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2014
02.28

柔軟な心と探求する心(仏法による救われ方) ─3月の聖語─

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〈『七ツ森の湯』は順調です〉

 お大師様は病気について説かれました。

「家へ帰るには必ず、乗り物や道によらねばならず、病気を治すには必ず薬や処方箋による。
 病気の原因はとても多いので、薬や処方箋も一種類ではない。
 家へ帰るにも遠かったり近かったりして、道も乗り物もさまざまである」


 以下が原文です。

「それ宅に帰るには必ず乗道(ジョウドウ)により、病を癒すにはかならず薬方による。
 病原巨多(コタ)なれば、方薬非一(ヒイツ)なり、己宅(コタク)遠近(オンゴン)なれば道乗(ジョウドウ)千差(センジャ)なり。」


 私たちの人生はそれぞれ異なっており、そこに生ずる問題も多種多様です。
 だから、過去の因縁に悩む人へは千手観音様が、好みに引きずられて人生を誤りそうな人へは大日如来様が、あるいは死に神に取り憑かれた人へは不動明王様などが救いの手を差し伸べてくださいます。
 私たちは、そのお智慧に導かれ、至心にその真言を唱えてお救いいただくのです。

 ここでは、多種多様な問題へ対応する際の、柔軟な姿勢の大切さが説かれています。
 転じて、多種多様な仏神を感得できる私たちの心のありようと、守本尊様方の救済が一様ではないことを考えさせられます。

「四百もある病いは、地・水・火・風の四つに狂いが生じて身体を苦しめ、八万もある患いは、貪り、怒り、愚かさの三つが心を害して起こる。
 身体の病気はいかに多いと言っても、その根本原因は、骨格・血液・体温・呼吸の不調と、悪霊(アクリョウ)などの祟りと、悪業(アクゴウ)の報いの六つに絞られる。
 心の病気はいかに多いと言っても、その根本原因は、真の智慧がない無明の一つに絞られる」


 以下が原文です。

「四百の病は四蛇(シジャ)に由(ヨ)って体を苦しめ、八万の患(ワズライ)は三毒に因(ヨ)つて心を害す。
 身病(シンビョウ)多しといへどもその要は唯(タダ)し六つのみ、四大(シダイ)鬼業(キゴウ)これなり。
 心病(シンビョウ)衆(オオ)しといへどもその本は唯し一つのみ、いはゆる無明(ムミョウ)これなり。」


 身体的な病気の原因をつきつめて行けば、骨折など骨格に関する問題・血糖値が上がるなど血液に関する問題・発熱など体温の問題・喘息など呼吸の問題に収斂します。
 加えて、悪霊など目に見えない悪意の力や、不注意な飲み過ぎなど、身体に悪い結果をもたらす原因を自分がつくってきたことも挙げられます。
 精神的な病気の原因をつきつめて行けば、足を知らない貪り、忍耐力に欠ける怒り、自己中心的で勝手な愚かさによって起こる懊悩になりますが、それらはすべて、因果応報(クウ)などの真理に気づかないでいることから生じています。

 ここでは、多種多様な問題へ対応する際に、目先の対応だけでなく、根本原因をきちんと押さえておくことの大切さが説かれています。

 仏法は医療と同じく、治療法と予防法を持っています。
 治療には、症状に合った診察と処方箋と施薬などが必要となり、予防には、心身のありようと上手なコントロール法を学ばねばなりません。
 たとえば、不登校になってしまえば、必ずしも当校せずに回復を目指すとしても、普段は、当校を〈為すべきこと〉と強く自覚して、怠け心を克服する姿勢が欠かせません。
 仏法も又、当病平癒や入試合格や厄除け開運などを至心に祈る一方で、因果応報をきちんと観たり、すべてが移ろいゆくさまに無常を感得したり、説法に接するなどして真理に気づき、右往左往せず、誰かのためになる穏やかで思いやりのある心をつくって行く、二つの方向で人生の柱とも杖ともなります。
 おすがりするだけでなく、知識を蓄えるだけでなく、純粋な信仰による救済と、勉強や修行による生き方の確立と、二つを目ざしたいものです。




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2014
02.27

選べる来世 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(8)─

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〈沖縄で出会った花〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生の法則

1 生命の輪(その2)

○自ら来世を選び取ることも可能である

「私が考えるに、輪廻転生という特定の用語自体は、自分自身の来世での行き先、すなわち生まれ変わる時と場所とを選び取ることができるような人々、あるいは生きとし生ける存在に対して、そもそも与えられたものだろう。」


 お釈迦様は、繰り返し説かれた。
「自ら、よきいのちを選び取れ」
 たとえば『法句経』の一句である。
「愚か者は、苦界へ行くと思わずに好き勝手なことを行う。
 災厄にまみれる世界へ堕ちてようやく、不善行の結果が顕れたことを知る」
 この教えは、娘の不審な焼死を嘆き、お釈迦様を訪ねた王様へ、娘が前世において他人を焼死させた因果であることを指摘した後に、説かれた。

 因果応報の時間軸を伸ばせば、当然、輪廻転生になる。
 そのことを知っていれば、暴力を揮ったり、騙し取ったり、裏切ったりはできない。
 今、腕力を誇っても、より多く手に入れても、自分だけがうまくやっても、誰かを苦しめた行為は、必ずいつか、それらを原因とする結果を自分の身で確認せねばならない時が来るからである。
 因果応報を理解した者は、自分が悪行の報いを受けぬままにこの世を去ることは、心底、恐ろしい。
 必ず、苦にまみれる来世がやってくるからだ。
 そこでは、自分だけが苦しむのではなく、同輩すべてが同じような苦しみに喘ぎ、呻いている。
 自分の悪行が悪しき共業(グウゴウ…共につくる業)となり、自他へそうした来世をもたらしてしまう。
 だから、懺悔せずにいられない。
 誰かのために祈り、誰かへ笑顔や優しい言葉をかけ、誰かへモノを施し、悪行に倍する善行を実践せずにいられない。
 因果応報を理解し、輪廻転生を信ずる者は、今、ここで、できることを行って自らを清めずにはいられない。
 一瞬後にいのちを失い、〈来世〉がやってきたとしても、何の不思議もないからだ。

「これは少しばかりむずかしい話になる。
 仏教的な観点から考えると、輪廻転生とは個々の到達した内面、もしくは実践の高さによっては、次の生命を自ら選び取ることが可能だということを意味している。」


 善行によって善果が訪れ、悪行によって悪果が訪れることは理解できても、「次の生命を自ら選び取る」ところまではなかなか確信が持てないのではないか。
 私は、いかにささやかな善行を重ねているつもりでも、これまでに自分が重ね来た悪行を知っている以上、行く先はご本尊様へお任せする以外にないと思っている。
 しかし、お大師様の師である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)ともなれば、次元の違う話になる。
 阿闍梨は、お大師様へ密教のすべてを伝授し終えてまもなく、この世を去られた。
 そして、修法中のお大師様へこう告げられたという。
「お前が我が師である不空(フクウ)の生まれ変わりであるように、今度は自分がお前の弟子として生まれ変わり、密教を広める」
 故三島由紀夫の最終作『豊饒の海』全四巻は、第一巻において死に行く主人公が友人へ言い遺した言葉に導かれる。
「今、夢を見ていた。
 又、会うぜ。
 きっと会う。
 滝の下で」
 

「それぞれが到達した精神的、あるいは実践的高みから、生あるものは来世を選び取れ、しかも、それは必ずしも一つの生命ではなく、複数の、ときに多くの生命を同時に選び取れるということである。」

「だが、これはあくまでも、その個々が到達した高さの水準のいかんにかかわっていることだ。」


 このあたりになると難しいが、ある科学者の言葉を思い出す。
「私たちの身体には、ソクラテスやマリリンモンローなどの身体を構成していた分子があるかも知れません」 
 ならば、〈精神の分散〉もあり得るのではなかろうか。




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2014
02.26

沖縄の戦場へ(その1)

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〈この丘の上にあるものは、ああ、配水タンクとネオンを見下ろす展望台〉

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〈小さな碑盤では、ああ、米軍の火炎放射器が日本軍を焼いている〉

 2月20日、初めての沖縄行きのため、空港へ向かう途中、メールが届いた。
 現地は雨、雨具必携との知らせだが、仙台市内で枕経の修法を行い、そのまま駆けつける強行軍ゆえ、余裕がない。
 ままよ、と搭乗者になった。
 あにはからんや、晴れとなった那覇空港の荷物受取所では、同じ便に同乗の同志A氏(さる道場主)に声をかけられた。
 やはり一緒だったB氏(教諭)も来られ、出迎えてくださった主催者C氏(防大)とD氏(僧侶)に最初の目的地慶良間(キラマ)チージ(通称すりばち丘シュガーローフヒル)へ案内していただく。

 ジェームズ・H・ハラス著『沖縄 シュガーローフの戦い』は記す。

「五十年前に男たちが死んでいった場所は、いま、マクドナルド、ファミリーレストラン、ケンタッキー・フライドチキン、アウトレット、消費者ローン、中古屋が立ち並ぶ想像を絶する場所となっている。」

「一九九三年、沖縄県はこの地区の再開発をはじめると、地中からは、人骨、水筒、錆びた軍需品や装備品の一部などが掘り起こされた。
 一九九三年、沖縄県による新たな配水タンクの建設が計画され、必要な造成工事なされた時点で、地元の芸術家グシケン・セイチョウが、シュガーローフに歴史を説明する碑文と、平和を祈るモニュメントの建設を提案した。
 彼は『那覇市には、沖縄戦を祈念するモニュメントがないが、県民は、ここで起きたことを知る必要がある』と語った。
 第六海兵団協会もこのプロジェクトを後押しし、最終的に那覇市が建設を許可した。」


 また、同著を翻訳した猿渡青児氏は平成22年、この一帯について書いた。

「一九四五年(昭和二十年)五月に、本書で記述されている激戦が繰り広げられた、那覇市北方の安謝川から、安里川の地域は、那覇市の中でも、最も変貌した地域の一つである。
 戦後、この場所は米軍が接収し、米軍嘉手納基地の軍人・軍属向けの住宅地として利用され、一九八七年に日本側に全面返還された。
 その後、那覇新都心と呼ばれる、都市計画にもとづいた新しい街がつくられた。
 ショッピングセンター、シネコン、公園、オフィスビルなどが立ち並ぶ光景は、とても60年前に接近戦闘が繰りひろげられたとは思えない場所に変貌している。」

「『那覇市おもろまち一丁目六番地』これが、現在のシュガーローフの住所である。
 丘は大きく削られ、頂上には那覇市により排水タンクが建設された。
 タンクの周囲は遊歩道がつくられ、展望台も設置されている。
 また、シュガーローフの激戦を記した碑文も設置されているが、人通りはまばらである。
 丘は、中心部以外は周囲を削られているが、昭和二十年当時は、現在の『おもろまち』駅近くまですそ野がひろがっていたと思われる。」


 碑文は小ぶりなもので、米軍の死傷者数などはあっても、日本軍については「学徒隊・住民を含め多数の死傷者を出した」としか書かれていない。
 米軍の侵攻を一日でも引き延ばすため、最後の一兵までも戦い抜いたという真実は伝わらない。
 米軍の記録『沖縄 シュガーローフの戦い』は、夜間、一人で突撃を敢行し、射殺された「亡霊のような」「ミイラ男」について書く。

「やつの足には包帯がまかれていた。
 片方の足は撃たれていたんだ。
 頭にも包帯がまかれていた。
 そのため片方の目しか見えなかった。
 おまけに腕も包帯がまかれて、三角巾でつられていた。
 でも彼は手榴弾を持っていた。
 彼は満足に歩くこともできず、足を引きずりながらやってきたんだ。」


 アメリカ軍は後方に豊富な物資があり、糧食にも医療にも。もちろん弾薬にも不自由のない戦いだったが、日本軍は違う。
 『沖縄 シュガーローフの戦い』は書く。

「おかしなことだが、ジャップを撃ち殺しても、あまり出血しなかった。」
「アメリカ兵が撃たれると、この世のものとは思えないほど出血した。
 だけど日本兵は血が出ない気がした
 やつらはただ死ぬだけだった。」


 D氏が心をこめて用意し、A氏、B氏、C氏も手伝い、強風を避けるるよう展望台のすぐ下に小さな祭壇が用意された。
 白足袋に履き替え、折五条の袈裟をかけて地面へ正座する。
 C氏が急いでジャンパーを脱ぎ、座布団代わりにと提供してくださったが、もちろん、丁重にお断りした。
 
 見渡す限りの〈戦場〉に結界を張る。
 街のネオンの向こうには、前方から左手に書けて、首里の丘が低く延びている。
 生者も死者も、本来持っている汚れ無き仏性が輝き出るよう、お清めを行う。
 声明(ショウミョウ)を唱え、東方からも南方からも西方からも北方からも、この現世へ、み仏の慈光をいただく。
 不動明王様の修法により、重ねて、苦や悪の辟除(ビャクジョ…取り払う)と結界の法を結ぶ。
 み仏方をお讃え申しあげる。
 あらゆる因縁を解き、あらゆる塞がりを破摧する。
 九字を切る気合は見えぬ海までも届いたと感じられた。
 重ねて、八方天地の仏神にご加護をいただく。
 あらゆるものが即身成仏(ソクシンジョウブツ…今、このままで、み仏たる真姿になる)し、結界内が密厳国土(ミツゴンコクド…真実の世界)となるよう、お力をいただく。
 仏法のお授けを行い、極めて遅まきながら、引導を行う。
 この世とあの世との境を明確にし、いかなる憎悪や苦悩も因縁として遺さぬ修法は、半世紀の時間を超えて御英霊をはじめとする御霊方へ通じた。
 また、当時、この地域の戦闘でいのちを失ったあらゆる生きとし生けるものへ因縁解脱の法を結んだ。
 いまだ、ご供養を受けていないあらゆる御霊方へ、順次、ご供養を行う。
 初七日の不動明王様を初めとし三十三回忌までの十三仏様と、五十回忌の愛染明王様までの法を結ぶ。
 百回忌はきっと、志ある後輩が後に続くだろうと考え、あえて予修法要は行わなかった。
 当時、生きてあった生きものたちへの供養法も行う。
 死者も生者も仏性が開くよう祈り、み仏方へ感謝の誠を捧げ、この場をお守りくださった不動明王様をお讃え申しあげ、修法は終わった。

 十三仏様のご供養あたりでだったろうか、急に雨となった。
 ご英霊をはじめ、いのちを落としたあらゆるものが流す涙雨であろうと感じた。
 即身成仏している導師も、人間の部分において、心に涙雨が降った。
 こめられたのは何だったろうか……。
 修法が終わる頃になり、雨はからりと上がった。
 ご参列の方々がそれぞれお線香を捧げ、供養し、供養会は終わった。
 C氏は、見晴るかす首里の稜線上にご英霊方が捧げ銃(ツツ)の敬礼で並んでおられるのを確信したと言われる。
 正座したコンクリートの地面は、混ぜ込まれた小石たちが痛くもなく、途中から明らかに温かくなり、まるで座布団上に坐しているようだった。
 一言だけ申しあげた。
「ご英霊をはじめ、人間はもちろん、当時、地上でも地下でも生きていたはずのあらゆる生きとし生けるものへ、供養のまことを捧げました。
 たとえご遺骨は私たちの足下にあろうとも、御霊方は、み仏のご加護により、解き放たれたと信じています。
 生きているうちに、いつかは南の戦場へ行き、祈りたいという願いが叶いました。
 役割を果たさせていただいたことに、心から感謝申しあげます。」




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2014
02.25

今、逝きし妻よ、君は何と美しいことか

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〈地鎮祭における結界の剣〉

 平成2年に100歳の長寿をまっとうした土屋文明の一首である。

「さまざまの七十年すごし今は見る最もうつくしき汝をに」


 ご訃報を受けると、最初の法務が枕経(マクラギョウ)の修法である。
 お(ヒツギ)の内へそっと視線を走らせ、合掌する。
 たとえ米寿(ベイジュ…数え年88才)を過ぎたような方ですら、神々しさにハッとさせられる場合が少なくない。
 早くも、み仏の世界の住人となられるにふさわしい美しさを具えておられる。

