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2013
05.31

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第138回)─「葬送の記」(その1)─

20130531001 (2)

 仙台市に「清月記(セイゲツキ)」という葬祭業者があります。
 5月、ある席で菅原社長と隣合わせ、何でも省略する世相についてどう考えているか訊ねたところ、即座に明解な答が返ってきました。
「いかなる時代であろうと、規模の如何にかかわらずきちんとお送りすることは御霊のためだけでなく、送るご遺族が心の区切をつけ次のステップへ踏み出すために欠かせません」
 いつの時代も、生活に根付いた文化の担い手とはこうした人なのでしょう。
 実に頼もしい〈同志〉です。
 数日後、友人から電話が来ました。
「友人が最近、本を出したから送るよ。
 きっと参考になると思う」
 それが菅原裕典社長の著『葬送の記』でした。

「本来、葬祭業は究極のサービス業です。
 お客様(ご遺族)の心の拠り所となる『黒衣(クロコ)』に徹して、心を重ねるように寄り添うのが葬祭業に従事する者の務めです」


 黒衣になるとは、ご遺族のお気持を第一として尽くすということでしょう。
 私も故人と送る方々へ寄り添わねば確実に引導(インドウ)を渡せないと考えています。
 以下、同書を読んでみます。

 社長は震災後ただちに棺1000本を発注し、災害時ならではの困難に備えました。

「見た目に立派な棺があったり、質素なものがあったりという差別は絶対にしてはならないのです」


 災害対策本部から要請があった時、お棺が足りないということは避けねばなりません。

「ご遺体を袋にくるんで並べておくわけにはいかない」
「これは日本人独特の死者に対する思いでもあります。
 きちんとご遺体をお棺に納めることで、ご遺族はほんの少しだけ安心されるものです」


 そして1000本のお棺は、震災の翌々日である13日の早朝、会社へ届きました。

 お客様の要望へ「NO」を言わないために、水や食糧など災害に備えたあらゆる準備がなされていました。

「大切な人の最期をお送りするときに、一つでも足りないものがあればプロとして失格なのです」


 最新式のトイレは水があってもうまく使えず、社員専用の昔式のトイレが役立ちました。

「災害時にはシンプルな機能のものが活躍してくれます」


 震災当日、社長は全社員を帰宅させました。

「明日はなんとか出社してほしい。
 明日からが厳しい仕事になるだろう。
 家のことも心配だろうが、みんなの力が必要だ。
 力を合わせなければ、この危機は乗り越えられない」
「翌朝の始業時には本社の全員が揃っていました。
 みんなの顔を見て、うれしさというよりも、感謝の気持がこみ上げてきました」


 社長は、家族の不安や不満を押し切って出社したであろう社員たちを支えていたものは使命感だったと考えています。

 平成16年に「仙台地域総議会館連絡協議会」を組織していた社長は、かつて、仙台市が行った年に一度の防災訓練において、検死官のサインで終わりとなっている状態へクレームをつけました。

「ご遺体を引き揚げて、一時的に安置して、そして検視する。
 それで終わりですか。
 検視が終わったご遺体はどうするのですか。
 放っておくのですか。
 そのご遺体をきちんと棺に納めて、体育館などに安置する。
 その後、荼毘に付し、ご遺族が葬儀を執り行えるようにしてさしあげる。
 そこまでやってはじめて防災訓練といえるのではないですか」


 翌年からは9月1日の「防災の日」における訓練に葬祭業者のブースも設けられるようになったそうです。

 さて、安置所に次々とご遺体が運ばれてくる現場では、ご遺族の言動が社員たちの大きなストレスとなり、救いともなりました。

「おい、遺体をもっと丁寧に扱え!」
「火葬をできなくしているのは、お前たちじゃないのか!
 少しでも長く安置所に置いておいて、追加料金を取ろうとしているんじゃないないのか!」
「こんなにきちんとしてくれて、ほんとうにありがとうございます。
 これで息子も天国に行くことができます。
 あなたたちも大変でしょうが、負けないでください」


 社長は社員たちへ言いました。

「ご遺族の方々は、どこにも哀しみをぶつける場がないんだ。
 大切な人を失い、普通の心理状態ではないんだ。
 そんなご遺族の気持ちを、私たちは受け止めねばならない。
 何を頼まれても、けっしてNOといってはいけない。
 それが私たちの仕事なんだ」


 そうして頑張る社員も社長も、県との協定で、安置所でご遺体を棺に納めるまでで終わりとなっていることには大変辛い思いをしたそうです。
 最善を尽くしてお納めしたご遺体は、ご遺族の意志一つで次々と地元の寺院などへ運ばれて行きます。
 お金儲けをしたいのではなく、誇りを持っている葬儀までやって仕事を完結させたいけれども、それはかないませんでした。

 対策本部を立ち上げてからの役所の対応に疑問を持った社長は、担当者を現場へ連れて行きました。
 お棺の組み立てをやっているベースキャンプでは、不眠不休で黙々と作業をやっています。

「役所の担当者は全員その場に立ちすくみ、言葉を失っていました。
 その日以来、彼らの対応はガラッと変わりました」


 それからは、「非常時には仕事における上下関係を生み出してはならない」という信念どおりの雰囲気となり「みんなが心を一つにして力を合わせる」関係になったそうです。

 ドライアイスなどの「物」のやりとりと報告について、数や金額の確認作業などがほとんどできなかったにもかかわらず、後になって国の監査が入った時、まったく問題はなかったことが明らかになりました。

「各メーカーと宮城県葬祭協同組合、そして役所のすべてが、信頼関係という名のもとにガラス張りの取引をしたのです。
 それは見事なものでした」


 社長は、メーカーさんが「場所は遠く離れていても、心は一緒に闘っていてくれた」ことに感謝し、全国の取引先に行脚をしました。
 私は、一般的に、日本人は〈どさくさ紛れ〉に悪事をはたらけない人々であると感じています。
 もちろん、報道されぬおぞましい事実がいろいろあったことは見聞きしていますが、根幹のところで、日本人は信頼できると確信しています。

 阪神淡路大震災のおり、社長は改造したマイクロバスに支援物資を積み込み、社員10人と共に、翌日、仙台を出発しました。
 そこで危機管理の大切さを身をもって学びました。

「当初は西宮に応援に行ったつもりでしたが、ほんとうに貴重なことを教えられたのは、実は私のほうでした」


 だから、今回、支援にかけつけた全国の同業者に対して、できるだけのおもてなしをしました。
「『戦力』としてあてにしてはいけない。
 むしろ、『学び』に来ていただくのだという気持ちで、すべての同業者を受け入れたのです」

「皆さん、よく見て帰ってください。
 そして考えてほしいのです。
 もしも自分たちの街がこんな状況になってしまったとき、自分は何ができるかを。
 何をやるべきかを。
 そして自分の非力さをも知ってください。
 一つの会社、独りの人間がやれることなど高が知れているのです。
 全員で力を合わせることがいかに大切かを学んで帰ってください」


 社長の視点は、〈人〉と〈日本〉に向いています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2013
05.30

おなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね

20130530003.jpg
〈『法楽農園』に咲きました〉

 5月29日、朝日新聞は「おなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね」と題する記事を掲載しました。

「大阪市北区天満2丁目のマンションの一室で24日、この部屋に住む母子の遺体が見つかった事件で、室内に『最後におなかいっぱい食べさせられなくて、ごめんね』という内容のメモが残っていたことが、捜査関係者への取材でわかった。
 預金口座の残金は十数円だけで、府警は生活に困窮していたとみている。
 親子は職業不詳の井上充代さん(28)と瑠海(るい)君(3)。
 捜査関係者によると、メモはガス料金の請求書の封筒に手書きされ、充代さんが書いたとみられる。
 2人は昨年10月ごろ、知人の紹介でマンションに入居した。
 室内に冷蔵庫はなかった。食べ物もなく、食塩があっただけだった。部屋の電気とガスは止められていたという。
 2人は2月ごろ死亡したとみられ、府警は瑠海君が先に亡くなった後、充代さんも間もなく死亡したとみている。
 部屋はワンルームで、玄関や窓は施錠され、荒らされた跡はなかった。
 今月中旬、住人から管理会社に『異臭がする』と連絡があり、24日、男性社員が部屋を訪れたという。」


 眼を閉じて光景を想像すると全身から力が抜け、へたり込みそうになりました。
 あまりの哀れさに混乱した後、忿怒とも恐怖ともつかない思いが起こりました。
〝電気とガスが止められた母子家庭を案ずる人が公的にも、私的にも、誰一人いなかった社会は、断じてまっとうな社会ではない。
 私たちは、なんという国をつくってしまったのか。
 一億国民が皆、懺悔しても、この母子に懺悔し尽くせようか……。〟

 2日前には、東京・六本木のクラブ『バニティー・レストラン・トウキョウ』が風営法違反で摘発されました。
 報道によれば、魔窟と呼ぶべき実態だったと思われます。
 営業の形式が法的にどうであるかという以前の問題として、店の内外で暴力事件が多発しており、六本木を管轄する麻布所へは、ほぼ毎日一件の割合で同店の営業時間内に同店周辺からの通報がありました。
 また、酔客が朝になっても付近をうろつき廻り、たむろし、子供たちの通学や通勤に警戒を緩められないというから驚くしかありません。
 そして、付近の道路などにビンやカンなどが散らばる様子も又、日本の光景とは信じがたいものです。
 摘発のあった26日未明、同店は満員で、約100人が行列をつくっていました。

 何らかの理由で、母親が3才の我が子へ食べものも与えられずに旅立たせてしまい、自分もまた白骨化してしまうしかない日本。
 自己中心的な自由と繁栄に溺れ、周囲の迷惑も省みず食欲・性欲・物欲を爆発させる人々によって違法や脱法が日常的になっている日本。
 これは異様と言うべきではないでしょうか。
 ──あまりの非情、あまりの浮かれすぎ……。
 私たちは明らかに何かを失ってしまいました。
 私たちは立ち止まり、自らをふり返ってよくよく考えねばなりません。
 手遅れにならないうちに。
(6月8日の寺子屋「生活困窮者の方々へ尊厳ある暮らしを」へぜひ、おでかけください)




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2013
05.29

第三十九回寺子屋『法楽館』 ─生活困窮者の方々へ尊厳ある暮らしを─

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〈高橋香温先生の新作〉

今回の寺子屋法楽館』は、特定非営利活動法人ワンファミリー仙台理事長立岡学氏に講演していただきます。
ワンファミリー仙台」は、地域で暮らす生活困窮者の方々に「人間本来の尊厳を持ってもらい」、「ひとりひとりが生きていて良かったと思える社会」をつくることをめざしています。
 この世で助け合う仲間を共にあの世へ送るため、当山に共同墓を設けられました。
 神職資格を有する理事長から、現実と希望についてお話しいただきます。

 日本における神道と仏教の根底には、自然の中に超越的な存在を感じるアニミズムが息づいており、人間を含めたあらゆる存在に神の性、仏の性を認める立場は、人間第一主義の傲慢さへ陥らせません。
 お互いが精神的土台を共有しているという感覚は、利己主義による倫理の崩壊と人間のアトム化(関係性がなくバラバラになること)に対する強力な防波堤です。
 だから、神道にも仏教にも相手を尊重こそすれ、争う理由はまったくありません。

 神職者である理事長と出会った時、興福寺阿修羅像が持つ哀しみを秘めた方であると直感しました。
 この像は、光明皇后が母親の一周忌に際して供養のために造ったものであり、人間が持つ本質的な哀しみを知り、哀しみを抱えた人間を見捨てられない神の心が感じられます。
 その気になれば悠々と過ごせるほどのあふれる素養を持っていながら、あえて出所者など困窮している方々へ手を差し伸べる仕事へ身を投じられた理事長の胸の内が、阿修羅像と二重写しになって察せられた記憶は今なお、鮮明です。

201305290001.jpg
興福寺阿修羅像

 なお、法人の「成り立ち」をホームページより転載させていただきます。

「ワンファミリーは、2000年、、新宿中央公園に起居するでホームレスと西新宿地区のゴミ拾いの活動をしていた津田政明氏(現在、理事)が設立しました。
 その津田氏の活動に共感した立岡(理事長)と徃見氏(副理事長)が、2002年2月、仙台においてホームレス支援をはじめました。
 そして、『ワンファミリー仙台』と名付け、任意団体としてスタートさせました。
 ワンファミリーの名前の由来は、津田氏がロサンゼルスに住んでいたとき、日本人の老夫婦オーナーが『世界は一つの家族(ワンファミリー)』という理念のもと、世界各国の多人種の方々に格安で部屋を貸していた寮の名前です。
 そのオーナーや寮の現在は不明ですが、今、この仙台において、そのオーナーの理念を引継ぎ活動していることは、不思議な縁を感じています。」


 日本の現実を共に学び、考え、行動しましょう。  

・講  師 特定非営利活動法人ワンファミリー仙台理事長立岡学
・日  時 6月8日(土)午後1時半~3時半(毎月第二土曜日に開催します)
・場  所 法楽寺講堂
・参加費  1000円
・送  迎 午後1時に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後五時までに必ずご連絡下さい。




