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2014
03.31

輪廻の様相 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(15)─

20140331004.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

3 ダライ・ラマ輪廻
 
ダライ・ラマは、観世音菩薩化身である

ダライ・ラマとは、観世音菩薩化身であり、観世音菩薩輪廻転生(リンネテンショウ)によってこの世に現れたものだと考えられている。
 したがって、もし、ダライ・ラマ輪廻転生を時間軸を逆に辿(タド)れば、観世音菩薩にまで到達するということになる。」

「ここで知っておかねばならぬことは、観世音菩薩は、いわゆる観世音菩薩そのものを意味すると同時に、仏陀の化身としての観世音菩薩をも意味しているということである。
 観世音菩薩といっても、決して単一のものではなく、いくつもの異なった存在を含むものだということだ。
 ある特定の観世音菩薩はただひとつの存在、たとえば個人を指し、他の観世音菩薩はそのような特定の存在を指すものではない。
 それは特定の存在、個人でさえなく、観世音菩薩という呼称を与えられた仏陀の霊験(レイゲン)を指しているのである。」


 ダライ・ラマは観音様の化身であるという。
 観音様は『般若心経』を通じ、私たちにとって、とても身近なみ仏である。
 この経典は、悟りを開いたお釈迦様がいつも説法する霊鷲山(リョウジュセン)において、観音様という行者が深い瞑想へ入り、お釈迦様が悟られた世界の階段をどんどん上って行く物語である。
 そして、仏教の修行は、み仏が示された真理のヴィジョンを瞑想によって〈観〉ることであり、観音様とは、〈観〉る能力に長けた行者である。
 この行者が深く高い霊的能力を発揮し得た時に、お釈迦様の悟りに通じる世界が開け、『般若心経』となった。
 ダライ・ラマ法王が説く「観世音菩薩という呼称を与えられた仏陀の霊験」とは、こうした事態であろう。

「そこで、特定の存在、個人としての観世音菩薩の場合において、あるひじょうに高次元の精神的な経験が、具体的な存在として輪廻転生を具現しはじめる、そのような瞬間がどこかで生起(ショウキ)したということが考えられる。
 簡単に理解できる話ではないが、ダライ・ラマはそのようにして、観世音菩薩から連綿として輪廻転生を繰り返して来たと信じられているのである。」


 般若心経に示された霊験が可能になるほどハイレベルな心的体験の痕跡はきっと、輪廻転生の強力な影響力となることだろう。
 密教を会得した不空三蔵(フクウザンゾウ)は、弟子の恵果(ケイカ)へ遺言を残した。
「密教は唐において滅ぶだろうが、私のいのちは東の国へ移り、お前の弟子となり、密教を東の国へ伝えたい」
 そして、大暦10年(775年)6月15日未明に事切れ、日本では宝亀5年(775年)6月15日、お大師様が誕生し、30年後には不空三蔵の予言どおり、恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)のもとへ向かった。
 お大師様への伝授を終えた2か月後、恵果阿闍梨は、自分が師から告げられたと同じく、お大師様へ遺言を残して旅立った。
「法を伝える師弟の関係は途切れないので、今度は私がお前の弟子となろう」
 新義真言宗の始祖であり密教中興の祖と称される興教大師覚鑁(コウギョウダイシカクバン)こそが恵果阿闍梨の生まれ変わりとされている。

○輪廻は後天的な修養によっても変化する

「人は、自分に元から備わった性質の帰結としての輪廻を生きるだけではなく、その人の内的な経験の質によって、また、そこで受けた訓練によって、大きな影響を受けることになる。」

「わかりやすく具体例を挙げよう。
 俳優について考える。
 俳優、彼もしくは彼女は、さまざまな役を演じる。
 その役を俳優は自己に備わった素質によって演じる。
 だが、その役柄は俳優個人の訓練、経験、修養などに大きく依存している。」

「また、誰でもが種々の異なる役柄を演じられるわけでもない。
 同じように、輪廻は単純にその人に元から備わったものによってのみ決定されるわけではない。
 俳優が自己と異なった役柄を演じるように、輪廻もその人物の経験や訓練、修養などによって変化する。
 輪廻とはそのようなものだ。」


 せっかく深い宗教的素養を生まれ持っても、我慢強くなく、怒りっぽい性格だったり、なまじ財産に恵まれたりすると、それをうまく花開かせられないかも知れない。
 一方、素養はそれほどではないのに、飛び抜けた存在になる場合もある。
 今般、横綱となった鶴竜関は当初、体重が65キロしかなく、井筒親方は「床山(トコヤマ…まげを結う人)にでもするか」と思ったが、わずか3ヶ月で82キロまで増やし新弟子検査をパスした執念に、「こいつを育てなきゃ可哀想だ」と決意した話は有名である。
 生まれ持ったものによってのみ、運命が決まるわけではない。
 宿命と運勢と因縁と意志とが絡み合い、人間の運命が創られ、輪廻の要素となる。 




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2014
03.30

友好についての考え方 ―日本と中国―

201403300011123.jpg

 3月28日、中国の習近平国家主席は、ベルリンでの講演において、日本を非難した。
 いわゆる南京事件で日本軍は「30万人以上を虐殺し」、太平洋戦争においては「3500万人以上の死傷者が出た」という。
 日本人としては承服しがたい主張である。
 そして、「中国人は自分にされたくないことを他人にしてはならないとの信念を持っている」そうだが、この半世紀、チベットにおいて中国共産党政府がやってきたことをふり返ってもらいたい。
 そうしたことごとをふまえてなお、隣国同士が友好的でありたいと願い続けることは欠かせない。
 PM2・5PM0・5、核による放射能、あるいは人工細胞など、科学文明が生み出すものの影響は、良かれ悪しかれ、地球規模で発生するからである。
 隣国の安全は自国の安全につながり、自国の安全は隣国の安全抜きには成り立ちにくい。
 友好という問題に対する現代なりの新しい感覚や考え方があってもよいのではないか。

 3月30日付の河北新報へ掲載された記事には、わけへだてせず万人の救済を願う仏教者としてだけでなく、こんな思いも込められている。




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2014
03.30

うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花 ―4月と言えば桜―

201403300002.jpg

 今年も早、卯月(ウヅキ…4月)が来る。
 卯月の「卯」は卯の花であり、同時に、「産(ウ)む」、あるいは「初心(ウブ)」の「う」に通じ、廻る季節の初めをも意味する。
 私たちは季節が巡る感覚を大切にし、自然と共に生きる農業や漁業や林業に生きる人々だけでなく、誰しもが変化に応じた生活のしかたや人生設計を考えつつ文化を育んできた。

 まず、お正月には年があらたまり、文字どおり一年の始まりとなるので、ご先祖様へご供養し(この面は年々、忘れられてきている)、天地の神々へご挨拶をし、自分の一代守本尊様へ祈る。
 次に、四季の始まる立春には、その年にお守りくださる守本尊様へ祈り、試練の年回りには、厄払いを行って無事安全を期する。
 そして、春の到来が体感できる卯月には、学校も役所も企業も新しい一年のスタートを切る。
 この時期、私たちの嬉しい心を映すかのように咲くのが桜である。

 桜を詠んだ名句の中で、強い印象を覚えているのは若山牧水の一句である。

「うすべにに葉はいちはやく萌えいでて咲かむとすなり山桜花(ヤマザクラバナ)」(若山牧水


 山桜は日本に野生している桜であり、葉が出ると同時に花も咲く。
 その時期が個体によって異なるので、古来のお花見は、今のように慌ただしくなく、ゆったり楽しんだという。
 山桜の味わいについては、酒と花をこよなく愛おしんだ牧水自身が書いている。
「この花は花よりも葉の方が先に萌える。
 その葉の色は極めて潤沢な茜を含んで居る。
 そしてその葉のほぐれやうとするころにほんの一夜か一日で咲き開く花の色は近寄って見れば先づ殆ど純白だが、少し遠のいて眺めるとその純白の中に何とも言へぬ清らかな淡紅色を含んで居る。
 花のさかりは極めて短く、ほんの二日か三日で褪することなく散ってしまふ。
 散り始めたとなればそれこそ一寸の間をもおかないではらはらと次から次に散り次いで程なく若葉のしめやかな木となってしまふのである。」

 桜が散る前に、光景を閉じる人もいる。

「今死なば瞼(マブタ)がつつむ春の山」(齋籐玄


 死ぬとは瞑目であり、それは、現象世界の光景を映している目に瞼というシャッターが降りることである。
 瞼は自分の目を包むが、いのちの息吹に満ちた春の山を眺め、山と一体になっている俳人には、山が包まれることと同じである。
 死の予感の中でこれほど淡々と言葉を紡げるとは、驚嘆するしかない。

 当山の『自然墓』では、左右に山桜と高野槇を配した。
 左手前には梅である。
 笹倉山を借景に、この三本と右横の小さな薬師如来様へすべてを託した。
 ウグイスが鳴き始めたので、梅はもうすぐ咲く。
 山桜の葉と花が楽しみである。
 



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2014
03.29

マンダラと如来の眼 ―4月の聖語─

20140329002.jpg
〈『森栖』さんの真空管マンダラ

 お大師様の言葉です。

「たくさんおられるみ仏は、どなたもが大日如来の顕れであり、それぞれが通じ合いつつ、それぞれなりに無限の身・口・意のはたらきを発揮しておられる」 

 以下は原文です。

「一一の尊、等しく刹塵(セツジン)の三密を具足(グソク)して互いに加入し、彼此(ヒシ)摂持(ショウジ)せり」


 お地蔵様も、観音様も、別々の役割をもっておられるので、お姿もご尊名も違います。
 しかし、まったく単独で独立しているのではなく、無限の真理を体とする大日如来様が持つ徳の一部を、私たちにわかりやすく発揮しておられ、しかも、それぞれが通じ合っておられます。
 私たちもそうです。
 生まれも名前も育ちも言葉も人生も、それぞれ別ですが、同じ生きものであり、同じ人間であり、そして真姿は、等しく〈み仏の子〉です。
 同じくいのちの大海を生き、同じく地球上で生き、同じくみ仏の子として通じ合っているのです。
 み仏の世界も、この世もマンダラです。

 マンダラの中央におられる五智如来(ゴチニョライ)様は、真実を観る智慧の秘密を5つの面から明かしておられます。

1 鏡に映すように、ありのままに観る如来
 歪んだ鏡では困ります。

2 それぞれがあって初めて全体があるので、全体を構成するものとして、それぞれを平等に観る如来
 ネコも、ウグイスも、福寿草も、それぞれがあってこそ、この一瞬が世界として成り立っています。
 お巡りさんも、郵便配達員も、介護士さんも、この世界を成り立たせている平等な構成員です。

3 それぞれなりの違いを観る如来
 あなたと私は、違ってこそあなたであり私、梅と桃は、違ってこそ梅であり桃です。

4 それぞれのはたらきを観る如来様
 松は地中に根を張って天を目ざしており、トンビは大空から遥か地上の小動物などを眺めて旋回し、世界はダイナミックにうねっています。

5 世界全体をそっくりそのままにとらえる如来様
 これが大日如来様です。

 私たちも、何かを観たり、考えたりする時、なかなか〈5〉にはなれませんが、〈1〉から〈4〉の智慧がちゃんとはたらいているかどうか、ときおり、ふり返ってみたいものです。
 カッとなれば〈1〉のはたらきが鈍ります。
 優しさが薄れると〈2〉のはたらきが鈍ります。
 心にゆとりがなくなると〈3〉のはたらきが鈍ります。
 意欲が消えれば〈4〉のはたらきが鈍ります。
 
 私たちは皆、み仏の子であり、仏性(ブッショウ)を具えています。
 誰しもの心に、お地蔵様も観音様も住んでおられます。
 智慧の光を鈍らせる垢の掃除をしつつ、自他の向上をめざす菩薩(ボサツ)として生きて行きましょう。




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2014
03.29

4月の守本尊様と真言

 4月は、清明(セイメイ)と穀雨(コクウ)の卯月(ウヅキ…4月5日より5月4日まで)です。
 4月は辰(タツ)の月なので、守本尊は普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

21080819 010

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 4月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

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2014
03.28

罪悪感に苛まれる方へ ―罪滅ぼしへの道─

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〈み仏の子〉

 わけもなく、ふと、罪悪感が頭をもたげ、自分を責める気持につかまってしまう場合があります。
 そして、もはやどうしようもない過去の〈あのこと〉を、つい、いましがた起こったできごとのように思い出しては、「自分などこうして生きている資格はない」と自分を責めないではいられません。
 周囲の人々を一人一人思い浮かべては、もうしわけない気持でいっぱいになります。
 目には涙が滲み、身体から力が抜け、他のことを考えられません。

 こうした時間の落とし穴へ時折、落ち込む方は、ほとんどが誠実でおられます。
 ないがしろにできないのです。
 そうかといって、相手へ謝ることもできない。
 あるいは、誰かへ告白して懺悔することもできない。
 過去のできごとを動かせないことと、自分の罪悪感を消せないことが人生の石になり、引きずれないままに引きずっています。

 こうなった場合、まず、やってしまったことは〈悪〉、懺悔していることは〈善〉と、仏神へ謝れば過ちが帳消しになるわけではありませんが、できごとには、一つの区切をつけましょう。
 お釈迦様が「悪を覆うに善をもってすればよし」と太鼓判を押しておられるのですから。
 しかも、誰一人として、こうしたパターンを経る体験なしに暮らしている人はいないはずですから。

 次に、ああ、悪かったというたまらない感情は、吐き出しましょう。
 もちろん、「それができれば苦しまない」、「吐き出す相手がいない」のでしょうが、その気にさえなれば、自分一人でやれるのです。
 私は娑婆にいた時代、親不孝、妻への背信などなど、いろいろとやらかしました。
 極めつけは、事業の失敗による信頼への裏切りです。
 出家し、托鉢へ向かう車の中で、幾度、泣き叫ぶように大声を出したか数知れません。
 今回の津波に遭った海岸で、あるいは雪深い山村で、車を止め、誰にも知られずに泣きました。
 その果てに考えるのです。
 自分はとんでもない人間なのだが、み仏のお導きで、〈み仏の子〉そのものとしての活動が許される境遇になった以上、必ず、やれる。
 ――ここをお救いくださるからこそ、み仏ではないか。
 そして、護身法を結び、仏神のご加護を信じて車から降り、歩み始めました。
 あの、車から降りるに降りられず逡巡していた時の辛さは、一生忘れられません。
 降りられず、逃げ出していたならば、私の人生は終わっていたとしか思えません。

 本当にもうしわけなかったと思う時、必ずそこには、思い浮かべる相手がいるだけでなく、お見守りくださる仏神がおられます。
 その思いは、自分の心におわすみ仏がそう思わせてくださっているからです。
 だから、それを抑えず、自然に表現しましょう。
 私の場合は、車内や海辺などで出す大声が一つ、托鉢の途中で思い出しては歩む一歩一歩が自分の懺悔罪滅ぼしのパターンでした。
 ご本尊様の前で合掌する膨大な時間があったのは当然です。
 やむにやまれず、亡くなられた方のお位牌の前やお墓まで出かけたこともあります。

 罪悪感に苛まれる方、ぜひ、吐き出してください。
 必ず、あなたなりの方法があるはずです。
 どうしても方法をつかめない場合は、どうぞ、み仏の前へ人生相談におでかけください。
 必ず、〈石〉は、躓かせない幻となります。

 最後にもう一つだけ、つけ加えておきます。
 あなたの周囲には、必ず、あなたの存在に感謝している人がいることを忘れないでください。
 もしも、介護される身になったり、入院したりしていても、そこには、介護や治療であなたのためになれることを生きがいとしている人々がおられます。
 あなたの感謝の言葉や、あなたの回復は、そうした人々へ生きる力を与えているのです。
 あなたが感謝される存在であることそのものが、大きな懺悔であり、罪滅ぼしになっています。
 ぜひ、感謝している人々へ感謝してください。
 郵便配達の人へも、あるいは、飼い猫にだって感謝できるではありませんか。
 密教の修法には、行者がみ仏と成って慈光を発し、その光が世界中のみ仏を照らし、世界中のみ仏も又、光を発して行者と、その修法の場を包むというものがあります。
 私たちが感謝の心を持つ時、この世は極楽になります。
 罪深いはずの自分だけでなく、誰もが、さらには生きとし生けるものがすべて、その構成員です。
 合掌してなくならない罪悪感はありません。

 こうして罪悪〈感〉に負けず、しっかり生きて、そこから実態のある罪滅ぼしをすればよいではありませんか。
 特定の相手へはできなくても、この世そのものへ罪滅ぼしをしようと考えれば、きっと大きな勇気が湧いてくることでしょう。
 とてつもなく、やりがいがありますよ!

