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2011
08.31

アメリカの人体実験

 8月30日、時事通信社は、「性病人体実験で83人死亡=グアテマラで-米大統領委発表」の見出で恐るべき事件を発表しました。
 以下、転載します。 

「米国が1940年代に中米グアテマラで、性感染症の治療をめぐる『人体実験』をしていた問題を調査している米大統領委員会は29日、実験で少なくとも83人が死亡したと発表した。
 実験は46年から48年にかけ、当時は新薬だった抗生物質ペニシリンの効果を調べる目的で約5500人に行われ、このうち1300人が性病に感染した。
 実験に関する事前説明はなく、同意も取っていなかった。
 売春婦を梅毒や淋病に感染させ、兵士や刑務所の受刑者らと性交させるなどして実験を行った。
 実験対象者には精神病患者も含まれていたという。
 同委員会のグトマン委員長は『医学実験が現在は倫理的に行われていることを人々に保証するためにも、非倫理的な歴史的不正を正確に記録することが重要だ』と強調した。
 人体実験の事実は昨年、マサチューセッツ州のウェルズリー大学教授の調査で発覚。
 これを受け、オバマ大統領は昨年10月、グアテマラのコロン大統領に電話で謝罪するとともに、同委員会に調査を命じていた。
 調査報告書は9月、大統領に提出される」


 1945年(昭和20年)8月14日には「大東亜戦争終結ノ詔書」が公布されて日本の敗戦が決まり、翌15日には、昭和天皇がそれを朗読したレコードがラジオで放送されました。
 その直後、アメリカではこうした非人道的な行為が行われていました。
 おそらくは帰還した軍人たちの間で性病が蔓延しており、それが戦後の社会へ甚大な影響を及ぼすことを懸念してのことだったのでしょう。
 売春婦、兵士、受刑者、精神病者などがモルモットとして扱われていたのです。
 アメリカが主体となって日本へ強制した「日本国憲法」の前文にはこう書かれています。 

「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」
「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」


 斎藤茂吉は日記に書き記しています。

「(昭和21年)一月二十七日、敵の約七十機が帝都に来襲し、都内数箇所に被害を蒙った。
 其所は工場地帯でもなければ、軍事施設帯でもなかった。
 新聞には無差別盲爆だと報じたが、敵は承知のうへでかういふ行為をしてゐるのである。
 よってこの行為を吾人は忘却してはならない」


 また、ソ連が、アメリカ、イギリス両国と謀った上で1945年8月9日、突如日本へ宣戦布告し、60万人から70万人といわれる日本人をシベリアへ連れ去り、過酷な条件の下で強制労働に従事させ、その多くを殺しました。
 武装解除した日本兵の家庭への復帰を保証した「ポツダム宣言」に背く行為であり、約50年後の1993年になってようやく、来日したロシアのエリツィン大統領が「(シベリア抑留という)非人間的な行為に対して謝罪の意を表する」と謝罪しました。
 しかし、日本軍が倒れるどさくさにまぎれて南樺太とクリル諸島を奪い、満州から権益を奪った勝者の略奪は、単なる歴史的事実として定着しつつあります。

 私たちが、〈他を害する〉ことを悪と思い定め、〈他を害する〉ことを怖れ、〈他を害する〉心を捨て去らない限り、小は1対1の争いからこうした国家的規模での非人道的行為まで、悪は跋扈し続けることでしょう。
 人体実験も、無差別爆撃も、拉致や強制労働も、おぞましく怖ろしい悪行です。
 人間の行う悪行を知り、震え上がるほど心の底から怖ろしいと感じ、自分にはやれないと確信するところからすべては始まります。
 悪行を見聞きしても、自分の向こう側にあるできごとであるとしてすぐに関心の外へ出してしまうならば、いつ、どこで、私たちが悪行の被害者になり、もしくは悪行に荷担するかも知れないという状況は変わりません。
 実に、悪行も悪しき人間も、反面教師という名の師です。
 師にできるかどうかは、私たちの心構え一つにかかっています。
 自分を救うだけでなく子々孫々をも救うため、善悪を峻別する清冽な思考と震え上がる感性とを失わないようにしたいものです。

20110831 0102



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2011
08.30

宗派の違う位牌は仏壇へ入れられないか

 並木道を歩いているといつしか汗ばみ、冬という気がしない暖かな午後、乗ったタクシーの運転手さんから、いきなり質問されました。
「私は末子なので嗣ぐお位牌もないのですが、ミニ仏壇を買って自分の親と妻の親の小さな位牌を拝んでいます。
 しかし、この前、本家筋から、私の本家の宗派と妻の実家の宗派が違うので、両家の位牌を一緒にしてはだめだときつく言われました。
 それで、妻の親の夫婦位牌は、泣く泣く仏壇の脇へ置いています。
 姓が違う人の位牌を同じ仏壇へ入れると家運が傾くという話も聞いたことがあります。
 私も妻も釈然としません。
 どうなんでしょうかねえ」

 これは、仏壇は小さなお堂だという本質を無視した道理のないタブーです。
 そもそも、屋敷内に作っていた供養のためのお堂が家の中へ入って仏壇になったので、仏壇へお釈迦様を祀ればそこは釈迦堂、お不動様を祀れば不動堂、大日如来を祀れば大日堂、お地蔵様を祀れば地蔵堂、阿弥陀様を祀れば阿弥陀堂になります。
(ご本尊様のおられない仏壇は、主のいない家のようなものです)
 ご本尊様方は、どなたであれ、救いを求める相手を選ばず、平等に扱ってくださいます。
 たとえばお釈迦様が、あるいはお不動様が救いを求める人を宗教宗派や姓によって区別し、「あなたは救いましょう。あなたはだめだからあっちへ行きなさい」などとおっしゃることがあり得ましょうか。
 日々ご本尊様方へ手を合わせ、仏縁を求める方々のために宗教宗派を問わず等しく祈っている一仏教徒としては、とても信じられない考え方です。

「争い、いろいろと理由をつけて差別し、排斥し合うのは人であって、み仏ではありません。
 凡夫のような区別や差別を離れているからこそ、み仏であり、ご本尊様です。
 そもそも、ご夫婦自体がこだわりなく祈っておられるではりませんか。
 それこそが、み仏になっている大切な瞬間です。
 余計な心配は要りません。
 どうぞ一緒にご供養してください」

 いつものように申し上げました。
 50才台の実直そうな運転手さんは、そうですか良いんですねと声のトーンが上がりました。
「ありがとうございました。
 今から帰ってさっそく妻へ話します。
 これで、妻の親も入れます」
 
 降りる時、気持ですからとつぶやくように言い、料金の端数をおまけしてくれました。
 山里から都市部へ出て修法と法話を行い、また山里へ帰る途中のできごとでした。

(この文章は、平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20110829 0072



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2011
08.30

野田佳彦氏が民主党代表選挙に勝利した理由

 8月29日に行われた民主党代表選挙は、事実上、日本の最高権力者を決める選挙なので、最高度に激しい多数派工作が行われたのは確かです。
 マスコミ各社は誰がどうしたと、より詳細な情報提供を競い合い、〈決め手〉探しに懸命です。
 しかし、選挙戦の実態を公平に、かつ巨視的にとらえることは至難のわざでしょう。

 私は、機関誌『法楽』作りにかけつけてくださった善男善女と一緒に作業しつつ、ラジオで各候補者の演説を聴いていました。
 そして、「時が来た」と感じ、野田佳彦氏の勝利を確信しました。
 言葉の選択といい、話の抑揚といい、信念の明確さといい、にじみ出る生命力といい、話には強靱な志の裏付けがあり、いわゆる演説のうまさを超えて格段の光彩を放っていたからです。

 古来、密教には埋蔵経(マイゾウキョウ)という言葉があります。
 真理を説く経典は、これまですべて発見されているわけではなく、必要とされ理解される時を待って埋もれているとするのです。
 日本においては、若き日のお大師様が祈願の結果『大日経』を発見し、疑問を解くために海を渡り、ついに密教を日本へ伝えた例があります。
 私は密教の法統を嗣いで学び実践しつつ、経典と同じように、〈人材〉にもまた、そうしたタイプの人物がいると考えてきました。

 謡曲「鉢の木」の故事は有名です。
 鎌倉時代、時の最高権力者である北条時頼は、僧侶の姿になって全国を旅していました。
 ある晩、吹雪にあって川を渡れなくなった時頼は、見つけた家で一夜を過ごさせてもらいます。
 主人は、見知らぬ僧侶のために、大切に育てていた梅と松の桜の盆栽を炉へくべてもてなしました。
 そして主人佐野源左衛門尉常世(サノゲンエモンノジョウツネヨ)は、「私は今、貧しい境遇で暮らしていますが、いざ鎌倉で何かが起こったならば、真っ先に駆けつける心構えだけは失っていません」と語りました。
 雪が溶けて春となり、鎌倉から号令が下され、全国から集まった武士たちの中にまじっていた源左衛門は、時頼からの呼び出しに驚きました。
 あの僧侶だったからです。
 そして、源左衛門は、加賀の〈梅〉田、上野の〈松〉枝、越中の〈桜〉井を与えられ、かつて所領だった土地も返されました。

 中国の「三顧の礼」も有名です。
 漢王朝を再興させるために懸命だった劉備玄徳(リュウビゲントク)は、書生徐庶(ジョショ)へ人材はいないものかと尋ねました。
 そして、晴耕雨読の日々を過ごしている諸葛孔明(ショカツコウメイ)を知り、「連れてきてくれ」と指示しましたが、徐庶は断ります。
「私が行ったとて、のこのこと仕官を求めて出てくるような人物ではありません」
 それを聞いて孔明の器を確信した玄徳は三度訪問し、やっと協力を得られました。

 源左衛門や孔明のような人物を傑物(ケツブツ)と称します。
 野田佳彦氏には鍛えられた強く大きな器の趣があり、まぎれもなく傑物です。
 きっと国難の正面に立って逃げず、ぶれず、行動できることでしょう。
 結果的に民主党は世代交代しました。
 党派を超え、こうした若く地力のある人物がもっともっと輩出されるよう願ってやみません。

20110819 0072



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2011
08.29

『大日経』が説く心のありさま六十景 その46 ─顕色心(ケンジキシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた、心を惑わすものたちが現れます。
 それは、釈尊成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前、化けものたちに邪魔されようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れず、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は行者の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

44 顕色心(ケンジキシン)
 他の色にたやすく染められてしまう心です。
 経典は説きます。

「彼に類するを性(ショウ)とす」


 この教えに関することわざとして「朱に交われば赤くなる」があります。
 私たちは周囲の環境に影響されやすいものであるという意味ですが、ここでは自主性が問われています。

 自分の生きる姿勢が確立されていれば、簡単には染められません。
 たとえば仲間たちがおもしろ半分で万引きしても、盗むのは悪であるという意識がはっきりしていれば手を出せないはずです。
 識見のあるなしも同じことです。
 ものごとをしっかりと認識し、正邪善悪の判断によって自分の見解が確立されていれば、いざという場面で右往左往しません。
 いわゆる付和雷同(フワライドウ…よく考えもせず簡単に乗せられてしまうこと)なども起こりません。

 しかし、いくら堅固な気持で励んでいるつもりでも、楽をしたいとか、飽きたとか、別なこともやってみたいとか、さまざまな邪念が起こります。
 そこで行者は発菩提心(ホツボダイシン…悟りを求める心を発すること)をくりかえし誓います。
「白浄(ビャクジョウ)の信心を発(オコ)して無上の菩提(ボダイ)を求む。
 願わくは自他もろともに仏の道を悟りて生死(ショウジ)の海を渡り、
 すみやかに解脱(ゲダツ)の彼岸(ヒガン)に到らん」
 そして、真言をとなえます。
「おん ぼうち しった ぼだはだやみ」

 仏道をめざす行者は日々このように心を定め、修行していますが、何を信じていようと、真実を求めてまっとうな生き方をしていれば、思わぬできごとが導きとなる場合もあります。

 釈尊がおられた時代に、鉄腹外道(テップクゲドウ)と称される行者がいました。
 仏教には耳を貸しませんが、彼なりに一生懸命、求道者として生きていました。
 ある時、彼が飼っていた牛が逃げ出してしまい、探していたところ、知人から祇園精舎(ギオンショウジャ…釈尊の修行道場)へ行ったと教えられます。
 そこで彼は急いで精舎へ入りましたが、おりもおり、目蓮尊者(モクレンソンジャ…釈尊の高弟)が法力(ホウリキ)で精舎の門を閉じたてしまい、もう、結界の外へは出られません。
 やがて釈尊の説法が始まり、思いがけずその場に参加していた彼はたちまち長年の疑問が解け、弟子入りしました。



 真の心の転換はこうして起こります。
 フワフワした顕色心ではなく、きちんとした心構えを持っていれば、人生のステージを上げる機会が訪れます。
 そして「君子は豹変す」とたとえられるような次元を移動するジャンプもできます。
 心を成長させるためにこそ、顕色心に流されぬ生き方をしたいものです。

20110829 0033

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2011
08.28

タブー ─子供や妊婦は葬式へ出られない?─

「───おばあちゃあん。───おばあちゃあん」
 枕経に訪れたお宅で、母親の膝に乗った男の子がグスングスンとむずかっています。
 一緒に白鳥へ餌をやりに行こうと約束していた祖母が突然、亡くなってしまったのです。
 言葉もなく辞した車中で、葬儀屋さんから意外な話を聞きました。
 地方によっては葬式子供を列席させない場合があるけれども、今回はどうしましょうかというのです。
 さらに考えられない実話が落ちついた口調で語られました。
 妊婦であるからという理由で肉親の葬式にでられなかった娘さんの話、あるいは嫁ぎ先の義母が何かの判断をしたために実家の母親の葬儀に出られなかったお嫁さんの話など、どれも合点のゆかないことばかりでした。
 こういったタブーのほとんどは、〈(ハレ)〉と〈穢(ケ)〉の感覚にまつわるものです。
 私たちの文明は、穢れとし、さまざまな理由をつけてタブーをつくった時代の影響から、とっくに脱すべき段階です。
 僧侶が責任と勇気を持ってものの道理を説かないために、〈怖れ〉が人の発展を阻害する奇怪な天魔と化して闊歩しているのでしょう。
 
