--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2013
12.31

ありますよ 秘密の一つは お墓まで ─『シルバー川柳 第三弾 一期一会編』─

20131231001 (2)

 12月30日、地方紙「みやぎシルバーネット」が、『シルバー川柳 第三弾 一期一会編』を発行されました。
 編集発行人の千葉雅俊氏は、高齢者向けフリーペーパーに毎月寄せられる1000句近い作品を読み込み、「十八年分の膨大な入選作を読み返して埋もれた名句を見つけ出し、本の熟成度を高め」ようとしておられます。
 数句を抜き出してみました。
 年末に肩の力を少々、抜いてみましょう。

「お婆さん 振り向かれたら お爺さん」


 最初、何のことかわからず、三度目でようやく、ああそうかと理解できました。
 老いるとは、種を保存する役割を終え、性が抜けて行くことでもあります。
 言葉にくくれば「寂しさ」や「安心」となりましょうが、まつわる思いには際限がありません。

「絵手紙を 描く手震える 老いの恋」


 64歳の女性が詠まれました。
 性は残り火となり、残照ともなって、老いの世界を彩ります。
 生きてこそ観られる世界です。

「財産は 年金だけよ 死なないで」


 文字どおり、互いが杖となって生き延びる日々です。
 文字面は現実的な打算ですが、心には無限の感謝や思いやりや祈りや叫びがあります。
 こうして伴侶を送り切られた方々の清らかな涙と、やり抜かれた達成感がもたらす神々しさの前では、いつも、黙って頭を垂れるしかありません。

「惚けじゃない 老にもあるの 反抗期」


 自覚しておられるご本人の心に何があろうと、目をかけ、手をかける周囲の人々の心には〈丸ごと認める〉優しさがあることでしょう。
「あるの」と言い切ってしまうところに、たやすくは崩れ去らない人間の強さも、切なさもあります。
 私には、可愛さまで感じられてしまうのですが。

「ありますよ 秘密の一つは おまで」


 いつだったか、たまたま目にした昼間のテレビで、レポーターがお婆さん(74歳)へ「ご主人に何か、言えない秘密がありますか?」と訊ねたところ、お婆さんは破顔一笑、答えられました。
「おほほ、そりゃありますよ!そもそも結婚した時、わたしゃ、バージンでは。おほほ」
 ここで突然、横にいたご主人(68歳)が笑いながら、「ばーか」と言わんばかりに平手で上から奥さんの頭を叩き、連れ去りました。
 若い頃は悩みであり、苦でもあった秘密が、老いによって潤いとなり、笑いともなる人生とは、生きてみなければわからないものです。

「夫婦仲 残る不満は 時効とす」


 別々な人生を歩んできた男女が共に暮らせば、互いに「こんなはずではなかった」となり、不満のないケースは希でありましょう。
 しかし、いかなる形であろうと、相手の存在そのものが自分の存在と切って切り離せないところまで来てみると、そして、自分が相手にとってどうだったのかを客観的にふり返られるところまで来てみると、不思議や不思議、不満や文句は限りなく意識から遠のき、すべては感謝に包まれます。
 だから、最期は「ありがとう」となるのです。

「妻が留守 納豆たまご カップ麺」


 多くの男性はこうなるか、こうなっても仕方がないと思っていることでしょう。
 私の場合も、妻が入院中は、本や新聞に囲まれた一枚の布団の上で〈生活〉していました。
 生きて行くという根っこのところで工夫する意志や能力が、男性は薄いのではないかと実感しています。

「初恋の 人と出会った 石ツアー」


 なんともはや、と言うしかありません。
 モジモジしようと、ガッカリしようと、もう〈ここまで来てしまった〉のです。
 事実から余韻の生まれるところに、人間と他の生きものとの決定的な違いがあるのではないかと思わされます。

「段差ない ところで転ぶ 人生譜」


 肉体が衰え、つまらないきっかけて転びやすくなり、初めて転ぶという実感を得ます。
 ここで〈そう言えば……〉とふり返ったところに、この句がただ「うまく作られた」だけではない深さを生んでいます。
 転び、呻き、歯を食いしばって立ち上がり、生きてきてみれば、あれほどの大ごとだった蹉跌も、さしたることのない〈段差〉でしかなかったと感じられるとは……。

「我が家には 姿の見えない 方もいる」


 こうして「姿の見えない方々」と住む人の生活にも、お人柄にもきっと、ある種のゆかしさが伴っていることでしょう。
 すべての人は見えない世界からやってきた旅人であり、そこへ還って行く宿命にあります。
 見えない世界を大切にする方は、その故郷の気配がある分、存在が平板的でなく、しっとりしておられるものです。

「妻の通夜 数珠や喪服が 見つからず」


 かつて、托鉢の日々を送っていた頃、お婆さんが玄関へ出てこられると話になるのに、お爺さんが出て来られると「婆さんがいなくてわからないから……」と断られるケースが多いことがなかなか理解できず、〈男は何てだらしなくなるんだ、情けない〉くらいにしか思えませんでした。
 しかし、もうすぐ70歳になるところまで来てみると、着替えのありかを知らないだけでなく、寺務所にあるはずの事務用品がどこにあるかわからず、大騒ぎするようになりました。
 でもきっと、男は昔からこうだったのだろうし、未来もあまり変わらないのではないでしょうか。

「幸せな 時が続いて いる怖さ」


 91歳の男性が詠まれました。
 この怖さが何であるかはよくわかりませんが、失う恐怖感でないことだけは確かでしょう。
 どこかに畏れ多いといった感覚がおありではないかと感じるのですが……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2013
12.31

平成26年1月の運勢(世間の動き)

20131231006.jpg

 平成26年1月の運勢です。

○小さく生まれたものに大きく伸びる可能性あり

 生まれたてのものを侮らないようにしましょう。
 立派な大人も最初は赤ん坊だったのです。
 何かを新しく始める時は仏神のご加護を願い、ご縁に感謝し、土台をしっかりさせてゆけば大いに楽しみです。

 ただし、悪しきものも想像できないほど育ってしまう場合があるので、芽のうちに摘んでおきましょう。
 
大衆向けに人気あり

 大衆公衆でもあります。
 ウィキペディアには「公衆とは共通の関心で結ばれている組織化されていない集団」とあります。
 まるで、静穏な池に小石が一つ、投げ入れられたかのように、バラバラに存在している人々が、〈関心〉という一点で縁のある集団と化します。
 地方紙「みやぎシルバーネット」発行の『シルバー川柳 第三弾 一期一会編』にある一句です。

「ルールさえ 分からぬ婆ちゃん 好きマー君」


 東北楽天ゴールデンイーグルスの優勝パレードに集まられた21万人という大群衆の中には、こうした方々も相当おられたと考えられます。

 ただし、ちょっとした油断で、一気に人気が離散する場合もあるので、油断はできません。
 揺れ動く世間には、天まで持ち上げておきながら、噂一つで、地べたへ叩き落としかねない面があることを肝に銘じておきましょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.30

正しい願いのかけ方は?

20131230011009.jpg

 お正月がくると、皆さんそれぞれに、「よい年になりますように」と祈られることでしょう。
 具体的には、受験の合格、安心な就職、家内安全、商売繁盛、当病平癒、など、いずれも、私たちが心から〈こうあって欲しい〉と思う内容になっているはずです。
 つまり、幸せを祈ります。
 これは私たちの本性であり、生きている以上、誰しもが心の底から湧く思いです。

 では、誰しもがよき願いを持つのに、必ずしも皆が幸せになっていないのはなぜでしょうか?
 たとえば、「自分が試験に合格する」とは「誰かが試験に落ちる」ことでもありす。
 あるいは、「自分が就職できる」とは「誰かが就職できない」ことでもあります。
 同じように、自分は泥棒が入りにくい家に住んでいるけれど、そうでない暮らしをしている方もおられるし、自分の店は千客万来でも、閑古鳥が鳴いている同業者もあり、自分は快癒に向かう一方、なかなか病状が改善されない病人もおられます。
 誰しもが、老、病、死がから離れられない肉体をよりどころとし、食わねばならず、住まねばならず、変化してやまないモノの世界に住んでいる以上、ずっと安心な生活が続きはしないのです。

 では、よき願いは成就されないのか?
 そうではありません。
 問題は、ともすると、〈自分にとっての〉よき願いだけを祈りがちになるところにあります。
 たとえば、志望校へ入りたいと願って一生懸命に勉強するのは尊い生き方ですが、ではなぜ、その志望校へ入りたいのか?
 もしも、お金持ちになりたいのなら、合格しようとしまいと、確固たる幸せはつかめません。
 なぜなら、お金は人間によいこともさせるし、悪いこともさせるからです。
 幸不幸を分けるポイントはその先にあります。
 なぜ、お金持ちになりたいのか?

 もしも豪華な家を建て、好きな伴侶を得、趣味にうつつを抜かしながら暮らしたいのなら、いかに成績優秀でも、不幸への道を歩んでいます。
 自己中心という煩悩(ボンノウ)に心が占領されており、そこからありとあらゆる悪魔が飛び出してくるからです。
 高慢、邪慳、無慈悲、気まま、狡猾など、いずれもが人間本来の徳性に反し、必ずいつか、自他を深く傷つけないではおかないことでしょう。
 そうではなく、もしも飢餓や貧困などで苦しんでいる世界中の人々のために、何かをしてあげたいのなら、あまり成績優秀でなくても、幸せへの道を歩んでいます。
 謙虚、親切、慈悲、親和、愚直など、いずれもが人間本来の徳性を育て、自他に安心や潤いや生きがいなどをもたらすことでしょう。

 そして、徳ある目的をもってお金を求め、それを得るために志望校を目指すなら、たとえ合格しても、不合格になっても、必ず何らかの道が開けるというところが肝腎です。
 揺るがない志の前では、受験は志を果たす手段のうち、たった一つでしかないのです。

 さて、新年に向けての願いをチェックしてみましょう。
 受験の合格、安心な就職、家内安全、商売繁盛、当病平癒、いずれも、〈その先〉の目的はどうでしょう。
 受験に合格したなら、勉強して社会の役に立ちたいと願っているでしょうか?
 就職が決まったなら、仕事を通じて、これまで育ててくれた親や、地域や、社会へ恩返しをしようとしているでしょうか?
 自分の家と家族が安心に暮らせるなら、そこにできた余裕をもって、困っている人々のために自分ができることをやりたいと思っているでしょうか。
 商売が繁盛したなら、はたらく人々の生活が向上するよう気を配り、お客様にはもっと喜んでもらえるよう、さらに研鑽を積む覚悟でいるでしょうか。
 病気が治ったら、自分と同じように病気で苦しんでいる患者さんたちがいることを忘れずに生きて行こうと決心しているでしょうか。

 いずれも、〈その先〉には〈他者〉がいます。
 私たちが人間としてまっとうに生きるためには、他者への思いやりが欠かせません。
 それが自己中心という諸悪の根源を退治する唯一の道だからです。
 12月28日付の河北新報は、11月末にウィーンで開かれた「世界宗教者平和会議」について報じました。
 題は「世界の宗教者『他者』を議論 ─共存へ憎悪の解消を─」というものです。
「宗教者が『他者』との共存を共同体の中で訴えていく上で、自らの長い伝統の中から適切にアイデアを取り出せれば、それは大きな力になるだろう。」
 少なくとも大乗仏教は、他者への視点がなければ成り立たないので、ぜひ、他の宗教もそうであって欲しいと願うしかありません。

 結論です。
 人の間で生き、生きものたちと共存している私たちは、〈自他共に〉幸せになる以外、決して、自分が本当に幸せになれはしません。
 だから、よきことを願う際には必ず、他者への思いやりも忘れないようにしましょう。
 その誠心は、必ず仏神へ届くことでしょう。
 真の善願が新たな年に明るい扉を開く大きな力となりますよう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.29

時間の「長さ」ってなんだろう ─一瞬が永遠とつながる不思議─

20131229001.jpg

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○もし時間に単位がなかったら

「~私たちは時間というものをどうやって把握しているでしょうか。
 たいていは六十分は一時間で、二十四時間は一日で……というこの世界での単位で捉えるでしょう。
 しかし、これは時間そのものではありません。
 時間を扱うにあたって私たちが決めた便宜上の単位に過ぎません。」


 私たちは1時間という長さをもったものをどこにも特定できません。
 たとえば午前5時を時計で確認した上で6時になったなら、1時間の経過を感じますが、そう推定できるのみで、去った1時間はどこにもありません。
 また、午前5時1分を示す時計に目が行っていた人にとっては、6時1分にならない限り1時間の長さは満たされておらず、1時間というひとまとまりの時間は、私たちの都合によって区切られ、いつ、どこででも、何かの道具によってそう視認するしかない、とらえどころのない概念です。

「それでも単位がなくなった途端、私たちは時間を扱うことができなくなってしまいます。
 月、年、世紀、……とスパンを拡大していけば、最後には何の区切もないただの時間になってしまいます。
 そしてその中では、過去も未来も全て一つの時間としてくくられて、実感として捉えることができないのです。」
「逆に、短い時間を考えてみましょう。
 時間をどんどん細かく分割していけば、一時間は六十分に、一分は六十秒に……と細かく区切っていけますが、すぐに捉えることのできないほど細かな時間になってすまうことでしょう。」


 長く区切っても、短く区切っても、〈どこまでも区切る〉という作業はできません。
 一日は太陽の動きで、一年は廻る季節で体感できますが、過去の十年は自分の体つきや、アルバムや、やってきたことの記憶などを頼りに、を基点にして遡ってみるのみです。
 確かに〈一年の十倍〉が過ぎたはずなのに、私たちはその長さを〈一年の十倍〉と正確に実感できはしません。
 生きてきた十年は一瞬の隙もない事実の連続なのに、まとまって捉えようとすれば茫漠としてしまいます。
 ましてや、未来の十年など、空想の域から一歩も出られないのです。
 短くしても事情は同じで、時計の秒針がスッと動けば一秒が経過したとわかりますが、その二分の一ですら、私たちは正確に捉えられず、もう区切るという作業は想像能力をも超えてしまいます。
 時計を目から離してみると、秒針の動きはだんだん滑らかになり、やがては、区切るのではなく滑っているようにしか見えなくなります。
 こうなれば、〈秒〉はどこに確認できましょう。
 正確なはずの時間の実体は何とあやふやなものでしょうか。

「さらに『』とはなにか、ということを考えてみてください。
』は時間を考える上で最も基本の概念ですし、私たちは常日頃から『』という言葉を使っています。
 しかし、この概念を正確に定義できるでしょうか。
 仮に『』を『この一瞬』だと規定します。
 でもそうすると、『』には時間的な長さが全くないことになってしまいます。
 ところが私たちは、『今は食事中です』『今は幸せです』などと使うように、『今』にはある程度の時間を実感しているように思います。
 一方で『今』が一定の時間だとしたら、一体どこまでが『今』なのでしょうか。
 とてつもなく長い時間を『今』ということもできるし、ほんの一瞬を『今』ということもできる。
 結局、時間の基本である『今』ですら、正確に定義することができません。」


 たとえば、故三島由紀夫の『豊饒の海』2巻『奔馬』において、主人公飯沼勲が自決するシーンを考えてみましょう。

「正に刀を腹へ突き立てた瞬間、日輪は瞼の裏に赫奕(かくやく)と昇った。」


 突き立てたのは一瞬です。
瞬間、」と区点で区切った表現は、〈その後〉について書くものではありません。
 あくまでも、〈一瞬〉がどうだったのかを並列的に示す文章です。
 だから、同時に真っ赤な太陽が「あった」のならともかく、「昇った」とはどういうことでしょうか。
 しかも、太陽が昇るための時間の経過は、私たちへ10秒や1分ではないある程度まとまった〈長さ〉を想像させます。
 でなければ、昇るという言葉が意味を成しません。
 それにもかかわらず、読者は何の違和感を感じることもなく、深夜、閉ざされた視界の中で日輪が昇るこの末尾の文章に余韻を感じながら本を閉じます。
 違和感どころか、生から死へ跳躍する〈一瞬〉が、悠久の時を経て繰り返される太陽の運行という〈永遠〉とつながる〈今〉の崇高さに参ってしまう……。

「つまり、『時間』には、確かな実体はないということです。
 確かに時間は存在するし、常に流れているものですが、実体はない。
 私たちがどのように区切るかで決まる、概念に過ぎないのです。」





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.28

子供に新聞を読ませ、脳と心のはたらきを高めよう

20131228001.jpg

 12月26日付の産経新聞は、「新聞読む子勉強もできる!?」と題する全国学力テストの分析結果を報じた。

 文部省によると、今年度の学力テストで、小学6年と中学3年に生活習慣などのアンケートを行い、学力と生活習慣との関係を分析したところ、新聞を読む子供は、新聞を読まない子供より成績がよいことがわかった。

 たとえば、小学6年生における算数Bの正答率は以下のとおりである。

・ほぼ毎日読んでいる…………………65パーセント
・週1~3回……………………………63パーセント
・月1~3回……………………………59パーセント
・ほとんど(または全く読まない)点55パーセント

 他の科目についても似たような結果である。
 文部省は言う。

「算数や数学も、問題を理解するには読解力が必要であり、新聞を読む習慣がある子供のほうが正答率が高い」


 さらに、「地域や社会で起きている出来事に関心がある」かどうかについては、小学生も中学生も、「ある」子供の方が「ない」子供より国語Bの正答率が15~18ポイントも高かった。

 なぜ、新聞はこのように脳の能力を高めるのか?
 効用の第一は、社会と人間の多様性を知り、善にも悪にも脳が〈揺さぶられる〉ことにあるのではないだろうか。
 新聞は食堂のメニューのように、多くの項目が一度で目に入る。
 あるいは、豪華な食卓のように、多くのものが並んで興味を惹く。
 この〈選ぶ〉前に〈見える〉ことが重要である。

 当然ながら、世の中は、自分の好きなことや関心事だけで成り立っているのではない。
 むしろ、そうした自分中心のことごとは、世間という大海にあっては、たかだか、一滴の海水でしかない。
 新聞によって、それが〈見える〉一方、スマホなどでは、まず〈選ぶ〉ので、視野が狭くなる。

 現代の子供は、子供の頃から、自分が〈選ぶ〉ことに慣れきって育つ。
 自分の好きなことが最優先されて当然という恐ろしい勘違いがもたらされているのではないか?
 また、多くの成功者が「好きなことに夢中になった」からここまで来れたと言う。
 自分の好きなことをやれば成功者になれるという恐ろしい幻想がもたらされているのではないか?

