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2014
04.30

幸福な人間を目ざす ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(27)─

20140430012.jpg
〈『自然墓』のかたわらに……〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第四章 愛と慈愛、そして性愛

2 内心の動き

○内的な心の働きが、人生の本質を問う答えとなる

感情は心の動きである。
 感情はその人の心理的な傾き具合に大きく左右される。
 より深く人を愛せる、より強く人を思いやられる、そんな心の傾きを有する人は、より親密な友情を育むことができる。
 より堅い信頼関係を築くことができる。」


 私たちはいかなる「心理的な傾き」を持っているか?
 自分の損得や好き嫌いなどにしか関心がなければ、他者への思いやりや、社会との連帯感や、自然との一体感などが持ちにくい。
 他者と自分とは同じ人間同士であるという意識、自分は社会内の存在であるという認識、自分のいのちは自然の一部であるという気づきがあれば、感情は優しく、温かくはたらく。

愛情思いやりといった感情は、われわれ人間が誰でも内部に秘めている小さな扉を開ける働きをする。
 その扉を通って、われわれは外界に出て行き、広々とした空間において、われわれの仲間である幾多の人と交わり、親しみ合うのだ。」


 感情が優しく、温かくはたらく時、外界は親しいものとなり、他者との滑らかな交わりが自然に起こる。
 

「このような感情が働きかけるのは、なにも人間に限ったことではない。
 動物とも安らぎに満ちた交わりができるであろうし、動物たちもそれを喜んで受け容れるであろう。
 このような内的な心の働きが人生の本質を問う質問に対する、より重要な答えとなるはずなのだが、ともすればわれわれはそれを忘れ、無視しがちになる。
 つい人間は、外的な要因の中に人生の回答を求めようとする。」


 働き手として飼ったり、食用として育てたりする場合は別として、動物が家族としてこれほど人間と親密な生活を共にする時代はなかったのではないか。
 動物との「安らぎに満ちた交わり」がこれほど大きな救いとなる時代があったとは思えない。
 私たちは、人間を相手にして得られにくい心の宝ものを動物たちからもらう。
 財欲や名誉欲などに駆られ、自分が外から何を得、外へ何を誇ろうと、「人生の回答」は見つからない。

「憎しみ、恐れ、寂しさ、絶望、自己猜疑といった不幸をもたらす感情は、同じカテゴリーに属するものである。
 誰も不幸を求めたりしないはずだ。
 それと対極に位置する、幸福な人間の社会をもたらす、心の平和、自信、友情、調和などといった感情を自分のものとすべく努力するはずだ。」


 自分が不幸を求めず、幸福を求めるように、〈誰しもが〉不幸を厭い、幸福でありたいと願う。

「まず、《他者》の権利を尊重せよ。
 そして、自己の権利を、《他者たち》との関係の中で調整せよ。
 仮にその《他者たち》がわれわれの敵であったとしても、共存する至上の目的のため、彼らの権利を認めよう。
 それが現実的な態度と言うものだ。」


 お釈迦様の前世(ゼンセ)物語がある。
 お釈迦様は、地獄で苦しむ亡者たちへ大皿に盛った食べものと長い箸を与えた。
 我先にと食べようとするが、長いために自分の口へ入れられない。
 騒ぎの中で、老賢者がハッと気づいた。
 互いに食べさせ合えばよいのである。
 ダライ・ラマ法王の説く「現実的な態度」とは、このことではなかろうか。
 人はどうあるべきかという「人生の本質」への問いは、ここに回答が示された。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
04.29

死者と通じる ―引導を渡す、鳥のご葬儀を行う―

家具職人増野繁治氏の聖なる道場
〈『木香舎』代表家具職人増野繁治氏の聖なる道場〉

 ご葬儀において「引導(インドウ)を渡す」のは、亡くなった方が、この世とあの世との区切をはっきりとつけ〈後に引く〉ものを残さないよう、み仏のご加護をいただく最も深秘な修法の一つである。
 ご葬儀のお次第では、よく、「読経」と書かれているが、僧侶がご葬儀を担うのは、ただ、経文を読み上げるためではない。
 読んだり唸ったりするのなら、朗読家や浪曲師や歌手の方が上手である。
 僧侶がプロたるゆえんは、〈法を結ぶ〉ところにある。
 法を結ぶとは、限りなくみ仏の世界へ近づいて非日常的次元を現出させ、日常生活においては隠れているみ仏の世界との感応によって、み仏のご加護をいただくことである。
 ご葬儀ならば、行者自身が、この世とあの世とが溶け合っている微妙な接点で死者を送らねばならない。
 それは、あの世との境界に立つことであり、行者の存在をかけた究極の宗教行為である。

 ご葬儀の後、A家のご親族が人生相談にご来山された。
 霊障に苦しんでいたご親族の一人が、なぜか、ご葬儀の翌日から〈カラリと晴れた〉という。
 かねて足をはこんでいた行者の元を訪ねたところ、「誰かが連れて行った」と判断された。
 きっと、あの引導の瞬間だったのだろうと考え、お礼に来られたのである。
 私は霊能者でも何でもない、一介の行者であり、ご葬儀の場に、霊障で苦しんでいる人がおられたとは気づかなかったし、そんな意識もまったくないままに、ただ、修法によって区切をつけただけである。
 生前、会ったことのない死者と苦しんでいた方との間にいかなる魂の交流があったのかは知るよしもない。
 引導の〈解き放ち〉が、目に見えない世界へ何をもたらしたかも知らない。
 ただ、引導を渡す瞬間までの間に、あの世との境界へ入り、故人の魂が放つ存在のシグナルをつかみ、幾万の行者・聖者たちから錬磨の精華として伝授をもって伝えられて来た法を結んだに過ぎない。
 それは、プロの執刀医が患部を切除するのと同じく、プロの行者として役割を果たす当然の行為である。

 当山では、犬や猫や鳥などのご葬儀も行う。
 お大師様が、お釈迦様と同じく(あまりに当然だが)、輪廻転生(リンネテンショウ)は生きものの世界全体で絶え間なく続いているシステムであると説かれたからである。
 人間のいのちは、人間以外の生きものたちのいのちをもらってこそ保てる。
 当山のネコたちとは、目の動きや声色などで会話ができる。
 いのちと心の世界に境界はない。
 だから、輪廻転生が人間界に限定されないのは当然である。
 ペット供養は「あなたは家族、あなたは友~」という呼びかけから始まる。

 最近、河北新報に「21世紀の空海」が連載されている。
 作家高村薫氏は、何の変哲もなさそうな文章に恐ろしい刃を潜ませている。
 第4回からの抜粋である。

「彼ら(※高僧たち)は、空海がいまも生きて修行を続けているという『入定留身(ニュウジョウルシン)』が、後世の創作であることに言及するのをはばかったりはしないし、そこから生まれた大師信仰と空海が体系化した真言密教が厳密には別ものであることを否定もしない。
 またさらに、空海が到達した大日如来との入我我入(ニュウガガニュウ…一体になること)の境地が凡夫には成し難いものであることや、仮に到達しても客観的には検証不能な身体体験であることなど、真言密教の修行面での難しさも、彼らは一様に認めるのである。
 しかし、その一方で、それでもいいのだと彼らは言う。
 そうして大衆の大師信仰と、真言密教との乖離をやんわりと押し包んでみせるのだ。」

「緋色の法衣に身を包んだ山内住職が練り歩く壮麗な行列のさなか、のどかに私語を交わしていたりするのだから、ほんの少し緩くもある。」


 どこか遠くの世界で起こっているできごととしか感じられない。
 お大師様の肉体が物理的にどうなっていようと、お大師様が、お言葉どおり、弥勒菩薩(ミロクボサツ)の浄土から我が身を観ておられるという確信なくしては、真言密教の行者たり得ない。
 大師信仰に立った修法をもって、お大師様がまとめられた壮大な体系を体現することにしか真言密教行者としての使命はなく、壮大な宗教体系という機械は、信仰という燃料なくしては動かない。
 そして、機械が動き、救われることは目に見えない世界のできごとであり、宗教的真実の「客観的な検証」などは、リンゴの味を絵で示せというようなトンチンカンな話である。
 当山のご葬儀に参加された方々が、「安心しました」「救われました」「驚きました」「得がたい体験をしました」「こうしたご葬儀もあるのですね」と感じ、確かな宗教体験を得られれば、リンゴの味は生き、宗教は存在理由と存在価値を保たれる。
 また、宗教行為は刃の上を渡るものであり、少なくとも当山において、修法中の私語はあり得ない。
 当山の存在理由は、行者が大師信仰の信者としてお大師様とご本尊様を信じ、行者として伝授された修法を己の存在をかけて行い、ご縁の依頼者に〈結果〉を感じていただくところにしかない。

 行者にとって、死者と通じ、ペットなどとも通じるのは当然だが、行者でない方々も、経典を読んだり真言を唱えたりして心を澄ませば、そうした実感を持てる場面があるはずだ。
 その時、誰もが〈み仏の子〉そのものになりかけている。
 お大師様が説かれた即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままでみ仏に成ること)の世界は扉を開きかけている。
 何も〈乖離〉の心配などする必要はないのである。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
04.28

平成26年5月の運勢 ─他山の石─

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 平成26年5月運勢を大まかに延べます。

 今月は、私的にも公的にも、矛盾不条理に直面しやすい運勢となります。
 ここで必要なのは、〈とにかく〉決着をつけてしまおうという姿勢ではありません。
 そもそも、真の問題はどこにあるのか?
 その根本や本質は何か?
 禍根を残さぬ解決法はあるか?
 大切なのは、根本から考えてみる姿勢です。

 さて、私たちは、松があるから松茸が生えると思っていますが、実は、キノコの菌糸があると土が軟らかいので松が育ちやすく、松が大きくなれば松茸が育ちやすくなるという共生の関係にあります。
 松は、よい環境をつくってくれた松茸の生活環境を整えながら成長し、やがて老いれば松茸から奪われ尽くして、死んでしまいます。
 しかし、また、その地から、新たな樹が天を目ざして成長を始めます。

 4月22日、NHKテレビ「クローズアップ現代」は、アメリカの富裕層が自分たちで「市」をつくり、予算も税金も、使いたいように使う動きが相継いでいると報じました。
 富裕層だけが集まった地域では治安も公共サービスもすべて豊富な財力でまかない、安全で快適な住環境が目ざされています。
 その一方で、富裕層のいなくなった地域では警察も学校も病院も消防も、ありとあらゆる社会の基盤が揺らぎ、見捨てられた地域では貧困層がますます貧困の度を強めています。
 富裕層にとっての〈同胞〉は、人口の1パーセントしかない選ばれた人間たちのみで、残りの99パーセントの国民は眼中にないかのようです。
 ここには根本的な勘違いがあります。
 たとえば大気の汚染はどうするのか?
 食物連鎖の輪はどこでどう断ち切るのか?
 〈閉じられた楽園〉は幻想でしかありません。
 そこで育つ無慈悲で享楽的な心は必ず人間性を内側から蝕み、背徳と暴力に苦しむ未来が待っていることでしょう。

 グローバリズム弱肉強食が進めば、平成62年頃には、日本でも100人に1人が年収1億円、99人は100万円という恐ろしい予測が行われています。
 格差社会が極まった時、私たちは同じ日本人を心から〈同胞〉と感じ合えるでしょうか?
 私たちは、同胞意識が消えた無慈悲で憎悪と対立の激しい社会を望んでいるでしょうか?
 いまだ健全な同胞意識が残っている日本人は、アメリカの動きを「他山の石」としたいものです。
「おかげさま」の心は天地万物へ向けましょう。
「おたがいさま」の心は人間と生きとし生けるものへ向けましょう。
「袖振り合うも他生の縁」と感じて出会いと絆を大切にし、「郷に入らば郷に従え」の姿勢でお互いの考え方や信じているものを尊び合い、社会的儀礼の場などでは我を張らず、その場、その場へ溶け込む柔軟性を失いたくないものです。
 何ごとも、根本を考え、探求しましょう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
04.28

5月の守本尊様と真言

20140428008.jpg

 5月は、立夏と小満(ショウマン)の皐月(サツキ…5月5日より6月4日まで)です。
 5月は巳(ミ)の月なので、守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

2012095.jpg

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 5月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2014
04.28

【現代の偉人伝】第188話 ―旅客船セウォル号の女性乗務員パク・チヨンさん―

201404230011.jpg
河北新報様からお借りして加工しました〉

 4月22日付の河北新報は、韓国の旅客船セウォル号の沈没事故で、最後まで船内にとどまって救助活動を続け、犠牲者となった女性乗務員パク・チヨンさんについて報じた。
 もはや広く人口に膾炙(カイシャ)したできごとだが、後世のため、書き残しておきたい。

「報道によると、パクさんは16日午前、傾き始めたセウォル号の3階食堂付近にいた。
 直立できない状況で悲鳴を上げる修学旅行中の高校生らに、パクさんは救命胴衣を次々と着せた。
 船体がさらに傾き、船内にパニックが広がっても、パクさんは『安心して。救出されるから』と笑顔で鼓舞し続けた。
 『早く海に飛びこんで!』。
 こう叫んだ直後、パクさんの姿は見えなくなったという。
 生徒らは漁船などに救助される一方、パクさんは遺体で見つかった。泳げなかったとの報道もある。
 パクさんがセウォル号の運行会社に入社したのは約2年前。直前まで経営学を学ぶ大学生だった。
 父を病気で亡くし、残された母と妹を経済的に支えようと、1年前に入ったばかりの大学を休学。
 親戚の紹介で非正規社員として船乗りの世界に飛び込んだ。
 21日付の韓国紙、東亜日報は、パクさんがどう対応すればいいのか無線で操舵室に10回以上問い合わせたのに、誰も答えなかったとする関係者の証言を一面で報じた。
 『セウォル号で最も船員らしかった人』『いつまでも記憶する』。
 インターネット上には哀悼のコメントがあふれ、休学していた大学は名誉卒業証書を発行した。
 ネット上ではパクさんを国立墓地に弔い、遺族に対し丁重な補償措置を取るべきだとの署名活動が始まっている。」


 記事の内容につけ加えるべき何ものもない。
 東日本大震災のおりには、宮城県南三陸町職員遠藤未希さん(24才)が、住民へ津波からの避難を呼びかける防災無線のマイクといのちを共にした。
 日本でも韓国でも、この世の菩薩(ボサツ)を見せてくれた故人の御霊へ手を合わせ、成仏を祈るのみである。




