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2013
01.31

平成25年如月(キサラギ…2月)の行事予定

201301310022.jpg

 立春と雨水(ウスイ)の如月(キサラギ)に行う行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

春祭厄除千枚護摩祈祷] 2013/2/3(日)午前10:00~

「厄」とは、運気の流れに生じる弱い面や困難な面を指します。
 自然に変化と回帰のリズムがあるように、自然の一部である人間の一生にも九年で一回りするリズムがあり運気は変化します。
 だから厄年は九年に一回やってきます。
 そうした運気の傾向を知って注意し、その年令に応じてお守りくださる守本尊様のご加護をいただくのが厄除けのご祈祷です。
 当山では、願いを込めた千枚の護摩木を焚いてお不動様を始め、守本尊様かたをご供養して年令に応じたご加護をいただきます。
「千」は無限を意味します。
 精一杯のご供養をして無事安全に過ごしましょう。
 散華のお授けや豆まきも行います。
 参拝は自由です。
 どうぞお揃いでおでかけください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第一例祭] 2013/2/3(日)午前10:00~

 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
※今月は春祭と同時開催になります。

書道写経教室] 2013/2/3(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第一回法楽塾] 2013/2/3(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 3000円(『法楽の会』会員は差額のみあるいは無料 隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第三十六回寺子屋『法楽館』 ─「法楽農園」を始めます─] 2013/2/9(土)午後1:30~午後3:00
 
 新シリーズ『どうする?私たちの未来』の第四回目です。
 当山から車で一分ほどの場所に田んぼや畑や果樹園などを造ります。
 すぐ横を魚影の濃い川も流れています。
 皆さんとご一緒に自然に親しみ、自然の恵みをいただき、身心を解放しましょう。
 最初に『四十二章経』の一節を学び、それから現地を見て寺へ帰り、シンポジウムを行う予定です。
 どうぞお気軽におでかけください。
 そして、ご意見やご希望をお寄せください。
・パネラー  赤間良一氏(農業)・遠藤龍地
・場  所  当山講堂
・ご志納金   1000円(中学生以下500円)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第三回瞑想法話の会] 2013/2/13(水)午前10:00~12:00

 瞑想は心のトレーニング法です。
 ジョギングや水泳で身体を鍛えるだけでなく、古来より伝わる正統な瞑想方で心もケアし、よりよい生き方ができるようにトレーニングしませんか?
 法話においては、私たちの心に巣くう60の迷いについて一つづつ検討します。
 共に克服をめざしましょう。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)

[第二例祭] 2013/1/19(土)午後2:00~

 護摩法を行い、『法楽の会』会員さんの願いを込めた護摩木や、各種祈願をかけた善男善女の護摩木を焚きます。
 守本尊様を讃える経文などを一緒に読み、太鼓に合わせて般若心経3巻もお唱えします。
 参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き払い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 護摩木供養は1体300円です。
 ご自由に願いをかけてください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第四回瞑想法話の会] 2013/2/27(水)午前10:00~12:00

 瞑想は心のトレーニング法です。
 ジョギングや水泳で身体を鍛えるだけでなく、古来より伝わる正統な瞑想方で心もケアし、よりよい生き方ができるようにトレーニングしませんか?
 法話においては、私たちの心に巣くう60の迷いについて一つづつ検討します。
 共に克服をめざしましょう。
 質疑応答も行います。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。 
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台青年文化センター
・ご志納金 1000円(未成年者500円)

お焚きあげ 2013/2/23(土)午前10:00~

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。
※毎月、最終土曜日に行います。

[機関誌『法楽』作り] 2013/2/25(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
※毎月、最終月曜日に行います。

隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2013
01.31

【現代の偉人伝】第166話 ─時流に流されず理想を実現しつつ時代の最先端を行くビル・トッテン氏─

20130131009.jpg
〈この想像力と創造力はいったい……〉

 1月30日付の朝日新聞から「組合いらぬ会社が理想」の文字が目に飛び込み、数秒で読んだ。
 長いため息の後、4段3分の1の紙面を切り取り、マーカーを手にしてもう一度〈まだ残っている理想的真実〉を確認した。

 いかにも好々爺とした顔写真はソフトウェア販売会社『アシスト』社長ビル・トッテン氏(72才)である。
 来日して43年半になる氏が日本で会社を立ち上げたのは、「労使が激しくやりあって、春闘も注目の的」だった1970年代である。 

「経済が失速し『失われた20年』と言われている、この期間は逆です。
 組合は弱くなり、経営者の意見ばかりが通っているように思います。」


 その通りである。
 政治家が堂々と、会社は株主のものであると言い、日本のために会社を強くするという方向へと突き進んできた。
 そして、資本家と経営者は収入を増やしてきたはずである。
 一方で、はたらく人々の暮らしはどうか?
 1月21日付の産経新聞は、サラリーマンの昼食代がほぼ30年前の水準にあると指摘した。

「一回の昼食代
 平成4年・746円→平成22年・507円
 一回の飲み代
 平成13年・6160円→平成24年・2860円
 一ヶ月の小遣い
 平成4年・約70000円→平成24年・約40000円」


「『もう空腹には慣れた』。
 この日、昼食を食べていないという東京都世田谷区の旅行会社社員、内藤泰介さん(29)は淡々と語った。」

「もっぱら昼食はコンビニめしで、500円以内に抑える。
『子供も生まれて生活は厳しくなり、昼食にカネをかけるのがばかばかしくなった』」

「安さ目当てに近くの大学の学食へ足しげく通う人、おにぎりを持参してスープが飲み放題のネットカフェ(利用料15分100円が相場)で昼食を済ます“強者”も。」

「バブル期に流行した『アフターファイブ』『花金』といった言葉は姿を消し、上司や同僚と飲食をともにしてコミュニケーションを図る『飲みニケーション』も廃れつつある。」

「東京大学大学総合教育研究センターの中原淳准教授(経営学習論)は『同僚との食事や飲み会を重ねることで以心伝心の間柄になれることも多い。その機会が減ると、〈あうんの呼吸〉が通らなくなる可能性もある』と指摘する。」


 注意せねばならないいのは、これが首都のオフィス街におけるサラリーマンの実態だということである。
 はたらく人々の多くは明日の仕事も当てにならず、こんな〈恩恵〉にはあずかれない。
 それにしても、これほどの格差社会になることをいったい、いつ、誰が望んだのだろう?

 ビル・トッテン氏に戻る。

日本は終身雇用制度を中心とした家族的な雇用形態を守るべきでした。
 それが日本企業の強みだったからです。
 しかし、米国式の能力給や雇用の流動化を目指した。
 そのため労組は弱体化し、優秀な労働者が切り捨てられることが起きて、企業の元気もなくなったのです。

 経営者がそこで働く人を本当に大切にしていたら、労働者は組合を作る必要はありません。
 理想論かもしれませんが、春闘なんてなくなるんです。」


 こういう方がまだ、日本にはおられる。
 はたらく者に正義ありとして支配階級に戦いを挑むマルクス主義的イデオロギーと、労働者は道具であり競争に勝った者に正義ありとする拝金的資本主義の両方を超えたところで成り立っている会社まだ、日本にはある。
 家が血による一族の単位なら、会社は共に生活の糧を得つつ社会へ貢献する一族の単位であるという理想の灯がまだ、日本において消えきってはいない。
 この理想をまるで弊履(ヘイリ…使い古した履物)のごとくうち捨て、アメリカ式の経営を称賛してきたのはいったい誰か?

「家族的経営を掲げている従業員830人ほどの私の会社では組合はありません。
 従業員に『組合作ったら』と言ったこともありますが、必要ないようです。
 実際、我が社は2000年代に入って大きな改革をしましたが、ボトムアップで意見が出て実行できました。」


 汗を流す現場の声が生きてこそ理想の職場ではないか。
 神のごとき独裁者が汗を流す人々の切実な声に応えてくれると期待するのは錯覚ではないか。

「今、多くの経営者は株主の方ばかり見て、目先の理恵にばかり追い求めています。
 そして、簡単に利益を出しやすい、給与カットかリストラに走る。
 国や社会に奉仕するという理念を持つ創業者が去り、サラリーマン社長ばかりになったから、昨今はなおさらこの傾向が強い。」


 経営者は資本家に首を切られないよう、莫大な収入が確保できるよう〈自分の成果〉とわかる形で利益を出そうとする。
 畢竟、はたらく人々は、道具となる。
 そして、成果を上げた経営者はより多くの報酬を求めてたとえライバル会社へでも堂々と移り、成果を上げられなかった経営者は、即座に座るイスをなくし、収入をなくす。
 経営者も使い捨ての対象である。
 ──世界的規模で跳梁跋扈(チョウリョウバッコ…我がもの顔で横暴な力を揮うこと)する資本というルールなき怪物の……。

 氏はこうした経営者ではない。

「日本全体の景気が落ち込めば、我が社の利益も減ってしまう。
 私の給料も減額する。」


 正義が実現されているから氏の会社に労働組合は必要ない。

中長期的に考えて、エネルギーを浪費し、ゴミを出す経済自体が続くとも思えません。
 だから、私は自分を守るため、自給自足に近い生活ができるように動いています。」


 氏はテニスコートを潰してネギやニンニクや大根を植え、ミツバチや鶏も飼っている。

「我が社では06年から、家庭菜園の農地を借りる社員に年間2万円を補助しています。
 会社全体の1割ほどにあたる80人ほどが利用しています。
 彼らは本気ですし、私も『晴耕雨読』の生活を続けていきます。」


 当山の『法楽農園』も、本気である。
 自分で作った作物を自分で食べる。
 これができれば、あたふたする必要はない。
 100パーセント自給自足するかどうかということでなく、自立した心を持ち、拝金に堕さない矜恃を保ち続けることこそ大切であり、現代における倫理の根本にもかかわる大問題であると思う。

 氏の言う「晴耕雨読」は重い。

 それにつけても、原発の事故と戦争は大敵である。
 氏のような叡智ある営みのすべても、たちまち、水泡に帰してしまう。
 二つの敵を直視して退かない人々によってしか勝利は得られない。
 私たちは皆、心の奥底では自他共に安心に生きたいと願う〈み仏の子〉である。
 満月のような心の本姿が、群雲に覆われつくしてはならない。
 ビル・トッテン氏が発する月光をきちんと感得し、おりおりに浴しては志を錆びさせないようにしたい。

 皆さん、酷薄非情な世の中ではありますが、一方で、理想も理想的現実も確かに存在しています。
 娑婆はそのままにして、み仏の慈光あふれる密厳国土(ミツゴンコクド…み仏の智慧と慈悲にあふれる世界)です。
 目ざすべきところを目ざそうではありませんか。
 
 




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2013
01.30

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その44) ─好き嫌いの克服─

2013013002923.jpg

 この欄では、昭和6年に発行された小冊子を基にして子供たちの導き方を考えています。

45 「も」 目的を見つめよ

「立志(リッシ)とは目的を定めることだ。
 定めたら常に見つめて進め。
 断じて見失うな忘れるな。
 全甲の望も目的だ。
 幅飛三メートルの願も目的だ。」


 目的を持たないと、自分を律することがなかなかできません。
 何に対しても、「苦」か「楽」か「どちらでもない」といった感覚的受け止め方をするだけで、「嫌だ」「もっと」「関係ない」のいずれかに分けて終わりがちです。
 だらけていて、親や先生にしっかりやれと言われたことをすぐ「苦」と感じ、「嫌だ」と反応し、反発したり、逃げたりします。
 遊んでいて、親や先生に小言を言われないと、「楽」を手放したくないばかりに、勉強を放り出したままでいつまでも遊んでばかりいたりします。
 ボランティア活動などの話を聞いても、別に面白くなさそうだし、そうかといって文句を言う気にもならず、右の耳から左の耳へと聞き流して終わりになります。

 こうして快・不快、好き・嫌い、などの反応しかできなければ、人間が人間たるところの忍耐、感謝、奉仕などの心が育まれません。
 やがて「嫌だ」は破壊的怒りとなり、「もっと」は奪ったり騙したりする行為となり、「関係ない」はゴミのポイ捨てやコンビニのゴミ箱への持ち込みなど恥知らずな行動をもたらしては大変です。
 人格が磨かれないと他人から信頼を得られず、何をやってもうまく行かない人生になり、さらに煩悩に流される悪循環になりかねません。

 ところが、目的を定め、志を立てると、自動的に好き嫌いで止まる煩悩(ボンノウ)へ対抗する生き方になります。
 勉強が難しくて「苦」と感じても、「嫌だ」で終わりにはできません。
 やらなければ次へ進めず、目的を達することができないからです。。
 遊んでいて「楽」と感じても、「もっと」と時間を忘れるわけにはゆきません。
 遊んでばかりいては、目的を達することはできないからです。
 ボランティア活動の話を聞けば、自分と同じく目的を定め志を持って行動している人々がいると知って心を動かされ、手伝いができてもできなくても、よき発憤材料になります。
 いつしか、自分を律し、自分を高めているのです。

 目的とは、目を向けて離さない的(マト)です。
 的を持てば、そこへ近づくための標(シルシ)である具体的な目標が定まります。
 目標を一つづつ達成しているうちに、どんどん目的の達成へと近づきます。
 いきなり全科目満点にはならなくても、まず、得意科目で満点をとるといった成功体験、達成体験が重なれば、この上ない全科目満点への意欲を保つことができます。
 それは、「苦」か「楽」か「どちらでもない」といった感覚的受け止め方を超え、忍耐や感謝や奉仕によって他人と信頼関係を築きながら生き生きと生きられる大人への道です。
 いかに目的と目標を自分で定めるところへ導くか、よく指導したいものです。

 ただし、「人生の目的」となると、そう簡単ではありません。
 故杉山平一の『生』です。

「ものをとりに部屋へ入って
 何をとりにきたか忘れて
 もどることがある
 もどる途中でハタと
 思い出すことがああるが
 そのときはすばらしい

 身体がさきにこの世へ出てきてしまったのである
 その用事は何であったか
 いつの日か思い当たるときのある人は
 幸福である

 思い出せぬまヽ
 僕はすごすごあの世へもどる」


 平明ですが、味わい深く、凄みもあります。
 
 



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2013
01.29

2月の聖語 ─見て迷うか、それとも観て悟るか─

20130129013.jpg

 お大師様の言葉です。

「内外(ナイゲ)の諸色(ショシキ)、愚においては毒となり、智においては薬となる、
 故に『よく迷い、またよく悟る』という。」(空海BOTより)


 仏教世界の中であっても、真理を信じない外道(ゲドウ)の世界であっても、目に映る色や形や動きは自然に成り立っており、同時に、空(クウ)なるものとしてかりそめの姿を見せています。
 これをいかなる目で観るかによって、ありとあらゆるものが苦を生じる毒ともなり、自他を救う薬ともなります。

 見えるものを実体視して、「もっと、もっと」と貪ったり、いつまでも「自分のものにしておきたい」と執着したりすれば、迷いの世界になります。
 そこには一時的な楽しみはあっても、必ず自他を傷つける苦しみがやってきます。
 まず、身体がある以上、〈痛み〉という苦しみから逃れることはできません。
 ストレスが胃腸を傷めたり、頭痛を引き起こしたりすることは広く知られています。
 そして、〈変化する〉という苦しみもあります。
 自分が老い、病気になり、いつかは死ぬのはもちろん、いかに可愛がり大事にしているネコやイヌでも、必ず老いて死にます。
 また、〈因果関係にある〉という苦しみもあります。
 誰でも愛する相手と出会うのは嬉しく、憎み怨む相手と出会えば嬉しくありません。
 しかし、相手が人間であってもなくても、あらゆる因縁の糸は思うとおりに結べるものではなく、たとえば散歩中に誰に出会うかわからず、もちろん出会う相手を決められないことを考えても明らかです。
 これが「毒となる」の意味です。

