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2012
02.29

私たちは守護霊としての守本尊様にどのように守られているか(その1)

 ここのところ、守護霊守本尊様についてのご質問が多いので少々、要点をまとめておきます。

1 子年生まれの方

 守本尊様のお力は主として「過去を知る力」となって顕れます。
 この力がなければ、私たちは何も学べません。
 たとえばお医者さんが患者さんを「あなたは風邪をひいたようですね」と診断してカルテを書く時、お医者さんはこれまでに勉強し、体験したことを総動員しています。
 よりおいしくて勁いお米を作るための研究にしても、膨大な実験の積み重ねによって行われており、先人の努力と記録の積み重ねがなくては、これからの研究は成り立ちません。
 お医者さんも、米作りの名人も、〈これまでのすべて〉といった意味で過去の時間が与えてくれたものを生かしています。

 また、私たちは大成功をおさめた暁に、また大失敗をやらかした後で、深く〈来(コ)し方〉をふり返ります。
 ニュースに流れる悲喜こもごものできごとについても、何がそうさせたかを考えます。
 私たちは過去を知って未来への態度を決めます。
 できごととしての過去はすべて教師であり、反面教師でもあります。
 それらの前で〈生徒〉になる素直さと研究熱心さが人生を守り発展させます。

 よく「受けてしまう」方がおられます。
 実態としての亡者悪霊というより、誰かの過去の因縁を背負うのです。
 多くの場合は、気が優し過ぎるか、もしくは相手と似たような不安を抱えているか、あるいは自分への自信の無さが確認しようのないものへの歪んだ確信にすがらせていることによる現象です。
 考えねばならないのは〈何者〉として相手と接するかという点です。
 私たち行者がいかなる状況にある方と接しても、因縁を受けて潰されないのは、護身法を行っているからです。
 言い方を変えれば、み仏の子としての意識で相手と接するからです。
 斎場で、今まさに炉へ入れられようとしているお柩に取りすがる方を前にして合掌すると、胸が氷のように冷たくなり涙を催します。
 しかし、控え室へ向かう前の喪主さんの挨拶を受ける時は、端然としています。
 そして車へ戻ってから短い瞑想を行ったりして、さっきの光景を昇華します。
 専門的な護身法を行わなくても、「同行二人」など、〈ご守護をいただいている者〉であるという深い安心があれば、たやすく受けず、潰されません。
 そのためには、日頃、我(ガ)による祈りでない正しい祈りを行うことが肝腎です。
 守本尊様の真言を唱えるなどは、もっとも適切な方法の一つと言えます。

 こうした力の後ろ盾になってくださっているのが守本尊千手観音菩薩様です。
 注意点は、自分が上に立たねば気がすまないといった傲慢さが自分でご守護の力を捨ててしまいかねないことです。
 そうして無用の争いを生めば、どんどんご守護から離れ、悲しい因果応報となりかねません。
 注意しましょう。

20120229007 (3)

2 丑年・寅年生まれの方

 守本尊様のお力は主として「善悪・是非・虚実を知る力」となって顕れます。
 この力がなければ、私たちは何も学べません。
 たとえば友人から「一緒に楽しもう」と麻薬を勧められた時、あるいは「元気が出るよ」と覚醒剤を勧められた時、それらがどんなに魅力的でも、「いけない」と判断して断ります。
 いつもカロリーメイトを手放せず、時折、睡眠打破剤のお世話にもなっていると、覚醒剤に手を出したくなる運転手さんの気持がわかります。
 そこで踏みとどまるかどうかは天国と地獄との違いを生みます。
 たった一歩は、断顔絶壁で踏み出す一歩なのです。

 また、お年寄りを狙った詐欺は、虚実を判断する力が弱っているところへつけこむ悪質なものです。
 被害者には生命力の衰退に伴うやむを得ない面もあり、周囲が気をつける必要があります。
 最近、明らかになった投資顧問会社「AIJ投資顧問」の年金消失問題もまた、会社が虚偽の報告を重ねた結果、善意の顧客へ膨大な損失が生じようとしています。
 会社であれ何であれ組織は一旦できてしまうと、組織の存続自体が存在の第一目的と化してしまいます。
 そこで責任者に生じかねないのは〈希望的観測〉です。
 限りなく〈虚ろ〉に近い未来を信じようとし、確かな現実とのギャップに破綻するまで苦しみ抜いたりします。
 男性が相次いで殺されたとされる事件でも、容疑者の女性に胡散臭いものを感じていてなお、女性に潜む〈虚ろ〉を確かめさせなかったものは何か、と考えさせられます。

 最近、「あなたの背後に亡者がいる」などの虚言に悩まされてご来山され、ご加持を受ける方々が増えてきました。
 一旦見聞きした体験は否応なく残ってしまいますが、大切なのは、〈その時点〉での対応です。
 ぶしつけにこうしたことを言われた際は相手の顔をじっと見返し、心でこうつぶやきましょう。
「この人は本当に仏神のように清浄で智慧と慈悲に満ちているのか。
 生活は仏神のごときものなのか」
 そして、言葉に出すか出さないかは別として、これで一件落着としましょう。
「お釈迦様がそうされたように、あなたのおかしな言葉は受け取りません。
 心の鏡に反射させてそっくりお返しします。
 あなたが発した言葉についての結果は、あなた自身が受け取ることになるのです」

 お釈迦様は端的に「悪行をなしてはならない、善行に勤しみ、そして自分を清めなさい」と説かれました。
 まっとうな人々は善悪を判断し、人間として是とされることを行い、非とされることからは遠ざかります。
 そしていかなる場合も、断固として虚と実の判断から逃げないようにしたいものです。

 こうした力の後ろ盾になってくださっているのが守本尊虚空蔵菩薩様です。
 注意点は、広く世間で言われているから、あるいは有名だからと自分で判断せず、あるいは情に流されたりすると、自分でご守護の力を捨ててしまいかねないことです。
 そうして自分で険難な状態を招いてしまうと、どんどんご守護から離れ、悲しい因果応報となりかねません。
 注意しましょう。

20120229007 (2)



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
02.28

3月の聖語 ─弘法大師の言葉とみ仏の救い─

 お大師様は説かれました。

大我(タイガ)の真言は本有(ホンヌ)の又の本なり」


(マンダラにおられるみ仏方はどなたもそれぞれが固有の円満な徳に満ち、み仏から流れ出る真言は皆、大宇宙の真理真実と一体である)

1 お大師様は、マンダラに表されるたくさんのみ仏方はそれぞれの徳に満ちていると説かれました。

 たとえば、子年生まれの方の守本尊である千手観音様は、千の手と千の眼で持てる徳を表現しています。
 その真言を至心に唱える時、誰にでも15の「善事」がもたらされます。

○善い王のいる世界へ生まれ変わる
○良い国に生まれる
○好機に恵まれる
○善友に遇う
○五体満足である
○悟りを求める心が満ちる
○戒律を犯さない
○眷属が付き従う
○生活用品や食料に困らない
○尊敬と援助を受ける
○財産を奪われない
○念願が叶う
○龍王や諸天に護られる
○生まれ変わった世界でみ仏にめぐり会い説法を受けられる
○学んだ教えを深く理解できる


 また、飢えや戦争や呪いなどによる15の「不慮の死」を免れます。
 こんなに嬉しいご加護があるのなら、「千手観音様を拝めば、それだけでよい」と思われますが、たとえば辰年をお守りくださる普賢菩薩様は「十大願」をもって菩薩道に励んでおられます。

○諸仏を礼拝し敬う
○如来を称賛する
○広く供養を修する
業障(ゴッショウ)を懺悔する
○み仏の功徳を随喜する
○み仏へ説法を請う
○み仏がこの世へ留まっていてくださることを請う
○常にみ仏へ従い広く学ぶ
○恒に衆生のありように応じて救う
○これらの功徳を普く衆生へ廻向する


 読めば、「こう願いつつ生きたい」と思えてきます。

 こうしてみると、マンダラが示すとおり、み仏方の徳(=救い)は無限であり、菩薩道を歩みながら、万徳が宿っているはずの自分の心を開発して行くのが一生を生きる意味であることが実感されます。
 自分が持っている仏性に気づかず宝の持ち腐れのままでは、あまりに残念ではありませんか。
 
2 お大師様は、み仏方の徳は真言という言葉の形をとり、真言は真実世界そのものであると説かれました。

 真言を至心に唱える時、私たちの心におられるみ仏方は功徳の光を発し、この世は真理真実の世界と化します。
 たとえば、般若心経は、最後にある「ぎゃてい~」という真言の功徳を願う経典です。
 だから大切なのは、経文を読んで真言に功徳があることを知ったならば、真言を読誦することです。
 せっかく般若心経を手にしても「ああ、こだわらない心になればいいのか」と考えただけでは、ゴルフクラブの振り方を知った人が、振ってみただけで「自分はプレーできる」とかんちがいするのと同じです。
 百返、千返、万返とくり返し練習しなければ、思い通りの球筋を描くショットは得られようがないではありませんか。
 ご先祖様方がいざという時に般若心経をくり返し読誦してこられたのは、かんちがいしてはならないということと、般若心経功徳をよく知っておられたからでしょう。

 当山が3月11日に般若心経百万巻を唱えましょうと提唱している理由はここにあります。
 供養したいと思ったならば、大切なのは〈やる〉ことです。
 やらなければ〈思った〉で終わりになります。
 これでは、さっきの情けないゴルファーと同じではありませんか。
 もちろん、人それぞれの事情というものがあります。
 だから、できる範囲で精一杯やればよいだけのことです。
 たとえば時間がない方は1巻だけでも唱える、声の出ない方は眼で読む、読めない方は耳で聞いて心で唱和する、それもできない方は至心に思いを馳せる。
 こうして〈やる〉時、私たちの心におられる般若心経法の主尊である般若菩薩様や観音菩薩様の徳が光を発してこの世を照らし、あの世をもきっと照らすことでしょう。
 たった1つの般若心経に、無限の供養の思いを込めて唱えようではありませんか。

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2012
02.27

お葬式は不要か ─歯をくいしばり「おかげさまにて~」と腹から声を絞り出す喪主さんたちのために─

 お葬式関係の修法がすべて終わると、喪主さんが挨拶します。
「おかげさまにて、~を滞りなく送り出すことができました。
 きっと安心の世界へ旅立ったものと信じております」
 こうした一連の儀式を〈形式的〉であると批判する方々もおられます。
 批判の論理に耳をかたむけつつ、「では、み仏の前にぬかづく伝統的な儀式に代わり得るだけの重みを持つ何があるのか?」とも問います。

 大恩ある母親を亡くされた方も、最愛の夫を亡くされた方も、あるいは我が子を失い身代わりになってやれなかった事を悔いる方も、歯を食いしばって数日の儀式をやり終えます。
 順番と覚悟していながら、いざとなると惜別の思いに項垂れてしまう息子。
 この世の支えを失い、自分も一緒に行きたかったとご遺体にとりすがる妻。
 突然、娘を失い、蒼白の顔面で唇をわななかせながら喪主の挨拶をする若い父親。
 み仏と、皆さんと、自分と、三者が一体になる修法を行う身としては、こうした方々は皆、自分自身です。
「よく勤めたね」と若い父親の小刻みに震える肩を叩きつつ抱きしめたくなる時、父親と私に何の区別がありましょうか。

 悄然として帰山する車の中で考えます。
「こうした儀式がなかったならば、身の置きどころがないあの若夫婦は、いったい、いつまで、涙の乾く日を待つことになったことだろう。
『私たちは、手を取り合って何とか生きて行きます。
 これからも未熟な私たちをご指導ください』
 あの、社会性を持った決意の言葉を口にする瞬間がなかったならば、夫婦は底がない悲嘆の海に手を取り合って沈んでしまうしかなかったかも知れない……。
 これからくり返し、とてつもない寂寥感に襲われるだろうが、皆の前で別れの儀式を終えたという体験は、心に区切りがつくために小さくない力となることだろう。
 母を亡くした私もそうだった……。
 きっと彼も……」

 最近は少人数のお葬式が増えました。
 賑々しくなくひっそりと、でも確かに、送りたいのです。
 お葬式は要らないと公言する人々はむしろ、送ってくれるはずの仲間がたくさんいたりします。
 見知らぬご夫婦が必死の表情で訪ねてきます。
「何も要らないよと言っていた父親がもう危ないのですが、引導を渡してもらわなければ息子としての役割を果たせません。
 向こうへきちんと送らないでは気がすまないのです」
 実に、自分が死んだ後の始末は自分ではできず、その瞬間と後の処置にこそ〈逝く自分の人生〉が反映されるものです。

 お釈迦様が説法を始められた時は、社会の〈異端者〉でした。
 聖徳太子が仏法を選んだ時は、政界まで巻き込み、国中が仏教か神道かで争っていました。
 お大師様がインドで最後の仏教となった密教を日本へ持ち込んだ時は、九州で足止めされました。
 今の仏教界はいろいろ言われていますが、まがりなりにも仏教国であるはずの日本で正統な伝授を受け、お勤めができる自分はとてつもなく恵まれていると感じています。
 生き方に迷う方々と共に考え、祈って「この世の幸せ」を求め、「あの世の安心」を願う方々に確かな修法で心の区切りをつけるお手伝いをし、生きとし生けるものとあの世の御霊の安心のために、今日も法務に励みます。

土砂加持法を行います〉
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2012
02.26

見過ごせない思い ─「日本数学界」の調査結果について─

 2月25日付産経新聞は「日本数学界」が24日に発表した大学生数学基本調査をとりあげました。
 調査は、昨年の4月から7月にかけて全国48大学に合格したばかりの学生を中心とした約6千人を対象に行われました。
 偏差値群から東大・京大など最難関国立大を「国立S」、難関を「国公A]、中堅を「国公B]、私立もSからCまでの4グループに分け、文系・理系でも分析しました。
 その結果は──。

