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2014
07.31

順境も逆境も仏心を磨く ―8月の聖語─

2014073100034.jpg
西條八十

 8月の聖語です。

「法味(ホウミ)を嘗(ナ)めて珠(タマ)を蘊(ツツ)む」


 数千人とも言われた膨大な弟子たちの中から、お大師様を後継者と定め、全てを伝授してくださった師僧である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)が亡くなられた際に、お大師様は碑文を書きました。
 そこにあるのがこの一節です。

「仏法のありがたさを知って、心にある珠のような仏心を磨き、大切に保ち続ける」

 師は常に弟子たちへ向かい、こうしたことを目的として、マンダラの教えを説かれ、導いてくださったとふり返り、感謝したのです。
 何という温かで奥深い表現でしょうか。
 仏法のありがたみは、そのままそっくり、師の人間性のありがたみとなっています。
 すべからく、仏法を学び、修行し、実践する者の心はこうありたいものです。

 大正7年に西條八十が作った童謡『金糸雀(カナリヤ)』を思い出しました。

「唄を忘れた金糸雀(カナリヤ)は
 後の山に棄てましよか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 背戸の小藪に埋(イ)けましょか
 いえいえ それはなりませぬ

 唄を忘れた金糸雀は
 柳の鞭でぶちましよか
 いえいえ それはかわいそう

 唄を忘れた金糸雀は
 象牙の船に銀の櫂
 月夜の海に浮べれば
 忘れた唄をおもいだす」


 優しい声でさえずることができなくなったカナリヤは、人間にとって〈役立たず〉です。
 しかし、捨ててしまったり、叩いてみたりしてはなりません。
 むしろ、これまでよりも手をかけ、目をかけてやれば、唄を思い出すかも知れないのです。
 お大師様の全体像へ迫る『エンサイクロメディア空海』(http://www.mikkyo21f.gr.jp/)に参加しておられる松岡正剛氏の言葉です。

「日本の童謡は世界で類例のない子供を対象とした表現運動でした。
 大正期前半に始まって一挙に広がり、戦争の足音とともに消えていったものです」(『日本という方法』より)


 お大師様は、ありがたい仏法によって仏心を磨き、保つと書きました。
 西條八十にあっては、難しい時代が、いつしか仏心を磨いていたのでしょうか。
 実に、順境逆境も、心一つで、み仏に成る機縁となり得るのです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2014
07.31

8月の守本尊様と真言

201407310002.jpg

 8月は、立秋と大暑(ショショ)の葉月(ハヅキ…8月7日より9月7日まで)です。
 8月は未(ヒツジ)の月なので、守本尊は大日如来(ダイニチニョライ)様です。

 大日如来(胎藏界…タイゾウカイ)様は『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 天にあって全体を観る金剛界の大日如来様に対して、地にある胎藏界の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。

「われら衆生(シュジョウ)が自らの心の実相(スガタ)知るならば
 この世のすべての存在が共に一つの生命を生きていること悟られて
 宇宙の生命(イノチ)を自らの生命(イノチ)としてぞ生きること
 そこにこの世の一切が大日如来の現象(アラワレ)と捉える曼陀羅(マンダラ)精神の
 教えの根本(モト)を見出(ミイダ)さん。」


(我々人間たちが自分自身の心の真実なるレベルを知ることができたならば、
 この世のすべての存在が共に一つの生命を生きていることが悟られ、
 宇宙そのものとして存在し、うねっているいのちが自分自身のいのちと同じであると感得して生きられよう。
 そこに、この世の一切が大日如来の現象であると捉えるマンダラ精神の
 教えの根本が見出される)

 また、大日如来様は、未(ヒツジ)年、申(サル)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊様でもあり、身体においては、主として両手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、猛暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。

21080819 012

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた大日如来様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められています。(奉納受付中)〉

◎今月が注意月の方
5・7・14・16・23・25・32・34・41・43・50・52・59・61・68・70・77・79・86・88・95・97・104・106歳の方(数え年)

 要注意の月には不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び、六種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご加護をいただき、無事安全な日々を送りましょう。
 8月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、辛い時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
07.31

お盆供養会・例祭・瞑想会・寺子屋・書道教室 ―8月の行事予定―

201407310001.jpg

 平成26年葉月の行事予定です。

[第一例祭] 2014/8/3(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 観音経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすい読み下し文で、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってくるようになります。
 太鼓と共に観音経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

書道・写経教室] 2014/8/3(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 今月は、お盆を迎える時期なので、『舎利礼(シャリライ)』という72文字のお経を書き始めます。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第四回新法楽塾] 2014/8/3(日)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五十四回寺子屋『法楽館』 ―懺悔と救い─] 2014/8月9日(土)午後1:30~3:30

 今月は、多くの方々が宗教心を起こすきっかけとなる「懺悔」と、「救われる道筋」についてお話しします。
 普段の祈りでは、まず、五体投地(ゴタイトウチ)という礼拝と共に懺悔します。
 瞑想法も五体投地から始まります。
 テキストは、約900年前、興教大師(コウギョウダイシ)が3年あまりも無言の行を修した後に、一筆で書き上げた文章です。
 また、救われる道筋は、短い「安心章」にわかりやすく説かれています。
 お盆を前に、わかりやすく説かれたみ仏の教えを学んでみませんか。

 参加は自由です。
 質疑応答の時間もありますので、どうぞふるってご参加ください。
・講  師 法楽寺住職遠藤龍地
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お盆供養会 2014/8/15(土)午前10:00~

 どなたであれ、ご先祖様のない方は一人もおられません。
 無限の過去までさかのぼる「~家先祖供養」は万人にとって大切な、いただいたいのちへの感謝の第一歩であることを忘れないようにしましょう。
 また、戦争で亡くなった方のご供養はもちろん、大震災で犠牲になった方々のご供養も引き続き行います。
 どこで眠っておられる、どなたの御霊であっても、宗教宗派にとらわれず、ご供養できます。
 今年から、施餓鬼壇(セガキダン)を設けました。
 餓鬼界などに堕ちて苦しんでおられる有縁無縁の諸精霊へ手を合わせ、あの世で苦しみ、この世で苦しんでおられる方々を思いやる心になりましょう。
 恒例となった隠形流(オンギョウリュウ)居合の行者による奉納剣は、み仏と御霊をご供養し、私たちへもご加護をいただく密教の秘法です。
 午後から仙台市泉区にある『みやぎ四国八十八か所巡り道場』へお詣りします。
 ご関心のある方は、ご案内しますので、どうぞご連絡ください。
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お盆供養会の際の駐車場について」
 昨年は、墓地内にも駐車していただきましたが、今年は、墓所を求められる方がとても増え、役員会での衆議一決を経て、墓地内への進入はお断りすることといたしました。
 ご面倒をおかけしますが、墓地の入り口近くで搭乗者を降ろされたならば、戻って、講堂右奧の第一駐車場か、もしくは、山門手前から境内地沿いに左へ曲がった先の第二駐車場をご利用ください。(大きな表示板をご用意します)
 御霊の安寧のため、ご参詣される方々の安全のため、どうぞ、ご協力ください。

[第二例祭] 2014/8/16(土)午後2:00~

 護摩法を行います。
 般若心経や守本尊様をお讃えする経典などを唱え、み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすい読み下し文で、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってくるようになります。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
 今年はお盆中の例祭となりました。
 15日に供養会へ参加できない方は、どうぞ、第二例祭の護摩法におでかけください。
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五回新法楽塾] 2014/8/16(土)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、ご参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[お焚きあげ] 2014/8/30(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、開運不動前にて「供養会」及び「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』の作製] 2014/8/25(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第296号、『ゆかりびと』は第159号となります。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っていますが、今月は月末に当たっており、一週間繰り上げて作製・発送を行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター

◎清掃奉仕の日

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。
・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
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2014
07.30

遺体は死者からの贈りもの、弔う葬礼で弔う者も癒される ─東北関東大震災・被災の記(第154回)─

201407300001.jpg
〈11番目の『忘れな草をあなたに』は入魂の一曲です〉

 7月5日、大震災によって生まれた膨大な悲しみに人と社会がどう対処すればよいかを問うシンポジウム「震災と宗教―悼みと向き合える社会へ―」が開催された。
 場所は東北学院大土樋キャンパスである。
 7月27日に掲載された河北新報の記事を元に、宗教者としてかかわってみたい。

 パネリスト6名へ与えられたテーマは「〝悲しみの技術〟を巡って」である。

2 死者を悼む葬礼は誰のために行うのか

 東北学院大副学長、教養部教授である佐々木俊三氏は問を発した。
「死者を悼む葬礼は、生き残った者たちの悲しみを癒す技術なのか、死者を弔うためのものか。
 二者択一ではなくて、両方の意味があるのだろうか。」

 よく問われる問いである。
 祈る実践者としての答は一つしかない。
「死者を弔うためであり、結果的に弔う者のためにもなる。」

 そもそも、葬礼の始まりは、〈何かをしないではいられない思い〉だったはずである。
 科学が今ほど発達してはいない、それでいて戦争の絶えない時代には、今よりずっと、死は身近だったはずである。
 病気になれば簡単に亡くなり、戦に出かければ簡単に殺された。
 あるいは、気象に翻弄され、虫やケダモノにやられ、伝染病にもやられた。
 そうして心を通わせていた人が屍体になった場合、そのまま放置できようか?
 人間の屍体は〈遺体〉なのである。
 そもそも「遺」の文字は、財宝を両手で持つことを表す「貴」に発し、それを人に贈る意味で「遺」となった。
 遺体とは、魂の去りゆく死者が最後に私たちへ遺してくれた貴い贈りものなのである。

 霊性のある私たちはそのことを察知できるので、遺体を尊ぶ。
 ウクライナで撃墜されたマレーシア航空機乗っていた人々の遺体をきちんと確保するために国際社会が動いているのは、人類共通の大事だからである。
 それだけに、酔った親ロシア派の戦闘員が遺物に手をかける光景はあまりにもおぞましく感じられる。
 また、長崎県佐世保市のマンションで同級生をバラバラにした女子高生の精神状態にはかなり深刻な問題があったと推測される。

 さて、去りゆく魂と、遺された遺体を前に、私たちは何かをしないではいられない。
 そこに祈る心が起こり、宗教心が芽生えた。
 人々の心のありようにより、気候風土により、さまざまにはたらく霊性は、祈る形を徐々に創り上げ、洗練させもする。
 こうして、死者の心と身体に触発された者の霊性葬礼を形づくり、後に発生した仏教やキリスト級などの世界宗教は、先行したさまざまな葬礼と融合しつつ現在のスタイルを完成させた。

 あの震災後、始めは無事を祈り、徐々に遺体との対面を願うようになられたご遺族方は、遺体や遺品を前に「よく、帰ってきてくれた」と泣き崩れた。
 魂は去ったが、贈りものは届いたのである。
 そして、当山へも、たくさんの人々が足を運ばれた。
 あの時、自分の悲しみを癒すために葬儀を行おう、あるいは百か日や三回忌の供養を行おうと考えている人は誰一人おられなかったと思う。
 修法を終え、皆さんが涙を流しながら「ありがとうございました」と頭を垂れ、「ようやく立ち直れそうです」と吐露されたのは、故人を悼む思いが明確な形となり、人間としてなすべきことができたという安堵感を感じられたからだろう。
 悲しみが癒されたのは、あくまでも結果なのである。

 一方、こんなこともある。
 当山は、各種のお祓いを依頼される。
 たとえば、古い井戸を埋めたところ、完成写真にいるはずのない人の影や、ざんばら髪が映り込んでいたりする。
 その家の方や工事をした方は当然、放置できず、駆け込まれる。
 写真を観て、供養やお祓いの修法を行う。
 皆さん、安心してお帰りなられるが、その前に一言申しあげる。
「皆さんは、供養を待っていた御霊を安心の世界へお送りするという尊い行為をされたのですから、どうぞご安心ください」
 未成仏霊を救うことこそが根本であり、その結果として、金縛りなどがなくなるのである。
 このことの確認こそが人として大切な手順であると思う。
 たとえ、自分から〈気味の悪いもの〉を切り離したいと願ってご来山されても、善行の実践という徳積みによってもたらされた大きな安心感を持ってお帰りになられる。
 相手のためになったからこそ、自分も救われるのである。

 最後にもう一度、祈りの現場にある者の確信を示しておきたい。

「遺体は、魂の去りゆく死者が最後に私たちへ遺してくれた貴い贈りものである」
「弔わずにいられぬまごころによる葬礼は、弔う者の悲しみを癒す救いともなる」





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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
07.29

苦しみや痛みを受け入れる人間的な伝統技術 ─東北関東大震災・被災の記(第153回)─

2014072800012.jpg

 7月5日、大震災によって生まれた膨大な悲しみに人と社会がどう対処すればよいかを問うシンポジウム「震災宗教―悼みと向き合える社会へ―」が開催された。
 場所は東北学院大土樋キャンパスである。
 7月27日に掲載された河北新報の記事を元に、宗教者としてかかわってみたい。

 パネリスト6名へ与えられたテーマは「〝悲しみの技術〟を巡って」である。

1 苦しみや痛みを受け入れる技術について

 会議の冒頭、東北学院大副学長、教養部教授である佐々木俊三氏はテーマの理由について語った。
「現代社会は工学的な技術一辺倒になっているが、苦しみや痛みを受け入れるのも人間的な伝統技術ではないのか」

 そのとおりである。
 苦しみや心の痛みがどうにもできぬほどのものであっても、私たちは今日を生きねばならない。
 それも、社会人として、人と人との間にある人間として。
 ここで発生する心の呻きは、平穏な日常生活のどこにも、溶け込ませることはできない。
 打ち寄せる波は砂浜に吸い込まれるようなわけにはゆかない。

 それを受けとめるのが祈りである。
 むろん、苦しむ人そのものが、自分で苦しみのエネルギーを祈る思いへと転換させることは難しい。
 そこで救いとなるのが、まさに「人間的な伝統技術」としての宗教である。

 人間はいつからか、両手を合わせて祈るようになった。
 合掌が自然発生的なものか、宗教的感覚に優れた行者がつかんだものかはわからないが、私たちは、「左手は自分、右手は聖なる存在を象徴する」といったシンボルとしての意義付けにまで到達した。
 こうした意義を知り、伝統的に行われてきた合掌を実践する時、自然に瞼が下がり、苦しみのエネルギーは確かに変容する。
 いつしか、合掌は、み仏の姿となった。
 み仏は、遙か彼方の山の向こうからやってくるのではない。
 天上高くおわすのでもない。
 祈りにより、私たちの心そのものに〈おられる〉ことが、明かになってくるのである。
 祈りが深まれば、山にも雲にも風にも、鳥の声にも、笹のそよぎにも〈おられる〉ことが感得できるようになる。

 さて、私たちのいのちのはたらきは、身体と、言葉と、心とによって営まれている。
 合掌は身体のはたらきである。
 遥か昔、呻きの中から発せられた言葉が「南無」となり、真言となり、経文ともなって整備されてきた。
「南無大師遍照金剛」「おん あびらうんけん ばざらだとばん」と唱えられ、般若心経を唱えられる現代人は幸せ者である。
 大きな大きな伝統のおかげで、唱えようを知り、言葉もはたらかせられるからである。
 また、み仏をはっきりと感得し、その世界へ深く入り込んだ宗教的天才たちが、観想(カンソウ)としてそのイメージを遺し、それも伝統として伝えられている。
 だから、凡夫である私たちは、苦悩の果てに道をつかめぬまま死んで行かずに済むようになった。
 イメージに導かれ、一種の他力によって、早く、救いの世界へ行くことができる。
 それは、スポーツの選手が監督やコーチや先輩の手ほどきを受けて技術と能力をアップさせるのと同じである。
 先に〈つかんだ〉実践者からの手ほどきは、まことにありがたい。
 こうして、私たちは、「人間的な伝統技術」によって、身体と言葉と心の用い方を学び、合掌し、真言を唱え、観想と瞑想を行い、波が砂に吸い込まれるように呻きを解消してゆくことができるのである。

 震災後、当山を訪ねた方々はご葬儀や供養や祈祷の場で異次元を感じ、呻きを和らげ、祈り方を学んだ方々は自力で呻きを解消されるようになった。
 宗教は、救いを求めないではいられない私たち人間が積み重ねてきた救いのための「人間的な伝統技術」そのものである。

 ほとんどの場合そうであるように、このシンポジウムにも、僧侶は参加していない。
 今回を第一回とし、今後、幾度かにわたって、この日のテーマに関し、祈りの現場からの発言しておきたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
07.28

もう一つの『心』 ―平成26年8月の運勢―

201407280001.jpg

 平成26年8月の運勢です。
 今月は、ものごとが停滞しがちでも、焦って早くやろうとすれば地雷を踏みかねず、迷えばどこまでも迷ってしかねない「警戒警報発令」の時期です。
 事態が難しければ難しいほど、至にものごとの本義を確認してから行動に移らねばならず、自分に都合のよい考え方で思考停止のまま突っ走ったり、を惹かれる相手のペースに乗って進むようでは危険極まりありません。

