--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2011
11.30

12月の行事予定

 12月の行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、み仏と祖霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭 2011/12/4(日)午前10:00~午前11:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「観音経」3巻を唱えます。

[書道教室] 2011/12/4(日)午後2:00~午後3:30
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋温香(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
 基本からの指導で、さまざまな題材へ挑戦します。
 毎月第一日曜日午後2時から開催します。

寺子屋『法楽館』第二十二回] 2011/12/10(土)午後2:00~午後3:30
 法話「今年をふりかえる~大震災と原発事故~」と対話の会を行います。
 今年は日本の土台が揺るがされ、今や、日本人一人一人の生き方だけでなく日本が生きて行くための方法そのものが問われています。
 広島型原爆三万二千発分ものエネルギーが海底に発生し陸と海を襲った余波で、安全神話に包まれた原発は悪鬼の面を顕わにしました。
 災厄をどう受けとめ、どう考え、どう生きるか。今年を総括するディスカッションを行おうではありませんか。
・場  所  大師山法楽寺    
・ご志納金  1000円(未成年者500円・被災された方は無料です)
・送迎申込  午後1時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へお迎えの車がまいります。乗車希望の方は前日までにご連絡下さい。

法話と対話「生活と仏法について」第九回] 2011/12/14(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭が丘青年文化センター会議室
・ご志納金 1000円(未成年者500円) これは目安であって自由です。被災された方は無料です。
 
[第二例祭 2011/12/17(土)午後2:00~午後3:00
 講堂にて護摩を焚きます。
 参加は自由です。
 願いをかける方は少し早めに来山し、護摩木へ願い事を書いてください。
 講堂で懺悔し、不動明王の智慧がみなぎる護摩の火へ近づき、悪しきものを祓い、善き願いへ大きな力をいただいてください。
 太鼓と共に「般若心経」3巻を唱えます。
 法話もあります。

[映画を観て考える会] 2011/12/17(土)午後4:00~午後6:00
 映画『チベット難民~世代を超えた闘い~』を観て世界の現実を学びます。
 11月5日、ダライ・ラマ法王は、石巻の門脇小学校前で見守る現地の方々の輪の中へ入り、思いを一つにされました。
 去る法王の後姿へ感謝の言葉が投げかけられました。
「チベットの平和をお祈りしています」。
 私たちは、法王のお心にお応えするためにも、チベットの現状を知り、私たちに何ができるかを考えねばなりません。
 この貴重な資料を観て学びましょう。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金  無料

お焚きあげ] 2011/12/24(土)午前10:00
 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2011/12/26(月)午前9:00~
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『四十二章経』も共に学びましょう。

隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]
 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
--------------------------------------------------------------------------------

※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。

〈稽古は厳しく、時には和やかに〉
20111119007.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


スポンサーサイト
2011
11.30

祖母への言葉に込められたもの ─安心・恩返し・供養・あの世─

 まごころが言わせる「お別れの言葉」にはやいつも考えさせられます。
 A家のご葬儀では、お孫さん三人が、亡きお祖母ちゃんへありったけの思いを述べました。
 もちろん、三人は事前に打ち合わせをしていたわけでもないのでしょうが、気持に見事なほど共通点があり、一人の人間の生きざまと死にざまが持つ影響力の大きさに畏敬の念を深くしました。

 共通点は4つです。

1 いかなる時も守ってくれて嬉しかったこと。
 親子は、時には円く、時には四角い関係でそれぞれが磨かれます。
 しかし、もう円くしか座れなくなった祖父母は、いつも円く孫に接します。
 円い心とたたずまいは、孫にとって目に見えない温かで確かなシェルターになっています。
 心の揺れが激しい若人にとって、不変の安心をもたらす人がいることはどれだけ大きな救いとなることでしょうか。

2 静かで暖かなたたずまいに心が和まされていたこと。
 老人には若人ほどの激しさや鋭さはあまりありませんが、その分、穏やかさや暖かさはたっぷりあります。
 老人は単にいのちの勢いが薄れているだけでなく、若い頃に発揮できなかった徳を発揮しながら生きているのです。
 若い人がそれを感じることは、心が大きく広く豊かになれることです。

3 これまでは受けた恩に報いられなかったけれども、これから恩返しをすること。
 受けた恵みを素直に恩と感じ、自分をふり返って謙虚になり、これから自分もそうした恵みのある世界を生きることによって恩返しをしたいという気持は、私たち日本人の心を支える清浄な土台です。
 恩返しをもって行う以上の供養はありません。
 人の死という尊い機会によって、この点がくり返し自然に確認されている限り、日本はきっと大丈夫でしょう。

4 安心してゆっくり休んで欲しいこと。
 心を澄ませば、この世とあの世が緩やかにつながっていることに気づくはずです。
 そして、先に逝った人々が見守っていてくださることも確信できます。
 自分もまた、あの世へ行けば生きている人々を見守っていたいと思います。
 ご先祖様方が生き死にをくり返したいのちの流れの中で、こうした安心の核がつくられ自然に伝えられてきました。
 感謝し、同じ核を大切にして生き、死んで行きたいものです。

 こうして並べてみると、いずれも平々凡々たる祖母と孫の心模様のようですが、ここには、この世とあの世と未来への安心が何によってもたらされているかが、見事なほど過不足なく示されています。
 三人には、この「お別れの言葉」を生涯、大切にして生きていただきたいものです。
 葬儀という場の大切さ、安心の基盤、守り伝えてゆくべきものの価値を再確認させられました。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

〈観音様は母親だけではありません〉
201111302.jpg

〈絶対のシェルター〉
img55635806.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.29

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その35)─正しい信じ方─

 江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

信力(シンリキ)堅固の門(カド)には  
災禍(サイカ)の雲起ること無し
念力強盛(ゴウセイ)の家には  
福祐(フクユウ)の月(ツキ)光を増す」


(信じるべきものを信じて揺るがない人びとの家には
 災いの暗雲が起こらない
 念ずべきものを念じる力が強い人びとの家には
 幸福が月光の増すようにどんどんやってくる)
 この教えは、よく学び、信ずべき価値あるものを自分できちんと見つけられるような人になること、また、友情など、見つけた宝ものはしっかり守り抜くことの大切さを教えています。
 それは、同時に、付和雷同(フワライドウ…自己の確立がなく、他人に引きずられること)を戒めてもいます。
 ただし、よく考えないで信じ込み、視野を狭くしてしまう盲信(モウシン)ではなりません。

 かつて、ブログ「五力」へ書きました。

「信じるとは、疑いが無く、魂をポーンと投げ入れてしまい喜びや充実感や安心が深まる状態です。
 それは、決して判断をしないという意味ではありません」


 そして、み仏の教えが本当に〈信じられる〉ためには、いて、考えて、修めるという過程が必要であることも書きました。

「『(モン)』は、くことであり、学ぶことです。
 それが本ものなら必ず対象を仰ぐ姿勢になるはずです。
 相手の人格にうたれた時は、無意識に相手を仰いでいます。
 それを『仰信(ギョウシン)』と称します。

(シ)』は学んだことをよく考え、自分でやってみて肝心なところをきちんと理解することです。
 それを『解信(ゲシン)』と称します。

『修(シュウ)』は習い修めることです。
 もちろん、仰ぐ人はどこまで行っても自分より高く、どこまで行っても背中に追いつけはしませんが、少なくとも、歩かれた道を自分もたどっているという確信は持てます。
 いつのまにか、出会と相手の高みの真実性を自分で証明しているのです。
 それを『證信(ショウシン)』と称します。

 信じるとはこういうことです。肝心なものが自分の血肉になることです。
 み仏のご用意くださった出会があり、精進があり、確信にたどりつきます。
 その過程を貫くものが信という心棒であり、過程によって信は強まります。
 心を澄ませていれば、きっと聖なる出会が生じ、信じるありがたさに深い感謝の持てる時がくることでしょう」

 
 何を信じるにもこうした過程があれば安心であり、信じる力も強くなって人生の牽引車になります。
 ただし、合理性や安全性を無視した信力念力の強制は極めて危険です。
 戦争を経験したAさんは、勉強会でしみじみ言われました。

「軍隊では、40キロを1日で進む行軍の訓練がありました。
 もちろん完全装備の状態で、小走りを続けるのです。
 過酷なあまり当然、動けなくなる者が出ます。
 完遂しないとグループ全体の責任になるので、引きずったり、担いだりしながらでも、何とか仲間全員で目的地へたどり着こうとします。
 私が参加させられた訓練では2名の死者が出たこともあります。
 肝っ玉が据われば何でもできる、出来ない奴はたるんでいるという歪んだ精神主義は実に怖ろしいものです。
 二度とあって欲しくありません」


 狂信を強いる教団に取り込まれたご家族を、一緒になって取り戻した体験もあります。

 良いとされることは、よくき、自分で考え、納得したならとことん修め信じて生きる糧や柱にする。
 こうしたプロセスの大切さこそ、この教えに学び、指導するポイントではないでしょうか。

20111129002.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 
2011
11.28

安心と安全の問題(その2) ─あんじんと麻原彰晃死刑囚─

 ブログ「安心と安全の問題」において、安心には「あんしん」と「あんじん」があり、あんしんは、何かの〈安全〉によって得られ、あんじんは、安全とはほぼ、無関係で得られると書きました。
 心の外側に〈何かの安全〉を求めなくても、心の内なる敵が滅ぼされていれば心を安らげられ、完成するのがあんじんです。
あんじんってどういう状態ですか?
 どうすれば得られますか?」
 さっそくこうしたご質問があったので、簡単に書いておきます。

 問題は〈内なる敵〉です。
 それは、何かを実体視してしがみつく「執着」と、自己中心的な自分可愛さ、つまり「自己愛着」です。
 震災後、ある窯元とお会いした時に「大被害だったでしょうね」と申し上げたところ、彼は、破顔一笑「すっかりやられて、さっぱりしました!」とあまりに元気な声で応えられ、一瞬、とまどいました。
 きっと「もう、これは超えられないかも知れない」と秘蔵していた傑作も欠片になってしまったのでしょう。
 そして、もしかすると執着を離れられたのかも知れません。
 大企業を育て上げた方から、生前戒名と生前葬を依頼されました。
「もう、やり残したことはありません。
 早くお迎えが来てもらいたいと毎日、仏壇の前で拝みます。
 苦労かけた家内のところへ行ってやりたいのです」
 自己愛着を超えられた彼は、「言い残すことはない」を最期の言葉とし、従容と去られました。
 あんじんに近づかれたお二人には、何の〈安全〉もありません。
 事故を起こした原発が安全であるならばあんしんを得られる住民の方々の思いとは少々違います。

 さて、麻原彰晃死刑囚を考えて見ましょう。
「何を考えているのかわからない」「精神の病気ではないようだ」「しゃべらないけど食べて飲んで運動している彼の心はどうなっているんだろう」。
 多くの疑問が発せられていますが、私には、彼の状態がよくわかります。
 あんじんの世界へ入ったのです。
 しかも、誤った方法で、誤った浄土へ逃げたのです。
 方法を誤ったとは、慈悲すなわち利他の心を脇へ置き、空(クウ)のみを求めるやり方へ走ったことを指します。
 誤った浄土とは、何ものにも左右されず自分だけの心を安らげる世界を指します。

 仏道は、執着自己愛着を離れるために、空を理解する「智慧」と、利他の姿勢に徹する「慈悲」の二つを求めて修行します。
 つまり、自分を含めた何かにとらわれず、誰かの何かの役に立たないでいられない人になることが目標です。
 麻原彰晃死刑囚には、後者が決定的に欠けていました。
 だから、弟子たちにも、「財産を持って出家せよ」「汚れた世間を離れよ」と、世間からの隔離を指示しました。
 政治の世界に関心を持ったのも、具体的な人間一人一人に思いやりをもたないでいられないからではなく、この世に気まま勝手な浄土を創ろうとしただけのことです。
 すばらしく頭の良い弟子たちは結局、教団の中でしか通用しなかったではありませんか。
 教団で得られるのは真のあんじんではなく、一時的なあんしんだけでした。
 毎年100人もの若者が世間からの隔離を求めてオウム真理教の後を嗣ぐ教団へ入団している現状は、まことに怖ろしいと感じています。
 また、安らぎや心のケアを求める時代に応じて、さまざまな心のトレーニング法が提唱されていますが、仏教系を含め、どこかへ〈逃げ込む〉スタイルのものが多いことも危惧しています。
 たとえば、嫌な上司から何かを言われた時に、訓練された心で上司との間を遮断してしまうようなやり方は不健全であり、危険でもあります。
 もしかすると、こうした〈逃げる訓練〉が現代型うつ病にも関連性があるのではないかと考えています。

 前述の陶芸家も、企業家も、あんじんに近づかれました。
 しかし、それは、大被害や自分の死というギリギリの状況によってもたらされました。
 仏法には、普段の生活をしながら徐々にあんじんを得られる方法があります。
 当然、オウム真理教や怪しげなカウンセリングのように傾くことなく──。
 2500年の歴史を信じて励みたいものです。

20111010 010



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.27

安心と安全の問題 ─原発の安全を願う?それとも安心?

