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2013
04.30

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第134回)─富田賞を受賞し白日会会員となった鷺悦太郎氏─

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〈第86回白日会展『追憶』〉

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〈第88回白日会展『アリア』〉

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〈第89回白日会展『クロアール』〉

 平成12年5月3日、当山はブログ内『現代偉人伝』において、白日賞を受賞した画家鷺悦太郎氏を紹介した。
 受賞作『アリア』を描いた氏は陸前高田市に住み、200点を超える全作品が津波によって流されても、活動を続けている。

 第88回白日会展の『アリア』と、津波の前年の作品である『追憶』は、同じモデルと思われるが、画に漂う空気があまりに違う。
 そして今回富田賞を受賞し、たった3年で白日会正会員と認められるきっかけとなった『クロアール』における女性の姿勢は明らかに『アリア』の延長線上にあるが、心の置かれた世界が変質している。
 『アリア』は容赦なく結果が出た世界である。
 異次元の破壊力によって何もかもがローラーをかけられ、喪失と死が白日のもとに晒され、その荒涼とした世界は青空の下にくまなく広がっている。
 女性はさえぎるものとてない広々した空間を通って吹いてくる風に向かって立っている。
 うち倒されざる者は、どこへでも向かい得るが、とにかくここから始めるしかない。
 選択肢のない地点である。

 しかし、『クロアール』は閉ざされている。
 画家は、表現方法を模索しようとして、何度も宮城県内の牢屋へ足をはこんだという。
 確かに光が射しており、女性は、うつむきかげんに耐えていた前作の時とは違って、導きの光が来る方向へと全身が向いてはいる。
 しかも、がんばって目線を上げようとしていた時とは違って、やや上方の光源へおのづから目線は上がっている。
 顎の位置が高い。
 まんべんんなく降り注ぐ光が明らかにする無の中で耐えていた時とは違って、特定の光源があるにはある。
 しかし、いる場所は牢獄である。
 周囲につかむもののない両手は、もはや、組むしかない。
 左手は右手に「大丈夫と」告げ、右手は左手へ「大丈夫」と告げ、自分を確認すると同時に自分を励ましている。
 視野の広がらない世界で両手を一つにして視線を上げる先には仏神がおられる場合もある。
 そうした宗教的な見方もできなくはないが、周囲にある不安とあまりにも不釣り合いな確たる笑みは、大きな諦観を感じさせる。
 寒風にたじろがぬ勁(ツヨ)さに加えて、自立心を構成する芯の強さが生まれているのではないか。

 あらためて三枚の画を比べてみる。
 『追憶』の頃、政権交代によって社会へ広がった希望が色あせ始め、だらだらと続く不景気に、人々は先行きへの不安を募らせていた。
 女性は覗き込むように、あるいは確認するように、薄日に立ち現れる未来を観ようとしている。
 書物を手にしているのは、書き残され、かつては確かに在った〈過去〉に、来るべき未来の根拠を見つけようとしているからではないか。
 『アリア』の頃、生き残った人々にできることは、倒れず立ち向かうのみだった。
 地にある去ったものたちの痕跡から、まずは、屹立(キツリツ)せねばならなかった。
 生きてありながら痕跡と同化することはできない。
 そして今、震災や原発事故で大きな傷手(イタデ)を負われた方々は、根本的打開のできない閉塞状況への諦観を抱きつつ、自分の足でとにかく光のある方向へと歩み始めておられる。
 『クロアール』はフランス語で信じるという意味がある。
 平成25年4月3日付の東海新報は氏の富田賞受賞を紹介し、「『希望の光』を表現」と書いた。
 記事の中で氏は言う。

「自分が震災で経験したひもじさや寂しさが、作品制作のきっかけとなった」
「震災により、さまざまな環境を失ったことは事実。
 けれども、以前のような平和な町が、いつか必ず戻ってくる。
 そして、今何かをしているこの瞬間が、きっと後から自分の宝物になる。
 絵を見た人にも、そんな気持になってもらえれば」


 目を引かれたのは「さまざまな環境を失ったことは事実」という表現である。
 それぞれの環境(人も含めて)を失いはしたが、そこで、倒れ伏してしまう人もいれば、モデルとなった女性のように一人の人間としての尊厳が深みを増す人もいる。
 氏は、言外に、失われていないものがあると言いたいのではなかろうか。
 しかし、重ね重ねて失い、足元がおぼつかなくなった方々の気持を忖度すれば、はっきりとそれを語ることは、いささか、はばかられる。
 だから、そこは口にせず、画で示したのではなかろうか。

 『追憶』の女性がまとうのは、ねずみ色に近い生壁色だった。
 『アリア』で女性がまとうベースの色は黒だった。
 『クロアール』では、空間の色をやや映した白色に青竹色か青柳色である。
 このように変化する衣装は〈時〉であり、〈空気〉ではないか。
 そして、人間は厳然と自立している。
 尊厳にあふれた作品は、きっと、人々の力を引き出すことだろう。
 
 一度、右方向へと向きを変えた女性はまた、左向きへ戻った。
 非常事態は去ったのだろう。
 不安は決意にうち祓われ、祈りが生まれようとしている。
 氏のますますのご活躍と、モデルとなった女性及び被災された方々へよき未来が訪れることを祈りたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
04.30

5月の聖語 ─清浄な情熱を持ちましょう─

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 お大師様の言葉です。

「『欲の矢』は、あらゆるものを救いたいという情熱も含む」(空海BOTより)


 これまでに何度も書きました。
「仏教は欲をなくして仙人のようになることをめざすものではありません」。
 生きる意欲が、煩悩(ボンノウ)の穢れを離れた大欲(タイヨク)として活き活きとはたらく人生。
 これが仏道修行の目的です。
 そうして生きる存在が菩薩(ボサツ)です。
 だから、無限の衆生を相手にする菩薩は意欲に満ちており、「目的を持てば達成されない場合にストレスになるから、目的を離れて楽になろう」などと考えはしません。
 たとえば、胃腸が弱ればおかゆを食べねばなりませんが、普段、おかゆばかりを食べていたなら、丈夫な身体をつくり、激務に励めましょうか。
 人は誰しもが、あらゆる生きとし生けるもののおかげで今を生きていられる以上、あらゆる生きとし生けるもののためになろうとするのは、あまりにも当然です。 

 密教の瞑想は、単刀直入にそこを目ざします。
 日常生活では我欲や怒りなどが動いても、本性はみ仏の子であることに気づき、自然に、自分だけがそうではなく、生きとし生けるものが皆、み仏の世界にあるという意識へと入ります。
 ならば、瞑想の目的は、み仏の願いを自分の願いとして実現しようとするところにしかありはしません。
 目的は、「五大願」です。

1 衆生は無辺なり 誓ってすくわんことを願う
 生きとし生けるものは無限に存在し、苦を抱えているので、手を差し伸べましょう。
 倫理的要請というよりは、思いやりの心がはたらけば、できることをしないではいられないのです。
2 福智は無辺なり、誓ってあつめんことを願う
 手を差し伸べる力となる福徳と智慧とは無限にあるので、獲得しましょう。
 誰かのために何かができるためには、自分一人が生きる力と知恵があるだけでなく、豊かな福徳と智慧がなければなりません。
3 法門は無辺なり 誓ってまなばんことを願う
 教えの世界は無限にあるので、学びましょう。
 いのちが無限にある以上、苦を離れる手立ても無限に必要であり、真実を生きるための真理の教えもまた、学びきれないほど無限にあります。
4 如来は無辺なり 誓ってつかえんことを願う
 み仏はどこにでもおられるので、感得するすべてへお仕えしましょう。
 み仏は仏像にだけおられるのではなく、山にも、街にも、人間にも、ウグイスにも、タンポポにもおられるので、合掌の心は途切れません。
5 菩提は無上なり 誓ってさとらんことを願う
 み仏の悟りの世界はこの上なく、何としても悟りを目ざしましょう。
 何を行おうと、それがそのまま悟りへの道であるように生きたいものです。

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 瞑想では、「こうしたい」「こうなろう」とする心が、「即、そうである」と気づくところを目ざします。
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 成仏体験を重ねれば、いつしか、いのちに伴う意欲は清浄な大欲(タイヨク)へと変化してゆきます。
 この過程でも冒頭の教えにある「情熱」は燃え、大欲がはたらく時もまた、当然、燃え続けます。
 谷村新司の『陽はまた昇る』において、くり返される歌詞があります。

陽はまた昇る どんな人の心にも
 ああ生きてるとは 燃えながら暮らすこと」


 まさに大欲の世界であり、菩薩の世界です。
 また、宗教宗派を問わず、お互いがこの〈清浄な情熱〉に感応し合えば、文字どおり手に手を取って暮らせる世界がやってくることでしょう。




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2013
04.29

5月の守本尊様と真言

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 5月は、立夏と小満(ショウマン)の皐月(サツキ…5月5日より6月4日まで)です。
 5月は巳(ミ)の月なので、守本尊は普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

21080819 010

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 5月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2013
04.28

平成25年5月の行事予定

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〈好天のもと、お花見の会を行いました〉

 立夏と小満(ショウマン)の皐月に行う行事予定です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭] 2013/5/5(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[書道・写経教室] 2013/5/5(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第三回法楽塾] 2013/5/5(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第九回人生よろずQ&A公開相談会] 2013/5/8(水)午前10:00~12:00

 これまで行っていた「法話と瞑想の会」を衣替えします。
前半の一時間は今までどおり、法話と瞑想などを行い、後半の一時間は公開質疑応答を行います。
 迷っていることやおかしいと思うことなど、何でもお気軽にご相談ください。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台市民センター(今月は青年文化センターではありません)
・ご志納金 どうぞまごころのままに

[第三十九回寺子屋『法楽館』 ─アメリカ映画『クンドゥン』に学ぶ─] 2013/5/11(土)午後1:30~午後3:30
 
 今回の寺子屋『法楽館』は、ダライ・ラマ法王の半生を綴りながらチベット弾圧の歴史をたどるアメリカ映画『クンドゥン』を観賞し、国家・文化・宗教が滅ぼされつつあるチベットについて考えます。
 平成9年、マーティン・スコセッシ監督は、プロの俳優を用いず世界中から素人のチベット人を集め、渾身の製作を行いました。
 音楽はチベット仏教徒のフィリップ・グラス氏が担当し、世界中から高い評価を受けました。
 ウィキペディアによれば、クンドゥンの意味は以下のとおりです。
「題名のクンドゥンは彼の尊称 Kundun (瞿曇)に由来する。
 これはチベット人がダライ・ラマに敬愛と親愛の情を込めて呼ぶときの尊称で、『尊いもの』または『存在(Presence)』というような意味。
 法王、法王猊下とも意訳される。」
 この映画を観ると、チベットで何が行われた結果、現在の惨状に至ったかがよくわかります。
 また、人間にとって大切なものは何か、国家は国民のためにどうあらねばならないか、歴史の風雪に耐え、鍛えられ、深められて人間を支える宗教の価値、などを考えさせられます。
 中国政府は、この映画を国内へ持ち込ませず、もちろん上映も禁じています。
 ウィキペディアは言及しています。
「主な出資者でありアメリカでの配給元であるディズニーには中国から強い圧力があったと言われ、アメリカ国内ではあまり広く公開されなかった。」
 この映画は、中国政府にとって〈なかったことにしたい、伏せておきたい不都合な真実〉を容赦なく顕わにしています。
 監督は「この映画は無条件の愛についての映画である」と語っています。
 宗教は毒であるとして消滅をはかる中国軍にひるまず、国家と仏教を守ろうとする人々と法王の姿は、私たちへ、人間の崇高さを再認識させます。
 一人でも多くの方々にご覧いただき、チベットに起こったこと、ダライ・ラマ法王の真実、人間、宗教、国家について共に考えたいと願っています。

 どなたでも自由に参加できます。事前の予約も不要です。どうぞふるっておでかけください。
・題  材  米国映画『クンドゥン』
・場  所  当山講堂
・ご志納金  1000円(中学生以下500円)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第二例祭] 2013/5/18(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第十回人生よろずQ&A公開相談会] 2013/5/22(水)午前10:00~12:00

 事情により中止となりました。
 6月12日(水)、26日(水)は旭ヶ丘市民センターにて開催します。


 これまで行っていた「法話と瞑想の会」を衣替えします。
前半の一時間は今までどおり、法話と瞑想などを行い、後半の一時間は公開質疑応答を行います。
 迷っていることやおかしいと思うことなど、何でもお気軽にご相談ください。
 会員制ではなく、その都度、まったく自由にご参加いただけます。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
・場  所  仙台市旭ヶ丘仙台市民センター(今月は青年文化センターではありません)
・ご志納金 どうぞまごころのままに

[お焚きあげ] 2013/4525(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。
※毎月、最終土曜日に行います。

[機関誌『法楽』作り] 2013/5/27(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
※毎月、最終月曜日に行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 第一週の土曜日 午後6:00~8:00 法楽寺にて 
 第二週以降毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。




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2013
04.28

言葉を知ってから夕焼けが「美しく」なった話

20110901 0132

 私たちは普段、何気なく言葉を用いています。
 まるで空気のように。
 しかし、空気なら自分の家族も、お隣の家族も同じように吸っていますが、近くにある公園の桜が同じように見えるかといえば、そうではありません。

 昭和48年に、還暦を過ぎてから文字を覚えた方が、生まれて初めて書いた手紙があります。

「わたくしは うちがびんぼうであったので がっこうへいっておりません。
 だから じをぜんぜん しりませんでした。
 いま しきじがっきゅうで べんきょうしてかなは だいたい おぼえました
 いままで おいしゃへいっても うけつけで なまえを かいてもらっていましたが
 ためしに じぶんでかいて ためしてみました。
 かんごふさんが 北代さん とよんでくれたので たいへんうれしかった。
 ゆうやけを見ても あまり うつくしいと 思わなかったけれど
 じを おぼえて ほんとうに うつくしいと思うように なりました。
 みちをあるいておっても かんばんに きをつけていて
 ならった じを 見つけると 大へんうれしく 思います
 すうじおぼえたので スーパーや もくよういちへゆくのも
 たのしみになりました
 また りょかんへ行っても へやのばんごうを おぼえたので
 はじも かかなく なりました。
 これから  がんばって もっともっと べんきょうを したいです。
 十年 ながいきをしたいと 思います。
                     四十八年二月二十八日
                                北代色


 部落出身の北代色氏は差別され、読み書きも習わないまま還暦を迎えられました。
 一度、読んだら忘れられない手紙です。
 社会的問題を突きつけられる厳しさもさることながら、
「ゆうやけを見ても あまり うつくしいと 思わなかったけれど
 じを おぼえて ほんとうに うつくしいと思うように なりました。」
の一文は、文字でできている言葉が、人間にとっての外界と動物にとっての外界とを分けるという真実を余すところなく訴えてきます。
 
