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2013
07.31

平成25年8月の行事予定

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 立秋(リッシュウ)と処暑(ショショ)の葉月(ハヅキ)に予定している行事です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭 2013/8/4(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[書道・写経教室] 2013/8/4(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
 今回は、七夕で飾る短冊の書き方も稽古します。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第六回法楽塾] 2013/8/4(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第四十二回寺子屋『法楽館』 ─自然農法について─] 2013/8/10(土)午後1:30~午後3:30

 今回の寺子屋は、黒川郡大郷町で不耕起・無施肥・無農薬の野菜作りをしている大枝邦良氏より、自然農法のお話をいただきます。
 氏は、『自然農法で野菜づくり』(学研パブリッシング発行)でこう述べておられます。
「自然に任せるといっても、自然農法はまったくの放置ではありません。
 タネをまく、草を刈るなど、人間が介入しなくてはいけないところがあります。
 どういう方法とタイミングで介在するかが大切なんです」
 化学物質に頼らないで野菜などを育てるどのような方法があるのでしょうか?

 当山は、農業分野における科学的成果を否定するものではありません。
 科学者も、田畑で汗を流される方々も、営々と努力してこられました。
 世界に冠たるその成果は称賛されこそすれ、否定されるべき何ものもありません。
 ただ、今の時代にあっては、自分で自分の食べものをつくられる状況にある人は、効率的に流通しているモノに頼るだけでなく、〈自分で食うものは自分でつくって食う〉という気持も必要ではなかろうかと考えています。。
 自分あるいは自分たちでつくって食うという姿勢は、食糧戦争に巻き込まれる個人が真の自立を確保するため、また、効率的流通の中で気づかれぬうちに発生しているかも知れない諸問題から身を守る上で、大切なのではなかろうかと思われます。
 当山の『法楽農園』は、こうした思いを込めて始まりました。
 
 事前予約などは不要です。
 どうぞ、ふるっておでかけください。 
・ご志納金  1000円(中学生以下500円)
寺子屋は毎月第二土曜日に開催します。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


お盆供養会 2013/8/15(土)午後10:00~11:00

 例年どおり、お盆供養会を行います。
 護摩法を行い、この世のすべての徳を込めたお塔婆を捧げれば、必ずや、すばらしい廻向(エコウ…積んだ徳を御霊へふり向けること)になることでしょう。
 どなたでも、どこにおわす御霊でもお受けできます。
 また、修法後、講堂前で、隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者さんたちが、恒例の魔切り奉納剣を行います。
 また、今年は、午後3時から『みやぎ四国八十八か所巡り道場』のお詣りも行います。
 完成しているのは7カ寺分だけなので、30分~40分ほどで終了します。
 道場(仙台市泉区菅ノ崎3)までの送迎車がでますので、どうぞお気軽におでかけください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。

・道場参拝  8月15日(土)午後3:00~3:30
・送迎申込 午後2:30に当山を出発し、午後4:00に帰山します。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第二例祭 2013/8/17(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


お焚きあげ 2013/8/24(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。
※毎月、最終土曜日に行いますが、今月は31日に当たるので、一週間、繰り上げます。

[機関誌『法楽』作り] 2013/8/26(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
※毎月、最終月曜日に行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センター、もしくは旭ヶ丘仙台市民センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2013
07.31

お経と言霊

20130731001シルバー川柳表紙

 お経は、ダテに読むのではありません。
 お経は、言霊(コトダマ)のはたらきを最高に高める工夫が重ねられた人類の宝ものです。
 たった五・七・五の俳句や川柳、あるいは、五・七・五・七・七の短歌も、人類につながり、宇宙につながる心を動かします。
 み仏の言葉を感得した行者によって紡ぎ出された言葉の数々は、いずれも、み仏の世界へつながる扉を開く力が凝縮されています。

「生前も 死後も泉へ 水飲みに」(中村苑子『花隠れ』 )
「わが墓を 止り木とせよ 春の鳥」(中村苑子『四季物語』)


「愛してる それが今では 息してる?」(末永均『シルバー川柳 満員御礼編』)
「人生を 選びそこねて 無人駅」(南雅子『シルバー川柳 満員御礼編』)


「吾がために 死なむと云ひし男らの みなながらへぬ おもしろきかな」(原阿佐緒『涙痕』)
「死に近き 母に添寝(ソイネ)のしんしんと 遠田(トオダ)のかはづ(蛙) 天に聞(キコ)ゆる」(斎藤茂吉『赤光』)


 当山でご納骨の修法を行ったAさんから、こうしたお便りをいただきました。
 ご了解を得て転載します。

「あの清々しい季節に納骨を出来た事、私事ながらうれしく一安心しました。
 住職様がお経をあげていただいている時、突然、あの青空に昇天して行く夫を感じ、『アーよかった』と思いました。」
「自宅にて寝食を(?)を共に、そこに居る事が当たり前になっていたのですが、日本人の根底には仏教のおしえが芯となっており、『いずれは土にかえさなければ』が頭にはあり、三回忌に納骨をしました。」


 導師にとって、ご本尊様からいただいた戒名をお伝えし、引導を渡すことは、弟子を送ることに他なりません。
 生前戒名をお渡しすれば、その瞬間から、その方は当山を縁とした仏弟子であり、当山の修法によるみ仏のご加護を受けつつ、生涯を送られます。
 没後に戒名をお渡しすれば、この世ではつかの間の弟子となります。
 いずれにしても、引導を渡す時は、同じみ仏の子ながら、たまたま師となった身が弟子となられた方をこの世から切り放ちます。
 お納骨の時は、この世で拠り所としていた身体というモノが天地へ還る最終局面です。
 そのために、御霊には覚悟と安心を持っていただく必要があります。
 ここで役割を果たす者が口にできるのは、み仏の言葉以外にあり得ません。
 み仏の言葉である経文と真言が言霊となり、御霊へ通じ、み仏へ通じ、その船に乗った御霊は揺るぎない航海を始めます。

 お経は、強大な力を秘めた言霊の塊なのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
07.31

2013年(平成25年)8月の運勢─流れの生かし方─

2013073101法楽寺仏前勤行宝典

20130731001法楽寺仏前勤行CD

 2013年8月(葉月…8月7日から9月6日まで)の運勢運気のミニポイントです。
 改運し、開運し、快運となりますよう。

○今月は、おさまるべきものがおさまるべきところへおさまる「固定」の力が強くはたらきます

 今月は、数十年に一度の、「定まる」力が強大な月です。
 ここで運気をいかに生かすかが、その後の人生に少なからぬ影響を及ぼすことでしょう。
 このような時期には、自分をよくふり返り、「分を尽くしているか」「まっとうな願いを持っているか」「心にある恥ずべきものを見すえているか」などとよく考え、ごまかしのない澄んだ心で、なすべきことに邁進したいものです。

 もしもこの一ヶ月で、仏神に顔向けできない生き方をすれば、よからぬものやつまらぬものがしっかりと根を張り、悪影響が尾を引きかねません。
 せっかく発展の芽が出た時に、思いも寄らぬ形で信用を破壊される事態に陥って失敗したり、目上との間で自滅的な問題を起こして失敗するはめに陥るかも知れません。
 望まぬものが固まってしまえば、後が大変です。
 ボンドや瞬間接着剤を用いる時に注意するのと同じ慎重な姿勢でやりたいものです。

 もしもこの一ヶ月で、嵐にも消えない灯火をともすように肝心なものを定めてしまえば、その後の人生でおたおたせずに済むことでしょう。

 そこでお勧めなのが、懺悔の言葉です。

「無始よりこのかた貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩(ボンノウ)に まつわれて、身と口と意(ココロ)とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉(コトゴト)く懺悔(サンゲ)したてまつる
 我昔所造諸悪業(ガシャクショゾウ ショアクゴウ)
 皆由無始貪瞋痴(カイユムシ トンジンチ)
 従身口意之所生(ジュウシンクイ シショショウ)
 一切我今皆懴悔(イッサイガコン カイサンゲ)」


 読み下し文は一回、漢文は通しで三回、読むならわしになっています。
 毎日一度でも口にすれば、心も運勢も大きく変わること請け合いです。

(唱え方は、どうぞ『法楽寺仏前勤行宝典』CDの冒頭をご参考にされますよう。
 また、「従身口意之所生」は「従身語意之所生」と唱える場合もありますが、同じ意味です)

金縛りに遭う時は否が応でも遭うのです

 そんな状況になったならば「あっ、来たな」と落ちついて対応しましょう。
 今月起きやすい金縛りに関するウィキペディアの解説です。
「医学的には睡眠麻痺と呼ばれる。
 睡眠時の全身の脱力と意識の覚醒が同時に起こった状態。
 不規則な生活、寝不足、過労、時差ぼけやストレスなどから起こるとされる。」
 このことを知っていれば、金縛りに遭ったからといって、無用の恐怖や不安などにとらわれることもなく、魔ものを怖れる必要もありません。
 そもそも金縛りとは、不動明王が左手に持った索で悪しき心を縛るお力の強さを指したありがたい言葉です。
 動物である人間は、位置を変えることが生きる実感と密接に結びついています。
 そこが脅かされたと感じる時は、智慧と胆力によって相手を冷静に見極め、悠然と対応したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2013
07.30

電車やバスを押すのが珍しくなかった時代 ─支え合いと希望の大切さ─

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 7月22日、さいたま市南区のJR南浦和駅京浜東北線ホームで、電車から降りようとした30歳台の女性がホームと電車の間に落ちました。
 そのおりに、車内やホームにいた乗客など約40人が協力して電車を横から押し、女性をまもなく助け出しました。
 女性には大過なく、皆が拍手をし、電車は最大8分の遅れで済みました。
 情報はたちまち世界を駈けめぐり、ネット上には、日本人への称賛があふれました。

 たまたま、チラッとその映像を観た私が機関紙『法楽』作りに参加された方々へ話題提供したところ、Aさんから意外なお話がありました。
「昔は、よく、バスなどを押したものです。
 戦後間もない頃の電車バスもパワーが少なく、登りになると、元気な人たちは降りて歩いたものでした。
 それでもだめなあたりでは、よく押したものです。
 でも、誰一人文句を言う人もなく、譲り合い、協力し合いました。
 だから、今回のようなあたりまえな行動がニュースになることそのものが、よく理解できません。
 まして、世界中に流れるほどのニュースになるとは言葉もありません。
 世の中は、いったい、どうなっているんでしょうか」
 Bさんも、Cさんも、やはり、電車から降りて軽くしたり、バスを押したりすることをよく知っておられました。

 そうした体験がなく、知識もなかった私は、ただ黙って聴きながら、車体を軽くするために率先して降りる人は、別な場面でも〈譲れる人〉に違いなく、当然の行為として譲る人々によってつくられていた社会は、今のように無慈悲さが広がってはいなかったのだろうと思えました。
 200万人がいのちを失い、あちこちが焼け野原となった日本にあったのが奪い合いではなく助け合いだったことは、これまでもたくさんの方々から教えられました。
 今回も又、人生の先輩方は、困っていたけど希望があった時代について語られました。
 私は、こうして日本人は人口を増やしたのだなあ、と実感しました。
 互いに助け合う〈安心感〉があり、〈希望〉の持てる社会ならば、子供を増やしたくなるのは当然だからです。

 社会学者古田隆彦氏は「人口波動説」を唱えています。
「太平洋戦争後、日本は加工貿易文明という新たな人口容量を得て、爆発的に人口を増やしました。
 日本列島で自給できる人口は7700万人といわれており、田畑の上に工場を建て、海外から食糧を買うことで、さらに5500万人を食べさせているのです。
 この加工貿易文明を成立させていた条件は工業製品の方が農業製品より高いということでした。
 ところが、1993年以降、小麦、米、とうもろこしの国際価格は上昇し始めました。
 世界の穀物生産量は3年連続で消費量を下回り、2002年には推定8300万トンもが不足する事態に陥りました。
 したがって今後も穀物の価格は上昇していくことでしょう。
 その一方で安い工業製品が日本に流れ込み、人々は今後に対する漠然とした不安を抱いています。
 この人々の心理状態は江戸中期と同じ状況ではないでしょうか。
 人口は社会の余裕があるときには常に増加し、余裕がなくなると本能的な人口抑制装置が作動するのです。
 これはあらゆる動物において起こることです。
 子供を作るより、自分を守りたい。
 これが少子化の正体なのです。

 (http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/interview/16/index1.htmlより)

 食物は自然からの贈り物であり、自然からの賜わり物です。
 地球が有限の世界である以上、地上でものを食いながら生きられる人間の数も有限です。
 この有限性を突破しようとさまざまな試みが行われ、日本では今や、工業製品的に生産される野菜なども珍しくはなくなりました。
 人間のあくなき向上心には敬意を表さねばなりませんが、地球上で循環するいのちのサイクルの中で生まれ、死ぬ人間に与えられている生きものとしての〈枠〉を、人間だけが無限に拡大できるとは思えません。
 子供たちに増え続ける各種のアレルギーなど身体的弱さや、ちょっとした困難にも耐えられず崩壊したり爆発したりしやすい精神的弱さは、〈枠〉からの警告ではないかと思われてなりません。
 生きものとして、食べられるものの範囲が狭まるのはとても恐ろしいことです。
 それは、それだけ、生きられる範囲が狭まることを意味しているからです。
 社会人として、困難によって鍛えられないのはとても恐ろしいことです。
 それは、それだけ、個人的には成長できる範囲が狭まり、社会的には助け合う力が狭まることを意味しているからです。
 これは、人間に対して発せられている警告の顕在化とは言えないでしょうか?

