですが、渡り鳥稼業の自由奔放さもまた、世間師へ引き継がれたのではないでしょうか。
 時代が大きく変わろうとしている今、いかにして上をめざすか、そのスタイルにも多様性がありそうです。

二 混沌の時代には立身出世を求める人が出てきます。
 仏法は、地位や名誉や財物などへの執着を「迷い」と見ますが、そうした世間的価値のあるものを否定はしません。
 この世のすべては仏性を発揮するために用いられる道具だからです。
 たとえば同じような信念を持っている人が二人いた場合、立場のある人が主張すればたちまち世間を大きく変えることができるても、世間話をするだけの人では、なかなかそうはゆきません。
 ただし、気をつけねばならないのは、地位や名誉や財物による社会的効果はさまざまでも、それが心の尊さの大小には必ずしも結びつかないことです。
 高野山には「白河燈」と「貧女の一燈」が明々と灯されています。
 白河燈は白河上皇による献灯ですが、貧女の一燈は、貧しく名もない女性が自分の黒髪を売ったお金で献じたものです。
 二つが同じく大切にされ続けていることを忘れないようにしたいものです。

三「冥升(メイショウ)」になってはなりません。
 冥は暗いことを意味し、ものが見えない状態です。
 だから冥升とは、やみくもに上ろうとすることです。
 上昇意欲は結構ですが、目的が脇へ置かれれば煩悩(ボンノウ)の奴隷になりかねません。
 もしもそうして世間的な力を得たあかつきには、善行だけでなく、悪行もやりかねなくなります。
 いわゆる〈功成り名遂げた〉はずの人や、誰の目にもその途上にあると思われていた人がつまらぬ事件で失脚してしまうのは典型的な例です。
 貧しい時代に結婚したある経営者は、大富豪になった後も、昔新婚旅行に訪れた古い宿へ年に一度、夫婦で泊まりに行きます。
 そして、若き日の青雲の志を確認し、謙虚さを忘れぬようにしているそうです。

四 天魔にやられぬよう、ならぬよう気をつけましょう。
 上昇過程にある人は、最も嫉妬の対象になりがちです。
 そして引きずり下ろされそうになったりします。
「上を尊び、下を助ける」のが人の道なのに、「上を利用し、下を潰す」人々もいます。
 目立つといじめられがちな学生スポーツの世界に一部残る悪しき慣習などは早く払拭したいものです。
「善行者を讃歎する」「善行に随順する」すなおな心でやりましょう。

 さて、今月の修行です。
 お墓や仏壇の前でも、あるいはいつ、どこででも修行はできます。
 皆さんの開運を祈っています。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は謙虚さを忘れず、自然体で成功します。
 不精進の人は軽佻浮薄(ケイチョウフハク)に行動してチャンスを失いがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は仏神を崇め、篤実な姿勢が評価されて吉慶を得られます。
 不精進の人は高慢さが祟り、信用を失いがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は他人や財物をたのまず誠心で勝負し成功します。
 不精進の人は無駄骨を折ったり、内容のない争いになったりしがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は目先の損得に走らず、心の安寧を得られます。
 不精進の人は、モノを追い、投機的なやり方が失敗して仏神のご加護を失いがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は良い理解者に恵まれ、成功します。
 不精進の人は共同で行うものごとが妨害でうまくゆかず、失敗しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は無謀な膨張を望まず、無事安全です。
 不精進の人は見通しの立たないままに新しいものごとへ突入し、欲の暴走で自滅しがちです。

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2011
05.27

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その52)惨禍と感謝、そして仏心─

 5月27日付の読売新聞は、「東日本大震災 陸自日記7」を掲載しました。
 4月2日(土)の日記です。

「航空自衛隊の救難機に乗り、気仙沼沖10マイル(16キロ)四方を捜索してきました。
 1日から3日間、在日米軍などと協力して行う行方不明者の沿岸部集中捜索です。
 約4時間飛行しましたが、結局、私の乗った救難機は遺体を見つけられませんでした。
 空自全体で本日は13機が捜索しましたが、発見は3体のみ。
 自衛隊と米軍の合計は、24体でした。
 よく見かける光景になりましたが、部隊が捜索中、多くの家族が沼地を掘り進める作業などを見守っています。
 時折、腕や足などが出てきますが、震災後3週間もたっており、引っ張り上げるわけにはいきません。
 全員で丁寧に周囲をかきわけて、時間をかけて遺体を取り出します。
 一日中やって、多くて一体、見つからない日もあります。
 見守る家族が『成果がない』と怒るかといえば、むしろ逆です。
 遺体が見つからなくても『今日は本当にどうもありがとうございました』と、感謝の声をかけてくれます。
 毎日同じように作業を見守り、お礼を言って帰る家族も多いそうです。
 勝手な想像ですが、3週間がたち、家族にとって今は心の整理の時期なのではないでしょうか」。


 これを読んで、故平山郁夫画伯の「仏教東漸の道」を思い出しました。
 15才の時、広島市で原爆に遭った氏は、東京芸術大学に努めていた頃に、ひどい後遺症で死を覚悟しました。
 弱冠29才で死に神と二度目の対面をした氏は、「死ぬまでに1作でいいから平和を祈る作品を残したい」と『仏教伝来』を描き、院展に入選しました。
仏教東漸の道」は、氏を動かしたものについて書かれています。

「原爆のまがまがしい惨状を目のあたりに見、私自身も後遺症によって生死の境をさまよった体験があるために、私の心は自然に何か永遠なるものを求めていたように思います。
〝永遠なるもの〟というのが、適切な表現なのかどうかわかりません。
 そのことを具体的に説明しろと言われてもできないのですが、ただ、人間の一生に思いを馳せて、その一瞬の瞬きにも似た短い人生の中で、一人一人の人間が営々と積み重ねていくもの、それがいつしか文明とか文化とか、つまり時間や空間を超えた大きな流れを形づくっていくのだろうと思います。
 その流れのわずかな中に、この自分の生があるのだと思い至る時、たとえ自分の一生が取るにたらないものだとしても、そこには永遠無窮な時の流れと、その流れをつかさどる〝大いなるもの〟の存在が、厳然としてある。
 そのことに私は心を打たれないではいられないのです。
 思えば仏教は、釈尊によってインドの地で生まれ、幾多の人々によるさまざまな艱難辛苦の末に日本にもたらされたものです。
 そして、二十世紀を生きる私たちの心にも、大きな安らぎの源となって流れ込んでいる──。
 この仏教伝来の道を辿ることこそ、私にとっては〝永遠なるもの〟に触れる一つの手だてなのではあるまいか。
 また絵かきとしての自分の行く道も、まさにここにあるのではないか──。
 いつごろのことか、私はこう思うようになりました」。


 私たちは、原爆に遭った平山郁夫氏と同じく、無常によって打ちのめされた後、〝永遠なるもの〟に触れつつあるのではないでしょうか。
 直後ですら、世界中から驚嘆されたほどの自己統制と忍耐の地力を発揮した私たちは、時間の経過が手助けとなって心の整理がつき始めたのでしょう。
 そして、この世にも、耐える人の心にも、助ける人の心にも、そして自分の心にもある〝大いなるもの〟へ合掌する気持になってきたのではないでしょうか。
 惨禍のさなかにあってなお感謝を催させるもの、それを私たちは霊性と呼び、仏心(ブッシン)と呼んでいます。
 白隠禅師(ハクインゼンジ)は、「南無地獄大菩薩(ボサツ)」と祈りました。
 地獄にも菩薩様がおられ、地獄であればこそ菩薩様の存在が明らかに知られます。
 捜索の現場を見守った家族が成果のあるなしにかかわらず『今日は本当にどうもありがとうございました』と言う時、そして言われた自衛隊員がその気持に打たれる時、仏性に呼ばれた菩薩様は厳然と現れ、「南無」という心での合掌を誘っておられるのです。

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2011
05.26

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その51)神も仏も─

「こんなことになるなんて、この世にはもいないのでしょうか」。
 いのちを奪い、財物を奪い、生活を奪い、仕事を奪い、これまでの人生を丸ごと奪うような自然の猛威を前にして、私たちは悲嘆にくれます。
 無常はわかっているけれども、あまりに無情な形でそれをつきつけられると、耐え難くなります。
 そして、を疑い、呪いたくなる気持にもなります。

 いつも敬仰している東北福祉大せんだんホスピタル院長浅野弘毅先生は、河北新報へ投稿「患者の恐怖 苦悩に添う」を投稿しておられます。
「震災をきっかけに悪化した患者さんや避難所にいられなくなった患者さんの入院が続いています」。
「テレビで震災の報道を見るたびに、自分だけが生き残った罪責から涙が止まらない患者さん、それどころではないと鬱(ウツ)から抜けだし、元気を取り戻した患者さんなど」。
 そして最後に述べられました。

「私は患者さんの話にただじっと耳を傾けることしかできません」。


 短い投稿はここで終わっていますが、もちろん、この先に診断と治療が待っています。
 この先、順調に進むかどうかを大きく左右するのが、「耳を傾ける」ことです。
 当山へも、投稿と同じく「不眠不休で働いて燃え尽きた医療関係者や行政担当者、ボランティアの方など」が来山されます。
 その際、最も肝心なのが、やはりお聞きすることです。
 問題を抱えた方の運命転化は、語るところから始まります。
 言葉を口にすることで頭の中が整理されるだけでなく、払ってしまいたい思いが言葉に乗って外へ出ます。

 当山では、こうした方々の求めに応じて、ご加持(カジ)の修法を行います。
 ご祈祷の一種ですが、普通のご祈祷において、行者が願主になり代わって願主の願いをご本尊様へお届けするという形とやや異なり、ご本尊様と一体になった行者が、同じご本尊様の世界へ、願主にも入っていただくのです。
 行者は自分がご本尊様と一体になる法を結び、願主へも法をかけます。
 この時、主たる役割を果たしてくださるのがお地蔵様です。

 お地蔵様は、本堂の奥深くに鎮座しておられるよりも路傍に立っておられたりする場合が多く、最も身近なみと言えるでしょう。
 しかし、その名が「大地の蔵」であり、別名が「正法(ショウボウ)の伏蔵(フクゾウ)」であり、おはたらきは「六道能化(ロクドウノウケ)」とされるハイパワーの方であることはあまり知られていません。
「大地の蔵」とは、大地の持つ徳をすべて兼ねそなえておられることを意味します。
 母なる大地は山河となり大海を抱き金銀を蔵し、あらゆる生きとし生けるものを生み、育み、その生をまっとうさせます。
「正法の伏蔵」とは、私たちを守り、育て、善き願いを叶えさせることによって私たちの心に感謝が生まれ、人の道への意識が高まり、まっとうな人間として成長する手助けをしてくださるからです。
 私たちは生命力と意欲を持っていますが、それが煩悩(ボンノウ)として自他を悩ませ、傷つけ、破壊するか、それとも大欲(タイヨク)として自他を励まし、力づけ、人間らしい創造的生き方へと結びつけるかは、心次第です。
 お地蔵様へ祈る心は、必ず煩悩を大欲へと変え、法に添った生き方をもたらします。
六道能化」とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の六つの世界を経巡り、苦から離れられない私たちを、いつ、どの世界にあってもそばから見守り、求めに応じて手を差しのべ救ってくださることを意味します。
 八方塞がりの地獄界にいても、争いの修羅界にいても、お地蔵様は決して見捨てません。
 こうしたお地蔵様は、法を受けている願主を掌に載せ、ご加持の主尊として心身の疲れや、歪みや、垢などを吸い取り紙のように引き受けられます。
 大地の力をもってすれば、私たちの払ってしまいたいものをそっくり引き受けることなど、たやすいのでしょう。
 
 まことに諸行無常(ショギョウムジョウ)であり、あらゆるものは人間の思惑と関係なく、変化し続けて止まりません。
 生死無常(ショウジムジョウ)であり、生まれるも死ぬも、いつ、どこで、どうなるか、人間の思惑どおりにはなりにくいものです。
 私たちを生み、成長させる一方、衰えさせ、殺しもする無常が辛くなったなら、耐え難くなったなら、感謝のエネルギーよりも悲嘆のエネルギーの方が強くなったなら、やる気を衰えさせるほど疲れがたまったなら、遠慮せずに聞いてくれる相手へポツリポツリでも話しましょう。
 そして、お地蔵様へ祈りましょう。
 あるいはご加持の法を受けましょう。
 明けない夜はなく、上がらない雨はありません。
 まごころと、みは、気づきさえすれば常にそばにあり、そばにいます。
 下向きになりかけていた目線をちょっと上げ、周囲への意識を変えてみませんか。

230526 0142



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2011
05.25

【現代の偉人伝】第125話 ─ヘリから原発へ放水を行った自衛隊員─

 3月17日のテレビは、自衛隊ヘリコプターが事故を起こした福島第一原発へ放水する場面をくり返し、流した。
 見るたびに、誰の目にも効果がないのは明らかなことしかできない無策が情けなく、自衛隊員が哀れであり、涙を催した。
 放射能火炎を吐くゴジラへ立ち向かう戦闘機のような勇気に、「よくやった!」と武者震いをもよおした。
 また、たとえかなわぬとわかっていても戦おうとする姿に、「武士(モノノフ)ここにあり!」と感激もした。
 しかし、考えてみるまでもなく、第三者の気持がどうあろうと、現場は文字どおりいのちがけだったのである。
 5月17日に至り、読売新聞がようやく、現場の声を報道した。

「東京電力福島第一原子力発電所で自衛隊ヘリが3月17日に実施した空中からの放水作戦で、ヘリの機長らが読売新聞の取材に応じ、緊迫した機内の様子を振り返った。
 ヘリ2機は、陸自第一ヘリ団(千葉県木更津市)に所属。17日午前、3号機の使用済み核燃料プールに対し、交互に計4回にわたって海水を投下した。
 1番機で作戦を指揮した加藤憲司隊長(39)に最終的な出動命令が下ったのは当日早朝。
 前日に別のヘリが放水を試みた際には放射線量が高く断念し、この日は、被曝(ひばく)線量を抑えるため、300フィート(約90メートル)の高度を20ノット(時速37キロ)で通過しながら水を投下する作戦を立てた。
 機体には放射線を防ぐタングステンのシートと鉛板を敷き詰め、隊員は防護服の上に鉛板が入ったチョッキを着用、体内被曝を防ぐヨウ素剤を服用した。
 当時、露出した核燃料に水を掛ければ水蒸気爆発が起きる危険もあった。
『多少のリスクは覚悟していた。いかに正確に飛行するかに集中した』と1番機の伊藤輝紀機長(41)は振り返る。
 原発に近づくと、水蒸気が上る建屋の不気味な姿が見えた。
 放射線量を計測していた別のヘリから、数値が低いとの連絡が入り、加藤隊長が実施を決断。
 2機に『予定通り実施する。しっかり頼む』と機内通話で命じ、風下から3号機へ向かった。
 数分後、プール上空で伊藤機長が『放水!』と合図し、整備員が水を積んだバケツの栓を開けるボタンを押した。
 防護マスクのため視界が狭く、声が聞き取りにくいという状況で、ポケットにお守を忍ばせた隊員らは4回の放水を実施。
 2番機の前原敬徳機長(37)は『あまり思い出したくないぐらいの緊張感だった』と本音を明かした。
 任務前、妻には心配をかけたくなかったために連絡せず、帰投後にメールで打ち明けたという。
 加藤隊長は『放射線という目に見えないものへの不安はあったが、与えられた任務をこなすことだけを考えた』と語った」。

 この情けなく、哀れで、武者震いもさせたできごとにはやはり、象徴的な意味があった。
 5月15日付の朝日新聞は、有効な手だてを見つけられないでいる当局者が、アメリカの強い意向によって〈何かをやらないではいられなかった〉背景をあぶりだしている。