 私たちが夕焼けを「美しい」と思うのは、「美しい」という言葉を知っているからであって、夕焼けは、イヌやネコをその〈美しさ〉によって立ち止まらせはしません。
 当山の飼い猫クロはときおり、本堂の窓越しに笹倉山を眺めているかのようなポーズでじっとしていますが、その心中はわかりません。
 ただ、「美しい」と思っていないことだけは確かなのでしょう。
 こうした事実は、漫然と生きている私たちを愕然とさせます。
 ──自分にとっての〈世界〉とは、自分が知っている言葉の範囲でしか成り立っていない……。
 ──ならば、私の言葉の貧しさは、私にとっての世界の貧しさに通じ、生きる世界の貧しさに通じている……。

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 忘れられないお釈迦様の言葉があります。
 もうすぐこの世を去ると告げられたお釈迦様へ、周囲の人々がいつまでもこの世に留まって導いてくださいと懇請した時の返事です。

行道は心に存す。
 必ずしも我を見るによらず」
「我が説のごとく行わざれば
 空しく我を見るも益なし」


(修行はそれぞれの心がけによって行うべきであり、
 私に会わなければできないものではない)
(私の説くとおりに実践しないならば
 ただ、私に会っても役に立たない)
 仏像の前に座る時だけが修行ではないとわかっていても、こうしたお釈迦様の言葉を知ると、そのことが心に強く沁みて「いついかなる時でも」との決心が格段に強まります。

 言葉は空気と違って誰にでも与えられているのではなく、言葉が誰にでも共通して理解される性質を持っているだけです。
 文字を知り言葉を知ってイメージが深まれば、私たちの住む世界はより深い意味や意義を顕し、それは私たちの人生が深まることにもつながります。
 お大師様は説かれました。

「仏界の文字は真実なり」


 文字や言葉のありがたさ、経典のありがたさを忘れずに励みたいものです。
 ただし、お釈迦様から与えられた言葉「垢を除かん。塵を払わん」だけを唱えつつ掃除に励んだチューラパンダカが、たったそれだけでアラカンさんにまでなったという故事も押さえておきましょう。
 知っている文字や言葉の〈量〉だけが決定的なのではなく、心が深まるところが大切なのです。
 冒頭の北代色の手紙も、「うつくしいと思うように なりました」があればこそ、40年の歳月を経てなお、私たちの心をつかまえる力を失っていません。
 言葉は不思議なものです。
 



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
04.27

この世は極楽浄土よりも悟りやすいというお話

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 もしも、地獄界や餓鬼界などに生まれたならば、しみに耐えるだけで精いっぱいとなり、み仏の教えを学び実践する余裕はありません。
 そうかといって、もしも、天界に生まれたならば、天界から堕ちる時がこないかぎりはなく、寿命も長いのでなかなか修行はやれません。
 しかし、人間に生まれた私たちは、その気にさえなれば、いつでもみ仏の教えを学び実践できます。

○限りあるいのちであると実感すれば、「無常」を理解できます。
 自分の寿命が腑に落ちる以上、すべては変化しとどまることがないという無常の理をはっきりとつかむ方法はありません。
 無常を突き詰めてゆけば、やがて、(クウ)もつかめることでしょう。
 そうなれば、この世の観えようは一変します。
○我(ガ)によってぶつかりあっているために「」を実感できます。
 お釈迦様は「はあるけれど楽もあるからいいさ」というレベルではないを説かれました。
 たとえば大病に罹って自分のいのちがままならぬことを知り、意図しないのに誰かを傷つけて自分の愚かさや運の力に立ちすくむ時、「楽もあるから」という考えは飛散します。
 根源的なは私たちのいのちと共にあり、根源的方法によればこそ、そこから解き放たれます。 
○因縁による結果がわかるために「因果応報」を信じられます。
 相手のオモチャを奪えば相手は泣いたり、飛びかかってきたりして、子供でも自分がやったことは自分に跳ね返って来ることを知っています。
 大人の世界に生きるようになれば、悪者がはびこり、善人が苦しんだりしている不条理を知りますが、それは、子供の時代と違って因縁のからまりが複雑になり、すぐに確認できる形をとらないだけのことです。
 子供の頃に因果応報をよく心へ刻んでおけば、現実の不条理に潰されず、曲がらず、正義感や慈悲心を保ちながら理想に向かって歩めます。

○周囲の生きとし生けるものに苦があるために、「布施」の実践ができます。
 布施行に励めば、その善行の報いとして財物に恵まれ、修行の余裕はさらに増します。
○自己中心でままならない状況をつくるために「持戒」の実践ができます。
 持戒行に励めば、その善行の報いとして威力が備わり、修行の余裕はさらに増します。
○思い通りにならないために「忍辱(ニンニク)…忍耐」の実践ができます。
 忍辱行に励めば、その善行の報いとして健康に恵まれ、修行の余裕はさらに増します。
○怠惰では社会人として生きられないために「精進」の実践ができます。
 精進行に励めば、その善行の報いとして光輝が備わり、修行の余裕はさらに増します。
○散漫になっては何ごとも成果を得られず心も不安定なので「禅定」の実践ができます。
 禅定行に励めば、寂静の境地が得られて心身がおちつき、修行の余裕はさらに増します。
○世間を渡る知恵だけではその場しのぎなので、「智慧」の実践ができます。
 智慧行に励めば解脱に近づき、修行の余裕はさらに増します。

 私たちは、悪しき報いの強い地獄餓鬼・畜生・修羅の世界に生まれず、楽が続く天人の世界に生まれず、その間にある存在として生きているために、徳ある行動ができます。
 もちろん、周囲の苦に見て見ぬ振りをしたり、自己中心のままで周囲と傷つけ合う日々を送ったり、思い通りにならないために心が荒んだりするかも知れません。
 それは地獄などへ近づく道であり、私たちは、自分の心がけ次第で光ある方向へも闇の方向へも歩めます。
 ただし、その光と闇は自分の一心に実現されるものであって、財物や名誉などのあるなしとは無関係です。
 お線香を用いた供養についてお話をする際に、こんな言い方をする場合があります。
「自分を燃やし尽くし、灰になった後も佳い香りを残すお線香のように精進している人は、たとえ目立たなくても徳の気配が漂っているものです」
 こういう方は、ご自身の一心によき世界を創っておられるに違いありません。
 人間に生まれた私たちは四苦八苦の宿命を背負っていますが、それは、四苦八苦を克服して菩薩(ボサツ)となる機会を得ていることでもあります。
 根源的苦の宿命に埋没して一生を送るか、苦を克服する向上の道を生きるか、それは私たちの一心にかかっています。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2013
04.26

公開Q&A(その7)僧侶はお葬式で何を考えているの?(その1)

20130425009.jpg

 勉強会での質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問7 お葬式ではどんなことを考えているのですか?

回答7 せっかくのご質問なので、お葬式当日だけでなく、お送りするための順番にそってお話しましょう。

 まず、枕経(マクラギョウ)にでかけます。
 当山の場合、口コミや紹介が多いので、ほとんどは初めてお訪ねするお宅です。
 玄関でお悔やみの口上を申しあげて白い草履を脱ぎますが、神妙な顔で対面する見ず知らずの方々に〈他人〉を感じたことはありません。
 ほとんど〈身内〉といった感覚です。
 そもそも、私は普段から身内とそうでない方とを別扱いはしていません。
 み仏と衆生(シュジョウ)と行者とを一如として修法しているので当然と言えば当然です。
 それに、できごとは決して〈そちら側〉にあるのではないので、ご遺族のお気持はまっすぐにやってきます。
 だから、そこのお宅の空気と一体になって故人の横に座り、修法の準備にとりかかります。
 多くの場合、まだ、遺影はできておらず、お名前とお命日と行年などのメモを目にして法を結び始めます。

 この段階で考えることは一つしかありません。
 異界の悪しきものが近づかないよう、迷わないよう、故人がどこのどなた様であっても平等に、お不動様のご加護で結界(ケッカイ)を張るのみです。
 結界の対象は人間だけではありません。
 安置されている場や家など、状況に応じて行います。
 それは、お次第にはっきりと示されています。

「家内、亡者共に結界すべし。
 よくよく魂魄(コンパク)を封じ着けて置いて去らしめず」


(家の中、故人、両方に結界を張らねばならない。
 しっかりと封じ、魂がさまよい出て迷わないようにせねばならない)
 あの世に行ったばかりの状態は、私たちがこの世に生まれ出た時に、似ているのではないでしょうか。
 親に守られるのと同じく、み仏の守護と導きが必要です。
 いかなる地位も名誉も財産も、守護と導きには役立ちません。
 
 修法が終われば必ず、今、何を行った修法の内容をご説明します。
 そして、「お不動様のご加護はいただくけれども、皆さんのお心で、重ねてお守りください」と申しあげます。
 方法は、お線香を手向けることです。
 なぜかと言えば、お線香は清浄なお精進の象徴であり、周囲の方々が故人を思い、ありったけのまごころを尽くすことになるからです。
 どなたもが、真剣に聞いてくださいます。

 それから、故人がいかなる方だったか、仕事や生活ぶりや信条などをお聞かせいただき、ご本尊様から戒名をいただく時に祈るための情報とします。
 あるお宅でこんなことがありました。
 亡くなられたお祖母さんについてお訊ねしたところ、ご当主様は自分で語らず、横にいる奥さんへ水を向けたのです。
 次に話されたのはご長男の奥さんです。
 男性方は黙ってときおり頷くだけでした。
 状況を理解しました。
 男性方は、長寿だったお祖母さんの介護などを実際に手がけた女性たちにこそ、故人への思いを口にさせたのでしょう。
 古いしきたりが残る地域の代々続くお宅なだけに、強く印象に残りました。

 この場でお布施についての質問が出ます。
 私の答は一つしかありません。
「お布施は自主的にご本尊様へお供えしていただくものなので、こちらから、戒名がいくら、ご葬儀代の分はいくらと請求する筋合いのものではありません。
 皆さんの価値観と、お財布の状態と、良識へお任せしています。」
 それでも、言ってもらわないと困るとおっしゃる方も少なくありません。
 しかし、最後はどなたもが娑婆の〈取引〉とは別次元の問題であると理解されるようです。
 当山は原則を貫き、心の問題や、仏神の世界や、あの世のことなど、計数化できないものがあることに気づいていただき、そこで自分の本心をふり返っていただくのもまた、僧侶の大事な務めであると考えています。
 もちろん、墓地の永代使用や講演会の参加費など、バラバラでは明らかにおかしなものは別として、「お布施は、差し出す側が自主的で心にやましさがなく、受け取る側も内容にこだわらず感謝し、受け渡されるものにもまたまごころがこもっているべきである」という大原則は、すべての寺院で徹底されるべきと考えています。
 なぜなら、寺院へ納められるものはすべてお布施であり、寺院はお布施のみで維持されており、布施を行うことは菩薩(ボサツ)になるために欠かせない修行であり、菩薩を目ざさない僧侶はおらず、共に菩薩をめざそうと説かない大乗(ダイジョウ)仏教の寺院もあり得ないからです。




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2013
04.25

知識は行動するためにあり、悟りは自他を救うためにある

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 岩波書店発行『科学にすがるな!』において、編集者艸場よしみ氏が質問しました。

「宇宙はどんな形をしているのですか?」
「宇宙は平坦だともいわれています。
 でもその意味がよくわからないのです」


 以下は、理論物理学者佐藤文隆教授が答えた一部です。

「それは算数の話だね。
 空間が曲がっているとか、光がまっすぐ進むということです」
「ほとんど平坦です。
 ただし、いま見ている範囲で平坦だということです。
 常にそういういいかたをしないといけない」
「これは頭で考えてわかることではなく、観測でわかるんです。
 だが観測にはお金がかかる。
 お金をかけて次々大きな望遠鏡をつくれば、もっと遠くまで観測できるでしょう。
 しかし、そこまでお金をかける必要があるのか。
 子供手当と宇宙が平坦かどうかの解明と、どちらを大事に考えてお金をかけるのか、バランスの問題だよ」


 教授は、観測によって把握できる科学的真理の範囲は、あくまでも観測できた範囲でことであるという理解が必要であると説きます。
 今、観測できた範囲で宇宙は平坦だが、もしも、もっと遥か遠くまで観測できるようになって端っこが見つかれば、そこから先は平坦でなくなるけれども、それはは観測してみない限りわからないし、もっともっとと果てしなくやるためにかかる膨大な費用は、はたして私たちにとっていかなる意味を持つのかよく考えねばなりません。
 社会が人間のために何をやるべきかを常に考え、社会が手を差し伸べねばならない境遇にいる子供たちを無視して望遠鏡をつくるわけにはゆかないのです。 

「あのね、地球の表面は曲がっているでしょ?」
「それを知って何をするのかがないまま、曲がっているか曲がっていないかと聞くのは意味がない」
「何のためにあなたは聞いているのかね?
 隣の家に行くのに、地球が曲がっているかどうかが心配で足が出ないというなら、曲がっていませんよと答えてあげよう。
 しかし、電波を地球の裏側に送りたいなら、地球は曲がっているから地表と平行に送っても届かないことを知る必要がある」
「知識とは何かをするためのものです。
 科学の知識の大部分も、人間が生きていくための知識です。
 ところがいまの質問のように、どっちでもいい気がかりなことを、科学の答えるべきことだと思う人もいる。
 ウィルスが発見されて、これを何とかしなければいけないと思う人もいれば、そんなことより宇宙が無から生じたのかどうか答えてくれと科学に要求する人もいる。
 後者はソーシャルに馬鹿である。
 知識はそういうものではない。
 自分が社会的に行動する、あるいは人前で何かをいうかいわないかといった、自分が行うことのために知識がいるのです」


 お釈迦様が説かれた毒矢のたとえを思い出します。
 毒矢に当たり死にそうになった人が、「この矢は、誰が、いかなる目的で、どこから射られたのか」などと知りたがったので、治療する人は、「今は、そうした詮索よりあなたが助かることが一番です」と答えた話です。
 自分が苦しみ、他を苦しめている私たちにとって今、行うべきは、自他共に苦を脱することです。
 あの世があるかどうかといった形而上的なことを考えているうちに、自他を傷つけたまま、一瞬後に死ぬかも知れません。
 同じように、いくつかの質問に対してお釈迦様は答えておられません。
 この世は永遠か?
 如来は死後、存在するか?
 こうした問いがぶつけられた時、お釈迦様は口をつぐまれました。
 
 教授が「自分が行うことのために知識がいる」と言い、お釈迦様が苦を脱することと無関係な質問に対して答えられなかったのは、共に、問題意識を持たぬ思考は意義のある知識をもたらさず、人間に資するものではないからです。
 そうした時間を過ごすうちにも、私たち個々人のいのちは砂時計のように減りつつあるのです。
 4月25日、京都大学iPS細胞研究所の桜井英俊講師たちチームが、筋ジストロフィーの患者の皮膚細胞から作ったiPS細胞を効率よく筋肉細胞に変化させ、病態を再現することに成功したとのニュースが流れました。
 ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥所長の業績が大きく花開きつつあります。
 所長は受賞したおりに、こうしたコメントを発表しました。

