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2012
08.31

当山のお葬式ではこうしたことが行われます ─故人の思想や宗教を選ばずに引導を渡す理由─

201208310142.jpg

 お葬式では何がどう行われるのか、おおまかな順番と内容は以下のとおりです。

1 お清め

 まず、護身法を行って行者自身と、修法の道場となる場所全体、あるいはご参列の方々やご供物なども清めます。
 仏神に降りていただき、故人をみ仏の世界へお送りする厳粛な時を迎え、清めねばなりません。
 大切な方をお招きする時に心を正し、掃除を行い、皆が威儀を整えるのと同じです。

2 結界

 お釈迦様が悟りを開かれる寸前、魔ものたちは四方八方から邪魔しようとしましたが、結界によってすべてシャットされました。
 日常生活的な空間でないお葬式の場が開かれようとする時も同じであり、八方天地すべてが見えない聖なる壁によって塞がれます。

3 み仏へのご挨拶

 東・南・西・北とそれぞれの方位をご守護くださるみ仏方をお讃えします。

4 ご守護慰霊
 
 故人をご守護しお慰めする法を結びます。
 ご逝去の形などによってそれぞれに異なるみ仏のご守護をいただきます。

5 結界

 明王様の法により重ねて結界を結びます。

6 礼拝

 仏法僧へ帰依する心を新たに表明します。

7 願いの文

 これからみ仏にお救いいただきたい内容を申し述べ、お願い申し上げます。

8 剃髪(テイハツ)

 目に見えない刀で故人の髪を剃り落とし、み仏の子としてみ仏の世界へ旅立つ準備に入ります。

9 お授け

 み仏と一体になった導師が故人を懺悔へ導き、戒律を授けます。
 戒名を求められた場合は戒名も、そして、み仏の世界を象徴する梵字も授けられます。
 
10 開扉

 法の力により、あの世の扉が開かれます。

11 願いの文

 救いの世界を讃え、この世からあの世へお導きいただくよう、お願い申し上げます。
 また、こうした救済がすべての御霊へ与えられるよう、お願い申し上げます。

12 引導(インドウ)

 引き導く引導とは、み仏と一体になった導師が、故人を迷いのこの世から安心のあの世へとお渡しするお葬式の要です。
 仏教の行者は、この一瞬に修行と法力のすべてをかけます。
 言い換えれば、ここで確かな法を結べてこそ一人前の僧侶であり、これができなければ、ご葬儀で導師を務めることはできません。

13 供養

 み仏と、あの世の住人になられた御霊をご供養します。

14 お焼香

 ご参列の方々にも供養のお焼香をしていただきます。

15 み仏へのご挨拶

 大日如来の使者として終始、この場を御守りくださったお不動様をお讃えします。

16 解界(ゲカイ)

 結んだ結界を解き、導師は修法壇を降ります。

17 法話

 私たちにとって、先に行かれた方にとって、ご葬儀とは何か、この厳粛な事態を迎えた私たちの心はどうあるべきか、私たちが故人に対してできることは何か、などをお話し申し上げます。
 ここまでをもってお葬式のすべてを終わります。
 お焼香が終わればそれでおしまいではありません。
 どうぞ最後までご静粛に過ごされ、ご協力をたまわりますよう。



 以上が当山で行うお葬式の概要であり、当然ながら、この内容はお布施の金額などによって変わることはありません。

 明治時代、廃仏毀釈(ハイブツキシャク)によって、日本史上例を見ない国家による仏教破壊が行われました。
 その狂風はまもなくおさまりましたが、仏教を貶めるための説がたくさん流され、その残滓は今も残っています。
 たとえば、「お釈迦様が自分の遺体にかかわるなと言われた」という経文のわずかな部分だけをとりあげて、「そもそも仏教と葬儀は関係ない」と主張する方もおられますが、かなり無理があります。
 最新の研究によれば、少なくとも9世紀のインドでは、経典に基づく死者儀礼が行われていました。
 その流れは当然、当山が行う修法にも深い影響を与えています。
 また、仏教は、お告げや預言ではなく、精緻な哲学を伴った思想を基にした宗教です。
 だから、歴史と共に深められ、高められ、世界各地で伝統的な習俗や思想や宗教の影響も受けながら発展して来ました。
 そうしたことを無視して、お釈迦様の時代に還れというのは、実存主義や現象学などの成果を否定して、ソクラテス・プラトンに還れと主張することと同じで、あまり創造的ではないと思われます。

 お葬式のお経はよくわからないというご批判があります。
 この点については、普段の勉強会や説法による説明はもちろん、当山が毎月行っている例祭や年忌供養では極力、読み下し文を用いるなどして対応しています。
 それでもなお、定められた次第によって行うので、わかりにくい部分は多々、生じます。
 このことは、み仏の世界、悟りの世界といった私たちの日常的な感覚とは次元の異なる世界を表現している文章なので、どうしても簡単にはわからなくなりがちであるとご理解、ご容赦をお願いするしかありません。
 日々、唱え、修行している私なども微力なので、死ぬまで勉強してなお、よくわからないことは山のように残ることでしょう。
 勉強の続きは来世で行おうと決心し、そうありたいと願うしかありません。
 
 当山ではこうした立場から、お釈迦様に始まりお大師様によって整理された法の流れに基づき、ご縁を求める方の思想・宗教にかかわりなく修法し、引導を渡し続けています。
 無宗教の方や俗名で送られたい方も同じです。
 檀家になるかどうかも無関係です。
 なぜなら、み仏のご加護は決して相手を選ばないからです。
 とにかく、み仏のお導きと後押しする法力によって、この世とあの世の区切をきちんとつけて安心の世界へ旅立っていただきたい、決して迷われないようにという一心で日々、修法を行っています。
 どうぞご安心ください。合掌




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2012
08.30

少路和伸先生の『浦島太郎』に思う ─画家と僧侶─

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〈『笠地蔵』のポストカード〉

 グラフィックデザイナーとして社会人になった少路和伸先生は、日本全国を旅しながら、画家として生きる道を選びました。
 平成15年、絵本『浦島太郎』の「あとがき」にこう書かれました。

「『こんなに頑張ったのにこれだけの成果しかない……割が合わない』
 自分の物差しや損得勘定で物事を判断するから見返りの成果を期待すると思うのです。
 人が一人頑張ったって大した成果なんてあげれません。
『こんなに頑張ったけどまだ自分はこれだけの成果しかないんだ……まだまだ未熟者』
 こう考えれば頑張ることも楽しさにかわり向上心にもつながります。
 成果なんか期待するよりも次はどんな楽しい事をしようか考えます。
 楽しい事には人が集まります。
 楽しい人には人が集まり力を貸してくれるのです。
 その中には力を貸してあげたなんて思う人はいないでしょう。
 なぜならみんなが一緒に楽しんでいるからです。」

 この成り行きに対する信念は、行者としての僧侶が結果をみ仏へお任せして祈り、法務に勤(イソ)しめば寺院が結果的に成り立つのと同じです。
 僧侶が経営を成り立たせようとして〈見返りの成果〉を得る方法を考えた途端に堕落するのとも同じです。
 先生が「力を貸してあげたなんて思う人はいない」と言われるのは象徴的です。
 損得勘定による恩の貸し借りから離れていることもまた、寺院と同じです。
 
 考えてみれば、先生は旅しつつ書かれ、画家になられました。
 私も托鉢を行じつつ皆さんとの出会い、み仏のご加護によって、僧侶としてのあるべき生き方を教えていただき何とかここまで来ることができました。

 どうやら、先生はは〈楽しんでいる〉人々に囲まれているご様子です。
 当山もまた、ご縁の方々のお心に包まれ、成り立っています。
 先生は以前、大阪の真言宗泉涌寺派大本山法楽寺でお不動様に祈っておられたそうです。
 先生の画業発展を祈りつつ、同じく法楽寺と名乗る当山も揺るがず法務に邁進します。

 少路和伸先生、ありがとうございました。
 
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〈当山が兎野にあると知り、サラサラと兎を書いてくださいました〉




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2012
08.30

【現代の偉人伝】第154話 ─ガンと闘いつつ治療の現場を離れない高橋享平医師・極楽とは何か─ 

2012083000111.jpg
〈河北新報さんんの写真をお借りして加工しました〉

 8月28日付の河北新報は『がん闘病の院長 後継者待つ』との見出で、南相馬市・原町中央産婦人科高橋享平院長(73才)を紹介した。

「医院は原発から25キロ圏内。
 事故で屋内待避区域や緊急時避難準備区域に一時指定され、地元の病院が次々と休診する中、高橋さんは診療を続けた。
 約3日間避難したが、
『患者さんを置いて逃げられない。
 人生最大の使命』
と医院に戻り、専門の産婦人科のほか、内科、外科の患者も診た。」


 そうした中、昨年5月にガンとわかったが、すでに肝臓や肺に転移した末期的症状であり、手術は諦め、職務を続けている。
 原発事故以後、市内で唯一、お産に対応できる医療機関として80人以上の赤ちゃんに誕生に立ち会ったという。

「原発事故があっても赤ちゃんは生まれた。
 とどまって診療を続けられて良かった」
「産婦人科としては成り立たず、診療科を変更しなければならないかもしれないが、地域の患者のために病院を続けたい。
 人間味のある医師に来てもらいたい」


 73才の高橋享平院長が倒れるまで職務をまっとうしようとする姿は、老いた者にとって理想的な生き方と死に方を示している。
 死に方を決めた時、生き方も決まる。
 一切のブレも悔いも怖れもなく老いを生きられれば、それは生きながらにして極楽の住人となることではなかろうか。

 極楽の〈楽〉とは、いわゆる楽をすることではない。
 経典は、極楽を苦のない世界と説くが、ここでの〈苦〉もまた、日常的な意味の苦しく辛い状況ではない。
 楽の字は「ねがう」とも読む。
 お釈迦様は苦を「ままならない状況」と説かれた。
 人間にとっての宿命である四苦八苦のうち、最もままならないのが死の到来である。
 そこが超えられれば、もはや他の苦も消え去る。
 ならば極楽とは何であるか、明らかである。
 ままならぬという気持の壁がなくなり、よき願いに生きる世界である。
 つまり、菩薩(ボサツ)として生きれば極楽の住人であり、高橋院長はまぎれもなく菩薩である。
 もしも患者さんたちに「院長は生き仏ですよね」と声をかければ、皆さん揃って「そう、そう」と同意されるでのはなかろうか。

 菩薩の例にたがわずZ、高橋院長は心の極楽に住みつつ、現世の戦いを続けておられる。
 髙橋院長がこの世に託す希望「後継者の確保」が叶うよう祈りたい。




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2012
08.29

9月の聖語 ─亡き母親の拍手─

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 早朝3時、虫たちの声が天地の間に充ち満ちているのは切ないほどです。
 それにしても、カンカン照りの日中も、星々の下でも変わらずにまるで尺八のように野太い声で鳴くウシガエルの生態はどうなっているのでしょうか。
 さて、9月は、お大師様のこの言葉を考えましょう。

法身(ホッシン)いずくにかある。
 遠からずしてすなわち身なり。
 智体(チタイ)いかんぞ。
 我が心にしてはなはだ近し」


(み仏の本体がどこにあるかと言えば、どこか遠くではなく、行者の身中におられます。
 み仏のお智慧がどこにあるかと言えば、行者の心中にあり、とても身近なのです)
 お大師様の説くところによれば、私たちそのものが本来、み仏なのであり、心にある月光のような智慧の光を覆うのは、煩悩(ボンノウ)による迷いの黒雲です。
 み仏のお導きに接する機会があれば、悟りを求める光が心中から発し、黒雲は消えます。
 このように、外からの〈縁〉により、内側の〈因〉がはたらき、み仏の子として生きられます。

 この身このままでみ仏らしく考え、あるいは語り、あるいは行う〈み仏体験〉をくり返していると、因縁はどんどん清められて黒雲が徐々に発しなくなり、み仏そのものに近づいて行きます。
 これがお大師様が説く即身成仏(ソクシンジョウブツ)の成り行きです。
 とにかく、み仏そのものである本体に還ること、最も確かな自分自身を感得することが最も大切です。

 お大師様はこうも説かれました。

「本心は主(アルジ)、妄念(モウネン)は客なり。
 本心を菩提(ボダイ)と名づけ、また仏心と名づく」


 菩提とは悟りを求める心であり、私たち自身の主はあくまでも清浄な仏心です。
 普段、私たちが〈自分〉と思い〈心〉と考えている対象は、実は、一時的に訪れる客でしかありません。
 主である本心は悟りの世界(ニルヴァーナ)にあり、客である妄念は迷いの世界(サンサーラ)にあります。
 だから、妄念が蜃気楼なようなものであると気づきさえすれば、いつでも本心で生きられるようになります。

 密教の経典『大日経』は、「縁によってかりそめに生じているだけのもの」をよく観察し、それらに惑わされずニルヴァーナへ入る方向へと導きます。
 ちなみに、妄念は十種挙げられており、当山のブログ「密教の行者は悪霊が見えるか(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2589.html)」から転載しておきます。

①幻(ゲン)
 いわゆる「まぼろし」です。
 手品師が見せたり、薬物や呪術で見えたりする奇妙なものです。
②陽炎(ヨウエン)
 いわゆる「かげろう」です。 
③夢(ム)
 いわゆる「夢」です。
 よく「夢か現(ウツツ)か」と言いますが、ボーっとしていたり、過労になったりすると二つのものの境界があいまいになります。
④影(ヨウ)
 鏡に映った像などは、現実そのものにしか見えません。
⑤乾闥婆城(ゲンダツバジョウ)
 乾闥婆は、天上界で音楽を奏でる妖精のような神であり、その根城が乾闥婆城とされています。
 私たちの現実においては、いわゆる「蜃気楼(シンキロウ)」です。
 実体はないのに、いかにもありそうに見えます。
⑥響(コウ)
 音声によって生ずる空気の振動です。
 やまびこもそうです。
⑦水月(スイガチ)
 水面に映った月です。
⑧浮泡(フホウ)
 水に浮かぶ泡です。
⑨虚空華(コクウゲ)
 目が眩んで星や花が飛ぶように見える場合があります。
 空に浮かぶ虹も、橋に見えますが橋がかかってはいません。
⑩旋火輪(センカリン)
 火のついた松明をぐるぐる回すと火の輪が見えます。
 しかし、輪はありません。

 最近、母親の十三回忌を迎えました。
 全身全霊での修法が終わった時、どこからか、拍手する気配が伝わってきました。
 学校の先生をしていた母親は、子供だった私の疑問や質問にはすべて答え、探求心を起こした分野でいろいろやろうとする時は、必ず支援してくれました。
 しかし、「よくここまで頑張ったね」という誉め方をしてもらった記憶はありません。
 常に、前へ進もうとする息子の後押しをし、犠牲になることを厭いませんでした。
 その母親が、当山の主尊大日如来に導かれる十三回忌で今度は息子に後押しされ、ようやく「お前もどうにかここまで来たか」と誉めてくれたのでしょう。
 でも、こうしたことごとは〈~のような気がする〉という範囲のできごとであり、決して拍手の音が〈聞こえた〉と実体化しては受けとめず、一時的な感慨はあってもとらわれはしません。
 菩薩をめざす行者にとってはすべてがありがたい縁であり、ただただ合掌するのみです。
  