 新聞は、世間の多様性を見せる中で、そうした勘違いや幻想に気づかせてくれる。
 大人は誰でも知っている。
 自分で生きるという峻厳な現実こそが人間を磨き、自分などというものは、磨き出されつつ輪郭が明らかになって行くしかない。
 よく考えてみよう。
 もしも〈好き〉だけに囲まれているならば、人間は磨かれるだろうか?
 そもそも、好きな人だけと付き合い、好きなことだけをやっていられる人生などあり得ず、そうした希有な環境にあるならば、頽廃と高慢しかもたらされはしないだろう。

 新聞は、〈好き〉が人生を支える一方で、〈好き〉だけが人間を高めるのではなく、〈好き〉が時として悪行へと引きずり込み、ほとんどの人々は〈好き〉を我慢しつつ生きている現実を教えてくれる。
 形として、〈選ぶ〉前に〈見える〉からである。
 このことの重大さに比べれば、成績が云々などは新聞がもたらす結果の一部でしかない。

 よく、「どうしてこういう気まま勝手ばかりの世の中になったのでしょう?」というご質問を受ける。
 もちろん、浅学非才の私などに高邁な文明論などありはしない。
 ただ、お釈迦様が説かれた人間の宿命は「四苦八苦(シクハック)」であり、そこに五蘊盛苦(ゴウンジョウク)があると知ってはいる。
 
・身体もモノも、盛んになり過ぎれば苦をもたらす。
・見聞きして刺激に反応する感受作用も、盛んになり過ぎれば苦をもたらす。
・イメージする想起作用も、盛んになり過ぎれば苦をもたらす。
・こうしたいという意志作用も、盛んになり過ぎれば苦をもたらす。
・外部から刺激を受け、内部的に反応して行う判断作用も、盛んになり過ぎれば苦をもたらす。

 なぜ、〈過ぎる〉のか?
 それは、執着するからである。
 見て執着し、ワクワクして執着し、想って執着する。
 言い換えれば、好んで執着し、憎んで執着し、有あれば有るで執着し、無ければ無いで執着する。
 つまり、〈好き〉は人生に潤いを与え、豊かにもするが、同時に抜きがたい苦をも、もたらす。

 子供にこうした人間界の真実を理解せよと言っても簡単ではないが、〈好き〉が人生の牽引車になり、〈好き〉が人生を破綻させるケースもあることは理解できよう。
 田中マー君が世界の檜舞台へと向かう記事を載せる新聞は、交際のもつれから起こったイジメや殺人事件も報道する。

 保護者の方々には、子供に新聞を読ませれば、あるいは一緒に読んでやれば脳のはたらきがよくなり、成績が上がることに気づいて欲しい。
 同時に、視野が広く、偏屈になりにくく、円満な人間関係も築きつつ、好きでないことにも一生懸命になれる人間として生きて行けるであろうという大きな希望も持って欲しい。

 なお、テレビについては、少々見ればよいが、長時間縛られれば成績が落ちるという結果が出た。

「全く見ない子供より1時間未満視聴する方が成績が良く、逆に1時間を超えると時間に比例して成績が下がることも分かった。」


 当山が『テレビが子供の高次認知機能を発達させず、読書能力や注意能力を低下させる危険性について』を書いたのは一ヶ月前だった。
 東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)などの研究によって、テレビが子どもの読書能力や注意能力を低下させることを確認できただけでなく、脳のどの部分が〈破壊されるか〉も明確になったのである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.27

平成26年1月の行事予定

201312270012.jpg

 小寒と大寒の睦月(ムツキ)に予定している行事です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[正月修正会護摩祈祷 2014/1/1(水)~1/3(金)午前10:00~11:00

 お正月には、ご先祖様をご供養し、自分の一代守本尊様をご供養する『修正会(シュショウエ)』を行い、新たな年の願いをかけます。
 たとえば、卯(ウ)年生まれの方は文殊菩薩様、未(ヒツジ)や申(サル)年生まれの方は大日如来様です。
 同時に、古来より伝わる如意成就(ニョイホウジュ)の宝珠へ祈る秘法も行い、善願の成就に大きなお力をいただきます。
 護摩の炎と高野山の大師茶などで心も身体も暖まり、新しい一年が、どなた様にとっても、開運のよき年になりますよう。
・日  時 1月1日(水)午前10時・午後2時 1月2日(水)午前10時・午後2時 1月3日(水)午前10時
※3日の午後2時からは『みやぎ四国八十八か所巡り道場』のお詣りにでかけるので、護摩法はありません。
 往復は送迎しますのでご安心を。
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。「~日、~時からのご祈祷に参加します。車をお願いします」と日時・内容をはっきりお示しください。


[みやぎ四国八十八か所巡り道場合同参拝] 2014/1/3(金)午後2:00~3:30

 午後2時に当山を出発して、泉区福岡にできつつある道場を参拝します。
 用意する車へ乗り合わせてまいりますので、どうぞお気軽におでかけください。
・目 的 地 仙台市泉区福岡字菅の崎3
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。「~日、~時からの~に参加します。車をお願いします」と日時・内容をはっきりお示しください。


[第一例祭] 2014/1/5(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


書道・写経教室] 2014/1/5(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 今月の書き初めは、皆さんそれぞれの守本尊様へ帰依する言葉「南無不動明王」「南無大日如来」あるいは「南無大師遍照金剛」などとします。
 一年に一度、守本尊様へ「南無」と気持を込めてご尊名を書いてみませんか。
 そして、ご自宅へ飾り、一年間御守としてください。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第十回法楽塾] 2014/1/5(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第四十六回寺子屋『法楽館』 ─日本語が教えてくれる、日本の心─] 1月11日(土)午後1:30~3:30

 年の初めに、〈言の葉アーティスト〉渡辺祥子氏をお招き申しあげ、言葉について考えることにしました。
 東日本大震災後は、亡くなられた方々や被災された方々のお心をおもんばかりながら、できることをさせていただきたいという尊い心が全国に広がり、多くの方々が、「さて……」と立ち止まられたことでしょう。
 自分は、どなたへ、どういう言葉をかけられるか?
 どう言葉を交わしたらいいか?
 かける言葉にどれほどの価値があるのか?
 言葉というものの持つ重みや繊細さが再認識されたはずです。
 渡辺祥子氏は、「普段何気なく使っている言葉に、改めて目を向けてみませんか?私たちのなかに流れる宝物を、皆さんと確認したいと思います」と、語りかけておられます。
 日本語のよさをを味わい、言葉について考えてみようではありませんか。
 事前予約などは不要です。
 どうぞ、ふるっておでかけください。
・講  師 渡辺祥子氏(ロゴセラピスト)
・日  時 毎月第二土曜日に開催します
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第一回新年会] 2013/1/11(土)午後3:30~午後4:30

 今年は、初めて新年会を催します。
 畏まったものでなく、寺子屋に引き続いての気楽な懇親会です。
 お互いの無事と元気を確認し合い、「おかげさま」「おたがいさま」で新たな年をスタートさせようではありませんか。
 ご講演にひき続き、そのまま机とイスを寄せて新年会へ入ります。
 新しい年を喜び合い、気楽に抱負などを語り合いましょう。
 お菓子やお漬け物やお茶やアルコールを少々、用意しますので、飲む方はご遠慮なく送迎車をお申し込みください。
 また、会場や飲みものなどの準備をする都合上、新年会へのご参加は、できるだけ事前にお申し込みください。

[第二例祭] 2013/1/18(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


お焚きあげ 2013/1/25(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。
※毎月、最終土曜日に行いますが、今月は31日に当たるので、一週間、繰り上げます。

[機関誌『法楽』作り] 2013/1/27(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
※毎月、最終月曜日に行いますが、今月は年末につき一週間くり上げます。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センター、もしくは旭ヶ丘仙台市民センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。

201312270011.jpg




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.26

葬式仏教と貶称(ヘンショウ)するけれど(その1) ─文化の形を生きる─

20131226011.jpg
〈ウサギ野仙哉君と、内ネコのクロ〉

 お葬式を行うために仏門を叩いた記憶はない。
 どう生きればよいかわからなかった一人の中年男の前に、光明のかいま見える門が開かれていただけである。
 昼間は托鉢や人生相談や居合の稽古を行い、夜間に所定の修行を行った。
 やがて、葬儀で脇僧(ワキソウ…導師の補佐役)も体験するようになった。
 ただ畏れるしかない師の法力は、必ず、死者を極楽浄土へ導くと信じていた。

 肉親の死に打ちのめされた方々と接触を重ねているうちに、導きの必要性を痛感するようになった。
 その一方で、托鉢先でいろいろお話ししてくださる方々や、出入りされる各種の業者様方から寺院の実態をお聞かせいただくうちに、だんだん理想的寺院のイメージがつくられ、師から一山の開基を許された時、その目的と姿勢はすでに明確だった。
 目的は「この世の幸せとあの世の安心」のために微力を尽くすことであり、姿勢は「法灯に因(ヨ)り、法友と共に、法楽に住せん」である。
 もちろん、この点は今も微動だにしていない。

 プロの僧侶は、皆さんと一緒になって、この世を極楽へ近づかせねばならない。
 プロの僧侶は、あの世に逝かれた方々が極楽への道を歩まれるよう仏法の行灯に明かりを灯し、歩む草履にも、杖にもならねばならない。
 そうして、この世の景色が明るい方向へと変わり、あの世の道行きに不安が少なくなれば、この世もあの世も、密厳国土(ミツゴンコクド…煩悩によって隠されている仏光が満ちあふれ、荘厳された極楽世界)となる。

 私たちはこの世で、親や先生や先輩などの導きを受け、励んでてこそ、まっとうに育ち、生き抜ける。
 それが、あの世へ行った途端、急に、自分だけで歩めるはずがあろうか。
 文明が生まれてこの方、世界中の人々が葬送に細やかな心をくばり、宗教により地域によってそれぞれなりに安心が得られる形を整えてきた。
 この〈形〉が文化の一面である。
 たとえば、箸の使い方一つとっても、お辞儀の仕方一つとっても、そこには形があり、洗練は生活の精神的レベルを上げる。
 文化のもう一面は、〈形〉が生きられてこそ文化であるということである。

 親も先生も先輩も、自分が生きてみせてこそ、真の導き手であり得る。
 どう生きてみせるか、そこに〈形〉が顕れる。
 親が教える箸の持ち方も、先生が教える共同生活での作法も、学び方も、先輩が教える組織内での生き方や、仕事の手順も皆、〈形〉であり、優れた指導者は巷間言われているとおり〈背中〉つまり、〈形〉を生きている姿そのもので導く。
 だから、仏道であれ、居合道であれ、修行は〈形〉を意識と肉体へたたき込んで〈形〉どおりに動くように鍛えるものであり、そうしないと当然、意識も肉体も、目的に応じた役割を果たせない。
 僧侶が役割を果たすとは、身体のはたらきにも、言葉のはたらきにも、心のはたらきにも、鍛えられた結果としての法力(ホウリキ…真実世界に顕現するみ仏と仏法の力)が伴うということである。
 それは、ドライバーさんが笑顔で目的地を訊ね、安全に効率よく乗客を目的地へ連れて行く力と同じであり、お医者さんが患者さんの診察を的確に行い、手術や施薬などで病気を克服する力と同じである。

 こうして私は、仏法が法力として生きている現場で学び、やがて生きている方へご加持を行い、亡くなられた方へ引導を渡すようになった。
 お葬式を行うために仏門を叩いたわけではないが、いつしか、引導を渡すという命がけの現場に立つようになっていた。
 一週間に三回、ご縁になる場合もあり、三度目を終えて帰山すると時折、妻に言われる。
「あんたがもう、向こうに行きかけているんじゃないの?」
 自分の貌(カオ)を鏡で眺め、これ以上、肉が落ちたら死んだ人と同じだとつくづく思うが、翌日にはまた、さまざまな現場が待っており、役割を果たせる程度には回復できていることを心からありがたく思う。

 人が亡くなられた時、あの世へ旅立つ方も、送られる方も、ほとんどの方々は実態として手探り状態におられると痛感している。
 言葉に出される方も、出されない方も、お金のたくさんある方も、あまりない方も、地位の高い方も、あまりない方も、一人の〈裸の人間〉になっておられる。
 死の境を超えれば、赤児がこの世に生まれ落ちたのと同じだからである。
 あの世の道行きをお導きくださるのは、み仏であり、仏法である。
 あの世の道行きにこの世でどう関われるかを教えてくださるのも、み仏であり、仏法である。
 み仏へお仕えし、皆さんの僕(シモベ)となってはたらくべき僧侶として、個人的には微力ながらも、皆さんへのみ仏のご加護が、より確かなものとなるようありったけの力を尽くさせていただきたい。

 お葬式を行うために仏門へ入ったわけではないけれど、今、こうして皆さんのお求めにお応えしている身としては、人生相談であれ、ご祈祷であれ、お葬式であれ、ただただ、はたらかせていただきつつ死んで行きたいと願うだけなのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.25

科学と仏教の虚空

201312250012.jpg
虚空にある無限の宝ものを宝珠によって顕現させる虚空蔵菩薩様〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「無のように思われる空間」に迫る

 まず、ビッグバンの前は何もなかったとすればどうでしょうか?

「完全に何もなかったところに、なぜ突然宇宙がはっせいしたのでしょうか。
 何がきっかけでビッグバンほどの凄まじい爆発が起きたのでしょうか。
 そのどれも論理性がなく、因果関係を示すことができません。」


 だから、「完全な無」から始まったとは考えにくい。

「そうなると、この『無』は『完全に何もない状態』ではなく、『何もないように思われる状態』だったのではないでしょうか。」


 ここに二つ目の仮説が生じます。

「二つ目の仮説として、現在の科学ではまだ解明できてない『何か』の物質があった、その『何か』の影響があってビッグバンが生じたのではないか、ということを考えてみます。」

「たとえば、ビッグバンの前の宇宙には非常に微細な粒子があって、それが宇宙の素となった。
 もしくは宇宙中が未知の物質で満たされていて、それがビッグバンを誘因した。
 こうした考え方は、仏教でいう『虚空』に通じています。
 これは『何もない』ように見えるけれど、同時に『あらゆるものを包括している』という状態を示すものです。
 人間の把握できない非常に微細なレベルの自称が実際にはたくさんあり、そのすべてを含めて本質なのです。」


 虚空は、虚空蔵菩薩様の世界です。
「宇宙を意味する『虚空』とはいわば如何(イカ)なることにても破壊すること能(アタ)わざるしかも勝(マサ)れるもの無きを表すための言葉」であり、『蔵(ゾウ)』はすべての人々に利益(リヤク)・安楽与えらる宝を蔵(オサ)めているという事態を表す言葉」です。

「最新の科学でも、『未知の物質』の存在が少しづつ明かされつつあります。
 その研究によれば、宇宙の物質は今の科学では把握できない物質ばかりだそうです。
『何もない』ように見える世界も、それは私たちの狭い認識に過ぎないということです。」


 宇宙には暗黒物質があると仮定されています。
 ウィキペディアによれば、「宇宙にある星間物質のうち電磁相互作用をせずかつ色電荷を持たない、光学的には観測できないとされる仮説上の物質」です。
 しかも、「宇宙全体にどの程度の暗黒物質や暗黒エネルギーが必要なのか、繰り返しシミュレーションが行なわれている。その結果、ダークマターを含めた物質を約30%、ダークエネルギーを約70%にした場合にうまくいくことが確認されている」そうです。

 三つ目の仮説です。

「三つ目の仮説は、『この世界と相互依存しているものがない』ということです。」


 ビッグバンから始まったとされるこの世界と何の関係もない世界が、ビッグバンの前にあったと想定してみるのです。

「たとえば『ここに○○がある』というとき、それを認知する者の存在があり、○○というものを判別できる力があり、なおかつ『それがない』状態との比較ができなければ、その存在を認めることはできません。
 つまり、『この世界にある』ものは、私たちの認知によって存在が認めれたものに限られているのです。
 全ての事象は明らかに何らかの形で世界とつながり、他の事象に依存しているということです。」

「それではもし、この依存関係と全く関係のない、完全に独立した世界があったとしたらどうでしょうか。
 この世界と何ら関係のないものを、私たちが認識することは決してできません。
 確かに存在していても、それが『ある』と把握できないからです。
 こちらからすれば、その世界は『無』の存在ということになります。」


 量子力学の世界では「観測すること自体が対象に影響を与えるため正確な観測ができない」(ウィキペディア)とされています。
 見る者から見られるという状態は、誰にも見られていない状態とは何かが違います。
 原因があれば、必ず結果が伴います。
 そこに生じた〈関係性〉が原因となって見られたものへ結果として変化を起こさせる以上、見られたものは、すでにその時点で、見られる以前の状態にはありません。
 私たちの実生活では、ここまで厳密に客観性を考える必要はありませんが、このように〈私たちと相互依存性のない世界〉はそもそも、私たちにとって、観測することも、確認することもできない〈認識から閉ざされた〉世界です。

 仏教における唯識(ユイシキ)の思想によれば、あらゆる現象は心という鏡に映って認識される以外、私たちにとって存在のしようがなく、鏡の如何によって、映し出される世界は変わるのです。