「今後も、難病の患者さんの体の細胞から作られたiPS細胞を用いて、新しい薬剤や治療法を開発することを、1日も早く実現するために、仲間の研究者とともに一生懸命頑張りたいと思います」


 教授は言います。
「学ぶことは生きること」。
 同じように、京都大学iPS細胞研究所の方々にとって「励むことは役立つこと」でしょう。
 そして、仏教徒にとって「精進するのは菩薩(ボサツ)となって生きること」に他なりません。
  まっとうな姿勢で、科学に生かされ、宗教に生かされ、まっとうに生きたいものです。




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2013
04.24

2013年5月の運勢(平成25年5月の運勢)─流れの生かし方と人生修行─

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 2013年5月の運勢(皐月…5月5日から6月4日まで)です。
 運気の流れによる注意点を参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

1 内から湧き上がる力を内なる規範に従ってコントロールしましょう

 今は自分に勢いを感じても、すべては変化の中にあり、いのちにもリズムがあるので必ず勢いの下降する時がきます。
 そうなってもきちんと生きられるために、余裕のある時にこそ生きる形を整えておく必要があります。
 もしもそうしないで勢いのままに突っ走っていれば、やがては、勢いが衰えてうろたえ、右往左往するしかなくなりかねません。
 この時期は、孔子の説いた「克己復礼(コッキフクレイ)」を心がけましょう。
 これは「己(オノレ)に克(カ)ち礼に復(カエ)る」と読みます。
 自己中心的な気持や果てしない欲望を抑え、心の中にある清浄な道徳や道義などに依って生きることです。

 かつて「ニュースセンター9時」でそれまでのNHKカラーを大きく変えたニュースキャスター磯村尚徳氏は、4月23日付の産経新聞でこう語っています。
「私は番組で自分の意見を言ったことはない」。
 あれほど闊達な弁で視聴者を惹きつけた氏について、記者は「自分の言葉で語ることと、自分の意見を言うこととの間に、一線を画した自負がある」と書いています。
 豊富な体験と深く広い知識を持った氏は、日々のできごとについて〈言いたいこと〉が山ほどあったはずです。 しかし、氏の立場はあくまでも、できごとをニュースとして客観的な視点から伝えることです。
 しかも、書かれた原稿を読み上げるだけでは、時々刻々と変化する状況を伝えきれません。
 氏は言います。
「ニュースは流れるもの。ストックされると、その分だめになってします」。
 そこで到達したのが「変に気取らないで、キャスターという人間をつうじてニュースをわからせる」という方法でした。
 自分の内に豊富な思いを抱えながら、立場をわきまえて自分の意見を言わないことが氏にとっての「克己」。
 そして、自分の内にある最も適切な言葉をありたけの力で探し、語ること、これが「復礼」だったのではないでしょうか。

2 同輩などの気安さに流されないようにしましょう

 私たちは、誰かが同窓や同郷や同年だったりすると、それだけでなぜか嬉しくなり、心のどこかが緩みもします。
 飲み屋さんで誰かがどこかのご当地ソングを唄うと、自分もその街の出身者であるという人が手を上げ、急に場が盛り上がったりします。
 不思議なものです。
 こうした気持は人間関係をよい方向へ進展させる潤滑剤になる一方で、相手の持つ悪に対して鈍感にならせかねないという面もあります。
 また、悪意ではなくても、自分の心にある気安さが相手との関係における甘さになり、結果的に相手へ迷惑をかける事態もあり得ます。
 もちろん、そうした心理を悪用する輩も絶えません。
 嬉しい気持はすなおに喜びながら、自他の心の動きには充分に気をつけたいものです。

3 高みにあるものを引きずり下ろそうとせず、自分の中にある高みもまた、しっかり守りましょう

 よく、「日本人は横並びが好きである」といわれますが、事実として考えねばならないのは、日本人ならずとも人間には嫉妬心があり、それは不毛の破壊に結びつきかねないという点です。
 村上春樹氏の最新作に、主人公が嫉妬を直感する場面があります。
 愛する女性が、どうしても肉体か心かどちらかしか彼に与えられないという夢です。
 彼は半分しか得られないことに耐えられず、そうかといってすべてを諦められもしません。
 夢から覚め、嫉妬は「世界で最も絶望的な牢獄」であり、それは囚人が「自らそこに入り、内側から鍵をかけ、その鍵を自ら鉄格子の外に投げ捨てた」ようなものであると理解しました。
 驚くべきことに、このできごとの後、ずっと死を望んでいた彼から死神が去りました。
「あの焼けつくような生の感情」が、「死への憧憬を相殺し、打ち消してしまったのだろう」。
 こうした強烈な激情に流されないよう、今月は特に注意が必要です。

 今月の六波羅蜜行(ロッパラミツギョウ)です。
 皆さんの開運を祈っています。

[布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は大事に慎重で、決して強情にならず、無事安全です。
 不精進の人は軽々に大事へ踏み込み、障害に短気を起こして失敗しがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は謙譲と質素倹約の精神で成功に近づきます。
 不精進の人は相手の非を責める刃が自分へ跳ね返り、失敗しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は先頭へ立とうと争わず、無事安全です。
 不精進の人は実力以上のことに挑みながら強気だけで押し切ろうとして挫折しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は天の時、地の利、人の和に恵まれ盛運に向かいます。
 不精進の人は闇雲に進もうとし、下心や捻れた心が露見して運気を損ないがちです。
[禅定(ゼンジョウ)行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は常に柔和で争わず、誰とでも親和を第一とし、凶事を避けます。
 不精進の人は強気が凶事を膨らませ、大難を招きがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人はいかなる状況下でも的確な判断で道を見失いません。
 不精進の人は身内や足元に起こる混乱を制御できず、進退窮まる状態を招きがちです。





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2013
04.23

無視(しかと)は精神的殺人である ─シベリア抑留の話と村上春樹の新作─

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 昭和46年、詩人石原吉郎氏は「望郷と海」を発表しました。
 太平洋戦争後、重労働25年の判決を受け、シベリアで抑留されてから帰国するまでの思いが綴られています。

「私がそのときもっとも恐れたのは『忘れられる』ことであった。
 故国とその新しい体制とそして国民が、もはや私たちを見ることを欲しなくなることであり、ついに私たちを忘れ去るであろうということであった。
 そのことに思い到るたびに私は、背すじが凍るような恐怖におそわれた。
 なんど自分にいいきかせてもだめであった。
 着ている上着を真二つに引裂きたい衝動に、なんども私はおそわれた。
 それは独房でのとらえどころのない不安とはちがい、はっきりとした、具体的な恐怖であった。
 帰るか、帰らないかはもはや問題ではなかった。
 ここにおれがいる。
 ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。
 おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。
 地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた(7万人の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した)。
 もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。
 望郷に代わる怨郷の想いは、いわばこのようにして起こった。」


 死んだ地点を思い出させようとする死者の思いは確かです。

 以前、変死が続くお宅の供養にでかけたことがあります。
 直近の火事で亡くなられた方の思いに引かれて庭を歩いたところ、どうしても強く訴えかけてくるものを感じた場所がありました。
 しかし、発表されている〈発見場所〉は、ずれています。
 やがて、その様子を見ていた近親者のお一人から、隠されている真実を教えていただきました。
 真実を胸に納めながら、代々の遺影が見守る大きな仏間でご供養した岩手県の山里は忘れられません。

 自死された方をご供養し、現場を清めるためにでかけました。
 経机を持ったまま足が向かったのは、ある部屋の外れでした。
 通常は北向きのしかるべきあたりに修法の場を定めるのですが、その時はご遺族にお尋ねすることもなく決まりました。
 実は、経机を置いた所から壁一枚を隔てた狭い廊下で故人が臨終を迎えていたのです。

 太平洋戦争で散華されたご英霊のご遺骨収集を続ける渡邉拓氏や同志の方々に接していると、〈通じる人へは通じてきている〉と感じさせられます。
 もちろん、皆さんは「見える」「聞こえる」などという怪しい話は一言もせず、黙々と活動を続けておられますが、その志は、決して生者の思いつきによるのではなく、生者にとっては無言でしかない死者の声が生者の魂へ訴えかけてきてこそ生じているのだと確信させられます。
 文章にある「思い出してくれ」「思い出させてやる」そして「怨郷の想い」は不滅の力を蔵しています。
 4月22日、政府はようやく硫黄島にある自衛隊基地の滑走路を移設する作業にとりかかりました。
 かねて滑走路の下には2千柱から3千柱のご遺骨が埋まっているとされていながらここまで放置されてきたのです。
 これもまた、あまりにも辛く哀しい「怨郷の想い」のなすところではないでしょうか。

 さて、石原吉郎氏の恐怖は、生きながらにして故国と国民から〈いない者〉として扱われることに発しています。
 その方法は、忘れ去られることです。
 氏は、生きている人間として、国家の命令で異国にいる日本人として、とても耐えられません。
 死んだなら、「死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ」、そして、「望郷に代わる怨郷の想い」とは何と凄まじい言葉でしょうか。
 こうして立ちすくむ時、いつも、氷の刃のように想念に浮かぶのが「しかと」という流行語です。
 そもそもはヤクザがそっぽを向いたり無視したりする時に用いる隠語だったのが、子供の世界で仲間はずれにする「無視」を意味するようになり、今や、日常語とてして広く認知されてしまいました。
 この言葉に非人間性を感じるのは、生きている人をいない人として扱い、生きながらにして魂を殺す行為だからです。
 石原氏が味わった恐怖感をある日、よりによって仲間から与えられれば、自分の存在そのものを自ら消したくなるほど〈生の力〉は奪い去られてしまうことでしょう。

 村上春樹氏の『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』も、絶交に端を発した物語であり、主人公はこうした状態に陥りました。

「実際に自殺を試みなかったのはあるいは、死への想いがあまりに純粋で強烈すぎて、それに見合う死の手段が、具体的な像を心中に結べなかったからかもしれない。」


 主人公は、励ましを受けてかつての仲間の心を訊ね、自分の心に変わらず息づいている活き活きとした自分がいることを確認して立ちなおろうとします。
 しかし、そこまでの道のりは、いつ、死へ反転してもおかしくない危険な日々でした。
 
 私たちは、流行言葉に鈍感になってはいけないのではないでしょうか。
 それは、悪しき言葉なら、その悪に慣れてしまうことを意味するからです。
 どう考えても「しかと」はあまりにも禍々(マガマガ)しく、子供たちが平気で用いている現状にはこの世の地獄がかいま見られ、恐ろしくなります。
 石原吉郎氏渡邉拓氏や村上春樹氏に学び、無視される恐怖、忘れる非情、無視する悪の深さをよく考え、「しかと」という言葉を過去へと追いやりたいものです。




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2013
04.22

仏像の始まりは? ─教えとご人徳─

20130422018.jpg

 経典によれば、仏像の始まりはこうなっています。

「お釈迦様は、亡き母親のいる天界へ昇り、神のように早く移動されるので、いかなる修行を積んだ者でも追いかけられません。
 お釈迦様を慕ってやまない二人の王様は、会いたいあまり、とうとう大病に伏せってしまいました。
 思いあまった大臣が進言しました。
『お像を造って供養されてはいかがですか?』
 そこで、王様の一人は、万病を除く香木で五尺の仏像を造りました」

 お釈迦様のお人は、涅槃図(ネハンズ)などでも明らかなように、人間はもちろん、ありとあらゆる生きとし生けるものを魅了するほど気高い徳を備えておられました。
 あの世へ旅立つお釈迦様を慕うものたちは、常々の食物連鎖や弱肉強食を忘れ、喰うものも喰われるものも一緒になってお送りしたのです。
 だから、当初は、お像を造るなど畏れ多いことでした。
 人々はお釈迦様のお骨を納めた仏舎利塔(ブッシャリトウ)や象徴的な法輪(ホウリン)や仏足石(ブッソクセキ)などに手を合わせていました。
 しかし、どうしてもお会いしたいという気持が高まり、そして、おそらくは、たくさんのそうした人々の心の中にお釈迦様が影のように現れてくださるできごとが続き、ある時、人間がおよそ考えられる限りの尊さを表現したお像が造られたのでしょう。
 そのお姿は、お釈迦様を慕う誰しもが納得できたのではないでしょうか。
 そして、優れた行者たちによって仏典が編まれたのと同じように、お釈迦様のお像もまた、お姿であるための要点がきちんとまとめられ、仏典と並んで私たちの心へまっすぐに届く形を今に伝えています。
 
 お釈迦様が在世の当時は、その教えはきっと革命的であるととらえられていたことでしょう。
 社会の仕組みや習俗と真っ向からぶつかる面があったからです。
 階級制度が隅々まで行き渡っている社会で「人は生まれによって人間の価値が決まるのではなく、生き方によって決まる」と説く人が、迫害もされず王様にまで尊敬され、その教えを広めつつ奇跡的なほどの長寿を保たれたのは、いかに桁外れの人徳であったかを示して余りあります。
 そうしたお釈迦様の教えに導かれる私たちは、教えに学ぶことはもちろん、ご人徳を偲び、我と我が身をそうした面からも省みつつ励みたいものです。
 そうすれば、きっと、信仰を深めれば深めるほど、他の宗教宗派を信じる人々と争わない真の仏教徒となり、自他の苦を抜く生き方ができるのではないでしょうか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
04.21

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その51)─師の影を踏んではならない─

20130421014.jpg

 江戸時代まで寺子屋などの教材として広く用いられていた『実語教・童子教』を見直しましょう。
 一度聞いたら忘れられない警句などがふんだんに含まれています。

「一日のたりとも疎(ウトン)ぜざれば
 况(イワン)や数年のをや
 は三世(サンゼ)の契り
 祖は一世の眤(ムツビ)
 弟子七尺(シチシャク)を去つて
 を踏むべからず」


(たった一日、となって何かを授け指導してくださる方をも疎んじてはならない
 ましてや、数年もの間、となる方なら、なおさらである
 師弟関係は一代だけにとどまらず、過去・現在・未来へとつながる深い縁である
 親子関係は一代だけの縁である
 弟子はそうした師を敬い尊び、七尺は後へ退ってつき従うべきであり、
 まちがっても師のを踏むなどという非礼があってはならない)

 私は、子供の頃、「師のを踏んではならない」との教えが、なぜか深く印象に刻まれていました。
 当時、師といえば学校の先生でした。
 子供たちは当然、ワイワイと先生の側に群がり、実際はを踏みつけ放しでしたが、私の心はいつもそうした親しい先生に自分とは桁外れの何かを見つけ、密かに尊敬していました。
 小学校1年から2年までを受け持たれた女性のK先生は、ぽっちゃりした丸顔で無限に優しく、教室はいつも陽光の中にあるように暖かく活気に満ちていました。
 3年から6年までを受け持たれた男性のS先生は長身痩躯(ソウク…やせ形)で、外には静けさを漂わせながら内には熱い確信のようなものを蔵しておられ、私は「ライフルマン」に似ていると感じていました。
 テレビ番組「ライフルマン」は、チャック・コナーズが主演するお決まりの西部劇でしたが、とても流行っていました。
 私が先生を明確に〈自分より遥かに上のレベルの人〉と感じとり、自然に礼を尽くしていたのは、こうした教えが頭にあったからなのか、それとも先生方の人徳が教えを再認識させたからなのか、そのあたりはよくわかりません。
 半世紀以上も過ぎた今、ふり返ってみれば、真実を含んだ教えはいつまでも心にとどまり、周囲の情報に反応し、取捨選択の判断をさせ、取り込んで熟成させるべきものを見逃さないための力となっています。

