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2014
05.31

孝行息子・お釈迦様・畑正憲さんが教えるよき心 ―寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その72)─

20140531061.jpg
〈あまりにも健気で……〉

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。
 今回は、親孝行の心がに通じたお話です。

○楊威(ヨウイ)の故事

 これは、中国の『忠孝圖賛(チュウコウズサン)』にあるお話です。

 楊威(ヨウイ)は若い頃、山中での狩猟をなりわいとしていました。
 ある時、が現れて楊威を襲おうとしました。
 楊威が「もし私が君に喰われてしまったら、孝養を尽くしている老いた母はどうなってしまうことだろう」と強く嘆いたところ、はたちまち退散しました。

「楊威(ヨウイ)は独(ヒト)りの母を念(オモ)つて
 の前に啼(ナ)きしかば害を免(マヌガ)る」


 は20世紀の初めまでアジアに広く分布していましたが、今は当時の1割ほどにまで減少し、極東ロシアとアジアの南部に棲息しているものも、絶滅の危機に瀕しています。
 は自分の生活圏における王であり、古来、最も強い生きものとして、龍と共に「龍虎」と称されてきました。
 特に中国では、猛獣と怖れられていながら、絵画などの題材としても身近な存在でした。
 こうした虎へ人間の嘆きが通じたというのです。

 虎と人間とのやりとりで有名なのが、捨身飼虎(シャシンシコ)すなわち「身を捨てて虎を飼う」お釈迦様の前世物語です。
 王の三男として生まれた摩訶薩埵(マカサッタ)は遊んだ帰りに、兄たちと竹林で休息をとっていました。
 兄たちはそれぞれ、怖がったり、淋しがったりしていましたが、摩訶薩埵だけは、静かで気持がいいと感じていました。
 やがて、出産から7日ほどしか経っていないのに7匹の子供を抱えたまま餌にありつけず、餓死寸前となった虎の母親に出会います。
 兄たちはそれぞれ、我が身は捨て難い、誰かが大きな慈悲心を起こせば身を捧げることもできようが、などと言いながら立ち去ろうとします。
 摩訶薩埵は、「私は過去世にも捨身をしてきたがあまり有意義ではなかった。今こそ、飢えた虎へ身を捧げて悟りを求めよう」と兄たちの反対を制して裸になり、虎の前に横たわりました。
 しかし、虎たちは、その慈悲心にうたれて食いつけませんでした。
 摩訶薩埵は、衰弱した虎に元気な自分へ食いつく力がないせいだと考え、竹で首を突き、血が流れる状態となったまま高地から身を投げました。
 この時、天地は六種に震動し、日光は隠され、天から妙なる香りが降りそそぎました。
 虎たちはようやく血をなめ、屍体を食べ、骨だけを残したとされています。

 ここでも、人間の強い心が虎を怯(ヒル)ませています。

 かつて、動物と人間同様に接し、「動物王国」をつくった畑正憲さんが活躍していた頃、猛獣たちとも怖れずにつき合う姿は驚異的でした。
 君を警戒したり疑ったりしてはいないよ、信頼し親愛の情を持っているよ。
 こんなシグナルが相手に届いているのだろうとしか思えませんでした。
 畑正憲さんは言っています。
「もしも猛獣が腕に噛みついたならば、引っぱってはならない。
 食いちぎられるから。
 むしろ、喉の奧へ突っこめばよい。
 苦しくて吐き出すから」
 普通の人は、こんな覚悟をしてまで猛獣と仲良くなろうとは思わないでしょう。
 畑正憲さんの「通じる」という信念には脱帽です。
 
 それにしても、私たちの〈よき心〉が猛獣にすら通じるというこうしたお話には、奮い立たせられます。
 動物へ通じるのに、どうして人間へ通じないことがあり得ましょうか。
 故事に教えられ、動物に教えられて、私たちは生きとし生けるものたちに通じる〈共通の発信器と受信機〉を持っているみ仏の子であると信じ、まっすぐに進みたいものです。




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2014
05.30

死に切らぬうちより蟻に運ばるる ―相生垣 瓜人(アイオイガキ カジン)―

20140529006.jpg
〈今年も『法楽農園』の田植えが終わりました〉

 気温が上がり、アリたちの活躍がとても目立つ。
 彼らは信じられないほど大きなものをせっせと運ぶ。
 荷物の中にはまだ動いている昆虫もいたりする。

 大正から昭和にかけて活躍した自称「外道(ゲドウ…道ならぬやり方)俳句」を貫いた俳人相生垣瓜人(アイオイガキ カジン)は、目に映ったさまをそのまま詠んだ。
 

「死に切らぬうちより蟻に運ばるる」


 とりたてて珍しくもないありきたりの光景だが、こうあからさまに詠まれてみると、不気味さが漂ってくることを禁じ得ない。

 当山のような仕事をしていると、人間界にも似たようなできごとが起こっていると気づかされる。
 親が生きているうちに、いつのまにか、もらったような気分になった兄弟が反目し合ったりする。
 そうした子は虫と同じ畜生界に堕ち、親は死に切らぬうちに、もう、運ばれつつある。

 瓜人はこうも詠む。

「力行(リキギョウ)の範(ハン)たる蟻をつぶしけり」


 懸命に努力する姿の典型を示す健気な蟻。
 それを、無造作に踏みつぶしてしまったというのである。
 わざわざ書いたわりには、あまりに乾いていて、悔恨の念は感じられない。
 むしろ、〈そうした者〉であるがゆえに、〈意図して〉踏む内心の歪みがあるのではないか。

 混迷は進む。

「何物が蛾を装(ヨソオ)ひて入(イ)り来るや」


 蛾が部屋へ入ってくる。
 よくあるできごとだが、この蛾は一匹の虫として入ってきたのではない。
 ただごとではない気配もまた、蛾と同時に、瓜人を訪れたのだ。
 蛾はこうした気分にさせる不思議な来訪者である。
 彼は、いつやってきたのかもわからないうちに、早朝の薄明かりを受けて屍体を曝していたりする。

 瓜人のつかむ〈気配〉はここまで行く。 

「ふらふらと死にゐし風が起き上る」


 そよとも風の吹かぬ日、突然、ゆったりと空気が動く。
 死から生が生まれる。
 もしかすると、病床に伏していた瓜人が、ふと、思い出したかのように、息をする者として起き上がってみたのか。
 自分の動きを、生きていた者として眺めたのか。
 眺めた対象は、よもや、他人ではあるまい。
 それにしても、蟻を踏む時のような〈感情が普通にはたらかない〉違和感はどうだろう。
 ただ、事実がそこにあるのみ。
 彼の称する外道がかいま見られるではないか。

 ただし、この4句を繰り返し読んでみると、乾きや不気味さをかもし出す表現には、哀しみや痛々しさも伴っていることがわかる。
 周囲に起こる〈それ〉を観てしまう、受けてしまう、詠んでしまう者としてしか生きられなかった一人の人間……。
 この世から去ってしまった彼の生きざまが読む者の時間を止めてしまうのは不思議である。




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2014
05.29

現在はあるのか?そして過去も、未来も…… ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(35)─

20140529010.jpg
〈『法楽の会』会員の方々など善男善女の願いをこめた護摩法を月も行いました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙の法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

○「現在」は、無限のかなたへ遠ざかる

「地球そのものの始まりについて述べる人たちがいる。
 何億年、何十億年という時間について。
 一切が空ならば、いったい時間とは何か。
 それそのものが自立した、独立した概念の時間など、そもそも存在しない。」


 それそのものとして単独で存在する時間はないという。
 常識からすればなかなか理解し難いが、順を追って読めば真意がわかる。。
 

「さわれわは往々にして、自然現象と時間の本質的な関係について語ったりする。
 それは、時間の概念などないということを無視しているからである。
 時間そのもの、独立した時間という概念を、他の概念から切り離して捉える方法など、存在するわけがないのである。」


 時間は、〈何ものか〉の〈経過〉としてしか、現実には現れ得ない。
 独立し、勝手に動く時間はどこにもない。

「すくなくとも何らかの基盤の設定なしには時間というものは成り立たない。
 時間とは、過去であり、現在であり、未来だと言う。
 だが、我々は現在という架空の時間を設定し、そこから便宜的に未来へ進み、あるいは過去へと遡行して、数えはじめることによって時間を使いうるにすぎない。」


 時間は、があり、過去があったはずであり、未来はやってくるだろうという形の中でのみ立ち現れる。
 たとえば、お年寄りが、たった、お昼ご飯を食べ終わり、薬を飲もうとする。
 あれ、朝は飲んだかな、と不安になって開けた薬袋から確かに一個、錠剤が減っているし、よく思い出してみると、確かに、味噌汁と一緒に飲んだような気がする。
 また、薬は二日分しか残っていないから、明日にでもお医者さんへ行こうと考える。
 過去そのものはもう、どこにもないが、過去があったはずだと、考えられるだけである。
 もちろん、まだ来ていない未来はどこにもないし、そもそも、自分が明日、生きていられるかどうかすら誰も約束してはくれないので、未来も又、来るはずだと、考えられるのみである。

「われわれが過去というとき、ある特定の限定された現在という瞬間に立って、すでに過ぎ去った時間を意味する。
 また、同じく特定の限定された現在に立って、未だ訪れていない時間を未来と呼ぶ。
 このことからわかるように、現在を固定しないかぎり、未来も過去もありえない。
 この特定の限定された現在こそが、時間の中心軸になる。」


 お昼の食事が終わり薬を飲もうとしている〈現在〉という瞬間に立ってこそ、薬を飲んだ記憶の中に〈過去〉を感じ、夕食後にまた薬を飲もうと予定するところに〈未来〉の到来が期待される。
 あくまでも〈現在〉があればこそ、現在、過去も未来も考えられる。
 1600年ほど前、アウグスティヌスは『告白』に記した。

「過去と未来は精神的構造物なので、〝現在の窓〟を通してしか見ることができない」

「では、現象論的に検討しよう。
 私がここで今『現在』と言ったとしても、その現在は、すでに私が『現在』と言い終わった瞬間には、過去になっているわけである。」


 過去と未来がたち現れるための基盤である「現在」そのものを考えてみると、基盤と言えないほどあやふやである。
 たとえば、こんな電話はどうだろう。
「ありがとう。
 せっかく誘ってもらったけど、私、今、遅い朝ご飯食べ終わったところだから、ごめんね」
 今と言っているが、お昼ご飯を誘う電話に出ている時点ではすでに、食べ終わった瞬間が属しているのは過去である。
 もちろん、食べ終わった状態は今も継続しているが、ここでは明らかに「さっき」と過去形で示すべき内容を「今」と言っている。
 私たちは無意識のうちに、「今」と言いつつ現在を過去へと流し、流れて行ったばかりの過去をまだ「今」と表現する。
 そして、文字どおりの「たった今」という瞬間は本当に「今」と言えるのだろうか?

「また、細部に立ち入れば、より明確になってくる。
 われわれは現在二十世紀にいる、と言うことができる。
 より限定すれば、1993年である。
 もっと限定しよう。
 現在は7月29日である。
 では、もっと詳しく述べれば、午後2時ごろだ。
 それも、インド時間の午後2時ごろである。
 午後2時ごろを正確に言い表すことができるはずだ。
 1時間は60分あるから、分の単位を使えばいい。
 まだまだ厳密に言えるはずだ。」


 これは、大谷幸三氏のインタビューを受けている時点のことである。
 法王は「今=現在」を厳密に限定しようとしている。

「秒もある。
 秒といえども細かく割ることができる。
 無限に限定の区分を小さくできるなら、では『現在』とは無限のかなたへと遠ざかる。
 捉えることができないのである。」


 こうして考えてみると「現在」はつかみようがない。
 時計の秒針を見つめながら、今と口早に言ってみたところで、秒針の動きが1秒に1目盛りなら、1秒の〈長さ〉を持つ時間は、今という〈瞬間〉であると言えるだろうか?

「すでにわかったはずだ。
 すべての時間は過去と未来に賊していることが。
 それら過去と未来は現在があってこそ存在しうるなら、いったい時間とは何か。
 要するに、時間によって存在する基準そのものが確たるものではありえない、ということだ。」


 どうしても「現在」はつかめず、私たちにとって〈長さ〉を持つ時間は、過去と未来の間にしかない。
 しかし一方で、過去も、未来も、現在という基盤からしかたち現れようがない。
 だから、法王は冒頭に言われた。
「それそのものが自立した、独立した概念の時間など、そもそも存在しない。」

 余談だが、私は子供の頃、遠足が待ち遠しかった。
 たった2日なのに、てるてる坊主を下げたりしながらも、実に長かった。
 一方で、テストの日はすぐにやってきた。
 遊びの間に詰め込みをやる2日はあっという間に過ぎ、慌ただしくテストに臨んだ。
 また、好きな人と会う約束の日はなかなかこなかった。
 カレンダーも時計も、意地悪くゆっくりと進んだ。
 それなのに、会っている時間は無情なまでに速かった。
 あの日々、あの時間は、本当に同じ長さだったのだろうか……。




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2014
05.28

【現代の偉人伝】第190話 ―沈む船から生徒を救った教師―

20140527020.jpg
〈ペットの共同墓『一心』に捧げられた作品〉

 5月25日付の河北新報は、「生徒誘導に下階へ」を掲載した。
 韓国の旅客船セウォル号が沈没事故を起こした際、乗り合わせたソウル郊外の檀園高校の教師たちが、船内待機を命じられた下生徒たちを救おうと、逃げやすい上階にいたにもかかわらず、下階へ降て避難させた。
 その結果、教師14人のうち救助されたのは3人のみ、遺体の多くは救命胴衣を着けておらず、生徒たちへ着せようとして精いっぱいだったのだろう。

「船が傾いたとき、2年2組担当のチョン・スヨンさん(25)と7組担当のイ・ジヘさん(31)は、5階の女性教師の部屋から下へ降りた。
 2人は浸水する船内でパニックになっていた生徒らに『甲板の上に逃げて』と誘導したと、生還した生徒は話す。
 チョンさんの遺体は3階で、イさんの遺体は4階で見つかったが、いずれも救命胴衣を着ていなかった。
 5階の同室にいた他の女性教師2人の遺体も4階で見つかっている。」
「4階に部屋があった男性教師4人も死亡。
 6組担当のナム・ユンチョルさんは生徒数人を非常口まで引き連れた後、再び下の階へ降りていった。
 遺体は船外で見つかったという。」

 
 江戸時代の寺子屋で用いられていた『童子教』は説く。

「三宝(サンボウ)には三礼(サンライ)を尽し
 神明(シンメイ)には再拝(サイハイ)を致(イタ)せ
 人間には一礼(イチレイ)を成せ
 君(シクン)には頂戴(チョウダイ)すべし」


 寺院や仏壇などの前では仏法僧の三宝へと3回、礼拝を行う。
 神社や神棚の前では東西南北の四方(シホウ)と、北東・南東・南西・北西の四隅(しぐう)、あらゆるところにおわす神々へと2回、礼拝を行う。
 人間に対しては一回のお辞儀を行う。
 師や君に対しては、教育や指導や指示などをありがたく、おしいただく。

 師や君すなわち指導的立場にある者はなぜ、生徒や弟子や部下などから、与えるものをおしいただかれるのか?
 それは、与えるものの内容に価値があり、役立つからだけではない。
 特定の立場を通し、他人への責任を社会的に表明しているからである。
 たとえば20人の部下を持っている人は、20人分の責任がある。
 もしも小さな会社の社長ならば、社員20人に連なる家族たちなどへの責任も間接的に負っている。
 ここを誤り、強権的な態度をとる社長は指示を決して〈頂戴〉されない。
 社長が黙って責任を果たす時、はたらく背中や、まとう空気が、社員たちに〈頂戴〉する心を起こさせる。
 立場をかけ、人生すらかけてこそ、まっとうな社長である。

 最近、関東方面に住む信徒Aさんから、お便りが届いた。
 Aさんは当初、上司を強権的だと思い、困り果てていたが、自分の心をふり返り、上司の様子をありのままに観察したところ、上司が果たしている責任の重さに気づき、それに気づかないでいた自分を恥じた。
 そして、積極的に手伝い始め、職場の空気は一変した。
 やがて上司は、靴をボロボロにすり減らしてはたらくAさんへ靴をプレゼントした。
 感激したAさんは、さらに覚悟を深める。

「早朝一番早く現場に来てゲートを開けて、入場する自動車をチェックする上司の業務を私が代行するように、事務所に申し出ました。
 上司より私のほうがはるかに職場に近く住んでいます。
 覚えることが多く、すぐには変われないのですがやがては上司の負担を軽くするために頑張るつもりでいます。
 上司は本当に助かるはずです。
 応援よろしくお願いいたします。」(Aさんの承諾のもと、プライバシーなどを勘案し、内容を一部変更しながら転載しています)

 Aさんも当山も、仏神のご加護を祈っている。

 檀園高校の教師たちは、師たるべき態度を貫いた。
 いのちをかけて責任をまっとうした。

「犠牲になった生徒の親は、教師の遺影と遺族に
『子供たちは、先生のおかげで最期も怖くなかったでしょう』
と泣きながら感謝を伝えたという。」


 過酷なできごとは人間の暗部を見せただけでなく、霊性の確かな輝きも見せた。
 生徒、教師、そして亡くなられた方々へあらためて合掌したい。




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2014
05.27

人倫を大切にする人と国家 ―『童子教』と「国益」に思う―

20140527008.jpg

 5月26日、機関誌『法楽』を作るために足を運んでくださった善男善女と一緒に読んだ『童子教』の一節である。

人倫(ジンリン)礼(レイ)有れば
 朝廷に必ず法在り
 人として礼無きは  
 衆中(シュウチュウ)又過(アヤマ)ち有り」


 三年前は、以下のとおり意訳し、ブログ「想いの記」と機関誌『法楽』へ書いた。

「人間一人一人が礼儀を大切にすれば、
 政府も必ず法に則して政治を行う。
 人間から礼儀がなくなったなら、
 社会は過ちに満ちる」

 今回は、こう読んでみた。

「個人個人が人倫を大切にして生きれば、
 社会もまた、人倫が生きる政治によって動かされる。
 個人個人が人間を尊ばなくなれば、
 そうした人間によって行われ社会を動かす政治にもまた、過ちが伴う」