 夏目漱石に『』という短篇小説があります。
 あの『こころ』があまりにも有名なため、この上品な香水の小瓶にも似た作品は、あまり注目されていないと思われますが、実に新鮮な感覚で示唆に富んでいます。
 一部を抜き書きします。

 二階の手摺りから外を眺めていた男の目の前へ、小さな小鳥が飛来します。

「自分と鳥との間はわずか一尺ほどに過ぎない。
 自分は半ば無意識に右手(メテ)を美しい鳥の方に出した。鳥は柔かな翼と、華奢な足と、漣(サザナミ)の打つ胸のすべてを挙げて、その運命を自分に託するもののごとく、向うからわが手の中に、安らかに飛び移った。
 自分はその時丸味のある頭を上から眺めて、この鳥は……と思った。
 しかしこの鳥は……の後はどうしても思い出せなかった。
 ただの底の方にその後が潜んでいて、総体を薄く暈(ボカ)すように見えた。
 このの底一面に煮染(ニジ)んだものを、ある不可思議の力で、一所(ヒトトコロ)に集めて判然(ハッキリ)と熟視したら、その形は、――やっぱりこの時、この場に、自分の手のうちにある鳥と同じ色の同じ物であったろうと思う。
 自分は直(タダチ)に籠の中に鳥を入れて、春の日影(ヒカゲ)の傾くまで眺めていた。
 そうしてこの鳥はどんな持で自分を見ているのだろうかと考えた。」


 散歩に出たら、五六間先の小路の入り口に立っている女の顔に、心の照準がロックオンとなってしまいます。

「その顔は、眼と云い、口と云い、鼻と云って、離れ離れに叙述する事のむずかしい――否、眼と口と鼻と眉と額といっしょになって、たった一つ自分のために作り上げられた顔である。
 百年の昔からここに立って、眼も口もひとしく自分を待っていた顔である。
 百年の後まで自分を従えてどこまでも行く顔である。黙って物を云う顔である。」


 後を向いたので追いかけて行くと小路を曲がった女は不意にふり返り、急に右へ曲がります。

「その時自分の頭は突然さっきの鳥の心持に変化した。
 そうして女に尾(ツ)いて、すぐ右へ曲がった。
 右へ曲がると、前よりも長い路次(ロジ)が、細く薄暗く、ずっと続いている。
 自分は女の黙って思惟するままに、この細く薄暗く、しかもずっと続いている路次の中を鳥のようにどこまでも跟(ツ)いて行った。」


 主人公は小鳥に惹かれた瞬間、〈自分〉が希薄になりました。
 手に飛び移ってきた小鳥と飛び移られた自分と、どちらがどちらに惹かれたのかわからなくなりました。
 自分よりも、手中に収め、籠へ入れた小鳥が主人公になりました。
 そうした気持のまま、でかけた先で、見知らぬ女性に惹かれ、たちまち、自分は〈小鳥〉になりました。
 あとは、〈籠に入れられる〉まで、ついて行くことでしょう。

 実に心は不可思議です。
 何かの拍子に情報の処理が少しずれ、いつもの自分から少しずれてしまうと、ずれたままで行き着くところまで行ったりしかねません。
 警察官までが危険ドラッグにはまってしまうのは、ほんのわずかな心の綻びを放置しておくためです。
 誰しもが、常に、揺るぎない日常生活を送れるわけではありません。
 人生は想定外のできごとの連続です。
 いつものように安定した情報処理ができず、あまり考えないままに、ちょっと違う方法や方向へ半歩、向きかけた時が分岐点です。

 相手が異性でも、あるいは宗教政治でも、自分の中で〈夢中〉や〈熱狂〉が始まった時は、〝これはどういう事態なのか?〟と客観的に状況を眺めてみたいものです。
 もちろん、世間の〈夢中〉や〈熱狂〉にも警戒は怠れません。
 時折、ピンと背筋を伸ばし、深呼吸し、万事「知らぬ間に」とならぬよう注意しましょう。




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2014
07.27

真智の開発をめざして(その8) ─五智の教え・自他のものの区別をすること─

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五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、厳しさは、〈愚癡〉〈好悪〉〈自他〉〈明暗〉〈公私〉という五つの問題がきちんと整理される時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[2の3]厳しさ自他のものの区別をする

 人間関係の根元にあるのが自他のものを区別する感覚です。
 これができない幼児は、兄弟や友だちのオモチャに手を出してケンカが始まります。
 区別がつくようになると、今度は占有する気持が強くなり、親は「貸してあげなさいよ」と指導します。
 自分のモノへのこだわりと、他人の気持に応えることと、二つのバランスがだんだんにとれて大人になってゆきます。

 さて、大人になればなったで、次のステップが待っています。
 自分に属するモノだけでなく、ものごとも問題になります。
 わかりやすいのが体調です。
 身体の具合は百パーセント当人の問題であり、誰も代わってやれません。
 お腹がすいたからといって代わりに食べてやることもできなければ、便秘だからといって代わりにトイレでしゃがんでやることもできません。
 しかし、家族であれ、友人であれ、体調が悪ければ〈他人(ヒト)ごと〉ではなくなります。

 たとえば、ばったり出会った友人が青い顔をしていれば心配になります。
「また、飲み過ぎたの?」
「疲れているんじゃない?」
「仕事、大変なの?」
 さまざまに声をかけたくなります。
 そこで、相手が大したこともなくて、「また、やっちゃったからね」と笑って別れられれば何ということもありません。
 しかし、少しうるさく言い過ぎたり、相手が気づかれないでいたい異変に触れてしまったり、相手の虫の居所が悪かったりすると問題です。
 せっかくの善意が相手へ不快感を催させてしまいます。

 そうかといって、周囲の人々へ無関心で、自分の領域に強いバリアを張っているだけの人は信頼されず、尊敬されもしません。
 人格で人生を渡れず、お金や権力や才能で意志を通そうとしますが、ますます信頼や尊敬からは遠ざかってしまいます。
 信頼や尊敬を集める人は、他人のものごとへどう触れるかという微妙なバランス感覚に優れ、触れないでおくべきところでは、ほとんど無関心を装い、相手が触れて欲しいと思っているところへは、ほとんど自分自身の問題であるかのように踏み込みます。

 江戸時代の長屋生活は、住む人びとが自他の間合いなどにおける絶妙な感覚を自然に学ぶ形態であったろうと想像されます。
 太平洋戦争後の日本でも、味噌や醤油の〈貸し借り〉をするなど、お隣さんとのつき合いに心温まる部分がありました。
 人々は、日々の生活の中で、自他のものの区別と、区別をふまえた上での交流について自然に、実践的に学びました。

 さて、「疎(ウト)んじる」という言葉があります。
 親しむの反対で、よそよそしく疎遠な関係になることです。
 この疎(ソ)は、梳(ソ…クシで髪をとかす)に通じ、粗(ソ)にも通じています。
 こまやかで嬉しい気持が漏れ落ちているという感じがあります。
 自他のものの区別がうまくできない人は、自分の善意が空回りしたり、疎んじられたりする可能性があります。
 こちらの温かい気持が相手との間からこぼれ落ちては残念です。

 自他のものの区別をつけながら、「親」と「疎」のバランスがとれた自他の関係をつくってゆくには、第一に、自分の気持に流されず相手をよく観る〈自分への厳しさ〉が必要です。
 よく言われるとおり、病人を励ますことは難しく、「がんばって」は禁句だと主張する方もおられます。
 そうすると「しっかり」はどうか、という話になり、言葉だけをあれこれ言ってもほとんど無意味です。
 理想的なのは、相手を思うのなら、思う自分を離れ、思われる相手になってしまうことです。
 もちろん、簡単にはできません。
 しかし、「可哀想に」とか「痛いだろうなあ」という自分の優しい心に発する〈無条件の前提〉から離れてみることは、意識すればできます。
 その典型が天皇陛下の慰問です。
 国民の安寧と日本国の平和を祈ることに一身の根本的存在理由がおありになる陛下は、祈る心のまま、私たちの近くへお出かけになられます。
 東日本大震災の被災地へも足をはこばれ、お言葉を述べられました。
 それは、私たちが普通に交わす言葉と同じ内容であっても、無私の両陛下が口にされると受ける側の心はちがいます。
 天皇陛下だから、という先入見の力がはたらくのも当然ですが、やはり、国民(クニタミ)を思う心一つで過ごしておられる聖人たるお力によるものでありましょう。
 ポイントは〈無私〉です。

 とにかく、会ってみること。
 会うまでは「大変だろうなあ」「辛いだろうなあ」などといろいろ思ってでかけても、会った時は、相手をそちら側に置かず、自分へ引き入れるようなイメージを持ってみましょう。(瞑想『阿字観』では必ず行います)
 そうすると、相手の本当の気持に近づけます。
 言葉は特に、出ないかも知れません。
 相手が先に「ありがとう」と言うかも知れません。
 言葉がなかなか出ずにじっと握手をし、たとえそのまま帰ったとしても、相手を思う気持は必ず伝わり、相手が感謝や感激をもよおせば、それは必ず生きる力となります。

「自他のものの区別」をつけながら、自分の思い込みにとらわれないこと。
 大人人間関係上、よく考えてみたいものです。




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2014
07.26

人間はそもそも〈自然界〉の生きものである ―腸内細菌と食べものの話―

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〈自然界からの小さな来訪者〉

 仙石病院の理事長を務めておられる医師神部廣一先生の文章にこんなことが書いてある。

「人間の便の組成をご存知ですか?
 6割は水分ですが、腸管上皮細胞の残滓(腸管粘膜は短い周期で脱落・再生している)が20%、乳酸菌や酪酸菌などの腸内細菌(人間にとって必須です!)の死骸が15%(毎日すごい量が腸の中で繁殖しては死んでいるのです)で、食べ物の残滓はおよそ5%に過ぎません。
 ですから食べなくてもウンコは出ます。」


 ウンコのほとんどは食べものの残りカスであると思っていたので驚いた。
 その4倍もの細胞の亡骸と3倍もの細菌の亡骸で構成されているとは!
 高校生の頃、「生物」の教科にはとても興味を持って勉強したはずだが、ウンコの構成について学んだ記憶はない。
 もう、半世紀も前のことなので忘れてしまったのか……。
 心中で眼を剥く思いだ。

「およそ地球上の生物はすべて腸内細菌が食べ物を変性・処理してくれるおかげで栄養として利用できています。
 パンダが、笹だけで生きていけるのはそのおかげです。」


 パンダやゾウが人間のように〈バランスのとれた〉食事をしなくても大きな身体を維持できる仕組みについては、多くの方々がご存じだろう。

腸内細菌はもともと土壌に居たものですから、現代人は清潔な食べ物を多く取る結果、腸内細菌のバランスが悪くなったと言われています。」


 ここで一気に、大地に足を踏ん張り陽光を受けて立つ人間がイメージされる。
 それは、タヌキやクマなどと同じである。
 彼らは衣服をまとわず、素のままで居るが、人間は儀礼上、衣服をまとい、安全上、工夫した家に住んでいるだけのことであって、衣服も家も人間そのものではない。
 人間は、知恵と科学力を用いて安全に長生きできる環境を追い求めて来たが、人間そものものは、依然として自然界の生きものに属したままである。
 手足や血管などはパーツで代用できるようになっても、腸内細菌を追い出した清潔な人工腸を用いて生きることはできない。
 外側にある皮膚も無数の細菌などに守られており、自然界の一部である人間の身体は、他の生きものたちと共生する以外、存在のしようがない。
 そのあたりのことはブログ「アレルギーと寄生虫」に書いたが、ノースカロライナ州立大学の生物学部教授ロブ・ダン著『わたしたちの体は寄生虫を欲している』を読むと、迷妄を解かれるような気がする。

 神部先生は「清潔な食べ物」へ慎重に警告を発しておられる。
 薬品によって細菌などを殺し尽くた環境で育てられ、計算上必要な栄養分として作られた食べものだけを摂っていては、共生すべき相手から遠ざかり、〈自然性〉を失った身体は変調を来すだろう。
 思えば、自然界はマンダラである。
 その構成内容やバランスの精妙さは、人知を遥かに超えている。
 いかなるコンピューターも全体を計算し尽くし、動かすことはできない。
 たかだか、人間というたった一つの種の脳から発するものが自然界の主になれるはずはない。
 思い上がれば、種を絶滅させ、オゾン層を破壊し、原爆を落とし、原発事故を起こすが、それらはすべて、人間という種の存在を危うくする。
 摂理内でしか存在できぬ生きものが摂理そのものへ指一本触れられないのは当然である。
 たとえば、本のページを構成している紙が一枚、じっとしている自分の役割を超えたくなって、燃えるという性質を生かそうと火の神を招いたならば、本は消滅へ向かうしかない。
 人間が、〈非自然〉や〈反自然〉なるものをうまく用いようとする工夫は、ほどほどにしておかねばならない。
 自然から離れた科学だけを頼りに存在することは不可能である。

「日常世間で食するもの以外で『身体に良い』というものはありません。
『身体に悪いもの』はいくらでもあります。
 身体に悪いところがあれば、『食べて治す』のではなく『悪いものを食べないで治す』ものなのです。」


 神部先生が言う「日常世間で食するもの」とは、いわゆる「食事」だろう。
 治療を要する状態にでもなればともかく、普段の生活においてはきちんと食事を摂ることに勝る健康法はないという意味だろう。
 そして、痩せる健康食品を口にしながら美食に走ったり、肝臓によいサプリにすがって酒をたらふく飲むといった生活へ警鐘を鳴らしておられるのだろう。
 多くの病院で、病気の予防や治療のために少なくした方がよい食べものについての掲示を見かける。
 これが「悪いものを食べないで治す」という道だろう。

「世間の人は医師以外の人の忠告を信じやすいものなのです」


 思わず、噴き出してしまった。
 宗教と事情はまったく同じだからである。
 生き方についても、あるいは死に方や送り方や死後のことごとについても、〈僧侶以外の人々の忠告〉にさんざん耳を傾け、どうにもならなくなってからご来山される方々の何と多いことか。
 おそらく神部先生は、医師の診察を受ける前に、あるいは受けながら、「医師以外の人の忠告」に迷う山ほどの患者さんを相手にしてこられたのだろう。
 病気と生死に関して、これほどプロ以外の方々の忠告が耳目を集めているとは、思えば、不思議な話ではある。
 信じられるプロの門をたたく以上確かな安心への近道はないのに……。
 ――また、自戒させられた。




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2014
07.25

【現代の偉人伝 第193話】―いじめから仲間を守った女子児童―

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1 身代わりを買って出た女子児童

 7月20日付の産経新聞は、仲間をいじめから救った小学3年生の女子児童が暴行され、ケガと精神的ショックにより学校を3週間休んだと報じた。

「3年生のクラスで4月以降、1人の女子が複数の男子などから、砂をかけられたり、悪口をいわれたりするいじめを受けていた。
 問題が起きた前日も嫌がらせを受けており、見かねた女子児童が、『放課後児童クラブ』(学童保育)の場で『いじめるなら私を代わりにいじめて』と言って止めようとした。
いじめてもいいんだな』。
 翌日、その発言を聞きつけた男子2人と女子1人が、こういって跳び蹴りなどの暴行を加え、頭部打撲など1週間のけがを負わせたという。
 しかし、担任の男性教師(23)の対応は鈍かった。
 休み時間が終わって教室に入った教師は、暴行に気付いて制止したものの、被害者の女子児童を保健室や病院に連れて行かなかった。
 保護者への連絡も翌日になってからで、女子児童はその後、けがと精神的なショックで、学校を3週間休まざるをえなかった。」


 周囲の対応にも問題があったと報じられている。

「市教委によると、担任の男性教師は大学を卒業したばかりの新任で『学級運営に問題があった』という。
 4月以降、子供たちが男性教師の指示に従わないことがたびたびあり、それは学校側も把握していた。
 今回の暴行が起きる直前の6月1日に開かれた校内会議では、担任と別の教員による2人体制で授業を行うことを決めたが、結果的に対応は後手に回った。
 男性教師は同級生へのいじめを『遊び』や『からかい』としか認識しておらず、市教委担当者は『経験の浅い担任を支える態勢をもっと早く整えるべきだった』と反省を口にする。
 今回の暴行で、その日のうちに保護者に連絡しなかった対応も不適切だ。
 いじめ問題に取り組むNPO法人『ジェントルハート プロジェクト』の武田さち子さんは『暴行の身体的な影響が帰宅後に生じても、学校での出来事を知らなければ、保護者は適切な処置ができない。学校はその日のうちに保護者に説明すべきだ』と話している。」


 平成22年には、仲間を庇いきれなかったと書き置きして自死した篠原真矢君(当時14才)の父親は言う。

「教師や学校がいじめを傍観するから、子供たちは、何とか自分の力で解決しようと追い込まれてしまう。
 いじめは犯罪であり、子供に『立ち向かえ』と指導するのは間違いだ」
「息子も含めて、大人が美談にしてはいけない」
「大人が犯罪を警察に通報するように、子供がいじめを大人に通報しやすくすることが大切だ。
 子供たちには、いじめの告発がチクり(告げ口)ではなく、正当な行為なんだと分かってほしい」


