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2011
10.31

11月の守本尊様

 11月は、立冬(リットウ)と小雪(ショウセツ)の霜月(シモツキ…11月8日より12月6日まで)です。
 11月は(イ)の月なので、守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様です。

21080819 014

 阿弥陀如来様は、『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。
 そのお力により、正しく念ずるならば、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。
 ご供養し、ご守護いただき、文化の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

阿弥陀如来様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた阿弥陀如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)〉

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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2011
10.31

11月の真言

 11月の守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あみりたていせい から うん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。


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2011
10.31

11月の聖悟 ─精誠、そして人間の抜け殻─

 お大師様が若き日の自分を振り返った言葉です。

「性薫(セイクン…本来そなわっている仏性)われを勧(スス)めて還源(ゲンゲン…根本・仏界)を思いとなす。
 経路(ケイロ)いまだ知らずして、岐(チマタ…分かれ道)に臨んでいくたびか泣く。
 精誠(セイセイ)に感あって、この秘門(ヒモン…大日経の説く密教)を得たり。
 文に臨んで心(ココロ)昏(クラ…よくわかるほど知力がはたらかないこと)し。
 赤県(セキケン…唐の国)を尋ねんことを願う。
 人の願いに天順いて大唐(ダイトウ)に入ることを得たり」



 役人となって国家の運営に携わるコースを歩んでいたお大師様は、社会的なふるまいではなく、心そのもののありようを探求しないではいられなくなりました。
 自分に具わっている仏性から「ここを開きなさい」と呼ばれたのです。
 そして、釈尊と同じく一介の行者となりました。
 しかし、真理を求めて研鑽・修行し、ありとあらゆる宗教宗派の門を叩いても悟りの境地へ向かう道筋が見つからず、泣くような思いで過ごしました。
「分かれ道に立っては、どちらへ行くべきかわからず、幾度も泣いた」というくだりには探求者のあまりに率直な思いがこめられていて、純粋さと迫力に圧倒されます。
 願をかけて祈った結果、『大日経』のありかが夢の中で示され、ついに、大乗仏教最奥の経典と巡り会います。
 まごころ込めた祈りがみ仏に通じ、秘密の教えがもたらされました。
 ところが、お大師様ほどの能力があっても、密教の経典は読んだだけでは用いようがわかりません。
 どうしても正統な伝授が必要です。
 それには唐の国を尋ねる以外、方法はなく、唐へ向かえば難破する確率は2分の1と言われ、遣唐使になると、日本を代表するので名誉ではあるが死を覚悟せねばならないので、送別会で泣く役人もいました。
 しかし、お大師様は迷わず船に乗り、ついに日本へ密教をもたらしました。

 こうしたことを思い出し、うーむと唸りながら運転していたら、ラジオで作家森村誠一氏の言葉を耳にしました。
笹沢佐保が言っていました。
『元作家というものはない。
 政治家なら元衆議院議員などと呼ばれても、作家は書くのをやめれば元作家などと呼ばれはしないし、もはや人間ですらない。
 人間の抜け殻である』
 まあ、ワーカホリックなのでしょうが、本当にそうですね。
 書かないではいられないのですよ」

「仕事中毒」や「仕事依存症」と訳される悪名高いワーカホリックですが、自分を捧げ尽くす姿勢で仕事に励む人はみな、必然的にこうなりがちです。
 時代が変われば主流となる人生観も変わります。
 しかし、ガンジーやマザー・テレサといった人道的活動を行った人びと、あるいは作家や画家や音楽家や研究者など、もはや聖なる次元とでも言うべきところへ踏み込む人びとを「中毒」や「症」で表現することには抵抗があります。
 お大師様の末代の弟子である私は、祈りつつ弥勒菩薩(ミロクボサツ)のもとへ旅立たれたお姿を理想としています。
 そういえば、「元作家」もありませんが、「元僧侶」もありません。
 作家が書かないではいられないのと同じく、祈らねば、お伝えするために表現せねば、いられないのです。
 死ぬまで、お大師様の「精誠」に生きたいと願っています。

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2011
10.30

四つの安楽

 今年最初の講座で最初にとり上げる『法句経』第三十一品「象の教え」は、まっとうに生きる人へみ仏から与えられる4つの安楽を説いています。

1 環境が良いこと
 必ずしも両親の揃った裕福な家に育つことではありません。
 吉永小百合と橋幸夫の唄う『寒い朝』はこう始まっています。
「北風吹き抜く寒い朝も心一つで暖かくなる」
 環境を、自分が成長するための糧を与えてくれるありがたい場とするか。
 それとも、自分を潰す恐ろしい場とするか。
 それを決めるのに自分の心のありようは大きくかかわっています。
 感謝を忘れない人にとっては、極楽も地獄もかけがえのない価値ある場になるのです。
 白隠禅師は「南無地獄大菩薩」と書きました。

2 柔和な人と伴にあること
 一切のわだかまりがなくそばにいて心暖かくなるような人が伴侶であったり友人であったり隣人であったりすれば、毎日の暮らしがどんなにか心豊かになることでしょうか。
 それを得るためには、まず自分がそういう人になることです。

3 いのちの終わり近くになって福徳の報いがあること
 善き行いの人は、心に満足感をもって人生の最期を迎えられます。
 それは決して〈安楽な死に方〉を意味するだけではありません。
 いかなるかたちであろうと、死はまぎれもなく過酷です。
 かたちではなく、心に自分なりの〈おさまり〉を保ち続けられるかどうかのみが問題です。
 その〈おさまり〉がいのちの終わり近くでも揺るがないことこそ、人の道をまっとうに歩む福徳ある人へみ仏からもたらされる最高の報いです。

4 命の終わり近くになって悪を犯さなかった安心のあること
 人は誰しも失敗をしますが、きちっとけじめをつけておけば後に引きずらず、貴重な人生の肥やしにもなります。
法句経』は、はっきりと説いています。
「もし悪を為しても懺悔し二度とくり返さなければ、やがては人を導くようにもなれる。
 それは、月にかかっていた雲が晴れて、元から照っていた霊光が輝き出すようなものである」
 ごまかしや逃げや嘘の人生を送っていればどうなるか―――。
 残念で恐ろしいことではありませんか。

 年頭の勉強会でこれを学べるのは、感謝感謝です。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
10.30

11月の行事予定 ─例祭・書道教室・寺子屋・法話・お焚きあげ・居合道場─

 11月の行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、み仏と祖霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭] 2011/11/6(日)午前10:00~午前11:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。

書道教室 2011/11/6(日)午後2:00~午後3:30
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋温香(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
 基本からの指導で、さまざまな題材へ挑戦します。
 毎月第一日曜日午後2時から開催します。

[法話と対話「生活と仏法について」第七回] 2011/11/9(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
・ご志納金 1000円(未成年者500円) これは目安であって自由です。被災された方は無料です。

寺子屋『法楽館』第二十一回] 2011/11/12(土)午後2:00~午後3:30
 ドキュメンタリー映画『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』を観賞し、ディスカッションも行います。
 以下は事務局発行のパンレットからの抜粋です。

 東日本大震災の復興期を生きる「こども・家族・教師・地域の人たち」の6月~8月を、短篇映画『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』としてまとめました。
 震災後のこどもたちの成長と、その磁場である学校、保護者や地域の人たちのくらしとコミュニティづくりなど、困難のさなかにある人びとの〈今〉を丹念に記録しています。
○教室や校庭には、春から夏へ向かうこどもたちの「いのち」があふれています。
○3年生のクラスでは「よみがえれ石巻」という授業をしています。
 自分たちが住んでいた南浜町をどんな町にしたいのか?
 次の津波に備えるにはどうすればよいのか?
○おとなたちも「復興まちづくり」の議論をしています。
 市民と行政の意見交換会。
○地震と津波におそわれた3月11日、人はどう行動したのか?
 門脇小学校の児童、保護者、教師、地域(地区)の人たちが語ります。
「わたしは、大きくなったら、このことを忘れないで、自分の子どもに教えたいと思います。わたしの将来の家族の記憶にするために」(4年生女子)
「おとなもこどもも、このことを繰り返し語ることが大事。つらいけど、ことばにすることが大切」(4年生児童の保護者)
○津波に流されてしまった住居跡で休日を過ごす家族。
「何もかも失ったけど、自分の家のあった場所で震災前のようにお茶したり、歌うたったりするのがいいっちゃ」

 パネリストとして、映画『宮城からの報告~こども・学校・地域』製作委員会事務局の佐藤進氏をお迎えし、お話しいただきます。
「知って共感する」ことからすべては始まります。
 ぜひ、この貴重な機会を生かしてください。
・場  所  大師山法楽寺
・パネリスト 映画『宮城からの報告~こども・学校・地域』製作委員会事務局の佐藤進氏        
・ご志納金  1000円(未成年者500円・被災された方は無料です)
・送迎申込  午後1時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へお迎えの車がまいります。乗車希望の方は前日までにご連絡下さい。
 
[第二例祭] 2011/11/19(土)午後2:00~午後3:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

[音楽鑑賞会] 2011/11/19(土)午後4:00~午後6:00
 講堂の音響装置で好きな曲を聴き、感想なども述べ合いましょう。
 お好きな曲のCDを持ってご参加ください。
 もちろん手ぶらでも結構です。
 スピーカーの制作者浅見薫先生のお話もあります。
 途中参加、途中退席も構いませんので、お気軽におでかけください。
 緑茶はありますが、飲みものは各自、持参してください。
・場  所  大師山法楽寺
・講  話  音響エンジニア浅見薫氏
・ご志納金  無料

[法話と対話「生活と仏法について」第八回] 2011/11/23(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
・ご志納金 1000円(未成年者500円) これは目安であって自由です。被災者された方は無料です。

[お焚きあげ] 2011/11/26(土)午前10:00
 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2011/11/28(月)午前9:00~
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]
 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

20111028石巻



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2011
10.29

『大日経』が説く心のありさま六十景 その55 ─剃刀心(タイトウシン)─

 髪を剃り、行者となったことに安心し、慢心する心です。
大日経』は説きます。

「ただかくのごとく剃除(タイジョ)する法に依止(エジ)す」


(ただ出家得度したという事実にすがり、とどまっている)

 娑婆を離れた生活に入れば煩悩(ボンノウ)がなくなるわけではありません。
 むしろ、煩悩(ボンノウ)そのものとの格闘が始められます。
 煩悩は陽炎のように実体を持ちませんが、考えも行動も言葉も支配する力を持っています。
 それは、不意に顔を出します。
 そうかと気づいた時はもう、負けています。
 よく、〈寺に入る〉とは〈娑婆から逃れる〉ことだから、きっと何の心配もなくなり救われるのだろうと勘違いされますが、事実は、そうしたイメージとは正反対です。
 
 大震災で被災した方々から何度も何度もお聞きしました。
「これまでは無我夢中だったけど、これからどうしたら良いか考えるといたたまれません」
 避難所などで必死に生き延びようとしていた頃はいのちにすがりつく思い一つで過ごしてきたけれども、仮設住宅などに入り、住んで食べられるようになってみると、自分と向き合うばかりで、何をどうして生きたら良いか、皆目わからないのです。

 確かに、出家得度には、「自分を清め、生き直し、まともな僧侶になって社会へ恩返しをする」という目標も、お次第という修行手順もあります。
 しかし、何をやってもそれまで気づかなかった〈自分〉が出てきて当惑させられます。
 この部分に鈍感ではならないというのが「剃刀心」の教えです。
「(剃刀心は)菩薩(ボサツ)より見れば、最悪なり」
 この一言が袈裟衣に安住しようとする甘えをうち砕きます。
 まず自らを清め、すべての人びとと共に苦を脱するための根本的修行を行うために準備をしたばかりなのに、もうゴールに着いたような気持になるのは最悪であると戒めています。

 歩み始めて辛くなると、娑婆へ逃げたくなります。
 皆さんから「和尚さん」と言われて、何か安心な気持になったりもします。
 とり澄ましたり、あたりを睥睨(ヘイゲイ…睨み威張ること)したりといった横柄な態度が出てきたりもします。
 しかし、いかなる場合も飛び込む先は経典しかありません。
 経典と師は怖ろしい鏡です。
 経典と師に対面すると、否応なく自分の姿が突きつけられます。
 だから、自分を持ち上げてくれる娑婆の人びととのふれ合いに救いを求め、一生懸命になる行者もでます。
 そして出家者であるかどうかわからないほど親しまれ、「おもしろいお坊さん」と人気者になったりもします。
 袈裟衣にすがって高慢になるのも堕落、袈裟衣をまとった娑婆の人になるのも堕落です。

 出家得度した行者に必要なのは、ただひたすら菩薩(ボサツ)をめざすことのみです。
 行者は、修行一筋に生きられるという点では娑婆の方々より恵まれていますが、それだけに、本もの、プロにならねばならない責務も重大です。
 生活の糧を得るための汗を流さず、お布施で生かされている事実のありがたさと、凄まじい恐ろしさをよくよく考えつつ生きれば、「剃刀心」はなくなるはずです。
 