 男の子は5歳です。
 もう、はっきりと祖母のを感じ取り、自分に起こったできごととして受け止めています。
 人は誰しも、自分のをもって最後の仕事をします。
 それは、周囲の人々を立ち止まらせ人生の大事に直面させるということです。
 彼もまた幼いながらお祖母ちゃんの仕事に応えようと、しっかり立ち止まっています。
 誰がそのまれなる人生修行の機会を奪えましょうか。
 厳かで正統な儀式へ立ち会い、の厳粛さを感じて欲しいと願うばかりです。

(この文章は、平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20110809 017



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2011
08.28

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その87)─自由・死・そして生きる道

 私たちは敗戦後、とにかく自由に生き、自由に競争して来た結果、さまざまな面で格差が広がり、事実上、社会は階層化の度合いを深めています。
 いったん階段から足を踏み外した人は、再び階段へ足をかけることすら困難になり、たやすく、社会から〈保護〉される立場になってしまいがちです。
 それはもはや、年齢を問いません。
 今はまだ、高度成長時代に団塊の世代などが汗水たらして蓄えた家財が残っており、それを当てにして生きる人びともいます。
 しかし、今後、食いつぶすだけの数十年間が続けば、次の世代がどうなるかは明らかです。
 もはや国家には食いつぶす資産どころが、膨れあがる一方の膨大な借金があるだけで、社会保障という名の〈保護〉は風前の灯火です。
 多発する亡者の年金詐欺事件には、近未来への不安が表れています。

 今回の大震災と原発事故は、こうした日本へさらに鉄槌を加えるできごとに思えましたが、誰かから「頑張ろう」とかけ声をかけられるまでもなく、人びとは、苦難にぶつかったご先祖様方がそうしたように、それぞれ黙って立ち上がり、黙々となすべきことを行いつつあります。
 戦後、焼け野原から復興した姿を重ねて観る人びともいます。
 リヤカーによる住民の自主的行商などは、その象徴とも言えます。
 しかし、「最小不幸社会」を標榜して登場した菅内閣は無残な最期を遂げ、社会的・個人的羅針盤となる思想はまだ何も明らかにならず、霧の向こうにあるかないかもわかりません。

 最近、「【現代の偉人伝】第120話 ─岩手県大船渡署交番所長高橋俊一氏─」と「『大日経』が説く心のありさま六十景 その45 ─火心(カシン)─」へ故福田恒存氏の文章を転載しました。

「戦後は個人の自由、生命の尊厳が何よりも優先した。
 同時に私達は據(ヨ)るべき道徳を失ったのである。
 個人の自由や生命の尊厳といふ原理からは、道徳は生まれないからである。
 それはいづれもエゴイズムから発し、エゴイズムに帰結する。
 が、道徳は、洋の東西、時代の新古を問はず、エゴイズム抑制のルールである。」
「自分にとって一番どうにもならぬのは自分であり、人間にとって一番どうにもならぬのは人間である。
 前者の考へは道徳に、後者の考へは宗教に道を通じている。
 もし自由といふものを政治的、経済的、社会的概念から道徳的、宗教的概念にまで救ひ上げようとするなら、私たちは何々からの自由のうちに『自分からの自由』『人間からの自由』を考へなければならぬのではないか。」

「就職といふものは非人間化、画一化、阻害などの悪を齎(モタラ)すかも知れないが、就職しないでギターを枕に寝そべっていようが、毎晩麻雀で徹夜をして暮らそうが、傍目には自分のしたい事をしてゐる様に見える新聞記者、文筆業者、学者、芸術家にならうが、いづれも齋(ヒト)しく非人間化、画一化、疎外の悪からは容易に免れ難い。
 根本に遡れば、人は『なぜ君は生きてゐるのか』という問の前に一度は立たねばならない」

 氏は、私たちが「自由」を主張する時、それはエゴイズムから行われているのだから、そこに道徳を見いだすことはできず、道徳はエゴイズムを抑制するルールとして存在すると指摘しています。
 自己主張はぶつかり合うしかなく、誰かのために自己主張したい気持を抑えるところに道徳があるというのです。
 で、あるならば、私たちは今、大震災と原発事故による被災者や被害者へ無条件に手を差し伸べることによって、ようやく、社会的規模で道徳を取り戻しつつあるのかも知れません。

 氏はこうも言っています。

「人間にとって自由とは何かを考へる場合、いつ、どうして自由を捨てるかを考えなければ、真に自由について考える事は出来ないばかりか、その自由を身につける事はなほさら出来ない。
 同様に、生命は如何に尊厳なるものか、また如何に生くべきかを考へる場合、もまた如何に尊厳なるものか、また如何にすべきかを考へなければ、真に生命の尊厳を感じる事も出来ぬばかりか、生きる事すら出来はしない」


 当山には、日々、亡くなられた方について相談する方がご来山されます。
 Aさんは、「お坊さんを呼ばなくてもお葬式はできますから、とにかくやっておきましょう」と葬祭業者から言われるままに親をお骨にして家へ安置し、四角い箱を前にしているうちに、愕然としました。
「──まだ、何もやってはいない……」
 親のを周囲へ知らせ、共に悼むだけでは、「確かに送る」ための行為は何も行われてはおらず、尊厳へ尊厳ある対応をしたとは必ずしも言えません。
 仏神へ誓う結婚式を行わず、結婚披露宴だけを行ったのと同じことです。
 Aさんは至心に葬儀や戒名の意義についての説明へ耳をかたむけ、「遅ればせながら」と、戒名を受け引導を渡す尊厳ある葬儀を申し込まれました。
 者の死から真に尊厳を感じとるためには、自分の死をリアルに想像してみる必要があります。
 そうすれば、死ぬとは一体どういうことなのか、ある程度の真実をつかむきっかけになることでしょう。
 日々、真剣に四角い箱を前にしているうちに、Aさんは親の死を通じて〈死〉を共有する心になっておられたのでしょう。
 太古の時代から世界中の文明に死者を送る宗教があり儀式があったのは、非日常的な尊厳を持つ死へ、非日常的な尊厳ある送り方をしないではいられないからです。
 そうした死への姿勢が薄れればどうなるか、氏の言葉をくりかえします。
「真に生命の尊厳を感じる事も出来ぬばかりか、生きる事すら出来はしない」

 自由に生きにくい時代、天災と人災に遭遇した私たちは、知らぬ間に、死者を弔い、社会的規模で破壊へ立ち向かうことによって、何かを超えようとしているのかも知れません。
 どう生きるべきか、真の答が見つけられる糸口をつかみつつあるのかも知れません。

20110819 0082



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2011
08.27

充実感を得られない職人さん

 30年近く土地に関する特殊技術をもってはたらいてこられた方が、嘆息されました。
「最近は、とりかかっていた仕事が終わっても、やった!という充実感があまりなくなりました。
 若い人たちなどは、最初からほとんどないようです」

 この方が手がけてくださったコンクリート工事の仕事ぶりを見て、素人ながらに感服していただけに、意外なお話でした。
「そうはおっしゃられますが、単純に四角くコンクリートを打っても、表面はもちろん角や稜線の仕上げ具合なども実に見事で驚いていたところです。
 ああいうお仕事をされれば、単なる土台とは言えない一つの立派な作品が完成したようなものですから、満足感はおありになるんじゃないでしょうか?」
 
 良いコンクリートを打つには、気象・温度はもちろん周囲の環境などもよく勘案しなければならず、一日のうち何時頃、どの程度の固さでやるかなど微妙な判断が求められるのだそうです。
 そして、仕上げです。
 プロにはプロとしての完成度というものがあるのでしょう。
 しかし、このごろは、どの材料を使っていつまで完成させるといった範囲で機械的にやらねばならないし、部下たちも「こうすればとにかくできあがる」という最低線しか求めないので、材料と図面があれば、あとは骨格として必要な手順を教えるというところまでしか行かないのが現実だと言われます。
 はたらく人の意識が、「職人でありたい」のではなく「契約を機械的にこなせばよい」ということなのでしょうか。
 
 そう言えば、心の世界も「最低線」でこと足れりとなっているやに見受けられます。
 テレビで法律番組が流行るのも、きっとその流れの表れなのでしょう。
 ある行為が違法であるかどうかは、「社会に暮らす人間としてここから落ちてはいけませんよ、落ちれば他へ迷惑を及ぼしますよ、人でなしになりますよ」という正に最低線の問題です。
 それが「これにさえ引っかからなければ良い」となれば、線を底として上に広がる人間性という世界の持つ無限の高みへ意識が向かず、ややもすると、線の近くでうまく自分の利を求めるようになってしまいます。
 こういう人は人柄が卑しく発展しません。
 心を上昇させるものは倫理であり、道徳であり、宗教です。
 
 はたらいては充実感があり、一日生きては一日の充足感が得られるようでありたいものです。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。

20110819 0292



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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
08.27

『大日経』が説く心のありさま六十景 その45 ─火心(カシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた、心を惑わすものたちが現れます。
 それは、釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前、化けものたちに邪魔されようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れず、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は行者の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

43 心(カシン)
 のように燃え上がる心です。
 経典は説きます。

「熾盛(シジョウ)の炎熱を性(ショウ)とす」


 恋愛をして、音楽などにぶつける思いとして、正義感の発露として、あるいは反感や怨みや憎しみとなって心が燃え上がり爆発しそうになる場合があります。
 いずれも人生の彩りとなり、やがては思い出となって心に刻まれ、マナ識という潜在意識をつくる材料です。
 普通の日常生活においては、こうした起伏に一喜一憂していますが、人の道を考え、智慧と思いやりによって自分の心をコントロールしようとする行者は凸凹道を避けます。
 み仏は、カッカと熱に浮かされてはならない、淡々と修行せよと諭されました。

 また、行者ならずとも、いかなる熱狂の渦にあろうと、その熱に呑み込まれてしまうのは危険です。
 たとえば、相手かまわぬ恋愛はドラマの世界だけにしておかなければ、裏切りとなり、不倫となり、ストーカーとなり、あるいは暴力事件や殺人事件となり、人倫に反する熱情はたやすく自他の社会生活を破壊します。
 たとえば、音楽やゲームなどにふけるのも同じです。
 プロとなり、自分をかけて生きてゆこうとするなら別ですが、何かから逃げ込んでいるだけでは未来を閉ざしかねません。
 故福田恒存氏は、若者たちの間に〈就職して縛られたくない〉〈自分探しをしたい〉という気分が漂い始めた頃、こう指摘しています。

「就職といふものは非人間化、画一化、阻害などの悪を齎(モタラ)すかも知れないが、就職しないでギターを枕に寝そべっていようが、毎晩麻雀で徹夜をして暮らそうが、傍目には自分のしたい事をしてゐる様に見える新聞記者、文筆業者、学者、芸術家にならうが、いづれも齋(ヒト)しく非人間化、画一化、疎外の悪からは容易に免れ難い。
 根本に遡れば、人は『なぜ君は生きてゐるのか』という問の前に一度は立たねばならない」


 釈尊

「二の矢を受けず」


と説かれました。
 見聞きしつつ生きる私たちは、「あっ、美人だ」「うう、嫌な奴だ」「心地よい」「うるさい」などと始終、感じ続けています。
 そして、美人だと思えば後をついて行きたくなり、嫌な奴だと思えば二度度顔を見たくなくなり、心地よいと感ずればいつまでもこうしていたいと思い、うるさいと感じれば早く逃げ出したいと思います。
 そう「したい」という心に流され流されているのが私たちのありようです。
 ところが、釈尊は、この「したい」を脱したと言われました。
 感覚がみずみずしくはたらいていればいるほど、現象世界からさまざまなものを受け取ります。
 それが外側からの刺激を縁とする「一の矢」です。
 それに続いて内側から「したい」が起こります。
 これが「二の矢」です。
 内側のコントロールができておられる釈尊は、「二の矢」が勝手に起こり、私自身を動かすことはないと説かれたのです。

心」に引きずられれば、勝手に起こる「二の矢」任せになってしまう危険性があります。
 好きだから抱きつく、嫌いだから殴る、気持良いからいつまでも銭湯から出ない、うるさい職場だからすぐに辞める。
 これではまっとうな人生を送れず、周囲へ迷惑をかけるだけの人になってしまいます。
 私たちはどうしても「心」が起こることを避けられず、それは生命力が活発であることの一種の証でもあり、ストレス解消の手段となる面もありますが、やはり、ほどほどのところでを鎮める智慧と意志力が欠かせません。
 釈尊の説かれた「二の矢」をよく考えて見ましょう。
 それは福田恒存氏の『なぜ君は生きてゐるのか』を考えることにもつながるはずです。

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2011
08.26

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その25)─末代まで忘れないように─

 江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「故(カルガユエ)に末代(マツダイ)の学者(ガクシャ)、
 先(マ)づ此(コノ)書(ショ)を案(アン)ずべし。
 是(コレ)学問(ガクモン)の始(ハジ)め、
 身(シン)終(オ)わるまで忘失(ボウシツ)することなかれ」


(これまで説いてきたように、およそ勉学を志す者は、この先もずっと、まず、この書を思案すべきである。
 学ぶことはここから始まるのであり、学んだ内容は生涯、忘れぬように)

実語教』はこれをもって終わります。
 仏教と儒教の経典をベースとして徹頭徹尾、学ぶことの大切さを説きました。
 最初は、

「山(ヤマ)高(タカ)きが故(ユエ)に貴(タット)からず。
 樹(キ)有(ア)るを以(モッ)て貴(タット)しとす。
 人(ヒト)肥(コ)えたるが故(ユエ)に貴(タット)からず。
 智(チ)有(ア)るを以(モッ)て貴(タット)しとす」


(私たちが高い山を眺めてしみじみと「佳いなあ」と思うのは、ただ、山が高いからではない。
 その山なりの樹木が茂り、近づけば鳥の鳴き声がしたり、沢水が流れていたり、虫が飛んでいたりして、いのちの息吹が感じられればこそ、「ああ、」と思える。
 そして、山の偉大さを前にして自分を謙虚に省みたりもする。
 同じように、人は太り、貫禄のある体つきをしていれば貴いのではない。
 智慧があればこそ貴いのである)
でした。