2 ベトナム戦争原爆投下・ワールドカップ・小泉劇場

 そもそも、弱い者をいじめるのは卑劣であるという感覚を育てていないことが問題続発の最大要因である。
 いじめる子供はもちろん、その場で厳しく叱らず、遊びの一部だと受けとめる教師にもまた、卑劣さに対する嫌悪感が欠如しているのではないか。
 この問題は根深い。

 ベトナム戦争において、アメリカ軍はジャングルに潜むベトコンを殲滅するため、「枯葉作戦」を行い、ダイオキシンを含む猛毒7200万リットルを投下した。
 奇形児など、その後遺症に悩む人々は200数十万人に及んでいる。
 1968年3月16日、ベトナムのソンミ村において、カリー中尉の指揮による大虐殺事件が起こり、内部告発や証拠写真など明白な証拠があるにもかかわらず、終身刑を受けたカリー中尉は英雄視され、上官であるメジナ大尉は、4時間にもわたった大虐殺を知らなかったという理由で無罪となった。
 広島に原爆を投下した機長は、「もう一度、同じ立場に立たされたなら、またやってみせます」と宣言し、拍手喝采を浴びた。
 いずれも根底には有色人種への差別意識があり、たとえ相手が弱い者であっても、完膚無きまで叩くことが許されているという驕りがある。
 ここでは、弱い者いじめは〈見せ物〉となり、拍手を招くのである。
 どこか似たような気配のあるできごとが、サッカーワールドカップのブラジル大会でも見られた。
 準決勝のドイツ対ブラジルの対戦において、絶対不利に陥ったブラジルへ対し、ドイツはおもしろいように7得点を重ねた。
 もちろん、ルール違反は何もないが、まるでダウンしているボクサーを完膚無きまで叩くがごとき様相を呈した。
 仏文学者でありスポーツ評論家でもある蓮實重彦氏は、「陰惨」と表現した。

「あれはもうサッカーではない。
 ドイツが7点もとってしまったことは、果たして成功なのか。
 もちろん、勝利したという点では成功なのですが『サッカーをサッカーではないものにしてしまった』という点においては醜い失敗だったとしか思えません。 
 誰かがドイツ代表の精神分析をやらなくてはならない。
 どこまで点が取れるのか、面白いからやってみよう、というぐらいの気持になっていたと思うのですが、どう見ても7点も取ってはいけない。
 何かが壊れるし、人の道から外れているとしか思えない。」


 日本では、小泉首相の郵政選挙が同じ色をまとっていた。
 反対派を守旧派と決めつけ、〈刺客〉を向ける勧善懲悪の劇場を煽り立てるマスコミに乗せられた国民は踊りに踊った。
 人徳も功績も能力も主張も、レッテルには適わない。
 守旧派のレッテルを貼られた候補者はハンデを負った戦いの中で一方的に叩かれ尽くし、叩く者は拍手を浴びた。
 あまりにも異様な光景だった。

「弱い者を苛めてはならない」
 これは、私たちが人の道から外れないためのあまりにも重要な倫理的戒めである。
 なぜなら、相手の尊厳を無視するという決定的な悪、すなわち卑劣な行為への歯止めだからである。
 枯葉作戦も、ソンミ村の虐殺も、ドイツの完勝も、郵政選挙の劇場も、同じ卑劣さを帯びている。

3 私たちは「まっとうさ」を追い求められるか
 
 冒頭の女子児童はきっと、優しい気持と共に、〈卑劣〉と感じるまっとうさも持っているのだろう。
 そうした者が暴力を受けて尊厳を傷つけられるだけでなく、登校するという基本的な権利も踏みにじられる。
 何という象徴的なできごとだろうか。
 私たちは実に、人間を人間そのものと観られないさまざまな色眼鏡を持っている。
 人倫の根拠を持たない高慢心、対戦相手を尊重しない野蛮な感覚、危うい善を奉じる優越感。
 女子児童はまだ、そうしたものを持ってはいない。
 だから、卑劣な行為が許せなかった。
 こうしたまっとうな人間を被害者にしてしまう、あるいは見捨てる邪悪な心は、私たち皆の胸に深く、深く、巣くっている。
 残念で恥ずかしいできごとを忘れず、よくよく省みたい。




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2014
07.24

人間として人間に接する話

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 韓国人Aさんは、父親から辛い時代について聞かされたことがある。
 かつて日韓併合によって徴用されたおりに、日本人らしく改名させられ、日本語を話させられ、筆舌に尽くせぬ差別を受けた。
「国がなくなるのは悲しいものだ」
 Aさんは、この言葉を忘れない。
 しかし、Aさんは「まず、日本を知ろう」と決意し、日本についてアメリカで学んだ。
 やがて来日し、日本人たちと接するうちに、心の奥底に住むわだかまりは気にならなくなった。
 たとえ激論を戦わせる場面はあっても、心は平安を保っている。
 信頼できる日本人の友人たちは増える一方である。
 私たちは、相手を知り、相手と心を開いて接することにより、お互いの心を共通の涼風が吹く関係になれる。

 Bさんは高校時代、人間関係に悩み、外国へ留学した。
 耐え難い思いをしたが、そこで初めて日本のよさを知り、驚きもした。
 苦しみ、悩んでいた自分も、周囲の人々も、客観的に観られるようになった。
 目覚めさせてくれた外国の仲間に心から感謝している。
 今、Bさんは〈すばらしい日本人〉を生き、〈すばらしい世界中の人々〉と接する仕事をめざしている。
 Bさんは、井の中の蛙を脱する最大のチャンスをものにした。

 ダライ・ラマ法王は、40年ほど前、何本かのフィルムを持ったフィリップスというイギリス人の訪問を受け、チベットに中国人がいることの意義について聞かされた。
 法王はいつものように心を開いたまま話に耳を傾け、やがて体験談を伝えた。
 1930年頃、中国共産党に入党したチベット人たちは日中戦争に加わり、中国軍のチベット侵攻にも協力した。
 純粋にマルクス主義を信じていたからである。
 ところが1956年から1957年ころになると、こうしたチベット人たちは中国人に追い払われ、「ある者は囚人となり、ある者は行方不明になった」(ダライ・ラマ法王著『空と縁起』より)という。
 親愛の情をこめて事実を告げられたフィリップス氏は、思い違いに気づいた。
 法王は述べた。
「この経験は、いかに意見がことなろうとも、われわれは人間の立場で心を通い合わせることができることを、私に確認させてくれた。
 だから、意見の相違は脇において、まず人として語り合うべきだ。
 それこそが、他者の心に善い感情を芽生えさせる方法である。」

 私たちは、相手を人間そのものと観て接したい。
 また、自分の心からも余分な先入観を追い出して人間そのものとして相手の前に立ちたい。
 そこに、〈同じ人間同士〉という貴重な感覚が動く。
 親愛の情も動く。
 善い感情が芽生える。
 そうすれば、相手の長所に気づく。
 こうした気づき合いの先に不毛の対立は起こらず、悪しき高慢心も生じない。
 人は人の間にあってこそ、〈人間〉である。

 さて、現代人は、朝から晩まで、コミュニケーションの道具にかじりついている。
 特に若者たちは、あたかも依存症であるかのごとき危機的様相を呈している。
 1日は24時間しかないのに……。
 これだけコミュニケーションが発達したにもかかわらず、6月には豊橋市内の小学校で、イジメを受けている仲間をかばおうとした女子児童が暴行され、けがと精神的ショックによって3週間も登校できないという事件が起こった。
 担任の男性教師は、イジメと遊びの区別がつかなかったという。
 岡山県で起こった小5女児(11才)の監禁事件で拉致、監禁した藤原武容疑者(49才)は、自宅へ突入した捜査員に「これは自分の妻です」とうそぶいた。

 私たちの周囲にあふれる文明の利器は、はたして、間をつなぐものだろうか、それとも間を破壊するものだろうか?
 文明の利器たちと、〈同じ人間同士〉というかけがえのない感覚との関係について、よく考えてみる必要があるのではなかろうか。




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2014
07.23

供養によって得られるものは? ―恩の確認・心の安寧・死の克服・霊障からの解放─

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〈おかげさまで、19名もの方々にご参加をたまわり、無事、草刈りを終えました。深く感謝申しあげます〉

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 私たちは先祖供養を行えば何を得られ、供養をしなければ何を得られないのでしょうか。

1 恩の確認

 自分を生み、育ててくれた親や、いのちを引き継いでくださったご先祖様方へ対して報恩の心を持ち、自分にできることをもって表現するのは、人間が人間であるための第一歩です。
 ちなみに、出家者は最初に、恩を忘れぬことと、戒めを守ることの二つをご本尊様へ誓います。
 供養の実践は、ご先祖様にお喜びいただくだけでなく、自分をまっとうな人間たらしめる貴重な機会を、ご先祖様から与えられ、死後にもなお、大きな恩をたまわっているのです。 

 先祖供養は、恩知らずにならぬための第一歩です。

2 心の安寧

 先に逝った人の御霊が安寧であって欲しいと願う時、両手が合わさります。
 一周忌や三回忌など、大きな区切を迎えれば、プロの僧侶に修法を依頼します。
 あるいは仏前で読経したり、写経したりと、自分で行えることを学び、実践します。
 
 私たちの不安はまず、方法がわからないところに発し、方法を信じられることによって、不安は和らぎます。
 たとえば、頭が痛くなって仕事ができなければ、お医者さんから風邪薬などをもらいます。
 相手がよく信じているお医者さんならば、飲んだ瞬間から、「さあ、やるぞ!」となり、薬がただの甘い粉であっても、実際に頭痛が吹き飛んだりする場合すらあります。
 私たちは、人間になったあたりから、埋葬や鎮魂や供養などの方法を、ずっと、模索してきました。
 ぞれは、地域により、宗教により、民族により、国によって千差万別ですが、それぞれにずっと探求と実践を怠らなかった結果として、私たちはどう手を合わせ、どう祈ればよいかを知っています。
 方法を知り、意義を知り、実際に行うことによって心は定まり、落ち着き、あの世の安寧が期待され、信じられ、自分の心にも安寧が生まれます。

 人間が人間であるゆえんの霊性は、身体によって、言葉によって、心によって動き、高められ、曇ったりもします。
 決して、思えばそれでよい、のではありません。
 たとえば、一休和尚が高野山に詣でた時のことです。
 例によって毒舌をふるい、真言僧が結ぶ印をバカにして帰ろうとしました。
 その背に向かって真言僧が手を打ったところ、彼は振り返り、手招きされて今度は引き返したのです。
 また、口に真言を唱えれば、心はみ仏に近づきますが、口に呪詛を唱えれば、心は修羅や地獄に近づきます。
 心に満月をイメージし続けていれば、心は円満さに満ちてゆきますが、心に戦場をイメージし続けていれば、人格はバランスを保てなくなったりもします。
 つまり、身・口・意をいかに使うかが大切であり、仏教はずっと、お釈迦様の境地を目指してその方法を探求してきました。

 供養の方法を知って実践すれば、あの世にもこの世にも安寧がもたらされるのです。

3 死の克服

 ご先祖様の世界、つまりあの世を想う心で供養を続けていれば、いつの間にか、あの世は、この世と断絶した暗黒の世界ではないことに気づきます。
 ご先祖様とご本尊様に守られ、おかげさま、という心で供養を続けていれば、今を守られている安心感が、あの世まで続くことに気づきます。
 この世とあの世とを問わず、娑婆とみ仏の世界とを問わず、あらゆるご縁のおかげで今を生きているという実感があれば、たった一人であの世の旅をするといった感覚は生じません。
 最近の人生相談で多いのは、「お葬式はしなくてもよいのでしょうか?」というものです。
 当山には、このような本音が多く寄せられます。
 いつも最初にお答えする言葉は決まっています。
「ご葬儀と告別式は別ものです。
 それは、結婚式と披露宴のようなものです」
 披露宴をいかなる形や規模で行うか、行わないかについては、判断するための要素がたくさんありましょう。
 しかし、自分を生み、ここまで育て、守ってくださった身近な人々の前で、仏神のお導きにより人生の大きな区切をはっきりとつけることを行わない方がよいという倫理的、社会的意義は見出せません。
 お葬式も同じです。
 告別式と、み仏に導かれてあの世へ向かう区切をはっきりとつけるご葬儀とは、次元の異なる問題です。

 供養を行い、この世を「おかげさま」と生きる人は、あの世へも「おかげさま」と旅立つので、不安も高慢心もなくなるのです。

4 霊障問題からの解放

 事故死と自死と災害死とを問わず、水子やペットも含め、未成仏霊に関するご相談も数多くあります。
 亡くなられたおりに「きちんと引導を渡された」という安心体験がない方には、不安が残りがちであると言えそうです。
 そうした不安をキャッチして〝見える〟や〝聞こえる〟を語る方々が増え、怪しいカウンセラーや宗教団体もあると聞いています。
 信頼できる葬儀と供養のプロに導かれ、自分もできることを淡々と行っていれば、霊障問題で悩まずに済むことでしょう。

 なお、「水子の祟り」はあり得ないことをつけ加えておきます。
 この世でさまざまな因縁を作ったり、善業も悪業も重ねたりといった時間を持たないままに、み仏の世界へ還った水子の霊は、誰に対しても悪意を持ちません。
 経典は説きます。

「人身(ニンジン)、受け難し」


 それは、一つには、無数にいる生きものたちの中で、人間になるというほとんどゼロに近い確率でこの世に現れることが困難であるという意味であり、もう一つには、生まれ出ることそのものが「生苦(ショウク)」とされ、生誕が困難なできごとであるという意味です。
 人間ではない生きものとして、この世の生命世界へ生まれ、死に、気の遠くなるような輪廻転生(リンネテンショウ)をくり返した末に、ようやく人間として胎内に宿ることができますが、最後の最後に、生まれ出るための条件が100パーセント調わない限り、生誕は叶いません。
 だから、人間として生まれ出るためのチャレンジは、ほとんど無限にくり返されています。
 その中で、たった一回、条件を整えてやれなかった父母へ機会を与えてくれたことに感謝するならいざ知らず、どうして祟るのでしょう。
 み仏の世界へ還って行った瞬間から、再チャレンジは始まるのです。
 だから、生んでやれなかった父母は、不憫さを嘆くだけでなく、すなおに詫び、今度は成功するようにと祈り、励ますことが大切です。
 そして、慈悲心を生じたなら、それを周囲の生きとし生けるものたちへとふり向けましょう。
 お地蔵様の讃歎経は説きます。

「この世に過ごす父母たちよ○真にわが子の救済を○涙の中で願うなら○この世において恵まれぬ○子供や病気の人々に○わが子に代わって善根(ゼンコン)を○積むことこそが供養なり○ここに地蔵の大悲心○在るを悟って自らも○地蔵となって励むべし。」


 怖れるなどは水子霊へ対して失礼であり、きちんと供養しなかった自分の引け目がそうした気持にさせたのだと、早く気づきたいものです。

 みだりに霊障を怖れず、人として行うべきことをきちんと行いたいものです。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
07.22

死をひとつ映し終へたる大鏡 ―鏡と人と―

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 俳誌『季流(キリュウ)』を主宰しておられる小泉八重子氏の作品と出会った。

「死をひとつ映し終へたる大


 日々、大きなの前に座り、化粧をしていた方が亡くなられたのだろう。
 もしかすると、は、何代かにわたって使われてきたものかも知れない。

 は、〈使う人にとっての〉だった。
 使う人がいなくなった今は、ただ、空虚な空間を映し出しているだけである。
 しかし、考えてみると、そもそも、使う人とは対等の存在だったのだ。
 人は、鏡の手を借りて自分の顔を観ているつもりだが、視界にあるのは、あくまでも、鏡が映し出す顔であって、自分の顔そのものではない。
 対等ならば、鏡もまた、人を観ているとは考えられないだろうか。

 閻魔大王は、とてつもなく大きな鏡を持っているという。
 それは、すべての人の、すべての振る舞いを観ている鏡である。
 また、閻魔大王には倶生神(グショウシン)という手下がいるという。
 文字どおり「生と倶(トモ)に」ある神は、私たちが生まれた瞬間から、私たちの知らぬ間に人生の同伴者となり、ひとときも離れずに担当する人の振る舞いを見張っている。
 だから、人が鏡を観る時、閻魔大王は遥かに大きな鏡へその光景を映し出しているし、倶生神は鏡の裏側から人をまざまざと眺めているかも知れない。
 人が去り、対面していた相手だけが残った目に見える空虚観は、目に見えない世界で閻魔大王がスイッチを切った空虚観も、役割を終えた倶生神閻魔大王のもとへご注進に向かってしまった空虚観でもある。

 それにしても、「生」ではなく「死」を「映し終えた」という表現は、私たちの日常感覚を遥かに超えている。
 鏡はもはや、使う〈人〉とは無関係な〈モノ〉として存在している。
 もしも、モノが、いくつもの生涯を映し続けているとしたなら、もはや、人とは異次元の聖なる世界に属しているのではないか。
 だから、〈異〉と〈聖〉とが重なった13の文字は、不気味さを伴っている。

 氏の作品である。

「ふるさとにふらここの揺り残し来し」


 子供の頃に揺らしながら遊んだ故郷のブランコを回想しているのだが、使い手を失い、時が経ち、もう朽ち果てているはずのブランコが、「もっと遊びたかった」という念を受けて、まだ、あの頃のように風に吹かれているのではないかと思わせる。
 念は言葉で構成され、言霊となって姿を招く。
 時を超えたモノの存在は不気味さを発している。

 そもそも、氏は『季流(キリュウ)』の理念として宣言している。
「この厳しい現実社会に生きる、限りある生を思い、美しいけれど移ろいやすい四季の流れの中で、移ろわぬ心を持ち続けたい。
 日常の <俗> 、俳句の <諧> 、自然風物の <雅> の三つが一つの流れとなり、季流の色彩となってくれればと願っている 」
 この一句は理念の象徴ではないか。

「血ははるか遙かに継がれ芝居


 ようやく安堵を覚えた。
 怖い人である。




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2014
07.21

真智の開発をめざして(その7) ─五智の教え・好みに流されぬこと─

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「五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、厳しさは、〈愚癡〉〈好悪〉〈自他〉〈明暗〉〈公私〉という五つの問題がきちんと整理される時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[2の2]厳しさ─好みに流されない

1 好むとはどういうことか

 私たちは、「一生、好きなことをして暮らしたい」あるいは「毎日、好きなことだけをしていたい」と思う瞬間があります。
 何かで成功した人が、子供たちへ「自分が本当に好きなことをやり続けなさい」と、秘訣を語ったりもします。
 古人の言った「好きこそものの上手なれ」です。
 では、私たちにとって〈好き〉とはいかなる感情でしょうか?

