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2011
09.30

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その28)─神社仏閣の前を通る時の心─

 江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「墓(ハカ)を過(ス)ぐる時は則(スナワ)ち慎め
 社(シャ)を過(ス)ぐる時は則(スナワ)ち下(オ)りよ
 堂塔(ドウトウ)の前に向かつて
 不浄)を行うべからず
 聖教(ショウキョウ)の上に向かつて
 無礼を致すべからず」


(お墓の前を通る時は祖霊を敬う気持を持ちなさい
 神社の前を通る時は乗り物から降りなさい
 仏殿や宝塔に向かって大小便をしてはいけません
 経典を粗末に扱ってはなりません)

 もしもサラリーマンなら、社長がいる前を知らん顔で横切りはしません。
 生徒は「さようなら」と会釈して先生の前を通り、帰宅します。
 目上や仏神を敬う心は、その前を通る時、特に意識されます。

 私は托鉢行から仏道を志しました。
 神社仏閣の側まで来ると自然に足が止まり、必ず礼拝したものです。
 定められた礼儀作法だからと言うよりも、そうしないではいられないからです。
 
 こうした教えのいのちの部分は、「~しなければならない」と習慣付けすることそのものではなく、敬う心が自然にはたらく人になるところにあります。
 自分を見守り導く相手と会った時、無意識に〈至らぬ自分〉を省みる謙虚な気持になり、敬うことから人間性の向上が始まります。
 こうした基礎が身につくと、たとえばコンビニで商品を見ている人の前を横切る時も、会釈したり身体をややかがめたりしないではいられなくなります。
 私は相手が子供でもそうしますが、私のような年寄りのすぐ前を平気で横切る若者を見ると、哀れに思えます。
 
 基礎から登る階段は、やがて高次のレベルへと導きます。
 それが「相互供養」「相互礼拝」です。
 み仏の子である私たちのいのちも心も、み仏とつながっており、万人、万物とつながっています。
 この意識が持てれば、互いのためになり、互いを尊ばないではいられなくなります。
 高次のレベルを示す「相互供養」「相互礼拝」の旗をめざして階段を登ろうではありませんか。

○追補 経典を尊ばずにはいられないという観点から考えるべき、逸話があります。
 そうした敬虔な心は、いわゆる〈頭で考える〉次元を超えています。 
 かつて書いたブログを加筆修正して再掲します。

 真言宗では身・口・意の三つをみ仏と一致させる方法の一つとして、手に印を結びます。
 世には、「そうやって何の意味があるのか」と疑問に思う方もおられます。
 現に、今を去ること500年以上も前、トンチで有名な一休禅師もその一人でした。
 逸話や奇行で鳴らす彼は、畏敬の念を抱いて登ったはずの高野山ですら自分の流儀を通そうとしましたが、お大師様のおわします聖地では通じませんでした。
 我流や傍若無人がどこででも許されるわけではありません。

 ある時、高野山を参詣していた彼は、あろうことか、大切な経典の上に腰を下ろしました。
 当然咎められたところ、
「私は経典を奉じている者で経典と一体なのだ。
※真言密教で説く「即身成仏(ソクシンジョブツ…この身このままで仏と成っていることに気づく)」を逆手にとったつもりです。
 だから私が経典の上に乗っても、経典の上に経典が積んであるようなものである。
 何の問題があろうか」と、いつもの調子です。
 そこで忠義という聖僧は黙って彼の膝へどっかと腰かけました。
 痛いからやめてくれという彼に、忠義は言いました。
「経典の上に経典を載せたまでです」

 懲りない彼は、高野山で一夜の宿をとろうとしているにもかかわらず、「印を結んで何になるのか」と宗門バカにします。
 忠義は答えず、宿泊を断りました。
 そして、「ああそうですか」とすぐにきびすを返して帰ろうとする彼の背中に向かって拍手をしました。
 振り返ったところで今度は手招きをし、戻ってきた彼にゆっくりと諭しました。
「あなたは私の拍手と手招きによってこのように動かれたではありませんか。
 言葉によらずあなたは動かされました。
 み仏へ向かって印を結ぶことに無意味なことがありましょうか」
 
 トンチが通用しない次元を知った一休禅師は己の不明を恥じて教えを請い、すなおに忠義と法談を交わしたとされています。



20110930 001



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2011
09.29

人間生命の誕生(1) ─〈すがた・かたち〉と〈しかけ・しくみ〉─

 平成8年、解剖学者三木成夫は、「人間の命とは何か」について画期的な一文を書きました。
人間生命の誕生』です。
 心の眼で自他と外界をありのままに観ることを重視している仏法的観点からすると、大変貴重な内容なので、以下、要点を書きとめます。

 まず、今からおよそ250年前に活躍した解剖学者ザビエル・ビシャーの言葉をとりあげます。
「生とは死に抗する機能の総体をいう」
 生を表現する「life」には生命と生活の両義ありますが、三木成夫

「はたしてそれだけであろうか?
 生とは生命と生活の一組だけを意味するものであろうか?
 死によってこの両者がともに消失するのであろうか?」

と疑問を呈します。
 そして

「あの眼は死んでいる」
「あの心は腐っている」
「お日様が微笑む」
「そよ風が囁く」

に注目し、指摘します。

「われわれがなにごころなく自然に向かった時、そこでわれあわれの五感に入ってくるものは諸形象すなわちもろもろの〝すがた・かたち〟であろう。
 路傍の石ころを目にしても、小川のせせらぎを耳にしても、秋のけはいを肌で感じても、そこにあるものは例外なくこの〝すがた・かたち〟であり、それらはことごとく生きた表情でわれわれに語りかけてくる。
 これに対し、われわれがある思惑をもって自然に対した時、そこでは無生の〝しかけ・しくみ〟しか問題になってこない」
「〝すがた・かたち〟として感得された『形象』はことごとく生きているのに対し、〝しかけ・しくみ〟として把握された『形象』はすべて生きていない」
「自然を眺める人間の眼には二種が区別される。
 そのひとつは〝すがた・かたち〟に向かうものであり、他のひとつは〝しかけ・しくみ〟に向かうものである。
 われわれはこのいわば左右の眼の使い分けによって、ひとつのものが、ある時は生きたものとなり、ある時は死んだものとなる。
 前者を『こころの眼』と呼び、後者を『あたまの眼』と呼ぶ」


 私たちの霊性が外界と活き活きした感応を生ずる時、外界にはいのちが宿り、私たちの理性が外界を無意識のうちに調べる時、外界は分析される対象になるとも言えます。
 山であれ、雲であれ、カラスであれ、ヒマワリであれ、そこにいのちが宿るかどうかは、私たちが『こころの眼』を用いるか『あたまの眼』を用いるかによって決まります。
 そして、生命が宿るのは〈生活〉でなく森羅万象の〝すがた・かたち〟の中であるとし、人間生命について一つの結論を出します。

「ある人間の持つ〝すがた・かたち〟の強烈な印象がひとの心に深く刻まれた時、その人間の『生命』は生活を終えた死後もなお、脈々としてひとの心に波うち、消え去ることがない。
 そこでは〝死んでもいのちがある〟ことになる」
「ここからわれわれは『人間生命』と題するその意味が明らかになったのではないかと思う。
 それは人間の生活を支える原動力のようなものではなく、人間の持つ〝すがた・かたち〟そのものでなければならないということになった」


 私たちが、誰かの霊性の眼に映る時に人間性を感じてもらえるような生き方をし、誰かに対して人間性を感じることができる時、初めてそこに〈人間生命がある〉と言えます。
 そして、ゲーテの形態学が?すがた・かたち?を学問的にとらえる基礎となったと言います。
ゲーテはこうした人間独自の〝すがた・かたち〟を人間の原形と呼び、この原形の解明にその生涯を賭した」
 ここから次の問が発せられます。

「人間の原形──要するに〝人間らしさ〟とはいったいなにか?
 ゲーテは猿から峻別するいわば伝家の宝刀といわれる『理性』によって人間は〝いかなる猿よりも猿らしくなった〟と言う。
 そして現今は、この〝人間らしさ〟を失った生ける屍が世に充満していると言われるのである……」


 次に、人間らしさを求める三木成夫は人間と動物と植物を比較します。

〈池の端に潜んでいるヤマカガシの子〉
 01322



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2011
09.28

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第五回) ─悪友との決別─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第五回目です。

「交われば貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)が増大し、
 聞・思・慧(モン・シ・エ)の行が疎かになり、
 慈悲がなくなり始める。
 そのような悪い友を捨てること、
 それが菩薩の実践である」


 古来「朱に交われば赤くなる」と言い、交友関係が心の形成に大きな影響力を持つとされています。
 友人の影響力が強いのはなぜか。
 それは、〈心を許す〉からです。
 警戒心の解けた心は無防備となってたやすく感応が起こり、その印象も、すなおに刻まれます。
 また、〈心は慣れる〉からです。
 友人と時間を過ごす約束をすれば待ち遠しく、この前会った時と同じ時間の流れの中に入ると、ホッとします。
 そこで交わされる楽しい話、嬉しい話、悲しい話、淋しい話などは、懐かしさすら帯びた一色の時間帯をつくり、その色に心はなじみ、染められます。

 さて、人にはそれぞれ長所も短所もあり、長所ばかりある人と友人関係になるとは限りません。
 むしろ、「あいつは悪たれで世間からつまはじきされているけれども、俺にはあいつの純粋な気持がわかる」という人間関係に人生の真実があったりします。
 だから単純に、「善人と交われば良いし、悪人とは交わってはならない」と割り切ることはできません。
 特に、救済や差別という観点からすれば、〈交わってならない人〉という考え方事態を問題にする必要さえあります。

 では、この教えで友人の選別を厳しくせよと説かれているのはなぜか。
 それは、菩薩道の行者とは生き方を決めた人であり、その生き方を進めるために良き影響を与えるのが良い友人であり、悪い影響を与える人と友人になるのは生き方に反するからです。
 いったん菩薩道へ入った行者は常に、決心が揺らぐことと、決心に反することを戒めねばなりません。
 戒めのチェックポイントこそが、この教えで説く「貪・瞋・癡」と「聞・思・慧」です。
 貪る心や怒る心や愚かしい心が起こったならばチェック。
 よく学び、よく考え、よく理解吸収しようとしているかどうか省みる。
 こうして一路邁進している行者なら、メールを受信するシステムが迷惑メールを強制的にはじくように、チェックポイントに引っかかる友人は、当然のように遠ざけるはずです。

 仏法における十善戒は、決して禁止事項にとどまるものではありません。
 たとえば不殺生は「無益な殺生を行ってはならない」ですが、正確には「無益な殺生を行えない人になろう」であり、さらには「本来、無益な殺生ができない真の自分に気づこう」となります。
 だから、この教えも、形は「悪友を捨てよう」ですが、修行を続ければ、もはや悪友と交わっている時間などどこにもなくなっている自分に気づくはずです。
 仏法に「神の掟」のようなものはなく「神の罰」もないのは、仏法全体がこうした構造になっているからです。

 どこまでも貪る賤しい心は捨てましょう。
 すぐに怒るつまらない心は捨てましょう。
 身勝手な考えを持つ愚かさは捨てましょう。
 正しい教えをきちんと学び、自分の頭でよく考え、道理と思えるならば自分の血肉になるように教えを生きましょう。
 そうしている行者悪友の近づく隙はなくなります。
 菩薩行の実践は、まことに力強いものです。

 昭和59年、71才になった評論家高橋義孝氏が書いた『焼き蛤(ハマグリ)の哲学』の一説です。

「海辺だというのに魚を売りにこないで、蛤を売りにきた。
 仕方がないから蛤を買った。
 外海でとれたせいか、大森羽田あたりのより粒が小さい。
 さっそく七輪(シチリン)に炭火をおこして、金網をかけた。
 そして蛤を六つ七つならべて、そばに誇りまみれになってころがっていた団扇(ウチワ)で七輪の下をあおいだ。
 ふとみると、この古団扇には古い謡曲のほごが張ってある。
『生田敦盛(イクタアツモリ)』のシテのサシ謡の部分である。
『五蘊(ゴウン)もとよりこれみな空(クウ)。
 何によって平生(ヘイゼイ)この身を愛せん』
(私たちの心と身体と環境世界を成り立たせているものは、すべてかりそめに在るだけです。
 自分がいつ死に、周囲にあるモノもいつなくなろうと当然なのに、常々、それを忘れて我が身を可愛がってばかりいるのはいかがなものでしょうか。※当山の注釈)
のところであった。

 蛤はやがて水を吹いて、ぱくりぱくりとふたをあけはじめた。
 さっそく熱いうちを賞味した。
 たいへんおいしい。
 外海の蛤だからか、砂がすくなかった。
 食べているうちに、団扇の文句が念頭を去来した。
 なるほどさっきまで生きていた蛤の身にとっては、『五蘊もとよりこれみな空』である。
 いや焼き蛤もさることながら、さきごろ出た東京空襲の写真帳を一、二ページめくってみただけでも『五蘊もとよりこれみな空』である。
 そんな写真集を見るまでもない。
 やがてわれわれことごとくが『五蘊もとよりこれみな空』を身に味わう日がくるのである。
 もっともその時は、はは、いよいよ五蘊もとよりの段階になったかと感心することはできまい。
 もう何もかもわからなくなっているのだから」


 氏は自称「宗教には縁のない人間である」という人物ですが、こうした境地にはなっています。
 菩薩道へは践み入っていなくても、ある程度の段階までは勉学によって血肉となり、心に一定のおさまりをもって世界を観られるようにもなるという実例です。