 今日も、法身であるべく祈りつつ、拙く小さな一歩を歩み出します。
 ご一緒に歩みませんか。




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2012
08.28

9月の真言

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 9月守本尊不動明王(フドウミョウオウ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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2012
08.28

9月の守本尊様

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 9月は、白露(ハクロ)と秋分(シュウブン)の長月(ナガツキ…9月7日より10月7日まで)です。
 9月(トリ)の月なので、守本尊不動明王(ふどうみょうおう)様です。


 不動明王様は『種々界智力(シュジュカイチリキ)』という、人が居る世界を知る智慧の力を発揮してお救いくださるみ仏です。
 地獄界にいる人にとっては光明こそが救いであり、餓鬼界にいる人にとっては飲食できることが救いです。
 住む世界によって何が救いになるかは違います。
 戦乱の中にあれば平和、いじめられている人にとってはいじめの終熄が最も切実な望みです。
 大日如来の使者である不動明王様は、一人一人の救いとなるものをよく見極め、力をお与えくださいます。
 また、不動明王様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として胴体をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、文化の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

21080819 013

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた不動明王様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)




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2012
08.28

子や孫のためにふり返っておきたい(その17) ─強い者は自分に勝つ─

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18 「つ」 強い者は自分に勝つ
 復習がまだすすまないのに、
 遊びたくなった時、
 言いつけられた仕事を、
 早く止めたい時、
 強ければ自分に勝て。
「ここだぞ!」と勝て。


「自分」には、「怠けて好き勝手をしたい自分」と、「我慢し、歯をくいしばっても、なすべきことを行おうとする自分」がいることを気づかねばなりません。
 自分という意識は一本の糸のように連続しており、〈我がままな瞬間〉と〈すなおな瞬間〉がその糸を形成しています。
 そして、我がままを通すことに慣れると、ものごとに対して我がままに反応する心が育ち、すなおに行うことに慣れると、ものごとに対してすなおに反応する心が育ちます。
 それによって〈我がままな瞬間〉が意識を形成する割合がどんどん増えれば〈我がままな子供〉になり、やがては学級崩壊やいじめの犯行で主役を務めるようになりかねません。
 それによって〈すなおな瞬間〉が意識を形成する割合がどんどん増えれば〈すなおな子供〉になり、やがては学級をまとめたり、いじめを放置できなくなったりします。
 ここで気をつけねばならないのは、以下の三点です。

1 表面で〈良い子〉になれば、親や先生などの大人が誉めてくれ、大人を相手にする時間がスムーズに流れることを知り、本当の意味で〈すなおな子供〉になっていない場合がある

 自分に嘘をついたままでうまく時間を流すのは実に恐ろしいことです。
 自分を騙すならば、他人を騙すなどたやすいからです。
 こうして、扱いやすいけれども本心のわからない子供ができたりします。
 このタイプは、我がままで手に負えない子供より、将来は危険です。
 なぜなら、手に負えない子供は周囲がその事実に気づいて対応することが可能であり、何かの瞬間に我がままなエネルギーが陽転し、勇気ある行為をさせたりする場合がある一方、本心を隠す子供はそれと反対だからです。
 まず、周囲はその子供に騙されるか、もしくは、その子供を信用できなくなります。
 そして、その子供は、何かの瞬間にすなおだったはずの仮面を脱ぎ捨てて、信じられないような恐ろしい行為に走ったりする危険性があります。
 とてつもない事件を起こし、周囲が「まさか、あの子供が……」、「どうしてあんなに良い人が……」と驚き、絶句するのはこうしたケースだったりします。
 親も先生も、表面的にすなおな子供にはくれぐれもご用心を。

2 表面を繕うために自分を押し殺す習慣がつき、〈覇気のない子供〉になってしまう場合がある

 悪いことはしないし成績も良いが、自分から責任を背負ったりせず、その場を波風立てずにやり過ごすひ弱な子供になっては将来の発展はあまり望めません。
 ともすると、いじめを見ても放置したり、大人になっては世論に流され、社会悪へ立ち向かわず、公共的なことごとに無関心だったりします。
 それもまたその人のかけがえのない人生ではありますが、こうしたタイプだけでは、あまり希望の持てない社会になりかねません。 

3 表面を繕うために押し潰される我(ガ)が内心で反発し続け、〈親や先生を怨む子供〉になってしまう場合がある

 今の心理学はこうしたタイプに大きく注目し、いわゆるトラウマ探しが流行しています。
 そして原因となった状況が指摘されはしますが、それらはすべて過去となっており、適切な対応を行うのは容易ではありません。
 また、無責任なお告げや、他人の余計な口出しによって、親や先生との解消できない対立・不和を発したり、二次的な苦しみを背負ったりする場合もあります。

 1・2・3のケースになっていないかどうか、子供の心と態度をよく観察しながら指導していただきたいものです。
 何よりも大切なのは、我がままな自分という我(ガ)を克服した先に見える青空の美しさを体感させることです。
 そして、通り一遍に誉めるだけでなく、「やった!」という子供の達成感や喜びを一緒に感じてやることです。
 以前、このブログで採りあげた某小学校の校長先生による『ほめほめ集』などは、それがはっきりと表れている成功例と言えそうです。
 子供がやりたくない気持を抑えて頑張ったことを報告し、校長先生が必ず返事を書くという途方もないやりとりの一例です。

「四年 K・T

 階段のそうじをしているとき、シチューがこぼれていました。
 いやだなと思いましたが、みんながやらなかったら、きたないまんまなので、私がすることにしました。
 ふいても、ふいてもこぼしてしまう人がいるので、もういや。と思っていたら、校長先生がこられて、『きれいになったね。』と、おっしゃいました。
 下から見ても上から見てもピカピカになり さっぱりした気もちになりました。そしてやってよかったと思いました。
              ◆
けいこさん、
 ほめほめのお手紙ありがとうね。
 きょうのほめほめは、おそうじの時のことでしたね。
 かいだんのおそうじは、ごみがすみっこにはいって、はいたりふいたりが、とっても大変ですね。
 それに、給食のおしるも、かいだんが一ばんこぼれやすいところのようです。
 おしるがこぼれた所を、そのままにしておくと、小さなほこりがついて、とってもきたなくなりますね。
 ぞうきんでふくと、ねちゃねちゃして、しまつにこまります。だから、みんなが ふくのをいやがります。
 でも、だれかがやらないと、ひとりでに、きれいになるものではありません。そのだれかに、けい子さんがなってくれたのね。
 ごくろうさま。
 けいこさんが『下から見ても、上から見ても、ピカピカのかいだんになりました。』と書いていましたね。
 このことばの中に、『やってよかった。』というけい子さんの よろこびがこもっているように思いました。」


 まさに、古人の教えどおり「鉄は熱いうちに打て」です。
 我がままな人にも困りものですが、1・2・3を経過して大人になった方々もなかなか大変だったりします。
 親御さん、先生方、どうぞ頑張ってください。
 そして、共に、できることをやりましょう。




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2012
08.27

子や孫のためにふり返っておきたい(その16) ─祖国は我等の肩に─

20120826101.jpg

17 「そ」 祖国は我等の肩に
 一人怠ける者があれば
 それだけ国が弱くなっているのだ。
 『僕は日本の将来を背負ってるぞ!』
 朝起きたらこれを思え。


 子供の頃に大事なのは、社会人となるためのふるまい方を身につけると同時に、大きなを見ることです。
 を見るとは、現在の自分が置かれた諸条件を忘れてイメージを大きく広げる状態です。

 そうした中で、大人にとって大切な態度が二つあります。


1 虫の生態をじっと観察し続けるなどの、子供らしい集中した状態を妨害しない

 宿題をしないで学校へ行くなどの酷さでないかぎり、「そんなことをしているよりも、もっと勉強しなさい!」と叱らないようにしましょう。
 大人にとってつまらないこと、むだなこと、役に立たないことに中になり、意志を集中させられるのが子供の特権です。
 子供の頃にそうした体験をしておかないと、つまらない大人になってしまう危険性があります。
 ものごとの表面をうまくなぞるような態度で生きる人になってしまえば困ります。

2 自分のためだけでなく、周囲や社会のためになる体験をさせる

 自分だけのためでない汗を流し、必ずしも誰かから感謝されたり誉めらたりしなくても、自分なりの達成感を確認させる必要があります。
 そうした中に、今回の教えも含まれます。
 たとえば、道路のゴミ拾いでも、公園のトイレの掃除でも、自分が汗を流してきれいにしたことそのものの価値を感じ、それが、皆のためになっているという想像力を持たせましょう。
 その想像力を、町内のためになっている、町のためになっている、そして国のためになっているという具合に広げさせましょう。
 そうすると、たくさんの人々のためになっているのだと達成感が大きくなるだけでなく、自分以外にも同じように汗を流している人たちがいると想像することもできます。
「皆それぞれに、どこかで汗を流している、自分もその一員だ。
 こうして社会は成り立ち、国が成り立っている。
 もしも、自分が怠けたいと思うように、皆が怠けてしまったなら大変だ。
 怠けないようにしよう」
 ここまで行けば、まっとうな社会人に育ってくれるのではないでしょうか。
 決して、こうは指導されないよう。
「いったい誰のための勉強だと思っているの!
 結局、あとになって泣きを見るのは貴方なのよ!
 自分のためになるんだから、しっかりやりなさい!」
 こう指導したいものです。
「貴方が生きていられるのは、農家の方や、お巡りさんなど、皆のおかげですよ。
 だから、貴方も誰かの何かの役に立って恩返しするのが人間として当然のことです。
 そのために今の貴方が第一番にやらなければならないのが、定められた勉強です。
 今やっている人間の基礎作りをしっかり固めておかないと、将来、パン屋さんになりたい、お医者さんになりたい、など何かをしたいなと思っても、うまくできない人になってしまいます。
 しっかりした大人になるのが貴方のためであり、それは同時に、恩返しという形で大人としての責任を果たすことになるのです。
 今朝も、ごはんが食べられ、テレビを観られました。
 それは、皆がはたらいてくださっているからです。
 もし、貴方もお友達も怠けて、しっかりはたらかない人ばかりになったなら、貴方の今朝のご飯もテレビもなくなるのです。
 貴方が大人になってもこうした安心できる社会が続くよう、しっかりやりましょう。
 将来、どんな社会で貴方やお友達が生きるかは、貴方やお友達の方にかかっているのです。」
 子供を萎縮させぬよう、目を輝かせられるよう、上手に意識を高めてやりたいものです。
 社会を考える心の広い人間に成長すれば、いじめという薄汚い行為も少なくなるのではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
08.26

自分でもよくわからない経典を唱えて供養になるか? ─通じることを信じ、「今さえよければ、自分さえよければ」を脱しよう─

20120826011.jpg

 例祭に参加したAさんからご質問をいただきました。
「今、ご先祖様のためにと思って経典を読みましたが、内容があまりわかっていません。
 自分でもわからない経典を唱えて役に立つのでしょうか?
 また、最近亡くなった兄は、本を読まず宗教にもほとんど関心がなかったので、私の声を聞いてもありがたいと思わないのではないかと心配になります。
 これで供養になるのでしょうか?
 私の読経は、はたして、役に立っているのでしょうか?」

 お答えしました。
「立派な供養になります。
 それには三つの理由があります。

1 供養したいと思う心で唱えるという行為そのものが一番の供養

 亡き人が心安らかでいて欲しい、極楽で成仏して欲しい、苦しい地獄界や争いの修羅界に転生しないで欲しい、という利他の心を持ち、それによって読経という清らかな行為を実践することは布施行というすばらしい善行です。
 み仏の教えは、あらゆる現象の原因となる心のありようがいかにあるべきかを説いており、結果による評価を第一とするのではありません。
 たとえば、24時間テレビなどで大きな募金をして目立とうとする大人の心よりも、親に頼んで会場へ連れて行ってもらい、なけなしのお小遣いを募金箱へ入れようとする小さな子供の心をこそ、清浄な徳積みとみなします。
 決して、『ノルマを達成したかどうかがすべて』という発想ではないのです。
 だから、たとえ拙い読経でも貴方の心と行為は立派な布施行であり、必ずや、み仏に導かれた世界におられる方々へ届いていることでしょう。

2 経典はそもそも、お釈迦様が明らかにされた悟りの世界のありようと、そこへ至るための心がけが書いてあり、内容が難しいのは当然であって、理解できるのもまた一部であって当然

 仏教の経典は、神のお告げや、楽に生きられるためのマニュアルではありません。
 お釈迦様は、皆が〈自分を第一〉とすることによって互いに角突き合わせねばならず、他を害することも厭わぬあさましい姿に深く悲しまれました。
 弱肉強食という自然界の原理に流され、一時的で儚い勝利に勝ち誇る人間の高慢心や非情な心、あるいは敗れた人間の悔しさや怨みが因縁となって輪廻転生する姿に絶望もされました。
 そして恵まれた境遇を捨ててまで真理を探求する生活に入り、生の全体を〈苦〉と見極め、〈苦〉の世界をぐるぐると輪廻転生する鎖の輪から脱する方法を探求され、ついに悟りを開かれました。
 それから約500年が経ち、お釈迦様を慕う人々によって『教えとお悟りは、こうではなかったのか』とまとめられ始め、その作業は、以後2000年を隔てた今も、行者や学者によって熱心に続けられています。
 こうした内容をすべて理解することは、お大師様クラスの超人にしかできはしません。
 しかも、(クウ)や縁起(エンギ)や輪廻の思想など、歴史と共に理論も実践方法もより深く、高度なものになっています。

 たとえば、オリンピックの体操で金メダルを取った内村航平選手の演技について、もしも10冊の本に詳しくまとめられたとしてさえ、ほとんどの人が理解できないことを想像してみればわかります。
 しかし、私たちは、テレビのニュースなどで彼の活躍ぶりのごく一部しか目にしなくても、彼の演技が人間が行う体操という競技において、現在、おそらく最高度に達しているのではないかと感じ、驚嘆し、美しさや強さに魅せられます。
 そして、彼の口から漏れ聞く言葉の片隅に何かの光を感じ、感謝したりします。
 私たちの経典に対する態度もまた、このようであって構わないし、彼の後を追って体操の選手になるように出家得度をしない限り、このようでしかあり得ません。
 だから、般若心経がよくわからないからといって、般若心経を諦める必要はありません。
 もしも『色即是(シキソクゼクウ)』の四文字に奥深い(クウ)の世界を感じたなら、自分なりに学び、考え、唱え、写経すればそれでよいのです。
 もしも『真実であり虚しからざるゆえによく一切の苦を除く』とされる『ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじ そわか』の真言に救いの世界を感じたなら、やはり同じようにして教えを自分の人生に生かしましょう。