 第二次世界大戦が終わって半世紀あまりが経過した今、世界中のあちこちで紛争と戦闘、そして戦争も増加しているように思える。
 そうした国々の指導者にとって、自らの立場を擁護する絶対的な共通語が一つある。
 それは「国益」である。
 特に国際的な緊張を生じさせる国々では、国内へ向かって「国益」を叫ぶことが最も政権の安定に寄与すると信じられているかのようである。
 外へ向かって発信する論理はたった一つである。
 どこの国も等しく国益を主張する、わが国もそうである、何か文句があるか。
 そして、経済力と軍事力で国益を増やそうとする。

 そもそも、国益とは何だろうか?
 国家的利益だろう。
 ――それも主張する国だけにとっての。
 人間にあてはめてみれば、自分だけの利益である。
 自分だけの利益を求めると声高に主張しながらカネと暴力にモノを言わせ、肩をいからせれば、普通は、ならず者と見なされる。
 いかに自分が代表する家や組織から支持され称賛されようと、社会的には困り者であり、厄介者でしかなく、決して賢者とは見なされず、人徳によるリーダーシップも期待されない。
 もちろん、子供たちにとって反面教師ではあっても、理想的人間像ではあり得ない。

 こうした利己主義が、国際政治の場では誰も批判し得ない思想として前提にされている。
 表面的には何やかやと議論しているようでも、実態は国益のぶつかり合いであると誰もが考えているはずだ?
 結局はそれを勝ち取った者が国内的に称賛され、権力を維持し、勝ち取れない者は表舞台から消えて行く。
 個人対個人では明らかに〈いかがなものか〉と思われる姿勢が、国際的に普ねく認められているのは、どう考えてもおかしい。
 前掲の『童子教』における人間と社会の関係を、国家と世界に置き換えてみればすぐにわかる。
 他国を大切にする姿勢のない国々だらけになれば、どうして地球に真の平和がもたらされようか。
 人間らしい生き方のできない人々を救う国際協調や、地球規模の環境対策などがどうしてできようか。

 さて、脱原発を進めるドイツでは、電気料金が2倍になったという。
 国外へ脱出する企業もある。
 そして、ドイツの周辺では、原発推進を国策ととし、ドイツ企業の誘致によって国力を増そうという国々が現れている。
 それでもドイツは揺るがない。
 そもそもドイツが脱原発へ舵を切る際に決定的役割を果たしたのが諮問機関「倫理委員会」であり、17人の委員の中に原子力の研究者が一人もいなかったことは特筆すべきである。
 ここには、いかなるエネルギーによって社会を維持発展させるかは科学者でなく、社会と消費者が決めるべきだという明白な決断がある。
 道具そのものの威力ではなく、道具を用いる人間と社会に主体性を持たせている。
 そして、「〈倫理〉委員会」は原発容認と反対がほぼ半々の人選でスタートし、真摯な議論の末に「いつかは廃止」で一致した。
 事故が起こった際の影響が世界へ及ぶリスクの大きさと、放射性廃棄物を後代へ残すことが決して克服されない課題であると見極めた。
 そして、原子力は「倫理的ではないエネルギー」であるとの結論に至ったのである。
 経済力と軍事力ではなく、人倫を旗印に掲げ、目先の国益の彼方に子孫と世界と地球の姿を見すえる人々と国家は尊敬に値する。
 ドイツには、ナチス政権がおこなった強制労働による被害者へ補償をし続け、7年前に補償事業という使命を終えた財団『記憶・責任・未来』がある。
 同財団は、今でも「未来」に関する事業として人種差別などと戦っており、そこには約6500社ものドイツ企業が出資している。

 人として人倫を大切にし、いたずらに国益を叫ばない国家に暮らしたいものである。
 このことが江戸時代の寺子屋で説かれていたことを肝に銘じておきたい。




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2014
05.26

原理と智慧 ―神がひとさじ、儒仏半さじづつ―

20140525002.jpg
〈ご縁の方々が、当山で摘んだ草によって草餅を作られました〉

 このところ、当山は、現代の日本を動かす最も大きな力に反することをいろいろと書いている。
 たとえば原発の推進、あるいはグローバリズム、あるいは成長至上主義、あるいは清潔主義などについて一孝をうながしている。
 こうしたことごとは、二つの視点から行われている。
 一つは、原理主義への懐疑であり、もう一つは、人間そのものへもっと近づこうとの思いである。

原理主義への懐疑

 私たちは、いつの時代かに、男女のいずれかとして、どこかの国の、貧しい、あるいは裕福な、あるいはそこそこの生活をしている家に、何番目かの子供として生まれ、誰かと出会い、どこかで生き、そして死ぬ。
 まことに時間的、空間的に限定された存在である。
 また、いかに世界を股にかけて飛び回ろうと、もしくは生涯を家業や一専門職にかけて過ごそうが、たかだか数十年の間にささやかな体験をするだけである。
 まことに知ることの些少な存在である。
 こうした私たちは、いつの時代も、さまざまな〈普遍〉的〈原理〉に気づき、〈普遍〉的と思われる思想や宗教も登場する。
 それを信じて生きる。
 とても愛おしいではないか。

 しかし、そうした原理のほとんどは数百年ももたぬうちに、その限定性や錯誤などが明らかになり、時代を率いる力を失い、やがて過去のものとして忘れ去られる。
 もちろん、数千年も生き残る宗教もいくつかあるが、よく観ると、普遍的であると思い込んでいるかなりの部分が実に限定的であり、個別的である。
 よく、「森の思想」や「砂漠の思想」などとして比較されるとおり、いかなるものにも必ず出自があり、特定された時間的空間的特殊性を離れては出現できない。

「~やや単純化した言い方になるが、ユダヤ・キリスト教の世界観は、砂漠ないしそれに類する環境において、基本的に人間が自然と対立的な関係にあり、――砂漠において〝自然と一体になる〟ことは死を意味する――、したがって人間と自然の間に明確な一線が引かれ、その上で『超越的な人格神―人間―自然」というピラミッド的構造が観念される~」
「~降水量に恵まれ、森林におおわれているような環境においては、むしろ人間を包み込むような自然=生命=宇宙といった観念が生まれ、自然や宇宙との一体性を志向するような、異なる自然観や世界観が形成されるだろう~」(広井良典著『人口減少社会という希望』より)

 
 だから、残念ながら、いかに〈普遍〉と思われるものであれ、いつの時代のどこにあっても〈一番〉であり、それに従ってさえいれば自分も社会もこの世も大丈夫、などという万能性は期待できないと考えるべきではなかろうか。
 原理は多様な立場や思考を横断してはたらく〈よりどころ〉としての強大な力を持つが、その原理と似たレベルの異なる原理を前にした時、〈よりどころ〉は往々にして相手を打ち負かさないではいられない〈武器〉となる。
 人間がよってたつものが、人間を戦わせかねないのである。

 原理を過たずに用いる賢者の叡智は、ここで必要となる。
 叡智は、もしかすると、原理の前進力を削ぐかも知れない。
 しかし、自他が血を流さないで一歩前進できる道を示す可能性がある。
 これまで何度か書いたが、かつて、自民党の総務会は全会一致で次のステップへと進んだ。
 いわゆる「うるさ型」や「猛者(モサ)」と称された人々が何時間も何日間も、あるいは何ヶ月もかけて徹底的に議論し、裏では派閥の親分たちが妥協点を探るやりとりをし、党としてこれで行こうと決着したならば、あとはきまりに従い、党は粛々と政策を実行できた。
 もちろん、総務会の歴史がすべて肯定されるべきであるかどうかはわからないし、多々、問題もあったろうが、原理と叡智がそれぞれ生きたシステムであったことは確かだろう。
 しかし、小泉内閣の時代に全会一致が多数決となり、叡智に支えられた文化が一つ消滅した。
 以後、原理が暴走の様相を深めているのは、自民党内だけでなく、日本全体の姿に思える。

 お釈迦様は、およそ人間の考え得る思考原理はほとんどが登場していたとされる時代に、私たちの生き方は畢竟、二つの方向に分けられると喝破した。
 一つは、徹底的に自己を抑圧して清浄たらんとする禁欲主義であり、その典型は過酷な修行生活である。
 もう一つは、徹底的に自己を解放して愉楽を求める快楽主義であり、その典型は放逸の暮らしである。
 そして、自己を正しくコントロールすることにより真の解放をめざす中道(チュウドウ)を説かれた。
 仏道は時代と共に深められ、現代では、龍樹菩薩(リュウジュ)菩薩が説かれた世俗諦(セゾクタイ)と勝義諦(ショウギタイ)を基礎的考え方としている。
 おおまかに言えば、手に取れるモノの確かさに発する真実の生き方もあり、モノは空(クウ)であるという観想に立った真実の生き方もあるということである。
 仏教は、いつの時代も真実を観て、安易に極論へ走らない姿勢で発展してきた。

 こんなバックボーンに立ち、当山は、〈原理〉へ柔軟な目を向け、歴史に磨かれた叡智を尊ぶことがとても大切であろうと考えている。
 ちなみに、『人口減少社会という希望』は、江戸時代まで日本人を支えてきた「精神的なよりどころ」をこう説く。

「●神道…「自然」や「神々」の領域に関わり、
 ●仏教…「精神」ないし「こころ」の領域に関わり、
 ●儒教…社会規範や倫理の領域に関わる」


 そして、二宮尊徳の有名な言葉を紹介する。

「神がひとさじ、儒仏半さじづつ」


 日本人の生き方は、神道が半分、儒教と仏道が4分の1づつといった案配でちょうどバランスがとれるのではないかというのである。
 聖徳太子もお大師様も、この三つを尊び、すべてを学ぶように指導した。
 原理に走り出している日本の空気に違和感を感じられる方は、原理と叡智について、あるいは、あらためて神道、仏教、儒教を全体的に考えてみられてはいかがかだろうか。




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2014
05.25

肩の力を抜き、心に薫風と広い視点を ―平成26年6月の運勢―

20140525008.jpg
〈『法楽農園』に立つ守本尊様の足元の草取り奉仕をしていただきました〉

 平成26年6月の運勢と生き方です。

 今月はすなおさを一番にし、肩の力を抜き、心に薫風を抱いて歩めば、人の世に住むありがたさを身に沁みて感じられる体験が待っていることでしょう。

「水無月(ミナヅキ)の色整ひし雑木山 川上真太郎」


 気温が上がり雨も降るこの時期になると植物が急速に伸び始め、五月に兆した夏の活気は大きな勢いとなって天地を包みます。
川上真太郎は雑木に覆われた山にそれを感じました。
 高名な樹木も名の薄い樹木もそれぞれなりに幹や枝を伸ばす雑木をとりあげたところが秀逸です。
 人間社会も、生きものたちのいのちが鎖のようにつながっているこの世も、いわば雑木林です。

 ところで、皆さんは自分の腸内にさまざまな細菌がいるだけでなく、身体全体が無数の細菌によって覆われていることをご存じでしょうか?
 人間と共に生きている細菌全体の数は身体を構成する細胞の数よりも多いのです。
 害になる細菌が勢力を強める場合もありますが、普段は、よい細菌類が戦いに勝つので私たちは生きていられます。
 なお、盲腸について興味深い事実が明らかになりました。
 何かあった時に、よい細菌が避難する場所としての役割も果たしているそうです。

「パスツールは牛乳やその他の食品中の細菌を殺すことを熱心に推奨したが、その一方で、人間の体内や体表にいる細菌は重要で、それなくしては人間は生きていけないと考えていた。
『細菌と人間は相互に依存して進化してきたのであり、腸内の細菌を殺せば、人も殺すことになる』と彼は述べた。
 つまり、腸内の細菌と人間は『絶対的相利共生』の関係にあるというのだ。」(以下の引用文はロブ・ダン著『わたしたちの体は寄生虫を欲している』より)

「ウィルスであれ、細菌であれ、もっと大きなものであれ、病原体はいたるところに存在するのだ。
 人間の力で無菌ユートピアを築けるかも知れないなどという考えは、自ずと崩れ去った。
 無菌装置をどんどん大きくするということ(あるいは、大きな家を建てて、大量の抗菌剤で満たすこと)はできるが、無菌状態に保とうとする領域をおおきくすればするほど、細菌の締め出しは難しくなる。
 さらにまずいことに、レイニアーの無菌装置に忍び込んだ種には害のないものもあったが、私たちが抗菌ティッシュや抗菌スプレーで築く防壁をくぐり抜けてくるのは、性質の悪い菌がほとんどなのだ。」

「ほとんどの時代、とりわけ凶作の折には、細菌が補ってくれる栄養分の多寡が、生死を決めたはずだ。
 仮に細菌がいない状態で、食糧を集めるのに毎日10時間費やすとすれば、細菌がいれば7時間、ことによると6時間で足りることになる。
 細菌は、食べものからより多くの栄養を吸収できるようにわたしたちの祖先を助けてきた。」

「そもそも問題なの菌が侵入してくることではなく、わたしたちが周囲に無菌カプセルを作ろうとしていることなのだ。
 細菌の大半は、わたしたちにとって有益なのだ。
 パスツールは正しかった。
 細菌が存在しなければ、人類の祖先は飢えと病気で死に絶えていただろう。
 そして今日でもわたしたちは、細菌がいなければ、重要な栄養素を吸収できず、病気になるリスクも高くなるはずだ。
 今のように抗生物質を濫用していると、近い将来、吸収できる栄養は少なくなり、また、病原菌に胃や腸を少しづつ浸蝕される恐れがある。
 いずれわたしたちは、特定の細菌をうまく操るようになるかもしれないが(ビタミンKを作る菌は取り入れ、肥満化を促す細菌は排除する、というように、それはまだ先のことだ。」


 引用が長くなりましたが、私たちの身体そのものが細菌という生きものの巣であり、細菌という生きものはまぎれもなく、私たちにとって「絶対的」に「相利」関係にあり

共生」するしか生きようのないパートナーなのです。
 この本は、寄生虫や細菌を絶滅させれば健康になれるという錯覚を離れ、人間が自然のバランスの中でしか生きられない生きものであることを再認識し、アレルギーなどを克服しようという最新の科学が示す方向性を教えています。

 さて、アフリカに発生した人類が地球上へ生活の場を広げてきた歴史は、それぞれの風土なりの生き方を形づくってきた歴史であり、同時に、自然から遠ざかる歴史でもありました。
 風土に応じて神や仏が出現し、生産活動に応じて自然から離れる度合いも異なり、宗教の多様性と、科学文明の進展速度の遅速が発生しました。
 そして私たちは宗教において頑なになり、排他的になり、争い、戦争まで起こしています。
 先進国と後進国の凄まじい格差、経済力と軍事力を背景にした侵略や簒奪は、抜きがたい憎悪と対立を生みました。
 科学の発達は病気の克服や飢餓からの脱出などめざましい成果を上げましたが、一方で、人間が多様な者として生きられる可能性を持った存在であり、自然の一部としての生きものであることが忘れられてもきたのです。
 そして、この方向性は今や、人類を何度も絶滅させるに充分な原爆を用意させ、もしも事故が起こったならば国境を越えた大惨事となる可能性をはらんだ原発の世界的林立を進展させています。
 また、各種アレルギーやクローン病など、原因がつかみにくく、根治しがたい身体の異変に悩まされるようになりました。
 一部の科学者は「免疫システムが正常に機能するには、『不潔な』寄生虫や細菌の存在が必要とされるので、清潔すぎる生活はよくない」という「清潔仮説」を唱えています。

「現代人が抱える消化管の問題は、免疫システムの異常がもたらすもので、免疫システムが異常になったのは、ともに進化してきた寄生虫がいなくなったためだ」


 私たちは、私たちの姿をすなおに見直す必要がありそうです。
 自分は日本人として米を食べ、日本語を話し、仏神を尊んでいますが、もしもタンザニアのハッザ族に生まれたならこんな生活をしていたはずだと想像してみるのです。

「朝起きたなら、それだけで幸せです」
「不眠の体験はありません」
「私は家族にとって価値のある人間です」
「どんなに空腹でも、獲物を独り占めすることはありません」

 このように生きていたとしても不思議ではありません。
 地球上の人々は誰でもが膨大な過去世の個人的・社会的因縁を背負い、今を〈そのように〉生きているのであり、そのことはまったく等しいのです。
 こうした視点からすれば、他人の宗教を否定したり、他国を侵略したりするいかなる根元的理由も見つけられません。
 また、私たちの身体を、注油したり分解掃除をしたりして効率よくはたらかせる〈機械〉ではなく、無数の生きものたちと共生している〈自然〉と感じ、大自然を故郷とも親とも観じるならば、心身も生活も抑えるものから解放され、いかにゆったりと楽になることでしょうか。
 
 肩の力を抜き、心に薫風を抱き、広い視点を持ってみようではありませんか。




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2014
05.24

大悲心に薫ずれば大願(ダイガン)すなわち応ず ―哀しさ、悲しみ、そして抜苦与楽へ―

20140523055.jpg

 お大師様は、『大日経』のおおまかな説明の中で説かれた。

大悲(ダイヒ)心に薫ずれば大願(ダイガン)すなわち応ず」


 根本仏である大日如来は、人々の心に遍く悟りの智慧が宿っているにもかかわらず、それに気づかないで自ら苦を招きつつ、ままならぬこの世を生き死にし続けている様子を眺め、大いなる悲しみを持たれた。
 そこに、究極の救いを与えたいとの大いなる願いが起こった。

 大日如来とは、お釈迦様が悟りの果てに行き着いた地点で出会った心の核である。
 核の輝きがこの世を照らせば、人々の生き死にが何とも哀れに見え、心に涙の雨が降った。
 どう映ったのか。

「四匹の蛇が自分を害しているのには驚かず、六人の賊が自分を攻めて犯すのを怖れない。」(『弘法大師空海全集』より)


 四匹の蛇とは、地・水・火・風というこの世と、私たちの身体と心とを構成する要素である。
 たとえば地で表される骨格が傷つき、地のように頑な心が対立を生んでも、水で表される血液が濁り、心が水のように清らかでなくなっても別に驚きはしない。
 六人の賊とは、私たちが認識する形や音や香りや味や心に浮かぶ想いである。
 それらを自分がコントロールできず、向こうからやってくる刺激に襲われるがままになっていても怖がらない。