20110916-2 001



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2011
09.27

棒といのち

 とうとう年の瀬も押しつまりました。
 日々、ご来山される方々への対応で精一杯、まだまだ新年を迎える準備が調いません。
 
 ところで、

去年(コゾ)今年つらぬくのごときもの」

と詠んだのは正岡子規ですが、年を越えるといっても、いのちはのように続いています。
 仏滅や大凶の日に生まれる方もあれば、大安や大吉の日に亡くなれる方もおられ、年末だからどう、正月だからどうということはなく、生死と四苦八苦は時を待ちません。
 それゆえ、人生相談・ご祈祷・ご供養と、日々の法務は切れ目なく続いています。

 正岡子規

「理想といふやつは、一呼吸に屋根の上に飛び上がらうとしてかへつて池の中に落ち込むやうなことが多い。
 写生は平坦である代りに、さる仕損ひはないのである」
「草花の一枝を枕元に置いて、それを正直に写生して居ると、造花の秘密が段々分って来るような気がする」

とも言い遺しました。
 見たり聞いたりしたものを頭であれこれいじくりまわすよりも、まず、天地自然の織りなす〈妙〉をじっくりとそのままに観ることが大切であるというのです。
 理想を求めつつ足元を見失わなかった彼の真骨頂ではないでしょうか。

 さて、障子貼りが間に合わないのを見かねた地元の長老の方が、「私にさせてください」と年賀状書きを脇へおいて半日がかりでやってくださいました。
 何とも畏れ多いことで、「恐縮」とはこのためにある言葉だと深く腑に落ちました。
 早朝には、地元の企業の会長が自らブルトーザーで参道と駐車場の除雪をしてくださいました。
 今年の暮れほど、ご縁の皆さんにお助けいただいていると感じたことはありません。
 ―――いかにお報いさせていただくか。
 それは、観るべきものをしっかりと観て、来年と言わず、たった今から始めねばなりません。
 生きている間、の折れぬ間のことですから。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20110809 008



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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2011
09.27

一生をお守りくださる守本尊様について(4)

 私たちの一生をお守りくださる守本尊様について、簡単に記しています。
 守本尊様には、一生変わらずにお守りくださる「一代守本尊様」と、毎年、年齢によってお守りくださる一年限りの「厄除守本尊様」があります。
 一代守本尊様は、生まれた年の干支がどのご本尊様の年に当たっているかによって決まります。
 厄除守本尊様は、年回りの九星により、自分の生まれ持った星がどのご本尊様がおられる場所に巡っているかで決まります。
 だから、厄除けのご本尊様は、前厄なら勢至菩薩様、本厄なら千手観音菩薩様、後厄なら大日如来様、八方塞がりなら地蔵菩薩様などと、それぞれ違うのです。
 すべての守本尊様の法を結ぶ当山では、皆さんのお求めに応じて、それぞれの守本尊様の法を結び、皆さんの無事安全と厄除け開運を祈っています。

不動明王(フドウミョウオウ)様】

不動明王様は、堅固で不動の菩提心を持ち、大日如来様の使者として私たちのそばへ来られ、奴隷の姿でお救いくださいます。
 智慧の火はあらゆる煩悩を焼き尽くし、剣は迷いを断ち切ってくださいます。
○酉(トリ)年生まれの方を一生、お守りくださいます。
 人はそれぞれ、生まれ年によって縁となったご本尊様が一生ずっと見守っておられます。
 酉の年は不動明王様の年なので、その年に生まれれば「私の守本尊様は不動明王様」ということになります。
○七赤という星の場所(酉の位置)に自分の星が巡る人を一年間、お守りくださいます。
 西(酉)の位置に巡ると、九年に一度の〈楽しいことも失敗もある年〉に当たり、厄払いをします。
 だから、この年回りの方の厄払いを行う修法では不動明王様がお導きくださるのです。
○酉の方位である西へ向かう方をお守りくださいます。
 西におられる不動明王様は、西へ向かうものごとを行う人をお守りくだるので、西に引っ越したり、西で新しい仕事を始めるたりする場合は不動明王様のお力をいただく修法を行います。
○酉の時間帯である午後5時から午後7時までをお守りくださいます。
 この時間帯に何かをしようとする場合は、不動明王様のお力をいただく修法を行います。
○考え方や因縁解脱などに関するご祈祷のご本尊様にもなってくださるのですが、そうした面は秘伝なので記しません。
○不動明王様とのご縁を深めるための真言は「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」です。
 何かのおりには、どうぞ、心を込めてお唱えください。
 特に胴体の不調時にはよく効き目を感じ、きっとお救いいただけることでしょう。

阿弥陀如来薩(アミダニョライ)様】

阿弥陀如来様は、往生・滅罪を司り、私たちの罪業を滅し、極楽へと導いてくださいます。
 大日如来のような慈光あふれる安心世界で待っておられます。
○戌・亥(イヌイ)年生まれの方を一生、お守りくださいます。
 人はそれぞれ、生まれ年によって縁となったご本尊様が一生ずっと見守っておられます。
 戌・亥の年は大日如来様の年なので、その年に生まれれば「私の守本尊様は阿弥陀如来様」ということになります。
○六白という星の場所(戌亥の位置)に自分の星が巡る人を一年間、お守りくださいます。
 北西(戌亥)の位置に巡ると、九年に一度の〈虚実こもごもに忙しい年〉に当たり、事故の危険性も高まるので、厄払いをします。
 だから、この年回りの方の厄払いを行う修法では阿弥陀如来様がお導きくださるのです。
○戌亥の方位である北西へ向かう方をお守りくださいます。
 北西におられる阿弥陀如来様は、北西へ向かうものごとを行う人をお守りくだるので、北西に引っ越したり、北西で新しい仕事を始めるたりする場合は阿弥陀如来様のお力をいただく修法を行います。
○戌亥の時間帯である午後7時から午後11時までをお守りくださいます。
 この時間帯に何かをしようとする場合は、阿弥陀如来様のお力をいただく修法を行います。
○考え方や因縁解脱などに関するご祈祷のご本尊様にもなってくださるのですが、そうした面は秘伝なので記しません。
○阿弥陀如来様とのご縁を深めるための真言は「おん あみりたていせい から うん」です。
 何かのおりには、どうぞ、心を込めてお唱えください。
 特に脚の不調時にはよく効き目を感じ、きっとお救いいただけることでしょう。

20110927守本尊表新



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2011
09.26

『大日経』が説く心のありさま六十景 その49 ─毒薬心(ドクヤクシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた、心を惑わすものたちが現れます。
 それは、釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前、化けものたちに邪魔されようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、心に化けものが入りこんでいるかも知れず、人生修行をまっとうするためには心のチェックが欠かせません。
大日経』は行者の曇った心模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

47 毒薬心(ドクヤクシン)

 いのちを奪う毒薬のように思考や意欲を殺す心です。
 経典は説きます。

「無生分(ムショウブン)の法に順習(ジュンシュウ)す」


 生と分かちがたく結びついているのは死です。
 生まれたものは必ず死を迎えねばならず、生あるものから死を取り除くことはできません。
 生あるものにとって死は宿命となっています。

 宿命観がこうした言葉として表れる場合があります。
「どうせ~だから、~してもしょうがない」
 たとえば
「どうせ私は頭がよくないから、勉強したってしょうがない」
とすねた子供を説得するのは大変です。
 もしIQテストの結果がかんばしくない場合、どうすればやる気を出させられるでしょうか。

 毒薬心とは、このように、いのちと心を沈ませる逃避的な考え方です。
 では、修行している者にとって毒薬心はどのように起こるか?
 それは、なまじ、空(クウ)を頭で知っただけの段階で陥る空執悪(クウシュウアク…空に執着する悪しき状態)の状態です。
「どうせすべては空だから」
「どうせすべては無に帰するのだから」
 菩薩(ボサツ)をめざす行者がこんな虚無主義にとりつかれたなら、その先はありません。
 大日如来の智慧と慈悲のはたらきは獅子奮迅(シシフンジン)と言われ、大日如来のいのちと徳を分けいただいている私たちは、自他を救う菩薩として生きるところに生まれてきた甲斐があります。
 俳優の山内賢氏が9月24日に逝去されましたが、家族へ遺した最期の言葉は「みんなに感謝」だったそうです。
 ご遺族は、この言辞施(ゴンジセ…言葉による布施)によってどれだけ慰められることでしょうか。
 私たちはこうして死ぬ間際まで感謝を忘れず、思いや言葉や姿勢で誰かの心へ灯火を点す菩薩であり続けられるのです。

 空也(クウヤ)上人は詠みました。

「山川の末に流るる橡殻(トチカク)も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」


(山間の上流から流れ着いたトチの実は、自ら川へ落ちたからこそ、やがては浮かび上がって下流の広い岸へ着くことができた)
 剣に生きる者は胸に秘めています。

「切り結ぶ刃の下ぞ地獄なれ、身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」


 隠形流(オンギョウリュウ)居合で返し技の稽古をすると、よくわかります。
 相手の刃から逃げようとするだけでは自分のいのちを守れず、タイミングが一瞬狂えばいのちを落とすような状況へ踏み込んでこそ、確かな勝利を得られることがよくわかります。
 そこへ踏み込むためにこそ、地道な稽古が続けられます。
 そして、根源的な救いは踏み込む瞬間に成就されているとも言えます。
 なぜなら、体得した空(クウ)が実現され、結果的に勝っても負けても、死魔は克服されているからです。

「どうせ死ぬんだから」と捨て鉢になった状態は、死魔に負けているだけであって、克服してはいません。
 思考であれ、修行であれ、中途半端な段階でとり憑かれやすい毒薬心の教えをよく考えてみましょう。

20110922 030



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2011
09.25

信じられない私

経典を読んだり、何かを祈ったりしても、自分がやっていることをなかなか信じ切ることができません。
 どうすれば良いのでしょうか」
 熱心な信徒さんからのご質問です。
 ここまで来れば、絶対の安心を得るまではあと一歩です。

 お大師様は、『理趣経(リシュキョウ)』という密教の根本経典について、こう説かれています。
「真理真実を求めたいのなら、まず自分自身の心の声を聞くことです。
 自分自身のありようを見ることです。
 自分自身の心の奥底に座っているものをつかむことです」
 心の声とは、「自他共に良かれ」と願うまごころのはたらきです。
 自分自身のありようとは、〈地〉の徳をもった骨格・〈水〉の徳をもった血液・〈火〉の徳をもった体温・〈風〉の徳をもった呼吸・〈空〉の徳を持ったバランスなどによって生かされていることです。
 み仏は宇宙であり、尊象であり、経典であり、風であり、猫であり、南天であり、あなたであり、私であって、それらはすべて〈身体と言葉と心から成る自分自身のいのちのはたらき〉を離れてはどこにもありません。

 このはたらきが濁り、曇っているから惑い、苦しみます。
 濁りや曇りを除くには、無心で読み、無心で唱えることです。
 無心ということが不可欠で、決して願いと一緒に読んではなりません。
 願いと一緒に唱えてはなりません。
 善き願いを持ち、読み唱える目的をしっかり心に刻んだならば、あとは経典に没頭しましょう。
 経典の一節真言の一句は真理なのに、心に我欲があっては、読み唱える行為と心のはたらきがバラバラになり、(ゴウ)を積むことになるからです。
 無心であって初めて経典と一体になり、真言と一体になってを離れることができるのです。
 そうしている時は、必ずみ仏の世界への扉を開いています。
 自分の心の底と思っていたところが抜け、さらにその底から目に見えぬ光が差しています。
 み仏が背の後へまとっておられる光背(コウハイ)は、私たちの心から差している光そのものです。
「ああ、ありがたい」と手を合わせる時、見えている光は自分の心の光なのです。
 濁りも曇りも迷いがつくった幻であって、光に気づいた時は、もうどこにもありはしません。
 
 とにかくみ仏になる体験をくり返しましょう。
 一日五分の〈み仏〉、一日十分の〈み仏〉になりましょう。
 そうして生きた軌跡が重なり重なって心の深層が変わり、言葉が変わり、行為が変わり、必ず迷いが薄れ、安心が増します。
 自分を変え成長させるのは、畢竟、自分でしかありません。
 お大師様は、ただ食べて寝るだけの心のありようを「姿は人間でも羊のようなものだ」と説かれました。
 漫然としていれば、その段階に留まっていて死を迎えるだけです。
 二本脚で立つだけでなく、目を上げ心のレベルを上げることによって、より霊性の発揮できる人間となり、本来み仏である真姿を生きる真人間になります。

 無理に信じようとしなくても良いのです。
 共に、〈み仏体験〉を積みましょう。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20110922 028



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
09.25

御英霊の葬儀

 太平洋戦争で散華された御遺骨収集に当たっている渡邉拓氏が、沖縄で出会った御英霊慰霊祭を行いました。
 お焼香の後、参列者全員で「海ゆかば」を2度斉唱されました。
 右翼の街宣車はともかく、学生時代以来初めて間近で聴く鎮魂の歌は、あまりにも澄み切ったものでした。
 秋の空にも似た赤心(セキシン…いつわりのないまごころ)は、確かに天へ届いたことでしょう。
 
 御英霊を悼む心から喪主となられた氏は、挨拶されました。
「今現在、私たちのいのちがあり、日本があるのは、我が身を捧げて日本を残してくださった方々のおかげです。
 殊に、沖縄は本土を守るために過酷な運命を引き受けました。
 戦争で死ななかった人びとは〈生き残り〉ではなく、いのちを捧げた方々によって〈生き残らせていただいた〉のです。
 御英霊の思いにお応えする唯一の方法は、私たちが日本をよりよい国にすることです。
 そうして御英霊のご無念を昇華することが、生き残らせていただいた我々の務めです」

