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2012
05.31

傷ついた日本人へ(その12) ─空(クウ)の意味(その2)─

20120530017.jpg

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第12回目です。

 物事の本質を探ろうとする仏教の思考方法は、「人間の存在を突き詰めて考えていくと、はっきりこれだと示せるものが何一つない」ことに気づきました。
 法王は思考をさらに進めます。

「みなさんは『私』は確かにここにいると思っているでしょうが、『私』とは何を指しているのでしょうか?
 どこに存在しているのでしょうか?」
「自分の体、手足、頭の中……、一つ一つ確かめてください。
 身体のどこを探してみても、『私』というものを見つけることはできないでしょう。
 心や意識の中にあるのかと考えてみても同じことです。
『ここに私がいた』と指し示すことはできません。
 結局、私たちがこれまで考えてきた『自分』『私』というものもまた、単なる感覚や観念で考えていたものに過ぎなかったのです。
 そこに何の実体もありません」


 普段、私たちは、思うがままに手足が動き言いたいことを言っているので、手も足も口も自分のものであり、司令官である自分の意識が指示するとおり動く身体全体を自分であると考えています。
 しかし、もしも事故や病気で手足を失ったり口がきけなくなったりしても、自分は変わらずにいるのであり、そうすると手にも足にも口にも自分はいないことになってしまいます。
 では、脳に自分がいるのかと思って探してみても、脳もまた手足と同じく、それぞれの部分がそれぞれの活動を行っており、どこをとっても、自分のありかは見つかりません。
 自分の肉体と言い、自分の精神と言っても、肉体にも精神にも自分の実体は見つかりません。
 すべては自分が考えた観念でしかないのです。

「そもそも『自我』に確固たる実体はない。
 仏教ではこれを『無我』といいます。
『我(ガ)はない』ということです。
 実体がないのは人間の存在だけではありません。
 同じように様々な事象を追究しても、結局全てに確かな実体などないことがわかります。
 つまり、『無我』はあらゆる現象に当てはまる原則なのです。
 そのため、人間だけでなく、どんな事象についても『無我』と言い表します。
 ただし、人については『人(ニン)無我』、人以外の事象については『法(ホウ)無我』と区別して言うこともあります」


 すべては因と縁によってかりそめに存在しているだけであり、ありとあらゆるものがそれぞれ因となり縁となって関わり合っているので、変化しないものはありません。
 私と言い、貴方と言っても、一瞬たりとも変化を止められないので実体として見つけられず、つかまえられないのは当然です。
 我(ガ)と表現される〈不変のもの〉はどこにも無いのです。

「あらゆるものごとに『実体はない』というこの本質を、仏教では『』と表現します」


 ついにへたどりつきました。
 自分の根本的なありようも、見聞きする現象世界を構成するすべての事象の根本的なありようもだったのです。
 それは、この人も、このネコも、あの人も、あの山も同じです。
 私、妻、クロ、笹倉山、全てはイメージにつけられた記号であり、私たちはそれを用いた観念の世界の住人です。

 ここで確認しておくべきは、〈実体がないから、存在していない〉のではないということです。

「『存在していない』と『実体がない』は全く別物なのです。
 簡単に言えば、『そのものの有無』が存在であり、『確かな姿』というのが実体です」


 私も、妻も、クロも笹倉山も、有るか無いかと言えば有るので存在してはいますが、そのどこをとっても私や妻やクロや笹倉山の実体は見つけられないので確かな姿はありません。
 だからです。
 法王はたとえ話をされました。

「簡単な例で説明しましょう。
 たとえば先ほど私たちは昼ご飯を食べましたね。
 食事を食べたからこそ美味しいと感じたし、腹も満たされました。
 もしごはんそのものが存在していなかったら、そのような感覚や作用はなかったはずです。
 私たちは全くの想の中で夢幻を食べたわけではありません。
 つまり、ごはんは確かに存在したのです。
 ただし、それぞれ自分の味覚で味わい、自分の知覚で認識したに過ぎません。
 昼ごはんのいわゆる実体、確固たるありようというものは誰も捉えることができないのです」


 どうでしょう。
 このあたりまで来ると、『般若心経』で説く「色即是空(シキソクゼクウ)」がイメージされるのではないでしょうか。
 そうです。
 私たちは、そのあたりに近づいています。



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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
05.31

6月の行事予定

20120530016.jpg

 6月の行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、み仏と祖霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭] 2012/6/3(日)午前10:00~午前11:00
 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
 太鼓に合わせて観音経3巻もお唱えします。
 6月15日は宗祖であるお大師様の誕生日に当たります。至心に帰依する「南無大師遍照金剛」を百八返お唱えし、まごころを捧げましょう。
 百八返唱えられた方へは、『身代わり大師』の小さな木札がお授けとなります。
 参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き払い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 護摩木供養は1体300円です。
 ご自由に願いをかけてください。
・送迎申込  午後1時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へお迎えの車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までにご連絡下さい。

20120527003.jpg

書道写経教室] 2012/6/3(日)午後2:00~午後3:30
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
 基本からお稽古を行っています。
 今月から写経のお稽古も
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)

寺子屋『法楽館』第二十八回] 2012/6/9(土)午後2:00~午後3:30
 映画『風の馬』を観賞し語り合います。
 今回、題材とする映画『風の馬』は、平成10年、環視の目が厳しいチベットのラサやネパールで撮影された実話をもとにした劇映画です。
 フィクションを通じて、実際に弾圧を受ける僧侶の姿など、チベットで起こっている悲劇的現実を世界へ訴える名作です。
 肉親が殺され、故郷が踏みにじられ、宗教的信念は拷問によって捨てさせられ、過酷な運命に翻弄されつつも真実を生きようとするチベットの人々の熱い思いが伝わってきます。
・場  所  当山講堂
・ご志納金   1000円(中学生以下500円)
・送  迎  地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前より(乗車希望の方は前日午後5時までにお申し込みください)

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[法話と対話「生活と仏法について」第十八回] 2012/6/13(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
 
[第二例祭] 2012/6/16(土)午後2:00~午後3:00
 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
 太鼓に合わせて般若心経3巻もお唱えします。
 6月15日は宗祖であるお大師様の誕生日に当たります。至心に帰依する「南無大師遍照金剛」を百八返お唱えし、まごころを捧げましょう。
 百八返唱えられた方へは、『身代わり大師』の小さな木札がお授けとなります。
 参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き払い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 護摩木供養は1体300円です。
 ご自由に願いをかけてください。

[機関誌『法楽』作り] 2012/6/25(月)午前9:00~
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。

[法話と対話「生活と仏法について」第十九回] 2012/6/27(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)

お焚きあげ] 2012/6/30(土)午前10:00
 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]
 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。



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2012
05.30

傷ついた日本人へ(その11) ─空(クウ)の意味(その1)─

20120530006.jpg

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第11回目です。

 法王は、ここまで本当の幸せについて考察し、「人生をより良くするために仏教の考え方が役立つ」ことに気づかれた人々へ、仏教の教えや概念として(クウ)について述べられました。
 私たちは、仏教と言えばと考えるほどという言葉に慣れ親しんではいるものの、では、とはどういう概念かとあらためて考えてみれば、はなはだ怪しくなります。

 法王は説かれました。

「当たり前だと思っていることに疑問を持ち、物事の本質を探り出す。
 これが仏教の思考方法です」


 お釈迦様が恵まれた立場を捨て、お大師様が出世街道に訣別し、行者になられたのもここに理由があります。
 目に見え耳に聞こえるものに何の疑問も持たず、それらの情報をうまく処理して身を養いつつ毎日が流れて行けばそれで良いと考える人にとって、仏教はあまり意味を持ちません。
 人生の何ごとかにぶつかり、立ち止まらせられた時、同じくそこで苦吟した過去の先達方が残した教えとして、仏教が姿を見せます。
 もしや、ここに救いがあるのでは、と扉を開け、誠心の目でじっと観ていると、さまざまなみ仏方の世界が朧気ながら形を示し始めます。
 その先は、聞・思・修が待っています。
「聞」は、聞くことであり、学ぶことです。
 魂が震えた時、仰ぎ見るように信じる心「仰信(ギョウシン)」が生じます。
「思」は学んだことをよく思考し、理解することです。
 そこに、ああそうだったのかという「解信(ゲシン)」が生じます。
「修」は正しく習い修めることです。
 そうすると、真理・真実が心身に証明された確信である「證信(ショウシン)」が生じます。

 こうして「物事の本質」へ迫りますが、この過程で大切なのは、理性と感性は常にクリアでなければならないということです。
 オウム真理教は、矛盾と不条理に満ちた現実を突破したいと悩み願っていた若者たちへ「修行しよう!」と巧みに呼びかけました。
 しかし、そこで待っていた修行は理性と感性を麻痺させる方向へと導くものでした。
 ここにカルトカルトたる由縁があります。
 カルトの蜘蛛の巣にからめとられない方法の一つは、〈狭い方向へ導こうとするかどうか〉を冷静に見極めることです。
「~だけで良い」「~以外は邪宗である」「~以外は唱えてはならない」といった姿勢が見えたならば、疑ってみる必要があります。
 多様な世界で考え、多様な現象に惹かれるオープンな精神を失えば、心の方向性は怪しくなります。

 さて、法王は、「当たり前だと思っていることに疑問を持」つ体験として、「ダライ・ラマはどこにいるのか?」と聴衆へ問いかけます。
 そこにいますと見えている姿を指さすでしょうが、どうしてそう言い切れるのか、何をもってそれを証明するのかと問います。

「もし私の姿や声だけで私の存在が規定されるのであれば、『ダライ・ラマの姿や声』ということになるでしょう。
 でもそれならば、私の声が失われれば、私はいないということになるのでしょうか?
 姿が見えなければ、この世に存在しないことになるのでしょうか?」


 この問いは「人間の存在とは何なのか」にぶつかります。

ダライ・ラマという人間は、ダライ・ラマの肉体のことである。
 この考え方はどうでしょうか。
 しかし、私の顔、私の心臓、私の手足、どこをとってもダライ・ラマそのものだとは言えません。
 肉体のどの部分を切り取っても、私が隠れているわけではないのです」
「ダライ・ラマは、ダライ・ラマの『精神』にある。
 みなさんの中にもこう考える方は多いでしょう。
『心や意識』こそその人げんっであるという概念は、広く一般的な考え方で共感されやすいものです。
 しかし、『精神』や『心や意識』とはどのようなものなのでしょう。
 よく考えてみると、一言では説明できないほど色々な現象が見えてきます」


 痛い、熱いといった身体の感覚も、夢見るのも、高度な思考を行うのも精神の作用ではあるが、それらは一体どこにあるのか、実体は確認できるのかというと、はなはだ曖昧模糊(アイマイモコ…あやふやでつかみ所がない)となってしまいます。

「人間の存在を突き詰めて考えていくと、はっきりこれだと示せるものが何一つないことにきづきます」
「今までダライ・ラマだと思っていたものは、実体のともなわない単なるイメージだったのです。
 そして『ダライ・ラマ』という言葉は、そんなイメージにつけられた『記号』に過ぎなかったのです」


 お釈迦様は、弟子たちへ「こらっ!起きよ!」と叱咤しました。
 目覚めよとは、理性も感性も総動員して真理・真実をつかみなさいということです。
 その先には心の解放が待っています。
 


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2012
05.29

悼む人は労(イタワ)る人になる ─介護に悩む方々へ─

20120529images[3]
〈http://3219.cc/img_server/co_img1/plusmarks/user/2009/m_fn-01.jpgをお借りして加工しました〉

 私たちは「心をいためています」とか、「心がいたんでなりません」などと言いますが、「いたむ」とはどういうことでしょうか?

1 痛
 体が痛いこと。「お腹が痛い」
 心が痛いこと。「痛い目に遭う」
 強く感じること。「痛感させられた」
2 傷
 体の傷が痛むこと。
 心の傷が痛むこと。
3 隠
 心底から哀れむこと。「惻隠(ソクイン)の情」
4 悼
 死者へ寄り添い、悲しみ、思いやること。

「1」と「2」は個人的な範囲で「いたい」と感じていますが、「3」と「4」は、相手との同感や共感となり、〈他人事〉と放ってはおけない心がはたらいています。
 天童荒太氏は小説『悼む人』へこう書いています。
「ばくは、亡くなった人を、ほかの人とは代えられない唯一の存在として覚えておきたいんです。
 それを〈悼む〉と呼んでいます。」
 この世を去った相手が、去る時に抱いていたであろう寂しさや悲しみや辛さ、あるいはこの世への願いやこの世に残る人々へかける希望などを〈我が事〉と感じるからこそ、簡単に忘れられません。
 去った人のいたみや思いは確かに在ったのであり、それが自分の心に響いた痕跡は消せません。
 去った人々にはそれぞれに、いたみや思いのパターンがありました。
 だから「唯一の存在」です。
 決して顔や人生だけが別々だったという意味ではありません。

 自分のいたみに向き合い、このいたみは誰しもにあり得るという想像力を持っていれば、実際にいたむものを抱えている人の思いに対する同感や共感が可能になります。
 想像力が「いたましい」「いたわしい」の「しい」であり、それは、こちらから相手へ架ける心の架け橋となります。
 それが積極度を増せば「いたわる」と「る」に転化し、明々と燃える火のパワーを生んで「勞」となります。
「労(イタワ)る」にはこうした背景があります。

 こんなことを書いたのは、老いも若きも介護に職を求め、介護の現場での心構えに関するご質問が増えたからです。
 介護は労る仕事です。
 人を人形のように思い、マニュアル通りに扱えば〈こと足れり〉というわけには行きません。
 相手が人形でなく意志を持つだけに大変な苦労もありますが、根本的に「労る」仕事であると肝に銘じておくことが大切ではないでしょうか。

 最近は還暦を過ぎてこの仕事にたずさわる方々もおられます。
 足腰の負担など肉体的には厳しい仕事でしょうが、人生の酸いも甘いも噛み分けた方々には、自分で数々の「いたみ」を体験し、他人の「いたみ」を思いやった歴史があります。
 それは必ず「労る」気持に結びつくはずです。
 また、人生体験の少ない方々には、年配者にはないパワーがあります。
 それを「勞」すなわち、かがり火のイメージで燃やせば、辛い現場を乗り切ることができるのではないでしょうか。
 かがり火は、闇の世界へ仏神に降りていただく目印でもあるのです。

 私たちはいつ、介護を必要とする身になるかわかりません。
 あるいは事故により、あるいは病気により、あるいは加齢により、最後は自分で自分の身を始末をできない身となってあの世へ旅立つしかありません。
 思いやり、労る人となり、み仏へ近づきつつ生きたいものです。



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2012
05.28

逝く人からのメッセージ ─花に寄せて─

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 Aさんをお送りする葬祭会館の廊下は、会場から玄関にかけて輪が並びました。
 別に大企業の役員でもなく名だたる有名人でもないAさんは、ただただ心優しく、倒れて四肢が動かなくなり介護を受けるようになってからの数年間でさえ、小学校や中学校の同級生たちとの交流は途切れませんでした。
 皆さんより一歩先に玄関近くへ立った私に、たちを通じたAさんとの感応が生じました。

