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2012
09.30

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その26) ─「恩知らず」でなく「思いやりのある人」になりましょう─

201209270132.jpg

26 「お」 を忘れる者は断じて出世しない

 君国の御、父母の御、先生の御、世間の御、我等はと愛とに囲まれている。
 偉くなろうとする少年は、この御恩を忘れてはならぬ。


 私たちは山ほどの恩に包まれながら、生きています。

 社会のおかげで生活が営まれます。
 親とご先祖様のおかげでこの世に生まれ、育ち、一人前になれます。
 生きとし生けるもののいのちの世界にいればこそ、人間も生きられます。
 となる人や教えの導きによってを磨かれます。
 み仏と教えとそれを守り実践する人々によって、生きる羅針盤が得られます。

 私たちはなぜ、恩を忘れ、「おかげさま」の心を忘れてはならないか?

 それは、恩知らずになれば〈他を思いやる心〉が生まれず、育たないからです。
 では何が生まれ、育つか?
 自己愛着自己中心の心が動き出し、膨れあがります。
 それで自分が真の幸せをつかめるでしょうか?
 誰かを真に幸せにできるでしょうか?

 そもそも、私たちは自分を大切にすることによって、これまでにどれだけの感動を味わい、どれだけの感謝を受け、どれだけの生きがいを感じられたでしょうか?

 私たちが最も感動するのは、映画であれ現実であれ、我を忘れて誰かのためになる人間に接した時です。
 最も感謝されるのは、無償の施しを行った時であり、対価以上の心遣いなどができた時です。
 最も生きがいを感じられるのは、誰かの何かの役に立っていると実感できる時です。

 つまり、私たちが最も感動し、感謝され、生きがいという〈生きている意義〉が確認できるのは、決して自分を大切にするからではありません。
 その反対に、自己愛着自己中心を離れてこそ、がうち震える瞬間を得られるのです。

 だから、人生の真実をつかみ、自分が真の幸せをつかみ、他人をも真に幸せにするには、自己愛着自己中心を離れ、他を思いやる心を発揮しながら生きることです。

 他を思いやる心は、恩を感じ、感謝するところに生まれます。
 たとえば、人間関係の糸がもつれて疲れ、緑深い山道を歩きながら心が解きほぐされていると感じる人は、虫にも花にも優しくなります。
 たとえば、入院したおりに救っていただいた老医とバッタリ出会えば、「おかげさまで、元気でやっています」と挨拶し、「先生もどうぞお元気で」といたわりの言葉をかけます。
 そして、恩があり感謝の心が起きる対象は、心一つで無数に見つかります。
 朝、強盗や暴漢に襲われず無事に目覚められること自体、安定した社会に生きていられればこそであり、そうした恩に比べれば、カギをかけ忘れなかった自分の行動などは微々たるものでしかありません。

 恩に気づき、おかげさまの思いを忘れずに生きれば、花や虫に優しくなり老医をいたわるように、他を思いやる心が育ち、自己愛着自己中心は消えてゆきます。
 その先にはきっと、真の幸せが待っていることでしょう。
 だから私たち隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者は稽古のたびに誓います。

「我、恩を着せず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」


 皆さんも朝、起きた時、同じように誓ってみてはいかがでしょうか。




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「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2012
09.29

正式に仏教を学ばなければ、仏教を基にしたカウンセリングなどができないか?

20120927011.jpg

 まじめなカウンセラーAさんから人生相談がありました。
「私は仏教が好きで、よくお釈迦様やお大師様の教えを交えてお話をしますが、大学で勉強したわけでもないし、もちろん、出家したこともありません。
 だから、勝手にこんなお話をしていいのかなと、罪悪感のようなものを覚えることがあります。
 もしかして、罰当たりなことをしているんじゃないかなって……。」

「心配要りません。
 思いやりを持ち、自分を省み、共に前へ進もうとする心があれば、仏教に関する知識がどれだけあるか、あるいは正式な修行を何年やったかなどという裏付けがあろうとなかろうと、その人なりに、立派に誰かの役に立てます。
 それは、仏教的観点からすれば菩薩(ボサツ)として生きていることを意味し、貴方の生きたかはまことに仏法にかなっています。
 どうぞ、身につけた知識や体験を生かし、自信を持って、ご縁となる方々のために精進してください。

 何か申し上げるとしたら、二つあります。
 一つは、もしも仏教に関する解けない疑問が生じたならば、仏教を生きている実践者へ訊ねることです。
 もう一つは、自分を省みる謙虚さをこそ、貴方らしい何よりの宝ものとして保ち続けることです。
 そうすれば、きっと、貴方の人柄を慕ってのご縁が重なり、カウンセラーとして立派に社会的責務を果たせます。

 ますますのご活躍を祈っています。
 仏神のご加護がありますよう」




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2012
09.29

【現代の偉人伝】第156話 ─『魂の行き来する道筋』を書いた村上春樹氏─ 

201209270072.jpg

 9月28日、作家村上春樹氏が『魂の行き来する道筋』朝日新聞へ寄稿した。
 尖閣諸島を巡る日中間の紛争に対し、「日本人よ、頭を冷やせ。日本人らしく泰然自若として対処せよ」と主張するこの文章は、きっと、歴史に残ることだろう。
 何らの無理も力みもなく、用いるべき理性を用い、用いざるべき感情を用いていないので、何らの無理も力みもなく自然に、立つべきところに立っている。

 氏は、スコット・フィッツジェラルドの小説『夜はやさし』を評価している。

北極星みたいなもので、こちらがどれだけ動いたところで、位置関係はちっとも変わらないのだ。
 空を見上げるとそれらの作品はいつも同じ場所にきちんと明るく輝いている」
「これは懐の深い小説である。
 欠陥をほとんど持たない、とてもうまく書けた、しかし懐の深くない──あるいは懐なんていうものをほとんど持たない──小説は世の中にいくらもある。
 そんな小説は一時的にもてはやされても、華やかな桂冠を与えられても、時間の経過と共にいつしかどこかに消えて忘れられていく。
『夜はやさし』はそれとは逆だ。
 いくつかの時代を越え、曲折や浮沈を経て、黙殺や誤解をくぐり抜けて、ようやくその真価が一般に認められることになる。
 このような小説をみつけることはとてもむずかしい。
 だからこそこの小説は大事な意味を持っているなだと思う。
 僕がこの小説を『この作品には器量がある』というのはそういう意味だ。
 器量というのは、あるいは歳月の経過を通して、結果的にしか浮かび上がってこないものかもしれない。」


魂の行き来する道筋』がどれだけの賛否を巻き起こすかはわからない。
 しかし、日中間の対立を憂える者にとって、賛意を持つにせよ、否定するにせよ、考えるための北極星として欠かせない文章である。
 三度、読み返したが、懐が深く器量のある文章であると思う。

 多くの方々に読んでいただきたく、以下、転載しておきます。
 

 尖閣諸島を巡る紛争が過熱化する中、中国の多くの書店から日本人の著者の書籍が姿を消したという報道に接して、一人の日本人著者としてもちろん少なからぬショックを感じている。
 それが政府主導による組織的排斥なのか、あるいは書店サイドでの自主的な引き揚げなのか、詳細はまだわからない。
 だからその是非について意見を述べることは、今の段階では差し控えたいと思う。

 この二十年ばかりの、東アジア地域における最も喜ばしい達成のひとつは、そこに固有の「文化圏」が形成されてきたことだ。
 そのような状況がもたらされた大きな原因として、中国や韓国や台湾のめざましい経済的発展があげられるだろう。
 各国の経済システムがより強く確立されることにより、文化の等価的交換が可能になり、多くの文化的成果(知的財産)が国境を越えて行き来するようになった。
 共通のルールが定められ、かつてこの地域で猛威をふるった海賊版も徐々に姿を消し(あるいは数を大幅に減じ)、アドバンス(前渡し金)や印税も多くの場合、正当に支払われるようになった。

 僕自身の経験に基づいて言わせていただければ、「ここに来るまでの道のりは長かったなあ」ということになる。
 以前の状況はそれほど劣悪だった。どれくらいひどかったか、ここでは具体的事実には触れないが(これ以上問題を紛糾させたくないから)、最近では環境は著しく改善され、この「東アジア文化圏」は豊かな、安定したマーケットとして着実に成熟を遂げつつある。
 まだいくつかの個別の問題は残されているものの、そのマーケット内では今では、音楽や文学や映画やテレビ番組が、基本的には自由に等価に交換され、多くの数の人々の手に取られ、楽しまれている。
 これはまことに素晴らしい成果というべきだ。

 たとえば韓国のテレビドラマがヒットしたことで、日本人は韓国の文化に対して以前よりずっと親しみを抱くようになったし、韓国語を学習する人の数も急激に増えた。
 それと交換的にというか、たとえば僕がアメリカの大学にいるときには、多くの韓国人・中国人留学生がオフィスを訪れてくれたものだ。
 彼らは驚くほど熱心に僕の本を読んでくれて、我々の間には多くの語り合うべきことがあった。

 このような好ましい状況を出現させるために、長い歳月にわたり多くの人々が心血を注いできた。
 僕も一人の当事者として、微力ではあるがそれなりに努力を続けてきたし、このような安定した交流が持続すれば、我々と東アジア近隣諸国との間に存在するいくつかの懸案も、時間はかかるかもしれないが、徐々に解決に向かって行くに違いないと期待を抱いていた。
 文化の交換は「我々はたとえ話す言葉が違っても、基本的には感情や感動を共有しあえる人間同士なのだ」という認識をもたらすことをひとつの重要な目的にしている。
 それはいわば、国境を越えて魂が行き来する道筋なのだ。

 今回の尖閣諸島問題や、あるいは竹島問題が、そのような地道な達成を大きく破壊してしまうことを、一人のアジアの作家として、また一人の日本人として、僕は恐れる。

 国境線というものが存在する以上、残念ながら(というべきだろう)領土問題は避けて通れないイシューである。
 しかしそれは実務的に解決可能な案件であるはずだし、また実務的に解決可能な案件でなくてはならないと考えている。
 領土問題が実務課題であることを超えて、「国民感情」の領域に踏み込んでくると、それは往々にして出口のない、危険な状況を出現させることになる。
 それは安酒の酔いに似ている。
 安酒はほんの数杯で人を酔っ払わせ、頭に血を上らせる。
 人々の声は大きくなり、その行動は粗暴になる。
 論理は単純化され、自己反復的になる。
 しかし賑(にぎ)やかに騒いだあと、夜が明けてみれば、あとに残るのはいやな頭痛だけだ。

 そのような安酒を気前よく振る舞い、騒ぎを煽(あお)るタイプの政治家や論客に対して、我々は注意深くならなくてはならない。
 一九三〇年代にアドルフ・ヒトラーが政権の基礎を固めたのも、第一次大戦によって失われた領土の回復を一貫してその政策の根幹に置いたからだった。
 それがどのような結果をもたらしたか、我々は知っている。
 今回の尖閣諸島問題においても、状況がこのように深刻な段階まで推し進められた要因は、両方の側で後日冷静に検証されなくてはならないだろう。
 政治家や論客は威勢のよい言葉を並べて人々を煽るだけですむが、実際に傷つくのは現場に立たされた個々の人間なのだ。

 僕は『ねじまき鳥クロニクル』という小説の中で、一九三九年に満州国とモンゴルとの間で起こった「ノモンハン戦争」を取り上げたことがある。
 それは国境線の紛争がもたらした、短いけれど熾烈(しれつ)な戦争だった。
 日本軍とモンゴル=ソビエト軍との間に激しい戦闘が行われ、双方あわせて二万に近い数の兵士が命を失った。
 僕は小説を書いたあとでその地を訪れ、薬莢(やっきょう)や遺品がいまだに散らばる茫漠(ぼうばく)たる荒野の真ん中に立ち、「どうしてこんな何もない不毛な一片の土地を巡って、人々が意味もなく殺し合わなくてはならなかったのか?」と、激しい無力感に襲われたものだった。

 最初にも述べたように、中国の書店で日本人著者の書物が引き揚げられたことについて、僕は意見を述べる立場にはない。
 それはあくまで中国国内の問題である。
 一人の著者としてきわめて残念には思うが、それについてはどうすることもできない。
 僕に今ここではっきり言えるのは、そのような中国側の行動に対して、どうか報復的行動をとらないでいただきたいということだけだ。
 もしそんなことをすれば、それは我々の問題となって、我々自身に跳ね返ってくるだろう。
 逆に「我々は他国の文化に対し、たとえどのような事情があろうとしかるべき敬意を失うことはない」という静かな姿勢を示すことができれば、それは我々にとって大事な達成となるはずだ。
 それはまさに安酒の酔いの対極に位置するものとなるだろう。

 安酒の酔いはいつか覚める。
 しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない。
 その道筋を作るために、多くの人々が長い歳月をかけ、血の滲(にじ)むような努力を重ねてきたのだ。
 そしてそれはこれからも、何があろうと維持し続けなくてはならない大事な道筋なのだ。






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2012
09.28

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その25) ─「食べる」は「生きる」だけではない─

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25 「の」 飲み食いにも修養あり
 病気は多く口から入る。
 偉くなろうとする者は食べ過ぎをしない。
 飲み食いに負けることを恥と思え。


1 喰う自分

 ものを食べている自分の姿は気になります。

 東京の予備校へ入り初めて独り暮らしをしたおりは、食事どきに侘びしさを知りました。
 自分の姿を別な自分が眺めており、言いようのない哀れさを感じたものです。
 誰も見ていない空間でものを口にする時に必ず新聞か本を読む癖がついたのは、これがきっかけでした。

 他人の目がある場所では、無意識のうちに周囲から自分を眺め、心のどこかに緊張した部分があって途切れません。
 もちろん、酔っぱらってしまえば怪しいものですが……。
 後に、動物が最も危険に瀕するのは性交の時、排便の時、そして食事の時であると教えられ、とても納得できました。
 家の中にいるネコは餌が与えられるとすぐに飛びついて夢中になりますが、野良猫はそうはゆきません。
 時折、ハッとしたように首をもたげて後を確認したり、上目遣いに周囲へ鋭い目を光らせたりする様子を見ると無性に哀れをもよおし、「大丈夫だよ」と安心させてやりたくなります。

 そして、食べている自分に対して、どことなく、浅ましさを感じてもいます。
 だから、どんなにおいしそうな食べものが出されても、決して食らいつけません。
 性交や排便と同じく、ネコやイヌと同じ生きものとしての〈ナマの姿〉になっているからでしょうか。

2 教育にならない給食の時間

 教師一筋の人生を送ってこられたAさんのお話に仰天したことがあります。
 ある学校で給食に立ち会ったところ、食事が全員へ行き渡ると教師が「喰えっ!」と号令をかけ、そのまま昼食に〈突入〉しました。
 しかも、教師はガツガツする典型的な〈犬食い〉で、Aさんは口もきけなかったそうです。
 やがて、この学級はうるさくて手に負えなくなり、助け船を求められたAさんがしばらくかけて平静な授業時間を取り戻しました。