 私も一言申し上げました。
「大震災で被災された方々は、互いに生きるために黙って汗を流し、共に困難へ立ち向かう人びとによって支えられ、再び立ち上がりつつあります。
 こうしたまごころと汗こそが復興の礎です。
 皆さんのまっすぐで地道なご努力もまた、日本を支え、日本の進路を過たせないための礎となることでしょう。
 皆さんと出会い、僧侶として役割を果たさせていただき、皆さんより先にあの世へ旅立つ者として、とても安心できました。
 お聞かせいただいた『海ゆかば』の声はあの世まで持って行き、皆さんと日本を見守っています」

海ゆかば
 海行かば 水漬(ミズ)く屍(カバネ)
 山行かば 草生(クサム)す屍
 大君(オオキミ)の 辺(ヘ)にこそ死なめ
 かへりみはせじ

(海を行って戦えば、水に漬かった屍となり
 山を行って戦えば、草の生す屍となり
 大君の御足元にこそ死のう
 我がいのちを顧みることをせず)

20110924 0012



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2011
09.24

布施の極意 ─救われるのは誰か─

 私たちは、誰かのためになれるとなぜ、嬉しいのでしょうか?
 それは、誰かに喜んでもらえるほどありがたいことはないからです。
 言い方を変えれば、誰かの救いになるのが自分の救いだからです。

 布施をする修行を布施行と言います。
 布施はインドの言葉ダーナ(音訳すれば旦那です)の訳です。
 だから、家族全員の無事安全を任せて安心な大黒柱を旦那様と呼びます。

 損得や思惑を離れた清らかな心で、穢れの伴わないもの(盗品や破損品、あるいは嫌々ながらの労役など)を差し出し、相手が感謝一つのまっさらな気持で受け取れば布施は完成します。
 布施行は人格を完成するための修行なので、布施によって、差し出す側も受け取る側も救われています。
 このことを徹底して追求したのが鎌倉時代に真言律宗を開いた叡尊(エイソン)です。

 叡尊は考えました。
弱者文殊菩薩(モンジュボサツ)の化身であり、文殊菩薩としての弱者供養させていただけるのはありがたい。
 菩薩になるための修行の柱である布施行をすることによってこそ、行者は菩薩に近づき、救われる」

 忍性(ニンショウ)という若者が叡尊の掲げる理想の旗に惹かれ、二人であちこちに宿所を造りました。
 宿所は、貧困な人、不治の病気にかかった人、身寄りのない人、動けない人など、家族や社会から見捨てられた人びとの救いの場となりました。
 叡尊は、こうした社会的弱者を発生させた責任は政府にあると考え、公的な援助を断りました。

 理想の旗の根拠は文殊菩薩の救いの他に、もう一つあります。
「娑婆的な縁を切った行者は無縁者であり、社会がつくった無縁者と同じ立場にある」という発想です。
 社会的共(グウゴウ)で無縁となった人びとと、個人的な(ゴウ)で無縁になった人びとが手を携えて生きようとしたのです。

 大震災に見舞われた日本では「誰かのためになりたい」という布施行に通ずる機運がある反面、考え違いも生じています。
「助けてやる」といった傲慢さや自己顕示欲、あるいは「救済は自分と関係のないところでやってくれ」といった自己中心的姿勢などです。
「救う人は、誰かを救うことによって自分が救われる貴重な機会を得た人である」という教えに心を向ければ、こうした暗雲は去ることでしょう。
 
20110922 017



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2011
09.24

彼岸供養会でのお話

 ようやく晴れた日、善男善女が集った彼岸供養会で、み仏の智慧慈悲について法話を行いました。

 九月十八日、「復興支援」と銘打った愛知県日進市花火大会において、「福島県産の花火を打ち上げると放射能が撒き散らされる」という抗議(約二十件)を受け、東北の被災三県で作ったスターマインは使用されませんでした。
 実行委員会は、花火の放射能を測定できず「安全性が確認できない」と判断しました。
 援助した萩野幸三市長は「市民の安全を守るのが市の使命なので、実行委の判断を受け入れた。難しい決断だったと思う」と語りました。
 福島県から日進市へ転居した被災者四十三人が特別席に招待され、そのうち十八人が観賞しました。
 翌日、事実を知った人びとから「なぜ中止したのか」「放射能にあまりにも敏感すぎる」などといった苦情が約五十件、市役所へ寄せられました。
 その後、市へは全国から三千五百件以上の意見が寄せられ、多くは批判的なものでした。
 二十二日、萩野幸三日進市長は福島県川俣町役場を訪れ「新たな風評被害のご心労をかけ、心からお詫びしたい。復興支援にこれまで以上に努めていく」と謝罪しました。

 この件では、あらためて、仏法の説く智慧慈悲について考えさせられました。
自己中心的な気持〉が強いと、不安や疑問や苛立ちや怒りや邪魔する気持が起こって智慧がはたらかず、ものごとが正確に見えなくなります。
 それが「花火から放射能が撒き散らされるから、やめろ」という道理のない抗議になりました。
 そして、〈自分可愛さ〉が強いと慈悲がはたらかず、他人の悲しさや淋しさや苦しさや辛さを思いやることができないので、思いやりによって作られた計画にこめられた願いも希望も理解できず、協力しようという尊い気持が起こりません。
 こうして風評被害が起こり、人びとの切なる願いは踏みにじられます。

 ここで考えねばならないのは、私たちの心の闇は風評被害を生むだけではないということです。
 どこの自治体も、ゴミ処理場や斎場や墓地の建設に頭を悩ませています。
 自己中心で自分の家の周囲を見るだけでなく、市や県全体を観る智慧を持ちましょう。
 自分可愛さから自分だけを守ろうとするのではなく、人びとの切なる願いを忖度する慈悲を持ちましょう。
 そうすれば、結果的にお互いが助かるのです。
 皆が自分の小さな満足を求めれば、皆が大きな満足を共有できないのです。
 私たちが悟りへ最も近づきやすいとされているお彼岸の一週間、自分の心をよく省みたいものです。

20101006052430fa5[1]



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2011
09.23

2011年10月の運勢

 2011年10月の運勢──平成23年10月(神無月…10月9日から11月7日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 「正邪善悪」が明らかになります。
 故三島由紀夫は『天人五衰』にこんなことを書きました。
「糸が切れて卓上に散らばった多彩なビーズを他の糸でつなぐ時、落ちた球がない限り、ビーズの数は変わりません。
『不滅』とはそういうことです。
 ところが、自分勝手に決めた球の配列順序にこだわるから、『不滅』が理解できないのです」。
 いのちが流れ、天地が生成される世界では、無限のビーズが色とりどりにつなぎ合わされ、目に見え耳に聞こえる現象として顕れます。
 人間もその一部であり、自分もその片隅に生じたビーズの一列です。
 仏教哲理と遺伝子のイメージが重なるおもしろい比喩ですが、『不滅』の感覚で生きれば、〈正〉や〈善〉に近く、自分の配列だけを主張しようとすれば〈邪〉や〈悪〉に近づくと言えます。

二 「奪う者」と「与える者」の姿が明らかになります。
 いつの世も、奪う者と与える者がいます。そして、正義は常に、与える者の側にあります。
 私たちが尊び敬うみ仏はすべて、与え、救う存在です。
 み仏とは、私たちが想像し得る最高の人格者であることを考えれば、正義のありかは明白です。
 しかし、世の中を動かす力は、奪う力の強い者へ集中しがちです。
 権力も財力も、自分へ集中させた者が上に立ち、その意志が世の中のありようを決めます。
 社会のつくる共業(グウゴウ)が善の色合いを強めるか悪の色合いを強めるか、指導者の役割は重大です。
 だからこそ、弘法大師は天皇を教化し、聖徳太子は十七条憲法を作りました。
 現代では、民主主義が共業に深くかかわります。
 それがうまく機能するかどうかは、私たち一人一人の考え方にかかっています。

三 「才知」の用いようで禍福が分かれます。
 川崎洋氏の『こどもの詩』に「大むかしの人びとへ」があります。
 書いたのは長谷川萌(神奈川・小六」さんです。

社会科で学習した縄文時代
生活は つらくありませんか
おもしろいですか
もしも 時間を旅行できるなら
私は くつとおふろを
プレゼントします
ウオッホ ウオッホと
喜んでくれますか
いっしょに暮らせたら
私も ヤッターと喜びます

 子供にはすでに大人の光も陰も宿っており、学ばせられます。

四 「自然」と「祭祀」を考える機会が増えます。
 地震も台風も、自然の猛威を震って私たちを打ちのめし、畏怖させます。
 多くの人びとは呪詛も憤怒もなく、手を携えながら時の経過を待ちます。
 自然の暴力は、身を守りながらやり過ごすしかありません。
 その一方で、自然は実りをもたらします。
 米も野菜も魚も肉も、創るのは自然であり、私たちの知恵や工夫はそれをうまくはたらかせるだけです。
 病気を治す力は自然治癒力にあり、薬は手助けとなるのみであるのと同じです。
 知恵や工夫には限りがあり、その先を「風雨順時」と祈るところに祭祀が生まれます。
 自然が暴れず、時の流れが穏やかでありますようにと祈るのです。
 そして、感謝のないところにはご加護もありようがないと感じとり、祭を催します。
 祈るのは人間の勝手であり、自然もまた勝手に暴れ、撫でてくれますが、そこに何らかの糸を感じて救われるのは霊性のはたらきによります。
 祭祀は糸を確認する行為でもあります。
 大いにやりましょう。

五 「通信関係」の障害によるデータの破壊や消滅に要注意。
 最近、大震災の対応に追われている最中、日本の技術や情報が悪意を持った人々によって奪われ、破壊されようとしていたことが明らかになりました。
 サイバー攻撃です。
 これからのテロは、サイバー攻撃と原子力施設への破壊に向かいます。
 万人が防御を意識せねばなりません。
 
 今月も六つの修行を行いましょう。
 皆さんの開運を祈っています。

[布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は志望を堅固にし、慎重に時を待って成就へ向かいます。
 不精進の人は私欲に走り、早く、うまくやろうとして失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は理が通らなくても慌てずぶれずに進んで成功します。
 不精進の人は予期せぬ僥倖に舞い上がり失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人はいわれなき誹謗中傷にも動ぜず、揺るがず無事安全です。
 不精進の人は周囲とぶつかり、驚くような困難を呼び込みがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は正道を歩む陰徳により、艱難辛苦にもご加護が得られます。
 不精進の人は悪業が祟り、困難に遭った時に救済者の縁が薄くがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は天地自然へ心をはせ、吉凶に悠然と対処します。
 不精進の人は狭い自分に閉じこもり、環境との対応に苦しみがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は傲慢にならず、他人を甘く見ず、忠告に従って災厄を未然に防ぎ無事安全です。
 不精進の人は力以上の身勝手な望みを持ち、甘い判断で行動して予期せぬ災厄をつかみがちです。

20110922 023



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2011
09.22

共時性の感得

「来年は『氾濫』の年になる」と『かわら版』の原稿を書いていたところにスマトラ沖地震のニュースが飛び込んできました。
 一瞬、首筋が凍りついたように感じました。
 共時性(キョウジセイ)による〈前触れ〉です。
 心理学者ユングは、「ものごとを因果関係によらずに結びつける原理」として、この言葉を用いました。
 外国にいる夫が戦死する瞬間に日本で寝ている妻の枕元へ立ったり、ある人のことを考えていたところに電話が鳴ったらその人だった、などのできごとは、心を立ち止まらせます。
 それは何ごとかであるに違いないと感じられても、なぜそうなったかは誰にも解りません。
 今の人類の頭脳ではまだ、因果関係の解明は無理です。
 大切なのは、〈それが自分にとってどうなのか〉という受け止め方ではないでしょうか。

 魔の襲来、天国から地獄への暗転、恐怖にかられて逃げまどう人々。
 南の島々に起こったそれは天変地異によるものですが、人為によって同じ状況がつくり出されたとて何の不思議もありません。
 現に、イラクなど世界中で、今こうしている瞬間にも、同じ地獄の光景が次々と現われているはずです。
 できごとに〈思い〉を喚起されたなら、想像力を持って考え、行動したいものです。
 共時性的なできごとに環境世界の鼓動を感じ、自分の意志をもってそれに乗ったりそれに抗して脚を踏んばったりしながら生きる。
 これが、転変果てしないこの世に生まれた私たちが活き活きと生きる一面ではないでしょうか。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
09.22

【現代の偉人伝】第136話 ─東北の新興を提唱する高任和夫氏─

 平成23年8月1日、「北海道新聞」は、作家高任和夫氏へ震災からの復興策を聴き、「地域支える産業構築を」の一文を載せた。
 氏は、冒頭で疑問を呈する。

「東日本大震災後の復興論議に、強い違和感を覚える。
 震災前から既に過疎高齢化の進んだ町や村を『復興する』とはどういうことなのか。
 誰のための『復興』なのか」


 故郷仙台市で大学を卒業し、三井物産へ入社した氏は作家となった今も時折、実家のある仙台市から東北一円を訪ねるが、「故郷・東北の疲弊していく姿がたまらなく、つらかった」と言う。
 こうなったのは、明治以降、次代を担う若者が地方から東京へと吸い上げられ、単なる人材供給地である地方は見捨てられてきたからであると指摘する。  

「『元に戻す』というニュアンスの強い『復興』という考え方をとると、どうしても過去へのこだわりができて、いろいろな制約が出てくる。
 ここは、『新しく興す』という意味がこもった『新興』という考え方が必要ではないか」