 この教典のどこをとっても、人としてまっとうに生きてゆくための心構えが示されており、私たち日本人の心の色は、営々とした努力によってつくられてきたことがわかります。
 太平洋戦争に負けた後、急速に個人意識が強くなり、今では仕事よりも家庭生活を重視する人びとが多くなりました。
 依然として明治以来の「西洋に学べ」という雰囲気が残っており、何かというとすぐに〈日本より自由が満喫され、文明のレベルが進んでいるらしい〉西洋各国のデータが持ち出され、「日本は遅れている」と指摘されます。
 しかし、私たちが本当に深々とした満足を得られるのは、〈自分のため〉や〈自分の家族のため〉に得られた良い結果より、〈誰かのために〉になった体験によるのではないでしょうか。
〈誰かのためになれる自分〉であること以上の喜びは、なかなかないのです。
 もちろん、そうした対象としてであれば、家族や身内を排除する必要はありません。
 たとえば、おいしい紅茶をいただけば嬉しい気持になりますが、誰かから「とてもおいしい紅茶ですね。ありがとうございます」と言われれば、もっと嬉しいのではないでしょうか。
 こうした心は決して個人主義から発しているのではありません。

 大震災に際しては、多くの人びとが〈誰かのためになろう〉としました。
 あるいは無我夢中で、あるいは覚悟を決めて、あるいは自然に、生死を分ける場面において〈自分のため〉でない行動をとりました。
 そして、生き残った方もあれば、亡くなり、もはや伝説の人になりつつある方もおられます。
 今なお、全国から集まった〈誰かのためになろう〉とする人びとも、被災地で黙々と汗を流す日々を送っています。
 文字通りいざという場面でのこうしたできごとを見聞きするにつけ、私たちの心の底流となっているものを想い、安堵させられます。
 と同時に、平時においても、もう少し底流に促されたふるまいができないものかとも思います。
 この教典は、底流をより澄ませ、より力強いものとしてくれることでしょう。
 そして、必ずや日常生活にも影響を与えてくれることでしょう。
 多くの人びとに読まれるよう願いつつ、次回より、後半の『童子教』へ進みます。

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2011
08.25

人工鳴き砂を売らない人

 ラジオ番組で、全国の『鳴き砂』を研究している方の紹介がありました。 
 キュッキュッという独特の音は細かい石英が他の砂と適度に混ざり合っている時に踏まれて出ますが、ゴミなどで汚れていてはうまく鳴らないのだそうです。
 ところで、長年の研究の結果人工鳴き砂』を作るのに成功した平山先生のところには、これまでにたくさんの問い合わせがありました。
いわく「ゴルフ場のバンカーに使いたい」、いわく「家庭の庭で使いたい」などなど。
 しかし、先生は全部お断りしておられます。
 理由は明快です。
 人工のものを作ったのは、出す音を聞いて「ああ、佳いな」と感じた子供たちなどに浜辺へでかけてもらいたいからです。
 そして、実際に感動体験をしてもらいたいからです。
 同時に浜が汚れつつある現実を知り、環境汚染によってそうしたすばらしい自然の恵みが消えてしまう恐ろしさを肌で感じてもらいたいからだそうです。

 何でも金銭に換算し、ものの値打を金額だけで測ろうとする時代に、技術を簡単に売らず、子供たちの心を主として考える方がおられることを初めて知りました。
 こうした方は社会の宝です。
 ラジオに耳をかたむけながら、合掌する思いでした。

(この文章は、平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
08.25

【現代の偉人伝】第132話 ─郵便局の人びと─

 8月24日付朝日新聞は「郵便よ届け街を動かせ」というタイトルで、被災した郵便局員の活躍を伝えた。
 
 当山のある大和町は仙台市に隣接し、太平洋からは離れている。
 それにしても、大震災の翌朝、地方紙『河北新報』が届いたのには驚いた。
 当日の記録である。
「今朝まで続いた大揺れの中で必死に原稿をまとめ、印刷紙、配送したプロ根性には心底、脱帽の思いである。
 昨日、ビルにあって肝を潰すほどの揺れを感じながら一時たりとも音声を途切らせなかったラジオ局の方々、そして新聞関係の方々は私たちの誇りである」
 もはや銀行も農協もなくなった山里を孤軍奮闘で支える郵便局も、必死に立ち上がった。
 不安を抱えて郵便局へかけつけ、いつも頼りにしている局長や職員の顔を見た時、そして郵便ポストに聞き慣れた音がした時、地域住民はどれだけ心強く感じたかわからない。

 今回、甲子園の高校野球開催にちなんで、野球部出身者である郵便局員の活躍が伝えられた。

「甲子園では控えの外野手だった熊谷和則(40)は、郵便局員。
 自他ともに認めるおとなしい性格だ。
 震災の時は、バイクで配達中だった。
 高台に非難し、翌朝、勤務する日本郵便大船渡支店に戻った。
 一階が泥に埋まっていた。
 陸前高田市の海辺にある実家は、たぶん波にのまれている。
 母ユリ子(62)と弟智宏(37)は大丈夫だろうか。
 携帯電話は通じない。
 買ったばかりの愛車は波をかぶり使いものにならなくなっていた。
『おかんが無事かどうか気になるが、仕方ない。
 この地域で10年配達し、道は知り尽くしている。
 使命だな』。
 避難所に寝泊まりしながら、残った配達用バイクで市の連絡文書や物資を運んだ。
 3月15日、配達用バイクを借り、ようやく実家を目指した。
 途中で消防団の活動をしていた佐々木に行き会った。
(佐々木猛は熊谷和則の幼なじみ。気仙沼信用金庫勤務)
『無事だったんだな』とがっちり握手した。
 互いの家は目と鼻の先。
 ともに流されていることはわかる。
 余計な言葉は必要なかった。
 母は親類宅に身を寄せていた。その顔を見て、熊谷はとって返した。
 3月18日、配達を再会した。
 出先で『郵便局さんは立ち直りが早い』と驚かれた」


 大震災の翌々日である3月13日(月)、津波をかぶった地域の周辺住民が徒歩や自転車などで出社する日本人の姿は世界を驚嘆させたらしい。
 しかし、いざという時に「私」よりも「公」を選んで行動する人びとは少なくない。
 水やガソリンを求めて静かに並ぶ光景もそれに通じている。
 私たちは〈大人のふるまい〉ができるのである。
 昨今は、企業の人事担当者から「突然休んだり、突然辞める人が多くて困る。自己中心なんですね」という話をときおり聞くが、日本はまだ、自主的な危機管理機能を失ってはいない。

 ボランティアの中には現場の状況や現場の人びとの気持に合わせず、マイペースでやろうとする人もいるが、自衛隊の活動と隊員の心構えに関しては、誰もが感服し感謝している。
 郵便、消防、警察、新聞なども同じような評価を受けている。
 事実、当山の周囲でも私的な問題を横へ置き、「今こそ」と奮い立ってそうした仕事に従事し、あるいは手伝った人びとがいる。
 もちろん、民間企業にあっても事情は似ているのだろう。

「日本郵便陸前高田支店は同じ18日から業務を開始した。
 配達員の及川慎治(45)も高田高校の野球部出身だ。
 支店は波にのまれ、職員12人が死亡または行方不明になった。
 大きな被害を免れた職員宅を臨時局にし、外に机を並べて『青空郵便局』を開いた。
 パンクを心配し、2人1組で配達に回るようにした。
 自宅を流された及川は雛所から職場に通った。
『震災直後は時間も空気も止まっていた。
 郵便が届くことで世の中が動いていることを実感してもらいたかった』
 ろうそくや乾電池、薬が送られてきて声を上げる人たち。
 請求書を届けても『郵便やってるの?』と喜ばれた。
 運ぶだけでこんなに感謝されるのは初めてだった。
 及川は約2カ月、避難所で生活した。
 停電、断水が続く中でプロパンガスを調整する人、山から水をひく人、髪を切る人がいた。
『人にはそれぞれの役割があって共同体ができている』と感じた。
『俺は郵便という仕事を通じて地域を支える』。
 及川は今日も、バイクを走らせる」


 今こそ、私たちにとって郵便局は何なのか、私たちは郵便局に何を求めているのかをあらためて考えてみたい。
 全国津々浦々へ確実、迅速に郵便物が届けられること、自宅へ置けないお金を預けておいて安心なこと、この二つではなかろうか。
 郵便局の人びとは、地域住民と接する公的な仕事のため、信頼に応えようと懸命にはたらいておられる。
 この記事に登場する二人も、「公」という感覚があるがゆえのがんばりを見せた。

 今国会はあまりに情けない成り行きで終わろうとしている。
 郵便局がコンビニもやり、職員がノルマを課されてサンマや椎茸の販売もやらねば生き残れないようなシステムを見直そうという法案は、政争の陰に追いやられたままである。
 郵便局にどうあって欲しいか。
 修羅場でのありがたさを忘れないうちに、よく考えてみたい。

〈南三陸町泊浜漁協の婦人部が手作りしたホタテキャンドル〉 
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2011
08.24

菩薩の実践(第三回)─故郷を捨てる─

身内に対しては愛情を水のように注ぎ、
 敵に対しては憎しみを炎のように燃やす
 善悪の見境がつかない愚かさは真っ暗な闇
 故郷を捨てること、それが菩薩の実践である」


 仏教は生きとし生けるものを平等に観て慈しむみ仏の教えであり、菩薩は、み仏に成りきろうとする実践者です。
 ならば何よりも脱しなければならないのは、「身内だから」「他人だから」、あるいは「味方だから」「敵だから」という区別であり、差別です。
 そうした〈分け隔て〉をするのは、自分を中心とする姿勢です。
 お互いが自分を中心としないでいられないがゆえに、個人と個人がぶつかり合い、グループとグループがぶつかり合う現実を根本から脱しようとする仏教は、まず、〈分け隔て〉からの離脱を求めます。
 だから、出家(シュッケ)が行われます。

 み仏は〈分け隔て〉をせず、「愛情を水のように注ぐ」相手と「憎しみを炎のように燃やす」とを区別しません。
 救いを求める心の声に応じて、必ず救いの手を差し伸べられます。
 だから、万人にとって帰依の対象となり得ます。
 釈尊が釈迦族出身者だからといって懇切丁寧に導き、釈迦族を滅ぼした人だからといって邪険にしたなどということはありません。

 さて、故郷とは、生まれ、幼い日々を過ごした場所です。
 そこには育んでくれた恩人もいれば、二度と会いたくないほどいじめられた相手もいます。
 もちろん、時が経てば、思い出の多くが美しいものとして再構成されて記憶を彩る場合が多いのですが、あまりに酷い体験は潜在意識に残っている場合もあります。
 そうした相手や思い出は、一時の感傷にふけって現実を忘れる時間を与えてくれるだけであり、修行には何の役にも立ちません。
 むしろ、平等に観る心の目を曇らせます。
 修行とは、今の自分の悪しき部分や誤った部分を取り除き、良き部分や正しい部分を伸ばす不断の精進であり、行者には現在と未来しかありません。
 振り返る自分の過去から見いだすものは、周囲への感謝と、自分の愚かさと、平等に観た人びとの生きざまです。
 この三つはすべて、教えというものさしで計られて、熟慮という修行の材料になってくれこそすれ、それ以上でもそれ以下でもありません。

 では、古い友人とのつきあいは捨て去らねばならないか?
 それは「否」です。
 偶然のドラマチックな出会いであっても、お見合いであっても、男女が惚れ会い結婚するきっかけとして区別する必要がないのと同じく、いかなる因縁でできた絆であっても、それによって人間関係を区別する必要はありません。
 長くつきあえる古い友人とは、常にお互いの〈現在〉を認め合い、〈尊敬〉し合える間柄にある友人です。
 そうした間柄は、お身内を亡くされたことをきっかけにして縁ができたいわゆる檀家さんとでも、人生相談に来られた方とでも、講演会で知り合った方とでも、平等に成り立ちます。
 だから、古い友人と最近知り合った檀家さんとの区別は、まったくありません。
 それは知り合うきっかけが違っていただけであって、そうしたこと自体には何の意味もないからです。
 
 では、家族はどうか?
 答えは明らかで、徹底して学び実践したいのなら出家すべきであり、娑婆での役割を果たしながら教えの道を歩みたいのなら、出家しなくてもよいだけのことです。
 大乗仏教は出家修行者と在家信者との区別をしないところに特徴があります。
 それが最も端的に表れているのが『維摩経(ユイマギョウ)』です。
 聖徳太子が篤く奉じたことで知られ、維摩居士(ユイマコジ)という在家の行者が誰を相手にしても縦横無尽にわかりやすく真理を説き、生と死、煩悩と菩提などが悟りの目から観れば一如であるとします。
 ただし、釈尊が『法句経』において「家は桎梏(シッコク…手カせ足カせ)である」とされたことは充分注意しておかねばなりません。
 家族が信頼で結ばれ、家が安心の場であることの価値を落とす必要はありませんが、親愛の情の海に漂っているだけでは、「身内に対しては愛情を水のように注ぎ、敵に対しては憎しみを炎のように燃やす」苦の根っこはそのままであるという点が問題です。

 小乗仏教の文化圏から日本を訪れる僧侶たちの多くは、日本の僧侶を眺めて「これが行者か」と驚くそうです。
 妻帯し食べ物の制限もなく酒も飲む姿は、堕落としか見えないと言います。
 確かに、何度生まれ変わろうと行者であり続けるという不退転の意志を感じさせる僧侶がどれだけいるかはわかりません。
 しかし、菩薩を目指す意志を固めつつ妻帯したままでいる一行者としては、出世間の意識と論理を保ちつつ、世間の意識と論理を持った自分以外の人びとと共存するのは、決して楽なものではないと言えます。
 ひんぱんにお聞かせいただく僧侶や寺院の堕落については、世間と接していることに問題があるのではなく、世間の意識と論理に流されていることが問題なのであって、そうした僧侶や寺院は、よしんば世間から切り離されていたとしたも、同じようになるのではないかと考えています。
 だからこそ釈尊は、繰り返し〈出家修行者〉たちへ、「形だけ出世間ではならない。心をこそ出世間に保つべし」と説かれたのでしょう。
 もちろん、専門的な修行一筋の小乗仏教もイバラの道でしょうが、出世間と世間を一つに生きる大乗仏教もまたイバラの道です。
 それぞれ置かれた立場と運命を背負い、苦の根を断つために歩み尽くすしかありません。

 いずれにしても、この大震災をきっかけとして、「相手が知り合いであるかどうかは関係なく、見返りを求めず、誰かの何かの役に立つ」という布施の心が広がってきているのは大変心強いかぎりです。
身内」も「敵」もなく、自分の「故郷」であるかどうかとも関係なく、見捨てておけないという慈悲の一心で行動する人びとは、まぎれもなく、この菩薩行に入っておられます。
 そのことをもっともっと認識していただきたいと願っています。

