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2013
11.30

指と月 ─方便の実践─

20131130003.jpg

 12の聖語です。
 お大師様は説かれました。

「愚か者はの位置を知らないが、智慧ある人は手のを用いる。
 の先はではないが、を特定して見るには、によるのがよき方法である」


 を知っている人が「あそこにがある」と言ってさせば、知らないでいた人々もそれと気づきます。
 これが仏教用語である「方便(ホウベン)」の意味です。
 般若心経は(クウ)の智慧だけでなく、こうした方便も説いています。
 だからこそ、世界中でさまざまな善願が込められ、読誦され続けています。
 末尾近くにおいて「能除一切苦(よく一切の苦を除く)」「真実不虚(真実にして虚しからず)」と宣言され、示される真言こそが極めつけの方便です。

「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」


 心して読誦し、あるいは写経をしましょう。

 また、12月5日の東日本大震災1000日目を期し、12月1日の第一例祭において108返唱える光明真言も、罪障生滅などの功徳があるとされています。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まか ぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」

 
 もしも御霊が、生前の悪業(アクゴウ)によって地獄界や餓鬼界などへ生まれ変わっていたとしても、この世の私たちがあらゆるみ仏方に守られつつ、よき心を廻向(エコウ…廻し向けること)することによって、苦界は砕破され、極楽浄土へと向かう扉が開くのです。
 それは、廻向する人もまた救われる道です。
 誰かにとってよかれと願う善心から発する祈りの善行(センギョウ)は、祈る人自身の運勢を明るい方向へと転換させからです。

 祈りは月をです。
 そこから目的を実現するための五力(ゴリキ)が生じます。
 目的を定め、精進し、心によきものを溜め、心身を落ちつかせ、よき行動へ向かう智慧と意志が生まれれば、願いは実現します。
 実践しようではありませんか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2013
11.30

12月の守本尊様と真言

20131130070.jpg

 12月は、大雪(ダイセツ)と冬至(トウジ)の師走(シワス…12月7日より1月4日まで)です。
 12月は子(ネ)の月なので、守本尊千手観音(センジュカンノン)様です。

 千手観音〈センジュカンノン)様は天眼無礙智力(テンゲンムゲチリキ)をもって、人々の過去までも見通し、どのような因縁で、何に苦しみ何を求めているかを、無限の(仏教における「千」は無限を意味します)智慧の眼をもってご覧になり、無限の慈悲の手を差しのべ、お救いくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、締めくくりの月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 千手観音〈センジュカンノン)様は、子年(ネドシ)生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 身体においては、特に腹腰をお守りくださるので、お腹が不調の時などは真言を唱え、ご加護をいただきましょう。

21080819 007

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた千手観音様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 12月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、必ずご本尊様へ思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん ばざら たらま きりく」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2013
11.29

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第145回)千日目の護摩祈祷─

20131129001 (4)

 12月5日がくれば東日本大震災から千日目となることにちなみ、12月1日(日)の例祭において光明真言108返をお唱えし、御霊をご供養します。
 
 津波で亡くなった方々、あるいはまだ発見されていない方々の中には、原発事故のため、救助されなかった方々もおられます。
 また、原発事故に関連する死者の実態は発表されているものとは桁違いであろうと推測されます。
 原発作業員ハッピー氏が書いた『福島第一原発収束作業日記』は指摘します。

「今回の原発事故で死者数は少ないような発表をしているけど、病院に入院していた多くの患者さんが避難時や避難先で亡くなっているのが事実なんだ。
 あの日、車は大渋滞で逃げることができない人もたくさんいたし、病院には助けは来ないし、今でもオイラは双葉病院の駐車場に産卵したストレッチャーの残像が頭から離れないよ。
 津波の犠牲者も汚染のために規制がかかり助けたくても行けなかった。
 あの時、捜索していれば助かった命もたくさんあったはずなのに……。
 その方々は原発事故と、その後の政府や自治体の対応怠慢で見殺しにされたんだよ。
 津波で亡くなったんじゃないんだ……。」


 原発関連の仕事に20年も従事しているハッピー氏の〈つぶやき〉は、現在、7万人以上のフォロワーを擁しています。
 氏は二つの理由で、福島第一原発の現場から、事実を発信し始めました。

 一つは、「報道の間違いを正す」こと。
 もう一つは、南相馬市で避難せず頑張っている人たちへ「オイラも頑張るから、みんな頑張ろうね!」と励ますこと。
 そして氏は「誰かが行かないといけないし、現場は人が足りなくて困っているらしいので、行かせてください」と、止める社長を振り切り、親には内緒で一旦、避難した場所から現場へ戻り、苦闘の日々を過ごされました。

 氏のつぶやきには重大な真実が山ほどあります。

 平成23年4月19日には、現場の作業員を確保するため、安全とされる年間被曝量の限度が上げられました。

「年間被曝量を上げるのは、作業員を集めるのが目的ではなくて、東電社員に適用して原子炉建屋に入れるためだと思う。
 東電社員も可哀想だよ。
 現場は吉田所長含めて頑張ってるのに。
 汚染水の移送始まったみたいだけど大丈夫かなあ?
 プロセス建屋の地下に流し込んだコンクリートはまだ乾燥していないと思うんだけど……。


 5月28日には、汚染水の処理に疑問を呈しています。

なんで最悪の事態を想定しないんだ。
 だから想定外ばかりなんだよ。

 4号機の耐震性は安全です問題ありませんって発表したけど、ふざけてる。
 評価した奴は、今にも落ちそうな壁の真下で作業してみろって思う。

 俺たちは4号機のまわりで作業する時は、常に上を気にしながら緊張しながらやってるのに。
 壁が落ちた時はどんな言い訳が出るのやら。
 また想定外か?」


 平成24年4月27日には、仮設システムの限界を指摘しています。

「このエネルギー回収装置の継ぎ手って前にも漏れたんだ。
 オイラが『今日も水漏れあったけど報道ないなあ…』ってつぶやいた時でし。
 今日も発表しないのかなあって思ってたんだけど…。
 やっぱ東電が発表する基準ってわからないなあ。」
「淡水化システムも寿命なのかも…。
 元々汚染処理システムは1年もてばいいって作られてるからなあ…。」


 今後、『特定秘密保護法』によって、こうした〈現場の声〉や〈現場でしかわからない真実〉が国民へ届かなくなってしまうのではないかと心配です。

 仏教的に千は無限を意味しますが、天災も人災もつい、この間のできごとであり、被災した方々の被災者としての日々はずっと続いたままです。
 犠牲になられた御霊をご供養申しあげ、被災者の方々へ仏神のご加護がありますよう、祈ります。
 例祭への参加は自由です。
 地下鉄泉中央駅そば『イズミティ21』前からの送迎(必ず、前日午後5時までにお申し込みください)もあります。
 一緒に祈りましょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2013
11.28

橋本武著『一生役立つ学ぶ力』を読む(その3)─書いてみる、工夫する─

20131128000111.jpg

 橋本武先生は生徒へ書かせる。

国語力のカギとなるのは『書く』なのです。」

書くことによって、読むだけではなかなか身に付かない『判断力』『構成力』『集中力』が養われる」

「親があれこれ口出ししないこと。
 これが重要です。
 親は、ただ子どもが自由に読み書きできる時間、環境を整える。
 そして、できれば子どもが読んでいるのと同じ本を読んでみる。
 そのうえで、子どもが書いた文章を丁寧に読み込み、褒めるべき点はきちっと取りあげて褒めてあげればいいのです。」


 自分が書いたものを自分で読んでみると、どう感じとり、どう考え、どう表現できているかがわかる。
 読んでみないうちは、考えている自分が〈どう考えているか〉という道筋が客観的に俯瞰(フカン…全体を眺めること)できない。
 特に感情が強く入った場合は、思考の筋道が怪しくなっている。

 また、書いた文章をプロの作品とくらべてみると、情報の入り口である〈鏡〉の精度からしてまったく異次元とも言えるほど違うことに気づく。
 私たちは「ああ、美しい夕焼けだ」「淋しい夕焼けだ」と思い、「美しい夕焼けを見ました」「夕焼けを見て淋しくなりました」などと書くが、プロはまず、こうは書かない。
 太陽と雲と空の橙色や茜色や金色や紺色や墨色などを細かに眺め、天地の気配を感じとり、必ず、どう美しいか、あるいはいかに禍々(マガマガ)しいかなどを描写する。
 ちなみに、ネットの「夕焼けの表現・描写・類語」はこんなふうである。

「しだいにこみ上げてくる笑いのような茜色」(安部公房)

「からだごと燃え立つような夕焼空」(竹西寛子)

「この世の終末のような凄まじい美しさを滲ませた空の色」(原田康子)

「地を塗りこめたような不気味な夕焼け」(中河与一)

「墨を混ぜたような重苦しい夕焼け」(飯田栄彦)

「夕暮れの光の束が、レンブラント(オランダの画家)の絵のように地上を照らす」(五木寛之)

「夜の気配が血のような残照に染まる」(光瀬龍)


 こうした文章に接し、たくさんの言葉に接して語彙の蓄えを増やし、イメージトレーニングをしないと、いくら歳を重ねても「美しい」や「淋しい」でしかない。
 それは、おにぎりを食べた幼子が「おいしかった」だけであるのと同じである。
 もちろん、そこにとどまっているからといって人間の尊厳にかかわることはないが、『判断力』『構成力』『集中力』などの要素が高まれば必ず、人生の幅や深みが増す。
 見聞きする情報のうわべだけをなぞり、思考停止させられて利用しようとする者に絡め取られたり、胆略的な発想をしたりといった危険性も少なくなって、主体性のある生き方ができるようになるだろう。
 
 だから、書くトレーニングは教育上、とても重要である。
 それにはまず、親が自分で書いてみたい。
 次は子供にテーマを与え、書かせてみる。
 そして一緒に、考えてみる。
 自分で書いていると、どこで子供の筆が止まったかがよくわかる。
 また、子供に書くことを続けさせるには、橋本武先生の「褒めるべき点はきちっと取りあげて褒めてあげればいい」は決して欠かせないポイントである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2013
11.27

レイテ島のご英霊

20131127001 (5)
〈町役場に立つ慰霊碑(産経新聞様よりお借りして加工しました)〉

 レイテ島台風30号に襲われたと報じられてからずっと、ご英霊を慰霊する施設などの状況が案じられてきた。
 当然ながら、島民の方々や滞在中の方々の救助が第一であり、寡聞にしてこれまで、ご英霊に関する報道に接してはいなかった。
 11月26日、8日に台風が島を席巻して以来、おそらく初めて、産経新聞が『日本人慰霊碑立つレイテ島』を掲載した。

 レイテ島では、昭和19年(1944年)に日本軍とアメリが軍との間で激戦がくり広げられ、絶望的な戦力差の下でも退かなかった日本側は79261人の戦死となった。
 ウィキペデイアは「残された将兵の多くが山中で飢餓に倒れ、一部の部隊は生還者がないため今でも消息が判っていない。」としている。

 島には日本、アメリカ、オーストラリア、そしてフィリピンの慰霊碑が並んで建てられ、住民によって守られてきた。
 しかし、今は、そうした方々自体がいのちを失い、家を失われた。
 日本人遺族会はこれまで、30カ所に慰霊碑を造ってきたが、会員の減少と高齢化により、現在は手弁当で、住民に支えられた管理を行うのが精いっぱいという状態である。
 記事は、セブ島日本人会会長石田武司氏の言葉で締めくくられている。
「修復の予算はなく、復旧のめどは立っていない」

 願わくば、自衛隊が住民の生活を確保し、慰霊碑にも手を差し伸べられますよう。

 奇しくも、同日の朝日新聞はインドネシアにおけるご英霊焼骨を報じた。
 全文を転載する。

20131127001 (6)
〈ご英霊焼骨式(朝日新聞様よりお借りして加工しました)〉

 「激戦の島 282人の焼骨

 インドネシアのビアク島(パプア州)で25日、太平洋戦争中に現地で戦死した旧日本兵の遺骨を焼く「焼骨式」が行われた。
 今回、厚生労働省の収集派遣団は平成以降では最多となる282人の遺骨を確認。東京の千鳥ケ淵戦没者墓苑に納められる。
 日本軍は戦時中、ビアク島を「絶対国防圏」に指定し、連合軍と激戦となった。
 1万人以上が戦死したとみられる。
 兵士は岩手や青森、秋田など東北出身者が多かったとされ、生還したのは約500人にとどまる。
 1956年以降、政府の派遣団は今回を含めて計15回現地入り。確認した遺骨は計4250人になったが、身元が判明した人は1人もいない。
 なお約6500人が残されているとみられる。
 派遣団に参加した有馬咲子さん(72)=福岡県行橋市=は父をビアク島で亡くした。
「召集令状一枚で出征し、ずっと外国で眠らないといけないのはかわいそうです」と話す。
 焼骨式は日本軍が司令部を置いたヌンフォル県の「西洞窟」近くで営まれた。
 洞窟を夫とともに管理しているマテルダさん(41)によると、洞窟と周辺で日本兵約3千人が死亡したという。
 派遣団は今回、焼骨した遺体とは別に密林で日本兵と見られる人骨を見つけた。
 近くに漢数字が書かれた認識票や水筒、薬瓶、戦前の硬貨などもあった。
 地元住民らによると、あちこちに日本軍の手投げ弾が残され、子どもが拾って爆発する事故がたびたび起きているという。



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 隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者A氏は平成17年、南方の海において、魂入れを行った地蔵菩薩像108体を捧げ、ご英霊のご供養を行った。
 当山は今年の10月、ご英霊のご遺骨を収集しにでかける機会を逸した。
 何としても南方へでかけ、空に、海に、山に、川に、野辺に祈りたい。
 あるいは町や村で祈りたい。
 南無守本尊大法護如来。
 南無大師遍照金剛。
 




「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2013
11.26

出産前の染色体検査に思う ─どうにかできるもの、どうにもならぬもの─

20131126河北
河北新報さんよりお借りして加工しました〉

 11月23日付の河北新報は、出生前診断において、異常が確定した親の56人中53人が中絶を選んだと報道した。

 妊婦の血液で胎児の染色体異常を調べる新出生前診断を実施している病院のグループは22日、診断の実施件数はことし4月の開始から6カ月間で3514人に上ったと、仙台市で開催中の日本人類遺伝学会で発表した。
 染色体異常の可能性がある「陽性」と判定後に羊水検査で異常が確定したのは56人で、うち53人が中絶を選択した。
 ほかに、陽性判定後、確定検査前に中絶した人も「ごく少数いる」という。
 開始から3カ月時点の受診は1534人で、産婦人科の現場で急速に拡大している実態が示された。
 命の選別につながる恐れがあるとの指摘があり、安易な実施がないか厳しい検証が必要だ。
 グループによると、4~9月に全国の25施設が実施。
 検査の理由は、出産時に35才以上が目安となる高齢妊娠が94・2パーセントと大半を占め、染色体異常の妊娠歴が2・4パーセント、超音波検査で異常の可能性が高いと指摘された人が1・4パーセントなどだった。
 陽性と判定された67人のうち、62人が確定検査である羊水検査を受け、56人でダウン症など3種類の染色体異常が判明した。
「陽性」と判定され、確定検査で異常がないと分かった人が6人いたことになる。
 診断で陰性と判定された67人のうち、実際には染色体異常だった「儀陰性」が1人あったとの報告があり、詳しく調べている。
 受診前に遺伝カウンセリングを受けて新出生前診断を取りやめた人も168人いた。
 中絶を選択した理由は「染色体異常の子供を産み育てる自信がない」と「将来設計に不安がある」がともに21パーセントとなるなど、将来への不安が多かった。
 ほかに「赤ちゃんの状態の見通しがよくない」が37パーセントなどだった。