 冒頭のできごとに見られるとおり、私たちにはまだ、助け合う心が残っています。
 しかし、社会から希望が薄れ、希望を持てない人々は余裕がなくなり、社会全体が無慈悲な方向へと進み、人々の不安は人口を減少させています。
 もちろん、人口がどんどん増えることそのものが、これからの日本や国際社会にとって望ましいとは思えませんが、生きものとして個体を減らす流れが何を意味しているのかは、深刻な問題として真剣に考えられねばならないはずです。
 どうにか残っている助け合う心を支えとし、希望の持てる社会になるよう、社会から無慈悲さという暗雲が消えてゆくよう、願ってやみません。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2013
07.29

夜光虫ひとりの刻にいつか慣れ ─男の本質的孤独について─

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 昭和の時代を駆け抜けた映画監督五所平之助が詠んだ一句である。

夜光虫ひとりの刻(トキ)にいつか慣れ」


 氏は夜半に仕事を終え、たった一人で水辺に光る夜光虫をじっと眺めていたのだろうか。
 この句がどう読めるかは、人それぞれ、一枚の紙の裏と表ほども違うことだろう。

 ポイントとなる「慣れ」には、諦観を観たり、哀感を感じたりもできようが、カメラと旅が趣味だったと知れば、むしろ、孤独は自分の業(ゴウ)と知って潔く身を任せているというイメージが浮かぶ。
 その証拠となりそうな一句を見つけた。

「生きることは一筋がよし寒椿(カンツバキ)」


 寒風にもめげず、濃緑の葉たちに支えられつつ質量感のある身を際立たせている寒椿は、役割を終えて落ちる時でも、あまりボロボロになっていない場合が多い。
 赤紫の色鮮やかなまま、白い雪に半分、埋もれていたりする。
 氏は、衰亡や死へ向かうことをものともせず、ただ、きちんと生あるその時を生きているさまに、自分と同じ単純化された生を感じ、「一筋」と詠んだ。
 普通、「一筋」という言葉は力の入っているイメージを伴うが、ここではむしろ、余分なものを放擲(ホウテキ)し尽くした無為(ムイ)の境地を窺わせている。
 落ちる時はたった一輪、自分だけであり、〈その時〉を引き受ける者もまた、天地の中で自分一人しかいない。
 それで良いも悪いもない。
 氏にとって、自分の生は〈そういうもの〉なのだ。

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〈時ならぬ冷たい雨の中でたった一輪、衰えつつ咲き残りしもの〉

 高齢になると、女性は人の中へ向かい、男性は人から離れる傾向がある。
 孤独な男性については「仕事人間の末路」といった表現で切り捨てられ、「名刺が手から離れた男性が、妻に導かれて理想的な町内デビューを果たした」などと喧伝(ケンデン)されるが、そうしたことごとは、ほどほどにしておく寛容さも必要ではなかろうか。

 仕事人間的男性は、仕事から離れても仕事めいたものを見つける場合がある。
 それは、カメラであったり、読書であったり、あるいは酒であったりもする。

 知人Aさんは、青春時代に意気投合した友人Bさんと、リタイアしたらエベレストへ登る約束をしていた。
 もうすぐお役ご免という時期になって、Bさんは軽い脳梗塞を患い、やや言葉が不自由になって一足先に自由の身となった。
 しかし、二人は約束を守ろうとしている。
 Bさんはリハビリに励み、Aさんは、エベレストでBさんへ手助けできるだけの体力をつけようとスポーツジムへ通っている。
 別にアルピニストでない二人は、若かりし日、エベレストの麓へでかけたおりに、「ここへ登りたい」と、強く思っただけである。
 Aさんは言われる。
「なあに、Bと一緒にどこまで行けるか、行くだけ行ってみるんです。
 それで、うまく帰れなくなったなら、それまでですよ」

 友人Cさんは、省事(ショウジ)を徹底しようとしている。
 ある世界をとことん、突き詰めようとすると時間がいくらあっても足りず、人間関係をはじめ、削れるものはどんどん削っている。
 事の本質から遠いものは、もはや、Cさんにとって何の関心もない。
 人も、お金も、名誉も……。
 求道者と化したCさんは仙境に入りつつあるようにさえ見える。

 AさんやCさんの人生の締め括り方を批判するのは簡単だ。
 いくらでも理のある批判が成り立つことだろう。
 女性の立場から、家族の立場から、人道的立場から、宗教的立場から、などなど。
 もちろん、お二人が目ざしているのは、菩薩道(ボサツドウ)とまったく無縁の世界である。
 しかし、それでもなお、一人の男性にとって「慣れ」や「一筋」が決定的に重いものへ通じている真実を認めないではいられない。
 統計的にとらえられる〈孤独な男性〉のうち、決それほど些細な割合ではない人々が、浮薄な人間関係とは異次元のものを相手にしつつ、一人で死へ向かいつつあるはずだ。
 こうした人生の経過を認めるのもまた、人間の尊厳を大切にすることであり、前述の「寛容さが必要」は、このことを指している。

 とは言え、五所平之助はこうも詠んでいる。

「呼びとめて二人となりぬ花明り


 一人で夜桜を眺めているうちに、思ってもみなかった人を見つけ、つい、呼び止めた。
 すると、花の白さが夜目にいっそう際立つかと思えたのである。
 だからといって、孤独を離れた瞬間が孤独を超えさせたのではない。
 潔く生きる男にとって、花の明るさが増したのは人生の飾りのような時間であり、それは飾りでしかない。

 男の孤独は、その潔さによって男の本質に通じているやに思えてならない。
 大目に見てやって欲しい、と思う。
(大目に見る器量のある人々は、昭和56年、79歳で逝った五所平之助の命日5月1日を「五所亭忌」とし、未だに偲ぶ会を続けているという)




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2013
07.28

祈りは生命の宣言、魂の叫び

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 7月25日の産経新聞は「祈りとは『生命の宣言』である」とする筑波大学教授村上和雄氏(七十七歳)の意見を掲載しました。
「『祈り』は宗教が生まれる前から人類が続けている営みである」とし、米国国立補完代替医療センターの報告を紹介しています。

「アメリカの西海岸の病院で、重い心臓病患者393人を対象に、快癒の祈りを行って、祈らなかったグループと比較したところ、祈られた患者は祈られなかった患者たちよりも、人工呼吸器、抗生物質、透析の使用率が少なかった。
 この病院に近い所からの祈りも、遠い東海岸からの祈りも同様に効果があったという。」


 とても興味深いのは、患者さんたちが治りたい一心で自分のために自分が祈ったのではなく、祈られた対象だったということです。
 これは、入院している家族のために祈る家族や、ご祈祷を依頼にご来山される善男善女の思いが〈届く〉ことを意味しています。

「まごころを込めて深く祈ることが、祈る人、祈られる人の遺伝子のスイッチを入れ、その思いが天に通じたときに祈りはかなえられる、と私は思っている。」


 なぜ、祈りの媒介者として遺伝子が登場するのかはよくわかりませんが、こういう道筋は宗教者の信念と相通ずるものであり、教授の指摘どおり、人間にはまず、祈りがあり、祈る方法として宗教が構築されてきたと言えそうです。

「日本語の『いのり』という言葉の語源は、『生宣り(いのり)』だと解釈されている。『い』は生命力(霊威ある力)、『のり』は祝詞(のりと)や詔(みことのり)と同じで、宣言を意味している。
 だから、『いのり』は生命の宣言なのである。」


 当山では、毎月行う例祭の冒頭に、表白(ヒョウビャク)という祈りの言葉を述べます。あらゆる仏神に対して、こう、宣言します。

「謹み敬って申しあげます。
 今、ここに、まごころを捧げる方々と共に、善願の成就をお祈り申しあげます。
 どうか、お力をお与えください。
 そして、生きとし生けるものすべてへ、大きなご加護をたまわりますよう」

 祈りは通じます。
 娑婆にいた当時の私は、自分自身の祈りが、それを通じさせる力を持つ行者の協力を得て異次元の世界へ届き、思いも寄らぬ形で成就する体験をくり返してきました。
 もちろん、決して凡夫の「意のままになる」のではありません。
 成るべきことは成る方向へと動き、威神力を得て成るべくして成ったと、後になってから、気づくのです。
 そして、いつの間にか、皆さんの祈りを自分の祈りとして祈る行者になっていました。
 一行者である私にとって、祈りは、〈通じる〉ことを信じる者の〈魂の叫び〉です。
 それは、お地蔵様のように深く静かな場合もあれば、お不動様のように激流や火炎となる場合もありますが、いずれにしても全身全霊が込められています。
 この叫びは、音楽や絵画や文学など芸術に込められた祈りにも、正義を実現しようとする弁護士や、患者さんへいのちの持分をまっとうさせようとする医師や、安全を願ってパトロールする町内会の方々の祈る思いにも通じていると感じています。

 祈りましょう。
 大いなるもののために。
 御霊方のために。
 誰かのために。
 自分のために。
 生きとし生けるもののために。
 そして、来るべき未来のために。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2013
07.27

灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり

2013072700001112.jpg

 大正2年(1913年)、斎藤茂吉は母親を送り、 『アララギ』へ『死にたまふ母』を発表した。
 四篇からなる句集だが、思いはこの一首に凝縮されている。

「灰のなかに母をひろへり朝日子ののぼるがなかに母をひろへり」

 
 朝日子の「子」は親しい気持を込めた接尾語で、子供という意味はなく、「朝日子」は「朝日」のことである。

 医師である茂吉は薬を抱えて母親を見舞うが、母親はじっと見返すのみだった。
 何か言おうとしても、もう、茂吉の耳には何も届かない。
 その夜半、添い寝の中、母は逝った。
「いのちある人あつまりて」その死を見届けるが、茂吉はいたたまれず、蚕を育てる部屋へ行って茫然と一人、立っているしかない。
「我が寂しさは極まりにけり」。
 当時は野辺で荼毘(ダビ)に付した。
 ドクダミもアザミも焼け、朝日が昇る時分に、お骨を拾った。

 決して〈母親のお骨〉を拾ったのではなく、〈お骨となった〉母親を拾ったのである。
 何になろうと、母親は母親である。

 行基(ギョウキ)は詠んだ。

「山鳥のほろほろと鳴く声きけばちちかとぞ思ふははかとぞ思ふ」


 動く姿のなくなった親は、形を失った代わりに天地のどこにでも遍満(ヘンマン)している。

 親を思う子供の心は、いつの時代も不変である。
 当時、「母をひろう」という表現を模した歌が数多く詠まれたという。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2013
07.27

『摩利支天ネット』第1号について─雑草を刈る、心の雑草も─

2013072601223.jpg
〈川のそばにある竹林から草刈りした堤防へ出てきて遊ぶ黒いトンボ〉

 7月26日(金)午前9時前、大雨の予報と異なる曇り空の下、予定通り、『法楽農園』にある田んぼの草取りを始めました。
 藁科昇氏の説明を受ける3人は、田んぼの草刈りをした経験がなく、まず、何が雑草であるかを見分けるところから説明していただきました。
 雑草といっても稲科の植物たちなので、ちょっと見ただけでは、ほとんど見分けがつきません。
 機械による田植えだったので、列の位置を確認しながら進むと、本来は空いていなければならない部分で伸びているものは雑草なので、見分けに慣れるまで大した時間はかかりませんでした。

 始めてまもなく、お釈迦様の教えを思い出しました。
「悪しき心は、芽が出たならば速やかに刈り取らねばならない。
 さもないと、雑草が稲を害するがごとく繁茂することだろう。」

 そう言えば、田植えしていただいた赤間さんから「そろそろ、草刈りをしないとだめだよ」と指摘されたのは何週間も前でした。
 今日も、藁科さんから「もっと前にやっておけば、こんなに酷くはならないで済んだのに」と指摘されました。
 自然界のものたちは、人間のスケジュールに合わせてはくれません。
 草刈りが今日になってしまった人間は、自然の運行からずれた分だけ、自ら苦労をせねばなりません。

 自然界からすれば、稲も他の植物も分け隔てはありませんが、人間にとっての有用性というものさしに当てれば、育てたいものと邪魔なものに分かれるのは当然であり、自然界のあらゆる生きものたちもまた、自分の生命の維持というものさしによって、区別していればこそ、いのちをまっとうできます。
 稲を育てる身にとってはやはり、雑草は雑草です。

 チューラパンダカという物覚えが悪いお弟子さんの故事を思い出しました。
 お釈迦様は、こう指導され、彼はついに悟りを開いたのです。
「垢を除かん、塵を払わんと唱えながら掃除をしなさい」
 目の前の光景は、私の心そのものです。
 大切な稲は、数でも背丈でも凌駕しつつある雑草たちによって、息も絶え絶えです。
 ──自分の心は?……。
 善き心を悪しき心から守らねばなりません。
 雑草を抜きながら、心で唱えました。
「垢を除かん、塵を払わん」

 気温が低く、ときおり小雨の降る絶好の条件下で行われた草取りも予定の11時となり、4人は再会を誓って解散しました。
 車に乗った直後から急に雲行きが険しくなり、ご守護を感じながら帰山しました。
 着替えを始めた頃、猛烈な雨がやってきました。
 秋になれば、きっと、すばらしいお米が授かることでしょう。
 



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2013
07.26

傷ついた日本人へ(その19) ─子供の叱り方、育った子供に顕れる陰陽と吉凶─

20130721012.jpg

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 皆さんと一緒に、要点を考えてみましょう。

 今回は、子供の叱り方です。 

「誰かを叱らなくてはいけないときには『心の動機』をまず見つめ、自分の感情をきちんと整理しなくてはいけません。」


 ここで必要なのはただ一つ、「心の動機」です。
 育てる心が必要な一方、害意があれば「教育をする資格はありません」。

・必要なもの…慈悲心・愛・思いやり
・あってはならないもの…懲らしめる気持・苦しめたい気持

「特に親は子どもを愛するあまり、感情が先に走ってしまいがちで、すぐに吾を忘れてしまいます。
 だからこそ、理性を使うことを心がけ、常に冷静な目を持つよう注意しなくてはいけません。」
「感情のままに怒りをぶつけたのでは本末転倒です。」


 そして、叱りっぱなしではなく、必ず、叱った結果をチェックしましょう。

「子どもがどのような反応を示したか、それが効果的であったか、きちんと観察してください。」


 強く叱ったのが〈この子〉のためによかったかどうか?
 もっと強く叱るのが〈この子〉のためだったのか?
 この場合、〈この子〉には、あまり厳し過ぎたのではないか?