※もう一つ、つけ加えねばなりません。
「(このことは黙って)お墓まで持って行くしかない」
 これができる人は、必ず、優しさと強さを兼ね備えています。
 なぜならば、自分で抱えることは必ず誰かに対する優しさがあればこそであり、たった一人で抱え尽くすには強さが必要だからです。
 決めたならそうしましょう。
 誰にとっても、お墓へ行くのは明日どころか、今日かも知れないのです。




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2014
03.27

輪廻転生の始まりは? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(14)─

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〈『法楽農園』の横を流れる宮床川〉

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〈整備されつつある河川敷〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

3 ダライ・ラマ輪廻

○高い叡智(エイチ)は、より大きな輪廻をもたらす

「私は常々、仏教の幾多の教えの中にある、輪廻思想に対する解釈や論理を学びつづけねばならないと考えている。
 仏教思想、仏教哲学には、生きとし生けるものは転生する、さまざまな理由が見出される。」

「より深く学ぶこと、もちろん、個々の経験も重要だが、学び修養を積めば、当然、理解は進むものだ。
 それでも、輪廻のある重大な部分については、言葉では表明できない場合も起こりうる。
 あなた自身が、高い経験を蓄積し、高い叡智に触れるしかない。
 それが、より大きな輪廻をあなたに示してくれることになるであろう。」


 ダライ・ラマ法王ほどの方でも、仏教徒としては凡人と同様、一修行者であり、学び続けておられる。
 ただし、生まれ持ったものはもちろん、経験も叡智も凡人とは次元が違うので、輪廻転生に関する〈理解〉の内容は、凡人がうかがい知ることはできない。

ダライ・ラマの輪廻転生は、どう確認されたか

「ただし、輪廻転生を選び取る、あるいは獲得する方法は、主に前世か、もしくは前々世といった過去の人生の記憶の内容いかんにかかっている。
 もちろん、私自身の輪廻転生もその例外ではない。」

「十三世ダライ・ラマの没後、その転生した十四世となるべき私を捜し求める使者たちは、私を試す、あるいは確認すべく、いくつもの試験を実施した。
 それらはすべて、私がいかに強い前世の記憶を保持しているかを調べるためであった。
 本物のダライ・ラマの輪廻転生を、記憶によって確認することが、それらの試験の主たる部分を占めていたのである。」


 十四世ダライ・ラマ法王は、十三世の死後1年半で転生したとされている。 

「今日、複数の心理学の学者、研究者たちが。前世、前々世といった過去の人生の記憶を鮮明に保持しているとされる人間たち、特にこど子どもたちの研究を実施している。
 たとえばアメリカ・ヴァージニア大学のステーィブンス博士や、その同僚たちは、ひじょうに注目すべき多くの実例を含んだ、数千ものこのような記憶を保持する人間たちの記録を作成している。」


 イアン・スティーヴンソン博士は『前世を記憶する子どもたち』及び『前世を記憶する子どもたち2』などで、生まれ変わりに関する科学的検証の結果報告を行っている。
 こうした本には、前世を知っていることが事実と認めるしかない事例が示されている。
 まだ、万人の輪廻が証明されているわけではないが、輪廻は現代科学の光によって、徐々に客観性を獲得しつつあるように思える。
 そして、輪廻は、超絶的な宗教体験の世界における真実であるだけでなく、私たちの存在を道理によって把握し、倫理に根拠を与える仏教の根本思想である。

○ダライ・ラマはチベット人として再生するとは限らない

「ここで注意を喚起しておかねばならない。
 ダライ・ラマはけっして、チベット人としてのみ輪廻転生を行うとは限定されてはいないということを。」

「ところが、現在においてさえ、われわれチベット人の社会は、数千もの転生ラマを有している。
 こうした転生ラマたちの場合、輪廻転生が常に健全な形で起こっているとはいいがたい。
 ときとして、転生ラマの輪廻転生が偶然に、いわゆるカルマの必然を伴わないで、起こってしまうことがある。
 その輪廻が本物か否かを問わず、一人の転生ラマ、チベット語でトゥルクだが、そのトゥルクが死ぬと、人々は生まれ変わりを欲することになる。
 それが、このような不自然な転生を実現してしまう。」

「不幸なことだが、チベット社会においては、トゥルク、転生ラマは社会的な地位を獲得する。
 ステータス・シンボルである。
 これほど非健全、非健康的なことはない。
 そのため、1960年の前半期に、私はかくのごとき必然性を持たないトゥルクたちの削減に、大いに努力しなければならなかった。
 ただし、もちろん高次の輪廻を具現している、また歴史的な価値を有するトゥルクたちが、削減の対象から外されていたことは言うまでもないだが。」

「しかし、私の努力はチベット社会の支持が十分に得られず、その目的を達することはできなかった。
 無用の、輪廻転生を確認する必要のないトゥルクたちが、今もたくさん存在する。」


 トゥルクが生まれた一族は、一気に社会的ステータスを上げる。
 ダライ・ラマ法王は、宗教的権威にまつわる弊害を除去しようとされた。

○ダライ・ラマの存在は、仏陀以前に遡る

「ダライ・ラマ、私自身については、ダライ・ラマという名前を持った存在が、十四回にわたって輪廻を繰り返してきたということである。
 しかし、それは、第一世ダライ・ラマが最初の存在であることを意味しない。
 ダライ・ラマの輪廻転生は、はるか遠くの過去にまで、仏陀の時代にまで遡ることができる。
 それらすべての時代を貫いた、このダライ・ラマに続く転生の系譜は七十代に及ぶものである。」

「そればかりではない。
 仏陀の時代の存在さえも、それが最初の存在ではない。
 それよりはるかに以前の、遠い遠い過去へと遡ることができる。
 輪廻転生は始まりもなく終わりもないのだから。」


 仏法は、造物主や創造主を必要とせず、すべては因と縁によって生じると、ありのままに観る。
 因縁によって生じているものには、必ず〈先立つもの〉がある。
 それを無限にさかのぼってみても、〈最初にあったもの〉があるはずはない。
 それにすら、〈先立つもの〉があったはずだからである。
 つまり、現象を生じさせている大本(オオモト)はつかみようがない。
 しかしながら、私たちがいのちをつなぎつつ生きているのは厳然たる事実であり、この事実の奧に隠れているつかみ切れぬほどはかり知れない深遠な事態を「本不生(ホンプショウ…本より生じず)」と言い、梵字の「阿」で表現する。
 阿は、言葉の母であり、赤ん坊が発する「おぎゃあ」に含まれており、口を大きく開いた金剛力士像は万物を生み出す阿にその全存在をかけている。
 阿という字には人知を超えた真理・真実があり、密教にはそれを感得する方法として、阿字観という瞑想法がある。

 ダライ・ラマ法王が言われている「輪廻転生は始まりもなく終わりもない」とは、このことを指している。
 過去のどこにも、泉としての〈最初のダライ・ラマ〉は発見され得ないが、流れる河水の最先端にダライ・ラマ十四世は厳然として、おられるのである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2014
03.26

平成26年4月の運勢 ─自分らしさはどこにあるか─

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〈『海よ里よ、いつの日に還る』は、作者の血潮が言葉になった推薦図書です〉

 平成26年4月の運勢を、生まれ持ったものによって異なる8つのタイプについて記しました。
 今月は、〈その人らしさ〉が、良くも悪しくも大きく動く時期だからです。
 この際、自分の人間性をふり返ってみてはいかがでしょうか。

○天の徳が大きな方
 根本から考え、限りなく進もうとし、意義のあることに集中し、絶対や永遠を求めます。
 果断に推進力を発揮する一方で、剛情、非情になりかねず、高慢に見られかねません。
○沢の徳が大きな方
 喜びのきっかけをつかみ、悦びの輪を広げ、他人の喜怒哀楽に順応し、情を大切にします。
 自他共に楽しむ一方で、気持が解放され、放言などで思わぬ失敗をしかねません。
○火の徳が大きな方
 道理を求め、何ごとも自分の頭で考えなおし、正邪善悪に厳しく、離合集散に動じません。
 説得力を発揮する一方で理に適わぬことから遠ざかり、口先ばかりと誤解されかねません。
○雷の徳が大きな方
 悪を許さず、正義に勇み立ち、妨害を突破し、世間を恐れず、全世界を相手にしても平気です。
 強い力があるのに、気持が状況とずれてしまえば、空回りや大風呂敷だけになりかねません。
○風の徳が大きな方
 視野が広く道徳や法律を尊び、他人の気持を裏切るまいと懸命になり、厚い信頼を得ます。
 新たな事態に対する新たな対応が早く、周囲から優柔不断との誤解を受けたりしかねません。
○水の徳が大きな方
 忍耐強く、他の苦を放置できず、真の姿を観る人に強く信頼され、切れぬ太い絆を結びます。
 悩みを受け容れる姿勢が頼りにされ、自分の能力を超えた要望に応えかねると大変です。
○山の徳が大きな方
 何ごとにも動ぜず、肝腎な時に無我・無欲になれ、孤高を恐れず、低いものへ妥協しません。
 妥協を許さぬ自分への縛りで進退窮まったり、強情で融通がきかないと誤解されかねません。
○地の徳が大きな方
 すなおで、柔軟で、深い包容力があり、進んで他を助け、地に足がついていて浮つきません。
 優しさで通じ合い、広く親和を広げる一方で、優柔不断や日和見などの誤解を受けかねません。

 いかがでしょうか?
 運命は、生まれ持った因縁と、生き方の因縁とによって時々刻々と創られます。
 二つの要素を省み、生きる方向性をあらためて考えてみたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
03.26

平成26年4月の行事予定

2014032500012.jpg

 清明(セイメイ)と穀雨(コクウ)の卯月(ウヅキ)に予定している行事です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭 2014/4/6(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 観音経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[書道・写経教室] 2014/4/6(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第十三回法楽塾] 2014/4/6(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五十回寺子屋法楽館』 ―守本尊様はどういう方々か─] 2014/4月12日(土)午後1:30~3:30

 去る3月11日、東日本大震災で犠牲になられた方々を供養する般若心経百八返の供養会は、お花やご供物やたくさんの写経が届けられ、三時間を超える修法でしたが無事、終了しました。
 お心をお寄せくださった方々、参加された方々へ深く感謝申しあげます。
 今回は、前回、時間切れとなった「四苦八苦の克服法」の残りをお話しし、ひき続き、私たちに身近な守本尊(マモリホンゾン)様とはどういう方々なのか、いざという時、どうお祈りすればよいか、わかりやすくご説明します。
 質疑応答の時間もあります。どうぞふるってご参加ください。
 なお、終いの30分は自由な質疑応答とします。
 どうぞふるってご参加ください。
 参加は自由です。
 どうぞふるってご参加ください。
・講  師 法楽寺住職遠藤龍地
・日  時 この講座は、毎月第二土曜日に開催します
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第二例祭 2014/4/19(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[お焚きあげ] 2014/4/26(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[お花見 2014/4/27(日)午前11:00~(雨天決行)

 ようやく、うららかな春日和となりましたが、皆様方には益々ご清栄のこととお喜び申し上げます。
 さて、ゆかりびとの会主催のお花見を次の通り開催いたします。
 皆様方との親睦を深めるための企画と考えており、「ゆかりびとの会」会員だけでなく、法楽寺に御縁の方々の参加を歓迎いたします。
 “住職のお話”や“会員の方による詩吟の披露”等を交えながらお花見の宴を催しますので、皆様方にはご気軽に多数ご参加くださいますようご案内申し上げます。
・場  所 法楽寺境内及び講堂
・会  費 大人1000円 小学生以下無料
・参加申込 4月18日までに、ファクスやメールや電話などでお申し込みください。
・送迎申込 開始30分前に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。
 飲酒をされる方は、必ず送迎車をご利用ください。

[機関誌『法楽』の作製] 2014/4/28(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第290号、『ゆかりびと』は第154号となりました。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っていますが、今月は月末に当たっており、一週間繰り上げて作製・発送を行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2014
03.25

