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2014
08.31

「人生の秘め事話した黒電話」「気にせずに生きよおまえのそばがよい」

201408310001.jpg

 8月30日、『シルバー川柳 七転び八起き編』が発行されました。
 フリーペーパー『みやぎシルバーネット』に投稿された膨大な川柳のうち、編集人千葉雅俊氏の選による128句が収められています。
 冒頭の一句からガツンときます。

「人生の 秘め事 話した 黒電話」 佐藤清(87歳)


 若い方はご存じないかも知れませんが、一昔前は、電話線でつながった黒い電話がどこの家にもありました。
 つながっているので、秘め事といえども、たとえば物置の陰やトイレの中などで話すわけにはゆきません。
 周囲の人気(ヒトケ)を見はからい、タイミング良くやりとりするしかないので、大変でした。
 しかし、当時は、電話とは〈そういうもの〉だったので、今の方々が「えっ、そんなに不便だなんて……」と想像するほど苦しく、辛く、もどかしかったわけではありません。
 また、家族間の距離も今よりずっと近かったので、家族の誰かに起こったできごとは当然、家族の皆に起こったできごととしてとらえられるので、一人の秘め事といえども〈口に出さぬ共有〉という側面がありました。
 この句は、詠み手の思いと、去った時代の光景と、その時代を知っている人なりの懐かしさだけでなく、忖度(ソンタク)という大人の態度を培った家族間のあたたかな空気までも感じさせます。
 そして、スリリングなムードは作品の文学的価値を高めており、作者の腕のほどが知られる傑作です。

「気にせずに 生きよおまえの そばがよい」 会田昭夫(73歳)


 年をとると、迷惑をかけたくないという思いが強まる一方で、伴侶なり、家族なり、友人なり、そばにいてくれる誰かの存在そのものがとてもありがたく感じられるようになります。
 この一句は、何らかの理由で夫の時間や労力を強くアテにせねば生きられなくなった奥さんの「すまない」という気持と、そうなった奥さんのそばでつながりの実感を持って生きるご主人の感謝と、双方共に切ない思いが交錯しています。
 まさに、〈生きてみなければわからない〉人生の真実が端的に表現されています。
 
 最近、立て続けに、小さいけれども非常に深刻なできごとが起こりました。
 一つは、さいたま市で起こった盲導犬の傷害事件です。
 全盲の男性(61歳)が連れていたラブラドルレトリバーの盲導犬「オスカー」(8歳)が何者かに刺されました。
 何があっても我慢する訓練を受けていたオスカーは、第三者によって傷が発見されるまで、何カ所も刺され血を流しつつご主人を守り続けました。
 もう一つは、アメリカのニューアーク空港からデンバーに向かう飛行機の中で、リクライニングシートにからんで乗客同士の争いが起こり、飛行機が緊急着陸した事件です。
 男性客(48歳)が前席の背もたれを倒せなくする「ニューディフェンダー」(ひざ保護器)という旅行用具を用いてパソコンを使用していましたが、前席の女性客(48歳)が席を倒せないことを抗議し、乗務員が男性客へ用具をはずすよう求めたところ男性客が拒否しました。
 とうとう、怒った女性客が水の入ったコップを投げつけ、二人は緊急着陸した空港で降ろされました。
 発明者は「事件で販売が増えた。問題は航空会社が座席間隔を狭くしていること」と発言しています。
 いずれの事件も、自分だけ楽しめればよい、自分だけ満足できればよい、自分だけ得をすればよい、といった薄汚い自己中心の心がここまで堂々と育ってしまったかと、あきれ、不安にさせられました。

 誰もが必ず老い、一人で向こうへ旅立つまでの過程において、人と人との間にある人間としてあたたかな雰囲気で暮らせることが最後の拠り所となります。
 自己中心の人は早めにその拠り所を失います。
 モノも金も名声も権力も、このあたたかさを与えてはくれません。
 なぜなら、自分にあるあたたかな心のみが、同じ心の縁を招く力になるからです。
 お釈迦様は、精進せず、人徳もない人の無惨な老後の姿を説かれました。
「白鷺の空池をうかがうがごとし」
 たった一匹になった白鷺が、餌もない空っぽな池のそばで、老いた姿をさらしている光景です。

シルバー川柳 七転び八起き編』はあたたかな心の宝庫です。
 人生の先輩が川柳を通じて示した真実に学び、自分の生き方をふり返ってみたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2014
08.30

お彼岸供養・不戦の祈り・寺子屋 ―9月の行事予定―

2014082700022.jpg
不戦の心〉

 平成26年長月の行事予定です。

[第一例祭] 2014/9/7(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 今月から、皆さんと一緒にお唱えする経典を大幅に入れ替えました。
 ほとんどを読み下し文にしたので、内容が今までよりも理解しやすくなりました。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

書道・写経教室] 2014/9/7(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 今月も、『舎利礼(シャリライ)』という72文字のお経を4文字づつ書きます。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第六回新法楽塾] 2014/9/7(日)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五十五回寺子屋『法楽館』 ―瞑想の体験会─] 2014/9月13日(土)午後1:30~3:30

 今月は、瞑想阿字観(アジカン)の体験会を行います。
 瞑想は心のトレーニングであり、身体のトレーニングとしてジョギングや水泳を行うのと同じです。
 ジョギングも水泳も、それを書いた本を読んでも、準備ができるだけで実質的なトレーニングにはならないのと同じように、瞑想も、それについて書いたものを読んだだけでは、準備をしたに過ぎません。
 大切なのは実践であり、それも、理にかなった正統なものである必要があります。
 かつては、ランニングに水は禁止であり、足腰を鍛えるにはウサギ跳びをしたものですが、運動の研究が進んだ結果、今、そうした方法は採用されなくなりました。
 当山で用いているのは、お大師様から伝わり、かつ、日本とインドにおける最新の研究成果を反映した有効で安全な方法です。
 お釈迦様が悟りを開かれた最終的な方法は瞑想でした。
 それに憧れ、2500年間研究が重ねられた成果をゆったりと体験していただきます。
 お彼岸は、私たちが最も速やかに迷いを脱することができる時期とされています。
 イス席があり、質疑応答の時間もありますので、どうぞふるってご参加ください。
・講  師 法楽寺住職遠藤龍地
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第二例祭] 2014/9/20(日)午後2:00~3:00

 護摩法を行います。
 今月から、皆さんと一緒にお唱えする経典を大幅に入れ替えました。
 ほとんどを読み下し文にしたので、内容が今までよりも理解しやすくなりました。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
※23日のお彼岸供養会に参加できない方は、この日にご供養をされてはいかがでしょうか。
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第七回新法楽塾] 2014/9/20(日)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[お彼岸供養会] 2014/9/23(火)午前10:00~10:50

 彼岸とは「彼(カ)」の「岸」であり、そこは悟りの世界すなわち浄土です。
 それに対して、此所(ココ)は迷いの娑婆(シャバ)です。
 どうしても自己中心的になりがちな私たちは、ぶつかり合い、互いに辛い思いをする場面が避けられません。
 我(ガ)に引きずられず、この姿勢を転換すれば、苦に満ちたこの世はたちまち浄土になります。
 方法は明確です。
 彼岸へ渡る船に櫓が6本ついているたとえどおり、六波羅蜜(ロッパラミツ)という6つの修行道を実践することです。
 布施・持戒・忍辱(ニンニク)・精進・禅定(ゼンジョウ)・智慧について考え、おりおりに実践すれば、知らぬ間に自分が変わり、娑婆も変わります。
 供養会では、6つの教えについてお唱えし、互いに苦を除き合う一歩を踏み出しましょう。
・場  所 法楽寺講堂
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[『不戦堂』建立百万返祈願開始] 2014/9/23(火)午前11:00~11:40

 8月15日に行ったお盆供養会の冒頭、当山は「不戦日本」を宣言し、講堂いっぱいに参列された皆さんと共に「一心祈願不戦日本」と唱和しました。
 私たちは一人一人が戦争と平和についてよく考える時期にきているのではないでしょうか。
 当山は伝統仏教の寺院として、何としても戦争をしない日本であり続けたいと発願し、「不戦日本」を祈り始めました。
 その一環として、かつて、虚空蔵求聞持法(コクゾウグモンジホウ)を行った小さな建物を仮の『不戦堂』と名づけ、お彼岸供養会から、百万返を満願とする祈りに入ります。
 不戦の誓いは必ず、不殺生などの清浄な心を生み、この世の苦から離れる重要なきっかけともなることでしょう。
 不殺生の心になれば、必ずや日常生活においても無益な争いのできない円満な人格が形成されます。
 そして、そうした人々によってつくられる社会はきっと、戦争と無縁の平和に満ちることでしょう。
 外なる不戦は内なる不殺生でもあるのです。

 めざす『不戦堂』は戦争をしない決意を固める場であると同時に、争う刺々(トゲトゲ)しい心になった時に足をはこび、穏やかさや円満さを取り戻す場でもあって欲しいと願っています。
 四国八十八か所と同じく、日中はいつもオープンで、どなたもが自由に時間を過ごせるこの世の極楽をイメージした建物にしたいと願っています。
 ご喜捨は一口一万円です。
 ご入金をいただき次第、ゴールデンウッドと称される青森ヒバの木簡(モッカン…木製の御札様のもの)を作り、「不戦日本」と「ご芳名」を記して法を結び、板へ貼り付けます。
 やがてできあがるお堂の内壁全体が、木簡の並んだ聖なる板によって覆われます。
 ◎ご送金は下記へお願いいたします。
   郵便振替 法楽寺不戦堂建立基金 02270―3―115292
 何としても「不戦日本」であり続けられるよう、どなたもが「不戦日本」を祈る場を造られるよう、一人でも多くの方々のご賛同とご助力を心よりお願い申しあげます。

201408300001
 
[お焚きあげ] 2014/9/27(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、お不動様の前で「供養会」を行い、「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』の作製] 2014/9/29(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第297号、『ゆかりびと』は第160号となります。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っていますが、今月は月末に当たっており、一週間繰り上げて作製・発送を行います。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター

◎清掃奉仕の日

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。
・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2014
08.29

自分が自分の人生の主人公であるために ─東北関東大震災・被災の記(第156回)─

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 8月26日、福島地裁は、原発事故による避難生活中の自殺について、損害賠償請求を認めた。
 同様の自殺自殺未遂が相継ぎ、被災者が苦しんでいることは歴然たる事実なのに、これまでは、事故との因果関係が司法の場でほとんど認められなかった。
 できごとには複数の原因があり、その中は直接的な原因と間接的な原因がある。
 裁判では、〈引き金〉が何であるかを争うのだろうが、個人的事情など易々(ヤスヤス)と丸呑みにしてしまうほど巨大な原発事故は、〈引き金〉として認められてこなかったと言える。
 あまりにも多くの人々の人生を狂わせてしまったがために、かえってわかりにくいのかも知れない。
 東電が「個人的要因を踏まえて因果関係の有無を判断すべきだ」という姿勢で争ってきたのはこのことである。
 皆が酷い目に遭っているのだから、特定の人がそのことで決定的に追いつめられようが、それは性格や考え方や家庭環境など特定の事情によるものであって、困難から立ち上がった人もいる以上、座りっきりになった人に対して責任をとる必要はないということだろう。

 この論理がおかしいのは、食中毒を考えてみればすぐわかる。
 腐りかけた食材を用いた料理によってお腹を壊した人と何でもない人がいた場合、お腹を壊した人は、「あなたの腸が弱いせいだよ」と言われ、料理を提供した側の責任は認められないのだろうか?
 もしも、100人のうち99人が異常を訴えなくても、提供者は被害者となった1人に対して責任を持つべきではなかろうか?
 そこを見過ごさない基本的な了解を共有している日本社会であればこそ、学校給食の場などで、アレルギー対策が進んできたのではなかったか。
 東電の姿勢は、「アレルギーを持った子供がたまたま不調になったからといって、給食を用意した側に責任はない」と主張し、被害者のアレルギー体質を暴こうとしているに等しいことを私たちはよく考えてみたい。

 ここには、私たちの社会はどうあるべきかという根本的な問題がある。
 その前に、いったい、私たちの社会はどう動いているのか、私たちはどう動かされているのか、という問題がある。
 それと気づかぬうちに、私たちの頭から被せられている巨大な災厄の網はないか?
 何者かの都合による巨大な暗示はないか?
 原発の安全神話は、巨大な暗示であり、結局は巨大な災厄の網であり、事実として巨大な災厄を招いたのではなかったか?

 渡辺京二著『無名の人生』の一節である。

「『自分はいつも世界の中心にいる』というのは、△△村に住んでいて、その△△村だけが自分の知っている世界である、というのとはちがいます。
 この地球上のどこに住んでいようが、どんな田舎に暮らそうが、そこに照る太陽は同じだということなのです」


 当山で行じている隠形流(オンギョウリュウ)居合も、同じ感覚を持っている。
 観想をこらせば、いつも自分の北側には千手観音様がおられ、西側にはお不動様がおられるといった、自分を宇宙の中心とする守本尊マンダラの実現こそが目的である。
 どこにいようと、み仏の慈光は変わりなく照らしてくださっていることに気づきたいのだ。

「そういう『自分だけのコスモス』は、一人ひとりの人間が持っています。
 そこには『中心』も『地方』もない。
 一人ひとりを取り巻くコスモスと向かい合っている点では、都会の人間も地方の人間も、まったく変わりがないのです。」


 こうした自立した意識を持ち、自分の頭で考えれば、巨大な災厄の網に気づく。
 巨大な暗示につかまらない。

「いま言われている『自己実現』というのは、何のことはない、社会的地位や名声を得ること、つまり成功すること、出世することをそう言っているので、人びとを虚しい自己顕示競争に駆り立てるだけです。
『自分の人生の主人公になる』というのは、これとは似て非なるものです。
 無名であっても平凡であっても、というより、むしろそうやって『有名になる』ことに囚われないほうが、自分の人生の主人たりうるのです。」


 かつて、当山に人生相談にこられたAさんを思い出す。
 当時高校生だった可愛いAさんは、タレントを目指していた。
 そのために自分をしっかりさせようと懸命だった。
 今、Aさんは看護士として活躍中ですある。
 母親は、頑張り屋のAさんが身体を壊さないかと心配している。
 Aさんは、「自分が自分の人生の主人」である生き生きした日々を過ごしているに違いない。

「人間はみな大差のない存在であって、人に抜きんでる必要などありません。
 この世で、一人ひとりの存在は、それ自体でおのずから肯定されているからです。
 だからといって努力を惜しんではいけません。
 たとえば友人と付き合うにも、好きな異性と付き合うにも、努力が必要です。
 自分に合った職分というものを自分で見つけだし、その職分をまっとうするにも努力が必要です。
 そういう努力を積み重ねながら、平凡に、無名のままに過ごすのは、つまらないことでも、虚しいことでもありません。」


 当山では、仏法が「まっとうに生きる」ための役に立てればありがたいと考えている。
 そして、一人ひとりがまっとうになれば、まっとうな社会になると信じてもいる。
 自己実現という言葉によって自己顕示欲を駆り立てられ、目の前にぶら下げられた幻のニンジンを追い、いつも〈有名になれない〉あるいは〈お金持ちになれない〉といった不満や自己否定を続ける必要はない。
 私たちは一人残らず皆、み仏の子であり、まぎれもなく「それ自体でおのずから肯定されている」存在である。
 頭から被せられている巨大な災厄の網に早く気づき、自分が自分の人生の主人公であるよう誠実な努力を続けたい。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
08.28

この世でもあの世でも、み仏に見守られ、お導きいただき、救われる私たち

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〈モノ金損得に翻弄されず、心の真実を貫きながら昭和という時代を生きた人々の姿は、私たちの心の汚れを気づかせてくれます〉

 ある時、Aさんのお姉さんが亡くなった。
 気丈で明るい故人は周囲の人々から慕われつつ、懸命に夫の生業を支えていたという。
 Aさんは、姉が生まれてまもなく父親を失い、年の離れた自分にはわからない苦労をしてきたことを知ってはいた。

 Aさんは、他界した姉の顔を見ているうちに、いかにも穏やかで安心しきったような表情に隠された寂しさ、悔しさ、辛さ、そして悲しみが一気に伝わってきて愕然とした。
「ああ、俺は今の今まで、姉の心を知らなかった。
 済まない……。
 ――姉さん」
 涙が溢れてきた。
 Aさんの心はもどかしいまま、行き場を失った。

