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2014
09.30

平成26年10月の運勢に応じた留意点 ―まだ弱きものを育てましょう―

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〈水辺に咲くもの〉

 平成26年10月の運勢に応じた留意点です。

 今月は、新たにスタートしたものを、そっと大切に育てる心が大切な時期です。
 まだ歩けない赤ん坊に早く歩けと過大な期待をかけたり、まだ人員が充分に揃わない会社へ消化しきれないほどの注文を出すようなことは慎みましょう。
 また、弱みとなっている部分へ補強的な手を差し伸べることも大切です。
 そうすれば、やがて、急速な成長発展期を迎え、当人、当事者も、見守る人々も、弾ける笑顔になれる時が来ることでしょう。

 作家渡辺京二氏は『無名の人生』にこう書いています。

「『苦界浄土』の著者で詩人の石牟礼道子さんの文学の根本には、小さな女の子がひとりぼっちで世界に放り出されて泣きじゃくっているような、そういう姿が原形としてあります。
 一個の存在が世の中に向かって露出していて、保護してくれるものがない、
 この世の中に自分の生が露出していて誰も守ってくれないところからくる根源的な寂しさ――それがあの人の文学の中核なのです。
 考えてみれば、人間はみな、本来そういう存在です。
 危険にさらされることも、寂しいことも、それは誰だって望んでいるわけではありません。
 だから、そこから抜け出そうとして人とつながり、家族をこしらえ、社会的な交わりが生まれ、さらには、自分の生存を保証してくれる制度が生まれる。
 文明は何かといえば、生がむき出しになった寄る辺(ベ)ない実存を、束の間、なんとか救い出そうとする仕組み、それを文明と呼んでいるのでしょう。

 だけど、やはり原点には、寂しさを抱えた自分があるということを自覚しておいたほうがいい。」


 氏の発言には重大な指摘があります。
 人間一人一人は本来寄る辺(ベ)ない儚き存在であり、そうした者同士が肩寄せ合わねば生きられないこの世なればこそ、救済の仕組みとして文明はあると言うのです。
 それならば、自然界そのままの弱肉強食の原理を自由競争と言い換えて金科玉条とし、しかも、人間以外のものは決して一個の生きものとしての分を超えないのに、我先に世界中から無限に貪り尽くそうとする人間がつくる現代文明は、そもそも文明という名に値しないのかも知れません。

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〈NHK様よりお借りして加工しました。生活程度の違いはいつの世にもありますが、問題は、格差が拡大して貧困者が増え、貧困から抜け出しにくく、貧困が次の世代にも受け嗣がれて行きつつある社会システムにあります〉

 9月25日、NHKテレビの「クローズアップ現代」は「子どもの貧困」と題して、実態調査を発表しました。
 国の発表による子ども(17才以下)の貧困率16.3パーセントの現実はいかなるものか?
 まず、1人当たりの1日の食費は329円。
 バランスのとれた食事を1日に1食も食べられない家庭は8割以上。
 アンケートには「子どもと一つのラーメンを半分にして食べた」「子どもが空腹で眠れない」など想像を絶する回答も。
 昼食や仲間とでかけたおりの買い物など、貧しい子どもの心を萎縮させる場面はどこにでもあります。
 各種NPO法人の活躍はとても現実に追いつきません。
 食べものを配っている法人にお訊ねしてみたら、食の安全上、また、人手の関係上、一般の方々から何でもお引き受けするというわけにはゆかず、メーカーさんなどからの支援物資でやっているとのことです。
 高卒ではたらいている20才の男性がこの番組を観て、自分は夏目漱石著『草枕』の冒頭を実感していると投書しました。
 その冒頭は、よく知られているとおりです。

「山路を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角(カド)が立つ。
 情(ナサケ)に棹させば流される。
 意地を通せば窮屈だ。
 とかくに人の世は住みにくい。
 住みにくさが高(コウ)じると、安い所へ引き越したくなる。
 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。
 やはり向う三軒両隣(リョウドナリ)にちらちらするただの人である。
 ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。
 あれば人でなしの国へ行くばかりだ。
 人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。」


 詩人にも、画家にもなれない普通の人が、〈向う三軒両隣〉のつながりも消えた空間でどう生きるのか?
 もしかしたら、この男性は、〈人の世〉はすでに〈人でなしの国〉になっていると感じているのではないか?

 胸が冷たくなり、しばらく瞑目してしまいました。

 新しき、弱き、瑞々(ミズミズ)しきものを温かな目で見守り思いやる心は、真の意味での文明を創る核となり、個人的運勢も開くことになることでしょう。
 広い目と心で周囲を眺めてみたいものです。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
09.29

「法楽農園」は刈り入れが終わりました ―いよいよ「ふゆみずたんぼ」へ―

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〈懐かしき風景〉

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大枝邦良師〉

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〈救世主八島さん〉

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〈同志の面々〉

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〈早くもお祭が……〉

 9月27日は地域の農家八島さんが2連のバインダーを持って駆けつけてくださり、「法楽農園」3反歩の刈り取りが1日で終わりました。
 昨年は1連のバインダーしかなく、しかも、雑草が絡み、何度も何度もメーカーさんに修理を依頼する始末で数日かかったあげく、3分の1ほどが倒れていたので諦めたものもあったのとは大違いです。
 大枝邦良師のご指導で、丹野、後藤、髙井という強力トリオが稲架掛(ハセガケ)の台を造ったり稲の把を運んだりと活躍し、作業の7割を終えました。
 9月28日は大枝、八島のプロお二人はそれぞれの田んぼへ行かれ、朝7時前に活動し始めたトリオに昨年同様、藁科、鈴木の熟練者2人がはせ参じてくださり、何と午前11時には後片付けも済んで解散式を行うに至りました。

 無農薬無肥料でしたが、大枝師の見立ててでは、昨年より何割も多く収穫できるだろうとのことで、二度も雑草取りをしてくださった大枝、藁科お二人には頭が上がりません。
 また、猪が遊んで倒された部分はありましたが、台風にやられず、ほとんど全部刈り取りできたことも幸運というしかありません。
 ただし、このあたりではもう、稲架掛(ハセガケ)で天日干しをしている田んぼはほとんどないので、おそらく、食べものに困ったスズメなどが大挙して押し寄せ、三分の一程度は餌にされてしまうことは覚悟せねばならないそうです。
 対処法として昨年同様、赤間農園さんからご提供いただいたマネキンの首を掛け、キラキラしたテープを張りましたが、あとはどうなろうと仕方がありません。
 スズメたちが生き延びられるよう、同時に被害も少なくて済むようにと矛盾した願いで過ごすのみです。

 今年はじっくり干しましょうという大枝師の指導により、10月19日に行う「ゆかりびとの会」主宰の芋煮会には精米が間に合いません。
 11月8日の寺子屋『法楽館』において収穫祭と試食会を行う予定です。

 今年こそ、〈ふゆみずたんぼ〉を実践する予定です。
 平成25年10月13日の第四十五回寺子屋『法楽館』において、「日本ガンを保護する会 ラムサール・ネットワーク日本」の会長である呉地正行師をお招きしてシンポジウム「ガンの渡りとふゆみずたんぼ ─多様性を守り共生する道─」を行いました。
 そのおりの内容は、ブログ『想いの記』内に詳述しています。
・日本雁を保護する会会長呉地正行先生に聴く(その1) ─ガンの渡りから「ふゆみずたんぼ」へ─
・日本雁を保護する会会長呉地正行先生に聴く(その2) ─ガンの渡りから「ふゆみずたんぼ」へ─
・第四十五回寺子屋『法楽館』「ガンの渡りとふゆみずたんぼ─多様性を守り共生する道─」

 師の理論については「ガンの渡りとふゆみずたんぼ ―多様性を守り共生する道─」を読めばよくわかります。
 ここでは、師とうち合わせした折のメモの一部だけを再掲しておきます。
 
○万葉集に登場する鳥のうち、最も多いのはホトトギス、次はガンである

○ガンはまず、声がして、空を見上げるとV字編隊が見え、短調に聞こえる声のもの哀しさが味わい深い

○ガンが飛び立つ光景を見たいならばTPOをわきまえねばならない
 寒さに耐えて日の出を待ち、光景を身体で感じること

○ガンは人に近寄らず、環境の変化による影響を受けやすい生きものである

○ガンの警戒心は、安全な水上と危険な地上では異なり、群れの大きさによっても異なる
 バイパスと農道により福田町からガンが消えたことは決定的できごと
 広く浅く安全な湿地と田んぼがなくなれば、海をすらねぐらともするが、やがて来なくなる

○ここ100年の間に全国で61パーセントの湿地が消え、全国で三番目に湿地面積の大きかった宮城県は92パーセントが失われた
 伊豆沼周辺しかなくなり、そこでは狩猟鳥だった
 日本へ飛来する数は数千羽まで減り、昭和46年に法的保護が行われてようやく数は回復してきた

○飛来地が増えなければ、病気などによる全滅の危険性があり、危険を分散せねばならない

○冬にガンのねぐらになる「ふゆみずたんぼ」には、5668種類もの生きものたちがいる
 水を張っておくと生きものの量が増え、田植えされた夏にはサギなどが来るようになる

○夏に来る鳥たちは、水が張ってあった〈冬の光景〉を知らないはずなのに、水を張っておいた田んぼには乾田の4倍以上も集まる
 ふゆみずたんぼでは、鳥の主食となるドジョウが乾田の五倍もおり、ドジョウの主食となるイトミミズもまた5倍である
 カエルやザリガニも同様であり、鳥たちにはすぐどちらが豊饒か、判断できるのだろう

○農業者がガンと長い付き合いをして行けるような取り組みが必要

○単調な環境は好ましくなく、乾田を否定し、すべてをふゆみずたんぼにせよというのではない
 例えば赤とんぼが世代交代するためには、乾く時期が必要である

○湿地の80パーセントから90パーセントが乾田となり、暗渠排水にされたことが問題である
 今、最も欠けているのが〈冬の水〉である

○田んぼを中心とした水辺環境をつくり、多様な生きものたちを子供たちが観察するようにしたい
 定期的に生きもの調査をしたり、観察会を行ったりしたい
 多様な生きものたちがいて、いのちが多様に豊かに息づいていることに感動できる場をつくりたい

○田んぼには、稲作により生きものたちが集まる
 東南アジアでは「水に魚あり、田に米あり」と言い、川と田んぼでは水も生きものも行き来し、主食もおかずも手に入れられる

○ふゆみずたんぼを中心とした水辺環境は、他の農地と違う複合生産の場となる
 ここだけで生きて行ける場をつくり、小さな地域内でご飯もおかずも安全で確実に確保できることが理想である

○何十年も何百年も使える環境をつくろう
 人間も他の生きものたちも共に生き続けられる循環型になるのが理想である
 田んぼで、今日獲れたものをおかずとして食べられれば生きられ、田んぼがなりわいとなれば理想である
 小さいことのよさが生きる

○生きものとしての人間が最後まで切り捨てられないものがたべものである
 食べ物が何百年も何千年も確保し続けられるならば、これこそが当に持続可能な社会であり、心の安らぎも確保できる

○田んぼには底力がある
 アジアには何千年も続いている農業文化がある
 歴史によって証明されているやり方を古人から学びたい

○中国の雲南省や四川省など、あるいはカンボジアやラオスといった地域には、「ここで生きていてよかったなあ」と思える文化が残されている
 後漢時代のお墓から出土した「田んぼ模型」には、田んぼとそれにかかわる生きものたちが描かれている
 約2000年前から続く農法は信頼できる

○「早く」だけでは長持ちしない文明になりかねず、ゆったりとした長続きする方向性が必要である
 科学合理性だけを信じ、際限なく早さを求める方向を止めるのは社会全体の力である

○原発事故のような警鐘も、直接的被害者以外の人々の記憶からすぐに薄れて行きがちだが、危険なものはたとえ忘れてしまっても危険なのである

○EUでは、ミツバチの大量死などにつながると推測されるネオニコチノイド系農薬を禁止したが、黒であることが証明されていないものへの対応に文化の問題が顕れている
 日本でもグレーであることは明白なのに放置され、大量に用いられ続けている

 この件については、ブログ「蜜蜂に教えられる真実 ─蜜蜂の大量死・予防原則・原発─」に書きました。

○戦後の成り行きが示すとおり、きちんと白黒をつけずに過ごす曖昧さは日本人の精神風土としてあるのではないか
 また、善くも悪しくも〈皆と同じようにやる〉ことによって安心を得るという傾向が、強いのではないか
 よほど明確な農業哲学や技術を持たないと、〈これまで〉や〈皆〉と違うことができない

○東日本大震災から受けた教訓の一つとして、「絆はいざという時に役立つ」ということを知った
 都会にも田舎にも、それぞれ、よい面も、よくない面もある
 悪い面を攻撃するよりは、よい面を生かすことである
 そのために、〈全体を観る目〉を養いたい
 田舎特有の絆は地域力である

○東日本大震災で失ったものも得たものもある
 得たものを生かすのが生きている人間の務めである

○人間は食べなければ生きて行けず、生きて行く上の本質にかかわる部分については〈線引き〉が必要である
 すべてのものごとに経済原則をあてはめてはいけない

○韓国生協の倫理的消費者というポリシーなどに学びたい

○日本の企業は、CSR(企業の社会的責任)をもっと自覚せねばならない

○それぞれの田んぼを生かして行くことは、スモールイズビューティフルであり、小回りの利く柔軟な対応ができる
 一人の百歩より百人の一歩で進めば大きなうねりとなる
 過去に学びながら未来へ向けた田んぼづくりをやりたい




