--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2014
01.31

感じ、文章が生まれる時 ─2月の聖語─

20140131DSC00070.jpg

 お大師様の言葉です。

「文の起り必ず由(ヨシ)あり。
 天朗かなるときはすなわち象を垂れ、人感ずるときはすなわち筆を含む。」 (空海BOTより)


文章が書かれる時には、必ず理由がある。
 空が晴れていれば天文の現象がいろいろと現れるのと同じく、人がものごとに感応する時には、自ずとそれが文章になる)

 お大師様は天賦の才があるので、苦もなくスラスラと文章が出てくるというお話ではありません。
 文章を構成する〈文字〉は、イメージと思考に連なっています。
 だから、私たちが何かに深く感動した時は、の震えに、「何という……」とか、「最高!」とか、「──そうか」など、内心の言葉が自然と、伴ってくるものです。
 そしてペンを取れば文章となり、筆を取れば書となり、絵筆を取れば絵となり、五線紙に書き込めば音楽となります。
 私たちの五官六根、そしてが錆び付いていない限り、天地のはたらきと感応を生じ、世界の彩りを心へ写し取り、堪能できます。

 大切なのは「人感ずるとき」です。
 が何かと共鳴する時に言葉を持っていれば「文の起り」となります。
 その時のために、文章は読まれている必要があります。

 ただし、かつて、五十嵐力はこう記しました。

人間には、通じて昔を尊び強者に屈従するといふ性質があって、古人の言った事だ、先進国の大家の書振だといふと、それが事実に合って居ると否とを問はず、又自分が本当にさう思って居るかも論ぜずして、つい其の古人や先輩の真似をなし、ややもすれば虚偽と思はずして知らず識らず虚偽を云ふといふ事になります。」


 偉い人の言ったことだからといって、ただ、ありがたがっていると、自分が本当にそう思っているかどうかもわからないままに、書いたり、口にしたりするようになる場合があります。
 これは宗教における経典についても同じことが言えます。
 たとえば「書いてあるのだから信じなさい」ほど恐ろしいパターンはありません。
 人間文字を道具として用いるのではなく、文字という道具に支配されるのは、般若心経の説く顚倒(テンドウ…ひっくり返り)でしかありません。
 だから、お釈迦様もダライ・ラマ法王も、いかなる教えであれ、自分の頭で考えて取捨選択せよ、と繰り返し注意しておられます。

 故辺見じゅんの『天涯の紺』最後の2首です。

人間(ジンカン)はなやましきこと多けれど天涯(テンガイ)に桔梗(キチコウ)の紺の風吹く」
「遠きひと近き人など呼びてをりかぐはしきなかあちらの時間」


 そして、「追い書き」の締め括りです。

「あちらの時間は、私の原郷である。
 できれば、こちらの時間にも静謐(セイヒツ)な風が吹いて欲しいと願っている。」


 お大師様の説かれた「文の起こり」、「人感ずるとき」、「筆を含む」とはこういうことではないでしょうか。
 これから、福寿草が咲き、梅がほころんできます。
 感じたいものです。
 たとえ一言でも、自分の言葉が生まれたら、感じとったものが深まり、一段と嬉しいのではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2014
01.31

2月の守本尊様と真言

201401310001.jpg
〈彼らが生きている世界に、私たちも生きている……〉

 2月は、立春(リッシュン)と雨水(ウスイ)の如月(キサラギ…2月4日より3月5日まで)です。
 2月は丑(ウシ)の月なので、守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様です。

21080819 008

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力を与え、行くべき道をお示しくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、四季の廻りが始まる月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は、丑(ウシ)・寅(トラ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあります。
 また、身体では、主として両脚をお守りくださいます。
 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた虚空蔵菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 2月の守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.30

不吉?節理?教訓? ─ローマ法王のハトがカモメやカラスに襲われた光景─

2014013001.jpg

2014013002.jpg

2014013003.jpg

 1月26日、バチカン市国のサンピエトロ広場において、ローマ法王と子供たちが世界平和を願い、真っ白なハトを放ちました。
 ところが、その直後、どこかで待ち構えていたらしいカモメカラスに次々と襲われ、食べられてしまいました。
 このできごとをどう考えればよいのでしょうか?

1 不吉と観る

 報道の多くは、現場にいた人々のほとんどが感じたであろう〈不吉〉を報じている。
 予期せぬ出来事に何ごとかの兆しを感じたり、観たりする感覚は、私たちの多くが持ち合わせている。
 カール・ユングは、意味のある偶然の一致にシンクロニシティ(共時性)と名づけた。
 たとえば、戦死する兵士が家族の夢枕に立つことは珍しくない時代もあった。
 だから、平和の象徴である純白の色をまとったハトたちが、クロやグレーの鳥たちにやられる様子はおぞましく感じられ、「不謹慎な出来事」と評する報道すらあった。

2 自然界の節理と考える

 獲物を食べねば生きられない自然界の生きものたちは、最大の敏感さと効率のよさを持って餌を狙う。
 現場の状況はおそらく、釣りをする際に撒き餌をするようなものだったのだろう。
 ほとんどの人が、そうとは気づかなかっただけである。
 だから、カモメカラスの立場に立ち、「おお、さすが、上出来だ」という見方もできる。
 感情移入や、隠れた意味を読み取ったりしようとするのは、無用の思い込みでしかない。

3 教訓を得る

 ローマ法王、子供たち、白いハトと、平和を祈るお膳立ては調った。
 しかし、無邪気な無知は、いかなる善意にあふれた行動をも悲劇の前奏曲にしかねない。
 いかなる祈りが込められようと、天敵に対抗する術を持たない無防備なハトは、唯々諾々(イイダクダク)と斃(タオ)れてゆく。
 ハト自身は、放たれる前から危機を察知していたかも知れないが、事態を把握していない人間の圧倒的な力のままに、むざむざと〈獲物〉になってしまった。
 もしも、鳥の生態に詳しい関係者がいたならば、誰しもが望まなかったはずのできごとを食い止められたのだろうか?
 教訓や学びの種はたくさんある。

 どうでしょう?
 私たちはこれらのどれかへ特に強く傾き、強い印象が生じれば記憶に留まるはずです。
 まさに人それぞれですが、大切なのは、どれか1つの視点しか持たないのではなく、あと2つあるという意識も消さないでおくことではないでしょうか。
 たとえば(1)にのめり込めば、思い込みが強くなり、やがて、〈お告げ〉を言い、疎まれる怪しい人になりかねません。
 たとえば(2)しかなければ、肩をたたき合うような熱い交流の少ない無味乾燥な人生を送るようになるかも知れません。
 たたえば(3)にばかり走れば、現場感覚が薄く、事実が生き生きした〈真実〉としてなかなか立ち現れないかも知れません。
 宗教と科学と実践的人間学は、いずれも生涯、日常生活の中で学び続けたいものです。
 そして、私たちの周囲に広がっている現象界へ対するバランスの取れた姿勢を保ちたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.29

平成26年2月の行事予定

20140130DSC00076.jpg
〈所用があり、松島水族館へでかけました。津波はペンギンの水槽を越えず、生きものたちは流されませんでしたが地下の電源設備がダメになり、復旧までの道のりは大変でした。西條社長も車ごと津波に呑まれ、ドアを割って脱出、九死に一生を得て、復旧作業の先頭に立たれました〉

20140130DSC00102.jpg

20130130DSC00099.jpg

20140130DSC00127.jpg
〈クリオネやクラゲを眺めているうちに、自分が彼らと同じく生きものの世界の一員であると、深く実感させられました。言葉は通じなくても、思いは通じているように感じられました〉

 立春(リッシュン)と雨水(ウスイ)の如月(キサラギ)に予定している行事です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[春祭厄除千枚護摩祈祷 2013/2/2(日)午後10:00~午前12:00

 厄年とは何でしょうか?
 それは、自然の運行に春夏秋冬などのリズムがあるように、自然の一部である私たちの運気にもリズムがあり、そのうちの〈鍛えられる時期〉に当たる年回りのことです。
 米も、柿も、大根も、天地自然の恵みと試練によっておいしくできあがるのと同じです。

 1才が最初の体験となる「八方塞がり」においては、〈塞がる〉という流れにあって、伸ばしたい手が思う存分伸ばせない虞(オソレ)があります。
 5才が最初の体験となる「前厄」においては、〈明らかになる〉という流れにあって、隠しておきたいものごとが露呈してしまう虞(オソレ)があります。
 6才が最初の体験となる「本厄」においては、〈あるがままに見られない〉という流れにあって、努力どおりの結果が出しにくくなる虞があります。
 7才が最初の体験となる「後厄」においては、〈足枷(カセ)がかかる〉という流れにあって、いつもより時間を要する虞があります。
 9年に1度、必ず廻ってくるこうした試練の時期を無事安全に乗り切り、人間として一段と成長できるよう、その年回りにご守護くださる守本尊様へ祈り、自分の努力と周囲の縁の力に加えて仏神のご加護もいただき、敬虔ですなおな心となって万全を期したいものです。

 もちろん、17才や18才など、運気の盛んな時期も、追い風をいいことに有頂天になれば転んでしまうかも知れません。
 厄年は必ず悪いことが起こり、そうでない年は必ずよいことが起こるわけではありません。
 雨の日には傘を差し、晴れた日には帽子をかぶるように、人生の向かい風や追い風それぞれを上手に生かし、自然の一部としての人間生活をリズムよく過ごしたいものです。

 運気の流れとしての1年は立春から始まります。だから、私たちは必ず「春夏秋冬(シュンカシュウトウ)」と言い「冬春夏秋」とは言いません。
 当山では、立春の到来を前に、千枚の護摩木を焚いて1年間の厄除けを行います。
 千は無限を意味し、厄除け開運のために、それぞれの方の、立春から翌年の節分まで1年間をお守りくださる守本尊様へ最高のまごころを捧げてご供養します。
 運気の強い年回りの方も、弱い年回りの方も、どうぞ、この春夏秋冬をお守りくださる守本尊様をご供養するために、おでかけください。
・日  時 2月2日(日)午前10時~12時
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第一例祭] 2014/2/2(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
※今月は、厄除のご祈祷と同時修法になります

[書道・写経教室] 2014/2/2(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第十一回法楽塾] 2014/2/2(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第四十八回寺子屋法楽館』 ─動物の生活と人間の生活─] 2月8日(土)午後1:30~3:30

 私たちの生活とペットとの距離は急速に縮まり、イヌもネコもウサギも今や、〈家族〉として暮らしています。
 亡くなればご葬儀や供養を行い、当山では、人間と同じ墓所内にペット用のお墓を造る方が増えました。
 こうした時代になり、警察犬や家庭犬と正面から向き合い、訓練し、人間も犬も〈共生する者〉としてのふるまいを身につける訓練士のお話には気づかされる面が多々あります。

 講師を務めてくださる高橋順子氏は、第二回寺子屋でもお話をお聴かせいただきました。
 当時はまだ修行中でしたが、今は責任者として更にいっそう活躍しておられ、乞う、ご期待です。

 また当日は、最初の30分間、いつもの『四十二章経』ではなく、「厄年の過ごし方」と題して、住職が厄年や八方塞がりについてわかりやすい法話を行います。
 そして、最後の30分は自由な質疑応答を行います。
 参加は自由です。
 どうぞふるってご参加ください。
・講  師 犬訓練士高橋順子氏(イズミハシモト警察犬・家庭犬訓練所所長)
・日  時 毎月第二土曜日に開催します
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


[第二例祭] 2013/2/15(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 願いをかける護摩木は一本三百円。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。


お焚きあげ 2013/2/22(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』作り] 2013/2/24(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作ります。ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 毎週金曜日 午後7:00~9:00 旭ヶ丘青年文化センター、もしくは旭ヶ丘仙台市民センターにて
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 女性や高齢者の方々が多く、厳しいながらも和気藹々と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、見学してください。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2014
01.28

子供を不幸にする方法 ─ルソーとテルマエ・ロマエのヤマザキマリ氏に思う─

20140128001.jpg
ヤマザキマリ氏のご主人ベッピーノ氏。『男性論』からお借りして加工しました〉

 古い資料の中から、鉛筆書きしたメモが見つかった。 
 今からおよそ250年前、フランスで活躍した哲学書ジャン=ジャック・ルソーが書いた『エミール』からの抜粋である。

「あなた方は、子供を不幸にする一番確実な方法は何であるかご存じだろうか。
 それは、何でも手に入れるという習慣を子供につけることだ」


 不幸は、〈手に入らない〉ところに生ずる。
 たとえば、欲しい自転車があるのに、貧乏な家なので、買ってもらえない。
 隣家の子は売り出されてすぐ、乗り回しているのに、ウチでは1年待ってもまだ、買ってくれない。
 手に入れた人との比較〝どうして自分は……〟が、不満を募らせ、不幸という名の欠乏感を膨らませる。

 では、〈ないから不幸〉なのであれば、〈何でもあれば幸福〉か?
 理屈上はこうなるが、一生、何にも不自由しない、つまり欲が満たされない、言い換えれば、〈思い通りにならないことは何もない人〉はいるのだろうか?

 決して、いない。
 お釈迦様が説かれたとおり、生まれる時点で、すでに、生きるか死ぬかのところを通らねばならない。
 老いて若さを失わない人はいないし、病気になって健康を失わない人もいないし、死んでいのちを失わない人もいない。
 また、愛する人やペットやモノとの別れが来ない人はいない。
 怨み憎まないではいられない人とめぐり会わない人もいない。
 不老長寿の薬を手に入れる人や、地上の富を独占する人や、空の星を手に入れる人もいない。
 見える目や話せる口があるために悩みや苦しみが発生し、スピードの出る車や電車があるために事故が起こり、ネットが発達したばかりに犯罪や不道徳行為が蔓延し、〈有るがゆえの苦しみ〉がない世に暮らす人もいない。
 お釈迦様が説かれたとおり、〈ままならぬ〉四苦八苦から誰も逃れられない。

 だから、冒頭の箴言(シンゲン)は、こうも言い換えられる。

「子供を不幸にしたいのなら、生まれなかったことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいもなら、老いないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、病気に罹らないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、死なないことを望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、好きな人や生きものやモノやものごとを手放さないように望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、気に入らない人や憎い人などと出会わないように望ませなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、手に入れてはいけないものや、決して手に入らないものまでをも欲しがらせなさい。
 子供を不幸にしたいのなら、見るもの、聞くもの、触れるもの、食べるものに動かされるがままに生きさせなさい。」

 このとおりに育てれば必ず不幸になるだろう。
 叶わない望みを持つからである。
 しかし、振り返ってみれば、私たちはほとんど無意識の裡に、叶わぬ望みを持ちながら生きている。
 
 テルマエ・ロマエの作者ヤマザキマリ氏は、著書『男性論』においてアンチエイジングの狂騒へ警鐘を鳴らす。

「年を取らないと表れてこない美しさ、つまり成熟の美という概念があるということは忘れてはいけないと思うのです。
 時間の経過を恐れすぎるのではなく、時間との調和がとれているひとこそ最強です。」
「年を取ると男性にちやほやされなくなるからと、外見のアンチ・エイジングに躍起になるぐらいなが、年を取って、年相応のしわがあるのにちやほやされている知的でチャーミングな女性たちこそ、お手本にしてほしい。
 たとえそれが、ごく少数の女性であったとしても。
 そんなひとはたしかに存在するのですから。
 とにかく、妻候補や浮気相手というセクシュアリティを要に女性を見ている。
 そんな男性の評価だけが女性の美の価値観であってはいけないと思います。
 それを念頭に置きさえすれば、もっと女性である以前の、人間としての人生が楽しくなるのではないでしょうか。」


 年を取り、若さが失われていってなお、人生が楽しくなる。
 それは、必ず失われてゆくものを〈追わない〉からである。
 氏はそれを「時間との調和がとれている」と言う。
 ここには智慧のはたらきがある。
 智慧がなければ「時間の経過を恐れすぎる」。
 そして、死ぬまで、決して、この恐怖からは逃れきれない。
 智慧のあるなしで、追われる人生と楽しい人生に分かれる。

 ちなみに、ヤマザキマリ氏は14歳年下のイタリア人学者一家と暮らし、「結婚生活というものは、簡単ではないです。断言しておきましょう。まったく簡単ではない」と告白しつつ、このゆとりである。
 最近、72歳になるAさんからいただいた手紙である。
「~病弱な私がこの年まで生きてこられて感謝をしています。
 ~私も母のようにしたたかに優しく生きたいと願っています。
 ~今の時間がいつまで残っているかわかりませんが、一日一日を大切に感謝して暮らしたいです。
 春の猫 一番星に集まる」

 もう一度、冒頭の箴言を言い換えてみよう。
「子供を不幸にしない方法は、手に入らないものを見分け、動じない習慣をつけさせることだ」
 ここまで読まれた方はもう、お気づきだろうが、これは、恐ろしいことに、子供たちだけにとって必要な習慣ではない。
 私たちが一生かけてやらねばならない習慣づけではなかろうか。
 智慧を磨きつつ……。

 この際、もういくつか、エミールからのメモを残しておきたい。

「人間における最も危険な時期は、出生から12歳までの間だ。
 それは誤謬と悪徳が芽生える時でありながら、まだそれを破壊するための手段を一切、持っていない時期なのである」

「最初の教育は純粋に消極的でなければならない。
 それは、美徳を教えることでも、真実を教えることでもなく、心を悪徳から、精神を誤謬から守ることである」

「最も幸福な人とは、一番苦しみをなめることの少ない人だ。
 最も不幸な人とは、一番楽しみを味わうことの少ない人だ。
 いつも苦しみの方が楽しみより多い。
 この差引勘定は全ての人に共通である。
 従って、この世の人間の幸福は消極的な状態に過ぎない。
 それは、人間の味わう不幸の最少量によって計られるべきものだ」

「我々の欲望と、我々の能力との不均衡にこそ我々の不幸は存するのである」

「人間のような儚い存在が、あんなにまれにしかやってこない未来をたえず遠くに眺めて、自分の確実に把握している現在をおろそかにするとは、何という困った癖を持ったことか」






 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.27

平成26年2月の運勢 ─本田圭佑選手や田中将大選手に観る修身の姿─

20140124001 (2)3
〈グラウンドへ礼を捧げる田中将大投手です。産経新聞様からお借りして加工しました〉

 2月の運勢としては、儒教の説く「修身(シュウシン)斉家(セイカ)治国(チコク)平天下(ヘイテンカ)」をよく考えてみたい時期になります。

『大学』という書物にはこう書かれています。

「物に本末(ホンマツ)あり、事に終始あり。
 先後(センコウ)するところを知ればすなわち道に近し」


(樹木に根があり枝葉もあるように、モノには本と末がある。
 ものごとにも、終わりと始まりがある。
 先になるものと後になるものとを知れば、人の道へ入る者と言える)

 ものごとが成って行く順番をきちんと把握しなさいと説かれています。
 それに続いて、冒頭の教えがきます。

「古(イニシエ)の明を天下に明らかにせんと欲する者は、まずその国を治む。
 その国を治めんと欲する者は、まずその家を斉(トトノ)う。
 その家を斉(トトノ)えんと欲する者は、まずその身を修む。」


(古人の叡智を天下へ明らかにしようとするならば、まず、天下を動かそうとするより先に、国を治めなければならない。
 国を治めようとするならば、まず自分の家庭がバランスよく営まれるようにせねばならない。
 自分の家がそうあって欲しいならば、まず、自分の身を修めねばならない)

 ここで、因果によって先と後を整理しなおせば、冒頭の順番になります。
修身→斉家→治国→平天下」
 これは、自分の身を修められなければ、家も国も混乱し、ひいては天下が狂ってしまうことを意味しています。
 だから、「修身」は、家のためにも、国のためにも、この世のためにもまず最初に、やらねばなりません。