「皆さん、おをたくさんありがとう。
 旅立つ私を心配しないでください。
 私はこのたちのように、この世で充分耐えました。
 別れは辛く、悲しいけれども、私はこまでどおり耐えられます。
 それより、皆さんは大丈夫ですか?
 私と別れる淋しさや悲しさにこのたちと同じく耐えられますか?
 は、大風に吹かれれば足をふんばり、強い雨に打たれれば歯をくいしばり、きちんと咲きます。
 足をふんばり、歯をくいしばる気配など少しも見せずに。
 皆さんも、花のようにきっと耐えてくださいね。

 皆さんはこれまで、私のために、本当によく耐えてくれました。
 だから、きっと、何があっても乗り越えられるでしょう。
 もしもいよいよ辛くなったなら、一輪の花を飾ってください。
 そして『この花のように耐えるぞ』とつぶやいてみてください。
 つぶやきは必ず私へと届き、私は笑顔であの世からパワーを送ります。
 皆さんがこれまで私へたくさんのパワーをくれたように。

 耐えてなおかつ、笑顔を生じる。
 それが花です。
 皆さんのおかげで、花のような人生を送ることができました。
 辛さに耐えて私を支えてくださった皆さんの心にも大輪の花が咲いていることでしょう。
 今後は私でなく、周囲の方々のためにそれを咲かせてください。
 私は花として生き、花となってあの世へ旅立ちます。
 皆さん、本当にありがとうございました」

 枕経を終え、初めてお目にかかった故人は、四国八十八霊場でお会いした吉祥天様そのものでした。
 ご家族の前で思わず口にしました。
「ああ、吉祥天様です」
 思い起こせば、四国では忘れがたい毘沙門天様にもお会いしています。
 遠くからお像が目に入った時、昭和63年に放映されたHNK大河ドラマ『武田信玄』を思い出しました。
 武田信玄と死闘を繰り広げた後、雪の夜、越後へ疾走する騎馬武者たちが闇の中へ消えて行く場面で、僧侶たちの低く唱える真言が地鳴りにかぶさりました。
「おん べいしらまんだや そわか、おん べいしらまんだや そわか、おん べいしらまんだや そわか、……」
 まもなく出家した私の頭からその真言は消えず、十数年の後、四国の霊場ではっきりとよみがえりました。
 そして誓いました。
「また、きっと、お詣りに来よう。
 私も毘沙門天様と同じく、宮城の地で北方の守護神になろう」

 吉祥天様は毘沙門天様の妻とされています。
 毘沙門天様へ憧れる思いが吉祥天様である故人との感応を呼び起こしたのでしょうか。
 それもこれも、闘病生活にあってなお花のようであった故人の心、筆舌に尽くし難い自宅介護の日々を送ったご家族の心、そして、花に思いを込められた周囲の人々の心があったればこそです。
 実に、花に導かれた一日でした。



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2012
05.27

生まれ変わりのパターンは五つ

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 私たちには生まれ変わりのチャンスが5パターンあります。

1 深く懺悔し、それまでの自分を捨てて、新たなイメージに自分を合わせた再出発を行う

 最近では、老いも若きも、偉い人も私たち下々の者もすぐに「反省しています」と言いますが、さて、内実はどうなっていることやら。
 その場しのぎから果ては隠棲までパターンはさまざまです。
 いずれにしても、酒やタバコと同じく「わかっちゃいるけどやめられない」のが私たち煩悩を抱えた衆生です。
 思い切った生まれ変わりが成功すればいいですね。

2 生前戒名を受け、み仏の子として生き直す

 最近では、それほどの年令に達していない方々も、文字どおり「やり直す」決心で生前戒名を受けられるようになりました。
 当ブログへ何度も書いているように、戒名はみ仏の世界から降ります。
 それを受けられた方々が安心を抱き、澄んだ眼で活き活きと過ごしておられるのを見ると、「ああ、み仏がおられる」と合掌したくなります。

3 出家し、白衣に身を包み、死と再生を心で体験する

 出家は家出ではなく娑婆からの離脱です。
 娑婆の原理でなくみ仏の世界の原理で生きる者となり、娑婆へ再生するのが菩薩道を歩む行者としての僧侶です。
 四国八十八霊場を歩むお遍路さんは白装束に身を固め、娑婆での自分を離れてお大師様と二人連れになり、娑婆の原理の死と、み仏の子としての再生を体験しておられます。

4 死んで戒名を受け、戒律に溶けこむ存在としてあの世で生まれ変わる

 肉体の死を契機として、み仏から戒名を授かり、戒律と一体になる道を歩んでみ仏の世界へ魂を溶けこませるのがあの世での道行きです。
 その名は「~居士」や「~大姉」と続く二文字の熟語となり、僧名と同じ法名にはこの世を生き抜いた者としての徳が顕れ、輝いています。
 私たちがいかに尊い存在であるか、み仏がその証拠を見せ、お導きくださっています。

5 遙かな過去世で生じたすべての因縁を背負いこの世へ転生する

 肉体が所属するモノの世界の原理と、心が所属する精神の世界の原理は当然、異なっています。
 私の肉体は耐用年数が過ぎれば見た目では無くなりますが、肉体を構成している地なる骨格や、水なる血液や、火なる体温や、風なる呼吸などを保たせる形が分解しただけであって、ミクロの世界では無になりません。
 だから「土に還る」と言うのであり、心も又、現世での因縁を宿した何ものかとして「精神の故郷へ帰る」のであって、機が熟すれば因果応報の原理に従い、特定の者としてこの世へ転生します。

 さあ、どうやって生まれ変わりましょうか。
 もちろん、このままで行こうとするのも結構。
 ただし、生まれ変わりを避けることはできません。
 それともお釈迦様のように覚り、輪廻転生を脱しましょうか。



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2012
05.26

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第104回)─何かを失い、自殺したくなったなら(その4)

20120526018.jpg

 そろそろ質問に対する答をまとめねばなりません。
 どうにもならない状況で行われる自殺仏法はどうとらえ、どう対処するか?

 これまで、二つのポイントから考えてきました。
 一つは喪失感であり、もう一つは不条理感です。

○第一の喪失感については、空(クウ)の意識を持ち、〈生きもの感〉とでも言うべき生(セイ)の実感をあらためてとらえなおしましょう。
○第二の不条理感については、この世も自分もままならぬ〈苦なる存在〉であると認識し、輪廻転生(リンネテンショウ)を考え、この世は自分にとって〈一つの過程〉であると想像しましょう。

 いずれのポイントも、宗教の教えとして知るだけでなく、ものの道理として自分自身の頭でよく考えてみなければなりません。
 そのためにはいかなる教え、いかなる理も、自分の生き方に当てはめ、どこで誰に起こっているできごとも自分に起こっているととらえる視点がなければなりません。
 教えを知っただけでわかったような気分になり、周囲のできごとを〈他人ごと〉とする姿勢では、本当に自分を省みることはできず、いざという時に知識は役立ちません。
 思いやりと自省が懺悔を生じてこそ、知識は生きた智慧となります。

 タレント稲川淳二氏は、5月24日付の朝日新聞『障害者が生きる』において、障害者の息子を持った父親として、現実を赤裸々に述べておられます。
 氏は26年前「テレビでバカやってたころ」に次男を授かりました。
 すでに長男がいて「子供1人でこんなに幸せなんだから、2人ならもっと幸せになるだとう」と思ったら、次に生まれた子供はクルーゾン氏症候群という先天性の病気を持っていました。
 生後4か月経ち、子供は手術を受けることになりました。
 そして、その前日、病室で「はぁ、はぁ」と息をしている次男と二人きりになった時、氏は一瞬、殺してしまおうと考えます。
「私はね、次男に死んで欲しいという気持があった。
 助けたい。
 でも怖い。
 そして悲しい。
 この子がいたら。女房も長男も将来、大変だろうな。
 よしんば助かって生きたとしても、いずれは面倒なことになるんだろうな。
 いろんなことを考えた。」
「どういう病気かも当時はよく分かってなかったし、病室には私と次男しかいない。
 だれにも分からない。
 じゃあ今、自分で殺しちゃおうかな。
 その代わり、ずっとこいつに謝り続けて生きればいいんだ」
 そして鼻をつまもうとしますが「鼻先数センチのところで、手がぶるぶる震え」決行できませんでした。
 朝から夜の8時半までかかった大手術が終わって手術室から出てきた次男は苦しそうに呼吸をして」いました。
「もうね、たまらなかったです。
 小さな体を切り刻まれて、ぼろぼろになっても頑張っている。
 私はベッドにすがりついて『由輝!オレはお前の父ちゃんだぞ。『由輝っ!』と叫びました。」
 この時初めてわが子の名を呼んだ氏は「以後、人生がらりと変わりました。テレビのお笑いの仕事もやめました。」「自分を殺してまで笑いの仕事をするのはやめよう、と」。
 それ以来、障害者支援などを真剣に行うようになりました。
「私も次男のことがあるまでは、ひとごとだと思ってた。
 でもみんな年をとれば、どこかしら障害が出てくると思うんですよ。
 足が動かないから車いすが欲しいとかね。
 障害者の問題は、特別なものじゃない。
 いつ、だれにでも起きうる問題なんです。」
「私がね、今回、こんなみっともないことも、あえてお話ししたのは、みなさんに分かってほしいという一心、それだけなんです。
 ごめんなさいね。
 世の中に要らない人、要らない命なんてないんですよ。
 それだけは分かってください。」

 氏はこうして「かけがえのないいのち」という誰でも知っている言葉を自分の血肉とし、その真実を一人でも多くの方々に知ってもらい、障害者の役に立とうと人生をかけておられます。
 このように、何かをきっかけとして深い思いやりがわき起これば、普段の自分、今までの自分を省みないではいられなくなります。
 そして懺悔せずにはいられなくなります。
 懺悔こそが転換点です。
 価値基準が転換し、生き方が変わります。
 そして知っていたはずのことが本当にわかって知識が智慧となり、自分をかけられる信念や志が生まれます。
 ここに倫理や道徳や宗教を土台とした生き方がつくられます。

 自他の喪失感不条理感に直面した時は、生き方を転換するチャンスです。
 学び、血肉とし、生き直しましょう。



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2012
05.25

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第103回)─何かを失い、自殺したくなったなら(その3)

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 家族がいなくなり、生きて行く術も失い〈手足ちぎられ〉た状態は、ある程度まで〈我がこと〉として想像できます。
 そこで前回は、喪失をどうとらえるかという視点から考えてみました。
 でも、大きな問題はもう一つあります。
 それは搾った牛乳をそのまま川へ捨てる作業をたった一人で行わねばならないという状況です。
 亡くなられた男性は「泣きながら捨てていた」という証言もあります。

 私たちは、いかなる作業も無目的に行うことはありません。
 そもそも作業とは、目的を持ち計画に従い精神や身体を道具として使いながら行う仕事です。
 もちろん、男性の行為は、乳牛を救い、かつ、放射能で汚染されていると思われる牛乳を流通させないという目的を持っています。
 しかし、原発事故が起こる前までは、牛を育て乳を搾る行為が一家を食べさせ、未来を描く牽引車でした。
 同じ行為が今は何の実りももたらさない。
 しかも、可愛い牛たちを生かすためにはあてもなく餌代を注ぎ込まねばならない。
 苦しくとも嬉しさを伴っていた労働は、いまや重い辛さしか伴わず、こうした状態へ追いやった原発への憎しみや怒りにも苛まれる。
 ここにおいて、一連の作業は、男性にしてみれば完全に目的を失っています。
 それどころか耐え難い刑罰にも等しかったのではないでしょうか。
 残った財産を食いつぶしながらあてもなく続く刑罰に耐えられるか……。

 ここにおいても、なかなか、男性の身になってみることはできません。
 アルベール・カミュの『シジフォスの神話』を思い出します。

「神々はシジフォスに、休みなく岩を山の頂上まで転がして運び上げる刑罰を課した。
 山の頂上に達すると石はそれ自身の重さで再び落ちて来るのであった。」
「無益で希望のない労働以上に恐ろしい刑罰はない。」


 神から石を山の頂上まで押し上げるように命ぜられて押し上げると、次の瞬間に石は転がり落ち、また同じように黙々と何度も何度も押し上げる行為をくり返さねばなりません。
 カミュは、私たちの人生はこうした「無益で希望のない労働」という「刑罰」を与えられているように不条理なものであると書きました。

「ひとは非合理的なものに直面する。
 幸福と理性への欲望が自分のなかでうずくのを感じる。
 このようにして、人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙とが対置される。
 そこから不条理が生れるのだ。このことを忘れてはならぬ。
 これに必死になってしがみつかねばならぬ」


 自殺した男性にとって、搾った牛乳を捨てねばならない状況は「非合理的なもの」でしかありません。
 そして、もちろん、男性は妻子と一緒の希望に満ちた生活を望んでおり「幸福と理性への欲望」を持っています。
 ここに「不条理が生れ」ています。
 カミュは「人間的な呼びかけ」を捨てず「世界の不当な沈黙」という壁へあくなき挑戦を続ける実存的な生き方を選びました。
 しかし、男性は「人間的な呼びかけ」を捨て、「世界の不当な沈黙」に押しつぶされました。
 私たちは希望を失った時、非合理的な世界の沈黙を前にして「無益で希望のない労働」を続け得るものでしょうか?