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「おん あらはしゃのう」
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2014
09.28

ご利益のあるお地蔵様とないお地蔵様の話 ―宇野浩二著『地蔵様の村』―

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 今から約一世紀前、宇野浩二は『地蔵様の村』を書きました。
 
 150年ほど前、村へひょっこり現れた年老いた僧侶が二体のお地蔵様を建立しました。

「私(ワシ)は国々に二体づつの地蔵様をもって歩いているものじゃが、この村にも持って来た。
 この東の山の上と、西の野原とに一つづつ据えておいたから、お前たち勝手に信心するがいい。」


 そして、不思議なことを言い添えました。

「ところが、一つは聞く地蔵様、一つは聞かぬ地蔵様、つまり少々無理なことでも願をかけると、きっとかなえて下さるのと、願をかけても、めったに聞き届けて下さらないとの違いじゃ。
 一寸(チョット)考えると、聞かぬ地蔵様に参るのなぞは馬鹿々々しい、聞く地蔵様に参る方がいいと、みんなは思うかも知れないが、それはどうも、そうばかりは一概に言えないのじゃ。
 私は実はもう三百幾(イク)つになる老人じゃが、私も初めのうちは聞かぬ地蔵様よりも、聞く地蔵様の方がいいと思っていたんだが、これは仏様のお言い付けで、仕様がないから、どこでもこの二つの地蔵様を据えて歩いているのじゃ。
 ところが、この二百年以来、私もだんだん聞く地蔵様より、聞かぬ地蔵様の方へ熱心に参る方がよいということを知り出したので、こうして、二つづつ据えて廻ってはいるが、聞かぬ地蔵様はお参りしよいように、野原へ置いて、聞く地蔵様をお参りしにくいように、山へ置くことにしているんじゃが、どうもやっぱりどこへ行っても、誰でも、聞く地蔵様の方が好きと見えて、その方が繁昌(ハンジョウ)して困るのじゃ。
 ……私の言うことはこれだけじゃ。」


 西の野原に建てられた「聞かぬ地蔵様」へは道がつけられ、東の山に建てられた「聞く地蔵様」へは道もありませんでした。
 ところが、ご利益のあるお地蔵様のおられる山へは村人がこぞってお詣りするので、いつしか立派な参道ができ、野原へは誰も行かなかったので、50年もすると、道は草に埋もれてしまいました。

 さて、たくさんのご利益を受けた村人たちは誰しもが健康でお金持になりました。
 そして、思わぬ心が起こりました。

「人々は余り丈夫で、余り仕合わせで、それに皆々もう十分お金持ちでもあったものですから、毎日額(ヒタイ)に汗水たらして働く必要がなくなりましたので、次第々々に退屈になって来ました。
 余り退屈になって来ますと、悪いことでも、善いことでも、何でもかまわないから、何か目の覚めるような事件が起ってほしいと待つようになりました。
 それに人間というものは、それぞれ仕合わせで、金持ちになってしまうと、どんな人でも、誰よりも仕合わせになりたいとか、誰よりも金持ちになりたいとか、始終一段上を、一段上をと望むようになるものです。
 そこで、村の人は、言わず語らずのうちに、誰も彼もみんな山の地蔵様に出かけて、『私が一番金持ちになりますように、私が一番仕合わせになりますように、』と願うようになりました。
 すると、聞く地蔵様はそれぞれ誰の願も聞き届けるのですから、誰も彼も村中で一番の金持ちで、そして一番の仕合わせものになりました。そして又三十年も、五十年もの日がたちました。」


 この頃になると、もう、まじめにはたらく人はいません。
 では、めでたし、めでたしとなったかと言えば、そうではなく、人々は、誰もが自分と同じように幸せであることに耐えられなくなり、さらに競争心が高まり、ストレスはついに、とんでもない願いを起こさせます。

「どうか私の鄰の家の人たちがみんな病気になりますように、又私の向いの家が急に貧乏しますように、地蔵様、どうぞお願い申します。」


 病気になり、貧乏になった祈りの〝被害者〟たちは、自分だけが不幸になったことに耐えられず、周囲の人々の不幸を祈りました。
 悪しき願掛けが蔓延した結果、病人と貧乏人ばかりの村へは近づく人もなくなり、村の様相は一変したのです。
 それぞれ生活に困難を抱えた人々は、身体に無理をかけながら、昔のようにはたらき始めました。
 それでも、「聞く地蔵様」へのお詣りは欠かしませんでした。

 ある日、村へ、ひょっこり、年老いた僧侶が現れました。
 もちろん、村人の誰も、この僧侶が〝あの僧侶〟であることは知りません。
 

「もうお前たちもいいかげんに欲張ることを止めて、聞く地蔵様の方へは少し足を絶って、聞かぬ地蔵様の方に参ったらいいだろう」
「百年の間、お前たちの内で、誰一人野原の方の地蔵様に参るものがなかったので、せっかく私が附けておいた路も何もなくなってしまった。
 今、私が行って、改めて路を開いておいて来てやった。
 聞く地蔵様の方は、あの時も私が言ったように、めったに参っちゃいけないと思ったので、わざと路を附けずにおいたのに、お前たちであんな立派な路をつけてしまったが、今日から当分あの山の方の地蔵様は止めて、野原の地蔵様の方に参るがいい。
 そして、あの山の地蔵様の路にすっかり草が生えて、あの路がすっかりなくなってしまった時分には、又むかしのように、多分お前たちは仕合わせになれるだろうから……。」


 村人の目に、「聞かぬ地蔵様」のもとへ伸びる道がうつりました。

「しかし、聞かぬ地蔵様には何と祈りましょう?
 人々は何と祈っていいのか分からないものですから、無論もう人を呪う願をかける訳にも行かず、と言って自分たちの欲張った願いをしても無駄な訳ですから、唯だその地蔵様の前に行っては、何にも願うことなしに、ただ拝んで帰って来ました。
 そして働かなければなりませんから、男も女も、朝から晩まで働きました。
 そして朝か晩かの暇な時に、一寸(チョット)野原の地蔵様のところへ行っては、ただ何にもお願いしないで拝んでは帰って来ました。
 そして、もう誰も、恐いものですから、あの山の地蔵様にはお参りしなくなりました。」


 やがて、僧侶の預言どおり、村はだんだん「仕合わせな、平和な村」として甦りました。

 この物語は昭和2年に発行された童話集に載っています。
・私たちの欲には限りがないこと。
・欲しいものがあれば、はたらかなくなること。
・他人の幸せを本心から喜べず、疎ましく感じる心があること。
・私たちは善き願いだけでなく、悪しき願いもかけてしまうこと。
・自分の不幸を誰かに移したくなること。
・無心に手を合わせる敬虔な気持を忘れず、自分の分を尽くせば自他へ真の幸せをもたらすこと。
・お地蔵様は、ご利益がどうであるかにかかわらず、いつも私たちを見ているくださること。
・常々は感謝と謙虚な気持を持ってお地蔵様へ手を合わせ、いざという時にこそ、願いをかけること。
 今から約90年前の子供たちは、こうした学びに満ちた童話を読んでいました。
 いつの時代も、子供たちへ〈与えるべきもの〉を与えたいものです。




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2014
09.27

好きな格言どおりに生きられません ―hasunohaへの回答について(7)―

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 僧侶への質問コーナーhasunohaに寄せられた質問の骨子です。

「好きな格言を持っているのですが、なかなかその通りに生きられません」

 当山からの回答です。

「どうぞ、あと一歩、前へお進みください

貴方様の悩みは「知っているとおりにできない」あるいは「こうありたいと思うとおりの自分になれない」と言い表せそうですね。
 これは貴方様お一人の悩みではなく、まじめに人生を考える人に共通の悩みです。
 なぜなら、私たちは根本的に頭で考えることと、話す内容と、取る行動がバラバラだからです。
 たとえば自分が就職できずに困っている時、就職したばかりの友人に会って本心から『よかったね』と言えるでしょうか?
 こうしたバラバラの状態を仏教では、身体と言葉と心のはたらきが三業(サンゴウ)になっていると言います。
 それに対して、三つがバラバラでなく人の道に合致している状態を三密(サンミツ)と言います。
『密』とは凡夫にわかりにくい仏様の世界のことです。
 
 よい結果を招く善業(ゼンゴウ)となり、悪しき結果を招く悪業(アクゴウ)となってフラフラするのは、心に溜まっているものが「こうしよう」と思う心のはたらき以上に強い影響力で私たちを動かすからです。
 前の例をとってみると、表面的には「お祝いを言ってやりたい」と思うものの、内心では、あるいは無意識的に「こんちくしょう」という気持がはたらき、言葉は『おめでとう』なのに頬がこわばり、胸は激しく波立ちます。
 イメージとしては、表面の心が海面に出ている氷山の一角、内心や無意識の心が水面下にある巨大な氷山といったところでしょうか。

 では、巨大な心はどのようにしてつくられるのか?
 一つには生まれ持った過去世の因縁であり、もう一つにはこの世で積んだ因縁、つまり生き方です。
 生まれ持った部分は変えられませんが、日々、いかに生きているかによって自分の心は確実に変わってゆきます。

 そろそろ結論です。
 心の深く大きな部分までよきものとするためには、〝思う〟だけでは足りません。
 強く〝願い〟〝祈る〟ことによってよき色合いに染めて行かねばなりません。
 それを着実に進めるのが修行です。
 修行では人の道を歩みたいと願い、身体を仏様のお姿に合わせて合掌し、言葉は仏様の言葉を用いて経典を読み、心には仏様の世界をイメージします。
 健康な身体を求めるならば、散歩について書かれた本を読むだけでなく、実際に散歩せねばならないのと同じです。
 心が深い部分からよきはたらきをするためにはトレーニングが必要なのです。
 信頼できる寺院を探せば必ず、その方に合った無理のないトレーニング法を授かることでしょう。
 どうぞお励みください。合掌」


 何度も書いていますが、私たちは「わかっちゃいるけどやめられない」存在です。
 好みに引きずられ、目も、耳も、鼻も動かされ、手足が動いてしまいます。
 これが病気の域にまで行ってしまうと各種の依存症となり、DVや盗撮などにもなります。
 健康に生きるための健康法があるのと同じく、まっとうに生きるためにもトレーニングが必要です。
 トレーニングは、何も仏教の方式だけとは限りません。
 その方なりに工夫され、今回のご質問のように、「この先、どうすればよいのだろう?」と思われたならば、どうぞ、お気軽に人生相談をお申し込みください。
 よりよく生きたいという皆様の善願が叶いますように。




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2014
09.26

真智の開発をめざして(その9) ─五智の教え・明と暗の区別をすること─

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〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

五智」とは、優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さであり、その五光により、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、厳しさは、〈愚癡〉〈好悪〉〈自他〉〈明暗〉〈公私〉という五つの問題がきちんと整理される時、〈人間がみ仏の子である証明〉として完成します。

[2の4]厳しさ─明と暗の区別をする

 ほとんどの方が中学校か高校でソクラテスの「無知の知」について習ったはずです。

「知らないことを知っていると思い込んでいる人よりも、知らないという事実を直視できる人の方が賢い」


 また、論語にある一節も習いました。

「知らざるを知らずと為(ナ)す是(コレ」)知るなり」


 こうした言葉を学校で習うのは、事実から遠い〈知っているつもり〉や〈知ったかぶり〉が、人の生き方を損ねてしまうからです。
 手にしているグラスに入っている甘い香りの飲みものが滋養に富んだものなのか、それとも身体に害を及ぼすものなのか、事実を知らないままに、知っているつもりで飲むことを想像してみれば、こうした思想に接することの大切さは、すぐにわかります。
 さて、私たち自身はどうでしょうか?
 明らかなことと明らかでないこととを、きちんと判別しているでしょうか?
 少し、考えてみただけでも、すぐに実態の怪しさに気づくことでしょう。

1 社長との対話から

 社長はいつも現場で率先垂範してはたらき、しっかりした会社を経営しています。
 息子さんも社員の一人としてまじめに汗を流しています。
 そんなさんに声をかけました。
「息子さん、頼もしいですね。
 立派に後を嗣がれるのでしょうね」
 さんは嬉しそうに応えました。
「いやいや、あいつはまだまだ苦労を知りませんからね。
 もちろん、会社を始めた頃の苦労など、彼に体験しようもないし、自分と同じような苦労などさせたくもありません。
 和尚さんは、立派な跡継ぎを育てていると聞きましたが、和尚さんの時代のような托鉢などはもう、できないでしょう?」
 いきなりこちらへ話を振られ、あいまいに返事をしたまま、後で考えてみた。
 