1 小学校6年生の時に習う「平均」という概念についての問題と正答率は以下のとおりです。

【問題】
 ある中学校の三年生の生徒100 人の身長を測り、その平均を計算すると163.5cm になりました。
 この結果から確実に正しいと言えることには○を、そうでないものには×を、左側の空欄に記入してください。
□ (1) 身長が163.5 cm よりも高い生徒と低い生徒は、それぞれ50 人ずついる。
□ (2) 100 人の生徒全員の身長をたすと、163.5 cm × 100 = 16350 cm になる。
□ (3) 身長を10 cm ごとに「130 cm 以上で140 cm 未満の生徒」「140 cm 以上で150 cm 未満の生徒」・・・というように区分けすると、「160 cm 以上で170 cm 未満の生徒」が最も多い。


 ○は(2)だけです。
 ○と×をすべて正しくつけられた正答率は全体で76・0パーセントです。
 「国立S」で94・8パーセントが正答を選び、「私立B」と「私立C」では半数が不正解(!)です。

2 中学校2年生の時に習う「偶数と奇数」という概念についての問題と正答率は以下のとおりです。

【問題】
 偶数と奇数をたすと、答えはどうなるでしょうか。
 次の選択肢のうち正しいものに○を記入し、そうなる理由を下の空欄で説明してください。
□ (a) いつも必ず偶数になる。
□ (b) いつも必ず奇数になる。
□ (c) 奇数になることも偶数になることもある。


 ○は(b)です。
 ○を正しくつけられたの正答率は、「ほぼ正答」を合わせても全体で33・9パーセントでした。
 「国立S」ですら76・6パーセント、私立に至っては早大や慶大などの「私立S]ですら27・8パーセント(!)しか正答を選べませんでした。

 暗澹としながら、たまたま出会った高校の校長先生に感想をお訊きしました。
「そうですねえ。
 生徒たちは、自分が感心のある分野についてはどんどん調べて熱心にやりますが、途中で基本に戻ったりはあまりしないのではないでしょうか。
 たとえば、工業系の高校だと、かけ算や割り算があまりできなくても、『それは計算機の仕事』と割り切って次に進むようです。
 実際、生徒たちの計算機やパソコンを繰るスピードは凄いものです」

 同日の同紙における「世界鳥瞰」の欄では、国際協力銀行・国際経営企画部長の前田匡史氏が紹介していました。
○日本の一人当たりGDPは、2000年に世界第3位、08年には23位。
○交際競争力は、90年に第1位、08年には22位。
「世界で覇を競う必要があるのか?」という疑問はありますが、世界ランクは〈結果〉と考えれば、こうした結果にはいかなる原因があったのか、そこに問題とし憂慮すべき点はなかったのか、また、それは私たちが本当にこうありたいと望み、願って生きた結果だったのかと問う必要性はあります。
 日本全体で、小学生や中学生の頃にはこのレベルまでは脳のはたらきを高めておこうと指導したはずなのに、驚くほど成果が上がっていなかったことと、世界内における私たちの生活レベルの低下は、これからの日本を考える上で重要なファクターではないでしょうか。

 橋下徹・大阪市長の政治姿勢については触れませんが、彼の端的な指摘には鋭いものがあります。
「競争を忌避し、付加価値を創出するための努力をしないなら、今の生活のレベルはどんどん落ちます。
 このまま落ちて、東南アジアレベルの生活になった方がいいんですか?
 所得の再配分で敗者を救い、子供たちに最高の教育を無料で受けさせることによって格差を世代間で固定させない。
 これで、競争と社会正義は両立するのではありませんか」

 確かに、子供たちの長所を伸ばしてやれば何とかなるのでしょう。
 数学ができなくても画がうまければ、あるいは跳び箱が得意ならば、そこを誉められることによって子供はあまり曲がらずに大人になれるかも知れません。
 しかし社会人になれば、相手の言葉と心を理解したり、自分の考えを正確に伝える言葉や態度を身につけておいたりする必要があります。
 そこができていないならば、どうやって自他を活き活きと生きさせるコミュニケーションを行えるのでしょうか。
 また、社会人になれば、自分を客観視したり、自他を平等に観たり、集団や地域あるいは国全体を眺める視点を持ったりする必要があります。
 そこができていないならば、どうやって国政選挙の投票権を行使するのでしょうか。
 やはり、〈読み書きそろばん〉は脳が発達するしかるべき時期にきちんとやっておきたいものです。
 言葉を理解し表現力を身につけ、他人とのやりとりの中で自他ともに納得できる地点をめざす論理的思考をある程度、行えてこそ社会人としてのふるまいができるのではないでしょうか。
 
 今回の「日本数学界」の調査結果が示すところには、大なるものがあると思えてなりません。

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2012
02.25

身代わり地蔵の救い ─お子さんを亡くされた方々へ─

 この世には不条理・理不尽としか思えないできごとが充ち満ちています。
 我が子や孫を亡くすというのは、最も耐え難く、後悔や自責の念が消えないできごとの一つです。
 その時、どうすれば良いか?
 経典は説きます。

 早世した子供は、あの世の旅路にあって父母を恋しがり、三途(サンズ)の川にある「賽(サイ)の河原」で小石を拾います。
 廻向(エコウ…功徳を廻し向けること)の願いを込めてそれを積みます。
 一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、三つ積んでは兄弟と自分のために。
 ところが、地獄のどもが、我が子の死を嘆くばかりで、この世で苦しむ他の子供たちへ思いが及ばない親への廻向を邪魔します。
 無常を体験し、子供の価値のかけがえのなさを知ったのに、〈不幸な自分〉と〈可愛そうな我が子〉にのみ関心がとどまっている親たちを非難するのです。
 そこへお地蔵様が現れて、「今後は、私を冥土での親と思い、安心しなさい」と抱きしめ、からの攻撃を自分の身で引き受けてくれます。
 お地蔵様はあの世で途方に暮れいる子供を救い、間接的には、この世でどうしようもなく悲嘆に暮れている親たちをも救います。
 我が子を亡くした親たちが亡き我が子と自分の救済を願うなら、貧困や病気などで苦しむ他の子供たちを思いやり、手を差し伸べることです。
 賽の河原で小石を積みながら廻向に励もうとする我が子に成り代わって……。
 自分が〈この世の地蔵〉となることで、あの世の子供も、自分も、この世の他の子供たちも、そしてその親たちも救われるのです。

 打ちのめされている時に、周囲を見渡す余裕がないのは当然です。
 答の出ない「なぜ?」から出られなくなるのも当然です。
 しかし大切なのは、考え、思うだけでなく、祈ることです。
 考えても考えても理性が答を出せない問題にぶつかりつつ、まっとうに生きるために、ギリギリのところで救いの手を差し伸べてくださるのが私たち凡夫を超えた仏神です。
 お地蔵様の経典は、それを如実に示しています。
 身代わりとなるお地蔵様を想い、あの世の我が子の気持を思い、お地蔵様の真言を無心に唱え、心が落ち着いたなら、〈この世の地蔵〉となる小さな一歩を踏み出していただきたいと願っています。
 急がず、落ち込まず、唱えつつその日を待てば、必ずその日はやってくるはずです。
 真言「おん かかか びさんまえい そわか」にある「かかか」は「ははは」の笑い声です。
 お地蔵様は、深く広い慈悲だけでなく、笑顔へ導き笑顔をもたらすパワーをも秘めておられます。
 お地蔵様は、祈る私たちのそばへ必ず来てくださると約束をしておられるのです。
 信じ、唱えようではありませんか。

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2012
02.24

身の丈 ─ビル群・ワラ馬・守り刀・お雛様─

1 ビルとモノレールの記憶

 かつて「失われ行く記憶の根」と題して評論家松山巌氏の『路地』をとりあげました。
 昭和60年、氏は、都市化した巨大ビルだけの風景は、私たちに身近な記憶として細やかに残らないのではないか、それは昔の家並みを記憶できた記憶力そのものを削ぐのではないかと怖れました。

「かつての町ならば切れ切れながらも私の記憶の中にその姿を立ち上らせ、それぞれの建物を順に憶い出すことができる。
 ところが、現在の町に立つビルやそのビルの中にある飲食店や喫茶店など私に関係のある場所を憶い出そうとする時、一つ一つの場所は点のように頭の中で浮び上がっても、それぞれを繋ぐことができないのである。
 私の頭の中で町は再現されない。
 私は実感のない町の中を歩いているに違いない」

「巨大なビルは、私たちがもつ記憶の容れものより大きすぎるのではあるまいか。
 一つ一つの建物のデザインは確かに個性的であっても、それを順に記憶するには余りにそれぞれが巨大にすぎ、結局はどれものっぺらぼうで没個性的に感じられる。
 記憶できないのっぺらぼうな町が生まれつつある。
 私たちがいま立ち会っている過度期の異様さとは、巨大なビルと長屋が併存していることではなく、記憶できる町から記憶できない町への過度期の異様さに立ち会っていることにあるのではあるまいか。
 そして、それは町を憶えられないということばかりではなく、私たちの身体に具わった一つの能力、記憶する力の何ほどかを同時に失いつつあるのではないだろうか」


 敗戦直後に子供時代を送った私は、貸本屋の常連客でした。
 今の子供たちと同じくさまざまな〈未来もの〉にワクワクしつつ、マンガや文章を読みふけりました。
 そうした記憶のうち鮮明なものの一つが、巨大ビル群とそれを縫うように走るモノレールのような長い乗り物だけの光景でした。
 人間がそれらの中にいることは想像できますが、別に人間がいてもいなくても、画の異様さに変わりはありません。
 ただし、鉄腕アトムが飛んでいれば、背景の異様さは消し飛びました。
 まさに氏の言う「のっぺらぼうな町」が半世紀も前にもう、未来を考える作家たちの頭脳に宿っており、私たちはそこをめざしてやってきました。
 そして私たちは、鉄腕アトムのようにビル街を庭として見下ろしながら飛び回るわけにはゆかないのです。
 巨大なビルは私たちの身の丈を超え過ぎており、無機物の群は私たちがそれを丸ごととらえ切れない壁たちとなって〈そちら側〉にあります。
 世の飲んべえたちの多くは、大規模な店で騒いでばかりいてもどこかもの足りない部分が残り、〈自分だけの〉つまり自分の情緒が音叉のように反応できる小さな店を密かに確保しておくものです。
 それは、ビル街と路地の両側に小さな家並みが残る光景の共存、あるいは都市と田舎の共存があってこそ、私たちの心に一種の安定が確保されることを物語っているのではないでしょうか。
 〈身の丈〉に合った空間を考えさせられます。

2 ワラ馬の風習

 七夕の際にるワラ馬を作る風習が全国にあるそうです。
 勉強会に参加されたAさんの話です。
「私の住む地域では、七夕になると、お年寄りが小さな子供たちへワラ馬の作り方を教えます。
 この馬に乗るのは、死んで山へ行き、やがて神となったご先祖様たちです。
 仏神へ捧げられた馬に乗ってご先祖様たちが山から里へ下り、家々に住む私たちを守ってくださると同時に、ワラ馬で田畑をも見回って豊作を招いてくださるのです。
 お盆では早く来れるようにと重ねて野菜で馬を作り、同時に、ゆっくりしていただくようにと牛の乗り物をも作ってご先祖様をもてなします。
 こうして七夕お盆、二つの行事はつながっています。
 子供たちは皆、眼を輝かせてワラや野菜で馬や牛を作ります。
 お年寄りたちにとっても、嬉しいひとときとなります」
 幼い子供たちにとって実際の馬はあまりに大きく、ご先祖様に乗っていただく願いをかける実感が持てないことでしょう。
 ところが、自分で小さな馬を作ることによりイメージが具体的になり、祈りも又実感が伴うことでしょう。
 ここでもやはり〈身の丈〉の感覚が必要であり、そこを通じて子供たちの情緒が育まれるのではないでしょうか。

3 幼い仏様へ乗せる刀

 ご遺体を安置する際、胸の辺りへ守り刀を乗せます。
 もちろん、亡くなった時にやってくる魔ものを除けるためです。
 当山では数度、突然死された幼いお子さんをお送りしましたが、司法解剖を受けたご遺体に乗っている刀を眼にすると、胸が押し潰されるような思いに襲われます。
〝仏様にとって刀の重さはいかばかりだろうか……〟
 枕経でお不動様の結界を結び、ご守護の法が終わると刀を布団の横へ置いてあげたくなりますが、守ってもらいたいと願うご遺族の気持を考えると手がつけられません。
 大人用の守り刀を乗せられるのはやはり、幼子には大き過ぎる負担です。
 ここでも〈身の丈〉に合ったものの必要性を強く感じさせられます。

4 お雛様

 Bさんから横幅10センチに満たない小さなお雛様をいただきました。
 作り方を指導するとお年寄りも子供たちも嬉々として作るそうです。
 眼の高さに近い位置へお祀りしたら、存在感がグッと増しました。
 じっと見ているうちに、またもや〈身の丈〉を考えさせられました。
 ああ、これで良いのだと……。

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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2012
02.23

死に神の恐怖に耐えられるか?