「根元的な無知に酔いつぶれ、(貪り、怒り、癡《オロカ》さの)三つの毒のために意識を失っている。」


 すべては空(クウ)であるという無常の理をそのまま正面から受けとめられずに、オタオタしたり、打ちのめされたりし、あるいは貪り、あるいは怒り、あるいは道理に合わぬ気ままな考えに任せつつ、日々、暮らしている。

「身体を損なう風や邪(ヨコシマ)な魔物のせいでもないのに狂った言辞をはき、仏の心はすなわち我が心であり、我が身体は仏の身体と別ではないということを知らない。」


 根本的な智慧を発揮できていないので、言葉に真実や思いやりが伴わず、心も身体も本来、み仏と同じであるという真理にも気づかない。

「むなしく宝の珠をいだいて貧しい村をさまよい歩き、いたずらに極上の味を包んだままにして、常に毒薬を飲んでいる。」


 持っている仏心という宝ものに気づかぬばかりに、真実が得られにくく実りを得られない世界に彷徨(サマヨ)い、心身を潤す甘露の味わいを知らずに、心身を傷める毒薬を自分から求め、飲んでいる。

 こうしたありさまに、お釈迦様は「あわれ」とおぼしめした。
 あわれとは、そもそも、「あ」が「われ」であるという、自他を一如(イチニョ)と観る視点がもよおさせずにはおかない感情である。
 頭を垂れ、雨に濡れながらとぼとぼ歩く野良犬が視界に入り、〝……あれは自分だ〟と感得できた瞬間にこそ、哀れと思い、真の憐れみが生ずる。
 薄汚れた着物をまとって歩道橋の下にうずくまり、眠るともなく動かずにいる人を〝自分だ〟と感じとれないところには、哀れみも憐れみもない。
 電撃的体験なしに決して「大悲」はつかめない。
 み仏は、いつも大悲にある存在である。
 だからこそ、上記のありさまがありのままに観えた。

 この「大悲」は必然的に「抜苦(バック)」すなわち、対象から苦を抜かないではいられず、見捨てられない思いを招く。
 そこから必然的に「大慈(ダイジ)」すなわち「与楽(ヨラク)」の思いが起こる。
 人々へ、そして生きとし生けるものに対するみ仏の慈悲心はこのような与楽抜苦を内容としている。
 抜苦与楽こそが、み仏の「大願」である。
 私たちが、み仏の子としての真姿を行き、自他へ本当の幸せをもたらしたいと願うなら、み仏に帰依し、み仏の教えを学び、「大悲」が生ずる清浄な心にならねばならない。
 若き日に老人と、病者と、死者とを目にしたお釈迦様が、なぜ、モノや地位に満たされた生活を捨てて人の道の探求へと生き方を変えたのか、何となく想像できるのではなかろうか。




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2014
05.23

新しい瞑想会を始めます ―新法楽塾(第一回)―

20140523064.jpg

 正しい姿勢と呼吸をもたらす清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観まで、正統な瞑想法を伝授します。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 足腰などの身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 なお、イスもご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。

 どうすれば、心願は成就するのでしょうか?
 この答として、今から約900年前、興教大師(コウギョウダイシ)は『末代真言行者用心』に明示されました。 

「深く信じること。
 これが答である。
 深く信じるとはいかなる状態か?
 長い時間をかけて精進し、すぐには結果が得られなくても、伝授された修行法を疑わず、怠らない態度である。
 こうした地道な努力が継続できる人はやがて、必ず、願いの叶う時を迎える。
 
 なぜ、正しい方法がすぐに結果をもたらさないかという点についてはさまざまなケースがある。
 あるいは、ご本尊様が行者の心を試すために。
 あるいは、守護神などが、行者の信心が深いか浅いかを試すために。
 あるいは、過去世から積んだ罪業が障害となるために。
 あるいは、天魔が邪魔をするために。

 こうした因縁をよく考え、疑わず、まっすぐに精進せねばならない。」


・指 導  住職遠藤龍地
・日 時  6月1日(日)午後4時~午後5時30分
・場 所  法楽寺講堂
・参加費  1000円
・申 込  道場を準備する都合上、6月11日(水)午後5時までに、電話やファクスやメールなどで必ずお申し込みください。また、イス席をご希望の方は必ず事前にお申し出ください。
・送 迎  午後3時30分に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
05.23

守本尊様と厄年のすべて(その3) ―第五十二回寺子屋『法楽館』を開催します―

20140522049.jpg

 6月の寺子屋法楽館』は、守本尊様に関するお話の最終回です。
 守本尊様は誰にとっても身近なみ仏なのに、どういう方なのか、どう祈ればよいのかといった肝腎なことごとについては、あまり知られていないのではないでしょうか。
 とてもわかりやすい経典を一緒に読み、正統な祈り方もお伝えします。
 質疑応答の時間もありますので、どうぞふるってご参加ください。

不動明王

「正しき道を歩めども○苦労ばかりで報われぬ○哀れ悲しき人々を○必ず救う慈悲心と○実行力を秘めしこと○信じひたすら○帰依(キエ)すべし」


 お不動様は、正しく生きていてもなかなか報われない人々を必ず観ておられ、救いの手を差し伸べられます。

「われら衆生(シュジョウ)の一切の○貧(ムサボリ)・瞋(イカリ)・癡(オロカサ)の○三毒はじめ煩悩(ボンノウ)と○苦悩もたらす障害を○大力(ダイリキ)以(モッ)てことごとく○破壊し尽くす不動尊○威怒(イキオイ)以(モッ)て仏法を○守護(マモ)る尊(ホトケ)と言うならん」


 お不動様は、私たちの迷いと苦しみの元を鋭い剣で断ち切り、この世に人の道が実現するようご守護くださいます。

文殊菩薩

文殊菩薩は人々の○過去に犯した罪障(ザイショウ)も○その神通(ジンツウ)の力にて○消滅せしめ人々が○地獄の猛火に堕(オ)ちること○無き働きを示すなり」


 文殊様は、私たちが過去に犯してどうにもならない罪科もその悪影響も、強大な神通力で消滅させ、地獄行きとならぬようお救いくださいます。

「或(アル)いは文殊は貧窮や○病気の人に身を変えて○この世に現われ人々が○真(マコトと)の慈心(アイ)と悲心(オモイヤリ)○その心から福業(ヨキコト)を○なさんとするかを試(タメ)されて○福祉の心を証(アカ)されり」


 文殊様は、貧しい人や病気になった人に変身し、私たちがきちんと思いやりの心を持っていきているかどうかを試し、人々のためになる心の尊さをお教えくださいます。

・講 師  住職遠藤龍地
・日 時  6月14日(土)午後1時30分~午後3時30分
・場 所  法楽寺講堂
・参加費  1000円
・送 迎  午後1時に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。




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2014
05.22

貧しくても親のご葬儀を行い織姫に救われた話 ―寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その71)─

20140522057.jpg

 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。
 今回は、きちんとお葬式をした孝行息子と織姫のお話です。

○董永(トウエイ)の故事

 これは、中国の『孝子伝(コウシデン)』にあるお話です。
 
 董永(トウエイ)という貧しい小作人(コサクニン…田畑を地主から借りて農業を営む農家)は、毎日、父親を荷車へ乗せて歩きながら農業にいそしんでいました。
 父親が亡くなり、我が身を主人へ売って借りた銭十貫で礼法に従ったお葬式を行いました。
 弔いのすべてを終えた帰り道、とても美しいご婦人と出会います。
 その人は妻になりたいと願うので、二人で主人のもとを訪ねました。(この時代の小作人は、何でも地主へ相談せねばならなかったのです)
 主人は、絹300匹(ヒキ…1匹は2反分の量)を織り上げたならば、董永の借金は棒引きにし、女性の願いも聞き入れようと答えます。
 妻は、たった1か月で織ってしまい、驚いた主人は、約束通り二人の願いを許可しました。
 やがて妻は自分が天の織女(オリヒメ)であり、天帝の命により、その孝行へ銭をもって報いたのだと告げ、天へ帰りました。
 なお、『列仙伝』に、董永の子供である董仲(トウチュウ)は織女(オリヒメ)が生んだ子供であるとの記述があるそうです。

「董永(トウエイ)一身(イッシン)を売りて
 孝養の御器(ギョキ)に備(ソナ)う」


 仕事柄、ご葬儀については、さまざまな人間模様を観てきました。
 たとえば、仙台市のAさんは、生活保護を受ける身でありながら、自分と老いた親のために毎月、共同墓の契約金を分割で納め、ご葬儀代も貯金しておき、きちんと役割を果たされました。
 100才近い親を送り、身内の方々へささやかな食事もふるまうAさんは、人生の一大事を成し遂げた晴れやかで神々しい相貌(ソウボウ…顔つき)を見せました。
 我が子の堂々とした姿に、親御さんもきっとあの世で喜び、これ以上ない安心を得られたことでしょう。
 おかげさまでしたと頭を下げるAさんは生き仏と思え、こちらの頭はAさんよりも低くなりました。
 人の道をまっとうする意志の力、成し遂げた人の美しさには心底から敬服させられます。

 貧しい董永が我が身を売ってでも親のご葬儀を行ったことは理解できます。
 それが天帝の目にとまり、望外のできごとが起こったのも因果応報と感じられます。
 私たちは決して目先の損得に流されるだけの存在ではなく、仏性(ブッショウ)を存在の核としているという確信が深まります。
 当山では、お大師様の教えと伝法に則り、このように瞑想します。
「自分の心とは何でしょう?
 この満月のように澄みきっているのが自分の本当の心です。
 月は、欠けたり、雲に隠れてしまうことがあっても、月そのものは、変わることなく煌煌と輝いています。
 同じように、自分の心も本来、清らかなものなのです。」
 遙かな昔、董永は人の道をまっとうしました。
 そして、世知辛い今の世で、Aさんも人の道をまっとうしました。
 満月のような心に従ったのです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
05.21

9割の人々が指示に背き原発事故の現場から離脱していた ─東北関東大震災・被災の記(第150回)─

20140521原発事故現場について3

〈朝日新聞様からお借りして加工しました〉

 5月20日付の朝日新聞は、「原発撤退は所長命令違反」を掲載した。
 平成23年3月15日、福島第一原発にいた所員の9割(約650人)が所長命令に背き、第二原発へと逃げていた。
 しかも、この事実は、政府事故調査・検証委員会で明らかになっていたにもかかわらず、これまで伏せられたままだった。
 いざという時に指導的立場を果たさねばならないグループマネジャー(通称GM)すらもが内規に反して現場を離脱していた。
 以下、記事を追ってみる。

「~15日午前6時15分ごろ、吉田氏が識をとる免震重要棟2階の緊急時対策室に重大な報告が届いた。
 2号機方向から衝撃音がし、原子炉圧力抑制室の圧力がゼロになったというものだ。
 2号機の格納容器が破壊され、第一原発の所員約720人が大量被曝するかもしれないという危機感に現場は包まれた。
 
 とはいえ、緊急時対策室内の放射線量はほとんど上昇していなかった。
 この時点で格納容器は破損していないと吉田氏は判断した。

 午前6時42分、吉田氏は前夜に想定した『第二原発への撤退』ではなく、『高線量の場所からは一時撤退し、すぐに現場に戻れる第一原発構内での待機』を社内のテレビ会議で命令した。
『構内の線量の低いエリアで待機すること。
 その後異常でないことを確認できたら戻ってきてもらう』

 待機場所は『南側でも北側でも線量の落ち着いているところ』と調書には記録されている。
 安全を確認次第、現場に戻って事故対応を続けると決断したのだ。

 東電が12年に開示したテレビ会議の録画には、緊急時対策室で吉田氏の命令を聞く所員が映り、幹部社員の姿もあった。
 しかし東電はこの場面を『録音していなかった』としており、吉田氏の命令内容はこれまで知ることができなかった。」


 前日の14日、3号機で起こった水素爆発により、現場は地獄のようになったにもかかわらず、氏も部下たちも踏みとどまっていた。
 その頃を回想した吉田氏の言葉である。
「原子炉の冷却作業をする人間は撤退できない」
「基本的に私が考えていたのは発電所をどうやって安定化させるかということ。
 現場で原子炉を冷却する作業をする人間はもう撤退できないと思っていた。
 本店にも撤退ということは一言も言ってない」
「(指揮を執っていた)免震重要棟の人間は死んだっておかしくない状態だった」
「これからもう破滅的に何かが起こっていくんじゃないか」
「現場に飛び込んで行ってくれた」
「私が昔から読んでいる法華経の中に登場する、地面から湧いて出る菩薩のイメージを、すさまじい地獄みたいな状態の中で感じた」

 14日の夜には2号機の冷却が困難に陥り、吉田氏は細野豪志首相補佐官に電話をかけている。
「炉心が溶けてチャイナシンドロームになる」
「水が入るか入らないか賭けるしかないですけれども、やります。
 ただ、関係ない人は退避させる必要があると私は考えています。」
「1号、3号と水がなくなる。
 同じようなプラントが三つでき、すさまじい惨事ですよ」
 吉田氏は東電へも伝えた。
「2号機はこのままメルト(炉心溶融)する」
「放射能が第二原発に流れ、作業できなくなる」

 吉田氏は事故対応とかかわりが薄い人々を撤退させようと準備していた。

「下請け作業員を帰らせ、第二原発に移動するバスを手配した」


 そして、運転手や燃料にまで心を配った。
 だから、GMを含む社員たちの大量退散という事実を知った吉田氏は「しようがないな」と思ったという。
 そして命じた。

「まずGMから帰ってきてくれ」


「第一原発にとどまったのは吉田氏ら69人。
 第二原発から所員が戻り始めたのは、同日昼頃だ。
 この間、第一原発では2号機で白い湯気状のものが噴出し、4号機で火災が発生。
 大量離脱の後、放射線量は急上昇し、正門付近で最高値を記録した。」


 この事実をどう考えるか。
 人間が人間である以上、「しようがない」のだろう。
 だから、〈目減り〉を想定しない危機管理は本当の危機管理にならない。
 しかし、こと原発に関しては、逆に〈水増し〉としか思えないような計画が堂々とまかり通ろうとしている。
 たとえば、こんな案を読むとあきれてしまう。
原発事故が起こった際は、一度に逃げ出せば道路が渋滞するので弱者や地域性などを勘案し、逃げる順番を決めて、非難しようとする人々の動きを管理しよう。
 そうすれば~時間以内に地域住民は全員が安全に脱出できる。
 だから、事故が起こっても大丈夫」
 作成者も机上の空論であることはわかっていよう。
 しかし建前上、こうした案でも提示しなければ大量の被曝者が出る危険性を否定できず、原発は再稼働できない。
 だから安全性の水増しを行う。

 せめて原発に関する欺瞞はもう、やめようではないか。
 原発事故における避難は、バーゲンセールのデパートや電車を待つホームで列を崩さずに並ぶようなわけにはゆかない。
 東日本大震災のおりに、人々はいかに行動したか。
 献身的な動きを見せた菩薩(ボサツ…生き仏)たちがおられた一方で、誰もが口をつぐむようなおぞましいできごとも山ほどあったのは周知の事実である。
 本当にいざとなった時、いかに几帳面さで世界に冠たる日本人であろうと、公共性を重んじ冷静沈着に行動しようとする心のはたらきは確実に〈目減り〉する。
 そのことは誰のせいにもできない。
 しかし、そうした事実を知っていながら〈ないこと〉にし、辻褄(ツジツマ)合わせによって都合のよい主張をすることの責任は、一身や一社や、あるいは一内閣などで負いきれないほど重いと言えるのではなかろうか。




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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
05.20

「幸福な王子」の真実 ―藤原ウミハル著『図書館の主』を読んで―

20140519032.jpg

 オスカー・ワイルド原作の『幸福な王子』は、最も読まれている絵本の範疇に入ると思われる。
 子供たちに支持される理由はいくつもある。
 自分を飾る宝石や金箔などをすべて困っている人々へ分け与える王子の思いやり。
 王子の優しさに打たれ、エジプトへ帰らず貧しい人々を助け、力尽きてしまったツバメの献身。
 誰にも気づかれなかった善行を観ていて、王子の心臓とツバメの亡骸を天国にいる神様のところへ持っていった天使。

 しかし、藤原ウミハル著『図書館の主(アルジ)』を読んで驚いた。
 原作には童話の絵本にふさわしくない深刻な記述があるという。
 
 王子のみすぼらしい姿とツバメの死骸を目にした為政者たちはこう言った。
「幸福の王子は何てみすぼらしい姿になったんだ」
「しかも足元では鳥まで死んでいる」
「われわれはここで鳥は死ぬべからずというおふれを出さなければ」
「王子の像は美しくなくなったから役には立たない」
 そしてさっそく王子の像を取り壊したが、次の彫像を誰にするか、自分の像こそがふさわしいと言い張る人々の間でいまだに決着はついていない。

 早世した王子を悼むために建てられた像を簡単に取り壊し、あとは造り替えず、あわよくば自分の像を建てさせようとするなど、あまりにも醜い。
 ここには、見てくれが〈美しい〉モノを造っただけでこと足れりとする為政者の偽善性や、自分への称賛を求める俗物性が露呈されている。
 鳥たちへ向かって「ここで死んではならない」とお触れを出そうとする部分は滑稽だが、人の死を病院へ閉じ込め、老苦・病苦・死苦を隔離し、キラキラしい空間で過ごそうとする都市文明への皮肉も感じられる。
 そして、「美しくなくなった」像は「役に立たない」とする浅はかさ。
 時間の経過がもたらす〈滅び〉をまとうものの美しさなどには心のアンテナが反応せず、誰でもが等しく〈見目麗しい〉と感じるであろうと期待される金や宝石で飾る地点で止まった感性。
 オスカー・ワイルドは厳しい。