 自分の托鉢時代は何だったのか?
 そもそも、何をしていたのか?
 屈辱や忿怒や落胆や絶望があったはずなのに、もはや記憶の彼方へ遠ざかり、光景のほとんども定かでありません。
 ただ、托鉢で生きる体験は貴重であると考える一方で、若い人に自分と同じことをさせたくないという気持もいくらか、あります。
 自分にとっては結果的にありがたい試練となったが、誰しもが同じようにそこをくぐり抜けられるとは限りません。
 サボるだけでなく、詐欺や不倫をはたらくとんでもない者すらいるのです。
 いずれにしても、ついには狭心症にまでなった真夏の一歩一歩はリアルに思い出せないし、多額のお布施をくださるお宅や、優しくお茶を出してくださるお宅や、美人がいるお宅などを選んで歩きたくなる気持とどう戦ったのかも、今となってはリアルに思い出せません。

 自分でやってきたことすら、ありのままに思い出せないなら、托鉢で生きたはずの私はどう「托鉢」を語る資格があるのでしょうか?
 自分にとって都合良く、あるいは、何か目的に応じた内容にして語るしかありません。
 明らかなことと、明らかでないこととの区別はとても難しいのです。

2 中村文則氏の『』について

 気鋭の作家中村文則氏は短篇小説『』において戦場の心理を描きました。
 日本の軍人が支那人の捕虜を殺す場面は日本軍を貶めようと意図したものではなく、戦場における〈一般的光景〉であると考えられます。
 行為を終え、発狂寸前の「私」の背に手を置いた上官は、その手に「父のような温かさ」を感じさせながら諭します。

「この行為は、誰にも知られることはない。
 この死体は深く埋められる。
 お前の行為も、私達の行為も、誰にも知られることはない。
 なぜならこれは神話だから。
 私達にはもう退路がない。
 私たちが勝てばこんな行為は揉み消せる。
 私たちが戦争に負けても、これらの行為は敵側によって大げさに語られていき、やがて実態を失う。
 実態から外れていけばもうそれは真実ではない。
 いずれ私達の国の連中がその信憑性に異議を唱えるだろう。
 我が国に汚点などないと。証言記録など伝聞に過ぎぬ、写真など細工できると言いながら。
 我々のことなど何も理解していない、過去を直視することすらできぬ臆病者どもがそう叫び続けるだろう。
 彼らは我々の苦悩も体験も理解しようとせず、ただ取り憑かれたかのように綺麗ごとだけを並べ続けるだろう。
 敵も味方も真実よりその時代の都合で歴史を語る。
 消失にしろ強調にしろ、何もかもが実態からうやむやになっていく。
 つまり私達は歴史から断絶している。
 この場は、この場にいる私達は、過去と未来から断絶し、歴史と断絶し、ただこの時間と空間の中に孤独に存在しているだけだ。
 だから私達はその孤独の中でしっかりと結びつかなければならない。
 私達は仲間だ。
 歴史から断絶された存在同士の」


  最後の一行です。

「部下達が私を囲む。
 笑顔に満ちている。
 私はこれほど人間を愛したことがなかった。」


 こうした現場から「圧倒的な運を持ち続け」て生還した人々は誰とも孤独を共有し得ず、多くの場合は黙し続けるか、もしくは精神が持ちこたえられなくなるか、どちらかではないでしょうか。
 戦争に〈ついて〉考える私たちは、はたして戦争〈を〉知った上で考えているのか?
 明らかなことと、明らかでないこととは、いかに判別が難しいか……。

3 事実を知りたくない心理

 9月13日付の朝日新聞は12月から始まる投資信託トータルリターン通知制度について報じました。
 もちろん、営利事業を行わない当山は一円の投資信託も保有してはいませんが、イラストが面白くて読んでみました。
 要は、「自分が投じたお金が最終的に利益を生み出しているかどうか」を日本証券業協会が自主的に知らせるというものです。
 とにかく毎月きちんと分配金が受けとられればそれで安心という高分配を喜ぶ投資家心理は、お金を出した先の実態にあまり関心を示さない場合があり、トラブルになったりします。
 希望的観測のまま、お金を預け放しにしておきたいのです。
 イラストは、不倫関係にある男性に妻子があるのではないかと勘ぐりつつも、知りたくない一心で過ごす女性の様子が描かれています。
 私たちにもこうした〈知りたくない〉心理があり、それが事態を複雑化させたり、のっぴきならないところへまで追いつめてしまう危険性があることは承知しておいた方がよいのではないでしょうか。

 今回のテーマは容易ならざる面を持っているようです。
 自省し、よく考えてみたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





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2014
09.25

ヨガのマントラと十三仏のマントラと両方唱えてよい? ―hasunohaへの回答について(6)―

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 僧侶への質問コーナーhasunohaに寄せられた質問の骨子です。
ヨガマントラ十三仏マントラと両方唱えていますが、大丈夫でしょうか?」

 当山からの回答です。

マントラとは真実の言葉であり、み仏の世界へ真っ直ぐに入るための聖なる言葉です。
 人間のいのちと心のはたらきは身体と言葉と心を通じて表れ、三つが煩悩と無智に穢れていれば悪しき結果を招くく三業(サンゴウ)となり、慈悲と智慧に満ちていれば自他の苦を除き自他を幸せにできる三密(サンミツ…3つのみ仏のはたらき)となります。
 そして人間存在の核である霊性の色合いが多種多様である通り、霊性に顕れる仏神もまた多種多様です。
 ちなみに『般若心経』という経典名は『如来の境地に感応し、プラジュニャー・パーラミターなる瞑想法を実践した観音菩薩が念誦すべきマントラを示す経典』(宮坂宥洪師の言葉を参照)となります。
 そして般若心経の終わり近くでは、こう説かれています。
『これこそがすべての煩悩を鎮める。
 これこそが究極の真実である。
 人間の思慮を超えており、何らの偽りもないゆえに。
 プラジュニャー・パーラミターの修行法において念誦すべきマントラは次のように解かれている。』
 続いて『ぎゃてい、ぎゃてい~』というマントラが示され、お経は終わります。
 この経典に惹かれる人は、観音様がこのマントラを唱えながら深い瞑想へ入って掴んだ空(クウ)の真実に感応しておられるのでしょう。
 たとえ無意識にであろうとも。

 身体と心をきちんと整えて至心に唱えるならばマントラはすべて、み仏や神々の世界へ入るための尊いカギとなるのです。
 そして前述の通り、人間の根本的なありようが多様である限り、魂が感得する仏神も多様であり、なんぴとたりとも、その内心へ立ち入ることも縛りつけることもできません。

 そもそも仏神とは、自己中心的で、空(クウ)なるありようをなかなか理解できない私たちとは異なった慈悲と智慧の結晶体であり、凡夫がつくる対立や争いや苦悩や憎悪を離れた存在であればこそ、仏であり神と言えるのではないでしょうか。
 だから、貴方様がヨガの修行に用いるマントラを唱える一方で、み仏へ十三仏様のマントラを唱えようと、それが貴方様の内心において共存できている限り何ら問題はありません。
 当山の人生相談には貴方様と似た疑問や悩みをお持ちの方々がたくさんご来山されています。
 人と人を対立させるものは、畢竟〝人〟です。
 せっかく日常生活的時空から離れていのちと心のはたらきを清め活性化しようとしておられるならば〝人〟の原理から離れてみたいものですね。
 ご精進を祈っています。合掌」


 これまで幾度、こうしたご質問を受けたかわかりません。
 友人、知人、親戚、あるいは祈祷師などから、「神様同士がケンカする」「神様と仏様と一緒にすると運気が悪くなる」「何か頼むなら神様で、仏様に頼みごとをしてはいけない」といった〈タブー〉の話をされた善男善女は気味が悪くなったり、困惑したりと大変です。
 狭い了見の人間が、仏神の世界まで狭めてしまっているのは残念です。

 ダライ・ラマ法王は、ハーヴァード大学で行った講義を『仏教哲学講義』にまとめられました。
 その中にある一節です。

「~仏教の全ては以下の二つの文に集約されます。
『もし可能ならば、他のものを助けなさい。
 それができなければ、少なくともかれらを傷つけないようにしなさい。』
 実に、仏教のすべての乗(声聞乗〈ショウモンジョウ〉・独覚乗〈ドッカクジョウ〉・菩薩乗〈ボサツジョウ〉)の本質はこの短い言葉に言い尽くされているのです。」


 声聞乗〈ショウモンジョウ〉とは、教えを学んで悟る教法です。
 独覚乗〈ドッカクジョウ〉とは、じっと瞑想をこらしたりして悟る教法です。
 菩薩乗〈ボサツジョウ〉とは、皆と共に救われたいと願って悟る教法です。
 いかなる姿勢や、やり方で仏教に学び、救われるかはさまざまですが、いずれにしても、他のためになることと、他を傷つけないことが根本中の根本であると説かれました。
 他のためになりたいと心から願い、決して他を傷つけまいと誓って生きるならば、仏教から外れていないとも言えるのです。
 仏教はあくまでも、万人が救われるための普遍的倫理や道理を求め続ける宗教であり、歴史上のどこかで一人間が語った内容を金科玉条にして思考停止するものではありません。
 お釈迦様やお大師様の言葉といえども、救いを求め、学ぶ後代の仏教徒は、その時代に生きる個人の魂のレベルで取捨選択し、理解を深め、心中で醸成させながら生かしてゆくのです。

 また、仏教徒の基本的立場として、教えは「縁になるもの」といった感覚があります。
 時間的、空間的、能力的に有限な世界で生きる一個人は、仏教のすべてを学び尽くすことは不可能です。
 上述の如く、仏教は歴史と共に変化し、深まり続けてやむことなく、こうしている瞬間にも、仏教の歴史的総体は変化し積み上げられつつあるからです。
 だから、自分の魂に響く教えに出会ったならば、「ご縁だ」「お導きだ」と感じながらありがたくいただき、人生の燈火として祈ってゆくのです。
 仏教の全部を研究した結果自分で選び取るといったことは、凡夫にとっては勘違い、あるいは思い上がりと言うしかありません。

 以上の理由から、ヨガではヨガの流儀によってマントラを唱え、み仏へ心を向けてはマントラを唱え、至心に心といのちの浄化、向上をはかることに何ら問題はないと考えます。



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2014
09.24

最強のクマムシと施餓鬼の話

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 ラジオでクマムシという小さな虫について知りました。
 体長1ミリ前後で水中でも土中でも物陰でも生きられ、真空や乾燥や超低温や絶食でも大丈夫というのだから驚きです。
 しかも、街路樹の根元にある苔の中など、よく探せば、身近なあちこちで見つけられるのです。
 普段、あまりに小さくて視野へ入らず、いること自体が知られていないし、知ってもわざわざ探す物好きは少ないので、いるという認識は持たれていません。
 しかし、事実としては、確かにいるのです。

 さて、当山には、餓鬼へ施す施餓鬼壇(セガキダン)があります。
 餓鬼は存在が非情に希薄で、見えるともなく、見えないともなく、感じとれる人には「ここか」と心を澄ませばありありとわかる場合もあるというところでしょうか。
 因果応報の理によってこの世界へ堕ちれば、飲めず、食えず、それでいて口に入りそうなものをめぐって同類と争い、しかも、人間にとっては涼しい夏の月光で身体が焼け、温かいはずの冬の陽光で身体が凍えてしまうとされています。
 お釈迦様の高弟アーナンダが、ばったり出会った餓鬼へ食べものを施す方法をお釈迦様から授かったことにより、施餓鬼の修法が始まりました。
 当山では、お盆の時にだけ生ずるのではなく、いつも苦しんでいる餓鬼界の方々へ法を結んだ水や食べものをお供えするために、壇を常設しました。
 毎日、手を合わせ真言を唱えているうちに、最近では、施餓鬼幡のあたりで時折、微かにカサカサッと物音が聞こえるようになりました。
 意識を向けていなければあると気づかない餓鬼界が少しづつ感じとれるようになったのかと考えています。

 私たちの五官六根は所詮、何もかもを、どこまでもありのままにとらえられるわけではありません。
 もしも、目や耳や鼻などが今に比べて何百倍もの情報をキャッチできるようになれば、私たちは気が触れてしまうことでしょう。
 1キロ以上も上空から小動物を見分けるワシの目と、超音波を聞き分けるコウモリの耳と、水のありかを匂いでつかむゾウの鼻を持っては生きられないのです。
 適度な限界があるからようやく、一瞬の意識において一つの情報へ意識を集中させ、おちついて感じたり、考えたりできているのです。

 だから、私たちは普段、クマムシも餓鬼も見えず、日常生活上はいないに等しいのですが、実際はいるはずです。
 このことを知ったからといって何の得もないと言えるかも知れません。
 しかし、この世の成り立ちや流れは日常生活で見聞きする範囲だけではないと思い、想像力をはたらかせていれば、何らかの徳ある考え方や行動が可能になるかも知れません。
 たとえば今こうしている時も、エボラ出血熱で死に行く人々や、その治療現場へ向かう人々や、幹部の指令で殺すべき対象を探す「イスラム国」の戦士たちや、その幹部を爆殺しようとする軍人たちが確かにいるはずなのです。

 いつか、どこかの科学館にでも立ち寄ってみれば、クマムシを視認できるのでしょうか。




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2014
09.24

「不戦日本」最初の7返

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 よく晴れたお彼岸の中日に、20名ほどの方々と共に、「不戦日本」の百万返行を始めました。
 まず「一心祈願世界平和」を7返、その後に「一心祈願不戦日本」を7返、善男善女と共に唱えました。
 お配りした『不戦日本の祈り方』は、およそ7~8分で読誦できる内容になっています。
 また、主な経文に解説がついているので、自分で祈っている内容を理解できます。
 CDもあります。
 ご関心のある方はご遠慮なくご連絡ください。