 こうして、我が子である〈この子〉は、まったく独自の存在として、育て方を学ぶ生きた教材になります。
 子どもは一人一人皆、違っているので、親は必ず具体的に、学ぶことになります。
 教科書にある一般論だけでは通用しません。

 親から感情をぶつけられるだけの子どもは不幸です。
 悲しさや、悔しさや、辛さや、反発心に発する感情的反応しか育たず、安心感や感謝による温かな情緒や、自分を省みる知性や、相手を思いやる愛情などが育ちません。
 だから、自分の感情を抑え、冷静な判断で子どもにとって必要な教育をせねばなりません。

 さて、この先は、ダライ・ラマ法王の説法から外れます。
 子育てで最も難しいのは、親が「こうすればこう育つ」と考えたとおりに育ってくれるかどうかは、結果任せとしか言えないという点です。
 それには、いくつもの理由がありますが、この二つだけは覚悟しておく必要があります。

○子供の生まれ持った因縁がよく観えない
 おとなしい、怒りっぽい、勉強嫌い、などと表面に出てくる部分はわかりますが、挫折因縁や色情因縁などには、なかなか気づきません。
 だから、元気を出させ、忍耐力を身につけさせ、成績がよくなって喜んでなお、不幸な場面を招いてしまう場合があります。
 育ちの因縁がどんどん膨らむことにより、生まれの因縁は相対的に小さなはたらきしかできなくなりますが、それでもなお、消えてなくなりはしません。
 もちろん、大器晩成の因縁などもあって、生まれ持った因縁は陰陽さまざまに人生を彩ります。

○子供の心に育っているものがよく観えない
 子供は子供らしく毎日を送りますが、しっかりと隠し事をしている場合もあります。
 親には〈欲目〉があるので、そこが見抜けず、甘い草が育っているとばかり思い、毒の草も隠れて育っているのに気づかなかったりします。
 しかし、子供は子供なりにそれを知っており、知らない大人に関係のない行動をとって、親や大人たちを面食らわせてしまう場合があります。
 子供が成長して大人になる過程において毒の草を自分で踏みつけたり刈ったりすれば、大過ない人生を送れることでしょうが、自分で処置できなくなれば、大人の世界のルールで矯正するしかありません。
 もちろん、怒ってばかりいる親へ決して見せずに温かな心をそだてているなどのケースもあり、育ったものは吉凶さまざまに人生を彩ります。

 こうした二つの部分は、親の手が届きにくいのです。
 もちろん、こうしたことを考えながら育てれば、因縁も育っている草も、考えないでいるよりはよく観えるはずですが、見透しきれないという覚悟は持っておきたいものです。
 だから、思いもよらず、子供に〈陽〉や〈吉〉が出たなら、子供がたとえ何歳になっていても、親として大いに誉めてやりましょう。
 思いもよらず、子供に〈陰〉や〈凶〉がでたなら、子供がたとえ何歳になっていても、親として、「それも人生」、「それが人間」と、大きな気持で包んであげましょう。

 要は、人間のできることには限りがあり、やるだけやったなら、あとは仏神へお任せするしかなく、〈人事を尽くして天命を待つ〉のみなのです。
 この心構えのあるなしは、子供と親の幸不幸へ大きくかかわることでしょう。
 子育ては最も生きがいとなり、最も難しい人生の大仕事です。




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2013
07.25

よぶこどり ─本当の母親は?─

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〈世界文化社『浜田広介童話集』からお借りして加工しました〉

 浜田広介童話に『よぶこどり』があります。

「みなさんは、知っていますか。
 また、みたことがありますか。
 よぶこどり(呼子鳥)という鳥を。」


 一匹で暮らしているリスが畑で拾った卵を抱いていると雛が孵りました。

「ひながぴいぴい鳴きたてると、りすは、すぐに子もり歌をうたいました。
 りすは、たいそう歌がじょうずでありました。
 いつまでも、うたっていました。」

「ひながねむると、りすは、やぶからぬけだして、いそいで森にいきました。
 そして、えさをさがしあてると、いそいでやぶにもどってくるのでありました。」


 リスは雛をカッコウと名づけ、カッコウリスを実の母親と思っていました。
 リスのいないある日、カッコウは、話をしていたモグラから意外な話を聞きます。

「おまえさんは、ね、たまごだったよ。
 畑におちていたんだよ。」


「ながいながい夏の日が、森のかげにしずむじぶんに、りすは森からもどってきました。
 りすは、さがしてきたえさを、ひなにやろうとしましたが、ひなにげん気がありません。
『どうかしたの。』
 りすは、さっそく、しんぱいそうにききました。
『おなかが、いたいの。
 すこしなの。』
 と、ひなは、こたえていいました。
 すると、りすは両手でそっと、おなかをなでてくれました。
 ひなは、おなかをなでてもらうと、かえってかなしくなりました。
『やっぱり、これが、おかあさんにちがいない。』
 ひなは、そう、心にはっきり思いました。」


 しかし、疑問の雲は消えず、何度も自問自答をくり返していたカッコウは、自然に、自分とリスの身体の違いに気づきます。
 そして決定的な時が来ます。

「ある日のひるすぎに、ひなは、やぶから明るい空をながめていました。
 空は青く、どこまでもつづいていました。
 みていると、むこうから一わの鳥がとんできました。
 鳥は、つばさを波のようにうごかしながら、だんだんちかくなってきて、ちょうど、ひなのあたまの上を高くよこぎりました。」


 カッコウは、飛び去る鳥の姿が自分に似ているので、「じぶんにも思いがけないかんがえがうかんで」きます。

「あれが、ほんとうのおかあさんじゃないかしら。」


 そして、遠ざかる鳥のあとを追いかけます。
 森から戻ったリスは、カッコウがいないのに気づき、帰ってくるのを待ちます。

20130725002.jpg

「日はとっぷりとくれました。
 それでも、りすは、やぶのそとにひとりしゃがんで待っていました。
 しょんぼりと小さなりすの黒いすがたがみえました。
 そうするうちに、山のきわが明るくなって、月が空にのぼってきました。
 けれども、ひなは、そのすにもどってきませんでした。
 とうとう、りすは夜どおしおきて待っていました。
 月の光はだんだんに空からうすれて、東の空がしずかにしらみかけました。
 夜が青くあけてきました。
 けれども、りすは、ものもたべずにしくしくとないていました。」


 そこへ一羽のカラスがやってきて、カッコウが「そらへのぼって」いったことを教えます。

「まあ、空へ。
 もうもどってはきませんか。」


 泣き泣き尋ねるリスへ、カラスは答えます。

「山のさくらがさいたなら、たぶん、もどってきましょうよ。」


 リスが毎晩カッコウの夢を見ているうちに、夏は終わり、秋から冬、そして春と季節が巡ります。

「さくらがさくと、りすは毎日やぶをでて、空をながめてまっていました。
 りすは、いつか、からすからきいたことばをわすれずに思いくらしているのでありました。
『山のさくらがさいたから、きっと、もどってくるだろう』
 そうかんがえて、朝はまだくらいうちから目をさますのでありました。
 みていると、東の空はしだいに赤くそまってきました。
 りすは、じぶんで気をはげまして、やぶの中と、そのまわりとをかたづけました。
 きょうこそは、きっとかえってくるであろうと、みねの空をながめていました。」


「山のさくらは、そうするうちにちりかけました。
 一日、雨がふりつづいて、花の色はさびれてきました。
 そうして、ひと晩、風がふいて、雪のような白いさくらは山にみえなくなりました。」


 リスは自分が鳥になればカッコウを見つけられるだろうと考え、「ああ、鳥になりたい。」と願い続けます。

「りすの二つの目の玉は、だんだんにくぼんできました。
 足も、しりおも、しだいにほそくなりました。
 とうとう、夏のある朝に、りすは、小さな一わの鳥になりました。
 りすは、すぐにやぶからとんでいきました。
 夏の山は、いちめんに青葉がしげり、太陽の光をうけて、きらきらとひかっていました。
 カッコウ、カッコウ、……
 まもなく、山から、そう鳴く声がきこえてきました。
 それは、だれかをよぶような、さびしい声でありました。
 カッコウ、カッコウ……
 声は、しずかな山いっぱいにひろがりました。
 ひろがっては、一つ一つ谷のそこにきえました。
 山のふもとの人たちは、そう鳴く声をききつけて、いつからともなく、その鳥を、よぶこどり(呼子鳥)と名づけるようになりました。」


 夏になると、どこからかやってきたカッコウが輪郭のはっきりとした声で鳴きます。
 確かに「山いっぱいに広がる」感じです。
 カッコウは托卵(タクラン)をします。 
 オオヨシキリヤホオジロやモズや尾長鶏の巣に産み付けられた卵は、巣の持ち主の卵より先に孵化し、邪魔な卵やヒナを巣から落とします。
 ちなみに、同種の巣へ他の鳥が卵を産むのは珍しくないそうです。

 意志せぬ成り行きで親になり、子になり、やがて出自に気づいた子が飛び立ち、それでも我が子を忘れられない母親……。
 我が子を殺されても縁となった子を育てる鳥の世界に想を馳せ、過酷な運命の中でまごころを尽くすリスとカッコウに託した作者の気持が伝わってくる作品です。

 曾野綾子氏は、7月24日付の産経新聞「透明な歳月の光」で書いています。

言葉というものの持つ機能の奥深さは人生そのものだ。
 だから漫画だけではなく、文字による本を読むことによって、知らず知らずのうちに、人間の精神の複雑な反応を教えられ、自分の個性が当然のことながら他人と違うことの意味も教えられる。
 人間は、同じ文章を読んでも、決して同じ情景を想像しないという不思議な個性を持っているのである。」


 この、ひらがなが多い童話のダイジェスト版を読んでも、皆さんの受け止め方や感想は千差万別でしょう。
 自分の思いと異なった思いを持つ他者がいること、そして、それぞれの思いに誰も「重い」「軽い」などとレッテルを貼れないことを考えてみるのも、自己中心の勘違いから離れるよいきっかけになりましょう。
 リスさんありがとう、カッコウさんありがとう、亡き浜田広介さん、ありがとうございます。




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2013
07.24

『摩利支天ネット』のご連絡第1号 ─『法楽農園』の草取りをします─

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20130724NOUENのコピー

 ネット会員の皆さん、ブログをご覧の皆さん、お元気ですか。
 
 さて、『摩利支天ネット』の記念すべきご連絡第一号は、残念ながらお楽しみの内容ではなく、お手伝いのご依頼となってしまいました。
 まことに申しわけありません。

 おかげさまで、『法楽農園』の田んぼでは、川から水を引き、稲たちが無農薬の環境で順調に育っています。
 また、『ゆかりびとの会』会員さんやご縁の方々のおかげで、周囲の草刈りも終わりました。
 ところが、稲以外のものたちも育ってしまい、このままでは稲刈りに重大な支障が出るので、遅まきながら草取りをせねばなりません。
 いかにも急ですが、スケジュールの都合上、下記の要領にて実行しますので、もしも、ご参加いただける場合は、たとえ30分でも、ご協力をよろしくお願いいたします。
 次はきっと楽しいご連絡にしますので、今回はご勘弁ください、そして、「乞うご期待」です。

日  時:7月26日(金)午前9時より11時まで
場  所:大和町宮床字中野84-2
リーダー:藁科昇氏(塩釜市)
 



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2013
07.24

牡丹花は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ ─私たちへ確かさを問う花─

Category: 日想   Tags:牡丹木下利玄
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 大正12年(1923年)、木下利玄は詠んだ。

牡丹花(ボタンカ)は咲き定まりて静かなり花の占めたる位置のたしかさ」


 牡丹の花は華やかさと重量感で観る者を圧倒する。
 花というものは、いったい、これ以上の咲きようがあろうか、とも思わせる。
 福寿草も、水仙も、梅も、桜も、同じく〈花〉であり、それぞれが、完結した存在として咲く。
 牡丹もまた、そうした意味では、まったくの横並びであるはずなのに、他の花々とはどこかが違う。
 ヒマワリも、バラも、大きくて華やかだ。
 しかし、牡丹は、どこか違う。

 すっとそんなふうに思っていたが、この句に出会い、違いの理由がわかった。
 そこに、そのように在る、というありようを決める要素は、色や形や高さや傾きなどさまざまだが、「位置」という点において、牡丹は、一頭地をぬきんでている。
 自分は気ままに歩きまわり、モノも心もすべてが変化し続けている流動のこの世にあって、牡丹に出会うと釘付けになるのは、そこでは空間があまりにも固定され、不動だからなのだ。

 この句は、ただ、その真実一つだけを詠んでいる希有な作品ではなかろうか。
「咲き定まりて静かなり」
 もう、動きようがない、他に在りようがないから、寂静(ジャクジョウ)である。
 その絶対的な在りようを、他に取り替えようのない言葉で固定している。
「花の占めたる位置のたしかさ」
 確かであるとしか言いようがないのである。

 私たちは、よく「かけがえがない」と言う。
 もはや「いのち」にかかる懸詞(カケコトバ)のようだ。
 それはそうで一分のまちがいもないのだが、現代では、「おいしい」や「うつくしい」などと同じように、右の耳から聞けばそのまま左の耳から出ていってしまいかねない軽さを孕んでしまっている。
 この原因は、もしかして、私たちからある種の〈確かさ〉が失われつつあることに通じているのではなかろうか?
 求め、急ぎ、いつも喘いでいる私たちは、いかなる〈確かさ〉に支えられつつ無常のいのちを生きているのだろう?