 また、宝石や金箔を分け与えられた人々の誰もが救い主の正体を考えず、王子の像が誰からも感謝されず、いとも簡単に取り壊されるのも異様だ。
 救われた人々は、盗んだと嫌疑をかけられる虞(オソレ)があるから知らん顔をしているのだろうか。
 それともオスカー・ワイルドは、世間などそんなものだと突き放しているのか。

 神様から「あの町でもっとも尊いものを二つ持ってきておくれ」と指示された天使は、鉛なのにどうしても溶けなかった王子の心臓とツバメの亡骸を届ける。
 神様は言う。
「お前は正しく選んだな。
 わたしはこの天国の庭で小鳥には永遠に歌をうたわせよう。
 幸福の王子には私をほめたたえさせよう」
 これで王子とツバメは報われ、救われたのだろうか?
 小さな子供ならば、天使が登場し天国へ召されたのなら、それだけで、めでたしめでたしという気持になるだろうが、ある程度の年令に達した子供には釈然としないものが残るだろう。
 まして大人であれば……。

 藤原ウミハルは、物語と離れた場面で登場人物に言わせている。
「こんな汚ねぇ世の中で、王子もツバメも自分の信じたモン貫いたんだ。
 汚ねぇからこそそれがより輝いて見えんだよ」
「天国に行けようが行けまいが、すくなくともツバメは幸せだったと思えるだろ」

 ところで、『図書館の主』はマンガである。
 日本のマンガ文化は世界に誇り得る。
 嬉しくも新鮮な体験をした。
 がんばれ!藤原ウミハル氏。
 がんばれ!『図書館の主』。
 がんばれ!日本のマンガ。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
05.19

眠気憑き大きく蜘蛛の這ひて来る ―忍び寄る物の怪―

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 明治20年生まれの長谷川かな女(ジョ)は、大正時代の代表的俳人(紫綬褒章受章)と称された。

「眠気憑(ツ)き大きく蜘蛛の這(ハ)ひて来る」


 物の怪(ケ)が近づいてくると、冷気がひんやりと漂い、やがて眠気に襲われる。
 物の怪には身体の温かさがないので、必ず冷気を伴っている。
 そして、相手の心身へ乗り移るためにそのはたらきを麻痺させようとする。
 いのちの勢いが奪われ眠気を催すと、やがて滝壺へ落ちるような抗い難さで意識が遠ざかる。
 眠気が「憑く」とは、こうした状態である。

 そこへ巨大な蜘蛛が近づく。
 もしも目に見えていたとしても、金縛りのような自分には追い払うこともできない。
 距離が短くなるに従い、徐々に大きくなる蜘蛛は鋭い恐怖感を催させる。
 迫る危機への警報が鳴っているのに叫びが声にならず、どうすることもできない。

 もしかすると、蜘蛛は心へ顕れているのかも知れない。
 この世とあの世の境界のように朦朧(モウロウ)とした意識内に、なぜか、蜘蛛が姿を現す。
 ちょこまかと動くのではなく、現れたと思う間もなくのっしのっしと意識の中央へ迫り、絵画の遠近法と同じく、点だった姿がたちまち巨大化する。
 どうすることもできず、心身は急速に固まり、縮む。

 蜘蛛が持つ独特の怖さ、特に女性が怖がる心理を見事に表現し尽くしたと言えるのではなかろうか。
 こんな句もある。

「地の底に蟲(ムシ)生きてゐる枯野哉(カナ)」


 私たちは「枯れ野」を眺めればいのちの動きはほとんど感じられない。
 植物が枯れ果て動物の姿もなく、生きものたちが、かつて活躍していた残骸(ザンガイ)しか見えない視界の底に虫のうごめきを感じとれるとは驚嘆するしかない。
 『俳句研究』の編集長高柳重信が「現代の女流の最高峰」と評したのも頷(ウナヅ)ける。

「蝶のやうに畳に居(オ)れば夕顔咲く」


 蝶々が畳にとまっているのではなく、自分が蝶々になっている。
 その視点から、咲いた夕顔を観ている。
 坐って〈居る〉自分の視点は高く、縁側の向こうに咲く夕顔を見下ろしているはずなのに、蝶々になってしまった身からすれば、視線はやや上がる。
 二重の視点から観られている夕顔……。

 最後に代表作と思える一句を記しておきたい。

「呪ふ人は好きな人なり紅芙蓉(ベニフヨウ)」


 紅色の、あるいは紅を含んだ芙蓉には、松井冬子の絵画に通じる〈裏返った〉生々しさがある。
 人を好きになれば心に「祝い」が生じる。
 愛(イト)おしいと思う切なさはいのちの躍動そのものである。
 そもそも、「祝う」は神へ「祈る」の意がある。
 祈りの祝詞(シュクシ)が神ではなく人間へ向かう時、口から出る言葉は、一瞬にして「呪い」になって何の不思議もない。

 切なさは憾(ウラ)みと紙一重である。
 一緒にいられない、一体になれない、時間も空間も二人を隔てている。
 この耐え難い物足りなさを憾(ウラ)みという。
 憾(ウラ)みから発する言葉が呪いとなる。
 長谷川かな女は、「好き」からではなく、「呪い」からこうした心理を詠んだ。
 まことに傑出した俳人である。

「花芙蓉妻の病状軽からず 末益冬青」
「気にかかる人の裏木戸白芙蓉 鳴海清美」

 私たちは、こうした芙蓉ならば、すっと心へ入る。
 長谷川かな女にはまずドキッとさせられ、だんだんと驚きが融けると共に、詠まれた世界が貌(カオ)を見せ始める。
 17文字で異界をつかみ、私たちへ突きつける力には、ただただ敬服・降参するのみである。




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2014
05.18

他人を変える祈りが自分を変えた話

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 以前、職場の人間関係に悩み、同僚たちのためにも相手の人間性が変わって欲しいと切実な願いをかけたAさんは東京に住んでいる。
 Aさんは『法楽の会』と『ゆかりびとの会』へ入会し、遠くにいながら勉強し、祈り続けてきた。
 久方ぶりのメールにはこうあった。

「上司は朝一番の電車に乗り、工事現場については門を開けます。
 そして仕事が終われば、一番最後に門を閉めて帰ることになります。

 上司は、一番多くの種類の仕事をする現場の人間です。
 上司は、メンバーがミスをすればお客様に叱責を受けなければならないのです。

 上司は私達の体調を心配して、飲み物をくれたりしました。
 現場では、笑顔のことが多いかたです。

 上司は疲れていたと存じます。

 仕事を辞めたいと思っても辞められない立場のはずでございます。

 怒鳴り散らしたかったに違いありません。

 私達は上司の人格に問題があると考えて毛嫌いしました。
 相手の立場に立っておらず、感謝さえしませんでした。」


 そして、Aさんの短い文章は「上司の役に立ちたい」と結ばれていた。
 転迷開悟(テンメイカイゴ)とはこのことである。
 自分の心一つで、この世はじりじりと我が身を焼く地獄から、向上の機会に満ちた極楽へと姿を変える。

 もちろん、この世には、戦争や差別など、個人的な力だけでは抗しきれないほど巨大な社会的業(ゴウ)の集積が生む地獄はある。
 しかし、それもまた、解消しようとするならば、我が身がつくる業(ゴウ)を省みるところにしか真の端緒はない。
 戦争に対する想像力の欠如や争いへと傾斜する修羅の心や、あるいは自分よりも弱い立場の者へ対する高慢心や品のない自己顕示欲などを恥じ、懺悔した上で社会的業へ立ち向かえば、その刃には清浄な光が宿る。

 Aさんは確かに菩薩(ボサツ)の道を歩み始めている。
 Aさんの慈光は必ずや上司を変え、同僚を変えることだろう。
 お釈迦様やお大師様に会われた方がきっと、開ききっていない心の眼が見開かされたであろうように。

 北原白秋の『(サザナミ)は』を思い出した。

は誰が起すの。
 葦の根の青い鴨だよ。

 鴨の首月をあびるよ、
 みづかきがちららうごくよ。

 くろい影なんでうごくの。
 でこぼこの水の揺れだよ。

 おや、鴨はどこへいつたろ、
 波ばかりちららひかるよ。

 ほいさうか、鴨が見えぬか、
 あまり照る月のせゐだよ。」


 鴨は誰であろう、月は誰であろうか。




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2014
05.17

宗派を変える ―墓地を移したいのだけれど―

20140428018.jpg
〈『木香舎』増野繁治師の聖地〉

 墓地の移転を希望する方のご相談は絶えない。
 最も気になるのが、菩提寺の宗派と移転先の宗派の違いである。
 自分で見つけた寺院の姿勢に納得できたから帰依し、今後のことも考えて墓地を移したいと思うようになったが、たまたま、これまでお世話になっていたところと別の宗派だっというわけである。
 ただし、普段、菩提寺との交流はなく、菩提寺の指導で経典を読んだり写経したり、寺子屋へ参加して銀論したり、あるいは人生相談に行くといった関係はない場合が多い。
 だから、当然、菩提寺のご本尊様がどなたであるか、そこで毎日唱えられている主たる経典には何か説かれているかといったこともご存じないケースが少なくない。
 それでいても、これまでと変えることについては「大丈夫かな?」といった漠然とした不安があり、郷里の親戚などからもいい顔をされず途方に暮れる。
 こんな時に考慮すべきポイントを大まかに整理してみよう。

○お墓を守ろうとする人が納得・安心できなければ救われない

 最も大事なのは、手を合わせ、ご先祖様を守ろうとしたり、自分が将来、あの世へ旅立とうとする時に、本当に安心なのかという点である。
 そこがいいかげんでは、年忌供養なども形式的な儀礼に堕し、ご先祖様に申しわけないだけでなく、守る人々にとってもみ仏の教えは生かされず、向上する機会を失う。
 もちろん、自分がどのようにあの世へ旅立つかという点について、どうでもよいと考えられる方はあまりおられないことだろう。
 死ねばゴミになるだけだから自分が死んだ後は〈この世の人任せ〉でしかなく、適当なところへ撒いてくれと考える方は、自分の父母や祖父母や子供や孫や親友や恩人についても、〈生きている間だけのこと〉であり、ゴミになったら関係ないと考えているのだろうか?
 誰かの死を本当に悼(イタ)む人、死の厳粛さと向き合う人は、その人にまつわるものも決して疎かにはできない。
 たとえば孫が急死した場合、孫が遺した写真を平気でゴミ箱へ棄てる祖父母がいるとは思えない。
 死者に〈まつわるもの〉の、最も最たるものがお骨である。
 私たち、この世に生きる人だけでどうにかできる範囲を超えているからこそ、仏神のお力にすがって写真はお焚きあげとし、お骨は丁重に弔う。

 亡くなった人とのあの場面この場面を思い出し、身近な人の死を想像し、死ぬ自分をリアルに考えてみる時、死の厳粛さ、絶対的な力に圧倒される。
 自分の無力さに気づく。
 想いが行き詰まる時、仏神の世界へ心が開く。
 形式的な儀礼の次元を超えた世界での安心を希求する。
 縁となっている寺院や宗教者は信じられるか?
 答は自分で出すしかない。

○亡き方々にとって最も安心な状況を求めたい

 法話において「自分があの世へ行き、お位牌の陰からこの世を眺めていることを想像してみてください」と申しあげる場合が多々ある。
 御霊の視点、御霊の心になってみると、ものごとの考え方が広がる。
 眼から鱗(ウロコ)が落ちる。
 さて、A宗で弔われていた墓地からB宗の墓地へ移される自分にとって一番の問題は何か?
 当然、守ってくれる子孫の安心、幸福、人間的成長である。
 自分が過去に送られ、守られてきた宗派との違いをそうしたことごとよりも優先し、駄々をこねるご先祖様がおられると想像するならば、子孫として失礼というものだろう。
 子孫が本当の心のより所を見つけ、そこに自分たちを任せれば安心であると考え、手間暇かけ、経費もかけて移してくれるならば、ありがたくこそあれ、どこに文句があろうか。

○ものごとは、より根本や本質に迫るところから考えたい

 形に真実が伴い、弔われる御霊の安心も、弔う人の安心と向上も確保されることが大切である。
 根本や本質に迫ることは決して難しくない。
 静かに霊性をはたらかせ、思いやる心で道理に従えばよいだけのことである。




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2014
05.16

終湯は明日への穴のごと黒し ―苦悩の中の矜恃―

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 昭和2年に生まれ、昭和34年、日本が発展の力をつけた頃に句集『黒い星』を発表したのが大原テルカズである。
 法政大学を卒業し、学徒動員で軍服を着た。
 会社勤めを経験した後、食堂の経営に失敗するなどして行方知れずとなった。
 これほどの俳人でありながら、最後の姿が杳(ヨウ)として知れないのは、自らの意志で社会の表面から消えて行ったのだろうと思われてならない。

「終湯(シマイユ)は明日への穴のごと黒し」


 何人もが交代で湯船を使う時、年長者から、上司からなどと、おのづから入る順番が決まる。
 彼は終湯つまり、落とす前のお湯にようやく入れる境遇にあった。
 それは皆の垢でどす黒く濁っている。
 もちろん、世界でもまれなほど清潔好きな日本人は、決して湯船の中では体を洗わないが、どうしてもこうなる。
 彼の目には、黒ずんだ湯船が穴に見えた。
 それはまるで、希望のない明日のように思えた。
 黒い湯船へ入りつつ、否応なく黒い明日を迎える自分の姿がはっきりと見えたのだろう。

「終湯(シマイユ)に野良犬とわが四肢だぶる」


 敗残者、漂流者には、野良犬が我が身と思える。
 野良犬は雨に濡れ、周囲を窺うともなく窺いながら、聴覚と嗅覚だけは敏感にはたらかせつつ、衰弱の影がまとう四足をはこぶ。
 ああ、彼は自分だと思うものの、似た者同士の彼と自分とはそれぞれ孤絶したままで、永遠の孤独者同士でしかない。
 同情も憐憫も自嘲も悔恨も、すべては客観の中に消え、肩からも腹からも脚からも力が抜け落ちた自分がここにいるだけである。
 そこを通ってきた者にしか見えない荒涼と湿った光景である。
 他人に先がけて新湯(サラユ)にしか入ったことのない者には生涯、見えなかろう。
 湯船につかる彼は、確かに、自分が野良犬と思えた。

「終湯(シマイユ)に幻の墓渺(ビョウ)と立つ」


 高柳重信が書いた『黒い星』の序文である。

「~、彼が、みずからの〈身から出た錆をかき集めながら〉ついにそれを客観的に、しかも見事な普遍化に成功することによって獲得した矜恃の結晶体が輝いている。」


 風呂へ入りながら自分の墓を幻視している彼は敗残者ではあっても自堕落者ではない。
 観るべきものを観て、普遍性を持つほどの表現力を発揮している。
 そこには一人の人間としての矜恃がある。

 高村光太郎は『生命の創造』に書いている。

「~、生命を持たないものは芸術でない。
 いのちを内に蔵さない作物は過去現在未来に亘って芸術であり得ない。
 その代わり、いのちを内に持つものは悉く芸術である。」

「判別機能ののろい一般大衆に至っては、コンテムポラリーの渦中である限り、ただ評判が高いといふことくらゐが価値判断の基準になってゐる。
 ベストセラー商売といふものが成立するのもこの為である。
 ところが、この盲千人の状態の中から、いつの間にか判断の自律作用が生まれてきて、いのちあるものと、無きものとをふるひ分ける目明き千人の眼が物をいふやうになるこの大衆の良識は不思議でもあり、おもしろくもある。
 天網恢々(テンモウカイカイ)といふところだ。」


 自分の境遇がどうであろうと、作品がいかに評価されようと、現実生活に苦しみつつも、作品だけが〈我が存在〉のより所となる。
 大原テルカズにとって作品は、たとえ暗い人生を映して黒く見られようが「星」である。
 高村光太郎にとって、たとえ今、それなりの評価を得ていなかろうが、自分の作品にいのちを移し込んだ真実は必ず〈目明き〉たちに見分けられる時が来るという確信がある。
 大衆を信じようと信じまいと、矜恃は不滅の結晶体となる。
 私たちは毅然とした作品に触れる時、背筋を伸ばさせられる。
 芸術の力であり、矜恃の力である。




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2014
05.15

お寺はなぜ、なくならないか?

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 よく、「コンビニの数よりもお寺の数の方が多い」と言われ、その理由は「江戸時代に檀家制度によって住民の管理をしていた名残」と指摘される。
 せいぜいが、「キリスト教徒を取り締まるという宗教弾圧が目的だった」とつけ加えられて話は終わる。
 それが真実なら、なぜ、明治時代になって社会が激変し、廃仏毀釈まで行われたのに寺院は消滅しなかったのか?
 仏の罰なんか当たらないと叫んでご本尊様を壊す役人から、なぜ、庶民はご本尊様や寺院を守り、廃仏毀釈はたった2~3年で終熄したのか?

