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2012
03.31

違法な布教活動とは何か ─あやしい宗教へ引き込まれないために─

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 3月29日 札幌地裁は、北海道、愛知、鹿児島の元信者と親族ら63人が統一教会を相手取り、損害賠償を請求した訴訟の判決を下しました。
 原告は不正な布教活動によって伝導や献金を強いられたと認め、統一教会へ約6億6千5百万円の支払いを命じました。
 布教活動が「社会的正当性の範囲を著しく逸脱し違法であるとされた理主な理由は以下の3つです。

1 宗教であることを伏せた勧誘

 手相を観てあげると言われてついて行ったら宗教の勧誘だった、ダンスサークルは勧誘の隠れ蓑だったなどというケースはたくさん耳にしています。
 下心をもって表面を装う姿勢は、まっとうな宗教としての資格を欠いています。
 入り口がいかに魅力的であっても、下心が見えた時点で「信じてはならない」と踵を返さねば、蟻地獄に堕ちた状態となりかねません。
 何しろ相手はその道のプロなのです。
 古人は、「三十六計逃げるに如(シ)かず」と戒めたものです。
 どうしようこうしようと悩んでいるよりも、とにかく逃げ出すのが一番です。

2 家族や知人との接触を断った状態での教化

 教団関係者とだけ接触するように仕向けられたならば、胡散臭いと避けねばなりません。
 教団にとってなぜ外部との接触を断たせる必要性があるのかといえば、信者へ「ものの道理による客観的な判断をさせないため」であり、「第三者から催眠を解かれないため」であり、「脳のはたらきを固定化させるため」です。
 教団へ近づいたために、家族や友人など、これまで安心して生きて行ける支えだった人間関係に齟齬を来したならば、即、逃げ出す必要があります。
 真理に基づくまっとうな宗教は万人へ開かれていなければならず、誰かを敵視させたり、信じない人は救われないと見捨てたりはしません。
 クモの糸にからめとられてしまえば、食い尽くされるだけです。
 早く逃げ出しましょう。

3 金銭提供の不足は信仰の怠りで救済されないとする教え

 裸で生まれ、裸であの世へ行く人間にとっての救済は、何がなくても成り立つはずです。
 財産や地位や名誉、あるいは資格や友人などがあるかないかは魂の救済と無関係です。
 もちろん、飢饉や戦争などによって今日を生き延びられるかどうかという瀬戸際にあれば、食料や平和がもたらされることは、何にも優先されねばなりません。
 しかし、それでもなお、ナチスによって強制収容所へ送られ奇跡の生還を果たしたフランクルは書きました。

「人間は、いかに過酷な状況に置かれても、醜い本能をまるだしにしたり、列悪な行動に走るような存在とは限らない。
 逆に、困難や苦しみを通して聖者のようになる人もいる。
 人間の本当の姿(実存)は、限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する「精神」なのだ・・・・・。」


 曽野綾子氏は産経新聞に「『命をかける』と軽々に言うな」を書きました。

「ほんとうに命をかけて仕事をする人は、決して『命をかけて』などと口に出しては言わない」
「ほんとうに命をかけて天職のために働いている人は、『命をかける』などとは口にせず、結果として、黙ってそのことのために死ぬのである」


 私たちは、昨年の3月11日以来、「黙ってそのことのために死んだ」方々、あるいは人知れず死のうとした方々、そして今も悪魔と化した原発と「いのちをかけて」闘っている方々がおられることを知っています。
 真の救済は、「限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する『精神』」と無関係ではありません。
 もちろん、モノの価値を否定してはなりませんが、モノの媒介を救済の条件とする宗教はやはり、いかがわしいと考えるべきです。

 今回の判決は、私たちが怪しい宗教を見分けるポイントを示しました。
 多くの方々に感心を持っていただきたいものです。



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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2012
03.30

埋葬の直前に戒名を決めてもよいか? 

20120330010.jpg

 最近、戒名をつけないままにお骨にしておいた御霊へ埋骨前に戒名を求める例が多くなりました。
 そのほとんどが、戒名が何であるかを住職へ訊ねないままに、「まあ、いいか」と〈未定〉にしておいた方々です。
 もちろん、葬儀はいらないとか、寺院はけしからんという声に影響を受けた方々もたくさんおられるでしょうが、中には、「実際に戒名へたずさわるプロの話を聞いてから決めよう」と一歩、踏み込む方々もおられます。
 そうした場合、当山では、最初に三つのことを申し上げてから説明します。

一 話を聞いた以上は戒名をつけなさいなどと強制するつもりはないし、せっかく話を聞いたのだからもらわなければ悪いなどと考えないでいただきたいこと。

 多くの方々が、どこか怖々と質問の口火を切られます。
 何を言われるかわからないという不安もありましょうし、うっかり話を持ち出して断れなくなったらどうしようという戸惑いもあるのでしょう。
 だから、最初に、どうするかはあくまでも自由意志が前提であることをお互いの確認事項としてお示しし、安心していただきます。
 理解や納得へ至る手順を踏まず住職が「こういうものだから!」と強制するのは最悪であり、仕方なく戒名をもらうのでは御霊へ失礼千万です。
 とにかく、皆さんがほとんど真実を知らない戒名について、説明する人々からではなく祈る当事者から直接、事実を示され、皆さんが自分の頭で判断しないことには始まりません。
 身体に関する医療については現場の医師が真実を伝える機会が増えているのに、魂に関する処置については修法の現場である寺院と僧侶が真実を伝える機会は圧倒的に不足しています。
 それはもちろん、我々僧侶の未熟さが原因である一方、マスコミや教育など各界で未だに宗教がタブー視されていることも大きく影響していると思われます。
 いずれにしても、真実を知りたいという皆さんの関心がなければならないし、安心して関心を持っていただけるよう寺院や僧侶は工夫せねばなりません。

一 今ここでどちらかに決断されても結構、お帰りになりよく考えてからご連絡をいただいても結構であること。
 
 寺院では、「これはこういう意味ですよ」「こうしたことを行っていますよ」と事実や真実をお知らせはしますが、対価を求めることを前提にしたセールスは行いません。
 あらゆる強制も行いません。
 だから、セールスや強制と勘違いされないよう最初に、ここで決めなくて結構ですと申し上げます。
 もちろん、質疑応答の結果、「ではどうすれば良いでしょうか?」などとゲタを預けられれば、状況に応じ、皆さんの立場に立ったアドバイスは行います。
 こちらからの「さあ、どうしますか!」という強制はあり得ません。

一 戒名料は皆さんの価値判断と財布の具合にお任せすること。

 寺院で行われることはすべて仏法に基づく法務であり、すべてご本尊様の次元から流れ出ている救済のできごとです。
 だから、僧侶の行いはすべて「法施(ホウセ)」という法による布施です。
 行者である僧侶は、ご本尊様のお力を分けいただいてはたらく法力によって法施を行います。
 そして、皆さんから寺院へもたらさるものはすべて「財施(ザイセ)」という財物や労力などによる布施です。
 皆さんは、心におわすみ仏の無言の声に促されて財施を行います。

 ちなみに、托鉢行で門前などの祈りが終わり、皆さんからご喜捨をいただくと、こうつぶやいて行は終わります。
「財法二施(ザイホウニセ)
 功徳無量(クドクムリョウ)
 檀波羅蜜(ダンパラミツ)
 具足円満(グソクエンマン)」
(法の布施と財の布施が行われた
 その功徳ははかり知れない
 布施行によってもたらされるみ仏の智慧は
 あまりなく完成された)
 この瞬間、行者も在家の方も、等しくみ仏の子そのものになっています。

 戒名を受けて布施の真実に基づいた判断をされるのは皆さんであり、何よりも大切なのは、皆さんが折にふれ、ことにふれてみ仏の子である真実を生きることなのです。
 戒名が何であるかは、たびたび書きましたので別項をご覧ください。
 なお、作製が追いつかず品切れになっていた真実の記録『戒名の真実』は近々再発行する予定です。
 第二集も企画しています。
 関心がおありの方はどうぞご遠慮なく電話などで(9時~17時)お申し出ください。



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2012
03.29

井上ひさし氏の「恩送り」

20120329004.jpg

 勉強会『生活と仏法』で恩について考えた日、Aさんが3月16日付の『河北春秋』を切り抜いて持参しておられたのはあまりにもグッドタイミングで、皆さんと一緒に驚き、廻し読みをしました。
 河北新報のニュースサイト・コルネットさんから転記します。

恩送り」。作家の井上ひさしさんは生前、辞書には載っていないこの言葉を心に大切に秘めていたのかもしれない。
▼受けた施しや恩を、直接その相手に返すのではなく、自分ができるようになったときに地域や周りの誰かに返す。
 井上さんと親交のあった、一関市在住の作家及川和男さんが本の後書きに記している。
▼井上さんは激務の合間を縫い、通算4回にわたって同市で直接、一般住民の作文指導に当たった。
 1回につき100人以上の受講生の作文を徹夜で添削し、句読点から語句の使い方まで一つ一つを丁寧に教えた。
▼講義の途中、井上さんが秘話を明かしたことがある。
 一関で過ごした中学時代に、書店でどうしても欲しかった辞書を見つけて万引しようとしたところを見つかった。
▼店主は、警察行きを覚悟した井上さんを店の裏に連れていき、夕方までまきを割らせた。
 そして「職人に頼む代金に比べたら辞書代は半分だ」と言い、辞書と半額分の賃金を手渡した。
 人気作家による無報酬の作文教室は、その「恩送り」だったのではないか。
▼大震災から1年が経過した。
 被災地では大勢のボランティアによる活動が続く。
 いま、直接でなくてもいい。
 いつか恩を送れる日がきて、それが人と人との新たな絆として紡がれればいい。



 廻向(エコウ)という言葉にはさまざまな側面があります。
 一般的には、私たちが供養精進などの功徳をあの世へ廻し向けることを指しますが、こうした場面では、この世で生きている人同士の間でそれが行われています。
 店主は万引きに罰をもって報いることなく、辞書が読みたいという熱望へ、罪を犯さずにそれを満たす方法をもって報いました。
 きっと店主は地域住民が利用してくれるおかげでなりわいが成り立っていることを感謝し、地域住民に恩を感じていたのでしょう。
 そこへこの万引き事件です。
 店主にとって少年はいつもお金を払ってくれる〈お得意さん〉でないけれども、店へ足をはこび熱心に辞書を手に取る姿は、無数の〈おかげさま〉に含まれています。
 だから、こうした対応は店主にとってごく自然な行動だったものと思われます。
 いわば無心の廻向です。

 私にもこれに類する体験があります。
 娑婆で商売をしていた頃、オモチャを万引きした小さな少年が両親に連れられて返しに来たことがありました。
 いかにも貧しそうな三人は並んで座り、母親は、封を切り使ったしまったオモチャの代金を今すぐは払えませんが、いつかきっとお支払いしますと泣いています。
 自首したことに免じて少年を許して欲しいというのです。
 少年に詫びる意志とくり返さない意志を確認した私は、改心のご褒美としてオモチャを渡しました。
 やがて私は会社を倒産させて無一文になり、托鉢僧となった姿が河北新報で報道された時、一枚の無記名のハガキが届きました。
「いずくにかおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
 西行が伊勢神宮にお詣りしたおりに詠んだ一句「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」をベースにしています。
 これを目にした瞬間、差出人はあの三人のうちの誰かであると確信しました。
 私はこの一枚のハガキにどれだけ力づけられたかわかりません。
 なぜなら、娑婆とは原理の違う世界で生きることを決心した以上、娑婆で受けた恩を似たような形で返すことは不可能であり、そのことが深い罪悪感を伴う最大の重しとなって心にのしかかっていたからです。
 あの三人はついにオモチャの代金を持参できませんでした。
 しかし、一枚のハガキに思いを載せてくれました。
「恩は忘れていません。
 しかし、とうとう恩返しはできませんでした。
 でも、社長さんがお坊さんになって修行をしていることはとてもすばらしいと思い、三人で喜んでいます。
 私たちは陰ながら応援しています。
 どうぞしっかり励んでください」
 あの三人は、それぞれにとっても私にとってもまったく思いもよらない形で、私へ強い支えを与えてくれました。
「恩を忘れず、しっかりやっていれば、いつかきっと、恩人へ、あるいはその周囲の方々へ何らかの恩返しができる。
 誰かのために行う修法は、無限の縁の糸を通じて恩人のためになっているかも知れない」

 その後、新らしい縁が過去の縁と不思議なつながりや重なりを持っているという目を瞠らされる体験に感謝し感謝しつつ、ここまで来ました。
 山ほどの恩を受け、いくばくの恩返しもせずに……。
 実に、「恩送り」は意図して行われ、あるいは意図せずしても行われ得ます。
 恩を忘れず、相手が生者であれ死者であれ、誰かの何かのためになりたいと念じつつ生きていれば、他人からどう見えるかではなく自分のまごころのレベルで、恩知らずに堕ちることなく生涯をまっとうできるのではないでしょうか。



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2012
03.28

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十六回) ─恩を仇で返された時は……─

201203270232.jpg
〈強風の日、北の町で地鎮祭を行いました〉

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第十六回目です。

「わが子のように大切に育てた者が
 私を敵のように見なしたとしても、
 病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ
 それが菩薩の実践である」


 これはで返された相手へ菩薩はどう対応するかという問題です。

1 をどうとらえるか。

 隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場で唱える『七言法』の6番目です。

「我、を着せずを忘れぬは、人の道を忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」


 まず、菩薩(ボサツ)はを着せません。
 なぜなら、誰かのためになることは菩薩として当然の行為であり、そこにという特別な色をつけるのは無意味です。
 もしも自分で自分の行為へそうした色をつけたい時は、「いつか恩を返してもらいたい」という心がはたらいており、打算が伴った瞬間に行為は菩薩行から離れます。
 だから、宗教団体が恩の貸し借りと妥協で行動する政治団体になってはなりません。
 忘れられない場面があります。
 政界を志すAさんが某宗教団体の幹部と会ったところ、冒頭から、一定数の機関紙の購読やおりおりの集会所への挨拶など、いくつかの条件がつけられました。
「B先生は毎月、顔を出されて、ウチの信徒さんのウケがとても良いんです」
 鼻をうごめかせながらギラギラと迫り、宗教者が信者数をバックに恩を売る場面には、目を背けたくなりました。
 Aさんがどのように対応したかは知りません。

 そして、菩薩は受けた恩を忘れません。
 なぜなら、無限の「おかげさま」によって自分が今、ここにいられるからです。
 お大師様は説かれました。

「吾はこれ無始より已来(イライ)、四生(シショウ)六道(ロクドウ)の中に父となり子となって、いずれの生をか受けざる、いずれの趣(シュ…世界)にか生ぜざる。
 もし、恵眼をもってこれを観ずれば、一切の衆生はみなこれ我が親なり」


(私は、いつ始めがあったとも言えない無限の過去からずっと、ありとあらゆる生きものたちの世界で父となり子となって生まれ変わり死に変わりし、訪れない世界はない。
 もしも智慧の眼力で輪廻の真実を見透すならば、一切の生きとし生けるものは自分の親であることがわかるであろう)
 四生は、生まれ方によって分けられる生きものので世界です。
1 胎生(タイショウ)…胎内から生まれるほ乳類など。
2 卵生(ランショウ)…卵から孵化する鳥類や魚類など。
3 湿生(シッショウ)…湿気から生ずる虫など。
4 化生(ケショウ)…業(ゴウ)によって生ずる天人など。
 六道は業によって経巡る迷いの世界であり、地獄から天までの6つです。
 恩を忘れぬことは、僧侶として生き直す際の第一歩として欠かせません。
 だから、生前戒名を受ける方はすべて、最初に恩に背かないちう誓いを立てるのです。