 牡丹を眼にすると、眼も意識も、まるで虫ピンで留められたトンボのように固定され、眼のレンズはただちにシャッターを切り網膜の裏へ光景を保存する。
 浮薄な自分が、確かに位置を占めている牡丹に立ち止まらせられるのは、重大事だ。
 牡丹は異次元に通じている花である。
 恐ろしくもあり、ありがたくもある。
 強いて会いたいとも思わないが、会えば必ず胸で合掌してしまう。
 牡丹は不思議な花である。




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2013
07.23

わからないお経のありがたさ

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 なぜお経がわかりやすい言葉だけで唱えられないかというご質問は多々、あります。
 昔のインドで作られたお経が主となっているという成り立ちの問題もさることながら、直接、意味のわからない形で唱えられる意義のある言葉が、聴く人の心の深いところへ得も言われぬ思いをもたらすという点が最大のポイントです。

 たとえば、娑婆にいた頃、「何としてもここを突破したい」との願いを込めて護摩祈祷へ参加した時、太鼓と共に唱えられた般若心経慈救呪(ジクジュ…お不動様の真言)は、忘れられません。
 燃え上がる護摩の炎、法を結ぶ導師、魔を祓う不動明王の偉容、そして全身全霊で唱えられるお経は、人間が人間の限界を突破し得るギリギリの世界を感じさせ、帰り道では「もう、ここまでやった」と、〈まな板の鯉〉の心境になったものです。
 また、持病が悪化してご加持(カジ…心身へはたらきかける祈祷)を受けた時は、修法する導師の法力によって、手足の細胞も胴体の細胞も脳細胞も一つ一つが清められ、生き返るようなリフレッシュ体験をしました。
 もちろん、導師が何を唱えておられたか、その経文や真言はいかなる意味を持っているのかなど、一切、知る由もなく、知りたいとすら思いませんでした。
 ご加持を受けるために寺院を訪れた必死の思いは、「中身を知りたい」という興味とはまったく次元を異にしていたからです。

 今こうした体験をふり返り、皆さんの願いを自分の願いとして修法する立場になった行者として我が身を省みると、唱える文言の多くが普段用いる日本語になっていないことの重大さを実感します。

 たとえば、最初にインドの言葉で唱えることになっている声明(ショウミョウ…音楽のように唱えられるお経)「四智梵語(シチボンゴ)」が、もしも漢文の読み下し文となり、修法を受ける方の耳に、こう届いていたならどうでしょうか?
「金剛薩埵(コンゴウサッタ)が摂受(ショウジュ)するが故に無上の金剛宝(コンゴウホウ)を得、金剛法を諷詠(フウエイ)すれば金剛業(コンゴウゴウ)を成(ジョウ)ざられかし」(「真言宗読経偈文全書」より)
 あるいは、唱える前にこうした内容の説明があればどうでしょうか?
「内容は、金剛界こんごうかいの大日如来を讃歎するものです。
 四智しちとは、阿閦如来あしゅくにょらい・宝生如来ほうしょうにょらい・無量寿如来むりょうじゅにょらい・不空成就如来ふくうじょうじゅにょらいの智慧を表しており、それは金剛界の曼荼羅全体を意味するものでもあります。」(「真言宗豊山派ホームページ」の説明文より)
 それではわからないから、もっとわかりやすく説明してくれと所望されたならば、私のような未熟者なら30分以上を要すると思われます。

 唱える側としては「おーん」と帰依の言葉に入った瞬間から異次元が始まり、観想と共に、一つ一つの発音と音程や抑揚そして息継ぎに全神経を集中させ、自分と場とみ仏の世界が一体となっている救済世界へいのちのすべてをかけます。
 この際、もしも日常生活で用いられるわかりやすい日本語であったならば、きっと、わかりやすさが邪魔になるものと思われます。

 声明梵語で唱えよという伝統仏教の教えの裏には、言葉にし尽くせないほど膨大な意義があるものと思われます。
 幾多の聖者・行者の方々が、いのちがけの修行や修法によって実践し、私たちへ遺してくださった宝ものであり、それによって実際、自分が救われ、いくばくかはどなたかのためになっていると実感している身としては、ただただ、合掌しつつ日々、お唱えするしかありません。

 もちろん、ケースバイケースで、極力、わかりやすい読み方なども用います。
 当山は現在、般若心経などの読み下し文を皆さんとご一緒にお唱えします。
 また、ご葬儀の際には、何が行われるかが書かれているメモを事前にお渡しする場合もあります。
 こうしたバランスの取り方については、常に皆さんと共に歩む姿勢を忘れず、プロとしての智慧を絞って工夫できる範囲を工夫しているつもりです。

 ご参詣される方々におかれては、ぜひ、目的達成のための「五力(ゴリキ)」をお考えいただきたいと願い、おりおりにお話ししています。

・信力…目的を定めましょう
・精進力…たゆまず怠らず励みましょう
・念力…要点をぶれさせないようにしましょう
・定(ジョウ)力…心身を調えましょう
・慧(エ)力…智慧の限りを尽くしましょう


「今日は、自分の我がままを矯正しよう」
「今日は、タバコをやめられるように願いをかけよう」
「今日は、おふくろの供養をしよう」
 そして、五力を胸にご来山されれば、声明はしみじみと心にに届くことでしょう。
 ああ、み仏方にお守りいただいているという実感を持てるかも知れません。
 太鼓と共に唱えられるお経は、魂を揺さぶることでしょう。
 ご自身も力のみなぎる思いをされるかも知れません。
 ──その時、「お経の意味がわからない」といった形で不満や批判が起こることはないものと思われます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
07.23

「脱『檀家』宣言」から3年が経過して

 平成22年7月21日、河北新報へ「脱『檀家』宣言」が掲載されてから、3年が経過しました。
 寺院にご先祖様を頼んでいるという意味の檀家にとらわれず、寺院の理念や活動へ賛同するという自主的判断によって寺院へ足をはこんだり、寺院を支えたりする純粋なサポーターによる「ゆかりびとの会」も、順調な活動を続けています。
 会員の方々は、毎月、定期的に届く機関紙「ゆかり人」を読み、学び、行事予定を知り、余剰資金で寺院の経営を支え、御幕や手水場や「みやぎ四国八十八か所巡り道場」のお堂などを造ってきました。
 また、草刈り奉仕やお花見や芋煮会なども行ってきました。
 役員の方々は毎月一度、必ず定期的に役員会を開催し、寺院の活動の柱となってきました。

 そもそも、寺院は、聖職者が行う修法による法施(ホウセ)と、サポーター(真の檀信徒)さん方による財施(ザイセ)とによって成り立っています。
 サポーターさん方は、寺院で行われる修法による救いを信じてモノや労力を捧げ、寺院を信頼しています。
 寺院は、サポーターさん方によるご助力を信じて修法に励み、信徒さん方を信頼してます。
 互いに信頼し合えるのは、ご本尊様がおられるからです。
 そして、ご本尊様は、いかなる仏神を信じる方をも排除せず、見守っていてくださいます。
 だから、サポーターの方々はあらゆる宗派にわたり、無宗教の方などもおられます。

 今、法楽寺は、「人が生きる」という原点に立ち、人が真に自立し、信頼し合う人々が支え合って生きるということを実感としてつかむ道の一つとして『法楽農園』の聖地化を目ざしています。
 自分たちで作り、自分たちで分け合う米も野菜も、他の生きものの生活を許さない農薬や土の力を抑制する化学肥料を用いず、自然からの〈恵み〉として与えられるものです。
 恵みを施す空間には、お地蔵様や守本尊様が祀られ、お見守りいただいているという真実を感じることができます。
 完成した『法楽農園』へ足をはこばれれば、私たちのいのちは大自然の中のどこにあるか、インスピレーションとして把握できることでしょう。
 また、土の力、生きものたちの息吹、そしてみ仏方のご加護も感得できることでしょう。
 
 サポーターの方々、また、新たな「摩利支天(マリシテン)ネット」を通じてのご縁の方々、そして当山へ関心を持つあらゆる方々と共にまごころのをつくり、次のステップを目ざしてゆきます。
 このは、誰かを騙そうとしたり、自分だけが儲けようとしたりする欺瞞や悪意を含むただのネットではありません。
 真実を求め、自他の救いを求め、誰かのためになりたい人、つまり菩薩道(ボサツドウ)を歩む人々によるです。
 このには、よりよき未来をめざす祈りが込められています。
 必ずや仏神のご加護があることでしょう。




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2013
07.23

おかげさまで草刈りが終わりました

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 7月21日、雨も降らず、気温23度ほどの中で無事、草刈りを終えました。
 今回は、講堂や墓地などがある兎野の境内地だけでなく、『みやぎ四国八十八か所巡り道場』及び『法楽農園』もあり、三班に分かれての作業となりました。
ゆかりびとの会』の方々をはじめ、皆さん、笑顔で集結し、2時間以上に及ぶ作業を淡々とこなされました。
 毎年のことながら、本当に頭が下がります。
 蒸し暑い時期の労働奉仕、それも、ご年配の方々が多く、それぞれに身体のあちこちに不調を抱えながら和気藹々としておられるお姿にはただただ、合掌するしかありません。
 
 しかし、角皆美代子氏のこんな句も思い出されます。
「夏草の匂ひ残して刈られけり」
 何と端的で、余韻の残る句でしょう。
 倒れる草は無常なる存在そのものです。
 刈る人間はその時、無情であり非情でもありますが、罪悪感や悔悟の念や詫びたい思いを禁じ得ず、それは草の匂いに重なりつつ尾を曳いて、なかなか消え去りません。
 そして、濃い緑色に光り、植物として生きていることを示す香りを残して刈られる草も、刈るしかない人間も皆、いのちの饗宴となっている夏のど真ん中にいます。

 一仕事終えた皆さんは三々五々、講堂前に集まられ、ご本尊様へ供えられたお菓子や飲みものや、ゆかりびとの会で用意した飲みもの、あるいは参加された方が手作りされた珍しい「がんづき」などをいただきました。
 共に汗を流し(私は他の法務であまり汗を流さず申しわけありません)、晴れた心で飲食を共に出来るのはまことにありがたいことです。
 涼しい風が吹き、くすんだ心のない方々の間に流れる心の風も、実に爽やかでした。
 仏法と寺院を信じ、守る人々すべてが僧法(ソウボウ…僧侶という宝もの)であり、僧とは「和合衆(ワゴウシュウ…和合する人々)」であるという真姿が輝いた尊い時間でした。




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2013
07.22

お塔婆は心の便り

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 萬福寺(栃木市)住職長澤弘隆師は、『真言宗檀信徒のよろこび』に記されました。

「お塔婆は心の便り、心を込めて、今は無き人のもとへ、届けましょう。」


 お塔婆へ思いを込めて捧げることは、大切な人へお便りを届けるのと同じであるというのです。

 最近、遠方におられるお孫さんから亡きおじいちゃんに宛てたお塔婆のご依頼があり、添え書きがついていました。
 ご了解を得られたので掲載します。

「おじいちゃん、あまりお墓参りに行けなくてごめんね。
 今年のお盆も仕事で帰れません。
 お父さんとお母さんはいつもと変わらずお盆の飾りを作ってやってくれますが、私も塔婆を贈ります。
 涼しくなるころにおみやげを持ってお参りにいきますよ。
 待っていてくださいね。」


 お塔婆の前面に梵字で書かれた「地・水・火・風・空」には、目に見える世界の徳をすべて捧げようとする心が表れています。
 裏面に梵字で書かれた「識」には、目に見えない世界の徳をすべて捧げようとする心が表れています。

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 また、お塔婆の形は、み仏の形を表してもいます。
 一番下に四角があり、一番上に宝珠形がある様子は人が瞑想をしている姿を象徴しており、それはそのまま、み仏のお姿だからです。
 四角は足を組んでいるところ、丸は院を結んだお腹のあたり、三角は胸や首、逆さの半円は頭の下半分、宝珠は頭の上半分です。
 お塔婆は、この下に長い台をつけた形です。
 澤弘隆師はこうも説かれました。

「お塔婆をあげるということは、仏像を一体刻んで供養するという意味ですから、たいへん大事なことです。
 地方では施主のみ塔婆をあげる習慣がありますが、故人にお世話になった方は特に心がけて風習などにとらわれず、ご法事の時はお塔婆をあげるべきです。
 何年に一度の報恩感謝の機会を見逃すのは後で後悔するか、結局自分に感謝の念が薄いからなのですから。」


 気持があればそれでよい、という考え方もありますが、せっかく目も耳も持っている私たちは、形あるものや声なども積極的に用いるべきではないでしょうか。
 そうでなければ宝の持ち腐れになってしまいます。

 ところで、お塔婆の流通に異変が起きています。
 木材輸入業者さんからお聴きしたところによれば、お塔婆用として用いられる資材の一部が、極端な品不足になりつつあるのだそうです。
 その原因は、中国で急速に増えている富裕層が豊かであることの象徴としてこぞってピアノを購入するため、カナダやアラスカなどで中国人による木材の買い占めが横行しているからです。
 全体的にはたいした量でもないお塔婆用の木材でさえ入手に四苦八苦とは驚いた状況です。

 今や貴重なお塔婆です。
 こうした象徴を用いて心を表現するのは、人間でなければ決してできない人間が人間たるゆえんに関わる尊い行為です。
 お盆にはお塔婆に心を込め、み仏の世界へ入られた大切な方々へお便りを出したいものです。




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2013
07.21

芯をつかむ ─心が豊になり周囲から一目おかれる人になる方法─

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 よく「話し上手より聞き上手」と言われます。
 なぜでしょうか?