「仮に由(ヨリ)て我法(ガホウ)と説く。
 種々の相転ずること有り。
 彼は識の所変(ショヘン)に依る。」
(自分も、ものごとも、かりそめにそう名づけられただけである。
 真に認められるのは変化だけである。
 それは心によって生まれ、認識される)


「科学的な見地でも、ビッグバンの前には『全く別の宇宙』が存在したのではないか、という説があります。
 それは今私たちがいる宇宙から完全に独立した、全く別の宇宙のことです。
 前に存在した宇宙の全てが一度無に還元され、それからビッグバンが引き起こされ、今の宇宙が始まったという考えは、決して机上の空論ではなく、最新科学でも検証され続けていることなのだそうです。」


 こうした検証が続くとは、私たちの脳が持つ可能性に嬉しくなります。
 ちなみに、私たちは、虚空蔵菩薩様のこうしたお経を読誦し、感謝しながら生きています。

「宇宙に比すべき大いなる真理と智慧と福徳の無量の法宝(タカラ)を無尽なる蔵の中より取り出して、求(める衆生(シュジョウ)に施され、諸願を成就させ給(タマ)い仏の法(オシエ)の真髄と利益(リヤク)を受ける喜びを与え給(タモ)う」






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.25

お正月のご祈祷について

2014正月

 当山は、画像のとおり、元旦(水)から3日(金)まで5回、皆さんのあらたな一年が息災で、希望に満ちたものとなるようお正月護摩祈祷を行います。
 祈祷札のお申し込みは事前にお願いしていますが、護摩法への参加は自由です。
 また、当日でも、護摩木に願いを書いてご本尊様へお供えすることはできます。
 遠方の方は、ネットや手紙や電話などでお申し込みになられれば、ご祈祷を行い、御札など授与のお品をお送りいたします。
 どうぞ、ご遠慮なくお申し込みください。合掌




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.24

狼の声そろふなり雪のくれ ─新年を迎える時間の境目で─

221231 003
〈「ウサギ野仙哉」君〉

 松尾芭蕉の門人内藤丈草の一句である。

そろふなり雪のくれ」


 一読して何の変哲もないが、「ウワーオー」と鳴くオオカミの遠吠えが重なり重なりして、降りしきる雪の向こうから凩(コガラシ)のように聞こえる薄暮を想像すると、穏やかではいられなくなる。

 そもそも、遠吠えは、気まぐれでやっているのではない。
 いなくなった仲間へ必死に呼びかけているのである。
 ドクター・サイモン・タウンゼント(チューリッヒ大学)の説である。

「元の群れに戻そうとするのは当然であるが、仲間との友情が絡むときも同じ現象が起こる。」
「『群れ』というコミュニティーを形成して暮らしているオオカミには、人間と同じような感情があり、社会的、社交的要素を持っている。」


 ホリー・ルート・ガターリッジ(トレント大学)も、の情緒を指摘する。

「オオカミは愛する仲間がいなくなり、一緒にいたいと思うから、遠吠えという行為を選んでいる。」
「自ら判断して、複雑な社会的相互関係を考慮し、相手を思う気持ち (尊敬や愛情) が遠吠えという行動に変わっているということなのかもしれない。」


 遠吠えに喪った者の悲しみが感じられるのはそのためなのだろうか。
 喪うとは、単にいなくなっただけでなく、〈世界から失われてしまった〉という根元的な無に立ち会うことであり、足元に不安が兆し、とどめられなくなるできごとである。

 こうした遠吠えが重なり合って一つになった時、雪に閉ざされた一軒の家の中にいる者はどうなるか?
 尾張犬山藩士の身分から出家し、俳人となった内藤丈草ならば、備えの心をあらたにしたかも知れない。
 は、状況次第で人間や家畜を襲ってくる自然界の脅威に数えられていたからである。

 ただし、問題は、「そろふ」と詠んだところにある。
 切実さで親近感を覚え、ケダモノの気配で恐怖を覚えるだけでなく、幾匹ものが揃うことによって抗いようのない異次元の不気味さが生じている。
 それは鬼神が厳寒の吹雪をも、ものともせず、まっすぐに煙を上げているようなものではないか。
 内藤丈草の心中に、警戒だけではなく、畏怖も宿ったであろうことは容易に想像できる。

 そもそも、あまりにも揃った状態には不気味さが漂う。
 制服に包まれ姿勢を緊張させた何千人もの視線がまっすぐに金正日へ注がれている大会堂の光景は、血の通った人間が集まっているという気配を感じさせない。。
 左右非対称になっている人間の顔写真を真ん中から切り、反転させた片方と貼り合わせてできた写真は、いのちある人間のものとは思えない異様さを醸し出す。

 雪の舞う「くれ」は、「暮れどき」であり、「年の暮れ」でもありそうだ。
 新しい年を迎える時間の境目は、一瞬、非日常的世界へ通じる。
 そこを縁として、ご先祖様方の御霊だけでなく、招かれざる異界のものたちも訪れる虞(オソレ)がある。
 溜め放し、後回しにしてきた懸案を片付け、家も身体も心も清浄にし、畏(カシコ)む姿勢で新年の訪れを期待するのが、私たちの自然な心性である。
 もちろん、「去年(コゾ)今年貫く棒の如(ゴト)きもの」と詠んだ高浜虚子の例はあるが、それはそれである。
 新年の神聖な扉が開く時を、慎んで待ちたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音こちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2013
12.23

思いやりの7段階 ─他人様もネコもアリも南天も─

2013121801256.jpg

 チベット密教には、真の慈悲心を起こすために7段階で行う瞑想法があります。
 それはおおよそ、以下のとおりです。

1 生きとし生けるものはすべて、かつて、母だったと気づく

 いのちは皆、つながっており、自分のいのちと、ネコのいのちと、アリのいのちと、南天のいのちが別ではないと、心から思えるところまで、生きものたちへ心で近づかねばなりません。
 私は、内ネコのクロや外ネコのミケ子の目を見る時、「今度は人間に生まれて来いよ」と心から願います。
 彼女らの意志がもっとよく伝わるように、私の意志がもっとよく伝わるように、と願わないではいられないからです。
 特に、どこか不調なのではないか、敵に怯えているのではないか、などと思える時、「来世は言葉を話せる人間に……」と願わないではいられません。
 自分の身体より大きな荷物を動かすアリに感嘆し、踏まれても次の朝にはまた首をもたげているタンポポに安心し、空を翔る白鳥に畏敬の念を持つ時、自分の何倍もの力を持って輝いているものたちに合掌します。
 托鉢を行っていた時代には、途中で出会ったカラスやネコやイヌやヘビなどへご加持を行い、目に見えない何かが通じ合うことを幾度となく感得しています。
 今は、ご祈祷やご加持やご供養やご葬儀などの修法を行うたびに、皆さんを異次元世界へお誘い申しあげている実感があります。
 また、稲の遺伝子数は人間よりも多く、ウニの遺伝子数は人間とほぼ同じであるだけでなく、約70パーセントは人間と共通しているなどと知る時、子供の頃に星空の向こうへ思いを馳せたのと同じく、無限に広がっているいのちの世界を想います。

2 親しい人たちもまた、かつて、母だったと気づく

 身近な方々と目線を合わせ、通じ合うと、そちら側へ置きっぱなしにするべき〈他人〉はいないと思えます。
 そして、そうした方々の輪廻転生(リンネテンショウ)を想うと、過去のどこかで自分を生んだ母だったに違いないと思えます。

3 好きでも嫌いでもない人たちもまた、かつて、母だったと気づく

 道を歩く人々や立ち話をしている人々へピントが合っているうちに、やはり、輪廻転生の結果、そこにそうしておられる皆さんの存在が〈いのち〉として迫ってきます。
 自分とは因縁が違うだけであり、広大ないのちの海に浮かんだ一粒の泡同士であることは疑いようがありません。 

4 母の恩に報いるのと同じく、生きとし生けるものの恩に報いようと思う

 今、ここで息をしていることは文字どおり〈有り難く〉、奇跡的な一瞬一瞬の重なりを与えていただいた母の恩は、大きさも深さもはかり知れません。
 ガンに犯され50歳で亡くなった精神科医西川喜作氏は、「人間の二大本能の性欲も食欲もなくなり」、「左目を失ってしまったいま、いつ残った右目を失うかもわからない」状況で、口述筆記の最後にこう言い遺されました。

「失明とは私にとって思っていたほどの悲惨な事態ではなかった。
 ガンに罹る以前は、両足切断や腕を失った人よりも失明した人の不孝の方が大きいと考えていた。
 もし自分が失明したらと考えると、想像しただけでも恐ろしかった。
 こうやって片目を失ったいま、私は失意のどん底にいるわけではない。
 よくよく考えてみると私には聴覚を失う方が恐ろしい。
 私の精神活動においては視覚の喪失よりも聴覚の喪失の方が障害が大きいと思えるからだ。
 私は、いま少しも死を恐れていない。
 死と対坐する自分の心にやすらぎさえ持ち始めている。
 死を見つめる己が心をいとおしいと思う。
 何故こうも死を恐れなくなったのだろうか。」

「今は、日々の残された時間の貴重さが以前にも増して理解できるようになっている。」


 ここには、この世の生の〈有り難さ〉が余すところなく語られています。
 私も又、日々、視覚を失った際の対応策を講じています。
 ご本尊様やお位牌やお塔婆やお墓などの開眼供養法、あるいは護摩法など、多くの修法の中に、心眼を開く法が含まれているからです。
 密教の行者である以上、この世の道具としてお与えいただいた身体の何もかも失う直前まで、残った機能をありがたく生かしながら祈っているはずです。
 こうした〈この世の生〉をお与えくださった母の恩は限りなく、生まれ変わり死に変わりしてきた過去世において幾度となく母となってくださったに違いない生きとし生けるものへ恩返しをしないではいられません。
 ネコもアリも南天も、何とありがたいことでしょうか。

5 生きとし生けるものが楽を得られるようにと願う

 自分が楽を得たいことと、他人様やネコやアリや南天が楽を求めていることに何の違いがありましょうか。

6 生きとし生けるものが苦を離れられるようにと願う

 自分が苦を離れたいことと、他人様やネコやアリや南天が苦を離れたいことに何の違いがありましょうか。

7 生きとし生けるものがみ仏の境地になり、救われるために役立てるよう、修行に入る決心をする

 生きとし生けるものが楽を得、苦から離れるための方法、そして、生きとし生けるものへの恩返しとして苦を抜き、楽を与えられる存在になるための方法として、今の私にできることは、この道で精進する以外、ありません。

 皆さんも、偉大な行者の方々が残してくださったこうした修行法を実践してみられれば、きっと何かが変わることでしょう。
 どう変わるかは皆さんそれぞれでしょうが、宿命に負けず宿命を生かし、運勢に明るさが増し、運命がより輝きを帯びつつ創られることはまちがいないと確信しています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.22

ビッグバン前の宇宙へ切り込む仏教

20131222039.jpg

〈科学だけが江戸切子を作ったのか、祈りはどこにもないのか〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

ビッグバンの前の宇宙はどうなっていたか

「精神的な分野だけではなく、物理学の分野においても、仏教と科学は近いアプローチを行っています。
 物理学というと、数式と実験の世界に思われるでしょう。
 しかし、宇宙、時空などの分野は未知の領域がたくさんあり、理論や概念でも語られることの多い世界です。
 そのため、科学と仏教の導き出す仮説が重なりあうことが多い。
 科学は観測と計算から、仏教は論理学や哲学からと、それぞれ別の側面から真理に迫っているというのは、とても面白いことです。」


 人間は、真理を求めずにいられない存在です。
 特に宗教や科学を勉強するかどうかにかかわらず、自分はなぜここにいるんだろうとか、亡くなったお祖母ちゃんはどこへ行ってしまったんだろうとか、どこまでも続いているように見える星空の向こうはどうなっているんだろう、などと誰しもが考えた経験をお持ちなのではないでしょうか。
 また、人間は、具体的な願いを持たずにいられない存在です。
 かつて、「食う寝る遊ぶ」という言葉が流行りましたが、そうしたイヌやネコにも共通する願いだけでなく、早く風邪を治したいとか、サッカーの選手になりたいとか、他人から好かれる人になりたいとか、天候に左右されにくい米を育てたい、など、手を合わせるような気持になったことのない方はおられないことでしょう。
 私たちは、真理を求め、願いの達成に向かい、学び、考え、工夫します。
 こうした切実な気持によって「観測と計算」による科学が発達し、「論理学や哲学」による仏教が深められてきました。
 無数のご先祖様方の思いが、現在の科学の成果や仏教の救済につながっているのです。
 仏教が追い求める「自他共に霊性を輝かせる道」とは、人間が持つ全人格的力を解放することです。
 仏教や科学や芸術といった区分けを用いて選び取ったり捨てたりする必要性は、いかなる理由で、どこにありましょうか。

「たとえば『宇宙はどのようにして生まれたか』という問題。
 科学の世界では、約百三十七億年前に膨大なエネルギーの爆発が起こり、そこから現在の宇宙が始まったという『ビッグバン理論』が唱えられています。
 しかし、これもまだ仮説の領域を出ず、科学者によって見解はまちまちです。
 発生時期一つとっても、様々な説があるような状態です。
 そして最大の謎の一つは『ビッグバンが起こる前はどのような状態だったのか』というものです。」


 お釈迦様が「無記(ムキ)」という姿勢をとられたことから、仏教徒は科学的な疑問を持ったり、科学を学んだりしてはいけないという主張をされる方もおられますが、いかがなものでしょうか。
 お釈迦様が亡くなられてから500年ほど後になって「このように聴きました」という形で経典が編まれ始め、お釈迦様は「この世界は、どうなっているのか?」などと質問した男に対して「そのような質問に対しては答えない」と、回答を避けたと記されています。
 そして毒矢の喩えを示し、苦を抱えた人間がまず、なすべきことを説かれました。

「もしも、毒矢が刺さって苦しんでいる人がいれば、矢はどこから飛んできたか、放ったのは誰か、何の毒かと詮索するよりも先に、矢を抜かねばならない」


 これは、まず、矢を抜く必要があると答えられたのであって、矢について考えてはならないと禁止されたわけではありません。
 お釈迦様とて、毒矢を放つ悪行(アクギョウ)を絶やし、毒を解毒し、より安全に暮らせる方がよいと考えられたはずです。
 警察や裁判官のように社会の治安を守る人々や、治療に携わる人々はいつの時代も必要とされ、無用であると考える人はいないはずです。

 お大師様も説かれました。

「四大の乖(ソム)けるには薬を服して除き、鬼業(クゴウ)の祟(タタ)りには呪悔(ジュカイ)をもってよく銷(ケ)す」


 骨折したり、血液がうまく回らなくなったり、熱が出たり、呼吸に問題が起こったりした場合は、薬や医者の力によって治し、目に見えぬものの障りや祟りによる不調は宗教的方法によって解決しようということです。
 究極的真理を求めて海を渡ったお大師様は、人々と国を救うため、仏教だけでなく、多方面について学び、持ち帰った多方面の研究を続け、天皇や庶民の病気を治し、満濃池の氾濫を退治しました。

 その時、その人にとって、最も必要なものが何であるかはさまざまです。
 まず宗教的な救いが必要な場合もあり、まず医者にかからねばならない場合もあります。
 大切なのは、そうした判断を誤らないことに尽きます。

「『無』の状態にあったところから、突然爆発が起きて宇宙が生じたというのがこの理論の通説です。
 それではその『無』とはどういう状態なのでしょうか。
 なぜ『無』から宇宙が発生したのでしょうか。
 これについては最新の科学をもってしても明確な結論が出ていないのです。」

「われわれ仏教徒も、この問題に対する結論は出せていません。
 しかし、宇宙を考えることは、仏教の基本通年である『空(クウ)』や『無』を考えることにつながります。
 また、宇宙のありようを解き明かすことは、この世界の真理に近づき、自分自身の存在を見つめることにもつながります。」


 仏教徒が空の経典であるく般若心経を読誦し、写経するのは尊い行為だけれど、「『空』や『無』を考えること」は避けねばならないなどという理由はあり得ません。
 まずやってみる段階は別として、いつまでも何の納得もないままでは、何をやっても〈形だけ〉になり、〈上の空〉になってしまいます。
 もちろん、般若心経を手に取る方が皆さん、急に哲学者になる必要があるわけではなく、その方なりに、「ん?これは……」と考える姿勢があり、何かを感じたり、つかんだりすれば、それで結構ではないでしょうか。

「そこでこの『無』とは何かという問題を、仏教の見地で検証してみましょう。
 最新科学を参考にしながらも、一つ一つの現象を概念から見つめ直し、論理を積み重ねていく仏教的な方法で検証していきます。」


 以下、ダライ・ラマ法王は、普遍的疑問について、宗教と科学の両面から考えてくださいます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.21

お釈迦様は説かれました「ただの信仰心で私の教えに従うのはやめなさい」

20131220DSC_0016.jpg
〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』第十四番の弥勒菩薩様〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「私の教えを信じるな」という釈尊

「科学と宗教は相容れないものであるという考え方は根強いものです。
 実際、私が科学者と会議を行っていることを知ると、
『気をつけてください。
 科学はあらゆる宗教を殺してしまう。
 まさに悪魔の呪文です』
と警告してきた友人がいました。
 また、科学者の方との話し合いではよく『対話』という言葉が使われます。
 しかしこの言葉には、両者の立場や存在が対立しているという前提や先入観が含まれているように思います。」


 法王は、対話という言葉にすら注意しておられます。
 確かに「対」は「対立」や「対決」というふうに用いられ、面と向かっている状態です。
 また「一対」となれば、独立したものとして横に並んでいる状態です。
 溶け合うという面は感じられません。
 法王は、真摯な話し合いは同じく真理を求める者同士として行う共同作業であり、「対」という感覚ではどうかと警鐘を鳴らされました。 

「実際はその逆です。
 仏教徒科学は驚くほどよく似ています。
 現象を調べ、法則を発見し、存在を確かめ、真実を探ろうとする。
 目指している方向も姿勢も同じなのです。」