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2014
04.28

平成26年5月の行事予定

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 立夏と小満(ショウマン)の皐月(サツキ)に予定している行事です。
 この世の幸せとあの世の安心のため、仏神と諸精霊のおわす聖地へおでかけください。

[第一例祭 2014/5/4(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 観音経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすい読み下し文で、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってくるようになります。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

書道写経教室] 2014/5/4(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第十四回法楽塾] 2014/5/4(日)午後4:00~午後5:30

 正式な勤行(ゴンギョウ)法と修行法をお伝えします。
 自分の身を法で守り、菩薩(ボサツ)として他者のためにもなりたい在家行者をめざす方のために基礎づくりを行います。
 ただし、履歴書に書く資格は得られません。
 よき願いを抱き、自信を持って祈られるようになるだけです。
 決心された方は、資料などの関係上、参加予約の上、身分証持参でおでかけください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 3000円(隠形流居合の行者は無料)
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五十一回寺子屋『法楽館』 ―守本尊様はどういう方々か(その2)─] 2014/5月10日(土)午後1:30~3:30

 私たちに身近な守本尊(マモリホンゾン)様とはどういう方々なのか、いざという時、どうお祈りすればよいか、わかりやすくご説明します。
 例祭などで用いる「讃歎経」の中から、そのみ仏をイメージしやすい部分を用いて、皆さんがご自身の守本尊様を身近に感じていただけるよう願っています。
 質疑応答の時間もあります。
  参加は自由です。
 どうぞふるってご参加ください。
・講  師 法楽寺住職遠藤龍地
・日  時 この講座は、毎月第二土曜日に開催します
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第二例祭 2014/5/17(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすい読み下し文で、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってくるようになります。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お焚きあげ 2014/5/31(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』の作製] 2014/5/26(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第290号、『ゆかりびと』は第154号となりました。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っていますが、今月は月末に当たっており、一週間繰り上げて作製・発送を行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。




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2014
04.27

袖振り合うも他生の縁 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(26)─

20140426024.jpg
〈《法楽農園》の池でも、生きものたちの気配が濃くなってきました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第四章 愛と慈愛、そして性愛

2 内心の動き

幸福の最大の要因は、他人との交誼(コウギ)である

「思いやり、親愛の情が欠如すると、人はおのずから人間としての内面が貧しくなってゆくだろう。
 そして、その結果はより深い悲しみ、よりひどい猜疑心、苛烈な孤独感、耐えしのびがたい孤立、といった状態に陥るだろう。
 こうした状態は、人間本来の性質に反するものである。」


 自分の心から、他人へ対する思いやり、あるいは他人と親しみ合う情けが薄れると、自分も誰かから思いやられにくい人間になり、喜びの薄い人生を送ることになる。
 その状態が「人間本来の性質に反する」とは、親しく交わり合ってこそ人間であるという意味である。

「人間は社会的動物である。
 人間が幸福である最大の要因は、隣人との交誼(融合)であろう。
 したがって、もし、互いに信頼し合える友がいなかったら、親しみ合える隣人が皆無であったなら、人は精神的のみならず肉体的にも、健康を維持することはむずかしい。
 これはたいへん悲しむべきことだ。」


 ここで言う「隣人」とは誰を指すのだろうか?
 必ずしも、隣の家に住む人ではなく、日常的に交わり合える人々であろう。
 確かに、そういう人が周囲にいなければ、「健康を維持することはむずかし」くなるはずだ。
 自分が突然、見知らぬ外国の街角に放置されたことを想像してみれば容易にわかる。

 筒井康隆著『創作の極意と掟』に恐ろしい場面がある。

「たまたま妻がいなくて夕食に食いはぐれ、近所の小さな居酒屋へ行ったのだが、入って驚いたことには客のほとんど全員がケータイで喋り、しかも盛り上がっていたのである。
 思うにそこはあまりに汚いので異性とデートすることもできず、家族づれで来ることもできないような居酒屋だったため、客はみな独りであり、ひとりで酒を飲んでいてもつまらないから、誰からともなく知人にケータイをかけはじめ、これが全員に拡がったのであろう。」


 著者は、「群衆ケータイ小説」とでも銘打って書けば面白かろうと言うが、それはプロとしての面白さであろう。
 この文章を読んだ一読者としては、すでに心臓が深い湖にでも沈んでゆくような思いになっている。
 もしも、自分がこの場で独り酒を飲むように命じられたならば、拷問と言うしかない。
 
 隣の席に座っている人は、声をかけ合おうがかけ合うまいが、かりそめの隣人ではないか。
 その人を〈居ない人〉にしてしまい、自分だけが電波の先にいる人と話し、まったく無関係で私的な会話をその人へ聞かせ続けるという無神経さは恐ろしい。
 まるで、自分だけが透明な電話ボックスへ入り、自分にとって必要な時だけドアを開けるようなものだ。
 しかも、全員がそれぞれのボックス内にいるとは……。
 ここは、はたして、人間がいる〈場〉と言えるだろうか?

 私たちは古来「袖振り合うも他生の縁」と考えてきた。
 通りすがりに、たまたま、袖がふれ合うという形で生じた出会いであっても、その因縁には、過去世へもさかのぼれるような深みがあるので、人と人との出会いは大事なものであり、感謝したいということである。
 思えば、私たちは、生まれた時からずっと、出会いの中で一生を過ごす。
 しかも出会う相手は、〈自分の都合〉とは無関係である。
 目がはたらくようになって初めて見る母親、父親、家族、隣人、友人、先生、すべて、〈自分が選んだ〉人々ではない。
 縁によって出会い、縁によって心がつながり、人格が、人生が形づくられてゆく。
 思いやりも親愛の情も、そこで育ち磨かれる。
 崩されそうになっても崩されない人間としての核ができあがってゆく。

 自分にとって都合のよい、あるいは気分のよい人としか、親愛の情で接触できず、自分の損得や好き嫌いにとらわれ多様な縁を生かせなくなった時、私たちは、相手を選ばずにはたらく真の思いやりを保てるだろうか?
 

「憎しみ、恐れ、寂しさ、絶望、自己猜疑といった不幸をもたらす感情は、同じカテゴリーに属するものである。
 誰も不幸を求めたりしないはずだ。
 それと対極に位置する、幸福な人間の社会をもたらす、心の平和、自信、友情、調和などといった感情を自分のものとすべく努力するはずだ。」

「まず、《他者》の権利を尊重せよ。
 そして、自己の権利を、《他者たち》との関係の中で調整せよ。
 仮にその《他者たち》がわれわれの敵であったとしても、共存する至上の目的のため、彼らの権利を認めよう。
 それが現実的な態度と言うものだ。」


 他者が、自分と同じく不幸を厭い、幸福を求めていることをきちんと認識せねばならない。
 そうした他者との思いやりを媒介とした共存以外、自他共に安心して生きられる社会をつくる方法はない。
 そのためには、まず、縁の人々たちが〈自分と同じ人間〉として心の視野に入ってこなければならない。
 私たちは、「袖振り合うも他生の縁」という言葉を消滅させてはならないのである。




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2014
04.26

慈愛への道を拓くものは何か ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(25)─

20140426004.jpg
〈当山の『自然墓(シゼンボ)』では梅が咲いています〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

宗教哲学慈愛への道を拓く

「修養を積み、瞑想を行えば、誰でもこのような真実の慈愛)をわがものとすることができるようになる。
 信心深いか否かは問題ではない。
 宗教哲学は、常に人をこうした真実の愛へと導いてくれるものなのだ。」

「核兵器の照準を互いに相手に合わせて対峙していた冷戦のさなかでさえ、公式に相手を敵と呼び合っていたときでさえ、核戦争は双方の破滅でしかないという現実が、両者をして対話へと導いたではないか。
 彼らはそれを共存と呼んだ。
 したがって、人間社会の条件を考え合わせて、個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件を考慮すればいいのだ。」

「もし、われわれがネガティブな感情を、ポジティブな感情より優位に置き、その赴くままにさせるとしたら、われわれ人類に未来はない。」


 簡単に憎悪へと裏返るような愛ではなく、相手も自分も、安心に暮らしたい、幸せでありたいと願う同じ人間同士であるという実感に促され、相手を選ばずに深い思いやりをかける「真実の愛(慈愛)」は、誰か特定の仏神や自然など、何ものかに対して「信心深い」から生ずるのではない。
 歴史の時間を背景とした幾多の考察によって〈道理である〉と認められ、膨大な行者・聖者の体験と探求によって〈真実である〉と保証され、伝えられた宗教は、「常に人をこうした真実の愛へと導いてくれる」のである。
 そこには当然、哲学もはたらいている。
 哲の字には、そもそも、斧で木を切って神梯(シンテイ…神が用いるハシゴ)をつくるという意味があり、白川静は「神に誓約したり、神事に従うているときの清明な心を哲というのであろう」と説いている。
 私たちがどうにもならぬところへ追い込まれて苦しみ、これはいったいどういうことなのか?、と、普段、損得や好き嫌いや気分などによってはたらかせている思考ではない叡智が動く時、私たちは、自分では気づかぬうちに「哲」の世界へ入っている。
 ダライ・ラマ法王がここで説かれている「哲学」は、必ずしも学問としてではなく、苦しみの中から発せられる根元的問いに対する誠実な姿勢を意味するものだろう。

 私たちが、愛の切なさに身悶えし、憎悪の黒い炎と忿怒の赤い炎に心を焼き、狂喜や狂気に翻弄され、どうにもならなくなった時こそ、宗教哲学の世界が静かに開いている門戸に気づく。
 こうした〈どうにもならぬ状況〉は人間対人間としても、組織対組織としても、国対国としても起こり得る。
 そこで「個々の人間のより重要な条件、より遠大な視野に立った条件」に立たせるものこそ、自他を平等に観る宗教的視点であり、状況を根元的にとらえる哲学的視点である。
 こうした視点は仏神の眼に通じており、必ず〈解〉がもたらされる。
 そこに発する力をダライ・ラマ法王は、「ポジティブな感情」と説かれたのではないか。
 どこまでも我(ガ)から離れられず、〈解〉が得られないままに暴発するものを「ネガティブな感情」と説かれたのではないか。

 ちなみに修行と実践の一つとして『三十七の菩薩(ボサツ)の実践』がある。
 同名のブログに紹介した。

「わが子のように大切に育てた者が
 私を敵のように見なしたとしても、
 病気のわが子に接する母のようによりいっそうの愛情を注ぐ
 それが菩薩の実践である」


 我が子同様に育成した相手が、自分をあたかも敵と見なすかのような態度をとった時も、病気になった我が子のために一生懸命看病する母親と同じような心で、よりいっそう慈愛を注がねばならないという。
 これが、菩薩としてこの世に生きる者へ課された実践項目である。
 ダライ・ラマ法王は説かれる。

「一般的に『仕返し』や『復讐』というのは、自分自身の心を満足させるための行為です。
 そうすることでしか、自分の心を満足させられませんね。
 しかし、瞑想することで心が満たされるとしたらどうでしょう。
 満足するという点では同じです。
 ですから、瞑想することで、目的は達成されたことになるのです」
「とにかく、心が安らかになるためには、満足を得られる必要があり、満足するためには、自分の眼の前に嫌な相手を観想し、ひざまずくことができたなら、心は安らかになっていきます」


 失恋の後遺症に七転八倒し苦しみぬいたAさんは、み仏の学び、実践し、こうした心境にたどりついた。
「思い出をくれた彼女に感謝して、痛みさえを糧に」して、しっかり生きて行きたいという。
 実に、仏法は性愛に発する苦しみをも克服させ、「慈愛への道を拓く」のである。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
04.25

性がもたらす愛と憎悪 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(24)─

20140419001.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第四章 と慈、そして

1 真実の

と憎しみ――コインの裏表である

「視点を限ってみよう。
 愛はどうか。」

欲をそのうちに秘めた愛は、けっして一定することがない。
 それは愛の対象の態度いかんによって、いかようにも変化する。
 そればかりではない。
 欲に導かれた場合、愛と憎悪はときとして同時に人の心の中に生まれ、育ってゆく。」

「ある状況のもとでは、愛と憎悪とは同じものの二つの呼び名ですらある。
 それはひとつのコインの表裏の関係を思えばいい。
 愛していると思っていた対象の、ほんのささやかな言葉ひとつ、ちょっとした振舞い、予感さえ、いともたやすく、そのコインを愛の表から憎悪の裏へとひっくり返してしまうものだ。
 性愛とはそうしたものだ。」


 人間は男性か女性であり、性は生きものの宿命として引力をもたらす。
 ほとんどは異性を引き寄せるが、同性へはたらく場合もある。
 いずれにせよ、性はいのちと共にあり、必ず対象を必要とする。
 そして、対象のありようが自分の性的感覚にとって〈快〉であれば愛情を感じ、〈不快〉であれば嫌悪感が起こり、〈無反応〉であれば無関心となる。
 煩悩(ボンノウ)の分類からすれば、それぞれ、好(コウ)・悪(オ)・平(ヘイ)となる。
 誰にでも起こる自分独自の分類であり、相手にまったく責任のない自分勝手な分類とも言える。

 私たちは快を感ずる相手へ近づきたくなり、不快な相手へは近づかず、もしくは遠ざかりたくなり、無反応な相手はいないに等しい。
 問題は、快を感じ、親近の手応えがあった後に起こる。
 相手も親近感を持ち続けていてくれれば最高だが、心は瞬間瞬間に変化し、見聞きする現象世界も瞬間瞬間に変化し、揺れ動かぬ感情はない。
 もし、相手の変化が気に入らなかったり、気に障ったり、疑念をもたらしたりすると、満足感を伴った愛情はたちまち土台に亀裂が入り、不安定になる。
 もしも土台が崩れれば愛情も裂け、愛情の風船は裏返り、憎悪が表面へ躍り出る。
 そのはたらきが激しくなれば忿怒暴力へとつながる。
 性を主役とする愛が育つ時、憎悪も必ず、裏側で育っている。
 ダライ・ラマ法王は、そのことを「コインの表裏」と説かれた。

 だからといって、性が主役となる愛を否定するわけには行かない。
 種の保存は生きものの存在に与えられた意味の一つであり、性はあらゆる文化へ最も精妙な香りをもたらし、この世にある彩りの光源もとなっている。
 問題は、性をどう生きるかにかかっている。