 さて、この教えは、寺院の中にいる人のみに適用されるものではないこともチェックしておきましょう。
 仏法を学び、仏法を導きの灯火として生きようと決心した方々すべてにあてはまるのです。
 たとえばお詣りし、自他のために何か善き願いを祈ったならば、その時の清らかな心を保ってこそ、お詣りは本当に生きることでしょう。
 ましてや生前戒名を受けられた方々は、そこで安心してしまわず、〈名前〉と一緒に受けた〈戒め〉を守ってこそ、〈真にみ仏から戒名を授かった者〉となることを忘れないようにしていただきたいものです。
 他のためになりたいという思いをつらぬく菩薩(ボサツ)として生きる真実に、出家と娑婆との違いはないのです。

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2011
10.28

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その31)─軽々しくなく、黙々と─

 江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教・童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「懈怠(ケダイ)は食(ショク)を急ぐ  
痩(ヤ)せたる猿の菓(コノミ)を貪る如(ゴト)し
勇(イサ)む者は必ず危(アヤウ)き有(ア)り  
夏の虫の火に入るが如(ゴト)し
鈍き者は又(マタ)過(アヤマ)ち無し  
春の鳥の林に遊ぶが如(ゴト)し」


(怠け者は早く食事をしたがる
 まるで空腹の猿が木の実に貪りつくように
 あまりに気の逸(ハヤ)る者は危険な場面を招きやすい
 明かりを見つけて火に飛び込む夏の虫のように
 やや緩慢に動く者のほうが過ち難い
 春に飛ぶ鳥がのんびりと林で遊ぶように」

1 食を忘れるように勉強し、仕事をしましょう。

 いやいやながらやっているものごとには集中できず、「早くお昼にならないかなあ」などと、よけいなことばかり頭に浮かびます。
 これでは、貴重な人生の時間をムダに過ごしているだけで、知識も能力もさっぱり身につきません。
 
2 ものごとにあたっては、あまり気持をたかぶらせず、おちついて考え、行動しましょう。

 競馬で勝つ馬には絶対的な条件があります。
 それは、途中でムキにならないことです。
 闘争心の強い馬などは、他の馬が先に行こうとすると負けずに前へ出ようとして力んだり、暴走したりします。
 そこでペース配分が崩れると、最後の直線でふんばる余力がなくなり、勝てません。
 上手な騎手は、途中をいかにリラックスした状態で走らせるかに気をくばり、勝負所で全力を発揮させます。
 
 忠臣蔵の大石内蔵助は、吉良上野介を討とうと決めてから、結構のんびり過ごしたとされています。
 それには、敵に油断させたり、密かに情報収集したりするだけでなく、若い志士が緊張のあまり暴走することを防ぐという意味もあったのではないでしょうか。
 横綱白鵬関は、昭和初期の大横綱双葉山を目標としており、たまに「木鶏(モッケイ)」を口にします。
 双葉山が70連勝という大記録のかかった勝負に敗れた時、普段とまったく変わらない表情と仕草で引き上げて周囲を驚かせましたが、師と仰ぐ人へ一通の電報を送ったことは、さらに周囲を唸らせました。
「イマダ モッケイタリエズ フタバ」 (未だ木鶏たり得ず 双葉)
 さて、有名な木鶏(モッケイ)の故事です。

 王様から預かった闘鶏(トウケイ…闘牛のように闘う鳥)を訓練していた名人は、十日後に王様から尋ねられました。
「どうだろう。もう試合に出せるかね」
 答えます。
「まだまだです。虚勢を張っています」
 さらに十日たった次の機会には、こう答えます。
「まだまだです。相手の動きに心が動かされます」
 さらに十日たって、ようやく名人は参戦を決めます。
「もう大丈夫です。まるで木彫の鳥のように、相手にかかわらず堂々としています。対戦する相手は気力をなくして逃げ出すことでしょう」

 いわゆる「睨(ニラ)み倒し」ですが、ここまで行かなくても、自分でなすべきことをなし尽し自分へ恥じない状態であれば、自然に自信が生まれるものです。
 そうして心に落ち着きがあれば、ムキにならず、慌てることもなくなるでしょう。
 ちなみに、横綱白鵬関の動きは決して素早そうには見えませんが、淀みなく、すんなり、ふんわりと流れるように自分で闘いやすい体勢へ持ち込みます。
 ムダな力みやムダな動きがなく、敗れる対戦相手は恐らく、「自分がじたばたしているうちに、いつしか負けていた」と思うのではないでしょうか。

 今は自分を表現しようと競う時代です。
 自分の感情も考えも、どんどん表へ出そうとし、相手にも「出してくれなければわからない」と迫ります。
 しかし、自分の未熟さが知られたり、未熟な自分をさらけ出したりしては恥ずかしいと思わなくなれば、心の底が浅いままになりかねません。
 人間として、あるいは何か決めた道を歩む者として、力を蓄え、磨き、鍛えつつある過程は〈黙々と〉たどられるはずです。
 肝腎なことは黙々とやりましょう。
 また、何かを黙々とやっている人の徳にうたれる感性を失わないようにしましょう。
 そうすれば「飛んで火に入る夏の虫」といった浅はかな行動はしないで済むことでしょう。
 

〈いよいよ「四国八十八霊場巡り」の道場がつくられ始めました〉
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2011
10.27

『大日経』が説く心のありさま六十景 その54 ─塩心(エンシン)─

 修行の邪魔となるものが兆し勢力を増している心です。
大日経』は説きます。

「思念(シネン)するところ、彼(カレ)また思念(シネン)を増加す」


(何かを心にとめると、心にとまったものがどんどん心を占めるようになる)
 が水や食べものに加えられると、辛さや味が増します。
 また、は、ほんの少しでも「あっ、が入っている」と感じられる存在感があって調理の決め手にもなり、失敗の原因にすらなり得ます。
 そのように、心へ入ったものがどんどん存在感を増していつしか主役に近いものになっていたりすることには大きな危険性があります。

 釈尊は『法句経(ホックキョウ)』で説かれました。

「務めに非ざれば学ぶことなかれ。
 これ務めなればよろしく行ずべし。
 すでに念ずべきを知らば、則ち漏(ロ…心から漏れ出る煩悩)は滅することを得」


(仏道修行として与えられたものでなければ深く学んではならない。
 与えられた修行をしっかり実践せよ。
 心へ刻み心に保つべきことが何であるかを知れば、煩悩を滅し得る)

 釈尊のおられた時代のインドでは、ありとあらゆる哲学的考察がなされ、思想や主張が競われていました。
 社会的立場を離れて一介の行者となった釈尊は、高位高官への道を捨てて野山へ身を投じた若き日のお大師様と同じく、すべてのものを学び、考え、よって立つべき真理真実を選びつかもうとしておられたことでしょう。
 そして真理を体得された後は、人間が思念し得る根本的原理が明らかに分類され、やがて弟子たちへ信ずべきものとそうでないものとをきちんと分けて指導されたことでしょう。
 真理を伝え、それが本当に理解納得されたならば、今度はそれが頭だけの範囲でなく、心身の血肉となるよう瞑想によって魂へとり入れる訓練をさせました。
 教えは実践されてこそ、自他を救う力となるからです。
 仏道の修行は、あくまでも「聞→思→慧」です。
 まず正しく知り、それを自分自身の頭で咀嚼し、その上でイメージトレーニングを重ねるのです。

 釈尊やお大師様レベルの方々ですら、頭に思い浮かぶことごとの中から〈保つべき根本的真理〉を見つけることは困難を極めました。
 しかし、超人方はそれをつかまれました。
 凡夫と聖者の違いは、レベルを飛躍的に超越して行く能力にあります。
 私たち凡夫が自分だけで考えれば、せいぜいが自分のレベルで何かを発見するしかありません。
 自分のレベルの世界で悩み苦しみ壁に突き当たっているのなら、それを超えたレベルへステップアップするよう努力するのが当然ではないでしょうか。
 そこに、高いレベルから受ける「聞」のかけがえのない価値があります。
 聖者がつかんだ宝ものの光によって目を覚まさせられるのです。

 しかし、修行しながら生きているうちに、見聞きするさまざまなものへ心がとまり、関心が湧きます。
 そこで妙なものが印象に深く刻まれ、その波動が増幅してくるようになると「念ずべき」ものへ悪影響が出かねません。
 大日如来は「心」としてそれを注意されました。
 インターネットの世界ではこう考えられています。
「まったく新しいアイディアなどというものはない。
 いかなるアイディアもすでに人間の頭で何千回も考えられている。
 しかし、初めて世に出たアイディアというものはある」
 初めて世に出した人がインターネットの世界における成功者になるのと同じく、聖者もまた、人間の頭に思い浮かぶ真理の中から最も深く最も高いレベルのものを選び出して示す存在です。
 釈尊が「私も過去の聖者と同じ悟りを得た」と述懐しておられるのはその意味です。
 せっかく人類を代表して示された教えがある以上、私たち凡夫は縁となって示された教えを至心に学び、よく考え、そこで塩心に惑わされず、瞑想によって真の智慧の獲得をめざしたいものです。

 ちなみに、棋士の山崎隆之七段は、王座戦に敗れた後で言いました。

「局面の鮮明度が薄い。
 そこが羽生先生との決定的な違いです。
 頭の中の盤面の鮮明度は、将棋のことを頭だけで考えている時間が多いほど濃くなるものだと思います。
 盤の前だけで将棋のことを考えるんじゃなくて、トイレ行っているときも、風呂入っているときも、とにかくいつも将棋のことを頭の中で考えていると、盤が頭に残る度合い、頭の中に盤が刻みこまれる度合いが違ってくるんでしょう。
 結局、努力の問題になるんですけど……」(『どうして羽生さんだけが、そんなに強いんですか?』より)


 トイレと風呂は、私にとっても貴重な「思」の道場です。
 お勧めですよ。
 もっとも、何となく気が引けないわけでもないのですが……。

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2011
10.26

あの世はあるかと問うこと

 ブログ『私たちはなぜ、極楽へ行くのか 導師はなぜ、引導を渡すのか』は、かつてないほど多くの方々の目にとまったようです。
 ありがたいご意見もいただきました。
 思うに、仏教が日本に深く根づいたのは、私たちに『徒然草』を好む感性があるからではないでしょうか。
 高校を卒業した方なら誰でも知っている兼好法師の名作は、その本段がこう締めくくられています。

「八つになりし年、父に問ひて云(イ)はく、
『仏は如何(イカ)なるものにか候(ソウロ)ふらん』と云(イ)ふ。
 父が云(イ)はく、『仏には、人の成りたるなり』と。
 また問ふ、『人は何として仏には成り候(ソウロ)ふやらん』と。
 父また、『仏の教によりて成るなり』と答ふ。
 また問ふ、『教へ候(ソウラ)ひける仏をば、何が教へ候(ソウラ)ひける』と。
 また答ふ、『それもまた、先の仏の教によりて成り給(タマ)ふなり』と。
 また問ふ、『その教へ始め候(ソウラ)ひける、第一の仏は、如何(イカ)なる仏にか候(ソウラ)ひける』と云(イ)ふ時、父、『空よりや降りけん。土よりや湧きけん』と言ひて笑ふ。
『問ひ詰められて、え答へずなり侍(ハベ)りつ』と、諸人に語りて興じき」


(8才になった私は父へ問いました。
「仏とはどういうものですか?」
 父は答えました。
「仏とは、人間がなったものだ」
 また、問いました。
「人間はどうして仏になったのですか?」
 父は答えました。
「仏の教えに従って仏となったのだ」
 また、問いました。
「人へ教える仏には、誰が教えたのですか?]
 父は答えました。
「先に仏となった仏の教えに従って仏になられたのだ」
 また、問いました。
「では、最初に教えを説かれた第一の仏とはどういう方なのですか?」
 父は笑って答えました。
「空から降りてこられたのか、それとも地中から湧き出されたものなのか……」
 そして、愉快そうに周囲の人びとへ語ったものです。
「息子に問い詰められて、とうとう答え切れなかったよ」)

 創意工夫の姿勢に富み、俳句、茶道、日本刀、柔道など、何ごとにせよ精緻なレベルまで行かねば気が済まない私たちであればこそ、技術立国が可能だったのでしょう。
 仏教もまた、小乗仏教大乗仏教密教と、インドで重層的に発達した膨大な体系が北はチベット、東は日本で精華を見せています。

 そもそも、疑問に発しない宗教はなく、疑問を持たずに敬虔な信徒になる人もいません。
「自分はなぜ、生きているのか?」
「自分はこの先、どう生きれば良いのか?」
 釈尊もまた、自分自身の心や境遇や周囲のできごとに根本的な疑問を持ち、どこからも納得が得られなかったからこそ、すべてを捨てて真理・真実を求める行者になられました。
 そして、ありとあらゆる疑問をどこまでも突きつめた結果、〈過去の聖者と同じように〉真理を悟られました。
 きっとそこには、すべての疑問に対する答があったことでしょう。
 と言うよりも、ある疑問の発せられているレベルを超えてしまうと、その疑問があまり意味や価値を持たなくなってしまうのではないかと考えられます。