 もちろん、日本文化の精華である納棺師(ノウカンシ)を務める方々の奮闘によるところが大きい。
 しかし、優れた納棺師の方々はきっと、自分が美しく化粧してあげるとは思っておられないのではないか?
 死によって煩悩が削ぎ取られた〈本来のお顔〉を整えてさしあげるという意識ではなかろうか。

 映画『蕨野行(ワラビノコウ)』で北林谷栄が演ずる老婆は、自主的に入った姥捨て山で、ついに動けなくなり、仰向けになったまま「ようやくひもじさに克った。この安楽な気持はお前たちにはわかるまい」と言い残して逝った。
 私たちは、生きものとして生まれた以上、自分が生きることを最優先に生きる。
 心が練られれば、自分優先、言い換えれば自己中心の姿勢を抑えつつ、まっとうな社会人として生き抜ける。
 もちろん、そんなことは考えもしないまま、気ままに生きて死んで行く人もいる。
 北林谷栄が演じた老婆は、自分が食を摂れない状況に陥ってようやく、〈得たい〉という渇望から離れられた。

 いずれにせよ、死者に渇望は無縁である。
 霊性を持った存在そのものの「最もうつくしき」表情となり得る。
 納棺師の方々はその可能性を現実的な姿として整えてくださるのだろう。

 92歳の土屋文明は、94歳の妻を送り、冒頭の挽歌を詠んだ。
 その昭和57年当時、納棺師的な仕事をする方のお世話になったのかどうかはわからないが、彼は、70年寄り添った後に、まぎれもなく「最もうつくしき汝」を観た。
 そしてもう一首を詠んだ。

「終わりなき時に入らむに束の間の後先ありや有りてかなしむ」


(お前も私も、いずれあの世へ行く定めにある。
 それが後になり先になったとて、束の間の違いでしかないのはわかっている。
 それでもなお、お前を先に逝かせ、今ここに生きてある自分は、お前の喪失が悲しくてならない)
 東大在学中、第三次『新思潮』の同人として芥川龍之介や久米正雄などと共に活躍した文人らしく、合理的で端然としながらも、率直であり、「有りてかなしむ」は比類ないほど強い悲しみを覚えさせる。

 冒頭の一首は死者を悼む挽歌であると同時に、まぎれもなく人を恋うる歌、すなわち相聞歌(ソウモンカ)である。
 



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「おん あらはしゃのう」
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2014
02.24

3月の守本尊様と真言 ─文殊菩薩─

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地鎮祭にて八方天地十方世界を守る守本尊様方のご加護をいただく〉

 3月は、啓蟄(ケイチツ)と春分(シュンブン)の卯月(ウヅキ…3月6日より4月4日まで)です。
 3月は卯(ウ)の月なので、守本尊文殊菩薩(モンジュボサツ)様です。

 文殊菩薩様は、『過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)』をもって、過去から現在を通り未来へと連なる因と縁と果とのつながりを見極めるお力をくださり、悪しきことをせず良きことを行うようお導きくださいます。
 文殊菩薩様は、卯年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 また、数え年3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102才の方々を今年一年、立春から節分までお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、暖かさが嬉しい月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。


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 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた文殊菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 3月の守本尊文殊菩薩(モンジュボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あ ら は しゃ のう」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
02.23

ネコやイヌと通じる世界 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(7)─

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〈沖縄で見た花〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生の法則

1 生命の輪(その1)

○輪廻とは、前世によって決まる次の生命のこと

輪廻転生について考えてみよう。
 輪廻転生の仕組みを理解することは容易なことではない。
 これはひじょうにユニークな発想の上に成り立った仏教思想である。
 輪廻とは、前世によって決定される次の生命、次々と引き継がれてゆく生きとし生けるものの生命のことである。」


 輪廻転生が仏教思想の根幹をなすものの一つであることは論を待たない。
 お釈迦様が説かれた言葉そのものにある程度近いとされている初期仏教の経典には、〈生まれ変わり〉を前提とした教えが随所に見られる。
 戦前まではよく読まれていたものに『法句経(ホックキョウ)』があり、当山はかつて、数年にわたってこの経典に特化した講座を開いていた。
 もっとも印象的な句の一つに斧の譬えがある。

「人は生まれながらにして、口中に斧を持っているようなものである。
 自他を斬るのは、その悪言による」


 お釈迦様がこのように説かれたのには因縁の物語がある。

 一匹の牛が、王と、飼い主と、肉屋でその頭を買った人の三人を殺したことがあった。
 この変事を恐れたある王が、お釈迦様を訪ね、「いかなることか?」と問われた。
 お釈迦様は答えられた。
「昔、三人の男たちが、一人で宿を経営していた老婆に、まだ支払っていない宿賃を払ったと強弁し、踏み倒した。
 悔しさのあまり、老婆は、幾度生まれ変わっても必ずお前たちを殺す、と、呪いの言葉を吐いた。
 その通りになったのである。
『粗暴な言葉を用い、高慢心から人を侮り蔑む。
 この悪行によって、妬みや怨みが生ずる。
 謙虚で、道理に従った言葉を用い、人を尊び敬え。
 煩悩を離れ、自他の悪を克服すれば、妬みや怨みは滅び去る。
 人は生まれながらにして、口中に斧を持っているようなものである。
 自他を斬るのは、その悪言による』」

 つまり、因果応報の糸は、時空を超えてつながっているということである。
 死ねばそれっきりではない。
 目に見えない何かが、真理を実現させている。
 真実とは、真理が顕れている現象である。
 それは、真理に依って観る眼にしか見られない。

「この思想自体は、チベット仏教や、古くからのいんどの思想、哲学を信じる人たちにとって、別段目新しいことではない。
 しかしながら、チベットは、もちろんそこにはモンゴルなども含まれるのだが、輪廻転生の受容に関して、他とは異なる仕組み、あるいは伝統を創設したと言えるだろう。」

「とはいえ、それは仏教哲学、あるいは仏教的なものの観点から見て、決して特別にユニークなものではない。
 誰にとっても充分に受け容れられるものであろう。」


 日本でも、廃仏毀釈を引き起こした近代化の歪みに影響されるまでは、生まれ変わり死に変わりは、武士にも農民にも「充分に受け容れられ」ていた。
 しかし、宗教者までが、科学によって証明できないものは排除するという風潮に毒されてしまい、仏教は、宗教としての核を失いつつある。
 その結果、〈こだわらず気楽に生きる〉あるいは〈これにすがれば大丈夫〉という程度の救いしかもたらさなくなり、思想的核を失った伝統仏教の寺院は、急速に、その存在意義を失いつつある。
 僧侶が、真理を求め続けないではいられない者、すなわち本来の一行者として生きるところにしか、日本仏教再興の道はないと思う。
 お釈迦様が説かれ、お大師様がお約束された輪廻転生を自分の頭で考え、修行を通じてこれは真理であるとつかみ取り、真理と真実をきちんと観られるところまで行こうと自分を追いつめつつ生きられるかどうか。
 お大師様が「人によって起こり、人によって滅ぶ」と説かれたことを肝に銘じておきたい。

○輪廻転生は、すべての生きとし生けるものに起こる

「さて、輪廻転生、生命の再生は特定の選ばれた者にだけ起こるわけではない。
 仏教的な観点から言えば、輪廻思想を受け容れるか受け容れないかにかかわらず、輪廻転生はすべての生きとし生けるものに、等しく起こることである。」

「生きとし生けるもの、それらはすべて一つの生命の後に次の生命を生きるというふうに、次々と生命を生き継いでいく。
 生命の輪は継続して回りつづける。」


 冒頭の『法句経』のとおりである。
 お釈迦様は繰り返し、人も牛も兎もさまざまに入れ替わりながら輪廻転生すると説かれた。
 人間が人間に生まれ変わるのはDNAに支配される物質世界の話である。
 心は脳によってつくられているのではなく、脳と密接な関係を持ちつつも、物質世界の原理とは異なる目に見えぬ世界の存在であり、DNAを超えてはたらく。
 飼い猫や、飼い犬と心が通じないと思いながら可愛がっておられる方はないだろう。
 通じるとは、通じさせる何ものかがある、言い換えれば、ネコやイヌと共有している世界があるということである。
 ダライ・ラマ法王に導かれ、この先へと進んでみたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
02.22

第四十九回寺子屋『法楽館』─向上する人生・沖縄の激戦地─

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〈植物は最後の勝者か〉

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〈崩落し、永遠に閉ざされるのは今日かも知れない〉

 私たちは、母体にいのちのきっかけを得た時、行く先を知りません。
 そこは迷宮の世界です。
 生まれれば、ただただ〈生〉を求め続け、暑さも寒さもひもじさも、何もかもが自分ではどうにもなりません。
 目が見え、生きるペースができてくると、食べものが主たる関心事になります。
 ひたすら飲み、食い、瞬く間に成長します。
 やがて、我欲が生じ、自己主張し、奪い合うようになります。
 周囲とのぶつかり合いでもまれ、だんだん、ままならぬという現実に気づいて行きます。ルソーはこう書きました。
「あなた方は、子供を不幸にする一番確実な方法は何であるかご存じだろうか。
 それは、何でも手に入れるという習慣を子供につけることだ」。
 ここで、我慢し、互いに譲り合わねば生きられないという現実感をきちんと身につけねばなりません。
 そして、ようやく小学校という〈公〉の場へ身を置き、社会人となる基礎作りを始めます。
 見聞きするものすべてが新鮮で、どんどん吸収し、そうして得た材料によって思慮を深め、心へ宝ものが溜まり始めます。
 これが、受胎から出生、そして運勢が一回りするまでの九年間です。
 ちなみに、数え6歳、満5歳が人生最初の「本厄年」となります。
 また、恐れられる「八方塞がり」は、母体内で始まっているのです。

 このようにして、人生の螺旋階段は一つの到着点へ達し、そのあたりで再び解けぬ難問にぶつかり、手探りから、解決する糸口の発見、何かの獲得と進みつつ螺旋階段を登ります。
 知らぬ間に、〈かつて見たような、通ったような〉道を歩み、今度は前回よりもいくらかは上手に九年ワンセットの修行を終えます。

 この過程は、愛するものとの別れや、病魔との戦いなど、四苦八苦を知る道行きでもあります。
 最近、同期の仲間が『おとしぶみ』という文集を作り、そこへこんなことを書きました。
「我が身の体験として、あるいは家族や他人様に起こったできごととして徐々に四苦八苦を知った。
 ここまで生きてきてようやく宿命を観たような気がする」。

 さて、お釈迦様は、人生につきまとう苦を克服するための方法として、『八正道』を示されました。
 第一番目は、ものの見方を正しくする「正見(ショウケン)」であり、第八番目の心身を整える「正定(ショウジョウ)」まで八つの道があります。
 では、『八正道』は、運気の流れと共に生じやすく、逃れがたい四苦八苦をどのように消滅させるか?
 また、凡人とは異次元の聖者方が霊性によって感得されたお地蔵様や観音様など、さまざまなみ仏方は、いったい、どのように苦の消滅へかかわってくださるか?
 自己中心を離れたみ仏方が示されるお智慧の力とはいかなるものか?
 これこそが人生の大問題であり、見捨てておけぬこの世の苦を抜く方法をつかむところにこそ、真の意味における如意宝珠(ニョウホウジュ)のご加護があります。
 打ち出の小槌は、世間的財宝をもたらしますが、如意宝珠は自他の苦を抜き楽を与える力という究極的宝ものをもたらします。
 3月8日の寺子屋では、こんなお話をいたします。

 また、2月20日から21日にかけて、沖縄の激戦地でいのちを落とされたご英霊をはじめ、すべての方々、また生きものたちへの慰霊と、ご遺骨の収集を行った体験談も少々お話申しあげます。
 共に、自他の苦に負けず、〈見捨てることのできない〉菩薩(ボサツ)を目ざしましょう。
 
・講  師 法楽寺住職遠藤龍地
・日  時 3月8日(日)午後1時30分~3時30分 ※毎月第一日曜日に開催します。
・場  所 法楽寺講堂(イステーブルの席あり)
・参加費 1000円(中学生以下は500円)
・送  迎 午後1時に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。




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2014
02.21

許され得る殺人 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(6)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

3 自殺殺人(その3)

○不可避な殺人は、とは言い切れない

殺人が許される唯一の場合というものもある。
 仏陀みずからが語った話を聞いたことがあるだろう。
 599人の生命を救うため、一人を殺すような場合である。
 そんな場合、殺人はまったく例外的にではあっても不可避なものとなる。
 599人が殺されることを防げるなら、その命を救うため、599人を殺す者が積むしきカルマを避けるため、一人を殺すことが絶対にだとは言い切れない。」


 お釈迦様の有名な前世物語がある。

「ある時、海を渡って一儲けしようとする人々が集まって大きな船へ乗り込んだ。
 首尾良く財宝を満載した船が帰国の途についたところ、隠れていた一人のならず者が凶器を振りかざし、皆殺しにして財宝を独り占めしようとした。
 船長は一人でその男を斃した。
 帰国後、誰もこのできごとを口にする者はいなかったが、船長は出頭し、の裁きを受けたいと願った。
 王は、自らが地獄へ行く因縁をつくっても人々を救い、人に悪業を積ませなかった船長を無放免とした。
 船長こそが、幾度も生まれ変わって修行を重ねる途中のお釈迦様であった。」

 この論理はテロリストにも用いられかねない危うさを持っているが、王が無と判断した根拠は崩れない。

1 人を救うために他の方法がない場合の殺人はあり得る。
 これは正当防衛の考え方に通じる。
2 他人が悪業を積むことを防ぐために、自分が悪業をつくる悪行を選ぶことはあり得る。
 戒めを説く『梵網経(ボンモウキョウ)』にある一節である。

「菩薩は、好事を他人へ向け、悪事は自分で背負う」


 少々、ずれるが、中学校の代用教員から昭和最後の内閣総理大臣へと上りつめた故竹下登氏の言葉も忘れられない。
「汗は自分でかきましょう、手柄は他人へあげましょう」

 以上で、『第一章 「死」とは何か』を終え、『第二章 輪廻転生の法則』へ入りたい。




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2014
02.20

平成26年3月の運勢 ─魂へ飛びこんでくる言葉─

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 平成26年3月は、印象的な言葉が深く胸の底まで入り込み、言霊の力に動かされやすくなります。
 たとえば、後白河法皇が編んだ『梁塵秘抄(リョウジンヒショウ)』にある一節です。

「仏は常に在(イマ)せども
 現(ウツツ)ならぬぞあはれなる
 人の音せぬ暁に
 ほのかに夢に見えたまう」


(み仏は、いつも見守っておられると信じてはいるが、それと、はっきり目に見えないのは、何とも、もどかしい。
 しかし、人々がまだ、生活の音を立て始めない早朝の夢の中で、ほんのりとお姿を顕してくださることもある)

 観仏(カンブツ)という修行を欠かさず、み仏を観想することにかけている密教行者としては、法皇が吐露(トロ)された、待つ思いや、まみえる喜びが、一入(ヒトシオ)強く胸に響いてきます。
「現ならぬぞあはれなる」は、およそ仏神を信じる者にとっては共通の切なさだろうとも思えます。
 こうした言葉や文章は、〈切なさの共有〉という信仰者同士に通じ合うと思われる観念を抱かせ、それは、必ず異教徒に対する寛容の精神を育みます。

 ジェームス・H・ハラス著『沖縄 シュガーローフの戦い』には、米軍のムーア一等兵から聴き取った最前線の模様が記されています。

「精神の緊張状態は多くの兵士にとって耐えられないものだった。」


 弾薬運搬係としてやってきたニューヨーク出身で十七歳の少年は機関銃陣地にたどりつくと泣き出し、ムーア氏は自分の蛸壺に入れてやりました。

「彼はロザリオを聖書に巻きつけて、祈りの言葉をとなえながら蛸壺と聖書にキスを繰り返していた。
 そのつど、砲弾が飛んできて近くに着弾していた。
 となえていた祈りの言葉にはムーアの名前も入っていた。ムーアも覚えている範囲で讃美歌を歌ったが、つぎの着弾までの間はこれで少し気分がやわらいだ。」


 そして次の着弾による爆風で二人とも蛸壺の外へ吹き飛ばされましたが、気がつくとムーア氏は少年を抱きかかえており、二人とも五体満足でした。少年は翌日、転属となりました。