 お腹をすかせたところへ食事が用意され、「さあ、喰え」と言われて飛びつき、無我夢中で飲み食いするならば、イヌやネコと何ら変わりありません。
 そうした光景を想像すると、おぞましさに戦慄が起こってしまいます。
 食事をするとは、生きものたちのいのちをいただくことであり、感謝を忘れず、勝手な好き嫌いをして無駄にせず、きちんと食べるという重要な教育は消し飛んでいます。
 犬食いをする教師は、礼儀作法について児童へしつけができません。
 学級崩壊同様の状態になったのも当然です。

 Bさんは異様な光景を見たそうです。
 小学校で給食が始まる時、皆が合掌をしたまではよかったのですが、リーダーが「いただきます」と発したところ、全員が合掌を解いて両手をダラリと下げ、「「いただきます」と声を揃えたのです。
 きっと、合掌をして「いただきます」を言えば特定の宗教行為であるという批判を受けるのでしょうが、残念な状況です。
 合掌と一体になった「いただきます」は、もはや日本の美風ともなっている伝統的な作法であり、もしも外国へ行った日本人がこの子供たちと同じ行動をとった後、見ていた人から説明を求められたならば、どう答えるのでしょうか。
「教育の現場では、憲法違反にならないよう細心の注意をはらっているので、日本では、宗教の香りがする古い伝統的な作法や慣習はなくなりつつあります」
 こう言って納得され、尊敬されるでしょうか。

 私は拙い宗教者ですが、信じている仏教以外の宗教行為に加わって信念が揺らぐなどという危惧はまったく持っていません。
 神社へ行けば所定の作法でお詣りし、教会へ行けば共に讃美歌を歌い、イスラム教の方が公園で礼拝をしている姿に接しては同じ敬虔な気持になります。
 そうしたことごとは、私の宗教心を高めこそすれ、信念に爪痕一つ着きはしません。
 学校で伝統的な作法を児童の身につけさせるのは、心を美しく、強くすることであり、そうした中で真の宗教心も育つのではないでしょうか。
 
 また、何でも「押しつけだ!」とヒステリックに排除する姿勢には、心を汚し、弱くする危険性があります。
 なぜなら、社会生活とは、暴れる自我を上手にコントロールしつつ霊性を磨いて行く人生修行だからです。
 気に入らないものを排斥し、何らのガマンもない中でしか生きられないとしたならその人はいつまでも幼子のままであって、周囲の人々から〈困り者〉とされながら生きて行くようになることでしょう。
 だから、『童子教』は「郷(ゴウ)に入らば郷に従え」と教えています。

3 食事のコントロールは心のコントロール

 この教えの眼目は「飲み食いに負ける」にあります。
 食べたいものを食べたいだけ食べ、食べたくないものは食べない。
 これが「負けている」状態です。
 それは、「自分に負けている」ことを意味します。

 なすべきことがなせる身体を作り、健康を維持するには何をどれだけ食べればよいかを考え、実行することなく、好き嫌いだけで食事をしているとしたら、その人は怠惰な〈気まま者〉と言わざるを得ません。
 気ままな人は強情でも、真に強い人ではありません。
 社会人としてまっとうに生きられる真に強い人は、自我をコントロールできる「自分に負けない人」です。
 なぜなら、譲り合いこそが、互いが認め合い尊重し合う理想社会におけるふるまい方であり、それは自我をコントロールできる人にしか実行できないからです。
 気ままな飲み食いの先には理想的人格も理想社会もありません。

4 結論

 〈人間にとっての食事〉を考え、〈教育としての食事〉を考え、〈修行としての食事〉を考え、子供たちを導きたいものです。
 ちなみに、食事のおりに唱える文言の一例です。

「一粒(イチリュウ)も天地の恵み、己(オノ)が身を他に与えて自他を養う定めの食物と天地に感謝し、おいしくいただき身と心とを養わん。いただきます


 たった一粒の米であっても、それができるためには、水、肥料、光、温度などさまざまな要因がすべて満たされなければなりません。
 虫に食べられないことや台風などに倒されないことも間接的な要因であり、さらに私たちの口に入るためには、農家の方の無事な刈り入れを初め、どれだけの要因があるのか数え切れないほどです。
 やっと実り、無事食卓までたどりついた一粒の米たちが、自分たちのいのちを捨てて私たちのいのちを養ってくれています。
 食べ物となるいのちと、天地として表れている仏神へ感謝せずにいられましょうか。




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2012
09.27

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その24) ─偉人・ホームレス・思いやり─

20120927100.jpg

24 「ゐ」 偉人には僕がなろう
 偉人を特別の者と思うな。
 誰もはじめから偉人ではなかった。
 諸君の中からも多くの偉人が出るはずだ。
 否!「僕がなろう」と志せ!



1 思いやり・現場・志

 ホームレスとなった方々のみが販売する『ビッグイシュー日本』という新聞があります。
 月に二回発行されるこのストリートペーパーは創刊9年目になりましたが、そもそもは、平成3年、イギリスのゴードン・ロディックとジョン・バードがロンドンで売り始めたもので、今では、世界中で売られています。
 平成2年、大企業を主催するゴードン・ロディックはニューヨークで『ストリート・ニュース』という新聞をホームレスから買い、事業化しようと思い立ちました。
 社内調査では不評でしたが、詩人同士の交わりをしていたジョン・バードへ独自の調査を依頼します。
 一時は自らもホームレスだったジョン・バードはまず、ホームレスとなった人々との対話から検討を始め、「物乞いをするくらいなら、何でもする」という言葉に深く共鳴し、「仕事は人々に平等を与える一番のツール」であると確信して、その社会的必要性に応えねばと考えました。
 こうして始まった新聞は、社会の人々にホームレスの世界を知ってもらうのではなく、他の新聞と同じく、世界で起こっているできごとを新鮮ななスタイルで報道しています。
 ホームレスの人々は普通の事業に携わるのと同じく自主的に参加し、規律を守って努力しながら社会復帰をめざします。

 それぞれが事業者でありながら詩人でもある二人のホームレスへ対する思いやりがすべての始まりでした。
 そして、決して望まないのにホームレスとなった人々の心そのものに触れることが、社会的使命感を奮い立たせました。
 もちろん、希望的観測などでなく冷徹な計算がなければ事業は始められませんが、まっとうな仕事であれば、その根底には誰かのために「やらねばならぬ」という志があるはずです。

2 ダライ・ラマ法王の励まし

 ダライ・ラマ法王の言葉が『ビッグイシュー日本』に掲載されました。
 お釈迦様の説法にかけた放浪生活をふまえ、亡命者でおられる法王はホームレスであることの意味をどう考えるかという質問への回答です。 

「困難な状況に直面している人々と会った時は必ず、私は次のようなことを話します。
 多くの困難が眼の前に立ちはだかっていたとしても、一人の人間としての誇りを持ち続け、前を向いていかなければならないと。
 困難にくじけ、誇りや希望、願いを完全に失ってしまえば、困難から逃げることはできず、そしてその困難は、本物の絶望へと変化していきます。
 ですから、希望と決心を胸に抱き続けることは、何よりも重要なことなのです」
「絶望は何の役にも立ちません。
 どれだけ状況が困難なものであっても、自信と信念を持ち続けなければならないのです」


 また、孤独を体験しておられる法王からのアドバイスはないかとの問いへ答えられました。

「個人的にですが、『私はチベット人だ』とか、『私は仏教徒だ』などと自分自身を意識した時、それらの言葉によって距離が生まれてしまいます。
 そこで私は自分自身にこのように言います。
『そんなことは忘れてしまえ。私は人間で、70億人の一人に過ぎないのだ』と。
 そう言ってしまえば、私たちの距離はとても近いものになります。
 みなさんが『私は貧乏だ』とか『ホームレスだ』『みんなとは違った境遇にいる』と思ってしまうと、そのために、互いの違いを際立たせることになります。
 そうすると、自分が不幸だと感じる境遇を抜け出すことはできません。
 確かにそれらは、現実です。
 けれども、自分は70億人のうちの一人なのだということも、もう一つの現実です。
 こう考えてみると、現実的な助けにはあまりならないかも知れませんが、精神的にはあぢぶ救われるのではないでしょうか」


 チベットの最高指導者が〈孤独〉であることはなかなか納得できないかも知れません。
 しかし、一人で生活している人だけが孤独なのではありません。
 法王のように頂点にいる人は、一人しか立つスペースのない山の頂上で足を踏ん張っているようなものであり、雨にも風にも自分で耐えるしかなく、耐えられなくなれば自分で降りるか、もしくは倒れて堕ちるしか道はないのです。

 ホームレスの方々を勇気づけるこうしたレベルの言葉を掲載し、読者をも救済する事業が思いやりから始まった事実の持つ意味をあらためて考えさせられます。

3 思いやりで生きよう

 偉人になることは、権力者になるとか、有名人になるとか、周囲から誉めそやされる人になるという意味ではありません。
 いわゆる偉人と言われる存在には〈結果的になる〉のです。
 では、ここで説く「僕がなろう」とはどういうことか。
 それは、こういう意味です。

「自分にある思いやりの心を、僕は決して放置しない。
 思いやりの心が命じることを、僕は僕自身でやり通す」


 たとえば、偉人の代表格である野口英世博士を考えてみましょう。
 博士は世界中から賞賛され、その死は、各国の新聞で一面にとりあげられたほどでした。
 博士の評価における第一の要素は、科学者としての科学的成果そのものもさることながら、〈科学者として誠意を貫き通した〉ところにあると考えています。
 当時、最も恐れられていた黄熱病の研究を行うため、病後の身体をも省みず遺言状を作ってまで南米へ入った博士は、ついには罹患してガーナの地で果てました。
 すでに名声が世界中にとどろき、世界最高水準のニューヨークのロックフェラー研究所にいるにもかかわらず、船員さえも近寄りたがらない危険な南米へと駆り立てたものは〈放っておけない〉という心だったのではないでしょうか。

 誰の心にも、思いやりが宿っています。
 それは持って生まれ、親や周囲の人々から思いやりをかけられることにより、必ず育っています。
 そして、それを大きく伸ばして自他へ本当の喜びをもたらす主人公は自分です。
 自分へかけられた思いやりという恩へ応えるべき人もまた自分しかいません。
 野口英世は、どこへ行っても「私は教えにきたのではない、習いにきたのだ」と謙虚さを忘れず、恩を忘れませんでした。
 ダライ・ラマ法王も、野口英世も、思いやりの心と一つになって生きたからこそ偉人です。
 決して有名人だから偉いのではありません。
 大いに憧れ、一歩でも近づくために恩を忘れず、思いやりの心で生きましょう!!




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2012
09.26

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十七回) ─忍耐の修行とは─

20120926001.jpg

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。第二十七回目です。
 9月16日の勉強会『生活と仏法』において、皆さんと対話を行うテーマの一つです。

「善という財を求める諸菩薩(ボサツ)を
 傷つけてしまう者もまた
 尊い宝も同然である
 それゆえ
 あらゆる者に恨みを持たず忍耐を修習する
 それが菩薩の実践せある」


 傷つける者や害する者がいてこそ、忍耐の修行ができるという考え方です。
 ただし、師匠にどやしつけられることを弟子がガマンするなどは、ここで説く忍耐修行とはレベルが違います。
 古参の弟子が新米の若造になめられた時こそ、真の忍耐が試されます。
 そこで、あくまでも〈後輩を育てる心〉で対応できるか?
 難しい場面です。

 しかも、心中では怒り狂っているのに、表面に表さないなどというのは世間一般のガマンであって、真の忍耐ではありません。
 心中に害意を伴った怒りが生じず心が乱されない状態になってこそ忍耐の完成であり、そこをめざすのが修行です。
 仏法は、世間の渡り方を説きはしません。
 ただただ、心のありようを説きます。
 なぜなら、自他の苦を解き去るには「自分の心をどうするか」が出発点になるからです。

 このレベルの忍耐は、もはや、自力でのガマンだけではなかなか成就できません。
 だからこそ、仏壇やご本尊様へ花を供え、心を定め、真言を唱えます。
「我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん」
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」

○ブンナの話

 インドの富裕な貿易商ブンナは商用の途中で釈尊の教えに接し、帰依しました。
 そして、悟りを得てアラカンとなり、自分の出身地である西海岸方面へ帰って布教をしようと思い立ちました。
 釈尊は問います。
「あちらの人々は粗野であると聞いている。もし、誹られたらどうするか?」
 ブンナは答えます。
「手で殴られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
 釈尊とブンナの問答は続きます。
「もし、手で殴られたらどうするか?」
「棒や石で打たれたのではありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、棒や石で打たれたらどうするか?」
「刀で斬られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、刀で斬られたらどうするか?」
「殺されるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、殺されたらどうするか?」
「修行者には、愚かな自分を厭い、殺してくれと頼む人さえいるのですから、自分を殺してくれる人がいるなら好都合です」
 ついに釈尊は帰郷を許しました。
 はたせるかな、慈悲と忍辱で布教を行ったブンナは、帰郷した年のうちに、たちまち五百人もの信者を得たということです。

○大西瀧治郎の話

 太平洋戦争末期、神風特攻隊に第一号出撃命令を発した大西瀧治郎中将は忘れられません。
 直情径行型で、若い頃は愛想の悪い芸者を殴って海軍大学校への入学をフイにしたエピソードの持ち主ですが、山本五十六などから信頼を受けて真珠湾攻撃の計画に加わり、最後は神風特攻隊を指揮しました。
 最初から勝てない戦争であることを知って開戦に反対だったにもかかわらず、時代に必要とされた彼は、歯をくいしばって置かれた立場をまっとうしました。
「おれもゆく、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて」
 こう言いつつ若者たちを死地へ送り出す心中は、察するに余りあります。
 空襲で焼け出された愛妻が最後は一緒に住みたいと訪ねて来た時、特攻隊員たちを死なせた自分にそのような暮らしなど許されないではないかと追い返しています。
 敗戦に号泣した翌日、官舎で腹を切り頸動脈と心臓を刺し、手当も介錯も断わり、隊員たちや妻の苦しみを自らへ実感させるがごとく苦しんで世を去りました。
 辞世の句には、忍辱を貫き通した男の達観と、ことの先に待つ無限の安らぎがあります。
「之でよし百万年の仮寝かな」

○忍辱に伴う五つの徳

1 たくさんの人々に愛される
2 たくさんの人々へ喜びを与え、気に入られる
3 なかなか敵をつくらない
4 なかなか過失をしない
5 迷わず、乱れず、死後は天界へ生まれる





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2012
09.26

寺院はいかにあるべきか?(その2) ─因果─

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〈時を待つ〉

 寺院はいかにあるべきか?
 そこは、何が得られるいかなる場であるべきか?
 第二回目です。

◎信仰の面

3 因果因果応報は時空を超えた真理であり、この世とあの世のつながりを信じる

 影が形に伴うのと同じく、原因があれば結果が伴い、結果のあるところには原因があります。
 その原理による因果の糸は過去から現在に至り、未来へと伸び、途切れることはありません。
 時間が原因と結果をつないでいます。
 いのちは時間の中に顕れ、時間の経過と共に変化し、いかなる〈現在〉も〈過去〉の結果以外のものではあり得ません。

 昭和27年、作家田宮虎彦は『足摺岬』を発表しました。
 死に場所を求めて足摺岬へ行った青年が、遍路宿で出会った人々と接するうちに自殺願望が薄れ、実生活へと回帰する物語です。
 この小説には会話が少なく、二人の人間の思いと思いが出会った時に、まるで火花が飛び散るようにパッと現れ、たちまち、消えて深い余韻を残します。
 雨に濡れながら足摺岬へ行ったものの死にきれないまま宿へ帰り着き、ずぶ濡れで動けなくなった青年を、宿泊客と一緒に介護する女将が言います。
「馬鹿なことはせんもんぞね」
 介護する老遍路が、薬売りの行商人と毎日寝起きしている部屋へ来いと誘います。
「のう、おぬし、今夜からおぬしはわしたちと相部屋にしようぞ」
 崖っぷちまで行った青年の屈折した思い、幾人となく自殺志願者を見てきた女将のいたわり、戊辰戦争で死に損なった老遍路の諦観が交錯して原因となり、結果としての言葉が生じます。
 そして、言葉が原因の一つとなり、各人の次の心と行動という結果をもたらします。

 実に、私たちは生きている限り、感じ、考え、語り、行い、それがまた原因となって、感じ、考え、語り、行っています。
 このことを意識しただけで、生き方が変わるのではないでしょうか?