 安全は科学の問題であり、安心は心の問題でありひいては宗教的問題であるとの指摘があります。
 確かに、科学者が〈安全〉について根拠のある話をするのではなく、軽々に〈安心〉を口にすることは疑問視されます。
 また、絶望的状況や危機的状況にあって、安心というあいまいなところへ向かう時の危険性は深く考慮されねばなりません。
 山岳部のリーダーだった小松秀樹医師の言葉です。

「冬山では、ばてたときは余裕のある間にギブアップするように言っていました。
 もうちょっとだから頑張れというのは禁句です。
 先の見通しなしに、本当に頑張ると、ひどく危険なことになりかねません。
 危機的状況で、安心だと説明して励ますことが、必ずしも、有用だとは思いません。
 自分の善性をアピールしたいという利己的願望に歪められた言説だと思います」


 判断と説明を求められる科学者や政治家の責任ある態度はいかなるものか、おおいに議論されるべきです。
 ここでは、そうした議論をふまえつつ、違う観点から安全安心について少々、考えてみます。

1 安心には「あんしん」と「あんじん」がある。

 あんしんは、何かの〈安全〉によって得られます。
 何かにかかわって成立します。
 たとえば、安心して眠られる、安心して子供を育てられる、安心な老後を送る、安心な食事が確保される、などなど。
 一方、あんじんは、安全とはほぼ、無関係です。
 心そのものにかかわるので、問題は内なる敵だけです。
 心を安らげることそのもので完結しています。

2 私たちが切実に安心を求める時のほとんどは、「あんしん」の問題であり、「あんじん」にまでは至らない。

 安全とは、全てを安らげることであり、何かに限定されて判断され、結果的には安心に結びついて完結します。
 たとえば、安全な車を作る場合、車を使用する上で考慮されるべき全ての面で安らげる、つまり問題がない車でなければならず、それは、とりもなおさず、安心が求められていればこそ追求されるべき理想ということになります。
 使用者が安心を求めていなければ、安全は、ほぼ無意味になるのではないでしょうか。

3 私たちが求める安全とは、特定される何かの〈全て〉について危険や偽りなどがなく、それを保証するプロへの信頼によって、何かを求める人が〈安らげる〉状態である。

 たとえば消費者が求める「米の安全」とは何でしょうか?
 それは、有害物質などをまとっていないので食べても危険でなく、表示どおりの産地で作られた本ものであるから支払った対価が妥当であるという必要性があります。
 しかし、必要な要素の全てについて、消費者自身が確認するのは困難です。
 だから、生産者と流通業者への信頼がなければ、「米の安全」は確保できません。
 また、危険かどうかを確認するプロである科学者や、社会システムを動かす政治家や、事件・事故が起こった場合の処置をする警察官や検事や弁護士や裁判官などへの信頼も不可欠です。
 あらゆる面で〈プロへの信頼〉が欠かせず、消費者は、プロが信頼できない時は安全が確認できないため、安心できず、不安になるのです。
 もちろん、最近では、消費者の目を生かすシステムがどんどん発達してはいますが、やはり、日常生活においては無意識のうちにプロを信頼し安全と思っていればこそ、安心して米を買い、食べているはずです。

4 原発事故に関するプロの方々の対応は、安全と安心の観点からどう判断されるか、また、私たちはプロの方々へ求めるものをまちがってはいないか。

 科学者には根拠を示した上で、〈安全〉についてわかりやすく語っていただきたいものです。
 私たちはその内容に信頼感が持てれば、安全度の確認ができたことになり、おのずから〈安心〉の具合も定まり、納得できます。
 また、私たちは、相手が科学者であれ、政治家であれ、その面のプロとして求めるべきものを求めるようにしたいものです。
 そして、プロでない相手へプロでなければ判断できないはずのものごとについて安易に判断を求めないようにしたいものです。
 最後に、プロでないにもかかわらず、プロでなければ判断できないはずの分野について声高に断定的に言挙(コトア)げする人や団体をうかつに信用しないようにしたいものです。

2011112100433.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.26

宗教により真人間(マニンゲン…真の自由人)になろう

 宗教と聞いたとたんに「縛りつけられる」と反応する方が多いのではないでしょうか。
 だから、宗教離れが進んでいるのでしょう。
 しかし、真の宗教は決して縛りつけません。
 縛りつけるのは〈教主や教団の都合〉です。
 真の宗教は、さまざまなとらわれによって自縄自縛になっている生き方を清々(スガスガ)しい生き方に変えるものです。
 なぜ、そうなるか?
 心の柱ができると、自分という固い甲羅を自分で打ち破る力がつくからです。

 仙台市にスペルマン病院があります。
 ここの緩和ケア病棟(ホスピス)で最期を迎え、当山に来られた方やそのお身内はたくさんおられます。
 しかし、誰一人「病院でキリスト教への入信を勧めらました」と言わず、ていねいで心のこもった対応に感謝しておられます。
 病院長志村早苗氏からのメッセージです。

「当院では、患者様が病気を治すことに少しでもお役にたてるように職員一同、努力しております。
 また、治療の間、とりわけ、慢性の病気で長期療養を余儀なくされる場合も、可能なかぎり、苦痛のない快適な生活ができるようにお手伝いをするようにこころがけており、このような患者様への奉仕の精神で、職員一同、働いております。
 この奉仕の精神は病院開設以来のものであり、多くのボランティアの参加をいただいておりますし、また、病院経営にあたっても利益を追求しない非営利の方針を守ってきております。
 これはキリスト教の博愛、平等、奉仕の精神に通じるものでありますが、当院では当然のこととして患者様の宗教などを含めた個人の生活観、価値観などを大切にして診療をさせていただいております。
 もし、キリスト教の信者でないといけないのではないか、宗教活動をしているのでないかとか、また、そうでなくとも、なんとなく堅苦しい病院という印象をもたれることがあれば、そんなことはまったくありませんので、気軽にこの光ヶ丘スペルマン病院を御利用いただけるように、お願い申し上げます」


 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「特定の宗教を信じようと信じまいと、それは大きな問題ではありません。
 慈悲、思いやり、寛容、他の人を尊重する、前向きな心を養うことで、最終的に平和で内なるバランスのとれた心に到達することができます。
 積極的な心の状態は、その本人だけの利益にとどまりません。
 そのような心を養っている人は、その人を取り巻く社会だけでなく、ついには国家や世界全体にも建設的な貢献ができるのです」


 チベット仏教の最高指導者が「特定の宗教を信じようと信じまいと、それは大きな問題ではありません」と説くのは奇異に聞こえるかも知れません。
 しかし、宗教の真の目的からすれば当然のことです。
 宗教はの目的は人間を真人間にすることであり、真人間とは本来の人間たる真の自由人だからです。

 真の自由人は、他人の自由も尊重します。
 真の自由人は、解き放たれた自分に感謝しています。
 真の自由人になるためには「慈悲、思いやり、寛容、他の人を尊重する、前向きな心」などを育てればよいのです。
 その方法が「特定の宗教」にしか与えられていないなどということがあり得ましょうか。
 志村院長の思想と行動とその結果、ダライ・ラマ法王の思想と行動とその結果──。
 珠玉の実績は、宗教における真実が何であるかを如実にしめしているとは言えないでしょうか。
 当山と仏縁を結ばれる方々と一緒に、ただただ真人間(マニンゲン…真の自由人)になりたい……。
 その道を共に歩みましょうと呼びかける気持で法務を行っています。

201111223.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.25

映画『チベット難民~世代を超えた闘い~』を観て世界の現実を学びましょう

 11月5日、ダライ・ラマ法王は、石巻の大川小学校前で見守る現地の方々の輪へ足を向け、手を合わせ、思いを一つにされました。
 そして去る法王の後姿へ感謝の言葉が投げかけられました。
チベット平和をお祈りしています」。
 私たちは、ダライ・ラマ法王のお心にお応えするためにも、現在、チベットで何が起こっているかを知り、私たちに何ができるかを考えねばなりません。
 ぜひ、この貴重な資料を観て学びましょう。
・日 時 12月17日(土)午後4時より6時まで
・場 所 法楽寺講堂
・参加費 無料

20111124.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.25

立川談志師匠を悼む ─自立そして業─

 11月21日、落語家の立川談志師匠が75才の生涯を閉じられました。
 テレビのお笑い番組などでは舌鋒鋭い毒舌で広く人気を集めていましたが、彼が見せたあらゆる芸の根はもちろん落語でした。
 しかも古典落語においてはプロの誰もが一目置くほどの精通ぶりであり、古典をこそ自分の血肉としていました。
 31才の時に真打ち昇進制度をめぐって師匠の五代目柳家小さんから離れました。
 図抜けた才能を持っていながら、将来いわゆる「名人」と称され得る栄光が待つ道から外れ、「落語立川流」を創設し、いばらの道を歩みました。
 私は師匠の落語も政治家になった経緯も人柄もよく知りません。
 ただ、古典を探求してそこに何か〈神髄〉を見つけたからこそ、落語界における〈方法〉に納得できなかい面があったのだろうと感じていました。
 神髄は自分が具現化する時に完璧に行われねばならないだけでなく、自分が納得できる形で落語界に保ち続けられねばならないのです。
 だから師匠は、先に亡くなった柳家小さんを生涯、慕い、プロとして認めていながら、歯を食いしばって葬儀を欠席したのでしょう。
 そして、自分の弟子にも完璧を追求するよう求め、生ぬるいと判断すれば厳しく破門したのでしょう。

 また、師匠には「(ゴウ)を肯定し、表現するのが落語の使命だ」という信念がありました。
 とは、人間が否応なく背負って生まれ、善悪こもごもの生を生きているうちに積み重ねている〈生きた証〉です。
 私たちはその証をつくりつつ背負い、下ろすことなくあの世へ旅立ちます。
 仏法は、を招いていると観ます。
 そして、自他のを見過ごせず滅しないではいられないので、から煩悩(ボンノウ)そして無明(ムミョウ)との元をたどり、の根源を消滅させるために修行を行います。
 師匠はきっと、が貼り付いた生をそのまま丸ごと表現し、笑いたいけど思い切り笑えない心、泣きたいけれど思い切り泣けない心、しいけど誰にもわかってもらえない心といったものを鏡に映すように目の前で見せてくれたのではないでしょうか。
 鏡を見て心がはじけた観客はきっと、そこでカタルシス浄化)を得られ、という手かせ足かせを抱えたままでまた明日を生きる力が湧いてきたのでしょう。
 
 当山は単立の宗教法人であり、伝授された法を守り、磨いてはいるものの、グループからは独立しています。
 お大師様から伝わる正統なご加持法などを実践しつつ、経典を読み下し文で読むなど独自の方法でご縁の皆さんと共に仏道を歩んでいます。
 だから、師を敬いつつ離れねばならなかった師匠の思いの一片は理解できます。
 仏法は業を解消しようとし、師匠は表現しようとしました。
 道は異なっても、業をありのままに観る者、そして業から離れられない生を慈しむ者同士として深い共鳴を覚えます。

 勝手ながら、また一人、〈師〉を失ったという喪失感があります。
 師匠のご冥福を祈りつつ、私も外れられない道をとぼとぼ歩み続けます。

20111102003221.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.24

伴侶の選び方 ─外では正しく、家では和やかに─

 結婚前の女性Aさんの口からこんな上司像を聞きました。
「Bさんはとても優しい良い人です。
 いつも私たちには親身になってくれているので、人気があります。
 でも、家庭ではひどい暴君に豹変するそうです。
 子供がいるのに夫婦関係が破綻しそうだという噂を聞いてびっくりしました。
 信じられません。
 男の人ってみんな家庭では亭主関白になるのでしょうか?」
 まだ社会人になりたてのAさんは不安そうです。

 これは決して珍しくないパターンです。
 仕事がうまく行くようにと仕事場でめいっぱい〈あるべき姿〉を演じ、その反動で、家では自分を解放しないとバランスがとれないのです。
 だから、ある程度は、家族が仕事熱心さを認め、広い心で受けとめてあげなければなりません。
 しかし、もしも、Bさんにこうした問題がれば話は別です。
「外では〈良い人〉になりたくて優しく、家では自分本位で〈厳しい人〉になっている」

 まっとうな社会人として生きるための原則の一つは「外で正しく、家で和やかに」です。
 公(オオヤケ)の場では、あくまでも正しさが第一でなければなりません。
 仕事場で「身びいき」や「なあなあ」や「人気取り」が顔を出せば、緊張感が欠け、規律が崩れ、信頼感が損なわれます。
 11月16日、中国甘粛省東部で、幼稚園児64人を乗せた送迎車とトラックが正面衝突し、幼稚園児ら21人が死亡する大惨事となりました。
 9人乗りの送迎車に詰め込まれた幼稚園児はもはや、荷物扱いです。
 その一方で、高価なアメリカ風スクールバスが教師専用で用いられているという実態もあります。
 人倫が崩壊し、仕事場で規律がなくなっている典型です。
 仕事の現場で「正しさ」が忘れられています。

 また、家では和やかさが第一でなければなりません。
 誰もが気兼ねなく大の字になれる場であることが理想です。
 もちろん、しつけはきっちりと行われねばなりませんが、「こうあれ」と相手が納得できない状態での押しつけが強すぎれば、家の意義が薄れます。
 暴君の我(ガ)が限りなく肥大する一方で、他の家族に安らぎの場はなくなります。
 亡き夫の四十九日の供養が終わったあとで、「ずっと夫の暴力に苦しんでいましたが、子供のためと自分に言い聞かせながら耐えてきました」と泣き崩れた奥さんがおられます。
 何不自由なく過ごして来られたとしか見えないお宅のご婦人が「自分の死後は、夫と一緒でなく共同墓へお骨を納めてください」と生前契約を申し出る場合もあります。
 優等生だったはずのお子さんの突然で強烈な反乱になすすべを失い、駆け込んで来る方もおられます。

 Aさんへ申し上げました。
「貴女が伴侶を選ぶ時は、外で正しく厳しくふるまい、家で優しく和やかにふるまうと信じられる人を選べば大丈夫です。
 もちろん貴女自身がそういう姿勢で生きていることが前提です。
 そうすれば、波長の合う相手が見つかることでしょう。
 守本尊様へのお祈りも忘れないでください」
 
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20111101008822.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.24

うつ病の克服 ─読み聞かせ─

 勉強会『生活仏法』に参加されたAさんは、長年、「読み聞かせの会」を続けておられます。
 子供たちの集まる場所へ出張することもあれば、自宅へご近所さんが集まることもあります。
 どういった形であれ、かつて教鞭を執ったAさんにとって、「読む」「聞く」は、学びの基礎です。
 文章と声に接して悦び、哀しみ、奮い立ち、目覚める体験を共にする時、互いの間に信頼感が芽生えます。
 以下はAさんの体験談です。
 