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2014
09.23

【現代の偉人伝 第197話】 ―ゴシップ本を並べないフランスの書店主―

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〈河北新報様よりお借りして加工しました〉

 9月21日付の河北新報は、オランド仏大統領のパートナーだったバレリー・トリルベレールさんが書いた暴露本について報じた。
 件の本は、「破局の原因となった1月のオランド氏の浮気報道の後の壮絶な〝夫婦げんか〟の様子や『オランド氏は貧困者をさげすんでいる』といった政治姿勢への攻撃などが内容」だという。
 数日で初版の20万部が売り切れ、メディア論のレミ・リフェル教授は「もはやフランス的寛容などない」と話したと報じている。
 フランス的寛容とは、恋愛や夫婦間や家族間などの私的な問題に関しては、すぐに「不倫発覚イコール政治家失格」といった過敏な反応をしない大らかさのことである。
 これだけ本が売れてなお、教授は一方で、フランスには「英米や日本との違い」があると指摘している。
 フランス人の感性や文化は、昨今の商業主義に揺らいでも、滅ぼされてしまうほどヤワなものではないという確固たる自負がある。

 さて、今回の偉人である。
 同記事を引用する。

「暴露本の取扱いを拒む書店も。
 パリ市内の書店主グザビエ・ドマルシさん(38)は『何の価値もない本』。
 店内の案内には『ここはトリルベレールさんとオランド氏のゴミ箱ではありません』と書かれていた。」


 唸らされてしまった。
 今すぐ売れるものに書棚を占領されてしまっている光景に溢れた「日本との違い」は悲しいほど、明らかである。
 もちろん、フランスといえどもザビエ・ドマルシさんのような書店主は少数派なのだろうが、考えさせられるのは、気骨ある書店を成り立たせる国民が一定割合、存在するという点である。

 西洋文明を先進的として追うかどうかという話ではなく、品性や文化的感覚の面から、まだまだ他国のありように学び、それを鏡として自らを省みるべきところだらけであると気づきたい。
 同時に、他国を見下さない心も大切だ。
 私たちは、ザビエ・ドマルシさんから見下されようと、ぐうの音もでないのだから。
 尊大になって得られるものは何もない。
 自省する謙譲な心からはあらゆる徳が流れ出す。
 
 ザビエ・ドマルシさん、ありがとうございました。



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2014
09.23

【現代の偉人伝 第196話】 ―ナチス・ドイツを批判した昭和天皇―

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 不敬は承知の上で、どうしても記しておきたいことがある。
 話題の「昭和天皇実録」は目を瞠らされることだらけだが、小さなエピソードが忘れられず、書きとめておきたい。

 ヒトラーに率いられたナチス・ドイツは電撃作戦でフランスを破り、昭和15年6月22日、パリ北東約80キロに位置するコンピエーニュの森においてフランスと休戦協定を締結した。
 第一次世界大戦に敗れたドイツは同地において、敗者の立場で調印を行わされており、屈辱を晴らす復讐の意図があったことは確かである。
 この件に関し、同年7月31日、昭和天皇は感想を述べておられる。

「何(ド)うしてあんな仇討(アダウ)ちめいたことをするか、勝つとああ云(イ)ふ気持になるのか、それとも国民かああせねば承知せぬのか、ああ云(イ)ふやり方の為に結局戦争は絶えぬのではないか」(原文はカタカナ)


 4年前に日独防共協定を結び、この年の9月27日にはベルリンにおいて日独伊三国同盟が締結されるほど近い関係にあったドイツが破竹の勢いを示し、日本国内に沸き立つ雰囲気があってなお、陛下は戦争に対する忌避の念を強く持ち、たとえ同盟国であろうとも、ふるまいに問題があれば批判する毅然とした姿勢を崩されなかった。

 翌昭和16年9月6日の御前会議において、陛下は明治天皇の御製(ギョセイ)を二度、朗唱された。

「よもの海みなはらからと思う世に など波風のたちさわぐらむ」


(四方の海でつながっている世界中の国々は皆、同胞であると思っているのに、どうして国家間で争いの波風が立ち騒ぐのだろうか)
 御前会議において発言されない陛下が和歌を読まれたことは極めて異例であり、結果的に対米英開戦は延期となった。
 戦勝の最中にあった昭和17年の歌会始では、こう詠まれた。

「峰つづきおほふむら雲ふく風のはやくはらへとただいのるなり」


(峰続きとなっている世界中の国々へ覆いかぶさっている群雲を、風よ、早くうち払ってくれるようにと、ただ、祈るばかりだ)
 自国の〈国益〉を守ることが絶対的正義であるとしてぶつかり合う国際社会にあって、こうした祈りの存在を象徴として戴いていることは、一国民として誇りに思う。




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2014
09.22

祈りを込めた木簡(モッカン)は六角形 ―無限のつらなりへ―

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六角形の木簡〉

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〈木簡マンダラ〉

 人類は地・水・火・風をずっとイメージしてきた。
 仏教がそれに空(クウ)を加え、お大師様が識(シキ)も加えて六大(ロクダイ)の思想ができた。
 北尾克三郎師は「エンサイクロメディア空海」において、六大を物理的秩序とし、解説した。

 空海の『即身成仏義』即身の詩の第一句に
六大無碍(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)なり」(固体<地>・液体<水>・エネルギー<火>・気体<風>の存在要素と、それらから成るあらゆる生命とその生命の有する知覚<識>は、空間<空>の中で常にさえぎるものなく、無限に結びつき、とけあっている)とある。

 同じことを『生態学入門』でも説く。

「住み場所は、空間であり場所である。それは、生物自身が、そして世界の構成要素自身が、すべては空間的にしか存在していないという構造によっている」
とある。

 また、
「各種生物の生存するこの空間は、物質によって形成される地形<固体>と、その場所の気候<エネルギー>や土壌、水質<液体>と、大気<気体>によって物理的特性をもち、そこを棲み分ける生物(植物/動物)によって、景観という相互に知覚<意識>しあう環境を生じている。
(このあらゆる生物の有する知覚能力とエネルギー代謝による広義の意味での意識が空海の説く<識>である。この要素を加えて、地・水・火・風・空・識の六大を存在の構成要素としたのは空海の先見であった)
とある。

 空海は今日の生態学によって分析された存在の根元となる要素とまったく同じ要素をすでに洞察していた。
 そうして、それらによって形成される物理的秩序の中にヒトの存在を置いた。


 大乗仏教の根幹は菩薩(ボサツ)になるための六波羅蜜(ロッパラミツ)行である。
 当山では六角形のマンダラに表し、修行を行っている。

20140922六波羅蜜の修行

 今回、当山は、「不戦日本」の祈りに賛同される方々の願いを込めた木簡(モッカン…木製のお札のようなもの)を六角形とした。
 六角形はマンダラを形成し、どこまでも連なることができる。
 お大師様が説かれた六大の思想にちなみ、人間存在の構成要素すべてをかけて不戦を願い、菩薩(ボサツ)の行をふまえ、同志の思いを堂内いっぱいに広げてゆきたい。
 日本国中へ広げたい。
 世界へ、地球へと広げたい。
 申し込まれた順に貼られる木簡は無限につながり、広がる。
 願いをエネルギーとし、不戦日本を貫きたい。
 その先にこそ、世界の平和も見えてくるのではないか。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
09.22

共に雨宿りを、共によき願いを ―彼岸供養会を行います―

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〈日陰にあれど〉

 9月23日午前10時より、秋の彼岸供養会を行います。
 唱える「相互供養和讃」です。

「一樹の陰の雨宿り 一河の流れくむ人も 深き縁(エニシ)の法(ノリ)の道 歩むに遠き行く手をば 情に包む人の慈悲 供うる人も受くる身も 共に仏の御光(ミヒカリ)を 受けて輝く嬉しさに 施主(セシュ)の功徳(クドク)を讃えつつ お御名(ミナ)唱えて報いなん 南無大慈如来(ニョライ)尊 南無大師遍照(ヘンジョウ)尊」


(一樹の陰の雨宿り…同じ木陰で憩うのも
 一河の流れくむ人も…同じ渓流の水を汲むのも
 深き縁の法の道…前世からの深い因縁の法による
 歩むに遠き行く手をば…輪廻転生の果てしなく長い道行きにあって
 情に包む人の慈悲…思いやりが情という潤いで包む
 供うる人も受くる身も…布施行を行う人も布施に救われる人も
 共に仏の御光を…共にみ仏のお慈悲の光を
 受けて輝く嬉しさに…受けて生き生きと輝ける嬉しさに
 施主の功徳を讃えつつ…施主の功徳を讃えながら
 お御名唱えて報いなん…救い主のお御名を唱えてお報いしよう
 南無大慈如来尊…大いなるお慈悲を持った尊い如来様へ帰依(キエ)します
 南無大師遍照尊…大日如来となった尊いお大師様へ帰依します)

 金剛流御詠歌の歌詞です。
 これを読むたびに、人の心を潤す思いやりのありがたさが身に沁みます。
 そして、その源泉であるみ仏とお大師様へ自然に頭が垂れます。

 唱える発願(ホツガン)の文です。          

「いまだ苦しみを離れざる者には、願わくは苦しみを離れしめ、
 いまだ楽しみを得ざる者には、願わくは楽しみを得せしめ、
 いまだ菩提心を起こさざる者には、願わくは菩提心を起こさしめ、
 いまだ悪を断じ善を修せざる者には、願わくは悪を断じ善を修せしめ、
 いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」


 江戸時代に活躍した慈雲尊者(ジウンソンジャ)の文章です。
 これを唱えるたびにありがたくもあり、身が引き締まりもします。

 参加された方々へは、光明真言の祈りを込めた聖なる御砂をお分けいたします。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まか ぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」


 この真言にはブログ「御守となる言葉は?」に書いたとおりの意味があります。

・おん…あらゆるものを捧げ尽くして帰依します
・あぼきゃ…み仏は、この世でも、あの世でもお救いくださいます
・べいろしゃのう…この身は大日如来そのものになります
・まかぼだら…私たちがそのままみ仏であると認め、悟りの境地へ導いてくださいます
・まに…宝珠のご利益で、この世でも、あの世でもよき願いが叶い、この上ない安楽が得られます
・はんどま…蓮華のようなお慈悲によって罪障が消え、慈悲の心が起こります
・じんばら…智慧の光明で愚かさが消え、ご縁の浄土へお導きくださいます
・はらばりたや…宝珠と蓮華と光明の功徳が私たちの迷いを悟りへと転じて、み仏になります
・うん…罪障によってこの世の地獄にいた私たちは、たちまち浄土の住人になります

 そして、光明真言土砂加持(ドシャカジ)法を結んだ砂には以下のような功徳力があるとされています。

・迷いを脱し、平安へと向かわせる
・過去の罪過を清める
・死者を地獄へ向かわせない

 もちろん、真言を唱えさえすればよいのではなく、聖砂を持ちさえすればよいのではありません。
 何よりも大切なのは、心を澄ますということです。
 ご本尊様へ向かい、先亡の方々へ想いをいたし、損得や効率に追われている日常生活のパターンを離れて合掌することです。
 右手は聖なるもの、左手は自分、それが一つになる感覚を持った上で、真言を唱え、聖砂を所持し、あるいは撒きましょう。
 その時初めて、言葉は言霊として力を持ち、砂は冥加(ミョウガ…知らぬ間に授かる仏神のご加護)を発揮することでしょう。

 どなたでも自由に参加できます。
 どうぞおでかけください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2014
09.21

今年も「法楽農園」は稲刈りの時期になりました

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〈実るほど頭を垂れる稲穂かな〉

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〈見頃の小さな睡蓮〉

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〈宮床川の清流〉

 おかげさまで、今年の「法楽米」も、今のところ順調に育っています。
 昨年、当山の法務に賛同した方からいただいた農園に、無農薬、無肥料でお米を作りました。
 なかなか手がまわらず雑草に負けそうになりましたが、ようやく持ちこたえ、ご縁の皆さんと自然の恵みに感謝することができました。
  
 よくお訊ねされます。
「なぜ、お寺が農園をやるんですか?」

 スタート時に掲げた文章を再掲しておきます。

「釈尊は説かれました。
『善き友を持ち、善き朋輩と共にあることは、この道のすべてである』
 そして、自らを弟子たちの友とされました。
『皆は、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身でありながら老いより自由になれる。
 病まねばならぬ身でありながら、病より自由になれる。
 死なねばならぬ身でありながら、死より自由になれる』

 皆さんが一切の我(ガ)を離れて共に笑い、共に汗を流し、共に食べ、共に励まし合いながら奉仕活動という尊い布施行を実践しておられる様子は、まさに釈尊の教団と同じです。」


 仏教の根幹である慈悲には友情という意味が含まれており、誰に対しても深い友情が持てれば生き仏になれます。
 そこにはストレスなどありません。
 お互いが〈見捨てない〉深い友情につながれていれば、安心で平和な社会になります。
 我(ガ)を離れて友情体験と解放体験をすることに、「法楽農園」の存在意義の一つがあります。