 さて、修めるとはいかなることでしょうか?
 そもそも「修」の文字は、祭事へ臨む前に背中から水をかけてもらい、清めることを意味しています。
 だから、修身を実行するとは、何よりもまず穢れを去り、神仏の前へ出て恥ずかしくない心身になることです。
 清らかな者になれば、家にあっては、その言葉や行動が家族間へ家族らしい親和をもたらし、国へ関わってはによる政治が可能になり、ひいては天下に叡智の光があふれるようになるのです。
 こうした観点から考えると、テレビでは他人をいぎたなく罵るような場面が喜ばれ、政界では攻撃的な人物が目立ち、私たちの脳が〈見る〉ことによる刺激を最も強く受けやすいことに乗じた不の風潮があるのは問題です。

 サッカーの本田圭佑選手がイタリアで行ったミラン入団に関する記者会見では、おそらく、地元の記者たちが、言葉少ない選手の周辺に漂う不動心のようなものを感じていたことでしょう。
 また、野球の田中将大選手は、地元仙台市でヤンキースとの契約を発表した後、しばし、グラウンドへ一礼を捧げました。
 両氏の〈静寂〉こそ、会見での言葉に勝るとも劣らぬほど饒舌にのありようを表していたように思えてなりません。
 聞いた言葉はやがて忘れても、が感応した印象はなかなか消えません。
 そして印象は、心中で何かを熟成させ、人生の宝ものになったりすらします。
 両氏がどのように身を修めてきたかは知りません。
 しかし、血肉となったはおのづと、確かに、無言の空間へ拡がっていました。
 それと感応する無数のへ、確かに、届いていたことでしょう。

 冒頭の教えはそもそも政治に携わる者へ説かれましたが、「先後するところ」を知り、「まずその身を修む」姿勢の価値は、どの世界にあっても変わりません。
 身を修めることは、すべての出発点となり、修めつつ進めば確実に成就へ近づけもしましょう。
 周囲にいる〈修めた人〉や〈修めつつある人〉に見倣いたいものです。

 皆さんが修身に留意し、運勢を生かし、開運されるよう祈っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.26

暴力をふるう相手のもとへ足が向く時は ─殺されてもよいか、相手が地獄へ行ってもよいか─

20140125001.jpg
因縁を解くお焚きあげのお不動様〉

 Aさんと話をしているところへBさんが来た。
 Bさんは、かねて恋人の暴力に苦しみ、今日もAさんへ相談に来たという。
 Aさんは、私へ質問を始めたBさんを制した。
「住職さんは、責任ある返事をしなきゃないから、雑談で相談には乗らないよ。
 皆と同じように、別な日にきちんと人生相談の予約をして、法楽寺へでかけなさい」
 しかし、もう泣き顔になりかけているBさんを放置できず、一般論として二つのポイントをお話し申しあげた。
 ドメスティックバイオレンスは、被害者だけでなく、加害者の人間性も破壊しつくす悪行であり、いかなる因も、いかなる縁も即、消さねばならない。

1 どうしても別れたくないのなら、殺されてもいいという覚悟ができるか。

「だって、私が強く出ると、おとなしくなってくれるし……。
 それに、私を殺せるはずはないから」

 その世界にまだ、いたいのならば、もう、相談は不要である。
 ここでいう「殺される」とは、何も、いますぐ首を締められるかどうかという問題ではない。
 暴力を受けた身体が痛み、心も傷めば、そうでなくても不断に続く死への道行きに拍車をかけるのは間違いない。
 また、傷んだ心の具合は、意識できる範囲だけではわからない。
 潜在意識がどうなるか、そして来世へ持ち越される深層意識がどうなるか、覘いてみることができないだけに余計、恐ろしいではないか。
 暴力を受けた人が、暴力をふるう人に転ずるケースも珍しくない。
 それでもいいのか?
 女性を自分に都合良く操ろうとする悪心によって、ニセの優しさをときおり発揮し、目くらましをするケースも又、珍しくない。
 自分のいのちも、心も、人生も利用され、翻弄されたままでいいのか?

2 生きとし生けるものへの暴力は悪行であり、それを繰り返させることもまた、相手の悪行に手を貸す間接的悪行である。

「警察には話したんだけど、いろいろ用事があるし……」

 でかけて行くのは、相手が暴力をふるう対象を用意してやることであり、暴力的性向が現実化するための強い〈縁〉を相手へもたらすことになる。
 殴る相手がいなければ殴れない。
 だから相手に悪行をもたらすのは貴女だ。
 仏法は、自分が悪行を行わないのと同じく、悪行を行わせないようにと戒めている。
 なぜなら、自分が悪行を避けて救われることと、誰かが悪行を避けて救われることに、違いはないからである。

 生きとし生けるものはすべて、生命という大海の一飛沫としてこの世に肉体を持ち、生きて、死ぬ。
 同時に、肉体は、心というみ仏の世界の道具としてもはたらき、肉体の原理と心の原理、双方があいまって一人の人間となる。
 この世で一生を過ごす人間は、やがて肉体が亡び、分子などに分解されてモノの世界へ還るように、肉体を縁としてふんわりと存在していた魂もまた、心の世界へ還って行く。
 だから、自分も他人も、同郷人であり、前世で、また、来世で、どうなのかと考えれば、自分が悪行を避けねばならないのと同じく、他人にも悪行を避けさせねばならない。
 自分の悪行も他人の悪行も、等しく、モノの世界を穢し、心の世界を穢し、それは輪廻転生するすべての生きものへ悪影響をもたらす。
 誰が行おうと、一つしかないお風呂へ汚物を入れるようなものである。
 一つしかない畑に毒を撒くようなものである。
 
 Bさんの目を真正面から見ながら申しあげた。
「殺されてもよいのなら、おでかけなさい。
 悪行の因果で相手が必ず苦しんでもよいのなら、自分も同じく苦しんでもよいなら、おでかけなさい。
 それでも相手と離れたくないなら、二人共、必ず地獄へ行くことだけは覚悟せねばなりませんよ。
 相手は悪しき因縁カルマに浸り、貴女を待っているだけ。
 二人の未来を因縁解脱へと転換させられるのは貴女しかいませんよ」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2014
01.25

最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分(世界人口の半分)に相当する ─格差と市場原理主義を放置できるか─

20140125001 (3)
〈『経済学はひとびとを幸福にできるか』著者宇沢弘文博士〉

 1月22日付の河北新報は、国際非政府組織(NGO)オックスファムが発表した報告書を掲載しました。

「世界で貧富の差が拡大し、最富裕層85人の資産総額が下層の35億人分(世界人口の半分)に相当するほど悪化した」

「人口の1パーセントを占める最富裕層が世界の富の半分を握っている」

「データを得た26カ国のうち日本を含む24カ国で、全国民の収入に占める上位1パーセントの最富裕層の割合が約30年前に比べて増加した」

「リーマン・ショックに見舞われた米国では、下層の90パーセントは経済的に苦しくなったが、上位1パーセントの最富裕層は危機後の2009~12年の成長による利益の95パーセントをかき集めた」

オックスファム格差を是正するため、累進課税のほか、租税回避の中止や、従業員の生活資金の確保、持続可能で公平な成長に向けた市場の規制強化などを訴えた」


 かねて、こうした問題に取り組んできた物理学者にして経済学者である宇沢弘文教授は、ずっと、警鐘を鳴らし、人々が共に安定した人間らしい暮らしの出来る世の中のありようを提唱してきました。

市場原理主義というのは、法律を変えてでも設ける機会をつくるということなんですね。
 それを貫くという考え方をグローバリズムというわけです。
 それぞれの国は、歴史的な、慣行的ないろいろの制度を、雇用でも、あるいは経済取引でももっております。
 それをいっさい無視し、いっさい取っ払って、そして儲ける機会をできるだけ大きくしようということです。
 これが市場原理主義の考え方です。」


 まさにこの原理によって凄まじい格差社会がもたらされ、それは地球規模で世界を席巻しつつあります。
 冒頭の報告書は「持続可能で公平な成長に向けた市場の規制強化」を求めています。
 地球規模の非人間的不平等は、規制緩和ではなく、規制強化でなければ解決できないのではないでしょうか?

 博士は、「ゆたかな社会」をこう定義します。

「各人が、その多様な夢と願望に相応しい職業につき、それぞれの私的、社会的貢献に相応しい所得を得て、幸福で、安定的な家庭を営み、安らかで、文化的水準の高い一生をおくることができるような社会」
「すべての人々の人間的尊厳と魂の自立が守られ、市民の基本的権利が最大限に確保できるという、本来的な意味でのリベラリズムの理想が実現される社会」


 こうした社会の基本的条件を5つ挙げました。

(1) 美しい、ゆたかな自然環境が安定的、持続的に維持されている。

(2) 快適で、清潔な生活を営むことができるような住居と生活的、文化的環境が用意されている。

(3) すべての子どもたちが、それぞれのもっている多様な資質と能力をできるだけ伸ばし、発展させ、調和のとれた社会的人間として成長しうる学校教育制度が用意されている。

(4) 疾病、傷害にさいして、そのときどきにおける最高水準の医療サービスを受けることができる。

(5) さまざまな稀少資源が、以上の目的を達成するためもっとも効率的、かつ公平に配分されるような経済的、社会的制度が整備されている。


 博士は、こうした理想を実現するためには「社会共通資本」を整備せねばならないと訴えます。

社会共通資本は、一つの国ないし特定の地域に住むすべての人々が、ゆたかな経済生活を営み、すぐれた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的、安定的に維持することを可能にするような社会的装置を意味する」


 それは大きく分けると3つの分野から成り立っています。
○自然環境…大気・森林・河川・土壌など
○社会基盤…道路・交通機関・上位下水道・電力・ガスなど
○制度資本…教育・医療・司法・金融資本

 どうするかと言えば、損得を最優先する考え方ではいけないというのが基本です。

「医療を経済に合わせるのではなく、経済を医療に合わせるべきである」


 病気の人がいる場合、病院や医師の儲けを基準にして医療行為をどうするかではなく、病気になった人々が公平に、病状に合わせた医療行為によって救われるようにせねばならないということです。

「短期的にも、長期的にもいわゆる独立採算の原則は妥当しない。
 医学的最適性と経済的最適性とが一致するためには、その差を社会的に補填しなければならない」


 お金のない人へ病状に合った治療をするのに病院の経費が足りないならば、社会が補うべきだというのです。
 どう考えても、こうする以外、人道的仕組みはつくれないのではないでしょうか?

 これは教育にもそのまま当てはまります。
 学校が儲けねばならず、児童や生徒を〈お客さん〉ととらえて確保するのにあくせくし、安い給料でよくはたらく教師を探すのに血眼になっている現状は、あまりにも情けないのではないでしょうか?
 人間が人間らしく尊厳を保ちながら生きるためには、医療と教育の恩恵にあずかる機会の平等が欠かせない条件ではないでしょうか?
 医師も教師も、儲けようとして頭をはたらかせるのではなく、患者や子供を平等に救う〈師〉たるにふさわしい仕事へ専念できてこそ、高度な社会と言えるのではないでしょうか?

 日本が、世界が、このまま進めば、悪しき不平等は必ず抜きがたい対立と戦いをもたらすことでしょう。
 修羅界、餓鬼界、畜生界、地獄界がこの世にもたらされかねません。
 すでに、世界各地で収まりようのない争いと殺し合いが展開されている現実を考えれば、「格差」と「市場原理主義」の問題は決して放置できないのではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.24

人間が起こしたことは人間が解決できる ─諦めず、規律を守り、希望へと向かう道─

20140124001 (2)

 ダライ・ラマ法王の『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○人間が起こしたことは人間が解決できる

「それでも、自分たちの行いを見つめ直し、よい方向へと自分を奮い立たせていく。
 それこそが大事なことなのです。
 どれほど苦しいことが起きても、どれほど困難な問題が起きても、人間はきっと乗り越えられる。
 私はそう強く信じています。
 なぜなら、人間に降りかかる物事の元をたどれば、ほとんどの原因は自分たちで生み出したものだからです。
 人間が生み出したものが因となり、廻りめぐって果となり、そしてまた人間を苦しめているだけなのです。」

「自分たちが生み出した問題だからこそ、それを解決できるのも人間です。
 私たちはそれを解決できる力を既に持っている。
 もう私やあなたの手の中にもあるのです。」


 因と縁と果の糸をすべて結ぶことができない私たちは、これが因だからこの果が出た、と必ずしも論理的に納得できないものごとに囲まれ、不条理感を持ちつつ生きています。
 たとえば、勤勉で善意にあふれた人々の手を経て児童たちへ届けられたおいしい給食にノロウィルスが混じっているケースを考えてみましょう。
 児童たちの空腹を楽しく嬉しく満たし、成長させる養分となりますが、ノロウィルスは、誰一人、五官で察知できません。
 そして、異常を訴える児童が現れてウィルスが発見され、感染経路がたどられた結果、誰一人意図せず、しかもほとんど不可抗力的にウィルスが入り込んでいたというケースは珍しくありません。
 誰かが何かを行ったからこそ、結果が出ているのは確かですが、私たちは、同様な因果関係が再び起こらないよう努力することのみであり、その努力がすぐ、完璧に実るとは限りません。
 それでも私たちは因果を判断し、因果律を信じ、努力します。
 誰しもが望まないことを〈すぐに〉なくせなくても諦めず、起こる確率を下げつつ生き、誰しもが望むことを〈すぐに〉達成できなくても諦めず、実現する確率を上げつつ生き、向上の歴史を編み続けます。
 ダライ・ラマ法王の「解決できる力を既に持っている」とはこのことです。
 

「たとえば、日本で過去に起こった困難を思い浮かべてください。
 第二次大戦では空襲で街が次々と焼け野原になり、ついには原爆まで落とされました。
 大都市が一日にして完全に破壊されてしまうという、それはとてつもない悲劇でした。
 しかしながら、日本はその絶望の淵から立ち上がりました。
 焦土の灰から新しい国家を再び築き上げたのです。
 今の発展したこの日本は、決して、空から降ってきたものではありません。
 当時の日本人が決してくじけず、本当に勤勉に働き一生懸命努力したからこそ成し遂げられた結果です。」

「こうして復活を遂げた日本の皆さんですから、今回も同じように復興を遂げ、さらによい国づくりをなさる力がある、そう私は信じています。
 かつての戦争を知らない若い方には特にそれを信じて欲しい。
 かねてより、日本人は大変勤勉な国民性と強い精神力を持っているのです。」


 1月8日、ミランへの入団会見に臨んだ本田圭佑選手はイタリア人記者から「サムライスピリットとはどういうものか」と訊かれ、「サムライには会ったことがない」として軽妙に受け流した後で慎重に言葉を選び、答えました。
「日本人は決して諦めない。
 規律を守る。
 自分にもそういう部分があると思う。
 そうした精神をピッチで見せたい」
 深く碧い湖のような静けさを漂わせた闘士の姿はきっと、イタリアの人々に〈サムライ〉を感じさせたことでしょう。
 テレビで観た私は、よくぞ言ってくれたと心中で合掌しました。
 これこそが、ダライ・ラマ法王の指摘「かねてより、日本人は大変勤勉な国民性と強い精神力を持っている」そのものだからです。

「震災を元に戻すことはできません。
 悲しいことですが、すでに起きてしまったことです。
 もちろん震災に限らず、みなさんの周りにはたくさんの苦難や困難があふれているでしょう。
 でも、その事実に悲しんだり起こったりし続けるのではなく、この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えていってください。
 そしてその決意や自信をもって苦難に立ち向かってください。
 その姿勢によって現実的なビジョンを見通すことができ、問題解決の糸口にたどりつけるでしょう。」


 仏教の目的は、意欲を〈煩悩(ボンノウ)の我欲(ガヨク)〉から、〈菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)〉へと転換させることにあります。
 迷った意識をみ仏の智慧へ転ずるのが修行であり、それを転識得智(テンジキトクチ)といいます。
 お大師様は説かれました。
「因位(インニ)には識と名づけ、果位(カイ)には智という」
 凡夫の意識があればこそ、菩薩の智慧がもたらされます。
 そのことは「迷いの苦しみが救いの安心へ転換するお話http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3016.html」へ書きました。
 ダライ・ラマ法王の「この苦難を必ず乗り越えようという意志に変えて」という過程は、呻きから意欲への転換であり、そこが私たちの出発点ではないでしょうか。

「また、一生懸命努力して再び立ち上がることができたならば、それはみなさんの強い自信になるはずです。
 人はよき方向、正しい理由に基づいて行動しているときに強い信念を持つことができます。
 これは悪い行いをしているときには決して生まれないものです。
 そうして、日本が国家としてよりよく、より強くなったとき、同時に日本のみなさん一人一人の心も前より正しく強くなっているはずです。」


 私たちは半世紀前、すでに首都の焼け野原から、原爆の惨禍から「立ち上がることができた」のです。
 私たちは「決してあきらめない。規律を守る」人々です。
 必ず、信念を持って行動し、「再び」よき未来を拓けるはずです。

○これからも日本のみなさんと

「日本を初めて訪れてから四十年あまり。
 最近では毎年のように日本を訪問させていただいています。
 特に今回は、高野山という神聖な場所で講演ができたことを大変光栄に思っています。
 ここで長らく弘法大師の教えを守り、受け継ぎ、そして実践してこられたみなさんには、改めて深い敬意を持ちました。
 また行く先々で多くの僧侶や仏教徒のみなさんにお眼にかかりましたことも、心に残ることの一つです。
 ここには三十年前に一度来たことがあったのですが、これほど長く滞在し、集中的に講演を行うことは初めてでした。
 講演の間には、高野山真言宗の松永管長に連れられて奥の院にお参りをすることもでき、いい思い出となりました。」

「また、日本で公演を行うたびに、日本のみなさんとの間に友情や信頼関係が生まれるのを感じています。
 今回も一つ一つの講演時間はそんなに長くありませんでしたが、共に笑い合ったり色々な問題を考えたりしながら同じ時間を共有すると、それだけで友情のようなものが芽生えるのを感じました。
 もちろん私はチベット人、みなさんは日本人という違いはあります。
 それぞれ社会的背景や歴史は大きく違うものです。
 でも私は一人の人間としてみなさんに会うことに決めています。
 一番大事なことは、人と人があたたかく交われるかどうか、優しい心と親しみを持てるかどうかだからです。
 地球全体からみれば、同じ人間同士というのはもはや兄弟のようなものでしょう。
 本物の家族のように心を開き、何でも語り合い、本当の信頼関係を築いていきたいと思っています。
 私たちはこの惑星に一時的に滞在しているに過ぎません。
 ここにいるのはせいぜい九十年か百年のことでしょう。
 その短い時間に何かよいこと、役に立つことをして他の人々の幸福に寄与できたなら、それが人生の意味であり、本当のゴールだといえます。
 今回の講演が、みなさんにとって生きる意味を見つめ直すきっかけとなり、『心の平和』を築く手立てになったらと願っています。」


 ダライ・ラマ法王が説く「何かよいこと、役に立つことをして他の人々の幸福に寄与できたなら、それが人生の意味であり、本当のゴール」は『大日経』の「百字偈(ゲ)」という五箇条にあります。

・他への思いやりを忘れず、自分だけの安楽に憩わない
・智慧と適切な手立てによって自他共に煩悩から解き放つ
・地獄などへも行きかねない自他の意欲を正しく制御する
・蓮華のような人間本来の清らかさに生きて他を利する
大欲は清らか、大安楽は豊かであり、自在に他を利する