奪えば奪われる ─争いと戦争から遠ざかる道─

 お釈迦様は、勃興する国家同士が領土争いする中で、地域性が破壊され、人々のつながりが破壊され、そして、いのちが奪われるさまを深く憂いました。

「人は自己に利ある間は、他を掠(カス)めとる。
 他が掠めとるときに、彼は掠められて掠めとる。」


 自分の方が相手より強い武器を持っていたり、相手が油断していたりして、自分がうまく相手から奪えそうなチャンスを逃さず、手に入れられるものを掠め取ってしまい、〈勝者〉となります。
 しかし、長い目で見れば、神のごとき強さや賢さを持っている者などどこにもおらず、いつかは、より強く、賢い者に掠めとられますが、それでもまた性懲りもなく、掠めとろうとします。
 2500年も前から、人間のやることはあまり変わり映えしないのでしょうか?
 さかんにグローバルが叫ばれている今は、〈見境なく〉掠めとり合戦が行われています。
 経済的にも、軍事的にも、政治的にも。
 しかも、堂々と……。
 こうした行動パターンは、はたして霊性を高め得るでしょうか?
 うまく掠めとった者だけが霊性を高め得ないままに一時の栄華を誇っても、私たち一人一人の人間が安心と生きがいを持って生きられる平和で幸福に満ちた社会は訪れないのではないでしょうか。 

「愚者は悪のみのらざる間は、当然のことと思えども、
 悪のみのるとき、苦悩を受く。」


 奪う者は悪者です。
 自分だけがモノを得て〈強いから当然〉、あるいは〈賢いから当然〉とうそぶいても、自分の悪の報いと奪われた者の怨嗟による因果応報からは逃れられません。
 悪しき因に、それを増長する縁が加わり、あたかも熟した柿の実が落ちるように、必ず結果としての災厄を受ける時が来ます。 

「他を殺せば、己を殺す者を得。
 他に勝てば、己に勝つ者を得。」


 殺す者はいつか必ず殺されます。
 いかなる世界においても、永遠の勝者はあり得まず、必ず、超えられる時が来ます。
 たとえば、セクハラによって相手の心を殺して平然としている者は、その無慈悲さが自分自身の人生をも蝕みます。
 たとえば、権力的に部下をこき使う者は、いつか必ず、自分も部下と同じような扱いを受ける時が来ます。
 人は、善業(ゼンゴウ)も悪業(アクゴウ)も積みつつ老い、死に変わり、生まれ変わり、輪廻転生の輪から抜け出られません。
 被害者は、まっとうに生きていれば、一時は心を殺されかけ、生活を潰されかけても、まっとうさの報いを受ける時がきます。
 セクハラに悩み、生きる意味を見出せずにいた月島華凜さんは仲間の支えでついに脱出し、書きました。

「生きていてくれてありがとう。
 私と出会ってくれてありがとう。
 どうかどうか、これからも生き続けてください。
 私も精いっぱい生きていくから。歩き続けてゆくから。
 あの場所から一歩踏み出して、強い風に負けないように。」


 お釈迦様が「徳、孤ならず」、まっとうな人は孤独にならないと説かれたとおりです。

「他を謗(ソシ)る者は、己を謗る者を得。
 他を悩ます者は、己を悩ます者を。」


 テレビではどうしてこれほど、〈まくし立てる者〉が重宝されるのでしょうか?
 対話ではなく、怒鳴り合いが電波に日々、堂々と流れている文化は、どうかしているのでないでしょうか?
 子供のゲームで流行っているバトルが大人の世界をも席巻しているとしたら、何をかいわんやです。
 謗る者は必ず謗られ、忿怒と高慢心が互いを増長させる悪循環に陥ります。
 こうしたタイプの人々は、決して人々の心を豊かにできはません。
 もしも、まくし立てる人々のいる場面を目にしたなら、目立たずじっと聴き入っている人に注目してみましょう。
 誰が賢人で誰が愚者か、見分けがつくはずです。

「かくて業(ゴウ…道の車)転がって、かれは掠めて掠めとらる。」


 狡(コス)っ辛(カラ)く立ち回る人々や、自己中心でまくし立てる人々を反面教師とし、流されず、慌てず、地に足の着いた日々を生きたいものです。
 それが、ひいては、争いと戦争から遠ざかる暮らし方ではないでしょうか。
 最後に、国際放射線防護委員会(ICRP)副委員長ジャック・ロシャール氏の言葉を朝日新聞の『福島とチェルノブイリ』から引用しておきます。

「福島行きの列車にコートを忘れたことがあったのですが、箱にきれいにたたまれて宿泊先の東京のホテルに戻ってきました。
 残念ながら私のコートではなかったのですが、感動で胸がいっぱいになりました。
 福島県のレストランに財布を忘れたときも、必死の形相で従業員が追いかけてきました。
 清潔で居心地がよく安心感がある。」


 


「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2014
03.24

善き心のままに決行される心中はあり得るか ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(13)─

20140324026.jpg
〈─寄り添い─ 岩出山の『森栖』さんにて〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

心中した男女が来世を共に生きる可能性はあるか

「ここで心中する二人の男女の話に戻ろう。
 私が言うことの真意は、その二人が、人として、あるいは動物として生まれ変わるに充分な善きカルマを積み重ねてきても、心中する瞬間においても、二人の強い愛情と一体感とを育てつづけ、それを保持しつづけていなければ意味がないということだ。
 そうしてはじめて、愛し合う二人に可能性が生じてくるということだ。
 それが、たとえ人としてか、動物としてか、あるいは昆虫としてかはわからないにしても。」

「しかし、こうしたさまざまな因子の働きを度外視しては、ただ単純に意志の力によっていては、この世で添い遂げられない男女が来世を共に生きようとしても、その願いは叶うものではない。
 事を決定づける因子は無限である。
 それが仏教徒として言いえることである。」


 ダライ・ラマ法王は、ここまで、生まれ変わりが決まる要因の優先順位を挙げられた。
 一つは、身・口・意の活動の重要度である。
 町内活動などをいくら熱心にやっていても、裏で麻薬に手を染めていたならば、当然、社会的立場を失い、死後の行き先もおぼつかなくなる。
 もう一つは、より後でなされた行為の方が強い影響力を持つということである。
 PTA会長や議員などを務めてきても、回春や汚職や暴力によって一気に輝かしい経歴を失う人は、死後の行き先も暗転させてしまう。
 もう一つは、より馴れ親しんだ行為の方が強い影響力を持つということである。
 周囲から信頼されていた熱血先生が、ふとしたはずみに体罰を行って逮捕された時、父兄や生徒たちが罪一等を現じられるよう嘆願書を作ったりする場合はこのケースである。
 閻魔大王も、常々の志や生き方を大とするに違いない。

 では、愛する二人の望みは叶うのか?
 生き方のすべてが生まれ変わりに関わる以上、行く先を決める要因は無限にあるので、二人の意志だけではどうにもならない。
 しかし、普段から善き生き方を心がけ、より善く生きようと向上心を失わず、過ちを犯したならそれを償って余りあるほど懺悔と善行に励み、しかも、一緒に死を迎える瞬間まで「強い愛情と一体感とを育てつづけ、それを保持しつづけて」いれば、可能性は残されている。

 惚れ合った男女のなれの果てとして歴史上有名なのは、平城上皇と藤原薬子(クスコ)である。
 嵯峨天皇の命によって薬子が官位剥奪、宮中からの退去とされたおり、同じ輿に乗って京へ戻ったが、上皇が剃髪して仏門へ入る一方、薬子は毒を仰いで死んだ。
 上皇37才、薬子46才とされる。
 海音寺潮五郎は『悪人列伝』に書いている。
「人間の弱点に訴えて力となる美貌を持ち、その力を巧妙に利用し得る才気があり、権勢を追求してやまない盲目的なくらいの熱情がある以上、悪への道は最も自然なコースであろう。」
 愛憎物語の過酷な例である。

 ダライ・ラマ法王は指摘している。

「誰かを憎み恨むような感情が、自分の死に際して自分自身の心の中に芽生え、育ったなら、一瞬にして、それまで集積してきたカルマの平衡は崩れ去る」


 追いつめられないで心中するケースは想像しにくい。
 世間であれ、相手であれ、あるいは運命であれ、死であれ、何ものかへの憤激や絶望など平常心とはかけ離れた心理状態があってこそ、心中が決行されるのではないか。
 ならば二人の行く先は……。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2014
03.23

二種類の真理 ─戦争は真理を生かさない─

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 今月は、桜が咲き、春が実感される時期であり、学校も多くの企業も新たな年度に入る〈始まりの時期〉です。
 そんなおり、あらためて真理について考え、また、きな臭さが濃くなってきた状況に際し、戦争について、少し、考えてみましょう。

 お釈迦様が説かれた因果応報の原理は決定的真理であり、もしもこれが崩れれば、私たちは是非善悪の判断力を持った人間として生きようがありません。
 あらゆる意志に対して、それに見合った結果の望みようがないからです。

 しかし、現実の世を眺めれば、正直な人や、まじめに汗をかく人が必ずしも報われず、むしろ、他人を欺き、人間をモノ扱いして都合良く利用し、血の通った人が苦しんでいても心に痛みを感じないようなタイプの人が豊かになったり、出世していたりするように思えたりもします。
 14年前に発表され、今でも人気のある『架空取引』など、高任和夫氏が書く一連の企業小説群は、二つのタイプの人々が織りなす人間模様を鋭く、温かく描いています。
 私たちは、こうした状況をどう考えればよいのでしょうか?

 仏教はそれを勝義諦(ショウギタイ…究極的真理)と世俗諦(セゾクタイ…現象世界にはたらいている真理)の二つに分けて説いています。

 たとえば、すべては因と縁によって生じ、滅し続けており、私たちの身体をおおっている皮膚の細胞はわずか一ヶ月、脳細胞も一年経てばすべて入れ替わり、〈以前の自分〉としての姿も脳も、どこにもなくなります。
 もちろん、いつ、いかなる理由で壊れ、滅しても当たり前でしかありません。
 身体は因と縁によって、かりそめに形をとっている〈空(クウ)〉の存在です。
 では、一年後の存在は〈別人〉として扱われるかと言えば、そうではなく、生きている限り〈同一の人物〉として扱われます。
 つまり、時間を貫いて何年も同じように存在する身体を持った人はどこにもいないにもかかわらず、さらにはまったくアテもないのに当面、生き続けることを前提にして約束ごとを交わし、愛したり、憎んだりします。
 勝義諦の目から観れば、人は常に変化して変わり続けるつかみようのない〈かりそめの存在〉でしかないのに、世俗諦に頼って日常生活を送る上では、明日も生きるであろう〈不動の人〉人として扱うしかありません。

 すべては空(クウ)であり、いのちあるものがひとしく輪廻転生(リンネテンショウ)を繰り返しているという勝義諦をつかむためには、出家・在家を問わず、仏道を学び実践し、智慧を磨かねばなりません。
 一方、倫理や道徳などの世俗諦を学び、正しく生きれば、広く信頼され、我がままでない人格者としてまっとうに生きられます。
 そして、両方を兼ね備えれば、菩薩としての役割を果たせます。

 さて、お釈迦様は、戦争の理不尽さに関して衝撃的な言葉を残しています。
 戦争になり、悪名名高いアジャータサットゥ王が、お釈迦様へ深く帰依していたパセーナディ王を破った時のことです。

「パセーナディ王は、この夜、敗者として苦しんで眠るであろう」


 お釈迦様は、戦争の帰結は善悪によるのでなく、いわば悪の側にいる者に敗れた善人であろうと、敗者は苦しまねばならないと冷徹に説かれました。
 戦争はいかなる人へも必ず、この世にある者としての苦しみ、つまり世俗的苦しみをもたらすのです。
 またある時、今度はパセーナディ王が勝ち、アジャータサットゥ王を生け捕りにしましたが、慈悲深いパセーナディ王は宿敵を解き放ちます。
 それを知ったお釈迦様は言われました。

「他を殺せば、己を殺す者を得。他に勝てば己に勝つ者を得」


 人を殺す戦争による因果は廻り、勝者と敗者はずっと勝者や敗者でいることはできません。
 事実、これほどの王でありながら、パセーナディ王は不遇の最期を遂げています。

 戦争は、私たちが人間として生きる最後のより所である絶対的真理を無惨な形で表し、普段のより所である世俗的真理を蹂躙するだけで、真の勝者など、どこにもいはしません。
 み仏の御眼からご覧になられれば〈正義の戦争〉はあり得ません。
 このように、あらゆる生きものが最も嫌い、恐れ、逃れようとする〈殺されること〉を実現する戦争は、霊性ある存在が自然に求める真理・真実にあふれた世界を現出させるのではなく、反対の不条理を顕わにするだけの愚かしい行為です。
 必ずしも明確に意識してはいなくとも、真理をつかみたい、日々をまっとうに送りたいという姿勢で生きている私たちは、同時に、それらを根底から台無しにする戦争をどうすれば避けられるか、よく考えたいものです。

 最後に、〈言の葉アーティスト〉渡辺祥子さんからお送りいただいた御著書『ことづて』の一文を引用させていただきます。
 それは『朴葉の庭(ホウバノニワ)』と名づけられた児童養護施設を造るため、全勢力を傾けている熊田富美子(福島県須賀川市)の言葉です。

「内側から自分で自分をむしばむことのないよう、道端の花の美しさや、小川のせせらぎ、風の心地よさ感じる感覚、歓びの感覚を大切にしたい。
 自分自身の細胞を活性化させ、小さな幸せを皆で喜び合いながら、取り組んで行きたいと思います。
 それが必ず、未来をつくる子どもたちのためになると思うから」


 戦争は、こうした志も精進も破壊し尽くします。
 よくよく考えつつ生きたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2014
03.22

【現代の偉人伝】第186話 ─リベンジポルノと戦うホーリー・ジェイコブズさん─

201403220001.jpg
〈朝日新聞さんからお借りして加工しました〉

 3月20日付の朝日新聞は『リベンジポルノ 米の闇』を掲載した。

「別れた腹いせに、以前の恋人や配偶者の裸や性行為の写真をネット上にさらす『リベンジポルノ』が、IT大国・米国で深刻化している。
 日本では自民党が法規制の議論を始めたところだが、米国では取り締まりの動きがカリフォルニア州などで広がっている。
 ただ、用して収入を稼ぐサイトも後を絶たず、規制はなかなか追いつかない。」


 フロリダ州マイアミのホーリー・ジェイコブズさん(30才)は5年前、別れた男性によって裸身の画像をネット上でばらまかれ、アメリカにはびこるこうした問題に立ち向かってきた。
 発見してすぐ警察署を三か所まわり、取り締まりを相談したが「該当する法律がない」と拒否され、弁護士を通じていったんは削除させたものの、再び200以上のネットに流れ、氏名も職場も書かれた。
 弁護士は、「全部に対処すると難十万ドルもの弁護費用がかかりますよ」と言う。
 FBIも政治家も対応できず、2年前にはついに、名前も職業も変えた。
 地道な削除依頼も続けているがネット上からすべてを消すことは難しい。