「『いま、ヘリが放水しました』。
 3月17日午前10時22分、菅直人首相は首相官邸から電話でオバマ米大統領にこう切り出した。
 少しうつむき加減だったという。
 東京電力福島第一原子力発電所の事故対応の一作業について首相がわざわざ『現状報告』したことは、会談内容の記者団への説明では伏せられた。
 首相は『警察、自衛隊も含め、全組織を動員して全力で対処しています』と続けた。
 その約30分前、陸上自衛隊ヘリコプターが、第一原発の3号機の上空から7・5㌧の水を落とした。
 霧状に落ちていく水は建屋にかかり、ゆっくりと水蒸気があがっていた。
 放水は午前10時に終了。
 日米首脳電話会談のわずか22分前だった。
 北沢俊美防衛相は電話で首相に『うまくいきました』と報告した。
 菅政権はヘリ放水の冷却効果は『ほとんどない』(防衛省幹部)とわかっていた。
 それでも踏み切ったのは『オバマ氏との電話会談までに〈日本は本気だ〉と示す必要があったからだ』と複数の政府関係者が認めている。
 放水の数日前、『米政府首脳』のこんな発言が秘密裏に首相官邸に報告された。
『日本政府がこのまま原発事故の対応策をとらずにいるなら、米国人を強制退去させる可能性がある』
 米政府高官らは、各国の外交官と接する時に『オバマ大統領がこう話した』という言い方をしない。
『政府首脳』『ハイレベル』などとぼかして伝える。
 米大統領の影響力の大きさを考慮してのことだ。
 ホワイトハウスは危機感を募らせていた。
 大統領は毎朝、執務室(オーバルルーム)でブリーフィングを受けるのが日課。
 米国経済や中東情勢などテーマは様々だが、『フクシマ』が加わった。
 事故後の数日間は毎日約1時間、福島第一原発の事故の説明を受けていたという。
 首相官邸や外務省は『強制退避』発言を『オバマ氏の言葉』(外務省幹部)と受け止め、動揺した」。


 こうした成り行きだからといって、政府や東電を責める気にはなれない。
 事故発生後、関係者のほとんどは一切、手抜きをせずに役割を果たそうとしてきたに違いない。
 不眠不休に近い人々の努力が、事故を最悪の事態から遠ざけつつある。
 これまでに考えられ、実施しされた対策に、上出来だったものも、まずかったものもあることだろう。
 そうした事情は、これからも、事故の終息まで変わらない。
 やがて、つぶさに検証されるであろうことごとの中で、ヘリコプターによる放水は、おそらく例外的に事故へ対する効果以外の面で評価され、聖性を帯びた行動として別格扱いされるのではないだろうか。
 聖性は「国家の面目を保つためにいのちをかけた」という一点から発する。
 武士(モノノフ)たちは、私たち全員を代表して、「逃げない」人間の崇高さを顕した。
 10年前の9月11日には、アメリカで同時多発テロ事件が起き、勇敢な消防士たちなどが人命救助のため燃えさかるビルへと突撃した。
 勇者たちが「国のため」と意識して行動したかどうかが問題なのではない。
 そうした同胞のいる国に住む者たちが勇気と誇りを持てること、それが世界中の人々へ人間の聖性を再認識させたことにこそ、真の意義がある。
 彼(カ)の国には彼(カ)の国の武士(モノノフ)あり、我らが日本には日本の武士(モノノフ)ありと、後世に伝えたい。

230520 023



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2011
05.24

生前戒名

 最近、生前戒名を求める方が増えています。
 死が自分とは無関係の他人ごとではなく、自分自身が「本当は、いつ死んでもおかしくない存在である」という無常の実感が身近なものになったのでしょう。
 こうした実感を持つ方が生前戒名を考えるのは当然の成り行きです。

 自分に〈万が一のこと〉があった場合を想定してみましょう。
 枕経にかけつけ、迷わぬよう、おかしなものが近づいて来ないよう、結界を張って守る法を結ぶのは誰でしょう?
 死後の導きを任せられる確かな僧侶でしょうか?
 かつてNHKが『死者の書』に関する取材のためにチベットへ入った時、驚異的事実を知りました。
 チベットの民衆は誰も死を怖れていなかったのです。
 仏教が生活を律しているだけでなく、それぞれに導きのがあり、生前に生き方・死に方を学ぶだけでなく、死後もに導かれるのが決まっているため、いつ死のうと、あの世での心配がありません。
 日本では、趣味的にお寺参りをする方々はたくさんおられても、仏法を導きとし、死後の導や寺院を定めておくといった根本的安心を求める方は少数派と思われます。
 とは言え、私たちはどこで生活し、どのあたりで死を迎えるのか先のことはよくわからない自由な時代に生きています。
 ならば、人生のどこかの時点で来し方をふり返り、いつ死んでも悔いのない〈み仏の子〉らしい生き方をしようと決心し、信頼できる僧侶へ思いのたけを話して、納得できる戒名を受けておくことは大きな安心につながるはずです。
 戒名の最後の熟語「~居士」あるいは「~大姉」における「~」は僧名と同じであり、生前戒名を受けて生き直しを決心すれば、「~」を心に抱き、あるいは名乗りつつ生きられます。
 自分の死後、その時だけ派遣されてくる僧侶や、普段、心のつながりがない寺院から受ける戒名へ死後を託すのと、大きな違いがあるのではないでしょうか。

 ようやく上手に鳴けるようになったウグイスの声が境内へ響く朝、仙北の町からAさんご夫妻がご来山されました。
 生前戒名のご相談です。
 ご夫妻はそれぞれ、ご自身の人生を一枚の紙へまとめられました。
 拝読し、さらに、お気持を聞かせていただきました。
 パイロットを目ざしていたご主人は若くして終戦を迎えたため、特攻機へ乗らずに済み、戦後から生涯かけて一つの仕事を貫徹されました。
 結婚して子供たちを授かった奥さんは、子供たちの成長を見ながら勤めにもでかけ、今はご主人を支えておられます。
 そして、ご夫婦揃って地域のために汗を流してこられました。
 お二人とも異口同音に、「まじめに生きてきたつもりです」と言われるのをお聞きし、お一人お一人の〈今〉に結晶している時間の長さ、重さ、厳粛さにうたれました。
 思いやりをもって円かに生きたいというお二人の思いを受けてご本尊様へ祈り、授かった戒名をお送りしました。
 これまでも確たる歩みを続けてこられたお二人は、今後、たとえ加齢によって身体には思うままにならない面が出てこようと、お心はさらにしっかりと人の道を進まれるに相違ありません。

 無常が顕わになり不安の気配も蔓延しているおりがら、生前戒名の意義がより広く知られ、安心の基を得ていただきたいと願っています。
 
230520 001



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2011
05.23

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その50)御霊の思い─

 5月21日の例祭護摩法を行い、大震災で亡くなられた御霊をご供養し、至心にお訊ねしてみました。
「生き残りの私たちへおっしゃりたいことは何ですか?」
 お告げや怪奇現象として、どこからか具体的に聞こえてきた声ではなく、心に浮かんだ言葉です。
「私たちだけにしてください。
 二度と起こさないでください」

 こういうできごとに遭うのは、もう、自分たちだけでたくさんであり、誰も、二度と、自分たちのような目に遭わぬようにして欲しいというのです。
 沿岸部でたくさんのご遺体に手をかけたAさんの沈んだ言葉が思い出されました。
「私のような現場の人間が一様に口を閉ざしているのは、亡くなられた方々の表情が無惨だからでしょう。
 どうして私が……。
 こんなところで……。
 死んでたまるか。
 こうした気持がわかり、本当に、胸の塞がる思いになります」

 対照的なのが、最近、年忌供養を行ったBさんの思い出話です。
「父は、とてもカンの良い人でした。
 母がバイクでケガした時は、家にいながら
『お母さんが転んだ!』
といって車にエンジンをかけました。
 そこに大ケガした母がやっとたどりつき、すぐに病院行きとなりました。
 宮城県沖地震の時は、すぐ近くの店から血相変えて家に飛び込んできました。
『地震が来るから気をつけろ!』
 直後にあの地震でした。
 また、亡くなる年のお正月には遺言を書き、これが最後の遺言だなと、ポツンとつぶやきました」

 津波で亡くなられた方々のほとんどは、Bさんの父親のような覚悟も納得もないまま、無念の思いで逝かれたことでしょう。
 ただただ、お悼み申し上げ、安らかになられるよう祈らないではいられません。

 そうした御霊方が四十九日の中陰(チュウイン)を過ぎ、薬師如来のお導きで安心世界へ向かいながら、今は、残された私たちを気遣っておられます。
 未曾有で想定外だったできごとは、私たちへ「やむを得ない」という気持を起こさせ、それがある面での救いとなってもいますが、ご先祖様からの言い伝えを守って被害を最小限度に抑えた方々がおられ、史上初の困難な原発事故にすべてをかけて立ち向かっている方々もおられます。
 御霊の願いに応えられるよう、皆で徹底的に考えねばなりません。
 ──天災に耐えられるため、人災を起こさないため、私たちに何ができるか。
 ──天災に耐えられるため、人災を起こさないため、私たちは何をせねばならないのか。

230523 0072



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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2011
05.22

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その49)心の崩壊(その2)─

 なかなか〈大震災以前の自分〉に戻れなくて苦しんでいる方々がおられます。
 自分は大きなダメージを受けたのに、大震災があったからといって自分の役割が少なくなったわけでもなく、むしろよけいに頑張らねばならない方は大変です。
 を孕んだ巨大な〈非日常〉の威力は凄まじく、何となく自分は関係ないといった感じで営んでいた日常生活は吹き飛び、非日常日常の股裂きになり、あるいは非日常に覆い被さられて、不安と非力感に苛まれながら日々を送っています。
 特に、役割を放棄できないまじめな人にとっては、頑張ろうとしても辛く、休んだり辞めたりといった決断をするのも辛く、袋小路に入ってしまいがちです。

 しかし、み仏は、人間へを与えません。
 担いきれない荷物も背負わせません。
 順風にあっては慌てて転ばぬように支え、逆風にあっては挫けぬよう背中を押してくださいます。

 この話をAさんへ申し上げたところ、号泣されました。
「もう、私には背負えません──」
 無理もありません。
 Aさんは、背負えないと思えるほどの重荷を背負い、かつ、投げ出せないからこそ当山へ足をはこばれたのです。
 では、どうすれば良いか?
 方法は二つ、自分が変わるか、荷物の重さを変えるかです。

 まず、自分が変わる場合、二つの道があります。
 一つは、以前の自分を取りもどすこと、もう一つは、別な自分になりきること。
 前者は、大震災にもへこたれぬような強靱な心身の持ち主で、どんな暴風雨にあっても自分を屹立させ、できごとを次々と消化してしまうタイプです。
 後者は、大震災で別世界を観てしまい、人生観が変わり、これまでと生き方を変えることによってできごとを消化しようとするタイプです。
 自分がどちらのタイプであるかを見極め、方針を定めなければなりません。
 前者なら、更に厳しく自分を鍛える道に向かいましょう。
 後者なら、〈新しい自分〉のイメージをはっきりさせられるように努めましょう。

 荷物の重さを変えるにも、二つの道があります。
 一つは、誰かの力を借りること、もう一つは、別な自分になることです。
 前者としては、プライドや遠慮や気兼ねなどを一旦脇へ置いて周囲を眺め渡せば、意外な人が手を貸してくれることもあるものです。
 後者としては、〈新しい自分〉が新しい視点から荷物を眺めると、その内容も重さも違って見えたり感じられたりして驚く場合もあるものです。
 この二つは、両方を選ぶこともできます。
 鳥の声などしか聞こえないようなところへ行って自分を放り出したり、どこかで腹式呼吸をしたり、守本尊様の真言を低く口に出したりといった工夫をして、頭の熱をさましてみることをお勧めします。

 荷物に押しつぶされそうになり、心が崩壊しそうになったなら、ぜひ、おちついて自分を省み、荷物を省みてみましょう。
 心を許せる人へ相談したり、Aさんのように寺院を訪ねて仏法の力も借りたりして、熱している現場から少し離れた客観的なところへ自分を置くことも必要です。
 あるいは、ゆったりと守本尊様へ祈ってみましょう。
 蒙昧していた頭に涼やかな風が吹き、暗くなりかけていた心に明かりがさせば、ぐっと楽になります。
 決して〈やれない自分〉を追いつめず、自分を思いやり、み仏の教えに学び、乗りきりましょう。

〈ふんわりと〉
230517 014



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2011
05.21

僧侶の懺悔(その3)

1 このたび、の時代に異次元とも言えるほどの銅器が作られた背景を知りました。
 またしても懺悔の気持が濃くなったので、「僧侶懺悔」の残りを書きます。

「故(コトサラ)に殺す有情(ウジョウ)の命(ミョウ)、顕(アラ)わに取り密かに盗る他人の財、顕(アラ)わに取り秘かに取る他人の財、触れても触れずしても非凡行(ヒボンギョウ)を犯す」

(故意に、あるいは知らぬ間にいきもののいのちを奪ってしまい、公然と、あるいは秘かに他人の財物を奪ってしまい、実際に相手へ触れようと触れまいと穢れた行為を行う)

「口四(クシ)意三(イサン)互(タガイ)に相続し、仏を観念する時は攀縁(ハンネン)を発(オコ)し、経を読誦(ドクジュ)する時は文句を錯(アヤマ)る」

(同じように口では四つの過ちを犯し、心では三つの過ちを犯し、み仏を念ずる時は心が他のものへ移り、経典を読誦する時は読み違える)

「若(モ)し善根(ゼンコン)を作(ナ)せば有相(ウソウ)に住(ジュウ)し、還(カエ)って輪廻生死(リンネショウジ)の因と成る」

(もしも善い結果をもたらすであろう善いことを行えば、その結果に期待し、執着し、かえって輪廻の迷いを深くする原因にしてしまう)

「行住坐臥(ギョウジュウザガ)知ると知らざると犯す所の是(カク)の如くの無量の罪、今三宝に対して皆(ミナ)発露(ホツロ)し奉る」

(歩いたり休んだり座ったり伏せたりといった日常生活すべての中において、自分で知っていようと知るまいと犯してしまうはかりしれないほどの罪を、仏・法・僧の三宝へ対して皆、告白申し上げます)

「慈悲哀愍(アイミン)して消除せしめ賜え」

(お慈悲を垂れ、哀れんで、その罪障を消し去りお許しください)

「皆悉(コトゴト)く発露(ホツロ)し、尽(コトゴト)く懺悔(サンゲ)し奉る」

(皆、残らず告白申し上げ、残らず懺悔申し上げます)

「乃至(ナイシ)法界(ホッカイ)の諸(モロモロ)の衆生(シュジョウ)、三業(サンゴウ)に作る所のかくの如くの罪、我皆相代(アイカワ)って尽(コトゴト)く懺悔(サンゲ)し奉る」

(そして、この世のすべての生きとし生けるものたちが、身体と言葉と心でつくるこうした罪を、身代わりとなりすべて懺悔申し上げます)

「更に亦(マタ)その報いを受けしめざれ」

(さらにまた、罪障の報いを受けないようにお願い申し上げます)

「南無(ナム)慚愧懺悔(ザンギサンゲ)無量所犯罪(ショホンザイ)、南無(ナム)慚愧懺悔(ザンギサンゲ)無量所犯罪(ショホンザイ)、南無(ナム)慚愧懺悔(ザンギサンゲ)無量所犯罪(ショホンザイ)」

(心からありとあらゆる罪科を懺悔申し上げます、心からありとあらゆる罪科を懺悔申し上げます、心からありとあらゆる罪科を懺悔申し上げます)

 高野山の乱れを憂いら興教大師覚鑁様が、自坊で3年間も無言の行を実践し、成満後、一気に書き上げたとされる至誠の文は、いまだにその思いと力をもって読む者へ迫ります。
 読誦するびに忸怩(ジクジ…深く恥じること)たる思いを禁じ得ません。

2 陳舜臣氏の「銅器の贋作者たち」について書いておきます。

 陳舜臣氏は、同書の中でYさんという老鑑定家の話を書いています。

 の時代には、王侯だけが地上で生活し、庶民は地下室で暮らしていました。
 有名な青銅器の作業場も皆、狭い地下にあり、坩堝(ルツボ)で溶かした銅を穴から溝伝いに隣にある鋳型の穴へ流し込んで作っていたというから大変な現場でした。
 