 人類共通の大切なこと。
「一番大事なことは、人と人があたたかく交われるかどうか、優しい心と親しみを持てるかどうか」
 人生の目的。
「他の人々の幸福に寄与」
 この二つを忘れず、諦めず、規律を守り、確かな足どりを進めようではありませんか。
 同時に、チベット人が100万人も殺され、今も弾圧へ抗議する僧侶などの焼身自殺が相次いでいる現実を〈他人ごと〉とせず、地上から消し去られようとしている仏教の兄弟国チベットへ手を差し伸べようではありませんか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.23

いかなるカルマが東日本大震災を引き起こしたのか ─被害とカルマ─

20140123津波で向きを変えた大日如来2

〈あの日、西方浄土を向いていた共同墓の主尊大日如来が、津波の来た東方へと後ろ向きになった事実は、科学者をも驚かせました〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○なぜ大震災は起こってしまったのか

「今回、日本の方からこのような質問を頂きました。
『東日本大震災は、あまりに悲惨な大災害でした。
 地震だけではなく、津波にも襲われ、原子力事故も起きました。
 これもやはり因果なのでしょうか。
 私たちはそんなに悪いことをしたのでしょうか』
 たしかに、震災がこの世に生じた事象である限り、必ず因があります。
 直接的な地震発生のメカニズムは、すでにある程度解明できているでしょう。
 地球そのものの活動は、カルマと関係のない物質的な因果関係で起こるからです。
 しかし、『震災』という出来事全体、災害全体で考えた場合、物理のメカニズムだけではない複雑な因果がはたらいています。」


 人間の誕生に、両親の結合という物質世界における因果関係と、魂という精神世界における因果関係という二つの異なった因果関係が絡んでいるのと同じく、両面の因果関係が複雑に絡み合って発生した大災害の因果関係はなかなか解けません。
 物質的な因と縁と果のつながりが、ある程度の必然として理解できても、それがなぜ、〈個々の人にとってのできごと〉として起こったのかは、精神的視点も重ならなければ、つかめません。

「今回の震災でも、地震の衝撃が去った後に、巨大な津波が襲ってきて街全体がのみこまれたり、原発事故による放射能汚染が日本中に広がったりと、被害は二重三重に重なりました。
 多くの人が家族を亡くされたり、家を失ったり、住む場所を追われたりしました。
 被災の状況は人によって様々でしょうが、それぞれ色々なことで傷つき、不安になり、苦労をされたことでしょう。
 これほどの震災となると、その大きさと複雑さゆえ、因果関係を単純に読み解くことは大変難しいことです。
 カルマは長い時間をかけて積み重なって巨大化し、因や縁が非常に複雑に絡まりあいながら、様々な条件がついに揃ってしまった。
 それがあの3月11日だったのです。
 ある因は津波の被害となり、ある因は原発事故となり、そうやって様々な被害が次々引き起こされてしまいました。」


 わずか十メートルも離れていない隣家同士なのに、津波によって片方は壊滅的にやられ、高台に建つ片方はほとんど被害がないとか、道路一本隔てて、片側の家々は原発事故によって即時避難となり、片側の家々は避難を免れたなど、日常生活の中からそうした違いをもたらした因を探そうとしても探しきれるものではありません。

「だからといって、被災者の方が特別に悪いカルマを抱えていたかというと、決してそうではありません。
 このように強大でめったに発生しない出来事は、個人のカルマで引き起こされるレベルではなく、社会全体としてのカルマ、世界共通のカルマのレベルの出来事です。
 大勢の方が一度に同じ類の苦しみを味わったということがその現れでしょう。」


 一人一人が生きつつつくる(ゴウ)は不共業(フグウゴウ)です。
 今日、一升瓶一本をたいらげてしまい、その結果、翌日、二日酔いで苦しむなどは、〈共に〉ではなく、〈自分自身〉の欲や判断に原因のほとんどが見つけ出せます。
 しかし、歓迎コンパで無理矢理に一気飲みをさせられた新入生たちが次々に吐いたり、救急車で運ばれたり、翌日当校できなかったりすれば、そのクラブに代々伝えられた悪しき慣習という共業(グウゴウ)にその主因が認められます。
 ダライ・ラマ法王は、今回の大災害はその規模からして、悲惨な結果の因を、個々人の(ゴウ)すなわちカルマに見出すことはできないとされました。

「その因は、規模が大きいだけではなく、はるか昔何世代も前から積み重なっていたものでもあります。
 そう考えれば人類全体の因果応報といえます。
 たとえば、自然を破壊し、コントロールしようとしたことが影響しているのかもしれないし、物質的に豊かな生活を求めすぎたことが影響しているのかもしれない。
 ただ、どれだけ考えたところで、何が因であるかを私たちの頭で理解することは不可能です。」


 広い範囲に住むたくさんの人々のカルマが集まっただけでなく、時間的にも、幾世代にもわたってつくられた膨大なカルマが関係しているとしか考えられません。
 原発事故が天災であるだけでなく、文明や社会の問題として人災でもあったのではないかという真摯な探求が始まっています。
 まさに「人類全体の因果応報」であり、自分に起こったできごとについて決定的な特定因を見つけ出すことは「私たちの頭で理解することは不可能」というしかありません。
 では、私たちはどうにもできないのか?
 ダライ・ラマ法王は、次章「人間が起こしたことは人間が解決できる」において、対処法について述べられます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.22

【現代の偉人伝】第184話 ─森と動物と人間を考える酪農家中洞正氏─ 

20140122001 (2)

 平成26年1月20日付の河北新報に酪農家中洞正氏(61才)の『獣害を考える 森林政策改める契機に』が掲載された。
 サルやクマなどによる獣害が発生すると、その動物を駆除するしかないが、戦後の「拡大造林」と、その後の放置並びに無定見な開発を見直さねば根本的な解決はないという指摘である。

 以下、全文を掲載する。

「全国各地で獣害が発生している。
 今までのように山村など民家の少ない限定された地域だけでなく市街地にも出没して、町の中ででサルやイノシシ、クマなどの野生動物捕獲劇が新聞、テレビで報じられている。
 宮古市田老地区のある民家では、ツキノワグマが入り込み、仏壇に供えてあったまんじゅうを食べていたという。」


 かつては宮床銀座と称されていた地域から車で1分もかからないあたりに位置する当山の境内地でも大型動物の足跡が見られ、隣家ではクマに柿を食べられている。
 隣接する中学校付近でもクマがたびたび目撃され、その都度、役場の担当部署は大騒ぎになる。

「このような獣害の対策として捕獲された野生動物のほとんどはハンターによって射殺されている。
 ツキノワグマは年間に5000頭以上が射殺されているという。
 それでも被害が減らないためハンターの増員が叫ばれているが、ハンターの増員による駆除は安直な発想である。
 現に今よりハンターの数が少なかった昭和30年代前半でも、獣害被害は軽微なものであった。」


 当山が進めている『みやぎ四国八十八か所巡り道場』のある仙台市泉区福岡は、マタギの里だった。
 春から秋にかけては農業を営み、冬場に熊や鹿などを獲った。
 その当時の獲物は決して人間社会にとっての〈邪魔もの〉ではなく、自然という神からの贈りものだった。
 ウィキベディアは記している。
「厳しい雪山の自然に立ち向かってきたマタギには、『山は山の神が支配する場所、そして熊は山の神からの授かり物』『猟に入る前には水垢離(みずごり)を行う』など独特の信仰を持ち、獲物をしとめたときなどには特別の呪文を唱えるという。」
 人間は稲に感謝し、熊に感謝しながら暮らしていた。
 旱(ヒデリ)があるように熊に襲われもしたが、恵みも害も自然のなせるわざであり、人間は獣と共存するというよりもむしろ、一体となって一つの世界を生きていた。

「この獣害の根本は、前後間もなく行われた『拡大造林』と呼ばれる森林政策に起因している。
 これは広葉樹林を針葉樹林に植え替え、用材に適した木材生産を行うための森林政策であった。
 その面積は日本国内の森林面積の40パーセントを占める1000万ヘクタールにも及んだ。」

「しかし、木材の輸入増加で対外競争力に負けた国産材は伐採して販売しても赤字になり、針葉樹林が放置されたのである。
 放置された針葉樹林は、間伐や枝打ちが行われないために林床に太陽光線が届かなくなり、下草と呼ばれる多様な植物や広葉樹などが駆逐される。
 針葉樹のみの単層的植生となって。ドングリやクルミ、クリといった木の実、ノイチゴ、ヤマブドウなどの野生動物の餌が激減した。」

「その一方、民家に近い里山は昭和30年当初から始まった『燃料革命』と言われた化石燃料の急激な普及により、薪炭林の役目を剥奪された。
 野性動物と人間の共存していた里山が放置され、やぶ化して、餌の少なくなった奥山から追い出された野生動物の格好のすみかとなったのである。」

里山の近くには田畑があり、稲やトウモロコシなどの農作物、リンゴや柿などの果物がたわわに実っている。
 また、無造作に食品の残りかすが捨てられていることろもある。
 それらは野生動物にとっては、この上ない餌である。
 このように獣害の基本的問題は人間側にあることは言をまたない。」


 平成4年、兵庫県尼崎市立武庫東中学校で起こった「クマ守れ」の運動は一般財団法人『日本熊森協会』となって結実し、今日に至っている。
 協会が明示する「基本的な考え方」の最後《他生物の命を尊重するやさしい心が、自然を守ります》にはこう記されている。
「自然保護の原点は、自分以外のもののことも考え、共に生きていこうとするやさしい心です。
 どれだけ、知識や技術があっても、それだけでは自然を守ることは できません。
 知識や技術だけでは、自己のみのことを考え、他のものを犠牲にして突き進もうとする欲望を抑えきれないからです。
『かわいそう』という気持ちのみでは自然保護はできませんが、自然や他生物を尊重する心のない人にも、やはり自然保護はできません。」
 獣は人間生活の害となるから駆除しろ、追い払え、というだけでは問題が解決できない一方、可哀想だから保護しようというだけでも、問題の根本解決はできない。
 共生という思いやる心をスタートとし、全体、地域全体、日本全体、地球全体、宇宙全体を考える智慧をはたらかせ、信念を持って行動するしかない。

森林保全は獣害問題解決の鍵であるだけでなく、地球温暖化の原因となっている二酸化炭素対策、水源保持、緑のダムとしての効用、そして田畑を潤し豊穣(ホウジョウ)の海を守るなど、地球環境の基本である。
 人間のみならずすべての動植物が生きる上での源泉となっている。」

「このように森林問題は、国策による対応が欠かせないのである。
 工業大国として知られるドイツの森林面積は日本の約40パーセントの1000万ヘクタールしかないにもかかわらず、木材関連業者の従事者は100万人で自動車産業の77万人を大きく上回っているという。
 いち早く原発ゼロ宣言をし、環境問題を重視しているドイツという国の方針が明確に表れている数字と言えるのではないだろうか。」


 獣害問題は森林問題であり、環境問題であり、文明の問題である。
 弱肉強食の自由な経済原理だけに任せ放置してはおけない国策の問題である。
 島国の日本とは国の立地条件が大きく異なるとはいえ、かつて脱原発を国策と決したドイツでは、日本の原発事故の後、やや原発へ回帰しようとしていた流れを元へ戻し、2022年までに当初の予定通り国内すべての原発を閉鎖する予定である。

「片や倍以上の森林面積を有するわが国の林業従事者はたったの5万人余りであり、そのほとんどが60歳以上の高齢者である。
 獣害問題を契機に日本の森林政策を改めなければ、後世に禍根を残すことは間違いない。」


 ドイツも日本も、森の国である。
 梅原猛著『「森の思想』が人類を救う』によれば、森の文明には二つの特徴がある。
 一つは〈平等原理〉である。
 人間と動物と植物と山と川は、共に生きるしか在りようのない平等な存在である。
 もう一つは〈循環思想〉である。
 死と再生の繰り返しが自然の中で行われており、この世でのはたらきを終えた人間も熊も栗の樹も、再生の時を無事、迎えられるよう丁重に弔われる。
 やがて誕生した嬰児は時としてお祖父ちゃんの生まれ変わりと感じられ、捕獲された熊も採取された栗の実も、一旦見えない世界へ戻っていった霊が再生し、恵みになってくれたと感謝される。

 平等と循環は当然、海をも包含する。
 東日本大震災で途方もない被害をこうむった宮城県気仙沼市に平成21年以来、活動を続けているNPO法人『森は海の恋人』がある。
「東日本大震災以降、地域の状況は一変しました。
 巨大津波の直後、生き物は消え、海は死んだものと皆が思いました。
 しかし今、多くの生き物たちが大変な勢いで戻り始めています。
 こうした生き物の力強さと、全国の皆様からのご支援に支えられ、NPO法人森は海の恋人は事業を再開することができました。
 わずかばかりではありますが、体験学習も少しづつ再開しています。
 あれほどの被害からも立ち直ることのできる生き物たちの強さと尊さを子ども達に伝えるとともに、地域の方たちと協力し、多くの専門家のご協力を得ながら、新たな地域づくりにも取り組んでいきたいと考えています。」

 森を、里を、海を、そして原発をその〈存在〉から考え、日本の文明の方向をよく考えねばならないのではなかろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.21

前厄・本厄・後厄・八方塞がりの方々へ ─春祭厄除け千枚護摩のご祈祷─

20140121016.jpg

 厄年とは何でしょうか?
 それは、自然の運行に春夏秋冬などのリズムがあるように、自然の一部である私たちの運気にもリズムがあり、そのうちの〈鍛えられる時期〉に当たる年回りのことです。
 米も、柿も、大根も、天地自然の恵みと試練によっておいしくできあがるのと同じです。

 1才が最初の体験となる「八方塞がり」においては、〈塞がる〉という流れにあって、伸ばしたい手が思う存分伸ばせない虞(オソレ)があります。
 5才が最初の体験となる「前厄」においては、〈明らかになる〉という流れにあって、隠しておきたいものごとが露呈してしまう虞(オソレ)があります。
 6才が最初の体験となる「本厄」においては、〈あるがままに見られない〉という流れにあって、努力どおりの結果が出しにくくなる虞があります。
 7才が最初の体験となる「後厄」においては、〈足枷(カセ)がかかる〉という流れにあって、いつもより時間を要する虞があります。

 9年に1度、必ず廻ってくるこうした試練の時期を無事安全に乗り切り、人間として一段と成長できるよう、その年回りにご守護くださる守本尊様へ祈り、自分の努力と周囲の縁の力に加えて仏神のご加護もいただき、敬虔ですなおな心となって万全を期したいものです。

 もちろん、17才や18才など、運気の盛んな時期も、追い風をいいことに有頂天になれば転んでしまうかも知れません。
 厄年は必ず悪いことが起こり、そうでない年は必ずよいことが起こるわけではありません。
 雨の日には傘を差し、晴れた日には帽子をかぶるように、人生の向かい風や追い風それぞれを上手に生かし、自然の一部としての人間生活をリズムよく過ごしたいものです。

 運気の流れとしての1年は立春から始まります。
 だから、私たちは必ず「春夏秋冬(シュンカシュウトウ)」と言い「冬春夏秋」とは言いません。
 当山では、立春の到来を前に、2月2日(日)午前10時より千枚の護摩木を焚いて1年間の厄除けを行います。
 千は無限を意味し、厄除け開運のために、それぞれの方の、立春から翌年の節分まで1年間をお守りくださる守本尊様へ最高のまごころを捧げてご供養します。
 私たちは毎年、運勢が変わり、お守りくださる守本尊様も変わります。
 たとえば八方塞がりの年には地蔵菩薩様、本厄年には千手観音様、前厄祓いでは勢至菩薩様、後厄祓いでは大日如来様へ祈るのです。
 祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』でも厄除け祈祷拝受となり、当山経由で祈祷札と御守が送られます。

【年齢別運勢表】

年齢は数え年で見てください。
それぞれの詳しい運勢表と心構えのヒント『開運のしおり』は当山にあります。

●● 八方塞がりの年…守本尊は地蔵菩薩様…天地は通じ、開く。
1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100才
○● 種蒔きと開運の年 守本尊は阿弥陀如来様…積徳には開運あり。
2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101才
●○ 歓喜と散財の年…守本尊は不動明王様…質素倹約を第一に。
3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102才
○● 運命変化の年…守本尊は虚空蔵菩薩様…悲運を打開するチャンスあり。
4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103才
○○ 前厄の年…守本尊は勢至菩薩様…虚実が明鏡に映る如く、明らかになる。 
5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104才
●● 本厄の年…守本尊は千手観音様…外は穏でも、内には乱の危険あり。
6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105才
●● 後厄の年…一陽来復 守本尊は大日如来様…再び、陽が廻りくる。
7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106才
○○ 仮の縁多い年…守本尊は文殊菩薩様…善悪虚実を見分けて安全と発展あり。
8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107才
○○ 良縁多く盛運の年…守本尊は普賢菩薩様…良縁多く、福が来る。
9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108才


【申込みによって授与されるもの】

○御札 ○御守 ○ミニ錫杖 ○八方除け御守
 ご志納金は、数え歳19歳以上の方は5千円、数え歳10歳から18歳の方は3千円、数え歳1歳から9歳の方は2千円となります。
 ご志納金によって授与される内容は変わります。

護摩木の奉納も受け付けています】

 護摩木のご志納金は1本3百円です。

【お申込方法】

 ご住所・ご芳名・℡番号・生年月日を明記の上、以下の方法で1月31日(金)までにお申し込みください。
・電話…022(346)2106 午前9時より午後5時まで
・ファクス…022(346)2107
・メール…ryuuchi@hourakuji.net
・ご志納金の入金先
 ゆうちょ銀行 02260ー3ー4604 (宗)大師山法楽寺
 七十七銀行吉岡支店 5446007 (宗)大師山法楽寺
 古川信用組合吉岡支店 3383332 (宗)大師山法楽寺

 皆さんの厄除け開運を祈っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.20

消せないカルマをどうするか ─輪廻と意志─

20140120003.jpg
〈いかなる過去世からいのちの大海へと還り、いかなるカルマにより「クロ」として当山へ転生してきたのか?〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○死んでも消えないカルマをどうすればいいのか

因果の法則やカルマの影響は、死後も変わることがありません。
 輪廻(リンネ)はこれを反映した考え方なのです。」
「人の死後、意識が新しい命に移る際にも、何に生まれ変わるかは偶然では決まりません。
 因果の法則に従い、意識に残るカルマによって必然的に決まるのです。
 さらにそのカルマは本人が死んでも消えることはなく、新しい生命にも引き続き受け継がれていくと考えられています。」


 因果応報は疑いようのないシステムなので、カルマという〈結果を出す影響力〉には始まりも終わりもなく、前世から現世へとつながってこそ、〈結果〉としての現世があり、それが因となり、必ずその因にふさわしい〈結果〉としての来世をもたらします。

煩悩(ボンノウ)が強く、悪い行いを続けた人であれば、その悪いカルマがより賤しく苦しい来世を呼び寄せます。
 逆に煩悩をなくそうと努め、正しい資質を身につけた人は、よりよい生を受けることとなる。」


 煩悩は自己中心的にはたらく意志であり、結果的に、他の生きものへ害を与えずにはいられません。
 因果応報の理によって、他へ与えた苦しみに応じた〈苦しい来世〉が来ることは避けられません。
 反対に、他のためになる生き方をすれば、他へ与えや喜びに応じた〈幸せな来世〉が訪れるることもまた、疑いようがありません。

「また、心の鍛錬が進んでいる人ほど、来世へ意志が伝わりやすいと考えられています。
 自分の前世の記憶をはっきりと持っている人がまれにいますが、それは強い意識の連続であり、自らの選択によって生まれ変わったことの現れだと考えられています。」