 ところで、ソーシャルゲームが爆発的に伸び、世界へ網を広げようとしています。
 架空の空間におけるドラマへ参加し、誰とも知れぬXさんと競争し、共感し、あるいは落ち込み、満足し、興奮しているうちにどんどん時間が経過し、経費が膨らみます。
 お金をつぎ込む歯止めが効かなくなって子供が親の財布から盗んだり、仕事ができなくなったりするケースが相次ぎ、当局の指導や企業の注意でシステムは改善されつつあるそうですが、最も問題なのは、たくさんの人々がこうした架空空間で過ごす膨大な時間が何をもたらすかという点です。
 落ちついて考えてみましょう。
 ゲームをやっているうちも絶え間なく時間が経過し、いのちは砂時計の砂のように減り続けています。
 そう思おうが思うまいがゲームへ〈いのちをかけている〉時間内に心身で起こっているできごとは必ず、望もうが望むまいが何かの原因になり、未来の人生に必ずや、何らかの結果がやって来ます。
 ゲームへつぎ込んだ時間すなわちいのちと、お金によって、いかなる結実が望めましょうか。
 今の自分は、ゲームと共に費やした過去の時間から何を得ているのでしょう。

因果応報であるがゆえに、今日の自分が明日の自分と明日の社会をもたらす。来世をも……」
 今、何を考えているか、何を語るか、何を行うか、それらはすべてこれからの自分の人生を創り、何を考えないか、何を語らないか、何を行わないかもまた、これからの自分の人生を創ります。
 そしてそれらはすべて、これからの社会がどうなって行くかにも関わっていることをイメージしたいものです。
 また、因果の糸にからまりつつ日々、奮闘している皆さんが、寺院の行事などに参加されたおりには少々、ホッとされ、因果を客観的に眺めていただければとも願っています。


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2012
09.25

寺院はいかにあるべきか?(その1) ─仏性・開悟─

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〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』に祀られた虚空蔵菩薩〉

 寺院はいかにあるべきか?
 当山は何がゆえに『大師山法楽寺』という特定の寺院であり得るか?
 み仏に長く祈り、思案し、秋彼岸に得た要点は、修法の柱である九字法に通じる9つです。
 ここにご披露し、「寺院よ、このようにあれ」という皆様のご叱責、ご要望、ご指導皆様のご意見をお待ちしています。

◎信仰の面

1 仏性…万人がみ仏の子であることを信じ、万人と霊性で通じ合う

 万物に仏性(ブッショウ)があり、人間にはその表れとしての霊性が具わっています。
 霊性で通じ合えれば、この世はたちまち極楽になります。

 人間は皆、救われ得るでしょうか? 
 インドでも、仏教が伝わった中国でも、そして日本でもこの点は重要な問題でした。
 密教マンダラ思想に接し、「この世は本来救われている世界であって、そうでないとしか思えぬ現象世界は迷いがもたらしたものに過ぎない」という視点を徹底させたお大師様は説かれました。

「草木また成(ジョウ)ず、いかにいわんや有情(ウジョウ)をや」


(心がないと思われている草木すら成仏している以上、人間が成仏しているという本来の姿になれないわけがあろうか)
 つまり、〈救われる=成仏できる〉かどうかを問題にするのではなく、〈救われている=成仏している〉ことに気づくかどうかが問題であるとされました。
 これは、中国で世界の文化に学び、「山であれ、樹木であれ、岩であれ、湖であれ、海であれ、大自然界に存在するものにはすべて精霊が宿っている」という日本人古来の感覚を研ぎ澄ませたお大師様ならではの到達点でした。
 そして、伝授を受けた密教を体系化し、〈救われている=成仏している〉ことに気づく方法としての修法を確立されました。
 その後、「草木国土悉皆成仏」「山川草木悉皆成仏」などが各宗で盛んに言われるようになりました。
 なお、『大乗涅槃経』に「一切衆生悉有仏性(イッサイシュジョウシツウブッショウ…一切の生きものにはことごとく仏性が有る)」とありますが、この経典における「一切衆生」には植物や鉱物は含まれていません。

「私たちは本来救われている。
 心の眼で観る草や木などの大自然が、これ以上ないすばらしいありようを示している以上、大自然の一部である人間もまた、心を澄ませば、きっと、本来の仏として生きられる」


 これは、人類が得た救済の理想と言えないでしょうか。

2 開悟…共に目指すはお釈迦様の悟り、実現方法はお大師様から伝わる実践法

 自他の苦をすべてなくすには悟りを開くしかなく、その究極的方法は、私たちが本来み仏であると気づくことです。
 気づかずに、自己中心で暴れ回ろうとする〈我(ガ)〉を〈自分〉だと勘違いしているので、あらゆる苦が生じます。
 この状態を「迷い」と言い、勘違いを「無明(ムミョウ…智慧の明かりが無い)」と言います。
 迷いにはいのちの勢いが伴っているので、時には殺人や強盗や不倫などにまで行ってしまいます。
 だから、せっかくいただいたいのちの勢いの方向を変えることが大切です。
 それが「迷いを転じて悟りを開く」ことです。

 お釈迦様が、自分の心身をさんざんに痛めつけ、いのちの勢いを削ぐ修行を捨てて、心身を調えた状態でゆったりと瞑想し、大勇猛心を発揮して悪魔たちを撃破したからこそ悟りを開かれたことをよく考えたいものです。
 単に欲といういのちの勢いを抑えようとするだけでは、根本的解決になりません。
 真の智慧による欲のコントロールこそが求められるべき方法です。
 だから、「迷いを転じる」とは、「欲を、煩悩(ボンノウ)としてはたらかすのではなく、自他を生かす智慧によって大欲(タイヨク)に変える」ことを意味します。
 大欲密教の根本経典である『大日経』に出ている言葉です。

「せっかく生まれ持ったいのちの勢いをみ仏の智慧によって生かし、大欲を発揮しながら生きられればそれが悟りである」

 これが仏教の説く理想であるとは言えないでしょうか。
(当山は当然、お大師様の説かれた転迷開悟法を実践していますが、他の宗派における転迷開悟法を否定するものではありません)




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2012
09.24

檀家にならなければ戒名を受けられないか

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〈知らぬ間にどなたかが境内地の草むしりをしてくださいました。合掌〉

 当山には、戒名に関する三種類の人生相談が数多く申し込まれます。

「事情があってお葬式はやれないけれど、戒名だけを受けることはできないでしょうか?」


 もちろん、大丈夫です。
 戒名は、故人の徳に応じてみ仏から授かるものなので、どこの寺院を縁としても、何ら変わりはありません。
 最も信頼できる寺院を選ぶことこそ、最も故人のためになるのではないでしょうか。

「自分のお葬式はどこでやるかわかりませんが、生前戒名を受けておくことはできないでしょうか?」


 もちろん、大丈夫です。
 戒名とは、戒律と共に授かる〈み仏の子としての名前〉であり、生前戒名が本来のありようです。
 煩悩(ボンノウ)のままに生きるのではなく、戒律を守る清浄な生き方に切り替える〈生き直し〉が本旨であって、それは僧侶になるのと同じです。
 だから、「~院~~居士」や「~院~~大姉」の最後の「~」は法名(ホウミョウ)と言い、僧侶の僧名(ソウミョウ)と同じものです。
 なお、最初の「~」は院号といい、魂の色合いが表れます。
 真ん中の「~」は道号(ドウゴウ)といい、いかなる道を歩んだかが表れるます。
 当山では、わけへだてなく、この三つを兼ね備えた戒名をご本尊様から授かり、お伝えしています。
 ちなみに、故石原裕次郎の戒名は「陽光院天眞寛裕大居士」、福沢諭吉は「大観院独立自尊居士」です。
 とても故人のイメージに合っていると思われますが……。

「戒名を受けた所と違う寺院へ葬式や供養は頼めるでしょうか?」


 もちろん、大丈夫です。
 み仏は、相手を選ばず求めに応じて平等にお救いくださるからこそ、み仏です。
 寺院とは、そうしたみ仏にお仕えする僧侶が修行し、皆さんのために法務を行う場です。
 葬儀であれ供養であれ、行者としての僧侶が皆さんの求めに応じてご本尊様からお力をいただく修法です。
 だから、物理的に不可能な場合は別として、僧侶や寺院の都合で貴方の申し出は受けられませんなどと拒否することがあってはななりません。
 たとえば、他の寺院で戒名を受けたから、ウチの檀家でないから、ウチの宗派でないから、お布施の額が少ないから、などなどは皆、〈寺院の都合〉と言うべきです。

 ありとあらゆる機会に、生き直しを願う方、あるいは故人のあの世の安心を願う方のために、目的とする方の徳に応じた戒名が授かるよう至心にみ仏へ祈ること。

 これが、戒名に関して行者たる僧侶の践み行うべき唯一の道であると信じています。合掌




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2012
09.24

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その43)─天罰─

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〈一人で誰を探しているのかな〉

 江戸時代まで寺子屋などの教材として広く用いられていた『実語教童子教』を見直しましょう。
 一度聞いたら忘れられない警句などがふんだんに含まれています。

明(シンメイ)は愚人(グニン)を罰す  
 殺すにあらず懲(コ)らしめんが為(タメ)なり
 匠の弟子を打つは  
 悪(ニク)むにあらず能(ヨ)からしめんが為(タメ)なり」


様は愚かな人を罰するが、いのちを奪うためではなく、その人の悪行を懲らしめるためである。
 匠が弟子を叩いたり厳しくしつけたりするのは、憎いからではなく、よく身につけさせるためである)

 いわゆる「罰が当たる」についての教えです。
 日本の様は、悪いことを行った者は奈落へ突き落としてしまえというような〈審判者〉のイメージではなく、あくまでも行いを正し成長させる〈親〉のイメージを持っています。
 天上の様を天皇の先祖という意味で「天つ御祖(アマツミオヤ)」とお呼びすることからしても、国民(クニタミ)を見守る慈父的存在です。
 罰を与えるのは、私たちをいつもよく〈見〉ていてくださり、誤った方向へ行ってしまわないように〈守〉ってくださるためなのです。

 匠の指導についても同じことです。
 匠が弟子に厳しく当たるのは、憎んでいるからではありません。
 弟関係のある世界では、一人前になった弟子がよく「匠はとても厳しい人ですが、おかげでここまで来れました」などと言います。
 ただし、難しいのは、様なら間違いはありませんが、人間である師匠は間違いを犯す場合もあります。
 殺人事件にまでなってしまった大相撲の暗部などはその例です。
 慈しみと憎しみは正反対の心なのに、それによる行為が一見、同じに見えてしまうことろに難しさがあります。

 親や教師が行う子供の教育もまた同じです。
 どんな場合であっても、人生の師として導かねばならないのに、自分の感情をぶつけてしまう場合があります。
 そこに暴行や虐待が発生し、ついには殺人すら起こります。
 怒った母親が、言うことをきかない子供を置いたまま車で走り去った場面を見かけたことがあります。
 さんざん反抗していた小学生低学年の子供は、車を目で追ったまま、しばらく動きませんでした。
 子供の小さな項(ウナジ)から後頭部にかけて言いようのない寂しさが漂っており、たまらない思いをしたことが忘れられません。
 幼い子供はいつも親にすがっているのです。
 すがるしかないのです。
 そうした心を突き放す行為は、ではなくの行為です。
 因果応報の真理はすべてを覆い、誰一人逃れられず、になった人は必ず子供を含む誰からかの仕打ちを受けねばなりません。
 の行為をなす者は、子供を傷つけ、自分が傷つくだけでなく、の仕打ちを受けた時の反応によってはさらに誰かを傷つけてしまいます。
 
 子供たちへ天罰や師弟について教える時、決して忘れずに、自らを省みておきたいものです。
 こうして考えてみると、師匠や親や教師は、弟子や子供を育てるだけでなく、自らも成長させられています。
 『易経』が「天地万物は大地のような育成という徳を持っている」と説いていることがよくわかります。




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2012
09.23

「微笑みながら手術台へ向かった私」 ─信徒Aさんの生還─

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 『ゆかりびとの会』会員Aさんから、会員はじめご縁の方々へご自身の体験をお伝えしたいという趣旨でお手紙をいただきました。
 一部、手を加え、ご披露します。

「私が肺癌の手術を受けたのは三年前でした。
 クリニックでガンがみつかり、次の病院へ紹介され確定。
 さらに大きな病院へと回され、抗ガン剤治療での入院となった折は助からないと覚悟。
 入院までの間、色々と身のまわりのことを処理しておこうと司法書士による遺言書作成も済ませ、不安心配もない状態で家を離れようと思いました。
 入院後も治療法が何度も見直され、手術と決まって医師より報告を受けた折は涙を流して喜んだのを覚えています。
 手術の成功は断定出来ないと娘たちへ医師より伝えられたようですが、私は知らずにおりました。

 手術の前夜、病室のベッドでの夢は、今もはっきり脳裏にやきついております。
 最初の夢は奥深い山間の谷間。
 せせらぎのある風景で、まわりに高い岩が屏風のように連なり、岩肌に彫られているいくつもの仏様のおだやかなお顔に心が癒されました。
 次にみた夢は、大きな寺院の本堂の仏像のまわりを数十人もの御住職様方が色とりどりの袈裟衣をつけ、手を合わせ、読経しながら歩くお姿でした。
 そんな夢をみてから手術台に向かう私は何の不安心配もないおだやかな笑みを浮かべ、娘たちに手を振っていたと後に聞かされました。
 医師との出会いに恵まれ神仏に守られて、第二の命をいただいたと感じております。

 日々に感謝しながら生き、相田みつをさんの言葉『生きているうち、はたらけるうち、日の暮れぬうち』とある中で最後の『日の暮れぬうち』へ今の自分を重ねてしまいます。
 まわりにいる方に『おかげさま』の心で接し、『ありがとう』の心で日々を過ごしたいと願っています。
 『ゆかりびとの会』会員の皆様をはじめご縁の方々と信仰心の大切さを分かち合えるよう希(ネガ)い、ペンを置きます。」


