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2012
06.30

里芋湿布に救われる

201206300011.jpg

 急いで石段を降りようとした妻が仰向けにバタンと転び、側頭部をコンクリート道路に打ちました。
 脳震盪気味になり、「このままにしておいて」と、しばし、横になっていましたが、見る見るうちに子供の拳大のたんこぶができました。
 しかも、フラフラだと言うので、近くの吉岡QQクリニックさんで検査を受けました。
 幸いにして頭部の内出血や頭蓋骨の異常はなく、痛み止めをいただき、もしもこの先しばらくして、頭痛や目まいなどが起こるようなら、ただちに専門医へ相談するようアドバイスを受けて帰山しました。

 そこへ、たまたま『ゆかりびとの会』で会計をしてくださっている石井さんご夫婦が見えて言われます。
「こういう時は、里芋湿布が良いですよ」
 里芋湿布という言葉を初めて聞き、そうした治療法を知らなかった私は、「そう言えば、治療手段は何もなく、ただ、冷やすことだけだったな。早く回復できる方法があればやってみよう」と、紹介された自然食品専門店へ走りました。
 店主にあれこれとみつくろっていただき、会計を済ませて帰ろうとしたところへ石井さんご夫妻が到着したので驚きました。
 わざわざ湿布用の手ぬぐいを手に入れてから駆けつけた奥さんは、買った材料を見て必要なものと不要なものをテキパキとより分けておられます。
 あっけにとられている私の目の前で会計をし直し、もう一度、当山へ足を運び、目の前で、湿布薬を作られました。
 粉状になっている里芋を練る手際や水分の含ませ具合を見ていると、とても自分ではうまくできなかっただろうと感心しました。
 交換用のものまで用意してくださったおかげで、びっくりするほど大きかったたんこぶはたった一日で姿を消し、妻は以前の状態に戻りました。

 妻が転んだのは墓地の入り口に立つお地蔵様の近くでした。
 思えば、数年前、私が墓地の周辺で地ならし中、重機ごと崖から落ちて救急車のお世話になったのは、お地蔵様が完成する日でした。
 いのちが無くなってもおかしくなかった前回の事故でも、「カーン」と頭を打つ音があたりへ響いたほどの今回の事故でも、お地蔵様がお守りくださったとしか思えません。
 また、遠方に住んでおられる石井ご夫妻の献身的なご助力が妻の速やかな回復に大きな役割を果たしたこともまちがいありません。
 お地蔵様と、石井ご夫妻と、里芋湿布を今に伝えてくださる東城百合子先生に心より感謝しています。
 
 里芋湿布を信頼し、東城百合子先生著『家庭でできる自然療法』に凝縮された先人の智慧に敬意を表してのご紹介でした。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
06.30

7月の行事予定

20120630014.jpg
 7月の行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、み仏と祖霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭] 2012/7/1(日)午前10:00~午前11:00
 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
 太鼓に合わせて観音経3巻もお唱えします。
 参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き払い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 護摩木供養は1体300円です。
 ご自由に願いをかけてください。
・送迎申込  午前9時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へお迎えの車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までにご連絡下さい。

書道写経教室] 2012/7/1(日)午後2:00~午後3:30
・場  所  大師山法楽
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
 基本からお稽古を行っています。
 今月から写経のお稽古も
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)

[法話と対話「生活と仏法について」第二十回] 2012/7/11(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)

寺子屋法楽館』第二十九回─最近の司法の動き─] 2012/7/14(土)午後2:00~午後3:30
 平成7年7月、道場としていた仙台市小松島の古家で信徒の会である『法楽の会』を発足していただいた当山はその後、宗教法人の認証、境内地取得、墓苑開始、講堂建立と順調な発展を続けることができました。
 会員各位様の変わらぬご助力と、『ゆかりびとの会』の方々をはじめ、さまざまなご縁の方々のご誠心をたまわり、ここまで来られました。
 毎月発行している機関誌『法楽』は270号となりました。
 あらためて、心より、深くお礼申し上げます。
 7月に17周年を迎えるにあたり、皆様へ感謝の心をこめ、寺子屋法楽館』において記念講座を開催することにしました。
 第一弾として、会の幹事をお引き受けくださり、発足以来ずっと当山を見守り続けてこられた元仙台弁護士会会長犬飼健郎先生をお招きし、裁判員制度など、私たちが身近に感じつつある司法の問題についてわかりやすくお話ししていただきます。
 質疑応答の時間もあります。
 どなたでも自由に参加できます。
 どうぞ、お気軽におでかけください。
・場  所  当山講堂
・ご志納金   1000円(中学生以下500円)(『法楽の会』の勉強会を兼ねますので、会員の方は無料です)
・送迎申込  午後1時30分に地下鉄泉中央駅近くの『イズミティ21』前へお迎えの車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までにご連絡下さい。

[第二例祭] 2012/7/21(土)午後2:00~午後3:00
 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
 太鼓に合わせて般若心経3巻もお唱えします。
 参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き払い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 護摩木供養は1体300円です。
 ご自由に願いをかけてください。

[機関誌『法楽』作り] 2012/7/30(月)午前9:00~
 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。

[法話と対話「生活と仏法について」第二十一回] 2012/7/25(水)午前10:00~12:00
 釈尊の思いが凝縮されている『法句経』と、江戸時代まで寺子屋で用いられていた『実語教・童子教』とをテキストとし、合わせておりおりの出来事なども題材にした法話です。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)

[お焚きあげ] 2012/7/28(土)午前10:00
 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]
 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。
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※上記諸行事の日程は、ご葬儀などにより予定変更になる場合があります。



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2012
06.29

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十二回) ─心の本性と空─

20120629001.jpg

 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第二十二回目です。
 これは、「法話と対話の会『生活と仏法』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

「いかなる現象もそれは自身の心であり、心の本性は本来戯論(ケロン…無意味な思考や言論)より離れている。
 そのように理解して主客の諸相に気をとられてしまわない。
 それが菩薩の実践である」


 この教えは、どのように瞑想すべきかという具体的な内容です。

1 「現象」とは、私たちが目や耳など五官六根でとらえられる対象のすべてです。

 たとえば、コップがあって水道の水を入れれば口から飲めます。
 私たちはこのコップも水も見え、手に取り、確認し、飲めるので、コップも水も確かに〈そのとおりに在る〉と思っていますが、よく考えてみると、両方とも、実体は実にあやふやなものです。
 手から滑り落ちた瞬間にコップは姿を変え、役割は一瞬にして失われます。
 そして、ガラス片となったコップはもうコップとは言えません。
 水もまた、果たして本当に飲める水なのかどうか確認せずわからぬままに、昨日、蛇口から出た水と同じものに違いないと無意識に判断し、口にしているだけです。
 実際は、とんでもない物質が混じっていたとて、不思議でも何でもありません。
 そもそも、昨日、飲んだ水はもうとっくに自分の喉を通って分解されどうなったかもわからず、今、コップで受けた水は昨日の水とはまったく別ものなのです。
 
 また、水は誰にとっても同じ存在として眼前に現れているのではありません。
一見四水(イッケンシスイ)」の教えによれば、人間が飲んだり洗濯に用いたりする水は、天界の住人にとってはその上を歩ける水晶の床、魚にとっては住む家、餓鬼にとっては燃える膿なのです。
 また、励ましをこめた「がんばってね」という一言は、聞く人によって嬉しい力づけともなり、無慈悲な刃ともなります。
 このように、現象は決して固定した実体を持ってはおらず、すべては(クウ)です。
 そして現象をとらえる私たちのさまざまなありようによって、現象はさまざまに在り、すべては夢か幻のように思えます。

2 「心の本性」とは、私たちの心の奥底におわしますみ仏のことです。

 私たちは、み仏からそのおいのちもお心も分けいただいた〈み仏の子〉なので、いつでも、み仏そのものになれる可能性を持っています。
 み仏に成る、つまり即身成仏(ソクシンジョウブツ)するには、本性の邪魔をしている心の曇りをとり除けばよいだけのことです。
 この本性を仏性(ブッショウ)と言います。

3 「戯論(ケロン)」とは、仏性を忘れて、曇ったままの心であれこれ考え、あれこれ言い立てる私たち凡夫の日常的な思考状況です。

 仏性は(くう)に立ち、凡夫は、というあり方を正しく観ないで自分にこだわり、人にこだわり、モノにこだわり、ことにこだわります。

4 「主客の諸相」とは、認識する〈主〉としての自分と、認識される〈客体〉としての対象とのありようです。

 主客のありようにとらわれないとは、自分と対象と分けて認識する状態を超え、対象がありのままに五官六根へ写っている状態です。
 そもそも、自分というイメージも、対象というイメージも、そのように分ける分別(フンベツ)の心によって仮に考えられているだけであり、真実を観るみ仏の心に分別はありません。

 最近、(株)アーク・イメージギャラリーのパンフレットをいただき、カメラマン遠藤功之さんと話をしました。
 パンフレットに掲載されている日常生活の一瞬における〈人間の表情〉を撮った16枚の写真は、どこにでもいそうな人々のどこにでもありそうな表情なのに、いのちの勢いをシャワーのように発散しています。
 特に、小さなお子さんの笑顔が二つ並んでいる作品は圧巻で、思わず「後に続くこうした元気ないのちがあることを実感できるのは本当にありがたく、先に逝く者は大きな安心をいただけます」と言いました。
 遠藤さんはまっすぐにこちらを見て、「皆さん、普通の人ですよ」と微笑みます。
 俳優えなりかずきがテレビドラマ『渡る世間は鬼ばかり』に登場した頃を思い出しました。
 ホームドラマだから当然の演出とはいえ、普通の子供が普通に話しているような演技に、彼の大きな可能性を感じたものです。
 彼はきっと、自分を出す、自分を出さないといった意識のないところで、セリフを口にしていたのでしょう。
 パンフレットの写真にある人々の笑顔も皆、実に自然です。
 遠藤さんは「こうしてお話をしながら撮ったりもします」と笑います。
 冒頭の文章は一見、難しく感じられますが、実は、このように、私たちの生活のあちこちで普通に実践されているのです。

5 自分も(クウ)、目に見え耳に聞こえるものも(クウ)と観想し、余分な我(ガ)が顔を出さず、心が解放される時間の体験を重ねましょう。

 自分であれ、ネコであれ、車であれ、私たちは〈在る〉ものを実体視し、であると観られないので欲しい惜しいとこだわり、苦が生じます。
 私たちは、夢が一時的な心的現象であり、夢で会った人と今、会話できないことを知っています。
 松明を廻してできる火の輪は、輪に見えるだけであることも知っています。
 同じように、今、目の前にいる人もまた、自分の五官六根に写っている一時的な心的現象であり、一旦別れれば明日、会えるかどうかわからないのに、なかなかそうは思えません。
 空である勝手に相手を実体視して愛憎を生じ、苦しみます。
 我を離れて対象と一体になる時間を大切にし、空を正しくイメージする瞑想を行い、自他共に苦を離れたいものです。





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2012
06.29

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第108回) 希望 ─負けるな─

20120628011 (2)
〈座禅石の上に佇み、お釈迦様の修行像を眺めるミケ子の人生とは……〉

 故杉山平一氏は、悲しみ希望のありさまを短い詩『希望』に凝縮させました。

夕ぐれはしずかに
おそってくるのに
不幸や悲しみ
事件は

列車や電車の
トンネルのように
とつぜん不意に
自分たちを
のなかに放り込んでしまうが
我慢していればよいのだ
一点
小さな銀貨のような光が
みるみるぐんぐん
拡がって迎えにくる筈だ

負けるな

 夕べの時間は音もせずに暮れて行きます。
 光との比重は、砂時計の砂が上下のロートで入れ替わるように移ります。
 陽が昇り日が暮れるリズムは、生きものとしての私たちの身体にも心にも馴染み、いのちと一体になってもいます。

 しかし、「不幸や悲しみの事件」は、まるで星が流れるように、一陣のつむじ風が起こるように、前触れもなく突然やってきて、私たちを「のなかに放り込んで」しまいます。
 このリズム外のできごとは、誰にも決して避けられません。
 だから、できごとに対応する場合に共通しているたった一つの態度は「我慢」です。
 持ちこたえるのも、反撃するのも、立ちなおるのも、すべて我慢があればこそです。
 我慢がなければ崩され、崩れ、あるいは暴発し、伏したままになりかねません。

 私たちは、困難な状況に陥ると「まるで出口の見えないトンネルに入ったようだ」と表現します。
 詩人もトンネルと言いますが、トンネルには出口があると、あまりに当然なことをつけ加えます。
 必ず「小さな銀貨のような」明かりがポツンと前方に見える時がきて、やがて「ぐんぐん拡がって」まるで「迎えに」きてもらうかのように、光が私たちを包んでくれるのです。
 こうして救われる確信があればこそ、人間らしい我慢が可能になります。

 100才に手が届きそうなあたりでこの詩を書いた詩人はいったい何本のトンネルに入り、何枚の「銀貨」を見てきたことでしょうか。
 確かに、の向こうに見える小さな明かりの円は、金貨ではありません。
 まだ金貨の〈祝福〉はありませんが、銀貨の静かな、そして信頼できる〈安心〉として明かりは訪れ、着実に広がります。
 苦の海を渡ろうと必死になっている私たちにとって、100年近く生きた方から、必ず待っているもの、救うものがあるのだよと、いわば保証されるとは何と力強いことでしょうか。

 詩人は保証し、出口をめざせと叱咤(シッタ)します。
 ──前進力は〈希望〉。
「負けるな」



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2012
06.28

戒老記(老いの身を戒めるの記) ─その1・懺悔を第一とする─

20120628001 (2)

 だんだんと老いてきた。
 以前、のんびりと独り暮らしをしているはずの老婦人が「忙しくて……」と言っておられるのを聞いて訝(イブカ)しがったものだが、意味のわかる年代になった。
 これまで1分あればできていたことが、1分半かかるようになったのである。
 そのくせ、これまでどおりにやりたいだけでなく、やるべきこと、やっておきたいことが次々と脳裏に現れる。
 こうして、時間がなくなる。