 染色体に異常がある赤ちゃんが0・16パーセントあったという数値自体は、多くの第三者は「そんなものか」という感じで受けとめるかも知れない。
 しかし、陽性が確定した妊婦一人一人にとっては、あまりにも重すぎる通告だったことだろう。
 宗教的観点を離れれば、実に95パーセントの方々が中絶を選んだことは理解できそうだ。
 むしろ、5パーセントの方々がどう考えて出産を選んだのか、そして、出産後の家族はどのように生きているのかを知りたい。
 また、「受診前に遺伝カウンセリングを受けて新出生前診断を取りやめた」168人の方々は、どう考えて診断を避けたのだろうか。
 もちろん、科学がここまで発達してこなければ、こうした岐路に立つことはなかった。
 無事に産むか、産まれるかの前に、どういう子供を産むか、あるいは産まないかの選択が迫られるとは……。

 なお、この件に関し、中日メディカルサイト「つなごう医療」には、以下の記事もある。

「子どもを残して死ぬ不安がある、きょうだいへの負担が増大する」が17%、「経済的な不安がある」は4%だった。
 新出生前診断で胎児がダウン症の陽性と判定された妊婦の平均年齢は40.1歳だった。
 日本ダウン症協会の玉井邦夫代表理事は「障害がある子が世の中でどう生きているかを知ることで、親になるイメージも持てるし、不安も変わると思う。出生前診断の際のカウンセリングだけでなく、学校教育や社会教育も必要だ」と話している。


 今後も私たちは、より幸福を求め、よき未来を目指し、工夫をこらして進む。
 そうした中で、肉体的、精神的に大きな生活上の困難を抱えて誕生した人へ手篤い支えを提供する一方、困難を抱えた誕生そのものコントロールしたいという欲望が薄れることはないと思う。
 そう遠くない未来に、より〈優れた子〉を選んで産む時代になることだろう。
 胎内の赤ちゃんは病気になる確率だけでなく、知能指数や身体能力など無数の要素が科学的に把握され、親の判断で選別されることだろう。
 科学の発達にともない、選別欲もまた、無限に拡大してゆくことだろう。

 宗教者としては二つの不安がある。

 一つは、アリの社会などに見るとおり、直接的に社会へ大きく貢献する存在しか許されなければ、社会は成り立たないのではないかという点である。
 全員がすばらしい知能と肉体を持った人間になればすばらしい社会をつくれるというのは、きっと幻想に違いない。
 モヘンジョダロやハラッパなどの遺跡でわかるとおり、お釈迦様がお生まれになられる千年ほど前、インドには高度な文明があり、平和な社会が営まれていた。
 しかし、侵入したアーリア人は先住のドラヴィダ人を駆逐し、賤民として人間扱いしない社会をつくった。
 厳しいカースト制度の最下層である奴隷的身分の人々も、まだ〈人間扱い〉されるが、賤民は、虫けら同然の扱いとなった。
 お釈迦様はそうした社会の上層階級にありながら、「人は生まれによるのではなく、生き方によって尊さが決まり、転生する先も決まる」と説かれた。
 現代にあっても、漢民族の侵略を受けたチベットでは、それまでに存在しなかった物乞いが生まれた。
 中国語を話さなければ、社会人として立場を固めつつ生きることはできない。
 チベット人の窮状をとらえた数々の映像は、2500年経とうと、人間のやることはあまり変わらない、すなわち人間はそう変わりはしないという事実を突きつけてくる。
 中華思想や共産主義を奉じる人々だけが優れており、すばらしい社会をつくれるなどというはずはないのである。
 もしも、〈優れた人〉しかいない社会になったなら、鋭い剣で渡り合う凄まじい競争と、嫉妬や憎悪や高慢心などが支配する血しぶきにまみれた社会になるのではないか。
 思いやりはどこに成り立とうか?
 どうしても、平和が訪れるとは想像できない。

 もう一つの不安は、人間の限界を忘れ、私たちの存在を〈超えたもの〉への畏怖を忘れることである。
 あれほど政権からも電力会社からも学会からも科学的安全が保証され、立地している地域では「何かあったなら原発へ逃げ込め」とまで言われていた原発がとてつもない事故を起こしたにもかかわらず、畏怖を非科学的と排し、まったく同じパターンで次を目ざしている私たちの文明は危ういところにいるのではなかろうか?
 クローン人間の製造はどうやら食い止めているが、ロボットに戦争を任せつつある私たちは、クローン人間に戦争をやらせるところまで、あと半歩しかないところに立っている。
 それと気づかれぬうちに誰かが半歩前へ行けば、人間社会の様相は一変することだろう。
 私たちは、やはり、〈ゆでカエル〉になるしかないのだろうか。
 風呂に入れられたカエルは、致死の温度になっても気づかないという。
 過去の華々しい文明が遺跡となってしまった経緯には、畏怖の忘却があったのではなかろうか。

 欲の危険な拡大を抑えるものは、精神と肉体と科学的知見を道具として用いる智慧である。
 道具の性能を上げるだけでは危険である。
 ある時、家族葬と会社葬を選択する緊迫した場面に立ち会った。
 故人が望んでいた家族葬が社会的要請によって難しくなった際、お子さんの一人が遺された伴侶へ静かに語りかけた言葉は忘れられない。
「私も家族葬を望んでいたことをよく知っているし、お母さんが何としてもそうしてあげたいと思う気持もよくわかる。
 私だってそうよ。
 しかし、お父さんは私たちの家族だけでなく、社会にお世話になって生きた社会人の一人でもあるのよ。
 ──そしてね……。
 この世には、どうしても思い通りにならないことってあるのよ」
 ぎりぎりの場面ではたらくこうした智慧は、理論や法律や自分の気持を第一にする考え方などからはでてこない。
 人間も社会も思い通りにならない存在であることを深くふまえた智慧が最後の歯止めになるのではなかろうか。




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2013
11.25

テレビが子供の高次認知機能を発達させず、読書能力や注意能力を低下させる危険性について

20131125047.jpg

 11月21日付の河北新報は、ようやく、炯眼の士(ケイガンノシ…本質を見抜く力のある人)二人の警告を科学的に立証した。
 二人とは、評論家大宅壮一と作家松本清張である。

 半世紀以上前、大宅壮一は、テレビには低俗なものへの関心を高めてしまう面があると指摘して「一億白痴化」を警告し、「一億総白痴化」が当時の流行語となった。
 また、松本清張も、テレビには人間からものを考える力を奪う面があると指摘し、同調した。
 いずれも、瞬間的な感覚に訴える画面にとらわれていれば精神が受動的になり、自分の頭で深く思考する習慣を奪われる危険性を察知した発言である。
 しかし、脳は見るという行為に関してもっともはたらくとされ、動く画面に情報が満載されたテレビは一気に普及した。
 書物を柱とする精神生活は教養主義的とされ、遠ざけられた。
 今や、本来は聴く機能だったはずの電話すら限りなく見る道具に近づき、医療や防災なども含めて、現代人の社会生活からテレビは切り離せないものとなった。
 と同時に、二人の警告を思い出す人も少なくなったと思われる。

 しかし、今回、ついに、長時間テレビを視聴する子供は脳の発達が遅れるという事実が明らかになった。
 重大な研究発表であり、全文を転載しておきたい。

「長時間視聴、脳の成長に悪影響 テレビっ子、言語能力低下」

 東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)と竹内光准教授(同)らのグループは20日、子どものテレビの長時間視聴が、言語知能などをつかさどる脳の前頭極に悪影響を与えるとする研究結果を発表した。
 従来、心理学研究でテレビが子どもの読書能力や注意能力を低下させることが確認されていたが、脳のどの部分に作用するかが明らかになったのは初めて。
 脳画像解析と追跡調査によって解明した。
「テレビを1日に何時間見るか」といった生活習慣を問うアンケートと知能テストに加え、脳を磁気共鳴画像装置(MRI)で撮影し比較検討した。
 2008年7月に始まった1回目調査で「テレビを長時間見る」と答えた子どもほど、3年後の2回目調査の知能テストで言語能力が低い傾向があった。
 脳画像解析による調査では、本来、成長に伴って減少する灰白質と呼ばれる部分が、「テレビを長時間見る」と答えた子どもの方が減少幅が小さかった。
 この傾向がみられたのは前頭前野の一番前側にある前頭極などで、自ら考える高次認知機能を担うとされる。
 この部分での発達の遅れが言語能力の低下に関連していると考えられるという。
 川島教授は
「テレビ視聴制限の必要性が脳科学でも裏付けられた。
 生活習慣が脳の発達に影響することを子育て中の親に知ってほしい」と話す。
 調査には、宮城県内の健康な5~18歳の男女計276人が参加した。


 ここで述べられた「自ら考える高次認知機能を担う」部位の発達が遅れ、「読書能力や注意能力を低下させる」事実には戦慄すら覚える。
 たやすく繰られる人間をつくるからである。
 何に繰られるか?
 刺激に。
 いかなる刺激か?
 食事と性と長命である。
 もちろん、おいしくて栄養のバランスが保たれた食事、男女間の愛、健康な長生き、この三つは幸せ感の源泉であり、否定されるべき何ものもない。
 しかし、問題は、こうしたものをもたらしてくれそうな相手の手玉にとられる危険性があるという点にある。
 半世紀前は思考能力の低下を心配した。
 ようやく、それが当たっているとわかったが、当時は想像できなかったレベルで情報化社会となった今は今は、その先をも心配せねばならない。
 相手が人であれ、企業であれ、政治であれ、「高次認知機能」をあまりはたらかせず、「注意能力」もあまり発揮せぬままに、自分にとって便利で早く幸せ感を与えてくれそうな対象へ飛びつくのは、あまりに危険ではないか。

 テレビの画面を注視してみよう。
 人は、瞬間的に〈ウケ〉ようとしてはいないか?
 企業は、中身よりも〈イメージ〉で惹こうとしてはいないか?
 政治家は、考えさせるよりも〈ワンフレーズ〉で思考停止させようとしてはいないか?

 私たちは、自分の人生にも、自分が生きる社会にも、自分で責任を取らねばならない。
 人間としての尊厳を守るためには、何よりも、繰られてはならない。
 充実した人生を送り、安心して生きられる社会をつくるためには、快・不快や、好き・嫌いや、目先の楽や苦などに引きずられず、魂の共鳴や良心の声などに耳を傾ける落ちついた感受と思考が欠かせない。
 テレビは道具である。
 道具を上手に用いる者に利用されず、自分が道具を上手に使うためには、「高次認知機能」をさび付かせず、「注意能力」を鈍らせないことが大切である。
 自分で工夫をし、子供たちへは読書と作文の習慣をつけさせたい。
 そのためには、まず、画面を眺めている自分の姿を想像してみよう。
 哀れ、情けない、あるいは恥ずかしいと感じるならば、それは霊性が発する危険信号ではなかろうか?






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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
11.24

命の根・世の根

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〈あの夏の日〉

 江戸中期、18世紀の全般に活躍した安藤昌益(アンドウショウエキ)に印象的な教えがあります。

(イネ)はの根

 を主食とする私たちにとって、はまさにの根です。
 ご寄進いただいた『法楽農園』のうち田んぼ3枚で初めて作を行い、そのことが実感できました。
 カメムシはいましたが、農薬に頼らなくてもすくすくと育って行くの強さには圧倒される思いでした。
 炎天の中、午前から午後にかけて草取りをしてくださった80才過ぎの方もおられましたが、いかんせん、時期を逸したために、他のものたちはを追い抜く勢いで伸び、最後は「がんばれよ」と励ますしかありませんでした。
 大風などで2割以上が倒れ、残った稲をご寄進いただいたバインダーで刈り取った時、雑草の手強さを知りました。
 稲より長く伸びた雑草がからみつき、動かなくなったバインダーは5回以上、メーカーさんの修理を受けたのです。
 くい棒と竹で造った天日干しの柵は台風で倒れ、雑草も被ったままで干された稲の何割かは腐りました。
 おかげで、午前中で終わるはずのコンバインによる脱穀は夕刻までかかりました。
 それでも無農薬、無肥料という条件下、立派に粒となった稲は、とても香ばしく、やや固めに炊いた時の味はたまりません。
 味噌汁と梅干しさえあれば、もう何もいらず、一汁一菜で人間は生きられる、つまり「稲はの根」であると実感できました。

(ヨネ)は世の根
 
 昔は「子」あるいは「よね子」さんという名の女性がたくさんおられました。
 宮城県には登(トヨマ)市山(ヨネヤマ)町があり、日本将棋連盟会長だった故長(ヨネナガ)邦雄氏の名はよく知られています。
 私たちは知恵を絞り、汗を流して育てた稲から米をもらい、いのちをつなぎ、社会を営んでいます。
 山も森も川も田んぼを守り、田んぼを育て、そこで主食を得つつ生きる人々が集まって集落となり、里や村や町ができました。
 田んぼのない街には米が届けられ、日本列島は一つの文化圏として存在しています。
 
 私たちは、お金でモノが手に入るという意味では豊かになりましたが、一方で肝心なことを忘れがちにもなりました。
 買えるものが誰かの手と努力によって作られたという事実に思いをいたさなくなったのです。
 自分が稼いだお金を払い米を買って帰れば、自分の力で食事ができるとしか感じなくなってはいないでしょうか?
 米は自動的に店に並んでいると錯覚してはいないでしょうか?
 もしもお金という道具を介さず、苦労して獲った一羽の鳥と米を交換してもらったならば、自分と同じような苦労が農家にもあってこそ、今、米を手にできたのだという実感があるはずです。
 自分が「ありがとう」と言い、農家の方も「ありがとう」と言い交わせば、自然に〈お互いさま〉〈おかげさま〉の心になれたのではないでしょうか。
 お金は便利ですが、肝心な真実を観る心の眼を隠す魔ものという一面もあります。

 魔ものにやられないための方法は二つあります。

 一つは、人の世を無心に眺めることです。
 道路掃除をしているお婆さんはいませんか。
 新聞配達をしているお兄さんはいませんか。
 寒い日も工事現場で交通整理をする警備員はいませんか。
 そうした人々が皆、自分の生活を支えてくださっているのです。
 ちなみに私は、お墓ができあがる過程に関心を持ち続けています。
 土を掘る、鉄筋を組む、型枠を作りコンクリートを流す、養生シートをかける、こうした土台作りがあってこそ石が慎重に組み上げられ、美しく安定感のあるお墓ができあがります。
 過程をまったく見なかったならば、と思うと、ゾッとします。
 お墓を建てる皆さん、どうぞ、工事現場へ足をはこんでください。 

 もう一つは、想像力をはたらかせることです。
 湯気の立つ白い米粒たちを見ては、農村や農家を想い、虹のような光をチラリと放つマグロの一片を箸にしては、漁村や漁師を想うのです。
 そうすれば、自然に〈ご苦労様〉〈おかげさま〉という気持になることでしょう。
 昌益の言った「米は世の根」を忘れないはずです。

 最近、ある中国人から言われました。
「心ある中国人は日本人へ感謝しています。
 それは、日本人が中国から伝わった仏教を500年も守り発展させてくれたからです。
 今の中国政府も中国人も、毛沢東がいた乱暴な時代と違い、仏教を大切にする気持を持っています。
 かつて破壊された仏教の復活にかかわる人々の間では、仏教を守っていてくれた日本人へ感謝する人が少なくありません。
 私も日本の仏教文化へ感謝している一人です」
 実に〈文化圏〉はかけがえのないものです。
 それは、同じ文化圏で呼吸している一人一人の心によってつくられます。
 300年前に安藤昌益が指摘した「稲(イネ)はの根」「米(ヨネ)は世の根」を忘れず、米に感謝し、お金を魔ものにさせない心で生きましょう。




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2013
11.23

戒名の「居士(コジ)」って何ですか?