「サイバー上の性的暴力だ。
 こんなに気持が弱っていくことはなかった」


 ホーリー・ジェイコブズさんは、自分の悲惨な体験を泣き寝入りで終わらせたくないと、1012年8月、法規制を求め、被害者が苦しみを分かち合うためのサイトを立ち上げた。
 それが『リベンジポルノを根絶せよ』である。
 日本からも含め三千人以上の被害者がサイトに集まった。

 今、全米各州で法整備が進みつつある。
 しかし、カリフォルニア州では、最高刑でも禁固6ヶ月、もしくは千ドルの罰金程度である。
 嫌がらせが目的であると証明することが難しいという指摘や、被害者のいない事例に適用されたり検閲につながったりする可能性があるとの懸念もあり、フロリダ州では法案が不成立となった。
 手数料をもらって画像をばらまくサイトや、画像を被害者に買い取らせる質なサイトも後を絶たないという。

 米サンタクララ大学のエリック・ゴールドマン教授は、簡単に写真を撮らないようにと呼びかけている。

「映像を共有した相手が一生裏切らないと考えるのは賭けのようなもの」


 ホーリー・ジェイコブズさんの励ましで記事は終わる。

「自分を責めないで。
 いのは掲載した人たちなのだから」


 リベンジポルノとは何とおぞましい言葉だろう。
 相手をおおっぴらに動物として扱うことによってうっぷん晴らしをするとは、霊性のある人間とは思えぬほど薄汚い。
 薄汚い心を煽り、被害者の苦しみにつけ入って儲けようとすることもまた、信じがたいほど穢れている。
 自己中心の我欲(ガヨク)がある限り、事と法とでは常に事が先行する。
 良心の咎めるしき行為が法によって悪と定められ、ようやく行為は社会的に悪と認定される。
 それまで、そして「やってはならない行為」であると広く認識され、その行為が社会からなくなるまでの期間、被害者は苦しむ。
 法は、善を定めるものではない。
 これ以下になれば、社会人たる資格に欠けますよという、人間として最低のラインを定めてあるに過ぎない。
 だから、「法に触れなければ何をやっても構わない」のではない。
 人間の尊厳は、法を逸脱しないところにあるのではなく、良心に導かれるところに生じ、心と社会へ果てしない清浄さと温かさをもたらす。
 言い方を変えれば、良心すなわち霊性が自己展開してこそ、尊厳ある存在としての人間たり得る。

 いかに便利な道具であれ、用い方によって善行にも、悪行にも用いられる。
 モノを食うためのフォークも箸も、憎悪や怒りは凶器に変える。
 道具そのものには善も悪もない。
 それは、ネットも、生命を維持させる意欲も同じである。
 良心のはたらきが薄れ、我欲が増大すれば、いつの世も、いかなる道具も、その時代なりの悪を生じる。
 だから、いつの世も、良心の声を聞き、いかなる道具をもその声に従って用いられねば、霊性の輝く世界にはならない。
 道具の便利さは、同時に、悪行を拡大する危険性につながる。
 より便利な道具ほど、良心に従って用いねばならない。

 我が身を晒しものにしつつ、社会の不正義と戦うジェイコブズさんは、できるものなら会ってみたい人である。
 また、ジェイコブズさんを支えてきた方々にもお会いしたい。
 きっと、リベンジポルノに〈リベンジ〉をしようとするのではなく、観た人間の闇を自分たちの霊性の光で消し、ぶつかった社会の壁を自分たちの志で取り除こうとしておられるのだろう。
 現代特有の悪に霊性と志で立ち向かうジェイコブズさんは現代の英雄であると思う。
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2014
03.21

不安に苛まれる方へ

20140321001.jpg

 このところ、不安を訴える方の人生相談やご加持(カジ)が重なったので、一般論を書いておきます。

 ふとした拍子に、わけもなく不安になる方。
 あなたは真剣に、同時に、感性を敏感にはたらかせつつ生きておられるのです。

 本当は誰でも、〈明日のいのちもわからない〉どころか、一瞬先にすら、生きているかどうかわからない存在です。
 若いうちはなかなかそうは思えませんが、年をとると、そのことが実感されます。
 何しろ、年の近い人がどんどん亡くなるし、自分自身も、あれっ、大丈夫かな?といった不安を感じる機会が増えるからです。
 肉体という道具は必ず耐用年数があり、しかも、それがいつ、尽きてもおかしくないのに、元気なうちは気づけません。

 しかし、いったんこの世へ生まれ出れば、可能性としてのが影法師のように付き従っていることはまぎれもない事実であり、多くの方々は普段、相棒を意識しないで暮らしているだけです。

 中には、若くても、相棒の存在をおりおりに意識する方がおられます。
 たとえば、故結城昌治氏はこんな俳句を詠みました。
 

「桃咲けば桃色にが匂いけり」


 氏は早大を出て東京地検に勤務していたものの、結核を患い、敗戦の食糧難、医療難となった時代を生きていました。
 多くの人々は、春が来て桃の花が咲けばどことなく気持も温かくなり、少しづつ身体も胸もゆったりとしてきますが、絶望を抱いている氏は、青空を背景とした強い桃色にすらの匂いを嗅いでいました。

 また、柿本多映氏はこう詠みました。

「わたくしのうしろを殺す氷柱(ツララ)かな」


 は一生、自分では見られませんが、実は、いつも無限なを背負いながら生きているのが私たちです。
 空間的ながあってこそ、〈ここ〉があり、時間的なとしての過去があってこそ〈今〉があります。
 だからこそ、前も、未来もあります。
 私たちはそのように意識しなくとも、無意識のうちにそうした前提で歩き、考えています。
 ところが、氏は氷柱の鋭く容赦ない殺気に、自分はまだ殺されていないけれども、はもうやられてしまっていると感じました。
 次は自分の番であり、逃れようもありません。

 私たちがと共に歩んでいることに発する根元的不安はこのように、いつ、どこで顔を覘かせようと一向に不思議でない普通の感情です。
 目の前のことごとに夢中になっていたり、感性が鈍っていたりすると、それを忘れたり、感じる機会をつかまなかったりするだけです。
 だから、わけもなく不安になる方は、私たちのありようをいつも心のどこかで意識しているのでしょう。
 そして、自分では気づかなくても何かをきっかけとして不安が頭をもたげるのです。

 前掲の結城昌治氏は一方でこんな句も詠みつつ、いつしか桃色のを脱してゆき、社会に警鐘を鳴らす作家となりました。

「春惜しむいのちを惜しむ酒惜しむ」


 また、柿本多映氏はこうも詠みました。

「暗がりをよろこぶ(タマ)や祭」


 祭とは、お盆やお正月にご先祖様の御霊を供養する供養祭や供養会のことであり、この句には、不安ではなく、御霊と気持を一つにして互いに感謝を交わし合う気持があふれています。

 不安は無理に心から追い出そうとしても仕方がありません。
 自分は真剣に、感性を鈍らせずにきちんと生きているのだと、事実を客観的に眺めてはいかがでしょうか。
 自分を観るもう一人の自分を意識するだけで、不安に丸ごと包み込まれないで済みます。
 また、守本尊様の真言を唱えられてはいかがでしょうか。
 たとえば卯年(ウドシ)生まれの方なら文殊様なので「おん あらはしゃのう」であり、酉年(トリドシ)生まれの方ならお不動様なので「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」です。
 不安が兆して来たなら、微音(ビオン…小さな声)でも真言を口にすると、胸騒ぎが静まり呼吸が長くなるものです。

 が相棒であると思えれば、死は暴虐な死神ではなくなります。
 不安も、相棒であると思えればきっと、いのちを縮ませる毒は発しなくなることでしょう。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
03.20

彼岸供養会を行います ─忙しさを離れ、心の便りを捧げましょう─

201403200001.jpg
〈(有)洛西石材様からお借りして加工しました〉

 お彼岸の一週間(3月18日~24日)に入っています。

○忙しさを離れる

 忙しいの「忙」はそもそも、茫然の「茫」と同じで、間が抜けた様子を意味します。
 がどこかへ飛んでしまい、眼前の状況を把握し対応することができない状態です。
 これでは、時間が生きません。
 現在のように、「多忙」として用いられるようになったのは、唐・宋以後のことであると、『字統』は書いています。

 現代人にとっての時間は猛スピードで流れています。
 子供も大人も、時間に追われています。
 しかし、どうしても立ち止まらねばならない時があります。
 それは、人の死と供養です。

 ある地域へご葬儀にでかけました。
 うち合わせのおり、担当者から、「このあたりでは、お焼香が終わると、そのまま会食の席へ向かう人が多い」と教えられました。
 導師が結界を張った聖なる場で亡き方と向き合い、会葬者と共にその安寧を祈る以上、結界が解かれ、行った修法などについて導師が説明し、退場するところまでが一つの宗教行為です。
 その途中で日常的な飲み食いを急ぐのはいかながものかとお話し申しあげ、開式前に、一言「導師が退場するまでご静粛にお願いします」と言葉をかけていただくことにしました。
 担当者が「前例もなく、とても責任が持てません」と哀願するような目になったので、「結果はどうでもよいでしょう」と笑いました。
 さて、締め括りの修法を終えて会場をふり返ると、百名を優に超える会葬者の方々は、どなたも席を立っておられず、私語もありません。
 全員の目がこちらを向く中で行うべき法話を行いました。
 亡き方の真摯な生きざまがあらためて皆さんに思い出され、ともするとがどこかへ飛んでしまいがちなほど忙しい方々へもしっかり生と死の厳粛さを再確認していただけたのだろうと、心で合掌しつつ退場しました。

 お彼岸は、一年でたった二度の供養を行う機会です。
 忙しさをいい訳にせず、心静かに合掌し、を取りもどそうではありませんか。

○お塔婆は心の便り

 長澤興隆師は説かれました。

「お塔婆は心の便り、心を込めて、今は亡き人のもとへ、届けましょう」
「お塔婆は、もともと仏様のお姿をしています。
 お塔婆をあげるということは、仏像を一体刻んで供養するという意味ですから、たいへん大事なことです。
 地方では施主のみ塔婆をあげる習慣がありますが、故人にお世話になった方は特に心がけて風習などにとらわれず、ご法事の時はお塔婆をあげるべきです。」


 お塔婆をあげるのは、単なる形式的な〈お供え〉の話ではありません。
 み仏のお姿を表したお塔婆の表面には「地・水・火・風・空」の五文字が梵字で書かれ、目に見える世界のすべての徳を捧げるという心のまことを示します。
 裏面には「識」の文字が梵字で書かれ、目に見えない世界のすべての徳を捧げるという心のまことを示します。
 そして、導師仏像としての塔婆へ入れの修法を行います。
 実に、お塔婆による供養は、仏像を建立するという尊い価値があるのです。
 18日から24日までのお彼岸中、仏像を一体捧げる供養を行うのは、いのちをいただき、生かされている私たちの古来から受け継がれてきた尊い務めです。

○3月21日(金)午前10時より、彼岸供養会を勤修します

 例年どおり、供養会を開催します。
 午前9時30分に、いつもどおり『イズミティ21』前から送迎車が出ます。
 乗車を希望される場合は、20日午後5時までにお申し込みください。
 申込の電話は022(346)2106、ファクスは022(346)2107です。 




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
03.19

ベビーシッター死体遺棄事件に思う ─是非・善悪・虚実を見分けにくい時代─

20140319002.jpg

 3月18日、死体遺棄事件でベビーシッターの物袋勇治(モッテユウジ)容疑者(26才)が逮捕された。
 預かった子供(2才)を窒息しさせ、死体を放置した疑いが持たれている。
 容疑者は、実名と偽名を使い分けており、以前も幼児虐待が疑われていた。

 驚くべきは、人間を預かるという社会的行為が、何の国家的資格もない人間によって、何の公的許可も必要とせずに行われていることである。
 しかし、深刻なのは、相手の人物や行動を調べ、自分の肉眼と直感によってよく確認することもなく、ネット上の情報を鵜呑みにして突然、〈深い信頼関係を前提にした〉人間関係に入ってしまうことである。

 一時的に子供を預けたいという社会的需要への供給が、たちまち、ネット上に登場する。
 憎い男を殺したい、資産家の富を奪いたいという〈需要〉に対して、殺人や強盗の請負という〈供給〉すら生じている。
 動き出した情報化社会はもう、誰にも止められない。
 ここで生き残るため、誠実に生きるためには、人間への洞察力を磨かねばならないし、常に自分を省みなければならない。
 しかし、生身の人間に接しなければ、容易に洞察力は磨かれず、他者の瞞着も自己欺瞞も、違法行為と咎められない限りは何でも許されるネットの世界に浸っていれば、自分自身の心を謙虚に省みる機会はなかなか訪れないのではないか。

 血縁、地縁、家、故郷、あらゆるものから切り離され、バラバラになった人間が〈個〉同士として結びつくには、ネットが手っ取り早く、そこには無限の可能性が広がっているように思える。
 しかし、ネットに欠落し、いかに発達しようと、なかなか獲得できないものがある。
 それは全人格をかけたの感応である。
 面と向かい、相手を見、言葉を聴き、発する気配を感じ、互いに存在していることによってのみ可能になる無言のやりとりを行って何かをつかむ一連の流れである。
 こうして真実が確認できる。
 血の通った人間同士の対面には、よしんば、誤解や勘違いが伴おうと、それも含んでの真実がある。

 お釈迦様が在世の時代、アーリアン族に席巻されたインドでは種族社会が崩壊し、モノや土地の個人所有と商取引が進む中で新たな都市ができ、階級制度を背景とした新たな国家ができつつあった。
 人間同士が確かにつながっていた社会は消え、国家同士が覇権を競い、戦争を続けた。
 お釈迦様がそうした時代に階級や身分や国家などを超えた〈個〉の生き方にこそ、人間としての輝きを平等に認めようとされたのは、決して現代的な個人主義によるものではない。
 無益な殺生をせず、力づくで奪わず、騙し合いをせず、助け合い、人間同士が自(オノ)ずからなる信頼の糸によって結ばれていた真の安心社会を復活させようとされたのである。
 そこに、仏教教団成立の意義がある。
 当然のことながら、王であれ、賤民であれ、男性であれ、女性であれ、在家信徒となり、あるいは出家行者となるにおいて、いかなる差別もなかった。