 ちょっと考えると、うまくお話できる人の方が断然、得かなという気がします。
 臆せず前へ出て自分の意見を述べ、知識が豊富である、あるいは思慮深い人であると認められれば、尊敬され、出世もできそうです。
 それに比べて、皆といる時に、半歩退ってじっと聴いてばかりいるような人は、目立たず、主役にもなれず、あまり評価されないように思えます。
 実際はどうでしょうか?

 結論を先に言えば、その人の〈人間としての力〉は、何を言うかではなく、何をしているかにかかっており、人をよく観る人は、聞く言葉よりも、見える行動でこそ相手の人となりを判断するので、人間としての評価は、言葉が巧みであるかどうかとあまり関係がありません。
 うまくしゃべるだけなら、第一に詐欺師、第二におかしなセミナーの講師や教団の教祖、第三におかしな弁護士や政治家などが挙げられそうです。
 彼らはいつでも、どこでも、主役になって人々を丸め込もうと躍起になりますが、人を観る眼がある人からは、すぐに見破られます。
 一方、自分の〈分際〉をわきまえて黙々と役割をこなす人は、周囲から一目おかれるだけでなく、精進の力でいつしか周囲の人々を感化してもいるものです。
 また、複数の人がいる〈場〉の雰囲気や人間関係を察知してから話す人は、どこでも決して嫌がられません。

 では、なぜ、私たちは、聞き上手になろうとするよりも話し上手になろうとするのでしょうか?
 それは、私たちには自己顕示欲があり、どうしても下心(シタゴコロ)がはたらくからです。
 論語は、「巧言(コウゲン)令色(レイショク)鮮(スクナ)し仁(ジン)」と説きました。
 (口先巧みに相手の顔色をうかがいながら自分の顔つきも変えて話すような人は、真の向上心も思いやりも少ないものである)
 高校へ行けば誰でも習う短い文章ですが、人の心理と卑しさを巧みに指摘して余すところがありません。
 そして、話すだけなら誰にでもでき、強く話せば自分が主役になれるので、常々、鬱憤(ウップン)を抱えているような人が、思わぬ場で、期待されていなかった活躍をする場合があります。 
 地域の問題などを話し合う時、ほとんどの人が賛成なのに突然、あまり意味のなさそうな反対意見を強硬に述べたり、議論のゆくえからずれた個人的見解を持ち出したりして時間を引き延ばしてしまうのです。

 こうした心理で生きていると、周囲に起こるできごとや、人々の言動からすなおに学ぶことが難しくなります。
 それでは、人間として向上するきっかけをつかみ損ない、周囲の人々から信頼も得られません。

 もしも、「あっ、私はこのタイプだ」と思い当たり、どうにかしようとするならば、克服する方法があります。
 それは、できるだけ好き嫌いを少なくする努力をすることです。
 特に〈嫌い〉を減らしてみましょう。
 落ちついてふり返ってみると、人であれ、食べものであれ、「私は~さんが嫌い」「自分は~がダメ」と判を押し、~さんは傲慢だから、あるいは、~は臭味が強いから、などと、もっともらしい理由をつけても、ほとんどの場合、まず「嫌い」があり、理由は後からついてくるものです。
 それは、誰かを好きになった時に理由は後からついてくるのと同じです。
 だから、理由は脇へ置き(アレルギーなどの物理的現象は別)、自分の心にある嫌う気持をよく眺めてみると、自分勝手にそう思っているだけであることに気づかれることでしょう。
 それが、誰かを遠ざけ、何かを遠ざけ、自分を縛り、嫌う心と一緒に(ガ)を強め、百害あって一利ない状態をつくり出しているのです。
 具体的に想像してみましょう。
 たとえば、何人かで餃子パーティーをしようと盛り上がった時、一人が「私は餃子ダメなの!」と反対してしまえば場の雰囲気が壊れ、その一人は〈やや問題ある人物〉と見なされます。
 そして、こうした場合に、自分の好き嫌いを通して〈自分は自分〉と自分を守ったような気がしても、実は、を強めるだけで、幻の自分を守れない状況になった時には一気に崩れる危険性を高め、人間関係を狭めているのです。
 東日本大震災のおり、避難所で、思わぬ人が「赤ん坊の泣き声がうるさい」と言いだし、周囲のひんしゅくをかっただけでなく、若い父親と母親を別々の避難所で暮らさせる結果になってしまったと聞きました。

 嫌い、気に入らない、などに引きずられなければどうなるか。
 不満が薄くなり、心が軽やかになり、明るくなり、怒りっぽくなくなり、結果的に、(ガ)もだんだん引っ込みます。
 結果的に、周囲に起こるできごとへ反応する心がすなおに、無色で、フラットになります。
 結果的に、人やできごとの〈芯をつかめる〉ようになります。
「あっ、この運転手さんは思いやりのある人だ。凄いなあ」
「あっ、この介護士さんは仏様のような人だ。凄いなあ」
 結果的に、軽々に運転手さんを軽蔑したり、介護士さんを批判したりできなくなります。
 心の眼がよく観えるようになり、心の耳がよく聴こえるようになり、軽々に前へ出られなくなります。
 ただ、見過ごすのではなく、よく観ること。
 ただ、聞き流すのではなく、よく聴くこと。
 そうすれば、いつしか、聞き上手になっているはずです。

 野球やゴルフの選手は、よく言います。
「芯を食ったスイングだった」
「芯を外したからなあ」
 芯を食うとは、球の中心をバットやクラブがきちんとつかむという意味です。
 できごとや人を前にして、最も大切なのは、その芯をつかむことではないでしょうか?
 そのためには焦らないようにしましょう。
 熱心過ぎるばかりに、前へ出ないではいられないタイプの人も、ちょっと深呼吸して、誰が何をしてどうなっているのか、場をよく眺めましょう。
 観ましょう。
 聴きましょう。
 そうすれば、できごとの本質が顕わになり、人となりが明らかになり、〈的を射た〉対応ができ、信頼も得られることでしょう。
 なお、「的を射た」という場合の「的」は、正鵠(セイコク…的のど真ん中)を意味しているので「的を得た」と言っても誤りではありません。
 的のど真ん中は芯です。
 芯をつかむようにしたいものです。
 



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2013
07.20

人間の尊厳はどこに? ─洟をたらした神─

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 中国における景気の減速が世界の経済へ深刻な影響を与えるかも知れないという予測が流れています。
 NHKテレビの『クローズアップ現代』が報じた中国オルドス地方のゴーストタウンは、私たちの近未来を暗示するに十分な荒廃ぶりでした。
 生活感がほとんど感じられない茶色のマンション群と、工事が中断したままの現場を背景に、経営者らしき中年の男性が無表情で語る短い言葉は、ここで何が行われてきたかを物語っています。
「お金がないからもう、続けられない」
 マンション群は、人々が必要とするから造られたのではなく、国からお金が与えられたので、業者がそれを増やすために造られたのであり、お金が流れてこなくなれば、工事は止まるだけなのです。

 また、アメリカで大量に印刷されたドルが国際金融資本の手によってブラジルなどへ流れたために、それらの国々は一時的な好景気に沸きましたが、景気が曲がり角に来たと察するや、資本家は一斉にお金を引き上げ始め、どこの国でも生活できない人々が溢れ、デモが頻発しています。
 各国の政権は国民の生活の維持と権力の保持に必死ですが、あったお金がなくなった状態で国民の欲求を満たすのは難しく、どこの国でも政権は不安定になっています。

 お金がばらまかれて景気がよくなるのは、お酒を飲んで威勢がよくなるのと似てはいないでしょうか?
 酔っている間は気分が高揚し、このまま明るい未来へ入って行けそうな気がしますが、それは錯覚です。
 酔いが醒めてしまえば、厳しい現実に気づくだけでなく、酔った悪影響を引きずる苦しい時間を我慢せねばなりません。
 それどころか、酒が過ぎれば未来を根元から崩壊させてしまうかも知れません。

 私たちは、お金を道具としてきちんと使いこなしているのでしょうか?
 お金に使われてはいないでしょうか?
 また、私たちの生活そのものが巨大なお金によって操られてはいないでしょうか?

 吉野せいの作品に『洟をたらした神』があります。
 明治32年(1899年)に福島県小名浜の網元に生まれた吉野せいは、いわき市好間町で寺院から土地を借りて開墾していた詩人の三野混沌(本名:吉野義也)に嫁ぎます。
 嫁入り道具は行李一つ、机一つ、タライ一つだけです。
 極貧の生活の中で娘を失い、長男を戦争へ出征させたりします。
「愛の夢も、けたはずれの貧しさの前にとぎれとぎれであった」
 しかし、夫婦は、混沌がつくった詩の一節を口ずさみつつ、艱難辛苦を乗り越えました。

「天日(テンジツ)燦(サン)として焼くが如し、出(イ)でて働かざるべからず」


(陽光は厳しく、しかし、いのちを育てる強い力で照りつけている。さあ、野へ出て、はたらこうではないか)
 吉野せいは、たくさんの子供たちを育て上げ、夫を送った後、昭和49年(1974年)、草野心平に勧められてこの本を発表します。
 数々の賞を受けた小説もさることながら、昭和53年(1978年)に作られた映画も出色のできばえです。

 人は自然に、貧しさに、国策に翻弄されます。
 地震や津波や酷暑や豪雨など猛威をふるう自然、世界を股にかけ自己の利益のみを求め続ける国際金融資本、切実に必要とするところへなかなか手が届かない政治。
 しかし、人は、頭(コウベ)を立て、眦(マナジリ)を上げ、大地に足を踏みしめていれば、尊厳を失わずに生き抜くことができます。
 小名浜の女性といわきの男性がまことを尽くして生きた姿は、私たちに尊厳を思い出させ、勇気を与えます。
 現代の世相に憤懣や疑問や失望を抱いた場合は、ぜひ『洟をたらした神』をお読みください。
 共に、映画も観たいものです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2013
07.19

蜂と神様 ─いじめやネットの暴力をなくすために─

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 金子みすずに『蜂と神様』という有名な詩があります。

「蜂はお花の中に

 お花はお庭の中に お庭は土塀の中に

 土塀は町の中に 町は日本の中に

 日本は世界の中に 世界は神様の中に

 そうして そうして 神様は

 小ちゃな蜂の中に」


 この詩がもたらす想像力の流れは、月輪観(ガチリンカン)という瞑想法の成り行きそのままです。
 瞑想法ではまず、月をご本尊様として正面野掛け軸などへお迎えし、それを胸中にいただいてから、徐々に大きくます。
 身体いっぱいに、部屋いっぱいに、家いっぱいに、町いっぱいに、日本いっぱいに、地球いっぱいに、宇宙いっぱいになった満月と自分は一体です。
 それは同時に、大日如来と一体になることでもあります。
 十分にその境地へ入ったならば、今度は、満月を徐々に小さくしてゆき、胸中から掛け軸へお還しし、十分に礼を尽くして終わりになります。
 こうして、自分とこの世あるいは生きとし生けるものすべて、そしてご本尊様が一体であるという真実を体験することにより、智慧と心の勘違いを修正します。
 智慧の勘違いとは、すべてが因縁によって仮に生じているだけであるという空(クウ)を忘れた勝手な考え方をし、執着してしまうことです。
 心の勘違いとは、生きとし生けるものすべてが互いのためになり合い、互いに依存し合うことによっていのちを保っているという真実を忘れ、自己中心になってしまうことです。
 月輪観による〈体験〉のくり返しは知らぬ間に、確実に、そうした勘違いから離れさせます。

 この詩は、宗教でなく芸術の世界で、世界は一体であり、すべてに尊いものが潜んでいるという真実をかいま見せてくれます。
 子供であっても流れに添った想像力がはたらけば、必ずや、気まま心を離れる効果があることでしょう。
 そうした体験は、いじめや、軽薄で無責任な他者への攻撃といった愚かしい行動へ走らせる気ままで粗雑で無慈悲な心を抑制します。
 心は一本の糸であり、それを構成する点が尊いものであるならば、同時に邪な点が存在することはあり得ないからです。

 いじめをなくし、ネットでの蛮行をなくす根本的な方法は一つしかありません。
 それは、子供のうちに、まっとうな心を育てることです。
 いじめようと〈考えられない〉知性と、いじめるこの〈できない〉思いやりとが育てば、悪心は繁茂できません。
 悪心を繁茂させているからこそ、知性と思いやりにかけた人ができてしまうのです。
 育った悪心を叩いたり、罰したり、閉じ込めようとするのはあくまでも対処療法であり、しかもなかなか根絶療法にはなり得ません。
 何よりも大切なのは予防法の実践であり、それは、人の道を教え、人の道を感じさせ、まっとうな心が育つように導くことです。

 この詩は、そのための有力な道具となってくれるにちがいありません。
 まず、教える大人が、この詩の世界へ入り、血肉になった言葉によって子供たちを導きたいものです。




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2013
07.19

蝉しぐれ子は担送車に追ひつけず ─幼子を置いて逝く母親の諦観─

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 は人間と人間を引き裂くが、その現場に先んじるかのように、心がスッと向こうへ行ってしまう達人もおられる。

 明治42年(1909年)生まれで36才の石橋秀野が昭和22年(1947年)に遺した絶筆である。

蝉しぐれ子は担送車に追ひつけず」


 困窮の疎開生活が招いた結核の悪化により、京都の国立療養所へ入り、ストレッチャーで隔離病棟へ運ばれてゆく光景を詠んだ。
 子は、6才の安見子(ヤスミコ)である。

 もう会えないと察した娘は「お母さん」と叫びながら追いかけようとする。
 ストレッチャーを押す看護婦たちは、振り切るように急ぎ足となる。
 きっと、誰かが娘を押し止めようともしたことだろう。
 天井を見たままの母にはどうしようもない。
  
 この誰しもが胸の張り裂けそうになる空間を切り取り、文字として永遠の次元に昇華させる魂があった。
 それがへ向かう当事者であるとは、まるで幽体離脱しているかのような感がある。