 時間がなくなるとは、自分に与えられたこの世での時間がなくなることであり、居場所の次元を変える死が近づいている事実を確認することでもある。
 そろそろ、自分を戒めつつ、人生の最終コーナーを回りたい。
 私を誰よりも知っている私は、とても、自分を褒める気になどなれないからである。

 さて、戒めねばならないと思う時点で懺悔は始まっている。
 だから、まず、懺悔を第一として日々を送りたい。

 中年なって出家した私は、当然、その瞬間から懺悔の道へ入った。

「無始(ムシ)よりこの方、貪瞋痴(トンジンチ)の煩悩(ボンノウ)にまつわれて、身と口と意(ココロ)とに造るところの、もろもろのつみとがを、みなことごとく懺悔(サンゲ)したてまつる」


 勤行はここから始まるが、最初はどうしても〈一般論〉としてしまう心があり、懺悔そのものになり切れない。
 自分の愚かさにはとくと気づいているはずなのに、どこかで自己防衛がはたらいているのだろう。
 しかし、死が見えてくると、自己防衛の無意味さがひしひしと感じられる。
 そして、かりそめのカサブタが剥がれるように、すりむいたままで実は治っていなかった傷の数々が顕わになり、ヒリヒリする。
 自分の傷は、自分によって傷つけられた人の傷のありさまを教える。
 私はかなりアバウトな人間だが、この痛みに頬(ホ)っ被(カム)りをし、知らん顔でみ仏のおそばへ旅立つほどの勇気はとても、ない。
 もはや、その人の傷を直接癒す方法はない。
 しかし、魂と魂の間には、音叉が共鳴するような時空を超えた感応がある。
 感応を信じ、傷ついた人のために、自分の痛みを確認しつつ、癒す努力をしたい。
 それにはまず、カサブタを剥がす懺悔が必要である。

 ところで、「戒老記」を調べたら、故浜田晋医師の言葉があった。

老いているうちには、思ってもいないことがおこる。
 老いの設計をたてたり、戒老記などをものにする作家がいるが、おろかである。
 そんなに思うようにはいかない。」
「呆けることは、その人のもっているものをすべて失い無価値に至るとは考えない。
 むしろその人の根っこにある本質が顕になるのではないかというものである。
 たしかに美しく着かざられた衣ははぎとられる。
 完璧に構成された論理思考や高逼な見識もくずれ去る。
 高貴な人格も崩壊する。
 そしてなお生きつづけるのである。
 痴呆老人の世界は、精神病理学で一般的に論じられているような空虚な世界ではないのではなかろうか。
 なにかその人の、もっとも本質的なものだけがのこるような気がしてならない。」


 そして医師は、ある呆けたお婆さんが拒食症で食べものを受けつけなくなったが、特定の人が食事を与えると「大口をあけてたべる」例を挙げている。

「ただ一人の呆け老人は、ものの見事に、看護の心をもって生きている人と、単なる仕事でやっている人とを見分けたのである。
 呆けつつ生きる人間のおそろしさである。
 常識の衣をはいだところに彼らの『生』がある。」


 私はかつて、故扇畑利枝氏との一期一会で〈根っこにある本質〉を認め、ブログ「小さな滝 ─扇畑利枝氏のこと─」を書いた。
 見知らぬ呆けたお婆さんとして眼前にたち現れた氏の目光に宿る強さを忘れられなかった体験談である。
 呆けても、心の中で結晶した何かは破壊されずに残り続けて尊厳の証(アカシ)となり、その存在が気づく人には気づかれる。

 懺悔こそは、医師の言う「その人の根っこにある本質」をしっかりさせるために誰でもできる普遍的方法ではなかろうか。
 だから、本当は、出家者と同じくいつでも誰でも行えばよいのだが、自信と希望に満ちた若い頃は、なかなかそうは行かない。
 世間で戦うために自己防衛の心も強くはたらく。
 しかし、老いれば解放される。
 かりそめのカサブタで応急処置をしつつ戦う必要もない。
 いかなる者として自分の始末を他者へ委ねるか、その責任は自分にしかない。
 懺悔を第一として過ごしたい。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
06.27

大師信仰と大志信仰 ─毛利元就と大願成就─

netto583.jpg
〈隠形流(オンギョウリュウ)不壊(フエ)の構え〉

 日本には古来、根強い大師(ダイシ)信仰があります。
 善男善女が「南無大師遍照金剛」と唱えつつ歩く四国八十八霊場巡りはこの信仰心によります。
 ところで、日本人にはもう一つの信仰めいたものがあります。
 それが大志(タイシ)信仰です。
 今の教育ではどうなっているかわかりませんが、かつては、中学校あたりで、クラーク博士の「少年よ、大志を抱け」について教えられました。

 明治時代、博士は北海道大学の前身である札幌農学校の初代教頭を務め、自然科学一般と共にキリスト教的信念による人格の教育も推進されました。
 博士が日本を去る時に残したとされるこの名言を聞いた私たちは、皆それぞれに上昇志向を持って若い日々を過ごしたものです。
 青雲の志と言われるように、「大志」には心を膨らませる力があります。
 さて、故城山三郎は、この言葉について興味深い一篇を遺しました。
 それが表題の『大師信仰と大志信仰』です。

 誕生から逝去まで昭和の時代を生きた氏は、少年時代、陸軍大将や海軍大将になることを大志とする仲間と違い、先生に「何になりたいか」と訊かれて「日本一の金持になる」と答えたそうです。
 当時、「金持とは、当時一番軽蔑された言葉」です。
 自分の利益しか考えない我利我利亡者(ガリガリモウジャ)の典型が守銭奴(シュセンド…まるでお金を主人とする奴隷のようにお金にしがみつく人)です。
 自称「へそまがり」で、「『大志』とは本来、その程度のものではないだろうか」と訝(イブカ)っていた氏は、やがて、「大志」への違和感を史実によって解明することになります。

 氏は、毛利元就(モウリモトナリ)が子供の頃、厳島神社に天下統一を祈ったという代表的な「大志」の故事に疑問を投げかけました。
 理由は、「元就が子孫や家臣にくり返し強調したのは、そうした『大志』ではなく、『天下を望むな』『高望みするな』ということであった」からです。
 元就が行った二百二十六回の戦は「大志のために起こしたのではなく、足もとを固め、ひろげて行く過程の中で仕掛けたり仕掛けられたりした戦い」でした。
 その戦いは「終生、ひとつひとつていねいに」行われました。

「ていねいに戦うとは、事前に周到な準備をするだけでなく、勢いに任せて戦わないことである。
 勝って追撃に移るときも、元就は必ずそれ以上進んではいけない地点を定めておき、部下に厳守させた」


 これには唸らされ、『孫子の兵法』の『虚実篇』を思い出しました。

「攻めて必らず取る者は、其の守らざる所を攻むればなり。
 守りて必らず固き者は、其(ソ)の攻めざる所を守ればなり。
 故(ユエ)に善(ヨ)く攻むる者には、敵、其(ソ)の守る所を知らず。
 善(ヨ)く守る者には、敵、其(ソ)の攻むる所を知らず」

 
 敵の守りの盲点や弱点を衝いて攻めれば敵の防御を突破でき、敵が攻めて来られない所で守れば攻撃に負けないのです
 この稿はとてつもない締めくくりになっています。

「微なるかな微なるかな、無形に至る。
 神(シン)なるかな神(シン)なるかな、無声に至る。
 故(ユエ)に能(ヨ)く敵の司命(シミョウ)を為す」


 こうした微妙の極地に至れば、もう、軍隊と言っても形を超えていて、動きは神業で音も発しないほどになるとされています。
 要は、阿鼻叫喚(アビキョウカン…むごたらしい様子)のぶつかり合いがなくなるのでしょう。
 だから、敵を生かすも殺すも自由自在、意のままに死命を制することができる永遠の勝者になれるのです。
 こんなことは現実にあり得ないと思われますが、元就の戦いはかなり神業に近いところまで行っていたようです。
 城山三郎氏は詳細に分析しています。

「元就にも敗戦があり、自分の鎧兜を部下に着せ身代わりにして、ようやく命びろいするようなこともあったが、それは大内方に属し、自分の作戦が受け入れられないままに巻き込まれた戦いのときであった」


「ていねいに」の根本には不敗を求めて知略・軍略の限りを尽くす信念があるのではないでしょうか。
 同書はこう締めくくられています。

大望があれば、勢いにのって破竹の進撃と行きたいところだが、それよりも、目前のひとつひとつの戦いをていねいに戦い終える。
 そこに元就の大成の秘密があった」


 歴史のひだまで見透した氏は、大志や大望の危うさと、大成をもたらす道筋を観ておられました。

 自他を悩ます煩悩(ボンノウ)を、自他のためにならないではいられない大欲(タイヨク)へ転化する道筋も地道なものです。
 仏道へ踏み込む生き直しには相当の覚悟が必要であっても、それは大志とはかなりイメージが異なります。
 さあ、やるぞと拳を突きあげるのではありません。
 やっと見つけた唯一の道、決して後戻りのできない道へ粛々と歩み入るのが発心(ホッシン…仏道を歩む決心を行うこと)です。
 ていねいに自らを省み、縁となった教えをよく考え、唱えたり、書いたり、瞑想したり、手を抜かずにやってみるしかありません。
 煩悩に克ち、煩悩に負けないために、元就の教える「ていねいに」のイメージはとても役立ちそうです。
 城山三郎は、元就に「大成」を観ました。
 仏道を歩む人はていねいに修行し、仏神へ願いをかける人もしっかり精進し、〈大〉願〈成〉就をめざしたいものです。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
06.26

裸の自分になる ─相手の言葉を無心に聴く─

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〈気のせいか、どことなく、虎につながる威厳があります〉

 人生相談をお受けして皆さんの心を推しはかっていると、しばしばこんなことを感じます。
「人はどこかでになりたいと思う」
「人は心や身体に病気を持つと、の自分が顕わになる」
の魂をそのまま受けとめる以上の優しさはない」
 
 人は
真如(シンニョ)一点の曇りを受けて、人間となる」
存在なので、誰もがいびつであり、デコボコしています。
 み仏の子なのに、なり切れないものがあるので、人間として生まれます。
 それぞれ育ちも違い異なった人生を送っており、異なった〈流儀〉を持った人と人が接する時にあちこちとぶつかるのは当然です。
 自分以外の人とぶつからないで人生をまっとうすることは誰にもできません。

 そうした中で、真の安心を得るには、本来の真如となり一滴の水となって、生きながらにしてみ仏の大海へ還るのが一番ですが、これは誰でもどこででもできるというわけには行きません。
 
 そうなると、デコボコのままで安心を得るためには、互いに自らの生きる流儀であるデコボコを主張しないことです。
 世間の荒波と闘うための甲冑を捨ててみることです。
 私は『宗教は政治へ口出しすべきか(その2)』へ書きました。
「私たちは、名も無き人の心の叫びと名だたる人の堂々たる主張とを平等に聴き、客観的視点からありのままに理解し、判断する精神的レベルを目指したいものです。
 ここにこそ、正しい意味でのヒューマニズムの原点があると信じています」
 相手によって、自分の都合によって勝手な聞き分けをせず、無心に相手の言葉を聴いて相手の心になる。
 これが、自分がになる第一歩です。
 気まま放題、言い放題をやればになれるのではありません。
 その反対に相手の言葉を無心に聴く時、いつの間にか我(ガ)がするりと抜け落ちるという形でになっています。

 こちらが裸になれば、不思議なことに相手もいつの間にか裸になっています。
 デコボコがぶつかり合わず、大いなる解放を得られます。
 しかも、お互いに──。

 伊集院静氏の名作『いねむり先生』に、裸で踊るシーンがあります。
 心を病みアルコールに溺れた男性が、田んぼで暴れ出しました。
 先生も田んぼへ入って抱きつき、やがて、服を脱ぎながら一緒に踊り出します。
 誘われた著者も月光を浴びながら踊っているうちに、三人とも、心に巣くっていた闇を解き放っていました。
 肉体の裸と心の裸があいまって、救いを招いたのです。

 どうすれば〈裸の自分〉になれるか、よく考えてみましょう。

(この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)



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2012
06.26

お母さんを頼む ─父親が息子を大人にする方法─

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〈虎を一族に持つ者の堂々たる歩み〉

 人生相談に来られたTさんの余談です。
「いつからでしょうか。
 夫は、仕事で遠出をする時に、息子へ『お母さんを頼むよ』と言うんです。
 欠かしたことがありません」
 お子さんはまだ十代半ば、まだまだ「お父さん」「お母さん」と甘えたい年齢です。
 しかし、お父さんの言葉は、芽生えかけている〈男性〉としての任務矜恃責任といった人格を形成する上で非常に大切な意識へ適切な刺激と養分を与え、すばらしい教育になっています。
 彼は思うでしょう。
「―――俺は男だ」
 親子という関係を超えて、男が男に信頼されるという誇りが芽生えます。
 そして、母親は、その懐が恋しい存在であると同時に、男性である自分が守らねばならない優しく尊い女性として彼の心にイメージされ、彼は、きっと無意識のうちに自分を強く凛々しい男性である、あるいはそうありたいとイメージするはずです。
 一人の男の子は一人前の男性になるという理想的なパターンです。

 これをお聞きしただけで、もうこのお子さんは大丈夫と太鼓判を押せます。
 まだ会ったことのないご主人の男同士の信頼感をベースにしながら息子を育てる智慧、そして、妻への思いやりの深さには脱帽です。
 夫の賢さを世の男性に見習っていただきたいし、こう言わせる妻の姿勢も世の女性に見習っていただきたいと心から思いました。