 は、紀元前17世紀ごろにああった中国の王朝です。
 それから約1200年後、宋代にいたり、復古主義の影響で「周の青銅器をモデルに数多くの作品がつくられた」そうです。
 もちろん技術の限りを尽くして作られたはずなのに、この時代の作品は周の青銅器とどこか違っており、Yさんは「カンでそれとわかる」と言います。
 陳舜臣氏は素朴な疑問を持ちます。
 宋代はもちろん、「設備や技術が格段に進歩した現代で、どうして殷周の銅器とそっくりなものができないのか」。
 Yさんの答は驚くべきものでした。
「奴隷のつくるものと、ふつうの人間のつくるものとでは、ちがうのがあたりまえですよ」

 殷の青銅器制作者は「欲望を持つことを許されない」奴隷で、儲けをたくらむ後代の贋作者とは「出発点がちがって」います。
 贋作者にも許されている人生を楽しむといった時間が奴隷にはなく、「動物が餌を与えられると同じ」に、ただ、生かされていたに過ぎません。
 陳舜臣氏は思います。
「奴隷といえども人間である。
 ただ銅器をつくる以外のことは切り捨てられた人間なのだ。
 人間はいろんなことをする。
 ものをつくるのもその一つである。
 その一つのことだけに投げこまれたのが、奴隷だった。
 だから人間のある一面を、極限につきつめて行くことになる。
 人間能力の抽象といえるかもしれない。
『一つのことをやる奴隷の一代は、ふつうの人間が十代かかってもできないような仕事をやりとげる』
 Yさんはそう言う。
 わかるような気がした」

3 興教大師覚鑁様は、不動明王の修法に入ると、文字どおり一体化したとされています。
 危(アヤ)めようとした一味が修法中の護摩堂へ乱入したところ、ご本尊様である不動明王の像が二体あることに驚き、退散したほどです。
 不動明王は奴隷の姿をしています。
 他のみ仏と異なり、不動明王だけは頭上にある小さな蓮華へ私たちを載せ、僕となってはたらかれます。
 興教大師覚鑁様はきっと、殷の時代の奴隷のように徹底しておられたのでしょう。
 未熟な行者としては、畏れつつ、憧れつつ、悔いつつ、小さな歩みを続けるのみです。 

230520 020



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2011
05.20

『大日経』が説く心のありさま六十景 その35 ─撃鼓心(ゲキクシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた心を惑わすものたちが現れます。
 釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前になってすら、化けものたちが邪魔をしようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れないので、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

33 撃鼓心(ゲキクシン)
 弁舌で人の心をつかもうとする心です。

「この法を修順(シュジュン)して、我まさに法鼓(ホウク)を撃つべし」


 あたかも太鼓をたたいて人の耳目を引きつけるように、学んだ法について巧みに語って人気をとり、世間的な成功を得ようとする卑しい心です。

 そもそも仏法を学ぶのは、自分が生き直すためであり、自分へ心といのちを伝え自分を生かしている過去から現在までのありとあらゆるものへ報いるためです。
 「修順」の目的はそこにあります。
 迷妄から離れられるよう、正しい修行に自分を順応させねばなりません。
 しかし、世間の人々と違うものを上辺だけ知って、そのことについて巧みに語り、太鼓の音が耳にする人を驚かし注意を引きつけるように目立ち、世間的に成功しようとするのは邪道です。
 
 松尾芭蕉に、印象的ながらイメージの起こりにくい一首があります。

「命二ツの中に活(イキ)たる桜哉(カナ)」

 昔、自分が10才の時、23才の芭蕉に会ったことが忘れがたく、それから20年後に旅の途中にある芭蕉をつかまえて対面したのが服部土芳でした。
 この機に武士の身分を捨てて芭蕉の門下へ入るのですが、芭蕉自身も再会がかなり嬉しかったらしく、内容を知ってみると一層興趣が深まる句が生まれました。
 もちろん、「命二ツ」とは、芭蕉土芳です。
 爛漫と咲く桜は春のいのちをいっぱいに生きています。
 再会がもたらす人間のいのちの共振は、桜のいのちへと及び、桜は一段と活き活きしてきます。
 もはや人間と桜は一体となっています。
 人間のまことが表現されており、邪心の気配すらありません。

 正しく学ぶためにはの存在が欠かせず、への心が土芳のようなものであれば、撃鼓心など起こりようがありません。
 一方、〈知る〉ことが〈利用〉という我欲を生じさせるケースも、よくあるのです。
 さまざまな宗教や哲学のエッセンスを集めて巧みに組み立て、あたかも自分が新しい宗教や哲学を創造したかのようなふるまいに走る人間は、いつの世にもいたし、今もいます。
 そうした手合いに惑わされぬよう、をきちんと選びたいものです。
 良きにめぐり会えるよう、真摯な探求心としっかりした判断力を持ちたいものです。

里山葬の聖地〉
230517 005



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2011
05.19

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その48)心の崩壊─

 大震災から2か月以上経ちました。
 新たな崩壊の進行を感じています。
 心の崩壊です。
 モノや人を失った直後は、一気に非日常の世界へ入った衝撃で力が奪われました。
 今度は、非日常日常的に生きてきた無理が心の力を奪いつつあります。
 捜索現場の自衛隊員や、ご遺体を扱う役場の職員や、トラウマを抱えた被災者の相手をするボランティアや、途方もないがれきを相手にする人々などが、心に変調を来しています。
 もちろん、できごとを心で消化しきれず、その重さに苦しむ被災者はたくさんおられます。

 こうした皆さんが救いを求めてご来山されます。
「現場の光景が目に浮かんで眠れません」
「夜になると、亡くなった人々が避難所へやってくる気配を感じてたまりません」
「だんだん力がなくなって行くので不安です」
 どこかに、ズレや、抜け落ちや、覆われなどを抱えた方々が、身体健護・運命転化・除災招福といったご祈祷を受け、あるいは身体に直接、法をかけるご加持を受けて、いのちの輝きを取りもどされます。
「これで又、がんばれます」
 自分を励ましながら現場へ向かう若い自衛隊員や地方自治体の職員などを送り出すと、健気さに涙があふれそうになります。

 切実なご質問もあります。
輪廻転生は本当でしょうか?
 私はダメな人間だし、この世はあまりに辛いので、また戻ってくるのは恐くてたまりません」

 そもそも釈尊は、〈ダメな自分〉と〈辛いこの世〉から脱する道を説かれました。
 修行の目的である解脱(ゲダツ)とは、自分を苦しめる煩悩(ボンノウ)から解き放たれ、人間界や修羅界や畜生界などの輪廻転生を脱することです。
 当時のインドの人々は、死後ふたたびこの世へ舞い戻ってくることが恐怖だったそうです。
 だから、身分などの如何を問わず〈脱してしまう〉方法を説く釈尊の教えは大きな救いとなりました。
 それ以後、釈尊の境地に憧れ、解脱をめざす行者たちによって、釈尊の偉大さは「菩薩(ボサツ)として生きる」道を示されたところにあると考えられるようになりました。

 解脱者は救済者であり、逃げ出してしまうことが、自他の抱える苦を解決する最終的な方法ではありません。
 脱するとは、自分が迷った存在から脱するのであり、そうなれば〈ダメな自分〉も〈辛いこの世〉もなくなります。
 たとえ釈尊のように悟れなくても、誰かの何かのためにならないではいられないところに人間の本当の価値があり、「おかげさま」「おたがいさま」と生きるなら、ダメな自分が辛いこの世で救われつつあるのです。
 救われつつあるのは、誰かを救いつつあるからです。

 相手を救う「ありがとう」の言葉を、み仏は聞いておられます。
 そして、感謝や布施といった徳こそがあの世へとつながってゆき、転生の姿を決めるものであり、この世での地位や名誉や財産などは、この世限りのものです。
 だから、この世限りのものがあまりないからといって悲観する必要も、畏れる必要もありません。
 ただただ「ハチドリのひとしずく」のように、まことを尽くしてさえいれば、この世を菩薩として生きられ、またいつか、誰かのために菩薩としてこの世へやってくることでしょう。

 確かに、この世には、あまりに辛い面があります。
 しかし、それは、人間に限った状態ではありません。
 虫は鳥についばまれ、花は風に飛ばされ、樹は人に伐られます。
 ありとあらゆるものが、たまたま、今〈在る〉ための条件が整ってこの世に存在し、この世を形づくっています。
 存在するものはすべて、ガラス細工と同じです。
 そして、条件が完全に整っているために今〈在る〉ありとあらゆるものは、〈在る〉ことによって輝いています。
 どんどん繁る青葉も、巣作りに励むツバメも、風に震える水仙も、赤ん坊の寝顔も、そのことを教えてくれます。

 疲れたなら、不調になったなら、青葉を、ツバメを、水仙を、赤ん坊を観ましょう。
 そして、それでもなお、心身が危ないと思ったなら、日時をお約束の上、どうぞおでかけください。
 薬で治る病気もあれば、寺院の修法で回復する疲れや不調もあります。
 何としても心を崩壊させず、手を携えて進みましょう。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
05.18

戒名と布施

 最近、新しいご葬儀の縁が多く、戒名に関する素朴なご質問が重なっているので、これまでも何度か書きましたが再度、お答えしておきます。

 戒名は、み仏の子そのものとして旅立つ時に授かる名前であり、凡夫が決めるわけには行きません。
 だから当山では、ご遺族から故人の生年月日やお人柄などをお聞きした上で、み仏と一体になる法を結び、ご本尊様から授かった名前をお伝えしています。
 宗派上の問題からこうしてくださいと要請されるなど特段の事情がない限り、すべて「~~院~~~~居士(大姉)」となります。
 一番初めの熟語は院号(インゴウ)であり魂の色合いが出ます。
 二番目の熟語は道号(ドウゴウ)で、この世での生きざまが出ます。
 だから、ここに親からもらった名前の一文字が入ったりします。
 三番目の熟語は法名(ホウミョウ)であり、み仏から授かる徳が出ます。
 死後に授かれば、み仏の元へ向かう力となり、来世にこの世へ旅に来る時の徳ともなります。
 生前に授かれば〈生き直し〉の柱となるので、出家得度する僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じものです。
 だから、生前戒名を受けた人は、その時から、自分を法名で名乗ることができます。
 実際、俳句を書いたり絵を書いたりする方々などは、早速、法名を活用しておられます。

 さて、偉い人には長い戒名がつき庶民は短くて良いといった観念もあるようですが、それはいかがなものでしょうか?
 あの世へ行くとは肉体というこの世での衣を脱ぐことであり、同時に、出世したとかしないとか、お金持ちになったかどうかとか、有名人であるかどうかといった〈この世でのかりそめの姿〉を離れることでもあります。
 あの世では、み仏の子としてどうであるか、つまり〈霊性のレベルでいかなる存在であるか〉のみが、問題となります。
 これは私たち凡夫のなかなか知り得ない世界です。
 だから、戒名を求められた僧侶としては、一行者としてみ仏へ祈るしかありません。

 例に出しては気の毒ですが、最もわかりやすい例として、国際通貨基金(IMF)のストロスカーン専務理事(62才)の場合を考えてみましょう。
 ストロスカーン氏は次期フランス大統領選の候補者とも目されるほどの人物です。
 しかし、各社の報道によれば、5月15日、ニューヨーク市警はニューヨークのホテル従業員に対する強姦未遂と性的暴行、不法監禁の容疑で氏を逮捕しました。
 氏の周囲では、かねてからこうした問題がささやかれていましたが、立場を脅かす事件にはなりませんでした。
 権力者であることが世間の眼をごまかす盾になっていたのでしょう。
 その証拠に、5月17日の読売新聞によれば、フランスの女性ジャーナリスト(31才)も、9年前の暴行事件で氏を告訴しました。
 もしも氏のこうした行状があからさまにならないままに氏が人生を終えたならば、勲章なども受けたことでしょう。
 彼ほど高名ではなくても社会の上層部で活躍し、かつ、表面化しないものの人間として重大な問題を抱えた方が亡くなり、ご遺族が〈良い戒名をつけてやりたい〉と望み、縁の寺院へ高額な戒名料を払ったならば、長く麗々しい戒名が授かるのではないでしょうか。
 そして、後世、戒名を目にする人々は「この人はきっとすばらしい人だったに違いない」と思うことでしょう。
 これでは何か変ですね。

 だから、あの世に旅立つ故人の戒名は、み仏へお任せしましょう。
 きっとその人らしい長所が表れます。
 お布施は、寺院を守り、仏法を守り、一切の営利活動を行わずみ仏へすべてを捧げる行者としての僧侶を守るために納めるものなので、戒名の価値と懐具合とを勘案して金額を決めましょう。
「何とか安く済ませよう」
「高くてもがまんして、良い戒名をつけてやろう」
「戒名なんてどうでも良い」
 これではいかがなものでしょうか。
 もちろん、寺院側が金額を決めて請求するのもおかしなことです。
 お布施は清らかな心で納めるべきものであり、布施行の実践は、我欲を離れるための尊い人間修行です。
 布施行は、大震災で募金に応じ、救援活動に参加するのと同じく、まごころで行われるべきものです。
 戒名の意義を考え、布施行の意義を考え、この世での生きざまを漏れなく観てその人徳と罪科を厳しく判断する閻魔(エンマ)様を畏れる心を忘れないようにしたいものです。

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2011
05.17

猫の墓

 夏目漱石といえば「吾輩は猫である」を思い出しますが、「猫の墓」なる短編があることは、あまり知られていません。

「早稲田へ移ってから、猫がだんだん瘠(ヤ)せて来た。
 いっこうに小供と遊ぶ気色(ケシキ)がない。
 日が当ると縁側(エンガワ)に寝ている。
 前足を揃えた上に、四角な顎(アゴ)を載せて、じっと庭の植込(ウエコミ)を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない」

 夏目家のネコが体調を崩したようです。
 今なら、ネコが病気かも知れないと思えば、財布の中身を確認しながら、どうやって獣医さんへ連れて行こうかと考えますが、当時の事情は、まったく違います。
 ねこがはしゃぎ回ったりしないと、周囲は放ったままです。

「小供の方でも、初めから相手にしなくなった。
 この猫はとても遊び仲間にできないと云わんばかりに、旧友を他人扱いにしている。
 小供のみではない、下女はただ三度の食(メシ)を、台所の隅に置いてやるだけでそのほかには、ほとんど構いつけなかった。
 しかもその食はたいてい近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった」

「懶(モノウ)さの度をある所まで通り越して、動かなければ淋しいが、動くとなお淋しいので、我慢して、じっと辛抱しているように見えた。
 その眼つきは、いつでも庭の植込を見ているが、彼れはおそらく木の葉も、幹の形も意識していなかったのだろう。
 青味がかった黄色い瞳子(ヒトミ)を、ぼんやり一(ヒ)と所(トコロ)に落ちつけているのみである。
 彼れが家(ウチ)の小供から存在を認められぬように、自分でも、世の中の存在を判然(ハッキリ)と認めていなかったらしい」

 いよいよ不調です。

「それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。
 するといつでも近所の三毛猫から追かけられる。
 そうして、怖いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子を突き破って、囲炉裏(イロリ)の傍まで逃げ込んで来る。
 家のものが、彼れの存在に気がつくのはこの時だけである。
 彼れもこの時に限って、自分が生きている事実を、満足に自覚するのだろう」

「始めはところどころがぽくぽく穴のように落ち込んで見えたが、
 後(ノチ)には赤肌に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。
 彼れは万事に疲れ果てた、体躯(カラダ)を圧(オ)し曲げて、しきりに痛い局部を舐め出した」

 ところが、こう続きます。

「おい猫がどうかしたようだなと云うと、そうですね、やっぱり年を取ったせいでしょうと、妻(サイ)は至極(シゴク)冷淡である。
 自分もそのままにして放っておいた」

 当時はペットと人間の距離が今とは違うのかなあと思わされます。
 やがてネコは吐くようになります。

「どうもしようがないな。
 腸胃(チョウイ)が悪いんだろう、
 宝丹(ホウタン)でも水に溶(ト)いて飲ましてやれ」

 奥さんは冷淡です。

「妻(サイ)は何とも云わなかった。
 二三日してから、宝丹を飲ましたかと聞いたら、飲ましても駄目です、口を開きませんという答をした後(アト)で、魚の骨を食べさせると吐くんですと説明するから、じゃ食わせんが好いじゃないかと、少し嶮(ケン)どんに叱りながら書見をしていた」