2 をどうとらえるか。

 上記の理由により、菩薩にとって自分へ「恩をで返す相手」は存在しません。
 いるのは、ただ、悪しきことを行う相手です。
 目をかけてやった相手と、そうでない相手を区別して、目をかけてやった相手にだけ特別に怒ったり厳しく当たったりはしないのです。
 ダライ・ラマ七世に逸話が残っています。
 心を病んだ大臣プンポがダライ・ラマ七世へ激しくかみついた時、ダライ・ラマ七世はいつに変わらぬ慈悲をもって対応し、その後も大切にしました。

「プンポが精神的に不安定になったのはプンポ自身のせいではなく、堕落した時代のせいである」(『ダライ・ラマ 生き方の研究』より)


 この姿勢は、我が子が環境などの影響によって精神病にかかった場合の母親に例えられています。
 母親は環境などとは闘うかも知れませんが、我が子は自分が守ろうとするだけであり、決して闘いの相手にはしません。

 ただし、菩薩は、恩知らずに陥っている人へ恩を説きます。
 それは、親が子供へ「私がお前を育ててやったのに」とは言わず、太陽や農家の方やお巡りさんなどの〈おかげ〉に気づかせるのと同じです。

3 恩やをなす人と、恩やそのもののとらえ方。

 ある方が若松英輔氏著『魂にふれる』をお送りくださいました。
(多くの方々からお手紙や花や本や食べものなどをお送りいただきますが、なかなかお礼状を書けないでおり、深くお詫び申し上げます)
 その中にあります。

「死者を見出そうと願うなら『死』に目を奪われてはならない。
 それは病に近づきすぎて、病者を見失うのに似ている。
 病気は存在しない。
 いるのは病に苦しむ人間だけである。
 労苦があるのではなく、それを背負う人間がいるだけであるように、死ではなく、死者が存在しているのではないだろうか」


 死者の死を表す状況にだけ目を奪われて、死を観念するにとどまり、死者そのものを感じ、想像し、死者と交感する魂の次元へ深まる心を忘れているのではないかという厳しい指摘です。

 確かに、伊集院静氏著『いねむり先生』の名場面を思い出すと、そうした指摘の必要性はわかります。
魂にふれる』にあるとおり、

「単に知ることは、座った人間を立ちあがらせることはできないが、『解った』者は、むしろ座ったままでいることはできない」


という状態になりました。
 名場面は、心を病んだ男と、〈いねむり先生〉こと作家色川武大氏が夜中の田んぼで踊り出し、伊集院静氏も加わって大騒ぎした後、三人それぞれの心から病んでいた部分が洗い流されたところです。
〈人間〉を通じて病気が克服されたのです。
 だから、若松英輔氏に共感はできます。
 しかし、行者としては、やはり、共通して心に抱えているものを見すえる視点も放棄するわけにはゆきません。
 空(クウ)の視点から仏性の満月を観、煩悩(ボンノウ)の群雲(ムラクモ)を観ることなく、日々訪れる多種多様な願いを持った方々へ最善の法務でお応えすることはできません。

 具体的な恩人、で向かってくる人、恩そのもの、仇そのもの、よく考えて菩薩道を歩みましょう。



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2012
03.27

おかげさまにて、当山に安骨(アンコツ)堂とお風呂ができました

 平成22年の夏、当山に住職夫婦の居住専用空間がないことに気づかれた方から「お風呂場を造ろう」というご提案があり、自主的な護持会である『ゆかりびとの会』の方々が中心となって運動を続けていただきました。
 その結果、このたび、お風呂に入り、寝起きするためのスペースができあがりました。
 夢のようであり、〈自分の家〉という実感はまだ、ありません。
 月刊『ゆかりびと』に掲載したご挨拶のとおり、こうした時勢にあって、行者たる住職が寝起きする場を造っていただくなど忸怩(ジクジ)たるものを禁じ得ませんが、諸事を勘案し、今回の結果となりました。

 住職としては、何よりも「1口3000円が目安、ご寄進は完全に自由意志、ご寄進してくださる方を限定しない」という「布施」の根本精神を守る方針でこの結果となった成り行きにこそ、深い喜びを禁じ得ません。
 やがて私の後を嗣ぐ住職も、寝起きする1LDKの空間がいかにしてもたらされたを肝に銘じて日々の法務に励むならば、当山は当山であり続けられることでしょう。
 金子をご寄進された187名の方々だけでなく、さまざまな形でご助力くださったたくさんの方々のお力で、当山の姿勢を後世へつなぐための大きな礎石が造られました。

 また、庫裏(クリ)と講堂との間に、安骨(アンコツ…お骨を預かること)堂・位牌堂としての空間が完成したことも庫裏の完成に勝る喜びであり、これができることは今回の建築を決断する大きな要因となりました。
 急増している「お骨を預かって欲しい」という皆さんの願いに対して、これまで以上、安心していただける形でお応えできるようになりました。
 数十年という長期のお預かりも可能です。
 どうぞ、どのような状況におられる方もご遠慮なくご相談ください。 

 4月1日付の月刊『ゆかりびと』の発送が済みましたので、ここに掲載文を転記し、心よりお礼を申し上げます。
 まことにありがとうございました。


 
『お風呂場建築基金』の御礼

 平成22年12月に同基金について皆様方に御寄付をお願いするために趣意書をお送りいたしました。
 その結果これまで多くの方々から御協力と御支援を頂いて参りました。
 平成24年2月27日現在で御寄付いただきました金額は2379437円(187名)となりました。
 同日全額を法楽寺に送金いたしました。
 大地震や世情の環境の悪い状況下でこれほど多くの皆様方から法楽寺・御住職に対し御好意を寄せていただきまして心より厚く御礼申し上げます。
 本来なら御寄付を頂きました各位殿へ御挨拶と御礼状をお送りすべき所でありますが、当紙面をお借りして御礼とさせていただきます。
 末筆となりますが三月に入りましても厳しい寒さが続いておりますので、御自愛の程心よりお願い申し上げます。
 平成24年3月吉日
   法楽寺ゆかりびとの会会長 大須賀 隆


 常々お世話になっている会員の皆様へこうしたご報告とお礼をさせていただくなど、思いもよらぬことでした。
 思い起こせば平成22年の夏、風呂も居室もない私ども夫婦のために「お風呂場を造ろう」というありがたい呼びかけが始まり、やがて「住職庫裏(クリ)がないお寺なんて聞いたことがない。いっそのこと……」という声も上がりましたが、世の中は不景気のまっ最中、しかも、寺院と僧侶の姿勢や生活ぶりへの批判も厳しい状況下で、居宅を持つなどという考えは起こりませんでした。
 ところが方向性の見え始めた23年3月、東日本大地震の影響で当山の境内地周囲(墓地などはまったく影響がありません)において大規模な改修工事を必要とするにいたり、ただちに突貫工事を始めてくださった中田建設工業(株)様から信じられないお申し出をいただきました。
「原価で工事をします。銀行借入枠の残りでぜひ、住まいを造ってください。住職にもっとはたらいていただくため、奥さんのため、後を継ぐ方のためにも」
 そして、講堂を建ててくださった寺院サービス(株)様にまたまた格段のご助力をいただき、皆様からの御寄付に借入金を加えてこのたび、講堂裏に1LDKの庫裏が完成しました。
 こうした時節柄、本来なら御寄付のすべてを擲(ナゲウ)って被災された方々のために何かを行うべきところ、恥ずかしながら当ご報告となりました。
 皆様への感謝に加えてこの恥ずかしさを忘れず、いっそう法務と修行研鑽に励み、皆様へのお礼とすると同時に、手を差し伸べなかった被災された方々への心よりのお詫びとさせていただく所存です。
 まことにありがとうございました。
「頑張ります!」
   住職 遠藤 龍地拝

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2012
03.26

4月の聖語 ─近いのに見えない自分の心─

201226012.jpg

 お大師様は説かれました。

「近くして見難(ガタ)きは我が、細(サイ)にして空(クウ)に遍(アマネ)きは我が仏なり。
 我が仏、思議(シギ)し難し。
 我が広にしてまた大なり」

(あまりにも近過ぎて見えにくいのは自分のであり、微細でどこにでも遍く満ちているのは自分のにおられるみ仏である。
 自分のはなかなかとらえにくく、判断分析しにくい。
 自分のはそれだけ広く大きいのである)

 お大師様は、自分の心は明確に把握しにくいけれども、お地蔵様であれ、文殊様であれ、無数の仏様のおわす場所は自分の心の中であると説かれました。
 そして、心のありようをきちんと見ることができれば、実は大宇宙のように広大であることがわかるとされました。
 この身このままでみ仏であるという即身成仏(ソクシンジョウブツ)の真実を明らかにする瞑想法においては、実際に心を広げたり縮めたりして真実世界を体験します。

 三回忌の修法を終え、こうしたお話を申し上げました。
「枕経でご守護くださるお不動様から始まり、それぞれの時期をお守りくださるみ仏方のご加護によってここまで来ました。
 今、御霊は、西方浄土でお待ちになっておられた阿弥陀様のお力によって引いていただき、供養の徳を廻向(エコウ…廻し向けること)する皆さんのまごころが後押しとなって確かに最安楽の世界へ行かれたことと信じています。
 あの世で御霊が体験しておられることは、この世で供養する皆さんが体験してこられたことと響き合っています。
 枕経の時、迷わないように、おかしなものに取り憑かれないようにと祈った皆さんの心は、導師が修法でお招きするご本尊様であるお不動様のお心へ通じました。
 そして、二年が経ち、安心の世界へ行って欲しいと願う皆さんの心は、阿弥陀様のお心へ通じました。
 御霊のあの世での旅は、皆さんの心の旅と平行しており、あの世でもこの世でも、み仏がご一緒してくださっています。
 み仏は365日、24時間、私たちから離れることはありません。
 その真実は、私たちが心を澄ませ、煩悩(ボンノウ)がふさいでいる心の扉を開けば、いつでもみ仏とお会いできるということでもあります。
 お大師様の説かれた
『近くして見難(ガタ)きは我が心、細(サイ)にして空(クウ)に遍(アマネ)きは我が仏なり』
を忘れないようにしましょう。
 御霊供養のために、皆さんがみ仏と〈同行二人〉の善き生活を送るために」



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2012
03.26

4月の真言

20120326001 (2)

 4月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
03.26

4月の守本尊様

 4月は、清明(セイメイ)と穀雨(コクウ)の卯月(ウヅキ…4月4日より5月4日まで)です。
 4月は辰(タツ)の月なので、守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

21080819 010

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって煩悩を菩薩の大欲(タイヨク)へ転換させて自分を清め、周囲をも清め、魔を祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)



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2012
03.25

お堂の建立や修復はどう進めればよいのか

 東日本大震災後、こうしたご相談が急増しています。
「どうやってお堂建て替えたらよいのでしょうか?」
「どうやって莫大な修復工事をまかなったらよいのでしょうか?」
 もちろん、他山の住職からではなく、困惑した、あるいは苦しんでいる、あるいは悲しんでいる、あるいは怒っている総代さんなどからのご質問です。
 そこで簡単に私見をまとめてみます。

○やるべきこと

1 工事の必要性と予算を明確にする。

 なぜ、いかなる建物が必要なのか、住職聖職者として宗教的必要性による判断を行い、寺院を支えていてくださる方々からのご意見にも耳をかたむけ、理想の旗を立てるのがスタートです。
 聖地における宗教行為を行うための建物なので、その真の意味と価値は聖職者にしか判断できませんが、それがご本尊様へ帰依する方々のお心とかけ離れていてはならないので、チェックを受ける必要はあります。
 もちろん、同じ宗派内で規模の順番を争うなど、宗教的必要性以外の世俗的価値判断が入ったりしてはなりません。
 そうした穢れが取り付くと、理想が真の理想でなくなります。
 もしも穢れた計画が成功した場合、住職は世俗的価値で動いたという過ちを犯し、旗振りをされた方々にも余分な慢心が生じ、苦しんだり怒ったりしつつご寄進した方々にとって、仏縁そのものが〈やっかい〉と感じられてしまいかねません。

2 必要性を広く訴え、皆さんのご誠心に任せてご寄進を募る。

 寺院は、ご先祖様を託しているお宅だけのものではありません。
 なぜなら、ご本尊様はみ仏であり、み仏は、導き、救う相手を決して選ばないからです。
 寺院はそうした真の意味で公的性格を有しているので、寺院の宗教的必要性は広く開示され、それに同感、納得、賛同してくださる方々のお心全体によって造られ、維持されるべきです。
 また、ご寄進は当然、真の布施という行為によって行われねばならず、住職も、推進してくださる方々も、必要性に耳をかたむける方々も、真の布施の何たるかを明確に認識してからことを進めるべきです。
 ご寄進が正しい宗教行為である布施となるためには、三つの条件があります。
 布施する方にとっては、完全に自発的であり、見返りを求めず、感謝が伴うこと。
 布施を受ける側にとっては、宗教的理想以外のものを持たず、受ける布施の内容によって中身も相手も区別せず、すべてをご本尊様へ納められるものとして徹底的に尊び、相手へも等しく感謝すること。
 布施される金品は、正しい方法によって得られたものでなければならず、勤労奉仕などにあっても、余分な思惑を伴わないこと。
 これがご誠心による布施です。

○やってはならないこと

1 いわゆる〈頭割り〉によるご寄進の実質的強制。
 
 これが仏法を穢し、檀家本来の意味を歪め、寺院を堕落させ、寺院へ不信を抱かせ、ひいては仏教離れや寺離れをもたらす諸悪の根源であることは、当山の「脱『檀家』宣言」に詳しく述べてあります。
 聖なる修行道場であるべき寺院は、真の布施によってのみ成り立たねばならないし、真の宗教行為がなされていれば、み仏が必ず成り立たせてくださるはずです。
 
2 住職の私財の秘匿。

 住職は出家得度した聖職者であり、基本的に、私財を蓄えることはあり得ません。
 だからこそ、清々しい心で理想を掲げ、後ろめたさを持たずに善男善女へご寄進を呼びかけられるのではないでしょうか。
 たとえば1億円の建物を造る時、住職が最初に3千万円を寄進して、差額を檀家さんからのご寄進でまかなおうとするケースなどには問題があります。
 まず、住職が個人的に3千万円を蓄えていたことは理解を得られないでしょう。
 住職は、ご本尊様へ納められるありがたいお布施で生かしていただいている行者なのだから、蓄財などせず、一切合切を投げ出さねば先へ進めません。
 もしもこうなってしまった場合は、住職が檀家さんと同列に奉加帳へ名前を連ねたりせず、3千万円と言わずありったけの私財が宗教法人へ寄進され、宗教法人はそれを含めて準備できる総額を計画のベースとして提示すべきです。
「私腹を肥やす聖職者」は最悪のイメージであり、仏法を貶める元凶です。

 以上、未熟な私見をざっと述べました。
 原理原則に則り、ことを単純化して純粋に進めれば、み仏が道をつくってくださると信じているのですが……。
 皆さんの望まれる良き計画が順調に進みますよう。合掌

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〈まだ、池には氷の張る朝です〉



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2012
03.24

「南無大師遍照金剛」とは何か? ─阿部翔人君と心にある宝もの─

20120324001.jpg
〈http://image.rakuten.co.jp/fudasho0ban/cabinet/0101/1024wh1.jpgをお借りして加工しました〉

 お遍路さんが必ず唱える「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」とは何でしょうか?
 南無は「帰依(キエ)する」という意味です。
 帰依とは、信じた相手の前で心を裸にし、自分が無なる状態です。
 では、お大師様に帰依した結果は……。
 お大師様と一体になります。

 私たちの本体がみ仏であり、それに気づき、本来のみ仏になりきることが仏教の到達点であると明らかにしたお大師様は、天皇の前でも、そうなり切った姿を顕しました。
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)を周囲の人々へ確信させたのです。
 いわば〈生き仏〉となった人を、仏教では応身仏(オウジンブツ)といいます。
 人間修行に応じて、み仏になった〈この世のみ仏〉です。
 こうした生き仏様に帰依すると、〈この世の〉という次元の先にある世界が感じ取れます。
 いわば「まごころ」そのものが広大な世界となって広がっているのです。