 一方、自分の身体を含めてすべては空(クウ)であると観る心の目には、まったく様相の異なった世界がたち顕れます。
 愛するものも憎むものも空(クウ)と観て、〈貪り〉や、〈怒り〉や、どうにかして手放さないでおきたいという万物流転の真実に反する〈身勝手な考え〉を離れてしまえば、目に映る色や形や動きは苦をもたらさなくなるのです。
 空の真理に立つ時、見えるものは真の生きがいをもたらします。
 それが「薬となる」の意味です。
 もちろん、身体をつねられれば誰でも痛いと感じるのは身体が危険信号を発しているからであり、健康な証拠ですが、輪廻転生(リンネテンショウ)の中にあっても、人間の身体を離れて天界へ入れば、苦苦(クク)といわれるこの苦は消滅します。
 天界でさらに上位の悟りへ入れば、壊苦(エク)といわれる変化による苦もなくなります。
 そして最上位の神となれば、行苦(ギョウク)といわれる因縁による苦もなくなるとされています。
 悟りにほど遠い身には、このように説かれた内容を実感できません。
 しかし、おそらくはガンだったであろうと推測されているお大師様が、死の2年前から食事制限を行いつつ驚異的な活動を続け、最期は水も飲まず座禅姿のままになられたという事実には考えさせられます。
 また、やはり座ったままポンと向こうへ行った行者の方々や、お大師様がいまだに昔の姿を留めているとされるほどではなくても死後しばらく屍体が腐敗しなかった行者の例を考えても、肉体的な苦を超える精神の高みへ想像力で近づくことはできます。

 目に見えるこの世としての現象界を、苦にまみれた迷いの世界として生きようとするか、それとも、み仏の徳に満ちた悟りの世界として生きようとするか、すべては私たちの心と行動にかかっています。




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2013
01.29

2月の守本尊様

 2月は、立春(リッシュン)と雨水(ウスイ)の如月(キサラギ…2月4日より3月4日まで)です。
 2月は丑(ウシ)の月なので、守本尊は虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様です。

21080819 008

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力を与え、行くべき道をお示しくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、出発の月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は、丑(ウシ)・寅(トラ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた千手観音様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)




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2013
01.29

2月の真言

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〈人は彼になれない。──孤高……〉

 2月の守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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2013
01.28

仏教徒であること ─仏教を生きる・仏道を生きる─

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〈早朝の玄関前に残る小鳥の足跡。猫が残したわずかな餌を求めてさまよい、時には猫に襲われ、羽毛が散らばっていたりします〉

 仏教徒とは何でしょうか?
 基本が仏法僧(ブッポウソウ)の三宝(サンポウ)を敬うことであるのは確かです。
 み仏を信じず、仏法を学ばず、それを護る僧侶や在家の方々を軽んじる人は仏教徒と言えません。
 しかし、これは仏教徒であるための必要条件ではあっても、十分条件ではありません。
 なぜなら、仏教徒とは〈仏教を生きる人〉であり、三宝(サンポウ)を信じるだけでは容易に仏教を生きられないからです。

 このことは、私が自分自身をふり返ってみても、はっきりしています。
 学生時代、迷いに迷い、宗教団体や寺院の門を叩き、何ヶ月も座禅したり、宗教書や哲学書を読みあさったり、他の大学の講義を聴きに行ったりしましたが、結局、何もつかめず、娑婆の仕事で大失敗をしてしまいました。
 もちろん、出家したからといって、急に悟れなどしません。
 そのつもりではなくても、どこかで〈自分第一〉が出て、仏法上の失敗を重ねてきました。
 誰かに気づかれようと気づかれまいと、自分では、はっきりと知っており、み仏をごまかすこともできません。
 だからといって、三宝を疎(オロソ)かにしたつもりはなく、生涯、一行者であろうと思い定めて愚かななりの精進はしてきました。
 つまり、三宝を信じただけではなかなか〈仏教を生きる人〉にはなれないのです。
 では、何が障碍(ショウゲ)なのか?

 障碍(ショウゲ)の一つは、他者が自分と同じにはなかなか思えないことです。
 その難問が、ご本尊様と一体たらんとする行者へ巨大な壁として立ち塞がります。
 修法上、行者には、「み仏」と「生きとし生けるもの」と「自分」の三者が一如(イチニョ…そのまま一体)であるという確信を伴った実感がなければなりません。
 そうでないと、善男善女の御心願が成就するよう祈る時、法力が動かず単なる儀式になりかねないのです。
 もちろん、普段の私たちは自分を第一とする意識が強固で、思いやりの対極である対立を招きがちです。

 障碍(ショウゲ)のもう一つは、なかなか(クウ)の視点を持続できないことです。
 瞑想や修法や修行をしている時は楽なものです。
 恵まれた間にいるからです。
 しかし、自分へ悪意や害意を持った相手も含む悲喜こもごもの娑婆にいて、執着心をかきたてる諸々の対象を相手にしながら、本当にの心眼を保ったままでいられるか?
 これができなければ、菩薩(ボサツ)ではなく、せいぜいが自分の安楽を貪るだけの仙人を目ざして終わりです。
 
 要するに、仏教徒であるための十分条件とは、誰に対しても、さらには生きとし生けるものへ対して、同じみ仏の子と観て我が身を可愛がるのと同じ思いやりの心を持ち、いかなる場面でも(クウ)の視点を失わないことです。
 しかし、こうした厳密な意味で仏教徒たる資格を満たすことは大変に困難です。
 日々三宝(サンポウ)へお仕えし、修行と修法を続けるプロの僧侶ですら簡単ではありません。
 尊大だったり、怒りっぽかったり、酒色へ走ったりする僧侶はいつの時代も、いくらもいます。
 だからといって諦めてはならないと思います。
 そこを目ざす過程が仏道という道であり、道を歩み続ける不退転の決意があれば〈仏道を生きる人〉になれます。
 菩薩(ボサツ)ならぬ身では〈仏教を生きる人〉にはなかなか、なり得なくとも、〈仏道を生きる人〉であることは誰にでも可能です。
 私たち凡夫は、三宝(サンポウ)を敬い、真剣に慈悲(クウ)をつかもうとする仏道にあれば、胸を張って「仏教徒である」と信じようではありませんか。





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2013
01.28

2013年2月の運勢(平成25年2月の運勢)─流れの生かし方と人生修行─

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 2013年2月の運勢(如月…キサラギ…2月4日から3月4日まで)です。
 運気の流れによる注意点を参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 うまく行かない時は、まず、誰かのためになりましょう 

 うまく行かない時は、誰でも「もっと早く!」と思います。
 災害などの非常時は別として、行楽時の渋滞や取引上の停滞などに際しては、一歩引く心がけが大切です。
 急いで走っていれば、自分が問題のある割り込みをしておきながら、誰かに前へ入られると「このっ!」と怒ったりしますが、百害あって一利無しです。
 このことについては何度も書きました。
 運転する方々にはぜひお心がけいただきたいものです。

 さて、私たちは他のためになること一般を仏教用語の「布施」として理解していますが、イスラム教においても、同じような奉仕の心である「喜捨」が、日本の文化における「布施」の感覚よりも遥かに強い宗教的義務として信者さん方の心と生活を律しています。
布施」は決して義務ではなく、必ず自発的でなければなりません。
 しかし、貧しき人へ恵む「喜捨」は信徒の義務として明確に位置づけられています。
 しかも神に対する法的義務なので、ごまかすという発想は許されません。
 喜捨は所得の2・5パーセントと決まっており、その他にサダカという任意の寄附もあります。
 肝心なのは、いかなる富豪対貧者の間であろうと喜捨する側と喜捨される側とに決して上下関係がないことです。
 与える方は信じる神の命ずるままに困っている人を助けて喜び、与えられる方は敬虔な心を持つ富者に神のお恵みがあるよう祈ったりします。

 仏教では神の命令ではなく、因果応報の道理が「福田(フクデン)」という思想をもたらしました。
 善き行いによって、後に善き結果をもたらす影響力としての善業(ゼンゴウ)が生じます。
 その中で、特に徳の高い相手へ対する善行は大きな善業になると信じられ、たくさんの善き結果をもたらしてくれそうな人を「福田」と呼ぶようになりました。
 お釈迦様やお弟子さん方はもちろん、最高の福田さんでした。
 やがて仏教の発展深化と共に三宝(仏法僧)を尊び、信じるみ仏へ、ありがたい仏法へ、がんばって欲しい僧侶や護持する人々への布施が行われるようになりました。
 そして「利他(リタ…他を利する)」を重視する大乗(ダイジョウ)仏教へと進み、布施の対象は一気に広まりました。
 相手を選ばなくなり、「恵まれない人たちのためにこそ慈悲心を発揮すべきである。それによって自分も救われる」という考え方が興り、日本では四天王寺に敬田院・悲田院・施薬院・療病院が設けられ、東大寺にも悲田院・施薬院が造られました。
 そして、行基菩薩(ギョウキボサツ)やお大師様などが托鉢行と共に全国へそうした教えを広め、貧窮福田(ビングウフクデン…困窮した人を福田と考える)や看病福田(カンビョウフクデン…病人を福田と考える)などの言葉も生まれて、仏教における社会的実践としての慈善事業が広がりました。
 お大師様が慈善事業として創建された授業料無料の綜芸種智院(シュゲイシュチイン)は世界初の開かれた総合大学であり、西洋に一般向けの大学が誕生する数百年も前の偉業でした。

 キリスト教にも「与えよ、さらば与えられん」があります。
 誰かへ与える行為を行えば、神がその行為に相当するものを行為者へ必ず与えてくださるのです。
 このように、宗教を問わず施しの尊さが説かれています。
 その事実は、親の愛情を初め、生まれた時から〈施されなければ決して生きていけない〉私たちにとって、倫理の根本が何であるかを示して余りあります。
 何とかせねばと焦りそうになる時ほど、根本へ立ち返ってみたいものです。

二 交渉の不調は相手の強情ではなく自分の強情のせいではないのか

 自分の気持が突っ張っている時は、相手がいかにも突っ張っているように思えます。
 強情という鏡には相手の強情しか映らなくなっているからです。
 これでは埒があきません。
 頭脳や資金を武器にし、チキンレースをするような生き方を続け、いつも勝者だったはずなのに、人生の終盤で今度は自分が逃げ場がないほど追いつめられている方々を何人も知っています。
「怖いものなし」の人は、怖いという意識に強い警戒信号を感ずる人々をひれ伏せさせることができるかも知れません。
 しかし、そうして敗れる人々は必ず、納得できない思いを抱き続け、それが何人もの因縁となって重なり膨れあがると勝者を倒さねばやまない地点まで行きかねません。
 自然界ではアリが群がって象や人間を倒す場合があり、人間社会では国家スケールの革命や会社スケールの革命などが起こります。
 強情を通そうとせず、自省する思慮深さと思いやりで難しい局面を乗り切りましょう。

 今月の六波羅蜜行(ロッパラミツギョウ)と運勢です。
 精進しようではありませんか。
 皆さんの開運を祈っています!

布施(フセ)行と運勢水を供えましょう。
 精進の人は前進して結果を得、驕らず安泰です。
 不精進の人はせっかく実りを得てもそれを見せびらかしたばかりに「好事魔多し」となりがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は相手に恵まれ、仏神に加護され順調です。
 不精進の人は我欲や色情に流され、まがった行動によって失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は万事、警戒を怠らず不意のできごとにも助っ人があり、揺らぎません。
 不精進の人は思わぬ異変に対応できず大損を招きがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は目上から認められて大事をなし遂げ、声望を高めます。
 不精進の人は私欲が先に立って運気や時流を生かし切れず、期待に背きがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は誠実第一のまごころが人からも仏神からも認められ、成功します。
 不精進の人は姑息な手段によって失敗に終わりがちです
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人は自分を省みて根性を改め、私欲を抑えて危険を乗り切ります。
 不精進の人は私欲が恨みを買い、知らぬ間につくった敵から攻撃されがちです。




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2013
01.27

【現代の偉人伝】第165話 ─無料学習教室を支える方々─

20130127008.jpg
〈殺意さえ感じさせる氷柱だが、これで殺された人は知らない。必ず自ら融け堕ち、春の潤いをもたらす〉

 1月24日付の産経新聞は「貧困の連鎖 3代目に突入」として無料学習塾の実態をとりあげた。
 二段二分の一にも満たない小さな記事だが、暗夜航路中に遙かな燈台の明かりを見る思いだった。
 生活保護を受給する世帯主の25パーセントが生活保護受給世帯で育ったとされる〈貧困の連鎖〉についてはあちこちで言及されており、もはや、普通のありさまという錯覚をしてしまいそうになるところが恐ろしい。
 生活に困窮している家庭では、当然、子供の教育にかける充分な学資はない。
 それを知っている子供は早いうちに大学や高校への進学を諦めるので、当然、学習意欲を失う子供が多くなる。
 もちろん、進学を手助けする各種の制度はあるが、いったん意欲を失って、関心が多方面へ向かえば制度は何ら役に立たない。
 たとえは悪いが、古人の言葉を思い出す。
「馬を水辺に連れて行くことはできるが水を飲ませることはできない」
 だから、学習意欲をいかに保たせるかが大事であり、ここが欠けていればどうにもならない。
 
 記事は、埼玉県所沢市にある無料学習教室について書く。

「午後6時すぎ、埼玉県所沢市の老人ホームの一室に集まった中学生約25人が、数学や英語などのドリルを黙々と解き始めた。
 ほぼマンツーマンで教えているのは教師OBや大学生のボランティア。県が週2回ほど実施する生活保護世帯の子供を対象にした無料の学習教室だ。
 九九など小学校で習う内容に格闘する生徒もいるが、大学3年の吉川ゆかりさん(21)は子供たちが分かるまで根気よく説明する。
 入間市から通う中学2年の女子生徒(14才)は1年間で学年成績が40番台から12番まで上がり、『分からない問題が解けると楽しくなった』の胸を張る。
 数学が苦手という中学3年の女子生徒(15才)も『学校で聞きにくいことも、ここなら質問できる』とはにかむ。」


 懸命にやる、そして手応えをつかむという〈成功体験〉そのものが、子供たちの成長過程にあって大きな影響力を持っている。
 ここで学ぶ子供たちの多くは母子家庭だという。
 はたらかねばならない母親は、子供の学習に根気強くつき合う余裕がなかなかない。
 そして子供は一人で小さな壁を乗り越えられず、早々に〈挫折体験〉をしてしまう。
 ましてや、周囲の仲間たちは学習塾に通い、自分より何歩も前をすたすたと歩いている。
 その様子がまた、挫折の心理を深めてしまう。
『彩の国子ども・若者支援ネットワーク』の白鳥勲代表理事(66才)は言う、

「大人を頼るという普通の子供がもっている〝スキル〟を身につけないまま学校に入った子供は、先生に質問することができない。
 勉強についていけなくなり、進学を断念することが多い。」