 自分が耐えられるかどうかはわかりません。
 ただ、ナチスの強制収容所から帰還したフランクルの言葉は信じられそうな気がしています。
「人間は、いかに過酷な状況に置かれても、醜い本能をまるだしにしたり、劣悪な行動に走るような存在とは限らない。
 逆に、困難や苦しみを通して聖者のようになる人もいる。
 人間の本当の姿(実存)は、限りなく高貴で偉大な存在、高い次元に属する「精神」なのだ……。」
 そもそも私たちの人生は、途方もなく長いプロセスのごく一部でしかありません。
 過去の因縁を背負ってこそ特定の何者かとしてこの世に生まれ、善悪こもごもの業を積み、そのすべてを背負ってあの世へ行き、いつかまた、特定の何ものかとしてこの世へ修行の旅にやってきます。
 この世での生は一瞬の光芒であり、膨大な時間として待っているあの世こそが故郷です。
 お大師様は説かれました。
「生まれ生まれ生まれ生まれて生のはじめに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(クラ)し」
 何度生まれ変わろうと、本来持っているみ仏の智慧が光明となって輝かないうちはなかなか真実世界が見えず、本質的な苦から脱することはできません。
 きっかけさえあれば必ず光明を見いだせるのに。
 人生に起こるすべてのことごとは、そのきっかけたり得るのに。

 男性は絶望的状況でなお、家族を想い、牛たちを想って行動し、「醜い本能をまるだしにしたり、劣悪な行動に走る」ことをしませんでした。
 それどころか、自分の生命保険による後の処置を願い、原発への告発を一句にしたためました。
 見事と言うべきではないでしょうか。
 光明を見いだす努力を一緒にできなかったことは残念でなりませんが、最後まで刑罰的作業をこなし、決然と逝った男性のご冥福を祈ってやみません。



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2012
05.24

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第102回)─何かを失い、自殺したくなったなら(その2)

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 ──できるものならば、自殺した男性の目を見ながら言っておあげしたかった……。
「あなたは今、呼吸をしているではありませんか。
 生まれてこのかたずっと、何も変わらずに。
 何があろうとなかろうと。
 それは、私と何ら変わりはありません。
 誰とでも同じです。
 生きとし生けるものは誰でも皆、〈何ものか〉からいのちを授かり、その〈いのち分〉を生きているだけです。
 お隣さんも、知人・友人・親族も、町中の人も、地球上で生きている人は皆、たった今、同じく呼吸しています。
 何という不思議なご縁でしょうか。
 犬も猫も、鯉もウグイスも同じです。
 呼吸しているものは皆、仲間ではありませんか。
 皆と一緒にこのまま、呼吸を続けましょう。
 そのための方法を一緒に考えましょう」
 ──望まれるならば、力を回復されるよう、ご加持もしたかった……。



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2012
05.24

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第101回)─何かを失い、自殺したくなったなら(その1)

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〈雨風にじっと耐え、人が見ていようといまいと、ただ、無心に咲く花は忍耐の象徴です〉

 昨年の6月14日、南相馬市酪農家自殺しました。
 原発事故により、帰国の指示が出たフィリピン人の妻と子供がいなくなりました。
 放射能の影響で牛乳は売れなくなったにもかかわらず、一ヶ月百万円もの費用をかけ、一人で牛へエサを与え続け、毎日泣きながら搾った乳を川へ捨てた上の決行でした。
 6月15日、当山は、そのことを「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その64)─酪農家の死─」へ書きました。
 彼をそこへ追いやった共業(グウゴウ…社会的な業)を指摘し、このできごとは、原発を容認し恩恵を享受しつつ同時代に生きている私たちのしわざであると自覚しようと訴えました。

「現地の関係者の方々は、全力を尽くしておられるはずです。
 それでも抗し切れず、こうした結果を招きました。
 これが社会的な業である共業(グウゴウ)の恐ろしさです。
 ゴジラへ立ち向かうヘリコプターや戦車のように、個々がいかに奮闘してもなかなか勝利は得られません。
 勝つ方法はただ一つ、善い共業を作ることです。
 そのためには、皆が自分の『手足がちぎられ』ると想像せねばなりません。
 男性が自分の身代わりであると想像せねばなりません。
 そうすると〈やってはならないこと〉をやったと思えるはずです。
 男性がいのちをかけて遺した一句を忘れない以上の供養がありましょうか。
『原発で手足ちぎられ酪農家』」

 津波などで亡くなられた方々の一周忌に般若心経百万返読誦の供養会を行い、5月20日に「被災の記」も100回を迎えたので、一区切りを考えていた矢先、ガーンと殴られるようなできごとが起こりました。
 ある勉強会を行っている方々がこのできごとを考えなおしているうちに、追いつめられ、どうしようもなくなった時の人間のふるまいとして自殺は容認するしかないのではないか、これについて仏法はどう説くのかという疑問が起こり、当山へ質問を寄せられたのです。
 この質問へ答えるためには、もう一度、「自分の『手足がちぎられ』る」と想像し、「男性が自分の身代わりである」と想像せねばなりません。
 そして、前回のように〈自分を追いつめたもの〉を考えるのではなく、〈追いつめられた自分〉がどうするか、自殺が選択肢になった場合どうするかを決めねばなりません。

 私の父は福島県の農家の出身です。
 私が小さな頃は人糞が肥料として使われ、天秤棒の前後にそれをいっぱいに入れて田畑へ向かう「だら担ぎ」がありました。
 馬や牛だけでなく、大きな犬も労力を提供してくれていました。
 しかし、いかに記憶を遡って当時の光景を思い出し、農本主義を唱えて故郷へ帰ってしまった早大時代の優秀な先輩と語り合った日々を思い出し、托鉢の最中にお茶をいただき語り合った農家の方々を思い出しても、この男性の身に成り切ることはできません。
 状況はどうにか理解できます。
 妻子を事実上失い、家族同様だった牛を失い、家も職も失うことはどうにか想像できます。
 私もこれまで、全財産を失うなど二度、自分の将来はなくなったと考えるしかない体験があるからです。
 托鉢をしていた時代に私を生かしてくださった浜の世界、津波で消え去った集落と人々を想いつつ茫漠とした浜で祈るたび、膨大な〈喪失〉の追体験をくり返しても来たからです。
 だから、今の自分が男性と同じように〈手足ちぎられ〉たならばどうするかと、ある程度リアルに想像することは可能です。

 男性になろうとせず、自分の身の上を想像すると、答はすぐに出ました。
 托鉢僧に戻れば良いだけです。
 では、もしも動けない身体になり、救いの手がなかったなら?
 じっと印を結び真言を唱えながら死を待つのみです。
 一度、娑婆(シャバ)で死んだ者として生き直しを行い、死ねばもう、引導を渡してもらうことのない身ゆえ、生が死へと移ってもさしたる問題はありません。
 四国八十八霊場の路端に立つ無数のお地蔵様の像などは、行き倒れになった行者の墓標であるとされています。
 インドでは古来、四住期(シジュウキ)が人生の理想とされ、その四番目は遊行(ユギョウ)すなわち行き倒れるまで続く彷徨の時期です。
 この場合は、いわゆる孤立死に近い状況かも知れませんが、私は「それで結構」と思っています。
 ただし、死後の始末は自分でできませんから、準備だけは必要です。
 その意味では、この男性が、自分の死亡保険で牛小屋の代金などを払って欲しいと書き残したことは相当なふるまいであると思います。

 しかし、男性にはなり切れません。
 決定的に違うのはどこか?
 男性は〈失って〉絶望し、逝かれました。
 私は出家の段階ですでに〈失って〉おり、(クウ)の体得を目指して日々、生きているのでもう喪失による絶望とは無縁です。
 この面から、今回ご質問いただいた方々への答の一つが導き出されます。
「八方塞がりになって手の打ちようがなくなった時、かけがえのないものを失った時、それでもなお、疑いもなく残っているものに気づくはずです。
 それは〈生きている自分〉です。
 自在に活動していた時も、不如意にうちのめされている今も、同じく息をしているではありませんか。
 財産があった日々も、家族と過ごしていた日々も、それらがなくなった今も、同じく息をしているではありませんか。
 何があろうとなかろうと、自分が生きていることは確かであり、いろいろ〈在った〉日も、〈無くなった〉今も、まったく変わりはないのです。
 そして、私たちはそもそも、この世へ生まれ落ちた時、ただ息をしている、そうした存在だったはずです。
 生まれてこの方、ずっと同じなのです。
 どうでしょう。
 このことが深く腑に落ちてなお生きている時、たとえ意志を通せなくても、何を失おうとも、死の世界へジャンプせねばならない必要はどこにありましょうか?」



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2012
05.23

2012年6月の運勢

 2012年6月─平成24年6月(水無月…6月5日から7月6日まで)─の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

20120523052.jpg
〈野に咲くたった一輪との出会い〉

一 自分の好みや信念は〈自分〉のもの、他人の好みや信念は〈他人のもの〉と心得ましょう。

 入れ込めば入れ込むほど、自分が好きなものは皆も好きであると勘違いしがちです。
「あばたもえくぼ」や「蓼(タデ…辛みのある葉を持つ植物)食う虫も好き好き」はここから来ています。
 好みとは〈自分の感性の特徴〉であると客観的に観る目を失わないようにしましょう。
 また、自分が正しいと思うことは誰にとっても正しいと早合点しがちです。
 そして、自分の考えに近いものだけに親近感を抱いて関心を持ち、反するものには目も向けなくなりがちです。
 これでは、独りよがりになったり、他を排斥する邪険な心が起こったりする危険性があり、信念が内実を豊かにしながら発展する可能性も薄れます。
 お釈迦様でさえ、「聞いたことは、自分の頭で何度も思い巡らせて検証・確認し、腑に落ちたならば身につくよう修める行を行え」と説かれました。
 これが智慧を得るための三段階である「聞(モン)・思(シ)・修(シュウ)」です。
 また、他人の考えや信念を簡単に否定することが習い性になると思考停止に陥り、心の窓を開けて他人と気持良くふれ合うことのできない人になりかねません。
 自分を客観視することと多様性を尊ぶことを忘れず、気詰まりでギスギスしない日々を送りましょう。

二 霧の中では、人が動いてもお化けに見えたりします。見え方に惑わされぬよう。

 ものの見え方は、客観的な条件と主観的な条件によって千差万別になります。
 たとえば霧が出て視界が悪くなると、何かが動いていると察知しても、正体はわからなかったりします。
 そこに、見えない不安と怖れによる疑心暗鬼が生じれば、「お化けが出た」と震え上がるかも知れません。
 ここで大切なのは、「今は霧の中にいるのだから、一切はよく見えなくて当然だ」と明確に認識しておくことです。
 そうしていると、相手を確認しないうちは相手を怖れる心が起こらず、正確な判断と行動が可能になります。

三 万人の心は万華鏡のようなものと心得、安易に言葉を鵜呑みにせず、安易に約束事で縛られぬようにしましょう。

 心は単線であり、複線ではありません。
 喜びも悲しみも慈しみも憎しみも、一本の糸である表面の心へ同時に浮かびはしません。
 喜んでいる時は決して悲しんではいません。
 慈しみながら憎みもしません。
 この単線の色合いが激しく揺れ動くと「女心と秋の空」の状態になります。
 こうした時期には、人の心はとかく〈こういうものである〉と認識し、相手の言葉をただちにそのまま信じこまぬ心の余裕を持ちましょう。
 また、ちょっとした約束でも相手から巌のように受け取られると、状況の変化に対応できず人間関係の悪化を招くかも知れません。約束事には余裕を持たせておきましょう。

四 智慧ある相手を説得するには信念に裏付けられた言葉が何より有効です。謀(ハカリゴト)は通用しないと心得ましょう。

 自分では弱みや不都合な面をうまく隠しているつもりでも、相手からは丸見えになっているかも知れません。
 ここ一番の勝負に当たっては、〈ありのまま〉を最大の武器にしてことへ臨みましょう。
〈見せられた〉相手は小細工ができなくなり、誠意での勝負に持ち込めます。

五 女性の出番がことの成否を大きく左右する場合があります。

 とかく、男性には「引くに引けない」場面が訪れがちです。
 そうした時にしかるべき女性がしかるべき対応をしてくれると、危機を回避できたりします。

 今月も六波羅蜜(ロッパラミツ)行で開運しましょう。
 皆さんの開運を祈っています!

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人はことの是非をきちんと見極めてから行動し無事安全です。
 不精進の人は思慮せず求めに応じ、結果的に争いを生じて失敗しがちです。
持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人はぶれず、仲違いを克服して成功します。
 不精進の人は妨害に遭ってへこたれ、方針を変えて失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人はものごとを甘く見ず身を慎んで無事安全です。
 不精進の人は自分の不注意から誤解を招き、真に心を許し合えなくなりがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は柔和な心が賛同者を呼び、離散や離反を解決して成功します。
 不精進の人は不平不満から孤独を招き、自棄を起こして失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は目下や親戚の望外な協力を得て成功します。
 不精進の人は自己過信によって協同がうまく進まず、予想外の敗北に終わりがちです。
智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人はものごとの順番をまちがわず、仇敵も含め広く親和を得られます。
 不精進の人は仲間へ疑いを持ちつつ性急に結果を求め失敗しがちです



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2012
05.22

日本の宿命 ─白頭山と赤松原子力発電所の恐怖─

20120522003.jpg
〈岩手県の山奥で修法しました〉

 中国と北朝鮮の間に白頭山(ハクトウサン)という山があります。
 ウィキペディアによれば、この活火山は「10世紀に過去2000年間で世界最大級とも言われる巨大噴火」を起こし、「噴火間隔は約100年」とされています。
 平成18年にはロシア非常事態省が噴火の兆候を発表し、「2010年6月19日には、釜山大学の尹成孝(ユン・ソンヒョ)教授が、中国の火山学者の話として、2014-2015年に噴火する予測を立てていることを韓国各紙で明らかにしている」といった状態にあります。

 5月16日付の河北新報がようやくその危険性を大々的に指摘しました。
 東北大名誉教授谷口宏充氏によれば、東日本大震災との関連で近い将来噴火する確立が非常に高いというのです。
 白頭山はこれまで地震と密接な関係が認められる噴火をくり返しており、今後の噴火確率は2019年まで68パーセント、32年までとなると実に99パーセント以上にも上っています。
 それにもかかわらず、中国政府は白頭山から北西約100キロの位置に赤松原子力発電所を建設しています。
 記事は書いています。

「噴火規模は火山爆発指数(VEI)で最大5程度となり、1980年のセント・へレンズ山(米国)噴火に匹敵するという。
 白頭山が噴火した場合、火山灰が偏西風に乗って日本の東北、北海道に到達することが予想される。
 さらに白頭山の北西約100キロに位置する赤松原子力発電所(建設中)が火山泥流に襲われる可能性が高く、稼働後に噴火すれば甚大な被害が出ることも懸念されている」


 教授の指摘です。

「もし噴火が起きれば北朝鮮や中国の情勢が変化するだけでなく、日本、韓国、ロシアなど周辺国にも大きく影響する。
 そのような事態に備えることが必要だと警告したい」


 氏の言う「そのような事態に備える」とは何を指すのでしょうか?
 火山の爆発を止めることはできません。
 偏西風も止められません。
 ならば、赤松原子力発電所の建設を止める以外、備える方法はありません。
 しかし、日本の現政府がデータを示して「考慮してください」と申し入れたとしても、中国政府が「そうですね」と応じる可能性はほとんどありません。
 
 ここで、またしても日本の宿命を考えてしまいます。
 止める資格があるのは日本しかない。
 原爆反対を世界へ最もアピールできるのが日本だったように……。
 思えば、膨大な喪失と恐怖と悲嘆と慟哭と絶望を伴った悲しい宿命です。
 
 昭和42年、佐藤栄作首相が国会で表明し、昭和46年、国是として初めての決議が行われた「非核三原則」は、宿命を背負った国民にしかできない強い意志の確認でした。
 私たちは、原爆を投下された国として「核兵器を『持たない』『つくらない』『持ち込ませない』」と決した国是があればこそ、地球から核兵器をなくそうと主張して来られました。
 人類の良心を訴え続けて来られました。
 今また、私たちは天災のからんだ原発事故の体験者として、危うく東日本、あるいは日本全体を喪失しかけた国民として〈人類の良心〉を訴えねばならないのではないでしょうか。
 国内原発の処置と赤松原子力発電所の建設中止をその第一歩とせねばなりません。
 しかし、国是はいまだ定まらず、徒手空拳で建設中止を訴えるしかありません。

 現在までの検証でも明らかになりつつあるとおり、今回の原発事故によって東日本、あるいは日本全体が喪失に至らなかったのは、数多くの〈綱渡り〉的場面が奇跡的にクリアできたからです。
 その一端はブログ「私たちは原発を扱えるか ─防災区域30キロと神様がもたらした幸運─」(http://mbp-miyagi.com/mamorihonzon/column/3696/)などへ書いています。
 私たちに必要なのは、御霊を慰霊し、復興の槌音に励まされつつ未来へ向かうと同時に、事故を徹底的に検証し、迫り来る危機の認識を共有して危機へ立ち向かう国是を策定することではないでしょうか。
 よく調べれば、日本中へ広がった原発や赤松原子力発電所だけでなく、吊された〈ダモクレスの剣〉はきっと世界中にあることでしょう。
 科学の力に想像力も加え、確かな足どりで宿命を生きようではありませんか。

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〈大地の恵み〉



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2012
05.21

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十回) ─怒りを調伏する─

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 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第十九回目です。
 これは、「法話対話の会『生活と仏法』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

「自身の中にある怒りという敵を調伏(チョウブク…抑えること)しないなら
 外の敵を倒しても憎しみはますます増大するばかり
 それゆえ、慈悲という軍隊で自身の心を征服する
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 怒りは自分の〈思い通りにならない〉ところに発します。
 しかし、お釈迦様が「この身は苦の世界にある」と説かれたように、そもそも、この世は思い通りにならない世界です。
 考えてみれば、それぞれ異なった生まれ、異なった育ち、異なった生き方をしている同士がひしめき合っているこの世で、自分の意志を通すことが困難なのは、端(ハナ)からわかっているはずです。
 当然のできごとに心を乱されるのはなぜか?