 暑い京都だがエアコンなどのない時代ゆえ、涼しい風が入るように廊下の窓は開けてあり、風と光と天地へ広がる蝉たちの声がたっぷりと入ってくる。
 その氾濫の中で、娘の声も足音も気持も、たちまちに遠ざかり、眼はつむったままで涙を流し、耳はただ、蝉しぐれだけを聴いている。
 そして、この句を詠んだ。
 仲間は追悼の言葉を述べた。

「生きながら俳諧の鬼女と化した」


 ところで、安見子は『万葉集』にある藤原鎌足の一首からもらったのだろう。

「われはもや 安見子得たり みな人の 得がてにすといふ 安見子得たり」


(私はもう、安見子を妻に迎えた。誰しもが欲しいけれど得がたいと思っていた、その安見子を妻としたのだ)
 安見は、天皇(スメロギ)や大君(オオキミ)にかかる枕詞(マクラコトバ)で、「安見知る」と用いられ、天皇が安らかな心で国を治め、その安らかな心によって国民もまた安らかに過ごすという意味がある。

「やすみしるわが天皇の御代(ミヨ)にこそさか井の村の色も澄みけれ」


 現在は、安見子という命名はほとんどないのではなかろうか。
 あるとしたら、「安見(アミ)」さんではないか。
 しかし、たとえば、碧子(ミドリコ)さんという方もおられるように、以前は、よく女の子に「子」をつけた。

 秀野が安見子と名づけた時の思い、そして、診療所での別れ……。
 抗いようのない非情な現場にはさまざまな感情が渦を巻いていたはずなのに、幾度読んでも、この句からは激情ではなく〈振り切ってしまった〉透明な境地が感じられる。
 きっと、そこが「鬼女」たるゆえんなのだろう。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
07.18

【現代の偉人伝】第176話 ─刃物男を取り押さえた高校球児佐藤和哉君(17才)─

201307150212.jpg

 各種報道機関が発表したところによれば、7月16日、青森市合浦の合浦公園駐車場で、近所に住む女性(66才)が、待ち伏せしていた親戚の無職渡辺勇容疑者(73才)に刃物で切りつけられた際、近くで目撃した青森山田高3年で野球部員佐藤和哉君(17才)が救ったという。
 他の部員たちと誘導作業をしていた同君は、女性の叫び声を聞いて現場へ駆けつけたところ、車の陰で首に刃物を突きつけている容疑者を見かけ、「女性が危ない」ととっさに体当たりし、同校教諭と共に取り押さえた。

「人の役に立てて良かった。
 自分の命の危険もあったと後になって気付いたが、無我夢中で必死だった」


 女性は首と手に全治2週間ほどの傷を負っただけで済んだ。

 こうした出来事はほぼ一瞬であり、同君以外の人々にはすぐに忘れ去られるかも知れないが、印象は人知れず残り、目に見えないところで人生に関わったりする場合がある。
 東大付属病院の矢作直樹医師は著書『人は死なない』で、亡父について書いている。
 小学校入学前の医師は、父親と一緒に電車のホームにいた。

「駅のすぐ手前のトンネルの出口に電車の前照灯が見えてきたとき、突然突風が吹いて目の前にいた女の子の帽子が飛ばされ、線路の上に落ちてしまいました。
 泣きそうになっている女の子がかわいそうでしたが、どうすることもできない。
『ああ、帽子が轢かれてしまう』と思ったその瞬間、私の横から誰かが線路に飛び降りたのです。
 電車はもうそこまで来ていて、警笛を必死で鳴らしている運転手の引きつった顔が見えました。
 ハッとして見たら、なんとそれは父だった。
 危ないと思ったその瞬間、帽子を拾い上げた父は義経の八艘飛びよろしくヒラリとホームに飛び上がりました。
 轟音を響かせて滑り込んで来た電車を尻目に、父は軽く帽子の埃をはたいて何事もなかったかのように女の子に渡すと、呆気にとられて見ている大勢の乗客には目もくれず、悠然と私の手を引いてその電車に乗り込みました。」


 そんな父親は「若い頃には給料の大部分を飲み代に使って母を困らせていた」が、病院嫌いで「蘇生を希望せず」献体された。

 登山で生と死の境を二度体験し、救急医療に携わってきた医師は、同著の最後で述べる。

「人の一生は一瞬の夢にも似た儚く短いものです。
 だからこそ、人は現世に執着するのかも知れません。
 愛する人の死を悼み、自分の死を怖れる。
 その気持はよくわかります。
 しかし摂理、霊魂の永遠に思いを重ねつつ、今に没頭すれば、肉体の死を恐れることなく勇気を持って生きることができるのではないかと私は思います。」
「人はみな理性と直感のバランスをとり、自分が生かされていることを謙虚に自覚し、良心の声に耳を傾け、足を知り、心身を労り、利他行をし、今を一所懸命に生きられたらと私は思っています。
 そして『死』を冷静に見つめ穏やかな気持ちでそれを迎え、『生』をまっとうしたいものです。」


 ここへたどりついた医師の生きざまに、見知らぬ女の子のために線路へ飛び降りた父親の気配を感じてならない。

 佐藤和哉君はきっと、肝心な場面では、逃げずに正面からことへ立ち向かうのだろう。
 同君の人生には決然とした姿勢が伴うことだろう。
 その姿勢は今、すでに私の背筋を伸ばしてくれている。
 その姿勢は今後、周囲にいる人々の背筋に関わるだけでなく、矢作直樹医師が父親の気配をまとっておられるように、後代へまでもよい影響力を保つことだろう。




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2013
07.17

傷ついた日本人へ(その18) ─行いと人を分けて許す。自分を許す─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 皆さんと一緒に、要点を考えてみましょう。

「人と接する際には『実際の言動と本人の意志を』切り離して考える」ということも大切です。」


 お釈迦様のような悟りを開いていない私たちは、必ず失敗をやらかします。
 もしも、一度失敗した時に「あなたはダメな人です」と烙印を押されるならば、私たちは誰一人、陽の当たる大道を歩み続けられはせず、皆、まっとうな人生を送られないことでしょう。

「私たちはつい行為と人間を直接結びつけてしまい、相手の人格を否定したり、怒りから実体のない人格を創りだしてしまいがちです。」


 ちょっとした交友のもつれから、いじめが始まり、やがては殺人や自死にまで行き着きます。
 それは、〈人そのものを責める〉という思慮のなさがもたらす悲しい結果です。
 人そのものを否定するならば、許しはどこにもなくなるではありませんか。
 許さない錐のように尖った心に刺され続ければ、刺される人がだんだん耐えられなくなるだけでなく、刺す人の心もまた、どこまでも無慈悲になり、両者に救いはなくなります。

「もし行為に問題がある場合、純粋にそれだけに焦点をあてて、過ちや間違いを追究すべきです。
 行為だけを問題にすることで、情に流されることなく、厳しく処することができます。
 一方、行為のみを追究することは、すなわちその人自身を許すことにつながるのです。
 これこそが本当の愛や慈悲のあり方だといえるでしょう。」


 間違いが起こった場合、間違いは〈その人〉だけに起こったのではありません。
 人間に起こったのであり、その人間がもしかすると〈その人〉でなく〈私〉だったとしても、何の不思議もないではありませんか。
 私たちは、痴情がからんだ事件をテレビの画面でのんびりと眺めていますが、自分や伴侶や恋人や家族がふとしたきっかけからおかしな行動に走れば、生活はたちまち一変し、激情が画面に似た光景を生み出しかねません。
 そうなるかならないかは、紙一重でしかないという想像力が必要です。
 そもそも、私たちは誰一人、死から逃れられないのに、多くの人はそれを忘れているように見受けられます。
 江戸時代の狂歌師大田南畝(オオタナンポ)は、こう詠んで去りました。
「今までは 人のことだと 思ふたに 俺が死ぬとは こいつはたまらん」
 もちろん、大田南畝が死を迎えてあたふたしたのではなく、諧謔(カイギャク…上品なしゃれ)の表れですが、私には忘れられない一首です。
 死が自分のそばにいるように、誰かに起こった間違いもまた自分のそばにあると考えれば、間違いを真剣に考えざるを得なくなり、それは、結果的に、自分が間違いから限りなく遠ざかることにもつながります。
 間違いを起こした〈その人〉を向こう側に置いて叩き、つまらぬうっぷん晴らしをするよりも、こうして、皆が間違いから遠ざかることこそが、最も大切なのではないでしょうか。
 自分に置き換えるところに「愛や慈悲」が生まれ、お互いがそれを持てば、万が一、過ちを犯した時に誰しもが救われ得る社会になるのではないでしょうか。

 私たちの人生は悲喜こもごもです。
「あんなに一生懸命やったのに、なぜ、こんなことになってしまうのか……」
「失敗したとばかり思っていたのに、こんなことになるなんて……」
 このように意志と結果がずれる人生で、目先の結果ばかりを追っていれば、いつも心は休まらず、他人を思いやる余裕がなく、我(ガ)を強めつつ角張った生き方をするようになりがちです。
 だから、お釈迦様は、「善き心で生きよ」と説かれました。
 善き心で生きようとしていれば、いつしか、結果に右往左往しない心の柱が打ち立てられているものです。
 また、お釈迦様は、「善き心には必ず善き報いが来る」と説かれました。
 因果応報を信じて、善き行いを実践していれば、いかなる状況になっても怖れることはありません。
 いつか必ず善き報いが来るに決まっているし、確信を持って善き行いを実践していれば、すでに、不安のない救いを生きているからです。

 ダライ・ラマ法王は、原発事故が起こり、自責の念に悩む方々へ説かれました。 

「大事なのは心の動機です。
 たとえ自分の意図していないことが発生してしまっても、必要以上に悩みを抱えることはありません。」


 悪意や故意がなかったのならば、事実を事実としてどこまでも検証し研究することが大切です。
 日本中の人々へ迷惑をかけたと悩む方は「相手の悩みや苦しみを我がこととして受け止めていらっしゃる」「非情に優しい方」であり、ぜひ、「自分のことを許してあげて欲しい」とまで言われました。

 私たちは、原発関係の方々を責めるに急な割には、速やかな検証を求める力がやや足りないように思われてなりません。
 原発事故そのものと、原発に関わって来られた方々個人個人とを峻別しつつ、事故の徹底検証を求めようではありませんか。




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2013
07.16

『茨城ゴールデンゴールズ』を解散した萩本欽一氏のこと

20130715020.jpg

 7月16日、古い『現代の偉人伝』を整理していて鳥肌が立ちました。
 7年前の同日、萩本欽一氏がつくった社会人野球の球団『茨城ゴールデンゴールズ』に所属する芸人が婦女暴行事件を起こし、きっぱりと球団を解散した氏について書いていたのです。
 芸人山本圭一選手が、遠征先の函館市で未成年の女性4人と飲酒の上、一人に性的暴行を加えたとされ、雇用主の吉本興業がただちに解雇したのは当然として、球団の解散とはあまりに潔すぎると思われました。
 球団は、大好きな野球を通じてファンとの交流を深めるべく、氏が心血を注いで育てた宝ものだからです。
 しかし、空港で取材を受けた氏は、足を震わせながら、解散宣言をしたのです。
 当時の文章を一部、再掲しておきます。

『ニッカンスポーツ』を引用し、言葉を書きとめておきたい。

「事が大きいのでどう考えていいのか。でもやめる以外考えられない。応援してくれた方には申し訳ないけど、やっぱり相手の方にも失礼だし、それに一番野球に対して失礼しちゃったんだから」
「吉本さんの判断を聞いて、オレがいけないんだって思ったの。今後やると言いっても、やめると言っても迷惑が掛かる。私が始めた野球…。ごめんなさい」

 選手の管理不行き届きについて尋ねられた。

「そうですね。楽しい野球なのに、つらい目に遭わせちゃったよ」

 山本へ言いたい一言。

「球団、なくなっちゃったよ」

 監督はこうも言っている。

「99%バカって言いたいけど、あー、分かんねえ。どうしてあげることもできないから。一緒に謝るしかない」

 夢列車と言ってはばからない生涯をかけた夢を捨てさせられながら、「どうしてあげることもできないから。一緒に謝るしかない」というせりふは、万人に一人も口にできないのではなかろうか。

「僕には責任がある。山本が反省して、どっかで仕事をやるまで責任がある」

 監督は事件に関する間接的な被害者と見ることすらできる状況で、自らの責任をとったばかりでなく、夢を壊した張本人に対して指導者としての責任をこれからもまっとうして行くと言う。

「今は『ごめん』と『ありがとう』だけです」

 一切言い訳をせずに責任をとり、謝罪し、これまで支えてくださった人々へお礼を言って去る、こんな日本人がまだ、いたのである。
 事件を起こした者にはこれからの反省を促しても、自分は「反省しています」で逃げようとせず、きっぱりと責任をとった。
 夢をかける以上、自ら汗を流し、たくさんの人々に支えられている人間であることを深く自覚している『自己尊敬』、指導を受けている人間の起こした不祥事の責めを自ら受ける『自己責任』、そして、ただちに潔く生涯の夢すら捨て去る『自己犠牲』、いずれも武士道の精神そのものである。
 球団をやめないで欲しいと訴える子どもたちへ、大人たちは彼の精神の尊さを教えたいものである。
 彼は、自らを捨てて最高の教材となってくれた。
茨城ゴールデンゴールズ』に目を輝かせていた子どもたちに、彼の心をこそ嗣いでもらいたい。
 最近、高い学歴、高い地位、高い収入、こうした人々がいざという時に見せ続けている卑劣・卑怯・脆弱・怯懦といった醜いものを、彼の涙は清め尽すかのようである。
 萩本欽一氏が「最後の武士」とならぬよう、心から願ってやまない。





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2013
07.16

安心と喜びと ─ある島のきつね─

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〈世界文化社『浜田広介童話集』からお借りして加工しました〉