 ことは、いじめの問題にもつながっている。

「こうして発生するコミュニケーション能力の欠如が、不登校いじめを誘発することもある。」


 平成22年9月にスタートし、現在22カ所になった無料学習教室はめざましい成果を上げている。
 21年度には86・9パーセントと全世帯の平均98パーセントより低かった生活保護世帯の高校進学率が23年度には89・2パーセントとなり、教室参加者のみでは98パーセントになった。
 教室に通い、成績を伸ばすだけでなく、心も力強く伸びて行くとは本当に嬉しい。

 白鳥氏の指摘を待つまでもなく、貧困の連鎖は3代目に突入している。
 氏は言う。

「学ぶ意欲が旺盛な子供たちの潜在能力を親が引き出せないなら、地域や行政がフォローしていく仕組みを教化しなければ」


 周囲でのんびり、ぶらぶらしている同輩方を眺めながら走りまくっている年寄りの身としては、年配者も役立つ無料学習塾はないのかと思う。
 もちろん、いまの私には、自分の参加は夢のまた夢でしかないが、どうにか生きられる年配者方が、優雅に過ごす時間とお金と能力の一部を差し出すシステムがあればよいと思う。
 それは子供の役に立つだけでなく、年寄りの役にも立ち、結果的に経済格差の解消にも役立つのではないか。
 このシステムが発展し、子供と年寄り双方を救って欲しい、そしていつか、後継者へ法務をバトンタッチする時に、お役に立てる頭と身体でありたいものだと願う。
 経済格差貧困の連鎖という悪しき共業(グウゴウ)に蟷螂の斧(トウロウノオノ)をもって立ち向かいたい。

※「蟷螂の斧」はカマキリが手にしている斧のことであり、小さな力で大きなものごとにぶつかる喩え。




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2013
01.26

犠牲者へは供養を、ご遺族には哀悼を、そしてテロリストへは憐れみを ─アルジェリアの悲劇に想う─

201301270001.jpg

 イスラム武装勢力によるアルジェリアの事件は日本人犠牲者10人という悲劇をもたらした。
 多くの人々の心に「なぜ?」という疑問が芽生えていることだろう。
 もちろん、成り行きを分析すれば、事件に立ち至った経緯はかなり判明するだろうし、黒幕となっている人々には彼らなりの主張があろう。
 しかし、そうした説明だけでは、私たちの心から「なぜ?」はなくならない。
 疑問の矛先は、無慈悲としか思えない行為を実行させる心の闇へ届こうとしているからである。
 しかも、その闇は、いわゆるイスラム武装勢力と呼ばれる人々の心にだけ存在するのではなく、私たちの心のどこかにもじっと潜んでいるという気配に薄々気づいているからである。

 ここで思い出したいのは、孔子の言葉「罪を憎んで人を憎まず」である。
 ただし、孔子のように、罪は憎んでも、罪を犯すに至った経緯を持つ罪人そのものは憎まないのと同じく、実行犯たちを憎まないようにしようというのではない。
 テロの理論的支柱となっているイスラム教という宗教そのものを邪教として憎むのではなく、神へ祈りを捧げる敬虔な思いを持つ人々にまで殺人を行わせてしまう怒りや憎しみという害意に満ちた感情すなわち煩悩(ボンノウ)を敵としたい。
 そして、煩悩がかき立てられてしまわざるを得ない地球上の貧困と格差を放置している現代文明の薄情さをこそ、敵としなければならない。


 アメリカのクリントン国務長官が証言したとおり、アルカイーダ系勢力の「脅威は拡大している」のかも知れない。
 それが事実なら、困窮し苦吟し怒りや憎しみを抱かざるを得ない悲しむべき境遇の人々が増えているのであり、私たちにできること、なさねばならないことは、まず、手を差し伸べることではないのか?
 もちろん、武装勢力へ支援するのではなく、武装勢力が住民から支持され存在し得る地域から貧困と格差をなくすよう国際社会が協調し合わねばならない。
 それなのに、武装勢力による攻撃への備えをさらに厳重にするだけで、あわよくば武装勢力を殲滅しようなどと考えている限り、悲劇は必ずくり返されることだろう。
 地球規模で一つになりつつある現代文明のひずみを放置したままで、ひずみが生むものをなくすことはできない。

 さて、私たち一人一人にできることは、第一に、犠牲者を供養し、ご遺族を悼むこと。
 第二に、イスラム教を邪宗として排斥しないこと。
 第三に、イスラム教の信者さん方を差別しないことである。
 信者さん方については、むしろ、こうした事件によって肩身の狭い思いをしておられるのではないかと忖度し、思いやりをもって接したい。

 私たち日本人のご先祖様がたどった道を思い起こそう。
 かつては、阿弥陀如来の浄土へ行けば救われると信じ、むしろ旗を押し立て、「厭離穢土、欣求浄土」と叫んで死を怖れず、世の不条理へ立ち向かったのではなかったか。
 ほとんど一神教的思考を持ち、矢玉を怖れず突き進んだ貧しいご先祖様方は、最新兵器の正規軍へ手持ちの武器で挑むイスラム武装勢力の人々とどう違うのか?
 こんにちの平和な日本にあっては、同じ阿弥陀如来が、他のご本尊様を信じる仏教や他の宗教宗派と特に異なった先鋭さを持たず、人々を導いておられる。
 実に、神や仏が人に殺人そのものを命ずるのではない。
 神や仏にすがり自他のいのちを破壊してまでも何とかせねばならないと考えるほど人間を追いつめる過酷な社会環境が時として生ずるのである。
 昔は、地域で過酷さを解決できた。
 今や必ずしも国家単位だけでは解決できず、地球規模での対応が否応なく迫られている。
 江戸後期の頃は世界の人口が約10億人だった。
 それが今や60億人、このまま1時間に1万人づつ増え続ければ今世紀中には100億人を突破し、恐ろしい事態になるのは火を見るよりも明らかであるとされている。
 人が生きられるか生きられないかという状況に立ち至ったとき、いかなる思想や宗教が、いかなる立場から人々を導くかはわからない。
 確かなのは、イデオロギーや仏神が〈争い〉や〈戦い〉の先頭に立たされるのではないかということくらいではないか。
 39年前に小松左京が書いた短篇『再建』にある〈大崩壊〉を現実のものとしてはならないと強く思う。

 そして第四に、他者や他宗教や他文明への安易な〈レッテル貼り〉を慎み、私たちの心にある自分が一番という尊大で排他的な構えや無用で有害な優越感を省みることである。
 確かにテロリストたちは唯一絶対とする神の名の下に殺人という罪を犯し、自らをも殺すという恐るべき、そして悲しむべき行動をとった。
 独善主義による被害者のご遺族や関係者の方々にとっては、実行者たちを怒ろうと憎もうと怨もうと、思いは晴れないかも知れない。
 報道に接する私たちも「許せない!」という激しい義憤に駆られる。
 だからといって、テロリストを〈悪魔〉と断じて撲滅するために軍隊を派遣しろとか、イスラム教徒を追い出せといった思考に走れば、天に唾するような結果になることだろう。
 それよりは、冒頭の「なぜ?」を私たち一人一人が突き詰めて考え、地球上に生じている文明のひずみや、私たちの心中に巣くう排他自己中心の意識を直視したい。
 そして、苦を共にする温かな心で犠牲者の方々を悼みご家族や関係者の方々へ思いを寄せると共に、慈悲心と想像力により、たとえ微かであれ、亡くなったテロリストたちへも憐れみの心を持ちたい。
 ここから出発する以外、悲劇をなくす根本的方法はないと思う。




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2013
01.25

『法楽塾』を始めます ─在家のまま行者としての基本を身につけたい方のための講座─

2013012501233.jpg

 2月3日(日)午後4時に第一回『法楽塾』を開催します。
 参加を望まれる方は必ず前日午後5時までにハガキや電話やメールなどでお申し込みください。

 不安を払拭したい、心の芯をつくりたい、生き方を変えたい、僧侶をめざしたい、こんな方々からのご相談が増えています。
 しかし、当山は、現在の法務を遂行するだけで分を刻むような戦いの毎日なので、いわゆるお弟子さんをご指導申しあげる体勢はとれません。
 そこで決心しました。
「エッセンスをお伝えしておこう」
 名札のような資格はお渡しできなくとも、仏法と密教の根本をかいま見て体験し、心に金剛の勁さと蓮華の微笑みを育てる種はお渡しできるかも知れません。

 1月23日に行った『第二回瞑想会』でご質問がありました。
「桜宮高校の男子生徒が部活の顧問から体罰を受け、自殺した事件がありました。
 学校は顧問に任せきりだったようです。
 何につけ、カウンセラーやコンサルタントが大流行です。
 こうした指導者任せの風潮はいかがなものでしょうか?」
 お応えしました。
「それぞれの分野で専門的な知識を磨き、その力によって役立とうとするカウンセラーやコンサルタントの皆さんは、きっと、多くがまっとうな方々でしょう。
 問題の第一は、頼る側にあります。
 児童や生徒に目をかけ、手をかけ、育てながら自分も成長する先生方が、苦労して指導法を工夫するよりもプロへ任せるといった形で安易に心理カウンセラーへ頼るとしたなら、教育の根本にかかわります。
 保護者もまた、担任の先生を信頼して共に問題解決をめざすよりも、より専門的な知識があって有効な手段を持っていると思われるカウンセラーへ安易に頼るとしたなら、やはり変です。
 先生方はよく、教育の現場には生徒たちと密着しつつ育てる時間的余裕がないと言われます。
 もちろん、そうした状況を先生方お一人お一人の責任にするわけにはゆきません。
 しかし、親が我が子を育てる上で最も大切なのは愛情を持って接する時間を大切にすることであり、それは人間だけでなく、およそ知覚を持ったあらゆる生きものたちが〈子育て〉として実践している姿です。
 特に、幼児期におけるスキンシップのありようが心の成長へ大きな影響を与えるという事実は、疑うべくもありません。
 それにもかかわらず、子供がそれを最も必要としている時期に、親がスキンシップ以外のことを優先してしまう生活形態には問題があります。
 こうした状況もまた、必ずしも保護者お一人お一人の責任としてしまうわけにはゆきません。
 学校にも、家庭にも、私たち現代人の心のあり方と社会のシステムに隠された問題が影を落としています。
 一言にくくれば、『保護され育てられねばならない子供にとって最も必要不可欠なものが家庭でも学校でも脇へ置かれているのではないか、別なものが優先されていはしないか』となりましょうか。

 脱線しましたが、もう一つ、〈お任せ〉の風潮が、いわゆるお告げ的なものを流行らせているという問題もあります。
 自分が神であるかのごとくにふるまい、困った方へこうしなさいと告げて、そうさせるスタイルが散見され、惑わされた末に当山へたどりつく方がおられます。
 いわゆるマインドコントロールの状態は、する方も、される方も不幸です。
 なぜなら、人間が人間を支配するなどといういことは本来、あってはならず、誰一人、そうした資格を持った人などいないからです。
 生きとし生けるものが平等なのに、同じ人間同士でありながら、一方が一方を道具のように扱うという発想そのものが真実に背いています。
 こうした観点からすれば、専制的な国家も会社も家庭も、お金が唯一の尺度となって人間が使い捨てにされる弱肉強食の社会も、まだまだ発展途上にあることを痛感します。
 日本では貧困家庭が貧困者を生むという負の連鎖が三代に及びつつあり、身震いしてしまいます。
 お釈迦様が、「人の価値は生まれによって決まらず、生きざまによって決まる」と説かれてから、たかだか2500年しか経っていません。
 弥勒菩薩(ミロクボサツ)様が救い漏れをなくしてくださるまでは、まだ50億年以上もあることを考えればやむを得ないのかも知れませんが、今の人間と社会のありようが放置すべきでない残念な状態であることは明らかな事実です。
 ともあれ、神のように他人様をコントロールしようとする傲慢さを離れましょう。
 また、神のように当てになる相手を探す勘違いもやめましょう。
 自分以外に誰も呼吸をしてくれず、自分以外に誰も自分の身体へ養分を採り入れられず、自分以外に誰も排泄をしてはくれません。
 目もないアメーバですら、食べものとそうでないものは自分で識別して、自分で生き延びるのです。
 同様に、自分の心も又、自分でどうにかする以外、生きようはありません。
 お告げを行う人が自分の言葉に責任をとれないのは当然であり、言われて何を行おうと行った自分が責任をとらねばならないという事実に早く目覚めましょう。

 たやすく他へ便利な〈方法〉を求めず、ものごとの優先順位を正しながら現場での工夫に努力し、ご託宣を求めず人格者に学び、汗を流してつかんだものを信じながら進みましょう」

 こうしたわけで、『法楽塾』は心の万能薬をさしあげるところではなく、通ったからといって超能力がつくわけでもありません。
 そもそも仏法は、哲学として空(クウ)を学び、倫理として慈悲心を育てるものであり、万人が道理によって理解し得る〈あたりまえ〉に気づく導きの道です。
 この計画は、一介の行者として老境に入っている私が自分の足元をふり返り確認する作業を共にしたい奇特な方があればどうぞといったところでしょうか。
 共に考え、実践するうちに、何か一つでもご自身の血肉となるものを見つけていただければ、あるいは冒頭で述べた〈種〉を発見していただければ、これに勝る喜びはありません。
 ご縁の方々と私とは、〈み仏の子〉として法友なのですから。

○日  時 毎月第一日曜日午後4時より5時30分まで
○参加申込 会場と資料の関係上、必ず前日午後5時までにお申し込みください
○ご志納金 3000円(『法楽の会』で会費を納入されている方は差額だけで結構あるいは不要です 隠形流居合の行者も同様です)
○送  迎 午後3時30分に「イズミティ21」前から送迎車が出ます(乗車を希望される場合は必ず前日午後5時までにお申し込み下さい)




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2013
01.24

お正月に唱える経典は何を説いているの?─目や耳などを清めましょう(その2)─

20130124000052

 お正月のご祈祷で皆さんと共にお唱えした今年の守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様のお経は、私たちの目や耳などに悪しき心が関与して穢れたはたらきを行うようになった場合の清め方を示しています。
 普賢菩薩(フゲンボサツ)様は、悟りへ向かう手立てや道筋を説いて私たちを導いてくださいます。
 この六つの教えでよくわかるのは、眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識の六つは、はたらいて穢れる場合がある一方で、清められれば悟りへの手段として役立つということです。
 たとえば、憎しみをはらんだ目つきは人の心を刺しますが、思いやりにあふれた目つきは、ものを言わなくても人の心に安心感を与えたりします。
 他人を罵倒する舌が、経典を唱え、教えを説く舌にもなります。
 何かを眼で見て心がどうはたらくか、あるいはいかなる心で何を見るか、すべては心次第なのです。

4 話す器官としての舌に穢れが生じた場合

 舌と、話すはたらきは、無意味な話や二枚舌など、悪しき結果を招く5種類の悪しき行為を行わせる。
 もし、自分の舌を正しく管理しようとするならば、慈悲の心を修め、仏法が説く生死を超越した悟りの境地へと向かい、身勝手な分け隔てを離れねばならない。

「舌根(ゼッコン)は五種の 悪口(アック)の不善業(フゼンゴウ)を起す
 若(モ)し自ら調順(チョウジュン)せんと欲せば 勤めて慈悲を修し
 法の真寂(シンジャク)の義を思うて 諸(モロモロ)の分別の想なかるべし」


5 考える器官としての心に穢れが生じた場合

 心と、考えるはたらきは、サルのように動き回り、いっときでも静止することはない。
 もし、心を仏法へ合致させるよう制御したいならば、仏道修行に励み、大乗(ダイジョウ)経典を唱え、お釈迦様が悟りを開かれた時のお身体と、力と、怖れるものなく法を説かれた様子を心に思い浮かべねばならない。