 以下は、道に迷ったというより、むしろ道を見つけられないでいた最中に道をお示しいただき、ここまで遅々たる歩みを続けてきた者の実感です。
「疑問を持つことは人生への誠実な態度であり、疑問なくして宗教も科学も発達はしない。
 物質の世界にある道理や原理や真理を求めて科学は発達してきたし、精神の世界にある道理や原理や真理を求めて宗教も発達してきた。
 双方は別々なレールではあるが交差する場合もあり、交差の緊張や火花がないと、両方とも無事安全な発達が危うくなる。
 宗教の支えがなくなると科学は破壊の悪魔となり、科学の支えがないと宗教は盲信の狂気となる」
「釈尊が、あの世の存在などについて直接お答えにならなかったのは、相手のレベルに合わせて説いた対機説法上、当然である。
 真理の体得が未熟な人へ『ない』と答えれば倫理を失うかも知れないし、『ある』と答えれば過去にとらわれたり、未来をあてにしたりするかも知れない。
 しかし、あの世の存在を問う心には真実があり、悟りの境地に答のないはずはない。
 だから、仏教は、『ない』でもなく『ある』でもない真実すなわち中道(チュウドウ)をたどって釈尊の悟りへ肉薄する方法を研究し、発達してきた。
 最近、発達した科学は光より早い素粒子を発見したらしく、絶対的真理と思われてきたアインシュタインの相対性理論が超えられるかも知れない。
 同じように、仏教もまた、ハーバード大学におけるダライ・ラマ法王の『仏教哲学講義』に見られるとおり、歴史性をもって発達してきている。
 医師が最新の医学を学び続ける真摯さに習い、僧侶もまた最奥の仏法を求めて学び続けなければならない」

 こんな私には、「あの世のあるなしを問うのは仏教ではない」とか、「釈尊がはっきり答えなかった姿勢にこそ妙味がある」などという説は、外野席におられる方の暢気な話にしか聞こえません。
 いかなる世界で生きていても、『徒然草』に登場する8才の童子が持つ気持を忘れないで進もうではありませんか。

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2011
10.25

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第七回) ─帰依(キエ)の対象は仏法僧(ブッポウソウ)─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第七回目です。

「自らも輪廻(リンネ)の牢獄に捕らわれている、世俗のにいったい誰を救うことができるのか。
 それゆえ、救いを求めても欺くことのない三宝仏法僧)に帰依(キエ)をする。
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 仏法は、いわゆる創造を想定しないので、「」という場合は、悟らない限り輪廻(リンネ)し続ける六道(ロクドウ)の界に住む帝釈天(タイシャクテン)などを指します。
 神通力も寿命も環境も人間界に住む私たちよりは格段に恵まれていますが、迷いの輪から抜け出していないという点では、何ら変わりありません。
 現に、インドの話では、かつて帝釈天(タイシャクテン)と阿修羅(アシュラ)が闘い、その結果、この世が闇の世界になろうとしていたところを摩利支(まりしてん)が救ったとされています。
 そうした々は、一時的に私たちの現世的な願いに応えてくれる場面はあっても、争い苦を与え合う六道(ロクドウ)から救い出す立場ではなく、もちろん、その力もありはしません。
 だから、輪廻(リンネ)から解脱(ゲダツ)して菩薩(ボサツ)となり、誰しもが苦から救われるために力を尽くそうとする仏道の行者が帰依(キエ)すべきではないのです。

 とは言え、邪気から離れた神々であれば、その神通力は私たちの善行に大いなる助けとなる一面があるので、仏法を護る護法神(ゴボウシン)となってくださるよう祈ります。
 修法にこうした祈願を行う一場面があります。

「普く大日如来へ供養します。
 金剛部、胎蔵部、両部の諸尊聖衆(ショソンショウジュウ)、護法神(ゴボウテンジン)へ供養します。
 凡夫を憐れみ、供養のために設けた供養の品々を納受してください。
 仏弟子を護持し、不祥を消し除き、福徳と寿命を増長させ、
 修行のための快楽を恒に得さしめ、限りない善願を必ずや円満に成就させてください」


 仏道成就という大願を果たすために、善神は護り、悪鬼神は邪魔せぬよう、マンダラにおけるありとあらゆる存在へ祈るのです。

 そして、帰依(キエ)です。

「八方地、十方におられる一切のみ仏と、
 最も勝れている妙法と、菩提(ボダイ…悟り)をめざし、菩提(ボダイ)にある方々へ帰命(キミョウ…帰依)します。
 身口意(シンクイ)の清浄なる業(ゴウ)をもって、
 慇懃(オンゴン…ていねい)に合掌し、恭しく敬礼したてまつります。
 大日如来へ帰命(キミョウ)し、頂礼(チョウライ…頭を地に着け礼拝すること)したてまつります」


 自分の心もいのちも投げ出してその世界へ溶け込もうとする対象は大日如来を筆頭とするみ仏であり、仏法であり、それを実証し護り伝える人びとでしかありません。

 そもそも、なぜ、帰依するかといえば、私たちの心が安らかでないからです。
 その原因は、心が煩悩(ボンノウ)に支配されているからであり、煩悩(ボンノウ)に支配されているとは、正しくコントロールされていない状態を指します。
 釈尊が生涯「そこから離れよ」と説かれた「放逸(ホウイツ…気まま勝手)」な者同士がぶつかり合っているこの世のありさまを直視せねば、何ごとも始まりません。
 だから、善悪を知るとは、心をコントロールする正しい方法を知るということです。
 そして、真実を観ていない愚かさを脱し、気まま勝手が引き起こす怒りを離れ、貪る卑しさを克服すれば、自他の心に安らかさがもたらされます。
 悪業がなくなり、善業が重なり、この世は浄土になります。
 対象を誤らず、しっかり帰依したいものです。
 
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2011
10.24

私たちはなぜ、極楽へ行くのか 導師はなぜ、引導を渡すのか

 またしても、目上の弟子をお送りしました。
 打ち寄せる波のように繰り返し繰り返しやってくる辛さに苛まれる自分はやはり、深い因縁悪業を背負っているのだとつくづく実感させられます。

 不治の病気と知ったAさんは生前戒名を受け、生活に支障の出る治療を拒否し、時折、好きな温泉へでかけたり、菩提寺へ花を植えたりしながら悠然と過ごしていました。
 あまりに春風駘蕩(シュンプウタイトウ…のどかな春風のように悠然とした様子)たる様子に、湯治場の常連客から「Aさんが病気を抱えているなんて信じられない」と言われていました。
 やがて病魔は全身を蝕みます。
 一人でじっと耐えていたAさんも、最後は動けなくなった身体を医師へ委ねました。
 ここもやられ、あそこもやられと、全身を切りつけられるかのように次々と破壊されても、鍛えられたAさんはたやすくは斃れません。
 最期は、目薬にすら反応できなくなったにもかかわらず、家族が揃うまで静かに鼓動と呼吸を続け、まさに灯火が燃え尽きるように静かに旅立たれたそうです。
 心は疾うに生への執着を離れ、しかし、生きものとしての肉体は最後の最後まで「生まれてきた以上は生き抜く」という使命を果たしました。
 ご家族から成り行きをお聞きし、「武士の切り死にでしたね」と申し上げました。

 藤沢周平の傑作『必死剣 鳥刺し』の主人公兼見三左エ門(カネミサンザエモン)は、藩主の乱行を諫めるために、側室を切り捨てます。
 切腹を覚悟した決死の行動でしたが、その腕の冴えが周囲から見込まれ、利用されます。
 やがて裏切られ、悪党と藩主の前で大勢に取り囲まれ切り捨てられた三左エ門ですが、誰もが死んだと思った瞬間、電光のような素早さで誰もが目にしたことのない秘剣を繰り出して悪党を倒します。
 
 Aさんも、いのちあるものは必ず死ぬという宿命通り、すっかり使いものにならなくなった肉体は滅びましたが、その一方で、宿命を超えた精神は皎々と満月のように輝き続けていたものと思われます。
 もはや意識もなくなったとしか思われない状態の最中、一瞬目を見開いたAさんは、短く、この世で最後の言葉を吐かれたそうです。
 それはまさに、なすべきことをなした人にしか口にできない一言でした。
 兼見三左エ門は武士として心を定め、腕を磨き、最後の瞬間まで武士としての分を尽くして生をまっとうしました。
 同じように、Aさんも、生前戒名を受けて心を定め、最後の瞬間まで道を歩む者としての姿勢を崩さず、与えられたいのちの限りを尽く切りました。
 涙をこらえつつ、師として贈る言葉は一つしかありません。
「あなたの人生はみごとでした。
 私もそのように最期を迎えたい」

 亡骸となった弟子を前にして、思います。
「護り、極楽へ送りたい」
 そのために全身全霊を込め、引導を渡します。
 御霊と向き合うたびに、自分へ詰問します。
「お前は本ものの行者か、それともニセものか」
 法力は大丈夫かという確認です。
 ここにおいて、たとえ飛ぶ鳥が一瞬残した鳥影ほどであっても迷いが生じたならば、引退せねばならないと覚悟しています。

 さて、なぜ、極楽へ送りたいのか?
 答は明白です。
 この世での煩わしさから離れ、ゆったりと修行して欲しいからです。
 菩薩(ボサツ)となるために。

 極楽といえども、六道輪廻(ロクドウリンネ)の中にある世界です。
 輪廻から解脱(ゲダツ)しない限り、必ずいつか、人間界や修羅界へ戻ってきます。
 それらの世界はいづれも、修行の場です。
 地獄や餓鬼界では、自分の苦と向き合うばかりで、ほとんど他のためになる余裕がありません。
 しかし、人間界や極楽を含む天界であれば、他のためになる菩薩道を見つめながら生きる余裕があります。
 だからこそ、導師は引導を渡すという真剣勝負を行い、この世に残っている人びとは廻向(エコウ…御霊が安らぎの世界へ行けるよう祈りの功徳を廻し向けること)という供養を行うのです。
 善男善女が受ける生前戒名には、極楽への道行きを確かなものにするために、この世にいるうちから準備をしておくという意義があります。
(全国から生前戒名のお申し込みがあり、若干、お待ちいただいていますが、ご容赦ください)

 ちなみに、あの世はあるかないかと言えば、正統な伝統仏教では「ある」と答は決まっており、精緻な論理も構築されています。
 釈尊が「無記(ムキ)」としてそうした問へ答えなかったという一事をとって云々する方が未だにおられますが、それは、科学を発達させたと同じく仏教も発達させてきた人間の叡智を無視する姿勢です。
 仏教はお告げの宗教でなく、道理に基づく哲学が支える宗教です。
 当然、歴史と共に無数の聖者や行者によって深められ高めされ続けており、その成果(精華)が残され伝えられ、世界中の行者によって研鑽されています。
 行者はおりおりにあの世を実感し、その存在を信じていればこそ、年忌供養などの導師も務めています。
 科学の発達による恩恵に浴して生きる私たちは、宗教の発達にも同じように関心を向けつつ生きたいものです。

 釈尊とお大師様の言葉を挙げておきましょう。
 釈尊の言葉が忠実に記されているとされる『法句経』の「教学品第二」です。

「学びて多聞(タモン)、持戒して失わざれば、両世(リョウセ)に誉められ、願う所は得るなり」


(み仏の教えをよく聞き、戒律を守って清浄に生きれば、この世でもあの世でもみ仏にお褒めいただき、善願はきっと叶うであろう)
 お大師様は、輪廻転生(リンネテンショウ)をはっきりと説いておられます。

「前生(ゼンショウ)に善を修して今生(コンジョウ)に人(ニン)を得(ウ)。
 此の生(ショウ)に修せずんば、かえって三塗(サンズ)に堕ちなん。
 春の種を下さずんば、秋の実いかんが得ん。
 善男善女、仰がずんばあるべからず。
 仰がずんばあるべからず」


(前世の善行の報いで人として生まれたものの、この世で善行を行わなければ次の世では地獄・餓鬼・畜生などに生まれ変わってしまうであろう。
 それは、春に種を蒔かなければ秋になって収穫が得られないのと同じである。
 善男善女は、この道理をしっかりと信じなければならない)

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2011
10.23

法螺(ホラ)と修行

 最近は法螺(ホラ)の音を耳にする機会が少なくなりましたが、あの野太い響きは他のものに代えられない力強さを持っています。
 お大師様より約1世紀後に活躍された理源大師聖宝(リゲンダイシショウボウ)様は、大峰山で修行を重ね、京都の醍醐寺を開基して醍醐派を開かれました。
 修験で使われた代表的な法具が、金剛杖であり、経典であり、そして法螺(ホラ)です。
 功徳をこう記されています。