 こうしたAさんの心も考慮し、故人のご遺族は切り詰めた生活をしていながらも、戒名を求め、引導を渡して欲しいと願われた。
 戒名の最初の熟語である院号に、寒風の中で健気に咲き、いち早く春の到来を告げる梅に惹かれる心を示す熟語が出た。
 生きた道を表す道号(ドウゴウ)である真ん中の熟語には、無類の明るさがストレートに出た。
 そして、み仏の御許へ歩む心を示す最後の熟語として、人々の心へ清涼な風を届ける二文字が並んだ。
 戒名をいただくようみ仏へ祈り、授かった導師の心へAさんの思いがどっと流れ込み、瞼が濡れた。

 澤地久枝氏は、懐かしい人々について綴った『昭和・遠い日 近いひと』の「―おしまいのページで―」に書いている。

「なつかしい『遠い日 近いひと』。
 疲れた心をそっと受け入れ、自身を失った心に『みんなそうだよ』と言ってくれる声。
『生きることほど素晴らしいことはない』とつぶやく声。」


 想い出の中で、人は皆、美しくなってゆく。
 この世での迷いや過ちが徐々に消え、み仏の子である本性が生者の心に、いつしか露わになってゆく。
 故人はいつしか、救う存在となり、故人の安寧を願い供養する人そのものが救われる。
 俗名で生きたこの世の人生が、戒名で生きるあの世の旅の道中において清められてゆくからに相違ない。
 お通夜の席で、導師から戒名について説明を受けた方々が流す涙は、死者にとっても生者にとっても尊い清めの聖水であろう。

 Aさんも、涙を隠そうとせず手を取らんばかりに感謝の言葉をくださったご遺族の方々も、真剣に法話を聴き涙ぐんだ参列者の方々も、そして、真実体験を重ねさせていただいた導師も救われた。
 こうした〈現場の真実〉とかけ離れた「戒名は要らない!」「葬儀は要らない!」といった声高な論議は、どこか遠い世界のできごととしか思えない。
 私たちは、この世において、人々のおかげで、自然のおかげで、仏神のおかげで、どうにか生きぬく。
 それなのに、自分の死を覚悟した方が、なぜ、あの世へ逝った途端に「自力だけでことは済む」と思えるのだろう。
 送る方々は、なぜ、「自力だけで安心の境地へ行ってください」と送り出せるのだろう。
 いつも、右手は仏神、左手は自分と観じて合掌している者には、どうも、ピンとこない。
(もちろん、熟慮した結果として戒名や葬儀を用いないと判断した方々の見解を否定するものではありません。
 その方なりの人生をかけたあらゆる見解を心から尊重しています。
 俗名での家族葬を求める方々が相継いでいます。
 率直に心の内を披瀝されるそうした方々も、こだわりなく引導を渡し、当山の共同墓や自然墓に受け入れ、区別や差別をせずにご供養しています)

 今日も仙台市で、仙北の町で、求める方々のために修法を行い、法話を行う。
 求める方々がおられる限り、み仏によって〈共に救われる道〉を皆さんと共に歩みたい。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
08.27

自我は滅するか? ―仏教的視点から観た自我(3)―

201408270001.jpg

 仏教は、「〈永遠で、単一で、独立した〉自我はない」という意味で自我(クウ)であり、心と身体と無関係に存在する自我はないという意味で「無我」であると判断しています。
 この見解は、日常感覚における〈自分〉という経験的存在である意識を否定するものではなく、日常生活的思惟の範囲でつかむ真理を「世俗諦(セゾクタイ)」と言います。
 一方、「ここにいると思うからいる」といった判断の先を問い、お釈迦様のような深い瞑想を行ってつかむ真理を「真諦(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」と言います。
 仏教における無我は、そうした宗教的体験によって確信できる真諦の範疇(ハンチュウ)に入りますが、日常生活的思惟によっても、ある程度、論理的な理解を得ることは可能です。
 この「ある程度」とは、「理解した真理に添って生きられるかどうかは別にして」という意味です。
 たとえば、私たちは、わかっちゃいるけどやめられない場合が往々にしてあります。
 飲み過ぎ食べ過ぎの繰り返しや、各種の依存症などを見れば、明らかです。
 仏教は哲学ではなく宗教なので、つかんだ真理どおりに生きることを目ざす以上、真諦こそが羅針盤となります。

 また、「因と縁によって果がある」という真理によって、「『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つ意識」の因をどこまでさかのぼっても、因の始まりは見つけられません。
 だから、「意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない」ということになります。

 ここまでが、(1)と(2)で検討した内容です。
 今回は、であり始まりがない自我は滅するものなのか、ということを考えましょう。
 最初に述べたとおり、一連の稿はダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストとしており、さまざまな解き方がある最後の問題については、テキストを正確に追ってみます。

 法王は、この問題について仏教の中でも見解は分かれていることを示します。

「仏教の四つの哲学学派の中で、小乗(ショウジョウ)仏教の学派である説一切有部(セツイッサイウブ)には『無余涅槃(ムヨネハン…煩悩と肉体を滅して心身の束縛から離れた小乗における完全な涅槃)に至った時は意識の連続体の流れは途切れる』と主張している人たちがいます。」


 四つの哲学学派とは、小乗仏教の説一切有部(セツイッサイウブ)と経量部(キョウリョウブ)、大乗仏教の中観派(チュウガンハ)と唯識派(ユイシキハ)です。

「しかし、これ以外のすべての仏教の哲学学派は、『意識の連続体の流れが途切れることはない』と主張しています。
 なぜかというと、どのような現象であっても、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在するならば、その現象は滅することがありますが、その現象が存在し続けることを妨げる力を持つものが存在しなければ、その現象が滅することはないからです。」


 仏教は「人間は死ねばゴミになる」とは考えません。
 なぜなら、ゴミになるのはあくまでも身体というモノが火に焼かれ、灰がやがてバクテリアに分解されるからであり、そうしたモノの世界をいくら精密に追っても、意識の世界における因果の理とは何の関係もないからです。

「たとえば、私たちが持っている間違ったものの考えかたには、それを滅することができる正しいものの考えかたが存在するため、間違ったものの考えかたは滅することができます。」


 たとえば、一昔前は、体育系の部活に兎跳びが欠かせませんでした。
 しかし、現在の体育理論により、兎跳びで神社の階段を登るような行動は否定されており、もしも今、部長がこれを採用すれば、暴力やいじめと非難されることでしょう。
 また、半世紀前は、DDTという薬品がノミやシラミの駆除に有効であると考えられ、子供たちは皆、頭が真っ白になるほどDDTをかけてもらったものですが、DDTの危険性が明らかになった今、それをやれば暴行や傷害の罪に問われかねません。

「しかし、『明らかで、ものを知ることができる』という心の本質を滅することができるものは存在しないので、意識の連続体の流れは存在し続けて、仏陀の境地に至るまでずっと続いていくのです。」


 注意したいのは、「心の本質」を問題にしているという点です。
 もしも、「心の状態」であれば、病気や加齢によってさまざまに変化しますが、そうしたレベルの話ではありません。
 前回の(2)に書いたとおり、意識には身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、瞑想によってつかめる「微細なレベル」があり、法王はその全体を貫く本質について考察しています。

「以上の理由から、『自我』にははじまりがなく、終わりもない、と仏教では主張しているのです。」


 始まりがない無数の過去世(カコセ)における善業(ゼンゴウ)と悪業(アクゴウ)を背負った私たちは、それぞれに、特定の自分としてこの世へ生まれ出ました。
 いかなる自分に生まれたかは、過去世に、その原因があります。
 そして、この世で積み続ける善業悪業は必ず原因となり、来世(ライセ)のありようが決まります。
 因果応報は必然です。
 8月の機関誌『法楽』作りでは、『童子教』の一節を学びました。

「夫(ソ)れ積善(セキゼン)の家には  
 必ず余慶(ヨケイ)有(ア)り
 又好悪(コウオ)の処(トコロ)には  
 必ず余殃(ヨオウ)有(ア)り
 人として陰徳(イントク)有(ア)れば  
 必ず陽報(ヨウホウ)有(ア)り
 人として陰行(インコウ)有(ア)れば  
 必ず照名(ショウミョウ)有(ア)り」


(善行を重ねる家には、
 必ず後々まで良いことが起こる。
 悪行を好む家には、
 必ず後々まで悪しきことが起こる。
 まっとうな人間の道を歩むために目立たぬ徳行を積んでいれば、
 必ず良い報いがある。
 まっとうな人間の道を歩むために陰で善行を積んでいれば、
 必ず称賛を受ける時が来る)

 この教えは、この世だけを問題にしているのではありません。
 前世から来世へとつながる業(ゴウ)を説いています。

 明らかに、自我は無始、無終です。
 (クウ)なる自分として今、たまたま、ここにいられることに感謝し、これまでの善行(ゼンギョウ)と悪行(アクギョウ)をふり返り、自他のために善行を選択したいものです。




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2014
08.26

【現代の偉人伝 第195話】 ―徳は魔除けと活性化の力―

 午前3時、天地の主人公は秋の虫たちです。
 今朝は、目覚ましのために、貴重な2分21秒を使い、オリヴィエ・メシアンの『世の終わりのための四重奏曲』第一楽章「水晶の礼拝」を聴きました。
 メシアンは解説しています。
「朝の3時と4時の間に、鳥たちは目覚める。
 光り輝く響きと木々のこずえ高く消えてゆくトリルの光輝のただ中で、ツグミ、あるいはナイチンゲールが即興的なソロをうたう。
 これを宗教的次元に移し換えよう。
 あなたは調和に満ちた静寂を得るだろう。」
 鳥たちはまだ寝ているし、ツグミはまだ、飛来していません。
 自然の音をバックにして、ほんのひととき流れた現代音楽が終わってみると、虫の声と静寂が不思議な共存をしていると感じます。

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〈産経新聞様よりお借りして加工しました〉

1 亡き戦友へ詣でる人

 目に焼き付いた写真と記事を思い出しました。
 8月16日付の産経新聞が掲載した元陸軍兵士杉浦彦示氏(92才)です。
 初めて靖国神社を訪れた氏は、記者へ語りました。

「私が所属していた陸軍は行軍があって勝手に休めないから……。
 つらくて自決する人も少なくなかったんですよ」
「軍隊は『運隊』だとよく言っていた。
 弾が当たれば運が悪かったと思うしかない」


 記者は書きました。

「セミの鳴き声だけが響き渡る中、腰の曲がった杉浦さんは、少しでも姿勢を正そうと、必至につえで体を支えていた。
 少しでも鎮魂の思いが届くように、と。」


 今の自衛隊ですら、心が不調になる人々は後を絶ちません。
 勝手に休めない行軍ではいかなる気持だったのか……。 
 運に任せて撃ち合いの場にでかける若者は、いかなる気持で日々を生きていたのか……。
 学徒兵の遺稿集『きけ わだつみのこえ』などは涙なしに読めませんが、衆目を集める遺書とならなかった無数の方々の思いは、忖度しきれるものではありません。
 15才から志願して海軍にいた氏が、腰の曲がった今も戦友たちの前で姿勢を正そうとする強い目の光に、私たちの持つ根源的な〈の力〉を感じました。

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〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

2 土砂災害で救済に当たった住民の方々

 8月25日付の朝日新聞は、広島市安佐北区の可部地区で、20日朝、土砂崩れが起こった直後に救助作業を行った住民たちについて報じました。
 午前5時過ぎ、元自治会役員の中村光政氏(68才)は、被害がでていると聞いてただちに役員へ招集をかけ、一人で現場へ行きました。
 押し潰された家にいる老夫婦の救助作業に駆けつけていた4人の消防隊員に言われました。

「命の保証はできんけど、手を貸してくれたら助かる」


 いつの間にか20人もの男性住民が集まり、茶碗で泥をかき出すなど必至の活動が始まり、午前8時頃にはかけつけた孫が「おじいちゃん、来たよ!」などと呼びかけました。
 近くの集会所に集まった女性たちは「おにぎりや味噌汁を作り、救出に当たる男性たちを支え」ました。
 正午過ぎに妻、午後2時過ぎには夫が意識のある状態で救出され、「住民たちは拍手して喜んだ」そうです。
 9月24日には、全国からボランティアの人々が駆けつけました。
 大事な仕事を休んだ方も、あるいは、あまり世間の光が当たらないところでひっそりと暮らしている方々もおられることでしょう。
 命の保証がないところに踏みとどまっても仲間を救おうとする人々、見ず知らずの相手へ身施(シンセ…身体を用いる布施)を実践する人々。
 こうした姿こそ、私たちが世界へ誇ることが許される〈ある文化〉を表していると言えるのではないでしょうか。

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3 福島第一原発の所長だった故吉田昌郎

 事故調査・検証委員会が故吉田昌郎元所長から聞き取った400頁に及ぶ調書がようやく公開されることになりました。
 すでにいろいろと報道されていますが、昨夜のNHKテレビでニュースの最後に紹介された氏の言葉は耳に残りました。

「口幅ったいようだが、ここの発電所の発電員、補修員は優秀だ。
 今までトラブルも経験し、肌身で作業してきた経験があるから、これだけのことができたと思う。
 私が指揮官として合格だったかどうか、私は全然できませんけども、部下たちはそういう意味では、日本で有数の手が動く技術屋だった。」


 ここに、〈現場の人々〉の矜恃も名誉も尽くされているのではないかと感じました。
 氏は、別の場で、爆発後の建屋へ向かう部下たちの背中を見て「菩薩(ボサツ)を感じた」とまで述べています。
 私たちは、経験したことのない危機的状況で右往左往する関係者たちへ狭い視野から批判を重ねるよりも、死の恐怖に耐えながら毅然と行動した現場の方々に想いを致し、自らの姿勢を正す気持になりたいものです。
 ここには、線路に落ちた人を救おうと線路へ飛び降りる人の思いと共通するものがあります。
「そうしないではいられなかったから、降りたのです」
 私たちが魂を揺すぶられるのは、彼らの〈の光〉に、眠っているが共鳴するからではないでしょうか。

4 は魔除けの力

 の文字はそもそも、呪力を孕む目が持つ魔除けの威力を指すものでした。
 白川静の『字統』は教えています。

「そのような威力が、呪飾による一時的なものでなく、その人に固有の内在的なものであることが自覚されるに及んで、それは徳となる」


 私たちの霊性が具体的な行動という形をとる時、それは徳の力、徳ある文化、徳の光として輝き、悪しきものや魔ものたちを自然に教化し、浄化し、人間として大切なものを守ることができます。
 兵士の鎮魂も、住民の救助活動も、事故現場のプロたる仕事も、ともすれば眠りかけている私たちの徳を活性化させてくれます。
 自分の得に走らず、自他の徳に感応し、霊性を持つ者として生き生きと歩もうではありませんか。




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2014
08.25

自我に始まりがあるか? ―仏教的視点から観た自我(2)―

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 前回、書きました。
「仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる『無我』が仏教の根本的立場です。」
 そして、今、ここに自分がいるといった感覚は、日常的なものとしては認めても、根源に迫る仏教は、その先を問います。
 いると思う自分を突き詰め、一体、自分そのものは〈どこに〉見出せるか?
 そうすると、手にも足にも目にもどこにも見出せず、ただ、五つの要素が集まっている特定のものとして、名づけられ固定されたというしかありません。
 ダライ・ラマ法王は端的に述べられました。

自我五蘊(ゴウン…心とからだの構成要素の集まり)に依存して名前を与えられた存在である」


 五蘊とは、つねれば痛いこの身体(色蘊…シキウン)、見聞きしてはたらく感受作用(受蘊…ジュウン)、あれこれを分ける識別作用(想蘊…ソウウン)、どうこうしようという意志作用(行蘊…ギョウウン)、自分がいるなどとわかる認識作用(識蘊…シキウン)の5つです。
 これらがうまく集まり、共存している特定の者としてのみ、自分はここにいるのであって、ガラス細工のような自分の核となっている自我の存在など、どこにも確認できません。

 論を進めましょう。
 どうして、たまたま五蘊が集まっているかといえば、集まる原があるからです。
 何もかもが、原と結果のつながりとして生じているのであり、この因果の法から外れるものは何一つありません。
 一瞬も止まらず変化し続けると果の流れにあるありとあらゆるもののありようは、固定した実体を持たない(クウ)です。
 だから、仏教では、因果の理から外れ、(クウ)でもない創造主とされる神の存在を認めません。