 ちなみに、Tさんは決して弱々しくはありません。
 しっかり者なのに夫にこういう心を起こさせるものは女性としての可愛さであり、それは年齢と無関係です。

(この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)



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2012
06.26

7月の真言

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 7月守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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2012
06.26

7月の守本尊様

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 7月は、小暑(ショウショ)と大暑(タイショ)の文月(フヅキ…7月7日より8月6日まで)です。
 7月は未(ヒツジ)の月なので、守本尊大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来(胎藏界…タイゾウカイ)様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 天にあって全体を観る金剛界の大日如来様に対して地にある胎藏界の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。

 また、大日如来様は、未年、申年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として両手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

21080819 012

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉



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2012
06.25

7月の聖語 ─他力と自力は拍手の両手─

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 今月の「お大師様の言葉」です。

「一手、拍を成さず、片脚(ヘンキャク)歩むことあたわず。
 必ず彼此(ヒシ)の至誠によって、すなわち感応(カンノウ)をいたす」


(片手だけでは拍手ができず、片足だけでは歩けない。
 同じように、仏神へ頼むだけでなく、自らも襟を正す誠心があって初めて願いは達成される)

 明治以降、西洋文化に憧れる知識人などから、密教祈祷の現世利益宗教であるというふうな見方が行われてきた面があります。
 しかし行者として日々、法務を行い、『密教アーカイブ』が目利き人として紹介している井筒俊彦、湯川秀樹、内藤湖南、岡倉天心、幸田露伴、菊地寛といった面々、あるいは今に生きる目利き人の代表格である松岡正剛氏などの文章を読んでみると、そうした見方がいかに一面的で皮相的であるか、驚くばかりです。
 待ち受けている深みに怖れず、素(ス)の心で踏み込んで行く人へ、お大師様の世界が開けます。
 先入見があれば、怯み、疑い、怖れ、言い訳が生じて、自分の世界に留まるしかありません。
 もしもお大師様に関心を持ち、高名な『空海の風景』(司馬遼太郎著)を読んだ方にはぜひ、さほど高名でないはずの『空海ノート』(長澤弘隆著)と『釈尊になった空海』(松澤浩隆著)も併せ読んでみていただきたいものです。
 少し古いところでは『小説・弘法大師物語』(直木三十五著)が読みやすく、再登場した『弘法大師とその宗教』(菊池寛著)もお勧めです。

 さて、本題ですが、私たちがよきことを行うためには、まず、よきことを考え、願い、実践し、思わぬ雨風に遭えば、やがて祈りが伴います。
 幼い我が子が高熱に浮かされている時、何ものかへ祈る心になりませんか?
 一心不乱に勉強してきた我が子が受験会場へでかける時、何ものかへ祈る心になりませんか?
 剛胆な性格で宮城県内の同業者に一目置かれていたAさんは、生前、戦闘機に乗って太平洋戦争を闘った体験について述懐されました。
「敵艦に爆弾を投下してから反転上昇する時が一番怖い。
 後から弾が飛んでくる中をがむしゃらに逃げるしかなく、完全に運任せ。
 生還した仲間は『お母さん!』とか、『神様!』とか、『南無三(ナムサン)!』とか思ったり、叫んだりしたものです」

 こうして思わず祈る時、私たちは我(ガ)を捨て、すがっています。
 密教には、すがる心の内容に応じて受けとめ、共に仏神へ祈る方法が確立しています。
 現世利益を軽視するむきもおられますが、なぜ、至心に仏神へおすがりすることが問題なのでしょうか。
 たとえば、自分が病気になり、より効果的な治療をしてくださる医師や病院を求める時、すがってはいませんか?
 あるいは、必ずしもほめられるものではありませんが、我が子の受験や就職や入院に当たって、さまざまなつてをたどる時、すがってはいませんか?
 人にすがり、モノや金にすがってなお、不安な時、あるいはそうしたすがるもののない時、私たちは最後のよりどころとして、目に見えぬものにすがりたくなります。
 それは、自分のためであれ誰かのためであれ、自然で、なおかつ高慢心を脱するチャンスでもある、〈まごころの動く時〉です。

 お大師様は、「まごころの動く時、自らを省みよ」と説かれました。
 決して、「ただ、すがれ」と説いてはおられません。
 我(ガ)を離れてすがる心が祈る片手なら、自分自身を省みて生き方を正すのがもう一方の手であれ、と説かれています。
 目的へ向かって歩むのが片足なら、懺悔(サンゲ)をもう片足とせよ、と説かれています。
 密教は決して単純に、拝め、すがれ、というものではありません。
 人生のギリギリの場面でこそ、自らの真姿を誠実に見直し生き方を変えよと説き、その具体的な手ほどきを行います。
 手段のベースは、空(クウ)を中心とした釈尊に始まる思想であり、身体と言葉と心の用い方には変化し発展し続ける仏教2500年の精華が網羅され、整理されています。

 至心に祈りましょう。
 そして、至心に自らを省みましょう。



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2012
06.24

「なぜ?」と問いましょう 宗教と科学の共通点─

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 私は最近、法話の方法として、まずテーマを提示し、それから「なぜでしょうか?」「何でしょうか?」と一言はさんでお聴きくださる皆さんの頭にあるいつもとは異なる思考回路を開いていただき、それはこうなのです、と信念を述べるようにしています。
 語る私自身が、その一瞬をスタートとし、皆さんと共にあらためて考えなおしつつ言葉を紡ぐのです。
 こうするようになったのは、自分自信の愚かさにだんだん深く気づくようになったからです。
 自分の血肉になっている言葉をお伝えする以上の誠意の示しようはなく、そうすれば、まじめに耳を傾けてくださる善男善女にお許しいただけるのではなかろうかと思えるからです。
 真剣勝負である法話において、「なぜ?」と発する瞬間は、相手の間合いへ飛び込んでいます。
 ──生きるか死ぬか……。
 決して後戻りはできません。

「修法の最初に、『おーん』と始まる声明を唱えます。
 皆さんから、
『まるで音楽を聴いているようでした』
『何か次元の違うところへ引き込まるような気がしました』
『あの瞬間から雰囲気がすっかり変わりました』
などと言われ、あれは何ですかというご質問もたびたびあります。
 おわかりの方はおられますか?
 どうやら皆さん、心で首を横に降っておられるようですね。
 あれは、み仏方をお讃えし、この場をみ仏の光で満たすためのご挨拶なのです。
 あらゆるみ仏の根本となり総体でもある方を大日如来とお呼びしますが、その徳を司る方四方におられ、それらの徳が声に応じて目に見えぬ光となり、東・南・西・北と順にこの場を照らしてくださるのです。
 だから、その先の修法はすべて、光の中で行われます。
 魔ものを寄せつけぬ結界が張られ、そこがお慈悲の光で満たされるのですから、修法の場は皆さんが感じられるとおり異次元なのです。
 今度、修法の場に入られる時は、このことを頭の隅に置いてお座りになられれば、一段とありがたみが増すのではないでしょうか」

 こんな短いお話でも真剣勝負です。
 そうした真実をふまえていなければ嘘になるからです。

 お聴きになられる皆さんにも「なぜ?」「何?」などを心に抱いていただきたいと切に願っています。
 そうすれば、短かな言葉でも「そうか」「そうだよな」と心をステップアップさせる鍵になるかも知れないからです。
 あるいは、「それはおかしい」「私ならこう思う」などとご自身の考えを深めるきっかけになるかも知れないからです。

 私は故日高敏隆氏の「『なぜ』をあたため続けよう」に記されたエピソードが忘れられません。
 動物行動学という分野を切り開いた氏は、生きものたちに接する現場から「なぜ?」が発せられ、さらに現場体験を重ねることで「なぜ?」が解消されてゆくやり方について、こう書き記しています。

「東大の理学部に入って、その話をすると、『なぜ』と問うてはいけないと言われた。
 なぜいけないのですかと聞き返したら、『なぜ』を問うことはカミサマが出てくる話になってしまう。
 HOW(どのように)は聞いてよいが、WHY(なぜ)を聞いてはいけないといわれ、そのことを疑問に思った」
「科学を志す人には、なぜということしかない。
 おおいに『なぜ』に取り組めばいい。
 自分の『なぜ』を大切にあたため続ければいいと思う」


 オウム真理教事件をずっと変わらぬ真摯な姿勢で見つめ続けてこられたジャーナリスト江川紹子氏は、今も「オウムとは何だったのか」と問います。
 氏は、6月22日付の産経新聞でこう述べます。

「オウム事件がなぜ起きたのか。
 それを一言でいうのは難しい。
 ただ、この得意な事件を起こした信者らは、はじめは『ごく普通の人たち』だったことを伝えておかなければならない」
「人間は弱い。
 恐怖や不安につけこまれ、誰もがまっとうな思考を保っていけるかといえば、私はそんなことはないと思う。
 いまは景気も低迷し、不安を抱える人が多い。
 原発事故で、放射能が怖い気持につけ込む『似非(エセ)科学』のようなものまで出てきている。
 当時以上の危うさを感じる。
 同じ轍(テツ)を踏んではならない。」


 氏の言う「ごく普通の人たち」は、きっと、人生を根本から問いつつ入信したのに、どこかで「なぜ」を失ったのではないでしょうか。
 個が主体性を失う時、個も集団も危うくなります。
 真の宗教は、決して個を失わせるものではなく、それぞれをかけがえのない個として輝かせるものです。
 チベットの惨状を描いた名作『チベット チベット』などを観てもわかるとおり、行者たちは互いに厳しい問答を行います。
 瞑想的修行と共に、自由な思考的訓練もギリギリまで行われます。
 最近、かいま見る中国当局のチェックをくぐった観光用の問答光景にはもはや、訓練の緊迫感がありません。
 本ものが禁止され、さらし者のように偽ものを行わせられつつ生きている行者たちの苦悩・苦衷は想像を絶します。

 宗教も、科学も、「なぜ」を問い続けます。
 問われてこそ、真実はその姿を顕します。
 問い続けましょう。



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2012
06.23

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その42)─鳥の目・虫の目─

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〈厳粛な例祭の後は皆さんがうちとけ、笑いの渦も嬉しいティー・タイムとなりました〉

 江戸時代まで寺子屋などの教材として広く用いられていた『実語教・童子教』を見直しましょう。
 一度聞いたら忘れられない警句などがふんだんに含まれています。

愚者(グシャ)は遠き慮(オモンバカリ)無し  
 必ず近き憂い有(ア)るべし
 管(クダ)を用いて天を窺(ウカガ)うが如(ゴト)し  
 針を用いて地を指すに似たり」


(愚かな人は、広く深く未来まで見すえた思慮がはたらかない。
 目先の小さな範囲であれこれと思い悩んでいる。
 それは、細い管の穴から天を覗いて、見える範囲を天であると思い込むようなものである。
 針で大地を刺してもほとんど意味がないように、狭い見識から広大なものごとに挑んで見当外れの結果となったり、高い見識に挑んで的外れの判断をしてしまうものである)

 こう教えられれば、「そうだな」と意味は理解できます。
 では、どう理解できたのかとなると、なかなか難しくなります。
 たとえば、原発事故を考えてみましょう。

 そもそも、原発は国策として国が総力を挙げて推進してきた国家事業であり、総理大臣自身がわざわざ外国で技術の売り込みまでやるほどの力の入れようでした。
 科学技術はもちろん、あらゆる分野の専門家が集められ、いわば〈これ以上ない〉態勢でやってきたはずです。
 そもそも、愚者の反対は智者です。
 この教えによれば、智者は、「管」の穴からではなく、広く見渡せる視野を持っているはずです。
 この教えによれば、智者は、針で地を刺すような無意味なことは行わず、確実によき結果がもたらされるであろう賢明な行動をとるはずです。
 原発は、確かに、そういう人々と目されるプロやエリートが担ってきました。
 しかし、原発はあえなく大惨事を起こし、国民の信頼は完全に揺らぎました。

 ここで大きな問題となるのは、「もしもこうなったら」という原発推進に都合の悪いシミュレーションが脇へ置かれ、〈起こらないはず〉として黙視されてきたことです。
 また、事故が起こってから現在に至るまでの経過において、いかに日本人にとって未体験の過酷な状況であったとは言え、いかなるものかと疑問を持たざるを得ない対応が重ねられてきたことも問題です。
 最高の智慧を持っているはずの人々が技術の粋を尽くし、システムを磨き上げ、国家権力の直接指導に近い形でやっていながら、事故を防げず、事後の被害は拡大しました。
 私たちの智慧の限界といったものをつくづく感じさせられます。

 そうすると、次の疑問が起こります。
○疑問1 こんな私たちにこの先、原発を充分に制御できるという根拠と確信がどこからかもたらされ得るか?
○疑問2 愚者と智慧の違いは、見識の高さや、こうすればこうなるというつながりを観る力にあるのか?

