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2013
10.31

菩薩の慈悲と利他(なぜ、殺人を行えないか?) ─11月の聖語─

20131031003.jpg

 お大師様の言葉です。

菩薩(ボサツ)の用心は、みな慈悲をもって本(モトイ)とし、利他をもって先とす。
 よくこの心に住して浅執(センシュウ…浅はかなこだわり)を破し、深教(ジンキョウ…深い教え)に入るは、利益(リヤク)もっとも広し」


菩薩が心しているのは、慈悲を根本とし、何よりも、他を利することである。
 常にこの心構えをゆるがせにせず、我を先にしたいという執着心を去って、深いみ仏の教えに帰依するならば、最高に広い利益を得られることだろう)

 私たちはよく、ご利益(リヤク)といいますが、それは棚ぼたでもたらされるものではありません。
 すべては因果応報(インガオウホウ)の枠から出られず、み仏のご利益が欲しいならば、それにふさわしい生き方をせねばなりません。
 自分へよい果実をもたらすための方法は、まず他を思いやり、他のためになろうとすることです。
 そこに、目的へ向かう自分の精進(ショウジン)に加えて目に見えぬよき縁の力が生じ、仏神のご加護も加わって願いが成就します。

 さあ、〈ご利益にふさわしい生き方〉を考えてみましょう。
 仏法は「十善戒(ジュウゼンカイ)」を説き、殺生(セッショウ)などの悪行(アクギョウ)を戒めます。
 まずは、こうした悪行から離れなければ、いくら拝んでもどうにもなりません。
 そもそも、私たちはなぜ、憎い人を殺さないのでしょうか?
 あるいは殺せないのでしょうか?

1 殺すことが怖いから

 生きものを殺すのは恐ろしいものです。
 たとえアリ一匹をも、できれば踏みたくはありません。
 道路にネコの死体などがあれば、ほとんどの車は避けて通ります。
 たとえ死体でも、生きものはただのモノではないからです。

2 牢屋へ入りたくないから

 日本は世界有数の法治国家です。
 私たちは、悪事は露見する、犯罪者は逮捕され裁判にかけられ罰せられると信じられる健全な社会に住んでいます。
 だから、殺人は即、気ままに生きられる自分の日常生活を崩壊させると知っているので、歯止めになります。

3 殺生(セッショウ)はいけないという観念があるから

 人間としての戒めについてきちんと教えられながら育てられた人は、必ず、やってはならないことについての了解を心に抱いています。
 それは、理屈としてどうかというよりも、そういうものだと思って疑わないのです。
 やはり、霊性の核として仏性(ブッショウ)があり、ほとんど無前提な善悪の感覚というべきものが私たちには具わっているという気がしています。
 過去のカルマや育ちや生き方により、仏性を覆うあまりにも厚い反倫理的な甲羅をつくってしまわない限り、私たちのほとんどは、たとえ弱々しくても陽の当たる場所で社会生活を続けられるのです。

4 地獄へ行きたくないから

 究極のところで、死んだらまったくの無になるとしか思えなければ、倫理は成り立ちません。
 私たちは大昔から、直感的に死後の何かを感じとり、どのような文明においても死者を弔う儀礼が洗練されてきました。
 そして、多くの宗教が死後について説き、特にお釈迦様は、無限に続く因果関係を教えの根本に置かれました。
 だから私たちは、この世ではたらいた悪事は、死んだからといってチャラになりはしないと感じています。
 この感覚が地獄行きの行為を抑えてくれます。

5 自他を地獄へ堕としたくないから

 悪因が悪果を招く以上、自分の悪業(アクゴウ)は自分へ恐ろしい結果をもたらし、自分にとって大切な人々へも打撃を与えるに違いないと考えれば、悪事は行えません。
 しかも結果は今世(コンゼ)で出るか、来世(ライセ)で出るかわからず、悪事をはたらいた自覚がある以上、不安から逃れられません。
 不安にとり憑かれることそのものがすでに、罪に応じた罰の始まりです。

6 恐ろしい来世を避けたいから

 因果応報を深く信じれば、今世の行いはカルマとなって必ず来世に結果をもたらすと考え、地獄界や餓鬼界や畜生界などへ行かなくて済むように、人としての戒めを守ります。

7 来世でも人間修行を積みたいから

 人間界や天界への転生(テンショウ)ができれば、今の人間修行が来世でも続けられ、この世でやり残したことも引きつづき行って善き願いの達成へと向かうことができます。
 しかし、地獄界や畜生界に転生すれば、それは夢の又夢になってしまいます。
 たとえば年をとってからようやく何か、自分のすべてをかけて行いたいものが見つかったとしたら、どうでしょうか?
 この続きは来世でもやりたいと願いはしないでしょうか?
 9月11日に他界した元灘中・高校教師橋本武氏は、こう言いました。
 氏は「すぐ役立つことはすぐに役立たなくなる。本気でのめり込んだものは人生を豊かにする」との信念で、中学の三年間を通じて一冊の小説『銀の匙』に関する講義を続けました。

「生まれ変わっても国語教師として『銀の匙』の授業を続けたい。」


 志とはこういうものです。
 死ねば終わりといった程度ではありません。

8 相手も自分と同じ人間だから

 ここで、私たちは大きく飛躍します。
 自己中心から離れ、菩薩(ボサツ)の世界へ踏み込みます。
 自分がけけがえのない人生を歩んでいるのと同じく、すべての人々がそれぞれにかけがえのない人生を歩んでいます。
 そして、自分の心をよく観察してみれば、憎い相手が自分へ行った嫌なことを自分が相手へやらなかったのは、相手と自分がまるっきり別の生きものだからではなく、紙一重のところが違うだけだからであるということに気づくはずです。
 私は日々、事件のニュースと接するたびに、「ああ、自分はまだ、だいじょうぶ」と思い、被害者へお気の毒にと合掌すると同時に、加害者が哀れになります。
 自分の心のどこかに加害者の悪心へ通じるものが潜み、それは、諸条件によって抑制されているからに過ぎないからです。
 自分は紙一重のところで〈こちら側〉におり、加害者は紙一重のところで〈あちら側〉にいるだけなのです。
 自分が加害者であり、加害者が自分であっても何もおかしくはありません。
 今世では入れ替わりませんが、来世で入れ替わっても何の不思議もないのです。
 ──もしも、自分が出家していなかったなら……。
 ──もしも、彼に助言してくれるくれる人がいたなら……。

 誰しもがひとしく幸せを望み、不幸を避けたいと願っているのに、なかなか思い通りにはゆきません。
 自己中心の角(ツノ)を突きつけ合っているからです。

 不毛のぶつかり合いを避け、悪業を積まないために、自分も他人様も根本のところで〈同じ〉であるということを察知し、学び、想像し、一歩でも菩薩様へ近づきたいものです。
 こうした姿勢が、殺人などの悪行(アクギョウ)へ対する究極の歯止めになるのではないかと考えています。

 慈悲は「お前はそっち」と突き放さず、「貴方も私も同じ」と気づくところに生まれます。
 冒頭の教えにおける「慈悲」「利他」「菩薩」について考えてみました。




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2013
10.30

楽への勘違いから離れるには? ─思いやり・感謝・感動体験─ 

20131029070.jpg

 前回、〈目の前にぶらさげられた幻のニンジン〉について書きました。
 人間が社会内存在として生きるために不可欠な衣食住について、「さあ、もっと、もっと!」と煽り立てる消費社会の風に追いまくられると、無限に求め続けねばならなくなり、永遠に不満・不足という苦から逃れられないという運命の話です。
 また、そうしたモノたちは、真の楽をもたらしてはくれないという証拠として、より多ければ、より楽をもたらしてくれるとは限らない点を挙げました。
 以前、ある国でクーデターが起こった時、逃げ出した王妃が残した膨大な靴の映像を観て、美しく着飾った彼女の内面の卑しさに茫然とし、人間は本当に哀しいものだと思わされました。

 幻のニンジンを振り払うのは簡単です。
「これでいい」と思えれば、それだけで済む話です。
 私たちは、たった今、衣装、食事、住居にどれだけ不足しているでしょう?
 ──まっとうな社会人として生きて行く上で。

 よく考えてみれば、今、衣食住があることのありがたさに気づくはずです。
 たとえば、内戦が続くシリアの難民は、来年中に500万人に達すると報道されています。
 宮城県と福島県、それに山形県の人口がほぼ、そっくりなくなる勘定です。
 それは、パソコンの画面がクリック一つで消えてしまうようなものではありません。
 自分も家族も友人や知人も、住まいも故郷も故国も失い、着の身着のままで、たった今の空腹を満たせない不安に追われ、持病の悪化に苦しみ、子供やお年寄りを生かせない恐怖に襲われ、死に逝く同胞を送りつつ、言葉も風習も異なる異国で、あてどのない毎日をようやく生き延びているのです。
 また、中国では、ここ半世紀足らずの間に、チベットウィグル合わせて150万人以上が殺され、土地も資源も漢民族に奪われ、かつてアメリカインディアンがほとんど滅ぼされたのと同じように、チベット人もウィグル人も、仏教とイスラム教を柱とした文化共々、根こそぎ葬り去られようとしています。
 仙台市と福島市と山形市の人口がほぼ、そっくりなくなり、生き残った人々が言葉も宗教も生活風習も異なる人々によって奪われ尽くし、恐怖政治の中で、頭の中からつくり変えられようとしている状況は、とても想像しきれません。 

 私たちが社会人らしい衣装をまとい、寒さをしのげるのは何とありがたいことでしょうか。
 今日も食事にありつけるとは、何とありがたいことでしょうか。
 今夜、落ちついて寝られる塒(ネグラ)があるとは、何とありがたいことでしょうか。

 私たちは、シリア人やチベット人やウィグル人といった方々とは異なり、いのちと社会を保てないほど真に不足しているのではなく、生活に工夫を凝らそうとし過ぎるあまり、常に不足感を生じ、自分たちで自分たちを追い立てているのではないでしょうか。
 合掌しながら世界の現状を想像し、身の回りの現実をよく眺めてみましょう。
 そうして、悲惨な状況にある人々を思いやる心になり、自分の境遇に感謝の光が満ちてくる時、〈目の前のニンジン〉はもう、どこにもありません。


 さて、求め過ぎ、あり過ぎれば苦を生むモノとちがい、心には、求め過ぎやあり過ぎによって苦を生むことなく、真の楽を深めるものがあります。
 それは、前述の合掌で芽生える思いやり感謝です。
 誰でも理解しやすい「おたがいさま」と「おかげさま」の心です。
 誰かを思いやり、相手の感謝に対して「おたがいさまですから」と返す体験は、いくら積み重なろうと苦のかけらも生じず、善行が強いカルマとなればすぐに善い結果をもたらし、弱いカルマであっても、輪廻のどこかで必ず善い運命を創ることでしょう。
 誰かの思いやりに対して「おかげさまでした」と返す体験もまったく同じです。


 私たちは誰しも、よりよい人生を送りたいと願っています。
 それは、ネコや犬や稲や柿と同じく、生存に適した環境で生存を維持したいという姿勢に発した自然な姿です。
 精神を持つ人間は、人間たる証として、生存の維持に加えて〈価値あるもの〉の獲得を必要とします。
 そこで、五感六根を刺激するモノに意識が強く向けば、執着心が生まれ、価値あるはずの楽を求めながら、結果的には反対の苦を生んでしまいます。
 よりよい人生のイメージが、霊性の生きる世界と異なった姿になっているのです。
 合掌し、モノの刺激から離れ、自他のありようをよく考えてみることによって心の奥底から起こってくる思いやり感謝を大切にして生きてみれば、自然に価値あることごとと触れる感動体験が得られます。
 霊性の震えや共振が起こるのです。
 人間に対しても、あるいは自然に対しても、あるいは文化に対しても。
 思いやり感謝の心に導かれた感動体験の積み重なりこそが、よりよい人生ではないでしょうか。
 感動体験は、いくら積み重なろうと、モノ金をたくさん持ったがゆえの維持してゆく不安や、食べ過ぎたがゆえの成人病になる危険性とは無縁で、人生をますます豊かにし、周囲の人々へもよき影響を及ぼし続けることでしょう。
 
 楽を求めながら苦を招いてしまう勘違いに気づき、共に、思いやり感謝の世界に生きたいものです。




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2013
10.29

この世の楽は本当に楽なのか? ─目の前にぶらさげられた幻のニンジン─

20131029058.jpg

 私たちは、衣食住で暮らしています。
 衣装、食事、住居、この三つがあって初めて、生きてゆけます。
 より快適に、安心に生きられるよう、そこにさまざまな工夫をこらし、文化の基礎がつくられます。
 現代の私たちはファッションに敏感で、特に、若い人々を集めるビルには必ず衣料品関係の店が競って軒を連ねます。
 また、グルメブームが続き、テレビでは毎日、毎日、有名人の食べ歩きが着実に視聴率を稼いでいます。
 また、住まいの建築や改修は最も高価な出費を伴うので、この面の刺激が景気浮揚策には欠かせない定番となり、消費者は、知らず知らずのうちにローンを組んでいます。

 ところで、これらは本当にの種なのでしょうか?
 たとえば、最新のファッションに身を包み大満足を味わっても、それはつかの間のしみでしかありません。
 すぐに〈次の流行〉が仕組まれ、たちまち、今の衣装は色あせてしまい、不満や恥ずかしさをもたらす邪魔ものに堕してしまいます。
 食べものもまた、真のの種であれば、いくら食べても満足が続くはずなのに、同じ食べものにはすぐ厭きてしまい、もしも大量に食べるならば、成人病などの原因にすらなりかねません。
 住まいも同じです。
 365日、24時間、〈より快適〉でありたいと思わせるようにあらゆるマスコミは宣伝を続け、ほとんどの庶民は生涯、あくせくはたらいてローンを払い続けます。

 そもそも、衣装は、寒さをしのぎ、文化的社会を成り立たせるための道具でした。
 それで間に合っていると思えれば、無用の欲は生まれません。
 食べものも、空腹を満たし、肉体を健全に養ってくれれば、それで充分です。
 住居も、寝床が確保され、安全・安心に寝起きできるならば、用は足ります。
 セレブを紹介する番組で目にするような巨大で豪華なベッドも、プールも必要なく、私などはそうしたシーンでは、邸宅のご主人様がお亡くなりになられた様子を想像してしまいます。
 病気に蝕まれ尽くし白い衣装を着せられたご主人様が横たわられるベッドの何と空虚で淋しいことか。
 私たちは、畳一枚あれば、寝起きし、死んでもゆけるのです。

 衣食住に関するもろもろのモノたちは、寒さをしのぎ恥ずかしくなく過ごすこと、飢えないこと、安眠が得られること、こうした社会生活を営む生きものとしての〈〉を減らすための道具です。
 それなのに、私たちはが減るありがたさを忘れ、もっと、もっとと、余分な欲求に追われるために要らざる不満を抱え、過剰なお金を稼がないではいられなくなっています。

 親の保護下にある中学生や高校生が、モノ欲しさにアルバイトに精を出し、あげくの果ては万引きや恐喝や売春に走ったりもします。
 私たちは大いなる勘違いをしているのではないでしょうか?
 を逃れを求めているつもりでいるのに、実際は、自らの種を育ているのではないでしょうか?
 こうした心のありようは、都市文明が栄えていたお釈迦様の時代も変わりなく、お釈迦様はそれを〈〉と説かれました。
 がないからなのではなく、ほどほどに得てせっかく苦から離れられるのに、幻のを求めるばかりに自ら苦を招いてしまう欲の姿を直視せよと説かれたのです。

 お釈迦様は、「苦・集・滅・道(クジュウメツドウ)」を説かれました。
1 苦がある
2 苦には原因がある
3 苦は滅せられる
4 苦を滅するには方法がある
 こうは説かれませんでした。
「原因があって苦が生じる。方法を講じれば苦は滅せられる」
 なぜか?
 それは、まず、お互いが苦を生きているという現実がありのままに観られなければ、苦の原因を探求して克服する気にはなれないからです。
 釈迦様が身をもってお示しになられた悟りが究極の救済であると想像できなければ、苦から脱する方法を信じて実践できないからです。
 自分が自分の苦をつくっていることに気づかぬ限り、どこまで行っても自分の人生から苦はなくならず、真の楽を得られず、社会は苦の岐(チマタ)のままです。
 衣食住に発する文化を否定する必要はなく、否定しきれるものでもありません。
 大切なのは、お釈迦様の教えに学び、文化が孕む毒や危険性を感得し、自分の生き方を自分でよく考えてみることです。
 そして、いつしか〈価値〉と考えさせられ、求めさせられていたものとは次元の違う〈価値〉に気づけば、ほどほどに文化を楽しむ余裕が生まれ、穏やかな真の楽も得られることでしょう。
 しかも、それは、この世を浄土にする出発点なのかも知れません。
 それゆけどんどん、という消費社会の気配に身を任て右往左往せず、一旦、立ち止まってみようではありませんか。
 人間と社会を根本からよく観て、根本的に苦から脱するために。




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2013
10.28

真智の開発をめざして(その2) ─五智の教え・認めること─

20131028069.jpg

 当山はかつて、寺子屋の目標の一つとして「真智の開発」を挙げました。
 それは、人生の真実に基づいた智慧を磨きだしてゆくことです。
 それは、「おかげさま」と心底から思えない妄知(モウチ)と、「万事我がため」でしかない邪知(ジャチ)をはたらかせない道でもあります。
 どのようにしてそれは可能になるか?
 これから、師の伝授による五智の教えを25回に分けて記しておきます。
 
 師が説かれた「五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知も邪知も消え失せます。

 前回、「〈信じる〉〈認める〉〈教える〉〈与える〉〈守る〉という五つの行為」と書いたところ、ご質問がありました。
「心に思うことも行為なのですか?」
 いのちがはたらき、後に結果をもたらす原因になるという意味で、行為です。
 身体に拠る行為を身業(シンゴウ)、言葉による行為を語業(ゴゴウ)、心による行為を意業(イゴウ)と呼びます。
 なぜ「業(ゴウ)」と呼ぶかと言えば、煩悩がある私たちは、善き結果をもたらす善業(ゼンゴウ)も、悪しき結果をもたらす悪業(アクゴウ)も行いますが、いずれもが迷いの六道(ロクドウ)を経巡る原因となるからです。
 以前、大日如来様のご加護に関する故事を書きました。

 昔、ある所に愚かな女性がいた。
 因果の道理を知らず、仏神を信じず、50歳を過ぎてから7つの病気に罹り、亡くなった。
 ところが、6日後に甦り、ハラハラと涙を流しながら己の愚かさを懺悔する。
 周囲の者たちは驚き怪しみ、どうしたことかと訊ねた。
 女性の話である。
「私は、実に不可思議な体験をしました。
 死んで逆銃火獄へ行きましたが、閻魔王(エンマオウ)が一巻の書物を調べて言うには、
『汝は、昔、巧言和尚のところへ参詣したおり、金剛界のマンダラをかけた伝法道場を礼拝した。
 そうした大きな功徳のある者は、まだ死すべきではない。
 速やかに人間界へ還そう』
 こうした成り行きでこの世へ戻ったのです。」
 女性は因果を知り、仏道を志したという。