 仏法には輪廻を決める条件が明確に示されています。
 第一には、最も強いカルマが最も強い影響力を持ちます。
 だから、仏道へ入った者は、未来永劫この道を歩むという不退転の決意を第一に保たねばなりません。
 仏道すなわち菩薩道(ボサツドウ)を歩むとはそういうことです。
 地蔵菩薩も観音菩薩も、およそ菩薩はすべて救済力を身につけた以上、救われていない者がある限り、何度でもこの世へ現れねばなりません。
 第二には、最も現在に近いカルマが大きな影響力となります。
 もし、悪いことを行っても、懺悔(サンゲ)し、よき生き方をすれば自他共に明るい方向へと向きを変えられるのは、前の行為を後から上書きはできなくても、後の行為をかぶせることによって前の行為の影響力を抑えられるからです。
 そうでなければ、懺悔にも、〈ここからのやり直し〉にも意味がなくなります。
 第三には、より馴染んだカルマが大きな影響力となります。
 いつも言い訳をする人は、いつしか〈自分可愛さ〉の影響力を高め、隠れて悪事をはたらく人は、いつしか見つからなければなかったことにできるという〈自分勝手な勘違い〉の影響力を高めてしまいます。
 ギャンブル依存症と戦っている精神科医帚木蓬生氏は「依存症は悪性腫瘍より恐ろしい」「依存症に自然治癒はない」と断言しておられます。
 日本中に2000万人もいるとされる依存症の方々は、抜きがたい悪しきカルマをつくっているのです。
 自分の生活ぶりの中に、悪しき習慣がないかどうか、時折、省みたいものです。
 そして、第四には、死を迎える際の心持が挙げられます。
 いかなる覚悟で臨終に備えるか。
 もし、何としても悪業(アクゴウ)の清めを来世も続けたい、何としてもやり残した福祉活動を続けたい、何としても菩薩道の探求を続けたいといった強い意志を持てば、それにふさわしい来世がやってくることでしょう。 

「それでもやはり生き物は、自分で来世を選んだり、輪廻をコントロールしたりすることはできません。
 あらゆる生物が廻りめぐる輪廻の中、どれほど脆く弱い生物に生まれたとしてもそれを無条件に受け入れるしかないのです。」


 いかなる意志も、そのまま〈通す〉ことはできません。
 来るべき未来に〈通っている〉かどうか、結果として明らかになるのみです。
 私たちにできるのは、知った因果応報や輪廻転生の理を信じて励むことのみです。

「とはいえ、私たちは日々生きていく中で、多かれ少なかれ悪い行いをしてしまうものです。
 そうやってたまった悪いカルマは、一体どうすればいいのでしょうか。」

「その答えは、少しでもよい行いをしてよいカルマの力を増やすようにするしかありません。」

「悪いカルマをそっくり取り除いたり、何かで消したりすることはできません。
 それでもよいカルマが不選れば、それによってよいできごとが引き起こされ、悪い出来事が起こる条件を遠ざけるようになります。
 その内に悪いカルマは少しづつ軽減し、やがて相殺できるようになるでしょう。」

「過去に悪い行いをしてしまったら、新たによい行いをすること。
 そうすれば、悪いカルマを、新しいよいカルマで減じることができ、よい縁起を増やすことにもなります。
 これをいつも心がけてください。」

「たとえどんなに悪い行為をしてしまっても、そしてどんなに悪い出来事が身に降りかかっても絶望してはいけません。
 新たによい行いをすれば、少しづつよい方向へと向かうはずです。
 そして必ず将来を変えることができるでしょう。」


 私たちの意識もいのちも、無数の点によって繋がれた一本の糸としてのみ存在し得ます。
 よいカルマの結果として授かった嬉しい時間と、悪しきカルマの結果として授かった苦しい時間が同時に存在することはありません。
 泣き笑いの顔をしていても、泣きたい感情の瞬間にはそれがあり、笑いたい感情の瞬間にはそれしかありません。
 瞬間は必ず●か○であり、同時に●であり○であることはできないのです。
 だから、○が増えるよう「よい行いをすれば、少しづつよい方向へと向かう」のは確かです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.19

過去にあったものしか作れない創作者 ─家具職人増野繁治氏との対話─

20140119008.jpg
〈『法楽の会』会員の皆様及び、護摩木へ願いをかけられる方々のおかげで、睦月の例祭は無事、終了しました〉

「私は、過去にあったものを作っているだけです」
「制作を申し込まれる方は最初、自分で求めているものの姿を想像できません。
 そこで、作品にして『こうでしょう』とお示しすると、『これが欲しかったんです』ということになります」


 ギョロリとした目で話す家具職人増野繁治氏(『木香舎』主宰)から意外な話を聴いた。
 氏は、新しいものを創ってやろうなどという気はさらさらない。
 過去にあったものだから、〈自然とそのように作られる〉のだと言う。

 氏は平成14年、林野庁より「森の名手・名人100人」に選ばれ、宮城県芸術協会会員、宮城県デザイン交流協議会会員でもあり、東京南青山根津美術館などから作品を求められている名手である。
 それでいて、「独創」といった思考は持っていない。

「どんなに新しそうな形でも、必ず、過去のどこかにあったものです。
 私はそれを引き出して形にしているだけです」


 たとえばお客様がテーブルを求められた場合、その方の言葉を聴き、目を見ているうちに、テーブルの形が脳裏に顕れる。
 その時点で、ほとんどのお客様はもちろん、設計図を持っていたりはしない。
 しかし、氏は、「お客様はわかっている」と言う。
 その証拠に、作品を届けると、お客様は「これが欲しかったんです」と懐かしさめいた感慨をもって喜ぶ。
 決して、今までになかったものを手にしたから感激するわけではない。
 
 氏は慎重に言葉を選ぶ。
 新しいものづくりを標榜したり、新しさを競ったりする人々へ対して、勉強不足だとか、謙虚でない、などと軽々に批判はしない。
 氏は、過去のどこからか受け継いだものがあるから、それに導かれて作っているとしか言わない。
 また、見たことも考えたこともないものが出る夢に強い関心を持っている。
 そして斬新かつ独創的な超一流の作品が生まれる。

 私はユングの「原型」と密教の「伝識」を思い出した。
 人間の共有する根元的イメージが、いつからか、表面的には意識されない深い意識の世界でずっと伝えられている。
 何かのきっかけで、ある時はそれが夢に現れ、またある時は現実の世界にあるものへ対して強い関心を引き起こし、創造的行動につながったりもする。
 氏はそうした世界でお客様と向き合い、共有している世界から共有しているものを選び出す。
 だから、氏にとっては「過去にあったもの」であり、お客様にとっては「欲しかった懐かしいもの」として作品ができあがるのだろう。

 当山は仏教以外の宗教を信じておられる方々からご葬儀を申し込まれるケースが少なくない。
 A氏は敬虔な宗教者であり、信心を固く保っておられたが、あるできごとをきっかけにして、ご自身の死後を当山へ託された。
 お子さんもまた親と同じ信者だが、親子揃っての願いとして、A氏のご葬儀は当山が行った。
 斎場で火葬炉の蓋が閉まり、控え室へ向かうお子さんから涙を含んだ笑顔で告げられた。
「父の『ありがとう』という声が聞こえたような気がしました。
 ご住職さんの気合(引導を渡す瞬間に発する)がとても好きだった父はきっと、本望だったのでしょう」

 これほど力をいただいたことはない。
 当山のたどたどしい歩みへのありがたい肯定もさることながら、宗教宗派を超えた次元に広がるいわば〈霊性の根元〉といった清浄で揺るぎない世界が共有できた、できる、ということを再確認できたからである。
 いかなる神を信じていようが、いかなる仏を信じていようが、あるいは信じていまいが、〈霊性の根元〉を共有しているという真実を感得し、そのことが認識し合えれば、この世の不毛の対立や争いや殺し合いを克服できるのではなかろうか。

 増野繁治氏の仕事ぶりと、ご葬儀を通じて、私たちが救済される可能性を持っているという事実はより、明確になった。
 人間が共有する霊性へ蓋をしたり汚したりする自己中心的で我欲にまみれたことごとにばかり身体と言葉と心を用いず、あらゆるものをきっかけに霊性を開きたい。 
 平成15年、増野繁治氏は宮城県環境生活部自然保護課が発行するメールマガジン『みやぎの自然』へ書いた。
自然の美しさやありがたさと文化の関係に気付かない人は、いくら技術があっても感動の名作が作れない」
 自然は、霊性を開かせるありがたい〈きっかけ〉に満ちている。
 そこには神々も、ご先祖様方も、守本尊様方もおられる。
 神仏を尊び、自然を尊び、人間同士の信頼を尊びつつ進みたい。 




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.18

因果応報が真理であると気づきましょう ─救いへの第一歩はカルマを知ること─

20140118001 (6)

〈待ち遠しい「早春」 『飛ぶ─佐藤睦枝画集』よりお借りして加工しました〉

ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

因果応報と自自得

「因果の三つ目のルールにあったとおり、果は同じ性質の因によって引き起こされます。
 よい因はよい果を引き起こし、悪い因は悪い果を引き起こします。」


 このルールとは、「因には果を生み出す素質がある」というものです。
 たとえば、種には花をつける潜在的な可能性があるからこそ、条件が整えばやがて花を咲かせもします。
 もしも種に紅い花をつける素質や可能性がなければ、いかに土壌や水や光や温度に恵まれようと、決して紅い花は咲きません。

「実はこのはたらきは相手に影響を与えるだけでなく、自分自身にも同様の影響を与えているのです。
 たとえば、よい行いをして誰かを幸せにしたとき、そのよい影響が本人にも残る。
 逆に、悪い行いをしたときは、必ずその悪い影響が本人にもたらされます。
 行為の影響、行為の持っていた力というのは、そのまま自分にも残り続けるのです。」


 誰かをいじめれば、いじめられた相手が苦しむだけでなく、いじめたという悪しき行為は、行った本人にも必ずそれ相応の苦しみをもたらします。
 当山が日本の未来を憂いている一つの問題は、これほどまでにいじめが蔓延し、自死を選ぶ子供も絶えない以上、一人の死を引き起こす原因となった何人もの子供たちにもまた、必ずこの先、相応の苦しみが待っているということです。
 もしも、ほとんどの教室でいじめが行われていれば、その学校では、どの教室でも、子供たちがいつか必ず手に取らねばならない毒の花を咲かせる種へ水をやり肥料を施していると言えるのです。
 こうした怖ろしいイメージを、親も先生も説き聴かせ、子供たちへ悪行の恐ろしさをイメージさせていただきたいものです。

「これを仏教では『カルマ』(漢字では『』)と言います。
 本来は『行為』そのものを表すサンスクリット語ですが、仏教では少し違う使い方をします。
 その行為にこめられた力、はたらき、そういったものを指して使うのです。
 そして自分に残ったカルマは、いずれ自分の身に必ず結果を生み出します。
 自分が起こした因によって新しい果が生まれ、それがまた因となって新しい果が生まれて……よ、因果はずっと連続していきます。
 そして、その影響の連続はやがて自分の方へと廻りめぐってきて、自分の身にも果を生じさせるということです。」


 カルマは、お告げめいたことを口にする怪しげな占い師や予言者などが用いると、おどろおどろしい感じを受けますが、人間が生命活動に伴って必ずつくり続けている冷厳な事実を端的に表現する重要なことばです。

「つまり悪い行いをして悪いカルマを持っている人には、いずれ悪いことが起こるでしょうし、よい行いをしてよいカルマを持っている人には、その力によってよいことが起こるのです。
 結局自分に起こることは、過去に自分がした行為の結果ということです。
 これを『因果応報』といいます。
 ただし、因果応報がすぐに成立するというものではありません。
 そのため『悪いことをしても平気だった』『いいことをしても報われない』と考えるようになり、因果に対して疑問を持ってしまう人もいるようです。」


 自分より弱そうな人を叩き、すぐに叩き返されなかったからといって、「ざまあみろ!」で済みはしません。
 いつか相手が強くなって報復にやってくるかも知れないし、自分が成長してから、かつて人を叩いたことがとても悔やまれ、謝る手段のないために長らく苦しむかも知れません。
 自分が今、やっている行いの結果が必ずしも今すぐに出ないことは体験上、誰でも知っているはずです。
 しかし、自分に都合良く考える性癖からなかなか逃れられない私たちは、すぐによい結果が出ないと不満になったり、諦めたりしがちです。
 一方、すぐに悪い結果が出ないと、軽視したり、無視したりしがちです。
 でも、結果をもたらさない原因はありません。
 年配者となり、病気に罹り、塩分や糖分に注意しながら各種数字の睨めっこをするようになれば、誰しもが因果応報を深く信じるようになるのですが、そうならずとも、早く気づきたいものです。
 

「現実には、果として何かが起きるときには、因だけではなく様々な要素や条件の影響を受けます。
 逆に言えば、そうした要素や条件が整わなければ、因があっても結果は生じてこないのです。
 因果に影響を与える条件や要素のことを『縁』といい、因と縁が揃ったときに初めて結果が生じることを『縁起』といいます。
 これを花にたとえるなら、たとえ種という因があったとそても、水や空気や温度がなければ花は咲かないのと同じです。
 物質の因果は単純なしくみでしたが、人間だとそうはいかないということです。
『悪いことをしたので悪いことが起きました』というような単純なしくみではないのです。
 因となりうる行為はこの世に無数にありますし、たくさんの要素や条件が絡み合っています。
 たとえば現代における環境問題や近代化の弊害は、その因だけでも膨大にあり、過去から少しづつ積み上げられてきたものです。
 そのため因果のしくみは非常に繊細かつ複雑で、人間が正確にそれを予測したり把握したりすることは不可能なのです。
 全てを見通せる『一切智』があれば正確に言い当てられるでしょうが、俗世にいる私たちには無理なことです。」


 善行(ゼンギョウ…善い行い)を行えば、目に見えない天の壺へおいしい飲みものを蓄えるようなものであると説かれています。
 壺は人間には見えないので、どれほど溜まっているかはわかりません。
 しかし、壺が一杯になれば必ず溢れ、私たちは心身で味わうことができます。
 もしかすると仏神が時折、少し傾け、ご褒美として味わう機会をつくってくださるかも知れません。
 同じように、悪行を行えば別の壺に必ず毒の飲みものが溜まり、仏神が懲らしめようと傾けるならば、私たちはそれを防ぎようがないのです。
 ただし、天は隔絶した絶対者の世界ではなく私たちが持つ無限の心の上方であり、地獄はすなわち下方です。
 仏神とは私たちから隔絶された絶対者ではなく、心の遥か上方に想像できる至高の領域です。
 日常生活的レベルを超えたものが時として動くことを私たちは体験上、知っています。
 古来、〈その時〉を「天の時」と言ってきました。
 私たちには「全てを見通せる『一切智』」がありません。
 しかし、〈至高の領域〉を感得できる霊性が備わっています。
 謙虚に自分を磨いていれば霊性がよくはたらき、おいしい飲みものに与(アズカ)ることができます。

 フランクル著『夜と霧』は、強制収容所で病気になり絶望的な日々を送る若い女性が感謝の言葉を述べる様子を綴っています。
 彼女は窓から見えるマロニエの樹を〈友だち〉と感じています。

「あの樹はこう申しましたの。
 私はここにいる──私は──ここに──いる。
 私はいるのだ。
 永遠のいのちだ……。」


 彼女は地獄のような状況ですら、おいしい飲みものを味わえました。
 

「ただし、しくみのありようは複雑でも、因果やカルマの原理は変わりません。
 よい因にはよい果が、悪い因には悪い果が生じます。
 一度してしまった行為は、決して取り消すことができません。
 同じように一度背負ってしまったカルマが、勝手に消えることはありません。
 その人に深く根付き、積み重なっていきます。
 そして来るべきとkに同じ性質の結果を生み出す力となるのです。
 要素や状況が整いさえすれば、必ず結果を生じます。」


 お釈迦様が真理であるとして示された因果応報は論理的に否定し得ない原理であり、あらゆる倫理や道徳の根本がここにあります。
 因果応報を否定すれば倫理も道徳も成り立ちません。
 私たちは、すなおに真理へと心を開きさえすれば、必ず、よい生き方ができるようになります。
 特定の神様や仏様や経典を信じなければ救われないわけではありません。
 誰しもが、本来持っている〈ものの道理を掴み、すなおに生きる力〉によって、自他のためになるよい生き方ができるのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.17

この世を生き抜く、あの世で死にきる ─死にきって死後の野にふと雪一片─

20140117p037_02.jpg
〈撒かれる散華〉

20140112005.jpg
〈厳寒の中でも、あの世の安心を求める方々のため、変わらぬ精進は続けられています〉

 当山の法務は、善男善女の生と死に関わるものばかりです。

 善男善女と書いたから、悪い心を持っている人は関係ないのかと言えば、そんなことはありません。
 訪れる方々はすべて、例外なくみ仏の子だからです。
 よく、「いいお戒名をいただきました」と感謝されますが、それは決して当山の力によるものではなく、お戒名をお授けくださるご本尊様の御眼からご覧になられれば、誰しもが仏性(ブッショウ)を持った可愛い子だからに他なりません。
 お戒名には、院号(インゴウ)として魂の色合いが顕れ、道号(ドウゴウ)としてこの世での足どりが顕れ、法名(ホウミョウ)としてあの世の姿が顕れますが、すべては、み仏の子としての真姿を映す鏡なのです。
 だから、授かったいいお戒名は、その方がいい方だったことの証拠です。
 このように、どなたもが、まぎれもなく〈善男善女〉です。

 さて、人間関係の改善や健康の回復など、生きる方向において、ご本尊様は〈生き抜く〉力をくださいます。
 また、死後について、ご本尊様は〈死にきる〉力をくださいます。

 死が人間にとって宿命である以上、死から〈逃げ切れる〉と思っている方は一人もおられないでしょう。
 しかし、私たちは往々にして〈死にきれない〉思いを持ち、死者が〈死にきれない〉でいるのではないかと考えるので、不安や苦しみなどが生じます。
 死者が持つこの世への叶わぬ執着心を断ち切り、送る方々の逝ってしまって欲しくないという無常の理に逆らう執着心をも断ち切るためにこそ、み仏に成りきった行者が引導を渡します。
 ご本尊様は逝く方へ〈死にきる〉力をくださり、送る方々はご葬儀の場などでそれを感得されればこそ、その後の時の経過により少しづつでも無常が受け入れられ、心に安心が広がって行きます。

 死にきった世界を詠んだ一句があります。

「死にきって死後の野にふと雪一片(ヒトヒラ)」 志摩 聰


 この世からあの世へ持ってゆけるものは何一つありません。
 財産も名誉も肩書も捨てねばならない一方、窮乏からも離れ、愛憎すら消えます。
 決して消えないものは、次の世に結果をもたらさずにはおかない善なる業(ゴウ)と悪なる業(ゴウ)という潜在的な影響力のみです。
 このように、何も身にまとえないはずなのにまとっていたつもりでいた諸々がすべてきれいに消えてしまったのが、「死にきって」たち現れる「死後の野」です。
 その空空寂寂(クウクウジャクジャク)とした世界に音もなく舞い降りる一片の雪。
 足元へ降りきる時も待たず、幻のように消えてしまうたった一片の雪。
 許されるか、許されるかわからない希望に似た欠片(カケラ)。
 それを手にできようができまいが、歩いてゆかねばならない〈野〉……。

 この〈野〉は虚無の世界ではありません。
 霊性は徳を具えているからこそ霊性であり、格段に濃い徳とのご縁が十三仏様のお導きです。
 この世で親に、先生に、先輩に導かれるのと同様、あの世でも必ず導きがあるはずです。
 夢のような「雪一片(ヒトヒラ)」は、み仏のご来臨を示す散華(サンゲ)ではないでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2014
01.16