 疑問1については、懐疑的、あるいは悲観的な方々が原発を廃止しようと声を上げつつあります。
 私たちの生活はもちろん、文明のあり方にもかかわる大問題であり、専門分野における知識や成果の集積内容がいかに素人には理解し難いものであろうとも、広く国民が理解できるような議論が行われねばなりません。
 疑問2については、鳥瞰図(チョウカンヅ)と虫瞰図(チュウカンヅ)を想います。
 鳥瞰図とは、大空を飛ぶ鳥の視点から眺めた世界であり、虫瞰図とは、地を這う虫の視点から眺めた世界です。
 虫瞰図という言葉は、かつてベトナム戦争反対運動が世界中で起こっていたおりに活躍した故小田実の造語とされています。
 まことに異例なことに、出棺の際、拍手で送られた故人は、著書でこう述べています。

「虫は地上を這っているけども、同時に、目は空を見上げていて、大きな宇宙を眺めている。
 それが『虫瞰図の運動』ではないかと思うのです。
 逆に言えば『鳥瞰図の運動』は小さな運動です。
 鳥はいつも地上のどこかに降りようとして、下をコソコソ探り回っている。
 地上に限定されてしまうんです。
 かえって『鳥瞰図の運動』のほうが、小さな問題にとらわれてしまって動きがとれなくなる。
 それに対して、『虫瞰図の運動』は宇宙を眺めている。」

「私は、人間の精神の中で大事なものに認識と思考があると思うんです。
 認識とはものを見定めることです。
 思考とは考えることです。
 認識すること、つまり事柄をできるだけ正確に、こう言うと誤解を招くかもしれませんが、科学的に、的確に見定める。
 はじめから主観を入れないで客観的に物事を見さだめる。認識が正確でないと物事が動かない。
 しかし、認識だけでは駄目です。
 認識の上に組み立てるのが思考です。
 これは自由でないといけない。
 認識はあくまで冷静に物事を見さだめる。
 その認識のもとに自由に物事を発想する、自由に動く。
 これは虫の視点と同じなんですね。
 認識は地の上を這って、這うことによって作っていく。
 しかし、目は上を向いて宇宙を眺める、大空を眺める。
 これは自由ということです。
 この二つのことが形成されるとき、人間の思考は自由に、すばらしことも考えることができる。」


 私は当時、左翼思想にくみせず、故人の政治活動に共鳴していたわけではありませんが、ずっと頭を離れないでいた虫瞰図の意味がわかるようになったのは托鉢行に入ってからでした。
 虫のように自分の足を用い一軒づつお訪ねするお宅で耳にする皆さんの地に着いた言葉は、一行者として生きて行く上でこの上ない宝ものになりました。
「もしも自分にあの時代がなかったら……」
 虫瞰図のない自分を想像すると恐ろしくなります。

 この教えのテーマである「愚者と智者」を考える上で、「鳥瞰図と虫瞰図」は一孝にあたいするのではないでしょうか。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2012
06.22

亡き人への恩返し ─修行としての供養─

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 私たちは親を亡くすと悔いが残るものです。
「ああ、もっと親孝行しておけばよかった」
 それほど親不孝でなかった人も、自分が親不孝した点を指折り数えたりします。
 枕経の後で、お戒名をご本尊様から授かるために「故人はどういう方だったのですか?」とお訊ねする時、ご家族が涙ながらに話されます。
「気丈な母には反抗ばかりで、ずっと心配かけ通しでした」
と肩を震わせながら嗚咽をこらえる白髪交じりの娘さん。
「子供の頃、仕事一辺倒の親父に遊んでもらった記憶はほとんどなく、ありがとうを言わないで送ってしまいました」
とあまりに早い別れで呆然としている30代の息子さん。
 私などは今でも、高倉健の唄った『唐獅子牡丹』の一節が忘れられません。
「♪積もり重ねた不幸の数を何と詫びようかおふくろに 背中(セナ)で泣いてる唐獅子牡丹」

 しかし、心配は要りません。
 親や恩人を送ってからもしっかり恩返しはできます。
 それには、〈修行としての供養〉を行うことです。

 過日も、ご遺族からご質問がありました。
「お仏壇を用意してから毎日、ご先祖様にご飯を欠かさないできました。
 今回、家族を亡くしたのだからしばらくお仏壇を閉じておかねばならないと言われました。
 いったい、何日、拝めなくなるのでしょうか?」
 お答えしました。
「確かに、地方による言い伝えなど習俗はいろいろあるようです。
 しかし、仏法上、ご不幸によって仏壇を閉じねばならない理由はありません。
 今度逝かれた故人をお導きくださり、呼吸をとぎれさせない私たちを一瞬も欠かさずお守りくださっているのがご本尊様であり、ご先祖様だからです。
 また、毎日ご飯を捧げておられるようですが、その深い意義は、私たちへ自分のいのちを与えて食べものとなる生きものに感謝し、心身を調え、人間としてちゃんと生きて行く決心を捧げるところにあるからです。
 そうして感謝の心を忘れず、食べものや飲みものを大切にし、奪い合わず、落ち着いて毎日を送る姿を見ていただけば、故人もご先祖様もご本尊様も、きっと安心し、喜ばれることでしょう。
 ご飯と一緒に感謝の心もお供えしてこそ、真の供養です。
 真の供養は自分自身の修行でもあります。
 さらに言えば、先に逝かれた方は私たちへ修行の機会を与えてくださったのですから、恩返しをしたいならば、きちんと機会を生かして修行せねばなりません。
 これが最高の恩返しです」
 つまり、お線香を捧げて精進を誓い、実際に精進して生きることなど、六波羅蜜(ロッパラミツ)の供養修行を行うことによって、いつまでも恩返しができるのです。

 また、恩返しの相手は特定の故人だけではなく、時間的空間的に拡がりもします。
 何かを捧げ、誓う相手をご本尊様へ、あらゆる御霊へと拡げることによって、その功徳は対象を選ばなくなり、真の菩薩(ボサツ)行となります。
 修行によって自分を高めれば、その生き方は縁となる人々へ必ずよき影響を及ぼします。
 お線香のように精進する人、花のように忍耐する人、水のように布施の心で奉仕する人、こうした人々の功徳は知らぬ間に対象を選ばずに福徳をもたらし、真の菩薩(ボサツ)行となります。

 こうして、修行としての供養は無限の恩返しとなります。
 決して「もう、遅い」のではありません。
 さあ、実践しましょう。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
06.21

2012年7月の運勢

20120620 001

 2012年7月─平成24年7月(文月…7月7日から8月6日まで)─の運勢です。
 運気の流れを参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 この世にはいつも、尽き果てるものと、新たに始まるものがあることを観ておきましょう。

 この世の万物は実に諸行無常、変化の相を免れるものは何一つありません。
 オウム真理教事件の菊池容疑者や高橋容疑者の顔の変容は、一部自分から手を加えた部分があったとはいえ、無常の真実を如実に示しています。
 ホームセンターのレジに並んで眺めていると、ふしくれだった指で建築金物などを並べる中年男性は、黒く日焼けした顔から飛び出そうな自信満々の目つきであたりを睥睨し、赤児をおぶった髪の短い母親は身体を揺らしてあやしながら会計を済ませ、手にいっぱいのおむつなどを抱えて足早に駐車場をめざします。
 こうした活気に包まれているうちに、生活の気配も生きものの気配も失せた浜を思い出します。
 仏壇すら取り出せず、玄関前での供養を受けて撤去を待つばかりとなった家の傾きを思い出します。
 また、保険金や公的援助によって憧れの車を手にし、交通安全のご祈祷に来られた若者の神妙な顔も、それまで病気一つしたことのなかったご老人が震災後見る見るうちに生きる意欲をなくし、周囲があっけにとられている間にさようならと逝ってしまって行われたご葬儀の光景も思い出します。
 実にこの世では、日盛りの時期もあれば、暗がりに閉じ込められたようになってしまう時期もあります。
 俳人松瀬青々(マツセセイセイ)は、
「日盛りに蝶のふれ合ふ音すなり」
と詠みました。」
 肌を焦がすように照りつける陽光の中でなお、はばたく蝶は、小さなはばたきの一回一回に、陽光をしのぐほど激しくいのちを燃やします。
 そうした蝶同士がふれ合っている世界は、もうこの世を遙かに超えた幻と言うしかありません。
 そのように、日盛りも暗がりも、有為転変に表れる幻のような世界です。
 皮膚が輝くように張っている青年は、変化があればこそ成長も発展もあると眉を上げ、はたらきざかりの壮年は、自分のかかわりで何かが動く実感と積み上がる成果に生き甲斐を覚え、役割を終えつつある老年は、次々と去りゆく者たちを見送ることによって、自分の行く先への納得を徐々に深めます。
 いずれにしても、無常の鬼に連れ去られた先人を想い、今、生きて在ることのありがたさを忘れず、日々を過ごしたいものです。

二 ふたたび巡り来る季節を観て、過去と同じ失敗へ向かってはいないか、振り返りましょう。

 私たちはどうしても、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ものです。
 失敗した当初は、これではいけないと強く心に期したつもりでいても、好みの状況に飛びつく姿勢を自分から追い出しておかないと、また、やらかしてしまいかねません。
 失敗という結果が出るまで、対象にとらわれ離れられないでいた自分の心を変えなければ、対象から離れたりして一時的にはうまくいったとしても、それは対症療法でしかありません。
 もう大丈夫などと甘く考えていると、再び現れた〈対象〉に負けてしまうかも知れないのです。
 つまり、心を変えねばならず、それには、ウオーキングによって身体の健康管理を行うのと同じく、心の訓練が必要です。
 訓練ではまず、心底から懺悔をせねばなりません。
 次に同じ罪を二度と犯さぬ決意が必要です。
 そして、決意は自分で〈思う〉だけでなく、み仏へ帰依し、〈約束する〉ことです。読経などでそれを堅固にしましょう。
 おりにふれ、空(クウ)や無常を学んだり考えたり、「人の振り見て我が振り直せ」で、自分の慈悲心はどうなっているかを省みたりすることも大切です。

 今月も六波羅蜜(ロッパラミツ)行で開運しましょう。
 皆さんの開運を祈っています!

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は自分を省みて足元を固め成功します。
 不精進の人は外へ、遠くへと爪を伸ばして利を求め、近くにある宝ものを見落としがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人はつき合う相手を間違わず、相手の信用も生きて発展します。
 不精進の人は好き嫌いで交わり、失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は変化を正確に見極めて無事安全です。
 不精進の人は変化に惑わされて揺れ動き、軽々に行った約束ごとなどで失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は自分から善行へと進み、徳を積んで発展します。
 不精進の人はふとしたことからもくろみが崩れ、「元の木阿弥」になりがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は志操堅固にして黙々と励み、成功します。
 不精進の人は中途半端にあちこちへ突撃し、どれもこれも空振りに終わりがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は忠告がよく耳に入り、早めに安全対策を行って無事安全です。
 不精進の人は欲にかられてどこまでも独断専行を改めず、失敗しがちです。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」
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2012
06.20

オウム真理教事件の手配写真とレビー小体型認知症

 オウム真理教事件の菊池直子容疑者(40才)と高橋克也容疑者(54才)の逮捕では、多くの方々が顔の変容に驚かれたことでしょう。
 私もその一人です。
 この二人については、現象世界の精妙さを最も詳しく見分けている人々と目される作家をなりわいとする平野啓一郎氏(36才)でさえ、「隣に住んでいても絶対にわからない」と匙を投げています。
 6月19日付の朝日新聞によれば、氏は最近、「バス停の壁に貼られた手配写真を1時間ほどじっくり見たことがある」そうです。
 おそらく、壁に穴が開くほどの眼力で特徴を見分け、脳裏に焼き付けたことでしょう。
 それでも、菊池容疑者については「すれ違っても見逃す。体重が変わるとこうも印象が変わるのか」と驚いています。
 高橋容疑者については「手配写真が少し若い頃のもので、当時から印象がだいぶ違っていた」と述べています。
 今年2月に公開された似顔絵と比較してすら、別人ではないかと疑う気持になった方方もおられたことでしょう。
 私もその一人です。

 同紙は、この件について明らかな〈機械の勝利〉を報じています。

「あるメーカーのシステムが、高橋、菊池容疑者の手配時と最近の写真を比較した。
 両容疑者とも、同一人物と断定できるレベルではなかったが、保存してある約150人の顔との比較では、ほかの誰よりも似ていると判定された。」


 私たち人間はまず、顔の輪郭や目と眉の印象などに気を取られますが、機械は、「加齢によって変化する顔の輪郭よりも変化しにくい目の位置など顔の中心部のデータを重視し、顔のでこぼこも加味する」そうです。
 別のメーカーの防犯カメラの技術を用いれば、「防犯カメラでコマ撮りした3600万件の顔画像からわずか1秒で探せる」というので、またまた驚かされてしまいます。
 男女も人種も、あるいは都会の住人か田舎の住人かすら見分けてしまう人間の能力に不思議さを感じていた私などは、何度も何度も新聞を眺めてようやく手がかりを見つけ、ため息をつくしかありません。

 さて、当山への人生相談や、ご祈祷、あるいはお焚きあげのご依頼の中に、異様な写真の問題が少なからずあります。
 その中で圧倒的多数を占めるのは、写っているはずのない人の顔が見えるというケースです。
 状況に応じてさまざまな修法を行いますが、当然ながら、深刻な何ごとかがからんでいることはほとんどなく、気のせいだけれども不安を払拭しておいた方が良いといった形で決着します。
 それにしても、私たちはどうしてこれほど異様なものを見つけてしまうのか?
 写真を〈見誤る力〉にも不思議さを感じていたところ、5月31日付の河北新報には「やはり!」と膝を打たさせられました。
 オカルト好きの方々には実も蓋もない話ですが、異様なものが〈見える〉のは心の病気に関係がありそうなのです。
 
 何しろ報道の題が「顔や人 見えたら要注意」だからドンピシャリです。
 東北大大学院医学系研究科の森悦朗教授の研究グループによれば、「レビー小体型認知症」を他の認知症と識別する方法として「患者に風景や動植物などの写真を見せ」、もしも「被写体とは関係のない顔や人の形が見えた場合、レビー小体型の可能性が高い」とされています。
 このタイプの認知症はアルツハイマー型の認知症との識別が難しく、投薬法も異なるというのですから、これは大発見です。
 以下、転載します。

「グループは、壁のしみや雲の形が人や動物の顔に見える現象『パレイドリア』に着目。
 平均年令75歳のレビー小体型患者、アルツハイマー型患者各34人と健康な20人を対象に、ピントをぼかしたカラー写真25枚を示し、どのように見えるか質問した。
 その結果、4枚以上で被写体とは無関係な『何かに見える』と回答した人はレビー小体型では全員、アルツハイマー型は4人、健康は人ではゼロとなった。
 アルツハイマー型の4人のうち2人は後にレビー小体型と診断され、90㌫以上の確率で症状を識別できた。
『何かに見える』と回答した人の8割以上は、人の形や顔に見えると答えたという。」