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2013
05.28

身は華ととも落ちぬれども 、心は香とともに飛ぶ ─精進の力─

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20130528001 (2)
〈道路はゴミだらけになり、店内や周辺で暴力事件が続発し、朝には酔客が子供たちの登校にすら不安を与えていたとは〉

 お大師様は、ある人の21日忌を迎える法要に際し、供養の文を読み上げられました。
 その中にある言葉です。

「身は華ととも落ちぬれども 、心は香とともに飛ぶ」


無常の身は花が散るように死を迎えても、心は朽ちず、花の香りが遠くまで広がるように天空を飛ぶ)

 この前段には、心の内容が示されています。
「早くから女性としての徳を磨き、後には仏法僧を崇敬された。
 朝起きると俗世間を厭い、夕方には弥勒菩薩(ミロクボサツ)を信じ、おそばへ行きたいと願っていた」
 以下は原文です。

「旦(ツト)に四徳を磨き、晩(オソ)くには三宝を崇(アガ)む。
 朝(アシタ)には閻浮(エンブ)を厭(イト)い、夕(ユウベ)には都率(トソツ)を欣(ネガ)う」


 四徳は以下のとおりです。

・婦徳…女性としての心がけ
・婦容…女性としての身だしなみ
・婦言…女性としての言葉づかい
・婦功…女性としてのはたらき

 故人は幼い頃からこのように明確なイメージを持って修養に励み、やがては仏法僧を信じ、導かれる日々を送りました。
 朝には、我(ガ)とが我がぶつかり合う世間の穢れに流されず戒律を守って清浄に過ごそうと誓い、夕方には弥勒菩薩への信仰を深めました。
 生きざまの美しい印象は周囲の人々の心から消えず、御霊もまた、まっすぐに弥勒菩薩のおられる都率天(トソクテン)へと飛翔されたのでしょう。

 これほどの香りを発する徳は一朝一夕にできはしません。
 不断の精進が結果としてもたらします。
 故人はきっと、お線香を点しつつ合掌し、祈ったことでしょう。

 お線香には四つの功徳があります。

・芳香を放つ………精進の人は清々しい雰囲気を持っています
・火が消えない……精進の人は意志力がとぎれません
・燃え尽くす………精進の人は骨身を惜しみません
・後に香りを残す…精進の人は周囲の人々へ佳き印象を残します

 実に、「ともに飛ぶ」のは気まま勝手な心ではありません。
 美しい意志を持って精進した人にのみ、み仏から与えられるご褒美としての力を持っていなければなりません。
 お大師様の言葉を胸に精進したいものです。




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2013
05.27

形見分けは在家と出家で違う?

20130527001.jpg
高橋香温先生の新作が当山のミニギャラリーにあります〉

 普通、形見分けには三つの意義があります。

 一つは、御霊に安心していただくことです。
 たとえば、故人が大切にしていた古いレコードとプレイヤーをきちんと保管し、ときおり、鳴らしてみたりします。

 もう一つは、御霊の恩に報いることです。
 たとえば、親のすねをかじってばかりいた放蕩息子が、親の誇りだったバッジをもらって社会事業に目覚めたりします。

 もう一つは、自分の気持をつなぐことです。
 たとえば、師が愛用していた万年筆をもらい、弟子としての覚悟を貫くことです。

 さて、出家者にとっては、少し異なる意義が加わります。

 一つは、誰かがこの世に遺していったものを預かりものとして受け嗣ぐことです。
 出家して白衣をまとい、一度死んで生き直した僧侶にとって本来、〈我がもの〉はありません。
 すべては、教団や社会、あるいは天地自然からの預かりものです。
 よく「衣鉢を継ぐ」と言われるとおり、仏弟子としての師が遺された袈裟衣や鉢を、同じ仏弟子として弟子が受け嗣いだりします。
 それは形あるものだけのことではなく、師から伝授された奥義をもって修行に励むといった意味も含んでいます。

 もう一つは、無常を忘れないことです。
 受け嗣いだものを見たり思い出したりするたびに無常を感じ、いつ死んでも悔いなく、恥ずかしくない日々を送らねばなりません。
 お大師様は、衣鉢を継ぐはずだった甥の智泉大徳が他界したおりに一文をもって送りました。
 その中に「哀なるかな、哀なるかな、また哀なるかな、悲しいかな、悲しいかな、重ねて悲しいかな」とあります。
 いかに無常が骨身にしみていようと悲しみが起こることは避けられません。
 悲しむ感性と、無常を観る知性とは別ものであり、当然、両立します。
 どうせ無常だからと悲しみを悲しまなくなるのも、ただただ悲しみにくれて無常を忘れるのも、円満を欠いた心というべきです。
 むしろ、悲しみつつ無常を観る眼が深まり、無常と知ればこそ悲しみも喜びも深い情緒となるものです。

 身近な形見分けも、少し考えてみれば、小さくない意義を蔵しています。
 心して見直しましょう。
 そして、形見分けでの争いはやめましょう。
 こうした心を基準にしてみれば、誰がふさわしいかはおのづと明らかになるのではないでしょうか。




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2013
05.26

み仏のパワーは怖い? ─畏怖と安心と─

20130526001 (2)

〈『尊厳の芸術展』ガイドブックからお借りして加工しました〉

 日本に仏教伝来してまもなく、敏達(ビダツ)天皇の時代に、大臣曽我馬子(ソガノウマコ)は百済からもたらされた二体の仏像を、私邸に建てた仏殿へ祀りました。
 しかも、出家させた三人の尼僧をお仕えさせました。
 次いで仏舎利(ブッシャリ)用の大塔も建てました。
 
 しかし、まもなく疫病が蔓延し馬子も倒れます。
 そこで、馬子の政敵物部守屋(モノノベノモリヤ)は天皇へ奏上します。
「馬子が始めた邪宗のせいです」
 恐れた天皇は意見を容れ、仏塔も仏像も破戒され、法衣をとられた尼僧たちはむち打ちの刑を受けました。
 ところが疫病は止まず、敏達天皇が崩御し、次の用明天皇も病気に罹ります。
 人々は恐れます。
「老いたるも若きもひそかに相語りていわく『これ仏像焼きまつる罪か』」
 用明天皇が当病平癒をみ仏へ祈ろうとした時、守屋は「異国の神に祈る」必要はないと反対し、対抗した馬子は僧侶を用意するという一触即発の中、用明天皇も崩御されます。
 今度は、自ら病気を克服した馬子が仏法守護を奏上し、馬子と守屋の勢力が激突する「丁未(テイビ)の変」に至って物部氏は滅ぼされ、仏教の信仰は認められました。

 伝来から35年、政争に翻弄されつつ日本に根付き始めた仏教の黎明期を眺めると、崇高なものへ対する恐れ、あるいは畏れについて考えさせられます。
 政争の面はさておき、守屋の側には、異国の神を祀れば日本古来の神々の祟りがあるという恐れがありました。
 一方、馬子の側には、仏像を粗末にはできないという恐れがありました。
 こうした気持は私たちへも確かに受け嗣がれています。
 数年前、ゴミが捨てられやすい場所へ小さな鳥居を建てたところ、効果覿面と盛んに報じられた時期がありました。
 現在ではどうなっているかわかりませんが、畏怖の念は私たちにとって自然なものであり、とても大切であると考えています。

 私たちはギリギリの場面で、あるいは、まったく不意に、異次元を感じ、その圧倒的にリアルな感覚は誰に否定されようもありません。
 そして、体験に含まれている畏怖が崇敬へと変化すれば宗教心になってゆきます。
 祈りが形をとれば、いつしか畏怖は背景に退き、お慈悲にあふれた対象として観音様もお地蔵様も拝まれるようになります。
 
 太平洋戦争中にアメリカで強制収容された日系アメリカ人の方々は、手の届く範囲のモノに工夫を加え、収容所内で数々の工芸品を作りました。
 その一部が、「尊厳の芸術展」として全国に披露されています。
 仙台市で公開された品々の中に、なぜか仏像はありませんでした(NHKの担当者に訊ねたところ、全貌を確認し学術的に選んだ展示会ではないので収容所と仏教の関係はよくわからないということでした)が、仏壇は見つけました。
 そこには畏怖と安心が確かに感得され、「彼の家族は朝夕、手を合わせ祈りを捧げました。」という説明分に頭を垂れる思いでした。

 心のアンテナを錆びつかせていれば、畏怖も安心もありません。
 時には先人たちの心へ思いを馳せ、アンテナを磨いておきたいものです。




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2013
05.25

迷いに惑わず、苦しみに翻弄されない道 ─四国霊場巡りによる自己確認─

20130525001.jpg
櫻井恵武著『四国名刹』より転写加工したお大師様〉

 最近は、四国八十八か所の巡拝が盛んに行われるようになり、歩く人々の目的も多様化していると言われています。
 四国霊場はまぎれもなく聖地です。
 心身の構えをしっかりさせてそこへわざわざ足をはこぶ方々は、きっと、それぞれの覚悟を胸に秘めておられることでしょう。

 さて、巡る目的の一つは、自己修養です。
 日常生活に翻弄されたままの自分ではなく、自己中心の穢れを祓い、み仏の子としての真姿を取り戻そうとするのではないでしょうか。
 また一つは、当病平癒(トウビョウヘイユ)や身体健護、あるいは家内安全や世界平和など、具体的目標の達成です。
 もう一つは、伴侶や大震災の犠牲者など、先に行かれた御霊供養です。
 もちろん、僧侶にとっては、帰依とする心と修法の勉強を深め、未熟な法力を高めること以外の目的はありません。
 
 こういった中で、文化人類学者故岩田慶治氏は巡礼について、「一種の自己確認の手続きであると同時に、自分の所在を納得する手続き」であると鋭い指摘をしておられます。
 巡礼もしくは巡拝とは、巡りつつ礼拝するまぎれもない宗教行為です。
 それが自己確認であるとはいかなる意味か?

 巡拝する聖地は、この世にあるとはいえ、仏神がおわします別世界です。
 だからこそ、礼拝が行われます。
 礼拝のない巡拝はあり得ません。
 では、巡拝において各札所のご本尊様とお大師様へ捧げられる礼拝とは何か?

 礼拝は帰依に始まり、帰依(キエ)の確認に終わります。
 帰依とは、自分のすべてを投げ出して依りどころである仏神へ帰すること、つまり、鎧兜をまとったり美しく着飾ったりという世間的な衣を脱ぎ捨てて裸になり、聖なるものに導かれ、溶け込むことです。
 いつも頼りにしている世間的なものから解き放たれるところにこそ礼拝の重要な一面があり、それをくり返す巡拝を重ねているうちに、いつもの自分には起こりえないことが起こり、いつもの自分にはできないことができ、いつもの自分にはわからなかったことがわかるようになります。
 投げ出して初めて、〈今、ここにいる裸の自分〉に気づき、その自分になって生きれば、自分の所在は〈今、ここ〉にしかないことがだんだんに納得できることでしょう。

 こうして、いかなる目的を持った方も、至心に礼拝しつつ巡り、巡り終えてからも〈つかんだ自分〉を生きれば、迷いに惑わず、苦しみに翻弄されなくなることでしょう。
 憂き世に迷いと苦しみのない人生はありません。
 利他(リタ)に生きる菩薩(ボサツ)もまた、同苦(ドウク)すなわち、他者の苦しみを我が苦しみとするところからしか役割を果たせない以上、苦しむ存在です。
 聖徳太子が最も尊んだ『維摩経(ユイマギョウ)』の主人公である維摩居士(ユイマコジ)は、文殊菩薩(モンジュボサツ)と対等の悟りを得てなお、「生きとし生けるものに病気がある以上、私も病気に罹るのだ」と明言し、病の床に伏します。
 問題は、迷いや苦しみをどうするか、迷い、苦しんだ自分がどうなるかという一点にあります。
 迷いに惑わずレ洞察力や判断力をベルアップし、苦しみに翻弄されず克服する智慧と胆力を得られるところにこそ、憂き世に生きる者の救いがあり、そのためには〈今、ここ〉に生きて在ることを〈つかんだ自分〉にならねばなりません。
 四国八十八か所の霊場を巡ることは、そうした意味で、まぎれもなく「一種の自己確認の手続きであると同時に、自分の所在を納得する手続き」に違いありません。

 当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』は建設が始まったばかりです。
 仏天のご加護と善男善女のご芳志により、一日も早くこうした清めと気づきと力づけのパワーを持った聖地として完成するよう祈っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2013
05.24

2013年(平成25年)6月の運勢─流れの生かし方と人生修行─

201305240492.jpg

 2013年6月の運勢(水無月…6月5日から7月6日まで)です。
 運気の流れによる注意点を参考にし、人間修行の六波羅蜜(ロッパラミツ)行で改運し、開運し、快運となりますよう。

一 懸案には、思い切って決着をつけましょう

 決着をつけるべきことがわかっていながら、未練などによってズルズルとひきずれば、「百害あって一利なし」です。
 ウジウジした状態にとどまるのは、ある意味で怠惰でもあります。
 故岡本太郎画伯に叱り飛ばされそうです。
 画伯は言いました。

「人間一匹は非力かもしれない。
 しかし、だからといって腰をぬかすことはない。
 皆さん、どうして、こう、無気力で、筋をとおさないのだろう。
 世の中がつまらない、というのは、自分がつまらないことなのだ」。