 一口に因果と言っても、果をもたらす因には直接的なものと間接的なものとがあります。
 因とがある、とも言えます。
 因があってもがないと果が生じないのは、種があっても水が与えられなければ芽が出ないことでわかります。
 
 さて、私たちは、モノとしての身体と心としての意識が精妙にからみあって存在しています。
 意識には、身体のありようと密接につながった「粗いレベル」と、「微細なレベル」とがあります。
 モノとしての身体が切られれば痛いと意識するし、モノとしての身体がケガや加齢ではたらきを失えば、意識の行方も定かではなくなります。
 これが粗いレベルの意識です。
 一方、生まれつき性格が荒々しかったり、おとなしかったりといった性格に彩られた微細な意識の違いは、生まれる前の前世(ゼンセ)に原因があり、意識はこの世での生活ぶりによって知らぬ間に変化し続けます。
 これが微細なレベルの意識です。

 意識も因とによって仮そめにありますが、〈今ある意識〉の因は、あくまでも〈その前の意識〉にありす。
 決して、樹木や雲や鳥といったモノに原因を求められはしません。
 ダライ・ラマ法王は述べられました。

「実質的な因の連続体がないと、間接的な因だけではひとつの現象の存在は成立しないので、実質的な因は必ず必要です。」


 間接的な因としてのがあるだけでは現象が成立せず、実質的な因がなければならないのは、水があっても種がなければ芽が出ないのと同じです。

「意識は『明らかで、ものを知ることができる』という本質を持つものなので、意識の実質的な因も、そのような本質を持つ因でなければなりません。」


 ここで説かれる「そのような本質を持つ因」となっている意識もまた、その因を求めれば「そのような本質を持つ因」でしかありません。

「意識の実質的な因をずっとさかのぼっていくと、その因のはじまりを見つけることはできないので、意識にははじまりがない、といわれているのです。」


 もしも、こうした意識に始まりがあるとすれば、その原因となっているものは意識以外のものということになりますが、そうした事態はあり得ません。
 意識と物質的なものとは種類が異なっており、意識が物質的なものの実質的な因になれないのと同じく、物質的なものもまた、意識の実質的な因になれないからです。
 かつて、インドのサイババは、ビブーティという灰や指輪などを念力で生じさせると称して世界中から信者を集めましたが、彼が外国旅行中に仕入れを行っている現場が目撃され、騒動は終結しました。

 ダライ・ラマ法王の結論です。

「人を規定するときの土台となりうるのは、五蘊の中でも主に意識であり、意識の実質的な因にははじまりがないので、それに依存して名前を与えられただけの存在である『自我』にもはじまりがない、ということになります。」

 
 自我に始まりはないのです。





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2014
08.24

自我って何だろう? ―仏教的視点から観た自我(1)―

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 私たちは、物心がついた頃、いつの間にか「自分がいる」と意識し始めています。
 それ以来、自分はずっと〈他ならぬ自分〉としてこの世にいます。
 自分の身体は自分だけのものなので、身体をよりどころとして、自分はいつも〈ここ〉にいます。
 でも、何かの拍子に「自分とは何だろう?」と発した問いに、どっしりした答はなかなか返ってきません。

 さて、自分の核は自我意識です。
 この自我は、はたしてあると言えるのでしょうか?
 ダライ・ラマ法王著『ダライ・ラマの般若心経』をテキストにして、少し、考えてみましょう。

1 自我とは何か?

 仏教は、他の宗教と異なり、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はないと考えています。
 いわゆる「無我」が仏教の根本的立場です。
 でも、普通の感覚では「自分はここにいるし、君だってそこにいるじゃないか」ということになります。
 デカルトが言った「我思う、ゆえに我あり」です。
 仏教も、「思っている自分は確かにここにいる」という理を否定はしません。
 認めますがそれは、日常生活的思惟をめぐらせてつかむ世俗的な真理としての範囲です。
 いわゆる「世俗(セゾクタイ)」です。
 一方、深い瞑想の中でつかむ無我の真理を「真(シンタイ)」または「勝義諦(ショウギタイ)」といいます。

 真理は二重になっており、お釈迦様が悟りを開いた当初、「これ(真)は誰にもわかるまい」と考え、悟って得た安楽の境地へ入ったままになろうとされたのは、当然です。
縁起の理は理解されず、涅槃(ネハン…絶対的安楽)の理も悟られないだろう。
 説いても徒労に終わるだろう」
 しかし、梵天(ボンテン)というインドの最高神によって説得されます。
「世間には目が穢れに覆われていない人々がおり、そうした人々も、法を説かれなければ、皆と同じように堕ちてゆくことでしょう。
 しかし、彼らは聞けば悟れる人々なので、どうぞ救ってください」
 そこでお釈迦様は説法を決心されます。
「耳あるものは聞け、古き信を去れ」

 確かに「縁起の理」は容易に理解されず、ましてや「涅槃(ネハン)の理」は誰にでも悟られるわけではありません。
 何しろ、お釈迦様ほどの方ですら、すべてをなげうち、周囲から、いのちを落とすのではないかと思われるほど徹底した瞑想の果てに、ようやくつかんだ真理なのです。
 たとえば、縁起とは「すべては、何かが縁となって起こったからこそ、そのように有る」という真理ですが、悪いことが起これば神様のお怒りだろうと考えて生け贄(ニエ)をささげたりする人々には、原因と結果が必ず結ばれていることを実感できる素地は少なかったことでしょう。
 ましてや、善い人が利用されたり誤解されたりして苦しみ、悪心を持った腹黒い人がうまくやって成功したり、褒めそやされたりする場合がある現実を眺めると、原因と結果の関係に納得できる妥当性を感じられないことでしょう。
 また、厳しい修行や幾多の輪廻転生の末に苦から解き放たれ、苦から脱した解脱(ゲダツ)すなわち涅槃(ネハン)の境地など、想像もできない世界です。

 では、どうやってお釈迦様は法を説かれたか?
 難しい理論などわからず、生きるのに精一杯で瞑想をする余裕もない人々がどうして救われたのか?
 そのキーポイントが「真理の二重性」です。
 つまり、問題を抱えた人なりに理解できる真理を入り口として、その先は、その人なりに行ける範囲まで行ってもらうというやり方だったものと思われます。

 最もわかりやすい例が、娘を亡くした母親キーサゴータミーの物語です。
 これまで何度もとりあげたとおり、娘を亡くして半狂乱になっているキーサゴータミーへ、お釈迦様は、「一人の死人も出したことのない家があったなら芥子の実をもらってきなさい。そうしたら、貴女の苦しみを取り除いてあげよう」と約束されました。
 しかし、村中を歩いても、死人を出したことのない家はありません。
 ご先祖様のいない人は誰もいないので当然です。
 キーサゴータミーはがっかりしてお釈迦様の元へ帰りますが、お釈迦様は黙したままです。
 きっと、本人が気づくことを知っておられたからでしょう。
 娘の亡骸を埋めてからお釈迦様へ弟子入りしたキーサゴータミーは、きっと、こんな順序で理解を深めたことでしょう。

・死人を出したことのない家はない
・誰しもが、人の死に悲しむ体験をしている
・自分だけが人の死に苦しむのではない
・人は必ず死ぬ
・自分もいつかは死ぬ

 きっと、このあたりまでが、世俗でしょう。
 そして更に、お釈迦様の弟子となって理解を深めたことでしょう。

・娘の死には、直接的原因と間接的原因があった
・死とは、肉体のはたらきや、感受作用や、意志作用などが壊れ、なくなることである
・娘の実態は仮そめの存在、つまり(クウ)だったのであり、自分もまた、(クウ)なる存在である
・すがりつくべき実体的な自我はない
を観ると心が安らぎ、生きとし生けるものが愛おしくなり、美しいと感じる
なる自分のなすべきことが見えてくる

 こうして真が深まったのではないでしょうか。
 まぎれもなく、〈永遠で、単一で、独立した〉自我はなく、「無我」なのです。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
08.23

私たちは〈日本の山河〉の崩壊を確かに観ているだろうか? ―豪雨の被害に想う─

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〈開発予定地に咲く今年限りのひまわり〉

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〈今年限りの草むらに〉

 広島などで起こった豪雨の被害には息を呑んでしまう。
 100人に迫ろうとしている人的被害は、当山付近の集落から100人がいなくなってしまうことや、友人・知人たちから100人がいなくなってしまうことを想像すると、絶句するしかない。
 そして、被害者の方々が口々に語る、ガスのような臭いや、焦げたような臭いや、水が溢れる時のようなボコボコという音や、ゴーッという地鳴りなどは皆、闇夜に山河のはらわたが引きちぎられる悲鳴と思える。
 今、私たちは〈日本の山河〉が崩壊する過程に立ち会っているのである。

 これほど安全だと思っていた日本が、実は、世界で最も危険な国のトップクラスとされている事実を知ったのは最近のことである。
 危険とは人間の仕業ではなく、地震や台風などの自然現象である。
 だからといって、地震を抑えたり、台風の進路を変えられたりできるわけではない。
 地震はともかくとして、気象の暴れによる被害は激しさを増しているように思えてならない。
 雨も風も突風も気温も雷も、いわゆる異常気象の「異常」がだんだん「常」となってきているのではなかろうか。
 この変化の主たる原因の一つは、人間の手による自然破壊にあるのだろう。

 5月8日、「日本創成会議」の人口減少問題検討分科会(座長・増田寛也元総務相)は、都市の消滅予測を発表した。
 平成52年には、全国の半数にあたる896自治体に消滅する可能性があるとされた。
 人口のみで考えると、東北地方では宮城県と福島県しか残らない計算になる。
 だから、国家予算を〈効率的に〉投入するにはコンパクトシティー化によって農山村部を放棄し、食糧は外国から安く買えばよいという議論が強まっている。
 しかし、もしも、自分の利益を絶対の尺度として行動する国際金融資本などの気まぐれな動向によって日本の経済が急降下し、食糧がうまく買えなくなったならどうすればよいのか?
 原発事故と同じく「想定外」などと言ってはいられないのである。
 国際的な支援を仰ぎ、外国の意のままになるのか、それとも「国家存立の生命線」を決めて軍隊が出動するのか?
 国民を守るためには何としても食糧を確保せねばならず、水や食糧はもちろん多様なエネルギーさえ供給できる可能性のある農山村部は、人が住んでこそ守られるという厳然たる事実から目を背けるわけにはいかない。
 こうした観点からしても、〈日本の山河〉が崩壊する様子はあまりに悲しく、心底、恐ろしい。

 統計は悲観的なものばかりではない。
 明治大学教授小田切徳美氏は指摘する。
「NPO法人『ふるさと回帰支援センター』の移住相談件数をみると、08年の約2900件が、13年は約1万1千件で、3・8倍という驚くべき伸び率です。
 かつて『団塊の世代』のUIターンブームがありましたが、今は過半数が40歳以下で約7倍に増えています。」
「若者の農山村志向は昨日今日はじまった動きではありません。
 90年代半ばにはじまり、00年代前半にははっきりとした流れになりました。」
「大震災を目にして『いつ終わるかわからない一度きりの人生なんだ』『人生で本当に大事なものは何か』と価値観を問い直した人がほとんどです。」
「人口減対策を考えることは、どのような国土や社会をめざすのかを考えることです。
 その意味で国民一人ひとりの問題です。」(8月20日付朝日新聞「地方都市は生き残れるか」より)

 私たちが〈日本の山河〉を維持し、食糧という国家自立の生命線を確保するための方法は二つしかない。
 一つは環境破壊を止めること、もう一つは食糧とエネルギーを求める若い力が農山村部で躍動することである。
 くり返すが、私たちが今、目にしているのは〈日本の山河〉が悲鳴を上げながら崩壊する過程である。
 何としてもくい止めようではないか。
 父祖が守ってきた山河のために、子々孫々のために。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
08.22

不意のできごとに惑わない ―9月の運勢について―

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 平成26年9月には、こんなことに気をつけて運勢を生かしましょう。

 今月は、自分の弱点を衝かれるできごとが不意に起こった時のことを考えておきましょう。
 そこで何よりも大切なのは、動揺せず、「――やってきたか」と極力、平静に受けとめることです。
 数年前、Aさんの奥さんが急に倒れました。
 その時、Aさんは「キター!」という一言だけを発し、かねて、夫婦のどちらかに年齢相応のできごとがあるだろうと腹を決めていたとおり、粛々と奥さんの介護を始めました。
 Aさん手作りの野菜を食べるなどしつつ、奥さんは心の元気を取り戻し、Aさんの書いた顛末の物語は賞を取りました。

 次に、新たな事態にあれば、手放すべきものと、確保し続けるべきものとを判別せねばならなくなります。
 そこで〈全部抱え込む〉という姿勢はあまり感心しません。
 まっとうにやっていれば、モノは、やがて〈生きているという現実〉相応に授かるものです。
 たまに、NHK時代劇『吉原裏同心』を眺めますが、主人公夫婦が住む長屋の光景には、いつも憧れめいたものを感じます。
 過剰なモノがどこにもないシンプルな生活の美しさには、ため息が出ます。
 四苦八苦のうち、〈有るがための苦しみ〉を五蘊盛苦(ゴウンジョウク)といいます。
 現代人は特に、この苦をもてあましているように見受けられます。
 身体や財物があるばかりに起こるままならなさ、見聞きしたり、思い出したり、やろうとしたりするがゆえの引っかかり、自分という意識にこだわるがゆえの怒りや落胆などなど。
 もう少し、サラリと生きたいものです。

 次に、新たな時間の流れに慣れてきたなら、よい意味での楽天的な気分で過ごすのも結構でしょう。
 なすべきことを為し、仏神へ祈る敬虔な気持を忘れなければ、仏神は必ず、なるべきようにしてくださることでしょう。
 そして、馴染んできた手順に人間の尊厳を感じられるようなら盤石です。

 できごとが最終場面を迎える前には、少々、脅威的な問題が起こるかも知れませんが、信じる仏神へおすがりしながら過ごせば必ず、くぐりぬけられます。
 時が経ち、決着してみれば、平静さに安堵感が加わることでしょう。
 いかに驚くようなできごとであれ、まっとうに、落ち着いて対応すれば、すべては修練や修養のきっかけとなります。
 いつの間にか、弱点が克服されているかも知れません。
 弱点が縁となってもたらされた試練が弱点を克服させるとは、天の配剤は実に玄妙なものです。

 途中の一息では、エンヤの「ケルツ」、ジャネット・サイデルの「男と女」、ソニー・クリスの「アイル・キャッチ・ザ・サン」などがお勧めです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
08.21

認められ救われる世界『思い出のマーニー』

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〈『思い出のマーニー』オフィシャルサイトよりお借りして加工しました〉

 映画『思い出のマーニー』には感心させられました。
 複雑な家庭環境の影響で心を閉ざしがちな杏奈は、持病の喘息を治そうと、おじさん夫婦の住む海辺の町へ行きます。
 海の幸、山の幸に恵まれた場所で、夫婦は木彫りや畑仕事で気ままに暮らし、杏奈の行動も縛らないので、杏奈は好きな絵を描き、散歩をして過ごします。
 ある日、入り江の奧にある古い洋館で、金髪の少女マーニーに出会います。
 デジャ・ヴを伴った不思議な出会いは、二人を強い信頼感で結びつけます。
 自分で自分を嫌っていた杏奈は、「あなたのことが大好き」と認めてくれるマーニーに初めて心を開きます。

 この世ならぬ気配の洋館に現れたマーニーもこの世ならぬ存在でした。
 思いがけないできごとの連続で、二人に別れの時が来ます。
 自分を救ってくれたマーニーから、急な別れを許して欲しいと言われ、杏奈は心から許すことによって、今度はマーニーを救います。
 マーニーへ心を開いた杏奈は、継母にも周囲の人々にも心を開いている快活な女の子へと変身し、思い出の港町を去るのです。

 ここにある4つの救いを考えてみましょう。

1 大自然

 おじさんの家の周囲に広がる光景は、そこにいるだけで心身を解放してくれます。
 疲れ、ささくれ立った神経に何一つ障りとならない大自然は、本来、自然の一部である人間を、大海原に落ちた一滴の雨粒のように同化します。