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2011
08.23

2011年9月の運勢

 2011年9月の運勢──平成23年9月(葉月…9月8日から10月8日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一「変革」が行われます。
 改革が流行語になってからずいぶん経ちました。
 今や誰しもが〈変えよう〉と先を競っているかのようです。
 しかし、世の中の実態はどうでしょうか。
 約千六百年前の中国に、僧肇(ソウジョウ)という学僧がいました。
 さもないことから王の怒りに触れ、斬罪を申し渡された彼は、一週間の命乞いをし、その間に『法蔵論』という重要な論文を書きました。
 彼が遺した臨終の偈(ゲ)です。
「四大(シダイ)元より主なし。
 五陰(ゴオン)は本来空(クウ)なり。
 首(コウベ)をもって白刃に臨めば、猶(ナオシ)、春風を斬るがごとし」
(地・水・火・風の四つによってかりそめに成り立つこの身体には本来、自分という主がいるわけでもない。
 肉体と精神をつくる五つの要素もすべて本来固定的な実体はなく、空である。
 白刃が差し伸べた首を斬るといっても、春風に白刃をふるうようなものである)
 僧肇がいのちがけで説いた空の思想は現代へと引き継がれています。
 このように、人びとの意識を変える真の変革は生やさしい姿勢では実現できない大事業であることをよく考えたいものです。

二「性急」に走れば失敗の元になります。
 損得の結果を性急に求める効率第一主義にあっては皆が功を焦り、競って我が名を立てようとしますが、それだけでは危うい人生であり、危うい社会です。
 法輝という行者は、長年の修行にもかかわらず納得が得られないので、死のうと思って山へ入り、出会った住職に勧められるままに寺で一夜を明かすことにしました。
 そこでご本尊様へ祈っているうちに、ご本尊様は怖ろしい憤怒の相に変わりました。
 死の恐怖を感じましたが、ここで死ぬのならそれもよいとかまわず祈り続け、夜が明けたらまた、やりなおす決心がつきました。
 師の元へ戻り、新たな気持で修行を続けたところ、ご加持の法力が身について自他を救える行者になりました。
 謙虚に自分の力を見つめながらまじめに生きれば、時間はかかってもやがて周囲の人びとや仏神に認められ、助力も得て、真の実力が身につくものです。
 自己過信による性急な行動は、その反対の結果を招きかねず、要注意です。

三「情」や「気持」だけでは共倒れになりかねませんが、それを途切れさせないよう。
 沿岸部で被災した若いAさんが人生相談にご来山されました。
「もう一度、海でやりたいという親たちのために自分も役にたちたいのですが、何もできないし、意欲もまったく湧かず、どうにもなりません。
このままだめになってしまいそうです」
 お話ししました。
「貴方の意欲がさっぱり湧かないのは当然です。
 いきなり大規模に突きつけられた無常の前では、立ち止まってしまうのが自然です。
 前向きにならねばと無理をする必要はありません。
 役に立ちたいという気持を途切れさせないでいれば、必ず、やらねばならないことや、やりたいことが出てきます。
 それをコツコツと進めているうちに、いつしか意欲が湧いていることに気づくことでしょう。
『役に立ちたい』という心こそが、み仏の説く慈悲心の根本です。
 あらゆる善き心、善き生き方の泉ですから、涸らさないようにしましょう。
 これを持っている貴方は大丈夫です」

四「学ぶ」機会が増えます。
 子供向けのアニメ『ポケモン』すら、自己犠牲や連帯や憐れみや自然の猛威と救いなど重要なテーマを含んでいます。
 学ぶ心は何をも教えとし、師とします。

 今月も六つの修行を行いましょう。
 皆さんの開運を祈っています。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は天狗にならず、力の範囲内でことを行い無事安全です。
 不精進の人は目下をバカにして一人浮いてしまい、共同事業を潰しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は目上を立てているうちに実力者の加護を得て成功します。
 不精進の人は強情か優柔不断かで失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は派手な付き合いを慎み、温和にして人望を得ます。
 不精進の人は外見や言葉に内実が伴わず、やがて馬脚を現し、失敗しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は争いごとを事前に避け、清明な生活を送れます。
 不精進の人は争いごとに巻き込まれ、疑心暗鬼になって不安や不信に悩まされがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は質素で知的なやり方が支持され、繁栄へ向かいます。
 不精進の人はケチや自分本位が祟って開運のチャンスを失いがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は正しいことを着実に行い、運勢が上向いて無事安全です。
 不精進の人は一気に成功しようと派手にふるまい、叩かれて悪運を招きがちです。

20110819 0112



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2011
08.23

国ぶり ─既婚者の恋愛もどきと真如親王─

 海外事情をとりあげるラジオ番組が、西洋の某国に在住している日本人から受けたファクスを紹介していました。
「私はあちこちの国を歩いていても、あまり恋愛経験はありません。
 でも、この国へ来て、ある店へ入ったら女性が一人でカウンターに腰掛けていたので声をかけ、(恋愛めいた)ひとときの楽しい会話を楽しんだことが忘れられません。
 しばらくして夫と称する男性が現れ、こう言いました。
『これから二人で劇場へ行くんです。
 妻のお相手をしていていただき、ありがとうございました』
 とても良い雰囲気でした」

 女性アナウンサーは喜んでコメントしました。
「とてもすてきなお話ですねえ。
 日本だとこうは行きませんね。
 相手を知らないとなかなか声をかけられないし………。
 日本でもこういう雰囲気があると良いんですが」
 お相手の男性アナウンサーも、すかさず同じ趣旨の相づちをうちました。

 NHKとも思えぬあまりの軽さに反吐(ヘド)が出そうになりました。
 そもそも、私たちの倫理感覚からして、夫を待つ妻が軽々しく見知らぬ男を楽しませる疑似恋愛的な会話を行うのは理想的な態度でしょうか。
 また、独り者かと思って声をかけた相手に連れ合いがいたならば失礼したと感じ、適切に挨拶するのがこの国では自然な倫理観ではないでしょうか。
 それに、妻へちょっかいをかけていた男にひまつぶしの相手をしてくれた礼を言うのが理想的な夫でしょうか。
 某国では、夫と疑似恋愛的な雰囲気にふける女性を見つけた妻は、その女性へ「ありがとう」と言うのでしょうか。
 そもそも、女性アナウンサーの「こうは行きません」など、何十年前の日本を語る言葉でしょう。
 今や「援助交際」はほとんど日常へとけ込み、小学生の妊娠で人生相談に訪れる方もあるほどセックスが〈解放された〉日本なのです。
 その上、映画やテレビドラマでもないのに、伴侶のいる身でありながら疑似恋愛を楽しむことまで〈すてき〉と公に求めるのでしょうか。

 今からおよそ1150年前、真如親王(シンニョシンノウ)は、平城天皇の第三王子として生まれたものの「薬子(クスコ)の乱」のとばっちりを受けて位を離れました。
 そして、お大師様の弟子となり、やがて64歳にして海を渡って唐へ行き、67歳に至って今度はインドをめざしました。
 親王が没したマレーシアには今でも供養塔が建っています。
 親王の言葉です。

「異朝の法をみて、我が神国の掟をよく守る者は、これ我が国の宝なり。
 外国の法を見て、我が神国の掟をおろそかに見ん者は、国賊なり」


(日本と異なる政体のやり方を見て、それに学びつつも、日本の決まりは決まりとしてきちんと守る者は、国の宝と言うべきである。
 外国のやり方を見て、軽々に日本の決まりを低く見る者は、国を破る者と言うべきである)

 その国にはその国なりの「国ぶり」というものがあります。
 倫理観と食文化と宗教を含む習俗は国や地方や民族で異なり、あくまでも〈それぞれ〉です。
 たとえば仕事から帰り、風呂へ入ってから食事をする人もいれば、その反対の人もいて、それぞれなのと同じです。
 外国の国ぶりを見たならば自国の国ぶりを省みて、変えるべき点があれば勇気をもって実践することは大切ですが、自国の国ぶりにあるかけがえのない長所を見いだしてこそ、その国に生まれた甲斐があるというものです。
 たとえ辺鄙であっても、モノが豊かでなくとも、あるいはせせこましい路地のつらなる場所であっても故郷はしみじみ〈佳い〉のと同じです。
 それは、とりもなおさず、祖先や山河や自分を育くんでくれた人々への崇敬と感謝につながり倫理観を支える大切な心情です。
 こうした自然な感覚が軽視され、西洋は〈進んでいる〉として、ともすると祖国をけなし貶めるようなもの言いが喜ばれる風潮はそろそろやめにしたいものです。

 このラジオ番組が、現場からの実況放送であるならば、冒頭のできごとは外交辞令の範囲と聞き流せもします。
 しかし、数ある情報の中から選りすぐって放送したのは明らかなので、そのセンスに疑問を呈しました。
 仏法に帰依し、釈尊に憧れて海を渡った真如親王が遺した言葉と真情を考えると、この先には言葉がありません。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。

20110819 0052



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2011
08.22

『大日経』が説く心のありさま六十景 その44 ─水心(スイシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた、心を惑わすものたちが現れます。
 それは、釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前、化けものたちに邪魔されようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れず、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は行者の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

42 心(スイシン)
 一切の善ならざるものを洗い流そうとする心です。
 経典は説きます。

「一切の不善を洗濯する法に順習す」


 私たちは、を使って洗濯します。
 古来、「川のは三尺流れればすべてを清める」と言われてきました。
 昔は家々の裏手に浅く小さな路があり、生活雑排を流しました。
 そこを流れる間に草などで清められ、やがて小川へ入った水は再び汲まれて飲み水などになりました。

 また、私たちは洗い流す水へ、悪しきものや不浄なものや穢れなどを流し去るイメージを重ねます。
 古来、怒りや憎しみを消したい時は水へ文字を書くという方法がとられました。
 筆に墨を含ませて川の水へ相手の名前や恨み言を書けば、書いているうちからそれは見えなくなります。

 このように、清め、洗い流してくれるありがたい水の心がなぜ、迷いになるのでしょうか。
 それは、「善ならざるものは許さない」という頑(カタク)なな心を戒めているのです。
 もちろん、自分が決して悪しきことを行わないという強い気持で十善戒などを守るのは、非難される余地のない善行です。
 しかし、「悪いあいつを許せない」となれば、そこに怒りや恨みが起こり、相手を害したい気持も燃え上がります。
 自分を含め、生きとし生けるものはすべて、害されることを望みません。
 だから「害してやろう」とする心こそ最もあってはならないものであり、それは自分にとっても不快であり、言葉や行動に出れば自他を傷つけ、安心や幸福を奪います。

 キリスト教に有名な「姦淫の女」という話があります。
 以下、ウィキペディアから転載します。 
「イエスを試すために、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来た。
 律法では石打ちの死刑に値する。
 イエスは『あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。』と言った。
 これを聞いて誰も女に石を投げることができず、引き下がった。
 また、イエスも女の罪を許した。」

 およそ宗教の価値は、「自らが善く生き、他を害さず、他も善く生きられるように願い、努力する」ための導きとなるところにこそあるのではないでしょうか。
 善からぬものを洗い流す水の心は、まず、自分へ向けましょう。
 そして、他へも向けるならば、いかに害することなく流し去るべきものを流し去ってあげられるか、思いやり智慧をもって考えたいものです。
 また、他の宗教を邪宗として攻撃したり、自宗の教義を錦の御旗として他の宗教と争ったりする頑なな姿勢が宗教の本質にかなうものであるかどうかも、よく考えたいものです。

20110819 0102



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2011
08.21

自分の葬儀で流して欲しい音楽

 私には自分の葬儀で流して欲しい音楽があります。
 もちろん、葬儀の最中ではありませんが、その前後に流れれば嬉しいなと考えています。
 時折、〈予定の音楽〉を聴いては静かにの世界を想います。
 が断ち切られて断崖絶壁から奈落の底へ堕ちるイメージではなく、今、耳に届いている音楽にたゆたう心のまま、存在の次元がスッと変わるだけだろうと感じています。
 お大師様のように、「虚空尽き、衆生(シュジョウ)尽き、涅槃(ネハン)尽きなば、我が願いも尽きん」と菩薩(ボサツ)の決意を抱き、僧侶が唱える真言のBGMとして心に音楽が流れていたならば、どんなに満足な旅立ちであろうかと夢見ています。

 聴覚は一番最後まで残る感覚であると言われており、呼吸が止まり救急車で運ばれながら還した方がお礼参りに来山されて、周囲で話す人びとの言葉を正確に語ったこともあります。
 また、ダライ・ラマ法王が、「自分のは、修行の成果や信念を確認する貴重な機会なので楽しみである」と言われた気持もいくばくかは推測できます。
 高齢化社会となり、寿陵墓(ジュリョウボ…前に建てる自分のお墓)や前戒名はもちろん、前葬や生前に用意されるお別れの手紙も珍しくはなくなりました。
 いずれにしても、を覚悟し、への備えを怠らないことは、より善く生きるために役立つはずです。
 一瞬後に自分へ訪れて何の不思議もないを考えず、無常を観ず、無意識のうちに〈自分はいつまでも生きている〉し、〈財産はいつまでも自分の手の内にある〉と錯覚しながら生きることに比べれば、天地の違いがあります。

 さて、〈予定の音楽〉です。
 葬儀の前は、トマゾ・ジョヴァンニ・アルビノーニのアダージョなどです。
 宮廷や貴族の御用作曲家にならず、マイペースで活動し、バッハなどへも影響を与えた彼の音楽には、生と死の境を易々と超えた自由で荘厳な趣があります。
 葬儀の後は、1960年代に録音されたモダンジャズの隠れた名盤です。
 ここに書いてしまうと、ただでさえ品薄のCDが手に入らなくなってしまう虞があるので控えますが、師の死を悼む弟子が魂の力を尽くして演奏した作品は、不思議な安心感と静謐さを伴っています。
 弟子は、師が逝った安心世界へ半身を入れていたのではなかろうかと思えます。

 当山のご葬儀ではこれまで何度か、「本人の希望でしたから何とかやらせてください」とのお申し出により、修法の途中へ合唱や器楽の演奏などが入りました。
 そうしたことはもちろん、ご葬儀の前や、百か日までの法要の終了後などに流して欲しい音楽を決めておくことも、死への心構えとして考慮に入れてはいかがでしょうか。

20110821アルビノーニ




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2011
08.21

子供たちへ教えたい黒木知宏選手の潔さ

 プロ野球ロッテ球団の黒木知宏投手が契約の更改に臨み、たった20分の交渉で、年俸が今期の8000万円から5000万円へとダウンする契約にサインしました。
 ケガに苦しみ今期1勝しか挙げられなかった彼は、球団が提示した6000万円に対し、自ら1000万円を返上したのです。
 