 庶民にとっての真実は一つしかない。
 死者をあの世へ送る僧侶がいなくなっては大変だし、ご先祖様が安心できないからである。
 死という異次元の世界にかかわるプロは、導き手としてのみ仏と、死者であるご先祖様に仕える異次元の世界に住む。
 み仏と御霊へお仕えすることに全てを捧げ、白衣で半身を死の世界へ置いている僧侶は、娑婆での収入を求められない。
 だから娑婆の人々はご先祖様の安寧を頼み、いざという時に安心してあの世へ旅立てるよう、檀家となって寺院と僧侶を支え、ご本尊様を守ってきた。

 さて、核家族化が進み、お墓に対する考え方も変わり、檀家が少なくなった寺院は足元が揺らいでいると言われている。
 5月14日にNHKの「クローズアップ現代」に登場した臨済宗の方は、同宗に属する宗教法人の3割ほどが実態をなくしているのではないかと指摘した。
 一人で十か寺の住職を兼務している例もあるという。
 事態を重く見た臨済宗の宗務庁は、法人の悪用を防ぎ檀家の迷惑などをなくすよう、専従チームをつくり宗派を挙げて法人の整理に取り組み始めている。

 さて、保田與重郎は『神話と日本人の心』に書いた。

「日本人が死を忌んだといふのは、素朴な未開人的心理のタブーのやうなものではなかった。
 日本の祭祀の実相は、生産生活そのものであり、それは生活の法則がそのまま道徳であるやうなくらしであった。
 このことは日本の農村にも残ってゐる宮廷のしきたりによく出てゐる。
 死の穢れにふれたものは、祭祀にあづかることが出来ないといふ原則があった。
 そして死者の葬(ハフ)りを僧侶にゆだねた。
 僧侶が葬をあつかひ、死者の追善をひきうけてくれたので、常民は日常の生活に専念できる。
 この日常の生活とは、原初原則の考へ方では生産の生活であつて、もっと素朴な根源をいふと、米をつくる農業だった。」


 ここには、現代に通じる真実が述べられている。
僧侶が葬をあつかひ、死者の追善をひきうけ」るから、僧侶でない方々は日常生活において、それぞれがやるべきことに専念できる。
 ご供養などをきちんと行う方ほど、こうした言葉を口にされる。
「いつも、お任せしたままで申しわけありません」
 お応えする。
「ご信頼いただけるのはありがたいことです。
 どうぞご安心してお励みください」
 浮つかず地に足のついた〈生〉の営みに励む人は、〈死〉や〈死者〉への意識が伴った日常を送る。

 むろん、僧侶は死者の弔いをもっぱらとしてきたのではない。
 日常的な〈生〉だけではない世界の空気を吸いながら生きている者として、寺子屋を開き、死へ引っぱられる人の求めに応じて修法し、生まれた子供の名前を考え、人偈関係に追いつめられた人へ安心を与えたりもしてきた。
 それらはすべて、僧侶でなければ行えない葬のプロとして認められればこそのことだった。
 当山で寺院の存在理由とする「この世の幸せのために」は、もう一つの存在理由「あの世の安心のために」が土台にある。
 だから、当山の人生相談では、人間関係をうまくやるためのマニュアルやカウンセリングの技術といったものを用いない。
 袈裟衣をまとい、ご本尊様と一体になった法を結び、その場へ結界を張り、無常と共に歩み、死と隣り合わせに生きている者同士としての対話を行う。
 ご来山されるのは、単純に前を見ましょう、視線を上げましょうというだけでは生きられなくなった方々である。
 無常をはらんだ世界で無常を感じ、そこから徐々に目線が上がれば、明日からの足どりは確かなものになる。
 
 さまざまな方々が寺院や仏教や葬儀などに関し、いろいろと〈この先〉について語られる。
 日々、白衣をまとい現場に生きるプロとしては、死ぬまでプロとしての力を磨き続けるのみである。
 それが必要とされるかどうかは、実際に〈その場〉に立たれた方々の判断へお任せするしかない。
 一介の行者は、生者と死者とを問わず、必要とされる方の「この世の幸せとあの世の安心のために」生きるだけのことである。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
05.14

身体の内外にいる生きものたちを殺す文明がアレルギーなどの現代病を生んだ ―『わたしたちの体は寄生虫を欲している』―

20140514寄生虫

 還暦を超えた方々の多くが実感し、中には「あるいは……」と考えておられる方もありそうなことが証明の端緒を開いた。
 身体から寄生虫という〈自然〉を追い出したがために、〈自然〉である身体が狂い始め、〈昔はほとんどなかった〉各種アレルギーなどに苦しめられるようになったのではないか?

 ノースカロライナ州立大学の生物学部教授ロブ・ダン著『わたしたちの体は寄生虫を欲している』には、私たちが活き活きした自然としての身体を保ちつつ生きられる未来を拓く鍵が示されている。

○はじめに

 ほとんど忘れかけているが、私たちは「ごく最近まで自然の中で暮らしていた生き物」である。
 現代人の多くが腰痛に悩まされるのは、デスクワークという坐りっぱなしの姿勢に問題がある。
 それは昔「四足で走っていた」生きものとして「不自然な姿勢」だからだという。

「昔と今で最も大きく変わったのは、(泥小屋からペントハウスへ、というような)住まいの様式や便利さではなく、生態系とのつながり方なのだ。」

「鎌状赤血球貧血、糖尿病、自閉症、アレルギー、不安障害、自己免疫病、妊娠高血圧腎症、歯や顎や視力の障害、それに心疾患も、より一般的になってきている。
 そして、これらの病気が増えたのは、公害やグローバリゼーション、あるいは医療システムの欠陥のせいではなく、人間と他の種とのつながりが変化してきたせいだということが、徐々に明らかになってきた。
 しかもそれは、特定の種が消えたためではなく、人間が人間以外のすべての種――寄生虫、細菌、野生の木の実、果実、捕食者など――を生活から排除してきた結果なのだ。
 多くの人は、腸内から寄生虫がいなくなったせいで、むしろ健康を害している。」


 昔は少なかった病気に苦しむ人々が増えた理由を、昔と今との暮らし方の違いに探るのは当然であり、年配者ならだれでも実感できる指摘である。
 昔は、寄生虫やばい菌をこれほど極端に嫌悪しなかった。
 また、上記の症状に苦しむ子供など、ほとんどいなかった。

「わたしたちはどちらの道に進むかを選ぶことができる。
 一方は、ますます自然から遠ざかってゆく道で、その先に待ち受けているのは幸福が少なく、不健康で、不安の多い世界である。
 その世界では、失われた自然の恩恵を取り戻そうとして、ますます科学物質に頼るようになるだろう。」

「これから幸せな生活を送るために必要なのは、野性のすべてはなく、一部を生活に取り戻すことなのだ。
 人類は、農耕を始め、害虫を駆除するようになって以来ずっと、自然を操作し続けてきた。
 今、求められているのはその操作を、これまでより慎重かつ繊細に行うことである。」

「二〇世紀において人類は、有害なただひとつの細菌を腸内から排除するために、抗生物質ですべての細菌を殺した。
 また、野原にいる二、三の害虫を駆除するために、すべての昆虫を殺した。
 どこかにいるヒツジを守るために、国中の狼を殺した。
 テーブル全体をごしごしと洗い清めた。
 このような行動は、膨大な数の人間や家畜の命を救ったが、新たにより深刻な問題を引き起こし、自然からその豊かさをはぎ取ってしまった。」

「わたしたちに与えられた課題は、周りに新たな種類の生物界をつくることだ。
 それは、森林伐採や、抗生物質などを生き残った強い種だけからなる生物界ではなく、知性に裏付けられた多様性に富む生物界であり、わたしたちはそこに生きる生物たちとさまざまな形で関わっていくのである。
 さあ、暮らしに野性の力を取り戻そう。」


 私は子供の頃、胸を患い、抗生物質に救われた。
 そしてずっと腸の不調を抱え続け、今や、腸は写真を見たくない状態になっている。
 いったん風邪をひくと、風邪は治っても、そのあとしばらくは、さらに腸の不調と戦わざるを得ない。
 最近、風邪をひいたおりに、「今回はこれにしてみましょうか」と漢方薬を処方していただいたところ、〈後遺症〉はなかった。
 もちろん、若い頃の暴飲暴食や、無茶な生活も腸がボロボロになった原因の一つには違いない。
 この本を読み、今回の治療では、長年の抗生物質攻撃に耐えて腸内に残った者たちを新たな攻撃で殺さなかったために、私の腸は何とかバランスを保てたのではないかと思える。

 5月10日の産経新聞は「腸の難病治療に便活用」という記事を掲載した。

「下痢や腹痛などを繰り返し、薬で治らない腸の病気に悩む患者の腸に、健康な人の便を移す臨床試験を、慶応大病院が始めた。」

「人間の腸内には数百種類、数百兆個の細菌が住んでおり、免疫や栄養素の分解になどにかかわっている。
 しかし、大腸粘膜に潰瘍ができる潰瘍性大腸炎など腸の病気の患者では、細菌の種類も個数も少ない。」


 何らかの理由で減少した腸内の生きものを移植という直接的な方法で増やそうという試みである。
 この「便微生物移植」の臨床試験では、便の提供者は配偶者か2親等以内の家族としている。

「昨年、米医学誌に掲載された論文では、難治性感染症の患者約40人を従来の薬による治療と便移植とに分けて経過をみたところ、前者は20~30パーセントしか治らなかったのに対し、後者は94パーセントに効果があった。」


わたしたちの体は寄生虫を欲している』にも、寄生虫を体内へ移植し、どうにもならなかったクローン病と有利に戦う事例が示されている。
 
 大日如来の展開として表れている宇宙はマンダラである。
 マンダラ図には仏神でない者たちも克明に描かれている。
 生物界も多様性に満ちたマンダラである。
 育てる者も育てられる者も、喰う者も喰われる者もいる。
 心もマンダラである。
 善意も悪意も湧き起こる。
 身体もマンダラである。
 身体の内外に害する者も守る者もおり、人間などの生きものはその絶妙なバランスで生かされている。
 私たちの知恵は、マンダラを都合良く動かそうとしながら、いつの間にかとんでもない歪みを生じさせているのではないか。
 生物多様性の破壊、各種のマインドコントロール、そして日本における異様なまでの清潔志向……。

 この本によって暴かれた真実はあまりにも重い。
 人間が自然の一部である以上、〈非自然〉や〈反自然〉の存在となりながら安寧に生きられるはずはない。
 それは自己否定だからである。
 アレルギーなどの増大が、あまりにも急速に進んだ自己否定の副産物であるという指摘には納得できる。
 よく考え、日々の生活法を決めたい。
 それにしても、自分の腸がいよいよ不調になり、妻から便をもらうという状況はあまり想像したくないのだが……。




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2014
05.13

空(クウ)をつかむ ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(34)─

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙の法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

○自然の法則の一切が、(クウ)の中に含まれる

「したがって、われわれは事象そのものを、文字どおり、あるがままに理解することは不可能である。
 近代物理学でさえ、諸現象を具体的な事象として捉えようとしているが、その存在の本質は個々の具体的事象とは別のものであると考える。
 存在そのものを示す真実と具体的にものごとが現れる表現との間にズレがあるということだ。」


 お釈迦様は悟られた後、こう考えた。
「執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている人びとには、縁起という道理は見がたい。」
 
 私たちは、花を見ても、人を見ても、車を見ても、〈そこに、そう、在る〉と思い、無意識のうちに、一瞬後も〈そこに、そう、在る〉し、明日も〈そこに、そう、在る〉と思う。
 満開の花なら目に見えない範囲で萎れつつあるし、元気な人も刻々と脳細胞が崩れ死へ向かっているし、車も又、たとえ事故に遭わずとも、モノとして古びつつあるのに。
 物理学もまた、観察の限界を突破しては次の限界に挑む繰り返しである。
 存在そのものを示す〈真実〉は、考えたり測量したりする際の対象である〈表現〉とは別の次元にある。
 

「このズレが、われわれをして、ひじょうにしばしば表現を真実と見誤らせ、重大な過誤に陥れる。
 この過ちからわれわれ自身を解き放つことは、いかように強調してもしすぎることがないほど重大なことである。
 ことの本質にかかわることである。
 それは真実を見極めることだからである。」


 私たちは見える世界を言葉に翻訳し、概念を用いて考え、記憶の箱へ入れる。
 花が咲いている、あるいは桜が咲いているとキャッチすれば、すでに、自分の記憶にある「花」や「桜」として捉えている。
 また、食堂へ行けば、カレーライスや肉まんをそうした言葉で捉え、〈辛いものは嫌い〉あるいは〈肉は食べない主義〉などが瞬間的に付随し、〈あそこの食堂に私の食べられるものはない〉という印象などが記憶される。
 こうした範囲の反応や記憶だけでは、「存在そのものを示す〈真実〉」はなかなか観えない。
 もちろん、観えなくても、普段の平穏な生活にあっては、別に何の支障もないだろう。
 法に触れる行動をせず、社会内の役割を果たしていれば、それなりに生きられる。
 しかし、上司の非情な仕打ちに我慢できなくなったり、突然の大病に倒れたり、いのちがけで育てた子供が急死したりすると、〈そのように見えていた〉あるいは〈そのように見えていた〉光景の中で生きて行くことが難しくなる場合がある。
 その時、私たちは意識せずとも、「存在そのものを示す〈真実〉」に迫りたくなる。
 あるいは、それに気づかされることによって眼前の光景が変わり、生きて行く道が見つかったりする。

 お釈迦様は、愛娘を失い気がふれたようになっているキーサゴータミーへ、「一人の死者も出したことのない家を見つけたなら必ずあなたを悲しみから救おう」と約束した。
 彼女は一心不乱に村中の家々を訪ねたが、もちろん、死者を出したことのない家はない。
 必ず亡き親やご先祖様がいるからだ。
 疲れ果て、気落ちしてお釈迦様のもとへ帰った彼女へ、お釈迦様は諭す。
「この世は無常であり、人は必ず死ぬのです」
 こんなことは当たり前であり、誰でも知っているが、私たちは普段そのように人を観てはいないし、自分や自分の家族にその理がたった今、適用されるなどと想像もせず、起こった事態を簡単に受け容れられもしない。
 しかし、悲しみの底の底まで悲しみ、ボロボロになるまで疲れ果てた結果、聖者の言葉として耳に入ったからこそ、普段の〈当たり前〉が、真っ暗な心を照らす〈真実〉としての光を放った。
 苦しみ抜いたキーサゴータミーだからこそ「真実を見極める」ことができ、救われた。
 日常生活を埋める〈表現〉の先へ行けたのである。

「仏教用語を使って表現すれば、真実とは『(クウ)』である。
 サンスクリット語でいうシューニャー、すなわちゼロである。」
「これは仏教の根源にかかわる理念であって、人間の心理の歪みを極力小さくするためには、どうしても理解しなければならない概念である。」


 私たちへ苦をもたらす〈心理の歪み〉は、を観る目にベールをかけている。
 を観る努力は、〈心理の歪み〉を矯正する方法である。


 とは満たされていることを意味する。
 同時に、満たされたものはすなわち空である。
 そして、空はすべての事象を含むものである。
 自然の法則の一切が、空の中に含まれる。
 それそのものだけで、独自に存在しうるようなものは存在しないからだ。
 ここが重要な部分だろう。」


 般若心経の説く「色即是空(シキソクゼクウ)」は「満たされたものはすなわち空である」ことを示している。
 同じく「空即是色(クウソクゼシキ)」は「空はすべての事象を含むものである」ことを示している。
 こうした言葉を見聞きして頭で理解すれば〈当たり前〉と思えるかも知れないが、それだけでは、真実をつかめない。
 キーサゴータミーも、人は死ぬと、疾うに知っていたにもかかわらず、錯乱した。

「この空の概念を把握するためには、般若心経を暗誦せよ。
 このスートラ(経典)には物事の本質が秘められている。
 般若心経を声を上げて唱え、学べ。」


 仏教は古来、瞑想と読誦を修行としてきた。
 読誦の大切さは最近の科学が解明しつつある。
 目で読んだだけでは左脳のブローカ野が言葉を発信し、ウェルニッケ野が情報を受けとるだけだが、顕在意識のはたらくウェルニッケ野に抱かれた聴覚野は深い意識へと情報を届ける。
 また、〈音〉として聴いているものは右脳をはたらかせ、活性化させ、イメージ力直感力を高める。
 たとえ意味がわからなかろうと、経典や真言の読誦が仏道に欠かせぬ修行であることには深い理がある。
 虚空蔵菩薩の真言を百万返唱える密教の虚空蔵求聞持法(グモンジホウ)がお大師様をはじめ、無数の行者たちによって修法され続けているのは、現実的効果があるからに他ならない。
 世界の人口に占めるユダヤ人の割合はわずか0・3パーセントなのに、ノーベル賞の受賞者においては約20パーセントに跳ね上がる。
 ユダヤでは3才の頃から聖書を読誦、暗誦する教育が行われており、教育法とノーベル賞との関連性を指摘されている。
 私たちも、古来、寺院や寺子屋で行われてきたように「般若心経を声を上げて唱え」学びたい。




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2014
05.12

【現代の偉人伝】第189話 ―「使い捨ての社会は人間を幸せにしない」ウルグアイのホセ・ムヒカ大統領―

20140419034.jpg

 平成24年7月22日、「国連持続可能な開発会議(Rio+20)」においてウルグアイのホセ・ムヒカ大統領は衝撃的な演説を行った。
 大統領の個人資産は1987年型フォルクスワーゲン・ビート(約18万円相当)のみ、給与の大部分を寄附し、郊外の農村から自分で運転して公務におもむく。
 一ヶ月に1000ドルほどの生活費でまかなっているという。
 以下、少々長くなるが、サイト「hana.bi」を運営するAkira Uchimura氏の翻訳を転載する。

「会場にお越しの政府や代表のみなさま、ありがとうございます。
 ここに招待いただいたブラジルとディルマ・ルセフ大統領に感謝いたします。
 私の前に、ここに立って演説した快きプレゼンテーターのみなさまにも感謝いたします。
 国を代表する者同士、人類が必要であろう国同士の決議を議決しなければならない素直な志をここで表現しているのだと思います。
 しかし、頭の中にある厳しい疑問を声に出させてください。
 午後からずっと話されていたことは持続可能な発展と世界の貧困をなくすことでした。
 私たちの本音は何なのでしょうか?
 現在の裕福な国々の発展と消費モデルを真似することでしょうか?」


 会議の終わり近くになってようやく演説の順番が巡ってきた小さな国の大統領は、現代文明に対する最も根本的な疑問を投げかけた。
 世界を席巻する国際資本によって演出された生産と消費の急速かつ無限な膨張が、はたして本当に会議の目的である「持続可能な発展と世界の貧困をなくすこと」に貢献し得るのだろうか、と問いかけたのである。

「質問をさせてください:ドイツ人が一世帯で持つ車と同じ数の車をインド人が持てばこの惑星はどうなるのでしょうか。」
 息するための酸素がどれくらい残るのでしょうか。
 同じ質問を別の言い方ですると、西洋の富裕社会が持つ同じ傲慢な消費を世界の70億〜80億人の人ができるほどの原料がこの地球にあるのでしょうか?
 可能ですか?
 それとも別の議論をしなければならないのでしょうか?」


 先進国に追いつくのが世界から貧困をなくす方法であるなら、先進国と同じものが後進国にも遍く普及すればいいのですか、と念を押している。
 西洋と同じように豊富なモノが恵まれればそれがそれが理想社会なのか、そもそも、それだけモノを分厚く人間へもたらすほど地球は資源に満ちているのか、と問うている。