 たとえば、宮城県石巻工業高等学校野球部主将阿部翔人君が行った甲子園での選手宣誓と、試合での部員一丸となった活躍を考えてみましょう。

「東日本大震災から1年、日本は、復興の真っ最中です。
 被災をされた方々の中には、苦しくて心の整理がつかず、今も当時のことやなくなられた方を忘れられず、悲しみにくれている方が沢山居ます。
 人は誰でも答えのない哀しみを受け入れることは苦しくて、辛いことです。
 しかし、日本がひとつになり、その苦難を乗り越えることができれば、その先に、必ず大きなしあわせが待っていると、信じています。
 だからこそ、日本中に届けます。
 感動、勇気、そして笑顔を。
 見せましょう。
 日本の底力、絆を。
 我々高校球児ができること。
 それは全力で闘い抜き、最後まで諦めないことです。
 今、野球ができることに感謝し、全身全霊で正々堂々とプレーすることを誓います」


 彼らは津波によって個人的な悲劇に遭っただけでなく、野球チームとしても深刻な被害を受けました。
 しかし、グラウンドを埋め尽くした津波の泥を黙々と排除するところから始め、やがて宮城県内の大会で並み居る強豪を破るほどの力をつけ、今回の出場となりました。
 選手宣誓も見事、試合ぶりも見事でした。
 彼らは選手として輝いている時、生き仏だったのではないでしょうか。
 夢中で拍手し、涙し、歓喜した人々は、少年の姿を通じて〈それ以上〉の真実と出会っていたのではないでしょうか。
 涙する地元の方々の姿をテレビで観る私たちもまた涙する時、選手も地元の方々も私たちも、広大な「まごころ」で通じ合っていたのではないでしょうか。
 そして、まごころ体験は、霊性のはたらきを高め、いのちを活性化します。

 こうして、特定の宗教の特定の修行を手段とするのみでなく、私たちはいつでも、自分の身体と言葉と心がまごころそのものではたらく時、誰かのまごころに素直に感応した時、人間本来のみ仏になっています。
 お大師様は説かれました。

「ああ、自宝(ジホウ)を知らず、狂迷(キョウメイ)を覚(カク)といえり、愚にあらずして何ぞ」


(ああ、迷い惑う人々は、自分自身にあるみ仏からいただいた宝ものを知らない。
 そして狂い、迷っているにもかかわらず、自分は目覚めていると錯覚している。
 これを愚かと言わずして何と言えようか)

 私たちは、自分自身の心の奥へ入り、財宝のある扉を開ける方法が伝えられているにもかかわらず、宝ものを外へ求めてウロウロします。
 そして名誉欲などの欲たちを満足させてくれる対象を見つけて人生の真実をつかんだような気になったりもします。
 しかし、そうしたものたちは、無常の風が一陣吹けばたちまち粉々になり、何かをつかんだはずの手は空っぽに帰します。
 一方、心におわすみ仏と会い、即身成仏(ソクシンジョウブツ)を体験したならば、無常の鬼にも魂が揺るがされはしません。
 確かな宝ものは外にではなく、自心にこそあると気づきたいものです。

 お遍路さんは「南無大師遍照金剛」と唱えて四国を歩き、石巻工業高等学校野球部の少年たちは志をもって野球にうち込み、み仏へ近づきます。
 お大師様が、「この身このままでみ仏であることに気づく道は万人へ解放されている」と説かれたことをよく考えたいものです。



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 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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2012
03.23

年忌供養は、あまり熱心に行うべきではないのか? ─農業・漁業・林業と宗教は似ている─

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 意外なご質問が相次ぎ、驚いています。

1 Aさんが、僧侶と一緒の席に着く機会があったので、近々、亡父の七回忌が来ることを話題にしたところ、こう言われました。
「供養は三回忌をやれば、もう良いんだよ」
「エッと思ったものの、とても威厳があり、周囲もピリピリしながら接している人であることを知っていたので、理由を訊きはしませんでした。
 どういうことなのでしょう?」

 み仏を信じ、み仏に導かれてこそ、この世の幸せもあの世の安心もあると信じている者としては、同じように、どういうことなのですかと問いたくなります。
 現在、「あの世へ行けば本当に十三仏様と会えるのか?」という稿を2回ほど書いており、詳細はそちらへ記しますが、まず、お釈迦様が説かれた真理を思い出しましょう。

因果応報の理は、この世もあの世も貫いている。
 だから、善いことを行えば、この世で善い報いを受けるだけでなく、あの世も極楽となる。
 悪いことを行えば、この世で悪い報いを受けるだけでなく、あの世も地獄などになる」


「人は皆、無限の過去世(ゴウ)を背負ってこの世へ生まれてくる。
 そして、さらにこの世で善悪さまざまなを積んで死に、やがてまた、この世へ生まれ変わる。
 人間が皆、ままならない苦を背負って生き死にをくり返すのは、を積ませる原因となっている根本的な智慧の明かりがない状態、すなわち無明(ムミョウ)を克服していないからである。
 の束縛を断ち切り、自他の苦を断ち、この世もあの世も極楽にするためには、真理に気づいた今、適切な修行を行って悟りを開く以外の方法はない」


 こうした私たちにとって死者を弔うことは、とても貴重な修行の機会になります。
 自分が生きるため、家族を生かすために日々のなりわいに追われていると、〈死〉や〈生〉の問題を〈自分のこと〉として実感しつつ熟慮したり、適切な修行を行ったりする機会はなかなかありません。
 ところが、近しい人の死は、ガーンと頭を殴られるような衝撃をもたらし、立ち止まらせられ、しきたりに従ってお線香を立て、お花を供えたくなります。
 何かをしないではいられなくなり、どうしたら良いか、正確には知らないでいたことに気づきます。
 そして、悲しみと淋しさの中でお灯明を点し、水や食べものも供え、手を合わせているうちに、いつもとは違う心がつくられ、開かれていることを知ります。
 導師から聞かされた言葉の持つ意味も、全身全霊で理解できるようになります。
「人は皆、ひとしく、死をもって人生最後の大仕事をします。
 それは皆さんをこうして立ち止まらせ、生と死を考えさせ、人生修行の機会を与えてくれたことです。
 供養をもって故人の御霊へお報いしたいと願うならば、お線香を立てたならば、お線香のように精進することです。
 精進という修行をしつつ善く生きる功徳を廻向(エコウ)し、御霊の安心に役立てることです」

 誠心をもってこうした日々を送っていると、必ず、「ああ、四十九忌が来る」「もうすぐ百か日だ」という区切りの意識が起こるものです。
 導師から聞いた言葉も思い出します。
「四十九日忌は、薬師如来様のお導きで、この世に残っていた気配もなくす時期になります」
「百か日忌は、阿弥陀如来様のおそばでお仕えする観音様のお導きで、いよいよ極楽浄土をめざす流れに乗ります」
 信じて法会を催すごとに、御霊が安心の世界にいるという安心感が深まり、自分自身にも、どこか、清められた感じが伴ったりします。
「どうせ俺は煩悩(ボンノウ)にまみれているのさ」と自分を嗤(ワラ)いつつ、柄にもなく、何か清浄なものが心に生まれていることにうろたえたりします。

 そうして、一周忌、三回忌七回忌、十三回忌、三十三回忌と供養し、亡き人の安心を疑いもしなくなる頃には、自分自身の死への心構えも徐々に定まり、死魔に惑わされない心ができている方もおられます。
 過日、兄弟とその家族が集まって厳父の五十回忌を行われたBさんは、あらためて父親の薫陶に感謝し、皆の前で宣言されました。
「もう、これで、思い残すことはありません。
 あとは、自分にできることを行いながら、お迎えを待ちます」
 これまで、身を粉にして周囲のために汗を流してきたBさんは、動ける限り動くだろう、助けを借りなければならなくなれば、ありがとうを忘れないだろう、やがて見事に逝かれるだろうと確信させます。
 信じ、供養し、この世もあの世も清めつつ生きるBさんは、箒を手から放さないチューラパンダカさんのようです。
 
2 若くして喪主となったCさんが、叔母さんへ母親の七回忌について相談したところ、こう言われました。
「そういうことをあまり、熱心にやらない方が良いよ」
「私はさっぱりこうしたことがわかりません。
 友人や職場にもはっきりした考えを持っている人はいません。
 これまで、住職のご指導をいただきながらやってきましたが、叔母からああ言われると、とても困ります。
 どうすれば良いのでしょうか?」

 この叔母さんは、よもや、法会へ呼ばれての出費を嫌がっているのではないのでしょうが、実に「こういうものだ」「こうしてはならない」あるいは「こういうものは要らない」と、売れっ子の評論家も含めて皆さんのご意見はさまざまです。
 しかし、宗教行為の根本が、宗教行為を行う現場からの生(ナマ)の声としてどれだけ語られているでしょうか。
 実に語られていることの多くは儀式に〈ついて〉であり、その〈いわれ〉であり、ややもすれば科学的見地からの〈有効性〉であり、現世的〈効果〉や〈必要性〉でしかありません。
 金銭にからんでどうこうという貨幣経済の論理による批判も絶えません。
 もちろん、聖職者が多額の報酬を要求するなど許されないことではありますが、そもそも布施という行為は行う側の純然たる価値判断と意志によらねばならないという原則は曲げられません。
 曲げた瞬間に布施は宗教行為でなくなり、み仏と御霊へ向かう心に欺瞞が生じます。
 ここのところはとても理解を得にくいと思われますが、貨幣経済の頭だけでは理解しにくいのが当然であると言えないこともないのかも知れません。

 ところで、最近亡くなられた評論家吉本隆明氏は鋭い思想を持っていました。
 自然の運行に従う農は、貨幣を伴い上手に価値を増殖させる交換経済と異なる原理で動いており、農によって生産されるものを食べて生きる私たちは、等価交換でなく、贈与しなければ農業はきちんと維持できないと主張しました。
 つまり、等価交換の頭でなく布施の心で守らなければ、自然の原理による世界は破壊され、自然の一部である私たちも生きられないというのです。
 被災した沿岸部の方々の声も聞いている私には、「商売(だけ)になったら漁業は終わりだ」という海の男たちの主張が手に取るように理解できます。
 日本の農業も漁業も林業も、等価交換としては決して〈合わない〉ほど無償の汗を大量に流している人々の尊い布施行によってこそ守られているのだという真実を忘れてはなりません。
 食べる側にも、その布施行の一部を負担する意識がなければ、私たちのいのちを支える第一次産業は健全に機能せず、それはやがて、私たちのいのちを脅かすことにもなるのではないでしょうか。
 宗教と第一次産業には、とても共通する面があります。

 第一次産業と同じく宗教の現場では、あたかも風のように吹き渡る遠い声声とは無関係に、生と死へからみ、仏界と人間界、あの世とこの世とにまたがった〈生きた〉宗教行為が大山のように揺るぎなく黙々と行われています。
 ──娑婆の方と聖職者が一つになって。
 今回の二つの問いへ、私は答えられたのでしょうか。

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〈糸井重里氏のページからお借りして加工した吉本隆明氏〉



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2012
03.22

 2012年4月の運勢

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 2012年4月─平成24年4月(卯月…4月4日から5月4日まで)─の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 最も恐るべきは、〈まこと〉を忘れることです。
 自分に都合の良い思惑を離れてみましょう。


 このたび、お骨を長期的にお預かりできる安骨供養堂ができました。
 小さな部屋なので、天井の中央へ御霊と訪れる方々のために絵を飾ることになり、画家Aさんが訪ねて来られました。
 建築会社さんも含めて充分に時間をかけてやりとりし、構図が決まりかけた頃、Aさんがポツンと言われました。
「描き込み過ぎないようにしましょう」
 この一言は、Aさんの「まこと」を示して余すところがありません。
「先生の言われる『描き込み過ぎない』とは、そこに先生そのものが顔を出しているのではなく、眺める方々がその人なりに空や池や極楽などをイメージできるようにするという意味ですね。
 たとえばピカソの『ゲルニカ』やムンクの『叫び』のような作者そのものが出る作品にしないということですね」
 こう言いつつ、人の好き嫌いを公然と口にし、自分の造りたいようにしか造らないと嘯(ウソブ)く設計士Bさんへの不信を思い出していました。
 求められている役割を果たすためにのみ最善を尽くすというAさん姿勢には〈我(ガ)〉がありません。
 きっと皆さんに喜ばれる作品に仕上がることでしょう。

二 ものごとが〈成る〉には、努力は努力として、どこかに〈おのづから〉という流れが伴っているものです。
 自分にとって虫の良い期待にのめり込むとそれが観えなくなリ、自分を追いつめる虞(オソレ)があります。


 古人は「テムズ河の水は東京湾に通ずる」と言いました。
 ロンドンと海とを結ぶ河の水は、海を通じて東京湾ともつながっています。
 私たちはそのことをわかっても、その事実に何が含まれているかは知り尽くせません。
 ここで取り上げられる〈水〉のように、縁という網はあらゆるものを繋いでおり、どこかで何かが起こればそれが原因となって、必ずどこかで何かの結果を生み、因果の理は厳粛ですが、私たちの脳には、あらゆる因と果を結ぶ縁の糸を見分ける能力がありません。だから、私たちには二つのものが求められます。

 一つは、縁という網があればこそ生きていられる事実に対する感謝です。
 世の中の表面は確かに無縁社会の様相を呈しています。
 しかし、幸いにして日本では、某国のように、毒性の強い農薬を用いた作物が売られたり、建築基準に違反する建物を造ったり、事件の被害者が警察官によって投げ捨てられたりはしません。
 自衛隊や警察や消防が休みなく国民へ安全をもたらし、車があまり通らない深夜の交差点でも人や車はほとんど交通信号を守るほど順法精神と公序の感覚が生きています。
 今を生きていることは目に見えない縁の糸に依っていることを忘れないようにしたいものです。

 もう一つは、知り得ないという事実に対する謙虚さです。
 東日本大震災にはもちろん、物理的原因があったのに、これほど科学力が発達した日本ですら地震の発生を余知できず、予防もできませんでした。
 しかし、被害に遭った方々の口から、大地や海への怒りや怨みの言葉は聞かれません。
 不条理であり理不尽であり惨(ムゴ)いのに、私たちはいつしかそうした思いを「無常」という感覚で消化し、生き残った自分のいのちを見つめ直しながら健気に前へ進もうとしています。
 日本は高度な消費社会になり、あらゆる欲が前面に出過ぎてはいますが、歴史によって培われた謙虚さは、私たちの文明の底支えとなり、自然と仏神への畏敬の念につながっています。
 不可視の縁が〈おのづから〉としてはたらいている感覚を忘れないようにしたいものです。

○み仏の子として、煩悩を脱し、菩薩になるための六つの修行を、日々、行いましょう。

布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は私心を捨て時期を待って志の成就へ近づきます。
 不精進の人は我欲で一気に大きな結果を求め、結果的に損を生じがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は理不尽な妨害や余波を受けても本分を守り、無事安全です。
 不精進の人は外に気をとられて失敗しがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は驚くようなできごとがあっても動じずに守るべきものを守れます。
 不精進の人は無駄な争いへ首を突っ込み、自滅しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は注意を怠ったばくち的勝負へ走らず、無事安全です。
 不精進の人は本来の道以外のところでうまくやろうとして失敗しがちです。
禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は何があっても恥じるところなく堂々と進めます。
 不精進の人は抱えていた不安が爆発して焦りを生じ、道なき道へ進みがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は謙虚で、分を超えた領域へ手を出さず火傷しません。
 不精進の人は高慢になり相手や状況を甘く見て大きな危険の待つ方向へ突進しがちです。



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2012
03.21

よく理解できない般若心経を唱えると悪いことが起きるか?

