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2011
06.30

7月の守本尊様

7月は、小暑(ショウショ)と大暑(タイショ)の文月(フヅキ…7月7日より8月7日まで)です。
7月は未(ヒツジ)の月なので、守本尊大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。
 また、大日如来様は、未年申年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として両手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

21080819 012

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
06.30

7月の行事予定

 7月の行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、み仏と祖霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭 2011/7/3(日)午前10:00~午前11:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。

法話と対話「生活と仏法について」第一回] 2011/7/13(水)午前10:00~12:00
 大震災のために、長年続けてきたNHK講座『生活と仏法 ─法句経に学ぶ─』が打ちきりとなりました。
 その後、参加者を中心に、広く参加できる勉強会を行って欲しいとのお申し出が相次ぎ、以下の要領で新たなスタートを行うことにしました。
 会員制にはせず、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 内容は、釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
・ご志納金  1000円(未成年者500円) これは目途であって自由です。被災者の方は不要です。
 大震災によって、「無常」がこの上なく厳しい形で私たちへ突きつけられました。
 忘れかけていた大切なものを見直し、再出発の力としたいものです。
 なお、突発的な事情によって行われない日もあり得ることをご承知おきください。

[第二例祭 2011/7/16(土)午後2:00~午後3:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

[機関誌『法楽』作り] 2011/7/25(月)午前9:00
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

法話と対話「生活と仏法について」第二回] 2011/7/27(水)午前10:00~12:00
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 内容は、釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
・ご志納金  1000円(未成年者500円) これは目途であって自由です。被災者の方は不要です。
 大震災によって、「無常」がこの上なく厳しい形で私たちへ突きつけられました。
 忘れかけていた大切なものを見直し、再出発の力としたいものです。
 なお、突発的な事情によって行われない日もあり得ることをご承知おきください。

[お焚きあげ] 2011/7/30(土)午前10:00
 お不動様のご縁日に、開運不動堂にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[寺子屋『法楽舘』第十八回] 2011/7/30(土)午後1:30~3:30
大震災と原発問題 (第二回) ~震災後の健康の保ち方~

 東日本大震災で亡くなられた方々と被災された方々へ、み仏のご加護がありますようお祈り申し上げます。
 未曾有の大震災をきっかけに、私たちは古きよきものを守りつつ、新しい価値観を創り出し、よりすばらしい日本、東北、そして宮城とするために、新しい社会システムを創造せねばならないと考えています。
 今回は、前回もパネリストとなられた神部廣一先生を再びお迎えして医師の立場から健康についてお話しいただき、住職も行者の立場から、ご加持(カジ)や簡単にできる健康法などのお話をします。
 特別企画として、質疑応答では、神部廣一先生が皆さんからの『健康相談』をお受けします。
 なお、神部廣一先生は医師になる前、化学工学というシステム設計を専門とし、新日鉄では原子炉用の極厚大単重鋼板製造にもかかわっておられたので、原発問題へのご質問にもお答えいただきます。
 知人、友人、ご家族をお誘い合わせの上、ぜひご参加下さい。

【パネリスト】 
 仙石病院理事長 神部廣一(東松島で被災しながらも地域医療に奔走しています)
 大師山法楽寺住職 遠藤龍地


・場所 法楽寺講堂
・参加志納金 1000円(未成年者500円)被災者は不要
・申込方法:電話・ファクス・メールなど
・送迎車 午後1時「イズミティ21」より発車(7月28日まで乗車予約をしてください)
 大震災と原発事故へ対応するため、前回同様、シンポジウムを行います。
 詳しくはブログ「寺子屋『法楽舘』だより」をご覧ください。
主催:仙台青山会  (住職の活動に共鳴し応援する同級生の会)
共催:ゆかりびとの会(法楽寺を信じ自主的に護持する人々の会)

隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]
 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

〈佐藤直行氏が撮った当山の護摩法です〉
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2011
06.30

肉体と魂 ─ラフカディオ・ハーン、ドナルド・キーン、トマゾ・アルビノーニ─

『月刊 ゆかりびと』の七月号を読んだAさんからご質問がありました。
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の『守られた約束』にはびっくりしました。
 言葉や約束や信頼や信頼へ応える誠意など、私たちが脇へ置いて言い訳ばかりしている大事なものにいのちをかけていた時代があったことを再認識させられました。
 これをきっかけに、小泉八雲の作品をいろいろ読んでみました。
 異邦人だった彼が日本人以上に日本人の心に深く共鳴し、その価値を確信している様子にはもう一度驚かされ、唸らされました。
『雪女』『ろくろ首』『耳なし芳一』『日本人の微笑』……、なぜあれほど深く心の琴線を理解でき、没入できるのでしょうか?
 小泉八雲が何をどうしたかという問題ではなく、なぜ、異文化圏の人が、世界的に特殊と言われている日本語や日本の文化に同化してしまえるのか、そこのところが不思議でなりません」

 不思議と言えば、名門コロンビア大学で長年教鞭をとり、押しも押されもせぬ日本文学の世界的権威であるドナルド・キーン氏(89才)が日本への永住を希望していることも、簡単には理解できません。
 NHKの番組によると、氏は、日本へ行くというよりも「帰国するという感じです」と言う。
 そして、こともあろうに大震災と原発事故直後に国籍を取得する決断をしたのは、これまで日本人に恵まれてきたので、その恩返しとして象徴的なことをしたいと思っていたことを理由であると説明しました。
 氏が日本文学の研究を志したのは、アッツ島から沖縄へと激戦地で銃を執り、戦死した日本人兵士や捕虜の日記を読んでその精神にうたれ、さらに戦後、さまざまな作家の日記を調べているうちに『高見順日記』に巡り会ったからです。
 高見順は東京大空襲直後、焼け野原から地方へ疎開しようとする無数の人々でごったがえす上野駅で涙を流します。
 人々は、食べものにも飲みものにも着るものにも、もちろん、住むところにも困り果てたにもかかわらず、慌てず、騒がず、助け合って、粛々と列車に乗る順番を守っています。

「私の眼に、いつか涙が湧いていた。
 いとしさ、愛情でいっぱいだった。
 私はこうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」

 そして、ドナルド・キーン氏は、大震災・大津波・原発事故にも動揺せず、罹災した人々が、高見順の目に映じた日本人と変わらない姿で対応している様子に、自分も「こうした人々と共に生き、共に死にたいと思った」そうです。
 日本人とは何かを見つめ続ける氏にとって、「完全な文士」になるのが夢です。

 Aさんへお答えしました。
「私は最近、毎日欠かさず、アルビノーニの作品を聴いています。
 音の動きはすべて、必然と思えます。
 将棋ならさしずめ、必然手の連続です。
 その完璧さはみ仏の説く教えの完璧さと通じ、心の琴線が共鳴して鳴り止みません。
 五体投地を交えた六波羅密(ロッパラミツ)の修行をして入って行く清浄な世界が、音楽として現前しています。
 あまりのことに何かの因縁ではないかとアルビノーニについて調べても、そうしたものは見あたりません。
 ウィキペディアによれば、17世紀末に現れた彼は「多くの同時代の作曲家とは異なり、教会や貴族の宮廷に地位を得ようとした形跡が見当たらず、独自の財源によって、独力で作曲する自由を得ていた」らしいのです。
 そして、ヨハン・ゼバスティアン・バッハに影響を与えるほどの作品を発表しながら、世紀をまたいでまもなく行方がわからなくなり、18世紀半ばに故郷で亡くなったようです。
 こうしてみると、肉体という〈分ける〉モノの原理と、という〈溶け合う〉精神の原理は別ものだろうと思えます。
 小泉八雲はギリシャに生まれて移民としてアメリカへ渡り、日本人のすばらしさを耳にしていたたまれなくなり来日したのは38才の時ですが、そのはたちまち、日本人のと溶け合いました。
 私も日本人として日本で65年過ごし、何となく気になっていたアルビノーニときちんと向き合ったところ、たちまち彼のと溶け合いました。

 およそ真・善・美の極点に達したものはすべて、の世界の真実を表現しており、共鳴する人の肉体的限定条件などやすやすと超えてしまいます。
 Aさんが体験された小泉八雲への驚きは私も体験し、ドナルド・キーン氏の来日発表でも驚きましたが、それらは圧倒的にレベルの高い人の圧倒的にレベルの高い行動だからでしょう。
 まったくレベルは異なろうと、私たち凡人も日本人という条件を超えたところで似たり寄ったりの経験はしているはずです。
 そうしたものを大切にしながら生きることは、心のレベルアップにつながり、無用の先入観や差別を取り払ってくれるのではないでしょうか。
 小泉八雲は偉大な先人であり、ドナルド・キーン氏は偉大な同時代人と言うべきですね」

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2011
06.29

新しい勉強会「法話と対話『生活と仏法について』」を始めます

 大震災のために、長年続けてきたNHK講座『生活仏法 ─法句経に学ぶ─』が打ちきりとなりました。
 その後、参加者を中心に、広く参加できる勉強会を行って欲しいとのお申し出が相次ぎ、以下の要領で新たなスタートを行うことにしました。
 会員制などにはせず、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 内容は、釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 どうぞ、ふるってご参加ください。

1 名  称  法話対話生活仏法について」
1 日  時  毎月第二・第四水曜日 午前10時より12時まで
1 場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
1 ご志納金  1000円(未成年者500円) これは目途であって自由です。被災者の方は不要です。


 7月13日(水)は会議室1、7月27日(水)は会議室2となります。
 大震災によって、「無常」がこの上なく厳しい形で私たちへ突きつけられました。
 忘れかけていた大切なものを見直し、再出発の力としたいものです。
 なお、突発的な事情によって行われない日もあり得ることをご承知おきください。

230616008.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2011
06.29

【現代の偉人伝】第127話 ─三重県知事鈴木英敬氏─

 大震災から一ヶ月後の4月11日に行われた三重県知事選挙で、鈴木英敬氏が(36才)が当選した。
 史上最も若い知事は、行財政改革による新たな財源の確保や、人件費のカットによる東日本大震災への復興資金と三重県の防災資金の調達などを公約とした。
 6月28日の県議会は知事の月給3割、ボーナス5割、そして約4300万円と見込まれる退職金をカットする条例改正案を全会一致で可決した。
 知事の給与としては全国最低の水準となる。
 合わせて、副知事ら県の幹部職員の月給も平成24年度末まで8~15%削減し、24年度末の人件費削減効果となる約6億6千万円を東日本大震災の被災地支援などに充てる予定である。

 知事はネットで姿勢を明確にしている。

『日本一、幸福が実感できる三重をめざして』

「くらしへの強い不安や閉塞感が広がるなか、東日本大震災が発生しました。
 戦後最大の国難とも言えるこの危機を、今こそ心を一つにし、互いに支え合い、知恵を出し合って乗り越え、活力ある日本を再生していく必要があります。
 これまでのように、人口や経済の右肩上がりの成長を前提とした考え方は成り立たなくなり、行政が「あれもやります」「これもやります」という姿勢をとることは困難です。
 既存の体制や枠組の根本的な変革、すなわち、パラダイムの転換が求められています。
 わが国がこうした大きな試練のときを迎え、変革が求められる中で、私は、日本一、幸福が実感できる三重をめざし、新しい三重づくりに取り組んでまいります。
 県民の皆様一人ひとりが求める幸福のかたちはさまざまですが、私は、自らの持てる能力を発揮できる場や、人のために役割を果たす場、夢や希望の実現に向かって挑戦できる機会が確保されることで、県民の皆様の幸福実感が高まることになると考えます。

 そのうえで、これからの三重県には、果たすべき二つの大きな役割があると考えています。
 一つは、ものづくりの拠点として、日本経済をリードする役割です。三重県は、多彩な産業・技術の集積などを生かし、日本有数のものづくり県として日本経済を牽引してきました。
 このような今ある力を発揮することにより、県民の皆様が生活の豊かさを実感できるようにしていきます。
 もう一つの役割は、成熟した社会における「新しい豊かさ」のモデルを示すことです。
 三重県は、自然・歴史・文化など、さまざまな資源に恵まれており、こうした資源を生かして、経済的尺度や物質的な豊かさだけではない地域社会のモデルを示していきたいと考えています。

 三重県、そして三重県民の皆様は、無限の可能性を持っています。
 これらの二つの役割を、心を一つにして果たしていくことを通じて、その可能性を開花させ、県民の皆様が日本一、幸福を実感できるよう、しっかりとリーダーシップを発揮してまいりますので、皆様のご協力をよろしくお願い申し上げます」


 また、知事は、行動や交際費などをネットで詳しく公開し、責任者としての日々の行動を明確にしている。
「人口や経済の右肩上がりの成長を前提とした考え方は成り立たなく」なった時代では、譲り合い、支え合い、耐える姿勢がが欠かせない。
 知事は、為政者なら誰でもが知っていながら、ほとんど実行されない「塊より始めよ」を大胆に実践した。
 今後、知事の政策への賛否は分かれようとも、県民は知事の人間性については安心して県政を任せられることだろう。

 さて、政治家の武器は右手に人間性、左手に政策の立案・実現力である。
 選挙民からすれば、人物が信頼できるか、そして仕事ができるかが選挙における判断材料である。 
 ところが、小選挙区制においては、選挙民にとっての人物判断は事実上、できない。
 政党の政策を支持するなら、否応なく、政党の都合によって決められた人物を選ばざるを得ないからである。

 おそらく、政治に関心の高い人々の多くが「これほど幼稚な政治が行われるようになるとは……」「政治家のレベルがこれほど下がってしまうとは……」と慨嘆しておられることだろう。
 こうなった第一の原因は、小泉純一郎元首相が言い放ったとおり「政治家は使い捨て」であるという認識に立つ政治のパワーゲーム化が、〈人間による政治〉から〈人間性〉を奪い去ったからである。
 選挙民が候補者の人間性を選べないという恐るべき〈非人間的〉小選挙区制が混乱の元であることは疑い得ない。
 その証拠に、政治家は簡単に所属政党を変わり、信頼してくれる仲間の少ない人物が総理大臣になり、御輿を担ぐ人々が進言を聞き入れられなくて離れると、次々に将が馬を乗り換えるがごとき醜態を演じているではないか。

 しかも、選挙民が選んだはずの政策など紙くず同然の扱いである。
 それは、自分が当選することを目的として選挙民受けする政策を掲げて恥じない人物たちが当選している証拠である。
 国政選挙が近づくと、政治に深く関わってなどいないはずの有名人たちが、A党から出るのか、B党から出るのか、C党から出るのかと関係者もマスコミも騒ぎ出す。
 理由は、そもそも有名人にいのちをかける政策などなく、本人には「当選」の二文字だけが、政党には「議員数」だけが問題だからである。
 政治家が政策にいのちをかけないのは、医師が治療に、弁護士や検事や裁判官が正義の実現に、大工が良い家を建てるのに、運転手が無事な運転にいのちをかけないのと同じく自他を欺く欺瞞である。

 我々選挙民は、声を大にして訴えようではないか。

「人間性を選べる選挙制度にせよ。
 定数を削減した国政選挙を行い、国民の納得が得られてから消費税を上げよ」


 洒脱なエッセイで広く支持された故山口瞳氏は『嘘』に書いた。

「私には、いわゆる政府高官と言われる人たちの神経が全く理解できない。
 全国民の前で嘘をつき、それが嘘であることを完全に証明されても平然としていられるということがわからない。
 人間として種類が違うような気がする」

 しかし、三重県の鈴木英敬知事は、政治への信頼をつなぎとめる灯になりそうである。
 我らが宮城県の村井嘉浩知事も大胆な政策を掲げ、説明と議論の現場で先頭に立ち、反論されようと罵倒されようと、決して逃げない。
 こうした、その場しのぎに走らない人物を選び、大災害を乗り切り、私たちの生活を立て直したいものである。

20110624 009



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2011
06.28

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その71)─離檀料・吉野せい

 離檀料とお布施の話とは、この期(ゴ)に及んで何を……、と言いたくなります。
 まことに残念ながら、大震災の影響で引っ越しを余儀なくされたAさんが、こともあろうに高額な離檀料を請求され、ご相談に来られました。
 未だにこうした悪弊が残っているのは本当に残念でなりません。
 
 そもそも、金額がどうこうというより先に、寺院による離檀料の請求には根本的な誤りが三つあります。
 その一つは、当然ながら、お布施は受ける側が請求するものではなく、差し出す側のまごころ一つで行うから清浄な菩薩行(ボサツギョウ)なのであり、受ける側が「~円欲しい」と請求した時点で穢れます。
 そして、寺院へ納められるものは何であれ、すべてご本尊様がその行為の対象であり、僧侶は、〈み仏へお仕えする行者たるにふさわしい思考言動を行っている限りにおいて、ご本尊様からそれをお分けいただいて生きる資格がある〉存在です。
 常に、自分は袈裟衣に恥じないか、ご本尊様からいただいて恥ずかしくないかと自省し続けねばなりません。
 僧侶が「自分がもらう」と考えれば、やりとりに穢れが生じます。
 だから、当山では、必ず「ありがたく、ご本尊様へお納めさせていただきます」との言葉を添えて、お布施を受けます。

 もう一つは、一切の営利活動を行わない聖地である寺院は、そこを縁として救われる方々の清浄なお布施のみによって支えられており、いわゆる檀信徒の方々こそ、寺院を維持してくださっているのだという真実が忘れられているということです。
 檀信徒の方々は寺院の存続を担う大恩人であり、そうした方々が寺院を離れるなら、寺院は「これまで、よく支えてくださいました」と礼を言うべき立場です。
 それを、こともあろうに「これまで面倒を見てやったのだから、離れたいのならお礼をして去れ」と手切れ金の請求まがいのことを行うのは、まったく、ものの道理に反しています。

 もう一つは、人間はどこにいて何を信じようが自由であり、そうした選択権が尊厳の源であるという認識が欠如していることです。
「終わりなき日常」で若者たちから圧倒的な支持を得た宮台真司氏は指摘しています。