「なぜ私たちはこのような社会を作ってしまったのですか?」


 質素な国で質素な暮らしをしている大統領は、当然、無限にモノを求め、奪い合う気の遠くなるような格差社会などに理想を求めはしない。
 だから、「このような社会」(こんなに酷い社会)と言っている。

「マーケットエコノミーの子供、資本主義の子供たち、即ち私たちが間違いなくこの無限の消費と発展を求める社会を作って来たのです。
 マーケット経済がマーケット社会を造り、このグローバリゼーションが世界のあちこちまで原料を探し求める社会にしたのではないでしょうか。」


 資本が世界を股にかけて覇を競う経済システムに慣らされた私たちは、いつの間にか「無限の消費と発展を求める社会」をつくってしまった。
 自由に競争することが正しいという一つの原理に頭を占領され、「もっと、もっと」と無限に欲しがり、無限に消費を増大させる生活が営まれている。

「このような残酷な競争で成り立つ消費主義社会で『みんなの世界を良くしていこう』というような共存共栄な議論はできるのでしょうか?
 どこまでが仲間でどこからがライバルなのですか?」


 国際会議の欺瞞生を明確に指摘した演説は鮮烈極まりない。
 環境破壊、国家間や国家内の格差、文化の画一化などを生み出した資本主義、市場原理、グローバリズムを正義であるとしたままで、真の意味での「共存共栄」などはかりようがないと指摘した。
 グローバリズムの名のもとに世界規模の巨大資本が、あるいは強大な軍事力のある国家を後盾にした巨大資本が、地球上へ思いのままに富をすくいとろうと網をかぶせてしまっている現実は、きわめて「残酷な」ものであり、そこに真の意味での「仲間」はいない。
 ルールのない自由競争にあっては、自分以外すべて、「ライバル」となる。
 こうしたメカニズムと実態を問題視しないままでの「共存共栄」など、欺瞞に満ちた空論でしかない。

「このようなことを言うのはこのイベントの重要性を批判するためのものではありません。
 その逆です。
 我々の前に立つ巨大な危機問題は環境危機ではありません、
 政治的な危機問題なのです。
 現代に至っては、人類が作ったこの大きな勢力をコントロールしきれていません。
 逆に、人類がこの消費社会にコントロールされているのです。」


 大統領は、市場経済によってつくられた消費増大の社会を政治が放置していることこそ、問題であるとした。
 人間が社会をつくっているのではなく、社会のシステムに人間が翻弄され、あくせくさせられつつ猛烈なスピードで資源を消費していることに目を醒まそうと訴えた。

「私たちは発展するために生まれてきているわけではありません。
 幸せになるためにこの地球にやってきたのです。
 人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。
 命よりも高価なものは存在しません。
 ハイパー消費が世界を壊しているのにも関わらず、高価な商品やライフスタイルのために人生を放り出しているのです。
 消費が社会のモーターの世界では私たちは消費をひたすら早く多くしなくてはなりません。
 消費が止まれば経済が麻痺し、経済が麻痺すれば不況のお化けがみんなの前に現れるのです。」


 現代に生まれる人間は、「発展」という名の無限「消費」が課せられているかのようだ。
 幸せがどこにあるかをじっくり考える間もなく、消費にいそしむ。
 しかし、人間がどんどんモノを消費する存在であり続けなければ破綻してしまうような経済システムは人間を幸福にしない。

「このハイパー消費を続けるためには商品の寿命を縮め、できるだけ多く売らなければなりません。
 ということは、10万時間持つ電球を作れるのに、1000時間しか持たない電球しか売ってはいけない社会にいるのです!
 そんな長く持つ電球はマーケットに良くないので作ってはいけないのです。
 人がもっと働くため、もっと売るために『使い捨ての社会』を続けなければならないのです。
 悪循環の中にいるのにお気づきでしょうか。
 これはまぎれも無く政治問題ですし、この問題を別の解決の道に私たち首脳は世界を導かなければなりません。」


 儲けることが至上命題である資本の自由に任せておけば、いかなるモノをつくるかは明白である。
 消費者が不満を持って買わなくならない程度、ほどほどのところまで長持ちし、あとは使えなくなり再び買わなければならない商品をつくる。
 そして、今まさに使っているものに不満を抱き、買い換えないではいられないような目新しい商品をつくる。
 そして現れたのが「使い捨ての社会」である。
 高度に進んだ資本主義国では、人間すらも企業に管理され「使い捨て」にされつつある。
 ここにある「悪循環」は「政治」が取り組むべき課題であり、政治以外誰も解決はできない。

「石器時代に戻れとは言っていません。
 マーケットをまたコントロールしなければならないと言っているのです。
 私の謙虚な考え方では、これは政治問題です。」


 人間がシステムをつくるはずなのに、システムに取り込まれてしまった状態は、政治が何とかせねばならない。

「昔の賢明な方々、エピクロス、セネカやアイマラ民族までこんなことを言っています。」
『貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ』
 これはこの議論にとって文化的なキーポイントだと思います。」


 お釈迦様は2500年前に、はてしなく貪ることが不幸の原因であると説かれた。
 不慳貪(フケンドン)すなわち放逸に貪らないことは、苦から脱する「十善戒」の一つである。
 私たちは、喉が渇いて塩水を飲めばどうなるかを知っている。
 だから古人は「腹八分」や「足(タ)るを知る」と説いた。

「国の代表者としてリオ会議の決議や会合にそういう気持ちで参加しています。
 私のスピーチの中には耳が痛くなるような言葉がけっこうあると思いますが、みなさんには水源危機と環境危機が問題源でないことを分かってほしいのです。」
 根本的な問題は私たちが実行した社会モデルなのです。
 そして、改めて見直さなければならないのは私たちの生活スタイルだということ。」


 無限消費に駆り立てられれた「生活スタイル」のままでよいかどうか、私たちがこうした「生活スタイル」を変えないままに「水源危機と環境危機」は乗りこえられるのか?

「私は環境資源に恵まれている小さな国の代表です。
 私の国には300万人ほどの国民しかいません。
 でも、世界でもっとも美味しい1300万頭の牛が私の国にはあります。
 ヤギも800万から1000万頭ほどいます。
 私の国は食べ物の輸出国です。
 こんな小さい国なのに領土の90%が資源豊富なのです。
 私の同志である労働者たちは、8時間労働を成立させるために戦いました。
 そして今では、6時間労働を獲得した人もいます。
 しかしながら、6時間労働になった人たちは別の仕事もしており、結局は以前よりも長時間働いています。
 なぜか?
 バイク、車、などのリポ払いやローンを支払わないといけないのです。
 毎月2倍働き、ローンを払って行ったら、いつの間にか私のような老人になっているのです。
 私と同じく、幸福な人生が目の前を一瞬で過ぎてしまいます。」


 資源に恵まれたウルグアイでも、人々はローンに追われつつ年老いる。
 目の前にニンジンをぶら下げられた馬のまま走り続ける人生は幸せと言えるのか?

「そして自分にこんな質問を投げかけます:これが人類の運命なのか?
 私の言っていることはとてもシンプルなものですよ:発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。
 発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。
 愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと。
 これらをもたらすべきなのです。」


 真の発展とは人間に真の幸福をもたらすものでなければならず、もたらされるべきものは無限のモノではなく、温かな心の交流と、ほどほどのモノである。

幸福が私たちのもっとも大切なものだからです。
 環境のために戦うのであれば、人類の幸福こそが環境の一番大切な要素であるということを覚えておかなくてはなりません。」
 ありがとうございました。」


 大統領は、地球上の誰もが幸せを求めているのに、幸せとは何かが問われないまま論議を進めてはならないと訴えた。
 世界を覆う経済システムを放置する政治の責任を追及した。
 この演説は、人類が滅びない限り語り伝えられるのではないだろうか。

 そもそも、〈原理〉任せではまっとうな社会がつくれない。
 資本主義、共産主義、自由競争、さまざまな思想や宗教の原理主義、こうしたものは歴史が証明しているとおり、社会をギスギスさせ、無慈悲な空気をもたらし、やがてはのっぴきならない対立も、戦いも生みかねない。
 しかし、今、世界中で原理の徹底が叫ばれている。
 ――日本でも。
 原理にひきずられないために必要なのは叡智ではないか?
 ディルマ・ルセフ大統領は叡智の存在に目を見開かせた。
 この先、地球規模で有効な工夫ができれば、環境も人類も救われる。
 仏教では、こうした叡智を〈智慧〉と呼び、最上の手立てを〈方便〉と呼ぶ。
 仏教の理想は、〈慈悲〉という思いやりに立って〈智慧〉を磨き、〈方便〉を実践して共に苦から脱するところにある。
 私たちは、破滅が来ないうちに、お釈迦様が説かれた救済の道筋をたどれるのだろうか。




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2014
05.11

真智の開発をめざして(その5) ─五智の教え・守ること─

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〈『摩利支天ネット』会員皆様のおかげで、弱った樹木の根元を調え、助け始めました〉

[1の5]優しさ─守る

 真の優ししさは、「守る」ことに極まります。
 誰かを認めたり、何かを与えたりしても、守ろうとする意志がなければ、最後は見捨てかねません。
 これでは、優しさの心は完成しません。

 優しさを表現した絵画として狩野芳崖(カノウホウガイ)の「悲母観音」を思い出す方は少なくないことでしょう。
 明治21年、還暦を迎えた狩野芳崖は肺病に苦しみつつ渾身の力をこめてこの作品を完成させた4日後、落款を押す余裕もないままに逝去しました。
 左手に柳の枝を持った楊柳(ヨウリュウ)観音様は、右手の水瓶から赤児に霊水をかけています。
 病難からの救済を本誓(ホンゼイ…根本の願い)とし、薬王観音とも呼ばれる楊柳観音様は、経典によれば左手を乳房のあたりへおき、右手に持った柳の枝からしたたらせる薬で病魔を退散させるとされています。
 母親の乳には赤児の免疫力を確保する力があるとされており、かつては文字どおりいのちがけだった出産とその後の無事を願う人々に大きな救済力を期待されました。
 悲母観音においては左手が柳の枝を持ち、右手は、よりはっきりした救済力を示すかのように、水瓶から注がれ球体となった聖水で赤児をくるんでいます。
 赤児がいるのは胎内でもあり、胎外でもあるのでしょうか。
 合掌した赤児は、何かを訴えかけるかのように、話すかのように、水を受けとめるかのように、観音様へ向かって朱く小さな唇を開いています。
 その視線を受けとめる観音様の切れ長の目は、まっすぐに赤児へと向けられており、水の球体は何ものにも破壊されない絶対の守護圏を感じさせます。

201405110011.jpg
走水神社様よりお借りして加工しました〉

 守る優しさの権化(ゴンゲ)を表現した絵画が悲母観音なら、神話は日本武尊(ヤマトタケルノミコト…倭建命)の妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)に極まります。
 火攻めに遭い、相模から逃れて上総をめざした船が暴風に襲われたおり、日本武尊と共にいた弟橘媛はこう言って入水しました。

「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。
 これはきっと海神のしわざです。
 賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」(『日本書紀〈上〉全現代語訳』より)


 姫が海中に消えるとさしもの暴風もたちどころにやみ、日本武尊は無事、役割を果たします。

 旗山崎にある走水神社には、故事にちなんだ絵画や石碑があります。
 弟橘媛が日本武尊へ遺した一首です。

「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
 御歌意訳です。
「相模の国の野原で、敵に四方から火をかけられあわや焼け死にそうになった時、あの、あなたは、剣で草をなぎはらい、大丈夫か、おまえ、と声をかけてくださいましたね。」
(「弟橘媛」http://www.geocities.jp/kamosuzu/ototatibanahime.htmlより)


 東日本大震災のおりには、宮城県南三陸町の町職員遠藤未希さん(24才)が、押し寄せる津波の中でも、住民へ避難を呼びかける防災無線のマイクを握っていました。
 韓国の旅客船セウォル号が沈没したおりには、女性乗務員パク・チヨン(22才)が最後まで船内にとどまり、次々と乗客へ救命胴衣を着せ、鼓舞し続けたことが記憶に鮮明です。
 他人を思いやる優しさは、こうした〈守る〉強さに極まります。
 ここまで行って初めて、優しさは完成します。

 昨日行われた「ゆかりびとの会」の役員会で、ふとした議論になり、住職の妻が寺の方策を覆すような発言を行い、住職が咎めたところ、会長は「一生懸命やっている奥さんに、そんなにきつく当たってはいけない」と諭しました。
 住職である私は、公の場にふさわしくない軽率なふるまいを咎めましたが、会長はそうした場であれ、妻にはやさしくあって欲しいと求められました。
 私はいったん法務となれば真剣の刃渡りと同じ状態になります。
 これまで何度、妻から「あなたのような人は一人で修行すればいいのよ」と言われ、夜中に幾度、妻子など家族へ独りで詫びてきたかわかりません。
 出家とはこういうものだ、出世間とはこういうものだと、世間にいられなくなった自分の悪業(アクゴウ)に打ちのめされます。
 しかし、その一方で、あれこれ事件の記事を目にすると、もしも自分があのまま世間にいたらどうなっていたかと想像し、出家したがために救われていることを深く実感します。
 自分が救われ、ご本尊様へおすがりする方々の救いにいくばくかは役立っているつもりでも、身近な人を救いきれない自分の愚かさにまた、打ちのめされます。
 かつて、師に教えられました。
「出家者でない妻が本当に帰依してこそ、一流の行者である」
 自分が三流であることを幾度となく思い知り、身内や親族が帰依したお釈迦様やお大師様への憧れが強まります。
 真の優しさ、いかなる場合でも誰をも守る優しさを獲得するための輪廻転生(リンネテンショウ)はまだまだ続きそうです。

 次回から、「厳しさ」について考えます。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2014
05.10

目に見えている世界と観えていない世界 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(33)─

20140510023.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

自然法則の一切が、空(クウ)の中に含まれる

自然界の話をしよう。」

 
 前章では、生きものとして必ず兆してくる欲望を適切に生かすための方法として、私たちが他者との関係性の中でしか生きられないという真実、生かされているという真実を観ることの大切さが説かれた。
 ここでは、そうした他者を含む現象の世界、私たちがたった今〈いる〉この世界を考える。
 それを「自然界」と言う。

自然現象宇宙に生起(ショウキ)し、消滅し、繰り返す、この世界に起こることどものことである。
 仏教的宇宙観から眺めると、究極の事実、あるいは究極の事象と呼ぶべき、われわれが遭遇する現象を捉えようとするとき、それがわれわれに対して現れた現れ方と、実際にそのものがある『有り様(サマ)』との間には、埋めがたい大きな溝がある。」


 仏教は何よりもまず〈観る〉宗教である。
 何を?
 現象世界の真実のありようを。
 何を用いて?
 心眼と道理を用いて。
 どうやって?
 見え、聞こえ、香ってくるもののペースに乗せられず、そうしたことごとが起こり、消える様相の全体を直感的に把握する精神状態をつくることによって。

 お釈迦様が、成道(ジョウドウ…悟りの成就)をされる直前、魔ものたちがありとあらゆる強迫と誘惑で妨害する。
 しかし、明けの明星が現れるのを待っていたかのように魔ものたちはすべて退散し、お釈迦様は一夜にして悟られた。
 これはいかなる状況か?

 凡夫としては、乳が欲しい、食べものが欲しい、オモチャが欲しい、友人が欲しい、服が欲しい、異性が欲しい、家族が欲しい、財産が欲しい、称賛や名誉が欲しい、思うがままにする権力が欲しい、妨げられない眠りが欲しい、いつまでも生きていたい、あるいは死んで楽になりたいといった欲望、一生のうちに現れるすべての欲望を体験されたのだろうと想像する。
 それが、ダライ・ラマ法王の説く「われわれが遭遇する現象を捉えようとするとき、それがわれわれに対して現れた現れ方」である。
 私たちが「遭遇する」現象は、欲望を引き出すきっかけとしてしか現れない。
 お釈迦様は、真理真実をつかもうとする不動の決心によって欲望を引き出されない境地に至り(これが魔ものたちの退散)、「実際にそのものがある『有り様(サマ)』」を観た。
 これが悟りである。
 だから、お釈迦様は悟られた当初、ご自身の法楽に憩うのみであり、説法などは考えもしなかった。
 梵天(ボンテン…インドの最高神)に説法を勧請(カンジョウ…請い勧めること)されたおりに断ったのも、見聞きするものに欲望を引き出されつつ生きる人々が、欲望を引き出されない世界を理解できるはずはないと考えたからである。

「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
 ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。」
「わたくしが理法を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
 わたくしには憂慮があるだけだ。」

 しかし、梵天は二度、断られてもなお、救いを待っている人がいる、理解できる人がいると訴え、三度目に至りお釈迦様はついに説法を決意する。
 ダライ・ラマ法王が指摘する「埋めがたい大きな溝」を埋める新たな難行に挑んだのである。




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2014
05.09

人間が人間であること以上のリスクはない ―一般社団法人「自然エネルギー推進会議」の設立に思う―

20140509067.jpg

 5月7日、細川護熙小泉純一郎両元首相は、再生可能エネルギーの普及・促進に取り組む一般社団法「自然エネルギー推進会議」の設立総会を開催した。

 細川護熙氏の発言である。 
「政府は先に原発を再稼働する方針を打ち出したが、事故に対する反省も教訓もなく、とんでもないことだ。
 不条理と戦わなければならないと決意し東京都知事選挙を戦ったが、今後も『正すべきは正す』という姿勢を貫いていく」(NHKニュース)

 小泉純一郎氏の発言である。
「東京都知事選挙では『原発が安全でコストが安いというのは大うそだ』と訴えてきた。
 選挙の敗北にもくじけないところが細川氏と私のいいところだ。自然エネルギーを発展させようという動きを加速させるとともに、原発のない国づくりのために頑張っていく」(NHKニュース)

 当山は、原発事故の後、被災者から人生相談を受けたり、被災者や支援組織の方々や事故処理に当たっている方々から実態を教えていただいたり、専門家の発言に耳目をそばだてたりしながら、3年以上が過ぎた。
 そして、日々、報道される人間の所行を眺めつつ思う。
「原発にとって最大のリスクは人間が人間であることだ」