 しかし、一方で、自分の人生には、師となってくださった方々への幾多の無礼、非礼、恩知らずの行為もあったことを知っています。
 学校で、あるいは地域で、あるいは娑婆の仕事において、そして出家後の世界においても、たくさんの師とめぐり会ってきましたが、弟子としての礼を尽くし切れていません。
 たとえば、昨日の例祭で一緒に読経してくださり、お茶の席ではいろいろと人生観などを語ってくださった檀信徒の皆さんも、まぎれもなく、かけがえのない師です。
 み仏と一如である皆さんへお仕えするのは僧侶の務めであり、皆さんとの接触が「僧侶や寺院はいかにあるべきか」を考えるために欠かせない縁となって、こんにちの自分と当山を成り立たせています。
 私は、心では「師のを踏んではならない」と思いつつ、法要などの修法においては、み仏と一体になった導師へ合掌していただくなど、思いとは反対の形をとらざるを得ません。
 そうであればこそ、この教えはまともな僧侶であるための決定的な重しであり、これが外れた瞬間に奈落の底へ堕ちることはよくわかっています。
 教えが心にあってなお、未熟な足どりで生きていることを思うと、教えがなかったならばどうなっていたか、想像すらできません。

 今の先生方は限りなく〈友だち目線〉で児童や生徒に接触することを求められ、同時に、保護者からは容赦ない批判の目でチェックされています。
 子供たちが混乱し、先生方が心を病みもする現実を直視し、今のやり方が本当に子供たちの心で大切なものが育つための最も有効な方法であるかどうか、古人の智慧に学びながらよく考えてみる必要があるのではないでしょうか。





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2013
04.20

公開Q&A(その6)般若心経をお柩へ入れれば、お経を燃やす悪行ではないでしょうか?

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 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問6 お祖父さんが亡くなったので、お祖父さんがいつも仏前で唱えていた般若心経を写経してお柩へ入れようとしたら、親戚のおばさんから、「お経を燃やして大丈夫?」と言われました。
    そう言われるとお爺さんは生前、経本をとても大切にしていたし、心配になりました。

回答6 行動において何よりも大切なのは、動機です。
    安心させたい、供養したいという思いやりで行うなら、悪行にはなりません。

 普通は、経本や数珠などを燃やそうとすれば、ためらいが生じます。
 み仏の世界につながり、思いのこもっているものを灰にすれば、お粗末になるからです。
 だから、そうした遺品はゴミ袋へ入れられず、庭で燃やせもしません。
 善男善女はお焚きあげを望み、持参されたり、送ってこられたりします。
 お品は、魂抜きや供養や因縁解除の法を結ばれた後、お不動様の火によって天地へ還されます。

 さて、それならば、今回のケースはどう考えればよいのでしょうか?
 まず、お孫さんは、無くなったお祖父さんに安心させたい、あるいはお経の力で守ってもらいたいと願っています。
 しかし、燃やすことへのためらいと、そうした気持のどちらを優先させるかに迷っています。

 第一に考えるべきは、それが斎場で許される行為かどうかという点です。
 いかなる信念があろうと、社会に住む以上、決まりを守らねばならないのは当然だからです。
 この点では、大丈夫でしょう。
 写経した紙は、死に装束と比べても燃やす上の問題はないので、葬祭会館や斎場の係員から断られることはないはずです。

 次に考えるべきは、燃やすといっても、たき火で燃やすのとはわけがちがうという点です。
 通常は僧侶の修法を伴っているので、お焚きあげと同じであり、何の問題もありません。

 そして、最も大切なポイントは、行動の善悪は動機で決まることです。
 お孫さんの動機には一点の曇りもなく、しかも、自分でわざわざ写経するという輝く善行をふまえています。
 ここは、「経典を燃やすのは冒涜である」という一般論を超えた状況であると考えるべきでしょう。
 時として世界的問題にまで発展する異教徒の経典を燃やす行為などとは、まったく次元を異にしています。

 最後に、経文を一緒に送る功徳について、経典からの逸話を紹介しておきます。
 ある時、破戒してしまった行者が、その報いとして重病に罹りました。
 哀れんだ一人の行者が経文を書いて掛けてあげたところ、病人はすっかり楽になり、穏やかな最期を迎えました。
 もちろん、それだけで悪行が消えたわけではなく、当然、あの世では地獄に堕ちました。
 しかし、地獄の猛火は消え、罪人の苦もなくなったので、閻魔王がお墓の中を部下に調べさせたところ、経文が大光明を放っていたのです。

 当山が行ったご葬儀でも、これまで、般若心経や観音経や理趣経百字偈(リシュキョウヒャクジゲ)を納棺した方々が少なからずおられます。
 経文の功徳による故人の冥加(ミョウガ…あの世でみ仏から受けるご加護)を願うのは、故人の救いになるだけでなく、行う人にとっても尊い善行です。
 ぜひ、恐れることなく、納めてください。




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2013
04.19

「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」 ─喪失と復活の物語─

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 村上春樹氏の新作「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が発売一週間で100万部を売り上げたという。

1  私たちは生きつつ何かを得、一方で、何かを失う。
 人生経験が積まれるということは、感性などが当初の輝きを失って行くことでもある。
 モノを斬った剣には必ず曇りが付く。
 そして、研ぐ方法を思いつかないだけでなく、輝きを失った剣はもはや剣ではないと錯覚する場合がある。
 特に若い頃は、たった一筋の曇りが輝きの全体性を損ねたゆえに、剣にはもはや価値がなくなってしまったとも思う。
 作者は書いた。

「自分が死んでいることにまだ気づいていない死者」
「彼は自分でありながら、自分ではなかった」


 やがて意識が自分の肉体から離れ、「自分を離れる」「自らの痛みを他者のものとして眺める」などの状態にも至る。
 私も、東京の安アパートで窓に黒い布を貼り、幽体離脱をはかった体験があるのでよくわかる。
 何かを喪失したということと、自分が無くなったこととはまったく別ものであると知っているのに、失ってなお〈居る〉自分に現実感が持てない。
 若い頃は、無限の可能性をどこかで感じていながら、時として、たった一つの喪失によってすべての可能性が消えてしまったと思い込んでしまう矛盾の淵を歩いている。
 失いながら得て、得ながら失っている、と自分で気づくには、奥歯をかみしめながらも多少の長さを生きてみるしかない。

2  また、自分には何か他の人々と強く違っている部分があるからこうなったと思い込む場合がある。

「自分の中には根本的に、何かしら人をがっかりさせるものがあるに違いない。」


 主人公の場合は「自分は色彩を欠いている」と感じている。

「これという個性もなければ、鮮やかな色彩もない。
 こちらから差し出せるものを何ひとつ持ち合わせていない。
 そのことがずっと昔から僕の抱えていた問題だった」


 しかし、文中に、こうした人物が登場する。

「人間は一人ひとり自分の居ろというものを持っていて、そいつが身体の輪郭に沿ってほんのりと光って浮かんでいるんだよ。
 後光みたいに。
 あるいはバックライトみたいに。
 俺の目にはその色がはっきり見える」


 戒名は基本的に三つの熟語から成っている。
 一番上にあるのが「~院」という院号である。
 それは古来「総徳」を表すとされている。
 私は、ご本尊様から戒名をいただくために祈りつつ、そこには〈魂の色合い〉が出ると感じるようになった。
 だから、人生相談や講演などで「院号を目にして魂の色合いに感応すれば、より、通じることでしょう」と言う。
 そして、要りませんというご要望がない限り、院号と、この世で生きた道が顕れる道号(ドウゴウ)と、あの世の旅の宝ものである法名(ホウミョウとの三つに構成される戒名をご本尊様から授かり、お伝えしている。
 ちなみに、阿久悠は「天翔」、尾崎豊は「頌弦」、石原裕次郎は「陽光」、宮沢賢治は「真金」、本居宣長は「高岳」、大石内蔵之助は「忠誠」、徳川家康は「安国」である。
 主人公を昔の仲間が励ます。

「たとえ君が空っぽの容器だったとしても、それでいいじゃない」
「自分自身が何であるかなんて、そんなこと本当には誰にもわかりはしない。
 そう思わない?
 それなら君は、どこまでも美しいかたちの入れ物になればいいんだ。
 誰かが思わず中に何かを入れたくなるような、しっかり好感の持てる容器に」


 人には必ずその人ならではの色合いがあり、同時に、人は必ず他者の喜びも悲しみも入れる容器を持っている。
 事実、生者であっても死者であっても、誰かをかけがえのない誰かとして認識する時、私たちは魂の色合いに感応しているし、私たちは誰かに喜びを分かち合ってもらい、悲しみも分かち合ってもらいつつ、ようやく日々を生き延びている。

3  深い喪失感は、泥沼を生き延びることによって貴重な体験となる。
 失ったものに真実があったならば、それは真実を体験した者の心から消え去っていないことに気づく時が来るからである。
 自分自身への自信のなさは、そこにある謙虚さという徳が、思いやりと理解力のある人に発見された時、大いに輝き、真の絆をもたらしもする。
 誰かに支えられていることに気づかない人はいても、誰にも支えられていない人など一人もおらず、気づいている人にこそ、因果応報の理によって、気づきにふさわしい幸いが訪れるからである。
 出版不況と言われているこの時代に、「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」があだ花でなく、救世主であって欲しいと願ってやまない。
 



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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2013
04.18

王様への戒め ─道を誤らないための六原則とは─

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 ナーガールジュナ(龍樹菩薩)は、悪行を避けるための原則を王様へ示しました。

1 心を酔わせるものを過剰摂取してはならない

 貪りたい思いに任せれば、自分を制御するという悪行へ向かわないために最も大切な行為が失われます。
 暴飲暴食を続けたり、博打へ走ったりと、人生を誤る落とし穴はどこにでもありますが、権力者や大富豪の場合は周囲への影響が特に大きいので、最初に戒めたのでしょう。
 美女や美酒にうつつを抜かし始める時は、底なし沼へ足を入れつつある感触はきっとないはずです。
 そして、気がついた時は手遅れになっているのです。
 お釈迦様が出家されたのは29才。
 一個人としても、社会的にも、意のままにできる広大な世界が見えていながら、「心を酔わせるもの」の「摂取」をすっかり離れたお心はとても忖度しきれません。

2 正しい生き方への原則を保持せよ

 この原則とは当然、お釈迦様が説かれた『八正道(ハッショウドウ)』です。
 不殺生(フセッショウ)、不偸盗(フチュウトウ)、不妄語(フモウゴ)、不邪見(フジャケン)などの教えは、いかなる人であれ、悪心を抑え苦から離れるために践み行うべき道です。

3 身体・言葉・心は完全に非暴力であること

 暴力は、意志が暴走する形態の一つです。
 自分の考えや気持を押し通そうとして障害物にぶつかると、相手がモノであれ人であれ、相手を思ったり相手の立場に立ったり事態を客観的に観たりする余裕や善心や智慧がなくなり、破壊的衝動が起こる場合もあります。
 特に、何でも意のままになると錯覚しがちな権力者や大富豪にとって、たやすく陥りかねないところです。
 心が非暴力的であるためには、怒り、怨み、憎しみなど、激流の震源地を平らかにせねばなりません。

4 他者には敬意をもって接すること

 慢心から軽蔑が生じれば、あらゆる徳が消えて行きます。
 王の立場をまっとうするために最も必要なものは人徳です。
 徳なき権力者ほど、滑稽で、哀れで、迷惑で、害の大きな存在はありません。
 そうならないためには、臣下や庶民を尊び大切にすることです。
 敬意には敬意が木霊のように返ってきます。
 よしんば返ってこなくても、敬意をもったふるまいは必ず徳積みとなります。
 結果的に、徳による治世という最高の形がもたらされることでしょう。

5 両親や教師、親切にしてくれた相手など、敬意を払うにふさわしい相手を讃えよ

 これも徳治の根幹です。
 王が身をもって人倫を尊べば、臣下も庶民もいつしかそれに倣い、司(ツカサ)が司なりの仕事を順調にできるようにもなりましょう。
 今の日本における教育現場の諸問題は、親が専門家である教師を根本的に敬わず、子供たちもそれに倣うという悪しき空気が一要因になっていると思えてなりません。
 特に小中学校の教師には若い方々が多く、ご本人が自らを人間として成長させてゆく出発点のあたりにいて、まだそれほど経験もなく、未熟な面が多々あるのは当然です。
 それは若い親御さんたちとで同じです。
 しかし、はっきりと意識しておくべきは、教師はプロであり、ほとんどの教師は善意と志に満ち、プロたる立場をまっとうしようとしておられることです。
 だから、親は教師を尊び、優れた面を讃え、子供たちも又、教師に敬意を持つよう指導せねばなりません。
 親が教師をプロとして認識せず、ともすれば欠点ばかりを論(アゲツラ)い、あげくの果てはつるし上げて日常生活の鬱憤(ウップン)を晴らすようでは、学校にも子供たちにも、まっとうな未来はありません。
 似たような状況は医療の現場でも多発しており、患者さんやご家族方の不見識が、どれほどプロたちを苦しめ、現場を混乱させているか、よく考える必要があります。
 モンスターペアレント(怪物的で困りものの保護者)やモンスターペイシェント(怪物的で困りものの患者)などという言葉が存在する社会は烈しく歪んでいます。
 立場のあるプロへ敬意をはらうことは正論であっても、教師も医師も、自分から「こうあるべきだ」「こうせよ」とはなかなか言えません。
 だからこそ、社会的影響力の大きい人がまっとうな姿勢を示すことはとても大切なのです。

6 他者には親切にせよ

 力のある人は、往々にして二つの姿勢になりがちです。
 一つは、自分の意志を通すこと。
 もう一つは、自分の力によって何かをしてやると考えること。
 しかし、ナーガールジュナは、忘れがちになるもう一つの大切な姿勢を示しています。
 お互いに親切にし合い、支え合うことは庶民同士では当然ですが、〈何でも意のままになる〉立場にいると、〈おかげさま〉を忘れ、心からの親切心もまた忘れてしまいがちです。
 他のためになることこそ人間にとって最も尊い行為であり、それは社会的立場にかかわらないという仏教の根本が最後にしっかりとおさえられています。