3 廻向(エコウ)によって供養の心は、み仏の世界へ、あの世へと届く

 最新の研究によれば、インドでは9世紀頃から死者の葬礼がきちんとした作法によって行われ、仏教は、この世の私たちが苦と迷いから脱するという目的と共に、死者を儀礼によって送り儀礼によって悼むという人間の歴史が始まって以来、連綿と続いてきた死者への思いの受け皿として整備され、深められてきました。
 私たちは、敗戦によって日本人の心の漂流が始まり、そのツケがまわっていじめなどの問題が悪化したことに気づきつつあります。
 しかし、明治の廃仏毀釈(ハイブツキシャク)によって、日本への仏伝以来、幾多の祖師たちに練り上げられた日本的仏教の根幹が、いまだに置き忘れられたままになっているという弊害にはあまり気づかれていません。
 私たちにはまだ、供養という心、廻向によってあの世に逝かれた御霊のために役立ちたいという思い、死んだらそれっきりではないという祖霊を偲ぶ感謝と報恩、あの世に行っても後に続く世代を見守りたいという願いなどが残っています。
 こうした尊い心のはたらきは、「死んだら終わり」や「人生は一回こっきりだから今を楽しむ」というお釈迦様がはっきり『邪な見解である』と説かれた考え方の氾濫を何とか抑えつつあります。
 大震災・大津波・原発事故によっても、私たちは『自分中心』や『今さえよければ』という考え方がどこかおかしいと気づかせられつつあります。
 ここのところを深めて行かねば、犠牲になられた方々を真に悼むことはできないと覚悟しています。

 いじめや、人間を道具として使い捨てにする世相にはっきりと立ち向かい始めた今、私たちは、〈敗戦で失った尊いもの〉そして、〈廃仏毀釈で失った尊いもの〉をよく考え、ご先祖様、古人、賢人が遺された大切なものを守り発展させ、悪しき共業(グウゴウ)を解消しようではありませんか」




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2012
08.25

彼岸供養会は、御霊も私たちも輪廻転生から解脱する機会です

20120825001112
法楽をめざして〉

 彼岸供養会とは「彼岸(カノキシ)」へ渡ろうとする供養会です。
 彼岸とは輪廻転生(リンネテンショウ)を離れた悟りの世界、み仏の世界であり、渡るのは自分であり、先に逝かれた御霊方でもあります。
 私たちは悟りを開かない限り、人間界や地獄界や修羅界などの六道(ロクドウ)を彷徨わねばならない存在であるということが大前提になっており、輪廻転生を離れた「死んだらおしまい」という考え方は、お釈迦様によって邪見(ジャケン…邪な見解)としてはっきり否定されています。
 そもそも、最新の研究によれば、お釈迦様は生涯、四諦(シタイ…四つの心理)を相手に応じて使い分けて説かれたとされています。
 それは以下の通りです。

一 生まれ変わり死に変わりする生きものたちはすべて〈ままならぬ〉苦の世界にいる

 お大師様はそれを「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥(クラ)し」とされました。
 お釈迦様は、私たちの煩悩(ボンノウ)に流される日々を哀しいと観られ、仏像の表情は、哀しみを解こうとするお慈悲をたたえておられます。

二 業(ゴウ)によって迷いの世界を輪廻する

 煩悩に促されて考え、語り、行ったすべてのことごとは、必ず何ごとかの原因となり、その結果として現れているのが迷いに満ちたこの世なのです。

三 煩悩を克服し輪廻転生から脱することは可能である

 お釈迦様は、厳しい修行の結果、煩悩を克服し、ご自身の体験として輪廻転生から解脱(ゲダツ)されました。
 心の魔軍を断ち、自分を永遠につなごうとする輪廻の鎖から〈解〉き放ち、輪廻を〈脱〉し、成仏されたのです。
 だから仏陀と呼ばれます。

四 輪廻転生から解脱する方法がある

 解脱されたお釈迦様は、あまりのできごとにしばし休憩されました。
 それが「法楽」に浸られた一週間です。
 当山はその境地を偲び、皆さんと共に少しでもそこへ近づきたいとの願いから法楽寺の寺号を定めました。
 仏教とは何かと言えば、「お釈迦様が成〈仏〉して明らかに実証された悟りの境地を求め、二千五百年の歴史をかけて研究され、練り上げられ、伝えられたその方法を実践し、共に苦の世界を極楽に変えようとする〈教え〉」です。
 私たちが広く行える方法としては、およそ九世紀からインドで行われ、伝えられてきた廻向(エコウ)という供養を行うことが一つ、もう一つは、誰でもが菩薩として生きるために可能な六波羅蜜(ロッパラミツ)行を実践することです。
 9月22日の供養会ではこうした法話を行い、共にあらゆる御霊のために供養し、布施行などを誓います。
 お釈迦様が、お大師様が、ご先祖様が伝えてくださった尊い教えを実践しようではありませんか。




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2012
08.24

死に方を選ぶ ─餓死したトニー・ニックリンソン氏・希望の日に逝った西行法師─

 201208040042.jpg
共同墓『法楽の礎』を守る主尊大日如来〉

 8月23日夜、NHKはイギリス人トニー・ニックリンソン氏(58才)の餓死を報じました。
 脳卒中によりほぼ前身が麻痺状態になった氏は、目の動きによってパソコンを通じた意志の疎通ができる時点で、意志の疎通が危うくなったなら安楽死させて欲しいと願っていました。
 憲法に定められた「尊厳や自主性」が保たれなくなくなってまで生き続けることに耐えられないと考えたのです。
 そして〈その時〉が来たので裁判へ訴えましたが、安楽死を認めていないイギリスの高等法院は氏の訴えを退けました。
 結果を受けた氏は食事を拒否して衰弱し、数日後、肺炎の悪化により死亡しました。
 直接の死因は肺炎ですが、実質的には本人の意志による餓死です。
 つまり、餓死という形での自殺です。
 映像は氏の毅然とした様子、敗訴による無念の表情、そして、かいがいしく介護を行う奥さんの淡々とした雰囲気を伝えていました。
 私は、無念の氏が絶望したかのように涙顔を見せた一瞬を忘れられません。

 死にまつわる絶望は、死がもたらすのではありません。
 死に方を選べない時、あるいは、臨む死に方が拒否された時に訪れます。

 もちろん、意識して誕生の条件を選べず、意識して死の時を選べないことに達観していれば、絶望はありません。
 あるいは、仏神へいのちをお預けしてしまった者にも、絶望はありません。

 しかし、心身に耐え難い苦を同伴者として生きる境遇になれば、生の方向へ向かおうと死の方向へ向かおうと、必ず希望が生じます。
 ──この痛みや辛さを緩和したい、早く死んで楽になりたい……。
 そして、痛みや辛さが緩和されず、死を求めても許されない時、絶望するしかなくなります。

 氏は絶望を乗りこえる希望の力を失いませんでした。
 それは、人間としての尊厳は生死を超えるという尊い信念によります。
 尊厳を守るために死を選ぶという最後の自主性が国によって拒否された時、生きものとして飲食を拒否するという最後の手段が残されており、幸いにも、希望を共有する妻がそばにいました。
 二人の協力で希望は達成されました。

 病気や老衰の進んだ生きものは、飲食が細ります。
 そして死にます。
 人間以外の生きものはすべて、そうした自然の流れの中で死んで行きます。
 どこかの時点で、意志を持った人間としての尊厳が保たれなくなったおりには、他の生きものたちと同じく自然へ身を任せるという死に方は、死までの生き方を選ぶことでもあり、人間らしい尊い生の営みではないでしょうか。
 イギリスの憲法で定められている「尊厳や自主性」はみごとに守られ、生きていると言えないでしょうか。

 当山はかねて、ご家族や友人・知人などが自殺された方々の人生相談を受けてきました。
 常に申し上げてきたことが一つあります。
「周囲の方々にとってどうであろうと、ご本人の意志を〈尊いもの〉として認めてあげてください」
 もちろん、家族がどんなに辛い思いをするか、伴侶がどんなに罪悪感に苛まれるか、などなど、凄まじい破壊的余波が生じているのは重々承知した上で、たとえ怒りを受けようと、呆れられようと、蔑まれようと、この点は言い続けてきました。
 そして、老いたお釈迦様が腐ったスープの布施を拒否せず亡くなったこと、お大師様が座ったまま弥勒菩薩のお側へ行かれたことなどもお話し申し上げてきました。
 妻を失い、筆力も落ちた作家江藤淳氏の遺言もお話し申し上げてきました。
「身の不自由が進み、病苦が堪え難し。
 去る六月十日、脳梗塞の発作に遭いし以来の江藤淳は、形骸に過ぎず、自ら処決して形骸を断ずる所以なり。
 乞う、諸君よ、これを諒とせられよ。」
 
 もちろん、国民の多くを貧困に近い境遇へ陥れ、生活できない、あるいは周囲の理不尽な危害に耐えられないといった人々を輩出している無慈悲な社会的業(ゴウ)は克服されねばなりません。
 社会的業によって自殺へ追い込まれる人が出ないよう、社会構造や就職問題やいじめの問題などが議論され、業の転換がはかられねばなりません。
 安楽死をどうするかということも大問題です。
 そうしたことごとをふまえた上でなお、一介の行者として、この点はゆるがせにできないのです。
「自由意志で生き方を選び、人間としての尊厳が守られるのと同じく、自由意志で死に方を選び、人間としての尊厳が守られるのではないか。
 死に方を選ぶのは、生き方を選ぶことと同じではないか」
 老いた人も、病気の人も、死に神の到来を感じている人も、それらからただ逃げようとするのではなく、自分の死に方をイメージすることによってそれらを克服する生き方を考えた方が、より実りある人生をとして幕を閉じられるのではないか……。
 お釈迦様を慕い、お釈迦様の入滅したころに自分も死にたいと願っていた西行法師はこう詠み、その通りに逝きました。
「ねがはくは花のしたにて春死なんそのきさらぎの望月の頃」




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2012
08.23

2012年9月の運勢 ─流れの生かし方と人生修行─

201208020402.jpg

 2012年9月─平成24年9月(長月…9月7日から10月7日まで)─の運勢です。
 運気の流れによる注意点を参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 不穏の空気に惑わされた軽挙妄動を避けましょう

 今月起こる不穏の気配は、予期できない乱れが待っているのではないかという不安を抱かせます。
 こうした心理に陥ると、誰かの行動に裏切りを疑ったり、さもない一言に敵意を感じたり、大樹やビルの暗がりに異界のものが潜んでいると怖がったりします。
 問題なのは、不安と恐怖が〈先制攻撃〉へ走らせてしまうことです。
 インド北東部アッサム州で起こった衝突などはその典型です。
 七月六日にイスラム教徒の男性二人がイスラム過激派の犯行によって殺害された際、イスラム教徒たちは宗教が異なるボド族のしわざではないかと疑いました。
 そこから始まった殺戮と破壊の応酬は徐々に拡大し、八月二十一日までに死者八十四人となり、避難民は増加の一途をたどっています。
 公正な社会を創るための思想と、救済を実現するための宗教が抜き差しならぬ対立と憎悪を生んでいるのは残念です。
ビッグイシュー日本版」におけるダライ・ラマ法王の言葉です。
「個人的にですが、『私はチベット人だ』とか、『私は仏教徒だ』などと自分自身を意識した時、それらの言葉によって距離が生まれてしまいます。
 そこで私は自分自身にこのように言います。
『そんなことは忘れてしまえ。私は人間で、70億人の一人に過ぎないのだ』と。
 そう言ってしまえば、私たちの距離はとても近いものになります。」
 これはホームレスの方々へ自分はホームレスであると決めつけてしまわないようにアドバイスされた言葉の一部ですが、何が世界へ危機をもたらしているのか、法王の姿勢はいかなるものかを示して余りあります。

二 一芸に秀で、リーダーとなれる人は、人の和をとりわけ大切にしましょう

 オリンピックにおいて、日本チームは史上最多のメダルを獲得しました。
 おそらくテレビなどでご覧になられた多くの方々が、これまでになく強固な選手同士の連帯感や、支援者へ対する選手たちの深い感謝の思いを感じとられたことでしょう。
 こうした心が戦いぶりや言葉として表れ、観る者へ深い感銘を与えました。
 一芸に秀でた人は勝者になるだけでなく、人間の持つ能力を究極まで探求した〈行者〉として、各方面でがんばる人々の灯火となるのです。
 今回、金メダルは少ないのに全体として多く、メダリストになれなかった選手たちの姿や言葉もたくさん印象に残ったことは実に暗示的です。
 私たちは、勝者になることが全てなのではなく、ものごとを探求する生き方そのものに大いなる価値を見いだす精神的ステージへと上りつつあるのではないでしょうか。
 そのステージで大切なのは「共に」という和の心です。
 あらゆる場面で「自分だけ」の自己中心を廃しましょう。
 あらゆる絆は和の心がなければ欺瞞になります。
 リーダーも、リーダーを選ぶ人も心したいものです。

三 いかなる対立や混乱にあっても矜恃(キョウジ)を守り、言葉と態度を慎みましょう

 今月は争いの気配が高まり、人の器量が試されます。
 こうした点で、韓国大統領の「天皇陛下は謝りに来るのならば訪韓を許す」という発言や、野田総理からの親書を突き返すなどの常軌を逸した行為は格好の反面教師です。
 誰かの非礼・無礼あるいは理不尽な態度へこちらも同じような態度で対応すれば同じレベルへ堕ちてしまいます。
 私たちには、自らの意志を主張する自由がある一方、自らの意志を抑制しても守らねばならない人間としての誇りもあります。
 ここを越えれば浅ましい、さもしい、という自分なりの境界線を保ってこそまっとうな大人であり、それは自分自身の精神的レベルをどこへ設定するかにかかっています。
 相手には無関係です。
 このあたりをよく考えながら語り、行動しましょう。

 皆さんの開運を祈っています!