 まず、「この自分」という抜き難い我執(ガシュウ…自分の存在を絶対化する心理)の存在です。
 たとえば運転中に割り込まれてつまらぬ諍いが起こるなどはその典型的な例です。
 尊大な気持がなければムカッとするはずがありません。
 次に、(クウ)の真実が腑に落ちていないからであり、お釈迦様はこれを「無明(ムミョウ…智慧の明かりが無い状態)」と説かれました。
 自分をバカにする相手は、たった今、心臓麻痺や落下物などでこの世から去るかも知れない脆(モロ)く儚(ハカナ)い存在であり、自分もまったく同じです。
 互いにままならぬ世を生きているかりそめの存在なのに、いがみ合うなど、それこそ哀れさを増すばかりです。
 次に、慈悲心の少なさです。
 ケンカをしかけてくるのは、我執という魔ものに取り憑かれ、を知らず、自分で自分の苦を増大させている憐れな人だからです。
 そうした人こそ、楽を与え、苦を抜く慈悲心をかけねばなりません。

 しかし、気に入らないことには腹が立ちます。
 そんな時は、自分自身をふり返ってみましょう。
 自分は果たして、他人の気に入らないことはせず、他人を不愉快な思いにさせず、他人の人生の妨害になるようなことはせず、忠告や指導へはすなおに耳を貸しつつ生きてきたか……。
 気に入らない状況が現出した因縁に自分は一切、関わりがないか……。
 こうして謙虚に生きていれば、我執は小さくなり、諍いで人生の大事な時間を潰さずに済みます。
 自分がそうなれば他人から怒りを呼び込む因縁も小さくなり、不快・不安・不平・不満の少ない人生を歩めます。

 法句経は説きます。

「忿怒(フンヌ)あるは法を見ず、忿怒あるは道を知らず。
 よく忿怒を除く者は、福と喜、常に身に従う」


怒りの中にあっては真理が見えず、人の道もわからない。
 怒りを発しない者は、福徳と喜びが常に身に従う)

「瞋(イカ)りを断ずれば臥すこと安く、恚(イカ)りを滅すれば憂いなし」


(カッとならなくなれば穏やかな心で就寝を迎えられ、ウヌッと怒りを抱かなければ心は憂いに覆われない)

「怒りは毒の本たり」


(怒りは心身に毒を発生させる)

 こうして怒りは煩悩(ボンノウ)のしわざであることがわかります。
 我が身可愛さに走る我執(クウ)を観られない愚かさです。
 だから、自分につまらぬ怒りが起こったなら、自分の煩悩を見つめ、真言を唱えるなどしてそれに負けぬようにしましよう。
 ただし、人の道に悖(モト)る悪へは断固たる姿勢が必要です。
 それが不動明王の怒りです。
 経典は説きます。

「外面(オモテ)には忿怒の相を示(アラワ)し、内心には深く憐れみを垂(タ)れ給う」


(相手を震え上がらせずにはおかない忿怒の形相をしていても、お心は深い憐れみに満ち、凡夫へお慈悲をかけてくださる)
 私たちは、相手そのものへ感情的な怒りをぶつけず、相手に悪を行わせている煩悩を強く断とうとするべきです。
 悪を怒る怒りの中身は感情的にカッカするものではなく、慈悲心によって相手の煩悩を取り除かずにはいられないという不動明王的決意であるべきです。
 孔子や聖書は「罪を憎んで人を憎まず」と説きました。
 仏法はさらに、人間へ罪を犯させる正体そのものへ言及しています。

 さて、法称(ホッショウ)は説きます。

「自己と他を別のものとしてとらえるはたらきにより、自己の側には執着が、他者に対しては怒りが生じる」


 ダライ・ラマ法王は、この教えに関して、怒りへの対処法を説かれました。

「この二つの対象(自己と他者)をより明確に分化させたなら、それに比例するように『怒り』は明確になってしまいますし、この『怒り』を表出することによって、『怒り』はより鮮明になっていきますね。
 これは自分にとっても他者にとっても、あまり役立つことではありません。
 それよりも、この『怒り』が落ち着くまで、放っておいた方がいいでしょう。
 そして、冷静になったときを見計らって、『怒り』の原因や、なぜそのような感情に支配されたのかを論理的に調べるべきです。
 その考えを相手に伝えることが、お互いにとって有益と思われたなら、説明する必要がありますし、また説明しても相手が納得できないようであれば、いつまでもそのことにこだわらずに、忘れてしまった方がいいでしょう。
『怒り』というのは唐突にやって来る性質のものですから、忘れようとしえていれば、ある時期がきたら忘れられるのです」


 濁った水は、かき混ぜないで放置すれば、やがては澄みます。
 幾度もかき混ぜるのはいかがなものでしょうか。



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2012
05.20

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その100)─原発避難者の自殺─

20120520016.jpg

 5月18日、福島第一原発事故によって避難生活を余儀なくされた女性が自殺した問題で、ご遺族が東電を相手取り損害賠償請求の訴訟を起こしました。
 昨年7月1日、自宅近くのゴミ焼き場でガソリンをかぶり焼身自殺をしたのは、養鶏場従業員だった渡辺はま子さん(58才)。

 以下、河北新報からの抜粋です。

原発事故で福島市や福島県磐梯町に非難。
 その後、自宅に戻ったが、山木屋地区が計画的避難区域に指定され、昨年6月12日に新たな避難先として福島市のアパートに引っ越した。
 避難生活は気詰まりして心的負担が増加した。
 2人の息子と別居せざるを得ず、養鶏場も閉鎖されて職も失った。
 睡眠障害に陥り、うつの症状がみられた。
 原発事故に伴う避難生活が自殺を招き、相当因果関係があるとしている」


 夫である渡辺幹男さん(62才)は記者会見しました。

「女房は避難生活で苦しんだ末に死を選んだのに、ただの自殺者で終わってはかわいそうだ」
「何もかも失った悔しさを晴らすために、裁判が長引いても最後まで闘う」


 昨年4月22日に指定された「計画的避難区域」とは
「平成23年(2011)3月に発生した福島第一原発事故に伴い、政府が住民に対して、区域の指定から約1か月の間に避難のため立ち退くことを求めた区域」。
 福島第一原子力発電所から半径20キロメートル以遠で、居住し続けた場合に1年間の積算線量が20ミリシーベルトに達する恐れがある地域」。
 これを読む区域内住民やその身内以外の方々は、「ああ、そうか。お気の毒に」とは思っても、実際に家を捨てねばならない方々の生活がどうなるのか、いかなる気持でその後を過ごされるのかはほとんど想像できません。
 この記事を10回読みましたが、「おいたわしい」と感情は動くものの、家も職場も人間関係も収入も失い夫と2人で過ごされたアパートでの一年を超える生活ぶりはまるで想像できません。
 睡眠障害とうつ病については、いくばくかは理解できます。
 さまざまな形でご縁になる方々の中に、同じ苦しみを抱えた方々がたくさんおられるからです。
 そこから自殺へ至る途中で次元を超えるジャンプがあったのは確かですが、その抗いがたい誘惑と爆発的な実行力は、追いつめられた心の中にマグマのように溜まっていたはずです。
 マグマを溜める心的過程も、いくばくかは想像できます。
 ご縁になる方々の中にそうした過程を観ているからです。
 それでもなお、渡辺はま子さんの気持はわかりません。

 手を合わせ、瞑目していると、「もう、いい」と凄まじい力で最後に残っているものをも擲(ナゲウ)つ決断のほどが少しは想像できます。
 しかし、そこはもう、聖なる次元です。
 その瞬間のお気持は想像を超えています。
 確かなのは、〈故人をそこへ追いやったのはまぎれもなく私たちである〉ということです。
 文明の恩恵を享受している私たちの責任は確かです。

 昨年9月、文部科学省は森林の汚染状況を初めて発表しました。
 NHKの『森林汚染の実態と除染』はこう報告しています。

「調査が行われたのは、福島県川俣町の山木屋地区で、年間20ミリシーベルト以上被ばくする恐れがあるとして計画的避難区域に指定されています。
 住民が避難した原発周辺の警戒区域や北西方向の計画的避難区域は全面積の70パーセント近くは山林と言われています。
 そのため今後、住民の帰還に向けて除染するためには、森林の汚染の実態を解明することが必要です」
「調査した地区の広葉樹林では最大で1キログラムあたり75万ベクレルときわめて濃い放射性セシウムを検出しました。
 事故の起きた春、まだ芽吹いていなかった広葉樹林では雨とともに放射性物質がリター層に沈着したのでしょう。
 木の上にある放射性セシウムは雨や落葉とともに徐々に地上に落ちていることも分かりました。
 チェルノブイリでは放射性セシウムは一年ほどで木から土へと移行し、そして再び吸収されて木へという放射性物質の循環が始まりました。
 福島ではまだ放射性セシウムは木の上やリター層に大部分が留まっており、循環は始まっていません。
 しかし今後一年から二年をかけて、放射性セシウムが土壌にまで浸透し、チェルノブイリと同じような循環が始まるものとみられます。
 この地域は山のすそ野に住宅が建てられ、まさに森林が家の裏山となり、里山となっています。
 農業や畜産では森林の腐植土を利用する自然農法が行われ、またキノコや山菜などは春や秋に豊かな恵みを住民に与えていました。
 しかし森林汚染はそこを発生源とする放射線という形でも付近の放射線レベルのバックグラウンドを引き上げる原因となっています。
 森林と密接した居住環境が除染してもなかなか放射線レベルが下がらない原因となっています」


 恐ろしい〈循環〉はまだ、序章の幕が上がったばかりです。
 これから先、山でも海でもチェルノブイリ的状況が進み、日本で起こった原発事故の実態が明らかになるまでは数十年を要することでしょう。

 私たちには、故人の心はなかなか、わかりません。
 しかし、私たちの考え方や生活の仕方が渡辺はま子さんを故人にしてしまったことは、はっきりと認識できます。
 ここに立たねば、同時代を生きる人間として、どこに尊厳がありましょうか。
 津波や地震や原発事故やその影響のただ中で生き残った私たちに課せられた使命である〈復興〉や〈再興〉も、そして真の鎮魂もここから始まらなければならないのではないでしょうか。



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2012
05.19

「すみません」の不思議 ─隠れている道徳(その1)─

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 私たちは、店員さんなどへ声をかける時、自然に「すみません」と言います。
 これは考えてみると不思議な習慣です。
すみません」は「済まない」という思いを表す言葉であり、それは心が〈澄まない〉、つまり、収まらない、収束にならない、決着がつかない状態を示しています。
 トラブルが発生した際に「謝っただけではすまないと思います」と言えば、〈決着にならない〉ということですが、片方が「すみません」と言った途端、「到底、決着がつかないほどの罪を犯してしまいました」という詫びに転換します。

 では、冒頭のケースはどうなのでしょうか?
 お客さんが店員さんへなぜ、まず、お詫びめいた言葉をかけるのでしょう。
 形を横から観れば、お金を払う方が取引上は主であり、商品を買ってもらう方が感謝する立場です。
 だから、これは、取引上の言葉ではないことがわかります。
 では何か?

 それは、相手の心や時間へ踏み込む際の礼儀なのではないでしょうか。
 つまり「ごめんください」と似たケースです。
ごめんください」は、「ご免ください」であり、何かを免じていただく、つまり、お詫びの意味が含まれています。
 
 場面をもう一度、横から観てみましょう。
 店員さんは商品を整えたり、掃除をしたり、自分の役割をこなしつつ時を過ごしています。
 お客さんはショウウィンドウを眺めて品定めをしつつ時を過ごしています。
 やがて、意を決したお客さんが店内に現れ、声をかけます。
 これは、店員さんの時間の流れの中へ、お客さんが自分の時間の流れを持ち込み、客として自分が主となる時間の流れをつくろうとしている状態です。

 取引上は、店員さんよりもお客さんの方が立場は優位といった感じがあっても、一人の人間としていのちを燃やしつつ自分の人生時間を過ごしている人間としてはまったく対等、平等と言わねばなりません。
 それぞれの人生時間に交わりが生じる際に、自分の意志で自分の時間のペースへ相手の時間を引き入れる方は、相手から時間を〈分けてもらう〉立場です。
 おおげさに言えば、自分の意志によって相手の人生の一部を分け与えてもらうことで、取引へ入ろうとしているのです。
 そこに、そこはかとないお詫びの意識が芽生えます。

 私たちは、こうした微かな心の兆しを「すみません」という言葉に込め、大切にしてきたのではないでしょうか。
 お詫びが表紙となっている言葉の底には、たとえ目立たなくとも、相手を人間として尊び思いやる心が、厳然として在ります。
 私たちは、「すみません」と言う時、まぎれもなく、道徳を生きています。
 俺は客だぞと威張るなどは愚かしいしわざです。
 ありがたく、はっきりと「すみません」を口にしようではありませんか。



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2012
05.18

ままならぬこの世、そして聖性 ─カザルスの『鳥の歌』に誘われて─

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 関東方面へ出張する車の中で、パブロ・カザルスがケネディ大統領の晩餐会で演奏したCD『鳥の歌ホワイトハウス・コンサート』を聴いていました。
 曲が『鳥の歌』になり、短い演奏が終わってから約5秒間、静寂が時空を支配し、思い切ったような一人の拍手をきっかけに拍手が重なった演奏に震える思いをしました。
 思わずリピートをかけ、とうとう4時間近く、この一曲を聴きながらハンドルにしがみつく次第となりました。

 ミエチスラフ・ホルショフスキーのピアノが奏でる小さな旋律に続く深々とした演奏は、カザルスの底知れぬ思いを秘めて聴く者の息を殺させます。
 最後にもう一度くり返される「タラタラタタタン」という小鳥が飛び立つようなピアノへチェロの弦がかぶさるように一声発し、小鳥は遠くへ飛び去ります。
 演奏中数度、録音されているカザルスの声は、「あ、あ、あ」という慟哭に聞こえます。
 しかし、そうした胸が詰まるほど込み上げる思いを込めつつも、演奏は微動だにしません。
 かつて、テレビで美空ひばりが唄う『悲しい酒』のシーンを観て驚嘆したことがあります。
 涙が頬を伝っているのに、歌の乱れは気配ほどもなかったからです。
 カザルスの演奏と声も、畏怖の念さえ起こさせます。
 ご葬儀のたびに感情が動き、やっとの思いで綱渡り的に修法を行っている私などとは、プロとしてまったく次元の違う世界に住む人々です。