 氏はかつてまちづくりの現場を訪ね歩き、滋賀県長浜市で出会った「商店街の『再興』ではなく、新しい商店街をつくるんだという気持で取り組んでいる」という言葉が印象的だったという。

 平成19年4月、氏は『エンデの島』でユートピアを提示した。
 当時、私はブログへ書いている。
「4月25日、小説家高任和夫氏は、最新作『エンデの島』で『この国の理想の未来』を世に問うた。
 ちょうど1年前の同日、彼は『偽装報告』を上梓している。
 赦しの視点が見え、企業における組織の論理と、それにまといつく非人間性の糾弾を描いた一連の企業小説が到着点へ行き着いたと感じた。
 そして、次はどうなるのだろうかと心待ちにしていたところへ、この朗報である」
 氏は、住民のためにこそ産業が興され、そこで生まれたお金が住民のために使われてこそ地域は活性化すると言う。
「エンデは言う。
 パンを買うお金と、株式市場に投資するお金は種類が違う、と。
 パンを買うお金こそが、私たちの暮らしに根ざし、まさに地に足のついたお金でもある。
 本来は、本当に必要としている人たちのために生かされるべきお金が、実際には、そうはなっていない」

「今回の大震災では、救援の手が届くまでの間、住民が協力して乗り切るなど、地域共同体の重要性をあらためて痛感させられた。
 一方で、被災者のために集められた義援金が行き渡らないなど、お金が十分に生かされていない現実も浮き彫りになった。
 しかし、そもそも論で言えば、震災前の過疎高齢化問題にしても、『必要としている人たちのためにお金が十分生かされた来なかった』という点で、実は同じ構図の中にあったのではないか」
「地域の産業もまた、同じだ。
 誰のための『産業』か、といえば、そこに住む人たちのため、であるべきだと思う。
 過疎高齢化を克服できるような、地域の根っこを支える産業をどう築くか。
 この問題を抜きに論じても抽象論に陥ってしまう。
 だからこそ、復興論議を学者や評論家だけでなく、思い切って、実業家に任せてみてはどうか」


 氏は陸前高田市が『ワタミ』最高顧問の渡辺美樹氏を参与に招いている例を挙げ、地域にベンチャー意識が起こり、地域でお金を生かす発想が生まれることを期待する。
 旧に復する復興で良いのか。
 新興の意識がないと、過疎高齢化した地域の疲弊は止められないのではないか。

「被災者が本当に必要としてる『復興』とは何か。
 それらを十分踏まえ、地に足のついたお金の使い方を考えてほしいと願っている」


 明治以来、〈国〉は首都圏にあった。
 地方は首都圏へ、国を創る人材を供給し、米や野菜や魚や肉を供給し、木材を提供し、エネルギーを供給してきた。
 国が豊かになって何でも外国から買えるようになると、米や野菜や魚や肉や木材を提供する産業も人びとも、どんどん要らなりつつある。
 そうした地方を大震災が直撃した。
 ここで、〈復興〉にとどまれば、地方の未来はないのではないか。
 氏の言う〈新興〉は重要な提言だと思う。

20110910 0122



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2011
09.21

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その90)─愛知県日進市の花火大会で福島県産の花火が打ち上げられなかったこと

 9月18日、「復興支援」と銘打ち11万人を集めた愛知県日進市花火大会において、「福島県産の花火を打ち上げると放射能が撒き散らされる」という抗議(約20件)を受け、福島県産の花火が使用されませんでした。
 地元の商工会や市の職員有志で構成された実行委員会は、花火の放射能を測定できず「安全性が確認できない」と判断しました。
 約850万円を補助した萩野幸三市長は「市民の安全を守るのが市の使命なので、実行委の判断を受け入れた。難しい決断だったと思う」と語っています。
 福島県から日進市へ転居した被災者43人が特別席に招待され、そのうち18人が観賞しました。
 翌日、事実を知った人びとから「なぜ中止したのか」「放射能にあまりにも敏感すぎる」などといった苦情が約50件、市役所へ寄せられました。

 本当に「誰かのために何かをしたい」ならば、自分の持つ貴重な何かを差し出す以外、方法はありません。
 時間か、お金か、モノか、労力か。
 それとも責任を持つというリスクを背負うか、などなど。
 いずれにせよ自分へ痛みを与えず、自己中心のままで形だけ何かを行ってお茶を濁そうとすると、それは結局〈自分のため〉なので、欺瞞が生じます。
復興支援」のかけ声は燎原の火のように全国へ広がっていますが、実際にどれだけ被災者の力になっているかはよくわかりません。
 今なお、人生相談やご葬儀やご供養に訪れる被災者の方々から寄せられる言葉は、被災した方々にとって必要なものは何かを明らかにしています。
1 現実を知ってもらうこと。
2 現実を我がこととして実感してもらうこと。
3 現場で必要なものを適切に支援してもらうこと。

 これ以外はすべて、100パーセント〈被災者の方々にとって必要なもの〉ではなく、50パーセント以上は〈何かをやりたい人びとにとって必要なもの〉と考えてまちがいありません。

 今回の花火大会も、基本的には〈やりたい人びとにとって必要なもの〉であるというきちんとした認識があれば、こう考えたはずです。
「昨年、やっと復活させた花火大会を今年もやって、震災などで停滞している日進市の雰囲気を盛り上げたい。
 せっかくのイベントなので、被災した方々のためになることも含ませよう。
 その方法は、福島県で作った花火も打ち上げ、ここへ避難してきている方々に見ていただくことだ。
 被災した方々は、故郷の花火をなかなか見られないだろうから、せめて、ここで目にして、遠い故郷を思い出していただきたい。
 そして、異郷にも応援する意志のある人びとがいることを実感していただき、それがたとえいくばくかでも力になればありがたい。
 このイベントが成功し、日進市に活力がもたらされ、被災者の方々のためにもなりますように」
 となれば、「復興支援」に〈福島県産の花火〉と〈福島県から来られた被災者〉は欠かせない要件です。
 それを欠けば、テーマはどうであろうと花火大会は自分たちにとって必要なものであるという実態があまりに明らかになってしまうではありませんか。
 それを恥ずかしいと思わないならば、この世に恥ずかしいことはありません。
 ましてや「復興支援」と銘打ちながら、「福島県から来た子供と遊ぶと放射能が移る」といった愚かしい考えから発生する差別に等しい「福島県産花火の排除」など、論外の行いです。
 旗印が汚れればイベントは失敗です。
 失敗させてはならないという強い意志は、実行委員会でも、市でも、はたらかなかったのでしょうか。

 震災後、日本人の気高さが世界的に注目され、米コロンビア大名誉教授のドナルド・キーン氏のように、日本から逃げ出すのではなく、あえて日本へ移住する人すらいます。
 その一方で、原発事故の避難指定区域において盗難事件は前年の30倍近くになっており、ご遺体から指輪やネックレスを奪う現場の目撃談も多数耳にしています。
 いつの世も、人の心に光と影があるように、社会にも光と影があります。
 そしていつの世も、影がもたらす嘘と光がもたらす誠を自分で区別し、誠を選択して生きて行く以外、まっとうに生きる方法はありません。
他山の石」ということわざがあります。
「他の山から出た石であっても、自分の玉を磨く砥石として利用できる」という内容で、この世の何であれ、用いる者の智慧によって生かされるという意味です。
 日進市花火大会で起こった哀しいできごとから自分の心を省み、自己中心や欺瞞がないか、自分が実行委員や市の職員であったなら適切な判断と行動が可能だったか、などなどよく考えてみたいものです。
 そして、心から被災された方々を支援したいと思うならば、現場で本当に必要なものを調べる地道な努力を始めましょう。

〈魂入れを求めて福島県から来られた三尊像〉
20110920 003



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2011
09.20

稽古納め

 隠形流(オンギョウリュウ)居合も今年最後の稽古となりました。
 午後4時、S君とTさんが1日がかりであらかじめ用意した140本の巻きワラを切るべく、4人の行者が法楽寺へ集いました。
 まず、境内地で旗竿を立てたりしてお正月を迎えるための作務をこなし、暗くなるまで薪集めをしてから一杯のお茶を飲み、ちょうちんなどの明かりを頼りに切り始めました。
 風はそよりとも吹かず、空には皓々と月が照り、寒さが手元や背中から骨にしみ入るような夜です。
 使うは、かつてIさんが奉納してくださった備前長船の銘刀。
 博物館に並ぶような代物です。
 この日のために研ぎをかけました。
 こういった一級品を用いて稽古できる行者たちは幸せ者です。
 
 最年長のKさんから始めましたが、あまり水を含んでいないのでうまく切れません。
 大きなタライを用意して水に浸してからは順調になりました。
 ねらった場所へ決めた角度で正確にを通すのは、割合難しいものです。
 まして前後左右、あるいは八方を休まずに斬る連続技ともなると、巻きワラ斬り用の重ねが薄いでもないので、なかなかテレビで見るようなわけには行きません。

 初めてのAさんは、やはり間合いが難しく、力が入る割にはうまく切れなくて悪戦苦闘です。
 二度目になるSさんは、コツを覚えたらしく、あまり動かずにスパスパ切ります。
 稽古熱心なS君は、手慣れた動きで上下左右から自在に切ります。
 切った巻きワラを燃やし、交代で暖をとるとはいえ、寒さがシンシンと来て、水を扱いながらの稽古はなかなかのものです。

 午後9時をまわり、一升炊いた釜を前に、おかずがいっぱいに広げられた机を囲んで信徒さんからいただいた山芋を摺り、お茶を注ぎ、ご飯をよそい、晩飯になりました。
 もちろん、酒類はありません。
 ごちそうさまでしたとなってからが彼らの真骨頂でした。
 一段と寒さの増した闇へでかけ、残った巻きワラを相手にもう一稽古しようというのです。

 日付が変わりようやく後片づけにとりかかった行者たちは、水に濡れた手袋をはめた手で切れ端の一つ一つをも残さず拾い、燃やすべきは燃やし、長い稽古を終えました。
 夢を、信条を、義憤を語り合い、解散した時は午前1時をとうに過ぎていました。
 当流の稽古を通じて何よりも心をつくった4人には、来春の新たな旅立ちが待っています。
 習い、憶え、喰って、心身が育ち、旅立つ。
 ───なんと嬉しいことでしょうか。
 この場に集えなかった人たちも含めて、弟子たち一人一人の姿こそが当道場の誇りです。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

19年7月14日地鎮祭 001



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2011
09.20

失われ行く記憶の根(その2)

 前回にひき続き、松山巌氏の『路地』について記します。

4 失われた寄席芸の記憶

「イエーツの論をひかなくとも、私は日本にもかつて同様の記憶術が寄席芸にも存在していたことを知っている。
 あるいは、この芸はヨーロッパから伝わったものなのかもしれない。
 日本の寄席芸の場合、演説はしない。
 記憶術そのものが芸である。
 客席から投げられた言葉や芝居のせりふなどを一番から三十番まで順序よく憶えてゆく。
 憶え込んだ後、客席から、十番と声がかかれば、その十番に対応した言葉を述べる。
 次ぎに十五番とかかれば、同様に十五番目の言葉を述べる。
 そして最後に一番から三十番、すべての言葉をよどみもなく一気に攻口上して終わる。

 この芸の秘訣もイエーツが述べている記憶術と同様であるという。
 一番から三十番までの番号を芸人は自分がよく知っている町の建物やものに対応させて憶えこんでおき、次に客から与えられた言葉をその記憶の場所に頭の中で重ね合わせるのである。
 この記憶術は誰にも可能だというが、私には、本当に可能なのかは分らないし、また実験するつもりもない。
 ただ、現在、この術は訓練するにはきわめて難しくなっているのではないか、と思う。
 なぜなら、町の建物や通りに並んだものを憶えこむことが難しくなったからである」


 ローマ時代の記憶術も寄席芸の記憶術も、町並みの記憶が頼りになっていたならば、私たちにとって町並みは最も自然に記憶され、思いをこらして眺められたそれには膨大な情報量が含まれていることになります。
 とは、家族というひとまとまりの人びとが共同して生活するための巣であり、店とは、生きるための知恵が凝縮しているいのちのかかった戦場であり、その多様性真実性によって、私たちの記憶へとどまる最高の資格を持っているのではないでしょうか。
 こうしたことを考えると、東日本大震災で失われた多様性真実性の大きさに、文字どおり打ちのめされる思いになります。

5 のっぺらぼうな町

「失いつつあるのは、記憶術でも、町の記憶でもない。
 褐色の馬が入ってきた路地の光景は記憶の中に戻っても、現在の通りの様相は記憶の中に沈んではいかないのである。
 記憶術が誰にでも可能におもえるのは、なじんでいる町の大きさと記憶する容量がほぼ一致していると考えられるからである。
 それに比して巨大なビルは、私たちがもつ記憶の容れものより大きすぎるのではあるまいか。
 一つ一つの建物のデザインは確かに個性的であっても、それを順に記憶するには余りにそれぞれが巨大にすぎ、結局はどれものっぺらぼうで没個性的に感じられる。
 記憶できないのっぺらぼうな町が生まれつつある。

 私たちがいま立ち会っている過度期の異様さとは、巨大なビルと長屋が併存していることではなく、記憶できる町から記憶できない町への過度期の異様さに立ち会っていることにあるのではあるまいか。
 そして、それは町を憶えられないということばかりではなく、私たちの身体に具わった一つの能力、記憶する力の何ほどかを同時に失いつつあるのではないだろうか」