201206200022.jpg

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〈河北新報さんからお借りして加工したチェック用写真です〉

 怪しい心霊写真をさんざん見慣れている私も一抹の不安を抱きながら例示の写真二枚を繁々(シゲシゲ)と見ましたが、おかげさまで何も発見できずホッとしました。
 もちろん、見えたらただちに病気ということではないでしょう。
 もしも見えたならば、〈~に違いない〉と自分や指摘した人の超能力を軽々に信じて不安を増幅させたりせず、そういう〈気がする〉と余裕を持って対処すればよいのではないでしょうか。
 今回のオウム事件、そしてレビー小体型認知症、いずれにしても、私たちの知覚はいかにあやふやであるか、大いに考えさせられました。
 もしも彼女や奥さんが夜叉に見えた諸氏は、くれぐれも慌てませんよう。



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2012
06.19

宗教は政治へ口出しすべきか(その2)

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 前稿「宗教政治へ口出しすべきか(その1)」の趣旨は概ね、以下のとおりです。

 政治すなわち、数を頼りとし妥協を旨とする〈大人の世界〉において、宗教的信念を共にするグループが宗教的観点を第一にして右往左往することは、政治政治の作法によって動かすためにプラスかマイナスかと言えば、マイナスではないかと考えています。
 それは、当然ながら、政治宗教は拠って立つ原理が異なるからです。
 いかに高徳な宗教者であっても、優れた政治的知見を持っているとは言えません。
 いかに実力のある政治家であっても、優れた宗教的信念を持っているとは言えません。
 また、信徒一人一人の心の面から考えれば、仲間はすべて同一の本尊を信じているので一致団結した宗教的活動は自然に行えても、個々の政治的問題への理解や判断が同一であるはずはなく、一致した政治的活動においては〈本心と異なる〉場面が不可避であり、上層部の指令によって内心と行動を分裂させられるからです。
 宗教の名において心に欺瞞を生じさせるのです。
 また、宗教においても政治においても最優先されるべきは、一人一人が〈主体的に〉納得を求め信念に基づいた行動を行うことであり、宗教的縛りが政治的判断をトンチンカンなものにさせたり、政治的判断が宗教心を歪めたりしてはならないからです。
 一人一人が〈主体的に〉納得を求め信念に基づいた行動を行える日本は、その良き成果を示しつつ、理想的社会構造を持った先進国として世界をリードし得ると考えているからです。

 では、宗教者は政治へ無関心で良いか、メッセージを発する義務はないのかと言えば、そうではありません。

 はからずも、6月18日付の産経新聞は、京都大学教授佐伯啓思氏の「政治は何をするものなのか」を掲載しました。
 氏は、政治とは何かという問いを最初に発したとされるプラトンやアリストテレスの思いから現代の政治状況までを述べます。

「彼らが共通にもっていた思いは、政治とは、何か善きものを実現するための共同の活動であり、そのためには、徳をもった善き市民が政治にあたらなければならない、という考えであった。
『善きもの』とは何かといっても定義は難しい。
 しかし、『善き国家』『善き生活』という何らかのイメージは人々の中にもあり、それを明確に提示するのが、政治家であった。」
「しかし、今日の政治に人々が期待するのはもはや『善い生』や『善い国家』の実現なのではない。
 近代国家における政治は、何よりも国民の生活の確保、国の安全保障を旨とする。
 国民の生命、財産の安全確保、さらに社会保障、これが政治の第一義的な役割とみなされている。
 どうしてこの転換が生じたのだろうか。
 それは、何が『善い』とみなすかは個々人の自由だとする自由主義〈リベラリズム〉が近代の原則になったからである。
 だから、『善い生』中身は人によって違うし、それに『善い国家』のイメージも人によって違う。
 それを一つに集約することはできない、というのである。」


 氏は、アメリカの政治学者レオ・シュトラウスの主張「近代社会では政治のレベルが著しく引き下げられ」「大きな構想をめぐって争ったり、理想的国家への接近を意図するという『大きな政治』は不可能になる」を紹介しています。
 そして指摘します。

「『善き社会』のイメージを構想することは難しくなった。
 しかし、それがまったくなければまた、政治的な意志決定はささいな利害対立や利害調整に終始し、紛糾し、結局は政権構想なき政局へと陥ってしまうだろう。」


 政治が行政化し、誰も国家全体の理想像が描けなくなることを危惧しています。
 最後に提案します。

「一度は、与野党が共同して、今後の日本社会の目指すべき大きな方向について、共通化できる了解点と対立点を描いてみてはどうなのであろうか。」


 ここにこそ、宗教の出番があるのではないでしょうか。
 日本がどこをめざすべきなのかという問いは、本来、不断に問われ、現在出ている答については不断に検証され続けられるべきです。
 もちろん、現在提示されている各政党の主張にはそれなりの答が含まれているはずです。
 しかし、国民にはなかなか見えません。
 政治家も、そうしたレベルでの国民的合意を目指すより個々の政策が喜ばれることを優先し、問いがなおざりになっている嫌いもあります。
 この問いが問われるステージでこそ、宗教者が〈いのち観〉や〈幸せ観〉や〈死生観〉や〈平和観〉などについて、自らの血肉となった信念を披瀝すべきであると考えます。
 もちろん、宗教心を持った人々が宗教的信念から〈あるべき社会〉や〈あるべき国家〉についての議論を行い、行動することはとても大切です。
 しかし、そうした意見は、政治学、社会学、地政学、経済学、倫理学、医学、歴史学などをふまえた意見と共に、あくまでも国民一人一人の思考の材料として提供されるべきであり、決して宗教的権威や政治的権力などを背景に声高に主張されるべきではありません。
 私たちは、名も無き人の心の叫びと名だたる人の堂々たる主張とを平等に聴き、客観的視点からありのままに理解し、判断する精神的レベルを目指したいものです。
 ここにこそ、正しい意味でのヒューマニズムの原点があると信じています。

 無論、特定の宗教が国家権力を背景に幅を利かすようなことがあってはなりません。
 国民一人一人による、あらゆる縛りを離れた主体的判断が常に行われ、それが反映されるシステムの確保こそ健全な政治の基盤ではないでしょうか。

 結論です。
 日本における宗教は分をわきまえた姿勢を堅持し、政治権力には直接かかわらず、人々の心の支えとなりつつ緩やかに社会を見守るべきであると考えます。
 いかがでしょうか?
 賛成であれ、反対であれ、お読みになられた方々の〈主体的〉判断のたたき台となれば幸いです。 



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2012
06.18

宗教は政治へ口出しすべきか(その1)

20120617003.jpg
〈西空の光景にすぐさま大雨になるかと思いきや、降りませんでした〉

 宗教者が軽々に政治へ口出ししてはならないと考える理由は、宗教政治は原理が違うからです。
 宗教は一心上の諸問題を一人の人間として解決してゆくための分野であり、政治は社会的諸問題を共同で解決してゆくための分野です。
 だから宗教的解決へ至るには本人が孤独に決する他なく、政治的解決へ至るには当事者同士が妥協する他はありません。
 もちろん、宗教的信念は共有されれば社会的な側面を持ち、政治的信念としての志は宗教に支えられている場合もありましょう。
 だから両者は個人と社会にかかわり、オーバーラップしています。

 ここで考えねばならないのは、宗教者の政治へのかかわり方です。
 自分自身をふり返ってみます。
 私はこれまで、選挙において特定の個人を応援したことがあります。
 もちろん、組織内ではたらくなどはできませんが、応援弁士や、知人への紹介などを行いました。
 それは友人や知人として候補者の優れた人柄を広く知っていただきたいという一心からであり、特定の政党やイデオロギーについての発言は行いませんでした。
 一個人として政治のありようや政治思想への関心も判断もありますが、軽々に口にはしません。
 なぜなら、当山を代表する人間として私が政治的方向を打ち出したために、当山を信じておられる方々も反発する方々も、当山とのかかわりを重大視して政治的判断をされるとしたら、それは政治的観点からすれば決して好ましいものではないからです。

 そもそも、国政における最大の責務は治安と国防と外交です。
 経済活動は個人でも法人でも地域でもなし得ますが、国民の安全を確保し、外国とのつき合いや外敵から国土や国民を守るといった仕事は、国家レベルのものです。
 この面における最大の問題は、外交交渉の果てに行き着く戦争です。
 想像してみましょう。
 もしも国難に見舞われ、戦争へ踏み出すかどうかというギリギリの場面になった時、特定の宗教団体がキーポイントを握り宗教的観点からゴーサインを出すのも、その反対のケースも、国土を安穏に保つためにはあまりに危険な状態であると思われます。
 もしも戦闘の現場が生じた時、特定の宗教団体が宗教的観点からゴーサインを出せば全員が銃を取って生死を分ける闘いに突入し、その反対のケースでは国防が崩壊しかねません。
 信徒さんたちが銃を揃えて敵へ突入するのも、皆が敵前逃亡して敵の蹂躙にまかせてしまうのも、いずれも異様な光景ではないでしょうか。

 もちろん、健全な宗教は平和をめざします。
 しかし、国際社会の現実は紛争や戦争の連続であり、平和はしかるべき手段をもってしか保ち得ません。
 手段として主役を務めるのは政治であり、代議制民主主義の国にあっては、賢い選挙民に選ばれた優れた政治家が現実に即した政治的判断によって国を安全な方向へ導いて行くこと以上の平和を保つ方法はありません。
 そこにおいて宗教の果たす役割は、個々人が政治的判断をする上でベースの一つとなることであり、教祖やリーダーのご託宣が最優先されるなど、あってはならないことです。
 あってはならないことが起こった事例、それがオウム真理教事件ではなかったでしょうか。

 最後にもっと具体的な想像をしてみます。
 たとえば私が、大日如来やお大師様の教えを基にし、国民が選択を迫られている数々の政治的判断に方向性を打ち出し、当山を信じている信徒さん方が全員、同じ方向で行動されるなど、身震いするほどおぞましく、恐ろしいことです。
 自分がいかに愚かであるか、政治経済についていかに無知であるか、少しは気づいているからです。
 精神の健全な活動とは〈納得をめざす〉ものであると少しは気づいており、個々人がさまざまな方面で納得しつつ生きられる社会が理想社会の一面ではないかと考えているからです。
 だから、私の宗教的発言が、ご縁の方の宗教的納得に結びつけばとてもありがたいことです。
 政治的納得を求められる場合に役立てばそれもありがたいことです。
 しかし、宗教的納得を得られたからといって政治的問題へ判断停止をされるなら、内容は別として、その姿勢は私が求めるところではありません。

 お大師様を信じているからといって、教祖と信徒が一致団結して尖閣諸島を国有化せよと主張するのも、国有化反対と主張するのも、ものの道理からすれば〈変〉ではないでしょうか。



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2012
06.17

僧侶の派遣とリベートの問題(その2)

20120607002 (2)

 前稿に続き、「現在行われている様態の僧侶派遣は仏法を破壊する慣習である」と書いた理由を述べなければなりません。

 前回書いた体験談のとおり、僧侶が自分の口を満足させるために誰かの死の報を待つとしたら、もはや菩薩(ボサツ)道を歩む行者ではありません。
 なぜ、そう言えるか?
 それは、行者にとって逝く人も送る人も自分と一如であるからです。
 死に行く人々の寂念、送る人々の悲嘆、お柩が火葬炉へ入る時の哀切、それらは誰一人として自分の身に起こることを望まないからです。
 ご縁に応じて苦を抜き楽をもたらすことを使命とする僧侶が、誰も望まぬ苦の極みとなるできごとを〈待つ〉などあり得ないからです。
 
 食うや食わずのところを通ってきた体験者として、〈待つ〉気持は痛いほどわかります。
 しかし、決して待ってはならないのです。
 待つ心との闘いは、行者として本ものであり続けられるかどうかの重要な試金石です。
 こうした真実は、真に仏道をめざして菩薩行へ入った行者なら、必ずわかっているはずです。
 問題は、わかってどうするかです。
 私が最も懸念するのは、わかっていながら待つ心を脇へ置けば偽行者となり、脇へ置かず、かつ、待つ心を克服できぬままに待つ環境を変えもしないで苦悶の日々を送れば肝腎の菩薩行は確実に滞ることです。
 苦悶は心に深刻なダメージを与えかねません。

 だから僧侶は、待たねば自分が生きられないスタイルで法務を行うべきではありません。
 それは、アパートの一室で派遣業者からの電話を待つ身であろうが、由緒来歴を誇る大寺の奥にいる身であろうが、同じです。

 では僧侶にとって葬儀とは何か?
 私は、自分の因縁の結果としてみ仏からお与えいただく試練の一つであると考えています。
 人生で一度の死はもちろん、人生に何度も何度も起こるわけではない家族や恩人や友人の死を、自分に起こるできごととして日常的に受けとめねばならない因縁を深く省みながら生きています。

「我れ昔より造りし所の諸(モロモロ)の悪業(アクゴウ)は
 皆な無始(ムシ)の貪、瞋、癡、(トン・ジン・チ)に由(ヨ)る。
 身語意(シンゴイ)より生ずる所なり。
 一切我れ今、皆な懺悔(サンゲ)したてまつる」


 白衣をまとい、一度死んだ身としてなお生きながらえる以上、誰も引き受けない最大の心痛を引き受けるのは当然であるとも思えます。

 私は、二人きりになった時、師の口からポツリと滴り落ちた一言が忘れられません。
「葬式はやりたくない」
 しかし、こうした師へたくさんの方々がすがられました。
 私も今、心で歯を食いしばりながら師の遙か後を追っています。
 誰かが引き受けねばならない苦役ならば堂々と引き受けたいと思っています。