「便利や快適がどれだけ増えても幸福と尊厳は得られない」

「幸福と尊厳は、自分たちが自分たちをコントロールしている感覚が得られて初めて獲得できる」

 仏法は、自分が自主的に自分をコントロールし、ワニやネズミに通じる心の支配から脱して、自分にある霊性の光によって自他を照らしながら生きる道を説きます。
 そうした道は無数にあり、慈悲や愛を霊性に添って正しく説くものであれば、宗教や哲学の如何を問わず、縁に応じ本心からの納得を頼りとして信じて生きるのが人間の尊い姿です。
 それなのに、自分の寺へ縛りつけようとして、あるいはこれまでの仏縁を恩としてつきつけ、金銭を要求するなど論外です。

 ところで、作家吉野せい氏は76才で『洟をたらした神』を書き、大宅壮一ノンフィクション賞と田村俊子賞を受賞しました。
 氏は詩人草野心平に勧められるままに、70才を過ぎてから「思い出せる貧乏百姓のたちの生活の真実のみ」を書き、わずか8年たらずの短い作家生活を終えました。
 そんな氏が74才(『洟をたらした神』を書く前!)のおりに胸の内を披瀝した『老いて』の一部です。

「私も老いた。
 耳をすませば、周囲の力なく崩れてゆく老人たちの足音につづいて、歩調がゆるんでよろめくのが日に日にわかる。
 どう胸を張ってもこの事実は否み切れない。抗えない生物の自然というしかあるまい」

「私は声を落ちつけてこう叫びたいものだ。
『何をあんた、ぐっすりと眠れるんじゃないか。
 明日がどうというの。
 自分の長い疲れがすっぱりなくなるんだもの、せいせいするわねえ』
 すべては風の一吹きさ!
 どこからかひょいと生まれて、あばれて、吠えて、叩いて、踏んで、蹴り返して、踊って、わめいて、泣いて、愚癡をこぼして、苦しい呻きを残して、どこかへひょいと飛び去ってしもう素っとびあらし!!」

「なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。
 しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。
 折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。
 よろけた足どりでもかまわない。
 まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい」


 人間はそもそも、こうした自由な存在です。
 誰が、どう、縛れましょうか。
 人間はどう生きるべきか、どう生きればよいか、そしてどう死ねばよいかを突きつめてこそ宗教であり、行者であり、それが不断に行われてこそ聖地です。
 大地が大きく息をした大震災をきっかけに、仏法と寺院と僧侶への不信感を招く離檀料という悪弊はきれいさっぱり吹き払ってしまいたいものです。



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20110628 018

20110628 005

20110628 033





「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
06.27

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その21)─自他一如・我の終熄─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

「己(オノレ)が身を達せんと欲せば、
先(マ)づ他人を達せしめよ。
他人の愁いを見ては、
即ち自ら共に患(ウレ)うべし。
他人の喜びを聞いては、
則ち自ら共に悦ぶべし」


(自分が目的を達成しようとするならば、
 まず、他人へ目的を達成させよ。
 他人が愁いていたならば、
 自分の身に同じ愁いを感ぜよ。
 他人が喜んでいたならば、
 自分の身に同じ喜びを感ぜよ)

 この教えは、弟子から「(ジン)とは何でしょうか?」と訊かれた孔子が最後に答えた部分を基にしています。

の人は、自分の身を立てようとすれば、他人の身を立ててやり、
 自分が目的を達成しようとすれば、他人の目的を達成させてやる。
 他人の思いを自分自身のことに譬える。
 これがある人のやり方である。
 に生きる人は美しい。
 に生きようとしなければ、
 あるべき生き方を知っているとは言えない」


 要は、「他人の思いを自分の思いと心から感じ、行動するのがの人であり、人間のあるべき姿を知っている人とは、そうした他人を思いやることのできる人であり、そこに人間の美しさがある」というのです。
 注意すべきは、古来言い伝えられている「情は人の為ならず 巡り巡って己(オノ)が為」とは少々意味合いが違っている点です。
 これは、「他人へ情をかけるのは決して他人のためだけではなく、他人へ善いことをしておけば、その功徳が巡り巡って自分自身へ良いことをもたらすからである」という意味です。
 善行は結局自分のためになるというところに主眼がありますが、これでは、善行の真の目的が他人ためではなくなります。
 だから、当山では、似たような意味で、子供から「どうして学校へ行かなければならないの?」と訊かれた親が「自分のためになるからだよ」と答えることに疑問を呈しています。
 あくまでも、「自分以外のたくさんの人々のおかげで生きて成長できるのだから、自分も誰かのためになれる人になるのが人の世に生まれた者の務めだよ」と答えていただくよう希望しています。
 どこまで行っても自分のためと考える自己中心の人が美しいはずはありません。
 孔子が「仁に里(オ)るを美(ヨ)しと爲(ナ)す」(仁に生きる人は美しい)と説いた一言の重みをよく考えましょう。

 さて、冒頭の教えには注意すべき漢字の使い方があります。
「他人の愁いを見ては、
 即ち自ら共に患(ウレ)うべし」
「愁い」は、心が冷たくなり沈み込む状態ですが、「患う」は「(病気を)わずらう」でもあり、誰もがそうあって欲しくない辛い状態です。
 だから、愁いを抱えた人に出会ったならば、自分の心がそうした状態になるほど、その思いへの想像力をはたらかせよと説いているのです。
「あら、お気の毒に……」といった通り一遍の同情では偽ものであり、仁や慈悲ではありません。
 これも同じです。
「他人の喜びを聞いては、
 則ち自ら共に悦ぶべし」
「喜び」は、良いことが起こって心がパッと晴れたように躍る状態ですが、「悦ぶ」には「悦楽」につながる「嬉しいことを味わい尽くす」という意味合いが含まれます。
 だから、喜んでいる人がいたならば、自分も嬉しくてたまらないほど、その喜びに共鳴しなければウソになります。
「あら、良かったわね……」だけで通り過ごせば、仁や慈悲ではなく、その後に「──何て憎たらしいこと」といった本心が出るかも知れません。
 
 儒教の「仁」は、人のあるべき姿を探求した果てに行き着いた人を美しくさせる思いやりです。
 仏法の根幹である「慈悲」もまた、他人を見捨てておけずそっと寄り添う友情に発する分け隔てのない自然な思いやりです。
 そこには、諸悪の根源である我(ガ)の影もありません。
 こうした東洋思想の粋が漢字文化の持つ深い表現力を伴って市中の子供たちへ広く教えられていた時代があったことを、深く省みたいものです。
実語教童子教』は、復興への重要な示唆も含んでいるのではないでしょうか。

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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2011
06.26

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その70)─お焚きあげ

 敬虔な信徒であるAさんのご主人は古物を扱って生業とし、モノの素性やはたらき具合をつぶさに見る観察眼を持っておられます。
 そんなご主人の目は、震災で放置され壊れかけた品々にも注がれますが、一点たりとも商売にはしません。
 朝夕欠かさず仏壇に手を合わせ、被災した方々からいろいろな相談を受けているAさんは、そんなご主人へ「皆さんの遺品は商売にしないでね」と念を押していました。
 しかし、最近、家にこれまでとは違う気配が漂っていると感じ、ご主人へ尋ねました。
「何も持ち込んでいないわよね?」
「もちろんだよ」

 ところが、ある晩、にうなされます。
 真っ黒な雲のような靄のような糊のようなものに包まれながら錐揉み状態になり、どこかへ連れて行かれるのです。
 声を出そうとしても声にならず、手は空をつかむだけです。
 びっしょりとかいた汗を拭き、朝になるのを待ってもう一度、ご主人へ同じ問いを投げかけましたが、ご主人の答は同じでした。

 数日後の夕刻、仏壇の前机の上に見知らぬ女性の免許証が乗っていました。
 写真で顔はわかりますが、あとはボロボロです。
「どうしたの?」
「この前、友人がどこかで見つけたらしい。
 いつも熱心に拝んでいるお前に供養してもらいたいと頼まれたまま、忘れていた」
 いくら二人で考えても、写真の顔に見覚えはありません。
 しかし、Aさんには誰であるかはっきりとわかりました。
 数日前ので、Aさんへ自分と同じ体験をさせた被災者です。
 眺めているうちに写真の顔が自分の顔に思われ、目を閉じて思い出すと、の中の自分はこの女性なのでした。
 あらためてご本尊様へ祈りましたが、本当に供養になったかどうかを心配したAさんは、はるばる百キロ以上のドライブをして当山へお焚きあげを依頼されました。

 お焚きあげは、モノを焚くことを意味しますが、寺院で行うお焚きあげの修法が確かな供養になるのは、ご本尊様のお智慧とお慈悲をいただくからです。
 修法のご本尊様はもちろん、火の中に住するお不動様です。
 唱える「聖無動尊大威怒王秘密陀羅尼経(ショウムドウソンダイイヌオウヒミツダラニキョウ)」は説きます。
悟りを開いた普賢菩薩文殊菩薩は、さまざまな魔ものたちを正しい教えへと導いて悪しき迷いの世界から解き放ち、人々が幸せになるための善い行いができるよう力を授ける。
 そうした功徳が極限まで高まった時、破魔と救済の智火が生じ、不動明王が現れる。
 不動明王には住まいがない。
 人々の心にある想いこそが住まいである」
 そして、そのおはたらきは無限です。
「救いを求める心に応じて現れ、救い、打ち倒した魔ものをも法楽の境地へ誘い、恐ろしい形相の裡にはあらゆるものを救い尽くす深い慈悲が宿っている」

 きっと写真の女性は「想い」を残したままだったのでしょう。
 Aさんの思いやりの心が清浄なアンテナとなってその想いをキャッチしたのでしょう。
 行者が修法中にご本尊様と一体になるのと同じく、心の共鳴が二人を結びつけ、Aさんはを通じて女性の体験を追体験したのでしょう。
 悩みを抱えた人が親身になって聴いてくれる人へ話をしただけで心が楽になるのと同じく、写真の女性はAさんの追体験を通じて苦しみが癒されたのでしょう。
 そして、お不動様のご加護の力はAさんの諸々の想いを昇華させ、Aさんの体験は霊性の向上につながる貴重な人生経験となりました。
 お焚きあげの本尊お不動様は「忿怒(フンヌ)を現ずといえども、内心は慈悲なり」です。
 お不動様を信じて供養し、モノに遺された想いを昇華させましょう。

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2011
06.25

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その69)─守られた約束・いねむり先生

 今から百十年前、日本に心酔したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は「守られた約束」を書きました。

「この秋には必ず戻ってまいる」と、今より数百年前、赤穴宗右衛門は、義兄弟の、若い支部(ハセベ)左門に別れを告げながらいった。


 短編は、こう始まっています。
 百里以上も遠方の生まれ故郷である出雲を訪ねて旅立つ宗右衛門は、重陽(チョウヨウ)の節句である九月九日に帰る約束をし、左門とその母親は涙を浮かべて送り出します。
「月日に関守なし」とことわざにあるとおり、たちまちに月日は過ぎ、当日がやってきました。
 義弟は酒肴を調え、座敷を飾り床の間の花瓶には二色の菊の花を挿します。
 母親は、あまりに遠くからの帰還なので「あてにはなりません。いま、そんな手間をかけずに、来るのを待ってからにしては」と言いますが、左門は「約束を破るような男ではありません!着かれてから、用意を始めるのをごらんになれば、あの方の言葉を、疑っていたと思われるでしょう。われわれは面目を失います」と答えました。夜半になっても宗右衛門がこなかったので、母親を先に寝かせ、左門は門口に立ったままじっと待ちます。

 支部はなおも待った──淡い月が近くの山かげに沈むまで待ちつづけた。そのとき、ようやく疑念と不安が立ちのぼってきた。
 ちょうど家へもどろうとしたとき、遠くに背の高い男が──いかにも軽々と足早に──近づいてくるのが見えた。
 と、つぎの瞬間、それが赤穴であることがわかった。

 こうして再会しますが、宗右衛門は酒肴に手をつけず、母親に聴かれるのを怖れるかのように声を潜め驚くべき事実を語り始めました。
 子細あって某屋敷に閉じ込められ、帰る約束があることを訴えても「今日まで」聞き入れられなかったのです。

「さいわい、わたしは帯刀をゆるされていた──そこで、ようやくここへ参ることができたのだ……母上によろしく」
 そういって、立ち上がると同時に、姿はすっと消えた。
 そこで支部は、赤穴が約束を果たすために、自害したことを知った。

 左門は、夜も明けきらぬうちに出立し、無体にも宗右衛門を閉じ込めた男を切って捨てます。
「無法で残忍な男である城主」であっても、「他人の誠実を愛する心には敬意をはらうことができたし、しかも、支部左門の友情と勇気には感嘆をおしまなかった」ので、家臣を殺した左門の後を追わぬよう命じたそうです。
 これは、現代人的な民主主義思想や権利意識などがなかった時代の日本で起こったできごとです。

 伊集院静氏の『いねむり先生』が発売された4月、一読して絶賛されるだろうと確信し、いつも読むべき本を薦めてくださっているAさんへ、読むべき本としてファクスを入れました。
 ある種の発作に悩まされている「ボク」は、「先生」と飲んでいる時にその症状が現れます。

 ブルブルと身体が震え出し、手足の筋肉がつったように硬くなっていく。
「助けてくれ」
 ボクは叫んだ。
 叫んだところで誰も救いに来てはくれないとわかっていても、発作の度に叫んでしまう。
 怯えた犬のようにうろたえながら、ボクは泥水の中を逃げまどっていた。
 その時、四つん這いになって泥水の中に埋っていたボクの手がゆっくりと何かにつかまれたような感触がした。
 ボクは思わず手を引っ込めそうになったが、もう片方の手にも、その感触は伸びて、ボクの両手は何かに包まれたようになった。
 生暖かい感触だった。
 包まれた手が静かに持ち上げられ、顔を上げると、そこに先生の顔が月明かりに照らされていた。
「大丈夫だ」
 先生は言った。
「大丈夫だよ。連中は去って行ったよ」
「………」
 ボクは何も言うことができず、ただ何度もうなずいていた。
 そうしてボクは意識を失った。


 その後、先生は亡くなり、ボクは発作が起きなくなっていました。
 しかし、先生のいなくなった今、ボクは「先生と出会う前からあった自分の日々」に戻ります。

 ボクの言葉を聞いてくれる相手はいなかった。
 相変わらず定職にもつけず、他人とよりそうこともできなかった。


 ある日、行く先もないままに引っ越そうとし、すっかり自信をなくしているボクにいつも「小説をもう一度書いてみませんか」と誘う「N君」へそのことを告げます。

 行くあてはなかった。
「引っ越しが決ったら、必ず知らせてくださいね」
 ──どうして?
 ボクがN君を見ると、N君は人なつっこい顔をして、
「あなたに逢っているだけでいいんです」
と言った。


 いつしかボクは先生と同じように、〈素のままで生きていることがそれだけで誰かの救いになる人=真によりそう人〉になっていたのです。
 
 私たちはこうした佳い作品に接すると文字どおり心が洗われ、勇気づけられ、激励され、希望を取り戻します。
 自分がやりたいのにできないことを主人公がやってくれ、救いや、安心や、やる気が与えられます。
 作品がいつの間にかよりそい、血肉になります。
 そして、できない自分が現実へ立ち向かう力になります。
 また、自分と社会を正しく批判する機会にもなります。
守られた約束』には、約束と責任について考えさせられ、言い訳をしたくなる自分の弱さや、政治家のウソに反吐が出そうになります。
いねむり先生』には、よりそうことの真実と困難を考えさせられ、何もできない自分の矮小さと、社会へ蔓延しつつある癒しめぐる欺瞞にため息が出ます。
 辛いのも現実、悲しいのも現実、苦しいのも現実──、安堵するのも現実、嬉しいのも現実、楽しいのも現実──。
 真実を孕む作品に導かれ、真っ向から現実と向き合いたいものです。

〈亡くなられた方の遺品から発見された私の托鉢姿〉
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2011
06.24

シンポジウム「大震災と原発問題」へのご意見

 6月4日に行ったシンポジウム大震災と原発問題 ~団塊、戦後世代はどう立ち向かうか~」へたくさんのご意見をいただきました。
 心から感謝し、ご本人様のご了解の上、その一部をご紹介します。

 前略{大震災後」のこうした時期に一早く「震災」「原発」「シンポジウム」を企画された関係者の皆さまに敬意を表します。
 またTUNAMIで被災に遭われた皆さまに衷心よりお見舞いとお悔やみを申し上げます。
 さて、今回のTUNAMIによる原発事故の発生は、人智を超えた「想定外」の出来事と指摘される一方、何らかの対応が出来たのではないか─という意見も少なくありません。
「想定内」「想定外」。
 いずれにしても、これだけの被害をまき散らす原子力発電に対して、今や発電コストに支配された従来の原発政策を改め、再生可能な自然エネルギーを基にした電力に頼らなければならない時だと思います。
 電力需要に関しては「節電」をいくら励行してもやはり限界があると思います。
 企業を含めた個々が「太陽光発電」や「風力発電」を利用した自立スタイルのエネルギー利用を考えて行くべきではないかと思います。
 それには「太陽光」を利用した「蓄電機」の安価な供給など、科学技術の急速な進歩に頼らなければなりませんが、それは可能だと思います。
 日本人の叡智を結集して「脱原発」に智慧を絞る時ではないでしょうか。 橋浦弘喜様(仙台市)



 匿名の方からも貴重なご意見をいただきました。

 今回のシンポジュームは時宜を得た内容で良かったです。
 パネラーの話はマイクを使い音量はあったのですが、言葉が全般的にやや早く、即座に理解しかねる点もありましたが、三人共に資料を準備し、熱心に話されました。
 聞き手としては、十文な把握に至らなかった点もあるので、パネラーの方は、最初か、最後に「自分の語らんとする要点は○○と○○と○○で結論は○○です」とまとめてくださると本当にありがたいと思います。
 多方面に亘る話を次々と展開され、聞き終わって何が頭に残り、何に感銘したのか、分からないでしまう私のような聴衆のためにポイント(話者の語らんとする目的)をゆっくりはっきり話して頂くと大変ありがたく参加した満足感が持てますので、今後講演者の方にはよろしくお願い申し上げます。
 会の始まりはよく守られましたが終了の時刻が明記されていなかったのが残念です。
 会は、始めと終わりを明確にしてできるだけ守ってほしいと思います。
 会の最後に「ゆかりびとの会」の話がありましたが、あれも終了時刻内に納まると良かったです。
 (会の送迎バスで仙台駅着、少し前に一時間に一本のバスは出たばかりで、次のバスで帰宅は午后7時半になってしまいました。もう少し早い終了を設定して下さるようにお願いします)
 法楽寺様、青山会・ゆかりびとの会の皆様、この会のためにどんなにか企画、準備、実施に時間と労力をさかれたことでしょう。
 御苦労に心から感謝し、御礼を申し上げます。
 ありがとうございました。