法螺(ホラ)の音によって、聖人・天仙・神祇をお呼びしお迎えし、行の場を護っていただきます。
 魔ものは邪心を浄められて悟りを求める心を起こします。
 人々は励まされ勇気づけられ、悟りを求める心が堅固になり、善因・善果は倍増し、重い罪悪も消滅します。
 強い邪心を持った魔ものたちは結界の外へ追いやられて近づけません」

 
 聖宝様より1世紀以上経ち、保元の乱に破れ8年後に崩御した崇徳上皇を深く悼んだ西行法師は、15年間もの間、落雷で炎上した大塔や金堂などの復興にかけていた高野山から、大峰山へでかけます。
 黄金を含んだ霊水の枯れない深山(ジンセン)を訪れた時の和歌です。

「深き山に澄みける月を見ざりせば 思出もなき我身ならまし」


 澄み切った月光に、上皇の無念の思いを我がこととも思っていた西行の悶々たる心が晴れたのでしょうか。
「思出もなき」には、すべてを洗い清める霊山の力を感じさせます。

 また、三重(ミカサネ)の滝でも詠みました。
 23歳で源氏の血筋をひく武門を離れた西行は、身にも、言葉にも、心にも浄めないではいられないものを持っていたのでしょう。
 身・口・意をみ仏と一致させる即身成仏(ソクシンジョウブツ)の法を説かれたお大師様を深く信仰していたことがわかります。

「身に積る言葉の罪も洗はれて 心澄みぬるみかさねのたき」


 当山でもまた、法螺(ホラ)を吹き金剛の剣を振るう魔切の修法を行います。
 お大師様や、聖宝様や、西行法師を偲びつつ……。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
10.22

2011年11月の運勢

 2011年11月の運勢──平成23年11月(霜月…11月8日から12月6日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅密(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 混沌・混乱を覚悟しましょう。

「天造草昧(テンゾウソウマイ)」という言葉があります。
 世界が始まろうとする時期には混沌があるように、今の日本は、国内にも、国外にも波乱の要素を抱え、国の方向性を決める要素があまりにも多く、混乱が続くことでしょう。
「草」は、「くさかんむり」に「早い」が加わった文字で、「草創」と言うようにものごとの始まりを意味します。
「昧」は「日」に「未」が加わった文字で、未だ日の光がなく暗い状態です。
 しかし、日本は幾度もこうした危機を乗り越えてきました。
 とにかく慌てず、耳障りの良い言葉や刺激的な言葉に乗せられず、個人的・社会的善業を積みながら、まっとうに生きましょう。
 そうした一人一人の生きざまが社会をつくり、国をつくる基です。

二 蕾を大切にしましょう。

 こうした時期には、よく目をこらすと、たくさんの蕾が見えるはずです。
 せっかく芽がふくらんできたけれど、まだ条件が調わないので、ひらけないでいるものたちです。
 それはまるで赤児のようです。
 この世に生まれ出たものの、自分だけでは生きられず、親など周囲の救いに頼るしかない儚いいのちです。
 それらのうち、伸ばすべきと信じ、縁と信じたもののために思い切って手を貸しましょう。
 作家村上春樹氏は〈小説の器量〉について述べています。
 それは
「欠陥をほとんどもたない、とてもうまく書けた、しかし懐の深くない──あるいは懐なんていうものをほとんど持たない──小説」
といった類のものではありません。
「いくつかの時代を越え、曲折や浮沈を経て、黙殺や誤解をくぐり抜けて、ようやくその真価が一般に認められることになる」のが「器量のある」
作品です。
 この社会がどうなるか、日本はどういう方向へ進むのか、幸いにして私たちはそこに関われる社会に住んでいます。
 器量のある人、器量を持った意見、器量ある行動などが「いくつかの時代を越え」ないうちに花開くよう協力したいものです。

三 急ぎすぎに要注意。

 九月二十五日、女性で初めて最初のノーベル平和賞を受賞したワンガリ・マータイ氏(ケニア)が亡くなられました。
「持続可能な開発、民主主義と平和」のための努力が認められたからです。
 氏の姿勢は植樹に象徴されます。
 貧困から脱しようとして開発の速度を高めると国土は荒廃し、生活は向上しないどころか、危機に瀕するであろうと警告を発し、生涯、植樹の先頭に立ちました。ところが、樹木が育つ速度よりも乱伐、乱開発の速度が上回り、氏は現実となった危機を憂いながらこの世を去りました。
 昭和五十年、作家中野好夫氏は、『人は獣に及ばず』に書きました。

「小さい日本を、なぜそう急ぐ必要があるのか。
 愚劣である」
「大戦のたびに、彼らはあとで戦争の根絶を厳かに誓い合う。
 だが、現実に行っていることは、つねに戦争抑止力を名とする恐るべき殺人新兵器の開発という一事にすぎぬ。
 悔いに宿命づけらた生物──その名は人類とでもいうべきか」
「遠い地球の歴史は、その間幾いくどかの地殻激変を経験している。
 だが、そのたびに地上を蔽った生物、とりわけ植物は、地下に豊かなエネルギー源となり、次に登場する高等な生物のために、豊かな繁栄の基盤を準備してきたといえる。
 だが、人類文明の後はどうなるのか。
 おそらく破壊しつくされた自然、そして鉄とコンクリートの廃墟の山は、もはや次世代の繁栄にとっての豊かな資源を用意しうることなど、絶対にまずなかろう」


 こうした叡智ある人に学び、叡智の発する言葉に耳をかたむけたいものです。

 今月も六つの修行を行いましょう。
 皆さんの開運を祈っています。

[布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は自戒し、時期を待って無事安全です。
 不精進の人は自分の技能や才能を過信し、自分でつくった大きな壁にぶつかり、失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は淡々と結果を求めず善行を行い成功に近づきます。
 不精進の人は尽くして認められぬ怨みから失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は我欲を見つめて欺瞞に走らず無事安全です。
 不精進の人は我欲のままにモノや名声を求めて猛進し、馬脚が表れ、失速しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は持ち込まれたうまい話に乗らず、自分の流儀を通して平穏です。
 不精進の人は相手の下心がわからず、難儀を招いて苦しみがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は質素倹約が認められ、不自由を解決できます。
 不精進の人は大きく構えようと無理をし、肝腎な人間関係などを失いがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は何ごとにも動じずに堪え忍び、運勢の好転を得ます。
 不精進の人は短慮のままに行動したり、自棄を起こしたりして自滅しがちです。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2011
10.21

津波でお骨が流されてしまったなら、ご先祖様は成仏できないでしょうか ─お墓を造る目的は?─

 これまで当山の門を叩かれた方々の口からから幾度も、密やかな声でつぶやきが漏れました。
津波でおお骨も皆、やられました。
 おのあった場所は泥をかぶり、どこがどこやらわかりません。
 これまでずっと、お詣りを欠かさず、おとご先祖様を守りながら、守られてもきました。
 お骨がどこへ行ったかと思うと、ご先祖様がかわいそうで涙が流れてきます」

お骨をおに納める第一の目的は、自然に還っていただくことです。
 その成り行きができるだけ静かで、穏やかであって欲しいと願い、頑丈なおを建てて守ります。
 この世の家をしっかり造るのも、あの世の家をしっかり造るのも同じです。
 しかし、津波は、この世の家もあの世の家も押し流しました。
 まさに諸行無常です。

 無常の表れが私たちの人生のペースとあまりずれなければ、私たちは、変化も崩壊も受け入れやすいのですが、天変地異や戦争やテロや事件などでいきなり無常が顕わになると、戸惑い、受け入れがたくなります。
 しかし、いかに私たち一人一人一人の思惑や感覚からかけ離れた形であろうと、無常無常です。
 確かにお骨は、み仏に守られ私たちのまごころで守られて、徐々に土へと溶け込んで欲しかったのですが、自然の猛威はそれを許しませんでした。
 巨大な津波の舌はお骨をどこかへ運び、どこかへ呑み込んでしまいました。
 でもよく考えてみると、いずれにしてもお骨が自然に還ったことに変わりはなく、私たちがお粗末にしたわけでもありません。
 そしてそれは、目に見えるモノの世界のできごとです。

 お骨は確かに御霊の依り代の一つではありますが、すべてではなく、目に見えない魂や心の世界が、モノの世界にそのまま動かされるわけではありません。
 二つの世界は通じ合い、関連し合いますが、鏡に映るようなわけではないのです。
 今、お骨というモノはどこかへ飛散しましたが、おの下にあった時と同じ原理で自然の中へ溶け込みつつあります。
 そして、あの世のご先祖様方はきっと、「千の風」のように自由に動き回りながら、ある時はゆっくりとある時は急激に波立つこの世の無常を眺めておられることでしょう。
 お大師様は言い遺されました。
『私はいつでも、どこでも、何かを祀り祈る者のそばへ降りるであろう』
 私たちのご先祖様も同じです。
 お墓やお骨がなくなっても、お位牌やお仏壇の前で、あるいは心に浮かぶお墓や面影の前で祈りましょう。
 きっと、モノの世界とは違う世界から、これまでと同じく見守り、時には手を差し伸べてくださることを感じ取れるはずです。

 さて、お骨をお墓に納める第二の目的は、供養を通じて私たちが人生修行を行うことです。
 お墓は、先に逝った人が人生最後の仕事として、この世の私たちへ遺してくださった尊い人生修行の場です。
 先に逝かれた人を想う時の敬虔な心は、知らず知らずのうちに、自己中心の汚れを洗い流します。
 モノを離れた世界へ心を解き放ち、安心を祈り、感謝する体験は貴重です。
 そして、真の供養を行う人は、こうして心の修行をします。

 お花を捧げれば
『このお花のように、私も雨風に堪えてしっかり人生を歩みます。
 だから、どうぞ、安心してお休みください。
 そして、この世の私たちを見守っていてください』
と忍耐の修行をします。
 お水を捧げれば
『このお水のように、私もきっと誰かの何かの役に立ちます。
 だから、どうぞ、安心してお休みください。
 そして、この世の私たちを見守っていてください』
と布施の修行をします。
 お線香を捧げれば
『このお線香のように、私もきっと精進努力します。
 だから、どうぞ、安心してお休みください。
 そして、この世の私たちを見守っていてください』
と精進の修行をします。
お灯明を捧げれば
『このお灯明のように、私も本当の智慧の明かりを忘れずに生きてゆきます。
 だから、どうぞ、安心してお休みください。
 そして、この世の私たちを見守っていてください』
と智慧の修行をします。
 食べものを捧げれば
『食べものとなってくれる生きものたちへの恩を忘れず、私も心身を調えて人間らしく尊く生きます。
 だから、どうぞ、安心してお休みください。
 そして、この世の私たちを見守っていてください』
と禅定の修行をします。

 お墓がなくなると、人生修行の場が一つなくなったことになります。
 しかし、いつでも、どこでも、こうした供養の心を思い出して何かを行うことは可能です。
 たとえば野辺のお地蔵様や古い石塔へ摘んだ一輪の花を捧げ、『この花のように雨風に堪えて生きて行きます』と誓えるではありませんか。
 托鉢を行っていると、いのちを輝かせ笑っている一輪のタンポポを踏めなくなります。
 極貧で生きていた時代、私はそうしたタンポポやツクシに手を合わせ、食べました。
 心一つで真の供養ができます。
 お墓はまたいつか造れる時がくるかも知れません。
 肝腎なのは、供養の心を失わないことです。
 真の供養を行う以上、あの世の方々に安心していただくために大切な道はないのです」

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2011
10.20

「今年は厄年だから~」などという「年回り」は、どのように計算されているのですか?