 さて、パーキングで一休みしたくなった頃、不意に、あるできごとを思い出しました。
 平成23年2月、認知症の妻(81歳)が、やはり認知症の夫(78歳)を絞殺した事件です。
 被害者はロッキード事件裁判で裁判長を務めた元東京高裁判事半谷恭一氏です。
 弁護士でもある氏は夫婦げんかの末、妻に殺されたものと推定されるも、妻は認知症によって刑事責任能力がないとみなされ、不起訴となりました。
 夫が先に認知症を発症し、介護していた妻も発症した上、夫を絞め殺す。
 二人のマンションでの生活、そして最後はいかなるものだったのか。
 この言葉を寄せつけない世界へ、自分も、妻も、ご縁の方々も、友人たちも、いつ去って行こうと不思議ではない現実──。

 次いで、80歳を超えたAさんに問われたシーンもよみがえりました。
「み仏の道を学び、自分を律していても、病気には勝てないのではないでしょうか。
 認知症になってなお、読経や写経は続けられませんよね」
「病気は宿命であり、避けられません。
 認知症になれば、功徳ある行為は続けられなくなるでしょう。
 しかし、積んだ功徳はなくならず、必ず来世に引き継がれることでしょう。
 こんな体験があります。
 さるホスピタルへ通っていた頃のできごとです。
 食堂や廊下で私の顔を見ると自分の息子さんと勘違いするらしく、その名で呼びかけてくるお婆さんがいました。
 笑顔で返事しながら、お婆さんの目の光に宿る強さも、自分がなぜか勇気づけられるのも、これは一体何だろうと不思議でなりませんでした。
 そんなある日、車いすを押す息子さんと会話になり、驚きました。
 お婆さんは扇畑利枝氏といい、名だたる歌人で、当山のある宮床が生んだ歌人原阿佐緒の親友だったのです。
 最近、息子さんから、氏が亡くなられたというお知らせと共に、追悼特集号となった『群山』をお送りいただきました。
 氏が戦後まもなく詠んだ一首です。
『何かわが希望あるごと炭火つぐ夜に入りて雨強くなりつつ』
 人の精進は決して無にはなりません」
 こう、お応えしました。

 それにしても、鳥のような自由を奪った独裁政権に押しつぶされている故郷を想いつつ呻くカザルスの抱えた闇……。
 半谷恭一氏に起こった悲劇のあまりに身近な宿命性……。
 そして扇畑利枝氏から発する聖性……。
 思わず弁護士Bさんへ電話をかけました。
「先生、半谷恭一氏の事件に関する資料があったらぜひ、勉強させてください」
 例によって眠気覚ましのコーヒーをすすり、また、ハンドルを握りました。
 車内では何度も何度も、演奏と慟哭と拍手がくり返されています。

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〈夢のような姿〉



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2012
05.17

仏教がめざすもの(その1) ─シンプルな視点─

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 故スティーブ・ジョブズ氏がシンプルなものに惹かれ「仏教はシンプル」と考えていたことを書いたところ、「仏教はどうシンプルなのでしょうか?」とのご質問をいただきました。

 8万4千の入り口があるとされる仏教はどうシンプルなのか?
 それは、「仏教がめざす究極の目的である悟りを得る方法とは結局、何なのか?」という問いに通じます。
 スティーブ・ジョブズ氏がどう考えていたかを調べることはできませんが、自分へ投げかけられた問題として答を出してみます。
 私なりの答の一つとしては、「縁起(エンギ)を観て、目に見えている世界と同じように、目に見えている世界の裏にある(クウ)の世界をありありと観られれば、貪りや怒りや愚かさが消え、自分にはこの上ない安楽が訪れ、世界は極楽になる」というものです。

1 お釈迦様は終生、「縁起を観よ」と説かれた

 お釈迦様は、私たち生きとし生けるもの全員が苦しんでいるさまを観て、それには原因があり、原因を除去すれば苦を離れることができる、すなわち悟りが得られると説かれました。
 苦しんでいるとは、ままならないこと、すなわち「苦苦(クク)」・「壊苦(エク)」・「行苦(ギョウク)」を逃れられないという意味です。
 苦苦とは、痛い、辛い、など、心身に発する直接的な苦しみです。
 壊苦とは、変化し、失われて行くことから生ずる苦しみです。モノは落とせば壊れ、年をとれば溌剌とした若さは失われます。
 行苦とは、輪廻転生(リンネテンショウ)から離れられず、苦苦と壊苦を伴った輪廻をくり返すしかないという宿命的・根源的な苦です。
 こうした私たちの根本的なありようを見極め、悟りを示したお釈迦様以降2500年にもわたる仏教の歴史は、縁起(エンギ)を観て苦を除く実践方法の探求に費やされました。
 縁起を観るとはどういうことか?

2 縁起とは依存関係である

 縁起とは「縁によって起こる」という真理です。
 たとえば花は、種という〈原因〉があり、そこへ水や肥料や日光などが〈縁〉としてはたらきかけてこそ咲く日を迎えられます。
 しかし、よく考えてみると、種があること自体もまた因と縁によっており、水や肥料や日光が与えられたこともまた、因と縁によっていることがわかります。
 つまり、ありとあらゆるものが縁としてはたらきかけ合いことによって成り立っており、そうした〈関係性〉がこの世を顕しています。
 私たちもまた、固い骨格、流れる血液、適度な体温、くり返される呼吸、それらのバランスが縁としてうまくつながっていればこそ、生きていられます。
 もしも事故で骨が折れたり、不摂生で血液がドロドロになったり、雪に閉じ込められて体温が下がったり、公害で呼吸が困難になったりすれば、個々のはたらきが壊れ、たちまち全体のバランスも崩れて危機に瀕します。
 また、感受作用、表象作用、意志作用、認識作用が順調にはたらいてこそ、私たちは、〈自分〉としてしっかり生き抜くことができます。
 たとえば認知症が進んでこうした作用が崩れればもはや、自立した生活は成り立ちません。
 たった今、自力で社会内にいられるのは、そうした要因が種々の〈関係性〉で保たれ、〈関係性〉全体が〈自立した生活が可能な方向〉で保たれているからです。
 こうして、ありとあらゆるものは、縁起という依存関係によって成り立っていることがわかります。
 では、これを観るとはどういうことか?

3 この世は見聞きできる現象の世界であると同時に、(クウ)の世界でもある

 すべてが縁という依存関係で成り立っている以上、何ものも〈それそのもの〉として単独に存在してはいません。
 最も固い宝石とされるダイヤモンドは、炭素が長い年月をかけて凝縮された結果として地中に生まれ、掘り出され、加工され、流通に乗って自分の手にあるだけの〈かりそめの存在〉であり、火事などで一定の温度を超える高熱に当たれば、あっという間に燃え尽きてしまいます。
 ダイヤモンドも炭も、炭素でできている同類のものなので、同様によく燃えるのです。
 いかなる美人も、生まれの因縁と育ちの因縁と生き方の因縁によってそう見えているだけであり、一旦、事故などがあればそれまでであり、同時に、過ぎゆく時間は確実に見えている美を破壊し続けています。
 しかし、私たちは、ダイヤモンドも美人も「うわあ、きれい!」と、見えているようにしか見ません。
 単独で自立したそのもの自体として過ぎゆく時間の中で屹立しているわけではない儚さ、すなわち(クウ)の面はなかなか観ることができません。
 つまり、〈見えよう〉と〈在りよう〉の違いには気づきにくいのです。
 お釈迦様は、「見えようにとらわれず、在りようを観よ」と説かれました。
 見える世界を見ているだけでなく、(クウ)の世界を観ることが悟りへの道なのです。
 そうなれば、ダイヤモンドの輝きと同じく、野に咲く露草の健気さにも目を奪われるはずです。
 若い美人の美しさと同じく、老いた農婦の年輪にも目を奪われるはずです。
 では、なぜ、現象にとらわれず、在りようをつかまねばならないのか?



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2012
05.16

コーヒーの香りがするお線香・スティーブ・ジョブズ氏の卵

 徒然なるままに。

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 仏壇屋のAさんがお詣りに来られたので、最近の人気商品は何ですかと尋ねたところ、間髪を入れず、「不謹慎かも知れませんが、コーヒーの香りがするお線香です!」とのこと。
 初耳だった私は、「えっ」と聞きなおしました。
「コーヒーが好きだった方のご遺族にとても喜ばれています。
 もちろん、故人も喜んでおられるでしょうが」
 じゃあ、私が死んだ後もそうしてもらおうかなと口走ったら、すかさず「住職もコーヒーがお好きなんですか?どんな香りがお好みですか?」。
「別にこだわりはありません。
 とにかく眠気防止に欠かせないので、いつも飲んでいます」
 また、テンポよく突っこまれてしまいました。
「住職、あの世に行ってまで仕事をしないでくださいよ。
 あの世では少し、ゆっくりされた方がいいんじゃないでしょうか」
 ここで、妻も、そばにおられた信徒の方も一緒に大笑いとなりました。

 笑いつつ、他の寺院で戒名をいただいた方の奥さんが、「ウチの人はとてもはたらいたのに、あの世でも精進しなさいといった感じの戒名で、釈然としません」と言っておられたのを思い出していました。
 また、「菩薩(ボサツ)はずうっと精進をやめないんだけど……」と喉元まで出かかりながら、これを言っちゃあ白けるなと笑いに紛らせてしまいました。

 さて、死ぬまでにコーヒーのお線香を所望するかどうか.
 まだ決めてはいません。


 

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 5月14日付の産経新聞は、『究極のデザインは卵』と題して、元アップル上級副社長ジェイ・エリオット氏の話を掲載しました。
 その中で、スティーブ・ジョブズ氏の発言「究極のデザインは卵だ」を紹介しています。
「商品づくりやデザインで本当にシンプルなものにひかれていた。
 仏教の精神は自然と調和しているシンプルなものだし、彼の生活も非常に質素で、お金にまったく価値を見いだしていなかった」
 確かに、記事にあるとおり、アップルの製品は白を基調としながらどこかツルンとした感じもあって、イメージの根本に卵があったと聞けばとても納得できます。

 あらゆる可能性が秘められているようで、どこか〈原初〉を想わせる形。
 陰影が心を和ませながら、さらによく眺めていると、未来からやって来た不可知なものにも見えてきて、不思議です。
 立てれば最も姿が良いのに立てられず、横にすると、真横にはならず、いつでも転がりそうで不安定な一方、昔からそこにあったかのように落ち着いてしまうのも不思議です。
 もしかすると、画家ダリが描く曲線の奥にも卵のイメージがあったのかも知れません。

「彼の製品哲学は、誰でも直感的に自分の身体の一部のように使えるということが大事で、5歳児でも使えるプロダクト(製品)を目指していた」
 仏教を〈シンプル〉と直感的に把握し、卵の形が持つ無限の可能性をイメージの原点におきながら道具と身体の一体化を目指したジョブズ氏はやはり、大天才でした。
 氏は卵に空(クウ)を観たのでしょうか。



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2012
05.15

傷ついた日本人へ(その10) ─本当の幸せとは何か?(その7)─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第10回目です。

 法王は、幸せを求めるお話の最後に日本人への信頼を述べられました。

「日本はアジアで最も経済発展や産業発展が進んだ国ですし、非常に裕福で進歩的な生活を送っています。
 民主主義がきちんと機能していて、自由な言論が保証されている国家という意味でも、諸外国から信頼が篤いところでしょう。」


 民主主義の機能と自由な言論の保証は、ダライ・ラマ法王がチベットを守り再興させるために中国政府へ対して最も主張しておられる部分でしょう。
 中国にこの二つがあれば、チベット人も、ウィグル人も、心の根を断たれつつあるという悲劇は起こらなかったはずです。
 そうした意味で、日本は確かに、精神を解放させるシステムの進んだ国家として世界の最先端に位置しているのかも知れません。

「しかしこの間、精神や心の豊かさは、経済や産業ほど重視されてこなかったように思います。
 これは日本に限らず他の先進国にも共通の問題です。
 性能のいいコンピュータを作れば生活は便利になりますが、心が穏やかになることはありません。
 日本のカメラも大変性能がよく、体内を映す医療カメラまで発明されていますが、それでも心の状態を映し出すことはできません。」


 これまで当山へ人生相談に来られた方々のうち10人近くが、コンピュータの支配を受けた就労空間に耐えられず、離職しておられます。
 皆さんは異口同音に言います。
「当人同士が近くにいながら肉声でやりとりしない状態を異様であると感じられないことが恐ろしくてなりません。
 このままでは、自分が壊れてしまうと判断して会社を辞めました」
 実に、コンピュータは心を穏やかにしてくれる役割を担っていません。
 メールは自分の意志や考えを相手へ伝えはしますが、それはその瞬間に心へ浮かぶ内容のごく一部であり、送れば修正は効かず、反応が欲しければ一方的に待つしかありません。
 相手が目の前にいないので、どうしても内容が自分の頭の中で増殖膨張し、独りよがりに陥りやすくなります。
 受けたメールには文字しかなく、自分が持っている解読力の範囲で理解するしかありません。
 たとえ身勝手な妄想であっても。
 もちろん、こうしたプロセスを全否定する必要はありません。
 問題は、対面して肉声を交わし合う時の、相手から発せられる膨大な情報をきちんとつかみ、自分からも豊かな情報を返すという〈全人間的な〉交流体験が少なくなると、肝腎なものが失われてしまう怖れがあるという点です。
 肝腎なものは、細やかな感応です。

 相手からは言葉以外にも、服装や、目の色や、姿勢や、気配など、処理しきれないほどの情報がやってきます。
 それを受け、自分もまた、動作や、声の抑揚や、表情など、あらゆるものを総動員して意図するところを発信します。
 双方の頭の中では当然、相手の状態に合わせた思考と感情の変化や発展があり、会話の内容は深まって言葉を交わす本当の目的が達成されます。
 それは〈裸の自分〉による〈相手の魂への理解〉です。
 ここに真の感応があります。
 対人関係がうまくゆかないという人生相談や、対人関係がうまくやれますようにとのご祈祷依頼を受けていて感じるのは、感能力の低下であり、それはもはや、悩んでおられる当人だけの問題ではありません。
 本来の感応力は、人間に対してだけでなく、自然に対しても、あるいは時間空間を超えた人やできごとに対しても豊かにはたらくはずです。
 人間の前で、自然の前で、時間空間を超えた何ものかの前で魂が裸になり、相手をまるごとつかみ、音叉が響き合うように魂が震えるはずです。
 しかし私たちは今、薄れ行く感能力を、好きな人や趣味など限られた対象へ対して精いっぱい発揮しているといった状況にあるのではないでしょうか?
 だから、社会と人間にある種の刺々しさが生まれているのではないでしょうか?
 好きな人へは無性に優しく、好きな車はピカピカに磨きながら、つまらぬことで同僚とケンカし、海を見に行って平気でペットボトルを捨てるなどはその典型と言えます。

 法王は諭されます。

「日本はもう十分に物質的な発展は遂げられたのですから、これからは『次の段階』、すなわち『精神的発展』を遂げるべきです。」
「もともと日本人の精神性は非常に高く、慈悲にあふれたものだと私は思っています。
 たとえば自然を大切にし、畏怖する精神性を持っていたり、神道のような古くからの伝統が大事にされていたり。
 誰もが礼儀正しく、日本に来るといつでもどこでもたくさんの人にお辞儀されます。」
「仏教国としてキャリアを比べても、日本はチベットより先輩です。」
「歴史を振り返りますと、日本の仏教に敬意を払わずにはいられません。」
「これほど仏教の盛んな日本の方なら、たとえ無宗教の方でも仏教的な観念や土台があるように思います。
 利他の精神に共感したり、因果や輪廻を理解したりということも、他国の方より簡単ではないでしょうか。」
「このように、日本人は高い精神性や倫理観と、仏教の伝統の両方をもちあわせています。
 この二つの力でもって人間性の向上をさらに目指していただければと思います。」