 そもそも、人生相談であれ、ご祈祷であれ、ご加持であれ、足を運ばれる方々は苦の意識を持っておられます。
 仏前結婚も、地鎮祭も、災厄を除けた先にこそ招福があります。
 仏像やお位牌の魂入れもまた、モノに仏神のお力が宿り、この世とあの世の苦を祓い楽をもたらしていただくために行います。
 年忌供養は逝った方が苦を祓い去り、より深い安心を得られると共に、送った方の記憶から辛いものを消し去る法要でもあります。
 釈尊が「私たちの根本的なありようは苦である」と見透されたとおり〈苦の身〉という真姿になった皆さんが、み仏の御宝前へぬかづかれます。
 僧侶は、こうした方々と共に苦を実感して生きつつ、ときおり発生する桁違いの苦をもたらす死とのかかわりからも逃げずに求められる法務を行い続けるのみです。

 僧侶はみ仏へいのちをお預けした身であり、み仏へ捧げられる善男善女のお布施以外によって身を養うことは許されません。
 消費社会である娑婆の原理とは異なった世界に生きるからこそ出家者です。
 異なった世界に身を置きつつ、娑婆の人々の〈親友…経典の言葉です〉として苦楽を共にし、苦を抜き楽をもたらすのがお地蔵様や観音様などの菩薩です。
 その菩薩をめざす出家行者である僧侶はいかにあるべきか。
 あらゆる機会に考え、省み、菩薩行を踏み外さずに進みたいものです。

 こうしたことごとに思いをいたす時、現在行われている様態の僧侶派遣には憂慮せざるを得ません。
 6月6日に報道された、僧侶派遣会社と葬儀社がお布施をめぐり5億円もの所得隠しを行っていた脱税事件の陰にいかなる重大な問題が潜んでいるか、娑婆の方々にもよくお考えいただきたいと切に願っています。
 祈りという宗教も、唄や踊りに始まる芸術も、死者を送る時のやるせない思いから生まれたとされています。
 私たちは今、人類の歴史が始まって以来、最もそこを軽んじていはしないでしょうか。
 便利に安く〈済ませたい〉という心には、僧侶が一報を〈待つ〉心と同じく、深い問題があるのではないでしょうか。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2012
06.16

オウム事件の高橋克也容疑者は修羅か

20120616100.jpg
〈時事通信社の写真をお借りして加工しました〉

 6月15日、オウム事件に関する特別手配で最後まで逃亡していた高橋克也容疑者(54才)が逮捕された。
 新聞各紙は一斉に第一面で報道し、多くに採用された時事通信社の写真は容疑者の魂をかいま見せていた。
 それは修羅である。

 克也の「克」は克己心の克である。
 この字はそもそも、人間が甲冑をまとい、その重さに堪えている形から来ている。
 重荷に耐え、何ごとか、あるいは何者かにうち勝って勝者となり、苦難や危難を乗り越えて行こうとする意志がある。
 それが、無垢の克己心ならば良い。

 しかし、『論語』は説く。
「克伐怨欲(コクバツエンヨク)行われずんば、もって仁(ジン)と為すべし」
(勝ち気・うぬぼれ・怨み・むさぼりがなければ、仁愛のある人です)
 なぜ、「克」が最初にあるか?
 それは、他をうち倒そうとする心がもっとも仁愛から遠い、言い換えれば仁愛の反対だからである。
 仏法も同じく「不害(フガイ)」を説く。
 他を害さないことは、人間が社会生活を送る上で最も共通した〈あるべき姿勢〉と言える。
 いかなる善意に発する行為も、相手にとって不要・不快であれば自己満足に過ぎなくなる。
 不害でない慈悲はない。

 不害はサンスクリット語の「アヒンサー」の訳であり、ガンジーのモットー「非暴力」でもあった。
 ガンジーに見るとおり、不害は、ただ、〈害にならない〉だけでなく、そうした手段をもって真実世界の実現をめざすという積極性を内包している。
 私たちは今、チベットで弾圧に抗議して焼身自殺を行う人々の哀切に堪えない姿にそれを見る。
 イスラムの人々は抑圧を打破しようとして我が身を捨て、無差別テロを行う。
 他を巻き添えにして人々へ恐怖心を起こさせ、意志を通そうとする。
 しかし、チベットの仏教徒は決して他を害さず、自らを害して正義の実現をめざす。

 私は、容疑者が不退転の意志を示すやや上目遣いとなった眼に、悪しき意味の「克」を観る。
 不害でなく勝者となりたい意志を観る。
 その眼はかつての私と相似であり、今の私からも完全には消え去っておらず、眼光の元に何があるかは手に取るようにわかる。
 すなわち、修羅である。

 修羅は阿修羅である。
 神話によれば、娘を帝釈天にかどわかされた阿修羅は、正義の神として帝釈天をうち滅ぼそうとして戦争を始めた。
 帝釈天の妻となった娘は、父へ夫婦円満である現実を伝え殺し合いの終結を求めるが、阿修羅は戦いを止めず、あくまでも正義の実現をめざす。
 阿修羅の宿命は、「(クウ)」の理解ができないことである。
 経典は説く。
「彼らはたとえ知性があっても、運命の暗さのために、真理を見ることはない」
 偏狭な正義感・嫉妬・高慢心、これらが他への闘争心となり、自分が勝者となるまで闘いを諦めない。
 しかも、勝ってもなお、運命を転換しないうちは、の真理とは無縁なままである。

 ああ、高橋克也容疑者。
 親から受けた名「克」の暗面を生き、修羅の運命を生きる高橋克也容疑者。
 彼の心にいつ運命転化が起こり、と真の慈悲へ向かうのか。
 死刑の前にそれが実現すれば、被害者となった方々にとって一抹の救いともなろうものを。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
06.16

お葬式の導師は仏様の髪を剃っている!?

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〈雨がちな中、四国八十八か所巡り道場は着々と進んでいます〉

 いつものように、法要後の会席で質疑応答になり、ご葬儀へ参列されたAさんから質問がありました。
「住職はお葬式で引導を渡す時以外にも気合のようなものを発していましたが、あれは何をやっているんですか?」
 背後からよくご覧になっておられるものだと感心しながら、お答えしました。
「あれは、法力によって故人の髪を剃り、向こうへ渡るための準備をしているのです。
 そのため、剃る前に、こうお伝えしています。

『迷いの世を流転し続け
 恩愛に苦しめど断てずぬ身が
 恩愛因縁を棄てて無理に何かの為と縛られず
 真実の恩へ真に報いる者となられますよう
 髪を剃り落としてみ仏の子そのものになられ
 永久に煩悩(ボンノウ)を離れ
 苦しみの因縁が滅し安楽をえられますよう』


 実際に唱える漢文はこうです。

『流転三界中(ルテンサンガイチュウ)
 恩愛不能断(オンナイフノウダン)
 棄恩入無為(キオンニュウムイ)
 真実報恩者(シンジツホウオンシャ)
 剃除鬚髪(テイジョシュホツ)
 永離煩悩(エイリボンノウ)
 窮極寂滅(クキョウジャクメツ)』
 
 僧侶が出家得度するのと同じです。 
 お柩の側へ行ってカミソリを使わなくても、修法の手順を信じ、法力を信じ、全身全霊を込めて行います。
 これが済んで一連の修法が続き、最後に、み仏のお慈悲のお力でこの世とあの世の区切りをつけ極楽への扉を開いていただく引導となります。
 だから、すでに剃髪している僧侶の葬儀では、このあたりは行われません。
 白装束をまとうのは仮の死を通過することであり、生き直しを終わっているからです。

 ご葬儀とは、亡くなった方が、この世でのままならぬ因縁を離れて最も安心なみ仏の世界へ迷わずに向かえるよう〈出家〉するための修法が行われる儀式です。
 だから、当然、煩悩を離れる象徴としての剃髪(テイハツ)を行うのです。



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2012
06.15

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第107回)─落とし文(その3)

0232.jpg

岩沼民話の会語りっこ岩沼」が作られた大震災の聴き記し「おとしふみ 第三」集」からご紹介します。

○ときえの微笑み

「あの時以来、ひたっと乳がでなくなって
 ときえはいつも泣いていた。
 消防団の一人として出て行ったきり帰ってこない夫、
 ときえの父ちゃん。
『ときえと一緒に父ちゃんどこさ行ぐがわ』
 何度言ったことか。
 いつだったか忘れてしまったけど、
 ひいひい泣くときえをだっこして
『泣ぐなったら泣ぐな、おらも泣きだくなるっちゃ』
 ゆすりながら語った時、
 ときえは泣きやんで。目にいっぱい涙をためて私の目をみた。
 そして にこっと微笑んだ。
 ときえの頬に私の頬を合わせてしっかりと抱きしめた。
 その時、私の胸の奥から突き上げてくるものを感じた。
 ─乳首から乳がふき出してきた─
 何日かぶりで
 ときえは喉を鳴らして乳を飲む。
『ときえと一緒に生きて行ぐべな』
 ─私は生きる力をときえの微笑みからもらった─」


 まさにエンジェル・スマイルです。
 この用語は生後3カ月前後の赤ん坊が見せる相手を選ばない微笑みのことですが、その時期を過ぎていろいろ難しくなってきても、やはり、ときおり見せる赤ん坊や幼児の微笑みには、目にする者の心にまといつく強張ったものや沈ませようとしているものを忘れさせる力があります。
 乳が出なくなるほど激しいショックの後遺症を母親から取り除く力──。
 それは、はかり知れません。

 作家吉野せいは、小説『梨花』において、生後8か月でこの世を去った次女の生前をこう書きました。

「梨花とは父親が名づけたよく似合う名前であった。
 お前のその静かさとやわらかい笑みとは、いつも生活苦のために苛立ちあれている私の心をなごませてくれた。
 お前を見る時のみ私の顔はしわみ、私の声はうるおうた。
『リーコ、リーコ、よしよし』ひびと土とにがさがさな私の手は、重いお前のからだをどんなにか嬉しく支えたことか。
 そしてその支えられた手の上で、垢によごれた綿入れの中からふっくりした白い顔を出して、お前はどんなに可愛い微笑みを見せたことか。」


 微笑みは荒れ地を耕しながら土に生きる女性の力であり、救いでした。
 吉野せいは、それを失ってなお、土に生き、75才のなってこの作品を書き上げました。

 ときえの母ちゃんは、ときえと一緒に、亡くなったに違いない父ちゃんの元へ行こうとする時もありました。
 しかし、そもそも、行けるのか?

 作家岸本英夫は10年間、ガンと闘い、61才で旅立つ前年に遺稿を書いています。

生死観を語る場合には二つの立場がある。
 第一の場合は生死観を語るにあたって、自分自身にとっての問題はしばらく別として、人間一般の死の問題について考えようとする立場である。」
「もっと切実な緊迫したもう一つの立場がある。
 それは、自分自身の心が、生命飢餓状態におかれている場合の生死観である。
 腹の底から突きあげてくるような生命に対する執着や、心臓まで凍らせてしまうかと思われる死の脅威におびやかされて、いてもたってもいられない状態に置かれた場合の生死観である。
 ギリギリの死の巌頭にたって、必死でつかもうとする自分の生死観である。」
「生命の危険の場合におかれても、それを超えて生き続ける望みのある場合には、人間はその希望の方に重点をおいて、それを頼りにするので、生命飢餓感は、本格的には起こってこない。
 それが起こってくるのには、生存の見通しが絶望にならなければならない。」
「生命飢餓状態になった場合には、死との闘いは、もはや、単に観念的のものではない。
 死の恐怖は、人間の生理心理的構造のあらゆる場所に、細胞の一つ一つにまで、しみわたる。
 生命に対する執着は、藁の一筋にさえすがって、それによって迫ってくる死に抵抗しようとする。」
「生命飢餓状態におかれれば、人間は、どんな苦しみの下におかれても、生きていたいと思う。
 人間は、この状態では、いつでも、もっと生きていたいのである。」


 ときえに「ひいひい」泣かれ、乳の出ない母ちゃんは、〈どうしようもない〉と何度も思ったことでしょう。
 辛くて胸が苦しく、わけがわからなくなりかけたこともあったことでしょう。
 いっそのこと二人して楽になりたいと思ったこともあったでしょう。
 そうした心の激流の中で、岸本英夫の言う絶望が何度も見え隠れしたことでしょう。
 もう生きられないと諦めかけながらも、やはり、生きていたいという方向へ揺りもどされ、母ちゃんはがんばりました。
 母ちゃんは生き延び、「胸の奥から突き上げてくるものを感じ」られる時がやってきました。
 それは、時には死へ誘いつつも、〈居る〉ことによって支えとなっているときえの存在があればこそでした。
『ときえと一緒に生きて行ぐべな』
 泣きつ、もがきつ、ここにたどりついた母ちゃんはこの先、何があっても、絶望せず、乗り越えて行かれることでしょう。
 そうあっていただきたいと、心から願わずにはいられません。

 あとがきです。

「『おとしふみ(二)』で被災者のつぶやきを特集いたしました。
 読んでいただいた方々から共感のおことばをたくさんいただきました。
『おとしふみ(三)』は『被災者 新生の足音』という表題で未来にかける希望や覚悟を拾い集めてみました。
 被災者の方からこぞって『ボランティアの方たちから大きな力をいただいた』と感謝の声がたくさん集まりました。
 目立たないところで淡々と身を粉にして働いた縁の下の力持ち方たちのことも忘れられません。
 私達は被災者の方々の側に立ち、今回の震災について考えてまいりました。
 本当に大変な仕事でしたが、たくさんの事を学びました。
『おとしふみ』は三部で完結いたしますが、いろいろとアドバイスをして下さった方々、資料を提供してくださった方々に感謝申し上げます。
 最後に、この震災で亡くなられた方々に対し御冥福をお祈り申し上げます。
 そして被災された方たちの幸せを願いつつ筆を置きます。
 2012年5月20日 岩沼民話の会『語りっこいわぬま』」