 巨大なビルにも、生活人びとが群れて住み、生きるための戦場が詰まっています。
 しかし、そこにあるはずの多様性真実性は、ビルという建物が覆い隠してしまい、私たちの記憶に残る情報としては、その大きさやデザインだけに絞られがちです。
 こうしたものを相手にしているだけでは、記憶の内容も、記憶する能力も落ちて行くのは必然と言えましょう。

6 失ったもの、奪われたもの

 氏は、路地を歩いた後で、友人から雑誌にある江戸末期の写真を見せられます。
 フィリス・ベアトーの作品『大名屋敷』に愛宕山から撮った〈瓦屋根の連なる美しさ〉に、「私たちはずい分と遠い所まで来たものである」と書きます。

「私はこれからベアトーが撮った幕末から現在にいたるまでの私たちの暮らしの変貌を書くつもりである。
 百年以上の間にどれほど遠くまで、私たちの暮らしが行きついたかを書こうと思う。
 ただし、百年前の大名屋敷の美しさを懐古的に讃えることが問題ではない。
 肝腎なのは、大名屋敷はまったく見られないが、それを写したカメラという機械は現在、誰もが手にできるようになったことであり、百年前にすでに今ではまったく見られぬものと今ではありふれてしまったものの二つが併存していたということである。

 私たちはおそらく美しい並みがあった時から、多くのものを得たかわりに少しずつ何ものかを失い続け、そして現在、もしかすれば記憶できる風景と風景を記憶する能力のいずれをも少しずつ失いかけている。
 そして、さらに重要なことはこの少しずつ失っていったものが何であるのかをすっかり忘れてしまっている点である。
 失ったのではなく、〝奪われていった〟のではないかという思いもある」


 失われ、奪われたものは写真にしか残りません。
 いったん発明された映像を記録する機械は、時を超え、私たちの記憶になり代わって後代の人びとへ失われた光景を伝えます。
 人間から失われ、奪われたものが機械によって残されることの意義は、最終章で明らかになります。

7 過度期のズレ

「過度期を過ぎると失ったものは忘れさられる。
 すぐにそれが何であるのかさえ分からなくなってしまう。
 しかし、過度期に生じた生活のズレは現在まで何らかの痕跡を少なからず残しているのではないだろうか。
 ズレが分からないのは現在では当たり前として気づかぬからではあるまいか。
 私は各時代に起きた生活をズレを探す。
 そして、そこに暮らしの断面を見て、それをインテリアと呼ぶことにしたい。
 私が探すのは、華やかに飾りたてられたインテリアではなく、失われ忘れ去られたもう一つのインテリアなのである」


 過度期とは、町並みが大きく変化し、古い構成スタイルと新しい構成スタイルがすっかり入れ替わるまでの間を指します。
 ベアトーが撮った写真と今自分が撮った写真は、パソコンの画面上では瞬時に入れ替わりますが、二枚の写真の間には、人びとの泣き笑いや夢や挫折や冒険や諦めなどを含んだとてつもない時間が隠れています。
 その時の間に発生した変化が目立たぬズレを生じますが、新しい生活スタイルができてしまうと、経過としてあったはずのズレは忘れ去られます。
 氏は、そこに「暮らしの断面」を見ようとします。
 きっと、〈引き継がれたズレ〉にこそ、真実が隠されていると考えているのでしょう。
 こうしたことを考えると、またもや、津波によって消えた町並みに思いは飛びます。
 托鉢で訪れた見知らぬ僧侶を温かく迎え入れ、支えてくれた人びとの多様性真実性にあふれた町並みがもう、戻らないこと。
 そして、新たな町並みがいかなるズレを伴って生まれるのか。
 ──やはり、今は、失われたものに圧倒される気持で稿を終えるしかありません。


〈陸前高田市で出会った鍋〉
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2011
09.19

失われ行く記憶の根(その1)

 昭和60年、評論家松山巌氏(当時40才)は怖ろしい作品を書きました。
 私たちの記憶から、記憶として残るべき風景も記憶する能力も奪われつつあるのではないかと指摘する『路地』という一篇です。
 鬼才の視点は、被災地の復興や再興に小さくない意味を持つと考えており、以下、内容をたどってみます。
 便宜上、一部だけ抜き書きした文章をまとめ、表題をつけました。

1 失われた過去の光景

路地の中に、蹄の音を響かせて褐色の巨きな奴が、あえぎあえぎ入ってくると子供たちは息をのんだ。
 夏の白い光りの中、馬は荒い息を何度か吐いて私の家の前にある石置き場の横にとまる。
 馬は芝園橋脇の石材問屋から石を積んだ荷車を曳いてきたのである。
 荷馬車の男は、バケツに水を汲んで馬に飲ませ、汗を吹いてやる。
 水を飲む馬の息づかいを子どもたちは凝っと見つめている。
 汗がまたふき出す。
 むっとするけものの匂い。
 やがて馬は水を飲み終えると、長々と小便を垂れた。
 子どもたちは、ほわほわと湯気のたつ小さな川が路地の中をゆるゆると流れて行くのを追った。
 荷馬車の男は笑い、子どもの声は路地の中で弾けた」


 こうした生きた思い出は、誰しもが持っていることでしょう。
 そこで生きている自分が、いのちあるものや環境などと活き活きと感応しました。
 息吹や、たたずまいや、心に渦巻いたものなどが、時間の一部として切り取られ、記憶として心へ刻まれます。

「三十年も前のことである。
 いや、そうではなく、たった三十年しか経ってはいない、と私は久し振りに戻ってきた路地の中で考える。
 現在はもう既にあの石置き場はなく、そこには十二階のビルが建っている。

 路地に、祖父が暮し、父が生れ、私が育った。
 東京、港区愛宕山下の一角。
 愛宕山は、東京タワーと日本で最初の高層ビルである霞ヶ関ビルとのちょうど中間にある。
 山というよりも丘といったほうが良いような低い山である」


 氏は、たった30年の間に、10才の頃にあった光景が失われ、それは三代にわたる生活の痕跡が失われたことであると実感しています。
 路地はかろうじて残っているものの、丘で営まれる人間たちの日々は、すっかり変質しました。

「路地の向うには巨大なクレーン車が操動し、私の姿を見おろしている。
 十数階のビルが建設中。
 街には虫が喰ったように空地が至る所で目につく。
 空屋も多い。
 いずれ空屋は取り壊され、小さな空地はまとめられてやがてそこに巨きなオフィスビルが建設される。
 馬など通るやずもない。
 馬が路地にやってきた三十数年前を改めて考えれば、東京タワーの建設工事が始まる直前にあたることに気づく。
 あの鉄塔の設計図が出来上って敷地の整備工事がはじまっている脇を、褐色の馬は芝園橋から芝公園へと蹄の音を響かせ石を曳いていたことになる。
 不思議な時代の推移、過度期の異様さを私は見ていたわけである。
 が、過度期の異様さならば、現在私が目の辺りにしている光景、長屋が並ぶ路地の向うに巨大なクレーンがそびえる光景もおとることがないのではなかろうか。
 ただ、私たちはその光景を異様なものとして見ようとはしないだけなのではあるまいか」


 氏は、東京タワーに象徴される生活圏の激変が、そこに住んでいる人びとが実感として予想できぬうちに準備されていたことに、強い違和感を感じています。
 それを「過度期の異様さ」と言っています。
 私は、バブルのまっただ中、テレビに流れた一場面を忘れることはできません。
 東京都の大きな図面を広げたゼネコンの人びとが、立ったまま、まったく勝手にさまざまな線を引き、議論しているのです。
 人びとがそれぞれの思いを持って生きている家々はオモチャほどの価値もなく、もちろん、住人の気持など一顧だにされはしません。
 また、〈茹でられるカエル〉も思い出されます。
 カエルが水に浮かんだ容器を火にかけ、徐々に水温を上げてゆくと、カエルは高温に危険を感じて飛び出すことなく死んでしまうというのです。
 こうしたゆっくりした変化に気づきにくい感性のありようは人間にも通じ、最近、心理学者の茂木健一郎氏などがさかんに指摘しているとおりです。
 アレッと思うほど事態が進んでいれば、もう、〈後の祭〉です。

2 追いつかない記憶
 

「私はかつてあった町の佇まいが消えていくことに驚き、単純に懐古的な感傷に浸っているわけではない。
 建築が時代の要求によって変り、町が変化するのは当たり前のことである。
 私が本当に驚いているのは、小さな家屋や路地の後に建ち並びつつある巨大なビルが私の記憶の世界と対応しきれないことである。
 巨きくて、どれも同じように見えるビルは、名称は憶えることはできても、その姿や建ち並ぶ順序が憶えきれない。
 かつての町ならば切れ切れながらも私の記憶の中にその姿を立ち上らせ、それぞれの建物を順に憶い出すことができる。
 ところが、現在の町に立つビルやそのビルの中にある飲食店や喫茶店など私に関係のある場所を憶い出そうとする時、一つ一つの場所は点のように頭の中で浮び上がっても、それぞれを繋ぐことができないのである。
 私の頭の中で町は再現されない。
 私は実感のない町の中を歩いているに違いない」


 氏は、町の姿が変わったからといって懐古的な感傷を語ろうとしているのではなく、過去の記憶を成り立たせていた要素としての家や路地に代わって記憶を成り立たせるものがないのではないかと指摘しています。
 ラーメン屋があり、床屋があり、友人の家があり、柿の木があったからこそ記憶は成り立ちます。
 しかし、巨大なビルだらけになれば、それらは、私たちが異なったものとして感性でとらえるには巨大過ぎて、それらのつながりとしての町を記憶にとどめるのは困難だろうというのです。
「私の頭の中で町は再現されない。
 私は実感のない町の中を歩いているに違いない」
は怖ろしい予感です。
 その本当の恐ろしさは、以下で明らかになります。

3 失われたローマ時代の記憶術

「イギリスの美術史家フランシス・A・イエーツは、『記憶術』の中で、ローマ時代の雄弁家たちは、町の記憶、建築の記憶を、演説を憶えるのに利用したと記述している。
 雄弁家たちは、演説をする以前にまず記憶術を学ぶ。
 この記憶術は、都市の街路に建ち並ぶ建物をまず自己の記憶の中により細かくたたきこむことからはじまる。
 雄弁家たちは、頭の中で自分の家を、その内部を辿り、ゆっくりと町の中を歩きながら順序通りに一つ一つの建物や広場や彫刻を憶い出し、それを道具としたのである。
 憶えこんだ建物、場所を彼が語るべき演説のポイントに対応させることで、彼は演説を自分自身が作り上げた筋道どおりに行うことができたのである。
 イエーツは、この記憶術が、時代の変化、生活の変化が早くなるにつれて必要ではなくなり、やがて失われていったと述べている」
「失われたのは記憶術なのだろうか」


 氏は、私たちの記憶と町の印象は深いつながりがあり、それはかつて、能力開発にすら用いられていたと指摘しています。
 町がこうしたはたらきを持っているのは、私たちが〈社会〉を実感するに最もふさわしい大きさだからではないでしょうか。
 そうした意味では、人それぞれによって〈町〉としてとらえられる大きさは違うはずです。
 ともあれ、日本人にとっては驚異的に長持ちしていると思われるヨーロッパの町並が、イエーツからすれば、〈早すぎる変化にさらされている〉とは驚きです。
 早すぎる変化は古典的な記憶術を成り立たなくさせました。
 そして氏は、考察を深めます。

〈被災された方々の救いとなっているヨーキーが来山しました〉
20110918-2 001



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2011
09.18

一生をお守りくださる守本尊様について(3)

 私たちの一生をお守りくださる守本尊様について、簡単に記しています。
 守本尊様には、一生変わらずにお守りくださる「一代守本尊様」と、毎年、年齢によってお守りくださる一年限りの「厄除け守本尊様」があります。
 一代守本尊様は、生まれた年の干支がどのご本尊様の年に当たっているかによって決まります。
 厄除け守本尊様は、年回りの九星により、自分の生まれ持った星がどのご本尊様がおられる場所に巡っているかで決まります。
 だから、厄除けのご本尊様は、前厄なら勢至菩薩様、本厄なら千手観音菩薩様、後厄なら大日如来様、八方塞がりなら地蔵菩薩様などと、それぞれ違うのです。
 すべての守本尊様の法を結ぶ当山では、皆さんのお求めに応じて、それぞれの守本尊様の法を結び、皆さんの無事安全と厄除け開運を祈っています。

勢至菩薩(セイシボサツ)様】

勢至菩薩様は、慈悲の勢いを至らざるとことのないほど盛んにして、悟りと救いを求める私たちの心を励ましてくださいます。
 その強大なお力は災いを息(ヤ)め、罪を滅ぼしてくださいます。
○午(ウマ)年生まれの方を一生、お守りくださいます。
 人はそれぞれ、生まれ年によって縁となったご本尊様が一生ずっと見守っておられます。
 午の年は勢至菩薩様の年なので、その年に生まれれば「私の守本尊様は勢至菩薩様」ということになります。
○九紫という星の場所(午の位置)に自分の星が巡る人を一年間、お守りくださいます。
 南(午)の位置に巡ると、九年に一度の〈結果が明らかになる年〉に当たり、旧悪の露呈もあり得るので前厄になります。
 だから、前厄の厄払いを行う修法では勢至菩薩様がお導きくださるのです。
○午の方位である南へ向かう方をお守りくださいます。
 南におられる勢至菩薩様は、南へ向かうものごとを行う人をお守りくだるので、南に引っ越したり、南方で新しい仕事を始めるたりする場合は勢至菩薩様のお力をいただく修法を行います。
○午の時間帯である午前11時から午後2時までをお守りくださいます。
 この時間帯に何かをしようとする場合は、勢至菩薩様のお力をいただく修法を行います。
○考え方や因縁解脱などに関するご祈祷のご本尊様にもなってくださるのですが、そうした面は秘伝なので記しません。
○勢至菩薩様とのご縁を深めるための真言は「おん さんざんざん さく そわか」です。
 何かのおりには、どうぞ、心を込めてお唱えください。
 特に頭部の不調時にはよく効き目を感じ、きっとお救いいただけることでしょう。