 いわゆる運勢判断の方法は世界中にたくさんあり、それぞれに、民族性やお国柄、あるいは西洋や東洋というような色合いの違いを感じさせます。
 そこには人生のパターンや心の変化する形を根本的に見極めた叡智が含まれていて感心する一方、あまりにも迷信めいていたり、積み木や算数のような要素が強かったりで、実に多種多様です。
 忘れてならないのは、最高の叡智が生んだ宗教占法も、信じたり、人生へとり入れたり、あるいは用いる人の心によって、導きの崇高な灯火ともなり、人を不安に陥れ狂わせ争わせる邪まなシステムにもなるという点です。
 真の宗教であれば邪宗にはなり得ません。
 真の占法であれば不安をもたらさず、希望をもたらします。
 用いる人の心が邪宗や邪占を生み出すのです。

 作家の河合香織氏が、『聖書男 現代NYで「聖書の教え」を忠実に守ってみた1年間日記』の書評を書きました。
 聖書にある700もの戒律は「隣人を愛する」といった万人が納得できそうなものだけではありません。
「5年経っていない木になった果実は食べない」「雇用者の賃金は毎日支払う」「罪を犯した者には石打ちする」「混紡の服を着てはいけない」「毎月初めに角笛を吹き鳴らせ」
 アメリカには、こうした教えそのもので生きている人びとがいるそうです。
 著者A・Jジェイコブズ氏は「まったく宗教的でない家庭に育ち、神が存在するかどうかはわからないという立場」から、1年間、教えを守る生活をしてみました。
 これは架空の実験ではなく、実際に聖書を生きるアメリカ人の心へ分け入ろうとする誠実な体験です。
 河合香織氏はこう書いています。

「一年間教えを守った著者が実感したのは、現代において戒律をえり好みせずに実践することは聖書原理主義者ですら不可能という現実だった。
 著者は聖書の教えを守れなかったことを積極的に肯定し、むしろそのことを通じて寛容さを学んだという。
 それは自分自身に対してだけではなく、他者に対しても寛容な姿勢で臨むことを促す。
 本書は、特定の宗派・信仰を超えて万人に開かれた社会を考える一助になるのではないだろうか」


 運勢判断を考える際もこうした健全で柔軟な姿勢を忘れず、自分なりの〈道理〉というフィルターを通して参考にしたいものです。

 さて、当山では三つの方面から皆さんの運勢を判断し、ご祈祷も行い、除災開運に役立てていただいています。
 
 一つは、自分の生まれ持った星(本命星といいます)のある位置を考える方法です。
 本命星は毎年、9つの位置を経めぐり、それによって「厄年」や「八方塞がり」などと運勢が変わります。
 だから、厄年は、数え6才から始まり、15才、24才、33才、42才、51才、60才という順番で9年に一度、廻ってきます。
 当山の厄払いは、9つの位置それぞれを守っておられる守本尊様にお力をいただく修法を行うものです。
 たとえば、本厄の年には千手観音様、後厄の年には大日如来様、八方塞がりの年には地蔵菩薩様などがお守りくださいます。

 もう一つは、その方独自の生まれ持った因縁と、育ちと生き方によって積み重ねた因縁とを観る方法です。
 あまりにも当然ながら、運命は生まれによって決定されてはいません。
 生まれ持った要素と、育ちや生き方の要素とが複雑に絡み合って織りなされます。
 そして、そこには意志の力が大きく作用します。
 そうした全体を観ず、簡単に「先祖の祟り」や「水子霊の障り」などを持ち出す思考停止では健全な判断ができません。

 もう一つは、門外不出の秘伝によるものであり記述できません。

 いわゆる霊感があると称する方々が「見える」「聞こえる」と言うようにカンに頼るのではなく、あくまでも所定の修行を積んだ結果としてご本尊様から授かった法力の範囲内で判断します。
 それしかできず、「私は~の生まれ変わりでしょうか?」などと訊ねられても、無責任に断定する言葉は一言も口にできません。
 袈裟衣をつけ、この三つと、対面した方の持つ気配とによって判断するので、人生相談は対面法でのみ、行っています。
 一番目の本命星による大まかな判断法の基礎的部分はホームページに公開しています。

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2011
10.19

方丈の者

 百カ日忌までの修法が終わり、御霊膳の席へお招きいただきました。
 正面に安置されたお骨を背にした場所には「方丈様御席」とあり、いまさらながらに、住職とは方丈の居室に住む者だという感慨を持ちました。

 鴨長明の『方丈記』で有名な方丈とは、『維摩経(ユイマキョウ)』の聖者維摩居士(ユイマコジ)が一丈(10尺…約3.3㍍)四方の部屋に住んでいたことから始まった言葉で、後に、寺に住み寺を守る住職の質素な部屋を指すようになりました。
 維摩居士は俗世間の人ですが、文殊菩薩と対等に渡り合うほどの智慧と、王宮であれ飲み屋であれ、どこへでもでかけて行って法を説く慈悲心に加えて、すばらしい法力を持っておられました。
 たった10㎡の部屋で法を説く時、群がり集まる聴衆のためにに32000もの席を作ったとされています。
 狭い・広いという相対的な尺度を超えた次元におられた方だったのでしょう。
 ともあれ、「人は誰でも寝れば一畳。お棺も一畳」という感覚で生きている者としては、「方丈」は実にしっくり来ます。
 それで済むことが嬉しく、ありがたくもあります。

 さて、ある時は「御住職様」「方丈様」と呼ばれ、ある時は「和尚(オショウ・ワジョウ)様」と呼ばれますが、和尚には師匠・先生という意味があり、生涯一行者と覚悟している身としては、こそばゆくてなりません。
 いつ、どこにいても、心は〈方丈の者〉であり続けたいと思います。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
10.19

『ペット霊園やすらぎ』さんの慰霊祭が終わりました

 夜中の猛烈な雨はどこかへ遠ざかって徐々に晴れ上がり、恒例となった『ペット霊園やすらぎ』さんの供養会が無事、開催されました。
 震災の被害に遭われたらしく、ご案内の届かない方々が少なくないこと。
 それぞれのお墓の前で個別に僧侶が祈らず、開眼供養した塔婆を自分で立てていただくようにしたこと。
 前夜の雨が激しすぎたこと。
 こうした理由で、参加者は昨年より減るのではないかと考えられていました。
 しかし、お一人の方、アベックの方、あるいは親子連れ、あるいは三代揃ってと、例年に変わらぬ数の善男善女が足を運ばれました。
 
 駐車場からバスで参加者を運ぶ関係上、どうしても待ち時間ができてしまいます。
 そこで、6度に分けての修法の前に、待ち時間を使って法話を行いました。
 震災に関するお話と、塔婆(トウバ)に関するお話です。
 皆さんの目が全部こちらを向いたのは、「そもそも、お塔婆って何でしょう?」と問いかけた時でした。
 そして、小さな塔婆を手にして「これはいったい、何の形でしょうか?」と問うと、目という目は光を増しました。

「お塔婆はアンテナです。
 私たちは見たり聞いたりして外界と接し、生き、心が動き、一生、成長し続けます。
 手を合わせる時、何もなくても心は〈亡き子〉へ向けられますが、形ある塔婆を前にすると心のはたらきは、より、はっきりします。
 そして、行者によって、『私たちの心と亡き子の心をさらにはっきり結んでください』との祈りが込められると、お塔婆へ仏神のご加護が降り、その性能は格段にアップします。
 これが魂入れ、あるいは開眼供養と言われている修法の中身です。
 そして、お塔婆の形には、私たちのまごころが表現されていることも忘れてはなりません。
 一番下は四角、そして丸、三角、半円、一番上は宝ものをあふれさせる宝珠を表しています。
 私たちは、ここに、この世にあるあらゆるものを捧げるほどの気持を込めているのです。
 塔婆に仏神のご加護が降りれば、お焼香して手を合わせる皆さんの心は必ず、向こうの世界へ届きます。
 そして、向こうからも何か、返ってくるかも知れませんね」

 皆さんの目の前にあるのはたった一枚の小さな塔婆。
 しかしそれは先人方が残してくださった叡智の結晶であり、娑婆の方々にとっての心をつくる〈麗しい慣習〉、行者にとっての磨かれ伝えられた〈貴重な修法〉を守る〈小さき形あるもの〉なのです。
 皆さんは、すなおで敬虔な気持になりさえすれば、アンテナのはたらきをはっきりと実感できることでしょう。
 これからも、経営しておられるご夫婦が心をこめた手作りの供養会が続き、善男善女にとって心のオアシスとなり続けますよう。

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2011
10.18

【現代の偉人伝】第137話 ─津軽金山焼窯業協同組合の人びと─

 旧友A氏から電話が入った。
法楽寺も被災したようだけど、湯飲みは要らないか。
 友人たちが被災者支援の活動で湯飲みを作っているので、地震でやられた分くらい、何とかしてもらえそうだが……」
 聞いてみれば、津軽の窯元が「『ひとりじゃないよ湯呑」を作って被災地へ送ったり、販売して全額を義援金にしたりと切れ目のない活動を続けているという。

 いささか土に触ったことのある身としては、一つ手作りすることの意味がいくらかはわかる。
 10月6日までに15000個作ったという事実は〈途方もない〉と形容してみるしか、反応のしようがない。
 その思いと汗は、私などの想像力を遙かに超えている。
 当山も、ありがたくご支援を受けるだけでなく、活動の端に加えていただくこととした。
 尊い活動が広く知られるよう、ご縁の方々へ窯元をご紹介したい。

 以下は、津軽金山焼窯業協同組合のホームページと、作品の一つ一つに添付されている文章である。

「3月11日に発生した東日本大地震は、直接の地震被害のみならず巨大津波と原発事故を引き起こし、わが国の歴史上かつてない広い地域に甚大な被害をもたらし、国内外に深刻な影響を及ぼしています。
 復興を目指し懸命に頑張る被災された方々を支える大きな支援の輪が広がりつつあります。
 しかし、被害の大きさと深刻さを考えれば決して充分と言えません。
 国難の復興には、全国民が一丸となって立ち向かう必要があります。
 金山焼では、『私たちにできること』を探り、被災された方々に1万5千個のメッセージ入り湯呑を支援することを決め、全職員が思いを込めて手作りしています。
 生活のすべてを失った被災された方々には、すべての支援が必要です。
 私共の行動が一つのきっかけになり『自分にできる支援』の輪が広がることを願っています。
 金山焼は、被災された方々が元の生活を取り戻せるようになるまで、できる限りの支援を続けていきます」


「国難の復興には、全国民が一丸となって立ち向かう必要があります」「『自分にできる支援』の輪が広がることを願っています」と言うのはやさしいが、信念と祈りを保ち行動し続けることは決して生やさしくない。

 かつて、ラックスマンという音響メーカーが総力を挙げて歴史に残るパワーアンプ『M-07』を作った。
 その取扱説明書に「制作者からひとこと」という欄があり、エンジニア谷脇千世氏がベートーベンの言葉をもって52キログラムもの重さが必要なわけを説明している。
「どうしてもそうするのか、どうしてもそうするのだ」
 ホームページで作業の様子を見ると、困難な活動に日々黙々と励んでおられる津軽の人びとが〈そうしないではいられない〉ありようが、薄々あるいは、はっきりとわかる。
 そして魂が共鳴したならば、〈自分にできる支援〉の範囲でこの活動に協力し、津軽の人びとの発展にも協力していただきたいと切に願う。




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2011
10.18

『大日経』が説く心のありさま六十景 その53 ─田心(デンシン)─

 を清めるよりも身体を飾る方へ強く向かうです。
大日経』は説きます。

「常にかくのごとく自身に事(ツカ)うることを修す」


(常に、自分の身体をこうしたい、と執着し努力する)
 農家の方はんぼの手入れを怠りません。
 常に土へ目をかけ、手をかけていればこそ時期が来れば植えができ、豊作がもたらされます。
 そのような熱さで、身体を労り飾る方向へ向かう意識を戒めたのがこの教えです。
 気をつけねばならないのは、決して農家を卑下しているのではなく、んぼを大切にする姿勢を〈熱さ〉の象徴として例示しているということです。

 さて、この教えが行者のために説かれたことをどう考えるか?

1 身体を損なう怖れが強く、修行を進める過程で怖じ気づいてしまう問題。

 釈尊が示された悟りの境地をめざして、これまで無数の聖者や行者や研究者たちが修行法を研究、実践し、「次第」として私たちへ伝えられました。
 お次第は人類2500年の歴史をかけて磨かれた叡智の結晶であり、私たち凡夫などにうんぬんできるものではありません。
 ただただ、畏敬の念をもって授かり実践し、実証するのみです。
 仏道修行とは、釈尊の境地をめざし、祖師様方の実証を信じ、その後を追って魂を清め、目に見えない世界にかかわる能力すなわち法力を身につけようとする過程です。
 在家の方々におかれてはそうした努力を続けてまっとうに生き、菩薩(ボサツ)として周囲の人びとや社会や環境とかかわりつつ、魂のレベルアップをめざすことになりましょう。
 出家者の立場としては、ご本尊様へのお布施で生かされる以上、プロとしての力量(法力を動かす力)をいかに高めるかが誠意のすべてです。
 メスが適切に使えない外科医は、いかに立派な病院でいかに美しい白衣をまとい、威厳をもって〈それらしい説明〉ができたとしても役に立たないのと同じく、行者もまた、本ものであるかどうかが厳しく突きつけられます。

 行者は自分自身のレベルを知っており、生涯、自分自身へ「本ものたれ!」と叱咤し続けねばなりません。
 仏教修行者は、「親しまれて初伝レベル、尊敬されて中伝レベル、畏れられて奥伝レベル」と言われます。
 親しまれるとは、相手がを開けるということであり、それ自体が価値ある状態です。
 しかし、プロはいかに娑婆の方々と飲み食いなども一緒にして親しまれようと、それだけでは足りません。
 尊敬されるとは、まっとうな人間として認められるということであり、それ自体が価値ある状態です。
 しかし、プロはいかに語り、書き、作り、娑婆の方々から尊敬されようと、それだけでは足りません。
 畏れられるとは、仕事師として一流レベルであると認められる状態です。
 それは、修法の場で、救いを求める方に〈異次元〉を感じていただけるかどうかにかかっています。
 目に見えず計測器が使えない精神世界では力量を数値化できなくても、行者の修法を受ける方々は、をこらせば精神世界の変化を察知できるのです。