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人はきまりや規律を上手に作り、守って発展します。
 不精進の人は見通しを立てずにやりたいように走り、破れを生じがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は統率し、あるいは和へ入り、成功します。
 不精進の人は負けん気を表に出して争いを招きがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は自分の智慧の足りなさを知って無事安全です。
 不精進の人は自分の愚かさが愚かな相手との不毛なやりとりに翻弄されがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人はグループのメンバーと思いも利害も一致させて成功します。
 不精進の人は自分の利を優先させ、引き時を誤って失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は人の器量を見極めて責任を持たせ、発展します。
 不精進の人は人を見誤り、おかしな人と行動を共にして失敗しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人はえこひいきせず実りを分かち合い積年の努力に花を咲かせます。
 不精進の人は小さな結果に舞い上がり、おかげさまを忘れて失敗しがちです。




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2012
08.23

亡くなった人が送られたのと同じ宗教でなければ供養できないか ─お墓の前での唱え方─

20120823004.jpg

 勉強会でAさんからご質問がありました。
「ある方のお墓参りをしようということになってでかけました。
 ところが、いざ、手を合わせようとすると、どう拝めばよいかわかりません。
 故人は生前、ある新興宗教の熱心な信者で仲間に送られたらしいのですが、私は私で大日如来様を信じており、NHK大河ドラマ『平清盛』で天皇が亡くなった際にもずっと流れていた光明真言(コウミョウシンゴン)が身についています。
 結局、曖昧なまま、悼む気持だけ捧げて帰ってきましたが、どうも釈然としないのです」
 お答えしました。
「ただ偲び、悼むだけなら黙祷でもよいのでしょうが、供養したいと願うならば、一歩踏み出さねばなりません。
 故人が安らかであって欲しいと強く願われた貴方はそこでとまどい、疑問が生じました。
 とても尊く大事な成り行きです。

 私たちは、この世でまっとうな人生を送るために、さまざまな場面で導き手のお世話になります。
 親・教・ご近所さん・友人・先輩・同僚・上司・何かの匠など、〈となってくれる人〉のおかげなくしては成長できません。
 もちろん、仏神などこの世ならぬ方々、あるいは書物や自然などもとなり得ます。
 この道理はあの世でも同じです。
 この世で煩悩にまみれていた人が、亡くなって急に清らかで安心できる存在になれましょうか?
 自業自得(ジゴウジトク)は普遍的原理なので、故人は生前の生き方相応の世界におられると考えるのが妥当です。
 それならば、やはり、〈となる〉誰かの導きで迷いを脱し、より安心してもらいたいと願うのは私たちの自然な気持であり、道理ではないでしょうか。
 はおられます。
 師は当然、み仏です。
 だからこそ、仏壇には必ずご本尊様がおられるのです。
 ご本尊様として導いてくださる〈あの世の師〉がみ仏です。

 ではお墓におけるご本尊様はどなたか?
 それは、必ずしも、故人のご葬儀におけるご本尊様であるとは限りません。
 第一には、故人は広大な〈み仏の世界〉の旅人となられ、もはや、特定のみ仏だけが導いてくださる世界におられるのはないからです。
 現に、四十九日忌は薬師如来のお導き、百か日は観音様のお導き、三回忌は阿弥陀如来のお導きをいただくなど、さまざまなみ仏によってあの世の関所を超えて行かれるからこそ、私たちは年忌供養を行っているのです。
 いつまでもご葬儀におけるご本尊様だけがついていてくださるわけではありません。
 第二には、〈み仏の世界〉への扉を開ける方法は、人それぞれだからです。
 たとえばAさんが光明真言を唱えるのは、単に信じている大日如来の世界へ入るだけではなく、そこを通じて広大な〈み仏の世界〉へと向かうためです。
 至心に真言を唱えて扉を開ければ、大日如来の世界を通じて無限の〈み仏の世界〉へと進み、その先で故人の御霊とも感応できることでしょう。
 もしもお地蔵様を信じている方ならば、お地蔵様の真言を唱えて心を向けることによって、同じく御霊との感応が可能となります。
 もちろん、『南無阿弥陀仏』でも『南無釈迦如来』でも結構です。
 つまり、お墓の前では、自分が信じているみ仏のお導きで心の扉を開き、供養のまことを捧げればよいのです。

 これからは、自信をもって光明真言を唱え、供養のまことを捧げてください。
 そうそう、そもそも光明真言はトランプで言えばスペードのエース格であり、どのような扉をも開ける力があるオールマイティーでハイパワーな真言です。
 あらゆる神社仏閣で通用します。
 ご精進ください」




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2012
08.22

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十五回) ─震災後の布施の心を忘れない─

20120820001 (2)
〈夜の石巻市で出会いました〉

 菩薩(ボサツ)になるための実践道、第二十五回目です。
 これは、「法話対話の会『生活と仏法』」(http://www.hourakuji.net/manabi/houwa.html)において議論するテキストの一つとなってもいます。

悟りを得るために、この身さえ犠牲にする必要があるのなら
 外界のものなどなおさらに
 見返りや成果を期待せず布施を行ずる
 それが菩薩の実践である」


 菩薩になろうとしている行者にとって、生きる目的はすべての衆生のためになろうとすることです。
 自分が悟りを得れば、それでよいのではありません。
 すべての衆生のためになれるよう悟りが必要なのです。
 言い換えれば、相手を選ばず他のために役に立てれば、その時点ですでに悟りは達成されています。

 仏教は、お釈迦様が過去の聖者たちと同じ悟りの境地に達成されたことを表明されたところから発しました。
 そして、お釈迦様の境地を願い、お釈迦様を慕う無数の行者たちによって悟りの内容が調べられ、追体験され、整理され、教えと修行の体系が歴史と共にまとめられ、深められてきました。
 聖者たちによるそうした努力は今なお、途切れずに日々、続けられています。
 仏教は決して、お釈迦様ただ一人のご生涯や残された教えに限定されるものではありません。
 お釈迦様は「私もようやく過去におられた聖者の域に達した」と明確にされており、〈その後〉も、その域に達したとしか思えない方々が、すばらしいご生涯と教えを歴史にとどめておられます。
 仏教は人類の歴史と共に高まり深化し続ける柔軟で無限の向上を根本的ありようとする希な宗教です。

 そうした中で、現在の人類にとって仏教の究極的価値は「相手を選ばず他のためになる」ところにあると考えられています。
 もはや、自分が苦を脱するために悟りを得ようとするところにあるのではないのです。
 このような仏教の根本に立てば、「お釈迦様はそう言わなかった」とか「お釈迦様はそうされなかった」などと、お釈迦様がおられた時代のあれこれを詮索し、〈そこにない〉ことを仏教ではないと否定する頑なな姿勢は最も〈非仏教的〉と言わざるを得ません。
 とは言え、お釈迦様の説かれた因果応報や輪廻転生(リンネテイショウ)や苦集滅道(クジュウメツドウ)や八正道(ハッショウドウ)などのどれも決して否定されはせず、今の日本では、そうした土台に立って皆共に救われようとする大乗(ダイジョウ)仏教が信じられ、行じられ、深められています。

 大乗仏教を規定した『大乗起心論(ダイジョウキシンロン)』は説きます。
「(大きな乗り物である)大乗とは、私たちの心である」
 救済は決して特定の経典のみに示されているのではなく、自分の心のありよう一つで、誰でもがさまざまな方法で悟りの境地へ到達できます。
 お大師様は説かれました。
「本心は主、妄念は客なり」
 私たちの心の大元である本心は、み仏と同じ仏心であり、そこへ煩悩(ボンノウ)を伴った客として普段の心が訪れ、迷いを生じさせています。
 だから、本心で生きれば菩薩になり、妄念で生きれば凡夫になるだけのことです。
 無着菩薩(ムチャクボサツ)は説かれました。
「もろもろの凡夫は、真実を覆い隠して虚妄に生きる。
 もろもろの菩薩は、虚妄を捨てて真実に生きる」

 私たちは、自己中心という妄念がはたらいている時、心のどこかで疚(ヤマ)しさや、後ろめたさや、恥ずかしさなどを感じていることを知っています。
 津波にやられて避難したAさんからお聴きしました。
「物資が届くと、ほとんどの人が我先に山ほど抱え込もうとします。
 しかし、落ち着いて得たものを点検してから、隣の人などと互いに必要なものを分け合います。
 私も娘を守らねばならないので強引につかみ取りましたが、自分よりもより切実に必要としていると思われる方へ物資をお分けした時のホッとした気持は忘れられません」
 ここに明らかなとおり、布施ができた時、真の救済が訪れます。
 布施された方は当然助かり、同時に、布施した方へも深い喜びを伴った心の安寧が訪れています。
 見返りを求めない布施の心で救われた方がおられる時、救わせていただいた方も救われて菩薩になっています。
 こうして互いに救い合い、救われ合えば、そこでは全員が菩薩となり、そのまま極楽浄土です。
 菩薩はあらゆる人々を救いの境地へと運ぶ大きな船の船頭ですが、皆が船頭になった時、もはや渡るべき迷いの川はなくなり、船も不要になるのです。

 大震災の後、全国各地、全世界で起こった布施の心はまぎれもなく、この世を極楽浄土にするための第一歩です。
 互いに、二歩、三歩と歩み続けようではありませんか。




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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2012
08.21

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第112回) 『津波のあとの時間割』を観て 石巻・門脇小学校の生徒たち(その2 青池憲司監督の言葉)─

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2012082102732.jpg
〈山形県在住の方が手作りのストラップをたくさん送ってくださいました。描かれているのは兎野にある当山のキャラクターラヴ姫です〉

 前回、書き残したことがあります。
 それは青池憲司監督の言葉についての感想です。
 監督は、上映後の挨拶で率直に述べられました。

「被写体となる被災者の方々へ、ある種の引け目を感じつつの仕事でした。
 私も撮影スタッフも、現地の方々のように被災を体験してはいないからです。
 だから、目的を持った作品として、撮らせてくださった方々に受け容れてもらえるだけの表現ができているかどうかを厳しく問いながらの製作でした」

(これは録音から起こした文章ではなく、私の記憶による要約です)
 
 監督は、今回に限らず、ドキュメンタリーものの製作についてはいつも〈引け目〉を禁じ得ない旨の発言もされました。
 それは人生相談を受け、法話説法としてじつつ言葉を紡いでいる身としてもよく理解できる感覚です。
 監督のお気持にはいくつもの要素があるものと推測されます。
 ──たとえば。

1 被写体の存在という絶対的で厳粛な真実に対してただ観る・撮るという立場で接すること
2 目にする真実の圧倒的な力へ小さい自分の表現力で立ち向かうこと
3 手を差し伸べたい気持に負けず、映像のプロとして真実に迫ること
4 被写体に対して無責任でない結果を追究すること

 ブログ「映画『黒い雨』を観ました」に関するお便りの一部です。
「広島の原爆に爆心地から1.1KMで被爆し、兵舎の中から掘り起こされ蘇生したとき、周囲には戦友の屍が祖父を護るようにして折り重なっていたそうです。」
 こうして九死に一生を得たAさんの祖父。
 戦友たちのおかげで原爆にいのちを断たれなかった祖父の戦後があり母が生まれ、やがてこの世に生を受けたAさんは述べられます。
「先人の無念を昇華すべく生きることは、小生にあっては義務なのだ」 
 今、Aさんは祖国を護るべく、銃を持たずほとんど報道もされない不断の戦争へ身を投じておられます。

 Aさんの文章を繰り返し読みながら、被曝体験から遠い私は引け目を禁じ得ず、ただAさんの思いに想いをはせ、Aさんのために祈るしかありません。
 それでもまた、人生相談法話の中で戦争・原爆・生・死をとり挙げます。
 ──自分に以下の三つを命じつつ。

1 を忍ぶこと

を忍ぶ」とは何と大きな救いをはらむ言葉でしょうか。
 にただ耐えるのでなく、を振り払うのでもなく、じつつ恥に押し潰されず恥じたまま恥を堪(コラ)えて行うこと。
 愚かしい自分の救いはここにしかないとすら思えます。

2 目的意識を揺るがせにしないこと

 菩薩(ボサツ)を目ざす永遠の未熟者は、恥じつつ行う以外、生きる道はありません。
 画家であり詩人でもあった故船田玉樹は『目のなき魚』を詠みました。
 生来身体が弱く、終戦間際に除隊となり広島県へ帰った詩人の昭和23年における心模様です。
「海そこに
 目のなき魚の住むといふ
 目のなき魚のかなしやと
 ひとのうたへるうたよみて
 われもかなしと思ひたりしよ

 わがこのごろのうたごゝろ
 おのれひとりのひとりごと
 目のなき魚の岩かげに
 籠もりて泣くに似てあれば
 かのうたびとのうたひたる
 うたにならひとわれもまた
 目のなき魚のかなしやと
 声をあげてうたふなり」

3 勇気をふるい起こすこと

「やればできる」は若い人の世界、「やれるところまでやる」のが老人の世界です。
 遠からず死を迎える者は、自分なりにやり切るしかありません。
 どこまでかはみ仏の定めるところであり、勇む気力の果てた時、この世での役割を終えるだけのことです。

 監督が暑く薄暗い会場で吐露された「引け目」を自分なりの節操の根拠としつつ前へ進みたいと念じています。
 



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2012
08.20

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第111回) 『津波のあとの時間割』を観て 石巻・門脇小学校の生徒たち─

201208200012.jpg
〈パンフレットより〉

 映画『津波のあとの時間割』を観ようと、石巻中央公民館大ホールへでかけました。
 9月になれば仙台市内の映画館でも上映されますが、被災した現地へでかけねばと考えたからです。
 夜とはいえ会場は当然、暑く、蚊もいて、パイプイスに腰掛けたままじっとしている2時間は決して短いものではありませんが、子供たちの屈託ない様子に気持を惹きつけられ続けました。

 6月に開始された撮影時間は200時間以上にも及び、その中から「立ち直りの記録(阿部和夫氏談)」として作られた作品は、四季の移り変わりと共に成長する子供たちの姿に未来を見せてくれました。
 上映終了後、挨拶に立ち、スタッフと共に出口で観客を見送った青池憲司監督はこんな風に言われました。
「被写体となる被災者の方々へ、ある種の引け目を感じつつの仕事でした。
 私も撮影スタッフも、現地の方々のように被災を体験してはいないからです。
 だから、目的を持った作品として、撮らせてくださった方々に受け容れてもらえるだけの表現ができているかどうかを厳しく問いながらの製作でした」

 この作品をご覧になられた方々は、おそらく、子供の持つ勁(ツヨ)さ、それを引き出す学校の存在意義を感じられたことでしょう。
 暑い夏も、雪の降る冬も、子供たちは三々五々、学校へと足を運びます。
 そこでは挨拶がきちんと行われ、共同生活の稽古が営まれています。
 3年生は『よみがえれ石巻』というテーマで「自分たちが住んでいた町をどんなふうに創りかえるか?新たな災害に備えるにはどうすればいいか?(パンフレットより)」を真剣に討議し続けました。
 グループに分かれて三学期まで議論し、ついには地図や模型まで作っての発表会へこぎつけた成り行きは映画の柱です。
 子供たちが自由な発想力で夢を膨らませ、それぞれが役割を果たしながら具体的な形を創造して行く現場を観ただけでも、被災した方々にとっては大きな救いとなることでしょう。

 給食の前に合掌し「いただきます」を揃って口にする短いシーンにはとりわけ、救われた思いです。
 食事ができる境遇、親や学校や社会に感謝し、食べものとなっていのちを差し出す生きものたちへ感謝し、手を合わせることによって思いを明確に意識すると共に、自分を超えた大いなる何ものかと通じる感覚をもたらす大切な慣習が残っていた感激……。
「日本はまだ、大丈夫」と教えられたような気にすらなりました。
 自由という観念を絶対化して、自分の考えや感覚に合わないものや気に入らないものを「押しつけ反対」という強硬な態度で簡単に拒絶する大人の頑なさが、「いただきます」の麗しい風習をダメにし始めてからどれだけ経ったことでしょうか。
 互いに我(ガ)を張るだけでは社会は成り立たず、他人のために我をコントロールできてこそ一人前の社会人になれることを体験する共同での作法。
 伝統的な作法や慣習や行事に含まれている大事な道理を考える。
 稲やサンマや牛などのいのちを毎日、分け与えてもらいつつ自分が生きている真実への驚き。
 食卓に食べ物が並ぶまでの数限りない人々の努力。
 飢饉や戦争などで飲めず、食べられず死んで行く人々を想像し悼む思い。
 今日も、飲め、食べられ、生きられることへの感謝。
 子供を生かし守り育てる親や先生や地域の人々への感謝。
 小さな「いただきます」には、こうしたたくさんの〈学び〉が含まれています。
 今後も、ぜひ、続けて行って欲しいものです。