 法王の指摘どおり、日本文化の土台には仏教の精神があり、それは気づかずとも私たちの日常生活の支えとなり導きともなっています。
 もしも、言葉の少ない空間での就労に耐えられなくなりそうな時は、皆のためにたとえ小さなことでも何かをやってみましょう。
 あるいは、休日には〈人間〉や〈自然〉とたっぷり感応し合いましょう。
 また、自分の心に偏狭さや邪険さが育ってはいないか、感能力から柔軟さが失われてはいないか、チェックしてみましょう。
 魂の浄化・向上というイメージも大切にしたいものです。
 東日本大震災における広島型原爆3万2千発分にも相当するエネルギーの暴発は凄まじい犠牲と破壊をもたらしましたが、その後、私たちは〈利他の精神〉を思い出し、〈無常〉を再認識し始めています。
 この心の流れをしっかりさせ、感能力を取り戻し、皆が心の穏やかさを得られる社会になるよう祈らずにはいられません。



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
05.14

第28回寺子屋『法楽館』─「映画『風の馬(ルンタ)』に聖地チベットの現状を考える」─

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 寺子屋法楽館』は第28回目を迎えます。

 今回、題材とする映画『風の馬』は、平成10年、環視の目が厳しいチベットのラサやネパールで撮影された実話をもとにした劇映画です。
 フィクションを通じて、実際に弾圧を受ける僧侶の姿など、チベットで起こっている悲劇的現実を世界へ訴える名作です。

チベットの魂が存在することを決して忘れてはいけない。〝風の馬〟を飛ばすかどうかはお前たち次第だ」



 ウィキペディアによるチベット人の犠牲者数です。
「1950~1976年の間の犠牲者数は、次のように推定されている。
 173,221人のチベット人が、刑務所もしくは強制収容所で死亡。
 156,758人が処刑死。
 342,970人が餓死。
 432,705人が戦闘もしくは暴動中に死亡。
 92,731人が拷問死。
 9,002人が自殺。
 以上、合計120万7387人。ここには1980年代以降の犠牲者数は含まれない。」

 ところで、5月14日、チベットと同じく中国政府から弾圧を受け続けているウィグル亡命者たちの組織『世界ウイグル会議』が東京都で代表大会を開催しました。
「2009年に起きたウイグル族による大規模暴動以降、中国政府の暴力的な抑圧政策が激しさを増した」。
 ウィグルでは、中国政府による原爆実験が47回行われ、犠牲者や汚染の実態はベールに包まれたままです。
 そして、ウィグルはチベットと同じく、歴史も文化も人も国土も地上から抹殺されようとしています。
 父祖の地を奪われようとしている人々の悲痛な叫びに耳を傾けましょう。

 以下、『風の馬(ルンタ)』のパンフレットから転載しました。
 

「ラサで生きるチベット人の複雑な心の葛藤を丁寧に描いた本作は、世界各地で上映され、芸術的な賞賛と政治的な論争を呼んだ。
 日本では、チベット民族蜂起50周年の2009年に劇場公開され、今なお変わらないチベットの現実を見せつけた。」


「チベットの首都ラサ。
 通りには監視カメラが設置され、この地に『自由』はない。
 歌手のドルカは、中国人の恋人の助けで中国の国営テレビへの出演が決まる。
 ある日、ダライ・ラマの肖像の掲示を中国政府が禁止し、これに抗議した勇気ある尼僧が投獄された。
 残忍な拷問の末、別人のように変わり果てた尼僧は、幼い頃共に遊んだ従妹のペマだった。
 ドルカに言いようのない怒りが込み上げる。」



 チベットもウィグルも見捨ててはおけません。
 共に観賞し、学び、語り合い、何かを行うきっかけにしましょう。

・日時 6月9日(土)午後2時より3時30分まで
・会場 大師山法楽寺講堂
・ご志納金 1000円 中学生以下500円
・送迎 『イズミティ21』前からの送迎車へ乗りたい方は前日5時までにお申し込みください。

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2012
05.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その99)─天空村落構想─

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 真言宗智山派管長阿部龍文猊下(ゲイカ)が『密教メッセージ』第17号(3月31日発行)で「天空村落構想」を提案されました。
 目立たぬ姿で何度も被災地を訪れた猊下は、大震災後2カ月ほど経ったある日、NHKテレビを観ていたおりに岩手県の道路に掲げられた標語を目にし、構想がひらめいたそうです。
『岩手は、子供も大人も手をつなぐ一つの大きな輪』
 この標語に、猊下は、「隣近所の人は皆、お互いに助け合いながらいっしょに生活をしたい」と願っておられる以上、津波に流された地域近くで安全に村落を再興するのが一番ではないかと考えられました。
 以下、同稿から抜粋・紹介します。

天空村落とは
 大津波の被災地の上部に、高さ三十メートルの津波が襲ったところは三十メートル以上、四十メートルの津波が襲ったところはそれ以上を天空地盤として、「天空村落」を造ることである。

◆数多い「天空村落」建造の利点
 第一に、再度、高さ三十メートル、四十メートルの大津波が襲ってもこれなら大丈夫。
 第二に、被災の市町村落が被災した地域の上部三、四十メートルに被災前の街並での復興が可能である。
 第三に、この天空村落では予め共同溝を布設するので、電柱も電話線の柱もないすっきりとした景観になる。また、共同溝で防火用水も完備。消火栓は街の至る所に設置し、上下水道や排雪用水も完備するので快適な生活が営める。
 第四に、高地から湧水を引いて村落の中に小川を流し、小さな湖沼を造ることも可能である。
 第五に、市役所や町役場などは、地上から天空地盤の上五階でも六階でも可能である。
 第六に、望楼を造り平素は漁業等のために活かし、非常の際は半鐘を鳴らし、火災や津波の緊急情報を伝えるようにする。
 第七に、学校や病院や公民館などの公共施設にしても、同じ考え方で建築すればよい。
 第八に、旧地盤から地上村落へは、二十人乗り、四十人乗りのエレベーターやエスカレーターで上下出来るし、歩道・車道は充分に設け非常の際に何の心配もない様にする。
 第九に、地上階のは防護服を充分に備え、また万一津波が来たときは連結した浮ボールの用意も。
 第十に、建物やエレベーターなどの電力は、太陽光などのエコ発電も積極的に利用を勧める。

◆被災地の経済をうるおす巨大プロジェクト
「天空村落」の建造は、岩手・宮城両県にまたがる巨大プロジェクトである。

◆新しい観光資源としての壮大な「天空村落」の景観
 淡路島の地震の震源断層が、観光バスも停まる観光名所となっている。
 地盤を支える構造は種々なデザインが並び、世界にも類のない建築美は日本の新しい「観光名所」になる。
 津波にさらわれた松林や、白砂の砂浜は早くに再現する。
 これは被災者の心をなぐさめる。

◆可能な放射能汚染土の利用
 岩手・宮城の人々の了解を得なければならないのは言うまでもないが、「天空村落」の基礎工事で掘削した部分に汚染土を敷き込み、四方何れへも放射線が漏れぬ様に封じ込める。

 5月13日付の河北新報に、弁護士阿部泰隆氏(神戸市在住)が「がれき活用 築山造成を」を発表されました。
 氏の提案です。
「一時の感情にとらわれず、費用と時間、リスク、住民の人生の要素を考慮して、本当に人間の生活を再建し、何百年でも安全に暮らせる工夫をする必要がある。
 従前の平地に、どの住家からでも約10分で行ける所(1600メートルごと)に、大津波に耐えるようにひし形でそれなりの高さの築山を造るのがよい。」
「がれきと近くの山の土、塩分が染み込んで使えなくなった農地の土を優先利用して造る。」
「このように非難の方法を用意すれば、一石二鳥である。
 住民は速やかに従前の自分の土地に自宅を建てることができるので、その生活も街も戻る。
 高台造成やがれき処理の費用も大幅に節約できる。」
「高台移転は、築山プランが成り立たず、従前地は永久に利用しないと言える地域に限るべきだと考える。」

 5月4日付の朝日新聞は、『復興 土が足りない』と書きました。
「土の需要増に伴い、被災地で土の値段が上がっている。」
 宮城県の担当者は危機感を募らせています。
「圧倒的に土が足りない。
 人件費も運搬費も上昇し、市町村レベルでは調達できない。」
 宮城県は「がれきから出るコンクリート廃材などを再利用する方法を視野に入れる。」
 国交省も、「仙台市沿岸部に残る泥土など津波堆積物を再利用しようと土の質を調べる試験も進めている。」

 確実なことは何点かあります。
・人は高い場所に住むか、万が一の際には確実に高い場所へ避難できねばならない。
・津波の被害に遭った場所で〈そのまま〉住むことはできない。
・どこであれ、必要なのは〈高さ〉である。
・高さを確保するには膨大な土が必要である。
津波堆積物放射能汚染土の処分は困難を極めている。
・復興には国家的規模の力が必要である。
 人生で大事なものを失ってもなお、立ち上がりつつある方々がおられる一方、希望の火を保ち難くなっておられる方々も日々、増えています。
 確かな事実を前に、確かな方策が強力に進められる日が一日も早く来るよう日々、祈っています。





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2012
05.13

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(その98)─書道と私─

 5月13日、第27回「寺子屋法楽館』」において、書家高橋香温先生の講演会を行いました。
 今回は、これまでに書かれた作品の何点かをご持参いただき、それぞれの作品へ込めた思いを詳しくお聴きしました。
 大きなボードの前へ2人がかりで作品を垂らし、先生が横でお話しくださるという方法で進めました。
 おそらくこうした形の展示会は、これで最後ではないかと思われます。

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 家族5人、家も仕事場も失い、茫然自失となっていた先生が書による再起へと向かうきっかけとなったのが、自宅で流された作品『ひまわり』と出会いでした。
 やがて名取市内と仙台市内で書道教室を再開し、今年の4月4日から6日間、名取市文化会館で『ふるさと名取*みらいの子供たち展 ~書を介して未来にはばたけ名取の子~』と銘打った展示会を行いました。
 その間、当山でも書道と写経の教室を初めていただきました。

 先生は笑顔で話し始めましたが、「名取市文化会館は非難して最初にたどり着いた場所です」というあたりから時折、涙ぐんでおられます。
 思い切って作品紹介という形で過去を遡っていただくお願いをしておきながら、やはり、「申しわけない」という気持が強く起こりました。
 先生が心で血を流しながら紡ぐ言葉を耳にし、その思いを込めた作品を目にしている私たちは、先生が背負われているもののたとえ何万分の一であっても、共に背負いつつ進まねばならないとの覚悟を新たにしました。
 参加者のお一人Mさんは実家が石巻市にあり、ご一族に多大な被害が発生し、幾度となく仙台市と石巻市を往復されました。
 先生が涙を催してくると絶妙のタイミングで作品の批評など相の手を入れます。
 書いた方を前にして作品を「ああだ、こうだ」言うのもいかがなものかという気持はありますと口ごもりながらも言葉をはさみ、参加者から同感の声や笑い声が起こりました。
 終了後、先生は「助かりました」と本音を漏らされました。
 相の手はどうやら〈愛の手〉でもあったようです。

 展示された作品から数点を書きとめておきます。

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1 
 縦長の紙面で、真っ黒な天と真っ黒な地の間にが降り注いでいます。
 自分だけが生き残り、たった一人で迎えた夜、桎梏の闇からが舞い降り始めました。
 先生は、初めて「動きのあるものを視た」と感じたそうです。
 しかし、は柔らかいはずだったのに……。
 の一片一片は鋭さを含んでいます。
 情け容赦ない天地と一人でいる自分。
 文化会館での展示会で「港でこのを見たことを思い出しました」と言う人がいたそうです。
 会場から「水墨画に見えます」との声が上がりました。

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3 
 子供の頃、一緒にお風呂へ入ると決まって親が唄ってくれたのが『雨降りお月さん』でした。
 先生は「どっしりと家を守るおおらかなでした」と言い、絶句しました。
 今になって思いだしてみると、「どうしてあの歌を唄ってくれたの?」と訊いておかなかったことが悔やまれ、「いのちのある時に話しておくことがある」と思うそうです。
 自分も何か書かなければという気持に追われて浮かんだのが親のことでした。
 昨年もの日が来ました。
 今年もの日がやってきます。
 この時期になると母娘の連れ立って歩く姿などが特に目にとまりますが、先生はきっぱりと言いました。
「ここには私の中で生きつづけて行く母がいます」

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12 
 広々としているを眺め、お釈迦様をイメージして書いたそうです。
 線が自由にくねり、何かが踊っているようでもあります。
 お釈迦様は悟りを開いた瞬間から、ある意味で〈見えない存在〉になったとされています。
 約半世紀前に創られた映画『釈迦』において、主役本郷功次郎の演じるお釈迦様は、悟りを開いてから後、姿を消して影や声だけで表現されました。
 嵐が迫る説法の場面などで、その手法はお釈迦様の存在感を強烈に訴えかけています。
 この「」は〈クウ〉とも読め、先生の新たな出発がうかがえます。

 約1時間30分の講演会はあっという間に終わりました。
 会場からは、17年前の阪神淡路大震災に遭い今でもフラッシュバックに悩まされるというお話もありました。
 わずか1年で東日本大震災は早くも風化しつつあるという実感があります。
 時は流れ、すべては移り変わり、咲いた花が萎む一方で新たな芽吹きもあります。
 そうした中で、〈無常〉だからとは到底流しきれない思いを抱えつつ今を生きている方々がおられ、その方々に過酷な形で顕れた〈無常〉は私たち全員が宿命として共有していることを忘れずに生きたいものです。
 無常の鬼に負けないためには、(クウ)を知る智慧と共に、人として支え合う慈悲が欠かせません。
 慈悲の根本は黙って寄り添う深く広い友情です。
 宿命を共有している者同士はまぎれもなく友人同士です。
 友人は「あなたのできごとはあなたのできごと」と友人を見捨てられないからこそ友人です。
 そこには自然な支え合いがあります。

 先生の作品群は目を醒まさせます。
 これからも無常という宿命のタクトに導かれた先生の運命は、新たな作品を生み出して行くことでしょう。
 私たちの目を醒ましつつ。



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2012
05.12

救いを求め、夢へ向かうには ─難しい5月を乗り越えましょう─

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 この時期になると、特有の人生相談が増えます。
 当山で対応する際のご加持と皆さんへお話しする心構えについて少々書いておきます。

 ご加持では善男善女の心と身体へ直接、法をかけます。
 当然、目的によってご加護をいただくご本尊様は異なります。
 たとえば、財物の縁によって救われる方へは、虚空蔵菩薩様のお力によって、宝珠の力をいただきます。
 悪癖封じなどによって救われる方へは、不動明王様の金縛りの法をかけ、因縁を封じます。
 バランスの回復が必要な方へは、地蔵菩薩様の法をかけ、揺らし、回復させます。
 いずれの場合も、不動明王様の結界と地蔵菩薩様の掌は必要不可欠です。