20120321001.jpg
絵文字般若心経

 ご主人を亡くし、送って以後、当山で発行している経典を毎日欠かさず唱えていた筈のAさんが、久方ぶりにご来山されました。
 せっかく彼岸法会のお勤めへ参加されたのに、心なしか浮かぬ顔をしておられます。
「ご住職さんにお訊ねしたいことがあるんですが、いいですか?」
 おずおずと話し出した内容には驚きました。
 Aさんが信頼しているB氏の著書に、よく意味もわからないで般若心経を唱えていると良くないことが起きると書かれていたので、毎日のお勤めから般若心経のところだけ抜くようにしているが、違和感が否めなくて困っていたと言われます。

 お大師様がこう教えてくださっていることをお伝えしました。

般若心経を唱えたり、所持したり、講義したり、み仏や御霊へお供えしたりすれば、苦は抜かれ楽が与えられる」


 また、国難に際しては、お寺だけでなく、神社や普通の家々でもこの経典が読誦された歴史が続いてきたことをお伝えしました。
 また、江戸時代などには、絵文字般若心経が広く用いられていたこともお伝えしました。
 江戸は当時、世界一の識字率を誇っていましたが、それでもなお文字の読めないご先祖様方がおられ、そうした方々も共にこの経典を読んで人の道を踏み外さないよう、悪事・凶事から救われるよう祈ったのです。
 また、出家得度すると、まず、至心に読経することから修行が始まることもお伝えしました。
 自己中心的な〈はからい〉を離れ、み仏へ帰依(キエ)し、お任せする身としてせねばならぬことの第一は、経典を研究することではありません。
 他心なく、み仏のおわす前で全身全霊を挙げて読誦してこそ、道が開けるのです。
 また、般若心経を読み解いたもので最高レベルとされている書物の中で、お大師様はこう示されたこともお伝えしました。

「般若心経にある文字の一つ一つにはとても言葉では解き明かせないほど深い真理が含まれている。
 表現や意味について極め尽くすことは、いかにたくさんのみ仏方がおやりになっても不可能である」


 つまり、この経典は、み仏の世界を表すみ仏の言葉で書かれているので、最も大切なのは、私たちが確実にできる方法として至心に唱え、写経することなのです。

「これで安心しました。
 住職さんのCDを聴きながら、また、経典全部を読んでお勤めします」
 以前は読誦して救われていたAさんに嬉しそうな笑顔が戻り、自分が救われた思いになりました。
 それにしても、玉石混交となってうねる情報の海で溺れかけている方々がいかに多いことか……。
 タブーをつくって怖れさせ、ひれ伏させようとする人々のいかに跋扈(バッコ…はびこること)していることか……。
 南無大日大聖不動明王、その智慧の火で蘊魔(ウンマ…あり過ぎて生じる魔もの)を祓いたまえ。

 なお、「声を出さず、心で唱えても功徳はあるか?」というお問い合わせも時たま、あります。

 お大師様は、音声は文字であり、文字には真実があると説かれました。
 事実、私たちはウグイスの声を「ホーホケキョ」と聞き、たった一声に鳥がいることを知るだけでなく、春を実感し、自然の広がりも意識に上ったりします。
 そうした心が深まれば、耳にするものすべてに、み仏の言葉となった文字、すなわち教えを聴き、み仏の世界に抱かれていることがわかります。
 この体感こそが、修行の根幹です。

 また、文字としての言葉が心に映し取られる時、そこには無音の音声が流れています。
 見ることによって得られる情報も、聞くことによって得られる情報も、心では文字となり無音の音声となって、意味を持ちます。
 だから、声を出して読むことには、文字を見る効果と自分の声を聞く効果との二つがあり、声を出さなければ耳から聞く効果はなくなりますが、しっかり文字を読めば心に刻まれる文字が言葉となってはたらくことに問題はありません。
 また、真言などは、ひとまとまりの音声としての言葉そのものに、み仏の世界の扉を開ける力が具わっているので、心中に文字を描いたり、あるいは百返千返と心中で唱えたりしつつ修法します。
 皆さんの目の前で導師が無言のまま座っているからといって、何もしていないのではありません。

 問いへの答はもちろん「あります」です。
 事実、声を出せなくなった方が、読誦する方々と一緒になって熱心に法会などに参加しておられるお姿を目にすると、「ああ、仏様」と手を合わせる気持になります。
 声を出せる時は出し、出せない時は出さず、ぜひ経典を手にし、目にしてください。
 きっと、み仏の言葉が文字となって心に流れ、み仏の世界への扉が開くことでしょう。



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2012
03.20

結ぶ絆、ある絆 ─自由のイメージ、縁のイメージ─

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 今、各地で、善意の人々が「絆を結ぼう」「絆を取り戻そう」と真剣な努力をしておられます。
 仮設住宅で暮らす被災者の自立を後押ししようと「安心見守り協働事業」を展開する『パーソナルサポートセンター』の立岡学理事は言います。

「家庭内の不和をはじめ、独り暮らしの高齢者や生活保護世帯の増加、引きこもり、アルコール依存など、日本が抱える複合的な社会問題が震災で顕在化した。
 しかも、時間の経過とともに事態は深刻化している」


 深刻化している事態を見捨てず、対処できるのは人間だけです。
 誰かがという糸を結ばない限り、社会的問題はどうにもなりません。

 こうした〈人間の孤立化〉は、自由というイメージを追ってきた私たちの文明が招いた負の一面です。
 それは震災以前から明らかになっており、はからずも震災後の支え合いや救援活動によって一部修正されつつあるとは言え、震災によって地域が破壊され、よりいっそう進んでしまったことは否めません。
 私たちは自由を望みながら、孤立は望みません。
 若者たちは孤立を怖れて携帯電話にしがみつき、高齢者にとっての孤立はいのちに関わりかねません。
 こんな私たちは、忘れていた真実を思い出し、自由だけでなく、もう一つのイメージを日常生活の伴走者にしたいものです。
 それは「」です。

「絆」と似てはいますが、絆には半分の糸を結び合うといった一対一の感覚がある一方、は〈網〉に例えられるとおり、無限の結びつきといった意味を含んでいます。
 インターネットが世界をつないでいるように、私たちは無限の結びつきによって成り立っている網を構成する一つの結び目なのです。
 この網から漏れている人は一人もいません。
 さらに心の目をこらせば、人間だけでなく、生きとし生けるものすべてが、幾重にもなった無限の網を作りつつ生き死にをくり返しています。
 しかも、「袖振り合うも他生(タショウ…前世)の」であり、今起こっているふれ合いは、遙か前世からつながっているの糸と無関係ではありません。
 の網は、空間的に無限なだけでなく、時間的にも過去と未来を含み、無限です。

 自衛隊や警察や消防は片時も休まず私たちの安全を守り、豆腐屋さんや魚屋さんは、真っ暗なうちから仕事にかかり、新聞屋さんや牛乳屋さんは、一日も欠かさずほとんど定刻に待っている人のもとを訪れます。
 個人が営む〈一人一人の暮らし〉が集まって、社会が営む〈世の中の暮らし〉が成り立っています。
 電車の車中でじっと腕を組む人は、乗り合わせた誰とも無関係なようでも、実はそうではありません。
 実は、知らぬ同士が、切符を買う人々として共に使う電車の運行を支え合っているのです。
 それぞれの気持はつながっていなくても、縁の糸は確かにつながっています。
 この「私たちは皆、縁の糸でつながっている」というイメージを日常生活の伴走者にしたいものです。

 縁を明確に説いたのが「華厳経(ケゴンキョウ)」です。
 お釈迦様の悟りの世界を描く経典は、「ヴァイローチャナ・ブッダ」すなわち毘盧舎那仏(ビルシャナブツ)をご本尊様とし、この光の仏様は智慧の光で衆生をあますところなく照らし、救われます。
 また、仏様そのものが宇宙であり、衆生は無限の縁の糸でつながりながらその真実世界を構成しています。
 お大師様は、奈良の大仏で知られる華厳宗の教えを尊び、華厳経の説く〈関係性〉の先に〈マンダラ〉の教えがあるとされました。

 私たちは今、あらためて絆の大切さに気づいています。
 自分の暮らしは決して、自分だけの暮らしで成り立ってはいません。
 いかに個人的であろうとも、自分の暮らしは世の中の暮らしの一部であり、あらゆる人々が世の中の暮らしを成り立たせ、支え合っています。
 こうした目に見えない縁をイメージし、縁が具体的に動くさまをマンダラのはたらきとイメージしながら生きれば、絆はここかしこで活き活きと結ばれるようになるのではないでしょうか。
〈自由〉のイメージだけに頭を占領されず、ご先祖様が古来、磨き上げてきた〈縁〉のイメージをも大切にする姿勢で生きたいものです。
「お互いさま」「おかげさま」と声をかけ合いながら……。





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2012
03.19

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その40)─指導者の孤独・重い言葉─

20120319001

 江戸時代まで広く寺子屋で用いられていた教材『実語教童子教』を見直しましょう。
 日常生活でも用いる警句などがふんだんに含まれています。

「国土を治むる賢王(ケンノウ)は  
 鰥寡(カンカ)を侮(ク)ゆることなし」


(国を治める資格のある賢い国王は、孤独に過ごす日々を悔いたりはしません)

「鰥」は見慣れない文字ですが、妻のない男性のお年寄りです。
 ある勉強会で、この文字の成り立ちが、魚の目から涙が流れている様子を示すと知った時は、皆さんと一緒に「へえ」と小さく嘆息し、しばし、言葉にならなかったものです。
「寡」はその反対に夫のない女性のお年寄りです。
「鰥寡孤独(カンカコドク)」という熟語があり、「孤」は親のない子供、「独」は子供のいないお年寄りを意味し、身寄りがなく淋しい境遇です。

 江戸時代には、国王の孤独を子供たちへいかに教えていたのでしょうか?
「お殿様は何不自由ない暮らしをしているように見えても、最後はすべての責任を自分が負わなければならないのだから、大変な職責を果たしているのです。
 誰かの意見を聞いたりはしても、最後はたった一人で決断し、責任を負うのです」
 あるいは……。
「最も権力のある人は、いつも注意深く過ごさねばならないのです。
 誰かが自分の座を狙っていると考えて、守りをしっかりせねばなりません。
 うかつに周囲の人へ気を許すと、計略にはめられたり、寝首をかかれたりするかも知れないから大変です」
 そして……。
「でも、本当に賢いお殿様であれば、周囲の人々がまちがったことをやろうとした時も、決然として断を下すはずです。
 それができるためには、自分の弱みを見せたり、えこひいきで周囲に対立を生んだり、好きなものごとに溺れていたりはできません。
 何にもとらわれず堂々と決断して、それを実行するには、自分の人間性を厳しく磨いておかねばなりません。
 皆さんも、お殿様のように偉くなって世の中を良くしようと志すならば、友だちと遊んでばかりいないで、自分が強い人間になれるよう、文武両道で自分を厳しく鍛えましょう」

君子の人を誉めざるは  
 則ち民の怨(アダ)と作(ナ)ればなり」


君子と呼ばれるような人は、うかつに人を褒めません。
 褒められた人は周囲から妬まれ、やがては怨まれたりもするからです)

君子は三思一言(サンシイチゴン)」ということわざがあります。
 君子は、一言話す前に三回考え直してみて、それでも確信があるならばようやく口にしてよいのです。
 それだけ周囲へ影響を与えるし、君子自身も一言、一言によって考えている内容が推しはかられるからです。
 現代に当てはめれば政治家の発言などが〈重い言葉〉に該当しますが、〈三思〉が感じられるほどの人はあまりおられないやに見受けられます。
 それどころか、秘しておくべきものを軽々にしゃべり、自分が重要な情報源であることを認知してもらうことで実力者の位置を占めていたいという下心が見えて見苦しい場合もあります。

 能の名人世阿弥は書きました。
「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」
 肝腎なところを徹底的に突きつめてから表現すべきであるという厳しい教えです。
 舞台に表れるものは、膨大な稽古や準備からすれば、ごくごく一部です。
 大輪の花々をいくつも咲かせられるほどの力をもって、さりげなく咲かせて見せる一輪の花にこそ妙味があるのです。
 その力をむき出しにした表現からは味わいが消え失せます。

 平成元年、竹下内閣の後継をめぐって多士済々な人物が水を向けられた中で、固辞した故伊東正義代議士の「本の表紙を変えても、中身を変えなければだめだ」は歴史に残る一言でしょう。
 彼は権力闘争をして自分が最高権力者のイスに座るよりことよりも、ひとえに日本と自民党がいかにあるべきかを考え、皆でまず、党をきちんと立て直そうと訴えました。
 総理大臣になれる千載一遇(センサイイチグウ)のチャンスを自分から放棄したのです。
 清浄で強い志が、いざという場面での君子たる一言になりました。

 今回は指導者の心構えを学びました。
 子供の頃からこうした薫陶(クントウ)を受ければ、子供たちの心で尊い部分が成長するのではないでしょうか。




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2012
03.18

あの世へ行けば本当に十三仏様と会えるのか?(その2)

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〈お不動様は大日如来の使者として、最高の智慧を示す火炎に住しておられます〉

 前回、亡霊が見えたりして心を痛める方々について書きました。

「『津波に追われた人々はどんなに怖かったことだろう。
 どんなに生きたかったことだろう。
 それなのに……』
と想いをはせ、亡くなられた方々の恐怖や慚愧と似たものを自分の心に発生させてしまいます。
 他人の思いを自分の思いとする尊い気持は結構ですが、問題はその先です」


 他人の思いを自分の思いとする優しさのある方は、あの世へ逝った人の気持をも推しはかり、その魂との交感が可能であると感じています。
 だから、悲しいできごとがあった場所で感応し、〈亡霊が見えた〉ような気がして日常生活的な心のバランスを崩す方も現れます。
 そしてご加持やご供養やご祈祷に足をはこばれますが、当山では、修法を行うだけでなく、ものの考え方や生活の仕方についての話し合いもします。
 皆さんに、修法で救われるだけでなく、貴重な体験を通じて生き方を深めていただきたいからです。

 前回、夜道に落ちている縄を見て、ヘビと勘違いして怖がる例を挙げました。
 ここで私が示したかったのは、そもそも持っていた〈ヘビを怖がる気持〉が見まちがいを起こさせ、無用の恐怖と、逃げ出すという無用の行動を起こさせたという点です。
 怖がっていない人には、縄そのものがきちんと縄に見えたはずなのです。

 同じように、亡くなられた方々の思いを自分の思いとする優しさがある方は、誰かが亡くなる時の思いになると、いたたまれなくなります。
 そして、暗がりなどで何かを感じると、そのいたたまれない気持のぶり返しによって怖くなり、具合が悪くなります。
 でも、それは一時の迷いなので、ご加持を受ければすぐに消えます。
 ここで考えていただきたいのは、怖い、悔しい、悲しい思いで亡くなられたであろう方の〈御霊そのものは決して恐ろしいものではない〉ということです。
 御霊をヘビのように怖がるのは迷いだということです。
 前回、(その1)に書いた海上保安庁のDさんは、亡くなっておられるであろう方へ心で語りかけたではありませんか。

「誰かに憑きたいならば、ぜひ、私に憑いて欲しい。
 そうすれば貴方の居場所がわかり、私は貴方に手を差し伸べられますから」


 私は、泥の原とその向こうに広がる海を前に高台で祈った時、高台をめざしたたくさんの方々の思いが未だに、迫りくるものとして残っているのを感じました。
 その風圧にも膝が崩れなかったのは、御霊はみ仏の子として等しく清浄であり、必ずみ仏に導かれると信じているからです。
 