 去年、常連さんの一人が新顔のBさんを連れてきました。
「Bさんは家の中ににばかりいるので……」
 Bさんは皆と一緒にお茶を飲みますが、世間話には入らず、じっと話を聞き、読み手の声にも真剣に集中しています。
 あとで聞いたところによると、Bさんはご家族共々うつ病で苦しんでおられるとのことでした。
 冬になり、年配のメンバーにとっては会に集まるのもなかなか大変ですが、Bさんは時折、顔を見せていました。
 そして、あの3月11日を迎えました。
 3日経っても何もできず、ただただ家族や知人やメンバーの無事を祈るしかないAさんのもとを訪れた方がいます。
 誰だろうと思って玄関を開けると、Bさんが両手いっぱいにポリ袋を提げています。
「やっと近所の店が開いたので」
 Aさんは涙ながらにBさんの手を取りました。
 Bさんも泣いています。
 二人の涙は、Bさんの病魔が克服されつつある温かな証となりました。

 NHK総合テレビで「現代版うつ病」を観たAさんは言われます。
現代版うつ病は確かに社会的背景がある文明病でしょう。
 だからといって、観念論だけではなりません。
 やはり、一人一人へ、一人一人の手が具体的に差し伸べられねばなりません」
 かつて、教室からあふれるほどたくさんの子供たちを一人で預かり、一人一人へまめにお便りを書き続けたAさんは、今でも変わらぬ〈実践者〉です。

 Bさんはメンバーともすっかりうち解け、常連さんになりました。
 もう一人の家族を同伴する日も近いようです。

20111109002.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.23

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第九回) ─苦の様相を見極め、苦の根を断つ(その2)─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第九回目の、(その2)です。

 人はなぜ、こうした苦を背負い、苦の世に生まれるのか?
 それは、自分自身に過去世の(ゴウ)があり、人間として生まれる功徳があるからです。
 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「なぜ死の苦しみが来るのかといえば、自分自身の『』や『功徳』がなくなるためなのです。
』や『功徳』が尽きたときに、死がやって来るのです」


 そして、ことわざを示されます。

「国王は死のときに王国を置いて行き、
 乞食は死のときに杖を置いて行く」


 死に神が迎えに来れば、誰しもがただ、魂だけになり、一人で去って行くしかありません。
 過去から引き継ぎ、この世で積んだ善悪それぞれのと功徳をまとって……。

 こうして、輪廻転生(リンネテンショウ)は明らかです。
 愛して苦しみ、別れて苦しみ、無くて苦しみ、有って苦しむ私たちの宿命は〈命に宿るもの〉であって逃れ難く、生まれた以上、必ず人生につきまといます。
 では、死ねば良いかといえば、当然、そうはなりません。
 必ず、〈次の生〉がやってくるからです。
 また、死によって〈自分をなくしてしまえる〉と考えるのは錯覚です。
 自分そのものは決してなくなりはしません。
 なくなるとすれば、「自分の車」であり「自分の身体」であり「自分の若さ」であり「自分の精神」です。
 自分そのものをなくすことはできません。
 だから、死は問題の解決にまったく役立ちません。

 ではどうすれば良いか?
 苦の原因を絶つことです。
 それには、生をもたらすをなくさねばなりません。
 をなくすためには、業をもたらす煩悩(ボンノウ)をなくさねばなりません。
 煩悩と言うと、物欲や性欲や食欲をイメージしますが、欲そのものには善も悪もなく、「自分の家」や「自分の身体」といった執着心が問題です。
 では、執着せず、「何もいらない」気持になれば良いかといえば、そうでもありません。
 そんなことで解決がつくのなら、あまり食べられなくなり、活発に活動できない年齢になれば誰しもが悟るはずです。
 しかし、そうはなりません。
 最大の問題は、執着心を起こさせる〈かんちがい〉にあります。
 そこに気づかぬ限り、自己中心的な意識は変わらず、たとえモノは要らなくなっても我(ガ)はますます強くなるかも知れません。
 この〈かんちがい〉を起こさせるのが無明(ムミョウ…智慧の明かりが無い状態)です。
 無明は、自分の財産や自分の身体における〈自分〉と、〈財産〉や〈身体〉とを一緒にしてしまう心性として現れます。
 いわゆる「自己中心」です。
 ここをきちんと分けられるようになるために行うのが修行です。

 11月22日夜、NHK総合テレビが「現代型うつ」を特集しました。
 ある識者が言われました。
「会社へ出られないなどの症状が生じます。
 それが自己中心的な姿勢に見られたりします」
 現代型うつ病を発症すると自己中心的になるという受け止め方ですが、行者の目からは、順番が逆ではないかと思われました。
 自己中心的な心をつくって来たので、うつ病的な思考や行動をとるようになったのではないでしょうか?
 これは明らかに文明病です。
 ありていに言えば、我慢するしつけを怠ったツケが回ってきたのです。
 だからといって、患者さんやその親御さんを責めたり、肩身の狭い思いをさせたりしてはなりません。
 お気の毒な状態をもたらした根本原因は、日本の歴史と社会にあるからです。
 親が子供にしつけるために必要な信念の基となる宗教と道徳を脇へ置いた結果が明らかになったのです。
 人間が壊れれば社会も壊れます。
 日本がここで踏みとどまるためには、思いつきのマニュアルではない〈根拠のあるしつけ〉を一丸となって考え直すしかないと思われます。
 文明の重荷を背負った方々へ適切な対処を行うだけでなく、日々、継続される〈発祥の準備〉を断ち切らなければなりません。
 そのために、ブログで掲載中の『実語教・童子教』は小さな役に立つかも知れません。

 やはり、救済は仏法にあります。
 教えを学び、自分で考え、納得できれば、財産や身体が本当に「空(クウ)」であると実感できる日が来ることでしょう。
 そして、目に見えるものや心に浮かぶものについてのかんちがいから真に解き放たれて苦を脱するのが「解脱(ゲダツ)」です。
 この境地を得れば、死ぬ必要もなければ、家財を放棄する必要もありません。
 この身このままで成仏しているからです。
 それが即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 共に即身成仏をめざして菩薩道を歩み、考え、できることを実践しましょう。

20111124006.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン




2011
11.23

2011年12月の運勢

 2011年12月の運勢──平成23年12月(師走…12月7日から1月5日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 対立・背反が起こりがちです。考え方や立場の違いを認め合い、尊重し合いましょう。
 人によって、信じる真理も価値も異なります。
 血の通う肉体を具えた一つの人格者である人間は、生まれ持ったものも、育った環境も、生きてきた道も別々です。
 だから価値観も人生観も道徳観も別々なのは当然です。
 人と人との関係は、この違いが表面に出るか、それとも似通った面や同調できる面が表面に出るかによって大きく左右されます。
 今月は、ともすると、違いに意識が奪われがちになるので、人間関係を円滑に保つためには気をつける必要があります。
 心から違いを認める時は、意識せずとも相手を尊ぶ気持になっているものです。
 また、尊ぶ気持が起こってこそ、軽蔑や反感や違和感を離れ、違いを違いとして真に認められもします。
 互いをみ仏の子として認め合う「相互礼拝」の心は、きっと融和に役立つことでしょう。

二 背を向け合っても諦めず、通じる時を辛抱強く待ちましょう。
 人間は感情の動物であり、感情は有無を言わさずに動き、言葉や行動に結びつきもします。
 嫌と思えば嫌であり、誰かを嫌がっている自分に不満でも、手の打ちようがありません。
 たとえば、年頃の娘が突然、父親へ強い嫌悪感を感じて口もききたくなくなる場合があります。
 こうした時は、誰かが無理矢理に口を開かせようとしたり、自分が嫌々ながら話そうとするばかりが能ではありません。
 人生の先輩が年の功で〈時期〉なりに起こっているできごとについて語り聞かせ、あとは父親も周囲もじっと時を待つのみです。
 怒ったり、叱ったり、焦ったりしても仕方がありません。
 たとえ心配でも、時を待つ時は、待つしかないのです。
 今月は、待つ辛抱を意識して過ごしましょう。
 辛抱は、〈必ず咲く花〉の蕾です。

三 隠し、隠され、真実が見えにくくなりがちです。隠す自他の心を直視しましょう。
 隠す行為には四つの面があります。
 大切なものを守ろうとする。
 交渉の手段として、相手へ手持ちの材料を見せない。
 騙すために真実を知らせない。
 自己保全の意識や絶望などから、何かを「ないこと」や「なかったこと」にしておく。
 これは心理学用語でいう「否認」です。
 問題は当然、後の二つです。
 精神科医久邇晃子氏は指摘しました。
「原発が絶対安全でないという真実は、この否認の意識がはたらいて隠され、今回の事故に結びついたのではないか」。
 怖れず臆さず、真実を冷徹に観ましょう。
四 小さなことから信用を失墜する危険性があります。慢心に注意し、自他に恥ずかしくないふるまいを心がけましょう。
 十月三十日、国会で質問に立った衆議院議員小渕優子氏は、自分の父親である故小渕恵三元首相を「天」、野田佳彦首相を「地」と決めつけました。
 相手が誰であり、自分の親がいかなる英傑であろうとも、「あなたは私の親に遠く及ばない」と公言してはばからない感覚には心底、驚かされました。
 氏はこの一言で将来を狭めました。
 情報化社会に住む私たちは、多くを知り得るようになった一方で、不用意な一言が一身を左右しかねない神経をすり減らす時代に生きていることを忘れないようにしましょう。

五 飲んだ勢いや議論の興奮で目上へ無礼をはたらいたり、仏神に背くような行いをする危険性があります。くれぐれも、〈強気〉に気をつけましょう。
 これからは飲食や会合の機会が多い時期です。
「人、酒を飲む。酒、酒を飲む。酒、人を飲む」となりかねません。
 気が大きくなるのは危険信号。
「強気を抑える」と呪文のように意識し、無事安全に過ごしましょう。

 今月も六つの修行を行いましょう。
 皆さんの開運を祈っています。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は悪しき者につけいられず、信頼できる人の助力で成功します。
 不精進の人は善からぬ者に足元から崩され、困難に陥りがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は不平不満を言わぬ姿勢が災いを遠ざけます。
 不精進の人は我を張る心が奸智の人びとに利用されがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は早めに自分の失敗や欠点に対処して無事安全です。
 不精進の人は放置した失敗や弱点が、悪人の私利私欲我に利用されがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は善心が善友を招き、徳ある人に認められて前進できます。
 不精進の人は幸運を独り占めしようとし、運を横から奪い取られがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は忍耐が花を咲かせ、幸運の扉を開くカギが得られます。
 不精進の人は不注意から予期せぬ妨害を招き、立場を失いがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は渋滞を脱し、希望の光が伴った変化に恵まれます。
 不精進の人はせっかく動き始めた運勢を明るい方向へ向けられず、混乱に陥りがちです。

2011112102022.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン




2011
11.22

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第九回) ─苦の様相を見極め、苦の根を断つ(その1)─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第九回目です。

三界欲界・色界・無色界…ヨクカイ・シキカイ・ムシキカイ)の幸せは草葉の露のごとく瞬時に消え去るものである。
 いかなるときも変わらずに解脱(ゲダツ)の最高の境地を目標とする。
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 欲界とは、食欲と性欲にとらわれた生きものの世界です。
 下は地獄から、上は天界の一部まで入ります。
 色界とは、食欲と性欲は脱したものの、色(物質)にはまだとらわれている天人の世界です。
 無色界とは、欲を脱し、物質にもとらわれなくなった天人の世界です。
 耐え難い苦に満ちた地獄にあっても、心の安定した天界にあっても、輪廻転生の輪の中にいるのは同じであり、いつ訪れるともわからない死によってどこの世界へ転生するかわかならい不安から逃れることはできません。
 この根源的な不安を身にしみて知る時、この世でのあらゆる幸せは「草葉の露」のように一時的なものでしかないという真実が明らかになります。
 そして、解脱輪廻転生から解き放たれ脱すること)が唯一、苦から脱する方法であるという教えが理解できます。

 私たちの生活の中に幸せを見出すのは難しくありません。
 たとえモノに恵まれていなくても、冬の日の陽だまりに小さな安らぎを見つけ、感謝する気持ちにはなれます。
 しかし、そのひとときのすぐ後に病気や事故が起こり、思うに任せない日々へ陥ったとしても何の不思議もありません。
 幸せも不幸も、散歩する先の四つ角で誰に出会うかわからないほど不確かです。

 そもそも、私たちの苦は、胎内に宿った時から始まっているとされています。
 胎児が母親のお腹を蹴ると「おお、元気、元気」と喜んだりしますが、考えて見れば、狭くてたまらず暴れているのかも知れません。
 死ぬ思いをして誕生してから会話によって意思疎通ができるようになるまでの間は、まるで虫のように頼りない生でしかありません。
 しかも、遺伝子の研究が進み、生まれる前に親から「この子は生みたくない」と選別され、せっかく宿ったいのちが処置されてしまう日は、すぐそこまで来ています。
 脆弱だったり、難病を発症する可能性が高かったり、障害を持っていたりする胎児は「弱点を克服する人生を生きる」という道が、医師と親によって閉ざされます。
 もちろん、世界中で倫理的観点から議論が行われてはいますが、「脳死」の例で予測できるとおり、周囲の都合で〈不都合な生〉に幕を下ろされるようになるのは火を見るよりも明らかです。
 生まれてくること、生まれたことから苦は始まっています。
 
 若く生命力にあふれた時代はまた、それなりにままならぬ苦を抱えています。
 お金もモノも、なければ困るけれど、あればあるなりに、浪費したり、怠惰になったり、感謝を忘れたりします。
 11月21日、大王製紙から刑事告発された前会長井川意高(47才)氏は、100億を超えるお金をカジノで流用した疑いが持たれています。
 やがて強制捜査の手が入り、報道された内容が事実であれば、一流企業のトップだった氏は汚辱にまみれた刑事犯罪人として残りの人生を送るしかなくなります。
 庶民はあきれるばかりですが、モノにしろ、元気にしろ、地位にしろ、〈あるがゆえの苦〉は、私たちの周囲に満ちあふれています。
 今や、恋愛による暴力沙汰やあげくのはての殺人事件は高校生にまで広がっています。
 この苦は五蘊盛苦(ゴウンジョウク)といい、人間の宿命とされる四苦八苦(シクハック)の一つです。

 苦に惑う事情は老いても変わりありません。
 たとえば、当山の人生相談では、親御さんによる子供さんに関する相談が多いのですが、最近では、子供さんによる親御さんに関する相談もあります。
 定年までまじめに勤め上げ、妻をなくしてひっそりと生活していた父親が突然、問題の多い女性と老いらくの恋に走り、周囲に大混乱を巻き起こすといった例もまれではなく、問題の主人公は男性とは限りません。
 せっかくの〈元気さ〉を賢く用いないがために、仕事や子育てなどに励みつつ歩んできたまっとうな人生を最後に狂わせるなど、あまりに情けないではありませんか。
 だから、『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』は最後に説きます。

「よく聞くべし。
 いかに父母へ孝養を尽くそうとも、三宝(サンポウ…仏法僧)を信じさせないならば、親不孝というしかない。
 なぜなら、いかに思いやりにあふれ、勉学に励み、すばらしい業績を残した人といえども、ひたとび酒色に溺れるならば、魔ものに取り憑かれてしまうからである。
 浪費し、情に溺れ、怒りを発し、肝腎なことをおろそかにし、心を乱し、分別智慧を失い、けだもの同様になるであろう」



〈とうとう笹倉山も雪となりました〉
20111122012.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.21

祟りかな?