 たとえば、誰かを好きになる。
 それは、よしんば、なかなか会えない、片思いでしかない、などの辛さやもどかしさの伴うものであっても、核となっているのはワクワク感です。
 たとえばサッカーに没頭する。
 寒かろうと、暑かろうと雨が降ろうと、ボールを追い、やったと思える瞬間があれば、成績が下がったことも、親から小言をいわれたこともすっ飛んでしまう爽快感は、他の何にも代えられません。
 これらを漢字にすれば第一候補は「快」、第二候補は「愉」となるのではないでしょうか。
 つまり、愉快です。
 では、愉快とは何か?

 二つの文字は、共に「こころよし」と読み、「心にかなって気持がよい」(『字訓』による)状態つまり「心良し」を意味します。
 二つの文字には「刃で患っている部分を切除した後の心情」という原意があり、「愉快」はそもそも「不安を取り除いて、現状を回復すること」(『字訓』による)を本義としています。
 だから、快も愉も、癒(いやし)に連なっています。

 そうすると、「好き」は非常に積極的な感情なのに、実は、何かから離れ、救われている状態ということになります。
 確かに、恋人を想っている時も、サッカーをやっている時も、お金がない不安や空腹感は忘れられています。

2 仏教で「好き」とは?

 さて、ちょっと視点を変えてみましょう。
 仏教的に「好」はどうなっているか?
 実は恐ろしいことに、私たちの目や耳などが情報をキャッチすると自動的に六つの受け止め方をしてしまい、それが苦につながってしまうという分析があります。
 それが、好(コウ)・悪(オ)・平(ヘイ)・楽受(ラクジュ)・苦受(クジュ)・不楽不苦受(フラクフクジュ)です。
 字を見てわかるとおり、好き、嫌い、無関心、快い、不快、何ともない、といった状態です。
 確かに私たちは、好感の持てる人、あまり話したくない人、好きな仕事、嫌な仕事などという仕分けをしてしまいがちです。
 なぜ、こうした反応が苦、つまり〈まなならない状態〉へ導いてしまうかと言えば、そこには〈自分の尺度〉がはたらいているからです。
 自分の尺度は、自己中心的な心が無意識のうちにつくっており、誰しもが持っているはずです。
 相手が人であっても、ものごとであっても、尺度を当て、まず〈自分にとって〉どうかと、勝手に判断してしまうのです。
 尺度は人それぞれなので、それぞれが、好き!と惹かれたり、嫌い!と反発したりするので、この世は誰にとってもままならず、もどかしく、生き難い憂き世になってしまいます。

3 好みを言うと束縛されてしまう話

 さて、また、視点を変えてみましょう。
 ストーカー、飲酒運転、贈収賄、パワハラなどなど、事件の多くは、好みに絡んでいます。
 これらはそれぞれ、色欲、食欲、財欲、名誉欲など、「快」をもたらす「欲」のしわざです。
 欲に流され、好き勝手に自分なりの愉快を求めれば、悪行にまで行き着いてしまう危険性があります。
 また、好みに付け入って相手を縛り、自分勝手な目的を果たそうとする輩は、いつの世も絶えません。
 色仕掛けで勝負するするスパイは、映画の世界だけでなく、現実の世界でも活躍しています。
 7月20日付の朝日新聞は、中部電力が政界へ2億5千万円もの裏金を流していたと暴露し、21日には、前愛知県知事の神田真氏(62才)が事実を認めたと報じました。
 選挙にお金を必要とする政治家が、不明朗なお金を受け取り、事実上、金主に縛られた状態になるのは、好みに付け入られる典型です。
 実に、好みとは、自分を束縛しかねない危険なものでもあります。
 一方、好みの反対である「嫌い」をうっかり口走れば、人間関係はあっという間に壊れます。
 もしもAさんへ「実は私、Bさんが嫌い」と告げたなら、あなたはAさんへ、あなたとBさんとの人間関係を委ねたことになります。
「自分を縛ってください」、縄を一本、与えたようなものなのです。
 
4 まとめ

 好みは、生きているがゆえの歓びを感じさせたり、救いとなったりし、人生の偉業に結びつく場合もある一方で、好き嫌いなどとして顕れる欲に流されると、人生に躓いたり、落とし穴に落ちたりもしかねません。
 大切なのは、自分の好みや欲の実態を直視し、それをコントロールする姿勢です。
 自分への厳しさです。
 そこが揺らぎそうな場合は、種種解智力(シュジュゲチリキ)という無限の理解力を発揮する大日如来へおすがりしましょう。
 大日如来は、人々が持つ真の望みを知り尽くし、欲が自己中心の煩悩としてはたらかず、自他を清め活き活きと生きる大欲(タイヨク)としてはたらくよう、お導きくださいます。
「おん あびらうんけん ばざらだとばん」
 大日如来の世界へ通じる扉が開くよう、お唱えしませんか。
(『大日如来讃歎経』はこちらからどうぞhttps://www.youtube.com/watch?v=Zmvy1_r4Eto)




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2014
07.20

真智の開発をめざして(その6) ─五智の教え・愚癡を言わぬこと─

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五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、厳しさは、〈愚癡〉〈好悪〉〈自他〉〈明暗〉〈公私〉という五つの問題がきちんと整理される時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[2の1]厳しさ─愚癡を言わない

 私たちは、自分へ対して優しく、他人や社会へ対して厳しくなりがちです。
 それは、〈自分可愛さ〉があるからです。
 自分の欠点に気づいていない人ほど、他人の欠点をあげつらうものです。
 こんな言葉を耳にしたことはないでしょうか?
「あの人が他人の悪口を言うのを聞いたことがない」
 人格に対する最高の誉め言葉です。
 どう最高なのか?
 他人の悪口を言えぬほど、自分の至らなさを知っているからです。
 未熟な自分を戒め、言動を慎む時、その人は〈自分可愛さ〉から離れています。
 なかなか、このようには振る舞えず、言われた人はもちろん、聞き手にも不快感を与えがちな私たちであればこそ、〝自分へ厳しくしよう〟という、向上する意志が必要です。

 自分へ厳しくするためには、まず、愚癡を言わないようにしましょう。
 この場合の「愚癡」とは、言っても仕方のないことをグタグタと並べて時間を潰す行為だけではありません。
 そもそもは三毒という苦しみの根源とされているものの一つです。
 三毒とは、貪(トン…貪ること)・瞋(ジン…怒ること)・癡(チ…愚かなこと)であり、ものの道理に暗く、智慧のはたらかない状態が愚癡です。
 インドの言葉ではモーハと言い、漢字文化圏に入ったおりに、「愚癡」あるいは、「馬鹿」と訳されました。
 文字を見てわかるとおり、意味からは「愚癡」とされ、音からは「馬鹿」とされたのです。
 そもそも、愚癡は馬鹿と同じであって、決して馬や鹿がバカなのではありません。

 では、愚癡とはどう馬鹿なのか?
 道理に暗く、智慧のはたらかない状態とはどういうものか?
 もちろん、頭の良し悪しを指すのではありません。
 仏教的には、原因には必ず結果が伴うことが本当にわかってはいない状態、あらゆるものは縁の糸で結ばれていることを実感できない状態、この二つを指します。
 仏教語では、因果応報と、縁起を知らない、もしくは忘れていれば愚癡の人ということになります。

 一見、難しそうな話ですが、決してそうではありません。
 第一の「因果応報」については、起こっているものごとには必ず原因があり、結果のでない行為はない、と本当に思えれば大丈夫です。
 あるいは、悪いことをすれば必ず罰が当たる、良いことをすれば必ず仏神が見ていてくださる、と思えれば大丈夫です。
 まっとうに汗を流している人が必ずしも報いられず、悪知恵にたけた人が地位や財産を得たりしているという現実を前にしてもなお、原因と結果はつながっているというお釈迦様の説かれた真理を信じて、良心に従った生き方のできる人は、人間として大丈夫なのです。
 また、第二の「縁起」については、すべては縁の糸に結ばれて起こり、存在しており、時の流れの中で縁が変わればすべては変わって行くと思えれば大丈夫です。
 あるいは、何ごとも「おかげさま」と感謝し、自分より先に亡くなったネコや人に「無常」を感じれば大丈夫です。
 育ったことも生きてきたことも、何でも自分の力でやってきたような高慢心による勘違いから離れ、自己中心的な執着心でしがみつく愚かさにきづけば、人間として大丈夫なのです。

 このように考えると、いわゆるグチを言って大切な人生を浪費してなどいられなくなります。
 また、自分に厳しくなれば、グチという〈未来を創造しない〉状態につけ入り、「そうだ、そうだ」と同調して歓心を買い、うまく利用しようとする心の暗い人との縁ができにくくなります。
 グチを聴いてくれる人が本当に相手のことを思っているのなら結構ですが、親身になってくれているはずの人にあれこれ言いふらされて酷い目に遭ったなどというできごとは、日常茶飯に起こります。
 愚癡の人の因縁は、愚癡の人を引き寄せたりもします。
 言いたい時にはグッとこらえて〈自分に厳しく〉し、グチをやめようではありませんか。
 子供たちの姿に励まされ、花に微笑み、未来をこそ、語ろうではありませんか。
 ただし、自分をあまり追いつめないよう、辛い時にはみ仏へ手を合わせて報告し、お救いいただきましょう。
 無限のお慈悲は、無限の吸い取り紙でもあるのです。
 ありがたいものです。






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2014
07.19

フォトコンテスト最優秀賞『夢の楽園』に想う

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〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 7月18日付の朝日新聞は、「人生バンザイ」と題し、「第6回人間大好き!フォトコンテスト」の入賞作品を掲載した。
 最優秀賞となったのは、大木のぶえさん(神奈川県)の作品『夢の楽園』である。
 逆光の中、乳母車を押し、あるいはだっこし、あるいは手を引き、幼子を伴った人々が集いの場を目指している。
 斜めにこちらを向いた中央左側の男性がわずかに表情を見せているのみで、あとの人々はシルエットのみである。
 一足先に光の世界へ入った二人の人はすでに〈個〉の形を離れつつある。
 楽園は光に満ちている。
 そこでは、ぶつかり合う宿命の〈個〉は消え行くのだろうか。

 事情があり、大形バスで合宿から戻る孫を小学校へ迎えに行った時のことである。
 小雨の駐車場は車でいっぱいになっており、めざす校舎の玄関付近は、バスの到着を待つ50人以上の母親たちであふれかえっていた。
 人目見て父親は数人、祖父は父親と見分けがつかない。
 傘をささず、ゆっくりと校舎へ向かった足は人のかたまりを右回りに迂回し、グラウンドを正面にする側へ着いた。
 このあたりに立っている数人は、いずれも無口である。

 みごとに撫でられたグラウンドは、静かに雨を受けている。
 まもなく、低学年の子供たちがランドセルを背負い、言葉を交わし合いながら三々五々、黄色や赤の傘をさし、あるいはささずに走りながら、校舎沿いに向こうからやってくる。
 玄関とは反対側に出入り口があるのだろう。

 口々に「こんにちわ」「さようなら」あるいは、不思議にも「お帰り」と挨拶しながら通り過ぎる中で、群れず、トボトボとうつむき加減に歩く男の子が目にとまった。
 黄色の大きな傘は彼の上半身を隠し、半ズボンと靴だけが男を示していた。
 その瞬間、私は〝戦争に行かせたくない!〟と心で叫んでいた。

 前夜、小島信夫の短編小説『小銃』を読んでいた。
 射撃の名手である「私」は中国の戦地で、後ろ手で縛られたままの孕んだ「シナの女」を撃ち、掘った穴へ突き落とすはめになる。

 無言で命乞いをする私へ笑いで応えた班長は、命令を下す。
「お前は百メートルさきからこの女を射て。
 射ってから着剣して前進し、五十メートル前方で突撃せよ。
 それから突くのだ」
「駆足、進め」
 100メートル先まで走り、回れ右をした「私」へまた命令が下る。
「立ち射ちのかまえ、銃(ツツ)!」
 その瞬間、私はようやく、何をやろうとしているのかを本当に知る。
「本能的に私は呼吸をしずめかまえた。
 かまえる相手が、標的ではなくて、棒杭(ボウクイ)にしばりつけられた女であることをほんとに感じたのはその時であった。
 私はかまえた。
 命令は動作を強いるしかけになっていたのだ。」
 見事に命中させた「私」は走り出す。
「走りつづけるうちに私は道具になり、小銃になり、ただ小銃に重みと勢いと方向を与える道具になった。
 習いおぼえたように、ふみきると、私の腕はひとりでにのびた。
 私の任務と演習は終わった。」
 班長に肩を叩かれる。
「おまえもこれで一人前になった」
 私は倒れる。
「こんこんと怒りがわきおこってきた。
 大矢班長にではなく、私をたぶらかし、射的から殺戮(サツリク)にとすりかえたこの道具にたいしてであった。
 一人前になったどころではなく、血管を逆流してくる憤りのために、その場で私は昏倒(コントウ)してしまった。」

 気がつくと、例の男の子はもう、私の前を通り過ぎるところだった。
 坊主頭のいかにも田舎の子らしい彼は私へチラッと視線を走らせ、不思議なものを見たといった表情で去った。
 目を上げると、小降りになったグラウンドで女の子が二人、追いかけっこをしている。
 クルクル、クルクル、クルクル……。
 もう一度、今度は心の中をゆっくりと言葉が流れた。
〝戦 争 に 行 か せ た く な い〟

 バスが着いたらしく、私と並んで立っていたお母さん方も動き出す。
 一番最後にバスを視界へ入れた私は、子供たちがもう、降りて校舎内へ移動し終わろうとしていたので、孫を見失ったかと焦った。
 しかし、大きな荷物を抱えた孫は、さざめく母親たちの頭越しに私を見つけ、口元をほころばせた。
 私は胸の前で右手を小さく挙げたのだった。

 もう一度、『夢の楽園』を観る。
 向こう側には、花もごちそうも何も写ってはいない。
 しかし、向こうへと歩を進める人々にはまったく、不安もためらいもない。
 人々は約束された世界を信じ切っている。
 実はここがもう、楽園なのではないか。

 大喜直彦氏の指摘を思い出す。
「『希望』があってこその『』である。
 『希望』がなければ、『』は単なる空想的な理想にすぎないのではないか」
 特に若い方々にはぜひ、具体的な希望を持っていただきたい。
〝自分が、こうなりたい〟
〝家族(あるいは友人や同僚など)に、こうあって欲しい〟
〝社会は、こうありたい〟
 仏法は決して意欲を離れさせ、希望を捨てさせるものではない。
 希望が思いやりの伴う清浄なものとなり、実現するための方法を誤らぬよう、智慧をもたらす。
 そこで躍動するく大欲(タイヨク)こそが、まっとうな人間としての希望を後押しする。
 ぶれずに進めばきっと、色とりどりの「人生バンザイ」が待っていることだろう。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
07.18

【現代の偉人伝 第192話】―元ドイツ連邦議会議長リタ・ジェスムート氏―

20140718doitu2.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 7月17日付の朝日新聞に「移民政策 ドイツの経験」が掲載された。
 インタビューを受けたのは、元ドイツ連邦議会議長リタ・ジェスムート氏である。

 ドイツは第二次世界大戦後、復興を担う外国人労働者を受け入れた。
 彼らは、ドイツに滞在する期限を切られたガスト・アルバイターだった。
 ドイツは移民政策をとらない国だった。
 保守系コール政権の閣僚として女性や若者を担当したジェスムート氏は、移民はいないという建前の中で暮らす外国人の悲惨な状況に直面する。

「わかったのは貧困や差別などの問題を抱える女性や若者の多くが、ドイツに長く暮らす外国人だったことです。
 ドイツ語が十分に話せない。
 教育水準も低い。
 ほかの人と同じ権利や機会を持つ人間とはみなされていない。」