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2011
06.24

『大日経』が説く心のありさま六十景 その37 ─獅子心(シシシン)

 迷い、悩み、真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた心を惑わすものたちが現れます。
 釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前になってすら、化けものたちが邪魔をしようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れないので、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
『大日経』は曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

35 獅子心(シシシン)
 「自分が強者でありたい」と願う狭い了見です。

「一切の無怯弱(ムコニャク)の法を修行す」

 他に劣らぬ弱みのない法を修行し誰にも負けない力を得ようとする悪しき競争心です。
 この教えは、真の仏道修行がいかにして始まるかという問題に理解のカギがあります。
 たとえば私は「なぜ、仏道へ入ったのですか?」あるいは「なぜ、真言宗を選んだのですか?」という質問を何度も受けましたが、答はいつも決まっています。
「自分が選んだのではありません。み仏のお導きによって、結果的にこうなっているだけです」
 10代の終わりに始まった〈根無し草〉の感覚に背中を押され、さまざまな思想や宗教を訪ね歩きました。
 多くの宗教宗派に首をつっこみ、いささかの修行体験もしました。
 しかし、何も見つかりません。
 闇雲にはたらき、遊びつつ、いつまでも心の居所がない根無し草のままでした。
 しかし、何もかもなくした時、たった一本の道が待っていました。
 生き続け、家族を守るには、他の選択肢はありませんでした。
 縁に従って出家し、托鉢を始め、そして今があります。

 救いの門からわずかに数歩入った現在、釈尊とお大師様が示された世界の途方のなさに、輪廻転生を確信させられています。
 釈尊にたくさんの前世物語があり、6月15日に生まれたお大師様の前世が同じ日に亡くなった偉大な行者不空三蔵(フクウサンゾウ)であるとされ、ダライ・ラマが先代の生まれ変わりとして選ばれる理由はよく理解できます。
 ちっぽけな能力しかない人間が至高の精神性を獲得するためには、百年あまりの一生はあまりに短く、修行の成果を何らかの影響力として保持した何ものかが何世代にもわたって成果を積み重ねて行かない限り、不可能です。
 そして、至高の精神性を獲得した釈尊とお大師様がおられるということは、輪廻転生の確かさを証明するとしか考えようがありません。
 こうした運命の流れを自分の意志で選ぶことなど不可能です。
 だから、獅子心で「自分が他に劣らぬ弱みのない法を選ぼう」とするのは、明らかに真実に反した考え方です。

 大乗仏教は、「煩悩は無尽であり誓って断とう」とし、煩悩をなくして成仏するまでの長い修行を求めます。
 密教は、「衆生は無辺なり誓って度(ド…悟りの岸へ渡す)せん」とし、清浄な大欲(タイヨク)で生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)によリ、一気に自他を救おうとします。
 この二つは、別々ではありません。
 体験上言えるのは、即身成仏の修行と体験を積み重ねることによって、いつの日か、煩悩が消え果てた存在になり得るだろうということです。
 それが今世なのか、それとも何万年も先なのかは、自分で判断などできはしません。
 必ずやってくるその日がいつになるかなどということを考えるのは無駄というものです。
 み仏へお任せし、ただ、今日の修行に励むのみです。

 テレビが「思いやりは誰にでも見える」として流す場面は、この身このままでみ仏になった即身成仏の姿です。
 み仏の子である私たちは、誰でも即身成仏が可能です。
 いわば、誰でも、どこでも〈み仏体験〉ができます。
 現に、被災地や原発事故の現場で我を忘れて汗を流しておられる方々は、見事に成仏しておられるではありませんか。
 私たちは、「これが一番」「これだけやればよい」といった巧みな自己宣伝に惑わされず、獅子心を持たず、至心に人の道を求めて汗を流しましょう。
 そうすれば、み仏が「あなたはまぎれもなく仏の子なのですよ」とお導きくださり、そのことが実感できる時をもたらしてくださるに違いありません。




 密教研究者として第一人者の松岡正剛先生と栃木県満福寺住職の長澤弘隆師が中心となって活動している「密教21フォーラム」のサイト「エンサイクロメディア空海」(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)に、当山の「東日本大震災被災の記」を紹介する欄(http://www.mikkyo21f.gr.jp/hisaiki.html)が設けられました。
 クリックすると、「その1」から「その67」まで、これまでに書いたすべてのページが選んで読めるだけでなく、その続きも読めるようになっています。
 浅学非才、徒手空拳でここまできた当山などの拙文を載せていただくとは思いもよらないできごとで、ただただ驚きと感激で胸がいっぱいです。
 多くの方々が「エンサイクロメディア空海」を訪れ、東洋の果てで仏教がたどりついた真言密教の霊妙な世界を覗いていただきたいと願っています。

20110624 019



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2011
06.23

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その68)─亡き人をどのように送ればよいか

 大震災から百か日が過ぎ、行方不明の方々を含めた合同慰霊祭が行われるようになり、「これからの供養をどうすれば良いか?」というご相談が増えました。
 たとえば、身内を亡くしたまま無我夢中で任務に当たっていた若い自衛隊員が、やっとDNAで故人の最終確認を終え、さてどうしようかとなった時、何もわからないことに気づいたりします。
 葬儀をどうこうする余裕もなく、とにかく荼毘には付したものの、お骨を前に途方に暮れてしまう方もおられます。
 ある程度の年齢になったり病気を抱えたりした親や身内の家族なら、多少なりとも心構えや知識の蓄積などがあろうものの、若夫婦がある日、突然親や子を失うケースでは、そうはゆきません。
 ご来山されたAさんご夫妻へのお話です。

「ご愁傷様でした。
 心からお悔やみ申し上げます。
 さて、これからどうしたらよいかというご質問なので、仏法上、どのような方法で送り、供養することになっているかのお話をします。
 その中で、どれをどのように行うかは、どうぞお二人で決めてください。
 当山はご説明をし、申し出に従って修法するのみで、一切、こうしなさいという指示や強制はしません。
 故人を弔うことごとは、あくまでも皆さんの納得に基づいたまごころからの希望に合わせて行われるべきだからです。
 自分たちで決められない場面では、どうぞご遠慮なくお訊ねください。

1 通常のご臨終ならば、まず、『枕経』を修法して初七日を司る不動明王の結界によるご守護を行いますが、こうした場合にできないのはやむを得ません。
 そもそも、み仏は私たち全員の心におわすので、皆さんがまごころを向けておられればそれが強い結界となり、故人の周囲へ魔物たちを寄せつけず、故人を迷わせることもないでしょう。

2 お骨にする前に、この世へ未練を残さず迷いを解く修法を行いますが、これもまた、こうした場合にできないのはやむを得ません。
 きっと、どなたかが炉の前で合掌し、まごころを込めて送られたことでしょう。
 そのまごころが故人へ届かないはずはありません。
 こうした意味で、日本の斎場ではたらく方々の態度は実に信頼のおけるものです。
 過去には『隠亡(オンボウ)焼き』などと蔑視し、はたらく方々を差別した悲しい歴史もありますが、私は常々、最も人々の悲しみを伴う難しい仕事をしておられるプロとして心から尊敬しつつお世話になっています。

3 故人を護り、偲ぶ『お通夜』も、こうした場合にできないのはやむを得ません。

4 肝心の『ご葬儀』で何を行うかと言えば、『法をもって、故人へこの世とあの世の区切りをはっきりつけてさしあげる』のです。
 それは、私たちがこの世に生まれ出てから、親や教師や先輩や上司や師から人として生きる道筋を教えられながら一生を送るのと同じことで、あの世への旅立ちに当たっても、導きが必要だからです。
 葬祭会館で修法へ入る直前、『これから読経を行います』とアナウンスされますが、あの言葉は必ずしも真実を示してはいません。
 お経を読むのなら行者でなくてもできます。
 役者やアナウンサーや語り部といった方々の方が巧みではないでしょうか。
 葬儀では法を修するので、『これから修法を行います』と言うべきです。
 もちろん、一介の行者でしかない僧侶に、導くなどという大それた力はありません。
 だから、み仏と一体になる法を結び、いわばみ仏のご加護のお力が故人の魂へ届くようアンテナの役割を果たすのみです。
 私たち行者は、こうした修法が確かな力を発揮するよう、正しい教えを学び正しい修行を行い、み仏の教えにかなった判断力と目的に応じた法力を身につける修行を続けています。
 私は、行者は真剣を研ぐ心で日々を送るべきであると考えています。(なかなか徹することができないのは情けないのですが……)
 ご葬儀で大事なのは、当日誰々をお呼びするかということではなく、確かな法力を備えた行者のいる寺院へ修法を依頼するという一点に尽きます。
 でなければ、一連のことごとはすべて形式になり果て、故人の来世における旅路が安心なものになろうはずがないではありませんか。
 ご葬儀を行うに際しては、自分たちがいかなる方々に導かれて生きているかをふり返り、人生の師と思える方々と同じように信頼できる行者を選ぶべきです。
 これだけの情報化社会に住んでいながら、『調べられません』は言い訳です。
 『葬儀屋さんへ任せれば便利だから』、『今まで~へ頼んでいたから』といったやり方だけでは、故人への誠意に疑問符がつくのではないでしょうか。
 葬儀屋さんを信頼し、菩提寺を大切にするのは結構ですが、肝心の法を結ぶ行者を決めるのはご遺族にしかできない大切な役割であることを忘れないでいただきたいと願っています。

5 あの世へお送りするに当たってどうするか決めねばならないのは、『戒名』です。
 戒名とは戒律と共に授かる名前であり、この世で親から授かった名前をもって一生を生きるのと同じく、あの世ではみ仏から授かった名前をもって、み仏の世界を旅します。
 だから、行者はご遺族の願いに応じて修法し、ご本尊様から授かった名前をお知らせします。
 一介の行者でしかない僧侶に、導くなどという大それた力がないのと同じく、親が我が子へ名前をつける以上に重大な、あの世での名前を決める行為など不可能です。
 だから、私は至心に祈るのみであって、自分で決める意識はまったくなく、世間で言われているように、一文字幾らで戒名を売り買いする、あるいは院号をつけるのに幾らかかるなどという話は信じられません。
 当然、戒名に値のつけようはなく、戒名を受ける際にご本尊様へ納められるご志納金の金額は善男善女の価値判断と懐具合へお任せする以外、方法はありません。
 よく『わかりませんから教えてください』とご依頼を受けます。
 しかし、当山は一度たりともお答えした歴史はありません。
 なぜなら、子細は上記の通りであり、一人の人間を送る際に導き手であるみ仏へどのように感謝の心を表すかは、送る人の人間性が問われる場面でもあるからです。
 どうするかと自分の心へ問い、故人への報恩や感謝を形にするのは尊い人間修行の機会でもあり、そうした場面でまで損得勘定を行い、便利に済ませようとするのでは情けないと考えています。
 最近は、生前戒名を求めて人生の行き直しをめざす方々が増えました。
 生前戒名を受ける心は、僧侶になろうと出家得度するのと同じです。
 戒律などにあまり関心のなかった生き方を離れ、戒律を守る決心をして新たな生きようを模索する方々の思いにうたれ、励まされる日々です。

6 四十九日忌や百か日忌の『ご供養』もまた、ご葬儀と同じく、あの世でのみ仏のお導きを確かなものにするために行われます。
 子供の頃には親や家族、学校へ行けば先生、そしてざまざまな方々に導かれて一生を生き抜くのと同じく、あの世でも導きが行われ、その役割を担ってくださるのが十三仏(ジュウサンブツ)様です。
 最初の一週間はお不動様、それから一週間ごとにお釈迦様などと進んで四十九日忌は薬師如来様、百か日忌は観音様というように、それぞれの時期に当たる方々をご供養し、そのお力をもって御霊が順調に安楽世界へ到達できるよう修法します。
 こうした願いをもって皆さんが居住まいを正し、共に修法の世界へ入り、合掌して御霊へまごころを捧げることは、御霊のためだけではありません。
 おりおりの供養は、供養する皆さんにとって故人の死が徐々にその尊い意味と教えを明らかにする道程でもあります。
 そして、皆さんが合掌を重ねつつ心を清め、霊性を磨き、人間として成長する姿を見ていただくことが最大の供養でもあり、御霊が絶対の安心を得るための条件でもあります。

7 お骨は、自然界へ還ることをもって役割の終了となります。
 いつまでも自宅へ安置したり、寺院へ預けておいたままにしたりといったやり方はいかがなものでしょうか。
 個別のお墓を造られない場合は、共同墓への埋葬や里山葬などの方法もあります。
 ご相談ください。

 以上は、行者としての信念で申し上げた『み仏によるお導きの課程』です。
 どうぞ皆さんで検討され、故人と皆さんにとって最も安心であると確信できる方法をお選びください。
 もしも当山で役立てることがあれば、きちんと行います。
 御霊と皆さんへのご加護を祈っています」

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2011
06.22

2011年7月の運勢

 2011年7月運勢──平成23年7月文月7月7日から8月7日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 協調と対立が入れ替わる不安定さが顕れます。
 昔、中国の詩人が『顔面問答』という含蓄ある文章を残しました。
 口と鼻と目が、ある日、ふと「なぜこんなにはたらいている自分たちが何もしない眉毛の下にいるのか?」と疑問を持ち、眉毛へ君の役割は何かと訊ねました。
 眉毛はゆったりと答えました。
「君たちの活躍ぶりにはいつも感謝している。さて、私の役割は私にもわからない。君たちのように誇るべき何ものも持たず、ご先祖様の代からずっとこうして自分のいるべき場所を守っているだけなのだ」
 同じグラウンドに立っている仲間が競って自分の役割を誇り、目立たぬ仲間を嘲るならばチームは成り立ちません。
 目的達成のために何が大切なのか、人間の品位や人徳とは何かをよく考えましょう。
 また、協調ができたなら、合掌の心で呼吸を合わせましょう。
 古人は言いました。

「右仏 左は我と 拝む手の 中ぞゆかしき 南無の一声」

 合掌する右手はみ仏、左手は自分です。
 それが合わさって尊い心が導き出されます。
 同じく左手は自分で、右手は他人であり、相手であり、仲間です。
 自分を「自分様」とは言いませんが、他人を仏様や神様と同じく「他人様(ヒトサマ)」と言います。
 他人の心に仏性があることを信じ、仏性を見いだすことができる人は自分の仏性もはたらく人です。
 協調の根本はここにあることを考えてみましょう。

二 口の持つ大切さと危険性が露わになります。
 口は飲食のためにあり、いのちを養いますが、何を入れるかによって吉凶が分かれます。
 お酒を大量に飲んだり、タバコを吸ったりすれば、健康を害し、いのちを縮めます。
 また、口は話すためにあり、人と人を交流させますが、いかなる言葉を出すかによって吉凶が分かれます。
 考えもなしに、相手の心を思いやらず出任せで言葉を用いるなら、たちまち信頼されない人の烙印を押されてしまうことでしょう。
 あらためて、口から入れるものと口から出す言葉をふり返ってみましょう。
 さて、中沢けい氏は「現代人は感性と理性の割に、悟性をあまりはたらかせていないのではないか」と指摘しています。
 私たちは、目や耳などを通じて情報を受け取るために感性をはたらかせます。
 次に、情報を整理するために悟性をはたらかせます。
 そして整理された情報を元にして理性をはたらかせ、判断し決断します。
 もしも感性だけでポンと言葉が出ると、軽くなってしまいがちです。
 理性ばかり強いと、手前勝手で通じにくい言葉になりがちです。
 共通のOS(基本ソフト)を用いてこそパソコン同士がつながるように、人間に共通した悟性できちんと情報が整理されないと、言葉の内容がよくなりません。
 そのための方法としては、よい文章に接することが一番ではないかと考えています。
 一種のブームになっている古典への挑戦と、新聞の切り抜きがお勧めです。

三 世の中の流動性が高まり、夢のある新しい計画が先へ進む一方、冷や水をかけられるようなできごとも起こりがちです。
 こうした場合は、激高したり、落ち込んだりせず、冷静に自他の状況を見直す必要があります。
 すべては因縁によって生じているだけの空(クウ)なる存在であり、因縁が時々刻々と変化している以上、生々流転は免れようがありません。
 人の心も同じです。
 変化を的確にとらえ、その都度、変えるべき部分と変えずに進む部分とを判断せねば、「独りよがり」という危険な船の船頭になりかねません。

 さて、今月の修行です。
 お墓や仏壇の前でも、あるいはいつ、どこででも修行はできます。
 皆さんの開運を祈っています。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は足を知り、不条理に耐えて着実に結果を得ます。
 不精進の人は二兎を追い、欲にかられた無理な計画に走って頓挫しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は他人を見捨てられずに行う善行が身を助けます。
 不精進の人は自分だけの安楽を求めて失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は他人の助力を大として無事安全です。
 不精進の人は他人の助力を小として不満を抱え、恩を忘れた報いで失敗しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は社会的に正しく内輪では優しくして安楽です。
 不精進の人は、優しそうな外面に隠した傲慢な内面が露見して、信頼を失いがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は他の意見を聞きつつ立場をまっとうできます。
 不精進の人は人を信じられず、抱えた不満と欲のために惑い自滅しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は智慧をもって他を救い、自分も救われます。
 不精進の人は不徳が祟り、脱する方法のある危険から脱しきれない場合も生じがちです。

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2011
06.21

『四十二章経』第三十五章 ─八つの難事─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、三年半かけて学び通す予定です。
 5月30日の勉強は「難事」でした。