 さて、そろそろ、稲刈りをせねばなりません。
 お天気次第ではありますが、9月27日(土)の午前8自より行う予定です。
 昨年は一条刈りのバインダー一台で大変なご苦労をおかけしましたが、今年は、地域の農家の方が二条刈りのバインダー持参でかけつけてくださいます。
 また、はせ掛けによって自然乾燥を行うため、竹や材木で大きな台を作らねばなりません。
 作業は27日(土)、28日(日)29日(月)と3日にわたる予定です。
 たとえ身近な時間でも、お手伝いいただければ幸甚です。
 共に〈法友〉として汗を流し、共に笑い合い、共に実りの恩恵に与りたいものです。
 皆さんのご参加を心待ちにしています。
 なお、参加される方は事前にどうぞ、ご連絡ください。
 連絡先は以下のとおりです。

 電話:022(346)2106 午前9時より午後5時まで
 ファクス:022(346)2107
 メール:ryuuchi@hourakuji.net

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2014
09.20

自分だけがよければ、幸せになれるか? ―個人的、集団的、国家的利己主義の問題―

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 おかげさまにて、このたび、古い地蔵堂の柱と屋根を利用してベニヤ板を貼った仮不戦堂が完成しました。
 百万返の祈りに向けての準備は最終段階に入りました。

 さて、地球上では、いたるところで国家の枠組みが揺らぎ、崩壊しつつあります。

1 アメリカの問題

 自由主義の旗頭であったはずのアメリカでは、8月9日に黒人の少年が白人警官に射殺された事件をきっかけに不穏な空気が広がっています。
 事件があったミズーリ州セントルイスの郊外にある町ファーガソンでは、1980年、白人が住民に占める割合は85パーセントでした。
 ところが、セントルイス北部地域が開発されて不動産価格が高騰した結果、住めなくなった黒人がファーガソン周辺へ移住し、白人たちは出て行きました。
 その結果、2008年には黒人が7割となりました。
 近隣約90地区で同様の現象が起きています。
 セントルイス郊外に暮らす黒人の失業率は白人より10ポイント高く、4人に1人が貧困レベル(4人家族で年収2万3千ドル)以下の暮らしをしています。
 ファーガソン近くに実家がある弁護士スティーブン・シューツ氏(46才)は、帰省中のデモや混乱に驚きました。

「富める者はさらに豊かになり、貧しい者は貧困のまま取り残された」(9月19日付朝日新聞)


 白人富裕層は合法的に自分たちだけで住み、税金を住民たちだけで使う新しい〈市〉を続々と誕生させ、警官や警備員など武装した人々に守られる地域は、医療も教育も治安も最高水準が保たれています。
 一方、膨大な数の貧しい人々だけがとり残された周辺地域では何かもが不足し、悲惨さが増し続けています。
 アメリカでは、人種問題の解決を旗印として登場したオバマ大統領が、白人と黒人間の「分断の象徴」とまで言われ始めました。

2 中国の問題

 今や世界の経済を牛耳る勢いの共産主義国中国では、とんでもない現象が起こっています。
 9月19日付の産経新聞は「米『妊婦ホテル』中国人殺到」と報じました。
 中国人富裕層の間で、子供にアメリカ国籍を取得させようと、観光査証(ビザ)でアメリカへ入って出産することが流行し、そうした人々を囲い込んで一儲けしようとする人々が閑静な住宅地の豪邸を「マタニティーホテル」として違法に改造し、問題が起こっているのです。
 言葉も文化もふるまいも全く異質な人々が急に入り込んだ結果、地域の雰囲気は一変し、ゴミや景観や近所づきあいなどで深刻な問題が発生しています。
 ロサンゼルス郊外のチノヒルズでは、元市議で弁護士のロザンナ・ミッチェル氏が市議会への署名運動を始めました。

「市民権をお金で買っているようなものだ。
 法律に違反していないからといって道徳上認められるのか。
 国籍は正しい手続きで認められるべきだ」


 中国で富を蓄え、社会へ一定の影響力を持つ立場にある人々が、自分の国を中国人としての子孫に託さず、子孫が思想的・経済的・軍事的に対立するアメリカ人になることを望むとは信じがたい状況です。
 そうした人々にとっては、祖国の国土も国民も、自分が儲け、子孫が儲けるための道具でしかないのでしょうか?

3 「人間の安全保障」の問題

 国際協力機構(JICA)の特別顧問を務める元国連公使緒方貞子氏(87才)は、かねて、国連の場で「人間の安全保障」を主張してきました。
 戦乱によって、暮らしを破壊された人々を周囲の国などが国として保護できなくなっているからです。

「本来なら、難民を保護する責任を果たすべき国家が崩壊し、国境線が変わっていく。
 混沌とした状況では戦時法規の適用もできない。
 現実を直視して、戦地であろうとなかろうとどうやったら人間の命を守れるか、が問われています」
民主主義や自由化が進み、人間の利己的な部分が出れば、分裂する方向に動くことが多い。
 ソーシャルメディアなど情報テクノロジーが進展した結果、人々のつながりが細分化し、多様化している。
 人間はどういう形でなら、お互いを信用して、ともに生きていけるのだろうか。

 何か共通のもの、共通の利害というものはないか。
 宗教にその役割を負わせるのは難しい面もある」(9月17日付朝日新聞)



4 利己主義が諸悪の根源

 個人が利己的にどこまでも自己主張しようとすれば、人間間の距離はどんどん遠くなります。
 気の合う人と好きなことをして暮らそうとすれば、社会的枠組みは、何もかもが邪魔になるでしょう。
 ――生活を支え合う法的ネットとしての国家すらも。
 気に入らぬものを排除せずにいられない気持が高まれば、必ず争いが起き、戦いも起きます。
 緒方氏が指摘するとおり「民主主義や自由化」は個人にも、政治的・宗教的グループにも、社会にも、国家にも「利己的な部分」を増大させ、現在の混乱や戦乱はその結果、必然的に起きているのでしょう。

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 こうした生活空間にあって、私たちは安心な暮らしを営めるでしょうか?
 今こそ、お互いのいのちは一つであるという感覚、他を害することは厭わしくおぞましいという感覚を取り戻したいものです。
 この不戦堂が、そうした心をつくるために役立てるよう願っています。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
09.19

思春期の過ごし方は? ―ヤフー知恵袋(1)―

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 ヤフー知恵袋での質疑応答です。

思春期をうまく乗り越える方法&考え方は?」
思春期に悩んでいます」

 思春期は、自分自身も含めてようやく生身(ナマミ)の人間に触れる時期です。
 悲しみが胸にズンときて、やるせなくなります。
 喜びが世界中へ広がって、心のカンバスに力強く未来を描きます。
 怒りで心が煮え立ち、破壊のエネルギーが全身に燃え上がります。
 ワクワクする楽しみを知り、抜けられなくなりそうな自分を感じます。

 この時期に最も大事なのは、他人のそうした思いも知り、想像力の幅を広げることです。
 自分の気持だけが強くなると、ちょうど真剣の抜き身(鞘から出した刀身)を手にして歩くようなもので、ふとした拍子に誰かを傷つけたり、周囲から煙たがられたり、困り者扱いされたりするかも知れません。
 不満や不安や苛立ちばかりが高じて、やるべきことに集中できず、心がオロオロするかも知れません。

 想像力の幅を広げるには何と言っても読書をすることです。
 それも、あらすじだけを知っておしまいにするのではなく、作品そのものと姿勢を正して向かい合いましょう。
 文学であれ、評論であれ、科学であれ、芸術であれ、作者や登場人物や景色や状況や世界などに魂が震えれば、それは、想像力という人間性を深め高める力を自分から引き出す大切な体験なのです。
 想像力は、智慧と慈悲の源泉とも言うべきものであり、人が真の意味で大人(オトナ)になれるかどうかは、畢竟(ヒッキョウ)、他人の哀しみを〈想像〉できるかどうかにかかっているのです。

 もう一つ、大事なのは、自分という意識にあまりこだわらないことです。
 医学博士の養老孟司先生が繰り返し述べておられるように、〈頑として動かない確固たる自分〉などというものを大切にするのなら、教育も宗教もいらないことになって、人は荒(スサ)み、社会はトゲトゲしたぶつかり合いの巷(チマタ)になってしまうことでしょう。
 ありとあらゆるものが生まれては消え、変化し続けているように、人もまた一生、変化し続けます。
 その変化の方向性を上向きにしたいからこそ、貴方はこうした質問をされたはずです。
 できることなら〈本質的に変わらない本当の自分〉といった観念にとらわれませんよう。
 限りない良き変化を求めるからこそ、学ぼうとするはずです。
 その時々に、結果として表れているのが〈その時点での自分〉であり、それ意外に〈てこでも動かない自分〉などというものを想像しないようにしましょう。
 そんな観念は、(ガ)を強め、他人へ非情になり、傷つけ合う人間関係をつくりだすだけです。

 自分を忘れるような、詩や音楽や山登りに親しみましょう。
 (ガ)に閉じこもるよりも、(ガ)を解放する体験こそが人間性を大きく豊かにし、社会人として円滑な人間関係を築いて行く底力をもたらすことでしょう。

 最後に、老婆心をつけ加えます。
 ご質問の「うまく乗り越える」には、〈手っ取り早く手段を見つけよう〉、あるいは〈便利な道具が欲しい〉といった気配が感じられます。
 残念ながら、人生においては、そうしたものはないと早めに覚悟した方が人生を誤りにくくさせます。
 現代人はスキル(=道具)という観念に犯されています。
 スキルがなければうまく人生を渡れないという強迫観念に取り憑かれているように見受けられます。
 読書のところで書いたとおり、知識としてあらすじを知り、何かのおりに作品について弁舌爽やかに解説してみせることよりも、読書で魂を震わせた体験によって他人の心をおもんばかり、置かれた状況の意味するところを想像し、思いやりと智慧をもって生きて行くことの方が100倍も大切なのです。
 くり返しますが、人生をうまく渡るための手っ取り早く手に入る道具はありません。
 読書をし、〈自分〉を忘れて夢中になり、温かい心を養い、を張らない人になってください。
 この駄文を書かせていただいたことに深く感謝します。合掌





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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
09.18

死ぬ時、心はどうなるのか? ―立花隆の臨死体験思索(その1)―

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 9月14日、NHKテレビは、「臨死体験 立花隆 思索ドキュメント 死ぬときはどうなるのか」を放映した。
 古希を超え、ガンを抱えた氏が、自らの死後に迫るドキュメントである。
 ナレーターは言う。
「人類永遠の謎に迫る旅が始まりました」
 以下、順に追ってみよう。

 立花隆(74才)は哲学、宗教、脳科学まで様々な分野を自ら取材してきた作家である。
 この日、頭に被ったのは、磁気で脳を刺激するヘルメット。
 人が死ぬ時に見るという風景を疑似体験しようとしていた。
 終わって訊ねられる。
「どういう感じでしたか?」
 答える。
「悪くありませんでした」
 探求者の姿を見せられた。
 
はどこから生まれるのか」
「死んだらはどうなるのか」
 脳波から遺伝子まで、様々な手法を用いて科学者たちはこの疑問に挑戦してきたが、「脳と」の詳しい関係は未だに解明できていない。
 立花隆は、臨死体験がこの謎を解く大きな鍵だと考えている。
 臨死体験とは、停止などによって脳の活動が止まった時に見るという不思議な現象である。
 臨死体験者の女性は語る。

「その時、私のは身体を抜け出し、手術室の上の方へと上がっていきました。」


 同じく女性の談である。

「私は神秘的な存在に導かれ、宇宙のような空間へ行きました。
 そこで突然、光に包まれたのです」


 心が身体を抜け出し、光に包まれる美しい世界へたどり着くという体験。
 心は死んでも存続し続ける特別なものだと多くの体験者は考えている。

 科学者たちは〈神秘〉に挑戦し、今、この不思議な現象を脳のはたらきで解き明かそうとする研究が急速に進んでいる。
 脳科学者の言である。

「心が身体を抜け出すと感じるのは、身体を認識する脳内の仕組みがはたらかなくなるせいかも知れません。
 実際に身体が宙に浮いているのではなく、脳内の記憶や夢のようなものなのです」


 科学は心が脳で生まれることを明らかにしつつあり、動物や機械にも心が存在し得るという最新の研究も現れているという。
 脳科学者の言である。

「将来、心を持ったコンピューターが作れるでしょう。
 心を創るためにもはや、魔法のようなものは必要ないのです」


 立花隆は思う。

「人間の心の問題は、かつては、脳科学で扱えない世界の問題だと思われていた。
 そこを研究する人たちが増えてきて、心の世界は基本的にどういうものなのかという見方が非常に大きく展開し出した」

  
 人の心は死ぬ時どうなるのか?
 この先は、臨死体験を解き明かし人の心の謎に迫ろうとする立花隆の思索の記録である。

 テーマはこうなる。
『死の時、私たちの心に何か起きるのか』
『心とは何か』
『人間とはなにか』

 立花隆

「人の心はどこから生まれるのでしょうか。
 そして、人が死ぬ時、心はどうなるのでしょうか。
 今、私は74才です。
 そう遠くない時期に死を迎えるに違いありません。
 私が死ぬ時、自分の心に何が起きるのか。そこを知りたいと思いました。
 私はかつて、臨死体験について長い取材をしたことがあります。
 今回、臨死体験がその手がかりになるに違いないと思い、あらためてその現状を取材することにしました」