 ニッカンスポーツに掲載されたコメントです。

「迷惑をかけた。
 3年間仕事をしていない選手に、良い評価をしてもらった。
 厳しい位置に立っているという気持ちで、多少お返ししました。
 野球ができて幸せです」
「もう痛みはない。
 もう1度険しい山に登りたい。
 黒木というピッチャーに戻りたい。
(来年の課題は)継続。
 思い通りに投げて、自然に雄たけびや気合が出てくれば本当の復活になると思う」
「あきらめずにやったら良いことはある。
 来年の僕を見て欲しい」

 
 彼は去年も、1億3500万円が8235万円になるところを、8000万円にしてくださいと減額を申し出ています。
 たった2年で年俸は6割近くも下がってしまいました。
 
 もちろん5000万円は大金です。
 普通の勤めをしている方々には考えられないほどの年収ですが、プロスポーツ界で生きる世界は、とてつもなく経費がかかります。
 そして、彼に見るとおり、身体が資本の仕事なのでケガなどにより選手として身体を使えなくなれば、それまでです。
 大相撲の貴乃花ほど稽古熱心なスポーツマンですら、1年かけてもケガを克服できず、若くして土俵を去らねばなりませんでした。
 プロと呼ばれる人々はギリギリまで肉体を酷使し、壊れた後の保証はありません。
 綱渡りをしながら勝負の日々を送っている人々にとって、お金の持つ価値は私たちの想像を超えた重みがあるのではないでしょうか。

 大金を得る範囲のこととはいえ、収入を自ら削った黒木選手は、やはり、人間として立派です。
 けじめをつけ、自分を厳しい状況に追い込み、信念をもってどん底から復活、前進しようとする姿は、子どもたちからも憧れられるにふさわしいものです。
 大人が、
「なあに。
 お金持の世界のことだ」
「あれは別世界さ」
とうそぶいて横を向いては残念です。
 子供たちへ、こう教えたいものです。
「自分でやった結果に、自分できちんと責任をとろうとするのは立派だねえ」
「自分に厳しくするのは大変なんだよ」
「もっともっとと、自分の懐具合ばかり考える人は賤しいよ。
 人として、ああいうふうで潔くありたいね」
「彼の顔をよく見てごらん。
 清々しいね。
 心は姿に表われるものなんだよ」

※この文章は平成16年に書いたものです。
※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。


20110819 0322



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2011
08.20

【現代の偉人伝】第131話 ─前岩手県普代村村長深渡宏氏─

 8月19日付の読売新聞は、6月まで岩手県普代村村長だった深渡宏(フカワタリヒロシ)氏(71才)を紹介した。
 氏は、伝説の元村長和村幸得(ワムラコウトク)氏(故人)のもとではたらき、昭和59年に完成した高さ15・5メートル、全長205メートルの普代水門造りに深く関わった。
 この水門と昭和42年に完成した防波堤のおかげで、3000人余りの村民に死者はなく、船の様子を見に行った一人が行方不明になっているだけである。

 氏は戦争で父を失い、貧しくて大学へ進めず、家業である農業を手伝ううちに身体を壊し、当時の和村村長から「力仕事ができないなら役場ではたらけ」と声をかけられ、やがて土木係となった。
(和村村長については、【現代の偉人伝】第121話に書いた)
 明治三陸地震(明治29年)では15・2メートル、昭和三陸地震(昭和8年)では11・5メートルの津波が村を襲い、計439人のいのちが奪われていたため、村長は15・5メートルの防波堤を造ろうとした。
 その完成に続いて、総延長200メートルの水門も造った。
 建設課の課長補佐だった氏は水門のための用地交渉から携わり、12年後の完成式では課長として司会役を務めた。

 それほど巨大なものはいらないと反発されながら5800万円をかけた防波堤を造った後のさらに巨大な水門造り(35億円が投じられた)は困難を極めた。
「そんな高さが必要なのか」
「先祖代々之土地は手放せない」
 しかし、村長は繰り返した。
「貧しい村から命や家を奪うようなことが三度あってはならない」
 その言葉を胸に抱き、氏は地権者宅へ日参した。
「碁を打ってはわざと負けたり、酒に付き合ったりしながら、その気持を和らげた」という。
 結局土地の一部は強制収容となったが着工後12年をかけて水門も完成した。

 譜代村の津波対策を、深渡さんは「パッケージ」だと説明する。
 公共施設や道路は可能な限り海岸線から遠ざけ、住民の避難路を多数確保する。
 それでも防ぎきれない地域に絞って、最悪を想定した高さの水門や防波堤で囲い込む。
「『もし』という想像力を働かせることが、地域を守る政治だと思う」


 平成11年、氏は村長となった。
 

 震災当日、大津波警報を聞いた深渡さんは、職員を防波堤の海側の漁港などに向かわせ、高台への非難を呼びかけた。
 譜代水門では、ゲートの一部が停電で遠隔操作できなくなったが、水門に駆けつけた消防署員3人がスイッチを入れた。
 津波が水門を襲ったのは、3人が離れたわずか2分後だった。
 死者0人、行方不明者1人、住居被害0棟。
 同村の被害は最小限にとどまった。
 津波は24メートルに達したが、水門で勢いは弱まり、近くの小学校も浸水を免れた。

 6月に村長を退いた深渡さんは
「最後に村を救ったのは人の力だった」
と振り返る。
 職員らの努力だけでなく、3000人余りの村民の多くが避難訓練の通りの行動を取った。
「水門があれば、今後も大丈夫と村の人が思ってしまうのが一番怖い。
 どんな災害でも命を守れるよう、考え続けていかなえければならない」


「『もし』という想像力を働かせ」、できる限りの努力を続けるのが「地域を守る政治」であるという言葉は重い。
 国政に置き換えれば、そのまま「国と国民を守る政治」となるのではなかろうか。
 国策として原発を推進してきた国政は、この視点からあまりにも遠い。
 氏は、政治がそうやって最善を尽くしても、最後に頼りになるのは「人の力」だと言う。
 モノやシステムに任せてしまうのではなく、一人一人が「どんな災害でも命を守れるよう、考え続けて」行くことが大切であると指摘している。
 住民にこうした意識を持ってもらうために発信される啓発の情報は、受け手が発信者を信頼していてこそ意味を持ち、役に立つ。
 真に人びとを守ろうとする信頼に値する政治が行われ、危機に際しては住民が乱れぬ行動をとること以上の危機管理はない。
 普代村で着実に実践されている危機管理が国家的規模で行われる日は来るのだろうか。

20110819 0122

20110819 0202



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2011
08.19

方便(有効で最適な手立て)とは?

 まじめなAさんは真剣に質問されました。
「正しいと思っていることをやろうとして、同じ信念を持っていない周囲の人たちとぶつかったり、強く阻まれたり疎まれたりした場合、どうすべきでしょうか?」

 たとえ釈尊の教えであろうと、聞く耳を持たない人にとっては雑音でしかありません。
 よくて「あっ、そう」と聞き流されてしまうのがオチです。
 釈尊は、教えを説く旅の途中で何度も何度もそうした場面にぶつかられました。
 そこで、まず何をされたか?
 それは相手が必要としていること(正しい願いであるならば)の実現であり、結果的に相手の心を開かせました。
 聞く耳が開いたところで、解りやすい言葉を用いて教えを口にされました。
 偈頌(ゲジュ)と言われる短い詩のような形式が多く用いられ、『法句経』などはそれをまとめたものです。
 実は、ここに「悟りの問題」が潜んでいます。

 たとえば、明日の手形が落とせるかどうかという瀬戸際にいる商店主へ「財欲は心を汚す」などと話して何になりましょうか。
 元気いっぱいで異性との良い縁を求めている若者へ「色欲は身を滅ぼしかねない煩悩(ボンノウ)だ」などと話して何になりましょうか。
 生死の瀬戸際にある病人へ「死神は怖れを持つ者へとり憑く」などと話して何になりましょうか。
 徹夜の突貫工事でへとへとになっている作業員へ「睡眠は人生を浪費させる」などと話して何になりましょうか。
 選挙のまっただ中にある政治家へ「権力は周囲の人びとを押しつぶす」などと話して何になりましょうか。
 
 人は誰しも、強い望みが満たされ安心した時に心がほどけ、広い世界へと目を向ける余裕ができます。
 仏神が「善願成就」「心願成就」を求める善男善女へご加護をくださるのは、そのために他なりません。

 冒頭の問に対する答の一つは、
「まず、周囲の人びとが求めていることを知り(大日如来の種々解智力…シュジュゲチリキ)、その心がいかなる世界にあるかを判断し(不動明王の種々界智力…シュジュカイチリキ)、円滑な人間関係をつくる」
視点を忘れないということです。
 時には信念を一旦脇へ置いたり、あるいはちょっと引っ込めねばならない場合もあるでしょう。
 場合によっては信念に合わない行動すら、一時的には必要となるかも知れません。
 こうしたもろもろの「方便」はもともと仏教用語であり、魂の救済という最終目標を達成するために必要な、その時・その場・その人にとって必要なあらゆる手だてを意味します。
 この方便を見つけるためにこそ、慈悲と智慧があるのです。
 大日経には、
「善き生き方・善き世界を求める心が原因となって真の思いやりが生まれ、必ず最善の手だてがみつかる」
と説かれています。

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20110819 0092



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2011
08.19

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その86)─明日死ぬとしたら今日をいかに生きるか?

 今回の大震災では〈無常〉が一気に、途方もないスケールで明らかになりました。
 だから、私たちはその非日常性に驚き、うちひしがれ、自他の身の上へふりかかった悲劇に嘆き、悲しんでいます。
 あまりにも大規模なので、生き残った私たちは個人的対応で乗り切ることができず、国家的規模での復興や再興を進めています。
 しかし、悲劇の一つ一つは〈無常〉という真理から一歩も出てはいません。
 そして、私たちはまぎれもなく、日常的に〈無常〉を生きています。

 釈尊の言葉が最も忠実に残されたと言われている『法句経』に、ある物語があります。

「80才近い大富豪のバラモンがいました。
 どんなに大きな家を造ってもあきたらず、陣頭指揮で、またもや新しい家にとりかかっています。
 釈尊が観たところ、あと一日のいのちなのに、未だ魂には真の福徳がなく、哀れと思って教えを伝えようとしました。
 しかし、モノに心が奪われているバラモンは答えました。
『今はとても忙しいので、後日、お話をお聴きしましょう。
 とりあえず、根幹だけ教えてください』
 釈尊は説かれました。
『家族や財産があるばかりに、
 愚か者はあくせくしている。
 自分自身すらはっきりと自分のものなどではなく、すべては無常でしかないのに、
 どうして家族や財産こだわり憂いつつ生きねばならないのだろうか』
『寒くなったらここに住もう、暑くなったらあそこに住もうと考えるのみで、
 愚か者は自分自身へ死が必ず訪れることに気づかない』
(クウ)を知らない愚か者なのに、自分では自分を賢者だと思い込んでいる。
 愚か者なのに智者であると称するのは愚の極みである』
 また来てくださいというバラモンを哀れみつつ釈尊が去ってまもなく、現場で事故が起こり、バラモンは即死し、家族の泣き声は近隣へ響き渡りました。

 釈尊の行く手に現れた数十人のバラモンたちはどこから来たのかと尋ね、釈尊が無常を知らぬまま亡くなったバラモンのことを告げたところ、皆揃って教えを請いました。
 そこで、釈尊は、あらためて詳しく説きました。
『愚か者が愚かなままで智者へ近づいても
 ヒシャクが食べ物の味を知らないように、
 いくら長い間馴れ親しもうと
 道理は頭へ入らない』
『聡明な者が智者へ近づけば、
 舌が食べ物の味を知るように
 ちょっと親しんだだけで教えの根幹を悟る』
『愚か者は何かをやっては
 自分へ災いを招き、
 やりたいように悪事を行っては
 自分へ重い罪科をもたらす』
『善からぬことを行っては
 あとで後悔し、
 泣きを見るが、
 こうした報いは前世からの悪業(アクゴウ)によるのである』
 バラモンたちはたちまち無常の理をつかみ、覚りへ入る道へ進みました」


 私たちは文字通り一瞬にして家族や友人知人のいのちが奪われ、家財がなくなる体験をし、そうしたことごとを見聞きしてもいます。
 そうしたことごとは、確かに起こりました。
 重くあぎれもない現実です。
 ならば、あれほど一気で大規模ではなくとも、何かの拍子に自分がいのちを落とし、あるいは大切なものを失って何の不思議もないことをよく考えるべきではないでしょうか。
 無常は一瞬後に顕わな現実となるかも知れません。
 昨年の日本人の年間死亡者数は約120万人です。
 一日におよそ3300人がこの世に別れを告げています。
 自分が明日、あるいは今日、その中の一人になったとて特段、驚くできごとではないのです。

 私たちは今、立ち止まり、その人なりにできごとを心でそしゃくしようとしています。
 それは決して簡単な作業ではなく、消化し終わるまでどれだけの時間がかかるかわかりません。
 ただ、作業には「自分自身が無常を生きており、すべては(クウ)である」という真実から目をそらせないことが重要です。
 釈尊は、生まれてきた甲斐のある真実の生き方をしようとするならば、まず、忘れている無常を正面から見つめよと説かれました。
 自分が明日死ぬかも知れないと心から思えれば、きっと、身の回りへのこだわりは消え、つまらぬ憎しみや怒りもまた消えるはずです。
 よく「末期の目」といわれるように、草や雲や町や人の美しさ、あるいはかけがえのなさを感じるかも知れません。
 そこで、人はどうなるでしょうか?
 ここにいて感謝している自分こそ真の自分であると気づきます。
 自分の口から出た感謝の言葉に微笑む誰かの笑顔が輝いて見えます。
 それは、善く生きている証拠です。
 自分が無常の存在ならば、自己中心のこだわりは無意味であり、それが〈善く生きる〉ことを妨げているのは明らかです。
 無常を観て生まれる感謝の心を第一の真実とし、感謝から話し、語り、行動すること。
 すなわち、善く生きること。
 生き残った私たちは、ここからこそ、出発しようではありませんか。