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〈「みやぎ四国八十八か所巡り道場」の参道を守る石柱がどんどん建っています〉

 お戒名の最後にある「居士(コジ)」とは、「外儀(ゲギ)内徳(ナイトク)を兼ねそなえ、み仏への信心をもって寺院を外護(ゲゴ)する人格者」を意味します。

 では「外儀」とは何か?
 外側からわかるふるまいが正しく、まっとうなことです。
 では「内徳」とは何か?
 外から見えない心が功徳(クドク)に溢れていることです。
 功徳とは、自他へ幸せや安心などをもたらす清浄な心の影響力です。

 思い出すのは、七仏通誡偈(シチブツツウカイゲ)です。
 これは、お釈迦様以前に悟りを開き仏となられた6人の方々もお釈迦様も共に説かれた教えのことです。
 つまり「仏教徒は何か?」という問いへの普遍的は答となるものの一つです。

「諸悪莫作(ショアクマクサ)…もろもろの悪を作(ナ)さない
 衆善奉行(シュゼンブギョウ)…もろもろの善を行う
 自浄其意(ジジョウゴイ)…自らその意(ココロ)を浄める
 是諸仏教(ゼショブッキョウ)…これがもろもろの仏の教えなり」


 一番目と二番目は外側からわかります。
 よく「あの人は悪いことのできない人だ」などと言います。
 よく「あの人はずいぶん世の中に尽くした人だ」などと言います。
 悪事を避け、善行に励み、周囲から認められ、信頼されるのは尊い生き方です。
 これは、社会人としての道徳の範囲です。
 ここをふまえた上で、もう一段、昇らねば宗教ではありません。
 それが自分で自分の心を清浄にすることです。

 たとえば、〈虫をも殺さぬ顔〉で憎い男を刺したり、〈あれほどの人〉の内心に黒々とした嫉妬や虚栄心が渦巻き、いい年になってから馬脚を顕してしまう場合があります。
 これらは、内心を放逸にした結果です。
 最も難しいのは、過ちを起こさせる二つの根本原因を心から取り除き、浄めることです。
 それが、空(クウ)を忘れたものごとへの執着と、幻の自分にしがみつく自己中心の勘違いです。
 前述の女性と権力者は、うまく世間を渡っていたのに、執着心と勘違いによって人生を崩壊させました。
 真理に合った真実の生き方ができるよう心を浄めない限り、真の安心も喜びも得られはしません。
 真実の生き方ができていれば、たとえ異性からチヤホヤされなくても、さしたる地位や名誉や財産が得られなくても、揺るがぬ安心と喜びに満ちた人生になるのです。
 悟り、仏となられた方々はすべて道徳に合った生活をし、さらには、心から根本的な黒雲を取り除かれました。

 これが「外儀(ゲギ)と内徳」です。
 だから、居士とは、娑婆にあって菩薩(ボサツ)のように生きる人を指します。
 当山で、ご本尊様から生前戒名を授かった方々は、必ず、生き方のどこかが菩薩のようになられるものです。
 亡くなられてから居士と授かった方は、この世では出家しなかったけれども、菩薩としてあの世の旅を続けられることでしょう。
 ちなみに、当山とご縁の方はすべて居士、あるいはその女性版である大姉(ダイシ)と降りています。
 人は皆、み仏の子であり、その真姿が顕れているのでしょう。




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2013
11.22

平成25年(2013年)12月の運勢─不利な土俵で相撲をとらない─

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〈15才の彼女は、去年も同じ場所で同じ光景を見せてくれました〉

 12月の運勢は、勇気ある撤退がポイントです。

信念や信条やに危機が迫った時、周囲の状況と自分の強さを冷静に見極め、この場では通せない、あるいは守れないと判断したならば、勇気を持って退くことも視野へ入れましょう

 古来、戦場においては、前進よりも退却の方が損害を大きくしやすいとされ、しんがりを務める武将には格段の剛勇が求められました。
 朝倉攻めに失敗した織田信長が退却するに当たって、木下藤吉郎が見事、その役割を果たし、功名を挙げた話は有名です。
 もっとも、被害が少なくて済んだ主たる理由は信長の決断の早さにあったとされていますが……。

 現代の経営などにおいても、早めに撤退して出直しをはかることの難しさが指摘されています。
 そこには、オーナー経営者ならいざ知らず、一度退いた経営者が再びリーダーとして力を発揮する場を与えられるケースは少ないという事情もありそうです。
 ともあれ、前進よりも退却の方が難しいことに変わりはありません。
 前進する場合は、希望という星が前方に待っていますが、退却する場合は、まず、失敗の確認という辛い作業を自分へ課さなければならないからです。
 多くの経営者がそのハードルを乗り越えられず、希望的観測で緩み、一打逆転の幻を追い、最後は引き返しようのない事態へとはまり込んでゆきます。
 こうした場面では、怪しげな者たちが登場し、食いものにされて転落を早める成り行きも少なくありません。

 さて、百鬼夜行(ヒャッキヤコウ)という言葉があます。
 人々が寝静まった深夜、鬼や妖怪などが群れをなして行動することです。
『今昔物語』には、愛人の居宅へ向かう公家が大勢の鬼と遭遇し、真言の書かれた布を縫い込んだ衣装をまとっていたために難を逃れた話があります。
 しかし、現代においては、夜間、徘徊する輩に対してそうした効能を発揮できるものはなく、危険性は当時の妖怪などの比ではありません。
 しかも、さまざまな世界に棲む現代の妖怪たちは、昼夜を問わず、場所も問わず、時として世界を駈けめぐりながら活動しています。

 対話の成り立たないこうした者たちと遭遇したと感じたならば、静かにその場を離れ、相手の土俵に乗らぬようにしましょう。
 対話は、用いられる言葉が当事者同士の間で共通した意味を持ち、両者のためになる妥当な何ごとかを求めるという共通した目的がなければ成立しません。
 自分のためだけでなく、相手のためにもなることを目ざさねば本当の対話ではないのです。
 経典や史伝を読むと、お釈迦様も、お大師様も、いよいよとなれば法力を用いておられます。

 たとえば、住民がお釈迦様の教えにまったく耳を貸さなかった場合、光り輝く高貴な人物が村外れの川を歩いて渡り、お釈迦様へ礼拝するといったシーンを現出させ、住民たちの心をつかみました。
 お大師様は、ごうつくばりから改心した庄屋に来世で希望を叶える約束をし、転生した庄屋が立派な城主となった石手寺の伝承を遺されました。
 いずれの場合も、まず、対話をめざし、通じない場合には異次元の世界へ引き入れて相手を救われました。
 しかし、凡夫の私たちには、こうした力が発揮できません。
 蒙昧な住民からは石を投げられ、無慈悲な庄屋にはボロボロにされるのがおちです。

 通じる人々、通じる相手であると確信できたならばとことん対話を行い、通じないと判断したならば、自分の力をずっと高めるか、もしくは相手の変化を待ってからの捲土重来を期しましょう。
 さもないと、智慧がうまくはたらかないがゆえの自滅、あるいは強大な力による他動的な災いに遭いかねません。
 この一ヶ月は慎重を期して無事安全に年を越し、元気で新たな年の新たな挑戦を行いたいものです。




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2013
11.21

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その65)─家族を生かすための戦い─

2013112123.jpg
〈『法楽農園』の守本尊様へ、亡き母親の菩提を弔うための石碑が建立されました〉

 寺子屋などで江戸時代まで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

「朝(アシタ)には山野に交わって
蹄(ヒヅメ)を殺して妻子を養い 
暮(ユウベ)には江海(コウカイ)に臨んで
鱗(ウロクヅ)を漁(スナド)つて身命(シンミョウ)を資(タス)け  
旦暮(タンボ)の命(ミョウ)を資(タス)からん為(タメ)に
日夜(ニチヤ)悪業(アクゴウ)を造り
朝夕(アサユウ)の味を嗜(タシ)まん為(タメ)に
多劫(タコウ)地獄(ジゴク)に堕(オ)つ」

 
 母親が乳を与え、幼子の世話をしているうちに、父親は外で生きる糧を得るために奮闘しています。
 朝には山野へ分け入り、けだものを捕まえてきて妻子へ与えます。
 夕方になると深い海へでかけて魚を獲り、家族の身体を養います。
 朝から夜までずっと続いているいのちを永らえるために、日夜にわたって殺生(セッショウ)の悪業(アクゴウ)をつくり、三度の食事を得ようとしては、長い間、殺生の報いとして地獄に堕ちていなければならないのです。

 農耕や狩猟といった第一次産業で生きていた時代には、生きものを獲るという実感のある毎日でした。
 殺生は罪であるという仏教の教えを知っていながらも、獣や魚を獲り、血を流させながら切り刻んで家族へ食べさせました。
 もちろん、娑婆の方々が生きるために必要な範囲で行う殺生は戒律に反しませんが、それでも昔の人々は、「たとえ自分は地獄に堕ちようと、何としても家族を養うのだ」という強い気持を持っていました。
 こうした責務と罪の間で食糧を得る生活には、おのづから、節度ある態度も伴っていました。
 〈自分だけ〉という仲間を忘れたあさましさも、〈もっともっと〉と無限に得ようとする恥知らずなあさましさも抑えられていました。
 だから共同社会が成り立ち、いのちが循環する自然環境は守られこそすれ、破壊はされませんでした。
 ただし、農耕技術などの発達は、生活の安定と同時に貧富の差を生み、富む者にも貧しい者にもストレスを発生させ、やがては現代人特有のうつ病が発症しやすい精神的環境をももたらしたという面は忘れず、格差是正と自然の回復に励みたいものです。

 家族を養う者が責務と罪の間にあるという構造は、現代にも通じるものがあります。
 何次産業であろうと、仕事の現場は常に戦場です。
 自分の怠け心と戦い、行く道を阻もうとするものと戦い、時には同僚と競います。
 その中で、たとえ殺したり盗んだりはせずとも、おべんちゃらを口にしたり、二枚舌を用いたり、高圧的な言葉で意志を通そうとしたり、あるいは、ままならぬ状況で忿怒の思いに駆られたりするかも知れません。
 また、自分の子供には見劣りのしない服装をさせたり、流行のオモチャをいち早く買ってやりたいなどとも願うものです。
 家族を生かすため、よりよい生活をさせたいため、違法ではないまでも十善戒に触れかねない行動を余儀なくされる場面は多々あり、人間としての戒めや矜恃などを感ずる戦士は歯をくしばり、あるいは目をつむりつつ戦っています。

 浅田次郎の歴史小説に『壬生義士伝(ミブギシデン)』があります。
 南部地方 (岩手県)盛岡藩の脱藩浪士で新選組隊士となった吉村貫一郎は、仕送りで郷里の家族を養おうと、功労あるはたらきをするたびに報酬を求めます。
 金銭や食事にこだわらず、「武士は食わねど高楊枝(タカヨウジ)」とやせ我慢をしていた時代なので、仲間から、図抜けた剣の冴えにそぐわない態度を軽蔑されもしましたが、最後は勝ち目のない戦いに突っこんで行きました。
『新撰組隊士吉村貫一郎、徳川の殿軍(デングン)ばお務め申っす。
 一天万葉(イッテンバンヨウ)の天皇様に弓引くつもりはこざらねども、拙者は義のために戦(イクサ)ばせねばなり申さん。
 お相手いたす』
 自分のための自分のいのちなどは、はなから捨てて生きていたのです。
 家族を食わせるために生きていた自分が、生き延びるために義を捨てるかどうかという岐路に立った時、やはり、自分のための自分のいのちなどにはこだわらず、義のために突撃しました。
 家族を〈養う者〉が引き裂かれる現実を深く考えさせられました。

 日本で行われているお盆の由来となった目連尊者(モクレンソンジャ)の母親も、引き裂かれた一人です。
 ある日、出家した息子目連が托鉢に歩いているのを見た母親は、我が子可愛さに、他の行者へは施さず、目連の鉢にだけたくさんの食べものを盛りつけ、死後、相手を選ばず無心に行うべき布施(フセ)行を誤った罪により、餓鬼界へ堕ちました。
 天眼(テンゲン)という神通力によってそれを知った息子目連は、師であるお釈迦様の指導で救いだし、行者がうち揃って地獄界や餓鬼界や畜生界から亡者を救い出す修法を行うという行事が始まったとされています。
 自分を育て、見守ってくれていた母親が餓鬼界で飢えと渇きに悶えていたことを知った時の悲しみ、そして、その原因が子供可愛さにあったことを知った時の切なさ、そして、自分一人では救いようのないことを知った時の苦しみ……。
 目連尊者の心は察するに余りあります。
 作法を知っていたにもかかわらず我が子の鉢にだけ食べものを盛らないではいられなかった母親
 苦しみつつ救済の修法を行った目連尊者。
 そして、修法を伝えたお釈迦様。
 こうした方々のおかげでお盆に施餓鬼(セガキ)の修法が行われ、御霊方と私たちの安心がもたらされていることを考えると、人は引き裂かれつつ霊性を高めているという気がします。

 いずれにせよ、子供を育てため、生かすためのまっとうで真剣な戦いが父親により、母親により日夜、行われていることをはっきりと認識したいものです。
 長寿社会になった日本では、親を生かし、守るための戦いも、子供によって行われるようになりました。
 ──いかに、まっとうに生かし、生きるか。
 いつの時代も実に厳粛なものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2013
11.20

昭和初期の童話「燕と子供」を読みましょう(2)

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 菊池寛編集の「日本文藝童話集(上)初級用」から『燕と子供』(作:北村寿夫)を書き出しました。
 現代文にするなど、若干、手を加えました。
 親子で読み、子供が書いた感想文を親が添削し、もう一度書かせてみるといった用い方ができそうです。
 全文を掲載しておきます。

をおくれ。靑いがほしいよう!」
 燕は、思わず目をあげて深い深い夜の大空(オオゾラ)を見あげました。
 そこには、ほんとうに淸らかな淸らかな神の瞳(ヒトミ)のような、美しいがありました。
 子供はあれをほしがっている。
 だろうか、あれはなんという崇高(ケダカ)いものだろうか。
 燕はこう考えました。もし、寂しい子供が、ただひとりこの世から離れていくにしても、あの美しい光をもっていたら、恐らく迷い易(ヤス)い道でも、迷わずに行けるだろう。
 あの光が子供のはかないこれからの行方(ユクエ)を導いていってくれるだろう。
 おお、しかし、あののあるところまで、いったいどのくらい遠いのだろうか。
 もし行きついても、持って帰ることが出来るだろうか。

 燕はふと、そのとき物語――子供といっしょに聴(キ)いた子供のお母さまの尊い美しい澤山(タクサン)のお話を、思い出したのでありました。
 熱い愛のこころ、世の中にこれほど高い、これほど美しいものがどこにあるのでしょう?
 そうだ、あの物語に澤山(タクサン)出てきた勇敢(ユウカン)な人々のように。
 ――燕は心をきめると、お窓の外から子供に云いました。
「坊(ボッ)ちゃん、お待ちなさい。
 わたしは靑いを、とってきてあげましょう。」
 燕は出来るだけ羽をひろげて、ひろい夜の大空へと飛びました。
 鳥は夜になると、それほどによく目の見えないものです。
 けれど、燕は、そんなことは考えずに、高く高く出来るだけ、高く飛びました。

 初めは、まず、冷たい電信(デンシン)の針金に頭をうちつけて、いやと云(イ)うほど痛い思いをしました。
 それから、あつい壁(カベ)のような雲に迷いこんで、いくたびも途方(トホウ)にくれました。
 しかし、どうして、この心の淸い感心な燕は心を落としましょう。
 一つの困難がやってくると、燕の心はさらに雄々(オオ)しく張りきりました。
 一つの苦しみがやってくると、燕の小さい心臓は、嵐のような烈(ハゲ)しい勇気にふくれるのです。
「星まで! 輝く緑の星のある所まで……」
 深淵(シンエン)のように靜かな夜空、はてしのない水のような夜の大空は、じっと、抱き入れるように寂(サミ)しい孤獨(コドク)の鳥をかい抱きました、
 上へ上へ、空のつきる所まで……

 夢中で飛んでいると、いつの間に、これほど高く上ったのでしょう?目をおろすと、はるかに星明かりに浮いている下界(ゲカ)の姿も、今は見えません。
 そして、目をあげてみると、まだ星は高く高く、靑白い優しい光を投げています。
「では、もう、ひと飛び……」
 燕は飛びました。
 矢のように飛びました。
 しかし、小さい翼はもう疲れきって、あまりに高い空の寒さに堪(タ)えられないほどになっていました。
 可哀想(カワイソウ)な子供のことを思い、燕は心かぎり、勇気をふるい起こしたのでした。
 でも、傷(イタ)める翼、それは遂(ツイ)に、寒く冷たく永遠に凍えてしまったのであります。

 あくる日の朝、ここのお家の人は、子供の寝ているお窓の外に、一羽の燕の動かない姿を見いだしまた。
 ちょうど、子供も靜かにこの世を去ったのでした。
 ですから、誰もその混雑(コンザツ)にとりまぎれて、屋根の上の燕のことは、ひとりとして気にかけるものもありません。
 お屋根には、何ごともなく靜かな日がさして、何ごともなく、その上に、黒い燕が横たわっておりました。
 誰が知りましょう。昨夜のことを誰が知ってましょう?