2 不干渉のおじさん夫婦

 人のよい夫婦は、杏奈が田舎の子とぶつかろうが、夜に帰宅しようが一切構わず、詮索もせず、ありのままに認め、信頼できる家族として扱ってくれます。
 信頼しているがゆえの放置は、放置されている側にとって、自分が信頼されている証(アカシ)と感じられます。
 普段の私たちは、相手を思いやるがゆえに、口出しし、手出しし、詮索しますが、思いやられる側の気持次第で、それらがうるさいお節介であり、自分への不信の証(アカシ)と感じられたりします。
 そうかと言って、悪意や無関心による放置はもちろん、あってはならないことであり、このあたりは家族間の人間関係にあっても難しいところです。

3 自分を好いてくれるマーニー

 性格の歪んだ自分に自己嫌悪を懐いている杏奈にとって、「大好き」と無条件に認めてくれるマーニーは、杏奈からも「大好き」と無条件に認める心を引き出し、相手へ向かう温かな心は、閉ざされた世界を開くかけがえのないドアになりました。
 誰にも話せない辛い体験や気持を打ち明けるという重要なできごとも、ドアの先に待っていました。
 たくさんの善男善女がさまざまな願いを持って当山を訪れます。
 若い女性に断然多いのが、「好きな人とつき合えますように」「すてきな人と出会えますように」といった異性との出会いです。
 そうした願いの中には、きっと、自分を認めて欲しいという隠された切実な願いが含まれているのでしょう。

4 祖母の思いやり

 幼い杏奈を見守ってくれていたおばあちゃんが、秘密の役割を果たしていました。
 そもそも祖父母との関係は、同じ家族といっても、親子関係とはまったく異なっています。
 第一に、親にとって子供とは、自分の人生の大きな部分をかけていながら、必ず自分の世界を見つけ〈巣立って行く〉相手ですが、祖父母にとってとは、〈後を託す〉相手です。
 この場合の「託す」とは、具体的に自分の面倒を見てもらったり、何かをさせたりといった意味ではなく、自分が亡くなった後もこの世を存続させ、自分が持っている希望のなにがしかも、その心のどこかに残せるのではないかという漠然とした期待感を意味します。
第二に、おそらく多くの親は、自分の子供について、育て方が間違っていた、とか、もっとああしてやればよかった、とか、なぜこういう子に育ったのだろう、などといった〈失敗〉のイメージを多かれ少なかれ持っているはずです。
 子育ては万全だったなどという例はあまりないでしょうし、もしも親が本当にそう思っていると聞けば、「よかったですね」と言いつつも、薄ら寒いものを感じてしまいそうです。
 そうしたわけで、祖父母は、を〈無条件〉に受け容れる気持を持っています。
 だから、親は、「あまり、甘やかさないでください!」と怒らず、我が子がお祖父さんやお祖母さんから無条件に信じられ、認められ、教えられ、与えられ、守られる体験を許してください。
 祖父母がに与えるのはモノ金でなく、まさしく、自己中心という穢れの伴わない〈完全な優しさ〉を一身に受ける体験です。
 優しさ体験は、幼い心に眠っている優しさの種へ清浄な水や、きらめく光や、嬉しい暖かさや、成長する養分を与え、芽が出る力となるのです。
 もちろん、実際に子供を育て、守り、一人前の大人にする責任も喜びも親にあり、親は日々、現場に起こる幾多の困難や葛藤も乗りこえて役割を果たしますが、祖父母の目立たない補助的な役割へも目を向けてみる必要があるのではないでしょうか。

思い出のマーニー』は小さな救済の物語ですが、不思議なできごとによって開かれたドアの先には、万人を救う優しさの世界が広がっています。
 親も子も祖父母もも恋人も夫婦も友人も、皆さんへお勧めです。
 もちろん、一人で観て嬉しい出会いを夢想するのも大賛成です。
 優しさバンザイ!




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2014
08.20

【現代の偉人伝 第194話】―「天と良心」を畏れる医師中村哲氏―

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〈「用水路を造るのは簡単ではないが、維持はもっと努力が要ると力説」する中村哲氏「ペルシャワール会報」よりお借りして加工しました〉

 今さら高名な中村哲氏をとりあげるのもおかしな話だが、どうしても書いておきたい。
 ある日、80才を超えたAさんから聴いた。
「身辺整理をしています。
 最後まで残っているのがペルシャワール会です」
 今から30年前、パキスタンのペシャワール・ミッション病院ハンセン病棟に赴任した医師中村哲氏は、その後、パキスタン、アフガニスタン両国において、医療という枠を超えた広範囲な活動に邁進してきた。
 その活動を支えているのが「ペルシャワール会」である。
 特に、平成13年、空爆の行われているアフガニスタンの避難民を救おうと『アフガンいのちの基金』を設立し、15万人もの人々へ物資を救ったことは忘れられない。
 東日本大震災の5日後、当山は「東北関東大震災・被災の記(その6)」に書いた。

「混迷深いアフガニスタンにおいて貧困層の医療に献身的な情熱を注ぎ、20年以上もの長い年月を過ごしている医師中村哲氏の血を吐くような警句を思い出す。

『我われの敵は自分の中にある。
 我われが当然とする近代的生活そのものの中にある。』


 現代文明にどっぷりと浸っている私たちは、ここで立ち止まろう。
 プラント建設を〈原因〉とし、想定外の地震を〈縁〉として生じた原発事故の帰趨にかかわりなく、何としても立ち止まろう。」

 Aさんの言葉に背中を押され、あらためて「ペルシャワール会」のホームページを読んでみた。

 中村哲氏は、決壊した堰を修復し、30万農民の生活を確保するための活動について書かれた。

「カシコート自治会は、対岸の戦闘地に神経をとがらせ、『作業地に着弾すればカシコート30万家族を敵に回す』と檄をとばし、両軍の戦闘員に圧力をかけます(実際は数千家族ですが、多数を「30万」と表現します。また、貧しい寒村は、両軍に出稼ぎ傭兵を送って生計を立てざるを得ない事情があります。戦の圧倒的犠牲は、貧困にあえぐ者同士が戦わされることによります。『故郷で耕して生きられるなら、兵隊や警官にはならない。』みな、そう言います)。
 この事情で、天と良心以外に、何を畏れるものがありましょう。
 数百名の作業員は迷いなく、みな心をひとつに、黙々と作業が進められています。」(2013年12月11日発行「ペシャワール会報」118号より)


 現場では「天と良心」のみを畏れつつ、粛々と作業を続けるという。 
 畏の字は、鬼の頭をした者が呪力のある杖を持って立つ形である。
 人間の営みを一呑みにしてしまう自然の猛威は、人知・人力の及ばない鬼の領域である。
 また、ともすれば良心を忘れたり、離れたりしがちが人間にとって、絶え間なく見張り、鉄槌をくだす鬼の存在は大きい。
 遙かなる地の人々ならずとも、「天と良心」を畏れつつ行うところに、不安や恐怖はなくなることだろう。

 中村哲氏は、連続堰(セキ)の完成に際して書かれた。

「人も世も様々です。
 今さら無理解の壁を嘆いても悲しいばかりです。
 せめて東部アフガンの一角で人々が生き延びる望みを得たこと、その実証に祈りを託すのみです。
 確かに私たちはアフガン人に成れないし、アフガン人は日本人に成れません。
 だが、その壁を厚くするような昨今の風潮―自然を無視して宗教や文化、生活様式まで裁き、そのためには戦争も肯定しかねない流れ―は危険です。
 知の傲慢が暴力ともなります。
 違いや矛盾をあげつらって拳を上げるよりも、血の通った共通の人間を見出す努力が先だと思います。

 私たちの活動が、このような壁を超えようとする努力と、温かい他者への関心の結実だとすれば、これに勝る喜びはありません。
 そして、これが譲れぬ一線でもあります。
 仕事はまだまだ続きますが、これまでの支えに心から感謝します。」(2014年4月1日発行「ペシャワール会報」119号より)


 氏はこれまで、重ね重ね「知の傲慢」を指摘してきた。
 〈知〉が〈血の通った人間〉から遊離してはたらけば、たやすく暴力に結びつく。
 高慢心や嫉妬や軽蔑は、相手へ対する害意にどんな理由付けもしてしまう。
 そこには「温かい他者への関心」が欠落している。
 また、「温かい他者への関心」がなければ、戦争は容易に起こる。
 戦乱の地で、氏はそのことを骨の髄まで知られたのだろう。

 謙虚に「天と良心」を畏れ、「温かい他者への関心」を忘れず、「知の傲慢」を戒めつつ進みたい。
 遙かな地でそれを実践しておられる氏に想いをいたしつつ進みたい。




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2014
08.19

平野啓一郎著『透明な迷宮』について ―原発事故後の実存―

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 平野啓一郎著透明な迷宮』を読んだ。

「彼は自分が、目に見えない、透明な迷宮の中に迷い込んでしまったという意識に捕われた。」

「恐らくは、震災後――いや、震災よりも更に前からのことで、ただ、あの部屋に監禁され、愛し合うように命ぜられて初めて、彼はそれが迷宮の一つの袋小路なのだと理解したのだった。」

「岡田は、自分がその迷宮のどの辺りを彷徨っているのか、まるで見当がつかなかった。
 その壁は完全に不可視で、不可触であって、迷宮の外側の世界は、微塵の曇りもなく見えていながら、どうやって出口を見つければよいのか、その術がわからなかった。」

「もしその壁が、土や煉瓦で出来ているのならば、外の者たちは、中で誰が迷っているのかを知らないだろう。
 しかし、透明であったとしても、結局、彼らはその内側に閉じ込められている者に、気づきようがなかった。」 

「自分はただ、その目に見えない壁に沿って歩かされている。
 折々、行き止まりにぶつかっては引き返し、別の道を歩んだつもりで、また訳もわからずに同じ道を辿っている。」


 岡田は知り合って間もない女性と共に監禁され、同じ目に遭っている男女たち共々、衆目の前でセックスを命じられる。
 共に暮らそうとした彼女は去り、彼はあの世の屈辱から逃れられない。

「彼は、自分の人生は嘲弄されたと感じていた。
 彼女からというのではない。
 もっと漠然とした、この世界の頽廃そのものからだった。」


 小説の主人公岡田は、人間の行う不条理な行為によって深い傷手を負い、自分の意志による回復は困難となった。
 そのできごとをきっかけとして、そもそも自分の意志など通用しないほどの何かに絡め取られているという真実に気づく。
 そして、自分の人生は「この世界の頽廃」によって「嘲弄」されていると感じる。

 この作品は平成26年に発表された。
 平成23年、氏は、毎日新聞の取材に対して、こう語っている。

「何か悲惨なことが起きた後、その出来事が終わると、やっと日常の時間が動き出します。
 宮城や岩手は悲惨な津波被害を受けましたが、津波自体は終わって日常が動き出しつつある。
 しかし深刻なのは福島の時間です。
 原発事故が終わらないからいつになっても日常の時間が始まらない」

「問題をほぐしてきれいに切り分け、一つ一つに対処する必要がある。
 それはすごく地味な作業ですが、それしか方法はない。
 何であれ地道な頑張りが称賛され、努力が報われる社会になるべきだと思います」

「ちゃらちゃらした時代はやっと終わって、地味にまじめに生きなきゃいけない時代になってきていると感じます」

「震災後によくインタビューを受けてきましたが、やっぱり最後は希望に満ちた明るいコメントを期待されがちです。
 でも、僕は空元気には限界があると思うんです。
 震災直後はそういうものも必要でしたが、そのむなしさも味わいました。
 すごく悲観的に言えば、日本は原発問題もあるし経済も停滞しているし、沈みゆくタイタニック号のような雰囲気もあります。
 でも、それを止められるのは、威勢の良いかけ声ではなく、現実的で具体的な行動だけです」(「この国はどこへ行こうとしているのか」より)


 氏は、「地味な作業」「地道な頑張り」「現実的で具体的な行動」に救いを求め、発言もしてきた。
 しかし、こと、ここに至り、24時間、365日、一人一人を繭のように囲い込み解放を許さない「透明な迷宮」を観ているのではないか。
 もちろん、氏は慎重に「震災よりも更に前からのことで」と書き、いわば、我々の実存そのものを問題にしてはいるが、震災と原発事故が「迷宮」を明らかにし、「迷宮」がはたらきを強めてきたことは確かだろう。

 ほぼ半世紀前、三島由紀夫は『太陽と鉄』に書いた。

「言葉による芸術の本質は、エッチングにおける硝酸と同様に、腐食作用に基づいてゐるのであって、われわれは言葉が現実を蝕むその腐食作用を利用して作品を作るのである。」

 そして、幼少時にこの真実を知った三島由紀夫は「相反する二つの傾向」を生きることになる。

「一つは、言葉の腐食作用を忠実に押し進めて、それを自分の仕事にしようとする決心であり、一つは、何とか言葉の全く関与しない領域で現実に出会はうという欲求」

 三島由紀夫との因縁浅からぬ平野啓一郎氏は、このことを熟知しておられるはずである。
 氏にとって言葉とは何か?
 震災と原発事故へ真摯に対応しようと努力してこられた今、「透明な迷宮」と書かねばならない状況をどう克服してゆこうとされているのか?
 氏の苦悩を想いつつ、彼女との再会へ微かな希望を託した最後の一行を読んだ。

「この透明な迷宮のどこかの一隅で、出口を求めて彷徨い歩いた果てに。……」






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2014
08.18

お不動様の剣について

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〈仙台市青葉区桜ヶ丘にある骨董店『春昼堂(シュンチュウドウ)』の店主です〉

 8月15日のお盆供養会において、例年どおり隠形流(オンギョウリュウ)居合の奉納剣を行ったところ、翌日、例祭へご参詣になられたAさんからご質問をいただきました。

「法楽寺さんは『不戦日本』を掲げながら、どうして戦う剣を揮(フル)うのですか?
 お不動様の剣と関係があるのですか?」

 お答えしました。

「そのとおりです。
 たとえば小さな子が大きなヒマワリにつられて崖の方へ走って行ったとします。
 あぶないよ、と教えても止まらなそうであれば、大声で、こらっと叫び、びっくりさせ、怖がらせてでも足を止めねばなりません。
 泣いてしまっても仕方がありません。

 み仏は、おはたらきによって三種類に分けられます。
 大日如来は悟りの境地そのものを示しておられる自性輪身(ジショウリンジン)、大日如来の悟りの内容を説く般若菩薩(ハンニャボサツ)が正法輪身(ショウボウリンジン)、叫ぶ人のように、救いとなる教えに耳を貸さず破滅へ向かう者を力づくでも救うお不動様は教令輪身(キョウリョウリンジン)です。
 いのちの世界から子供より先にこの世へやってきた母親が子供を優しく導き、一方、父親は厳しく導くようなものです。
 般若菩薩(ハンニャボサツ)と聞いても、あまりピンとこないでしょうが、皆さんになじみの深い『般若心経』は、観音様がこの菩薩様のお心を理解して悟った内容を説いているのです。

 当山が揮(フル)う剣はお不動様の剣です。
 行者自身から離れがたい心の魔ものを切り、同時に、守本尊様と私たちの間で邪魔する魔ものたちを断つ破邪の剣です。
不動明王讃歎経(サンタンキョウ)』には、こう説かれています。

『その形相(ギョウソウ)の恐(おそ)ろしや○されど内(ウチ)なるこの尊の○菩提(サトリ)の心さにあらず○正しき道を歩めども○苦労ばかりで報われぬ○哀れ悲しき人々を○必ず救う慈悲心と○実行力を秘めしこと○信じひたすら帰依(キエ)すべし』


 お不動様の恐ろしさは、強さの顕れです。
 不条理な世の中でいかに追いつめられようと、必ずお救いくださるのです。
 夫婦げんかして妻を殴ろうと思った時に、お不動様の真言が口から流れて拳を解いた方、高速道路でスピンし、車は全損になったのに少しのケガで助かったご信心の方など、ご縁の方々からいただいたありがたいご報告は挙げきれません。
 どうぞ、ご信心を続けてください。
 当山も〈戦わざる日本〉を目ざし、戦いをしかける者に戦わずして勝てるよう、お不動様を信じ、自分を鍛えながらがんばります」




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2014
08.17

ガンからの復帰と瞑想修行

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お盆供養会の後に、「みやぎ四国八十八か所巡り道場」を参拝しました〉

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〈当山近くの八島さんが整備してくださった道場は、参道のどこにも枯れ枝が落ちていませんでした〉

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〈一周500メートル弱ですが、別世界を歩くのはありがたい体験です〉