 同著には文庫本のあとがき」があり、翻訳した猿渡清児氏は、沖縄に慰霊碑が建てられた経緯を記しました。
 突如、最前線から内地への転勤命令を受けた気象少尉矢崎好夫氏は、部下たちの願いを胸に沖縄を飛び立ちます。

「分隊士、われわれが死んだら線香を一本立ててください。これは皆のお願いです。」


 それから40年以上もの後、米軍や自衛隊や戦友会などの協力を得て、昭和62年6月14日、沖縄海軍陸戦隊全滅の日に、慰霊碑の日米合同除幕式が行われ、矢崎氏はついに約束を果たされました。

 戦場の恐怖、生き別れ死に別れる者同士の約束と履行などを伝える言葉や文章は、時代を超え、国を超え、人間へ深い問いを投げかけます。

 私たちは情報の洪水に襲われ、溺れかけてはいないでしょうか?
 発信者の善意と悪意が判断できなくなってはいないでしょうか?
 言葉が胸へ飛びこんで来やすくなる今月は、「おん ぼだろしゃに そわか」という仏眼(ブツゲン)の真言により心眼を開きつつ生きたいものです。




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2014
02.19

許され得る自殺 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(5)─

鳥
〈雪空を眺める気高き者〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマの謎』を説く」である。

3 自殺殺人(その2)

○真の意味で自殺の完遂は不可能である

「キリスト教によれば、自殺である。
 では、仏教の教えによれば自殺はいかなるものと考えるべきか。
 もちろん、一般的に言って、仏教の世界観に照らしても自殺は悪しき行いであることに変わりはない。」


 いのちあるものは、すべて、生きたいと願っている。
 生命体は生まれた瞬間からへ向かいつつも、生きる方向へとプログラムされている意志と機能を用いて、いのちをまっとうする。
 特に人間は意志が明確であり、願いや希望は他者にも通じる。
 生きたいという形でしか存在し得ない生きものの願いを踏みにじることはである。
 たとえ、いのちを奪おうとする相手が自分自身であっても。
 ただし、が許され得ないかどうかは、単純な話ではない。

「ひるがえって、殺人について考えてみよう。
 何らかの事が成立するとはいかなることか、より深く、細部に立ち入って、哲学的な思惟をめぐらせてみよう。」

「人を殺す、殺人を犯すとは、どのようなことを意味するか。
 もし、仮にあなたが誰かを本当の意味で殺したと言うには、あなたの殺した人物が、あなたより先になねばならない。
 あなたが誰かを傷つけ、その傷が原因でその人がんだとしても、それより前にあなたがんだなら、もちろん殺人そのものは厳然として存在するのだが、事は完遂されてはいない。
 事実上の殺人は成立してはいない。」

自殺においては、己(オノレ)自身を殺すという動機は存在する。
 また、その行為は現実に遂行されている。
 だが、あなた自身がななければ自殺が完成しない以上、あなた自身が己を殺すという行為を完遂させることは不可能だ。
 真の意味で自殺は成立しないということになる。
 だが、やはり自殺は悪しき行いであることに何のかわりもないのだが。」


 チベット密教では、殺生という不善行の成立を厳密に限定している。

1 対象
 まず、対象となる相手が特定されていなければならない。
 人間であってもなくても。
2 識別
 対象が有情(ウジョウ…意識のあるいきもの)であると認識されていなければならない。
3 動機
 過失や事故などによるできごとは、仏法上の不善行とはならない。
4 原因
 貪りや、怒りや、道理に合わない勝手な考え方などが根本原因となって動機がもたらされる。
5 実行
 自分の手によろうと、誰かの手によろうと、実行されねば行為ではない。
6 完了
 実行者よりも先に相手が死ななければ、行為は完了してはいない。
 たとえば、刺した相手よりも先に、返り討ちに遭った自分が先に死ねば、〈自分が相手を殺した〉ことにはならない。

 ダライ・ラマ法王は、自分が〈殺された自分〉よりも長生きすることはあり得ないので、「真の意味で自殺は成立しない」と述べておられる。
 自分を相手とする殺生は、厳密な意味では成立しない。
 ただし、本来、生きたいという願いを秘めて生きているいのちを破壊するという意味では、「悪しき行い」とされる。

○極限状態の中で、自殺は許される

「しかしながら、自殺はなべて悪であるとは言い切れない。
 ある特定の、ひじょうに限定された状況において、自殺は許される行為となりうることを言っておかねばならない。」

「最近、私はある親しい友人、チベット人の友人と語り合った。
 話題はチベット動乱の後、私がインドへ亡命した1959年以後のチベットのことに及んだ。
 彼には長く親しんできたラマ僧の友人がいた。」

「ひじょうな大食漢であったそのラマ僧は、とてつもなく肥満していたそうなのだが、毎日、少なくとも50個もモモ(皮の厚い、肉と野菜のチベット餃子)を食べ、1キロもの肉を食べ、巨大なボウル一杯のヨーグルトと1リットルものミルクを飲むような生活をしていたという。
 それでいて、彼は宗教的にはすばらしく高い境地にまで達していたらしい。
 大量消費と宗教的高潔さが同居する不思議にして希な例だと言える。」

「その彼が、1960年代になってからのことだが、中国当局に逮捕された。
 反革命の容疑で人民裁判が行われた。
 即決裁判によって、彼は、翌日公衆の見守る中での鞭打ちの刑を言い渡された。
 ラマの高僧へ恥辱を与えることが目的であったとしか考えようがない。
 そこでどうなったか。」

「その夜、彼は瞑想に入り、自らの魂を肉体から切り離した。
 死んだのだ。
 いわれない恥辱を耐え忍ぶより、彼は《その生命》を、その瞬間に自ら断ったわけである。
 このような場合、こうした《死》を自ら選び取ることは許される。」


 非常に印象的なできごとだが、決して荒唐無稽ではない。
 結界を張り、法の世界へ入れば、そのままで居続けることは可能であり、死者へ引導を渡すように、行者が自分自身へ引導を渡すことは当然、あり得る。
 そもそも、密教の行者はいつも修法を行うたびに、こちらの世界とあちらの世界と紙一重のところを行ったり来たりしている。
 自分自身の肉体があと2年で耐用年数に達することを悟ったお大師様は、あえて延命の法を結んでこの世にいる時間を延ばすことなく、食を減らしながら〈その日〉へ向けて淡々と法務をこなし、預言通りに旅立たれた。
 これこそが、「《死》を自ら選び取る」という意味においては「自死」に類する逝き方とも言えそうだ。
 もっとも、肉体の死が魂の死そのものではないので、お大師様は、その宣言どおり、高野山奥の院に通じる弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土から私たちをお導きくださっているのである。

「彼が、もしもその夜、このようにして自らの命を断たなかったとしたらどうだったか。
 いずれにしても、彼は群衆の輪の中にひざまずかされ、鞭打たれ、あるいは拷問され、遠からず死なねばならなかっただろう。
 それならば、瞑想の中で死ぬほうがましである。
 なぜならば、彼が一日生きながらえればその分だけ、数日生きながらえればより多く、他者に悪しきカルマを積ませることになっただろう。
 鞭打つ刑吏(ケイリ)や拷問者は、彼を苛(サイナ)むことで悪しきカルマを蓄積することになるのだから。」

「他者に悪しきカルマをもたらすことを避けるためには、こうした自殺は許される。
 瞑想による死は自殺ではないと言う人がいるかもしれない。
 だが、仏教徒として見れば、呪いによって人を祈り殺すのが殺人であるのと同じように、瞑想による死もまた自殺である。」

「人を殺すに刃物や銃器をなどの武器を使おうと、マントラ(真言。祈りの呪文)の力に頼ろうと、その結末は、まったく同じだと言わねばならない。
 死である。
 他者の死。
 自殺するにロープを用いるか、毒薬をあおるか、瞑想の中での自己の肉体との決別を選択するか、それは手段の違いにすぎない。
 結果は死である。
 自己の死。」

「だが、よく肝に銘じておくべきだ。
 仏教徒にとっても、自殺は悪しきことである。
 極力、自殺は避けねばならない。
 ここで私が述べたことは、あるきわめて限定された極限状態の中で、例外的に自殺も否定されない場合があるということである。
 いかなる場合も、自殺を絶対的にだとするキリスト教との違いを覚えておけばそれでいい。」

「自殺ばかりではない。
 殺すことは、それが人間だけではなく、いかなる生命であろうとも、殺生として禁じられている。
 生命の破壊はである。」


 日々、ご本尊様から故人の戒名を授かり、引導を渡している行者として、得つつある確信がある。
 それは、いかなる亡くなり方をしようと、旅立てばすべて等しく、み仏の子そのものになるということである。
 導師にとって、ご葬儀の対象となる故人はすべて、自分よりも後から戒律を授かる弟弟子であり、一方、兄弟子である自分より先にみ仏の元へ還る先輩である。
 だから、引導を渡し終えた瞬間に惜別と敬意の思いが起こり、100返、200返と繰り返しているうちに、だんだん、頭が深く下がるようになってきた。
 当山には、いろいろな人生相談が持ち込まれる。
 自殺したから浮かばれないのではないか、親より先に死んだので長い戒名はもらえないと聞いた、こんな風に死んだのだから戒名をもらう資格がないと言われた、などなど……。
 それらのほとんどは不安の表れであり、怖れから生まれた俗信であり、あるいは迷信である。
 み仏は一切の差別なく、区別なく万人を救い、万物を救うという根本的真実の光をきちんと当ててお話申しあげ、修法すれば心の暗雲はすべて消え去り、皆さんは安心を抱いて帰られる。
 一切の差別をせぬ存在だからこそみ仏であり、み仏に救われない自殺者も殺人者もなく、あの世の救いは必ず、この世へも救いをもたらす。

 最後に「自ら死を選ぶ」問題に関し、お釈迦様の最期について考えてみたい。
 80歳になってなお、修行と説法の旅を続けておられたお釈迦様は、ある時、貧しい鍛冶職人チュンダが供養にと差し出したキノコ入りのおかゆを食べてお腹を壊し、入滅された。
 お釈迦様の体調の急変に驚き取り乱すチュンダへお釈迦様は言われた。
「嘆いてはならない。
 私は最高の供養を受けました」
 このできごとには深く考えさせられた。

1 貧しいチュンダは粗末なおかゆによってしか供養ができず、それを断れば、チュンダは救われない。
2 善悪は意志が決めるのであり、供養の一心でおかゆを作ったチュンダはない。
3 弟子たちへ無常の真理をより明確に伝え、自らが自らの仏心をよりどころとして生きるという行者の心構えをつくらせるためにも、師である自分の死は必要である。
4 高齢者はいつも死に場所、死に方を考えており、供養による善行を実行させてチュンダを救い、弟子たちへ教えの再確認をさせられるならば、それが〈その時、その場〉である。

 悟りを開いたお釈迦様に毒キノコを判別できないわけはなく、私は、お釈迦様の入滅は、自死によるものと判断している。




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2014
02.18

東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第148回)中国の原発事故に勝る国防上の脅威はない─

20140218豊葦原瑞穂の国
〈この「豊葦原瑞穂(トヨアシハラミズホ)の国」を護りたい〉

 日本国防上、最大の脅威は何か?
 中国原発ではなかろうか。
 中国は、膨大な人口を養うため、世界の覇者となるために必要な原発による電力として、2050年までに4億キロワットを確保しようとしている。
 原発一基当たり100万キロワットならば、400基が必要となる。
 現に稼働しているものと建設中、あるいは計画が進行しているものとを合わせれば、もはや50基に近い。
 そのほとんどが中国東側の海岸や河川沿いにある。
 しかも、この地域は有数の地震地帯である。
 一旦、原発事故が起きれば、偏西風に乗って飛来する放射能の被害は、最近、日本でも警戒が強まっているPM2・5などの比ではない。
 日本全体が避難指定区域になりかねない。
 それは日本の滅亡を意味する。
 こうならないという保証はどこにもないどころか、福島原発の現実と中国の現状(各種管理体制の不備、権力者の資産の海外移転、動乱の予兆、などなど)を考えれば、あまりにも〈現実的な危険〉であると言わざるを得ない。

 なぜ、これほど重大な問題があまり注目されないか?
 それは、日本の経済発展に寄与せず、日中関係をさらに難しくしかねず、誰にとっても目先の得はない、つまり誰からも歓迎されないからである。
 しかし、目をつぶったままではいられない。
 一旦、刀身についた疵は放置できないのと同じである。
 いかに、なかったことにしておこうと、そこから必ず腐食が始まり、やがて目も当てられない状態になるのは必定である。

 では、どうすればよいか?
 究極的方法が一つだけある。
 原発先進国である日本が原発を放棄し、世界中の国々が原発を許さなくなるよう、粘り強い行動を続けることである。
 千年万年単位で「豊葦原瑞穂(トヨアシハラミズホ)の国」を護るためには、先んじて身を斬る覚悟がなければならない。
 目先の損得を考えたへっぴり腰では、とても勝負にならないほど、相手は強大だ。

 2月14日、メキシコにおいて第2回「核兵器の非人道性に関する国際会議」が開催された。
 メキシコのゴメスロブレド多国間・人権担当外務次官の発言である。

「過去、兵器は法的に禁止された後に廃絶されてきた。
 これこそが核なき世界を成し遂げる道だ」


 次回の会議が予定されているオーストリアは声明を発表した。

パラダイム(その時代の当然とされた考え方)転換は遅きに失したくらいだ」


 会議への参加国数は146,核不拡散条約(NPT)非加盟の核保有国であるインドとパキスタンも加わった。
 米ロ英仏中の核大国はいずれも不参加、アメリカの核の傘で守られている日本は立ち位置が難しいとされている。
 しかし、2010年に発効した「クラスター爆弾禁止条約」は、主たる保有国である米ロ中が依然として不参加なままだが、爆弾の廃棄は確実に進んでいる。
 いのちあるものへ牙をむき、自然を破壊するものは許さないという人類の強い決意がなければ、一旦姿を顕した悪魔は放逐できない。

 人類は昭和54年(1979年)にアメリカのスリーマイル島原発で事故を起こし、昭和61年(1986年)にはソ連のチェルノブイリ原発で事故を起こした。
 それらをふまえ、最新技術を投入しているはずの日本でも、平成23年、あわや日本壊滅という瀬戸際にまで行くほどの事故を起こした。
(危機が回避された奇跡的成り行きについては「般若心経百万巻を唱える供養会」http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4064.htmlへ書いた)
 もう忘れられかけているが、アメリカは国民を日本から脱出させ、空母を派遣したのである。
 外人だけでなく日本人も、福島県や東北地方どころか、東京からも続々と離れた。
 東京都新橋のビジネス街で知人がやっている焼き鳥屋は、いっとき、閑古鳥が鳴いていたという。

 原発廃絶は、政治論、経済論としては成り立ちにくいだろうが、文明論、国防論としては決して念頭を離れさせられない大問題であり続けるだろうし、原爆を落とされ、原発事故を起こした日本人が決して見失ってはならない大目標であり続けるのではなかろうか。
 これは日本を救うだけでなく、中国をも救い、世界を救う道ではないか。
 今、原発の廃絶をやり始めなければ「遅きに失した」となりかねない。
 もっとも、そう気づいた時はもう、逃れようのない破滅の渦に巻き込まれていることだろうが……。 




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2014
02.17

親から授かる清浄な祈りのこもった姓名、清浄なみ仏の世界へ帰るためにみ仏から授かる戒名

20140216大日如来

 ご夫婦が飛びこんで来られた。
「母が急に亡くなりました。
 どうしても、明日には火葬せねばならなりません。
 何とかして安心させたいのですが、どうすればよいでしょうか?」

 毎日、予定表に従って法務をこなしており、ご予約のない打ち合わせはなかなかできないが、ことは緊急事態である。
 ほとんど立ち話同様で、以下のとおりに決まった。
 今日も明日も時間がとれないので、今夜、引導を渡し、出棺と火葬の修法も併せて行い、明日はご家族だけで斎場へ行っていただき、帰りに当山へお骨を預かりに来られる。
 お戒名は、夜までにご本尊様から授かっておく。