 もう一つ印象的なシーンを挙げるとすれば、祖父母の授業参観と授業への参加でしょうか。
 祖父母の口から歴史や伝統や地域の特徴などについて語られ、それが子供たちに共有されるのは、核家族の弊害をやわらげ、子供たちへ自分のアイデンティティーを意識させる大切な機会ではないでしょうか。
 お年寄りにとってもまた、先に死に逝く者としての安心をつくる大切な機会でありましょう。
 肝腎な思いが実際に伝わり、残るかどうかよりも、自分が伝えたという事実そのものが大きな満足と安らぎをもたらすのです。
 ただし、気をつけねばならないのは、祖父母とふれ合いを持てない子供たち、あるいは孫とふれ合いを持てないお年寄りたちの気持をいかに忖度し、何を話し、何を行うかという点です。
 ポイントの一つは、お年寄りたちの歩んで来た人生の歴史は社会の歴史であると考え、この子供たちのように他人の話でも聞き耳を立てることです。
 また、孫のいないお年寄りでも、子供たちは社会の宝であると考え、我が孫のように慈しむことです。
 こうして老いも若きも、〈自分と自分に関係することごと〉のみに執着する狭い心を離れれば、心暖まり実り豊かな交流が成り立つことでしょう。
 そうでなければ、孫を失い祖父母を失った方々がたくさんおられる地域での祖父母参観には難しい問題がまとわりつきかねません。

 さて、津波による被害を受けず徒歩で通う子供たちと、避難所などから親に送られて通う子供たちとの間で、何が語られ、いかなる心模様があったのか。
 親たちの間ではどうだったのか。
 フラッシュバックなどで苦しむ子供たちや親たちはいかにして日々を戦ってきたのか。
 種々の人生相談を受けている身としては、このあたりの真実を関係者の方々からお聴きかせいただく機会があればありがたいと思います。
 もちろん、こうした面は、この映画を製作する目的から外れているし、プライバシーの問題もあるので、映画に描かれていなかったから不満に感じたというわけではありません。

 そうそう、もう一つ、印象的なシーンを挙げておかねばなりません。
 震災の翌年春、校長先生が子供たちへ「私はお友達を見つけました」と言います。
 そして示されたのは、津波でやられ死んでしまったと思われるイチョウの枯れ木が小さな枝と葉を伸ばしている写真でした。
 廃墟となった学校を背景に、その黄緑色の鮮やかなこと。
 不屈の石巻、不屈の子供たちを象徴して余りある場面でした。

 この映画がより多くの方々に観られ、子供たちも石巻も東北も日本も立ち直り、前進する大きな力となるよう祈ってやみません。




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2012
08.19

子や孫のためにふり返っておきたい(その15) ─礼儀を重んじて活発なれ─

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16 「れ」 礼儀を重んじて活発なれ
 元気に進め。
 しかし礼儀を忘れるな。
 敬いを忘れる少年は断じて偉くなれない。
 偉人も英雄も礼儀正しい人ばかりだ。
 乱暴を恥とせよ。


 礼儀正しくありながら、元気にやる。
 ここでは、しつけができた上で子供の持てる力を伸ばす方法が端的に示されています。

 まず、親も先生も、子供が元気かどうか注意深く目をかける。
 これがすべての始まりです。
 元気という言葉はそもそも「減気」であり、病気から快方へ向かうことでした。
 さらに「しるし」「あらわれ」を意味する「験」を用いた「験気」となり、今では、悪しきものがなく元来の力にあふれている「元気」と表現するようになりました。
 最近、いじめが日本だけでなく各国でも社会問題になっていますが、親も先生も、生徒が本当に元気かどうかをよく観ておけば、早く手を打てるような気がしてなりません。
 もしも、目をかけ、異変を感じたなら放置しないという当たり前のことがなかなかできないとしたなら、教育においてやるべきことの順番を考えなおす必要があるのではないでしょうか。

 さて、礼儀とは、必ずしも決まり切った挨拶やお辞儀だけを指すのではありません。
 たとえば、こんなできごとを考えてみましょう。

 津波に遭った方々が学校の体育館へ避難していました。
 被災者は朝5時に起きて交代でゴミ集めをします。
 それも、体育館だけの分ではなく、一般の校舎の分も処理します。
 家族や家や仕事や車などを失った被災者は、お世話になっているという気持で一生懸命に敷地全体のゴミを集め、手押し車に乗せて収集車が来る場所まで運びます。
 やがて登校して来た生徒たちの中には、そうして汗を流す人々へ「くそばばあ、臭いぞ」などと罵声を浴びせる連中もいます。
 気の弱い被災者は二階などから飛んでくる言葉を怖れ、当番に当たっても行動できなくなりました。
 被災した屈強の男性が付き添い、生徒たちを叱り飛ばしながらゴミを運ばねばならない日もあったそうです。
 被災者たちは、水くみ場やトイレなどをぞうきんまでかけてきれいにしますが、土足で汚しても平気な生徒たちが少なくありません。
 先生へ実情を話しても、「校長へ伝えておきます」と返事されるだけで改善されない例も多々、あったそうです。
 こうなった理由は二つ、考えられます。
 一つは、学校は高台にあるので、生徒も先生も、眼下に見下ろす地域の人々のように悲惨な体験をしておらず、被災者がおかれた厳しい環境や辛い気持などを〈我がこと〉として受けとめられないのでしょう。
 もう一つには、常々の道徳的教育も、大震災という事態へ対応する教育も行き届いていないのでしょう。
 とても残念でなりません。

 真の礼儀は大いなるものに額(ヌカ)づき、他人を重んじ敬う心として発し、作法はふるまい全般に及びます。
 礼儀作法しつけるには、常日頃から自然を恐れ感謝し、仏神を畏れ敬い、人間が身体と言葉と心で行うことごとの善悪美醜を敏感に感じとれる心を育てねばなりません。
 大震災が社会と一人一人にとって何であるか、何をもたらしつつあるか、被災者はいかなる環境でいかなる思いで過ごしているか、きちんと教え、考えさせ、想像させねばなりません。
 また、ゴミ集めの件については、「こっちは施設を貸して不自由な思いをしているんだから」などど努々(ユメユメ)思わず、「ご皆さんご自身のことだけでも大変なのに、まことに相済みません。ありがたいことです」と被災者を思いやり感謝し、子供たちの心もそうした方向へと導かねばなりません。
 掃除の件については、普段以上にきれいになったことを奇貨として、「これからは、こういう風にきれいに使いましょうね。そうすると心もきれいになります」などと教育したいものです。

 元気で礼儀正しい子供にするため、親と先生がまず、どうあらねばならないか、よく考えたいものです。




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2012
08.18

『津波のあとの時間割』をご覧ください

 石巻門脇小学校における震災後の一年を記録した貴重な映画『津波のあとの時間割』です。
 ぜひ、ご覧ください。

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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
08.18

子や孫のためにふり返っておきたい(その14) ─男子は恐れず─

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〈善男善女のご誠心をお届けしました〉

15 「た」 男子は恐れず
 試験が何だ。
 貧乏が何だ。
 困難が何だ。
 不幸が何だ。
 男子はそんなものを決して恐れぬ。
 何でもやって来るがいい。
 どこまで戦えるか、自分の力を試そう。


 これは〈男の子〉の意識をつくるためだけの教えにしては、もったいない話です。
 現代風にアレンジすればこうなりましょうか。

「試験が何だ。
 貧乏が何だ。
 困難が何だ。
 不幸が何だ。
 若者はそんなものを決して恐れぬ。
 何でもやって来るがいい。
 どこまで戦えるか、自分の力を試そう。」

 若さは二つの可能性をはらんでいます。
 一つは、未来の時間が長いと予想されること。
 もう一つは、変われる可能性が大きいということです。
 だから、今、試験に失敗しようが、貧乏であろうが、困難があろうが、不幸であろうが、長い人生の中で取り返しがつき、克服ができ、その過程で自分を変化させ成長させられます。
 恐れないのは根拠のない強がりではなく、可能性を信じる強さなのです。
 だから、戦う相手は試験、貧乏困難不幸、「何でもござれ」です。

 さて、注意点を考えましょう。
 オリンピックで、選手たちはこう思いつつ果敢に強敵へぶつかったはずです。

「相手にとって不足はない」


 相手が全身全霊をこめて戦う対象にふさわしい十分な力量を持っていると考えることは、決して〈この自分〉の相手になるのだからと高慢になっているのではなく、むしろ相手を讃えています。
「相手にとって不足はない」は、言外に「たとえ敗れようと悔いはない」という潔さが伴っていることを考えれば明らかです。
 そこには、戦う準備として、できるかぎりの研究と練習を重ねて来た自負心と、自他の力量を客観的に観る冷静な目があります。
 若者もこのあたりには気をつけましょう。

 決して、試験や貧乏困難不幸に怖じ気づいて逃げたりしない。
 しかし、どれをもバカにしてもなりません。
 理由なく相手を軽んじて失敗する愚かな人を「向こう見ず」と言います。
 この言葉は、将来の成り行きをよく考えない様子を指しますが、私は、対象へ十分な注意をはらわなければ未来を危うくするという意味でも用いています。
 そうした愚かさの反対となる智慧を孫子が示しました。

「彼れを知りて己を知れば、百戦して殆(アヤ)うからず。」


 相手の実力を見極め、自分の実力をも見極めた上で戦に臨めば、何度戦っても危機に陥ることはないというのです。
 この有名な教えには続きがあります。

「彼れを知らずして己を知れば、一勝一負す。
 彼れを知らず己を知らざれば、戦う毎(ゴト)に必らず殆(アヤ)うし。」


(相手の実力を見極めず、自分の実力のみを見極めて戦に臨めば、勝負はどうなるかわからない。
 相手の実力も自分の実力も見極めず戦に臨めば、戦うたびに必ず危機に陥るであろう。)

 せっかくの若さが単なる気分の高揚に過ぎない「向こう見ず」とつながれば、〈若さ〉ではなく〈バカさ〉となりかねません。
 自分と未来の可能性を信じる一方、自分も相手も何ごともよく観る心の目を成長させながらがんばりましょう。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
08.17

8月15日に想う ─尖閣諸島・インパールの和解・玉音放送─

20120816002 (2)

 8月15日をふりかえってみます。

1 尖閣諸島での野蛮

 8月15日、香港の『保釣行動委委員会』のメンバーを名乗る者たちが日本の領海を侵犯し、尖閣諸島の魚釣島へ上陸しました。
 日本政府は「双方にけが人が出るような強硬手段を用いない」という基本方針を示し、結果的に上陸を許した上で必要な人数を逮捕し、逮捕から48時間以内に入国管理局へ14人全員の身柄を引き渡して強制送還する見通しです。
 不法上陸・入国以外の公務執行妨害や器物損壊があれば日本の捜査当局は本格的な取り調べを行い、容疑者を裁判にかけねばなりませんが、そうはならないようです。
 逮捕された面々の一部をニュースで見ましたが、あれほどの悪相はなかなかお目にかかれません。
 共産主義というイデオロギーの奴隷となり、国家の武力と経済力を背景に他国を侵し奪おうとする者の非人間的な表情です。
 およそ、侵略者の先兵となる者はいつの世も、ああした問答無用の野蛮な態度だったのではないかと思わされました。

 気をつけねばならないのは、私たちの平時にあっても、〈虎の威を借る狐〉として我(ガ)を通そうとする際は、心に高慢さや無慈悲さ、そして野蛮さや卑屈さが伴うということです。
 国家使命を帯びた侵犯者たちは、英雄として帰還するためにも強いアピールを必要としているので悪相を際立たせましたが、平時の私たちは、あるいは無表情で、あるいは薄笑いを浮かべながら、あるいは有無を言わせぬ強圧的な姿勢で同じように相手をねじ伏せようとします。
 自戒しましょう。
 そして、野蛮な国から日本を守るよう自分の行動を省み、背筋を伸ばして政府の動きを見守りましょう。

2 ロンドンの和解

 8月12日、太平洋戦争末期、インドのインパールで日本軍と死闘をくり広げたイギリスの退役軍人らが、ベッドフォードの教会で「和解の式典」を行い、日本へ和解のメッセージを伝えました。
 戦没者を追悼する献花と、日本軍との戦闘の象徴である軍旗を教会へ奉納する儀式により、反日最強硬派とされる退役軍人団体『ビルマ・スター』関係者は長い戦いの歴史に幕を下ろしました。
 軍旗を保管してきたビル・スマイリー元司令官(90才)の言葉。

「90才になったら死んだ仲間たちへの義務を終えようと思っていた。
 これからは日本との平和の祈りをしていきたい」(産経新聞)


 式典の実施に奔走した英民間団体『ビルマ作戦協会』会長マクドナルド昭子氏の言葉。

「和解が進むことを願っている。
 今後は、戦争を知らない和解世代とのミャンマー(ビルマ)慰霊の旅を実現したい」(産経新聞)

 
 修羅場を生き残り、仲間の無念を体して生きてきた方々の大きな仕事に終止符が打たれ、英日間の和解と世界の平和という新たな目標への一歩が踏み出されました。

3 昭和20年8月15日の静寂について

 産経新聞の8月15日号は、埼玉大学名誉教授長谷川三千子氏の「玉音放送後の静寂に聴いたもの」を掲載しました。
 氏は、敗戦の翌年春に河上徹太郎が書いた文章をとりあげました。

「幸ひ我々はその瞬間を持つた。
 それは八月十五日の御放送の直後の、あのシーンとした国民の心の一瞬である」


 私も教授と同じく桶谷秀昭著『昭和精神史』でこの一文を読み、静寂が何であったのか、理解できませんでした。
 教授は文章の紹介を続けます。

「あの一瞬の静寂に間違はなかつた」
「全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか、私は尋ねたい」


 教授は指摘します。

「日本国民がラジオの前に直立して拝聴した『終戦の詔書』は二重の意味での『玉音放送』だった。
 それは単に陛下ご自身のお声による放送だったといふだけでなく、この詔書は従来の詔書と違って、天皇ご自身のお言葉にもとづいて作成されたものだつたのである。」


 そして、有名な「堪えがたきを堪え忍びがたきを忍ぶ」などはお言葉通りに盛り込まれた一方、周囲が「これは絶対に書いてはいけないこと」として外した言葉があるというのです。
「自分はどうなってもよい」
 もしもこの通りに語られたなら、

「連合国はそれを天皇ご自身による自らへの死刑判決として受けとるであらう。
 しかも、天皇が自らを犠牲としてポツダム宣言受諾を決意なさつたといふことが公になれば、日本国民全員が徹底抗戦につき進むであらう。
 外を見ても内を見ても、これは絶対に詔書に書き込んではならないお言葉なのであつた。」


 私は目を瞠(ミハ)り、半世紀近くにわたって抱いてきた疑問が解け去ったことを知りました。
 玉音を聴いた瞬間、国民の間に発した静寂は、陛下のお言葉の裏にある並々ならぬ思いに触れて起こったものだったのではないでしょうか。
 教授は「自分はどうなってもよい」との思いを込めた終戦の御製を一首とりあげています。