 悲喜こもごもが人生です。
 幸福も不幸も、良きことも悪しきことも、「禍福はあざなえる縄のごとし」と言われるように入り交じります。
 人生全体を客観的に眺めれば、一つの色をもって表現し、一言で断定することはできません。
 それは、生きている私たちの人生も、先に逝かれた方の人生も同じです。
 いかなる亡くなられ方をしようと、死はひとしく厳粛であり、死は人生の締めくくりではあっても、死はその人の人生にとっての一コマであることに変わりはありません。
 だから、亡くなる一瞬の状況があの世での旅路を決定づけることはないと考えるのがものの道理ではないでしょうか。
 私たちがお互いを等しく尊び合って生きるのが人の道であるように、亡くなられて御霊となった方々をも等しく尊ぶことこそ、人の道ではないでしょうか。
 消え難い思いが気配として残る場合はありますが、そのことと御霊の尊厳とは問題が別です。

 御霊は等しく尊ばれるべきであり、怖がるのは迷いであると考えたいものです。
 では〈感じた〉ならばどうすればよいか?
 当然、供養の心で対応することです。
 この世ならぬ世界と徒手空拳(トシュウクウケン…手立てがないこと)で関わるのは、私たち凡夫にはあまりに荷が重い場合があります。
 その時は、この世あの世も司るみ仏のお力におすがりすることです。
 そうすれば、〈感じた〉瞬間がこの世の私たちにとっても、あの世の御霊にとっても貴重なものとなることでしょう。

 続きはまた……。



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2012
03.17

私たちは原発を扱えるか ─防災区域30キロと神様がもたらした幸運─

 私たちは科学を信じています。
 むしろ、私たちが最も信じているものは科学であると言えそうです。
 今回、ようやく、科学的知見から、原発事故に対する避難訓練をしておくべき範囲(防災区域)は半径30キロと発表されました。
 日本の威信がかかった原子力安全委員会による判断です。

 テレビには、その発表によって困惑する人々が写し出されています。
 100万人のスムーズな避難先は?
 避難方法は?
 携帯電話の通じない自然の懐深く暮らす人への連絡と方法は?
 誰がいくら知恵をしぼろうとも、行く先も、方法もありはしないのです。
 これだけ重要な事実がこれまで〈無いこと〉とされてきました。

 こうなってすら、私たちは最悪の事態を〈無いこと〉にしています。
 それは、同時多発的に全国で地震が起こることであり、同時多発的に全国の原発が事故を起こすことです。
 これが科学的に〈あり得ない〉と、いったい誰が責任を持って、万人の納得できる根拠を示しつつ断定できましょうか?
 全国いたるところで地震が頻発する日本にあって。

 私たちの〈逃げて行く先〉などありはしません。
 しかも、生きものたちのうち、人間しか考慮されていませんが、人間の数など、たとえ100万人と言ったところで、その生活圏に暮らす膨大な生きものたちの何万分の一もないではありませんか。
 原発事故により、人間にいのちを預けていたものたちは飢え、死にました。
 野生化した家畜をはじめ、自立していた生きものたちはこれから先、放射能によるどれだけの悲惨さを何代後の子孫まで伝えて行くことになるか、誰にもわかりません。

 この件につき、3月17日付の日経新聞ウェブ版を転載しておきます。

「国の原子力安全委員会の専門部会は16日、原子力発電所の事故に備えて事前に対策をとる防災区域を半径30キロに拡大することなどを盛り込んだ防災指針の見直し案を了承した。
 防災区域の拡大は2006年にも検討したが、経済産業省原子力安全・保安院に反対され見送っていた。
 見直し案は原発から半径8~10キロ圏に設定している『防災対策重点地域(EPZ)』を半径30キロ圏に拡大。
 半径5キロ圏に事故時の住民の即時避難区域を新たに設ける。
 内部被曝(ひばく)を防ぐ安定ヨウ素剤の家庭への事前配布、事故発生時の対策拠点『オフサイトセンター』の配置見直しも盛り込んだ。
 安全委は06年3月、国際原子力機関(IAEA)の基準に合わせて防災区域拡大を検討。しかし保安院が「国民不安を増大する」「財政的支援が増える」などとして拡大を押しとどめた。
 安全委の久住静代委員は16日の作業部会後、当時を振り返り、保安院の広瀬研吉院長(06年当時)から「寝た子を起こすようなことをするな、と厳しい口調で言われた」と記者団に証言。
『(防災区域が拡大されていれば)福島第1原発事故直後の避難の対応をもっと早く始められただろう』と悔やんだ。
 保安院の深野弘行院長も16日の会見で『当時の保安院は国際基準を導入する姿勢に欠けていた。問題があると考えざるを得ず、十分反省したい』と述べた」

 

 さて、3月8日付の朝日新聞は「二つの幸運 4号機救う」として、現在の状況が〈偶然によって救われた〉結果であると報じました。
 最も怖れられていた4号機の崩壊が免れたのは、震災直前に、不手際から、いつもは水を入れないでおくはずの部分へ大量を水を入れっぱなしにしておき、それが、地震か津波によってうまい具合にできた隙間から使用済み核燃料を貯蔵する燃料プールへ流れ込んだからだというのです。
 日本は、幸運としか言いようのない成り行きで、菅総理が叫んだとされる「このままでは日本国滅亡だ」が現実のものとなって何の不思議もない瀬戸際から救われていました。
 記事の最後にある原子力安全・保安員の幹部の言葉は忘れられません。
神様がいるとしか言いようがない」

〈朝日新聞からお借りしました〉
201203170011.jpg

 以下、全文を転載しておきます。

「東京電力福島第一原発の事故で日米両政府が最悪の事態の引き金になると心配した4号機の使用済み核燃料の過熱・崩壊は、震災直前の工事の不手際と、意図しない仕切り壁のずれという二つの偶然もあって救われていたことが分かった。
 4号機は一昨年11月から定期点検に入り、シュラウドと呼ばれる炉内の大型構造物の取り換え工事をしていた。
 1978年の営業運転開始以来初めての大工事だった。
 工事は、原子炉真上の原子炉ウェルと呼ばれる部分と、放射能をおびた機器を水中に仮置きするDSピットに計1440立方メートルの水を張り、進められた。ふだんは水がない部分だ。
 無用の被曝(ひばく)を避けるため、シュラウドは水の中で切断し、DSピットまで水中を移動。その後、次の作業のため、3月7日までにDSピット側に仕切りを立て、原子炉ウェルの水を抜く計画だった。
 ところが、シュラウドを切断する工具を炉内に入れようとしたところ、工具を炉内に導く補助器具の寸法違いが判明。
 この器具の改造で工事が遅れ、震災のあった3月11日時点で水を張ったままにしていた。
 4号機の使用済み核燃料プールは津波で電源が失われ、冷やせない事態に陥った。
 プールの水は燃料の崩壊熱で蒸発していた。
 水が減って核燃料が露出し過熱すると、大量の放射線と放射性物質を放出。
 人は近づけなくなり、福島第一原発だけでなく、福島第二など近くの原発も次々と放棄。
 首都圏の住民も避難対象となる最悪の事態につながると恐れられていた。
 しかし、実際には、燃料プールと隣の原子炉ウェルとの仕切り壁がずれて隙間ができ、ウェル側からプールに約1千トンの水が流れ込んだとみられることが後に分かった。さらに、3月20日からは外部からの放水でプールに水が入り、燃料はほぼ無事だった。
 原子力安全・保安員の幹部は「神様がいるとしか言いようがない」と話している」(奥山俊宏)



 私たちはこれまで、いかなる姿勢で科学の成果を用いてきたでしょうか。
 私たちはこの先、現在の科学力でつかんでいる事実をいかなる姿勢で用いつつ未来を切り拓く道具とすべきでしょうか。
 そうした姿勢を決めるのは、科学の役割ではありません。
 私たちの〈これまで〉を謙虚にふり返りつつ、徹底的に考え、行動しようではありませんか。
 後戻りできない分岐点で誤らないために。



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2012
03.16

言葉が防護服を着てしまった ─詩人和合亮一氏の不条理─

201203176001.jpg
〈3月15日付の河北新報からお借りしました〉

 福島市在住の詩人和合亮一氏が、防護服を着て南相馬市、旧小高町、浪江町の辺りを歩きました。
 若き日にサイクリングなどを楽しんだ請戸の港は人っ子一人いませんが、河口付近で卵を産むために川上をめざすシャケを目にして、その健気さに涙を禁じ得ません。

 やがて「無人」「不条理」が胸に迫り、詩句をします。

言葉
 防護服を着てしまった
 何も
 語らないために
 泣いても
 分からないために」
 そして、思います。
「どうかこの恐ろしい静けさを、あまねく日本人に肌で感じて欲しい。
 しかし難しいことだ。
 ずっと不可能なのだ。
 これからも防護服という別の〈皮膚〉の内側にあるのだから、私たちの〈肌〉は」


 和合氏はかつて、肌で〈生きている〉光景を感じていました。
 だからこそ、そこから人間の気配が奪われた「恐ろしい静けさ」が防護服の内側から、ようやく想像できます。
 しかし、原発事故以前の光景を体感していない人たちには、もう、その静けさの持つ意味をつかむことは不可能なのです。
 防護服の内側でしかここに立つことはできないのだから。

 数日後、東京の渋谷駅で人混みを眺めているうちにこの記憶がよみがえり、「眠らない夜の空に叫び出したく」なります。

「みなさんに知ってほしいことがあります。
 誰もいなくなった町があるのです。
 誰も知らない海があるのです。
 誰かの訪れを待つ慰霊碑があります。
 この、同じ日本に」


 和合氏が群衆へではなく、夜空へ叫びたくなったことは重大です。
 言葉は、自分と同じ足で地面に立ち、先を急ぐ人々の心へと〈横に〉伝わらない、あるいは伝えられない孤独と絶望が隠れているからです。
 一旦、遙かな空へ投げ上げられ、舞い降りるそれを受けとめてくれる誰かはいるかも知れないが、誰も受けとめてくれないかも知れません。
 ほとんど無力な叫びなのに、詩人は、叫ばないではいられないのです。

 私たちは、この不条理、この無力感へ誠実に対応する方法として、できるならやはり、でかけてみることが必要です。
 過日の勉強会で、ボランティアなどの覚悟を持たずに被災地へでかけることの是非が議論となりました。
 実際に何かをやって役に立とうとするのではなく、ただ〈見に行く〉のには問題がある、あるいは抵抗感があるというご意見もありました。
 しかし、時折、被災地で目立たぬように祈りサッと帰るしかない者の実感としては、その場で〈感じる〉ことの大きな意義がわかります。
 でかける方は、誰に何と言われようと構わぬ気持で出発し、受け入れる側は、訪れる方々の心は千差万別であることを当然として、大らかに受け入れていただきたいと願っています。

 もう一つの方法は、〈故郷〉や〈祖国〉というものをあらためて考えてみることです。
 今、困難に陥っているのは誰かにとって故郷であり、そこはまぎれもなく、私たちの祖国なのです。
 自分の故郷にある小学校やお墓が防護服を着てしか訪れられないと想像し、自分と同じように箸を持ち、自分と同じようにこんにちわと挨拶する同胞が、家族を失い、家を失い、仕事を失い、眠れず、しんでいることを如実に想像してみましょう。

 実に、私たちは共に、〈にある〉存在です。
 そこから抜け出る方法は二つ。
 一つは、心を清め、高めること。
 もう一つは、を分かち合うこと。
 そして、この二つは切り離せません。
 和合氏の言葉、叫び、思いを胸に入れておこうではありませんか。
 そして、何かを行いたいものです。



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2012
03.15

悲しみ、憂い、そして思いやり ─白居易(ハッキョイ)と芥川龍之介─

 私たちが最も嫌なことの一つである「知られたくない過去を暴(アバ)く」という問題について「三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十五回)」へ書きました。
 この教えは、公衆の面前でそうした行為に遭った際の心構えなのですが、自分のあるべき姿勢を考えていて、つい、相手の心も考えてしまいました。
 相手とは、平気で誰かの弱点を衝くタイプの人です。
 これまでの人生で出会った何人かを思い出すと、怨みではなく悲しみが湧いてきました。
 当時は憎々しいと感じた顔がもはや、翳(カス)みかけています。
「あの人たちは今も、糸のように続く人生を静かに染めている根源的悲しみを知らないままなのだろうか……」

 詩人白居易(ハッキョイ)は詠みました。

「君看(ミ)よや双眼(ソウガン)の色、語らざれば憂いなきに似たり」


 これは、目の前にいない友への語りかけです。
 そしてこの場合の憂いは、悲しさや淋しさが行き着くところまで行った先の茫漠(ボウバク)とした憂いであり、それは、根源的悲しさ、根源的淋しさと通底しています。
(君よ、私の瞳に浮かんでいる憂いが見えるかい。
 私が憂いていると口にしなければ、それは見えないかも知れないけれども、私には、君が抱いている憂いと同じものが確かにあるのだよ)
 白居易は、孤独のさなかに友を思い出しています。

「琴詩酒(キンシシュ)の伴(トモ)はみなわれを抛(ナゲウ)ち、雪月花(セツゲツカ)の時もっとも君を憶(オモ)う」


(琴を鳴らし、詩を詠み、酒を酌み交わす友人たちは皆、私のもとを去ったが、孤独のうちに自然の移り変わりを眺めて友としている時、今こそ、君が思い出されてならない)
 興ずる時の友も確かに友ですが、憂いの中にあって会いたいと思わせる友は、もう一段深い友なのでしょう。

 友といえば、勝海舟

「得意淡然、失意泰然」


が思い浮かびます。
 心中、得意な時は〈さらり〉と構え、失意の時は〈ゆったり〉と構えるという、いかにも剣の達人らしい言葉です。
 自分が失意の中にある時、同じく失意の中にあって泰然としている友、あるいは失意を体験してこちらの失意を忖度してくれる友は、本当に、この世のどこかに〈いてくれる〉だけで救いになるものです。

 私が白居易の一句を知ったのは芥川龍之介の『羅生門』を古本で読んだ時です。
 その題詞として掲げられていた「君看双眼色 不語似無愁」は長く心にかかっていましたが、後になってようやく理解できました。
 天才芥川龍之介の文章は鋭く人生の深淵を覗かせます。
 しかし、決して突き落とさず、文体にはどこかホッとさせるものが含まれています。
 それは、無常という無情でもある真理をはっきりと指摘しながら、必ずお救いくださるみ仏の姿勢と似ています。
 きっと題詞は、み仏の御眼を指しています。
「み仏の瞳にはちっとも憂いの色が浮かんでいないからといって、み仏に憂いがないのではない。
 み仏は衆生の憂いを我が憂いとされているので、お心の底には深く高く衆生の憂いが積まれていることだろう。
 だからこそ、み仏は悲しみと慈しみをもって私たちへ接してくださる。
 穏やかな表情で、憂いに満ちた人生を送る私たちをお救いくださる。
 よく見てご覧。
 私たちが淋しくて、悲しくて流す涙が、御眼の光に含まれているのだよ。
 憂いを語らず瞳にも見せはしないけれど、大きな憂いがあればこその大慈悲であることを知らねばならない」

 琉球大学に、「芥川龍之介『支那併記』研究(下)という興味深い研究があります。(http://ir.lib.u-ryukyu.ac.jp/bitstream/123456789/22293/1/No78p001.pdf)
 その一節です。

「肉体的に坤吟する中での執筆でも軽妙な味わいの雰囲気で読者を軽い笑いの世界に誘い込む筆致は、芥川龍之介本来のもので『羅生門』の題詞に掲げた『君看双眼色/不語似無愁』の五言対句が、彼の文学営為活動に規制を加えたと言えるかも知れない」


 芥川龍之介は高熱をおしても執筆活動を続け、そうした時期の作品にすら軽妙な味わいを欠かさなかったのは、この句が彼の心に深く関わっていたのではないかというのです。
 とても納得できる見解です。