 夜になり、お戒名を手に、葬祭会館へ駆けつけた。
 一連の修法が終わり、着替えてお茶を一服、いただく。
 帰ろうとして席を立ったところへ、故人と同居していた喪主様が来られた。
「何のご挨拶もできないままに、すっかりお願いしてすみませんでした。
 子供の頃からとても複雑な人生を歩んできた母なので、私としては戒名に入れていただきたい文字がありましたが、申しあげられませんでした。
 でも、その文字が入っており、母はようやく救われたと確信しました」

 先ほどお渡ししたばかりの戒名授与の証書には、その文字を含む熟語についてこう書いたはずだ。
「故人が最も求められた境地です」

 別のお子さんも泣きながら言われる。
「先に逝った父が迎えに来ている感じを受けました。
 そして、こう言って母の手を引いていったような気もしました。
『お前は自分の苦労をグチることもなく、全部、一人で抱えたまま黙って耐えていたが、ご住職様にはわかってもらえたね。
 さあ、行こう』」
 お二人とも、そしてその伴侶も、もう還暦を過ぎた方々である。
 4人の涙と喜びの入り交じったお顔を胸に、心で合掌したまま帰山した。

 この世に生まれる赤ん坊が自分で自分の名前をつけられますか?
 この世の迷いや穢れを離れ、戒律が実現している清浄なあの世へと住まいを変える御霊も同じです。
 その存在を特定するお戒名は、あの世の親であるみ仏にお任せする以外、受ける方法がありましょうか。
 他の方法がないからこそ、一行者である導師はご本尊様へ祈り、お戒名を授かり、仲立ちとしてお伝えするのです。
 2500年かけて仏法の叡智を注ぎ込み磨き上げた結晶である正統な修法に従い、ご本尊様からいただく戒名には、人智を超えた救済という真実があります。

 もちろん、当山は、お戒名の強制をしません。
 プロから現場の話を聴きたいという方のお求めがあれば、血肉となっている真実をご説明申しあげ、どうされるかは皆さんへお任せします。
 ご依頼があれば、お戒名のある方も、ない方も一切の差別も区別もなく引導を渡し、み仏の世界へお送りします。

 お戒名は、決してお金で〈買う〉ものではなく、お寺から〈強制〉されるものでもありません。
 この世に現れた子供が親から清浄な願いのこもった名前をいただくのと同じく、み仏の子である私たちは、み仏から清浄な世界にふさわしい名前を授かり、帰って行きます。
 この一首は、お大師様が弟子の智泉法師様を送られた時のご心境です。

「阿字(アジ)の子が、阿字の古里立ちいでて、また立ちかえる阿字の古里」


(大宇宙の根源である大日如来様の世界からこの世へ修行の旅へとやってきた子供は、修行が終わるとまた、根源の世界へ帰ってゆく)




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2014
02.16

脳死状態での出産に想う

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〈雪のふりしきる玄関前でネコ用の餌を待つスズメ〉

 2月12日、時事通信社は、カナダ在住の女性が脳死状態ながら無事、男児を出産したと報じた。
 以下、その転載である。

「昨年12月末に妊娠22週目で倒れ、脳内出血による脳死と判定されたカナダの女性が8日夜、男児を出産した。
 女性は出産するまで生命維持装置によって延命されていたが、出産の翌日、装置が外され、亡した。夫が10日、ブログで発表した。

ディラン・ベンソン(Dylan Benson)さん(32)は、妻のロビン(Robyn Benson)さん(32)の身に起きた不幸と、息子の出産に向けた準備をブログでつづっていた。

 ブリティッシュコロンビア(British Columbia)州ビクトリア(Victoria)の病院の医師らは妊娠34週目まで出産を待とうとしていたが、8日夜、妊娠28週目に帝王切開で男児の出産を行った。

 出産後、医師らはロビンさんの生命維持装置を外し、ロビンさんはまもなく亡した。
『9日、残念ながら、私が出会った中で最も強く、最もすてきな女性に別れを言わなければならなかった』
『言葉で表現できないほどロビンが恋しい』
と、ディランさんはブログで語った。

 ディランさんのブログは世界中の人々に読まれ、息子の医療費のために15万2000カナダドル(約1400万円)の寄付金が集まった。
 ディランさんは、息子は早産ではあるが健康だと述べ、集中治療室で赤ちゃんを抱いた写真を公開した。
 写真に付けられたタイトルは『心の底から悲しい、だがとてつもなく誇らしい』だった。」


 途中のブログである。

「かたや息子に会うのが待ちきれず、彼に可能な限り最高の人生を与えてあげたい、彼にとって素晴らしい父親になれるように全力を尽くそうと思う。
 一方で、息子が生まれる日、あるいはその次の日が、ロビンにさよならと言わなければならない日なんだ。
 心の底から彼女が恋しい」


 病院の広報担当者は嘆息した。

「もうすぐ母親になる人が脳死状態で、生命維持装置を付けているという状況はまれな悲劇だ」


 悲劇を乗り越えた母体の力に圧倒されると共に、消えない疑問がまた、浮かんでくる。
 こうして新たな生命を誕生させもする脳死は、本当に〈死〉なのだろうか?
 現に、ロビンさんは、出産を待たれるがゆえに、〈死体〉として扱われなかったではないか。
 私たちは、生きている人の都合によって、生命活動が行われている人体を、これは生体、これは死体と分けてよいのだろうか?
 私たちは、いのちある人体を、死んだことにして切り刻む資格があるのだろうか?
 もはやほとんど議論されなくなった脳死について、「密教21フォーラム」の公式サイト『エンサイクロメディア空海』から転記しておきたい。

 哲学者梅原猛氏である。

「生きているとしか思われない温かい人間の臓器を利用するこの医学はどこかにおぞましいものを秘めている。
 移植医学には、人の命を救うためにはそういうおぞましいこともあえて行うのであるという倫理的決意が必要である。
 そういう決意なしに移植が安易に行われるとき、やがて日本でも、海外で行われているといわれるように、臓器を売ってテレビを買ったなどということが起こるかもしれない。」


 弁護士原秀男氏(故人)である。

脳死状態になった患者は、顔色がよく、静かに眠っているように見えます。
 お棺の中の顔とはちがいます。死相がありません。
 汗をかきますし、涙も出します。排尿、排便もします。
 時々動きます。だから、私は、脳死者は『生きている』と思います。
 集中治療室では、医療手段がなくなっても、脳死患者を死体にしないで看護を続けております。
 私はこれを見て、お医者さんと看護婦さんに合掌して部屋を出ます。」


 かつて、政府の「脳死臨調」で前例のない激論が戦わされた。
 梅原氏などの少数派は最後まで「脳死を死とせず、臓器移植を本人の意思にすべき」と主張した。
 これ以外の決めようはなかろうと思えるが、今は、脳死の人を〈死んだ人〉として扱い、本人の意志によらずとも〈温かい臓器〉が取り出されている。
 現場を想像して〈おぞましさ〉を感じなくなった時、私たちの倫理は成り立ち得ようか?
 善意はオールマイティなのか?
 この世にあるものは何でも、知恵をはたらかせて便利に役立るのがよいことなのだろうか?




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2014
02.15

ご本尊様も、祈る人も、祈られる人も、お仕えする人も一如(イチニョ)の世界

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 東京在住のAさんからご依頼を受け、魂入れの修法後、尊像をお送りした。
 すぐにメールが届いた。
 その一部である。
 ご本人の了解を得て公開したい。

「私は法楽寺様諸縁の皆様の幸福やご加護をまずお祈りすることを約束します。
 その上で自分の願いを謙虚に申し上げるように自戒します。」

「ご住職様は日々ゆかりの人々の幸福を願われておられますが、私自身、自分のためだけのお祈りをするより皆様のお祈りをするほうが心が洗われるように感じます。
 私の祈りを通して○○様が皆様に幸せを運んでくださることをお祈りします。」


 私たちは、よき願いを持って祈り、精進し、修行するが、大乗経典の『入楞伽経(ニュウリョウガキョウ)』は3つの段階を説いている。

第一段階:自分自身や家族などがより、幸せに暮らせますように
第二段階:この世の苦を克服し、安心の境地が得られますように
壇三段階:生きとし生けるものすべてが苦を離れ、幸せになれますように


 Aさんは、得度したわけでもないし、どこかで特別の修行をしたわけでもない。
 ご縁により数回、当山へ足を運び、ご加持(カジ)を受け、あとは日々、厳しい現実との戦いの中で、伝授された祈りを欠かさずに過ごしておられるだけである。
 しかし、その心構えはもはや、最も高度な行者の段階にある。
 嬉しくてならない。

 おりもおり、同日、心身の病気を抱え、関西で苦悩の日々を送っておられるBさんからも連絡があった。
 Bさんはたった一度、ご加持に来られた方である。

「おかげさまでようやく、苦しみに幸福感が入り交じるようになりました。
 法楽寺さんへはたった一度、お参りをさせていただいただけですが、辛くなると、ご本尊様を思い出しながら霊符(レイフ)を手にはさみ、真言を唱えています。
 きっと、多くの方々が私と同じように、ご本尊様に救われているのでしょう。
 きっと、みんなの祈りの力が、お互いの救いになっているのでしょう。
 また、いつか、お伺いできる日を楽しみにしながら今日も生きます。」


 たまたま、ある博物館で出会った普賢延命菩薩様の古びた掛け軸を思い出した。
 訪れた人々は有名な仏像へしか関心を持たないように見えたが、私はほとんど目立たぬ象に乗った白いお姿に惹かれ、柱の影から人知れず祈った。
 拝まれている尊象には〈気配〉が漂っているものである。
 AさんやBさん輝くなど、善男善女の思いが気配のきっかけとなり、気配は、空の陽光が池の水面に反射して輝くように、訪れる善男善女の心へも光を届ける。
 いつしか、互いが、互いのために祈っている。
 そこではご本尊様も、すがる人も、救われる人も、お仕えする行者も、区別はない。
 ありがたいと言うしかない。
 Aさん、Bさん、ご縁の皆様、本当にありがとうございます。
 今日も共に、精進しましょう。




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2014
02.14

自殺(自死)という極限的行為 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(4)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

3 自殺殺人(その1)

○人はなぜ、自殺をするのか

「死を恐れつつも人は自殺を遂げることがある。
 ふつうの人間にとって、死が何よりも恐ろしいものであることはよくわかる。
 では、いったいどうして人は死の恐怖を超えて自らの命を断つことができるのか。」


 最近、自殺自死と言い換えるようになった。
 確かに、人間の尊厳を考えて「殺」の文字を避け、ご遺族や関係者の気持も忖度(ソンタク)すれば、一理ある。
 また、「自らを殺す」のなら「人を殺す」「殺人」と同じく「殺自」となるべきだが、「自らが(自らを)殺す」「自殺」となっている以上、それは「自ら死ぬ」ことと同意であり、「自死」として違和感のあるものではない。

 ただし、考えておきたい点はある。
 かつて、牛の脳や脊髄などを原料とした餌による狂牛病(キョウギュウビョウ)がイギリスなどで蔓延し、世界的大問題となった。
 狂ったような牛の姿は、草食動物である牛へ動物を与えるという暴挙、それも、同類を食べさせてまで早く成長させようとする現代文明への鋭い警鐘だった。
 この牛海綿状脳症(BSE)は、いつからか「狂牛病」ではなく「BSE」と表記されるようになり、私たちは言葉から実態や実像を想像しにくくなった。
 人間のしわざによって苦しむ牛を憐れみ、畜産家の心情をおもんばかってのことと推測するが、言い換えによって現実へ薄膜がかけられた場合、それは誰がいかなる目的で行っているかとチェックする注意深さを失いたくないものである。
 為政者や、情報を飯の種にしている人々にとって都合の悪いものが、国民から見えにくくされる場合がないとは言い切れない。

 さて、自死という言葉は極めて適切と考えるが、ここでは、平成6年に発売されたテキストのまま、自殺という記述にしておきたい。

「もし、あなたが、自分の人生を心底から耐え難いと思うようになったとしよう。
 その感情がいかに募ろうとも、死への恐れは厳然として存在する。
 だが、耐え難いと思う心の動きが、ときには死の恐怖を凌駕(リョウガ)しうるということだ。
 そういう瞬間があるということだ。
 そのとき、人は自殺する。」

「その瞬間においては、人としての自然の感情は、もちろん、死を恐れている。
 しかし、それにもかかわらず、その恐怖を圧するだけの力が人をして死を選ばせる。」


 私は自分自身が一歩手前まで行った体験を持ち、身近な人々が同じく一歩手前から引き返したり、引き返せなかったりする姿を見てきた。
 身近な人に行かれてしまい、残された方々とも数多く接している。
 ほとんどの方々が、事実を前にして動機には思い当たっても、実行してしまった〈その時〉の気持のほどはわからない。
 だから、答のない「──なぜ?」が必ず生じる。
 なぜ踏み切ったのか?
 法王が言われる「その恐怖を圧するだけの力」は、当人にしかわからないのだろう。
 わからないけれど、わからないでは済まされない気持が、「なぜ」を繰り返させる。

感情の暴発は、恐怖心をも打ち負かす

「人が自殺という手段に訴える事実に関して、仏教的な観点に立って考えてみよう。
 人がこのような決断を下す理由は、唯一つの事柄によるわけではない。」

「仮にわれわれが《心》というとき、そこには何千もの心の動きがあり、思いがあり、思惟がある。
 一つの心の中で、ある考え方は他の考え方と相矛盾し、互いに打ち消し合うこともあるだろうし、ある考え方はひじょうに含蓄(ガンチク)に富み、思慮深く理性豊かである場合もあるだろう。
 なぜなら、それらはすべて感情のなせるわざだからである。」

「たとえば、慈悲心や愛情といったものは、愛すべき対象へのよき感情の発露である。
 親密なる他者へのすばらしい働きかけである。」

「一方、憎しみはどうか。
 人を憎む心は否定的な感情だろう。
 愛と憎しみ、これらは相対立する感情である。
 互いに矛盾する心の動きである。
 しかしながら、こうした対立する感情でさえ、一つの心の中に同時に両立することがある。」

「たとえば、あなたが誰かにたいへん親密な感情を抱いているとしよう。
 その誰かを愛していると。
 すばらしき友であり、愛すべき相手であると。
 そうした善き感情が厳然として存在するにもかかわらず、ときに、何らかの事件なり、悪いしらせなりが、あなたと相手との関係に大きな影響を与えることがあるだろう。
 極端な場合には、その愛する相手自身があなたをひじょうに立腹させることもありえるわけである。」

「そんなとき、愛情や親密感、友情などが依然としてそこにあるにもかかわらず、悪しき感情、憎しみの感情が、あなたの心の中を支配してしまう。
 怒りや憎しみが、愛情や親しみに打ち克つ状態を作り出す。」


 法王は、愛情憎悪というまったく反する感情すらも一人の心の中に共存し得るのであり、どちらがより強くはたらくかによって、行為という一つの結果が生じると説かれた。

「さて、話を自殺に戻すとしよう。
 死への恐れ、恐怖は依然としてある。
 にもかかわらず、それと対立し矛盾する心の衝動が生じ、それが恐れを凌駕(リョウガ)する瞬間が、人が自ら命を断つときなのだろう。
 恐怖といえども、感情の爆発によって打ち負かされることがあるということだ。」


 死への恐れと、死を求める気持という相反するものが共存する中で〈その時〉が来てしまう。
 逝ってしまった友人たちを思い出すと、笑顔しか浮かんでこない。
 吉田松陰は処刑される場所へ悠然と足を運び、役人へご苦労様と声をかけて端座したというが、まだ、それほどの胆力は持ち合わせていなかったであろう彼らは、やはり「感情の爆発」に遭ったのか……。
 心にあるさまざまな渦を整理し、対応し切れなかったのか……。
 浮かぶ笑顔によって思い出す私が救われるように、彼らも向こうで救われていて欲しいと願い、祈るしかない。




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2014
02.13

ご先祖様から受け継いだもの ─平野歩夢、二山治雄、小保方晴子、ヴァリニャーノ─

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 2月11日、冬季五輪において、スノーボードの男子ハーフパイプ(HP)決勝が行われ、平野歩夢さん(15歳)が銀メダル、平岡卓さん(18歳)が銅メダルという快挙を成し遂げ、世界を驚かせた。
 15歳での冬季五輪メダル獲得は、もちろん、日本人選手として初のできごとである。