「心根(シンコン)は猿猴(エンコウ)の如くにして 暫(シバラ)くも停(トド)まる時あることなし
 若(モ)し折伏(シャクブク)せんと欲せば 当(マサ)に勤めて大乗(ダイジョウ)を誦し
 仏の大覚身(ダイカクシン) 力無畏(リキムイ)の所成(ショジョウ)を念じたてまつるべし」


6 統一する器官としての身体に穢れが生じた場合

 身体と、身体を統一するはたらきは、様々な器官の主であり、塵が風に吹かれて転がるように動き回り、煩悩(ボンノウ)を起こすきっかけとなる眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識の命ずるまま、妨げられるものなく自在に動く。
 もし、そこに生ずる悪を滅して永久にさまざまな煩悩(ボンノウ)を離れ、いつも安らぎの境地にあって、安楽でこだわりを離れていたいと欲するならば、まさに大乗(ダイジョウ)経典を唱え、もろもろの菩薩(ボサツ)を生み出す母を思い浮かべねばならない。

「身(シン)は為(コ)れ機関の主 塵の風に随って転ずるが如し
 六賊(リクゾク)中に遊戯(ユウゲ)して 自在に障礙(ショウゲ)なし
 若(モ)し此の悪を滅して 永く諸(モロモロ)の塵労(ジンロウ)を離れ
 常に涅槃(ネハン)の城に処し 安楽にして心憺泊(タンパク)ならんと欲せば
 当(マサ)に大乗経(ダイジョウキョウ)を誦して 諸の(モロモロ)の菩薩(ボサツ)の母を念ずべし」


7 まとめ

 はかりしれないほどたくさんの、この上なく優れた悟りへ向かう手段は、真実のさまをありのままに観じることによって得られる。
 これら六つの教えを六情根(ロクジョウコン)という。
 ありとあらゆる悪しき業(ゴウ)がもたらした海のような障碍(ショウガイ)は、すべて、心が対象にとらわれて起こす誤った判断による。
 もし、それらを懺悔しようとするならば、姿勢を正してじっと座り、真実のさまを観じなければならない。
 そうすれば、これまでに犯した罪たちは霜や露のように儚いものとなり、太陽のようなみ仏の智慧の光は罪障を消し去る。
 だから、至心に六情根の教えに依り、眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識がつくった罪科を懺悔せねばならない。

「無量の勝方便(ショウホウベン)は 実相(ジッソウ)を思うに従って得(ウ)
 此の如き等(ラ)の六法(ロッポウ)を 名(ナヅ)けて六情根(ロクジョウコン)とす
 一切の業障海(ゴッショウカイ)は 皆(ミナ)妄想(モウゾウ)より生ず
 若(モ)し懺悔(サンゲ)せんと欲せば 端坐(タンザ)して実相(ジッソウ)を思え
 衆罪(シュウザイ)は霜露(ソウロ)の如し 慧日(エニチ)能(ヨ)く消除す
 是(コ)の故に 至心に 六情根(ロクジョウコン)を懺悔(サンゲ)すべし」


 自分の煩悩と罪科を直視し、懺悔せねば、自他を苦界へ落とす罪科から逃れられません。
 懺悔に始まる清めの方法を実践し、決して影をつくらないとされるみ仏のお智慧の光で罪科を消し去りましょう。
 そして善い業(ゴウ)のみを積むよう、努力しましょう。
 今年は、この教えを心で念じ、、折々に普賢菩薩(フゲンボサツ)様の真言「おん さんまや さとばん」を口にしながら過ごしたいものです。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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2013
01.24

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第123回)─区域指定地にとどまられた高橋享平院長先生の逝去─

201301090001

 1月22日、原町中央産婦人科医院高橋享平院長(74才)が逝去されました。
 南相馬市にある医院は原発から25キロ圏に含まれ、区域指定を受けましたが、看護師などと共に現地にとどまり、市内で唯一出産可能な医療機関としての役割を継続しました。
 院長は原発事故後2カ月経って直腸ガンが見つかっても診療を中断せず、後継者を探しつつ頑張り抜かれました。
 心よりご冥福をお祈り申しあげます。

 私は、平成24年8月30日にブログ「現代の偉人伝 第154話」を書いてから、ときおり、先生を思い出していました。

「地域の患者のために病院を続けたい。
 人間味のある医師に来てもらいたい」


 この願いは私の願いでもあるからです。
「当山を必要とする方々のために法楽寺らしい寺院を続けたい。
 一行者として、み仏とご縁の方々のために尽くす心と能力のある僧侶に来てもらいたい」

 幸いにして、先生は後継者が見つかったそうですが、何よりも先生の〈志〉を受け継いでいただきたいものです。
 輪廻転生(リンネテンショウ)の理からすれば、死とは古くなった衣装を脱ぐようなもので、衣装としての身体は朽ち果てようと、志は未来へ影響力を持つ力としてどこかへ残っています。
 転生する主体を特定の〈魂〉として考えるかどうかは別として、強い志は必ずや善なる何ごとかを生み出す力を持っており、いつの日か、それが新たな身体を持つ人間の誕生にかかわる時、新たな花の開花をもたらすことでしょう。

 前稿で「菩薩(ボサツ)の例にたがわず、高橋院長は心の極楽に住みつつ、現世の戦いを続けておられる」と書きました。
 闘病という苦と共に菩薩行を貫徹された先生は、今や、文字どおり一切の苦を脱した極楽をめざしておられることでしょう。

「女性と子供がいない町は未来がない」


 町の未来のために最後まで踏みとどまられた先生は、志という尊い心の種を私たちの心へ植え付けて旅立たれました。
 今度は、私たちが、それぞれの持ち場持ち場で精進しつつ種を育て、今生(コンジョウ)で開花させる番です。
 先生、どうぞ、あの世からご覧になっていてください。
 私たちの精進にご安心ください。
 そして、時には叱咤もご加護もたわまりたいと願っています。
 ──後に続く者たちの一人として。




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2013
01.23

法楽農園を始めます ─フリーな憩いの場として─

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〈法楽農園用地〉

 当山のすぐ近くに田んぼ7枚をご寄進いただいたので新たな『法楽農園』を始めます。
 一部を田んぼにして、皆さんんとご一緒に田植えや稲刈りをやりましょう。
 また、クリやブルーベリーを育てる果樹園、あるいは行者ニンニクなどを植える畑もやりましょう。
 もちろん、田んぼは下準備や手入れが難しく、素人が片手間でやれはしません。
 ベースとなる部分は地元のプロの方にご協力とご指導を仰ぎ、素人がやれる範囲で無理なく、楽しみつつ、老若男女が、人間も自然の一部であるということを実感できる場にします。
 参加資格はまったく設けません。
 一定のルールのもと、できるだけご自由に参加していただく予定です。

20130123000100.jpg
〈昔の境内地〉

 思えば、当山が『法楽農園』を始めたのは平成18年でした。
 現在の境内地約3800坪をご支援いただき、雑木林を切り拓いた土地に檀信徒の方々と一緒に池を造ったり、観音様の前で隠形流居合の行者たちが奉納剣を行ったりしてきました。
 その一部を農園にし、数名の方々が四季折々の作物を自由に作ってこられました。
 だから、『法楽農園』は、現在の本堂(講堂)ができる前からあったのです。
 ボチボチと出来はじめた墓苑をきっかけとして第一次護持会『親輪会(シンワカイ)』も自然発生的に誕生し、陰になり日向になって当山を支えられました。

20110117_1493654[1]
〈お盆供養会での奉納剣〉

 平成18年10月23日のブログ『法友』です。

「このところ、ご縁の方々のご助力と連携はいっそう強くなっており、日々、感謝を新たにしています。
 古いプレハブを『親輪会館』と称して根城にし、清掃をしたり、枯れ枝を払ったり、重機で作業をしたり、電柱を立てたり、『法楽農園』で汗を流したりと、天気が悪くない限り毎日のようにどなたかは出入りしておられます。
 皆さんは、まさに法友です。

 そもそも釈尊の当時、教団には階級はもちろん、一切の決まりごととしての上下関係もありませんでした。
 釈尊も、弟子たちと同じく〈行者〉だったのです。
 そこにあったのは、血縁関係などを超えた友情でした。
 ただし、その友情は、私たちの日常にあるような、飲んだり食べたり遊んだりするといった友達付き合いの気分ではありません。
 共に法を求める者の間には〈他人ごと〉はなく、一本道を少しでも先に歩いている者が自然に仲間を導き、手をたずさえて共に無事安全に歩くという姿があるのみです。

 釈尊は説かれました。
『善き友を持ち、善き朋輩と共にあることは、この道のすべてである』
 そして、自らを弟子たちの友とされました。
『皆は、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身でありながら老いより自由になれる。
 病まねばならぬ身でありながら、病より自由になれる。
 死なねばならぬ身でありながら、死より自由になれる』


 皆さんが一切の我(ガ)を離れて共に笑い、共に汗を流し、共に食べ、共に励まし合いながら奉仕活動という尊い布施行を実践しておられる様子は、まさに釈尊の教団と同じです。
 筆を持つ人は書き、料理をする人は食事の用意をし、工事の技術者は作業を指導し、植木の知識がある人は草苅などの指導をし、運転する人は仲間の足となり、皆さんがそれぞれ自分のできることをもって仲間のためになりながら、『守本尊道場』(池に囲まれた本堂用地)と『法楽の苑』(共同墓『法楽の礎』を核とした墓苑)を維持発展させておられます。
 それぞれのまごころあふれる行動が、仲間を自然に導いています。
 また、目に見える活動の陰には、『参加できませんが発展を祈っています』という心ある方々の有形無形のお励ましがあります。
 ここに尊敬と感謝といたわりはあっても、上下関係や、我がままや、高慢や、打算はまったくありません。
 あるのは菩薩(ボサツ)行のみであり、ここは極楽そのものです。
 
 これからも、宝ものである法友の方々と共に、まっすぐ進みます。」



 こうして法友の方々と共に歳月が流れ、虚空蔵求聞持法(コクゾウクモンジホウ)の満願と講堂の建立が成った一方で、当時の『親輪会』を率いてくださった初代会長さん二代目会長さん共に、もはや幽冥境を異にし、自主的護持会も『ゆかりびとの会』と衣替えを行い、会員数は200名近くになりました。
 そんな現在、都市計画道路の計画が進み、今までの『法楽農園』が廃止になる時を待っていたかのように、今度は約2000坪の農園ができます。
 農園のすぐそばを宮床川が流れ、渓流には魚影も豊富です。
 近辺一帯をきれいにし、一種のビオトープといった感じにしたいと願っています。
 子供たちや、各種施設の方々なども自由に楽しんでいただける場にしたいと願い、皆々様のご意見、ご要望、ご協力をお待ちしています。
 なお、、2月9日の寺子屋『法楽館』において、現地の見学と説明会、そして農業のプロをお招きしてのシンポジウムも行いますので、どうぞお気軽におでかけください。
 寺子屋は当山本堂にて午後1時30分開始、午後1時にはイズミティ21前へ送迎車がまいります。乗車を希望される方は必ず、前日午後5時までにお申し込みください。
 当日のパネラーを務めてくださる赤間さんは言われました。
「田んぼと会話する気持でなければ、良い米はできません」
 この春が楽しみです。




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2013
01.22

バザーと「みやぎ四国八十八か所巡り道場」について

20130122005.jpg

 Aさんからご相談がありました。
「私、身の回りのモノを整理し始めているんですが、あらためて考えてみると、私の持っているモノを自分も持っていたいと心から思ってくれる身近な人はそうそうそう、いないのです。
 せっかくあげても、あまり喜ばれなかったり、すぐに換金されてしまうよりは、お寺さんでバザーをやって何かの役に立てていただいた方がよいと思うのですが、ご迷惑ですか?」
 お応えしました。
「実は、お焚きあげを申し込まれる方の中にも同じようなご意見があり、因縁を解いたなら、あとはお寺で使うなり、どなたかの役に立てて下さいという手紙が添えてあったりします。
 せっかくですから、ある程度の金額になるようなら、何人分か溜まって50万円ができた時に、共同の名前で八十八か所巡り道場のお堂を建てましょうか?」

 こんなできごとをきっかけにして、いろいろなご提案をいただいています。
 Bさんは、不要品や手芸品を並べて、欲しいものが見つかった方から任意のお賽銭を箱へ入れていただき、それがある程度集まった時点で何か目に見えるものにしてはどうかと言われます。
 檀家で古物商の方がおられるので、バザーに出品するものは一応、値踏みしてもらおうなどのご意見もあります。

 せっかくのお申し出につき、2月3日(日)に行う厄除け祈願の春祭をメドに準備してみます。
 また、上記のとおり、出品されたものが合計3万円になった方の分は、仙台市泉区に造りつつある「みやぎ四国八十八か所巡り道場」のお堂へご芳名を刻むことにする予定です。
 八十八か所のお堂とご本尊様のご寄進は一宇(イチウ…一棟)50万円なので、17名様以上になれば建立されます。
 現在6宇が完成しています。
 出品される方全員のお名前を遺したいところですが、お堂の壁に限りがあることと彫刻費の関係上、残念ながら無理なようです。

 これからのスタートなので、ぜひ、ご意見などをお寄せください。

(拙稿をお読みいただいた貴方様へ心より感謝申しあげます)




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2013
01.22

杖のお焚きあげにお釈迦様のイカダを思い出す

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 北海道在住のCさんから杖をお焚きあげして欲しいというご依頼がありました。
 けがをした時に作った杖があまりにしっくりしており、かなり吟味したものだったので愛着が生じ、捨てかねていたそうです。
 しかし、元気になってからもずっと手元におくことがどこか変に思え、どうしようかなと迷っておられました。
 そのうちに今度は別なケガをしてしまい、杖が役立たないことから決心しました。
 同封のお手紙です。
「役割を終えた杖への感謝と、これからは健康に過ごせますように、との願いを込めて、お焚き上げを宜しくお願いいたします」

 お釈迦様の教えが思い出されました。
 弟子たちと共にイカダを作って河を渡り終えた後、せっかく作ったのだからとイカダを担いで行こうとした弟子がいました。
 お釈迦様は、「これからは足を用いよ」と諭し、前進するためには、役割を終えたものにいつまでもこだわっていてはならないと戒められました。
 せっかく作った立派なものであっても、〈それはそれ〉なのです。
 この教えにはさらに深い意味が読み取れます。
 それは、悟りへの理解なり体験なり習熟度なりが深まったなら、それが浅い時点でのことごとにとらわれてはならないということです。
 密教のご祈祷法やご加持法は、複雑で幾層にも重なった高度なものですが、行者の血肉になってしまうと、単純な手順でパッとそこへ入られるようになります。
 そうして何件もの修法を重ねて行う時、「イカダにとらわれない」あるいは「イカダにとらわれていられない」という意味が実感できます。

 隠形流(オンギョウリュウ)居合においても、初心者の頃には分析的手順で、これはこう、それはそう、というふうに組み立てて学びますが、習熟してくると、モザイクのイメージではなく、一陣の風、あるいは小川の一流れといった自然なイメージで剣を振られるようになります。
 思えば、華道や茶道や伝統芸能など、何ごとにもこうした面がありそうです。
 モザイク的イメージがまといつけば足を引っぱりかねません。