 
 同じ国に暮らしながら同じ〈人間〉としての扱いを受けていない人々がいることに、女性である氏がいかに強烈な衝撃を受けたかが、率直に述べられている。

 ジェスムート氏が所属する保守系野党であるキリスト教民主同盟(CDU)は、支持者が離れることを怖れ、問題の改善をめざす氏を攻撃した。
 しかし、氏は揺るがなかった。

「この問題は党はで争うべきテーマではない。
 国のあり方にかかわる問題である。
 だからすべての政党が協力して正面から向き合わなければならない。」


 国の姿にかかわる問題は党利党略、派利派略の次元で扱ってはならないのだ。
 氏はすでに、将来、議長となるだけの人物だった。

移民の受け入れは、単に労働力を受け入れることではありません。
 彼らも家庭を持てば、子供を学校に通わせる。
 病気になれば医療機関で治療を受けるし、年をとれば年金をもらう。」


 何と暖かな言葉だろうか。
 庶民が生きる現場を知り、同時に世を動かす政治の現場にもいる人ならでの深い思いやりが感じられる。

「ただ、たとえ出身地が外国であっても、ドイツ社会の構成メンバーになるからにはドイツの原則や理念を受け入れてもらわねばなりません。
 かといって、価値観を一方的に押しつければいいわけでもない。
 彼らの固有の文化も尊重されてしかるべきでしょう。
 少数者の権利や文化を認めるということも、ドイツの基本的な価値観だからです。」


 これこそが、政治の責任であり、決断であり、国民に理解と納得と協力を求める問題である。
 国境はあるが同時に一つの文化圏でもあるドイツで暮らそうとするなら、ドイツの水を本当においしいと思いながら飲んで欲しいという。
 外国人は、お金を稼いで母国へ送金するために大切ドイツを〈利用するだけ〉の存在であって欲しくない、それでは、国が潤いをなくす。
 もちろん、国も、外国人を〈利用するだけ〉の恥知らずな国であってはならない。

「大切なのは『寛容』よりリスペクト(敬意)。
『ここにいても構わないが、最終的に〈あなたたち〉は〈私たち〉と違う』ではだめなのです。
 ドイツ人と移民とが互いに依存し合う関係であるという感受性を、幼稚園から大学教育まで浸透させねばなりません。
 単にドイツ語の読み書き能力だけでなく、彼らがドイツ社会に積極的に参加すればきちんと評価することも重要です。」

 
 今、ドイツにおいて、お大師様のマンダラ思想がよく研究されているという。
 縁の糸を感じるのは仏教的感性であり、縁に連なるものたち個々がそれぞれなりにかけがえのない光を発していると感じるのは、華厳(ケゴン)の感受性であり、全体像としてのマンダラを拝する密教的感性にも重なる世界である。
 それにしても、「寛容よりも敬意」とは、何という積極的な慈悲の発露だろう。
 一つの文化圏に責任を持つ政治家として、あまりにも抜きん出ているのではなかろうか。
 氏のバックボーンである宗教の力なのだろうか。

「重要なのは、政治のリーダーシップです。
 リーダーがわずかでも不安や恐怖をあおれば、社会はさらに過敏に反応します。
 政治家だけでなく、経済界、労組、教会など大組織を率いる人は、移民問題に向き合い、責任のある発言をすべきです。」


 日本でヘイトスピーチが流行りだした原因は、はたして、〈外国〉だけにあるのだろうか。
 朝から毎日、北朝鮮問題や韓国問題や中国問題を流し続け、優越感や敵愾心を煽って視聴率を稼ぐテレビ局などにも原因を見つけ出せはしないだろうか。

「今の出生率を考えれば待ったなしです。
 外国人に日本語を学んでもらい、生活習慣を受け入れてもらうのも大事ですが、彼らの価値観を尊重する姿勢を見せなければ、もう望んで日本に来てくれなくなるでしょう。」


 日本で大金を稼げると思えば、侮辱にも過酷な労働にも耐えるだろうという考えはもはや、通用しなくなっている。
 日本以外のアジアで、外国人が尊厳を守られながらしっかりした収入も得られる地域が急増している。
 もう、とっくに、日本の足元は崩れつつある。
 土台を強化することはまさに「待ったなし」であろう。

「ドイツにとって移民国家への転換は外国人を『リストやコストと考える文化』から『ドイツに貢献する歓迎すべき人々と考える文化』への転換でした。
 時間がかかり、まだ課題もありますが、水面下で物事を進めるのでなく、開かれた場所で議論すべきです。
 私たちはそうして多くを学び、成功に近づいたのです。」


 文化の選択、転換は、まぎれもなく、時間をかけ、公開の場で行うべき国家的、全国民的問題である。
 耳が痛いとはこのことである。
 政府が国の根幹を変え、あとはそれを〈説明するだけ〉という日本とは、あまりにかけ離れている。
 思えば、私は中学生の頃から、「行きたい外国は?」と問われると、必ず「ドイツ、できることなら住んでみたい」と答えてきた。
 この答を受け、おそらくは「あのナチスとヒットラーのドイツか?」と考えたのであろう、露骨に顔をしかめる先生もおられた。
 今、さすがはドイツ、と思う。
 
 もはや氏はドイツ一国をマンダラと考えているのではなかろう。
 本当は、地球が一枚のマンダラなのだ。
 地域社会という小さなマンダラが集まって国家という大きなマンダラとなる。
 そして、国家という大きなマンダラが集まって、地球という全体を形成する。
 こうした真実が本当に理解され、生きる現場を支える思考となるための〈マニュアル〉や、〈うまい手〉などは、ありようもない。
 国民の一人一人が自分の頭で考え、「開かれた場所で議論」するしかない。
 叡智に導かれ、誠実に、地道に、皆で〈議論〉という汗を流すしかないのではなかろうか。

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〈祈るマンダラ〉




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2014
07.18

広い墓地をお探しの方へ ―ご友人同士で、ご本家と嫁ぎ先とご一緒に、ペットも一緒に―

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 共同墓自然墓のご縁が増える一方で、墓所を広く求める方のご希望が多い当山では、このたび、間口8尺(約2・4メートル)、奥行9尺(約2.7メートル」の大形区画を用意しました。
 永代使用料は50万円、年間管理料は1万円、8区画限りです。
 ご友人同士で仲良くあの世の家を建てたり、ご本家と結婚したお子さんの二家族が並んだり、由緒正しい五輪の塔を建てたり、ペット供養の分もしっかり作ったりと、使用は自由です。
 後を嗣ぐ方の指定もありません。
 今まで何宗何派の方でも、これから先、当山の姿勢や修法を信じられるならば、自由にご縁の糸を結べます。
 もちろん、お仏壇のご本尊様やご先祖様のお戒名など、すべてこれまで通りで何ら問題はありません。
 当山から、このご本尊様を祈りなさいといった押しつけや、お布施の強要もありません。
 ご参考までに、4年前に当山が行った「脱『檀家』宣言」を再掲しておきます。
 皆様へみ仏のご加護がありますよう。

脱『檀家』宣言」 ─仏法の復興をめざして─ 

 平成22年6月15日、昨今の仏教界への危機感を募らせた末、「脱『檀家』宣言」を行った。
 高額な戒名料など、お布施に関する檀家の疑問や不安が寺への不信を招いたと世間でいわれるようになって久しい。
 仏法の危機を痛感しての決断について記してみたい。

 そもそも檀家とはインドの言葉でダーナ(檀)すなわち布施をする家であり人である。
 だから本来、檀家は仏宝・法宝・僧宝という三宝を守るすばらしい家と人を指す言葉だった。
 しかし日本では「ご先祖様を託している家」に限定して使われるようになり、問題が生じた。
 檀家は寺に所属する信徒の称だが、問題は「所属」にある。
 以前は、どこかの寺院に所属していればご先祖様の供養に心配がなく、万が一の時にも安心だった。
 また、子供が寺子屋へ通って勉強したり、病気平癒を願って祈祷を依頼したり、夫婦げんかの仲裁を頼んだりというように、地域の人々と寺には切っても切れない安心と信頼の関係があった。
 しかし、今の寺院の多くは普段、門を閉ざし、会話や法話の機会を十分に設けていない。
 檀家は何かの折には「いくら請求されるか」とビクビクする。
 安心よりも、不安の方がはるかに大きい。
 戒名料などで意のままにお布施を請求することに慣れた寺院はお布施本来の意義とありようを忘れ、堕落したかにみえる。
 それは仏教界の習俗に浸り切った姿を表している。

 お布施には「空(クウ)」と「自主性」が欠かせない。
 渡す側は真心を込める。
 受ける側は相手や多寡に惑わず、真心を受け止め、感謝する。
 これが真の布施である。
 「嫌々ながら差し出す布施」も「請求する布施」もあり得ない。
 こうして「所属」がもたらした縛り縛られる関係を基礎とするやりとりは檀家と寺双方の布施行を破壊した。
 だから、今や、縛り感覚が抜き難い「檀家」という言葉から離れる必要があるのではないか。

 しかし、営利事業を行わない寺院はお布施が納められなければ寺院を維持し法務を継続できない。
 この問題を解決するには、仏縁を求める人が自由意志で「サポーター」になればよい。
 寺院は、サポーターに対し、来るを拒まず、去るを追わなければよい。
 例えば、当寺には無縁だが、世間では確かに存在する、檀家への入檀料、離檀料は廃止すべきである。
 檀家300を超す当寺は脱宣言したが、サポーターという形をとるようになり、むしろその数は増えた。
 寺と「ゆかりびと」と称するサポーターの変わらぬ交流が続いており、それは、檀家という縛りから解き放たれ、双方がより自由になったことの証といえる。
 寺には人生相談、葬儀、などさまざまな任務があるが、布施はあくまで皆さんの常識と良識にお任せしている。
 寺院は法務内容を公開し、誰に対しても平等に祈ることはもちろん、勝手な請求をせず、真の布施のみで運営すべきである。
 真剣にサポートしてもらえるかどうかに存否をかけねばならない。
 寺院へ仏縁を求める方には、寺院の法務と僧侶の姿勢をよく見て自主的に判断し、布施行を実践していただきたい。

 こうした方法は、難しく険しい道のりになるかも知れないが、双方がここから再出発するならば、釈尊から流れ始めた仏法の清流は日本でレベルアップし、やがては世界を清め潤す力にもなると信じている。

(平成22年7月21日 河北新報「持論・時論」に掲載された投稿へ加筆修正した文章です)






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2014
07.17

終活を考えるならば、死に逝くものたち、死を宿命とするものたちをよく観よう

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〈『みやぎ四国八十八か所巡り道場』は佳い季節を迎えました〉

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 30才台で終活を考えている方もおられますが、そもそも終活とは何でしょうか?
 自分の死後への準備を調えるということでしょう。
 お葬式をどうするか、お墓をどうするか、遺産をどうするか、あるいはエンディングノートを書くなど何を生きた証(アカシ)とするか、といったイメージが一般的と言えそうです。
 しかし、生き方に迷った若き日にさまざまな宗教の門を叩いたことのある身として、また、人生相談を受け、逝く方をお送りする身となった者として強く思う問題があります。

 私たちは、〈死後〉へ行くためには〈死なねばならない〉ということを本当にわかっているのか?

 多くの場合、私たちはまず、〈どう生きたらよいか〉がわからなくなって悩み、苦しみます。
 受験の失敗を契機として宗教を渡り歩き、哲学書を読みふけった私もそうでした。
 抱えてしまった〈負け犬意識〉と〈浮き草意識〉と戦いつつ夢中で稼ぎ、遊び、高転びに転びました。

 平成11年に封切られたものの、興業成果が上がらなかっため、何人もの重役が首になった『ファイトクラブ』という映画があります。
 エドワード・ノートン演じる主人公「僕」は、経済的には恵まれているものの、生きがいがなく、不眠症に悩まされ、いつしか各種依存症の回復セミナーとでも言うべきグループを渡り歩きます。
 ある時、ブラッド・ピット演ずる石鹸の行商人タイラー・ダーデンと知り合い、惹かれます。
 そして、ふとしたきっかけで殴り合い、その爽快感に目覚めた二人は、タイラーの住居で男たちが殴り合う地下組織『ファイトクラブ』を作ります。
 しかし、タイラーの暴力的で独善的な組織運営は救われるはずの会をオカルト集団に変質させ、タイラー一人の意志に操られる巨大な『ファイトクラブ』は、人間を疎外する社会への挑戦として、高層ビルを爆破します。
 生の充実感を暴力に求めた結果、待っていたのは破壊と死でした。
 全編が暴力に彩られている映画の中で、死ぬのはタイラーだけです。
 しかも〈自分が死ぬ〉などとは考えもしなかった成り行きで、死んでゆきます。
 相手を殴る時の手応え、殴られてつかむ自分の存在感、世間からいっさい隔離された空間における仲間同士の友情、こうしたものは男たちの生を謳歌させますが、決定的に欠落していたのは〈自分が死ぬ〉という意識です。
 だから、暴力はとめどなく膨張したのでしょう。

 タイラーの意識から宿命である死が見事に消えていたのは、愛する人の死に心から涙し、そこで「自分も死ぬのだ」と心の底へ深くおさまる確信を得たことがなかったせいではないかと思います。
 私自身、同居していた祖父と葛藤の関係にあった結果、その死は、〈そちら側〉のものでしかありませんでした。
 だから、導師の席でお孫さんが読み上げる「お別れの言葉」を聴くと、時には、遺影が微笑むように感じられます。
 小学1年生の時に、病弱な子供たちだけが集められた養護教室で席の近かった阿達君が死んだ時は、青白い顔にクマのある大きな目つきで、紫色の唇をした印象だけはしばらく残りましたが、いつでも自由に横になれる小さな座敷のついた教室にいた仲間は皆、風に吹かれる柳のような気配だったので、一人が消えても、さしたるできごととは感じられませんでした。
 中学生の時に、自ら私の「手下」を標榜していた医師志望の我妻君が死んだ時は、あまり見舞いに行かなかったと後悔し自分を責める気持ばかりが強く、彼の死は、〈私の死〉へとつながりはしませんでした。
 今になってみると、〈自分が死ぬ〉という意識の欠如が、40才を過ぎてすべての財物を失い出家するまで右往左往していた原因の一つであったと思われます。
 今日、死んでも不思議ではない、明日はもう、この世にいないかも知れない、――自分も、――愛する人も。
 本当にこう思うことができたならば、この世と自分を観る目はもっと早く、まっとうに生きるための叡智を宿していたに違いないのです。

 私たちの周りに生きているものたちは、生きている自分より先に、どんどん、死んでゆきます。
 それは、萎れた草花、落ちている蝶、轢かれた犬、そして家族や友人や知人など、ほとんど無数にいます。
 誰かの死に直面して立ち止まり、本当に、死にゆくものを悼む心になれるか?
 さらには、自分の横で寝息を立てている猫や、グラウンドで敏捷にサッカーのボールを蹴る子供なども死にゆく存在であると本当に、想像できるか?
 これができれば、早めに、人生の右往左往から離れられることでしょう。
 そして、早めに、〈やってはならないこと〉が〈自分にはできないこと〉になるはずです。

 終活をモノの世界だけで考えるのはいかがなものでしょうか。
 死にゆくもの、死を宿命として持つものたちへ深く想いを致し、自分のいのちに終わりがくることを魂が震える思いで真っ向から受けとめる。
 これが終活の出発点であり、意義の重さはまったく年令を問いません。




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2014
07.16

桜の樹を伐った話 ―お釈迦様、高倉健、中野英伴を想う―

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 国民の義務として境内地にある古いの木を伐らねばならぬ羽目になり、気が重くなった。
 どうせ誰かがやるのなら自分がやることにした。
 もちろん、根元が30センチ以上もあり、枝は優に15メートルほどにまで広がっている大木を自分では手がけられず、いつものように、「ゆかりびとの会」の会員Aさんにお願いした。

 朝早く来られたAさんは、さっそく取りかかってくださった。
 まず、ある程度のところから電動ノコギリで太い枝を伐り、小型トラックの荷台に積めるほどまで細切れにして『法楽農園』へ運ぶ。
 農園では、チッパーで砕き、畑に用いる。
 幾度となく境内地と農園を往復するが、とうとう夕刻になった。
 最後に残っていたのは、手をすべてもがれてしまった高さ3メートルほどの幹である。
 いくら切り目を入れようとビクともせず、トラックで引いても動かず、とうとう、ユンボを投入した。
 ところが、濡れて凹凸の激しい地面もあって、小型のユンボでは引っぱりきれない。
 とうとう、ロープが切れた。
 ユンボを降りた私とAさんの目が合い、無言の言葉が行き来した。
〝ただごとではない〟
 薄暗さが闇の気配をまとい始めた中で、Aさんは意を決したように、再び、ノコギリを手にした。
 私はロープをユンボへ引っかけていて草むらへ飛んでしまった金具を探し出し、再び、樹とユンボを結んだ。
 ついに、は倒れた。
 とっくに還暦を過ぎたAさんは疲労困憊をおくびにも出さず、満載のトラックで農園を目指した。
 私は、ユンボで幹を邪魔にならぬところへ運んだ。