 すぐに思い出したのは、2月1日、第42回ローザンヌ国際バレエコンクールにおける松本第一高校2年生二山治雄さん(17歳)の優勝と、横浜市の高校1年生前田紗江さん(15歳)の準優勝である。
 6位にもモナコ在住の加藤三希央さん(18歳)が入り、入賞者の半分を日本人が独占した。

 また、1月29日に行われた理化学研究所の発表も記憶に新しい。
 理研発生・再生科学総合研究センターの小保方晴子ユニットリーダー(30歳)が万能細胞STAPを開発したのである。
 平成22年にノーベル生理学・医学賞を受賞した京都大学教授の山中伸弥iPS細胞研究所長(50歳)に勝るとも劣らない驚異的偉業である。

 私たちは、ここ半月ほどの間に、科学、芸術、スポーツ各分野において、〈日本人ここにあり〉という成果を目の当たりにした。
 あらためて若い人々の活躍を誇りに思う。
 と、同時に、日本人は、粘り強さ、素直さ、繊細さ、進取の姿勢といった本来の力をそれぞれの持ち場において発揮して行けば、世界に伍してゆけると自信も抱かされた。
 ここにこそ、日本の活路があるのではなかろうか。
 周辺国からいかに理不尽な仕打ちや攻撃を受けようと、物理的防御もさることながら、こうした力を世界に示し、堂々と存在することそのものが最大の国防となるのではなかろうか。

 今から約430年前、イエズス会の東アジア巡察師アレシャンドゥロ・ヴァリニャーノが書いた報告書の一部である。

「人々はいずれも色白く、きわめて礼儀正しい。
 一般庶民や労働者でもその社会では驚嘆すべき礼節をもって上品に育てられ、あたかも宮廷の使用人のように見受けられる。
 この点においては、東洋の他の諸民族のみならず、我らヨーロッパ人よりも優れている。」

「国民は有能で、秀でた理解力を有し、子供たちは我らの学問や規律をすべてよく学びとり、ヨーロッパの子供たちよりも、はるかに容易に、かつ短期間に我らの言葉で読み書きすることを覚える。
 また下層の人々の間にも、我らヨーロッパ人の間に見受けられる粗暴や無能力ということがなく、一般にみな優れた理解力を有し、上品に育てられ、仕事に熟達している。」

「日本人の家屋は、板や藁で覆われた木造で、はなはだ清潔でゆとりがあり、技術は精巧である。
 屋内にはどこにもコルクのような畳が敷かれているので、きわめて清潔であり、調和が保てれいる。」

「日本人は、全世界でもっとも面目と名誉を重んずる国民であると思われる。
 すなわち、彼らは侮辱的な言辞は言うまでもなく、怒りを含んだ言葉を堪えることができない。
 したがって、もっとも下級の職人や農夫と語る時でも彼らは礼節を尽くさなければならない。
 さもなくば、彼らはその無礼な言葉を堪え忍ぶことができず、その職から得られる収入にもかかわらず、その職を放棄するか、さらに不利であっても別の職に就いてしまう。」

「日本人はきわめて忍耐強く、飢餓や寒気、また人間としてのあらゆる苦しみや不自由を堪え忍ぶ。
 それは、もっとも身分の高い貴人の場合も同様である。
 が、幼少の時から、これらあらゆる苦しみを甘受するような習慣づけて育てられるからであろう。」

「また彼らは、感情を表すことにははなはだ慎み深く、胸中に抱く感情を外部に示さず、憤怒の情を抑制しているので、怒りを発することは稀である。
 したがって彼らのもとでは、他国の人々のように、街路においても、自宅においても、声をあげて人と争うことがない。
 なぜなら、夫と妻、親と子、主人と使用人は争うことをせず、表面は平静を装って、書状を認(シタタ)めるか、あるいは洗練された言葉で話合うからである。
 それ故、その国から追放されたり、殺されたり、家から放逐されても、平然とした態度でこれを甘んじるのである。
 換言すれば、互いにははなはだ残忍な敵であっても、相互に明るい表情をもって、慣習となっている儀礼を絶対に放棄しない。
 この点について生じることは吾人には理解できぬし、信じられないばかりである。」

「彼らは交際において、はなはだ用意周到であり、思慮深い。
 ヨーロッパ人と異なり、彼らは悲嘆や不平、あるいは窮状を語っても、感情に走らない。
 すなわち、人を訪ねた時に相手に不愉快なことを言うべきではないと心に期しているので、決して自分の苦労や不幸や悲嘆を口にしない。
 その理由は、彼らはあらゆる苦しみに堪えることができるし、逆境にあっても大いなる勇気を示すことを信条としているので、苦悩を能うる限り胸中にしまっておくからである。
 誰かに逢ったり訪問したりする時、彼らは常に強い勇気と明快な表情を示し、自らの苦労について一言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただ一言それに触れて、あとは一笑に付してしまうだけである。」

「一切の悪口を嫌悪するので、それを口にしないし、自分たちの主君や領主に対しては不満を抱かず、天候、その他のことを語り、訪問した先方を喜ばせると思われること以外には言及しない。
 同様の理由から、相談事において感情に走らない為に、重要な問題については、直接面と向かっては話さず、すべて書面によるか、あるいは第三者を通じて行うことが日本での一般の習慣となっている。
 これは両親と子供、主君と家臣の間はもとより、夫婦の間さえ行われているほどである。
 それは、憤怒や反駁、異議の生じる恐れがある場合には、第三者を通じて話し合うことが思慮深いと考えられているからである。
 かくて日本人の間には、よく一致と平穏が保たれる。
 子供の間にさえ、聞き苦しい言葉は口に出されないし、我らのもとで見られるように、平手や拳で殴り合って争うということはない。
 きわめて儀礼的な言葉をもって話し合い、子供とは思えない重厚な、大人のような理性と冷静さと落ち着いた(態度)が保たれ、相互に敬意を失うことがない。
 これはほとんど信じられないほど極端である。」


 私たちは、ご先祖様からこうした血と心を受け継いでいる。
 しっかりと、忍耐強く、分を尽くしきりたいと思う。
 ──力を示しつつある若い人々のように。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
02.12

真智の開発をめざして(その4) ─五智の教え・与えること─

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 真に優しくあるためには、「与える」ことが欠かせません。
 私たちがの元である自己中心を脱するための最も単純で誰にでもすぐできる善行は、与えることであると言っても過言ではありません。
 私たちは〈持っていない〉からではなく、むしろ〈手放せない〉がゆえにしむものであると、早く気づきたいものです。

 よく読誦する『梵網経(ボンモウキョウ)』には、こう説かれています。

仏道を歩もうとする者が、もの惜しみをしてはならず、誰かにもの惜しみをさせてもならない。
 もの惜しみは、悪しき結果をもたらす原因となる。
 もの惜しみは、悪しき結果をもたらす補助的原因となる。
 もの惜しみは、悪しき結果を生む。
 もの惜しみは、悪しき未来をもたらす。」


 出家直後の私は、娑婆でさんざん好き勝手をしたあげく破滅したので、今後は皆、世間様へお返ししながら生きようと思っていました。
 だから、人生相談やご祈祷など、できることならタダでやってあげようとしていました。
 もちろん家計はいつも火の車で、妻には大変な心労をかけたはずです。
 そんな状態を見抜かれたのでしょうか、師から、こう諭されました。

「お前がやっていることは、お前自身の収入のためではなく、ご本尊様の代わりとして求める人へ法を施しているのだから、来る人はご本尊様へお布施を置かれるのだ。
 自分がもらうのではない。
 そのお布施が〈無くてもよい〉と言えば、相手は、いい和尚さんだと思うかも知れない。
 しかし、それは、世間的損得勘定のレベルにおける間違った喜ばせ方である。

 お前自身が以前、当山へ出入りしてどうだったか?
 これだけやってもらったのに、これしか納めないで徳をした、と考え、喜んだか?
 むしろ、お救いくださったご本尊様へこれしかお納めできないと恥じたのではないか?
 あるいは、これだけ汗を流させていただいた、という清々しい喜びがあったのではないか?
 モノを、お金を、時間を、体力を手放すことによる罪滅ぼしを感じていたのではないか?
 これから先の人生を捧げてみ仏へお仕えしたいという出家は、その延長ではなかったのか?
 
 もちろん、お布施の強要はまかりならん。
 しかし、相手が自主的にお布施を差し出す機会をつくることは、相手が我欲を離れ、物欲を離れ、罪滅ぼしを実感するための貴いチャンスを与えることだ。
 人は、手放せないためにしむ。
 空(クウ)を知らない執着心が諸悪の根源だ。
 そのことを忘れてはならない。

 いい和尚さんだ、と喜ばれるよりも、本当の導きができる本物の僧侶にならねばならない」

 もちろん、師はこんなに長々とは話しませんでしたが、托鉢行によって、惜しむ人と手放す人の心模様を毎日、つぶさに観察し、師の教えを深く実感させられました。
 当山は、人生相談でも、ご供養やご祈祷でも、ご葬儀でも、こちらからの請求は一切行いません。
 しかし、ご本尊様のご加護を願い信じる善男善女の尊い心がご本尊様へ納められるお布施となり、どうにか寺院の運営は成り立っています。

梵網経(ボンモウキョウ)』はこう続きます。

仏道を歩もうとする者は、相手が誰であれ、困った人のためには、与えられるものを与えねばならない。
 それなのに、求める相手へ憎しみや怒りを抱いて何一つ施さず、教えを求める相手へ、わずかな教えすら説かず、逆に、罵り、侮辱するならば、仏道を歩む資格はない」


 惜しまずに時間を与え、モノを与え、力の出し惜しみせず手をかけるというイメージは福祉に通じます。
 最後に、日本における福祉の祖とも言うべき光明皇后について記しておきます。
 第45代・聖武天皇のお后である光明皇后は、天平2年(730年)、奈良に「施薬院(セヤクン)」という病院と、「悲田院(ヒデンイン)」という孤児や老人のための施設を造りました。
 それは皇后が夢に聴いたみ仏の言葉がきっかけとされています。
「困っている人々のために、誰でもが無料で入れるお風呂を造り、そこで千人の身体を洗うべし」
 実行した皇后は、ついに千人目を迎えました。
 その人は酷い病気に罹っているらしい老人ですが、皇后はきちんと洗ってあげました。
 ところが老人は言います。
「私は、誰かに身体の膿(ウミ)を口で吸い取ってもらえれば治ると言われたことがあります。
 お願いできませんか」
 皇后が決然と実行したところ、老人は金色に輝くみ仏の姿を顕し、天へ昇っていきました。
 私は、福祉施設ではたらく方々と接するたびに、心で合掌し、この故事を思い出します。
 ほとんどの施設では、金色のみ仏はおられずとも、善男善女の笑顔と思いやりが輝いています。
 私たちは、まぎれもなく、光明皇后の子孫なのです。




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2014
02.11

般若心経百万巻を唱える供養会 ─東日本大震災と原発事故から3年が過ぎます─

20140211001.jpg
〈被災地に力をくれたマー君は地元仙台で最後の練習を終え、黙々とマウンドを整備し、春の到来と共に新たなる世界へ旅立ちました。河北新報様よりお借りして加工しました〉

 3月11日が来れば、東日本大震災から丸3年になります。
 1000日以上が過ぎても、新たな居住エリアはほとんで完成せず、たくさんの被災者が仮設住宅で暮らし、亡くなってもおられます。
 原発事故は原因究明どころが、現状の把握もまだまだこれからであり、膨大な汚染水は貯蔵され続け、海への流出も防ぎ切れていません。
 東北地方では震度3程度の地震が頻発しており、事故のあった福島県はもちろん、原発を抱える宮城県や青森県の住民も、不安な日々を過ごしています。

 事故から一年後、ドイツのテレビは報じました。

「4号機燃料プールが崩壊すれば日本の終わりを意味する」


 崩壊から逃れるべく、昨年末、燃料棒の取り出し作業が始まりました。
 しかし、毎時200マイクロシーベルトを超える高い線量も記録する危険極まりない現場から1000本を超える燃料棒を運び出し終えるには、平成26年いっぱいかかります。
 また、1号機、2号機、3号機にある核燃料の処理には10年かかる見通しです。
 もしもこの間に、大地震や大津波や大型台風に見舞われればどうなるか、誰も予測できません。

 そして、私たちは、日本が〈終わり〉を迎えないで済んだのは、僥倖(ギョウコウ)としか言いようのない偶然があったからだという事実も、決して忘れないようにしたいものです。
 かねて京都大学原子炉実験所助教小出裕章氏などが危険性を指摘していたにもかかわらず、安全神話をつくり、官民一体で推進していた原発によって、福島県どころか、東京も避難区域となり、偏西風に乗った放射能が海を渡ればアメリカにまで被害が及んで何の不思議もない危機的状況が乗り切れたのは、天佑神助(テンユウシンジョ…仏天や神々の助け)としか言いようがないほどの偶然が二つ、重なったためです。
 この事実を前に、原子力安全・保安員の幹部は思わず本音を漏らしました。

「神様がいるとしか言いようがない」

 
2012031700112.jpg

 大量の燃料棒を抱えていた4号機が崩壊を免れた成り行きは以下のとおりです。

1 震災直前に、不手際から、いつもは水を入れないでおくはずの部分へ大量を水を入れっぱなしにしておいたこと。
2 地震か津波によってうまい具合にできた隙間から使用済み核燃料を貯蔵する燃料プールへ水が流れ込んだこと。

 もしも、いつもどおり、震災4日前に原子炉ウェルの水が抜きとられていたなら、今の日本はありません。
 もしも、うまい具合に隙間ができず、そして、うまい具合に水が貯蔵プールへ流れこんでいなかったなら、今の日本はありません。
 この事実は、原子力に関する科学技術が日本を救ったというよりも、科学技術の及ばなかった形で日本がたまたま救われたと考えるべきではないでしょうか。
 科学者が神様を持ち出したのも当然です。
 また、1トン以上あるとおぼしき当山の主尊大日如来様が、心棒も入っていないのに、設置されていたその場所で津波の来た方角へとほとんど180度向きを変えられたことも、原子力に携わった科学者から評されました。
「何で倒れないでこうなったか、とても計算できない」
 あの時、何があったおかげで私たちが今、こうして生活を続けていられるのか決して忘れてはならない、あくまでも謙虚でなければならないと考えています。

 3月11日(火)には、昨年同様、般若心経108巻を捧げ、御霊の供養を行います。
 全国で1万人の方々がご唱和くだされば、108万巻の大供養会となります。
 般若心経を信じるこうした法会は古来、国家的危機などに際して行われてきました。
 天佑神助によって今を生かされている私たちは、至心に読誦し、御霊の安寧を祈ると共に、私たちが道を誤らぬようお導きも祈りたいものです。

○日 時:平成26年3月11日午前10時より
○場 所:大師山法楽寺講堂
○塔 婆:塔婆供養を希望される場合は、ご志納金五千円にて行います。手紙やファクスやメールにてお申し込みください。
○参加費:無
○送 迎:イズミティ21前より午前9時30分に送迎車が出発します、乗車を希望される方は、必ず、前日の午後5時までにお申し込みください。
○納 経般若心経、観音経、理趣経百字偈など、写経をお送りください。なお、納経料は同封していただければ結構です。
○御 守:当山でご唱和いただいた方々全員へ、法が結ばれ、祈りが込められたた『般若心経御守』をお授けいたします。

 なお、資料として、平成24年3月17日付の朝日新聞から転載しておきます。

「東京電力福島第一原発の事故で日米両政府が最悪の事態の引き金になると心配した4号機の使用済み核燃料の過熱・崩壊は、震災直前の工事の不手際と、意図しない仕切り壁のずれという二つの偶然もあって救われていたことが分かった。
 4号機は一昨年11月から定期点検に入り、シュラウドと呼ばれる炉内の大型構造物の取り換え工事をしていた。
 1978年の営業運転開始以来初めての大工事だった。
 工事は、原子炉真上の原子炉ウェルと呼ばれる部分と、放射能をおびた機器を水中に仮置きするDSピットに計1440立方メートルの水を張り、進められた。ふだんは水がない部分だ。
 無用の被曝(ひばく)を避けるため、シュラウドは水の中で切断し、DSピットまで水中を移動。
 その後、次の作業のため、3月7日までにDSピット側に仕切りを立て、原子炉ウェルの水を抜く計画だった。
 ところが、シュラウドを切断する工具を炉内に入れようとしたところ、工具を炉内に導く補助器具の寸法違いが判明。
 この器具の改造で工事が遅れ、震災のあった3月11日時点で水を張ったままにしていた。

 4号機の使用済み核燃料プールは津波で電源が失われ、冷やせない事態に陥った。
 プールの水は燃料の崩壊熱で蒸発していた。
 水が減って核燃料が露出し過熱すると、大量の放射線と放射性物質を放出。
 人は近づけなくなり、福島第一原発だけでなく、福島第二など近くの原発も次々と放棄。
 首都圏の住民も避難対象となる最悪の事態につながると恐れられていた。

 しかし、実際には、燃料プールと隣の原子炉ウェルとの仕切り壁がずれて隙間ができ、ウェル側からプールに約1千トンの水が流れ込んだとみられることが後に分かった。
 さらに、3月20日からは外部からの放水でプールに水が入り、燃料はほぼ無事だった。
 原子力安全・保安員の幹部は『神様がいるとしか言いようがない』と話している。(奥山俊宏)」






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2014
02.10

自分を変え、人の世を変える ─因果応報と吉田松陰─

20140210008クロ
〈家ネコの幸せ〉

 人生相談に来られる方々へ、よくお伝えしている教えがあります。
 それは因果応報です。

「因あるがゆえに、その果がこれに従う。
 因が生じるがゆえに、その果がが生じる。
 無知(無明)があるがゆえに、行為がある」


1 今、問題となっている苦には必ず原因があります。

 もう少し詳しく言えば、原因に条件が重なってしまったために、苦という現実が生じました。
 だから、問題を解決したいならば、まず、結果という現実から、原因となっているものをきちんと見分け、それを取り除かねばなりません。
 たとえば、上司があまりに厳しく当たるので、とても耐え難く、職場にいられないというのならば、職場のあり方、上司の人柄や役割、自分の性格や行動などを客観的に見直してみることです。

2 原因と考えられるいろいろなものもまた、必ず何かの結果であり、眼前の問題を引き起こしている原因がいかなる原因によって生じたのかも考えねばなりません。

 閉鎖的に感じられる職場だとしたなら、どういう経緯でそうなったのか?
 高圧的と感じられる上司なら、なぜ、そうした態度をとるのか?
 打たれ弱い自分なら、なぜ、そうなったのか?