 このように、私たちは、自分の好みや損得などを第一にして生きる場面が多く、道徳としての善悪を頭で知ってはいても、何が本当の善業か、何が本当の悪業であるかは、判然としない中で右往左往しがちです。
 善業と悪業が入り交じった生活の結果として、最も悪業が重なって行く地獄界から、最も善業が重なって行く天界までの六道(ロクドウ)から出られません。
 ちなみに、こうしたぐるぐる巡る輪廻(リンネ)の感覚は、仏道に限ったものではなく、インドはもちろん、ギリシャの人々も広く持っていました。
 ピタゴラスの定理で有名なピタゴラスに率いられた一団も又、死後、〈なくならない何ものか〉である霊魂が汚れた肉体へ再び還ってくることなく、救済の世界へと脱してゆくことこそを理想と考えていたのです。

 こうした業(ゴウ)に対して、悟りの世界におられるみ仏のおいのちのおはたらきには当然、穢れがないので、それを身密(シンミツ)・口密(クミツ)・意密(イミツ)の三密(サンミツ)といいます。
 密は秘密の意味であり、秘密と称する理由は、私たちの日常生活とは次元が違うからであり、それを如来秘密といいます。
 また、私たちに、如来のおはらたきを感じとる能力が充分に具わっていないからでもあり、それを衆生(シュジョウ)秘密といいます。
 仏道修行は、凡夫の三業(サンゴウ)を清め、如来の三密(サンミツ)へと転じて行く道です。

 以上の意味で、行うことだけではなく、思うことも、語ることも皆、結果をもたらす〈行為〉なのです。

 さて、今回は優しさに欠かせない「認める」について考えてみましょう。
 これは、子育てや部下育てなどを行った経験のある方なら大方、おわかりになっておられるはずです。
 どなたも「長所を伸ばし、欠点を克服させる」ことを目標としますが、それには大前提が必要です。
 長所も短所もひっくるめて、相手の全人格を一つの尊いものとして〈認める〉ことなしにはこうした指導が十分にできません。
 たとえば、大きな大会に出場すると、緊張感に耐えられず失敗してしまう選手へ「お前のようなやつは当校の恥だ」と叱りつければ、長所は伸ばせません。
 選手が持つ人間としての弱さへ深い共感を覚えた上での厳しい指導であれば、目的は達せられることでしょう。
 たとえば、「お前のようにケンカばかりしている奴は、一族の恥だ」と叱りつければ、短所は克服させられません。
 すぐに手を出してしまわないではいられない性格、あるいは心の病気への深い理解があってこそ、目的は達せられます。
 子供も、選手も、部下も、まず、一人の人間として丸ごと受け容れられてこそ、心を開き、信頼し、指導に従うすなおさが出てきます。
 そうでなければ、たとえば前の例では、「どうせ、先生は、学校の名誉が欲しいだけなのさ」と下心を見透かされます。
 後の例では、「どうせ、僕は兄貴と違って厄介者でしかないのさ」とひねくれてしまうかも知れません。
 
 こうして、人を丸ごと認める優しさは理解できるのですが、本当に、「誰にでも優しくありたい」と願うならば、ハードルは極めて高くなります。
 なぜなら、落ちこぼれの子供でも、無能な部下でも、優秀な子供や有能な部下であるのと同じく接することは、決して楽でないからです。
 落ちこぼれの子供を世間様に恥ずかしいと思ったり、無能な部下を邪魔だと思ったりしてしまいがちなのが人情です。
 酷い思いや辛い思いをさせ、怒らせたり悩ませたり、苦労をかけたりする子供や部下を持って嬉しい人は一人もいません。
 だから、親も上司も本当に優しくあるためには、楽や苦労、好きや嫌い、損や得などを超えた心になるよう努力することが求められます。
 そのためには、「丸ごと、ありのままに認めないと、魂は通じ合えないのだ」と悟る必要があります。
 言い換えれば「まず、丸ごと、ありのままに認めれば、きっと〈よかれ〉と願う私の気持は通じる」と信じる必要があるのです。

 それが実践される時、親も、上司も必ず人間的に向上します。
 親の向上も、上司の向上も、子供や部下によき影響を与えないはずはありません。
 ここに、真の優しさが発露し、指導する方も指導される方も、同じ人間同として互いに霊性を高め合う可能性が大きく開けます。

 落ちこぼれの子供だからこそ、無能な部下だからこそ、親も上司も鍛えられ、向上させられるのであることを肝に銘じたいものです。

 もちろん、〈言うは易(ヤス)く、行うは難(カタ)し〉です。
 私自身、自分がろくでもない子供だったこと、手をかけさせた弟子だったことをふり返り、感謝と懺悔の思いを抱きつつ、この文章を書いています。
 師から「認めよ」との伝授をいただいてなお、充分に実践できないままにここまできたことを慚愧と思い、心の苦さと恥ずかしさに耐えてもいます。
 み仏の優しさをめざし、好きだから、嫌いだから、あるいは、相手と接して楽だから、相手と接して苦労だからという煩悩(ボンノウ)を、共に、超えてゆこうではありませんか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
10.27

生きる悲しみを希望や勇気へ ─辛抱を見せてくれた高倉健の受賞─

20131027001 (2)
〈昭和53年作『冬の華』より〉

 文化勲章を受章した俳優高倉健氏(82歳)はコメントを発表した。
 全文である。

「映画俳優として五十八年、二〇五本の映画に出演させていただきました。
 大学卒業後、生きるために出会った職業でしたが、俳優養成所では『ほかの人の邪魔になるから見学していて下さい』と云われる落ちこぼれでした。
 それでも『辛抱ばい』という母からの言葉を胸に、国内外の多くの監督から刺激を受け、それぞれの役の人物の生きざまを通して社会を知り世界を観ました。
 映画は国境を越え言葉を越えて、〝生きる悲しみ〟を希望勇気に変えることができる力を秘めていることを知りました。
 今後も、この国に生まれて良かったと思える人物像を演じられるよう、人生を愛する心、感動する心を養い続けたいと思います。
 映画俳優・高倉健を支えて下さった多くの方々に、深謝申し上げます。
 どうもありがとうございました。
 平成二十五年十月吉日 高倉健


 涙した。
 銀幕で、やや顎を引き、目線を下げ、奥歯を噛みながら沈黙するシーンに私たちがなぜ惹かれてきたか、今さらながらに、よくよくわかった。
 高倉健は、私たちに代わって〈辛抱〉してくれたのである。
 彼の辛抱には、私たちのようなごまかしがない。
 私たちは辛抱に耐えられず、どこかで気を抜き、忘れてしまう時間を必要とするが、銀幕の彼にはそうした緩みがない。
 逃げず、ごまかさず、黙ってとことん受け容れてしまう。
 底なし沼のような、あるいはブラックホールのような、限界のない受容力。
 とてつもない大きさと深さを持った容器いっぱいに辛抱が溜まり、世間の不条理や悪が極まった時、辛抱によっていつしか鋼鉄のような固さを帯びていた意志力が、鍛え上げられた名刀の一閃をもたらす。
 破邪の剣と一体になった彼には保身のひとかけらもなく、保身の弱さを持った相手は必ず倒される。
 以前、ブログ『不安の克服』へ、江戸時代の逸話を書いた。
 ある因縁で浪人者と立ち合わねばならなくなった茶坊主が、「剣を抜いたならまっすぐ上段に振りかぶって目をつむり、相手の剣が自分の体に触れた瞬間に剣を振り下ろせ」と伝授を受け、実践した。
 鍛えに鍛えた茶坊主が石のようになった時、浪人はたじろいで降参した。
 腕に覚えのある浪人が斬り込めば勝敗の行方はわからないが、保身の我執は足を踏みとどまらせた。
 保身のない究極の姿勢が勝利をもたらした。
 現実の世界ではそこまでゆけない私たちにとって、銀幕の高倉健は、究極の実践者だった。

 彼は、「生きる悲しみ」と言う。
 その悲しみは「哀しみ」でもあり、「切なさ」と言い換えることもできそうである。
 熱い思いや清らかな心があっても、それが命ずるがままに生きられず、時として大きな過ちをも犯してしまう愛すべき人間。
 正邪善悪を知ってはいても、義理人情という別な道理にもまた強く動かされる人間。
 成功と失敗をくり返し、得意と失意、笑いと涙の間で喜怒哀楽をくり返す人間。
 人間としての生の現実は、あまりにも切ない。
 切なさ悲しみの色が濃くなる時、私たちは生きる力を失いかける。
 そこで支えてくれるのが希望勇気である。
 希望勇気は生まれた時に小さくても、抱きられ続けることによって必ず成長し、やがては生きる柱となる。
 彼は「役の人物」に成りきり、それを見せてくれた。

 82歳になり「この国に生まれて良かったと思える人物像」を見せてくれるという。
 銀幕の彼は、養い続ける「人生を愛する心、感動する心」を私たちへ感じさせ続けて欲しい。
 感謝し、期待したい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
10.26

平成25年(2013年)11月の運勢─他人のよき行いをすなおに誉められるか─

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 11月の運勢は、良心やまごころのありようがポイントです。

○自分の良心やまごころのありようによって、人々と連帯して進めるか、あるいは頑迷さで孤立し、自滅するか、大きく分かれることでしょう

 お釈迦様は、托鉢と説法の旅において最初の頃はご苦労されましたが、やがて、行く先行く先で、お弟子さんたち共々、たくさんの供養を受けられるようになりました。
 売春婦も、大富豪も、国王も供養させていただき、教えを受ける機会にめぐり会える幸せを喜びました。
 ダライ・ラマ法王のご説法の様子を見ても、人々の感激ぶりは想像できます。
 さて、そうした席には、たとえば精舎(修行道場)を供養した人も、食事を供養した人も、そして、さしたる供養のできない人々もたくさん集まりました。
 お釈迦様は因果応報を説き、善根(ゼンコン…よき結果がもたらされるようなよき原因)を祝福されます。
 ここで問題になるのは、供養した人は福徳がもたらされる原因をつくれるが、貧しくてほとんど供養できず、善根と無縁な人々に、よき結果がもたらされる道は閉ざされているのではないかという点です。

 お釈迦様は説かれました。

「供養できない人は、供養できる人の善行を心から讃えるがよい。
 喜ぶがよい。
 それによって、供養した人と同じく大きな功徳が得られるであろう」


 他人の善行を「これはすばらしい!」と心から讃え、善根を積む幸せを「よかったねえ!」と心から喜べるならば、それによって、よき結果をもたらす原因をつくったことになるというのはなぜでしょうか?

 それは、私たちのいのちのはたらきは、身・口・意(シンクイ)の三つによって絶え間なく続き、身体で行う行為も、言葉で行う行為も、心で行う行為も、それぞれに、よき結果や悪しき結果をもたらし、幸福も不幸をも、もたらす原因になるからです。
 たとえば、精舎を供養した大富豪は、稼いだ財を差し出し、礼儀正しく敬い、心から帰依することによって身・口・意の総動員による善行を行いました。
 そして、供養を讃え、我がことのように喜ぶ人も又、言葉と心で善行を実践したことになります。
 身体はどうか?
 五体投地や合掌や慎みある態度による立派な善行が可能です。
 こうして身・口・意が清らかで尊い状態になれば、善根が積まれ、祝福されるにふさわしい人となるのです。

 師の教えです。

「心は優しく、あるいは厳しくあれば、そだれけでよいわけではない。
 悪しき状況や苦しい状況にあって大切なのは、むしろ優雅な心の余裕であり、穏やかな態度である」


 自分がさんざんそうしたところを通ってきたので、実に、身に沁みました。
 心が乱れ、険しく、刺々(トゲトゲ)しく、荒々しくなっていては、実の悪縁につけ込まれてしまいます。
 そして、優雅な心をつくる方法として、第一に「善行者への讃歎」、第二に「善行への随順」と説かれました。
 他人のよき行為をすなおに讃え、よき行為は自分もすなおに実践することが大切なのです。

 身・口・意が清らかであれば、それは、み仏へ一歩、近づくことであり、突き詰めれば即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままでみ仏としての真姿に成ること)です。
 今月は良心やまごころの命ずるところに従い、妬まず、ご縁の方々と喜びや精進を共にしつつ、安心な年末へと向かいたいものです。




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2013
10.26

11月の守本尊様と真言

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 11月は、立冬(リットウ)と小雪(ショウセツ)の霜月(シモツキ…11月7日より12月6日まで)です。
 11月は亥(イ)の月なので、守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様です。

 阿弥陀如来様は、『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。
 正しく念ずるならば、そのお力により、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。
 また、阿弥陀如来は、戌年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として足をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

201209711.jpg

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた阿弥陀如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)

 11月の守本尊阿弥陀如来(アミダニョライ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あみりたていせい から うん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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2013
10.25

NHKテレビ「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観て(その5)

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 これまで、ストレスが発生し、うつ病に至る4つのポイントを考えてきた。
 天敵・孤独・記憶・言葉である。
 私たちは、進化の結果、こうした問題に対処でき生き延びられる者として、一方では、対処法としてのメカニズムが暴走して傷つく者となって今、存在している。
 そして、神ならぬ身である以上、自分でメカニズムそのものを変えたり、あるいは先々の世で進化してゆく方向を変えたりすることはできない。
 ならば、うつ病を避ける方法はただ一つ、メカニズムが暴走するきっかけを限りなく少なくするしかない。
 そして、最後にたどりついたのが〈平等の回復〉である。

 ここまで何度もとりあげたとおり、実験によって、ストレスホルモンが動く場合と動かない場合が確認されている。
 持ちものに不平等感があれば、自分が多く少なく持っていようが少なく持っていようが動き、不平等感のない状況では動かない。
 また、観察によって、ストレスホルモンを傷つく方向で動かさずに生きている人々がいることが確認されている。
 食べものが平等に配分され、不平等感のない生活では、ストレスホルモンの暴走は起きず、うつ病もない。

 つまり、私たちが平等感を持ち、社会に対して不平等という不公平感をあまり感じずに生きられるならば、うつ病は克服できるし、今のところ、そうする以外に罹患を防ぐ手立てはないことは明らかである。
 世界中で3500万人以上、日本だけでも100万人を超える人々がうつ病で悩んでいる文明的原因は不平等感にあり、このままでは確実にうつ病患者が増え続けるであろうし、過剰なストレスホルモンが今後、うつ病だけでなく、いかなる形で心身を破壊するようになるかもわからない。
 打つべき手は一つ、不平等感の払拭に尽きる。

 今の社会はいかにして私たちへ不平等感を抱かせ、無用のストレスホルモンを発生させているか?
 固定した視点を少しだけずらしてみれば、あるいは色眼鏡を外してみれば、どなたにもすぐ観えるはずである。
 視点とは、色眼鏡とは、自由が一番という先入観である。

 あらゆる生きものにとって、自由に生きられること以上、快適なものはない。
 人間の歴史も、個人個人それぞれの自由の獲得をめざして進んできたのではないか。
 私たちにとって、自由に勝るありようはなかろうとさえ思われる。
 そして、平等は、平等に自由でありたいという考え方に吸収され、さらには、自由競争ができる〈機会の平等〉に限定された観念になっている。
 この思考によって社会の仕組みをつくってきた日本はおそらく、世界でもっとも平等に競争ができる社会になったのではないか。
 その一方、うつ病の患者数はここ20年でほぼ、2倍になった。
 うつ病発症の仕組みと競争社会の進展、そしてさまざまな格差の拡大を見れば、〈平等に競争した結果としてもたらされた不平等な状態〉が患者の倍増につながっていると考えられる。
 打つべき手は一つ、不平等の是正ではないか。
 
 ところで、ハートクリニック(町田市)さんのHPによれば、世界における精神疾患の状態は以下のとおりである。

○不安障害・気分障害・衝動制御障害・物質使用障害合計の人口に対する占有率
アメリカ合衆国   26.4%
ウクライナ     20.5%
フランス      18.4%
コロンビア     17.8%
レバノン      16.9%
オランダ      14.9%
メキシコ      12.2%
ベルギー      12.0%
スペイン      9.2%
ドイツ・中国の北京 9.1%
日本        8.8%
イタリア      8.2%
ナイジェリア    4.7%
中国の上海     4.3%


 日本はまだまだだいじょうぶ、ここでさらに叡智を結集して自由と平等のバランスをとれば、必ず、うつ病に悩む人々を救い、罹患者を減らせるはずである。
 そして、こうした現代文明の方向性へ一つの理想的モデルを示せるかも知れない。
 さらに言えば、生まれ変わり死に変わりするうちに、いきものとしての進化の方向が変わるかも知れない。

 自由とモノ金を相対的にたくさん持っている〈持てる者〉がさらに豊かになれば、相対的に〈持たざる者〉も、結果的に自由とモノ金に恵まれるようになり、〈持てる者〉へ近づけるという理論は怪しい。
 10を持っている者が100を持つようになった時に、1を持っている者が2を持てるようになったからといって、公正な社会と言えるのか?
 そうなる過程で生じる不平等感によって心身を病む者が生じる社会的マイナスは、どう評価されているのか?
 心身を病む人々の苦しみを放置しながら得られる豊かさとは何か?
 さらに言えば、実験でわかるとおり〈持てる者〉にもストレスが発生している。
 優越感・高慢心・無慈悲さ、あるいは怠惰や堕落はないか?
 これらはすべて煩悩(ボンノウ)であり、モノ金が無くても有っても煩悩ははたらく。
 だから、お釈迦様もお大師様も、王と民とへひとしく教えを説かれた。

 ここから先は宗教の世界へ入ってしまいます。
 今回は、科学が解明したうつ病発生のメカニズムに触発され、私たちの社会のありようを考えました。
 社会は仏法で言う器世間(キセケン…環境世界)の一部であり、そのありようは心のありように密接に関連しているので、つい、宗教者が出すぎたマネをしてしまいました。
 最後に一つ、うつ病対策としてつけ加えたいのは、〈自然への心身の解放〉です。
 作家C・Wニコル氏は、リチャード・ルーブが言い出した「自然欠乏症」に関する警告を盛んに発しておられます。
 10月22日付の河北新報は「自然に触れる教育 必要」において氏の言葉を紹介しました。

「自然とふれあう機会が少ない子どもには、成長過程で思わぬ障害が現れることがある。
 じっとしていられない、集中力がない、友だちとうまく遊べない、がまんができずかんしゃくを起こす。
 こうした症状を総称して『自然欠乏症(症候群)』と呼ぶ。」


 自然欠乏症を予防する心構えや行動は、ストレスが発生する状況に対して強い人格や、発生したストレスをうまく解消できる人格の形成に役立つような気がしてなりません。
 それは、祈りに通じているのではないかという感覚もあります。
 いずれにしても、NHKテレビが指摘するとおり、うつ病は、社会全体で考えねばならない病気なのだと思っています。




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2013
10.24

金色のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕陽の岡に ─与謝野晶子とソクラテス─

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20131024004 (2)
〈籠もって寺務を行っていたところ『山海里』さんから一尺ニンジンとジネンジョの差し入れがあり、感謝です〉

「金色(コンジキ)のちひさき鳥のかたちして銀杏ちるなり夕陽の岡に」(与謝野晶子


 イチョウの葉は、時が来れば群れて散る、少しの風にでも、あるいは風がなくても。
 与謝野晶子は、夕陽を浴びて黄色の葉にやや赤みが加わり、光を帯びながら不規則な動きで飛び交う金色の鳥に見立てた。
 イチョウの黄色と夕陽の橙色、そして、ヒラヒラと自在に舞い降りるのは葉か鳥か。
 この絵画のような一首は、明治38年に刊行された歌集『恋衣』にある。
 同歌集には有名な『君死にたまふことなかれ』も掲載されている。
 与謝野晶子の歌でもっとも有名なのは「やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君」だろう。
 燃えている身と心に触れてみるそぶりもなく淡々と道を説いているばかりの貴男──。
 三つの作品いずれにも、いのちの滾(タギ)りがある。

 哲学者ソクラテスは、理性の限りを尽くして、知恵や知識には底がないことを説いた。
 いかなる権力者も哲人も、この「無知の知」すなわち、「知らざるを知る」という地点の前では頭を垂れるしかなく、彼は凄まじい怨みや嫉妬や怒りをかった。
 自分も社会も偉いと思っていたのに、〈まだ知らないでいることごとがあることを知っていないではないか〉と偉さの根拠が崩されたのだから、当然といえば当然である。
 それでも彼は、デーモン(神霊)の忠告に耳をかたむけながら、正論と信じることを主張し続けた。
 アテナイの人々は彼を許さず、青年たちをたぶらかした罪と、アテナイの神々以外の神霊を信じた罪をもって死刑に決した。
 彼は従容としてこれを受け容れ、毒盃をあおぐ場所して、国賓クラスの人々用の栄誉に満ちた会場であるプリュタネイオンを望んだ。
 脱獄の機会を無視し、「単に生きるのではなく、善く生きる」者であり続け、「魂ができるだけ優れたものになる」ための道として裁判の評決を重んじ、死を選んだ。
 凄まじい、いのちの滾(タギ)りではないか。

 感性の人も理性の人も、つき動かされて表現し、主張する。
 今年は、托鉢時代の本堂があった聖地の入り口に残るイチョウのそばで、乱舞する金色の小鳥たちに出会う機会があるのだろうか。




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2013
10.24

NHKテレビ「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観て(その4)

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〈小雨の中、『法楽農園』をお守りくださる守本尊様周辺の整備は日々、続けられています〉

 NKHの番組に学び、うつ病発症のメカニズムを考えてきた。
 明らかになったのは、生き延びるための防衛本能としてスタートした扁桃体の仕組みが、集団生活をするほ乳類になり、言語を用いる人間になり、農耕によって安定的に生を営む文明社会を構築するに至って、過剰なストレスホルモンを生み、生命力を摩滅させる諸刃の剣となってしまったという事実である。
 もう一度、〈過剰〉となる状況を復習してみよう。

 第三の敵である記憶についてはどうか?