 Aさんは「不安心配もない状態」を求めて手を尽くし、手術室へ向かう時は「不安心配もない」心になっておられました。
 不安は、自分の先行きが見えないことに発し、心配は、自分の死後、近親者たちに起こり得る混乱の予想に発しますが、準備を整え、み仏のご加護を実感する中でいずれも解消されました。
 まさに経典が説く成就法における「自分の功徳力」と「如来加持力」、努力とご加護の世界です。
 成就法はもう一つ「縁の力」を説きますが、感謝を忘れないAさんは、病気になる以前からすでに、十分、この力に包まれながら生きて来られたのではないでしょうか。

 それにしても、「助からないと覚悟」していても、手術による平癒の可能性が出てきた時に「涙を流して喜んだ」というくだりには、私も涙が出そうになります。
 ──どれほど嬉しかったことか……。
 いのちも心もAさんのいのちと心なのに、私のいのちと心が感応しています。
 Aさんの涙はもう、み仏の確かなご加護を示していたのではないでしょうか。

 運転しないAさんがご家族の車でご来山されると、顔見知りの方々が、旧知の親友にでも出会ったかのように喜ばれます。
 Aさんの笑顔に呼応して、周囲の人々の顔にも笑いの花が咲きます。
 これはまぎれもなく、和顔悦色施(ワゲンエツジキセ…佳い表情を示すことによって、周囲へ和やかさや悦びをもたらす布施)です。
 和顔菩薩(ワゲンボサツ)様とでもお呼びしたくなるAさん、これからも元気で当山へ足をお運びください。合掌




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2012
09.22

親の遺産を当てにするのはいかがなものでしょうか ─結城昌治作『遺産』に学ぶ─

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 昭和2年に生まれ、平成8年に亡くなった小説家結城昌治氏は『遺産』という短篇を遺しました。

 家政婦と二人で暮らしていた国文学者の父親が脳出血で倒れ、昏睡状態になった枕元へ三人の子供たちが集まり、三日目となりました。
 サラリーマンの長男は言います。

「大体、おやじなんぞは生きていたって、別に世の中の役に立つわけじゃないし、シミだらけのカビくさい本をめくって自分だけ楽しんでいた。
 全く、ろくなおやじじゃなかったぜ。
 おやじらしいことは何ひとつしなかったからな」


 小さな芸能プロダクションのマネージャーをやっている次男も言います。

「子どものために財産を残してやろうなんて考えたこともない勝手なおやじだ。
 値上がりすると分かっていた郷里の土地まで売り飛ばして、その金で何を買ったかと言えば古くさい本や手紙ばかりだった。
 せめてこの辺りで死んでくれたら有難いが、これ以上長生きされるのはかなわない」


 薬剤師に嫁いだ長女も言います。

「兄さんたちは、大学へ行かせてもらえただけでも、あたしなんかよりいいわ。
 あたしは母が死んでから、まるで家政婦と同じだった。
 結婚が遅れたのは父のせいよ。
 遺産は、あたしがすくなくとも半分もらいたいわ」


 そこでケンカが始まります。

1 長男の誤り
・世の中の役に立っていると思えない人のいのちを軽んじること
・仕事にうちこんでいた人間の人生を否定すること
・育て、大学まで行かせてもらった恩を忘れていること

2 次男の誤り
遺産を欲しがり、職業人として生涯をまっとうしようとしている人の人生を勝手な生き方と決めつけていること
・財物以上の価値がある精神世界を理解しないこと
・子どもに見守られるしかなくなった親が生きているのを迷惑と考えていること

3 長女の誤り
・娘に身の回りの世話をさせていた父親の思いが忖度できないこと
・婚期の遅れを父親のせいにしていること
・父親が亡くならないうちに遺産を欲しがっていること

 やがて、借家住まいで貯金もなく、保険嫌いだった父親の唯一の遺産が蔵書であり、3000万円程度の価値はあることに気づきます。
 3000万円を三等分することで合意し、5日目を迎えて「シビレを切らした」三人は、家政婦へ死んだら知らせてくれと頼み、病床を離れます。
 その日の夕方、死を知らされた三人は駆けつけます。
 長男は呟きます。
「まあ仕様がないや。
 どうせ最初に倒れたときから死んでいたようなものだった。」
 次男と長女は、「父が死んでかえってほっとした表情」になります。
 最期の様子訊かれた家政婦は報告します。

「みなさんがお帰りになると、すぐに意識が戻って、割合しっかりしたご様子でした。
 そして、紙屑屋さんが小型トラックで通りかかりましたら、その紙屑屋さんに書庫の本や手紙などを新聞紙などといっしょに払いさげて、チリ紙と交換なさいました。
 急に容態(ヨウダイ)が悪くなって、亡くなられたのはそれから四、五時間後です。
 このチリ紙を三人で分けるようにというのが旦那さまの遺言でした。」


 父親の枕元にチリ紙が積んであり、家政婦は、どこの紙屑屋かわからないと言いました。

 三人へ天罰を与えたのは父親か、それとも家政婦か、今となってはわかりません。
 もしかすると、財産を処分したのは父親の最後の教育だったのかも知れません。
 死を待つ親の財産を当てにしている方々は、仏神が観ておられることをゆめゆめ、お忘れにならぬよう。合掌




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2012
09.22

彼岸供養会を行います

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〈『自然墓』は着々と造られています。小さなお薬師様をお祀りした途端に雨が上がり、青空が見えたのには庭師さん一同、大いに感激されました〉

 本日10時より、彼岸供養会を行います。
 ご先祖様のない方はおられず、お骨がどこにあろうと、参加は自由です。
 どうぞ、ご一緒にご供養のお経をお唱えください。

 彼岸供養会とは「彼岸(カノキシ)」へ渡ろうとする供養会です。
 彼岸とは輪廻転生(リンネテンショウ)を離れた悟りの世界、み仏の世界であり、渡るのは自分であり、先に逝かれた御霊方でもあります。
 私たちは悟りを開かない限り、人間界や地獄界や修羅界などの六道(ロクドウ)を彷徨わねばならない存在であるということが大前提になっており、輪廻転生を離れた「死んだらおしまい」という考え方は、お釈迦様によって邪見(ジャケン…邪な見解)としてはっきり否定されています。

 そもそも、最新の研究によれば、お釈迦様は生涯、四諦(シタイ…四つの心理)を相手に応じて使い分けて説かれたとされています。
 それは以下の通りです。

一 生まれ変わり死に変わりする生きものたちはすべて〈ままならぬ〉苦の世界にいる
 お大師様はそれを「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く 死に死に死に、死んで死の終わりに冥(クラ)し」とされました。
 お釈迦様は、私たちの煩悩(ボンノウ)に流される日々を哀しいと観られ、仏像の表情は、哀しみを解こうとするお慈悲をたたえておられます。

二 (ゴウ)によって迷いの世界を輪廻する
 煩悩に促されて考え、語り、行ったすべてのことごとは、必ず何ごとかの原因となり、その結果として現れているのが迷いに満ちたこの世なのです。

三 煩悩を克服し輪廻転生から脱することは可能である
 お釈迦様は、厳しい修行の結果、煩悩を克服し、ご自身の体験として輪廻転生から解脱(ゲダツ)されました。 心の魔軍を断ち、自分を永遠につなごうとする輪廻の鎖から〈解〉き放ち、輪廻を〈脱〉し、成仏されたのです。
 だから仏陀と呼ばれます。

四 輪廻転生から解脱する確かな方法がある
 解脱されたお釈迦様は、あまりのできごとにしばし休憩されました。
 それが「法楽」に浸られた一週間です。
 当山はその境地を偲び、皆さんと共に少しでもそこへ近づきたいとの願いから法楽寺の寺号を定めました。
 仏教とは何かと言えば、「お釈迦様が成〈仏〉して明らかに実証された悟りの境地を求め、二千五百年の歴史をかけて研究され、練り上げられ、伝えられたその方法を実践し、共に苦の世界を極楽に変えようとする〈教え〉」です。
 私たちが広く行える方法としては、およそ九世紀からインドで行われ、伝えられてきた廻向(エコウ)という供養を行うことが一つ、もう一つは、誰でもが菩薩として生きるために可能な六波羅蜜(ロッパラミツ)行を実践することです。

 九月二十二日の供養会ではこうした法話を行い、共にあらゆる御霊のために供養し、布施行などを誓います。
 お釈迦様が、お大師様が、ご先祖様が伝えてくださった尊い教えを実践しようではありませんか。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2012
09.21

ご葬儀の寂しさは弟子を送る寂しさ

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 最近、まったく見知らぬ方から急にご葬儀の相談や申し込みを受けることが多くなりました。
 そして、まったく平等に引導を渡しますが、寂寥感は深まるばかりです。
 引導を渡した直後、合掌する時は精も根も尽き果てた思いになりますが、そこへ強い寂寥感が押し寄せ、自分を保つのがとても難しいと感じるようになりました。
 どうして、ほとんど言葉を交わしたこともない方々をお送りしてこれほどやるせなくなるのだろう?
 精いっぱい、故人とご尊家様のお心に近づこうとするだけでなく、導師となる自分の側にも何か理由があるのではなかろうか?

 迂闊でした。

 ご葬儀を行うとは、弟子入りした方をすぐにあの世へ送り出す仕事だったのです。

 当山を信じて任せるとは、当山を縁としてみ仏の世界をめざすということです。
 当山へ弟子入りしてその先の安心を確保したいという切なる願いをかけられたのです。
 そのご誠心を受けて、力の限りお応えしようとする時点では、言葉をも交わせません。

 信じてくださる方をそのままお送りしてしまわねばならないとは……。
 またしても、自分が出家せざるを得なかった深い(ゴウ)、因縁を考えさせられます。
 そして、自分にこの役割が与えられたこと、耐えねばならないことをこれまで通り幾重にも納得します。

 昨日、月刊『ゆかりびと』の愛読者Aさんをお送りしました。
 今度は、息子さんが購読の継続を申し出られました。

 肌寒くて起きた今日の法務も懺悔から始まります。
 脳裏に焼き付いた〈弟子〉の面影へ祈ります。
 秋雨が降っています。
 



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2012
09.21

檀家にならなければ葬儀や供養を引き受けてもらえないか

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 いわゆる檀家にならなければお葬式を引き受けてもらえないと言われて困ったという人生相談は幾度あったか知れません。
 また、当山の檀家ではないが年忌供養をしてはもらえないだろうかという人生相談も途切れません。
 本来、仏教寺院の法務に関してこうした〈相談〉があってはならないと考えています。

1 仏教徒は、み仏のお慈悲は無限であると信じています
 
 ご本尊様であるみ仏は救う相手を一切、選ばない存在であるからこそ「仏」だからです。
 
2 仏教徒は、み仏は誰の心にもおられると信じています

 お救いくださるみ仏のお住まいは、私たち一人一人の心の奥底にある深くて意識できない世界、誰とでも地続きになっているような無限の広さを持つ世界です。
 私たちが困っている人を見て「あっ、手伝わなきゃ」と思う時は、知らず知らずのうちに、み仏が、深くて広い世界から、自己中心という覆いを破って心の表面へ現れておられるのです。
 こうした真実は、イスラム教徒であろうと、キリスト教徒であろうと同じです。
 もちろん、イスラム教やキリスト教では相手をいたわる心を「仏のような心」すなわち仏心とは言わず、愛と言いますが、気にする必要はありません。

 生まれながらにこうした心を持っている私たち人間はすべて、み仏の子です。
 人間が人間たる最大の理由は、み仏の子であることを自覚できるところにあります。
 そのはたらきを慈悲と呼ぼうが、愛と呼ぼうが変わりはありません。

3 仏教徒は、信仰・信念の強制的布教活動を行いません

 仏教徒は、争いと苦の元である自己中心という殻を破るために、み仏の心を呼び起こそうと経文を読み、書き、真言を唱え、瞑想を行います。
 しかし、こうした心のとらえ方や修行の仕方を何人(ナンピト)へも強制はしません。

 なぜなら、強制しようとしまいと、真理・真実に変わりはないらかです。
 誰かの仏心を呼び起こす唯一の方法は自分が仏心そのもので接することだからです。
 み仏が誰とでも地続きになっている心の世界におられる以上、自分の心がみ仏になっていれば、音叉が共鳴し合うように、誰の心にもおられるみ仏の心とも通じ合わないはずはありません。
 他を「お前の信仰は邪宗だ」と攻撃し、「こう信じなければ不幸になるぞ」と強制する人の心の音叉は、はたらいておらず、決して誰かの仏心を呼び起こすことはできないのです。

4 仏教徒は、水が方円の器に従うように、縁に応じて仏心をはたらかせます

 生きとし生けるもののいのちを潤す水は、四角い入れものへ入れば四角くなり、丸い入れものへ入れば丸くなります。
 決して我を張りません。
 天から降る雨は雲を縁とする一帯を満遍なく潤し、水に救われる草木を選びません。
 これが、真の施しの心、つまり布施の姿です。
 亡くなった方が安心してあの世へ行けるようご葬儀の修法を行うのも、あの世での関所を無事、超えられるよう年忌供養の修法を行うのも、法による布施、すなわち法施(ホウセ)です。
 寺院は水の心で法施を行い、寺院にご縁の方々は、営利事業を行わない寺院が法務を続けられるよう水の心で財施(ザイセ…財物による布施)を行えばこそ、仏法はこの世に幸せをもたらし、あの世へ安心をもたらします。

5 結論

 ご本尊様は誰をも救い、私たちは皆、慈悲心を持つみ仏の子であり、み仏を信じる者は争わず、縁を生かします。
 だから、寺院は、ご本尊様へ救いを求める相手を選ぶべきではないと考えています。
 もちろん、当山では、縁に応じてご葬儀も年忌供養も行っています。




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2012
09.20

文と武について ─粗野な愛国心同士が戦いを起こさないために─

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〈風雨に耐えた者〉

 今、日本でも中国でも愛国心と呼ばれるものが大きくはたらき始め、険悪な状況になっています。
 中国にいるAさんの友人たちもデモ隊から「ここに日本人がいるぞ!」と目をつけられ、あっという間に取り囲まれました。
 そして、あわやという時に駆けつけた警察官たちに救われたそうです。
 一年の半分を中国で過ごすAさんは、中国人と日本人はずいぶんと異なる国民であると感じておられます。
 それでも、Aさんは中国人を貶めることなく、「動きのある国だからおもしろい」と言われます。

 さて、尖閣諸島力衝突があるかないかと非情に関心が高まっていますが、今こそ智慧をはたらかせ、「」と「」をよく考えてみたいものです。

 私は、「」とは平和時にはたらく霊性の発露であり、「」とは、非常時にはたらく霊性の発露であると考えています。
 イコール暴力という図式だけでは、の本質を見誤ります。
 暴力は暴れ回る強大な力ですが、それは、霊性から離れれば己を傷つけ、他を傷つける無暴・粗暴・横暴・暴挙・暴虐の姿をとります。
 これらは智慧と慈悲のない状態です。
 怒りによって相手を倒そうとするだけなら、ケダモノとの違いはどこにありましょうか。