「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」


 ただし、この一首が一般に知られるまでには20年以上待たねばなりませんでした。

 教授は、大伴家持の長歌による『海ゆかば』を「軍国主義でも狂信的天皇崇拝でもない。軍人も銃後の者も、日本国民はこの世界大戦といふ危機のさなか、日本の古典に託して自らの覚悟をうたったのである」と評価します。
 そして、締めくくります。

「8月15日正午、日本国民が受け取ったのは、この国民歌に対する天皇陛下からの返歌であつた。
 それは文字の上にあらはれず、音に聞こえるものではなかつたけれども、戦争終結といふご決断そのものがすでに返歌であつた。
 あの一瞬の静寂のうちに、国民は確かにそれを聞き取ったのである。
 それは、わが国の、そして世界の精神史上にも希にみる貴重な宝の一瞬であつた。」


 河上徹太郎が「全人類の歴史であれに類する時が幾度あつたか」という問題提起への答は明確です。
 国難に際した国民が、トップに象徴されている祖国や祖霊のために全身全霊をささげて役割をまっとうし、トップは自らのいのちを捨てても負託に応えるという理想がほとんど全国民的に確認された例は、確かに少ないことでしょう。

 陛下がたった一人の通訳を伴っただけで最高司令官マッカーサーの前へ出られたおり、マッカーサーは当然、命乞いに来たものと考えていました。
 皇后陛下が天皇陛下の自決を怖れ侍従に見張りを厳命していたほどの覚悟でおられた陛下は、述べられました。
「日本国天皇はこの私であります。
 戦争に関する一切の責任はこの私にあります。
 私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。
 絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります」
「しかしながら、罪なき八〇〇〇万の国民が、住むに家なく、着るに衣なく、食べるに食なき姿において、まさに深憂に耐えんものがあります。
 温かき閣下のご配慮を持ちまして、国民たちの衣食住の点のみにご高配を賜りますように」
 マッカーサーは驚きました。
「天皇とはこのようなものでありましたか!
 天皇とはこのようなものでありましたか!
 私も、日本人に生まれたかったです。
 陛下、ご不自由でございましょう。
 私に出来ますることがあれば、何なりとお申しつけ下さい」
 陛下はもう一度頼みました。
「命をかけて、閣下のお袖にすがっておりまする。
 この私に何の望みがありましょうか。
 重ねて国民の衣食住の点のみにご高配を賜りますように」(やりとりに関するこれらの文章は出典が不明です)
 マッカーサーは玄関まで一緒に歩き、見送りました。
 陛下の決死の覚悟によって、マッカーサーは日本の将来に陛下が欠かせないと確信し、日本の〈戦後〉は始まりました。
 また、陛下は昭和21年から9年間の歳月をかけ、日本の津々浦々へ励ましの巡幸を行われました。
 敗戦国のトップによる巡幸は、おそらく世界史にもあまり例がないものと思われます。

 長谷川教授の指摘どおり、8月15日の静寂は陛下と国民の間に生じた感応のいっときであり、〈世界の精神史上にも希にみる貴重な宝の一瞬〉という面があったことは真実と思われます。
(もちろん、玉音放送の受け止め方は一人一人の胸のうちのこととであり、多種多様だったはずです。
 どなたの胸に浮かんだ感慨も真実であるにちがいありません。
 なお、故三島由紀夫は聴いた瞬間「異次元」を感じたと述べています。)



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
08.16

子や孫のためにふり返っておきたい(その13) ─用意してからはじめよう─

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〈修法中から目がかすみ、お寺を閉めてから医者へ行こうと思って眼鏡をはずしてよく見たら、護摩の火でレンズがヨレヨレになっており、行く先は眼鏡屋さんに変更となりました〉

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〈恒例となった隠形流(オンギョウリュウ)居合の魔切り奉納剣です〉

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〈行者の迫力に、招き猫を務めているミケ子もびっくり〉

14 「よ」 用意してからはじめよう
 予習を充分にして行けば早く覚える。
 練習を積んで行った競走は勝つ。
 用意ができているからだ。
 十分の用意は成功の土台石だ。



 オリンピックに出た選手たちの多くは、勝負を前にしたインタビューで自信に満ちた言葉を発しています。
「勝つためにここにきた。
 勝つための準備はできている」
 もちろん、 口とは裏腹に不安を抱えたままで本番に臨む選手たちも少なくはないのでしょうが、とにかく、準備万端、やるべきことはやったと思わねばとても勝負になりません。

 金メダルは一人か一チームしか手にできません。
 決勝で敗れれば悔し涙を流します。
 しかし、表彰式では皆、晴れやかな表情になっています。
 それは、やるだけやった人に天から与えられた満足というご褒美の表れであると思えます。
 体調不良や不安や不運など、用意した本来の力を出し切れなかった要因もあるでしょうが、それらも含めて、とにかくことを為し終え、結果が明らかになったという大きな達成感があるのでしょう。

 勉強の方法には予習復習があり、先生からそう指導されたはずなのに、私は予習が苦手で余計なことにばかり熱中し、もっぱら復習派としてやってきました。
 教えられてから復習し、理解できない部分や疑問な点などを先生に尋ねて解決すれば安心というやり方です。
 学校の勉強はどうやらしのいで大人になりましたが、そのうちに弊害が出ました。
 準備がへたくそなのです。
 そのくせ、人やモノとの縁に敏感ですぐに〈次の局面〉が頭に浮かび、とにかく与えられた条件の中でやってみないではいられなくなってしまいます。

 今回のお盆供養会もそうでした。
 供養会の意義をより皆さんに知っていただき、共に祈る方法を調べたりやってみたりするうちに、次々にベターな姿が頭に現れ、だんだんベストに近づきます。
 その過程で当然、やらねばならないことがどんどん増えても、妻と二人だけではどうにもなりません。
 結局は切羽詰まってからご縁の方々のお手伝いをいただき、どうにか供養会にこぎつけました。

 おそらく、『ゆかりびとの会』の役員さんなどはこう思っておられることでしょう。
住職はもっと余裕をもって私たちへ相談してくれれば良いのに……」
 ──もっともです。

 でも、今回、あらかじめ準備をしておき、喜ばれたこともありました。
 例年、1時間半から2時間近くかかり、特にご年配の方々などへ大きな負担となっていたに違いない所要時間を大幅に短縮したのです。
 より皆さんと御霊とご本尊様のためになる修法をしたいと例によって研究しているうちに、ハタと気づきました。
「これをお次第通りに全部つないだら、2時間以上になるぞ」
 特に暑い夏だった去年も一昨年も、修法後の皆さんはお塔婆を受け取るやいなや、そそくさと立ち去られたことが思い出されました。
「これはいかん」
 そして更に研究し、指導も受けて1時間のお次第にこぎつけました。

 後片付けの終了後、Aさんがサラリと漏らしました。
「ご住職様、今年は早かったですね」
 すかさず、得たりやおうとばかりに応えました。
「今年は皆さんにあまりご負担にならないよう、1時間と心に決めて登壇したんです」
 横にいたBさんがニヤニヤしながら言われます。
「実は、私たちはこっそり相談していたんです。
 修法があまり長いとご高齢の方々や、忙しく移動しなければならない方々にとって負担が大きすぎるので、もう少し短くして欲しいけれども、一生懸命やっている住職に面と向かってこんなことを言える人はいません。
 だから、そのうちに、懇親会などで呑んだ勢いを装って、誰かが言おうということになっていました。
 今回は本当に良かったと思います」

 いつも前へ前へと突っ走るだけの私にしては珍しく準備が良くて、お褒めにあずかりました。
 実は一つだけ、心に決めていることがあります。
「皆さんが困るような問題は、必ず皆さんより半歩先に片付けておこう」
 ささやかな準備によって、皆さんのお困りが最小限度で終わったらしく、本当にありがたいことです。

 やはり、「十分の用意は成功の土台石」であるようです。
 これからも、お子さんたちと一緒に学び、自分の欠点と対峙しながらやって行きたいと願っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2012
08.15

あの世の餓鬼界、この世の餓鬼界

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 お盆供養会における施餓鬼(セガキ)の修法は、あの世で迷い苦しんでおられる餓鬼界の御霊へご供養するものです。
 飲めない食べられない餓鬼となった方々は、静かな湖のほとり、静かで広々としたところにおられるそうです。
 それは、大きな石などがあれば恐ろしく、柳などの樹も針のようで恐ろしく思えるからです。
 だから施餓鬼の法は本来、深更の丑三つ時(およそ午前三時前後)にそうした場所へでかけて修法し、終わったならば、後をふり返らないで帰山せねばなりません。
 しかも、一旦、餓鬼界の方々への施しを始めたならば必ず毎日、続けねばならないとされているので大変です。
 現代では、お盆などで修法する際に壇を用意して祈り、終われば壇ごと一切を片付けるのが普通です。

 修法して考えました。

 ──この世でも同じではないか。

 シリア国内では100万人もの方々が路頭に迷い、トルコなどに逃れた難民は18万人にものぼっています。
 世界中で1000万人を超えるとされる難民が収容されるのは、広く、水のある場所になります。
 そこへテントなどが設けられ、飲みものや食べものが施されます。
 難民は『難民の地位に関する条約』に規定されています。
「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けられないまたは受けることを望まない者」
 つまり、人種・宗教・政治思想・国籍・所属する集団などが理由となって迫害を受け、恐ろしくて祖国内にとどまれず、他国へ庇護を求める人々です。

 この世での因縁により、あの世で辛い餓鬼界に堕ちる方々がおられます。
 それはこの世で積んだ(ゴウ)の結果であり、自自得です。
 一方、この世ですでに餓鬼界同様の状態に陥る方々がおられます。
 それはもはや個人的なだけによるのではありません。
 いかに慈悲心に満ちた人であろうと、一旦、特定勢力から憎悪と殲滅の対象とみなされれば、もはや祖国内に安心できる場所はありません。
 社会に住む人びとが知らぬ間に皆で積む共(グウゴウ)は、こうして恐怖から逃れられない人々を生みます。

 こうした悪しき共の核となっているのが、「自分たちの~だけが正しい」「自分たちの~でないものはまちがっている」とする不寛容無慈悲な心です。
 宗教であれ思想であれ、内容として何を標榜しようと不寛容な姿勢があれば、必ず対立と憎悪と戦いを生じます。

 私たちは、自分が信じる宗教や思想や信条によって善行を行い、悪行を行わず、あの世の餓鬼界へ堕ちないようにしましょう。
 私たちは、他人が信じる宗教や思想や信条を自分のものさしで測って不寛容にならず、高慢にならず、誰へ対しても思いやりを忘れないようにし、この世の餓鬼界をなくしましょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 来る3月11日には「般若心経百万巻」の供養をしましょう。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3107.html)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
08.14

子や孫のためにふり返っておきたい(その12) ─艱苦(カンク)なしに勝利なし─

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13 「か」 艱苦(カンク)なしに勝利なし
 負けるな奮闘せよ。
 勝利は艱苦の後に輝く。
 大艱苦に大勝利あり。
 偉人は皆、艱苦の勝利者だ。
 苦労をいとわぬ少年こそ偉人の卵だ。


 艱苦とは艱難辛苦(カンナンシンク)であり、悩み苦しむ辛い状態です。
 そうした状態から逃げれば敗者になる、克服すれば勝者になるというのです。

 たとえば、オリンピックでメダリストになるという偉大な勝利は、逃げた人へもたらされることはありません。
 日本人のメダリストはほとんど、「おかげさま」の意味を含んだ感想を述べるようですが、当然、感謝や絆の意識を胸にして猛烈な練習を重ねてきたはずです。
 あまり言葉には出さなくても、艱苦に耐え、克服したからこそ表彰台に立てたにちがいありません。
 8月29日から行われるロンドンパラリンピックにも引き続き注目しましょう。
 必ずやオリンピック同様、偉大な勝者たちに出会えることでしょう。

 昔、言葉に出して誓い、そのように生きた武将として山中鹿之助が有名です。

「願わくば我に七難八苦を与えたまえ」
「憂(ウ)き事のなほこの上に積れかし、限りある身の力ためさん」


 私などは、必ずしも有名ではない選手たちによってプロ野球の楽天が結成された時、この先は苦しい戦いになるだろうが、ジャイアンツのようなエリート集団に負けないチームになって欲しいと願ったものです。
 最近では田中将大投手のような逸材も入団しましたが、これまでは「何を!」という意地で戦ってきた面があるのではないでしょうか。
 比較的遠いと思われる〈優勝〉をめざす選手たちと歴代監督の気持を察すると応援したくなります。

 また、「心に太陽を持て」で有名な作家山本有三は、『路傍の石』に書いています。

「おれは『苦労』を、おれの『先生』だと思っているんだ。
 人間『苦労』にしこまれないと、すぐいい気になっちまう。」


 こうしたことは、ある程度生きた人には思い当たっても、若い方々にはなかなかそうは思えないかも知れません。
 あまり汗をかかず、お金をかけず、上手に儲け、うまく生きたいという気持にあまり後ろめたさを感じない精神風土ができてしまっているように思われます。
 楽をしたいと思わない人はいないでしょうが、そうして自分を可愛がる心が結局は一番の敵になることを、人生の先輩たちは若い方々へ早めに伝えたいものです。
 つまり、〈後ろめたさ〉は、自分だけがこっそりと他人を出し抜いて楽をしたいという自己中心の気持が〈何か変〉であることを教えているのです。
 それは霊性からの忠告です。
「自分を可愛がりたい自分こそ、人生の一番の敵ですよ」
 お釈迦様は説かれました。

「幾千の武者たちに勝つ者よりも、自分にうち勝った者こそ、偉大な勝利者である」


 今回の教えで気をつけねばならない点が二つあります。
 一つは、上記の通り、人生における真の勝者とは、他人と比較して勝った負けたという次元で決まるものではなく、勇気をもって人生の苦難に立ち向かいながら生き続ける人を指すということです。
 目先の勝ち負けにこだわると、どうしても他人へ邪険になり、高慢心も頭をもたげかねません。
 また、たやすく自分の敗者の列に数え、なかなか立ち直れなかったりもします。

 もう一つは、こうした奮闘の結果、どうしても戦いの現場から離脱せねばならない状態になる場合もあり、その時は、治療法として別な指針が必要であるということです。
 これまでもしばしば書きましたが、子供がサボりたい気持から学校へ行きたくない時は心を鍛錬させるように指導し、酷いいじめに遭ったり、心の状態が病気に近づいたりしている時は、休息をとるように指導せねばなりません。
 そういう意味で、親も先生も子供たちにとって、まちがっては困る診断者です。
 風邪をひかぬよう鍛えるために乾布摩擦をさせるのか、風邪を早めに治すために休息をとらせるのか、処方箋しだいで結果は大違いとなります。
 今回とり挙げた教えは、あくまでも鍛える方法であるという点は押さえておきましょう。





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2012
08.13

お盆供養の心と祈り方 ─施餓鬼供養和讃について─

20120813004
〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』ができはじめました〉

 13日からお盆に入ります。
 お盆の特徴は、ご先祖様のご供養だけでなく、餓鬼界などに堕ちて安心を得られないあらゆる御霊をも供養するところにあります。
 決して「ウチのご先祖様に感謝する」だけではないことを認識しましょう。
 ここに挙げる『施餓鬼(セガキ)供養和讃』は、その真実をはっきりと説いています。