 画伯は筋を通すために烈しく行動しました。

「あらゆる行動は、私の幅全体の噴出である」。


 この噴出こそが「筋を通す」ことなのです。出し惜しみせず筋を通す力は、人を向上させ、人生を前進させ、この世を発展させます。
 ウジウジしていられないではありませんか。

一 果断な決断も、柔軟に考えて行いましょう

 故湯川秀樹博士は、「科学者のものの考え方は、次の両極端の間にある」としました。
 Aは「実証されていない物事は一切、信じない」。
 Bは「存在しないことが実証されていないもの、起こりえないことが証明されていないことは、どれも排除しない」。
 例えば、お化けがいるかいないかという問題について、Aなら「いない」となり、Bなら「いるかも知れない」となります。
 私たちは、ともすれば、Aが科学的であるとばかり考えがちですが、博士は、物質を構成している原子について述べています。
「十九世紀になっても、原子の存在の直接的証明はなかった」けれども、「原子から出発した科学者たちの方が、原子抜きで自然現象を理解しようとした科学者たちより、はるかに深くかつ広い自然認識に到達しえた」。
 このお話は、知っている情報を総動員して判断しながらも、知らない面があることを忘れず、想像力を駆使するという態度に通じています。
 私たちは全知全能でないからこそ、未知の世界へと夢を膨らませ、未来を切り拓く歩みに充実感を覚えます。
 明らかなものごとをきちんと見分けながら、夢へ向かう決断を行いたいものです。

一 涙に負けず、しかし、涙を忘れずに次のステップへ進みましょう

 慈悲の「慈」の根源には友情があります。
 相手を思わないではいられない気持です。
 友人に対しては必ず、喜びも悲しみも共にしたくなり、必ず、相手にとって無条件に「よかれ」と願います。
 そうしないではいられないのです。
 一方「悲」の根源には呻きがあります。
 呻いている人を放置はできません。
 なぜなら、私たち誰にもまた、呻きの体験があるからです。
 思いが空回りして失恋した時、努力が報いられず仕事に失敗した時、裏切りに遭ったり大病に罹ったりして夢が頓挫した時、……。
 私たちは呻くしかなくなります。
 呻いたことのある人間は、他者の呻きに無関心ではいられません。
 自分の中でも呻きの共鳴が始まるからです。
 ここにこそ、苦を抜いてやらずにはいられない大悲が起こります。
 私たちは、こうした慈悲心を家族や友人、あるいは知人など特定の相手に対して発します。
 しかし、み仏は、対象を選びません。
 生きとし生けるものは皆、み仏のいのちを宿すみ仏の子だからです。
 狩野芳崖の『悲母観音』はいのちの源としてのみ仏を描いて余すところありません。
 決断には涙を伴う場合があります。何ものか、あるいは何ごとか、あるいは誰かとの別れが必要にもなる得るからです。
 ここで涙に負けるわけにはゆきません。
 辛い関所を通過せねばなりません。
 しかし、涙を抑える心に発するマグマのような呻きは、必ずや人間を一段と強くし、思いやりを深めてくれます。
 実に、私たちは喜び、悲しみ、嬉しさに胸を躍らせ、辛さに呻きつつ霊性を高めます。
 一歩一歩と、み仏に近づきつつ一生を過ごします。
 同じ空気を吸っている皆さん、共に進みましょう。


 六波羅蜜(ロッパラミツ)行で人生修行としましょう。
 皆さんの開運を祈っています。

[布施(フセ)行と運勢]水を供えましょう。
 精進の人は仇へ仇をもって返さず、無事安全です。
 不精進の人は、怨みと高慢心から他人へ強く当たった反動で自分を痛めつけてしまいがちです。
[持戒(ジカイ)行と運勢]塗香(ヅコウ)で身と心を清めましょう。
 精進の人は身に覚えのない嫌疑にも泰然として、難は去ります。
 不精進の人は攻撃的態度に出て無用な敵を作りがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は悪人を救おうとして徳を発揮します。
 不精進の人は悪人を懲らしめようとして我が身の不肖を忘れ、やぶへびになりがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は事前の準備にぬかりなく、成功へ近づきます。
 不精進の人は手ぬかりから大事を生じて務めを果たせず、進退窮まることになりがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は私情に流されず毅然として、ことを成し遂げます。
 不精進の人は公私混同が悪人の縁を呼び込み追いつめられて失敗しがちです。
[智慧行と運勢]灯火を供えましょう。
 精進の人はいち早く危機を察知して退き、無事安全です。
 不精進の人は目先の損を免れようと無理をしてあれこれ画策し、泥沼に陥りがちです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
05.23

み仏は一人一人の前で説法を行う

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 弥勒菩薩(ミロクボサツ)様のお経の最後に、説法を聴いた人々の思いが書かれています。
 幅560キロメートル、奥行き800キロメートルというとてつもなく広い場所で弥勒菩薩説法を終えた時、聴いていた人々は、座っていた人も立っていた人も、弥勒菩薩の近くで聴いていた人も遠くで聴いていた人も、それぞれ、自分の前で自分のために説法してくださったと感じたのです。
 原文は以下のとおりです。

「その中の人衆(ニンシュ)は、坐せるも立てるも、近くなるも遠くなるも、おおのおの仏、その前にあって、独(ヒト)り我がために説法したもうと見たてまつる」


 この教えにつき、み仏は分身の術のような超能力を用い、何体にでも分かれて一人一人の前で説くというとらえ方もできるでしょう。
 しかし、そうした形の想像では、現実感が薄くなるか、もしくは、盲信的な信仰になってしまう虞(オソレ)があります。

 そもそも、一人が真剣に説き、大勢の人々が真剣に聴く場合は、すべてこうした雰囲気になるものです。
 説かれる内容が普遍的真理であるならば、それは、必ず、一人一人へ直(ジカ)に伝わります。
 聴く側が真剣であるならば、周囲で耳を傾ける人々が何人いようとまったく関係なく、内容はまっすぐ自分の心へ届いてきます。
 そこに生ずるリアルな感じが「その前にあって、独(ヒト)り我がために」です。

 私は、ダライ・ラマ法王が東京で説法されたおりにこうした体験をしました。
 質疑応答に入った瞬間、手を上げ、法王から答をいただいた時だけが法王との一対一のやりとりではなく、説法会全体がまぎれもなく、一対一でした。

 また、師が複数の人々を相手に人生相談をされたおりにも、他の人の質問に対する答はすべて、私の心へも響きました。
 帰りしな、「よくわからなかった」という声を耳にし、聴く人の心のありようを勉強させられました。
 たとえば、人間関係に苦しんで相談した人が「それは5代前のご先祖様同士が争った因縁だから、10万円で因縁を解いてあげましょう」と言われれば、わかりやすい回答を得たと喜ぶかも知れません。
 たとえば、こうやって相手の性根をもう一度よく観よう、とか、切りようのない人間関係ならば自分の心をこういう方向へ変えて景色を眺めなおしてはどうか、といった回答ならば、面倒だと感じるかも知れません。
 しかし、明らかに〈生きた教え〉は後者にあり、その回答は質問者以外の人々にとっても真実を含んだ尊い説法になっています。

 また、見ず知らずの方から、「今回のブログで私はこう諭されました」というありがたいメールをいただいたりします。
 もちろん、その方のために書いたのではなく返信する余裕もありませんが、その方は心のどこかで自分のために発信されたと感じておられます。

 また、托鉢の途中で、「よくぞおいでくださいました。今日は夫の祥月命日(ショウツキメイニチ…命日と同じ月日)です。どうぞ供養してください」などと言われたことは数え切れないほどありです。
 僧侶の訪問というできごとを受け取る方の心のありようが、できごとへ鮮やかな彩りを与え、その彩りは、再びその方の心を深めます。

 み仏の教えを学び、祈る時、み仏と私たちは一対一です。
 時には影向(ヨウゴウ…たち顕れてくださること)を感じる場合もあります。
 いつ、いかなる時も、「前にあって、独(ヒト)り我がために説法したもう」のです。
 み仏と一体になる入我我入(ニュウガガニュウ…み仏が行者に溶け込み、行者がみ仏に溶け込むこと)はその先に実現します。
 心して読み、考え、唱え、祈りましょう。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
05.22

『法楽農園』はもうすぐ田植えです

 地域の方々のご助力で『法楽農園』はもうすぐ田植えです。

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〈仲間A〉

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〈仲間B〉




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2013
05.22

『みやぎ四国八十八か所巡り道場』へご協力を

20131517039「イノシシやカモシカも歩きます」
〈イノシシやカモシカも歩きます〉

八十八か所6のコピー

八十八か所7のコピー
〈「ウサギ野仙哉」君が参道入り口の目印です〉

 泉区福岡の丘に『みやぎ四国八十八か所巡り道場』の建立を始めてからもうすぐ2年になろうとしています。
 おかげさまにて順路ができ、守本尊の地蔵菩薩様と6か寺分のお堂が建ち、そろそろ水やトイレについても考えねばならない段階に至りました。

 そんな矢先、かねて当山の理想に共鳴され、宗教法人の認証を受ける時代から当該地へ深くかかわってこられた方が急逝されました。
 無常は承知ながら、共に道場の完成を心待ちにしていた者として無念でなりません。
 力不足をいくら詫びても足りない思いがします。
 そこで、このたび、あらためて計画について広くご案内し、ご理解とご助力をお願い申しあげることにしました。

 本計画の趣旨は、四国八十八霊場へ関心があってもなかなか出かけられない方々が、魂入れをした各寺院のご本尊様へ手を合わせることにより、ご加護をいただける聖地をつくることにあります。
 こうしたご要望は、一軒一軒と歩く托鉢行を行っていた時代からお寄せいただいておりました。
 霊場の創設は、共同墓寺子屋に並んで「いつか必ず」と心に秘めていた願いです。
 法縁の皆様のおかげで、共同墓は、十三仏様に護られる『法楽の礎』、及び『自然墓』として完成し、皆さんに安心を感じていただいています。
 また、寺子屋は、毎月第二土曜日に開く『法楽館』、及び第二・第四水曜日に開く『人生よろずQ&A法話と人生相談』、あるいは毎週金曜日に開く『隠形流(オンギョウリュウ)居合』の道場として展開しています。
 ここに至り、ぜひ、『みやぎ四国八十八か所巡り道場』の進展をと願っています。

 当山は、平成22年に「脱檀家宣言」を行い、檀家だからという理由で寺院がお布施(フセ)を強要したり、檀家さんが嫌々ながら金品を納めるといった本来の布施行からかけ離れたやりとりに終止符を打つ姿勢を明確に打ち出しました。
 公器である寺院の法務は、あくまでも、穢れのないお布施を喜んで差し出す自主的なサポーターによってのみ支えられるべきであると信じています。
 本計画においても、趣旨に心から賛同される方々が清浄な布施行の実践によって徳を積まれ、その徳の積み重なりとして共通の理想が現実のものとなるよう願っています。

 要領は以下のとおりです。
 ご高覧、ご理解、ご助力をいただければ幸甚です。
 本ページをお読みいただいた皆々様へみ仏のご加護がありますよう心よりお祈り申しあげます。

2013052122「高さは約180センチメートルあります」
〈各札所の守本尊様が祀られます〉

20130521018「ご芳名と願いごとが銘記された石柱」
〈ご芳名と願い事を銘記した石柱が参道に建ち並びます〉



1 場所 
宮城県仙台市泉区福岡字菅の崎3
約8000坪の南東に向いたなだらかな丘です。
2 礼拝所数 
四国八十八か所分と高野山で89宇(ウ)
3 参拝施設
高さ約1・8メートルの石堂内へご本尊様をお祀りし、足元には、住職が四国八十八か所を巡拝したおりの砂を納めます。
4 ご志納金
どうぞ、まごころのままに
5 ご芳名簿 
『一か寺分50万円』がまとまり次第建立し、お堂の横へ皆様のご芳名のみを列記します。
もしも50万円をお納めになられる場合は1宇の石堂へ刻むご芳名はお1人となります。
もしも30万円の方と20万円の方がおられればお2人となります。
もしも10万円の方が5名おられれば5名となり、1万円の方が50名おられれば50名となります。
また、参道外側に立てられる石柱は『一本5万円』で、ご芳名と願い事と建立年月日が刻まれます。
6 ご入金
ご賛同いただける場合は、下記の口座へのご送金をお願い申しあげます。
○七十七銀行吉岡支店 普通預金 5446007
○ゆうちょ銀行 店名 八一八(ハチイチハチ) 店番 818 普通預金 3028612
○古川信用組合吉岡支店 普通預金 3383332




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2013
05.21

リンカーンの実像は? ─岩波文庫『リンカーン演説集』と映画リンカーン─

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 5月13日の朝日新聞に掲載された『人種差別主義者だった?リンカーン』を読み、子供時代に学校で習った歴史的イメージとのあまりの落差に勉強不足を痛感させられました。
 植え付けられた固定観念「奴隷解放の父」は一体何だったのか、岩波文庫の『リンカーン演説集』さえ読んでおけば、と情けなく、ため息をつく思いです。

 以下は、朝日新聞の記事におけるリンカーンの言葉です。

「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。
 奴隷制度を救うことにも、それを滅ぼすことにもありません。
 もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるのなら、私はそうするでしょう。」
「私は現在もこれまでも白人と黒人の間に社会的・政治的平等をもたらすことを好んだことはありません。」
「私はここにいる誰もと同じように、白人に与えられている優等な地位を保持することを好んでいるのです。」