 戦後の長い平和が暴力絶対否定といった空気をもたらした日本の状況には「」の発動に賛否両論があるようです。
 おさえておくべきは、日本人の背骨となっている武士道が広く世界から賞賛されている理由です。
 それは、戦いにおけるふるまいもさることながら、むしろ、〈非常時に備えて己を鍛える姿勢が平和時のふるまいを美しくする〉ところにあります。

 こう書き残したオランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスムはアウシュヴィッツで殺されましたが、心の戦いに勝利し、その美しさ、強さは、半世紀以上経っても色あせません。
「大切なことは、ある特定の状況からどんな犠牲を払ってでも抜け出すことではない。
 大切なのは、ある状況の中でどんなふうにふるまい、生き続けていくかということだ」
 また、ガンジーは非暴力という方法を貫いて戦い、インドに独立をもたらしました。
 両者は、真の「武」を用いた真の勝者であると言えないでしょうか。

 決して屈せぬ志を貫く姿勢、そこに伴う崇高な矜恃、これが平和時では自然にとなり、非常時では自然に武となるのではないでしょうか。

 確かに、Aさんの友人は、暴力を抑えるために必要な〈準備された暴力〉によって救われました。
 泥棒に入られないためには、家にカギをかけておかねばなりません。
 それもさることながら、最も大切なのは、泥棒へ「ここの家には入りにくい」「この地域には行きたくない」と思わせることです。
 そう思わせるには、頑丈なカギという〈準備された暴力〉以外にも役立っている要素があります。
 この要素こそ、真の「武」に通じた何ものかではないでしょうか。




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2012
09.19

2012年10月の運勢 ─流れの生かし方と人生修行─

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〈静かに秋が深まる『みやぎ四国八十八か所巡り道場』〉

 2012年10月─平成24年9月(長月…10月8日から11月6日まで)─の運勢です。
 運気の流れによる注意点を参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 価値ありと信じているものが〈わからず屋〉たちに貶められた時の対応によって吉凶さまざまな結果がもたらされます

 歴史は常に権力者の立場から綴らますが、それでも情報が開かれた社会では、庶民がある程度、事実認識を共有できます。
 だから、歴史の見方があまり偏らないで済みます。
 日本では時の政権への批判的視点を持つことも自由です。
 ところが現在の中国のように特殊なイデオロギーが支配する社会では、過去に起こり現在起こりつつある事実が極端に絞り込んだ形でしか庶民へ知らされないので、庶民の歴史認識は、時の政権にとって都合の良いものに色づけされます。
 南京大虐殺の客観的証拠がまじめに調べられず、国家の指導者が故松下幸之助へ懇願して中国の近代化が始まったことは伏せられ、中国の庶民たちは、外敵の存在を際立たせることで失政を繕おうとする権力者の意のままに繰られようとしていますが、果たしてどうなるか。
 
 今月は、日中間の問題だけでなく身近なところでも、偏った視点しか持てない者による言葉や破壊工作を用いた蛮行が生じやすくなります。
 客観的に観て明らかに相手が〈わからず屋〉であっても、攻撃される側は自衛策をこうじなければなりません。
 あらゆる意味での実力を養っておくことは当然ですが、大切なのは相手の土俵に乗らないことです。
 相手は地獄界や修羅界にいて矢を放ってきます。
 こちらはあくまでも人間界や天人界にいながら矢を払い、心の余裕をなくさないようにしましょう。
 余裕は信念と自信によってもたらされます。
 だからといって、決して相手を見下げたり、見捨てたりするのではありません。
 相手をも人間界か天人界へ引き上げねば、愚かしい戦いは最終決着をみられないことを肝に銘じておきたいものです

二 あくまでも謙虚に、弱者の立場へ自分の身を置き換えて考え、判断してみましょう

 私たちは東日本大震災で何を学んだのでしょう?
 べらぼうな金儲けをしたり、知らない人のいない有名人になったりすれば人生が豊かになるのではないと、気づかされたのではなかったでしょうか。
 困った人を見捨ててはおけないという一心で見知らぬ人の救済と復活のために汗を流す無数の方々の存在は、私たちの社会がいかにまっとうな方向へ進んでいるか、今さらながらに希望を与えてくれます。
 ロンドンオリンピックで金メダルを獲得したボクシングの村田諒太選手は、周囲の莫大な〈商品価値〉騒動を無視し、すっぱりと引退しました。
 彼は明らかに〈職人〉であり、海外留学し、指導者としてさらに自分を高めて後進の若者たちを指導するという〈師匠〉の仕事を選んだことは、とても納得できました。
 一億円を用意して待っているというジムからの話にも、「金メダルの価値が一億円以下とは思わない。もし受けたら汚すことになる。百億円なら考える」と回答しており、日本を代表する逸材と思えます。
(引き際に潔さがなく簡単に〈座〉を穢して平気な各界トップの方々と比べても……)

 また、平等に観れば、人は皆、弱者の部分を持っています。
 健康であってもお金がない、お金があっても健康がない、権力はあっても老いが迫っている。あるいは知識はあるが決断力がない、地位はあるが衆望がない、良い人だが騙されて酷い眼に遭う、美人だが険があるなどなど。
 認めたい面も認めたくない面もそのままに直視できれば、高慢になるのがいかに勘違いで愚かしいことであるかがわかります。
 み仏は、直視する智慧を平等性智(ビョウドウショウチ)と説かれました。
 わかりやすく言えば、露天風呂に入っている時は皆、平等に生まれたままの姿であって、地位や名誉や財産や知識などのあるなしと関係なく一緒に楽しむといった心の眼で、人間も世界も観る智慧です。
 どうでしょう。
 手前勝手でバカバカしい慢心はどこかへ行ってしまいませんか。

 今月もしっかりやりましょう。
 皆さんの開運を祈っています!

[布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は謙虚で人望を高め、何をやっても無事安全です。
 不精進の人はつまらぬことを誇り、予想もしない怨みをかって自滅しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は先人の智慧に学び成功へ近づきます。
 不精進の人は勝手に誰かの後を嗣ごうとし思わぬ反発を招きがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は労苦を厭わず、他人の苦も引き受ける姿が評価されます。
 不精進の人は目先をうまくこなしても、自己中心が露呈しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は手柄を他人へ与えて縁の下の力持となる姿勢が高く評価されます。
 不精進の人は自分が前へ出るか利を得るかしか考えず失敗しがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は他人の意見を聞き、困っている人のために汗を流して認められます。
 不精進の人は独断独行で我利我利亡者に見られがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は才気を隠し、苦労して得た結果を目上などに譲り信望を集めます。
 不精進の人は先に待つ険難に気づかず先頭に立って盲進し、失敗しがちです。




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2012
09.19

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その9)生死をかけた出産そして子供へ贈る言葉─

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 有島武郎は、最初のお産を迎えるる亡き妻の姿を思い出す。

「今時計は夜中を過ぎて一時十五分を指している。
 しんと静まった夜の沈黙の中にお前たちの平和な寝息だけが幽(カス)かにこの部屋に聞こえて来る。
 私の眼の前にはお前たちの叔母が母上にとて贈られた薔薇(バラ)の花が写真の前に置かれている。
 それにつけて思い出すのは私があの写真を撮(ト)ってやった時だ。
 その時お前たちの中に一番年たけたものが母上の胎(ハラ)に宿っていた。
 母上は自分でも分らない不思議な望みと恐れとで始終(シジュウ)心をなやましていた。
 その頃の母上は殊(コト)に美しかった。
 希臘(ギリシャ)の母の真似(マネ)だといって、部屋の中にいい肖像を飾っていた。
 その中にはミネルバの像や、ゲーテや、クロムウェルや、ナイティンゲール女史やの肖像があった。
 その少女じみた野心をその時の私は軽い皮肉の心で観ていたが、今から思うとただ笑い捨ててしまうことはどうしても出来ない。
 私がお前たちの母上の写真を撮(ト)ってやろうといったら、思う存分化粧をして一番の晴着を着て、私の二階の書斎に這入(ハイ)って来た。
 私は寧(ムシ)ろ驚いてその姿を眺めた。
 母上は淋しく笑って私にいった。
 産(サン)は女の出陣だ。
 いい子を生むか死ぬか、そのどっちかだ。
 だから死際(シニギワ)の装(ヨソオ)いをしたのだ。
 ――その時も私は心なく笑ってしまった。
 然し、今はそれも笑ってはいられない。」


 初めて子供を孕む頃は、「不思議な望みと恐れ」が心に住み着き、女性としてとても美しくなる。
 ミネルバは智恵・詩・医術・技術・工芸・・戦争・魔術などを司るギリシャ神話の女神、ゲーテ、クロムウェル、ナイティンゲールは、超人的なはたらきをした英雄たちである。
 出産という戦は美しい者に似つかわしいのか、それとも似つかわしくないのか。
 いずれにしても、母となる者は決意を持つ。
「産(サン)は女の出陣」。
 生死をかけて出産に臨む。
 今、撮ろうとしている写真は遺影になるかも知れない。
 男はそんな女をしくは思うが、一緒に同じ鉢巻を締められないのが正直なところだ。
 だから、女は「淋しく笑って」写真に撮られようとし、男は「心なく笑って」撮し手となる。

「深夜の沈黙は私を厳粛にする。
 私の前には机を隔ててお前たちの母上が坐っているようにさえ思う。
 その母上のは遺書にあるようにお前たちを護らずにはいないだろう。
 よく眠れ。
 不可思議な時というものの作用にお前たちを打任(ウチマカ)してよく眠れ。
 そうして明日は昨日よりも大きく賢くなって、寝床の中から跳(オド)り出して来い。
 私は私の役目をなし遂げる事に全力を尽すだろう。
 私の一生が如何(イカ)に失敗であろうとも、又私が如何(イカ)なる誘惑に打負(ウチマ)けようとも、お前たちは私の足跡(ソクセキ)に不純な何物をも見出し得ないだけの事はする。
 きっとする。
 お前たちは私の斃(タオ)れた所から新しく歩み出さねばならないのだ。
 然(シカ)しどちらの方向にどう歩まねばならぬかは、かすかながらにもお前達は私の足跡から探し出す事が出来るだろう。

 小さき者よ。
 不幸なそして同時に幸福なお前たちの父と母との祝福を胸にしめて人の世のに登れ。
 前途は遠い。
 そして暗い。
 然(シカ)し恐れてはならぬ。
 恐れない者の前に道は開ける。

 行け。
 勇んで。
 小さき者よ。」


 亡き妻が母親として子供たちへかけたは不滅であり、子供たちを「護らずにはいない」。
 そして、父親たる自分は、たとえこれからの人生がいかなるものになろうとも、人間として実に生き、子供たちがまっとうに生きるための方向性だけは遺すと誓う。
 母親のも、父親の生きざまも、子供たちの人生祝福として捧げようと言う。

 有島武郎は、子供たちへ不用意に「若い君たちの未来は明るいから頑張れ」などとは言わない。
 まぎれもない不幸を負った者にとって人生はたやすいものではなかろうが、不幸によって「人生の淋しさに深くぶつか」ることのできたお前たちは「人生に深入り」したのだ。
 そして「人生に深入り」した者は同時に、土性骨(ドショウボネ…くじけない根性)という「根はいくらかでも大地に延びた」者でもある。
 だから、恐れずに進めという。
 両親はを尽くし、祝福を与え、土性骨を認めてやって背中を押す。

 親は、子供が巣立つまでの間にいかなる事態が起ころうとも、多かれ少なかれ、こうした思いをかけつつ育てている。
 有島武郎の『小さき者へ』は、ずっと読み続けられて欲しいと願う。




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2012
09.18

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その23) ─運命は自分で開け─

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24 「う」 運命は自分で開け
 
 成功するのは運命ではない。
 努力だ。
 通知簿の成績を見よ。
 まして一生涯の成功は長い間の努力による。
 少年時代から努力を積もう。


 運に任せてのんびりしていたのでは、希望を実現しながら自分なりの運命を開いて行くことはできません。
 努力をしても思ったような結果は得られないかも知れませんが、努力しないならば、それは、地上に顔を出した花の芽に水も肥料も施さないようなもので、花を咲かせる可能性がないのと同じく、希望が実現できる可能性はありません。
 努力すれば必ず成績はそれなりに上がります。
 子供の頃はまず、こうして因果律を信じられるようになることが肝要です。

 もちろん、大人になれば、ともすると因果律を信じられなくなりそうな場面も多々、体験せざるを得ません。
 それでもなお、信じて努力する人にのみ、果を得て喜ぶ資格が与えられます。
 たとえば、中学校から帰宅する途中、北朝鮮へ連れ去られた娘めぐみさん(当時13才)を取り戻そうと、79才になってなお、35年にもわたる活動を続ける横田滋さんがおられます。
 昔は拉致されたと政府や世間へ訴えてもほとんど相手にされず、平成14年になってようやく、北朝鮮から被害者に関する情報がもたらされました。
 最近では、その頃、日本政府が北朝鮮へ1兆円以上もの資金を渡せば拉致した日本人を帰すという密約があったという事実が明らかになりつつあります。
 横田さん夫婦は、北朝鮮からの「娘さんは亡くなった」という回答を告げられ、記者会見に臨みました。

「亡くなったとは信じていません。
 娘は必ず取り戻します」


 親の信念は真実をついていました。
 その後、被害者の遺骨や死亡診断書が偽物だったり、最期の説明がでっちあげだったりと、およそ国家の行うこととしては信じられないような事実が明らかになったにもかかわらず、北朝鮮は「解決済み」との姿勢を崩しません。
 横田滋さんと妻早紀江さん(76)才は、今なお、救出活動を続けておられます。
 早紀江さんの述懐です。

「体がしんどくて本当に倒れそうです。
 でも講演も署名活動もしないで、みんなが静かにしていると、拉致事件が消えて風化してしまう。
 活動を通じ、大変な問題だということを分かってもらわないといけないと思います」(産経新聞9月26日号)


 老いてなお、拉致された娘や、たくさんの被害者たちのために戦い続けるご夫婦こそ、運命を自分で開こうとして挫けず、諦めない姿を示しています。
 こうした方々に学び、奮い立ち、協力し、目標を持って邁進しましょう。




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「おん さんざんざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2012
09.18

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その8)去る者と送る者─

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 有島武郎は、片方で妻を失うという淋しさに遭っても、片方では妻をも子供たちをも思いきり、した。
 自分はお前たちをせたことに感謝しているだけだから、成長した暁には後を見ないで羽ばたけという。