 今日は〈子(ネ)の日〉、はからずも、過去の悉くを知り尽くして私たちをお導きくださる千手観音にご守護いただく一日です。
 バザーといい、お焚きあげといい、過去のものに関する話題となりました。
 過去のモノ、これからのこと、などをあらためて考えなおしてみてはいかがでしょうか。
 千手観音様に感謝します。
「おん ばざら たらま きりく」 

(拙稿をお読みいただいた貴方様へ心より感謝申しあげます)




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2013
01.21

水子供養・ペット供養そして身代わり地蔵の教えとは

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 水子供養ペット供養にからみ、一日に三度、お地蔵様のお経を唱え、法話を行いました。
 お地蔵様を主尊としてお迎えし、お導きいただく修法を行うだけでなく、たとえ1分でも、お話を申しあげると確かな手応えを感じます。

 三途の川の河原で小石を積む幼児は、一つ積んでは父の為、二つ積んでは母の為、三つ積んでは兄弟と我が身とに善根(ゼンコン…善行によって後に善い結果を招く善い影響力)を廻向(エコウ…廻し向けること)します。
 しかし、地獄からやってくる鬼たちは、亡くした我が子を悔やむばかりで、この世にいる不幸な子供に思いやりの目が向かない親たちの身勝手を責め、幼児が行う廻向の邪魔をしようとします。
 そこにお地蔵様が現れて、幼児たちを抱き、身代わりとなって鬼の妨害から護ってくださいます。

 だから、子を亡くした親たちが真に我が子を救いたいなら、そして自分も淋しさや切なさや辛さから救われたいのなら、この世で善根を積み損ない、賽の河原で小石を積もうとしている我が子に成り代わり、周囲の恵まれない子供たちや病気の子供たちへ手を差し伸べ、善根を積んでそれを廻向したいものです。
 自分が、あの世へ行った我が子に成り代わる身代わり地蔵になるのです。



 帰依の心で唱えるお地蔵様の真言は「おん かかか びさんまえい そわか」です。
 この「かかか」は呵々大笑(カカタイショウ…ハッハッハと笑うこと)の〈か〉であり、梵字の〈か〉はお地蔵様の象徴です。
 笑顔を絶やさず鬼から護ってくださるお地蔵様に帰依すれば、そして自分も身代わり地蔵になるぞと決心して合掌し、真言を唱えれば、必ずや笑顔が戻ってくることでしょう。

〈この稿をお読みいただいた貴方様へ心より感謝しています〉




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2013
01.20

「水俣条約」が合意される見通しになりました

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 水銀が関係した環境汚染健康被害を防ぐべく開かれていた国連の政府間交渉において、日本代表は前文へ「不適切な水銀の管理と対応の遅れが水俣病を招いた。二度と繰り返してはならない」という表現を盛り込むことと、条約名へ「水俣」の二文字をを入れるように主張し、議論をリードしてきました。
 その結果、1月19日、名称が「水俣条約」となる見通しであると発表されました。
 思い出した言葉があります。

「この世の業苦(ゴウク…業による苦しみ)というものは、次の業苦を生きる者たちの間に、なにかの機縁をえて、名づけられないやさしさとなって生き返ってくるにちがいない。」


 生涯かけて水俣病の問題にとり組んだ作家石牟礼道子氏の言葉です。
 関係者の間では、水俣が条約名になるとで水俣問題が終わったと誤解されるのではないかという反対論があるそうです。
 その考え方に理解へはできますが、それよりもむしろ、別な意味で反対意見がでないことに強く打たれました。
 水俣の二文字で誤解や差別を受けてこられた方々が、〈水俣イコール環境汚染地域〉というイメージの定着を嫌うのではなく、むしろ、原爆における〈ヒロシマ〉と同じく、積極的に世界の歴史へその名を刻むことにより、二度と同じ悲劇を起こさせたくないという思いを優先させたであろうことに深い感銘と尊敬の念を覚えます。
 自らの業苦を、後に続く世界中の人々への優しさに変えた決意の重さは想像を遙かに超えています。

 日本が求めていた被害補償や環境回復について「汚染者負担の原則」が明記されそうにないなど、まだまだ日本人、特に水俣の方々にとって不満の部分はありますが、平成30年と目される発効へ無事、こぎつけるよう祈ってやみません。




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2013
01.20

しもやけとアロエ軟膏の話

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 足がずっとしもやけ続きで、痛痒い部分はときおり、ここが酷いよと告げてきます。
 すると、ああ、道具が故障しかかっているなあと自分の身体を客観的に観る目がはたらき、そのうちに何とか修理せねばとは思うものの、目先、やらねばならないことに追われ、を探すめんどうを省いてきました。
 風呂から上がり、妻へしもやけが痛いと言ったら、「アロエがあるよ」と、どこからか持ってきました。
 その昔、母がアロエを育てていて、家族の誰かが火傷をしたり、すりむいたり、胃腸の調子が狂ったりすると葉を切って寒天ふうの葉肉をていねいに取り出し、、万能のように用いていたものです。
 家のどこに何があるかさっぱり知らない私は、アロエ軟膏などというしゃれたものがあるのかと半信半疑ながら患部へ塗りつけ、サランラップで足をぐるぐる巻きにしました。

 わずか一日で疑いは見事に晴れ、あらためて、つくづくと箱を眺めました。
「自然生まれのアロエが効く ひび・あかぎれ・切りきずに」というキャッチフレーズはともかく、製造が『アロエ製薬』、そして「第3類医品」という表示にしばし、視線が止まりました。
 アロエで成り立っている製会社があるのは、アロエの効能が確かなことを示しています。
 そして、お国に認められた「医品」とある以上、アロエは今や、信仰が半分は入っていたとおぼしき母の使用レベルより格段に飛躍した扱いを受けているようです。
 アロエ一筋という気配に惹かれ、『アロエ製薬』をネットで調べてみたところ、「会社案内」を読んで、やはり、と嬉しくなりました。

「私たちアロエ製薬は長年にわたり、アロエだけをみつめ、アロエの研究に専念してきました。
病気を治し、健康を守る本当の力は、人間のからだに宿る自己治癒力にあると私たちは考えます。

 アロエは、からだの働きを促進し、自己治癒力を高めるといわれています。
 また、このアロエは4000年の昔から今に伝わる薬草です。エジプトからギリシア、ローマ、ヨーロッパへと、アロエは文明とともに伝えられました。アロエの幅広い薬効とおだやかな作用が、多くの人に受け継がれてきたのです。
 
『アロエだから、できることがある。
アロエにしか、できないことがある。』

 アロエ専門の製薬会社として誕生してから40年あまり、 一心に歩んできた私たちはこう確信しています。

 そして、このアロエという自然が生み出した素晴らしい薬草の効果をすべての人にお届けすること、それが私たちアロエ製薬の使命であり、アロエ製薬にしかできないことだと考えています。
  
 これからもアロエとともに、みなさまの健やかで笑顔の暮らしに寄与できることを
 一番のよろこびとして歩んでまいります。」

 
 さらに嬉しいことに、「製品情報」としては『アロエ軟膏』と『アロエ製薬便秘錠』の二種類のみで、もちろん、アロエ以外の商品はありません。
 成分を読んでもっと嬉しくなりました。
 アロエ末とアロエ葉末が主成分で、添加物としては、ワセリン、ラノリン、オリブ油、トウモロコシデンプン、香料が示されています。
 ワセリンは石油を分留した油、ラノリンも羊毛に付着している分泌物を精製・脱水した油であり、身近で歴史が安全を物語るもののみを用いた薬なのです。
 そう言えば、去年、妻が転んでたんこぶを作った時も、信徒さんから届けられた芋の湿布薬でたちまち治ったのでした。

 明治34年生まれの創業者は「生物の生命を救う物質が植物にないものか」と考えていたところ、日中戦争で足を切断した時は目の前のローソクで患部をふさぎ、マラリアも自力で治して生還し、ますます「自分のケガや病気は、自分で治さなければ」と痛感し、ついにアロエに出会ったそうです。
 お大師様の言葉どおりです。

「病気を治したいという崇高な志を持った人の目には、道端にあるものが皆、薬として生かされ、鑑定眼の優れた人の目には、岩石がものに見える。
 眼力のあるなし、世界がどう見えるかは、人それぞれである。
(──宗教についても)」


 私も亡き母のように、すなおに、アロエを育ててみたくなりました。

〈この稿をお読みいただいた貴方様へ心より感謝しています〉




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2013
01.19

仏法には「癒し」と「発見」そして「救い」がある

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〈いかなるによってこうした境遇に生まれたのか、クロの人徳ならぬニャン徳を想う〉

1 癒しについて

 私たちは、お寺巡りをしたり、たまさかの座禅会へ参加したり、佳い説法を聴いたりすると、心が安穏になったり、心が満たされたりします。
 そして、しみじみと自分の人生をふり返り、また、自分の役割へと邁進します。
 これは心の疲れや乱れや焦燥感や切迫感などが解消され、本来の生命力が取り戻されつつある状態です。

 日常生活にあって、私たちは、何かを見たり聞いたり思い出したりすることにより、自己中心という性向を持った欲望にスイッチが入るとたちまち、追われます。
 欲しがり、怒り、自分に都合の良い成り行きどおりにしようと、身体も言葉も心も総動員した活躍が始まります。
 こうして煩悩(ボンノウ)に振り回されている状態は、背中に火が付いたようなものです。

 煩悩を見すえ、み仏として私たちへ感応を及ぼす聖なる霊験(レイゲン)の追体験を願って修行する場である寺院へでかけると、火が付いた状態とまったく異なるリズムを持った空気に接することができます。
 瞑想体験は、走る心を立ち止まらせ、胸の呼吸が腹の呼吸に切り替わり、自分を追い立てるものからいっとき、離れさせます。
 自己中心と闘う真摯な行者として生きている人の言葉には、慌ただしい日常で忘れがちな、なにがしかの真実を感じます。

 こうして、仏教に関するものと接することは癒しになります。

2 発見について

 私たちは、行き詰まり、解決法を見いだせず、もはや自分の周囲に救いのきっかけがない状態に陥ると、寺院へ人生相談にでかけます。
 そして、自分を第一とするのではなく、利益を第一とするのではなく、結果を第一とするのではない思考回路と判断法と意志を知り、目から鱗が落ちたりします。
 これは普段の心で見聞きする現象世界だけでない真実世界の存在に気づかせます。

 日常生活にあって、私たちは、何かへの執着という形で意志が動き、行動を始めます。
 いつも〈自分のため〉という心がはたらいていることに気づかず、熱心になりますが、お互いが〈自分のため〉に生きているので、結果はなかなか思いどおりにはなりません。
 こうして無明(ムミョウ)に振り回されている状態は、蜃気楼をめざして歩き、水に映った月を取ろうとし、振り回される火の付いた松明を火の輪と見て踊っているようなものです。
 無明(ムミョウ)を見すえ、現象世界として表れている迷いの世界に惑わされず、空(クウ)という真実世界を観てそこに生きるための教えに接し、なにがしかの体験をすると、世界がこれまでとは別ものに観えます。
 自分の目に自己中心という覆いがかかり、真実が観えていなかったことに驚きます。
 勝手に執着する勘違いぶりとその無意味さに呆れたりもします。

 こうして、仏法に接することは発見になります。

3 救いについて

 上記の癒しも、発見も、ほとんど一過性であり、多くの方々はこう言われます。
 Aさんいわく、「熱心に四国八十八か所廻りをしたり、法話の会へでかけたりしているのに、いつも夫とケンカばかりしています」。
 Bさんいわく、「般若心経を毎日、欠かさず読んでいるのに、我がままが治らず、いつも煩悩にやられたままです」。
 こうして自分を省みることそのものがすでに癒しと発見の効果です。
 でも、ここにとどまっていては残念です。
 ぜひ、何とか心をよりよい方向へ変えていただきたいものです。
 そのためには、身体をトレーニングするのと同じく、トレーニングが必要です。
 散歩やジョギングで体調を整えようとするなら正しく継続しなければなかなか効果が表れないのと同じく、心のトレーニングにも時間がかかります。
 
 AさんにもBさんにも申しあげたのは五力(ゴリキ)です。

1 信力……目標を定め、信じて歩みましょう。
2 精進力…継続しましょう。
3 念力……志を保ち続けましょう。
4 定力……目的達成のために心身を調えましょう。
5 慧力……み仏のお智慧を第一としましょう。


 これを呑めば万病に効くなどという薬がないのと同じく、これを信じれば絶対に救われるなどという万人に効く宗教などありません。
 理由は、人の心が千差万別だからです。
 仏神が無数におられるのもその証拠です。
 だから、まず、自分で何かをやってみましょう。
 そこで疑問などが生じたなら、信頼できそうな人を探して質問してみましょう。
 こうすれば、師を誤らないで済むことでしょう。
 オウム真理教事件などで明らかなように、特に幹部たちは知能指数が高くても人物を観る力に欠け、〈師を誤った〉のです。
 師を誤ったばかりに人生そのものをも誤り、死刑にまで至ったことは、選ぶ力の大切さを物語っています。
 そして、師を選ぶ心の目と慎重さがあれば、盲信や狂信に陥る危険性も少なくなります。
 受けた教えや、指導された実践法などについてよく咀嚼し、調べ、納得した上でことを行えば、心は尖らず、円満に人格が高まって行くことでしょう。

 そして、いつか、心が変化し、そこには必ず何らかの形で救いが待っているはずです。
 この経過を実際にたどった者として、老いた者として半歩先からこの稿を書きました。
 共に癒され、発見し、救われようではありませんか。

五力については、ブログ内の「理想を実現する五力」へあれこれと書いています。




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2013
01.18

いじめ、いじめられているお子さんへ(その4) ─親御さんが教育するための一助として─

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 主として、いじめているお子さん、いじめられているお子さんのために、簡単な運勢を書きました。
 運勢はいのちと心が動いて行く可能性の高い方向を示しています。
 必ずそうなるわけではないので、決して予言やお告げではありません。
 良き可能性をどんどん伸ばし、悪しき可能性へは早めに処置するためこそ、古人はこうした判断方法を残してくれました。
 縛られることなく、兆しを見逃さず、智慧をもって対応するのがそれを生かすコツと言えそうです。

【数え年16才の貴方】

 自分の好むものに対するこだわりが強くなって、熱心に勉強や研究をし、そこ子らしさがどんどんつくられます。
 しかし、場合によっては生活のリズムを崩したり、気まま勝手に走ったりしかねません。
 他人が自分の気に入らないものや自分の信じられないものを好むことへの攻撃的な姿勢も出始めるので、お互いを尊重し合う寛容の精神をきちんと学んでおきましょう。
 また、特定のものへ関心を深めると同時に、それがきっかけとなって関連から関連をたどって視野を広げて行ければ最高です。

 今年は、集中心もやる気も高まりますが、それが強ければ強いほど、自分のイメージどおりに進まないもどかしさも感じます。
 そこでじっと雨風に耐えて咲く花のような忍耐力を学び、身につけたいところです。
 切れてしまう子になるかどうかの別れ目でもあり、試練を成長へ結びつけましょう。
 父親が厳しくしつけようとするよりも、母親や叔母さんやお祖母さんの上手な教育、あるいは説得がポイントです。
 攻撃的な気持やもどかしさが強くなってきたなら、大日如来様の梵字やお姿をイメージして祈れば、祈りの響きの中へそうした悩みは解消してしまいましょう。
 真言は「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」です。
 又は「あびらうんけん」だけでも心中のみ仏へ届き、心の波はおさまることでしょう。
 自分の関心が良からぬ方へ向いているのをわかっているのにやめられなかったり、悪友との腐れ縁に悩む時も、真言を微音(ビオン…聞こえるか聞こえないかはっきりしない程度の大きさ)でゆっくり108返、口にしてみましょう。
 深呼吸し、吐く息と一緒に怒りや恨みや嫌悪などが体内から外へ出てしまうイメージを持つのも役立ちます。
 お腹が不調だと気持も弱るので、甘くみないで早く調子を整えましょう。