 Aさんは頼りにしていたはたらき者のお兄さんをガンで亡くされました。
 お兄さんは、自分の生きにを見つめる間もなく仕事に追われていました。
 気づいた時はもう手遅れといった状況にあって、ようやく自分をふり返り、Aさんからみ仏の教えを少しづつ聞き始めていた矢先のご逝去でした。
 Aさんは言われます。
「宣告にも驚かずとてもしっかりした様子で、このまましっかり生き抜くのだろうと思っていましたが、ある日を境に人が変わったようになりました。
 とにかく怯え、兄とは別人のような狼狽ぶりで、医師から付き添いを強く要請されました。
 とうとう安心を取り戻すことなく旅立ってしまいましたが、最期の様子は耐え難く、私にも恐怖感が乗り移ったようにすら思えます。
 私は法楽寺で学び、自分なりにを迎える心構えが徐々にできているような気がしていますが、兄の記憶があまりに強烈で、自信を持てなくなってきました。
 恐怖は、凡人には耐えられないのでしょうか?
 高僧にたくないと言い残したとされてもいますし……」

 お答えしました。
「お釈迦様は『法句経』でくり返し説かれています。
『どんなに長生きをしても、正しい教えを学ばなければ、学び実践したわずか一日にも及ばない』
 ここで言う『学び実践する』とは、教えがストンと腑に落ち、文字どおり自分の血肉になることまでを含んでいます。
 また『善行に勤しむ者には快眠と爽やかな寝覚めが待っている』と説くのは、日々の修行を勧めると同時に、精進していればを自然に受け入れられ、死後の心配もないという意味も含んでいそうです。
 良き生き方をイメージして生きれば生は良き形をとるのと同じく、良き死に方をイメージして生きれば死も又、良き形をとるはずです。
 この〈形〉とは、見栄や高慢心など余計なものがはさまらず、イメージそのもののなった時、自ずから成ると考えられます。
 それはちょうど、『不殺生』の戒めが心の深いところへ届いていれば、自ずからアリ一匹をも踏めなくなるのと同じです。
 当山は持戒という修行のイメージとして、『浄戒そのものになりはてる』ことを説いています。
 殺すことができない人、盗むことができない人になる以上の持戒という生き方はありません。
 これが〈形〉の意味です。
 Aさんはまじめにイメージの方向へと励んでおられるから〈その時〉の心配は要りません。
 お兄さんはお気の毒なことをしましたが、それも一つの死をかけた教えととらえましょう。
 当山は常に、『人は誰でも自分の死をもって最後の仕事をする。それは周囲の人々を立ち止まらせることである』とお話ししています。
 まっとうな人ならば、身近な人などの死に遭えば厳粛な気持になり、忙しく流れゆく日常の心のはたらきを止め、生や死そのものと向かい合う心になります。
 亡くなった方がいかなる方であり、いかなる死に方をしようとも。
 お兄さんは、Aさんへ自分の励みようをふり返らせるという大事な大事な仕事をしてくださいました。
 感謝し、学んだことを肝に銘じてやりましょう。
 結果はその先に自ずと決まるはずであり、そこはご本尊様へお任せしましょう。
 縁を生かし、努力をしたならば、あとは仏神へお任せするしかないではありませんか。
 これが自力にも、他力にもかたよらない自然な生き方です。
 安心を得る道は自覚し努力しているところに〈すでに在る〉はずですから、どうぞこのまままっすぐにお進みください」
 高僧の話は、誰であってもわけへだて無く最後は地が出るということ以上でも以下でもないでしょう。
 チューブだらけでベッドに横たわっているうちに決心し、黙ってチューブを引き抜いて従容と逝った方もおられます。
 死を迎える時は裸の一人間として逝くしかなく、平等に、その人、その人なのです」

〈ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか〉
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2012
02.22

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その93)─〈前を向けない〉方々へ─

 いつからか「前向き思考」あるいは「前向き志向」が人生の万能薬であるかのようにもてはやされ、うつむいていると「さあ、前を向いて!」と肩を叩かれかねない雰囲気が蔓延しています。
 東日本大震災に遭った東北の人々へも「前を向きましょう、お手伝いします!」とありがたい言葉がかけられ、実際に膨大なお手伝いもいただいています。
 それはそれで結構であり感謝してはいますが、被災された方々の中には、およそ1年経った今も前を向けず苦しんでいる方々がたくさんおられます。
 そうした方々への〈ケア〉が盛んに言われ、各種カウンセラーなどが、一日も早く前を向いて力強く歩み出せるようにと善意で奮闘しておられます。
 それはそれで結構であり大変意義があるのはわかりますが、当山の人生相談へ足をはこぶ方々に接していると、立ち止まり苦しみつつ心を深めることの大切さを痛感させられてもいます。

 つまり「立ち止まりたい」、あるいは「今は立ち止まるしかない」場合は、すなおに立ち止まることを否定する必要はなく、むやみに前を向かせようとするのはいかがかと思うのです。

 できごとをすぐには咀嚼できず、回転寿司の皿が目の前を通り過ぎて行くように流してしまえない場合、私たちは思わず立ち止まります。
 理不尽あるいは不条理と感じ、その〈ままならなさ〉に押しつぶされそうにもなります。
 こうしたできごとのうちで最も強力に足止めをかけるのが誰かの死、あるいは自分に実感できる死、それも不意に受ける死に神の襲来です。

「どうしてあんなに良い人が流され、こんな自分が生き残ったのか?」
 人生はこれからという意欲も善意も持った若い人が死に、老骨である自分が生き残った事実──。
「どうして私だけがこんな目に遭わねばならないのか?」
 自分は津波で何もかも失ったのに、すぐ先にある他家の人々には何ごともなかったかのようなこれまでと変わらない日常が確保されているという事実──。
 こうした事実の前で、私たちは、立ち止まらないではいられません。

 もちろん、いかなる環境にあろうと生きて行くための努力は欠かせないのでじっとしてはいられませんが、身体は動いても心は立ち止まったままです。
 悔しさも、淋しさも、怒りも、呪詛も、諦観も、さまざまな思いが入り乱れ、答の出ない「どうして?」がくり返し頭をよぎります。
 ここで必要なのは陽光を浴びようとする前向き志向ではなく、月光を眺める沈思黙考です。
 
 立ち止まりたくて立ち止まる人はほとんどいませんが、立ち止まらせられたことに意義はあります。
 それは、〈今ここにいる自分〉が観えることです。
 自転車に乗っていれば風景は流れて行き、自転車から降りれば足元のタンポポが目に入るたとえはいかがでしょうか。。
 前向き思考は効率よく、より見晴らしの良い場所へと自転車を走らせるための方法であり、立ち止まるのは〈今〉を深く把握する方法です。

 立ち止まった方々は人生相談の対話を通じ、あるいは心身のバランスを整えるご加持(カジ)や、亡き人のご供養などを通じて、徐々に、ご自身では答の出ない問いが消えて行く生き方に気づかれます。
「どうしてあんなに良い人が流され、こんな自分が生き残ったのか?」と苦しんだ方は、自分をより深く省みて、「自分は愚かしい者・罪深き者として歯をくいしばりながら生きて行くしかない、少しでもあの人の思いを嗣いで……」となり徐々に脚の力が増します。
「どうして私だけがこんな目に遭わねばならないのか?」と苦しんだ方は、いつしか他人をおもいやる余裕が出て比較の目を広げ、「自分よりももっと酷い状況にある人がいる、それに比べれば自分はまだ……」となり呪詛が感謝に変わります。
 思考の方向が変わり、真の意味で前向きになるために必要なのは時間であり、寄り添う誰かの心です。

 私たちは、太平洋戦争の敗戦後、自由の獲得と生活の向上をめざして一定の成果を上げた一方、社会には個人主義と拝金主義が蔓延し、家も、有機体としての会社も、ご近所さんとのつながりも解体され、それぞれが快適さや財物を求めてバラバラに走る中で、人間のは紙切れのように薄く軽いものになりました。
 今ここで立ち止まることは、寄り添う心としての、相手を思いやる純粋な心による真の意味でのの再構築に欠かせないのです。
 行き詰まってきた日本が立ち直るため、深い思考を伴わない「前向き志向」や、できあいの「」でなく、立ち止まった末に呻吟を伴って生み出されてくる真の「前向き思考」と真の「」にかけようではありませんか。

 今すぐに前を向けない方々、皆さんは時代が求めている真実に向き合っておられるのです。
 共にここを耐え、乗り越えようではありませんか。
 できることなら、共に祈りつつ──。

〈高倉健氏が御守にしている水を運ぶ正念の写真は、私の御守にもなっています〉
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2012
02.21

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十四回) ─誉め上手─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第十四回目です。

「ある者が私に対してさまざまな非難中傷を三千大千世界に遍くふれ回ったとしても、慈しみの心で繰り返しその者の功徳を称賛する、それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 いわれのない非難中傷を受けて嬉しい人はいません。
 面と言われれば「何を!おまえこそ!」となり、誰かから聞かされれば「エッ!よく言うよ。あいつなんて~のくせに」となります。
 これでは、不悪口戒に背く相手と同じレベルになり、菩薩からは遙かに遠ざかってしまいます。

 相手の言い分が当たっていれば悔しく、当たっていなければ嘘をついていることが許せず、反撃に出ます。
 いずれにしてもそのバックには自尊心が控えています。
 自分はみ仏の子であるという正しい意味で自分を尊ぶことは必要ですが、多くの場合、自分を中心としていたい〈(ガ)〉が自分を守りたくて強い心が動き、攻撃してくる相手への反撃を指令します。
 一方、正しい自尊心は何ものにも動かされないので、他を攻撃するという姿勢に結びつきはしません。
 つまり、こちらを非難中傷する相手の悪い部分を指摘する場合、多くは自尊心を傷つけられた怒りから発しています。
 み仏はそこを戒め、相手の功徳を誉めよと説かれました。

 そもそも、相手を選ばずいつも他のためになる菩薩ならば、自分の言葉に耳をかたむける人であろうと、攻撃してくる人であろうと区別はありません。
 攻撃してくる人は、行者である菩薩にとって二重の意味で大切な相手です。

1 菩薩道を歩めない気の毒な人であり、救済しないではいられない。
 居合の稽古でより細かな指導を受けるのは初心者であり、上達すればするほど、指導される機会は少なくなります。
 同じように、菩薩は、誰しもが菩薩道を歩んで苦を脱してもらいたいと願い、この世を文字どおりの極楽世界にしたいと願っているので、そこから外れている人にこそ強く思いやりをかけねばなりません。

2 行者としての菩薩の〈(ガ)〉を試してくるありがたい相手であり、感謝しないではいられない。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の稽古で鏡を用いるのは、自分の動きがどうなっていて剣はどういう動きをしているかが自分では見られないからです。
 同じように、〈(ガ)〉と闘う行者としては、師であれ、同輩であれ、あるいはこうした相手であれ、周囲の人々とのやりとりは皆、修行の状態をチェックする大事なきっかけとなります。

 こうしたことを考えるまでもなく、周囲から人格者と認められるような人は不用意に他人の欠点をあばいたりせず、誹謗中傷をも春風のような穏やかさで受け流します。
 また、指導の上手な親や教師は、子供や生徒の長所を誉めて心を開かせ、やる気をださせてから欠点の是正をはかります。
 人格者には例外なく〈(ガ)〉から離れた何らかの不動心があり、教育上手は例外なく誉め上手であることを忘れないようにしたいものです。

 かつて連載していた『ほめほめ集』から子供の書いた文章を挙げておきます。 
ほめほめ集』は、かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめたものです。

「二年 A・K

  トイレへ、手をあらいに いきました。ついでに、おしっこをしていこうと、思いました。
 ドアをあけると、「ぬるっ」としたものがついていました。
 つぎにくる人が こまると思って、きもちわるかったけど、きれいに ふいておきました。

                   ◆

 また、ほめほめを 書いてくれましたね。あきちゃんのほめほめの目が、とっても よく見えるようになったんだなと思い、校長先生は、うれしいよ。
 きょうの おてがみは、トイレに、ぬるっとしたものがついていたので、ふいておきました、という、おたよりでしたね。
 トイレは、きれいにおそうじしてあっても、なんとなく、きもちがわるいですね。
 それなのに、あきちゃんは、あとの人が、こまるだろうと思って、きれいにふいてあげたんですね。
『きもちわるかったけど、きれいにふいておきました』という、あきちゃんの気もちが、校長先生にも、よくわかりました。
 これからも、人のことを かんがえて、よいことを、たくさんする、やさしい、やさしいあきさんになってくださいね。校長先生もおうえんするよ」



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2012
02.20

2012年3月の運勢

 2012年3月の運勢──平成24年3月(弥生…3月5日から4月3日まで)の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 志を異にする大きな勢力に信じる道を塞がれかけた時は、一旦、退却しつつ影響力を保持する方法も考えましょう。 
 今月は、信じる道を同志と進んでいたはずなのに、いつしか同床異夢になっていることに気づくかも知れません。
 もしも、反対勢力が手に負えないほど大きくなっていた場合は、正面衝突していたずらに力を消耗するよりも、将来を見すえ、一歩退がるのも重要な選択肢です。
 四十才を超えたAさんが人生相談にご来山されました。
「部下が無断で休んだり平気で遅刻したりするので注意すると、謝るのは形だけで、平然といいわけをします。
 体調不良を訴えることによって基本的人権はいつも守られていると考えているふしがあり、手に負えません。
 厳しく処分しようとした同僚は裁判を起こされかけ、困っています。
 正面から議論をしようとすると、若い人たちから価値観が違うと年寄り扱いされ、いつも腹の虫が治まらないままに仕事をしています。
 こんな日本で大丈夫でしょうか」
 楽のできる環境で楽をさせられ、「登校するかしないかを決めるのは子供本人の権利」といった思想で育てられた世代を急に教育しようとしても反発が大きく効果はあまり期待できないかも知れません。
 社会人としてのふるまいは、まず習慣づけが大切で、次に、価値の気づきが来ます。
〈時機を失した習慣づけ〉が難しいのなら、きまりの厳守を求める上司なり先輩なりがきちんとしたふるまいに徹して、「ああ、あれは良いな」「自分は恥ずかしいな」と思わせるしかありません。