「十分人世は淋しい。
 私たちは唯そういって澄ましている事が出来るだろうか。
 お前達と私とは、血を味った獣のように、を味った。
 行こう、そして出来るだけ私たちの周囲を淋しさから救うために働こう。
 私はお前たちをした。
 そして永遠にする。
 それはお前たちから親としての報酬を受けるためにいうのではない。
 お前たちをする事を教えてくれたお前たちに私の要求するものは、ただ私の感謝を受取って貰(モラ)いたいという事だけだ。
 お前たちが一人前に育ち上った時、私は死んでいるかも知れない。
 一生懸命に働いているかも知れない。
 老衰して物の役に立たないようになっているかも知れない。
 然(シカ)し何(イズ)れの場合にしろ、お前たちの助けなければならないものは私ではない。
 お前たちの若々しい力は既に下り坂に向おうとする私などに煩(ワズラ)わされていてはならない。
 斃(タオ)れた親を喰い尽して力を貯える獅子ししの子のように、力強く勇ましく私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい。」


 今の年配者は「子供に迷惑をかけたくない」と考え、早々に死後の準備をする。
 迷惑には大まかに二つあり、一つは不自由になった自分の身の回りの世話、もう一つは死後の処置である。
 私は迷惑という言葉には少なからぬ抵抗を感じているが、何よりも気になるのは、〈手間をかけず安く済ませる〉という功利的発想だけで老いや病気や死を扱って良いものかという点である。
 有島武郎も、「私を振り捨てて人生に乗り出して行くがいい」と言っているが、前段が大事である。

「苦難に遭いながらも、お前たちを私なりには愛し尽くし、お前たちのおかげで、愛する対象があり愛する時間を過ごせたことをただただ感謝している。
 お前たちが一人前になれば、感謝も最大になる。
 感謝している相手に求めるものなどさらさらない。
 老いて死ぬのは宿命だから、私は粛々と死を迎えよう」

 だから、若い者は、役割を終えて死に行く者へかかわるよりも、未来へ向かって、不幸な人々のためにはたらけと言う。
 人生は何かを教え、愛と感謝を教え、他者への愛を強く奨励している。
 これだけの信念を披瀝した上で、老いた自分にかかわらなくてもよいと言っているのである。
 こう諭され、魂が震えた時、若い人は「ああ、そうですか」と〈手間をかけず安く済ませる〉頭になるだろうか?
 こうした遺言のような文章で真情に触れてなお、もしも魂が震えないなら、あるいは、功利的にしか考えられないなら、その人の人生は薄っぺらなものとなるだろう。
 なぜなら、それでは「人生に深入り」できないからであり、有島武郎は「人生を生きる以上人生に深入りしないものは災(ワザワイ)である」と断じている。

 軍歌『戦友』を思い出す。

「ああ戦いの最中に 隣に居ったこの友の
 にわかにはたと倒れしを 我は思わず駆け寄りて

 軍律厳しい中なれど これが見捨てておかりょうか
 しっかりせよと抱き起こし 仮包帯(カリホウタイ)も弾の中

 おりから起こる吶喊(トッカン…突撃の叫び声)に 友はようよう顔上げて
 御国のためだかまわずに 遅れてくれなと目に涙

 あとに心は残れども 残しちゃならぬこの体
 それじゃ行くよと別れたが 永(トワ)の別れとなったのか」


 戦いの最中に被弾した戦友が倒れる。
 しっかりしろと抱き起こし、かりそめの血止めなどをするが、軍隊は突撃せねばならない。
 戦友は、自分になど構わず前進し、国のために戦えと言う。
 武人は情に負けいのちを惜しみ後れをとってはならない。
 じゃあ、行くぞと心を鬼にして友を置き去りにする。

「筆の運びは拙(ツタナ)いが 行燈の陰で親たちの
 読まるる心思いやり 思わず落とすひとしずく」


 なぜか生き残った自分は、戦友の郷里にいる親御さんへ最期の様子をこまごまと書き送りつつ、涙をひとしずく落とす。

 親と子が「人生に深入り」した者同士であるならば、倒れる者と先へ向かう者との関係は、こうなりはしないだろうか。
 もちろん、『戦友』のような事態が二度と起こってはならない。
 しかし、人生が自他との戦いであるのは真実であり、さまざまな出会いと別れが避けられないのは宿命である。
 現代に生きる私たちにも当然訪れている別れの光景はどうなっているだろう。
 よく省みる必要がありはしないだろうか。
 ──災いがもたらされないように。
 




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2012
09.17

哀愁とガッツ ─Jazz Bar 2007・有島武郎・高倉健─

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 有島武郎作の『小さき者へ』について考えている時、寺島レコードの存在を知り、『Jazz Bar 2007』を聴きました。
 寺島靖国氏はこんなことを書いています。

「JAZZは哀愁ガッツの音楽だ」
哀愁の表現にガッツがある」


 参りました。
 有島武郎は、どうしようもないところで生じるやるせない哀感を描きました。
 ──勇気の限りを尽くして。

 私が寺島靖国氏の言う「美旋律」を含むモダンジャズに言いようもなく惹かれるのは、哀愁ガッツのコラボレーションに心の音叉が共鳴しているという事情によるものと思われます。
 気がついてみれば、高倉健に惹かれているのも、同様な事情によるものと言えそうです。
 あの横顔と後姿には、とにもかくにも哀感があります。
 銀幕の彼はやるせない状況から決して逃げず、耐えに耐え、哀感は深まります。
 強靱なガッツが哀感をどこまでも深めさせ、やがて生じる一瞬の行動や一言にもまた、凝縮され、ほとばしるガッツがあります。

 なぜか、昭和を生きた男たちへ『Jazz Bar 2007』を勧めたくなってきました。
哀愁ガッツ」は当分、頭の片隅に居座りそうです。




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2012
09.17

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その7)不幸が生む愛─

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 有島武郎は、人間が哀しみや淋しさ、あるいは切なさに襲われることは深い人生体験であると肯定している。
 人生へ訪れるものをすばやくマイナスとプラスに分け、プラスの中でだけ明るく軽々と生きようとはしない。
 そうした懐の深さ、柔軟な強靱さは真の優しさを含んでいる。

「雨などが降りくらして悒鬱(ユウウツ)な気分が家の中に漲(ミナギ)る日などに、どうかするとお前たちの一人が黙って私の書斎に這入(ハイ)って来る。
 そして一言パパといったぎりで、私の膝ひざによりかかったまましくしくと泣き出してしまう。
 ああ何がお前たちの頑是(ガンゼ)ない眼に涙を要求するのだ。
 不幸なものたちよ。
 お前たちが謂(イワ)れもない悲しみにくずれるのを見るに増して、この世を淋しく思わせるものはない。
 またお前たちが元気よく私に朝の挨拶あいさつをしてから、母上の写真の前に駈けて行って、『ママちゃん御機嫌ごきげんよう』と快活に叫ぶ瞬間ほど、私の心の底までぐざと刮(エグ)り通す瞬間はない。
 私はその時、ぎょっとして無劫(ムゴウ)の世界を眼前に見る。
 世の中の人は私の述懐を馬鹿々々しいと思うに違いない。
 何故(ナゼ)なら妻の死とはそこにもここにも倦(ア)きはてる程夥(オビタダ)しくある事柄の一つに過ぎないからだ。
 そんな事を重大視する程世の中の人は閑散でない。
 それは確かにそうだ。
 然(シカ)しそれにもかかわらず、私といわず、お前たちも行く行くは母上の死を何物にも代えがたく悲しく口惜しいものに思う時が来るのだ。
 世の中の人が無頓着だといってそれを恥じてはならない。
 それは恥ずべきことじゃない。
 私たちはそのありがちの事柄の中からも人生の淋しさに深くぶつかってみることが出来る。
 小さなことが小さなことでない。
 大きなことが大きなことでない。
 それは心一つだ。

 何しろお前たちは見るに痛ましい人生の芽生(メバ)えだ。
 泣くにつけ、笑うにつけ、面白がるにつけ淋しがるにつけ、お前たちを見守る父の心は痛ましく傷つく。

 然しこの悲しみがお前たちと私とにどれ程の強みであるかをお前たちはまだ知るまい。
 私たちはこの損失のお蔭で生活に一段と深入りしたのだ。
 私共の根はいくらかでも大地に延びたのだ。
 人生を生きる以上人生深入りしないものは災(ワザワイ)である。」


 有島武郎は、心を傷つけ、悩ます不幸な状況が「人生に深入り」させ、人生に意義をもたらすと言う。
 私たちの多くは、不幸を望まない。
 自然に幸福を求める。
 しかし、不幸を体験しない人はいない。
 時として、生まれてきたことさえ、不幸と感じる。
 求めつつ得られない幸福、求めはしないのにやってくる不幸、こうした不如意の中でこそ「深入り」するとは、人生は何と不思議なしくみであろうか。

 ふり返ってみれば、現代の私たちは、あまりにも「深入り」を避けているとは言えないだろうか?
 生老病死は根源的な不如意である。
 するものとの別離も、憎み怨むものとの出会いも、求め尽くせない欲求も、生きている限りを免れない心身の縛りも、逃れられない宿命である。
 お釈迦様はそれをと言われた。
 私たちはややもすると、を〈なかったこと〉あるいは〈ないもの〉として、いつも蝶のように気ままに軽々と生きようとしてはいないだろうか?
 傷つくことを常に怖れ、小さな傷にたちまち呑み込まれてしまっているのではなかろうか?
 もしかすると、「深入り」しないで済むという幻想こそ現代の日本人が陥っている最大の錯覚であり、錯覚が卑劣、怯懦(キョウダ)、無慈悲などの温床となっているのではなかろうか?

 有島武郎は、幼くして母親を失った「不幸な」子供たちへ、さらに「不幸な」他者への眼を持てと説く。

「同時に私たちは自分の悲しみにばかり浸(ヒタ)っていてはならない。
 お前たちの母上は亡くなるまで、金銭の累(ワズラ)いからは自由だった。
 飲みたい薬は何んでも飲む事が出来た。
 食いたい食物は何んでも食う事が出来た。
 私たちは偶然な社会組織の結果からこんな特権ならざる特権を享楽した。
 お前たちの或(ア)るものはかすかながらU氏一家の模様を覚えているだろう。
 死んだ細君から結核を伝えられたU氏があの理智的な性情を有(モ)ちながら、天理教を信じて、その御祈祷で病気を癒そうとしたその心持を考えると、私はたまらなくなる。
 薬がきくものか祈祷がきくものかそれは知らない。
 然(シカ)しU氏は医者の薬が飲みたかったのだ。
 然(シカ)しそれが出来なかったのだ。
 U氏は毎日下血しながら役所に通った。
 ハンケチを巻き通した喉からは皺嗄(シワガ)れた声しか出なかった。
 働けば病気が重(オモ)る事は知れきっていた。
 それを知りながらU氏は御祈祷を頼みにして、老母と二人の子供との生活を続けるために、勇ましく飽くまで働いた。
 そして病気が重(オモ)ってから、なけなしの金を出してして貰った古賀液の注射は、田舎の医師の不注意から静脈を外れて、激烈な熱を引起した。
 そしてU氏は無資産の老母と幼児とを後に残してその為めに斃(タオ)れてしまった。
 その人たちは私たちの隣りに住んでいたのだ。
 何んという運命の皮肉だ。
 お前たちは母上の死を思い出すと共に、U氏を思い出すことを忘れてはならない。
 そしてこの恐ろしい溝を埋める工夫をしなければならない。
 お前たちの母上の死はお前たちのをそこまで拡げさすに十分だと思うから私はいうのだ。」


 お前たちは「不幸なもの」だが、不幸を通して「人生に深入り」した地点から生まれるを他の「不幸なもの」へ向けよと言う。
 お前たちの母親は、それだけのをお前たちにかけたのだと言う。




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2012
09.16

三十七の菩薩(ボサツ)の実践(第二十六回) ─持戒とは─

20120916008護摩傑作

 菩薩(ボサツ)になるための実践道。第二十六回目です。
 9月12日の勉強会『生活と仏法』において、皆さんと対話を行いました。

「戒律を守らずして自利の完成はない
 それでいて利他を成し遂げる願いを持っても笑われる
 それゆえ、世俗の欲を放棄して戒律を遵守する
 それが菩薩の実践である」


 ここまで発展してきた現代仏教の基本はこうです。

「気ままに生きれば自己中心煩悩に流され、せっかく人間として生まれたのに、真に価値あるものを得られないばかりか、他人へもまた、そうした尊い機会を失わせてしまう。
 人間として生まれた以上、誰しもが、本来の〈み仏〉として生きられる可能性を持っている。
 この可能性の現実化を妨げているのが煩悩である。
 だから、煩悩と向き合い、み仏になれる可能性を確認し、煩悩を打破しよう。
 そのためには、〈気ままに〉ではなく、〈本来のみ仏らしく〉生きる稽古すなわち人間修行をせねばならない。
 修行は、煩悩の穢れを祓い、自他のためになろうとする本来の意欲を高める道である。
 さあ、煩悩の引き金となる、いのちへの軽視、与えられていないものを手にする強欲、妄りなセックスへ走る獣性、勝手な嘘、などを止めようではないか」


 だから、戒律を守ることが修行の始まりであり、根幹でもあります。
 生きもののいのちを粗末にしながら、あるいは勝手な嘘をつきながら修行を続けることはできません。
 もしもこうした生き方をしている人がいくら「世のため人のため」を願おうと、笑われるだけであると厳しく戒めています。
 江戸末期の僧月照は、『十善戒歌』を遺しました。
 不殺生の心です。

「世の中に 生きとし生けるものは皆 ただ玉の緒の 永かれとこそ」


 生きものたちはすべて皆、与えられたいのちを生ききって欲しいと願っています。
 不悪口の心です。

「我が宿に 養いおける 犬だにも 叱り猛りて 責めじとぞ思う」


 自分の飼い犬に対してさえ、吠える声がうるさいからといって怒鳴りつけたりはしまいと願っています。
 もちろん完全には実践できないにせよ、戒めを守ろうと努力する姿勢があってこそ、他のためになろうとする思いにも真実がこもり、周囲を納得させ、動かしもします。

 このように、他のためになることを第一とする菩薩の道にあっては、煩悩を見極め、戒律を遵守することによってそれを破壊でせねばなりません。
 高慢心を満たそうする名誉欲、楽をし外面を飾ろうとする財欲などは、自らを戒めつつ生きればいつの間にか消え去っているものです。
 再び、僧月照の歌です。

「身に影の 離れぬがごと 善し悪しの 業の教えの 無かるべしやは」


 身体に影法師が付き添うように、何が善いのか何が悪いのか善悪をきちんと見分ける教えを忘れないようにしたいと願っています。
 そうして生きれば、得た名誉は社会を善くする方向で生かし、積んだ財物は必要な人々のために提供しないではいられなくなります。
 名誉にも財物にも善悪はなく、名誉や財物を得た人が悪人であるという道理もありません。
 あくまでも、いかなる方法でいかなるものを手にするか、そして手にしたものをどう用いるかが問題です。
 自己中心のあくなき煩悩となってはたらく名誉欲や財欲を離れる心が重要であり、何をどう生かすかは智慧の問題です。

 十善戒を忘れないことは、人間としてまっとうに生きる基礎です。
 広く認識していただきたいと願っています。
 当山では、『お約束』として子供十善戒を提唱しています。

1 不殺生(フセッショウ)…生きものをむやみに殺しません。
2 不偸盗(フチュウトウ)…盗みません。
3 不邪淫(フジャイン)……ふしだらなことをしません。
4 不妄語(フモウゴ)………嘘をつきません。
5 不綺語(フキゴ)…………へつらいを言いません。
6 不悪口(フアック)………悪い言葉で話しません。
7 不両舌(フリョウゼツ)…二枚舌を使いません。
8 不慳貪(フケンドン)……貪りません。
9 不瞋恚(フシンニ)………妬んだり、キレたりしません。
10 不邪見(フジャケン)…悪い考えを起こしません。






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2012
09.16

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その6)─

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 有島武郎の妻は、一家を挙げての壮絶な戦いの末に亡くなった。

「お前たちが六つと五つと四つになった年の八月の二日にが殺到した。
 が総てを圧倒した。
 そしてが総てを救った。」


 によってあらゆる抵抗は砕け散った。
 それが「が総てを圧倒した。」である。
 はまた、あくなき戦いを続けようとする者たちへの救済でもあった。
 それが「死が総てを救った。」である。
 人間の宿命である病気と死とを相手にする私たちの真実は、前章の「血まぶれになって闘った」及びこの二行に尽くされている。

 眼前の小さな砦を奪われるかどうかの攻防だけならいざ知らず、病気という敵は、老いという敵と並んで、私たちが生きものとしては決して最終的な勝利を得られない相手である。
 本丸は、いつか必ず落とされる。
 それを知っていながら、最善の戦いを戦おうとする。
 血まぶれとなり、感謝も無残も、希望も絶望も、ありとあらゆる一喜一憂を味わう。
 自ら本丸へ火を放とうと思い、自ら打って出て散ろうと思い、あるいは無血開城を夢見ることもあろうが、死に神の軍は容赦なく抵抗力を奪う。

 自分や家族の当病平癒を願う方がおられる。
 奇跡の回復もあり、やがてご葬儀の申し込みとなる場合もある。
 逝った方と共に戦い尽くした方の表情に落胆が深い翳(カゲ)をもたらしているのは当然だが、言いようのない崇高さが観て取れる場合がある。
 逝った方はあの世でみ仏に救われてみ仏の世界へ溶けこみ、送った方はこの世でみ仏に救われてみ仏になるのではないかと度々、思わされ、合掌してきた。
 有島武郎はそれを端的に「死が総てを救った」と書いた。

 どう救われたのか?