 人間は危険な目に遭ったできごとを記憶する力が高まり、二度と同じ場面に遭わないように気をつけることによって、より安全に生き延びる力をつけてきた。
 私たちは、幼子を熱いモノや切れるモノへ近づけないだけでなく、むしろ、早めに「あっ、熱い!」「あっ、痛い!」という体験をさせ、危険を察知する力が身につくよう導く。
 また、東日本大震災の後、古老から言い伝えられた犠牲や被害の記憶に照らし合わせて行動し、助かった方々がおられる。
 東日本大震災で被害に遭った建造物などを災害遺構として保存し、後世への教訓とする動きがあちこちにある。
 もしも記憶力が弱かったなら、何度でも同じ天敵や災害などにやられ、生まれてから一人で生きられるようになるまでの時間が長い人類は生き延びてこられなかったかも知れない。

 記憶がこうした〈同じ過ちを繰り返させない〉ための強大な助っ人なのに、恐怖や不安や悲しみや苦しみといったものが伴うできごとを思い出しすぎてストレスホルモンの攻撃を受けてしまうとはどういうことなのだろうか?
 確かに、前述の災害遺構に関しても、「目にするとフラッシュバックが起こって辛いから勘弁して欲しい」という立場がある。
 残すか、それとも残さざるか、現実は一つでしかあり得ないのに、私たちはこうありたいと正反対の希望を抱く。
 しかも、正当な希望を強く……。
 どうすればよいのだろうか?

 まず、「人は傷ついた記憶をよみがえらせることによって再び傷つく場合がある」という事実についての知識をなるべく広く共有することが大切なのではなかろうか。
 危機に反応する扁桃体も、記憶を司る海馬も種を保存するためにせっかく発達し、進化してきた一方で、私たちはその高性能なメカニズムをコントロールするための高度な知識と繊細な言動が求められている。
 皆が学ばず、無神経であれば、敏感な人から傷つき、足どりが重くなり、やがては共に生きて行くことが難しくなる。
 人類はすでに絆の中でしか生きられず、絆の中でこそ人間たり得る生きものとしてここまできた。
 私たちは、諸刃の剣を使いこなせるかどうか、試練の場に立たされている。
 
 知識、知見と思いやりがあれば〈内容のある話し合い〉ができる。
 我慢は欠かせないが、相手の我慢を想像する心さえあれば、やがては必ず折り合いがつくことだろう。

 報道のありようにも一孝が必要ではないか?
 より現実感を伴った画面やセリフを流したいと努力するのは当然だが、ものには限度がある。
 報道関係者も視聴者も双方に思いやりと想像力がはたらけば、これもまた、そこそこのところが見つかるに違いない。
 そうした〈ほどほど〉へたどり着くための良識を、私たちはまだ、失ってはいないはずだ。

 第四の敵である言葉についてはどうか?

 私たちは言葉によって情報を共有し、危機を乗り越えてここまできた。
 言葉を用いて考え、ブローカ野(ヤ)が性能を高めつつあらゆる文化を創ってきた。
(ウィキペデイアによれば、ブローカ野は「人の脳の領域の一部で、運動性言語中枢とも呼ばれ、言語処理、及び音声言語、手話の産出と理解に関わっている。ごく単純に言えば、ノド、唇、舌などを動かして言語を発する役目を負っている。」)
 言葉は人間を人間たらしめている最も貴重な道具である。

 しかし、「危険な目に遭った」と聞かされた時、「ああ、そうか。じゃあ、気をつけよう」と考るだけとは限らない。
 その恐ろしさに身震いし、あたかも現場にいるかのように扁桃体がはたらき、強いストレスホルモンが生じる場合もある。
 そして、ストレスホルモンの強さがあるレベルを超えればうつ病へと傾斜してゆく。
 私たちは実に高性能な生きものとなったが、性能をやや、持てあます面もある。
 この事態は、環境世界である器世間(キセケン)にも鏡のように表れている。

 便利な機械を作り、機会を動かす時、いのちを保つ空気が汚れる。
 道具を用いた意志の実現を望みながら、はからずも、道具によって傷つき、弱らされ、場合によってはいのちにもかかわる。
 環境汚染、原発事故など、問題はすべてこの二面性がもたらしている。

 対応としては、前述の〈記憶〉と同じではなかろうか。
 事実、実態と向き合い、知識、知見と思いやりを総動員するしかない。

 最終回の次回は、「平等」の問題を考えたい。




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2013
10.23

NHKテレビ「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観て(その3)

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 NKHの番組に学び、うつ病発症のメカニズムを考えてきた。
 明らかになったのは、生き延びるための防衛本能としてスタートした扁桃体の仕組みが、集団生活をするほ乳類になり、言語を用いる人間になり、農耕によって安定的に生を営む文明社会を構築するに至って、過剰なストレスホルモンを生み、生命力を摩滅させる諸刃の剣となってしまったという事実である。
 もう一度、〈過剰〉となる状況を復習してみよう。

 第一の原因である天敵についてはどうか?

 天敵はいつ、どこから襲ってくるかわからないが、自然の節理の範囲内ならば、適度に襲われ、適度に逃げられ、結果的に一つの個における生命体のバランスが保たれ、集団としての種も保たれ、地球上の巨大な生命体としての〈いのちの世界〉におけるバランスも崩れない。
 しかし、ゼブラフィッシュの実験で観るとおり、自然の節理にないような天敵との同居を強いられれば、個としての生命体は生存するためのバランスを崩し、その状態から逃げられなくなり、自ら死への歩みを早めてしまう。
 もしも、こうした状況が恒常的に起こるならば、種は絶え、地球上のいのちの世界のバランスにも乱れや歪みが生じることだろう。
 私たちの生活をふり返ってみよう。
 事件や事故に巻き込まれないよう、ほどほどに気をつけることによって日常生活が保たれる社会ならば、私たちは社会人としてのふるまいを保ちながら、安定的に生を営める。
 しかし、殺し、奪い、犯すといった犯罪が頻発するならば、あるいはテロが発生すれば、人の心も社会も動揺し、心身を病む人々は激増することだろう。
 テロや内戦の続く国々における人々、あるいは難民となった人々におけるうつ病の発生率などはわからないが、凄まじい状況ではなかろうか。
 防衛本能が過剰にはたらかずに済むよう治安が維持され、安定的に生きられる社会でありたい。

 第二の原因である孤独についてはどうか?

 集団の力でしか生きられないタイプの生きものにとって、孤立は即、死を意味する。
 人間社会も同様であり、電気も水道も電話も車も使わず、一切誰とも接することなく、社会と無関係に生き続けることはできない。
 たとえば自分が所有する山へ入り、文明の利器から離れた孤独な生活をするのは自由だが、法治国家の国民である以上、税金をはらうなどの義務からは逃れられない。
 人が皆、こうした社会内存在である以上、少子高齢化によって社会から切り離されつつある老人(特に、貧しい人々)の孤立孤独はとても難しい社会問題となっている。

 もう一つ、割合、気づかれていないのが、脳の特徴による孤立への傾斜である。
 アスペルガー症候群、高機能自閉症、摂食障害、性同一障害などは執着心が強すぎるタイプの脳によって起こるという説がある。
 もちろん、そうした脳の傾向は芸術や学問などの分野で目覚ましい成果をもたらす場合もあるが、社会生活においては困難を伴う場合が多い。
 そこに孤立的傾向が生まれ、孤独に陥る危険性がある。
 こうした悩みを持っておられる方々の心に特定のものや状態への執着心から離れられないという辛さや悲しみや苦しみがあるという学説には、体験上も深く納得しつつ、やるせなさが心を重くする。

 また、離職が一気に人間関係を断ち切る場合もあり、孤立無業者(SNEP)の状態が続けば、人間関係がますます構築できなくなりかねない。
 ネットで見つけた自称孤立無業者Aさんの言葉は胸に突き刺さった。
「貧乏人は低知能犯罪確率高くなる理由がよくわかるよ
 アプローチするほど避けられてアプローチしなければますます孤独
 ここを突破するには、考え方を変える必要があるのではないか?

 私たちは〈自分らしく〉生きたいと願い、〈自分らしさ〉を探そう、あるいは発揮しようと懸命になっているが、こうした心の出発点に問題がありはしないか?
 集団の力でしか生きられない生きものである人間は、古来から口にしてきた「おかげさま」「おたがいさま」の心をこそ出発点とせねばならないのではないか?
 むやみと〈自分探し〉へ走るのは、我執(ガシュウ)にとり憑かれ、本来の出発点から遠ざかる道だったのではないか?
 幻の〈自分〉を求めるこだわりは、前述の〈執着心が強すぎるタイプの脳〉へ近づく無用のエネルギーをもたらしてきたのではないか?

 戦争とは無縁で、豊かな環境を壊さず、豊かで多様な食生活を営み、平等に生きるハッザ族の人々がHNKの取材で語った言葉を再掲する。
 こうした言葉は、何度でも思い出したい。

「朝起きたなら、それだけで幸せです」
「不眠の体験はありません」


 老婆も言った。

「私は家族にとって価値のある人間です」


 誰も〈自分〉など探しはしない。
 キラキラしい文明の輝きはない一方で、格差も、孤独も、うつ病もない。

 カリフォルニア大学のジャレド・ダイアモンド教授は「(不平等をもたらした)農耕の採用は人類史上最悪の過ち」であると指摘するが、そうとばかり言えないのではないか。
 確かにこれまでの歴史はそう物語っていようが、農耕の恩恵を享受し、文明の恩恵に浴しながら格差や孤独やうつ病を克服する道を探しつつこれからの歴史をつくりたい。
 なぜなら、人間の歴史に価値の創造が伴ってきたことは確かだからである。
 日本人古来の合い言葉「おかげさま」「おたがいさま」に大きなヒントがあるように思えてならない。




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2013
10.22

NHKテレビ「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観て(その2)

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 当山の人生相談やご加持において最も多いのは、心の病気に関する問題である。
 ご自身がうつ病などを抱えてご来山される場合もあれば、ご家族が来られる場合もある。
 修法し、皆さんから個別具体的なお話をお聴きすると、原因についておおよその見当はつく。
 しかし、社会的現象として、なぜ、これほどまでに心を病む方、特にうつ病に罹る方が多くなったかについては釈然としなかった。

 専門家は「ストレスの多い社会になったから」と指摘する。
 では、半世紀前はストレスが少なかったか?
 どうしても、そうは思えない。
 中学校を卒業して間もなく、若者たちは「金の卵」と称せられつつ右も左もわからない東京へとかり出され、流れ作業のような仕事に就いた。
 営業担当者が根性を強める合宿にぶち込まれ、駅前で大声を上げさせられたりした。
 受験戦争も楽ではなかった。
 しかし、心の根を弱らせてしまった人々があちこちで苦しんでいたという印象はない。
 学校や企業に心の問題に対応する専門家が待機してはいなかった。
 学校では担任の教師が生徒と家庭の様子をよく把握し、学校で起こる問題のほとんどは、学校と家庭の信頼関係がベースとなって解決された。
 企業においては同僚や先輩や上司と語り合い、酒を飲み、脱落は防がれた。
 もちろん精神科はあっても社会に病人は少なく、病気になられた方々は、むしろ少数者であるがゆえに差別的な眼で見られる場合があり、家族の方々にも、できれば事実を隠しておきたいという気持があった。
 托鉢でお訪ねしたお宅に心を病んだ方がおられる様子はときおり眼にしたが、ほんとんど例外なくそこは孤立し、隔離された空間特有の湿り気を感じさせられた。
 半世紀前もストレスはあり、中には負けてしまう方々もおられたが、ごく少数でしかなく、心の変調を病気の段階まで行かせないための何かが、個人にも社会にもあったのではないかと思われる。

 NHKの「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」は、うつ病が発症するメカニズムを、素人にもわかりやすく解明してくれた。
 天敵に負けず生き延びるためのシステムが、作動する条件の多様化によって本来の目的以外の場合も作動してしまい、生き延びるという目的と反対の結果へと招きかねない状況になっている事実は、衝撃的である。
 人間は、叡智によってここを突破すれば、また進化の階段を一段、上れることだろう。

 NKHは、うつ病と無縁に暮らしている人々の存在を挙げ、メカニズムが作動する余分な条件を排除する方向について示唆はした。
 キーワードは「平等」である。
 平等に生きることが空気を吸うように当然と思われ、社会が公正に機能しているならばストレスは生じることなく、うつ病も発症しない。
 これは、今現在、地球上に現前している事実でる。
 一方、〈穀物を作り蓄える〉技術によって、メソポタミア文明の昔から貧富の差が生じ、それは工業や商業の発達に伴って拡大し、自由こそが最大の価値と考える世界観によって自由競争の原理はほとんど神格化されている。
 さらにグローバル社会は世界を股にかけた競走を激化させ、貧富の差は、個人的レベルで、集団的レベルで、国家的レベルで拡大の一途を辿っている。
 たとえば、貧しい国の医師が富んだ国へ移住すれば数倍もの収入を得られるため、優秀な医師の静かな大移動が起こりつつあるEU諸国の中では、深刻な医療格差が進行している。

 狩猟生活では〈蓄えられない〉以上、獲物は分け合って食べるしかなく、自ずから平等になる。
 しかし、農耕生活ではなまじ〈蓄えられる〉ために、蓄える意志と力のある権力者が生きる糧を独占する方向へと進み、あまり蓄えられない人々の生殺与奪の権を握るようになった。
 穀物を育てることによって人間がより安定的に生きられるようになるに従い、皮肉なことに心の平安をもたらす「平等」がどんどん失われてきた。
 そして、人間が生き延びるための脳のシステムは今や、激しい不平等によって恒常的に作動し続け、心から平安を奪うだけでなく、生き延びる力さえ奪おうとしている。

 何という逆理だろうか。
 しかし、私たちは、自分も自由競争によって勝者になれる可能性があるというニンジンを目の前にぶら下げられたからといって、敗者や弱者を見捨て切れるほど良心が摩滅してはいない。

 敗者となる可能性への不安と、一旦敗れた者へ事実上再チャレンジを許さない世間の酷薄さへの絶望が最も厚い暗雲となって社会を覆いつつある。
 良心の灯火とそれを消し去ろうとする暗雲との戦いにどうすれば勝利できるか……。




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2013
10.21

NHKテレビ「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を観て(その1)

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 10月20日、NHKテレビは、「病の起源 第3集」として「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」を放映した。
 生まれ変わったなら、今度は科学も本格的に学びたいと願っている身としては、理性の眼を覆っていた薄膜が科学のメスによって切除され、埋もれていた新眼が開いたという思いだった。
 以下、メモにより、番組を復習してみます。

 今、世界中で3500万人以上、日本だけでも100万人を超えるうつ病患者がいる。
 現代人の宿痾(シュクア)とも言うべき病気は、およそ700万年前の人類誕生まで、起源が遡(サカノボ)られる。
 人類は進化の過程でうつ病の原因を抱え込んできたが、今現在、うつ病とまったく無縁に暮らしている人々がおり、今は、〈かつて行っていた暮らし〉を生活に採り入れれば病気の克服が可能であることまで解明されている。

1 第一の原因は天敵

 うつ病にかかった人は、脳の一部が萎縮している。
 その原因は扁桃体(ヘントウタイ)にある。
(ウィキペデイアによれば、扁桃体とは、「アーモンド形の神経細胞の集まりで、ヒトを含む高等脊椎動物の側頭葉内側の奥に存在する。扁桃体は情動反応の処理と記憶において主要な役割を持つことが示されており、大脳辺縁系の一部であると考えられている。」)
 扁桃体の活動が強まると、恐怖や悲しみや不安が引き起こされる。

 今からおよそ5億2000万年前、人類の先祖である魚類は節足類を天敵とし、厳しい生存競争をくり広げていた。
 節足類は神経細胞が全身にばらけているが、魚類は身を守るために神経細胞が集中する脳を発達させ、扁桃体が生まれた。
 敵を察知すると扁桃体がはたらいてストレスホルモンを分泌し、全身の筋肉が活性化し、結果的に鋭い動きで敵から逃れられるのである。
 ここで天敵に対する防衛本能のはたらきが確立された。
 