 浜田広介の童話に『ある島のきつね』があります。

 小さな島の丘の斜面にお寺がありました。
 真っ赤な椿が咲き、海上には銀のように輝くいくつかの帆が動くともなく動いています。
 お堂への出入りを黙認されているキツネが、今日も住職の留守を見計らってご本尊様の前にお供えされたまんじゅうを二個食べました。
 そこへ目が見えず、耳も遠いお婆さんが杖をついてやってきました。
 お爺さんの命日なのです。
 お布施を差し出してお経を所望するので、キツネは、「きょうはおいでになりません」と教えますが、「こんこん、こんこん」としか言えず、しかもお婆さんは、自分の相手をしているのが住職だとばかり思っています。
 そこで、キツネは「おしょうまになってあげよう」と決心します。
 しかし、袈裟と衣をつけたものの、キツネは落ちつきません。

「だれかが見てはいないかと、きつねは、そこらを見まわしました。
 うすぐらいお寺のなかにいるものは、すぐうしろにいるおばあさんと、じぶんだけでありました。
 きつねは、えんからそとを見ました。
 そこには、あかるい昼の光が、ただひっそりと、さしていました。」


 鐘と木魚を叩き、何かを唱えようとしても、きつねに生まれたので鳴くしかありません。

「ぽっぽこ、ぽっぽこ、こんこんこん、ぽっっぽこ、こんこん……。」


 ちらっと後を見ると、お婆さんは「じゅずをしきりにまさぐりながら、いっしんにおがんで」います。
 キツネはすっかり嬉しくなりますが、食べ残しのまんじゅうが目の前にあり、内心ではこんなことを考えています。

「もう少し、となえてやめよう。
 それから、あれをたべるとしよう。」


「仏だんのましょうめんには、おしゃかさまの、とうといお像が立っていました。
 とうといお像は、にっこりと、しずかな笑いをかおにうかべて、きつねのしわざを見ているようにみえました。
 けれどもきつねは、それに気がつきませんでした。
 きつねの目にはただ、さらのまんじゅうだけがみえました。」


 やがて、キツネは鳴きやみ、お婆さんは「ありがとうござりました。おしょうさま、それでは、ごめんくださいまし」と帰ります。
 キツネもまんじゅうをくわえて出て行きます。

「お寺のえんは、なにごともなかったかのように、もとのようになりました。
 まっかなつばきは、のんびりとさいていました。
 青ぐろい葉は、つやつやと、あぶらのようにひかっていました。
 そして、青い海の上には、いくつかの帆が銀のように、まだ、かがやいて見えました。」


 ここには、お婆さんの信じる心と、キツネの善意しかありません。
 しかし、それでお婆さんもキツネも満たされます。
 すべては、ご本尊様の静かな微笑みに包まれています。

 私たちは、よきものを素直によいと信じ、続けているでしょうか?
 私たちは、誰かのためにと思い、行動しているでしょうか?
 盲信は危険ですが、考えすぎると何も信じられず、供養などの尊いものが失われます。
 我(ガ)が前に出ると、自分の得にならないものごとは面倒になり、見て見ぬ振りをしたくなり、徳ある行動から離れます。
 尊いものを失い、徳積みをしなくとも、人は生きられます。
 しかし、それではどうでしょう。
 このお婆さんの安心も、このキツネの喜びも得られなければ、どうでしょうか?




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2013
07.15

勝田亮弁護士による「立ち直りたい少年たちのために」 ─少年事件を起こした子供たちのために何ができるか─

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 第四十一回寺子屋法楽館』が終わりました。

 講師をお願いした弁護士勝田亮(カツタマコト)先生は、脱サラし、7回目で司法試験に合格されました。
 今とはちがって、法科大学を出ていなければならないとか、何回でチャレンジが打ちきられるなどということはない時代です。
 何と6回目は1点足りなくて不合格、しかも、問題の見間違いが原因で、以後、先生は書面をきちんと見るのはもちろん、相手の話もきちんと聞くように心がけているそうです。
 あきらめずに志を貫けたのは、友人や親や妻のおかげあったればこそと言われます。

 さて、先生が少年問題にとり組み始めたのは、弁護士になりたての頃、非行少年の弁護に関わり、いくつかの問題を知ったからです。

 事件は、少年が侵入窃盗をくり返し、100万円以上ものお金をキャバクラで使い果たしたというものでした。
 先生は、自分の生活空間である家に他人が入ってくればどれだけ嫌であるかわかっているのに、なぜ、たびたび他人の家へ入れたのか、その生活感のなさが何によってもたらされたのか疑問でした。
 また、見つかったらどうなるか想像のつく年令なのに、そうした事態を考えなかったのはどういうことなのかも疑問でした。
 さらに、10代半ばの少年がキャバクラという夜の世界へ入って行くことの不自然さも理解できませんでした。
 こうした問題意識を持って少年と接しているうちに、一生懸命アルバイトして家計を支えていた少年の心がどうして崩壊していったかが見えてきました。
 複雑な家族構成、母親による万引きの強要、義父からの暴力などによって彼は居場所を失い、不良交友が始まったのでした。
 一家の収入は少年のアルバイトのみ、さらに、少年の目の前で万引きをやってみせる母親を見て、「見つかるのではないか」と、少年はとても怖がったという先生の説明には、息を呑む思いでした。

 事件を起こした大人には国選弁護人がつきますが、少年の場合には、国選付添人がつく範囲が限定的です。
 また、大人は刑期が済めば社会復帰できますが、少年の場合は、受け入れ先がない限り、少年院などにいるしかありません。
 先生は、会うたびに少年の表情が変化していることに気づき、少年をこうした状況に追いやった家庭ではなく、どこか落ちつける受け入れ先があれば、少年はきっと立ち直るだろうと思うようになりました。
 ところが、厳罰化によって非行の再発を防ごうとするよりも、温かく受け入れてやる家があることの方が明らかに有効であるとわかっているのに、受け入れ先がありません。
 母親は少年審判の際も出席しないなど協力する姿勢がなく、ついに少年院送りが決まり、それまで冷静だった少年が初めて涙を流したのを見て、先生は、「帰る場所のない少年の家をつくろう」と決心しました。

 ここで、先生の言葉によれば〈奇跡的な〉できごとが起こります。
 他所にいた少年の実父が、少年へ会いに行き「立ち直ってくれれば家にきてもいいよ」と言ってくれたのです。
 少年が顔つきがたちまち変わり、父親と同居しながら、今ではたくさんの資格をとって懸命に生きているそうです。

 帰る場所がないから少年院へ入れる、帰る場所外ないから少年院から出られない、先生は、こうした現状を「おかしい」と思い、何としても、彼のような少年を引き受ける施設をつくりたいという思いが強まりました。
 やがて、別の少年事件の被害者となった大沼えり子氏との〈運命的な出会い〉があり、NPO法人ロージーベルの設立へと向かいます。
 先生は訴えます。

「家に帰れない少年たちがいることを知ってもらおう。
 少年院で頑張っている少年たちへエールを送ろう。
 少年たちが羽を休める『少年の家』を立ち上げよう。」


 平成20年10月、ついに法人が設立され、東北にある少年院へDJのプレゼントを贈り、年末にはふかふかしたタオルを寄贈し、各種の啓蒙活動を行いました。
 平成23年1月、帰る場所のない少年に場所を提供する「少年の家」事業がスタートしました。
 おりもおり、東日本大震災が起こって家族と連絡がつかない少年や家族が受け入れを拒否した少年などが入居し、補導委託先、自立準備ホームとして登録もできました。

 先生は訴えます。

「少年による非行は子供たちのSOSです。
 こうした子供たちを社会から排除するのではなく、受容と支援によって立ち直らせましょう」
「手を差し伸べれば、少年たちは変われる可能性を持っています」
「彼らを怖がらず、温かく接してください」
「私たちは、関わった少年たちと必ず連絡がとれるようになっており、決して見放しません」
少年の家では、共同生活している少年たちを必ず、行ってらっしゃい、と送り出し、必ず、お帰りなさい、と迎えます」
「すべての少年に弁護士がつき、大人と同じく人権が守られるよう、国選付添人対象事件を拡大しましょう」


 参加された方々の中で、こうした活動が行われていることを事前に知っていた方は一人もおられませんでした。
 辛く苦しい環境などによって曲がりかけた少年たちも、次の時代の担い手です。
 子供たちと日本の未来のために大人がどう関わっていくか、周囲の人々に何ができるか、皆さんはきっと、胸に手を当てながらお帰りになられたことでしょう。




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2013
07.15

朝のヒグラシ、昼の仙台市いずみ墓苑

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 薄明の中、絶え間なく降りしきる雨をついてヒグラシが鳴き始めました。
 そうか、とうとう……、といった感があります。
 結城昌治は詠みました。
「涙溢るるごとくひぐらし鳴きいだす」
 私たちはなぜ、彼らの声に寂寥感を覚えるのでしょうか。
 西日本では連日、35度を超えるといった猛暑が続き、体感的に夏は真っ盛り、特に、これから夏休みが始まる子供たちにとっては、待ち遠しい「夏本番」ですが、日本人本来の季節感からすれば、7月はもう、晩夏に当たります。
 星の巡りはすでに6月27日、隠遁(イントン…日々の星の巡りが九→八→七とマイナスに変化すること))が始まっており、8月7日の立秋がくれば、秋の到来です。

 昨日、いつものように仙台市いずみ墓苑でお墓の開眼供養と納骨の修法を行いました。
 灰色の梅雨空ですが雨は落ちてこず、ほとんど風もないシーンとした中で目を閉じ、ご本尊様に降りていただく法を結んでいると、ホトトギスのけたたましい声やウグイスののんびりした声に混じって、虫たちのささやきも聞こえてきます。
 杉田久女「谺(コダマ)して山ほととぎすほしいまゝ」と詠み、松尾芭蕉は奥州平泉において「夏草や兵(ツワモノ)どもが夢の跡(アト)」と詠み、「時のうつるまで泪を落し侍(ハベ)りぬ。」と書きました。
 見晴るかす広大な自然全体へ響き渡るようなホトトギスの声。
 その一方で、夏の直射日光を避け緑濃い草ぐさに隠れて密かに鳴き始める虫たち。
 芭蕉の句は、時が止まったような静寂にあって人間の営みの儚さが際立つという解説を何度か見かけましたが、私には、どうしても夏草の勢いと、その陰でジージー、チチチと小さく鳴く虫たちの声がイメージされます。
 確かでしぶといいのちの息吹の中でこそ、草葉の露となり果てる人間の一生、あるいは去るいのちと共に消えて行く人間の志などが、強く胸に迫ってきたのではないでしょうか。

 送る皆さんと一つになり、身体は天地へ、心はみ仏の御許(ミモト)へ還る御霊をお送りすると、自分の心身も別世界へ溶け込んで行きそうになります。
 墓所を聖地とするため、八方天地のみ仏方にお守りいただく法を結ぶと、そこは宇宙の中心となり、石も土も質量を増し、まるで大地が盛り上がったかのようです。
 皆さんと導師の間にある距離は、修法前と修法後では、まったく異なります。
 それは、一つの結界にあって共に異次元体験をしたからです。
 ぐっと近づいてこられ、目を見ながら「これからもよろしくお願いします」と言い頭を下げられるご遺族、そして、「こちらこそよろしくお願いします」と頭を下げて応える私。
 距離は一気に、霞と消えました。 

 午前5時30分を待っていたかのように、ヒグラシは鳴きやみました。
 雨があがり、すっかり達者になったウグイスが余裕たっぷりに歌い、カラスも活動を開始しました。
 これから毎朝、毎日、彼らの最後の一匹がいのちをまっとうするまでヒグラシと共に過ごします。
 今日も、いずみ墓苑へでかけます。
 朝のヒグラシと、昼の泉墓苑と……。




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2013
07.14

傷ついた日本人へ(その17) ─苦しみから抜け出す方法─

20130711006.jpg

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 皆さんと一緒に、要点を考えてみましょう。

 ダライ・ラマ法王は、苦しみには二種類あると説かれます。

・外因的なもの…病気・不調な人間関係・天変地異などによるもの
 薬によって病気が治り、スムーズな人間関係になり、破壊されたものが修復されるなど、原因が除かれれば解決できる。

・内因的なもの…自分の心が生み出すもの
 自分で生み出してしまった自立的苦痛は、原因の除去が難しい。

「もともとの苦しみは、自身という外部刺激によって引き起こされたものでした。
 自身そのものの恐怖、家族や故郷をなくした悲しみ、そういったものだったのです。
 しかし、徐々に苦しみや悲しみがひとり歩きをするようになった。
 精神を飲み込み始め、自分で苦悩を新たに生み出すようになってきているのではないでしょうか。」


 いつの間にか苦しみが生じており、苦しんでいる自分もいます。
 では、そうしたものは、どこに、どのように存在しているのでしょうか?
 よく考えてみると、苦しみの〈実体〉はどこにも見つかりません。
 同じように、苦しんでいる自分の〈実体〉もまた、どこにも見つかりません。
 確かに在るのに見つからないとはどういうことでしょう?

「あなたの苦しみも、苦しみを感じているあなた自身も、その実体はありません。
 すべてあなたの観念に過ぎず、あなたがそう認識しているだけなのです。」
「苦しみだけではありません。
 恐怖、猜疑、憎悪、絶望……。
 あらゆるマイナスの感情は、どれも自分で生み出し、自分でそれを認め、そしてそれに自分が苦しめられている悪循環に陥っています。」

 
 では、どうすれば悪循環を抜け出られるか?