「お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。
 若(モ)しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。
 母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜(ヒルガエ)さなかった。
 それは病菌をお前たちに伝えるのを恐れたばかりではない。
 又お前たちを見る事によって自分の心の破れるのを恐れたばかりではない。
 お前たちの清い心に残酷な死の姿を見せて、お前たちの一生をいやが上に暗くする事を恐れ、お前たちの伸び伸びて行かなければならぬ霊魂に少しでも大きな傷を残す事を恐れたのだ。
 幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ。
 葬式の時は女中をお前たちにつけて楽しく一日を過ごさして貰いたい。
 そうお前たちの母上は書いている。
『子を思う親の心は日の光世より世を照る大きさに似て』
とも詠じている。

 母上が亡くなった時、お前たちは丁度信州の山の上にいた。
 若(モ)しお前たちの母上の臨終にあわせなかったら一生恨みに思うだろうとさえ書いてよこしてくれたお前たちの叔父上に強(シ)いて頼んで、お前たちを山から帰らせなかった私をお前たちが残酷だと思う時があるかも知れない。
 今十一時半だ。この書き物を草(ソウ)している部屋の隣りにお前たちは枕を列ならべて寝ているのだ。
 お前たちはまだ小さい。
 お前たちが私の齢(トシ)になったら私のした事を、即ち母上のさせようとした事を価(アタイ)高く見る時が来るだろう。」


 ご葬儀へ小さなお子さんを参列させようかさせまいかというご相談は幾度かあった。
 当山では、死を〈無いこと〉にしてしまわず、避けられない真実が体験できる機会を奪わない方が良いという判断で、参列をお勧めしてきた。
 もちろん、肉親との別れの場にいることそのもののかけがえのなさもある。
 幼子はダメという単なるタブーとして思考停止してしまうことへ警告する意味もある。
 しかし、最終的にはケースバイケースであり、大人が熟考し、責任ある決断をせねばならない。
 有島武郎夫婦は、「幼児に死を知らせる事は無益であるばかりでなく有害だ」と判断した。
 それはそれで一つの見識とするしかない。
 結核という病名を患者本人へ告げるかどうかが大問題だった時代背景も考慮する必要がありそうだ。

「私はこの間にどんな道を通って来たろう。
 お前たちの母上の死によって、私は自分の生きて行くべき大道にさまよい出た。
 私は自分を愛護してその道を踏み迷わずに通って行けばいいのを知るようになった。
 私は嘗(カツ)て一つの創作の中に妻を犠牲にする決心をした一人の男の事を書いた。
 事実に於てお前たちの母上は私の為めに犠牲になってくれた。
 私のように持ち合わした力の使いようを知らなかった人間はない。
 私の周囲のものは私を一個の小心な、魯鈍(ロドン)な、仕事の出来ない、憐れむべき男と見る外を知らなかった。
 私の小心と魯鈍(ロドン)と無能力とを徹底さして見ようとしてくれるものはなかった。
 それをお前たちの母上は成就してくれた。
 私は自分の弱さに力を感じ始めた。
 私は仕事の出来ない所に仕事を見出いだした。
 大胆になれない所に大胆を見出した。
 鋭敏でない所に鋭敏を見出した。
 言葉を換えていえば、私は鋭敏に自分の魯鈍(ロドン)を見貫ぬき、大胆に自分の小心を認め、労役して自分の無能力を体験した。
 私はこの力を以(モッ)て己れを鞭(ムチウ)ち他を生きる事が出来るように思う。
 お前たちが私の過去を眺めてみるような事があったら、私も無駄には生きなかったのを知って喜んでくれるだろう。」


 親であり、夫であり、作家だった有島武郎にとっての〈救い〉はここに凝縮されている。
 それにしても、あまりの正直さに、ただただ圧倒される。




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2012
09.15

あの世へ行けば本当に十三仏様と会えるのか?(その3)

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〈お骨を預かる納骨堂法楽殿』をお守り下さる十三仏様〉

 そろそろ結論を書かねばなりません。
 なぜ、私は十三仏様に会えると信じているのか?
 と言うよりも、お会いしていると感じつつ修法を行っているのか?
 感じていることそのものに根拠は不要であり、事実の科学的証明もできませんが、こうした体験をもたらしているものに関して、道理であると考えている内容の一端を書いておきます。

1 人は死んでも何かは残る

 私たちが男として女として、おとなしい子として暴れん坊として、丸顔で角顔で──、というふうに、特定の特徴を持った存在Aとして生まれてくる原因は過去にしかありません。
 原因には結果が伴い、結果は原因からもたらされる以上、過去世・現在世・未来施のつながりを想定する輪廻転生(リンネテンショウ)は否定できません。
 また、死んでそれっきりなら、ご遺体やお骨を大切にとり扱う理由はなく、死後の供養などもすべて無意味ですが、人類は、歴史が始まって以来ずっと敬虔な心で死者を送り、悼み、祀り、供養してきました。
 また、現代科学ではあの世のありようについて物理的解明ができなくても、私たちはご先祖様方と同じく第六感であの世を感じ、御霊を感じています。
 物理学の世界では、「あそこにまだ発見されていない星があるはず」「まだ発見されていない素粒子がなければ理論的に成り立たない」などと気づいたところから探求が行われ、しばらく経ってから、予想された発見がもたらされたりします。
 それと同じように、私たちが感じているこの世ならぬ世界のありようが科学的に明らかにされるためには、もっともっと歴史が進み叡智が磨かれねばならないのでしょう。

2 死後に残った何ものかは、この世が空(クウ)であるのと同じく空(クウ)の世界で変化する

 現世が空(クウ)である以上、現世をもたらす原因となった過去世も空(クウ)であり、現世の結果として到来する来世も空(クウ)でなければなりません。 

3 私たちがこの世で心におわすみ仏に導かれるのと同じく、あの世の何ものかもまた、み仏に導かれる

 私たちは生まれてから死ぬまで、不断の変化の中にあって、親や先生や先輩や上司や賢者に導かれて成長し続けます。
 一方、最も確かな導き手であるみ仏が私たちの心中におわすという真実は、くり返し、聖者方によって説かれています。

「衆生界(シュジョウカイ)とはこれ如来蔵(ニョライゾウ)なり。
 如来蔵(ニョライゾウ)とは即ちこれ法身(ホッシン)なり」


 生まれ、迷い、死ぬ私たち凡夫の世界は単なる迷界なのではなく、一人一人の心にみ仏が蔵されている〈本来は仏〉の世界です。
 だから、み仏が、この世では親となり、先生となり、先輩となり、上司となり、賢者となって私たちを導きます。

 あの世における十三仏も、同じように初七日を不動明王となって導き、四十九日を薬師如来となって導き、百か日を観音菩薩となって導き、三回忌を阿弥陀如来となって導きます。
 そして沈思黙考(チンシモッコウ)すれば、気づきます。
 不動明王の、動ぜず、迷いを断とうとする心は自分にもある。
 薬師如来の、弱き者を癒し励まし、力をつけようとする心は自分にもある。
 観音菩薩の、縁に応じてあまねく手を貸そうとする心は自分にもある。
 阿弥陀如来の、誰へも安心を与えたいという心は自分にもある。
 きっと、自分も、知らぬ間に誰かを導いているに違いありません。
 ──小さな不動明王として、あるいは目立たぬ観音菩薩として。

4 結論

 つまり、十三仏のお導きとは、導師の修法とご本尊様のご加護により、私たちの心におわすみ仏方が救いの光を発し、合掌する私たちがみ仏となって御霊を供養するところに本旨があるのです。

5 補遺

 1933年に波動形式の量子力学でノーベル物理学賞を受賞したエルヴィン・シュレーディンガーは、生涯、インド思想に関心を持ち続けました。

「宗教は科学に対抗するものなのではなく、むしろ宗教は、これとかかわりのない科学的な研究のもたらしたものによって支持されもするものなのであります。
 神は時空間のどこにも見出せない。
 これは誠実な自然主義者の言っていることであります。」


「我々は誰でも自分自身の経験と記憶の総和は一つのまとまったものを成しており、他の誰とも画然と区別がつくということを疑う余地のないほどはっきり感じています。
 そして、これを『私』と呼ぶわけです。
 では、この『私』とは一体何でしょうか。
 もしこの問題を深く立ち入って分析するなら、それは個々のデータを単に寄せ集めたもの、すなわち経験や記憶をその上に収録した画布のようなものだということに気づくでしょう。
 そして、よく考えてみれば、我々が『私』と呼んでいるものの本当の内容は、それらの経験や記憶を集めて画を描く土台の生地だということがわかるでしょう。」


 仏教は2000年以上にもわたって、この〈生地〉がいかなるものであるかを探求し続け、今の仏教哲学に至りました。

 心の〈生地〉は幾層にもなっており、その最深部は端のない広大なみ仏の世界に溶けこんでいます。
 その世界から不動明王も阿弥陀如来も顕れます。
 宗教宗派を問わず、み仏方は、救いを求める者を必ずお導きくださるのです。
 こう信じ、善男善女の求めに応じて年忌供養の修法を重ねています。




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2012
09.15

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その5)─

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〈『小さき者へ』が書かれた年と同じ大正7年に造られた滋賀県近江八幡市の近江療養院(サナトリウム)から画像をお借りして加工しました〉

 有島武郎の時代は、結核はほとんど不治の病だった。
 季候の温暖な場所で過ごす転地療法が行われる一方、感染力が恐れられた。
 また、現代のガンに似たとらえられ方から、当人へ病名を告げるタイミング、あるいはその役割の決め方などに細心の注意がはらわれた。
 以下の文章には、そうした時代に最善を尽くそうとする人々の姿が描かれている。

「それは初雪のどんどん降りしきる夜の事だった、お前たち三人を生んで育ててくれた土地を後あとにして旅に上ったのは。
 忘れる事の出来ないいくつかの顔は、暗い停車場のプラットフォームから私たちに名残(ナゴ)りを惜しんだ。
 陰鬱(インウツ)な津軽海峡の海の色も後ろになった。
 東京まで付いて来てくれた一人の学生は、お前たちの中の一番小さい者を、母のように終夜抱き通していてくれた。」
 そんな事を書けば限りがない。
 ともかく私たちは幸に怪我もなく、二日の物憂い旅の後に晩秋の東京に着いた。

 今までいた処とちがって、東京には沢山の親類や兄弟がいて、私たちの為めに深い同情を寄せてくれた。
 それは私にどれ程の力だったろう。
 お前たちの母上は程なくK海岸にささやかな貸別荘を借りて住む事になり、私たちは近所の旅館に宿を取って、そこから見舞いに通った。
 一時は病勢が非常に衰えたように見えた。
 お前たちと母上と私とは海岸の砂丘に行って日向(ヒナタ)ぼっこをして楽しく二三時間を過ごすまでになった。

 どういう積りで運命がそんな小康を私たちに与えたのかそれは分らない。
 然(シカ)し彼はどんな事があっても仕遂(シト)ぐべき事を仕遂(シト)げずにはおかなかった。
 その年が暮れに迫った頃お前達の母上は仮初(カリソメ)の風邪かぜからぐんぐん悪い方へ向いて行った。
 そしてお前たちの中の一人も突然原因の解らない高熱に侵された。
 その病気の事を私は母上に知らせるのに忍びなかった。病児は病児で私を暫(シバラ)くも手放そうとはしなかった。
 お前達の母上からは私の無沙汰を責めて来た。
 私は遂に倒れた。
 病児と枕を並べて、今まで経験した事のない高熱の為めに呻き苦しまねばならなかった。
 私の仕事? 
 私の仕事は私から千里も遠くに離れてしまった。
 それでも私はもう私を悔もうとはしなかった。
 お前たちの為めに最後まで戦おうとする熱意が病熱よりも高く私の胸の中で燃えているのみだった。

 正月早々悲劇の絶頂が到来した。
 お前たちの母上は自分の病気の真相を明かされねばならぬ羽目になった。
 そのむずかしい役目を勤めてくれた医師が帰って後の、お前たちの母上の顔を見た私の記憶は一生涯私を駆り立てるだろう。
 真蒼(マッサオ)な清々すがすがしい顔をして枕についたまま母上には冷たい覚悟を微笑に云わして静かに私を見た。
 そこには死に対する Resignation (レズィグナツィオーン)と共にお前たちに対する根強い執着がまざまざと刻まれていた。
 それは物凄くさえあった。
 私は凄惨な感じに打たれて思わず眼を伏せてしまった。」


 妻はほどなく、ほとんど隔離されるに等しいサナトリウム(長期療養所)へ入らねばならなくなる。
 サナトリウムという名の結核療養所は、重病人にとってはターミナルケアに近い役割も果たしていた。
 入院する病人も、送る人も、覚悟が求められた。