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2014
04.24

死刑回避の余地を持つ文化 ―もう一度、イランの赦しを考える―

2014042000013

2014042000012

〈河北新報様からお借りして加工しました〉

 私たち人間は、人を殺すことの恐ろしさと罪悪感をよく知っている。
 それでいながら、了解事項としての合的殺人を行わずにはいられない。
 それが、戦争と死刑である。
 4月15日、イスラム教国イランから衝撃的な映像と忘れがたい記事が世界へ発信された。
 ブログ「許された死刑 ―母親の平手打ち―」で紹介したできごとを、もう一度、考えてみたい。(「」内は記事からの引用)

死刑囚の男は2007年にけんか相手を殺したとして、死刑判決を受けた。
 公開処刑が決まり、15日朝、広場で黒い布で目隠しをされ、椅子を使った絞首台に立った。
 しかし、被害者の母が集まった群衆に向け、男を許すとスピーチ。
 絞首台に上がって男の頬を平手打ちすると、夫と共に男の首からロープを外した。」
イランではイスラム(シャリア)に基づき、被害者の家族側からの求めがあれば、刑の執行延期や軽減が認められる。」


 被害者の父親は有名な元サッカー選手で指導者を務めており、被告は教え子の一人だった。
 しかし、いかに師弟の関係であろうと、我が子を殺された親が公衆の面前で相手を赦すに至る過程でどれだけの葛藤があったか、第三者が想像することは不可能である。
 そこを超え、いよいよ死刑というギリギリの場面で、父親も母親も、でき難い決断を行った。
 共同通信社が提供した二枚の映像を観るたびに涙が滲み、忿怒や憎悪から離れられない人間が宥恕(ユウジョ…寛大な心で許すこと)という崇高な行為をなし得る事実に胸が震える。

 上の写真は、死刑寸前の様子である。
 男は何と叫んでいるのだろう。
「お母さん!」か、それとも「アラーアクバル!(アラーは偉大なり)」か。
 正義を実現しようとする屈強な執行官の堂々とした風情が印象的である。
 下の画像に写っている向かって左の女性は息子が赦されたばかりの母親、右の女性は被害者の母親。
 息子は決して帰ってこないのに、自分の判断で殺人犯を生き延びさせてしまい、ただ、泣くしかない母親は哀れである。
 息子がこのまま息をし続けられるようになった母親は何と詫び、何と礼を言えばよいかわからず、共に泣くしかない。
 それにしても、母と子の何と似ていることだろう。

 さて、今回のできごとには一つの背景がある。

「公開処刑前日にはテレビの人気サッカー番組で司会者が死刑回避を訴え、元イラン代表で国民的英雄のアリ・ダエイ氏も呼びかけに加わった。
 罪を許した母は『私がどんな思いをしてきたかわかりますか』と群衆に訴え、死刑回避を求める圧力への複雑な胸中ものぞかせた。」


 死刑回避は、イランでも一つの思潮として存在している。
 我が子を殺された母親としては、憎い犯人を決して赦せない、しかし、夫の立場もあり、死刑回避という公な社会的要請もある。
 どうするか、群衆の面前で決断が問われる。
 その結果はどうなるかわからない。
 こうした文字どおり胸が張り裂け、気が狂わんばかりの状態で、母親はついに、張り手を見舞った。

 もしも我が子に同様のできごとが起こったならば、自分はどうするか、どうできるか?
 僧侶である自分の判断は一つしかないが、応用問題が苦手な妻を説得できるかどうかは、その時になってみなければわからない。
 私個人としては、こんなふうにしか思えない。

 できごとの背景には、もう一つ、宗教がある。
 宗教が社会を律するにまでなっている文化圏にあっては、宗教正義として実現し、を通じて宗教正義が貫かれる。
「目には目を」として、受けた苦しみ以上の罰を相手へ求めない文化だからこそ、被害者に赦す心があるのなら、加害者にも赦される範囲が生じるという考え方は、理の当然となるのだろう。
 赦しが死刑の執行を止める文化と宗教があるということを、私たちはよく考えてみる必要がありはしないだろうか。
 当山は、死刑囚の改悛と被害者側の宥恕によって死刑が回避できるよう願っている。




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2014
04.23

クローズアップ現代「富裕層が自治体を設立 分断進むアメリカ」を観て 

201404190432

クローズアップ現代 〝独立〟する富裕層 ~アメリカ 深まる社会の分断~」に自由競争原理の終末を観た。

 4月22日のNHKテレビ「クローズアップ現代」は、アメリカにおいて、富裕層が自分たちでCITY=「市」をつくり、予算も税金も、自分たちの手で使いたいように使う動きが相継いでいると報じた。
 地域ごとの独立性が強いアメリカでは、日本人の感覚からすればおおよそ、州が国であり、その行政区分である郡が県にあたる。
 地域住民のために使われる税金は当然、州や郡の采配によるが、たくさん税金を払っている富裕層は、税金が自分たちのためにあまり使われていないと感じている。
 その結果、富裕層だけで独立する動きが始まっている。

「自分たちで『市』の境界線を決め、州議会を動かし、住民投票を実施。法にのっとり独立を成し遂げている。」


 A氏(富裕層)は言う、
「政府による所得の再配分は、個人のお金を盗む泥棒のようなものだ」
 あまり税金を払わない人々のために手篤く税金が使われるのは、不公平であると感じている。
 たとえば、貧困層が住む治安の悪い地域へ多くの警察官が配備されているために、麻薬取引などを行う者たちが富裕層の住む地域へ入り込むようになり、治安が悪くなってきたことを槍玉に挙げる。

 また、政府は人をたくさん使って仕事をしているが、コンピューター管理を進めればもっと安上がりになるとして、9年前に富裕層によって独立したサンディ・スプリングス市では、ほとんどの行政サービスを効率化した結果、職員の数を激減させた。
 職員には鳴っている電話を10秒以内でとることを義務づけ、90秒以内で警察や消防が出動し、早ければ、電話を受けてからたった2分ほどで現場へ到着する。
 こうしたサンディ・スプリングス市へはどんどん富裕層が移住し、30あまりの地域がその〈成功例〉を見習って独立を目ざしている。
 B氏(富裕層)は言う。
「税金に見合うサービスを行わなければ、市民は税金を払わなくなるのです」

 富裕層が出て行った地域はどうなるか?
 年間40億円の税収減となったフルトン市では、公共サービスが次々と打ち切られている。
 たとえば、貧困層が住む地域にはゴミ収集車が来なくなり腐臭が漂っている。
 たとえば、市が運営する図書館の開館時間が住民へ知らされないままに2時間短縮され、市立の小学校の帰りに図書館のパソコンを使うなどして勉強している貧困層の子供たちは、勉強の場を失った。
 テレビは、一生懸命勉強していたのにタイムアップとなり突然、パソコンの画面がストップした小さな子供の戸惑い、落胆する様子を報じた。
 アブラハム・ワトソン氏の子供である。
 有色人種の親子が見せた表情は、激しい怒りを露わにしていないだけに、あまりにも哀れである。
 この親子が悲しんでいる時、白人を主とした富裕層の住む市では、きっと優秀な家庭教師と高性能なパソコンによって高レベルの勉強が行われているのだろうと想像すると、震え上がる思いになった。
 公営の高齢者センターでは食事代が値上げされ、公立病院の年間予算は26億円の削減となった。
 アブラハム・ワトソン氏は不安である。
「子供は耳に障害を持っており、治療できる専門医の数が削られてしまえばどうなるのか」
 激しい税収減に直面している有色人種の市長は、苦渋の表情で訴えた。
「もう、予算の削減以外のやりくりはできず、そうでないと市の財政は破綻してしまうのです」

 テキサス大学公共社会学部マイカン・コナー准教授は指摘する。

アメリカ社会では分断が深まっており経済面、教育面でも機会の平等は失われている」


 ジャーナリスト堤未果氏は指摘する。

アメリカでは1パーセントの持てる者が、99パーセントの持たざる者を支配しています。
 サービスを税金で買う契約社会になりました。
 富裕層が住みサービスの充実した地域では地価が上がり、周辺地域では地価が下落し、どんどん荒廃します。
 目に見えないフェンスで囲われた特権地区はピカピカの天国ですが、周辺地域では治安が悪くなり犯罪率が上がります。
 刑務所が維持管理できずに囚人を解放する一方で、警察官の数が減り、治安の悪化に拍車がかかります。
 特権地区では民間ビジネスに教育を委託したため、公教育が消滅しました。
 そして、フェンスの中にいる人たちからは、荒廃している地区に住む人びとが見えません。

 アメリカでは、税金・公共・国といったものが大きく変質し始めました。
 あらゆるものをお金で買う契約社会になりました。
 中流層は消滅しました。
 アメリカにはもはや、二つの方法しか残されていないようです。
 1パーセントの人々をもっと豊かにするか?
 99パーセントの人々へ手を貸すか?」


 自由競争の原理をとことん追求することによってもたらされる社会像が明らかになった。
 まず、徹底的な不平等社会が生まれる。
 そして、その〈社会〉はきっと、持てる人々の非情と、持たざる人々の憎悪とによって崩壊するだろうということである。
 崩壊するのは、非情と憎悪は不安と対立をもたらすのみで、決して真の安心と幸福をもたらさず、人々は膨らむ不安と対立に耐えきれず暴発する時を迎えざるを得ないからである。

 私は10年以上前、アメリカの富裕層が自分たちの居住地区をガードマンによって囲い、出入りする者をチェックするという記事に強い違和感を感じたことがある。
 その数年後、今度は、夜間に悪遊びするスラム街の非行少年たちを更正させられず、夜間バスケットボール大会を催しているという記事に強い不安を感じた。
 さらに数年前、ハリケーンに襲われても逃げようがなく、人的にも物的にも甚大な被害を蒙り、かつ、激しい破戒行為が行われた貧困地区の映像に絶望感を抱いた。
 富む者が手を結んで自分たちの富を守り、富まざる者は見捨てられる国家的不正義と人為的不条理が明らかになったと感じたからである。
 以来、日本の守護神的立場にあるアメリカは崩壊へ向かっているのではないか、との危惧が念頭を離れなくなった。

 アメリカにおいては、国民が国民全体を〈自分たち〉と感じられなくなっているのだろう。
 自由競争を押し進めた結果として生じた不平等は、得た者の我欲によって〈自由に〉固定化の度を深め、得た者にとってはもはや、富裕層しか〈自分たち〉の範疇に入らないのだろう。
 だから、自分たちのために使われるべき税金が、自分たちではない人々によって使われているという不公平感と不満が生じる。
 富裕層と貧困層は、互いを〈異界の人種〉と感じているのではないか。

 日本にはまだ、富む者も富まざる者も、同胞に対して〈自分たち〉と感じる心が残っている。
 しかし、地方分権やグローバル時代に名を借りた弱肉強食の推進、格差の拡大と固定化、などなど、あまりにアメリカに似た道をたどってはいないか。
 アメリカとの文化的・経済的・軍事的・社会構造的一体化をこのまま進めるのは、日本が「大和の国」でなくなる道ではなかろうか……。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2014
04.22

生まれたければ生まれてみよ ―平安と修羅と―

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 歌人宮柊二(ミヤシュウジ)は、太平洋戦争の敗戦から6年経った昭和26年、春の日を浴びてオタマジャクシになりかけているカエルの卵を見つけ、詠んだ。

「群がれる蝌蚪(カト…カエル)の卵に春日さす生まれたければ生まれてみよ」


 私たちは、一般的に、浅瀬にあって陽光を浴びているカエルの卵たちを見れば、「ああ、温かくなったなあ」「もう、カエルが出るのか」などと、ほのぼのした思いになる場合が多い。
 オタマジャクシが泳ぎ始めると、小さないのちたちの懸命な泳ぎぶりに見入ったりもする。
 いずれにせよ、知らぬ間に心が温まるものだが、宮柊二はまったくちがう。
「お前たちは生まれたいらしいが、この世がどんなところか、生まれてくればわかるだろう。
 生まれたいのなら、とにかく、生まれてみるがいい」

 宮柊二戦争に行き、囮(オトリ)を使って敵をおびき寄せ、息を殺して待ち、一気に刺し殺す接近戦を行った。

「ひきよせて寄り添ふごとく刺ししかば声もなくくづおれて伏す」


 相手が手の届くところまで来たならば、あたかも寄り添うように身体を寄せて刺すという。
 実践的な剣の稽古をした人ならわかるが、剣で相手を斃す〈突き〉の技は、腕を伸ばして行うのではない。
 自分を守ろうとして身体をこちら側へ残すへっぴり腰では、たやすく剣をはじかれるか、逃げられてしまう。
 捨て身になって身体を相手へぶつける勢いにかけなければ、技は役に立たない。
 昭和35年、17才の山口二矢は当時の日本社会党委員長・浅沼稲次郎を演説会の壇上で刺殺したが、第一撃は体当たりにしか見えない。
 高倉健は、クロード・チアリのやるせない音楽が流れる名作『冬の華』の冒頭で、やはり、ぶつかるようにして相手を斃している。
 いずれも手にしていたのは短剣だったが、軍刀でも同じことである。

 宮柊二は同時期に詠んでいる。

「うつそみの骨身(ホネミ)を打ちて雨寒しこの世にし遇ふ最後の雨か」


 どうにか生きている身体の骨の髄までしみ通ってくるような冷たい雨は、この世で天から受ける最後の雨になるのだろうか。

 生き延びて職場へ通う日々は危機と隣り合わせだった。

「毎日の勤務(ツトメ)のなかのをりふしに呆然(ボウゼン)とをるを我が秘密とす」


 毎日勤めにでかけ仕事をしているが、ふとしたおりに心がどこかへ飛び、呆然としてしまうことは、人に知れぬ秘密にしておくしかない。

「勤務よりかへりきたりて灯(トモシビ)のもとにわれは坐れりこころ危ふし」


 勤務を終えて妻と長男長女の待つ家へ帰り、家庭の温かい灯火のもとに坐している時、家族には知られないが、温かく平安な心とはまったく異質のものが兆してくるのを止めようがない。
 現在、世界中へ軍隊を派遣しているアメリカでは、従軍体験による心的外傷後ストレス障害(PTSD)などを抱える兵士や元兵士の問題が社会を揺るがせているが、宮柊二も紙一重のところにいた。