二 理想の実現が難しくなった場合は、理想を諦めず、〈今〉を諦めて捲土重来(ケンドチョウライ)を期しましょう。

捲土重来」とは、「巻き起こった土煙が、重ねてやって来る」という意味で、一時的に引き下がり、再び攻勢に出ることを指します。
 戦いに敗れた楚の国の豪傑項羽(コウウ)は、たった二十六騎を従えてたどり着いた宿場で、河を渡り、故郷へ帰って再起を期すように勧められますが恥を厭い、再度敵の漢軍へ突入して三十一才の生涯を閉じました。
 それから約千年後、詩人杜牧(トボク)は切々と記しました。
「勝敗は兵家も期すべからず、羞を包み恥を忍ぶはこれ男児、江東の子弟才俊多し、捲土重来いまだ知るべからず」
「羞を包み恥を忍ぶはこれ男児」は、決して項羽を非難しているのではありません。
 自分の力を信じていてもなお、敗残の将としておめおめ故郷へは帰られないといのちを捨てた心意気に涙しての一句でしょう。
 私たちは、杜牧の思いを受け、周囲から何と言われようと、忍ぶべきところは忍んで理想の実現をめざしたいものです。

三 流言飛語や威勢の良い掛け声、手品のような問題解決法といったものに惑わされないようにしましょう。
 
 風見鶏がカクンと動くのとはわけがちがい、人間も社会も、真の変化、土台の変化は簡単にもたらされるものではありません。
 たとえば、禁煙や禁酒といった決意の頼りなさ、あるいは「~改革」という政治目標がなかなか理想社会をもたらさないもどかしさは誰しもが経験しておられることでしょう。
 衣装を替えようが職を変えようが、人間そのものは簡単に〈別人〉のようにはなりません。
 本当に自分を向上させるためにはいかなる努力と時間が必要か、何かを成し遂げた方にはよくおわかりのことでしょう。
 そうした人間がつくっている社会であることを忘れないようにしつつ、個人的にも社会的にも(ゴウ)を清めつつ、着実に理想をめざしたいものです。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は弱者を侮らず、慎重に行って無事安全です。
 不精進の人は功を焦り、力づくで早く利益をつかもうとし、足元をすくわれがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人はいち早く変化を感じ、進退を見極めて無事安全です。
 不精進の人は誠実な人を敵にして失敗しがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は財欲・色欲に負けず、自分のスタイルを貫けます。
 不精進の人は状況が見えず、安易に異性へ関わったりして危機に陥りがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は何かを断ってでも理想を捨てず、その姿勢によって協力者を得られます。
 不精進の人は好みや悪友から離れられず災難に近づきがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は不正に関わらず無事安全です。
 不精進の人は事態を甘く見て善悪を峻別せず、自分が何でもやろうとして窮地に陥りがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は寛大な心でふるまい、志を曲げずに争いからも離れられます。
 不精進の人は心が尖って他を傷つけ、争いに巻き込まれる危険を招きがちです。

 皆さんの開運を祈っています。

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2012
02.19

あらためて十善戒を考える(その8) ─〈キレる〉をやめる─

 年のはじめに、あらためて「十善戒」を考えています。

9 むやみに怒らないこと…不瞋恚(フシンニ)

 瞋恚は「瞋」と「恚」から成っており、「瞋」は、「なにっ!」と目を瞠って怒ること、「恚」は心が円かでなく角張って相手へ向かうことです。
 これがお釈迦様によって悪行とされた理由は、貪りと同じく、怒ることによって我を失い、必然的に発する害意が自分の主人公となってしまうからです。
 慈しむ心があらゆる善行の種であるのに対して、害する心はあらゆる悪行を招きかねません。

 最近はあまり見かけなくなってきましたが「陶冶(トウヤ)」という言葉があります。
「陶」は、人格を溶かしてある形の方向へ導くことであり、「冶」もまた、練り上げて形へ結晶させることを意味します。
 陶器は、泥になって一旦、形を失った土が作者の創造力によって新しく形を得たものです。
 冶金は、溶かした金属を目的とする形に作り上げることです。
 だから、教育によって「人格を陶冶する」とは、好き嫌いや楽をしたい心を抑えて、人間としてあるべき良きイメージへと人格を練り上げて行く粘り強い過程を意味します。
 仏法の立場から言い換えれば、夾雑物である煩悩(ボンノウ)を取り除きながら、心を仏心で満たし、仏心に導かれた生き方をめざすということになります。

 教育には自由が一番という神話によって「陶冶」は脇へ置かれてきましたが、およそ親や教育者の持つ〈良きイメージ〉が先に立たない教育はあり得ません。
 気まま勝手にできれば、多くの子供は好きな方へ、楽な方へと向かい、それがたまたま良い行動に結びついたとしても、あてになりません。
〈好き〉と〈楽〉は善悪とは別であり、〈好き〉と〈楽〉の陰にある〈自分〉が自己中心を主張し、煩悩となって力を発揮するならば、たやすく悪に堕するからです。

〈好き〉と〈楽〉が邪魔された時、怒りが起こり、こうじれば暴力事件や器物損壊事件や殺人事件などともなります。
 こうした状況は「人格を陶冶する」人間修行と反するものであり、陶冶の過程を一気に破壊しかねません。
 だからこそ釈迦様は

「忍は行の尊」


と説かれました。
 煩悩に流されそうになっても堪え忍んで戦いの場から逃げないのが修行です。
 そして、煩悩渦巻く娑婆にあっては、堪え忍ばずには善行を続けられません。
〈忍〉をもって〈怒〉を克服することは、陶冶の柱です。

「キレる」という言葉が流行し、いつしか〈普通の言葉〉になりました。
 子供はたやすくカッとなり、それが〈普通の光景〉と受けとめられるようになりました。
 キレれば悪行がすぐそばに待っている恐ろしさを親や教師はどれだけ認識しているでしょうか。
 子供がつまらぬことで怒ったり、楽をしたいばかりに学校へ行きたくないと言い出した時、怒りにとらわれたり、怠けたりすることそのものの持つ問題点を認識して子供を指導しているでしょうか。

 怒りは、貪りに似て、習い性になります。
 放置しているうちに自然に怒らなくなることはまず、ありません。
 怒りっぽい人は、よほど痛い目に遭わない限りいつまでも起こりっぽく、周囲を辟易させます。
 もちろん、本人の心は頻繁に不快な気持におおわれ、気分は〈不幸〉です。
 喜びながら、嬉しがりながら、あるいは幸せと思いながら怒る人は誰もいません。

 自分で自分を不幸へ陥れている現状を冷静に眺め、相手のせいだと思うのがかんちがいであると理解し、「変えたい」と思い、願い、祈れば必ずそれは成就します。
 誰にでもできる簡単な方法の一つは深呼吸をすることです。
 もう一つは、自分の守本尊様などの真言を唱えることです。
 もう一つは、自分が思いやっている人やネコなどの顔を思い出すことです。
 もちろん、専門的な祈り方もあります。
 やってみればその効果はすぐに実感できることでしょう。
 怒る時の不快感、怒った後の嫌悪感や空虚さなどがなくなれば、人生は劇的に明るくなります。
 周囲の縁も目に見えて変わります。
 いつも慈悲心を持ち、自他のために自分で自分をコントロールできる人、それが理想の人格者であり自他を幸福にできる人です。
 菩薩なのです。

不動明王の忿怒は凡夫の怒りとは違い、公憤という正義を実現するエネルギーを含んだものもありますが、それは『怒りは悪? ─凡夫の怒り、不動明王の怒り』(─http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3093.html)をご笑覧ください)

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2012
02.18

あらためて十善戒を考える(その7) ─むさぼらず、自分をかける─

 年のはじめに、あらためて「十善戒」を考えています。

8 貪らないこと…不慳貪(フケンドン)

 貪るという言葉はそもそも、インドの「ラーガ」であり、それには「染まる」という意味があります。
 たとえば、私たちが「もっと、もっと」とお酒を飲む時、自分が飲んでいるはずなのに、いつしかお酒に飲まれて(染められて)しまうところまで行ってしまう場合があります。
 そしてとんでもない失敗をやらかし、翌日の朝は二日酔いと自己嫌悪でひどい一日が始まったりします。
 貪ってならない理由は、このように、本当の自分が自分の主人公でなく、自分が貪る対象に乗っ取られてしまうからです。
 その結果は……。
 貪る対象お酒なら、アルコール依存症や肝臓病になるかも知れないし、そこまで行く手前で自分や誰かの人生を決定的に傷つけてしまうかも知れません。

 また、たとえば、「もっと、もっと」とお金を貪り貯め込んでいる時は、自分が必ず死に、あの世まで持って行けないことを忘れています。
 死ぬのは明日であってちっとも不思議ではないのに、そんなことはまったく考えず、通帳の数字を見て楽しんでいます。
 困っている人々が世の中にはたくさんいるのに、そんなことも眼中にありません。
 こうしたタイプの人は、誰かと喜びを分かち合うことができず、決して尊敬されたり信頼を得たりできません。
 本当の意味で豊かな人生を送れないのです。
 それは、何かのおりにとても厳しい形で明らかになります。
 重い病気にかかった時、いかに豪華な特別室に入院していても、心配してくれる人が訪れないならば、どうでしょうか。
 その反対に、すべては(クウ)であり、お金も自分も儚い存在であると知ってむやみと貯め込まず、自分のためだけでなく他のためにも協力し「おたがいさま」の心を忘れずに生きている人ならば、見舞ってくれる人に「ありがたい」と涙するかも知れません。
 そもそも、「おたがいさま」と暮らす毎日はいつも感謝と笑顔に満ちているはずです。

 貪る心を離れれば、ほとんどのものは「これでも良い」と思われ、本当に自分をかけるべきことが見つかることでしょう。
 いわゆる知足(チソク)の状態になります。
 あまりお金がなくても、あまり広い家に住めなくても、あまりおいしいものを食べられなくても、誰かの何かの役に立ちたいと願う心があれば、まっとうに、真の意味で人間らしく生きられます。
 自分が〈何か〉に乗っ取られるのでなく、自分が主体的に〈何か〉へ自分をかけられる時、人生は充実し、満足感を伴う喜びというご褒美が与えられます。
 足を知ることの本当の意義はここにあり、ただ、不満が少なくて文句が口から出ないだけではありません。
「ああ、ありがたい」「自分は生かされている」と感じ、感謝の心が湧けば、その先には、布施の心が起こるはずです。
 自分のためでなく、誰かのためにできることをやりたくなります。
 これこそ、菩薩(ボサツ)になるための第一歩です。

 2月16日、当山では、東日本大震災により犠牲となった方々を供養するための読経と納経を呼びかけました。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 長いお経を写経するだけでなく、たとえば「南無大師遍照金剛」や「南無大施徳菩薩地蔵尊」や「南無観世音菩薩」や「南無阿弥陀仏」などの御宝号(ゴホウゴウ)でも結構です。
 心をこめて書き、最後に「~年~月~日」と書いた日、「為~」と目的、「~~」と名前を付記すれば立派な供養になります。
 今日を生きられることに感謝し、できることをやろうではありませんか。



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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2012
02.17

地球のゴミはもう作らないようにしよう

 平成24年1月1日に全面施行された「放射性物質汚染対処特措法」によれば、8千ベクレル以上の放射性物質を含んだ廃棄物は、指定廃棄物として国が処理することになっています。
 環境省による「廃棄物」とは、地下施設などから出る焼却灰であり、土壌は含まれません。
 土壌を処理するのは市町村の仕事です。
 とは言え、放射性物質に汚染された地域は広く、市町村がすべてを処理することは不可能です。
 汚染された土壌をそのままにして住みたい人は誰もいないので、私有地と公有地を問わず、保育園・幼稚園・学校・公園などを含め、ありとあらゆる地下や屋上や倉庫などに保管されているのが実情です。

 さて、放射性物質から出る放射能は、なくなるのに1億年かかるものもあります。
 そして、放射能を科学力で〈なくならせる〉ことはできず、放射性物質を含む廃棄物は、放射能が出ないように処置した上で、どこかへ〈置く〉しかありません。
 日本では、平成12年、原子力発電によって生じる「高レベル放射性廃棄物」の処分法法を300メートル以上深い地下へ埋め捨てる「地層処分」と決めました。
 原子力発電環境整備機構が、総延長で100~300キロメートルにもなるトンネルを掘り50年もかけて埋める計画ですが、まだめどは立っていません。
 そもそも、火山と地震の国で、子々孫々への責任を持って埋設に同意する地域があるでしょうか。
 今、私たちが原子力発電によって作り出し続けている放射性物質は、300万世代後まで危険性にさらし続けます。
 1億年前といえば恐竜の全盛時代で、霊長類はまだ現れていません。

 私たちは、原子力発電における一番の問題は、エネルギーを取り出す過程の安全性でなく、処理できない危険なゴミを排出し続ける点にあることを認識すべきではないでしょうか。
 もしも放射能を閉じ込める技術が確立したとしても、ゴミは溜まる一方なのです。
 想像してみましょう。
 いかに立派で快適な家に住んでいても、その敷地にゴミを埋め続ける人の生活はまっとうなものと言えるでしょうか?
 しかも、そのゴミは、一端、想定外の事態になれば周辺住民をも危険にさらすのです。