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2012
06.14

第29回寺子屋『法楽館』─最近の司法の動き─

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 寺子屋法楽館』は29回目を迎えます。

 平成7年7月に信徒の会である『法楽の会』を発足していただき、当山はその後、宗教本陣の認証、境内地取得、墓苑開始、講堂建立と順調な発展を続けることができました。
 会員各位様の変わらぬご助力と、護持会の方々をはじめ様々なご縁の方々のご誠心をたまわり、ここまで来られました。
 機関誌『法楽』は269号となりました。
 心より、深くお礼申し上げます。
 7月に17周年を迎えるにあたり、『法楽館』において記念講座を開催します。
 その第一弾として、会の幹事をお引き受けくださり、発足以来ずっと当山を見守り続けてこられた元仙台弁護士会会長犬飼健郎先生をお招きし、裁判員制度など、私たちが身近に感じつつある司法の問題についてわかりやすくお話ししていただきます。

 仏教は、人はいかに生きるべきか、私たちは個人的・社会的な業(ゴウ)へいかなる姿勢で向かうべきかを問うものです。
 その視点から、人間と社会のありようを根本的に問う講座の第一弾として、官僚の立場をうち捨てて弁護士となられた先生のお話をお聴きします。
 最近は、裁判員になった方が体験談を発表したり、強制起訴され東京地裁で無罪判決を受けた小沢一郎氏が控訴されたり、東京電力女性社員殺害事件の再審請求が認められたりと、裁判にかかわる諸問題が一般市民の関心を集めています。
 しかし、私たちはマスコミのセンセーショナルな報道に耳目を奪われる割には、できごとの真実をつかんでいないかも知れません。
 司法の現場におられる先生から生のご意見をお聞かせいただき、人が人を裁くこと、そのありようなどを共に考えましょう。 

 どなたでも自由に参加できます。
 質疑応答の時間もあります。
 どうぞお気軽におでかけください。

○講師:弁護士犬飼健郎先生(東北大法学部卒・元日弁連副会長 HP:http://inukai-lawoffice.com/profile.html)
○日時:7月14日(土)14:00~15:30
○場所:当山講堂
○参加費:1000円(中学生以下500円 ※『法楽の会』会員は無料)飲物付
○送迎:泉中央『イズミティ21』前より13:30発車
    (利用希望の方は13日17:00まで要申込)



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2012
06.14

【現代の偉人伝】第150話 ─韓国の女子高生アマゴルファー金孝周さん─

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 6月11日ゴルフ日本女子ツアー「サントリーレディース」は、韓国の女子高生アマ・金孝周(16才)の大逆転優勝に終わった。
 最終日の61というスコアは新記録、72ホールでの17アンダーはタイ記録、16才332日での優勝は宮里藍の18才101日を大幅に更新する最年少記録だった。
 中日スポーツは「もたつく最終組の一組前で、青い閃光が走り抜けた」と書いている。
 11バーディーでノーボギーという内容は言葉にすれば神がかりしか思い浮かばないが、ゴルフクラブを手にしたことのある方なら、いかに途方もないプレーであるかは想像できるだろう。
 かつては日米をまたにかけて活躍した日本女子プロゴルフ協会の小林浩美会長は言う。
「日米でプレーしたけれど、こんなに凄い選手は見たことがない。
 100年に1人の選手かもしれない。
 スイングの質は男子プロ並み」

 しかし、この欄にとりあげたのは、その成績が直接の理由ではない。
 高校の授業は午前中だけで、午後は毎日、約8時間の練習をこなし、帰宅後のトレーニングも1時間行うという。
 そんな16才は優勝のインタビューで夢を訊かれ、こう言っている。

先輩から好かれ、後輩から尊敬されるプロゴルファーになりたい」


 これが、「嬉し過ぎて自分が今、何をしているのかよくわからない」高校生の口から不意に出る言葉だろうか。

 彼女は、いったいどこで、どういう教育を受けてきたのだろう。
 同じように英才教育を受けている同輩たちと切磋琢磨し、たった一人しかいない勝者の座をめぐって熾烈な勝ち負けを経験する中で悔しい思いを重ねたはずだ。
 ゴルフに限らず、いかなる選手も悔しさをバネにして成長する。
 勝った試合後ですら、思い通りのプレーができなかったと悔しがる選手は珍しくない。
 決して傲慢なのではなく、目先の勝ち負けだけでプレーしてはいないからである。
 そうした中で「先輩から好かれ、後輩から尊敬される」と自然に言えたのは、彼女自身が、先輩を尊敬し後輩を可愛がっているからにちがいない。
 成績を鼻にかけ、自分さえよければという姿勢であれば、心から先輩を尊敬できないし、後輩を可愛がりもできない。
 もしもそうなら、きっと先輩は叩き、後輩は嫌うだろう。

 優勝した彼女は、4週間以内に日本女子プロ協会へプロ登録することによって1年間のツアー出場権が得られる。
 そして賞金を重ね、コマーシャルなどの分野でもさらに莫大な収入を得ることは充分に可能だろう。
 しかし、ただちにプロへ転向するかどうかについては、「今年の世界選手権(9月)で金メダルを取ることが目標」であるとして、はっきり否定している。

 恐るべし、韓国文武両道



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2012
06.13

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十一回) ─欲を制御する─

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仏法守護する招福雷神様〉

 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第二十一回目です。
 これは、「法話と対話の会『生活と仏法』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

望の特性というのは塩水を飲めば飲むほど渇くのと似て
 どんなに満足してもさらに貪りたくなる
 望が起きた対象はいかなるものでもすぐに捨てる
 それが菩薩(ボサツ)の実践である」


 仏教と聞けば「」を連想するほど、仏法においては大きなテーマです。
 なぜなら、生命力の発露であるによって瞬間瞬間を生きる私たちの根本的ありようと、私たちの苦しみはによってもたらされることのかかわりをどう調整するかが人生上の根本的問題だからです。
 いかにすれば、活き活きと生きながらなお且つ、根源的苦しみを離れることができるか──。
 仏法の歴史はこの問題との格闘の歴史でもあります。

 私たちに備わっている目は色や形をとらえ、耳は音を聞き、鼻は匂いを嗅ぎ、舌は味を味わい、皮膚は感触を確かめます。
 そうして感受する対象はすべて欲望をかき立てます。
 佳きものに惹かれ、嫌なものを厭う好悪の意識は、必ず〈その先〉を求めます。
 佳きものは限りなく我がものにしたい、嫌なものはなくなって欲しい、自分がいずれとも感じないものには関知したくない。
 これが欲望の姿です。
 若者語の「うざい」や「きもい」などは「うるさい」や「気持ち悪い」よりも明らかに嫌悪や憎悪、果ては隔離や破壊などの要素がむき出しになっており、欲望が無限解放をめざしている時代を象徴しています。

 発生する欲望は自動的に止まりません。
 佳いと感じるものは、どこまでも欲しくなる。
 たとえば街角で見かけたよその奥さんに好意を感じれば、話をしたくなり、セックスをしたくなり、夫から奪い取りたくなり、ついには自他の家庭を破壊するなどのできごとは、日常茶飯事です。
 嫌なものには我慢ができず、どこまでも排除したくなる。
 たとえばきつく叱られた上司が憎くなれば、無視したり、邪魔したり、ケンカしたり、殺したくなったり、ついには暴力事件を起こしたりもします。
 仏教は、こうした様子を「塩水を飲めば飲むほど渇く」ことに例えます。
 
 見たり聞いたりするといったところから、こうしたところへと導くものは何か?
 それが執着心です。
 よその奥さんが目に入る、佳いと思う、そこに執着心がはたらいて〈その先〉を求めてしまうのです。
 上司の叱る様子が見え、聞こえ、内容がわかって縮む、そこに執着心がはたらいて〈その先〉を求めてしまうのです。
 前記した「うざい」や「きもい」にはすでに、執着心も〈その先〉も含まれている気配があります。

 執着心はどこから来るか?
 無明(ムミョウ)から来ます。
 無明とは、見聞きするものの本質的なありよう、すなわち(クウ)に気づかぬ無知であり、本質的な智慧の〈明かり〉が〈無い〉ことを意味します。
 奥さんも上司も自分も、骨格や呼吸など諸条件がたまたまうまく組み合わさっているために人間として生きているに過ぎません。
 たとえ通り魔にやられなくても、お互い、一瞬後にこの世を去ったとしても何の不思議もない、ガラスのように脆い存在です。
 それなのに、好きな奥さんと永遠に一緒にいたい、嫌いな上司はいっそのことこの世から葬り忘れてしまいたい、自分の好き嫌いの感情を我慢したくない、という気まま勝手な願いを持つ。
 実に、から離れるとは恐ろしいことであり、そこからあらゆる苦しみが発生することはまちがいありません。
 般若心経が大乗仏教に欠かせない経典となっているのは、を端的に説いているからです。

 冒頭で「欲望が起きた対象はいかなるものでもすぐに捨てる」と説くとおり、見聞きするものに好悪を感じたり、あるいは善悪を感じたりするのがいけないのではありません。
 と観て「捨てる」心になり、執着心を発生させないことが重要なのです。
 好悪も善悪も、人間が生き、社会生活をする上で欠かせません。
 それらを一切なくして阿呆のようになることなど、理想であるはずはありません。

 み仏の智慧により無明を脱して執着心を離れ、慈悲心をもって見聞きするものに対応できるようになりましょう。
 そうすれば、欲は自他を生かす大欲(タイヨク)となり、自他のいのちと心の花が爛漫と咲くことでしょう。



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2012
06.12

小さな子供を葬儀に参列させるか

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 最近、お子さんがご葬儀参列することに関するご質問が重なったので、判断の要点を書きとめておきます。
 三つの観点から考えてみます。

1 習俗によるタブー

 いわゆる〈連れて行かれる〉ことを怖れ、参列させないというものです。
 これはそろそろ脱却しても良いのではないでしょうか。
 旅立つ家族が、幼い子供を道連れにしようなどと願うでしょうか?
 それは逝く方に対して失礼でもあります。
 死者を畏れる心は大切ですが、むやみと怖れる部分は卒業したいものです。


2 死の教育

 積極的には、子供へ死を理解させ、参列という体験も併せて情操教育の一環とするという考え方があります。
 子供に理解力があり、親などの大人もきちんと話ができるならば、問題はありません。
 当山では、祖父さんやお祖母さんのために、お孫さんが写経したり感謝の言葉を書いたりして納める場合もあります。
 生まれる、死ぬといった異次元と接する時間は、子供の魂にも強く響く何ごとかでありましょう。

3 第三者としての参列

 故吉村昭のエッセイに『大人の世界』があります。
 中学一年生のおりに同級生が亡くなり、通夜に逝こうとした故人は母親に厳しく止められました。
 吉村昭の姉が子供の頃に亡くなり、教師に引率された同級生たちが焼香する様子を見た母親がとても辛い思いをしたからです。

「その同級生たちの姿を眼にした母は、必死に堪えてきた悲しみが一気につき上げ、顔を伏して声をあげ泣いた。
 それらの女児と姉のことが重なり合い、元気である彼女たちの姿に嫉妬に近い感情すらいだいたという。
『子を失った悲しみは、親にしかわからない。
 学校の先生は子を失ったことがないから、安易な感傷でお通夜に行こうなどと言う。
 S君の親を悲しませるだけだ。
 決して行ってはならない』
 母の顔には、怒りと悲しみの色がうかび、その形相に私は身が震えた。」


 数年前、中学生の息子をいじめで殺された父親が毎日、現場へ花を持ってでかけ、供養しているうちに、何もなかったかのように続いている教室の光景に我慢できなくなり、そこで暴力事件を起こし逮捕されたという事件を思い出します。

 吉村昭は、幼稚園児の殺害事件を報じるテレビについてこうも書きました。

「死亡した園児の遺体が車で火葬場に送り出される時、告別式に参列していた園児たちが、口々に
『バイバイ』
と、車に声をかけていた。
 その後もテレビで告別式の様子が放映される度に、必ずバイバイと言う園児たちの姿が映し出され、その度に私はチャンネルをまわすか、切った。
 見ているのが堪えられなかったのである。」
「私は、それらの園児を参列させた大人たちに苛立ちをおぼえる。
 恐らくそれらの大人たちは、出棺の折りにバイバイと声をかけるよう園児たちに言ったにちがいない。
 子供を失った親の悲しみがいかに深いものか、この大人たちにはそれを思いやる配慮がない。
 それをまた、テレビ会社の人たちは、葬儀の悲しみを際立たせるシーンとして撮影し、繰返し放映させたのだろう。」


 こうした面については、それぞれのケースにおいて慎重な判断が求められるのではないでしょうか。



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2012
06.12

戒名を受けず俗名のままでも良いのか

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 ある日、ご主人のご逝去がきっかけとなり、当山を深く信じるようになったAさんが遠方から人生相談にご来山されました。
 共同墓法楽の礎』に亡きご主人と並んで刻むご自身の〈あの世の名前〉を俗名にしたいと言われます。
 その理由は、ご自身の出自やら、これまでの人生やら、これからの人生やら、ひいてはあの世での自分を考えに考えた末、「今の姓と名が一番、自分らしい」と考えられたからです。
「よろしいんでしょうか?」
 微笑んだ頬と目元に一抹の不安を宿らせながらゆっくりと訊ねられます。
 当山の発行物などに目を通され、戒名の意義は充分にご存じなだけに、きっと〈勝手を許してもらえるだろうか〉とお考えなのでしょう。