3 いったい、誰がどのように望んだがために、こうした因果関係が生じたのかも考えねばなりません。

 すると、必ずしもそうありたいと望んでいなかったはずなのに、あるいは別なあり方を望んでいたのに、こうなっているという事実に気づきます。
 私たちは誰も、心の底から、自然に、他人を傷つけたいと望みはしません。
 心の底から、自然に、傷つきたいと望みもしません。
 楽しいことや嬉しいことに喜びたいのです。
 他人の楽しいことや嬉しいことにも喜びたいのです。
 自分にも他人にも、辛いことや悲しいことが起こって欲しくはありません。
 しかし、なぜか望みどおりにならないのは、この世の真実を観て、喜びの方向へと向かう手段を考える智慧が無かったり不足していたりするからです。
 それを仏教では無明(ムミョウ…智慧の明かりがない状態)と言います。

 観られていなかったこの世の真実とは、因果応報の原理であり、すべては原因と条件によってかりそめに成り立っているという空(クウ)のありようです。
 真実に基づいて職場が営まれているか?
 真実に基づいて上司が役割をまっとうしているか?
 真実に基づいて自分は職場を選び、役割をまっとうしているか?
 よく眺めてみると、自分を苦しめていると感じていた上司に無明が認められるだけでなく、自分にも、ありとあらゆるものにも無明を認めざるを得ないことでしょう。

 お釈迦様は説かれました。

「誰もそう望まないのに、〈自分が生きたい〉という根本的な欲求によって真実が見えない状態に陥っており、お互いが智慧の明かりを灯していないがゆえに、この世は苦の海となっている」


 ではどうすればよいか?
 まず、確実にできるのは、因果応報の流れをもっとよく観て、愛するものも憎らしいものも皆、空(クウ)であると心の底から思えるほど〈空を観る心の目〉を養うことです。

 吉田松陰の言葉です。

「自分はいつまで若さを保てるか。
 人よりどれくらい長生きできるか。
 そんなのは、自分の思いのままになることではありません。

 ただそれでも、
 自分という人間をいつまでも磨き続ける、
 というのは、あなたの宿題なんです。」(池田貴将著『覚悟の磨き方』より)


 仏教的な宿題は上記の二つです。
 因果応報と空の真理をつかみ、真理に導かれた真実の生き方ができるようになれるかどうか。
 ここから始めねば、いかなる苦も、根本から解決することはできません。

 最後にもう一つ、『覚悟の磨き方』からの抜粋を記しておきます。

「幸運とか不運というものは、
 天から無差別に降ってくるものではなく、
 すべて自分の方から求めているものなんです。

 そのことを思い出すことができれば、
 他人のせいにしたり、
 組織のあり方に腹を立てたりすることなく
『自分の行動を変えよう』
 という発想に行き着くことができるはずです。」


 たとえば、非人間的なブラック企業を栄えさせているのは私たち自身であることもよく考え、語り、行動したいものです。





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2014
02.09

あるがままに宿命を受け容れる道 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(3)─

20140209001 (2)火垂るの墓
〈寺子屋は予定変更となり、映画『火垂るの墓』を観ました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

2 死への恐れ(その2)

○「現世(ゲンセ)」しか認めぬものは、死を思うな

「特別な修行も積まず、深く仏の教えに帰依しているわけでもない、ごくごくふつうの人間にとって、死の恐怖を軽減する方法はあるのか。」

「これはよく問われることである。
 もし、その個人が、再生転生の思想を信じず、ただ一度きりの人生、いわゆるこの〈現世〉しか認めないなら、死と取り結ぶ効果的な方法は存在しないと言わねばならない。」

「もし、あなたそのような人間であるなら、しかも、死を恐れているならば、こう答える以外にはないだろう。
『死を思うな。
 考えるな。
 そして、現実に死が迫ったなら、酒でも飲み、残された時間を楽しめ。
 やがて人生と共に恐怖も終わる。』」


 よく問われる問いがある。
「もしも、明日、この世が滅びるなら、あなたはどうやって過ごしますか?」
 ネットで見つけた「マイナビニュース」のアンケートである。

Q.隕石が墜落。地球最後の日には何をして過ごしますか?(男性編)
1位 家族と過ごす 33.9%
2位 いつも通りの生活をする 23.9%
3位 ごちそうを食べる 16.1%
4位 恋人と過ごす 14.7%
5位 生き残る方法を最後まで考える 13.9%

Q.隕石が墜落。地球最後の日には何をして過ごしますか?(女性編)
1位 家族と過ごす 48.8%
2位 ごちそうを食べる 29.5%
3位 いつも通りの生活をする 19.2%
4位 恋人と過ごす 18.2%
5位 寝る 6.2%

 ダライ・ラマ法王が言われたとおり、死を考えず、残された時間を楽しむようである。
 特徴的なのは、男性には最後まで諦めない面々がおり、女性は早々に逃避してしまうらしいという点である。
 また、「いつも通りの生活をする」には、仕事も含まれているはずであり、日本人らしいと思える。
 それに「ごちそう」については、生きものにおける食の重要性と共に、どこか祝祭的な面も感じられ、納得できる。
 自暴自棄になるのではないかという不安がアンケートには顕れていないが、果たしてどうか。
 殺人や略奪やレイプや自死はどうか。
 その時にならねばわからないとは言え、戦争で絨毯爆撃を受けた時も、大地震や大津波に見舞われた時も、日本人はおおむね社会の秩序を保ちつつ、助け合いながら難事をくぐり抜けた。
 すくなくとも日本人は大丈夫だろう。
 いずれにしても、〈来世〉を考えない人々は、いつもとあまり変わらない日常を続け、いささかの覚悟だけをもって死を迎えるのだろうと思える。

○人生の早い時期から、「死」と親しむ

「この生ける肉体が存在するかぎり、人間として生を享(ウ)けた以上、死は不可避的に訪れるであろう。
 しからば、その死を、それもまた人生の一部として享受する他ない。
 また、死が人生の不可分な一部である以上、そして、それから逃れられない以上、無闇に死を恐れるよりは親しく付き合ったほうがいいに決まっている。
 人生の早い時期から死と親しむことができれば、いざ死ぬというときに至っても、恐怖ははるかに小さなものとなるはずだ。」


 生きもの全てが死を免れない。
 ならば、死をも生活から切り離せないものとして受けとめてしまうのが智慧である。
 恐れて逃げようとしても無駄あがきであり、ないことにしてしまえば、その時の自分がどうなるかわからないだけでなく、真実に背を向けた欺瞞がよい人生をもたらすとは思えない。

「死と親しむためには、老後を思うことが役立つだろう。
 自分自身の老後を。
 年老いることには何も特別な意味はない。
 誰もが年老いる。
 老後といえども、それも立派に人生の重要な一部である。」

「人間は年老い、やがて死を迎える。
 そのときになれば、従容(ショウヨウ)として老いたように、従容として死ねばいい。
 来世があるか否か、再生するか否か、思い迷う必要なはない。
 あるがままの死を迎え、認め、受容すればいい。
 それが死というものだ。」


 ここでは、宿命をそのまま受け容れてしまう智慧が説かれている。
 老いも、病気も、死も、命に宿るものとしての宿命である。
 それをじっと受容すれば、ままならない苦しみからは逃れられる。
 ジタバタしない、〈まな板の鯉〉である。
 この場合のキーワードは「あるがまま」である。




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2014
02.08

なぜ可愛さ余って憎さ百倍となるか ─仏性の力で憎悪を霧消させよう─

20140208004 (2)
〈早朝、玄関前で餌を探す小鳥〉

 なぜ、あれほどしていたのに、これほど憎むようになるのか?
 深く持続する憎しみが起こると、憎まれ、攻撃される側が苦しむだけでなく、憎しみを持つ本人がよりいっそう、苦しむようになります。
 憎しみは三重の執着心が原因となっています。

1 自分への執着心

 相手から自分の思い通りに〈されない自分〉に我慢がならないのです。
 されようがされまいが、相手からやってくるものはすべて相手の側に属しているので、相手からの憎悪も相手の側にある感情です。
 しかし、それを思うがままにコントロールしたいと思うのは、自分勝手というしかりません。
 もちろん、〈されるに足る自分〉になろうと努力するのは自分の側の問題なので、せいいっぱいやればよろしい。
 しかし、その結果、思惑通りに相手の心が動くかどうかは、自分の問題ではありません。
 だから、愛されればそれを喜べばよいし、無視されたり嫌われたりすれば、自分のどこが問題だったのかを考え、体験を今後の糧とすればよいだけのことです。
 自分の生き方は自分の問題、相手がどう反応するかは相手の問題です。
 それをごちゃませにして、期待通りの反応をしてくれないからと相手へ憎悪を持つのは、自分可愛さの独り相撲でしかありません。

2 相手への執着心

 愛している相手のために何もかも捧げられると思っている自分の心をチェックしてみましょう。
 本当にそうか?
 相手が自分の思い通りになっている間だけの独り善がりではないのか?
 相手への執着心は、自分の思い通りに応えてくれている間は愛となり、応えてくれなくなれば憎悪となります。
 いずれも、〈手放したくない〉心が主人公です。
 その証拠に、きれいさっぱり別れてしまえば、あれほどの熱愛も、あれほど真っ黒な憎悪の炎も、消えてゆきます。
 手放せばもはや、それまでなのです。
 手放したくないから、手放せないから、愛し、憎むだけのことです。
 この面で美しいのは渥美清演ずるフーテンの寅さんでした。
 心から「いいな」と憧れていても、執着せず、ただ、相手が幸せであれば嬉しい。
 実は少し淋しく、少しは悲しいけれど……。
 執着心の薄い独り相撲に彩られた寅さんの人生は、なかなかそうはできないけれど、心の底ではそうあるのもいいな、と気づいている私たちの心を清める秋風のような味わいを持っていました。

2014020800022.jpg
松井冬子氏『九想図』〉

3 憎悪への執着心 

 これは難敵です。
 憎悪のエネルギーが生きる力となり、生活の柱にまでなってしまう場合があります。
 まず自己愛から苦しみが始まり、相手への執着心が愛から憎悪へと変質し、やがては、相手がどうであれ、強い憎しみを感じて手紙を書いたりすることそのものが日々の〈生〉を支える最も大きな力になってしまう場合があります。
 たとえ10年前のできごとであろうと思い出すたびに新鮮で、あたかも昨日受けた仕打ちであるかのごとく憎悪という炎の薪となり、薪も炎も燃え尽きはしません。
 こうなると、精神に異常を来すところまで行くか、あるいは、とんでもない暴発をもたらすか、わからないのでとても危険です。

 さて、どうするか。

 まず、自分への執着心は慢心になっているので、自分の姿を省みて未熟さを確認し、慢心という名の勘違いを離れるのが最も大切です。
 もしも〈いい男〉と自負しているなら〈頭の中身〉はどうか?
 もしも〈お金持ち〉なら、〈品格〉はどうか?
 もしも〈秀才〉なら、〈思いやり〉はどうか?
 チェックポイントは無限にあります。
 いくつかまじめにやってみれば、きっと、もうごめんだと嫌になることでしょう。
 いくら考えても自分は完璧としか思えないならば、その方はもう、挫折か災厄というとてつもない爆弾を抱えた状態であると覚悟すべきです。

 相手への執着心については、古来受け継がれてきた対処法があります。
 画家松井冬子氏の『浄相の持続』を観れば一目瞭然です。
 いかなる美貌の持ち主であれ、一瞬後にいのちを落として何の不思議もなく、そうなれば、モノとして崩れ、腐敗し、やがては塵になってしまうしかありません。
 仏教では、その経過をたどる『九想図』を眺めて『九想観』という瞑想を行い、空(クウ)を悟る修行としてきました。
 チベット密教にある言葉です。

「骸骨ばかり見て、墓場を厭わしく思うなら、動く骸骨でいっぱいの街という墓場を、いったいどうして好むのか」


 とは言え、なかなかそうは思えないのが実情です。
 ならば、煩悶が起こった時、相手を一瞬でも〈モノ〉として眺める、あるいは相手の〈パーツ〉を特定して眺めるという視点を持ってみてはいかがでしょうか。
 正統な方法としては当然、般若心経などをきちんと学び、空(クウ)を正しく理解、納得することをお勧めします。

 三番目に陥った時は厄介です。
 憎悪に生きる本人には、自分で運命を転化させる力がないかも知れません。
 状況を理解し、かつ、悶着に直接関係のない方が、何かのきっかけを与えるよう、根気強く支えることです。
 あるいは、そうした幻にすがってなどいられないような生活環境の変化や、我が身に圧倒的な関心を持たざるを得ないような大病などが転換をもたらすかも知れません。
 憎悪の対象となっている方は、なるべく相手の土俵に乗らないようにしましょう。
 思いやりは保っても、道理をふまえたやりとりによる解決をはかろうと無理をしないことです。
 自分自身に憎悪や怒りを決して発生させないよう気をつけながら、時間の経過を待つしかありません。
 もちろん、いかなる場合でも、好転を願う祈りは不要ではありません。

20140208001 (2)

 最後に『ダライ・ラマ 怒りを消す』より、法王の教えを記しておきます。

「意識は意識から生ずる、つまり意識とは生じては滅する瞬間瞬間の意識のつながりなのです。」

「意識のあるところ、無知や怒りも自ずと生じます。
 ネガティブな感情(煩悩)はポジティブな感情と同様に無始の過去より存在しているのです。」

「ネガティブな感情は実際のところ、無知から生まれており、しかるべき根拠をもっていません。
 ネガティブな感情がいかに協力であろうと、正統な根拠をもっていないのです。
 逆に慈悲や智慧といったポジティブな感情は正統な根拠をもっています。
 理にかなった、論理的な根拠のあるものです。」