 人間にとっての最後の関心は、「自分の死」なのかも知れない。
 不安も恐怖も好奇心も、そこには、ある。
 もっとも、中には、ダライ・ラマ法王のように、死は修行の結果を確認するチャンスであり、心が新しい衣をまとう段階に来たと受けとめる人もいるが……。

 立花隆はまずシアトルへ飛び、36年前に結成された「国際臨死体験学会」の会場を訪ねた。
 各国から臨死体験者が集まり、その体験を話している。
 臨死体験に共通するのは体外離脱、そして大きな光に包まれ、幸福な気持ちになること。
 今は、心停止や深刻な脳停止の状態の人々の5人に1人が臨死体験者と言われている。
 救急医療の発達からか臨死体験者は年々増えているという。
 女性の体験談である。

「私は自分の身体を離れて浮き上がるのを感じました。
 そして、天井の隅に行き、自分のぐったりした身体を上から見下ろしたのです」


 臨死体験とは、心停止や深刻な昏睡状態で脳がまったくはたらいていないと思われる時にする体験である。
 共通する特徴は以下の二つ。
体外離脱…心が身体を抜け出すのを感じる
 天井から横たわる自分の身体や医師たちの姿を見たりする。
神秘体験…トンネルのような所を通り、光り輝く美しい世界へ導かれる
 親しい人に出会い、人生をまっとうせよと言われる。
 全知全能の大いなる存在と出会い、幸福な気持に満たされる。

 立花隆は一歩、進める。

「救急医療が発達したせいか、臨死体験の事例がどんどん増えていることがわかりました。
 臨死体験者の中に、脳外科医でありながら、『心はのようなもの、身体が死んでも生き残る』と主張している人がいると聞きました。 どのような科学的根拠でそう思うのか、確かめたいと思いました」


 いかに自分の体験に基づくとは言え、科学者が測定できない心やの永遠をどのような根拠から主張できるのかというのである。
 宗教といえども仏教は道理をもって考え、納得できたものを体験によって確認する。
 また、体験した内容を道理の物差しで考え、修行に転化して力とする。
 いずれにしても決して道理というフィルターを手放さないので、立花隆の姿勢には共鳴するところ大である。




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2014
09.17

公開Q&A(その7)僧侶はお葬式で何を考えているの?(その5 ご葬儀にて)

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質問7 お葬式ではどんなことを考えているのですか?

回答7 せっかくのご質問なので、お葬式当日だけでなく、お送りするための順番にそってお話しましょう。

 いよいよご葬儀の場について書かねばなりません。
 ご葬儀における導師の仕事はただ一つ、亡くなられた方が、この世とあの世との区切をはっきりとつけられるよう、み仏のご加護をいただくことに尽きます。
 引導(インドウ)を渡すのです。
 プロの僧侶としての修行は、この修法を行えるだけの法力を身につけられるかどうかにかかっています。
 もしも未熟ならば、それは手術の技術も精神も体力も整わない外科医の卵のようなもので、導師の席には座れません。
 引導とは読んで字のごとく、私たちの親であるみ仏が、「さあ、こちらへ」と、魂のふるさとへ引き入れ、お導きくださることです。

 おおまかに手順を述べてみます。
 導師が何をするかと言えば、まず、ご葬儀の場へ目に見えぬ結界を張り、清め、浄土とします。
 地鎮祭を想像してみてください。
 まず、しめ縄を張り、結界とします。
 それと同じです。
 地鎮祭では結界の中で、天神地祇(テンジンチギ…天地の神々)のご守護を祈りまずが、ご葬儀では、不動明王をはじめ、八方天地(ハッポウテンチ)十方世界(ジッポウセカイ)の守本尊様へ至心にご加護を祈ります。
 次に、ご本尊様と一体になった導師は、死者が本来、み仏の子であることを死者と共に確認します。
 そして、死者の心にみ仏の心が開いた時をみはからい、瞬時に解き放ちます。
 ――執着のこの世から、解放のあの世へ。
 その先は、手向けの祈りで、ふるさとへと帰り始めた死者の背をそっと押します。
 会葬者の焼香や合掌を伴った「ありがとうございました」「どうぞ安心の世界へ」「無事に行ってください」という清らかな思いもまた、行く道を清め、背中を押す力となります。
 最後にご本尊様へ感謝の祈りを捧げ、結界を解いた導師は、何のためにお線香を捧げるのかといった供養の根本についてお話し申しあげてから、退がります。

 手順でおわかりのように、導師は必ずご本尊様と一体になり、死者とも一体になり、別れの峠に立つのです。
 死者はそこからあの世へ向かい、導師は、いったん、日常の次元に戻ります。
 こうしたことをくり返している身としては、臨死体験をした人々が語る光景はあまりにも当然としか考えられません。
 そこはまぎれもなく安らぐ〈峠〉なのです。

 では、帰ってきた導師はいかなる心持になるのか?
 それは、よく訊かれるご質問に答える形にしてみましょう。
「お坊さんは相当な修行をしたんでしょうねえ。
 何が一番大変でしたか?」
「皆さんとあまり変わりありません。
 板前さんが一人前になるまでは下積みのご苦労があるはずです。
 イチロー選手もいかなる練習をしていることやら。
 でも、私たちは料理を楽しみ、プレーを楽しむだけです。
 カモがゆったりと水面を滑る姿に気持が休らいでも、いちいち、水面下で激しく動く足を見ようとはしないのと同じです。
 何年座ろうと、何年歩こうと、いかなる護摩を焚こうと、僧侶だけがそうした〈カモの足〉を問われる必要性はなく、自分もやろうとするる人以外は、関心を持っても無意味です。
 僧侶が自らに課しているのはただ一つだけです。
「ご縁の方々の求めに応じてプロならではの適切な対応ができるかどうか?」
 板前さんやスポーツ選手と何ら変わりありません。
 言いたいことは、一般的なイメージとしての「修行」などは下準備でしかなく、「大変」なのは、板前さんやスポーツ選手と同じように、プロとしての役割を果たす、つまり、結果を出すことであり、高度な修行は、そうした現場においていつも継続しているということです。

 回り道をしました。
 気持そのものについて書きましょう。
 自分の弟弟子や妹弟子を先に送ることは実に辛いものです。
 由緒も来歴もなく、無から始めた当山は、地域性や義理などとは関係なく、純粋に当山の法務に納得してご縁を求める方々をお送りしています。
 生前に「万が一の時はお願いします」と申し出る方々はすべて、導師より後から仏道へ心を定めた仏弟子であり、年令を問わず可愛い弟弟子か妹弟子です。
 あるいはそうした方々の大切なお身内です。
 だから、生木を裂かれるような思いになります。
 同志を送り、自分はこの世に留まらねばなりません。
「私も後から行きます……」
 こう、手を合わせています。
 おりおりに、特攻隊を指揮した海軍中将大西瀧治郎の残した言葉「おれもゆく、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて」を思い出すのには、こうしたわけがあります。
 幾度も、幾度も、「私も後から」と手を合わせることになった因縁を考えると、自分の悪業(アクゴウ)の数々に思い至り、祈りを深めるところにしか救いの道はありません。

 ご葬儀に関しては、こんな思いを懐きつつ、役割を果たしています。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
09.16

御守となる言葉は? ―hasunohaへの回答について(5)―

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〈常禅寺ジャズフェスにおける入魂のゴードン鈴木〉

 僧侶への質問コーナーhasunohaに寄せられた質問の骨子です。

看護師ですが、患者さんが不安恐怖で辛い時に繰り返し唱えられる御守としての言葉はないでしょうか?」

 当山の回答です。

「貴方様が求めておられる『お守のような言葉』をマントラ(真言…真理・真実の言葉)と言います。
 有名な般若心経は、最後にある『ぎゃてい、ぎゃてい~』というマントラの功徳(クドク)を説いたお経です。
 当山では、日々、貴方様のように救いを求める方々がご来山されており、何よりもまず、誕生と共にご縁となる一生の守本尊様の真言をお伝えし、それが書いてある手作りの御守を見ながら一緒にお唱えしていただきます。
 その内容は以下のとおりです。
・千手観音―子(ネ)年生れの方―『―おん ばざら たらま きりく』 
・虚空蔵菩薩 ―丑(ウシ)・寅(トラ)年生れの方―『のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか』
・文殊菩薩―卯(ウ)年生れの方―『おん あ ら は しゃ のう』
・普賢菩薩―辰(タツ)・巳(ミ)年生れの方―『おん さんまや さとばん』 
・勢至菩薩―午(ウマ)年生れの方―『おん さん ざん ざん さく そわか』
・大日如来―未(ヒツジ)・申(サル)年生れの方―『のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん』
・不動明王―酉(トリ)年生れの方―『のうまく さんまんだ ばざらだん かん』
・阿弥陀如来―戌(イヌ)・亥(イ)年生れの方―『おん あみりたていせい から うん』 
※すべてに通じる真言『あびらうんけん』(瞑想でも用います)
 なお、お唱えのやり方は以下の各ページで音声を確認してください。
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/
 古来の叡智を生かし、『患者さんが不安恐怖で辛いとき』にこそどうぞ、お教えください。
 貴方様のまごころが患者さん方へ届き、皆々様へ大きなご加護がありますよう。合掌」

 長い真言なのでご紹介しませんでしたが、スペードのエースのような真言としては光明真言が欠かせません。

「おん あぼきゃ べぃろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」


 以下、光明真言和讃に合わせて、言葉の持つ意味(功徳の力)をまとめておきます。
 当山では、ご縁の方々のために日々、この真言を欠かさず唱えています。

・おん…あらゆるものを捧げ尽くして帰依します
「おん」の一字を唱うれば
 三世(ミヨ)の仏にことごとく
 香華(コウゲ)燈明飯食(オンジキ)の
 供養の功徳具(ソナ)われり」

・あぼきゃ…み仏は、この世でも、あの世でもお救いくださいます
「あぼきゃ」と唱うる功力(クリキ)には
 諸仏諸菩薩もろともに
 二世(ニセ)の求願(グガン)をかなえしめ
 衆生を救(タス)け給うなり

・べいろしゃのう…この身は大日如来そのものになります
「べいろしゃのう」と唱うれば
 唱うる我等が其のままに
 大日如来の御身(オンミ)にて
 説法し給う姿なり

・まかぼだら…私たちがそのままみ仏であると認め、悟りの境地へ導いてくださいます
「まかぼだら」の大印(ダイイン)は
 生仏(ショウブツ)不二(フニ)と印可(インカ)して
 一切衆生(シュジョウ)をことごとく
 菩提(ボダイ)の道にぞ入れ給う

・まに…宝珠のご利益で、この世でも、あの世でもよき願いが叶い、この上ない安楽が得られます
「まに」の宝珠(ホウシュ)の利益(リヤク)には
 此世をかけて未来まで
 福寿(フクジュ)意(ココロ)の如く(ゴト)にて
 大安楽の身とぞなる

・はんどま…蓮華のようなお慈悲によって罪障が消え、慈悲の心が起こります
「はんどま」唱うるその人は
いかなる罪も消滅し
 華(ハナ)の台(ウテナ)に招かれて
 心の蓮(ハチス)を開くなり

・じんばら…智慧の光明で愚かさが消え、ご縁の浄土へお導きくださいます
「じんばら」唱うる光明に
 無明(ムミョウ)変じて明(ミョウ)となり
 数多(アマタ)の我等を摂取して
 有縁(ウエン)の浄土に安(オ)き給う

・はらばりたや…宝珠と蓮華と光明の功徳が私たちの迷いを悟りへと転じて、み仏になります
「はらばりたや」を唱うれば
 万(ヨロズ)の願望(ガンモウ)成就して
 仏も我等も隔てなき
 神通(ジンツウ)自在の身を得(ウ)べし

・うん…罪障によってこの世の地獄にいた私たちは、たちまち浄土の住人になります
「うん」字を唱うる功力(クリキ)には
 罪障(サイジョウ)深きわれわれが
 造りし地獄も破(やぶ)られて
 忽(タチマ)ち浄土と成りぬべし




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
09.15

ジャズ、ありがとう! 「ビバップス」バンザイ! ―ジャズフェスティバル―

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〈華やかに〉

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〈切々と〉

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〈突き抜ける〉

 仙台ストリートジャズフェスティバルの大トリで「ビバップス」にいる知人が演じると聞き、でかけた。
 ピアノ、ベース、ドラムのリズム陣にエレキが二本加わり、ペット、サックス、トロンボーンが吹きまくるという豪華な陣立ては相変わらず華やかで、演奏者の高揚した魂が把になって「人生、嬉しいじゃないか!」と訴えかけてくる。
 ピアノはどこまでも端正だ。
 ベースはたとえようもなく誠実だ。
 ドラムの抑揚は隙なく決まっている。
 低いエレキはズンズンと地へ届き、高いエレキは鳥のように飛び回る。
 ペットはあまりにも真っ直ぐだ。
 サックスはあまりにも深い。
 トロンボーンはあまりにも人間的だ。

 そもそも、モダンジャズは不思議な音楽である。
 1950年代から60年代になぜ、あそこまで完成度を高められたのか?
 世界大戦の後、〝家畜以下〟とまで言われるほどの扱いを受け続けてきた黒人層から何が起こり、なぜ、短期間に到達してしまったのか?