 これは2000年近くも前に説かれたとされています。
 今の世界と日本を眺めた時、教えに合う権力者はどこに見いだせましょうか?
 また、自分自身へ当てはめて省み、軌道修正したいものです。
(六原則はダライ・ラマ法王著『宗教を超えて』から引用しました)




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
04.17

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第133回)─過去がぺしゃんこになったという意識─

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 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問5 別に親戚が亡くなったり、モノを失ったりしたわけではないのに、大震災で自分の過去がぺしゃんこになってしまったという気がしてなりません。
    2年以上経っても、今後の生き方がわからないままです。

回答5 私たちは、無意識の裡(ウチ)に、過去の延長としての今を生き、今の延長としての未来を考えています。
    もしも過去が消えたならば、誰にとっても〈この先〉は〈手探り〉となります。
    あなたの「過去がぺしゃんこ」という感覚と、不安はきっと、たくさんの方々が共有しているものと思われます。

 誰にとっても、過去はすでにないのですが、過去の時間があったことだけは確かなので、それが縁(ヨスガ)となり、今の心に一種の安定感が保たれています。
 こうすれば何とかなる、こうしては危ないなどの判断基準となる何かが、過去の影響力として心に具わっているからです。
 その人なりのこうした基準がなくなれば、私たちはすべて、新たに考え、判断せねばなりません。
 それは、気の遠くなるようなお話です。

 しかし、よく考えてみると、過去が消えたというのは、見聞きする映像や声や音によって生じた観念であることがわかります。
 
 私はこの道へ入ってすぐ、托鉢を始めましたが、今回津波で流された海岸線沿いの町や村や集落は、托鉢の日々を文字どおり支えてくれた地域でした。
 だから、どこを訪ねても空虚な空間しか残っておらず、無が支配している砂浜や草むらでの祈りは、私にとって過去の消滅を確認させるようなものとなっています。
 では、私の過去はなくなったのでしょうか?
 確かに、陽焼けした無口な漁師や、人なつっこい民宿のおばさんや、奧の暗がりから持ち出してきた鳥かごに囲われた野鳥をこっそり見せてくれたお爺さんや、「婆のきたねえ手で作ったんだけど……」と言いながら漬け物とお茶をふるまってくれた腰の曲がったお婆さんや、「これから何するの?」と訊ね、座って聴き終わったらリンゴをくれたおかっぱ頭の少女や、充分に傾きかけている家や、昼食を摂った松林は消え去りました。
 でも、帰り道に車の中で、ジュリーロンドンが唄う「想い出のサンフランシスコ」を聴くともなしに聴いていて想いました。

「 I left my heart in San Francisco」
 ここで言うところの「心を残してきた」サンフランシスコは、たった今、現実に〈存在しているはずの〉サンフランシスコなのだろうか?
 空の星々を目ざして登るかのような小さなケーブルカーも、風が吹き渡る蒼い海も、そして太陽のような情熱を秘めて待っていてくれる恋人も、〈そのように記憶されている〉サンフランシスコに在るのではなかろうか?
 麗しいパリで哀愁に呑まれ、栄光あるローマで寂寥感に潰され、マンハッタンでは孤独だった主人公にとって、「帰りなん、いざ」と思い立つサンフランシスコは、そう思えるだけで幸せな場所なのではなかろうか?
 実際に帰られようが帰られまいが、そのこと自体が強く希求されるのではなく、そう思うこと自体が私たちの心へ懐かしさを伴った何かを浮かび上がらせるからこそ、また、浮かび上がる何かが心をいくばくか暖めるからこそ、この歌が忘却を免れ歌い継がれているのではなかろうか?
 さっき眼にした無となった場所は、〈サンフランシスコ〉が実際にはなくなったことを突きつけた。
 しかし、私の脳裏には依然として、漁師も、おばさんも、お爺さんも、お婆さんも、少女も、家も松林も、在る。
 すべてが無くなったと確認したばかりの今も、余計にはっきりと、在る……。

 書道家高橋香温先生の作品に「さくら貝」があります。
「さくら貝
 いつまでも
 宝石みたいに
 輝いてた
 あの夏の日」
 こんな言葉が添えられています。
「毎日が楽しかった日
 友達とたくさん遊んだ日
 無邪気に過ごした日
 耳にあててごらん
 笑い声が聞こえるでしょう」
 家族がいなくなり、友だちがいなくなり、浜がなくなっても、どこかで眼にし、手にするさくら貝が記憶をよみがえらせます。

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 冒頭のご質問へ戻りましょう。
 やはり、過去がぺしゃんこになったというのは、観念上のできごとでしかなく、過去の中でも肝心な部分は、これからよりいっそう鮮明さを増すかも知れません。
 記憶は元々、実在によって保証される筋のものではなく、むしろ実在とは無関係に在り、心の蔵にしまい込まれたフィルムの一枚一枚が当人の思惑を離れて心の彩りに関わっています。
 これまでの人生に縁のあった人やモノやことごとがなくなったからといって、〈これまでの人生がなくなった〉わけではありません。
 そして、ふり返ってみれば、自分の思考、感情、好み、身体、すべてが過去を因とし、縁として今、ここにあります。
 たとえ一瞬後に世界が崩壊したとしても、自分という意識がある限り、そのありようは何ら変わりません。
 私たちは、何がどうあろうと、淡々と生を営み続けることでしょう。
 過去の全てを因とし、縁とし、今のできごとや意志を因とし縁とし、いのちと心は未来の時間へと流れ込み続けることでしょう。

 こうした真実をふまえた上で、地震や津波や原発事故により〈確かでないと明らかになった〉ことごとへ誠実に対応してゆきたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
04.16

第39回寺子屋『法楽館』─映画『クンドゥン』に学ぶチベット人の心とダライ・ラマ法王の半生─

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 今回の寺子屋法楽館』は、ダライ・ラマ法王の半生を綴りながらチベット弾圧の歴史をたどるアメリカ映画『クンドゥン』を観賞し、国家・文化・宗教が滅ぼされつつあるチベットについて考えます。

 平成9年、マーティン・スコセッシ監督は、プロの俳優を用いず世界中から素人のチベット人を集め、渾身の製作を行いました。
 音楽はチベット仏教徒のフィリップ・グラス氏が担当し、世界中から高い評価を受けました。
 ウィキペディアによれば、クンドゥンの意味は以下のとおりです。
「題名のクンドゥンは彼の尊称 Kundun (瞿曇)に由来する。
 これはチベット人がダライ・ラマに敬愛と親愛の情を込めて呼ぶときの尊称で、『尊いもの』または『存在(Presence)』というような意味。
 法王、法王猊下とも意訳される。」

 この映画を観ると、チベットで何が行われた結果、現在の惨状に至ったかがよくわかります。
 また、人間にとって大切なものは何か、国家は国民のためにどうあらねばならないか、歴史の風雪に耐え、鍛えられ、深められて人間を支える宗教の価値、などを考えさせられます。
 中国政府は、この映画を国内へ持ち込ませず、もちろん上映も禁じています。
 ウィキペディアは言及しています。
「主な出資者でありアメリカでの配給元であるディズニーには中国から強い圧力があったと言われ、アメリカ国内ではあまり広く公開されなかった。」
 この映画が、中国政府にとって〈なかったことにしたい、伏せておきたい不都合な真実〉をいかに顕わにしているかを物語っていると言えないでしょうか。

 監督は「この映画は無条件の愛についての映画である」と語っています。
 宗教は毒であるとして消滅をはかる中国軍にひるまず、国家と仏教を守ろうとする人々と法王の姿は、私たちへ、人間の崇高さを再認識させます。
 一人でも多くの方々にご覧いただき、チベットに起こったこと、ダライ・ラマ法王の真実、人間、宗教国家について共に考えたいと願っています。

・題材 映画『クンドゥン
・日時 5月11日(土)午後1時30分より3時30分まで
・会場 大師山法楽寺講堂
・ご志納金 1000円 中学生以下500円
・送迎 『イズミティ21』前からの送迎車へ乗られる方は前日17時までにお申し込みください。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2013
04.15

寺子屋『法楽館』「自然と人間」が終わりました(その2) ─気象予報のお役立ち・貞観地震─

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〈毎月の例祭には『法楽の会』会員全員の護摩木を捧げるなど、善男善女の願いを込めたご祈祷とご供養が行われます〉

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〈燃え上がる聖なる炎には明らかに芯があり、ご本尊様がおられることを実感します〉

 4月14日、気象予報士の斎藤恭紀先生より、ご講話をいただきました。
 大変なボリュームのある内容を休みなく、どんどん説明されるので、メモがほとんど間に合いませんでしたが、確認できる限り、書いておきます。

気象予報はさまざまな分野で役立っている

 コンビニエンスストア…気温によって売れるモノが違うので、店長の注文を左右する。
 半導体工場…雷が落ちるとラインがストップする危険性があるので、落ちるか落ちないかを常にチェックしている。
 東京ディズニーランド…風速が8メートルを超えるかどうか、午後3時以降、雨が降るか降らないかどうかなどに神経を尖らせている。
 野球場…試合ができるかどうかだけでなく、弁当屋さんなどにも、雨は大きな影響を与える。

○地域ごとのきめ細かな天気予報の必要性を感じ、ウェザーニュース社から東北放送へ移り、「自分の仕事は、皆さんのいのちと財産を守ること」と思い定め、政治家にもなった

 政治の現場ではたらくうちに、「防災は自分のライフワーク」と考えるようになった。

○平成23年3月11日の東北大震災において、なぜ、多賀城での被害が大きかったかを考察する

 塩釜市との比較。
 死者…塩釜市47名、多賀城市188名
 全壊…塩釜市1017世帯、多賀城市1746世帯
 浸水…塩釜市22パーセント、多賀城市33パーセント

 なぜ、あまり海に面していない多賀城市の被害が大きかったのか。

1 大きな建物や工場が多く、ほとんど海が見えない。
2 津波は川からも来るが、津波の来る海にほとんど面していない。
3 上記の条件などにより、広々と海に接する地域よりもやや、危機意識が薄かったのかも知れない。
  防災広報装置は地震で使用不能となり、高さ1・5メートルの所に置かれた防災無線の操作盤は冠水した。

 しかし、869年の貞観津波によって多賀城市が大被害を受けていたことは明らかである。

「契りきな 片身に袖をしぼりつつ 末の松山波こさじとは」清原元輔


(互いに涙を流し合いながらお約束しましたよね、どんなに大きな津波もあの末の松山を決して越えられないように、私たちの恋も決して変わらないと、しかし、あなたは……)
 事実、今回の千年に一度という津波も、末の松山は越えていない。

「わが袖は 潮干(シオヒ)に見えぬ沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし」二条院讃岐


(恋の涙に私の袖はいつも濡れている、それは潮が引いた後でさえ見えない沖の石が、人知れずいつも濡れているのと同じなのです)
 事実、今回の津波は、かつで海であったところにある沖の石を呑み込んでしまった。
『日本三代実録』に記された津波の様子は、今回と同じである。

「貞観11年5月26日癸未(ミズノトヒツジ)に当たる日に、陸奥国(ムツノクニ)で大地震が起きた。
 閃光が夜空に走り、夜の闇が真昼のように明るくなった。
 しばらくの間、人々は叫び声を上げながら地上に突っ伏すしかなく、とても立ち上がれはしなかった。
 ある者は倒れた家の下敷きとなって圧死し、ある者は裂けた大地の間に落ちた。
 驚いた牛馬は烈しく走り回り、互いに踏みつけ合ったりもした。
 多賀城の城壁、倉庫、門、櫓(ヤグラ)、垣根、壁などが崩れ、倒れ、その数はとても数え切れない。
 河口の海は雷鳴のような轟きを発した。
 荒れ狂い湧き上がった大波は川を遡り、膨れあがり、たちまち城下に達した。
 海岸線から数十里から百里も遡った津波によって海面が広がり何もかも覆い、海と里との境もなくなった。
 原、野、道路、すべてが蒼い水につかった。
 船に乗って逃げる時間もなく、山へ登って逃げることもできなかった。
 千人もが溺死し、財産も、稲の苗も、ほとんど残ってはいなかった。」

 以下は、原文である。

「(貞觀十一年五月)廿六日癸未(ミズノトヒツジ)。
 陸奥(ムツ)國の地、大いに震動す。
 流光晝の如く隱映(インエイ)す。
 頃(シバラ)く、人民叫呼(キョウコ)し、伏して起(タ)つ能はず。
 或(アルイ)は屋仆(タオ)れて壓死し、或は地裂けて埋殪(マイエイ)す。
 馬牛(バギュウ)駭(オドロ)き奔(ハシ)り、或は相(アイ)昇踏(ショウトウ)す。
 城郭(ジョウカク)倉庫、門櫓(モンロ)墻壁(ショウヘキ)、頽落(タイラク)顚覆(テンプク)するもの、其(ソ)の數を知らず。
 海口(カイコウ)哮吼(コウコウ)し、聲は雷霆(ライテイ)に似たり。
 驚濤(キョウトウ)涌潮(ヨウチョウ)、泝徊(ソカイ)漲長(チョウチョウ)し、忽(タチマ)ち城下に至る。
 海を去ること數十百里、浩々(コウコウ)として其(ソ)の涯涘(ガイシ)を弁ぜず。
 原野道路、惣(スベ)て滄溟(ソウメイ)と爲(ナ)る。
 船に乘るに遑(いとま)あらず、山に登るも及び難(がた)し。
 溺死する者、千許(ばか)り、資産苗稼(びょうか)、殆んど孑遺(けつい)無し。」


 869年に起こった貞観大地震は推定震度8・3、887年の仁和地震(南海・東海・東南海地震)8・0~8・5とされ、この間に、鳥海山の噴火、咳病の大流行、近畿の大飢饉、相模・武蔵の地震、出雲の地震などが起きている。
 また、1596年9月5日に大分地震と慶長伏見地震が相継いで起こり、1605年に東海・東南海・南海連動型地震、1611年に慶長三陸地震・慶長三陸津波と続いてから、1616年の宮城県沖地震が起こっている。
 一連の地震や津波を重く見た伊達家は、増田宿や岩沼宿を定める際、なるべく海岸線より離すよう心がけている。
 そうした歴史や先人の姿勢に学び、防災に万全を期したいものである。




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2013
04.15

公開Q&A(その5)復活を信じればキリスト教徒、如来を信じれば仏教徒なのですか?

20130415009.jpg

 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問4 ある本で、キリストが死んで3日後に生き返ったと信じればキリスト教徒、釈尊が如来になったと信じれば仏教徒であると書いてありましたが、そうなのでしょうか?

回答4 他の宗教については責任ある回答ができませんが、一行者として、お釈迦様と如来様についてはこう考えています。
 
 お釈迦様が究極的な悟りを開いて仏陀(ブッダ…悟りを開いた人)となられたことは、きっとそうであったろうと信じています。
 では、悟る前と後ではどう変わられたか?