帰命頂礼(キミョウチョウライ)釈迦如来 阿難尊者(アナンソンジャ)のおん慈悲に
こたえて説かる施餓鬼法(セガキホウ この世はみたまかずかずの 
いまだに迷う業(ゴウ)の世や

救いの道はただひとつ 心施(シンセ)物施(ブッセ)の布施の行
南無や大悲の観世音 十方(ジッポウ)諸仏十方法
十方僧に供養せん

神咒(ジンシュ)お加持(カジ)の功徳力 この土を清くやすらかに
慳(オシ)む心を捨てさりて 発菩提心(ホツボダイシン)この世界
全てのねがい叶うなり

南無や五如来その利益(リヤク) むさぼるこころ除かれて
福徳智慧を円満し 身心共に晴れやかに
受ける施食(セジキ)も恐れなし

有縁無縁(ウエンムエン)のへだてなく その悦びのしあわせは
行う人の身にやどり わざわいの雲打ち拂い
世々の長寿(コトブキ)受くるらん

天下法界(テンゲホウカイ) 同利益(リヤク)




帰命頂礼(キミョウチョウライ)釈迦如来 阿難尊者(アナンソンジャ)のおん慈悲に
こたえて説かる施餓鬼法(セガキホウ この世はみたまかずかずの 
いまだに迷う業(ゴウ)の世や


 お釈迦様に帰依し礼拝します
 阿難尊者が餓鬼界に堕ちた母親を何としても救いたいという深い慈悲心に
 応えて説かれた施餓鬼法を信じ、修法し、祈ります
 この世は御霊が数々の業により迷っておられ
 私たちもまた業により迷っている世界です


救いの道はただひとつ 心施(シンセ)物施(ブッセ)の布施の行
南無や大悲の観世音 十方(ジッポウ)諸仏十方法
十方僧に供養せん


 御霊も私たちも救われる方法は一つしかありません
 それは、精神的な施しとモノによる施しの二つです
 限りない慈悲心を持っておられる観音菩薩に帰依しましょう
 ありとあらゆるみ仏と法と
 ありとあらゆる仏法を護持する人々へ供養しましょう


神咒(ジンシュ)お加持(カジ)の功徳力 この土を清くやすらかに
慳(オシ)む心を捨てさりて 発菩提心(ホツボダイシン)この世界
全てのねがい叶うなり


 仏神のご加護の力が宿る真言などを修するご加持による功徳の力は
 この世界を清め安楽にします
 自分中心のもの惜しみする穢れた心を捨て去って
 自他共に救われようと魂の向上をはかる世になれば
 全ての善願は成就します


南無や五如来その利益(リヤク) むさぼるこころ除かれて
福徳智慧を円満し 身心共に晴れやかに
受ける施食(セジキ)も恐れなし


 救われるためのあらゆる智慧をお授けくださる五如来様へ帰依しましょう
 貪る穢らわしい心が必ず除かれ
 福徳と智慧が円(マド)かに満たされ
 心身共に晴れやかになり
 何でも恐れずありがたくいただけるようになります


有縁無縁(ウエンムエン)のへだてなく その悦びのしあわせは
行う人の身にやどり わざわいの雲打ち払い
世々の長寿(コトブキ)受くるらん


 縁があろうとなかろうと無関係に
 その悦びによってもたらされる幸せは
 祈る人々の身に添い
 災厄の黒雲はうち祓われ
 健康で長生きができるようになります


天下法界(テンゲホウカイ) 同利益(リヤク)


 お釈迦様と観音様と五如来様のご加護による救済がありとあらゆる御霊と私たちへもたらされますよう

※皆さんが何か唱えるとしたなら以下などのようにどうぞ。
「南無一切精霊(ナムイッサイショウリョウ)」
「南無三界万霊(ナムサンガイバンレイ)」
「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」
 最後にどうぞ。
「願わくばこの功徳をもって遍く一切に及ぼし
 我等と衆生(シュジョウ)と皆共に仏道を成(ジョウ)ぜん」

※祈る五如来
過去寶勝如来(カコホウショウニョライ)…南におられ、貪る心を解き放ち、福徳と智慧を授けます
妙色身如来(ミョウシキシンニョライ)…東におられ、崩れた悲しい姿を整え、美しい姿に変えます
甘露王如来(カンロオウニョライ)…西におられ、心身を清め、悦びと安楽を与えます
廣博身如来(コウハクシンニョライ)…中央におられ、悪業によって詰まった喉を開き、飲食ができるようにします
離怖畏如来(リフイニョライ)…北におられ、あらゆる怖れを除き、餓鬼界から救い出します




「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2012
08.12

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第110回) 震災後を生きる方々、生きる私 渡辺祥子さんの「寺子屋」講演(その1)─

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 東日本大震災から1年5カ月後の8月11日、あの14時26分をまたいで、言の葉アーティスト渡辺祥子さんの講演が行われました。
 寺子屋法楽館』でのお話をメモに基づいて書き残しておきます。
 ニュアンスや言葉などの書き間違いはお許しいただきたく存じます。

「私は物語の世界を直接、皆さんにお届けしたいと願ってこうした活動を始めました。
 もともと、言葉に敏感ですぐに傷つくタイプだった私は、敏感なだけ、他の方の気づかぬところで、言葉によって喜び、励まされてもきました。
 言葉や物語に出会って感謝すると、それをどなたかへ伝えることが、恩返しと思うようになりました。」
「あれから1年5カ月が経った今日を迎え、当時の状況をふりかえってみます。
 震災直後、鳴った電話のほとんどは、仕事のキャンセルと安否確認でした。
 家庭の事情もあり、動くためのガソリンもなく、この先どうなるのか不安ばかりでした。
 オリンピックに出る男子Aナショナルチームの試合で、三浦知良選手のゴールを見て感動し、泣きました。
 私は感動を伝える人だったはずなのに、こうして何もできない人になってしまった……。
 そのことも耐えられなかったのです。
 号泣していると、母からポンと言われました。
『──バカだねえ』
 これで我に返ったなどというできごともありました。」
「4月7日に起きた大きな余震の時、私は体調を崩して検査入院しており、手術したばかりで点滴を外せず、オロオロするしかなく身動き一つとれませんでした。
 あれで、震災後どうにか頑張っていた建物や会社などが相当ダメになりました。
 私も大きな衝撃を受けましたが、翌朝目覚めて、もう逃げ隠れできないと気づきました。
 そして、被害地から言葉を届けようと決心しました。
 ある意味で自分のスタートラインだった童話『星の子物語』を録音できたのは、大震災から49日に当たる4月28日でした。
 5月11日に行われた南三陸町の追悼集会へ参加し、9月11日まで毎月、欠かしませんでした。
 宇部市に始まった講演会は、これまで、全国50か所で行うに到りました。」
「被災された方々と言葉を交わしているうちに、ユーモアが持つ価値の大きさを知らされました。
 たとえば、大損害を受けながらも立ち上がった方が『俺は10億円かけてダイエットしたぞ』と言われます。
 たとえば、避難所暮らしをしている旅館の女将さんが『泊まって行きなさい』と言われます。
 厳しい現実と自分をちょっとした距離感と共にとらえなおす時、笑いが生まれ、悲しみや辛さが薄れます。
 また、立ち上がる強さも教えられました。
 たとえば、63才で仕事を再開した方が『僕は、この年になってまた初めからやる気力と体力が残っていたことを、ついているなあと思っています』と言われます。
 たとえば、ある社長は『あの惨状を見て、これからは決して声を荒げて怒らないと決心しました』と言われます。
 私は、皆さんの印象的な言葉をいただいているうちに、ふと、思いました。
『もしかすると、被災地で強く生きる方々の力を被災地以外の方々へお届けできるのではないか』
 そして、動きたい、言葉を届ける仕事をしたいと強く願って宇部市の方へ連絡をとったのです。
 返事はこうでした。
『あなたは藁にでもすがりたい思いでおられるようなので、私が一本の藁になりましょう』
 これが宇部市から始めた理由です。
 ありがたいことに宇部日報社さんに連載をさせていただき、そのうち、岩国ロータリークラブから被災地へ立派なトラクターが寄贈されるというできごとも起こりました。」


 
 当山は、平成12年、仙台市旭ヶ丘青年文化センターにおいて、寺子屋建立を旗印とした『春風コンサート』を行いました。
 その時、『すべてを超える翼』という雁が海を渡る物語の朗読してくださったのが渡辺祥子さんでした。
 物語へかける熱意の深さに「心の伝道師になったらいかがですか」などと余計なことを口にしたところ、「和尚さんが伝道師なんて言っていいんですか」と突っこまれたのが昨日のできごとのように思い出されます。
 今の渡辺祥子さんは、鋭いアンテナを装備した録音機であり編集機でありスピーカーであるような気がします。
 心へ留め、発信する、そしてご本人は空(クウ)。
 いわば無色透明の〈役割〉そのものに成り切り、〈役割〉を果たしたいという熱意だけを発信する時、波紋のように人の輪が広がりつつあるのでしょう。
 そのあたりの様子は次回に。



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2012
08.11

子や孫のためにふり返っておきたい(その11) ─若い時は二度ないぞ─

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12 「わ」 若い時は二度ないぞ
 少年時代と青年時代は、一生涯の準備時代だ。
 大事業は大準備から生まれる。
 今だ、少年諸君、修養と健康の二大準備を忘れるな。


 一生も一日も仏道修行も、発心(ホッシン)から始まります。
 さあ、やるぞという決心がなければ、どこへも向かえません。
 そして修行に入ります。
 修め、行わなければ、人生の浪費です。
 そして、菩提(ボダイ…悟り)すなわち確かな結果を得ます。
 結果が得られればこそ、生き甲斐のある人生になります。
 そして、涅槃(ネハン…安寧)すなわち安らかな憩いと休息が得られます。
 修行の結果を確認して安心し、さらなる進展のイメージを希望としてこそ、次のスタートのための深い休息に心身を委ねられます。

 勉強でも、仕事でも、ボランティア活動でも、何ごとかを成すとは、こうした段階を経ることであり、しっかりした発心がなければ何ごとも成せません。
 心願成就は、心にある願いを明確にしてこそ自分の努力と縁の力と仏神のご加護があいまって成し遂げられます。
 ここで言う「準備時代」とは、「発心を固める時期」という意味です。
 そのためにこそ、修養を積み、健康増進をはからねばなりません。
 おかげさまの心できちんと人生をまっとうするという大事業には、人間としての基礎を固め、を固めるという大準備が不可欠です。

 よく学び、よく遊んでこそ、が生まれます。
 ここで注意せねばならないのは、は「医者になって病気を治そう」「パン屋になって喜んでもらおう」「サッカーの選手になって活躍しよう」などいう形をとりますが、医者・パン屋・サッカーの選手は人生の〈目的〉ではなく〈方法〉であるということです。
 大切なのは、病気で苦しむ人を放ってはおけず、何かをしないではいられないという心です。
 大切なのは、おいしいパンを食べる人の笑顔を見たいという心です。
 大切なのは、サッカーの試合によるときめきを自分も得、観る誰かにもときめきを届けたいという心です。
 こうした心をしっかりと育てるのが真の発心であり、それができていれば、もしも医者・パン屋・サッカーの選手になれなくても、必ず他の〈方法〉で人生の〈目的〉は達成されます。

 こんなことを書くのは、私自身が、方法と目的を混同して方法に固執したばかりに遠回りをしたからです。
 子供の頃から政治家を目ざしてつまらぬことから挫折し、心の放浪が始まり、僧侶として生きるようになって初めて、ずっと抱いていた目的に気づきました。
 その過程でたくさんの方々へ迷惑をかけ、家族にも辛い思いをさせてきました。
 若い方々に私の轍を踏ませたくはありません。
 また、最近、各種研修会などで活躍しておられるAさんから、「若い方々はすぐに具体的な〈成功への役立つ方法〉を求めるばかりで、どんな成功も人間性を深めてこそ得られるという肝腎なところがなかなか理解してもらえません」とお聞きしたからです。
 たとえば収入の安定した公務員になりたいから、より採用されやすい大学や専門学校へ入る、たとえば花形アナウンサーになりたいから、より採用されやすい大学や専門学校へ入るといったあたりで燃え尽きてしまい、予定した方法がうまく行かなかった場合に、ただただ途方に暮れてしまうのだそうです。
 社会のために役立ちたい心で公務員をめざせば、公務員になれなくても、何らかの形で社会貢献はできるはずです。
 真実を伝えたいという心でアナウンサーをめざせば、アナウンサーになれなくても、何らかの形で真実を伝えることはできるはずです。
 この心を育てるために便利な方法はありません。
 人間としてしっかり生き、人間性を深めるのみです。

 若い方々には、修養と健康のために、よく学び、よく遊び、心に真の目的を確立していただきたいものです。



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2012
08.10

子や孫のためにふり返っておきたい(その10) ─男だ、元気だ、やっつけよう─

2012080901232.jpg

11 「を」 男だ、元気だ、やっつけよう
 男に生まれたのだ。
 こんな仕合わせがあろうか。
 元気でいこう。
 勇敢にやっつけよう。
 この意気さえあればきっと偉い人物になれるのだ。


 ここには、家父長制と男尊女卑の観念が強かった時代の色合いがあります。
 当時は、男性に生まれたことを二重の意味合いで喜びました。
 一つは家庭の長として責任を持つこと、もう一つは大きな社会的役割を果たすことです。
 家庭も社会も柱は男性であり、女性は柱を〈支える者〉という感覚が強かったのです。
 だから子供でも、男なら家庭と社会の牽引車としてしっかりやらねばと考えました。
「勇敢にやっつけよう」は、誰かとケンカして勝とうなどというのではなく、自覚と勇気を持ってあらゆることに立ち向かおうという意味です。

 さて、この教えを現代に適用しようとすれば、男性に生まれたこと、日本人に生まれたこと、故郷で生まれたこと、自分の親から生まれたことなどの意義と感謝を自覚させれば良いのではないでしょうか。
 もちろん、同様に、女の子にも、女性に生まれたことの意義と価値を教えねばなりません。
 そして、他国で生まれた子にも、自分と等しく故郷があることを誇りに思い、喜ぶ心があると教えねばなりません。
 もちろん、自分が親にすがり感謝するように、他の子にも自分と等しく親にすがり感謝する思いがあると教えねばなりません。
 つまり、男の子も、女の子も、日本人も、どこかの国の人も、特定の親の縁により、他人と取り替えのきかない一人の人間として生まれた真実をはっきりと自覚するために、一人の人間を特定するさまざまな要因へ目を開かせ、その価値を感じさせることが眼目です。
 そして、自分がそうしたかけがえのない人間であるのと同じく、他の子たちもすべて、それぞれがそれぞれなりの価値をもっている真実に気づかせねばなりません。
 子供が自分の生にかかわる〈事実〉を〈真実〉として気づけるかどうかは、親と先生の力量にかかっています。