 かつてジャズ・バーを経営をしていた作家の村上春樹氏は、こう語っている、
「物語を語ることがあなたを癒します。
 良い物語を語ることができれば、あなたは癒されます。
『ねじまき鳥クロニクル』は、僕が言うところの『全体小説』にしようと努力しました。
 登場人物によって語られる物語の集まりなのです。
 登場人物はお互いに癒しあっています。
 あの小説は癒しの本なのですよ。
 あなたが外の世界、新しい景色の出現に心打たれた時、その愛があたなを癒します。
 良い物語を語ることは愛の行為だと思います。
 そのことが、僕が本を書く理由だと考えています。
 僕は、自分自身を癒したいと願っているのです。」

 そもそもジャズとは、不屈の魂が幾層にもなっている覆いをすべて突き破り、青空へ達したいという〈人間〉の営みではなかったか?
 多くの天才的演奏者がドラッグへ走ったのも、突き破りきれないもどかしさに耐えられなかったからではないか?
 事実、破滅する前に戻ってきた彼らの中には、以前の神がかり的な技術とは色合いの異なった形で〈神〉の世界を感じさせるまでの作品を残している者もいる。
 こうした営みは「癒し」と言えるのかも知れない。
 しかし、現代人がイメージする優しさにくるまれて得られる癒しとはまったく様相が異なる。
 壮絶な戦いの果てにようやく見えた、あるいは見えるような気がした、そういった青空ではなかったか。
 マイルスもコルトレーンもエバンスも、死屍累々の戦場をかろうじて生きぬいた人々である。

 若い日々、こうした苦闘と癒しに接し続けた村上春樹氏が「癒し」と言う時、悠然と水面を滑るアヒルが水面下で激しく足を動かしている様子が連想される。
 語り口のさりげなさは、かえって、氏の隠された戦いを想わせる。

 さて、「ビバップス」の演奏を聴いた帰り道、とても解放された気分だった。
 癒しの本質は解放ではないか。
 自分の「物語」をちゃんと創り、あるいは語るための欠かせない下準備ではないか。
 半世紀前に魂をかけてその方法を確立してくれた人々の恩恵を受けてこそ、今の演奏者も聴衆も癒され、救われ、未来への足どりに力を込められる。
 ジャズ、ありがとう!
ビバップス」バンザイ!




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2014
09.14

かたちなきものまで暮れて秋の暮れ ―八田木枯の異界―

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 平成24年、87才で逝去された八田木枯の句である。

「かたちなきものまで暮れて秋の暮れ


 秋はどんどん日が短くなり、暮れてきたかと思う間もなく、もう、宵闇へと沈み込んで行く。
 春のど真ん中は4月、秋は10月。
 この2ヶ月の平均気温を比べると、10月の方が6度も高い。
 秋はそれだけ夏を引きずっており、夕刻になると気温の低下がはっきりと感じられ、降りてくる夜のとばりとあいまって、何かが過ぎゆく心持ちに強く掴まれる。

 そんな秋の暮れには、かたちのないものまで一緒に暮れて行くという。
 ――この世ならぬ者。
 私たちは普段、暗さという背景があってこそ、異界の者の存在に気づくと思っている。
 しかし、作者は違う。
 先亡の祖霊や彷徨う亡者や徘徊する幽鬼などが生者と暮れを〈共にする〉ということは、彼らが闇の到来を待って現れるのではなく、普段から生者のそばに在るのだ。
 死者と同伴して生きているという作者の実感は、私たちの感覚を遥かに超えている。

 こうした世界に接すると、松尾芭蕉の句は、自分も世界も、この世の者同士で溶け合っているという平穏さを持っていることに気づく。

「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」


 藤原定家の一首も同じである。

「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋(トマヤ)の秋の夕暮」


 実にストレートに「寂しい」し、「あはれ」でもある。

 作者は、こうも詠んだ。

「秋の暮きのふにまさる暮ならむ」


 昨日と今日とで暮れ具合を比較している。
 それは確かにそうに違いないが、私たちは普段、数字化したデータを示されてから「もう、そうなのか」と思う程度である。
 感得できない世界は、ないに等しいのである。

 次は、同じように、そうあるはずなのに100人に1人も見えていない世界が示された一句である。

「家じゆうの柱のうらの稲光り」


 黒雲から一瞬走った稲光が家中を満たし、視界の及ばない柱の裏側までもがありありと照らし出された光景は、作者の目にリアルなのだ。
 ここまで行った鋭さには凄まじさが加わる。
 

「亡きが障子あけずに入り來し」


 障子を立てた居間へ、亡きが障子を透過して入ってきた。

「亡きが蒲団を敷いてから帰る」


 帰宅した自分の寝室に布団が敷いてあると錯覚したのだろうか。
 白い布団の幻は、亡きの手によるものでしかあり得ない。
 
 慕う心はこんな句まで作ってしまう。

に抱かれてわれまつさきに囀(サエズ)れり」


 この世に生まれたての自分が親へ思いのありったけをぶつけ、おぎゃー、おぎゃーとさえずったと言うのだ。
 母を慕う激しいまでの想いは、嫉妬や怒りを引き起こす。

「母に傷つけて素知らぬ糸すすき」


 母が芒に触れて軽い擦り傷をつけた時、その「素知らなさ」へ心の牙を剥いている。
 その前提として、柔らかく温かい母の肉体のなまなましさを心身挙げて掴み、守り、それに溺れてもいる魂がある。
 溺れには、さらなる証拠がある。

「漣(サザナミ)に晝寢の母を偸(ヌス)まれし」


 実際に、さざなみの立つ湖畔で昼寝をしている母のそばにいたのだろうか。
 漣は琵琶湖西南沿岸一帯をも指すので、そうした地域にいて昼寝をする母の心象風景へ入ったのだろうか。
 いずれにしても、いつも自分へ向いてくれているはずの母親の関心が、昼寝によって離れてしまっていることに寂しがり、苛立ち、〈盗んだ〉さざなみへ嫉妬してもいる。

 最後に、作者の異能ぶりを示す句を数句、挙げておきたい、

「ふたりして笑うてをりぬ墓参人」


 笑っている2人を虚空からじっと観ている無数の死者の目。

「月光が釘ざらざらと吐き出しぬ」


 月光はあまりにも鋭い。

「月光はけものなりけり皿を咬む」


 月光に白々と輝く皿には、光の刃が食い込んでいる。

「とび翔(タ)たぬ鶴をいぢめて折りにけり」


 鶴を折る指の強さが持つ無情さ。

原爆忌折鶴に足なかりけり」


 足のない折り鶴は、不条理なものに何もかもを奪われたままになっている死者そのものだ。

「昼寝より覚めしところが現住所」


 ただ、ここがこの世の自分の居場所……。




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2014
09.13

お布施にお礼を言わぬ僧侶は三宝か、疑問に思えば罪か? ―hasunohaへの回答について(4)―

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〈Aさんと人生相談をしている最中に大きなオニヤンマが飛来し、目の前でしばらくじっとしてから飛び立ち、Aさんは「ああ、よかった」と安心、笑顔で帰られました。救いの共時性(キョウジセイ)を目の当たりにしました〉

 僧侶への質問コーナーhasunohaに寄せられた質問の骨子です。

「なぜ、僧侶はお布施に対してお礼を言わないのでしょう?
 お釈迦様は『自燈明、法燈明』と言い、三宝を敬えなどとは言わなかったのではありませんか?
 こうしたことごとは、後世の僧侶が都合良く設定したのではないでしょうか?
 こんなことを考える私は罪深いと思います」

 当山からの回答です。

◎お礼の問題

「お布施僧侶が受けとるものではありません。
 僧侶はみ仏にお仕えし仏法を学び実践して仏法とご縁の方々をお守りする行者であり営利目的の行動は行いません。
 だからお布施は皆さんが『おかげさま』とみ仏へ自主的に納めるものであって僧侶はそのうちから寺院を維持し自分が生きる分だけをいただきます。
 当山はあらゆる法務のお布施を皆さんのまごころへお任せし金額の請求をしません。
 請求書の分を領収する意味でのお礼はないのです。
 しかし清浄なお布施のおかげで寺院は成り立ち僧侶も生きて行けるので当然、感謝を込めて頭を下げます。
 言葉は当山においては『確かにご本尊様へお納めさせていただきます』となります。」

 かつて、托鉢にいそしんでいた日々を思い出します。
 こんな自分がお布施を手にする資格があるのだろうか?と悩みました。
 いただいたお布施はすべて、ご本尊様へお供えしてからしか、手をつけませんでした。
 今も同じ心でおります。
 お礼の言い方については仏法上の決まりがあるわけではなく、あくまでも、当山なりの判断と対応であることを申し添えます。

◎『自燈明、法燈明』と三宝について

「仏法は、聖者や行者によって時代と共により深くより精緻に研究され戒律の内容や祈るお次第もより洗練され続けています。
 今生きている人は誰一人、お釈迦様と同じ時代の空気を吸い同じ文化環境の中で生きてはいません。
 だから大切なのは『お釈迦様が言った』かどうかではなく、お釈迦様が説かれた空や慈悲や因果応報の真理をより深く学び実践することのみです。
 その方法がお釈迦様の時代にあったかどうかを詮索しても仕方がありません。
 み仏のお導きがなければ私たちは自分の霊性に気づきにくく、苦を脱することができません。
 み仏の教えとお力によってこそ私たちは苦を脱する道を歩めます。
 み仏と教えを守り法を実践する人がいなければ仏法という満月は群雲に隠れたままで救いの光はありません。
 だから仏と法と僧は人類の宝ものであり、現代における仏教徒の定義は第一に三宝を尊ぶ者とされています。
 ただし当山では、僧とは一行者だけを指すのではなく『み仏と教えを守り学び実践する人々』であり、出家者と在家者を問わないと考えています。
 それは、信じてお布施をしてくださる人が宝ものとして存在していなければ寺院は成り立たず、行者は生きて行けず、み仏も仏法も守られないからです。
 お釈迦様は私たちが自己主張などで言う『自分』を灯明とせよと説かれたのではありません。
 無知と我欲が主人公の自分を放逸の状態にしておくことが諸悪の根源であり、正しく管理せよと説かれました。
 だからこの場合の『自』とは、仏法の実践によって発見される真の自分、仏性に導かれたみ仏の子としての自分です。」

 実は、お釈迦様の生の言葉に最も近いとされている『法句経』に、こう説かれています。

「仏と真理と和合者とに帰依する者は、正しい智慧をもって四つの聖なる真理を観る」


 仏法僧に帰依し、学び、実践してこそ、「この世は苦であり、苦には原因があり、原因がある苦は原因を除去すればなくなり、除去するには方法がある」という真理が理解でき、救いへの道を歩めると説かれています。
 ここで僧侶を「和合する者たち」と説かれていることに注目しましょう。
 文脈としては、出家修行者たちでしょうが、大乗仏教まで進んだ現代にあっては、さらに〈み仏と、仏法と、仏道に生きる僧侶を尊び、寺院と僧侶の存続に手を差し伸べる善男善女〉すべてが含まれるものと考えています。

 また、『法句経』には、こうも説かれています。

「自分こそが寄る辺(ベ)であり、自分の他に寄る辺はあろうか。
 よく調え御された自分こそが得難き寄る辺である」


 仏法を学び、実践し、智慧の眼が開き、我欲などの煩悩に負けなくなった自分こそが真に頼れると説かれています。
 それはとりもなおさず、お大師様がこう説かれた世界です。

「仏法遥かにあらず、心中にして則ち近し」


 私たちはみ仏の子であり、そのことに気づき、み仏の子として生きる以外、仏法に救われる道はありません。
 それはとりもなおさず、み仏に救われていることなのです。
 ここのところをきちんと説かず、「ご本尊様へすがらず、自分で生きるように」とする気楽な解釈が散見されるのは残念なことです。

◎仏教で決まっていることに疑問を持つのは罪深いか?