 何か気にかかるできごとがあると、すぐに「何の祟りだろう?」と恐れや不安に襲われてしまうタイプの方がおられます。
 それは、相手を判断理解できぬ場合とっさに起こる警戒心のせいです。
 また、占い師や霊能者と称する人びとがテレビや本やインターネットに登場し、そのほとんどが、目に見えぬ世界の存在感を出そうとしておどろおどろしい雰囲気の演出に走っているためです。

 しかし、実際の霊障などはとてもわずかであり、仏神御霊は人を苦しめるために驚かせたり怖がらせたりはしません。
 だから、多くの場合は〈気のせい〉か、もしくは仏神御霊からの〈お知らせ〉です。
 そして〈お知らせ〉は、何かの事実を知らせたり、大切なことを思い出させたり、危機から救ったり、能力を高めさせたりするのが目的です。

 人生は禍福が交代で起こる旅路であり、もしも実際に悪いことが起こった場合は、それを縁として善いことを行うよう努めるのが智慧であり、そうして覚る人を縁覚(エンガク)といいます。
 釈尊は、出会った人々の悩みや苦しみを解くために苦へ対処する智慧をはたらかせ、その智慧を授けるための旅を生涯、続けられました。
 お大師様が四国の霊場を拓かれたのも、人びとが真の智慧をはたらかせて自分の苦を抜き、誰かへ楽を与えられるようになるためです。
 真の法力を持った釈尊もお大師様も、当人にとって必要な場合以外は怖れさせ不安がらせはしませんでした。
 その反対に、喜ばせ安心させてくださったのです。

 どうにも気にかかってならないできごとがある場合は、外にいる〈悪しきもの〉の仕業と早合点せず、深呼吸や腹式呼吸を行ってからよく考えて見ましょう。
 あるいはお仏壇や神棚の前で心を落ちつけ、至心に仏神御霊へお尋ねしましょう。
 もちろん、守本尊様の真言を唱えるのも、智慧をはたらかせるきっかけになります。
 それでもなお不安が解消されぬ場合は、どうぞご来山ください。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

DSC_008122.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.21

『大日経』が説く心のありさま六十景 その57 ─海等心(カイトウシン)─

 何でも自分の手柄にする心です。
大日経』は説きます。

「常にかくの如(ゴト)く自身に受容して、しかも住す」


(いつもよいことを自分自身に受け、自分自身のものであるがごとくにふるまう)

 があらゆる河川の水を呑み込むように、よいものをどんどん自分自身のもとへ集め、それが自分自身であるかのごとくふるまう高慢心です。
 そして、この高慢心には、自分を欺き、他人をも欺くという穢れがまとわりついています。
 その典型が「盗作」です。
 他人の創造力が生み出した芸術的な価値や学問的な価値を、あたかも自分自身の能力の産物であるかのごとく装います。
 また、何であれ「役職」を欲しがる名誉欲もこの心に通じています。
 役割に自分をかけるだけの価値を見出し、義務感をもって就任するのではなく、立場と肩書きを持つこと自体が目的化しています。
 等心が起こった人は、自分が他人より秀でている証(アカシ)となってくれそうなものを求め続けます。

 等心がさらに歪み蔓延すれば、いわゆる「コピー」に行き着きます。
 名誉よりも、お金が欲しくなり、もはや「盗む」行為が悪であるという認識も薄れ、汚れた商売に励むようになります。
 高慢さはまだ、恥の問題です。
 しかし、自分が実利を得、正当な権利を有する人や企業の実利を奪うのは明白に罪悪です。
 コピー商売がもはや中国の文化と化してしまっている現実は、信じがたい気がします。
 自由経済が急速に進む中で、何でも自分のものにしてしまいたい貪欲さが国中を覆っているのではないでしょうか。
 チベットの土地をチベット人から奪い、文化を破壊し、抵抗する人びとを情け容赦なく弾圧する〈奪う〉姿勢が、上でも顕著になり始め、日本を含むアジア諸国の領が蹂躙され始めています。
 11月19日に行われた東アジアサミットに始めて参加したアメリカを代表するオバマ大統領は、前夜の夕食会で中国の温家宝首相と隣り合って座り、二人ともほとんど食事に手をつけぬほど熱心に話し合いました。
 その結果、翌日の会談がセットされ、両首脳は突っ込んだ意見の交換をしたようです。
 サミット本番では18か国のうち16か国が上の安全保障に言及するといった緊迫した状態です。
 経済力と軍事力を急拡大させ、アジアを呑み込もうとしている中国の動きは〈海の氾濫〉を思わせます。

 そもそも『六十心』の教えは行者へ告げられたものであり、海等心では、勝れた教えを聞いただけで自分自身が教えの体現者であるかのごとくふるまう心を戒めています。
 しかし、こうした心はさまざまに変形しながら、あるいは表面で、あるいは潜在的に私たちの考え方へ影響を与え、日常生活を動かし、さらには社会的規模、あるいは国家的な規模でもはたらく場合があります。
 海等心は霊性を磨く妨げになるだけでなく、自他に悪影響を及ぼし、さらには国家社会を乱れさせ危険へ導きかねません。
 まず自分自身の心にある海等心を克服するところから始めましょう。
 参考になる言葉を一つ。

は自分でかきましょう。
 手柄は人にあげましょう」


 こう口にしていた竹下登氏は、末期には3・9パーセントという歴史的な超低支持率を記録した内閣の総理大臣でしたが、主義主張を超えて評価する人がいまだに絶えません。
 それは、地主の家に生まれながら、若くして農地解放に率先して取り組み、総理大臣になってからは「一内閣一仕事」を掲げ、権謀術数渦巻く政界で実際にこの言葉を実践しようとしていたからではないでしょうか。

20111109020.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.20

孫子の兵法と隠形流(オンギョウリュウ)居合そして中川智正被告

 隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場では、剣を用いて自分を厳しく鍛え、心の魔を切り、運勢を望む方向へ動かすために稽古を行っています。
 剣には守本尊様のご加護が降り、梵字をイメージし、真言を唱え、目的を明確にしてから修します。
 形を隠すのは、摩利支天(マリシテン)にお守りいただき、自他を守るためです。
 ふるうのは不動明王の剣です。

 さて、孫子(ソンシ)は兵法の極意を説きました。

「彼を知り己を知れば百戦して殆(アヤ)うからず」


(相手の実態を確実につかみ、自分の実態を確実につかんでから作戦を立てて闘いに臨めば、決して後れをとることはない)

 相手の一番手は自分の心の魔もの、すなわち、無明(ムミョウ…真理が見えない状態)であり煩悩(ボンノウ…自己中心ではたらく欲)です。
 こうしたものや、生まれ持った心の弱さなどが招いてしまう霊障などは「自分の内に依って起こる苦」であり、「依内苦(エナイク)」といいます。
 相手の二番手は社会や環境や人間関係など周囲から襲いかかる魔ものです。
 こうしたものによって生じるのが「自分の外に依って起こる苦」すなわち「依外苦(エガイク)」です。
 そして、相手はもう一つ、仏神のお諭しや、お慈悲からくださる試練や、運勢や、天変地異など、「天がもたらすもの」としか考えられないような大きな力があります。
 小さな人間を超えた力は『依天苦(エテンク〉』をもたらします。

 無明煩悩を知ることは、自分の実態を確実につかむために欠かせません。
 だから、行者は仏法を学びます。
 そして、闘いは自分を鍛えるところから始まるので、稽古のたびに七つの誓いを立てます。

 孫子はもう一つ重要な指摘をしています。

「善く攻むる者には、敵、其(ソ)の守る所を知らず。善く守る者は、敵、其(ソ)の攻むる所を知らず」


(周到に準備されて行われる攻撃は防御しきれないし、周到に準備されて行われる防御にあっては攻めきれない)
 隠形流の姿勢は順番が逆になっています。
 まず、守るべきものをしっかり守られる力を身につけること、それをふまえて魔ものと闘うこと。
 だから、護身法(ゴシンポウ)を行わないで剣を手にすることはありません。

 11月18日、オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件などの実行犯とされる中川智正被告の死刑が確定しました。
 彼は獄中で詠みました。

「恐ろしき 事なす時の 我が顔を 見たはずの月 今夜も静(サヤ)けし」


 坂本堤弁護士一家を惨殺した夜、空には皎々と月が照っていました。
 そして、あの日と同じく中天の月が独房の窓から見えています。
 事件から22年が経ち、弁護士の妻の父親大友友之氏は80才になられました。

「長く裁判をしても結果は変わらないのだから、早く終結してほしいというのが本音。
 もう、疲れましたよ」
「死刑に『反対』とは思わない。
 でも、これ以上、人の命がなくなることを望んでいいのかという気持もある」


 狂った教祖の狂った宗教が引き起こしたことごと……。
 そして、それがもたらした破滅と底のない哀しみ……。

 すべては「彼を知り己を知れば」の時点における見誤りと勘違いから始まったと思えてなりません。
 教祖も信者も自分の無明煩悩を直視するところからスタートしていれば、狂気も狂信も悲劇も起こり得なかったはずです。
 釈尊、孫子
 遙かな昔、確かにこの世におられた聖者方は、いまでも変わらず私たちを導いてくださっています。
 中天の月のように。

〈四国の第六十六番札所にあるお大師様の三鈷杵(サンコショ) 櫻井惠武著『四国名刹』より〉
2011112022.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.19

【現代の偉人伝】第140話 ─ブータン国王夫妻─

 11月18日、ブータンのワンチュク国王夫妻は福島県相馬市を訪れ、犠牲者を追悼し、被災者を励まされた。

「ブータンが日本人と共にあることを伝えたかった」
「私たちが相馬市を訪れたのは、この7か月間、テレビで震災による皆さんの苦しみを見てきたからです」


 祈りを捧げられたのは、5月に天皇陛下ご夫妻が雨の中、頭を垂れられた場所と同じである。
 原発事故の影響により不当に忌避されている福島県を国王が訪れることで、福島県の安全を世界へ知らしめることにもなった。

 小学校を訪れた国王は、子供たちと同じ目線に近い椅子に腰掛けて「の話」をされた。

の中に住んでいます。
 を上手にコントロールしてください
 これから人生経験を積み重ね、大きく強く育ててください」


 王妃は約束された。

「再び日本を訪れたなら、きっとまた、ここへ来ます」


 子供たちは皆、約束を信じたことだろう。

 は〈人格〉である。
 きままに放置すれば、煩悩(ボンノウ)によって黒い暴れに育つ。
 道に沿って育てれば、徳行によって自他を救い輝くに育つ。
 ブータンは、家々に仏間を具える敬虔な仏教国である。
 ブータンの国旗には龍が描かれている。

 国王夫妻の姿を観た後はニュースの続きが目に入らず、悄然とさせられた。
 私たちが失ったものを突きつけられたからである。
 何よりもその〈ふるまい〉によって世界中から尊敬された時代の日本人は、こうだったのではないか。
 日本人は、男も女も、残していた江戸の気配によって異国の人びとへ人徳を感じさせたのではないか。

 相変わらず日本は、世界に冠たる日本でありたいと、目の色を変えて走っている。
 資源の少ない国ゆえ貿易立国をめざし、原発を世界中へ売ろうとしている。
 明治の猛ダッシュを何度もくりかえしている。
 セカセカし、イライラし、老いも若きも愛という名の性愛を高らかに謳っている。
 子供はサッカーにいそしみ、年寄りはウォーキングにいそしむが、いつ、どこで、何に導かれての鍛錬をしているのか。
 私たちは「龍」の存をないがしろにしてはいないか。
 私たちは「龍」をコントロールしていた先人の叡智を忘れたのではないか。

 11月5日に宮城県を訪れたダライ・ラマ法王も、このたびのワンチュク国王夫妻も、仏教国の代表らしい徳にあふれた姿を見せてくださった。
 地震により、津波により、原発事故により、いのちを失い、モノを失い、立ち上がろうとしている私たちはその姿に目を醒まし、失いかけているに気づくべきではなかろうか。

2011111801122.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若経の祈りを続けましょう。
 般若経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.18

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その34)─陰徳積善(イントクセキゼン)を忘れずに─

 江戸時代寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「夫(ソ)れ積善(セキゼン)の家には  
必ず余慶(ヨケイ)有(ア)り
又好悪(コウオ)の処(トコロ)には  
必ず余殃(ヨオウ)有(ア)り
人として陰徳(イントク)有(ア)れば  
必ず陽報(ヨウホウ)有(ア)り
人として陰行(インコウ)有(ア)れば  
必ず照名(ショウミョウ)有(ア)り」