 以下は、岩波文庫の文章です。

「『黒人を有権者や陪審員にしたい』と思ったことは、1度もありません。
『彼らを公職につかせよう』とか、
『異人種間の結婚を許そう』などと思ったこともありません。
 私は、ここにいる誰もと同じように、白人に与えられている優等な地位を、保持することを好んでいるのです。
 でも白人たちが、優等な地位にいるからといって、『黒人たちの全てが、否定されて良い』ということには、ならないのです。」


 政治家リンカーンの願いは南部の地域でつくられた南部連合を解体し、合衆国へ統合することであって、奴隷解放は、超えられないハードルを課して南部連合を潰す目的に使われたというのが真相らしいのです。
 日本が太平洋戦争に突入せざるを得なかったABCD包囲陣(対日経済封鎖)、そして、事実上の最後通牒となったハル・ノートを思い出します。
 当時の駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー氏は、後日、こう述べています。

「もし日本が、南方における主導権を軍隊によって追求しようとするならば、日本は直ぐにABCD諸国と戦争になり、疑問の余地なく敗北し、三等国になるであろう」


 ABCDとは、アメリカ(America)、イギリス(Britain)、オランダ(Dutch)、中華民国(China)です。
 正義は自分にありとして相手へ譲歩できない条件を突きつけ、相手を〈やむなき一戦〉へと導いて壊滅させるという政治的・軍事的方法を用いたのです。

 さて、南北戦争後、北部諸州は奴隷を率先して解放するどころが渋ったのが実情であり、冒頭の記事は都留文科大学教授大森一輝氏の見解を伝えています。

「科学という名のもとに、黒人は生まれつき怠け者だとか、白人より体力がないといった議論がまことしやかに行われていた。
 当時の政治的文脈の中では、人種平等に触れること自体、難しかったんです」
「解放で形の上では平等になったなめ、逆に黒人を日常的に抑えつけなければならなくなった。
 物理的・精神的圧迫感は時代が下るに釣れて増したと考えられます」


「奴隷解放宣言」は1863年、人種差別撤廃のための公民権法が成立したのは1964年です。
 記事はこう締めくくられています。

「南方戦争の死者は第二次世界大戦の米軍死者を上回る62万人。
 都市の徹底破戒や殲滅戦が行われるなど近代戦の幕開けとなった。
『正義の戦い』を声高に叫ぶ点など、米の戦争の原型がそこにできあがったとみる研究者もいる。
 リンカーンこそ、現代に至る、アメリカの光と影を培った大統領と言えるのではないか。」


 今、日本では映画『リンカーン』が上映されています。
 頭のどこかに岩波文庫の『リンカーン演説集』を置き、スティーヴン・スピルバーグ監督の思いなども想像しながら複眼的に楽しめば、興趣が増すかも知れません。




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2013
05.20

心に優雅さを育てましょう ─追いつめられながらも人間性を保つには─ 

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 心は5つの徳によって円満に練られ、人として成長します。
 まず、他人への「優しさ」、自分への「厳しさ」、社会的な「正しさ」が必要です。
 そして、「優雅さ」も欠かせません。
 特に、実際の悪縁がついた時には、この徳を第一にせねばならないとされています。

 たとえば、道理や常識の通じない傍若無人な人が隣人になったならどうすればよいか。
 優しくすれば、付け入られるだけです。
 いくら自分へ厳しくしようと、波状攻撃的に生じる不条理感は心身を蝕みます。
 もちろん、何が正しいかなどという論議は無意味です。
 こうした〈実の悪縁〉は、人間界に棲む以上、誰にとっても避けがたいものです。
 それは、たやすく怨憎会苦(オンゾウエク…怨み憎まないでいられない人と出会ってしまう苦しみ)をもたらします。
 オウム真理教が起こした地下鉄サリン事件で被害を受けた方の「憎しみが消えないことは耐え難い」と漏らされた言葉は記憶から消えません。
 では、追いつめられた時、優雅な心で対応し、自らの霊性を高めつつ苦を脱するとはいかなるイメージなのか?

 水俣病の被害者故杉本栄子氏は、日常生活とは次元の異なる言葉を遺されました。

「水俣病はのさり(天からの贈り物)、私の守護神たい。
 病気の御陰で人にも魚にもよう出会う」

 
 作家石牟礼道子氏は、水俣病に苦しむ人々の様子を最後の講演で訴えました。

「ベッドに足と手を縛り付けても、あまりの苦しさに天に向かって舞いなさる。
 縛ってあるひもやらがちぎれて下に落ちなさる」


 とても想像できません。
 それほどの苦しみを受けていながら、病気を「天からの贈り物」であり「守護神」であると受けとめる心とは……。
 人間としての尊厳を守りきれるかきれないかの瀬戸際に立たされ、生き抜くために悪魔をも〈生〉の内側へ自主的に取り込まねばならない時に生じた心。
 これこそが究極の優雅さというものではないでしょうか。

 思えば、大日如来も観音菩薩も地蔵菩薩も阿弥陀如来も釈迦如来も、多くのみ仏方は共通した雰囲気すなわち、優雅さをもっておられます。
 しかもその優雅さは、ゆとりある生活や、雅(ミヤビ)な趣味などがもたらすゆるりとした雰囲気とはまったく異なっています。
 ──揺るぎなき絶対のものから発する優雅さ

「ありがとう、みんな生きとっとばい。
 大事にせんば」


 最期にこう言った杉本栄子氏は、生き仏として死を迎えられたのではないでしょうか。

 追いつめられた状況であろうと、ゆとりある状況であろうと、心に優雅さを育てる修行を行うには5つのポイントがあります。

1 人徳のある人をすなおに尊敬しましょう
2 よき行いをする人を素直に誉めましょう
3 よき行いにつき従い、一緒に実践しましょう
4 いかなる時も人間としての向上を諦めないようにしましょう
5 いかなる時も思いやりを忘れないようにしましょう


 一瞬先に何が起こるかわからないのが人生です。
 日常性に亀裂が入った時、隠れている人間性が顕わになります。
 いついかなる状況にあっても崩れぬ霊性を生きるには、優雅さを育てておくことが欠かせないのではないでしょうか。




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2013
05.19

王様の人生相談に答えられたお釈迦様 ─古代インドにおける七つの掟─

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〈深度5強の地震に襲われましたが、おかげさまで無事、例祭を終えました〉

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〈ミケの安楽がここにあるとは……〉

 ある王様がお釈迦様へ使者を遣わして人生相談を行いました。
ヴァッジ族の国を攻めたいのですがどうでしょうか」
 当時のインドは群雄割拠で、互いに版図を拡げたくて虎視眈々としていました。

 お釈迦様は使者へ直接回答を出さず、いつもそばにいてお仕えしていたアーナンダへ、7つの要点がきちんとしているかどうか質問します。
 周囲の人々は、使者を含め、耳をそばだてていたことでしょう。

①集まり、多数でものごとを決める。
②共に集まり、共に起き、共になすべきことをなす。
③勝手なことを決めず、定められた法に従って行動する。
④古老を尊敬し、その言葉に耳をかたむける。
⑤婦女子へ暴力をふるわない。
⑥宗廟(ソウビョウ…先祖に対する祭祀を行う場所)を敬い、法にかなった供養を捨てない。
⑦聖者を守り、他所から来た聖者にも安穏を与える。(宮坂宥勝著『ブッダの教え』参照)

 ほぼ守られていると聞いたお釈迦様は「それなら繁栄しこそすれ、亡びはしないだろう」と判断されます。
 二人のやりとりの様子が王様へもたらされ、王は攻撃をあきらめます。
 後に、ヴァッジ族の『七不退法』として今日へ伝えられています。

 お釈迦様は、貧しい人々から王様まで、人生の万般にわたって相談を受けておられました。
 そして、常に、人間における真実としての〈生きた真理〉をもって答えておられたように思われます。
 今回とりあげた王様の質問は、政治的、軍事的なものでした。
 それに対して、お釈迦様は、そうした世界からの判断をせず、あくまでも人の道をもって対応されました。
 心底、憧れてしまいます。
 宗教者としての分をわきまえているなどというレベルではなく、み仏に成り切っておられるご様子がうかがわれ、その混じり気のなさはこの世のものとは思われず、まさに、生き仏だったに違いありません。
 
 誰にでも見通せる四阿(アズマヤ)で円状に座り、この7つのポイントを実践しつつ運営されていたヴァッジ族の都市国家もまた、想像するだけでため息の出るような姿です。
 ここには、集団で暮らす際に共有すべき徳目が尽くされていると言えないでしょうか。
 我欲の匂いがまったく感じられないのも驚きです。
 清浄な空気が流れる四阿で、きっと、お互いのためを第一に考え、恥ずかしくない議論していたであろう〈人間〉は、どこへ行ってしまったのでしょうか。

 ネットに、故宮坂宥勝師から「大声で語る信仰には必ず間違いが含まれる」と教えられたエピソードが述べられています。
 宗教だけでなく、政治や経済においても、あまりに「大声で語る」ものへは冷静で慎重な視線と判断が必要であるやに思われます。
 『七不退法』はこれまで、寺子屋などで何度かご紹介しました。
 社会の理想であるだけでなく、崩壊しつつあるとされる家庭の理想にも通じると考えているからです。
 心に留めておきたいお釈迦様の教えです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2013
05.18

寺子屋の使命と目標(その2) ─共生の世界へ─

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〈当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』は、皆さんのお心により、次第に姿を顕わそうとしています〉

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 お釈迦様は、意のままにならない苦しみを解くためには人として正しい道を歩んで生きよと説かれました。
 それが正しい見解や正しいなりわいなどの『八正道(ハッショウドウ)』です。
 
 以来、続けられてきた仏教に基づく研鑽には、その道をまっとうするための方法の模索という一面があります。
 そして、無数の行者・聖者方がいのちをかけて励み、つかみ、無数の方法が伝えられてきました。
 その方法が、お釈迦様が遺されたやり方とすっかり合致しているかどうかは、実践者にとって根本的な問題ではありません。

 なぜなら、お釈迦様自体が、「自分は過去に悟った聖者方のような境地に達した一人である」と説かれているからです。
 お釈迦様以前に悟られた方々のとられた方法を知り尽くすことはできず、それがまったく同じ方法であったなどということもあり得ないではありませんか。

 また、人間そのものが、いつ、どこで、誰の子として、いかなる特徴を持って生まれるかは千差万別の〈限定された存在〉であり、たかだた100年もない限られた人生の間に縁となった教えに導かれて生きるしか、生きようがないないからです。
 今の日本に生まれた私たちは、現代文明の空気を吸い、日本という風土の水を飲み、日本の文化が動かす社会にあってまっとうにふるまい、お互いに思いやりを交わし合いつつ生きる中で、そこに棲む者たちに合った姿で発展してきた教えに生きることを否定するいかなる根拠も持ち得ません。

 また、何の道であれ、集中して修行した人間は、必ず、〈会得すること〉と〈工夫すること〉が切っても切り離せないことを知っているはずです。
 確かに、長嶋茂雄氏は、松井秀喜氏の師として「こうだ」と徹底して指導したことでしょう。
 すなおに師へ従って類い希な練習をした松井秀喜氏は〈会得〉し、後生に残るほどの結果を出しましたが、その過程において、必ず松井秀喜という二人とない人間の心身に合った〈工夫〉が行われているはずです。
 私自身、師から伝授された修行を行い、お釈迦様とお大師様の修行についてもいささか学び、その結果プロとして生かしていただいていますが、プロとして発揮できるなにがしかの力を得る途中で、自分ならではの工夫があったことは歴然たる事実です。
 もしも、「一切の工夫を省いて師から言われたとおりに寸分違わずやらないお前は邪道である」と師が言われたなら、あるいはお釈迦様やお大師様が霊界から「お前は邪道であるから仏教行者の資格はない」と言われたなら、「ならば、私には誠意ある生きようがありません」とお答え申しあげるしかありません。
 学問や芸術やスポーツはもちろん、宗教の世界においても、およそ、意欲ある人間から工夫をはぎ取ることはできず、失敗より成功がやや多く、存続できる条件に恵まれた〈方法〉が残され、息づいているのが私たちの文明、文化というものではないでしょうか。

 今や、ダライ・ラマ法王が説かれているように、個々の宗教的ドグマを超えた世界をイメージできなければ、地上から対立と戦いをなくせないことに気づかれつつあり、〈限定された存在〉である人間同士が、宗教も含めて〈限定条件の向こう〉を共に見つめねばならない時代が到来しています。
 私たちは、人間を含めたいのちと環境を一気に破戒し尽くせる悪魔の道具をつくってしまったからです。

 こうした認識に立ち、当山の寺子屋では、集う方々が、共に〈限定条件の向こう〉に広がる共生の世界に心の目を向ける体験を重ねたいと願っています。
 当山で学ぶ八正道なども、そこを入り口とし、その道を践むことが個々人へ救いと向上をもたらすだけでなく、共生の世界へ通じる機縁であって欲しいと切に願っています。




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2013
05.17

寺子屋の使命と目標(その1)