 その日の晩(バン)、人間の目にはつかない二人の天使が、ひとりは、かわいい子供を、ひとりは小さい燕の骸(ムクロ)を抱いて、ここのお屋根から天の方へ飛んでいきました。
 その途中(トチュウ)で、ひとりの天使は云(イ)いました。
「ゆうべ、あたしはこの燕を、わざと、子供のそばへ落としてやったのです。
 いじらしい燕の心……この心は神さまのいちばんおほめになる心です。
 この燕はお空へいって、花園をまもる番兵になるのです。
 あたしはこの閉じた翼を、唇であたためて抱いていってやりましょう。」
 も一人の天使も、嬉しそうにほほ笑みました。
 そして云(イ)いました。
「ええ、わたしも知っています。
 この小さい胸が、どんなに大きい尊いものを抱いていたか、天へ行ったら神様は、きっと喜んでほめてやって下さるでありましょう――」
 美しいお月夜の下を、天使たちは、靜かに靜にかに上へ昇っていきました。


 なぜ、こうした童話が子供の心を、そして大人の心をもうつのでしょうか?
 それは、損得を離れ、自分のいのちよりも尊いものにかける姿が美しいからです。
 私たちは、損得だけで生きるのが尊い生き方ではないことを知っています。
 自分のモノや自分のいのちがこの世で最も守るべきものではないことを知っています。
 しかし、大人になると常に損得勘定を先にし、言いわけをしながら自己中心で生きがちです。
 それだけに、こうした物語に接すると、子供ならずとも、心へ清風が流れこみ、心で温かなものが広がります。
 一流の童話が持つ力は偉大です。

20131120001 (2)

 高橋鍵彌先生(江戸川学園取手中・高等学校校長)は、人間に必要な三つの要素である知情意(チジョウイ)について、明確に図式化されました。

「人が人間らしくあるためには、まず確固たる意志の力(C)、そして豊かな情操(B)が必要です。このBとCの部分が人格をつくります。
 知識(A)は、このB・C部分に支えられて成り立つ。
 BやCがしっかりしていなければ、Aは支えを失い、たちまち力を失ってしまうのです。」


 そして、図に従った実践によって教育の荒廃や崩壊と戦い、「日本を救う」人材の育成に全力をそそいでおられます。

 私たちが「燕と子供」に感動するのは、小さな燕が、へこたれない意志力と、我が身を忘れて人を思いやる情けにかけて行動したからです。
 その〈人格〉のすばらしさがまっすぐに伝わってくるからです。
 大人も子供も何が大切かを教えてもらえる芸術作品の力は偉大です。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
11.20

昭和初期の童話「燕と子供」を読みましょう(1)

20131107003 (2)

2013111900111.jpg

 菊池寛編集の「日本文藝童話集(上)初級用」から『燕と子供』(作:北村寿夫)を書き出しました。
 現代文にするなど、若干、手を加えました。
 親子で読み、子供が書いた感想文を親が添削し、もう一度書かせてみるといった用い方ができそうです。
 全文を掲載しておきます。
 

 ……燕はその小さい巣を、そこの煙突(エントツ)の上へかけたのです。
 高い高い赤いお屋根の上でした。
 けれど煙突(エントツ)の口には、黒い風おおいが、蓋(フタ)のようにくっついているので、燕の巣は風にも吹かれず、雨にも濡れずにおりました。
 かわいい巣は、その蓋(フタ)の蔭にありました。
「この下のお家は何だろう?」
 若い燕はよくこう思って、つるつるすべるお屋根の下へ降りていきました。
 そこからは、ちょっと軒先の桐の木にとまると、お家の中がはっきりと見えました。
「ここのお家は何だろう?」
 ちょうど、そこはお窓でした。
 いいお天気がつづくので、お部屋のお窓は、すっかり明いていて、すみの方に引かれている青いカーテンは、そよそよと漣(サザナミ)のように動いておりました。
 そのお部屋は小さい坊やのお部屋でありました。
「ねえ、坊や。」
と、坊やのお母さまは、よく、坊やの小さな、お寝臺(ネダイ)のそばへ腰かけて、やわらかい坊やの髪を、なでながら云いました。
「きょうは、何のお話をしてあげましょう? 
 赤い帽子のお話? 口をきいたお月さまのお話?」
「いいえ、お母さま、僕、もっともっと尊いお話がいいの、イエスさまだの、天のお使いの美しいお話だのがいいの……」
 やさしいお母さまは、ほほえんで小さくうなづきながら、いろいろの淸(キヨ)いうつくしい、けだかい物語をなさいました。
 白い(ツバサ)のある三人の天の子供や、その子供たちが、かわいそうな老人(トシヨリ)に、明るい望みの光を吹き入れてあげるお話、または目のない小さな鳩が、神様のやさしいお力で、たよたよと幸福な太陽のそばまで、飛んでいけたお話、そうしたいろいろの正しい、いとおしい、涙ぐましいほどの、愛にみちた物語りでありました。

 子供はまだ小さかったから、學校へも行きません。
 朝、あかるい日が靜かにさしている時も、また、うす緑の美しい月影の照る夕べも、桐の花のさいているお窓の近くで、お母さまからお話をきいているのが常でありました。
 小さい燕……ふとしたことから、ここのお屋根の上にすんでいる燕も、ときどき細い桐(キリ)の木にとまって、坊やのお母さまから、物語をきいたのであります。
 お母さまも子供も、この可愛らしい聴き人に気がついていたでしょうか。
 いいえ、すこしも知らないのでした。
 あるとき、お話の途中で、ふと、子供はこう云ったことがありました。
「ねえ、お母さま、そら、あの燕も坊やといっしょに、お話をきいていますよ。」
 お母さまは、子供の指す方へ目をあげて。紫の桐(キリ)の花がくれに、おとなしく止っている燕を見ました。
 が、すぐ、にっこりしてこう云いました。
「うそよ、坊や、燕はお腹でも痛いのでしょう。
 それとも、羽が疲れていて飛べないのかもしれないわ……」
 それっきり、その後はお母さまも子供も、この燕のことを、気にかけなかったのでありました。
 でも、燕はお母さまの云ったように、お話をきいていたのではなかったのでしょうか。
 聴いてはいても、お話がわからなかったでしょうか。

 いく月かたって、かわいそうに子供はご病気になりました。
 ひどいご病気でした。
 お医者さまは自転車にのって、一日に二度もきました。
 赤い薬や黄色いお薬が、子供の枕もとにならべられてありました。
「ねえ、お母さま、お話をして下さいよ。」
 子供は寂しそうにお寝臺(ネダイ)の上で云いました。
「僕、どうしても寝られないのよ。」
 お母さまは嬉しそうに、いつもお話をしてあげました。
 でも、あるとき、お母さまは看病のくたびれで、子供にお話をする勇気もなく、ぐったりと子供のそばで眠ってしまいました。
 子供はたいへん心寂しかった。
 でも小さい心に、疲れているお母さまを起すのは、お気の毒だと思いました。
 子供は光の弱い目をあげて、お窓から暮れていく靑白い空を、眺めたのであります。
 そこには緑いろの火のような小さいが、薄い絹のような雲の底から、きらきらと暖かな優しい光をなげておりました。
「おさま、きれいなおさま……」
 じっと眺めていると、子供は自分の掌(テノヒラ)の中に、あの小さいの玉を、握りしめてみたいと想いました。
 ほしいと思うと堪(タマ)らなくなりました。
がほしい。」
 子供は、こう叫びながら、そのとき、急に目をつぶって唸(ウ)めき出しました。
 お母さまが驚いて目をさましたとき、子供の病気はよっぽどわるく変わっておりました。
「星をおくれ。靑い星をおくれよう……」
 苦しい呼吸の中で、子供は何かにひかれているように、夢中になって叫びました。
 燕が、びっくりして巣を出たのもこのときです。
 桐の木に身をよせて、燕は目を大きくあけながら、お部屋の中を覗(ノゾ)きました。
 そして小さい灯影(ホカゲ)の下に、かわいそうな病気の子供を見出(ミイダ)したとき、病気の子供が苦しそうに叫(サケ)んでいる叫(サケ)びをきいたとき、燕は気の毒さに胸がいっぱいになりました。


 昔はこのように、母親が物語を聞かせてくれました。
 それは童話だったり、地方の伝承だったり、母親の創作だったりと、さまざまです。
 もちろん、子守歌代わりになる場合もありました。
 母親のぬくもりと一緒に与えられる言葉たちは、どんなにか幼子の想像力や優しさを増したか、はかり知れません。
 母親に事情があれば、祖父や祖母が代役を務めるのは当然でした。
 情操教育のスタートは、まさに家庭にありました。
 そして心の根が力を持ち、挨拶や箸の持ち方など、ふるまいの土台も固まった子供たちが小学校へ上がり、中学生になってゆきました。
 学級崩壊や陰湿ないじめなどがほとんどなかったのには、明らかな理由があったものと思われます。
 核家族化し、ますます忙しく、しかも格差の広がる世の中になり、いつ、だれが、どうやって幼子の〈生きる土台〉をつくるか、焦眉の急とは、このことではないでしょうか。



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2013
11.20

大切な人の事を思う

20131119005.jpg

 まじめな施設『野のゆりホーム』さんが講習会「大切な人の事を思う」を開きます。
 講師は小澤竹俊先生です。
 どうぞ、ふるっておでかけください。

20131119001 (2)のコピー



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2013
11.19

【現代の偉人伝】第182話 ─小学生を救助した中国人留学生厳俊氏─

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 11月13日、中国人留学生厳俊氏(26才)が紅綬褒章を授与された。
 天皇陛下から直接お言葉をかけられ、状況をご説明申しあげたという。
 記者へ語った感想である。

天皇陛下は親切な人と感じました。
 すべきことをしただけだけど、日中友好の役に立ったのならうれしい」


 9月16日午後5時頃、ジョギング中の厳俊氏は、台風18号の影響で増水していた淀川で流され、「助けて」と叫んでいる小学4年生男児を発見、とっさに飛び込んだ。
 男児を堤防に押し上げようとしたが、男児に這い上がる力がなく失敗、自身も大量の水を飲み、一度は「人生もこれまでか」と思った。
 しかし、氏は諦めず、堤防を100メートル下流へ走って先回りし、衣服を脱ぎ、住民が持っていた縄を巻き付けて再び飛び込んだ。
 男児を右手でつかんだ氏は左手で泳ぎ、救助に成功した。

 氏が来日した目的は明確である。

「戦後復興を果たした日本で経済を学びたい」
「社会に役立つ人間になりたい」


 氏は来春、大阪市立大学大学院へ進学する。

 事後すぐに大阪府警大淀署とアルバイト先のローソンが感謝状を送った時は、「日本人なら紅綬褒章を送られるのに(中国人だから対象にされないのか)」という意見もあった。
 紅綬褒章は「自己の危難を顧みず人命の救助に尽力したる者」へ送られる。
 しかし、天皇陛下から受賞し、安倍首相からも感謝状も手渡された氏が「一人の普通の中国人としてしなければいけないことをしただけ」と語ったことにより、中国における投稿サイトの雰囲気などもがらりと変わったという。

 10月7日、京都地裁がヘイトスピーチ(憎悪表現)による学校法人京都朝鮮学園の授業妨害などに関して有罪判決を下したことが思い出される。
 日経新聞の報道である。
「橋詰裁判長は、街宣や、一連の行動を動画で撮影しインターネットで公開した行為について『(日本も批准する)人種差別撤廃条約で禁止した人種差別に当たり、違法だ』と指摘。
『示威活動によって児童らを怖がらせ、通常の授業を困難にし、平穏な教育事業をする環境を損ない、名誉を毀損した』として、不法行為に当たると判断した。」
 もちろん、判決に対する評価はさまざまだろうが、これだけ日朝関係が悪化している中で、日本の司法がきちんと機能していることについては、胸を張れるのではなかろうか。

 厳俊氏の受賞についても同様である。
 日本国内で特段のよき行為を行った者へ国籍や人種の差別なく勲章が贈られる状況は、日本人として誇りである。
 国家間で日中がギクシャクしている今だからこそ、私たちはこの受賞を共に喜びたい。
 氏が「一人の中国人」が行った当然の行為と言うならば、私たちは「一人の日本人」として心から慶祝(ケイシュク)すると言いたい。
 互いに中国人と日本人のままで、大きな心の握手をしたいものである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2013
11.18

君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳きても筆の柄をながめても

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 与謝野晶子の歌である。

「君こひし寝てもさめてもくろ髪を梳(ス)きても筆の柄(エ)をながめても」


 与謝野晶子は、不調に陥った夫鉄幹をかねて夢見ていたパリへと送り出した。
 そのころの鉄幹はなにしろ、ダリアの根のあたりから次々と現れ、列を作ろうとするアリに目をとめ、一匹づつ潰していたというから、いわゆるうつ状態に近かったのかも知れない。
 幸いにして、再起を期すべく夫は旅立ったが、別れ別れに暮らすようになってから、今度は晶子が夫の不在に耐えきれなくなり、こうした歌を詠んだ。
 時は明治44年、鉄幹38歳、晶子33歳である。
 ついに翌年、明治最後の年に晶子は夫を追って洋行する。
 ウィキベディアによれば、森鴎外が資金を援助し、平塚らいてうなど500余名が見送ったというから、当時の晶子の活躍ぶりは充分に想像できる。
 それにしても、何と初(ウブ)な心だろうか。

 11月8日、75歳で亡くなった島倉千代子の『からたちの花』 (作詞:西沢爽 作曲:遠藤実)を思い出す。

「こころで好きと 叫んでも
 口では言えず ただあの人と
 小さな傘を かたむけた
 あゝ あの日は雨
 雨の小径に 白い仄かな
 からたち からたち からたちの花


 この歌が発表された昭和33年、12歳だった私は勝手に、島倉千代子を〈姉〉と感じた。
 鳥が初めて目にした生きものを〈親〉として慕うのと同じである。
 特段、レコードを買ったりしたわけではなく、たまたま、テレビで目にしたりすると、ああ、ご活躍だな、と思う程度の思慕だったが、訃報に接し、去りゆく自分の人生と、遠ざかりゆく昭和という時代を深く実感させられた。

 与謝野晶子が太陽なら、島倉千代子は月であろう。
 そう言えば、誰かが、美空ひばりを太陽に、島倉千代子を月に喩えていた。

 平安時代の『古今和歌集』にも、晶子のような表現があった。

「こひしねと するわざならし むばたまの よるはすがらに ゆめにみえつつ」


(あなたは焦がれ死にしなさいとおっしゃるのですか、これほど絶え間なく、一晩中、夢の中へおでましになられるとは)
 赫奕(カクヤク)たる太陽の趣であれ、玲瓏(レイロウ)たる月の趣であれ、人を恋うような新鮮な感覚があれば、世界のそこかしこに輝くものを見いだす。
 花も笑い、雨も泣く。
 歌や唄の佳さを感じる心は失いたくないものである。




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2013
11.17

あの世から届いた剣の光

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 小春日和(コハルビヨリ)のよく晴れた日、Aさんのお納骨を行いました。
 「古家のゆがみを直す小春かな」
 与謝蕪村(ヨサブソン)は、本格的な冬の到来に備えて、古い家の手入れをするため、大工さんが立ちはたらく様子を詠みました。
 寒さに耐えながらセカセカと動くのではなく、この頃特有の柔らかな陽射しを受け、ややのんびりとやっているのでしょう。
 鉢巻と金槌の音が連想されます。