>「猫は吐気(ハキケ)がなくなりさえすれば、依然として、おとなしく寝ている。
 この頃では、じっと身を竦(スク)めるようにして、自分の身を支える縁側(エンガワ)だけが便(タヨリ)であるという風に、いかにも切りつめた蹲踞(ウズク)まり方をする。
 眼つきも少し変って来た。
 始めは近い視線に、遠くのものが映るごとく、悄然(ショウゼン)たるうちに、どこか落ちつきがあったが、それがしだいに怪しく動いて来た。
 けれども眼の色はだんだん沈んで行く。
 日が落ちて微(カス)かな稲妻があらわれるような気がした。
 けれども放っておいた。
 妻も気にもかけなかったらしい。
 小供は無論猫のいる事さえ忘れている」

 ネコがだんだん衰えても、家族は放ったままです。

「ある晩、彼は小供の寝る夜具の裾(スソ)に腹這(ハラバイ)になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声(ウナリゴエ)を挙げた。
 この時変だなと気がついたのは自分だけである。
 小供はよく寝ている。
 妻は針仕事に余念がなかった」

 ネコの病状は悪化し、ついに死にます。

「明くる日は囲炉裏(イロリ)の縁(フチ)に乗ったなり、一日唸っていた。
 茶を注いだり、薬缶(ヤカン)を取ったりするのが気味が悪いようであった。
 が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。
 猫の死んだのは実にその晩である。
 朝になって、下女が裏の物置に薪を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(ヘッツイ…かまど)の上に倒れていた」


です。Kamado4816.jpgさんをお借りして細工しました〉
Kamado48162.jpg

 ここからは、省略せずに転載しておきます。

「妻はわざわざその死態(シニザマ)を見に行った。
 それから今までの冷淡に引き更(カ)えて急に騒ぎ出した。
 出入の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いてやって下さいと云う。
 自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻起る宵(ヨイ)あらんと認(シタタ)めた。
 車夫はこのまま、埋めても好いんですかと聞いている。
 まさか火葬にもできないじゃないかと下女が冷(ヒヤ)かした。
 小供も急に猫を可愛がり出した。
 墓標の左右に硝子の罎(ビン)を二つ活(イ)けて、萩の花をたくさん挿(サ)した。
 茶碗に水を汲んで、墓の前に置いた。
 花も水も毎日取り替えられた。
 三日目の夕方に四つになる女の子が------自分はこの時書斎の窓から見ていた。
 ------たった一人墓の前へ来て、しばらく白木の棒を見ていたが、やがて手に持った、おもちゃの杓子(シャクシ)をおろして、猫に供えた茶碗の水をしゃくって飲んだ。 それも一度ではない。
 萩の花の落ちこぼれた水の瀝(シタタ)りは、静かな夕暮の中に、幾度(イクタビ)か愛子の小さい咽喉(ノド)を潤おした。
 猫の命日には、妻がきっと一切(ヒトキ)れの鮭と、鰹節(カユブシ)をかけた一杯の飯を墓の前に供える。
 今でも忘れた事がない。
 ただこの頃では、庭まで持って出ずに、たいていは茶の間の箪笥(タンス)の上へ載せておくようである」

 安心しました。

 このたび、当山へペット供養のお墓をご寄進くださる方があり、文殊堂の横へ建てました。
 これまで水子地蔵様のそばにあった小さなお地蔵様とこれまでそこに眠っていたお骨は、新しいお墓へ移動しました。
 古い五重塔をご寄進くださる方もあったので、お地蔵様の横へ建てました。
 今後、当山の「猫の墓」はここになります。
 もちろん、イヌであれウサギであれ大丈夫です。
 家族は一心同体なので、お墓の呼び名を「一心」とし、刻みました。

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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2011
05.16

【現代の偉人伝】第124話 ─『神隠しされた街』を書いた若松丈太郎氏─

 5月15日付の河北新報で詩人若松丈太郎氏を知った。
 福島県南相馬市在住で40年前から原発の危険性を訴えてきた氏(75才)は、平成6年、原発事故のあったチェルノブイリを訪ね、帰国後に『連詩 悲しみの土地』を書いた。
 第6編が『神隠しされた街』である。
 以後、さらにいっそう原発問題を取りあげてきたが努力は報いられず、今回の事故を迎えた。
 氏は原発事故によって避難を余儀なくされ、ようやく一ヶ月後に戻って目にした光景は、『神隠しされた街』そのもののゴーストタウンだった。
 現在、緊急時避難準備区域に妻と住む氏は放射線量を確認しながら日々を送っている。

「予測が的中したからといって喜べない。
 これは人災であり企業災。
 はらわたが煮えくりかえる思いだ」
「事故を機に国全体で原発の将来を考えるべきだ」

 以下、『神隠しされた街』である。

四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
サッカーゲームが終わって競技場から立ち去ったのではない
人びとの暮らしがひとつの都市からそっくり消えたのだ
ラジオで避難警報があって
「三日分の食料を準備してください」
多くの人は三日たてば帰れると思って
ちいさな手提げ袋をもって
なかには仔猫だけを抱いた老婆も
入院加療中の病人も
千百台のバスに乗って
四万五千の人びとが二時間のあいだに消えた
鬼ごっこする子どもたちの歓声が
隣人との垣根ごしのあいさつが
郵便配達夫の自転車のベル音が
ボルシチを煮るにおいが
家々の窓の夜のあかりが
人びとの暮らしが
地図のうえからプリピャチ市が消えた
チェルノブイリ事故発生四十時間後のことである
千百台のバスに乗って
プリピャチ市民が二時間のあいだにちりぢりに
近隣三村あわせて四万九千人が消えた
四万九千人といえば
私の住む原町市の人口にひとしい
さらに
原子力発電所中心半径三〇㎞ゾーンは危険地帯とされ
十一日目の五月六日から三日のあいだに九万二千人が
あわせて約十五万人
人びとは一〇〇㎞や一五〇㎞先の農村にちりぢりに消えた
半径三〇㎞ゾーンといえば
東京電力福島原子力発電所を中心に据えると
双葉町 大熊町
富岡町 楢葉町
浪江町 広野町
川内村 都路村 葛尾村
小高町 いわき市北部
そして私の住む原町市がふくまれる
こちらもあわせて約十五万人
私たちが消えるべき先はどこか
私たちはどこに姿を消せばいいのか
事故六年のちに避難命令が出た村さえもある
事故八年のちの旧プリピャチ市に
私たちは入った
亀裂がはいったペーヴメントの
亀裂をひろげて雑草がたけだけしい
ツバメが飛んでいる
ハトが胸をふくらませている
チョウが草花に羽をやすめている
ハエがおちつきなく動いている
蚊柱が回転している
街路樹の葉が風に身をゆだねている
それなのに
人声のしない都市
人の歩いていない都市
四万五千の人びとがかくれんぼしている都市
鬼の私は捜しまわる
幼稚園のホールに投げ捨てられた玩具
台所のこんろにかけられたシチュー鍋
オフィスの机上のひろげたままの書類
ついさっきまで人がいた気配はどこにもあるのに
日がもう暮れる
鬼の私はとほうに暮れる
友だちがみんな神隠しにあってしまって
私は広場にひとり立ちつくす
デパートもホテルも
文化会館も学校も
集合住宅も
崩れはじめている
すべてはほろびへと向かう
人びとのいのちと
人びとがつくった都市と
ほろびをきそいあう
ストロンチウム九〇 半減期   二七.七年
セシウム一三七   半減期      三〇年
プルトニウム二三九 半減期 二四四〇〇年
セシウムの放射線量が八分の一に減るまでに九十年
致死量八倍のセシウムは九十年後も生きものを殺しつづける
人は百年後のことに自分の手を下せないということであれば
人がプルトニウムを扱うのは不遜というべきか
捨てられた幼稚園の広場を歩く
雑草に踏み入れる
雑草に付着していた核種が舞いあがったにちがいない
肺は核種のまじった空気をとりこんだにちがいない
神隠しの街は地上にいっそうふえるにちがいない
私たちの神隠しはきょうかもしれない
うしろで子どもの声がした気がする
ふりむいてもだれもいない
なにかが背筋をぞくっと襲う
広場にひとり立ちつくす


 いのちの気配が絶えた現在の街そのものではないか。
 建設中の福島第一原発を目にして「肉を露出して連なる正面の壁を削り、海に向けて建てられた鉄とコンクリートのかたまりは、周囲の風景にそぐわない異質のものが闖入してきた感がいなめない」と危険性を感性でつかみ、実際に事故が起こったソ連の現場でやがてやってくる災禍を確信した氏の気持は察するに余りある。

 渡辺白泉は昭和14年、太平洋戦争が始まる2年前に「戦争が廊下の奥に立つてゐた」を発表し、後に執筆禁止命令を受けている。
 日本中が「それ行け、どんどん」となっていた時、すでに死に神はすぐそこまでやってきており、〈非日常〉になじんだ人には感得できたが、危険信号は権力者によって潰された。
 しかし、死をまとう〈非日常〉は、〈日常〉を都合良く操(アヤツ)ろうとする人々がいかに隠そうとしても隠しきれない。

 3月12日(地震の翌日)、私は

「不可知の領域への畏敬の念が宗教心の核であるならば、私たちは、あまりに宗教心から離れすぎていたのだ。
 原発のメルトダウン(炉心溶融)が起こるとするならば、それは日本が廃墟となる日へのカウントダウンかも知れない。
 しかし、世界がどうやら生き残るならば、生き残った人々が深い教訓とするならば──、それもやむを得ない。
 地球上ではこれまで、崩壊するなどと想像されなかったはずの高度な文明がいくつも消滅してきた。
 識者は、いろいろと原因を探すが、よくわからないものが多いという。
 もしかすると、それは形のない心の問題だからではなかろうか。
 そうだとすると……。」

と書き、不安を煽ってどうしようというのかとの批判を浴びた。
 しかし、5月15日の報道によれば、東京電力は
「福島第1原発1号機でメルトダウン(全炉心溶融)が起きたのは、地震発生から16時間後の3月12日午前6時50分ごろだった」
との暫定評価を明らかにした。
 これまで、政府と歩調を合わせ、メルトダウンなどないから大丈夫との姿勢で事故の終息宣言時期らしきものまで発表していた東京電力は、対応策を練りなおすという。
 まさに「予測が的中したからといって喜べない」。
 当山は、責務とする祈りを続け、自然や隠れている世界などへの畏敬の念を忘れぬよう情報発信を続けるしかない。
 その一環としてシンポジウム「大地震と原発問題」も行う。

 社会学者ウィルリッヒ・ベック氏は「限界のないリスク」を孕むものとして、原子力や、気候変動や、グローバル化した金融市場やテロリズムを挙げている。
 私も3月12日、リスクに冷や汗を流す思いで書いた。

「何でも知り得る、何でもなし得ると「知」の領域を過信し、無限に便利さ、快適さ、そして儲けを追い求め、ささやかな「知」の領域の向こう側に広がる広大な世界へ無頓着になり、無視してきたことをこそ、思い起こし、知らぬ間に〈分〉を過ぎていたことに気づき、しっかり立ち止まりたい。
 現代文明の最先端を行く日本は、文明の宿痾(シュクア…抱えた病気)とも言うべき精神のしこりを背負っているのではないか。
 原発事故は、日本が犠牲になって、宿痾を世界中の〈共有者たち〉へ示す役割を果たすできごとではないか。
 美しい空気を吸い、汚染されていない水を飲み、安全な米を食べてこそ、心身は健全にはたらき、保たれ、社会も存続し得る。
 そして、そうした生存の基礎は私たち一人一人が全員でつくってゆかねばならない。
 宿痾を克服し、「知」の暴走をくい止めつつ」


 偉大なる先駆者若松丈太郎氏の背中を追いつつ進みたい。

〈このいのち〉
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2011
05.15

シンポジウム『大震災と原発問題』開催のお知らせ

大震災と原発問題 ~団塊、戦後世代はどう立ち向かうか~ 

 3月11日の東日本大震災は、大きな犠牲者を出しました。
 この未曾有の大災害をきっかけに、私たちは、新しい価値観を創り出し、世界がうらやむ日本、東北、そして宮城とするために、新しい社会システムを創造していかなければならないと考えています。
 日本の社会を創ってきた戦後・団塊世代の4人は、今回の東日本大震災と原発問題に深く関わりました。
 これからの世代のために、医学者、科学者とジャーナリスト、そして宗教家が新しい考え方、生き方を提言します。

パネリスト 
 仙石病院理事長 神部廣一(東松島で被災しながらも地域医療に奔走しています)
 元東芝エンジニア 佐藤嘉彬(福島原発の立ち上げに携わりました)
 ジャーナリスト 舘澤貢次(2年間、9電力の原発をくまなく足で回りました)
 大師山法楽寺住職 遠藤龍地


混沌から未来を開き、宮城県が提唱しているように「世界がうらやむ東北にするために」共に考えましょう。
知人、友人、ご家族をお誘い合わせの上、ぜひご参加下さい。

日時  6月4日(土) 13時30分より
場所  大師山法楽寺講堂
入場料 1000円(「未成年者は500円)
送迎  12時45分に仙台地下鉄泉中央駅前の『イズミティ21』前へお迎えにまいります。
     バスへの乗車を希望される方は5月31日までご連絡下さい。

主催 仙台青山会  (住職の活動に共鳴し支援する同級生の会)
共催 ゆかりびとの会(法楽寺を信じ自主的に護持する人々の会)
※6月の寺子屋『法楽舘』を兼ねての開催となります。

〈ペットの共同墓『一心』をご寄進いただきました〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
05.15

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その47)戦い─

 ついに原発事故の現場で者がでました。
 作業員は心筋梗塞の疑いで救急車に乗せられましたが、通常なら4~5キロ先の病院へはこばれていたのに、事故の影響で病院到着まで2時間かかってしまい、残念な結果となりました。
 現場の皆さんはぬ気ではたらいておられるに違いないと確信していながら、実際にこうした結果になると、涙が止まらぬ思いです。
 やはり、これは戦争なのです。
 明らかに、弾丸やミサイルの飛び交わない戦争に違いありません。
 津波によって破壊され尽くした地域では、空襲による焼け野原もかくやと想像しつつ、もしかしたら、それ以上の虚無に覆われているのではないかとの戦慄もありました。
 そうした地域では、自然による激しい攻撃そのものはほとんど終わっていますが、原発事故の現場はまさに不断の攻撃にさらされた戦場です。
 最前線へ出撃するどなたもが、親しい誰かと心で水杯を交わしつつでかけるのでしょう。
 そして、ついに永遠の別れがもたらされました。

 14日に行った寺子屋『法楽舘』で、高齢のAさんから述懐がありました。
「私は戦争で焼け出され、叩きのめされても、どうやら立ち上がって戦後の復興にたずさわりました。
 その後、経済成長のめざましい日本ではあまりにも自由が叫ばれ、が野放しにされて教育者として青少年の育成に憂いを持ってもいました。
 いろいろ考えつつ、自分でやるべきこと、やらなければならないことはやってきたつもりです。
 ところが今回の災害で、モノやいのちを失ってはいないのに、もう一度焼け出されたかのような感覚になり、うつ的状態に陥ったままです。
 立ち上がらなければならないのはわかっていながら、なかなか、そうできません。
 般若心経で色即是空(シキソクゼクウ)とめぐり会ったことがいくらかの救いになってはいても、強い宗教心を持っているわけでもないので、すがるものとてないのです。
 強いて言えば、宮沢賢治の世界が救われる先かも知れませんが、すっかり安心させてくれるわけでもなく迷っています」