 ゼブラフィッシュを天敵がいる水槽へ入れておくと、うつ病に罹る。
 入れた当初はさかんに逃げ回っているが、ある時期を境にしてほとんど動かなくなる。
 ストレスホルモンの分泌が止まらなくなると、脳の神経細胞がダメージを受け、うつ状態が生まれる。
 扁桃体が過剰にはたらく→全身へ過剰なストレスホルモンが分泌される→脳に及ぶとダメージを与えて栄養不足となる→脳が萎縮する→意欲や行動が低下する。
 つまり、扁桃体の暴走によってうつ病が発症するのである。


2 第二の原因は孤独

 魚類からは虫類、そしてほ乳類へと進化をたどる過程において、人類は扁桃体のおかげで生き延びたが、扁桃体は天敵以外にも反応するようになり、うつ病の新たな原因が生じた。
 
 チンパンジーは集団で暮らし、子供を育てるのも、敵と戦うのも、集団の力による。
 病気になったチンパンジーを長い間、群れから離しておいたところ、一日中室内で過ごすようになった。
 飼育している担当者は、「まるで幽霊のようです」と言う。
 孤独になると不安や恐怖が生まれ、扁桃体が激しく活動してしまい、うつ病になる。
 孤独ストレスを生じるのは、仲間との絆が強いタイプの生きものの宿命となった。

3 第三の原因は記憶

 およそ370万年前、アフリカのサバンナにいた人類は、猛獣に襲われるようになった。
 そこでは、恐怖の記憶が生き延びるために欠かせなかった。
 たとえば、ライオンの縄張りへ入り込み殺されそうになったことを覚えていればこそ、二度とそこへ近づかないようになる。
 扁桃体が激しく活動すると、記憶をつかさどる海馬(カイバ)もはたらき、記憶が生まれる。
 何度も恐怖の記憶がよみがえるうちに、現実は繰り返されていないにもかかわらず扁桃体が連動してストレスホルモンを生み、うつ病になる。
(ウィキペデイアによれば、海馬とは、「大脳辺縁系の一部である、海馬体の一部。特徴的な層構造を持ち、脳の記憶や空間学習能力に関わる脳の器官。」)

4 第四の原因は言語

 およそ190万年前、人類の脳にはブローカ野(ヤ)という言語をつかさどる部位が生じた。
 声を用いて情報を伝え合ううちに、他人から恐怖の体験について聞かされただけでも扁桃体が強く活動するようになった。

5 うつ病と無縁な人々の存在

 人類は、天敵孤独+記憶+言葉とうつ病の原因を抱え込んできたが、かつてはうまく対応し、うつ病に罹らなかった。
 アフリカのタンザニアに暮らす「ハッザ族」の人々は、今でもうつ病と無縁である。
 彼らは、暮らしぶりへの質問に答えた。

「朝起きたなら、それだけで幸せです」
「不眠の体験はありません」
「私は家族にとって価値のある人間です」(老婆の回答)


 狩猟を生活の糧とし、獲物を必ず平等に分け合う暮らしでは悩みもストレスもなく、うつ病は発症しない。
 彼らは言う。

「どんなに空腹でも、獲物を独り占めすることはありません」


6 うつ病の文明的原因は平等の消失

 およそ40万年前、集団の結束で狩りを始めた人類は平等だった。
 平等に生きる「ハッザ族」の人々は、いまだにうつ病を発症していない。
 お金を分け合う実験によると、自分のものと他人のものとが不平等であれば、損をしても得をしても扁桃体は激しくはたらくが、平等(公平)であれば、扁桃体は反応しない。
 人類はもともと、〈平等の精神〉を持っていたのでうつ病に罹らなかったが、それが失われてから発症するするようになった。
 不平等な社会になり、扁桃体を暴走させない仕組みもなくなった。


7 不平等社会の出現

 ペンシルベニア大学のミッチェル・ロスマン博士によれば、狩猟生活から農業を中心とした社会への大転換により貧富の差が生まれた。
 それは、穀物を権力に応じて分けるようになった遥かメソポタミア文明の遺跡にも明らかである。
 農耕を主とする文明社会によって平等が崩れ、人類は再び、うつ病への道を歩み始めた。

8 うつ病の克服法

 現代では職業の違いも、うつ病の発症と関係がある。
 専門職や技能職に就いている人々と、営業・事務や非技能職に就いている人々とでは、うつ病の発症率に2倍以上の違いがある。
 社会的立場によって、受けるストレスの強さがまったく異なる。
 人類自らが生んだ文明によって平等を崩し、うつ病を生む社会をつくってしまったのである。
 格差と不平等が広がる社会、人間関係の薄いたやすく孤独になってしまう社会では、恐怖、妬み、孤独感が蔓延し大きなストレスとなる。

 世界では、薬による治療法だけではなく、進化の観点からさまざまな治療法が用いられ始めている。
 ドイツの脳深部刺激法(DBS)では、ペースメーカーからの電流で扁桃体のはたらきをコントロールしている。
 生活改善療法であるセラピューティック・ライフスタイル・チェンジ(TLC)では、分け隔てのない仲間との付き合いなどによって著しい快癒が見られている。
 定期的な運動は萎縮した脳の神経細胞を再生させる。
 太陽と共に生きる規則正しい生活は、ストレスホルモンの分泌を正常化する。
 こうした〈人間本来の暮らし〉を採り入れることによってうつ病は克服されつつある。
 
 回復過程に入った患者Aさんは言う。

「人とのふれ合いにおいて挨拶はとても大切です」
「絶対トンネルから抜けられるはずです」


 うつ病は、社会全体で考えねばならない病気なのである。




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2013
10.20

真智の開発をめざして(その1) ─五智の教え・信じること─

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〈本堂正面の多宝塔〉

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〈多宝塔内で永久に祈られる善男善女の願いを込めたクリスタル如意宝珠〉

 当山はかつて、寺子屋の目標の一つとして「真智の開発」を挙げました。
 それは、人生の真実に基づいた智慧を磨きだしてゆくことです。
 それは、「おかげさま」と心底から思えない妄知(モウチ)と、「万事我がため」でしかない邪知(ジャチ)をはたらかせない道でもあります。
 どのようにしてそれは可能になるか?
 これから、師の伝授による五智の教えを25回に分けて記しておきます。
 
 師が説かれた「五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知邪知も消え失せます。

 さて、優しさは、〈信じる〉〈認める〉〈教える〉〈与える〉〈守る〉という五つの行為が円満にはたらく時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[1の1]優しさ信じる

 優しさは、相手へ柔らかく接する態度だけではありません。
 まず、信じられねば優しくなれません。
 ここで言う「信じる」とは、相手の言葉を鵜呑みにすることではありません。
 相手の言葉や態度に〈真実が顕れている〉と信じ、相手を〈向こう側〉へおかずに接することです。

 たとえば、「いないはずのものが見える」「聞こえないはずのものが聞こえる」といったとても多い人生相談においては、「お化けはいません」「神の声は錯覚でしょう」と笑ってしまわず、見えたり聞こえたりしている事実をそのまま認め、そこには必ず相手にとっての真実があると考えています。
 ここから出発しない限り、いかにニコニコと接しようが、真の優しさを持った対応にはなりにくいものです。
 もちろん、何もかも「そうですよね」とそのまま認めてしまうのではなく、時として、強く否定する必要性もあり、たとえ顔をしかめられても、医師へ相談するようお勧めする場合もあります。
 相手にとって辛い真実は、何によってもたらされたのか?
 生まれの因縁、育ちの因縁、生き方の因縁、あるいは家庭環境、社会環境、また運気の乱れや目に見えぬものの障りなど、無責任な判断ができないので、当山では、必ず袈裟衣をまとい、ご本尊様の前でのみ対応しています。
 未熟な行者である住職は、電話口でただちに即身成仏(ソクシンジョウブツ)しながら対応するなどの芸当はできず、もちろん、世間話としての無責任な受け答えなどできようはずはありません。
 ご本尊様と一体になる法を結ばない限り人生相談という法務をこなせず、ご来山いただくようお願いしています。

 さて、信じれば観えてくるものがあり、そこから相手との共同作業が始まります。
 たとえば、苦の状態が病気の領域に入っているかも知れない時、病気であることを恥じたり、隠したりする必要はないと認識してもらわねばなりません。
 そもそも、病気にならない人は一人もいません。
 病気になったことのない方が突然、パッタリと亡くなられても、死亡診断書には病名が書き込まれます。
 どこにも何の異常もないのなら、亡くなるわけはありません。
 病気になりたい人は一人もいないにもかかわらず、私たちは、いつ、どんな病気に罹るかわからず、もちろん、選べず、治療は罹ってからしか始まりません。
 予防法としての健康法をどうやっているかは別として、私たちは常に受け身です。
 だから、いかなる病気であろうと、それは生きものとして、人間としての宿命であるととらえる視点が大切です。
 これまで、多くの方々から「なぜ、よりによって私が、こういう病気になってしまったのだでしょうか?」と投げかけられました。
 神ならぬ身には、大それた受け答えはできません。
 ただ、根本的には、「それは人間であるがゆえに」といったところへ、ご本人がご自身の力で近づかれるよう祈りつつ、細心の注意を払って対話しています。
 
 ご加持が必要と思われる場合もあり、ご本人からご祈祷を依頼される場合もあります。
 いずれもプロとしての行者が行う法務ではあっても、一つの事実、一つの真実へ立ち向かうという点においては、依頼者との共同作業です。
 決して「あなたに憑いたものを私が祓ってあげましょう」ではありません。
 必ず「この状況を何とかしたい」と一緒に願い、祈りを共にして、祈ります。
 それは信じていなければできません。

 信じるとは、相手にある真実を相手のものとしてそちら側や向こう側へ置かず、人間にとっての真実として共有する心持(ココロモチ)です。
 昨今、いかなる統計でも、結婚相手へ求めるものの第一は優しさであると発表されています。
 相手へ求める優しさとは何であるか、相手から求められるに値するいかなる優しさが自分にあるか……。
 真智の開発を掲げた頃は、寺子屋の対象を子供たちと考えていましたが、諸事情により、現在、寺子屋へ集われるのはほとんどが大人の方々です。
 寺子屋を縁として、また、ネットを縁として、大人がより、み仏の世界へ近づけば、その言動や背中を見る子供たちも又、きっと、よい方向へと変わってくれることでしょう。
 このシリーズが自分をふり返るきっかけになれば幸いです。




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2013
10.19

水に溶け、土へ還る人間 ─縄文土器と自然墓─

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 当山の自然墓は深い穴になっており、底が空いている。
 上に墓石はなく、穴は土に覆われ、土は植物たちに包まれている。
 左側に立つ山桜がやや覆い被さり、右側には常緑の高野槇が天を目ざして立つ。
 正面で合掌すると、草むらの向こうには七つ森の主峰、笹倉山が横たわっている。

 酒井健氏が「縄文のコスモロジー」に書いている。

「何百年か前に人間の遺体が納められたはずの大きな甕を開けてみたら、中には静かにが漲っていた。
 底の方に透きとおったがあるばかりで、も髪もみな溶けて、遺体を思わせるものは何もなかった。
 人体は最終的にはに帰る。
 数年前にかなり年配の方から聞いた話だ。
 真偽のほどをあれこれ考えるより、いい話だなと率直に受けとめたのを覚えている。」


 氏は、長野県茅野市の尖石縄文考古館で縄文土器の説明を受けた。

「縄文時代の住居跡から、あるいは集落中央の広場らしきところから、大ぶりの甕が発見された。
 とば口の面が当時の地面と同じになるようにして垂直に埋められていた。
 逆さの恰好で、つまり底が上にくるようなかたちで、埋められていたものもある。
 いずれの場合も甕の底部は欠落していた。
 完成品の底部を切断したらしい。 
 底なしの深鉢型の甕だった。
 地面から甕のなかへ、そして土のなかへ、文字どおり筒抜けの状態だったわけだ。
 ただしそのとば口には、あるいは上向きにされた底なしの底部には、しばしば平たい石で蓋がされていた。」


 遺などはまったくないが、この甕には嬰児や幼児の遺体が何体も納められたと考えられている。
 氏は思う。

を含んだ大きな土器の土、その下の土が、遺体の肉を、を髪を、へ帰していった。
 何百年かして縄文人たちは、そのを恵みの水として口に含んでいたはずだ。
 彼らは自然界の大きな循環をよく知っていたし、自分たちがそのなかに置かれていることに自覚的だった。」


 この時代の土器には、水煙や水紋の装飾が多く、縄文人が水へ畏敬の念を持っていたことがうかがわれる。

 晴れた日に自然墓の前に立つと、笹倉山は限りなく優しい。
 どっしりした姿が安心感をもたらしてくれる。
 雨の日に自然墓の前に立っても、笹倉山は限りなく優しい。
 植物たちへ降りそそぎ、土へ染み込む雨が、無限の受容を感じさせてくれる。

 人間の胎児は、体重の90パーセントが水である。
 生まれてまもない頃は75パーセント、大人は60~65パーセント、年をとれば50~55パーセントになるとされている。
 何のことはない、身体は水を蓄えた器なのだ。
 こうした視点で考えると、火葬とは、それまではたらいていた水を腐る前に天地へ還し、器も腐る前にいったん水から分離し、自然の水によって溶かされて土へ還る準備をするようなものである。
 腐敗を見るに耐えられないのは人間の情である。

 降った雨が生きとし生けるものを潤し、地上を流れ、地中へ浸透し、地上や川や海から蒸発して雲となり、また私たちの頭上から降りそそぐ大いなる水の循環の中に生きているというイメージ。
 そして、頭や手足などとしてはたらいてくれている格が白いおとなり、還って行く大地はどっしりした笹倉山の一部でもあるというイメージ。
 こうした想像はどれほど私たちの心に穏やかなものを生じさせることか。

 形あるお墓へ思いを託すのも一法、自然へ溶け込み消えてゆくままに任せるのも一法、ここに文化がある。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2013
10.18

高貴なものと神聖なもの ─被災地で出会った焚き火、炊き出し、古老のこと─

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 津波に襲われた海辺の町へ人を探しにでかけた時、人々は体育館や神社などで暮らしていました。
 それぞれがミニ集落のようで、どこか粛然とした気配がありました。
 皆さんはそれぞれ、凄まじい心の沈み込みや動揺を抱えておられるはずなのに、急に出現した小さな社会は静かに統一が保たれています。

 ある体育館では、入り口の履物が揃えられていました。
 ボランティアとおぼしき方々が忙しそうにたちはたらき、小さな子供たちもいるのに──。
 こちらが襟を正させられる思いでした。

 ある神社の境内地には、移動中の集団が野営でもしているような雰囲気がありました。
 男たちは手にした道具で降った雨など水路をつくり、薪を集め、女たちは掃除や炊き出しに精を出していました。
 長老格とおぼしき数人が目を配る様子は、まるで映画の一コマでした。
 
 Aさんの安否を尋ねました。
 長(オサ)とおぼしき古老と数人が一言二言やりとりをし、たちまち判明しました。
 道路が寸断され、電話も公共交通機関もマヒしている人口数十万人の町で、都市部で暮らしていた家族の避難先がわかることは小さからぬ驚きでした。
 やがて数十年ぶりで巡り会った知人と握手した時の感触は、自分の右手を眺めると今でもよみがえる思いです。

 最近、手にした原広司氏著『集落の教え100』にこんな一節を見つけました。

高貴なるものと、神聖なるものとを峻別せよ。
 集落には、高貴なるものは必要としないが、神聖なるものがなかったなら集落は成立しない。」


 たちまち、曇り空の下にあった焚き火と炊き出しと古老たちを思い出しました。
 天災で〈失った人々〉が素(ス)のままで肩を寄せ合った時、自然に発生した秩序や協同などを支えていたのは、まぎれもなく〈神聖な何ものか〉でした。
 お互いが失った者同士であり、着ものをまとってはいても、裸同然であるのは同じです。
 そこになぜ、混乱と正反対の状況が生まれたのか?
 少なくともあの境内地においては、古老の存在が決定的な意味を持っていたように思われます。
 尋ね人が見つかったことで推測できるとおり、普段、町内会などの組織がはたらき、お互いに顔の見えるおつき合いが成立していたことも、もちろん、大きなポイントです。
 しかしそれは、必要条件ではあっても、十分条件ではないと思われます。
 あの場における古老叡智は、ご先祖様や神々や自然につながる神聖な何かを含んでいたのではないでしょうか。

 津波の被災地では、家々が建ち並ぶ前に、手作りの御輿などを担ぐお祭が早々と復活しました。
 都市部で企画された子供たちの御神輿担ぎが、信教の自由を妨げるからと潰されてしまうような〈さかしらな心〉がはたらく余地などありません。
 人が集まり一体となって生を営む時、きっと「神聖なるもの」は欠かせないのです。
 それは人に宿り、自然に宿り、社寺に宿っています。
 私たちは、原広司氏の言う「成立しない」はずの空間で生きる時、心身にさまざまな障りが発生するのではないでしょうか?
 高貴なものと神聖なもの──。
 よく考えてみましょう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2013
10.17

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その64)─誉める・叱る・抱きしめる─

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 寺子屋などで江戸時代まで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

「胎外に生れて数年(スネン)
 父母の養育を蒙(コウム)る  
 昼は父の膝に居て
 摩頭(マトウ)を蒙(コウム)ること多年(タネン)  
 夜は母の懐(フトコロ)に臥(フ)して
 乳味(チミ)を費すこと数斛(スコク)」


父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』は、我が子が生まれた時、両親はどんな思いになるかを示しています。

「既(スデ)に生まれて、草上に墜(オ)つれば、父母の喜び限りなきこと、猶(ナ)お貧女の如意珠(ニョイシュ…願いを叶える宝珠)を得たるがごとし。
 その子、聲(コエ)を発すれば、母も初めて此の世に生まれ出でたるが如し。」


 子供が生まれた時の喜びは、まるで、貧困に喘ぐ女性がどんな宝ものをももたらす宝珠を手にしたようなものです。
 そして、おぎゃあという泣き声を聞けば、まるで、自分自身がこの世へ生まれ出たような気持にもなるというのです。

 胎外へ生まれ出てからは何年も父母に育てられます。
 人間は生後最も自立できない生きものであり、立ち上がって両手を使えるようになるまでは約1年を要します。
 野山などの自然界にあっては、食物連鎖と弱肉強食の掟がこんな悠長な生育を許しはしません。

 父親から頭をなでてもらうことが象徴的にとりあげられています。
 なぜでしょうか?
 私は、ご来山されるご家族に小さなお子さんがおられる時は、極力誉めるようにしています。
 修法中に静かにしていれば、終わってから「よく、おとなしくしていたね」「あっ、合掌していたんだね」などと声をかけます。
 修法中に騒いでいれば、「元気だね」「この勢いですくすく育ってね」などと声をかけます。
 そして、タイミングが合えば、軽く頭をなでます。
 ほとんどの場合、本人はくすぐったそうな、照れくさそうな顔になりますが、ご両親などは「和尚さんに誉めてもらってよかったね」「また、誉めてもらえるように、良い子になろうね」と笑顔で励まします。
 中には、次回にご来山のおりに、「この前、住職さんに頭をなでてもらってから、とても良い子になりました」と報告してくださる方もおられます。