 生涯続く修行の過程では、辛いとか、怖いとか、疲れたとか、飽きたとか、さまざまな良からぬ状態になる時期があり、そこで〈我が身可愛さ〉に負ければ終わりです。
「身体が保たない」という誰もが否定できない理由づけをして逃げ出します。
 もちろん、身体の丈夫さは人それぞれであり、難行苦行そのものを目的化してはならないので、耐えれば良いというものではありません。
 しかし、自分の身体を自分で安心できる状態に保っておきたいという気持が強ければ、所定の修行が内実を伴って進まず、本ものをめざす強い意志は保てないのです。

2 他人の目を意識しすぎる問題。 

 私たちには、〈それらしく見せたい〉という気持があります。
 それが、身だしなみやふるまいといった意識の範囲であれば問題ありませんが、貧しい内面を豊かな外面で飾ろうとする意識が強まれば、嘘の伴った修行になります。
 托鉢や説法で娑婆の方々と交わる機会の多かった釈尊の時代には、こうした問題を抱えた行者がいたのでしょう。
 だから、釈尊は厳しく説かれました。
「いかに行者らしい風体となっても、心の修行に没頭できていなければ真の行者ではない」
 私は、この教えは、行者の外面だけを説いたものではないような気がしています。
 それは、他の面で飾ることによって内面が疎かにある怖れもあるからです。
 寺院の由緒正しさ、伽藍の大きさ、檀家の数、住職の僧階などを、個人におけるプロとしてのレベルと勘違いするケースがありはしないでしょうか。

 仏道を歩もうとする私たちは、こうした教えに襟を正し、自分を省みる気持を持ち続けたいものです。

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2011
10.17

寺子屋『法楽舘』第二十一回を開催します ─『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』─

 今月の寺子屋『法楽館』では、ドキュメンタリー映画『宮城からの報告~こども・学校・地域』の予告篇を観賞し、ディスカッションを行います。

 東日本大震災の復興期を生きる「こども・家族・教師・地域の人たち」の6月~8月を、短篇映画『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』としてまとめました。
 震災後のこどもたちの成長と、その磁場である学校、保護者や地域の人たちのくらしとコミュニティづくりなど、困難のさなかにある人びとの〈今〉を丹念に記録しています。

○教室や校庭には、春から夏へ向かうこどもたちの「いのち」があふれています。
○3年生のクラスでは「よみがえれ石巻」という授業をしています。
 自分たちが住んでいた南浜町をどんな町にしたいのか?
 次の津波に備えるにはどうすればよいのか?
○おとなたちも「復興まちづくり」の議論をしています。
 市民と行政の意見交換会。
○地震と津波におそわれた3月11日、人はどう行動したのか?
 門脇小学校の児童、保護者、教師、地域(地区)の人たちが語ります。
「わたしは、大きくなったら、このことを忘れないで、自分の子どもに教えたいと思います。わたしの将来の家族の記憶にするために」(4年生女子)
「おとなもこどもも、このことを繰り返し語ることが大事。つらいけど、ことばにすることが大切」(4年生児童の保護者)
○津波に流されてしまった住居跡で休日を過ごす家族。
「何もかも失ったけど、自分の家のあった場所で震災前のようにお茶したり、歌うたったりするのがいいっちゃ」


 以上は事務局発行のパンレットからの抜粋です。

・日時    11月12日(土)午後2時~3時30分
・会場    当山本堂
・パネリスト 映画『宮城からの報告~こども・学校・地域』製作委員会事務局佐藤進氏
・ご志納金  1000円 中学生以下500円 被災された方は無料
・送迎申込  1時30分に『イズミティ21』前から送迎車が出ます。乗車希望の方は前日までにお申し込みください。

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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2011
10.17

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その30)─言葉の意味・価値・軽重─

 江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「衆(シュウ))に交わりて雑言(ゾウゴン)せざれ  
 事(コト)畢(オワ)らば速(スミヤカ)に避(サ)けよ
 事(コト)に触れて朋(トモ)に違(タガ)えず  
 言語(ゲンゴ)離すことを得(エ)ざれ
 語(コトバ)多き者は品(ヒン)少なし  
 老いたる狗(イヌ)の友を吠(ホ)ゆるが如(ゴト)し」


(人と接して無駄口をたたいてはならない
 用件が終われば会話をやめ、ただちに自分のなすべきことへ戻れ
 友人との信頼関係を裏切ってはならない
 いったん口にした言葉には責任を持て
 口数の多い者は品位がない
 まるで、よるべない老犬が語り合う相手を探し、空しく吠えているようなものだ)

1 言葉の意味

 言いたいことを形ある葉として相手の心へと届ける「言(コト)の葉」には、二つの役割があります。
〈言いたいこと〉を葉という形でまとめ、頭の中を整理すること。
〈形ある葉〉として、同じタイプの葉を持っている相手へ届き、葉に託した〈言いたいこと〉を理解してもらうこと。

 そもそも私たちは、見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたり、思い浮かべたりして環境の外界と交わり、心の内界と交わります。
 たとえば、「アッ、猫が歩いている」と知り、「フニャー」と鳴く声を聞き、「お腹がすいているらしい」と考えます。
 視界にある物体は「猫」であり、耳に届いた音は「フニャー」であり、姿や声は頭で統合、分析され、「空腹」という受け止め方が起こります。
 つまり、私という存在は、言葉としての環境世界と接し、言葉としてたち顕れる自分の心と接します。
 言葉がなければ、人間としての私はあり得ません。
 だから、私たちが真実世界の住人になりたいならば、言葉を理解し、言葉を用い、言葉を通じて真実をつかまねばなりません。
 それは難しい言葉を知識として知ることを意味するのではなく、感受性や想像力や創造力を豊かに保ち、言葉の持つ深い意味をつかみ、まことを込めて言葉を用いればよいのです。

 こうした言葉の役割を考えると、雑言(無駄口)の無意味さがわかります。
 また、いのちとは時間です。
 限りあるいのちの尊さに思いをいたせば、無駄口で過ごしてはいられず、用件が済めば、言葉のやりとりの時間から「速に避け」たくなるはずです。

2 言葉の価値

 友人は最も心を許しあえる相手であり、そこに偽りの入り込む余地はありません。
 偽りが兆せば、もう、真の友人ではなくなりつつあると言えましょう。
 だからこそ、釈尊は、人間として最も尊いありようとして、〈友人として傍らに立つこと〉から発する、苦を抜いてやりたい、楽を与えたいという思いに生きることを示されました。
 この慈悲心の根底にあるのは、自分以外のすべてに感じ得る真の友情です。
 そこでは、友人の苦しみは自分の苦しみであり、友人の楽しみは自分の楽しみです。
 こうした真実をふまえてこそ、
「事(コト)に触れて朋(トモ)に違(タガ)えず  
 言語(ゲンゴ)離すことを得(エ)ざれ」
と説いているのでしょう。
 友人との信頼関係を裏切れば、人間失格の始まりになりかねません。

3 言葉の軽重

 軽々に言葉を用いる人は、とかく、品位に欠けるものです。
 高校生になれば「巧言令色(コウゲンレイショク)鮮(スク)なし仁(ジン)」と習うはずです。
 いくらうまいことを言っても、言葉にまことが伴わなければ信頼されません。
 人の発する言葉には、その人特有の人格が色濃く投影されています。
 だから私たちは、声を聞けば「あっ、Aさんだ」と特定できるだけでなく、同時にAさんの人となりについての認識を深めます。
 その結果
「Aさんがウンと言ったのだから間違いない」
もしくは
「Aさんがウンと言っても当てにならない」
となります。
 誰かから「間違いない」と言われるだけの人は多くの場合、多弁ではないものです。

 言葉に自分のいのちまでかけた例として、故大西瀧治郎中将があります。
 以下、当山のブログ「忍辱と我慢はどうちがうのでしょうか」から転載しておきます。

「太平洋戦争末期、神風特攻隊に第一号出撃命令を発した大西瀧治郎中将も忘れられません。
 直情径行型で、若い頃は愛想の悪い芸者を殴って海軍大学校への入学をフイにしたエピソードの持ち主ですが、山本五十六などから信頼を受けて真珠湾攻撃の計画に加わり、最後は神風特攻隊を指揮しました。
 最初から勝てない戦争であることを知って開戦に反対だったにもかかわらず、時代に必要とされた彼は、歯をくいしばって置かれた立場をまっとうしました。
『おれもゆく、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて』
 こう言いつつ若者たちを死地へ送り出す心中は、察するに余りあります。
 空襲で焼け出された愛妻が最後は一緒に住みたいと訪ねて来た時、特攻隊員たちを死なせた自分にそのような暮らしなど許されないではないかと追い返しています。
 敗戦に号泣した翌日、官舎で腹を切り頸動脈と心臓を刺し、手当も介錯も断わり、隊員たちや妻の苦しみを自らへ実感させるがごとく苦しんで世を去りました。
 辞世の句
『之でよし百万年の仮寝かな』
には、忍辱を貫き通した男の達観と、ことの先に待つ無限の安らぎがあります」


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2011
10.16

『大日経』が説く心のありさま六十景 その52 ─雲心(ウンシン)─

 迷い悩み真実を求める時、たとえ真実への道が見つかっても、その途中にまた、を惑わすものたちが現れます。
 それは、釈尊が成道(ジョウドウ…悟りを開くこと)する直前、化けものたちに邪魔されようとした故事にも明らかです。
 いつの間にか、に化けものが入りこんでいるかも知れず、人生修行をまっとうするためにはのチェックが欠かせません。
大日経』は行者の曇った模様を60の面から解き明かしています。
 その指摘を一つづつたどり、しっかり省みましょう。

50 (ウンシン)

 うっとうしく塞がるです。
 経典は説きます。

「常に降雨(コウウ)の思念(シネン)をなす」


(雨降りのようなじめじめした考えにとらわれる)

 が大空を覆うと陽光がさえぎられ、雨を待つ農家の方などは別として、人の心にも〈覆われ、閉ざされる〉感じが起こります。
 心にこうした不安が起こった時、原因がわかる場合もあり、わからない場合もあります。

 たとえば、明日が材料代の支払い期日なのに、今日はさっぱり売り上げがない。
 あるいは明日、一週間前に受けた検査の結果を聞きに病院へ行く。
 これなら、今、自分が不安になっていることを当然であると知ることができます。
 そして、明日になれば、すべては〈こうなった〉と過去の中に精算され、安心するか、それとも次の課題へ取り組むか、いずれにせよ道ははっきりします。

 しかし、何か熱心にやってきたことに「これって本当だろうか?」と疑問を抱いたりした場合は簡単ではありません。
 ある日、毎週欠かさず教会へ通い、賛美歌を歌っていたAさんが、日本語に訳された文章に疑問を抱きました。
『マタイ受難曲第62曲』です。
「いつの日か私が世を去る時
 どうぞ私から離れないで下さい。
 私が死の苦しみに会う時、
 み姿を示してください。
 こらえがたい恐れに
 私の心が閉ざされる時、
 その不安から私を連れ出して下さい。
 あなたの不安と苦しみの力によって」
 殺され、無残な姿になったイエスを前にして、「なぜ、〈あなたの不安と苦しみ〉そのものが、私の救いとなり得るのか?」と理解不能におちいりました。
 師から納得できる答を得られないままに理解不能な部分が次々に見つかり、Aさんは困っています。

 また、熱心に修行をしているうちに、なぜか道場へ向かう足が重くなり、「これは何だろう?」と、とまどう場合があります。
 漠然と不安が兆しているのはわかっても、その理由がつかめません。
 このあたりで気持が続かなくなり、寺院の後継者になるはずの行者が道場から逃げ出す話は数多くあります。
 歯を食いしばってここを乗り越えると、たとえば、会いたくない先輩の存在が壁になっていたなどと気づかされるかも知れないし、なぜかわからないけれども、いつしか不安がなくなっていたと気づくかも知れません。
 いずれにしても、そこは通るべき〈心の関所〉だったと、後からわかるのです。
 昔、関所をうまく迂回する忍びの者などもいたそうですが、行者がそれをやればお終いです。
 ニセ者となった行者は必ず、とんでもない形で馬脚を現すことでしょう。