 こうしたことに気をつけながら過ごし、いじめたい心が起こった時も、いじめに遭って辛い時も、この一年を守ってくださる守本尊大日如来様のご加護で開運しましょう。
 我が子であるかどうかにかかわらず、周囲の大人たちはどんどん伸びつつある若人たちを優しく見守ってあげたいものです。

【数え年17才の貴方】

 こうすればこうなるという因果の流れがよく見え始め、どんどん大人になります。
 その一方で、こんなことになるのはおかしい、どうしてこれが通じないのか、なぜあんなことが通用するのか、といった疑問や憤懣も起こります。
 ここで大事なのは、他者や社会へ対して関心を持ち正邪善悪をはっきりさせずにはおかれない正義感を正しく育てることです。
 ポイントは、自分の考えを客観的に見直して、独り善がりではないか、狭い考えではないかなどと謙虚にふり返る習慣をつけることです。
 もう一つは、何かを「悪」と断じようとする時、断じられる側にあるプラスの面や言い分なども冷静に調べてみることです。
 そうすれば視野が広がり、心も尖らず、無用に敵をつくらない人徳のある人間性が育てられることでしょう。

 新しい事態が起こり、新鮮な驚きや嬉しい発見があります。
 その一方で、確かだと信じているものが実は砂上の楼閣だったり、だったりという体験が起こるかも知れません。
 何が起こっても精進の態度を捨てず、勇気を持って信念どおりの行動をつらぬきましょう。
 良いと思ったことは結論を急がず、すぐに結果が出なくてもやり続けましょう。
 反面、いろいろな思いつきが起こった時は、まずメモをとり、一つ一つ丁寧に考えてみて、捨てるべきものはきっぱりと捨て、やろうしたものは方法や時期などを考えた上で行動に移しましょう。
 兄や姉、あるいは先輩などの助言も役立つことでしょう。
 虚実入り交じる中で混乱しそうになったなら、文殊菩薩様の梵字やお姿をイメージして祈れば、祈りの響きの中へそうした悩みは解消してしまいましょう。
 真言は「おん あらはしゃのう」です。
 正しいものよりも面白いものに引きずられそうになった時、伸ばしたいものが障碍に遭った時、口論になりそうな時、真言を心で唱え平静で強い心を取り戻しましょう。
 イライラしたり落ち込んだりしたなら、早めに心と身体を休め、解放して疲れを溜めないように気を配りましょう。

 こうしたことに気をつけながら過ごし、いじめたい心が起こった時も、いじめに遭って辛い時も、この一年を守ってくださる守本尊文殊菩薩様のご加護で開運しましょう。
 我が子であるかどうかにかかわらず、周囲の大人たちはどんどん伸びつつある若人たちを優しく見守ってあげたいものです。




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2013
01.17

【現代の偉人伝】第164話 ─「指導者に殴り聞かせるという言葉はない」我喜屋優─

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 平成22年、史上6校目となる甲子園春夏連覇を成し遂げた興南高校野球部監督の我喜屋優氏は、1月15日付の朝日新聞で語った。

「指導者は感情が先走ってはいけない。
『言い聞かせる』ことが大切。
『殴り聞かせる』という言葉はありません。」


 これまで行われてきた体罰の多くは、「愛のムチ」という美名に隠れた監督の怒りの表現だったのではないか。
 監督は思いのままにならないという自分の感情を無抵抗の選手たちへぶつけているのではないか。
 我喜屋監督の「感情が先走ってはいけない」は、そのことを物語っているのではないか。

 次いで、桑田真澄氏の「殴られて愛情を感じたことは一度もない」に並ぶ決定的な言葉が発せられている。
「殴り聞かせる」という言葉はないのである。
 しかし、実際は、監督が指摘するとおり「社会に出て、他人を殴ったら、法律違反に」なるにもかかわらず、殴り聞かせようとして来た。
 そこに本質的な問題がある。
 違法であり、実効性にも問題がある体罰という指導法が暗黙のままに認められてきたのは、桑田真澄氏の言うとおり「一定の成功を収めることができた」からに過ぎない。
 しかし、監督は、体罰を用いずとも、甲子園で抜群の結果を出している。

「子供たちに手を出したくなる時は、よくあります。」
 監督も人の子である以上、真剣に結果を求めている以上、当然である。
「そんな時は、両手を後で結び、我慢します。」
 自分の感情を抑えるために監督はこらえている。
 そして、結果を出し続けている。
 もはや、違法な体罰が勝利に不可欠であるという論理は成り立たない。


 監督は、法律違反が「学校で認められるわけがありません」としながら、もっと先をも考えている。

「先生が生徒をたたいたら、生徒は暴力をふるう大人になってしまう」

 ここが生徒の人権云々よりも根源的な問題である。
 これほどまでにいじめや家庭内暴力が蔓延している状況下にあって、子供を暴力的環境で育ててはならないという大命題がスポーツ活動の場では等閑に付されてきた。
 桑田真澄氏のアンケート調査で明らかなように、体罰を用いない監督が少数派である現状には、あらためて驚かされる。

 ただし、こうした方針の監督も、体罰絶対否定といった教条的で頑なな姿勢ではない。
 子供が赤信号を無視しようとした時など、「命の大切さを、痛みとともに教えることは」必要なケースもあり得るという。
 監督も、交通事故を起こした選手を殴ったことがある。
「死んだら、みんなに迷惑をかけることになるんだぞ、よく生きて帰ってきてくれた、と教えたかった。
 親の身になって叱ることは必要です。」
 私も生涯で一度だけ、小学生の時、父親に殴られたことがある。
 小さな子に言い聞かせようとしても駄目だったので殴ったら、たまたま自転車で通りかかった父に無言で一発、殴られた。
「この!小さな者を苛めて!」
 言い置いて去った後ろ姿を目にして以来、一度も目下を苛めたことはない。
 以後、たった二度、感情にかられて他人へ手を上げたことはあるが、事後の強烈な不快感はいまだに鮮明であり、悔悟の思いは消えない。
 この不快感が私の人生にもたらしたものを思うと、どうしても体罰が必要な教育的場面はあり得ると考えている。
 それが決定的に必要だったのかどうかは、体罰を加えた方の心理を考えてもわかるのではないか。
 加えた方も、加えられた方とは異なった強烈で不快で辛い何かを感じているにちがいないからである。

 監督は、一年目にケンカ慣れした選手から言われた。
「先輩に殴られたから、殴り返しに行きたい」
 応えた。
「よし行って来い。
 その代わり、俺も、お前も終わりだぞ。」
 そして、自然に親しませたり、読書させたりした結果、今や大学生になった選手は「世の中をよくしたい、と警察官を志して」いるという。

「野球部が甲子園に出なくてもいいんです。
 高校の3年間はあっという間に終わるけれど、人生のスコアボードはずっと続きます。
 指導者だけでなく、保護者も社会も一緒になって生徒を見守っていかなければなりません。」


 人間としての選手を育てる指導者としての責任は一生続くという。
 試合の勝ち負けという目先の結果ではなく、子供たち一人一人を人間として成長させるという教育の原点に立った監督の姿勢は清々しい。
 監督のように、根気強く「言い聞かせる」指導者たちであって欲しいと強く願う。




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2013
01.17

【現代の偉人伝】第163話 ─「殴られて愛情を感じたことは一度もない」桑田真澄─

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 平成24年12月23日、大阪市立桜宮高校(大阪市都島区)のバスケットボール部主将を務める2年生男子生徒(17才)が、顧問の男性教諭(47才)の体罰を受け、翌日自殺した。
 平成25年1月13日、この事件を受け、元プロ野球巨人軍の桑田真澄氏(44才)は、テレビや新聞のインタビューを受け、語った。

「殴られて愛情を感じたことは一度もない」

 この率直な言葉は、スポーツ界における体罰についての根本を衝いた言葉として永遠に残るのではないか。
 恐らくは選手全員にとっての真実でありながら、監督の絶対性という神話が覆いとなり、公に言葉として迸(ホトバシ)ることはなかった。
 私には、裸の王様が裸であることの真実をそのままに口にした少年の一言を聞く思いがした。

 これまでも相撲界などで、体罰が死を招いたりして社会問題になったが、議論の対象はほとんど〈相撲界のあり方〉といった状態でしかなく、蔓延している〈体罰〉そのものは深く省みられなかったきらいがある。
 力士や選手などの人権にかかわる重大性を帯びているのに、スポーツ界では子供の頃からあまりに身近なところで起こっていたため、「監督の愛情や熱意」という神話に寄りかかる監督も選手も実態を直視できなかった。
 しかし、「小学生の時、グラウンドで監督やコーチから殴られない日はなかった」桑田氏は「なぜだろう」「おかしい」と思ってきたと言う。

「子供は仕返しをしない、と思っているから体罰をする。一番卑怯なやり方で、スポーツをする資格はないと思う。」


 指摘されてみればそのとおりであり、そもそも「スポーツをする資格」のない監督に選手たちが歯をくいしばりつつ指導されてきた現実が明らかにされた。
 しかし、平成21年に早稲田大学大学院へ入学し、プロ野球選手と東京六大学の選手約550人からアンケートをとった桑田氏は驚いた。
 選手の8割以上が、中学や高校の体罰について「必要」「時には必要」と回答していたからである。

「一定の成功を収めることができたからこそ『あの指導方法は良かった』と思うことができるのだろう。」


 体罰の肯定は成功体験からの類推でしかなく、体罰という指導法が他の指導法と冷静に比較検討されていないからであると指摘する。

「体罰が減らないのは勝利至上主義があるためだ。
 プロや野球はそれでもよいが、アマチュアは育成主義でなくてはならない。」


 プロとして生きて行くために必ず結果が求められる世界と、人間としてスポーツマンとして成長するための子供やアマチュアの世界を分けて考えねばならないとする視点は鋭い。
 元日本プロ野球とアメリカメジャーリーグの監督を務めたボビー・バレンタイン氏(62才)は言う。

「日本の高校野球は高度に組織化された素晴らしいシステムです。
 神聖で立ち入ることのできないものです。」


 なぜ氏が高校野球を神聖とまで感じているのか?
 それは、学校も家庭も、選手を何よりも〈人間として〉育成しようと全力を挙げ、選手たちもまた、ギリギリまで自分の生活を律して自分を高めよう、期待に応えようと汗を流す過程が崇高だからに他ならない。
 だからこそ、当の監督と選手だけでなく、学校もPTAも地域もマスコミも、あるいは日本全体が関心を持ち、選手たちの真摯な一挙手一投足に拍手し、涙するのである。

「本来、スポーツにおいて乗り越えなくてはならないのは自分自身。
 人から何かをされて強くなるものではない。
 スポーツには体力と技術力と精神力が必要なのであって根性では勝てない。」


 実践し、結果を出した桑田氏の言葉は重い。
 私たちはスポーツにおいて根性の果たす役割が大きいと思いがちだが、桑田氏は、殴られてなにくそと反発したことによってつくられてきた思いなど、勝負の場において役には立たないと言うのである。
 殴られてつくられるいわゆる根性ではなく、必要な精神力というものがあり、それは体罰という「人から何かをされる」方法を用いずに選手自身の努力で養えることを桑田氏は実証してきた。

「道具も先述も進化した。
 それなのに指導者だけは進歩せず、昔のままだ。
 もっとスポーツの理論やコミュニケーションを勉強して。時代に合った指導方法に変えなくてはならない。
 今回の体罰事件を機に、スポーツ界は変わっていくべきだ。」


 桑田氏は、新しい指導者たらんと勉学を始めている。
 ぜひ、先頭に立ってもらいたい。
 痛ましい高校生の自殺事件と、桑田真澄氏の一言は、きっとスポーツ史に残ることだろう。
 体罰を過去のものとしたできごととして。

※この稿は1月13日付の産経新聞を基にして書きました。




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2013
01.16

これって輪廻転生? ─孫が生まれた後にお祖母ちゃんが亡くなって、輪廻を感じた話(その1)─

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 これからご葬儀という朝、80才を過ぎた喪主のAさんがにこやかに控え室を訪れ、挨拶をされました。
 どうぞとイスを勧めたところ、やおら切り出された。
「このたび亡くなった妹は、誕生祝いを終えてすぐの他界でした。
 誕生祝いにはもう一つの意味があり、その数日前に孫が生まれていたのです。
 孫の誕生を喜んだ私たちが、引き続き、一緒に喜んでいた妹を送ることになり、この世へやってくる者と、この世から去る者の交差を意義深く感じています。
 こうした感慨を仏教の言葉ではどう表現するのでしょう?
 何となく『輪廻』を想うのですが……」
 
 Aさんは、ご縁があって当山へご葬儀を依頼されましたが、戒名も位牌もいらない家族葬を望まれました。
 その理由をこちらからお尋ねはしません。
 しかし、会館で真言宗の本尊大日如来をお祀りして作法通り枕経とお通夜を行い、経文と僧侶へもきちんと敬意をはらわれる様子に違和感はありません。
 お答えしました。
「そうです、輪廻転生(リンネテンショウ)です}
 Aさんは重ねて、さすがの質問をされます。
「転生になるのでしょうか?」
 孫が生まれてからお祖母さんが亡くなっており、転生とするには時間的な説明がつかないのではないかと言うのです。
「仏教で説く輪廻転生は、怪しい占い師が断言するような、特定の魂が時を超えて再生するといったものではありません。
 あなたの前世は中世の騎士です、などというご託宣は仏法の本質をふまえておらず、真理とする根拠がなく、ほとんど冗談や笑い話の類です。
 もちろん、超人的なレベルへ到達された方々に関するものは、我々凡夫の認識力や判断力を超えているので、例外的にそう見えるケースがあっても不思議ではありません。

 さて、お釈迦様は、永遠不変の魂(アートマン)があるとは言えないとされました。
 自分はここにいるし、自分の身体も確かに有るが、それは、諸条件によってかりそめに有るだけであり、永遠不滅の〈自分の魂〉がこの心と身体を支配し存続させているわけではないのです。
 これを(クウ)と表現します。

 は〈無い〉のではなく、欠けることなく満たされている真実を指します。
 しかし、この真実は、私たちの目に見え、耳に聞こえるものをそのまま相手にしているだけではなかなかつかめません。
 表れとして見聞きできるこの世は、というありようをそのまま私たちへ示してはいません。
 私たちの心に、生き続けてたいという暗黙の前提があり、それが抜きがたいフィルターとなっているからです。