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 当山は平成18年に「寺子屋使命と目標」を明確にしました。
 当時は、主として青少年を対象に考えていましたが、現在は、年令を問わず、共にものごとをより根本から考える姿勢に徹しています。
 若干補足訂正し、未来に向け、あらためて根本姿勢を明確にしておきます。

一 治療よりも予防をめざす

 心は氷山である。
 我と思い揺れ動く〈表面の心〉からみ仏の世界へ連なる〈深遠な心〉まで幾層にもなっている。
 五蘊成苦(ゴウンジョウク…過剰な生命活動や氾濫する情報などによって迷い、生ずる苦)の時代における正邪・善悪・虚実の見分は、より深い心に蔵されているみ仏の真智によるしかない。

二 身・口・意を用いて霊性を生きる

 感動する瑞々しい感性を磨く。
 感謝するすなおな心を育てる。
 ことに応じ、時に応じ、場所に応じ、人に応じた大人の振舞を身につける。

三 真智を開発する

「おかげさまを知らぬ」妄知(モウチ)と、「万事我がため」の邪知(ジャチ)をはたらかせないこと。
 優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ、その五光を強くする。

四 人生を修行者として生きる訓練を行なう

「自他共に」を忘れぬ人間になることが霊性を高める。
 そのために、菩薩(ボサツ)の六波羅密(ロッパラミツ…布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を生きる。
 また、七言法(シチゲンホウ)を誓う。
 ・愚痴を言わず未来を語る(道理を忘れない)
 ・好むと好まざるを語らない(煩悩に流されない)
 ・自他のものの区別をする(礼節をわきまえる)
 ・明と暗の区別をする(責任を明確にする)
 ・公と私の区別をする(社会性を意識する)
 ・恩を着せず恩を忘れない(品位を守る)
 ・権利より尊さを主張する(尊厳に生きる)

五 常時・非常時を問わず霊性に生きる

「文(ブン)」は常時における霊性の発露、「武(ブ)」は非常時における霊性の発露である。
 常に、武士道における自己尊敬(克己)・自己責任(廉潔)・自己犠牲(究極)を貫く。
 霊性の発露に常時も非常時もなく、男女の区別もない。




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2013
05.17

猫を追い出すか? ─下手の考え休むに似たり─

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 早朝のが耐えきれぬほど酷くなり、理由を考えた。
 どうも持病の悪化とは思えない。
 中国から飛来するPM2・5も、専門家は年々減っていると言うので、当たらないだろう。
 今年初めて花粉症を経験したので、何かのアレルギーという可能性はある。
 ふと、思った。
 近々に寺務を手伝ってくださる方が来られるので、寺務所を整理したところ、愛猫クロの毛があちこちにあることが判明して驚いたが、そのせいかも知れない。
 そばに行儀良く両手足を揃えて鎮座しているクロの顔を眺めると、心なしかすまなそうな表情に感じられる。
〝もしかして、急に娘と同じ猫アレルギーになったか?〟
 状況は深刻である。
 前にいた境内地で野良猫の身分に生まれ、(両親は紋次郎とエリザベスという良血ではあるが……、もっとも、両者の命名者は私だから、名が体を表しているかどうかはあまりあてにならない)三匹の兄弟の生き残りとして、私について新天地へやってきた同志を見捨てるわけにはゆかないからだ。

 喉とアレルギーの専門家が近くにおられるので訪ねた。
 状況報告を真剣に聴いてくださった彼が「ちょっと診ましょう」と言った途端、急にものものしい雰囲気になり、看護婦さんが「遠くを見てください」「ゆっくり息をしてください」などと言いつつ、二人がかりで私を押さえんばかりの態勢をとったので、驚いた。
「鼻から観ましょう」という声とほとんど同時に、やおら、紅くて小さな先端を持つファイバースコープが鼻から入れられた。
 あれこれと指示されるままになっていたら、ほどなく、騒動は終わった。

のしすぎです。
 これからは、痰が気になったら出そうとせず、水を飲んでください。」
 即座に、思いも寄らない判断が下され、あっけにとられた。
 何のことはない。
 夢中になって読んだり書いたりしているうちに痰が気になり、出し切ろうとして50回も100回もゲホゲホやっている過程そのものが悪循環だったのだという。
 喉に観られる炎症は腹から空気を押し上げる運動に伴って胃液が逆流したせいであろうと、喉の薬ではなく胃の薬が処方されたのにも声を失った。

 吸入器を自分で操作するだけの簡単な治療が終わり、車のドアを開けながらつくづく思った。
プロはすばらしい。
 素人考えは恐ろしい〟
 運転しながら思った。
〝もしもあのまま、状況と推測内容を妻に話したら、猫と仕事とどっちが大事なのときつく言われ、まったく無意味な騒動が勃発していたかも知れない。
 実に、「下手の考え休むに似たり」どころではない〟
 ネットで検索したら、英語圏の人々は「Mickle fails that fools think」と言うそうである。
 人間のやること、考えることは似ているものだ。

 一段と〈プロ〉への畏敬の念を深めた一件である。
 それにしても、自分は真のプロたり得ているか……。




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2013
05.17

銀が泣いている

Category: 日想   Tags:
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 野太い男の泣き声がする。
 ふと、眼下に将棋盤が現れた。
 玉将が「2二」の位置(左下方)におり、将が「8二」の位置(右下方)にいる。
 殺風景だ。
 相手方の陣地では駒が入り乱れており、どちらの手番かわからない。
 やがて、相手方からこちら側へ手が伸び、「2五」」の位置(玉将の正面三コマ前)に飛車が打たれた。
 きっと正解だ。
 ご臨終と思う間もなく、スースーと寝息を立てていた妻が、やおら、「ピンポーン」と言った。
 あまりにタイミングがよすぎて驚き、書きとめようとしてはっきりと目が醒めた。
 妻の寝息はいつもどおり、何の変わりもない。
 まだ真っ暗、午前三時。




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2013
05.16

宗教的救いと宗教を超えた救いについて ─仙台稲門会にて(その4) 思いやりこそが共通の救い─

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 5月7日に行った仙台稲門会でのお話についてまとめています。
 
4 「信じよ」だけでは救われがたい時代における倫理と救済の立脚点はどこか?

 平成24年に出版されたダライ・ラマ法王著『宗教を超えて』は、万人共通の倫理を明確に示しています。
 この本の意図するところについては、当ブログ内の「ダライ・ラマ法王の『宗教を超えて』に思う(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3562.html)」で紹介しています。

 宗教への関心が薄れ、各種のイデオロギーが宗教を敵視する一方、信じる者同士がぶつかり合う時代にあって、人間が人間たる根拠である倫理に立脚した思考を持てなければ、不安と争いはなくなりません。
 法王は序文で述べられました。

 「もちろん世界の大宗教はどれしも、慈しみの心、あわれみの心、忍耐、寛容さ、赦しの大切さを強調していますし、内なる心の徳性を育むことをやってきています。
 しかし今日の世界において、宗教に立脚した倫理はすでにふさわしいものではなくなってきているのです。
 そのようなわけで、宗教を超えた倫理と精神性の道を見出すべきときがきていると私は思っているのです。」


 法王は、宗教に依らない共通倫理の原則を指摘されました。 

「第一の原則は、誰もが幸福を望み、しみから逃れたいと願っていること、また人類全体が共通して持っている人間性を認識することです。
 第二の原則は、人には生物的に、また社会的動物として相互に依存しあうという特徴があると理解することです。
 これら二つの原則に立てば、自分の幸福が他人の幸福と分かちがたい結びつきを持っていることが理解でき、そこで他人の幸せを真に考慮できるようになるのです。
 倫理的な目覚めと、内的な徳性のふさわしい基盤となってくれるのは、まさにこの二つの原則なのです。
 そして、このような徳性を養うことで、私たちは他人との結びつきを感じ取り、矮小な利己主義を乗り越えて人生の意義や目的や満足感を得られるようになるのです。」


 類い希な宗教者であり、科学者たちとも公開の場で議論して来られた78才の法王は、人類のために、誰しもが理解でき困難を乗り越えて行ける道を示されました。
 この道が広く理解され共通認識として確認されるために宗教的感性も科学的思考も用いられ、それが道徳教育の根になれば、いかなる仏神を信じていようと、あるいは信じていまいと、垣根をつくらずに手を携えて行けることでしょう。

 私たちは、自分が幸福を望んでいることを知っており、家族や友人、知人を考えると、それは誰しもに共通する思いであると理解できます。
 そして、私たちは、生まれて此の方、一瞬たりとも誰かの手を借りないで生きている瞬間はないことも理解できます。
 それなら、「おたがいが、おたがいの幸せのためになる」以外、自分も相手も共に幸せになる方法はありません。
 言い換えれば、人類の幸せのために万人が求められているのは「思いやり」であり、その心は、「自分が信じている仏神と、相手が信じている仏神と、どちらの命に従うべきか」といった思考よりも優先されるべきではないでしょうか。

 自分の人生に〈幸せ〉として積まれてきたものは何か?
 まだ70才にもならない若輩者ですが、ふり返ってみると、それは誰かに喜ばれた記憶であり、誰かに助けられた記憶です。
 テストのよい成績や、商売の成功や、ゆとりのある生活など、子供の頃からの記憶をたどると嬉しいことや楽しいことはたくさんあったはずですが、今となってはほとんど実感がありません。
 もしかすると、受験の失敗や、倒産や、貧困生活などの体験が打ち消す作用としてはたらいているのかも知れませんが、根本的には〈得たもののはかなさ〉のせいであろうと考えています。
 その一方で、「ありがとう」と喜ばれた記憶は子供の頃のものも含めて鮮明であり、「ああ、ありがたい」と深く感謝した記憶も又、今日のできごとであるかのように心を動かします。
 私の〈幸せ感〉は、まぎれもなく、思いやりのやりとりによって育まれており、これが今日の精進を後押しする力になっているように思われます。

 幸福を望み、しみから逃れたいと願っている私たちにとって共通の救いとは、幸福を得てしみがなくなることです。
 それをもたらすものは、思いやりの心です。
 よくよく考えて自分の導きとし、子供たちの導きもとしたいものです。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
05.15

池の野鯉を移します

Category: 法楽農園   Tags:法楽農園野鯉
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〈早朝の『法楽農園』にはキジの夫婦なども遊びに来ます〉

 5月25日(土)午後2時頃より、現在の池から『法楽農園』内につくった池へ野鯉やメダカなどを移します。
 体長90センチメートルほどの大物もいるので、水を抜きながら行います。
 錦鯉ではありませんが、野鯉の子などを欲しい方は丈夫な網と入れ物を持っておでかけください。

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〈現在の池〉

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〈ビオトープの中心になる『法楽農園』の池〉

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〈水を張って田植えを待つのみとなりました〉

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〈水が漏れないようあぜ道を治しました〉




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2013
05.15

5月22日(水)の『人生よろずQ&A』法話と公開相談会』は中止です

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 事情により、5月22日の『人生よろずQ&A 法話と公開相談会』を中止させていただきます。
 なお、6月12日(水)、26日(水)の相談会は予定どおりの開催となります。
 場所は旭ヶ丘市民センターです。
 来月のご来場をお待ちしています。




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2013
05.15

公開Q&A(その7)僧侶はお葬式で何を考えているの?(その2)

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 勉強会での質疑応答です。
 プライバシーを守りながら、補足し、要点を書きとめておきます。

質問7 お葬式ではどんなことを考えているのですか?