 ニーチェが指摘して明らかになった「ニヒリズム」や、生命尊重主義の持つ「すべての価値を相対化する危うさ」などを考えるまでもなく、私たちはある日、「こうしていて良いのだろうか?」と立ち止まる自分にハッとします。
 そして、心を感じたならば、それはきっと、心の階段を一歩上るための準備段階なのです。
 ただ、いやだなあと手をこまねいていたり、単純に逃げたりしようとすれば、はますます濃くなるかも知れません。
 そうかといって、「さあ、前向き思考で!」などと薄っぺらな対応では処置しきれません。
 いったん、すべてを投げ出すのも一法でしょう。
 しかし、たとえ休み休みであっても、歯をくいしばり、目先にある〈なすべきこと〉をなしながら、その実践力をもって不安の力と対峙するのが、人生への誠意というものではないでしょうか。
 飛行機が海を突き抜けるように、誠意はいつしか、雲の晴れた、今までよりも見晴らしの良い世界へ導いてくれるものと信じています。
(およそ20年間、ささやかに歯を食いしばった者の体験をふまえて……)

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2011
10.15

狼の眉毛(その2)

 かつて、故杉浦日向子氏の傑作『狼の眉毛の話』について書きました。
 最近また、この物語がひんぱんに思い出されてなりません。

 うだつが上がらず、いつも女房から「穀潰し、能無し」と罵られている男が、いっそオオカミの餌食になってしまおうと留守中の巣に入っていたところ、戻ったオオカミから「人間臭くて食えない」と追い出されます。
 その時、「眉毛を一筋やるから、町の辻でそれをかざし、世の中をよく見て退屈しのぎをせよ」と眉毛を持たされました。
 やってみると、世の中は化けものだらけで、真人間は自分と乞食だけです。
 こんな世間じゃ自分が出世できないのは当たり前と気づいたところへ、いつものように「どこをほっつき歩いていたの!」と悪態をつきながら女房がやってきますが、これもまた鳥の化けものです。
 相手は化けものなので、うまくやれないのは当たり前と悟った男は、眉毛を乞食へ渡し、女房と連れだって家へ向かいます。

 とても含蓄の多い佳作ですが、〈狼の眉毛〉には危険性も潜在しています。
 この場合は、世間的価値判断を離れてみる、人間の我欲を観るといった能力が付与されていますが、〈自分が観たいように世の中や人間を観る〉可能性もあるということです。
 たとえば、斜に構えるタイプの方は、鋭い批判力を持っていても、人望を得にくかったりします。
 多くの人びとがとらない姿勢で世間へ対してみると、世間の様子や人間の本心が、普段とは異なった明暗の中に浮かび上がってきたりします。
 そして鋭い舌鋒で話し、妥協しない姿勢がとられる一方、自分が信じる正義を実現するために最も大切なはずの人徳を磨くことが忘れ去られたりもします。

 断食で死のうとして失敗した記録を綴った『死にたい老人』という本が売れているそうです。
 作者は自分をC級の人間と位置づけ、世間の指導者層であるA級の人間への不信を募らせていますが、これもまた、自分なりの〈狼の眉毛〉を持っているという信念なのでしょう。

 かつて、古代ペルシャのゼミール王が、即位と同時に人類の歴史を編纂しようと思い立ちました。
 学者たちが総動員され、半世紀もの長い間かかって精緻な人類史の結論が出ました。

「人は生まれ、人は苦しみ、人は死ぬ」


 釈尊は、ありとあらゆる思想哲学を研究し、ありとあらゆる難行苦行を行い、人間の根源的なありようを確信しました。

「人間もこの世もままならぬ苦にあり、苦には煩悩(ボンノウ)という原因があり、煩悩を根幹の無明(ムミョウ)から退治すれば苦はなくなり、退治するには確かな方法がある」


 愚かな男が、〈狼の眉毛〉を手放し、愚かしい妻と連れだって家へ向かうところに、『狼の眉毛の話』が持つ大切なポイントを感じます。
 いったん〈狼の眉毛〉をかざし、新たな視点でいつものとらわれから離れてみるのは一段のレベルアップ。
 そして、〈狼の眉毛〉を手放し、清々しい気持で日常生活を取り戻すことが、もう一段のレベルアップなのではないでしょうか。
 夫婦の和解をさせたもの、それは何なのか──。
 よくよく考えてみたいものです。

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2011
10.14

色即是空へのこだわり

 最近、「仏教って色即是空(シキソクゼクウ)だと聞きましたが、要は〈もののあわれ〉ですよね?」といったお話をしばしば、耳にします。
 さまざまな方面の方々が仏教について発言しておられ、寺院巡りの静かな流行を見ても、仏教への関心が高まっているという感じがあります。
 その一方で、葬儀の際にご本尊様を祀らないケースが増えるなど、趣味や好みや感覚とは違う〈宗教としての仏教〉が脇へおいやられつつあるという気もします。
 宗教としての仏教とは、導きや救済としての仏教という意味です。

 例を挙げます。
 般若心経は確かに「色即是空(シキソクゼクウ) 空即是色(クウソクゼシキ)」と説いています。
 しかし、その前に「色不異空(シキフイクウ) 空不異色(クウフイシキ)」とあり、その後に「受想行識(ジュソウギョウシキ) 亦復如是(ヤクブニョゼ)」とあって、最低、これを〈ひとまとまり〉として受け取らないと、観音様が開かれた悟りの世界をかいま見ることはできません。
 現代人は、有名人の言葉の短いフレーズをとって攻撃したり、あるいは短いフレーズを魔法の言葉のように使うのが得意に見受けられます。
「~のすすめ」といったノウハウ本がヒットし、私たちは、何ごとにせよエッセンスの部分を効率よく活用することが習い性になっているようです。
 しかし、1000年の単位で導きの星となっている経典は、そうした対応を受け付けません。

 般若心経に触れたいならば、最低でも、この文章全体を一つのものとして考えてください。
 そうでなければいかなる「~ですよね」も、的外れになってしまうことでしょう。

「色(シキ)は空(クウ)に異(コト)ならず、
 空(クウ)は色(シキ)に異(コト)ならず、
 色(シキ)は即(スナワ)ち是(コ)れ空(クウ)、
 空(クウ)は即(スナワ)ち是(コ)れ色(シキ)、
 受(ジュ)想(ソウ)行(ギョウ)色(シキ)も亦復(マタ)是(カク)の如(ゴト)し」

 
 当山では般若心経をこうした読み下し文でも唱え、質問を受けているので、当山の例祭などに出ておられる方々はきっと、「色即是空」だけにとらわれてはいません。
 では、この一節は何を説いているのか?
 要は、モノも心も、確かに有るが、その実体を探求してみれば、何も無い、すなわち空であるということです。
 そして大切なのは、「色即是空」の「色」はモノなので、「色即是空 空即是色」で終わってしまってはならないということです。
 それでは、モノの世界を眺めている自分自身の心は省みないままで、一知半解にもなりはしません。
受想行識」すなわち、感受作用などとしてはたらいている心もまた「如是」すなわち、同じなのであるというところまで行ってこそ、般若心経の世界のドアは正しく開きます。
 これを「外境内心有無平等(ゲキョウナイシンウムビョウドウ)」といい、モノとして広がっている環境世界や自分の身体も、目に見えない自分の内側に広がっている心も、「空(クウ)」というありようとして平等であると観るのが正しい理解方法です。

 般若心経という経典による導きや救済はここから始まります。
「何となく、もののあわれに通じるものを感じます」は、経典の導く到着点へ着いたのではなく、入り口の前に立った状態です。
 迷っている自分が本当に安心したい、生きる上での核心となる意識を持ちたい、自分の足で人生という道を踏みしめながら歩いているという実感を持ちたい。
 こうした願いを持たれたならば、入り口のドアを開け、その中で半歩先を歩んでいる行者に声をかけることです。
 もしくは、行者と一緒にドアを開けることです。
 もののあわれといったフィーリングによる癒しで救われるなら、それも結構でしょうが、生死をかけた局面などで暴風や恐怖に立ち向かおうとするなら、ドアの中へ入ることをお勧めしたいと思っています。

20111012 01122



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2011
10.13

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その29)─礼儀と社会─

 江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「人倫(ジンリン)礼(レイ)有れば
 朝廷に必ず法在り
 人として礼無きは  
 衆中(シュウチュウ)又過(アヤマ)ち有り」


(人間一人一人が礼儀を大切にすれば、
 政府も必ず法に則して政治を行う。
 人間から礼儀がなくなったなら、
 社会は過ちに満ちる)
 
 よく「礼儀作法」と言います。
 これは礼儀作法が一緒になった言葉ですが、あくまでも礼儀が先で、作法とは洗練された礼儀の実践法法です。
 では礼儀とは何か?
 それは、自ずからなる敬意の表現です。
 よく「礼儀正しい」という言い方をします。
 それは、「敬うべき相手をきちんと敬う心があり、それがふるまいに表れている」という意味です。
 ここには〈べき〉があり、そこには伝統の重みがあると同時に、若い方々からすなおに受け入れられにくいという難点も含まれています。
 礼儀は目上を敬うところから始まりますが、目上の典型は自分より年長者であり、親であり、先生であり、先輩です。
 もしも、先輩が自分をいじめ、親がいつも夫婦げんかをし、先生が暴力を振るい、先輩が後輩をこき使うならば、〈べき〉をどうして受け入れられましょうか?

 子供たちへ礼儀の何たるかを教えるためには二つの法法があります。

 一つは、年長者や親などが礼儀を尊ぶ生き方をして見せることです。
 そのための心構えはただ一つです。
 目下へも、目上へも、子供へも、親へも、生徒へも、先生へも、同輩へも、伴侶へも、誰にでも敬意をもって接すること。
 当山へは、法事などで老いも若きも一緒に来山される場合が多々、あります。
 私は当然、大人へも子供へも等しく挨拶の言葉をかけますが、大人と同様の挨拶をする子供も結構います。
 挨拶が返ってくるのではなく、先に立派な挨拶をされて大きく相好を崩させられる場合すら、少なくはありません。
 そうした時、私は観察します。
 マニュアル的に言葉が発せられているのか、自然に言葉が出ているのか──。
 もしも自然さを感じられれば、ようやく本当の安心と喜びが心へ広がります。
 周囲の人びとが、人間を敬い、自然を敬い、生きものを敬い、仏神を敬っている環境に育った子供には、必ず敬う心が育ち、真の礼儀が身につくことでしょう。

 もう一つは、作法をしっかり身につけさせることです。
 形から入るのです。
 そこで不可欠なのは、できる限り作法の背景について話し、もしも子供から質問が出たなら、必ず〈敬意の話〉をしてあげることです。
 ここで「こういうものだ!」と押しつけてしまうと、子供は反発して言うことをきかなくなるか、もしくは表面ではマニュアル通りの作法を行っても、心は敬意の育たない乾いたものになってしまう危険性があります。
 剣道であれ、相撲道であれ、茶道であれ、医道であれ、仏道であれ、およそ「道」と名がつくものはすべて型という「形」から入ります。
 型を血肉になるまで繰り返して身につけなければ、奥義は究められません。
 そして、最近、ある大病院の院長先生から「自分の未熟をまた、知らされた。まだまだ勉強が足りない」という言葉を聞きましたが、道にはきっと到着点はないのです。
 では、どこまでも続く繰り返しを可能にさせるのは何か?
 それはという名の覚悟であり、仏道では発心(ホッシン)と称します。
 子供に作法を教えるならば、どこかでこうした覚悟に似た「そうか。そうしよう」という思いを起こさせ、「そうしないではいられない」姿勢へと導きたいものです。
 前述の、〈自然に〉挨拶のできる子供になって欲しいのです。

 こうして私たちが敬意を持つ人間になれば、国家社会の動きも、きっと、人間への敬意をふまえたものとなることでしょう。
 もしも私たちが人間を敬わず、自然を敬わず、生きものを敬わず、仏神を敬わなければ、社会に人道から外れた過ちが満ちるのは当然です。
童子教』は童子への教えですが、大人もまた、学び直す必要がありそうです。

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2011
10.12

ノーベル文学賞を受賞したトランストロンメル氏の詩

 今年のノーベル文学賞に決まったスウェーデンの詩人トランストロンメル氏の詩を読もうとしても、日本語に翻訳された本はあまりに高価で買えません。
 ようやく、10月12日付の読売新聞に上倉あゆ子氏が2篇紹介されたので、読むことができました。

』と題された一篇。

「突然放浪者は出会う 古い
 樫の巨木に、あたかも石化したヘラジカ
 どこまでも拡がる角 九月の海の
 暗緑色のとりでの前に。
 
 北からの。ナナカマドの実の
 房が熟す頃。暗闇の中 目を覚ましていると聞こえてくる
 星座たちがそれぞれの馬房の中 足を踏みならす
 樫の木の上高く」


 放浪者は解き放たれた詩人
 巨木、じっと動かずにいる巨きなヘラジカ、暗緑色の背景、まっ紅なナナカマド。
 北風の中で激しく高貴にまたたく星々。
 深い暗喩を持ったイメージたちが織りなす心象風景は、異国の風景を想わせ、異国の詩人の魂を想わせます。

朝の鳥』より。

「わたしの詩が育っていく様を 感じるのはすばらしい
 わたし自身は縮む一方で。
 それは育ち、わたしにとってかわる。
 わたしを押しやる。
 わたしを巣から投げ出す。
 詩が完成する」