 死の2年前、72才の宮柊二は詠んだ。

「中国に兵なりし日の五カ年をしみじみと思う戦争は悪だ」


 私たちは、観念として「いのちは尊い」と思ってはいるが、好き勝手に生きられる生を生きているいのちばかりがいのちなのではない。
 今、こうしている時にも、世界のどこかで、奪われたくないいのちを奪われ、奪われたくない人からいのちを奪わないではいられない人たちが、修羅の世界で心身の血を流しながら、のたうち回っている。
 カエルの卵やオタマジャクシは、誰の眼にも「可愛い」と見えるのではない。
 人の温かな心やネコやイヌやウグイスや桜に救われ感謝しつつ、不条理に翻弄され救われがたい人々のいること、救われがたい社会にしてはならないこと、決して戦争をしてはならないこと、などにも思いをいたす姿勢を忘れないようにしたい。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
04.21

お布施の金額がわからない方へ

 ご葬儀に関するお問い合わせがあり、事情によって手紙による回答を行いました。
 今までに幾度もあったやりとりなので、以下、転載しておきます。

 お布施の金額を考えるには二つのポイントがあります。
 一つは、一人の人を安心の世界へ送ることの価値、重大さをどう考えるかということです。
 そうした意味では、葬儀屋さんなどへ訊いてみるのも一つの方法ではあります。
 世間的におおよそどれほどの価値と考えられているかを知ることは必ず勉強になります。
 たとえばテレビ一台分の価値なのか、給料一ヶ月分の価値なのか、それとも車一台分の価値なのか……。
 私たちは、親や先生や先輩などに導かれて成長しつつ生きます。
 決して自分だけの力でこの世を生き抜くわけではありません。
 あの世でも同じように、み仏に導かれてこそ、安心の世界へと向かうことができます。
 大切な人をあの世へきちんと旅立たせるために必要なご加護をどう考えるか。
 ここでよく考えねば、人の生き死にという一生に何度もない重大事を前にして人間的向上の機会を逸してしましかねません。 

 もう一つは、懐具合に合わせた布施です。
 誰も、無い袖は振れません。
 それなのに、お布施を受けとる側が金額を決めて請求すれば、渡そうとする側に無理が生じ、苦しみが生じる可能性があります。
 また、お布施は本来、差し出す方が自主的に「させていただく」ものです。
 だから、〈定価〉はあり得ず、当山では決して金額を申しあげません。
 お布施を差し出す功徳によって悪因縁や悪業が清められ、心に必ず清風が吹きます。
 執着したい金品や労力を手放すことが、我欲(ガヨク)を清めるからです。
 東日本大震災のおりに、見ず知らずの被災者のために、子供たちが貯めていたおこづかいを送りました。
 たくさんんの人々がボランティア活動などで汗を流しました。
 あれが本当の布施行です。
 子供たちもボランティアの方々も皆、清らかで美しい人間、菩薩(ボサツ)様となりました。

 よく考えてみてください。
 そして、決して喪主様一人だけで無理をせず、苦しまず、心ある人々の智慧と力を合わせて対応してください。
 そうした過程すべてが、布施行という尊い善行の一部であり、かけがえのない人をきちんと送るという人間ならではの大切な行為なのです。

 以上、とりいそぎの回答でした。
 お戒名はご本尊様から降りました。
 私はもう、祈り始めています。
 み仏のご加護により、必ず安心の世界へお送りさせていただきます。
 どうぞご安心ください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
04.20

許された死刑 ―母親の平手打ち―

201404200001
〈河北新報様からお借りして加工しました〉

 4月19日付の河北新報は、「絞首刑寸前 息子殺された母『許し』」を掲載した。

 イラン北ヌールで、死刑囚が公開処刑される寸前、殺人事件で殺された被害者の母親が公衆の面前で罪を許したため、彼は首からロープを外され、禁固刑となった。

死刑囚の男は2007年にけんか相手を殺したとして、死刑判決を受けた。
 公開処刑が決まり、15日朝、広場で黒い布で目隠しをされ、椅子を使った絞首台に立った。
 しかし、被害者の母が集まった群衆に向け、男を許すとスピーチ。絞首台に上がって男の頬を平手打ちすると、夫と共に男の首からロープを外した。

 イランではイスラム法(シャリア)に基づき、被害者の家族側からの求めがあれば、刑の執行延期や軽減が認められる。

 被害者の父は地元で知られた元サッカー選手で、現在は指導者。死刑囚は教え子だった。
 罪を許した母は『私がどんな思いをしてきたか分かりますか』と群衆に訴え、死刑回避を求める圧力への複雑な胸中ものぞかせた。
 国際人権団体アムネスティ・インターナショナルによると、イランでは昨年、少なくとも369人に死刑が執行された。」


 ここには、私たちが死刑という制度から脱し、人を殺さないで済む道が示されている。
 それは「許し」である。
 人から許された者は社会からいのちを奪われない、ということは一つの正義であり、人を手にかける仕事からその担い手を救う道でもなかろうか。

 今回のできごとがイスラム教を背景とした思考と法にあったことは重要である。
 被害者側は被害そのものによる苦しみだけでなく、憎悪が自分の心から離れない第二の苦しみをも苦しまねばならない場合がある。
 復讐による憎悪の解消を夢想する一方で、むしろ許してしまいたいと考える瞬間があっても、なかなか叶いはしない。
 社会が加害者へ刑罰を与えたからといって、社会正義は守られたと感じながらも、自分自身の憎悪がからりと晴れるわけでもなく、人生相談に来られて「相手の刑罰が確定してから、心にポッカリと穴が空いてしまいました」と訴える方もおられる。
 そんな時、宥恕(ユウジョ…寛大な心で許すこと)には宗教心が要るのではなかろうかと強く思う。

 決定的だったのは、イスラム教に裏打ちされた法によって宥恕の道が示されていたという点にある。
 その道は法となっているために、イスラム社会に住む人々は、具体的で明確な選択肢があることを知っている。
 憎悪と宥恕の葛藤を超えられるかも知れない社会的手段がある。
 今回、被害者の母親は、「どんな思い」を抱えながら決断したのだろう。

 平成18年10月2日、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡において、キリスト教の一派であるアーミッシュが運営する学校で暴漢が5人の女子児童を撃ち殺し、自殺するという事件があった。
 そのおりに、家族や仲間を殺された人々は、犯人の家族を許している。(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-485.html)
 当時、朝日新聞はこう書いた。

「容疑者の家族は、アーミッシュの一員ではないものの、地域に住んでいる。
 アーミッシュの人たちはこの家族を事件の夜から訪ねて許しを表明し、手をさしのべたと伝えられる。
 容疑者の家族は現地の主教を通じて被害者の家族への面会を求め、遺族の一部は容疑者の家族を子どもの葬儀に招いたという。
 アーミッシュの社会は現代的な暮らしや暴力を拝し、死後の世界への強い信仰をもっているとされる。
 一般に『力』が信奉される米国で、悲嘆にくれる中にも暴力を許して包み込む生き方に、米メディアは『慈悲の深さは理解を超える』『女の子の驚くべき勇気』などとして報道している。」


 当山は、死刑囚が許されるには、第一に本人の改悛、第二に被害者の宥恕が必要であると考えている。
 この二つが揃った場合、刑が執行されないという道を残して置くべきではなかろうか。
 そこへ至るために、犯人側と被害者側双方に対して宗教の果たす役割もあるものと思われる。
 今回のできごとにおいて、犯人の母親と被害者の母親が同じ場所で共に涙する場面は、世界中の人々が記憶に留めておいて欲しいと願っている。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2014
04.19

渥美清の寅さんに観る本ものの愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(23)─

201404190052.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 と慈、そして性

真実

○〈他〉も〈我〉と同じ幸福を享受する権利がある

真実の『』は大いに異なる。
 真実は〈他〉もまた自己と同様に、人間であり、一個の存在であることを認めるところから生まれる。
〈他〉もまた〈我〉となんら変わることなく、幸福を願い、痛苦を厭(イト)い、苦しみを克服し、平安を獲得したいと願う、生きとし生けるものである。
 これはひじょうに大切なことだ。
〈他〉もまた、〈我〉と同じ幸福を享受する権利を有している。」


 法王は、前項において、愛が憎しみへと変化する理由をし指摘し、そうした愛はねじれた愛であると説かれた。
 通常、私たちが感じる相手への親近の情(日常的に愛と呼ばれるもの)は、自分の好みによって相手を自分へつなぎとめたいという自分主体の欲望から発する場合が多い。
 自分の思いが満足させられれば相手への親近の情が高まって愛していると感じ、思い通りに満足できない状況になれば、不満が憎しみを生んでしまう。
 法王は恐ろしい言葉でその真実を衝いた。
他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」

 そこで、この項では「真実の『愛』」を説く。
 他者もまた、自分と何ら変わることのない一人の人間であり、自分が相手へ親近の情を持って心がときめき、潤うのと同じく、誰かを相手として同じく心が動く存在である。
 幸福になりたいし、不幸にはなりたくないのである。
 この真実に心から納得できれば、自分なりの〈好き嫌い〉のみを主人公にして相手へ接することの愚かさに気づく。
 同じ人間である相手が、相手なりの〈好き嫌い〉を感じながら自分に接して何の不思議があろうか。
 自分のそれと相手のそれとがすれ違いになった場合に、自分の感情のみを優先して相手を抱擁したり、蹴飛ばしたりする理由はどこにもない。
 自分がここにいるのとまったく同じように、相手はそこにいる。
 このことを客観的に眺められず、自己中心的な視野の中で愛と憎しみに右往左往する状態を、法王は「無知の上に現れる愛の形態」と呼んだ。

「ここから〈他〉、愛の対象への一体感、親近の情、〈他〉への本物の関心が育まれる。
 こうして現れるものが真実の愛である。
 たとえその〈他〉の態度、姿勢が受け容れがたいものであったとしても、そして、その〈他〉があなたに対して敵意に満ちた行為に出る仇敵であったとしても、あなたの心には、その〈他〉への思いやりの念が残されているはずだ。
 なぜなら、それでもなお、その〈他〉は人間であるあらである。
 彼はあなた自身と同様に、幸福を享受する権利を有する人間である。
 こうしたことに思い至ることこそが、真実の関心、思いやりを生み出す基盤になるであろう。
 その相手が友であるのか敵であるのかを問わない、まっすぐな愛はここから生まれるであろう。
 この基盤の上において、あなたはあなた自身が願うのと同様に、痛苦を克服し、幸福を獲得する〈他者たち〉への愛を育むことができるはずである。」


 法王は、自己中心的ではない「〈他〉への本物の関心」から「真実の愛」が顕れると指摘する。
 思慕する人の思慕が自分へ向かおうと、向かうまいと、心から幸せであって欲しいと願えるならば、真実の愛と言える。
 すぐに思い出されるのは、渥美清が演じた寅さんである。
 好意を持つ相手の好意は、せいぜい、〈そこそこ〉にしか自分へは向けられず、その主たる好意が他の男性へと向いたりするが、それでもなお、相手のためにならずにはいられない。
 渥美清がこうした微笑ましく、哀しく、愛おしいキャラクターを演じた、ほぼワンパターンと言える『男はつらいよ』シリーズは、他に代えようのない主演者渥美清が死ぬまで作られ続けた。
 私たちは、彼が演ずる寅さんの姿を観て、人を思慕し人に尽くすまこごろ、それがたとえ報いられないとわかっていても尽くさないではいられない純情の美しさに涙した。
 彼は日本人に流れる情緒を背景に「〈他〉への本物の関心」と「真実の愛」を演じきった希有の俳優だったのではなかろうか。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2014
04.18

ねじれた愛とまっすぐな愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(22)─

201404180032.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第四章 慈愛、そして性

1 真実の

○ねじれたと、まっすぐながある

「現代、人々は愛についてかまびすしく語る。
 愛にはさまざまなものがある。
 人を愛する、あるいは、金銭を愛する。
 あるいは、神の愛と言ったりもする。
 では、愛とは何か。
 それぞれの愛は異なるものなのか。
 異なるとすれば、どのように異なるのか。」


 今、若者たちへ「何に最も関心がありますか?」と訊ねたならば、「愛です」という答が多いのではないだろうか。
 それは、流行歌に愛という言葉が氾濫していることによっても容易に想像できる。
 端的に言えば「君が欲しい」であり、具体的には「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」となろう。
 また、「最も大切なものは何ですか?」との問いにも、「愛です」と答える若者が多いのではないか。
 東日本大震災において、善意の人々は心に愛を抱きながら、自分にできることで援助活動をしてきたはずだ。
 愛こそが人類にとっての宝ものであると考えている向きもたくさんおられることだろう。
 こうした〈愛〉とはいかなるものか?