大日如来(ダイニチニョライ)様】

大日如来様は、心の暗を除き遍く照らし、救いの大仕事を成し遂げ、しかもその光は滅することがない永遠の太陽といったみ仏方の根源であり、中心のみ仏です。
 この徳をまとめた言葉が遍照金剛(ヘンジョウコンゴウ)であり、それは大日如来様を形容すると同時に、お大師様をも意味しています。
 だから、四国八十八か所をお詣りする善男善女は「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」とお唱えします。
(ヒツジ・サル)年生まれの方を一生、お守りくださいます。
 人はそれぞれ、生まれ年によって縁となったご本尊様が一生ずっと見守っておられます。
 の年は大日如来様の年なので、その年に生まれれば「私の守本尊様は大日如来様」ということになります。
○二黒という星の場所(の位置)に自分の星が巡る人を一年間、お守りくださいます。
 南西()の位置に巡ると、九年に一度の〈のんびりした年〉に当たり、ものごとが停滞しがちなので後厄になります。
 だから、後厄の厄払いを行う修法では大日如来様がお導きくださるのです。
の方位である南西へ向かう方をお守りくださいます。
 南西におられる大日如来様は、南西へ向かうものごとを行う人をお守りくだるので、南西に引っ越したり、南西で新しい仕事を始めるたりする場合は大日如来様のお力をいただく修法を行います。
の時間帯である午後1時から午後5時までをお守りくださいます。
 この時間帯に何かをしようとする場合は、大日如来様のお力をいただく修法を行います。
○考え方や因縁解脱などに関するご祈祷のご本尊様にもなってくださるのですが、そうした面は秘伝なので記しません。
○大日如来様とのご縁を深めるための真言は「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」です。
 何かのおりには、どうぞ、心を込めてお唱えください。
 特に手や腕の不調時にはよく効き目を感じ、きっとお救いいただけることでしょう。

※「一生をお守りくださる守本尊様について(1)」添付の一覧表をご覧ください。

〈聖地〉
9



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2011
09.17

『仕事の流儀』

 このたび、『日経マスターズ』に連載されていた小説家高任和夫氏の『マスターズ列伝』が一冊の本になりました。
仕事の流儀』です。
 氏は

「人間、いかに生くべきか、どうも私は潜在的に、そこらへんを引き出したかったような気がする」
「何げない言葉が輝いていた」
「彼ら仕事師たちのメッセージを聞いたような気がする。
 それは、けっしておおげさな表現ではないが、まぎれもなく悩み苦しむ後輩たちへの伝言なのである」

と書いています。

 一例です。

「日本人は小粒になってきているね」 城山三郎(作家)
不幸か、組織の価値構造に身を染めて生きてると、あんまりせになれない時代になってきています」 小椋佳(歌手)
「おそらく百年たって、役に立つか立たないかというくらいの実験なのです」 小柴昌俊(科学者)
「運を飼い慣らすっていうのかな、そういうふうに、自分を運の方向に向かわせるようにしないと……」 水木しげる(漫画家)
「その人間自体を高めなければ碁は強くならない」 藤沢秀行(棋士)
「自分の懐を深くしておくというのが役者の道として大事なんだと思いますね」 仲代達矢(俳優)

 普段あまり本を読まない妻が「とにかく、私が読んでもおもしろいんですから」と言って、会う人ごとにこの本を紹介しています。
 若い方々には、貴重な〈後輩たちへの伝言〉を本当に伝言として受けとめて欲しいものです。
 そして、この宝ものを多くの方々と共有したいものです。
 今は伊集院静氏の『大人の流儀』が大ヒットしているそうですが、この重要な『流儀』もお忘れなく──。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20110904 0152



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
09.17

病気を怖がり医者を怖がる臆病な私

 勉強会「生活仏法」で議論が白熱したおり、熱心なAさんが吐露(トロ…うち明けること)しました。
「私はこの年になっても、とても臆病なんです。
 どこかおかしいとすぐに最悪の病気ではないかと考え、怖くなってすぐ、医者へ走ります。
 しかも、いまだに歯医者が怖く、いつも行くのが嫌でたまりません。
 行こうとするだけでもう、具合が悪くなるのです。
 せっかくここでいろいろ勉強していながら、自分が可愛く、いのちが惜しいままでさっぱり向上しない自分が恥ずかしくてたまりません。
 どうすれば良いのでしょうか」

 お応えしました。

1『弁慶の泣き所』と言われるとおり、誰にでも苦手なものや弱点はあります。

 ひろしがアレルギーだなんて誰も思いませんが、という芸名が決まった時から近づけなくなったそうです。
 足のスネや盆の窪は鍛えようがなく、スネを蹴られれば大の男でも踞ってしまうし、盆の窪への攻撃は、必殺仕事人が悪人を倒す常套手段でした。
 皆、あまり言わないし、知られると弱みにもなるから口をつぐんでいますが、たとえば尿道を検査されるときの痛さが嫌で、検査を受けるくらいなら前立腺ガンでんだ方が良いと公言するする人さえいます。
 それほど気にしなくても良いのではありませんか。

2 自分がぬ存在であると実感し、心構えや準備をきちんとしておくことと、自分のいのちを大切にすることとは別です。

 最近、エンディングノートを書く人が増えていると聞きますが、とても良いことです。
 一瞬後かも知れない〈その時〉に備える心は、必ず、〈生あるものは等しくを免れない〉という真理を深く納得させ、それは(クウ)の体得へ門戸を開きます。
 そうしていながら自分の身を自分で労(イタワ)るのは、社会人として当然の姿勢です。
 津村節子は小説『紅梅』で、夫吉村昭を送った様子を記しました。
「育子は不眠が続いて、日中も頭がぼんやりしていた。
 夜中に起こされて尿意を告げられ、暫く眠ると、
 育子、育子
と呼ばれる。
 あまりの眠さに
『ごめんなさい。もう少し眠らせて』
と、ひきずり込まれるように眠ってしまい、次ぎに起こされるまで我慢していたのか、と思うと、可愛そうだった。
 何か話したいことがあったのかもしれない」
 夫は妻が小説家であることを深く理解し、自分が仕事の邪魔をしたくないと強く念じていながらなお、〈呼ばねばいられない〉のです。
 そして飲食を禁じられている夫は、大好きだったコーヒーとビールを口にして満足した日に自分で点滴のつなぎ目を外し、胸に埋め込んであるカテーテルポートをひきむしって旅立ちます。
 を覚悟しつつ自分のいのちを守ろうとするのは決して矛盾することではありません。

3 第65代横綱になった貴乃花が口にして再認識された「不惜身命(フシャクシンミョウ…身体もいのちも惜しまずに励むこと)」は、「但惜身命(タンジャクシンミョウ…ただ、身命を惜しむこと)」が伴ってこそ、真の実践道になります。

 それはブログ「不惜身命(フシャクシンミョウ)と但惜身命(タンジャクシンミョウ)」に書いたとおりです。
「どうせぬ自分なのだから、やるべきことを決めた以上、いのちをも惜しまずまっしぐらに進もう」とするのはまっとうな姿勢です。
 しかし、疲れても眠くてもお腹がすいても同じペースで突っ走ろうとするのは愚かしい姿勢です。
 なぜなら、いのちを惜しまず精進するのは目的達成のためであり、決して自分の身体を痛めるのが精進の目的ではないからです。
 傍から見る目には無茶であると映っても、きちんと仕事の出来る人は必ず、〈自分なりの自己管理〉を行っています。
 自他共に迷いから脱し、自他共に安心で納得の出来る生き方ができるよう精進する菩薩(ボサツ)道の実践者は、自己管理を怠ってはなりません。
 もちろん、津波から逃げるように呼びかけるマイクを最後まで離さなかった南三陸町の遠藤未希さんのように、自分のいのちを忘れる〈いざという時〉が来るかも知れません。
 平成13年の9・11事件の際、ハイジャックされた飛行機へ体当たりするために飛び立った女性パイロットがいたそうです。
 実際は突っ込まなかったけれども、「離陸はこれで最後だと本気で思った」彼女が堂々と戦闘機を駆使して厳しい任務へ向かったのは、常々、立派に訓練していたからです。
 菩薩道を歩む私たちは、発心(ホッシン)した目的のために、自己管理を徹底し、進みましょう。
 すぐに医者へ走ることを恥ずかしがる必要はまったくありません。

4 迷わないための方法の一つは、各方面において、任せられるプロを選んでおくことです。

 病気のことならB医師、手続きのことならC司法書士、会計のことならD税理士、政治のことならE議員、町内のことならF会長といったふうに心を定めておけば、いつでも大船に乗った気持でいられます。
 そうした相手を探すのは自分の人生を左右するほど大切な仕事であり、ここを怠っていながら「心配だ」と言っていても始まりません。
 当山にも、疑問や悩みを抱えてさんざんあちこちと歩いた方々がご来山されます。
 最終的に当山を選ぼうが選ぶまいが、そうした真摯な生き方をしておられること自体すでに救いの中へ入られつつあると考え、いつも心で合掌しています。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
09.16

「寺子屋『法楽舘』第二十回」 ─シンポジウム「音楽を佳い音で聴く・音楽からお経を考える」─

 前回の文字に関するシンポジウムにひき続き、音に関する[シンポジウム『音楽を佳い音で聴く・音楽からお経を考える』]を行います。

・日  時  10月8日(土)午後2時より3時30分まで
・場  所  大師山法楽寺
・パネリスト 音響エンジニア 浅見薫
・ご志納金 1600円(参加費1000円・紅茶セット600円) 未成年者1100円 被災された方は無料
・参加申込  今回はお茶の用意をする関係上、電話などで前日までにお申し込みください。
・送迎申込  午後1時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へ乗りあわせの車がまいります。乗車希望の方は前日までにご連絡下さい。

 9月12日のブログへ書いたとおり、山元町在住の浅見薫氏から手作りスピーカーをお引き受けすることになりました。
 丹精込めて練り上げた音は艶々しく、朗々と伸び、波動が腹へ届くすばらしいもので、お経を流すだけでなく、音楽やオーディオに興味がおありの方々にも広く聴いていただこうと考え、シンポジウムを企画しました。
 浅見薫氏から音作りに関するお話などをお聞きし、機器の扱い方による音の変化なども体験しながら、さまざまなジャンルのCDで音の美を堪能しましょう。
 けた違いの美しさにびっくりされること請け合いです。
 CDを持参されるのも大歓迎です。
 最後に住職が声明(ショウミョウ…音楽のように唱えるお経)などについてお話します。
 この時期の恒例となった高橋里佳さんと佐藤直行さんのコンビによる特製紅茶セットも用意してお待ちしております。

浅見薫氏の略歴

・昭和23年4月盛岡市生まれ、現在山元町在住。
・ドコモエンジアリング東北勤務。
・20才頃より真空管アンプ制作等を通して音楽を楽しみ、JAZZ、クラッシックや歌謡曲など何でも幅広く鑑賞する。
・スピーカーシステム制作は特に好きで、オークションで古い時代のユニットを入手しシステムを組み上げている。
・他にビデオ撮影、編集、DVD作成、ダンスパーティ等会合での音響を担当している。


〈高橋里佳さんのブログ「海のしずく」にある手作りクッキー〉
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〈当日活躍してくれる予定の機器たち〉
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2011
09.16

幸せになる方法 ─知足とモノの効用─

 今年最後のNHK講座で素朴な質問が出ました。
 義母と一緒に参加したAさんからです。
「義母などから『今は楽になったものだ。あまりぜいたくしてはいけない。昔は洗濯だって手でやったのに』といったことを聞かされても、洗濯機のある時代に生まれた私にはピンときません。
 どう考えれば良いのでしょうか?」
 お義母さんは隣で笑っています。
 お二人のご様子はほほえましく、受講生の方々もお嫁さんへ優しい目を注がれました。

 モノで考えれば答は難しくなるのでしょうが、心のありようで考えればごく簡単なことです。
「足を知る」
 これだけです。
 洗濯機を敵視して放り出す必要はありません。
 立派な洗濯機があることに感謝して、上手に使えば良いのです。
 そして、新型の洗濯機が発売、宣伝されたならば、おちついて考え、「これでまだまだ大丈夫」と思えれば壊れるまで使う気持が大切です。

 私たちの心にはこういった心理があります。
「隣の芝は青い」
(他人の持ち物は良く見える)
女房と畳は新しい方が良い」
(新しく新鮮なものは期待感を持たせます。しかしフランスでは「女とワインは古い方がいい」と言われていることもお忘れなく)
 また、「より便利に」「より上質に」といった向上心や研究心が科学技術を発展させ、生活に安心や満足感を与えてきたのはありがたいことです。

 しかし、「これよりこれの方が便利である」というのは相対的なモノの世界の話です。
〈絶対の便利〉はどこにもなく、「ありがたい」と満足し感謝する時は、相対的な比較を離れています。
 不便という感覚がモノの世界を発展させてきたことは確かであり、医療を見るまでもなくモノが人を救うのもまた事実です。
 それを否定するのではなく、そうしたモノの効用とは別に、比較を超えた根元的な感謝が人としてまっとうに生きるために必要不可欠であり、幸せの土台であるということを考えてみたいものです。