 道がわからず20年近く彷徨ったあげく、私が仏教の道へ入れたのは、み仏が待っていてくださったという実感が強い一方で、それもまたみ仏の采配であるとしても、かけがえのない師と巡り合わせていただいたことが決定的な要因の一つでした。
 信じて白衣をまとい、入門したての弟子へ師は言われました。
「仏教は仮説ですよ」
 さまざまな寺院の門を叩き、他の大学の講義へもでかけ、どうしても「これだ」と思えずに手探りを続け、それでも無一文になった結果、どうにかたどりついたところでお与えいただいたこのひと言は、あまりにも決定的でした。
 ご本尊様のご加護を信じ、仏法の正しさと力を信じ、師の分析力・判断力・法力を信じて裸になった者へ、説いてあるのは「仮説です」と言い切る師の真剣な求道の姿勢は奇跡とも思えました。
 ご自身が、単なる信仰者ではなく、求道者であり探求者であるからこそ、弟子へ最初に念を押されたのでした。
 言葉を代えればこうなるのではないでしょうか。
「ただ、信じるだけではいけません。
 真理は自分でつかみなさい」

「仏教と科学と近しい理由は、釈尊の教えにも見られます。
 釈尊は全ての弟子たちを前にして、『ただの信仰心で私の教えに従うのはやめなさい。はじめから私の教えを信じこむのではなく、私の教えが正しいかどうかを自分で調べて解き明かしなさい』と語り、盲目的な信仰を戒めています。」

「さらに
『ある金属が純金かどうか調べるにはどうしますか。
 叩いたり、こすったり、いろんな手段を使って調べるでしょう。
 私の教えも同じです。
 本当に価値がある正しいものかどうかは調べなくてはわからない』
というたとえを使い、もし結果として論理的な矛盾や根拠の欠如がわかれば
『私の教えを受け入れてはいけない』
と説いています。
 まさにこれは科学的な姿勢といえるでしょう。
釈尊は科学者だ』という人がいるぐらいですし、私もこの意見には同感です。
 この姿勢は、釈尊だけでなく、他の多くの僧侶にも受け継がれています。
 結局釈尊は、検証と修行の方法論を示してくださった先生に過ぎないのです。」


 仏教が生きものであり、時代と共に変化し、場所に合わせて変化し、だからこそ、いつの時代もいかなる文化圏においても、救いとなり得てきたのは〈調べられる〉ことを厭わず、〈納得〉をもって活かされてきたからです。
 相手が科学であれ、芸術であれ、社会学であれ、心理学であれ、どこの分野から観ても真実と認められればこそ、鋼鉄の棒のように他をはねつけるのではなく、おいしく、ありがたく、嬉しく味わっていただき、心身を潤し、力づけるものとして受け継がれてきたのです。

「ともすれば私たちは見かけに騙され、真実を見誤りがちです。
 それは宗教者も科学者も同じこと。
 それが真実だと思い込み、満足してしまうのです。
 そうではなく、常に真実は何かということを考え続けることが大切です。」


 私たちは、ともすれば、見かけに騙されます。
 いかにもそれらしくお告げや絶対的真理を掲げ、信者を増やしている教団を大きいから、あるいは有名だから、信じてはいないでしょうか?
 信じるのが安心の道とは限りません。
 絡め取られる蜘蛛の巣や、這い上がれない蟻地獄につかまろうとしているのかも知れません。
 信じられそうだなと思ったなら、一度立ち止まり、盲信や狂信へと導く危険性がないかどうか、よく観る必要があります。
 教祖や教団は〈自力をつけ、独りで立ち、広い視野を持って健全に歩ける〉ような方向へ導こうとしていますか?
 それとも、思考停止や、単なる没入や、有無を言わせぬ信心へと導こうとしていますか?

「もちろん、たくさんの知識を学んで知性を高め、誤解や思い込みを取り除かなくては正しい検証はできません。
 また、それまで自分が信じてきた常識と違う説を唱えられても、それを一度は受け入れてみることが大切です。
 自分と異なる意見を持つ他人の話にも、まずは素直に耳を傾けてみるのです。」

「実際、科学的な見解と仏教の教えが異なることはしばしばあります。
 しかし、だからといって宗教は科学を忌避してはいけませんし、また逆に科学者も科学が最も正しいと盲信してはいけません。」


 私たちは、何のために仏法へ近づこうとしているのでしょうか。
 真理を知りたい、真実をつかみたい、というだけでなく、もっと具体的、現実的な苦から逃れたいケースの方が断然多いはずです。
 そうした〈藁にもすがりたい〉時は、心の間口が広く開いているものです。
 焦る眼にさまざまな藁が見えたり、ふと、眼前にぶら下がったりします。
 そこでこそ、疑ってみましょう。
 きっと、すがるべき藁はなかなか見つからないはずです。
 ここで、いい加減なものに手を伸ばせば危険です。
 見つからない苦しみから安易に逃れようとせず、本ものを探しましょう。
 その時、ようやく気づくかも知れません。
 〝──ああ、自分は何と愚かなのか……〟
 そして、自分を超えた何ものかへ、得も言われぬ次元としての仏神へ額づく気持になるかも知れません。
 このように、自分の根本的な愚かさに気づき、いつしか清浄な気持になれば、み仏は必ず手を差し伸べてくださるものです。

「私も、仏教の旧い経典を大切にするのと同時に、科学にある現代的で公平な視点を持つようにも気をつけています。
 そして、たとえ経典の内容に反するような科学的見解でも、自分で検証した結果、一切の矛盾がないということが実感できれば、それを受け入れなくてはいけないと思っているのです。
 それを拒絶するようなことは決してしたくありません。
 私自身、仏教の教えをぜひ信ずるべきだとは決して言いません。
 また、仏教の教えが正しいとも言わない。
 それはあくまであなたが確かめ評価することです。」


 お釈迦様は、真理を求め、真実に生きようとされました。
 その姿勢の前では、あらゆる理論も教えも、自分の脳裏に浮かんだ真理もすべてはまず、〈仮説〉として縁になります。
 それらの中から、「検証」され、「矛盾がない」と確信されたものにしか人生をかけられないのはあまりにも当然です。
 そうでなければ欺瞞の人生を送ることになり、それは自分の本心ではないはずです。
 本当に信じられるものを見つけ、それに懸け、自分なりの真実に生きるようにしたいものです。
 私たちの本心はここにあり、生きがいもまた、ここにしかないはずです。
 密教が、覚りを求める「菩提心(ボダイシン)」と並んで最重要な心がけとして説く「勝義心(ショウギシン)」とはこうした心構えです。
 柔軟な心で、偽りなく生きようではありませんか。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2013
12.20

スマホやゲームに夢中になれば成績が落ちる

2013121800134.jpg

 文明の問題であると感じていたスマホゲーム悪影響が科学的に確認された。
 12月19日付の河北新報は、またしても、東北大加齢医学研究所の川島隆太教授(脳科学)などによる快挙を伝えた。
 11月20日に行ったテレビ悪影響についての発表に続く大仕事である。
 テレビスマホゲームは、現代文明を象徴する道具であるが、私たちはもはや、こうした道具たちなくしては暮らせないほど、道具に縛られた生活をしている。
 それらは役立つと共に、実は害してもいるが、害を正面から捉え、あるべき形で制御することが難しくなりかけているのだ。

 棒も、火も、人間の霊性を高める生活に役立ってきたが、同時にそれらは、武器ともなり、爆弾ともなった。
 私たちはもはや、より効果的に人を殺(アヤ)める武器も、より効果的に敵の生活基盤を破壊する爆弾も手放せなくなってしまった。
 薬として人や生きものを救うはずの薬品によって、大量殺人が可能になり、原爆は地球全体を何度も破壊しつくすほどの量が地上にも、海中にも、山中にも蓄えられた。

 私たちが手放せないのは、それに関わって生きている人々が膨大にいることも、大きな理由である。
 経営者は武器や爆弾をつくり、売って利益を上げ、勤める人々は生活の糧を求める。
 思えば、これまで何度、原発事故の被害者となった方々から、「原発の〈おかげ〉で生きてきたが、〈危険〉については知らなかった」とお聴かせいただいたことか……。

 テレビも、スマホも、ゲームも、私たちの心を豊かにしてくれる道具ではある。
 しかし、相次ぐ発表で明らかなとおり、精神を消耗させ、鈍磨させもする。
 発表では言われていないが、きっと、精神を独善的に、攻撃的に、怠惰に、胆略的にし、性や暴力への快感的想像力を膨張させ、生きた人間関係の構築を疎外しているに違いない。

 現代人は、面と向かい合い、全存在をかけて対話するという生きもの本来の接触ができなくなりつつあると危機感を抱いているが、その大きな原因は、こうした道具たちにあると思えてならない。
 ネコであれカラスであれアリであれ、同類に対しても人間に対しても、全存在をかけて向かい合い、反応し、意志し、行動している。
 桁外れに高い霊性を持った人間だけが、それを行えなくなり、相手が信頼のおける人物か怪しい人物かの直感的な判断すらできなくなりつつあるとは、何と恐ろしいことか。
 明らかに、あまりに明らかに、子供たちや若者は生(ナマ)の人間関係を築き難く、年配者は騙されやすくなった。
 この〈鈍磨〉は、何によってもたらされたのか?
 産業界や政界に遠慮することなく、科学者は事実を科学的に検証し、強く警鐘を鳴らしていただきたい。
 テレビスマホゲームを悪者扱いするのではなく、まっとうに制御する知恵を失ってしまわないよう、私たちは早く立ち止まり、生活を見直したい。
 道具に対する人間の主体性を失わないようにしたいものである。

 以下、全文を転載する。

 なお、テレビ悪影響については、ブログ「テレビが子供の高次認知機能を発達させず、読書能力や注意能力を低下させる危険性について」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3977.html)をご笑覧いただきたい。

長々スマホ、学力に悪影響 仙台市教委と東北大、中学生調査

 仙台市教委と東北大でつくる「学習意欲の科学的研究に関するプロジェクト委員会」は18日、子どもがスマートフォン(多機能携帯電話)やテレビゲームを長時間利用した場合、勉強時間の長さに関係なく学習効果が薄れる可能性があるとの調査結果を公表した。

 4月に市内の中学生約2万4000人を対象に実施した生活・学習実態調査を基に分析した。
 1日当たりの利用時間を「ゼロ」から「4時間以上」までの6段階、家庭での学習時間を「30分未満」「30分~2時間」「2時間以上」の3段階で回答してもらい、市標準学力検査の数学の平均点との相関関係を調べた。

 家庭学習を2時間以上している層で見ると、携帯電話の利用を1時間未満にとどめている生徒の平均点は75.0点なのに対し、利用が4時間以上は57.7点で、17.3点の開きがあった。

 ゲームも1時間未満が74.1点、4時間以上が59.1点で大きな差が出た。

 家庭学習が30分未満の層についても、携帯電話を4時間以上利用する生徒の平均点は47.8点で、1時間未満の63.1点を大幅に下回った。
 ゲームは1時間未満が62.4点、4時間以上が50.4点だった。

 一部を除き、全く利用しない層よりも、1時間未満で利用している層の平均点が、やや高くなる傾向を示した。
 委員会座長で同大加齢医学研究所の川島隆太教授は「好奇心が旺盛な層が適度な息抜きとして使い、良い影響を与えた可能性もある。引き続き分析を進めたい」と話した。
 調査は国語、理科、社会でも実施し、同様の傾向が出た。委員会は来年3月をめどに詳細な分析結果をまとめる。


 これから一段と、情緒の面に関する広汎な調査・研究をして欲しい。
 目と心が刺激的なものに支配され、対象へ素早く反応するだけの脳になれば、ものごとを大局的に捉え、熟考するタイプの脳は相対的にはたらきにくくなる。
 大人になって仕事に就けば、脳の鍛錬方もさまざまになるが、少なくとも子供のうちは、脳のはたらきがなるべく偏らず、全体的に発達するよう仕向けたい。
 それは必ず、心も円満に育てる道に通じているに違いない。

 最後に、ゲームに息子を奪われた事例について、河北新報の記事「スイッチを切った途端、獣のような目で殴りかかってきた」から一部を転載する。

「ゲームのスイッチを切った途端、中学2年だった長男がいきなり殴りかかってきた。
『何すんだ!』。
 獣のような目。
 ゲームの世界から息子を取りもどす母(50)の闘いは今年6年目に入った。」
「寮はゲーム禁止だったが、内緒で家庭用ゲーム機を持ち込んだ。
 見つかって没収されると、一時帰宅の際に母親の財布から金を盗んで買い直した。
 1年余りで6台が没収。
 成績は一気に下がり、中2の夏、家を出た。」
「ある朝、銃で相手を撃つ殺りくゲームを夜通ししていたのを見つけた。
『何をしているの』。
 怒鳴ると、母親の顔に頭突きを食らわせた。
 スイッチを切ると、殴る蹴る突き飛ばす……。
 母親は鼻を骨折した。
 ゲームをめぐる家庭内暴力はその後も繰り返された。」
「ゲーム以外は寝ているか、ぼうっとしている状態で2年が過ぎた。
 出席日数が足りず高校卒業すら微妙だった。」
「国内で少ないネット依存専門外来がある神奈川県横須賀市の国立病院機構久里浜医療センターに母親と長男の姿があった。
 長男は都内の志望大学のオープンキャンパスにも足を運んだ。」






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.19

覚悟とは甘えのことぞ冬残照 ─死を正面に観た俳人折笠美秋─

20131219001.jpg

〈1956年、ドラッグ強盗の10ヶ月後に歴史的名演を披露したアルトサックス奏者スタン・ゲッツ〉

「覚悟とは甘えのことぞ冬残照


 詠んだのは故折笠美秋
 筋肉がはたらかなくなる筋萎縮性側索硬化症という難病に罹った50歳代の俳人である。

 冬の残照は有無を言わせない。
 非現実的なほど圧倒的な赤紫。
 人の世が燃やされる火事を映すかのような葡萄色に染まった空は徐々に黒く塗りつぶされ、西の山のあたりに余韻を残しながら、残照は去る。
 そして、のっぺらぼうな闇がやってくる。

 血潮の流れる五体をかけて誓う覚悟という気負いなぞ、何の苦もなく塗りつぶされる。
 あまりに確かな死によって。

(ヒツギ)のうち吹雪いているのかもしれぬ」
「わがための喪服の妻を思えば雪」
「すでに方舟(ハコブネ)発(タ)てり吹雪いて見えざれど」


 の中にも無常の吹雪は舞う。
 真っ白な雪に閉ざされた世界のどこに、喪服をまとった妻の居場所があろうか。
 自分はもう見えない方舟に乗り、窓外に乱れ狂う吹雪の中へ旅立ちつつある。

 美秋の雪は暗黒の世界を隠しつつ見せる。
 ──果たして白いのか、透明なのか……。

「俳句おもう以外は死者かわれすでに」


 ダライ・ラマ法王は説く。

「明日がわからないからといって、その不安のために明日を迎えられない者などいない。
 同様に《現世(ゲンセ)》から来たるべき《来世(ライセ)》がある程度は見えてくるはずだ。
 ならばことさら、死に恐れおののく必要はないだろう。」

「もし、その個人が、再生、転生(テンショウ)の思想を信じず、ただ一度きりの人生、いわゆるこの《現世》しか認めないなら、死と取り結ぶ効果的な方法は存在しないといわねばならない。
 もし、あなたがそのような人間であるなら、しかも、死を恐れているならば、こう答える以外にはないだろう。
『死を思うな。
 考えるな。
 そして、現実に死が迫ったなら、酒でも飲み、残された時間を楽しめ。
 やがて人生と共に恐怖も終わる』」


 故中村苑子は書いた。

「癒える日は永久に来ず、確実に死の訪れる奇病で、治療の方法が無いと知ってからの折笠夫妻の闘病生活は、北里大学病院の医師たちが類を見ない患者だと驚嘆したというほど真摯で尊厳に満ちていた。」


 美秋は、俳句という方法で、すでに生へと浸潤しつつある死を表現した。
 その尊厳ある死は、「酒でも飲み」現実を見ないふりをする者が迎える死と正反対である。

 この世に生まれ落ちた以上、死の浸潤を受けずに生きる人は誰一人いない。
 死へ譲り渡した領域がどの程度であるか、誰一人、気づかぬだけである。
 そこを見すえた美秋には、ただただ、頭を垂れるしかない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.19

【現代の偉人伝】第183話 ─「透明な歳月の光」570回を数える曾野綾子氏─

20131216-00000003.jpg
〈ロイター/Khaled Abdullahよりお借りして加工した「書記官を治療する病院前」〉

 産経新聞をとるようになって以来、なるべく読み落とさないようにしているのが「透明な歳月の光」である。
 連載している曾野綾子氏は、広角レンズと望遠レンズを兼ねたかのような視点から現実を眺めておられ、目を瞠(ミハ)らせられる場面が多い。
 生涯、知り得ず、もちろん体験できようもない〈現実〉がたった今、地球上にあること、そして、それは、決して自分の小さな世界と無関係ではないことを突きつけられ、ぐうの音(ネ)も出ないままに読み終え、しばしあれこれ考えてから次の紙面へ移るのが常である。
 読むたびに、無言で「あなたはどうですか?」と問われるのである。

 12月18日は、イエメンの日本大使館に勤める2等書記官が刃物で切りつけられ、あわやという目に遭ったできごとをきっかけに、世界における貧富の差と、治安状況の差を示された。
 以下、「日本人の想像を絶した格差」である。

 私たちは普通、国家の首都の中心部は、その国で最も警備が行き届き、大使館員の安全などは何としても国家が確保してくれるだろうと思っている。
 しかし、今回は、高級ホテルからわずか数百メートルを通勤する最中で強盗に襲われた。
「大使館の警備をしているプロでも、こうして襲われたら、防ぐすべがなかったのである。」