回答7 せっかくのご質問なので、お葬式当日だけでなく、お送りするための順番にそってお話しましょう。

 前回(その1)の続きです。
 前回は枕経の様子などでした。
 今回は、お通夜に移ります。

 お通夜の際は、故人は 経帷子(キョウカタビラ)などの死に装束(ショウゾク)を身にまとっておられます。
 いかなるスタイルになるかは地方の習俗などによって異なりますが、いずれにせよ、四国八十八霊場を巡拝する時と同じ心が表現されています。
 その心は〈生き直し〉です。
 生きながらにして死に装束をまとうのは、一旦死んだつもりで汚れた生き方を離れようとする決意を示しており、出家者が白い装束になるのと同じです。
 亡くなられてからの白い死に装束は、現世での煩悩を捨て去り、清浄なみ仏の世界へ旅立つことを意味します。
 亡き方は無になるのではなく、あの世での生き直しを行われるのです。
 経帷子には根拠となる経典があります。

「ある出家修行者が破戒行為の因縁による重病に苦しみ、見かねた行者が真言を書いた布を首にかけたところ、穏やかに臨終を迎えました。
 それでも、破戒行為の罪は重く、落ちた先は地獄です。
 ところが、地獄の猛火は消え、呻吟していた人々の苦しみも去りました。
 閻魔王が部下へお柩を調べさせたところ、屍にかけられた真言が大光明を放っていました。」

 なお、お柩に般若心経や観音経や理趣経百字偈などの写経を納めたりしますが、お経を燃やしても悪行にはなりません。
 行動において何よりも大切なのは動機であり、安心させたい、供養したいという思いやりで行うなら大丈夫です。
 詳しくは、ブログ内の「公開Q&A(その6)般若心経をお柩へ入れれば、お経を燃やす悪行ではないでしょうか?」をお読みください。

 さて、お通夜ですが、僧侶は修法によって成仏を祈り、近親者などは香を絶やさずにご遺体を守りつつ、想い出などを語り合う「よとぎ」をします。
 ここではお位牌が準備され、お位牌には戒名が記されているので、当山は必ず戒名の意義と内容のご説明をします。
 私たちはこの世に生まれ出ると、我が子の幸せな人生を願う親が、一生懸命に佳い名前を考えてくれます。
 一生を終え、み仏の世界へ還る時、今度は、み仏が〈み仏の子〉としての新たな名前をくださるのであり、それが〈戒律に生きる者の名前〉としての戒名です。
 だから、当山では、ご本尊様へ祈り、授かった名前をお渡ししています。
 こうして授かる戒名にまつわる印象的なできごとは山ほどあります。
 最近では、先に亡くなった伴侶が遠くへ葬られており、49日が過ぎたなら、一緒に共同墓へ入れてあげたいとご遺族が願っていた方の戒名の一番上にある文字が、伴侶の戒名と同じに出ました。
 私は先亡の方について何も知らないし、事情のあるご遺族とは事前に直接の連絡もないまま、ご本尊様へ祈ったのです。
 それでも、お二人の戒名を並べると、2曲一双の屏風に描かれた風景を思わせ、ご遺族からは「ああ、良かったなあ」と喜ばれました。
 また、法話で述べるエピソードとぴったりの方がたまたまご遺族の中におられるなど、偶然とは思えぬありがたいできごとが続いています。

 夏目漱石は詠みました。

通夜僧の経の絶間(タエマ)やきりぎりす」


 修法を行い、法話を申しあげ、時間の許す限り、故人の生きざまなどをお聴きし、皆さんと戒律や戒名などについて語り合います。
 こうして、お通夜は、引導を渡す厳粛な一瞬につながっています。




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2013
05.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第137回)─「人を〈使う〉」という考え方と言い方を捨てよう─

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 私たちは、人を「使う」、あるいは「使われる」と言いますが、違和感を感じる方はおられないのでしょうか。

 電話であれ、箸であれ、「使う」対象は普通、道具であり、モノです。
 ヘビつかい、サル廻しなどはあっても、人間が道具として見せ物になることはありません。

 誰かに面と向かって「私はこれからあなたを使います」と言われ、心に何の痛痒もなく「はい」と答えられましょうか。
 それなのに、私たちの文化では使用人や使用者と称し、「私は20人ほど使っています」、「どうせ、使われている身だから」などと言います。
 言葉には心が顕れ、心は言葉に影響されます。
 私には、今の文化が孕む人間疎外の元凶として、人間を〈使う〉感覚と、それに対応した人間を「使う」という言葉づかいがあるのではないかと思われてなりません。
 こうした感覚も、言葉づかいも、人間を道具としてとらえることが前提であり、人間をモノ同様に扱うことはまぎれもなく非人間的であるのに、その恐ろしさが気づかれず、あるいは看過されているのはどうしたことでしょうか。

 平成24年に77才で亡くなった原田正純医師は、胎児性水俣病を発見し、患者の家をまわって原因の究明に尽力しました。

「有機水銀は小なる原因であり、チッソが流したということは中なる原因であり、水俣病事件発生のもっとも根本的な大なる原因は、『人を人と思わない状況』、還元すれば人間疎外人権無視差別という言葉で言い表される状況である」。(丸山弘子『序章 早稲田の杜から京都へ』より)


 さかんに復興が叫ばれている被災地には、働き口を求める人々が全国からやってきます。
 しかし、まっとうな企業から契約条件通りの仕事をもらえる人ばかりではありません。
 人間扱いされず、不当なピンハネに遭い、文字どおり使い捨てられる人々が後を絶ちません。
 復興のためにと関西からやってきた当山の信徒さんも、まったく不当に心身を痛めつけられ、無念の帰郷となりました。
 その実態はとても事実とは思えない内容です。
 あれほどの大事件だった水俣病の経験をした社会における「人間疎外人権無視差別という言葉で言い表される状況」は依然として根強く残っています。

 この状況は、今を生きる私たちにとって共通の恥であり、責任も共有しているのではないでしょうか。
 なぜなら、誰もが人を「使う」と言い、言外に人間を道具として扱っているからです。

 ヒロシマ原爆3万2千発分のエネルギーを持った大地震によって起こった津波は、千年に一度の大災害をもたらしました。
 生き残った私たちは、千年に一度の再出発をしようとしています。
 この時にあたり、人間を「使う」という言葉づかいを捨て、心に巣くう「人間疎外人権無視差別」の意識から脱却しようではありませんか。
 これこそが千年に一度の人間社会の再出発になるのではないでしょうか。




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2013
05.13

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第137回)─寺院はどう変わったか?「千年に一度の再出発」─

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〈「法楽農園」です〉

 ある勉強会で質問がありました。
「東日本大震災の前と後で、どう変わりましたか?」
 当山は宗派に属さない単立寺院ゆえ、自分の山寺を守るので精いっぱいであり、このテーマで他の寺院の方々と話し合ったことはありません。
 だから、当山の率直な思いを申しあげました。
 一つは文化の基底について、もう一つは思いやりの復活について、そしてもう一つは人間の分際の認識について。

○人間は自然の一部であり、あらゆる営みも計らいも自然の掌の上にあることを肝に銘じ、驕らずに進みたい

 私たち人間には意欲があり、向上心があります。
 だからこそ、生後、一人では生きられぬ弱い種なのに自然淘汰を免れ、現代まで生き延びてきました。
 ホモ・サピエンス(知恵ある人)と呼ばれるゆえんです。
 知恵により、他の生きものたちとは比べものにならぬほど生活空間を改良し、広げ、寿命を延ばしました。
 今や、〈克服されるべきでないもの〉はなく、地球だけでなく宇宙をも庭として利用し、身体は継(ツ)ぎ接(ハ)ぎにより耐用年数を限りなく伸ばそうとしています。
 政界では年から年中「改革!」と叫ばれ、「今」は常に克服されるべき対象として私たちに立ち塞がっているかのようです。
 「自分」をも又、望む方向へより効率的に歩める人間に改造しようと忙しく、泥棒や殺人といった犯罪の助長に及ぶまで、ありとあらゆる種々のマニュアルが岐(チマタ)に溢れています。
 あたかも「未来志向」や「前向き」でなければ、世の中の流れから脱落するだけでなく、おちついて息をしても行けないがごとき喧噪に包まれています。

 これほど、「今」と「自分」が否定された時代は、かつて、あったでしょうか?

 大震災は、そうしたパターンに陥っていた営みや計らいへ巨大な冷や水を浴びせました。

 あれから2年以上が経ち、最近はしきりに分際(ブンザイ)という言葉が頭に浮かびます。
 分際は「身の程」という意味であり、軽蔑の雰囲気を帯びていますが、我が身をふり返ると、この言葉しかないと思われてしまうのです。

 5月11日の朝日新聞に『国技館に都市伝説』という記事が載りました。
 抜井規泰記者の体験談です。

「国技館の向(ムコウ)正面には、東西の支度部屋がある。
 土俵から支度部屋に通じる通路が、『花道』だ。
 東の花道の奧に、記者室がある。
 3年前の12月。
 その日の夜8時過ぎ、私は記者室を最後に出ることになった。
 最後の記者が鍵を閉めるのがルール。
 記者室の外へ出てから、『おっと、忘れるところだった』と部屋に戻って鍵を取り、施錠して、漆黒の花道に向かって1歩、2歩と歩き出した。
 その時。
 大きくて丸い弾力のある、バレーボールのようなもので、背中をグッと押された感覚がした。
 誰かのいたずらだと思い、『オイッ!』と笑って振り返ると、無人の闇が広がっていた。
 カバンを抱きしめ、土俵わきを突っ切り、数人が残業している事務室に駆け込んだ。」


 血相変えた記者から成り行きを聞いた事務員も警備員も、驚くどころか全員があたりまえという顔をしています。
 向正面のあたりでは不思議な体験が相継いでおり、警備員ですら、巡回の時以外は、夜の向正面に近づきません。
 頻繁に国技館内を散歩する北の湖理事長もまた、向正面を避け、馬蹄形に散歩しています。
 記者からその理由を訊かれた理事長は答えました。

「だってあそこは……。
 ……分かってるくせに」。


 大横綱だった理事長はきっと、怖いから避けているのではないはずです。
 神様に守られた聖なる土俵へいのちをかけてきた人間として、向正面を居場所にする目に見えぬ何ものかへ畏敬の念を持っておられるのでしょう。
 異次元にある何ものかの気配を感じながら、「俺はちっとも怖くないぞ」と肩を怒らせてノッシノッシと踏み込む蛮勇の愚かさを知っているからでしょう。
 明治政府による廃仏毀釈(ハイブツキシャク)がほどなく終熄したのは、記者のような感覚と理事長のような心が日本人に色濃く残っていたからであると思われます。

201305130001p014[1]
〈「越前禅定道の石仏」様からお借りして加工した廃仏毀釈の姿です〉

 私たちは、自分の〈際(キワ)〉を〈分〉かる、あるいは分かろうとする必要があるのではないでしょうか。
 それには「今」と「自分」をきちんと観なければなりません。
 向上心が大切なのは当然ですが、真に向上するためには、孫子が「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」と説いたとおり、今の自分を知ることはすべての土台になります。
 落ちついて「今」と「自分」に向き合い、今ここで自分が息をしている真実をつかめば、おのづと感謝が生まれ、心の安寧も生まれましょう。

 大震災は、あまりにも大きな犠牲を伴いながら。私たちを立ち止まらせました。
 それはあたかも、近親者の死が、人々を日常生活の動きから立ち止まらせるのと似ています。
 私はご葬儀の後に行うささやかな法話で二つのことを申しあげます。
 一つは、お線香などを捧げて行う供養の意義について、もう一つは、故人となった方がつくってくださった修行の機会を生かすことについて。
 多くの場合、法話にはこの言葉が含まれます。
「今、皆さんは立ち止まっておられます」。
 逝った方は、ご自身の死をもって私たちを立ち止まらせます。
 この時にしっかりと立ち止まって我と我が身を振り返り、自分の足元を見、いのちと人間の宿命を考察することが故人への報恩の第一歩であると信じています。

 大震災から2年経っても、私たちにはまだ、立ち止まったままでいる自分がいます。
 それは、悲しみや、苦しみや、寂しさや、切なさや 不安などを伴っていますが、「マイナス志向だから早く忘れてしまおう」と無理に〈前向き〉になる必要がありましょうか?
 私たちは、私たちの親である自然の流れにより、千年に一度の規模で立ち止まっているのです。
 もちろん、一日も早く生活を取り戻し、地域を取り戻さねばなりません。
 一刻も早く、心の苦しみから解放されねばなりません。
 しかし、そのことをおし進めながら、同時に、立ち止まることによってせっかく気づいた自分と人間の分際を観る視点を、軽々に捨てぬようにしたいものです。
 そうすれば〈復興〉に伴う怪しい気配に惑わされず、個々人が人間としての新たな出発、言い換えればほんとうの〈再生〉を迎えられるのではないでしょうか。
 私たちは、まぎれもなく、親である自然の掌の上にいます。
 くれぐれも驕らず、謙虚に、〈千年に一度の再出発〉をしようではありませんか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
05.12

映画『クンドゥン』のあらすじ(その1)

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 5月11日の寺子屋『法楽館』では、1997年に作られたアメリカ映画『クンドゥン』を観賞し、学びました。

 『クンドゥン』は、ダライ・ラマ14世の誕生からチベットを追われるまでの過程をつづったマーティン・スコセッシ監督の作品です。
 出演者はすべて世界中から集められた素人のチベット人であり、数々の受賞に輝きました。
 ここには、宗教の真実も政治の事実も、そして侵略と迫害の現実も描かれています。

 インドで起こり、その精華を伝えるチベット仏教は、「宗教はアヘンである」とする中国共産党のために、チベットにおいて消滅させられつつあります。
 チベットの人々は中国軍の侵攻により国土を失い、生活を失い、言葉と宗教を失い、文化を失い、すでに120万人以上がいのちをも失いました。

 この映画は、「ダライ・ラマとは何か」だけではなく、チベットが地上から消し去られようとしている現実と、チベットの人々がいのちに代えてでも守ろうとしている尊いものを示しています。
 一人でも多くの方々に『クンドゥン』を通して真実に触れていただきたいと願い、以下、あらすじを追ってみます。




 ダライ・ラマとは、智慧の大海という意味である。
 チベットは、戦乱の続くアジアで、1000年もの間、非暴力主義を貫いた国であり、その指導者がダライ・ラマ法王法王である。

 ダライ・ラマ法王13世が亡くなり、後継者が探されていた。
 
 ある寒村で、飢饉が何年も続いた時、二羽の烏が家を守るように飛んで少年が生まれ、それまで大病を患っていた父親が快癒した。
 カラスの守護は初代ダライ・ラマ法王の時と同じだった。
 少年は「守る人」を表すハモと名づけられた。

 ある日、ハモは、戦う虫の一匹を遠ざけ、戦いを止めさせた。
 それを目にした僧侶がハモの家を訪ねると、ハモは数珠を見て「それ僕の」と言って手にし、ダラムサラへ帰る僧侶を追って泣いた。
 後日、確認のため再度、訪れた僧侶たちの前で、少年は仏器やメガネなど、ダライ・ラマ法王が使っていた五つのものを「僕のだ」と正確に選び取り、僧侶たちは「クンドゥン(法王猊下)」とつぶやき、黙礼した。
 両親は、ダライ・ラマ法王の生まれ変わりと証明されたハモが手元を離れることを知った。