 人生の大先輩であり、いまだに学究にいそしみ、遠い過去には幼い私を導いてくださった方の憔悴したご様子には、胸の塞がる思いでしたが、気力を振りしぼってお応えしました。
を孕んだ〈非日常〉があまりに圧倒的な形と力で、私たちの〈日常〉へ覆い被さっているので、この重さをはね返すことは容易でありません。
 しかし、『どうしてこんなことに……』と問い、答は得られなくても、『すべては無常である』ことがものの道理であると信じるのみです。
 無常が顕わになり、が現前にあり、無常をもたらす因縁の糸をたぐれなくても、できごとはすべて、原因とそれにはたらきかける縁とによって結果がもたらされるという、ものの道理に従って起こっているのみです。
 自分も無常に生きており、たとえ一瞬後にんでも何ら不思議ではないと深く思いめぐらす時、虚無が口を開けるしかないかと言えば、決してそうではありません。
 必ず、貪りや怒りや自己中心的考えが背景へ退いていることに気づくはずです。
 煩悩(ボンノウ)が薄れます。
 そして、清浄な目に、光景が今までとは違って見えるはずです。
 廃墟から立ち上がろうとしている方々の姿、支援活動に励む方々の姿、無の空間に生活の気配が戻る様子、木々の緑が深まる様子に心が潤いを取りもどします。
 必ず、釈尊の説かれた『目覚め』がやって来ます。
 どん底からの転換、心の上昇は、誰かが声高に叫ぶスローガンがもたらすものではありません。
 私たちは自分を打ちのめすものも、自分を奮い立たせるものも、心に映る現象世界からしか得られません。
 無常を考察し、澄んだ心で現象世界を観ましょう。
 見知らぬ幼子の笑顔、あるいは小さな一輪の花にそうしたきっかけが潜み、発見されるのを待っています。
 私は、真冬の托鉢では、やがて福寿草に会える日が来ると信じて、その日を待ちながら毎日、歩きました。
 そして、福寿草の発見は救いとなり、その先へ歩む元気を与えてくれました。
 どなたにも必ず、教え、勇気づけてくれるものが待っています。
 日常生活は目覚めていない状態なので、無常を観て目覚めましょう。
 今の〈うつ〉は、大きくジャンプして水たまりを跳び越えようとする時に、ひざを撓め、ちょっとガマンしなければならないのと同じ状態です。
 水たまりという相手を見すえて、跳べると確信できれば、必ず向こう側へ行けるはずです。
 み仏は、決して跳べない水たまりを用意されません。
 信じて見つめ、やがて、跳びましょう」

 原発事故の現場でも、被災地でも、避難所でも、仮設住宅でも、あるいは全国津々浦々でも、人々の肉体的、精神的な戦いが続いています。
 無常を前に真実を生きようとしている私たちへ、み仏のご加護があるよう、今日も祈ります。

〈見つけられるのを待っていたかのように…〉
230514 0142



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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
05.14

墓苑のご案内会を行っています

本当の布施とは? ~今、できることを行いましょう

 災害に遭った私たちは、「おたがいさま」「おかげさま」の心で、誰かのために何かできることを行おうとしています。
 これこそが真の布施行です。
 新聞やテレビやインターネットは悲惨で悲しく厳しい情報を伝える一方、心温まるできごとや、尊い行動に汗を流す人々などの情報も提供しています。
 布施はインドの言葉でダーナといい、布施をする人々や家を檀家と呼びます。
 この災害を他人ごとと思わずまごころでとり組み、できることを行い、本当の布施、本当の檀家を考えてみようではありませんか。

檀家」縛りのない墓苑とは?

 人は使ったり、使われたりするのでなく、共に支え合わねばなりません。
 お寺も同じです。
 皆さんがただ便利に利用したり、お寺がお布施を強要するのではなく、心から仏縁を求める人々が救われ、その人々のまごころで維持されるのが真のお寺であると考えています。
 それが「脱檀家宣言」を行った理由です。
 当山は、頭割りのお布施依頼や、金額を決めての戒名料請求などを行いません。
 当山の姿勢を信じる方なら宗教宗派を問わず、お話をお聞きし ます。
 どうぞご安心の上、ご相談におでかけください。


 当山へご理解を示される「ほこだて仏光堂」様がチラシを作ってくださり、本日より、上記の内容で、墓苑とお墓の説明会を催しています。
 もとより、当山は、いかなる業者様とも特殊な関係になってはおりません。
 いわゆる「指定業者」はありません。
 お互いにそれぞれの道の〈プロ〉と認め合う同士として、さまざまな業者様方と信頼関係が構築された結果、さまざまな業者様が自主的に当山の紹介をされます。
 今回もそうした一環であり、まことにありがたいことです。

 さて、当山は、すべての方々へ門戸を開いており、墓地の永代使用契約についても宗教宗派の制限や檀家縛りはありません。
 ただし、墓苑の経営は商売ではなくあくまでも宗教行為であり、当山を寺院として信じ、当山の奉ずる仏法に守られることを願う方との仏縁でなければ、契約ははウソになります。
 もちろん、皆さんお一人お一人が何を信じておられようと、お心へ土足で踏み込んだり、信仰を当山の宗教へ変えさせようなどということはありません。
 お大師様のマンダラの法はすべての仏神へ通じるので、お釈迦様であろうと、阿弥陀様であろうと、お不動様であろうと、観音様であろうと、どなたを信じ、どなたをご本尊としておられる人や家であっても必ずお守りできます。
 四国八十八霊場のご本尊様方の多種多様を見ればすぐにわかります。
 だから、当山の墓地を契約し、当山の修法によって開眼供養や年忌供養を行う場合に、いわゆる改宗の必要はなく、ご本尊様を変えたり、戒名を変えたりする必要もありません。
 当山の姿勢に共鳴される方は、どうぞおでかけください。
 皆様へみ仏のご加護がありますよう。合掌

230514 016



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2011
05.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その46)老人力─

8 今こそ「老人力」を発揮しよう

 非常時には、いのちを賭した活動が求められます。
 戦争においては若者から順に死なねばなりませんが、同じ非常時でも、今回の大震災にあっては、原発事故の現場に見るとおり、むしろ年配者から順に危険へ近づくこともできます。
 そして、年の順に死ぬことは、自然の理に叶い、誰しもが納得できます。
 ならば、今こそ年配者は〈先に死んであたりまえ〉である立場を自覚して考え、行動しようではありませんか。
 当山は、福島県産野菜が壊滅する危機にあたって「還暦(60才)を過ぎた皆さん、出荷一時停止(自粛要請)の野菜を食べ、牛乳を飲み、日本の農業を救いましょう!」と呼びかけました。
 実際に放射能で汚染された野菜を口にする機会はなく、提唱への賛否は両論でしたが、「老人力」を発揮しようという姿勢は妥当であろうと考えています。
 では、何ができるか?

 日本人一人当たりの個人資産が極端に年配者へ集中しているのは周知の事実です。
 右肩上がりの時代にはたらき、老後のために資産を蓄えてきた世代がある一方で、はたらく場もおぼつかなく、安心して結婚し家を持ち子供を育てられない世代があることは、誰しもが知っているはずです。
 そして、復興と新たな発展のためにどうしても必要なのはお金です。
 ならば〈持っている世代〉の〈持っている人々〉が率先して負担すべきではないでしょうか。
 政府の年金制度は頼りなく、年配者の未来に安心が待っているとはとても思えません。
 それでも、消費税を上げることによって若い世代と社会的弱者を苦しめるよりは、社会正義にかなっていると考えられはしないでしょうか。
 震災発生後2か月の間に、新聞紙上でそうした方向の主張を目にしたのは一度だけです。

 5月7日付の読売新聞は、元長岡大教授(金融論・経済開発諭)早川博之氏の「復興財源 金融資産に課税する手も」を掲載しました。
 以下、転載します。

「東日本大震災の復興財源をめぐる議論が活発化している。
 何らかの増税が必要なことは誰しも理解していると思う。だが、課税対象として収入や消費の「フロー」ばかりが挙げられている。
 果たしてそんな発想でいいのだろうか。
 筆者は『ストック』、つまり一定額以上の金融資産がある世帯を対象にした『金融資産税』も含めるべきだと考えている。

 もう20年以上、日本の名目国内総生産(GDP)は伸び率がほぼゼロで、今後も急速な増加は考えられない。
 フローだけに負担をかける課税のあり方は、修正せざるを得ないのではないか。

 現在の日本の最大の強みは、家計部門に蓄積された、負債を差し引いても1千兆円を超す金融資産である。
 3千万~4千万円以上の資産を持つ世帯を対象にすれば、数百兆円に課税できる。
 例えば最高3%、最低0.3%程度の税率で臨時税をかければ、数兆円の税収が見込まれる。

 ただ、金融資産の捕捉が難しいという技術的な問題もある。
 すぐには実行不可能というなら、国民番号制を早急に導入し、課税対象を固めた上で実施してもよい。

 復興は緊急を要する。
 仮に当座は日銀引き受けで国債を発行するとしても、償還財源にこの金融資産税を優先的にあてる基本方針を定めれば、市場の不安感を抑えることができる。
 そして高額納税者には殿堂をつくって名前を記すなどして、復興への協力への感謝を国全体で表してはどうか。

 国のGDPと、蓄積された資産(国富)は、川とダムのような関係にある。
 毎年生み出される付加価値の総額であるGDPは川の流れだが、先細りの可能性がある。
 そこからさらに増税で巨額の水をくみあげてしまえぱ、流れは一層細くなる恐れがある。

 一方、流れの途中には、家計による金融資産の蓄積という大きなダムないし貯水池がある。
 国内では行き湯のない大量の水が、海外(外洋)にあふれ出ているのが現状だ。
 非常時には水位が多少下がっても、この水を使うべきである。
 どんな家庭でも、大きな支出には毎月の収入からだけでなく、預貯金などを取り崩して対処する。国も同じではないか。

 この方法は、拡大傾向にある高齢者層と若年層の格差の是正策にも合致する。
 不動産などの非金融資産にどう対処するかという問題もあるが、これは相続税や固定資産税の手直しで対応できる。

 非常時には平時と異なる発想が求められる。世界が見守るなか、
 復興に向けた果断な政策を実行できることを示せれば、日本に対する世界の評価も高まるだろう」

 卓見ではないでしょうか。

 現実には、社会的弱者へ災害のしわよせがきています。
 その一例が、5月9日付毎日新聞に掲載された「日雇い労働者:宮城の運転手募集で福島原発に」です。
 以下、転載します。

「日雇い労働者が多く集まる大阪市西成区のあいりん地区で、東日本大震災後、宮城県で運転手として働く条件の求人に応募した男性労働者から『福島第1原発で働かされた。話が違う』と財団法人・西成労働福祉センターに相談が寄せられていたことが、関係者への取材で分かった。

 センターは求人を出した業者側の調査に乗り出し、大阪労働局も事実関係の確認を始めた。
 支援団体は『立場の弱い日雇い労働者をだまして危険な場所に送り込む行為で、許されない』と反発している。

 同センターは9日、男性と業者から聞き取り調査し、男性が福島第1原発敷地内で約2週間、給水作業に従事していたと明らかにした。

 同センターによると、男性は3月17日、センターに張り出された宮城県女川町での仕事に応募したが、当初から福島第1原発で1日6時間、防護服と防じんマスクを着用して作業した。業者の説明では、5、6号機冷却のため、給水タンクにホースやポンプなどを設置して給水車に水を移し替える作業だったという。

 男性は募集時の条件の倍に当たる2万4000円の日当を受け取ったが『4日目にやっと配られた線量計は調子が悪かった。賃金も仕事と見合っていない』と話しているという。
 業者は岐阜県内の下請け業者だった」

 これが現実です。

 収入が増えれば税率が上がるという累進課税については、専門家の間でいろいろ議論がありますが、非常時には「より生活する力のある人」や「より生活に余裕のある人」が社会的経費をより多く負担し、「より生活能力がない人」や「より生活に余裕のない人」の負担を減らすのは、当然ではないでしょうか。
 小泉内閣時代の大臣竹中平蔵氏が、累進課税は不公平だから頭割りで課税する人頭税を採用すべきと主張した時代もあり、いまだにそうした思想の人々が活躍しています。
 国難を乗りきるため、国民一人一人が胸に手を当てて考えれば、多くの人々に受け容れられる社会性にそった方策が見つかることでしょう。
 そして、財産や健康に恵まれている人は恵まれている人なりに、そうでない人はそうでない人なりに社会貢献できる方法が必ずあります。
 真の布施は、誰でも、どこででも、実践できるからです。
 その代表的なものは、和やかな顔で「ありがとう」と言ったりする和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)や言辞施(ゴンジセ)です。
 人生航路の荒波を乗り越えてきた年配者には、年配者ならではの〈不屈の笑顔〉があるはずです。

 前期高齢者や後期高齢者と呼ばれている皆さん、私たちの底力を発揮し、子供たちや孫たちの世代が大きな希望を抱いて生きられる社会にするため、立ち上がろうではありませんか。

〈強風の中でも〉
230511 0382



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2011
05.13

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その45)疑問─

7 「なぜ?」への答は得られない

 自然の猛威に打ちのめされた時や時代の激流に呑みこまれた時、人間は問いを発します。
「なぜ、こんなことが起こるのか?」
「なぜ、私がこんな目に遭わねばならないのか?」
 5月11日付河北新報は、評論家立花隆氏の「『なぜ』問い続ける」を載せました。
 氏は書いています。

「今回、超越的な視点に立っての問答が、日本人少女とローマ法王との間で交わされた。
『なぜこんなむごいことが起きるのですか?
 なぜ神様はそれをお許しになるのですか?』
と問う日本人の少女にローマ法王
『私には分かりません。
 私も〈なぜなのですか?〉と神様に問い続けています』
と答えた。
 そして『でも神様はいつも私たちのそばにいます』
と付け加えた」
「こういう場合、神が返すのはいつも『沈黙』という答なのだ。
 それを不満として神から離れることを選ぶ者もいるが、答を自ら探し続ける者もいる。
 答はないのかもしれないが、私も問い続けたい。
 なぜなのです?
 なぜこれほど多くの人が死ななければならなかったのですか?
 答は見つからないかも知れないが、問い続けることが大切だ」

 神学問答はさておき、氏の言う「問い続けることが大切だ」は至当です。
 ただし、問う相手は神とは限りません。
 自然であり、社会であり、誰かであり、そして自分でもあります。
 根元的な問いを発する自分自身の中に答が用意されている場合も少なくないので、究極的な相手は自分となります。
 さすがに、ローマ法王は唯一の正解を口にされました。
「わかりません」
 しかし、世の中には、神に代わって〈お言葉〉を発する手合いも少なくありません。
 職場の霊能者から占い師、あるいはカウンセラーや大教団の教主に至るまで、お告げめいた答を出す人々は少なくありませんが、眉につばをつける必要があります。

 問いに答がない理由ははっきりしてます。
 現象世界のすべては、原因と縁とによって現れる結果であっても、現代人は未だ、「因」と「果」をむすびつける因果関係のすべてを知り得る能力を持っていないからです。
 環境としての自然界に、物理的因果関係を離れて起こるものは一陣の風もありません。
 しかし、最先端の技術をもってしても今回の地震は予期できず、かねて確実視されていた宮城県沖地震が今後起きる可能性がどうなったのかすら、専門家の意見はさまざまです。
 原発事故の「想定外」については、言葉もありません。

 まして、意志という瞬間単位で転変するものが人間の数だけある人間界に起きるできごとの全体的因果関係をつかむことは不可能です。
 ウクライナで1930年代に行われたソ連による人為的な飢餓と弾圧は「ホロドモール」と呼ばれ、死者数は1400万人、1960年代から1970年代まで続いた毛沢東一派による文化大革命による死者数は6500万人、カンボジアで1970年代に起こったポル・ポト政権による死者数は200万人、金正日の政策による北朝鮮の餓死者数は100万人、ナチスのホロコーストによる犠牲者は当初500万人とも言われましたが、ソ連のスターリンによる虐殺なども含まれていたことが判明し、実際は100万人から150万人、中国の侵略によるチベット人の死者数も又150万人。
 書きつつ暗澹たる気持にさせられます。
 こうした無惨なできごとに翻弄される人々が発したであろう無数の「なぜ?」にも、因と縁の全部を網羅する確かな答はありません。