「仏性はポジティブでもネガティブなものでもなく、ニュートラルです。
 ですからこうしたネガティブな感情をすべて取り除く、浄化することもできるのです。」


 般若心経や理趣経(リシュキョウ)百字偈(ゲ)などによって仏性の力を解き放てば、憎悪は本来の幻として消えて行くことでしょう。




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2014
02.07

佐村河内守氏と新垣隆氏の事件は新しい文化の出発点となる可能性を持つ

201402080001

 2月6日、佐村河内守氏作曲とされてきた『交響曲第一番HIRISHIMA』などの作曲は、自分が行ったと名乗り出た作曲家新垣隆氏の記者会見があった。

 2月7日付の産経新聞によれば、佐村河内氏はこう作曲にかかわったという。

「作曲を依頼する際に、表現したいものを自分が聴いた音楽や図表、言葉で提示してきた。
 私が音楽の断片をいくつかピアノで録音し、彼が選んだものを基に私が作曲、全体を構成するというプロセスだった」


 また、同日付の朝日新聞はこう書いた。

「交響曲第一番『HIRISHIMA』では、『祈り』『啓示』『受難』『混沌』などの主題から『壮麗極まりない』終結を迎えるまでのイメージを、文字やグラフで細かく指示。
『真の宗教現代音楽』といった言葉も踊る。
 新垣さんはこの紙を、常に机において作曲に励んだという。
 佐村河内さんはプロデューサー、あるいは編集者として、発想の源を新垣さんに授けたということだろう。」


 名曲は二人三脚で創られた。
 ならば、その通りに発表すればよかっただけのことである。
 いきさつはまだよくわからないが、実態を隠していたばかりに、新垣氏が「共犯者です」と謝罪したとおりの結果となったことは確かである。

 さて、では、音楽としての価値はどうか?
 私の心の耳に残って消えない『交響曲第一番』のフィナーレは、今も新鮮なままである。
 別に、「HIRISHIMA」という名があろうがなかろうが、私はこの一曲を魂に留めたまま、この世を去りたいと今も願っている。
 今後、私たちの文化が生んだ珠玉の作品を多くの方々が聴けるようとりはからってもらいたいと願ってやまない。

 新垣隆氏の態度は見事である。
 作品の著作権を放棄し、佐村河内氏を告訴するつもりもないという。
 願いは美しい。

「できることなら、私の音楽の仲間たちとともに音楽活動を続けていきたい」(産経新聞より)


 人は誰でも過ちを犯す。
 ──必ず。
 そうした私たちは、二人へ石を投げ、おもしろおかしく見せ物にする浅はかさ、おぞましさを一瞬も早く離れたい。
 佐村河内氏は、関係解消を願う新垣氏へ継続を頼み、叶わなければ「自殺する」と迫っていたという。
 事件によってどのような経済問題が起こったか、あるいは起こるかはわからない。
 しかし、少なくとも道義的には、まず、新垣氏を許そうではないか。
 この世知辛い世の中にあって、著作権を放棄し、佐村河内氏と争わないという姿勢は、大きな拍手に値する。
 ぜひ、「音楽活動を続け」、今後も、第二、第三の『交響曲第一番HIRISHIMA』を創っていただきたい。
 佐村河内氏がどうするかはこれからであり、見守るしかない。

 現代の芸術作品は、複数の人の手になるものが少なくない。
 分業が、過去の芸術にない地平を拓く。
 この事件も、当初から二人の共同作業であると発表されていれば、何の問題もなかったことだろう。

 私たちが本当に手にしたものは、動かしようのない価値をもった作品そのものと、共同作業という形の作曲によって、音楽の世界にさらなる深化と飛躍が求め得るという経験である。
 二人へ石を投げるまい。
 作られた〈物語〉に踊らされつつ聴いていた面があったとおぼしき作品を聴き直そう。
 自分が〈物語〉と関係なく作品を聴き、芸術的価値を感じとれていたかいないかをこそ、謙虚に省みたい。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
02.06

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その68)─孟宗竹の由来、氷の張らない川─

201402060012.jpg

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。
 今回は、孟宗竹という名の由来と、孝子の詩にもなった孝行息子のお話です。

○第一話 孟宗竹の話

「孟宗(モウソウ)竹中(チクチュウ)に哭(コク)すれば
 深雪(シンセツ)の中(ウチ)に筍(タカンナ)を抜(ヌ)く」


『楚国(ソコク)先賢伝(センケンデン)』にあるお話です。
 母親が他界し、孝行息子の孟宗(モウソウ)は、生前とても好んでいた筍(タケノコ)をお供えしたいと願いましたが、時は冬。
 雪深い竹林に筍の姿はなく、ただ泣くしかありませんでした。
 ところが、その悲しみに感応した筍が生えだし、望みは達せられました。
 孟宗はその後、孫皎(ソンコウ)に仕え、司空(シクウ)という官位を得ました。

孝子伝』にある同様のお話です。
 江夏(コウカ)の国に孟仁(モウジン)という親孝行な息子がいました。
 字(アザナ)は恭武(キョウブ)です。
 いつも母親の大好きな筍を用意していましたが、冬にはどうにもなりません。
 竹林でただただ竹にすがって泣いていたところ、感応した精霊が筍を生え出させました。
 なお、『呉録』によれば、孟仁の元の名は孟宗であったとされています。

○第二話 川に氷が張らない話  

王祥(オウショウ)歎(ナゲ)きて氷を叩けば
 堅凍(ケントウ)の上に魚(ウオ)踊る」

  
『晋書(シンジョ)』の「列伝」にあるお話です。
 琅邪(ロウヤ)の臨沂(リンキ)に王祥(オウショウ)という人がいました。
 字(アザナ)は休徴(キュウチ)です。
 継母の朱子(シュシ)は子供へ愛情を注げない人でしたが、王祥はいつも父母に孝養を尽くしていました。
 父母が病気になれば、着替えて寝る間もなく湯薬を与えて看病しました。
 生(ナマ)の鯉を食べたいと所望されれば、極寒の中でも衣を脱いで氷に挑み、鯉を求めました。
 その誠意に感応して氷が融け、二尾の鯉が踊り出ました。
 また、口の周りが黄色い黄雀(コウジャク)という雀を炙(アブ)って食べたいと言われた時は、張った膜の中に60羽もの黄雀が飛びこんできました。
 こうしたできごとを目の当たりにした里の人々は、孝行が通じたと驚きました。

 また『傳灯日記故事(デントウキッキコジ)』に孝子の詩が載っています。
「継母人間有(ケイボ、ニンゲンニアリ)
 王祥天下無(オウショウ、テンカニナシ)
 至今河水上(イマニイタルマデ、カスイノウエ)
 一片臥氷模(イッペン、ガヒョウノイカダ)」

(継母は人の世にあまたいるが
 王祥のような人物は天下に二人といない
 今に至るまで、王祥が入った川には
 体温で氷を融かそうとした王祥が横になった形そのままに、氷が張らない)




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2014
02.05

死神を恐れる理由 ──「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(2)─

201402050001.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

2 死への恐れ(その1)

○死の恐怖は、未来への不安と同質だ

「誰も明日を見通すことはできない。
 そのために、常に明日は不安に満ちている。
 未来は神秘そのものでさえある。
 これは死の恐怖と同じ種類の不安である。
 人が死を恐れる大きな理由は、死後を見通すことができないからであろう。」


 実に、明日はわからない。
 それどころか、一瞬後さえ、実は、わからない。
 だから、お釈迦様は、「今、本当にやらねばならないことをやらねば、いったい、いつやるのか?」といった説法を繰り返された。
 蓄財に夢中で、人の道を知らない大富豪が、せっかくお釈迦様の説法を聴く機会を得たにもかかわらず、無視した直後、工事現場の事故で急逝した逸話などが残されている。
 流行語になった「今でしょ?」は、2500年も前から言われてきたのである。

 行動心理学者池田貴将氏は『覚悟の磨き方』において吉田松陰の文章を〈超訳〉した。

「一刻も早く、
『自分が今、やらなければならない、一番大事なことはなにか?』
をはっきりさせてください。
 悩むべきはそのことだけです。」

 明日も、未来も、死後も、わからないがゆえに、見通せないがゆえに不安なのは、自分自身についてだけではない。
 財があれば、それがどうなるかわからず、不安である。
 組織があれは、それがどうなるかわからず、不安である。
 だから、何とかしようとするが、実は、何ともならない。
 亡くなってしまえば、自分の意志では、自分の亡骸を一ミリたりとも動かすことすらできない。
 すべては〈自分以外〉の誰かの手によって行われる。
 不安と思えば、限りなく不安になるしかない。 

「だが、人は過去の経験から、明日を、未来を推しはかる術を身につけているではないか。
 今日の存在の基盤に立てば、明日はおよそかくあるであろう、と推量を働かせることは不可能ではないだろう。」


 明日はわからないのが真実でも、私たちの心は、そう知っていながら、それをある程度、忘れていられるようにできている。
 誰しもが、ほとんど無意識に、〈自分は明日も生きているだろう〉と思っているはずだ。
 なぜなら、明日が〈わからない〉とは、実は、生きていられるかどうかがわからないだけでなく、死んでいるかどうかもわからないのであり、明日も今日と同じく生きていて何の不思議もないからである。
 そして、今は、確かに生きている。
 確かなのはそのことだけでしかなく、その確かさが、わからないという事実を覆い隠してくれる。

「実際に、人間はそのようにして毎日の日常を生きている。
 明日がわからないからといって、その不安のために明日を迎えられない者などいない。
 同様に、この〈現世〉から来たるべき〈来世〉がある程度は見えてくるはずだ。
 ならばことさら、死に恐れおののく必要はないだろう。」


 明治36年、旧制一高の学生藤村操(16才)は失恋をきっかけに悩み、「人生曰(イワ)く不可解」と書き残し、華厳の滝へ飛びこんだ。
 不可解とは答がないということである。
 そして、私たちは、答のない問いを発する能力に恵まれている。
 これがか不かは、わからない。
 問いを発するところに文学も科学も宗教も芸術も生まれ、文化の花々は咲き乱れるが、そうしたものに携わる人がか不かは、本人にしかわからず、畢竟、本人の問題である。
 当時、40人もが藤村操同様に滝でいのちを落としたが、その流行もやがては廃れた。

 法王は、現世のありようによって、ある程度、来世が推しはかられると説いた。
 自分が死後、どうなるかはわからないが、自分が〈自分とまったく別のもの〉になるとは想像しにくい。
 一つには、〈今〉のありようが確かであると感じているからである。
 確かなものがなくなるであろうことは不安でも、確かなものがまったく別ものになるという具体的なイメージは持ちにくい。
 また、理論的に認識しているかどうかにかかわらず、私たちは因果応報をある程度、信じている。
 会社へ出勤するのは、右足、左足と歩を運べば通勤の道はやがて自分を会社へと到着させ、そこでは昨日と同じように仕事が待っており、今日はたらけば、明日も生きられると信じているからである。
 この思考の流れすべてが因果応報の中にある。
 だから、今ある生が死を迎えても、生とまったく無関係な死後へ入って行くとは考えらない。
 私たちは、今の生きざまが何らかの形で死後へとつながると感じているからこそ、死ぬ存在であるとわかっていながら、「ことさら、死に恐れおののく」こともなく、生きていられる。




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2014
02.04

戸を開くわずかに花のありかまで ─飛ぶ心─

20140204030.jpg

 考古学者中谷治宇二郎(ナカヤ ジウジロウ)は、パリに留学中、この一句を詠みました。

「戸を開くわずかに花のありかまで」


 パリ国際大学の日本館にいた彼は、きっと、研究室の外で「が咲いた」と聞き、観たいというワクワクする思いで戸を開けたのでしょう。
 開けて外へ出ればもう、そこにはが咲いているはずなのに、ドアのノブに手をかける間もなく、心は「花のありか」までワープしてしまっています。
 多くの場合は、を自分の目で眺めてから、きれいだなあと思うのですが、彼は違います。
 咲いたという情報を得て、あるいは咲いたらしい気配を感じて、観るための行動を起こした瞬間にもう、のいのちとほとんど同化するあたりまで、彼の心は飛んでいます。
 もしかすると、優れた考古学者は、今に息づいている過去の気配をこのようにキャッチし、行動するのかも知れません。

 友人の数学者岡潔(オカキヨシ)が「明らかに学問上の理想を語ったものだろう」と評していることも重要です。
 すばらしい成果へと至る道の扉をほんの少し開けられたという研究者の喜びでしょうが、もはや、常人にはつかみきれません。

 対照的なのが与謝野晶子の一首です。

「清水へ祇園をよぎる月夜こよひ逢ふ人みなうつくしき」


 夜を観ようとして祇園をよぎり、清水寺へ向かう道々には桜が咲き誇り、月明かりに浮かび上がる人々の誰もが、すでに、華やいだ桜の気配に染められています。
 血潮が流れている人々の生き生きした様子は、主人公である桜を凌駕しています。

 立春だというのに、昨日までとは一転し、真冬並の寒さに閉ざされています。
 でも、一足先に、いや、二足先に桜をとりあげてしまいました。
 日が長くなったといってもまだ、6時前は闇。
 朝は仙台、午後は白石、夜はまた仙台と、今日も祈りの旅が始まります。
 皆々様、厄除開運のよき一年となりますよう。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
02.03

平成26年のカレンダーをお分けしています

 櫻井恵武先生制作のカレンダーをお分けしています A2版(420 × 594 ミリ)
2013110500222 (4)善通寺愛染明王…強大な清めと戒めと導きのお力が感じられます
2013110500222 (5)○四国八十八か所本尊…お大師様の願い「転迷開悟」が感じられます
2013110500222 (1)弘法大師般若心経…三蔵法師の経典をお大師様が書き写されました
 いずれも送料140円でお送りいたしますので、どうぞお申し込みください。(もしも、ご志納金を納められたい場合の目安は一枚千円です)新たな一年間、皆々様へ大きなご加護がありますよう祈っております。

2014
02.03

時計屋の時計春の夜どれがほんと ─他者の救い─

201402020011.jpg

 節分になりました。
 明日はいよいよ立春です。
 昨日、一足早く、立春厄除け祈祷を行いました。
 2時間続けて護摩法を行うと、じっとしていても汗だくになってしまいますが、ちょうど、今年一番の暖かい日になり、宮崎空港は25度の〈夏日〉だったというから驚きです。

 久保田万太郎の一句を思い出しました。

時計屋の時計春の夜どれがほんと」


 暖かさは、寒さに負けまいと凝り固まり加減だった心身をほぐしてくれます。
 この句は、そんな夜に覗いた通りすがりの時計屋さんで、針がそれぞれ微妙に違う時を告げている光景を詠んだものです。
 自分の緩みがますます緩ませられるような句ですが、シュール(超現実的)な雰囲気はありません。

 時計なら本当は皆、同じ時刻を示していて当然なのに、バラバラであることが非現実的であるという印象をもたらさないのはなぜか?
 それは、時計自体はどれも確かに〈時計〉であり、狂いは時計の側にあるのではなく、時計屋の主人の側にあるという暗黙の判断がはたらいているからではないでしょうか。
 自分を含め人は曖昧で頼りない面を持ち、お互いがそうであると認め合うことが寛容さや救いにつながってもいます。
 この句には、時計職人という言葉が身近にあった時代の、一種、アナログな雰囲気が漂っています。

 もしも、長針と短針で成り立っているたくさんの時計たちが寸分違わぬ形でズラッと時を刻む光景の中へ入ったなら、むしろ、その方が、どこか非現実的な感覚をもたらすと思われます。
 圧迫感に息苦しくなり、きっと長時間、とどまることはできないに違いありません。
 つまり、カッチリとした時計が、曖昧さを持った生きものである人間の手によって動かされているところに独特の〈味わい〉が生じているのです。

 では、ダリが描いた時計たちはどうか?
 歪み、溶けかけているような時計はもちろん、現実世界のものではありません。
 どれもが非現実的、超現実的なのに、観る者は必ずしも不安がったり、不気味さに辟易したりするだけではありません。
 むしろ、私などはホッとさせられたりもします。
 なぜか?