 前日は息子さんが丹念にお墓を磨き、剥がれかけた文字の色を上塗りし、当日は墓石業者さんが一時間以上も前から掃除をしたお墓は、まるで、たった今、できあがったかのように新鮮な姿で皆さんをお迎えしました。
 こうした行動をうながす葬送の文化は、どれほど私たちの心を養い、死後の世界へ安心をもたらしているか、はかり知れません。
 真っ白な木綿の袋へ入ったお骨は丁寧に納められ、お花やご供物が供えられてご守護の修法が始まりました。

 ご挨拶のお経、結界の真言と、いつもどおりの作法に従って進み、八方天地の守本尊様のお力をいただく結界(ケッカイ)法へ入りました。
 北東を守る虚空蔵菩薩様の真言を唱え、不動明王の剣となった右の手印で虚空蔵菩薩様の剣法を行った時、信じられない光景が現れました。
 墓石の棹石の表面に、導師が切る派筋に対応する形で光の筋が走ったのです。
 速九字「臨、前」を唱えつつ、私は左下から右上へ一刀目を切り上げ、真っ向に切り下ろしました。
 それに呼吸を合わせるかのように、墓石に右下から左上へ走り、真っ直ぐに降りる光が生じたのです。
 同様に、十方を守る秘剣通りの刃筋が見え、驚嘆と共に結界法を終えました。

 それが何であるかは、すぐにわかりました。
 居合の心得があるAさんは、かつて年賀状に剣を持つ写真を載せられました。
 竹林を背景に、真っ白な道着で剣を持つ姿は、まるで剣に聖性が宿っていた時代を切り取ったかのように清々しいものでした。
 また、隠形流居合のお弟子さんたちのために、真剣の講習会を催してもくださいました。
 だから、きっと、私の修法に合わせてお心を表し、あの世へ逝っても当山をお守りくださるご意志を伝えてくださったに違いありません。
 真っ白な道着のお姿で、あの世の剣をふるわれたのでしょう。
 私は、弟子入りをしていないAさんへは当然、結界の秘剣を伝授していません。
 それにもかかわらず、まるで伝授されたお弟子さんが対面して剣を振るように光が走ったことは本当に驚異です。

 あまりの感激に、不覚にも、そのあとの読経が止まりそうになりました。
 初めて自主的な護持会を結成され、当山の信念とするところを学び、その志を守るために当山を守って行こうと呼びかけたAさん。
 奥さんの体調をおもんばかり、観音経や般若心経を掛け軸に書いて収められたAさん。
 ずっと人生の先輩で、いつも直言してくださったAさんは、もしかすると、守護の思いを伝えると共に、いつもの屈託のない笑顔で住職を試したのかも知れません。
「まだまだ、修行が足りなくはありませんか?」
 私にはもう少し、この世での修行の時間が必要なようです。
 このできごとを一つの励みとして、やり直そうと発心しました。

 ご本尊様から降りたAさんのお戒名には、光と剣の文字が入っています。




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2013
11.16

畏れ多くも、皇后陛下の「畏れ多い」について思う

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 11月15日付の産経新聞で、御陵・葬法のあり方に関する「両陛下のお気持」全文を読んだ。
 宮内庁が両陛下の思いと、その具現化の方向性をまとめて発表したものである。
 ここでは合葬に言及されている。

天皇陛下には、御陵の歴史の中で、かつて合葬の例もあったことから、合葬というあり方も視野にいれてはどうか、とのお考えをお持ちであったが、この合葬とすることについては、皇后さまから、ご自身昭和の時代にお育ちになり、『上御一人(カミゴイチニン)』との思いの中で、長らく先帝陛下、今上(キンジョウ)陛下にお仕えになってきた経緯からも、それはあまりに畏れ多く感じられるとされ、~」


 皇后陛下は「畏れ多い」と言われた。
 この世でただ一人、天皇陛下と男女の仲になった女性からこの言葉が出たこと以上に、天皇の聖性を保証するものはないと思われる。

 いかなる聖人君子とされている人物であれ、妻からすれば、〈一人の男〉である。
 歴史的にも、また我々の日常生活における経験上も、この点においては、我々、世間の者と聖人君子と何ら変わりはない。
 英雄であろうが、権力者であろうが、いかなる勲章の受章者であろうが、生きものとして隠せぬ姿を知っている妻の目からは〈一人の男〉であることを免れ得ない。
 しかし、皇后陛下は、おそらく、きっぱりと、たとえあの世でであれ、一体になることは畏れ多いと、そのご意志を示された。

 前述の「聖性」とは、天皇陛下という一人の人物を神格化することを意味するのではない。
 私たちの文化をここまでつなぎ、成熟させてきた伝統の根本にあって、ゆるがせにできない価値から発しているものを指す。
 伝統とは、能や歌舞伎や神楽を伝承すればそこに〈見られる〉といった類のものではない。
 中島岳志(北大大学院准教授)氏が「『リベラル』保守宣言」で紹介したとおり、故小林秀雄は書いている。

「伝統は、見付けだして信じてはじめて現れるものだ。」
「伝統は、これを日に新たに救い出さなければ、ないものなのである。」
「個人はつねに否応なく伝統のほんたうの発見に近づくやうに成熟する。」


 中島岳志氏は指摘している。

「私たちは、伝統という無限の暗黙知の中で生き、過去の集合知に依存して日々の判断を下しています。」
「『精神のかたち』(つまり伝統)こそが、特定の集団の安定的秩序を構成している」


 皇后陛下のひと言「畏れ多い」こそが、隠れている伝統を確かなものとし、日本の文化の成熟度を明らかにしたのである。

 皇后陛下は続けられた。

「~、また、ご自身が陛下にお先立ちになった場合、陛下のご在世中に御陵が作られることになり、それはあってはならないと思われること、~」


 ここには二つの意味がある。
 一つは、崩御の後に御陵を造るという日本の伝統を守るということ、もう一つは、皇后陛下が先に御陵をお使いになられ、そこへ天皇陛下をお迎えすることはできないということである。
 第一の面についてはもちろん、天皇制における伝統であり、聖徳太子や始皇帝を含め、一般世間の者が寿陵墓(ジュリョウボ)という生前墓を作ってきた歴史を否定するものではない。
 特に現代では、生前に事後の準備をしておくことが当然と思われるようになり、それはそれで社会の成熟というものだろう。
 第二の面は、世間の者の生活に見られる伝統的感覚へ通じている。
 たとえば、亭主が仕事から帰り、風呂に入ってから妻も入るのが一般的感覚であり、そこには目に見えぬ伝統がある。
 もちろん、はたらいてきた者をねぎらうという理屈はあろうが、決してそれだけではない。
 ただし、この形が〈正しい〉から誰もがそうすべきであるなとというわけではなく、こうした感覚をふまえて、はたらいて帰宅した女性や介護に疲れたが先に風呂へ入ろうと、あるいは、泥んこで帰ってきた子どもが先に入ろうと、何ら問題があるわけではない。
 男尊女卑や家父長制といったものを持ち出して柳眉を逆立てて論ずるまでもない。
 それは、箸の持ち方や水の飲み方などと同じく、伝統に通じる生活慣習なのである。
 たとえば、日本人はペットボトルから水を飲む際に、口をつけてこぼさぬように飲むが、インド人は、天へ向かって大きく口を開け、注ぎ込むようにして飲む。
 決して、どちらかが〈正しい〉わけではなく、衛生的観点などからの面倒な論議は詮無きものというしかないのである。

 皇后陛下は続けられた。

「~、さらに、遠い将来、天皇陵の前で祭事が行われることになる際に、その御陵の前では天皇お一人のための祭事が行われることが望ましく、陛下のお気持ちに深く感謝なさりつつも、合葬はご遠慮遊ばさねばとのお気持ちをお示しであった。」


 ここにも『上御一人(カミゴイチニン)』が色濃く表れている。
 たとえば天皇陛下が国民から慰霊のまことをお受けになられる場に自分も一緒にいることなど、あり得ないのである。
 もちろん、『上御一人(カミゴイチニン)』や前述の「聖性」は、決して天皇陛下という人間そのものを神の座へ押し上げることを意味しない。
 文化的伝統の体現者へ対し、今、たった一人でその〈悠久〉を生きておられる尊厳に皇后陛下を含め、おのづから頭を垂れているのである。
 御陵・葬法に関する両陛下の率直なお気持が発表され、私たちは肝心なことを思い出させていただいた。
 やはり『上御一人(カミゴイチニン)』である。




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2013
11.15

カギ供養とは?

201311140392.jpg

 当山ではカギ供養を行っています。
 これは、家や車などを処分する際に、入り口を守るカギへ祈ることを通じて家や車に感謝し、慰撫する修法です。

 たとえば、これまでお世話になった古い家を取り壊す時、柱にも壁にも、住んでいた人の歴史が刻まれていることに気づきます。
 これまで自分の足同様だった愛車を廃車にする時、ハンドルとアクセルを通じて意志の実現に役立っていてくれたことに気づきます。
 そこで「ああ、ありがたい」と思うならば、家や車がモノとして分解され機能を失う前に供養したいものです。

 心さえあれば、という考え方もありますが、形にしてこそ思いは心へ刻まれ、心を養い、心を豊かにします。
 合掌するなど自然に形をとれる人は、必ず、それなりに心が伴うようになっているものです。
 私たちがこの世へ人生修行の旅に来たのは、モノの世界でモノを用いて心をつくるためです。
 合掌し、頭を垂れ、儀式を行い、モノによる形を通じた心の実現をはかりましょう。

 方法は簡単です。
 カギと、いかなるもののカギなのかを知ってもらいたい範囲でお知らせください。
 家や車などの写真を同封していただいても結構です。
 また、カギの返却を希望する場合は、その旨を明示してください。
 お布施はカギと同封していただいても結構です。
 金額は決めておりません。
 皆さんのまごころに応じてご本尊様へお納めください。

 なお、お送りいただく前に、必ず、電話やメールにてお申し出ください。
 そうでないと、不審物として送り返させていただく場合もあります。
 皆さんの感謝とまごころがカギの供養を通じて仏神の世界へ届きますよう。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2013
11.15

芋煮会が終わりました

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〈雨も吹き飛ばす大鍋〉

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〈講堂いっぱいに〉

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〈大枝先生の笑顔〉

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〈待ってました!〉

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〈片付けが終わっても名残惜しくて〉

 11月10日、相変わらずの空模様でしたが、50人近い方々によって盛大な芋煮会が行われました。
 会場をセットする方、境内にしつらえた三つの大鍋で料理を作る方、カッパを着て草刈りする方、手水場を掃除する方、台所で漬け物などを皿に盛る方など、皆さんの心によってすばらしい会となりました。
 食事に先立ち、住職が恒例の寺子屋講演を手短に行いました。
 法楽米を指導された自然農法大枝邦良先生の言葉、自然農法から生まれた米ぬかの効用を説明する藁科昇さんの話も大いに関心を集めました。
 法楽農園で採れた自然米を焚いて食べ、カラオケで自慢の喉を披露し、お楽しみ抽選会は盛り上がり、詩吟も飛び出して親和の空気に満ちた方々は一つになりました。
 来年の再会を約束し、名残惜しい解散となりました。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2013
11.14

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第144回)もうすぐ千日目となります─

20131113110012.jpg

 12月5日で東日本大震災から千日目になります。
 当山では、日本の現況に少なからぬ憤りを持ちながら、祈っています。
 いとうせいこう著『想像ラジオ』は書いています。

「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。
 この国はどうなっちゃったんだ」
「木村宙太が言ってた東京空襲の時も、ガメさんが話していた広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の多くの災害の折も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないだろうか?
 しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。
 それはなぜか?」
「亡くなった人はこの世にいない。
 すぐに忘れられて自分の人生を生きるべきだ。
 まったくそうだ。
 いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。
 でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。
 亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しづつ前に歩くんじゃないのか。
 死者と共に」

 
 私たちはこれでよいのでしょうか?
 今なお不安定な原発周辺の大事を抱え、とてつもない数の方々がいのちがけで手探りの作業を続けています。
 町や村から切り離されて全国へ散った膨大な方々は心身を傷めながら、未来の見えない不安な一日一日を過ごしています。
 津波の被災地では、いまだに多くの地域で未来像が描けないままです。
 津波や地震でよりどころを破壊された無数の御霊方は、彷徨ったままです。

 こうした時期であるにもかかわらず、与野党揃って不謹慎にもカジノ構想を打ち出す状況は、身震いしつつ文明の転換点に立つ思いの一宗教者として耐え難いものがあります。
 犠牲者となった方々への鎮魂の思いはもう消えたのでしょうか?
 今なお、天災と人災とによって苦しんでおられる方々は、堂々と欲を第一にして恥じない軽薄な文明の皎々たる光の陰で、ひっそりと生きているしかないのでしょうか?

 この国の未来を深く憂うる者として、来年へ向け、心ある方々と共に思いをあらたにしたいと強く願い、12月14日(土)開催の寺子屋において、原発事故の被害に遭い全町退避となった富岡町の方々から、生の現実をお教えいただきます。
 死者の思いを想像できないどころか、同じ空気を吸っている同胞の苦しみにも目をつむり、キラキラしい未来ばかりが語られている現実を深く、深く省みようではありませんか。

 いとうせいこう氏はインタビューで語っています。

「死者と生者を分けてしまうのではなく、生者の中に死者の声が聴こえてくる。
 それと同時に死者も、『あ、そうか』って言っている僕らの声を聴いていると思いたい。
 そういう世界観をなくしてしまうことが、歴史性を失うことだと思うんです。
 それは百年前、二百年前の死者に対しても同じことだと思う」


 死者とつながる〈歴史性〉を失った時、倫理の根は枯れ、文化の花がいかに精いっぱい咲こうとしても、すぐに褪せる軽薄な色と、刺激的でもすぐに厭きる香りしか伴わないのではないでしょうか。
 真の意味で麗しく、徳の香りが漂う死者へ恥ずかしくない日本を皆の手で一歩一歩とつくってゆく以外、鎮魂と慰霊と謝恩の道はないように思われます。




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2013
11.13

第四十六回寺子屋『法楽館』「うつ病を克服する文明は?」(その2)

10131113001 (2)

 前回は、生きものとしての危険を回避するために発達した扁桃体のたはらきが過剰になり、うつ病の引きがねとなる原因を積み重ねてきた歴史を眺めました。
 そして、農耕の開始が生産物を蓄えるという社会的不平等の始まりであり、不平等感がストレスを引き起こし、うつ病の下地となっていることを確認しました。
 そして、文明の宿命である不平等を克服するために、一つには、人の心を荒(スサ)ませるほど拡大した社会的不平等を是正すること、もう一つには、思いやりと布施によって、一人一人が心の平等をつかむことが不可欠であると私見を述べました。
 最後に、もう一つ、私見を書いておきます。
 それは、NHKの番組でも指摘されていた〈自然との関係の回復〉です。

 私たちは、海とよく似た元素で構成されている羊水の中で成長し、この世へ生まれ出ます。
 そして、海とよく似た元素で構成されている血液に頼って生きます。
 私たちはまぎれもなく、〈自然の一部〉としての生きものです。
 しかし、文明の発達は人間をどんどん自然から遠ざけました。
 一面では、森や小川や湿地をつぶして都市を造り、道路を造り、生活環境から自然を追い出しました。
 もう一面では、陽が昇り、沈むことと無関係に夜中まで活動する生活のパターンをつくりました。
 こうした、いわば文化的生活が安心と長寿をもたらした反面、生きものとしての人間にストレスを発生させ、心身へ害を与えるようにもなりました。
 たとえば、ADHD(注意欠陥・多動性障害)の増加は、自然の中で発達した脳が、自然から切り離された刺激的環境へ適応できていないせいではないかと言われています。
 生育過程にある子供たちが夜更かしし、コンビニなどで強い光を受けることが脳へ悪しき影響を与えることはとっくに指摘されています。