 人知の及ぶ範囲を遙かに超えて起こる巨大な天災や、独裁体制下などで起こる大量虐殺へ「なぜ?」と立ち向かっても、それは〈蟷螂(トウロウ…カマキリ)の斧〉の感がありますが、それでもなお、私たちは問わないでいられません。
 それは人間が持つ哀しい誠実さがなせるわざであり、哀しみから逃げず、誠実に突き詰めようとするするところに人間の尊さがあります。
 この誠実さは、究極的な答の遥か手前ではあっても、いくつかの小さな答を導き出します。
 それが自然界の摂理に関するものであろうと、人間界の真実に関するものであろうと、あるいは自分の心に見つけたものであろうと、私たちはそこを足がかりにして、再び起こり得るできごとへ立ち向かおうとします。
 私たちは全体的あるいは根元的な答を得られなくても、前へと確かな歩みを続けられます。
 苦しみつつ答の出ない問いを問うことはまぎれもなく、大切で尊い行為なのです。

 評論家立花隆氏は、ヘリコプターから津波の被災地をつぶさに視察し、広島型原爆3万2千発分に相当するエネルギーで生活を破壊した今回の大地震に、

「今回の大津波の跡に広がる光景は、ヒロシマ、ナガサキよりすごいと思った」

と述懐しました。
 そして最後に言います。

「ハードとソフトの防災策をもう一工夫して、次は千年に一度の大津波でも、必ずはね返すと決意しよう」

 大自然への敬虔な気持を忘れず、人間の哀しさを思いやり、それでも下を向かず、やや目線を上げつつ進もうではありませんか。


〈下を向かず〉
230511 011



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2011
05.12

僧侶の懺悔(その2)

 大震災からちょうど2か月の5月11日、早稲田大学出身者の集まりである仙台稲門会で講演を行い、伊集院静氏の名作『いねむり先生』を読み終えました。
 講演では大震災の総括めいた観想をお話し申し上げましたが、それは、自分自身の姿勢を確認する行為ともなりました。
 無常の確認と希望の発見です。
 そして『いねむり先生』のラストで、作者である主人公が亡き先生に異国でめぐり会ったのは、やはり総括といえるシーンでした。

 私にもこれまで二度、そうしたできごとがありました。
 暑い日の夕刻、修行から帰る途中、片側一車線の細い国道で、黒田清輝の傑作『湖畔』めいた雰囲気を漂わせた若き日の〈母〉の後ろ姿を見かけました。
 亡くなった日も様々な法務を予定通りに行い、死に目にも会えず、狭い本堂での葬儀では参列された皆さんを急ごしらえのテントでお迎えするしかなかったのですが、運転中のことゆえ後をふり返る間もない一瞬の再会は、「あれもできなかった。これもしてやれなかった」という思いのすべてを奇跡のように清め去ってくれました。
 また、七つ森の一つである鎌倉山へ登った帰り道で、娑婆にいた時代の恩人Uさんとすれ違いました。
 仕事とゴルフ両面の先生だったUさんは、無一文になる寸前の私へも、それまでと変わらぬ指導と協力をされました。
 どこからともなく山道へ現れたUさんは、いつもと同じくベレー帽風の帽子を目深にかぶり、ここ一番ではどこからパワーが出るのかと不思議なほどの勝負根性を発揮する痩せた身体で、私の横をすり抜けました。
 そして、驚いてふり返る視界から、ゴルフ場で見せる早い足取りを何倍にもしたような早さで消えました。

 二度の総括で新たな出発への意欲が湧き、その手始めはやはり、懺悔となりました。
「僧侶の懺悔(その2)」を書きます。



 僧侶や寺院が厳しい目を向けられている昨今ですが、私はこの道へ入って間もなく、一読してガーンと殴られたような気がした文章を大切にしています。
 真言宗智山派や豊山派などの始まりとなった改変者興教大師(コウギョウダイシ)覚鑁(カクバン)様が書かれた「密厳院発露懺悔文(ミツゴンインホツロサンゲノモン)」です。
 最高の叡智を謳われた傑僧(ケッソウ…抜きんでて優れた僧侶)が「我等懺悔(サンゲ)す」と書き始めた時の気持を想像すると、小学生が厳しい先生の前に立つような神妙な思いになります。
 仏法を学ぼうとする皆さんもそれぞれ、我が身をふりかえってみませんか。
 ただ単に行者だけに適用すべき戒めでなく、自分なりに人の道をまっすぐに歩もうとするならば、誰にでも通じる面がありそうです。

「名を比丘(ビク)に仮(カ)って伽藍(ガラン)を穢(ケガ)し、形を沙門(シャモン)に比して信施(シンセ)を受く。
 受くる所の戒品(カイボン)な忘れて持せず、学すべき律義は廃して好むこと無し」

(出家修行者であるのは形ばかりで、聖地である寺院を汚し、形だけの行者でありながら信者のお布施をうける。
 授かった戒律の条文は忘れて身につかず、学ばねばならない修行状の戒めは捨て去って進んで実践しようとしない)

 即身成仏(ソクシンジョウブツ)をめざさない密教の行者はいません。
 だから、信者さんからいただくお布施はすべてみ仏への捧げものであり、自分がみ仏と一体になっていてこそ、み仏へ捧げられたものによって生きる資格があると考えます。
 形だけの行者でありながら寺院にかかわり、お布施で生きることは許されません。
 そもそも出家得度する時に、十善戒などの順守をご本尊様へ誓っています。
 戒律を身につけ、戒律を生きることが行者の最低条件です。
 知識を蓄えることや法力を身につけることなどは、その先の話です。 

「諸仏の厭悪(エンナク)したまう所を慚じず、菩薩(ボサツ)の苦悩する所を畏れず、
 遊戯笑語(ユウゲショウゴ)して徒(イタズ)らに年を送り、諂誑詐欺(テンノウサギ)して空しく日を過ぐ」

(み仏方が厭い、悪しく思うことを行って恥じず、菩薩が苦悩するようなことを行って畏れもせず、
 遊び戯れ、笑い、語り合っていたずらに年を送り、へつらい、いつわり、だまして空しく日々を過ごす)

 み仏の智慧と慈悲から外れた生き方をし、人々の苦を抜こうと苦悩する菩薩の精進に背いて畏れも持たない行者はあり得ません。
 お大師様の説かれた『十無益』に反する行者もあり得ません。
 もし、そうした行者がいたならば、それは、み仏に背き、寺院を護持してくださる信徒さん方を騙すことになり、疑問符がつきます。

1  無知にして尊師(ソンシ)となるなかれ
 教えが血肉となり、自分の言葉でみ仏の教えを伝えられなければ、師となる資格はない。
2  無行にして祈祷(キトウ)を修せざれ
 法力を会得するだけの修行をしなければ、祈祷を行ってはならない。
3  無道にして布施を思わざれ
 仏道にすべてをかけて歩む行者でなければ、布施を生きる糧としてはならない
4  貧賤にして福人に近づかざれ
 清貧に生き、財ある人に近づいて多額の布施を得ようとしてはならない。
5  孤独にして有縁(ウエン)に交わらざれ
 即身成仏をめざす密教行者は、他人を頼りとする必要がなく、ただただみ仏に相対して修行を行わねばならない。
6  無用にして他所に行かざれ
 修行のため、あるいは誰かのためになる菩薩行の実践以外に、物見遊山してはならない。
7  身弱くして広言を放たざれ
 教えと法力を身につけていないのに大言壮語してはならない。
8  無益に諍論(ジョウロン)をなさざれ
 修行のため、あるいは誰かのためになる菩薩行の実践以外に、議論してはならない。
9  無能にして智体を成(ジョウ)ぜざれ
 無能なのに智慧あるがごとき風体を装ってはならない。 
10 不肖にして人の短を言わざれ
 不肖の身でありながら、いたずらに他人の短所をあげつらってはならない。


「善友(ゼンニュウ)に随がわずして癡人(チニン)に親しみ、善根(ゼンゴン)を勤めずして悪行(アクギョウ)を営む。
 利養を得んと欲して自徳を讃じ、名聞(ミョウモン)を求めんと欲して他罪を誹(ソシ)る。
 勝徳(ショウトク)の者を見ては嫉妬(シット)を懐き、卑賤(ヒセン)の人を見ては驕慢(キョウマン)を生じ、 
 富饒(ブショウ)の所を聞いては希望(ケモウ)を起す。
 貧乏(ヒンボク)の類を聞いては常に厭離(オンリ)す」

(善き友に従わず、愚かな人に親しみ、自他のためになる基である善行に励まず、悪行にいそしむ。
 自分に利益をもたらそうとして自画自賛し、名を上げようとして他人の罪科を厳しく追及する。
 優れたを持っている人に嫉妬し、卑しまれている人には驕り高ぶり、
 富み栄えている人に憧れ近づきたいと願い、貧乏人は常に遠ざけようとする)

 時にはいたずらをやりながら、おもしろおかしく時を過ごすことは行者の道ではありません。
 自分を高く他人を低くしようとするのも行者の道ではありません。
 富む人にも貧しい人にも、慈悲の心一つで同じように接することが求められます。
 現世的な利益を求める心と、富や地位で人を差別する心が戒められています。
 読むたびに冷や汗の出る思いになりますが、いつまでも未熟な自分へ鞭打ちながら読み続けねばならないと覚悟しています。

〈清浄〉
230511 045



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2011
05.11

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その44)希望─

5 希望は、無常を生きる人に訪れる

 無慈悲とも思える自然の猛威に人間の限界があいまって今回の悲劇が起こりました。
 では、希望はないのか?
 答は、世界各国が驚嘆し讃歎する私たち一人一人の落ちついた、それでいて懸命で、しかも互いに譲り合う姿が如実に示しています。
 希望は必ずしもバラ色の夢を描く人の専有物ではありません。
 夢想と希望は違います。
 人は誰でも、何でも、想像し得ます。
 いとけない子供にピアノを叩かせてみるとあまりの上手さに「ウチの子は天災かも知れない」と思え、必死に習わせたりしますが、多くの場合、それほどはかばかしい結果を生みません。
 むしろ、神童と呼ばれた子供が若き日の挫折を乗り越え、年配者になり、つまらぬプライドをもようやく克服し、町内会の役員としてめざす町民の親和にようやく希望を見つけたりするものです。
 真の希望は、それがいかに遠かろうとあるいは近かろうと、しっかりと足を踏みしめながら生きる人と共にあるのではないでしょうか。

 一時的には、買い占めによる物価の高騰や品不足が発生しました。
 しかし、すぐに、買い占めするのは早とちりであると気づかれ、被災地への悪影響に気づいた人々が買い占めをやめたために混乱は治まりました。
 そして、被災地ではほとんど便乗値上げはなく、むしろ、無償あるいはそれに近い形での物資の提供が行われました。
 あのマイケル・サンデル教授は言います。

「日本以外ではまず考えられないことです」
「日本では、いくら街が廃墟になっても、人々は自制心をゆるめず、我が街のために結束している。
 被災後の市民のふるまいには胸を打たれました」

 平成16年に米フロリダ州をハリケーンが襲った後、ホテルの宿泊料は4倍、発電機の価格は8倍、倒木処理費が200万円になりました。
 日本でも重機のリース料などは上昇していますが、多くは受給のバランスを大きく超えてはおらず、国民が納得できる範囲におさまっています。
 自暴自棄にならず、他人の迷惑を省みない状態にならないのは、無意識のうちにも「自分はこうあらねばならない」「自分はこうありたい」という希望があるからです。
 サンデル教授の言うとおり、自制心を失わなず結束しているのは、どんなに辛く苦しい状況に陥っても、私たちは希望を失ってはいないからです。
「人間としてまっとうでありたい」
 これが、私たちの心を支え、社会を支えている共通の希望ではないでしょうか?
 これ以上、私たち人間にとって大切な、社会の基盤となる希望があり得ましょうか。

 決して中国を貶めたり、日本を偉いと誇ったりする意図はありませんが、世界の実態として中国の食品状況を挙げておきます。
 5月10日付の朝日新聞は報じました。
「湖南商長沙市では4月23日、結婚式に出席した300人近くが吐き気を訴え、病院に運ばれた。地元テレビによると、筋肉増強剤のクレンブテロールが入った肉を食べたことが原因だった」
「昨年の食品安全事件は13万件に上り、違法業者は10万を超える」
「復且大学の千海教授は『道徳意識が懸けていることが根本的な原因で、社会秩序が崩壊しかねない危険な状況だ』と警告している」

 世界的にも稀であるとされるわたしたちのこうした振る舞いは、〈事後〉だけでなく、自然の猛威に翻弄されるまっただ中でさえ、自然に行われていました。
 日清戦争中、銃創によって大量出血しながらも死ぬまで突撃ラッパを吹いていた歩兵木口小平ではありませんが、大波に呑まれる直前まで避難を呼びかけていた役場の女性や、交番の巡査や消防署員や消防団員、あるいは危険を省みずに溺れている人を救った名もない人々の行為は、死を前にしても「まっとうでありたい」という希望を生き、希望に殉じた崇高さで胸を打ちます。
 死に神に負けず、希望に導かれて無常を生きる私たちは、「日本人は強い」とテレビで叫ぶまでもなく、自信を持ってしかるべきではないでしょうか。

6 仏教を土台とする日本の文化が「まっとうさ」を培った

 お大師様は説かれました。

「示す者なき時は、すなわち目前なれども見えず。
 説く者なき時は、すなわち心中なれども知らず」

(誰かが示さなければ、真理が目の前に明らかになっていようと、なかなか見えないものである。
 誰かが説かなければ、真理が心中にあっても、なかなか知られないものである)
 永遠であり普遍的であればこそ真理なので、いつでも、誰にでも気づかれそうなものですが、そうでもありません。
 私たちの日常生活は、真理などを考えなくても続けて行けるからです。
 しかし、四苦八苦(シクハック)が極まった時、私たちは非日常に近づき、知らず知らずのうちに真理を求めます。
 たとえば、憎い相手を殺したいという意識から離れられず、殺したい願望を抑えきれず、しかも憎み殺したいと思う自分自身に耐えられなくなった時、普段の考え方や判断力では解決できなくなります。
 そして寺院の門を叩いたりします。
 そこで耳にする説法も、行われる運命転化や因縁解脱などの修法も、非日常的なものです。
 結果的に救われたならば、非日常的な世界に救いの源があったことになります。

 仏教は常に真理のみを説き、非日常的な世界を構築し、その場である寺院は常に、救いを求める人々へ開かれています。
 行者である僧侶は日々、釈尊やお大師様が示された真理を見せていただき、知らせていただきつつ、真理を生きようとしています。
 仏教は真理である無常を示し、死に気づき日常を超えることによって日常的な苦を脱する道を開いています。
 明治の廃仏毀釈と、太平洋戦争の敗戦による宗教排斥にもかかわらず、千年を超える仏教文化の伝統は私たちの精神を土台として支え、一人一人が四苦八苦に窮まった時も、今回の大震災のように集団や地域として窮まった時も、非日常の次元から救いの力を発揮しています。
 弘法大師から伝わるとされ、江戸時代の寺子屋では広く用いられていた『実語教童子教』などはほとんど忘れられていますが、そこに説かれている教えも心も、それとは意識されないままにしっかり受け継がれています。
 死を恐れずに最後まで避難を呼びかけた人々も、雪の降る中で老骨に鞭打ち水や食糧を求めてじっと並ぶ人々も、我を忘れて救済活動に励む人々も、そして原発事故の現場で文字どおり献身的な活動を続ける人々も、すべて無常を受け容れ、死と共にありながら死に屈せず、非日常的な精神を発揮しつつ、日常の苦を克服しつつあります。
 こうして皆が「まっとうでありたい」と願い、生きいてる世界は何と感動的でありましょうか。

 私たちにはあたりまえですが、世界の人々は率直に日本人への感動を口にしています。
 まだ、日本は大丈夫です。
 欲に走り過ぎているという反省や、科学を万能とし過ぎているという反省などがさかんに言われ、この際、立ち止まってみる必要があるのは確かですが、同時に、私たちに受け継がれている宝ものを見なおすことも大切ではないでしょうか。
 そして、〈真理を見せ、知らせている〉この宝ものが色あせないよう、力を失わないよう、もう一度磨き直そうではありませんか。

〈希望〉
230511 0622



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2011
05.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その43)無常─