 自分が幼少の頃のできごととして頭をなでられた記憶は残っていませんが、父親や、先生や、先輩といった〈自分より明らかに人間として上の人〉から受ける誉め言葉は、いつしか強い導きの力になっていたのかも知れません。
 当山では、5年前、広島在住のAさんから、ご自身が小学生の頃、『ほめほめ便り』があったことを教えていただきました。
 生徒は「こんな嬉しいことがありました」「こんなことをしたら喜んでもらえました」などと校長先生へ便りをしたためます。
 すると校長先生が「それはよかったね」と必ず返事を書き、「ほめあいだより」として貼り出すのです。
 そのおりの紹介文です。

「かつて、O小学校に奉職しておられた校長S先生は、手紙を通じて児童たちと感動体験についてやりとりをしておられました。
 その内容は校長室前へ『ほめあいだより』として掲示され、一人の善き行動、善き言葉、善き思いが、たくさんの人びとに共有される宝ものとなっていました。
 先生の退任に伴い、PTAが『ほめほめ集』を発刊し、その偉業を讃えました。
 当時小学生だったXさんは、今でも先生との交流を大切に心の引き出しへしまっておき、時折引いては、『あの頃願っていたように生きよう』と決意を新たにしておられます。」


 校長先生は「あとがき」に書いておられます。

「『ほめほめ』は、叱ることをやめよということではない。
叱る』と『ほめる』は物の裏と表の関係であって、叱ることがあるからほめることが成りたつのである。
 古人が『七つほめ三つ叱れ』と言っているように、できるだけほめることを多くしたいというのが、ほめほめの心である。
 涙して、だきしめながら叱ることのできる親は、ほめることについても名人であるはずである。
 ただ怒ることだけは絶対に避けたいものである。」


 校長先生や父親の誉める力と叱る力は、共に慈悲から生じる観音様の微笑と不動明王の忿怒そのものです。

 一方、母親は抱きしめ、乳を与えます。
 それだけではありません。
 やはり『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』が説いています。

「爾來(ソレヨリコノカタ)、母の懐(フトコロ)を寝處(ネグラ)となし、母の膝を遊び場となし、母の乳を食物となし、母の情を生命となす。
 飢えたるとき、食を需(モト)むるに、母にあらざれば哺(クラ)わず、渇(カワ)けるとき、飲料を索(モト)むるに、母にあらざれば咽(ノ)まず、
 寒きとき、服(キモノ)を加うるに、母にあらざれば着ず、暑きとき、衣を撒るに、母にあらざれば脱がず。
 母、飢に中(アタ)る時も、哺(フク)めるを吐きて子に啗(クラ)わしめ、母寒きに苦しむ時も、着たるを脱ぎて、子に被(コウム)らす。
 母にあらざれば養われず、母にあらざれば育てられず。
 その闌車(ランシャ)を離るるに及べば、十指の甲(ツメ)の中に、子の不浄を食らう。
 計るに人々、母の乳を飲むこと、一百八十斛(コク)となす。
 父母の恩重きこと、天のきわまり無きが如し。」


(生まれてからは、母親のふところを寝床とし、母親の膝を遊び場とし、母親の乳を食べものとし、母親の情けをいのちとします。
 空腹になれば、母親に食べさせられ、喉が渇けば、母親に飲ませられます。
 寒い時は母親に着せられ、暑い時は母親に脱がせてもらいます。
 母親は、自分が空腹に耐えても、我が子へ口に含んだ食べものを与え、自分が寒さに耐えても、我が子へ自分の着ものを着せます。
 母親でなければ養育はできません。
 揺りかごから離れる頃には、我が子の指を口へ含み、爪にはさまったものをとってやります。
 母親は180石(コク…ドラム缶160本ほど)もの乳を我が子へ与えます。
 こうした父母(ブモ)の恩の重さは、天空が果てがないのと同じように無限なのです)

 誉めてくれる、叱ってくれる、抱きしめ、乳を与えてくれる父母なくして、人は人間として育ちません。
 現代では、両親が揃っていない家庭も少なくありませんが、そうした場合も大人たちは、父親に代わり、母親に代わって真剣に子育てをしておられます。
 育てられ、いのちをつないでいるいかなる人も、必ず、こうした父親としての、母親としての思いをかけてもらい、手をかけてもらってこそ、今のいのちがあります。
 父母の恩を忘れないようにしたいものです。
 ちなみに、仏道では、恩を忘れず戒めを守ることがあらゆる修行の出発点となっています。
 社会の恩、親や先祖の恩、生きとし生けるものの恩、師の恩、仏法僧の恩を忘れれば、仏道は歩めません。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
10.16

理想の護持会をめざして ─寄進の案内と理解と批判と感謝とお詫び─

20131016法楽寺図解のコピー

 ご寄進のご案内をめぐるできごとの顛末です。

 当山は今年の初夏、自主的護持会である「ゆかりびとの会」会員の方々などへ、「みやぎ四国八十八か所巡り道場」の趣意書をお送りしました。
 内容は以下のとおりです。

一 なぜ『みやぎ四国八十八か所巡り道場』を造ろうとしているのか

 当山は、托鉢行によって開基した寺院です。住職が托鉢の途中でご縁の皆様からお聴かせいただいたお話はすべて、開基の方向性にかかわり、将来にわたっての全体計画をも強く左右しています。
 住職の耳に残るお話の中で忘れられないものの一つに「四国八十八か所のお詣りに行きたいけど、行かれない」があります。
 お祈り後のよもやま話で、ご高齢の方やお身体が弱い方などへ四国霊場の様子をお伝えすると、皆さんは目を輝かせられました。
 だから、住職は、「いつか必ず、地域の方々が近くでお詣りできる八十八か所巡りの霊場を造ろう」と決心していました。
 住職の霊場への思いは、櫻井恵武著『四国名刹』へ掲載された文章に尽くされています。

「憧れの四国八十八霊場では、動けなくなった方を再び歩ませる加持力の確かさや、心に貼りついたものを切り放つ因縁解のお慈悲に涙する得がたい体験をした。
 霊場は行者にとって永遠の別世界である。
お遍路さんの誰にでも、み仏の異次元世界がありありと存在することを感得させ、迷いや苦界から救いの菩提心へ還る道を開く四国八十八の霊場は人類の宝ものです。
 その世界を目の当たりに観られる『四国名刹』が、戦乱止まない地球上の人々へ、争いの究極的解決法として〈曼荼羅の心〉を起こさせるよう、四国八十八霊場のご本尊様方とお大師様のご加護を心より願ってやみません。合掌」
「88Shikoku's Hallow Temples bring each pilgrim to realize that there certainly exists the world of Buddha in a different dimension,and they also open each one the way which leads to the saving family mind out of the bitter world of disillusion and pain.
 They are a real treasure of human beings.
 One can see this world in "Shikokumeisatu'famous tenmples"with your own eyes.I cannot stop praying for the aid of Odaishi-sama(our leader)that this reminds the people on the earth with continuous wars of "mandara mind"as the ultimate solution of conflict.
  Hands in pray」

二 『みやぎ四国八十八か所巡り道場』のこれまでの歩みは?

 平成二十二年、青森県在住の方のご助力により、仙台市泉区に八千坪の土地を用意し、平成二十三年夏に造成を始めました。
 しかし、新しく開基した寺院の自力だけではなかなか進みません。
 そもそも、托鉢行のおりに、住職がもっともたくさん耳にし、当山の根本方針を決定づけたのは、皆さんがお布施に関連して悩み、怒ってもおられるという実態でした。
 だから当山は、ご葬儀や戒名についてもお布施の数字を一切示さず、「何を造るにも、寺院としての理想の旗を掲げるのみで、形となるかどうかは皆さんのご誠心へお任せする」姿勢一貫で、今日まできています。
 平成二十二年には、皆さんと共に真の布施のあり方を考えるべく「檀家』宣言」を行い、サポーターの方々は自主的に入会が自由な『ゆかりびとの会』を結成され、当山をお護りくださっていますが、無理なお布施依頼はまったく行っていません。
 しかし、「行きたいけれど行けない」方々が、いつでもお詣りできる聖地を造ろうという志がみ仏のお心に叶うものならば、必ずいつか完成するものと信じています。

三 『みやぎ四国八十八か所巡り道場』の現況は?

 おかげさまにて順路が完成し、守本尊の地蔵菩薩様と六か寺分のお堂が建ち、参道を護る石柱も建ち始めました。
 東日本大震災で犠牲になられた方々の御霊をご供養する角塔婆も建立し、祈りました。
 もうすぐ、あと一か寺分のお堂が姿を現します。
 しかし、まだ、全体の十分の一にも達していません。
 善男善女の皆さん、ぜひ、ご助力ください。
 ぜひ、後代へ残る積善を実践されますよう。

三 『みやぎ四国八十八か所巡り道場』の内容は?

1 場所   宮城県仙台市泉区福岡字菅の崎三 約八千坪の南東に向いたなだらかな丘です。
2 礼拝所数 四国八十八か所分と高野山で八十九宇(ウ)
3 礼拝施設 高さ約一・八メートルの石堂内へご本尊様をお祀りし、足元には、住職が四国八十八か所を巡拝したおりの砂を納めます。
4 ご志納金 まごころのままに
5 ご芳名簿 『一か寺分五十万円』なので、その分がまとまり次第建立し、お堂の横へ皆様のご芳名のみを列記します。
  もしも五十万円をお納めになられる場合は一宇の石堂へ刻むご芳名はお一人となり、もしも三十万円の方と二十万円の方がおられればお二人となり、もしも十万円の方が五名おられれば五名となり、一万円の方が五十名おられれば五十名となります。
  また、参道外側に立てられる石柱は『一本五万円』で、ご芳名と願い事と建立年月日が刻まれます。
  土中に埋めた石材からピンを通した頑丈な造りで、参拝する方々をお守りします。
6 ご寄進法 ご賛同いただける場合は、左記の口座へのご送金をお願い申しあげます。
       ○七十七銀行吉岡支店 普通預金  5446007
       ○ゆうちょ銀行    店名 八一八(ハチイチハチ) 店番 818普通預金 3028612
       ○古川信用組合吉岡支店 普通預金 3383332


 おかげさまにて、たくさんの方々のご理解、ご助力をたまわり、その後、堂宇も石柱も順次、造られています。
 しかし、一部の方々から、直接的、間接的に「こうした寄進集めは法楽寺らしくない」といったご批判を受けました。
 理想の旗を掲げ、あとは皆さんのご判断へお任せしている以上、いかなる強制もありませんが、それでもなお、受け止め方は、その方その方によってさまざまです。
 そこで、秋には、以下の説明分をお送りしました。

謹啓

 さしもの猛暑も遠のき、ススキが揺れ、すっかり秋らしくなってきました。
 ご縁の皆様におかれましては、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 常々の当山へのご誠心に、あらためて、心より感謝申しあげます。

 さて、過日、当山よりお送りした『みやぎ四国八十八か所巡り道場』の趣意書につき、今般、貴重なご意見をいただきましたので、ここに、当山の本意を明確にしたいと考え、本状をお送りいたしました。

 まず、趣意にご賛同され、ご助力をいただいた方々へ、心よりお礼申しあげます。おかげさまにて、道場の整備は一段と進み、ご来山の方々から道路や内容に関するご質問もいただくようになりました。
 また、もしも、趣意書を読んで不快感や、当山の姿勢への疑念や不信を抱かれた方がおられましたならば、住職である私の責任であり、心よりお詫び申しあげます。本状の主意はこちらにあります。

 当山がご縁の方々へ趣意書をお送りしたのは、何よりも本計画の内容と価値を具体的に知り、賛意を持たれたならば、無理のない範囲でのご助力をいただきたかったからに他なりません。
 決してご縁の方々へ頭割りのお布施依頼をしたつもりはなく、文章にもそのことは明確であろうと存じます。
 むしろ、広く、詳細にお知らせしないことこそ怠慢であり失礼であると考え、『ゆかりびと』や『法楽』をお送りすることに準じた責務の感覚を持ちながら発送したのが真実です。
 事実、『ゆかりびとの会』の役員会において、完成予定の時期を訊かれ、「ガウディの未完の教会ではありませんが、何百年かかろうと、理想が真実のものならばきっと完成するはずです」とお答えしています。
 しかし、今回、「トップである住職から直々にこうした書面が届けば、『住職が直接、自分へはたらきかけてきている』と感じ、『一体、どうすればよいか』と大変なプレッシャーになっている場合も想定されます」とのご意見をお聴きし、気づかないでいた問題に、はっとさせられました。
 掲げた理想の旗についてご説明申しあげたあとは、皆様の自由意志へ完全にお任せしたつもりなのですが、入り口で心理的問題が生じてしまえば、もう、内容や自由意志どころではなくなります。
 長期的になることを厭わないと趣意書で表現しなかったことも、混乱を招いた一因と思われます。
 当然ですが、お一方お一方へ無理をさせても資金を調達しようなどという意図はまったくありません。
 こうした姿勢はこれまでも、今後も、まったく変わりないことをはっきりと申しあげ、今後、同様な行き違いが生じないよう万全を尽くす所存ですので、今回の件については、どうかご容赦をたまわりたく存じます。

 また、数名の方々との対話を通じて、皆様の感覚と私の感覚にあるズレにも気づかされました。
 皆様は何よりも安定した法務の遂行を願っておられるようですが、私は祈りの中へ訪れる理想に導かれ、皆様より半歩前へ出ている関係上、必ずしも皆様全員にその理想へのご理解やご納得をいただかないうちに、ことを起こしてしまいます。
 今後、この面でのバランスもよく考え、何としても皆様からのご信頼にお応えしてゆきたいと願っています。

 最後に、今回、もしも、お心にひっかかりができた方々におかれましては、真意をご理解たまわり、一日も早くお心が安らかになられますよう、お祈り申しあげます。
 皆々様へのみ仏のご加護を祈りつつ擱筆させていただきます。



 この手紙に対しても、直接的、間接的に、さまざまなご意見をお寄せいただきました。
 多くは「真意がよくわかり、安心しました」といったものであり、「批判はあまり気にせず頑張れ」とのお励ましもありました。
 中でも、最も心惹かれ、勇気づけられたのはAさんから面と向かって言われた言葉です。

「過日、住職からいただいたお手紙の内容は、大変よく理解できます。
 法楽寺が、全体主義的でない、とても健全な運営をされていることはすばらしいと思います。
 応援しています」


 千金にも値するお励ましでした。
 胸に刻み込み、役員会でもご披露申しあげました(もちろん、匿名です)。
 おかげさまにて、「ゆかりびとの会」も、「檀家宣言」を行った当山も、また、一歩、前進できました。
 会員の方々、どうぞ今後も、当山へ忌憚のないご意見をお寄せいただきますよう、心よりお願い申しあげます。
 夏から秋へかけてのできごとにつき、立冬と芋煮会を前に、整理させていただきました。
 会員皆々様へのご加護を重ねて祈っております。合掌




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2013
10.16

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その63)─いのちの神聖さをつかむ母親─

20131012009.jpg

 寺子屋などで江戸時代まで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

「白骨はの淫
 赤肉(シャクニク)はの淫
 赤白(シャクビャク)二諦(ニタイ)和して
 五体(ゴタイ)身分(シンブン)と成る  
 胎内に処すること十月(トツキ)
 身心(シンシン)恒(ツネ)に苦労す」

  
 骨格も血肉も、親の精子と親の卵子との結合によってできあがります。
 白は親の精液、赤は親の経血を象徴する色です。
 諦は真理や真実を意味し、男性の精子と女性の卵子という絶対的なものの合体によってしか、いのちは生まれません。
 液体の中にいる数億個の精子と数十万個の卵子のうち、一対一の和合がたった一組だけ生じ、新たないのちが育まれることは途方もないできごとです。
 ここで説く「諦」と「和」の二文字の持つ意味をよく考えましょう。

 五体とは、身体を頭・首・胸・手・足の五つの部分に分ける考え方です。
 だから、頭まで地面につける五体投地(トウチ)という礼拝は、身体のすべてを地へ伏すことにより、身心のすべてをみ仏へ捧げる誠心の表現法です。
 身分の「分」は「分際」であり、ここで言う「身分」とは、一つの分量を持ち、他から独立した確固たる身体という意味です。

 親の胎内にいる期間は十月十日(トツキトオカ)と称されます。
父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』は説きます。

「はじめ胎(タイ…胎)に受けしより、十月(トツキ)を経(フ)るの間、行・住・坐・臥(ギョウ・ジュウ・ザ・ガ…歩いても止まっても座っても寝ても)、ともにもろもろの苦悩を受く。
 苦悩休(ヤ)む時なきがゆえに、常に好める飲食(オンジキ…飲食物)・衣服を得るも、愛欲の念を生ぜず、ただ一心に安く産まんことを思う。
 月満ち、日足りて、生産(ショウサン…出産)の時いたれば、業風(ゴウフウ…因縁が熟した力)吹きて、これを促し、骨節(ホネフシ)ことごとく痛み、汗膏(アセアブラ)ともに流れて、その苦しみ耐えがたし。
 も身心戦(オノノ)き恐れて、母と子とを憂念(ユウネン…心配)し、諸親眷属(ショシンケンゾク…近親者や家を手伝う人々)みな悉(コトゴト)く苦悩す。」


 今でこそ、安産はほとんど〈普通〉のできごとと受け止められていますが、わずか2、3世代前までは、母子共に、文字どおりいのちをかけた大事業でした。
 妊娠から出産に至る大変さは当事者にしかわかりません。
 それでも、周囲の人々がおもんばかり、無事を祈る心はいつの時代も変わりません。

 世の母親たちは、こうしたところを通ってきているので、自分のいのち、我が子のいのち、そして生きとし生けるもののいのちに関する感性が強いのではないでしょうか。
 滅ぼされたインデイアンの酋長が言い遺した『酋長シアトルからのメッセージ』にある言葉です。

「母は、わたしにこんな話をした。
 この大地にあるものはみな、わたしたちにとって神聖です。
 松の葉。砂浜。暗い森にたちこめる霧。
 草地も、羽音をたてて飛んでいる虫たちも。
 みんな、わたしたち一族の思い出のなかに、
 神聖なものとしてあるのですよ。」


 苦しみに耐え、いのちがけで新たないのちを生み、育んだ母親がつかんだ「神聖さ」という感覚──。

20131016003.jpg
〈豪雨にもめげず、濡れネズミになって玄関前へ朝食を摂りに現れたミケ子〉

「胎内に処すること十月(トツキ)
 身心(シンシン)恒(ツネ)に苦労す」
 この一節を忘れないだけでも、人の道から逸れずに生きるための強い導きとなるのではないでしょうか。




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2013
10.15

お祖母ちゃんの建墓

20131012010.jpg

 秋晴れの日、お墓の開眼納骨の修法を行いました。
 ご近所にある仙台市営いずみ墓園では時折、鋭い鳥の声がするだけです。
 陽射しと気温にはまだ、充分過ぎるほど夏の気配が残っているのに、ふと、音も立てないでやってくる風には晩秋の爽やかな冷気を感じます。
 夕刻となった園内に人の気配はなく、結界の九字を切る声が明確な木霊となって返ってきます。

 眼前に黒々とそびえ立つ堂々たるお墓は、まさに、あの世の〈家〉そのものです。
 すべてが終わり、ご夫婦へ「ご安心されましたね」と声をかけたところ、津波の被災地から来られた方々でした。
 家はすっかりなくなり、お墓は何とか残ったけれど、とうとうこうした決断をされたとのこと。