 2年後の1939年、ダラムサラから迎えが来た。
 剃髪する前に、ハモは暗誦させられる。

「私は病を持つこの世のすべての人の医者であり看護人、すべての人を癒す。
 私は味方を持たぬ弱い人を守り、私は川を渡りたいと願う人々の橋となり船となろう」

 瞑想中にハモ少年を見いだした摂政レティングは、ハモへ言う。

「何世紀も前、ゲンドゥン・ドゥプという人が生まれた家へ強盗が押し入り、殺されると思った家族は逃げた。
 翌朝、家へ戻ってみると、隠しておいた赤ん坊は二羽の大カラスに守られて無事だった。
 それが初代ダライ・ラマ法王であり、私たちはクンドゥンと呼ぶ。」
「あなたはこの世へ再び甦ってくださった。
 できる限り長くこの世にとどまり、そして又、戻ってきてください。
 生あるものがこの世にある限り、あなたは甦り続ける。
 あなたは生きとし生けるものを愛するため、この世に生まれたお方。
 生あるものを愛し、慈悲をそそぐお方。
 生あるものがこの世にある限り、あなたがいる所には常に慈悲があり、仏陀のお姿があります。」

 紅い絨毯を踏んで法王の座に就くハモを例しつつ迎える人々の中に母親もいた。
 法王となる仏具を渡した摂政レティングは人々へ宣言する。
「慈愛に満る仏陀、我らの願いを叶えたまう、第14代ダライ・ラマ法王猊下」
 家族を含め、人々は五体投地の礼を行う。

 軍と僧侶たちに守られたダライ・ラマ法王は、やがて、ダラムサラへ到着しポタラ宮へ入る。
 侍従長パラは五体投地の礼の後、教える。
「第5代ダライ・ラマ、第7代ダライ・ラマ、第13代ダライ・ラマ、そしてあなたが成人の時、この玉璽(ギョクジ…法王の印鑑)はあなたのものになります。」
 お付きの者たちが、瞑想やゲームなどを教える。
 負けて悔しがる法王へ諭す。
「今日は負けても明日は勝ちます。」

 摂政レティングへの報償やダライ・ラマ法王の家族への援助などについての話しあいの場を盗み見、一人で寝る法王は寂しくなり「母さん」と呼ぶ。
 寝ずの番で法王を守る僧侶が抱きしめ、背中をなでながら諭す。
「ここは古くて暗い宮殿ですが、夏は違います。
 庭があり、動物もいます。
 鹿や犬、小熊や小鳥も」
 そして、曼荼羅に書かれた女神ペンデン・ハモについて「あなたの守護神であり、チベットと政府を守っています」と教え、「本当にいます。この世に」と言い、安心させる。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
05.11

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第136回)─寺院はどう変わったか?(その2)─

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 ある勉強会で質問がありました。
「東日本大震災の前と後で、どう変わりましたか?」
 当山は宗派に属さない単立寺院ゆえ、自分の山寺を守るので精いっぱいであり、このテーマで他の寺院の方々と話し合ったことはありません。
 だから、当山の率直な思いを申しあげました。
 一つは文化の基底について、もう一つは思いやりの復活について、そしてもう一つは人間の分際の認識について。

○極限状態にあってはたらいた究極の思いやりを永遠の導きとしたい

 当山は、以前より、「菩薩(ボサツ)になろう」と呼びかけてきました。
 菩薩像と菩薩になるための方法は明確です。
 六波羅蜜(ロッパラミツ)の実践が方法であり、実践者が菩薩です。
 波羅蜜(ハラミツ)とはパーラミーというインドの言葉で、み仏の世界である完全な状態へ至るための徳目です。
 六つの実践方法は以下のとおりです。

布施(フセ)…他を潤すこと。水に象徴される。
持戒(ジカイ)…戒律を生きること。塗香(ヅコウ)に象徴される。
忍辱(ニンニク)…耐えること。花に象徴される。。
精進(ショウジン)…怠らず励むこと。線香に象徴される。
禅定(ゼンジョウ)…心身を安定した状態に整えること。飯食(オンジキ)に象徴される。
智慧(チエ)…自己中心でない智慧をはたらかせること。灯火に象徴される。

 慈悲心を持った菩薩は他のためにならないではいられず、布施行を実践しますが、それには他を害さない清浄な者でなければならず、持戒が欠かせません。
 煩悩に負けず清浄な者であるためには、心から起こる煩悩に流されず、他からの害にも動じない忍辱が欠かせません。
 また、智慧によって無明(ムミョウ…真理を知らず心の明かりが無い状態)を晴らさねば他のためになる姿勢になれず、それには、心身を散乱させず静かに慮(オモンバカ)る禅定が欠かせません。
 そして、上記の5つの徳目を実践するためには、お線香が淡々と燃えつつ芳香を放つように、弛(タユ)まず怠らない精進が欠かせません。

 これで明らかなように、〈菩薩になる〉とは、〈他のためになる〉ことに他なりません。
 私たちが「おかげさま」「お互いさま」と感謝しつつ暮らす時は、知らぬ間に他のためになっており、この事実は、私たちが〈み仏の子〉であることを示しています。
 しかし、普段の私たちは、行いが必ず結果をもたらす因果応報を忘れたり、すべてが空(クウ)であり無常であることを忘れて執着したり、自分のために他人を踏み台にしたり、際限ない欲を満たすためにかき集めようとしたりしています。
 だから、み仏は「それではいけないよ」と、本来の人としてまっとうに生きるための6つのポイントを示されました。

 私たちがおかげさま、お互いさまと言える以上、菩薩になる可能性はすべての人々に与えられています。
 そして、私たちは、自己中心の心がぶつかり合う場面の多いこの世において、〈可能性を現実にする人〉と会い、〈可能性を現実にした人〉について見聞きする時、魂が震え、厭世観の黒雲を解かれ、力が甦り、未来に明かりを見いだします。

 私たちは、いのちもモノも奪い去られつつある大震災のさなかですら、菩薩としての人の真姿を生き、あるいは真姿のままで亡くなった方々により、人は菩薩になれるという真実をあらためて知りました。
 マイクで危機を知らせつつ逝った方、水門を閉めようと津波の来る方向へ走った方、仲間と共に死のうと思い定め原発事故の現場から逃げなかった方々、極限状態において皆さんが身をもって示された究極の思いやりは、私たちにとって永遠に輝きを失わない宝ものです。
 当山は、こうした宝ものの輝きに導かれて精進し、また、輝きをお借りしつつ、これまで以上に思いを込めて六波羅蜜の大切さを訴えて行きます。
 私たちが輝きを感じとる心を失わない限り、あの時、菩薩として生きた方、菩薩として逝った方々は、永遠の私たちの心に生き続けます。
 そして、必ずや、み仏の子として輝く人が一人、また一人と増えて行くことでしょう。
 




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2013
05.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第135回)─寺院はどう変わったか?─

20130509016.jpg

 ある勉強会でご質問がありました。
東日本大震災の前と後で、どう変わりましたか?」
 当山は宗派に属さない単立寺院ゆえ、自分の山寺を守るので精いっぱいであり、このテーマで他の寺院の方々と話し合ったことはありません。
 だから、当山の率直な思いを申しあげました。
 一つは文化の基底について、もう一つは思いやりの復活について、そしてもう一つは人間の分際の認識について。

○日常生活が根底から揺るがされて思い出した日本文化の基底をなしている伏流水のようなものを大切にして行きたい

 あの日以前は、伝統仏教の法務について「~は要らない」の大合唱でした。
 いわく、葬式は要らない、おは要らない、戒名は要らない、──。
 それにはいくつもの理由がありました。
 寺院のあり方、続く不景気、高齢者の孤立、功利主義的感覚の広がり、家族の崩壊に伴う祭祀を受け嗣ぐという姿勢の希薄化、などなど。
 どの問題も震災後になくなったわけではありません。
 しかし、今や、合唱はほとんど聞こえず、かつてタクトを振っていた人々の中には、早くも、別なタクトを光らせ始めた人もいます。
 なぜか?
 失われたことによって、忘れられていた価値が顕わになったからです。
 それはまるで、刺激的な芳香を求めていた人が、〈常々、清浄な空気があってこそ〉と気づいたようなものです。

 津波で最も大きな被害を受けた地域は、以前、托鉢で一軒、一軒とお訪ねしていたのでわかっていますが、そもそも、前述のような合唱に付和雷同する人々は少数派だったはずです。
 そうした方々にとって災害は、人や家や車や仕事を失っただけでなく、ありがたいことを知り大切にしていた清浄な空気を失ったようなできごとでした。
 家族や地域住民の紐帯、町の安全、ご先祖様の供養、家や地域の仏神の祭祀などです。
 失い、取り戻せなくなった方々の悲嘆が、意義や価値を忘れかけていた人々の胸を撃ち、「要らない」の合唱を少なくとも声高にはさせなくなったと考えています。

 もちろん、被災された方々の心をおもんばかる人間としての慎みが唄わせないという面も強く、前述の〈要らない理由〉がなくなったわけではありません。
 ただ、タクトに乗せられるといった状態から離れた今、一人一人があらためて考える必要があるのではないでしょうか。
 亡くなった人をどう送るかは、思いつきで決められるものではありません。
 人間の尊厳にかかわる行為であり、人間は、地球上のそれぞれの地域で、それぞれに苦しみ、考え、安心を得てきました。
 私たちに伝えられている葬法には、人間の歴史が始まって以来、連綿といのちと心をつないで来られた膨大なご先祖様方の思いが込められています。
 そのことを考えると、送る仕事の一端を担わせていただいている者として、あらためて鎌首をしっかりもたげさせられます。

 また、被災した各地で氏神様のお社が再建されたり、祭が復活したりして、住民の方々へ未来につながって行く安心感をもたらしています。
 これまで大事にしてこられた方々が喜ばれる笑顔は、近くに神社があってもあまり関心のなかった方々にとっても何ごとかではないでしょうか。

 早稲田環境塾編『京都環境学』は書いています。

「日本の神道仏教は環境にやさしい宗教です。
 神道では、神社は社殿よりその背後の杜や山が重要であると言われます。
 神はその豊かな自然の中に鎮座しているからです。
 神を崇めることは即ち自然保護と同義語なのです。」

「天台教学においては、自然に対し、『悉皆成仏』の思想を説き、草木成仏が盛んに主張されました。
 一方、空海も法会において、施主のみならず、獣、鳥、魚、虫にいたるまであらゆる動物の成仏を祈りました。」


 まことに、私たちに身近な神様も仏様も、そして誰一人として例外なくそのいのちと心を受け嗣いでいるご先祖様方も、私たちの生活・文化のみならず、一人一人がいのちを承け、生きている国土そのものとも切り離しようがありません。
 その伏流水のようなありがたさ、清浄さ、豊饒さにあらためて気づいた以上、しっかりと守り、発展させ、伝えて行くことが災害で亡くなられた方々への供養であり、苦しんでおられる方々への一つの支えとなるのではないでしょうか。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2013
05.09

宗教的救いと宗教を超えた救いについて ─仙台稲門会にて(その3)─

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 5月7日に行った仙台稲門会でのお話についてまとめています。

3 宗教が後退する時代

宗教意識の希薄化

 私たちは、現実生活において、科学への信頼をどんどん強めています。
 昔は、喉に魚の骨が刺さったならば頭にわらじを載せ、難産ならば屋敷内の堀を掃除しました。
 今は、医者や薬や器械が明確な結果を出してくれます。
 ダライ・ラマ法王も、こう言っておられます。
「祈りは、たとえば近代科学によってもたらされる成果に方を並べられるようなものではないことは明らかです。
 何年か前、病気になったとき、人々が私のために祈ってくれているのを知って大いに慰められたものです。
 しかし、それよりももっとほっとしたのは、入院先の病院に私の病気の治療に最も適した最新設備が備わっていることでした!」

 宗教の役割は、迷信的に「こうしてすがれば助かる」といったレベルから、物理的に最善を尽くそうとも得られないかも知れぬ結果を何としても得たい、あるいは、予想される結果を変えようとするよりも結果に対する不安などを何とかしたい、といった形に変わってきました。
 いかに科学が発達しようとも、心の変化が世界の変化につながる、心が変われば世界が変わる、という道理に即して宗教は役立っています。
 現代の文明では科学が主役ですが、脇役が不要になることはないものと思われます。

 日本では、家族形態の変化に伴って、代々受け継がれてきた宗教もまた変化しつつあります。
 家の宗教が消え行き、個々人の宗教になってきました。
 たとえば、家族の一員が家族にとってまったく新しい新興宗教などとの縁を深めたばかりに、家族が危うくなるといったケースは今後、増大することでしょう。
 しかし、私たちはいつの時代も〈新興宗教〉とうまくやってきました。
 いかなる世界的広がりを持つ宗教も、最初は新興宗教だったのです。
 叡智をもってすれば、個人の集まりである家族にとって宗教が死者とのとしてだけでなく、生者同士のとしても役割を失うことはないものと思われます。