 また、法を降ろすには、空・風・火・水・地(クウ・フウ・カ・スイ・チ)の順に行います。
 なぜなら、仏法は、量子的真空からあらゆる可能性を含んだ空が生じ、空から動きとしての風が生じ、風から熱としての火が生じ、火から流体としての水が生じ、水から固体としての地が生じたと考えているからです。
 法によって、堅固な骨格、健全な血液、適切な体温、順調な呼吸、身体全体のバランスなどを回復する力が出てきます。
 それは同時に、妨げないこと、自由なこと、温かなこと、流れること、揺るがぬことという、天地万物の徳をあまねくいただくことでもあります。
 他人へは優しくし、自分へは厳しくし、社会的には正しく判断し、人間関係では優雅にふるまい、まっとうな人となるためには尊きものへ感応する心もつくられます。
 いつも「ご加持を受けると、知らぬ間に身心が揺らされ、欠けたり尖ったりしている状態が、円満な状態へ向かいます」とお話ししているのはこのことです。

 さて、お大師様は地・水・火・風・空の「五大(ゴダイ)」に識を加え、「六大(ロクダイ)」を説かれました。
 識とは心です。
 よく生きたいと熱望すれば、心は必ず本もの、真理を求めます。
 真理を悟るには、方便と智慧が必要とされています。
 目に見え耳に聞こえる現象に対して行う正確な認識と適切な判断が方便です。
 一方、形あるものも聞こえるものもすべてが空(クウ)であり幻であると観て揺るがないのが智慧です。
 つまり、世俗的にきちんとものごとへ対応する能力と、因果応報など、絶対的真理を理解し体得する能力が必要です。
 だから、お釈迦様もお大師様も、娑婆では徳のあふれるふるまいに生き、法を説き修法する際は超人的なはたらきをされました。
 隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場では、「愚癡を言わず未来を語る」「公と私の区別をする」「恩を着せず恩を忘れない」など、娑婆でのまっとうな生き方を身につけると同時に、自他の魔切り法などを学んでいます。

 私たちがを持ち希望へ向かって進む際に大事なのは、こうした二方面からものごとを考える視点を持つことです。
 たとえば、介護の仕事に自分をかけようと思ったならば、まず、道義を忘れず作法を身につけ、世間的にきちんとした人間になりつつ技術を身につけること。
 そして同時に、人気を得たい、あるいはお金をたくさん儲けたいと願うだけでなく、介護する方もされる方も空(クウ)の存在であり、接する時はいつも一期一会(イチゴイチエ)と心得ること。
 こうやって、世間におけるふるまい方を磨くと同時に、魂の次元における浄化・向上を行いつつの実現へ向かいたいものです。

 一般的に5月は〈難しい時期〉とされています。
 行き詰まったならば、ご加持を受けて身心を活性化させましょう。
 大志を花開かせるため、世間的成功を得るための方法に邁進しつつ、魂を浄化し・向上させましょう。



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2012
05.11

傷ついた日本人へ(その9) ─本当の幸せとは何か?(その6)─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第9回目です。
 
 法王は、本当の幸せを探求し、最後に、未来の幸せへ言及されました。
 子供たちが幸せを得つつ成長する道です。

「心を高めていくことは、仏教に限らずほとんどの宗教が目指していることです。
 これこそ宗教の本質であり、大事な役割とも言えるでしょう。
 宗教というシステムは、心を育てるのにたいへん役立つものです。
 しかし、世界には宗教を持たない方も大勢いらっしゃいます。
 そう考えると、宗教の有る無しに関係ない『倫理観』をきちんと育てることも大切です。」


 よりよく生きようとするならば、結局、心のレベルを上げて行かねばなりません。
 財物や名誉のレベルをいかに上げても、人間として真によく生きて行く最終的な手段になり得ないことは、ここまでに〈ものの道理〉として学んできました。
 ここにおける〈レベル〉とは、誰かと比較してどの位置にあるかといった問題ではなく、自分なりに上りつつ向上して行く階段といったイメージです。
 法王は、心のレベルを上げることを「心を育てる」と表現し、その方法として宗教のシステムが役立つと言われました。

 宗教と俗信との違いは、システムとしての完成度にあります。
 たとえば、宝くじを買いに行く途中でヘビを見かけて拝んだところ、買った宝くじが大当たりしたので、財物をもたらす神様としてヘビを崇め祀っても、それはまだ宗教とは言えません。
 異次元や救済を感じさせる祈り方、体験を支え体験へ至る一定の論理、つまりシステムがあって初めて、いわゆる宗教と呼べます。
 仏教は宗教として、釈尊の時代からずうっとシステムの深化を遂げてきました。
 現在、大乗仏教として組み上げられたシステムの代表的なものは、心を階層的にとらえ深めて行く「唯識(ユイシキ)」と、諸行無常の視点を深めて行く「(クウ)」と二つの方向性があります。

「仏教は宗派がたくさんあってさっぱりわかりません」
「お釈迦様が言われたとある程度確信できそうなものだけが仏教ではないのですか?」
「宗派がいろいろあっても、仏教って結局は同じなんですよね」
 こうしたお話をよく耳にしますが、心から救いを求め教えを実践する体験によらない限り〈システム〉の体感はできません。
 たとえば、合掌一つとってもたくさんの種類があります。
 もしも、合掌しつつまごころを言葉としてよりはっきりさせたいならば、その言葉は無数にあります。
 金剛合掌し「おん かかか びさんまえい そわか」と唱えれば、その人はすでにお地蔵様の世界へ入るシステムを採用しているのです。
 こうした実践者にとって、前掲した3つの話はあまり意味を持ちません。

 法王が言われる「システムは、心を育てるのにたいへん役立つ」とは、このような実践の勧めではなく、実践を支える論理としての〈システム〉が倫理観をつくるのに役立つという意味です。
 たとえば、因果応報という法則には3つのルールがあります。(「因果の法則『三つのルール』」参照)

1 原因がなければ結果は生じない
 種がない限り、花は咲きません。
2 変化がなければ結果は生じない
 水が凍れば氷になり、炭素が凝縮されればダイヤモンドになるのであり、結果としてこの世にあるすべてのもの、この世で起こっているすべての現象は必ず変化を経ています。
3 原因には結果を生み出す素質がある
 チューリップの種にチューリップの花を咲かせる可能性があるからこそチューリップの花が咲くのであり、チューリップの種を植えておきながら梅の花が咲く日を楽しみにしていても無意味です。

 仏教が説くこの因果の法則をよく学んだならば、軽々に悪事ははたらけなくなるはずです。
 自ずから慎む姿勢ができてゆくのではないでしょうか。
 また、精進できるはずです。
 努力を続けなければ結果は得られないので、夢や希望を持つ人にとってこの法則は支えともエンジンともなるのではないでしょうか。
 これが〈システムが役立つ〉という意味です。

 法王は説かれます。

「特に子どもたちへの教育はこれから見なおさなくてはならない。
 近代の教育は、稼ぐために必要な、実用性の高いスキルにばかり注意が向けられたり、他人より優秀でであることを証明する競争になり代わってしまったりしたからです。
 人としてどう生きるべきか、よい人間になるにはどうすべきか、そういった『人間性』の教育は無駄なことだとなおざりにされ、宗教や家庭に任せきりではなかったでしょうか。
 エゴが増長し、自我意識が肥大化していったのは、それも一因だと思います。
 しかし、未来の世界から戦争という悲劇を断ち切り、暴力を根絶するためにも、倫理観を育てるのは緊急の課題です。
 他者への思いやりや心の平和が、現実的に必要になってきているということです。
 これからは、誠心を育てる科目を、ぜひ子供たちの教育に加えてほしいと思います。」


 そして、決定的な一言を述べられました。

「宗教とは関係なく、現代の一般教育として、心はどのようなものか、どのようにはたらくのか、そしてどうコントロールすべきかを教えるのです。」


 これこそが「宗教というシステムは、心を育てるのにたいへん役立つ」という意味です。
 合掌したり真言を唱えたりといった宗教行為を伴わなくても、宗教的真理をふまえた論理によって心の扱い方を教えれば、子供たちはエゴを増長させ自我意識を肥大化させずに、まっとうな大人として成長し得るのです。
 今の日本は、敗戦後この方、宗教を丸ごと教育から排除してしまった歴史を見直す時期にきています。
 幸せを得るためのモノ金を集める方法をいくら教え、他人より抜き出た能力をつけさせても、子供は必ずしも幸せな人生を送れません。
 法王は、宗教者でありながら、宗教行為そのものを勧めるのではなく、「人間性や倫理観の教育」について話され、子供たちが「理性を育て、智慧を高め、人間としての素質を高め」られるよう努力しておられます。
 子供たちと日本の未来のために、ぜひ、無限の宝が詰まっている仏法を見直していただきたいものです。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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2012
05.11

「春の生活相談会」に参加します ─なぜお線香を捧げるのでしょうか?─

 このたび、河北新報内『マイベストプロ宮城事務局』主催による「2012春の生活相談会」へ参加することになりました。
「なぜお線香を捧げるのでしょうか?」と題して、供養の深意と供養にまつわる興味深いエピソードなどをお話し申し上げます。
 質疑応答、及び、若干の個別相談も可能です。
 お線香や、お花や、お灯明や、お水や、ご供物などをお供えする際の心構えを仏法に学び、日常の供養にいっそう心を込めてみませんか?
 なお、時間があれば、皆さんから大変ご質問の多い生前戒名などについても触れてみたいと考えています。
 下記の通り申し込みは順番に受け付けており、定員20名様で締め切りとなります。
 どうぞ、ふるってお申し込みください。
【電話:022ー715ー9350 マイベストプロ宮城事務局】

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2012
05.10

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第十九回) ─称賛にも富にも驕らない─

 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第十九回目です。
 これは、「法話と対話の会『生活と仏法』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

「称賛され、大勢の者が頭を垂れ
 毘沙門天(ビシャモンテン)の財宝と同じものを手にしても
 世間の豊かさには本質がないと見て驕らない
 それが菩薩の実践である」


 毘沙門天は甲冑(カッチュウ)を着けた北方の守護神ですが、そもそもは財宝神であり、右手に持つ宝棒で魔ものを打ちすえ、左手に持つ宝塔から無限の宝ものを生み出して私たちを潤します。
 だから、「毘沙門天の財宝」は、ありとあらゆる財宝を意味します。
 称賛され、尊敬され、尚かつ、ありとあらゆる財宝を手にしたとしても、一切を(クウ)と観て、それらが自分自身であるなどと勘違いをしないのが菩薩道を歩む者です。
 菩薩道は修行道であり、行者は常に修行の〈過程〉にあります。
 つまり未熟者です。
 このことを忘れなければ、慢心の起こりようがありません。
 華やかな経歴を経た有馬稲子氏は80才になった今、『源氏物語』などの朗読に力を入れています。
「人の10倍、20倍はしなきゃだめ」という意識が強く、一冊の本を数百回は読まないと勘所をつかめないと言います。
 24年間で684回もの舞台を踏んだ『はなれ瞽女おりん』の芝居で得たものは、「私は非常に不器用だから相当人より勉強しなきゃだめだということ」だったそうです。

 修行を始める頃は、本当に自分の〈だめ〉なところがわかりません。
 これからやることの全部がわからないからです。
 だんだんに、やっていることはどうにかつかめて来る一方、わからない部分も見えてきます。
 それを追求して行くと、どうにもできないものが立ち塞がります。
 それらも何とか乗り越えて行く過程で、今度は、自分そのものの決定的に〈だめ〉である点が明らかになってきます。
 これは厄介です。
 しかし、一生だめなのだろうと思いつつも、途中下車はできません。
 だからといって絶望する必要はさらさらなく、お迎えが来てやり残した部分が出たならば、来世に引き嗣いで行けばよいだけのことです。
 ものの道理をもって考えれば、因果応報の原理は現世だけを貫いているはずはなく、現世を生み出した過去世でも原理であり、来世をも支配しないはずはありません。
 この世の自分が達成したことごとも、達成しなかったことごとも等しく来世の〈因〉となり、来世のどこかでそれが〈果〉を生むのは当然です。
 だから焦る必要はありません。
 ただし、怠けるわけには行きません。
 怠けもまた、現世でも来世でも、怠け心にふさわしい果をもたらすに決まっており、それは自他にとってよいことであるはずはないからです。

 そもそも、世間的な称賛は、(クウ)を持ち出すまでもなく、三つの面から当てになりません。
 第一に、称賛は、誰かが勝手に誰かと比較して判断しているだけであり、たとえば「この縄はすばらしく長い」と言っても、より長い縄と比較した途端に「短い縄」になってしまい、絶対的に〈長い〉と確認できる縄も、絶対的に〈短い〉と確認できる縄もありはしません。
 第二に、欠点のない人はなく、称賛されているのは、たまたま成果の面にスポットが当てられているだけであり、いつ、欠点が問題を生じ、それが明るみに出るかわからないからです。
 第三に、批判や非難が生じれば、これまでの称賛などは雲散霧消してしまい、世間的評価は常に一面的であやふやなものでしかないからです。

 当てになるのは因果応報の真理であり、はっきりしているのは自分が未熟であるという事実であり、やらねばならないのは自他のための人間的向上です。
 惑わされず、ぶれず、やりましょう。

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2012
05.10

天皇陛下に会われた御英霊

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 自力で御英霊遺骨を収集された方々が〈身内〉として葬儀を行い、自らの墓所へ埋葬し、皆でご供養を行っておられることについては、以前、ブログ「御英霊の葬儀」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2902.html)などへ書きました。
 命日とおぼしき日を迎え、益荒男(マスラオ…逞しい男性)・手弱女(タオヤメ…優美な女性)の方々は「なんとしても、我々だけは、『~院~~居士』の第二の家族として、御霊を営々と慰霊顯彰して参りましょうぞ。」と誓い合っておられます。

 供養して布団へ入った明け方、私は、どことも知れない被災地の避難所にいました。
 おそらく、ご縁のあった南三陸町でしょう。
 何と、すぐ目の前には天皇陛下、その斜め後には皇后陛下がおられます。
 膝を折り、親しくお言葉をかけてくださるご様子を、正面やや斜め上から拝しています。
 眼下にいるはずの被災者も周囲の人々も見えず、お言葉も聞こえません。
 悲しみを含んだ微かな笑顔で言葉を紡ぎ出される天皇陛下と、視線を斜め下へ下ろしたまま肩を落として控えておられる皇后陛下と三人だけの不思議な空間……。
 この瞬間、天皇陛下はまさしく上御一人(カミゴイチニン)である理由が深々と腑に落ちました。
 天皇陛下は、文字どおり身も心も国民へ捧げておられるのです。
 国家国民へ平安がもたらされるよう常に祈り、祈りをご自身がいのちをつなぐただ一つの意味としながら、日々をお過ごしになっておられます。
 唯一無二の方が、私を含め過去・現在・未来の全国民のために生きておられるという奇跡的真実に圧倒され、思わず合掌した途端、目が覚めました。
 まだ外は真っ暗です。
 本堂に座り、感謝を込めて大日如来と入我我入(ニュウガガニュウ…一体になること)のひとときを過ごしました。