「一般的な考え方によれば、愛とは愛する対象への親近の情を意味している。
 それを敷衍(フエン)してわれわれは日常、名声を愛するとか、財産を愛するとか、性欲をその感情の底にひそませて人を愛すると言ったりする。
 だが、こうした愛はねじれていると言わねばならない。
 無知の上に現れる愛の形態だと言わねばならない。」


 法王は、私たちが一般的に考えている「愛する対象への親近の情」は「ねじれている」と説く。
 それは「無知の上に現れる」姿だと言う。

「本物の愛、真実の愛、種々の宗教的伝統に根ざした、特に大乗仏教に根ざした愛(慈愛)とは、こうした個々の人間の感覚や情感の発露としての愛とは、まるで異なったものである。」


 法王は、仏教に根ざした愛は「慈愛」であり、「個々の人間の感覚や情感の発露としての愛」とはまったく別ものであると指摘する。
 み仏が持つ二つの力の一つは智慧であり、もう一つは慈悲、ここで言う慈愛である。
 それは私たちの心の中心にあり、ともすれば自己中心的あるいは自分勝手な思考によって隠されがちな霊性の核でもある。
 法王はまず、そうしたものではなく、私たちの感覚や情感に現れる愛の正体を観る。

所有欲に根ざす愛は、憎しみへと変容する

「よく言われる愛とは、往々にして自分自身を愛するための愛でしかない。
 それは自己の愛する対象を所有したいという感情に、ほぼ完全に依拠した感覚である。」

「この人、この物は私のもの、あるいは私のものであるはず、と言うような。
 こうした愛は、自分の欲望をより大きくしようとする、あるいは、自分の欲望を充足させようとする感情から起こっている。
 ひじょうにしばしば、これらの感情は、その愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている。」


 冒頭に書いた「君の身体が欲しい」、「君の心が欲しい」にある心は何か?
 それは所有欲である。
 欲しいという言葉に明確ではないか。
 手に入れれば嬉しいし、入れられなければ悔しい。
 そこにあるのは、対象が自分の思う通りになるかならないか、である。
 法王はその点を「愛の対象になったものへの顧慮、思いやりを欠いている」と指摘する。
 自分と相手との人間関係において、主役はあくまでも自分でしかない。
 愛しているつもりなので、相手を思いやっているように錯覚するが、真の思いやりとは相手を主役にする姿勢であり、欲しがっている自分が主役である限り、思いやりは表面的なものでしかない。

「したがって、このような愛は、愛というより欲望そのものだが、自分の期待する結果が得られた場合にのみ、自分の努力に対する成果が得られた場合にのみ、成就することになる。」

「だが、もし、自分をも愛してくれていると考えていた愛する対象が、その態度を変えたり、振る舞いに愛の終わりを匂わせたりしたなら、あるいは、求愛を撥ね付けたり、

自分の期待に背くような行為に出たりしたなら、このときにはいったいどうなるか。
 自己の欲望を満足させようとする期待が裏切られたならどうなるか。
 こうした愛は、いともすみやかに憎しみへと変容する。」


 愛が憎しみへと変容する可能性があるのは当然である。
 自分の意志を動かしている「欲望」は、満たされていれば愛として現れ、満たされなければ憎しみとなるだけのことだ。
 私が高校生の頃、愛について話し合う授業があった。
 私は「思いやり」が核であると主張して愛が実践された例をいくつも挙げたが、A君は「性欲さ」と言って笑った。
 自分の浅はかさが情けなかった。
 自分にも思慕する相手がおり、A君の指摘は図星だったからである。
 慈悲の例を外に眺めつつ、関心はあっても自分にはまだそうした心が薄く、自分を突き動かしている内なる主人公は性欲だった。
 以来、A君は生涯、私にとっての北極星となった。
 私は北極星の光に照らされつつ、悩み、乱れ、のたうち回りながら半世紀を生きてきた。

「なぜこうした愛は憎しみへと変化するのか。
 それはこの種類の愛が〈我(ガ)〉の上に打ちたてられているからだ。
『私』が愛するからだ。
 それが理由のすべてである。
『私』はどうすれば彼女、あるいは彼の肉体を、心を所有できるか。
『私』の欲望はどうすれば満たされるか。
〈我〉があってそこには〈他〉がない。
 他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」


 法王は、〈他人〉を〈自分〉のための存在でしかなくしてしまう我欲に気づけと説かれる。
 愛という言葉をオブラートにしつつはたらく醜い我欲を直視せよと説かれる。




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2014
04.17

問題意識を持ち続けるのは心の修行をしていることに他ならない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(21)─

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第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

○初期の段階は、なしで自己を鍛えよ

「来世を生きるために自己を鍛えるには、かならずしもが不可欠であるわけではない。
 むしろ、初期の段階においては、あえてなしで取り組むことを勧めたい。」

に頼らず、一人で自己を鍛錬するについては、ふたつの有意義な点を指摘することができる。
 まず、一人で学び、修養を積めば、よりよきを見分けるに充分な知識と経験を得ることができる。
 次に、知識と経験とが充分に備わっていれば、の教えに簡単に満足してしまわずにすむ。」

「したがって、一人で励み、それがある程度の高さにまで至ったなら、はじめて師を求めればいい。
 修行の第二段階に入るための。」


 若い日、私は人生の目標を見失って彷徨った。
 あちこちの寺院や宗教団体を訪ね、他の大学の講座へもぐりこんだりした。
 自分で食うようになっても、心の根無し草状態は続いた。
 その時代は、ただ、霧の中にいたようだったが、もしかすると、「一人で自己を鍛錬」していたのかも知れない。
 人々の師であるたくさんの賢者に会ったが、自分にしっくりくる方との出会いはなかなか訪れなかった。
 この時期は、自分にとっての「よりよき師を見分ける」訓練になっていたのかも知れない。
 そして、人生の暗転と共に唯一の師として立ち現れた方から指導を受け始めた時、一日も欠かさず、疑問がわいてきた。
 師はたった一つの疑問も軽んじず、必ず教えをくださり、それはとりもなおさず修法の伝授となり、行者の血肉をつくった。
 このこともまた、行者へ対して手順通り行われる「師の教え」に「簡単に満足してしまわず」に済んだと言えるのかも知れない。

 ふり返ってみると、なかなか答の出ない問題意識を持ち、決してそこから離れずに苦しんでいたことが実質的には「初期の段階」だったのだろう。
 20年の迷いを経て師に出会った。
 そこで、自分ではようやく〈始められた〉と思ったが、実は、み仏が「修行の第二段階に入る」時をもたらしてくださったのだ。
 人生は実に、わからない。
 キーワードは問題意識ではなかろうか。

 最近、北海道から人生相談にご来山された方がある。
 Aさんは寺院の息子として仏事になじみつつ育ったが、どうしても嗣ぐ気になれず、寺院はとうとう住職である父親の意図しない形で運営されるようになったことが深い罪悪感として離れない。
 親戚縁者に顔向けができないとも言う。
 申しあげた。
「嗣がなかったのはAさんの良心がさせたことであり、立派な決断でした。
 住職のイスに座れば食えると考えず、出家が自分に向いているかどうかを見極めたことは、きっと、周囲から評価される日がくることでしょう。
 Aさんが宗教や寺院を軽んじていないからこそのできごとだからです。
 それに、寺院がどうなるかはさまざまな因と縁によるものであって、Aさんが嗣がないのは因縁の一つに過ぎません。
 辛さに耐えつつ、自分、父親、寺院、親戚、世の中などをよく観て、この世の〈ままならなさ〉に立ちすくむことは、真の宗教心が目覚めるきっかけの一つです。
 いつの日か、生まれ育った世界へ戻ろうとする気持になるかも知れませんよ」

 不条理無常や宿命に立ちすくみ、人生に対する深い問題意識が湧いてきた時は、眠っていた霊性が震え始めているのだろう。
 震えを抱えつつ生きているのが「初期の段階」であり、そこを過ごせばいつか「修行の第二段階」がやってくるとは、何という救いだろうか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
04.16

平常心で転生するには ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(20)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

来世への究極のゴールに進むために必要なこと

「物質的な成功と宗教的な伝統とを合一し、より高い境地へと至る方法があると私は信じる。
 では、いかにすればいいのか。」

 モノの獲得に追われず、かつ、歴史の風雪に磨かれた叡智に導かれれば、心は高い境地へと進むことができる。
 法王は、そう信じておられる。

「僧侶に頼るか、宗教の教えに耳を傾けるか、否である。」


 宗教者に頼り、教えを知っただけでは、なかなかそこまで到達できない。

「今日、現代医療の科学は、精神的なゆとりや平安が、肉体的な健康、長寿にとって根本的な要因となっている事実を受け容れている。
 心静かにすれば血液は正しく循環し、脈拍は正常を保ち、身体全体が正しく活動する。
 そして、それが長く健康な生命を約束してくれる。」


 ストレスの少ない心身の安寧が、心身の健康には欠かせない。
 このことは現代科学が証明している。 

「では、どうすれば心静かでいられるか。
 それが問題になってくる。
 まず、宗教的な実践が最初に目ざすものと言えば、生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活を実現することである。
 それができてはじめて、より深い宗教的体験の世界に入ることができる。」


 ここで法王が「生きとし生けるものとして、正常でよりよい生活」と指摘しておられることは重要である。
 宗教的実践は、やおら、何かを繰り返し唱えたり、座禅を組んだり、滝に打たれたり山登りをしたりといったいわゆる〈修行〉から始まるのではない。
 生きるために身体をきちんと養いつつ、自他共に〈良かれ〉と心から願えるような生活。
 お釈迦様が説かれた「八正道(ハッショウドウ)」の一つ「正命(ショウミョウ…規則正しい生活で、まっとうにいのちを養うこと)」である。
 これが確保できなければ、現世の苦を根本から超越できるような高い宗教的次元へは入れない。
 それは、お釈迦様が悟られた経緯を見れば明らかである。

 食うや食わずの難行苦行を6年間行ったお釈迦様は、自らを痛めつける苦行だけでは悟りを開けないと気づき、身体を清めてやりなおそうとネーランジャラー川で沐浴をした。
 それを見た下女から「樹神がいる」と教えられたスジャータは、喜んで乳粥を供養した。
 滋養を補給し、心身をリラックスさせ、心にも身体にも力を漲らせたお釈迦様はよういやく、悟りを求める瞑想へ入った。
 お釈迦様に〈その時〉を得させてはならないと怖れた魔ものたちの大群が、恐怖心や色欲をかき立てて妨害しようと企てるが、一日の攻防を経て、お釈迦様はついに悟りを得られる。
 第一のポイントは、〈痛めつけられ、追いつめられた者〉としてではなく、〈いのちと心の力に覆いがかからず、持てる力を充分に発揮できる者〉としてこそ、悟りが得られたということである。
 第二のポイントは、すでに得ていたたぐいまれな法力により、降魔の印を結び結界を張ったからこそ、世界中の魔ものたちの誰もがお釈迦様の身体に触れられず、心を乱せなかったということである。
 降魔成道のシーンにおける第一のポイントが、行者においても、娑婆の方々においても「正常でよりよい生活」と言えるのではなかろうか。
 

平常心の境地である。
 究極の自然現象のような境地である。
 これはすでに宗教的な実践の第二段階である。
 この段階は自動的にやってくる。
 意図して求める必要はない。
 なぜなら、その段階に入る人は、すでに幸福な生活のなんたるかを知り、それを追求する集中力を養い、瞑想か、あるいは、他の宗教的実践の中で平常心を会得しているからである。」


 何ものにも乱されない平常心
 これは、降魔成道における第二のポイントに近い。
 お釈迦様のような法力は持てなくとも、ゆったりした心身は、魔ものを容易に寄せつけないほど大きな力を発揮できる。
 「究極の自然現象のような境地」になれば、心身は山となり、川となり、雲となり、鹿となり、ウグイスとなり、蝶となる。

平常心を知り、心が果たす役割を熟知するなら、後は自然に人は目指すべきゴールへと進んで行くことができる。
 来世を生きるという究極のゴールへ。」


 平常心となり、心中の仏神に出会えれば、もう、怖いものはない。
 死は、死に神の到来ではなく、より良き転生のチャンスとなる。
 こうして「来世を生きる」時の到来を悠然と待つのである。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
04.15

思考の癖、言葉の共有について

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 「マイベストプロ宮城」主催で行われた昨夜のクリティカル・シンキング講座は大変参考になりました。
 毎日繰り返されている思考の癖を変えるには、反復訓練が必要であるというスタートのあたりから、仏法に似た発想だと感じ、ボコボコになってみようと考えました。
 どんどん発言し、案の定、ボコボコになりましたが、自分にも会場の皆さんにも役立つ見本ではあったようです。

 集団内で起こっている問題の解決策を考える際に、まず、言葉によって問題そのものの内容を共有するという方向性には、目を醒まさせられました。

 問題が解決できないで悩み、当山へ足を運ばれる方々は現場での万策が尽き果てておられます。
 自分の存在を大づかみにしなおしてに再び灯をともしたり、倒れた衝撃で持っているのを忘れていた杖に気づいたり、あるいは自分の知恵を過信している傾向を見直すといった当山における再出発の方法は、個別具体的な現場からポンと離れたみ仏の眼を持つやり方です。
 こうした方々が、もしも今回の講座を受けたなら、当山へ来られるまでもなく、現場で問題を解決できる確率が上がるだろうと思いました。

 たとえば、「中間管理職が風通しの悪い職場をどう変えるか?」という〈問い〉そのものをよく考え、浮かぶイメージを求められた時、私の第一感は「一人一人にとって真に生きがいを感じながら仕事のできる職場にするにはどうすればよいか」、そして第二番目が「を共有し続けるにはどうすればよいか」、次が「誰かが気づいた問題点を生かすにはどうすればよいか」というものでした。
 会場では第一番目についての発言は控えましたが、「生きがい」も「」も実に〈問題そのもの〉から遠い観念であり、もしも私のような人間が現場にいたなら、問題そのものから遊離しフワフワした役立たずでしかないかも知れません。

 こんな一夜によって、あらためて、瞑想のありようを考えさせられました。
 眼前にある問題そのものへフォーカスするのは、自分の呼吸数を数えつつ行ったりする瞑想の第一段階に似ています。
 講師の方は最後に重大な発言をされました。
「皆さんは、時間がたくさんあれば、共有できる言葉によって問題そのものをつかんだのでしょうが、短時間で結果を出せと急かされたために、自分の慣れがはたらき、意識があちこちへと飛びました。
 短時間でも、実際に共有されている言葉で語り合えるようにするのが訓練です」
 これは、瞑想の第一段階を短時間でクリアすることに似ています。
 現実的問題の多くは、まず、ここを基礎として処理される必要があります。
 講座の有用性を強く感じさせられると同時に、当山で6月から始める予定の瞑想講座もしっかりやって行こうと思いました。
 もちろん、当山の瞑想においては、次の段階として良き心へ溶け込む体験が本番です。

 現場での対応力があり、良き心も持って過ごせればありがたいことですね。
 私も、ときおり自分の〈思考の癖〉を客観視ししつつ、やって行こうと思っています。
 講師の「いかに共有されている言葉で語れているかをふり返りましょう。さもないと、言葉を用いる環境が変わった場合、通じなくなる可能性がありますよよ」という指摘は、労働環境が流動的な現代特有の大問題でしょう。
 しかし、そもそも、私たちの一生から〈言葉を用いる環境の変化〉は避けられないのです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2014
04.14

嫌悪は四国霊場にふさわしくない ―四国遍路を大切にする日本人と韓国人―

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〈河北新報様よりお借りして加工しました〉

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「それでも日本人愛している」
 4月12日付の河北新報は、センセーショナルな見出で韓国先達(センダツ)の崔象喜さんを紹介した。

 ソウル在住の韓国崔象喜さんは四国遍路の巡拝を4回達成し、平成25年12月、初の外国人先達となった。
 平成18年、事故死した父親の供養のため四国遍路を行い、困った時にあちこちで受けた親切が忘れられず、自分もお接待の心を守りたいと思ったことがきっかけである。
 当時は、こう語っていた。
「お遍路で日本人の優しい心を知ってほしい。
 日韓両国の人の良さを知っている私が大好きな人たちのことを伝えていくことで、両国民がより仲良くなることにつながれば」