 私たちは、悲しい時、淋しい時、ずっとこのままでいたいとは決して思いません。
 どうにかして脱したい。
 しかし、いくら前向きになろうとしても、悲しさや淋しさは錘(オモリ)のように心をつかみ、前へ進ませてくれない。
 こうした方々とお会いしながら日々を過ごしていると、悲しさや淋しさがいつしか皆さんの心を清め、皆さんの眼にはこれまでになかった色が浮かび始めているのに気づかされることがあります。
 ──悲しさや淋しさこそ、魂を磨くのではないか。
 ──投げやりにならず、真剣に耐えているうちに〈憂いなきに似たり〉といった境地へ進んでおられるのではないか。
 ──以前とは違ったタイプの〈思いやる心〉が育っておられるのではないか。
 悲しさの底まで降り、淋しさの底まで降り、憂いの底まで降りていつしか目線を上げ、光の方向へ歩み出した人には、み仏の世界に通じる真の思いやりが温かくはたらき始めておられるのではないでしょうか。

 こう考えてみると、平気で誰かの弱点を衝くタイプの人には決定的に欠けているものがあろうと確信され、悲しくなり、哀しくなります。
 きっと、人生を染める根源的悲しみは根源的思いやりと表裏一体なのでしょう。
 だからみ仏のお心は、慈しみと悲しみ慈悲なのでしょう。

〈『羅生門』の英訳版〉(4187u1xP3FL._SL500_AA300_[1]をお借りして加工しました)
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2012
03.14

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十五回) ─過去を暴(アバ)く人へ感謝する─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。
 第十五回目です。

「大勢の者が集まるなかである者が、私の過失を掘り起こし罵声を浴びせかけても、その者を善友(ラマ)と思って敬意を払う、それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 誰しもが自分の失敗は隠したがります。
 それは自尊心の問題ですが、〈失敗した者〉としての烙印は、何かをしようとする時に足を引っぱる怖れがあるからです。
 しかし、失敗したことは事実であり、自分を嫌ったり、恨んだり、憎んだり、妬んだりしている人にそれを指摘されたからといって激高する必要はありません。
「そうだよな」
 この一言を自分へ言い聞かせるだけで、心は平穏を保てます。
「それで?」
と冷静に相手へ問えればもう、心の勝負はついています。
 もしも、それでも相手がお前は以前こうだったと攻めてきたら、そうだよと答えればよいだけです。
 これができるためには、第一に、失敗には速やかに決着をつけておくことです。決着に時間がかかるようなら、少なくとも方向性と腹構えを決めておくことです。
 そうすれば、相手がさらに迫ってきた時に明確な答えができ、第三者がやりとりを耳にしていても、失敗はきちんと処理されたと理解され、その後の行動にさしたる支障は生じません。
 そして、思惑をもって相手の過去をほじくり出した人こそ軽蔑されることでしょう。
 
 もちろん、世間はゴシップ好きで、「他人の不幸は蜜の味」ということわざもあるほどです。
 誰かの失敗を言挙げする嫉妬心が潜んだ有名人のゴシップは、常にマスコミを賑わしています。
 だから、過去の失敗が明るみに出たことによって周囲へ一時的にさざ波が立っても、そうしたさざ波を立て、あるいはさざ波に関心を持つ人は、すぐに他所でさざ波を立て、他のさざ波に反応するので放っておけばよいだけのことです。

 ネットの情報によると、独立行政法人「放射線医学総合研究所」の嫉妬に関する研究結果が発表されています。
 健康な大学生たちが、異なったタイプのAさんBさんCさんを登場人物とするシナリオを読み、三人に対していかなる脳活動を行うかというものです。

○Aさん…被験者と同性で、進路や人生の目標や趣味が共通。被験者より上級ないし優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。

○Bさん…被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なる。被験者より上級であったり優れた物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を多く所有している。

○Cさん…被験者と異性で、進路や人生の目標や趣味は全く異なる。被験者と同様に平均的な物や特性 (学業成績、所有する自動車、異性からの人気など) を所有している。

 妬みを強く感じた順番は当然、AさんBさんCさんとなります。
 興味深いのは、三人へ不幸が生じた場合に喜びを感じた順番もそうなっているという点です。
妬みの感情には大脳皮質の一部で『前部帯状回』と呼ばれる葛藤や身体的な痛みを処理する脳内部位が関連していることや、妬みの対象の人物に不幸が起こると、心地よい感情や意志決定などにも関わると考えられている『線条体』と呼ばれる部位が活動することが明らかになった」というから恐ろしい話ではあります。

 さて、師の役割の一つに、弟子が身・口・意で犯す過ちを正すというものがあります。
 師の心と言葉は弟子の生きざまを映し出す鏡の役割も持っています。
 弟子はその鏡に、自分では気づかない、あるいはやり過ごしてしまっている自分の醜い姿を見せられる場合があります。
 もしも、ほっぺたに米粒がついていたなら、誰かに教えられるか鏡で知るかしか、取り除いて恥ずかしい思いをしないで済むきっかけはないのです。
 ならば、たとえ公衆の面前であろうと、いかなる意図を持っていようと、過失を指摘する相手は常に師と等しい役割を果たしていると言えます。
 相手を「師として敬うべし」と説く今回の教えは、ここに、その理由があります。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「褒められることより、貶されることである。
 なぜなら、貶されることで気づかされるのだから。
 褒められることで、慢心につながるのだから」


 私自身、かなり昔に、こうした場面で大失敗をした経験があります。
 勉強不足、修練不足のために賢いプロセスが踏めず、理不尽な言葉を発する相手とまともに対峙してしまったのです。
 いずれ、こうした場面では余計なことを考えず、ただ、指摘された事実を冷静に受けとめ、過去を再び、懺悔と学びと成長のきっかけにするのみです。

一 もしもムカッときたならば、この教えを思い出しましょう。
二 それでも落ち着かない時は、「南無大師遍照金剛」なり、光明真言なり、守本尊様の真言なりを心で唱え、深呼吸しましょう。
三 さっきの「そうだよな」によって、自分はバカだったと事実を再確認しましょう。
四 懺悔する気持を新たにしましょう。

 学び、心の準備ができていれば、いつでも「さあ、いらっしゃい」となります。
 何と安心なことでしょうか。
 ところで、誰かへ理不尽な攻撃をする人には悲しみを覚えます。
 その人が根源的な悲しみを知らないことが悲しくなります。
 この問題はいずれ、又……・

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2012
03.14

シンポジウム大震災から一年が過ぎて ─これからの日本と生き方を考える─

〈被災地からの来訪者。前回よりもずいぶんおおきくなりました〉
20120314 007

 今回は出張寺子屋となりました。 
 第26回寺子屋法楽館』では「シンポジウム 大震災から一年が過ぎて ─これからの日本と生き方を考える─」を開催します。


 大震災から1年が経ちました。
 これからの世の中はどうなるのか?
 どう生きればよいのか?
 一緒に考えようではありませんか。
 質疑応答の時間もあります。
 どうぞお誘い合わせておでかけください。

【パネリスト】
○東北イノベーションキャピタル(株)代表取締役社長 熊谷巧
 世界にも日本にも激動が始まった今、東北に本拠を構える唯一の地域密着型ベンチャーキャピタルを運営する視点から、政治・経済・文化を考える。
○仙石病院理事長 神部廣一
 生と死が根本から問われている今、公私共に津波と地震の被害を受け、闘ってきた視点から、これからの元気な生き方、放射能の問題について考える。
○大師山法楽寺住職 遠藤龍地
 ここかしこに不安のある今、人生相談・ご葬儀・ご供養・ご祈祷・ご加持を通じて被災者の方々と接してきた視点から、不安や希望について考える。

・日時:平成24年4月14日(土)午後2時より4時まで
・場所:大和町吉岡『まほろばホール』(大会議室)※裏面に地図があります
    〒981-3626 宮城県黒川郡大和町吉岡南二丁目4-14
    TEL 022(344)4401
・ご志納金:1000円 中学生以下500円(目安であり、入場料ではありません。被災した方などはご懸念なく)
・送迎:地下鉄泉中央駅より(前日午後5までにお申し込みください)

※ご希望に応じた〈出張寺子屋〉も行います。
 どうぞお気軽にお問い合わせください。

〈http://mahoroba-taiwa.jp/mahoroba/image/img_access3_02.gifをお借りして加工しました〉
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2012
03.13

彼岸供養会などの祈りとは何か? ─ぬかづく心─

〈斜面の靄〉
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 お彼岸か来ると、私たちはご先祖様や先に逝った方々を供養するために祈ります。
 その祈りの内容は、〈自分〉が故人の思い出をよみがえらせるだけではありません。
 祈りと言う以上、目に見えない世界の存在が前提となり、しかもその世界には、この世ならぬ気高さが感じられます。
 それはなぜなのか?

 祈る私たちは大日如来や阿弥陀如来を意識していなくても、合掌し瞑目する時、仏神の世界への扉が開くからです。
 私たちが〈み仏の子〉になっているからです。

 また、祈る私たちは、無意識のうちに、もう一つ重要なことを行っています。
 「夫が安らかに眠っていてくれるように」「母が迷っていないように}などと願う時、その願いを叶えてくださる存在を前提とし、そこに〈仏神の意志へお任せする〉という敬虔な心がはたらいています。
 自分の手が届かない世界への願いは、至純とも言える〈ぬかづく心〉を引き出しているのです。
 財力や権力や腕力や勝ち気を武器とする心は息(ヤ)み、人間の持つあらゆる高慢さが克服されています。

〈雪解けの花〉
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〈この一滴になりたい〉
20120313010 (2)

 3月11日、天皇陛下は、病み上がりで深呼吸や歩行のリハビリを行っているという状態にもかかわらず、東日本大震災追悼式典に出席してお言葉を述べられました。
 その全文です。

「東日本大震災から1周年、ここに一同と共に、震災により失われた多くの人々に深く哀悼の意を表します。
 1年前の今日、思いも掛けない巨大地震と津波に襲われ、ほぼ2万に及ぶ死者、行方不明者が生じました。
 その中には消防団員を始め、危険を顧みず、人々の救助や防災活動に従事して命を落とした多くの人々が含まれていることを忘れることができません。
 さらにこの震災のため原子力発電所の事故が発生したことにより、危険な区域に住む人々は住み慣れた、そして生活の場としていた地域から離れざるを得なくなりました。
 再びそこに安全に住むためには放射能の問題を克服しなければならないという困難な問題が起こっています。
 この度の大震災に当たっては、国や地方公共団体の関係者や、多くのボランティアが被災地へ足を踏み入れ、被災者のために様々な支援活動を行ってきました。
 このような活動は厳しい避難生活の中で、避難者の心を和ませ、未来へ向かう気持ちを引き立ててきたことと思います。
 この機会に、被災者や被災地のために働いてきた人々、また、原発事故に対応するべく働いてきた人々の尽力を、深くねぎらいたく思います。
また、諸外国の救助隊を始め、多くの人々が被災者のため様々に心を尽くしてくれました。
 外国元首からのお見舞いの中にも、日本の被災者が厳しい状況の中で互いに絆を大切にして復興に向かって歩んでいく姿に印象付けられたと記されているものがあります。
 世界各地の人々から大震災に当たって示された厚情に深く感謝しています。
 被災地の今後の復興の道のりには多くの困難があることと予想されます。
 国民皆が被災者に心を寄せ、被災地の状況が改善されていくようたゆみなく努力を続けていくよう期待しています。
 そしてこの大震災の記憶を忘れることなく、子孫に伝え、防災に対する心掛けを育み、安全な国土を目指して進んでいくことが大切と思います。
 今後、人々が安心して生活できる国土が築かれていくことを一同と共に願い、御霊への追悼の言葉といたします」


 天皇陛下のお言葉とお心が私たちの心へ強く響くのは、そこに深く〈ぬかづく心〉を感じさせられるからです。
 天皇陛下は、御霊へぬかづき、祖霊へぬかづき、天神地祇へぬかづくのみならず、被災地へ手を差し伸べる世界中の方々、そして被災された方々、あるいは日本国民へすらぬかづく心がおありになられるのではないでしょうか。
 確かに、お言葉そのものは立場に立たれたもの言いになっていますが、不思議なことに、この文章を何度読んでも天皇陛下のお心が頭上から降ってくるという感覚が起きません。
 これは、天皇陛下の日常が祈りに満ち、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴である」とは、〈祈る者である〉ことを意味しているのではないでしょうか。
 天皇陛下と皇后陛下の気高さは、社会の最高位にありながら「人間の持つあらゆる高慢さ」が克服し尽くされているところに発しているのではないでしょうか。
 天皇陛下は実に、私たち日本人が持つ〈美しい心〉を生身に体現している者としてこそ、おわすのです。
(今、皇位継承の問題がうんぬんされていますが、天皇制という極めて文化的な問題に関し、生きものとしての血をどうつなぐかといったレベルや、イデオロギーのレベルだけでなく、こうした本質をふまえた論議が行われるよう願っています)

 祈る時、私たちは、意識している目的が達せられるかどうかという以前に、私たち自身が救われています。
 いざという場面で、私たちは弱き者です。
 しかし、弱き者として至心に祈る時、喘ぎはいつしか不動の呼吸に入っています。
 仏神に抱かれた者として、最強の存在になっているのです。
 ぬかづかないではいられない弱き身が、最強の金剛身となるところに祈り、すなわち宗教の真骨頂があります。
 お彼岸供養会では、先に逝かれた方々のために、共に祈りぬかづく者としてひとときを過ごそうではありませんか。

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 さて、お彼岸供養会では、土砂加持法という秘法によってご加持したハイパワーの砂をお授けします。

1 法力が加わった砂は、いかなる迷いの中にある亡者をも必ず安楽の世界へ導き、浄土へ向かっている御霊へはさらに安心を増す力となります。
 お墓へ撒いたり、仏壇に供えたり、あるいは海へ撒いたりしてください。
 大きなご供養になります。
 対象は当山にご縁のある御霊に限りません。
 どうぞ、どなたでも、御霊の安心のために救いの土砂をお受けください。
2 すなおな懺悔の心でこの土砂を身につければ光明真言の力により罪科は早く消滅し、諸々の良き縁が生じます。
3 お柩へ納めれば、地獄への道を破摧して極楽への旅路が開けます。

 また、3月21日は、お大師様が弥勒菩薩様のもとへと旅立たれた日です。
 ご遺徳を偲び、「南無大師遍照金剛」の御宝号を108回お唱えして報恩のまごころを捧げましょう。

【日 時】 3月20日(火)午前10時より
【場 所】 法楽寺講堂
【ご供養の申し込み】
 どこで眠っておられる方のご供養もできます。
○お塔婆を申し込まれる場合…俗名・戒名(ない方はそのままで結構です)・命日・行年をファクスやメールにて、「塔婆申し込み」と明記の上、18日までにお送りください。
○お塔婆を申し込まれない場合…俗名・戒名(ない方はそのままで結構です)・命日・行年をファクスやメールにて、18日までにお送りください。
なお、「~家先祖代々」といったお申し込みでも結構です。
ご供養を申し込まれない方もどうぞ、ご遠慮なくご参加ください。
【送 迎】午前九時三十分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までにご連絡下さい。



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2012
03.12

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その95)─般若心経の力─

 3月11日、善男善女のご唱和を得て、東日本大震災における犠牲者を供養する般若心経百返の供養会が無事、終了しました。
 全国でご唱和くださった方々、写経やお花やご供物をお届けくださった方々、誠にありがとうございました。
 きっと、百万巻の願いは成就したことでしょう。
 心よりお礼申し上げます。
 2時間半を超える長時間なので、ご遠慮なく途中退席をしてくださいと申し上げて始まりましたが、講堂いっぱいの方々が最後まで席を立たれませんでした。
 修法を終えて振り向いた時、あまりの感激に、思わず「これほどたくさんの方々が残ってくださるとは」と口にしてしまいました。
〝御霊をご供養し、復興へご加護をいただく。この経典にはハイパワーがある〟
 お大師様は、この世での役割を終える約1年半前に、般若心経の不思議な力を明確に述べられました。