 さて、いつに変わらぬ予定通りの法務が始まり、車を運転しながら、あるサックス奏者から勧められたデクスター・ゴードンのCD『ラウンドミッドナイト』を聴くともなく聴いていた時、不意に、気づきました。
「両陛下にお会いしたのは私ではない!
 ──御英霊に違いない」
 身震いが起こり、「あああ……、あああ……」という声にならない嗚咽が胸から突き上げ、喉元で詰まりました。
 車中にはデクスター・ゴードンとウェイン・ショーターの凄まじい「ウナ・ノーチェ・コン・フランシス」が吹き荒れています。
 涙をこらえながら帰山し、深呼吸しつつ合掌しました。

 御英霊供養する方々のご誠心が廻向(エコウ)され、行者である私がアンテナとなり、天皇陛下へ赤心を届けたいというおそらくは御英霊の最後の望みが、半世紀以上の時を隔てて昨夜、叶ったのです。
 それも、おそばで御尊顔を拝するというおそらくは願ったはずもない形となって。

 明らかに、不肖の私はそのお相伴にあずかりました。
 思えば、祈る者としてあまりに迂闊(ウカツ)で未熟でした。
 頭では天皇陛下の役割をいくらか知っているつもりでいながら、その本質の感得ができていませんでした。
 今回、人知れず国民の一人として汗を流して来られた方々のご誠心と、御英霊の尽きぬ思いが仏界へ届き、同時に、供養する未熟者へもお諭しが降りたのでしょう。
 あまりにありがたいお相伴と言うしかありません。

「南無戦没英霊・南無戦没英霊・南無戦没英霊」
「南無震災横死諸精霊・南無震災横死諸精霊・南無震災横死諸精霊」
「南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛・南無大師遍照金剛」

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2012
05.09

傷ついた日本人へ(その8) ─本当の幸せとは何か?(その5)─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第8回目です。

 前回、真の意味で自分自身に愛情を向け、愛情や思いやりを家族へ広げ、身の周りや組織から地域や社会の人へ、やがてはその輪を世界にまで及ぼすイメージについて学びました。
 では、イメージを具現化する方法とは?
 法王は、仏法が説く二つの方法を紹介されました。

「まず一つは、自分の視点と他者の視点を置き換えてみること。」


 たとえば、親に反発している人は、親の目になって自分を見てみましょう。
 もしかすると、いくら突っかかられてもじっと子供の成長を楽しみに見守ってくれている心がわかるかも知れません。
 たとえば、最も嫌いな人の目になって自分を見てみましょう。
 自分から嫌われている辛さにじっと耐えている心がわかるかも知れません。
 たとえば、裏切られた人の目になって自分を見てみましょう。
 相手が裏切らないではいられなかったほど酷いことをした、あるいは追いつめた自分に気づくかも知れません。
 法王は説かれます。

「自分がいかにたくさんの他者と共に生きている存在なのか、自分の考えがいかに狭く悲しいものだったから自ずとわかってくるでしょう。」


 第二の方法です。

「もう一つは、どんな事象も全て自分につながっていると考えることです。」


 たとえば、自分が生まれてくるまでには、両親がいて、その親たち4人がいて、その親たち8人がいたことが絶対的な条件でした。
 こうして考えてみると、わずか5代遡るだけで、62人もの人々が自分へ血と心を受け継いでいてくれたことがわかります。
 そのうちたった1人が欠けていても、自分はこの世へ生まれては来られませんでした。
 たとえば、一人前になるまで見守り、導いてくださった方々を指折り数えてみましょう。
 幼稚園の先生など、いかにたくさんの人々のおかげで生きて来られたのか、驚くほどです。
 また、記憶に鮮明なできごとを思いだしてみましょう。
 そこには子供の頃の遊び仲間や、辛い時期に一緒に酒を呑んでくれた親友や、思いもよらない形で別れ別れになったまま、会いたいと思いながら会えずにいる人などが登場してくるはずです。
 そして、いかにたくさんの人々が自分の人生にかかわり、自分を人間として成長させてくれたかがわかることでしょう。
 また、いつも挨拶を交わすコンビニの店員さんや、ご近所の奥さんなどを思い起こせば、自分が、いかにたくさんの人々にとって〈関わっている人〉として存在しているかに気づきます。
 こうして思いを膨らませながら過ごしていると、津波に流されてしまった海岸や廃墟となっている村を眺め、被災された方々と言葉を交わす時、愕然とします。
 自分の家が流されてしまったとしても、何の不思議もない……。
 自分がすべてを失い仮設住宅で暮らしていたとしても、何の不思議もない……。
 自分は今、時間的空間的に膨大な関係という糸によって、たまたまここにいるに過ぎません。
 だから、自分に起こっているできごとは必ず、自分以外の誰かにとっても起こっている何ごとかであり、誰かに起こっているできごとは必ず、自分にとっても起こっている何ごとかなのです。

 このように視点を置き換え、関係性の網を考えると、心は次のステップへ進みます。
 誰かの幸せを願えば、そのまま自分の幸せに通じ、誰かの不幸を願えば、すでにその時点で自分は不幸です。

「自分の幸せを願うことは、他人の幸せを願うことと同じ。
 そして他人を疎かにすることは、自分を不幸にすること同じです。」
「相手を自分と同じように捉えることができれば、自然と慈しむことができるでしょう。
 そして、だんだんと利己的な感情が消え、純粋に他者を思うようになります。
 やがて全ての他者、あらゆる命を愛するところまで慈悲の心が大きくなる。
 そして、ただ思いやったり共感したりするだけでなく、その人が幸せになれるように自分が何かしよう、苦しみを取り除いてあげようという段階になります。」


 楽を与えるのは「慈」、苦を取り除くのは「悲」です。
 だから、心から他人の抜苦与楽(バックヨラク)を願うならば、その人はすでに慈悲の権化である菩薩(ボサツ)になっています。

 しかし、このように徹底した生き方は、そうたやすく実現できません。

「もちろん、これほど大きな慈悲の心に近づこうというのであれば、それなりの修行が必要です。
 私もその段階になれるよう常に鍛錬していますが、いまだに修行中なのです。」


 生まれ変わり死に変わりする輪廻転生(リンネテンショウ)にある私たちは、永遠の修行者です。

 幸せになりたいならば、外から何かを得て幸せになろうという自己中心的な考えを一旦、脇へ置き、まず、誰かの何かのためになろうという慈悲の心を育てましょう。
 親や先生などから思いやられ、目をかけ手をかけて育てられた私たちは、必ず、自分以外の人を思いやり、何らかの形で目をかけ手をかけられるはずです。
 実践法法は、自分の視点を他人の視点と置き換えてみることと、自分がいかにたくさんの人々との関係性の中で生かされているかに気づき、誰かに起こっているできごとは決して〈他人ごと〉ではないと考えることです。
 そうして誰かの喜びを自分の喜びと感じ、誰かの幸せを自分の幸せと感じられる時、私たちはすでに、真の喜び、真の幸せを手にしています。
 こうした〈喜び人〉や〈幸せ人〉は、たとえモノなどの外的条件に恵まれていなくても、自然に周囲へ喜びや幸せの気配を発し、誰かを幸せへと導き、自他のさらなる喜びや幸せにつながる縁の糸を太くするものです。
 もしも「自分はグチを言い、不幸を嘆いている」と思い当たる人は、ぜひ、法王の示された考え方と方法とをもって〈喜び人〉や〈幸せ人〉になりましょう。
 それは、何がなくとも心一つで実現できるのですから。



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2012
05.08

傷ついた日本人へ(その7) ─本当の幸せとは何か?(その4)─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第7回目です。

 前回の到達点です。

「人間は生物の中でもとりわけ愛情を与えられ、深い絆の中で育てられるのですから、その分他人へも愛情を与えることができるはずです。」


 自己中心でなく、誰かの〈おかげ〉になれる自信を持ち、次のステップへ進みましょう。

「親から与えられた愛情を、私たちはどう他人への愛や慈悲に変えていけばよいのでしょうか。
 まず最初に、しっかりと自分自身に愛情を向けてみましょう。
 そして自分という存在を大事にする。
 自分を大事にできない人が、他人を気づかったり優しくしたりするというのは無理があります。」


 法王の説かれる「自分自身に愛情を向けて」とは、決して自分を甘やかし自分だけを可愛がるという意味ではありません。
 誰かのためになるとは、誰かを大事にするということです。
 たとえば、独り暮らしをしている隣のお年寄りに声をかけてみる時は、お年寄りを大事にしています。
 この〈大事にする〉という感覚は、自分が労(イタワ)られ、そして自分を労ってみなければわかりません。
 ケガをし、早くよくなってはたらきたい一心で養生していた時の心を忘れない人が、ケガで苦しむ人を見た時、労りの心が起きます。

 貴乃花親方は横綱を拝命した時、「不惜身命(フシャクシンミョウ)で努めます」と口上を述べました。
 いのちも惜しまぬほどすべてをかけて立場をまっとうするという意味です。
『法華経』にあるこの言葉に道元禅師が「但(タ)だ身命(シンミョウ)を惜しむ」と続けたことはブログ「不惜身命(フシャクシンミョウ)と但惜身命(タンジャクシンミョウ)」に書きました。
(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-1179.html)
 本当にいのちがけでものごとにあたろうとする人は、必ず、全身全霊をかけられる自分をつくろうとします。
 それが但惜身命であり、法王が説かれた「自分自身に愛情を向けて」の意味がここにあります。
 たとえば、イチロー選手は徹底した自己管理で知られていますが、彼は決して利己主義者ではありません。
 なぜなら、同僚選手たちもまた、それぞれに厳しい自己管理に励んでいることを知悉しており、イチロー選手はそうした同僚の姿勢を尊び、お互いに自己管理できる環境を守ろうとはしても、決して誰かの邪魔をしてまでも自分本位の行動をとろうなどとは思わないからです。
 真の意味で「自分自身に愛情を向けて」いれば、他人が「自分自身に愛情を向けて」いることを理解し、気づかわないではいられません。

 こうして自分を大事にする時、すぐ身近に、自分と同じくそれぞれ自分を大事にし、誰かも大事にしようとしている人々がいることがわかります。
 それが家族です。

「次に家族を慈しみましょう。
 家族はもっとも近しい他人であり、最も小さい組織です。
 家族を愛することこそ、他者への愛情のスタートです。」


 家族は最小単位の社会であり、そこで人間としてのふるまいを学び、「他人への愛情が自分の幸福になる」というかけがえのない体験を得ます。
 親は子供の成長を無条件に喜び、子供は親孝行をして親が喜べば自分も嬉しくなるではありませんか。

「自分の家族に抱く愛情や思いやりを、身の周りや組織の人に、地域や社会の人に、少しづつ広げていきましょう。
 自分から他人に愛情をかければ、相手の反応が変わってくるのがすぐわかるはずです。
 その輪が広がれば、ゆくゆくは社会全体、世界全体にまで拡大します。
 一人一人の愛情が全体を包みこみ、それが人間関係そのものとなるのです。
 そのとき本当の平和が訪れるのではないかと思っています。」


 最近の人生相談で多いのは、人間関係に関するものです。
 ここで説かれる、お互いに愛情を持ち愛情で接し合うという関わり方が「人間関係そのもの」となれば、人間関係についてのすべての問題は霧消するに違いありません。

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2012
05.07

傷ついた日本人へ(その6) ─本当の幸せとは何か?(その3)─

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〈大粒の雹を交えて地上のものたちを叩く突発的な豪雨〉

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 それを読み解く稿の第6回目です。

 前回の到達点です。

「本当に『幸せ』になるにはどうしたらいいのでしょうか。
 そのためには、これまでの固定観念を大きく転換させ、正反対の道筋をたどってみることです。
 正反対の道筋とは、欲望やエゴの放棄です。」
「他人に思いやりを持ち、広い視野で物事を見つめる。
 利他的な行動をとり、自分が今持っているもので満足する。
 人を信頼して正直に生き、他人への思いやりや優しさを人間関係の基本にする──。
 そうすれば渇きや争いから解放され、心が平穏になることを感じるでしょう。他人への恐れや後ろめたい感情は消え、自分のことを自分で信じられるようになるはずです。
 このとき心の中には、これまでと別の種類の幸福感が生まれてくるはずです。
 刺激による心の高まりとは違う、静かで穏やかな『心の平和』です。
 これこそが私たちが追い求めてきた『幸せ』の本当のありようだったのです。」
「一人一人の心の中に平和があってこそ、グローバルなレベルでの平和が達成できるのです。」


 もし、ここまでの内容に納得された方も、では具体的にどうすれば良いのかとなると、途方に暮れるのではないでしょうか。
 何かの記念日に美味しいものを食べたり、お金を貯めて車を買ったりするのはそれほど困難でない一方、心から見ず知らずの人のためになろうとするのは容易ではありません。
 私たちの周囲は欲望を刺激する情報に満ちあふれています。
 自分で自分の心を管理する意識がなければ、たちまち目や耳などに心地よいものの方向へと引きずられます。
 よくよく考えてみると、自己コントロールなどできないと思う方もおられることでしょう。

 法王は8世紀に書かれた仏典の言葉を示されます。

「この世のあらゆる楽。それらはすべて他者の楽を望むことから生ずる。
 この世のあらゆる苦、それらはすべて自らの楽を望むことから生ずる。」


 そして、自分の過去を思い返せば、誰しもが他人への思いやりや愛情を持っていることがわかり、他者の楽を望む気持が自分にもあるという自信が持てると説かれます。

「自分がどのように生まれ育てられてきたのかという『自分の起源』を思い返してください。
 すると人は誰でも愛情によって育てられたことに気づくはずです。
 生まれたての赤ちゃんは、1人で食べることもできず、生きていくことさえできない状態です。
 それでも、そんな状態でこの世に生まれてくるのは、誰かが必ず愛情をかけて育ててくれると信じているからなのです。
 その前提に立って、私たちは生まれてきたのです。」


 私たちは、ともすると「人間なんか一皮むけば皆、エゴイストさ」と嘯(ウソブ)きたくなる時があります。
 まじめにやっていてもなかなか報いられず、居直ってしまいたい場合もあります。
 しかし、本当に皆が自分のことしか考えない生きものであれば、誰も自分以外の人の手を借りて育つことはできなかったはずです。
 現実はどうか?
 今こうして生きている私たち全員、例外なく、親を初めとし、数知れない人々の〈おかげ〉で生をつなぎつつ、ここまで来ています。
 この〈おかげ〉こそが愛情であり慈悲心です。
 こうした慈しむ愛情のようなものは人間のみならず、すべての生きものにも行き渡っています。
 人間は、生まれてすぐに立ち上がる馬など、野の者たちに比べて極めて弱い生まれをしており、たくさんの愛情をかけられなければまっとうには育てません。
 私たちが明らかに〈おかげ〉の中で育てられ、生きている現実は、私たち自身に誰かにとっての〈おかげ〉となれる可能性が備わっていることを意味します。

「生命の営みは、その根幹を愛情によって支えられているのです。」
「人間は生物の中でもとりわけ愛情を与えられ、深い絆の中で育てられるのですから、その分他人へも愛情を与えることができるはずです。」


 私たちは「他人に思いやりを持ち」「利他的な行動をとり」ながら生きられるはずなのです。
 性悪説へ逃げず、可能性を信じ、自信を持ちましょう。

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〈『法楽の会』会員さんをはじめ皆さんのおかげで、5月6日も例祭の護摩法を行いました〉



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