「仏の言(ノタマ)わく、
『夫(ソ)れ人、三悪道を離れ、人為(タ)るを得ること難(カタ)し。
 既に人為(タ)るを得(ウ)るも、女(ニョ)を去って男(ナン)に即(ツ)くこと難(カタ)し。
 既に男(ナン)為(タ)るを得るも、六情(ロクジョウ)完具するは難(カタ)し。
 六情(ロクジョウ)既に具するも、中国に生ずるは難(カタ)し。
 既に中国に処すとも、仏道に値(ア)い奉ること難(カタ)し。
 既に仏道を奉ずるも、有道(ウドウ)の君に値(ア)うは難(カタ)し。
 菩薩(ボサツ)の家に生ずること難(カタ)し。
 既に菩薩(ボサツ)の家に生ずるも、心を以(モッ)て三尊(サンゾン)を信じ、仏世(ブッセ)に値(ア)うこと難(カタ)し』」

 釈尊は、人生における難事を8つ挙げられました。

1 果てしない苦に苛まれて出口のない地獄道に生まれたり、何かを得ても得ても不足感に苛まれる餓鬼道に生まれたり、互いに喰い合う畜生道に生まれず、人間として生を受けるのは難事です。
 目に見える生きものの種として考えても、人間は、175万種といわれる自然界にいる生きものたちからすれば、ほとんどゼロに等しい存在です。
 その割にはあまりに大きい顔をし過ぎているような気がしてなりません。
 石牟礼道子氏は、大震災をこう考えたそうです。
「息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。
 死なせてはいけない無辜の民を殺して。
 文明の大転換期に入ったという気がします」

2 同じ人間でも女性ではなく男性に生まれるのは難事です。
 この一項は、子供を生む性である女性を汚れたものと観る世界的差別意識の産物であり、無論、釈尊自身にそうした思想はありません。
 男女の区別亡く救い、女性修行者をも認めていました。

3 男性(人間)に生まれても、目・耳・鼻。舌・膚・意識六つの感覚器官を具備するのは難事です。
 六情は、喜・怒・哀・楽・愛・悪の六つの感情を指しますが、仏教では六官という六つの感覚器官のことです。
 生まれながらに障害のある方もおられ、あるいは生きている間にどれかを失う方もおられ、すべて揃っている状態は当たり前のようであって、そうでもないのです。
 また、目のはたらきが特に優れてたり、耳のはたらきが特に優れていたりと、六つのはたらき方は人それぞれであり、〈何があって何がない〉という考え方ではなく〈与えれたものを活かす〉ことこそ大切であるし、十全に活かすことは難しいと考えたいものです。

4 感覚器官が具備していても、文化の進んだ中心的な場所に生まれて学ぶことは難事です。
 新しい思想である宗教である仏教は、当時、世界のどこででも接することができるほど普遍的ではなく、広く流布したインドでなければ、中国でも都市部でしか知られていなかったのではないでしょうか。

5 文化の進んだ中心的な場所に生まれても、仏道に接することは難事です。
 当然、求道心や縁がなければ、学び実践するわけにはゆきません。

6 仏道に帰依しても、実践者たる指導者に会うのは難事です。
 修法上の極意など仏法の肝心な部分は必ず、師僧から弟子への直伝になります。
 それは、器の水を別な器へ移すようなものであると説かれています。
 この場合必要なのは、まず、師が法を結べる行者であることです。
 供養法であれ、祈祷法であれ、加持法であれ、知っているだけで法力を備えていなければお次第は絵に描いた餅でしかなく、実際の役に立たず、弟子へ伝授できるのは形式でしかありません。
 次に必要なのは、伝授を受ける弟子が法の価値に合った器を持っていることです。
 だから、師僧の大切な仕事の一つは器量の判断です。
 師に会い、弟子に会うのは実に難事です。

7 自他共に仏道の成就を願う菩薩(ボサツ)道を歩む人の家に生まれるのは難事です。
 世間は厳しく、自分や家族がまっとうに活き活きと行きてゆくこと自体、容易ではありません。
 だから、どうしても自分中心でがんばろうとします。
 世間の厳しさの根が、自分自身の持つ自己中心的姿勢や、無常を忘れた勝手なこだわりにあることに心の底から気づく余裕がないのです。
 江戸時代に寺子屋で使われていた『実語教・童子教』を学んでいると、長屋に住む庶民の間にたくさんの菩薩様がおられたのではないなどと夢想してしまいます。

8 菩薩(ボサツ)のいる家に生まれても、自分自身が心から仏法僧を信じ、み仏にお会いするのは難事です。
 たとえば親が至心に仏壇へ手を合わせていても、子供や家族が同じようにするかどうかはわかりません。
 親が世のため人のためと汗を流す人生を送っているからといって、子供も同じ姿勢で世を渡るとは限りません。
 立派すぎる親が反発の対象になったり、世間様へ迷惑をかけるだけの親が反面教師になったりするものです。
 結局は自分自身の心次第でしかなく、仏道を歩む決心をすることが一番の難事と言えるのでしょう。
 ところで、周囲になかなかみ仏はおられませんが、生き仏様のような方は案外、おられるものです。
 そうした方を見いだすのもまた、自分の求道心でしかありません。
 自分自身が、たとえ一日に一分でも、み仏の心になる生き方をしていれば、魂の音叉は共鳴をもってみ仏のような方との巡り会いを導くのではないでしょうか。

〈朝靄の中の釈尊と花々〉
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2011
06.20

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その67)─傷ついた位牌・壊れた人形

 東日本大震災百か日供養会は、途中で火へ水をかけられるような流れがあり、なかなか重い護摩となりました。
 龍慧寺さんでは四十九日忌が厳しかったと聞いていますが、当山では百日忌が大変でした。
 最近祈ってきた山元町や亘理町などの景色は、いまだに〈水が迫る〉という気配を色濃く残していたので、とても納得できます。
 小林一茶が詠んだように「露の世は 露の世ながら さりながら」です。
 葉の上で小さな水晶のように結んだ露が朝陽を浴びて輝くと見る間に姿を消してしまうように、この世にあるものも自分のいのちも、儚い運命にあることは頭で理解していてなお、残る〈思い〉はあるものです。
 唱える般若心経は色即是空(シキソクゼクウ…現象世界は無常)と説き、その真理はあの世へも通じていますが、〈思い〉の昇華は容易ではありません。
 まごころのこもった供養を重ねて行う以外、〈気配〉は解消できません。

 ところで、最近、地震で傷ついた位牌などに関するご相談や、壊れた人形などのお焚きあげ供養の申し込みが増えました。
 ようやく落ち着いて身のまわりのことごとに目が向くようになり、そのままにしてはおけないという気持が強くなってこられたようです。
 割り切って、こうしてくださいと申し込む方もおられれば、困り果て、どうしたら良いのでしょうと相談される方もおられます。
 特に、位牌や墓石については、どこの部分に傷がつくとどのような凶事が起こるか、神になったかのごとく詳しく宣(ノタマ)う有名人たちがいて、世間に無用の不安がつくりだされています。
 いつの世も、道理を話せば、当たり前なのでお金にならない一方、不安につながることを話せば、聞いた人が不安を解消したいと思うのでお金に結びつき、流行ってしまうのです。

 では、傷ついた位牌をどのように扱うべきか?
 当然のことながら、あまりに酷ければ修理するか作り直せば良いし、気にならない範囲であれば、そのままでも問題はありません。
 たとえば、「お位牌を人型と考えると、ちょうど額のあたりに傷がついてしまったので、このままでは罰が当たって私も頭にケガをするのではないか」と不安ならば、こう考えましょう。
 まず、この世のありとあらゆるものは無常であり、形あるものはいつかは壊れる運命にあるので、位牌が傷ついたからといって、御霊に悪影響はありません。
 そもそも、亡くなった方は、いのちがなくなるという極限的無常の体験者であり、この世の無常に驚くはずがありましょうか。
 また、亡くなった方は、み仏の子としてみ仏の世界へ旅立たれたのであり、この世にいる人々へ罰を当てもしません。
 ただし、「そうではいけないよ」「そっちへ行ってはいけないよ」と導いてくださることはあるでしょう。
 それは、自分が向こうの世界へ行った時のことを想像すればすぐにわかるはずです。
 
 では、妖しい占い師やいかがわしい教祖などに指摘されなくても「このままにしておいては申しわけない」と謝る気持が消えない場合はどうか?
 それこそが、こうした問題について考えるべき唯一のポイントです。
 モノが壊れたから不安なのではなく、罰が当たりそうだから怖いのではなく、依り代であるはずの位牌を粗末にできないという自分のまごころのはたらきへ、素直に応えさえすれば良いのです。
 被災者Aさんが言われました。
「自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですね?」
 家も仕事も失い、位牌を作り直せず、若干の修理をしただけでちょっとした台へ載せ野辺の花一輪を捧げる方へ、み仏と御霊は目に見えないご加護の花々を雨のように降らせてくださることでしょう。
 空(クウ)の理論をまとめた龍樹(リュウジュ)菩薩(ボサツ)様は説かれました。

「智目行足(チモクギョウソク)、清涼池(ショウリョウチ)に至る」

 智目とは智慧の目でものごとを見ること、行足とは正しい行いを自分の身体で実践することです。
 そうすると、無常を忘れた無理なこだわりで悶々とすることもなく、自己本位の心から発する怒りや恨みなどでイライラすることもない清らかで涼やかに澄んだ湖のような清々しい気持になれます。

 位牌が傷ついたなら、人形が壊れたなら、自分のまごころへ忠実になり、ものの道理をもって考え、行動しましょう。
 自分の身の丈にあった方法で大丈夫なのですから。

〈人っ子一人の影もない海辺に残る廃墟〉
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〈残った土台を拠り所として咲く花〉
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「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2011
06.19

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その66)─心と人生のリカバリー

6月18日の河北新報は、せんだんホスピタル院長浅野弘毅先生が「心のリカバリー」を掲載しました。
 
 先生は、心の立ち直りについて道筋を明快にし、回復とリカバリーのイメージの違いを指摘します。

「回復という言葉が、病になる前の何事もなかった状態に戻るニュアンスであるのに対して、リカバリーという言葉は病を体験した後に、新たな人生を生きること、すなわち再生を意味します」

 心の病気になった患者さんへの、これほど希望に満ちた言葉を知りません。
 当山を訪れる方々のほとんどは〈以前の状態に戻りたいが、戻れないのではないかと不安でたまらない〉のです。
 無理に戻ろうとするよりも、新たに生きようというのであれば過去と未来への考え方が転換し、〈これからどのようにして新たな未来を生きるか〉に集中できます。
 先生は、統合失調症の当事者の体験談を聞き、聴衆と共に「深い感銘と共感と勇気」を与えられたそうです。
 当事者たちからの専門家への希望です。

1 当事者の人生に希望を与えること。
2 当事者に有効で最適な治療と支援を提供すること。
3 当事者が苦しみの意味を見いだす営みを手助けすること。
4 対等なパートナーとして付き合うこと。
5 当事者の権利を守ること。
6 当事者を家族や地域社会につなげること。


 先生は率直に述べられました。

「心の病が治るということを、症状が取れて病気をする前の状態に戻ることだと長い間思い込んできた精神医療関係者にとっては、考え方の修正を迫られる時代になりました」

 ベテランであり指導者である方が、あくまでも患者さんの立場に立って自分に突きつけられているものを正確に判断し患者さんへ合わせて行こうとする真摯な姿勢は、心の病気に関する仕事をするあらゆる人々にとっての灯火です。

 そして、具体例を挙げておられます。

「ある人はリカバリーを、自分の態度・価値・感情・目標・生活技術と役割を変える極めて個人的な自己変革の過程であり、それは病によってもたらされた、さまざまな制限を受けながらも、希望を持ち有益な生活を送る生き方であると述べています」
「またある人は、精神に障害があることによって、権利・役割・責任・自己決定権・可能性・人々からの支援などさまざまなものが失われたり奪われたりしますが、当事者自身がそれらを乗り越えて再生・再構築していくプロセスこそがリカバリーであるといっています」

 ここまでの意識を持てるほど回復された方は、もう大丈夫です。
 明らかに、心と外界を隔てる薄膜がなくなり、風通しがよくなっているからです。
 皆さんが苦しむのは、薄壁があまりに手強いからに他なりません。

 先生はリカバリーを新たな旅とします。

「いずれにしろ、リカバリーとは心の病という恐怖体験をした人が、多くの人の援助に支えられながら、人生に新しい意味と目的を見いだす復権の旅なのです」

 その内容も具体的です。

「症状や生活機能の改善の程度にかかわらず、家族・友人たちと一緒に時間を過ごし、薬とともにストレスに対処する具体的な方法を学んで症状をコントロールし、意味があり満足できる生活を築き、喜びや悲しみなどの気持を当たり前に体験しながら暮らすことこそがリカバリーということになります。
 リカバリーは、精神に生涯のある人にとっての社会的リハビリテーションの最終ゴールともいえます」


 そして、震災へ対処する心構えも示します。

「このたびの東日本大震災は多くの人々の心に深い悲しみと傷跡を残しました。
 悲劇の様相は一人一人異なりますが、この悲惨な体験を記憶から消し去って、なかったことにすることはできません。
 再出発が図られるためには、私たちの心に刻まれた体験をありのまま自らの経験として受け止めることがスタートになります。
 起きてしまった事実を否認し続け、失ったものを数え上げ、大震災を体験する前の自分に戻りたいと考える限り、再出発は訪れないことになります。
 大震災によってもたらされた悲しみからの再生には、心の病におけるリカバリーと同様の考えが当てはまるのではないでしょうか」

 まったく同感です。
 仏法が説く人としてまっとうに生きるための第一歩は「正見(ショウケン)」です。
 ありのままに正しく見ることができなければ、レンズの歪んだ眼鏡をかけて景色を眺めるようなものです。
 私たちは、自分の見たいように見ようとし、見たくないものは見ないで過ごす、あるいは見なかったことにしてしまいたいと思います。
 しかし、そうした私たちの勝手な気持は、結局、歪んだ情報を基とする判断の誤りをもたらし、苦を増してしまいます。
 ありのままに見るために必要なのは、勝手な思いを取り除かねば人生にとって「有効で最適な」判断も行動もないと知る智慧、そして、勇気です。
 この二つのものを得るために、共に学び、共に実践する支え合いが必要なのではないでしょうか。

 医師である先生は、患者さんにとって支えですが、先生もまた、「考え方の修正を迫られる」という形で、患者さんからプロたる道を歩むための支えをもらっています。
 最近は「癒し」の流行です。
 しかし、〈癒す人〉と〈癒される人〉を分けている限り、真実から離れ、欺瞞や傲慢が顔を出す危険性があります。
 私たちは先生の姿勢に学びつつ進みたいものです。

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〈菩提樹の前に釈尊の修行像をお祀りしました。この厳しさに学びましょう〉
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2011
06.18

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その20)─敬愛─

 かつては江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 私たちの宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

「老(オ)いたるを敬(ウヤマ)うは父母(フボ)のごとくし、
 幼(イトケナ)きを愛(アイ)するは子弟(シテイ)のごとくせよ。
 我(ワレ)他人(タニン)を敬(ウヤマ)えば、
 他人(タニン)また我(ワレ)を敬(ウヤマ)う。
 己(オノレ)人(ヒト)の親(オヤ)を敬(ウヤマ)えば、
 人(ヒト)亦(マタ)己(オノレ)が親(オヤ)を敬(ウヤマ)う」

(年配者を敬うならば、自分の父母を敬うのと同じくし、
 幼い者を愛するならば、自分の子弟を愛するのと同じくせよ。
 自分が他人を敬えば、他人もまた自分を敬う。
 自分が他人の親を敬えば、他人もまた自分の親を敬うのである)

 自分の肉親や身内であるかどうかということにとらわれず、老若男女を問わず、敬愛することの大切さを説いています。
 指導者の姿勢を説いた一項が『孟子』にあります。

「老いたる自分の親に接するのと同じ姿勢で他人の老いたる親に接し、幼い我が子に接するのと同じ姿勢で他人の幼い子供に接するならば、天下を自由自在に操れるであろう」

 他人の身になろうとしない人は、社会を動かすだけの人徳がありません。
 他人の身になることの難しさを知ってなお、他人を他人として自分の向こう側へ置き去りにできない心があって初めて、指導者たるの資格があるのです。

 同じく『孟子』は説きます。

慈愛のある者は人を慈しみ、礼儀をわきまえた者は人を敬う。
 人を慈しむ者は、常に、人から慈しみを受け、人を敬う者は、常に、人から敬われる」

 他人を大切にする心がある人は、他人からも大切にされ、互いに人格を向上させることによって人間関係が潤いのあるものとなり、社会もまた乾きません。

 もしも「自分はどうしてこんな目に遭わされてばかりいるんだろう」と不安や不満や怒りにとらわれる時は、この一句を思い出してみましょう。
 やはり『孟子』が、厳しく説いています。

「もしも人を慈しんでいながら、人からそうされないならば、自分の人徳を省みなければならない。
 人を統率しようとしてできないならば、自分の智慧を省みなければならない。
 人に礼を尽くして人から粗末に扱われるならば、自分の尊敬の念を省みなければならない」

 真情をもって他人に接しているか、人間はどうあるべきかと問い、学び、実践しているかと自分へ問わねばならないのです。
 自分への厳しさを忘れて、他人へ優しさを求めても、それは「ないものねだり」と言わねばなりません。
 人と人とは心の音叉で交流します。
 自分の音叉がさび付いていながら、いくら耳を済ませても共鳴は得られないのです。

 江戸時代には、子供のころからこうした教育を受けていました。
 今の子供だけでなく、大人もまた、あらためて心の基礎をつくる必要がありそうです。

〈山形県在住の江口正子さんが丹精こめた入選作「揺れて、微笑みも」です。純銀でできた指輪と土台にあしらわれた純銅製の花びらは、動くようにできています。作者の思いが伝わってきます〉

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「おん さんまやさとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
06.17