 お答えしました。
「ご決心がついて良かったですね。
 結論を出されるまで、ずいぶんたくさんのことごとを考え、時間もかかったことでしょう。
 熟慮の結果、Aさんが最も安心を得られる形を選ばれたわけですから、最高の判断です。
 当山がお伝えする教えはすべて、皆さんがそこへ到達されるための材料の一つに過ぎません。
 教え通りになることが大切なのではなく、皆さんが人として安心と喜びを抱きながら、皆さんそれぞれなりのまっとうな生き方をされることが最も大切なのです。
 皆さんが仏教徒になろうとなるまいと、それは副次的なことがらです。
 まっとうな人々の人生、そうした人々によって成り立つ社会は、み仏の目からご覧になられれば極楽の様相であるに違いありません。
 そもそも、人々すべてを説き伏せて〈~〉教徒にしようなどという考え方は、恐るべき傲慢さを宿しているのではないでしょうか。
 どうぞご心配なく。
 万が一の際は、もしも私が元気でいられれば私が引導を渡しますし、私の方が先に逝ったならば、私の志を嗣ぐものが当山の修法によってしっかり引導を渡すことでしょう。
 よくご存じのように、戒名を望まれる方であろうと、俗名を望まれる方であろうと、当山では差別をしませんし修法に変わりもありません」

 ご縁の方々が、み仏の教えも材料にしてこうしたものごとを根本から考え、決断し、道を切り開いて行くお手伝いができることを心からありがたく思っています。
 Aさん、ご意志は、さっそく十三仏様の碑盤へ刻みます。
 どうぞ安心して、これからも、み仏のご加護を信じ続けてください。



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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
06.11

僧侶の派遣とリベートの問題(その1)

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〈私たちはこうした花に恥ずかしくない生き方をしているでしょうか〉

 6月6日、新聞各紙は、僧侶派遣会社と葬儀社が、お布施をめぐり5億円もの所得隠しを行っていた脱税事件を報道しました。
 かねて、現在行われている様態の僧侶派遣は仏法を破壊する慣習であると考えており、一行者の血肉になった仏法を守る立場から、体験と感想を少々書いてみます。

 私は、托鉢行で仏道を歩み始めました。
 篤志家A氏から提供された家屋敷を修行道場とし、昼は托鉢や人生相談やご祈祷などを行い、夜は所定の修法を身に着ける勉強を行いました。
 家族もおり、一軒一軒と訪ねる托鉢と、人生相談やご祈祷でお布施をいただくだけの毎日は、家計をやりくりする妻を常に悩ませました。
 そうした中で、たまに葬儀社さんから入るご葬儀の依頼はとても家計を助けるものでした。
 何しろ、托鉢で得られる収入の5日分から10日分、まれには一ヶ月分にもなるお布施が、枕経、通夜、葬儀の三回でいただけるのです。
 もちろん、至心に祈って戒名をお伝えし、各種の魂入れも懸命に修法しましたが、いずれにしても飛び抜けた収入でした。
 だから、「又、ご依頼があれば助かる」と考えた瞬間はありました。
 しかし、それは言うまでもなく、誰かの〈死を待つ〉ことです。
 その処置をなりわいとする業者さんは別として、日々、皆さんの求めに応じて当病平癒や身体健護を祈り、他のためになり尽くそうとする菩薩(ボサツ)道では決して許されない考えです。
 だからこうした〈許されぬ希望〉は、どんなに貧しくとも心から追い出しました。
 ご依頼があれば、ご遺族の身になって対応し、ご本尊様から故人の魂にふさわしい戒名をいただけるように努力し、必ずや安楽世界へ入っていただくとの信念で引導を渡し、せめて心だけでもご遺族へ寄り添えるよう最善を尽くしました。
 お布施の金額は決して指定したり希望を述べたりせずにご遺族の常識と良識へお任せし、あるいは業者さんのご提案に心から感謝し、お布施の金額や参列者の人数にかかわらず、まったく平等に戒名をお伝えし、修法しました。
 戒名はどなたでも院居士・院大姉、ご葬儀で行う修法の長さも基本的には同じでした。
 修法へ入った行者はみ仏と一体にならねばならず、み仏の世界には〈差別〉など影もないからです。
 袈裟衣を着けて人生相談を行う時も、引導を渡す時も、心構えは同じです。
 こうした姿勢は今もまったく変わりません。
 
 ご葬儀をご紹介くださる葬儀社さんへお訊ねしたことがあります。
「私は托鉢行者で、お世話になる際のご挨拶の仕方がわかりません。
 どのようにお礼申し上げればよいのか、ざっくばらんにご指導ください」
 一方的に収入の機会を与えていただく形なので、お礼をどのようにすればよいのかわからなかったからです。
 ところが、これまで当山へご紹介くださった業者さんは例外なく、笑顔でこう答えられました。
「ご住職に拝んでいただければ、それだけでありがたいんです。
 余計な心配は要りません」
 だから、当山はこれまで一度たりとも、宮城県の内外を問わず、業者さんへリベートを払ったことがありません。
 直接ご遺族と話をした場合はもちろん、業者さんがお布施を代理受領されたこともありません。
 業者さんへの恩は、一心に修法し、お通夜でもご葬儀でも行うべき法話を一心に行い、後に続く年忌供養なども一心に行うことによって、ご遺族へお返しする覚悟でやってきました。
 業者さんへの直接の恩返しは、当山をご紹介いただいたご尊家様が修法に納得、安心され、業者さんへ紹介を感謝されること以外にないと考えてやってきました。
 み仏へいただくお布施はすべて、み仏のために、ご縁の方々のこの世の幸せとあの世の安心のためにと念じてやってきました。

 さて、いつからか、「僧侶派遣」という言葉が目に入るようになり、違和感を覚えつつ今日まできました。
 我が身を振り返ってみれば、托鉢行を主としていた時代の私は、現場へ派遣される時を待つ僧侶だったのか?
 でも、自分は〈待つ〉意識を持たなかった。
 あるいは少なくとも、持たないよう努力してきた。
 危ういことろで踏みとどまり、心の分裂は避けられた。
 今、派遣される僧侶の方々はどうなのだろう?
 派遣を〈待つ〉僧侶はいないのだろうか?



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2012
06.10

厄年の過ごし方一口ポイント(その2) ─散財の多い年まわり─

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〈除災の風神様〉

 運勢に関するご相談が多く、これまでとは少し異なる面からも書きとめておきます。

【散財の多い年】

○3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102歳(数え歳)の方

「我、権利より尊さを主張するは、人間は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」

 この年は、喉が渇くように「欲しい心」が高まり、得られて喜びが生ずる反面、思うように得られない苦しみも生じやすくなります。
 さて、欲が思うように満たされないのは世の常です。
 なぜなら、欲の本性はアメーバの生態に見るとおりだからです。
 目などの感覚器官を持たないアメーバは、触れる世界の対象を食べものと食べものでないものの二つに分け、食べものを摂り込む行為を一生、続けます。
 食い物であるかないかに四六時中、熱中する様子には、哀しさ、憐れさが伴っています。
 もちろん、私たちも飲食ができてこそ生きられるわけですが、そのことがむき出しになると、今度は、浅ましさが伴います。
 浅ましい存在はすなわち、餓鬼です。

 私たちは、喉が渇いたような欲に翻弄される時、あるいは、得られずに耐えねばならない時、冒頭の句にあるとおり、そうしたことにも揺るがない人間の矜恃を保ちたいものです。

 さて、餓鬼には三種類あります。

1 外的罪障を持った餓鬼

 飲食物が見つからずに彷徨い、やっと見つけても、そこには番人がいたり、飲食物が血や膿に見えたり、何も見えなくなって結局は得られず、飢えから逃れられないとされています。
 これは、私たちが、縁となってくれている飲食物を選り好みし、感謝しつついただけない状態に似ています。

2 内的罪障を持った餓鬼

 口は針の先ほどの大きさしかなく、喉は馬の毛一本の太さしかなく、手足は草のように弱々しく、飲食物を見つけられず、見つけてもなかなか腹まで届かず、届いても膨れあがった腹は決して満たされないとされています。
 これは、私たちの心が曇っているために、周囲のものをきちんと見分けられず、必要に応じてつかみ、吸収することができなくなっている状態です。

3 飲食物に関する罪障を持った餓鬼

 飲食物を見つけても燃えてしまったり、糞尿や毒物しか口へ入らなかったり、自分の体を食べたりするとされています。
 また、夏になると月光も暑くてたまらず、冬になると日光にも寒さを感じ、食べものを探すことにいつも疲れ果てているとされています。
 また、自分より弱い餓鬼を見つけては叩き、そのくせ、犬や人が怖くてたまらないとされています。
 これは、他の人や生きものを飲食物の因縁によって死へ近づけた罪悪感に苛まれ、狂った状態です。

 餓鬼は「無財(ムザイ)餓鬼」と「少財(ショウザイ)餓鬼」と「多財(タザイ)餓鬼」にも分けられます。
 無財餓鬼とは、まったく得られずに苦しむ存在です。
 少財餓鬼とは、少ししか得られない存在です。
 多財餓鬼とは、あってもあっても足りずに苦しむ存在です。
 社会的条件によって〈無財〉や〈少財〉へ堕とされている存在には慈悲の手を差し伸べねばなりませんが、〈多財〉による苦しみは、貪り尽くさねばいられない慳貪(ケンドン)から脱する智慧がなければ逃れられません。
 グローバリズムの原理が我がもの顔になっている現代では、巨大な多財餓鬼が無数の哀しい無財餓鬼や少財餓鬼を生み出しているのではないでしょうか。
 私たちは、自分の心に潜む、卑しさ、浅ましさ、意地汚さを直視したいものです。
 生かされているという深い感謝を忘れないようにしたいものです。
 小欲知足(ショウヨクチソク)の教えヲ心しておきたいものです。
 そうすれば、必ず苦しむ他者が見え、自他共に明るい方向を目指そうという気持も湧いてくることでしょう。



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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん あり きゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2012
06.09

宗教は「困った時の神頼み」としてたち顕れる(その2)

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 心から神頼みをすれば、仏法僧三宝がそれぞれに命綱となり得ます。
 では、命綱をつかんだ後はどうなるか?
 これも3つのケースがあります。

1 離れ、忘れる
2 何かの時にまた思い出して近づく
3 生き方を変える

 一つづつ考えてみましょう。
 
1 離れ、忘れる

 風邪をひいて近くの病院へ行ったらすぐに治り、あとは病院があること自体、ほとんど意識にのぼらない状態になったようなものです。

2 何かの時にまた思い出して近づく

 風邪の治療をきっかけに医師や病院の印象が強く残り、自分が何かと相談にでかけるだけでなく、頭痛に悩む友人を紹介したりする状態に似ています。

3 生き方を変える

 風邪の治療法だけでなく、聞いた予防法などにも関心を持ち、医師や病院の指導によって生活を変える状態に似ています。
 自分が風邪をひきやすいのは、小さな頃からの病弱な体質のせいだとばかり思っていたのに、先生の言葉がヒントとなり、生活習慣にこそ一番の問題があったことに気づいたりします。
 そのように、運勢がままならない方向へ行きがちなのは自分が生まれ育った条件や他人のせいだとばかり考え、自分自身のありようを冷静に省みていなかったことに愕然とすれば、生き方が変わります。
 五恩(国家社会・先祖や親・生きとし生けるもの・師・仏法僧の恩)を忘れない、四無量心(シムリョウシン)を意識する、六波羅蜜(ロッパラミツ)の修行を志すなど、命綱は荒海の燈火となり、四国遍路の同行二人のように人生の同伴者ともなります。

 次に、生き方を変えようと望む方のために、般若心経の説く「色即是空(シキソクゼクウ)」を考えてみましょう。
 ここで言う「色」とは、私たちの周囲に広がる現象世界です。
 それが「」であるとは、不変の実体を持たないということです。
 人もネコもカラスも街も山も、すべては原因により、はたらきかける縁によって時々刻々と変化し続け、万物は無常です。
 つまり、現象世界という〈存在〉のありようを根本的に観れば、実体を持たないという〈状態〉にあるのです。
 
 こう言われても「だから何なの?」と疑問を持たれるかも知れません。
 私たちは、車はキーを廻せば走ると思い、友人は電話に出ると思い、明日は来ると思い、自分は確かにいると思って生活していて何の不便もありません。
 存在していると思われるものをそのまま信じつつ計画を立て、約束を守り、私たちはまっとうに生きられます。
 しかし、そうしているつもりなのに、どうにもならない事態に直面する場面は、長い人生のうちに必ずやってきます。

 最近、ある病院でエレベーターを待っていた時、携帯電話で会社に連絡をとっている青年の密やかな声が耳に入りました。
 がっしりした体格で陽に焼けた彼はこう告げていました。
「たいしたことないと思って検査に来たら、このまま入院しなさいと言われました。
 びっくりで、どうしたらよいかわかりません。
 とにかく、すみませんが、明日の予定はAさんに頼んでください。
 詳しい検査を受けてみないと、そのあとのことはわかりません。
 すみません……」
 昨日までと同じようにやってくるはずだった会社勤務は今日、突然止まり、明日から先の予定は吹き飛びました。
 それどころか、落ち着いた話しぶりの中にも戸惑いが隠せない彼のいのちがどうなるか、生活がどうなるか、先が見えず彼の人生は局面を大きく変えました。
 思いもよらず、不意に。
 あてになるはずだった〈存在〉が揺らぎ、やがて〈存在〉の〈状態〉が探られ始めます。
 健康なはずだった身体はどうしたのだろう、長い入院になったら仕事はどうなるのだろう。
 そして彼は、大病を抱え病院で日々を送るうちに、これまでの人生を初めて深々と振り返り、自分って一体何だろうと疑問を持つかも知れません。
 やがて〈状態〉が(クウ)という本姿を現し、天地万物のとなっているありようがストンと腑に落ちれば、彼は病気に伴う苦を克服できるかも知れません。

 五恩を忘れない、四無量心を意識する、六波羅蜜の修行を志す、などが大切なのは、目の前に広がる〈存在〉をそのまま前提として最善を尽くしているうちに、という〈状態〉もいつしか観えるようになるからです。
 そうして良く、あるいは善く、あるいは好く、あるいは佳く生きながら、同時に試練も乗り越えられる力をつけるのが仏法を命綱とする生き方です。
 どうでしょう。
 命綱をつかんだ経験のある方、あなたはその後、どうされますか?



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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