 お盆の4日間は、たくさんの方々がご来山されました。
 お正月と同じく、「また、お会いできた」ことが本当に嬉しく感じられました。
 せっかく足を運ばれても、でかけていたり、修法中だったりで、お布施やご供物や伝言でお元気であることをお知らせいただく場合が多く、直接お話しできたのは、ほんのわずかな方々だけした。
 皆さんのお心は確かにお受けいたしましたので、ここに、お詫びとお礼を申しあげさせていただきます。

 さて、そうした中で、ガンから復帰したAさんの回顧談には驚きました。
 還暦近いAさんは、病気が発見された時点で末期とされ、大病院でもホスピスを紹介されました。
 もう、回復のための治療法はないと宣言されたのです。
 しかし、気丈なAさんは、自分で克服の可能性を探り、単身、メキシコへ飛びました。
 英語は話せず、何のつてもなく、兄弟にも知らせませんでした。
 アメリカへ「歩いても行ける」ほど国境に近い街にある病院での毎日は、とても「楽しい」ものでした。
 日本では不可能とされた手術が行われ、車のついた点滴の道具をコロコロと自分で引きながら海の見える場所でのんびりしたり、日ごと夜ごと行われるボランティアの演奏やショーを堪能したりと、夢のような闘病生活でした。

 世界中からやってきた〈仲間〉たちと共に過ごしながら回復し、帰国したAさんは、それ以来、留学生などが催す各種の交流会やバザーへ積極的にでかけるようになりました。
 最近、トルコのイスラム教徒から数百円で買った御守は特にお気に入りとのことでしたが、あいにく手元になく、見せてはいただけませんでした。
 とても大病から復帰したとは思えないような溌剌としたご様子で、いろいろなことを学ぼうとしておられます。
  
 Aさんと、よき理解者であるお姉さんとのお話を聴きながら、自分のいのちに正面から向き合った時、不思議にも、自分という枠を超えた大きないのちの世界が観えるのではないかと思えました。
 自分のいのちに〈まつわる〉ことごとに忙殺されているうちは、そもそも、自分のいのち〈そのもの〉がよく観えていなのではないでしょうか。
 こうしたパターンは、瞑想によく似ています。
 自分の心中にある満月のように円満な心に出会う瞑想においては、自分を超えた世界へと心を広げます。
 また、そうすることによって、心中の満月がよく観えるようにもなるのです。

 Aさんは死ぬか生きるかという瀬戸際で心を解放させました。
 いわば、非常時にあって、異次元へと飛翔されたのです。
 瞑想修行は、平常時にあっても飛翔できる修行です。
 瞑想会へ初めて参加した70才のBさんからお聞かせいただいた言葉です。
 「心が軽くなりました」
 平常時に修行しておけば、日常生活を穏やかに過ごせるのはもちろん、非常時にもきっとオタオタしないで済むことだろうと、あらためて教えていただいた一日でした。




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2014
08.16

不戦日本と不殺生 ―お盆の法話―

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〈低い位置で合掌したみ仏が、右手前(導師のいる方向)へ一歩、踏み出しておられるように見えます〉

 今年のお盆において、当山は新たな目標へ一歩踏み出しました。
 「一心祈願不戦日本」として「不戦日本」の語を祈りの中へ入れたからです。

 お釈迦様は、自他の苦を除くための方法としてまず、十のめ『十善(ジュウゼンカイ)』を示しました。
 仏教における「」はインドの言葉で「シーラ」であり、意味は「(よい)習慣」です。
 だから、神様の命令ではなく、罰が当たるからやめなさいということでもありません。
 たとえば、第一番目にある「不殺生」というは、殺生が、人と人との間で生きる人間として自他へ苦をもたらす最も大きな要素であることをきちんと認識し、殺生できない人になってこの世から苦を無くしましょうというお導きです。

 さて、私たちはなぜ、他に対して害意を持ち殺意をも持つのでしょうか?
 そしてなぜ、戦争まで行って他のいのちを奪うのでしょうか?

 原因の一つは、〈自分のいのちは自分だけのもの〉という勘違いにあります。
 たとえば、食べものがなければ生きられないのは、他のいのちを分け与えてもらえねば生きられないということです。
 米のいのちも、野菜のいのちも、肉のいのちも、ありがたくいただいてこそ、今の自分がいます。
 では、夕べ食べたトマトと、今朝食べたキュウリのいのちと、自分のいのちとの関係はどうなっているのでしょう?
 そもそも、自分をこの世に誕生させた父母のいのちと自分のいのちはどういう関係になっているのでしょう?
 また、間接的には、家の中で買われているネコのいのちと飼い主のいのちとはどういう関係になっているのでしょう?
 よく考えてみると、私たちはいのちという大海の水を分けいただき、たまたた、諸条件が調っているために生きているという真実がわかります。
 いのちの大海で生かされているのです。
 こうした観点に立てば、〈自分のいのち〉だけが大切で、他のいのちはどうでもよいということにはならないことがわかるはずです。
 だから、殺人とは、明確に自分を殺すことでもあり、それを知っているはずの人間として行い難く、耐え難いのです。
 たとえ意識しなくとも、行為は取り返しのつかない勘違いに気づかせるので、戦場から帰還した戦士の心は傷つき、狂い、破壊されるのです。

 もう一つの原因は、怒りや憎しみという攻撃的感情にあります。
 憎しみに取り憑かれた自分を冷静に振り返って見ると、憎んでいることそのものが辛いと感じますが、それだけではありません。
 攻撃的行為に走ると、その瞬間は、溜まっていたモヤモヤを吐き出すという爽快感めいた感覚をもたらす場合もあるので厄介です。
 だから、小さな子供が仲間を殴って泣かせた時、親や教師は、自分の身に置き換えさせて「いけません!」と叱ります。
 相手が痛い、悲しい、悔しい、辛いと感じることを想像する心が育てば、歪んだ爽快感に走らない習慣が形成されます。
 まさに、思いやりがシーラすなわち「(よい)習慣」を獲得させるのです。
 大人になれば、自己中心という煩悩(ボンノウ)が周囲のきっかけによって怒りや憎しみを引き起こすことがわかります。
 しかし、真の敵である煩悩は、たやすく克服できません。
 思いやりの心を育て、悪しき意欲を善き意欲へと徐々に転換させてゆく努力をつづけるしかありません。

 こうして考えてみると、人と人との対立も国対国の対立も、共に生きているという真実を忘れ、考え方や国境によって不要なまでに強い分け隔てをするところに発生することがわかります。
 また、人と人との対立も国対国の対立も、自己中心的な怒りや憎しみによって増幅されることがわかります。

 最近、駐仙台大韓民国領事館の李凡淵(イ ボム ヨン)総領事と話をし、韓国の実態を知りました。
 日本では、韓国に対して攻撃的な姿勢で書かれた本がどこの書店にも山積みされ、ベストセラーの常連に名を連ねていますが、韓国ではそれほど激しい反日的現象はなく、村上春樹の小説はベスト10に入るほどです。
 また、反日デモと称されるものは、ほとんどが大使館などの前で行われ、日本の政府や政治に対する反発はあっても、日本人そのものに対する憎しみは韓国人の間で共有されていません。
 一方、日本語と韓国語が世界でも希な〈尊敬語〉を持っているということは文化的に重要な共通点ですが、日本でも韓国でもあまり意識されていません。

 私たちが〈戦争をしない日本〉を保ち続けるために、一人の人間としてどう生きればよいか、社会人としてどうあらねばならないか、よく考えたいものです。
 もう20年も昔になりますが、毎日、托鉢行を行っていた頃、自分は歩くタンポポだと感じたものです。
 一軒一軒と訪ね歩くうちに、いつしか、風に舞うタンポポの種と同じく、仏法がご縁となる方々の心へ届くイメージを持つようになりました。
 8月15日も、本堂いっぱいに集まられた方々のお心へいくつかの種が舞い降りたと信じています。
 不戦日本を目ざしましょう。 




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
08.15

安心感の土台はどこに? ―霊団と感応する時―

2014081500052.jpg
〈河北新報様からお借りして加工した御巣鷹山です〉

 私たちは、死後はどこかへ還って行くというイメージを持ってきました。
 故郷の野山から私たちを見守っておられ、お盆やお正月にはそれぞれの家にやってきて子孫たちと共に過ごします。
 そうした年月をくり返すうちに、個別の仏様は祖霊という大きな霊団へとけ込み、この世へ転生する方々もおられれば、神の世界へと高まって行く方々もおられます。
 祖霊は家の霊団であると共に、国家的霊団にも連なっています。
 こうした共通の感覚があってこそ、日本の神道と仏教が生きてきました。
 宗教的教義がまずあって、それに生活を合わせてきたのではないところに、日本人の融通無碍(ユウズウムゲ)な宗教的感覚が培われてきたのではないでしょうか。
 共通の根を持っている私たちは、祈り方にこだわったり、争ったりはしないのです。

 8月14日付の産経新聞は、太平洋戦争の敗戦が目前に迫った時、すでに70才を過ぎていた民俗学者柳田国男が語った一言を紹介しました。
「いよいよ働かねばならぬ世になりぬ」
 戦争でいのちを落とした若者たちは、自分のいのちを失っただけでなく、親をあの世へ送り祖霊を祀る者としての役割も果たせなくなったからです。
 そして、死ねば祖霊になって子孫を見守り、子孫は祖霊に見守られているという感覚こそが日本人の持つ安心感を支えていると確信しました。
 実に、お正月とお盆は、故郷へ帰ることによって安心感をリフレッシュするかけがえのない時期なのです。

 昭和60年8月12日、群馬県の御巣鷹山へジャンボジェットが墜落し、520名もの方々がいのちを落としました。
 今年もご遺族は山に登り慰霊祭を行いました。
 マクソニックの小林社長も犠牲者の一人です。
 社長の死によって、世界に通用する日本のスピーカー作りは頓挫したように見受けられます。
 ご遺族は山へ登り、私はスピーカーに耳をかたむけました。

 私たちは、おりおりにの行方を想います。
 悲しみや淋しさや空しさや悔しさといった感情の波がおさまった先に訪れる静謐(セイヒツ…おちついて穏やかな静けさ)な時間は、きっと、心の穢れを取り除いてくれることでしょう。
 清らかな霊性が霊団と感応しているに違いありません。
 かけがえのない時期を心して過ごしたいものです。
 



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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2014
08.14

どうして般若心経には「無」がたくさん出てくるのでしょうか? ―二重の真理―

201408140001.jpg
寺子屋『法楽舘』において「懺悔救い」のお話をしました〉

201407140005.jpg
〈「懺悔救い」のテキストをA5版の小冊子にしtました。ご希望の方へお送りしています〉

 寺子屋でご質問がありました。
「般若心経には、『』という文字が『い』という意味で、17回も使われています。
 一方、『』は7回で『不』の8回よりも少ないんです。
 しかも『苦』に至っては、たったの2回。
 それなのに、苦を克服できるの経典とされているのはなぜですか?」
 確かにそうです。
 まるで「」を説いているかのようです。
 では、ここで説く「い」とはどういう意味でしょうか?

 最初に出てくるのは「色(ムシキ)」です。
 仏教語としての色は、形あるモノを意味します。
 自分の身体も、パソコンも、ネコも、家も皆、色です。
 つねれば痛いし、お腹がすくし、目や耳もあって生きているのに、自分の身体という〈色〉が〈〉いと言われてもとうてい信じられません。
 ではなぜ、み仏は「無い」と説かれたのか?

 それは、「非日常的で究極的なレベルから観れば無い」ということです。
 逆に言えば「日常的で一般的なレベルから観れば有る」ので、つねって痛いから身体は有ると考えてまったく問題はなく、般若心経はそのことを否定しているのではありません。
 私たち凡夫の目に映るこの世と、み仏の目に映るこの世とは、違って観えているのです。

 そして、凡夫の目で生きている私たちは、み仏の目から観て究極的には〈無い〉ものにすがり、頼っているので、結局は、ここでも、あそこでも、〈ままならない〉状況が生まれてしまいます。
 それが〈苦〉です。
 だから、せめて、苦に押し潰されそうになった時は、み仏の目でこの世を観察しなおしたいものです。
 では、どうすれば〈み仏の目〉になれるか?
 般若心経の教えに触れるのも、考えるのも、写経するのも、経典や真言を読誦(ドクジュ)するのも、瞑想するのも、お詣りするのも、すべては、〈み仏体験〉につながります。
 実践がなければ、体験はできません。
 ご先祖様を想うお盆は貴重なチャンスです!
 
 こうした真理の二重性を説いたのが、大乗仏教の中観派(チュウガンハ)と呼ばれる聖者の方々です。
 昨日も今日も同じ身体があり、同じ自分がいるのは事実なのだから、昨日行った約束を今日はきちんと守りましょうというのが、「世俗真理」に立った考え方であり、ここをきちんとしてこそ、まっとうな日常生活が送られます。
 昨日も今日も同じ身体があり、同じ自分がいて、家もお金もあると思っても、それは諸条件がたまたま調っている〈仮そめの〉状態に過ぎないのだから、いつ、何がどうなっても大丈夫なように、悪行には早く始末をつけ、モノ金にすがらず善行にいそしみましょうというのが、「究極の真理」に立った考え方であり、そうして生きていれば、不安や迷いの少ない人生を送られます。

 お釈迦様は、相手に応じて「世俗真理」によっても救い、「究極の真理」によっても救われました。
 お釈迦様が入滅してから約700年後に真理の二重性が整理され、中観派(チュウガンハ)が成立しました。
 そこで、「あらゆるものは何かとの関係性の中で仮そめに有り、その何かも、つきつめて行けばそれ自体で有るのではなく、それ自体で単独に有るものは何もない」という(クウ)の思想が確立しました。
 それから約1800年かけて二重性はさらに整理され、究極の真理も深められつつあります。
 ダライ・ラマ法王が説かれるように、仏教という宗教は、科学の方法とよく似たやり方をもって進んで来たのです。

 こんな視点も持ちながら、至心に般若心経を読んでみましょう。
 きっと、これまでよりもスッと心へ入ることでしょう。




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2014
08.13

「とらわれるな」だけではわからない ―お盆には無我を考えよう―

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 よく「仏教は、とらわれるな、って教えているんですよね」というお話を耳にします。
 皆さんは「そうか、とらわれなければいいんだ」で一件落着となりますか?

 いったい何にとらわれてはならないのか?
 それはなぜなのか?