「この経典に説く真言は不思議な力を持っています。
 その響きに深く共鳴しながら何度も唱えれば、迷いの元となっている無明(ムミョウ…智慧の明かりがない状態)の闇が除かれます。
 般若心経におけるたった一つの文字にも無限の教えが含まれ、唱える人はその身しそのままで、み仏がご守護くださる世界を感得できます。
 どんどん行って究極の安楽世界へ入り、迷いの世界からどんどん去って故郷であるみ仏の世界へ入ります。
 迷いのこの世は仮の宿のようなものであり、真実世界を求める心が本来の栖(スミカ)なのです」
 

(原文)
真言は不思議なり、観誦(カンジュ)すれば無明(ムミョウ)を除く
 一字に千理を含み、即身(ソクシン)に法如(ホウニョ)を証す
 行々(ギョウギョウ)として円寂に至り、去々(ココ)として原初に入る
 三界は客舎(カクシャ)の如く、一心はこれ本居(ホンコ)なり」



般若心経のたった一つの文字も、たっタ一つの文章も、み仏の世界全体へ通じ、いつ始まったともいつ終わるともない心の真実そのものなのです」

(原文)
「一字一文法界に遍じ、無私無終にして我が心分なり」


 この経典は、単に、何かを教えるものではありません。
 一文字一文字が、み仏の世界そのものの顕れであり、読誦したり、写経したりすることによって、み仏の世界へ入られるのです。
 それは、おいしそうなケーキを実際に食べることに似ています。
 説明書を読み、作り方を論じ、香りを楽しみ、写真に撮ったりしても、味わいはわかりません。
 ケーキを食べるのと同じく、般若心経を読誦することによって、「これが自分の心」と思っているその分限が、み仏の広大な世界へと解き放たれます。

 般若心経は大きく分けて二段になっており、真言の前までの文章は悟りの世界におけるそれぞれのステージを示しながら、最後に、最高のステージへと導く真言の効能を述べます。
「よく一切の苦を除き、真実にして虚しいものではない」

(原文)
「能除一切苦真実不虚(ノウジョイッサイクシンジツフコ)」


 あとは、真言を無心に口にするのみです。
 だから、最後にある真言は古来、翻訳せずただただ、唱える習わしになっています。
 実際に当日、私が修法した『般若心経法』では、真言を100返も1000返も唱える部分があります。
 ここで導師が真言に、経典に成り切って般若心経法の本尊である般若菩薩(ハンニャボサツ)様と一体にならなければ、読誦してくださっている善男善女の願いをみ仏の世界へ確実に届けることはできません。

 般若心経は、観音菩薩様が、深い般若波羅蜜多(ハンニャハラミタ)すなわち、み仏の智慧を得る修行に入っておられた時、ついに智慧の権現である般若菩薩(ハンニャボサツ)様の悟りの世界へ入られた体験と、そのカギになる真言を述べたものです。
 その成り行きは、煩悩(ボンノウ)に惑わされて苦しむ私たちが迷いを離れてだんだんに心のレベルを上げ、み仏の智慧を得て悟りを開くまでの過程そのものです。
 私たちは般若心経を至心に読誦し、写経することによって、無意識のうちにその過程を追体験しています。
 それが、「唱える人はその身そのままで、み仏がご守護くださる世界を感得できます」ということに他なりません。
 私たちはこの時、み仏そのものに限りなく近づいています。
 つまり、般若心経の力とは、私たちに即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままでみ仏に成っていること)の体験をさせてくれるところにあります。
 私たちが、〈み仏の子〉として本来の姿を取り戻す以上のご加護がありましょうか?

 供養会の最後にお話申し上げました。
「今、皆さんはそれぞれの善き願いを持ち、至心に読誦されました。
 この場におられる皆さんも私も、ちょうど、み仏に守られた魔法の絨毯に乗っているようなものです。
 読誦した皆さんの功徳(クドク)は確かに御霊の世界へ届き、すばらしい廻向(エコウ…廻し向けること)となりました。
 また、ここに生じた大きなパワーは必ずや、復興への新たな力強い一歩をもたらすことでしょう」

※引き続きの供養のため、当日お唱え出来なかった方々や自分も100返唱えようと志す方々のために、当分、映像と音声を流します。
(http://www.hourakuji.net/20120311hannyashinkyo.html)
 どうぞ、ご唱和ください。

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〈写経・花々・ご供物が捧げられたお位牌〉
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〈善男善女の思いよ届け〉
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〈プロジェクターにはあの日の記録が〉
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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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2012
03.11

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その94)─新たな出発のために─

 あの日からとうとう一年が経ちました。

 3月6日付の河北新報によれば、

「岩手県と宮城県の被災者で、睡眠障害の疑いがある人の割合は約4割」


とされています。
 過去の全国調査では28.5パーセントの方々が睡眠障害に悩んでおられるというのも深刻ですが、被災者の5人に2人が眠れないとは言葉を失う思いです。
 しかも、若林区で医者にかからねばならないほど酷い方々は5人に1人です。

「『軽度の不安・抑うつ状態』と、より重い『専門医の診察が必要』と判定された人を合わせた割合は、全国8.2%に対し、若林区22.0%、雄勝・牡鹿16.6%、網地島9.1%。山田15.3%、大槌14.4%、陸前高田12.7%。」


 津波から泳いで助かったAさんは、しばらく入浴ができませんでした。
 もともと寡黙な方なので、奥さんは「ショックでお風呂へ入る気もしないのだろう」と見守っていましたが、あまりに長期間にわたったので、とうとう「一体どうしたの?」と尋ねました。
「──あのチャプチャプ感が、どうにも我慢できないんだ……」
 瓦礫の撤去率などがいろいろ言われている一方、一日一日を暮らす方々の心の回復はまだまだこれからです。

 さて、昨日、第25回寺子屋法楽館』を開き、引き続き『ゆかりびとの会』の役員会が行われました。
 そこで83才になられるAさんから、厳しいご意見が出されました。
「住職は津波に遭った地域を托鉢して歩き、とうとう新しい寺院を始めた。
 あの頃の思いをふり返り、よりいっそう、不退転の気持で前進して欲しい」
 そして、Aさんは、平成11年に出版した『托鉢日記第二集』の一部を抜き書きした紙一枚とと、月刊誌『法楽』をコピーした紙一枚を示しました。
托鉢日記』の「教えの人」に書いた海へと続く川沿いの集落を歩いた時に出会った方です。

「堤防に張り付くように立っている家々。
 瀬音が間近に聞こえる集落の中程にあるこの地域にそぐわぬ小さな自動車整備工場。
 家の中のガレージといった風情の作業場に入ると、ご主人が油にまみれた手を洗いつつ立ち上がる。
『雨ん中ご苦労さんだね、お願いします』
 後をついて行く。
 奥の扉の向こうは開け放った玄関。
 廊下のガラスもいっぱいに開く。
 灯明が点された居間の神棚と仏壇の様子には並々ならぬ信仰心があらわれている。
 精一杯のご祈願を終えると、お布施を用意しつつ後姿の肩越しに言う。
『このあたりは大体八千軒、いや八千人だよ。
 挫けないでやらいよ』
 まるで托鉢の経験があるかのような励まし方に驚く。
      (中略)
 受け取った御札を手に家へ入りつつ、更に忘れ難いコトバを下さる。
『気いつけて頑張らいよ。
 こんで終わりでねぐ、これからもしっかり守ってけさいよ』
 ご高齢の方々や体調の良くない方に守って下さいと言われ、背筋を伸ばすことは度々あったが、これからが大事だと明言されてみると、改めて考えさせられる。
      (中略)
 縁となった僧侶を信じることが前提である以上、その僧侶にしっかりやってもらいたいと思うのは当然なのだ。
 ご縁の方々、そしてこれからご縁となる方々のために
『何としてもやり抜かねばならない』」


 ブログに発表し、月刊誌『法楽』の2月号に書いた「宗教って何? ─被災地に生まれつつある小さな霊場や聖地─ 」の一部です。
 東北学を提唱した赤坂憲雄氏の言葉を紹介しました。

「『海沿いを歩くと、いたるところに、小さな霊場や聖地が生まれつつあります。
 草むらの中に卒塔婆が立っていたり、堤防の脇に花やお菓子がそなえられている。
 一瞬にして奪われたたくさんの命、それぞれの思いや記憶が行き場もなく浮遊しているのです』
 私も、托鉢でお世話になった海沿いの地域をもう一度、つぶさに歩くつもりです。
 かつて、娑婆で何もかも失った私は、見知らぬ集落の一軒一軒を訪ね歩き、地域の方々から生きる糧を与えられ、いかなる僧侶、いかなる寺院であるべきかも教えていただき、今に至りました。
 あちらの集落からも、こちらの集落からも山ほど授かった私は、〈小さな霊場〉で漂っておられる方々へ鎮魂の祈りを捧げ、小さな恩返しをしたいと思います」


 Aさんは、「托鉢から始まった初心に返れ」「恩返しを忘れるな」と叱咤してくださったのです。
 ご加持に救いを求めてご来山される方々の言葉を通じて、皆さんの睡眠に関する悩みを我がことのように心配しており、一つの腹案を温めています。
 そう遠くない日に、皆さんのお近くへ出向き、今も〈挫けないで〉やっている姿をお見せし、〈守ってけさい〉にお応えし、〈小さな恩返し〉とすべく、準備を進めています。
 震災後の新たな一年が、皆さんに「この世の幸せとあの世の安心」をもたらすための大きな一歩となるよう願ってやみません。

〈原点〉
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寺子屋
20120311004 (2)



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
03.10

あの世へ行けば本当に十三仏様と会えるのか?(その1)

 皆さんの疑問の一つに、
「住職は本当にあの世へ行けば十三仏様に会えると信じているのか?
 お不動様やお地蔵様は、実際にあのようなお姿でいると信じているのか?」
というものがありそうです。
 だから、今日の寺子屋法楽館』では、そのあたりのところを、皆さんと膝を交えるような雰囲気でじっくり話し合う予定です。

 では疑問への答は?
 当然、信じています!
 ただし、初七日の間に、どのようなお姿のお不動様にお会いできるかは自分の精進次第だと覚悟しています。
 経典は、はっきり説いています。

「若(モ)し大根(ダイコン)の者の為(タメ)には。聖者(ショウジャ)。忿怒(フンヌ)を現じ。
 根性。中根(チュウコン)の者は。二童子を見ることを得ん。
 下根(ゲコン)の行人(ギョウニン)の如きは。怖れを生じて見ること能(アタ)わず」


 高い悟りの境地へ入ったならば、お不動様は、実際に火炎をまとった忿怒のお姿で現れてくださるかも知れません。
 中途半端であれば、お不動様につき随って善い面を伸ばしてくださるコンガラ童子様や、悪い面を正してくださるセイタカ童子様にお会いできるかも知れません。
 煩悩にまみれたままであれば、お像や掛け軸などにあるお不動様のお姿に怖れを感じるのみで、お会いできないでしょう。

 これは何を意味するのか?
 心次第でこの世も人生も違って見えるのと同じく、心次第で、自分自身の心の奥底にある仏性がどこまで感得できるのかが異なるのです。
 仏性がすばらしくはたらく人にはきっと、お不動様の世界が開けることでしょう。
 仏性を眠らせたままにしている人は、いくらお不動様を研究しても、あるいは眺めて歩いても、心は目に見える世界と連動した範囲でしかはたらきません。
 仏性は眼に見えない世界へ通じている霊性の核だからです。

 最近、よく、津波に遭った地域で亡霊が見えるとか、通りかかると気分が悪くなると訴える方々にお会いします。
 どうにかして欲しいとご加持を申し込まれる方々が後を絶ちません。
 ご加持を受けてゆっくりと休み、法話に耳をかたむけ、皆さんが元気を取り戻されるのはとても嬉しいことですが、不調があまりに誤解によって招かれている点は早く是正されるべきであると考えています。
 目に見えない世界と通じる場合があるのは当然ながら、実際はそうでないのに、そう思い込んでしまうケースが多過ぎるのです。
 もっともわかりやすい例は〈闇夜の縄〉です。
 Aさんは、「何か出そうだなあ」と怖々夜道を歩いていて行く先に縄を見つけ、「アッ、大蛇が出た」と逃げ出します。
 Bさんは、縄だと思っても、それは石ころが目に入るのと同じく、ただ、通り過ぎます。
 Cさんは、見つけた縄を「これは使えそうだ」と拾って帰ります。
 どうでしょう。
 多くの方々が、Aさん的になってはいないでしょうか。

 なぜ、こうなるのか?
 それは、皆さんの心に優しさがあるからです。
津波に追われた人々はどんなに怖かったことだろう。
 どんなに生きたかったことだろう。
 それなのに……」
と想いをはせ、亡くなられた方々の恐怖や慚愧と似たものを自分の心に発生させてしまいます。
 他人の思いを自分の思いとする尊い気持は結構ですが、問題はその先です。

 たとえば、海上保安庁に勤めるDさんはこう言われます。
「悲しい現場へでかける私はどう願っているか。
『生きている方のシグナルは、なるべく早く見つけたい。
 もしも亡くなっておられ、誰かに憑きたいならば、ぜひ、私に憑いて欲しい。
 そうすれば貴方の居場所がわかり、私は貴方に手を差し伸べられますから』
 これが本音です」

 ──続きは次回に。

〈英霊のおわす海へ捧げられたお地蔵様〉
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2012
03.09

寺子屋『法楽館』第二十五回 ─あの世のお導きは十三仏様─

 寺子屋法楽館』も第25回目となりました。

 あの世をお導きくださるのは十三仏様です。
 百か日忌は観音様、一周忌は勢至菩薩様、三回忌阿弥陀如来様など、すべて十三仏様の修法によってご供養を行います。
 それぞれの方々のお導きと、住職がいかなる信念に基づいた修法を行っているかについてじっくりお話し申し上げ、質疑応答も充分に行います。
 いつもどおり、平成24年3月10日(土)午後2時より当山講堂にて行います。
 どうぞふるってご参加ください。
 詳しくはhttp://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3138.htmlをご覧ください。

〈600px-Dharma_Wheel_svgをお借りして加工しました〉
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2012
03.09

なかなか信じられないできごと ─般若心経百万巻供養会の準備にて─

 過日、亘理町の浅見薫氏宅へ出向き、3月11日に行う供養会に合わせてネットへ流す経文の編集を依頼しました。
 ところが、ICレコーダーに入れておいた音声を確認したところ、般若心経の最後の一回に不具合が見つかりました。
 録音をし直さねばなりませんが、一度、お寺へ戻る時間的余裕はありません。
 そこで、やむなく、浅見宅で再録しました。
 本当は、最後の一返なのでお経の終わりに鐘が二回打たれねばなりません。
 しかし、浅見氏宅に鐘はなく、お経を一巻唱えただけになりました。
 とても残念に思いつつ、今録音したばかりのレコーダーを浅見氏へ渡し、目の前で編集していただきました。
 ところが、確認のためにできあがったものを聞き直したところ、何と、鐘の音が二回、きちんと入っています。
「エッ!」
と二人は絶句し、顔を見合わせました。
 失敗したものをそのまま取り込んでいないのは明らかです。
 なぜなら、さっき再録したものは「これで最後の一返」とわかるように、わざわざトーンもスピードも変えてあり、もちろん不具合の部分は修正の上、録音されているからです。
 それでも、念のため、いったいどういうことなのか、二人で調べてみました。
 エンジニアである浅見氏は「ウーン、ウーン」と唸りつつパソコンを操作して2面のディスプレイと睨めっこしますが、結果は変わりません。
 実に不思議なできごとなのです。
 とうとう最後に、浅見氏は笑いつつ言いました。
「和尚さん、まさか、鐘を隠し持っていたんじゃないんでしょうね」
 私も、まさかと言いつつ笑いました。
 もうその後は、お互いに「いやいや……」「何と何と……」などとつぶやくのみでした。

 昨夜、(株)マグネットデザインさんが編集していた画像と重ね合わせたものをユーチューブのテスト画面でチェックしました。
 当然ながら、やはり般若心経の最後の一返は浅見氏宅で録音したもので、鐘が二回打たれています。
 なかなか信じられないできごとですが、現実です。
 
 地震のあった日に、共同墓法楽の礎』壇上にある大日如来の石像がその場でクルリと津波の来た方角へ向きを変えたことは何度か書きました。
 円筒状の台上に重心の高い尊像が乗っており、心棒もないので、強く揺さぶられれば当然、倒壊するはずです。
 数百キロにもなるその像が、数センチの狂いもなく〈その場〉でほとんど真後を向くなど、これもなかなか信じられないできごとです。
 当山で行ったシンポジウムに参加された科学者佐藤嘉彬氏が「まさか」と現場を確認しました。
 結論は──。
「物理的にはほとんど考えられないですねえ」

 祈りの世界には人知を超えた何ものかがあります。
 津波から逃れる人々の方を向いた大日如来様にお護りいただき、み仏が鐘の音を入れてくださった般若心経を共に唱えようではありませんか。
般若心経百返のデータは3月11日午前10時にユーチューブへアップし、当分流す予定です)

般若心経法〉
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〈後ろ向きになった共同墓の主尊大日如来
230321 081



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2012
03.08

お位牌をたくさん供養していると悪いことが起きるか?