 曾野綾子氏は、1990年代に、南アフリカ共和国の首都ヨハネスブルグで、「ホテルから数百メートルのところにある知人のオフィスへ日本から持ってきたお土産を届けようと」して連絡を入れた。
 知人は「すぐ近くに見えているオフィスビル」から迎えの車を出すので「決して歩いてくるな」と忠告した。
 当時は比較的治安が安定していた南アフリカでさえ、普段、「車は安全のために窓を開けない」で走るのである。
 白昼、ちょっとそこまでだから、などというのは甘く、無知で、自分から危険を呼び込んでしまう。

 コートジボワール共和国では、ホールドアップとなったなら、「秘密のボタンを押して」車を明け渡してしまう。
 盗られた車は「国境までの間にガソリンが切れるような仕掛けがしてある」という。
 もしも、すぐに走れなくする仕掛けをすれば射殺されてしまう国情に合わせた、せめてもの知恵である。

 マンデラ大統領の死去で国情が報道された南アフリカ共和国では、最近、「人間観の経済的な格差も差別感も、むしろ大きくなっている」と英字新聞に書いてあったらしく、曾野綾子氏は「人の心はそう簡単には解決しない」と観ている。

 ブラジルの富豪は、「ベンツでもBMWでも」ない「オンボロトラックやミニバンを数多く」持ち、「安全のために毎日車を替え、違う時間に家を出て、決して同じ道を通らない」ようにしており、「それが第三世界の日常生活の常識なのだ」と説く。

 氏の結論である。
「こうした土地を知らずに、日本は貧富の差がひどい、弱者を犠牲にする悪い国だ、という人がいる。
 せめて現場を一度見てから発言してほしい。」

 さて、どう考えるか?
 日本国に生を享(ウ)け、ありがたいと、あらためて感謝する方もおられよう。
 第三世界の人々を憐れむ方もおられよう。
 その国その国で事情が違うから、あまり関心がないという方もおられよう。
 誰もが氏と同じく世界を股にかけて活躍できるわけではないのに、高飛車ではないかと反発する方もおられよう。
 結果的に現状を認めさせようとするのは権力者側の姿勢で、弱者を軽視していると怒る方もおられよう。
 
 いずれにせよ、批判を承知で生の体験を私たちへぶつけ、現状を考える材料としてくださることはありがたい。
 少なくとも、井の中の蛙のままで死ぬ危険をいくばくかは回避するきっかけを与えてくださるのである。
 まずは感謝し、すべては〈それから〉としたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.18

仏教は〈信じる〉だけのものではない

20131218001 (2)
〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』において大震災で犠牲になられた御霊をご供養するお塔婆とお地蔵様〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

瞑想の効果で脳細胞が変わる

「私たち仏教徒は、自分の心と対話したり、人の経験を分析したり、論理的な思考法を積み上げたり、仏教の経典と照らし合わせたりしながら、仏教という自分たちの方法で、科学者のみなさんと共に真理に迫りたいと思っています。
 これは決してどちらが正しい、どちらが優れているという問題ではありません。
 むしろ異なるアプローチを重ねあわせて、ひとつの真理を追究していくべきです。」


 こうした面において、ダライ・ラマ法王は、現代の傑出した仏教者であると考えています。
 病気や環境や福祉の問題によって、科学がようやく精神そのものへメスを入れ始めた今、道理という尺度で精神そのものと向き合い、研究し、錬磨してきた仏教にとって、科学という強力なパートナーと共に、新たな可能性を模索する姿勢を最も強く持ったリーダーだからです。
 仏教は宗教として多様な面を持っているので、教団もまた、多様です。
「~だけを拝みなさい」と信じる力を伸ばそうとするタイプや、「~だけを唱えなさい」「~だけを読みなさい」と読誦する力を伸ばそうとするタイプや、心を分析と集中に向けて意識をコントロールしようとするタイプなど、方法はさまざまに主張されています。
 しかし、道理思いやりを二本柱とする仏教は、道理という尺度をもって科学や芸術などと通じ合える客観的視点と、決して排斥という方法を用いない包容性を失ってはなりません。
 この仏教が仏教たる根本原理に立ち、科学者との真剣な対話と研究を自分の信者だけでなく、広く公開しているという点においても希有の存在と言えるのではないでしょうか。
 少なくとも仏教の聖職者は、すべからく、こうした姿勢に学び、精神がより精緻な道理と深い思いやりをもってはたらくよう、柔軟性をもって信仰を深めるべきであると信じています。
 
 ダライ・ラマ法王は、25年間も世界中の科学者たちと研究を続けてこられました。

「特に物理学的な分野や生物学的な分野の中には、われわれがアプローチできない事実が多くあります。
 進歩や発達も早く、新しい発見が多いのでとても楽しみにしています。」


 お大師様はかつて、綜藝種智院(シュゲイシュチイン)という文字どおり開かれた総合大学を創られました。
 その理想です。
 北尾克三郎氏の現代語訳を「エンサイクロメディア空海」(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)より転載します。

「『儒教』(人としての徳性と、家族と社会における人間関係の教え)、『仏教』(人はなぜ生きるのかと、人々の幸福に奉仕するための諸行為の実践の教え)、『道教』(自然の道理にしたがって生きると身体と精神の教え)の三教科を兼ねそなえて学べる総合学院にしたいと願っていた。」

「わたくしは校名を考え、『綜藝種智院(しゅげいしゅちいん)』と命名した。
(この意味は、この学園でもろもろの学問を総合的に学ぶ機会を得た若者たちが、自らの教養の畑を耕し、そこに知恵の種を蒔き、その種がよく耕やかされた土壌によって、りっぱな芽を出すことを願っての名である)」

「過去においても、現在にあっても、未来にわたっても、知恵のある仏教者は世間のあらゆる学芸を学びそれらを修得するとともに、仏教の教えによって慈悲のこころによる他者への施しを自覚し、その屈託のない行動力と学芸による人文・自然の(今日でいう科学)技術を用いて、善導のための各種施設を築き、土木・治水事業を行ない、田畑の恵みのために気象をとらえ、医療と福祉により人々を救い、その言葉と声により人々を癒し、言語力により異国の文化を導入し、論理力によりまちがった考えを論破する。」


「『論語』にいう、『人はおもいやりの美風のあるところに住むべきであり、わざわざそうでないところを選んで住むことは、賢い人のすることではない』と。
 また同じ書に、『人はおもいやりのあるところに住み、よき人間関係を築き、さらにすぐれた人格を形成し、学問に励まなければならない』と。
『大日経』では、『仏教者として人々を導く師になるには、まず、あらゆる学問と芸術を学び、その知識を高めるべきである』と。
『十地論』では、『知恵のはたらきを実践する者は、まず、五明のあらゆる学芸を学び、それらの真理に通じていなければならない』と説いている。
 だから、善財童子(ぜんざいどうじ)は、真理を求め、南インドの百十の都市を巡り歩き、教師となる五十三人の人々を訪ねて教えを乞い、常諦菩薩(じょうたいぼさつ)は、一つの都市の中で人々のおもいやりに助けられ、その慈悲の施しに常に涙しながら真理の道を求めつづけたという。」


 要は、心の探求者であり、精神的救済をその存在理由とする宗教者には、世界と人間をより深く知ることが欠かせないのです。
 全人格を捧げて役立とうとするのが菩薩(ボサツ)への道です。

 ダライ・ラマ法王へ戻ります。

「最近では科学者の中にも、仏教に興味を抱く方が増えてきました。
 みなさんは、仏教が精神や感情をどのように解釈しているか、熱心に尋ねてこられます。」

「仏教の力を、科学によって裏付ける研究も行われています。」


 ダライ・ラマ法王は、注意力や集中力や脳の柔軟性が上がったという科学者の研究結果を紹介されました。
 瞑想によって脳細胞に変化が生じたというデータすらあります。

「たしかに心を穏やかに保つことは、肉体の健康にも大きく作用します。
 ストレスなどマイナスの感情は、心身のバランスを崩し、様々な病気の原因にもなっているからです。
 うつ病高血圧などは、この代表と言えるでしょう。
 こうした意味でも、仏教が続けてきた心のコントロールには効果があると言えるでしょう。」

「また、スターフォード大学やウィスコンシン大学などでは、仏教の教えそのものを実践すると、感情や心情にどのような結果が出るかを研究しているそうです。
 これには破壊的な衝動を持つ者への対策や、倫理観の高い人間の育成法など、具体的な目標があるとも聞いています。」


 ヨーロッパやアメリカにおける仏教の研究は、日本の比ではないと言われています。
 最近のアンケートによると、最も大切なものの第一位は、日本人もアメリカ人も、家族と子供ですが、第二位は日本人はお金、アメリカ人は宗教でした。
 アメリカは、国の成り立ちからして宗教的意識が強い国民性であり、よきにつけ悪しきにつけ宗教が持つ力を実感しているからこそ、仏教の研究にも熱心なのでしょう。
 ただし、日本人の場合は、仏教と神道が個別の信仰というよりは言葉や習俗や生活そのものとして日常生活へ溶け込んでいる面が強いので、特定の宗教について云々という感覚が薄いのではないでしょうか。
 いずれにせよ、仏教的な思考法や心の傾向が「破壊的な衝動」とは正反対であり、客観的に通用する「倫理観」を高めることは確かです。
 医学や社会学や環境学やなどによって、仏教がよく研究されるよう願ってやみません。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.17

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その67)─雷神に裂かれ蛇に喰われる者、金の釜や清泉を得る者─

201312170003.jpg

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。

○第一話 の話

「酉夢(ユウム)其(ソ)の父を打てば
 天(テンライ)其(ソ)の身を裂く」

 
 宋の時代に書かれた『吉凶影響録』にある話です。
 唐代の人酉夢(ユウム)は、夜中に帰宅して父親に殴られました。
 逆上した酉夢が杖で父親の顔面を叩いたところ、一天かき曇って地震とが起こり、酉夢は家へ落ちた神につかまれて夜空に消えました。
 翌朝になり、引き裂かれた酉夢の死骸が庭先へ落ちました。
 集まった人々は、その背中にはっきりと銘が刻まれているのを見ました。
「酉夢打父天報裂身(ユウムダフテンポウレッシン)」
(酉夢父を打つ、天、報いとして身を裂く)

○第二話 大蛇の話

「班婦(ハンプ)其(ソ)の母を罵(ノノシ)れば
 霊蛇(レイジャ)其(ソ)の命を吸う」


 宋の時代に書かれた『括異記』にある話です。
 鐘山の住人班婦(ハンプ)は、常に母親を誹り、叱りつけていました。
 ある時、山から巴蛇(ハダ)という聖なる蛇が降りてきて、班婦(ハンプ)は喰われてしまいました。
 巴蛇は、体長1800メートルもある黒い大蛇です。
 津波を起こして漁民を苦しめていましたが、最後は退治されました。
 その3年後、口から吐き出された象の骨は、腹痛を癒す漢方薬として珍重されたということです。

20131217002.jpg

○第三話 の話

「郭巨(カクキョ)は母を養わん為に
 穴を掘りて(コガネ)のを得たり」


 古代中国の『孝志伝』に書かれた話です。
 後漢の郭巨(カクキョ)は、貧しい生活をしながら老いた母親を養っていました。
 生まれた子供が3才になった頃、母親が孫へ食べものを分け与えていることを知りました。
 思い余って妻へ語りかけます。
「このままでは、貧しくて母親を養ってゆけない。
 いっそのこと、子供を埋めてしまい、母親を養ってゆこうではないか。
 子供はまた、授かるかも知れないが、母親は再び得られない」
 ついに妻は同意し、二人で穴を掘ったところ、2尺ほどのところで、が見つかりました。
 そこには黒の銘がありました。
「天賜孝子郭巨官不得奪人不得取」
(天、孝子の郭巨に賜る、官も奪うことを得ず、人も取ることを得ず)
 それは6斗4升もの容量があったそうです。

○第四話 清泉の話

「姜詩(キョウシ)は自婦(ジフ)を去りて
 水を汲めば庭に泉を得たり」


『後漢書』にある話です。
 廣漢の住人姜詩(キョウシ)は、夫婦で親孝行をしていました。
 母親がナマズと江漢の川水を好むので、嫁は6~7里もの道を往復して川から水を汲んできました。
 ある大風が吹いた日、妻が帰らず、母親へ水を与えられなかった姜詩は、不孝を怒り、妻を離縁しました。
 妻は富貴の家へ嫁ぎもせず、近所へ住んで昼夜、紵(オ…カラムシともいう繊維になる植物)を織って過ごし、おいしいものがあれば、名も告げず、かつての姑へ送り続けました。
 訝しく思った姑が隣家の老母に子細を尋ねて事実が明らかになり、嫁は呼び戻され、夫婦、親子は今までよりも仲良く暮らすようになりました。
 やがて、子供が水を汲むようになりましたが、ある日、深みにはまって亡くなりました。
 その後、庭でこんこんと湧くようになった清水から毎日、2匹づつ鯉が踊り出し、一家は膾(ナマス)を食べて元気に過ごしました。

 上記の四話はいずれも荒唐無稽であり、現代の倫理からは遠い世界と感じられるかも知れませんが、こうした物語に触れ、ともすれば〈当たり前〉と忘れてしまいがちな親の恩を考えてみることは、子供にとって大切であろうと思います。
 最も身近にある恩に気づけば、やがては親族やご近所様の恩、そして学校や職場や国家社会の恩も感じとれる力が身に付くのではないでしょうか。
 押しつけたり、当てはめたりではなく、子供が「えっ!」と驚き、感性が反応すれば、しめしめといったところではないでしょうか。
 さらに、「何で親のために子供を殺そうとするの?それが正しいの?」などと疑問が生まれ、議論が始まればもう、上出来ではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.16

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その66)─恩と徳とに囲まれて─

2013121600001.jpg

 江戸時代まで寺子屋などでで用いられていた『実語教童子教』を読んでいます。

を戴(イタダ)いてを知らざるは
 樹の鳥の枝を枯らすが如し  
 を蒙(コウム)つてを思わざるは
 野の鹿の草を損ずるが如(ゴト)し」


(せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを知らなければ
 樹をより所とする鳥が、止まらせてもらう枝を自分で枯らしてしまうようなものである
 せっかくを受けて育ち、生きているのに、というものを思わなければ
 野にある鹿が、食べさせてもらう草を自分で絶やしてしまうようなものである)

 私たちは、受胎した瞬間から、この世での無限のをいただき始めています。
 まず、受胎という肉体的な縁がなければ、意識がこの世で新たな活動をする拠点が得られません。
 意識はんでもなくならず、どこかで、次のチャンスに備えています。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「この肉体、この特定の生命に属するこの具体的な肉体にとって、とは変化の時を告げるのみである。
 古い着物を投げ捨て、新しい着物を身にまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である。
 であるならば、《》に対する人間の対応は、恐怖とはまるで異なるものとなるはずだ。
 に臨むとき、自分の心から恐怖を取り払うことができるはずだ。
 精神的な修養を積んだ者なら、が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて喜びに満たされるものなのだ。
『時は来たり。
 若々しく、新鮮で、より可能性を秘めた肉体を、そして、新しい人生を己(オノ)が手にする時が来たり』
と。」


 このように、前世でのを通過して、〈新しい人生〉を生きるチャンスが生じたのです。
 受胎とは何とありがたいことでしょうか。
 そして、生まれる時も、生まれてから生きて行く上でも、無数の人々や、いのちあるものたちから受ける恵は、無限というしかありません。
 それを知らないままでは、せっかくの縁を次々と枯らし、自分で自分の人生を破壊するようなものです。
 恩については、以下をご参照ください。

http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3973.html(11月21日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月17日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3929.html(10月16日)
http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3931.html(10月14日)

 また、私たちは、周囲の環境に無限のがあればこそ、まっとうな人間として生きて行けます。
 心は環境に染められ、黒い心に囲まれていればどうしても黒っぽくなり、白い心に囲まれていれば、いつの間にか白っぽくなります。
 古人は「朱に交われば赤くなる」と言いました。
 の高い親や先輩や指導者などに恵まれれば、いつしかその感化を受けて徳が高くなり、反対の場合はどうしても徳が伸びないものです。
 事件を起こした被告人が情状酌量を受ける際に、育った家庭環境などが勘案されるのは、そのためです。
 自分の意志だけでは抗えないほど強く悪へ向かわしめる力によってつくられた精神のありようを、すべて被告人のせいにしてしまうのは酷ではないかという共通認識が、私たちの社会にはあるのです。
 だから、私たちが罰せられるほどの悪行へ走らず、どうにか社会人として生きて行けるのは、徳を持った人々に囲まれて生きているからです。
 もしも、右に住む隣人はいつも窃盗を行い、左に住む隣人はいつも暴力を揮い、前に住む隣人はいつも生きものたちを虐待し、後に住む隣人はいつも道路へゴミを投げ捨てていたなら、私たちは落ちついた精神状態を保ちながら生活することができません。
 そして、いかなる〈功成り名遂げた人々〉も、決して自分だけの力で結果を出したわけではありません。
 周囲の徳が自分の徳を育て、自分の徳もまた周囲へ徳の輪を広げればこそ、ことは成ります。
 小関智弘著『どっこい大田の工匠たち』を読むと、世界に通用するほど卓越した個人的技術力や発想力を持つ「~師」と呼ばれる人々ですら、徳の縁によって力が生かされているという真実がよくわかります。
 こうした徳のありがたさに思いをいたすことができなければ、自分のいのちと心を養うありがたい縁を自分で絶やしてしまうのです。

 恩と徳をよく考えてみましょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.15

神のごとき科学者はいるのだろうか? ─寺子屋でお聴きした富岡町における原発事故の被害と現状─

20131214002.jpg

 あいにくの雪模様となり、ご参加された方は少人数でしたが、お話はとても意義深いものでした。
 冒頭に、写真家山本剛士氏の作品『黙殺黙止~福島の消えた歳月~』から4枚の写真を掲げ、「知る」ため、「忘れない」ためにこの会を催す旨を申しあげました。
 まず、富岡町社会福祉協議会内に設けられた『富岡町生活復興支援 おだがいさまセンター』のアドバイザー青木淑子先生より、平成23年3月11日から今日までに起こった事実についてのご説明がありました。
 ひき続き、3人の語り部さんから、身につまされる体験談をお聴かせいただきました。