 悪名高いニューヨークの地下鉄から落書きを消す運動が地下鉄の安全性を高めたとされています。
 日本でも、落書きと子供たちの心の荒みの関係が注目され、公園のトイレなどはきれいに保たれています。
 今の問題は、コンビニのゴミ箱へ家庭ゴミを捨てるあたりにあります。
 ゴミ箱を店内へ置いたところではかなり不心得者による被害は減っているように見受けられますが、売り上げをもたらす店内のスペースをつぶす経営者の気持を考えると情けなくなります。
 いずれにしても、落書きやゴミで汚す、汚したままにしておくといった心はまっとうでなく、そうした環境がまっとうでない心をつくることは、私たち誰でもが気づいています。

 原発一基が運転されれば、一年で広島型原爆約千発分の放射性物質が生まれ、日本全体では約5万発分が生まれています。
 いきもののいのちを脅かし、地球を壊しかねないゴミ、自然へ還せないゴミを作り続けながら快適さを求める文明はやはり、どこかおかしいと感じます。
 はたらく人々を想い、若い人を想い、子供を想い、孫を想い、そしてこの日本を私たちへ残してくださった祖先を想い、後の世代へ危険性と後ろめたさをバトンタッチすまいとひそかに誓うのです。

※「地層処分問題研究グループ」の解説 「埋め捨てにしていいの?原発のゴミ」(http://geodispo.s24.xrea.com/kaisetu/pamphkaisetu.html)を参照しました

〈地域の小さなどんと祭〉
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2012
02.17

【現代の偉人伝】第144話 ─瓦礫の受け入れを決めた静岡県島田市の桜井勝郎市長─

 静岡県島田市桜井勝郎町長(67才)は、岩手県山田町の瓦礫を試験焼却することにした。
 2月16日から実施される。

 市長は、昨年12月、静岡県知事川勝平太氏の「ゴミ処理能力の1パーセントで震災瓦礫の受け入れをしよう」という呼びかけに応じ、受け入れを表明したが、案の定、反対の声が上がった。
放射性物質が拡散するのではないか」
風評によって特産品のお茶が売れなくなるのではないか」
 国や県を相手に手順をふみ、地元説明会を何度も開催し、住民へ理解を求めてきたにもかかわらず地元代表者の同意は得られない。
 しかし、2月1日、宣言した。
「市の責任で試験焼却を進め、安全を確認できたなら岩手県大槌町と山田町の瓦礫を受け入れる」
 当初は賛成のメールは2パーセントほどしかなかったが、今は「4対1くらいの割合で賛成や激励が多い」という。

 市長は昨年5月、被災3県を訪問した。

「行く所すべて、見るものすべてがすごい光景で……。
 本当に何もない。
 がれきを被災地で処理したら10年以上かから、がれきが片付かなければ復興に手が付けられない、と聞いた」


 市長は「島田は実験台」と公言している。

「被災者の苦境を思えば、援助できる者が援助するのは当たり前。
 自治体のトップは余裕があるなら腹をくくって、がれきを受け入れるべきだ。
 最終処分場がないというのはいい訳。
 必要なのは気持だ。
 この際、首長の独断でがれきの処理をやるべきだ」


 釈尊は六匹の動物に例えて気まま心を戒められた。
「一本の杭に繋がれた六匹の動物がいる。
 夕方になるとそれぞれが自分の家をめざす。
 犬は飼い主の家へ、サルは山へ、トリは空へ、キツネは塚へ、ヘビは穴へ、ワニは河へ。
 しかし、皆がそれぞれの方向へ行こうとするので杭は抜けず、誰も目的地へ行けなかった」
 六匹は六根である。
 もしも、眼は見たい形を求め、鼻は嗅ぎたい匂いを求め、耳は聞きたい音を求め、舌は味わいたい味を求め、身体は触れたい感触を求め、意識は想いたいものを求めてばかりいたならば、その人はまっとうに生きられない。
 国家社会も同じである。
 各地の住民が皆、「自分が王様、下から目線は絶対に正しい、嫌なものは嫌」と言い出したなら、社会からモラルは消え失せることだろう。

 以前、河北新報へ掲載された「『日本は一つ』忘れたか」を取り上げた。
 この一文を書いた69才の女性は言う。

「『東北を忘れない・日本は一つ』の温かい掛け声は、時間と共に消えてゆくのだろうか」


 桜井勝郎市長はその座をかけて消すまいと立ちはだかる。
 権限を持つ全国の首長たちにも立ち上がって欲しい。
 地方自治の理念と地域エゴのわがままは違うのだと、身をもって示して欲しいものである。

〈面識のない遙か関西の方から被災者を供養する花々が届きました〉
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2012
02.16

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その39)─揺るがずに生きる・名を留める─

 江戸時代まで広く寺子屋で用いられていた教材『実語教童子教』を見直しましょう。
 日常生活でも用いる警句などがふんだんに含まれています。

「善立ちて名流れ、寵(チョウ)極(キワマ)つて禍(ワザワイ)多し」


(善き行いが広く知られるようになり、誉められ可愛がられるようになると、思わぬ禍いもやってくるものである)
 善行は正しいからと無神経になっていては危険です。
 他から注目され称賛されるようになった時こそ、謙虚さを忘れず、他から認められず蔑まれて辛い思いをしている人々の気持への思いやりが必要です。
 酷い状態で頑張っている時は周囲から手が差し伸べられたのに、成功すると今度は周囲から足を引っぱられるなどは、この世の常のありさまです。
 古人は
「得意澹然(タンゼン)、失意泰然(タイゼン)」
と戒めています。
「ものごとがうまく行って嬉しい時は舞い上がらず、水がたゆたうようにゆったりとしていなさい。
 ものごとがうまく行かない時はむやみとガッカリしたり乱れたりせず、山のように動じないでいなさい」
 この世のすべては無常であり、有為転変の定めは変えられません。
 そこに別れや崩壊の悲しみもあれば、希望を持って理想へ向かう勇気も出てきて、この世はマンダラとなり、万華鏡ともなります。

 最近、産経新聞が調査したところによれば、大学で最も「伸ばすことに困難を感じている能力」は「粘り強さ・ストレス耐性」、次いで「環境への適応能力」です。
 企業が「採用する学生に特に求めたい能力」は「粘り強さ・ストレス耐性」がトップ、「コミュニケーション力」が続いています。
 変化に流されず、オタオタせず、避けられない変化へ強靱に、かつ柔軟に対応できる心構えこそが求められているのではないでしょうか。


「人は死して名を留め、虎は死して皮を留む」


(人は死んでからも名前をこの世へ残し、虎は死んでからもこの世へ皮を残す)
 人間は〈死ねば終わり〉ではありません。
 特定の名前を持ってこの世で活躍した生きざまは、身内や友人知己をはじめとする人々の心へ残ります。
 善きことをたくさん行った人の活躍ぶりは、死んだあとも人々の灯火となり、勇気づけ、誇りともなります。
 悪しきことをたくさん行った人の活躍ぶりは、死んだあとも人々の反面教師となるだけでなく、一族郎党が社会へ恥じる気持も起こさせます。
 
 この世は一人で生き抜けず、たくさんの人々のおかげで生涯をまっとうできるのと同じく、死もまた、自分だけのものではありません。
 周囲の人々の手を借りて死に、死んだあとも人々の手を借りなければ自分の始末はできません。
 そして、生きざまと同じく死にざまもまた、周囲の人々の心へ小さくない影響を与えます。

 この教えは、人間としての矜恃や良い意味の自尊心をきちんと保つべきことを教えるだけではありません。
おかげさま」と感謝し、「恥知らず」とならず恩へ報いる生き方の大切さをも説いているのではないでしょうか。

〈波をかぶった観音様〉
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2012
02.16

悪党への四つの思いやり ─『四十二章経』第五章─

 中国へ伝わった最初の仏典とされる『四十二章経』は悪党菩薩(ボサツ)のやりとりを示しています。

「仏の言(ノタマ)わく、
『人愚(オロカ)にも以(モッ)て吾に不善を為すも、吾は四等(シトウ)の慈を以(モッ)て、之(コレ)を護済(ゴサイ)せん。
 重ねて悪を以(モッ)て来(キタ)らば、吾重ねて善を以(モッ)て往(ユ)かん。
 福徳の気は常に此(ココ)に在(ア)り、害気の重殃(ジュウオウ)は、反(カエ)って彼(カシコ)に在(ア)り』」


 もしも誰かが悪しきことをしかけてきても、自分は同じように反応はせず、慈悲の心で愚かな相手を救おうとします。
 釈尊は、罵(ノノシ)られたから罵り返すのではなく、悪口(アック)という悪行が口にする本人へ災厄をもたらすことを知らない愚かさ、哀れさを何とかしてあげたいと心から願われます。
 しかも、もしもこちらの気持が通じなくて、さらに攻撃してきたならば、こちらもざらに善い心を発揮して対応しようとされます。
「四等の慈」とは、四等心の別名を持つ「四無量心(シムリョウシン)」です。

1 慈無量心(ジムリョウシン)
 与楽(ヨラク)と言い、生きとし生けるもの一切へ「良かれ」と願う心です。
 この心になるためには、生きとし生けるものは皆、如来蔵という成仏の核を持っていることを観なければなりません。
 成仏し得る一切のものたちと共に、光明の世界をめざすのです。
2 悲無量心(ヒムリョウシン)
 抜苦(バック)と言い、生きとし生けるもの一切が「苦から解放されるように」と願う心です。
 この心になるためには、皆が成仏の核を持っていることを知らず、苦の海であえぐ実態をきちんと観なければなりません。
 同胞の苦は見捨てておけないのです。
3 喜無量心(キムリョウシン)
 不害(フガイ)と言い、生きとし生けるもの一切の「輝き」を喜ぶ心です。
 この心になるためには、皆の本体が蓮華のように清浄であることを観て、そうした何ものへ対しても苦を与えることのできない心にならねばなりません。
4 捨無量心(シャムリョウシン)
 平等と言い、生きとし生けるもの一切へわけへだてなく慈無量心、悲無量心、喜無量心を起こす心です。
 この心になるためには、一切の本来的ありようが空(クウ)であることを観なければなりません。

 釈尊は、悪意や害意を持って向かってくる相手に対しても例外とせず、この四つの心をもって救おうとされます。
 そして決定的な言葉が来ます。
福徳をもたらす目に見えないパワーはいつも慈悲の心の周囲にある。
 災いをもたらす眼に見えないパワーはその反対に、害意を持つ者の周囲に集まり積もる」

 とても難しいことではありますが、相手の害意によってこちらの煩悩が反応しないよう心がけたいものです。

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2012
02.15

老後の仕事は〈生き仏〉になるのが一番(その2)

 前回、書きました。
「気ままに生きようとするか、それとも人間として生きるべきように生きることを考えるか」
「身体の健康管理と同時に、心を清めてこそ、賢明な生き方と言えるのではないでしょうか」
「仏様になって生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)こそ、お年寄りの一番の仕事ではないでしょうか」
「お釈迦様は、誰にでもすぐにできる方法を説かれました」

 肝腎の〈方法〉です。
 実は、仏教の全歴史は聖者や行者によるこの方法の探求にあったと言っても過言ではなく、8万4千の法門つまり道があるとされています。
 ここでは、文字どおり誰にでもできる二つの方法「無財の七施」と「比丘(ビク)の四法」を挙げておきます。

1 無財の七施

「生き仏になる」とは、自己中心をやめて誰かの何かのためになりならが生きるという意味です。
 それは言い方を変えれば、布施に生きることです。
 布施とは、見返りを求めない奉仕です。
 そして真の布施であるためには3つが清浄でなければなりません。
 布施をする人の心、布施を受ける人の心、二人の間でやりとりされるモノや心や労力など。
 たとえば、ボランティア活動を鼻にかけたり、他に目的があったりしてはなりません。
 たとえば、受ける人に、相手をうまく利用してやろうという気持があってはなりません。
 たとえば、いくら困っている人々のためにといっても、ネズミ小僧次郎吉や石川五右衛門のように奪い取ったものを与えるのは布施と言えません。

 では、布施として相手へ何を与えられるか?
 まず考えられるのは、東日本大震災における義援金のように財物を差し出すことです。
 これを「財施(ザイ)」といいます。
 また、肩を寄せ合って不安な日々を過ごす方々がお互いに励まし合い、あるいは慰問するなど、恐怖心を取り除く行為です。
 これを「無畏施(ムイセ)」といいます。
 また、どうしたらよいかわからない人へみ仏の教えを説くことです。
 これを「法施(ホウセ)」といいます。
 でも、自分自身が貧窮していたら財施は厳しく、現場へ行かないでは無畏施も難しく、法施も簡単ではありません。
 こうなると〈誰にでもすぐにできる〉布施はなくなってしまいそうですが、そうではありません。
無財の七施」があるのです。

 以下が、財物を伴わなくてもできる布施行です。
○眼施(ガンセ)
 思いやりのある優しいまなざしで相手を見ることです。
 眼は口ほどにものを言うのです。
和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)
 和やかさと笑みを含んだ相貌で相手と接することです。
 医師の穏やかな顔と接するだけで気持が落ち着いたり、孫の笑顔を見るだけで励まされたりします。
○言辞施(ゴンジセ)
 思いやりを含んだ言葉を相手へ届けることです。
「ありがとう」や「おかげさま」や「おたがいさま」が心を和ませ、勇気づけ、励まし、いのちの力を引き出すことは驚異的なほどです。
○身施(シンセ)
 身体を使って相手へ何かをさせてもらうことです。
 東日本大震災で、どれだけの汗が流されたことでしょうか。
○心施(シンセ)
 相手を思いやり、心配りをすることです。
 相手の立場や気持を思いやって心を配り、気を配るところから布施行は始まります。
○床座施(ショウザセ)
 相手へ座る所を提供することです。
 乗り物の席を譲る光景は例外なく美しいものです。
○房舎施(ボウシャセ)
 相手へ雨風をしのぐ場を提供することです。
 傘のない人へ傘を貸すこともどれだけの救いになることでしょうか。