 当山は「【現代の偉人伝】第166話」で株式会社アシスト代表取締役会長のビル・トッテン氏を紹介しました。

「中長期的に考えて、エネルギーを浪費し、ゴミを出す経済自体が続くとも思えません。
 だから、私は自分を守るため、自給自足に近い生活ができるように動いています。」
 氏はテニスコートを潰してネギやニンニクや大根を植え、ミツバチや鶏も飼っている。
「我が社では06年から、家庭菜園の農地を借りる社員に年間2万円を補助しています。
 会社全体の1割ほどにあたる80人ほどが利用しています。
 彼らは本気ですし、私も『晴耕雨読』の生活を続けていきます。」


 また、太陽と共に生きる規則正しい生活がストレスホルモンの分泌を正常化させることも知られており、そうした生活への切り替えがうつ病ADHDからの脱出に効果を示しています。

 もちろん、都市生活者たちがこぞって森の住人になれはしないし、皆が太陽の運行と寝起きを合わせる農耕時代の生活に戻れるわけでもありません。
 だから、都市や家々に緑を増やすなど生活環境へ自然を招き入れ、おりおりに大自然の中へ足をはこぶことには大いなる意義があります。
 また、子供たちにとって、自然とのふれ合いは適切な食事や睡眠と同じように不可欠であると認識し、〈自然欠乏症〉に陥らせないことも肝要です。
 アメリカでは800万人もの子供たちが精神を病み、特に多いのが日本でも増加しているADHDです。
 イリノイ大学は重大な研究発表を行っています。

「緑の野外スペースは子供たちの創造的な遊びを促し、大人と積極的に交流させ、注意欠陥障害の症状をやわらげることがわかった。
 子供の周囲に緑が多ければ多いほど、ADD(注意欠陥障害)の症状は緩和された。
 一方、テレビ鑑賞のような屋内での遊びや、野外でも舗装された場所のように緑のない環境での遊びは、症状を悪化させた。」(リチャード・ルーブ著『あなたの子どもには自然が足りない』より)
「平均的に、少女の家から眺められる緑が多ければ多いほど、その少女の集中力は高まり、衝動的な行動が減り、覚えた喜びも長続きする。 ひいては、学業が向上し、仲間からのプレッシャーにうまく対処し、危険を避け、不健康な生活を遠ざけ、問題行動をとらなくなる。」(リチャード・ルーブ著『あなたの子どもには自然が足りない』より)


 私たちはとっくに、〈何とかしなければならない〉生きものであり、そうした文明を生きています。
 誰かがうつ病になったなら、その直接的な原因は、いじめや過労や衝撃的なできごとかも知れません。
 しかし、誰しもの心にそうなりやすい下地ができつつあるという深刻な事態は看過できません。

 私たちは一つの文明の中で一つの時代の空気を吸って生きています。
 全員が一隻(セキ)の巨大な船の乗客であり、自分だけが降りられはしません。
 今からおよそ5億2000万年前に魚類の防御システムとして扁桃体を発達させ、以後、常にシステムの暴走という危険と隣り合わせの航海を続けている私たち、自然の一部なのに自然からどんどん乖離している私たちは、危険を避けるための知恵をはたらかせ方法の実践を続けるしか、沈没せずに宿命の航海を続けられはしないのです。
 うつ病は(ADHDなども含め)、発症している方にとっての問題だけではありません。
 それは人類全体の業病(ゴウビョウ)ですが、歴史と実例に見るとおり克服可能です。
 その方法は、社会的不平等の是正と、「おかげさま」「お互いさま」で生きる心の平等の確立と、そして生活と心へ自然の〈おかげ〉をいただくことではないでしょうか。
 不平等へ立ち向かい、自然を守り自然に親しもうではありませんか。
 日本を守り、子孫を守ろうではありませんか。





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2013
11.12

癒しは共感と励ましの二人三脚

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〈ジョアン・マヌエル・セラート

 リンゴ一個で空腹をしのぎつつ目的地へ向かう車内に流れているのは、ポールモーリアが演奏する『エーゲ海の真珠』。
 この曲は昭和45年の暮れに日本でも発売され、大ヒットした。
 同じ年の前月、三島由紀夫が割腹自殺を遂げている。
 あの時代、心の乾きに追われつつも、〈世間のことさ〉と放り投げられない若者たちは、ありったけのいのちの炎を燃やせる機会に飢え、場所探しをしていた。
 深い挫折を抱えた私の耳にはときおり、甲高い三島由紀夫の叫びがよみがえる。
「生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか!」
 何に魂をかけて生きられるか?
 心で呻きつつ歩く時、あちこちから『エーゲ海の真珠』が聞こえた。
 ピアノとチェンバロの主旋律は哀しみを湛えて抑揚をくり返し、ブラスの咆吼とドラムの連打は鼓舞し、ダニエル・リカーリのキャットは戦傷者へ看護婦が差し伸べる手の柔らかさで、よろめく心を支えてくれた。

 さて、日々、無情に打ちのめされる方々の悲しみや、無常にようやく耐えている方々の哀しみに接していると、人間は何と切ない存在なのだろうかと、その先の言葉を失う。
 また、私たちは、こうした感情に浸されてようやく、お釈迦様が説かれた「苦」を感得できるのではないかとも思われる。
 当山へ足をはこばれた方々から「癒されました」という言葉をいただくことがある。
 お釈迦様は、苦から癒されるという過程を経ることなく、一気に苦を克服されたが、我々凡夫は、なかなかそうはできない。
 耐え、癒されつつ、意志が続けば克服へ向かう。

 いつの間にか「癒し」という言葉が社会に定着した。
 癒しとは何だろう?
 若い頃の私は、『エーゲ海の真珠』に癒されて生き延びたのだろうか。
 あの短調の主旋律には切なさへの共鳴があったのか。
 あのダダダダと力強いドラムは、消え入りそうになる、あるいは忘れてしまいそうになる、あるいはまだしかとはつかめないでいる志への下支えだったのか。
 そうならば、癒しとは共鳴と激励によってもたらされるのか?
 確かに、私たちは、誰かに聴いてもらうだけで楽になる場合がある。
 魂の共鳴を感じとれれば、共感してくれる人がいれば、それだけでも切なさは薄れる。
 確かに、私たちは、誰かに背中を押されるだけで、足が前へ進む場合がある。
 激励されれば、隠れていた力があふれ出す。

 そもそも『エーゲ海の真珠(ペネロペ)』は、スペインのシンガー・ソングライター、ジョアン・マヌエル・セラートが作詞作曲したものである。
 ペネロペはギリシャ神話に登場する貞淑な妻である。
 出征したままになっている夫を20年待ち続け、再会を果たす。
 セラートは、年老いた旅人が、故郷の駅のホームで昔の恋人に似た女性を見かけた時の真理を切々と唄い、ポールモーリアは巧みな編曲と演奏で一世を風靡(フウビ)した。
 ちなみに、セラートの風貌も動作も故鶴田浩二そっくりである。
 この曲を唄った頃のセラートはもう、若者ではない。
 人生の切なさを知り尽くした男が、また切ないひとときをつくってしまう。
『ペネロペ、ぼくの誠実な恋人、ぼくの安らぎ。
 君はもう心の中で(ぼくの)夢を(織って)見たりしなくてもよいんだよ。
 ぼくを見て、ぼくは君の恋人なんだ、ぼくは戻ってきたんだ』
(http://www.geocities.jp/pppppppihyghhg/Paroles/espanol2/penelope/penelope.htm)
 ホームにたたずむ女性はもちろん、別人である。
 白昼夢はすぐに消え、人生の重い足どりは続く。

 思えば、音楽も文学も演劇や映画や絵画も共感と激励で、人間として生きる希望を失わせない。
 人間に共感し、激励し、激励されるとき、この希望が現実化するのではないか。
 癒しは人を人間として生きさせる力を持っていると思う。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2013
11.11

第四十六回寺子屋『法楽館』「うつ病を克服する文明は?」(その1)

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 11月10日、恒例の芋煮会と一緒に開催した寺子屋には、これまでで最多の方々がご来山されました。
 当初の計画では「最近、心に残ったできごと」という題で、勇気づけられるできごとなどをお話し申しあげる予定でしたが、急遽、変更しました。
 それは、どうしても10月20日にNHKで放映された「うつ病 ~防衛本能がもたらす宿命~」についてのまとめをしておきたかったからです。

 この番組については、これまで5回にわたって書いていますが、その後も、うつ病の患者さんやご家族から人生相談を受け、ご加持を行っているうちに、現代人の宿命ともされているこの病気に社会全体が立ち向かうには、二つの方法があるという思いが日に日に高まっています。

1 うつ病発症の歴史

 5億2000万年前、人類の先祖である魚類は節足類を天敵とし、厳しい生存競争をくり広げていました。
 ここで、敵を察知すると脳の一部である扁桃体がはたらいてストレスホルモンを分泌し、全身の筋肉が活性化することによって敵から逃れるシステムができました。
 
 次いで、魚類からは虫類、そしてほ乳類へと進化をたどる過程において、人類は扁桃体のおかげで生き延びましたが、扁桃体は天敵以外にも反応するようになり、うつ病の新たな原因が生じました。
 仲間との絆がなければいきられない種となった人間は、孤立や孤独によって不安や恐怖がもたらされ、その結果、扁桃体が暴走してうつ病をもたらすのです。

 そして、およそ370万年前、アフリカのサバンナにいた人類は猛獣に襲われるようになり、生き延びるために、恐怖体験の記憶を海馬(カイバ)へ溜め込むようになりました。
 恐ろしい目に遭った場所などへは二度と近づかないなどの知恵をはたらかせて、ご先祖様方は生き延びられましたが、今度は、記憶がたくだん溜め込まれたため、実際は何でもないのに、何かのおりに思い出すだけで扁桃体が過剰にはたらき、ストレスを発生させるようになりました。
 東日本大震災で被災した建物などを遺して置くかどうかが長期間、真剣に検討され、あるいは遺し、あるいは処理するという苦渋の決断が相次いでいることの重さが実感されます。
 遺すことによって、目にするよみがえる記憶の辛さに耐えきれない方々がおられる一方、なくしてしまえば、歴史に学ぶための大切な資料を失ってしまうという危機感を感じる方々がおられるからです。

 さらに、およそ190万年前になると、人類の脳にはブローカ野(ヤ)という言語をつかさどる部位が生じ声を用いて情報を伝え合うようになりました。
 しかし、ここでも扁桃体が暴走する機会をまた一つ、増やしたのです。
 それは、他人から恐怖の体験について聞かされただけでも扁桃体が強く活動するようになったからです。

 想像力と言葉という人間のいわば聖性にかかわる二つの道具が、あらたにストレスを発生させ得るものとなりました。
 こうして私たちは、より高度な生きものへの歴史をたどってきましたが、それは同時に、うつ病発症の可能性を高める歴史でもありました。

2 豊かな生活と平等な生活

 魚も始終、天敵がそばにいれば、うつ病的状態になり、生命力が低下します。
 チンパンジーも一匹だけ隔離されれば、群れに戻っても仲間にとけ込めず、うつ病的状態になり、生命力が低下します。
 そして、思い出しても、聞いても、扁桃体が暴走して過剰なストレスが生まれ、うつ病になりかねない私たちは、なぜ、ここまで生き延びられたのでしょうか。
 また、なぜ現代に至って、急速にうつ病の罹患が増えたのでしょうか?
 
 生き延びられたのは、敵から身を守る知恵が発達し、同時に助け合い、危機から救い合ってもいたからであろうと思われます。
 辛い体験を思い出し胸が固まりそうになる時、あるいは恐ろしい話に身のすくむ時、自分で好きなことをしてそれを解消したり、あるいは仲間といる安心感がそこから救い出したりしてくれました。

 では、なぜ、急速にそうした救いが薄くなり、うつ病に苦しむ人々が増えたのか?
 それは、あまりに不平等感が強い社会になったからです。
 実験によれば、人は他人より少なく持っていればストレスを発生させ、他人より多く持っていてもストレスを発生させます。
 少なければ劣等感や怨念が生まれ、多ければ高慢心や無慈悲な心になります。
 持てるものが少なくても、多くてもストレスが生まれるという恐ろしい宿命的システム(煩悩が原因です)が強く刺激される不平等な社会になり、うつ病を防ぐ体制が追いつかなくなったのが実態ではないでしょうか。

 その証拠に、今でも狩猟生活を続けるハッザ族の人々は、うつ病とまったく無縁な暮らしをしています。
 彼らの証言です。
「朝起きたなら、それだけで幸せです」
「不眠の体験はありません」
「私は家族にとって価値のある人間です」
「どんなに空腹でも、獲物を独り占めすることはありません」
 その日、狩りで得たものを平等に分け、その日を生きる人々に不平等感はまったくありません。
 ストレスはなく、うつ病も又、ないのです。
 しかし、農耕を覚えた私たちは、同時に、収穫物を溜める者と溜めない、あるいは溜められない者とを分け、やがては物質的不平等、そして社会的権力の不平等をも拡大しつつここまで来ました。
 不安定な狩猟生活から安定的な農耕生活へと進み、より安全で豊かに暮らし、余暇で文化も深化させた一方、どんどん不平等社会へと突き進み、心への負担を高めて来たとは……。

 こと、ここに至り、私たちはもはや、ハッザ族のような生活へと時計の針を逆回しするわけにはゆきません。
 安心で豊かな生活と不平等感が引き起こすストレスの解消をどう両立させるか?

3 平等への努力

 もはや、モノの世界の平等は取り戻し得ません。
 ならば、まず、私たちのやるべきことは、せめて不平等感のより薄い社会にすることではないでしょうか。
 いわゆる格差の是正です。
 これを脇へ置いたままのいかなる施策も、私たちをうつ病の危険性から救うことはできません。
 いかなる医術の発達も、病気の生滅以上に救いとなることはあり得ないからです。
 安倍総理ご自身も、かつて、ストレスによる腸の病気を体験しておられるではありませんか。
 権力があればあったでストレスにより心も身体も壊れ、ない苦しみはもちろん大きなストレスとなり、心も身体も壊すのです。
 そして、権力や財力のある人々と、ない人々との間で、うつ病発症の確率がまったく異なるという厳然たる事実に目をつむったままの、いかなる理想社会もないのではないでしょうか。

 そして、私たち一人一人にできる〈平等の達成〉は、互いを思いやることです。
 誰一人、〈おかげさま〉と言うしかないこの生活空間のおかげで生きていない人はいません。
 すべての人が、得に言われぬ〈おかげさま〉のおかげで生きているならば、私たちにできることは、〈おかげさま〉へ感謝し、恩返しをし、〈おかげさま〉の存続に寄与することです。
 ではどうすればよいか?
 それは、〈おかげさま〉の顕れである身近な人や、生きとし生けるものや、社会や自然のために、できることを行うことです。
 感謝を伴うその行為はすべて〈させていただく〉のです。
 たとえば、介護をする人は、介護をしてやるのではなく、させていただく気持になって初めて、平等の達成へ寄与できます。
 してやるという気持には高慢心があり、知らぬ間にストレスを生んでいます。
 ありがたく、させていただくならば、ストレスはありません。
 介護を受ける人もそうです。
 お金を払ってやっているのだから気ままに命じるといった気持ではなりません。
 おかげさまで赤の他人へ手をかけていただき、生かしていただいているのだから、ありがたく支払いをさせていただくのです。
 互いに感謝し相手を思いやれば自然に〈おたがいさま〉の心が生じ、心の平等が現出します。
 私たちは、〈おかげさま〉と〈おやがいさま〉の心により、平等という人間として重要な維持機能を心に保持したまま、原理的に不平等なこの世を生きられるのです。

 社会的平等の是正と、各々の心の平等は、二つとも、達成可能な目標です。
 目標を共有し、文明病であるうつ病へ共に立ち向かおうではありませんか。




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2013
11.10

統合失調症の体験 ─千差万別の心象風景を生きている私たち─

20131110DSC00011.jpg
〈黎明〉

 11月6日付の朝日新聞は「統合失調症症状知って」と題する記事を掲載した。
 大阪西区社会福祉協議会が開催した疑似体験の取材である。

 今や100人に1人が発症する統合失調症とはどういう状態なのか?