青木淑子先生のお話

「参加された皆さんの後にはそれぞれ、10人の人々がおられるはずです。
 これから耳にされるお話をぜひ、10人の人々へお話ししてください。
 12日に突然、全町避難の指示が出された時点では、どなたもが、すぐに帰れるだろうと考え、ほとんど着の身着のままで車に飛び乗り、川内村をめざしました。
 それっきり避難生活に入ったというのが実情です。
 まず向かった人口2500人の川内村で富岡町の住民1万5千人を受け容れられるわけもなく、多くの住民はそのままあちこちへ散らばることになりました。
 避難者でふるまわれた温かいご飯や味噌汁のありがたさは生涯忘れられず「川内村へ足を向けては寝られない」人々もおられます。
 しかし、放射能のため、川内村へは4日間にわたり外部から何の支援もなく、やがて川内村も全町避難となりました。
 そうした中で、郡山市のビッグパレットへ避難した被災者がボランティア支援センターを設立しました。
 いち早く女性専用のコーナーができたのは、阪神淡路や中越の大震災で苦労した方々からの後押しがあったからでした。
 センター内でだけ受信できる臨時FM放送も立ち上げられ、希望がわき、自治が始まりました。
 被災者の消息がわかるように電話帳を作りましたが、掲載を希望したのは2000世帯のみです。
 現在、9坪の仮設住宅に暮らしておられる方々がたくさんおられ、帰宅困難区域の家へは、町へ届け出た上で一ヶ月に一日しか帰れません。
 帰るといっても、家は雑草やネズミなどにやられ、田畑は雑草や柳の木などで埋まり、悲惨です。
 支援センターは、これからも皆さんと一緒に前を見て行く組織でありたいとおもいます。
 私自身は富岡町民ではなく、郡山市の住民ですが、被災者の方々が生きがいや希望を見つけられるよう、明日へつながる仕事をしたいと願っています。

○〈語り部〉伊藤ひでさんのお話

「冒頭の写真のように、人がいない町になると、ネズミがどんどんはびこり、信じられないほど大きくなって家を占領するものです。
 私は、津波の高さが7メートルとか、10メートルとかと放送されても、ピンと来ませんでした。
 地震は凄かったですが、家は高台にあったので、その晩はわが家で眠れました。
 翌朝7時、室内退避と言われ、すぐに川内村への避難となってマイクロバスに乗りましたが、そのまま田村市へ向かうことになり、そこの体育館で温かなご飯と味噌汁をいただき、感激しました。
 原発事故に備えた訓練は毎年、行われましたが、せいぜい2キロほど移動するだけで、何の役にも立たないものでした。
 この事故が起こっても、町民はすべて、すぐ帰れると思っていたはずです。
 避難先としてお世話になった『ビッグパレット』さんでは、三食、お弁当がでました。
 しかし、温かくないお弁当を求めて毎回列に並んでいる時は、とても惨めな気持で今も忘れられません。
 仮設住宅はくじ引きなので早々に諦め、アパートを探しました。
 何もかも、皆さんのお世話になり、今は、心からありがたいと思っています。」

○〈語り部〉遠藤友子さんのお話

「専業農家でコシヒカリを作り、黒毛和牛を育てていました。
 最初は川内村から25キロ通って、一日一回は牛の世話をしました。
 次に行った郡山市の『ビッグパレット』さんでは、外出から帰るたびにスクリーニングをしないと入れないので、混雑が大変でした。
 コンクリートの上へ毛布を敷いて寝置きで、自衛隊さんがお風呂をやってくれたのは本当にありがたく感じました。
 自宅は郡山から90キロ離れており、放射能でなかなか見に行けず、毎日、牛がどうしているかと気がかりでした。
 しばらくして、様子を見てきた夫から二匹死んでいると聞かされ、夜明けの郡山市を走り抜け、帰宅しました。
 牛は立ったまま死んでおり、仔牛がそばにいました。
 埋めるために大型重機で穴を掘り、四足を縛って釣りながら運んだ時に、ぶらんぶらんと揺れた牛の姿は忘れられません。
 次に行った時、4カ月間必ず母牛の乳で育つ仔牛が生きていたのは、信じられませんでした。
 牛は絶対に自分の子供以外へ乳を与えず、うっかり近づくと、蹴ったり突いたりして遠ざけるからです。
 仔牛はどれだけのことに耐えて乳をもらったのか考えると、不憫でなりませんでした。
 今の富岡町では、野生化した牛たちが集団で暮らしています。
 わが家の牛たちはすべて殺処分となりました。
 あの仔牛も、あの世で母牛と一緒に暮らしていると思っています。
 絶対安全なはずだった原発の事故によってこうなりました。
 次の事故ではいったい、どうなるんでしょうか。
 元気だった夫は体調を崩して8カ月の入院し、とうとう、介護を受ける身になりました。
 可愛がっていた犬も亡くなりました。
 今は、ネコと暮らしています。
 生きながらえたいのちですから、生きて行こうと思っています。」

○末永九(タダス)さんのお話

「私は80才を超えました。
 町に30年間務め、退職してからは造園会社に勤めて、変電所の維持管理に携わってきました。
 町にいた頃、避難訓練をやりましたが、実態は、経費を使わないようにするために『あれもやるな』『これもやるな』とブレーキがかかり、結果的に何の役にも立たないものになっていました。
 それは、誰もが原発は安全だと思っていたからです。
 町として行う原発の業務の確認作業は、県の職員と一緒に、運び込まれた燃料棒を数えるなどといった範囲でしかありませんでした。
 今、四号機のところに残っている燃料棒の処理はとても大変だろうと危惧しています。
 一時的に帰宅できようになりましたが、悪臭ただよう中をネズミの糞の除去などするしかありません。
 ある時、業者から自宅を除染するから同意書が欲しい、ついては、いわき市の説明会へ来て欲しいという連絡がありました。
 とても行けないと返事をすると、小さな冊子を送ってきました。
 そして、集落ごとに50パーセント以上の同意がないと後回しになりますよと言います。
 もしも除染が完全にできた時には、別荘のつもりで利用するしかないと考えています。
 富岡町には小中高一貫した学校があり、運動部で素晴らしい成績を挙げている生徒たちのために、支援を呼びかけています。
 自分が生まれた楢葉町の集落では40戸ほどが津波で流され、残ったのは2~3戸のみ、あとは稲荷神社と寺のみです。
 とうとう瓦礫処理の集落になってしまいました。
 もはや、これから足をはこべる所ではありません。」

青木淑子先生のお話

「末永さんからお話のあった富岡高校では、バドミントン、ゴルフ、サッカー、いずれも日本一を競うレベルの選手達が育っています。
 彼らの快挙によって全国へ散らばった町民たちが勇気をもらいます。
 富岡高校という名は残っていても、校舎はなく、四つの校舎や他の教室や運動場で練習を続けるしかないた生徒たちが奮闘する姿には本当に勇気づけられます。
 もうすぐ3年ですが、ひたすら家に籠もるしかない方々もおられます。
 若い世代の方々が富岡という名をかざし、前を向いてくれる一方で、子育て中の若い母親のほとんどは県外へ避難してしまいました。
 宮城県には130世帯が避難してきています。
 こうしてお話を聴いていただければ、息を殺して生きている方々の生きてゆく場ができます。
 放射能に関する偏見のために、福島県民であることを隠しながら生きている方々もおられるのです。
 事実を正しく知ってもらえれば、全国へ避難した町民の方々も堂々と生きてゆけるのではないか。
 ぜひ、事実を知っていただきたいと思います。

○参加者Aさんのお話

「私はずっと除染作業に携わり、100キロ以上も運転して現場へ通っていますが、いったい、いつまで続くのか、本当に有効なのかと、絶望的な気持になることもあります。
 津波にやられた浜の方でのご供養もよく行って欲しいと願っています。」

 最後に、チベットの現実を映したDVD『チベットチベット』において、ヒマラヤを越えて亡命してくる人々のために、ネパールで設けた救援センターの所長が語る言葉をお伝えしました。
「救援していただくのはありがたいが、何よりも、多くの方々に現実を知って欲しい」
 原発事故は、たった今の現実であり、被災者の方々の苦しみも又、たった今の現実です。
 そして、日本で現代文明を享受している私たち一人一人にとって、いずれもが、私たち自身にとってたった今の問題です。
 まず、知ること、忘れないこと、関わること、そして考え、行動することによって、次のステップへと進むまっとうな生き方をし、まっとうな社会をつくって行きたいものです。
 もしも同胞を見捨て、文明の宿痾(シュクア…宿命的な病症)に目をつむり、楽しむことや儲けることに走るならば、まっとうな未来は望むべくもないと危機感を持っています。
 語り部遠藤友子さんは言いました。
「次の事故ではいったい、どうなるんでしょうか。」
 今の科学の力を用いれば、地震や津波や巨大化する一方の台風やハリケーンなど自然災害の影響も含め、〈次の事故〉は決して起こさないと言い切れる科学者は世界のどこにおられるのでしょう?
 いかなる疑問にも答え得る神のごとき科学者がおられるならば、この事故はとっくに正しい意味で収束へ向かっていたはずではなかったでしょうか?
 現在の科学力では次の原発事故を防ぎきれないのが真実ではないでしょうか?
 私たちの文明がもたらした途方もない破壊と苦に正面から向き合って考えねば、まっとうな未来はないとしか思えないのです。
 マスコミの取材もありました。
 必ずしも広く世間の耳目を集めなくなりつつあるこうした問題に関し、根気強く取材と報道を続け、大きな社会的役割をはたしていただきたいと強く願っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.14

引き継がれる意識

201312130112.jpg

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

輪廻には論理性がある(その2)

「逆に仏教では、死後も意識は生滅せず、他の生命の意識として生まれ変わるものと考えています。
 これを仏教では『輪廻(リンネ)』と呼びます。
 死後の肉体は分解されて別の物質となり、新たな生命の素となります。
 これと同じように意識も、新たな生命に乗り換えると考えるのです。」


輪廻がはこんでいるものは『意識』や『認識』なのですが、私たちが日頃感じている意識はただの『そう思われるもの』であり、輪廻によって運ばれるものとは違います。
 もっと究極的なレベルにおける意識のありようなのです。
 意識はこうして前世から現世へ、そして現世から来世へ、連続して持続していくと考えられています。
 意識は何かから生み出されたわけでも、突然消失するわけでもなく、始まりもなく終わりもなく、常に存在し引き継がれるものなのです。」

 
 この哲学と感覚と信念があり、因果応報を論理として妥当であると判断するからこそ、仏教はこう説くのです。

「悪しきことを行うなかれ
 善きことを行おう
 そして心を清めよう
 これが悟った聖者たちが共通して説くところである」

 
 悪しきことを行えば、それが原因となり、必ず自他へ悪しき結果をもたらします。
 善きことを行えば、それが原因となり、必ず自他へ善き結果をもたらします。
 心が清まれば、自他共に悪しきできごとから遠ざかり、善きできごとに恵まれるようになります。
 誰しもが、悪しきできごとで悲しんだり、苦しんだり、泣いたりするよりも、善きできごとで喜んだり、楽しくなったり、笑ったりする方がいいのです。
 それならば、その道理に従って生きられよう自分の生き方、すなわち心をどうにかするのみです。
 方法の根幹は悪を行わず善を行う清浄な心になることに他なりません。

 そして、肝腎なのは、この因果応報は、この世に生じて滅ぶ肉体によってのみ実現されるのではなく、むしろ、輪廻する意識がこそ、その主体として永遠に因果の糸をつなぎ続けるということにあります。
 この世でやったことは、この世で終わりになりはしません。
 意識が消えないからです。
 意識を染めた善も悪も、必ずしもこの世で結果をもたらすとは限りません。
 また、染まった意識は必ず、この先の世でも、何らかの色に応じたはたらきをするに違いありません。

 では、本当の喜びはどこにあるか?
 古代インドの『マハーバーラタ』に登場する英雄アルジュンの言葉です。

「人生の一瞬一瞬に明白な死の予兆があるにもかかわらず、人の生命の不死を信じ続けることこそ、至上の喜びである」


 不死なればこそ、私たちは、善行に光を感じ、悪行に闇を感じ、太陽に向かって頭を上げ、歩み続けられます。

 ダライ・ラマ法王の言葉です。

「生命は無限である。
 それには始まりもなければ終わりもない。
 よって、行為、カルマ…ゴウ)もまた始まりもなく、終わりもない。
 カルマは無限である。
 いわゆる無限大のカルマがあることになる。
 その無限大のカルマの一つ一つが、それぞれ新しい生命を生み出す力を秘めている。」


 ネコも、白鳥も、人間もカルマを持った存在です。
 カルマの大海にいる者同士なのです。
 だから、当山の墓地では、人間もネコも、犬も、同じ敷地内で休めるようにしています。

 私たち一人一人がいかなるカルマをつくるかによって、住む海のありようが変わります。
 この世でも、あの世でも、まっとうに生きたいとは思えませんか?
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.13

意識は死後もある

20131213011123.jpg

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

輪廻には論理性がある

「たしかに、意識や精神というものは、目で確かめたり、計算したりできるものではありません。
 たえずそれと向き合い、検証し、研究し、修行をし、ようやく少しづつわかってくるものです。
 大切なのは、固定観念を持たず、現実に起こっている様々な現象をつぶさに観察することです。
 そして部分をつなぎあわせて全体像を把握することです。」


 仏教はこうやって2500年間、意識と向き合ってきました。
 意識を考え、意識のコントロール法を研究し、深めてきました。

「たとえば、『意識』とひとことで言ってしまいがちですが、細かく分析していくと、そこにはいくつもの段階があることがわかります。
 一番わかりやすいのは、今こうやって話したり、何か活動していたり、考えたりしている時の意識というものです。
 はっきりとした覚醒状態の中で、高度な思考活動を司っています。
 一番表面的でわかりやすいレベルの意識ともいえます。
 一方で、眠っているときにも意識ははたらいています。
 このときの意識の状態は、夢という形で分析することができます。
 不思議なことに、このとき私たちは目でものを見ることはできていないのに、夢の中の私たちの意識の中では『ものが見えている』のです。
 つまり、覚醒の意識とは明らかに違うはたらきをしているということです。
 深い催眠状態や麻酔がかかっているときなどは、意識はどうなっているのでしょうか。
 外部からの刺激にはほとんど反応しませんし、後からはっきりと思い出せるような夢を見ることも少ない。
 このため、その間の意識がどのようなものかはっきりわかっていません。
 しかし、意識がなくなっているかと言えば、それは存在している。
 覚醒状態とは明らかに違う性質の意識が確かにはたらいているのです。」


 こうした研究の成果として、仏教は、科学が把握する数百年も前から意識を「表面の意識」「潜在的な意識」「深層的な意識」と分析し、それぞれとの関わり方も研究してきました。

「それでは、死後に意識はどうなるのか。
 科学的な見解は、人の生命活動が終わった後、意識も失われるというものでしょう。
 でもそれはあくまで、意識は脳細胞のはたらきに過ぎないという仮定の上での話です。
 実際、そのときの意識のありようは、死者以外誰も把握できません。
 科学もまだ意識を解明できていない。
 私たちは、どのような可能性も排除せず、様々な現象を分析しながら論理的に検証しなくてはいけないのです。」


 仏教が死後の意識の存在を否定しないのは、観察と論理的思考によれば否定する根拠がないからであり、妄想や幻想によるものではありません。
 そして、何らかの形で〈在る〉と仮定した方が、論理的に心といのちを考え、それに関わりながら生きて行く道を見つけられるのです。
 日本の仏教学者や仏教教団が〈死後〉を問題にしなくなったのは、たかだか明治以後のことであり、〈死後〉を抜きにした仏教は、世界のごく少数派です。
 現代における仏教哲学の根幹は、意識の重層性を説く唯識(ユイシキ)と、空(クウ)を説く中観(チュウガン)であり、最先端の仏教は必ず二つの思想を基盤にしています。
 精緻に組み立てられた修法の御次第もまた、当然、二つをふまえており、現代の仏教行者は、それをもって修行し、活動しています。

「たとえば、医者からすれば非科学的だと言われそうな次の例も、私はとても興味深く捉えています。
 少し前にあるチベット人の僧侶が、ニュージーランドの病院で亡くなりました。
 心臓は完全に停止し、脳波の反応もなく、病院では完全に死んでいると判断されました。
 ところが体温がいつまでも下がらず、病院から搬送することができなかった。
 さらに数日後には保管していた死体の手が動き、自然と手を組んでいた。
 結局体温は二週間も下がらないままで、医師たちは非常に驚いたそうです。
 この事例は、死んでもなお意識が残る可能性があることを示しているのではないかと思います。
 たとえ臨床的には死亡の診断が出ていたとしても、それは現在の医学が線引きした便宜上の死にすぎません。
 医学的に死亡が宣告されても、意識が生滅したことにはならないのです。


 当山は、平成18年5月17日に脳死から生還した人の実例があることを書きました。
 再々掲しておきます。

「新華社ワシントンや新聞社の報道によると、脳死と判定されてから17時間後に蘇生した人がいます。
 ウェストバージニア州に住むビルマ・トーマスさん(59歳)は5月17日に心臓発作を起こし、地域医療センターへ搬送されましたが、すでに心肺停止状態になっており、低温治療などによって心臓は動き出したものの、17時間にわたって脳波がなく、やがて心拍が消え、血圧もゼロになったので医師は死亡と判断しました。
 そして、家族の同意を得た上で生命維持装置が外され、家族は葬儀の準備のために病室を離れ、医師は、臓器提供の意思を示していたビルマさんの身体から臓器を摘出するための準備にとりかかりました。
 医師が呼吸器を外してから約10分後、看護師たちが肺へ空気を送る管を取り外そうとした瞬間、トーマスさんの目が開き、手も動き出しました。
 医師も看護師も卒倒しかけたほど驚いたそうです。
 