原発は経済の問題や政治の問題であるよりも、文明の問題ではないでしょうか

20140116001 (6)
〈朝日新聞さんからお借りして加工したドナルド・キーン氏〉

 1月15日、細川護煕小泉純一郎、両元総理大臣が前例のない記者会見を行った。
 細川氏が東京都知事選挙へ立候補するという。
 
 当山は宗教に携わる者であり、一党一派に偏した政治活動を行うのは適切でないが、原発に関しては発言する資格があると考えている。
 それは、原発は、経済や政治の問題であるよりも、本質的には文明の問題であると捉えているからである。
 もちろん、経済も政治も、文明を構成する要件ではあるが、文明は、より包括的あるいは根元的概念である。
 言い換えれば、日常生活的感覚から遠く離れた思考領域ではあるが、何もかもがそのうねりの中にしかない。

 小泉氏は「原発ゼロでも日本は発展できるというグループと、原発なくして日本は発展できないというグループとの争いだ」(同日付の産経新聞)と言った。
 この主張はワンフレーズポリティクス、劇場型政治をめざすもので問題があり、都政に関する重要案件は他にもあるので、総合的判断を要するという批判はもっともであると思う。

 しかし、当山は、明確な脱原発を第一目標とする主張に促され、原発問題を考える視点が少し、変わって欲しいと願っている。
 福島の人々は、事故によって否応なく変わった。
 原発を誘致すれば補助金や協力金が入り、雇用が生まれ、経済的に豊かになる、といった日常生活的感覚から肯定的に捉えていた原発が、地震と津波をきっかけにして、天変地異にも匹敵し、あるいはそれ以上の影響を与える存在であるという文明的次元の姿を顕わにしたからである。
 当山は昨年12月14日に行った寺子屋において、原発事故により全町避難となった福島県富岡町福祉協議会『おだがいさまセンター』関連の方々から、お話をお聴かせいただいた。
 表向きは別として原発の再稼働とその近隣での生活を望む町民は一人もいないでしょうという言葉は、日常生活的次元では隠されている爪や牙や毒から逃れられないことを体験し、〈文明的次元の姿〉を観てしまわれた方々の偽らざる本音であろう。

 事故を体験しない方々や、事故によって経済的にマイナスの影響を受けた方々の中には、科学的問題なのだから早く科学的に解決し、マイナス要件を除去すればよい、と、日常生活的感覚での判断を下す向きも多いことだろう。
 それはそれとして、ぜひ、被災者の実態を知り、被災者の言葉を聴き、あるいは両元総理の言葉に耳をかたむけて、〈文明的次元の姿〉を想像していただきたいと願わずにいられない。

 もちろん、それでもなお、科学の力を信じてぶつかろうというなら、それも一つの判断である。
 あるいは、いつでも〈爪や牙や毒〉を用いるわけではないのだから、当面使いこなそう、というのも一つの判断である。
 しかし、そこに危うさが潜んではいないか?
 平成24年11月30日、滋賀県知事を務める「日本未来の党」の嘉田由紀子代表(当時)が記者会見で発言した。
「小沢さんを使いこなせずに、官僚を使いこなすことはできません」
 テレビでこの場面を観た瞬間、〈ことは終わった〉と思った。
 記者の追究的質問に誘発されたとはいえ、「使う」という言葉には、小沢一郎氏及びその同志たちへの軽視と過剰な自負心とがあり、それは破綻を招かざるを得ないと感じた。
 嘉田由紀子氏は、選挙をどうするかという日常生活的次元でしか小沢一郎氏をとらえていなかったのではないか。

 同日付の朝日新聞はドナルド・キーン氏の『高揚する東京 東北もう忘れたか』を掲載した。
 氏は言う。

「本来のオリンピック精神からかけ離れ、極端に多額のお金を使って人々をびっくりさせるイベントになっています。
 どうして日本でやりたいなら、東北でやればいい。
 東北なら意味があるでしょう」
「被災地ではまだ仮設住宅で生活している人がいます。
 仕事場のない人が大勢います。
 東北の人口がどんどん減っている。
 その一方で東京の町は明るい。
 みなさん、東北を忘れているのではないでしょうか」


 当山も、平成25年12月2日、河北新報へ「死者とつながる心 大事」と題する同様の投稿を行った。
 
20131201001.jpg

 1月15日は、元日の大正月に対して、小正月である。
『日本を知る辞典』によれば、小正月の意義は小さくない。
「大正月の行事はどちらかといえば公的な、おもてだったものが多く、小正月には生産と関係ある農耕儀礼的なものが多い。」
 昔は、小正月の満月が遍く照らす夜に「なまはげ」などの厄除けを行い、豊饒を祈り、「どんと祭」の火で子供たちが餅やダンゴをあぶって食べた。
 満月のもたらす月光は智慧の明かりであり、古来、『月輪観(ガチリンカン)』や『阿字観(アジカン)』などで行者たちを導いてきた。
 この時期に、私たちの文明が抱えてしまった原発という道具について、よくよく考える意義は小さくない。
 日常生活的にどうこうという〈今現在〉におけるプラスとマイナスの計算も大事だが、数十年や数百年という〈文明の行方における〉プラスとマイナスに今、責任を持とうという姿勢も欠かせないと思う。
 原発をぜひ、文明の問題と捉えてみたい。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン






2014
01.15

モノの因果と生きものの因果 ─心ある者のみが行為を行う─

20140112004.jpg
意志による行為で造られた仏塔〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「行為」も因果を引きおこす

因果があてはまるのは、形のあるものばかりではありません。
行為』にも因果の法則が成り立ちます。
 たとえば誰かの行為によって何か新しいことが生じた場合、その行為が『因』、起こったことが『果』ということになります。」


 当山では、ご葬儀の後に必ずといっていいほど、六波羅蜜(ロッパラミツ…最も霊性を輝かす方法)の法話を行います。
 その中に、み仏や御霊へお水を捧げる布施(フセ)行があります。
 時に応じ、ことに応じて自在に姿を変える水のように我を張らず、誰かの何かのために、自分ができることをさせていただく布施行の一例として、東日本大震災に際し、全国の子供たちが貯めていたお小遣いを被災地へ贈ったことを挙げます。
 また、お灯明に象徴されるのは、我欲(ガヨク)に引きずられた自己中心の考えでなく、その時、その場に当たって、仏性(ブッショウ…み仏の子としての本性)を持った人間として〈そうしないではいられない〉み仏の智慧です。
 この智慧をはたらかせた例として、東日本大震災のおりに、住民へマイクで避難を呼びかけながら犠牲となった南三陸町の危機管理課職員遠藤未希さん(25歳)を挙げます。
 あの災害が起こるまでは別な例を用いていましたが、被災された方々が今現在、苦しんでおられることを忘れないでいただくためにも、こうした話を続けようと考えています。
 法話の変化には明らかに、因があり、果があります。

「しかし、行為を行うのは、あくまでも命を持つ生き物だけです。
 物質である場合、自ら行為をすることはありえないので、行為による因果も起こりません。
 そのため、物質関係はシンプルで明確なものが多い。
 たとえばある物質が化学変化を起こして別の物質に形を変えるといった自然現象がこれに当たります。
 はるか昔、地球にまだ生物がいなかった頃は、きっとこの因果関係だけで世界は動いていたのでしょう。
 一方で、命あるものには行為が伴います。
 しかもそこには、色々な意志や感情が入り交じり、様々な人やものに影響を与えてしまう。
 そのため、因果関係に行為がからむと、その関係性は急に複雑になります。」


 アクリフーズ群馬工場生産の冷凍食品に農薬のマラチオンが混入し、事件となっていますが、捜査はモノと人間両方の特性に基づいて行われています。
 マラチオンの痕跡をたどりきれば〈動かぬ証拠〉となるのは、「物質関係はシンプルで明確」だからです。
 一方、誰が?なぜ?何の目的で?という面が絞りきれないのは、人間の思考の糸が「複雑」で、成り行きの因果関係を容易に判断できないからです。

 ダライ・ラマ法王は、人間における「行為」には三つのパターンがあるとされます。

・第一のパターン:運動による行為
・第二のパターン:言葉で何か伝える行為
・第三のパターン:心をはたらかせる行為

 そして、三つのうち、心における行為を最重要とされました。

「なぜなら、この心のはたらきがその人の意志や動機となって、新たな行動を起こさせたり、他人に発する言葉を生んだりするからです。
 たとえば誰かを助けるという行為を行うのは、その前に『その人のためになりたい』という心のはたらきがあったからです。
 逆に相手に意地悪な言葉を投げたときには、前から心の中で『この人のことが嫌いだ』という思いが渦巻いていたのでしょう。
 このように、因果は『心』によってしくみがかなり異なってきます。
 特に人間は心のはたらきが強いので、因果に与える影響もかなり大きいと思います。」


 いじめを考えてみましょう。
 弱い者をいじめて優越感に浸るのは薄汚れた悪しき心です。
 相手の心身を不当に攻撃し、ストレスを与え、いのちの勢いを削ぐだけでなく、悪行(アクギョウ)によって自分自身が悪業(アクゴウ)を積み、悪業は必ず〈因〉となり、自分の人生へ〈果〉としての性悪な性格や罪過や災厄をもたらすからです。
 心が悪くはたらかないためには、善くはたらかせる心の習慣づけが必要です。
 それが教育であり、しつけであり、勉強であり、稽古であり、修行です。

 お釈迦様は何を最も戒めたか?
 それは〈放逸(ホウイツ)〉です。
 心を野放しにすると、必ず自己中心的で我がままになり、自他を苦しめつつ生きるようになります。
 だから、繰り返し、「心をつなぎ止めよ」と説かれました。
 何に?
 人の道に、です。
 アリを踏んで楽しむのは〈人の道〉ではなく、他のいのちを大切にするのが〈人の道〉です。
 なぜならば、お互いにお互いのいのちを大切にしてこそ、お互いが安心に笑顔で暮らせるからです。
 そして、相手が笑顔になれば、相手が幸せなだけでなく、自分も又、善い〈果〉をもたらす善い〈因〉をつくったことになるからです。
 だから「不殺生(フセッショウ)」という戒めを説き、あっけらかんと放逸に暮らさず、心に念じつつ生きよと指導されたのです。

「ちなみに、草木や花などの植物は『行為』を起こすことがあるのでしょうか。
 植物もただの物質とは違って生物ですし、感覚に近いものが備わっているという考え方もあるようです。
 しかし物事の良し悪しを区別したり、幸せや苦しみを感じたりというような『心』は持っていません。
 ですから、動物がするような『行為』はないと言っていいでしょう。
 植物が花を咲かせたり実をつけたりと、ある種の変化を遂げたとしても、それは感情や意志に基づいているものではありません。
 花が咲くのは、植物そのものに組み込まれたはたらきのためです。
 色や形の違いも物質的な差違に過ぎず、そこに意志があるわけではない。
 植物は、物質と似たような単純な因果で廻っていると言っていいでしょう。」


 かつて、アメリカで、動物と植物の交感に関するポリグラフの実験が行われました。
 小さなエビを熱湯へ投げ込もうとする瞬間、別の部屋にある鉢植えの植物に電気的な異変が起きたというものです。
 言葉を交わさない生きもの同士の通じ合いがあるとは驚愕であり、いのちの不思議さや、広大さもあらためて感じさせられます。
 しかし、こと「意志」については、やはり、ある程度高等な生きものにのみ具わったはたらきのようです。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.14

「因果の法則」三つのルールについて ─道理を用い、よい結果を生み出すと見定めたものを実践する─

20140112009.jpg
〈ああ、六道に迷う私たちをお導きくださるお地蔵様〉

20140112008.jpg
〈ああ、この世とあの世の子らをお救いくださるお地蔵様〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○「因果の法則」三つのルール

 ダライ・ラマ法王は、満たされていれば因果の法則が成り立ち、満たされていなければ成り立たない三つのルールを示されます。

第一のルール:因がないところに果は生じない。

「たとえば、何もない場所に突然花が咲くということはありません。
 種があったから花が咲いたのです。
 もしこのルールを宇宙の起源に当てはめると、絶対的存在が宇宙を創造したり、『完全な無』から宇宙が生み出された、という説は否定されることになります。
 逆にこれを認めるとしれば、宇宙誕生の瞬間だけは因果の法則を超越したということになりますが、なぜその時だけ法則が破られたのかという論理的な説明はまだ誰もできていません。」


 当山も、この論理を根拠とし、絶対者を措定して宇宙が創造されたというには無理があると考えています。
 無理は必ずどこかで、何かの力を借りて論理的破綻を繕わねばならなくなります。

 そもそも「理」とは、玉石が持つ模様であり、それを磨いて顕すことを意味しています。
 木目は、「モクメ」ですが「キメ」とも読み、肌理(キメ)に通じます。
「木目のよく通った木材」であれば、樹木が本来持っている模様の美しく浮き出た木材を指し、「肌理のこまかな肌」であれば、人間が本来持っている鉱物的でない瑞々しさのよく表れている肌を指します。
 だから、「無理」とは、〈本来、そのように無い〉状態であり、無理を通すとは、無いものを有らしめようとする行為で、余分なエネルギーが用いられ、理に従おうとする精神を押さえつけ、無くもがなの波紋を生じます。

第二のルール:不変から果は生じない

不変のもの、永遠のものは何の変化も起こさないため、因にも果にもなりえません。
 無常であるからこそ物質は変化し、新しい何かの因となるのです。」


 無常とは、「常(ツネ)なるものが無い」ことです。
 それは、廻る季節を眺めても、人間やネコや家や山を見ても、目に見えない自分の心や他人様の心を考えても、すぐにわかります。
 結果として在るものはすべて、不変がもたらしたのではなく、変化によってもたらされたのです。

第三のルール:因には果を生み出す素質がある

「全く無関係の原因から結果は生じません。
 因のなかに潜在的な可能性がなければ、因果は成立しないのです。
 それは、果と同質の性質を持っていたり、強い関係性があったりということです。
 たとえば花の因は種でしたが、いくら別のものを土の中に植えても花は咲いてこないということです。
 花という果を生み出す可能性、素質がな限り、それは因になりえないのです。」


 仏教はこのように、2500年かけて理を探求し、理に基づいた救済法を考え、実証し、深めてきました。
 その方法が「修行法」あるいは「お次第」としてまとめられています。

 同じくシュギョウと言っても、修業と修行は違います。
 修業は、学問や技芸や生業(ナリワイ)の方法を得るための修習や習得を指しますが、修行は、世間的な生活に関する欲望を離れた精神的救済へ至るために定められた方法の実践を指します。
 仏教の行者はすべからく、悟りという「果を生み出す素質がある」と理解し、納得し、期待し、信じればこそ、「因」とされる「修行法」や「お次第」を闇夜の灯台として励むのです。
 だから、お釈迦様やお大師様の超人的な思考と実践に学び、歴史の荒波の中で練られ鍛えられ深化されてきた方法を実践する者は、自分の思いつきや、気まま勝手や、切り貼りなどによる修行はあり得ないことを体感しています。
 そして「仏教は所詮、皆、同じ」などとも言いません。
 それは、「心さえあれば形なんかどうでもいいんだ」と言う人が、往々にしてあまり〈心〉ができていないことに似ています。
 本当にそれなりの〈心〉があるならば、自然と、たたずまいにも、気配にも、そして僅かな動きにも顕れます。
 どうでもよくはないし、どうでもよくはできないのが人間の自然な姿です。
 どこかの扉を開け、覚悟を決めて道を歩んでいる者が、いかなる理由で「他の扉を開けたとしても同じ」と考えられましょうか。

 ただし、定められた体のありようとしての印を結び、定められた言葉のありようとしての真言や経典を唱え、定められた心のありようとしての観想を実践していると、ある時、ふと、自分なりの言葉が出たり、応用法に気づいたりする場合があります。
 また、人生相談や講演などで、口から出た仏法による言葉が相手様の心へ深く届き、魂の揺れを生じたと実感する場合もあります。
 そうした自分なりの応用は、本義に背かず、伝授をゆるがせにしない範囲を慎重に見定めながら行っています。
 たとえば、当山で多用するようにしている読み下し文を用いた経典の読誦などもそうです。
 自分で漢文ではなく読み下し文を繰り返して読み、自分の魂へより届くことを確信してから皆さんへも読み下し文をお勧めしています。
 また、修行徳目のイメージづくりなどもそうです。
 せっかくお線香は精進の徳を示しているのに、漫然と煙をくゆらすだけではもったいない話です。
 きちんと「たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」と誓ってこそ、お線香を灯す意義が生きたものとなります。

 このように、歴然たる事実をふまえ、仮説を立て、方法を熟慮し、実践の過程と結果によって検証し、また向上をはかるという修行法の進歩は、まさに〈科学的〉手法を用いて行われています。
 それは、たとえじっと座るタイプであっても、何かを夢中になって唱えるタイプであっても、あるいは加持祈祷などの修法であっても同じ道筋です。
 いずれにせよ、ご縁の皆さんには、「果を生み出す素質がある」と感じ、すんなり受け入れられるものを実践していただきたいと願っています。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2014
01.13

人形が道案内となるこの世とあの世の風遊び ─傀儡(クグツ)師奥山恵介氏のこと─

20140113001 (3)
〈以下の二枚共々、『風の旅人』からお借りして加工しました〉

20140113001 (4)

20140113001 (5)

 いまだに傀儡(クグツ)師はいる。
 傀儡は「かいらい」とも読み、繰り人形のことである。
 だから、「かいらい政権」などとは言うが、誰も「傀儡政権」とは書かない。
 当用漢字の呪縛により、文化からほとんど追い出されたに等しいこうした漢字はもはや、大多数の人々に読まれなくなり、本来、そう書かれねば表現され得ない肝腎の内容物は、深い湖のような忘却の彼方へと押しやられてしまった。

 傀は、字通(ジツウ)によると「人に鬼が憑依(ヒョウイ)する状態」である。
 儡は、やぶれ、つかれ、おちぶれ、そして、うれい、おちつかぬ様子である。
 この文字が重なって操り人形となっている。

 さて、東日本大震災があった年の6月、『風の旅人』へ写真家内山英明氏の「傀儡師」が掲載され、〈あやし〉の世界に出入りする稀人(マレビト)同様の芸術家奥山恵介氏について知った。
 以来、越中八尾における「風の盆」へ対する憧れに似た感情を抱いてきた。
 彼岸へ向かう魂の道案内をする羽首(ハクビ)人形などにつかの間、現世(ウツシヨ)を離れさせてもらう時間を夢見ていたが、どうも叶いそうになく、書き記すことにした。

 奥山恵介氏の人形作りは徹底している。
 以下、内山英明氏の文である。

「彼の人形作りは独特で、人形に魂を吹きこむため顔を作る卵の殻に経文を張り、その上に粘土を指で塗り重ねて表情を作っていった。
 顔の裏の目に見えない場所にも朱色の塗料を刷毛で丹念に塗ってゆく。
 これは魔除けのためであった。
 それらの所作は、印や呪文を唱えて仏の加護を祈る、あの密教の加持祈祷に少し通じるものがあった。
 人形の体の骨格造りにも独自な工夫が凝らしてあった。」

 
『雨月物語』においても経文は力を持っていたし、当山の加持祈祷においても紙で人形(ヒトガタ)を作り、法をかける。
 身代わりの人形には悪業を吸い取り浄化する役割がある。
 形に精神を映し込めば、何ごとかになる。
 原因のあるところに必ず結果は伴う。

 たびたび、人形の館に泊まらせてもらった氏は、金縛りに遭う。

「体中の気の流れが突然止まり固まったような、あの譬えようのない息苦しい恐怖を今でもまざまざと思い出す。
 私を感化させた、これらの闇を養分として育った、カリスマ的なエネルギーに満ちた人形(ヒトガタ)とはいったいどのようにして生まれたのか。」