 足るを知り感謝する心は、「ありがたい」気づかされる対象が広がれば仏神や自然や宇宙への崇敬へと深まります。
 貪りという毒も、思い上がりという毒も消え、敬虔な心が生じます。
 その時、人は幸せであり、み仏になっています。
 今年のしめくくりは、お大師様の即身成仏(ソクシンジョウブツ)。
 ありがたいことです。

(この文章は平成16年に書きました。
 もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています。
 大震災で〈あって当たり前〉のものを失い、気づかされたことごとを心へ刻んでおきたいものです。
喉元過ぎれば熱さを忘れる」とならないように……)

〈朝靄に包まれた釈尊〉
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2011
09.15

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第四回) ─旅立ちの準備─

「長い間親しくしている友と別れ、努力して得た財産を後に残し、『肉体』という宿を『心』という客が去っていく。
 今生(コンジョウ)を捨てること、それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 私たちにとって最も確実なのは「死ぬ」ことです。
 死とは、肉体という仮の宿から魂が立つことです。
 親族も、友人も、財産も、仮の宿が縁となってもたらしたかりそめの安楽の源泉です。
 それは因縁の風の吹きようでたやすく消え去り、今生(今生きているこの世)における安楽の源泉はいつ、憎悪や争いの源泉へと暗転するかわかりません。
 確かな安楽の源泉、しかも自分だけでなく周囲の人びとへも安楽をもたらし得る源泉は、〈法によって練られた心〉です。
 親族も、友人も、財産も、もちろん、頼りとし大切にしてきた肉体も何一つ、あの世へは持って行けず、死に際して役立つものは〈法によって練られた心〉しかありません。

 経典は説きます。
「あの世へ行ったなら、
 今いる所から遙か遠くへ離れる。
 今まで親しんできた者たちと別れ、
 助けてくれる者など一切いない」
「私は汝等へ解脱(ゲダツ)の道を示す。
 しかし、解脱の実現は汝等(ナンジラ)自身の精進にかかっている」

 ここでは、決して「孤独になりなさい」と説いているのではありません。
「一瞬後に訪れるかも知れない死の準備をしつつ生きなさい。
 自分がこの世で頼りとしている人やモノは、自他にとって最も大切なものではありません。
 人やモノへの執着を離れること。
 それ以上、人生を支える大切な精進法はありません」
と説いています。
 私たちの心もいのちも、この世限りのものではありません。
 世界は仏神が唄い、踊り、舞う永遠の舞台です。
 空も太陽も月も星も、雲も風も雨も、山も里も川も海も、カラスもハトも、イヌもネコも、サンマもドジョウも、ヒマワリもコスモスも、そして人間も、目に見える舞台へ登場し、配された役割を演じては去ります。
 目に見えぬ舞台でも、やはり、仏神のドラマは続いています。

 私たちは、目に見えぬ舞台の存在を信じているからこそ、亡き人のために祈るのではありませんか。
 8月14日夜、津波によって児童のほぼ7割、教職員のほぼ8割が亡くなった石巻市立大川小学校の近くで追悼の花火大会が行われました。
 河北新報は、5年生だった次女千聖さんを亡くした紫桃(シトウ)隆洋さん(47才)の思いを報じました。
「亡くなった子、生きている子、両方のため花火を打ち上げたかった。
 亡くなった子どもたちもどこかで花火を見てくれたはず。
 地域の人たちに感謝したい」
 同じく、地元消防団の副分団長として、大川小で児童らの捜索に当たった今野吉昭さん(50才)の言葉です。
「地域ぐるみで育ててきた子どもたちのため、何もせずにはいられなかった。
 親が少しずつ前に進むきっかけになってほしい」
 9月14日夜、NHKテレビの『クローズアップ現代』は、花火を見上げて涙ぐむ人びとの様子を報じました。
「子供たちはきっと、あの花火を見ているよね」
花火と一緒に帰ってきているよね」

 日本人として初めてカザフスタン村落部での長期人類学調査を行った藤本透子氏によれば、平成3年に旧ソ連から独立したカザフスタン共和国やその周辺地域では、「宗教的な祝祭が復興したり、人びとが宗教に関心を高めたり」しています。
 共産主義による近代化の果てに人びとがたどりついたのは、「死者の霊魂への崇敬を背景としたクルアーン(コーラン)朗唱」でした。
 コーランに死者への崇敬が説かれてはいないのに、カザフスタンの人びとは「死者が充ち足りなければ、生者は豊かにならない」と考え、アルワク(霊魂)のために祈りを捧げます。

 9月14日の勉強会「法話と対話『生活と仏法について』」でも活発な議論が展開されました。
 Aさんは、最近流行っているエンディングノートへ必要事項を鉛筆で書き込み、正月に家族全員が集まった場で話し合いをします。
 キリスト教などさまざまな宗教を勉強してきたBさんは、当山の勉強会で「チベットの死者の書」を知り、今は仏教を学びつつ安心に暮らしておられます。
 一代で財を築いたCさんは、「自分が信念によって財を使い、死後の残りは子供たちが平等に分ける」ことを宣言し、家族は納得しました。
 Dさんは時折、夫婦して遺影用の写真を取り替えます。
 若いEさんからのありありがたいご提案です。
「住職が死んでから私の葬儀をするようになるかも知れません。
 私の葬儀で住職のお経をCDで流せるように、葬儀用一式を録音しておいていただけませんか」
 皆さんそれぞれ「今生(コンジョウ)を捨てること」の実践者です。

 死後はきっと、この世での人生よりずっと長いがまっていることでしょう。
 そのための心とモノの準備をするのに〈早すぎる〉ことはありません。
 死は、一瞬後に訪れるかも知れないのです。

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2011
09.14

【現代の偉人伝】第135話 ─福島の子供たち─

1 8月19日の河北新報は「被災地支援の車両を毎日応援 児童に県警が感謝の手紙」と題して、三人の子供たちを紹介した。

 福島県飯野町青木在住の青木小6年広野あみさん(11才)、弟の同小4年諒君(10才)、同小1年三浦星さん(7才)は、4月中旬から毎日、自宅近くの国道114号線で手作りボードを掲げて立っている。
 そこにある「「ガンバレ ファイト」、「いつもありがとう」などの文字は住民へ向けられたものではない。
 三人が「おつかれさまでした」と声をかける対象は、警察や自衛隊といった支援部隊の車両である。
 猛暑であろうと雨が降ろうと立っているというから尋常ではない。
 福島県警の小笠原和美警務部長は、三人宛の手紙を書き、記念品と共に手渡した。
「励ましの言葉に感激し、力をもらった。
 全国から福島を訪れている応援部隊もメッセージを目にしており、気持ちは全国に届いている」
 広野あみさんは応えた。

「被災地のために頑張っている警察や自衛隊を応援したい。
 暑い日に立ち続けるのは大変だけど、これからも続けたい」


 きっかけは警察車両を見たい諒君の思いつきだというが、きっと感謝のやりとりが三人をとりこにしてしまったのだろう。
 自分に良いことが起これば嬉しい。
 でも、良いことが起こった誰かの喜びを〈我がこと〉として実感できれば、もっと嬉しい。
 そして、それが起こったことに自分が関与できれば、もっと嬉しいのである。
 これが、自己中心で我欲第一の迷った状態から慈悲心第一の菩薩(ボサツ)へと清まり、高まり、深まる心の成り行きである。

 実際に子供たちが声を発している現場を訪ねたAさんは、自身で発行している会報へ書いた。
「私は 此の光景を観て
 此の子供達の将来が楽しみだ
 此の子供達の愛国心・同胞心…
 此の子供達に涙を流さずにはいられない」

 三人には、ぜひ、仲間たちの手本になってもらいたい。
 中には、やっかみなどから誹謗中傷する子供や大人もいるだろうが、断固、続けていれば魔の軍勢に負けはしない。
 心から合掌し、この心で成長してもらいたいと願う。

2 9月13日、野田佳彦首相は、所信表明演説で、福島の高校生たちが演じた創作劇の台詞を紹介した。

「福島に生まれて、
 福島で育って、
 福島で働く。
 福島で結婚して、
 福島で子供を産んで、
 福島で子供を育てる。
 福島で孫を見て、
 福島でひ孫を見て、
 福島で最期を過ごす。
 それが私の夢なのです」


「ここで生まれ、生きて、死にたい」と願う以上の郷土愛があろうか。
 この単純で簡潔な言葉には、神のごとく繊細な詩人たちが脳髄をしぼって紡ぎ出す言葉にも負けないだけの説得力がある。

 郷土の大先輩である吉野せい氏は書いた。

「なまなましいくり言は、唇を縫いつけて恥一ぱいでかき消そう。
 しずかであることをねがうのは、細胞の遅鈍さとはいえない老年の心の一つの成長といえはしないか。
 折角ゆらめき出した心の中の小さい灯だけは消さないように、これからもゆっくりと注意しながら、歩きつづけた昨日までの道を別に前方なんぞ気にせずに、おかしな姿でもいい。
 よろけた足どりでもかまわない。
 まるで自由な野分の風のように、胸だけは悠々としておびえずに歩けるところまで歩いてゆきたい」

 この時74才、畢生の傑作『洟をたらした神』を執筆する前の文章である。
 先輩の性根を受け継ぐ若者たちが持つ希望の力は、大人たちへも希望をもたらし、大人たちを支えもする。
 大人たちが「若者たちの希望に応えよう」とはたらき、死んでゆこうと決心する時、もう、希望の実現は目と鼻の先まで来ているのではなかろうか。
 仏法は、「菩薩(ボサツ)になろうと決心する時、すでに菩薩になりかけている」と説く。
 子供も大人も希望の灯火を共有して生きようとするその場はすでに、モノの世界の問題は抱えていても、郷土愛にあふれた心の理想郷になっているとは言えないだろうか。

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2011
09.13

【現代の偉人伝】第134話 ─ありがとう!復活した桑田佳祐─

 大震災からちょうど半年の9月11日、サザンオールスターズの桑田佳祐(55才)は、宮城セキスイハイムスーパーアリーナで「宮城ライブ~明日へのマーチ!!」を開催した。
 午後2時46分、彼は大震災発生の時刻にリハーサルを中断し、会場の8000人も不動の姿勢になった。
 会場は遺体安置所だった場所であり、淡々と登場した彼は深々と低頭してからご当地ソング「青葉城恋歌」を唄い、「あれから半年。黙祷を捧げさせてもらいます」と直立した。
 黙祷に続いてドボルザークの「新世界より」が流れ、「復興への長い道のりをほんのわずかな時間ですが、心からステージを楽しんでほしい」という彼とスタッフからのメッセージが大型ビジョンに映し出された。

 去年の8月2日に食道ガンの手術を受け、紅白歌合戦で復活した彼は約3時間、27曲を唄いきった。
 途中、何度も感謝の言葉をはいた。
「辛いことがあったと思います。
 私自身もいろいろありましたが、みなさんの声援もあり帰ってこられました。
 私にとって再スタートの日にもなりました」
 そして、「復興と、子供たちの未来と、原発の収束を願い」と音頭をとり、一本締めを行った。
 アンコールのラスト曲は『希望の轍』だった。

夢を乗せて走る車道 明日への旅
通り過ぎる街の色 思い出の日々
恋心 なぜに切なく胸の奥に迫る
振り返る度に野薔薇のような Baby love

遠く遠く離れゆくエボシラインoh my love is you
舞い上る蜃気楼巡る巡る 忘られぬメロディライン
oh my, oh yeah, Gonna run for today oh,oh,......

風の詩よ 黄昏よ ためらいの道
波の音は今宵もブルー
愛しい君の名を誰かが呼ぶ
ため息の中にほのかなあこがれが寄りそう
愛されるために羽ばたくような Baby love

熱く熱くこみあげる涙にoh my love is you
たわむれの放射線揺れる揺れる 面影は哀しく
oh my, oh yeah, Be the one for tonight

情熱の重さは夜の凪 さまよう夏の日は陽炎

遠く遠く離れゆくエボシライン oh my love is you
舞い上がる蜃気楼 Di di di......
oh my,oh yeah Let me run for today



 会場が遺体安置所だった頃、見覚えのある顔を求めて通った方々の記憶にはまだ、死の世界のイメージが生々しく残っていることだろう。
 耐えきれなくなりかけた幾人もの方々が、当山を訪れて涙を流し、祈り、また現場へと向かった。
 死者を捜すために、捜す人を支えるために。
 そうした〈死が主人公〉だった場で、つかの間、人びとは熱狂し、〈生が主人公〉となった。
 気を反転させることが許されたのは、ガンを克服し、被災者のために1年半ぶりの本格的なライブを決断した中年男桑田佳祐だったからだろう。
 
 唄った彼は、病気を克服したとはいえ明らかに人生の折り返し点を過ぎており、死の影を濃くしつつ今を歩んでいる。
 ネットに流れているライブ版『希望の轍』で汗をしたたらせながらシャウトする彼は、なぜか切なそうに見えた。
 思えば、青春時代に感じた切なさは、死を現実と感じるところに起こる切なさに通じているのではないか。
希望の轍』は、「明日への旅」と始まり、「蜃気楼」「黄昏」「陽炎」などの言葉を経て、「Let me run for today」と終わる。
 夏の終わり、今日の終わりに唄いながら、明日のためではなく今日のために走ろうとする。
 彼が登場するまで存在した音楽のジャンルを超え、新しい流れを発生させた歌は、思いがけなくも(クウ)を孕んでいる。
 は切なさとなって、圧倒的に乱舞する音たちを操っている。

 彼は唄うべき場で、唄うべくして、唄うべき歌を、希なる〈唄う資格者〉として唄ってくれた。
 死と生が交差するエネルギーで熱唱された歌は確かに、死者の魂へも生者の魂へも届いた。
 ありがとう!桑田佳祐