(善行を重ねる家には、
 必ず後々まで良いことが起こる。
 悪行を好む家には、
 必ず後々まで悪しきことが起こる。
 まっとうな人間の道を歩むために目立たぬ徳行を積んでいれば、
 必ず良い報いがある。
 まっとうな人間の道を歩むために陰で善行を積んでいれば、
 必ず称賛を受ける時が来る)

 こうした思想の基は、インドで感得された仏教の「因果応報」であり、中国で感得された「」でもあります。
「余慶」は味わいのある言葉で、自分の善行による良い報いは、自分で受けるだけでなく、後の世代にまで良い影響力を及ぼすという考え方です。
 お盆がその典型的な例です。
 死後、餓鬼界で苦しんでいる目連尊者(モクレンソンジャ…釈尊の弟子の一人)の母親を救うために、夏の修行が終わる日に皆で祈り救い出したのが始まりです。
 中国では6世紀、日本では7世紀になって推古皇が斎会を設け、現在に至っています。
 このお盆の供養会では、功徳が七代にまで及ぶとされています。

陰徳」も東洋思想の底にある感覚です。
 人知れず善行を積むところにこそ、徳の香りがあるという感覚の清浄さ……。
 そして、それは「人知れず」にあるとおり、見返りを求めてはいません。
 仏壇に水を捧げて誓う布施(フセ)においては、三つのものが清浄でなければなりません。
 布施をする人が下心を持たないこと、布施を受ける人が受けるにふさわしいこと、布施に用いられるものが穢れていないこと。
 仏教の修行はこの清浄な布施行から始まりますが、大震災に見舞われた日本では、たくさんの善男善女が意図しないままに尊い布施行を行っています。
 武士道にも目立たぬようはたらく「隠し奉公」と、人が見ていないところでも汗を流す「陰徳」が説かれ、黙って自分の役割を果たす清浄な潔さが価値とされました。

「陽報(ヨウホウ)有(ア)り」と「照名(ショウミョウ)有(ア)り」は、まるで、こうした結果があるから頑張れと言っているようですが、もちろん、文脈からしてもそうではありません。
 因果応報という道徳の基盤への信頼と、仏神やお道様の力といった目に見えぬものへの畏敬の念の大切さを説いています。
 そして、感謝と責任感を説いてもいます。
「今、ごはんを食べ、生きていられるのは、先に徳を積んだご先祖様とそれを見ていてくださった仏神のおかげであり、ご恩にお報いするため、そして子々孫々のために自分もまた徳を積まねばならない」

 こうした道徳へ言及は、ともすれば「おしつけ反対」といった過剰反応を呼び起こしがちですが、決して子供へ押しつけようと主張するものではありません。
 親がこうした教えが〈ものの道理〉であると考えられるならば、道徳教育の材料として用いられてはいかがでしょうかというささやかな提案です。
 子供が親の手に余り、教師の手にも余るようになったのは、心の指導の押しつけが原因でしょうか?
 心の放任、もしくは他のものの押しつけが原因ではありませんか?
 歴史という叡智の判断を得つつ尊ばれ続けてきたものには、必ず、何らかの価値があります。
 思いつきのマニュアルにはない、確固たるものが含まれています。
 そこを見つければ、生き方の導きや修正に役立つのではないでしょうか。
 まず、大人が先入観抜きに先人から伝えられた教えを知り、自分自身を省みて感じるところがあれば、信念を持って子供たちへ伝えたいものです。

008.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.17

旧い信徒さんと憂国忌

 最近、旧本堂で修法していた頃の信徒さん方のご来山が増えました。
 旧い本堂は、外見からすると「どこにお寺があるの?」と訝しく思えるほどの古く小さな平屋の民家でしかありません。
 皆さんはよくぞ足を運ばれ、現在の本堂が建てられるほどのご助力をくださったものだと、何度も何度も思います。
「法を修する場は、どこでもご本尊様がおられる本堂である」との信念一つで日々を過ごしていた時代の志を忘れぬようにせねばと、自分を戒めることも屡々(シバシバ)です。
 その一方で、大地震に揺るがず、2年の祈りによってますます重みを増しておられるやに思えるご本尊様を眺めていると、〈見えるものの説得力〉がいかに大きいかも思い知ります。
 形あるものへ思いが込められる時、形には〈形〉以上の存在感が加わります。
 気配が濃くなるのです。
 至心に心を澄ます時、ご本尊様の気配は宇宙へ広がり、行者を包み込みます。

 さて、もうすぐ、作家三島由紀夫が自決した憂国忌が来ます。
 41年前の11月25日、5年がかりで書いていた『豊饒の海』四部作を完成させ、陸上自衛隊東部方面総監部で森田必勝と共に割腹自決した彼は檄文を遺しました。
 自衛隊員の蹶起を促すものですが、その終わり近くにこうあります。

「今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。
 それは自由でも民主主義でもない。
 日本だ。
 われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ」


 私は〈生命尊重以上の価値〉という言葉が忘れられません。
 若い頃から、そこに立たなければ本ものではないのではないかという感覚があり、僧侶となった今も変わりありません。
 たとえば線路に落ちた人を助けようとプラットホームから降りる時、仏法で観れば、み仏の智慧によって布施の行為が行われることになりますが、ここでは〈自分のいのちを第一にする〉という思考が消えています。
 み仏のレベルの思考と行為なので、当然、凡夫の最も強い我欲である〈自分のいのちを守る〉心を脱しています。
 自分第一の正反対です。
 ならば、降りる人はその時、悟っているのではないか。
 その時が悟りでなければ、私たちに悟りは訪れ得るのか……。

 自由とは、何ものも強制されず、何ものにも縛られない、人間の〈個〉が最高に尊重された状態ではないでしょうか。
 そして民主主義とは、社会的意志決定へ社会の構成員が平等に参画し得るシステムではないでしょうか。
 畢竟、これらは今の私たちの多くが理想と考える〈ありよう〉であり、いわば、人間と社会の理想的な形です。
 形をめざすことに大きな意義はありますが、形そのものから〈価値〉は生じ得るでしょうか。
 自由と民主主義しか考えてこなかった私たちは形をつくったものの、その入れ物に入れる、あるいは入っているべき中身を忘れたままになっているのではないでしょうか。
 敗戦によって起こった価値の崩壊、そして価値の喪失という事態は、三島由紀夫の死から41年経った今も、変わってはいないという気がしてなりません。

 寺院離れ、仏教離れと言われる一方で、寺院巡りや八十八霊場巡りは盛んに行われています。
 今や、日本の寺院は、〈入れ物は認められていながら、中身は認められていない〉という状況にあると思われます。
 中身のない入れ物は、耐用年数が過ぎ、修復しようする人びとがいなければ廃れて行くのみです。
 仏法にたずさわる者は、寺院において真の〈価値の所在〉を明らかにせねばなりません。
 それが〈生命尊重以上〉のレベルへ達しているかどうかは、修法を受ける方々に判断していただくしかありません。

 旧い信徒さん方、新しい信徒さん方に支えられ、死した三島由紀夫に叱咤され、感謝感謝の毎日です。
 寺院も自分も、中身を磨きながら入れ物も大切にして行くしか報恩の道はありません。
 強風の朝になりました。

2011110605622.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 
2011
11.17

羅漢(ラカン)様になった人

 ご祈祷を行うために修法壇を用意している目の端に、待っているAさんの神妙な顔がちらちらします。
 ああ、芯が通ってすっかり別人になられたなあと苦労が偲ばれ、時の流れを感じました。
 準備が整い、声をかけました。
「強くなりましたね」
「はい、〈生の底〉を観たような気がします」
 突きつめた気持を抱き、たった一人で南の島へ行った人ならではの言葉です。
「あそこまで行ってしまうと、何か笑えることがあると、もう、それで良いんですね。
 人がいることがありがたくて………」
 どうやら羅漢(ラカン)様に近づかれたようです。

 羅漢(ラカン)様の像は笑い、泣き、怒り、思案などをしていますが、どれもが自然であり、余分なものをまとっていません。
 生(ナマ)の〈生〉が笑い、泣き、怒り、思案の花を咲かせています。
 その〈生〉は、はからいを超えています。
 きっと、笑う自分、泣く自分、怒る自分、思案する自分の底へ降りていった先にたどりついたところ、生き死にを超えたところにあったのでしょう。

 本来み仏である命を輝かせよと、生涯かけて説かれたお大師様は、すさまじいことを言っておられます。

「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(クラ)し」


 迷いの中にあれば、生きようと死のうと、あの世にあってもこの世にあっても、どこにいたとて暗所でしかありません。
 暗所から目をそむけてどこかへ逃げ出そうとするのではなく、それを正面から観る時、闇はなかったことに気づくのです。
 火に追われた人が風下へ逃げようとすれば、そのうちに追いつかれてしまうけれども、濡れた布を被って火へ飛び込み、風上へ走れば火の向こう側へ出られるようなものでしょう。
 そうすれば火の背中は、黙っていても遠ざかるばかりです。
 もう、恐怖はどこにもありません。

 Aさんは「もうこれまでか」と思った頃、身内の方がAさんに内緒で当山へ死魔切りの法を依頼していると知りました。
 そして、「怖かったけれども」死魔を調べたところ、納得するものがあり、そのうちに気持がだんだん軽くなって目の前が開け、危機から脱したそうです。
 やがて当山のご加持(カジ)を受けて南の島をめざし、ご家族の支えとみ仏のご加護があいまって出口のない地獄から這い上がり、羅漢(ラカン)様に近づかれました。
「いっそ、向こうの住人になろうかと考えています」
 目には見るだけでなく、訴えかける力も宿りました。
 動じなくなったMさんは、やがて、どなたかへ救いをもたらす菩薩(ボサツ)様になられることでしょう。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

00223.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 
2011
11.16

原発事故の危険性をないことにしておいた心理 ─「愚かで痛ましい我が祖国へ」について(その1)─

 今回の原発事故が起こってから、「どうして、誰も、こうした事態を引き起こす危険性に気づかなかったのだろう?」と訝しく思った方々が多いのではないでしょうか。
 もちろん、これまで、危険性を指摘する科学者や技術者はおられましたが、少数派とされ、そうした方々が研究の現場で肩身の狭い思いをさせられてきたという報道も増えました。
 やはり、実態は、〈危険性に気づかなかった〉のではなく、〈危険性をないことにしておいた〉ということなのでしょう。
 そうでなければ、世界一とされる日本の技術力が張り子の虎になってしまいます。
 精神科医久邇晃子(クニアキコ)氏は、そのあたりの真実を、心理学で用いる「否認」という視点から解き明かされました。
 氏が文藝春秋の12月号へ載せた『愚かで痛ましい我が祖国へ』です。

 氏は、自衛隊が爆発した原子炉へヘリコプターから水をかける作業の断念に追い込まれた時点から「慟哭のようなものが常に胸の辺りにあり」この一文を書きました。

「作業員の人たち、対処に当たっている人たちの絶望がじかに伝わってきたような感覚がして愕然としました」
「被曝など、勿論とうの昔に覚悟の上で対処をしている人たちが、どんなに必死にやってもやっても、時間の経過とともにみるみるうちに事態が悪化していく、この現実に直面した彼等のどうしようもない無力感が実際に伝わってきた気がして、事態の恐ろしさを感じるよりもむしろ、彼らの心の状態を思って胸が痛みました」


 こうした心になった方々は日本中におられたことでしょう。

「必ず負けるとわかっている戦争に打って出たかつての日本の構造と、何が似ているのか心の中で説明がつかないまま、そのイメージを払拭することはできませんでした」


 皇族であり海外生活の長い学者らしい視点です。

 日本はこれまで何をめざしてきたか?
 氏は「豊かになること。必死に豊かになること」と観ます。
 そして、何をどう間違ったのか?

「日本にはどうしても原子力発電が必要だという主張は、『プラグマティズムの装いを被った絶望』だと思います。
 何が何でも経済発展をしなくてはならないから、その目的を達成するために、危険な方法であっても『絶対安全』を確保して遂行する。
 一方で、『絶対の安全』などというものは無いことは、論理的にもわかることです。
 それでもしゃにむに遂行するのは、一種の病的な強迫行為に見えます。
 心理学用語でいう『否認』の状態が生じている。
 安全でないと困るから、安全であることにする。
 自分にとって都合の悪い事実は、無かったことにする。
 これが『否認』の状態であり、一種の絶望の表れとも言える」


 オックスフォード大学で哲学を学び精神科医である氏は、原子力政策の欺瞞、経済効果という一事のために政治も住民も巻き込まれている欺瞞の正体を暴いています。
 プラグマティズムとは、〈実際に役に立つもの〉にこそ真理があり大切であるという考え方であり「実用主義」とも呼ばれます。
 氏は、原発は安全ではないと気づいていながら、とてつもなく役立ち経済界も地元も潤うので、万が一の場合は手に負えないという絶望をひた隠しにしたまま突っ走ってきた事実を衝きました。
 この指摘が真実でないとする反論は思いつきません。
 ここを直視することがすべての始まりではないでしょうか?