 ある時、お釈迦様の厳かな様子にうたれたビンビサーラ王は、礼を尽くして迎え入れ、臣下になるよう勧めた。
 お釈迦様は答えている。
「なぜ、私が出家求道するかといえば、すべての人々の生死の大苦を救いたいと思えばこそです」
 そして、莫大な財物を与えても迎え入れたいという提案を断った。
「欲望には危険が伴い、出家生活は安泰であることを認めたから、私は修行のために努力をしたい」
 約200年後、最初の統一国家をつくったアショーカ王は、敵味方合わせて10万人もの戦死者を出したカリンガの戦いを終え、仏教徒となり、仏教のインド拡大に大きな役割を果たした。

 自由を求める一方でバラバラになった私たちは、「人」の「間」にあればこその「人間」として、どこに真実のありようと真実の交流を求めるのか?
 便利な道具であるネットに支配されず、その危険性を避けつつ上手に用いるための智慧をどこに求めればよいのか?
 ちなみに、虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は是非・善悪・虚実が見分けられる是所非所智力(ゼショヒショチリキ)を持っておられる。
 自他の欲望に流されず、よく考え、判断し、行動したい。




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2014
03.19

動き出す『法楽農園』

201403190011

 今年もいよいよ『法楽農園』の活動が始まります。
 3月21日(金)、午後1時30分より、田んぼの手入れを行います。
 ご助力いただける場合は、軍手と長靴を持参しておでかけいただきたく存じます。
 なお、大きな熊手のようなモノをお持ちの方は、ご持参いただければ助かります。

 は日本にとって死活的に重要な農産物であり、世界の人口動向などを見ても、その重要性は増すばかりです。
 また、国際情勢は、あちこちで、戦後なかったほど対立の様相が深まっています。
 日本は、稼いだお金で外国から買うことに頼ってはいられません。
 自分たちの主食は自分たちが安心な方法で確実に作る、という意識の広がりを願っています。
 地産地消や、相手を確認してのやりとりなど、ささやかではあっても自給自足的な方向性を、政治に頼らず、私たち一人一人の意識でつくって行きたいものです。




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2014
03.18

菩薩とお棺の涼やかさ

20130318024.jpg
〈岩出山の『森栖(モリス)』さんにて〉

 お釈迦様が娑婆を離れる直接的きっかけになった物語として「四門出遊(シモンシュツユウ)」がある。
 東の門から出て目にしたのは、老いさらばえた老人である。
 南の門から出て目にしたのは病人である。
 西の門から出て目にしたのは死人である。
 そして、ある日、北の門から出て修行者に会う。
 若き日のお釈迦様は「あれは何者か」と問い、従者は「あの者は不死の道を求めて出家し、すでに生死の迷いを離脱した立派な修行者です」と答える。
 さらに「それでは誰でしも修行すればあのようになるだろうか」との問いと「そのとおりであります」の答が交わされた。
 そして、出家が決意される。

 故宮坂宥勝師は、お釈迦様に強い憧れを抱かせた行者の様子を表現した。

「いとも涼やかな顔で端正な姿を運んでいる者」(『釈尊 ―その行動と思想』より)


 この表現は、私に鉄槌を振り下ろした。
 私は、行者であるにもかかわらず、〈涼やかな顔〉でなく、〈端正な姿〉でもないからである。
 本ものの行者が何たるかを知らされ、深く恥じ入った。

 宗教にかける聖職者はもちろん、宗教を信ずる者も、ここへ行き着かなければ、あるいはここを理想としなければきっと、どこかがおかしいはずだと強く思う。
 私はのたうち回っているから涼やかではない。
 自分自身の苦にはどうにか突き倒されなくなったつもりでいるが、他人様の苦へはいまだ、十分に対応しきれない。
 自他の苦を克服できぬ者に涼やかさはない。

 苦とは、人間につきまとう根本的な〈ままならなさ〉である。
 生まれた以上、自分いると気づいた時点でもう、生がある。
 生にあれば、男性であっても女性であっても、富裕な境遇にあっても貧窮な境遇にあっても、どうにもならない。
 生を生きているうちに必ず老いる。
 生まれた瞬間から、寿命という砂時計は一瞬たりとも休まずにいのちを減らし続け、残りの砂が少なくなると、心身の機能は著しく低下せざるを得ない。
 老いようと老いまいと、肉体は必ず病を得る。
 いかに長寿で大往生を遂げようとも、事件や事故によらない限り、死因は必ず体のどこかの不調すなわち病気にある。
 そして、生まれた以上、死は避けられない。
 要は、〈生〉も〈老〉も〈病〉も〈死〉も、ままならないという意味で〈苦〉なのである。

 故宮坂宥勝師は、苦のサンスクリット語であるドゥフカは、二つに分割された状態を意味すると説かれた。

「あらゆる無秩序の源泉となる二分法が苦なのである。
 この苦こそ釈尊が到達し得た深い宇宙的な自覚であると思われる。」


 生まれる、と、生まれない。
 老いる、と、老いない。
 病に罹る、と、病に罹らない。
 死ぬ、と、死なない。
 私たちは、それぞれの間にあって、ままならない。

 ままならずに具体的な苦しみを負い、訪れる方々と対話し、修法し、そこを緩和することはできるかも知れないが、相手がそこからすっかり脱することは極めて困難である。
 苦は望みどおりには解消せず、何らかの形で引きずられる。
 それを知り、それを観ながらもどかしい思いを持っている者にはなかなか、涼やかさが訪れない。
 観音様やお地蔵様や文殊様など菩薩方のお顔にはただ、ため息が出るだけである。

 ただし、お送りする方々のお顔にも、菩薩様を観る場合がある。
 死をもってこの世の苦から脱した方々には、まぎれもなく、ある種の涼やかさがある。
 お釈迦様にも、お大師様にも、生きながらにしてあの気配がおありになったのだろう。
 やはり、出るのはため息である。
 今日も、千葉県にあって、旅立たれる方へ引導を渡す。
 昨夜、手を合わせたおの中には涼やかさがあった。
 自分にはまだ、ない。
 しかし、袈裟衣をまとっている時は、恥も畏れもなく、即身成仏(ソクシンジョウブツ)している信念一つで引導の法を結ぶ。
 せめて導師をつとめる時だけは「いとも涼やかな顔で端正な姿を運んでいる者」として役割を果たしたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2014
03.17

前世・現世・来世と因果は必ず廻る ─人は昔から同じような過ちを繰り返してきた─

20140316.jpg

 お釈迦様の前世物語ジャータカという。
 何度、生まれ変わっても、必ず誰かのためになり、自分も悟りへ近づく本生菩薩(ホンジョウボサツ)の輪廻転生(リンネテンショウ)を説く。
 宮坂宥勝著『釈尊 ─その行動と思想─』は、その特徴を3つに分けている。

1 前世における物語

 釈尊は弟子たちに対して、どういうわけで過去のことを語ったのかをのべる。

2 過去世の物語

 この世において起こった出来事は決して偶然なことではなくて、過去においても同じような出来事があったのであるといって、過去にあったことを語る。
 これはジャータカの本分に相当する部分であって、話のまとめとして詩を掲げるのがつねである。

3 むすび

 過去の世の出来事に登場した人物のだれそれはじつは現在のだれそれなのであるといって、過去と現在をむすびつける。


 たとえば、同著に「金色の鵞鳥(ガチョウ)の物語」がある。

1 お釈迦様が祇園精舎(ギオンショウジャ)におられた時、トゥッラナンダー比丘尼(ビクニ…女性の出家修行者)について語られた。

 ある時、在家信者の男性が、比丘尼の集団へニンニクを送り、農園の番人に、「もし、また、比丘尼たちがきたらニンニクをあげなさい」と命じた。
 好意に乗じたトゥッラナンダー比丘尼たちが際限なくニンニクをもらいに行ったために、ニンニクがなくなり、番人は怒った。
 この話を聞いて憤慨した小欲の比丘尼たちは比丘(ビク…男性の出家修行者)へ告げ、そこからお釈迦様へ情報が届いた。
 お釈迦様は言われた。

「この比丘尼の欲ばりは今に始まったことではない。
 前の世の生涯にも欲ばりだったのだよ。」


 そして、前世のできごとを話された。

2 昔、菩薩は、あるバラモンの家に生まれた。

 菩薩は、結婚し三人の娘に恵まれたが、すぐに他界し、宿命智(シュクミョウチ…過去を知り尽くす智慧)を具えた金色の鵞鳥に生まれ変わった。
 美しく成長した彼は、自分の前世を知り、妻と娘たちが気になった。
 他家にひきとられ、苦しい生活をしている四人に楽をさせるため、金の羽を一枚づつ分け与えようとしてその家へ行き、告げた。
「私はお前たちの父である。
 今後は幸せに暮らさせてあげよう。」
 そして、4枚の羽を残し、飛び去った。
 欲ばりな妻は、畜生の心などいつ変わるかわからない、今度来たら羽を全部抜きとってしまおうと考え、娘たちの反対を押し切って鵞鳥を捕らえた。
 金の羽をすっかりなくした鵞鳥には白い羽しか生えず、白い姿で飛び去った。

3 バラモンの妻はトゥッラナンダー比丘尼へと生まれ変わった。

 お釈迦様は説かれた。

「この比丘尼の欲ばりは今に始まったことではない。
 前の世の生涯でも欲ばりのために金を失い、今もまた、ニンニクをもらえなくなった。
 だから、今後、彼女はニンニクを食べられないだろう。
 彼女のために、他の比丘尼もニンニクが食べられなくなった。
 だから、人は、多く手に入っても、適当ということを知らねばならない。
 少ししか得られなくても、多く得た時と同じように満足するがよい。
 それ以上、望んではならぬ。」


 過去世のバラモンの妻は現世のトゥッラナンダー比丘尼であり、三人の娘は小欲の比丘尼たちであり、鵞鳥はお釈迦様であると告げられた。

 ジャータカを読むと、人間の意志と行為は実に〈繰り返されてきたもの〉であると思える。
 過去にあった愚かしい思考と行動は、愚かしさに気づき、それを克服しない限り、幾世代を重ねてもずっと繰り返される。
 因果の理に漏れはない。
 だから、愚かしい行為で自他を苦しめたくないならば、たった今、因果の連鎖を断ち切るべく、生き直しをせなばならない。

 人気漫画「黒子のバスケ」をめぐる脅迫事件で逮捕された渡辺博史被告(36才)は、東京地裁における罪状認否で15分にわたり私見を延べた。
「反省はない。
 謝罪もしない。
 どんな判決でも控訴しない。
 服役を終えたら自殺する。」
 被告は、学歴など、自分が持っていないものを持っている人気漫画の作者をねたみ、「黒子のバスケ」のカード付き菓子を製造中止にするよう求め、「要求に応じないなら漫画の単行本の巻数とアニメの話数を合わせた人数だけ誰かを殺す」と強迫していた。
 これからの時代を担う人なのに、悪しき因果を断とうとしないのはまことに残念である。

 善き因果応報と悪しき因果応報について、子供の頃からさまざまな話を聞かせておきたい。
 もちろん、話す親などが因果応報を信じ、真理に合わせた生き方をしていなければ、なかなか説得力を持てない.
共に奮起しましょう。




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2014
03.16

観音様の同悲同苦 ─中国のPM2・5問題へ手を差し伸べる日本─

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〈岩出山の『森栖』さん〉

 3月15日付の朝日新聞は、「中国大気汚染 日本が協力」を掲載しました。

 3月11日、日本側からの招きに応じ、中国・天津市から鋳造メーカーの関係者11人が東京を訪れ、嘆願しました。

「排出削減、大気汚染の分野で日本の先進的な知見を採り入れたい」
「環境保護の意識を学ばせてほしい」
PM2・5の濃度をオンラインでモニターできる最新機器が欲しい」


 環境汚染そのものについて学びたい、自分たちで自分たちの環境を守る意識はいかにして育てられるか、PM2・5と戦う道具が欲しい、いずれも切羽詰まった願いでしょう。

 社長や工場長たちを束ねる天津市鋳造業協会事務局長王継英事務局長は語りました。

「日中両国には(歴史認識や尖閣諸島など)複雑な問題があるが、いま中国で国民の関心が高いのは大気汚染だ。
 ぜひ協力をお願いしたい」
「生産量を優先する発想を改め、環境を意識した経営を迫られている」


 大気汚染は、生きものである人間から自然な呼吸を奪う残酷な事態です。
 その影響は子供や老人などの弱者を直撃するのはもちろん、青年や壮年の肺へも深刻な病気の種を植え付けます。
 しかも、それは、人間の手によってもたらされる自業自得の苦しみです。
 一刻も早く、原因を除去せねばなりません。

 日中経済協会(会長・張富士夫トヨタ自動車名誉会長)は、日中関係の現状を憂慮し、環境関係の技術に関する関係強化に乗り出しました。

「協会は昨年3月、JXや日立製作所など数百社が加わる『中国大気汚染改善協力ネットワーク』を結成。
 中国が直面している環境問題に貢献できる470件の技術をまとめて大気汚染が深刻な北京市や近郊の天津市、山東省など5省市に協力を申し出た。
 中国政府の感触も良く、日本側の招待で来日を希望する中国企業が増えているという。
 中国政府や企業にとって、国民の不満が強い大気汚染問題の改善は、待ったなしの課題だからだ。」


 日本側の関係者は北京などで最悪の空気を吸い、自分の肉体が空気に襲われるという逃れようのない恐怖感をお持ちでしょうか?
 ぜひ、そこから出発し、隣人の苦しみを見捨ててはおけない気持をこそ、行動の根においていただきたいと願わないではいられません。
 経済の世界には損得勘定も恩の貸し借りもありましょう。
 しかし、ぜひ、観音様の〈同悲同苦〉を頭の隅にでもおいて、共に難局へ挑んでいただきたいと願っています。

 観音様は、行くべきところへ行く道筋を知る阿弥陀如来様の悟りがその本体となった存在です。
 しかし、絶対の安楽へと溶け込んでしまわず、私たちと悲しみを同じくし、苦しみを同じくし、共にそこから脱しようとされます。
 観音様にとって、生きとし生けるものの悲しみも苦しみも、決して〈他人ごと〉ではありません。
 私たち人間も、真の同悲同苦のある交流を行いたいものです。
 そこからこそ揺るぎない信頼が生まれ、決して相手を〈殺せない〉心も生まれることでしょう。
 み仏の説かれた「不殺生(フセッショウ)」の実現こそ、戦争から遠ざかるための最も確実な方法です。