 5月11日に仙台稲門会(トウモンカイ)で講演を行うことを機に、東日本大震災が発生した3月11日から5月11日までの2ヶ月間に報道された情報をあらためてチェックしてみました。
 対象は、読売新聞、朝日新聞、河北新報の3紙です。
 そして、いくつかの事項が確認されました。

1 この大災害は、確かに未曾有と言える。

 地震には、さかんに「未曾有」という言葉が冠せられました。
 未曾有とは「未(イマ)だ曾(カツ)て有(ア)らず」であり、そもそもは、他に比べようのないみ仏の偉大さなどを讃歎する仏教用語でした。
 それがだんだんに善きことにも悪しきことにも用いられるようになり、現在は主として悪しきできごとを形容するようになりました。
 これだけの規模の地震と津波の発生は1000年に一度とも言われますが、文字どおり未曾有だったわけではありません。
 私たちが忘れていただけです。
 しかし、私たちは過去のすべてを覚えているわけにはゆかず、ましてやあまりに古いできごとについて実感を持つのは不可能です。
 だから、未曾有と言いたくなるのは当然です。

2 被害がここまで甚大となった背景には人間の限界がある。

 かなり遠い過去の歴史までふまえていれば、かなりの被害は防げた可能性があります。
 しかし、沿岸部では、過去の津波がどこまで到達していたかという歴史的事実が忘れられ、海岸線のすぐ近くまで人々の生活圏が広がっていました。
 古人の言い伝えを守って高台に家を造ったり充分な高さのある場所まで避難したりした例もありますが、ごくわずかでした。
 私たちの行動を最も強い力で律するのは〈体験〉であることに気づかされます。
 もう一つの強い力は、魅力を感じる方向へのリスク意識が薄くなる〈希望的観測〉です。
 そして、平坦で、便利で、眺めも良い沿岸部が生活の場となり、津波の猛威をもろにかぶってしまいました。
 海岸線からそれほど離れていなくても、津波が到達していない地域ではたちまちに日常生活が復活している場合もあり、明と暗を分けたものは〈人間の限界〉なのかも知れないと考えてしまいます。

3 環境は互いに照らし合うのようなものである。

 お大師様の説かれた言葉です。
 それは、第一義的には、環境によってがつくられ、環境をつくるという〈関わり合い〉を意味します。
 だからこそ、お大師様は高野山を修行の場と定め、旱魃では降雨の修法を行い、伝染病の蔓延では病魔退散を祈り、当山では日々、原発事故の終息を祈っています。
 第二義的には、に映らない環境はなく、環境に表れないもないという意味です。
 むしろ、こちらが第一義なのかも知れません。
 環境は私たちのへ立ち現れるものとしてしか存在してはいません。
 たとえば、普段は恵みの海として、あるいは、3月11日は無慈悲で暴虐な魔ものとして。
 だから、できごとと光景は、何ものかの〈意志〉として受け止められ、そこに含まれている〈意味〉を突きつけられたと感じています。
 ある人は、超越的な仏神の意志を感じ、ある人は、「どうしてあんなに良い人が」、「何も悪いことをしていないのになぜ」と因果の糸を結べない混乱に陥り、ある人は、私たちのいとなみに傲慢さや過剰な欲があったことを省みたりもします。
 事実は、非日常性を伴っているがゆえに、〈そちら側〉へ置いてはおけず、心の〈内なるもの〉として強く私たちへ迫ります。

4 日常と非日常を分けるのは、への意識である。

 私たちがこれだけ衝撃を受けているのは、できごとが含む非日常性があまりにも大きいからです。
 だれしもが「えっ!」「まさか……」「──そんな」と言葉を失い、立ち止まっています。
 では日常と非日常を分けるものは何か。
 それは、の意識です。
 日常とは、を忘れている状態、もしくは、が他のできごとと似たレベルで処理される状態です。
 非日常とは、が生の同伴者であることを強く意識せざるを得ない状態です。
 日常とはが生の陰に隠れている状態であり、非日常とは、死が生と並んでいる状態とも言えそうです。

 では、死とは何か。
 人間にとって無常が最も顕わになる状態であり、無常の極限的体験です。
 仏教はそもそも、世界を動かしているのは縁起の理であると観ます。
 すべては因のあるところへ縁が関係して起こり、変化し、滅します。
 種があるところへ水と光と養分が与えられて芽ぶき、茎が伸び、花を咲かせ、実が成り、そして役割を終えれば枯れて行くとおりです。
 こうして縁起の理で起こり滅びる宿命の外にあるものはなく、「常なるものは無い」から無常です。
 だから、人間も無常なる存在であることを免れません。
 つまり、私たちは、生きていられる条件がたまたま揃っているから生きていられるだけの存在であり、たとえば心臓が止まって血液が流れなくなるなど、たった一つの条件の狂いや喪失があっただけでも、死の世界へと居場所を変えねばならない極めて脆い生きものなのです。
 だから私たちにとって死は、影法師のような決して離れない同伴者です。
 
 しかし、私たちは普段「自分は死ぬ」と意識していないだけでなく、考えもせずに生きています。
 それが私たちにとっての日常であり、普通の状態です。
 釈尊は、そうした日常のあり方を〈目覚めていない状態〉と説きました。
 死が同伴者であることを忘れているどころか、無意識のうちに「自分は死なない」と錯覚しているからです。
 死を忘れ無常を忘れるところから、ありとあらゆる迷妄が化けもののように現れるからです。
 もっともっとと貪り、高慢さや好き嫌いから他人を怒り、憎み、自己中心的考えで生きようとします。
 自分も他人もイヌもネコも等しく、一瞬後にすら死すべき存在であり、財産も地位も名誉もすべてかりそめのものでしかないことを深く肝に銘じていれば、つまり〈目覚めている状態〉になれば、迷妄は消えます。
 こうした意味からすれば、釈尊は「日常を離れよ。非日常である死と無常を観ながら生きよ」と説かれたと言えましょう。

 日常を破壊された私たちが今、言葉を失い、立ち止まっているのは、そして、できごとから何らかの意味を読みとろうとしているのは、とても大切なことです。
 先に逝った方々は、私たちが忘れかけていた非日常へと対面させ、生き直しの機会をつくってくださったとも考えられます。
 天皇陛下が述べられた「雄々しく」生きる人々とは、無常から目をそらさず、無常に負けず、無常を生きる覚悟で今日に臨む私たちのことではないでしょうか。

〈こんなに立派なものが作られているのは驚きです〉
230503 003
230503 004



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2011
05.09

『大日経』が説く心のありさま六十景 その34 ─舞心(ブシン)─

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

32 舞心(ブシン)
 超能力を得よう、見せようとする心です。

「かくの如くの法を修して、我、まさに上昇して種々に神変(ジンペン)すべし」


 不思議な舞いやアクロバットや手品などのような動きを見せて人を感嘆させ、超能力を持った者として得意になる高慢心や自己顕示欲を戒めています。
 身体の問題だけではなく、この世ならぬものが見える、この世ならぬ世界からの声が聞こえるなどという妄言も含みます。

 このところ増えている人生相談とご祈祷の目的に、「悪霊が憑いていると言われたから祓って欲しい」というものがあります。
 悪霊は、祖霊、水子霊、動物霊、怨霊未成仏霊など多岐にわたり、いずれも、良からぬ運勢やできごとの原因として誰かに指摘されたばかりに、言われた人は不安をぬぐい去れなくなっています。
 この世をいかなる世界ととらえるか、できごとの原因を何に求めるかは、当事者の心にかかっていますが、そこがすっぽりと抜け落ちたままで、仮構された悪霊が嫌な問題をすべて背負わされています。
 こうした傾向は「心の時代」という耳慣れたテーマが私たちの潜在意識に溜まり、見えない世界への安易な思いこみがここかしこで発生していることに起因しています。
 ファッション界で「来年の流行はこの色」と発表され、衣料品から家電まであらゆる産業がそれに乗って新たな需要を喚起するのと同じく、目に見えない〈心〉に向かった私たちの関心は、タレント、もの書き、出版社、マスコミ、カウンセラーや占い師の養成所など、ありとあらゆる方面から利用され、私たちの頭は、見えないものたちの幻と、それを操ると喧伝するいかがわしい者たちに侵略されつつあります。

 日常的な心から深いレベルの心まで、奥深く入ると同時に上昇する手順を示す『大日経』は、日常的な意識を離れて行く際に生じる幻影などを実体視するかんちがいを厳しく戒めています。

 虚空に城が見えたなら、蜃気楼である。
 火の輪を見たなら、萌えている松明が回されているだけである。
 池に月があっても、それは天にある月が映っているだけである。

 などなど──。
 こうしたものにとらわれていては、み仏の世界をめざす心のレベルアップは果たせません。
 
 そもそも、み仏とは何でしょうか?
 み仏が私たちの心におられるとはいかなる意味でしょうか?
「理想的人格の極限へ達した存在がみ仏であり、その理想を想像し近づき得る根本原因と能力を誰しもが持っている」
 これが正統な仏教徒の信念です。
 ならば、私たちの抱えている問題を解決できる存在とはみ仏に近い存在であり、そうした人々は高邁、高潔な理想的人格を備えていなければなりません。
「あなたは16世紀の騎士の生まれ変わりである」
「あなたの両肩にはそれぞれ未成仏霊がずっしりと乗っている」
「私は金正日と霊的交信をしている」
 こうした荒唐無稽で無責任な放言を行う人々の言葉を鵜呑みにせず、その目や顔を心眼でじっと観てください。
 高邁、高潔な人格が確認されますか?
 原発事故の現場や被災者の避難所ではたらく人々や、災厄に遭いながら懸命に今日を生き抜こうとしているお年寄りの方々に宿る人間の尊厳と同じものが確認されますか?
 もしも、確認されなければ、放言する人々との心の縁を早く切りましょう。
 彼らは真の救済者ではないからです。
 彼らの存在を許しているのは私たちであることを肝に銘じましょう。
 賢い消費者が不良品を買わなければそれらが市場から姿を消すのと同じように、まやかしを言う者が出る番組にチャンネルを合わせず、そうした者の著書を買わず、そうした者のもとを訪れなければ、人生の真実に背くものは必ず消えて行きます。
 それらは「虚空の城」や「火の輪」や「池の月」の世界に住むだからです。

 心の問題を真剣に考え、卓見に学ぼうとするならば、〈道理〉という物差しを常に同伴者とし、たやすく「見える」「聞こえる」を語る者たちに惑わされないようにしたいものです。
 それらの舞心(ブシン)に踊らされないようにしましょう。
 ただし、真実の思いは魂で受け止めたいものです。
 地震と津波によって崩壊した病院の現場に立った医師の言葉です。
「もう、使えるのは土台程度しかなくなりましたが、これを見ていると、ここを見捨てずここではたらけと言われているような気がします」
 彼が聞いたのは、霊界などからの怪しいお告げではなく、彼の心におわすみ仏が発した言葉だったのでしょう。
 今、彼の意志に動かされた人々の協力によって復興への足取りは順調に進んでいます。
 私たちが真に聞くべきものは、み仏の声であり、それは必ず希望を与え理想へ向かわせます。
 そしてその道行きは決して道理から外れていません。
 見聞きするものの真偽を確かめ、真なるものによって自他が救いの方向へ向かうか、偽なるものによって自他が迷いの方向へ向かうかを決めるのは私たち一人一人であることを忘れないようにしましょう。

真実
230502 010



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2011
05.08

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その42)宗教と道徳─

 宗教道徳も、今を心して生きることの大切さ、尊さを説きます。
 では、宗教道徳はどう違うか?

 他の宗教は知りませんが、仏教を信じる私は、この世だけでなく、過去の世も、やがて行くあの世の存在も信じています。
 すべては原因とそれにかかわる縁とによって起こり、滅するという因果の理法を信じるならば、この世に特定の存在として生まれてきた原因は過去にしかなく、この世で生きた時間を埋めたすべてのできごとは、次の世の何らかの原因となるに違いないと考えられるからです。
 そうした時間の流れと世界の存在を釈尊も、お大師様も、聖徳太子も信じ、説かれており、ものの道理に照らしても私にとって疑う理由はありません。
 しかも、釈尊とお大師様から伝わる所定の修行と修法を行うことにより、その真実性は自分自身の心身で確認しています。
 ご葬儀やご供養やご祈祷やご加持の修法を行う場において、異次元を体感する善男善女もおられます。
 つまり、リアリティをもって異次元と接するのが宗教の核心ではないかと考えています。
 だから特定の宗教は、同一の論理と体験を共有する人々によって成り立っています。

 一方、道徳は、必ずしも世界と人間を説明する論理も、異次元体験も必要とはしません。
 人間として否定できない正しさを含む姿勢を自分の生きる柱とすれば、道徳的に生きることができます。
 たとえば、次のような道徳律です。
「他人には優しく、自分へは厳しく生きましょう」
「親や社会へ感謝し、公徳心を持って生きましょう」

 さて、あの世を信じる宗教者である人間にとって、死とは無になることではなく、あの世へ行くことを意味します。
 あの世へ行くというできごとは、み仏の世界へ溶け入り、いつか又、この世へ旅人として現れる前段階なので、別離と喪失は、決定的な恐怖をもたらしはしません。
 同時に、死がものごとを根本的に解決するとも考えられず、自殺自死)によってあの世へ逃げようとするのは重大な勘違いに基づいているので、賛成できません。
 ただし、他へ害をもたらさない形での自殺には、死すべきものとしての悲哀を乗り越えて下す高貴な判断が含まれている場合もあるので、自殺を全面的に否定や非難するものではありません。
 心の病気による歪んだ判断や、勘違いによる逃げではなく、真剣に自分のいのちの始末を考える人の思考の深さや従容と死へ赴いた人の思いに心を寄り添わせる時、言葉を失い、ただただ頭を垂れるケースもあります。

 では、死の視点からこの世を照射すればどう観えるか?
 努力して蓄えるに値(アタイ)するものと値しないものの区別がつきます。
 値するのは善き行為による善業(ゼンゴウ)です。
 それは、あの世へ引き継がれ、次の世で自分がより、み仏に近い生き方ができるための原因となり、それが、すべての人々が苦から救われるための最も確かな土台となるからです。
 値しないのは、もちろん、悪しき行為による悪業(アクゴウ)であり、財産や地位や名誉です。
 悪業はこの世で自他を苦しめるだけでなく、あの世へも汚れをもたらすので論外として、問題は財産や地位や名誉です
 それらは、死によって肉体という衣を脱ぐ時、一気に遠ざかる儚いものですが、肉体の存在が無意味でないのと同じく、無意味あるいは無価値ではありません。
 高慢心や執着心や利己心や弱者への無慈悲な心を育てれば、せっかくの努力の成果も情けなく、とても残念です。
 一方、利他心によって用いられれば自他を救う有力な武器となり、大きな善業をもたらします。
 財産を持っているからといって、地位が高いからといってそれらを尊敬する必要はありません。
 しかし、財産や地位を利他心で用いているならば、利他心を発揮している人柄、人格をこそ尊敬すべきです。
 たとえば、ソフトバンクの孫正義社長は、個人資産から100億円を寄付し、平成23年度から引退するまでの報酬全額も、震災で両親を亡くした孤児の支援として寄付すると発表しました。
 加えて、10億円の私財を投じ、自然エネルギー財団を設立します。
 また、ソフトバンクも企業として10億円を寄付するだけでなく、被災者数万人への携帯電話の無償貸与に加え、震災孤児を対象に18歳までの通信料を完全無料化します。
 確かに孫正義氏の個人資産は約6800億円、年間報酬額は1億800万円と言われているので、100億円といっても庶民の懐具合と比較しての判断はできませんが、原発事故の計画的避難区域に指定された飯舘村の年間予算が50億円に満たないことを考えれば、その貢献度ははかり知れません。
 偉業をなせる力を蓄え、みごとに用いた孫正義氏はまぎれもなく偉人です。
 財産や地位や名誉は道具であり、用いる人の心が価値を決めることを銘記しておきたいものです。