「愈々(いよいよ)H海岸の病院に入院する日が来た。
 お前たちの母上は全快しない限りは死ぬともお前たちに逢わない覚悟の臍(ホゾ)を堅めていた。
 二度とは着ないと思われる――そして実際着なかった――晴着を着て座を立った母上は内外の母親の眼の前でさめざめと泣き崩れた。
 女ながらに気性の勝(スグ)れて強いお前たちの母上は、私と二人だけいる場合でも泣顔などは見せた事がないといってもいい位だったのに、その時の涙は拭くあとからあとから流れ落ちた。
 その熱い涙はお前たちだけの尊い所有物だ。
 それは今は乾いてしまった。
 大空をわたる雲の一片となっているか、谷河の水の一滴となっているか、太洋の泡の一つとなっているか、又は思いがけない人の涙堂(ルイドウ)に貯えられているか、それは知らない。
 然し(シカ)その熱い涙はともかくもお前たちだけの尊い所有物なのだ。

 自動車のいる所に来ると、お前たちの中(ウチ)熱病の予後にある一人は、足の立たない為めに下女に背負われて、──人はよちよちと歩いて、―― 一番末の子は母上を苦しめ過ぎるだろうという祖父母たちの心遣(ヅカ)いから連れて来られなかった――母上を見送りに出て来ていた。
 お前たちの頑是(ガンゼ)ない驚きの眼は、大きな自動車にばかり向けられていた。
 お前たちの母上は淋しくそれを見やっていた。
 自動車が動き出すとお前達は女中に勧められて兵隊のように挙手の礼をした。
 母上は笑って軽く頭を下げていた。
 お前たちは母上がその瞬間から永久にお前たちを離れてしまうとは思わなかったろう。
 不幸なものたちよ。

 それからお前たちの母上が最後の気息を引きとるまでの一年と七箇月の間、私たちの間には烈しい戦が闘われた。
 母上は死に対して最上の態度を取る為めに、お前たちに最大の愛を遺(ノコ)すために、私を加減なしに理解する為めに、私は母上を病魔から救う為めに、自分に迫る運命を男らしく肩に担(ニナ)い上げるために、お前たちは不思議な運命から自分を解放するために、身にふさわない境遇の中に自分をはめ込むために、闘った。」
 血まぶれになって闘ったといっていい。
 私も母上もお前たちも幾度弾丸を受け、刀創(カタナキズ)を受け、倒れ、起き上り、又倒れたろう。」


 ここにも「不幸なものたちよ。」が現れる。
 有島武郎は、冒頭の方で、幼くして母親を失う運命の下に生まれ出る子供たちへ、こう言っている。
「お前たちは不幸だ。
 恢復(カイフク)の途(ミチ)なく不幸だ。
 不幸なものたちよ。」
 母親との永久の別れであるとも知らずに、滅多に目にしない大きな車ばかりが気になっている姿へ、容赦なく不幸と断じている。
 人生の始めのあたりで大きな不幸をまとってしまった人間へ、簡単に癒しの言葉を贈らない。
 言葉の真綿にくるまれたくらいで癒せるものではないことを知り抜いているからだ。
 本人が、逃げずに不幸を生きて行く中で克服するしかない。

 病魔との戦いは家族を挙げた全面戦争となる。
 倒れては立ち上がる。
 いのちある限り。
 それぞれ、いかに「血まぶれに」なろうとも。
 母親の、妻の病気は、決して母親の、妻のものだけではない。
 子供の、夫の、家族の、一族のものでもある。
 だから、一人残らず全員が戦った。




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2012
09.14

子供が困っていたなら、まず、子供と一緒に困る

20110910 0142

 すぐにケンカする子供A君に悩む母親が人生相談に来られました。
「Aにはほとほと、困っています。
 学校から呼び出されて時々、仕事を休んだり、相手の親御さんへ謝りに行ったり……」
 父親は、やってはいけないことをやる子供をむやみに怒鳴りつけるけれど、事態はちっとも改善されないそうです。
 お訊ねしました。
「確かに貴女が困っておられることはわかります。
 でも、貴女はなぜ、困っているのですか?
 自分の仕事にさしつかえたり、たたでさえ忙しい毎日に余計な負担が加わるからではありませんか?
 お聴きした限りでは、A君はやってはいけないと理解しているのに、なぜかやってしまうという状態であると考えられます。
 きっとA君は、自分に対してとてもとても、困っているに違いありません。
 貴女は、自分が困っている内容ではなく、A君が困っている内容を一緒に困ったことがありますか?
 ご主人はどうですか?
 何よりも大事なのは、A君の本当の気持を知り、A君が困っている内容を一緒に困ることです。
 A君はまだ幼いので、自分でそこから抜け出す智慧も力もありません。
 でも、親御さんなら、きっと適切な方法に気づくことでしょう。
 とにかく、ご夫婦でA君と一緒に困ってください。
 転換のスタートはそこからです」




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2012
09.14

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その4)─

20120914011.jpg
〈早朝の珍客〉

 有島武郎は結核になった妻をいたわりながら、同時に、子供たちを母親から離して面倒をみなければならなくなった。
 もちろん、仕事もある。
 いのちをかけた日々が続く。

「私は日中の仕事を終ると飛んで家に帰った。
 そしてお前達の一人か二人を連れて病院に急いだ。
 私がその町に住まい始めた頃働いていた克明な門徒の婆さんが病室の世話をしていた。
 その婆さんはお前たちの姿を見ると隠し隠し涙を拭いた。
 お前たちは母上を寝台の上に見つけると飛んでいってかじり付こうとした。
 結核症であるのをまだあかされていないお前たちの母上は、宝を抱きかかえるようにお前たちをその胸に集めようとした。
 私はいい加減にあしらってお前たちを寝台に近づけないようにしなければならなかった。
 忠義をしようとしながら、周囲の人から極端な誤解を受けて、それを弁解してならない事情に置かれた人の味(アジワ)いそうな心持を幾度も味(アジワ)った。
 それでも私はもう怒る勇気はなかった。
 引きはなすようにしてお前たちを母上から遠ざけて帰路につく時には、大抵街燈の光が淡く道路を照していた。
 玄関を這入(ハイ)ると雇人やといにんだけが留守していた。
 彼等は二三人もいる癖に、残しておいた赤坊のおしめを代えようともしなかった。
 気持ち悪げに泣き叫ぶ赤坊の股の下はよくぐしょ濡ぬれになっていた。

 お前たちは不思議に他人になつかない子供たちだった。
 ようようお前たちを寝かしつけてから私はそっと書斎に這入(ハイ)って調べ物をした。
 体は疲れて頭は興奮していた。
 仕事をすまして寝付こうとする十一時前後になると、神経の過敏になったお前たちは、夢などを見ておびえながら眼をさますのだった。
 暁方(アケガタ)になるとお前たちの一人は乳を求めて泣き出した。
 それにおこされると私の眼はもう朝まで閉じなかった。
 朝飯を食うと私は赤い眼をしながら、堅い心(シン)のようなものの出来た頭を抱えて仕事をする所に出懸(デカ)けた。

 北国には冬が見る見る逼(セマ)って来た。
 ある時病院を訪れると、お前たちの母上は寝台の上に起きかえって窓の外を眺めていたが、私の顔を見ると、早く退院がしたいといい出した。
 窓の外の楓(カエデ)があんなになったのを見ると心細いというのだ。
 なるほど入院したてには燃えるように枝を飾っていたその葉が一枚も残らず散りつくして、花壇の菊も霜に傷いためられて、萎(シオ)れる時でもないのに萎(シオ)れていた。
 私はこの寂しさを毎日見せておくだけでもいけないと思った。
 然し母上の本当の心持(ココロモチ)はそんな所にはなくって、お前たちから一刻も離れてはいられなくなっていたのだ。

 今日はいよいよ退院するという日は、霰(アラレ)の降る、寒い風のびゅうびゅうと吹く悪い日だったから、私は思い止(トドマ)らせようとして、仕事をすますとすぐ病院に行ってみた。
 然(シカ)し病室はからっぽで、例の婆さんが、貰ったものやら、座蒲団やら、茶器やらを部屋の隅でごそごそと始末していた。
 急いで家に帰ってみると、お前たちはもう母上のまわりに集まって嬉しそうに騷いでいた。
 私はそれを見ると涙がこぼれた。

 知らない間に私たちは離れられないものになってしまっていたのだ。
 五人の親子はどんどん押寄せて来る寒さの前に、小さく固まって身を護ろうとする雑草の株のように、互により添って暖みを分ち合おうとしていたのだ。
 然(シカ)し北国の寒さは私たち五人の暖みでは間に合わない程寒かった。
 私は一人の病人と頑是(ガンゼ)ないお前たちとを労(イタ)わりながら旅雁(リョガン)のように南を指して遁(ノガ)れなければならなくなった。」


 子供が生まれ、家庭生活の雑事が作家生活を脅かし、妻との葛藤も招いていたが、事態はそれを上回って悪化した。
 いったいどうやって戯曲や短編などを書いていたのか?
 不眠との戦い、後悔と懺悔と哀しみ、突きあげる慟哭……。
 頭を切り換えてペンを走らせる力はどこから出ていたのだろうか?

「知らない間に私たちは離れられないものになってしまっていたのだ。」

 この一文は『小さき者へ』の核心と言えよう。
 耐え難いの中にある子供たち、母親、父親。
 が、家族同士へ互いを思う堅固不抜(ケンゴフバツ)なをもたらした。
 暖かみを分かち合うのは寒いからだけではない。
 
 さて、私たちには、こうした〈分かち合い〉がどれほどあるだろうか?




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2012
09.13

お骨を拾って具合が悪くなるなら、「南無大師遍照金剛」を唱える

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 中年のBさんが憔悴しきったお顔で相談に来られました。
「とても近しいおつきあいをしていた方のお骨を拾った時から、お骨の匂いがきつく鼻につくようになり、身内のお骨拾いでも真っ青になってしまいます。
 周囲から、この人はいったいどうしたのだろうという眼で見られているようにも思え、辛くてなりません。
 ある占い師のところへ行ったら、高額なお祓いを命じられました。
 どうすれば良いでしょうか?」
 お答えしました。
「私たちの感覚は、心の状態によって鈍感にもなり、過敏にもなります。
 また、強烈な体験は、後から同じような現場にぶつかった時、歴史として残っている心の深い部分から当時の反応を伴って再び立ち上がる場合があります。
 それは循環をくり返すうちにますます強まる場合もあります。
 この連鎖を断ち切るためにはどうすれば良いか?
 お大師様を信じておられる貴女にお勧めするのは、そうした現場へ向かう途中、あるいは現場で『南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)』を唱えることです。
 心中で、あるいは自分だけに聞こえる微音でやりましょう。
 過去へ向かおうとする心を、お大師様へ向けるのです。

 私の仕事には、皆さんの大切な人の死を共に悼むというものがあります。
 ご葬儀です。
 Bさん、想像してみてください。
 貴女のご家族やご友人が、毎月、何人も次々と亡くなったなら普通の状態でいられますか?
 もちろん、私は、実際のお身内のお心そのものにはなれませんが、くり返し悲嘆を共にしていると、つくづく自分の因縁を想います。
 誰もが忌避する死にまつわる悲しみや淋しさを幾度となく感じながら生きるようになったのには必ず原因があるはずであり、それを懺悔するのが一日の始まりになっています。
 こんなことが続けられるのは、み仏のご加護があるからです。
 四国八十八か所を巡るお遍路さんが必ず唱える『南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)』は、それをいただくための切実な心の叫びです。
 お大師様は必ずお応えくださいます。
 どうぞ信じて行ってください」




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2012
09.13

親の思いを知る手がかり ─有島武郎作『小さき者へ』を読む(その3)─

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〈店舗の屋上にあるアンテナと高い立木の中間およそ地上10メートルはあろう天空にかかったクモの糸〉

 我が子が成長する喜びの裏には、自分の人生の一部を切り渡す難儀が貼りついている。
 仕事や体調の不調は、大変さを浮き立たせ、子供への嫌悪や忌避だけでなく結婚そのものへの後悔などへも容易につながる。
 特に子供が小さいうちは、自分で生きられない子供の事情がいつも最優先であり、親たちは振り回されるという感じを持つ。
 それは、若い男と女にはとうてい予測できなかった状況である。
 ここでは、そうした作家の心中が、嘘隠しなく明らかにされている。

「私はその頃心の中に色々な問題をあり余る程ほど持っていた。
 そして始終(シジュウ)齷齪(アクセク)しながら何一つ自分を『満足』に近づけるような仕事をしていなかった。
 何事も独りで噛みしめてみる私の性質として、表面(ウワベ)には十人並みな生活を生活していながら、私の心はややともすると突き上げて来る不安にいらいらさせられた。
 ある時は結婚を悔いた。
 ある時はお前たちの誕生を悪(ニク)んだ。
 何故(ナゼ)自分の生活の旗色をもっと鮮明にしない中(ウチ)に結婚なぞをしたか。
 妻のある為めに後ろに引きずって行かれねばならぬ重みの幾つかを、何故(ナゼ)好んで腰につけたのか。
 何故(ナゼ)二人の肉慾の結果を天からの賜物(タマモノ)のように思わねばならぬのか。
 家庭の建立に費す労力と精力とを自分は他に用うべきではなかったのか。

 私は自分の心の乱れからお前たちの母上を屡々(シバシバ)泣かせたり淋しがらせたりした。
 またお前たちを没義道(モギドウ)に取りあつかった。
 お前達が少し執念(シュウネ)く泣いたりいがんだりする声を聞くと、私は何か残虐な事をしないではいられなかった。
 原稿紙にでも向っていた時に、お前たちの母上が、小さな家事上の相談を持って来たり、お前たちが泣き騒いだりしたりすると、私は思わず机をたたいて立上(タチアガ)ったりした。
 そして後ではたまらない淋しさに襲われるのを知りぬいていながら、激しい言葉を遣つかったり、厳しい折檻(セッカン)をお前たちに加えたりした。」


 児童相談所における虐待関係の相談対応回数は激増している。
 平成2年…… 1101件
 平成12年…11725件
 平成22年…55154件
 この統計数の変遷にはもちろん、親が問題を自分だけで抱え込まないという考えになってきた影響もあるだろうが、児童虐待による摘発件数がここ10年で約2倍になった事実を見ても、私たちの社会が持っている病巣を考えさせられる。
 親に生じる心理的葛藤は、『小さき者へ』が書かれた大正7年当時も、平成2年も、平成22年も、今も、きっと変わりはしない。
 しかし、葛藤によって虐待という行為へ走ってしまう傾向が強まっていることは否めない。
 私たちは、有島武郎の深い深い悔恨を前にしてたじろがずにいられるだろうか?

「然(シカ)し運命が私の我儘(ワガママ)と無理解とを罰する時が来た。
 どうしてもお前達を子守に任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥せらして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々(ロクロク)熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度という恐ろしい熱を出してどっと床についた時の驚きもさる事ではあるが、診察に来てくれた二人の医師が口を揃そろえて、結核の徴候があるといった時には、私は唯(タダ)訳もなく青くなってしまった。
 検痰(ケンタン)の結果は医師たちの鑑定を裏書きしてしまった。
 そして四つと三つと二つとになるお前たちを残して、十月末の淋しい秋の日に、母上は入院せねばならぬ体となってしまった。」





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