20110818 001



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2011
08.18

なぜ仏教徒は敵の幸せをも祈るのか

 他人の苦を抜き、他人へ楽を与えずにいられない慈悲の心は、相手を選びません。
 救いの光を発し続けておられるご本尊様が、ぬかづく人が善人であるか悪人であるかによって、あるいは捧げられるものの多寡によって、その光を増減させるはずはありません。
 真の慈悲心には「遍(アマネ)く」という要素が不可欠です。
 だから、私たちを遍く照らし続けること金剛のように変わらない根本仏である大日如来の別名が遍照金剛(ヘンジョウコンゴウ)なのです。
 今から1206年前の8月10日、密教の法をすべて授かったお大師様は、師である恵果様より遍照金剛の名を授かりました。
 大日如来そのものに成る即身成仏(ソクシンジョウブツ)法を結び、生きとし生けるものを遍く照らす存在としてはたらくようにとの願いが込められていたのでしょう。
 四国八十八霊場をお詣りする善男善女が唱える「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」は、1000年以上もの間、救いの言葉として伝わってきた尊いご宝号です。

 さて、み仏の子として生きようとする仏教徒は当然、み仏のように慈悲心が発揮できる存在を理想とします。
 だから、相手を選ばず思いやり、自分ができることをしないではいられない心になる修行を続けます。
 修行の基本となる「十善戒」は十の戒めであり、これに反する仏教徒はあり得ません。
 第八番目にある「不瞋恚(フシンニ)戒」は、つまらぬことに腹を立ててはならないという教えです。
 江戸時代の傑僧慈雲尊者は諭しました。

「ちりばかり いからでしのべ しのびなば やまよりたかく とくはつもらん」


(塵ばかり 怒らで忍べ 忍びなば 山より高く 徳は積もらん)
 また、菩薩になることをめざす六つの修行である「六波羅密(ロッパラミツ)」行の三番目には「忍辱(ニンニク)」行があります。
 雨風に耐えて咲く花のように何ごとにも耐えて人の道を踏み外さず、慈悲の心から離れないという修行です。
 当山ではお墓やお仏壇へ花を捧げる時、こう誓うようにお勧めしています。

「我、雨風に負けず咲く花のごとく堪え忍び、心の花を咲かせん」



 こうして、仏教徒は、何があっても怒らず相手を思いやらねばなりませんが、実践はとても困難です。
 自分のためになってくれる相手の幸せを願うことは仏教徒ならずとも自然にできますが、自分に害意を持つ相手へも同じく接するのは「自分を守りたい」という意志に反するからです。
 仏教は、守りたい〈自分〉こそが迷いの根源であり、お互いが〈自分〉を第一にしているからこそ、この世は世知辛いと説きます。
 この〈自分〉を脱しないと、真の慈悲心は決してはたらきません。
 小さな花を見つけては踏まないようにしている人でも、自分を蹴落とそうとするライバルには、失敗すればいいと願ったりします。
 そこで、道理の宗教である仏教は、具体的なイメージで心を鍛える方法を説きます。

 他人には三種類あります。

1 自分へ悪意を持つ人
2 自分へ関心のない人
3 自分へ善意を持つ人

 まず、自分へ悪意を持つ人はどのような存在であるかを考えてみましょう。
 たとえば、自分を蹴落とそうとして事実無根のあらぬ噂を立てるとします。
 そうされた自分は、明らかに被害者です。
 ある人は、怒りのあまり殴りつけるかも知れません。
 ある人は、厳しく詰問し、第三者の前で白黒をつけようとするかも知れません。
 ある人は、上司へ言いつけるかも知れません。
 ある人は、報復のために同じように相手へあらぬ噂を立てるかも知れません。
 ある人は、穏やかに話し合いをしようとするかも知れません。
 ある人は、「真実はやがて明らかになる」と意に介さないかも知れません。

 ここで仏教徒はどう考えるべきか。
 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「『敵』は、自分を傷つけ害し、命まで脅かす者です。
 社会一般においては、そういった者に対しては、制裁や報復を与えても許されることであると考えられていますね。
 自分自身を守るためには、攻撃してもいいと考えられています。
『敵』に対しては怒りの感情をもっていいと、そうすることが必要であると思われています。
 これはある意味で正しいといえますし、法律的にも認められています。
 しかしながら、『忍耐』は必要であり重要であることに変わりありません。

 怒りの対象を所縁として『忍耐』の瞑想をすることはもちろん大切ですが、本当の意味での『忍耐』とは違います。
 本当の意味での『忍耐』の修行をおこなうには、実際に自分自身が苦境に追い込まれる必要があるのです。
 そして、その苦しい状況に耐えることなのです。
忍耐』の修行というのは、ただ背筋を伸ばし、頭の中でイメージするという表層的な型にはまったことでなく、実際に悩み苦しみ、半ば自暴自棄になるほどの苦境に置かれることで、本当の『忍耐』の修行となるのです。

『忍耐』は本物の菩提心を起こす助けとなり、菩薩としての修行に不可欠なものです。
 すべての衆生を捨てておかないで、自分が責任をもつという決意につながっていきます。
 ここで大切なのは、すべての衆生を捨てておかないということです。
 もしもこのような、あらゆる衆生を対象とした『忍耐』の修行をおこなうことがないならば、自分の身近な者や友人などの一部の者のみに対して思いやりをもつだけの、偏ったものになってしまいます。

 一部の者だけを思いやり、彼らのために責任をとるという、うわずった責任感となるのです。
 うわずっているということで、甘い責任感のようですね。
 これでは自分の愛する者以外の人が苦境にあるときには、無関心で放っておくことになってしまいます。

 ですから、自分を本当に悩ませ苦しめている人こそが、深い慈悲心を起こす条件となる『忍耐』を生じさせる対象となるのです。
「敵対する者」が大きな恩のある者であるというのは、彼らが特別の機会を与えてくれる唯一の者であるためだからです。
 この機会を与えてくれるのは『敵』しかいません」


 国を奪われ、いのちを狙われ、国民や弟子たちを殺され、仏教を破壊され、故国の伝統と文化も銷滅させられつつあるダライ・ラマ法王の言葉には、血を吐くような真実と力がこもっています。
 こうした教えを学び、仏教徒としてまっとうに生きようとする時、自分へ悪意を持つ相手への対応がどうあるべきか、考え直す時間ができるのではないでしょうか。
 そして、「自分へ悪意を持つ人」に対して耐え、慈悲心を起こせるならば、「自分へ善意を持つ人」はもちろん、「自分へ関心のない人」にも慈悲心をもって対応できるはずです。
 今、日本中の人びとが、そもそも「自分へ関心のない人」すなわち無縁の被災者の方々の心に寄り添い、何かをしようとしています。
 この慈悲心をあと一歩進める忍耐の教えも考えてみてはいかがでしょうか。


〈今年も出会った小さな彼〉
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2011
08.17

お不動様の立ち話

 グレーの頭巾をかぶり茶色のジャンバーを着たお婆さんが、意外なほど早い足取りで『守本尊道場』を歩いておられました。
 私を見つけて「ありがたいねえ」と合掌され、お不動様の話になりました。

 お不動様は、み仏なのに怒った顔をしておられます。
 しかも背中には炎をまとい、左手には(ナワ)、右手にはまで持ち、とても怖いはずなのに、手を合わせるとなぜか、大きなお力をいただけるようでとても安心してしまいます。
 なぜでしょうか?
 実は、お姿は昔のインドの奴隷の形であり、それは人のためにはたらき尽くす徳を表わしています。
 よく見ると頭の頂上に七つの花びらを持っていることから、単なる奴隷でないのが判ります。
 観音様やお地蔵様など、多くのみ仏は蓮華に乗っておられますが、お不動様だけはちがいます。
 他のみ仏方は、泥に咲いても決して泥に染まらず清らかな赤や白の華を咲かせる蓮華のように高い尊をもって私たちを高いところから導いてくださいます。
 しかし、お不動様は、尊い生きものである私たちを頭上の蓮華へ載せて、下からヨイショと持ち上げてくださるのです。
 
 修行を始めた頃、よく、師僧(シソウ)から「お不動様の心を忘れるな」と諭されました。
 それは、袈裟衣をまとうと周囲の方々が尊敬の態度で接してくださる場合が多く、決して自分が偉いわけではないのに、〈虎の威を借る狐〉のように尊大になってしまう場合が少なくないからです。
 お不動様の徳は、こういった愚かしい思い上がりの正反対のものです。
 経典によれば、不動の名のとおり浮わつくことなく大地にしっかりと脚を踏みしめて何ものにも動ぜず、宇宙の根本仏である大日如来の使者として、如来のみ心のままに自らを捨て、奴隷の姿のごとく太陽や雨や友人や食べ物など、森羅万象となって私たちに救いの手を差しのべてくださいます。
 このようなお不動様に習い、ご縁の方々のためにあらゆる法をもってはたらかせていただくのが僧侶の役割であると信じています。
 
 さて、人が死んで最初にお目にかかるのはどなたでしょうか?
 そもそも、枕経(マクラギョウ)は何のために行われるのでしょう。
 あの世でお導きくださる最初のみ仏はお不動様。
 肉体の束縛から離れたばかりの魂が迷わぬよういち早くご加護くださいます。
 枕経を急ぐのは、不動法で悪しきものたちからみ魂をお護りするためなのです。

 は何のために持っておられるのでしょう。
 人が悪しき行いをする時、「そこから先は地獄です。迷うのはそこまでにしなさい」とで縛って離さず、奈落の底へ落ちないようにお救いくださるのです。
 誰しもが迷い・惑い失敗をするものですが、お不動様に手を合わせ、何とかの範囲でとどまりたいものです。
 そして、迷いや穢れを鋭いで断ち切っていただき、善願成就へ燃え上がる炎のような勢いをいただきましょう。

「どちらから?」ともお尋ねしませんでした。
 お婆さんは静かな笑顔で立ち去りました。
 冬の午後の陽はもう、蔭り始めています。

※この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。

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2011
08.17

私語の多いお葬式 ─ご葬儀は導師が法を結び、参列者は回向する厳粛なひとときです─

 県外も含め各地でご葬儀を行うと、とても私語が多く、いかがなものかと思わされる場面もしばしばです。
 特にお焼香の後は、一人や二人の〈うっかり〉や〈こっそり〉ではなく、風習ではないかと訝るほど普通に挨拶が交わされたりします。

 ある日、ご葬儀が終わり、いつものようにご供養の真意についてお話し申し上げてから、私語について触れました。
「ご葬儀の間は、会場は聖なる空間であり、聖なる空間が流れています。
 導師が退ってから日常に戻ります。
 だから皆さん、私語は慎んでください。
 気をつけましょう」

 遅い時間帯になり、沿岸部から来られた方々も多かったので法話をいつもより早く切り上げねばならず、説明が足りません。
 そこで、会食のおり、近くにおられた方々とお話ししました。
私語についてご注意申し上げたのは、決して私に失礼だと怒っているのではありません。
 ご葬儀は決して単なる儀式ではないからです。
 また、亡き方をお送りするのは導師だけの仕事ではなく、会場の皆さんも一緒にお送りするのだという意識を持っていただきたいと願っているからです」

 ご葬儀は、故人の御霊がこの世とあの世の区切りをつけ、文字通り安心して旅立たれるように導師が〈法を結ぶ〉厳粛な場です。
 行者が専門的な修行に勤しむの目的の一つは、この法がきちんとはたらくための法力を身につけることです。
 引導を渡す瞬間は、行者の法力が試される瞬間でもあり、私は心といのちのすべてをかけて行います。
 それを知っている妻は、疲労を抱えてご葬儀へ出発す際に「引導を渡したまま、一緒に逝ってしまわないでよ」などと言いますが、ムダです。
 手を抜くことはあり得ないし、一緒に逝くならそれでも良いと考えているからです。
 釈尊もお大師様も、教えを〈口にした〉だけではありません。
 目に見えない法力を帯びた動きであり、言葉であり、集中力であったればこそ、ご生涯において人びとを救われただけでなく、今なお、私たちをお導きくださっています。
 たとえ、そうした巨星との距離は無限と言うしかないほど隔たっていても、憧れ、目指さなければ修行は成り立ちません。
 修法こそが行者の使命であり、ご葬儀における導師は儀式の手順をなぞっているのではなく、血肉と化した法を結んでいるのです。

 一方、ご葬儀は、皆さんと共に故人の安心な旅立ちを願う場でもあります。
 それはちょうど、オーケストラが演奏を行うようなものです。
 導師は指揮者であり、参列された皆さんは演奏者です。
 手にする楽器がそれぞれ異なるように、皆さんの心に浮かぶものは異なっていても、故人の安心な旅立ちを願う思いは共通しているはずです。
 その思い一つをしっかり保って過ごされれば、ご葬儀は旅への大きな後押しになることでしょう。
 これが回向(エコウ)です。
 まごころを回し向け、故人への力とするのです。
 回向を行ってこそ、参列した甲斐があるのではないでしょうか。

 このようにご葬儀は、導師が法を結び、参列者が回向をする厳粛なひとときです。
 ぜひ、私語のない場であって欲しいと願っています。

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2011
08.16

お盆供養会と敗戦と公娼制と

 8月15日は、あっという間に過ぎ去ろうとしています。
 当山ではお盆供養会を行い、本堂からはみ出さんばかりの善男善女が祈り、護摩の火に身を近づけ、境内地を歩かれました。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者たちは奉納剣を行いました。
 無事、修法が終えられたのはたくさんの方々のおかげであり、深く感謝しています。

 昭和20年のこの日は、昭和天皇が終戦の詔書を朗読し、その玉音は津々浦々へ流れました。
 現在、8月15日は終戦記念日と呼ばれていますが、日本が占領軍から解放されたのは7年後の4月28日であり、文字通り諸外国との戦いが終結した日をもってこそ区切りとすべきであるとの主張には一理あります。

 さて、大震災の影響もあって心に悲哀を抱いた方々がたくさんご来山されました。
 後片付けの終わった夜になり、またもや思い出したのは、日本が戦線を拡大した歴史と共に動かされ、敗戦後しばらくしてようやくその歴史を閉じた女性たちの悲哀です。
 
 昭和59年、57才の森崎和江氏は『大連悲歌』を発表し、公娼となった女性たちの姿を描きました。

「日露戦争がたけなわの明治三十八年二月、占領地の大連に民間人の渡航がゆるされた。
 商工業者が七、八百人渡った。
 が、旅館の数がまだすくなくて、わずかに大連ホテルと遼東ホテルがひらいているだけだった。
 人びとはやむをえず民家を借りて住んだ」


 すでにここには五、六人の女性がおり、「請負業者や前線がえりの軍人が安からぬ宿泊料をはらって」泊まりました。
 こうした女性がふくれあがるのを察知した『福岡日々新聞』は報じました。