 それまで拝んでいた墓石を一部だけでも移動する方が結構おられるので、イスに腰掛け、しゃがんだ石屋さんと話し込んでおられるお祖母さんを目の端に入れながら、尋ねてみました。
「よく、すっかり新しくされましたね。
 津波に負けなかったものを使おうということにはならなかったですか?」
 ご主人の答は意外なものでした。
「お祖母ちゃんが、すっかり新しくしなさいと言ったのです。
 そして、スポンサーになってくれました。
 とても私たちだけでは造れませんでした」
 寄り添った奥さんが感に堪えないような目をしながらウンウンと頷いておられます。
 お墓を守り、先祖供養を後代へ伝えて行こうとするご夫婦へ、この建墓がどれほど大きな安心と喜びをもたらしたことか──。
 そして、ご先祖様を守ってきたお祖母ちゃんが、新天地での新たな出発に気持を切り替えて臨もうとしていることは、若い世代へどれほど勇気を与えたか。
 また、若い世代の負担を少しでも少なくしてやろうと相当の資金を出されたであろうお祖母ちゃんは、無言のうちに「この先は、しっかりおやり。私はお前たちを信じているよ」と語りかけておられるのではないか。

 帰り際、何の曇りもないカラリとした表情で腰掛けているお祖母ちゃんにしゃがんでご挨拶しました。
「お天気もよかったし、今日は、本当に安心されましたね。
 どうぞ、お元気で過ごされますように」
 私をやや見下ろす形で、こちらの目を覗き込むようにしながら言われました。
「おかげさまで。
 私の時も、和尚さん、お願いしますよ」
 そして、破顔一笑されました。

 昨日読んだ新聞の記事を思い出しました。
「子供たちの体力は落ちてきている。
 若い人たちの収入は伸びない。
 わりあいゆとりのあるお年寄りの体力も寿命も延びている」
 無我夢中ではたらいた世代が家やお金を残すだけでなく、建墓によって若い世代へ手を差し伸べ、同時に心もつないでゆくことができるならば、はたらきづめだった人生に消えない充実感が一つ、加わるのではないか。
 そう思いつつ車を回し、近くのお墓へお約束していた塔婆を立て、まだ若くして逝った方の御霊へ祈りました。
 棹石のてっぺんにトンボが止まり、微音で唱える般若心経を聴いています。
 私が踵を返すと同時に、彼女も又、どこかへ消え去りました。
 視力に限界があるというのは面白いものです。
 トンボは煙になったのではありませんが、まるで、突然、空から降りて来て、空へ溶け込んでしまったように見えます。
 もしも、人間の目が高性能なロボットのように今の何千倍もの視力を持ったなら、神経はとうてい、ついてゆけないことでしょう。
 ほどほどに見聞きしつつ生きていられるのはありがたいことです。

 目にも足にも自分の老いを感じる機会が増えたことに心で苦笑しながら、思いました。
「さっきのお祖母ちゃんの目や耳はどんな具合かな」
 



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2013
10.14

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その62)─いい親だから親なのではない─

20131012007.jpg

 江戸時代まで寺子屋などで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

「父のは山より高し
 須弥山(シュミセン)尚(ナオ)下(ヒク)し  
 母の徳は海よりも深く
 滄溟(ソウメイ)の海還(カエ)つて浅し」


 少なくとも団塊の世代までは、「父のは山よりも高く、母のは海よりも深いという」という考え方を知らない人はいなかったはずです。
 たとえ、須弥山や滄溟の海を知らなくても。

 ちなみに、須弥山とは、古代インドの世界観に登場する世界の中心にある山です。
 中腹では四天王(シテンノウ)が守り、頂上には帝釈天(タイシャクテン)がおられます。
 お大師様は高野山を巨大な蓮華の花と観じ、中央に伽藍(ガラン)を配置して聖地を整えられました。
 チベットではカイラス山を須弥山、周囲の山々を諸菩薩(ボサツ)に見立て、聖地での祈りを深めてきました。
 私たちにとって須弥山とは、想像し得る限り最も高く、気高い山というイメージです。

 滄溟の滄は、深い青色で、溟はものの見分けがつかないような暗さです。
 だから、滄溟の海とはどこまでも青く、果てしなく深い大海のことです。

 はてしなく高い父親の、はてしなく深い母親のとはいかなるものでしょうか?
 本居宣長(モトオリノリナガ)は、『古事記伝』において、「世の識者」を批判しています。
 今のものの考え方や、自分の理屈という色眼鏡を通して古事記を読み、そこから都合良く寓意や教訓などを読み取ろうとするので、「神代の妙理(タエナルコトワリ)の御所為(ミシワザ)」がわからないというのです。
 そうではなく、ただ、無心に古事記を読み、神々の御所為(ミシワザ)が〈現在〉としてたった今、顕れていることを感得してこそ、古事記を読んだことになるというのです。
 春夏秋冬の移り変わりも、人々の身の上に起こる吉事も凶事も皆、古事記に示されたことごとが連綿として今につながっているところを観なければなりません。
 私たちは、父親と母親をもこのように観たいものです。

 どういうことか?

 たとえば、父親が厳しくても、怒りっぽくても、飲んだくれでも、それは、父親だけではありません。
 人は皆、あるいは男は皆、神代の時代からさまざまな性格や行動で生き、心といのちを私たちへ伝えてくださったのです。
 男の子は、そこに自分と同じものを感じるかも知れないし、違ったものを感じるかも知れません。
 しかし、大切なのは、山へ連れて行ったり、お小遣いをくれたりする父親〈だから私のお父さん〉という自分にとってどうかという視点だけでなく、そこに連綿として時間を超えてきた〈人間〉を観て、〈自分もそうなんだ〉という実感を持つことが最も大切です。

 母親に対しても同じです。

 そうすれば、自己中心的に、自分の都合から親を好きになったり、嫌ったりという短慮で親との距離を決めたりはしなくなることでしょう。
 父親がいつもたくさんお金を稼ぎ、母親がいつもたくさん料理をつくってくれるとは限りません。
 あまり稼げなくても、あまり料理をつくれなくても、父親は父親であり、母親は母親です。
 人は、男は、女は、できたりできなかったり、あるいは何かがあったりなかったりしながら、心といのちをつないできたのであり、それは、男の子にとっても、女の子にとっても、同じことなのです。

 父親がいつもむっつりしていると嫌う前に、自分を省みてみましょう。
 母親がすぐにプンプン怒ると嫌う前に、自分を省みてみましょう。
 父親や母親を映す心の鏡に、自分をも映してみましょう。
 そうすると、父親も母親も自分も、いいところもあり嫌なことろもある同じ人間だという気がしてくるはずです。
 そうすると余分なものがとれて、自分を守り、育ててくれている特別な存在としての親そのものが観えてくることでしょう。
 自分へかけてくれている厚い思いそのものがまっすぐに感じとれることでしょう。
 ああ、ありがたいと心から思えれば、ここで説くの高さも深さも本当に理解できるはずです。

 人はずうっと生きてきたのです。
 父親も母親も、私たちより一歩先にこの世へ現れ、その縁で私たちがいます。
 ただ、一歩先に生まれたからという理由で、後に生まれた私たちを本気になって守り育ててくれます。
 私たちがたとえ、親孝行であっても、親不孝であっても。
 ただ、ただ、ありがたいというしかありません。(親不孝を重ねた私などは特に……)
 古人は、その気持を須弥山(シュミセン)にたとえ、滄溟(ソウメイ)の海にたとえ、「早く気がつきなさいよ」と教えてくださったのではないでしょうか。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
10.13

第四十五回寺子屋『法楽館』 「ガンの渡りとふゆみずたんぼ」 ──多様性を守り共生する道──

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 10月12日、恒例の寺子屋において、シンポジウム「ガンの渡りとふゆみずたんぼ ─多様性を守り共生する道─」を行いました。
 パネリストは「日本ガンを保護する会 ラムサール・ネットワーク日本」の会長である呉地正行先生です。
 当日の講義の内容については、あらためて詳しくまとめますが、最後の「生きものの賑わいは、なぜ必要か」というところで引用された『酋長シアトルからのメッセージ』が強烈な印象でした。
 シアトルは、今から200年以上も昔、アメリカ大陸へ侵入してきた人々によって土地もいのちも奪われたアメリカインデイアンの酋長です。

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 先生は、[安定した生態系]を大切さを説かれました。

「父はわたしらにこうって聞かせた
 わたしらは大地の一部だし、大地はわたしらの一部なのだ。
 いいにおいのするあの花たちは、私らの姉妹だ。
 クマ、シカ、大わワシ、私らの兄弟だよ。
 岩山の峰、草原、ポニー……
 みんな、同じ家族なのだ。」(「酋長シアトルからのメッセージ」より)


 示された図にあるのは、文字どおりの円満世界です。
 ここにあるのは、まぎれもなく自然との共生があり、それは神道のアニミズムであり、仏教の「おかげさま、おたがいさま」でもあります。

 同じく、[安定した生態系]において次の文章を示されました。

「わたしたちは知っている
 血が人をつなぐように、すべての存在は網のように結ばれあっていることを。
 人は、このいのちの網を織りなすことはできない。
 人はわずかな網のなかの一本の糸、だから、命の網に対するどんな行為も、自分自身に対する行為となることを。」(「酋長シアトルからのメッセージ」より)


 ここにあるのは、インド神話における帝釈天が織りなすインドラ網の感覚であり、心理学者ユングが晩年にたどりついた仏教のマンダラ思想です。
 私たちができることは、せいぜいが網の利用であり、無限のつながりがある網そのものを創り出すことはできません。
 そして、誰もが決して単独の存在者ではあり得ず、ひと言のつぶやきですら必ず何かの原因となるのです。
 マンダラの網は同時に、原因と結果を結ぶ糸でもあります。
 思いやりから発する「あの人の病気が早くなおりますように」は、やがて強い思いとなり、言葉となり、行動となり、自他を深い慈悲の世界へ誘うかも知れません。
 憎しみから発する「あいつめ!」は、やがて強い思いとなり、言葉となり、行動となり、自他を傷つけ合う修羅の世界へ誘うかも知れません。

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 先生は続いて、[不安定な生態系]の恐ろしさを説かれました。
 示された図にあるのは、たくさんのいのちたちへ与えられていた本来の場所が空白となり、いびつになった世界です。

「亡き祖母の声は、こう語った
 おまえが教わってきたことを、おまえの子らに教えなさい。
 大地はわたしたちの母であることを。
 大地にふりかかることはみな、大地の息子とむすめにも、ふりかかるのだということを。」(「酋長シアトルからのメッセージ」より)


 ここでは、因果関係の網が人間対人間の世界だけではなく天地万物をも網羅して漏らさないことを示し、網は、空間と同時に、時間の世界でも無限に連なっていることを示しています。
 お釈迦様が前世と現世と来世を説かれたのも、同じ理によります。
 もしも、私たちが空へ汚染物質を吐き出し、地を、水を毒薬で穢すなら、その報いは自分へふりかかるだけでなく、子々孫々へも恐ろしい影響を与えかねません。
 そして肝心なのは、こうした教えが先祖から子孫へと伝えられるべき叡智であることです。 

 同じく、[不安定な生態系]において次の文章を示されました。

「建てることや所有することへのきりのない欲求のために、
 私たちは、かえって、持っているもののすべてを失いかねない。」(「酋長シアトルからのメッセージ」あとがきより)


 かつて、私たちは、湿地を埋め立てて田んぼにし、やがて、国策によって一部を放棄し、その過程で明らかに[不安定な生態系]をつくり続けてきました。
 また、果てしなく山野を町にと造り替え、その過程で明らかに[不安定な生態系]をつくり続けてきました。
 しかし、今、その実態が明らかになりつつあります。
 明らかになった問題点を放置すれば、つまり、貪婪な消費社会の飽くなき欲求のままに生きれば、「すべてを失いかねない」のです。
 7月10日、産経新聞は米マサチューセッツ工科大学から発せられた警鐘を報じました。
「中国の華北で1980年まで実施されていた暖房用石炭の無料配布政策に伴う大気汚染で、華北の住民の寿命が華南に比べ5年以上も短くなった」というのです。
 影響を受けた住民は5億人に上り、奪われた寿命は25億年分とされています。
 そして、今現在、中国の各地では、健康な人ですら防毒マスクを手放せなくなっています。
 それでもなお、山村を潰してマンション群をつくり、農民から田畑を奪って都市の住人に仕立て上げ、世界中から食糧を買い集めるだけでなく、アフリカ各国を自国の田畑にしようとしています。
 こうした隣国の状況を見聞きするにつけても、私たちは、いち早く[安定した生態系]の構築へと文明の舵をきらねばならないと思われてなりません。
 あちこちで政治的、軍事的緊張が高まる中、国民の食糧を国内でまかなえることがいかに大切かということもまた、見直されねばならないのではないでしょうか。

 消えそうになったシジュウカラガンも、消されそうになった酋長シアトルからのメッセージも、私たちへ重大な真実を告げています。




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2013
10.12

利休の真剣勝負に思う ─変えられるものへの責任─

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 ある日、利休が紹安(ショウアン)の掃除を眺めていました。
 紹安は我が子、場所は路地です。
 
 掃除の終わった紹安がホッとした頃、利休は叱りました。
「充分ではない」
 さらに二時(フタトキ…4時間)あまりもかかって再び念入りに掃除をした紹安は報告しました。
「父上、もう私にはこれ以上、何もできません。
 庭石は三度洗いました。
 石灯籠や庭木には、よく水を撒きました。
 苔も生き生きして緑色に輝いています。
 地面には、塵一つ、木の葉一枚、ありはしません」
 宗匠は威厳に満ちた表情で叱りました。
「ばか者、路地の掃除はそういうふうにやるものではない」
 そして、庭へ降り、一本の樹木を揺すりました。
 紅色の木の葉は、塵一つない庭一面に散り敷きました。

 利休の美意識がみごとに表れたできごとですが、私たち市井の民にとっても、考えさせられるところが少なくありません。
 見え、聞こえ、匂う私たちの外界は、生きものである人間が生を営む環境でもあります。
 ちなみに、仏教では、環境世界を器世間(キセケン)と言います。
 人間も、ネコも、キリギリスもすべて、生存を許された〈器〉の中で生まれ、死んでゆきます。

 人間以外の生きものたちと人間にとって、器のありようは大きく異なります。
 彼らは能力の許す範囲で器を選び取るしかありませんが、人間は自分の生存に合わせて器を造り替えることができます。
 渡り鳥も回遊魚も、生存に適した器が破壊されれば現れなくなり、器が地球上のどこにもなくなれば絶滅するしかありません。
 今日(10月12日)のシンポジウム「ガンの渡りとふゆみずたんぼ」のパネリスト呉地正行先生は、雄大な地球を器とし、人間とは異次元の尊厳に満ちた生を営むガンたちと、その器を無自覚に破壊し、生存を危うくさせて恥じない人間の愚かさに気づかれ、数十年の年月をかけて器の確保と改良に努めてこられました。

 さて、小さな路地といえども、そこは器世間であり、器世間から目や耳や鼻に届く情報は、私たちの心のありようを左右します。
 また、心のありようによって器世間の様態は変わります。
 利休にとって、器世間との関わりは常に、自分の心との関わりであり、二十四時間が真剣勝負だったのでしょう。
 なぜ、勝負なのか?
 それは、自分が変えられるもののありようは、自分に責任があるからです。


 作家村上春樹氏はよく、文筆家の「誠実さ」に言及します。
 ブログ「傷ついた日本人へ(その23) ─心の変容、たとえば村上春樹の場合─」に書いたとおり、久しく離れていたジャズについて『意味がなければスイングはない』を書く際、こう考えたそうです。
「僕は一人の誠実な──そう思いたい──音楽のレシピエントとして、また同時に一人の職業的文筆家として(ここでは誠実さは当然の前提条件になる)、音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないかと思いなすようになったのだ。」
 真の創造的行為から誠実さは欠かせません。

 利休が常に器世間誠実に真剣勝負をしていたことが、まだ、紹安にはわかっていませんでした。
 しかし、この衝撃的な指導法によって紹安は目が醒めたのではないでしょうか。

 利休も、村上春樹氏も、自分が変えられるものについては自分に責任があるという誠実さを強烈に自覚し、誠実でない行為は断じて行いません。
 私たちも、学ぶべきところがあるのではないでしょうか。
 





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2013
10.11

傷ついた日本人へ(その23) ─心の変容、たとえば村上春樹の場合─

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 被災地を訪れたダライ・ラマ法王が高野山で行った講演の概要が『傷ついた日本人へ』という本になりました。
 皆さんと一緒に、要点を考えてみましょう。

 前回は、ここまで学びました。
 
「生まれてくることは苦しい。
 それは煩悩が原因だ。
 煩悩がなくなれば苦も消える。
 そしてその方法は存在する。」

「この真理のとおりに煩悩による妨げや障り『煩悩障(ボンノウショウ)』を断滅し、そのとらわれから解き放たれることを『解脱』といいます。」

 今回は、この先へ進みましょう。

「解脱というとどこか遠くの世界へ抜け出すようなイメージがあるかもしれませんが、これはあくまで本人の心のなかの現象です。
 心が変容し、解脱するのです。」


 ままならない現実からどこか遠くへ逃げ出してしまうのが解脱ではありません。
 情報の受信装置でもある心が変われば、世界はこれまでとは違った姿でたち顕れます。
 たとえば、身障者の介護をし、いつも心から手を差し伸べている人は、どんな人混みの中にも助けの必要な人を見いだすそうです。
 そして自分の手が役立てば、よりいっそう、見分ける力がつくことでしょう。
 心が変容すれば世界が変容し、世界の変容につれて心も又、変容を進めます。

 作家の村上春樹氏は、子供の頃から音楽鑑賞と読書に熱中していたそうです。

「図書館にあった主要な本はほとんど読破してしまった。」
「ゆくゆくは文学か音楽を職業にしたいと希望していた」


 そして、「シナリオ作家になりたくて、大学の映画演劇科に入った」けれど、「自分には文章を書く才能は基本的にない」と考え、「朝から晩まで音楽を聴いていられるじゃないか」とジャズの店を始めました。
 しかし、「自分がただの作品の受け手(レシピエント)であるということが、だんだん不満に感じられるようになってきた」らしく、「何かが物足りない」と思えるようになり、29才で「ふと思い立って小説を書き、そのまま小説家になって」しまいました。
 氏はそれから「ジャズを敬して遠ざけ、クラシック音楽とロックばかり」聴きながら作家活動を続けましたが、書いているうちに、変化が起こります。

「音楽について語りたいという心持ちが、僕の中で次第に強くなってきた。
 僕は一人の誠実な──そう思いたい──音楽のレシピエントとして、また同時に一人の職業的文筆家として(ここでは誠実さは当然の前提条件になる)、音楽についてそろそろ真剣に、腰を据えて語るべきではないかと思いなすようになったのだ。
 それはたぶん、僕の中で何かが心理的に一段落したからなのだろう。
 何が一段落したのか、細かいところまではよくわからない。
 でもそういう手応えのようなものがたしかに自分の中にある。」