 生きものとしての私たちは、ありのままにを観られず、自分のいのちにとらわれて自己中心となり、自分の都合で愛憎を生み、他を害し、この世を苦の岐にしています。
 だから、お釈迦様は端的に、『普段、見聞きしているこの世にそのまま流されている限りは苦から解放されない。真実を観る目を持つために学び、修行せよ』と説かれました。
 決して闇雲に信じることを強制せず、学び、研究し、道理であると納得したものを身につけながら生きよと諭されました。
 だから仏教は、哲学や倫理学はもちろん、現代では心理学などの科学さえもふまえながら練られ、探求され続けています。
 仏教は、を観る目の養い方を探求し、発展してきたと言っても過言ではありません。
 世界中に地域や歴史の色合いをまとったさまざまな仏教があるのはそのためです。
 宗派が数多くあって何の不思議もないのです。
 では、お釈迦様が説かれた輪廻転生とは何か?
 不動不変の魂が生まれ変わり死に変わりするのでなければ、仏教はなぜ、輪廻転生を説くのか?
 物質的世界と精神的世界は、お互いに関わり合いながら存在しているが、一体ではないというところに問題を説くカギがあります。」

※以下、「その2」へ続きます。




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2013
01.15

和尚さんって神社で柏手を打つの? ─どんと祭の一コマをやや大げさに─

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 近くの神社で行われる「どんと祭」へは毎年、必ずお詣りしています。
 今年はあいにくの大雪になりましたが、消防団の方々やお世話役の方々が雪かきから豚汁作りまですっかり準備をしてくださっているので、何の心配もせずにでかけました。
 毎日、托鉢を行っていた時代にはたびたび訪れていた神社も、今は、こうして一年に一度だけの参拝となりました。
 裸電球が道案内をされ、杉の大木が絶好の雪除けとなっている参道を行くと、懐かしい明かりが見えてきます。
 逆行の中で動く人のシルエットは、大自然に抱かれたあまりに小さい神社よりももっと小さく、いじらしい感じがします。
「ああ、住職さん、今年もよろしくね!」
 準備万端調えておられた方々から威勢のよい声で迎えられ、何の役にも立てないでいる身をやや縮こまらせながら、変事を帰して社殿へ向かいます。
 お賽銭と御神酒を供え、頭を垂れると自分のこの地に息づく一人である実感がわいてきます。
 やがて神主さんが来られ、儀式が始まりました。
 参拝者は全員、帽子を脱ぎ、低頭します。
 降りしきる粉雪が盆の窪あたりまでかかり、しんしんと冷えながら、祝詞の誓詞どおりに清められて行く実感に感謝しました。

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 やがて小さな結界の中に火柱が上がり、人々は思い思いに火の揺らめきを眺めます。
「これでお正月さんも行ったな!
 さあ、今年もやるぞ!」
「んだ。
 いい年にすっぺな」

 交わし合う声と笑顔。
 たまにしか皆さんと同じ時間を過ごせない私も、「そうですね」と〈一員〉らしく呟かせていただきました。

 そこにご近所の酒屋さんの父娘が登場。
 看板娘のフクミさんがお父さんの後で二礼二拍手一礼してから、やおら私の方へ向き直り、一発かましてくれました。
「遠藤さんも、柏手を打つんですか?」
 ──エッ!?……
 お互いに理解し合っているファン同士だと思っていたのに、このご質問には少々ガッカリです。
 だから、やや声を強くして答えました。
「もちろんです!
 神社では柏手を打ち、教会では讃美歌を唄います。
 昔から、『郷(ゴウ)に入(イ)らば郷(ゴウ)に従え』と言うとおりです。
 これが人間同士、仲良くやっていくための、万人に共通する鉄則です」


 人それぞれ何を信じようと自由であり、仏であれ、神であれ、自然であれ、信じるものの客観的な価値判断は誰にもできません。
 ただ二つだけ言えるのは、自分が仏神のような存在でもないのに、他人の信じるものを邪宗と決めつける傲慢さを持ってはならないこと。
 そして、他人の信じるものが自分の信じるものと違うからといって、他人の信じるものや他人そのものを排斥してはならないことです。
 この〈否定〉と〈排斥〉こそ宗教の名を借りながら私たちを対立させ、争わせる悪しき心です。


 何度かこうした話をしているはずのフクミさんだから、さっきのはきっと、お祭の雰囲気が言わせた冗談だったのだろうと気を取り直して豚汁の旨さに没頭しました。
 いちいち、こんなふうに大げさにしてしまうのは大人げないなあ、と自分の性格を省みながら帰途につきました。
 それにしても、裸電球の明かりは限りない懐かしさを覚えさせます。
 今年も、皆さんにとって、よい年になりますよう。 

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2013
01.14

ダライ・ラマ法王の『宗教を超えて』に思う

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 平成24年11月1日、ダライ・ラマ法王は『宗教を超えて』を記されました。
 冒頭の謝辞において法王は述べられす。

「本書の内容が、少しでも平和な、心温かな世界を建設する一助になることを切に願っております。」
「変化は徐々に、目覚めていくことによってもたらされるものなのです。
 そして目覚めは教育のみによってもたらされます。」


 目覚めをもたらすものが〈宗教〉でなく〈教育〉となっていることに、法王の並々ならぬ覚悟が顕れています。

 序文です。
 77才になられた法王は世界の過去数十年をふりかえられます。
 医学の進歩による病気の克服と貧困の減少、教育の普及に加えてこう述べ、「二十世紀の後半は建設的かつ進歩の月日であった」と総括されました。

「私たちには世界人権宣言があり、その権利の重要性がきわめてよく認識されるようになった結果、今や自由と民主主義の理想は世界中に広がりつつあります。
 また、人類はひとつであるという認識も高まるばかりです。」

 
 しかし、高度消費社会の享楽がある反面、最低限度の衣食住にすら恵まれない何億の人々がいます。
 武力紛争、環境問題、社会の不平等・腐敗・不正、アル中、薬物乱用、家庭内暴力、家族崩壊、ストレス、不安、心の病気、孤独、なども広がっています。
 その理由は?

「人類のものごとへの取り組み方に何か欠けているものがあるのは明らかです。」
「ただ物質的、外的な事柄にのみ力をそそいで、道徳倫理や内なる徳性に目をとめないことに根本的問題があるのではないでしょうか。」
「内なる徳性とは、人が動物としての本性によって自ずと志向せざるをえない、またもし他の人の中にそれを見出したなら讃えずにはおれない美徳のことです。
 私たち動物は、まわりから世話してもらい、愛情や思いやりの心を、いいかえれば慈愛の心をそそいでもらってようやく生き延びることができます。
 慈愛の心の核は、生き物を苦しみから救い、幸福に導いてあげたいという望みです。
 すべての善き徳性はこの精神的な原理から生じています。
 私たちはみな、親切、忍耐、寛容、赦し、布施の精神などの内なる徳性を評価し、貪欲、悪意、憎悪、偏見などを見せつけられることを嫌います。
 慈愛という心の本質から生じた内なる徳性を育み、煩悩と闘うすべを身につけることは誰からも高く評価されます。
 そして内なる徳性を高めて一番徳をするのは、当然私たち自身なのです。
 内なる徳性を等閑視しているのは私たち自身であり、今日の世界において私たちが直面している多くの問題は、多分にその結果なのです。」


 私たちは問題を解決しようとしてさまざまなプログラムやシステムに心血を注ぎますが、法王は「高潔さに欠けた」人や「節操がなく私利私欲に駆り立てられるままに乱用」する人が用いれば、プログラムやシステムはめざす方向へ役立たないと指摘されます。
 今の日本でも、政治、経済、宗教、教育、さまざまな面で当てはまりそうです。

「結局、私たちの問題の源は私たち一人ひとりにあるのです。
 もし人に倫理観と高潔さがなければ、法律と規制があっても役には立たないのです。
 人が物質的価値を重んじる限り、道徳観の欠如は不正、腐敗、不公正、不寛容、貪欲といった形をとって外に現れつづけるでしょう。」


 では、どうすればよいか?

「たしかに宗教は過去において、無数の人々の救いになってきましたし、今なおそうです。
 また未来においても同様でしょう。
 宗教は確かに私たちに人生の意義と道徳的な導きを与えてくれはしましたが、今日の非宗教的な世界においては、宗教だけではもはや倫理の基盤とはなりえないのです。
 ひとつの理由として、現代、多くの人々が宗教を信じていません。
 もう一つの理由は、グローバル化の時代における多文化社会にあって世界の民族がきわめて密接にかかわるようになってきていることです。
 このような時代にあって、なにかひとつの宗教に立脚した倫理は、ある種の人々には納得できても、万人にとって意義あるものとはならないでしょう。」


 ここまでですら、〈宗教者〉であるダライマラ法王の発言としては衝撃的な内容ですが、法王はさらに論を進めます。

「今日、道徳の欠如という問題に、なんらかの宗教に基づく回答を与えても普遍的な、適切なものとはなり得ません。
 今日の私たちに必要なのは宗教的な源をもたない倫理への切り口であり、宗教を信じる者、信じない者の双方に等しく受け入れられる世俗の倫理なのです。」


 そして、ご自身の事情へ触れられます。

「ごく幼いときから僧衣をまとって生きてきた者がこのような発言をするのは奇妙に思えるかもしれませんが、私自身は特に矛盾を感じてはいません。
 私は自らの信仰にうながされるままに、一切衆生の幸福と利益のために精進しています。
 ならば、チベット仏教徒ならず、他宗教の信者や無神論者の幸福を思うのは当然のことではないですか。」


 まったく同感です。
 当山も又、〈み仏は誰一人、すがる者を拒否されない〉〈み仏に救い漏れはない〉という「自分の信仰にうながされるままに」相手様の宗教宗派を問わず、まったく平等に人生相談、ご供養、ご葬儀、ご祈祷、ご加持などの法務を行ってきました。
 ご自宅の仏壇のご本尊様がお釈迦様であろうと阿弥陀様であろうと、あるいは普段、無宗教的生活をしている方であっても、自主的に当山の檀信徒となられ、安心な日々をお送りいただいています。
 だから、今回の宣言は私にとって衝撃的ではあっても決して意外ではなく、77才になられた法王がさらに一歩を進められたご様子に、他の方では決して果たせないであろう役割の大きさを感じています。

「私自身は非宗教的な切り口での普遍的倫理を新たに打ち立てるのは可能であるし有益であると確信しています。
 この確信は、基本的にすべての人類は自分たちが善と認識するものへと惹かれていく傾向にあるという私の信念から生じています。」
「誰しも他人を憎むより愛することを選び、吝嗇な人より布施の行為ができる人を好みます。
 偏狭や軽蔑や憤懣といった欠点より、忍耐や尊敬や赦しを選ばない人などどこにいましょうか?」
「こうしてみると、いかなる宗教をも否定せず、もっと肝心なことには宗教に依存せず、内なる徳性を拠り所とする方法や手段はすでに私たちの手の中にあるはずなのです。」


 こうして序文は終わります。

「もちろん世界の大宗教はどれしも、慈しみの心、あわれみの心、忍耐、寛容さ、赦しの大切さを強調していますし、内なる心の徳性を育むことをやってきています。
 しかし今日の世界において、宗教に立脚した倫理はすでにふさわしいものではなくなってきているのです。
 そのようなわけで、宗教を超えた倫理と精神性の道を見出すべきときがきていると私は思っているのです。」


 ここにおいて法王のご心中は明らかになりました。
 イデオロギー国家中国によるチベット破壊、イスラム教過激派などによるテロといった蛮行へ正面から立ち向かうには、宗教的立場には限界があると考えられたのではないでしょうか?
 イデオロギーや特定の宗教を狂信する国家、あるいはそうしたものに引きずられる人々への宗教的立場を超えたアプローチにより、チベットを救い、中国の人々を救い、自爆する人々と被害者を救おうとされているのではないでしょうか?
 イデオロギーや特定の宗教を狂信する国家や人々への宗教的立場を超えたアプローチにより、チベットを救い、中国の人々を救い、自爆する人々と被害者を救おうとされているのではないでしょうか?
「一切衆生の幸福と利益のために精進」してこられた法王が、ついには、ご自身の〈生〉そのものである宗教をも超えた立場に立たれようとしていることは、まさに釈尊やお大師様と同じ〈捨身〉であると思われてなりません。
 古来、観音菩薩の化身とされてきた「ダライ・ラマ」の真髄を観た感がします。
 世界を救う新たな扉が開かれました。
 私は真言宗の伝授を受け正統な修法を行う僧侶ですが、同時にダライ・ラマ法王の思想に共鳴する者であることにまったく矛盾はありません。
 目線を上げて扉の中へ入ります。
 扉の向こうで待つ光の中へ、新たな地平へ共に進もうではありませんか。
 



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2013
01.13

食料廃棄と破戒、そして小松左京の描いた大崩壊

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〈お地蔵様の持ちものは?〉

 1月10日、イギリスの機械技術者協会(Institution of Mechanical Engineers)は世界で生産される約40億トンの食料のうち、3割から5割が廃棄されている可能性があると発表しました。
 報告書は「「Global Food; Waste Not, Want Not(世界の食料:廃棄を減らし、欲するのをやめよう)」と題されています。
 イギリスでは野菜の約3割が形が悪いなどの理由で収穫されないし、ヨーロッパとアメリカでは、購入された食料の半分近くが捨てられているそうです。
 中国における接待では、いかに適切な分量を超えた食卓を用意するかによってその人の器量が推しはかられるという悪習が蔓延し、社会問題になりかけています。
 国際赤十字社によると、平成22年には、栄養不足人口よりも肥満人口の方が多くなりました。
 その一方で、人口爆発と気候変動によって食糧の争奪をめぐる戦争が起こるのではないかという指摘もあります。

 食料の廃棄は「不殺生(フセッショウ)」という戒めに反しています。
 私たちのためにいのちを差し出してくれる生きもののいのちを粗末にしているからです。
 こうした悪業は私たちへ報いをもたらします。
 経典によると、地獄などへ堕ちたり、せっかく人間界に転生しても、短命だったり病弱だったりします。
 環境的な報いとしては、栄養価のある食物と適切な医薬品に恵まれず、持って生まれた命分(ミョウブン)を尽くす前に亡くなってしまうとされています。

 また、肥満になるほど貪るのは「不慳貪(フケンドン)」という戒めに反しています。
 生きものとして身体が求める適切量を超えて摂ろうとするからです。
 こうした悪業は私たちへ報いをもたらします。
 経典によると、欲望が止めどなく盛んになる一方で、日に日に豊かさが失われるとされています。
 恐ろしい悪循環です。

 昭和49年、今から39年前、小松左京は短篇『再建』を書きました。
 人口爆発と食料危機による「大崩壊」が起こり、生き残った人々は55才になれば村を離れ、荒野へ向かいます。
 異星人が持って来てくれた寿命を延ばすための薬なども拒否します。
 病弱な子供を抱え、荒野へ去る父親を見送る女性は、異星人へ語ります。

「そのお薬はいただけません。
 おろかな事を、二度とくりかえしたくないのです。」


 彼女の目線の先は廃墟です。
「──丘の反対の地平近く、荒れ果てた大地の彼方に、恐竜の骸骨のような、巨大な都市の廃墟がその稜線をのぞかせていた。
 鷲か禿鷹か、見分けのつかぬ鳥が、その上を何羽も輪を描いて舞っている。」

「人口は急速にふくれ上がり、ふくれ上がるにつれて、次第に飢えも増大し、それにつれて、世界全体に、むき出しの欲望と争いがふくれ上がって行き、やがて、すべての国々が、それにまきこまれ、無秩序と混乱がとめどもなく広がって──そして、ついに……」


 彼女は静かに話を続けます。

「でも、何もかも失われたわけではありません……」
「混乱と物質文明の崩壊のあとに、どこかに生きのびていた精神のバランスはブーメランのようにもどって来ました。
 ──得たものもありました。
 以前さわがれた人口問題とは、単なる貧しさの問題ではなく、精神や生と死の根本問題に目をつぶって、かたよった形でふくれ上がって行く物質的ゆたかさの問題だった。
 という知恵が得られました。
 私たちはこの教訓を忘れたくないと想っています……」