 その夜、読んだ大喜直彦著『神や仏に出会う時』に、明治における日本の近代化を問う記述があった。

「西欧の自然観や動物観が、政府主導の近代化のもと、日本人の中にすり込まれていく。」
「人間が自然や動物を領有する、自然を人間の摂理に従わせる、人間に有益なモノは利用保護し、敵対するモノへは破壊・絶滅も当然と考えるようになるのであった。
 本来、日本人の持つ自然との共生はその考えに取って代わられていったのであった。
 この段階で自然と共にあった日本の神仏に対する認識は変化していくことになる。」
「歴史的にみて、日本人がつきあってきた神仏とは、神社仏閣に閉じ込められたものではない。
 神仏は身近に存在して、絶えず人間と交渉していたのである。
 それは自然であり、動植物・虫に当たるまでであったのである。」
「葬式や法事にも、親族や関係者が(たとえ義理・儀礼上でも)集まり、お彼岸・お盆のお墓参りには多くの人がでかけ、それがニュースにもなる。
 ここにはまだ信仰で結ばれた絆が維持されているといっても過言ではない。」
「~、『進歩』ははき違えた『進歩』であったのである。
 その『進歩』を物語るように、豊かであるはずの現代はとても豊かとは思えない社会を出現させたのであった。
 今の時代を象徴するように、テレビの番組やインタビューなどをみても『夢』を語る人はいるが、『希望』を口にする人はみかけない。
 質問する側も『夢』は何ですかと問うが、『希望』のことは聞かなくなった。
 『希望』がないのである。
 『希望』があってこその『夢』である。
 『希望』がなければ、『夢』は単なる空想的な理想にすぎないのではないか。」
「自然を人間に服従させようとし、環境問題を起こしている今こそ、私たちはもう一度中世びとが、きわめて自然=神仏などを身近なモノとして感じ、そして信仰に基づき、人と人との絆を形成して生活してきたことを思い起こす必要があると考える。
 これは決して前近代がよいとか、非科学的な行為を肯定しているのではない。
 ただはき違えた『進歩』から切り捨てられた世界をもう一度見直す必要があるのではないかといいたいのである。
 切り捨てられた世界には、『進歩』とされた世界ではわからないものがあり、それこそが今の課題や問題を解き解決する重大なヒントがあると考えるのである。」
「今こそ本当の『進歩』を求める必要がある。
 それでこそ『希望』を取り戻すことができる唯一の方法ではないだろうか。」


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 お釈迦様が説かれた「人生もこの世もままならない」をまたもや突きつけられ、頭を抱えてしまった。
 高倉健が主演した『冬の華』の冒頭場面を思い出す。
 高倉健は、渡世の義理から池部良演ずる兄弟分を刺し殺す。
 弟分から「兄弟じゃねえか。ガキがいるんだ。助けてくんねえか」と頼まれ、近くにいる娘を視野に認めているにもかかわらず、無言で、奥歯を噛んで。
 中野英伴写真集『棋神』を開き、第41期名人戦・第5局において、加藤一二三名人が谷川浩司八段を降す一局のシーンを、改めて眺める。
 谷川は席をはずしており、ガランとした部屋の中央にある将棋盤を背にした加藤は縁側に直立し、庭を眺めている。
 逆行で黒々とした加藤の背、手前でややぼやけた中盤の戦場。
 人は誰でも〈そこ〉を通らねばならないのだ。
 どうにか眠りに就いた。

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 早朝、朝露を踏みながら、切り株を見にいった。
 あれほど切り刻まれても悠然と屹立していた幹を最後まで支えていたのは、僅かな部分だった。
 倒れた衝撃で飛んだ幹の一部には、樹皮に貼りついた苔が青々と呼吸していた。
 今日をどう生きればよいのか……。
 今日も、いつも通り、闘いの日になった。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2014
07.15

仏教はまず〈人それぞれ〉を認め合う ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(42)─

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〈7月12日の寺子屋『法楽舘』では、お盆と盆踊りについて皆さんと考えました〉

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〈光明真言についてもお話しし、一緒に唱えました。8月9日の寺子屋では、「懺悔と救われる道」について考えましょう〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○信仰は、きわめて個人的な問題である

人生を成就するための唯一の拠り所などというものは存在しない。
 何事につけても、最善の唯一のものなどありえない。
 すべてのものごとは、個々の人間の心の許容量、性向、その人が置かれた環境などに応じて判断されるべきであろう。」


 この文章を読んだ多くの方々は、意外に思われるかも知れない。
「チベット仏教の最高の指導者がそんなことを言っていいの?」
 次を読むと、さらにびっくりされるかも知れない。

「たとえば、私自身、ダライ・ラマ十四世は仏教徒である。
 仏教を信仰することが私個人の心の最善の拠り所となっている。
 これは間違いない。
 だが、全ての人にとってそうではない。」


 多くの方々はこう考えておられることだろう。
「どの宗教も自分たちこそ一番と信じ、信者を増やそうとしている」
 確かに、教団の都合でそうした強い姿勢と行動に走る宗教団体が見受けられる。
 そのほとんどは、二つの頑なさを持っている。
 一つは、唯一絶対と主張する絶対者や教義を錦の御旗とすること。
 もう一つは、他の宗教を攻撃すること。
 しかし、もしも仏教教団が頑なさを持つならば疑問符がつく。
 仏教は端(ハナ)から〈人それぞれ〉という真実を見極め、そこに立っているからである。
 悟ったお釈迦様は何をされたか?
 あくまでも〈人それぞれ〉の事情に合わせ、その人にとって最も救いとなるであろう内容と形で法を説き、法力を示しもした。
 しかも、救いを求める人を誰一人、宗教の違いなどによって見放したりはしなかった。
 後代になり、仏陀が相手に合わせて実行する最高の手立ては「方便(ホウベン)」という言葉になった。
 大乗仏教行者にとって生きる目的は、〈方便を見出し実践できる存在=菩薩(ボサツ)〉になることである。

 さて、私たちは菩薩たり得るか?
 相手それぞれの人柄や過去の因縁や目先の事情や周辺の状況をお釈迦様のように正確に把握し、最も適切な法を説き、法力を発揮できるか?
 ダライ・ラマ法王といえども、無理である。
 ならば、「何よりもまず、〈人それぞれ〉という真実に立とう、自分の拠り所などという狭いものから離れよう」というのが、この教えである。
 ちなみに、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、法を結んでからしか行わない。
 それは、住職程度の行者では、世間話の中で相手様に必要な方便はわかりようもないからである。
 だから、ご本尊様のお力をお借りしてお相手をするしかない。
 まさに〈人それぞれ〉であるお戒名も、ご本尊様と一体という心で、ご本尊様から授かってお伝えするしかない。

「キリスト教がある人にとっては最高の導きになるだろうし、他の人にはまた違った途(ミチ)があるだろう。
 それはきわめて個人的な問題であり、その人個人の心に属することがらである。
 一切を一般化することは避けるべきである。」


 この「一切を一般化すること」こそが、特定の宗教を早く広めたい人々の陥りやすい陥穽(カンセイ…落とし穴)である。
 神ならぬ人間、菩薩ならぬ人間に〈一切の一般化〉は不可能である。
 しかし、相手を信じこませ、仲間を増やすためには、はっきりと、断定的に、告げる、やり方が効果的である場合もある。
 こうして、私たちは容易に〈人それぞれ〉という真実を忘れる。

 さて、お釈迦様へ戻ろう。
 相手に応じた極めて多様な内容のどれもが、悟った人すなわち仏陀(ブッダ)の金口(コンク)から流れ出た法なので「仏法」とされ、真摯で天才的な行者たちにより2500年かけて分析され、深められ、わかりやすい教えとしてまとめられたのが、今に伝えられた「仏教」である。
 だから、もしも、お釈迦様やお大師様といったレベルの菩薩がこの世に現れれば、仏教によってすべての人を救えるだろう。
 しかし現実は、凡夫として〈自分にピッタリくる〉範囲の教えによって救われ、関心を持つ人や、自分と同じ悩みに苦しむ人へ個人的体験の範囲について語る程度までが、せいぜいのところである。
 自分が知っている仏教は、8万4千あるとされる法門のうち、いったい、どれほどになるのか?
 こうした〈真の仏教徒〉としての自省と自覚があれば、他の宗教宗派を安易に誹謗したり、軽蔑したり、攻撃したりはできない。
 私たちは凡夫同士として、せめて、〈人それぞれ〉をはっきりと認め合い、互いに拠り所とする大切な心の杖を振りかざして争い合う愚行を慎みたいものである。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2014
07.15

受け継がれる志 ─東北関東大震災・被災の記(第152回)─

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 7月13日、仙台市青葉体育館で開かれた『第56回東北・北海道対抗剣道大会』において、小牛田農林高剣道部1年遠藤清一郎君(15才)が『剣道の持つ力』と題するスピーチを行った。
 
 遠藤清一郎君のいとこは、東日本大震災のおりに、南三陸町防災庁舎から避難の呼びかけを続け、津波で犠牲となった遠藤未希さん(当時24才)である。
 ネットで聴いた声は忘れられない。
「大津波警報が発令されました。高台に避難してください」「6メートルの津波が予想されます」「異常な潮の引き方です」「逃げてください」。
 女流剣士未希さんが愛用していた赤い防具を着けて稽古に励んできた清一郎君は「命を大切にし、精いっぱい生きることを教えてもらった気がする」「弟のように優しく接してくれた。この防具を着けて、一心同体の気持ちで戦っている」と言う。
 そして、「他人に尽くすことや困難に立ち向かう勇気、そして、生きている喜びを未希さんから教わった」「私たちは精いっぱい生きなければなりません」と訴えた。

 男子団体は東北勢が5連敗後の9連勝で3大会ぶりに優勝、女子団体も東北軍が3勝2敗1分けで5大会ぶりに優勝した。

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〈右上は、屋上の床上約2メートルの高さまで津波にのまれた南三陸町防災庁舎である〉

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〈助かったのは、アンテナにつかまった人など、わずか10人だった〉

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 津波の5日後、南三陸町の遠藤健治副町長(当時62才)は呻くように記者会見した。
「われわれ年寄りは生き残り、若い職員が流されてしまった」
 




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2014
07.14

悲哀のままに喜悦へ至った関根正二 ―二つの自画像について─

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自画像

 7月13日の日曜美術館は、明治32年に生まれ、20年で逝った画家関根正二を紹介した。
 信濃デッサン館(長野県)の館長窪島誠一郎氏は、開館のために、どうしても欲しかったのが関根正二の『自画像』だったという。
 17才で書いたこの作品には三つの顔がある。
 窪島誠一郎氏は言う。
「上は沈思黙考。
 下はふと何かを決意したような顔。
 そしてその決意を果たしてそれでいいのかと大きな自画像が問い詰めている」
 脳を絞るような探求と一瞬の気づきは、将棋の棋士を思わせる。
 棋士は絶妙手を発見しても、決して飛び上がらない。
 勝負は最後までわからないからだ。
 自画像はまるで、行く末の厳しさをすべて見透そうとでもしているかのようである。

 オスカーワイルドを耽読し、「悲哀のみ唯一の真理」に強く惹かれた関根正二は書いた。
「どうして人間は泣くように生まれたのでしょう」
 福島県立美術館学芸課長伊藤匡氏は指摘する。
「失恋と貧乏の一生だった。
 生きた、恋した、書いた、なのです」
 アトリエは長屋の2畳ほどしかなく、絵の具も満足に買えない貧しい暮らしの中で、関根正二は伊東深水、今東光らと交わりながら苦闘した。

 ペンによるデッサンに励んだが、死の直前、手元にあるものはすべて自分で燃やした。
 残ったのは『「自画像』を含め、信濃デッサン館に蔵されている10点のみである。
 窪島誠一郎氏は言う。
「17歳の自画像には西洋の巨匠たちのように線によって対象を捉え尽くそうとする気迫が籠もっている。
 彼が愛してたのは竹ペンとインク。
 強さの中に〈しなり〉がある。
 色彩を超えたものが線。
 人間の持つ陰影が、必要最小限のものによって描かれた」

 美術史家の酒井忠康氏は言う。
「デッサンというのは、ある意味で、いわば感受性の台所。
 想像力が加われば料理になる」

 ルオーの言葉を思い出した。
「デッサンは目覚めた精神のほとばしりだ」
「強い作品と実直な作品とを区別するものは、時として外見上は些細なものだが、実際は一つの『深淵』だ。
 音楽家が鍵盤に触れる、またはヴァイオリンの弦に弓を置く敏感なやり方、主題と取り組むやりかただ」

 関根正二のデッサンは、まぎれもなく、ほとばしっている。
 こうあるしかありようがない、という強さがある。
 ただ、ニューヨークヤンキースの田中将大投手が凄まじいスプリットを投げてバッターを打ち取り、役割を果たしたあげく肘を故障したのに似て、その〈強さ〉は、どこかで、心身の限界を超えてしまっていたのではなかろうか。

 関根正二は「関根のバーミリオン」と呼ばれる朱色にたどりついた。
 そして大正8年、病魔に冒され、20年と2ヶ月の人生を終える。
 衰弱しきった身体から痩せた手を伸ばし、恐ろしい形相で虚空に絵を描いた。
 また、ルオーの言葉を思い出す。
「作品だけが残る。
 巡礼よ、君が困難な抜け道の上で苦しんだことを、『現在』そしてさらに『未来』は何ら斟酌(シンシャク)しない」
「最善の努力がはたされ、そして望ましい点に導かれないうちはその努力が中断されなかった人々は幸いだ」
「芸術とは無関係な、しばしばみじめな理由のために、自分のつらい仕事から引き離されなかった人々は幸福、至福である」


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三星

 関根正二は、亡くなった年に『三星』を描いた。
 二人の女性に挟まれた自画像には「関根のバーミリオン」が際立ち、敬愛するゴッホの『耳を切った自画像』に似て、耳が隠されている。
 17才時のデッサン『自画像』における険しさは背景に退いている。
 むしろ、同時期に描かれた『信仰の悲しみ』を歩く女性のまなざしと通じるものがある。
 この作品は当初『楽しい国土』と名づけられていた。
 絵を目にした友人伊東深水が、楽しさよりも悲しみを感じると指摘したことがきっかけとなり、名は変えられた。
 17才にして人生の底に涙と悲哀を観てしまった関根正二。
 ついにつかんだ楽しさすらも、本人が気づかぬまま、悲しみをまとっていた関根正二。
 若山牧水は詠んだ。
「山ねむる山のふもとに海ねむるかなしき春の国を旅ゆく」
 死を伴走者とした人生から悲哀は消えない。
 悲哀即喜悦の境地まで行き着いた関根正二は、芸術家として「幸福、至福」な死を迎えたと言えるのではなかろうか。

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信仰の悲しみ




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2014
07.13

〈バレなければいい〉は正しいか? ―寺子屋の教え『実語教・童子教』を考える(その79)─

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〈「みやぎ四国八十八か所巡り道場」の気持ちよさは格別です〉

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 江戸時代まで寺子屋などの教材となっていた『実語教童子教』を読んでいます。
 いよいよ、最終回となりました。

「砂で塔を作る人は
 早く黄金色の健康な肌となる
 大切な花を折ってみ仏へお供えする人は
 速やかにみ仏が坐する蓮華の台へと導かれる
 み仏の教えをたった一句、信じて心に保つだけでも
 この世を動かす転輪王ほどの力を持つ
 たった一部しか教えを聞かなくとも
 その徳は世界中の宝ものよりも勝れている」


 現代では、紫外線で肌が灼けることをあまり歓迎しない向きもあるが、以前は、子供たちが陽光を浴びて黄金色の肌になることを健康な証拠として喜んだ。
 砂遊びに夢中になっていると健康な肌が得られるように、花を供えることも、教えを一つ心に保つことも、教えを学ぶことも、必ず大いなる結果に結びつく。
 たとえ僅かな時間しか、かけなくても、教えの扉を開けば、その先には広大で豊潤な世界が広がっている。
 以下、原文である。

「砂(イサゴ)を聚(アツ)めて塔を為(ス)る人
 早く黄金(コガネ)の膚(ハダエ)を研(ミガ)く  
 花を折つて仏に供(クウ)ずる輩(トモガラ)は
 速(スミヤ)かに蓮台(レンダ)の趺(アナウラ)を結ぶ 
 一句信受(シンジュ)の力も
 転輪王(テンリンオウ)の位(クライ)に超(イタ)る  
 半偈(ハンゲ)聞法(モンポウ)の徳も
 三千界(サンゼンカイ)の宝にも勝(スグ)れたり」


「機根が勝れている人は、ぜひ、仏道を学ぶべし
 機根が中くらいの人は、国の恩、親の恩、生きものの恩、仏法僧の恩を忘れないようにせよ
 機根が勝れていない人は、天界から地獄界まで、いずれの世界にも生きている
 どこにいようとも、仏道を学び、仏道を生きることができる」


 機根の上下は、人間を差別する考え方ではない。
 言わば、仏道との相性のようなものである。
 ピンと来る人は仏道を学び、あまりピンと来ない人は、とにかく恩知らずにだけはならないようにしようと説いている。
 そして、先の見えない地獄界やあまり苦を感じない有頂天の世界にあっても、仏神は必ず見ておられるので、縁によって気づきさえすれば導かれ、救われ、誰かのためになることもできるのである。
 以下、原文である。