 それは、画家によって歪ませられる前にあったはずのカッチリとした姿が見てとれるからではないでしょうか。
 一見、ムチャクチャな絵であっても、用いられているパーツたちは、どれもこれもがあまりにもリアルで、生々し過ぎるほどです。
 私たちは、確かな現実があり得ない光景を形づくることの妙味に魅せられているのではないでしょうか。

 私たちはきっと、血の通った暖かな現実から離れては心の安定を保ちにくいのでしょう。
 そう言えば、哲学者鷲田清一氏は著書『わかりやすいはわかりにくい?』にこう書いておられます。

「大事なものとは、大事にするひとによっても、大事にされるひとによっても、まだ知られていないものなのではないか。
 理由は不明なまま、ひたすら大事にすることによってそれは生まれるのではないか。」
「わたしの『こころ』はわたしには見えない。
 それは、わたしの名前がそうであったように、あるいはわたしの『こころ』のかたどりがそうであったように、まわりの他者から贈られるものなのだ。
 大事にすることが『こころ』を生む……。
 他者に大事にされることでかろうじて繕われる『わたしのこころ』、それはわたしには、いつかだれかによって大事にされたはずのものとしてしか感受できないものなのである。
 自尊心やプライドというと硬くなるが、それを自分の存在を粗末にしないことというふうに考えれば、自尊心やプライドもまた自分を大事にしてくれる他者から贈られるものなのだ。」


 私たちを大事にしてくれ、私たちの心を育て、守ってくれるもの、それは暖かで確かな現実であり、言い換えれば鷲田清一氏の言う〈他者〉です。
 自分も又、他者にとっては〈他者〉です。
 誰かにとって、暖かで確かな現実として生きたいものです。




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2014
02.02

罪を犯せば救われないか? ─自責の念に囚われてしまった方々へ─

20140202027.jpg

 ご自身が犯したの重さに苦しんでおられる方々の人生相談は少なくありません。
 仏教がをどうとらえているかについて少々、考えてみましょう。
 
 は、他を害する悪行(アクギョウ)によって生じます。
 は、悪行の結果として、自他へ苦しみをもたらします。
 このように、は、苦という悪しき結果をもたらす影響力であり、仏教ではそれを悪業(アクゴウ)と呼びます。

 では、悪とは何でしょうか?
 魂の声である良心が求めない世界です。
 だから、お釈迦様は、十の戒めをもって、良心の求める世界に反する世界を生んではならないと説かれました。
 誰もが、み仏の子としての本心(仏性)に反する世界を望んではおらず、望まない世界をもたらしてはなりません。
 なぜなら、私たちは、殺されたくはなく、救われてこそ喜びを感じ、そこに感謝という尊い思いが生じ、〈自分も〉誰かを救うという〈共に望む世界〉をつくりあげるための意志と行為が生ずるからです。

 望みと反対の苦しみや悲しみを生じさせ、怒りや怨みを生じさせる行為が悪行であり、それは悪業となって、必ず、自他へ悪しき(良心が望まない、み仏の子として本心から望まない)結果をもたらします。

 こうした理由によって、お釈迦様が説かれた十善戒は、「~してはならない」という形で説かれています。
 悪行を戒め、悪業を発生させてはならないとされたところに留意せなばなりません。
 そして、悪行でないものをこそ善行とされたことも見逃さないようにしましょう。

 第一の不殺生(フセッショウ)戒を考えてみましょう。
 殺生という、「妄(ミダ)りに他の生きもののいのちを奪う行為を行わ不(ザ)ること」が不殺生の意味です。
 だから、おもしろ半分に足元を歩いているアリを踏みつぶせば、この戒めに反した悪行であり、悪業を生むことになります。
 そして、仏道修行の目的は、こうした〈悪行を行ってはならない〉というところから出発し、〈悪行を行わない〉人となり、やがては〈悪行を行えない〉人、そして同時に〈悪行を行わせない〉人になることです。

 江戸時代の高僧慈雲尊者(ジウンソンジャ)は、54歳の時に『十善法語』を書かれました。
 それには、不殺生の到達点として慈悲という言葉が示されています。
慈悲不殺生戒」とあり、殺せず殺させない心こそが慈悲であり、言い換えれば、慈悲とはそうした善なる心です。
 尊者は、戒律の目ざす世界を明確に示されたのです。
 当山が平成19年に書いたブログ「十善戒を生きる」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-578.html)から十善戒を転載しておきます。

 第一 慈悲不殺生戒(ジヒ、フセッショウカイ)
  慈しみと憐れみによって、みだりな殺生をせずに生きよ。
 
 第二 高行、不偸盗戒(コウコウ、フチュウトウカイ)
  節操を高く保ち、他人の領分へ手をかけずに生きよ。
 
 第三 浄潔、不邪淫戒(ジョウケツ、フジャインカイ)
  行いを清らかにし、邪な獣性に導かれずに生きよ。
 
 第四 正直、不妄語戒(ショウジキ、フモウゴカイ)
  正直な心で言葉を用い、嘘をつかずに生きよ。
 
 第五 尊尚、不綺語戒(ソンショウ、フキゴカイ)
  高く尊い志を汚さず、言葉を飾らずに生きよ。
 
 第六 従順、不悪口戒(ジュウジュン、フアックカイ)
  柔軟な心で言葉を用い、粗野な言葉で罵らずに生きよ。
 
 第七 交友、不両舌戒(コウユウ、フリョウゼツカイ)
  誠の交流を尊び、人を離反させずに生きよ。
 
 第八 知足、不貪欲戒(チソク、フドンヨクカイ)
  己の分を守り、貪らずに生きよ。
 
 第九 忍辱、不瞋恚戒(ニンニク、フシンニカイ)
  耐えて動揺せず、つまらぬ怒りを起こさず生きよ。
 
 第十 正智、不邪見戒(ショウチ、フジャケンカイ)
  正しい智慧を発揮し、真理に背く考えを持たずに生きよ。


 これで善行と悪行は、はっきりしましたが、私たちが悪業を恐れる悪行はどのような過程をたどって生まれるのでしょうか?
 チベット密教の聖典ラムリムにわかりやすくまとめられており、参考にしながら考えてみましょう。
 悪行が完全に成り立つには、4つの条件が揃わねばなりません。

1 対象を定める
2 意志を持つ
3 実行する
4 完了する

 たとえば、殺生という悪行を考えてみましょう。
1 対象
 相手を定めるところから始まります。
 憎いあいつ、ですが、無差別テロなどの場合は、誰でもよい、という形で相手を特定したことになります。
2 意志
 まず識別が必要です。
 Aさんを殺そうとすれば、殺生という悪行ですが、錯乱して路傍の石を殺そうとしても殺生にはなりません。
 ただし、通りがかった人や、そばにいる人誰でもいいと感情に任せて行う殺人は、もちろん前述のとおり、悪行となります。
 また、たとえば、人が飛び出してくるとは思ってもいなかったのに、結果として交通事故を起こしてしまったような場合は、殺人という悪行が完全に成り立ちはしませんが、成仏を祈るという罪滅ぼしは必要です。
 次に、動機が必要です。
 怨みを晴らしたい、といった目的意識です。
 動機をもたらすのは、貪りや怒りや愚かさといった煩悩(ボンノウ)です。
 カッとならない自制心のある人は、動機が発生しません。
3 実行
 実行せず、思いとどまれば、当然、悪行はありません。
 ただし、自分がやらなくても、誰かが意を体して行えば、悪行は成立します。
4 完了
 相手がいのちを落とせば殺生になり、落とさない場合は、暴行や傷害などの罪となり、慈悲に最も反する殺生の範疇には入りません。

 こうしてみると、たとえば、医者の忠告を無視して仕事と飲酒にのめり込み、ついに会社を休まねばならなくなって、家計を預かる妻が不安のあまり心の病気に罹った場合はどうか……。
 たとえば、家計が苦しく、過労をおして運転したために交通事故を起こし、人を傷つけてしまった場合はどうか……。
 誠意のある方ほど、結果的に相手を苦しめることになったことそのものに苦しみ、〈罪深い自分〉と考え、自分を追いつめたりもされますが、このように〈罪〉を冷静に考えてみることは、袋小路から脱する手がかりになるかも知れません。
 また、前の例なら妻が、後の例なら被害者が、あまりにも執拗に罪を咎め立てする場合は、ただただ申しわけないという思いに閉ざされず、深呼吸をして相手の執拗さから一歩、身を引き、落ちついて対応することが自分を救い、同時に、怨みに囚われている相手をその苦しみからいくらか遠ざけるために役立つかも知れません。
 もちろん、状況を総合的にとらえられず、危険を未然に避けられなかったことに対して深く自分を省みる必要があり、傷ついた相手への思いやりも軽減されるべきではありません。
 自分がこうさせてしまったという罪の意識はつきまといます。
 しかし、それでもなお、自分自身がしっかりし、生き方を変え、強く生きてこそ、相手と社会へ対して罪滅ぼしができるという真実から目を背けないようにしたいものです。
 ご自身が罪の重さに押し潰されてしまえば罪滅ぼしは叶わず、相手を怨みから解放できもしません。

 お釈迦様は、私たちが等しく煩悩を持って生まれており、ともすれば殺生などの悪行へと走りやすい存在であるからこそ、「善を行え」というよりも「不善を行わないようにしよう」「不善が行えないようになろう」と呼びかけられました。
 お互いにそうした弱い面を持った存在です。
 まっとうな人ならば、誰しもが罪を意識し、罪に苦しみ、それを解消したいという願いを持ち、人知れず努力をしているはずです。
 罪に苦しむのは、人間としてまっとうな証拠であり、自他の救いの出発点に確かに立っておられるのです。
 教えに導かれ、祈り、光明を目ざして進もうではありませんか。




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2014
02.01

死とは着替えのようなもの ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(1)─

20140201001.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。
 この本は、チベット仏教のみならず、同じ密教である真言宗はもちろん、およそ仏教と呼ばれる宗教の根幹となっている部分に通じる貴重な資料である。
 読んでみたい。

1 無限の生命

○「死」とは、古い衣服を着替えるようなもの

「人間は死を恐れる。
 究極の恐怖といえば死の他にはない。
 たしかに、〈死〉の一般的な認識は〈生命の終焉(シュウエン)〉だということになっている。
 また、やや哲学的な表現を用いるなら、〈死〉とは〈存在の停止〉であるとも言い表すことができよう。」


 四苦八苦の中でも「死苦(シク)」と呼ばれる死に関する苦しみは最も逃れがたいものであるとされている。
 誕生と共に、ひっくり返された砂時計と同じく、肉体は死という無へ向かっていのちをすり減らし始めるが、心はその反対にはたらく。
「自分は生きたい!」と。
 もちろん、生きたいといういのちある者共通の願いを持っていればこそ、与えられた生を活き活きとまっとうできるし、〈納得のできる生〉へ対する欲求が文化の花を開かせもする。
 死なねばならない肉体と、生きたい心は正反対の方向を向きながら、一人の人間に同居している。
 この引き裂かれた状態を生きる人間の宿命として、死は苦となり、「究極の恐怖」をもたらしもする。

「だが、死については、異なった宗教、哲学、伝統などによって、それぞれ異なった解釈や理解が存在する。
 たとえば、仏教のような宗教は、あるいはこれを宗教的伝統と呼んでもいいのだが、古代からのインドの宗教、哲学などと同様に、再生、転生の考え方を受け容れている。
 こうした宗教的伝統の立場に立てば〈死〉はただの〈この生命〉の終わり、〈現世(ゲンセ)〉の終わりにすぎない。」


 前世があり、現世があり、転生した先に来世があるならば、自分は〈無〉にならない。
 誕生と死によって住む世界を変えるだけである。
 死は、この世で縁となった肉体にたまたま宿っているこの世での役割終えることに〈すぎない〉。

「この場合、〈死〉は衣服を着替えるほどの意味しか持たない。
 私自身がまとっている法衣が、破れほころび、もうどうにも用を足さなくなったとき、私はこの法衣を脱ぎ捨て、新しいもので身を包むことになる。
 古い法衣は捨て去られるが、私の生命は生きつづける。
 それと同じように、生命は肉体が滅びた後も生きつづける。
 その折々の肉体から離れてもなお。」


 モノとしての肉体には当然、耐用年数がある。
 古びれば、暗算の速度が鈍り、人名を思い出すにも時間がかかるようになる。
 しかし、生涯かけて心は練られ、仏性(ブッショウ)は輝きを増し得る。
 記憶力などが鈍っても、事態の本質を把握する能力などは向上し得る。
 滅び行く肉体へ対して、心は生きたいと対抗するだけでなく、粛々と磨き続けられる。

○生命は、無限の時間を生き続ける

「生きとし生けるもの、知覚を有する生あるもの、その存在には始まりはなく、終わりもない。
 それは常にそこにあり、そして、常にそこにあり続けるであろう。
 具体的なひとつの肉体に宿る生命は、具体的な特定の条件のもとにおいて、誕生し、生を育み、やがて死ぬ。
 だが、それは特定の生命にすぎない。
 生命そのもの、あるいはそれを魂魄と呼び換えてもいいが、それには終末はなく、無限の生命を生きつづける。」


 昭和45年、画家岡本太郎は「わが世界美術史」へ書いた。
「かつて私は沖縄に行ったとき、そこで一番神聖な場所、久高島の御獄を訪ねて、強烈にうたれた。
 そこは神の天降る聖所だが、森の中のわずかな空地に、なんでもない、ただの石ころが三つ四つ、落ち葉に埋もれてころがっているだけだ。
 私は、これこそわれわれの文化の原型だと、衝撃的にさとった。」
 かつて、天降ったと気づいた人々がいた。
 岡本太郎も、そうと、わかった。
 御英霊の御遺骨に会いたくて沖縄を訪ねる私も、現世で同じ体験を持てるかも知れないし、あるいは来世へ持ち越しとなるかも知れない。
 いずれにしても、「特定の生命」をもたらす「生命そのもの」は、知覚をはたらかせる何者かとして「聖所」でうたれる体験をもたらすだろう。
 体験者が古人であることと、岡本太郎であることと、私であることと、あるいは未来の何者かであることとに、大した問題はない。
 魂魄が「無限の生命を生き続け」、とてつもない震えが繰り返し、もたらされるところにこそ、重大な真実がある。

○新しい人生を己が手にする時が来たり

「まさに今、この瞬間、この私とともにある、たとえば魂と呼び、あるいは存在自体と呼びうる生命そのものは常に普遍であり、また、変えようとしても変更不能である。
 仏教が霊魂の不在をいうとき、この霊魂、魂とは、時々刻々と変化するようなものとしての霊魂、魂は存在しないということだ。」

「また一方で、キリスト教でいう精霊の単一性も仏教は認めることはない。
 この意味においては、仏教は霊魂不在の立場に立つ。
 しかしながら、生あるものとしての存在自体は常にありつづける。」

「したがって、この肉体、この特定の生命に属するこの具体的肉体にとって、死とは変化の時の到来を告げるのみである。
 古い着物を投げ捨て、新しい着物をまとうように、普遍的存在が古い肉体を捨て去り、新しい肉体に宿る節目である。」


 仏教は、特定の霊魂がアングルバーのように時間軸を貫いて存在するとは考えない。
 ただし、因果応報の原理は時空を超えてはたらき、過去世の影響力を受けたがゆえに〈特定の何者か〉としてこの世に誕生したのと同じく、この世での生きざまが次の世でのありように必ず関わると考えている。
 だから、強烈な影響力を残した人は、その影響力を強く持った〈特定の何者か〉となって現れるという可能性は否定しない。
 

「であるならば、〈死〉に対する人間の対応は恐怖とはまるで異なるものとなるはずだ。
 死に臨むとき、自分の心から恐怖を取り払うことができるはずだ。
 精神的な修養を積んだ者なら、死が現実に迫れば迫るほど、心は豊かに穏やかに、それでいて喜びに満たされるものなのだ。
『時は来たり。
 若々しく、新鮮で、より可能性を秘めた肉体を、そして、新しい人生を己が手にする時が来たり』と。」


 仏教における理想的人間像である菩薩(ボサツ)は、まさに、こうした意味において、「恐怖を取り払」っている。
 なぜならば、幾度、生まれ変わろうと、最後の一人をも救い尽くすまで、決して如来のおられる世界へ入ってしまわず、苦の娑婆と楽の仏界を往復するのが菩薩の使命だからである。
 死を迎えるのは、老朽化で使い勝手が悪くなった道具を使い切り、やがて別な新しい道具を手に入れることである。
 死を受け入れるための一時的な肉体的苦痛は別として、もはや、「喜びに満たされる」以外にない。
 ただし、この境地へ入るためには、すべてが空(クウ)であることを深く納得できていなければならない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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