 昭和36年、三隅研次監督、主演本郷功次郎の大映作品『釈迦』は156分という超大作でした。
 寺子屋「法楽館」で皆さんと一緒に観賞して最も印象に残ったのは、悟るまでは本郷功次郎の熱演でしたが、悟った後のお釈迦様は〈影〉として描かれていたことでした。
 お大師様のご生涯を綴った『高野大師行状図絵』には、「恵果(ケイカ)影現(ヨウゲン)」という項目があります。
 師の恵果和尚が亡くなられた夜、道場で祈るお大師様の前に、恵果和尚が影のように現れて告げました。

「おまえはまだわしとおまえの間の前世よりのちぎりの深さを知らないか。
 何度も生まれ変わりを重ねる間に、密教の教えを弘めることを互いに誓いあい願いあった。
 ここかしこで代わる代わる師となりあったことは、一度、二度だけではない。
 それゆえ、おまえに遠く渡来することを勧め、わしの深い仏法を授けたのである。
 受法はすでに終わり、わしの願いも満たされた。
 おまえは西方でわしに師弟の礼をとった。
 わしは東に生まれておまえの弟子となろう。
 長い間この地でぐずぐすするでないぞ。
 わしは先に行っている。」(筑摩書房「弘法大師全集」より)


 悟られた世界とはこういうものであろうと信じています。
 つまり、悟られた方は、生きながらにして影のような気配をまとう存在となり、この世を離れれば、影のようにどこへでも現れて真実を告げ、導かれるのではないでしょうか。

 さて、この世でみ仏となられ、あの世に往かれても現世にいる私たちのそばへ来てくださる存在を探求した過去の聖者方は、菩薩(ボサツ)というありようを感得されました。
 そして、如来となってみ仏の浄土から救いの手を伸ばしてくださるありようの他に、浄土へ行ってしまわず、それとは見えないものの、私たちのそばで具体的にお救いくださるみ仏がおられる真実をつかまれたのです。
 身代わりとなって苦を受けてくださるお地蔵様のお経に、こうした印象的な場面があります。
生まれ変わり死に変わりする間に親子となり兄弟ともなるすべてのいのちあるものを悟らせ、み仏の世界へ導いた後に、私も又、み仏の世界へ入ろう。
 もし、たった一人でも悟らず残っているならば、私も又、み仏の世界へ入ってはしまわない。
 もし、この願いを知り、今も未来も皆が悟ってしまわぬ限り、私も又、最高の悟りを得てみ仏の世界へ入ってしまうことはない」
「私は、地獄界や餓鬼界などで苦しむ生きとし生けるものから苦を抜き、救おう。
 もし、どうにも耐えきれないほど重い苦を受けている者があれば、私が身代わりと成ってその苦を受けよう。
 この願いがすべて達成されないうちは、最高の悟りを得てみ仏の世界へ入ってしまうことはない」
 以下、原文です。

「生生(ショウショウ)の父母(ブモ)世世(セセ)の兄弟(ケイテイ)悉(コトゴト)く仏道を成(ジョウ)ぜしめ後(ノチ)に我成仏せん。
 若(モシ)一人をも残さば我成仏せず。
 若(モシ)此(コノ)願(ガン)を知て二世(ニセ)の求(モトム)る所悉(コトゴト)く成(ジョウ)ぜずんば正覚(ショウガク)を取らず。」
「我當(マサ)に六道(ロウドウ)の衆生(シュジョウ)を抜濟(バッサイ)すべし。
 若(モシ)重苦(ジュウク)あらば我代(カワ)つて苦を受(ウケ)ん。
 若(モシ)しからずんば正覚(ショウガク)を取(トラ)ず。」


 つまり、ご質問への端的な回答の一つとしては、こうなりましょうか。
 仏教徒は、浄土からお見守りくださる如来様を信じ、私たちのそばでお救いくださる菩薩様を信じ、私たちの〈生の意味〉は菩薩になる修行をするところにあると考える存在です。
 誰かが喜べば自分も嬉しく、誰かの何かのためになろうとする心を育て、心に巣くう悪心を克服しつつ生きる過程、つまり菩薩行(ボサツギョウ)に〈人生の意義〉を見す仏教徒でありたいと願っています。
 そして、こうした生き方は、どんな仏神を信じる方々にとっても、また、信じない方々にとっても、悔いのない有意義な生き方であると言えるのではないかと考えています。




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2013
04.14

寺子屋『法楽館』「自然と人間」が終わりました(その1) ─自然の恵みを使うだけ使ってきた人間に返って来たものは─

20130414007.jpg

 4月14日、(株)斎藤気象予報士事務所斎藤恭紀先生より、ご講話をいただきました。
 大変なボリュームのある内容を休みなく、どんどん説明されるので、メモがほとんど間に合いませんでしたが、確認できる限り、書いておきます。

○今朝の5時33分、淡路島付近を震源として発生した最大震度6弱の地震は、巨大地震の前触れである。

○気象予報士は、雲を見て天気を判断する。

 雲は気団と気団の間に発生し、上昇する。
 カザフスタン付近の砂嵐も一緒に上昇し、寒冷前線と共に日本へ迫ってくる。
 現在、大陸には冬の気団があり、太平洋南西方向には夏の気団があり、真ん中の日本付近には春の気団がある。
 砂嵐の砂が日本へ自然降下してくるのが黄砂であり、21世紀に入って増えている。
 原因は中国の砂漠化であり、砂漠化する主な原因は4つある。

1 行き過ぎた放牧
2 急速な宅地化
3 人口増加による野菜の需要による畑作の拡大
4 水不足

○爆弾低気圧は、偏西風の大蛇行による

 その原因は地球の温暖化にある。
 北極海の氷が少なくなっていることに関係している。
 干ばつも蛇行と関連して起こっている。

温暖化の問題

 西暦1000年から2000年の気温の変化は、木や珊瑚をくり抜いて調べる。
 気温が急上昇している時期はCO2の急上昇と一致しており、その原因は産業革命にある。
 現在の温暖化とそれに伴う巨大な竜巻など諸々の気象の問題は〈人間が便利さを追究し、地球へ過度に負担をかけた〉結果として生じた。
 人間優先の思想で謙虚さを忘れ、地球規模で「天に唾する」姿勢が、人間を苦しめるに至っている。

花粉症の問題

 人間にはある主の器があり、それが一杯になると花粉症になるとされる。
 今や日本の全人口の2~3割とされるほど花粉症が蔓延したのは〈自然の恵みを使うだけ使い、自然に対する謙虚さを忘れた人間への警鐘〉である。
 戦後、木を伐った山にどんどん杉を植えた。
 それは、早くまっすぐに伸び、材木として便利だからである。
 しかし、昭和30年代に早くも輸入材が入り始めると国産材は不要になり、山を放置した結果、杉が伸び放題となった山から花粉が大量に飛来することとなった。

PM2・5の問題

 花粉よりもずっと小さいこの微小粒子状物質に関しては、情報に気をつけて考える必要がある。
 最近、急に大問題になりつつあるが、日本ではずっと以前から飛んでおり、しかも徐々に減りつつある。
 それが注目されだしたのは、平成21年に環境省が、1日平均35マイクログラム以下という厳しい環境基準を定めたからである。
 今年の2月には「PM2・5に関する専門家会合」が開かれ、マスコミも盛んにとりあげるようになった。
 吸い過ぎると気管支炎や喘息になる危険性があり、充分に注意する必要はあるが、あまり過度に反応するのはいかがなものか。
(私がこれまで、身近な4名の内科や耳鼻咽喉科の医師へ患者の状況とPM2・5との関係を質問したところ、全員が「その影響で患者さんが増えていると判断してはいません」と明確に回答された)
 むしろ、アメリカが「PM2・5の量は温暖化の指標」とし、結果的にシェールガス使用を拡大させようとしている意図なども見え隠れする。
 私たちは、情報に踊らされず、深く冷静に判断せねばならない。




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2013
04.13

公開Q&A(その4)お墓参りをすると具合が悪くなるのですが……

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(岩出山の『森栖』さん)

 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問4 お祖母ちゃん子だった娘が、お墓参りをしたり、四十九日の供養会へ参加したりすると調子がおかしくなるのす。
 もしかするとお祖母ちゃんが連れて行こうとしているのではないかという親戚もいて不安なのですが……。

回答4 ご心配は要りません。
 娘さんがまだ、お祖母ちゃんの死を心で消化し切れていないだけです。

 そもそも、眼に入れても痛くないと言うほど可愛がってくれていたお祖母ちゃんが早く死の世界へ連れて行こうとするはずがないではありませんか。
 こういった見当違いなものの見方によって不安が生じてしまうのは、以下の流れによります。

1 異様な状態が起これば、原因を考える

 これは当然です。
 まして、可愛い子供がおかしくなったなら、放置はできません。

2 原因がなかなか思い当たらないと、目に見えないもののせいにしたくなる

 ここはかなり、問題です。
 一昔前なら、物の怪(ケ)などの感覚が残っているのは主に田舎で、夜中も明るい都会とはどんどん無縁になっていると思われていましたが、今は違います。
 都会に住む方は都会ならではの不安を抱え、スピリチュアルという流行語のあいまいさもあって、あの世や霊界や鬼神の世界などの異界を実体化する傾向がどんどん強まっています。
 ビシッとビジネススーツを着込んだやり手のお嬢さん同に、広く明るい社内トイレで、ごく普通にこんな会話が持ちあがります。
「私、この頃ずっと肩が重くて、医者に行っても治らないの。
 しょっちゅう整骨院通いで、もう、ゆううつ」
「道理でねえ。
 右の肩でしょう。
 そこに叔母さんの水子霊が憑いているよ。
 ずいぶん悲しそうな顔をしているわ」
 ちょっと勘の良い人に、「~の気がする」を「~です」と言い切ってしまう無謀さと無責任さが伴えば、たちまち霊能者ができあがります。
 そして、会った人10人のうち6人から「顔色が悪いよ」と言われると、気持だけでなく体調まで崩れてしまいがちな現代人は、たちまち、そうした人々によって不安を生じさせられるという状況になっています。

3 最も身近な異界として、お祖母ちゃんの行ったあの世が思いつかれる

 ここも大問題です。
 以前として続いている決して祟らない水子霊への誤解と怖れがその遠因となっているかも知れません。
 常識のしっかりした人なら、まして、自分をよく省みているまっとうな人なら、決してこうは考えません。
 自分は死んでもこの世の家族を守りたいと願う気持はあっても、大事な家族を道連れにしようなどとは思わないからです。
 御霊を〈畏れる〉のは尊い心ですが、悪しきことを御霊のせいにして〈恐れる〉のは、御霊へ対して無礼であり失礼であり、ものの道理から外れた感覚と言わねばなりません。

 不安が生じる原因は多々あるので、詳しくはご来山いただき、ご本尊様の前で修法してから判断せねばなりませんが、公開の場では、よくあるケースとして一般論に近いお話をしました。
 このケースでは、供養の意義や御霊への感謝などを教えつつ、お子さんを導いて行けば、やがて靄が晴れることでしょう。
 中にはこんな方すらおられるのです。
「私は子供の頃から、墓地へ連れて行かれると、『ここは先に逝った人々がたくさんいるので寂しいところではない』と教えられてきました。
 だから、どこの墓地へ行っても、ブルッとしたことなどありません」
 亡きお祖母ちゃんを恐れず、感謝し、娘さんの繊細さを上手に育ててください。




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2013
04.13

【現代の偉人伝】第171話 ─非礼に対し怒りではなく徳をもって応じたブレンダン・ジョーンズ氏─

20130409024.jpg

 これは、もはや2年近く前のできごとだが、今も心で徳の光が失せず、くり返し法話などに用いているので、忘れぬうちに書きとめておきたい。

 平成21年8月2日、プロゴルフの「サンクロレラ・クラシック」で石川遼選手(17才)が優勝した。
 4日間で合計25個のバーディー(1イーグル含む)を奪うという凄まじいプレーだったが、そのおりに負けじと猛追したのがブレンダン・ジョーンズ選手(豪・34才)である。
 最終18番ホール、ジョーンズ選手がパーパットを外した瞬間、心ない観客が拍手をした。
 しかし、彼は、インタビューで、この件には一言も触れず、勝者を祝福し励ました。
「この経験は、遼にとってきっとプラスになる」
 実際、あまりの緊迫感に石川選手はプレーの最中、4回もトイレへ駆け込んでいる。
 激闘を終え、しかも考えられないほどの侮辱を受けたばかりのジョーンズ選手から快く祝福された石川選手は涙ながらに返した。
「B・Jがいなかったら、最後まで頑張れたかどうか分からない。
 今日のプレーがあるのは彼のおかげです。
 B・Jは本当に素晴らしい選手です。
 そんな選手と最後まで競り合えたことを僕は誇りに思います」
 さらに、ジョーンズ選手は、観客のレベルを批判するアメリカ人記者のインタビューにおいても、毅然として反論している。
「日本のグリーンは世界一すばらしい。
 外国選手にも信じられないほど親切で、プレーしていて楽しい場所だ」

 人倫を考える場面で、そのたび、あまりの高潔さに圧倒されつつ、幾度となく紹介してきた。
 それにしても、人はここまで徳を高めることができるものか……。

 その峯に登ったつもりで自分の心と世の中を眺めてみる時、心のあまりの貧しさと淋しさ、そして悲しいできごとに悄然としてしまう。
 たとえば、最近、中国や北朝鮮との間がギクシャクしていることにからみ、中国人や朝鮮人が経営するところへ押しかけ、威嚇的な言動をとったり嫌がらせをしたりする人々がいることは残念である。
 日本人がもしも中国や北朝鮮で同じような扱いを受けたならどうだろうか?
 そうした憎悪と害意の往来に何か意義があるだろうか?
 今、必要なのは、むしろジョーンズ選手のような徳ある行動ではなかろうか?
 日本や日本人へ対して明白に害意を持ったり、敵対的な行動を示す場合は別として、外国から来ている方々が不安を抱えているような時は、安心感を持ってもらえるような言動を心がけた方が、結果として互いのためになるはずである。

 しばしば、ジョーンズ選手を思い出す。
 それだけ自分が未熟であり、日本もまた、発展途上にあるということだろう。
 得がたい終生のを一人、得た。
 多くの方々のでもあって欲しいと願ってやまない。




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2013
04.12

寺子屋『法楽館』「自然と人間」のご案内

20120413002.jpg

 4月の寺子屋法楽館』では、「どうする?私たちの未来」の第六弾として、PM2・5などについて学びます。

 自然の一部である人間は自然の恩恵を受ける一方で自然と闘いつつ文明を創ってきました。
 しかし、今は、人間の生み出した〈反自然なるもの〉から脅かされる事態にたち至っています。
 人間をとりまく自然環境の研究に勤しみ、よりよき社会をめざしておられる斎藤恭紀先生より人間と環境の問題などについてご講話をいただきます。