 照明を落とした部屋に20~70代の男女32人が集まった。
 精神保健福祉士の藤井健さん(43)が統合失調症症状や治療薬などを説明する。
 すると、どこからか男性の声が聞こえてきた。
《ふふふ……ふはははっ……うーん》
《薬のんでるで》
《あかん、あかんて》
 低くつぶやくような声。
 意味の分からない会話。藤井さんの説明に集中できない。
「ラジオか何かの声がうるさい。
 止めて下さい」。
 参加者の1人が声を上げた。
「これが統合失調症症状です」とスタッフが明かした。
 実は、げた箱の中に入れたり布をかぶせたりして隠したスピーカーが部屋の四隅に設置されていた。


 スクリーンに、えんま大王が描かれた地獄絵が映し出された。
 映像がガタガタと揺れる。
 何の意味があるのだろうと思ったら、映像がパッと替わり、現れたのは聖徳太子の肖像画。
 続いて、画面の右から石像の首が飛び出し、コロコロと転がって左へ消えた。
「24時間365日幻聴が聞こえる人もいる。
 スクリーンに映っているような映像が視界全体に広がり、幻だという自覚がない人もいる」と藤井さんは言う。


「周りの人に見えていないものも、本人には見えている。
 それを『ありえへん』と言ってしまっては人格否定につながる。
 本人にとって、信じてもらえないことはしんどい」


 参加した人々はイライラし、頭が痛くなったという。
 そして、ようやくこれが患者にとっての現実であると理解できた。
 当山にも患者さんやご家族が人生相談やご加持に来られる。
 ほとんどが、いっときの安堵でしかないが、潤いを取りもどした表情でお帰りになられると、ささやかな役割を果たさせていただいたという思いと、〈これしかできない〉自分の非力さに合掌してしまう。
 患者さんとの対応で最も大切であり、かつ、難しいのが、患者さんにとっての現実をリアルに想像し、患者さんは今、〈その中〉におられるという事実と向き合うことである。
 そこからしか、対話も、ご加持の修法も始まらない。
 きっと、そのことは、医療の現場にあっても、あるいは障害者作業所にあっても同じだろう。
 もちろん、家族や同僚にとっても。

 第三者は患者さんの五感六根が生み出す世界へは入れない。
 しかし、実は、そのことは、健常者同士にとっても同じなのである。
 私たちは決して、一つの世界を同じように見ているのではない。
 たとえ恋人と並んで富士山を眺めていたとしても、実際に見えているのは別々の富士山であり、観ることによって起こる心の動きもまた、まったく異なっている。
 自分は頂上付近へうっすらと降り積もった雪に目を奪われていても、恋人はきりりとした稜線全体に見とれているかも知れない。
 自分は恋人と富士山と一体になった幸せな気持でいても、恋人は、以前、別な相手と来た時のことを思い出し、苦い思いをしているかも知れない。
 私たちは、〈同じものを同じように見ていることにして〉日常生活を送り、会話が成立している。
 しかし、実際は、その前提は幻でしかなく、私たちは、無意識のうちに幻を共有して社会生活を営んでいる。

 共有が可能なのは、誰にも一定の想像力が備わっているからである。
 このことを認識すれば、患者さんの世界を共有することもできるはずである。
 もちろん、そこで起こっていることごとは心身へダメージを与え、他人と共有しがたく、社会生活を難しくするからこそ、病気とされるわけだが、それぞれが異なる心象風景を抱きつつ生きているという真実の範囲内であることは、健常者も患者も変わりない。
 藤井健氏の言葉は重要である。
「『ありえへん』と言ってしまっては人格否定につながる。」
 私たちは、自分が人格を否定されない環境にあって初めて安心な生活を送られる。
 だから、まっとうな人は、軽々に他人様の人格を否定したりはしない。
 ならば、患者さんに対しても同じに接して当然ではなかろうか?
「本人にとって、信じてもらえないことはしんどい」
 これは、例外なく、誰にとっても真実なのである。





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2013
11.09

『菜の花と小娘』を読みましょう

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 訳あって「日本文藝童話集(上)初級用」を繙(ヒモト)きました。
 大御所菊池寛がまとめ、昭和2年に文藝春秋社より発行された少年少女向けの本ですが、志賀直哉・菊池寛・与謝野晶子といった豪華な執筆陣による薫り高い作品群であるのはもちろん、装丁といい、挿画といい、天皇皇后両陛下の天覧に浴しただけの完成度が感じられます。
 冒頭の志賀直哉作『菜の花と小娘』に若干、手を加え(当用漢字にする、現代文にする)てみました。
 親子で読み、子供が書いた感想文を親が添削し、もう一度書かせてみるなどの用い方ができそうです。
 全文を掲載しておきます。

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菜(な)の花と小娘 作:志賀(しが)直哉(なおや)

 或(あ)る晴れた静かな春の日の午後でした。
 一人の小(こ)娘(むすめ)が山で枯れ枝を拾(ひろ)っていました。
 やがて、夕日が新(しん)緑(りょく)の薄い木(こ)の葉を透(す)かして赤々と見られる頃、小娘は集めた小枝を、小さい草(くさ)原(はら)に持ち出して、そこで自分の背(せ)負(お)ってきた荒い目(め)籠(かご)に詰(つ)めはじめました。
 そうして、しばらくたちました。
 すると、小娘はふと誰かに自分が呼(よ)ばれたような気がしました。
「ええ?」小娘は思わずそう言って、立ってそのへんを見回しました。
 が、そこには誰の姿も見えません。
「誰?私を呼ぶの。」小娘はもう一度大きい声でこう言ってみましたが、矢(や)張(は)り答える者(もの)はありませんでした。
 二三度(にさんど)そんな気がして、初めて気がつくと、それは雑草の中からただ一本(ひともともと)、わずかに首を出していた憐(あわ)れな小さい菜(な)の花でした。
 小娘は頭にかぶっていた手ぬぐいを取って、顔の汗を拭(ふ)き拭き近寄って行きました。

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「お前、こんなところで、よくさびしくないのね。」
「さびしいわ。」と菜の花は親しげに答えました。
「そんならならなぜ来たのさ。」小娘は叱(しか)りでもするような調子で言いました。
 すると菜の花は、「ひばりの胸(むな)毛(げ)に着いてきた種が、ここでこぼれたのよ。困るわ。」と悲しげに答えました。
 そして、どうか私をお仲間の多い麓(ふもと)の村へ連れていってくださいと頼みました。
 小娘は可哀そうに思いました。
 小娘は菜の花の願いを、かなえてやろうと考えました。
 そして静(しず)かにそれを根から抜くと、自分の荷物(にもつ)を背負(せお)い、それを片手に持って、山路(やまじ)を村の方へと下(くだ)って行きました。

 清い小さな流れが、水音をたてて、その路にそうて流れていました。
「あなたの手は随分、ほてるのね。」
 しばらくすると、手の菜の花は不(ふ)意(い)にこんなことを言い出しました。
「あつい手で持たれると、首がだるくなって仕方がないわ、まっすぐにしていられなくなるわ。」
 そう言いながら、菜の花はうなだれた首を小娘の歩調(ほ ちょう)に合せ、力なく振っていました。
小娘は、ちょっと当惑(とうわく)しました。
 そして、心配そうに、「苦しいの?」と下を向いてしまった菜の花を、のぞき込んで言いました。
「そんなでもないの、いいの。心配なさらないでも。」
 菜の花は苦しいのを我(が)慢(まん)して答えました。
 小娘には図(はか)らず、いい考えが浮かびました。
「いい!いい!」と小娘は言いました。
 そうして身軽(みがる)く道端(みちばた)にしゃがむと、そのまま黙(だま)って菜の花の根を流れへ浸(ひた)してやりました。
「まあ!」
 菜の花は生き返ったような元気な声を出して小娘を見上げました。
 すると、小娘は宣告(せんこく)するように、「このまま流れて行くのよ。」と言いました。
 菜の花は不安(ふあん)そうに首を振りました。
「先に流れてしまうと恐いわ。」
「大丈夫。心配しなくてもいいの。」
 そう言いながら、早くも小娘は流れの表面(ひょうめん)で、持っていた菜の花を離してしまいました。
「恐いは、恐いわ。」と流れの水にさらわれながら、菜の花は見る見る小娘から遠くなるのを心配(しんぱい)そうに叫びました。
 が、小娘は黙(だま)って立ち上がると、両手を後へ回(まわ)し、背(せ)で跳(おど)る目籠をおさえ、駆けて来ました。

 菜の花は安心しました。そして、さも嬉(うれ)しそうに水面から小娘を見上げて、何かと話しかけるのでした。
 どこからともなく気軽(きがる)な黄蝶(きちょう)が飛んできました。
 そして、うるさく菜の花の上をついて飛んできました。
 菜の花はそれを大変嬉(うれ)しがっていました。
 しかし黄蝶は、せっかちで、移り気でした。
 そして、いつとはなしに、又、どこかへ飛んでいってしまいました。
 菜の花は小娘の鼻(はな)の頭にポツポツと玉のような汗が浮かび出しているのに気がつきました。
「今度はあなたが苦しいわ。」と菜の花は心配そうに言いました。
 が、小娘はかえって「心配しなくてもいいのよ。」と不愛想(ぶあいそう)に答えました。
 菜の花は、叱(しか)られたのかと思って、黙ってしまいました。

 間もなく小娘は菜の花の悲鳴(ひめい)に驚(おどろ)かされました。
 菜の花は流れに波打っている髪の毛のような水草に、根をからまれて、さも苦しげに首をふっていました。
「まあ、少しそうしてお休み。」
 小娘は息をはずませながら、傍(かたわ)らの石に腰をおろしました。
「こんなものに足をからまれて休むの、気(き)持(もち)が悪いわ。」
 そう言いながら、菜の花は尚(なお)しきりにいやいやをしておりました。
「それで、いいのよ。」小娘は汗ばんだ真っ赤な顔に意地悪(いじわる)な、しかし親(した)しみのある笑いを浮かべて言いました。
「いやなの。休むのはいいけど、こうしているのは気持が悪いの、どうか一寸(ちょっと)あげてちょうだい。どうか。」
「いいのよ。」小娘は笑って取り合いません。
 が、そのうち水のいきおいで菜の花の根は自然に水草から、すり抜けて行きました。
 そして、不意に、「流れるぅ!」と、大きな声を出して菜の花はまた、流されて行きました。
 小娘も急いで立ち上がると、それを追って駆け出しました。
 少しきたところで、「やっぱりあなたが苦しいわ。」と菜の花はこわごわ言いました。
「何でもないの、心配しなくてもいいの。」
 今度は小娘も優しく答えてやりました。
 そうして、菜の花に気をもませまいと、わざと菜の花より二三間(にさんげん)先を駆(か)けて行くことにしました。

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 麓(ふもと)の村が見えてきました。
 小娘はふり返(かえ)らずに、「もうすぐよ。」と声をかけました。
「そう。」と、後で菜の花が言いました。
 それきりしばらく話は絶(た)えました。
 ただ流れの水音にまじって、バタバタ、バタバタ、という小娘の草履(ぞうり)で走る足音が聞こえていました。
 ポチャーンという水音(みずおと)がしました。
 と、すぐ、小娘は菜の花の死にそうな悲鳴(ひめい)を聴(き)きました。
 小娘は驚いて立ち止まりました。
 見ると菜の花は、花も葉も色がさめたようになって、「早く早く。」と延(の)びあがっています。
 小娘は急いで引き上げてやりました。
「どうしたのよ。」
 小娘はその胸に菜の花を抱くようにして、後の流れを見回しながら訊(き)きました。
「あなたの足元(あしもと)から何か飛(と)び込んだのよ。」
 菜の花はまだ動悸(どうき)が治(おさ)まらないように、言葉を切(き)りました。
「いぼ蛙(かえる)なのよ。一度もぐって、不意に私の顔の前に、浮かび上がったのよ。口の尖(とが)った意地(いじ)の悪そうな、あの河童(かっぱ)のような顔に、もう少しで、頬っぺたをドスンとぶつけるところでしたわ。」
 それを聴いて小娘は、大きな声をして笑いました。
「笑い事(ごと)じゃあ、ないわ。」と菜の花はうらめしそうに言いました。
「でも、私が思わず大きな声をしたら、今度は蛙の方でびっくりして、あわててもぐってしまいましたわ。」
 こう言って菜の花も笑いました。

 間もなく村へ着きました。
 小娘は早速(さっそく)自分の家の花畑(はなばたけ)に一緒(いっしょ)にそれを植えてやりました。
 そこは山の雑草(ざっそう)の中とはちがって土がよく肥(こ)えておりました。
 菜の花はどんどん延び育ちました。
 そうして、今は多勢(おおぜい)の仲間(なかま)と仲よく、仕合(しあわ)せに暮(く)らせる身となりました。






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2013
11.08

戒名料やご葬儀料の決め方(2)

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 ゆかりびとの会会員Aさんから、「戒名料やご葬儀料の決め方─〈相場〉へ逃げず、人生の大事については自分で考え判断しましょう─」を読んだご感想をいただきました。
「確かに住職が書いたとおりだと思いますが、本当にまごころに応じてご本尊様へお布施をすると莫大なものになってしまうので、皆さん、困るのではないでしょうか。
 お金に余裕がなければ、どうしようもないのではないでしょうか。
 大きなお布施を求めている、あるいは、貧しい方々を切り捨てるといった誤解もありはしないでしょうか」

 お応えしました。

 私は「申しわけない」と思いつつ、お布施をしています。
 それは、み仏を対象とするご喜捨だけの話ではありません。
 わけへだてなく生きとし生けるものを潤す水の心で布施行を行う時は、決して「こんなに納めた」とか、「これだけしてやった」という考えにはなりません。
「これしかできないけれど、せめてこれだけでもさせていただく」
 こうでしかあり得ません。
 なぜなら、いかなる場合も、布施をする相手の〈おかげ〉は大きく、自分は非力で、〈おかげ〉の大きさや重さに比べれば、自分のできることなど、たかが知れています。
 謝りたくなるのは当然です。

 娑婆にいた頃の私は、こうは考えられませんでした。
 だから、人生を左右するような大問題に関して、み仏へ願をかけた時も、そして成就した時も、さしたることはしませんでした。
 お金をけちったというよりは、それでも結果として〈間に合った〉からです。
 ここで言う〈間に合った〉とは、時の流れの中で支障なく、ことがはこんだという意味です。
 み仏へお布施を差し出すことは、商売上の取引とあまり変わらない、み仏との〝やりとり〟の一部でした。
 み仏はご加護をくださり、私はお布施でお返しをしたのです。

 しかし、本格的に仏道を歩み始め、驚きを伴って気づきました。
 仏神のご加護はあまりにも大きいのです。
 国や社会の恩、親やご先祖様の恩、生きとし生けるものの恩、師の恩、そして仏法僧の恩はあまりにも大きいのです。
 それに対して、自分は何をさせていただけるか?
 日夜、安全と生存を保証する国家社会へいかなる恩返しができるか?
 生み育くんでくれた親、輪廻転生(リンネテンショウ)しつつ私の心身へとその影響力を及ぼしている無限のご先祖様方へいかなる恩返しができるか?
 たとえ何をしようとも、すべては「これしか」の範囲を超えられません。
 そして、〈する〉のではなく、すべては〈させていただく〉のです。
 なぜならば、布施や恩返しといった善行は、仏神や社会や親といった相手があればこそ実践できるのであり、善行の実践はすべて善業(ゼンゴウ)となり、自分の未来をよきものとする力として見えぬ世界へ蓄積されるからです。
 実践を可能にしてくださる相手は常に、自分よりも気高く、尊く、文字どおり有り難い存在です。
 真の布施も恩返しも、遜(ヘリクダ)る心からしか実践できません。
 ここが欠けていれば、前述のような〝やりとり〟に堕してしまいます。

 ある日、岩沼市で〈読み聞かせ〉を行っているグループのリーダーBさんから小冊子『おとしぶみ』をいただきました。
 東日本大震災で被災した方々から聴き取った話を手作りでまとめられたのです。
 その時、80才を超えたBさんの口から、「私にはこれしかできません」という言葉が添えられました。
 胸も言葉も詰まってしまった記憶は今も鮮明です。