 子供の頃、病弱だった私はケンカをした記憶がほとんどありません。
 それでも何かのおりに殴られて血が出たりすると、親からもらった身体に傷つけれたことが悲しく、悔しくてなりませんでした。
 だから他の子供を傷つける心は、ほとんどはたらきませんでした。
 今でも誰かの子供が事件を起こすと、見知らぬ親御さんの気持を思い、悄然としてしまいます。
 もしかすると、私のこうした心は、親が私を大切に育ててくれたことに起因しているのかも知れません。
 そうであれば、事件を起こした子供の家庭事情を暴き立て、家族や親戚にまで攻撃的な言動を弄する人々は、子供の頃、あまり親から大事にされなかったのかも知れません。
 いじめの報に接すると、被害者も哀れ、加害者も哀れ、両者の親御さんや先生も哀れ、そして、ネットなどで非情な行動をとる人々も哀れと思えてなりません。
 無慈悲になれる人が哀れでなりません。
 慈悲はどこから消えてしまったのでしょうか。
 こんな想いが起こると、ロージーベルさんが運営する「少年の家」の尊さがあらためて身に迫ってきます。

 この教えを現代風にアレンジしてみました。
「男の子に生まれました、女の子に生まれました
 それぞれ、等しく、幸せです
 感謝しつつ、元気でやりましょう
 勇気をもって人生を切り拓きましょう
 この意気込みさえあればきっと誰かのために、何かのために役割を果たし、親へも社会へも恩返しのできるまっとうな大人になれます」




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2012
08.09

映画『黒い雨』を観ました ─広島と長崎の惨禍を忘れず、戦争と原爆をなくすために─(その2)

2012080800132.jpg


 今村昌平監督の映画『黒い雨』を観ました。

 追いつめられて行く重松の耳に、ラジオの音声が届きます。
「朝鮮の新たな危機に対処するため、必要とあらば、中共軍に対し原子爆弾を使用することも考慮中である」
 朝鮮戦争で苦戦しているアメリカのトルーマン大統領が脅しをかけたのです。
 パチンとスイッチを切った重松は決定的な言葉をはきます。

「人間いう奴は性懲りもないものじゃ。
 我が手で我が首を絞めよる。
 正義の戦争より、不正義の平和の方がましじゃいうことが、何で分らんかのう」


 ここで言う正義は、人を殺さない、他人の持ちものを盗まないなどの個人的正義ではありません。
 思想や宗教などを背景とした国家意志による〈正義の御旗〉です。
 日本もアメリカも国家的正義を振りかざしつつ太平洋を挟んで戦い、膨大な国民が正義を信じて死にました。
 そして、敗戦によってボロボロになった日本の隣で朝鮮戦争が起こり、その特需が日本の経済をどんどん活性化させている頃も、戦争という外せない重しを乗せられた人々は日々、苦しみ、死につつありました。
 昭和20年8月15日をもって〈戦争〉が消え去ったわけではありません。
 映画で描かれた被曝者、深い悲しみや狂気に苛まれる人々は、今も苦しみ、死につつあります。

 この世に生まれた人間一人一人が日々、生きて行くという視点から観れば、そのいのちと生活をまとめて破壊し去る戦争以上の巨悪はありません。
 巨悪が正義に発しているとは何という矛盾でしょう。

 しかし、この矛盾を超えることは可能です。
 他国を侵略しなければよい。
 たったこれだけで、少なくとも国家的殺し合いという意味での戦争は避けられ、戦争がないという意味での平和はもたらされます。
 ただし、国同士の侵略がなく平和が実現されるためには、一人一人の精神が変わらねばなりません。

 それには、思想や宗教の奴隷にならないこと。
 たったこれだけです。

 では思想や宗教は不要か?
 とんでもありません。
 人間が霊性を高めつつ生きるには、不可欠ではなくても必要です。

 では思想や宗教は人間にどのように役立ち、どのように人間を奴隷化して巨悪まで生むのか?

 調べ、信じ、検証し、深めることによって自分を成長させます。
 一方、他人へ押しつけ、他人のそれと争い、他人のそれを邪悪と決めつけ、自分のそれを正義として振りかざせば、奴隷化し、奴隷たちが集まれば社会的巨悪を生み、やがては国家的巨悪ともなります。
 奴隷とは〈人それぞれ〉という単純な真実が見えなくなった人を指します。
 自分が〈自分〉である以上、他人も皆それぞれの〈自分〉です。
 だからこそ、人間は自由に考え、意志を持つことができるのではないでしょうか。
 自分における〈自分〉が、他人の〈自分〉を侵して良い道理はどこにもありません。
 それを主張した瞬間、自分も又、侵されて〈自分〉を失ってしまう他ないからです。
 複数の〈自分〉が入り交じるということはあり得ず、それを強制的に行って人間性を根幹から破壊するのが思想や宗教の強制です。
 人間性の破壊こそ悪であり、正義の幻につき動かされ悪を行う当人の人間性はすでに破壊されています。
 その事実に気づかないのが思想や宗教の恐ろしい一面です。

 思想や宗教の奴隷にならず、他人の思想や宗教に対して攻撃的にならなければ、他人の精神を侵略する人間にならず、そうした人々によって営まれる国家は、決して他国を侵略しないことでしょう。
 そのためには、自分がおちついた衣食住を欲している切実さは、他人も同じように持っているということをありありと想像することが必要です。
 自分が信じている考え方や仏神は、他人のそれと違っているのが当たり前であり、自分が何かを信じていて安心ならば、他人の安心をも想像し尊ぶことが必要です。
 真の意味で〈お互いのためになれる人間〉はこうして誕生します。
 この世の菩薩(ボサツ)もまた、ここから誕生します。
 評論家池上彰氏はダライ・ラマ法王の言葉を紹介しておられます。

「(必ずしも)仏教徒になる必要はありません。
 よい生き方をすればいいのです」


 一人一人の〈よい生き方〉の先にこそ、平和がもたらされるのではないでしょうか。
 そこには無論、原爆の居場所はありません。




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2012
08.08

映画『黒い雨』を観ました ─広島と長崎の惨禍を忘れず、戦争と原爆をなくすために─(その1)

201208080012.jpg

 勉強会「生活と仏法」で今村昌平監督の『黒い雨』を題材にしました。
 井伏鱒二の小説『黒い雨』をベースにし、平成元年に封切られたこの作品は、広島に原爆が落とされてから生き延びた一家の〈その後〉を丹念に綴っています。
 主人公高丸矢須子を演じた故田中好子は第13回日本アカデミー賞で最優秀主演女優賞に輝き、作品も監督も出演者たちも数々の受賞と相成りました。

 映画は昭和20年8月6日、落下傘によって広島へ落とされた原爆によって阿鼻叫喚(アビキョウカン)の地獄と化した市街地を克明に再現するところから始まります。
 被曝した閑間重松(北村和夫)と閑間シゲ子(市原悦子)夫婦は、瀬戸内海を渡っていて黒い雨を浴びた姪の高丸矢須子と共に、重松の母がいる福山市小畠村へ疎開します。
 原爆は通称ピカ(ピカドンの略)と言われ、村では、ピカにやられた人たちが後遺症に効くと信じられた鯉の養殖を行い、アロエをかじったり貼ったりもしつつ生き延びています。

 結婚適齢期の矢須子は、黒い雨に当たったばかりに、持ち込まれる縁談が次々と壊れます。
 重松の友人たちは相次いで、苦しみながら亡くなります。
「アメリカはなんで原爆落としよったんじゃ。
 ほっといても日本の負けは決まっとるのに。」
「なんでかの。
 戦争をはよう終わらせる為じゃった言うとるがの。」
「ほんだらなんで東京をやらんかったんじゃろ。
 なんで広島なんじゃろか。」
「ようわからんのう。」
「なんじゃようわからんじゃ死にきれんのう。
 このまま死ぬるんはかなわんで……」
 
 やがて矢須子にも症状が出始めた頃、幼なじみの岡崎屋悠一(石田圭祐)と心を通わせ合うようになります。
 戦地で爆弾を抱え戦車へ突っこむ役割だった悠一は、とっくに戦争は終わったというのに、車やバイクのエンジン音を聞くと人が変わります。
 バスであれ何であれエンジン音を出す相手を戦車と信じ、棒と枕を抱えて家を飛び出さないではいられません。
 棒は銃剣、枕は爆弾です。
 そして急停車させた車の下へ枕と共にもぐりこんで任務完了となり、ようやく一息つくのです。
 いったん走り出したなら、その勢いは誰にも止められません。
 
 毎日コツコツと石仏を彫る悠一は、矢須子の被曝者として偽りのない言葉を聴き、結婚を諦めた矢須子は、悠一が語るエンジン音に触発される狂気に寄り添います。
 ある日、二人で歩いていたところへ車が通りかかり、いつも通り悠一の発作が起こります。
 しかし、すでに身体が弱っていた矢須子は抱きついて必死に止めます。
 車は通りすぎ、悠一は狂気が去ったのを知りました。

 やがて矢須子は重体に陥りますが、もはや病院へ連れて行けるのは悠一しかいません。
 重松は弱り、シゲ子も倒れ、年老いた母親は惚けています。
 病院へ向かう車が山の陰へと消えて行くのを見送りながら、重松はつぶやきます。
「今、もし向うの山に虹が出たら奇蹟が起る。
 白い虹ではなくて、五彩の虹が出たら矢須子の病気が治るんだ」
 しかし、モノクロの映画はついに虹を映さないで終わります。

 好演した田中好子に鬼気迫るシーンが三つあります。

 原爆症による死の恐怖が実感され、鏡に映る顔へ自分の顔を少しづつ近づける時、鏡の中の顔は〈血の通わないもの、すなわち死の世界にあるもの〉として向こうから自分へ迫ってきます。
 容赦なくつかまえに来る死に神から逃れるすべはありません。
 しかし、恐れつつも堂々と顔を近づける胆力……。

 五右衛門風呂に入り、髪へ手をやるとごっそり抜けてしまいます。
 顕わな乳房にかかる髪は女性の象徴なのに、手につかみ取られてしまった髪は、死の到来を告げています。
 その時、矢須子の横顔に妖しげな笑みが微かに浮かび、薪をくべながら覘いていたシゲ子は気圧されてそっと窓を閉じます。
 普通なら怯えたり泣いたりするはずなのに、「とうとう来たのね……」と怖じけずに立ち向かう心理を一瞬の表情で表現しました。

 最終的な入院が迫り、重松に連れられて鯉の池へ行った時、池の主(ヌシ)とされている巨大な鯉が勢いよくジャンプするのを目撃します。
 ジャンプは一度だけだったのに、矢須子の目には何度も何度もくり返しジャンプする様子が見え、重松が抑えるのに慌てるほど驚喜乱舞します。
「あ、見えた。
 大けな鯉!
 1メートルくらいの。
 叔父さん!
 1メートル以上あります。
 いえ、もっと大きい!
 わぁ!
 こっち、こっち!
 元気に跳ねよります!
 大けな口開けて、突撃!突っ込めぇ─!」
 狂気を孕んだ歓喜の爆発。
 死がそこまで来ていながら、鯉の勢いと一体になった忘我の境地。
 微かな狂気によるつかの間の救済。

 やはり、田中好子は希有な女優でした。
 そして、「この映画は声高であってはならない、低声でなければ……。」と言う今村昌平のリアリズムには寸部の隙もありません。
 昭和から平成へと移る時期に製作・公開されたこの作品には、〈見てくれ〉や〈聴いてくれ〉で目や耳を刺激しようとする何ものもありません。
 ただ、原爆による直接の破壊力と、その影響による逃れようのない破滅の成り行きがありありと、そして原爆の人間に対する容赦なさがくっきりと、描かれています。
 歴史の風化に耐え、残るべき映画であると言えそうです。




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2012
08.08

子や孫のためにふり返っておきたい(その9) ─坩堝(ルツボ)で純金がわかる─

20120807002.jpg

10 「る」 坩堝(ルツボ)で純金がわかる
 金の鉱石を坩堝(ルツボ)で溶かすと、純金だけが別に選られる。
 大勢の人は鉱石だ。
 その中から艱難(カンナン)を切り抜けて勝つ純金の人となれ。


 坩堝は、熱して金属を抽出するのに用いられる容器です。
 そこには何でも入れられ、上手に使われれば、目的とする価値あるものが取り出せます。
 ここでは、社会に住むたくさんの人々の中から困難や苦しみに耐えてがんばり抜いた人が、〈ものごとのできる人〉として社会的役割を果たせるようになって行くイメージが説かれています。
 
1 気をつけねばならないのは、「純金の人となれ」です。
 自分はそもそも純金の人で〈ある〉などということはなく、あくまでも努力によって純金の人に〈なる〉のです。
 小さなうちは誰でもが、どういう人になって行くのか決まってはいません。
 学校という坩堝の中では、どの子も等しく授業やしつけで鍛えられる素材です。
 そこでしっかりやって行くことによって、金の人としての輝きが出てきます。

2 また、気をつけねばならないのは、人間における〈金〉は無数にあるということです。
 確かに、「大勢の人は鉱石だ。その中から艱難を切り抜けて勝つ」とあるので、競争に勝って良い成績を修めると読めますが、現代では、もう少し幅広く解釈したいものです。
 つまり、その子なりに何かをつかむというイメージです。

 高校時代、無口で目立たずあまり人付き合いをしないA君がいました。
 友情や親友について一人づつ考えていることを述べされられた時、静かに立ったA君はボソッと言って着席しました。
親友だと思えば親友です」
 あれこれ言った私は、彼にかなわないと感じました。
 案の定、A君は文学部の教授になりました。
 高校時代、絵の好きなB君に文化祭のポスターに使う簡単な原画を描いてもらいました。
 やがてポスターが届き、生徒会の役員は皆、よくできたと喜んでB君に見せたところ、案に相違してB君はすさまじい剣幕で怒りました。
「目が死んでいるじゃないか!」
 斜め上を向いた若人の目から原画の力が失せているというのです。
 指摘されてみればそう見えなくもないという範囲の違いなのに、B君は泣き出さんばかりに悔しがっています。
 役員たちのボンクラぶりにあきれたB君はやがて芸大の教授になりました。
 高校時代、流行りだしたビートルズは、一部から、不良が好む音楽という受けとめられ方をしていましたが、仲間があまり関心を持たないうちから、C君は堂々と「ビートルズは佳いぞ」と、のめり込んでいました。
 ほとんどの仲間と一緒に私も、世の中がだんだん認めるようになってからその価値に気づき、C君の眼力に脱帽したものです。
 目立つことを嫌いつつ立派に勤め上げたC君は、原発事故にも動ぜず、あちこちにお年寄りが残った地域で、黙々と必要物資を配達するなどのボランティア活動を続けています。
 A君、B君、C君、皆、自分にある可能性を育てた〈純金の人〉と言うしかありません。

3 また、気をつけねばならないのは、勝つ相手は周囲の人々だけではないということです。
 艱難辛苦(カンナンシンク)の時代を経て50才近くになってから世に出た作家車谷長吉氏は、朝日新聞掲載の人生相談『悩みのるつぼ』でも好評を博しました。
 彼の述懐です。
「凡て生前の遺稿として書いた。」
 常に〈遺稿〉という強い意志をもってペンを執り続けたからこそ、自分から余分なものをそぎ落とし、〈純金〉になれたのではないでしょうか。
 周囲から〈純金〉と見られるのは、あくまでも自分に克った結果なのです。

 純金の人になりたいものです。




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