1 自分にとらわれるのは勘違い

 私たちは、自分がいると思っています。
 普段は、確かにそうです。
 しかし、何かのおりに、「自分は何か?」と考えてみると、わからなくなります。
 それをつきつめた天才は、5つの要素を発見しました。

・色(シキ)…まず、モノとしての身体があります。
・受(ジュ)…感受作用があります。
・想(ソウ)…思い起こす想起の作用があります。
・行(ギョウ)…こうしようと意志する作用があります。
・識(シキ)…そして、自分がいる、と認識する作用があります。

 この5つを五蘊(ゴウン)と言います。
 そして、五蘊がどれ一つとして欠けずに、うまくまとまっているからこそ、こうしていられるので、そのことを仮和合(ケワゴウ)つまり仮そめの和合と言います。
 仮そめの状態を「(クウ)」といいます。
 何かの拍子にどれかが欠ければ、たちまち、自分は、こうしてはいられません。
 何かが5つを強固にまとめていて、いつまでもいられる人はいません。
 つまり、確固たる我は仮そめ、すなわちなのです。
 このことを「人無我(ニンムガ)」と言います。

 さらによく考えてみると、色・受・想・行・識それぞれも、でしかありません。
 このことを「法無我(ホウムガ)」と言います。

 二つの無我は、自分だけにあてはまるのではありません。
 家族にも友人にも、愛する人にも、憎む相手にもあてはまるのです。

 こうして、法無我人無我を理解すれば、自分を客観的に観られるようになり、狭い自我意識は遠ざかるはずです。
 幻の自分にすがるのは、蜃気楼をつかもうとするようなものでしかないのです。

2 自分も周囲の人々も等しくであると認識できないので、が生じる

 この世がままならないのは、お互いが自己中心的に生きているからです。
 自己中心とは我(ガ)が強いということであり、それは、我がであると知らないから起こる態度です。
 自分がであるとよく認識できれば、自己中心的意識は必ず薄れます。
 憎い相手が空であるとイメージできれば、憎しみは必ず薄れます。
 好きな人が空であるとイメージできれば、自己中心的な執着心は必ず薄れ、大切にしたいという思いやりが必ず大きくなります。
 こうして、ままならなさという本質的な〈〉は自分から遠ざかり、社会からも消えて行くはずです。

3 結論

 とらわれてはならない(とらわれても仕方がない)対象はまず、自己中心を招く自我意識です。
 なぜかといえば、お互いに空という真理を知らず、自己中心的に角張って生きているために、あらゆるを生じているからです。
 皆さんになじみの深い『般若心経』は、人無我(ニンムガ)と法無我(ホウムガ)を説いているので、ずうっと大切にされてきました。
 せっかくお盆になったのですから、こんなことも頭の隅において、般若心経をどうぞ、お唱えください。




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2014
08.12

お盆でお寺に行く時に考えておきたいこと ―帰依(キエ)とは何か?―

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〈金魚の子とタナゴです〉

 どこのお寺の法会でも、必ず最初に、「仏に帰依(キエ)します」「法に帰依します」「僧に帰依します」とお唱えすることでしょう。
 み仏であるご本尊様と、その教えと救いのお力と、それを守っている人々とを三宝(サンボウ)といい、三宝帰依すればもう立派な仏教徒と言えます。
 言い換えれば、仏教徒とは三宝帰依する人です。

 帰依とは、「拠り所とする」という意味です。
 映画などで、窮地に陥った人が「南無三(ナムサン)!」と口走る場面を目にしますが、これは「南無三宝」の略です。
 そして、南無はインドの言葉であるナマス、ナモーの音写で、敬意を表し礼拝することであり、帰依の同義語でもあります。
 だから、仏神のご加護が欲しい場面で、思わず、呪文のように唱えてしまうのです。

 さて、帰依する時に大切なのは、漫然と目の前のお像を拝んだり、教えられた言葉を唱えたりすることではありません。
 それはあくまでも〈入り口〉です。
 ご本尊様をよく観て合掌し、目を閉じたまま網膜にそれが浮かんだ状態を保っていると、だんだん、清らかな気持になります。
 真言などを唱えると、さらに一段と、澄んで深い湖になったような静かで、波立たない状態になります。
 自分の心におられるみ仏の清浄な心が動き出しているからです。
 これを仏性(ブッショウ)、あるいは霊性(レイセイ)とも言いますが、真の拠り所をここに定めることが大切です。

 また、弥勒菩薩(ミロクボサツ)様は、真の帰依について三つのポイントを説かれました。

1 あらゆるもののために役立ちたいという心

 私たちはよく「自己実現」と言いますが、自分という特殊な〈種〉のようなものがどこかにあるわけではありません。
 人と人との間にある人間として、自分が置かれた立場なりに、自分のできることを行っていれば、いつしか〈自分〉は現れます。
 役割を果たす、役立つ、といったことがなければ、〈虚〉でない〈実〉の人生は生きられません。
 役立つとは、モノ金ではなく、誠実さの問題です。
 たとえ介護されていようとも、人間としての矜恃を保ち、感謝を気持を表現できれば、立派に〈実〉の人生を生きていると言えましょう。
 そのように、「誠実でありたい」と願いつつ帰依したいものです。

2 役立つために煩悩(ボンノウ)を離れ、悟りを開こうとする心

 自分を省みて懺悔(サンゲ)する時、いかに周囲のおかげでここまで生きてこられたかが、身に沁みてわかります。
 周囲から思いをいただき、言葉をいただき、モノもいただきながら生かされてきたのです。
 そして、「ああ、ありがたい」と感謝すれば、「このままではいられない」と報恩の気持が起こることでしょう。
 しかし、〈こんな自分〉のままでは、人間としてろくなことができません。
 だから、自分の愚かさや汚れや穢れをなくしたくなります。
 こうして「脱皮したい」と願いつつ帰依したいものです。

3 自分を変えるためにはどうすればよいかと探求する心

 仏教は、道理で考え、思いやりを行動の根本におく教えです。
 智慧と慈悲に生きる方法を学び実践しつつ歩むのが仏道です。
 ここには迷いを断つ知性のはたらきを高め、人や社会や自然と感応する感性を高めるための扉が用意されています。
 しかも、扉の向こうは全くの別世界ではありません。
 たとえてみれば自分に合ったメガネをかけるようなもので、この世このままながら、よりクリアに見え、より生き生きした人間関係がもたらされます。
 誠実でありたい、脱皮したいのならば、方法を求めたくなるはずですから、すなおに学んでみてはいかがでしょうか。。

 仏教は、「まず、信じよ」ではありません。
 スタートの帰依においても、このように納得と理解があって欲しいものです。
 せっかくお寺に足をはこび、一緒に「帰依仏(キエブツ)」と唱えるのならば、こうしたことごとを頭の隅においてやってみましょう。
 必ず、心のどこかが、何かが変わり、清々しいそよ風を感じられることでしょう。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2014
08.11

本当に大切なものは何か? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(45)─

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〈この夏最後の護摩法を終えました。もう、秋です〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマの謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○最後のダライ・ラマになる覚悟はある

「私自身、ダライ・ラマ個人として、私自身の未来には何ら関心はない。
 ダライ・ラマという制度にも関心はない。
 ダライ・ラマという制度は人が創り出したものでしかない。
 長い年月、人々はダライ・ラマという制度になんらかの有効性を認めてきたというだけのことである。
 だからこそ、この制度は生き残ってきた。」


 ここにある「ダライ・ラマという制度」を「檀家制度」に置き換えると、そのまま当山の姿勢と重なる。
 弊害が顕著になった制度そのものにすがってはいられない。
 だから、当山は、「脱『檀家』宣言」を行い、仏教の根幹である布施の根本的意義を社会へ訴えた。
 これが見失われれば慈悲の実践はなくなり、人の心は荒み、自己中心が心の王となる。

「もし、人々がダライ・ラマの制度が過去の遺物となり、時代にそぐわないと判断すれば、それはそれでいい。
 自動的にこの制度は消滅するだろう。
 私はその存続にいかなる努力もする意志を持たない。
 もし、私のこの生命があと数十年ばかり続き、もし、人々がダライ・ラマの制度を不必要と感じるようになったなら、それはそれまでのことである。」


 当山も檀家「制度」がどうなろうと関心はない。
 大切なのは、檀家つまり「ダーナ」という自主的で清浄な「布施」の心が失われず、自分本位の邪心を清める奉仕の精神と行動が人間界から失われぬことのみである。
 そのためには、なによりもまず、僧侶自身が法施(ホウセ)という法の布施に徹して生きねばならない。
 と言うよりも、そうして菩薩(ボサツ)になるための修行道を歩む以外、僧侶としての生き方はない。
 また、僧侶が本来の行者として生きる時、初めて、娑婆の方々は本来の〈檀家さん〉となり、営利活動を行わない寺院の存続をさまざまな形で支えてくださることだろう。

「私は最後のダライ・ラマとなることに、いかほどの痛痒も覚えないだろう。
 私は一個の仏教徒であるのみだ。」


 当山も又、檀家制度にすがる寺院であることを望みはしない。
 住職という一個人は当然、一人の仏教徒であり、檀信徒の方々と何ら変わるものではない。
 そして、仏教徒ではない方も含むサポーターの方々すべてと共に悲しみ、共に苦しみ、共に喜びつつ、この世の幸せとあの世の安心を目ざして進みたい。

「人間は本来すばらしい知性と情感を有している。
 このふたつが相携えて働くなら、正しい方向に向かって進むなら、人類愛や慈悲心がそこには湧き出てくるはずである。
 本当に大切なことはそれだけだ。」


 知性とは、道理をもって考える力である。
 情感とは、天地万物と感応する力である。
 二つがきちんとはたらく環境世界であって欲しい。
 そうした環境世界をつくりたい。
 つくれるよう、知性と情感の二つを錆び付かせず、磨き続けたい。
 そうすれば、悪しき結果をもたらす個人的悪業(アクゴウ)も、社会へ悪しき結果をもたらす共業(グウゴウ)としての悪業(アクゴウ)も消えて行くことだろう。

 最後に、寺子屋で行われた無宗教と称するAさんとの対話を記しておきたい。
「私も仏教が説く因果応報は理解できます。
 しかし、たとえば、沈没した韓国のセウォル号に乗り合わせていて亡くなった教師や生徒は、いかなる因果の報いだと言えるのでしょうか?
 神がそうさせたとは思えない一方で、犠牲者の因果応報とも考えられないのです」
 お答えした。
「そこが社会的な共業(グウゴウ)の恐ろしく、抗しがたいところです。
 事件が起こるまで、セウォル号のあのような航行を許す社会が積んできた悪業(アクゴウ)は隠れていました。
 だから、セウォル号を避けるという判断はできませんでした。
 共業(グウゴウ)の前では、個人的営みはあまりに無力と思えるかも知れません。
 しかし、たとえば航路を変えにくい巨大な艦船でも、誰かが舵をきれば、必ず舳先(ヘサキ)の向きを変えられます。
 また、このままではいけないと気づいた誰かが舵をきる行為に着手しない限り、向きは変わりません。
 私たちがよい行いを実践することも、悪い行いから遠ざかることも、知ることも、知らないでいることも、無関心でいることも、すべてが、個人的な業(ゴウ)をつくり、同時に、共業(グウゴウ)もつくっています。
 私たちが悪しき共業(グウゴウ)にやられず、被害者や犠牲者を出さぬためには、それが隠れている時点でいち早く見つけ、自分ができることによって、かかわらねばなりません。
 共に、自分を見つめ、社会を見つめながら、やりましょう」

 以上で、「ダライ・ラマ『の謎』を説く」を読み終わります。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2014
08.10

お盆供養の申込み

 ただ今、当山ではお盆供養の申込みを受けつけています。
 ご先祖様がない方は一人もおられません。
 年に一度の機会にしっかりご供養してはいかがでしょうか?
 詳しい内容はこちらからどうぞ。
 ◇ご希望の方は、申込書を印刷してFAXしてください。
 もしくは、メールにてお申し込みの方はこちらからどうぞ。
2014
08.10

仏教は「まず信じよ」ではない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(44)─

20140809001232.jpg
〈数百キロも遠くからご参拝にこられた方のお土産である。この「屈託のなさ」はどこへ行ったのか?寺子屋『法楽舘』の冒頭で皆さんと話し合った〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマの謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○仏教は、帰依心よりも思考を大切にする

「仏教の悟りを求める方法や、物事への取組み、思考法は、ときとして近代科学のそれとひじょうに近い立場を採用することもある。」


 ダライ・ラマ法王が、科学界のプロたちと議論を重ねてこられたことは周知の事実である。
 しかも、開かれた場において。
 宗教が、宗教家や宗教団体のためでなく、真に万人のためになるものならば、こうしたことは当然と言える。

「基本的に仏教は、帰依(キエ)心よりも事実、事象の上に思考を巡らせることを大切にするからだ。
 これは仏陀ご自身が説かれていることである。
 もし自らが探求して仏陀自身の教えの中に矛盾があると思うなら、自らの方法に従え、と仏陀は説かれている。」


 仏教は、「すがれば救われる」とは説かない。
 基本的には「こういうものの見方をすれば、真実真理に迫り得るかも知れない」と示唆するのである。
 それが、悩み、苦しんでいる人それぞれなりの突破口になればそれでよいのである。
 だから、仏教によって救われる道筋はこうである。
 聴き、考え、納得してやってみたら光が見つかった。
 もちろん、半信半疑から始まる場合もあるだろう。
 いずれにしても、思考停止を求めるならば、仏教ではない。

「仏陀は自らの教えを批判する権利を弟子たちに与えられたのである。
 これは科学的と呼ぶに値する。」


 当山では拝み方などを強制しないし、はっきり無宗教と言う方々も、納得してご縁を結ばれている。
 そして、批判も大歓迎である。
 だから、お骨を移動しようとして相談に行ったらさんざん怒鳴られたなどという話は信じがたい。
 仏教は、それぞれがそれぞれなりに真の解放を得ることをもって、個人的には完結する。
 そのためにこそ道理をもって考え、道理によって議論する。
 まさに「科学的」なのである。

「ある高名な科学者にして無神論者が、私自身に語ったことがある。
 彼はたいへんすばらしい無神論者であるのだが、宗教論議の中で、こう言った。
 もし、いずれかひとつの宗教を選ばなければならないとしたら、彼にとっては仏教になるだろうと。
 彼だけではない。
 他の多くの科学者がそのように語るのを聞いている。
 これは、仏教の思考法に科学的なそれと相通じるところがあるからだと、私は理解している。」


 当山も、寺子屋へ科学者をお招きし、役員にも科学者がおられる。
 宗教的信念や宗教行為を科学の目から判断していただくことは、とても大切であると考えている。

「知性によって生きる人たちが仏教を評価するのは、仏教が本来、理性と実験を重んじるものであったはずだからだ。
 特に初期の仏教はそのようなものであったはずである。
 ただ、すべての仏教徒個人が、仏陀の行いを踏襲することができるはずもなく、当然、残された経典に頼ることになる。
 長い歴史の中では、これもまた当然だが、初期の仏陀精神は失われてしまいがちになる。」


 今でもチベット仏教では、修行者同士の論議が正式な修行である。
 映画『チベット チベット』で観た真剣勝負の場面は忘れられない。
 それだけに、中国政府が、「チベットの寺院は守られている」として同じような場面を公開した時、欺瞞であることはすぐにわかった。
 僧侶たちは皆、笑顔であり、あるいは腑抜けだったからである。

「たとえば、チベットの僧院の中で、多くの僧侶たちが仏教の本質を見失い、生きるための方便として僧侶としてありつづける、そんな姿をさらしている。
 チベットばかりではないだろう。
 多分、日本においても、多くの寺院には知性の抑圧が見られるだろうし、知識を食い物にしている僧侶がいるだろう。
 稼ぎの方法として、人間のを食い物にする者もいるはずだ。
 これらは、ダルマに悪しき印象を及ぼしかねない困った事柄である。」


 耳に痛い指摘である。
 お釈迦様やお大師様と同じように、生き方に悩む方々や、身近な人のに悲しむ方々にとって必要とされる聖職者でありたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
08.09

秋立つや皆在ることに泪して ―俳人の泪―

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〈酷暑の中で草刈りをしてくださる方〉

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〈彼はなぜ、水面に浮かぶ葉の上に乗ったのか〉

 暑い暑いと言っているうちに、立秋となった。
 当山のあたりでは、草も車も朝露に濡れ、虫たちの声が天地を満たしている。

「秋立つや皆在ることにして」

 明治から平成にかけて、4代を生きた永田耕衣の作である。
 秋立つ時期は、不思議に来(コ)し方をふり返りたくなる。
 耕衣は、ふり返ろうとした瞬間、〈〉現在、ここに〈生きて在る〉ことに衝撃を受けたのだろう。
 しかも、人々と共に在る……。
 〈〉は完ぺきである。
 過もなく、不足もない。
 机があり、ネコが寝ていて、カラスが鳴いている。
 身体のあちこちが傷み、記憶力は落ちかけ、友と会う機会も減ったが、そのままに生きて在る。
 自分を含め、皆が在るとは何というありがたいことか。
 いつの時代の〈〉も、全体として直感できる時、同じ〈〉を誘う。

 それにしても、世界中で流されているは、耕衣のとあまりにも隔たっている。
 赤十字の施設に逃れていてすら爆撃され、家族を失い、友人を失い、家を失い、傷ついたパレスチナの人々。
 国境も無視して一神教と暴力による支配を目ざすイスラム原理主義勢力に追われ、酷暑の山岳地帯へ逃れるイラク北部の人々。
 医師たちまでもがエボラ出血熱に冒され、病魔と死魔の猛威にさらされているギニアの人々。
 最近の祈りには二つを欠かさない。
「一心祈願不戦日本」
「一心祈願世界平和
 日午後からの寺子屋でも、皆さんと一緒に唱えたい。

 耕衣はこうも詠んだ。

「死螢に照らしをかける螢かな」

 先に逝ったホタルのすぐそばで、ホタルが光っている。
 生者死者を意図して照らすのか。
 耕衣は実際にこの情景を観たのか?
 それとも、幻影だったのか?
 いずれにしても、あまりのリアリティーにたじろがされる。
 この句を読んだ瞬間、なぜか、脳内スクリーンの左下に横たわったホタル、右上に光るホタルが出現した。
 しかも、まるで自分がかつて観た光景のように鮮やかだったのはなぜだろうか。
 こうして書いているも、同じ構図が頭にある。
 一枚の写真のように。
 耕衣のリアルと私のリアルは重なっているのかも知れない。