 心が言葉を紡ぎ出す時、言葉の世界は広がり、心はその風船の中へと収斂して行く。
 自由な心だったはずなのに、どんどん言葉の風船がふくらむと、心が小さな巣だったことを知る。
 風船の輪郭がなくなり、無限の可能性を持ったものとして詩が完成する時、もはや巣も心もなく、真の解放が訪れています。

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2011
10.12

照れば降れ、降れば照れとの叫びかな  ─ご祈祷と救済─

 敬虔な信徒Aさんが交通事故を起こしました。
 吹雪の高速道路を走行中、路肩に積もり固まっていた雪にタイヤをとられ、スリップして左前方を大破しました。
 電話の声はおちついたものですが、生やさしい内容ではありません。
「滑って車が蛇行し始めた時は『あっ、死ぬ』と思いました。
 何とか姿勢を立て直そうとしても駄目でガードレールに突っこみました。
 でも、助手席のドアは開かないほど酷いのですが、ライトもウィンカーも点くし、どうやら走れるのでパーキングまで行ってから警察に通報しました」
 
 Aさんは去年、はるばる仙南の町から当山まででかけ、安全祈願をしていました。
 かすり傷一つ負わなかったこと、前後に車がなかったので二次的な事故を起こさなかったこと、すぐにパーキングまで移動できたこと、車体はガムテープだらけになってはいても、次の車を買うまで何とか使えることなどを〈ご加護〉と考えています。
 そして、また、安全祈願に来山されるそうです。
「最近ちょっと、いい気になって走っていましたから………。
 今後はもっと注意します。
 本当に助かりました」

祈願したのに事故が起きた」と取引的な感覚で判断するのも一つの考え方。
 Aさんのように判断するのも一つの考え方。
 このあたりで生きる姿勢が大きく分かれます。

 そもそも、私たちの周囲で起こることはすべて、直接的原である〈〉と間接的原である〈〉によってもたらされますが、私たち凡夫はこののすべてを知ることはできません。
 大空を人工衛星が回っていること、たった今、どこかの山上で一本の樹木が斬り倒されたこと、さっき、コーヒーをすすりながら友人と人生を語り合ったことなど、遠くで起こり近くで起こるありとあらゆることごとが、何かのとなりとなり得ます。
 そして、私たち自身、自分の意志で生きていると思っていますが、いったい何々が今の〈生〉を保たせているか、そしていつまで生きていられるかすら、わかってはいないのです。
 ある日突然、重病に罹っている事実が医師から宣告されたほとんどの人びとが「どうしてこれまで気づかなかったのだろう」と思うはずです。
 立った今、自分のものであると信じている自分の身体がどうなっているのかすら、当人に知られてはいないのです。
「~が~をもたらした」
 この判断はすべて、私たち一人一人の考え方、生きる姿勢の反映です。
 もちろん、「霊柩車と会ったのに親指を隠さなかったから病気になった」、「白い蛇を見て黙っていたので宝くじが当たった」などという判断方法へあまりに傾くのは問題があります。

 いずれ、どう判断しようと、その人その人の人生ですが、私たちがこうした存在であることだけは忘れない方が良いのではないでしょうか。

「照れば降れ、降れば照れとの叫びかな」


 旱(ヒデリ)が続くと、稲作をしている人びとは雨乞いをしたくなります。
 明日の遠足を楽しみにしている子供は、屋根を叩く雨音を聞きつつ、てるてる坊主に祈りながら寝ます。
 私たちの願いや祈りは、実に勝手なものである一方、実に健気で愛すべき真実に彩られた人生の一部でもあります。
 祈り、結果を得る時、私たちは〈その時の自分〉が仏神に試されており、〈次の自分〉をどうするかが突きつけられてもいます。

 Aさんは祈り、事故を起こし、助かりました。
 祈った自分を省み、感謝し、また、祈りつつ生きようとしておられます。
 Aさんは謙虚さと潤いのある生き方を選ばれていると言えないでしょうか。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
10.11

大津波で思い出した『庭の千草』

 平成16年12月26日、スマトラ島北西沖のインド洋でマグニチュード9・1の「スマトラ島沖地震」が起き、ニュースを目にして「………ああ」と嘆息するたびに、懐かしいアイルランド民謡『庭の千草』が頭に浮かびます。
 なぜ、小学生か中学生の頃に習った秋の歌なのか……。
 不思議に思って里見義の歌詞を思い出してみました。

庭の千草も むしのねも
 かれて さびしく なりにけり
 ああ しらぎく 嗚呼 白菊
 ひとり おくれて さきにけり

 露にたわむや 菊の花
 しもに おごるや きくの花
 ああ あわれあわれ ああ 白菊
 人のみさおも かくてこそ」


 この歌は、明治時代、西洋へ追いつき追い越せという姿勢でとり入れたアイルランドの曲に日本人が作詞した『文部省唱歌』です。
 子供でも理解できるような情緒や哀感に満ち、意識の底にしっかりと残っていました。
 しかし、何度口ずさんでみても、地震や津波の悲惨な映像から受ける印象と、歌の哀感との間には微妙なズレがあり、とうとう、トーマス・ムーアの原詩を調べてみました。
 そして驚き、納得できました。
 実体は、とても〈子供の歌〉ではなかったのです。

『The Last Rose of Summer(最後の夏のバラ)』という詩は三番まであります。
 一番では、最後の一輪になってしまったバラを見つけた人が、仲間をすべて失ったバラの寂しさを想っています。
 二番では、バラへやがて訪れる死の時のために、先に逝ったバラたちが積もってお墓のようになっている木の周囲へ、そっと葉を散らしてやります。
 三番では、我が身をふり返り、何人かの親しい人々が次々と去ったなら、このバラと同じく一人になった自分は、果たして生きて行くことができるだろうかと慨嘆しています。

 ようやく今、被災した地域で人々が生きる力を失いかけていることを肌で感ずるように知りました。
 最初に津波のニュースに接した時、夢に何度も現われているイラクの状況を想い起こしたものですが、まだ、よくわかっていませんでした。
 しかし、くり返し祈っているうちに、現地の人々の心が懐かしい歌を通して届いてきたのでしょう。

 三番の終わりのところに、目を釘付けにして離さない一節があります。

「Oh! who would inhabit(ああ、いったい誰が、なおも生きて行けようか)」


 現地の絶望は察するに余りあります。
 ご加護を祈りましょう。
 ―――皆さんと一緒に。
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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2011
10.11

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第六回) ─師は功徳の源─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第六回目です。

「その人に従えば欠点がなくなって、功徳(クドク)が上弦の月のように満ちてくる、そのような善友(ラマ)を自分自身の身体よりも大切にする、それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 ここで言う善友は友だちではなく、僧(シソウ…となって導いてくださる僧侶)です。
 今の私たちが学び、歩んでいる仏道は、過去において無数の行者・聖者・菩薩(ボサツ)が学び、歩み、研究し、確かめ、発見し、整理した膨大な成果から成り立っています。
 無数にある修行の入り口から自分の生涯をかけて選び取り、無数にある分かれ道で迷わずに大道を一生、歩み続けるためには、先に歩んでいるの存在が不可欠です。
 東洋のレオナルド・ダ・ヴィンチと称されるほどのお大様ですら、を求めて海を渡り、道を授けられました。
 そして、お大様がご自身の血肉をかけて密教を生き、体系化され、それを体得し伝える方々がおられたからこそ、凡夫である私たちが過たずに学び、実践できます。
 先人の労苦なくしては、印一つ結べず、真言一つ唱えられはしません。 
 印を結び、真言を唱え、イメージする身(身体)・口(言葉)・意(心)の修行に入ると、必ず疑問が生じます。
 そこで導き、勘所(カンドコロ…外せない要点)を示し、魂のステージを上げてくださるのは、師をおいて他にあり得ません。
 仏道という山道へ踏み込む入り口のドアを開け、遙か彼方におられながら、不思議にも弟子の半歩先を歩いていてくださるのが師です。

 もしも、師と遠く離れたり、あるいは生死の境を分けてしまったりした場合はどうなのか?
 それは、心で問えばよいだけのことです。
 必ず答をくださるだけでなく、同じ問を問い続けると、弟子のレベルに応じたレベルの答をくださるものです。

 不動明王の経典にこう説かれています。

「大根の者のためには聖者(ショウジャ…不動明王)忿怒を現し、根性(コンジョウ)中根(チュウコン)の者は二童子を見ることを得、下根(ゲコン)の行人(ギョウニン)は怖れを生じて見ることあたわず。
 このゆえに、大明王、ために親友(シンウ)の形を現す。
 かくのごとく、根性に随いて大利益をなし、漸々(ゼンゼン…だんだん)に彼を誘進(ユウシン)し、阿字(アジ)門に入らしめたまう」


(悟りへの優れた力を持った行者には、不動明王そのものの姿を見せてお導きくださる。
 中ほどの行者には、善を示すコンガラ童子と悪を示すセイタカ童子の姿を見せてお導きくださる。
 未熟な行者は、怖れがあってそうした聖なる姿を見られない。
 そのために、身近な親友や師僧の姿となってお導きくださる。
 このようにして、行者のレベルにそった修行のすばらしい成果を与え、だんだんに悟りの方向へ誘い、背中を押し進め、ついには大日如来の光明界へとお導きくださる)

 不動明王大日如来の使者でありならがら、僕(シモベ)の姿をしておられます。
 私たちすべてを頭上にある蓮華へ載せてくださいます。
 そして、救い漏れはありません。
 私は行者となってすぐ、「行者は、すべての人びとのために僕としてはたらく不動明王であれ」と教えられました。
 ここまで歩んできて思うのは、師こそ不動明王であるという真実です。
 師が不動明王であればこそ、弟子へ不動明王としての歩み方を示すことができ、疑問に答えてくださるのでしょう。

「その人に従えば欠点がなくなって、功徳(クドク)が上弦の月のように満ちてくる」
 師という鏡に照らせば、自分の欠点や弱点は怖ろしいほど明らかになります。
 人は悪を行わなければ善を行うしかなく、結果的にいつしか功徳が積まれているのでしょう。
「善友(ラマ)を自分自身の身体よりも大切にする、それが菩薩(ボサツ)の実践である」
 師なくして自分の生きる道はなく、しかも、自分と同じように導かれている行者たちがいることを想えば、師が自分よりも大切なのは明らかです。
 そして、菩薩が自分を一番とする自己中心の反対をめざす存在である以上、師を戴く弟子としての修行こそ、菩薩道の実践なのです。
 このように気づきつつ、徹底できない自分を省みて、やはり師は優しくも怖ろしい鏡であると、つくづく実感させられます。

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2011
10.10

数珠が切れると不吉か

 正月最後の護摩法になりました。
 六道魔切りも6回目、いよいよ成満です。

 すべてを終える直前、またもや、数珠が切れました。
 一時間以上の供養と祈願が終わり、壇上へお招きしたご本尊様に仏界へお帰りいただく法を結んだ直後、何に引っかかったわけでもないのに、法衣の袖にかけていた数珠が二つになりました。
 スッと結び目から分かれ、組んだ膝と護摩壇との間にいくつか挟まりました。
 百八の煩悩を打ち砕き、百八のみ仏の徳を輝かせるべく、はたらき尽くしたのでしょう。
 残骸をそっと袂へしまい、かねて準備していた代わりの数珠を用いて何ごともなかったかのように導師の壇を降りた瞬間、数個がバラバラッと転がり落ちました。

 着替えてから、ご参詣の方へ数珠の話を申し上げたところ、Aさんは「何かの作法かなと思った」と言われました。
 行者は何があっても淡々と法を行わねばならないので、トラブルへ対処している動作を〈自然の流れ〉と感じていただけたことはとても嬉しく、お礼を申し上げました。
 妻は、切れるまでがんばり抜いた数珠に夫婦の姿を重ね合わせたのか、感極まっていました。
 後片付けをしていたら、ご供物を捧げるための三方(サンボウ…小さな木製の台)も護摩法の火力で炭化したらしく、二つに割れているのに気づきました。
 ご参詣の方の思いも含めて、文字通り、人もモノも総力を挙げた修正会(シュショウエ)でした。

 数珠が切れたり法具が壊れたりすると不吉であると言う人もいますが、そう断定するのはいかがなものでしょうか。
 モノはいつかは壊れ、人はいつかはあの世へ去ります。
 形あるものにはすべて〈耐用年数〉があり、さまざまな縁がそれを縮めます。
 心臓が鼓動を打つリズムは動物によって決まっており、一生の間に打つ回数も上限が決まっているというではありませんか。
 この数珠や三方のように、過酷な負担を与えられ、はたらき過ぎたモノが形を保つ力を失ったならば、不吉と怖れるよりも、「ごくろうさま」と労(イタワ)り、「ありがとう」と感謝しましょう。
 
 数珠と三方が身を呈してくれた修法に守られる新しい年が、有縁無縁の方々にとって、すばらしい一年になりますよう。
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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