「上(カミ)は須(スベカラ)く仏道を求む
 中(ナカ)は四恩(シオン)を報(ホウ)ずべし  
 下(シモ)は編(アマネ)六道(ロクドウ)に及ぶ
 共に仏道成(ナ)るべし」


「この経典は、幼い童などを人の道に導こうとして
 因果応報道理について説明した
 日本の書物も外国の書物も引用した
 この経典を読む人は、内容を謗ってはならない
 この書物の教えを聞く人は、内容を笑ってはならない」


 最後に、念を押すように示されているのが因果応報道理である。
 その理由は、あらゆる倫理・道徳がこの道理を離れてはあり得ないからである。
 もしも、稲の種を蒔いて毒ハーブができるならば、私たちは生きられない。
 しかし、ネット社会は、〈匿名性〉によって深刻な状況をもたらした。
 たとえばサイバー攻撃とは、国家的規模による破壊や侵害であり、その暴力性は〈匿名〉であるだけに際立って悪質である。
 もしも、覆面で他人の家へ忍び入り、知らぬ間に家人が大切にしているものを破壊して去ったなら、いかなる罪状が列記されるかを考えればすぐにわかるように、サイバー攻撃は明確な悪行である。
 今は、メールや掲示板で他人を侮辱し、罵倒し、知らん顔ができる。
 もしも面と向かって相手の人格を侵害したなら、反論され、怒りを買い、あるいは悲しませ、落ち込ませ、いずれにしても相手の変化を自分で受けとめねばならないが、自分を隠しているので、相手の変化から無縁でいられる。
 気に入らない相手を闇夜に紛れて棒で殴り、倒れた相手をそのままにして走り去り、何知らぬ顔で翌朝を迎えたなら、その暴力性は〈匿名〉であるだけに際立って悪質ではないか。

 不当な攻撃や悪質な勧誘などが横行するネット社会の悪は、因果応報から都合良く逃れられるという強い錯覚によってもたらされた。
 一昔前は、「お天道様が見ているぞ!」と子供の嘘を叱った。
 それは、因果応報を教え、恥を教える言葉だった。
 現代では、お天道様を失ったかのように、卑劣な形でありとあらゆる悪行が横行し、人々はいつでも恥知らずになれる。
 今こそ、因果応報道理すなわち、お釈迦様が説かれた仏教の根本を見直すべきではなかろうか。
 これ以上、〈バレなければいい〉という倫理の崩壊が進まぬよう、強く願ってやまない。
 以下、原文である。

「幼童(ヨウドウ)を誘引(ユウイン)せんが為(タメ)に
 因果(インガ)の道理を註(チュウ)す  
 内典(ナイテン)外典(ゲテン)より出(イ)でたり
 見る者誹謗(ヒボウ)すること勿(ナカ)れ  
 聞く者笑(ショウ)を生(ショウ)ぜざれ」


 もしもこのまま、因果応報道理をあざ笑い続けるならば、私たちの文明に果たして、まっとうな未来はあるだろうか……。




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2014
07.12

現れた餓鬼とアーナンダ ―お盆供養の心とは?―

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 お盆には、ご先祖様など、御霊供養に併せて、施餓鬼(セガキ)という供養も行われます。
 多くの場合、お盆の始まりとなった『盂蘭盆経(ウラボンキョウ)』についてのみ語られますが、施餓鬼の由来とされる『仏説(ブッセツ)救抜焔口餓鬼(グバツエンクガキ)陀羅尼経(ダラニキョウ)』についても考えてみましょう。
 この経典は、お大師様が唐から持ち帰ったものです。
 大まかなお話は以下のとおりです。

 ある時、お釈迦様の十大弟子の一人と称される阿難尊者(アナンソンジャ…アーナンダ)が、静かな場所で瞑想をしていました。
 アーナンダは、多聞第一(タモンダイイチ)すなわち、お釈迦様の説法を誰よりもよく聴いている弟子です。
 そこへ、焔口(エンク)という餓鬼が現れて言います。

「お前は三日後に死んで、餓鬼になるだろう」


 丑三つ時(午前3時から3時30分)に、口から炎を吐き、醜く枯れ細った姿で、喉は針の先のほどしかない餓鬼にこんなことを告げられたなら、普通の人は卒倒してしまうかも知れません。
 しかし、さすがに修行を積んだ仏弟子です。
 驚きながらも質問します。

「どうすれば苦難を逃れられますか?」


 この場面は、想像を絶します。
 もしも私たちが暗闇で餓鬼から声をかけられたならば、腰を抜かせば別として、とにかく、逃げ出さないでいられないことでしょう。
 しかし、アーナンダは正面から対応したのです。
 それだけでなく、どうすれば君のようにならずに済むかと訊ねました。
 常々、いかにお釈迦様の教えを信じていたか、その誠心がわかります。
 なぜなら、お釈迦様は、悪行(アクギョウ)による悪業(アクゴウ)が、地獄界、餓鬼界、畜生界という最も苦しみの深い世界へ堕ちると説かれていたからです。
 私たちとは違い、アーナンダは餓鬼界について想像力をはたらかせ、餓鬼を憐れみ、自他共にそこへ堕ちないようにと願いながら修行を続けていたからこそ、餓鬼から逃げなかったのでしょう。
 もしも、見かけただけなら、供養したに違いありません。
 しかし、ことは大変です。
 アーナンダ自身がもうすぐ餓鬼になる運命にあると告げられた以上、ただちに、何とかせねばなりません。
 ここで、お前のようにならないためにはどうすればよいか、と相手に尋ねたところも感嘆に値します。
 因果応報を深く信じていればこそ、一瞬にしてこう考えたはずです。
〝君がそうなったのには原因があるだろうし、君がそこから救われるための方法もあるはずだ。
 私がそうならないための方法だってあるに決まっている〟
 餓鬼は答えます。

「そのためには、餓鬼道など苦の世界にいるあらゆる者たちとバラモンへ飯食(オンジキ…食事)を施し、仏・法・僧の三宝を供養せよ。
 そうすれば、お前の寿命は延び、私は苦界から脱することができる」


 しかし、一介の行者であるアーナンダには大量の飯食はもちろん、お金もないので、お釈迦様へ救いを求めました。

「観世音菩薩のご加護を受ける秘密の呪文がある。
 一つの器へ食物を用意し、『加持飲食陀羅尼(カジオンジキダラニ)』を唱えて加持(カジ)せよ。
 そうすれば、食物は無限の量となり、すべての餓鬼は満腹し、限りない苦界の者達も救われ、施主は寿命が延び、功徳により仏道を証得できよう」


 指導されたとおりに実行したアーナンダは3日後も生きていたどころか、お釈迦様の最期を見届けるまで身の回りの世話を続けたのです。

 私たちは、この経典に基づき、ずっと、施餓鬼の修法を行ってきました。
 経典にある「陀羅尼(ダラニ)」は次の真言です。
「ノウマク サラバタタギヤタ バロキテイ オン サンバラ サンバラ ウン」
 また、唱えるべき如来の名号は以下のとおりです。
「南無過去宝勝如来(ナムカコホウショウニョライ)」
 貪りを離れ、悪業を清め、慈悲心を起こします。
「南無妙色身如来(ナムミョウシキシンニョライ)」
 餓鬼の醜さから離れ、美しい姿になります。
「南無甘露王如来(ナムカンロオウニョライ)」
 この上ない教えのご加護が心身を包み、喜びに満ちます。
「南無広博身如来(ナムコウハクシンヨライ)」
 針先のように細い喉が開き、飯食を自由に食べられます。
「南無離怖畏如来(ナムリフイニョライ)」
 餓鬼界の恐怖から逃れます。

 餓鬼は、気づきかれくい湿った暗がりにいるとされています。
 私たちは、キラキしいものばかりに目を奪われているならば、決して餓鬼に気づきません。
 私たちも、もしかすると三日後に死ぬ運命なのかも知れないし、そうであって何の不思議もありませんが、誰もそんなことに気づきません。
 目連尊者(モクレンソンジャ…モッガラーナ)が餓鬼界に堕ちていた母親を救った故事にちなむお盆供養と共に、ぜひ、施餓鬼の心も起こし、あの世とこの世とを問わず、苦界にある衆生へ供養し、慈悲の心を深めたいものです。




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2014
07.11

ある告発状 ―岩手県におけるイジメの現場へ―

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 悪い遊びが流行っていると耳にしました。
 突然、ターゲットとなった男の子のズボンを下ろす、あるいはパンツも下ろすというものです.
 女の子もいる前でそうした行為が、遊び、もしくはイジメとして行われている状態は、学校内に極めて不健全な心が育っていることを示してはいないでしょうか。

 当然のことながら、こうした行為は相手の人格を無視した〈辱め〉であり、それは、約束を破るとか、嘘を言うといった、やむにやまれぬ場合もあり得ることとは次元が異なり、もしも肉体に置き換えれば、土足で頭を踏むことにも匹敵する恐ろしい悪行だと言えましょう。
 被害者は、恥ずかしさ、悔しさ、惨めさに打ちのめされ、やがて、強い怨みや怒りの炎が燃え上がり、とんでもない復讐が行われるかも知れません。
 また、そうした相手への感情ではなく、自信の喪失や相手への嫌悪感や恐怖感などによる行動の萎縮などによって、不登校など生活のしかたが激変し、一瞬の遊びイジメが一生を左右するできごとになってしまいかねません。

 自分を被害者へ置き換え、自分がパンツを下げられたならどうか、泥靴で頭を踏みつけられたならばどんな気持になるか、具体的に想像し考えさせていただきたい、加害者の子供だけでなく、子供たち全員に対して強くご指導くださるよう心から願っています。
 今のうちに、子供たちへ、人の人格を傷つけることの恐ろしさ、罪深さを感じとらせてください。

 こうしたことごとは、決して〈家庭任せ〉にはできません。
 なぜなら、家庭で善悪を指導されて正しく育った子供も当然、学校という社会で被害者になり得るからです。
 大人の社会とは違い、まだ判断力も責任能力も充分ではない子供たちが集まる学校は、法律で白黒を決め刑罰を加えることに先んじて指導が行われるべき場であり、被害者を出さない責任があるからです。

 子供としての体験からも、親としての体験からも、祖父としての体験からも、小学校では知識を与えることと並んで、あるいはそれ以上に、子供たちがまっとうな社会生活を送れる人間に育つよう、ものごとの善悪をきちんと教える心の基礎訓練が行われねばならないと思っています。
 なぜなら、学校こそが、子供たちにとって、真の意味で他者と交わる社会体験の場だからです。
 もちろん、家庭でのしつけがなっていなければ話になりませんが、子供たちは、家庭で身につけたことを学校という社会で実践し、確かめ、膨らませ、修正し、育ってゆきます。
 しかし、そこで、あまりにも不条理不幸なできごとに遭ってしまえば、家庭で積み上げてきたものが一気に崩れかねません。

 特定の子供たちに起こった不幸なできごとを、加害者と被害者の問題だけでなく、学校という社会で起こったできごとと捉えられれば、子供たちが等しくよき指導を受ける貴重なきっかけになることでしょう。
 また、加害者も、被害者も、罪悪や災難を、学校や社会という広い視野から考えるきっかけになることでしょう。
 ぜひとも、子供たちへ賢明なるご指導をたまわりますよう、祈っております。




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2014
07.10

『貝の火』を読んだことがありますか ―宝珠の予告―

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 宮澤賢治に『貝の火』という短編童話がある。

 川で流されていたヒバリの子供をいのちがけで助けたウサギの子ホモイは、お礼に「私どもの王からの贈物」という宝珠貝の火」をもらう。
 それは「お手入れしだいで、この珠はどんなにでも立派になる」という。
 父親は
「一生満足に持っている事のできたものは今までに鳥に二人魚に一人あっただけだという話だ。
 お前はよく気をつけて光をなくさないようにするんだぞ」
と諭す。

 翌日からホモイの生活は一変する。
 リスや馬などが宝珠の持ち主であるホモイを誉めたり、おべっかを使ったりする。
 増長したホモイは、日光が苦手なモグラへ鈴蘭の実を集めてこいと命じ、断られると脅す。
 ホモイの命令でリスが集めた大量の鈴蘭の実を前に、父親は心配し、ホモイは泣く。
「お前はもうだめだ。
 貝の火を見てごらん。
 きっと曇ってしまっているから」
 しかし、宝珠は「一昨日の晩よりも、もっともっと赤く、もっともっと速く燃えている」ので、ホモイは泣き止み「みんなはまた気持ちよく笑い出しいっしょにご飯をたべて」寝た。

 やがて、暴力的で狡猾だったキツネが、ホモイへ食べたことのないほど美味しいものを差し出す。
「さあおあがりなさい。
 これは天国の天ぷらというもんですぜ。
 最上等のところです」
 ホモイは訊ねる。
「こんなものどの木にできるのだい」
 キツネは答える。
「台所という木ですよ。
 ダアイドコロという木ね。
 おいしかったら毎日持って来てあげましょう」
 そして、毎日、三つづつ持って来て欲しいと言うホモイへ交換条件を出す。
「へい。
 よろしゅうございます。
 そのかわり私の鶏をとるのを、あなたがとめてはいけませんよ」
 ホモイからパンをもらった父親は怒る。
「お前はこんなものを狐にもらったな。
 これは盗んで来たもんだ。
 こんなものをおれは食べない」
 そしてパンを踏みつけ、ホモイも母親も泣く。
 宝珠を見ると、「玉はお日さまの光を受うけて、まるで天上に昇って行きそうに美しく燃え」ている。
 父親は黙り、ホモイの涙も乾く。

 翌日、今度は、キツネにそそのかされてモグラをいじめる。
 それを知った父親は言う。
「ホモイ。
 お前はもう駄目だめだぞ。
 今日こそ貝の火は砕けたぞ。
 出して見ろ」
 しかし、宝珠は妖しい輝きを増す。
貝の火が今日ぐらい美しいことはまだありませんでした。
 それはまるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり、そうかと思うと水色の焔が玉の全体をパッと占領して、今度はひなげしの花や、黄色のチュウリップ、薔薇やほたるかずらなどが、一面風にゆらいだりしているように見えるのです。」
 父親はひとこと注意する。
「ホモイ。
 狐には気をつけないといけないぞ」
 ホモイは応える。
「お父さん、大丈夫ですよ。
 狐なんかなんでもありませんよ。
 僕には貝の火があるのですもの。
 あの玉が砕けたり曇ったりするもんですか」
 その夜、寝ていたホモイは初めての体験をする。
「高い高い錐のような山の頂上に片脚で立っているのです。
 ホモイはびっくりして泣いて目をさましました。」

 翌日、キツネは鳥や虫を網にひっかけ、動物園を作ろうと言い出す。
 動物園の様子を想像したホモイは「たまらなくおもしろくなり」賛成する。
 ホモイがキツネからもらったパンを家に置いて戻ってくるまで、もう、キツネが用意したガラス箱の中には「かけすと鶯と紅雀と、ひわ」が入り、バタバタしていた。
 ホモイの姿を見て安心した鶯が命乞いをする。
「ホモイさん。
 どうかあなたのお力で助たすけてやってください。
 私らは狐につかまったのです。
 あしたはきっと食われます。
 お願いでございます。
 ホモイさん」
 ホモイが箱を開こうとした時、「口が横に裂け」そうな形相になったキツネが本性を顕す。
「ホモイ。
 気をつけろ。
 その箱に手でもかけてみろ。
 食い殺すぞ。
 泥棒め」 
 ホモイがパンももらう代わりに、キツネが鶏を捕ることを許した以上、キツネの言い分は通っている。
 恐ろしくなったホモイが逃げ帰り、宝珠を見ると、ついに「一所小さな小さな針でついたくらいの白い曇が見える」のだった。
 父親も母親も磨いたが曇りは取れず、父親の提案で宝珠の入った箱へ油を注ぎ、そろって早々と眠りに就いた。

 夜中に目覚めたホモイの目に映った宝珠にはもう、赤い火はなく、「油の中で魚の眼玉のように銀色に光って」いるだけである。
 泣き出したホモイからようやくキツネの網について聞かされた父親は言う。
「ホモイ。
 お前は馬鹿だぞ。
 俺も馬鹿だった。
 お前はひばりの子供の命を助けてあの玉をもらったのじゃないか。
 それをお前は一昨日なんか生まれつきだなんて言いっていた。
 さあ、野原へ行こう。
 狐がまだ網を張はっているかもしれない。
 お前はいのちがけで狐とたたかうんだぞ。
 もちろんおれも手伝う」

 夜が明けかけた野原で、三人はキツネと対峙する。
「狐。
 お前はよくもホモイをだましたな。
 さあ決闘をしろ」
 父親の呼びかけに「実に悪党らしい顔」のキツネは応じる。
「へん。
 貴様ら三疋ばかり食い殺してやってもいいが、俺もけがでもするとつまらないや。
 おれはもっといい食べものがあるんだ」
 三人は、取り返した箱から百匹あまりの鳥たちを逃がす。
 あのヒバリの親子も助かった。
 父親は曇った宝玉を見せようと、皆を家へ案内する。
 以下は、最後までのシーンである。