「もしあなたが誰かに怒りや憎しみを抱いたとします。
 そんなときは少しだけ立ち止まって考えてみてください。
 私はどうしてこんなに怒っているのか。
 本当に相手は憎むべき人間なのか、と。」


 まず、感情の嵐によって舞う木の葉の状態でなく、深呼吸して〈立ち止まる〉ことです。
 そうでなければ、木の葉がどこに落ちるかを自分で決められないように、いじめ、ストーカー、暴力、殺人、ありとあらゆる悪行や、自分の心身の不調など望んでもいなかった結末を迎えるという取り返しのつかない状況に陥るかも知れません。
 立ち止まればどうなるか?

「相手自身に実体はまるでないのに、自分が勝手にマイナスの解釈を膨らましていることに気づくはずです。
 ちょっとした言動で『この人は敵だ』と思い込んでしまっていただけなのです。」


 たとえば、新しい職場で上司となった人から「学歴だけで通用すると思わないでください」と言われたとします。
 もしもあなたが有名大学を出ていたらどうでしょう。
 この先輩は私をやっかんでいる、私をいじめようとしている、そもそも自分を部下にしたくなかったのではないか、などなど、限りなくマイナス思考がはたらき、その一言とその時の顔を繰り返し繰り返し、思い出すようになるかも知れません。
 そして、こいつを蹴落としてやろう、いつか恥をかかせてやろう、などなど、限りなく悪しき行動を夢想するかも知れません。
 しかし、くるくるとはたらく自分の頭の中を冷静に観てみると、一言あったことだけが事実で、あとはすべて、「思い込んで」いるだけの独り相撲に過ぎないと気づくはずです。
 ダライ・ラマ法王は、それを「自分が勝手にマイナスの解釈を膨らましている」と指摘されました。

「この世界の事象に実体はないのです。
『嫌な人の存在』『怒りを覚える言動』はときに絶対的な実体に思えますが、論理的に考えていくと結局は実体が見つからず『(クウ)の本質』に突き当たってしまうでしょう。
 このマイナスの感情から抜け出すためにも、物事の本質は全て『(クウ)』であるということを改めて見直しましょう。
 自分を支配している苦しみや憎しみには実体がないことをはっきりと自覚するのです。
 そして自らの知性でそれを良い方向へと転換させましょう。
 また、相手の言動に怒りを覚えたり、思い通りにいかないと悩んだりするときには、その裏に利己的な考えがあることにも気づかなくてはいけません。
 自分さえ良ければいいというエゴが膨れ上がり、それが裏切られたために心が乱れているのです。」


 前述の例にあてはめれば、上司は人間であり、たまたまあの時は生きており、今も目の前にはいなくても生きていると想像できますが、明日、出社した時に、病欠を知らされるかも知れないし、あるいは事故死を知るかも知れません。
 また、あの一言は、あの時の事実でしかなく、しかも、そこに込められた上司の気持ちはすべて、自分の頭が生み出した妄想でしかありません。
 もしかすると、上司は嫌われても言うべきことはきちんと伝える真の部下思いであり、万が一にも学歴を鼻にかけてはいけないよと最初に自分の高慢の鼻をへし折ろうとしてくれたのかも知れません。
 そして、自分の心をのぞいてみると、学歴は弱い自分のたった一つのより所であり、それが強そうで脆いガラス細工のような高慢心になっていることに気づきます。
 これまでの自分をふり返ると、高慢心に触れられた途端、一方的に相手を憎んだり、相手が高慢心を潰すほど強いと、勝手に落ち込んだりしてきたことが思い起こされます。
 (クウ)の相手との間に起こった(クウ)のできごとを相手に、独り相撲をとってきた(クウ)の自分。
 これが真実の姿であり、これに気づきさえすれば、日々の心のありようは変わります。

「もちろん、ことはそんなに簡単ではありません。
 実践していくには難しいことも多いでしょう。
 しかし、この習慣を常に意識化し、少しづつ心を訓練していくのです。
 そう考えることで、感情に振り回されず、冷静に対処することができるようになります。
 理由のないまま感情が膨れ上がることは減り、その感情の強さは徐々に和らいでいくでしょう。
 すぐに苦しみが消えるわけではありませんが、やがてはそれをコントロールできるようになると思います。」






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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2013
07.13

遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし ─いのちへの想像力─

20130609015.jpg

 昭和15年、日中戦争の報道写真を目にして55才の土岐善磨(トキゼンマロ)が詠んだ一首です。

「遺棄死体数百といひ数千といふいのちをふたつもちしものなし」


 おびただしい死体が遺棄されたままになっている戦場。
 数百、あるいは数千のいのちが失われていますが、その一つ一つは皆、一人一人の生きた人間と共にあったのです。
 
 私たちは、砂漠の国で起こった爆弾テロの犠牲者が10人という報道に接しても、もはや、あまり強い印象を持てなくなりつつあるのではないでしょうか?
 それは、無意識に、希に報道される50人や100人という規模に比べれば小さいと感じているからです。
〈10人が死んだ〉ことは、〈100人が死んだ〉ことより大したことはない、という意識がはたらくのです。
 しかし、〈死んだ人が10人いる〉と受け止め、家族や友人など、あの人やこの人が一気に亡くなったことを想像してみれば、それがいかに凄まじい事態であるかに衝撃を受けることでしょう。
 その時、土岐善磨のように、まさにかけがえのないいのちが10、奪われてしまったことの真の意味が明らかになるのではないでしょうか。

 7月11日付の朝日新聞は、元米国務長官コリン・パウエル氏へのインタビューを核不要論として掲載しました。
 氏が不要とする理由は明確です。

「極めてむごい兵器だからだ。
 まともなリーダーならば、核兵器を使用するという最後の一線を越えたいとは決して思わない。
 使わないのであれば、基本的には無用だ。」


 この論旨の肝は「むごい」と「まともな」にあります。
 いかに惨(ムゴ)い結果をもたらす兵器であるかをよく認識しているのがまともなリーダーであり、それは、惨さをリアルに想像でき、そこから離れない人間でなければなりません。
 ここに核兵器の危険性が顕わになっています。
 核兵器という悪魔の武器が存在するのもさることながら、最も恐ろしいのは、前述の想像力を持ったまともなリーダー以外の人間が発車のボタンを押せる立場に立って何の不思議もないことです。
 政治家のいわゆる失言のほとんどは想像力の欠如がもたらしており、私たちは、そこをきちっととらえ、そうした人間がリーダーでいることを真剣に怖れねばなりません。

 ここのところ、中国では、故毛沢東に関する逸話がチラホラと報道されているようですが、その中にはこうしたものもあります。

「もし、第3次世界大戦が勃発したら、ソ連には傍観を勧め、毛沢東が中国人民を率いて米軍を中国の戦場に引きこむ。
 そして、負けて退く振りをして、ゆっくりと米軍を中国本土に引き込む。
 アメリカが主力軍を中国戦場に投入したら、ソ連に原子爆弾を落としてもらい、米軍を一網打尽にする。
 こうすると、中国では4億人が死ぬかもしれない。
 大同世界のために、中国の人口の3分の2を犠牲にしても値打ちがある。
 4億人が死んでも、何年もしないうちに、中国はまた6億人の人口を恢復できる。」


 彼のかつての発言を考えれば、内容には特段、驚かされず、事実であろうと思われます。
 狂気をはらんだ主張は、彼の人間性と尖ったイデオロギーがもたらしたのでしょう。
 それは、彼のような戦闘的タイプの人間が尖った主張を始めれば、彼のように〈生身の人間〉への想像力を欠いた思考や行動に突き進みかねないことを意味します。
 私たちがリーダーを選ぶ際には何を見極めねばならないか、彼は恰好の反面教師と言えましょう。

 さて、永田和宏著『近代秀歌』は、土岐善磨の「有名な戦争の歌」として、もう一首、昭和21年の作品を紹介しています。

「あなたは勝つものとおもつてゐましたかと老いたる妻のさびしげにいふ」


 太平洋戦争に敗れた直後、ふとしたおりに、妻から「あなたは本当に勝つと思って(あるいは、勝とうと思って)戦争に加わったのですか?」と訊くともなく訊かれ、彼は胸を衝かれています。
 勝ち負けの世界へ入り込み、人間としての想像力を脇へ置いてしまっていた歌人は、いかに深く自分を省みたことか……。
 その深さは「さびしげに」の一言が余すところなく顕しています。
 自分だけが勝者になろうとする自由競争、あるいは弱肉強食礼賛の思想が私たちから奪い去ってしまいかねない〈人間が人間たる根源〉を、よく考えてみたいものです。




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2013
07.12

戒名が二つになった時はどうすればよいのでしょうか? ─ご遺族は故人に成り代わって成仏の手伝いを行う─

20130711003.jpg

 Aさんから白張り提灯のご注文と共に、ご相談がありました。
「事情によって戒名が二つあります。
 どちらを選んだらよいかわかりません」

 戒名が二つある場合や、いただいた戒名を用いるか用いないかなどのご相談は少なくありません。
 たとえば、故人が「自分の死後は俗名のままで」という意志を表していても、ご遺族が「それではかわいそうだ」と戒名を求める場合があります。
 また、反対に、故人が戒名で送られることを望んでいても、ご遺族がそうしない場合もあります。
 あるいは、突然の死後バタバタとことが運び、落ちついてみると始めて会った導師への不信が募り、改めて戒名を求めに来られる方々もおられます。
 あるいは、故人が生前、信じる寺院から戒名を受けていたのに、ご遺族が「これまでの付き合い上、頼まざるを得ない」からと、生前戒名があることを隠して新たな戒名がついてしまい、最後は途方に暮れてご相談に来られる方々もおられます。

 ご相談の内容に応じてケースバイケースのアドバイスになりますが、いかなる選択が最も故人の御霊を安んじられるか、を基本にすることが肝要です。
 故人が〈自分で〉は何もできない以上、ご遺族は故人に〈成り代わって〉故人が安心への道を歩むお手伝いをするのだという気持を薄れさせ、自分の都合や思想を全面に出せば、後悔や後ろめたさの種を蒔いてしまいかねません。
 人はいかに意志をしっかりさせて毅然と生きていても、自分の亡きがらを一ミリたりとも動かせません。
 中には、それをよいことにして放置し、まだ生きていると装って公的なお金を騙し取る不逞な輩もありますが、故人にはいかんとも仕方がありません。
 故人の思いをくみ取る心があれば、故人に寄り添い生前と同じように成仏への支えとなる意識が生まれるはずです。

 斎場でご遺骨を骨壺へ収めてくださる係員の方は、百人中百人、誰一人として粗雑な扱いをしません。
 それは、ご遺族への礼儀であり、思いやりであることは当然ながら、大前提として、今は白骨となった故人へ寄り添い、清浄な世界への旅立ちに敬意を持って立ち会うまごころがあるはずです。
 私たちにとって最も留意すべきは、あくまでも〈故人の心〉なのです。
 もしも諸事情によってそれに合わせた行動がとれなくても、そこに立って熟慮するという過程があれば、故人はあの世から感謝してくださることでしょう。

 人間にとって最も大切なのは思いであり、動機です。
 世知辛いこの世では、「結果」ばかりが求められがちですが、仏神の世界では「清浄な心」以外に求めるべきものはなく、それは、我(ガ)を離れていなければなりません。
 み仏の子である私たちも又、少なくとも〈ここ一番〉という時は、我(ガ)を離れたいものです。
 故人の心へ寄り添おうとする心の清浄さがありさえすれば、ままならぬこの世における結果をとがめる仏神御霊もありはしないのです。
 
 Aさんは、わざわざ遠方からご来山されました。
 白張り提灯一つが、人間として大切なことを考えるきっかけになりました。
 Aさんのご誠心はきっと仏界へ届き、御霊は必ずや極楽浄土への道を歩まれることでしょう。合掌
 




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「おん あらはしゃのう」※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。
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2013
07.11

傷ついた日本人へ(その16) ─思い出がもたらす力─

20130711010.jpg

 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 皆さんと一緒に、要点を考えてみましょう。

 今日で1年4カ月が経ち、津波に遭ったところでは11日を防災の日として、備蓄物の確認などを行っています。
 さて、愛する人やものとの別れで生ずる苦を「愛別離苦(アイベツリク)」といい、お釈迦様がそれを「正命(ショウミョウ)」によって克服しなさいと説かれことについて前回、書きました。
 ダライ・ラマ法王は、家庭教師だった僧侶の死によって「あまりに悲しく、そのショックをずっと引きずって」しまわれました。
 法王はどうやってショックから脱したのか?

「私は彼が生きている間に、たくさんの教えを自分に与え残してくれたことに気づいたのです。
 先生の教えを必ず実現しよう、意志を引き継いでいこう、そう思ったとき、悲しみは前向きな力や勇気になりました。
 彼の存在がとても偉大で、その悲しみが大きかったからこそ、決意はより強くなったのです。」


 家も家族も失った書道家の高橋香温先生は、やがて「夢」という作品を書かれました。

「おかささん
 っていったら
 ふりむいて
 笑ってくれた

 遠い記憶の
 なかにも
 赤い花が
 咲いている」


 去った人が残してくれた記憶を思い出す私たちがそれをどう感じるか?
 どうとらえるか?
 ダライ・ラマ法王は、そこに師の意志を見いだして、継ごうと決意され、力がわいてきました。
 高橋香温先生は、そこに赤く咲く花のような愛を見いだして、作品にしました。

 特に小さな方々の不幸は、私たちの胸を強く締め付けます。
 写真を見るたびに、「もっともっと思い出をつくりたかった」とも思います。
 しかし、そこで「よく、この思い出を残してくれた。ありがとう」と切り替わったならば、生きる力が新たにわいてくるのではないでしょうか。
 意志して、そう思おう、としても、心はなかなか思いどおおりには動きません。
 その点で、周囲の方々から見聞きするものにハッとすることはとても大切です。
 思わぬ転換点をもたらすかも知れません。

 皆さんへよき出会いが訪れますよう、思い出が力を与えてくれるものとなりますよう、御霊方が安らかでありますよう、祈っています。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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