 やがてトーマスさんは『息子はどこ?』と尋ね、急いで病院へかけもどった息子ティムさんは、まるで朝に目覚めたばかりの人のようにベッドで寝ている母親を見て仰天しました。
 彼はこう語っています。
『僕達はずっと病院で、母が意識を回復するよう祈っていたんだ。
 でも、母の心臓は止まってしまい、身体も次第に硬直していった。
 僕達家族も、牧師さんも、先生も、みんな人工呼吸器を外すことに同意したよ』
 トーマスさんは後遺症もなく全快へ向かい、『数日前よりずいぶん気分は良くなりました』と話す様子がトーク番組で報道されました。
 担当医ケビン・エレグストン医師の話です。
『世の中には医者や看護師が説明できない現象が時として起こるが、今回もそのひとつだと思う』

 これを奇跡と呼ぶかどうかは別として、生と死には私たちの知らない領域がまだまだあるのだということを肝に銘じておきたいものです。
 もしも、臓器を取り出す作業にとりかかってから目覚めたならどうなっていたでしょうか。
 想像するだに恐ろしいことです。
 たった一件でもこうした事例がある以上、『人間が蘇生する可能性』は現在の医学で判断できるレベルよりはるかに大きいことが明白になったと言わざるを得ません。
 脳死を人間の死とする考え方や、より〈生きの良い〉臓器を取り出そうとする姿勢は仕切り直しが求められます。」






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.13

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第146回)人のいなくなった風景─

201312110012
〈アサヒカメラさんからお借りして加工しました〉

 12月12日付の産経新聞は、原発事故で立ち入りが制限されている周辺地域を撮影した写真家山本剛士氏(28才)が第9回名取洋之助写真賞を受賞したと伝えた。
 作品は、福島県南相馬市、楢葉町、飯舘村などで撮ったモノクロ30点『黙殺黙止~福島の消えた歳月~』である。
 氏は言う。
「震災から時間がたち、人々の関心が薄れていく中、福島が今どういう状況にあるのかを時代の記録として残したかった。
 人がいなくなった風景から何かを感じてもらいたい」
 選考委員鎌田慧氏の評である。
「(この地域は)やがて地図の上から消えていくかも知れない。
 その怒りと哀惜の情が、一枚ごとの写真をつないでいる」
 来年早々には、仙台市での作品展示も検討されているという。

2013121100123

 人がいた地域から人がいなくなるというのは、〈あり得ない空間〉が生じるということである。
 最初に訪ねた陸前高田市をはじめ、被災した地域で眼にする光景はまるでダリの絵のように非現実的だった。
 人知れず、そうした地域で祈っていると、自分の居場所がわからなくなるような気がする。

2013121100124

 12月14日(土)午後1時30分から行う恒例の寺子屋では、原発事故で全町避難となった福島県富岡町の『語り部』さんなど5人がご来山され、お話をお聴かせいただくことになっている。
 ぜひ、多くの方々に現実を知っていただきたい。

20131211125

 来春、仙台市で行われる『黙殺黙止~福島の消えた歳月~』の展示会を神妙に待ちたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.12

手を携える宗教と科学 ─ダライ・ラマ法王と茂木健一郎氏─

2013121100001
〈十一面観音様の大笑面〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

科学精神を捉えられていない

「ここまで、をどのように整え鍛えるかについて、仏教の教えに基づいて説明してきました。
 しかし、自分は仏教徒でないから関係ない、非科学的だ、そう思われる方がいるかもしれません。」

「これほど科学が進歩した今でも、解明できないことがまだたくさんあります。
 最先端の技術や知識をもってしても、発見できない現象や説明できない現象が山のようにあるのです。」

「私たち仏教徒ははるか昔より、精神のはたらきや意識のありようを考えてきました。
 たくさんの人間がこれを研究し、議論し、実践し、少しでも真理に近づこうと多くの時間が費やされました。
 数多くの経典やテキストが書かれ、仏教徒たちがこれを日々勉強しています。
 これまでお話ししてきた空の本質や精神を高める方法も、こうしたプロセスの末にあみだされたものです。」

「この分野に関しては、たとえ最先端の科学でも、私たちほど追究や解明ができていないのではないでしょうか。
 科学者よりも仏教の学者のほうが、教えられること、知っていることが多いかもしれません。
 実際に一部の科学者たちは、仏教のことを『の科学』と呼んでいます。」


 ご縁となった科学者の方々とお話をすると、どなたも、当山の教えや修法について非科学的であるとは言われません。
 当山もまた、科学が発見した真理や、病気の治療など問題解決の科学的方法を尊びこそすれ、宗教のみが救済の担い手だなどと思い上がりはしません。
 ある時、密教の研究会で提案しました。
「密教をめざす行者の総合的学習方法の一つへ物理学の勉強を入れてはいかがでしょうか?
 理学の勉強も欠かせないはずです。
 これからの宗教は、科学的思考法や科学的知識もある程度、持ちながら深めてゆくべきではないでしょうか?」
 私たち行者自身が『なぜ』という根元的問いを発し、自分なりの納得と世間様に通用する説得力を得ていなければ、救いを求める方々が抱えておられる問題の本質を見極められず、確信を持った法話も修法もできません。
 そのためには知性と感性のすべてを動員し、あらゆる視点から世界を観て人の世を知り、人のを知らねばなりません。
 現実を総合的につかまえられなければ世間様や他人様の苦のありようはわかり得ず、法話も修法も充分に役立たないのは、診察ができなければ治療ができないのと同じです。
 それに、普通の生活をしている方々は、科学的思考法に慣れ、科学的知識はたくさん持っておられても、宗教的思考法に慣れておられないのはもちろん、宗教的知識もあまり持っておられず、科学をふまえた対応は欠かせません。
 宗教者が科学を忌避したり無視したりしたままでは、社会的役割を果たしきれないのです。
 その点、宗教と科学が手を携え、私たちが苦から脱し世界の平和をめざすべきであると主張し、積極的に科学者と交わっておられるダライ・ラマ法王は、現代宗教の旗手というべきではないでしょうか。

○脳科学者たちも意識が何かわからない

 脳科学者の茂木健一郎氏は、ダライ・ラマ法王へ質問されたそうです。

「実はわれわれ脳科学者はとても大きな問題を抱えています。
 それは『意識』の問題です。
 科学者はこれを全然解明できていないんです。
 たとえば、私たちはいま光を感じたり、音を感じたり、あるいは体のだるさや疲れを感じたりしています。
 この現象を科学的に解明すると、脳内にある約百億個の神経細胞やニューロンが外部刺激に反応している、ということになるでしょう。
 でも、この解釈に従うと、いわゆる『意識』というものは存在していないことになります。
 脳のシステムは大変複雑ですが、意識はどこにも見当たらない。
 神経細胞の内部はさらにたくさんの分子で構成されていますが、この一つ一つを取り出したところで、どこにも意識は発見できないのです。」


 仏典『ミリンダ王の問い』が思い出されます。
 在家の行者であるナーガセーナ長老は、ミリンダ王との問答の中で、髪や歯や血液や脳髄など、どれもが「ナーガセーナ」そのものではないと指摘します。
 さらに、車軸や車輪や車台なども「車」そのものではないと例示し、さまざまなものが依存し合って成立する関係性のあるところにしか「ナーガセーナ」も「車」もないことを説きます。
 意識も又、同様に、五蘊(ゴウン…感受作用や認識作用など5つのはたらき)がかりそめに和合し、危うく成立しているものであることは、仏教の行者や聖者によって把握されています。

 茂木健一郎氏は続けます。

「たしかに二十一世紀は、科学の力をもって脳を全て解明できると思っていました。
 脳の分子の動きをコンピューターでシミュレーションすれば、意志や感情といった問題もすべて理解できる、そう信じられてきたのです。
 ところが現在、最先端の科学をもってしても、『意識』について全然解明できていない。
『意識を持つとはどういうことか』『意識は存在しているのか』、これをどう説明するべきか、どう調べていいのか、見当すらつかない。
 全くの無力なんです。
 科学的な見地、科学者の立場で言えば、もはや意識は『存在してはいけないもの』なのです。」


 この「意識は『存在してはいけないもの』」という部分は重要です。
 それは、科学を絶対視する方々は、〈前世〉も、〈輪廻転生する何ものか〉も、そうして『無いもの』としてきたからです。
 一方、仏教行者たちは、それらなくして自分のも、この世も成り立たないと感じ、考え、信じてきました。
 しかし、明治以後の日本においては、学者は別として、仏教徒や仏教教団ですら、科学に傾斜しすぎる姿勢によって、こうした重要な問題と正面から向き合わないできた傾向があり、一行者としてはとても残念に思っています。

 茂木健一郎氏は続けます。

「私は北米神経科学学会に参加していますが、そこにいる三万人以上の脳科学者も、みな意識についてはうまく説明がつかないでしょう。
 とはいえ、私たち自身も『意識はある』と認識しています。
 意識については、これから一番真剣に考えなければいけないことの一つだと考えています。
 一方で仏教の方々は、長い伝統の中でずっと意識の研究を重ねています。
 そこで、仏教では意識をどのようなものと捉えているか、ぜひお伺いしたい。」


 この先にこそ、仏教の存在理由が明かされます。
 盲信や狂信ではなく、ものの道理を柱とした普遍的宗教であることが示されます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2013
12.11

動物愛護に熱心な方がタヌキを撥(ハ)ねた時 ─閉じこもる心を開いてくださるお地蔵様─

20131209001 (7)
〈故山下清画伯の作品〉

 仙北の町に住む篤信のAさんが浮かぬ顔で人生相談へご来山されました。
「──タヌキを撥(ハ)ねてしまいました。
 ご供養をお願いします」
 このあたりは何か出そうだなと気をつけながら走っていたのに、突然、ライトの中へ飛び出したタヌキを避けきれなかったと肩を落とし、涙ぐんでおられます。
 Aさんは常々、生きものを大切にする気持が強く、巣から落ちたカラスの子を助けたり、大震災の後は、ひっそりと救援活動を行ったりしておられました。
 それだけに、「どうして(私が)撥ねてしまったのか……」という思いから抜け出られなくなってしまいました。

 申しあげました。
「ここはお地蔵様のご加護ですね。
 お地蔵様は、人間でも動物でも、早く逝った〈子〉へ、特にはっきりと安心をお与えくださるみ仏です。
 当山が頻繁に唱えるお経にこういう部分があります。
 我が子を失ったことだけをいつまでも悲しんでいる親の利己主義因縁となり、亡くなった子が三途の川で鬼に襲われる場合があります。
 その時、お地蔵様が身代わりになってお救いくださるのです。
 我が子を失った強い悲しみは何にも増して強いものですが、経典はこう説きます。
『あなたと同じようにこの世で苦しい思いをしている人々に目を向け、あなた自身が地蔵となったつもりで励みなさい。
 そうすれば、この世で苦しむ人々も、あの世の〈子〉も、そしてあなた自身も救われることでしょう』
 さあ、ご供養しますよ」

 修法が終わり、肩を震わせているAさんへお地蔵様の御守をお渡ししながら申しあげました。
「どうしても辛い時は、この御守を手にして、お地蔵様の真言『オンカカカビサンマエイソワカ』をお唱えください。
 小さな声でも、心でだけでも、結構です。
 Aさんのお心は必ず晴れます。
 いつか、同じように辛い思いを抱き、苦しんでいる方に出会った時は、ぜひ、お地蔵様のことを話してあげてください。
 今、Aさんは、大きな役割を得ました。
 いつも生きものたちへ目を向け、手をかけ、大切にしていたからこそ、このできごとが深い大きな重しとしてのしかかってきたのです。
 生きものへあまり関心のない人ならば、生きものを撥ねても知らん顔で通り過ぎ、たちまち忘れてしまうかも知れません。
 Aさんだからこそ、できごとの重大さが胸に迫り、こうしてお地蔵様のご加護を得られました。
 どうして私が……という耐えきれない気持はわかりますが、み仏は、必ず立ち直れ、辛い体験によって動物愛護する心がさらに大きなパワーとなるAさんだからこそ、こうした因縁をつくられたのだと思います。
 私も日々、お地蔵様へ祈っています。
 信じて進みましょう」

 手を合わせて挨拶する目の上瞼が少し上がり、車へ向かう足どりも心なしか力強くなったように見えました。
 菩薩(ボサツ)へとまた一歩、向かわれたAさんを合掌でお送りしました。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.10

第四十七回寺子屋『法楽館』─福島県富岡町における原発事故の被害と現状について─

20131209001 (4)
〈故山下清画伯の陶器です〉

 東日本大震災から1000日が過ぎました。
 直接的被害者としての死者は1万5883人、いまだ行方不明となったままの方々は2651人おられます。
 そして、仮設住宅や借り上げ住宅での避難生活をしておられる方々は、27万7609人と発表されました。
 そのうち22万7119人は東北地方にとどまっておられます。
 また、避難に伴う体調の悪化などで亡くなられた東北の震災関連死は岩手・宮城・山形・福島4県で2888人です。
 しかし、仮設住宅で暮らしておられる方々のお話をお聴きすると、壁一枚で隔てられているお隣さんの生活音などによって心身に変調をきたす方々や、急ごしらえのコミュニティで生じる対人関係のトラブルに悩む方々は膨大におられ、そうしたことごとが間接的原因となって亡くなられた方々の数は数え切れないだろうということです。

 いとうせいこう著『想像ラジオ』は書きました。

「死者と共にこの国を作り直して行くしかないのに、まるで何もなかったように事態にフタをしていく僕らはなんなんだ。
 この国はどうなっちゃったんだ」

「~東京大空襲の時も、~広島への原爆投下の時も、長崎の時も、他の多くの災害の時も、僕らは死者と手を携えて前に進んできたんじゃないか。
 しかし、いつからかこの国は死者を抱きしめていることが出来なくなった。
 それはなぜか?」

「声を聴かなくなったんだと思う」

「亡くなった人はこの世にいない。
 すぐに忘れられて自分の人生を生きるべきだ。
 まったくそうだ。
 いつまでもとらわれていたら生き残った人の時間も奪われてしまう。
 でも、本当にそれだけが正しい道だろうか。
 亡くなった人の声に時間をかけて耳を傾けて悲しんで悼んで、同時に少しづつ前に歩くんじゃないのか。
 死者と共に」


 当山も、12月1日の河北新報へ「鎮魂への道」を書きました。

「千は仏教的に無限を意味するが、被災した方々の現実を見ると、無限の日々がたったどころか、未曾有の天災と人災の発生はついこの間の出来事であるかのようである。
 国家的復興の道筋はいまだ明らかにならず、災厄の爪痕は打ち棄てられた公園にも、雑草に囲まれつつある寺院の土台や崩れたままの墓地にも、生々しく残ったままである。
 古里から切り離されて全国へ散った膨大な数の人々は不条理に心身を傷めながら、未来の見えない不安な日々を過ごし、多くの被災地では具体的な未来像が描けていない。
 津波や地震でよりどころを破壊された無数の御霊方はさまよったままである。
 そして、事故を起こした原発は、途方もない人力や経費が費やされているにもかかわらず汚染水を発生させ続け、実態の不可知を突きつけてくる。
 一方、復興のための予算が全国の至る所で不適切としか思えない使われ方をしていた。
 誰がいかなる責任をとったかすら明確にされないまま、今度は超党派の国会議員がきらきらしいカジノ構想を打ち出す状況は、身震いしつつ文明の転換点に立つ思いの一宗教者として耐え難い。
 犠牲者となった方々への鎮魂の思いはもう消えたのか?
 不意の災いによって苦しみのふちへ落とされた方々は、進む文明の光の陰でひっそりと耐えてゆくしかないのか?」

「確かに私たちは癒されなければなかなか立ち直れず、立ち上がらなければ御霊を心配させてしまうだろうと考える。
 癒やしは共感に激励が加わって成り立つ。
 哀しみ・寂しさ・つらさに共感してくれる誰か、そして力強い言葉で、あるいは無言で励ましてくれる誰かによって私たちは力をよみがえらせ再び歩み始める。
 その歩みは、たとえ苦しい感情は消えても死者と共にいるという〈何ごとか〉によって揺るぎないものとなる。」

「死者とつながる心が失われれば倫理の根は枯れ、文化の華にはすぐにあせる軽薄な色と、刺激的でもすぐに飽きる香りしか伴なわない。
 喪に服す慎みを心に保ち、真の意味で麗しく、徳の香りが漂う死者へ恥ずかしくない日本を皆の手で一歩一歩とつくってゆく以外、鎮魂と慰霊と謝恩の道はないように思う。」


 こうした思いを込め、今月の寺子屋法楽館』では、原発事故によって全町避難となり、今、現在、避難生活をしておられる方々と、そのケアに日々を過ごす方の生の声をお聴かせいただきます。
 一人でも多くの方々に現実を知っていただきたいと願ってやみません。 
 
・講  師 福島県富岡町社会福祉協議会『おだがいさまセンター』アドバイザー青木淑子(ヨシコ)先生と「語り部」の方々総勢5名様
・日  時 12月14日(日)午後1時30分~3時30分 ※毎月第一日曜日に開催します。
・場  所 法楽寺講堂(イステーブルの席あり)
・参加費 1000円(中学生以下は500円)
・送  迎 午後1時に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.09

学び、自分の心と向き合う ─自分が変わるしか、根本的な救いはない─

2013120900001.jpg

 ダライ・ラマ法王は、僧侶にも在家の方々へも警鐘を鳴らされました。

僧侶への警鐘

「きちんとした勉強と瞑想があわさって初めて価値があるのです。
 この時初めて仏教を実践し、高め、守ることができるでしょう。」
「師の教えが何を意味しているのか理解したり、自分で検証したり、ときにはそれに疑問を持ったりするには、当然一般的な仏教の基礎をきちんと知らなくてはいけないのです。」