「今度は、生と死の問題、精神と物質のバランスの問題を慎重に考えた、本当に〝美しい文明〟を私たち自身の努力できずき上げたい、というのが、私たちみんなの、共通の願いなのです……」


 自由競争の名のもとに、ルールを離れた巨大資本が世界中の食料を奪い合っています。
 生きのびるための道具であり、死をもたらす道具でもある高度な医薬品が自由に売買されるようになりました。
 私たちはどれだけ「生と死の問題、精神と物質のバランスの問題を慎重に考え」ているでしょうか?
 はたして「本当に〝美しい文明〟」は考究されているでしょうか?
 心優しい小松左京は、亡霊ではなく、生きのびた人に「大崩壊」後の世界を語らせましたが、どうなることか。
 後の世代に「無秩序と混乱」を体験させたくない、戦争をさせたくない、ただ、祈るばかりです。




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2013
01.12

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その44)─人の貴さと心の豊かさそして安全と安心について─

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 江戸時代まで寺子屋などの教材として広く用いられていた『実語教童子教』を見直しましょう。
 一度聞いたら忘れられない警句などがふんだんに含まれています。

2 心の豊かさ

「貴(タット)き者(モノ)は必(カナラ)ず冨(ト)まず  
冨(ト)める者(モノ)は未(イマ)だ必(カナラ)ず貴(タット)からず
冨(ト)めりと雖(イエド)も心(ココロ)に欲(ヨク)多(オオ)ければ  
是(コレ)を名(ナ)づけて貧人(ヒンジン)とす
貧(ヒン)なりと雖(イエド)も心(ココロ)に足(タ)れりと欲(ホッ)せば  
是(コレ)を名(ナ)づけて冨人(フジン)とす」


(尊い人は必ずしも裕福な人ではない、
 裕福な人は必ずしも尊い人ではない。
 裕福であっても心に我欲が多ければ、
 その人は心の貧しい人である。
 貧乏であっても心に充実感のある生き方をしようとしていれば、
 この人は真に豊かな生き方をしている人と言うべきである。)
 
 私たちが人間として第一に求めるべきは心を成長させることであり、モノはその手助けとして生かされる道具の一つです。
 しかし、モノの豊かさよりも心の豊かさこそが求められるべきであるという倫理観は、今や、どこかへ吹き飛んでしまったかのようです。
 
 そもそも、日本における裕福な人は、貧しい人よりも一層、身を慎み、モノに比べてレベルが劣っている自分の心が知られないよう気を配りました。
 そして、モノのレベルへ追いつくよう、心の錬磨も行いました。
 貧しい人々を思いやり、日常的に手を差し伸べました。
 もちろん、皆が皆、そうしたわけではなく、身を持ち崩したり、恨みをかったり、鼠小僧次郎吉のような義賊に襲われたりする人もいましたが、上記のような倫理観があったことは確かです。
 事実、私が子供の頃、周囲にいたお金持ちたちは、その子供も含めておおむね好ましい〈密やかな何か〉を感じさせてくれたものです。

 私たちには、ないからとむやみに欲しがり、あるからと威張る「モノカネの奴隷」になるのは恥ずかしいという倫理観があったのです。
 そして、貧しい者は金持ちの愚かさ加減を堂々と見張り、金持ちは金持ちだけではない人になるよう何らかの努力をしていました。
 日本人全体として、モノカネのあるなしを超えたまっとうな倫理観の緩やかな共有があったのではないでしょうか。
 下級武士の清冽な生き方などを描いた藤沢周平の小説にもこうした空気は感じられます。

 いったい、いつから私たちはモノの奴隷になり始めたのでしょうか?
 最もモノがなかったはずの敗戦直後に倫理観が吹き飛んだという話は聞いたことがありません。
 むしろ、日本の復興がある程度進み、人々がどうにか生きられるようになり、「もっと、もっと!」となったあたりから、倫理観は薄くなっていったのではないでしょうか。
 私には忘れられないテレビの場面があります。
 臓器の斡旋か何かを行い、違法ではなくとも阿漕(アコギ)な商売で大金を掴んだ男が、テレビカメラの前で一万円札をばらまくのです。
 子供ながらに、哀れなほどの貧相、心の卑しさに反吐が出そうでした。
 しかし、今や、成功者たちが裕福度を誇り、子供や若者が裕福さに憧れて成功者をめざすという時代になりました。

 だからこそ、こうした教えが見直されねばなりません。
 11月11日付の産経新聞は衆議院議員中山恭子氏の「『文化のオリンピック』も日本で」を掲載しました。
 その中で、「江戸時代に全国の寺子屋で使われた教科書」として『実語教童子教』に言及しています。

「小学校1年程度の子供たちが学び、庶民の子弟も男女を問わず高水準の教育を受けていた。」


 私たちは、経済発展を求める中で忘れ、放置していた心の宝ものをもう一度、見直さねばなりません。
 この『実語教童子教』がまず、大人たちに再読され、その精神が子供たちへ、子々孫々へと伝えられるよう願ってやみません。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
01.11

子や孫のためにふり返っておきたい先人の導き(その43) ─謙虚さを忘れず、破壊的感情を抑え、大欲を持って進もう─

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〈冬ざれの七ッ森〉

 この欄では、昭和6年に発行された小冊子を基にして子供たちの導き方を考えています。

40 「ひ」 一つ上ったらも一つ上れ

「向上の精神は少年の生命だ。
 上れ!
 あくまで上れ!
 中途で満足したら、それきりだ。
『これでいい』というのは退歩の言葉だ。」


 真の向上的精神は、決して我欲(ガヨク)ではなく、謙虚な心と大欲(タイヨク)によって支えられます。

1 謙虚な心

 謙虚な心が鏡となり自分の〈至らなさ〉に気づきつつ、私たちは向上します。
 鏡がなくなったら、それきりです。
 それきりとは、生まれの因縁と、それまでの人生の延長線上で惰性の生活をするということです。
 生まれの因縁のままに生きればそれでいいじゃないか、とは言えません。
 なぜなら、生まれ持った煩悩(ボンノウ)という「破壊的感情」によって自他を傷つけつつ生きざるを得ないからです。
 しかも、これを放置したまま、もしもお金持ちになったり権力を握ったり有名になったりすると、一人の煩悩によって人生を破壊される人々がたくさん生じてしまいかねません。
 
 A社は復興工事にからんで急成長し、全国規模で人集めをしています。
 当山の信徒Bさんは条件に魅力を感じてはるばる東北まででかけ、宿舎生活を始めました。
 ところが、労働条件は広告とかけ離れ、手取りは少なくタコ部屋同様の生活で、しかも上司は部下をいじめ、あげくの果ては暴力的制裁も常態化しているというありさまで、Bさんは泣く泣く東北の地を離れました。
 Bさんからいただいた手紙の一部です。
「ご縁により宮城県の法楽寺様にお邪魔する機会がほぼなくなることが残念です。
 ただ私はお金が用意できるならば法楽寺様がホームページにて募っておられる守本尊様のご奉納に参画したく思います。
 私自身は宮城県から遠く離れてしまいましたが、私を守ってくださる仏様が、お寺を守る支えとなるのはまことに光栄でございます。」
 肉体労働を行っているBさんは、いつの日にか守本尊様を奉納し、自分が守られると同時に、当山へ足を運び縁を結ばれる方々がその守本尊様に守られることを願っておられます。
 泣けました。
 そして、憤りました。
 このように、まじめにはたらき、他のためにもなろうとしている純真な若者が食いものにされてしまうとは何と恐ろしいことでしょうか。

 A社を動かす人の煩悩が悪業をつくり、A社が悪しき共業(グウゴウ…社会的な業)を積んでいる様子は決して珍しいものではありません。
 もちろん、お金を儲けようとすることそのものに善悪はなく、問題はいかなる目的で、いかなる方法を用いて儲けるかという目的と方法にあります。
 経営者や出資者が優雅な生活をするためだけであれば、あるいは、はたらく人々を単なる道具扱いするのであれば、いかなる大儲けにも本質的な価値は伴わず、むしろ、儲けの大きさほど悪業を積んでいる可能性を疑わねばなりません。
 そもそも、人間を使い捨ての道具として扱うシステムそのものがすでに非人間的であり、日本全が持っていたはずの美風である〈支え合い〉からどんどん遠ざかっていることを指摘する議論が少ないのはどうしたことでしょうか。
 膨大な〈Bさん〉を生みつつ大企業が儲け、国力を高めて、日本はいったい、どこへ行こうとしているのでしょう。

 謙虚に自らの煩悩を見つめ、〈至らない〉人間であることを忘れず、知的向上も運動能力の向上も、煩悩の浄化を伴いつつ行いたいものです。

2 大欲(タイヨク)

 ダライ・ラマ法王は煩悩を二つのカテゴリーに分けられました。

「貪欲、憎悪、悪意などのそれ自体破壊的なものと、怒りや愛着や怖れなどの状況にそぐわないほど強烈になったときに破壊的になるものです。」


 憎悪は発した時すでに破壊的であり悪行につながるけれども、怒りは正義感から発する場合もあり、それが行き過ぎ破壊的な様相になれば悪行へ走る怖れがある感情なので、二つをきちんと分けて考えねばなりません。

「疑い、恥じ、悲しみ、競争心などの感情も、またエゴイズムでさえも同じように破壊的な局面と破壊的でない局面の二面を持っています。」


 疑いから勉強は始まり、恥じや悲しみは社会生活に役立つ場面があり、競争心も「高度なすばらしいことを成し遂げよう」とする時には原動力となり得ます。

「エゴイズムもまた二種類に分けることができます。
『自分にはこれをやってのけることができる』という心、自信のもととなる強い自我意識なら有益でしょう。
 しかし自分の利益だけをひたすら追究するもうひとつのタイプのエゴイズムは、他人の幸せなど一顧だにせず、自分の利益のためなら喜んで他人を搾取します。
 そのようなタイプのエゴイズムは明らかに破壊的なものです。」


 よく誤解されているように、仏教は「欲イコール悪」と説いているのではありません。

「このように人の心の動きという微妙な問題をあつかうときには、教条的になりすぎないことが肝心です。
 ある心の状態が有益で建設的なものなのか、破壊的でよくないものなのか、文脈がわからなければ見定めることは不可能です。
 おおもとにある動機は何なのか、その感情の対象が何なのか、結果がどうなるのかなどを考慮に入れてようやく善し悪しの判断がつくのです。
 それゆえ、人の心という分野においては、私たちは常に心をひらき、柔軟に、実践的に対処すべきなのです。」


 まさにこうした真実を理由の一つとして、当山は対面の人生相談のみを行っています。
 私たちの生命力が強く動こうとする時、その大元に動機として大欲(タイヨク)があれば、決して破壊的感情ははたらきません。
 自他のためになろうとする大欲は建設的であり、自他を最大限に生かそうとするものだからです。

 
3 結論

 子供たちの向上意欲を正しく導きましょう。
 謙虚さを忘れず、心に潜む破壊的感情を抑え、善き目的のために大欲を持って進むよう、指導したいものです。




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2013
01.10

「自らと仏と衆生すべてが平等である」とはどういうことか? ─妻・母・中西龍・ミケ子─

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〈今や招き猫として境内地を護る外猫「ミケ子」〉

 瞑想会でご質問がありました。
「自分と仏様と生きとし生けるものが同じとはどういうことでしょうか?」
 お答えしました。

 仕事が遅くまでかかり、もう8時になろうとする頃、病気の妻から声がかかりました。
「お父さん、晩ご飯まだなの」
 苦笑いしつつ、ハッとしました。
 ──自分もこうやって育てられたのだ。
 母は若い時分に教師を務め、小さな私を籠へ入れて教室の隅に置き、教鞭を執っていたそうです。
 そのあとは、父を支えてずっと年中無休の商売をやっていました。
 小さかった私は、そんな母へしょっちゅうねだったいたはずです。
「母ちゃーん、ご飯まだー?」
 うるさいねと叱られたり小言を聞かされて嫌な思いをした記憶がないということは、母はきっと疲れている身体にむち打ち、急いでご飯を出してくれたからでしょう。
 今の自分が妻のためにお勝手へ走り、急いで温かなものを作るのと同じく……。
 ──この歳になるまで母の気持を知らなかったとは何と情けないことか、そして、気づくまで生かしていただいたのは何とありがたいことか。

 また、母親として自分の手一つで育児をしつつ生き、ときおり人生相談に来られるAさんやBさんやCさんを想います。
 ──体調が悪い時も、仕事が溜まっている時も、グチを言わず笑顔を絶やさず、我が子へたっぷりと思いをかけ、目をかけ、手をかけておられるのだろう。
 今の自分が妻へそうしようとしているように……。

 そして、こうした視点、こうした実感や行動がみ仏の視点であり、み仏の心やおはたらきでなければ、私たちは自分たちがみ仏の子であるという真実をどこへも求めようがありません。
 AさんもBさんもCさんも亡き母も自分もみ仏も真実世界では一つです。
 分けようがありません。

 さらに、故中西龍を思い出します。
 彼に私淑していたアナウンサー生方恵一(79才)氏は、NHKの名物アナウンサーだった彼について述べています。

「高校野球の中継なんか、こんなぐあい。
『真っ青に晴れ上がった旭川市営球場。白い雲が右から左にゆっくり流れていきます。あっ、その間にランナー二塁に盗塁成功です』と。
 放送自体がひとつの詩でした」(1月8日付の朝日新聞「しょせん道づれ 男と女」より)


 彼の口から出ていた言葉には、平明に〈事実〉たちが並べられています。
 しかしそこにあるのは、知的に捉えられた物理的現象だけではありません。
 空にも雲にも球場にも球児にも観客にも〈情緒〉が通(カヨ)っており、情緒を共有する者として彼も視聴者も皆、情緒の世界で一つになっていました。
 そしてそこもまた、私たちへ潤いや希望や勇気を与えるみ仏の真実世界だったことでしょう。
 だからこそ、半世紀近く前のできごとが未だに生方恵一氏の脳裏で生き生きと息づき、記事を読む私たちの胸に温かなものを広げてくれます。

 また、二匹のネコも思い浮かびます。
 飼っておられる方や動物好きの方ならおわかりのとおり、ネコにも喜怒哀楽があり、それは人間へ通じてきます。
 ネコの空腹は自分の空腹であって放置できず、ネコが襲われれば自分が襲われるのと同じに追い払い、ネコが陽の当たった温かな砂利の上でゴロゴロすれば自分もたまさかの陽気に感謝します。

 こんなふうに、日常生活において、〈自分と仏様と生きとし生けるものが同じ〉という場面は多々、ありますが、ともすれば、そこが観えなくてギスギスした心になっている場合があります。
 目に映るモノは物理的現象としてのモノでしかなく、声は物理的現象としての声でしかなくなります。
 他人は自分にとって利をもたらしてくれるかどうかで分けるようになり、どんどん他人そのものに対して無感覚になって行きます。
 中西龍が考え、語ったラジオ番組「にっぽんのメロディー」の冒頭を飾るナレーションです。

「歌に思い出が寄り添い
 思い出に歌は語りかけ
 そのようにして歳月は
 静かに流れていきます」


 瞑想を通じて真理を観る智慧と同時に真実を感得する慈悲心をも養い、迷いを離れ、潤いのある生き方をしたいものです。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。





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