 価値はすべてお金に換算される時代になりました。
 今や、病院も、学校も、儲けなければ成り立たちません。
 本来、医師や教師、あるいは弁護士や税理士など、「師」や「士」が従事する世界は儲けと無縁だったはずなのに、儲けを考えなければやって行けない仕組みになりました。
「師」や「士」という文字から品格が薄れるのと同様に、宗教の世界にも明らかに一線を越えたとおぼしき事例が現れ、宗教へ厳しい目を向ける方々が増えてきているという実感があります。
 たとえば、寺院が駐車場の経営を行うことなどについて、いかがなものかという思いを持っています。

○複数想定され得る超越的救済者

 宗教によっては、「超越的存在を信じる者は救われ、信じない者は救われない」と説いています。
 超越者に究極的判断力があり、究極的救済の手段もあるとするならば、この教えは論理的に成り立ちます。
 ダイヤモンドの刃でなければ切れないものを切ろうとすれば、ダイヤモンドの刃を用いるかどうかのみが結果にかかわるのと同じです。
 しかし、そうした超越者を想定しなければ、人間を天国と地獄へ二分する〈他力〉はどこにもありません。

 この世へ生まれ出た人間にあるものは、可能性だけです。
 可能性にかかわるものとして、仏法は超越者を想定せず、因果応報を理としています。
 もちろん〈特定の誰か〉として生まれる以上、そうした結果をもたらした原因は過去の何かにしかありません。
 それをカルマ)と言いますが、生まれ持ったカルマは、成長し生きて行く過程でつくるカルマの力が増大するに従って相対的に運命にかかわる力を小さくして行きます。
 遠い過去の因縁が主題となる小説や映画などがいつの世も一定の支持を得るのは、現実の人生に伴う苦の原因を自分の現世における生き方だけに求めてしまい切れない私たちの弱さを示しています。
 ともあれ、いかに生まれたか、よりも、いかに生きるか、が人生を大きく左右することは経験からしても納得できる考え方であり、世界は、個々人がつくるの集まりである共(グウゴウ)によって動かされています。

 人間はあらゆる面で多様であり、想定する超越者も当然、多様です。
 人格的な神々を想定する人々もいれば、たとえ口には出さなくても、故郷の山などに超越的な何ものかを感じつつ生きている人々もいます。
 私たちの文化においては、普段、「自分の信じる超越者のみが絶対的存在であるからそれに服従せよ、さもなければ不幸になる」などとは言い争いませんが、そうでない人々もいます。
 人間は、特定の超越者だけが絶対的救済者であるとする排他的な面を避けられない考え方を持ちつつ、お互いに心から敬意と誠意を持って接し合う穏やかで争わぬ世界にたどりつけるかどうか、とても難しい問題を抱えています。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2013
05.08

宗教的救いと宗教を超えた救いについて ─仙台稲門会にて(その2)─

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 5月7日に行った仙台稲門会でのお話についてまとめています。

3 宗教が後退する時代

聖職者であることの困難

 托鉢行を初めてすぐ、お訪ねするお宅の方々から、寺院に関するさまざまなご意見をお聞かせいただきました。
 驚いたのは、皆さんが願っておられないスタイルで法務を行う僧侶や寺院が多いことでした。
 なぜ、み仏にお仕えし、長年の修行や法務に励んできた方々が、檀信徒からの信頼を失っているのか?
 当初は不思議でなりませんでしたが、ほどなく気づきました。
 人格は多少の修行などで簡単には変わらないし、出家したからといって、自己中心的な心のはたらきから容易には抜け切れないのです。
 仏法は、煩悩(ボンノウ)を抜けきって悟りを開くまでにかかる時間を阿僧祇(アソウギ)などの単位で示しますが、それは10の59乗や104乗などというとてつもない時間であり、感覚的にはもはや、無限とあまり変わりない世界です。
 あるいは劫(コウ)という数え方もあります。
 それは一辺40里の岩石を天女が3年に一度、羽衣で撫でてすり減ってしまうまでの時間とされています。
 いずれも、〈抜けきる〉ことがいかに容易ではないかを示しているのだと実感されました。
 悟りを求めない仏教の修行はあり得ないので、とんでもない目標を立ててしまったことになりますが、そうと知っても別にへこたれもしなかったのは、無一文になっていて怖いものがなかったのと、お大師様が即身成仏(ソクシンジョウブツ)を説いておられたからであろうと、今になって思います。

 皆さんの目から見た仏教界の姿を知り、「こうであって欲しくない」「こうあって欲しい」という本音をしっかりとお聞かせいただいたことは、修行の航海を始めたばかりの無知な行者に揺るぎのない羅針盤をお与えいただいたことでもあると、今になって感謝は増すばかりです。
 托鉢先として毎年お支えくださった沿岸部の地域は今回の津波で壊滅しました。
 しかし、一介の行者に託された皆さんの思いは私の胸に刻まれており、決して消えはしません。
 私は時々、「皆さんから聖職者であるとお認めいただけるか?」と自問し、チェックします。
 いかに未熟であろうと、行者としてピュアでありたいと心から願っています。
 そうして精進するしか、私にとって真の供養の道はありません。

 また、師から指導を受け、自分を省みて気づいたのは、壁に突き当たった際に、経典へ救いを求めて突破するのは難しく思え、娑婆の判断基準や、やり方へ逃げたくなるという問題でした。
 特に、娑婆に長く居てから出家した私のような人は、娑婆のやり方で利を得たり、困難を回避したりする〈流儀〉が強く染みついているので、それを捨て切るには容易ならざる決心と努力を必要とします。
 自分の中に娑婆の行動パターンが根強く巣くっている事実を観て、〈抜けきれない人々〉がいるのがよくわかるようになりました。
 うまくやりたい気持を抑え、自分が得をしたいと思わず、聖職者として恥ずかしくない法務を行うためには、原理・原則つまり、経典に照らしてみるしかありません。
 それは、それまでの自分から脱皮せねばならないので苦しいのですが、皮が一枚むけるたびに、楽になります。
 たとえばスイマーであれ、歌舞伎役者であれ、廻りからは実にスムーズで流れるような動きにしか観えないのと似ています。
 大変なレベルのことが〈いつものように〉やれているのです。
 大一番に望む心境を訊かれた大相撲の力士や野球の選手がよく「普段通りやるだけです」と答える、あの状況です。
 流れるような動きで〈自然に〉結果が出た時、その陰には、一枚、また一枚とむいた皮の残滓が見えない山となっているに違いありません。
 行者もまた、真の聖職者へと向上して行くためには、一生、脱皮を続けなければなりません。

 こうしたことを考えると、檀家制度的な仕組みによって守られている伝統仏教寺院で勤める者は、生きて行くという面からみれば、自分に厳しくせねばならない場面が少ないのかも知れません。
 自分の愚かさやつたなさを直視し、周囲の方々からの声に心を開く当然の努力は、自分が強い意志でやるかやらないか一つにかかっています。
 キリスト教など他の伝統的宗教においても、似た事情があるやに思えます。
 莫大な資金の管理がどうなっているか、あるいは閉ざされた組織と聖地の内側にいかなる人間模様があるか。
 100年以上も昔、イギリスの思想家ジョン・アクトンは「権力は腐敗する、専制的権力は徹底的に腐敗する」と言いました。
 システムがどんどん精緻になり、システムとそこに生きる人間の存続が容易になればなるほど、堕落が生じる可能性が高まるのは人間の性(サガ)なのでしょう。

 煩悩の根深さ、世間へ逃げたい弱さ、特権的立場というかんちがい、聖職者はこうしたものをよくよく見すえて励まねばなりません。
 自分にも、宗教界にも、大いに危機感と緊張感を持ちつつ法務に励んでいます。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2013
05.07

宗教的救いと宗教を超えた救いについて ─仙台稲門会にて(その1)─

20130507031.jpg

 5月7日、仙台稲門会の月例会でささやかなお話をします。
 自分が救われるまでの体験談、そして、ダライ・ラマ法王著『宗教を超えて』のご紹介です。

1 仏教が身近なものとなるまで

 幼い頃、福島県の山里で、幟を立てる葬列に参加し、三角の白い頭巾を着けて歩きました。
 土まんじゅうがあちこちにある丘で「下にはご先祖様がいる」と聞き、ここは別世界なんだと思いました。
 仙台市の家には仏壇があり、祖父母もいましたが、別段、拝むよう強く言われた記憶はありません。
 仏壇の前に座ることは、朝、起きたら顔を洗うような、淡々と営まれる日常生活の一部でした。
 お祭に連れて行かれた神社の境内では、出店のアセチレン灯の後にある闇が気になったものです。

 高校を卒業して仙台市を離れるまで、神様も仏様も慣習の範囲でした。
 ところが、受験に失敗してから急に、宗教が身近になり始めました。
 挫折は「自分本来の居場所はどこか?」という大きな疑問をもたらしました。
 新聞大好き少年で、社会のできごとが最大の関心事だったのに、いつしか、自分そのものに焦点が移っていました。
 鈴木大拙全集や西田幾多郎全集を読み、あちこちで座禅を組んだり、新興宗教へ出入りしてみたりしても、何もつかめないまま、家庭の事情もあって失意の帰郷となりました。
 親から嗣いだ仕事はそれなりにやりましたが、心は根無し草のまま倒産し、無一文となりました。
 その過程で、人生の師と思っている方からさる寺院を紹介され、それまで出会ったことのない〈活きた行者〉とめぐり会い、在家のまま、得度をしました。
 倒産後の道はもはやたった一本しかなく、墨染め衣で托鉢を始めました。

 こうして、〈居場所〉をつかむ手段の一つとして近づいた宗教が、いつしか、生きることそのものになっていました。
 自分で仏教を選んだり、真言宗を選んだり、寺院を選んだりした意識はまったくなく、師によるお導きでまた新たな師に巡り会い、師のおられる寺院が文字どおり救いの場となっただけです。
 すべてが凡夫のはからいを超えたみ仏のお導きであり、過去世カルマと現世でのカルマとがあいまって、こうした運命を創ったのであろうと思います。

20130507003.jpg

2 宗教によってどのように救われたか

 師との出会いにおける第一印象は、「本ものがおられる!」でした。
 それまでに、伝統と格式のある寺院の方や、難行苦行を何年もおやりになった方や、大学の教授や、新興宗教の責任者など、さまざまな方々にお会いしていましたが、修行の成果である法力を身につけ、あらゆる疑問に答え、現に、目の前で困っている人々の相談相手になり法力で役立っている方は初めてでした。
 私にとっての信心は、信心のある人への信から始まったと言っても過言ではありません。
 それだけに、人生相談などで、聖職者の言動に関する不信を耳にすると、すぐに、〈仏法の危機〉と感じてしまいます。

 信じられる人の説く教えは、すんなりと心へ届き、理解や納得のできない疑問もまた誠意ある指導によって解消されて行く中で、お釈迦様とお大師様の説かれた宗教がいつしか血肉となりました。
 そして、宗教と一体になって生きているうちに、宗教体験は人生体験となり、法力と智慧と両面への意欲が増し続け、こんにちに至っています。

 もしも師と出会わなかったなら、もしも、今、学んでいる教えと出会わなかったなら、きっと倒産に次ぐ、第二、第三の破綻を避けきれなかったに違いないと思えてなりません。
 たとえ政治にかかわっても、商売をやっても、何をやっていたとしても、あのままの自分であったならどこかの時点で大失敗をやっていたであろう、しかも、政治信条や経営などと関係のない些細な問題で大きな失敗をやらかしていたはずです。
 だから、他人の不祥事を見聞きすると、「自分が彼であったなら、そうしていたかも知れない」と心底、思います。

 古人の教えに「水へ落ちた犬へ石を投げてはならない」があります。
 また、罪を犯した女性を前にしたイエスは、周囲の人々へ「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言いました。
 悪へ対する阿修羅のような攻撃的姿勢を持っている一方で、自分の心から悪へ傾きかねない可能性が払拭されていないだけでなく、意識せぬ間に悪行を犯してしまう愚かさがあることを知っているので、悪〈行〉や悪〈因縁〉や悪〈業(ゴウ)〉は砕破したいと願いつつ、悪〈人〉は反面教師としても、石つぶてを投げつける気にはなれません。

 こうして、宗教は、私を悪行へ赴かせない力になっています。
 また、他人様へ対するいささかの寛容的姿勢も、もたらしています。
 み仏へお仕えする身となっている今は、み仏のご加護によって救われる方がおられること自体、私にとって大きな救いとなっています。

 たとえば最近、こんなことがありました。
 関西在住の信徒さんが、メールで如意宝珠(ニョイホウジュ)のご寄進を申し出られました。
 その一文です。

「私の宝珠が聖地にみなぎる救いの力の一端になりますように。」


 小さなクリスタル製の宝珠はご本尊様の正面にある宝塔へ納められ、永久に供養されます。
 願いをかける方がご加護を受けるだけでなく、当山へ足を運ばれる方々や心を寄せられる方々すべての救いにもなるのです。
 そのことを理解し、信じ、苦しい状況にあるご自身を全面に出さず、ご本尊様のお力が増大して広く皆さんのためになりますようにと願いをかけられました。
 たとえ文章は短くても、私の人生を丸ごと救ってくださるみ仏の言葉であると感じられます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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