 修行を始めた頃、師の言葉のほとんどが新鮮でした。
 学生時代から仏教書は結構読んでいましたが、実際に仏教を生きておられる方の口から出る言葉は、力も奥行きも広がりも、まったく違うのです。
 だから、教えていただいたことごとへの質問が途切れはしませんでした。
 そして、ただの一つも、回答をいただけない質問はありませんでした。
 教えはまさしく、器から器へ移すように伝えられるのです。
 仏法を生きておられる師の身体から、言葉から、心から滲み出る仏法が弟子の身体と言葉と心へ浸透し、法力もまた、徐々に受け継がれます。

「残念ながら、経典をお寺の戸棚に飾ったままだったり、経典自体を崇めたりしているような方々がいます。
 そうでなく教科書のように普段から手に取り、毎日それを読むこと。
 そこから少しづつでも何かを学び取ること。
 それが大事なことなのです。」


 師は、「困った時は経典へ逃げ込め、娑婆へ逃げ込んではならない」と説かれました。
 娑婆でさんざんやらかしてから出家した私のような者は、娑婆でのやりくり法が習い性になっています。
 そこから抜け出ない限り、まっとうな行者になれはしません。
 うまくやろうとする知恵を離れ、問題を根本から解決するためには、み仏のお智慧におすがりするしかありません。
 しかし、経典は温かく包んでくれる愛に満ちてなどいません。
 説かれているのは超ハイレベルな行者の仏性が全開し、そこでつかんだ真理・真実が奇跡的に表現された異次元の世界なので当然です。
 言葉も日常生活の世界を映すものではないのでなじみが薄く、凡夫が敬遠しがちなのもまた当然です。
 それでも、み仏にお仕えしながら生きると決めたプロとしては、手強いからといって敬遠すれば、救いはなくなります。
 経典を読み、血肉にするのは、清浄な泉の水を飲むのと同じです。
 飲まずに飲んだようなことを言って生きようとすれば行者としては欺瞞であり、怠慢であり、やがてはごまかすための我慢(ガマン…自我にこだわる意識がもたらす慢心)も頭をもたげ、失格です。
 いかに恐ろしく澄んでいても、いかに舌を切りそうな冷たさであっても、飲まねばなりません。
 必死に飲み、味わった甘露のもたらす感激は心身の滋養となり、行者を生かし育てるエネルギーとなります。
 そうして育てていただけばこそ、行者は心力と智力と法力が身に付き、本ものの僧侶になれます。
 心力とは、思いやりから発する力です。
 智力とは、ものごとを本質から見極め、対処する力です。
 法力とは、み仏の世界へ入り、現象世界へ影響を与及ぼす力です。

○在家の方々への警鐘

「お寺でお祈りしたりお願いごとをしたりするだけの方がいますが、それだけであなたの願いは成し遂げられません。
 たしかに仏教徒は『三宝へ帰依する者』と言われるように、仏や僧に帰依する者という考え方もあります。
 もちろんその存在によって、心が穏やかになったり、慈悲を高めたりするきっかけになれば、それはそれでいいことです。
 しかし、仏像僧侶もあなたを救ってくれるわけではありません。
 あなた自身が自分の心と向きあわなくてはならない。」


 仏像を眺めて心が静まり、僧侶の話を聞いてホッとされればそれはそれで価値ある時間でしょうが、身を捩(ヨジ)るような問題、頭をかきむしりたくなるような問題、いっそ死にたくなるような問題を解決するためには、三力(サンリキ)が必要です。
 一つは、仏心へ祈る謙虚な心による異次元世界との感応、一つは、周囲の縁の力、もう一つは、自分自身の努力です。
 三番目の〈努力〉の中に「自分の心と向き合う」ことが含まれます。
 これがないと、同じ苦境に何度も立たねばなりません。
 それは、せっかく目先の困難を乗り切っても、自分が根本から変わっていないからです。
 思考パターンや行動パターンとして表れる過去の因縁から脱していないからです。

 自分を変えたい時、寺院を訪ねるのが無駄とは限りません。
 仏像僧侶そのものに救ってもらえなくても、合掌してぬかづく仏像に感じとるみ仏のお慈悲やお力も、自分自身の心といつも向き合っている僧侶の口から発せられる言葉も、訪ねる方が自分自身の心と知らぬ間に向き合うきっかけになっているかも知れないからです。
 だから、漫然と名所を観光をするだけではなく、有名人の説を楽しむだけではなく、問題意識を持っておでかけになられてはいかがでしょうか。

 ある時、少女とお母さんが人生相談にご来山されました。
 いじめがあったらしく、少女の足が学校へ向きにくくなってしまったのです。
 少女は東日本大震災の被災地を見ていました。
 同じ光景を話題にして対話しました。
 すべては変わる、必ず変わる、変わらないものはない。
 托鉢時代の私を支えてくれた町や村や人々や家がなくなり、未だに信じがたい気持はあるが、2年以上かかって少しづつ、心がおさまり、一方で感謝が深まっている。
 誰かの邪慳な心も、自分の悲しみや憎しみや恐れも、季節が巡るように、永遠には続かない。
 ただし、お母さんの愛情や親友の友情など、変わりにくく、信頼できるものもある。
 少女の心には、変わりやすく感じられる何があり、変わりにくく感じられる何があるか。
 そんな話をしました。
 少女の目はこちらへ向かいつつ、心は徐々に、自分の内奧へと向かっているように思えました。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2013
12.08

苦から離れるための道具は二つ(その2) ─空の智慧に生きる─

2013120800001

ダライ・ラマ法王は説かれました。

「大乗仏教や密教では、悟りの境地に達するには二つのものが必要だと考えます。
 一つは動機となる『菩提心(ボダイシン)』を持つこと。
 そしてもう一つは『(クウ)の智慧』を持つことです。」


 前回の『菩提心』に続き、今回は『智慧』を考えてみましょう。

智慧

「『』をただの知識として知っているだけではいけません。
 これを自分の中で理解し、自分がそれに『同化』してこそ智慧を得たといえるのです。」


 知識として知ってから同化するまでのプロセスが「聞(モン)・思(シ)・修(シュ)」の「三慧(サンネ)」です。

1 聞慧(モンエ)

「まずは仏教の教えを知る。
 つまり『実体にとらわれれいること』『無我であること』『ものの本質はであること』をまずはきちんと学ぶのです。」


 こんなふうに考えて、終わりにしてはいませんか?
 ──はとらわれないこと。
 ──般若心経の色即是空(シキソクゼクウ)は、モノと心が一つであること。
 いずれも強い乱視で経典を眺めているという感じです。
 ダライ・ラマ法王の説かれる「きちんと」をよく考えてみたいものです。

2 思慧(シエ)

「この知識を自分の中で考えぬくことが『思』の段階です。
 ただ知識を得るのではなく、繰り返し繰り返し自問自答し、完全に理解し確信する必要があるのです。
 釈尊の説くことでさえ疑い確かめ、あくまで自分の知性と実感で理解することが大切です。」


 まっとうな宗教は、決して思考停止へと追い込みません。
 誰からか「あのAが言ったのだから信じなさい」と頭ごなしに言われたならば、思考停止を迫られるのは精神の危険と察して、早々に遠ざかる方が無難というものです。
 私たちの心身の力が、お互いにぶつかり合い傷つけ合うことなく最大限に発揮されるよう、至高の智慧と慈悲を兼ね備えた聖者が霊性そのものになって説かれたのが宗教です。
 だから、それは当然、私たちの持つ智慧と慈悲を人生のいかなる時においても、所においても、最大限に発揮させるものであり、自分で考えることを抑えたり、思いやりをかける相手を制限したりすることはあり得ません。

 ダライ・ラマ法王の説かれる「釈尊の説くことでさえ疑い確かめ」は、意外でも何でもなく、仏教においては当然と言うのみです。
 また、頭で「そうか」とわかっただけでなく、実感が伴って初めて理解に達したと言えるのです。
 お大師様は、般若心経を読み解いた『般若心経秘鍵』に書かれました。

「風葉(フウヨウ)に因縁を知る」


 風に吹かれながら舞い落ちる木の葉を観て、ものごとはすべて因と縁による結果として生じているという道理が深く納得できるようになります。

「露花(ロカ)に種子(シュシ)を除く」


 朝陽を浴びた露が消え、盛りを過ぎた花が枯れ萎むのを観て、心に巣くっていた煩悩の種が離れてゆきます。
 このように、見聞きするものがすべて空の真実を告げていることを感得できるようになるまで、理解を深めたいものです。

3 修慧(シュエ)

「こうして確信を得たら、瞑想によってそれを自分自身になじませ同化する。」
「少しづつ長い時間をかけて『空の智慧』が本当になじんだとき、ついにとらわれから自由になり、実体なきものに動揺することはなくなり、心は常に穏やかでいられるでしょう。」
「この修行で必要なのは、穏やかで静かな心と深い洞察力です。」


 瞑想においてはまず、どこへ心を定めるかが決まっていなければなりません。
 そうして初めて、心を静める「止(シ)」と洞察力である「観(カン)」が深まり、空の智慧が文字どおり血肉となってゆきます。

「知識のないまま瞑想をしても意味はなく、悟りに近づくことすらできません。
 きちんとした勉強と瞑想が合わさって初めて価値があるのです。」


 中年で無一文になってから仏道へ入った私は、凝縮した時間の中で「聞」と「思」を進め、「修」は、ありとあらゆるところで行いながらここまで来ました。
 運転して目的地へ着き、3分の余裕があれば、それは貴重な「修」の時間です。
 風呂へ入り、息を鎮める3分間も同じです。
 こうした体験から、僧侶を目指す若い方々へは、早く決断し、余裕をもって「聞」と「思」に励み、しっかりと「修」を積み上げて行って欲しいと願っています。
 ご年配の方々へは、「暇になったから寺にでも入る」は危険ですよと申しあげています。
 寺に入って座れば悟れるわけではありません。
 最も肝腎なのは、きちんとした「聞」と継続する「思」であり、それは必ず生きる方向の修正をもたらします。
 その上で、プロとしてさらに他人様のために役立ちたいという思いが深まり、どうしても「修」の完成を目指したいというのなら寺へ入る選択肢にも意味があります。

 上記のとおり、三慧はすべての人々へ開かれています。
 寺院の中でだけ実践できるものではなく、志さえあればいつでも、どこでもできる修行です。

 生前戒名を受けるのは、生き直しをし、はっきりと三慧の道へ進む有力な方法です。
 仏法の根幹である「空の智慧」がより多くの方々と共有できるよう、この世の苦しみや争いがその根から取り除かれるよう、願ってやみません。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.07

苦から離れるための道具は二つ ─他のために煩悩を脱しようと願う心─

2013120700001

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

大乗仏教密教では、悟りの境地に達するには二つのものが必要だと考えます。
 一つは動機となる『菩提心(ボダイシン)』を持つこと。
 そしてもう一つは『(クウ)の智慧』を持つことです。」


菩提心

 菩提心とは「煩悩(ボンノウ)を断滅し、輪廻(リンネ)から抜け出して悟りの境地へ達したいと願う動機」です。
 自分が抱えている〈ままならなさ〉を何とかしたいと切に願い、謙虚に、思慮深く自分自身を省みる気持がなければ、自分の苦も、この世の苦も解決に向かいはしません。
 消し去られない焚き火が埋もれ火となり、常に周囲を燃やす機会をうかがっているのと同じように、苦の大元である煩悩を処置しない限りすべてはその場しのぎでしかなく、自他にまといつく四苦八苦から抜け出すことはできません。

 しかし、菩提心にはもう一つ、欠かせない要件があります。
 それは「自分だけでなく、命あるもの全てを救いたい、全ての苦を取り除きたいと思うことこそ『菩提心』なのです。」
 法王は「自分だけ救われればいい、自分だけ苦から脱出できればいいというのでは煩悩の域を出ません。」と説かれます。

 芥川龍之介の小説『蜘蛛の糸』はそれを明らかに示しています。
 深い地獄の底にいるカンダタは、哀れとおぼしめしたお釈迦様のお慈悲によって垂らされた糸にすがりつきます。
 お釈迦様は、かつて、カンダタが道をはっている蜘蛛を踏みつけようとし、思い直して助けたことを知っておられたのです。
 しかし、カンダタは、自分の後から無数の亡者たちが同じ糸にすがり、はい上がってくるのを見て糸が切れるのではないかと恐れ、叫びます。
「こら、罪人ども。
 この蜘蛛の糸は己(オレ)のものだぞ。
 おまえたちはいったいだれにきいて、のぼってきた。
 おりろ。
 おりろ」
 その瞬間、糸は切れました。
 カンダタはそもそも、殺人、放火まで行った大泥棒でした。
 それを忘れて、他の罪人へ「こら!」と言います。
 私たちはどうでしょう。
 自分がやってきたこと、やっていることを忘れて他を誹謗することにばかり励んではいないでしょうか?
 また、自分が手にしているものを、〈自分だけの力〉で得た〈自分だけのもの〉と勘違いし、「己(オレ)のものだぞ」と肘を張ってはいないでしょうか。
 カンダタが、「己(オレ)のものだぞ。おまえたちはいったいだれにきいて、のぼってきた。」と喚いたように。
 食べものをはじめ、ありとあらゆるものは天地自然のお恵みであり、社会からのお恵みです。
 自分自身が自然の一部であり、社会によって生かされているという真実が観えていれば、得るための自分の汗も又、〈おかげさま〉と流させていただいていることに気づくはずです。

 一年間の激闘を制し、あれだけのはたらきをしたプロ野球楽天の田中将大選手をはじめ、選手も監督も皆、ファンなどの〈おかげ〉と感謝しました。
 名医ほど、患者さんの自己快癒力を大とし、自分の力を小とする謙虚な心を持っておられるものです。
 また、カンダタが、恫喝して糸を独占しようとしたように、他を蹴落とし、得たものを自分だけのものにしようとしてはいないでしょうか。
 この心を邪慳(ジャケン)といい、慳貪(ケンドン)といいます。
 権力であれ、財力であれ、何であれ、人は持っているから偉いのでも尊いのでもなく、必要としている人々へ与え、手放すことができて初めて偉く、尊い存在になります。

「もともと『大乗(ダイジョウ)』は、他者を救うために仏陀を目指して修行する人の仏教です。」


 私たちは仏教に関心を持ち、お寺巡りをし、四国八十八霊場へでかけたりもしますが、そもそも「他者を救うため」という気持はどれだけありましょうか。
 お寺巡りをする時間やお金や体力がなくても、誰かのためになりたいと願い、自分ができることをする人は、智慧がはたらき、布施(フセ)をおこなっているので、立派な仏教行者と言えます。
 こうした智慧は、灯明のようなみ仏の智慧であり、布施は、菩薩をめざす修行の第一番目に挙げられている水のようにわけへだてなく他を潤すみ仏の心だからです。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2013
12.06

産まれる現場の神々しさ

2013120613.jpg

 もはや大雪(タイセツ)とも思えぬ穏やかな陽射しの中、ご縁があり、久方ぶりに産婦人科を訪ねました。
 自動ドアを通る時に感じた空気の柔らかさ、そして院内にいる人々の和やかさには、気持がふうっと溶ける思いです。
 看護婦さんたちの目には等しく希望しか宿っておらず、あちこちのイスに憩う若い女性たちの声は密やかな喜びを含み、赤ん坊を抱きながらゆっくり歩く母子の姿は慈母観音を思わせます。

 明るい廊下に面したドアの向こうから突然上がる「おぎゃあ」の叫び。
 緊張の面持ちで待っていた家族の顔が一瞬にして緩み、カメラを手にしたお兄ちゃんになる少年が最初に駆け寄り、耳を澄ませます。
 続いて驚くほど大きな赤ん坊の泣き声が続き、イスから立ち上がった家族は口々に「生まれた!」「よかった!]と短い言葉を交わします。

 やがて、キャスター付きのベッドで横になった母親の腕に抱かれた赤ん坊が姿を現しました。
 息をする以外、自分では何もできず、いのちを伸ばす未来だけを持った赤ん坊。
 おそらく、人生で最も安心に満ちた時間を過ごしている赤児のあまりの神々しさには圧倒される思いです。
 四苦八苦の最初にある生苦(ショウク)の関門を脱したばかりの安寧は、いかに深いことでしょうか。
 生苦とは、胎内で過ごす時期の苦しみや、出産時の苦しみを指します。
 誕生直後に発する泣き声の激しさには、肺呼吸に切り替わる辛さが表れているのだと聞いたことがあります。

 それにしても、自分では何もできない赤ん坊は、周囲の人々へ半強制的に手を出させます。
 別にそうしたい意志があるわけでもないのに、人々は自然にそうさせられます。
 自由意志による主張や懇請や強制などとまったく無縁に、周囲を動かします。
 これが尊厳というものの力なのでしょうか。
 そうすると、お釈迦様に会った人々が皆、何かを差し出したとされるのは、そうさせずにはおかない聖性がいかに輝いていたかを示すのでしょうか。
 ならば、火のついたように泣いてから落ちついた赤ん坊の安寧は、み仏の世界の安寧につながっているのでしょうか。

 真剣勝負を終え、笑顔で報告する医師や看護婦さんへ合掌したところ、合掌を返され、声を出して笑い合いました。
 四苦八苦に襲われ、業火(ゴウカ)に焼かれている方々と膝を交えて過ごし、己の業苦とも向き合う時間の長い身としては、極楽にいるような時間でした。
 実に、人のいのちは、産む母のいのちから雫のようにこの世へ滴(シタタ)った一滴として生まれ、人生という流れを創ります。
 そうした泉の神々しさに浸(ヒタ)る贅沢で感謝に満ちたひとときでした。
 ご本尊様からのご褒美に感謝しつつの帰山でした。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。