2 比丘四法

 比丘とは男性の出家修行者を指しますが、人としての修行にそうした区別があるわけではありません。
 この教えは、他人との関係が険悪になり人の道を外れそうな場合の心がけを説くものです。
○相手を非難しても、二度とは非難しない たとえば相手から理不尽な非難を受けた時、思わず「お前こそ!」と反応し、速射砲のように非難の言葉が口をついて出たりします。
 この〈思わず〉動くのが煩悩(ボンノウ)であり、凡夫はここで苦をつくってしまいます。
 この先を煩悩に任せるか、それとも智慧で抑えるかによってその人の人生は大きく異なります。
 およそ仏道を歩もうとする者ならば、いったんは煩悩が頭を出しても、モグラ叩きのようにすぐ、叩いてしまわねばなりません。
 これをくり返すことによって悪しき〈モグラ〉はだんだんに頭を出す力を失うことでしょう。
○相手へ怒っても、二度とは怒らない
○相手へ暴力的にふるまっても、二度とは暴力的にふるまわない
○相手の過失を暴いても、二度とは暴かない

 相手からの刺激によって自分の心が乱れた場合、〈相手に原因がある〉として相手を攻撃するのが煩悩に負ける凡夫の世界です。
 怒りが渦巻いているのは自分の心であり、それは自分そのもの以外の誰もコントロールできず、誰も責任を負えないことを忘れます。
 行者は、外からいかなる情報がやってきても、それにいかに反応するかは自分の問題であり、心が乱れたならば、乱れる心になっている自分が未熟であると考えます。
 だから、心が乱された時、「これ以上乱すな!」と相手へ向かわず「あっ、乱れてしまった」と自分を省み、乱れを収めるのです。

 今回挙げた「無財の七施」と「比丘四法」は誰にでも実践できます。
 ましてや、人生経験を重ねたお年寄りには得意とする分野に思えます。
 お年寄りがいつでも、どこでも、こうした生き方をするならば、若い人々へ対する人生の先輩からの無言の贈りものになるのではないでしょうか。
「今の若いものは……」という愚癡は止めましょう。
 それよりも、生き仏として生き、死んで行くさまを見せようではありませんか。
 それが私たち年寄りのこの世で最後の務めではないでしょうか。

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2012
02.14

老後の仕事は〈生き仏〉になるのが一番(その1)

 想像してみてください。
 これから高齢化が進み人口が減るとされている日本ですが、多くなるお年寄りが希望もなくあるいは放縦に生きているのでなく、様のようになっているとしたら、いかに住みやすい世の中になることでしょうか。
 お年寄りが皆、ニコニコして暮らしていれば、はたらきざかりの壮年にも、学びざかりの青年にも、遊びざかりの子供たちにも、たくさんの笑顔が見られるのではないでしょうか。

 誰でも年をとりたくありません。
 一生のうち、「いっそ死んでしまいたい」と思う瞬間はあっても、「いっそ年をとってしまいたい」と思う人はまず、いないはずです。
 だから、お年寄りの皆さんはいつまでも若さを保とうとし、そうしたに対応する商売はいつの世にもあります。
 高度成長の消費社会では若者受けするために頭をしぼっていたあらゆる業界が、今はお年寄りの財布を狙って方針転換に余念がありません。

 それはそれで結構ですが、社会の構造が変われば、年金の問題をはじめこれまでのやり方では社会の安定が守れず、てんやわんやの騒動になっています。
 避けられない過度期の混乱というものでしょう。
 プロの方々には、国全体のバランスを考え、30年後、50年後を見据え、公の視点から良い方法を見出していただきたいものです。

 さて、否応なく年をとると否応なく肉体の耐用年数が尽き、死を迎えねばなりません。
 年を取りたくないというは、最初から覚める時期がすぐそこに来ている儚いでしかなく、それを忘れようと懸命になっているうちに、突然、あらゆる努力が幕を引かれます。
 幕の引き手は病魔であり、死に神です。
 いつ、「はい、ここまで!ご苦労さん」と言われるかわからない不安から、にしがみつこうとしますが、人生の最後をそうした健気な努力だけで過ごすのが賢明な生き方でしょうか?
 自分のを追うことが、次代を担う世代へいかなる役に立つでしょうか?

 もちろん、お年寄りが自分できちんと健康管理をし、いわゆる〈ピンピンコロリ〉を願うのは後の世代の社会的活躍を妨げず、医療費など国家財政にも寄与する大切な生き方です。
 しかし、それだけでは賢明な生き方の片面だけです。
 あとの片面は、『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』が教えています。

 経典は、親の恩がいかに大きく、広く、高く、深いかを説き、最後にこう断定します。
「父母をして一生遊楽に飽かしむるとも、もし、いまだ三宝を信ぜざらしめば、なおもって不幸となす」
 いかに旨いものを食べさせ、何不足ない暮らしをさせても、教に帰依(キエ)するように導かなければ親不孝だと言うのです。
 それは、いくら勉強し、いかにはたらいた人でも、年をとってなお酒食に溺れる危険性はつきまとい、煩悩(ボンノウ)を何とかしない限り人生をきちんとまっとうできないからです。
「孝養の軽重(ケイチョウ)緩急を知らざるべからざるなり」
 何が本当の親孝行なのか、よく考えねばならないと説いてこの経典は終わります。
 つまり、人の子たるものは、もしも親が年とってなお法を省みず、自分の煩悩を何とかしようとせず気ままに暮らしているなら見過ごさず、法僧へ帰依するよう勧めるのが本当の親孝行なのです。
 それは、とりもなおさず、お年寄りは何をさておいてもまず自分の煩悩と向き合い、法に依って残りの意欲を賢くコントロールすべきであるということです。

 社会で活躍する現役を離れれば、誰憚ることなく自分の心と向き合い、生きるべきように生き、死ぬべきように死ぬ努力ができます。
 長い労苦から解放されたのだから大の字になりたいのは当然です。
 そこから先を気ままに生きようとするか、それとも人間として生きるべきように生きることを考えるか。
 どちらの道を選ぶかによって、死を迎える時、天と地の違いになるかも知れません。

 身体の健康管理と同時に、心を清めてこそ、賢明な生き方と言えるのではないでしょうか。
 様になって生きる即身成仏(ソクシンジョウブツ)こそ、お年寄りの一番の仕事ではないでしょうか。

 ではどうすれば良いか?
 お釈迦様は、誰にでもすぐにできる方法を説かれました。
 それは次回に……。

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2012
02.13

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その92)─原発事故の検証は、太平洋戦争の検証と同じではないでしょうか─

 福島県富岡町の森川長二氏(74才)は、地震で被災した家を片付けている最中に原発事故が起こり、妻と共に30キロ離れた川内村へ避難し、別々に逃げていた娘や孫と再会しました。
 産経新聞への投書ではそれが「人生最高の歓び」だったと綴っています。
 転々としたあげく、9月になり、夫婦だけでいわき市内の仮設住宅で寝起きすることにしました。

 4月に栃木県内のボランティアへ預けておいた愛犬チャッピー(12才)を迎えに行ったところ、家を離れ飼い主から離れたストレスで食欲がなくなったため、17キロの体重は10キロまで落ちていました。

「夫妻の車に飛び乗ると、チャッピーは尻尾をちぎれるほど振りながら、これまでが嘘のようにあんパンをたちまち平らげた。
 しかし仮説に着いても車を降りようとせず、その日からまた何も食べなくなった。
『仮設ではなく、家に帰りたかったに違いない』
 結局チャッピーは10月10日永眠。
 獣医による死因の診断は『ストレスによる鬱血性心不全・腎不全の悪化』だった」


 森川氏は養蜂業を営んでいました。

「私たちは姥捨山のジジだ。
 朝、目が覚めないことを願い床につく。
 子供や孫が帰郷せず、老後を看てもらえない悔しさ悲しさ」
「家も仕事も家族での呉市も失った。
 私たちはあと何十年も生きられず、希望も何もない。
 ただ唯一の夢は、自宅や土地が買い上げられ、そのお金で孫に小遣いをやること」


 暮らしを失った喪失感は人間から希望を奪い、いのちのエネルギーを奪うだけでなく、犬のいのちも奪います。
 これほどの悲嘆の海となった現状は、まだ、あり得た最悪の事態ではないということが明らかになりました。

 3月25日、菅直人首相(当時)の求めに応じて近藤駿介内閣府原子力委員長が提出した最悪のシナリオの内容は驚愕すべきものでした。
 放射能物質から逃れるための強制移転地域は原発から半径170キロ圏以内、自主的移転は250キロを超えるかも知れないという状況だったのです。
 原子力工学が専門で内閣官房参与だった田坂広志氏は言います。

「最悪に至らなかったのは、幸運に恵まれたというのが、危機に対処した人間の実感」(朝日新聞2月12日)
「事態を把握して事故拡大を抑え込んだというより、幸運に救われた面、われわれがコントロールし切れていない何かに助けられた感は否めない」(朝日新聞2月12日)


 朝日新聞の論説委員吉田文彦氏は昭和37年に起こったキューバ危機が「人知の及ばないものに救われたかのように通り過ぎた」ことを例に取り上げ、指摘しました。

「フクシマではどうだったのか。
 最悪にどこまで近づいていたのか。
 それを防ぐのに、どこまで人知による判断が役立ち、どこが『神の見えざる手』に頼るところだったのか。
 キューバ危機で核の抑止力のもろさが透けて見えたごとくに、フクシマの徹底検証は世界に大きな学びを残すだろう。
 それを成し遂げる責任が日本にはある」


 時計は過去へ巻き戻せません。
 失われた森川長二氏の過去の暮らしは帰ってこないことでしょう。
 私たちは不意に予測していなかった状況へ陥った時、答が出ないことを知っていてすら「なぜ……?」と問います。
 知ってもどうにもならないのに、なお、問います。
 そして、回答の手がかりが見つかっただけで、心は変化する場合があります。
 全国へ拡散した膨大な数の〈森川長二氏〉へ社会ができることは、もちろん、生きていくためにより厚い援護の手をさしのべることが一つ、そしてもう一つは、政府や東電などによる〈問い〉への真摯な対応ではないでしょうか。
 
 過日、荒川区議会議員小坂英二氏と会ったおりに申し上げました。
「政党が選挙で掲げるこまごました政策などが状況によって変化するのは当然ですが、バッジをつけた人物の人間性は変わりません。
 選挙民が人間性を見て政治家を選べなければ、今の政治はレベルアップしないのではないでしょうか。
 政党を選ぶだけでなく、人間性をも選べる選挙制度にしなければ、このていたらくは変えられないのではないでしょうか」
 氏は答えました。
「それはそうですが、同時に選ぶ側のレベルアップが必要不可欠です」
 さすが、日々、選挙民と膝を交え、選挙ではビラを貼らずとも当選するだけの人物です。
 こうしたたくさんの〈森川長二氏〉たちの悲嘆を体感している政治家によって、原発事故の成り行きが徹底検証されることこそ、最大の被害者対策であるべきことを忘れないようにしたいものです。
 自分の悲惨な体験が、検証と反省と適切な今後の対策によって結果的に子供や孫の安全につながると感じられれば、それは決して小さくない救いになることでしょう。
(ああ、何と父祖の戦争体験に似ていることでしょうか……)

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2012
02.12

生み生まれる苦しみと死ぬ苦しみの救いは同じ

 善男善女の求めに応じ、安産守護のを結び、断末魔(ダンマツマ)の苦を解くを結びますが、不思議なことにその核となるは共通しています。
 断末魔は見るからに恐ろしい雰囲気の文字ですが、「断」は「断つ」という漢語であり、「末魔」は梵語の当て字です。
 断末魔は、末魔すなわち、ここへ触れると死ぬという急所が断たれることを意味し、臨終のことです。
 
 なぜ同じなのか?
 それは、人間は生まれてから死ぬまでいつも〈生をかけ死をかけた存在〉だからでしょう。
 今日の日本ではそうした実感はあまりなくなってきましたが、そもそも出産は母子共に生きるか死ぬかの重大事でした。
 出産において、母子は人生で最大の死との対決を迎えていたのです。

 私たちは、人生のどこかで、いのちをかける挑戦に踏み切ります。
 たった一つしかないいのちをかけるとは、実は、この世でたった一度しか迎えない死をかけるのと同じではないでしょうか。
 日々、務に務めていると、生と死の厳粛さは同じではなかろうかと思えるのす。

 たとえば大相撲を考えてみましょう。
 本場所は初日から始まり千秋楽で終わります。
 場所が始まって終わるのは、死からいのちがけで生へ転換し、生からいのちがけで死へ転換する私たちの〈いのちのなりゆき〉と同じです。
 場所中の15日間こそは、力士にとって私たちがこの世で行う人生修行そのものであり、千秋楽を迎えればその翌日から自分の道場における本番のための修行が始まります。
 私たちも同じように、前世の因縁を背負ってのあの世での修行が熟すればこの世へ登場して初日が始まり、この世での役割が尽きればこの世という舞台から降りる千秋楽を迎え、この世での因縁を背負ってあの世での修行へ向かいます。
 あらゆる因縁から解脱(ゲダツ)して輪廻(リンネ)の輪から悟りの世界へ脱しない限り、この世でもあの世でも修行を続けます。
 それは、力士が年間6場所の90日以外の日々を自分の道場で稽古するのと変わりありません。