 仏教は、努力して蓄え、あの世に引き継がれるべき善業を積む心構えと具体的な方法を説く宗教です。
 道徳律を知って満足することなく、宗教行為、あるいは宗教的行為を行って善業を積み、救済と復興の力になりましょう。
 たとえば、公徳心は道徳の範疇ですが、それを強く実践させるのは〈見返りを求めず他のために自分のできることを行う〉という布施(フセ)の思想であり、布施行という人間修行の教えを無視するのには無理があります。
 明治に始まり、太平洋戦争の敗戦やオウム真理教事件などによって広がった宗教アレルギーを脱し、文化の泉を活性化させたいものです。

〈今が最高です〉
230506 009



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2011
05.07

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その41)無常・悲哀・光─

 東日本大震災は、いっぺんに私たちの錯覚をあからさまにしました。
 錯覚とは──。
「死なないつもりで生きている」

 無常を忘れているのです。
 だから、心に悲哀を持ちません。
 悲哀がなければ、「それ行けどんどん」と貪るか、「どうでもいいや」と捨て鉢になるかのどちらかです。

 もっともっとと〈貪る〉のは何か。
 私たちを幸せにしてくれるはずの富や、地位や、名声などです。
 それらを得た、得られないと一喜一憂します。
 与えてくれる人や得るために協力してくれる人を利用しようとし、へつらい、役立たない人を遠ざけ、邪魔になりそうなら嫌い、憎みます。
 やがて、得られれば慢心、得られなければ嫉妬心という抜きがたい煩悩を育て、それらによって悪業を積みます。

 もういいいやと〈捨てる〉のは何か。
 時間です。
 人生は時間に他なりません。
 無為に過ごせば自分の人生をドブに捨てているのと同じです。
 そこには生んで育ててくれた親や、何世代にもわたっていのちをつないでくれたご先祖様や、私たちを支えてくれている米屋さんやおまわりさんや先生などへの感謝がありません。
 捨て鉢な人は、いのちを冒涜し、悪業を積んでいます。

 私は今回、自分は〈生き残り〉であるという強烈な印象を持ちました。
 言いかえれば、「もう、死んでいてもおかしくない」のであり、「いつ死んでもおかしくない」のです。
 そんなことはとうの昔に知っていたはずですが、また、こうして真理を突きつけられ、それはより深く心に刻まれました。
 日本中が何とはなしに沈み込み、当山を訪れる方々の目や、頬や、背中や足取りに、いつにない静けさが漂っているのは、錯覚を教えられ、真理を突きつけられたからです。
 親族や知人を失ったからだけではなく、真理と向き合って、私たちは一人残らず死すべき宿命を背負っているという悲哀が生まれているのです。
「沈んでばかりいると、いつまでも元気が出ないから、早く、今までどおりにやろうよ」という声があり、テレビでは有名人がうるさいほど「日本は大丈夫!」と叫んでいますが、それに一理あるとしても、やはり、悲哀はしっかり胸にしまい込んだ上で、一歩を踏み出したいものです。
 真理を忘れた方が良いという道理はありません。

 もちろん、私たちは普段から死を恐れ、誰かの死を悲しみます。
 死は別離と喪失を伴うからです。
 しかし、いつまでもあり続ける〈常〉なるものは〈無い〉という真理に立てば、別離も喪失も当然のできごとです。
 ……でも、恐いし、悲しい。
 こうした気持の根底に「死なないつもりで生きている」という錯覚があり、錯覚が詮ない執着をもたらしているのは事実ですが、錯覚であったことを深く考えさせられてなお、残る思いがあります。
 それは、尊いものに魂が震える実感です。

 母を失ってなぜ、こんなにも悲しいのか。
 年の順に亡くなることなどあたりまえと知っており、年とった母がやがて死ぬことは予測していたのに、無常の理屈もよくわかるのに、悲しくてならない。
 執着してなどいないのに、魂の震えが止まらない。
 その原因は、母として生きた人の持つ尊さを突きつけられたところにあるのではないでしょうか。
 私は母を失ってもうすぐ9年になります。
 友人たちも送りました。
 職業上、人の死には不足なく立ち会ってきました。
 それでもなお、亡くなった母や友人や知人や檀家さんを思い出すと、魂の震える思いがします。
 もちろん、別離や喪失の悲しみではありません。
 戻らぬ過去への哀惜でもありません。
 やはり、逝った人々には、言葉にはならぬ尊いものが確かにあったのです。
 それは死によって決してなくならず、薄れもせず、むしろその確かさは深まりつつあります。

 錯覚から離れ、内なる根元的な悲哀と共に生きているうちに心へ宿り、光を増す尊いものを大切にして生きれば、それが鎮魂のまことに通じるような気がしています。

〈花盛りです〉
230502 021



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2011
05.06

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その40)ハーモニカ─

 3月17日付の毎日新聞『余録』は、関東大震災の夜を上野の山で明かした詩人西条八十(サイジョウヤソ)に触れています。

「眼下に広がる市街は一面火の海で、避難してきた人々も夜がふけるとともに疲労と不安、飢えで口もきかなくなった。
 すると近くの少年がポケットからハーモニカを出した。
 詩人は驚いて吹くのを止めようとする。
 この悲痛な夜半にそんなことをすれば、周囲が怒り、殴られかねないと思ったからだ。だが止める間もなく、曲が奏でられた。
 危惧は外れた。
 初めは黙って化石のように聞いていた人々は曲がほがらかになると「私語(ささやき)の声が起こった。
 緊張が和んだように、ある者は欠伸(あくび)をし、手足を伸ばし、ある者は身体の塵(ちり)を払ったり、歩き回ったりした。
 荒冬の野に吹いた春風だったと詩人は回想する」

 大正12年9月2日午前11時58分に起こった関東大震災では死者・行方不明者が10万人を超え、全壊したり焼失したりした家屋は30万棟以上となりました。
 10分足らずのうちに震度7クラスの地震が神奈川、東京、山梨と3回立て続けに発生し、震源近くでは7割以上の建物が倒壊しました。
 大規模な火災に巻き込まれた人々も多く、上野の山へいのちからがら避難した人々は、どんな気持で燃えさかる町を見下ろしていたのでしょうか。

 東日本大震災が発生した3月11日の夕刻、知人の安否を気づかいバイクで沿岸部へ向かったAさんは、被災した人々が周囲に散らばる食べ物や飲み物をかき集めている光景を目にしました。
「ずうっと走って行ったのですが、ライトに浮かぶ人々で誰一人、ビールや日本酒などの缶を手にしてはいませんでした。
 拾っていた飲みのものは水やお茶などのペットボトルだけでした。
 何もなくなった人々が生きようとする様子に圧倒されました」

 火災を前にし、コンビニもペットボトルもなかった時代ゆえ、手に何も持たず「疲労と不安、飢えで口もきかなくなった」人々の様子はとても想像しきれません。
 白虎隊を思い出します。
 戊辰戦争のおり、飯盛山へ逃れた白虎隊の若者たち(15才から17才)は、会津藩主松平容保の居城である鶴ケ城から上がる煙を目にして落城と思い、「もはやこれまで」と集団自決しました。
 その様子を歌った『白虎隊』に忘れられない一節があります。

「宗社(ソウシャ)亡びぬ我が事畢(オワ)る」

 宗は宗廟(ソウビョウ)で祖先を祀る霊廟、社は社稷(シャショク)で土地の神や五穀の神を祀る神社です。
 宗社と言えば、転じて国家や藩を意味します。
 城が落ち、藩が滅亡すれば自分たちの役割は終わったのであり、多感な若侍たちにとって、もはや生きる意味はありません。
 集団自決は当然の帰結でした。
 上野の山の人々も、白虎隊の若者たちと同じくすべては終わったという深い喪失感に襲われ、動けなくなっていたのではないでしょうか。

 そこにハーモニカの音色が響き渡りました。
 それは硬く細い音ですが、童謡などの旋律が奏でられると聞き手へ深い懐かしさをもたらします。
 速い演奏は聞き手の心のリズムを速め、心に活気を取りもどさせます。
「化石のように聞いていた」人々の心に精気が復活し、身体も動きだしたことは容易に想像できます。
 東日本大震災の被災地や避難所を訪ねる各種の演奏家たちも、決して小さくないはたらきをしておられることでしょう。

 こどもの日に、孫へ小さなハーモニカをプレゼントしました。
 初めて手にしたはずなのに、たちまち、速い演奏を始めました。
 もちろん旋律はメチャクチャですが、なじんでくれそうです。
 この話を教え、自分もいつか、誰かの役に立てるかも知れないという期待や希望を持たせたいと願っています。

〈新鮮な気持にさせます〉
230504 001



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2011
05.05

『大日経』が説く心のありさま六十景 その33 ─鼠心(ソシン)─

 私たちの心にある仏性が輝こうとする時、邪魔をする曇りがあります。
 せっかく霊性が機関車としてはたらこうとしているのに、ブレーキがかかります。
 曇りをもたらす貪りや怒りや迷いを脱し、感謝や平安や智慧を獲得するためには、心の揺れ動いているありさまを正確に知る必要があり、『大日経』は、悟る前の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。
 第32回目です。

31 心(ソシン))
 つながりを破壊しようとする心です。

「諸(モロモロ)の繋縛(ケバク)の断ぜんと思惟(シユイ)す」

 
 ネズミが小さな身体に不釣り合いなほど強い歯でいろいろなものをかじり、漏電させて火事をもたらす場合すらあるように、人知れず絆を切ろうとする邪な心です。

 高慢嫉妬心の強い人や、自信喪失の人や、中途半端な孤独感のある人や、愚癡の闇に沈んでいる人などは、師弟間であれ、友人間であれ、家族間であれ、信頼という糸で結ばれている人同士の様子が妬ましかったり、疎(ウト)ましかったり、癪にさわったりします。
 そして、ひそかに人間関係の破壊を企てたりもします。
 せっかく修行していても、自分がなかなかうまくゆかなくて焦っている時に、周囲が順調に進んでいるのを見たりすると、こうした気持が起こります。
 ここで心を育てたならば、人生の成功を妨げ、仏道修行を妨げる天魔に堕ちてしまいます。

 堕ちないために指導を仰ぐべき相手は師です。
 邪な心を持った同士が徒党を組んだり、他の師へ走ったり、あるいは道から外れたりすれば、道は成就できません。
 しかし、できない者同士が自分たちの未熟さを棚に上げ、一緒になって仲間や先輩や指導者を批判するのはよくあるまちがいです。
 他の師へ走り、惨めな過去を隠してしまおうとする逃亡も、よくあることです。
 そして、正当な修行など定められた方法以外で認められたいと考え、他の手段へ逃げるのもよくある生き方です。
 いずれにしても、自分が身を潜めている物陰から明るい世界をかいま見て心に暗い炎を燃やし、明るい世界の土台をかじろうとする心は、他を破壊するよりも先に、自分の足元を破壊しています。
 しかし、悲しいことに、本人は気づきません。

 心に陥らないためには、「うらやましい」と感じた瞬間に、「自分はネズミになろうとしているのではないか」と疑い、立ち止まりましょう。
「恥ずかしい」と思えたなら、そして心の再出発ができたなら大丈夫です。
 足が重くてならない時は、疑問や苦しさを師へぶつけましょう。
 自分より何歩か先を歩いている師は、必ず、似た体験を経ているはずです。
 だから、言葉であるかどうかにかかわらず、必ず、何がしかの答が出てきます。
 話題となっている伊集院静氏の小説『いねむり先生』は、そうした師弟間の関係を描いた傑作です。

 くれぐれも、ネズミになったまま、どこかへ逃げないよう。
 もしも、かりそめの衣をまとって光の当たる世界へ出ようと、衣の下に潜む陰は隠し通せるものではありません。
 観る目を持った人をごまかすことはできず、逃げたツケを払う時がやってきます。
 逃げるくらいならば、ネズミの惨めさと正直に向き合う方が早くトンネルを抜けられます。
 因果応報を信じましょう。
 誠実に、まっとうに生きていれば、み仏は決して見放しません。
 短所も欠点も持ったままで必ず救われるのです。

〈琢秀さんへ向かう途中で出逢った不思議な植物〉
230504 002



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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2011
05.04

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その39)方丈記・水子地蔵─

 鴨長明の『方丈記』に興味深い記述があります。
 うち続く大飢饉と源平合戦の間に、地下では着々とひずみのエネルギーが蓄えられ、平家が壇ノ浦で滅亡した元暦2年(1185)の7月9日、ついに京都附近で大地震が起こりました。

「また、同じころかとよ。
 おびただしく大地震(オオナイ)の振ることはべりき。
 そのさま、尋常(ヨノツネ)ならず。
 山は崩れて、河を埋(ウズ)み、海は傾(カタ)ぶきて、陸地(ロクジ)をひたせり。
 土裂けて、水涌きいで、巌(イワオ)割れて、谷に転(マロ)びいる」

(飢饉と同じ頃だったろうか。
 おびただしく揺れる大地震があった。
 そのおりの様子は尋常でなかった。
 山は崩れて川をせき止め、海は大津波となって陸地深くまで水浸しにした。
 地割れした所から水が噴き出し、大岩は割れて谷へ転がり落ちた)

「家の内におれば、忽(タチマ)ちにひしげなんとす。
 走り出れば、地割れ裂く。
 羽なければ、空をも飛ぶべからず。
 龍ならばや、雲にも乗らむ。
 恐れのなかに恐るばけりけるは、只地震(ナイ)なりけりとこそ覚え侍(ハベ)りしか」

(家の中にとどまれば、たちまち、家ごと捻られ潰されてしまう。
 外へ走り出せば地割れが待っている。
 鳥のように羽があれば空を飛んで逃げようものを、羽のない身にはどうしようもない。
 龍ならば天に昇って雲に乗ろうものを、龍ならぬ身にはどうしようもない。
 恐いものの中で最も恐いのはただただ、地震である)
 
 鴨長明が見たのと同じく、私も、美しい自然や、人間が営々と作りあげた生活の場が破壊され尽くした光景を目にしました。
 陸前高田市広田湾では、津波に追われて少しでも高い方へと走る人々の気配と叫びを体感しました。
 人々は、空を飛べるなら飛んだものを、鳥ならぬ身にはどうしようもなく、波に呑みこまれました。
 あの日、自分で津波の来る方角へクルリと向きを変えた共同墓の主尊大日如来の目には助けを求める人々の姿が映り、耳には声が聞こえていたのでしょう。
 古来「地震・雷・火事・親父」と言われているとおりです。
 『方丈記』は惨状を詳しく描き、最後はこう終わります。

「すなはちは、人みなあぢきなき事を述べて、いさゝか心の濁(ニゴ)りもうすらぐと見えしかど、月日重なり、年経(ヘ)にし後は、ことばにかけて言ひ出づる人だになし」

(地震が起こったばかりのころは、不安や諦念を言い合い、いくらか世俗的なものへの執着心などが薄らいだかのように見えたが、何年か経つうちにできごとはすっかり忘れられ、口に出す人もいなくなった)

 私たちはどうなのでしょう。
 天災と人災にガーンと殴られた私たちは、生きつつこのできごとを咀嚼し、〈これから〉を創造してゆかねばなりません。
 そして、今回も、古人の言い伝えなどを守った地区は比較的救われたように、「ことばにかけて言ひ出づる人だになし」とならぬよう、肝心なことごとは子々孫々へ言い伝えておきたいものです。
 心に深い傷を負ってしまいフラッシュバックが起こる方々などには耐え難い面もあるので、充分に注意しながら、叡智を寄せ合って救済と伝承を行いたいものです。



 ところで、5月4日は例年ならば、名湯秘湯うなぎ湯の宿『琢秀』さん(宮城県大崎市鳴子温泉星沼20-9 TEL:0229-87-2216)で水子地蔵様の供養会を行う日です。
 大震災の影響により、公式な法会は開催されなくなりましたが、住職はいつもどおり供養を行います。
 そして、護摩の秘法によって入魂された手作りの御守を108体、奉納します。
 お地蔵様へ救いを求める善男善女は、どうぞお詣りして御守をお持ち帰りください。
 皆さんの手に渡るのは、午前9時過ぎ以降になる予定です。
 数に限りがありますので、どうぞお早めにおでかけください。
 そして、大きなご加護をお受けください。
〈永年の祈りを受けたお地蔵様〉
mizukojizou[1]

〈ラミネートされた手作りの御守
230503 002



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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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