 3月6日、当山はブログ「今こそ塩を送ろう」を書きました。
「今、日本は中国と緊張関係にあるが、大気汚染という中国国民の現実的な苦しみへ手を差し伸べ、原発の拡大という文明への危険因子を取り除く手伝いをして、隣人、隣国としての真の友好を目ざすべきであろうと思う。
 武によって守りを固め、文によって相通じようとする文武両道は、日本古来のならいでもある。」
 中国におけるPM2・5の猛威から逃れる発電方法としては、原発がすぐに考えられることでしょう。
 しかし、ブログ「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第148回)中国の原発事故に勝る国防上の脅威はない─」に書いたとおり、中国の東海岸方面に続々と造られている原発は、日本の国防上、まぎれもなく、最も危険で抗しようのない脅威です。
 もしも、中国で原発事故が起こったなら、偏西風に乗った放射能は日本列島に降りそそぎ、日本に住む人びとは〈全島避難〉となることでしょう。

 日本では原発事故が起こり、中国ではPM2・5に苦しめられています。
 日本と中国に起こっている問題は、現代文明そのものの問題であり、国家像だけでなく、人類が目ざすべき世界像を再考する機会を与えてくれているのではないでしょうか。
 自然と共存するのではなく自然と戦いつつどこまでも欲の拡大をはかろうとする方向性そのものに〈否〉が突きつけられていると感じ、畏れているのは私だけでしょうか。
 中国では、観音菩薩様の聖地であるチベットが抹殺されつつあります。
 しかし、日本ではまだ、観音信仰が生きています。
 同悲同苦をもって、共に、新しい文明を目ざしたいものです。




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2014
03.15

私たちの心に差別意識はないか ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(13)─

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〈岩出山の『森栖』さん〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

2 転生の条件

心中した男女が来世を共に生きる可能性はあるか

「ここで心中する男女の話に戻ろう。
 私が言うことの真意は、その二人が、人としてあるいは動物として生まれ変わるに充分な善きカルマを積み重ねてきても、心中する瞬間においても、二人の強い愛情と一体感とを育てつづけ、それを保持しつづけていなければ意味がないということだ。
 そうしてはじめて、愛し合う二人に可能性が生じてくるということだ。
 共に生きられる来世が実現する可能性が。
 それが、たとえ人としてか、動物としてか、あるいはまた昆虫としてかはわからないにしても。」


 この教えは、「悪しき感情と共に死んではならない」に続く、「転生の条件」の締め括りである。
 なぜ、これほどまでに、憎悪や忿怒などの悪しき感情を持たず、人を愛するという善き感情を持ち続けなければならないと説かれたか。
 それは、インドのカースト制が、愛し合う男女の前に巨大な壁として、いまだに、立ち塞がっているからに他ならない。
 インドの映画で圧倒的に人気を得ているのは、許されない愛の物語だという。
 たとえば、最高位の僧侶階級に生まれたとしても、皆が皆、聖職者になるわけではなく、商売人として生活する人もいるが、同じカーストの人間が作った食事しか口にできないとなると……。
 たとえば、最低の階級に生まれれば、結婚式を挙げることも葬式を行うことも、住まいの近くにある井戸を使うことさえ、極めて限定されてしまう。
 また、インドでは、いまだに男尊女卑の意識が強く、国際社会の非難を受けて最近、レイプは死刑となったが、今度は、その制度を悪用し、愛憎のもつれから男性を訴え、憎い男性を死刑台へ送るケースが激増しているという。
 お釈迦様が、人間の価値を〈生まれ〉ではなく〈生き方〉にしかないと繰り返し説かれたのも、ダライ・ラマ法王が、人間に共通の良心に従い、互いを思いやり、悪しき感情を持たずに生きようと訴えられるのも、人の世における差別の害悪が、この世とあの世の苦に深くかかわっているからである。

「しかし、こうしたさまざまな因子の働きを度外視しては、ただ単純に意志の力によっていては、この世で添い遂げられない男女が来世を共に生きようとしても、その願いは叶うものではない。
 事実を決定づける因子は無限である。
 それが仏教徒として言いえることである。」


 こうしたいという自分の意志だけが自分の運命の主人公ではあり得ない。
 意志の裏には煩悩(ボンノウ)が潜んでいる。
 意志がいかなる思考や感情からもたらされているのか、省みなければならない。
 いかに本気でやっていても、根本的に人の世へ苦をもたらすものであれば、自分の運命も社会の運命も暗い方へと傾く。
 また、世界が動いて行くところにはたらく〈理〉というものを考えてみなければならない。
 いかに本気でやっていても、〈理〉に合致していなければ報われ難く、意図せぬ結果をもたらしかねない。

 仏教徒は常に、いかなる時代、いかなる世にあっても変わらぬ普遍的道理を見つめ、そこから、生きる土台を創り続けたい。
 道理にかなった善き土台に立ち続けることが、自他を善き輪廻へと導く。
 インドという一つの文化圏における差別心中の様相は、私たちの心で巣くっているものに気づかせる。
 差別の業火は、対岸の火事ではない。
 3月8日、浦和レッズのサポーターが埼玉スタジアムにおける試合中、「JAPANESE ONLY」という横断幕を掲げ続け、関係者が処分を受けただけでなく、浦和レッズは無観客試合をせねばならなくなった。
 自他へ苦をもたらさず、来世への悪しき因子をつくらぬよう、差別や苦や悪について学び、考え、語り、行動したい。




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2014
03.14

つばくろや人が笛吹く生きるため ─心の耳は開いているだろうか─

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 大正から昭和を生きた俳人秋元不死男(フジオ)は、人間の生活そのものから目を離せなかった。
 正岡子規を悼む『子規忌』に寄稿したのがこの一句である。

つばくろや人が吹く生きるため」


 自分で註釈をつけている。

「街を歩いていると、豆腐屋がラッパを吹いて通った。
 その上を忙しくツバメが低くとんで、春の夕方の街は気ぜわしげであった。
 単調なラッパの音が一日の働く時間に終わりを告げるように、もの憂く、さびしく街の中を流れ、家の中をかけ抜けていく。
 この句は、そのような夕方の市井の、ありふれた一景にヒントを得、それを拡大して、人はさまざまなを吹いて生きていることに、ふと、思いを馳せて作った。」


 NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』は、戦後の光景を描き始めた。
 主人公と回りの人々は、生きるため、目の前にあるものを相手に頭を使い、手を用い、周囲へ呼びかける。
 こうした呼びかけの方法として昭和の時代までは、さまざまなが吹かれていた。
 豆腐屋、支那そば屋、焼き芋屋、按摩屋、あるいは、会社における労務時間や学校における修学時間の区切などなど。
 いずれにしても、生きている人が生きるため、生きている人へ呼びかけるのである。

 高校生の頃、深夜、受験勉強をしていると、チャルメラが聞こえた。
 暗い寒空の下を一歩、一歩と歩みつつ生きる一人の人間が、確かにいる。
 彼の曳く屋台には、凍える心身をほぐしてくれる細くて醤油味の効いた支那そばが用意されている。
 窓を開けて声をかけ、出て行けば、一杯の支那そばをはさむ二人は寒夜に抗して、暖かく小さな世界をつくる。
 私が出て行かずとも、彼は、チャルメラがあちこちで〈聞かれている〉ことを信じるがゆえに、かじかむ手で屋台を曳いているはずだ。
 個人と他人様、家と世間様とは、隔絶されず、音も心も緩やかに行き来をしていた。
 あれは、障子や厳密に鍵をかけない習慣がもたらした文化だったのだろう。

 時代と共に、呼びかけの形も呼びかけられる形も大きく変貌した。
 自然に共有されていた礼儀や良識は、権利や法律にとって代わられた。
 個人と他人様、家と世間様とは、閉ざされた関係にあることを前提として、交流のルールがこと細かに決められる。
 障子や鍵のかけられていない玄関が姿を消すと共に〈~屋〉のも聞かれなくなった。
 善意の呼びかけも悪意の呼びかけも集団で行われ、人々は注意しつつ行き過ぎる。

 モノとして「さまざまなを吹いて生きている」時代は去ったが、私たちは、依然として〈さまざまな心のを吹いて生きている〉。
 生きるとは信号を発することであり、それぞれの信号は脳内のシナプスのように、つながって初めて意味を持つ。
 秋元不死男の句が、ラッパのない時代に生きる私の胸をうつのは、彼が耳でだけでなく、心でも聞いていたと感じられるからである。
 彼は自分を「アーチスト(芸術家)ではなくアルチザン(職人)である」と言った。
 心の耳を失いたくないと、強く思う。




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2014
03.13

死ぬ時に慌てないよう清浄な心で生きる ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(12)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

2 転生の条件

○悪しき感情と共に死んではならない

「そしてまた、カルマ以外の外的な条件も死の瞬間において、その人の来世を決定するうえで大きな役割を演じることになる。
 人が死ぬとき、その人の善きカルマが来世を決める有力な材料であることに間違いないのだが、それだけではないということだ。
 たとえば、仮に、誰かが自分の死に直面して、他者に対して悪しき感情を持ったとしよう。
 それが、誰かの振る舞いに対する直接のものであったとしても、想像を巡らせたうえのものであったとしても、古い記憶から蘇ってきたものであったとしても、同じことである。
 誰かを憎み恨むような悪しき感情が、自分の死に際して自分自身の心の中に芽生え、育ったなら、一瞬にしてそれまで集積してきたカルマの平衡は崩れ去る。」


 私は、亡くなられた方へ導師として引導(インドウ)を渡す際に、ダイヤモンドのように硬い信念を持つ。
「弟弟子を必ず極楽へ渡す」
「妹弟子を必ず極楽へ渡す」
 もちろん、自分の法力を過信するなどというわけではなく、全身全霊を挙げて、お導きくださるご本尊様のお力におすがりするのである。
 そのためには、導師自身がご本尊様と確かにつながる世界へ入らねばならない。
 そこは、お慈悲を加えてくださるご本尊様の「加(カ)」と、いただくお慈悲を私たち凡夫が「持(ジ)」する「加持(カジ)」の世界である。
 導師は、出家得度により、引導を受ける方よりもわずか一歩、先に仏弟子となった者に過ぎない。
 それが、後から仏門へ入り、「~居士」あるいは「~大姉」として戒名の一部に僧名を授かった可愛い弟弟子や妹弟子を、この世から完全に切り離さねばならない。
 ちなみに「~院」は院号といい、真ん中の「~」は道号といい、最後の「~居士」あるいは「~大姉」を法名または僧名という。

 お柩の中のお顔には必ず、言いようのない気品が漂っている。
 もちろん、納棺師を務める方の精魂込めたはたらきによるところが大きいにしても、やはり、貪り、怒り、愚かさの三毒から抜けきろうとしておられるからであろうと感じている。
 ブログの『今、逝きし妻よ、君は何と美しいことか』にも書いたが、映画『蕨野行(ワラビノコウ)』において北林谷栄が演ずる老婆の最期は忘れられない。
 寒村に生まれ育ち、自主的姥捨て山である蕨野へ入ってからもずっとひもじさと戦ってきた老婆は足を痛め、ついに掟である「自分の口は自分で養う」ことができなくなってしまう。
 仰臥したまま主人公レンへ告げ、この世を静かに去る。
「ようやくひもじさに克った。
 この安楽な気持はお前たちにはわかるまい」

 あらゆる生きものは、自分の口を養うことを一番にしたがる。
 しかも、人間は、単に空腹が満たされただけではなかなか満足できない。
 ここから、貪りが生じ、奪い合いの争いが生じ、よりうまくやろうとして自分勝手で愚かな考えを起こす。
 もちろん、我が子や孫に対すればそこから離れ得るが、多くの場合は、その時だけである。
 霊性によって意欲が洗練されれば文化を生じるが、根にある三毒からはなかなか離れられない。
 上記のシーンは、私たちへその冷厳な事実を突きつけてくる。
 この逃れがたい三毒が、ダライ・ラマ法王の説く「悪しき感情」をもたらす。

 しかし、最期に「ありがとう」と口にして去る方は少なくない。
 「ありがとう」のあるところに、貪りや怒りや愚かさに発する「悪しき感情」はなく、清浄になった者の喜びしかない。
 だから、そうしたお話をお聴かせいただけると、とても安心だが、残念ながら、皆さんが感謝の思いを伝えられるわけではない。
 また、人生のすべてが猛スピードで廻る走馬燈のように脳裏へ浮かぶという最期の瞬間に、いかなる感情が生じるかはわからない。
 だから、亡くなられた方をそれらすべてから解き放つべく、葬儀の修法が行われる。
 導師は行者としての全存在をかけて引導に臨む。

 3月11日、レスリングで活躍している吉田沙保里氏の父親栄勝氏(61歳)の急死が報じられた。
 当山では、突然死した赤ちゃんのご葬儀を何件も行ってきた。
 私たちはいつ、どこで、死ぬかわからない。
 いつ、どうなっても、地獄行きとならぬよう、「誰かを憎み恨むような悪しき感情」を持たずに生きていたい。
 自分が地獄行きとなれば、生み、育ててくれた両親や、代々いのちのバトンタッチを途切らせなかったご先祖様方や、生かしてくださったご縁の方々や、お導きくださった守本尊様方へ申しわけが立たない。
 足(タ)るを知る感謝と無縁に、いぎたなく貪ってはいないだろうか?
 潜んだ高慢心によってつまらぬことにカッカし、心で誰かを罵倒(バトウ)してはいないだろうか?
 ものの道理から離れた気まま勝手な考えに縛られてはいないだろうか?
 もし、これらに該当すれば、死ぬ瞬間に何が出てくるかわからない。
 お互い、気をつけようではないか。




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2014
03.12

未完のページを心で読む ─東北関東大震災・被災の記(第149回)─

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 3月11日、午前10時より午後1時をまわるまで般若心経百八返を捧げ続ける供養会は、無事、終わりました。
 全国の方々へ合計百万巻にしましょうと呼びかけましたが、ご唱和いただけたでしょうか。
 修法後、少々、法話を行いました。

「こうした供養とはいかなるものでしょうか。
 作家吉村昭氏は、『作家は未完の一ページを残してこの世を去る』と言いました。
 よほど恵まれ、心の座った方なら、何の思いも遺さずにこの世を去るかも知れませんが、多くの方々は、吉村氏ならずとも〈未完〉の思いを持って旅立たれるのではないでしょうか。
 よく「無念」と言います。
 この言葉どおりであれば、『念が無い』はずですが、実際は、どうしても心から離れない思いがある場合に『無念である』と言います。
 それは、スルメをアタリメと言い換え、死んだ日をいのちの日、すなわち命日と言い換える文化に通じる心遣いなのでしょう。
 
 さて、大震災から三年が経ち、大震災の影響で関連死された方の数は、大震災によって直接亡くなられた方を上回る状況となりました。
 今なお、そうした方々は増え続けています。
 私たちの行う供養は、皆さんが書き尽くせなかった心の一ページへとつながることでしょう。
 そして、無念という〈あの世へ引きずる〉心は、いくばくかでも晴れ、あの世へ暖かな光が射すことでしょう。