 それにしても、「死」と「照らしをかける螢」とは、まさに写真の中で等価であるように、二者で一つのシーンを構成している。
 息をする耕衣も、歩く耕衣も、詠む耕衣も、このシーン中の人物だったのではないか。
 詠む者と詠まれた世界が一つになっている。
 冒頭のは、そこで流されたのだろう。




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2014
08.08

『アナと雪の女王』に思う 

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〈オラフ〉

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〈民主主義とは〉

アナと雪の女王』は、世代を超えた共感が集まる要素をたくさん持った作品である。

1 自分で制御できないほど強い〈周囲を凍らせる資質〉に悩む人間の、他人から遠ざかろうとする哀しみ

 自分の資質を他人に話せばどうにかなるわけでもなく、いちいち言い訳をしてもいられなければ、自分を隠し、人間関係から身を引くしかない。
 こうして悶々と暮らす13年間を経て、ついに社交の場へ登場した女王は、案の定、実態を知らない妹のアナと諍いを起こし、心ならずも凍らせる能力を解き放ってしまい、夏の村を氷で閉ざしたまま、一人で高山へ逃げ込む。
 人の世には、話せぬ事情というものがあり、人知れず苦しんでいる人は、そこにもかしこにもいる。

 こうして山上に建てた氷の城でたった一人の生活へ入った女王は、ようやく、誰はばかることなく、〈素のままの自分〉として生きられる喜びを唄う。
レット・イット・ゴー』である。

「戸惑い傷つき
 誰にも打ち明けずに
 悩んでたそれももう
 やめよう

 ありのままの 姿見せるのよ
 ありのままの 自分になるの
 何も恐くない
 風よ吹け
 少しも寒くないわ

 悩んでたことが嘘みたいね
 だってもう自由よ
 何でも出来る

 どこまでやれるか
 自分を試したいの
 そうよ変わるのよ 私

 ありのままで 空へ風に乗って
 ありのままで 飛び出してみるよ
 二度と涙は 流さないわ」

 たった〈一人ぼっちの自由〉は、あまりに切ない。
 ここには、人の世の本質的な哀しみがある。

2 理由もわからぬままに心が通じなくなった姉と氷の村を救おうと難関を乗りこえる妹アナの健気(ケナゲ)さ

 艱難辛苦に耐え、常に前向きでいられる人も、世の中にはおられる。
 こうした人は、多くの場合、自分のこと以外に、自分をかけられるものを持っている。
 そして、その志や頑張りに共鳴し、手を貸す人が現れる。
 アナほどではなくても、あの大震災に負けなかった方々とたくさん、お会いしてきた。
 困難によって常ならぬ力を発揮した方、どうにか崩れなかった方、ようやく立ち直った方、ヒマワリが陽光の方を向くように生きておられる方々は皆、心の〈アナ〉と共にいる。
 もちろん、中には、〈アナ〉が疲れ果て、一休みを続けたままの方々もおられる。
 自分には〈アナ〉がいないと思っている方もおられることだろう。
 しかし、最後には、身を挺して悪漢ハンス・ウェスターガードから姉を守ろうとしたアナのどこまでも無邪気な健気さは、多くの共鳴を呼んだのではなかろうか。

3 アナを救うために嵐へ突っこんで行く山男クリストフとトナカイのスヴェンが見せた底力

 城に起こった異変を察知し、アナを救おうと突っ走るくクリストフとスヴェンにも力が入った。
 誰かを本気で守ろうとする者は強く、美しい。

 話は変わるが、京都大学教授佐伯啓思氏はこう述べている。
「主権者が国民ならば国民が自らの手によって彼ら自身の生命財産を守らねばならない。
 これが道理というものであろう。
 とすれば、民主主義では国民皆兵が原則なのである。
 もちろん、具体的にはさまざまな形がありうる。
 しかし、『理念』としてはそうなる。」
「本当に重要なのは『誰が国を守るのか』という原則論にこそあるのではなかろうか。」
 民主主義とは、主権者が国民であるという考え方である。
 主権者の第一の役割は、国民の生命と財産を守ることにある。
 だから、民主主義者を主張するならば、自分たちの国を自分たちで守る、つまり、国を守るために自分の身を呈するという覚悟とセットでなければならない。
 つまり、いざという時は〈姉を守ろうとしたアナ〉になろうとする覚悟がなければ、民主主義を主張できない。
 もちろん、佐伯教授の言うとおり「具体的にはさまざまな形がありうる」だろうが、少なくとも、心では、あの天安門事件の際にたった一人で戦車を止めようとした青年をイメージできていなければならない。

 いささか、脱線したが、クリストフとスヴェンには涙する思いだった。

4 雪だるまオラフの献身

 普通の雪だるまが、突然、変化し、氷に閉ざされた人々が願う夏への回帰を自分の願いとし、アナたちへ協力する。
 夏になれば、自分が消滅することを知っているのに……。
 願いが果たされ、融けようとするオラフが女王の魔法によって融けずに済んだシーンは忘れられない。

5 愛は他の人への思いやりである

 どうにもならぬところを突破させるのは、思いやる心である。
 思いやる心が重なり合い、把になり、事態を転換させ、人々を救った。

 ところで、NHKテレビが報じた羽生結弦選手の優勝インタビューには驚嘆した。
 世界一になった直後、彼には笑顔もなく、「被災地のために自分は何ができたのか。何もできていないと思う」と述べた。
 このたび『花は咲く』に合わせた新しいスケート演技が完成した。
 途中経過にも驚嘆し、日本語が芸術となって行く現場に安堵もした。
 羽生選手も、振り付け師の阿部奈々美氏も、唄った指田郁也氏も、心から〈歌詞の体現と実現〉を求めていた。
 羽生選手もスタッフの方々も、全身全霊をかけて「花は咲く」世界を表現し、復興が「花は咲く」ように実現して欲しいとひたすら、願っていた。

 長くなったが『アナと雪の女王』は、老若男女を問わず、一人でも多くの方々に観ていただき、語り合っていただきたいと願ってやまない。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2014
08.07

900年前の懺悔に思う ―現代の懺悔は?―

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 今から約900年の昔、僧侶の堕落を正そうとして1446日も無言の行を通し、懺悔する章を書いた宗教的天才がおられた。
 後に興教大師(コウギョウダイシ)と呼ばれるようになった真言宗中興の祖、覚鑁(カクバン)上人である。
 当時、高野山のトップにあり、鳥羽上皇の行幸を仰ぐほどの大事業を行っていながら、「自分自身を含めて懺悔します」という章をご本尊様へ捧げられた。
 初めてこの章に接した時の衝撃は忘れられない。
 最近、強く懺悔する清浄な心を持った方とのご縁があり、出家した当時を思い出し、今を省みながら、あらためて平易な訳を書いてみた。

密厳院(ミツゴンイン)発露(ホツロ)懺悔(サンゲ)の

 私たちは自らの罪を明かし、許されることを願います。
 遥か遠い昔から今に至るまで、真実に背いた自分本位の虚しい想念につきまとわれて多くの罪をつくってきました。
 身体と言葉と心は、いつも真理に背き自分本位ではたらき、誤って計り知れないほどたくさんの悪しき因縁をつくってきました。」


 弟子たちの堕落を正したいのに、「私たち」と言う。
 ここが最も肝腎なところである。
 悪行に走る当人を直接、責めるのではなく、人間というもの、僧侶というもの全体として自分を含め、心より懺悔する。
 誰かを叩けばよいのではない。
 もちろん、自分だけがやっているわけではないのに、と居直るなど論外である。
 この世を何とかしたいのなら、自分だけを仏神の座におくことなどできはしない。

「すばらしい財産があっても惜しんで施さず、思いのままに好き放題を行い、み仏の戒めを守ろうとしません。
 しばしば怒り憎んでは、屈辱を我慢できず、善行を実践せず、悪行を断とうともせずに怠け、励まず、努力を続けようとしません。
 心が散り散りに乱れ定まらないままで、瞑想修行にいそしまず、真実のありように背いて、悟りの智慧を修めようとしません。
 常に、理想の彼岸に到達する布施・持戒・忍辱(ニンニク)・精進・禅定(ゼンジョウ)・智慧の修行を怠り、反対に、迷い続けて地獄・餓鬼・畜生などの苦にまみれた世界で輪廻(リンネ)する因縁をつくります。」


 僧侶は菩薩(ボサツ)を目ざす者であり、修行の基本は、布施や持戒などの六波羅蜜(ロッパラミツ)である。
 それができていないという。
 我々は僧侶に値しないと指摘しているに等しい。
 すさまじい懺悔である。

「出家者である比丘(ビク)とは名ばかりで、実態は寺院を穢し、遊行(ユギョウ)しつつ修行につとめる沙門(シャモン)とは形ばかりで、実態は偽ったままに信者の施しを受けます。
 授けられた数々の戒律を忘れて自ら謹もうとせず、学ぶべき共同生活上の決まりごとを捨て去って、よき共同生活をつくろうとしません。
 諸仏が厭(イト)い、嫌いたまう状態になったままで恥じず、菩薩(ボサツ)が苦しみ悩まれたまう状態のままで畏れもしません。」


 覚鑁(カクバン)上人のおられた平安時代における僧侶の社会的地位は、現代と比べものにならない。
 あぐらをかく者が続出したことも想像できる。 
 遥か昔、紀元前に、お釈迦様は説かれている。
「髪を剃り、修行者らしい身なりになったとて、心が穢れたままでは真の出家者ではない」

「遊び戯れ、笑いさざめいて無益(ムエキ)に年をとり、他人にへつらい、他を偽り、欺(ダマ)して虚しく日を過ごします。
 仏法を学ぶ善き友と共に進まず、愚かな人に親しみ、善き結果をもたらす原因となる行為にいそしまず、悪しき行為を重ねます。
 自分の利益をはかって自ら徳を讃え、名誉や評判が欲しいばかりに、他人の愚かさを誹(ソシ)ります。
 勝れた徳のある人を見ては嫉妬し、卑しく貧しい人を見ては驕(オゴ)り高ぶります。
 富み栄えている話を聞いては、自分もあやかりたいと願い、貧乏に苦しんでいる人々に対しては、厭い離れようとします。」


 これではもう、出家者とは言えない。

「故意に、あるいは意図せずに殺生(セッショウ)し、いのちある者からいのちを奪い、表立って、あるいは密かに他人の財物を奪い取ります。
 異性に触れても、触れなくても、清浄な心持を穢し、言葉の四つのはたらきと、心の三つのはたらきとが、それぞれ妄語、綺語(キゴ)、悪口(アック)、両舌(リョウゼツ)、慳貪(ケンドン)、瞋恚(シンニ)、邪見(ジャケン)のまま続いてゆきます。
 み仏を観じ念ずる時は心が他の対象に移って定まらず、経典を読誦(ドクジュ)する時は経の言葉を間違えます。
 もし、善き行為をなせば、善き結果をもたらすであろうと執着の心を持ち、かえって、果てしなく生死(ショウジ)をくり返し苦界を彷徨(サマヨ)う原因となるだけです。」


 不殺生や不偸盗(フチュウトウ)など、苦を逃れるための根本的生き方としてお釈迦様が示された十善戒すら、守られていないのでは、出家者としてどうこうという以前のところで崩れている。
 

「行住坐臥(ギョウジュウザガ)の立ち居振る舞いのすべてにおいて、自分が気づこうと気づくまいと、絶えず犯しているところの、このような計り知れないほどの罪障(ザイショウ)を、今、仏法僧(ブッポウソウ)の三宝(サンボウ)に対して皆、告白したてまつります。
 どうか、諸菩薩(ボサツ)は慈悲を垂れ、哀れみ、これらの罪障を取り除きたまえ。
 皆、残らず告白し、残らず懺悔(サンゲ)したてまつります。
 そして、この全ての世のあらゆる生きとし生けるものが、身体・言葉・心の真理に背いたはたらきによって、悪しき結果をもたらす原因となるものを積み重ね、因果応報の理がもたらしたこのような罪障を、私は皆、生きとし生けるものに成り代わり、残らず懺悔(サンゲ)したてまつります。
 新たにまた、生きとし生けるものへ、罪障の報いを受けしめぬよう。」


 上記の状態は、僧侶全体の問題であり、人間全体の問題であり、生きとし生けるもの全体の問題でもある。
 生きとし生けるものの一員として、一人の人間として、一介の行者として、自分自身が懺悔するから、ぜひ、皆をお救いいただきたいと念じておられる。

 さて、今年の8月6日は、広島に原爆が落とされてから69年目となったが、核弾頭は今も1万6千発以上あることが確認されており、9割はアメリカとロシアが保持している。
 日本が原発を輸出することに関し、避難自治体の一つである福島県川内村の遠藤雄幸村長は述懐した。
「この国では私たちより経済が優先だ。
 多くの人が故郷を汚され、地域のつながりを失った。
 原発をやめるのにそれ以上の理由は必要なのだろうか」
 広島の人々、福島の人々が流す涙は〈他人ごと〉なのか?
 私たちは今、自分自身の問題として、人間界の一員として、何を懺悔せねばならないのか……。
 何を願わないではいられないのか……。
 懺悔なく、願いもないままに、よき未来は創られるだろうか。




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2014
08.06

人はその人なりの必然性をもって生きている ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(43)─

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 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○個々の立場の違いを尊重した仏陀

「仏教は布教に熱心であるとは言い難い。
 もちろん活発な布教活動を行っている宗派もあることはあるが、仏教全体で見るかぎり、他の大宗教ほどの布教を行っているようには見えない。
 歴史的には大がかりな布教活動がなかったわけではない。
 たとえば、古代インドのアショカ王は布教のための使節を王国の外にまで派遣したことがある。
 だが、この布教の問題に関しては、仏陀の教えそのものの影響が大きいように思われる。」


 仏教は一般的に、誰かを言い負かして屈服させ、信者にするという行動をとらない。
 それは、過去の因縁や生活環境や資質などによって千差万別な人々がそれぞれが、違ったままで救われることを目ざしているからである。
 唯一絶対の正義である万能の剣をふるうという高慢な姿勢とは、まったく異なっている。

「仏教はその内部に相矛盾し、相対立する哲学や伝統を有するいくつもの宗派が存在する。
 たとえば、シッタ・マントラ派(唯心派)と中道派である。
 これらの二派は同じ教え、仏陀自身の教えから生まれてきた。
 仏陀自身は、これら相対立する双方の教えを自ら説かれたのだが、その理解の仕方、解釈において双方は根本的に異なる立場に立っている。
 このことは仏陀が、対立し矛盾する教え、哲学を、その立場を異にする人々ごとに、あえて説かれたことを示している。」


 お釈迦様が説かれたことを類推し、悟りの境地を目ざす時、思惟の土台へ迫れば迫るほど、たった一つの哲学的土台は見出しにくくなる。
 たとえば、仏教哲学がたどりついた二つの代表的立場である唯識(ユイシキ)派と中観(チュウガン)派はまったく違う。
 唯識派は、潜在意識や深層意識など、心が幾重にもなっていることを、西洋心理学に何百年も先がけて把握し、研究してきた。
 中観派は、すべては空(クウ)であるという視点を突き詰めてきた。
 現代の仏教宗派で、この一見、相矛盾する見方の双方をふまえないものはない。
 それは、お釈迦様が、唯一、独自の存在として生きている〈その人〉そのものを、その人が苦から脱するための〈その人〉にふさわしい方法をもって救われたことに起因している。
 たとえば、苛められ、泣いている子供を救う方法と、苦闘しながら生き、人生の不可解さに突き当たって悩む大人を救う方法が同じであるはずはない。

「これは、仏陀が個々の人々の立場の違い、それぞれの必然性をいかに尊重されたか、ということを意味している。
 私自身はこの仏陀の教えにどれほど助けられたかわからない。
 異教、異宗派に私自身が開かれた心で接することができるのは、この教えがあったればこそである。」


 ここで説かれている「それぞれの必然性」は重大な言葉である。
 ある人が、他の誰でもなく〈その人〉として存在していることは、「必然性」と言うしかない。
 このことを深く認識し、まっさらな心で〈その人〉に向かい合う時、ようやく感じとれるのが人間の尊厳らしきものである。
 それに打たれたことのある人は、それを尊重しないではいられない。

 お釈迦様は、全存在をかけて自分を突き詰め、この世を突き詰めた結果、いつでも、誰に対しても、尊厳を感じとれる方になられたのではないだろうか?
 誰と会っても、常に、心で合掌を欠かさなかったのではなかろうか?