 先達とは、お遍路さん方へお参りのしかたなどを指導する公認の案内人である。
 崔象喜さんは、案内を行う一方で、外人が道に迷わず歩けるよう工夫したステッカーをあちこちに貼っている。
 そこへ外国人を排除しようとする張り紙が貼られた。
「『大切な遍路道』を朝鮮人の手から守りましょう」

 崔象喜さんは言う。

「そもそもステッカーは余計なことだったのだろうか。
 たくさんの人に心配、迷惑をかけてしまい本当に申し訳ない」
「日本人を愛しているんです。
 日本で受けた接待の感動を忘れることはできません」


 四国霊場は、お大師様がこの世にマンダラ世界を具現させようと開かれ修行道場である。
 マンダラは、み仏の目から観た仏性に輝く世界であり、そこには仏神から夜叉(ヤシャ)までも描かれている。
 私たちは、時として仏神のようになれもするが、時として夜叉のようにもなる。
 東日本大震災のおりに、我が身を捨てて人々を救った方々は皆、仏神そのものだった。
 夜叉が何であるかは、昭和60年公開の映画『夜叉』(監督:降旗康男、主演:高倉健)に余すところなく描かれている。
 こうしたマンダラ霊場から外人を排除することはあり得ない。

 むろん、排除の張り紙を作った人も、四国霊場を守りたい一心から行ったのだろう。
 しかし、人種差別を孕むステッカー騒動は韓国にも飛び火している。
 日本人の中に韓国人を嫌悪する人々がいるのと同じく、韓国人の中にも日本人を嫌悪するする人々がいる。
 韓国ではすでに、〈嫌日感〉を煽る道具としてこの問題が利用され始めているという。
 何ごとであれ、相手への嫌悪感をかき立てることが人間同士、あるいは国家同士の親和と共存に役立つはずはない。
 反目は諍いへと進み、やがては戦いも起こりかねない。
 このルートは万人を不幸にする。
 戦争には一方的被害者も、一方的加害者もいない。
 被害者はやがて報復する加害者となり、加害者は必ず加害の報いを受けて被害者となり、転々して絶えることがない悲しくも哀れな循環が歴史となる。
 太平洋戦争では、東京や神戸などが大空襲によって莫大な被害を蒙り、広島と長崎は原爆で瞬時に壊滅させられたが、その数年前、日本軍は中国の重慶で218回にのぼる凄まじい絨毯爆撃を行っていた。

 さて、崔象喜さんのステッカーそのものは、シンプルで外人にもわかりやすいと思われるが、霊場を案内する道具として眺めた場合、デザインに若干、工夫が必要かも知れない。
 今回のできごとを招来への糧とするために、〈歩む外国人〉として、同じく〈歩む外国人〉のためにと考えた崔象喜さんの善意を生かし、関係者が外国人のためになる道案内の方法をこれまで以上によく考え、試行錯誤を行うべきではなかろうか。
 もちろん、そのメンバーには、崔象喜さんなどの外国人にも入ってもらい、情報を受ける側の意見をよく聴くことは欠かせない。
 国政を問わぬ公募も一法ではなかろうか。
 もう、とっくに、こうした試みは始まっているのだろうが、ぜひ、スピードアップをしていただきたい。
 無用の嫌悪感が膨らみ、お大師様が決して望まれるはずのない方向へと霊場が変質を始めないうちに。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
04.13

広島や卵食ふとき口ひらく ―西東三鬼の戦慄―

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〈「譲り合って楽しい参拝」が嬉しい岩手県内の神社〉

 昭和22年、47才の俳人西東三鬼は詠んだ。

廣島や卵食ふとき口ひらく」


 原爆が落とされた翌年、ある夜に広島駅へ降り立ったのである。

「白く骨立した松の幹に私は広島の姿をみた。
 未だに嗚咽する夜の街。
 旅人の口は固く結ばれてゐた。
 うでてつるつるした卵を食ふ時だけ、その大きさだけの口を開けた。」


 広島の気配に作者はもう、口を開けない。
 ただ、宿で食事に出た卵を口にしようとした時に、卵の大きさだけパックリと開いた。
 口を開いたという動かしようのない事実によって、物言わぬ街の真実も又、現実として、作者の前に相貌を見せ始めたのではないか。
 同時期の句である。

廣島の夜陰死にたる松立てり」
廣島の遠き聲どつと笑ふ」
廣島に黑馬通り闇うごく」


 死んだ松は、いのちを失ってなお、いまだ、立つことによって存在している。
 闇の奧から何者かの哄笑が上がり、風のように作者の耳へ届き、いっときの存在となった。
 焦げたままの馬が闇に溶け込みながら来たり、去る気配が確かに存在した。
 一気に死の世界へ反転させられたものたちは、まだ、そこに存在している。
 ここにあるのは、口を閉じて感得できた世界である。

 それら全体が、自分の口を開けることによって一気に作者の存在へとなだれ込んだのではないか。

 救いはある。

廣島に林檎見しより息安し」


 この林檎は生きた世界のものであろう。
 いのちの息吹に触れ、自分の息にも生気が戻ってきた。
 息安しはきっと、〈生き易し〉へ通じているのだろう。

 4月12日、核兵器を保有しない12カ国による「軍縮・不拡散イニシアチブNPDI)」の全体会合が広島市で開催され、「核兵器なき世界」の実現をめざす広島宣言が採択された。
 議長を務めたのは岸田文雄外相である。
 外相会合では、日本赤十字社長崎原爆病院の朝長万左男院長などがまとめた原水爆投下による被害シミュレーションに関する研究結果が披露された。

○現代の100万都市に爆発力1メガトンの水爆が落とされた場合
・即死…37万人
・負傷…46万人

○現代の100万都市に広島型原爆と同じ16キロトンの原爆が落とされた場合
・即死…6万6千人
・負傷…20万5千人

核兵器の爆発はいかなる状況においても耐えられない非人道的結末をもたらすことになる」としている。

 故山本健吉は予言した。
「広島の句が、原爆投下後二年目の作だと知らぬ後の世の読者には、これはもう通じまい。
 三鬼の作意を受取ることができなくなったら、この句の価値は消滅しよう」

 予言の当たらぬことを願い、書き留めた。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
04.12

恩と愛とをどう生き、どう死ぬか? ―憎しみや争いを離れる道─

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〈車窓からとらえた『法楽農園』の先住者〉

 ご葬儀の本旨は、いのちを失い、肉体を捨てる機会をもって、迷いの世からみ仏の清浄で安心な世界へと確かな旅立ちができるよう、み仏のご加護をいただき、旅立ちの区切をつけることにあります。
 だから、み仏と一体になった導師は全身全霊を込めて引導(インドウ)を渡します。
 その少し前の段階で必ず、以下の文言が唱えられ、剃髪の修法が行われます。(皆さんには、はっきりと聞こえず、もちろん、目には見えません)

『流転三界中(ルテンサンガイチュウ) 迷いの世界に流転して
 恩愛不能断(オンナイフノウダン)  恩も愛も断てない
 棄恩入無為(キオンニュウムイ)   恩を棄て無為へ入り
 真実報恩者(シンジツホウオンシャ) 真実の報恩者となるために
 剃除鬚髪(テイジョシュホツ)    髪を剃り除く
 永離煩悩(エイリボンノウ)     永遠に煩悩を離れ
 窮極寂滅(クキョウジャクメツ)』  究極の寂滅へ入る


 札幌在住の北尾克三郎氏は、お大師様がこの一文をめぐって書かれた文章について、わかりやすく説かれています。
 ネット上では、「エンサイクロメディア空海」における「空海の『理趣経』講話-恩と愛から-」にあり、出版物としては「密教メッセージNO19」に掲載されています。

「さとりを得た者をブッダ(目覚めた者)と称し、また真実報恩者(しんじつほうおんしゃ:三界の中に流転して、恩愛を絶つことあたわずとも、恩を棄てて無為に入るならば、真実の恩に報いる者なり)と名づける」


 私たちは、父母や師や先輩などの恩を受けて生き、妻や子や友人などの愛情に包まれて生きます。
 実に、恩と愛とは情緒の源であり、人生の潤いをここで知ってこそ、人間たる生き方ができるようになります。
 しかし、この二つは、その一方で、私たちを〈自分の〉親を大切にする、〈自分の〉妻を失いたくない、という形で自己中心の生き方へも導いています。

 ダライ・ラマ法王は厳しく説かれました。

「一般的な考え方によれば、愛とは愛する対象への親近の情を意味している。
 それを敷衍してわれわれは日常、名声を愛するとか、財産を愛するとか、性欲をその感情の底にひそませて人を愛すると言ったりする。
 だが、こうした愛はねじれていると言わねばならない。」

「このような愛は、愛というより欲望そのものだが、自分の期待する結果が得られた場合にのみ、自分の努力に対する成果が得られた場合にのみ、成就することになる。」

「だが、もし、自分をも愛してくれていると考えていた愛する対象が、その態度を変えたり、振る舞いに愛の終わりを匂わせたりしたなら、あるいは、求愛を撥ねつけたり、

自分の期待に背くような行為に出たりしたなら、このときにはいったいどうなるか。
 自己の欲望を満足させようとする期待が裏切られたならどうなるか。
 こうした愛は、いともすみやかに憎しみへと変容する。」

「なぜこうした愛は憎しみへと変化するのか。
 それはこの種類の愛が〈我〉の上に打ちたてられているからだ。
『私』が愛するからだ。
 それが理由のすべてである。
『私』はどうすれば彼女、あるいは彼の肉体を、心を所有できるか。
『私』の欲望はどうすれば満たされるか。
〈我〉があってそこには〈他〉がない。
 他者は『私』の、いわゆる愛のために存在するにすぎない。」


 実に、恩と愛とは、幻の我(ガ)を主人公とさせてしまう諸刃の剣でもあります。
 ダライ・ラマ法王はさらに説かれます。

「真実の愛は〈他〉もまた自己と同様に、人間であり、一個の存在であることを認めるところから生まれる。
〈他〉もまた〈我〉となんら変わることなく、幸福を願い、痛苦を厭い、苦しみを克服し、平安を獲得したいと願う、生きとし生けるものである。
 これはひじょうに大切なことだ。
〈他〉もまた、〈我〉と同じ幸福を享受する権利を有している。」

「ここから〈他〉、愛の対象への一体感、親近の情、〈他〉への本物の関心が育まれる。
 こうして現れるものが真実の愛である。」


 心から大切にしようとする対象が〈自分の〉親や、〈自分の〉妻だけでなく、〈他〉一般へと広がってこそ、真の意味で恩に報い、愛に生きる者となります。
 そのためにはどうすればよいか?
 答は『理趣経(リシュキョウ)』にあります。
 ふたたび、北尾克三郎氏が読み解いたお大師様の教えに戻ります。

「もし、信仰深い男・信仰深い女があって、一生の内に起こる迷いや苦しみの根本を断ち切り、さとりという安楽の境地に至ろうと思うなら、まず、福徳といのちのもつ無垢なる知のちからとを生じさせる原因となるものを積み、その結果として、無上のさとりに到達すべきである。

 そのいのちのもつ無垢なる知のちからを生じさせる原因になるものというのは、すぐれた経典を書写し、その深い意味を追求し、思考することである。

 そうして、施しをすること、戒めを守ること、忍耐すること、精進すること、精神を統一すること、無垢なる知のちからを発現させることの六つの行ないをすることである。
 それが、福徳の原因になる。

 よくこの思考と行ないの二善を修め、生を授けてくれた父母の恩と、国土の安泰を守る為政者の恩と、衣食住を生産・相互扶助している生きとし生けるもの(動物・植物)の恩と、それらの恩の根本にあるいのちのもつ無垢なる知のちからの存在(仏)・その知のちからがもたらす真理(法)・その真理の教えを伝えるものたち(僧)の三宝の恩との四つの恩に報い、そのおかげに深く感謝をし、それらを救い護(まも)り、生きとし生けるものすべてに恩恵を与えるときは、すなわち自らを利し、他者を利する恵みをともにそなえることになれば、すみやかに一切の無垢なる知のちからの中のもっともすぐれた知のちからに目覚め、そのちからを体得することになるだろう。」


 ここに、剃髪の目的が達成されます。
「永離煩悩(エイリボンノウ)
 窮極寂滅(クキョウジャクメツ)」
 苦や迷いの元である煩悩を永遠に離れ、それらが究極的に寂滅した世界へ入るのです。

 私たちは、2500年も前にお釈迦様が説かれ、1200年も前にお大師様が説かれた安心への道を、なかなか歩めずにいます。
 しかし、いかにこの世で迷っても、せめて、あの世に旅立つ時は、み仏のお力によって自己中心的恩と愛とを離れ、清浄な存在となりたいものです。
 そうして生き死にを繰り返すうちに、徐々に〈無上のさとり〉へと近づき、この世から憎しみや争いが消えて行き、きっと戦争もなくなることでしょう。
 この世で〈真実の愛〉を求めながら、なかかなそうはならずとも、最後はみ仏が必ずお救いくださいます。
 ご葬儀での剃髪と引導との意義をよく考えたいものです。




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2014
04.11

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その70)─若返りの秘訣は?─

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 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。
 今回は、親孝行が母親を若返らせたお話です。

○刑渠(ケイコ)の故事

「刑渠(ケイコ)老母を養いて
 食(ショク)を噛(カ)めば齢(ヨワイ)若く成(ナ)る」


 中国の『孝悌録(コウテイロク)』にあるお話です。

 その昔、會稽(カイケイ)に刑渠(ケイコ)という人がいました。
 幼少のころ父親を失って以来、ずっと、母親に孝養を尽くしてきました。
 食べものを与える時は、まず自分が口にして安全を確認しました。
 病気になれば、夜通し看病しました。
 冬は床を暖めてから寝かせ、夏は扇いでやりました。
 朝ご飯も夕ご飯も母親の口に合うものを用意して与えたので、母親は70才になってもまだ、30才ほどにしか見えなかったそうです。

 日本は世界に冠たる長寿国であるばかりでなく、若さづくりにおいてもトップクラスであると言われています。
 医学や化粧品などの進歩、あるいはウォーキングブームなどの健康志向、また、高齢者世代の生活力の安定などが理由であるとされています。
 その一方で、核家族化は止めようのない社会の変質をもたらし、高齢者が自らの力で生きようとし、死の準備もととのえるようになりました。