 NHKドラマ『ごちそうさん』には、白い米で炊いたご飯をありがたくいただく場面がたびたび出て来ます。
 現代に生きる私たちは、何の気なしに銀舎利(ギンシャリ)を口にしますが、戦争で襲に遭った地域や戦場そのものでは、それがなかなか叶いません。
 先月、まだ御遺骨や遺品の発掘が終わらないまま酷く崩れた沖縄の洞窟で、御英霊へ銀舎利を捧げてご供養しました。
 同志の紅一点であるAさんが、途中のコンビニでご飯を買い、温めてもらいました。
 それを小さな仏飯器へ盛りつける時、彼女は周囲へ訊きました。
 『女性が手をかけてよろしいのでしょうか?』
 即座にお答えしました。
 『母たる性の女性が手がけてくだされば、それはきっと、御英霊にとって、自分の母親が盛りつけてくれたご飯になることでしょう。
 これ以上の供養はありません。
 ぜひ、お願いします』
 もはや、食糧も弾薬も乏しく、あるいは尽きた洞窟の奧で玉砕の時を待つ方々の胸中に何があったのかは、わかりません。
 確かなのは、家庭の食卓に並ぶご飯がなかったことです。
 だから、温かな銀舎利のご供養はきっと、御英霊の無念の一部を晴らしたものと信じています。

 私たちは、一人残らず太平洋戦争における生き残りか、その血を継ぐ者であり、震災と原発事故における生き残りです。
 いのちがつながってきた存在です。
 申しあげるまでもなく、私たちにできることは、逝かれた方々が遺された思いを忖度(ソンタク)しつつ、手を合わせることです。
 そして、御霊へ恥ずかしくない生き方をし、もって、御霊へ恥ずかしくない世の中をつくりたいものです。
 今日、ここで皆さんの胸中に動いたまごころはきっと、そのための大きな力となることでしょう。
 まことにありがとうございました。」

 3月9日、河北新報へ「『自然』に命見る日本人」という一文が掲載されました。
 栗原市のご住職佐藤澄隆氏は、その中で書きました。
「卒塔婆(ソトウバ)に記す風火水地の文字は、発電エネルギーの風力、火力、水力、地熱と見事な対称を示しているではないだろうか。」
 まったく同感です。
 当山が有効利用を目指している温泉「七ツ森の湯」は、もしも温度が充分でない場合、卒塔婆に書く「」の文字に通じる太陽光発電でやれないものかと思案しています。
 お大師様は、卒塔婆の表へ梵字(ボンジ)で書く地・水・火・風・の5つに加え、裏の「識」を加えて合計「六大」とし、この世のありとあらゆる存在は六大によって成り立っていると説かれました。
 識は目に見えない心です。
 地・水・火・風・は、現象世界であり大自然であり私たちの肉体であり環境世界です。
 環境世界を破壊することはすなわち、心を破壊することです。
 心が荒廃すれば環境世界も荒廃します。
 環境世界を美しく活き活きと保てば、心も瑞々しくはたらきます。
 供養の卒塔婆一体を捧げる時も、こうした思いを添わせ、自然の猛威と、人類の手に余る原発の事故とによって生じた悲しい環境世界をきちんと整え、私たちが瑞々しい心で生きる姿をもって、犠牲となられた御霊への供養としたいものです。

 般若心経をご唱和くださった全国の皆様、まことにありがとうございました。

追記
 作家の故吉村昭氏は、作家仲間の立原正秋氏を送り、こう書きました。
「立原氏は逝き、私は鎌倉で営まれた葬儀に参列した。
 私は、祭壇の氏の遺影を見つめながら、小説を未完で終えざるを得なかった無念を思った。
 小説家の避けることのできない宿命であり、それは私自身のことでもある。
 いつかは私も、未完の作品をぽつんと残してこの世を去るにちがいない。」




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2014
03.11

よき生活習慣が決め手 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(11)─

20140311001 (4)
〈『兎野仙哉』君新バージョン3〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

2 転生の条件

○馴れ親しんだ行為がカルマの基盤となる

「ただし、二つの思い意味を持つカルマが同じ日に、同じ時に、同じ瞬間に、まったく同時に生じることもありうる。
 またたとえの話だが、戦争を想起してみよう。
 戦争の中で、人間は敵を殺す。
 この敵を殺す行為そのものが、彼の友を、味方の兵士を救うことそのものである。
 この場合、一つの行為が二つの異なるカルマを同時に発生させる。
 行為は一つだが、結果は二つである。
 人を殺すことと、人を救うこと。
 さて、いかに考えるべきか。
 答は、その人が普段からどのように振る舞っていたか、どちらの行為が、より彼にとっては馴れ親しんだ行為であったかによって決定されなければならない。」
 
「もし、彼が人生のその場面においてのみ人を救ったのではなく、それまでにもそうした行為を積み重ねてきているなら、そして殺人は彼にとって例外的に、きわめて稀な行為として行われたというなら、彼の二つのカルマのどちらが優位にあるかは明白である。
 彼にとって、人を救ったという行為から生じたカルマは、殺人の悪しきカルマよりも強く、彼の死に際して、その輪廻転生に大きな影響を及ぼすカルマの基盤となるに充分であるだろう。」


 ダライ・ラマ法王の論は厳しい。
 いつもいい加減に生きていて、何かのおりに〈その時だけ〉殊勝にふるまっても、運命を動かし、来世のありようを決めるよき因子にはならない。
 また、たとえ家族を守るために暴漢を殺そうと、常々、周囲の人々へ情けをかけて生きてきた人なら、殺人という破戒行為は、来世を決める決定的な悪しき因子とはならない。
 大切なのは、常々の生活ぶりである。
 つまり、自分の生活という〈自分なりの文化〉をいかに創りながら生きているかが重大なのである。
 
 私たちは古来、文武両道を日本文化の基底としてきた。
 文とは平時における霊性の発露であり、武とは、急時における霊性の発露である。
 文字を読み書きし、親や先生や先輩や社会から人間のあるべき姿を学び、箸と茶碗をきちんと手にし、社会的役割をまっとうしつつ淡々と生きる人間は、その〈自分なりの文化〉、あるいは〈自分たちの文化〉に矜恃を持ち、同時に、それを破壊しようとする無体な者は断固許さぬという気概を養ってきた。
 文化は、生きられつつ創られ、創られつつ守られ、守られつつ創られてきた。
 文化は、創られる平時においては〈文〉であり、守られる急時においては〈武〉であり、〈武〉なき〈文〉は滅びへ向かい、〈文〉なき〈武〉は人間をケダモノに堕とす。
 霊性は文において輝き、武においても輝く。
 現代に生きる私たちは、いのちをかける生きがいを持ち、輝きつつ文を創っているだろうか?
 現代に生きる私たちは、いのちをかけて守るべき文を持ち、守る気概を養っているだろうか?

 少々、脱線した。
 ダライ・ラマ法王が説かれた「馴れ親しんだ行為」という言葉は重い。
 たとえば、現代人の宿痾(シュクア)とも言うべき成人病を考えてもよくわかる。
 日常において繰り返される生活のありようが身体のありように投影され、それは心のありようにも重大な影響を及ぼす。
 日々の生活ぶりが、否応なく、心身の姿となって顕れ、顕れた結果は自分で引き受けるしかない。

 生き方だけでなく、ひいては死に方にまでかかわる「馴れ親しんだ行為」をよく考えてみたい。
 何しろ、転生という、魂の行く先にまでかかわるのである。




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2014
03.10

心中してもあの世で一緒にはなれない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(10)─

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〈春は名のみの……〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

2 転生の条件

輪廻(リンネ)を決定する行為には、優先順位がある

「この世で共に生きられない男女が心中することがある。
 では、心中した二人は来世で共に生きられるだろうか。
 答は否である。」


 人はさまざまな願いを持つ。
 それが仏神に許されると思えるものであろうと、そうでなかろうと。
 あるいは、叶えら得るものであろうと、最初から叶えられ得ないものであろうと。
 死の不安は、一面としては、自分の身体や生物としての生活をはじめとするこの世のもろもろを失うことにあり、もう一面は、死後のありようのわからなさがその正体である。
 この世で添い遂げられない運命にあると信じた男女が、「せめてあの世で」と願い、心中するのは世界共通、いつの世も、どこの国でも起こり得るできごとである。
 あの世での不安を振り払うほど強い願いが、この世を捨てる決心につながる。
 しかし、ダライ・ラマ法王は、それは〈叶えられない願い〉であると断定する。

「仏教的な観点から言えば、輪廻転生のための条件はそれほど単純なものではない。
 ひじょうに多くの因子の集積が人の輪廻を決定する。
 人は生きることによって無数の異なった次元の行為を集積する。
 その行為の集積の中から、どの行為がより重大か、より意味を持つか、といった優先順位が問題となる。
 また、どの行為がより後でなされたかも大きな問題となる。
 こうした検証なしでは、人の輪廻ははかれない。」


 心中をする男女の多くは、「輪廻転生のための条件はそれほど単純なものではない」と気づいていることだろう。
 しかし、歓喜と悲嘆の絶壁を登り降りすることに力尽きそうな時、思考停止と極論に支配される状況が生じる。
 あの世での可能性にかけるという決断である。
 人間は、時として、道理に合わぬ悲しい意志を持つ。
 真実を述べるダライ・ラマ法王は、冷徹なほど動かし得ない〈優先順位〉を説く。

「具体的に述べよう。
 仮に二つの行為が同じ重要度を持つとしよう。
 そうした場合には、より後で行われた行為が優先されるべきものである。
 また仮に、二つの行為が同時に行われ、それらがまったく同じ重要度を有していたらどうなるか。
 そんな場合は、その人物にとって、どちらの行為がより慣れ親しんだ行為であるのか、より習慣的に行ってきた行為であるのかによって、輪廻を決定する優先順位がはかられる。
 したがって、共に来世で生きたいという願いだけでは、心中した男女が期待したとおりの輪廻転生を遂げることはない。」


 以下、優先順位についての説明がなされる。

○死により近い時間のカルマが、最重要

「より深く説明しよう。
 生命は無限である。
 それには始まりもなければ終わりもない。
 よって、行為、カルマ(業)もまた始まりもなく、終わりもない。
 カルマは無限である。
 いわゆる無限大のカルマがあることになる。
 その無限大の無数のカルマのひとつひとつが、それぞれ新しい生命を生み出す力を秘めている。
 では、いったい、特定のある人物の、現世かあるいは前世かの、無限のカルマの中のどのカルマが、その人物の死の時点において、輪廻を決定する最も重要な、支配的なカルマだとわかるのか。」

「たとえば、ある人物が殺人という行為の結果としてのカルマを有している。
 それは、そこに厳然としてある。
 ところが、その人物には人の生命を救ったという行為からくるカルマも同時にあったとする。
 この場合、互いに相矛盾する、相容れない二つのカルマが両立する。
 しかも、ふたつは共にひじょうに強力にして重要なカルマである。」

「さあ、どちらがより重要であると、どのようにして決定できるか。
 どうすれば、どちらのカルマがより支配的なカルマであると認定しえるのか。
 一方はたいへんネガティブであり、他方はひじょうにポジティブである。
 しかも、二つは等しく重いカルマだと言わねばならない。
 人の命にかかわる行為によって生じたカルマなのだから。」

「その人物が死に際した時、どちらのカルマによって彼は輪廻を決定されるのか。
 この場合、どちらがより死に近い時になされた行為であるからが尺度となる。」

「もし、彼が二年前に人を殺していたとしよう。
 殺人を犯してから二年後に人の生命を救ったとしよう。
 あるいはその逆であっても同じことである。
 時間的な流れがあれば、どちらでも、その人物が死ぬ瞬間により近いほう、より時間的に遅く行われた行為から生じたカルマがより大きな意味を持つ。」


 実に明解な道理である。
 定年間際まで人から後ろ指さされることなく勤め続け、家庭を維持し、子孫を育ててきた人が、ふとした拍子に〈魔が差した〉としか思えないような行為へ走り、ほとんど一瞬にして、まっとうな社会人として認められない存在へと墜落してしまうケースは珍しくない。
 そのほとんどは、貪り、怒り、愚かさの三毒どれか、もしくは全部に害されたものである。
 このような暗転を元に戻すことはできず、その人は以前の善行でなく、最後の悪行によって人となりの社会的評価のほとんどが定まり、そのまま死を迎えるならば、どこへ行くか、想像に難くない。

 東日本大震災のおり、バイクを盗んで家出していた少年が、避難所でリーダーばりの活躍を行い、ことが発覚した時、弁護士をはじめ少年に助けられた人々がこぞって罪一等を減じてもらう嘆願書を作り、少年も又、人のために役立つ生き方をしたいと表明したできごとがあった。
 もしも、少年がそのままの心で生き、やがて死を迎えたならば、少年だった人物に対する社会的評価がどうなるか、いかなる世界へと転生し得ると考えられるか。
 やはり、想像に難くない。

 ダライ・ラマ法王が説かれた「その人物が死ぬ瞬間により近いほう、より時間的に遅く行われた行為から生じたカルマがより大きな意味を持つ」は、深く納得できる。
 ならば、たやすく傷つく柔らかな皮膚に包まれ、血が細い血管を流れ続けているためにようやく肉体を保っている私たちは、いつ、いのちを失っても不思議ではない存在であるがゆえに、たった今、善行(ゼンギョウ)を為さねばならない。
 たった今、悪行(アクギョウ)をなすことがいかに恐ろしいか、よく考えたい。




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2014
03.09

他人様を簡単に「切る」のはいかがなものでしょうか? ─お釈迦様は「口に斧がある」と説かれた─

001 (3)2
〈『兎野仙哉君』新バージョン2〉

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寺子屋『法楽館』では、活発なご質問などがあり、『四苦八苦の克服』についてのお話の後半は来月に持ち越しました。〉

 他人様の欠点(と思われるもの)をより強く、より激しく、より情け容赦なく、あげつらい、罵倒(バトウ)する場面がテレビの画面に溢れています。
 それも、麗々しく着飾った妙齢の美女(に仕立てあげられている人)が、柳眉を逆立て、あるいは冷血そのものに、いぎたなく他人様の人格や人生を〈切り〉、周囲がはやし立てる。
 こうした番組もあるのは、ある意味で社会が健全である証拠でしょうが、安易で無礼なこうした番組があまりに流行りすぎるのには、少なからぬ問題がありそうに思えてなりません。
 笑いながら受け流し、あるいは視聴者が面白がりそうな範囲で怒りながら反論し、またやられてしまう〈切られ役〉は、ギャラをもらう立場なので、うまく場面に溶け込み、シャンシャンとなりますが、現実は決して画面で見たとおりにはなりません。
 そして、大きな問題は、私たちの心が、見聞きするものによってはたらきかたを変化させるという事実にあります。