シンポジウム『大震災と原発問題(第二回)』開催のお知らせ

大震災と原発問題 (第二回) ~震災後の健康の保ち方~

 東日本大震災で亡くなられた方々と被災された方々へ、み仏のご加護がありますようお祈り申し上げます。
 未曾有の大震災をきっかけに、私たちは古きよきものを守りつつ、新しい価値観を創り出し、よりすばらしい日本、東北、そして宮城とするために、新しい社会システムを創造せねばならないと考えています。
 今回は、前回もパネリストとなられた神部廣一先生を再びお迎えして医師の立場から健康についてお話しいただき、住職も行者の立場から、ご加持(カジ)や簡単にできる健康法などのお話をします。

 特別企画として、質疑応答では、神部廣一先生が皆さんからの健康相談』をお受けします。

 なお、神部廣一先生は医師になる前、化学工学というシステム設計を専門とし、新日鉄では原子炉用の極厚大単重鋼板製造にもかかわっておられたので、原発問題へのご質問にもお答えいただきます。
 知人、友人、ご家族をお誘い合わせの上、ぜひご参加下さい。

【パネリスト】 
 仙石病院理事長 神部廣一(東松島で被災しながらも地域医療に奔走しています)
 大師山法楽寺住職 遠藤龍地


・日時   7月30日(土) 13時30分より15時30分まで
・場所   大師山法楽寺講堂
・参加費 1000円(「未成年者は500円)※被災者の方は無料
・送迎   12時45分に仙台地下鉄泉中央駅前の『イズミティ21』前へお迎えにまいります。バスへの乗車を希望される方は7月28日までご連絡下さい。

主催 仙台青山会  (住職の活動に共鳴し応援する同級生の会)
共催 ゆかりびとの会(法楽寺を信じ自主的に護持する人々の会)
※7月の寺子屋『法楽舘』を兼ねての開催となります。

〈第一回の活発な質疑応答〉
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2011
06.17

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その65)─「生神(イキガミ)」と「稲むらの火」

 今、大震災へ立ち向かった人々を想い、被災と戦う人々を想う日本人は、古来の精神を見直そうと「稲むらの火」へ注目しています。
 明治30年にラフカディオ・ハーン小泉八雲)が発表した「生神(A Living God)」は、ちょうど40年後の昭和12年に、「稲むらの火」となって国定教科書『小学国語読本』へ登場しました。
 小さな子供と一緒になって紙芝居を見るように「稲むらの火」を読み、考えるのはもちろん、有意義なことです。
 しかし2つは、同じ題材を用いた全く別の作品であり、原稿用紙へ書き直すとわずか20枚にも満たない「生神」こそ、永遠に読み継がれるべきであると考えています。

 書き直されたのには、主人公が実在なのに名前や年齢設定が違っている、あるいは、神として祀られていないのに神社ができたと書かれている、など、いくつかの理由があるようです。
 それでもなお、「生神」は、神を感じた作者畢生(ヒッセイ…生涯)の傑作であり、「稲むらの火」は、書いた中井常蔵へ申しわけないと思いつつ、道徳教育という目的のために作られた物語であると言いたくなります。
 若干整理して2作品を掲載します。
 読み比べ、「生神」が醸し出す人間の気高さ、仏神へ通じる崇高さを感じていただきたいと願っています。
 その先にこそ、津波へ立ち向かった人々や被災と戦う人々の神々しさの感得が、可能性として待っているのではないでしょうか。

生神

 太古より日本の海岸地方は数百年ごとに不規則な間隔をおいて地震或いは海底の火山活動によって引き起こされる大波にさらされ続けて来た。
 こうした突然、何の前触れもなく襲ってくる恐ろしい海のうねりを日本では「津波」と呼んでいる。
 一番最近の例では1896年6月17日の夕刻に発生したものである。
 この時長さほぼ200哩(320km)にも及ぶ波が宮城、岩手、青森の東北部を襲い多数の町や村を破壊し、全地域を余すところなく荒らした上約3000人の人命を奪った。

 この浜口五兵衛の物語は明治よりずっと以前に日本のまた別の海岸地方で起こった同様の災害の話である。
 五兵衛の名を有名ならしめた出来事が起こったとき、彼は最早老人であった。
 彼は村の最も有力な人物で長年にわたって村長、すなわち村の頭であった。
 こうして彼は村人達から敬われていたが、またそれに勝るとも劣らず好かれ慕われても居た。

 村人達は普通彼のことを「おじいさん」と呼んでいた。
 これは祖父を意味する言葉である。
 しかし彼は村一番の金持でもあったので、公式の場では「長者」と称された。
 彼はよく小百姓たちに対して利益が得られるよう忠告してやったり争い事の仲裁をしたりした。
 また彼等が金の入用な時には前貸しもしてやったし、彼らの作った米を出来るだけ高い値で売ってやったりもした。

 浜口の大きな藁葺の家は、入江を見おろす小さな高台の端に建っていた。
 そこの土地は一面に殆んど稲作にあてられ、うっそうと松の木の茂った山で三方を取り囲まれていた。
 そして唯一つ、開かれている高台の縁から地面はなだらかな傾斜を描き、まるでえぐられたかのように、大きな緑色の凹みとなって海の際まで達している。
 4分の3哩(1200m)程続くこの斜面一面に刻まれたひな段は、そのあまりの見事さに思わず見とれてしまうほどで、海の方から見上げると丁度中央で細く白いジグザグの筋-山道が通っているのだが-でニ分された緑色の巨大な階段がつづいているように見える。
 厳密に言えば入江に沿って立ち並ぶ90戸の藁葺家と神社とが元来の村落を形成して居り、それ以外に幾つかの家が、例の斜面を少しばかり這い登り長者の家へ通じる細い途の両側に雑然と散らばっているのだった。

 或る秋の夕暮、五兵衛は自分の家の窓から下の村で行なわれる祭りの準備の様子を眺めていた。
 その年は米が大豊作で農民達は〃氏神様〃の境内で踊りを奉納し収穫を祝おうというのだ。
 老人には村でただ一つの通りに治った屋根の上に、はためく祭りの旗(のぼり)、竹の棒と棒の間に吊り下げられたちょうちんの列、神社の飾りつけ、そして若者たちが賑やかに集まり来るのが見えた。
 その夜彼は10才になる孫の少年とニ人きりで、他の家族はもうとっくに村へと出かけてしまっていた。
 彼の体の調子が普段よりもずっとすぐれず、そうでなければ皆と一緒に彼も出かけていたことであろう。
 その日は蒸し暑く、海から微風が吹き上げてはくるが、それでもあたりの空気には重苦しい熱気が盛じられた。
 日本の農民はその経験から、ある一定の時節には地震の前兆となると信じる種類の熱気だった。
 すると間もなく地震が起こった。
 別段誰もが驚く程強いものではなかったが、これまでに何百という地震を経験して来た浜口にはどうも奇妙に思われた。
 長くゆったりした、柔らかでしなう様なゆれ方なのだ。
 恐らくごく遠く離れた所で起こった大きな地震の単なる余震に過ぎないのだろう。
 家はきしみ、何度かゆるやかに揺れ動いたと思うと、再び凡てが静まりかえった。

 揺れがおさまるとすぐ浜口の年老いた鋭い目が心配げに村へと向けられた。
 これはしばしば生ずる事であるが、人は何か特別な場所或いは物体にじっと眼をこらしている時、その注意力が突如として、意識して見ているものでない何かを感じとって、そちらの方に転じられる事がある。
 つまり現実のはっきりした視野の範囲を越えた、その外側を取り巻いているほの暗い無意識下の知覚能力でもって、その未知なるものを、ただぼんやりと察知すると注意がそちらに向けられてしまうのである。
 このとき浜口も、たまたま沖合の異状に気付いたのである。
 彼は立ち上ると海を見た。
 海はふいに暗くなり、奇妙な動き方をしてしる。
 風の向きと反対方向に動いているかに見えるのだ。
 海が岸からどんどん沖へと逃げて行くではないか。

 すぐに村中の者がこの現象に気づいた。
 その前の地面のゆれは誰も感じなかったようであったが、この海水の動きには皆明らかに肝をつぶしているかに見えた。
 村人達は一体何事が起こったのか見ようとして浜へとかけ出し更に浜をこえた所にまで走り出た。
 生きている者の記憶が届く限りこの海岸でこれ程の引き潮が目撃されたことなどなかった。
 そしてこの見た事もない現象によって様々なものが現われ出た。
 いつもは見る事もない畝の入った砂原や、「・・・」そして下にいる村人のうちの一人が、その巨大な引き潮が一体何を意味するかに思い当ったかに見えた。

 浜ロ五兵衛自身これまでにこんなものは見た事がなかった。
 しかし彼は子供の頃、彼の祖父から聞かされた話を憶えていたし、この海岸の歴史については凡て心得ていた。
 彼はこのあと海がどうなるかが判った。
 そして村まで知らせをやったり、或いは山寺の僧呂の所に行ってあの大鐘を鳴らして貰うのには一体どれ位の時間がかかるか等と彼は考えて見た事だろう。
 だが、そうして自分の考えている事を誰かに伝えるには自分が今までにこの事を思いつくのにようしたよりもずっと長い時間が必要になるだろうと彼は思った。
 そして孫息子を呼んで、「タダ!早く、大急ぎだ!松明に火をつけて、おじいさんに持ってきてくれ」
 松明とは松の木をもやしてともすあかりの事だが、多くの海岸地方で嵐の夜に使うため準備しておくもので、又同時に或種の儀式に用いられたりもする。
 少年がすぐに一本の松明に火をつけると老人はそれを持って田へとび出した。
 そこには彼が注ぎこんだ資本の大部分を意味する何百もの稲むらが、納屋に運びこまれるばかりになって並んで居た。
 彼は斜面の縁に一番近い所にあう稲むらに近づくと、それに松明で火をつけ始めた。
 その年老いた手足でせい一杯素早く体を動かしながら次から次へと火をつけて走った。

 太陽の光で乾燥した稲は勢いよく燃えあがった。
 強さを増して来た海風がその炎を手前の田の方へあおりたて、程なく後の列、そのまた後へといった具合に稲むらがバッバッと燃え上がっていった。
 何本もの煙の柱が空に立ちのぼり上空で入り混じると一つの巨大でもくもくとした雲の渦となった。
 タダは驚ろき、同時に恐ろしくなって父のあとを追って走りながら叫んだ。
「お祖父さん!どうして?おじいさん─ねえどうしてそんな事するんだい?」
 だが五兵衛は答えようとはしなかった。彼には説明している暇などなかったのだ。
 彼はまだ危険にさらされている400人の人の命のことだけ考えていたのだった。
 しばらくの間夢中で、燃えあがる稲を見つめていた少年は急に泣き出すと家にかけもどった。
 祖父はきっと気が狂ったのに違いないと思ったのである。
 五兵衛は次々と稲むらに火をつけて行き田の後の端まで来ると松明を殺げ捨てて待った。
 山寺の修業僧がこの火の手を見て寺の大鐘を打ち鳴らした。

 こうして村人は高台の炎と鐘というニ重の警告に気付いた。
 むき出しになった砂原にまで出ていた村人が浜辺を越えて村から山へと急いで登ってくるのを浜口は見ていた。
 だが不安にかられる彼の目に、それはまるで蟻が這うかのようで、とても急いでいる風には見えなかった。
 その間の時間が彼にはひどく長く感じられた。

 太陽が丁度沈むところで、入江の紋様の入った砂原やその向こうに広がるあちらこちら岩の突き出た、だだ広く黒々とした海底がむき出しになったままみかん色の名残りの日の光にかがやいていた。
 そして海は尚、水平線の方向へとどんどん逃げ去って行くのだった。
 併し、浜口は実際、最初の救援の一団が到着するまでにそうは待たされたわけではなかった。

 彼ら二十程の若くてすばらしい農夫たちで、すぐさま火を消しにかかろうとした。
 だが長者五兵衛は両腕を拡げ彼等を押し止めた。
「お前たち、そのままにしておくんだ」彼は命じた。
「ほっておけ、わしは村中のものに集まってほしいんだ。大きな危険が追っている。大変だ!!」

 やがて村中の者が集まって来て浜ロはその数をかぞえた。
 若者や少年たちなど全員が高台までやってくるのに、そう時間はかからなかった。
 次に来たのは比較的身のこなしの軽い女や少女達がかなりの数、そしてその後には老人や赤ん坊を背負った母親達、それに子供達の姿もある。
 子供というのは道すがら小便をがまんしたりするわけにいかなかったのだ。
 そして最初に一同が駆け出した途端に、体が弱っていて、ついて行く事の出来なかった年寄り連中が漸く険しい上り坂を登ってくる姿がはっきり見てとれるようになった。
 どんどんと数を増す群衆は未だに何も知らないまま悲しみに満ちた驚きの中、燃えさかる田と、長者の平然とした顔とをかわるがわる見つめていた。
 そうこうするうちに陽は沈んだ。

「おじいさんは頭がおかしくなったんだ。僕、お祖父さんこわいよ」
 タダはすすり泣きながら数多く発せられる質問に答えてそう言った。
「頭が変なんだ。わざと稲に火をつけたんだよ。僕、みてたんだから!」
「稲のことなら」浜ロは大声で言った。
「その子の言っている事は本当だ。わしが稲に火をつけたんだ。みんな集まったかな?」
 組長と各家の家長が囲リを見廻わしたり,一寸下の方を見下したりしてから答えた。
「みんないます。すぐにみんな集まりますが・・・・・・それにしてもわしらには一体何事なのかさっぱり判らないのですが」
「来た!」
 人はせい一杯の大声を張り上げ、海の方向を指さして叫んだ。
「わしが狂っているか、どうかはさあ今言うんだな!」
 たそがれの薄明かりを通して村人たちが東方に眼をやると,ぼんやりとした水平線の端に長くて細い暗い一筋の線が見えた。
 それはまるであろう筈もない場所に写し出された海岸線の影のようだった。
 そして見る見るうちにその線は太くなる、広くなる。
 どんどんと海岸線が目の前に追って来るかのようだった。
 だがそのスピードときたら比較しようもない位にすさまじかった。
 それというのも海水がこの長く暗い線となって戻って来たわけで、絶壁のようにそびえ立ちながら、かのすばしこいトビですら追いつけない程の速さで押し寄せて来たのである。

「津波だ!」人々はロ々に叫んだ。
 しかしその後すぐに、いかなる雷も及ばない位強烈で言い表わしようもない衝撃でどんな叫び声も物音もかき消され、耳まで聞こえなくなった程であった。
 巨大なうねりが怒濤のように陸に押しよせ、その海水の重みで山々はとどろき、一面稲光のような白い泡で包まれていた。
 そして一瞬、斜面を雲みたいに這い上がってくる嵐のような水煙りの他には何も見えなくなった。
 村人たちはこれを見ただけでもう我を忘れて、散り散りになって後ろへとびのいた。
 再び彼等が下をのぞくと、自分たちの家があった場所で群れ狂う白く波立つ恐ろしい海の姿を見た。
 やがてその波はゴウゴウと音をたてながら沖へと引いてゆく時に其処にあるすべてのものをめちゃくちゃに破壊し尽した。
 海は押し寄せては引く事二度、三度、そして五度も繰り返したのであるが、その度毎に徐々にうねりはおさまり、遂には大昔からのその居場所に落ち着いたが、それでも尚台風の後のように波は高かった。

 高台では、しばらく話声一つしなかった。
 誰もかれも押し黙ったまま眼下の惨状をじっと見つめて居た。
 彼等は津波で投げとばされた岩や、むき出しになっている裂けた岩肌を見てぞっとし、又根こぎにされた海草や自分達の住居と神社がもはやすっかりなくなってしまった場所に散らばる岸の小石にとまどうばかりだった。
 村の姿はもはやなかった。
 田畑も殆どの部分が消え去り、斜面に刻まれた段々さえも削りとられてあとかたもなかった。
 入江に沿って立並んでいた家々は何一つそれとわかるものなど残されて居らず、ただ沖の方で藁葺の屋根がニつ激しく波間にゆれているばかりだった。
 死をまぬがれた時に、あとから感じるぞっとするような恐ろしさと何もかも凡てを失ってしまったという打ちのめされた思いとで、誰一人口がきけなかったが、ついに浜ロ五兵衛が再びロを開いた。
 彼は穏やかな調子でこう言った。
「だからわしは稲むらに火をつけたのだ」と。
 長者であった筈の老人は今村人達の間に立ち尽くし、もはや村で一番の貧乏人と同じ位に彼もまた文無しになっていた。
 財産をすっかりなくしてしまったのだから。
 だが彼はその犠牲によって400人の命を救ったのである。
 小さなタダ少年は祖父の許に駆け寄り、その手をつかむと先程の暴言の許しを乞うた。

 この時漸くの事で自分達がこうして生きて居られる理由を悟った村人達は、彼等の命を救った五兵衛の素朴で、私利私欲に把われることのない先見の明に感銘を覚え始め、組頭達が五兵衛の前の地面にひざまづくと他の村人達もそれにならった。
 老人はそれを見て少しばかり涙ぐんだ。
 嬉しかったせいもあるが彼はもはや年老いて体も弱って居り、相当疲れていたのである。
「わしの家は助かった」
 老人は言葉が見付かるとすぐに言った。
 彼は無意識のうちにタダ少年の陽にやけた両頬を撫でていた。
「かなりの人間がおるだけの余裕がある。それに山寺もちやんと残っているし、あそこも他の者達が身を寄せる避難場所になろう」
 そう言って老人が家へ向かうと村人達からは大変な歓声が湧き起こった。