「恰(アタカ)も一顆(ヒトツブ)の砂糖に蟻の蝟集(イシュウ…群がり集まること)するが如(ゴト)し。
 日頃怪気焔を吐く男子も、爰(ココ)に至って三文の価値なしと云(イ)ふべし」


 しかし、女性の数は増え続け、同年8月には「貸座敷規制」が発布され、公娼制が始まりました。
 また『福岡日々新聞』は書きました。

「此れを見ても満州経営が先づ魔窟の創設より始まる事が証明される」


 森崎氏は書きました。

「旧満州はもとよりのこと、清国の北や南のおもた都市ではからゆきさんを公娼私娼にわけて日本の警察権で管理した」
「日露戦争や日韓併合のあとフィリピンでは、日本はつぎにフィリピンをねらっていると噂するものたちがいた。
 アジアの人びとは日本が国力をのばして、アジアから西欧人を追いはらうものと考えていたのがみごとに裏切られて、日本への警戒を強めた」
「アジアの北方へ流れでていた女たちが、それ(日露戦争)をきっかけに、くにの管理下にいれられたのをみてもわかるように、解放でも保護でもなく、不完全な支配から完ぺきな支配へうつされたのである」


 劣悪な環境、過酷な条件で日夜はたらかされる女性たちは事実上、人間扱いされません。
 大連青年会や救世軍によって救われ、「自由廃業」の身となることを夢見た女性ナミの唄が残っています。

「親方さん親方さん
 ちょっとそこまでいってきます
 鑑札札手にもち警察へ
 申し上げますお役人
 自由廃業ねがいます
 ままになるなら花月の格子
 開けてかがやく大連で
 自由廃業生きよと死のと
 わたしひとり
 四百余名のためとなる」
 救済所の看護婦たちに誰が作った歌なのかを訊ねられた博多出身の女性は答えました。
「わたしの虫が考えたの」
 そして、ナミは病床でなお、唄っていたそうです。
「ほんにこの身はかごのとり
 せめて空とぶとりなれば
 ちかい博多に巣をかけて
 こがれてなくこえ
 ああかあさんにきかせたい」



 森田氏は総括しています。

「日本の公娼性制はわたしたちのはるかな祖先から、代々つたわってきたものである。
 それは明治維新になっても、すこしもかわらなかった。
 日露戦争のあとは国のそとへもひろがり、第二次大戦で日本がやぶれてもなお、生きつづけていたものである。
 ナミにふりかかっていたのはこうした時代の波と、そしてはるかな昔からの、女の孤独だった」



 根無し草となった心をもてあましながら東京で暮らしていた時代、青白くて精気がなく、薄膜のかかったような目に笑いのかけらもない娼婦を思い出します。
 その旦那を自認する下駄屋の主人もまた、ひょうたんのような白い顔に細い腕で、ぐい飲みを傾けていました。
 私鉄駅近くの裏通り、隠れるように建つ一杯飲み屋での一コマが忘れられません。
 落剥の思いで仙台へ帰り、通称エックス橋のあたりを飲み歩いていて、小学生かとみまがうばかりの小枝としか形容できない娼婦に声をかけられ、あまりの哀れさに宿へ入り何もせず、何も尋ねずビールを飲んだだけで過ごした一時間の辛さもまた忘れられません。
 あの時以来、私は女性を〈買う〉意識の感じられる男性に会うと、虫ずの走る思いに襲われるようになりました。
 惚れ合った男女間でお金がやりとりされるパターンはさまざまですが、〈買う〉意識はまったく別次元のものです。

 ああ、戦争、戦場の陰で泣いた女性たち。
 そして、何不自由ない境遇にあってなお、遊ぶお金が欲しいばかりに援助交際へ走る現代の少女たち──。
 また、性懲りもなく気軽に〈買う〉男性たち──。
 ……いつの時代も、歴史をつくる積み木には、堕落で汚された積み木もあるのか。

 玉音放送から66年後の8月15日は、もうすぐ終わります。

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2011
08.15

歩んではいけない道 ─品性、そして『なぎさホテル』─

 仏法は、生きるためだからといって、何でもして良いとは説きません。
 仏法で大切なポイントは「いのちを大切にしよう」ではなく、「いつ、いかなる時も、人間として生きるべき道を歩んで行こう」にあります。
 真理を観ていかに生きるかがすべてであり、その先に、生きとし生けるもののいのちを尊ぶことや、自分のいのちを差し出して私たちを養ってくれる生きものたちへの感謝を忘れないという心構えがあります。

 さて、生活の糧を得るための間違った方法です。

1 媚びへつらってものを得ようとすること。
2 小さなものや少ないものを与えて、大きなものやたくさんのものを得ようとすること。
3 何かをほのめかし、〈その気にさせて〉ものを得ようとすること。
4 力づくでものを得ようとすること。
5 偽善的なふるまいでものを得ようとすること。

 いかにもやってしまいそうではありませんか。

 最近話題になっている伊集院静氏の『なぎさホテル』では、どう生きたら良いかわからず迷った主人公が、こうした間違った方法を嫌悪しつつ、時はやむを得ずそこへ近づいては傷つき、結局は「」とでも言うべき〈生きにくいが譲れない〉姿勢を貫こうとする生きざまが書かれています。
 主人公は相手の氏素性を訊ねません。
 相手の生きざまに真実を見つければ関心を持ち、偽善や高慢を見つければ唾棄して妥協しないシンプルさは、シンプルに生きている人々の共感を招き、互いに見捨てられない絆ができます。
 その絆のためなら何でも捨てて厭わないと思えそうな一徹さは、忘れかけられている「」とでも言うしかありません。

 京都大学大学院の佐伯啓思教授は

「もはや現代社会には、たしかな価値の基準というものが見あたらなくなっている」

と書きました。
 そうであるかどうかはさておき、教授と同じ感じを抱いている方々は相当おられることでしょう。
 倫理・道徳・宗教が、それを学び、柱として生きている人からの活き活きしたメッセージとなってはたらいていないことにより、あたかも、無くなったかのような様相を呈していることは確かです。
 
 伊集院静氏は言います。

鍛冶屋はいいナ、と思う。
 私が鍛冶屋の仕事に憧れるのは、鉱石、火、そして筋力という原始社会から変わらぬものを相手にし、出来上がったもの(作品でもいいがニュアンスが違う)の使い道がはっきりしているところがいい。
 立派な鍬が出来上がっても、まさかそれをまさかそれを部屋の棚や壁に飾る者はいない。
 農夫が、それを振り上げて土を耕す。
 そして種を蒔き、実りを求める。
 私に言わせれば、鍛冶屋の仕事は、人間の仕事として完璧に思える」

 同じように、ジョアン・ミロが陶板画やモニュメント製作に携わってくれた陶工たちを絶賛し、「彼等の無名性に尊厳を抱く」と語り、そこに気づくまでに80年という歳月を要したと、吐息を雫したことを紹介しています。

「私には老画家の吐息の意味を的確に言葉で言いあらわせないが、勘としてこの発言の彼方には見晴らしの良い視野が広がっている気がする。
 品性を感じるのである」

 伊集院静氏は続けて、「品性は、私に一番欠落したものである」と吐露します。
 しかし、氏の生きざまには、そうしないではいられない「」にかけた品性があります。
 
 間違った5つの方法を復習する時、この間違いと格闘する人の品性を思います。
 伊集院静氏の鍛冶屋に憧れる心を想います。
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2011
08.14

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その24)─読み書きを忘れず、自然を忘れず─

 江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校の現場で用いられるよう願ってやみません。

「それ習(ナラ)い難(ガタ)く忘(ワス)れ易(ヤス)きは、
 音声(オンジョウ)の浮才(フサイ)。
 又(マタ)学(マナ)び易(ヤス)く忘(ワス)れ難(ガタ)きは、
 書筆(ショヒツ)の博芸(ハクゲイ)。
 但(タダ)し食(ショク)有(ア)れば法(ホウ)有(ア)り。
 亦(マタ)身(シン)有(ア)れば命(ミョウ)有(あ)り。
 猶(ナオ)農業(ノウギョウ)を忘(ワス)れざれ。
 必(カナラ)ず学文(ガクモン)を廃(ハイ)することなかれ」


(謡曲や笛太鼓などの芸事は習って身につけることが困難だが忘れやすい。
 読み書きは子供にもできる博い芸であり学びやすいが忘れがたい。
 ただし、飲み食いにも大切な真理があり、
 身体があって生きている事実にも、いのちという真理がある。
 また、農業の持つ意味を忘れてはならない。
 必ずや学び、読み書きすることをやめぬよう努めねばならない)

 いわゆる芸事は、一旦その道へ入ったならば、ずっと稽古し続けなければたちまち腕が落ちてしまいます。
 日常生活へ直結していないので、わざわざ学ばねばならず、一朝一夕には身につきません。
 しかし、読み書きは、誰でもすぐに学ばれ、自分なりに生活の場で生かせます。
 詠んで知り、自分で考え、書いて頭の中をまとめ、誰かへ伝えるのは、生きることそのものだからです。
 芸事を否定したり軽んじたりする必要はありませんが、書を読み、ものを書くのは、誰にも欠かせません。

 確かに、飲み食いする日常生活から真理を学び、自分の身体と言葉と心のはたらきからいのちの不思議さや尊さといった真理を学ぶのも可能です。
 しかし、そうした入り口から、一人前の人間として生き、振る舞うための基礎を身につけたり、いかに生きるべきかという自分なりの志をつかんだりするのは、容易ではありません。
 だから書を読み、先人、古人、聖人の書き残した精神や、生きつつ思いを込めて書かれてた言葉に触れる必要があります。

 忘れてならないのは、自然と共に生活し、自然の恵みによって生き、ある時は自然と闘い、そして、自然から離れた生活をしている人々のいのちをも養う農業従事者の姿です。
 私たちは生きものであり食べ物を口にしなければいのちを保てませんが、食べ物はすべて、他の生きもののいのちを含んでいます。
 私たちへ自分のいのちを捧げてくれる生きものたちのおかげで、私たちは飲み食いし、笑い、泣き、語り合って今のいのちを保っています。
 それは、自然によって生かされているということを意味します。
 食べ物の供給源であるだけでなく、直接自然と一体になり、この真実を私たちへ自分の姿をもって教えてくれているのが農業従事者です。
 お百姓さんの存在を忘れ、自分よがりの頭でっかちになっては、学ぶ意味も意義も失われます。

 個人主義、自由競争、グローバル化などの弊害が顕著になってきたのは、自分の身体がぬくもりを持った自然の一部であり、それが万人共通の真実であることを忘れた人々の思想が世界的規模で影響力を持つようになったからです。
 野放しのシステムが道徳や道義という心の歯止めを遙かに超えて暴走し、「自分に都合の良い結果」を求める意志が国家的規模、世界的規模ではたらいているからです。
 財力や権力に裏付けられたその意志は、まっとうに生きる膨大な人々の生活を簡単に押しつぶし、朝も夜も休みなく〈利の膨張〉をはかっています。
 こうした無情で非情なシステムをもたらした私たちの文明を転換させられるのは、自然に生かされていることを体感し、自分の身体に自然を感得し、万人がそうであると実感できる人々ではないでしょうか。
 実に、山に生きる人々、海に生きる人々こそ私たちの最後の砦であり、私たちが忘れてはならない学ぶべき生き様ではないでしょうか。
 最後にこうした重要な注意書きが添えられた深い思慮をこそ叡智と言うべきです。
 ここに〈読み書きの勧め〉は完成します。

 お盆で世代を超えた家族親族の接触が行われるこの時期に、江戸時代からの贈り物を生かそうではありませんか。

20110810 0212



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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
08.13

お盆の過ごし方

 お盆は、立秋後で最もひんやりとした朝をもたらしました。
 もう、明らかに秋です。
 善男善女は一週間も前から墓地へ足をはこび、あるいは本堂でご本尊様へお詣りをしておられます。
 皆さんそれぞれに、先に逝かれた近しい人との絆をきっかけに、感謝の念を新たにし、人生を考え、いのちを想っておられます。
 もちろん、寂しさや哀しみにじっと耐えている様子がひしゃくを緩やかに動かす手や、少し背中を丸めて歩く足どりや、墓石をなでつつ止まりそうになる腕に感じられ、「しっかりね」と心で手を合わせてしまう場面もしばしばです。

 私はご葬儀の後で申し上げます。
「故人は、ご自身の死をもって人生で最後の大仕事をされました。
 それは、皆さんを立ち止まらせ、日々の歩みから離れた時間を体験させていることです。
 生きて行くのは簡単ではありません。
 それぞれ、自分自身のことで、あるいは自分を中心とした世界で、懸命にやっておられます。
 そうした皆さんが今は時間の流れを変え、日常生活で忘れかけていた人の死に向き合い、敬虔で厳粛な気持になっておられます。
 居住まいを正して修法の場に座り、導師と共に御霊の安らかならんことを祈っています。
 無意識のうちに、失われたいのちの続きをがどこかに何らかの形で存在し、自分の心が通じることを信じています。
 だからこそ、お線香を立て、お焼香をし、手を合わせもします。
 実に、人の死は、人間にとって最も大切なものを突きつけ、最も大切なことを考えさせ、最も大切なものを思い出させます。
 皆さん、どうかこの時間の体験を大切にしてください。

 お線香を供えれば、佳い香を捧げるだけでなく、お線香の持つ〈お精進〉のイメージを持って、〈お線香のようにお精進しますから、どうぞご安心ください〉と祈ってください。
 そうして実際に皆さんがお精進する姿をあの世から見ていただくことが真の供養です。
 つまり、故人がご自身の死をもってつくってくださった人生修行の機会を生かし、お線香一本を立てるところから生き直しをするのです。
 人間としての心のステージを一つ高めるのです。
 同じく、お水を供えれば〈布施〉、お花を供えれば〈忍耐〉、お灯明を点せば〈智慧〉、ご供物を供えれば〈禅定〉をイメージし、その徳で生きようと念じてください。
 これ以上の供養はありません」

 お墓参りをする時は、誰でもが本来の善男善女になっています。
 掃除をし、お線香やお花やお水を捧げる姿にも様子にも心にも、それが顕れています。
 実に、死を想い、先に逝かれた方々のおられるこの世ならざる世界へ思いを巡らすことこそ、私たちの日常生活から最も遠く、そして、自己中心という迷いの根本を打ち砕く大切な修行です。
 お詣りできない方は、信じられる寺院へ塔婆供養を依頼し、御霊へ心を向けて合掌する時間をもうけてください。
 お塔婆は、表に書かれた「ア・バ・ラ・カ・キャ」の梵字へ目に見えるこの世の徳のすべてを込め、裏に書かれた(バン)の梵字へ目に見えない心の世界の徳のすべてを込め、そして逝かれた御霊の名を宛先として記し、自分のまごころを捧げるための尊い贈り物です。
 墓地へ立てられない方のお塔婆は、祈った寺院が法を込め供養します。