 昭和56年、広島大学教授久野昭氏は「衣食住のジャパノロジー」へ書きました。

「日本人は、主として、ごくせまく小さな沖積平野に住んでいた。
 山地が多いかわりに、こみ入った海岸線に沿って、そのような平野が各地にあり、そこが居住の場になった。
 そして、そのような場では、水の流れが多い。
 その流れはほとんど幅のせまい川であって、流れの動きようは急である。
 古代文明を開きつつ流れた大陸の悠然たる大河とは、全くちがった様相である。
 この早く流れるせまい川を利用することで、村が成立し、村のまとまりがあった。
 それだけに、淀んで動かぬ水に対しては、むしろ、不味を感じてきたであろう。
 日本では、鬼神は好んで淵や池に出現する。
 古代の日本での池の造成、たとえば大和の磐余(イワレ)の池のそれにしても、鎮魂呪術と結びついていた。
 水は流れて留まらぬのが自然であり、人はその流れに沿って住むのが自然であった。
 ならば、人もまた流れてよいであろう。
 それは、たしかに住むこととは別の様態だが、日本人の住居ではも流れていたのである。
 そのは、蔽い留められたのではなく、包まれたにすぎない。
 の流れを包むことで受けとめつつ、みずからのも動く。
 そのは、空気の気でもあれば、天気の気でもあり、さらに気分の気でもある。
 ときには病気の気でもありえたろうし、元気の気でもありえたろう。
 そのような、生活に即しつつ、内と外とにまたがって動く気の流れの中で、日本的な気風がつちかわれたでもあろう。」


 氏は、「旅」に関してこう書かれましたが、私には、人と自然が関わり合って心が形成されてきた過程を示す忘れがたい一文になっています。
 斎藤先生のお話を聴きながら、いろいろと思いを馳せてみたいものです。

・講師 斎藤恭紀氏(気象予報士)
・日時 4月13日(土)午後1時30分より3時30分まで
・会場 大師山法楽寺講堂
・ご志納金 1000円 中学生以下500円
・送迎 『イズミティ21』前からの送迎車へ乗られる方は前日17時までにお申し込みください。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2013
04.12

公開Q&A(その3)高額なお布施の請求が辛いのですが……

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 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問2 私はご先祖様代々、あるお寺のお世話になってきました。
 亡き父も役員を務めていました。
 子供の頃から体調のすぐれない私の代になってからは、一檀家として、何とか皆さんと横並びでおつき合いをしてきましたが、最近、一軒あたり50万円という途方もないお布施をしなければならなくなりました。
 とても無理なので奥さんへ家の事情を話したところ、急にお寺の対応が変わり、とても困った状態です。
 お墓を返して別な墓地の共同墓へ入ろうとして、以前、お寺を離れた方に相談してみたら、離檀料(リダンリョウ)として法外な金額を要求されたと聞きました。
 二進(ニッチ)も三進(サッチ)もゆかないで困っています。

回答2 お寺の存続を望むなら、檀家さんが力を合わせて住職と話しあい、お寺の姿勢を変えさせましょう。
 さもなければ、数十年も待たないうちに、お寺はなくなることでしょう。
 苦しめる宗教は、あってはならないのがものの道理だからです。

 こうした問題は、私が托鉢を始めた時から耳にタコがよるほど聞かされてきました。
 困った状態になる原因は、ほとんどの場合、住職檀家さんの双方にあります。
 
 住職の側としては、何と言っても、お布施は請求するものではなく、あくまでも、ご本尊様へ対して自主的に納められることによって清浄な布施行になるという基本を忘れていることです。
 そうかと言って、「宗教施設として必要なモノは必要であり、かかるお金はかかる」というのも事実です。
 どうすればよいか?
 住職は、理想の旗を掲げ、後は、祈りつつ皆さんのお心へそれが浸透して成就する時を待つしか方法はありません。
 たとえば、本堂の雨漏りがして修理が必要であるという事態になれば、お寺が信頼を得ている限り、檀信徒の方々が放っておくはずはありません。
 もし、役員会などで、何とかしようということになった場合には、お金を出せない境遇にある方々が辛い思いや肩身の狭い思いをしなくて済むことを第一として智慧を絞れば何とかなることでしょう。
 檀家さん側の問題としては、ここを忘れやすいことが挙げられます。


 円満に成就するために、決して欠かせない条件が三つあります。

 一つは、住職がこうした思いやりを忘れて早くやろうと無理に走らないこと。
 もしも走るなら、精神的にも時間的にも体力的にも、もちろん金銭的にも自分の血を流しながら、独走するしかありません。
 自分が楽をしながら一気にうまくやろうとすれば、その分の負担は必ずどこか、即ち檀信徒さんへかかって行くことになります。
 これでは菩薩(ボサツ)の利他行(リタギョウ)に反します。

 もう一つは、役員の方々もまた、自分たちの境遇と異なる状態の法友(ホウユウ)を思いやった上で計画を立てること。
 辛い境遇にあられる方々を決して見捨ててはなりません。
 努々(ユメユメ)、他の寺院と比べて見栄を張ろうとしてはなりません。
 
 そしてもう一つは、あまりにも当然ながら、理想の旗が妥当で、かつ、一切の思惑を離れた清浄なものであり、旗のもとに集う方々に一切の条件をつけないこと。
 なぜなら、ご本尊様であるみ仏は、救う相手を選ぶはずがなく、清浄な布施行を行う善男善女は、布施を実践することで救われるからです。

 こうした条件が整えば、檀家の方々へ無理矢理ローンなどを組ませなくても、子供がお小遣いを貯めた貯金箱や、仲間から集めたお布施や、お寺と無縁だった方々のお心などが自然に集まり出します。
 やがては、小川が集まって大海へ流れ込むように、必ず成就するのです。
 成就する時がいつであるかは、究極のところ、ご本尊様へお任せするしかありません。
 もちろん、事業に計画は必要ですが、宗教行為はすべて、世間的計らいを離れた次元で進み、結実します。
 だからこそ、清浄であり、その過程において、肩身の狭い思い、辛い思い、あるいは当惑、怒り、悲しみ、落胆、そして絆の崩壊などが発生するわけはないのです。

 もしも、こうした救済という宗教の目的に反する〈曇った心〉が檀信徒の方々の間で発生しているならば、前述した三つの条件のいずれかに反してはいないか、住職も役員さんも、よくよく考えてみる必要があります。
 
 どうぞ、皆さんでこうした愚考をたたき台にして話し合い、ご先祖様方が守ってこられたお寺を清浄な聖地として存続させるよう、ご努力ください。
 同じ伝統仏教界に生きる者として、残念な状況を心よりお詫び申しあげ、当山へも忌憚のないご批判・ご意見をたまわりますよう心よりお願い申しあげます。
 お大師様は説かれました。

「物の興廃(コウハイ)は必ず人による。
 人の昇沈(ショウチン)は定めて道にあり」


(ものごとが盛んになるか廃れるかは、それに関わる人々次第である。
 人が成長するか退落するかは、み仏の説く人の道にそっているかどうかにかかっている)
 人の道すなわち仏道をよく考え、仏道と寺院を守り、伝えて行こうではありませんか。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
04.11

公開Q&A(その2)心の仏様と仏壇の仏様が違うのですが……

20130411011.jpg

 公開セミナーでの質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問2 私はお地蔵様が大好きでいつもお地蔵様を心に思い描いているのですが、家の仏壇のご本尊様はお釈迦様です。
 だから、座ると、まずお地蔵様を思いだして、ご先祖様が守っていただくよう、家族が今日も無事で過ごせますようお祈りし、最後に目を開けてお釈迦様へご挨拶をして終わります。
 何となくしっくりしない気持でいます。

回答2 祈り方を変えれば問題は解決されます。

 こうしたご質問は結構あります。
 朝に、孫と一緒にお日様へ合掌し、それからお仏壇にお線香を上げて一日が始まる方もおられます。
 神棚の前で立って柏手を打ち、そのままお仏壇の前に座って般若心経を唱える方もおられます。
 それぞれが得心し、安心して毎日を過ごされればそれで結構ですが、もしも違和感が生じたならば、放置せず、プロへ訊いてみるのが一番です。

 さて、今回ご質問された方の場合は、まず、心中のみ仏であるお地蔵様を瞼の裏側へ映し出し、「南無大施徳菩薩地蔵尊(ナムダイセトクボサジゾウソン)」という御宝号、あるいは「おん かかか びさんまえい そわか」と真言を唱え、心ゆくまで祈ってから(できれば「お地蔵様と自分」という分ける意識がなくなってから)、おもむろに目を開けましょう。
 次に、お仏壇におられ、ご一家とご先祖様方を365日、24時間ずっとお守りくださっているお釈迦様へ「南無大法教主釈迦如来(ナムダイホウキョウシュシャカニョライ)」という御宝号、あるいは「のうまく さんまんだ ぼだなん ばく」の真言を唱えましょう。
 次に、ご先祖様方を「南無先祖代々一切精霊」とご供養しましょう。
 次に、「家族が今日も無事で過ごせますよう」にと願いをかけましょう。

 何ごとも〈公と私〉があります。
 心中におわすみ仏は、私的な領分のみ仏です。
 このことについては、誰も指一本、触れるべきではなく、触れられもしません。
 その点で、中国政府がチベットの人々の心の中にまで入り込み、仏教徒の心からチベット仏教を追い出そうとしている宗教弾圧は、非人道的であり、できないことをやろうとする愚行です。
 だから、まず、お地蔵様へ一心に祈るのは当然です。

 さて、仏壇におわすみ仏は、公的な領分のみ仏です。
 なぜ、「公」かと言えば、一家一族をあの世とこの世とを問わずお守りくださっているからです。
 もちろん、その方が自分の心中のみ仏となれば、その方にとって公私共にお守りいただいていることになり、これも一つの形です。
 だから、そうした方を尊び礼を尽くし、祈るのは当然です。

 このようにして、まずみ仏をご供養してから、願いをかけましょう。
 それは、誰か信頼のおける方へ一心上の相談をし、力を貸してもらおうとした時、お土産を持参したりするなど相手への信頼に応じた気配りをし、丁重な挨拶をしてから用件を切り出すのが大人のふるまいであるのと同じです。
 だから、仏教のお次第は、必ず、み仏へ礼を尽くしてから祈願するという順番になっています。
 そして、願いをかける順番も、まず、今の自分たちが存在できる縁となり、いのちをつないでくださったご先祖様方の安寧を祈り、それから自分たちのことに移るのもまた、当然です。

 こうして整理すれば、心中のみ仏と一体になりつつ、お仏壇のみ仏にも失礼なく過ごせ、やがてお仏壇のみ仏との距離も縮まることでしょう。
 そもそも、み仏は、私たちの心にある多様な尊さが異次元へ昇華して結晶した方々であり、そのゆえにこそ、お名前もお姿もおはたらきも、さまざまあるのです。
 私たちが「~が一番」「~さえあれば」という偏狭さを離れれば、他宗を「邪宗!」として傲慢に罵ることもなくなり、心は豊かさを増すことでしょう。
 また、公と私の区別をする意識がきちんとはたらけば、心中は微動だにせぬまま他の宗教の行事などへも礼儀正しく参加でき、神のお告げや過激なイデオロギーによる無法な行為もなくなることでしょう。





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2013
04.11

公開Q&A(その1)宗教と戦争

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〈岩出山の『森栖』さん〉

 公開セミナーでのご質問です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問1 なぜ究極的救いをもたらすはずの宗教同士が殺し合い演じるのですか?

回答1 宗教ごとにそれぞれ異なった問題はありますが、何よりも問題なのは、信じる人間、あるいは指導する人間の姿勢です。

 自分で信じる仏神だけが正しいと思い込み、他宗を邪宗と決めつける狭い世界へ入ってしまえば、ついにはまったく客観的視点を失い、独善的で過激な行動に走りかねません。
 そこに発生している思考停止や、差別的態度や、人倫の無視や、自分が神になったがごとき傲慢さなどの問題は、本人には気づかれなくなります。
 信徒をそうしむける指導者には、自分自身がそうした状態にある人も、あるいは、そうさせるのが教団を拡大するのに有効であると考えてマインドコントロールを押し進める冷徹な人もいることでしょう。
 いずれにせよ、教義の問題はさておき、争いに至るのは人間のありようによります

 私たちはこうした現実に学び、宗教が異なる人間同士でも理解し合えるものの重要性を考え、共に大切にして行く姿勢が大切です。
 それがあれば、互いに互いの信条を尊び合いながら、平和に、そして支え合い向上し合いながら歴史を進めることができるはずです。
 それは何か?
 利他の喜びです。
《貴方が喜べば私も嬉しい》
 この真実こそが、宗教を超え、人種を超えた倫理の基盤であり、人へ希望や勇気をもたらす源泉でもあります。
 誰かの嬉しそうな様子に自分の心も和み、自分がそれに役立ったことの喜びは、あまり爆発的ではありませんが、いかなる穢れもまとわず、いつまで経っても新鮮で、鼓舞する力を失いません。
 それは相手を選ばず、ペットや草花すら、この宝ものをもたらしてくれます。
 宝ものの輝きは、歴史の中でも色あせません。
 典型は、「非暴力・不服従・国産品愛用」を貫いてインドを独立させたガンジーです。
 ある時、インドと隣国パキスタンの間で紛争が起こりました。
 かたやヒンズー教、かたやイスラム教、どちらも退がるに退がれません。
 非常事態に際し、彼は断食をもって和平を訴えました。
 ヒンズー教の男性が敬愛するガンジーへ懇請します。
「自分は、イスラム教徒に子供を殺されたので、報復としてイスラム教徒の子供を殺した。だから地獄行きが当然だが貴方は違う。食べて生きてくれ」
 彼は答えます。
「貴方が地獄から抜け出す方法を教えよう。それはイスラム教徒の孤児を自分の子供として育てることだ。しかも、イスラム教徒として」
 現在も続いている宗教のからんだ殺し合いをなくすには、そして、片手に経本を持ち片手に武器や政治権力を持つローラー的布教をなくすには、ガンジーに学び指導者が思考を転換せねばなりません。

 もう一つ、忘れてならないのは軍縮、特に核兵器の根絶です。
 原爆がなければ広島と長崎の惨事は起こらなかったこと、核兵器がなければクラスター爆弾による悲劇も起こらなかったこと、そして、北朝鮮による今般の恫喝も起きはしなかったに違いないことを想像してみれば、その重要性はたやすくわかります。
 世界各地のいわゆる過激派武装勢力はもちろん、日本の暴力団や中国の黒社会や世界に拡散するマフィアも、凶器となるものがなければ存在できません。

《思いやる心を広く豊かに持ち、武器を手放すこと》
 これが宗教と戦争を決別させる道、ひいては人類を不幸と破滅から救うであろうと考えています。




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2013
04.10

フラッシュモブの持つ可能性と限界について ─「忍のテーマ」から隔たった世界─

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 4月9日の夜、NHKは「世界が熱狂するフラッシュモブ」を放映した。
 以下、公式ホームページの引用である。