 苦難の日々は長く続いた。
 その当時は地域と地域の間で簡単に連絡をとり合う術などなかったし、なくてはならない救援の手もはるか遠い所から差しのべられるのを待つしかなかった。
 だが漸くのことで少しばかりましな暮らしが出来るようになっても、人々は自分達が蒙った浜口五兵衛の恩義を忘れはしなかった。
 彼等は老人を再び金持ちには出来なかったが、又五兵衛自身たとえ可能なことでもそんな事で村人を苦しめたりは決してしなかった。
 更に又どんな贈り物をした所で村人達の老人に対する尊敬の念を表すには十分でなかった。
 というのも村人達は五兵衛の内なる霊は神聖なものと信じていたからである。
 だから彼等は老人を神と宣言し、それより以後、彼のことを浜口大明神と呼んだのだった。
 彼に与える事の出来る名誉に、これ以上のものはないと村人達は考えたわけだが、事実どこの国に行っても生きた人間に対してこれ以上の名誉など与えられるべくもない。
 やがて彼等は村を復興させると、五兵衛の御霊を祀る神社を建立し、その正面に金文字で彼の名前を書いた小さな額を掲げた。
 村人はその神社で祈りや供物と共に彼への礼讃を捧げるのだった。
 彼自身がこの事について一体どの様に感じていたか、私には判らない。
 只、私が知っているのは彼が子供や孫達と一緒に高台のあの瓦葺屋根の家にずっと住みつづけ,又人間的で素朴な人柄は以前とちっとも変わることはなかったが、ただ同時に下の村の神社でその霊があがめられていたという事実だけである。
 五兵衛が死んで100年以上にもなるが、彼を祀った神社は今でもそのまま在って、人々は未だに心配事や困難にぶつかった時、その助けを得んとてこの善良なる老農夫の御霊に祈りを捧げているとのことである。 完



稲むらの火

 「これはただ事ではない。」
とつぶやきながら五兵衛は家から出てきた。
 今の地震は別に烈(はげ)しいという程のものではなかった。
 しかし長いゆったりとしたゆれ方と、うなるような地鳴りとは、老いた五兵衛に、今まで経験したことのない不気味なものであった。
 五兵衛は、自分の庭から、心配げに下の村を見下ろした。
 村では、豊年を祝うよい祭りの支度に心を取られて、さっきの地震には一向気がつかないもののようである。

 村から海へ移した五兵衛の目は、忽(たちま)ちそこに吸い付けられてしまった。
 風とは反対に波が沖へ沖へと動いて、見る見る海岸には、広い砂原や黒い岩底が現れて来た。
 「大変だ、津波がやって来るに違いない。」と、五兵衛は思った。
 このままにしておいたら四百の命が、村もろ共一のみにやられてしまう。
 もう一刻も猶予(ゆうよ)はできない。
 「よし。」
と叫んで、家にかけ込んだ五兵衛は、大きな松明(たいまつ)を以て飛び出してきた。
 そこには取り入れるばかりになっているたくさんの稲束が積んである。
 「もったいないが、これで村中の命が救えるのだ。」と五兵衛は、いきなりその稲むらの一つに火を移した。
 風にあふられて、火の手がぱっと上がった。
 一つ又一つ、五兵衛は夢中で走った。
 こうして自分の田のすべての稲むらに火をつけてしまうと、松明を捨てた。
 まるで失神したように、彼はそこに突っ立ったまま、沖の方を眺めていた。

 日はすでに没して、あたりがだんだん薄暗くなってきた。
 稲むらの火は天をこがした。
 山寺では、此の火を見て早鐘をつき出した。
 「火事だ。庄屋さんの家だ。」と村の若い者は、急いで山手へかけ出した。
 続いて、老人も、女も、子供も、若者の後を追うようにかけ出した。
 高台から見下ろしている五兵衛の目には、それが蟻(あり)の歩みのように、もどかしく思われた。
 やっと20人ほどの若者がかけ上って来た。
 彼らはすぐ火を消しにかかろうとする。
 五兵衛は大声に言った。
 「うっちゃっておけ。-大変だ。村中の人に来てもらうんだ。」
 村中の人は追々集まってきた。五兵衛は、後から後から上ってくる老幼男女を一人一人数えた。
 集まって来た人々は、燃えている稲むらと五兵衛の顔とを代る代る見くらべた。
 その時、五兵衛は力一杯の声で叫んだ。
 「見ろ。やって来たぞ。」
 
 たそがれの薄明かりをすかして、五兵衛の指さす方を一同は見た。
 遠く海の端に、細い、暗い、一筋の線が見えた。
 その線は見る見る太くなった。
 広くなった。
 非常な早さで押し寄せて来た。
 「津波だ。」
と、誰かが叫んだ。
 海水が絶壁(ぜっぺき)のように目の前に迫ったと思うと、山がのしかかってきたような重さと、百雷の一時に落ちたようなとどろきとを以て、陸にぶつかった。
 人々は我を忘れて後ろへ飛びのいた。
 雲のように山手へ突進して来た水煙の外は、一時何も見えなかった。
 人々は、自分等の村の上を荒れ狂って通る白い恐ろしい海を見た。
 2度3度、村の上を海は進み又退いた。
 高台では、しばらく何の話し声もなかった。
 一同は波にえぐり取られてあとかたもなくなった村を、ただあきれて見下ろしていた。

 稲むらの火は、風にあふられて又もえ上がり、夕やみに包まれたあたりを明るくした。
 始めて我にかえった村人は、此の火によって救われたのだと気がつくと、無言のまま五兵衛の前にひざまづいてしまった。



〈今年も時がきました〉
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〈整備が進む里山〉
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〈清涼光〉
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2011
06.16

『大日経』が説く心のありさま六十景 その36 ─室宅心(シツタクシン)

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた心を惑わすものたちが現れます。
 釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前になってすら、化けものたちが邪魔をしようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れないので、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

34 室宅心(シツタクシン)
 自分の家宅へ閉じこもるように、自分だけが迷いを去り、救われようとする心です。

「自ら身を守る法に順修(ジュンシュウ)す」

 学び、修行し、功徳を積む自分だけが過去の業を清め、この世の苦から救われ、あの世でも悪業の報いを受けずに済むようにと願う、狭い了見です。

 お大師様は、アラカンをめざす行者について厳しく指摘しておられます。

 アラカンの一種である声聞(ショウモン…師の教えを聞いて悟りへ入る行者)については、『華厳経』の文を用いて断じます。

「上品(ジョウボン)の十善をもって自利(ジリ)の行を修す。
 智慧狭劣(キョウレツ)なるをもって三界(サンガイ)を怖れて大悲(ダイヒ)を闕(カ)きたり」

(最上レベルの十種類の善行によって、自分のためになる行を修める。
 しかし、智慧が狭く劣っているのために、迷いの世界を怖れる自分が輪廻から脱しようとするばかりで、生きとし生けるものの苦を除こうとする大いなる慈悲心が足りない)

 アラカンの一種である縁覚(エンガク…瞑想などによって覚りへ入る行者)については、さらに厳しく断じます。

「大悲闕(カ)けてなければ方便(ホウベン)具(グ)せず。
 但し、自ら苦を尽くして寂滅を証す」

(生きとし生けるものの苦を除こうとする大いなる慈悲心が足りないために、他を救うための最適な手段を持っていない。
 ただ自分の苦を除き、迷いを脱した安楽の境地で憩うのみである)

 現在、一般的にはこうした締めくくりがなされています。
「自分だけの悟りを求める声聞・縁覚の小乗(ショウジョウ)仏教よりも、自他の悟りをめざす大乗(ダイジョウ)仏教の方が優れている」
 確かにそのように指摘できるかも知れませんが、それだけでは真実を尽くしていません。

 そもそも、お大師様が『秘密曼荼羅(マンダラ)十住心論(ジュウジュウシンロン)』において上記の記述を行って仏教のみならず私たちの心が深まり行く全段階を示し、やがては『秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)』にまとめられたのには理由があります。
「私たちは皆、仏性を備えているのに、必ずしもそれが充分にはたらいていない。
 やっと社会人としての自覚ができたり、死後に天国で幸せになろうと思ったり、とにかく自分の苦しみから逃れようと夢中だったりと、仏性の発揮されているレベルはさまざまである。
 しかし、今はどのレベルにいようと、自らを省みて正しく修行し、心の発達段階を一段づつ上れば、み仏そのもののになる即身成仏(ソクシンジョウブツ)が可能である。
 だから大切なのは、まず自分の心のレベルを正確に自覚することであり、いたずらに途中のレベルを卑下せず、小乗仏教大乗仏教、そして密教と、すべてを尊びつつレベルアップをはかろう」
 お大師様が声聞と縁覚の状態を厳しく示したのは、決して貶めるためではなく、「いつまでもそこにとどまっていないでさらに広く深い視点で修行し、自他を救う菩薩(ボサツ)になろう」と呼びかけるためです。
 当時の日本にあった仏教各派がお大師様と争わず、お大師様の教えをこぞって学び、高野山には各派の関係者や諸大名の菩提を弔う数十万塔の石碑があるのには、類を見ない包括的思想であるという理由があります。

 また、アジア各地から日本の仏教を学ぼうと来日する学僧の方々の本音も聞き逃してはなりません。
「娑婆の方々との区別がつかないような服装をし、同じように飲み食いにでかけ、遊ぶ生活を送っていて行者といえるのか」
「清浄なお布施以外の収入がある行者とは何者なのか」
「簡単に僧侶を名乗り、葬儀を探してはバイト料稼ぎをするような人々がいる国は日本だけだ」
 アジアで学ばれ、実践されている仏教にいのちをかけている行者の方々も当然、自他の救いを求め、世界へ目を向けています。
 私たち日本の行者たちは、彼らの目線にたじろがない自信があるでしょうか。

 遠回りをしましたが、「み仏の道をめざすなら自分が救われようとするだけではならない、他の苦しみを見捨ててはおけない慈悲心を持って初めて本当の仏道修行になる」というのがこの項の教えです。
 最後に、ブログ「回向(エコウ)は決め手」の一部を再掲しておきます。

「『善いことを行い、自分に善い結果がもたらされるのを待つ』という形はちょっとおかしいと感じる方もおられるのではないでしょうか。
 そもそも自己中心という我欲が苦の原因だから、これを克服しようとするのが仏法だったはずなのに、結局は〈自分のため〉では、善行に穢れが伴ってしまうのではなかろうかという心配です。
 当たりです。
 だから、善行は〈自分のため〉ではなく〈自他のため〉まで思いが深まってこそ、真の善行になります。
 この心になろうとするのが『願わくはこの功徳をもって普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん』という『回向(エコウ)文』なのです。

 では、回し向ける功徳とは何か?
 横断歩道をなかなか渡れないでいるお年寄りの手を引く、身体による善行は功徳となります。
 郵便配達をしてくれる人へ「ありがとう」と声をかけるのも、言葉による功徳となります。
 病魔と闘っている友人の当病平癒を祈るのも、心による功徳となります。
 これが身・口・意による功徳ですが、回向の心構えとしては、こうした「徳」を回し向けるだけでなく、さらに一段進むことが求められます。
 それは、自分へ善なる〈結果〉をもたらすであろうこうした善行という〈原因〉そのものをそっくり、回し向けようというものです。

 ここで言う〈原因〉を善根(ゼンコン)と呼びます。
 善なる花を必ず咲かせる根っこです。
 善根まで根こそぎ捧げよう、しかも、相手を選ばず、すべての人へ回し向けようというのですから、考えてみれば凄まじい話です。
 まず、自分に咲くはずの美しい花が咲かないかも知れません。
 それに、自分に嫌がらせをする人も、もちろん〈すべての人〉に含まれますから、『どうして私があんな人のために善根という宝ものを渡さなければならないの!』と怒るかも知れません。
 しかし、ここまで行って初めて自己中心という魔ものを克服できるのです。
 それほどまでにこの魔ものは強力で、自他へ苦を与え、自他を対立させ、自他を傷つけ合わせるという現実をよく観て、考える必要があります。
 そして、『惜しまず、相手を選ばず、見返りを求めず、与える』この行為こそが真の布施(フセ)行であることも、よく考えたいものです」


〈最近、本堂でアルビノーニのアダージョを流すと、クロが一緒に聴くようになりました。そして、こんな風に外を眺めたりもします〉

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「のうぼうあきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
06.15

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その64)─酪農家の死

 6月14日、福島県相馬市で酪農を営む男性(50才台)の自殺が報道されました。
 6月10日頃に首を吊ったそうです。

 去年建てたばかりの堆肥(たいひ)舎の壁に、ベニヤ板へ白いチョークで記された書き置きが残っていました。

原発さえなければと思います。
 残った酪農家は原発にまけないで頑張って下さい。
 仕事をする気力をなくしました」

 さらに、家族らへの詫び状も連ねられていました。

 隣接の牛舎にも書き置きがありました。

原発で手足ちぎられ酪農家

「やる気力なくした 6/10 pm1:00」
 その他もあったようですが報道されていません。
 
 男性はフィリピン人の妻と子供2人をフィリピンへ非難させ、自分もいったんフィリピンへ向かったものの、また相馬市へ戻り、その間、周囲の農家に面倒を見てもらっていた牛を手放しました。
 6月8日に牧場の草刈りを手伝った際、「もうやる気がなくなった。子どもが一緒なら頑張れるが、迎えに行く金もない」と話していました。
 帰国後、たった一人で黙々と搾乳し、それを捨てねばならない毎日はいかなるものだったのでしょうか。
 そして、約40頭の牛たちをすべて手放してからの自殺──。
 
 あまりにも重い一句「原発で手足ちぎられ酪農家」には、ただ頭を下げるしかありません。
 私たちは、明らかに、〈やってはならないこと〉をやったのです。
 天地万物は自然から生まれ、自然へ還るのに、自然界にはない元素であるプルトニウムを無理矢理に作り出し、エネルギーを利用した後の廃棄物は地下へ埋めます。
 命を育む大地は、空気を汚し大地を汚し水を汚し、しかも生きもののいのちからすれば、ほとんど無限と言うべき長期間、決して解毒されない毒物の処分場となります。
 それがいかに恐ろしい行為かは、自宅の床下へ毎日、影響を受けた途端に一家全滅するほどの毒物、しかも消えない毒物をため込むことを想像してみればわかります。
 私たちは悪いことを行うと、たとえ表面はごまかしても、良心の呵責を受けてその〈始末〉をつけないではいられません。
 空(クウ)であり流転してやまない万物を律しているのは因果応報の理であることを、直感的に知っているからです。
 始末をきちんと行える人はまっとうな人生を送られますが、悪業をため込む一方の人は、この世で、あるいは次の世で、必ずその報いを受ける日が来ます。
 いのちを害する毒物を作り出し、それをいのちの源へため込み続ける人類が、報いを受けないはずはありません。
 もしも、私たちが生きている今はうまくやったつもりでも、子孫たちの未来を考えた時、ぞっとしないでいられましょうか。

 年々歳々、時限爆弾をふくらませ続けているような文明には根本的な過ちがあるのでしょう。
 それが、酪農家の心身を「ちぎった」のです。
 酪農家の男性は、私たちの身代わりとして亡くなったとしか思えません。
 福島県酪農業協同組合の岡正宏生産部長はコメントしました。
「(亡くなったことは)非常に悲しいことだと思っています。
 搾った原乳を廃棄しないといけないのは、酪農家は非常に精神的に厳しいところがあったと思います」
「常に何かありましたら、組合のほうに来ていただければと思っていますが、対策室という専門部署を作って、農家さんのいろいろな相談に乗れるような対応はしているところです」
 現地の関係者の方々は、全力を尽くしておられるはずです。
 それでも抗し切れず、こうした結果を招きました。
 これが社会的な業である共業(グウゴウ)の恐ろしさです。
 ゴジラへ立ち向かうヘリコプターや戦車のように、個々がいかに奮闘してもなかなか勝利は得られません。
 勝つ方法はただ一つ、善い共業を作ることです。
 そのためには、皆が自分の「手足がちぎられ」ると想像せねばなりません。
 男性が自分の身代わりであると想像せねばなりません。
 そうすると〈やってはならないこと〉をやったと思えるはずです。
 男性がいのちをかけて遺した一句を忘れない以上の供養がありましょうか。
原発で手足ちぎられ酪農家

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2011
06.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その63)─別れと微笑み

 6月4日に行ったシンポジウム「大震災と原発問題 ~団塊、戦後世代はどう立ち向かうか~」の最後に、私は「原発のもたらす災厄は過去・現在・未来を覆う。このリスクは計算できるのか、そして避けられるものなのか?」と聴衆の方々へ問いかけました。
 今日も、どこかに、祖先から受け継ぎ息づいていた文化を捨て、人間や動物や自然との絆を断って故郷をたち去らねばならない方々がおられます。
 泣きつつ、歯をくいしばりつつ、時には無理に微笑みつつ、あるいは顔面を凍らせて生活の場へ背を向ける方々の思いは、とても第三者に忖度できるものではありません。
 当山には、その先に待つ心の崩壊から何とかして立ち直りたい、あるいは崩壊の予兆に怯えた方々がご来山されます。
 皆さんは、災厄そのものについてはあまり話さず、現在の思いを話されます。
 断ち切られるということの冷酷さに圧倒され、とりかえしのつかないできごとの重さにうちひしがれそうになります。
 失ってこそ深くわかる生活することの価値──、生活を成り立たせていた何の変哲もないものたちの価値──。
 あまりにも膨大な喪失です。

 41才の小泉八雲ラフカディオ・ハーン)が、一年間奉職した島根県松江尋常中学校を後にする時に書いた「さようなら」を思い出します。

「もしどこか別の国で、同じ時期、同じ仕事をして暮らしたとして、これほどたゆまぬ温かな人情の機微に触れる喜びを味わえただろうか」
「私はどの人からも、親切で丁寧な扱いしか受けなかった。
 ひとりとして不注意からでさえ、私に卑劣な言葉を発した者はいない。
 五百人以上の学生を教えていて、堪忍袋の緒が切れそうになったことは、一度としてなかった。
 こんな経験ができたのも、日本だからではないだろうか」
「この土地の魅力は、実に魔法のようだ。
 紛れもなく神々の存(イマ)す国が持つ魅力であるといえよう。
 それは、なんと霊妙で優美な色彩であることか。
 何と美しく雲と溶け合う山々の姿であることか。
 なかでも、山の頂を空に懸かっているように思わせる、長く棚引く霞の美しさ。空と大地が妖しく混ざり合っていて、現(ウツツ)か幻か、区別がつきかねる国なのだ──
 すべてが、今にも消えてしまいそうな蜃気楼のようである。
 そして、それが今まさに永遠に姿を消そうとしている」