 宮城県には女川原発があり、これまでに、数え切れないほどのトラブルの報告があった。
 点検漏れやネジの締め忘れといった軽微なものから、東日本大震災における想定外の被害まで、直接的と間接的とを問わず、すべては人間の営みがからんだ危険の発生だった。
 ちなみに大震災のおり、女川第一原発で発生した火災は消し止められるまで約6時間を要している。
 3月11日には5系統ある電源のうち、4系統が破壊され、4月7日も1系統しかはたらかず、しかも、それぞれの系統は別だった。
 全電源が使えなくなる、つまり、福島原発と同じ事故に至るまであと一歩という危機的状況にあった。
 この事実に対して「結果的に守れたのだから科学技術力は信頼できる」と判断するのも、「原発の危険性が明らかになった以上、もうやめよう」と判断するのも人間である。
 科学者の判断、詩人の判断、政治家の判断、企業家の判断は皆、異なり、正しいと客観的に証明される「解」はどこにもあり得ない。
 そもそも、人間の脳は、論理的にはたらく左脳と直感的にはたらく右脳とあがり、そのはたらき具合によっても、見聞きする外界はまったく異なるものとして私たちへたち顕れている。

 ドイツにある人口2500人ほどの小さな村シェーナウの人々は、チェルノブイリ原発事故を受けて自分たちの未来を考え、自然エネルギーによるシェーナウ電力会社(EWS)をつくり、今や、13万戸の電力をまかなっている。
 EWSは「原子力に反対する100個の十分な理由」という冊子を発行しており、日本語版も出版されている。
 そこには、私たちがほとんど知らされず、あるいは気づいていない事実が列記されており、慄然とさせられる。
 新聞やテレビで論議されている〈リスク〉とかけ離れた膨大な〈リスク〉が原子力にまつわっているからだ。

○世界のウラン産出の3分の2は、4つの巨大多国籍企業グループの会社が握っている。
 日本で問題となっている「原子力ムラ」などの比ではない世界的規模の問題がある。
 一部の企業が儲けるために世界の経済や政治が動かされ、結果として世界中の人々が危険にさらされている。


○世界のウラン資源の7割は、人間が生活しているエリアにあり、一旦、開発が始まれば、膨大な人々が生活圏を奪われ、人の住めない地域になる。
 福島第一原発事故の発生後、生活を奪われたオーストラリアの先住民などによって行われた謝罪は忘れられない。
「私たちがウラン採掘を止められなかったために、福島で不幸な事故が起きた」

○ウラン採掘は死の大地を生み出し、採掘、生産、輸送、使用済み核燃料の処理などによって膨大な二酸化炭素が排出されている。
 1972年、アメリカのニクソン大統領(当時)は、環境汚染が長期間続くウラン鉱山の跡地一帯を「国家の犠牲地域」に認定した。
 自然を破壊し、土地を荒廃させ、「環境に優しい」と宣伝されながら人間と環境を犠牲にしつつ、原子力が用いられている。

○平成18年には世界全体のウラン産出量が需要の3分の2に満たず、現在稼働中の原発へウランを安定供給するためには生産量を50パーセント以上、上げねばならず、ウラン含有量の少ない鉱石も大量に用いることになれば、それだけ人間と環境に悪影響を与え、発電コストも上がってしまう。
 この状況下、世界中でまだまだ原発を造ろうとしている。
 いったい誰のために?

○世界中にある原発約440基の需要を満たすだけで、地球にあるウラン資源はあと45年から80年しかもたない。
 あとはどうするのか?
 企業と組んだ政治家や国が月や火星などで資源の争奪合戦をするのだろうか。

 ここまでで、100ある「理由」のうちたった5つである。
 残りの95すべてを読んでみると、客観的に考えてみて、「それでも原発を造り、維持し続けねばならない〈人類にとっての必要性〉」はどうしても考えつかない。

 世界中で繰り返されているテロや暴動や殺人事件、あるいは身近に起こる暴力事件や詐欺事件などを見ると、人間が人間であることは、お釈迦様がおられた時代からあまり変わっていないのではないかと思われる。
 自分中心に考え、勝手な行動をし、怒り、怨み、粗暴にふるまい、疲れ、気が抜け、病魔に襲われる。
 こういう〈人間〉や、人間の集まった企業や国家が扱うにしては、原子力は荷が重すぎるとしか思えない。
 どれほど科学的にリスクを減らそうが、結局、人間が菩薩にならずこれまでと変わらぬ人間である以上、究極的なリスクはなくせない。
 ちなみに、日本にもたらされるカザフスタン産のウランは、かつて、イギリスやフランスで加工されスエズ運河経由で輸送されていたが、海賊やテロの危険性があるので、今はロシアで加工され、日本海側から搬入されている。
 人間による脅威は、あまりに明らかな現実である。

 これほどリスクが明らかになってなお、私たちには原子力を手放せぬいかなる理由があるのだろうか?




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2014
05.08

互いのためになり合う極楽 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(32)─

20140501007 (2)

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

2 相互依存の精神

相互依存の精神が、人類の課題解決の力になる

「仏教の相互依存の精神は、このわれわれが直面する問題を解決する大いなる力になるだろう。
 人類に対する、あるいは、地球全体に対する敬虔な姿勢がわれわれになければ、全身全霊を人類の課題解決に傾けようとする敬虔なる世界観がなければ、どのような問題も解決の糸口さえ見つからないはずだ。」


 ダライ・ラマ法王はここまで、財産や権力などの「外的な価値」に人生をかけたり、「快楽への誘惑」に引きずられたりするのは破滅への道であると説かれた。
 若者たちが、自分のために都合良く奪い取ろうとする貪欲な心をつくらぬよう、支え合う家族のぬくもりに安心を体感し、自我を育てない正しい教育を受けるべきであると訴えた。
 そのためにメディアへ「建設的な力」を発揮するよう求めた。
 至福の喜びを求める項の最後に挙げたのは、「相互依存の精神」である。
 私たちは、自分の力だけで生きているという勘違いを脱して謙虚になり、社会や自然から無限の恩恵を受けている存在として、そうしたものへの感謝や責任を持つ「敬虔なる世界観」を持たねば、自分が幸せになれないだけでなく、地球規模で起こりつつある自然環境の破壊や人口の偏り、資源の枯渇、食糧難などを克服できない。

「もちろん、これは仏教のみに当てはまることではない。
 全人類が信仰するさまざまな宗教が、こうした課題解決に対する責任を負っているのである。
 にもかかわらず、ときに信心深い人たちが、人類すべての課題に対してよりも、自己の伝統を固守することに汲々としているように見えるのは愚かしくもあり、気がかりなことである。」


 お釈迦様は縁起を説かれた。

「此(コレ)があれば彼(カレ)があり、此がなければ彼がない。
 此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。」

 煩悩があるために苦があり、煩悩がなければ苦もない。
 煩悩が生ずるから苦が生ずるのであって、煩悩が滅すれば苦も滅する。
 真理を知らず、自己中心的な姿勢になれば煩悩が起こり、それを〈縁〉として、自分のままにならない苦が〈起〉こる。

 お大師様は六大縁起を説かれた。

六大(ロクダイ)無礙(ムゲ…妨げない)にして常に瑜伽(ユガ…不可分)なり」

 物質世界を象徴する「地・水・火・風・空」と、精神世界を象徴する「識」との6つが互いに妨げ合うことなく一如(イチニョ)となっていることを〈縁〉として、世界が〈起〉こり、私たちが存在している。
 大地のように堅く支えとなるものや、火のように熱く気温や体温となっているものなどの徳を感じとる私たちの心と対象は切っても切り離せない。
 お塔婆は、六大の徳をすべて捧げるという究極の供養を象徴している。
 だから、必ず表面には「地・水・火・風・空」を表す梵字が書かれ、裏面には「識」を表す梵字が書かれる。
 お塔婆を捧げるのは、五輪の塔や仏像を建立することに通じている。

 このように仏教は、直接的原因としての「因」と、間接的原因としての「縁」とによって、あらゆるものが生起していると観る因縁生起(インネンショウキ)の立場なので、「相互依存」は理の当然と考えている。
 しかし、ダライ・ラマ法王は、互いに助け合わぬ限り私たちは地球上に共存できないという広い意味での「相互依存」を考えねばならないと説く。
 この視点は、「人類すべての課題に対して」取り組むあらゆる人々に不可欠である。
 もはや「自己の伝統を固守することに汲々と」してなどはいられない。

 私たちが「相互依存」的関係によって今を生かされているという真実をよく観て、互いに思いやるところにこそ「至福の喜び」はある。
 5月6日NHKテレビは「認知症の高齢者と若者ふたり歩む散歩道」を放映した。
「瀬戸内海に浮かぶ愛媛県弓削島。
 照らされたなぎから届く潮の香り、道端に続く小さな花、小鳥たちのさえずり。
 毎朝9時、丘から海へと続く一本道を日に焼けた車いすの老人と色白の若者が並んで歩いてくる。
 ふたりだけの散歩道。都会で一度つまずいた若者は島で生まれ育った認知症の老人と歩き続けるうちふるさとの包容力に気づいていく。
 過疎の島に生まれた手作りの介護施設。
 若者は働きながら一度失っていた笑顔を取り戻していく。」(NHKフェイスブックより)

 いじめからとじこもりになってしまった若者が福祉施設ではたらきだした。
 自分をたよりにする認知症のお爺さんもいるが、お爺さんの気持にはなかなかなれず、反発を買ったりもする。
 施設の責任者は、じゅんじゅんと説く。
「君は辛いところを通ってきだだろう。
 お爺さんも、年をとって身体が思うように動かせなかったり、うまく話せなかったりと、辛い思いを抱えているんだ。
 辛い思いを体験しているしている君ならきっと、お爺さんの心に寄り添えるはずだ」
 若者はお爺さんの家を訪ねて奥さんに会い、お爺さんの人生を知り、気持を知ろうと努力し、ついに、一緒に思い出をつくろうと決心する。
 以前、車椅子にお爺さんを乗せて散歩したものの、すぐに帰ってきた海岸へ再びでかけ、こんどはお爺さんが思い出を追ったり、心を和ませたりするまで長時間かけて一緒に風景を眺める。
 満開の桜もじっくりと眺める。
 帰り道、ごきげんのお爺さんは「よいしょ!よいしょ!」とたった一つしか話せなくなった言葉を叫び続ける。
 大きく口を開けた笑い顔は泣き顔にも見えた。
 車椅子を押す若者は生気に満ちている。
 泣けた。
 そして、自分にはきっとできないことをやっている若者が観音様にもお不動様にも思えた。
 若者は、認知症のお爺さんへ「至福の喜び」を与え、若者にすがるお爺さんは、ひきこもりになってしまった若者へ「至福の喜び」をもたらした。
 実に、「相互依存」の極楽である。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
05.07

調和と共生 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(32)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

2 相互依存の精神

○学校教育の本質を宗教の宇宙観と融合させよ

「家族の絆に次いで重要なものといえば、教育だろう。
 正しい教育は、人をして健全な人生を送ろうとする傾向を生み出す力になる。」


 財物や地位や名誉などの「外的な価値」に主たる関心を持つのではなく、家族との生活を通じて、支え合って生きることの大切さと自分以外の人のためになる喜びを感じ、その中で得られる深々とした安心感の体験にこそ、価値を見いだすことが大切である。
 若者にとって次に重要なのは、「健全な人生」を求める思考と力をもたらす教育である。

 5月6日、たまたま「世界を変えるテレビ」を目にしたところ、池上彰がフィリピンのスラム街を取材していた。
 子供の頃から暴力で他人のものを奪うギャングになっている地域で、一人の少年が手押し車に教科書を載せ、勉強に関心を持つよう勧めていた。
 その結果、やがて、大人も子供も、学校で学ぶことの楽しさと大切さを知るようになった。
 学んだ少年が成長して先生になり、池上彰から質問を受けた。
教育とは何ですか?」
 彼は即答する。
「誰にも盗まれない財産です」
 すぐに『法句経(ホックキョウ)』の一節を思い出した。
「悟りは誰も奪えない」

「現代行われている学校教育のあり方については、私は常々多くの疑問を抱いている。
 もちろん、多くの利点があり、人間社会に多大の貢献をしていることも知っている。
 そうした学校教育のよき部分の存在を疑うわけではない。
 しかし、こと人間の内的成長を促すという教育の本義についていえば、西洋流の今日行われている教育というものは、かならずしもすぐれているとはいい難い。」


 ここで言う「西洋流」が何を指すのかはわからない。
 仏教国チベットでも、チベット亡命政府があるインドのダラムサラでも、徹底したチベット語の教育が行われていることを考えれば、資本主義を背景としたグローバリズムの思潮に乗る教育といったものが法王の念頭にあるのかも知れない。

「では、いかなる方法が可能か。
 われわれが今、考えなければならないことと言えば、どうすれば教育を人間の内的成長に寄与させられるか、いかにうまく学校現場での教科として宗教的な課題を採り入れられるか、ということだろう。
 あるいは、教育の本質的な趣旨を宗教が持つ宇宙観と融合させるべきかもしれない。
 今日、学校教育の現場で教えられている、社会科学やその他の近代的学問の中でこそ、そうした融合が行われることが望ましい。
 もちろん、基礎の部分は、道徳教育やその他の情緒教育の科目の中でできるだろうと思われる。」


 東北大学電気通信研究所情報科学研究科の白鳥研究室を率いておられた白鳥則郎教授は、平成22年、「情報処理技術と学会の未来」で述べている。

「50年後に目指すべき新しい第3の社会モデルは、人と人、国と国、地域と地域の関係において効率や利害を超えた公(みんな)と私(自分)の調和に価値をおく『共生社会』と思われる。
 このような社会を支える情報システムについても同じように共生に基づくパラダイムが必須である、と私は考えている。」

 情報処理という科学の世界は、目に見えない縁の糸で結ばれている私たちのありようと密接な関係がある。
 それを「調和」と「共生」という思想が支えるならば、それこそ「宗教が持つ宇宙観」との融合と言えるのではなかろうか。
 調和共生も、人間や社会や宇宙をどうとらえるかという思考と、とらえた世界において私たちはどう生きるべきかという倫理感に発しているからである。
 よしんば、それが環境破壊や少子高齢化という生活環境の変化をきっかけとするものであったとしても、異なった思考や倫理感によっては、富や資源の独占、あるいは他国への侵略といった方向へ動き、情報処理技術も同方向で用いられて何の不思議もない。
 もしも国家が他国との対立や戦争を目指せば、ありとあらゆるものがそのために役立たせられるようになるのはいつの世も変わらない。
 平成18年、教授の一首が毎日新聞へ掲載された。

「文明に囲まれて暮らすわれの日々を夜空に舞う山鳩に問う」

 白鳥教授のように科学者が哲学や倫理や宗教を問い、ダライ・ラマ法王のように宗教者が科学を問う先にこそ、私たちの未来を拓く新しいパラダイムが見出せることだろう。

「それともう一つ、人口の問題がある。
 比較的少ない人口で、ある程度の高さの生活水準に達した社会が望ましい。
 そんな社会において、環境を整備し、家庭での厳しい教育がなされ、それらが正しい教育と一緒になったとき、人類は、これでとはかなり大きく異なった新しい種類の若者を作り出すことができるのではないだろうか。」


 人間は動物である。
 動物は皆、自分が生きる世界の〈範囲〉を持っている。
 蚊はせいぜいが半径30メートルの範囲で生活し、死ぬ。
 家にいる飼い猫は、家の中、もしくは部屋の中で一生を過ごす。
 しかし、人間だけは、世界中どころか宇宙にまで生活空間を広げようとしている。

 日本人は、洋風の食生活によって腸内細菌の世界が崩れ、肥満や各種アレルギーの増加などにつながっているのではないかいう説がある。
 生活している地域にある食べものを摂る地産地消こそが健康の基であるとも言われている。
 そもそも、手が届くところにあるものを食べつつ、ご先祖様方はいのちをつないでくださったのだ。
 人口減少時代の到来は、私たち誰もが落ちついた、助け合いの精神に満ちたまっとうな社会を創るためのすばらしいきっかけになるのではなかろうか。
 日本は、「比較的少ない人口で、ある程度の高さの生活水準に達した社会」を目指すべきではなかろうか。

「また、メディアについても考えてみよう。
 メディアは今日、若者、子供たちの精神を形成するのにたいへん重要な役割を演じている。
 もし、メディアが建設的な力を発揮しえたなら、今われわれが直面しているような青少年問題などはなかったはずなのだ。」


 メディアで活躍する方々には、白鳥教授が提唱する「調和」と「共生」を忘れないでいただきたいと願う。
 何かを歪ませ誰かを犠牲にする〈発展〉は、善から遠い。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
05.06

守本尊様と厄年のすべて ―第五十一回寺子屋『法楽館』を開催します―

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〈『法楽農園』のあぜ道に〉

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〈善男善女の写仏や写経が寄せられています〉

 みなさんは、「厄年」が9年に一度、巡ってくることに気づいておられますか?
 八方塞がりの年にはお地蔵様が「厄除け」をしてくださり、本厄の年には千手観音様が「厄除け」をしてくださることを知っておられますか?
 厄除けと、私たちが生まれによってご縁となる守本尊様とは切っても切れない関係にあります。
 今回の寺子屋では、私たちに身近な守本尊様について、祈り方などもまとめてお話しします。
 
八方塞がり厄除けをしてくださる地蔵菩薩様

「この世に過ごす父母たちよ 真にわが子の救済を 涙の中で願うなら この世において恵まれぬ 子供や病気の人々に わが子に代わって善根を 積むことこそが供養なり ここに地蔵の大悲心(ダイヒシン 在(ア)るを悟って自らも 地蔵となって励むべし。」


 これは、水子などとして早いうちに我が子を失った親へ対し、お地蔵様が、我が子の不憫さを嘆くばかりでなく、周囲にいる哀しい人々へ自分がお地蔵様になったつもりで手を差し伸べよと説いた部分です。
 そうした善行(ゼンギョウ)による功徳(クドク)を積むことこそが、我が子への真の供養になります。
 親がそれをできぬうちは、お地蔵様が、身代わりとなってあの世の子供たちの悲しみや苦しみをお引き受けくださるのです。