 人形というモノと、傀儡師との濃密な交感が重ねられた〝場〟に、エネルギーのないはずはない。
 
 そして、舞う現場である。

「人々の多様な心の深層と記憶に深く入りこみながら、さまざまにくねる人形たちの自在な肢体(カラダ)に限りない愛おしさを私は覚える。
 それは彼の人形のもつ大きな特質でもあった。
 この乱調をひめた人形たちがいったん宙を舞うと、そのもう一つの精霊としての真の姿が顕わになる。」


 形ある人形は、形のない精霊と一体である。
 それは、魂入れの修法を行い、善男善女に拝まれているご本尊様が只のモノでないのと同じであり、お位牌が御霊の依り代となるのと同じである。
 
 奥山恵介氏は、日本古来の『白塗り』を継承する化粧師でもある。
 舞妓さんなどが塗るあの『水化粧』の白さは、み仏の世界に通じる。
 氏は修業時代、「白の世界をより白く見せることの難しさ」がわかり、「〝白〟のイメージを自分のものにしたい」がゆえに人形という形を求めたという。

 奥山恵介氏の言葉である。

「魂の世界に遊べば現実(ウツツ)はこの世のものならぬばかりに際立って見える。
 現実の陰画と申してよい人形(ヒトガタ)を作っている私は人形に魂を抜きとられてきた。
 そのつど私のなかに業が重なり積もった。
 そんな自分の救済を願う心がいつしか人形と同行して、一寺一寺に業をほどき魂を結びながら八十八ヶ所を廻る遍路へと出立したらしい……それは新しく私の誕生をねがう一輪の花を育む魂遊びでもある。」


 こうして氏は遍路となった。

 内山英明氏は記事を結ぶ。

「彼はずっと糸繰りを基本にして人形を作ってきた。 
 チベット密教の世界では糸は風の象徴であり、肉体は糸でつながっているという。
 それを知ったとき、それにふさわしい人形を作り、そして〝風の舞い〟を見せればいいんだと思ったという。
 彼の繰る人形の舞いを見ていると、正に今ここに在る世界にも息吹を与えてくれる創造的で根元的なエネルギーを膚で感じる。
 自然と神々と人間を結ぶ糸という架け橋を通して、見る者の心と体を一陣の風のように癒してくれる。
 私にはこの目にうつるすべての世界が、新しくそして懐かしかった。」


 当山には、お大師様と結ばれる糸がある。
 四国遍路の途中で、糸を手に大師堂で祈った際、確かな〝風〟を感じ、一山を開基したなら必ずこうした祈りの糸を用意しようと決心し、叶った。
 法がかかり、祈りの込められた糸は不思議な風を伴っているのである。

201401130052.jpg





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.12

日本語の魅力、言葉に宿る力 ─渡辺祥子氏の講話『日本語が教えてくれる、日本の心』─

20140111021.jpg
〈迫力のある講義〉

 1月11日、住職の講話はたまたま、『四十二章経』の第十一章でした。
 続いて、渡辺祥子さんの講話をお聴きしました。
 要点をまとめておきます。

○「言(コト)の葉(ハ)アーティスト」と自称している理由は、「芸術とは心を動かしてゆくもの」と考え、言葉と向き合ってもらうことで、いい意味での心の揺れを発生させ、それを共有したいからである。

○アルフォンス・ドーデの短編小説『最後の授業』における言葉を考えよう。

「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国の言葉を守ってさえいれば、牢屋のカギを握っているようなものです。」

・ドイツに併合されることになったフランス領アルザス地方の学校で、フランス語ではなくドイツ語を使うよう命令がくだり、アメル先生が、生徒たちへ最後の授業を行った時に語った言葉とされています。
 後になって、歴史的背景も含め、あくまでもフィクションであるとされましたが、こうした文章から受ける覚悟に学び、「言葉は民族の精神や文化を伝える〝いのち〟」と話す渡辺祥子さんの言葉には説得力がありました。

○日本語の特徴として、母音が基本であることを一番に挙げたい。

「今日(ウ)も(オ)、米(エ)の(オ)飯(イ)を(オ)食べた(ア)」(※この例は法楽寺の作成)と解放して終わる日本語に、開放弦やオープンマインドを感じる。
 相手をシャットアウトすないで済む島国であり、温暖な季候風土にあることも関係しているのではないか。
 ポリネシア諸語のハワイ語も日本語と似ている。
 こうした民族は、自然の音を左脳で聞き分ける。
 言語・論理・思考で捉える音は、〈意義ある言葉〉として耳から心へ届く。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」の「沁み入る」に明らかである。
 雨が「しとしと」降る、あるいは、雪が「しんしんと」降り積もるなど、自然の音を心地良い言葉として感じられる。
 それは、自然と対話ができていることではないか。

○日本語の第二の特徴は、強弱ではなく、高低で話すことである。

 アナウンサーは『アクセント辞典』を持っている。
 英語の「アップル」は「ア」を〈強く〉読むが、日本語の「青空」は「ア」を〈低く〉読む。
 「朝」は「ア」を高く読む頭高である。
 「青空」は「オゾ」を高く読む中高である。
 「男」は「トコ」を高く読む尾高である。
 海外旅行のクルーズで源氏物語を朗読したおりに、デッキ掃除をしているフィリピン人の青年から、「日本語はわからないけれど、渡辺祥子さんの言葉が心地良いので、毎晩テレビを楽しみにしている」と言われたことはとても嬉しく、励みになった。

・本来のアクセントをきちんとふまえたよい言葉づかいが心地良いのと同じく、よい文章もまた、頭の中で読まれる時に心地良いのは、同様の効果があるからではないでしょうか。
 例えば、白鳥光代氏の『悪筆物語』(河北新報出版センター)に「おばさんを侮るなかれ」があります。

 新聞の書評欄や新刊案内を見ていて、すぐにでも手に入れたくなる本がある。
 今回も切り抜き持参で早速、書店へ出向いた。
 今の時代、あっという間に本の所在がわかるのかと思いきや、甘かった。
 レジのパソコンの前で若い男性店員が、それはどんなジャンルかとのたまう。
 ええっ?
 読んでもいない客にジャンル分けしてもらわないと、本の在庫って確認できないわけ?
 「ジャンルが分からないと調べられないのですか?」と一応丁寧に聞くと、そうだ、と冷たい。
 小説でもないし、評論でもないし、言語かな──と、ぶつぶつつぶやきながら、レジを離れた。
 広い店内をどうやって探そうかと途方に暮れた。
 うろついたものの、ついに降参して、今度は女性店員に尋ねてみる。
 すると、彼女、まっすぐにレジに向かうと、先ほどのレジ君に伝えているではないか。
 その彼、薄笑いさえ浮かべ、「またですか?」という目で私を見ている。
 気まずい思いで突っ立っていると、ほどなく別の男性店員がお目当ての本を持って現れた。
 その本のジャンルの担当者だという。
 なーんだ、分かっているんじゃないの。
 それにしても、たった一冊の本の在庫確認だけで、どうしてこんな嫌な思いをしなければならないの?
 どんなに売り場面積の広さを誇っていたって、もうこの書店には足をはこばないことに決めた、っと。
 それにおばさんに口コミって怖いんだから──。
 ちなみにその本のタイトルは「声に出して読みたい日本語」。
 その本を読む前に、おばさんは怒りの声を高々と上げてしまった。


 白鳥さんはプロの作家ではなく、この短篇の内容も私たちの身近にある日常的なできごとであり、脳内の言葉の流れを普通に綴ったものですが、言葉の高低を意識しながらゆっくり読んでみると、とても心地よさを感じます。
 きっと、高低の作るリズムがよいのでしょう。

○謡曲を習い、アクセントの凄さ、溜めの力がよくわかった。
 
 謡曲『羽衣』に「春霞。たなびきにけり久かたの。」という部分があり、「は る が す み」の音符は同じになっているが、謡う時は、腹の底からグッと上がるように「は」へ入る。
 お師匠さんに訊いたところ、やはり「一音目を下げるんです」と教えられ、「青空」や「明るい」と同じだと感じた。
 単純な「おはようございます」に心がこもるのは、「お」を抑えてしっかり溜めをつくり、胸から頭へと上がって行くので、思いもまた、力を帯びて相手へ届く。
 教会文化の欧米では、響かせるように言葉を発し、野の文化である日本では、風にも負けず縄をなうように言葉をつなぐのかも知れない。

○音に精神が入るためには呼吸法を用いねばならない。

 ヨガの師匠から「呼吸という字のとおりにやればよい」と教えられた。
 まず、「呼」として腹の底から息をすべて吐き出し、次に、空っぽになった腹をめがけて鼻からゆっくりと「吸」を行い、しっかりと丹田へ溜める。
 溜めた息をゆるゆると出しながら音としての言葉を乗せて行けばよい。
 鼻から吸うのは人間だけで、こうした鼻呼吸を十回、行っただけで能率が上がるという説もある。
 このように、日本語は、息に乗せるという形で使われてきた。

 緊張に負けないためには、呼吸法を使おう。
 緊張したならば、まず、緊張というエネルギーが出たと考えよう。
 そこで腹式呼吸を行い、一旦、エネルギーを抑えてからそれを行動エネルギーへ転換し、本番へ臨むのである。
 溜めてから、リコーダーを吹くように音階をつければよい。
 信長が今川へ決戦をしかける時に幸若舞(コウワカマイ)の「敦盛(アツモリ)」を舞ったのは、恐怖によって高まったエネルギーを「人間五十年、化天(ケテン)のうちを比ぶれば、夢幻(ユメマボロシ)の如(ゴト)くなり 一度生を享(ウ)け、滅せぬもののあるべきか」と抑え、怒りのエネルギーに変えてから出陣したのではないかという考え方もある。
 私たちは、自然に、言葉に助けられているのではないか。

○歌の力を考えよう

 戦闘に際し、始めに系図を名乗ることによって互いの出自を争い、血を流さずして潔く勝負を決するほど、言葉が力を持つ時代もあった。
 古来、歌は「魂の凝縮した形」とされていた。
 源氏物語には795首もの歌がある。
 〈きぬぎぬの文(フミ)〉のやりとりを理解せねば物語はわからない。
 アメリカに、源氏物語はレイプの話ではないかという批判があったが、歌を理解できないのが大きな理由ではないか。
 歌のやりとりで魂を交わし合う、身体合わせの前に、言葉合わせがあった文化はすばらしい。
 それに気づいたのが、東日本大震災後に日本人となったドナルド・キーン氏(92歳)である。
 氏は18歳の頃、セントラルパークで、源氏物語の英訳本に出会った。
 そして、交わされる手紙の文章がすばらしいだけでなく、紙や墨や折り方や、さらには季節の花が押し花として添えられるなどの細やかさに驚いた。
 何気ない日常生活の中に気高い美が潜む文化があることに驚いた。
 その後、日本語の通訳となって日本へ近づき、研究者となり、ついには日本人そのものになった。
 日記の研究にも余念がない氏は高見順の『敗戦日記』で日本人の心にうたれたという。
 その一部である。

「大声が聞えてくる。
 役人の声だ。
 怒声に近かった。
 民衆は黙々と、おとなしく忠実に動いていた。
 焼けた茶碗、ぼろ切れなどを入れたこれまた焼けた洗面器をかかえて。
 焼けた蒲団を背負い、左右に小さな子供の手を取って……。
 既に薄暗くなったなかに、命ぜられるままに、動いていた。
 力なくうごめいている、
 そんな風にも見えた。
 私の眼にいつか涙がわいていた。
 いとしさ、愛情で胸がいっぱいだった。
 私はこうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った。
 否、私も、──私は今は罹災民ではないが、こうした人々のうちのひとりなのだ。
 怒声を発し得る権力を与えられていない。
 何の頼るべき権力も、そうして財力も持たない。
 黙々と我慢している。
 そして心から日本を愛し信じている庶民の、私もひとりだった。」


・この姿を私たちは、3月11日後の東北の人々に再度、観たのではなかったでしょうか。
「怒声を発し得る権力を与えられていない。
 何の頼るべき権力も、そうして財力も持たない。
 黙々と我慢している。
 そして心から日本を愛し信じている庶民」
 ドナルド・キーン氏は、それを震災後に再確認し、「こうした人々とともに生き、ともに死にたいと思った」のでしょう。
 渡辺祥子さんは、氏の側近から、震災が帰化の直接原因ではないと聞かされているそうですが、それでもなお、原発事故を恐れる欧米人が日本を離れる最中にあって、まるで急流をたった一人、徒手空拳で遡るかのように意志を明確にされた氏の心へ、東北人の姿が大きく影響を与えたように思えてなりません。
 鷺悦太郎氏の『アリア』こそ、東北人の魂として日本人の魂が表出した名作であると思っています。

201205020012.jpg
〈『アリア』です〉

○言葉と心と身体は相関関係にある。

 もしもこの会の冒頭に「渡辺だけど……」と言って登場するとしたら、自分はどういう心、どういう物腰であるか。
 笑顔で「渡辺祥子でございます!」と言って登場したからこそ、皆さんとつながれるのではないか。
 言葉は人を横柄にもするし、謙虚にもする。
 もちろん、心が言葉を選ばせてはいるが、自然に出て来る言葉によって心が動き、動作も左右されるという面もある。
 レストランなどで「ちょっと、水!」と怒鳴る場合と「お水をお願いします」と頼む時を想像してみればよい。
 また、必死に山登りをしている人が、降りてくる人々から「顔色が悪いですよ」「お休みになった方がよくはありませんか」などと次々に声をかけられたならば、三人目あたりで、本当に力が抜けてしまうという話もある。

 実際に身体を動かしたり、イメージを使ったりする実験を行う。
 まず、右手の中指と薬指だけを柔軟にしておき、合掌すると、右指が少々、長くなっている。
 次に、右手の指指へ「ありがとう」と声をかけ、最後に掌全体へありがとうと言ってから合掌しても同じ。
 次に、右手の指指へ「こんちくしょう!」「この野郎!」などと怒鳴り、最後に掌全体へ思い切り怒鳴ってから合掌すれば、右指が少々、短くなっている。

 もしもカッとなった時、固まる身体と激情を緩やかにさせる方法として、「なーんちゃって!」と言うようにしている。

○日本語ほど敬語が発達している国はない。

 日本では敬語を用い、しかも、相対敬語と言い、同じ「社長」という言葉でも、相手との距離感や立場の違いなどによりニュアンスが違う。
 同じく敬語が発達している韓国語では、呼び方が決まった絶対敬語である。
 丁寧語や王室などを相手にする言葉などは様々あっても、敬語はその他、せいぜいジャワ語などでしか用いられない。
 JRの車内誌「トランヴェール」によれば、伊集院静氏は、電車の車中などでは身を慎むという。

「私が車両の中で静かにするのを心がけるのは、そこに悲しみの帰省をする人がいるはずだと思うからだ。
 そう考えると、電車は人の人生を乗せて走っていると言っても過言ではない」


 どのように言葉を用いるか、言葉に宿る精神を考え、言葉を大切にしたい。

 言葉のプロが血肉となった言葉について語る言葉には圧倒的な説得力がありました。
 こうした現場からの声をもっとたくさんの方々にお届けいただきたいと、心から願い、ご活躍を祈っています。合掌

20140111027.jpg
〈発の新年会も和やかでした〉




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.11

言葉で話せるのは〈当たり前〉なのではない ─竹内敏晴氏の言葉獲得、そして渡辺祥子氏の寺子屋─

20140111001 (2)
〈ご近所の主婦大須賀弘子さんが手作りされた漬け物、梅干し、麹(コウジ)、味噌の直売を行います〉

 私たちは普段、何気なく言葉を用いていますが、人間に生まれたからといって自動的にしゃべられるようになるわけではありません。
 幼児の頃からの難聴に悩まされつつ、ようやく言葉を〈獲得〉し、ついには演出家になった故竹内敏晴氏が63歳で書いた『失われたことば』を読んでみましょう。

 氏は、ただでさえ、うまく話せなかったのに、敗戦のショックは追い打ちをかけるように、氏を無口へと追いやりました。

「私の場合には、ことばを失ったということは二重の意味を持っていた。
 私にとっては、いわば、あらかじめ失われていたことばを、その遅い恢復の途次で、ふたたび決定的に失ったということだった。」


 氏は、「たぶん、生後一年にならぬころ」から耳の病気で苦しみます。
 まだ、ペニシリンもない頃、幼い氏は、化膿した耳に氷嚢を当て、痛みに耐えているうちに幻を見ます。

「夜中に熱がたかまってくると、耳がうすき、悪夢にうなされて、開いた目にうつるのが、幻のようにきらめく赤い玉で、化け物の目玉らしくくるくる廻っては襲いかかってくる。」


 小学生の時に胸を患い、湿布でグルグル巻きにされたまま自宅で仰臥していた私も、夕刻、西の障子が紅くなり、路地で遊び回る子供たちの声が遠くなって夕闇が迫ってくると、部屋の東の壁から西の壁へ向かい、火の玉たちがまるで流れるようにどんどんと飛んで行くのを観るのが日課でした。
 
 小学校高学年になり、氏は「慢性中耳炎急性発作症という奇妙な名前」の病気であると知ります。
 子供たちは氏をツンチャンと呼び、「いくらか対等には扱って」くれても、「いたわってくれるなどということは」ありませんでした。

「外見上はなにごともないということが、ツンボにとってはまことにおそろしいカセ、あるいはワナになる。
 めくらならいいなあと子ども心に想ったことがある。
 めくらはめくらだと目に見える。
 だがツンボはわからない。
 だから期待はずれの意外さが、話しかけ手にいっそう軽蔑感を強く呼びさますのだ。」


 氏は発熱のたびに絶対安静にせねばならず、あまり運動ができなかった。
 あまり「いじいじせずに」暮らしはしましたが、家を訪ねた友だちは勝手に遊び、氏は「一人で本を読んでいることが多かった」そうです。
 小学校にプールができたことをきっかけに氏の耳はどんどん悪くなり、「中学一年の秋から四年の冬まで」はほとんど聞こえないままに過ごします。
 氏は、「鋭い思い出」を二つ書きました。

「かれらの話ごえは私には聞こえない。
 かれらはそれをいいことに私を槍玉にあげ、嘲笑している、目の前で!」
「それが一度心を傷つけると、その傷のうずきは、次の似たような情景を同じ意味でとらえる。
 やがて友だちの、私にけっして聞こえない、そしてよく見える笑いは、私を刺すとげになった。
 それはまるでエコーするように、私の中にひけめを拡大し、私を伏目にし、おじけづかせ、孤独にしていった。」


 こうしたいじめを行ったことのない私はいつものようにけしからん!と思いますが、孤独になっていく方々のお気持になってみることは到底できません。

 氏は警報が聞こえないばかりに踏みきりで危機一髪という目に遭い、遮断機に体当たりして助かった時、激情が走ります。

「目の前を轟々と動いていく巨大な動輪を身ながら、私は怖さではなく、はげしい屈辱感に身がすくんでいた。
 人々の視線が矢のようにからだに刺さる。
 集まってきた人々の中には同級生もいた。
 その目に好奇とあわれみの色を見たとたん、私は猛烈な勢いで逃げ出していた。
 くそっ!くそっ!くそっ!とこえを出して泣きながら走っていた。」


 もしも、自分がこの現場にいたなら、わずかな好奇心と大きな哀れみの気持で彼を観たことでしょう。
 それが彼を追いつめるとは……。
 どうすれば彼を〈刺さないで〉済むのか?
 人間にそれが可能なのか?