「突然集まった群衆が、公共の場所で、一見意味の分からない行動を行い、数分後には何事もなかったかのように立ち去る『フラッシュモブ』。
 今、世界各地で毎日のように発生し、静かなムーブメントを起こしている。
 あからさまなメッセージを訴えるデモとは異なり、一見意味のないパフォーマンスで見た目の面白さを押し出し、ネットの繋がりなどで誰もが参加できるのが特徴だ。
 注目される理由は“民衆の底力”を周囲に思い出させるパワー。
 日常の中に一瞬だけ非日常の『世界』を創り出し、『我々が世界を創る』という意欲やエネルギー、さらに体制や常識を疑う新鮮な気持ちを人々にもたらすという。
 世界各国で政権への批判や芸術活動、そして日本では、衰退する地域の再生の為にフラッシュモブを活用しようとする動きが始まっている。
 フラッシュモブは社会を変える力になるか? 
 その意味を読み解く。」


 フラッシュモブが成立するにはいくつかの条件がある。

1 アイディアを持ち、ネットで発信する人がいる
2 発信された情報をネットで共有する人々がいる
3 受信した情報に共感し行動する人々がいる
4 行動できる場がある
5 行動を観る観衆がいる

 番組が挙げた例はすべて、この条件を満たしている。
 そして、フラッシュモブの特徴は以下のとおりである。

1 パッと現れては消える一過性である
2 参加者となる人々にはネットの共有以外の接点がない
3 観衆となる人々の耳目を害のない範囲で驚かせる

 また、発信者の資質は以下のとおりである。

1 ユーモアを形にしたいという意欲がある
2 ネットを利用する知識がある
3 常識と良識をもって、行動する場と観衆となる人々を選ぶ

 そして、参加者はさまざまな姿勢で行動に加わる。

○面白そうだ
○非日常性に惹かれる
○人々の注目を集めたい
○孤立している人間でも、集まれば周囲から注目される連帯とヒーローの体験が嬉しい
○観客が驚いたり楽しんだりするのが嬉しい

 はからずも観客とされてしまった人々はどうか。

○驚き、楽しむ
○自分も参加してみる
○迷惑と感じる
○「バカをやっている」と無関心

 こうして実態を考えてみると、フラッシュモブは芸術の領域にあることがわかる。
 だから、そこに何か積極的な生産的価値を見いだそうとしたり、付与したりしようとすれば、たちまち、たやすく、他のものに変質してしまうことだろう。
 政治的デモになり、商売になり、ボランティア活動になり、あるいは宗教的行動になるかも知れない。
 フラッシュモブがフラッシュモブとして健全であるためには、発信者と参加者にユーモア良識があり、一時的に空間を共有する全員が〈非価値〉を楽しむ余裕を持っていなければならない。
 あるいは、害意なく「〈非価値〉を楽しむ余裕」をつくり出してしまうところにこそ、フラッシュモブの存在意義があるのかも知れない。
 まさに芸術の力である。

 突然、昭和44年にテレビで聴いた水原弘の「忍のテーマ」を思いした。
 アニメーション「忍風カムイ外伝」の最後に流れていた。

「しのびが通る けもの道
 風がカムイの 影を斬る
 孤(ヒト)り 孤りカムイ
 孤り 孤りカムイ
 風の中を 拔けてゆく

 しのびが通る 遠い道
 闇がカムイの 影を斬る
 孤り 孤りカムイ
 孤り 孤りカムイ
 闇の中を 拔けてゆく」

 水原弘の声が持つ荒みと孤独感と無謀さと突き抜ける凄みは、数々のヒットソングよりもむしろ、この短い一曲に凝縮されていた。

 実に、人の求めるものは時代によって変わる。
 フラッシュモブには今後も注目したい。

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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
04.09

読経や瞑想の目的は何でしょうか?

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高橋香温先生の書道教室〉

 たとえば、ここ一番という時、お大師様の御宝号(ゴホウゴウ)「南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)」を21回唱えるとします。
 その際に、心はどうなっているでしょうか?
 受験問題や手術を受ける病院の様子などがチラチラしては、上の空です。
 瞼の裏側に、お大師様がおられなければなりません。

 お大師様のお像や掛け軸などの前で行う場合には、それを見ていますが、瞼を閉じればお姿がありありと浮かぶようでありたいものです。
 イメージと御宝号によってお大師様と一体になれれば最高です。
 もしも、お不動様の真言「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」を唱える場合は、いつ、どこでも、お不動様が心におられ、一体になれるところまで行っていただきたいと願っています。

 瞑想を行う意義もここにあります。
 心を落ちつけ、集中させ、み仏のお姿を心へ取り込み、一体になることが目標です。
 身口意(シンクイ)を一つにすれば、いつでも、み仏そのものになれます。
 そして、自分自身がまぎれもなくみ仏の子であると確信できれば、生き方はまったく変わることでしょう。
 お大師様が「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」を仏法の究極の目的とした意味はここにあります。

 念持仏(ネンジブツ)という言葉があります。
 自分の守本尊として決めたみ仏を御厨子(オズシ)などへ納めて私的に祀ったり、あるいは持仏堂(ジブツドウ)を造ったり、あるいはここぞという時に、現場へお連れしたりもします。
 ちなみに、聖徳太子は法隆寺夢殿の救世観音(グゼカンノン)、山本勘助は摩利支天(マリシテン)、伊達政宗は聖観音、豊臣秀吉は三面大黒天とされています。
 こうした念持仏の思想が広まった結果、現在では各家庭に仏壇を備えることが一般的になりました。
 生まれ年による一代守本尊様をお祀りし、その前で経典や真言を唱えて修行し、おりおりにお姿を思い浮かべ真言を口ずさみ、ご加護をいただいてはいかがでしょうか。
 仏壇のあるご家庭では、ご先祖様のお位牌に心を向けるだけでなく、あの世とこの世をお護りくださっているご本尊様と一体になるイメージで一心に祈れば、安心感や生き方が変わるのではないでしょうか。

 経典を学ぶのも瞑想を行うのも、すべてはこのように、み仏と「同行二人(ドウギョウニニン)」で生き、やがて死ぬためです。
 み仏の子である私たちが、み仏そのものとして本来の生き方をするならば、苦しみや迷いや淋しさはどこにありましょうか。

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2013
04.08

人を憎む自分に悩んでいます ─「マイベストプロ宮城」主宰春のセミナーでのお話─

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 4月10日午後2時より、河北新報社1Fホールにて、「自己中心を離れ共に幸せと安心を」と題する講演を行います。
 主宰は「マイベストプロ宮城」さんです。

 自己中心的な性向の強い人は周囲の人々にとって困り者であり、自分も気づいていながらどうしようもなかったりします。
 どうにかしようとしているうちはまだましですが、居直ってしまうと、軋轢の絶えない生涯になってしまいます。
 そもそも、わたしたちは、強度にちがいはあれど、誰でも自己中心的な志向を持っています。
 互いに肘を張り壁を作り、ともすれば周囲から奪おうとするので、誰にとってもこの世はままなりません。
 お釈迦様は、それを端的に「苦」と説かれました。
 
 この自己中心的な姿勢はどこから来るか?
 一つは、生きものとしての〈生きたい〉という欲求です。
 もう一つは、自分と世の中を観る視点のかんちがいです。

 一番目の問題は、それ自体をなくす方法はなく、人間がけだものとは違う尊さを発揮して抑えるしかありません。
 たとえば、3月3日、猛吹雪の北海道湧別町で、9才の娘を助けようとして覆い被さり、娘を守ったまま凍死した状態で発見された父親(53才)は、親子すら殺し合う時代に生きる私たちへ大きなものを突きつけました。
 太平洋戦争の激戦地を生き抜いた方々の言葉にも、ギリギリの場面で人間が人間たり得る難しさと厳しさと崇高さを感じさせられます。

 二番目の問題は、仏教が救済の根本問題とするところであり、自分を含め、この世にあるものを実体視するがゆえに生じる煩悩(ボンノウ)の数々につながります。
 だから、お釈迦様は、苦を滅する8つの方法『八正道(ハッショウドウ)』の最初に「正見(ショウケン)…正しい見解」を挙げられました。
 仏教の歴史は、この正しい見解を求め、その方法を探求し発展させてきたとも言えそうです。
 たとえば、人生相談に来られた憎しみに悩むAさんのケースです。
「なぜ、3年も前に他人の面前で軽蔑されたBさんへ対する憎しみが消えないのでしょう。
 憎しみがぶり返すのは困りますが、人を憎む自分も嫌でたまりません」
 Aさんは、自分に理があると信じておられますが、そうだとしても、Bさんが問題ある行動をとったことに、Aさんの言動がまったく無関係だったかどうか、よく考え、調べる必要があります。
 何ごとにも直接的原因である「因」と、間接的原因である「縁」があります。
 もしもBさんに他人へ対する攻撃的姿勢や、言動に常識が足りないなどの問題点があったとしても、相手となったAさんの側に、Bさんが具体的行動に出るきっかけとなる言動はなかったか?
 つまり、Aさんの側に、Bさんの行動を招いたいかなる「縁」もなかったかどうかということです。

 人望と名声を妬んだ愚か者が、お釈迦様を罵倒しました。
 お釈迦様は平然と、「あなたは贈りものを持って行った時、相手が受け取らなかったらどうしますか?」と訊ね、「もちろん、持ち帰ります」と応じた相手へ「私も同じように、貴方の言葉を受け取らず、お返しします」と言われました。
 そして、「天に唾するような愚かしいことはやめなさい」と諭されました。
 この場合、愚か者の言動を決定づけた縁の一つが、お釈迦様の人望と名声です。
 それは、お釈迦様の責任と言えるでしょうか?
 当然、お釈迦様に責任はありません。
 しかし、罵倒という愚考の縁になっていたことは確かです。
 お釈迦様はそれを熟知しておられればこそ、平然と受けとめ、決して争いの姿勢を取らず、愚か者を教化する貴重なきっかけとされました。

 さて、Aさんはどうでしょうか?
 きっと、「自分はちっとも悪くない、全部相手の責任だ」が対応の出発点になっており、それは今なお、変わらないのでしょう。
 このあたりは少し、考えなおしてみる必要があります。

 それに、その後の交流もないまま3年が経過した今、かつての「他人の面前」や「軽蔑」はどこへ行ったのでしょう。
 できごとの影響力はどこの誰にどのような形や力で残っていると想像されるでしょう。
 できごとはもはや、Aさんの記憶にしかないものと思われます。
 私たちの心は一本の細い糸のようなものであり、糸は極小の点で構成されています。
 点は横にしかつながらず、常に一つの点のみが心に浮かびます。
 もしもBさんへの憎しみが点となって心に顕れているならば、他のものは生じていません。
 逆の言い方をすれば、他のものが点となっている時、Bさんへの憎しみはないのです。
 ならば、Bさんへの憎しみよりも強い関心事を点として、心の糸を形成することです。
 つまり、自分の心を変えるのが、問題解決の方法です。

 講演では、「正しい見解」について、皆さんと共に考えてみましょう。

○何をどう信じたらよいかわからず不安だらけ
悪霊が憑いていると言われ不安でたまらない
お骨(ペットも)を抱えて途方に暮れている
○後継者がいないけれど、放置されたくはない

 こうしたテーマについても共に考えてみましょう。
 どうぞ、お気軽におでかけください。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2013
04.07

五つの願いから「カモ取りごんべえ」へ

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畠山重人先生からいただいた行者ニンニクが『法楽農園』に植えられました〉

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〈元気に育って……〉

 隠形流(オンギョウリュウ)居合の稽古で、「五大願(ゴダイガン)」のお話をしました。
 瞑想を行うには、自分の心を清らかにし、善き願いを持つことが欠かせません。
 自分中心の心のままで行えば、いかなる集中力も、いかなる分析力も、み仏の世界は開示されないからです。

「衆生(シュジョウ)は無辺なり 誓ってすくわんことを願う  
 福智は無辺なり 誓ってあつめんことを願う
 法門は無辺なり 誓ってまなばんことを願う 
 如来は無辺なり 誓ってつかえんことを願う
 菩提(ボダイ)は無上なり 誓ってさとらんことを願う」

 
(苦しむ生きとし生けるものは無限にいる、すべてが迷いを脱し救われるよことを願う
 福徳と智慧は無限にある、集め、身につけて利他の力を持てることを願う
 教えは無限にある、会得し、教えを生きることを願う
 み仏方は無限におられる、いつ、どこでも、どなたをも恭敬し、帰依することを願う
 菩提心(ボダイシン)はこの上なく大切である、菩提心に生きて悟ることを願う)

 お大師様は、この上なく大切な菩提心を4つの面からわかりやすく説かれました。

1 大菩提心(ダイボダイシン)…「自分と他人とみ仏とは、根本において一つである」という真理を信ずる心
2 大悲心(ダイヒシン)…「いつも自分を先にする」「自分のことがいつも一番」という姿勢を捨てる心
3 勝義心(ショウギシン)…「より気高きところ」を求めてやまない向上意欲を保ち続ける心
4 信心(シンジン)…正しい方法で「心の深みへ降りる」心


 2番目の大悲心について、「分かち合わず、自分だけが総取りし、得られない人を見捨てる邪慳な心ではならない」というお話をしたところ、Aさんから「先生、それはカモ取りごんべえさんに似ていますね」と言われました。
 私は「カモ取りごんべえさん」を知らず、Aさんに教えていただきました。
 あらためて調べてみると、熊本地方の昔話で、絵本だけでなく市原悦子さんが朗読したCDも出ているようです。

 さて、中身は確かに、カモたちを一網打尽にしようとした権兵衛さんの行く先、行く先で問題が起こり、最後は、決して意図したわけではないのに、助けられたお寺まで燃やしてしまったというお話です。
 この民話が、どこまでかみ砕いて子供たちへ教えられていのかはわかりません。
 ただ、視点として欠かせないのはやはり、権兵衛さんがどこにいても、自分のことしか考えていないという部分です。
 自分で生きて行くことはもちろん、社会人として当然です。
 しかし、そうしているだけでは、どこまで行っても、自己中心的なままです。
 周囲に生じるさまざまな縁も、自分のために使おうとするだけでは、結局、真に自分のためにはなりません。
 自分だけでいきられる人など一人もいないからです。
 縁となり、自分を支えてくださる人々のためになってこそ、支えられる縁が強固で温かで広がりのあるものとなり、結果として自分のためになります。

 そもそも、「総取り」という発想そのものが、虚しく邪(ヨコシマ)で穢らわしい気配を持っています。
 その汚らわしさの反対が、「蓮華は泥中にあっても清らかなようにこの私の身も心も本来清浄である」という観法の「本来清浄」です。
 前回、『比較を超えた清浄なる観法』にこう書きました。
「自分を突き詰めて行くと、誰かの喜びが最も嬉しく、生きがいにも救いにもなっている自分がいる」
「私たちの、人間としての本性は、利他(リタ…他のためになること)の喜びにあります」
 これが蓮華にもたとえられる「清浄さ」の実体です。

 大悲心を忘れず、正しい瞑想に励み、互いの清浄さを活性化させたいものです。
 この世を極楽にするために。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
 真言が聴かれます。(https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM)





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