「もうこんなぐあいです。
 どうかたくさん笑ってやってください」
と言いうとたん、貝の火は鋭くカチッと鳴って二つに割れました。
 と思うと、パチパチパチッとはげしい音がして見る見るまるで煙のように砕けました。
 ホモイが入口でアッと言って倒れました。
 目にその粉がはいったのです。
 みんなは驚いてそっちへ行こうとしますと、今度はそこらにピチピチピチと音がして煙がだんだん集まり、やがて立派ないくつかのかけらになり、おしまいにカタッと二つかけらが組み合って、すっかり昔の貝の火になりました。
 玉はまるで噴火のように燃え、夕日のようにかがやき、ヒューと音を立てて窓から外の方へ飛んで行きました。
 鳥はみんな興をさまして、一人去り二人去り今はふくろうだけになりました。
 ふくろうはじろじろ室の中を見まわしながら、
「たった六日だったな。
 ホッホ
 たった六日だったな。
 ホッホ」
とあざ笑わらって、肩をゆすぶって大股に出て行きました。
 それにホモイの目は、もうさっきの玉のように白く濁ってしまって、まったく物が見えなくなったのです。
 はじめからおしまいまでお母さんは泣いてばかりおりました。
 お父さんが腕を組んでじっと考えていましたが、やがてホモイのせなかを静かにたたいて言いました。
「泣くな。
 こんなことはどこにもあるのだ。
 それをよくわかったお前は、いちばんさいわいなのだ。
 目はきっとまたよくなる。
 お父さんがよくしてやるから。
 な。
 泣くな」
 窓の外では霧が晴れて鈴蘭の葉がきらきら光り、つりがねそうは、
「カン、カン、カンカエコ、カンコカンコカン」と朝の鐘を高く鳴らしました。

 宮澤賢治は原稿の表紙に「→吝→→悔」と円環状に書いていた。
 よいできごとに浮かれている時は、もう、吝嗇(リンショク)という邪念が生じている。
 いい気になっている時は、もう、慢心も育っている。
 やがて、吝嗇や慢心の報いである悪いできごとがやってきて、それに打ちのめされる中から懺悔が生まれ、悔悛は運への道を開く。
 宝珠は権力の象徴だろう。
 それをうまく用いた者は歴史上、「鳥に二人魚に一人」だけだったというのは厳しい。
 宝珠を手にした者によって最後は必ず争いになる。
 宝珠は「まるで赤や緑や青や様々の火がはげしく戦争をして、地雷火をかけたり、のろしを上げたり、またいなずまがひらめいたり、光の血が流れたり」と予告するが、私たちはそれを見て〝どこか、おかしい〟〝このままで、大丈夫だろうか〟と感じても、いつものように、眠りに就く。
 本当の戦争が始まるまで、そうした毎日を過ごしてしまう。
 この作品は昭和9年、宮澤賢治が亡くなった翌年に出版された。
 今から80年前のことだった。




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2014
07.09

自由の先に待っているのは、果たして、パラダイスか? ―映画『ゆれる』の示すもの―

201407090123.jpg

 平成18年作の映画『ゆれる』を観た。
 西川美和監督、香川照之オダギリジョーが兄(稔)と弟(猛)の役で出演している。
 吊り橋から女性が落ちて亡くなった事故について、他の目撃者がいない中、猛は稔が突き落としたところを見たと証言する。
 誰からも求められてはいないのに――。

 兄弟はそもそも、仲が悪かったわけではない。
 田舎で家業を継ぎ、親の面倒もみている兄と、都会へ出てカメラマンになった弟にはそれぞれ、相手への違和感が生じていた。
 子どもだった二人の人間関係を彩っていた無邪気さがなくなった代わりに、不信感や嫌悪感が育ったのだ。
 もちろん、二人は〈それらしく〉ふるまう。
 特に田舎では、1対1の場面でぶつかっていながら外では誰しもが、〈それらしく〉ふるまい、社会が成り立つ。
 そこで葛藤を生きる兄と、種々の違和感から逃れ、単独の〈個〉として生きやすい都会の空気を吸っている弟とでは、ズレが増大する。

 葛藤はおとなしい兄の奧心へ冷酷さを生んだ。
 一方、気持を外へ出す性格と気ままな生活は、弟へいくばくかの無邪気さを残しておいた。
 猛が行った証言の影響もあり殺人者の汚名を着て刑期をまっとうした稔は、出所後、そのまま、事件の現場へ向かおうとバスを待つ。
 偶然、古い8ミリフィルムを目にし、二人が〈確かに兄弟だった〉子ども時代の無邪気な心をよみがえらせた猛は出所を知り、刑務所へ向かい、稔を見つける。
 激しく行き来する車の洪水をはさんで、声を限りに呼ぶ。
「兄(ニイ)ちゃあん!兄(ニイ)ちゃあん!」
 凍った顔の稔は猛に気づき、口元を微かにほころばせるが、二人の視線を断つようにバスが到着して物語は終わる。

 互いに異なった肉体を縁として生きている私たちの心も又、すべて異なっている。
 異なった性格、異なった好み、異なった考えを持っている〈個〉は、生まれた時から、社会的関係の中で生きる。
 関係には切れないものと、切り難いものと、切りやすいものとがある。
 切れないのは親子関係や兄弟関係など血のつながった範囲である。
 切り難いのは、夫婦関係や、職場や町内における人間関係である。
 切りやすいのは友人関係であり、知人関係である。

 切れない、あるいは切り難い人間関係の中で強い違和感を抱いた相手との関係を持続させるには根気が要る。
 智慧や倫理意識などを総動員してなお、耐え難い場合も山ほどある。
 時には相手の不幸や失敗を願う黒雲が心に広がり、暗さは罪の意識を生じさせる。
 それは傍から気づかれにくく、誰にも言えない。
 昔から「兄弟は他人の始まり」と言われてきた。
 兄弟はいつまでも兄弟なのに、まったく別々な道を歩みがちであり、つながったまま、離れるのである。
 この映画は、そこを的確に衝いた。

 最終場面近くで、兄弟間の無邪気さを取り戻した猛は、出所する稔を出迎えようと決心し、車を走らせながら思う。
「朽ちた橋がよみがえり、腐った欄干がもちこたえることはあるだろうか?」
 かつてあった違和感と無縁の兄弟間における心のつながりが「橋」であり、もう、とっくに朽ち果てた。
 それでも、兄弟という「欄干」は危うく残っている。
 兄もそう願ってくれるかどうかはわからないが、弟は欄干を頼りにもう一度、橋をかけたいと願う。

 家の意識が薄れ、職業の選択も形式的には縛りがなく、どこででも住めるようになった私たちは、違和感から逃れる環境を求めやすい時代に生きている。
 しかし、所詮、自分以外の他人と何らかの関係を持ちながら生きねばならないことに変わりはない。
 私たちは、自由を得たことによって、違和感を解消し、違和感に負けない力をつけつつあるのだろうか?
 もしかすると、血縁や地縁などからの〈逃走〉は、違和感に耐えたり、違和感を生かしたりする錬磨のチャンスを奪い、違和感に弱い人種をつくりだしていはしないだろうか?

 昭和40年、エーリッヒ・フロム著『自由からの逃走』が日本で出版された。
 しっかりしない〈個〉が自由へ走ったとき、個人としての人間も、そうした大衆によって動かされる社会も危うくなると指摘した。
 あれからちょうど半世紀。
 あきらかな文明の転換点が訪れているのに、それを脇へ置き、個人(実態としては一部の)がより豊かになり、国がより強くなるというこれまでの価値観から抜けられないでいる今、私たちは危うく残っている〈橋〉や〈欄干〉にこそ、気づくべきではなかろうか。
 きっと、逃げる先にパラダイスが待ってはいない。
 4度に分けてようやく『ゆれる』を見終わり、私たちは立ち止まり、振り返る必要があると、強く思う。




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2014
07.08

責任を引き受ける愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(41)─

2014070500124.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

1 無限の利他

○人間の頭脳は超能力の住処(スミカ)である

「人間の頭脳というこの小さな空間は、まさに超能力の住処(スミカ)だと言える。
 知と心とがこの中に生きている。
 しかも、それらは単一のものではない。
 何千、何万、何百万という、脳細胞と神経細胞の組み合わせが、それこそ無数の異なるレベルの知と心の融合を実現している。
 その融合が、人が生きるうえで必要なさまざまな役割を果たしてくれる。
 その働きの中でも、もっとも大事なものといえば、愛情を作り出しているということだろう。」


 電波に例えるなら、頭脳は発信基地であり、中継所であり、受信装置でもある。
 目に見えない「知と心」は、目に見えない世界にまで届く。
 東日本大震災で犠牲者になった方々とのやりとりを書いた『想像ラジオ』(いとうせいこう著)は、私たちがずっと保ち続けてきた死者との交流という大切な感覚を大胆に広げて見せた。
 この「知と心」がうまく融合すれば、人間的な愛情の泉ともなる。

「愛情、それもロマンティックな愛はすばらしい働きをする。
 男と女がいようとも、ロマンティックな愛の存在なしには性の営みさえうまくいかない。
 次の世代が絶えてしまう。
 いわゆる再生産のメカニズムが機能しなくなるわけである。
 このような感情は人の本質にかかわるものである。
 したがって、ロマンティックな愛の感情は自然の発露であると言える。」


 男女は、磁石のプラスとマイナスのように引き合うとは限らない。
 しぐさ、目線、言葉など、何であれ、パチンと火花が散るような機縁が必要である。
 そこから「ロマンティックな愛」も生まれる。
 異性間のつながりは、同性同士では、あるいは同性だけのグループでは生まれにくい微妙な潤いを生む場合が多い。

「だが人間の知性は、もっとはるかに遠くまでその力を及ぼすことがある。
 限界を超えることがある。
 自然の発露としての役割以上のことを成し遂げることがある。
 であるからこそ、考えなければならない。」


 この「限界を超える」知性のはたらきは、自分の意志で自分のいのちを捨てるところまで行く。
 ブログ「守ってこそ真の優しさ」に書いた日本武尊(ヤマトタケルノミコト…倭建命)の妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)がその典型である。
 再掲しておきたい。

 火攻めに遭い、相模から逃れて上総をめざした船が暴風に襲われたおり、日本武尊と共にいた弟橘媛はこう言って入水しました。
「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。
 これはきっと海神のしわざです。
 賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」(『日本書紀〈上〉全現代語訳』より)
 姫が海中に消えると、さしもの暴風もたちどころにやみ、日本武尊は無事、役割を果たします。
 旗山崎にある走水神社には、故事にちなんだ絵画や石碑があります。
 弟橘媛が日本武尊へ遺した一首です。
「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
 御歌意訳です。
「相模の国の野原で、敵に四方から火をかけられあわや焼け死にそうになった時、あの、あなたは、剣で草をなぎはらい、大丈夫か、おまえ、と声をかけてくださいましたね。」
(「弟橘媛」より)

 この「燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」は、日本人の情緒そのものである。
 危機的場面で私を救ってくれたから、今度は私がお返しをするという話ではまったくない。
 おそらく、弟橘媛の心はこうであろう。
〝あの時の貴男の姿も言葉も、自分にとって〈決定的だった〉からこそ、自然に身代わりとなるのであり、身代わりとならずにはいられない。
 あの時の喜びと、今の喜びは変わらない〟

 性愛を媒介とした男女間ではあっても、淫欲や嫉妬や怒りが絡まって相手のいのちを奪いかねない世界とは正反対である。
 ここには、仏神の世界に通じる明らかな知性がある。

「知性を伴う愛、それがロマンティックな愛の形を取ろうとも、正しい愛であるならば、愛はある種の責任を引き受けることを意味する。
 正しい愛は幸せな結婚を実現するだろうし、その結婚は長く幸せを持続させ、生命のある限り続くものになるだろう。
 子どもを産み、育てる。
 幸せな結婚とはそうしたものだろう。
 これもまた、自然の摂理が湧き出るように実現されるもののひとつだと言えるだろう。」


 重要なのは、相手へ「求める」のではなく、「責任を引き受ける」覚悟の伴う愛こそが「知性を伴う愛」であり、そうした愛が、引き合う男女の幸せだけでなく、人類の存続にかかわるという点である。
 愛という言葉は決して免罪符ではない。
 ワニのように、本能や縄張り意識などで動くだけでは情けない。
 ネズミのように、感情を主として自己本位にうまくやろうとするだけでは情けない。
 私たちはワニやネズミのレベルを脱し得る大脳新皮質を持った高等なほ乳類であり、み仏の世界に連なる霊性を具えた人間である。
 この言葉を忘れないようにしたい。
「正しい愛であるならば、愛はある種の責任を引き受けることを意味する。」

20140708000111護摩
〈おかげさまにて、無事、第一例祭を終えました。『法楽の会』会員様をはじめ護摩木に記した善男善女の願いは確かにご本尊様へお届けしました〉




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2014
07.08

高橋香温先生と短冊を書きました

2014070801.jpg

 7月6日(日)は七夕にあたり、高橋香温先生の書道教室短冊を書きました。
 ゆったりした時間が流れました。
 8月3日(日)は、お盆を迎える時期なので、いつもとは違う短い経典を写経する予定です。
 イス席もあります。
 どうぞ、お気軽におでかけください。




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2014
07.07

乱心のごとき真昼の蝶を見よ

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 俳人阿波野青畝(アワノセイハ)は詠んだ。

「乱心のごとき真昼のを見よ」


 最近、大量の樹木と岩石をご寄進いただき、金曜日に境内地の手入れをしてくださる方々もあり、生き生きとした緑の中で舞うたちの姿が増えたように思える。
 花の蜜を悦んでいる時はあまり目立たないが、いったん、飛び立つと、風に乗っているはずのが、小さな身体と羽で特異な乱気流を起こすかのようである。
 ソニー・クリスの豊潤なカルテットから、エリック・ドルフィーとブッカー・リトルの奔放なクインテットに変わる。

 ところで、どんなに風の強い日でも、が飛ばされて行くシーンを目にしたことはない。
 彼らは普段、草木の陰で憩うのだろうが、嵐をどうやって、どれほどの力を発揮してやり過ごすのだろうか?
 そう言えば、こんな句もあった。

「てふてふが一匹韃靼(ダッタン)海峡を渡つて行つた」


 安西冬衛が30才の時に作った決定的代表作である。
「てふてふ」は々、韃靼海峡は樺太とユーラシア大陸の間にある現在の間宮海峡である。
 韃靼すなわちタタールについて、ウィキベデイアはこう書いている。
「北アジアのモンゴル高原から東ヨーロッパのリトアニアにかけての幅広い地域にかけて活動したモンゴル系、テュルク系、ツングース系の様々な民族を指す語として様々な人々によって用いられてきた民族名称である。
 日本では、古くは中国から伝わった韃靼(だったん)という表記も用いてきた。」
 タルタルステーキも、この人々に由来する。
 が放つ玄妙で異次元的な力は、途方もない句をもたらした。

 さて、阿波野青畝には、冒頭の句の他にも忘れられない作品がある。

「水ゆれて鳳凰堂(ホウオウドウ)へ蛇の首」


 鳳凰堂の近くにある池の水面にふと、動きを感じ、よく見たら蛇が泳いでいたのだろう。
 鎌首を水面からやや、もたげて滑るように、うねるように鳳凰堂へ向かって進む蛇は、本尊阿弥陀如来へ合掌する自分と同じである。
 網膜に写る対象として蛇を観察しているはずの〈自分〉はもう、消えている。

 大日如来の『讃歎経』を現代語訳してみた。

「宇宙の真理を象徴する胎蔵生大日如来のおはたらきは、人間や獣をはじめ、山も川も草も木も自然界のありとあらゆるもの一切が、それぞれにいのちを燃やし活動する姿に証明されている。
 すなわち、宇宙に充満する仏である尊い大日如来のお身体とお言葉と、お心のはたらきが、牧場や野原で遊び、生きる馬や牛、空でさえずる小鳥たち、彼らの身体と鳴き声と心のはたらきの一切に現象として顕れていることを知るならば、この世にある心あるものたちも、鉱物などのように心のないものたちも、この世を構成するすべての存在の姿と発する音とその役割がめくるめくはたらきを見せる中に、永遠の大生命たる尊い大日如来がおられることを悟られよう。」

 以下、原文である。

大日如来の働きは○人や獣をはじめとし○山川草木(サンセンソウモク)一切が○生命(イノチ)を燃やし活動す○その姿にぞ証(アカ)される○すなわち宇宙に充満す○生命(イノチ)の象徴(シルシ)大日尊○その身(シン)・口(ク)・意(イ)の働きが○牧野(ボクヤ)に遊ぶ馬や牛○空にさえずる小鳥たち○かれらの体(カラダ)鳴き声と○意識(ココロ)の働き一切に○現象するを知るならば○この世の有情(ウジョウ)非情(ヒジョウ)なる○一切衆生(シュジョウ)の身(シン)・口(ク)・意(イ)の○働きの中永遠の○生命(イノチ)たるべき大日尊○存(ソン)することが悟られん」
(全文を音声で聴きたい方はどうど、こちらから http://youtu.be/Zmvy1_r4Eto)

 実に、芸術も宗教も、真実世界へ誘う。

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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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