 氏は「毛を逆立てたはりねずみ」のようになり、「外部のものすべて」を怖れながら生きます。
 自分を傷つけない相手には「無際限に」近づきたくなりますが、そうした仲間が氏を外してピクニックの計画を立てていることを知り、「黙って離れ、ふたたび近づかなく」なってしまいます。
 孤独を深める過程はとても想像しきれません。

「閉鎖された人間にとっては、他者に対して拒否し退避するか、全面的同化に憧れるか、どちらかしかないのだろう。
 少し先走りして整理すると、このとき、私にとっては、閉ざされた〈自〉と、その外にある見透せぬ怖い総体としての〈非自〉だけがあった、と言えるだろう。
 まだ〈自と他〉という意味での〈他者〉は、私にとって存在していなかった。
 ここではコミュニケーションという問題は、成り立つ地盤を用意できない。」


 コミュニケーションが問題にすらし得ない状況がある……。

 氏が中学四年生の時、テラポールという新薬が開発され、五年生になると病状はすっかり「安定」します。
 十六歳の氏は弓道三段、全国で最年少という名手になりました。

孤独な集中壁癖が、弓には向いていたのかもしれぬ。
 実弾射撃も優秀だった」


 ここで氏は、〈聞こえること〉と〈聴く〉ことの違いに気づきます。

「聴力が恢復することと、聞くことができる、ということちは別のことである。
 なぜなら、音は、注意をほかに奪われているときには、聞こえない。
 私たちのからだは、聞く、つまり音を選んでいるのであって、無差別に音が飛びこんでくるわけではない。
 だからよく『聞く』ためには、持続した注意の訓練がいるのだ」


 ここに、氏が優れた脚本家になるきっかけがあったのでしょうか。

「まして、話をすることは、、聴力が生まれたからやっと始まる──ちょうど赤ん坊のヨチヨチ歩きのような──長い努力の先のことになるのだ。
 困難は二つある。
 一は、こえを出して発音できること、二は、自分の発したこえを、外からの音として(これは本当は正確な言い方ではないが)聞きわけられること。」


 高校生になった氏はコンパに出て、自分がまだ、うまく話せないという現実に打ちのめされます。

「恥ずかしさでのどから胸がスッと凍ったような気がした。
 こえが出せなかった。
 あわててことばを探したが、ちりじりばらばらなことばは、少しもつながらず、こえになって外へ出もしなかった。」
「私は、自分がことばを仕えない、と感じた。
 いな、こごばを持っていない、と感じた。
 また、ことばを持たない、ってことは、考えを持っていないということだと感じた。
 私の中にはいろんあ、見定めきれない感動が動いているのに、それがなんであるかを、私は言えない、ということは、知らない、わからない、見定められない、ということだ、と感じた。
 ことばを見つけなければ、私は、ほかの人とまじわすことができない、一緒に生きることができない……。
 そしてこの思いは絶望的だった。
 たとえ私が心のなかでことばを見出しても、それを発音したとき、それが相手に届かないのだ。
 いや正確に言えば届いたかどうか判断できないのだ。
 聞きとれないのである。
 言葉は音声として相手に届き、相手から音声として返されてくるのを受けとってこそ、ことばとなる。
 私の作業は、まず、自分の見たもの、感じたことを表現する単語を見出すこと、次にそれをどう組み立てたならば、他人に理解できるかを発見すること、そして第三に、それをどう発音したら他人に届くかを見出すことだった。
 しかし、私はどこからこの作業を始めたらよいか、かうもく見当がつかなかった。」


 氏はここを乗り越えます。
 孤独言葉選びは飛躍をもたらします。

「ことばは、日常的慣習的な用い方を離れて、独自の光彩と意味を帯びてくる。
 たぶん、詩の生まれるところの一つは、このような場所からであろう。」


 さらには、「話しかけようとしている、この主体自体を、まず、なんと呼んだら(呼ぶという言い方自体がすでに何かを規定し前提としているのだが)いいだろう?」といった深遠な思索の道へと進んだのです。

 さて、今日は、午後1時30分からの寺子屋において、〈言の葉アーティスト〉渡辺祥子氏(ロゴセラピスト)から『日本語が教えてくれる、日本の心』と題したご講演をいただきます。
 年の初めに、人間を最も人間たらしめている要素の一つ、言葉についてよく考えてみようではありませんか。

 また、ご講演の終了後、ご希望の方は渡辺祥子さんを囲んでのささやかな新年会へご参加ください。
 お茶やお菓子や缶ビールなどでゆっくりしながら語り合いましょう。
 参加費は不要です。
 どうぞふるってご参加ください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.10

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第147回)失われた言葉(その1)─

Category: □救われる道
20140106004.jpg
〈1月5日、今年も高橋香温先生の書道教室が始まりました〉

20140106005.jpg
〈書き初めをしました〉

 竹内演劇研究所を主宰し演出家として活躍した故竹内敏晴氏は子供の頃、耳の聞こえが悪かった。
 青春期を過ぎるまで、生まれて間もなく起こした炎症の後遺症に苦しんだ。
 昭和63年、63歳で書いた『失われたことば』には難聴者の厳しい現実が書き連ねられている。

 昭和20年、敗戦の一ヶ月後、実家に帰って父親と同居する23歳の氏は、何もできないでいた。

「私は影みたいに歩いて、町の外れの高台の雑木林をさまよい、古い小学校の、人気のない庭に入りこみ、夕陽が富士の横に沈むのを見ていた」


 父親は、ある日、そんな氏を呼び止め、「世の中がこうだから、お前が考えこんでしまうのはわかる」などと前置きをした上で、「少し言い難そうに」注意する。

「おとうさんは気味が悪いのだ。
 お前は確かに異常だ。
 昼間は一言も口をきかない。
 帰ってきてから今まで一度も話さなかった。
 それなのに、夜、眠っている時に笑っている。
 毎晩、必ずだ。
 同じ蚊帳の中に寝てる身にもなってみろ。
 もうがまんできない」


 氏は指摘を受けてから、自分が言葉を発していなかったことに気づき、自分の笑い声が「頭の中でがあんとこだましたみたいな気がした」と言う。

 半年ほど経ち、ようやく、駅で切符を買う際に行き先をつぶやく程度にはなった。
 難聴からの回復過程にあった氏は、敗戦のショックにより、回復をやりなおさねはならなかった。

「敗戦のときにことばを失った人は、きっとたくさんあるに違いない、と私は思う。
 そしてそのほとんどは生活の必要性の中でいやおうなしに恢復していった。
 しかし、たぶん、その後三十年近く、日常生活に最小限必要な単語だけを残して、何も語らなくなったまま今日まで生き続けている人がかなりいるのではないか、と私は想像する。」


 この文章には芯から驚き、衝撃を受けた。
 加えて、そうした人々を誰一人、知らなかったことに愕然とした。
 氏の言う、「その後三十年」とは昭和50年であり、私は29歳、キャンディーズがヒットしていた時代に、そのような形で敗戦を引きずっている人と会ったためしがない。
 しかし、氏はその時期を生き抜いた後に、この文章を書いたのだから、想像には確信が伴っていたはずだ。
 ただし、語らなくなった人々の多くが、おそらくは世間から隠れるように生きておられるがゆえに、氏も「想像する」としか書けなかったのだろう。

 その時期から10数年後、私は、一軒づつ玄関を開けて訪問する托鉢を始め、家族に〈かくまわれる〉ように暮らす方々の存在を知った。
 あの、影のような方々の中に、あるいは、ほとんど無表情で、また無言で托鉢を断る方々の中に、あまり語らなくなった方々が含まれていたのかも知れない。
 この想像は、一気に肝を冷やす。
 東日本大震災や原発事故などで決定的なダメージを受けた被害者の中にも、「日常生活に最小限必要な単語だけを残して、何も語らなくなった」方々がおられるからである。
 新築したばかりの家も、すべてをかけて成長させてきた会社も流されたAさんは人と会えなくなり、唯一接触できるBさんから、お願いしていた面会を断られた。
「住職の心配はわかるし、気持はAさんにも伝えたけど、今は私が病院の送り迎えをするしかないんです。
 しばらく待ってください」
 しばらく、が、もうすぐ3年となる。
 敬虔な信徒Cさんも音信不通となり、顔を見せてくださったのは、2年以上が過ぎてからだった。
「とにかく、仮設住宅暮らしは酷いです。
 何もかも壊れてしまって、誰かと話をする元気もありません」
 そして、仲間のDさんはすっかり人が変わってしまったと教えてくださった。

 語れなくなった方々の全体像はどうなっているのだろう?
 またしても、自分が何も知らず、何もできないでいることに気づく。

 言葉を失わせた敗戦、震災、原発事故。
 できごとの重みを幾度も再確認したい。
 で、なければ、敗戦も震災も原発事故も、私たちはその真の貌(カオ)を知らぬままに、同じような体験を重ねるかも知れない。
 それは知性の怠慢であり、犠牲となられた、そして犠牲となっておられる方々への不誠実というものではなかろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.09

喫茶店の上質な孤独 ─落合恵子氏と『さぼうる』に想う─

20140109001 (3)
〈一曲目の「イット・ネヴァー・エンタード・マイ・マインド」が上質な孤独への誘いとしては打って付け 〉

 1月7日付の河北新報は、落合恵子氏の『香りと上質な孤独 堪能』を掲載した。
 神田神保町にある喫茶店『さぼうる』の紹介記事である。

 同店は今年、開店から60周年を迎える。

「神保町という地名を唇にのせただけで、わたしの心は酸っぱい懐かしさでいっぱいになる。
 四十数年前に学生時代を過ごしたのがこの街であり、酸っぱさはわが青春を象徴する味である。
 一杯のコーヒーで数時間粘った喫茶店。
 水ばかりお代わりをしていた。
 古書店でようやく見つけた一冊の本を抱えて飛び込むのも喫茶店。
 もちろん『ドトール』も『スターバックス』もなかった。
 愛唱歌は、抗いを歌った海の向こうのフォークソング。
 J・Dサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』が翻訳刊行されて、わたしたちのバイブルになった頃のことである。」


 私も神田の古書店には通ったが、喫茶店で過ごす習慣はなかった。
 買ったならアパートへ帰り、寝るまで読むだけのことだ。
 会話をするのは「早稲田大学国策研究会」の同志のみ。
 そしてほとんど酒になる。
 もちろん、「海の向こうのフォークソング」を口にする漢(オトコ)は誰もいない。

「それよりもさらに10年前から『さぼうる』はここでこうして店を開いていた。
 れんがと木でつくった山小屋風の内装も当時と変わっていない。
 座り心地のいい椅子はどれほど多くの人々の疲れた身体と心を休ませてきたことだろう。
 どれほど多くの会話と沈黙、時にため息をこのテーブルは聞いてきたことだろう。」


 喫茶店は確かに「疲れた身体と心を休ませ」る機能を果たすのだろう。
 だから、そうして休みたいと思わぬ私のような人間には、縁がなかった。

 店主の鈴木文雄氏(80歳)は言う。

「どうにかやっているうちは、道は自然と開けるものです。」
「60年間、ほんとうにいい夢を見させてもらってきた。」


 落合恵子氏は、こうしめくくる。

「いやいや、『いい夢』を見させてもらってきたのは、わたしたちの方である。
 今度は、古書店を廻った後、香り高いコーヒーと上質な孤独の時空を味わうことにしよう。」


 たった一言「上質な孤独」で、落合恵子氏と私の距離は一気に縮まった。
 今、私が年に数度、喫茶店のドアを開けるのは、まさにこれを求めるからである。
 出張してたまたま、時間があき、近くに期待を持たせる喫茶店があれば嬉しいが、もちろん、そんな僥倖(ギョウコウ)はほとんどない。
 駅前にある『ドトール』や『スターバックス』は利用する目的が違う。
 コーヒーとトーストを注文するのは空腹を満たすためであり、いらっしゃいませを言われた瞬間から、客は、後からやってくる客の邪魔にならぬよう飲食後は早々に立ち去ることを求められている。
 もちろん、決して「早く帰ってください」とは言われないが、ドアを開けた瞬間に感じる空間の時間的リズムがそうなっているのだから仕方がない。
 それは、回転率が死命を制する空間だからである。
 そこには〈個〉として放り出されている無機質な孤独はあっても、それをしみじみと確認することが何ごとかであるような「上質な孤独」はない。

 では、何が上質さをもたらすのか。
 一つは、時間を占有できる贅沢さである。
 帰れと求められないから、沈潜できる。
 もう一つは、干渉しないが不満も与えないという究極のもてなしである。
 独善的でうるさい店主も、気配りが薄い粗雑な店主も落第だ。
 だから、上質な喫茶店は成り立たなくなった。

 しかし、このあたりにはまだ、そうした「上質な孤独」で時間を過ごせる喫茶店がある。
 大和町宮床の『モカモアコーヒー』と、大崎市岩出山の『英国茶房森栖(モリス)』がお勧め。
 前者の定休日は水・木曜(祝日は営業)、後者の定休日は月・火曜。
 ただし、「法楽寺のブログを読んで来たよ!」と報告しても、何かサービスしてもらえるかどうかは保証できない……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.08

死後の行く先は? ─生命全体のサイクルにあって行き来する意識─

20140106030.jpg
〈ジョルジュ・ルオーの『ヘシアン』です〉

20140108001 (2)
〈長谷川潾次郎の『猫』です〉

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

○この世で起こることには必ず理由がある

 ダライ・ラマ法王は、真実の追究という一点で、仏教と科学は「非常に近い」と説かれます。
 目的達成のために用いるのは知性であり、論理です。

「もし仏教が一神教であれば、科学とこのように融合することはできないでしょう。
 唯一絶対の神がこの世界を作ったという教義があり、それを疑うことは許されないからです。
 それは論理を超越した観念なのです。」


 お釈迦様は、「自分が説くことを鵜呑みにするな」と注意されました。
 理解し、納得できたことだけがその人にとっての真理であり、それにそった生き方をしてこそ、揺るぎない真実世界が開けるからです。

「私はこれを否定するつもりは全くありません。
 宇宙がどうやって生まれたのか、立ちかな答えはどこにもないからです。
 ただし、『宗教は科学と対立する』というイメージは、仏教にはそぐわない。
『この世界の真理に迫りたい。そして少しでも良い方向へ導きたい』、仏教徒はこう考えて、あらゆる物事を観察し、そのありようを論理的に検証してきたからです。」



○全ての事象にはタネがある

 ダライ・ラマ法王は、仏教の法則は「論理と検証の結果」導き出されたと説かれます。

「原因があるから結果が生じる。
 結果には必ず原因がある」


 花が咲くには種という「因」があります。
 人が生まれるための直接的な「因」は、両親の卵子と精子です。
 両親が生まれた「因」をたどれば人類の祖先にたどり着き、「進化の歴史を逆流して」動物の起源から生命の源まで還元し、ビッグバンまで到達します。
 そして、ビッグバンもまた、「因」を持たないはずはありません。

「つまり、自分自身の存在を含め、この世界のあらゆる事象が、はるか昔から続く連続性の中にあり、因果の法則によって関係しあっているのです。」


 因果の法則は、否定しようがありません。
 だから、真理です。

「ただし、生物は意識と肉体の両方によって成り立っています。
 そのため、肉体の因が卵子と精子であるように、意識にも因があると仏教では考えています。
 意識だけが突然この世に生じるというのは論理的ではなく、因果の法則にも反しています。
 ただし、肉体や意識がそのままの状態で受け継がれていくわけではありません。
 あくまで因は果の発生を引き起こすもの、促すものです。
 たとえば両親の手が子供の手になるわけではなく、両親の卵子と精子が種となり、肉体という結果を生み出しているということです。
 意識もそのまま意識が転移するのではなく、生物が意識を持っていたありよう、その本質的な念がエネルギーのようなものが、他の生物に転移すると考えられます。」


 仏教は肉体や現象界というモノの世界に因果を見出しただけではありません。
 むしろ意識をこそ探求し、そこにも当然、因果を見出しました。
 それが輪廻転生(リンネテンショウ)です。

「もちろん一般的には、意識は生まれたときに誕生し、死ぬときには消滅してしまうように思われています。
 でもそれは、私たちが認識できているごく表層的な意識に過ぎません。
 それは生物に意識が宿るということの本質ではないのです。
 肉体が死んで別の物質に分解されるように、意識の本質は生命全体のサイクルのなかへ戻る。
 そして別の生命の意識を生み出す素となっているのです。
 これが『輪廻』です。
 輪廻とは、意識における因果のシステムなのです。
 始まりも終わりもない、本質的な連続性がそこにはあります。」


 ここで大切なのは、「生命全体のサイクル」というとらえ方です。
 決して、人間という種のみに限定された世界の中での生き死にを考えているわけではありません。
 およそ意識を持つものはネコであれ、鳥であれ、皆等しく〈有情(ウジョウ)〉です。
 それは「情識あるもの」と定義されています。
 感情や意識のあるものはすべて有情であり、衆生(シュジョウ)とも呼ばれます。
 日々、ネコのクロやミケ子と意識の交感を行い、感情も伝え合っていると、「有情」という言葉のすばらしさに何度も何度も感謝してしまいます。
 人間は有情の中の一部であり、「考えるもの」という意味で「マヌシャ」と呼ばれます。
 それが英語では「マン」となりました。
 有情の世界を六つに分類したのが、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道(ロクドウ)です。
 根本的無知である無明(ムミョウ)を脱し、自己中心的にはたらく煩悩(ボンノウ)を克服しない限り、有情は六道をぐるぐると経巡るしかありません。

 もう、5、6年も前になりましょうか。
 他の生きものへの転生を信じているかどうか、質問されました。
 その時は、「まだ、わからない」と答えました。
 今は、もしも自分がクロやミケ子に生まれてきていたとしても何の不思議もないし、もしもクロやミケ子が人間界へ転生すれば、心から祝福してやりたいと思っています。
 なぜ祝福するのかと言えば、人間の言葉を用いることによって有情たちとのコミュニケーションが異次元へと飛躍し、しかも、仏法に接すれば輪廻からの解脱の可能性も生まれるからです。
 
 輪廻はまぎれもなく「意識における因果のシステム」です。
 古歌はそれを見事に表現しました。

「阿字の子が 阿字のふるさと立ち出でて また立ちかえる阿字のふるさと」


 だから、お位牌の一番上に梵字の「阿」と書きます。
 また、密教は、余分なものを削ぎ落とすために本源(大日如来の世界です)へ還る瞑想を行います。
 それが阿字観(アジカン)です。
 もしかすると、小生のようにネコやイヌなどと語り合う方々は、いつの間にか、「生命全体」を感じとっておられるかも知れません。
 仏教が説く輪廻転生は、決して荒唐無稽な夢物語や観念の暴走がもたらした錯覚などではないことをご理解いただきたいと願っています。
 輪廻転生の正しい理解は、モノとお金とギラギラした欲望へ心の比重がかかり過ぎている文明を転換させ、人間中心主義的な世界観を省みて人間の(ゴプ)がもたらす環境破壊へ歯止めをかける力ともなり得ることでしょう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.07

四苦八苦を生きて ─高校卒業後の半世紀─

20140107001 (2)

 昨年、酸素吸入器を着けつつ集中治療室から生還されたAさんが、「紅白しだれ桃の木 平泉寺」と題する版画の年賀状をくださった。
 涙が出るほど、嬉しかった。
 Aさんは精魂込めた作品をお送りくださった。
 Bさんも、Cさんも、Dさんも……。
 そうした方々に対して私はたった一行である。
 詫びつつ、仏神のご加護を祈り、書く。
 あまりに粗末ではあるが、何とか松の内に届くよう努力する。
 大変、申しわけないけれど、もう私には、いただいた年賀状にお返事を書くことしかできない。
 年賀状による心の便りは、一年に一度、一年間続く安心を与えてくれる宝ものである。