 私たちは「死ねば何もかも終わり」とかんちがいしがちですが、死とは、私たちがそこからこの世へ旅立ってきた死の世界へ帰って行くことです。
 そして、その世界が安穏なみ仏の浄土であって欲しいと願うからこそ、死者がみ仏にきちんとお導きいただけるよう葬儀を行い、年忌供養を行います。
 弟子を失ったお大師様は詠まれました。
阿字の子が阿字の古里 立ちいでて また立ちかえる阿字の古里」

 確かに死に神のイメージは恐ろしいですが、それはきっと、私たちのこの世への執着心が生んだ幻でしかないのでしょう。
 真実は、因縁によってこの世での初日が始まり千秋楽を迎えるだけであり、おりおりに確かなお導きがあって欲しいという謙虚で真摯な祈りこそが私たちにできる最も大切なことではないでしょうか。
 安産守護も、断末魔の安穏も、医学の精華と宗教の修によって、より確かなものとなることでしょう。

〈つかの間の晴れとなった建国記念日〉
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2012
02.11

西行の涙を忘れない ─御霊は仏神に導かれて欲しい─ 

 平安時代、西行は伊勢神宮へお詣りしたおりに詠みました。

「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」


(いったいどなた様がおられるのかはわからないけれども、畏れ多いほどのありがたさに、涙が流れて止まりません)

 西行は、私たちの存在を超えた「なにごと」かに深く感じ入っています。
「かたじけない」とは、自分に対して不釣り合いなほどの高みから、自分の分を超えたものが与えられた時に発する言葉です。
 西行は、伊勢神宮で超越的なものと接したのです。

 私たちは古来、人はねば無になる、あるいはゴミになるとは考えてきませんでした。
 ねば私たちの日常を超越した世界へ入ると感じればこそ、遺骨を大事に扱い、墓地へ詣でてきました。
 どこかから見ていてくださるという感覚もまた、身近な人を失ったことのある多くの人々に共通するものです。

 一方、私たちは、自然から超越的な何かを受け取り、聖者の方々が残された教えやそれを伝えるさまざまなものを通じて、凡夫を超えた超越的な智慧や慈悲に魂を震わせてもきました。
 仏神と呼ばないでいられない「なにごと」かを感得し、祈りの伝統を伝えてきました。
 故人となった人の行く先は当然、えも言われぬ崇高で絶対的な「なにごと」かに導かれる世界であってほしいと願い、「なにごと」かに通じる祈りを手段として故人が迷わぬよう、安らかであるよう念じてきました。

 だから、故人を弔うことと、導き手としての仏神を信じることは一体でした。
「導かれないあの世」という観念はあまりなかったのではないでしょうか。
 常々、目の前のことごとに追われ、仏神へ手を合わせずにいる人々も、いざという時は〈神頼み〉するしかありません。
 手を合わせずにはいられなくなります。
 では、手を合わせるとは何なのか?
 それは、仏神と一体になることです。
 左手は自分であり、右手は仏神です。
 二つが一つになり、そこで日常を超えた心が生じ、それは自(オノ)ずから超越的な何ものかへの祈りとなっています。
 身近な人が逝った時、手を合わせることによって無意識のうちに自分が超越的なものと一体になり、あの世でもそうあって欲しいと願ってきたのではないでしょうか。

 現代の日本人はなぜか、葬儀といい仏壇といい、弔いの場から超越的な存在を忌避する行動が多くなってきました。
 聖職者のいない別れ、仏神のいない位牌箱が推奨されています。
 本当に、別れや弔いは〈自分対故人〉だけで良いのでしょうか?
 この世で親や先輩や先生などに導かれ、ようやく生かしていただいている人間が、あの世へ行った途端に自分だけで安心を得られるなどということが考えられましょうか。
 本当に、合掌は〈掌の間に感じるぬくもり〉だけで用が足りているのでしょうか?
 右手が超越的なものとつながっておらず、迷いや過ちに満ちた自分だけの両手で何ができるのでしょうか。

引導が渡された時、故人が清浄な世界へきっぱりと旅立ったことが実感されました」
「おりおりの供養をしてきた今、ようやく夫との別れに本当の納得ができたような気がします」
のうとした時、なぜか合掌していました。
 両手は強く強く磁石のようにくっついて一体になり、震えました。
 震えがおさまった時、のうという気持はなくなっていました」
 こうした皆さんも、当山も、西行の涙を誘った「なにごと」かの「かたじけなさ」に導かれています。

「かたじけなさ」を感得する素直さや瑞々しさを自分で保ち、皆さんにもぜひ保っていただきたいと強く願っています。
 3月11日の般若心経百万巻、納経百万巻による供養の計画も、こうした願いの延長線上にあります。
 御霊を弔うため、ぜひ、仏神に導かれた供養を行いましょう。

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2012
02.10

第24回寺子屋『法楽館』を開講します

 寺子屋法楽館』も第24回目となりました。
 お釈迦様の説かれた八正道不安を克服するカギがあります。
 いつもどおり、平成24年2月11日(土)午前10時より当山講堂にて行います。
 どうぞふるってご参加ください。
 詳しくはhttp://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3098.htmlをご覧ください。

八正道不安の克服を求めて』

1 不安とは何か
2 何が不安の原因となるのか
3 不安を克服する八正道
4 菩薩として生きましょう
5 3月11日には般若心経を百万巻唱え、納経しましょう

〈600px-Dharma_Wheel_svgをお借りして加工しました〉
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2012
02.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その91)─石巻市渡波にて─

 石巻市渡波
 堤防のすぐ内側にある漁師たちの集落は完全に消えていました。
 堤防の根本はえぐられた穴があちこちにあき、そこから先に広がる家並みがあったはずの空間は泥が埋め尽くし、数軒が形を留めているものの、あとはせいぜいが土台を残すのみです。
 毎年、車を駐めた松林は瓦礫置き場と化し、赤茶けた樹林からは伐採の音が響いています。

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 網代笠(アジロガサ)をかぶり手甲(テコウ)をつけ、白足袋の爪を確認してから車のドアを開ける托鉢は、もう二度と現れないことでしょう。
 より海岸へ近い質素な家に住み、自前の小船を整備して板子一枚下は地獄という漁場へ勇んで出かける人々の文化が失われた以上、それに連なる他の文化も縁が切れたのです。
 あの屈託ない人々がここで過ごす日々は永遠に戻って来ないと思われます。
〈その日にかけて生きる〉という根っこをどこかで共有していればこそ、托鉢を受け入れ、談笑し、本音を語ってくれた人々の笑顔──。

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 トイレをあてにしていた公園も一面の泥、もうすぐ一年が経つのに、手つかずのままです。
 意外と思えるほど大きな貝殻が埋もれており、持ち帰りました。
 何年にもわたって托鉢を生かしてくださったこの地からの最後の贈りものかも知れません。

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 海原だけは、托鉢へでかける前と終わった後で九字を切ったあの日と同じに見えます。
 しかし、打ち寄せる小さな波が崩れる直前のへこんだ黒っぽい裏側に潜んでいる恐怖を初めて感じました。
 打ち上げられた貝殻などに何か混じっているのではないかという気がして、波打ち際まで足をはこぶには勇気が要ります。
 決して〈踏んではならない〉という畏れが強く、光明真言を唱えながら写真を一枚撮りました。
 当山からそう遠くないところで数年前に始めたマリンスポーツを中心とした店が閉まった理由を体感できました。
 そう言えば、中年になってなおサーフィンにでかけていたジャーナリストから「あの日以来、一度も海へは足を向けません」と聞かされていました。

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 鎮守の神社は跡を残すのみとなり、願いのかけられた小さなお地蔵様などが地べたに置かれたままです。
 あまりの痛々しさに思わず当山へお連れしたくなりましたが、勝手なことは許されません。
 祈り、後にしました。

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 ご縁の方を訪ねようと知人へ連絡をとりましたが、被災したご一族の間でいろいろ忙しいから無理だろうとの返事。
 会社も自宅も失い、一時、知人に付き添われて神経科へ通っておられたはずの恩人といまだに会えないのは残念ですが、きっと、まだ、第三者と会う気持になれないのでしょう。
 気仙沼市の避難所ででようやく探し当てた恩人と会った時、こちらの〈安心〉と相手の〈放心〉とのあまりの距離に心が冷えたことを思い出しました。
 一方では、あちこちの避難所や仮設住宅に住んでいながら心を開いてくださる見ず知らずの方々がおられます。
 閉じる方へも開く方へも、相手に合わせながら心で祈ります。

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 がらんとした倉庫の入り口で、70がらみの男性が魚を並べるためと思われるガラスケースを水洗いしていました。
 人気(ヒトケ)が絶えた海岸近くのガランとした空間で、淡々と〈その日〉を待っておられる……。
 船着き場は陥没し、カモメ一羽が所在なげにしているのみでしたが、街道に近いケーキ屋さん、ラーメン屋さん、パーマ屋さんなどの元気な気配は、暗い町に灯った明かりのようです。
 人は生き、人が生きているところでは体温から発する何かが始まっています。

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2012
02.09

「『日本は一つ』忘れたか」(その2) ─3月11日は写経百万巻の納経供養をしましょう─

 現在、当山へは写経したさまざまな経典が納められています。
 般若心経観音経理趣経百字偈などを善男善女が書き、送って来られます。
 これまでに東日本大震災に関するものは数百巻にのぼっています。

 3月11日に行う「般若心経百満巻供養会」では、写経百万巻も納められれば、さらに大きな供養となりましょう。
 あと一ヶ月あります。
 どうぞ皆さん、何の経典であれ写経してお送りください。
 心をこめて修法し、皆さんの思いを仏天へ届け、御霊へ届けます。
 読むこと、書くことは人間として基本中の基本です。
 共にやろうではありませんか。

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2012
02.09

「『日本は一つ』忘れたか」 ─3月11日は般若心経を百万巻唱えて供養しましょう─

 仙台市の主婦佐野のぶ氏(69才)が2月6日付の河北新報へ「『日本は一つ』忘れたか」を寄稿しました。
 東日本大震災からもうすぐ11カ月が経とうというのに、瓦礫処理が遅々として進んでいないことへ異を唱えたのである。

「全国の皆さんに、11カ月前のあの時のことを、忘れないでほしいと思う。
 そして今、被災地が、必死に立ち直りの努力をしていることを知ってほしいと思う。
 できるなら、さらに想像してみてほしいと思う。
 被災地のがれきの山が取り除かれ、そこに広々とした土地が広がっているさまを。
 復興の足掛かりが一つ、できるのだということを」


 被災した人々の立場に立って現実を冷静に見れば、被災地以外の場所で瓦礫の処理を受け入れることがいかに必要であるかはすぐにわかるはずです。
 しかし、全国各地で首長が受け入れを検討しても「どうして〈ウチの近く〉で瓦礫を受け入れる必要があるのか」という住民の感情がそれを邪魔します。
 どこかで処理が行われねばならないことは理解しても、当事者が自分になった途端、ものの道理は後へ引っ込み、嫌だ、放射能で汚染されているかも知れないから怖い、となってしまいます。

 当山は、被災した方々からの願いに応えようと無宗教の新たな墓地を造り、宗教宗派を超えた合同慰霊祭などを実行しようとしました。
 当山では宗教宗派を問わず墓地を開放してはいます。
 しかし、十三仏様に守られた聖地に来られると、伝統仏教各宗派の方々は問題ありませんが、キリスト教などの方々はなかなか決断できません。
 だから、共同墓『法楽の礎』を検討したり、安骨供養の『法楽堂』へ遺骨を預けたりという形になってしまいます。
 この点を打破ししようとしてことを進めましたが、「どうして〈ここ〉でなければならないのか」あるいは「犠牲になった方々の無念の思いが集まるのが不安だ」などというごく一部の住民の嫌悪感が強固な意志となっているさまに、断念せざるを得ませんでした。
 必死に求めている相手の願いと自分の感情とを冷静に天秤へかけ、ものの道理で判断するのは実に難事です。
 断念せざるを得なかったのはまことに不徳のいたすところであり、非力さを突きつけられた思いです。

「こうしたことを解決するのは、被災自治体だけでは無理である。
 国が旗振りをしてもこの通りである。
 なぜなら、その扉の鍵を握っているのは住民一人一人だからである。
 全国に張り巡らされているメデイアの力を利用して、住民の意識に訴えることはできないものだろうか。
 起きていることを知らせるのも、これからのことを切り開くのも、メデイアの大事な使命ではあるまいか。
日本は一つ』が形になることを、念じてやまない」


 当山は、来る3月11日(日)、般若心経百万巻を唱える供養会を催します。
 日本人は古来、国難に際しては宗教宗派を超えて般若心経を寺院でも神社でも唱え、乗り切ってきました。
 だから、当ブログでは毎日欠かさず、原発事故の早期解決にむけた読経を呼びかけています。
 3月11日には、当山において100返の読経を行います。
 100人の方々が集まられれば1万巻になります。
 もしも、あと9900人の方々が全国各地で一緒に午前10時から100返唱えてくだされば100万巻になります。
 あるいは10返だけでも唱えていただければ、人数によって膨大な数になり、大きな供養となることでしょう。
 この時、「日本は一つ」が実現できはしないでしょうか。
 ご先祖様方がそうして日本をここまで導いてくださったように、私たちも今、一年の節目に状況を大転換させるべく、般若心経を一緒に唱えましょう。
 ネットで知らせるのも〈メデイアの大事な使命〉です。
 3月11日、共にやりましょう。
 この69才の方に代表される被災地の方々の願いを形にするために。

〈秘法「般若心経法」の主尊般若菩薩〉
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2012
02.08