 ある日、関東在住のCさんから突然、お布施が振り込まれました。
 Cさんは困難を抱えながらも、世のため人のためになれる自分をめざし、学びつつ生きようとしておられます。
 一通の短いメールが届きました。
「み仏に対する信仰が強まり、ご縁の皆様にご加護がありますように。」
 ご自身の生活費を切り詰めてお送りくださったお布施は千金の値があり、私などにはあまりの重さです。

 ある日、ご自身の〝その時〟に備え、年金から積み立てておられるDさんからご葬儀のご依頼がありました。
 独り暮らしの妹さんを亡くされたのです。
 ほとんどが年配者数名の家族葬でしたが、しきたりをふまえた手ぬかりのない見事なものでした。
 ご自身の人生をかけた最後の仕事の一つとして妹さんをきちんと送るため、常日頃からどれだけの思いで準備をされていたのか。
 覚悟と節約の日々を想像しようとしても、私などには到底、できません。

 ある日、大病を抱えたEさんのご主人から、当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』へご寄進がありました。
 Eさんは若き日、四国八十八か所をお詣りしていた時、子供の頃に拝んでいたある菩薩様とめぐり会い、ご自身の守本尊であると深い確信を持たれました。
 いつ、どうなるかわからない状態に陥り、人生最後の仕事として、その菩薩様がご本尊様となっているお堂を造りたいと決心されたのです。
 ご高齢でもあり、ほとんど当山へ足を運ばれないEさんの篤い願いに、さらなる精進へと奮い立たせられました。

 前回の文章で「まごころに応じて」と書いたのは、〈おかげさま〉の真実に立ち、損得や計算による〈やりとり〉でなく、〈させていただく〉姿勢こそが真の布施であり、それは大きな善業(ゼンゴウ)となって実践する方の未来を尊く気高い方向へと導くからです。
 そして、その方の実践は、ご本人の未来を明るくするだけでなく、お線香の香りが周辺へ広がって周囲の人々の心を潤すのと同じく、周囲の人々からもよき心を引き出し、この世を浄土にするための大きな力ともなるからです。
 Bさん、Cさん、Dさん、Eさんの実践に感じとっていただけるとおり、決して、金額そのものの問題ではなく、まごころ、すなわち心の清らかさの問題であることをご理解いただきたいと思います。

 Aさんから「わかりました。皆さんにご理解いただければいいですね」とご返事いただき、ホッとしました。




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2013
11.07

橋本武著『一生役立つ学ぶ力』を読む(その2)─美人は遅れて暮れる─

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 今日は「水はじめて氷る、地はじめて凍る」立冬です。
 30度を超えた夏の印象が、そして扇風機のある光景がまだ記憶からほんとんど薄れないまま、とうとう、冬支度となりました。
 故橋本武先生が100才で語り下ろした教育論を読み進めましょう。 

 氏は読書を出発点とし、次は書かせ、そして、よく考えるところまで導く。

「わからなくても読み通してさえおけば、次に細かく見ていくときに必ず役に立つ。」
「考える力を付けるためにゆっくりじっくり一冊の本を読みこむ。
 それと同時に、人の生き方、あり方の幅を知るために、まるべく多くの本を読む。
 この両輪がそろってはじめて、『真に国語力を養う読み方』と言うことになるのです。」


 文字の奧へ広がる世界を感得するためには、熟読が欠かせない。
 たとえば、「美人遅暮(ビジンチボ…美人は遅れて暮れる)」という言葉がある。
 美人は周囲の女性たちよりも長く美しさを保ち、遅れて老けるという意味だが、中国の詩人屈原(クツゲン)はこう詠んだ。

「日月は忽(コツ…たちまち)として留まらず、春と秋と、それ代わり序(ツ…続くものの糸口となる)ぎて、ああ、草木は零落(レイラク)す。
 恐ろしきは、美人の遅れて暮れんこと。」


(時はたちまちにして過ぎゆき、春がくれば秋が来て、季節はいつも続く季節の序章となり、草木は変化の中で滅んで行く。
 恐ろしいのは、心根の佳き人が雑事に気を取られ、周囲が変化しても気づかず、ずれた人になってしまうことだ)
 憂国の詩人屈原は、楚の国が滅ぶ前夜、入水した。
 この一句は、大国秦に翻弄され、権謀術数(ケンボウジュッスウ…はかりごとを巡らすこと)の戦いに乗り切れず、真情を保ったままで滅び行く人々の思いを詠んだものと思われる。
 いつの時代も、〈うまくやれない心麗しき人々〉はいる。

 一方、魯迅はこう詠んだ。

「私は、あの、去って行った、悲しいとりとめもない青春を追い求めたい。
 だがそれは身の外にでもよい。
 というのは、身の外の青春まで消えたなら、私の中の遅暮も凋(シボ)んでしまうからだ。」


 魯迅は、若い人々を眺め、自分の胸にある歳不相応な残り火を確認している。
 それができるのは、明々(アカアカ)と松明(タイマツ)を掲げる人々や、文字どおり遅春を生きている人々がいるからであって、もしも枯れ野に立つならば、残り火はたちまち消え去ってしまうことだろう。

 故橋本武先生は、還暦を過ぎてから宝塚歌劇のファンになり、「病気で見に行けなくなるまでの20年間中、月に何十回、年間150回、ほぼ2日に一度は見たという年も」あったほど熱中された。
 魯迅に相通ずる面がおありになったのだろうか。

 小椋佳氏は『しおさいの詩』にこう書いている。

「汐さいの浜の岩かげに立って
 汐さいの砂に涙を捨てて
 思いきり呼んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

 青春の夢にあこがれもせずに
 青春の光を追いかけもせずに
 流れていった時よ 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい

 恋でもいい 何でもいい
 他の全てを捨てられる 激しいものが欲しかった

 汐さいの浜の岩かげに立って
 汐さいの砂に涙を捨てて
 思いきり叫んでみたい 果てしない海へ
 消えた僕の 若い力 呼んでみたい」


 氏の青春はそもそも、残り火のようなものだったのだろうか。
 人ではなく海へ向く希求の思いは叶うのだろうか。
 それとも、氏は青春時代の〈もどかしいような飢渇感〉を失ってはいないのだろうか。
 ならば、69才の氏もまた、「遅暮」のまっただ中におられるのかも知れない。
 
 今はアンチエイジングのかけ声が昼夜を問わず鳴り響き、老いた人が若さを競い合う時代になった。
 そうであればこそ、老化の激流に逆らう「遅暮」とは何であるか、いったい何を目的として「遅暮」へ精力を注いでいるのか、立ち止まって考えてみたい。
 熟読は、明らかに、その手助けとなる。

 ただし、それだけではなく、多様な人生や万華鏡のように変化する心に想いをいたし、心を広く深いものにするための多読も欠かせない。
 深い井戸の水にも、流れる河の水にも、それぞれの味わいがあるように、熟読と多読が双方そろって初めて、読書は人生に対する真の力を発揮するのだろう。




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2013
11.06

橋本武著『一生役立つ学ぶ力』を読む(その1)─すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる─

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 9月11日、101才で逝去した元灘中高教師橋本武氏は『一生役立つ学ぶ力』を遺された。
 著者は言う。
「『銀の匙』の子どもたちをはじめとする、すべての教え子に本当に伝えたかった〝学ぶ力〟について、はじめて本格的に語り下ろしました。」
 上梓から一年を待たずして、著者はこの世での役割を終えられた。
 尊崇の念をもって、読んでみたい。

 氏は、中勘助著『銀の匙』を中学校3年の間中、じっくりと読み込む独特の指導法で、灘中高がトップクラスの学校へと飛躍するのに貢献した。
 ただし、それは結果論であり、氏は受験勉強という狭い発想での授業を行ったわけではない。
 むしろ、子供たちが学ぶ楽しさを知り、真の教養を身につけてゆく手助けをした。

「子供が遊ぶような感覚で学んでいけるよう仕向けること。」
「もちろん、『遊ぶ教育』の環境は、過程ならば親が、学校ならば教師がつくっていかなければなりません。」
「大事なのはテストの点数ではなく、日々の積み重ね。」
すぐ役立つことは、すぐ役立たなくなる。


 遊ぶときは夢中・無心になる。
 それは強い興味をもっているからである。
 ならば、勉強も、強い興味を抱ければ、遊ぶのと同じように夢中になれるはずである。
 だから、氏は、一冊の小説に書かれた言葉を題材として、そこから派生する無限の関心を子どもの心から引き出した。
 実際にカルタや凧揚げを行い、言葉を入り口とする生きた現実を体験させ、過ぎ去った時代への想いを導き、情操を育んだ。
 子どもたちは、遊ぶかのごとく、勉強に夢中になった。
 その結果、国語の成績がよくなり、国語の力がつけば当然、他の教科の理解力も増し、灘校は飛躍したのである。
 受験のために「すぐ役立つ」ノウハウに走らぬ授業は、子どもたちへ、広く関心を持ち根気強く学ぶという人間としての基礎力を植え付けた。
 当時の子どもたちの心には授業の足跡が確実に残り、半世紀を経てなお、師弟の交流は続いていた。

「長い間、国語教師を務めてきてはっきり言えること、それは、〝国語力〟がすべての学問の基礎になるということです。
国語力イコール〝生活力〟なのです。
 相手のことを理解する、そして自分のことを相手に理解してもらうという人間関係の基本的、かつ、もっとも重要な場面において、国語の力や読解力はいやでも試されます。」
「私が読書を中心に据えた授業をしようと考えた理由は、何とか生徒の心に生涯残って、生きる糧となる授業がしたいという大きな願いがあったから。」
「一人の人生において体験できること、見聞きできることはおのずと限られている。
 しかし読書を通じて、そうした自分では体験できないことを知ることができるとともに、自分とは違う人間、生き方があるということも見えてくる


 教師の現場から、国語という教科の重大さが明確に指摘されている。
 大学生になってすら中学生程度の漢字がわからず、小学生程度の文章しか書けない学生がたくさんいるという現実、若者たちの最大の悩みが意思疎通の不調などを原因とした人間関係の難しさにあるという現実を見れば、焦眉の急は国語力のアップであることが想像できる。
 国語の勉強により、読み書きの能力が上がるだけでなく、多様な人生への広く柔軟な視点が得られれば、人間関係の円滑化に役立つ。
 そもそも、邪慳な心、排他的な心、高慢な心、自己中心的な心は、他人の気持や人生へ対する想像力の欠如と密接な関係がある。
 本を読み、言葉を知り、想像力を膨らませることは、一人の人間が子どもから大人へと成長するだけでなく、社会がギスギスしたものにならないためにも不可欠である。
「自分とは違う人間、生き方がある」ことは、子どもたちへ何としても教えねばならない。
 自分が決して〈小さな王様〉ではないと、早めに知らせる必要があるのではなかろうか。
 我執を伴う邪心があまり育たぬうちに。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2013
11.05

【現代の偉人伝】第181話 ─被災者の方々へ宣言し、結果を出した楽天の嶋基宏選手─

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 偉業が成った時、周囲の人々は、偉業を達成した人が過去に発した言葉たちの意味に気づかされる。
 言葉たちが、北極星のような導きの光になり、苦難や屈辱に耐える力になっていたことに気づくのである。
 平成21年4月2日、札幌ドームで開催される対日本ハムチャリティーマッチに先だって、東北楽天ゴールデンイーグルスの嶋基宏選手が行ったスピーチは、まぎれもなくそのようなものだった。
 また、4月29日には、Kスタ宮城で同様のスピーチを行った。
 以下、選手会長として、ファンと被災された方々へ語りかけた全文である。

[4月2日]

「あの大災害、本当にあった事なのか、今でも信じられません。
 僕たちの本拠地であり、住んでいる仙台、東北が今回の地震、津波によって大きな被害を受けました。
 地震が起きた時、僕たちは兵庫県で試合をしていました。
 家がある仙台にはもう1カ月も帰れず、横浜、名古屋、神戸、博多、そしてこの札幌など全国各地を転々としています。
 先日、私たちが神戸で募金活動をした時に『前は私たちが助けられたから、今度は私たちが助ける』と声をかけてくださった方がいました。
 今、日本中が東北を始めとして、震災に遭われた方を応援し、みんなで支え合おうとしています。
 地震が起きてから、眠れない夜を過ごしましたが、選手みんなで『自分たちに何ができるか?』『自分たちは何をすべきか?』を議論し、考え抜きました。
 今、スポーツの域を超えた『野球の真価』が問われています。
 見せましょう、野球の底力を。
 見せましょう野球選手の底力を。
 見せましょう野球ファンの底力を。
 共に頑張ろう東北!
 支え合おうニッポン!
 僕たちも野球の底力を信じて、精いっぱいプレーします。
 被災地のために、ご協力をお願いします。」



[4月29日]

「本日は、このような状況の中、Kスタ宮城に足を運んでいただき、またテレビ、ラジオを通じてご覧いただき、誠にありがとうございます。
 この球場に来る事が簡単ではなかった方、ここに来たくても来られなかった方も大勢いらっしゃったかと思います…。
 地震が起こった時、僕たちは兵庫県にいました。
 遠方の地から家族ともなかなか連絡が取れず、 不安な気持ちを抱きながら全国各地を転戦していました。
 報道を通じて被害状況が明らかになっていくにつれて、僕たちもどんどん暗くなっていきました。
 その時の事を考えると、今日、ここKスタ宮城で試合を開催できた事が信じられません…。
 震災後、選手みんなで『自分たちに何ができるか?』、『自分たちは何をすべきか?』を議論して、考え抜き、東北の地に戻れる日を待ち続けました。
 そして開幕5日前、選手みんなで初めて仙台に戻ってきました。
 変わり果てたこの東北の地を『目』と『心』にしっかりと刻み、『遅れて申し訳ない』と言う気持ちで避難所を訪問したところ、皆さんから『おかえりなさい』、『私たちも負けないから頑張ってね』と声を掛けていただき、涙を流しました。
 その時に何のために僕たちは闘うのか、ハッキリしました。
 この1カ月半で分かった事があります。
 それは、『誰かのために闘う人間は強い』と言う事です。
 東北の皆さん、絶対に乗り越えましょう。今、この時を。
 絶対に勝ち抜きましょう、この時を。
 今、この時を乗り越えた向こう側には強くなった自分と明るい未来が待っているはずです。
 絶対に見せましょう、東北の底力を!
 本日はありがとうございました。」


 東北楽天ゴールデンイーグルスが日本一になる2年半前、覚悟の言葉は予言の響きを持って語られていた。

 選手たちは、被災した方々の胸へへ希望の灯火を点そうとして、灯火を消すまいとして強かった。
 選手たちは、幾多の不利を、ケガを、負けじ魂で乗り越えた。
 選手たちは、投手陣を攻撃陣が支え、攻撃陣を投手陣が支え、誰も予想しなかったほどのチーム力を発揮して勝ち抜いた。
 選手たちは、誰もが強くなり、ドラフト一位で指名した松井裕樹投手(桐光学園)に「強いチームに選んでもらって光栄」と言わしめ、日本一という実績に裏打ちされた明るい未来を持った。
 選手たちは、まるで高校球児のような純真さでひたむきにプレーし、一歩も退かぬ根性で強敵たちへ立ち向かい、持てる力を底の底から発揮し尽くした。
 もちろん、ファンも、球団も、監督も、スタッフも、全員が一つの灯火を胸の鏡に共有し、それぞれの苦難を乗り越え、東北の窮状に負けず、選手たちに引っぱられて強くなった自分を自覚し、未来に希望を持ち続けられると確信した。
 東北は、まぎれもなく、底力を見せたのである。

 ちなみに、微笑みを絶やさない地蔵菩薩は、衆生(シュジョウ…人々、生き年行けるもの)のために苦と戦い抜く決意があればこそ、地獄へも赴いて業火(ゴウカ…悪業を原因とする責め苦)から救い、三途(サンヅ)の川では身代わりとなって鬼たちから救う力を発揮できるのである。
 嶋基宏選手の「誰かのために闘う人間は強い」は決定的な言葉である。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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