〈束芋氏の作品〉
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2011
09.12

シンポジウムが終わりました(2) ─心へ響いてくるものには皆、言葉あり、文字あり─

 思いがけないご縁があり、特製のスピーカーやアンプが本堂へ入りました。
 専門家の方が来て調整されたその音は、「ステージを前にしても、かくや」と思えるほど艶々しく、朗々と伸び、波動が腹へ届きます。
 この響きを皆さんに感じていただく機会を設けられないかと考えています。
 まずは、例祭直後のお茶の時間に鳴らそうかと……。

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2011
09.12

シンポジウムが終わりました ─心へ響いてくるものには皆、言葉あり、文字あり─

 9月10日、予定通りシンポジウム[シンポジウム『文字を書く心・文字を唱える心』〕が終わりました。
 書道家高橋香温先生の被災体験と、奇跡的に発見された作品「ひまわり」に関する思いをお聴きし、次に、住職が文字と言葉についてお話ししました。
 高橋先生の講話は「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その89)─津波に呑まれた書道家高橋香温度氏の体験談と、生き残った作品「ひまわり」のこと─」に書きました。
 ひき続き、若干、密教行者の立場から「文字と言葉」について書いておきます。

 お大師様は説かれました。
五大(ゴダイ)にみな響(ヒビキ)あり
 十界(ジッカイ)に言語を具す
 六塵(ロクジン)ことごとく文字なり
 法身(ホッシン)はこれ実相(ジッソウ)なり」
(この世を成り立たせている地・水・火・風・空には皆、響きが具わっている。
 地獄界から如来界まで、すべての世界には言葉が具わっている。
 目・耳・鼻・舌・皮膚・意識の対象になるものは、人間にとって全て文字である。
 真実世界は、響き、言葉、文字として、あるがままに存在している)

 私たちの心は本来、すべてのものと通じ合い「響く」感じを得ます。
 出口のない地獄界でも、あるいは争いの修羅界でも、あるいは思いやりに満ちた菩薩(ボサツ)界でも、そうした感応は言葉としてとらえられます。
 見ても聞いても、そこには文字があります。
 見れば、「人」や「ネコ」と文字で認識し、聞けば、「心地よかった」り「うるさかった」りしますが、すべて文字として心へ通じます。
 ボウッとしているだけでは、すべてが、走る電車の窓から目の前を流れ去る光景のようなもので、心へ響いてきません。
「美しい」「嬉しい」「楽しい」「哀しい」「可愛い」「気の毒」などと、心が震えません。
 楽であろうが辛かろうが、心を瑞々しく清らかにして生きていれば、あらゆるものは響きや言葉や文字として立ち顕れ、私たちは真実世界を感じ取ることができるのです。
 
 私たちは言葉を持った唯一の生きものです。
 何もかもが言葉として心へ通じてきます。
 絵画であれ、音楽であれ、書であれ、それは同じです。
 言葉にならないほどの感動も、心で熟成してゆく先には、「勇気にうたれた」「リズムに胸が躍った」「淋しさが胸に沁みた」など、〈言葉を伴った記憶〉が待っています。
 今は〈芸術の秋〉です。
 お大師様の「五大(ゴダイ)にみな響(ヒビキ)あり」を頭の片隅にでも保存しておき、心を澄ませば、足元のコオロギにも、震えて咲くコスモスにも、何かを感じとれることでしょう。
 
(当日は、最後に、スクリーンへ「はだかにて 生れてきたに 何不足」や「南無地獄大菩薩」などの文字、そして七夕飾りなどの写真を観ていただき、アルビノーニやエルビン・ジョーンズの音楽を観賞していただきました)

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2011
09.11

歓声の上がる本堂

 今年最後の例祭護摩法のが高々と昇り、このところ世間で続く災厄の気配を吹き飛ばす力強い信徒さんたちの読経に支えられ、締めくくりにふさわしく荘厳なものとなりました。
 修法の後は、皆さんがご本尊様のためにとお供えくださったたお菓子などを一緒にいただき、いつにも増してにぎやかで、和気あいあいでした。
 そこへ供養のご縁を求める方々が飛び入りでご来山され、お茶に加わりました。
 さらに隠形流(オンギョウリュウ)居合行者のAさんが寺子屋基金と非売品の特製カレンダーを持参され、カレンダーの図案があまりに鮮烈で全員、感嘆の声を上げました。
 笑顔と笑い声で満たされた狭い本堂は正に極楽。
 み仏の徳が顕れた密厳国土(ミツゴンコクド)は、ありありと目の前に広がっています。
 
 今日の例祭でお渡しした御守の経文は『法句経(ホックキョウ)』の

「麋鹿(ミロク…鹿)は野に依(ヨ)り、鳥は虚空に依(ヨ)り、法はその報に帰し、眞人(シンニン)は滅に帰す」

でした。
 鹿は野に遊び、鳥は空を飛びます。
 同じように、教えに生きる人はその報いとしての良き人生を生き、まことの道を行く人は揺るがぬ安心の境地へ入ります。
 人の心のありようによって、生きる世界が決まるのです。
 因果応報の理をもう一度深く確認し、揺るがぬ〈信〉を持って明るい来年を迎えたいものです。
(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
09.11

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その89)─津波に呑まれた書道家高橋香温度氏の体験談と、生き残った作品「ひまわり」のこと─

 9月10日のシンポジウムシンポジウム文字を書く心・文字を唱える心』において、名取市閖上津波に遭った高橋温子香温)氏の体験談をお聴きしました。
 震災からちょうど半年になる今日を迎え、以下、記しておきます。

 私は津波で家族を5人失いました。
 法楽寺と縁になったのは、知人が弟のお骨を預かってくださるお寺として紹介してくれたからです。

 私は家族を捜して「空港ボウル」の遺体置き場へ通いました。
 柩に入られて顔が見える状態の遺体がレーンの上いっぱいに並べられており、そこに家族がいないかどうか、すべて見て回るのです。
 どうにか家族4人が見つかり、書道教室も始められそうになった頃、小学校に遺品が並べられていると聞いてかけつけたところ、自分の作品「ひまわり」と再会しました。
 しばらく筆を持っていなかったのですが、
「ああ、作品も生きていたのだな」
と打たれ、
「何か書かなければいけない」
と思えました。
 あの時が、自分の書の転換期になったと思います。

 津波に襲われた日は、書道教室を開く自宅の二階にいました。
 立っていられないほどの酷い揺れでした。
 私は、二階にあった4本足の古いステレオの足が一本折れてしまったので、どうしたら良いか考えたりしており、家族の誰もが地震のダメージで動けず、「避難しよう」とは思いませんでした。
 ラジオがなくて津波が迫っていることを知らなかったし、避難の誘導もありませんでした。
 そのうちに突然、二階の窓から、正面にあるお寺の本堂がスライドするのが見え、驚きました。
 すぐに6メートルほどの真っ黒く、本当に真っ黒い壁のような津波がやってきて、持ち上げられた私は天井に頭をぶつけました。
 窓枠の外へ顔を出し、口と鼻でようやく息をしました。
 しばらくして水位が下がり、床に足をつきました。
 窓ガラスすべてがなくなった窓から見えた光景は、戦争で焼け野原になるとはこういうことかと思わせるほど、何もかもが破壊され尽くしていました。

 まず、
「私がここにいることを誰かに知らせなくてはいけない」
と思い、公民館の方に人影があったので手を振ったら伝わりました。
 そこで
「自分一人ではない」
と安堵感を覚えました。
 その夜は書道教室で使っているテーブルの上にいました。
 暗くなってきた頃、ヘリコプターが飛来し、近くの家ではプロパンガスに引火して火柱が上がりました。
 白いものが落ちてきたなと思ったら雪でした。
「早く明るくならないかな」
しか考えられないで一夜を過ごしました。
 翌朝明るくなり始めた頃、イヌを連れて散歩しているらしい親子を見かけ、声をかけました。
 母親らしい人に、「下へ降りられないですか?」と言われ、水があるので降りられないと思っていたけれど、何とか階段を伝って外へ出ました。
 そして、
「誰かと一緒にいなければならない」
と思いました。

 とにかく、名取りの堤防添いに西へ向かいました。
 すでにカメラやビデオを持った人たちがあちこちで撮影しており、明らかに〈見物人〉であろう人びともいました。
 誰かの家の中で亡くなっている姿を見ては合掌しつつ歩きましたが、私と同じような人から「見ないで歩いて行くしかないよ」と言われました。
 車に乗せてくださる方があり、市役所へ連れて行ってもらいました。
 今になって振り返ってみると、とにかく自分のことで精一杯、家族がどうなったかと考える余裕すらありませんでした。
 3日目くらいから救援物資が届き始め、壁に張り出される生存者の名前に書道教室の生徒さんやご近所さんの名前を見つけては安心しました。
 そのうち、ボードにあるメッセージが目に飛び込んできました。
「~君、至急、伝言ください」
 捜されている相手は私の弟でした。
 ようやく我に返り、遺体安置所回りの日々が始まりました。
 最初に見つかったのが弟、そして、父、母、妹、どうしても下の妹が見つかりませんでした。
 やがて4月中旬になり、作品「ひまわり」を見つけました。
 そのことを知った書道教室の生徒さんから
「先生、誰かに教えたらどうですか。見つかったのはとても凄いことですよ」
と言われ、ハッとしました。
「まだ行方不明のご家族を捜している方が見たら安心するかな」
 こう考え、震災前の予定で一緒に展示会を行うことになっていたカメラマンの作品と共に、展示することにしました。
 そして、作品はマスコミの注目するところとなり、震災の象徴として一人歩きを始めました。

 瓦礫しか残っていない故郷の光景の前では涙が出ます。
 しかし、作品という生きものが戻ってきてくれたことは、大きな励みになっています。
 生活物資から書道用具まで何もかもお世話になり、私はこれまでたくさんの方々のおかげで今を生きていますが、まだまだ何のご恩返しもできそうにありません。
 しかし、「たまたま二階にいたから生きた」私がこうしてお話を申し上げることも小さなご恩返しの一つになればありがたいことです。
 そして、全てをなくした自分に「書」があったことにはとても感謝しており、これまでの自分とは違った新たな書道家として再出発し、ご恩返しをしたいと願っています。
 とにかく
閖上へ戻りたい」
し、
閖上で書をやりたい」
のです。
 家族の遺体が見つかった頃は「頑張ろう」という空気が満ちていました。
 しかし、今はもう、明らかに停滞した雰囲気で、ふるさと閖上がこれからどうなってゆくのかわかりません。
 マスコミの取材で
「自分だけが生き残り、罪悪感はなかったですか?」
と問われ、
「罪悪感があったなら、私は生きていられません」
と答えました。
 すでに〈思いやり〉は人びとの心から薄れつつあるのかと悲しくなります。
 たまたま生きている自分です。
 震災後には確かにあったお互いを思いやる気持を書にしたいのです。
 色あせないうちに、ふるさとの潮風、カモメ、学校、友達、お寺、神社などを書にしたいのです。
 そこから本当の自分が再スタートをきれるのではないかと思います。
 今や、生きていた作品「ひまわり」は私の手を離れつつある〈震災のシンボル〉です。
 しかし、私は、この作品と共に、ここから再スタートをしたいのです。


 時にはこみ上げてくる涙を抑えきれなくなりながらのお話は、体験者の、そして伝えることを使命とする人の真実がこもっていました。
 辛い使命でしょうが、大切なものが薄れないようにと祈りつつ創る作品が、やがては求道者の弟子たちのように創作者の手を離れ、たくさんの方々にとって人生の真実を生きる糧となるよう願ってやみません。



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2011
09.10

住職の蓄財

 機関誌『法楽』の熱心な読者Aさんから教えていただきました。
住職は、寄進者を顕彰する碑盤の最初に僧侶名があることについて問題視しておられましたが、こんなこともあるんですよ。………」
 Aさんの体験談によると、お寺で建物を造ることにした際、住職が自分でいくら負担すると言わずに檀家さんにばかり頼ろうとしたため、檀家さんが皆、怒ってしまいました。
 そこで、役員さんから苦情を言われた住職が率先してまとまったお金を出すことにして初めて、頭割りのお布施集めが始まったそうです。

 こういう話をお聞きするとますます解らなくなります。
 そもそも、寺院をどうするかという問題について住職がお金を出すとか出さないとかといった議論になること自体がおかしな話です。
 なぜなら、出家得度するとは〈本来無一物に還る〉ことであって、僧侶は基本的に私有の財を持たない存在だからです。
(むろん、生きてゆくため、あるいは家族を養うために必要な範囲のものは別です)
 まして住職は奉職している寺院へすべてをかけているので、何かをするからといってそのために出す自分の財など、どこにもあるはずがないのです。

 寺院に勤めながら家族を養っている僧侶ならいざしらず、境内地の建物に住んでいる住職が積極的に自分名義の蓄財に励み大金を所有するなど、本来あってはならないことだと考えます。
 しかし、利殖を勧めるセールスの声が毎日のように受話器の向こうから聞こえてきます。
 修行道場を始めた頃は何かの間違いだろうと思い「こちらはお寺なんですが」と言って断ろうとしていましたが、お寺であることをわかってかけてきているのだと気づきました。
 そこで「こちらは修行寺なので」と言うことにしました。
 電話口の向こうで若い方が「えっお寺で修行しているんですか!」とびっくりされ、それを聞いた私はもっとびっくりしてしまい、開いた口が塞がらなかった記憶もあります。
 ───この国は一体どうなっていることやら。

(この文章は平成16年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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