嗚咽と祈り

 最近は地鎮祭や建て替える家の供養などのご依頼も増えましたが、まだまだ、遺骨を預けたり共同墓へ納めたりといった用件でご来山される方々が多く、皆さんがお帰りになられた後で、声にならない声を感じる場合があります。
 もう、吹っ切れたかのようにふるまっていた奥さんの後ろ髪が震えながら去って行ったと思える時などは、たまらなくなり、心で光明真言を唱えます。
 皆さんの心の嗚咽がやってくると通常の言葉は消え、真言だけが救いとなります。

 昭和42年、55才になっていた作家檀一雄は『白日(ハクジツ)の嗚咽(オエツ)』を書きました。
 永年の「妄執にさえなっていた南米の自動車旅行」が頓挫した檀は、日本中を放浪しているうちに、孤独を強く感じるようになりました。

「身辺に、身近な友人がまったくと言ってよいほどなくなった。
 その昔は、先輩友人、誰彼の家を訪ねて行って、酒を飲み、談笑にふけったものだが、そのような直接の先輩知己をことごとく失った心地がする」


 太宰治、坂口安吾、佐藤春夫、亀井勝一郎、……。

「白日の嗚咽とでも言った悲しみを、この頃、私は旅先のここかしこで俄に感じることが多くなってきたのは、どう言うわけのものだろう」


 そして、こう結ばれます。

「私もまた次郎を失ったせいか。
 その昔は、写真を写すことを好み、写真機を旅先にもよく持ち歩いたものだが、この頃は、惰性で写真機を抱えて歩いていても、シャッターを切らず、シャッターを切っても、現像を行わず、かりに現像をしても、焼付を怠ったりするような習慣になった。
 自分の懶惰な習性にもよるだろうが、次郎の発病の直前に、思いがけない次郎の記録の写真があって、それが発病後に現像されてきたことの衝撃にもよるだろう。
 旅先から帰ってみると、早朝、我家の庭先にいやでもヒグラシの声を聞く。
『次郎の蝉が鳴いているよ』
と私は家内にその夏の蝉の声を聞かせるが、次郎が日本脳炎にかかった日の早朝、まるで我家は、ヒグラシの声に埋もれるようであった」


 檀はその9年後に「モガリ笛 幾夜もがらせ 花二逢はん」と詠み、亡くなります。

 先妻を失い子を失いつつ老いた作家の寂寥は、時として、あふれるように襲ってきます。
 お線香の香りや、逝った友人からの手紙といった死を連想させるものによるのでなく、皎々と陽が照っている白日の中でこそ、不意にこみ上げ、たまらなくなる──。
 声にならない嗚咽が漏れるのです。

 もうすぐ東日本大震災から1年になりますが、浜からも里からも膨大な嗚咽の気配は消えていません。
 この世であれ、あの世であれ、嗚咽するへ届いて欲しいと願いつつ祈っています。

〈お地蔵様も哭きつつ祈っておられます〉
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2012
02.07

【現代の偉人伝】第143話 ─アジアを意識する横綱白鵬関─

 2月5日、両国国技館で平成24年の大相撲トーナメントが行われ、横綱白鵬関が優勝した。

「お客さんが帰って『良かった』という声が出れば、今日の優勝と大会をやった結果が出るんじゃないかな」


 周囲から勝って当然と思われる中、白鵬関は〈見せる〉ことも意識して土俵へ上がったらしい。
 それは3回戦からの決まり手が証明している。
 つかみ投げ、呼び戻し、上手投げ、掛け投げ。

 産経新聞の湯浅博氏は2月7日、「がっぷり相撲が見たい」と書いた。

「『寄り切り』『突き落とし』『はたき込み』ばかりだから手に汗にぎるヒマもない」
「栃錦の右からの上手投げに、若乃花が得意の上手投げで切り返す。
 そんな名勝負は、今は夢なのだろう。
 思うに、相撲がスポーツになったからではないか。
 以前の朝青龍騒動も、相撲部屋の暴力事件も、文化の衰退に起因していると思う」


 慶大教授中島隆信氏は日本相撲協会をこう叱ったそうである。

「これを文化の衰退と呼ばずして何と呼ぼう。
 大相撲システムという独自文化を壊してはならない」


 白鵬関は最後に決意を述べた。

「ヨーロッパの大きな力士に陽杯を奪われたので、アジア人として取り戻したいと思います」


 これまでこうしたスケールで大相撲を語った力士がいただろうか。

 日本人も、日本人以外のアジア人も、欧州人も日本の伝統文化を受け継ぎ、正々堂々と大相撲らしい勝負をする。
 自分の名誉や財物のためだけでなく、祖国や、アジアや欧州という地域、あるいは民族や人種の誇りをこそかけて、万人の目が注がれている土俵上で力の限りを尽くす。
 ここにこそ、国際化時代における国技の理想があるのではないだろうか。
 来場所、アジア人としての白鵬関、欧州人としての把瑠都関、そして日本人としての稀勢の里関などが意地をかけたぶつかり合いを見せてくれるよう願ってやまない。
 それは、まぎれもなく、日本が復興するための力となるに違いない。

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2012
02.07

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十三回)

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第十三回目です。

「自らの過ちが認められないにもかかわらず、何者かが私を絞首刑に陥れたとしても、いたわりの心でその罪を自ら被る、それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 こうなると、いくら修行とはいえ、尋常な判断力ではとても対応できなくなってきます。
「なんでやねん!」と憤り、果ては呪詛か絶望のうちに世を去るのが普通ではないでしょうか。
 では、この教えをどう考えるか?
 基本へたち戻ってみましょう。
 仏法は、人がの実践を行いつつ生きられるようになる道筋を説きます。

 の「」とは「与楽(ヨラク)」です。
 相手が誰であっても、誰しもが求める幸せがつかめるよう、力を尽くすことです。
 そのための最高の方法は何か?
 それは、自分が積んだ功徳を与えることです。
 自分の善行の結果が相手へもたらされるようにと、心から祈るのです。

 の「」とは「抜苦(バック)」です。
 相手が誰であっても、誰しもが厭う苦から離れられるよう、力を尽くすことです。
 そのための最高の方法は何か?
 それは、相手の悪業(アクゴウ)を自分が引き受けることです。
 相手の悪行の結果が自分へもたらされるようにと、心から祈るのです。

 こうした実践はいかにすれば可能なのか?
 実践者であるお地蔵様を考えてみましょう。
 お地蔵様は代受苦(ダイジュク…身代わりとなって苦を引き受けること))を使命としておられます。
 経典は、お地蔵様の誓いをはっきりと示しています。
「我まさに六道(ロクドウ)の衆生(シュジョウ)を抜濟(バッサイ)すべし、もし重苦(ジュウク)あらば我代わって苦を受けん」
(私は地獄界から天界までのあらゆる者たちを救おう。もしも消滅させきれないような重い苦しみを背負っている者があれば、私が代わりに背負いもしよう)
 お地蔵様は地蔵菩薩〉です。
 菩薩として身代わりにもなろうというのです。
 ここに、今回の教えを説くヒントがあります。

 つまり、相手と自分を入れ替える発想です。
 チベット密教ではそれをトン・レンと称する高度な瞑想法として確立しています。
 私たちは身代わりとなってくださるお地蔵様を信じ、お地蔵様の心をイメージし、そこへ近づこうとすることによっての実践が可能になります。
 具体的にはどうか?

1 事実や真実をつかめない、あるいは理解できない相手は、迷妄の闇にいる苦に満ちた気の毒な存在です。
 ならば、その身代わりとなってでも、相手の苦を抜こうとします。
 菩薩行を学ぼうとここまで来た以上、お地蔵様になりたいと願うのみです。

2 自分が理不尽な状況に陥った原因と自分の過去の業(ゴウ)が無関係であるはずはありません。
 たとえば過ちをおかしていないにもかかわらず、周囲から犯人ではないかと思われるならば、自分にも必ずなにがしかの原因があるはずです。
 ちなみに、私は小学校低学年の頃、仲間と遊んでいてご近所さんのガラス窓をボールで割ったりすると、よく、犯人に仕立て上げられました。
 大人へ事実を話しても、「いいわけをするな」とかえって叱られたりすると、黙って謝ったものです。
 そのうちに目撃者が出たりして無実の罪は晴れました。
 今になってふり返ると、小学校へ入ってまもなく胸を患って寝ていた頃、暇にまかせて毎日、新聞や子供向けの小説を読みふけっていたので周囲から生意気に思われ、同輩から煙たがられてもいたのでしょう。
 気づかぬうちに知識をひけらかしていたのかも知れません。
 犯人に仕立て上げられた原因は、嘘をつく仲間にだけではなく、まぎれもなく自分にもありました。
 もしもこの教えのような状況になったとしたら、絞首刑になる直接的な原因は自分にないとしても、必ずなにがしかの原因が自分にもあるはずです。
 そして、この状況は、過去の業(ゴウ)を清めるきっかけでないはずはありません。

 昭和23年、戦後間もない時期にM7・1とされる福井大地震が起こりました。
 震度6となった福井平野では津波なしで全壊率が60パーセントを超える大災害でした。
 そのどさくさまぎれに、坂井郡大石村の向岡マサさん宅へ三人の強盗が押し入りました。
 押し入れから虎の子の4万円を奪い去ろうとするので、マサさんは訴えました。
「それは震災で家が倒れたので建てたバラックの大工賃です。払えなくなれば私は死ぬしかありません」
 しかし、大金を見つけた強盗は返してくれず、逃げようとします。
 マサさんは強盗たちの背中へ言い、祈りました。
「あなた方は悪い人ではないのに魔がさしたんでしょう。
 そのままでは極楽へ行けませんよ。
 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、~」
 主犯格の高間は奪った金をそっと玄関に置き、仲間へは、自分が持っていた金を奪った分だといって配ったそうです。


 緊急場面で自分がどう行動するかはなかなか予測できません。
 しかし、向岡マサさんと強盗高間の一件はさておき、今回の東日本大震災における皆さんの文字どおりいのちをかけた助け合いは、私たちへの励ましとなり、希望ともなっています。
 町職員遠藤未希さん(24才)は、津波が押し寄せてくる宮城県南三陸町で、住民へ避難を呼びかける防災無線のマイクをギリギリまで離しませんでした。
 遠藤未希さんを含むたくさんの方々の献身的な行動こそ真の布施行であり、そこには生きる菩薩の姿がありました。
 私たちも菩薩であるべく、教えにより、献身的な善行により喚起されるよきイメージを心に保ちつつ生きたいものです。

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2012
02.06

今月の書道教室が終わりました ─橋香温先生と「団酒」のラベル─

 立春を迎え、月に一回の書道教室は一段と熱心さに満ちています。
 一枚の半紙に四文字づつ菩薩(ボサツ)の理想像が説かれている百の文字を書き上げる挑戦は、静かな炎となって参加される方々の心を清め、高めます。
 はるばる福島県から参加される方もおられ、静寂な一時間半は参加される方々にとって貴重な人生の時間です。

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 そんな教室を導いてくださる橋香温先生が、スコップ団(http://blog.goo.ne.jp/schop-dan_2011)念願の日本酒「団酒」のラベルを書き、このたび発売となりました。
 先生の文字とデザインは伝統のセンスと着実な前進力を感じさせ、味の力強さは、団結の〈団〉の文字にかける皆さんの思いを伝えます。

 ぜひ、全国の皆さんに傑作「団酒」を味わっていただきたいものです。

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2012
02.06

あらためて十善戒を考える(その6) ─卑劣さを排する─

 年のはじめに、あらためて「十善戒」を考えています。

7 不両舌(フリョウゼツ)

 これはいわゆる二枚舌です。
 一つの事実に関して、AさんとBさんへ異なった伝え方をし、それによって自分の意図する状況をつくり出し、身勝手な結果を求めるものです。
 身勝手な結果とは、たとえば嫉妬から、仲の良いAさんとBさんを仲違いさること。
 たとえば会社を揺るがせようとして、社長のAさんと専務のBさんの間へ不信を生じさせること。
 たとえばAさんを味方につけようとして、Aさんが信頼しているBさんを貶めること。
 嫉妬心の満足、組織の破壊、自分だけの利益、いずれも、人間として卑劣な願いというべきです。
 いずれも、卑劣な願いから嘘をつき、人の和を破壊する薄汚い行為です。

 こうした二枚舌を使う人は、人間の存在をあまりに軽く観ているのではないでしょうか。
 その軽薄さから自己本位による悪知恵で行動し、他人の和を破壊すると同時に、自分の人格をどんどん貶めてしまいます。
 やがて、自分によって貶められた人格は、自分へレベル相応の結果をもたらします。
 信頼されなくなるのです。

 明治天皇御製です。

「うもれ木を見るにつけても思ふかな
 しずめるまゝの人もありやと」


 埋もれ木を眺めて天皇は思われます。
 この埋もれ木のように、華々しく表面には顕れず世間に埋もれたままでも、淡々と人のまことを尽くしながら生きている国民がおり、そうした人々によってこの国は支えられているのだろう。
 人間の存在を軽んじる姿勢の正反対ともいうべき深い洞察です。

 たとえば恋敵との戦いで二枚舌を使いたくなった時、こう戒めてはいかがでしょうか。
「そこまで自分を堕としたくない」
 この高慢心と紙一重の矜恃(キョウジ…正しい自負心)は、人格を貶めず、人間としての信頼を失わないために欠かせない徳です。
 正しい意味で自分を大切にする人は、他人様をも大切にしないではいられません。
 そこに信頼が生まれ、保たれます。
 頭をまっすぐに立て、あごを引き、「そこまで自分を堕としたくない」とつぶやいてみてください。
 卑劣さという悪魔はきっと吹き飛ぶことでしょう。

〈おかげさまにて、春祭千枚護摩祈祷が無事、終わりました〉
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