 Aさんは60才を過ぎた頃から病気がちになり、友人を亡くしたり、孫がいじめに遭ったりと〈悪いこと〉が続き、〈何かのせい〉ではないかと気になり始めました。
 そこで知人から勧められるままに有名な運命鑑定家を訪ねたところ、自分自身が心配していた点を指摘され、居ても立ってもいられなくなりました。
「悪いことが続くのは、家にたくさんの位牌を置いてあるせいです。
 このままだと、もっと酷いことが起きるでしょう。早く手放しなさい」

 Aさんにはやむにやまれぬ身内間の問題があり、嫁ぎ先や実家の位牌を供養しておられます。
「今度は妹がガンになり、私が面倒を見ています。
 もう、これ以上は耐えられません。
 早く位牌を手放したいけれど、どうにも事情が許しません。
 ほとほと、困り果てました」
 切羽詰まったAさんは、絞り出すような声で窮状を訴えられます。

 申し上げました。
「偉い方がいかなる根拠でそうした判断をしたのかはわかりませんが、こうした〈因果関係〉を持ち出して脅され、悩み、ご来山される方は後を絶ちません。
 この場合、判断が誤りであることはプロの僧侶として断言できます。
 その根拠を述べます。
 あなたがお位牌を事実上放っておきでもするのならいざ知らず、手を合わせない日はないほど大切にしている以上、お位牌をより所とする御霊があなたに悪さをするいかなる理由がありましょうか。
 
 私は、ものの道理を考える際に、立場を替えてみることを提案します。
 もしも、あなたが、ご供養しておられるあなたのお母さんだったとしたら、病気がちでありながら妹の看護をし、孫の心配までしているあなたに対してどうするでしょうか?
 必ず目に見えない手を差し伸べようとするのではありませんか?
 また、あなたは、お母さんが〈嫁ぎ先で供養してもらえず娘の家に置かれている〉ことを理由に、毎日自分へ手を合わせる娘に祟るような愚か者だと信じているのですか?
 お位牌を頼っている他の方々についても同じように考えてみましょう。
 あなたがもしもその方だったとしたなら、今のあなたに対してどうしたいと願うか。
 そして、その方そのものが、供養してくれるあなたに理不尽にも祟るような人物だったかどうか。
 こうして、ものの道理という尺度をもってすれば、お位牌と心配事が続くことには何の関係もなく、むしろ、そうした因果関係を疑うのは先に逝かれた方々への冒涜であると気づかれることでしょう。

 また、あなたのお仏壇のご本尊様は大日如来様であるとのことですが、それが仮にお不動様や阿弥陀様であっても、み仏は相手によって救う、救わないとわけへだてはしません。
 利害や好悪で相手へ別々な態度をとるのは私たち凡夫の世界のできごとです。
 そうした自己中心を離れたのがみ仏の世界であり、ご本尊様は、み仏としての徳をもって私たちを見守りお救いくださっているのですから、複数の家系にまたがるお位牌があってもまったく問題ありません。
 あらぬ疑いを持つのは、絶対平等にお救いくださるみ仏への冒涜です。
 こうして、仏法の根幹を考えれば、鑑定家の言う因果関係が誤りであることは明らかです。

 また、ここ半世紀で、良くも悪くも人間関係がすっかり変わりました。
 今は、友人同士でお墓を建てたり、一基のお墓に複数の家族が入ったり、娘の嫁ぎ先と一緒の墓所に並んでお墓を建てたり、三家族のお墓が一つの墓所に造られたりと、弔い方も実に多様です。
 だから、お仏壇に多様な方々が供養されていて何の違和感もありません。

 そもそも、供養で一番大切なのは当然、供養する心です。
 この心を持った方が行うのであれば、どなたを供養しようと何の問題もありません。
 供養とは相手を思う心に発する人生修行であり、供養によって積んだ徳を廻向することが大切です。
 お墓やお仏壇は相続とからみ、争いの元となり、いろいろと情けないご相談もあります。
 思惑を離れ、あなたのように過去の成り行きを感受してじっと責任を果たしながら生きておられるのは実に尊いことです。
 あなたが真の供養の心を持っておられる姿は、きっとみ仏も、お位牌をより代とする方々も喜んで見ていてくださることでしょう。

 怖れてはなりません。
 み仏へ感謝し、先に逝かれた方々を想い、これまでどおり尊い供養を続けてください。
 それによって悪いことが起こるどころか、『ああ、お救いいただいた』と感じられるできごとがきっとあることでしょう。
 み仏も、先に逝かれた方々も必ず必ず、あなたを見守っていてくださるのです。
 今回のような脅しは、時代の変化と、必ずしも変化に追いついて行けない心との間にある微妙なズレを利用した典型的なパターンです。
 ものの道理を考え、み仏や御霊に関することならプロである僧侶に意見を聞き、時代の変化をよく見て判断しましょう」
 
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2012
03.07

サプリブームの落とし穴

 3月5日付の河北新報は「骨粗そう症招く恐れ」と題して、ビタミンEの過剰摂取に警告を鳴らしました。
 慶応大学の竹田秀特任准教授などのチームが発表した研究によれば、
ビタミンEには身体の酸化を防ぐ作用があり期待できるが、過剰摂取に注意してほしい」
とのことです。

 その根拠は?

「骨の内部では、骨を作る細胞と、骨を壊して吸収する『破骨細胞』がバランスよく働き、骨を新陳代謝させている」


 作る役割を持つ細胞と壊す役割を持つ細胞のバランスで頼りにしている骨が保たれているとは驚きです。
 チームがビタミンEを取り込めないマウスを観察したところ、破骨細胞が小さくて、骨がうまく吸収されないことがわかりました。
 もう一つ、ビタミンE破骨細胞を巨大化させ、骨を壊す能力を高めることもわかりました。
 そこで、マウスとラットに人間が通常摂取するほどのビタミンEを与え続けたところ、たった8週間で骨量が約20パーセント減り、骨粗そう症になったそうです。

 この研究により、いくつかのことがわかります。

1 身体は自然の一部であり、微妙でさまざまなバランスによって保たれている。

 私たちの骨が正常を保って生きていられる真理を、古人は「地の徳が空(クウ)の徳によって保たれている」と観じました。
 いのちの不思議の全体像を人知はとらえきれないけれども、天地自然のおはからいに感謝し、体内の精妙な感覚を察知しながら生きられると考えました。

2 身体に〈良い〉ものもバランスを失う摂り方をすれば、身体に〈悪い〉ものとなる。

 この真理を古人は

「諸刃の剣」


あるいは、

「過ぎたるは及ばざるがごとし」


と戒めました。
 微妙な毒の成分で味覚を刺激するフグも、食べ過ぎれば死ぬ可能性すらあります。

3 何をどれだけ摂ればいかなる身体になるかという全体像はわかっていない。

 私たちが食べものと認識するあらゆるものに何がどれだけ含まれており、それをいかなる組み合わせでいかなる食べ方をすればどうなるかなどという膨大なパターンのシュミレーションは成り立ちません。
 だから、人知の限度としては、厚生省が摂取基準を示すのがせいぜいといったところです。
 ちなみに、ビタミンEの許容上限は、「年代によって異なるが1日当たり最大900ミリグラム」とされています。
 一方、厚生労働省が定めた1日のビタミンE摂取量は、成人男子で9ミリグラム、成人女子で8ミリグラムです。
 日々、20数種類ものサプリを常食として超人的な活躍を続けている石原都知事にはいかなる医師や栄養士がついているのか、下々の私などには想像がつきません。

4 ありとあらゆる身体に〈良い〉ものの情報に溢れているが、過剰への恐れや、口にするもの全体のバランスといった問題はあまり関心が持たれていない。

 ビタミンEの場合、最低が成人男子で一日当たり9ミリグラム、成人女子で8ミリグラム、許容上限が900ミリグラム、そして、「ビタミンEの効果を期待するなら少なくとも1日100から300ミリグラムは摂りましょう」などと宣伝されています。
 私は、知人に勧められて、あるサプリメントを口にしてみたことがあります。
 2~3日して、ふと、思いました。
「一部のものだけを突出して体内へ取り込んで良いものだろうか?
 しかも、自分の生活風土とは何の関係もないものを……」
 こんな疑問をもってサプリメントを眺めたところ、その不気味な無機質さにゾッとし、ただちにやめました。
 きっと体内の精妙な感覚が違和感を訴えたのでしょう。
 
5 欲が過ぎると、自然の一部としての身体が発する警告に気づかなくなる可能性がある。

 前項における私の体験は、自分はもう充分に年をとったという思いがあるので生じたのでしょう。
 おりおりに自分の欲の内容と程度をチェックしてみる必要があります。
 さもないと、いのちの表れである貴重な欲が清浄な意欲でなく、煩悩に堕してしまったり、あるいは煩悩となった欲に付け入られてしまうかも知れません。
 とは言え、今の私には、食事代わりのカロリーメイトと睡眠打破剤は欠かせません。
「ああ、仕事熱心な運転手さんなんかはこのまま行けば覚醒剤に手を出すのだろうなあ」と変な同情心が起こったりもします。
 そう言えば、古人はこう諭しました。

「言うは易く行うは難し」


 おりおりに戒め、他にも、自分にも流されないように気をつけながらやりましょう。

〈人生相談にご来山された方から、密かに拝んできた被災地のお不動様に関する話が出たのには驚きました〉
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2012
03.06

リストラと切磋琢磨(セッサタクマ)

 最近、就職やリストラ、あるいはそうした問題にかかわる心の病気に関する人生相談やご祈祷が多く、日本の社会が変質したことをつくづく実感しています。
 いつからこうした非情な社会になったのかと考えているうちに、自分たちが社会を創りつつ生きてきた時代には一つの言葉があったことに気づきました。

 人は競争の中でもまれてこそ各方面の力をつけ、成長します。
 だから、競争し、集団の中における自分の位置を知ることは必要です。
 そして、お互いが人としてレベルアップすることは、明らかにお互いのためになります。
 これを古来、切磋琢磨(セッサタクマ)と言い、『語源由来辞典』はこう説明しています。

切磋琢磨
【意味】 切磋琢磨とは、学問や道徳に努め励むこと。また、仲間同士で励まし競いあって向上すること。
切磋琢磨の語源・由来】
 出典は中国最古の詩集『詩経』の「衛風(えいふう)・淇奥(きいく)」による。
「切」は骨や象牙を切ることで、「磋」はそれらを研ぐこと。
「琢」は玉や石を打ち叩いたくことで、「磨」は磨くことを意味する。
『詩経』ではこれらの語を用いて「切するが如く磋するが如く、琢するが如く磨するが如く」と、細工師の技工や完成した細工品に喩えて衛の武公をたたえたことから、切磋琢磨は学問や精神・人格を磨き、向上することを意味するようになった。
 また、「切磋」のみや「琢磨」のみで用いることもある。


 私は戦後すぐの生まれなので、いわゆる〈戦後教育〉を受け、受験勉強から始まる競争社会を生きてきましたが、切磋琢磨は小学校できちんと教えられました。
 よく読めば気づくように、この言葉には二つの重要なポイントがあります。

1 競争によってレベルアップする際の基本となるものは人徳であること。
 いくら勉強ができても人徳のない生徒は、「ガリ勉」の自己中心者と揶揄され、仲間から評価されませんでした。
 勉強の嫌いな暴れん坊でも、弱い者いじめはせず、頼りにされました。
 常日頃おとなしい子が、クラス対抗リレーになると顔色を変えて鬼のように走り、「あいつは凄い」と無言の評価を受けていました。
 つまり、子供たちは「人格を観る心の目」を育てつつ育ったように思われます。

2 互いの心の交流の中で、共にレベルアップをはかること。
 今では想像もつかない光景でしょうが、高校では定期的なテストのたびに全生徒名前が成績順に廊下へ張り出されました。
 自分のアップダウンと共にライバルや友人のアップダウンも気になり、「ようし、次は……」と気合が入りました。
 かといって、順位が下位の仲間を軽蔑することはなく、「俺はブービーだったけど、ブービーってのはビリになるより難しいんだぞ」という当の本人と何の屈託もなく一緒に大笑いしたものです。
 結果として出た順番は順番として、それに心の交流が妨げられたり、遮断されたりといった体験はなかったのです。

 こうして団塊の世代は高度成長期を無我夢中ではたらき抜き、いよいよ死を迎える準備期に入りつつあります。
 確かに競争はしてきましたが、〈見捨てる〉あるいは〈人を道具と見る〉といった非情さはあまりなかったはずです。
 その背景には成長していた経済があったことは確かです。
 社会に余裕があり誰でも何とかなったので、自己の生存を第一とするところから発する冷酷さが薄かったのです。
 しかし、それだけではなかったと思われてなりません。
 子供の頃に教わった切磋琢磨、社会に生きている言葉としての切磋琢磨──。
 このイメージが同世代に共通する心の色合いとして確かにあったこと。
 それが社会の色合いに深いところで関わっていたと思えてならないのです。
 
 今、長生きするお年寄りの生き方として生涯学習が言われ、人間関係の薄くなった社会の危機を脱するために絆が喧伝されています。
 こうしたことごとは、切磋琢磨の精神があれば、自ずから達成されるのではないでしょうか。
 『語源由来辞典』が教えるとおり、子供の頃に「学問や道徳に努め励む」ことと「仲間同士で励まし競いあって向上する」ことを肝に銘じておけば大丈夫です。
 皆が自分で何かを学ばないではいられないならば、「趣味や勉強に励みましょう」などと鐘や太鼓でお年寄りを駆り立てる必要はありません。
 共にはたらく中で励まし合い、競い合いつつ「こいつはなかなかの人物だ」「こいつはやれる」と互いを評価し心から尊敬できるならば、絆が云々といった心配はありません。
 真に尊敬できる人物、真に心をかよわせ合う人物がいれば、たとえ会えるのはまれであっても、決して孤独ではありません。

 この叡智を無視した原理主義的な競争社会、人を道具と観てはばからない恥知らずで非情な社会は、まぎれもなく私たちの心によって創り出されたものです。
 ならば、私たちの心の持ち様を変えるところから始め、社会の色合いを根底から変えようではありませんか。
 切磋琢磨の一語にはそうした力があるやに思われてなりません。
 子供たちも、大人たちも、心に期そうではありませんか。
「学問や道徳に努め励もう。
 仲間同士で励まし競いあって向上しよう」

書道教室で学ぶ70代半ばのAさんには皆、励まされています〉
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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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