 そして、あらためてジャズと向かい合います。

「これまでの人生を通じて、いろんなかたちで切々と(あるいはにこにこと)聴き続けてきた音楽を、あらためて系統立てて聴き直し、あたかも自分自身の心の軌跡を辿るがごとくそれを整理し、腑分けし、もう一度自分のものとして立ち上げていくことは、僕にとってはなかなか興味深く、味わい深いおこないでもあった。」


 ここに、名著『意味がなければスイングはない』が生まれました。
 
 氏は、「まともな学校教育を受ける機会もなく、まわりに正しい大人の導き手を見いだすこともできなかった」「ブロンクスのスラム出身の、やせこけた一人の少年」が「ストレスと恐怖を克服するために、手近にある薬物とアルコールにすがらないわけにはいかなかった」とし、天才的テナーサックス奏者スタン・ゲッツの音楽とヘロインの歴史を追いました。
 その末尾近くで書いています。

「僕としては、西も東もわからないまま、一本のテナーサックスだけを頼りに、姿の見えぬ悪魔と闇の中で切りむすび、虹の根元を追い求め続けた若き日のスタン・ゲッツの姿を、あとしばらく見つめていたいような気がする。
 彼の素早い指の動きと、繊細なブレスが奇跡的に紡ぎ出す天国的な音楽に、何も言わず、あるときには何も思わず、ただ耳を傾けていたいのだ。
 そこでは彼の音楽があらゆるものを──もちろん彼自身をも含めて──遥かに、凌駕していた。
 それは共時的な肉を持つ、孤絶したアイデアである。
 それは欲望の根に支えられた形而上的な風景である。」


 氏の、聴いた時代と読んだ時代、そして聴いた時代、そして書いた時代、そして、聴きつつ書いている時代が、よくわかります。

 私たちもまた、何に打ち込むかによって心が変わり、心が変わると見えてくる世界も変わります。
 怠惰に流されているだけの生き方でなければ、螺旋階段を登るように、時の経過と共に人生が成熟し、見える世界の奥行きが深まります。
 そしてさらに、人生は芳醇なものとなってゆきます。

 さて、ダライ・ラマ法王は、み仏に成ることをめざす行者として、歩を進めます。
 貪りや怒りなどという煩悩の障りが消えただけでは、まだ不完全です。

「この時点での解脱はまだ完全ではありません。
 全てが『空(クウ)』だとわかり、実体にとらわれることがなくなったとしても、この世の真理が見えるようになったわけではないからです。
 この全てを知ることのできる智慧を『一切智(イッサイチ)』といい、一方でそれを妨げようとするものを『所知障(ショチショウ)』といいます。
 よく『煩悩障の残りかす』と表現されます。」


 空を知り、自分を縛るものがなくなっても、まだ完成ではありません。
 私たちは、生きているうちにさまざまな概念(ガイネン)をつくり、溜め込み、〈自分の概念〉という限られた道具を用いてしか、世界と接することができないからです。

「この状態では、世界の全容、あらゆるしくみ、そういった究極のレベルの景色はまだ見えません。」
「煩悩を断ち切った後、さらに所知障も滅しなくては、修行は完成しないのです。」


 途方もない話で、私たちは「こりゃとても無理だ」と修行をやめたくなるかも知れませんが、ダライ・ラマ法王は言われます。

「もちろん、私もこの段階にはありません。」
「仏陀はこの世界の全てを悟ったものですが、私はとてもそんな高い境地に達していません。」


 でも、法王も私たちも修行を続けます。
 それは、希望があるからです。
 どんな希望か?
 人は皆、み仏の子である以上、すべてみ仏の心を持っており、それを、その人なりに輝かすことは誰にでもできるからです。

「仏陀になる可能性は誰にでもあります。
 この可能性を『仏性』といいます。
 いくら煩悩にまみれていても、それは実体という幻によって引き起こされているだけで、心自体が汚いわけではないからです。
 心に巣食っていた煩悩という汚れが取れれば、もともとのきれいな心が現れます。」


 私は体験上、こんなイメージを持っています。
「空(クウ)を考えず、煩悩の直視を避ければ、煩悩はますます固くこびりつき、空を考えて煩悩の直視を続ければ、煩悩はいつの間にか透明になり、なくなってしまう」
 たとえば、鈴木沙彩さんを殺した池永チャールストーマス容疑者の周辺に空(クウ)を話す体験者がいれば、あそこまでは行かずに済んだのではないでしょうか。
 失恋が人生の肥やしとなり、やがてはときめきだけが幽かによみがえる芳しい思い出となるか、それとも、執着心のエネルギーによって自他を切り裂いてしまうか。
 失恋の時点における分かれ道では行きつ戻りつできるし、行く先の地獄も極楽もよくはわかりませんが、〈その先〉は、あまりにも遠く隔ったものとなります。
 煩悩は不思議です。
 放置すれば勝手にまといつき、見すえれば消えて行きます。
 般若心経を唱え、「これは煩悩だ」と省みましょう。
 煩悩が消え、心が変わり、世界が変わり、生き方が変わります。
 少なくともそこまでは、誰もが行けるはずであると信じています。




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2013
10.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第143回)「仮設住宅では死にたくない」(2)─

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 10月7日夜、福島県郡山市において、福島県富岡町社会福祉協議会にある生活復興支援センター『おだがいさまセンター』から来られた青木氏のお話を聴講させていただいた。
 そのおりのメモである。 
 
 今、富岡町民の13・5パーセントは仮設住宅、54・5パーセントは借り上げ住宅、32パーセントは県外に住んでいる。
 東京には最多の800人、次いで神奈川県の400人というふうに、町民は全国すべての都道府県に分散して住んでいる。
 普段の行政は行政区ごとに全てが行われており、それが完全に崩れたのは過去にない異常な状況である。

 平成24年、町民の電話帳を作った。
 1万5千人、8千世帯すべてへ紹介したが、電話帳記載を承諾したのは2千世帯のみだった。
 ただプライバシーを守りたいというだけでなく、避難先で始まっている実際の生活との関係において、さまざまな問題もあった。
 現在、第二版を作成中だが、拒否した人から、なぜ載せてくれないのかという苦情が入ったりもしている。

 25年3月25日、富岡町は、避難指示解除準備区域、居住制限区域、帰還困難区域に三分割された。
 前の2区域は9時~15時までの間は自由に入れるが、水道は止まったまま、ゴミも出せない。
 最後の区域は立ち入り禁止のままである。
 道路は一時的に歩けても、自分の家は線引きの向こう側なので玄関も開けられないといった状態である。
 いろいろ言われるが、町の実態は、政治家がポロッと口にしたとおり「死の町」である。
 見える家や道路は、あの時のままに在るが、人影はない。
 野生化した牛や豚やイノブタなどが町を闊歩している。
 仔牛を産んだ母牛が死に、仔牛が明らかに他の牛から乳をもらっている光景を見た。
 牛は本来、自分の子供にしか乳を与えない動物である。
 それなのに……。
 死の町に日々、増え続けているのは汚染土である。
 人はおらず、汚染土は堆(ウズタカ)く積まれている。
 どの家もネズミにあふれている。
 除染したからといって、いったい、誰が、家を元通りに使い、住むことができようか。

 あの後、田んぼはセイタカアワダチソウに占領された。
 翌年、増えすぎたアワダチソウは、ものの見事に消え、今年は柳の根がしっかり張っている。
 たとえ除染されても、田んぼを元どおりに使うことはいつ、できようか。

 2時間だけの帰宅が初めて許された時、笑うに笑えない悲喜こもごものできごとがあった。
 平等に与えられた袋に入るだけのものしか持ち帰れない。
 CDを入れようとする夫や、生活に役立つものを入れようとする妻や、あるいは位牌を入れたい人もいて、混乱した。
 ようやく家の前までたどりついても、巨大な牛が玄関前にいたり、動物の糞があったりしてどうにもならないケースもあった。
 だから、帰宅できて掃除した人も、せいぜい、家を倉庫として使うしかないのが実情である。

 今、生活復興支援センターである『おだがいさまセンター』を解散しようという声もある。
 しかし、阪神淡路大震災では、3年経過してからの孤独死が目立った。
 まだ、町民は皆、不安を抱えたままであり、解散できない。
 避難所で始まった「生きがい教室」もまだ続いている。
 新たに「語り部事業」も始めた。

 最も気がかりなのは子育て中の家庭である。
 センターの職員が訪ねても出てこないケースが多々、ある。
 周囲から特別な目で見られたくないから、そっとしておいて欲しい、という声がある。
 これからは、次の人生を歩むしかないから構わないで欲しい、という声もある。
 しかし、もしも何かにつまづいた時、親や祖父母や友人から離れており、どこへ相談に行くのか、自分たちを追いつめてしまわないか、本当に心配である。

 郡山市にある学校で暮らす富岡の子供たちの悩みは、家がせまい、自分の部屋がない、友だちと話せないなど、深刻である。
 しかし、富岡の学校へ戻りたいと願っている子供たちは、わずか、15パーセントしかいない。
 震災から1年後に子供たちは詩を作った。
 切れ切れのメモである。
「あの日から1年 私たちは大好きなふるさとから離れてしまった」
「今やりたいことは おいしい給食が食べたい」
「富高は一つの合い言葉」
「私たちにあるのは希望です」
 富岡高校はサッカーとバドミントンとゴルフが強い。
 プロサッカー選手や、女子サッカー選手やプロゴルファーを輩出している。
 全国に散った選手たちは、肩身の狭い思いをしつつがんばっている。
 バドミントンの桃田賢斗選手などは、ハンディキャップをものともせず、世界チャンピオンになった。
 しかし、富岡高校の校舎へは入れない。
 校舎内には、何もかもが、あの日のまま残されている。

 青木氏は訴える。

何も解決してはいません!
 何も終わってはいません!

 とにかく知っていただきたい。
 福島は今も特別な状態です。
 何一つ手つかずで、どうしようもない人々が今も日本のあちこちで生きているのです!」


 お寺も墓地も使えず、亡くなった方々のお骨は住職のマンションにある。
 お墓参りもできず、お年寄りは呻く。

「こんな状態では死ぬに死ねない」
仮設住宅では死にたくない」


 こうした結果となり、2年半経ってなお、膨大な数の被災者たちが辛い状況に置かれたままである。

 質問の時間となり、お訊ねした。
富岡町民の方々は今、原発に対してどうお考えなのでしょうか?
 最大公約数的なところで結構ですので、お教えください」

アンケートをとったりはしていませんが、恐らく、原発を再稼働してもらいたい人は、一人もいないでしょう。
 浜通りには大学が一校もなく、大きな地元の産業もなく、若者たちの就職先にも恵まれてはいません。
 だから、多くの若者は地元に残らないのです。
 そうした地域に原発ができて、学校で10番以内といった優秀な生徒たちが東電へ就職し、地元に定着しました。
 とても嬉しかったのは確かです。
 しかし、東電からのお金は県へ入り、富岡町へ直接入るのではありません。
 町民には、一年に一度、電気料の中から1万円前後が戻されるだけです。
 確かに原発は雇用の場ではありましたが、私たちが受け入れたのは、安全の保証という交換条件があったからです。
 町民の間では『何かあったら、東電へ逃げろ』とまで言われていました。
 何があってもだいじょうぶであるという町民への〈安全教育〉は実に徹底していました。

 今、町民の怒りは、何かあったらどうするのかということを東電も国も、事実上、起こりえる現実としてほとんど考えてこなかったことに対して向けられています。
 事故の終熄や、安全の確保などが大きな声で宣言されていますが、多くの町民は、こう思っています。
『そう主張するなら、国会議員がまず住んでみたらどうか』
 私自身は、他国のことはいざ知らず、地震の多い日本に原発は要らないと思っています。
 確かに電気料は上がりましたが、すべての原発が稼働していないのに、あれほどの酷暑となった真夏でさえ電力の使用制限は必要なく、今日も、日本中に電気が届いているではありませんか」


 重い機材を持ち、人気(ヒトケ)のない駐車場までお送りした。
 車へ乗り込みつつ顔だけをこちらへ向け、きっぱりと言われた。

「──これは大きな罪ですよ」


 白く薄い照明の下で目にした青木氏の強張った表情と会場では見せなかった深い眼光は忘れられない。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2013
10.09

これでいいのか?仮設住宅とカジノ構想

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 信徒Aさんから届いたお便りの一部である。

「先日も、原発事故補償を受けている人たちに対する厳しい言葉を聞きました。
 お金に浮かれ高級車に乗ってパチンコに行く人達と、お金より故郷を返せと思う人達が、外から眺める人達から一括りにされている現実に、差別区別の欠片をみました。
 もっと突き詰めると、高級車に乗ってパチンコにいく人達も、事故で故郷を奪われなければ、そんな生き方をしないで済んだのかもしれませんし、同じ経験をしないで彼らを語る資格があるのだろうか。。とも思いました。
 私がとりくんでいる問題も、裏にあるのはお金お金お金・・・・であることが、はっきり見えております。
 うんざりです。
 道具に過ぎないお金に、踊らされ続ける我々は、実に哀しい生き物ですね。」

 10月8日付の産経新聞は報じた。

「2020年の東京五輪開催決定から1カ月がたち、観光客を呼び込み大きな経済効果があるとされるカジノ構想が熱を帯びてきている。
 各国から多くの観光客が集まる五輪を好機ととらえ、構想を推進する国会議員連盟は今秋の臨時国会で法案の提出を目指す。」


 法案は、「カジノだけではなく会議場や展示場、宿泊施設なども備えた総合的なリゾート(IR)施設とする」方向で検討され、「法案は施行後1年以内に実施法を定めることが含まれており、可決すれば構想は一気に現実味を帯びる」らしい。
 実感の伴わない「IR」という横文字で表記し、国際会議を呼び込もう、地方自治体に入る莫大な税収でもっとインフラを真価させようとバラ色の未来を描けば、反対されにくいかも知れない。

 しかし、千年に一度の大災害に見舞われ、エネルギー分野での国策だった原発が重大な事故を引き起こし、被災者や故郷を追われた人々が先も見えない暮らしをようやくつないでいる日本にあって、復興や再興の充分な施策が目を瞠る効果を発揮しているどころか、災害にからんだ予算が全国で震災とまったく関係のない事業に流用され、その責任はうやむやになり、「仮設住宅で死にたくない」と呻きつつ弱者が死につつある現在、「お祭をやろう」というのはまだしも、「賭場を開いてテラ銭を稼ごう」とは何たる国家運営法であろうか。

 10月8日、経済協力開発機構は、先進国24カ国・地域において初めて実施した国際成人力調査の結果を発表した。
 日本は、出題された3分野のうち「読解力」と「数的思考力」の分野で1位、「ITによる解決能力」は10位だった。
 まさに、子供たちへ〈読み書きそろばん〉を習得させるという国柄がなさせたわざだろう。
 しかも、単なる学力や知識ではなく社会適応能力が測られた調査の結果であり、私たちは、コミュニケーション能力などに危惧は抱きつつも、一定の自信を持ってもよいのではないだろうか。

 問題は、こうした〈人間力〉を何に用いるかである。
 いかに切れる優秀な包丁であっても、調理以外の目的で手にされれば、災厄をもたらす場合もある。
 Aさんが言われるように「道具に過ぎないお金に、踊らされ続ける我々は、実に哀しい生き物ですね」という自省があればだいじょうぶだろうが、現実はどうだろうか。

 薬師寺の管主だった故高田好胤師は、いくたびも海を越え、慰霊の行脚をされた。
 その言葉である。

「私のような者が、お国のためにいのちを落とされた方々をお慰めするなどという大それたことはできません。
 ただ、ご英霊の恩を忘れ、煩悩のままに好き勝手なことをしている生き残りの日々をお詫びし、今後はしっかりやって行きますとお伝えするのみです。
 悔過(ケカ…仏法僧へ対して過ちを悔い改めること)しか、できはしません。」


 私もいつか、悔過の旅に出て、ご英骨の一片へ手を触れたい。

 私たちは、あまりにキラキラしいイメージをもったものに引きずられてはいないだろうか?
 1917年23才で戦死したフライブルク大学法科学生ウルリヒ・ザルノーは、戦死の直前に牧師へ手紙を送り、戦友の作った詩を母へ手渡してくれと書き残した。

「私は最後まで母のことを思っていた。
 すると、母の老いた手の祝福が
 私の頭の上で慰めの役をしてくれ、
 何ごとも楽になるのであった」


 そして、最後にこうつけ加えている。

「恐らく母はいくらか楽に堪えることができるでしょう。」


 母はこうした存在である。
 そして、あの人も、この人も、無限の生まれ変わり死に変わりの中で、母となり子となってきた同胞である。
 たった今、仮設住宅で「仮設住宅では死にたくない」と呻き、菩提寺の住職がマンションの一室で遺骨と共に暮らしている現状に悲嘆の涙を流しておられる被災者の方々は、長いいのちの流れの中にあって、まぎれもなく、私たちの母であり、子である。
 その呻きや嘆きを忘れ、支援の不備は脇へ置いて「もっと、もっと」と目先の楽を貪ろうとする私たちは、まっとうな文明の創り手であると自負できようか?