 また、私たちが、いかに評論家から「騒げ!」と扇動されてもじっと生活しつつ、どこかに保持して絶やさない微笑みについても、「日本人の微笑み」を思い出します。

「銅とか石でできた仏像の微笑は、単にインドや中国の模倣ではない。
 仏師たちは、そこに、日本民族特有の微笑を象徴的に表現したのだ」
「日本の民衆の美所は、菩薩像の微笑と同じ観念、つまり、自己抑制と克己の精神から生まれる至福を表しているのである。
 仏教の経典『法句経』には、『戦場で千の千倍もの敵に勝つ者よりも、ただ自分自身に克つものこそが、最も偉大な勝者である』とか、『自分自身に打ち克ったものの勝利をくつがえすことは、天の力をもってしても不可能である』などとある。
 このような仏教の経典の文句は、はなはだ多いのであるが、日本の国民性の最も魅力的な面である、道徳的な傾向を形造ったとまで言わないまでも、よく言い表していると思う。
 日本民族の道徳的な理想主義が体現されているのが、鎌倉のあの素晴らしい大仏様であるように、私には思われる。
『深く、静かにたたえられた水のように穏やか』といわれる大仏様の慈顔に、込められているものは、かつて人の手が作り出した、他のどんなものにも比べることのできない『こころの安らぎこそ、最高の至福である』(法句経)という、永遠の真理であろう。
 東洋人が願い望んできた境地は、このような無限の平安である。
 だからこそ、究極まで自己を抑制することが、理想とされたのである。
 水面には新しい文明の流れが注ぎ込み、早晩、いちばん深いところまで、揺り動かされるには違いないが、西洋人の思想と比べるなら、それでも今なお、日本人の精神には素晴らしい平静さが保たれている」


 喪失した美しいものは、喪失によって、さらに心中での美しさを増します。
 そうしたものを抱えてしまった切なさ、辛さに耐えかねた善男善女が重い足をひきずりながら当山へ足を運び、み仏の前で座られます。
 私は、皆さんに、小泉八雲と同じく、「菩薩像の微笑」が隠されているのを観ます。
 もちろん、屈強な身体に蒼白な顔面が乗っている青年や、修法の間中ずっと涙が止まらない老婦人などが笑うわけではありません。
 しかし、み仏の前へ来られる方々には、はっきりと菩薩の心が宿っており、修法後にそれが表面に出たりすると思わず合掌したくなります。
 今日も、菩薩になれるよう修行し、皆さんの持つ菩薩の心と感応できるよう、法務に励みます。
 7月から『法句経』をテキストとした勉強会も再開します。
 心の源流を大切にしつつ、共に耐え、学び、励みましょう。
 

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2011
06.13

【現代の偉人伝】第126話 ─前高知県梼原町長 名越武義氏─

 6月11日の朝日新聞『ふろんとランナー』は、自然エネルギーで町作りを行った前高知県梼原町名越武義(67才)氏を紹介した。
 一読して驚嘆させられたのは、「税収3億円、人口4000人足らずの町」でデンマーク製の風車へ2億2千万円が投じられ、それが町作りの礎となったことだ。

 氏は、平成9年から平成21年までの12年間、高知県梼原町で町長を務めた。
 スタートは、日本で最も高地にある風力発電所の建設だった。
 就任の翌年に導入した前述の風車2基は合計1200キロワットの電力を生み出し、300戸がそれでまかなえた。
 余った電力は四国電力へ売られ、年間4千万円の収益が環境基金として積み立てられた。
 これが他の自然エネルギー採用の財源となり、作られたエネルギーはまた他の自然エネルギーの採用をもたらす循環がめざされた。

 平成12年、町の91パーセントを占める放置された森林を再生させるための「森林づくり基本条例」が制定された。
 5ヘクタール以上の干ばつや手入れをすれば10万円の交付金を受けられる仕組みによって、森との共生が実現した。
 森は本来の姿と力を取り戻し、人間は雇用されて生きる糧を得たのである。
 伐採された木はもちろん捨てられず、ペレットとしてバイオ燃料に生まれ変わった。
 森林セラピーのコースは、多くの観光客で賑わうようになった。
 森から流れ出る四万十川の源流の途中3カ所に造られた小さな水力発電所がもたらす電力は、昼間は町立中学校で使われ、夜間は街路灯を点す。

 やがて町立施設すべてに太陽光発電が取り付けられた。
 25メートルの温水プールは地熱発電による。
 太陽光発電を取り付けた家に出る20万円の助成金は100戸以上の採用をもたらし、四国一番の普及率となった。

 こうした環境政策は、公募によって集まり欧州を観察した15人の町民による提案から始まった。
 現在、財政は県内トップの健全性と安定性を誇り、過疎の町にもかかわらず7人の医師がいて町立病院は黒字経営を続けている。
 氏は言う。

「地域が一体となって、一つの目的に進みました」。

 隣町が放射能廃棄物の最終処分場を誘致しそうになった時は、先んじて反対した。
 平成21年に環境モデル都市に選ばれた時は、風車を40基に増やし、エネルギー自給100パーセントをめざす宣言を行った。
 ここまで導き、平成21年、惜しまれつつ引退した氏の名刺の肩書きである。

「百姓、土方、山防人(ヤマサキモリ)」。

 裏は風車の写真に「国家の実力は地方に存する」と書いてある。

 梼原町のホームページである。

「雲の上の町 ゆすはら > 環境モデル都市

 私たちの町、ゆすはら町では、森、水、風、光などの自然エネルギーを活かした取り組みによって、生き物にやさしい低炭素なまちづくりを進めています。
 2050年には温室効果ガス排出量770%削減、吸収量の4・3倍増(1990年)と、地域資源利用によるエネルギー自給率100%超を目指しています」。


 同日、久々に、山口青邨(セイソン)の一句を眼にした。

「こほろぎのこの一徹の貌(カオ)を見よ」。


〈http://static.freepik.com/free-photo/grig_21140403.jpgをお借りして加工しました〉
grig_21140403[1]

 一徹さは、石に穴を穿つ滴にたとえられ、岩を割る松の根にもたとえられる。
 名越武義氏の12年間は文字通り一徹だった。
 その姿勢と力は、国政がどうあろうと30年かけて理想郷を造ろうとする小さな町に乗り移ったかのようである。
 4月21日、環境省が発表した試算によると、再生可能エネルギーの導入可能量は5億キロワットにのぼり、現在の発電設備総量の2億キロワットを楽々と越える。
 発電に関する国策がどうなるかの道筋はこれから定まってゆく。
 国策を決める人々に一徹な人物はいるのだろうか。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
06.12

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その62)─助かった人と助からなかった人

 沿岸部でも、山間部でも、都市部でも、当山より被害の大きい家屋敷を見、私より辛い思いをしている方々と接し、いたるところで亡き人々を想いました。
 そして教えられるのは、当山が壊滅的崩壊に遭っていても、私が黒々と伸びてくる津波の舌にからめとられていても、ちっとも不思議ではないということです。
 これまで何人もの方々から問われました。
「なぜ、私だけが助かったのでしょうか?」。
「なぜ、夫は助からなかったのでしょうか?」。
 自分がここでこうしていることを〈必然〉と考えられず、あらゆることが「なぜ?」に包まれています。
 因果のつながりのすべてを知る能力を持たないのに、それを知ろうとせずにいられない私たちは、あたかも、晴れない霧の向こうに広がる景色を見ようとする人のようです。

 この因果への挑戦は、普段、行われません。
 それは、1へ1を加えれば2になるのは「自明の理」として経済活動などを行い、100人に一人も、「なぜ、1と1で2になるのだろう?」と問わないのに似ています。
 ゲーテは、1プラス1のありようを、「公開せる秘密」としました。
 皆の目に触れ、用いられ、わかられているかのようでも、本質的な部分は秘密になっているという意味です。
 非日常という現実の亀裂を体験した私たちは、こうした秘密の扉を開けようとしていますが、当然、なかなか開きません。

 秘密秘密のまま直感的につかみ、信じるのは宗教の次元です。
因縁を知ることは仏教を知ることである」とされてきたのはこの意味です。
 つながりの相対を知ることは不可能でも、あらゆるものが無限のつながりの中にあると直感的にわかるところから仏教は出発します。
 なぜ助かったのか、なぜ亡くなったのか。
 答は、「あの時、所用があって引き返したから」、「あの時、珍しく松林を眺めにでかけていたから」といった事実を持ってきても、得られません。
 1プラス1の計算法を使えても、いったん、なぜと問えば答を得られなくなるのと同じです。
 問への言葉による答はありません。
 文殊菩薩(モンジュボサツ)が維摩居士(ユイマコジ)へ「真理とは何か?」と訊ねた時、いかなる問をもこなす智慧者である維摩居士ですら深い沈黙をもって応じるしかありませんでした。
 言葉を超えた直感を共有した文殊菩薩は大いに満足し、言いました。

「すばらしい。
 悟りの次元にはもう文字や言葉はない」。

 だから、強いて言えば、「こうなるしかなかった」が人間的な答と言えるのではないでしょうか?
 論理的に言えば「そうなることになっていた」となりましょうが、この表現には、〈そうさせるもの〉を背後に用意したくなる危うさがあります。

 もちろん、「それではただの諦めではないか。被害者は単なる犠牲者か」という批判もあるでしょう。
 この問へは「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その45)疑問─」で答えてあります。
「人知の及ぶ範囲を遙かに超えて起こる巨大な天災や、独裁体制下などで起こる大量虐殺へ『なぜ?』と立ち向かっても、それは〈蟷螂(トウロウ…カマキリ)の斧〉の感がありますが、それでもなお、私たちは問わないでいられません。
 それは人間が持つ哀しい誠実さがなせるわざであり、哀しみから逃げず、誠実に突き詰めようとするするところに人間の尊さがあります。
 この誠実さは、究極的な答の遥か手前ではあっても、いくつかの小さな答を導き出します。
 それが自然界の摂理に関するものであろうと、人間界の真実に関するものであろうと、あるいは自分の心に見つけたものであろうと、私たちはそこを足がかりにして、再び起こり得るできごとへ立ち向かおうとします。
 私たちは全体的あるいは根元的な答を得られなくても、前へと確かな歩みを続けられます。
 苦しみつつ答の出ない問いを問うことはまぎれもなく、大切で尊い行為なのです」。

 災厄がもたらした被害の大小は、モノの量では計れても、心の次元では計れません。
 被害のもたらす苦しみや悲しみや辛さは、呻きと共に「なぜ?」と問わせます。
 疑問を持つ余裕すらなかった無我夢中の時期を過ぎると、あちこちで答のない問が問われることでしょう。
「こうなるしかなかった」と思えない時は、淺知恵や怪しいお告げなどで無理に答を得ようとせず、沈黙に身を浸しましょう。
 み仏の前で沈黙の時間を過ごすのも一法です。
 み仏の微笑みや鳥の声や流れる水の音が、文字や言葉を超えた何かを教えてくれるかも知れません。

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2011
06.11

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その61)─静けさ

 これまで、法話などで繰り返し、お話してきました。
「日本全体に苦しみ、とまどいが広がっているのは、無常があまりに大規模な形で顕れたからです」。
 今までの日本で、無常の極みであるは、〈手続きで過ぎゆく〉、あるいは〈施設での〉、あるいは〈どこかの誰かの〉などとして、日常生活へ組み込まれているかのようでした。
 の訪れは日常的な次元でとらえています。
 もちろん、ご家族や近しい人々にとっては、切り裂かれるような心の痛みや、何も考えられなくなるようなやるせなさを伴う人生の一大事ではあります。
 それでも、日々、に接する私は、死は一つの社会的現象としてすぐに手続きへつながるものとなっているという面を強く感じていました。
 葬儀は要らない、戒名は要らない、お墓は要らないなどと声高に叫ぶ人々にとっても、結局は〈方法の主張〉です。
 誤解を招くかも知れないと覚悟しつつ言えば、異次元である死へ「これは何なのか」と問い、悩むのではなく、「これをどうするか」と考え、案じるという面が強くあったように思われるのです。

 ところがこうした事態では、亡くなった方にとっても送る方にとっても、どうするかと考える時間がなく、送る方法すら途方に暮れました。
 死が〈否応ない〉、〈どうしようもない〉という非日常性を、この上なく強く鋭く生のままで私たちへぶつけてきたのです。
 どうするかの一歩手前で、どうしようもなくて足踏みせねばならない辛さは、これまでほとんどないものでした。
 日々、当山を訪れる方々と、どうするかを考える私は、皆さんの〈一歩手前にいる辛さ〉を共有します。
 そこを充分にわかり合えなければ、どうするかという問題に最善の答は出ません。

 いかに「がんばろう」「大丈夫」というかけ声を聞かされても、強く立ち止まらせられた心は静厳(セイゲン)であり、澄浄(チョウジョウ)ですらあります。
 現実に苦しむ皆さんがもの静かで、避難所の玄関の履き物がきちんと揃えられているのは、日本人が忍耐強く、礼儀が忘れ去られていなかっただけではないのでしょう。
 辛さを抱え苦しみを抱えつつ、非日常の持つ厳粛さの前で物静かにふるまう方々と接する時、手を取りたくなり、あるいは襟を正したくなります。
 これも誤解を恐れずにあえて言えば、現実の辛さ、苦しみからは一刻一秒でも早く抜け出していただきたい一方で、この静けさにかけがえのない価値があることも指摘しておきたいのです。

 最近は、「政府も関係者も皆けしからん!」、「一揆のように立ち上がろう!」、あるいは単純に「騒ごう!」などと煽り、喧伝する人々が目立ちます。
 神部廣一医師の「災害と原発(被災者になって感じること)」にある真実はこうです。

「今回被災者の立場でメデイアをみると、伝え手(アナウンサー・解説者)の資質と人間性がよくわかります。
 総じて、距離が遠いほど、教養が低いほど傍観者的態度が大きくなり、言葉の空虚さが窺えます」。
「現時点で原発問題を政府を含めて、非難するつもりはありません。
 原発についていろいろ言う人がいますが、大前提として『現場は最善を尽くすべく最大限の努力を払っている』ということに感謝と敬意を持つべきです。
 うまくいかないからといって上げ足をとったり、専門家でもないくせに、ネットで得た知識を引用して不安をあおる輩がいますが、恥ずべき態度です。
 たとえばいわき共立の徳山先生などは一言も愚癡を言っていません。
 現場に近いほど、専門家に任せて祈るしかないのです」。

 医師になる前、「化学工学というシステム設計を専門としていましたし、新日鉄では原子炉用の極厚大単重鋼板製造にもかかわって」おられた先生の言葉をかみしめようではありませんか。

 非日常へ真剣に対峙し、生きる苦労をしながらも心の静けさの伴った日々をじっと過ごす方々は、真実を生きておられます。
 私たちは、できることを行いつつ、黙ってこの静けさを共有しようではありませんか。
 これこそが、私たちの文明の行く先を誤りなく導いてくれる精神ではないかと思えてなりません。
 騒がず、慌てず、愚癡を言わず、じっと分を尽くす方こそ社会の宝ものです。
 そんなAさんからのお便り(抜粋)です。

「3月、4月の地震、還暦を迎えた私にとっても厳しい経験であり、診療所の患者さんが亡くなったり、場所柄、津波で家をなくしてしまった人、仕事をしながら何てお声をかけていいのやら(?)。
 でも、震災の次の日から電気も水道もない中、診療所の診察は始まりました。
 パソコンが使えず、手書きのカルテ、電卓での会計、そして近所の医院が数カ所津波で一階が使用できず、一ヶ月間は普段の倍以上の患者さんが数百人。
 毎日毎日帰って布団の中に入って寝るだけの生活。
 土曜、日曜は地域の施設へボランティア看護士として出かけ、さすがに疲れた二ヶ月でした。
 忙しさのあまり、心配していたお墓をやっと見に行きました。
 津波には大丈夫でしたが、お線香をあげる台がひびわれてしまいました。
 先生、がんばりすぎてやせていらっしゃいませんか。
 余震が続きますが、心配なさらずにご自身のお体も大切にしてくださいませ!」


 気分のレベルへ堕していた無常が、真実を生きる土台として、意識されずとも、私たちの心の血肉になりつつあります。
 静慮(ジョウリョ…おちついた思慮)を伴う努力が精進です。
 それがいかに激しく厳しいものであっても、静慮なき精進はあり得ません。
 皆さんの苦しみ、辛さを共有し、共に涙をこらえつつ、この静けさを大切にしながら精進したいと願っています。

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2011
06.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その60)─心の眼を開く

 被災地へ足を運んだ方々から、カメラのシャッターを切られなかったというお話をたくさんお聞きしました。
 私もまた、撮れなかった一人です。
 最初に訪れた陸前高田市の海岸で、人や家は撮れず、座布団やアルバムなどの漂流物へレンズを向けてそこから発しているものを感じ、祈るのがせいぜいでした。
 なぜ、最も悲惨なところを避けるのか?
 それには二つの理由がありましょう。
 一つには、できごとの持つ圧倒的な力に厳粛さを感じ、気圧(ケオ)されてしまうからです。
 その下にご遺体が横たわっているかもしれない倒壊した家屋と懸命に捜索している自衛隊員を前にして、手を出せない自分は合掌して立ち去るしかできませんでした。
 もう一つには、傍観者であることへの道徳的な責めに耐えられないからです。
 救助されるべき被災者や被害者を撮ることの辛さ、難しさは、まっとうな報道関係者にとって避けられない責め苦を伴う関門なのでしょう。
 ピューリッツァー賞を受賞するような方々の精神力はとてもはかり知れません。
 ベトナム戦争のまっただ中、焼かれた村から川を渡って避難しようとする親子を助け、さらに後ずさりしながら「安全への逃避」と名付けられた決定的な一枚を撮った故沢田教一氏は言いました。
「一瞬、私の心は止まった。私の心は泣いた。私の心は炎となった」。