 こうした時代に生きていると、刑渠の話は別世界の趣がある一方、ハッとさせられもします。
 目をかけ、手をかけられて生きていれば、歳をとっても活き活きしていられるのは、人間だけではありません。
 植物たちも、あるいは、犬や猫も同じです。
 そこには、人も花も動物も皆、同じ〈いのち〉を生きている者同士であるという静かで深い肯定的な歓びがあります。
 この歓びがいのちの力となり、相手へも伝わるのではないでしょうか。
 私たちがここを感得する霊性のはたらきを鈍らせなければ、たとえ親孝行などの倫理的行動が形を変えようとと、人間社会は健全に保たれることでしょう。




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2014
04.10

苦しい時の神頼みは有効か? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(19)─

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〈岩出山の『森栖』さん〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

○絶望からの信仰は、正しい態度ではない

「ところが、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。
 そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。」

「貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。
 これは正しい態度だとは言えない。」

「もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。
 まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。
 あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。」

「あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信仰の限界も、心的世界の限界も知らない。
 それこそが正しい状態だと言えるだろう。」


 ダライ・ラマ法王は、〈苦しい時の神頼み〉について説かれる。

 たとえば、病気になったのにお金がなくて医者へ行けない場合、物質的ご利益があるとされている神様へ熱心に祈る場合の状態はいかなるものか?
 宗教心があり「拝んでいるから、もう大丈夫」と考えるなら、それは錯覚であると指摘する。
 依然として病気は進行しているからである。
 よく考えてみれば、〈お金がない〉→〈お金を手にする方法を試みる〉→〈何をやってもお金が手に入らない〉→〈最後の方法として神様へ祈る〉となっている。
 ならば、目的はあくまでもお金を得ることにあり、神様へ祈っている手にお金がないなら、問題は解消していないことになる。
 祈っているからといって、お金が手にあるわけではない。
 それを、「窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう」と指摘された。

 では、拝んだ結果、何かの成り行きでお金が手に入って喜んだなら、そこにある満足は〈宗教的安心〉と言えるだろうか?
 よく考えてみれば、満たされたのは信仰の世界(心)ではなく、お金の世界(モノ)である。
 ただし、拝んだことが満たされた原因の一つだろうと判断すれば、お金のない時にはまた、拝むかも知れない。
 これでは、どこまで行っても、目的は、お金を手にするというモノの世界にあり、心の世界にはない。
 だから、もしも〈二匹目のドジョウ〉がいたとしても、〈三匹目のドジョウ〉がいなければ、拝む対象は、たやすく、他の神様へ移行してしまう。
 より、効果がありそうな手段を求めるのは当然だからである。

 かくして、〈拝んでいれば大丈夫〉なのではなく、〈拝んで成果があれば真の信仰心が深まる〉わけでもない。
 だから、困っている時に、宗教団体から、拝めば安心だからと勧誘されたなら要注意である。
 また、ご利益があるからと手を合わせているだけでは、本当の安心を得ていることにはならない。

 では、〈苦しい時の神頼み〉は通じないか?
 そうではない。
 通じる場合もある。

○神仏の加護のもとに、現世利益を得るものがいる

「富貴を求めて祈る者もあれば、現世の利益、この人生の成功を期待して祈る者もいる。
 こうした信仰は、特定の、ひじょうに限定された範囲においては誤ったものではない。
 たとえば、われわれ仏教徒も、ヒンドゥー教徒と等しく富をガネーシャ神に祈ったりする。
 ガネーシャの霊験(レイゲン)は富をもたらすと信じられているからである。」

「だが、仏教的な観念から言えば、これはひじょうに極限された場合にのみ有効でしかない。
 たとえば、その人がすでに宗教的に高い境地に達しており、富、富貴を得るべくすべての条件が正しく整っており、その人が豊かであっていい理由が厳然として存在しているのに、それでもなおその人が窮乏している、そんな場合である。」

「そして、その人が富貴を得たなら、それは神仏の加護があったと思うだろう。
 神仏の加護があったからこそ、豊かになったのだと。
 だが、これは病気と肉体の関係に似ている。
 もし、あなたが病気にかかったとしよう。
 病気ではあっても、体力があり、もともと頑健な肉体に生まれついていたなら、医者はあなたを治療するのになんら困難は覚えないだろう。」

「ところが、その逆に、あなたの身体が生来虚弱であったなら、いかなる病気であっても医者は治療に苦労することになる。
 仏教的に見た、現世利益と神仏の加護の関係とは、ちょうどこれと同じである。」


 ダライ・ラマ法王が説かれていることを別のたとえで考えてみよう。
 お金であれ、健康であれ、いよいよの際に、もう拝むしかなく、そこで目的が達成されたとする。
 それは、祈りによって無から有が生じたわけではない。
 目に見えない世界にある桶へ徳がたくさん蓄えられており、時分の微力を省みて慢心を捨て、よき目的のためにお金や健康を得たいと救いを求めるという徳行が〈最後の一滴〉となって桶を満たしたからこそ、桶から徳があふれ出し、福をもたらしたのである。
 徳積みをしていた人がまだ、その善行に応じた福徳を得られていない場合にのみ、真のご利益が得られる。
 もともと、桶が空っぽであったなら、そこへ我欲による祈りが加えられたとしても、何ら福徳はもたらされない。

 ここで大切なのは、徳積みをしている人は、お金や健康を求めて祈る場合、我欲からではなく、何とか子供を進学させたい、もう少し家族のために生きたい、もっと人々に喜んでもらいたい、など、必ず〈よき目的〉を持っているということである。
 こうした祈りの実践者は、目先の目的が思い通りに達成されても、されなくても、等しく感謝し、等しく教えをいただける。
 祈らせていただけることそのものがすでに大きな救いであり、できごとにはすべて意義が見出せる。
 祈る時は、すでにご利益をいただいているようなものである。
 それは、我欲でなく〈人の道〉に生きようと決心した時、すでに、人の道を歩み始めているのと同じである。

 モノやいのちに保険をかけるだけでなく、いざという時のためにも、常々、善行による徳積みを行い、常々、よき願いを持って祈りながら生きたいものである。  




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2014
04.09

守本尊様はどういう方々か ─身近な仏様のお救い─ 第五十一回寺子屋『法楽館』のお知らせ

20140331001223.jpg

 当山では毎月一度、参加自由の寺子屋を開催しています。
 今回は、前回、時間切れとなった「四苦八苦の克服法」の残りと、私たちに身近な守本尊(マモリホンゾン)様とはどういう方々なのか、いざとい う時、どうお祈りすればよいか、などについて、わかりやすくご説明します。
 多くの方々がご自身の守本尊様がどなたであるかは知っておられるでしょう。
 しかし、なぜ、子年(ネドシ)生まれの守本尊様が千手観音様で、千手観音様は本厄年厄払いも担当してくださるのか?
 こういったことについて は、あまりご存じないのではないでしょうか。

 たとえば……。
 子年の「子」は北の方位を指します。
 北を守るのは、古来、千手観音様とされています。
 だから、子年生まれの方は、千手観音様が一生、守本尊様としてお見守りくださいます。
 また、本厄の年は、生まれの縁となった本命星(ホンミョウショウ)が北の方位に位置します。
 だから、本厄の厄払いでは、千手観音様のご加護におすがりします。
 
 観音様をお讃えする経典には、こう示されています。

「順風満帆(ジュンプウマンパン)平安の時期(トキ)に思わぬ災難に出会ったときの苦しみを救い給(タモ)うたその人を、観音菩薩応現(オウゲン)の姿であったと手を合わす心ぞ真(マコト)に菩提心(ボダイシン)。
 この菩提心堅持(ケンジ)して観音菩薩を念ずれば必ず菩薩眼前に現れ衆生(シュジョウ)を救済(さい)す。」


 何をやってもうまくことが運び、有頂天になっている時に思わぬできごとが起こり、運勢の急展開に苦しむ場合があります。
 これまで一緒にやっていた人や支援者などが、掌を返したように去ってしまう。
 そんなおりに、思わぬ人が救いの手を差し伸べてくれたりします。
「ああ、観音様が現れてくださった」
 思わず心で合掌することがあるものです。
 救われて心の底からありがたいと思えば、必ず、自分も、誰かへ手を差し伸べずにはいられなくなります。
 そのことが「手を合わす心ぞ真(マコト)に菩提心」でありましょう。
 かつて、托鉢に勤しんだ日々にあって、幾度も幾度も、数知れず観音様にお救いいただいた身には、この教えが身に沁みて理解できます。
 厳寒の日には、一椀の熱いおしるこをいただき、猛暑の日には、冷たいジュースをくださった方々がおられます。
 あるいは、一町四方歩いてもまったく托鉢を受けていただけない日、最後の一軒で、たまたまご家族のお命日にあたっているからと仏前でお唱えさせてくださった方など……。
「必ず菩薩眼前に現れ衆生(シュジョウ)を救済(さい)す」はまごうかたなき真実です。

 こうしたお話を申しあげる予定です。
 質疑応答の時間もあります。
 どうぞふるってご参加ください。

・講師  住職遠藤龍地
・日時  4月12日(土)午後1時30分より3時30分頃まで
・会場  大師山法楽寺講堂
・ご志 納金 1000円 中学生以下500円
・送迎  午後1時に『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車される方は前日17時までにお申し込みください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
04.08

物質的な成功と精神的な充足とをどう求めるか ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(18)─

20140408058.jpg
〈岩出山の『森栖』さん〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

○物的、心的な両世界は不可分である

「今日、物質的な成功がすべてであると考えるのは、あまりにも無知な考えであると言わねばならない。
 経験が足りなさすぎるのである。
 もちろん、世界を見れば、物質的な窮乏の中で生きる人たちは多い。
 彼らにとって、物質的な必要が満たされることは大事なことである。
 そのことを疑っているわけではない。」

「だが、物質的な成功と精神的な充足とが完全にふたつに分かれて存在するわけでもない。
 これらは不可分に結びついて存在する。
 と言うよりも、物的、心的なふたつの世界は同じものの表現の違いでしかないのである。」


 4月7日付の産経新聞は、「孤立する男 暴走」というタイトルで、高齢者によるストーカー事件が10年で4倍になったと報じた。

「60代以上の高齢者が加害者となったストーカー犯罪が急増し、昨年は1919件と10年前の約4倍に上ったことが、警察庁のまとめで分かった。
 加害者の大半は男性。
 専門家によると、男性は女性に比べ、家族と死別したり、退職したりして心のよりどころを失った場合、孤立しやすい傾向にあるといい、最悪の場合、ストーカーに走る人もいるという。」


 警察庁の調査によれば、平成25年において、60代と70歳以上の合計で1919件発生しており、全体の9・1%に当たる。
 こうした傾向について、ストーカー被害者を支援するNPO法人「ヒューマニティ」(東京)の小早川明子理事長は言う。

「この世代は仕事一筋で打ち込み、激しい競争社会を生き抜いてきた人が多い。」
「男性は女性に比べて地域のコミュニティーなどにも溶け込めず、孤立してしまいがち。
 寂しさを埋めたいという気持ちから、女性に過度に期待してストーカーに走る人もいる。」
高齢者は社会的地位が高い人も多く、拒絶されることに慣れていない。
 恋愛がうまくいかないだけで行動をエスカレートさせてしまうこともあるのではないか。」


 はたらいて生きるのは、まず、自分の身体を養うことである。
 社会人として、衣食住も整えねばならない。
 また、家族を養う場合もあるだろう。
 そこに生きがいも、蹉跌(サテツ…しくじり)も、歓びも哀しみもある。
 やがて、退職後や老後を考え、自力で生き延びる準備を行う。
 そうして人生をまっとうしようとするのはごく自然な姿である。

 このように生活を確保しながら生きて老い、人生の最後に色情から犯罪を犯すとはどういうことか?
 ダライ・ラマ法王は、そこのところを、「物質的な成功がすべてであると考えるのは、あまりにも無知な考えである」と指摘された。
 他人様から後ろ指を指されずに生きるのは「物質的な成功」である。
 しかし、それが「精神的な充足」にもならねば、人生は真の意味で輝かない。
 ストーカー事件は、四苦八苦の一つである求不得苦(グフトクク…求めても得られないままならなさ)の表れであり、「充足」がない状態に他ならない。
 たとえ「社会的地位が高い人」になろうと、色欲や名誉欲などの欲望は内心の問題として一生、つきまとい、自分で自分の心をコントロールできない限り、暴発の危険性は死ぬまでつきまとう。

「物質的な発達は、生存を快適にし、物理的な生活の困難を小さくしてくれる。」
「それは、いずれ精神的な欲求の充足への道を切り開くはずである。」
「充足した精神生活は、物質的な豊かさを、より平衡のとれた正しい方向へと導いてくれることになるだろう。
 それは、より大きい恩恵をわれわれにもたらすであろう。」


 今日、たった今、自分の口へ入れるごはんがなければ、「充足した精神生活」は送り難い。
 衣食住がある程度、確保されてようやく、いかに生きるべきか、生かされている感謝をどう表現すればよいのか、といった方向へと心が広がる。
 この方向は、五欲(財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)に引きずられる方向とは違う。
 感謝から行動が生まれ、それが再び感謝を生じるといった循環が始まれば、ようやく「精神的な欲求の充足」がもたらされる。
 よき循環こそが「物質的な豊かさを、より平衡のとれた正しい方向」へと導くのである。
 ダライ・ラマ法王が「経験が足りなさすぎる」と指摘されたのは、心に巣くう五欲の恐ろしさに気づかず、それと対峙し制御する内心の戦いをせず、野放しにしたまま気楽に生きることを戒められたのではないか。
 それでは、真の生きがいや幸せをもたらす「物質的な成功と精神的な充足」はあり得ない。
 健康ブームで長生きをするようになった世代がストーカー事件を引き起こすのも、同じ高齢者としては、はなはだ残念ながら、むべなるかなと言うしかない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
04.07

仏神の心はどこに?