「地蔵菩薩の加持力(カジリキ)は この世に絶望せし人を 苦海(クカイ)の淵から救い出し 冥府(メイフ)・地獄で苦しみを 受けし衆生(シュジョウ)を救済す この世と後(ノチ)の世における 苦しみ受けし人々の 現当(ゲントウ)二世(ニセ)の利益(サイワイ)に 発揮されると知るべしや。」


 お地蔵様のご加護のお力は、この世で絶望的な状況に陥っている人も、あの世で地獄の苦しみを受けている人も救います。
 そのご利益が及ぶ範囲は、この世からあの世にまで、遍く及びます。
 しかも、衆生すなわち生きとし生けるものすべてが救われるので、当山では、ペットのご葬儀やご供養でも、お地蔵様の法を結びます。

本厄厄除けをしてくださる千手観音

「二つの蓮華共に在(ア)る その理由(コトワリ)を求むれば 菩提(ボダイ)に向かうその意志(ココロ) 仏の心であることを 証(アカ)していると悟るべし。」


 観音様の手にある蓮華には、開いている花とまだ開いていない花との二種類があります。
 まだ開いていない花は、「これではいけない。まっとうな人間として生き直そう」と決心して尊い心が輝きだした様子を示します。
 開いた花は、み仏の子として霊性を輝かせながら生きる様子を示します。
 だから、揺るがぬ決心をした時はすでに、蓮華になっています。
 観音様は、失敗を繰り返す私たちの懸命な歩みに寄り添い、「そうです。大丈夫。あなたはみ仏の子だから」とお励ましくださっているのです。

「順風満帆(マンパン)平安の 時期(トキ)に思わぬ災難に 出会ったときの苦しみを 救い給(タマ)うたその人を 観音菩薩応現(オウゲン)の 姿であったと手を合わす 心ぞ真(マコト)に菩提心(ボダイシン) この菩提心(ボダイシン)堅持(ケンジ)して 観音菩薩を念ずれば 必ず菩薩眼前(ガンゼン)に 現れ衆生(シュジョウ)を救済す。」


 万事うまくいっていると思っていた矢先に突然、運命が暗転したりします。
 そうした時に手を差し伸べてくださる人は観音様に見えて、思わず心で合掌します。
 感謝し合掌する心こそが、人をまっとうに生きさせる心すなわち菩提心(ボダイシン)です。
 この心を忘れず観音様を心に思い描きながら生きれば、その人はすでに観音様と一体であり、知らず知らずのうちに生きとし生けるもののためになっているのです。

 どなたでも参加できます。 
 質疑応答の時間もあります。
 どうぞふるってご参加ください。

・講 師  住職遠藤龍地
・日 時  5月10日(土)午後1時30分~午後3時30分
・場 所  法楽寺講堂
・参加費  千円
・送 迎  午前9時30分に、『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
05.05

爪を立てて欲張る心に平安は訪れない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(31)─

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〈5月4日早朝、例年通り、中山平温泉『琢秀』さんの水子地蔵様をご供養しました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

2 相互依存の精神

○外的な価値を信じる者は、破滅の道を辿る

「人間は、往々にして外的な価値を信じる。
 人生の回答を金に求める。
 あるいは、力に求める。
 その結果、人間は破滅へと到達する。」


 ダライ・ラマ法王は、財物や地位や名誉そのものを求める人生は必ず破滅すると説く。
 

「外的な価値を追求すれば、その必然的に至るところは破滅でしかない。
 権力欲と金にまみれて転落してゆく多くの国の政治家を例に挙げる必要もないほど、これは自明のことである。」


 世界中の権力者たちが哀れな末路を披露し続けている。
 庶民は正義の実現に快哉を叫びつつ、うっぷん晴らしも行い、自分たちにも潜む物欲や名誉欲が異様に膨張し破裂するさまを目にして驚き、あきれる。
 それでもなお、自分の欲望を深刻に省みはしない。
 大したことはない、とたかをくくって生きている。

「名声を惜しみ、地位を惜しみ、それでもなお、人は自己の欲望を抑えるのにいかに苦労するかという実例は、いくらでもある。
 未来を見通すことができず、自己の欲望を統御できず、欲望を満たすことが本物の内的な欲求であると勘違いしたものは必ず破滅する。
 政治家だけではない。
 ラマ僧であろうと、禅の高僧であろうとも、この道筋を破滅へと辿るものは少なくない。」


 今、中国でも韓国でも政府要人たちに対する国民の目は厳しくなってきている。
 平成26年2月5日、新聞各紙は、国連の『子供の権利委員会』が、「世界各地でのカトリック聖職者による未成年者への性的虐待問題に関する報告書を公表し、ローマ法王庁(バチカン)の対応は不十分と厳しく非難した上、関与した聖職者の即時解任や司法の捜査を求めた」と報じた。

○快楽の誘惑は。至福の生命への障害となる

「社会の一員として生きながら孤立していると感じたり、多くの人々とともに暮らしながら孤独を覚える若者が増えている。
 それが原因で、現代、若者は自らの欲望に充足だけに走りがちであると言われる。
 特に欧米、日本などの豊かな国々の若者たちに、金とセックスに溺れるものたちが増えている。
 彼らにとって、よりよい道、自らの人生を生きるよりよい方法はあるのだろうか。」


 モノ金に恵まれた「欧米、日本などの豊かな国々」でこそ、「金とセックスに溺れるものたちが増えている」とは、悲しい現実である。
 人は〈食うに困らなくなった〉時、何をするのかという哀れな実態が見えているのは情けない。

「常にそうだが、過ちを見出すことは何の造作もないのだが、その正しい回答を得ることはひじょうに難しい。」


 財欲(モノ金が欲しい)・色欲(異性と交わりたい)・食欲(うまいものをたらふく食べたい)・名欲(有名になりたい)・睡眠欲(思いっきり眠りたい)という五欲によって次々と過ちが引き起こされている。
 しかし、私たちにとって五欲はもはや空気のような存在なので、過ちを処理し再発を防ぐための「正しい回答」はなかなか見つからない。

「今日、なぜ若者たちがそのようになりがちなのか。
 もちろん、いくつもの原因、因子が求められる。
 彼らは、大都市で生きるとき、四六時中、さまざまな快楽の誘惑に自らを曝して生きている。
 物質の誘惑、快楽の誘惑は、毎日、より広範囲になり、それを獲得するのにより容易くなりつつある。
 これら外的なものはある種の幸福をもたらしはするが、却って内的な世界にしか見出せない平安、至福の生命を得るには障害となる。」


 モノ金が手に入っても、それは一時的な安心や満足やを生むのみであり、もの惜しみやなくす不安や、ない人への軽蔑や高慢心なども併せて起こる。
 異性と親しくなっても、快楽を楽しむ一方で、失いたくないという執着心や心変わりへの疑念や思う通りになってくれないことへの怒りなどに悩まされもする。
 こうしたものに溺れている限り、「内的な世界にしか見出せない平安、至福の生命」は関心の外にある。
 もしくは葛藤や失望の果てに、求められずにいられないものとして意識へたち顕れる。

○家族は、若者の精神形成に重要な役割がある

「外的な要素を重視する人生のスタイルを選ばせる理由としては、まず生活環境の影響が考えられる。
 田舎に生きる若者について考えてみよう。
 彼らは、より少ない誘惑の中で生きている。
 物質的な誘惑にも快楽の誘惑にも、都市に生きるものよりは、彼らのかかわりは浅いと言えるだろう。」


 法政大学総長田中優子氏は、『鄙への想い』に書いた。

「生産共同体だからこそ、鄙と都はかつて相互依存関係にあった。
 都は鄙の生産物をさばき、流通させ、貨幣と交換する。
 鄙の技術力が高ければ高いほど、都が商品をまわす活力は強くなった。」

 田舎は生産共同体であり、個人の社会定期位置は、都会ほど浮遊的ではない。
 山でも田畑でも、短いスカートは無用である。
 山里に住む者として、目に見えぬ〈節度〉が都会よりは濃く存在している実感を持っている。
 誘惑への「かかわりは浅い」。

「次いで、家族の影響は無視できないほど大きい。
 貧しくても自分たちの暮らしに有意義な意味を見出している家族もあれば、豊かでありながらより多くの物質を求め、常に金と物とに飢えている家族もあるだろう。」


 古来言われてきた「三つ子の魂百まで」は、科学的にも事実とされつつある。
 岡潔博士はこう指摘した。

「生後3ヶ年を童心の季節と、私は言っている。
 何故そう言うかと言えば、この時期にはまだ子供には自分(自我)と言うものが無いからである。
 この時期に子供は家庭と言う環境から取って、自己の中核を作ってしまう。
 これは其の後には(宗教の力によらなければ)もう変えられないのである。
 だからこの時期の家庭は十分よくなければいけない。
 取り分け母親は子を可愛がってやらなければいけない。
 母親が職業の為に昼は子供から離れて、夜だけ十分可愛がってやるのでは足りないか、と聞かれても、ここの研究は非常に難しくて、そんな細かい点まではまだわかっていないのである。
 だから十分大事をとって、そんなことはしないようにして欲しい。」

 私たちのほとんどは、3才あたりまでの人生を記憶していない。
 しかし、そこで親が何を大切にしながら生き、いかなる心で子供を育てていたかによって、私たちの「自己の中核」がつくられる。
 ありがたくもあり、恐ろしくもある。
 世の親たちには、よくよく心していただきたい。

「だが、心すべきだ。
 貪欲は、あなたを決して平安な暮らしに導いてくれることはないことを。
 貪欲は破滅への道であることを。
 したがって、家族の絆は決定的に重要であると言わねばならない。」


 親が貪欲すなわち、「人のものを(正当な方法によらず)自らが所有したいと願う気持が強ければ、子供も貪欲になりかねず「平安な暮らし」は訪れにくい。
 そうした家庭環境ではなく、他には代えられない家族間の絆をこそ大切にする親であり、子であれば、「平安な暮らし」にきっと手が届くことだろう。



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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2014
05.04

火の奧に牡丹崩るるさまを見つ

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〈『木香舎』家具職人増野繁治氏の聖地 4〉

 昭和20年5月24日、東京は大空襲となり、40才の加藤楸邨(シュウソン)は、病弱な弟を背にして我が家から脱出する。
 去りがたくふり返った眼に、業火(ゴウカ)の奧で崩れ去る牡丹が映った。

「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ」


 いのちがけの場面でなお、観るべきものを観る俳人の眼力と胆力は凄まじい。

 焼夷弾が放つ炎の中で、牡丹は影絵のように真っ黒な姿となり、重い花からバラバラと崩れ落ちたのだろうか。
 国文学者でもある俳人加藤楸邨は、そこに人間の姿も観たのではなかろうか。
 翌朝、氏は詠んだ。

「明易き(ケヤキ)に記す生死(ショウジ)かな」


 夏のことゆえ、夜が明けるのは早い。
 悪夢の一夜を生き延びた氏は、早朝に一本のの樹を観る。
 おそらく、たくさんの葉をつけ空中に広々と枝を伸ばしていた大木は、ほとんど焼け焦げた幹のみとなって屹立していたのだろう。
 生も死もそこにある。

 氏はその6年前、日本が第二次世界大戦へ突き進む勇ましい空気の中で詠んでいる。

「梅雨の間の夕焼誰ももの言ひやめ」
「蟇(ヒキガエル)誰かものいへ声かぎり」
「世に遠きいかり兜虫ずりやまず」


 もはや誰も戦争を止められず、梅雨の合間に夕焼けを眺める人々の口は閉ざされたままである。
 しかし、氏の胸には言わずにおられないものがある。
 天地へ響き渡るヒキガエルたちの声にそれを託す。
 ズズッ、ズズッと重い身体を引きずって歩くカブトムシの懸命な姿に、やり場のない怒りを託す。

 やがて、アジアへ侵攻していた日本はアメリカの侵攻を受け、日本にも業火に焼かれる地獄が現出する。
 俳人は、崩れ去る牡丹に、一足早く日本の崩壊を観ていたのだろう。
「火の奧に牡丹崩るるさまを見つ」
 忘れられない一句であり、忘れてはならない一句であると思う。




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2014
05.03

貪欲と匿名の時代 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(30)─

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〈『木香舎』増野繁治氏の道場 3〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

1 幸福の追求

貪欲は盗みへの第一歩である

貪欲について述べよう。
 今日の世界では、貪欲であることが成功の秘訣であるように考え、振る舞う者がいる。
 しかし、これは正しい欲望貪欲とを混同していると言わねばならない。
 貪欲とは、他人のものを自らが所有したいと願う気持ちを言う。」

 
 ダライ・ラマ法王は、「知性とともにある欲望、誠意ある動機と結合した欲望」を「正しい欲望」とする。
 それは、自己中心ではなく、他のためになろう、他と共に幸せになろうとする願いである。
 私たちは、正しい欲望を持つ時、「強固なる自己の意識」を持つ。
 そのためには、まず〈自分が〉やらねばならないと思うのである。
 ここに「決意」と「自信」が生じる。
 こうした状態ではたらく利己主義は「よりよき人生を拓く」のである。

 しかし、仏法における貪欲とは、そうした状態ではない。
 正当に自分のものとなっていないものを、そのまま自分のものとしてしまいたい欲求、自分のものにしてしまわないではいられない気持である。

「たとえば、他人の書いた論文が見事であるからといって、なんとしてもそれを自分の書いたものとしてしまいたいと思う気持ちは、すでに心の中で盗んでいるのである。
 これは盗みそのものと変わりない。
 ここには自制心の明らかな不足がある。
 羞恥心が欠如している。
 だが、誰かが美しいものを持っているのを見て、自分もそれを買いたいと思う気持ちはなんら問題はない。」


 今、小保方教授の事件が糸口となり、科学の世界で深刻な問題が生じていることが明らかになった。
 しかし、他人が創った文章や画像を、自分の手になったものではないと明確に記さず、いわゆる〈コピペ〉によってそのまま用いる習慣は現代人にすっかりなじんでしまった。
 このあたりは法律の問題ではなく、良心の問題である。
 ここから先へ行ってはならないという自分なりのリミッターすなわち良心の声なき声が聞こえなくなれば当然、「羞恥心」も欠落してしまう。
 万引きの蔓延は、子供の頃にきちんと行動の善悪を教え、悪いことをしようとした時に羞恥心がはたらくよう育てなかった親たちにこそ責任がある。
 ときおり見かける「万引きは犯罪です」というステッカーに、倫理観の低下した時代を実感する。
 他人様のものへ手を出すことは恥ずかしいという〈法律以前〉のところが抜け落ちた文明の醜い貌が見えている。

 たとえば『舞の海の相撲〝俵〟論』における以下の文章に接した時、憧れるのならいざ知らず、「自分のものにしてしまいたい」などというさもしい心がいったい、起こり得るものだろうか。

「優勝力士に天皇杯が授与されるだけでなく、いまでも各地で奉納相撲や奉納土俵入りが行われている。
 相撲界と皇室は切っても切り離せない関係にある。
 それが〝国技〟と称される大きな理由の一つとなっているではないだろうか。
 いまのように一般の客とともに本場所の土俵を観戦するようになったのは昭和天皇の昭和30年夏場所が最初。
 千代の山、栃錦、鏡里、吉葉山の4横綱時代のことである。
 相撲を愛された昭和天皇は以降、40回も本場所をご覧になられている。
 昭和天皇が崩御された際には特別に最後のお見送りが行われた。
 霊柩車(レイキュウシャ)が通る沿道で、当時の二子山理事長(元横綱初代若乃花)ら役員と力士一同が雨の中、傘をささずに紋付きはかま姿でずぶぬれになりながら見送ったのである。」(産経新聞「昭和の日に『天覧相撲』復活を想う」より)
 

「このふたつを混同してはならない。
 物を獲得するには、その正しい方法を考えること、それについて熟慮すること、これはいくら強調しても足りないほど大切なことである。」


 欲望そのものはいのちの発露であり、善も悪もない。
 問題は、正しい欲望を持ち、正しい方法で達成できるかどうかにかかっている。

「貪欲は盗みへの第一歩である。
 たんなる物欲と思ったものが、一歩、一歩と盗みにまで発展してしまうのは、決して稀なことではない。」


 やみくもに他人のものを欲しくなり、手に入れる方法をよく考えない状態は、〈盗み〉という悪行のわずか一歩手前にある。
 そこで慈雲尊者は不偸盗戒(フチュウトウカイ…盗んではならないという戒め)を「高行(コウギョウ)」と教えた。
 高行とは節操を高く保つ意識と行動である。
 月照(ゲッショウ)はこう説いた。
「やまもりの ゆるさぬほどは たにかげに おちたるくりも ひろはざるなむ」
(山守の 許さぬほどは 谷陰に 落ちたる栗も 拾わざるなん)
 たとえ他人の目が届かぬ深い山奥の谷陰で見つけた栗の実一つであろうと、自分へ正当に与えられているものでなければ決して手にしないと言うのである。
 古来、子供たちはこう教えられてきた。
「お天道様が観ているよ」
 悪事をはたらいていればコソコソと陰に隠れていたくなり、燦々とした陽光を浴びることなど、恥ずかしくてとてもできないといった倫理の感覚を目覚めさせられた。

 今は〈匿名の時代〉である。
 人も社会も〈悪事をはたらく信じられない存在〉であるという認識が前提となり、個人がどう存在しているかという情報は、子供の頃から隠されるようになった。
 その一方で、匿名のネットには、暗闇から矢を射るようなありとあらゆる妄言や罵倒や罠があふれている。
 盗人や破壊者も正体を隠せば、ハッカーという善悪不明の存在となり、国家規模ですら行動する。
 相手の情報を〈盗む〉ことも〈壊す〉ことも当然、悪行(アクギョウ)であり、必ず悪業(アクゴウ)が積まれ、必ずその報いを受けるが、もはや因果応報を〈畏れる〉感覚はほとんど失われた。

 私たちは、貪欲や匿名について「熟慮すること」が求められていると強く思う。




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