「何ゆえにこれほど脅迫的になるのか?
 戦争に負けたから?
 三百万人が亡くなり、国土が絨毯(ジュウタン)爆撃され焦土と化し、原子爆弾を落とされてやっと目が覚める、揺り起こされてみるとあまりにショックが大きくて、脳震盪(ノウシントウ)状態で、後先もわからず自分の立ち位置もわからず、自己の存在基盤を感じることが出来ないため、何らかの強迫行為にしがみつく……。
 自分を好きになれないまま、しゃにむに自己回復の試みに走る。
 深刻な公害に苦しみながら、必死に働き続け、発展を後押しするために原子力発電を導入し……。
 このようにして戦後の新たな戦いを、手段を選ばず必死に続けた結果、輝かしい経済発展を得た。
 が、後先も考えず必死に走り続けて『ゴールのようなもの』を得たと思われたとき、はたと立ち止まって、自分の拠って立つ基盤、アイデンティティーがわからなくなっていること、これからどのように進んで行ったらよいのかわからないことに気付き、その場に立ち尽くす。
 経済の爛熟期と停滞期に心の空白を埋めることが出来ず、耐え難いアポリアに陥っていく……。
 この状態がいまにいたるここ二十年の日本ではないでしょうか」



 中学生はもちろん、高校生ですらかなりの若者たちが太平洋戦争を知らず、あるいはほとんど意識せず、〈アメリカと戦い敗れた日本〉を想像できない時代になりました。
 だから、氏の解明は彼らには理解しにくいかも知れません。
 しかし、史実は事実です。
 アジアの小さな島国が世界を席巻しようとしていた西洋諸国と対等になろうと背伸びし、政治・経済・軍事などあらゆる方面で挑戦したことは西洋諸国にとって驚異であり、脅威でもありました。
 そのため、戦後、日本人が二度とこうした姿勢をとらぬよう徹底した思想教育が行われました。
「戦前の日本はまちがっていた」
 天皇制だけは戦後の統治に役立つという判断から残されましたが、敗戦以前の思想・道徳・宗教・教育がすべて否定されました。
 占領期間は、3つの政策が強力に遂行されました。

1 3R
 日本への復習(Revenge)・日本の改組(Reform)・造りかえた日本の復活(Revive)
2 3S
 セックスの解放・アメリカ風スクリーンの活用・スポーツでの活力の発散
3 5D
 武装を解除させ牙を抜く(Disarmament)
 軍国主義を排除し服従させる(Demilitalization)
 産業を破壊し国力を弱体化させる(Disindustrialization)
 指導者たちを抹殺し言いなりにならせる(Decentralization)
 日本の思想や道徳や宗教を破壊し思想を西洋化させる(Democratization)


 80才以上の方々はこうした隷属敵状態の中で歯をくしばり、日本の復興のため無我夢中で汗を流しました。
 その結果、日本は奇跡とまで呼ばれる急速な復興を成し遂げましたが、アメリカに指導されつつのわずか半世紀では、〈自分の拠って立つ基盤、アイデンティティー〉の回復までには至りませんでした。
 そして今回、未曾有の災害によって、心のアポリア(行き詰まり)に陥ったまま経済力で世界の最先端を走ろうとする日本を象徴する原発が悪魔の正体を明らかにしました。
 ここが、戦後日本の真の転換点ではないでしょうか。
 敗戦によって失ったものと得たものを冷静に分析し、自ら招いた「否認」の呪縛を解き、真実をありのままに観た上で、日本はどう進むべきか、日本人全員が我がこととして考えるべきではないでしょうか。
『愚かで痛ましい我が祖国へ』が一人でも多くの方々に読まれるよう念じています。

2011110201222.jpg




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.15

対人恐怖・対神恐怖

 心理学に「対人恐怖」と「対神恐怖」という考え方があります。
 人は自我の安定を保つために外へその支えを求め、日本人は支えが〈他の人間〉であるがために、他人によって支えられていると感じると同時に、他人を恐れているといいます。
 一方、欧米人にとっては、そういった対象が人間ではなく〈神〉であるため、神によって支えられていると感じると同時に、神を恐れているといいます。
 そして、こうした心理は文化の異なった人びとからすれば不合理・不可解であってどうしようもないものですが、あらゆる文化は、無意識のうちに恐怖を上手に覆い隠すところに成り立っているのだそうです。

 もしもキリスト教やイスラム教のような一神教の持つ他を認めないという尖鋭さが「神を恐れる」ところに発しているのならば、この説は「さもありなん」と思えます。
 
 一方、釈尊は「他へ暴力を加えてはならない。誰しもが打たれ傷つけられるのを恐れているからである」と説かれ、お大師様は「この世のあらゆるものは皆、み仏の悟りの姿そのものである」と説かれました。
 神ならぬみ仏は決して罰しません。
 絶対の安心をお与えくださる存在をみ仏とお呼びする以上、当然です。
 そして、絶対の〈寛容〉をこそいのちとする仏教には、そもそも、邪宗という考え方自体がありません。
 釈尊は、「人は心がけによって定まるのであり、生まれや階級によって定まるのではない」と説かれましたが、当時、階級社会を前提として信仰されていたバラモン教を否定することなく、むしろ、バラモン行者たちの敬虔な姿勢は評価し尊ばれました。
 
 確かに仏教の歴史をひもとけば、世俗的な権力闘争に関係し、互いに相手を邪宗とののしり合って血を血で洗う抗争をくり返した時代があり、今もそうした姿勢を持った教団があるのは事実ですが、それらはすべて〈ある特定の経典しか認めない〉という人為によってもたらされています。
 み仏の教えと救いが真理・真実である以上、いつの世も、誰にとっても、いかなる場面にも多様な救いがあるはずです。
 そのためにこそ八万四千と称される教えと救いの門があります。
 いつ、どの門が開かれるかは自分で決めることなどできません。
 み仏が開いてくださるからです。

 罰と争いのないみ仏の世界に恐怖はありません。
 あるのは讃迎(サンゴウ)という〈尊び敬う心〉だけです。
 至心に謙虚に、み仏を讃迎し、互いの信ずるものを尊び合い、感謝を忘れず、時と場合に応じたふるまいを心がけながら生きたいものです。

〈河北新報にジュニアスポーツの情報欄ができました。フレー、フレー、子供たち!〉
20111111122.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.15

【現代の偉人伝】第139話 ─サムライ日本を示した宮崎淳氏と近内みゆき氏─

 11月9日、トルコで地震があり、NPO法人「難民を助ける会」のメンバーとして先の地震で被災したトルコの人びとを救おうと現地で活動していた宮崎淳氏(41才)は、志に殉じた。
 11月13日、トルコ紙ヒュリエトは国民へ呼びかけた。

サムライの国から来た人」の名前を「心の特別な場所にこの名前を刻んでほしい」。


 まさに最大級の賛辞であり、慰霊の言葉である。
 また、報道によれば、アンカラのギョクチェク市長は「宮崎さんの名前を忘れてはいけない」と述べ、氏の名前が首都アンカラ市内の通りに命名される見込みであるという。
 市長は命名を「市議会に提案する」と明言した。

 歴史を思い起こせば、122年前の明治22年、当時のオスマントルコ帝国は、フリゲート艦エルトゥールル号へ656人もの使節団を乗せ日本へ派遣した。
 9月15日、親善の目的を達成した同号は台風を心配する日本側の配慮を振り切って帰途についた。
 しかし、台風の直撃によって和歌山県樫野崎沖で沈没し、オスマン・パシャ提督を含む587人が犠牲となった。
 その際、69人の生存者は地元民の手厚い看護を受け、軍艦2隻に護られて祖国へ送還された。
 トルコの人びとは、広く義援金を募集して遭難追悼碑を建てると同時に、官民共に〈我がこと〉としてこの悲劇へ立ち向かった日本人へ深く感謝した。

 トルコの人びとは、こうした日本人へ親近感を抱き、天敵というべき関係にあったロシアを日露戦争で破った日本人へ畏敬の念をも抱いている。
 宮崎淳氏の相棒である近内みゆき氏(32才)は、同じ建物から奇跡的に救助された時、タンカで運ばれながら、もう一人いますと宮崎淳氏の存在を必死に訴えていた。
 今回、身の危険をかえりみず救援活動を行っていた二人の友情と勇気によって、ますます両国の人びとは親近感を深めることだろう。

 さて、サムライといえば『葉隠(ハガクレ)』であり、思いを口述し、田代陳基へ筆記させた山本常朝に魂から絞り出されたような一句がある。

「みな人は江戸に行くらん秋の暮」


 華やかな中心都市では、集まり増える人びとが渦を巻き、風俗も言葉も気風も華やかに上昇し熟成する方向へと動き、古い御国風や無骨な田舎風は忘れられ、地方は〈秋〉の様相を呈するようになる。
 山本常朝には、誰しもが成功を競い、自分一身が功成り名遂げる道を歩もうとするように見えた。
 そこで秋の暮れのように消えつつあるものはと言えば、隠し奉公と陰徳の心がけである。

「すべて、人の為になるは我が仕事と知られざる様に、主君へは隠し奉公が真なり」


(自分の行っていることが誰かのために役立っていると知られないようにはたらくことが道であり、藩士が主君のために行うべきは、この隠し奉公である)

「陰徳(イントク)を心がけ、陽報を存ずまじきなり」


(人の見ていない陰で践むべき道を践んで徳行を積み重ねることが大切であり、目立った報いがあるようにと望んではならない)

 トルコへ行った二人は、生と死と、明暗を分けた。
 しかし、一人の死と一人の奇跡的生還によって、異国の人びとの惨禍を見捨てておけず、じっとできることを行う日本人がいたという事実は世界の知るところとなった。
 この事態はもちろん、二人にとって文字通り「はからずも」であるに違いない。
 二人は地震が続く危険な場所で、人として行うべきことを行っていたまでのことである。
 それは、武士がいた時代のように主君のためではないが、滅私の布施行(フセギョウ)であり、栄誉を目的としない陰徳積善(イントクセキゼン)の実践である。
 だから、トルコ紙ヒュリエトの指摘は正鵠(セイコク)を得ている。
 二人はまぎれもなく「サムライ」の心をもってトルコでの日々を過ごしていたのである。
 我々日本人も、トルコの人びとに負けず、宮崎淳氏と近内みゆき氏の名前を「心の特別な場所に」刻んでおきたい。

20111115021.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.14

『大日経』が説く心のありさま六十景 その56 ─弥廬等心(ミルトウシン)─

 謙虚さを忘れた高慢な心です。
大日経』は説きます。

「常に思惟(シユイ)の心、高挙(コウコ)なるを性(ショウ)とす」


(いつも自分の考えが最高であると思い上がっている)

 弥廬(ミル)は、宇宙の真ん中にある最も高い山とされる「須弥山(シュミセン)」のことです。
 頂上から上空にかけて帝釈天(タイシャクテン)などの神々が住み、私たち人間は山の裾野に住んでいると考えられました。
 いい気になっている状態を「有頂天(ウチョウテン)になっている」と言いますが、有頂天はこうした神々の世界の一部であり、「まるで自分が神様の世界に入ったかのように思い上がっている」ことを指します。

 とてもよい仕事ができたり、鋭いヒントを得たり、高い評価を受けたりすると、「私もまんざらではない」と嬉しくなります。
 この程度なら、その気持は自信や勇気や希望に結びつき、さらにやる気が出て良い循環をもたらします。
 しかし、有頂天のような〈てっぺん〉に立ったという勘違いまで行くと、黒い慢心が生じます。
 作家高任和夫氏は、各界の著名人とのインタビューをまとめた『仕事の流儀』を「能(ヨ)く生きることは、能(ヨ)く働くことと見つけたり」と総括しています。
 彼が会った一流と言われている方々は一様に謙虚で、それぞれの分野で懸命にはたらくことが、そのまま、まっとうにいのちの火をもやすことになっていると言うのです。
 実際に、氏の口から「思い上がっている人なんか誰一人いなかったよ」と聞かされ、とても納得できました。
 やればやるほど〈その先〉が開けてきて、いつも〈もう一歩〉前に踏み出さないではいられないと感じていたからです。

 そもそも、私たちは全員、精神も肉体も限定された条件の中でのみ、生きています。
 頭では完全な正三角形を思い描いても、それを手で書くことは不可能です。
 心では誰にでも思いやりを持ちたいと願っても、嫌な人や憎い人やけしからんと思う相手には心の刃を向けがちです。
 急に走り出した孫が危ないから止めようと思っても、足がもつれて追いつけないかも知れません。

 双葉山と白鵬、連勝をはばまれた二人の大横綱が約70年の時を超えて同じ思いになりました。
「未(イマ)だ木鶏(モッケイ)たりえず」
 木鶏(モッケイ)は中国の故事にある言葉で、闘鶏の鶏が名人に鍛えられると、まるで木でつくられたかのように泰然自若として、相手の闘志を萎えさせてしまうという意味です。
 しかし、勝負師も木鶏(モッケイ)の境地まで行けば百戦百勝になるかどうかはわかりません。
 肉体は必ず衰えるからです。
 もちろん、年をとれば衰えつつある肉体をうまく用いる技術も磨かれることでしょう。
 そこには、若いうちは決して理解、体験のできない醍醐味もあるはずです。
 でも、いつかは斃れます。
 その時まで工夫や鍛錬は続き、きっと〈その先〉も靄の向こうに見えつつこの世での役割を終えるのではないかと考えています。

 また、私たちは何をやるにしてもまず、生きていなければなりません。
 生きているとは、ものを食うことです。
 食うとは、他の生きもののいのちをもらうことです。
 もっと言えば、他の生きもののいのちを奪うことです。
 魚も鳥も稲も、決して自分から死にはしません。
 人間が殺すのです。
『日本のもと 神さま』に、狩猟時代のご先祖様の心を描いた印象的な一節があります。
「ヒュッと矢があたって、一頭のシカがたおれました!
 傷口からドクドクと血を流し、死んでいく目の前のシカ。
 それを見て『やった!』という満足感と、『すまなかった……』という思い、そして飢えをしのげることへの『ありがとう』という気持がわいてきたなら、それこそが『信心』のめばえです」
 食べられる喜び、いのちを奪われたものへの詫びと感謝、そして生きられる嬉しさ──。
 こうした自分が生き、生かされている現実の足元を忘れなければ、心は浮(ウワ)つきません。

 誰でも、ことがうまくはこべば嬉しくなります。
 そこでこそ、足を地に着け、もう一歩先を見ましょう。
 また、足元を見て、生かされていることに感謝しましょう。
 そうすればここで説く慢心にやられず、きっと、もう一歩先へ進めることでしょう。

〈隠形流行者藁科昇さんが撮った門脇小学校とダライ・ラマ法王
201111141.jpg

201111142.jpg

201111143.jpg

2011111410.jpg

201111145.jpg


201111146.jpg

201111147.jpg

201111148.jpg

201111149.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.13

お位牌のない仏壇

 法話と対話の会「生活と仏法について」において、熱心なAさんから質問がありました。
「せっかくここでみ仏について学び、花やお水を捧げての六波羅蜜(ロッパラミツ)について学んでいるのに、それを心の修行とする仏壇がありません。
 何もないところに香炉を置き、お線香を点して精進を誓っても、何となくもの足りないのです。
 お位牌がないのにお仏壇を用意して良いものでしょうか?」