20140408011.jpg
〈岩出山の『森栖』さん〉

 護摩法が終わり、お茶の時間に入った時、ひょっこりとご来山されては、ご本尊様の前で熱心に般若心経などを唱えられる方からご質問を受けた。
 時ならぬ吹雪に驚いた翌日、笹倉山が、描かれた風景のように緩やかな稜線を見せているお昼前である。
「先ほど、『私たちが持っている仏神の心にかかっている覆いを取り除こう』と言われましたが、何が仏神の心であるか、どうしてもわかりません。
 自分にはそうしたものが見つけられません」

 彼は自分の身体を傷めながら、介護の仕事に励んでいる。
 家庭もある。

 答えた。
「一生懸命、誰かへ手をかけてあげれば、ありがとうと感謝されるでしょう?
 その時、心の底から『ああ、よかった』と嬉しくなれば、それが仏神の心がはたらいている状態です。
 仏神の心は金剛のように堅固で、何ものにも破壊されません。
 お釈迦様は説かれました。
悟りは決して失われない最高の宝ものである。
 誰も奪い取ることはできない』
 特に探そうとしなくても、あなたはもう、確かにそれをはたらかせておられますよ」

 彼の真剣な目から力が抜け、一瞬、ポカンとした後、徐々に頬が緩んだ。
「そうですか!
 ずいぶん、楽になりました」
 そして、笑顔のまま、ゆっくりと家族たちを振り返った。

 お大師様は説かれた。

「それ、仏法、遥かにあらず。
 心中にして、すなわち、近し」


 だからこそ、私たちは、み仏に成れる。
 この身このままで即身成仏(ソクシンジョウブツ)ができるのは、当然である。




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2014
04.06

寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その69)─徳のある農民が帝王になった話─

201404060001
東照宮

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教・童子教』を読んでいます。
 今回は、日光東照宮にその姿が刻まれている(シュンテイ)のお話です。

の話

子(シュンシ)盲父(モウフ)を養いて
 涕泣(テイキュウ)すれば両眼(リョウガン)を開く」


『孝子伝』にあるお話です。
 その昔、(シュン)という青年がいました。
 姓は姚(ヨウ)、字(アザナ)は重華(チョウカ)です。
 母親と別れ、父の瞽叟(コソウ)は後妻を迎え、象(ショウ)という男の子をもうけました。
 は親孝行でしたが、新しい母親は象ばかりをかわいがり、瞽叟へ讒言(ザンゲン…おとしいれようとして嘘の情報を吹きこむこと)して舜を殺そうと企みました。
 舜は倉庫の屋根葺きを命じられた時に企みを察知し、笠を二つ手にして屋根へ登りました。
 案の定、下から火の手が上がりましたが、舜は二つの笠を利用して飛び降り、無事でした。
 今度は、父親に井戸掘りを命じられました。
 夫婦の悪心に気づいた隣人は逃げなさいと勧めます。
 舜は平然として答えます。
「私はただ、父母の言うとおりにし、死んで孝行をするまでです。
 逃げて親不孝をするつもりはありません」
 隣人は深く感銘を受け、舜へ銀銭五百文を与えました。
 翌朝、井戸を掘った舜は土から銀銭を掘り出したように見せかけます。
 思わぬ僥倖(ギョウコウ…天から降ったような慶事)に両親が喜んでいる隙を見て、隣家の井戸へ坑を掘りつなぎ、歴山(レキザン)の麓まで逃げのび、百姓を始め、とうとう、毎年三百石もの成果をあげるように富農となりました。

 悪行の報いにより、やがて父親は視力を失い、母親は聴覚を失い、罪のない弟までが会話を失い、しかも、雷によって家は焼失しました。
 ある時、舜は、母親が細々と薪を売りながら極貧に耐えていると知って食物を与え、薪を高く買い上げ、その銭を米袋へ入れてやりました。
 それが度重なるうちに、父親は、もしかして舜がそうしてくれているのではないかと気づき、妻に手を引かれながら町へでかけ、名乗り上げました。
 そこで父子は泣きながら抱き合い、家族の姿を見た舜の悲しみは天地を満たすほどでした。
 町の人々も皆、悲嘆の涙にくれました。
 そして、舜が父親の眼に手を当て、天を仰いで悲しんだ時、不思議にも両眼が開きました。
 また、母親の耳は聞こえるようになり、弟も言葉を話せるようになりました。
 この孝行ぶりは国中へ聞こえ渡り、堯はその聡明さにかけて天子の位を譲りました。
 舜の徳による治世は82年の長きにわたりました。

 日光東照宮の唐門(カラモン)にたくさん彫られた人物の一人が舜です。
「舜帝(シュンテイ)朝見(チョウケン)の儀」と名づけられたのは、舜帝が元旦に役人たちから挨拶を受けている光景です。
 徳川家康は、中国の歴史上最高の治世とされた堯帝と舜帝の時代にちなみ、自分自身を舜帝に比していたとされています。
 なお、平成という元号は、舜帝の言葉「地平天成」及び「帝内平外」によります。
 懸命に政治を行った舜帝は、道徳も産業も福祉も進み、〈地〉は安〈定〉し、〈天〉の徳は〈成〉ったと喜びました。
 また、〈帝〉の力が安定し、国〈内〉でしっかり政治が行われれば、その威光により、〈外〉の国々は侵略しようとせず〈平〉和がもたらされると信じたのです。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2014
04.05

老いれば空気となる ―老ふたり互に空気となり合ひて有るには忘れ無きを思はず―

201404050001.jpg
〈浅井忠『農家風景』〉

「老ふたり互に空気となり合ひて有るには忘れ無きを思はず」(窪田空穂

 年老いた夫婦が互いに空気のような関係になってしまっている。
 相手はいるのだが、何ら心に引っかかることもなく、まるでいないかのようである。
 そうかと言って、相手がいないなどという状況は考えもしない。
 相手がいても、そうとは気にならず、相手がいないなどということは意識的におよそあり得ない。
 こうなれば、もう、〈空気〉と言うしかない。

 あの世へ持って行くモノなどいらない。
 異性は魅力的でももう、花を観るに等しい。
 貪るような飲食とは無縁。
 名誉は夢のように消えた。
 睡眠は妨げられなければそれでいい。

 五欲から離れれば、きっと、誰かに刺さりかねない心のトゲも先が丸くなるのではないか。
 ぶつからなくなるのではないか。

 自然の中に人間の創造力を際立たせて屹立する近代的建築物に魅力を感じないわけではないが、崩れかけそうになっている古びた民家の前で立ち止まらせられる場合もある。
 人間の手になったものが、長いこと自然を受け容れているうちに、あるいは自然に撫でられ叩かれているうちに、木も石も自然と変わらなくなる。
 宇宙物理学者ローレンス・クラウスは『宇宙が始まる前には 何があったのか?』において、自分が時折、口にする「いつもの呪文」を紹介している。

宇宙は、われわれが好むと好まざるとにかかわらず、あるようにある」


 宇宙の進化はこうだ。

宇宙が進化して冷えていくにつれて、何らかのバックグラウンドの場が、宇宙空間のすべての領域で成長した。
 それはちょうど、冷え込みの強い日に、あなたの家の窓枠に氷の結晶が自発的に生じるのと似ている。」

「たまたまの成り行きにより、長く膨張を続ける寿命の長い宇宙もあれば、あっというまにしぼんで消える宇宙もある。」


 人間も又、「たまたまの成り行きにより」長寿だったり、短命だったりする。
 宇宙は何と親しいものか。

 だから、人間がだんだん空気になって行くのは当然であり、最後は煙となって天へ溶け込み、土となって地へ溶け込む。
 目に見えない心は、目に見えない世界へ還って行く。
 空気となる実感を持てるほどの長寿が許される社会はありがたいと言えるのではないか。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
04.04

許される嘘と煩悩からの解放 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(17)─

20140402002 (2)

20140402003 (2)
〈年月は彼らをも丸くした〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第三章 カルマの法則

1 カルマの善悪

○嘘も、善き意図に含まれることがある

「人はときとして、より大きな危険、よりひどい結果を回避するため、嘘をつくこともあれば、ある種の罠をしかけたりもする。」

「これは悪しき意図なのではないか。
 否である。」

「これもまた宗教心の観点を用いれば、よき意図、動機に含まれると考えるべきである。
 より長期的な視野から見て、より大きな社会的な意味を持つ、より大いなる理由を有する事柄を達成せんとする意図であり、動機である。」

「心底から正直な動機とは、肯定されるべき嘘を稀に交える場合もあるということだ。」


 私たちは「嘘も方便」という言葉を知っている。
 嘘も時には役立つ場合があるという言い訳めいた軽い使われ方をしているが、出典は『法華経』に説かれた「火宅の譬え」である。
 
 ある時、長者の家が火事になり、三人の子供たちが家の中にとり残された。
 もう、家へは入れないので、「早く逃げなさい!」と叫ぶが、子供たちは無心に遊んだままである。
 火事も、家も、焼死もまだ、知らないので、危機感がない。
 そこで長者は、彼らが欲しがっていた三種類の車をあげるよと声をかけたところ、三人とも喜んで飛び出してきた。
 長者は三種類の車を実際に用意していなかったが、最も高性能な車を与え、喜ばせたという。
 嘘が子供たちを助けたのである。

 もちろん、嘘をつくことはよくない。
 だから、お釈迦様は基本的な戒めの一つとして「不妄語(フモウゴ)戒」を示し、嘘をつけない人になろうと説かれた。
 なぜ、嘘をついてはいけないのか?
 誰かを事実から遠ざけて不利益をもたらし、そのことを踏み台にして自分の利をはかり、ひいては尊い仏性(ブッショウ…心中にあるみ仏の魂)に覆いをかけてしまうからである。
 では、長者の〈嘘〉はどうか?
 子供たちを〈ない車〉で誘ったのは事実に反するが、そのことによって子供たちのいのちは救われた。
 嘘をつき、戒めを破ってでも子供たちを救おうとする心に、我欲はない。
 たとえ自分が破戒という悪業を積もうとも子供たちを救おうとしたのは方便、つまり最高レベルの手立てが実践されたことを意味し、そこには仏性が輝いている。

 だから、一生涯を十善戒にかけた慈雲尊者(ジウンソンジャ)は説いた。

「真実語がただちに仏語(ブツゴ)じゃ、他に仏語はない」


 み仏の言葉とは、〈真実〉を伝える言葉であって、それ以外ではない。
 真実を観る目はそのまま、み仏の目であり、〈事実〉をすらありのままに見損なってしまい、惑う凡夫の目ではない。
 見え、聞こえる現象界は、凡夫にとって事実の展開でしかないが、智慧と慈悲をもって眺めるみ仏の目には真実の宝庫である。

 この「方便」がさらに深められ、『大日経(ダイニチキョウ)』において究極の教えとなった。

菩提心(ボダイシン)を因となし、大悲を根(コン)となし、方便を究竟(クキョウ)となす」


 自分の無知に気づき、悟りを求めないではいられない心がすべての出発点である。
 自他の苦を抜き楽をもたらさないではいられない無限の思いやりが人間たる根本である。
 思いやりから生まれる最高の手立てを実践するところに生きる意義がある。

○煩悩からの解放とは、宗教心の実践のことだ

「では、仏教において宗教心とはいかなるものか。
 宗教心とは、利益(リヤク)、恩恵である。
 宗教心の基盤はそれしかない。
 物心両面にわたって、主に他者に対して利益を与える。
 恩恵を施す。
 これである。
 他者に恩恵を施すならば、ときに自己に対して施したからといって差し障りがあるわけではない。」

「仏典を読むとわかることだが、仏陀とは自己の悟りを達成すべく努めた人物である。
 ただし、自分自身の悟り、煩悩からの解放を求めることが、他者への恩恵になったわけである。
 それが正しいことなのだ。
 われわれにとっての悟り、煩悩からの解放とは、現代においては宗教心の実践に他ならない。」


 ダライ・ラマ法王は、〈誰かへ利益や恩恵をもたらそうとすること〉が宗教心であり、そのために自分の利になることを行おうとも、自己中心の煩悩とは違うと説かれる。
 たとえば、警察官を志望する若者が、自分の心身を鍛え高めようとするのは、社会に正義を実現したいという尊い思いのなせるわざであり、自分を目立たせたいと思ったり、他を蹴落とそうとするような我利我利亡者(ガリガリモウジャ…自分の利になることしか考えず、仏心が亡くなっている人)とは違う。
 だから、誰かのためになりたい人はすべて宗教心の実践者であり、実践は自己中心がもたらすさまざまな煩悩から解放するのである。

○他者の利益のためだけに存在する人間がいる

「ひじょうに高い精神の水準に達した個々の人間たちは、他者の利益のためだけに存在することがある。
 彼らに対して、いくつかの仏教経典は、他者の幸福の実現のために意図的に幻覚を使用する機会さえ教えている。
 もっと深く仏教の宗教心、道義心を追求すれば、より困難な方法が説かれていることがわかる。」

「仏教には十善、十悪というものがある。
 十悪とは、殺生、偸盗(チュウトウ…盗むこと)、邪淫、妄語、綺語(キゴ…うわべを飾る言葉)、両舌(リョウゼツ…二枚舌)、悪口(アック…粗暴な言葉)、貪欲(トンヨク…貪り)、瞋恚(シンニ…意義のない怒り)、邪見(ジャケン…真理真実に反する勝手な思考)である。
 仏教のある経典では、高い修養を積み、何度も正しい輪廻を繰り返してきた者にのみ、この十悪のうち、肉体と言葉にかかわる七つの悪を他者の利益のために許している。」


 お釈迦様は「ひじょうに高い精神の水準に達した」人間である。
 だから、経典には、「意図的に幻覚を使用する機会」が説かれている。
 真実を伝え、救うための説法に耳を貸さない人々を驚かすために、川の上を歩く幻の人を生じさせたり、自分の身体を金色に輝かせたりするシーンである。
 お大師様も、弘仁2年(811))1月15日、宮中において嵯峨天皇から「即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままで仏に成ること)」の姿を求められ、座禅を組み大日如来の印を結び真言を唱えたところ、金色に輝く大日如来となった。
 こうした「高い修養を積み、何度も正しい輪廻を繰り返してきた者」には、誰かを救う究極的な方法がそれしかない場合は「肉体と言葉にかかわる七つの悪」が許される場合があるという。
 十善戒のうち、殺生、偸盗、邪淫、妄語、綺語、両舌、悪口の7つが「肉体と言葉にかかわる七つの悪」である。
 たとえば、一隻の船に乗り込んだ500人の商人を殺し、財宝を奪おうとした悪党が船長によって殺されたおりに、王は無罪放免とした。
 上記の長者も妄語という悪を犯したが許される。
 では、なぜ、「貪欲、瞋恚、邪見」は許されないか?
 それは、これらには善をずる可能性がないからである。
 我欲で貪り、高慢心からカッとなり、気まま勝手な考えを持てば、自他共に救われる可能性はない。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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