 8月5日、マスコミ各社は、貧しいタイ人の女性がオーストラリア人夫婦になり代わって代理出産をし、受け取り拒否にあったダウン症の男児を自ら育てると決心したことを報じた。
 ニュースで観た21才の女性は合掌したまま、インタビューの受け答えをしていた。
 すでに義援金が2000万円も集まったらしく、今後、女性がどのように生きて行くかはわからない。
 しかし、合掌の姿は神々しく感じられた。

 当山は、伝授を受け、修行した方法によって修法を行っているが、ご縁を求めてご来山される相手様が何を信じておられようと、まったく区別や差別を行わずに祈る。
 ダライ・ラマ法王と同じく「この仏陀の教えにどれほど助けられたかわからない」し、「異教、異宗派に私自身が開かれた心で接することができるのは、この教えがあったればこそである」というのが実感である。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2014
08.05

お骨に合掌し仏教の歴史をたどる『舎利礼文(シャリライモン)』(その2)

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 これまでに幾度も「献体をしても引導は渡してもらえますか?」という人生相談を受け、幾度も、ご葬儀を行いました。
 もちろん、相手様の宗教、宗派を問わず、数年後に共同墓『法楽の礎』で眠ることになった方々は幾人もおられます。
 モノとしての肉体には何の未練もないが、魂だけは、み仏のお導きにより、自分へ血と心をつないでくださったご先祖様方の世界へ行きたいと願われるのです。
 ここに、目に見える世界での〈まっとうなふるまい〉と、目に見えない世界での〈得心〉との二つを目ざし、極論へ行かない中道を説く仏教の核心が生きています。
 世間でうまくやれればそれでよい、のではなく、自分の心に悟りがあればそれでよい、のでもありません。
 この世のことごとをきちんと行うための正しい考え方があり、それを世俗諦(セゾクタイ)といいます。
 また、悟りの世界における絶対的真理があり、それを勝義諦(ショウギタイ)といいます。

 お釈迦様は、悟りを開かれた時、これは世間的な頭のはたらきでは掴みようのない次元であるから、もう、このまま、向こうの世界へ行ってしまおうと考えられたそうです。
 戦争や諍いの絶えないこの世を眺めれば、自他のいのちと心を一つととらえ、すべてを空(クウ)と観て我(ガ)を離れることなど、誰にもできそうにないと考えられたのも当然です。
 しかし、そこに、梵天(ボンテン…帝釈天)という神様が現れ、「必ず理解でき、救われ得る人々がいますから、是非、人々を苦しみと迷いからお救いください」と懇請し、お釈迦様はついに、法楽という憩いの世界から立ち上がり、説法の旅を始められました。

 説法には二つの方法が用いられました。
 一つは言葉です。
 真理、真実に裏打ちされた言葉は、魂のレベルで通じるからです。
 もう一つは法力(ホウリキ)です。
 言葉の通じない人々へは、異次元の世界を体感させることにより、目と耳と心を開かせ、それから言葉を手渡したのです。
 だから、仏法による自他の救済へ身を捧げるプロの僧侶は、修行の結果として、説得力のある言葉と、異次元へ入る法力との二つを身につけていなければなりません。
 さもないと、メスを持たない、あるいはメスを錆び付かせた執刀医と同じです。

 さて、世俗諦(セゾクタイ)と勝義諦(ショウギタイ)についてのわかりやすい例を挙げます。
 たとえば、借金したならば、返すのは当然です。
 もしも、「自分は空(クウ)だ。細胞も入れ替わっているし、先月の自分はもう、どこにもいない。先月の自分と今の自分は別ものだから、先月の自分がやった約束はもう、どこにもない」などとうそぶいて踏み倒したならば、世間から相手にされません。
 だからといって、約束は守り、礼儀も正しい人が必ずしも人の道を掴み、まっとうな心で生きているとは限りません。
 人生の成功者と目されていた人が裏でとんでもないことをやっていて露見したり、バチカンが、司教による性道徳の堕落と、長年かかわってきたマフィアとの関係に正面から戦いを挑んでいることなどを見ても明らかです。
 人と人との間にある人間として社会人らしいふるまいを保ちながら、人間の尊厳に背かぬ魂で生きることができてこそ、真に人間らしい生き方と言えるのではないでしょうか。
 
 さて、『舎利礼文』72文字の後半です。

「仏加持故(ブツカジコ)
 我証菩提(ガショウボダイ)
 以仏神力(イブツジンリキ)
 利益衆生(リヤクシュジョウ)」

 
「み仏のご加持によって、私たちは悟りを確かめられ、み仏の威神力によって、悟りを得た私たちは生きとし生けるもののためにはたらけます。」
   

「発菩提心(ホツボダイシン)
 修菩薩行(シュウボサツギョウ)
 同入円寂(ドウニュウエンジャク)」


「悟りを求める心を起こし、布施や持戒など六つの修行に勤しみ、生きとし生けるものと共に平安の世界へ入りましょう。」

「平等大智(ビョウドウダイチ)
 今将頂礼(コンショウチョウライ)」

 
「生きとし生けるものは皆、等しく空(クウ)なる存在として生き死にしているということを悟らしめる偉大なる智慧を今、まさに敬意をもって礼拝します。」
   
 こうして、お釈迦様の悟りの境地に憧れ、お骨を尊び礼拝し、仏塔に詣で、お塔婆を立てて祈りつつ、仏教は伝えられてきました。
 たどりついたのが、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6つの修行により、生きとし生けるものたちと自分は等しく無限のいのちと心の世界を生きているという真理を掴み、真実世界に生きる姿です。
 ぜひ、お盆には実践修行をしましょう。

【水…布施(フセ)の心】  我、水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん
【塗香(ズコウ)…持戒(ジカイ)の心】  我、塗香のごとく、自他を清め、浄戒そのものになり果てん
【花…忍辱(ニンニク)の心】  我、雨風に負けず咲く花のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん
【線香…精進(ショウジン)の心】  我、線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん
【飯食…禅定(ゼンジョウ)の心】  我、己を捨てて食べ物となる生きものに感謝し、心身を整えん
【灯明…智慧(チエ)の心】  我、灯明のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん






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2014
08.04

お骨に合掌し仏教の歴史をたどる『舎利礼文(シャリライモン)』(その1)

20140804000123.jpg

 朝夕はひんやりするようになり、やはり立秋間近と実感させられます。
 午前3時頃に寺務所へ入ると室内の気温は29度ですが、窓を開け、闇一杯に広がるカナカナカナというヒグラシと、ジージージーという地虫たちの声に少々、耳をかたむけながら、あちこちの換気扇を回しているうちに、たちまち、26度になってしまいました。

 さて、昨日から書道教室で書き始めたお経について、少々記しておきます。
 お稽古の前に内容をご説明申しあげたところ、高橋香温先生はじめ、お弟子さんたちも目を輝かせながら聴いてくださったからです。

 それは、ご葬儀やご供養の場でゆっくりと唱えられることの多い『舎利礼文(シャリライモン)』もしくは『舎利礼(シャリライ)』というお経です。
 たった72文字に仏教の歴史が凝縮されています。

「一心頂礼(イッシンチョウライ)
 万徳円満(マンドクエンマン)
 釈迦如来(シャカニョライ)」

 
「あらゆる徳を円満にそなえたお釈迦様を一心に礼拝します。」

 仏道修行は、お釈迦様が悟られた境地に憧れ、それを求めることから出発します。
   

「真身舎利(シンジンシャリ)
 本地法身(ホンジホッシン)
 法界塔婆(ホウカイトウバ)
 我等礼敬(ガトウライキョウ)
 為我現身(イガゲンシン)
 入我我入(ニュウガガニュウ)」


「お釈迦様の仏舎利と、真理を悟った境地そのものと、真理を象徴する塔婆とを、私たちが敬い礼拝する時、この身に真理が顕現し、悟りの世界と私たちとは一体になります。」

 古人は白米のご飯を銀舎利(ギンシャリ)と呼びました。
 お米が充分に食べられない時代や場所においては、白く光る一粒一粒が、まるでお釈迦様のお骨のように尊く、ありがたく感じられたからです。
 こうしたことでもわかるとおり、生前、たくさんの人々を救ったお釈迦様が亡くなられた後、せめてお骨を拝みたいという人々の思いが仏舎利信仰を生み出しました。
 インドのアショーカ王が、そうした気持に応えようと、全国に仏塔を造り、そこへお釈迦様のお骨を安置したことにより、仏教は一気に広まりました。
 日本でも、故人が最後にこの世へ遺して行ったお骨はとても大切に扱われ、どこの斎場でも、最高の敬意をもって御尊家様へと手渡されます。
 きちんとお骨を納め、「ああ、ここに眠っている」という安心感を伴って合掌する時、この世とあの世はつながります。
 モノであるお骨は当然、土へ還ってゆきますが、〈その場〉のかけがえのなさは、後々、身に沁みてわかるものです。
 最近、一段と多くなったお骨の移転においては、どなたもが熟慮し、一大決心をして改葬されます。
 普通の埋葬でも、改葬でも、納骨が終わり「これで安心しました」と言われる皆さんのお顔には、人としてなすべきことをきちんとやり終えたという達成感が感じられます。

 さて、拝む対象の二番目は、「本地法身(ホンジホッシン)」という難しい言葉になっていますが、要は、悟りを開いてみ仏と成られた(成仏です)お釈迦様の悟りの境地そのものを尊び、礼拝するのです。
 不動の境地そのものは、まさにみ仏の世界であり、いつ、いかなる時代においても揺るぎません。
 だから法(真理)の身(お身体)とお呼びします。

 三番目は、「法界塔婆(ホウカイトウバ)」すなわち、真理の世界を象徴する塔婆にも深い敬意を捧げます。
 塔婆は仏塔を指すストゥーパというインドの言葉を音訳したもので、日本においては平安・鎌倉の時代から、個人のお骨が眠っている場所にも建てるようになりました。
 五輪の塔も同じものです。
 NHKの大河ドラマでは、ひんぱんに武将などの墓地が紹介されますが、現代のお墓のような形ではなく、五輪の塔が建てられている例をとても多く見かけます。
 私たちがお塔婆を捧げるのには、「この世にあるもののすべての徳を捧げます」という意味があります。
 だから、形は下から地・水・火・風・空を象徴する四角形や円形が重ねられ、表にはそれを表す梵字(ボンジ)が書かれ、裏には心を表す梵字が書かれています。
 目に見えるものも、見えないものも、あらゆる存在が持つすべての徳をもって供養します、という深い思いが込められているのです。

 こうして、お骨と、悟りの境地と、供養の心を込めたお塔婆とを敬い、礼拝すると、「現身(ゲンシン)」すなわち、この身このままに「入我我入(ニュウガガニュウ)」が実現します。
 それは、み仏が自分に入って来ることであり、同時に、自分がみ仏の世界へ入って行くことです。
 つまり、み仏と自分は一体になれます。
 そこには、不安も、悩みもありません。
 一体になる方法が探求された結果として登場した密教においては、合掌などの印を結ぶことで身体を一体化し、真言や経文を唱えることで言葉を一体化し、み仏の世界を観想することで心を一体化させます。
 昨日、瞑想会で行った阿字観(アジカン)もこうした形になっており、参加された方々は、み仏に成る〈成仏体験〉をされました。

 これが、前半の36文字に含まれている意味です。




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2014
08.03

長寿と生きがい ―まっとうに長生きできてこその歓び―

201408030001.jpg
〈お墓の力〉

 7月31日、厚生労働省は、平成25年の日本人男性の平均寿命が80・21才となり、初めて80才台に乗ったと報じた。
 女性は86・61歳で世界一を持続している。
 主な理由は、医療の進歩によって、ガン、心疾患、脳血管疾患、肺炎の4大死因が克服されつつあることにあるという。
 私などは、その前提条件として、戦争や内乱がないことと、ある程度の食生活が確保されていることを挙げねばならないと思っている。
 相前後するように、ストーカー事件についての報道もあった。
 還暦以上の高齢者が起こす事件はここ10年で約4倍になったという。
 30才台が約2倍なので、異様さは際立っている。

 10年ほど前にA医師からいただいたメールを思い出した。
 午前2時半、彼は死者を送り出してからメールを打った。

「過半数の寿命が八十才を越えるというのは人類史上初めてのことで、精神寿命の伸びが追いついていないように思う」

「大脳生理学的には、人間の精神的行動は元来の性癖に向かうところを、大脳で抑制しているというメカニズムです。
 ところが大脳の働きが落ちてくると、抑制が取れてくるので、個人の個性が露わになってきます。
 それで、若い内から野放図に活きてきた人は段々本性が露わになってきて、晩節は嫌われ、軽蔑されながら最後を迎えるケースが結構あります。
 個人の不徳が周囲をも不幸にします」
 
「80才を越えて善人の人は、本当によい人なのでしょう。
 晩年の生きようが、その人の総決算だとすれば、日頃から、教養と徳を積む努力を怠らないことが大切だと考えさせられます」


 年をとり、自己抑制機能が衰えると〈地が出る〉のだという。
 うわべのごまかしは効かなくなる。
 自業自得とはいえ、恐ろしい話である。

 ダライ・ラマ法王は、死後の転生について説かれた。

「その人物が死ぬ瞬間に近いほう、より時間的に遅く行われた行為から生じたカルマがより大きな意味を持つ」

「その人が普段からどのように振る舞っていたか、どちらの行為が、より彼にとっては馴れ親しんだ行為であったかによって決定されなければならない」

「誰かを憎み恨むような悪しき感情が、自分の死に際して自分自身の心の中に芽生え、育ったなら、一瞬にして、それまで集積してきたカルマの平衡は崩れ去る」


 まず、常々の生き方が大切であり、しかも、後へ行くほど気をつけねばならない。
 ましてや、死ぬ間際まで恨み辛みを言っているようでは、本人が地獄界などへ堕ちるだけでなく、周囲の人々へも落胆や軽蔑といった嬉しくない感情を起こささせてしまう。
 居直り、「どうせ死ぬのだから」と気ままをやるお年寄りほど愚かしく、手に負えぬ困り者はない。

 お釈迦様は説かれた。

「昼夜に慢惰(マンダ…だらけた行動)にして、老ゆるも淫を止めず、
 財あるも施さず、仏の言を受けず。
 この四蔽(ヘイ…霊性を覆い隠すもの)有(ア)らば、自(ミズカ)ら侵欺(シンギ…損ない欺く)を為す。
 咄嗟(トッサ…瞬間)に老い至れば、色(シキ…美しい容貌)変じて耄(モウ…老いぼれ)となる。
 少(ワカ)き時は、意の如くなるも、老(オ)ゆれば蹈践(トウシャク…踏みにじる)せらる」


 老いてなお、だらけた生活を送り、異性に強い興味を抱き、財産を抱えたままで施しを行わず、仏教などによって人の道を学び実践しようとしない。
 こうしたお年寄りは、自分で自分の霊性を覆い隠し、この世で修羅界や餓鬼界や畜生界や地獄界を生たまま、そうした世界へ旅立つ。
 いつまでも若い気でいたとて、寄る年波には勝ちようがない。
 元気なうちは気ままがやれても、やがて身体が言うことをきかなくなれば、誰かの手を借りねば生きられなくなる。
 ――必ず。

 今朝の河北新報を斜め読みしたら、故福田恒存氏の忘れがたい言葉が載っていた。
 紹介者は北海道大学准教授中島岳志氏である。

「福田は『私たちが真に求めているものは自由ではない』と断言する。
 そして、人間が欲するのは『事が起こるべくして起こっているということ』であり、『そのなかに登場して一定の役割をつとめ、なさねばならぬことをしているという実感』であるという。」


 若き日に出会い、〈これぞ真実〉と思われた思想である。
 自由気ままにやれば、それで真の幸福を得られるのではない。
 人生をかけてなすべきことを見つけ、結果を信じて努力できること。
 これ以上の幸せはない、と、今でも思う。
 そして、それは、自分次第で、死ぬまで実践できるのである。
 しかも、心がけひとつで、いつ、どこにでもそれは見出せる。
 たとえば「ありがとう」と微笑むまごころの表現は、和顔悦色施(ワゲネツジキセ)という立派な布施行であり、生き仏になる方法の一つである。

 若者たちのおかげで長生きしている年配者の方々よ。
 ありがたいのは、長生きできることそのものではない。
 まっとうに長生きできればこその歓びではないか。
 共に、よく考えてみたい。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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