 そもそも仏法は、この世の苦を解決するための方法として、釈尊やお大師様を初めとする聖者の方々が研鑽し深め発展させてきた大きな流れです。
 私たちは皆〈ままならぬ〉苦を生きており、苦には原因があり、その原因と結果の関係はこの世だけにとどまらず、過去世とも来世ともつながってもいます。
 つながっていると信じればこそ、ご祖先様を供養し、未来や子孫の平和や幸せを祈ります。
 だから、仏法に真理を見出し、導かれようとするならば、自分のできる方法で目に見えぬ方々へ水を捧げて布施行を誓い、誓ったとおりに見返りを求めず誰かのためになる行動をとるのが当然です。
 そのイメージづくりこそが修行であり、お線香を点すAさんはまぎれもない修行者です。

 しかし実際に行ってみると、寺院へ行って座り、お線香を立てると心がすうっと通るような感じにはなかなかなりません。
 それはそうです。
 目や耳や鼻などの器官を通じて心へ取り込まれる情報があればこそ心がつくられやすいのに、仏像もなく読経も聞こえない自宅では、なかなか難しいものです。
 ではどうするか。
 仏像を祀れば良いだけのことです。
 それも、寺院で魂入れを行った仏像です。
 仏壇は〈家〉なので、用意できれば一層、ご供養申し上げたいという気持は表現できますが、用意できなくても構いません。
 私たちは、できることしかできないのですから──。

 当山にご縁の方々は、ご自身の修行のために仏像を祀るケースが少なくありません。
 それが自分の守本尊様であれ、家族が決めた方であれ、どなたでなければならないということはなく、最も自然に心が向けられ、その方と一体になりたいと思えるようならベストです。
 いつか仏壇を用意して〈家〉へお迎えできる日を待ちながらご本尊様となられた仏像へ手を合わせ、六波羅蜜修行を行う日々は必ずや仏性を輝かせてくれることでしょう。

〈芋煮会の風景〉
201111110222.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.13

寺子屋『法楽館』において『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』を観賞しました

 11月12日、寺子屋法楽館』において、ドキュメンタリー映画『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』を観賞し、製作委員会事務局の佐藤進氏より製作に至った経緯などをお聞きしました。

「3月11日、相馬港での昼食を終え仙台市の自宅へ帰宅する途中、新地駅を過ぎたあたりで、電柱が倒れるかと思うほどの地震に遭いました。
 500メートルほど離れていた現場から海岸線から国道6号線へ出ましたが、閖上港などへ救助に向かう車で大渋滞となり、仙台市の自宅まで4時間かけて帰りました。
 信号機はすべて消えていましたが、交差点ではお互いに譲り合い、パニックは見ませんでした。
 当日は、被災地を思ったり、被災者がかけこんでいるであろう近所の体育館へかけつけたりしようとも思わず、とにかく無事だった我が家で過ごしました。
 2日目から10日間、大野田小学校でのボランティア活動にたずさわりました。
 私が行った時、すでに福島県から20人ほどの被災者が来ていましたが、まもなく、全員、戦災復興記念館へタクシーで連れて行かれました。
 しかし、記念館にはまだ何も用意されておらず、すぐにまたタクシーで全員が体育館へ戻ったのには驚きました。
 体育館で活動している人たちに行く先だけしか告げず、あっちこっちと福島県の人びとを動かすやり方には納得できませんでした。
 また、福島県の人びとが動く際に『残っているお菓子などを分けてもらえないか』との申し出があった際、体育館で活動している責任者の一人が『地域の人の分だけで精一杯です』と断った件にも納得できませんでした。
 やがて知人から『被災した石巻の学校に何もない』との連絡があり、学用品を届けようとして石巻通いが始まりました。
『役場などでなく、実際に困っている相手へピンポイントで物資を届けた方が役立つ』との話を聞き、そうしていましたが、実際は、かなり早い時期から救援物資が各地へ届き、あちこちで山になっている物資を見ました。
 4月16日、野蒜、石巻、女川、旧北上町などを廻り、『この現実を後世へ伝えるために記録としてとどめる方法はないだろうか』と考えました。
 そして、これを実行することが自分にできる支援であるとの結論に至り、旧知の青池憲司監督へメールしたところからこの行動が始まりました。

 5月いっぱいかけて石巻を歩き、支援者を求め、政策委員会の発足にこぎつけました。
 代表には阿部和夫(元石巻市教育委員会教育長)氏が就任され、ついに市長との対面になりました。
 市長は『ここへ来るのが遅いのではないか』と震災後、時間が経っていることを心配されましたが、監督が『遅くとも、来ないよりは良いでしょう』と応じ、映画の撮影は正式に開始されるはこびとなりました。
 門脇南浜地区を中心として、門脇小学校へ入り、津波と火事によって壊滅した地域の時間の経過をずっと撮ることに決め、6月中旬までかけて保護者や関係者と話し合いを続けました。
 児童などからもアンケートをとったりしたところ、ほとんどの方々からお励ましをいただきました。
 そして撮影の方針が決定しました。
『被災の現実を固定するためでなく、復校の歩みを記録することを主眼とする』
 ある児童は『私たちが頑張ったことを、あとの時代の子供たちにわかって欲しい』と書きました。
 ある保護者は『子供たちの笑顔が戻るよう、子供たちが大人になって見たくなるように撮ってください』と書きました。

 こうした経緯があって6月27日、ついに撮影は開始されました。
 来年の卒業式、入学式までを記録する予定です。
 ドキュメンタリー映画『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』は、これまで約50時間分ほどを撮り終えていますが、今日の『わたしはここにいます~石巻門脇小学校・夏』は、約29分にまとめたものです。
 青池憲司監督は、阪神淡路大震災のドキュメンタリー映画をつくった方です。
 一之瀬正史カメラマンは、諸外国まででかけ、ドキュメンタリー映画を撮った方です。
 どうぞ、完成をお待ちください」


 映画はまさに廃墟となった映像から始まりましたが、学校における子供たちの元気な様子は、〈希望〉そのものに感じられました。
 そして、映画の終わり近く、「小学校に新しい仲間ができました」との言葉と共に、花壇の花カンナが映り、被災したイチョウの幹から出ている葉が映りました。
 きっとこの映画は、『被災の現実を固定するためでなく、復校の歩みを記録することを主眼とする』との方針どおりのできあがりとなることでしょう。
 一人でも多くの方々にご協力をいただき、完成のおりには一人でも多くの方々に観ていただきたいと願っています。

006223.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.12

ご本尊様のおられないご葬儀

 最近は、葬儀供養会に際してご本尊様をお祀りしない葬祭会館が増えました。
 花などで確かに美しく飾ってはいるのですが、修法する立場としては、ご本尊様のおられるべき位置に遺影があるのには不自然な感じがぬぐい去れません。
 葬儀供養会も、〈導かれて安心する場〉であり、導き手はあくまでもご本尊様です。
 一介の行者である僧侶などがそうした重大な役割を果たせるわけなどありません。
 ましてや、この世でさんざん迷い悩む私たち人間が、あの世へいった途端、急に自分の行く先を自分だけで切り拓けるはずもありません。
 この世に生まれ、親や家族に育てられ、先生に教えられ、先輩に導かれて成長しつつ人生をまっとうする私たちが、肉体を離れたとたんに、〈自分だけで何でもできる〉スーパーマンになってしまうとは、とても考えられないではありませんか。

 み仏にお仕えする身としては、み仏に導かれてこそいかなる迷いの世界にあった方でも〈成仏できる〉と信じて修法を行います。
 修法では、自分と場を清め、結界を張り、み仏をお迎えしてご供養申し上げた上で、御霊へのご加護を祈るのです。
 いかに立派な遺影が飾られていようと、遺影ではなく、正面上方にご本尊様としてのみ仏をお迎えし、会場全体がご加護の光に満たされた状態をつくらねばなりません。
 遺影は決してご本尊様にはなり得ないのです。
 だから、祭壇に仏像が安置されていようがいまいが修法上は構わないようなものですが、救いを受ける方ではなく、お救いくださる方が場の主役であることを参列された方々に認識していただくためにも、仏像が必要であると考えています。
 み仏のお力のないところに成仏はあり得ません。
 育てられなければ一日たりとも生きられないところから人生を始め、さんざんに迷い、救われ、ようやく日々を送っている愚か者である自分が、どうして導きの光明なくしてあの世の旅をまっとうできましょうか。
 故人へ引導が渡されてこの世とあの世の区切りがつき、安心な旅立ちをしてもらいたいと願うのならば、修法の中心となるご本尊様をぜひ、お祀りしていただいたいものです。
 もしも「自分の力だけで成仏できる」と考える方がおられるならば、その方は、「自分の力だけで、生まれ、育ち、一生をまっとうできる」と考えているのと同じです。
 これではやはり、変です。
 
 こうなった理由はさまざまでしょうが、仏教の行者としては、見過ごせない一点があります。
 それは、尊像を祀らないご葬儀も、一つの宗教儀式であるということです。
 そして、尊像を祀らないやりかたに慣らされるということは、常々、尊像を祀らない宗教の感覚になって行き、日本古来の仏神を祀り尊ぶ宗教感覚が破壊されるということです。
 そうした流れはやがてご先祖様を大切にする感覚を破壊し、日本的家族を破壊し、一人一人を歴史と言葉から切り離された心の根無し草にしてしまうことでしょう。
 そこに待っているのは、よるべないバラバラの人間を服従させる絶対神です。
 人々は、自分のご先祖様方の歩んだ歴史と先人たちが心を通わせた仏神に導かれるのではなく、〈神に仕える者〉のお告げを待つしかなくなることでしょう。

 み仏は服従を求めません。
 ものの道理に気づき、人間が人間であるための智慧慈悲を発揮して生きる道筋を示します。
 釈尊など過去に悟りを開いた方々の「万人のために」という願いの力が〈救いの手〉となり、救いを求める凡夫へさまざまな形でさし伸べられます。
 自分の愚かさに気づき、自分をステップアップさせねば打開できないと知り、謙虚に学ぼうとする万人へ必ずその手は差し伸べられます。
 そうして自分が救われ、誰かが救われ、故人が救われると信じた先人たちの歴史が日本の文化の根底を形づくっています。

 仏式のご葬儀供養会を行う場合は、仏像であれ掛け軸であれ、ご本尊様をお祀りするようにしましょう。
 もちろん、寺院で行えば必ずそうなるのですが、場所がどこであってもその場は〈み仏のおわします場〉でなければならず、お位牌や遺影などを依り代とする御霊は〈導かれる存在〉として、参列者と同じであり、導師とも同じです。
 御霊を大切に思う参列者も導師も一緒になり、御霊へみ仏のご加護をいただくように祈るのが修法の場です。
 ご本尊様をお祀りしない理由がありましょうか。

20111111019.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.11

人事の心構え ─唯我独尊とマンダラについて、そして猫の話─

 敬虔な信徒Aさんが人事部へ配属されることになり、心構えを聞きに来山されました。
 お話申し上げたのは二つのポイントです。

1 釈尊がお生まれになったおりに「天上天下(テンジョウテンゲ)唯我独尊(ユイガドクソン)」と言われたという伝説について。

 釈尊は、生まれてまもなくこの言葉を口にされたと信じられていますが、事実としては、釈尊より前に悟りを開いた聖者が語った言葉のようです。
 この赤ん坊はきっと聖者になると感じた誰かが思わず口走ったのでしょう。
 内容としては、「この世で自分が一番偉い」と安易に解釈されて暴走族などが用いている例もありますが、当然、まちがっています。
 なぜなら、〈(ガ)〉へのこだわりこそ迷妄の根であると説くのが仏教だからです。
 すなおに解釈すれば、悟りの境地が最も尊い確かなものであるということになります。
 さらに、インドでさかんに論議されていた説から解釈する方法もあります。
「天上」は神々の意志で動く必然の世界であり、「天下」は偶然に支配された世界です。
 そして人間は、必然と偶然との狭間でバランス良く生きる尊い存在であるとするものです。

 さて、この話を持ち出したのは、人間を〈使う道具〉として考えていただきたくなかったからです。
 人間は決して道具ではありません。
 心があるからです。
 社長も部長も平社員も、裸になれば皆、同じようなものです。
 座れば半畳、寝る時も死んだ時も一畳あれば十分です。
 いかに地位があり財産があっても、この空間で独占できる割合などたかが知れています。
 そして、それぞれが身体を持った取り替え得ない存在であり、それぞれが心の主(ヌシ)として平等です。
 聖者が説かれた「唯我独尊」を私たちの社会にあてはめれば、一生懸命に生きようとしている誰しもが等しく尊いということになりはしないでしょうか。
 それは、〈(ガ)〉は決して〈自分〉ではなく、人間として共通の霊性仏性を心の根底とする存在だからです。
 霊性仏性に導かれながら人間として成長しつつ生き、いつかまた舞い戻ってきてその続きを生きるのがこの世であり、この世は修行道場です。
 その点において地位による区別や差別はなく、お互いが等しく行者なのです。
 だから、人間は誰かの意のままにされる道具ではなく、人間が人間を道具として使うことなどできはしません。

2 世界はありとあらゆるものがあって初めて成り立っているとするマンダラの思考について。

 有名な武将三人の逸話は多くの方々に知られています。
 織田信長「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」
 豊臣秀吉「鳴かぬなら鳴かせてみようホトトギス」
 徳川家康「鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス」
 いずれも、ホトトギスを〈自分にとっての対象物〉と見ていますが、マンダラの姿勢は違います。
 マンダラの目を持つ行者ならば、鳴くホトトギスも鳴かないホトトギスも平等に、ありのままに見ます。
 そして、見ている自分もなくなったところで、両方のホトトギスのかけがえのないありようが観えてきます。