 あの世は時空を超えており、いつ、どこからでも、真実の思いは通じます。
 お盆の4日間がその方なりに有意義なものとなるよう心から願っています。
 

20110813 001



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2011
08.12

【現代の偉人伝】第130話 ─死刑囚の減刑嘆願を行った被害者ライス・ブイヤン氏そしてマーク・ストロマン死刑囚─

 8月12日の読売新聞は銃で撃たれたイスラム教徒が、白人死刑囚の減刑嘆願に奔走したと報じた。

 米同時テロから10日経った平成13年9月21日の正午近く、ライス・ブイヤン氏(当時27歳)は、「どこの出身者だ!」という声を聞くと同時に銃撃され、いのちはとりとめたものの右目を失った。
 務めていた給油所でのできごとである。
 縦断の破片が30個以上残った頭は、IT技師となった今も痛む。

 事件後、恐怖から外出できない時期もあったが、「不思議と犯人への怒りはわいてこなかった」。
 同時テロに怒った白人死至上主義のマーク・ストロマン(当時31才)は、ライス・ブイヤン氏以外にも南アジア出身者2名を襲って殺害し、逮捕された。
 バングラディシュ出身のイスラム教徒ライス・ブイヤン氏は、法廷で「私こそ真の米国人だ」と主張する被告を哀れんだ。
「無知ゆえの犯行」と考えたからである。

 8年後、犯人マーク・ストロマン死刑が確定した。
 報道で死刑囚の反省ぶりを知ったこともあり、「彼のいのちを奪うことで社会から憎悪がなくなるのか」と考え、「彼を生かし、その声を広めることが再発防止への道だ」との結論を得たライス・ブイヤン氏は、減刑を望んだ。
 平成23年末には署名運動も起こし、1万人もの署名が集まっただけでなく、殺された被害者二人の遺族もまた運動を支援した。
 その一人であるパキスタン人の妻は言う。
「犯人への怒りから戸惑いもあったが、自分のつらさをこらえて憎悪の克服を説くライス氏の謙虚な姿に心を動かされた」

 平成23年6月死刑囚からライス・ブイヤン氏へ手紙が来た。
「あなたは私の人生最大の希望を与えてくれた」との「丁寧な文面に、涙が止まらなかった」。

「あなたがしてくれたことに感謝している」
 7月20日午後4時過ぎ、米テキサス州オースティンの裁判所近く。
 ライス・ブイヤンさん(37歳)は、自分を撃った男の言葉を確かに聞いた。
 同州ハンツビルの獄中から電話してきた男の名はマーク・ストロマン(当時41歳)。
 死刑執行が当日夕刻に迫っていた。
 必死に返す言葉を探した。
「僕は怒っていない。
 ありがとう」。
 たった5秒の最初で最後の会話だった。


 電話の後、ブイヤンさんはオースティンの裁判所で証言台に立ち、死刑の延期を訴えた。
「彼に会いたい。
 人間としての彼の心とつながりたい」
 だが、上級審の命令で審理は停止に。
 夜8時半ごろ、薬物注射で刑が執行された。


 ライス・ブイヤン氏は、マーク・ストロマン元死刑囚の言葉を人づてに聞いている。
「世界の憎悪を断ち切らなければならない。
 憎悪は一生の痛みとなる」
 そして思う。
「彼も同時テロ犠牲者だったのだ」
 今、ライス・ブイヤン氏は人権活動を行い、紛争地での和平仲介をも夢見ている。
憎悪をなくすことはマークとの約束」だからである。

 ブログ「怒りと憎しみの違い」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2830.html)へ書いたとおり、憎しみが悪であり自他を破壊する強い煩悩とされているのは、他を害する意識が潜んでいるからである。
 害されることを望む人もいきものもいない。
 誰しもが望まぬことを行うのは、まぎれもなく悪である。
 自己中心的意識によって互いを害し合う煩悩を抱えた私たちは、それが自他共に「一生の痛みとなる」結果をもたらすことから目を背けないようにしたい。
 そして克服したい。
 憎悪が起こさせる行動は、互いを「犠牲者」にしてしまうからである。
 マーク・ストロマン元死刑囚も、ライス・ブイヤン氏も、究極の犠牲者としてそのことを私たちへ訴えている。
 心深く受けとめたい。

20110810 0182



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2011
08.11

法話と対話の会「生活と仏法について」第三回 ―怒りと憎しみの違いは?─

 8月10日は、『三十七の菩薩の実践』から、「人間としてこの世へ人生修行に来れたありがたさ」、そして、『法句経』の「無常品」を主として学びました。
 猛暑の中を会場へ足をはこばれた方々から、活発な質問が相次ぎました。
 その中から、いくつかとりあげます。

憎しみ怒りも、私の心からなかなか離れてくれません。
 仏教は怒り人生を破壊する煩悩(ボンノウ)であると説いています。
 人を憎んでいる時は決して嬉しくなく嫌な気分ですが、すぐに人を憎む自分もよけい、いやになります。
 でも、子供が言うことを聞かないなど、怒らなければならない時がありますよね。
 どう考えれば良いのでしょうか?」

「憎悪はなぜ、悪とされているのか?
 それは、憎悪には害意が潜んでいるからです。
 菩薩行を実践している人以外、誰一人、憎い相手に良いことが起こることを望まず、心の底で必ず悪いことが起こることを望んでいます。
 その究極は、相手の死を望むことです。
 だから、恋愛感情のもつれによってもたらされる殺人事件は、古今東西なくなりはしません。

 人間修行の根幹は二つです。
 自己中心が過ちであると知る智慧をはたらかせ、いのちあるものへの感謝から自然に発する思いやりを獲得することです。
 その二つの対極にあるのが〈他を害する心〉です。
 憎しみは、可愛い自分が何らかの形で痛めつけられたと感じ、その報いとして相手へ悪しきことがおこるよう望むところに発します。
 そこには智慧も慈悲もありません。
 だから、憎悪は自他を不幸にする煩悩なのです。

 さて、怒りはどうでしょうか?
 やはり害意を含んでいるので、明白に悪です。
 怒りのあまり起こる殺人事件もまた、社会からなくなりません。
 だから、怒りは自他を不幸にする煩悩なのです。

 では、子供を叱る親はどうなのか?
 不動明王はどうなのか?
 もちろん、その怒りは清浄なものです。
 親は子供を思うがゆえに怒り、不動明王は人々を思うがゆえに怒ります。
 煩悩と清浄な怒りの違いは何か?
 それは、凡夫の怒りは〈相手を害する〉心に発し、親や不動明王の怒りは〈相手を思う心〉に発しているという点にあります。
 親や不動明王は、悪しき考えや悪しき言葉や悪しき行為をなくすために猛威を発しているだけであり、そうした過ちを犯している人そのものを害する心はまったくありません。
 言い方を変えれば、親や不動明王は〈人〉を怒り破壊しようとせず、〈悪〉を怒り滅ぼそうとしているのです。
 お大師様は不動明王を主尊とする護摩法を修し、国の指導者から庶民に至るまで、すべての人々の転迷開悟(テンメイカイゴ)と除災招福(ジョサイショウフク)を祈りました。
 怒りのみ仏をお招きし、悪しきことが起こらぬように願う強力な祈祷法を日本へもたらしたのには、こうしたわけがあります。

 人が迷いから救い出されるためには、優しさと厳しさが必要です。
 守られ、鍛えられてこそ、人はまっとうに成長するのではないでしょうか。
 自分には抜きがたい悪しき心の傾向がありはしませんか?
 それに気づいたならば、優しいお地蔵様や観音様に祈り、厳しいお不動様にも祈りましょう。

 これが、憎しみと怒りの違いです」

20110810 0162



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2011
08.10

【現代の偉人伝】第129話 ─岩手県住田町長多田欽一氏と町民の方々─

 8月9日の朝日新聞は「被災証明書はやみくもに出さない」という見出で、岩手県住田町長多田欽一氏の姿勢を紹介した。
 6月に始まった被災者を対象とした東北地方の高速道路無料化に伴い、被災証明書を用いて高速道路を通行する車両が急増したため、渋滞(特に出口付近)や事故の増加(宮城県と福島県では前年同期の約2倍)、それに不正利用といった問題が発生している。
 被災者にとって大助かりであるのは当然だが、これから国や県が何をやるにもお金がかかるのに、重要な収入源を手放すといった方法が良いかどうかはあまり議論された様子がない。
 そして、この制度を利用している一員として、モラルの問題はずっと心に引っかかっていた。
 町長は、こうした問題を見越して見事な政治判断を行ったまれにみる政治家である。

 岩手県では、住田町以外のすべての自治体が停電だけでも被災証明を出しているが、なぜ「停電だけでは被災証明を出さない」のか。

「停電は被災ではない、という認識ではありません。
 ハウス栽培などの農家では停電で大きな物的被害が出ますから当然、被災したことになる。
 ただ、停電が物的な被害に直結するとは限りません。
 住田町では、物的な被害があった場合は被災証明や罹災証明を出しますが、それ以外は基本的に証明書は発行しないという立場です」
「国が東北地方の高速道路無料化を制度化したのは、大きな被害を受けた人の復興支援という趣旨のはずです。
 津波ですべてを流された人と、半日停電しただけで物的被害もない人が、同じレベルで復興支援の恩恵を受けるのは、本当に正しいかと考えました」


 町長は現場を預かる者として、国家の方針ですら本当に正しいのかどうかを自ら判断している。
 町は県に、県は国にすりよって政策的恩恵を受けようとするかに見える権力構造にあって、自らの立場をかけて信じられる社会正義の実現をめざす町長は希有の存在ではないか。

 住田町だけ出さないのは不公平ではないかという疑問へも明確に答える。

「今回、無料化された区間は、東北自動車道をはじめ大半が内陸部です。
 大きな被害を受けた沿岸部の人は、あまり利用することがない。
 私が公務で高速道路を利用する回数は、年に3~5回くらいですよ。
 本当に被災して困っている人は、ほとんど利用せず、わずかな被害しかなかった内陸部の人たちが無料で頻繁に利用している。
 それはかえって不公平ではないのか」
「本当に復興支援をしたいのであれば、通常通りの高速料金を全員からいただいて、全額を沿岸部の復興に振り向ければいい。
 その方が公平性があると思っています」


 そのとおりと言うしかない。
 無料化を決定する過程でこうした意見は出たはずである。
 しかし、政権の保持にやっきとなっている政府としては、とりたてて手柄に見えない〈通常通りの高速料金を全員からいただいて、全額を沿岸部の復興に〉というまっとうで目立たない意見はかき消されたのだろう。
 無料化は誰の目にもよく見える政策だからである。
 予測されるマイナスは脇へ置き、〈とにかくやる〉ことにしたのだろう。
 この政権はそうしたやり方で一貫している。
 町長は欺瞞を見抜いた。

 記事は、町民の様子を伝えた。

「『なぜうちでは出さないんだ』と聞かれて、こういう考え方でやっていますと説明すると、『町長の考えの方が正しいよな』という方がけっこういます。
 批判もあるんでしょうが、私のところには直接、届いていません」
「6300人の町で、7月末までに被災証明を発行したのは3パーセントに満たない174人です。
 一律には出さない方針だと言ってますから『それじゃ遠慮しよう』という人も多いと思います」


 私は深く悔いた。
 住田町は津波で壊滅的な打撃を受けた大船渡市や陸前高田市に隣接しており、町民の多くが近親者や知人友人の物的・人的被害に遭っていることだろう。
 そうした方々が、自分は軽微な被害しか被っていないから支援を受けないという毅然とした行動をとっておられる。
 それにひき替え、沿岸部の方々の万分の一も被害がないのに、堂々とタダで高速道路を利用していて良いのかというモヤモヤを胸に抱いたままで頻繁に恩恵を受けている自分の愚かさを強く恥じる。
 
 無料化以降、数々の問題が明らかになった状況について。

「国はそこまで見通せなかったんでしょう。
 高速があまり混むと、ボランティアも来にくくなる。
 物流が遅れてモノが不足した、値段が高くなったとなると、かえって復興の妨げになってしまう」
「国は一度つくった制度はなかなか直そうとない。
 やってみたけれども、まずかったと思えば、直せばいいんですよ。
 最初に決めたから1年間はやらなきゃならないというのがおかしいんです」


 確かに〈直せば良い〉のだが、直せば責任を問われる。
 万能の神でない人間のやることに間違いや見当違いはつきものである。
 政治もまったく同じであり、正しければ権力を行使し続け、誤ったなら責任をとるだけのシンプルな世界である。
 言い換えれば、権力を行使する資格は責任をとる覚悟によって担保されていなければならない。
 そこに問題があるから、町長の指摘するとおりにならない。

 住田町は、町独自の判断で仮設住宅を建て、大船渡市や陸前高田市の被災者を受け入れている。
 一般会計で約50億円、特別会計で約30億円のうち、これまでに約3億円を使った。

「大船渡、陸前高田市と住田の2市1町は『気仙地方』と呼ばれる一つの生活圏です。
 被災者支援のため一刻も早く仮設住宅を建てるべきだと考えました。
 町のお金を約3億円使いましたが、町民からあまり非難の声は聞かれません。
 みんな被災の現場を実際に見ているからでしょう]


 最後に町長自身が被災者と思うかどうかを訊ねられている。

「思いません。
 私の家でも水道の宅内配管がやられましたが、親族や友人には、営々と築いてきた家から土地から全部流された人たちがいっぱいいる。
 停電や水道管が1本折れたくらいのことで、『私も被害者です』とはとても言えない。
 現場に近ければ近いほど、そう思うんじゃないでしょうか」


 これまで当山を訪ねられた方々の多くが異口同音に言われた。
「私は車を失いましたが、職を失った方に比べれば……」
「私は職場を失いましたが、家屋敷を失った方に比べれば……」
「私は家を失いましたが、亡くなった方のおられるお宅に比べれば……」
「私は家族を失いましたが、一家全員が亡くなられたお宅に比べれば……」
 皆さんは清浄なをまとっておられた。
 きっと、町長もそうに違いない。

20110810 0152

20110810 0032



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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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