 さて、私たちは、見て、写真を撮ります。
 この「みる」には、 「見る」「観る」「視る」「察る」「看る」「診る」など、たくさんの種類があります。
 視界に入るものへ自動的に肉眼のピントを合わせるのが「見る」。
 視界から入った情報を心でもう一度とらえるのが「観る」。
 子細へ意識をこらしながら見るのが「視る」。
 目に見えていない病状などをとらえようとするのが「看る」や「診る」。
 そして、「みた」ものからもう一段深い情報を得ようとするのが「察る」。
 私たちが普段、何気なく使う「見てみましょう」という言葉は、「みて察る」であり「みて観る」です。
 このパターンは「聞いてみる」や「食べてみる」や「やってみる」など、深く観る、あるいは察することを含むあらゆる言葉へと果てしなく広がります。

 沢田教一氏ならぬ私たちは、悲惨な現場が目に映った段階で耐えられなくなり、その先へなかなか進めません。
 ところが観音様は違います。
 観自在菩薩と呼ばれるだけあって、無限の自在性はあらゆるものを観逃しません。
 見るだけでなく、観世音菩薩でもあり、私たちの救いを求める音声をも「聞いて観て」くださるのです。
 観音様は常に心の目が開いておられる方であると言えましょう。
 私たちも、「心耳を澄ませる」というように「心眼を開く」ことができれば、見えるものの本質や真実に迫れるはずです。
 宮本武蔵は「見(ケン)の眼と観(カン)の眼」という簡潔な表現で心眼を開いて極意へ向かう道筋を示しました。

 私たちは、どうしても現場で怯(ヒル)みます。
 私たちが観音様がその悟りの心を表した般若心経を読誦するのは、心眼を開き、目に映る現実の奥にある(クウ)を観ての真実から逃げないためです。
 さらに「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」と悟りへの真言を唱えることによって、に立ちながら自他を救う大欲(タイヨク)を発揮する菩薩になるためです。
 観音様に導かれ、観音様がその悟りの心を表した般若心経に導かれて、少しでも心眼が開けるよう、菩薩としての行動が行えるよう、学び実践したいものです。

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2011
06.09

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その59)─日本を信じつつ、我が子を看病する

 岩手県在住のAさんが、大震災の影響によって躁うつ病の悪化したお子さんに関するご相談で来山されました。
 お子さんは、躁状態の時は別人のような目つきで強引な態度になり、うつ状態の時は一日中寝ているといった生活を続けています。
「とても良いまじめな子で、自慢の種でした。
 地震が来るまでは回復が順調だっただけに、悔しくてなりません。
 今はもう、あきらめつつありますが、自分があの世へ行ったら子供はどうなるのか心配でなりません」。

 気丈なお母さんはもう70才を超え、お子さんは40才代のはたらきざかりです。
 病気の対処法は、はっきりしています。
 第一に、お子さんと心の波長が合い信頼できる医師を根気強く探すこと。
 第二に、ネット上に氾濫している治療と薬に関する情報を鵜呑みにせず、足を骨折したならば松葉杖に頼るのと同じ気持で信じた医師の治療法に従うこと。
 第三に、薬は必ず指示通りに服用し、その結果として表れている実際の状態をありのままに医師へ伝えること。
 第四に、症状の変化や薬への心配など気になる点は自己流で解決しようとせず、どのような些細なことでも遠慮せず医師へ相談すること。

 Aさんご自身についても、不安を吐露されました。
「子供への接し方がわからなくなりました。
 お医者さんは『なるべく好きにさせてください。精神年齢が一時的に大人でなく、子供の状態に近いと心得て接してください』と言います。
 でも、やってはいけないことについては厳しくしなければならないと思うし、イライラが募って、きつい言葉をぶつけたくなる時もあります。
 自分の心をどのようにすれば良いのでしょうか?
 また、一番心配なのは、私が死んだ後のことです。
 ただただ心配で、私が参ってしまいそうです」。

 お答えしました。
「接し方のマニュアルはありません。
 人の性格も、人と人との関係も千差万別だからです。
 ただ、言えるのは、貴方とお子さんは今までも親子であり、これからも親子であるということです。
 貴方がこれまで親として接してきた気持で、幼子が風邪を引いた時と同じ気持で、今できることをするしかありません。
 親子だからできること、親子でなければできないことを行うのみです。
 親子あるいは夫婦の誰であれ、親や子や夫や妻に看病してもらえるのを幸せと考えたいものです。
 もちろん、他人である看護士などは劣るという意味ではありません。
 縁が年月によって熟成した深い絆を信じて、自分が行っている看病は、誰にも負けない世界一であると自信を持ってください。

 次のご質問ですが、貴方が亡くなった後のご心配は当然です。
 これまでたくさんの方々から同じご質問を受けてきました。
 中には、80才の母親が年賀状へこう書かれた例もあります。
『子供の杖になりたいのです。
 お護りください』
 私が申し上げられることはたった二つです。

 まず、日本を信じ、信じられる国にしましょう。
 少子高齢化の社会となった日本の経済力は、この震災の影響もあってなかなか上昇しないでしょう。
 失業者や生活保護の方々は簡単に減らすこともできず、日本は、競い合って伸びる社会から、皆で、暮らしにくい人々を支える社会へと変わりつつあります。
 でも、ガッカリする必要はありません。
 お隣さん同士で味噌や米を貸し借りし、『大家と店子は親子同然』だった江戸時代の長屋を想像してみましょう。
 あるいは敗戦後、焼け野原から立ち上がった世代の話を聞いてみましょう。
 皆が目線を上げつつ、同時に手もつないでいたはずです。
 これまでの日本は、それぞれが勝手に目線を上げすぎ、手をつなぐ面が薄れていたような気がします。
 個人の上昇志向と横の連帯とのバランスが時代によって変わるのは当然です。
 日本の政治はかなり批判を浴びていますが、日本人の精神風土は崩れておらず、むしろこの大震災で良い面が復活しつつあります。
 いろいろ問題はあっても、基本的に、日本は日本人を見捨てません。
 見捨て始めたと思えば皆で方向を修正させましょう。
 どうせだめだと思ったなら、本当にだめな国になりかねません。
 テレビで流れるメッセージとは別な自分自身の視点から日本を信じ、『自分亡き後は、きっと国が何とかしてくれる』と信じましょう。 
 もう一つ申し上げるのは、貴方がお子さんへ全力投球されるのは当然であり尊いことですが、ぜひ、貴方自身を回復する時間と空間も確保していただきたいということです。
 そんな余裕などありはしませんとおっしゃりたいお気持はわかります。
 私自身も、急に深く落ち込んだ妻を看病しながら仕事を続けていた時期があるので、いささかは理解できます。
 しかし、それでもなお、意識して自己回復をはかればできるし、貴方自身がご自身の生命力を新鮮に保つことが、しっかり看病する条件だと申し上げたいのです。
 自己回復は、自己解放が前提です。
 そのための時間を何としてもつくりましょう。
 お金も、自分亡き後のために貯めておこうとばかり思わずに、自分へ許せる範囲で使い、しっかり自己解放自己回復を行いましょう。
 そうやって元気な貴方であってこそ、お子さんの看病を続けられると考えてください。
 そもそも、貴方が億万長者であればまだしも、そうでない以上、お子さんのこれからの人生のすべてをまかなえるだけのお金を残せますか?
 できないのなら五十歩百歩ではありませんか。
 もちろん、貴方は無責任に自分の役割を国へ押しつけようとはせず、まっとうに、真剣に責務を果たそうと生きておられると見込んでこのように申し上げているのです。
 ぜひ、ご自身のために時間もお金もそこそこに使い、ご自身の人生の充実もはかりながら、看病してください。
 現実は厳しくて、そんなことができるくらいなら相談に来てはいませんとおっしゃりたいかも知れません。
 でも、心がけ次第で、周囲の見え方や時間の流れ方は必ず変わります。
 小さなご提案を心の隅に置いていただきたいと願っています。

 心の支えが欲しい時、気持を切り替えたい時は、守本尊様の真言を唱えましょう。
 お子さんを護って欲しいならばお子さんの守本尊様の真言、貴方自身が護られたいならば、貴方自身の守本尊様の真言です。
 つぶやくだけでもスッと心の状態が変わり、ご加護を実感できることでしょう。
 守本尊様と亡きお父さんに護られてお子さんが早く回復されるよう、お子さんとのかけがえのない日々が無事安全に送られるよう、心から祈っています」。

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2011
06.08

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その58)─お骨の行方

 もうすぐ大震災百か日忌がやってきます。
 四十九日忌に御霊をお弔いしかねた方々からのご相談が増えました。
 最も多いパターンです。
「火葬にはしたのですが、まだ、そのままです。
 とてもお墓を建てる余裕はなく、どうしたら安心してもらえるだろうかと案じていて、法楽寺を知りました。
 戒名をつけて本堂で拝んでもらい、共同墓に納骨するのにはどうしたら良いんでしょうか?」
 今回、犠牲になられた方のお身内は東京から北海道などへ広範囲に及び、電話でのご相談もあれば、共同墓『法楽の礎』を見に来る方もおられます。

 皆さんお一人お一人のお話をじっとお聞きしていると、突然、むしり取られるようにお身内を失われた方々の思いが冷たい朝霧のように迫ってきて、痩せた顔から血の気が引ききます。

「弟が妻を亡くしたのですが、それっきり閉じこもってしまい、何もできなくなりました。
 いつ、立ち上がれるかわかりません」
 Aさんご夫妻は故人の家族葬と納骨を決め、契約した碑盤の隣に弟さんの分を生前契約されました。
「弟も、最後は妻の隣に眠られると知ればきっと安心するでしょう。
 きちんと区切りをつけて、気持の整理をさせてあげられればと思います」。

「両親を亡くしました。
 私は独り者で、子供もいません」。
 Bさんは、亡き両親の碑盤の間に自分の生前契約をし、生前戒名も申し込まれました。
「子供のころ、川の字になって寝ていたことを思い出します。
 一人っきりになってしまったので不安でしたが、最後は両親に抱かれて眠られると思うといくらか気持が楽になりました。
 それにしても生前戒名って、この世とあの世がつながっているようで、不思議なものですね」。
 お身内を亡くされた方と取材にこられた方とお二人から「生前戒名にこの世とあの世のつながりを感じる」という全く同じ感想を同じ日にお聞きし、あらためて生前戒名の力に感謝しました。

 災厄で亡くなった方は無念さのあまり、成仏できないのではないかと心配される場合が少なくありません。
 ひっそりとお伝えします。
「人の一生は、長さによって尊さが違いはしません。
 因縁によって生まれ無常に従って去るまでの人生を価値判断する尺度はないからです。
 み仏はいかなる死を迎えた人をも等しく導かれ、故人はもう、み仏の子としての歩みを始めておられます。
 故人の思いを忖度し、供養するのは私たちの心の問題です。
 私たちが『安らかであって欲しい』と回向(エコウ…供養の功徳を回し向けること)すれば、それが御霊の歩みへ優しい追い風となって届くとされています。
 この世とあの世は心でつながっています。
 み仏を信じ、祈りましょう」。

 コーディネーターCさんが言われました。
「最近、葬儀はいらない、戒名はいらない、寺院は何をやっているんだというパッシングが流行っていました。
 しかし、いざ、こうした事態になってみると、やはり心のよりどころが必要であり、仏教とお寺の大きな役割が再認識されつつあると見ています。
 一部の人々は伝統的な形を壊そうとやっきになっていましたが、そうした人々の机上の空論と現実は乖離しています。
 実際に辛い思いをしている多くの方々が、形ではなく心のレベルで仏教とお寺に救いを求めています。
 心という真実が薄れたから形もいらないと叫ばれてきましたが、心の求めに応じてしゃんとしなさいと、お寺も僧侶も求められているように思えます」。
 とても心強い励ましです。
 求める方々の思いをきちんと受けとめられるよう、いかなる状況の御霊も必ずみ仏の救いの世界へ入っていただけるよう励みます。

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2011
06.07

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その57)─「よけいな言葉」の善意と欺瞞

「シンポジウムが終わりました ─トリアージ応召─」
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」
 二つの稿で、神部廣一先生の指摘する「よけいな言葉」について考えました。

 ところで、こんな詩があります。
「私たちの建築に供給するために
 時の中には
 材料がいっぱいになっている。
 私たちのもつ今日や明日は
 私たちの建築の有力なる材料である」。
 マンダラであるこの世に、「つまらぬもの」として決定的に排除されるべきものはありません。
 では、よけいな言葉の存在価値は何か?
 それは三つあります。
 一つは、被災地から遠く離れた東京の何不自由ない条件下でメッセージの場面を撮影される有名人たちの思いも、あるいは本気かも知れないという面です。
 無駄かもしれない、邪魔かも知れない、批判されるかも知れない、誤解されるかも知れない、本心なのにわかってもらえないかも知れない。
 こうした思いを抱きつつ、それでも、「日本はきっと大丈夫だから、どうか、あまり落ち込まないでください」と言わざるを得ない善意も想定したいものです。
 もう一つは、〈悲惨な情報群〉と対照的な〈励まし情報群〉があるために、心のバランスがとれたり、立ち直られる人もあるという面です。
 もちろん、プラス的に受け取るのは避難所におられる方々よりは圧倒的に、津波に遭わず自宅で心が沈みかけておられる方々ではありましょう。
 当山にも、ご主人を亡くされた上にこの震災で心が弱ったご婦人から「若い人たちが大丈夫と言って一生懸命励まそうとしているのだから、私もしっかりしなきゃと思っています」とのメッセージが寄せられました。
 そしてもう一つは、厳しい現場へ足を運べなくて悔しい方々や罪悪感すら感じている方々にとって、深く同情し、言葉で励ますのなら自分にもできると思えば、救いになるという面です。
 厳しい現場で苦しむ方々が災厄の直接的被害者であるとするならば、悔しい方々や罪悪感に苛まれる方々は間接的被害者です。
 そうした方々にとって救いになるのは大切なことです。

 さて、数年前、不登校の児童を指導する方法に関し、あるテーマが議論になりました。
「学校へ行くのも、行かないのも、決定権は子供にある」。
 この主張には賛否両論あり、自分で決めるのは子供の権利であって、親や教師が登校を強制するのは人権問題であると息巻く弁護士もおられました。
 私は思いました。
「健康な子供と風を引いた子供では指導法が違わねばならないのに、絶対的な方法を主張して白黒つけようとするのには無理がある」。
 十分、余力があるのに怠け心が出ている子供なら、叱って登校させねばならないでしょう。
「人間社会で生きている以上、子供もきまりに従わなければならないのだから、しっかりしなさい!」。
 しかし、すっかり参ってしまった子供なら、自分に任せるのも一法でしょう。
「行くのも行かないのも、君の人生なのだから自分でよく考えて決めること。無理をしなくても良いんだよ」。

 今回の議論についても同じではないでしょうか。
 確固たる精神を保持している場合は、よけいな言葉に軽薄さを感じたり、実際に汗を流さず言葉と気分で〈事たれり〉と終わらせかねない欺瞞を見つけたりします。
 一方、信じて、あるいは種々の事情でよけいな言葉を口にする場合もあれば、それが小さな救いになる場合もあります。
 そして、私たちの精神は一生の間にあちらこちらと揺れ動き、年月をかけて錬磨されます。
「あくまでも個人的な見解をちょっと述べます」と断った上での神部廣一先生による貴重な問題提起は、いろいろなことを考えるきっかけになりました。
 シンポジウムに参加して、目を見開かされた方々もおられたのではないでしょうか。

※以下のページもご参照ください。
「シンポジウムが終わりました ─トリアージ応召─」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2735.html)
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2736.html)

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2011
06.06

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その56)─言葉と心を振り返る

 裸一貫から敢闘精神で地域一番の企業グループを育て上げ、政治家としても着々と実績を積んでおられる大須賀啓氏がしみじみと言われました。
「ボランティアを募って避難所へ炊き出しに行きました。
 50人ほどでカレーライスなどを作り、とても喜ばれました。
 しかし、被災しておられる方々へかける言葉としては『がんばってください』しかないのですが、これがとても難しくて困りました。
 中には『どうがんばれば良いのですか?』と問う方もおられます。
 困りました……」。

 相手にとって明らかに必要であることを行っている人が、相手を心から慮って自然に口から出る言葉すら、相手の心へ届く前に、その空虚さで消えてしまうのです。
 危うく日々を生き抜いている人へ降りかかっている現実の厳しさは、血肉を養う具体的な手立て以外ものものを拒絶しています。
 だから、仙石病院理事長の神部廣一医師は指摘します。
「不幸な他人に、求められていないのに割って入ってまでかける言葉はない」。
 しかし、テレビでは、内容のない言葉が垂れ流されています。
「被災地の皆さん、もうがんばらないでください」。
 一体、誰が、いかなる意図で、歯をくいしばっておられる方々へこうした無神経な言葉をぶつけているのでしょうか?
 私たちの文明の底はまだまだ浅いようです。

 大組織の長であるAさんは人知れず、自分の心にある慢心と戦っておられます。
「私も被災者ですが、何もかも無くした方々よりはまだ、恵まれています。
 神仏か何かに生かされて今、ここにいると思っています。
 だから、避難所でお手伝いをしてもいます。
 でも、一生懸命にやればやるほど、自分の心にある嫌な部分が気になります。
 それは、『自分はこの人たちほど不幸ではない』という優越感です。
 自分ではまったく考えていない内容を持っているこうした気持があるのは確かです。
 煩悩(ボンノウ)なのでしょうか?」。
 死に神と遠く離れずに生きていおられる方々には、ある種の厳粛さが漂っています。
 だから、そうした方々と接すると敬虔な気持にさせられます。
 敬虔さは光となって心を清め、心にある不純物を照射するのではないでしょうか。

 大須賀氏もAさんも、人生の達人です。
 そうした方々をも途惑わせるほど強い力で迫る現実があります。
 真摯に自分の言葉を振り返り、心を振り返りましょう。
 誰かにとって必要なことを行いつつ──。

※以下のページもご参照ください。
「シンポジウムが終わりました ─トリアージ・応召─」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2735.html)
東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その57)─「よけいな言葉」の善意と欺瞞(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2737.html)

〈シンポジウムで熱弁をふるう神部廣一氏〉
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