 頼富本宏氏は『密教とマンダラ』の冒頭に猫の話を書いています。

「現在、私のまわりで一つの小さな騒動が生じている。
 それは、約一カ月前、一匹の仔猫が突然わが家に飛び込んできたことから始まった。
 世間には大別して猫型と犬型の人間がいるそうだが、私は、小学生の頃に三毛猫を飼っていたこともあって、猫には親近感を持っている。
 高校一年生を頭とする四人の子供たちも、全員がその猫のファンになってしまった。
 そして低音で鳴くことから『アルト』という名前をつけたのだが、あとでわかったら雄猫だった。
 けれども、ここで思わぬ猛反対が起こったのである。
 結婚して十七年の妻が猫アレルギーだったことはまったく計算に入っていなかった。
 猫の臭いはもちろん、抜け毛さえも慢がならないという。
 せっかく円満にすごしていた家庭内がにわかに紛糾してきた。
 ここで猫と密教の話をするつもりはないが、何かのアレルギーを持った場合、発想敵に二つの考え方が成り立つ。
 第一は、アレルギーの対象となるものを徹底的に排除して、それのない世界を理想とする。
 猫を飼うなんてもってのほかである。
 別の考えはこうである。
 アレルギーは必ずしも永遠絶対のものではないはずだ。
 むしろその対象となるものにいわゆる抗体ができて身体が反応しなくなると、それは自然に治ってしまうはずである。
 最初は歓迎すべからざるものであっても、こちらが変われば世界もおのずと展開するものである。
 二つのうち、後者のほうが仏教的、とくに密教的ということができるが、猫の場合、好き嫌いという精神的な負担もあるので、残念ながらまだ決着がついていない」

 
 さて、こうしたマンダラの姿勢からすると、誰しもがかけがえのない役割を果たしているかけがえのない人間であるという認識が生まれます。
 組織に集う人々は皆、目標を同じくする「同志」です。
 社長は、秘書がいればこそ次々と判断や指示ができ、運転手がいればこそ移動しながらも仕事ができます。
 社長と秘書と運転手は役割が違うだけで、それぞれが不可欠です。
 お互いが同志として支え合い感謝し合って目標をめざす会社なら、誰しもがはたらき甲斐を感じるのではないでしょうか。
 そこでは、バランスという胎蔵界(タイゾウカイ)のマンダラと、ダイナミズムという金剛界のマンダラが、一つの会社の形をとって活き活きとはたらいています。

 もちろん、組織内で生きるためには、きれいごとだけで済まされるはずはないでしょう。
 しかし、人間として向上しながらはたらこうとするならば、問題の幹と枝をとりちがえないことが大切です。
 唯我独尊とマンダラの教えに学んだ好漢が権力の毒である慢心や侮蔑や独りよがりにやられぬよう、濁った目にならぬよう、願わないではいられません。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

20111106005.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2011
11.10

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その33)─自業自得を忘れずに─

 江戸時代の寺子屋などで盛んに学ばれていた人倫の基礎を説く『実語教(ジツゴキョウ)・童子教(ドウジキョウ)』について記します。
 日本人の宝ものである『実語教童子教』が家庭や学校で大人にも子供にも学ばれるよう願ってやみません。

「白圭(ハッケイ)の珠(タマ)は磨くべし  
 悪言(アクゲン)の玉(タマ)は磨き難(ガタ)し
 禍福(カフク)は門に無し  
 唯(タダ)人の招く所に在(ア)り
 天の作る災(ワザワイ)は避(サ)くべし  
 自(ミズカ)ら作る災(ワザワイ)は逃(ノガ)れ難(ガタ)し」


(美しい玉は磨けば磨くほど美しく輝く。
 しかし、悪い言葉はいくら言いつのっても、輝きはしない。
 災いと幸福は、やってくる門が決まっているわけではない。
 すべて人が招くものである。
 雨や風などによる天からやってくる災いは避けようがある。
 しかし、自分の行いが招く災いからは逃れようがない)
 
「白圭」は美しい玉であり、玉のような器をも指します。
 だから磨くことによって光りますが、悪い言葉は、いったん口から出た以上、それを言いつくろうことによって美しいものにすることはできません。
 誰かを傷つけ、自分の価値を貶(オトシ)めるだけです。
 もしも誰かに「お前はバカだ!」と言えば、言った本人の態度そのものがその人の品性や徳性のなさを明らかにしてしまい、隠しようがなくなるのです。
『老子』にこうした言葉があります。

「天下の難事は必ず易(ヤス)きより起こり、天下の大事は必ず細より起こる」


(天下の困難な局面は打開しやすい状態から起こり、天下を動かす大きなできごとも初めは些細なできごとでしかない)
 また、「白圭に水難なく、丈人(ジョウジン…年配者)に火患無し」(治水に長けた白圭という人が見回った堤防はどんなに小さな穴も注意深く塞がれていて崩壊せず、人生経験を積んだ年配者が用心している家は火事を起こさない)とも言います。
 白圭さんのように能力を磨き、周囲のために役立つ人になれるよう、自分を磨きたいものです。

 昔からある「自業自得(ジゴウジトク)」という言葉を知らない方はおられないでしょうが、それをしっかりと心に保っている(これを「念ずる」と言います)方はどれだけおられましょうか。
 自業自得は、原因が結果に結びつくと説く仏教の用語です。
 自分の善い行いも悪しき行いも、必ず未来へ影響力を持つ業(ゴウ)となり、善業(ゼンゴウ)は必ず自分へ良い結果をもたらし、悪業(アクゴウ)は必ず自分へ悪しき結果をもたらします。
 福徳も災厄も、勝手に向こうから選んでやってくるのではなく、自分の心が招くのです。

 では、今回の大震災によって被害を受けた方々は過去に何か悪いことを行った因縁によるのでしょうか?
 それはこのように考えられます。
「原因のない結果はないので、過去世を含めた自分の生き方とまったく無縁ではない。
 しかし、神ならぬ人間には、あらゆる可能性を見越して判断し行動するほどの能力は備わっていない。
 だから、すべてのできごとの原因を善きものと悪しきものとに分けず、思いがけず起こった悲しいできごとは、人間の限界によるものと考えるべきである。
 その限界は、人間は大自然の一部としての小さな存在であるということからも、もたらされている。
 こうした意味の限界は、人に践まれるアリや、暴風に倒されるコスモスと同じである。

 仏神のお諭しや、お慈悲からくださる試練や、運勢や、天変地異などによる『依天苦(エテンク〉』の前で謙虚になろう。
 生まれ持った気質や性格や身体、あるいは生きているうちに培った性格などによる『依内苦(エナイク)』を克服しよう。
 社会や環境や人間関係など、向こう側から来る『依外苦(エガイク)』に気をつけよう。

 いかなる時も自分の意志で善業を積み、決して悪業を積まず、恥ずかしくない生き方をして、結果は仏神へお任せしよう」

 とにかく、自分の意志で悪業を積まなければ、その悪業を原因とする悪しき結果は絶対にやってこないことは確かです。
 心にある仏心へ問いつつやりましょう。

20111110006.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2011
11.10

おかげさま・おたがいさま・日本の大転換(その3)

 中沢新一著『日本の大転換』を読んでいます。
 最終回です。

5 危機からの転換

 原子力発電は、「生態圏の外部に属する核反応の現象を、無媒介的に生態圏の内部に持ち込んだシステム」であり、「媒介なしのエネルギー装置」であることが本質です。

原爆は科学者によって『制御不能となって暴走する原子炉』と定義づけられている。
 そう考えれば、原爆においても原発においても、この媒介なしのエネルギー装置という本質はまったく変わらないということがわかる」


 原発事故は、原爆が投下された状態と原理的にはまったく同じです。
 私たちはこの真実をしっかりと認識せねばなりません。

「原子核技術が誕生してからほぼ七十年、過激な構造をもったこの技術体系の本質に、多くの日本人はいま疑問を抱きはじめている。
 核技術に類似の過激な構造をもった政治思想から生まれたソ連が、誕生から七十年をへて解体していったように、原子力発電は推進してきた第七次エネルギー革命は、意外なほど短命に終わる運命にあるのかもしれないという予感を多くの人が感じている」


 ではどうすればよいのか?

「原子核に手を差し込んで、そこに核融合や核分裂を起こさせるのではなく、ふたたび原子核の外側を回る電子を操作する技術に立ち戻るのである」
「これまで植物がおこなってくれていた太陽エネルギーの変換を、電子技術によっておこなうことで、第八次エネルギー革命は、これまで人類が積み重ねてきたエネルギー革命の成果のすべてを、自分のなかに組み込みながら、それらすべてを否定的に乗り越えていく」


 原子力発電が行われるまでは、太陽の恵みを受けた植物が光合成という媒介作用を行い、すべての生きとし生けるものがその媒介をとおしてエネルギーを分け与えられて生きているのと同じく、人間もまた、樹木や石炭や石油などという媒介を通ったものたちからエネルギーを分け与えられ、文明を構築してきました。
 しかし、原子力発電は、太陽の力をいきなり地上でつくる媒介なしの動きです。
 生態圏では起こりえない原子核の操作という異次元の行動でつくった原発により、一時的に膨大なエネルギーを獲得した一方で、数度の事故は、原爆投下と同じく、とてつもなく広範な地域を無人の荒野と化しました。
 もう、これだけ体験をすればたくさんではないか、もう、そろそろ〈思い知り〉、生態圏の範囲で太陽エネルギーを獲得する方法へ立ち戻ろうではないかと言うのです。

6 仏教的思想の復興

「第八次エネルギー革命は、一神教から仏教への転回として理解することができる。
 仏教は一神教の思考を否定する。
 一神教は、人類の生態圏にとっての外部を自立させて、そこに超越的な神を考え、その神が無媒介的に生態圏に介入することによって、歴史が展開していくとく考えを発達させた。
 このような超越論的な歴史主義の思考から、モダニズムの技術化思考は生まれた。
 仏教はこのような思考法を、ラジカルに否定するのである。
 仏教は、生態圏の外部の超越者という考えを否定する。
 そして、思考におけるいっさいの極端と過激を排した中庸に、人類の生は営まれなければならないと考えた」


 これまでのエネルギー革命は、それに対応する宗教や芸術の勃興を伴っており、第七次と言われる原子力発電には一神教がつながっていると考えられます。
 私たちのいのちがはたらく生態圏の外部から、核エネルギーも唯一神も招いたからです。
 安全で人類の身の丈にあったエネルギー革命をめざすならば、それは生態圏の内部で無理なく行われねばならず、そうした姿勢には、超越神を認めず、私たちの心の中にこそ超越的なものを求める仏教が似合っているというのです。
 神道もまた、生態圏のなかにある森羅万象に超越的なものを感得する道です。

「神道の神々は、生態圏を構成するさまざまな強度現象を、精神化して表現したものである。
 だから神々を敬うことは、自然に畏敬の念をいだくことと同じなのである」


 そして、日本は歴史的に神道と仏教は渾然一体となって私たちの精神風土を形づくってきました。

「仏教は神道をとおして、自然の具体性と結合することで、ただの抽象的な学問ではなくなった。
 このように、仏教はどこの世界でも自然宗教との折り合いがよいのである」


7 おかげさまの復権

「地球生態圏を生きるすべての生命のほとんどの活動は、太陽エネルギーによって支えられている。
 太陽と私たち生命との間に、交換関係はなりたっていない。
 太陽からの一方的贈与によって、私たちは支えられている」


 ここで氏のいう「贈与」こそ、私たちが口にする「おかげさま」の当体です。
 古人の言う「お天道(テントウ)様のおかげ」なしに、地球上に生命は誕生せず、現在の繁栄もありません。
 しかし、私たちはこの根本的な事実を忘れがちです。
 石炭も石油も、かつて植物が光合成によって蓄えた太陽からのお恵みを採掘者である人間へ分け与えてくれるものなのに、資本主義的思考ではその真実が忘れられ、利益を生む資源や商品にしか見られません。
 そのようにして資本主義は自己完結型システムの中に生態圏をそっくり取り込み、損得や計算の輪の中ですべてが処理されるようになりました。

「経済のもっとも深い基礎には、贈与が据えられているのである。
 太陽エネルギーと同じように、贈与性がすべての経済活動を根底で支えている。
 この贈与性を忘却することによって、交換の経済がすべてを押しのけて、経済活動の前面にあらわれてきた。
 この状況は、太陽のおこなう不断の贈与を忘却して、化石燃料やウラン燃料を自分の資産として燃やし続けてきた資本主義の場合とそっくりである。
 化石燃料にせよ、原子力にせよ、資本主義に生命をあたえ続けてきたそうした燃料からは、贈与性の痕跡が消し去られている。
 贈与性の忘却の上に、商品経済は稼働しているのだ」


 しかし、実態がそのままに理解されれば、「おかげさま」へ心が開き、科学もそれを有効活用するようになることでしょう。
 本来活用されるべき生態圏の生成の原理が最新の科学技術によって形になれば、安全な豊かさがもたらされます。

「どんな文明も、自分をつくりなしているおおもとの原理に帰るのでなければ、未来への可能性をみずから開いていくことはできない。
 第八次エネルギー革命の原理は、驚くほど日本文明の生成原理と似ている」
「原発の開発とともに進んできた第七次エネルギー革命の時代は、ゆっくりと衰退のへの道に入っていく。
 それに替わって、生態圏の原理にたち戻って、そこに別の豊かさを取り戻そうとする、第八次エネルギー革命の時代が隆起する。
 それに連動して、経済の思想が根底からの転換をはじめる。
 社会は再生への運動をはじめる。
 とてつもない災禍をくぐり抜けたあと、日本の進むべき道は、いまやはっきりと前方に見えてきているのではないか」


 互いの関連性()によって成り立っている生態圏は「おたがいさま」の世界です。
 その世界は、太陽による「おかげさま」によって支えられています。
 今こそ、この単純で子供にも理解しやすい〈二つの原理〉、〈二つの心〉を柱とし、太陽の恵みと植物の光合成への感謝から新しい文明を創り始めようではありませんか。

20111107018.jpg



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。