 もしも、ああすれば面白いと感じた子供が、同じような場面を教室でつくり出したならば、相手は気持が痛めつけられ、目に見えない血が流れます。
 表面的にはどうあれ、怒り、怨みも抱きます。
 決して、テレビの画面のように笑って受け流すだけで終わりにはなりません。
 決して、テレビの画面のように怒りがその場で収まってしまいはしません。
 決して、罵倒した子供の人格は向上しません。
 必ず、罵倒した子供の性格に曲がりが生じ、誰かの罵倒に耐えにくい心ができてゆきます。
 必ず、罵倒された子供の心に悲しみや、悔しさや、怒りや怨みや復讐心が澱のように溜まります。

 だから、お釈迦様は、「人は生まれながらにして、口に斧を持っているようなものだ」と説かれました。
 それで自他の心を切ってしまう愚かさに早く気づき、無用の血を流さぬようにしよう、それがこの世の〈苦〉をなくす方法であると教えられたのです。
 この世の苦をまぎらすべく作られたテレビの娯楽番組が、苦を忘れさせるひとときをもたらすだけでなく、新たな苦に結びつく心を育てている危険性があります。
 いかにおいしいフグも食べ過ぎれば、知らぬ間に身体を痛めつけ、まれに、死にも至るのです。

 故葦津珍彦(アシズウズヒコ)師は、不朽の名著『武士道』において、幕末の三舟(サンシュウ)と並び称された傑物、高橋泥舟(デイシュウ)、山岡鉄舟(テッシュウ)、勝海舟(カイシュウ)に関する逸話を紹介しています。

「宮内省(クナイショウ)が、維新のさいの進退功績についての調査をした。
 関係者は、それぞれに自己宣伝の調査書を出した。
 三舟は、一同にがにがしく思っていた。

 それで泥舟はたびたび催促されても文書を提出せず、出頭を命ぜられても行かない。
 鉄舟は、明治天皇の側近にも仕えた立場だし、宮内省から命ぜられたので出頭したが、文書は出さず、いろいろただされたが『一切失念してしまった』とだけ答えた。
 帰りにただ一語『調査するなら、うそは書き残さぬがいい』と警告していった。
 海舟は『おれは詳細、明確に、ありていに書いて出した』という。
 明治の功臣連中が、いつわりの自己宣伝な調査報告をするのを、にがにがしく思っていた心は同じである。
 だがその心の表現方法はまったくちがう。

 形からいえば、泥舟が徹底拒否だから、形だけで評すれば第一と思うかもしれない。
 しかし三人は三様、それぞれに立場条件がちがう。
 鉄舟は、泥舟とは異なり、君側奉仕の立場にあったのだし、宮内省へ出頭したのが当然だ。
 海舟は、旧幕から維新へかけての政治軍事の機密に関与したことが多く機密の事情に通じている。
 明確に立言することが、かれの立場としては、真実を確かめ、虚偽を排するにもっとも有効だと信じたのだろう。

 虚偽の功名をさげすみ、真実を尚ぶということが大切なのであって、その心をどう表明するか、それは三人の立場、因縁、性格、能力などによって、その形は、異なるのが当然。
 その条件を見ないで、形だけで優劣等差を論ずるのは当たらない。
 本心本意のままに動いたとすれば、その形は異なっても、そこに優劣はない。」


 この文章は、「武士としての人間的価値は泥舟第一、鉄舟これにつぎ、海舟もっとも劣る」という世間の評判について訊かれ、答えられた一場面です。
 事程左様(コトホドサヨウ)に、他人様の人生についての判断や評価は難しいものです。

 古人は「人の振り見て我が振り直せ」と言いました。
 他人の行いを批判するのはたやすいが、そんなことに精を出すよりも、「これはよくないな」と思った問題点が自分にもありはしないかどうか、我が身をふり返ってみようというのです。
 私たちの周囲を眺めてみましょう。
 他人を責める人ことに比重をかけている人と、我が身を省みることに比重をかけている人と、どちらが〈人格者〉でしょうか?
 どちらの方と、より長く、おつきあいしたいでしょうか?
 そして、私たちの本心は、どちらのタイプになりたいのでしょうか?
 見聞きするものに毒されないよう、子供たちを毒から守るよう、気をつけたいものです。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
03.08

一つの魂が無数に分裂する? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(9)─

20140308001 (2)
〈早くも、当山の『七ツ森の湯』を楽しむ兎野仙哉(ウサギノセンヤ)君〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第二章 輪廻転生(リンネテンショウ)の法則

1 生命の輪(その3)

○一つの輪廻から十の輪廻を実現する形態がある

「飛び抜けて深く、強い精神的な経験、実践を重ねてきた、そのような存在にとっては、一つの生命がついえたからといって、また新たな肉体が必要というわけではない。
 むしろ、そんなものは不要である。」

「そうした存在は、一つの輪廻から十の輪廻を実現するだろうし、ときに数百の輪廻、数千の輪廻をも、それも同時進行的に行うものなのだ。
 深く深く精神の最深部にまで到達した存在にとっては、こうした輪廻転生の形態もありうる。
 もちろん、これは言葉で表現できないほどに困難な道ではあるのだが。」

「複数の輪廻が同時に可能になるという思想の形を信じるのは容易なことではない。
 こうした考えを受け容れることは誰にとってもむずかしい。
 学び、経験し、相当の水準に達した者にとってさえ、これを思い描くことは困難であり、大きな苦労を伴うものだろう。
 そう言う私自身も、ときにむずかしいと感じることがある。
 輪廻思想は奥深いものだ。」


 輪廻転生を、AやBやCという〈特定の〉が、それぞれ、さまざまな世界のさまざまな〈特定の生きもの〉に生まれ変わり死に変わりすると考えるならば、生きものの数は3つであり、永遠に増減しないことになる。
 こういう考え方は、を実体化し、目に見える個物のモノたちに囲まれた現象世界と同様のイメージを持つことに発している。
 しかし、は一冊の本といった固定されたものではない。
 本が燃えて灰になり、現象世界から姿を消しても無にはならず、分子レベルでは、いつか、どこかで、何かを形成する因子たちとして存在するように、もまた、肉体という現象世界の拠り所を失っても、いつか、どこかで、何かを形成する因子たちとして残るのだろう。

 今、ここで、自分の肉体を縁として、その辺りに漠然と存在している〈自分〉が、肉体を失った後、煙のように溶解するという考え方は納得できる。
 ただし、その煙を構成する無数の〈何ものか〉たちは皆、因縁の色を帯びている。
 それらは、永遠の時間の流れの中で、あるいは寄り合ってのようなものとなるかも知れないし、電気のプラスとマイナスのように反発し合うかも知れないし、そうした動きの縁もなく、ただどこかに、単なるそれぞれとして在り続けるかも知れない。

 ならば、ダライ・ラマ法王が説かれたことも理解できる。
 ソクラテスの肉体を構成していた分子が、自分の肉体を構成する一部になっているかも知れないように、吉田松陰の魂を構成していた何ものかが、自分の魂を構成する一部になっていても不思議はないと考えれば奮い立つ。
 この世のどこかに、共通の因子を持った人々がいれば、それは同志であり、「強い精神的な経験、実践を重ねてきた魂」としての吉田松陰に発する「複数の輪廻が同時に可能に」なっていると言える。
 もちろん、自分の魂は、釜ゆでにされた大泥棒石川五右衛門や毒婦高橋お伝と共通の何ものかも、当然、抱えている可能性があり、注意は怠れない。

 私たちは、モノの世界で確認できる原因と結果のようには、目に見えない世界における原因と結果のつながりを確認できない。
 しかし、悟性も霊性も、目に見えない世界における因果応報(インッガオウホウ)の原理を容認しないではいられないし、仏法の実践は、かつてお釈迦様やお大師様が説かれ、現代ではダライ・ラマ法王が肉声で説かれている輪廻転生を確信させる。
 ただし、因果応報の真理を忘れずに行動し、輪廻転生の真実に自分の人生をかけながら生きることは容易ではない。
 実に、「輪廻思想は奥深い」と言える。
 



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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
03.07

心のケアとは何だろう?

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〈沖縄の洞窟で、御英霊へ温かいご飯をお供えしました〉

 最近はカウンセラーが流行している。
 何かあると、すぐ、〈心のケア〉が求められる時代になった。

 最相葉月氏は、5年の歳月をかけ、自分自身を材料としてプロによるケアの現場を描き、『セラピスト』を完成させた。
 その中で、故河合隼雄に学び箱庭療法を行っているカウンセラー木村晴子氏は、クライエントの状態によっては、箱庭を作らせない方がいい場合があると言う。

「ふだんなら自分の中に収まっているものが何かをきっかけにわっと出てしまうわけでしょう。
 それが自分でコントロールできないものになると崩れてしまう。
 カウンセラーが守ってあげられるならいいけど、そうでなかったら出させてはいけない。
 その見極めがとてもむずかしいんです。」


 見極めるためには、「自分が取り扱えるものかどうか」はかる必要があり、そのためには「治療者自身が自己理解を深める」しかない。
 最相葉月氏はだめ押しする。

「患者の立場を経験することで内面を見つめ、自分の問題点や思考の傾向を知り、自分自身が抱えているものによって患者を傷つけたりしないよう訓練する。」


 プロは、自分が勝負するための〈売り物〉である道具を使わない方が患者のためによいという判断をせねばならない場合がある。
 プロは、自分自身の人間的問題点が患者へ悪影響を与えることが許されない。

 同著の「あとがき」である。

カウンセラーや精神科医には、沈黙と向き合うことが必要な場面がある。
 沈黙に耐えることができなければ失格といわれる職業である。」
「言葉によって因果関係をつなぎ、物語をつくることで人は安住する。
 しかし、振り回され、身動きさせなくなるのもまた言葉であり、物語である──。」


 プロは、対話や箱庭などの道具だけでなく、沈黙を扱うことにもまた習熟していなければならない。

 僧侶として最も難しい場面の一つが、斎場において、身内を火葬炉へ送ったばかりの喪主様から、控え室に向かう前のご挨拶を受ける瞬間である。
 言葉が出る時も、出ない時もある。
 涙が滲む時もあり、歯をくいしばる時もある。
 ご遺族を見送ってから一人で火葬炉へ合掌し、駐車場へ向かう途中の時間は湿り、あるいは凍りつく。
 仏教における導師としての役割は、自分より後に仏門へ導かれた弟弟子の肉体を火葬において自然へ還し、葬儀においてをあの世へ送ることである。
 ──兄弟子である自分より先に……。
 未熟者としては決して〈慣れる〉ことができない厳しい試練のひとときである。

 そもそも、心とは、第三者が〈ケア〉できるものなのだろうか……。
 そう言えば、『セラピスト』で詩人メイ・サートンの日記が紹介されていた。

「やさしさはあたえられれば、わたしたちにとっておそらく喜びだけれど、それはまた苦痛の本源を厳しく省察してはじめて、手に入れられる」






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2014
03.06

今こそ塩を送ろう ─中国から飛来するPM2・5と中国の原発推進に思う─

20140306DSC006855.jpg
〈http://kohei-dc.com/?p=17122様からお借りして加工しました〉

 3月5日、環境省は、自民党環境部会において、微小粒子状物質PM2・5に関する注意喚起を行った自治体数が今年1月以降、延べ十五府県にのぼっていると報告した。
 国の指針値を超えたのは福島、新潟、富山、石川、福井、大阪、兵庫、香川である。
 同日、中国の全国人民代表大会において、李克強首相は、大気汚染への「宣戦布告」を行った。
 何しろ、中国は世界の石炭の半分を消費し、その半分は家庭のストーブで用いられている。
 その結果、PM2・5による大気汚染が急速に進み、清華大学などの調査によると、平成22年には大気汚染によって120万人がいのちを落としたとされている。
 もちろん、中国政府はこうしたデータを一切秘匿しているが、ネットに流れている都市部の映像を観ると、日中なのにまるで夕闇が迫っているような暗さであり、人々は老若男女を問わず、マスクをかけている。
 想像を絶する深刻さである。首相の「宣戦布告」はもしかすると遅きに失したのではないか。

 影響は海を越えて日本にも及び、海洋研究開発機構などは、日本の空中にあるPM2.5の半分は偏西風に乗って中国からやってきた招かれざる客であろうと推測している。

 今、尖閣問題や南京事件などをめぐり、日本国内では中国への嫌悪感が急速に拡大し、大気汚染問題についても、〈加害者〉である中国への厳しい視線がある。
 しかし、被害者の立場から加害者を攻撃するだけが問題解決の方法だろうか?

 日本でも、工場と車の急速な膨張により大気汚染に苦しんだ時代があった。
 第八代環境庁長官も務めた石原慎太郎氏は東京都知事時代、東京都の粉塵対策に取り組み、ペットボトルからススを撒き散らすパフォーマンスも行った。
 ともあれ、全国民を挙げて大気汚染に打ち克った日本は、中国に対し、〈先輩〉ならではの適切なアドバイスができるのではなかろうか?
 マスクをかけて登校する子供たちも、マスクをかけて病院へと足をはこぶお年寄りも、日本人と同じ人間であり、東洋人であり、しかも隣人である。
 日本人が生きものとして呼吸に苦しむのも、中国人が苦しむのも変わりはない。
 まして、中国がこの難問を解決するならば、それは、日本の危険回避の道ともなるのである。

 ところで、危機管理という観点では、中国の原発も目を離せない。
「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第148回)中国の原発事故に勝る国防上の脅威はない─」
(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4071.html)
へ書いたとおりである。
 孕む危険性の巨大さという点からすれば、原発PM2・5の比ではない。
 いのちあるものへ牙をむき、自然を破壊するは許さないという人類の強い決意がなければ、一旦姿を顕した功罪料面の怪物は放逐できない。

 今から約450年前、上杉謙信は宿敵武田信玄へ塩を送り、窮地を救った。
 日本文化の基底をなしている仏教はそのほとんどが中国経由でもたらされ、み仏のお慈悲は決して相手を選ばない。
 今、日本は中国と緊張関係にあるが、大気汚染という中国国民の現実的な苦しみへ手を差し伸べ、原発の拡大という文明への危険因子を取り除く手伝いをして、隣人、隣国としての真の友好を目ざすべきであろうと思う。
 武によって守りを固め、文によって相通じようとする文武両道は、日本古来のならいでもある。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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