 さて、高校で同期だった仲間が文集を作ることになった。
 半世紀をふり返ってみた。
 以下、駄文である。
 なお、四苦八苦とは、以下のとおりである。

・生苦(ショウク)…生まれ、生むことに関する苦、ままならなさ。
老苦(ロウク)…老いに関する苦、ままならなさ。
病苦(ビョウク)…病気に関する苦、ままならなさ。
死苦(シク)…死に関する苦、ままならなさ。
・愛別離苦(アイベツリク)…愛しいものとの分かれに関する苦、ままならなさ。
・怨憎会苦(オンゾウエク)…怨み憎むものとの出会いに関する苦、ままならなさ。
求不得苦(グフトクク)…求めても得られない苦、ままならなさ。
・五蘊盛苦(ゴウンジョウク)…生きて、感じ、想うはたらき全般に関する苦、ままならなさ。

 仙台二高を卒業して半世紀経ったとはとても実感できない。
 しかし事実として、肉体は老いさらばえた。
 どう繕おうが実態は無惨である。
 精神はどうか?
 物忘れをするようになり、計算能力は落ち、意識のはたらきと言葉を発することが〈即〉とつながらず会話に躓く。

 一方で、あの頃はまったく想像すら出来なかった人間の宿命について些か、わかってきたことは確かである。
 何よりも意識の落差が大きいのは「老い」についてである。
 いかに小説を読もうが映画を見ようがお年寄りと話をしようが、老いによる生命力の全般的な減衰はまったくと言っていいほど想像も感得もし得なかった。
 また「病気」についても然りである。
 風邪をひいたり盲腸がやられたりはしても、当時における病気は治ってあたりまえの一時的災厄でしかなかった。
 自分の死への一里塚であるという意味での病苦など、どこにもなかった。
 また、愛するものとの永久の別れや、憎悪せずにいられない相手との巡り会いなど、自分の非力がまったく役立たぬ現実に打ちのめされ心身が立てなくなる体験もまだ、乏しかった。
 たとえ豊かではなくても、砂漠で乾いた喉が水を欲して得られぬような、あるいは、不治の病気に罹り子供の成人までいのちが保たぬような求不得苦(グフトクク)は知らなかった。
 もちろん生まれる苦は、妻や子の出産においてやきもきする程度しか、未だにわからない。
 そして、肉体や現象界、感受作用、想起作用、意志作用、自分という意識、それぞれが盛んにはたらき、コントロールしかねるがゆえの苦があるなど、思いもよらなかった。
 二千万人いる各種依存症は、この五蘊盛苦(ゴウンジョウク)が行きついた姿である。

 我が身の体験として、あるいは家族や他人様に起こったできごととして徐々に四苦八苦を知った。
 ここまで生きてきてようやく宿命を観たような気がする。

 最近、独り暮らしのAさんが家の中で転び、腰を痛めて動けず救急車も呼べないので、飼い犬に付き添われたままじっと二時間過ごした体験をお聞かせいただいた。
 それは大変だったでしょうと言葉をかけたところ、「住職さんにはおわかりにならない」と言われた。
 娘にいかなる時も携帯電話を離さぬよう厳命されている私には、手さえ動かせない状況を想像してみても現実性がない。
 だから、早朝の本堂でやってみた。
 微動だにせず厳寒の中で過ごしたのは僅か三十分。
 それはまるで永遠のように長い時間だった。
 いつまでそうした状況が続くかわからないAさんにとっての二時間は文字どおりの永遠であり、死へつながる可能性も考えさせる心細く怖ろしい時間だったことだろう。
 やがて私へも訪れる死苦はいかなる相貌をとって顕れるのか?

 半世紀かけて、釈尊の説かれた四苦八苦を教えられつつ生きてきたが、この道は死ぬまで、更には来世まで続く。
 転生(テンショウ)のおりには、中森明菜の「恋も二度目なら」ではないが、自他のため、「少しは上手に」対処ができるようになっていたいものだと願っている。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.06

死は瞬間ではない ─生・死・劫・刹那・無常─

201401060242.jpg

 ダライ・ラマ法王著『傷ついた日本人へ』を読んでいます。

「仏教では、古くから時間への考察を続けてきました。
 その中では、時間に実体はなく、人間の認識の中で捉えている概念に過ぎないことも言及されています。
 そのため、人間の理解を超える長い時間を『(コウ)』といい、逆に短い時間を『刹那(セツナ)』と呼び、その限界を認めているのです。」


 とは感得も想像もしきれないほど長い時間であり、ヒンズー教によって「1 = 43億2000万年」と定義されています。
 仏教には、岩と天女のたとえ話があります。
 1辺が40里ある巨大な岩を3年に1度、舞い降りる天女が羽衣で撫で、すっかりすり減ってしまうだけの時間であるとされています。
「寿限無(ジュゲム、寿限無(ジュゲム)、五(ゴコウ)の摺り切れ、~」の「」です。

 さらにダライ・ラマ法王は、久方ぶりに会えば老化や肥満に気づくけれど、目の前にいる人のそうした変化は認識できないし、自分自身の身体の変化ですら同じことであると指摘しています。
 捉えられない変化が一瞬、一瞬に起こり、それが1分、1時間、1日、1ヶ月、あるいは1年と経過した時点で気づくしかありません。

「死にも同じことが言えます。
 医学的見地では、ある時点を指して『死』と規定していますが、それも人間が便宜上引いた、生と死のボーダーラインに過ぎません。
 実際の人間は自分で把握できないレベルで、少しすつ、少しづつ死んでいくのです。」

 
 私たちは、亡くなった人を見れば〈生きていない〉と認識できますが、どこまで生きていたかはわかりません。
 お医者さんから「ご臨終です」と告げられて、「ああ、亡くなった」と思うのみであり、それは、限られた範囲の方法で、肉体のはたらきが限られた部分について消滅したことを確認しただけであり、〈いのち〉全体の消滅をあらゆる面から確認したわけではありません。
 まして、〈意識〉の消滅など科学的に計測するたった一つの方法も、私たちは持ち合わせていないのです。
 そもそも、私たちの身体を構成している約60兆個の細胞は、毎日3000億個死ぬ一方で、ほぼ同数が生まれており、数ヶ月後で肉体は別ものになってしまいます。
 ラマ僧アナガリカ・ゴヴィンダは言います。

「仏教哲学に通じたすべての人は、この世に生命を受けたいかなるものにとっても、生と死はただ一度だけ起こる現象ではない、ということを認識している。
 すべての瞬間、刻々と、われわれの内部で何かが死に、何かが再生しているのである。」


 最近、科学者Aさんから「現代の科学者には、宇宙とは観測できる範囲のものである、という認識がある」とお聴きしました。
 このように、人間にとって可能な範囲と、そうでない範囲があることをはっきり意識するという謙虚な姿勢は、とても大切ではないでしょうか。

 それでもなお、私たちは、共同で社会を構成し、できごとに対処してゆく便宜上、死などについても皆が従うべき〈とりあえずの取り決め〉をしておかねばなりません。
 24時間は荼毘(ダビ)に付さないこともそうです。
 だからこそ、ご遺体は火葬炉へ入るまで生者同様の扱いを受け、収骨の際にも礼を尽くした対応が行われます。
 生と死を劃然と分け、「死んだのだから、もう、ただのモノになった」とする物質的な考え方よりも、曖昧な生と死を貫く人間の尊厳を感得し、尊び、しかるべき礼儀とふるまいに生きるところにこそ、人間の人間たる資格があるのではないでしょうか。

「これは『刹那滅(セツナメツ)』という仏教の考え方にも現れています。
 あらゆる物事は刹那の間にも生じて滅するという概念です。
 全て一瞬一瞬変化していて、同じ状態ではない。
 これが仏教でいう本当の意味での『無常』なのです。」


 無常とは単なる気分ではありません。
 熟考の末にたどり着いた深遠な思考が概念となり、言葉となって私たちの文化を構成し、文化の空気を吸い、水を飲んできた歴史が深い意識へ溜め込まれ、舞い散る一片の木の葉にも存在を貫く原理を感じとり、霊性が震えます。
 こうした霊性の発露が文字や音楽や芝居などの様式となり、無常の文化が醸成されてきたのではないでしょうか。

刹那滅は人間には捉えることができない、非常に微細(ミサイ)なレベルの現象です。
 しかし、たとえ私たちの目には同じように見えていても、実は常に変化しているということをきちんと認識することが大事です。
 こう考えると、目の前の現状を嘆いたり、今持っているものに執着したりすることが、いかに意味がないかとわかるでしょう。
 全ては気づかぬうちに一瞬で変化してしまうものだからです。
 逆に言えば、どんなに小さな変化でも、その積み重ねが大きな変化をもたらすということです。
 少しづつでも自分を良い方向へ高めることで、まとまった時間が流れたそき、目に見える変化となって現れるでしょう。
 こうした事実を心に留めて、日々を過ごしていただければと思います。」


 劫や刹那に学び、我欲や激情に流されない生き方をしたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.05

牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる ─今年もやります『法楽農園』─

20140105013.jpg

 伊藤左千夫が今から100年ほど前に詠んだとされる一首です。

「牛飼が歌よむ時に世のなかの新しき歌大いにおこる」


 農家に生まれながら明治大学を卒業し、牛乳搾取業を始めた左千夫の満々たる意欲が感じられます。
 これからは農民も文化の旗手になれるという文明開花の時代らしい作品です。

 伊藤左千夫を思い出したのは、法楽米を食べたAさんからお便りをいただいたからです。
安藤昌益ではありませんが、農業は国家のおおもとで、とくに口舌の徒がもてはやされる昨今、貴重なことと思います。
 多くの若者が農業や第一次産業に従事し、食っていけるような仕組にしないことには、この末法の世に救いはありません。」

 こんな返事を出さなければと思いながら、なかなか思うに任せません。
「『若者が農業や一次産業に従事して食っていける』日本になることを心から願っています。
 また、日々、淡々と続く地産地消こそが地域興しの根本であり、変わり映えのしない〈B級グルメ合戦〉などで『口舌の徒』に乗せられているだけではならないと考えています。
 地域住民、あるいは同志の支え合いができた上で、人であれ、モノであれ、お金であれ、余剰物による潤いが幅広くもたらされれば、安心な世の中になるのではないでしょうか。」

 昨年はとうとう、ユンボを動かして土手や堀を造る時間がなく、〈ふゆみず田んぼ〉が実践できませんでした。
 残念でなりません。
 水は入れてみたものの、情けない状態です。
 呉地正行先生からお勧めいただいている『ラムサール・ネットワーク日本』への入会は延びました。

 ある時、無農薬・無肥料を続けたらどうなるか、一筋に研究してこられた方から教えていただきました。
「収穫量はだんだん減ります。
 しかし、たとえ1反歩から1俵しか採れなくなっても方針を貫けば、やがて土地に力がつき、必ず急回復の時を迎えます。
 その転換点は目先、数年です。
 ぜひ、頑張ってください」
 やがて、転換点を迎え、一緒に汗を流した方々と共に快哉を叫ぶ時、それはまさしく「牛飼が歌よむ時」でありましょう。

 今年は、自然農法を実践しておられる先輩方と共同して機械の購入に踏みきり、強力な雑草対策を行います。
 法楽農園の畑も整備し、作り始めたプルーンや栗や行者ニンニクや山芋だけでなく、もっと多彩なものたちを育てたいと願っています。
 共に自然農法を行いたい、共に『法楽米』を作りたいという志のある方はぜひ、ご助力ください。
 共に新しい喜びへ向かい、喜びと安心の輪を広げましょう!




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2014
01.04

仕事とは「事(コト)に仕(ツカ)える」こと ─勝手?滅私?─

20140103044.jpg
〈「みやぎ四国八十八か所巡り道場」にて〉

20140103047.jpg
〈お仕えする方々〉

 去年は、仕事に関する人生相談が多く、また、仕事についての感激や失敗や落胆などのできごともたくさん見聞きしたので、仕事始めになるこの時期に、仕事ついて考えてみましょう。

 仕事の第一義は、生きるための手段ではなく、ましてやお金儲けの同義語などでもありません。
 仕事は「事(コト)」に「仕(ツカ)える」と書きます。
 では、事とは何か?

 生きている限り、事は無限に続きます。
 時間は、事の連続です。
 では、その中の何が事か?

 この面で、大いなる勘違いがまかり通っているように思われてなりません。
 子供たちは、自分の未来へどういったイメージを持っているでしょうか?
 自分の〈好きなこと〉をやって生きたいと思ってはいないでしょうか?
 大人たちは、「一生懸命に打ち込める好きなことを探しなさい」と教えはしないでしょうか?

 確かに、野球の選手になりたい、のも、介護士さんになりたい、のも、〈好きなこと〉を選んでいる状態です。
 では、なぜ、そうなりたいのか?
 言い換えれば、なぜ、選手も、介護士さんも、子供たちの目に輝いて見えるのか?

 それは、観客に感動を与え、介護の必要な人から感謝されているからです。
 選手も介護士さんも、自分のパワーだけで輝いているのではありません。
 パワーを受けた人々からやってくる感動や感謝のパワーをも鏡のように受け、反射させているからです。
 その証拠に、彼らは必ず「ありがとうございます」という心を持ち、そう、口にもします。
 観客を楽しませ、救いを求めている人の杖になっていながら、相手のためにはたらく人がなぜ、自分からありがとうと言うのか?
 それは、相手からもらうありがとうの心が、選手や介護士のパワーとなっており、そのことによくよく気づいているからに他なりません。
 このように、はたらき、人間として本当に輝いている人は謙虚です。
 高慢な人は、決して「あの人のようになりたい」とは思われません。
 いかに有名であろうと、いかに実績を積もうと、いかにお金を貯めようと尊敬されず、理想のモデルにはなり得ません。
 これまで何度も言及したとおり、『仕事の流儀』(日経BP社発行)を書いた高任和夫氏によれば、インタビューした一流の仕事師たちは例外なく、謙虚さと志を持っていたそうです。

 では、なぜ、彼らは相手からありがとうと言われるのか?
 なぜ、ありがとうの心をもらい続けられるのか?
 それは、信頼されているからです。
 信頼なしにありがとうが続くことはあり得ません。
 その証拠に、イチローは、たとえ三振しても「次はきっと打ってくれるだろう」と期待され、田中将大投手は、「きっとまた、勝ってくれるだろう」と期待されます。
 この「信頼を得る」ところにこそ、真に「事(コト)に仕(ツカ)える」姿があります。
 信頼は、「事(コト)に仕(ツカ)える」真剣さが生むのです。

 ここまで来れば、野球の選手や介護士さんの〈好き〉が、〈好き勝手〉ではないという事実が明らかになります。
 イチロー選手は、いつも、数字に表れる実績は結果であり、選手としての目標はチームの勝利と優勝であると言い、決してぶれません。
 むしろ、〈勝手〉の反対である〈滅私〉へ近づく過程にこそ、信頼は積まれてゆきます。
 
 このように、周囲から信頼という宝ものを与えられるほど、我を忘れて真剣に集中できる対象、それが〈事〉ではないでしょうか。
 その〈事〉に仕えてこそ、仕事をやっていると言えるのです。
 だから、お給料をもらったり、儲けたりする行為だけが仕事ではありません。
 家事も、育児もすべて、心がけ一つで本当の〈事〉たり得るのです。

 さて、〈仕〉もまた、〈勝手〉の反対である〈滅私〉を含んでいます。
 仕という字の成り立ちからすると、そもそもは、天子や君主の命によって従うことを「仕える」と言います。
 つまり、自分よりも尊いもののために自分を投げ出す〈滅私〉がなければなりません。
 たとえば僧侶は、み仏と仏法へお仕えする者を指します。
 自分のためにみ仏や仏法を利用するなどということはあり得ません。
 だからこそ、み仏と仏法と仕える行者のためにできることを行おうとする尊い心を持った在家の方々をも含めて「僧宝(ソウボウ)」と呼ばれます。

 だから、「好き勝手をやって生きる」というイメージの先には、自分をかける仕事が待ってはいません。
 いくら探しても、不満と挫折の連続になることでしょう。
 反対に、「誰かの何かのためになりながら生きる」というイメージの先にこそ、自分をかける仕事が待っています。
 抜きん出た才能があるごくごく一部の選ばれた人にしかイチローのような栄光は待っていませんが、人間として仕事に邁進し、信頼を得つつ生きる道は、万人に開かれています。
 根本的な問題は、好きなことを見つけようとするのではなく、ことに応じ、時に応じて役割を果たせる人間になれるかどうかにかかっています。
 そうした人間には、ありとあらゆることが〈事〉となり、それを行えばすべてが仕事としての輝きを持つことでしょう。
 その人の黙々と行う徳の輝きは周囲の人々へ届き、ありがとうの心がもたらされ、徳はますます輝きを増すことでしょう。

 心から〈仕事〉を求めるのなら、好き勝手をやって生きようとする考えを捨てましょう。
 社会の中で生きている今の自分に必ず与えられている〈事〉を見つけ、邁進しましょう。
 見つけるには、「誰かの何かのためになりながら生きる」心になること、たったそれだけです。
 誰かに心からありがとうを言う言葉の布施(フセ)行も、その一つ、嫌な作業や辛い役割を黙ってこなす忍辱(ニンニク)行も、その一つなのです。
 きっと、その先に、本当にやりたいことと、やるべきことが一致する仕事の妙味を感じられる時期が訪れることでしょう。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2014
01.03

目をつむればおられる守本尊様 ─子供の瞑想とご加護─

2014010300111.jpg
〈A君の守本尊文殊菩薩様〉

20140102012.jpg

 お正月の修正会(シュショウエ)にご参詣されたお子さんから訊かれました。
「ねえ、神様っているの?」
 お答えしました。
「ほら、目の前に大きな仏様がおられるだろう。
 このお大日様も、神様のようにありがたい方なんだよ」
「えっ、ここにいるの?」
「ここだけじゃないよ。
 どこにでもおられるんだよ」
「じゃあ、僕のとこにも?」
「そうだよ。
 お大日様をじっと見てから、めをつむってごらん。
 さあ、瞼の裏に現れてくださるかな……」

 まだ小学低学年とおぼしき男の子は、イスに乗って背を伸ばし、言われたとおりにしました。
 目をつむり、じっとしています。

「見える?」
「うん、見えるよ!」
「えっ、本当?
 おじさんなんか、なかなかできなかったよ。
 凄いなあ!」

 頭を撫でたところへお母さんがやってきました。
「A君、どうしたの?
 和尚さんに褒められてよかったね」
 見えたとは答えたものの、A君はあやふやだったのでしょう。
 また、やっています。

 お二人へ言いました。
「目をつむってご本尊様に会えるようになれば、とても安心です。
 もし、誰かにいじめられたならば、すぐにケンカするのでなく、場を離れ、ご本尊様を瞼に浮かべながら真言をつぶやけば、怒りや恐れや悲しみなどはぐっと和らぎます。
 それから、さて、どうしようか、と考えれば、感情の暴風に負けません。
 きっと、一番よい考えが浮かぶことでしょう。
 守本尊様のご加護は確かです。
 A君の守本尊様はどなたかな?」
「僕、ウサギさん!」
「そうか、ウサギ年生まれなんだね。
 じゃあ、文殊様だ。
 A君の気に入った文殊様をいつでも思い浮かべられるようにしようね。
 唱える真言は、おんあらはしゃのう、だよ」

 手作りした守本尊様の御守を渡し、書いてある真言を一緒に唱えました。
 たった7回で、A君は暗唱してしまいました。
「おんあらはしゃのう!
 おんあらはしゃのう!
 おんあらはしゃのう!」
 元気いっぱいです。

 きっと、A君は、一時の感情に負けてとんでもないことをやらかす危険性から遠ざかったに違いありません。
 守本尊の修法によって魂入れが行われた御守を手にしたA君は、たちまちにして運命転化を獲得しました。
 寒風の中を参詣されたご一家に、ご本尊様から消えないお年玉が授かりました。
 ご本尊様のご加護は確かなのです。

20140103001 (2)
〈ハイパワーの御守




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。