 私たちは一人残らず死んであの世へ行き、過去に生きた人々と何らかの接触を行うであろう。
 私たちは一人残らず何者かとして生まれ変わり、未来の人々と何らかの縁を結ぶであろう。
 その時に恥ずかしくないよう、後悔せぬよう、胸を張れるよう、今を生きたい。

 最後に、Aさんのために、お釈迦様の前世物語を書いておきます。

 昔、ヒマラヤの山腹に、生きものたちが仲良く暮らす竹林がありました。
 ある日、火事が起こり、皆、我先にと竹林から逃げ出し始めました。
 その時、麓の池を目指して懸命に飛ぶ1羽のオウムがいました。
 池に入って体中に水をまとい、火事場でそれをふるい落とします。
 何度も何度も繰り返しますが、日は一向に弱まらず、オウムは倒れそうになりました。
 これを目にしたみ仏(お釈迦差の前にも悟りを開き仏陀となられた方々は何人もおられ、お釈迦様が最初の仏陀ではありません)が、オウムに訊ねます。
「お前はそんなことをやって火が消し止められるとおもっているのか?」
 オウムは答えます。
「消せるかどうかは、やってみなければわかりません。
 しかし、私は一緒に暮らしていた仲間を助けたいのです。
 お世話になってきた竹林に恩返しをしたいのです。
 無駄かも知れませんが、私にできることはこれしかないのです」
 そして、オウムは又、残りの力を振りしぼり、池を目ざします。
 その様子にみ仏は微笑を浮かべ、神通力を発揮されました。
 見る見るうちに真っ黒な雲が湧き起こり、烈しい豪雨が一気に火を消し止め、生きものたちも竹林も救われたのでした。
 オウムも。






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2013
10.09

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第142回)「仮設住宅では死にたくない」(1)─

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 原発事故によって故郷を追われた福島県富岡町民の現実が語られ始めた。
 10月7日夜、福島県郡山市において、福島県富岡町の社会福祉協議会が運営する生活復興支援センター『おだがいさまセンター』から来られた青木氏のお話を聴講させていただいた。
 センターは郡山市富田町仮設住宅のど真ん中にあり、「全国に散らばった町民の新たな絆をつくる」ことが目標である。
 青木氏は語り始める。
「富岡町は全町民が避難となり、全員が、すぐに帰れると思っていたので、この2年半はとても辛いものだった。」

 仮設住宅の典型的なモデルは、約9坪(2DK)である。
 震災前の住宅のほとんどは2~3世代が同居しており、9坪に複数の世代が同居することは、事実上、できない。
 若い世代は仮設住宅から出て行き、入居者はすべて中高年者である。
 孫がいなくなった淋しさから「仮設住宅は姥捨て山か!」と怒り、嘆く祖父母もいる。
 別居した子育て中の世代が親から離れて自由を満喫する気分になるのは最初だけである。
 やがて、親からめをかけられ、親の手を借りていたありがたさを思い出すようになる。
 若い世代へ対する最大の心配は、親や祖父母など、相談できる相手が身近にいない点である。

 富岡町には、古木が空を埋め尽くす桜の名所がある。
 今は、桜街道のほとんどが立ち入り禁止のエリアに含まれ、入り口から覘くことしか許されてはいない。

 3月11日は、震度6強が2分続いた。
 波は20メートルを超え、波そのものの高さでは地域最大だったが、奧まで侵入してこなかったので、南三陸などのような膨大な被害にはならなかった。
 しかし、原発が爆発し、町民は帰れない人々になった。
 富岡町は、第一原発と第二原発にはさまれた地域であり、原発から20キロ圏内にあるため避難命令が出た。
 誰かが「死の町」という表現を用いたために大問題となったが、街並みがそのままで人間がそっくりいなくなった光景は、事実、そうした感じである。

 歴史的に津波の被害がほとんどなかった地域なので、地震と津波には驚き、恐怖で皆、避難していた。
 しかし、原発についての〈安全教育〉は徹底されていたので、事故の翌朝、避難命令が出ても、1万5千人の町民は「すぐに帰れるだろう」と思い、通帳も実印もお位牌も皆、置いたままで車に飛び乗った。
 20キロ圏外にある隣の川内村へ向かったのである。
 道路は大渋滞となり、いつもは所要時間30分のところへ着くのに5時間から9時間かかった。
 誰一人「このまま帰れない」とは思わずにいたが、その後、誰一人、家に入れなくなった。

 町民の不安が一気に高まったのは、混雑する道路の交通整理に当たっていた警察官がガスマスクをつけ、白い防護服をまとっているのを目にした時だろう。
 警察官は厳重に防備しているのに、町民は放射能の危険に対して丸裸同然である。
 このままでは、ガス欠になると思った町民が反対側の斜線を走って戻ろうとしたところ、厳しく叱責された。
「死んでもいいのかよ!」
 町民はようやく、ことの重大さに気づいた。
 それほどまでに原発の〈安全教育〉は徹底していたのである。

 3月12日、人口2800人の川内村へ避難しようとした富岡町民は1万5千人、車で埋まる磐越道は新潟までつながってしまった。
 今の日本では「突発的な災害が起こっても2日間耐えればだいじょうぶ」とされているが、川内村には、2日経っても、物資はまったく届かなかった。
 運送業界だけでなく、あらゆる人々が、原発事故による被曝を怖れたからである。
 3月16日、30キロ圏内まで避難命令が出て、今度は郡山市にあるビッグパレットに3000人が移動した。
 どうやら横にはなれたが、赤の他人同士がごろ寝する状況にあって、女性や若者は、とても眠れなかった。
 段ボールなどでプライバシーがある程度保護されるよう工夫され、8月にビッグパレットが閉所される頃には、かなり改善されていた。
 そんな中、同施設で、富岡町と川内村の社会福祉協議会が『おだがいさまセンター』を立ち上げた。
 施設にいる町民全員が弱者である。
 ひとしく、「お互いさま」と支え合って生きるしかない。
 物資が届くようになってからは、整理や配分に苦労した。
 配分における考え方には、行政が抱える問題を痛感させられたこともある。
 人数分より少ないパンや牛乳などは、不公平を生じさせないために、工夫して分け合うといった機転をきかせることなく放置し、結果的に廃棄したケースもあった。

 まもなく、阪神淡路大震災の災害に立ち向かった方々などが駆けつけてくれた。
 大がかりな助っ人第一号は山口県からやってきた。
 会津を筆頭にして、今なお、「戦後」は「太平洋戦争終了後」ではなく「戊辰戦争の後」と感じている福島県民は少なくない。
 だから、長州(山口県)の職員30名の手助けは大いなる感激だった。
 そうした外部の方々から、真っ先に指摘された。
「女性専用スペースが確保されていない」
 アドバイスは、風呂に入れず、着替えもできず、授乳もままならず、生理用品の受け取りにも気後れする女性たちを一気に救った。
 それまでは、女性だからと差別されたくない、とか、女性だから我がままを言うと非難されたくないといった複雑な気持に日夜、苛まれつつ暮らしていたが、男性にはなかなか理解しがたい女性ならではの辛さから大きく解放されたのは、画期的なできごとだった。
 6月には、さるNPO法人からワコールのブラジャーが大量に届いた。
 こんな窮状でありながら……、と怯(ヒル)んだが、強く肩を叩かれ、背中を押された。
「まず、女性が女性としてきちんと生きなくちゃいけない」
 このあたりから、少しづつ、活気が取り戻されたように思う。

 センター内にミニFMの放送局を造ったのも画期的だった。
 さまざまな情報が避難者全員の手元に配られたラジオに流され、安心の基となったばかりでなく、催事や慰問してくださる方々の情報も喜ばれた。
 夕刻にスタジオの生放送が始まると、ラジオを手にした方々がわざわざ、スタジオ前で聴いてくださるのは、不思議であり温かくもある光景だった。
 この放送局は『臨時災害FM』として、ここ郡山市の避難所で今も続けられている。




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2013
10.08

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第141回) ─津波に遭った書道家の温故知新─

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 11月5日から10日まで、書道家高橋香温先生の展示会が始まります。
 仙台市青葉区春日町6ー15GIPビル1Fにある「メリラボ」さん内です。
 東日本大震災による津波でご家族も家も失われた先生は、今回の展示会にこう命名されました。
温故知新 あたらしきみちへ」

2011080807110262ed.jpg

 平成23年8月7日から、当山において、書道教室が始まりました。
 毎月一回、第一日曜日の午後2時から3時30分までの1時間半だけですが、ずっと続いています。
 最初の日、普通の藩半紙に、それほど大きくもない四つの文字を書く先生の筆使いではなく、身体使いに驚いた記憶があります。
 手は全身の動きを受け、突端として動いています。
 稽古しかもたらすはずのない姿です。

201109110700252daa.jpg

 平成23年9月には、シンポジウム[シンポジウム『文字を書く心・文字を唱える心』]において、先生の体験談をお聴きしました。
 5人の家族を失った先生は、遺体安置所へ通うさなか、小学校に並べられている遺品の中にある作品『ひまわり』と出会いました。
 シンポジウムではこう述べておられます。
「しばらく筆を持っていなかったのですが、
『ああ、作品も生きていたのだな』
と打たれ、
『何か書かなければいけない』
と思えました。
 あの時が、自分の書の転換期になったと思います。」

 作品『ひまわり』はしばし、マスコミの材料となりました。
「マスコミの取材で
『自分だけが生き残り、罪悪感はなかったですか?』
と問われ、
『罪悪感があったなら、私は生きていられません』
と答えました。
 すでに〈思いやり〉は人びとの心から薄れつつあるのかと悲しくなります。
 たまたま生きている自分です。
 震災後には確かにあったお互いを思いやる気持を書にしたいのです。
 色あせないうちに、ふるさとの潮風、カモメ、学校、友達、お寺、神社などを書にしたいのです。
 そこから本当の自分が再スタートをきれるのではないかと思います。
 今や、生きていた作品「ひまわり」は私の手を離れつつある〈震災のシンボル〉です。
 しかし、私は、この作品と共に、ここから再スタートをしたいのです。」

201212140032.jpg

 平成23年12月には、当山へミニギャラリーを開設し、いつも玄関近くに先生の作品を飾っています。
 これまでに数点、お嫁入りしました。
 そんな先生が「温故知新 あたらしきみちへ」とまた一歩、進まれることには小さくない感慨を感じます。
 メインとなる作品「温故知新」の温故は、やや薄くかすれかけ、知新は力に満ちています。
 この一点を観るだけでも、おでかけになられる価値があるのではないでしょうか。
 多くの方々が足を運ばれるよう願っています。




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2013
10.07

私たちは目に見えぬマントをかぶせられてはいないか? ─村田奈津恵さんの通夜に想う─

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 10月6日、踏切事故で男性を救い、自分は亡くなった村田奈津恵さんの通夜が行われた。
 通夜に先立ち、斎場を訪れた菅官房長官はご遺族へ感謝状などを手渡した。
 また、紅綬褒章と警察協力章の他、神奈川県知事、横浜市長、県警本部長、緑署長からの感謝状も贈られたという。
 菅官房長官はすでに、記者会見において「勇気ある行為をたたえる安倍総理大臣の感謝状と紅綬褒章を贈る」と発表していた。
 古屋国家公安委員長も、4日の記者会見において「そのときの『救助しなければいけない』という一心には胸に突き刺さるものがある。みずからの命を顧みないで他人を救助しようという崇高な行為に対して心から敬意を表したい」と述べている。
 ちなみに、紅綬褒章は「自己の危難を顧みず人命の救助に尽力したる者」へ贈られる最高位の表彰である。
 警察協力賞もまた、「1犯罪の予防、鎮圧又は捜査 2被疑者の逮捕 3人命救助 4水火災その他の災害又は変事における警戒、防護又は救護 5前四号に掲げるもののほか、警察又は警察職員に対する協力」において「特に顕著な功労があると認められる警察部外の者」へ贈られる最高位の表彰である。

 会場には立て札が立てられた。
「勝手ながら、皆様から賜りましたご厚志は
  赤い羽根共同募金に一助として寄附させて頂き、
  ご返礼に代えさせて頂きたいと存じますので、
  何卒ご了承の程お願い申しあげます」

 ご両親は、報道関係者へコメントを出しておられる。
「本日、娘 村田奈津恵通夜にあたっては、本当にたくさんの方々にお見え頂きまして、ありがたく心より御礼を申し上げます。
 また、この度は紅綬褒章をはじめ安倍総理大臣、警察、県知事、横浜市長ほか各方面の皆様から感謝状、協力章などと、温かい励ましのお言葉とちょうだいしました。
 大変光栄なことで心より感謝致します。
 また菅官房長官には大変お忙しい中をお見え頂きありがたく御礼を申し上げます。
 通夜の席で、奈津恵に向かって 褒章や感謝状を頂いたことを伝え、たくさんの方々がお見えになったよ、お前を褒めていたよ、奈っちゃんは偉かったよと伝えました。
 毎日一緒だった娘が突然いなくなり、日ごとに実感として悲しみが込みあげて参りますが、私たちも奈津恵の行動を誇りにして、一生懸命頑張って生きていきたいと思っております。
 この場をお借りして、中山の踏切に奈津恵のためにお花を手向けに来て下さっているたくさんの方々、また温かな励ましを頂いたたくさんの皆様、地元の中山商店街の方々、また警察、JRそのほかの関係機関の皆様のご尽力を心から感謝申し上げます。」

 確かに、奈津恵さんの行動は言葉にするのも憚(ハバカ)られるほど尊く、報道に接した多くの方々が自分自身を省みさせられたり、あるいは、人間というものへの幻滅を和らげさせられたり、希望を抱かせられたりもしたことだろう。
 そして、人々がそれをすなおに讃える心も青空のように曇りなく澄んでおり、讃える人にとっては、ある種の救いにすらなっている。
 だから、もしも1億3千万の国民が全員、讃えたとしても何ら、異議も異論も違和感もない。
 しかし、国家社会が公的に強くかかわり、報道が過熱し、善行に対する個々人の感動が社会的事象となって私たち一人一人へ有無を言わさぬ〈善〉のマントをかぶせかけてくると、いささか胡散臭さを感じてしまう。

 そもそも、奈津恵さんの行動は、まったく個人的なものだった。
 止める父親を振り切ってまで、見捨てられないという思い一つで、危険に身を投じた。
 たまたま、その結果として訪れた死もまた、個人的なものである。
 もちろん、広い意味においては、いかなる人の死も、全く個人的ではあり得ない。
 社会のおかげで生きた一人の人間の人生に社会的区切をつけるためのご葬儀の意義と役割も大きい。
 それでもなお、奈津恵さんが見ず知らずの一人の人間といのちをかけて接したことと、その結果としての死に対しては、極力、個人的なものとして、静かに手を合わせるだけにしておきたいと思う。
 なぜなら、奈津恵さんの行動や魂と私たちの心は、あくまでも一対一の内的関係においてこそ、純粋な接触が可能だからである。
 内的関係へ社会が「これは称賛すべき善行です」という判断をさしはさんでくる余地はなく、そうしたものは明らかに異物である。

 異物は反対の形でも発生する。
 悪行が明らかになった者へ、あたかも、水に落ちたイヌへ石を投げつけるがごとく執拗な攻撃を加えるケースが目に余る。
 私たちの犯罪に対する憎悪の炎を、犯罪者とその周辺へ向かってこれでもかと煽り立てる。
 悪行は法によって罰せられ、その報道に接した私たちは我が身をふり返って同様の行動へ走らぬよう慎み、同様の行動によって被害者にならぬよう気をつければよい。
 それにもかかわらず、一つの事件がくり返し報道され、家族や関係者までが有形無形の攻撃を受け、あげくの果ては刑を終えてまでプライバシーについて報道されたりするのは異様である。

 社会という人間の集団が一つの生きものとして、役立つものは養分として摂り込み、害となるものは白血球が侵入した異物を退治するようにやっつけることは理解できる。
 しかし、モノの世界と心の世界は違う。
 モノの世界には善悪がないから、身体の判断に善悪はない。
 一方、心の世界では善悪の判断が伴い、善行者が忸怩(ジクジ)たる思いを抱えることも、悪行者が口にできない言い分を腹にしまい込んでいる場合もあり、一つの行為にかかわる判断は一筋縄では行かない。
 今回のできごとのように善行が周囲の人々へ悲嘆をももたらす場合があり、悪行がひっそりと快哉を叫ばれる場合すらある。
 事ほど左様に心のはたらきは精妙であり、私たちは神のごとく何かへ真っ白な○をつけられはしないし、真っ黒な●もつけられるものではない。
 その難しさと厳しさの中で、良心に恥じない善悪の判断をし続ける誠実な姿勢をとるしかないという謙虚さと根気強さが必要なのではなかろうか。

 だから、社会がこぞって何かを持ち上げ、こぞって何かを叩く社会場合は、割り引いて受け止めたい。
 最も恐ろしいのは、熱狂に浮かされて胆略的思考に走る習慣がつくことである。
 先に、「私たち一人一人へ有無を言わさぬ〈善〉のマントをかぶせかけてくる」と書いたが、私たちは往々にして、マントに気づかぬまま、くるまれてしまっている場合がある。
 マントと自分の判断との区別がつかない。
 ここに、神のごとく、〈真っ白〉と上げ奉ったり、〈真っ黒〉と無慈悲に潰したりする粗雑さが生じ、無意識のうちに傲慢さも生じてしまう。
 そこでは胆略的思考に陥っている。

 テレビを見てどっと感涙が流れたり、怒髪(ドハツ)天を突くのは善人の証拠だし、日本人の道義心や公共心は他国に比べて優れていると評されることは誇りである。
 しかし、〈マント〉を察知する感覚をあまり鈍感にしないでおいた方がよいのではないかと思う。
 だから、当山は「現代の偉人伝」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3913.html)に村田奈津恵さんをとりあげたが、そこでは、奈津恵さんに導かれた住職の個人的思いしか綴られてはいない。
 私たちはあくまでも、〈マント〉に関係なく、一対一で奈津恵さんの魂と向き合い、手を合わせたい。




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2013
10.06

日本よ頑張れ! サンマリノ共和国マンリオ・カデロ日本大使からのメッセージ

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〈『道』さんからお借りして加工しました〉

20131002001 (3)

 マンリオ・カデロ大使は『道』NO・175でインタビューに答えておられます。

 大使は、サンマリノ共和国に、ヨーロッパ初の神社を造ろうと活動しておられます。

「アメリカでもヨーロッパでも日本の仏教系の歴史の浅い新興宗教についてはよく知られていても、神道のことは誰も知りません。
 私はこのとが非常に不思議だったのです。
 なにかとても『フェア』じゃないと感じてきたんです。
 神社がもつ歴史哲学やその魅力、本当にすばらしいものがいくつもあるのにと。」


「私がびっくしりたのは、日本人の大人が神武天皇のことを知らないということです。
 これには参りました。」


 来日して30年以上がたつ大使は、日本はもっと持っている文化の価値に気づくべきだと指摘しておられます。

「私にとり、日本は心より敬愛すべき国であり、また道義心に満ち、勤勉で活動的、かつ理知に富む国民性を持っています。」


「日本は古いだけではないんです。
 素晴らしい哲学がある。
 そのことに対して今の若いひとはあまりに無知です。
 ハワイには行ったことがあっても沖縄には行ったことがない若者がたくさんいますね。
 私からすれば非常にふざけた話です。」


「日本の文化をもっと大事にしてほしいです。
 ファーストフードだって最初につくったのはアメリカ人じゃないでしょう。
 日本人ですよ。
 おにぎり、お寿司、おべんとうなどなど。」


「サンマリノやイタリアでは特別なインタビューを除いて、少なくとも90パーセント以上のテレビが『視聴者のために』つくられています。
 エンターテイナーやアーティストのためではないのです。
 ところが、日本では何の芸もない『タレント』と呼ばれる人がほとんどの番組を占領している。」
「私には日本のこういう番組はとても不思議なのです。」


 サンマリノ共和国には軍隊がありません。

「ローマにあるいくつかの大使館では、警察や軍人に守ってもらわなければならないのでもう大変です。
 なぜだと思いますか?
『友だちがいない』からです。
 友だちがいたら、イタリア国民がその国を勝手に守るんです。
 信頼が一番のプロテクションなんです。
 一方、ローマにある日本大使館には警察がついていません。
 どうしてでしょう。
『友だちだから』です。
 フランスの大使館にも警察はいない。
 友だちは財産です。」


 大使は心から日本に期待しておられます。

「私は賢い外交的な仲介や決意によって戦争は避けることができるし、平和は不幸な世界に打ち勝ってくれるものと信じています。
 平和や幸福に対しての強い意志があれば、その実現は不可能ではないはずです。
 『戦争に勝つ』ことが成功なのではなくて、『戦争を回避する』ことが成功であると思っているのです。
 そして、日本はアジアの国のリーダーとなるべきです。
 アジアのために日本は大事な役割があると思います。
 なぜなら、今、アジアの国の多くが日本を手本としています。
 ライフスラタイル、ビジネスモデルとして。
 ですから日本はもっともっと自信をもって、そしてリーダーの自覚をもって世界で活躍して欲しいと願っています。」






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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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