 仏教は、「救われたければ、とにかく信じよ」という宗教ではありません。
 修行の手順はこうなっています。
 まず、よく知ること、次に、自分自身でそれをよく考えてみること、そして、納得できたならば修習すること。
 この二番目がポイントです。
 考えるために仏教以外の科学や哲学や社会学なども総動員してかまいません。
 自分の魂をかけて信じられるかどうか、自分で突き詰めてこそ真の救いを得られることでしょう。
 だから、見聞きしたことを鵜呑みにせず、疑問を持つことは尊い行為です。
 罪などどこにもありません。
 もしも、頭ごなしに「信じよ」「こうせよ」と言う僧侶がいたならば、罪深いのはそちらです。
 どうぞ、心配されず、考え、選ばれますよう。
 ご加護を祈っています。合掌




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2014
09.12

ダライ・ラマ法王の「『転生』廃止宣言」

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〈「ダライ・ラマ死の謎』を説く」よりお借りして加工しました〉

 9月11日、新聞各紙は、ダライ・ラマ法王の「『転生廃止宣言」を報道した。
 これは、現在のダライ・ラマ法王が〈最後のダライ・ラマ〉となることを意味する。
 以下は産経新聞による。

「チベット仏教の最高指導者、ダライ・ラマ14世(79)が、ドイツ紙ウェルトとの会見で、自身の後継問題をふまえて『チベット仏教の転生制度を廃止すべきだ』と述べたことが、波紋を非広げている。
 中国外務省の華春瑩報道官は10日の記者会見で『発言はチベット仏教の正常な秩序を大きく損なうもので、中央政府と信者は絶対に認めない』と反発し、転生制度の維持を求めた。」
「中国政府は、無神論を信奉する共産党の一党独裁ながら、チベットでの転生制度を容認。
 高位の活仏だったパンチェン・ラマ10世が1989年に死去した後は、ダライ・ラマ側と競う形で光景の霊童探しが展開され、中国政府『公認』の候補が『パンチェン・ラマ11世』となる一方、ダライ・ラマ側が選んだ別の少年は行方不明となった。」


 チベット仏教の精華を権力維持とチベット弾圧のために利用しようとするなど、あってはならない蛮行である。
 聖なるものを破壊し、俗化させ、消滅させようとする政策に耐えられないチベットの人たちは、焼身自殺をもって抗議し続けている。
 そもそも、ダライ・ラマ法王は、平成6年に出版された「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」の最終章で、こう述べている。

「最後のダライ・ラマになる覚悟はある

 私自身、ダライ・ラマ個人として、私自身の未来には何ら関心はない。
 ダライ・ラマという制度にも関心はない。
 ダライ・ラマという制度は人が創り出したものでしかない。
 長い年月、人々はダライ・ラマという制度になんらかの有効性を認めてきたというだけのことである。
 だからこそ、この制度は生き残ってきた。
 もし、人々がダライ・ラマの制度が過去の遺物となり、時代にそぐわないと判断すれば、それはそれでいい。
 自動的にこの制度は消滅するだろう。
 私はその存続にいかなる努力もする意志を持たない。
 もし、私のこの生命があと数十年ばかり続き、もし、人々がダライ・ラマの制度を不必要と感じるようになったなら、それはそれまでのことである。
 私は最後のダライ・ラマとなることに、いかほどの痛痒も覚えないだろう。
 私は一個の仏教徒であるのみだ。
 人間は本来すばらしい知性と情感を有している。
 このふたつが相携えて働くなら、正しい方向に向かって進むなら、人類愛や慈悲心がそこには湧き出てくるはずである。
 本当に大切なことはそれだけだ。」


 この件に関しては、以下のブログへ書いた。

 本当に大切なものは何か? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(45)─
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4267.html

 ダライ・ラマ制度がいかなるものであったか、ダライ・ラマ14世はいかなる活仏(カツブツ…生き仏)であったか、中国政府はいかに非人道的な政治を行ったか。
 こうしたことごとはいずれ、後世において明確になることだろう。
 法王が説かれた知性とは、道理をもって考える力であり、情感とは、天地万物と感応する力である。
 二つがきちんとはたらく環境世界であって欲しいし、そうした環境世界をつくりたい。
 私たち一人一人がそう願って精進する以外、仏教と人道における現代最高の叡智が世界中へ与えた宝ものに対する報恩の道はない。
 その先に、チベットの解放がもたらされますよう。




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2014
09.12

心身の解放を体験しませんか ―第五十五回寺子屋『法楽館』を開催します―

201409120001.jpg
〈河北新報様よりお借りして加工しました〉

 今月の寺子屋では、イス式のヨーガ瞑想の体験会を行います。
 私たちはいつしか心を縛りつけてストレスを生じさせ、心のストレスは身体を硬化させます。
 そうして固まった身体は心へストレスを与える悪循環に陥りがちです。
 イス式の楽に行えるヨーガと、伝統的な瞑想によって心身のストレスから脱しましょう。

 ヨーガでも瞑想でもマントラ真言)を唱えますが、インド政府公認ヨーガ教師である赤根彰子師によれば、マントラには6つの要素があります。

Rishi(リシ):聖賢(深く高い境地へ誘う)
Raga(ラーガ)):調べ(心身の流れを清らかで心地良くする)
Devata(ディヴァータ):神性(神性を持っている)
Bija(ビージャ):種子(霊性を開く根源となる)
Shakti(シャクティ)):霊的な力(霊性を動かす)
Kilaka(キーラカ):支柱(存在の支えとなる)


 また、お大師様は、嵯峨天皇へ説かれました。

「文字はあらゆる迷いを断つ」


 人の心は文字すなわち言葉としてはたらき、迷いも悟りも言葉と共に顕れます。

 9月7日付の河北新報は、作家高村薫氏の「文字の原理 解き明かす」を掲載しました。

「未(イマ)だ平仮名は誕生しておらず、日本語の表記としては漢字本来の意味と無関係な万葉仮名があるのみだった時代に、そうした文字をたんなる情報伝達の道具でなく、存在そのものと捉えたのが空海である。」
「文字とそれを口にするときに生まれる声(音)が世界の発生原理であり、また世界そのものだというこの驚異的な発想もまた、身体体験が根本にあるのは間違いない」


 また、マントラの母であり、瞑想においては本尊を象徴する「阿」という文字については、簡潔にまとめました。

「阿字の字義は、生じたり滅したりしない『不生(フショウ)』、初めということは因縁によって生じる『有(ウ)』、因縁によって生じるゆえに『空(クウ)』の3点である。
 そして、存在の根源としての阿字が生じることも滅することもない不生であると知ることは、自己のありのままを知って悟ることであり、だから大日如来はこの阿の一字を自らの真言にしたのだと説く。」


 インドの大地でお釈迦様の瞑想から流れ出した仏教の悟りと救いは、こうした根源的世界を開き、寺院においては宗教として、道場においてはヨーガとして2500年の精華を輝かせています。
 百聞は一見にしかずです。
 ご年配の方も楽に実践できます。
 解放のひとときを体験してください。

・日 時:9月13日(土)午後1自30分より3時30分
・場 所:法楽寺講堂
・参加費:1000円
・送 迎:午後1時に泉中央の「イズミティ21」前から送迎車が出ますので、乗車を希望される方は、必ず12日(金)午後5時までに022(346)2106へお申し込みください。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
09.11

『多毛留(タケル)』、席を譲った中国人、二つの真理

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1 不戦堂へのご意見

 当山の「平成の不戦堂を建立し、祈り、不戦日本を貫きましょう」という呼びかけに対して、さっそく、ありがたいご指摘をいただいた。

「それでは、誰が日本を守るのか。
 例えば中国が、韓国が日本領土に侵入してきたらどうするのか?
 米国に頼むのか、等々。
 嫌なことは他人任せで、きれいごとに過ぎるのではないのか。」

2 『多毛留(タケル)』のこと

 故米倉斉加年(ヨネクラマサカネ)が昭和51年に出版し、翌年、ボローニア国際児童図書展グラフィック大賞を受賞した絵本に『多毛留(タケル)』がある。
 平成24年には第43刷となっている。

 多毛留(タケル)は、海の向こうから流れ着いた娘と漁師の間に生まれた。
 ある日、15才になった多毛留(タケル)は、母親と同じように流れ着き、ようやく助けられた二人へ「百済人(クダラジン)!」と叫びながら襲いかかろうとする父親阿羅志(アラシ)を、とっさに殺してしまう。
 そして、かつて父親がそうしていたように、「遠くの方をばじっと見るようになった」という。

 なぜ、この作品が国際的コンクールで大賞に選ばれたか?
 井上ひさしは生前、こう絶賛していた。
「細密巧緻な彼の絵が常に立ちのぼらせているこの怪しい雰囲気は私の魂を人界の外へ吹き飛ばしてしまう」
 そして、氏が言うように、文章も又「簡にして潔、読む者の胸を抉(エグ)る」みごとなものだが、審査員たちは、飛び抜けた表現を可能にした深い視点にもうたれたのではなろうか。
 歴史という長い長い時間の流れの中でいつの間にか日本人一人一人の心に醸成され、遺伝子のように受け継がれてきた渡来人への偏見、差別、不安、恐怖、などなどをありのままに観る力……。

3 席を譲った中国人のこと

 東北大学名誉教授川添良幸氏は、「宮城社交飲食新聞MSA」9月号へ「大震災は我々に歴史問題を正しく理解するチャンスを与えた」と題する随想を寄稿した。
 その中の文章である。

「公共交通機関が混雑しているのに、荷物を座席において広く占拠して平気な若者が増えました。
 情けないことです。
 7月末に北京に行った時、タクシーは渋滞で時間がかかるからと友人と地下鉄に乗ってびっくり。
 若い中国人がニコニコと私に席を譲ってくれたのです。
 我が国は先進国、皆平等を信じてきた世界が急激に変わっています。
 発展途上国とさげすんではいけません。
 我々も東京オリンピック前はやたらとクラクションを鳴らしていたのです。」

4 二つの真理

 上記の二つは共に、自分、あるいは自分たちの心に巣くうものを観る視点があってこそ、書かれた。
 情報社会に溢れる「あいつら!」という雰囲気を超えているからこその気づきである。

 もとより、当山は不戦を主張するからといって、武力無用、自衛隊不要などと主張するものではない。
 日々、警戒を怠らぬ自衛隊をはじめとする関係者の方々の献身的な姿勢に深く感謝し、敬意をはらっており、おりおりに当山へ足をはこばれる関係者の方々もおられる。
 万が一、他国が日本の領土へ踏み込んできたなら、若い人だけを死なせるつもりはない。
 今般の決意の表明を重陽(チョウヨウ)すなわち、「菊の節句」としたことには、ご英霊のご遺骨が埋もれたまま崩れ去ろうとしている沖縄の洞窟で祈り、涙した者としての思いが込められている。

 私たちは普段、昨日の自分と今日の自分とは膨大な細胞が入れ替わって同じ肉体でなく、骨格も血液も体温も呼吸も精神のはたらきも整い、たまたま今日も生きていられるだけの危うい存在であることを忘れ、「昨日の自分は当然、今日の自分であり、今日の友人は変わらず明日も友人である」と思いつつ暮らしている。
 しかし、何か極まりへと追いつめられるようなできごとが起これば、日常生活的感覚や前提だけでは対応し切れなくなる。
 その時、非日常的次元が現出する、あるいは、そこを観ないと立ち上がられなくなる。
 空(クウ)が観えるのである。
 お釈迦様もお大師様も〈観ている者〉として、極まった人々を観える所へ誘い、救われた。
 空(クウ)という真理の満月はその時、急に出現するわけではない。
 大風が吹き、覆い隠していた雲が晴れただけのことである。
 大風が吹かなくても、覆われたままでも、満月はある。

 昨日の自分が行った約束を今日も同じ(と厳密な意味では錯覚している)自分が果たすことは正しい。
 これを世俗諦(セゾクタイ)すなわち、世俗的真理という。
 お互いが一瞬後にこの世を去りかねない空(クウ)なる存在であると観るのは、心の満月に照らされていることであり、不変の真理に立っている。
 これを勝義諦(ショウギタイ)すなわち、より勝れた真理という。

 人はすべて、世俗内で生きる。
 持ち場なり、立場なりに、時に応じ、ことに応じ、相手に応じて世俗諦をもって誠意を尽くすのは当然である。
 同時に、勝義諦にも気づいて生きていれば、誠意に潤いや深みが加わるだけでなく、思いもかけぬ事態に立ち至った時、崩れず、誤らない。
 また、見聞きするものの中から真に大切なものを選び取り、空気や思惑に流されない。
 ぬるい五右衛門風呂へ入れられたカエルが気分良くしているうちに、湯加減がだんだん危険なレベルに達してきても気づかず、死んでしまうといった哀れな最期を避けられもするだろう。

 当山の不戦堂は、勝義諦に気づき、勝義諦を忘れないための場としたい。
 決して世俗諦を否定するものではない。
 寺院も僧侶も世俗内存在である。
 弘法大師は、日本中の誰もがなしえなかった満濃池の改修に取りかかった際、当時にあって最高レベルの科学的技術による指導を行い、かつ、〈現場〉で、仏天のご加護を祈る護摩法に専念された。
 当山も皆さんと共に、世俗諦によって誠意を尽くし、かつ、勝義諦に立って進みたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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2014
09.10

平成の不戦堂を建立し、祈り、不戦日本を貫きましょう

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〈「ゆかりびとの会」会員さんが仮不戦堂として古い小さなお堂を移築してくださっています〉

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〈高橋香温先生の書です〉

 このたび、当山は、下記のとおり、「不戦日本」を貫くための活動を開始しました。
 一日本人として、一宗教者として、団塊の世代の一員としてのやむにやまれぬ行動です。
 ぜひ、多くの方々にご賛同をたまわり、何としても、ここ東北の地に、不戦の象徴を造らせていただきたいと願っています。

平成の不戦堂を建立し、祈り、不戦日本を貫きましょう

 お釈迦様は、深い瞑想の末に、「人もこの世も〈ままならないという苦〉と共にある」と悟られました。
 そして、人としての戒めを守り、我欲(ガヨク)に引きずられなければ、人は本来の生き方ができ、この世も極楽になると説かれました。
十善戒』という導きの燈火を示されたのです。
 その第一番目が不殺生(フセッショウ)戒です。
 みだりな殺生のできない人になることが、苦から脱する方法の一つとして欠かせません。

 さて、最悪な殺生は戦争です。
 戦争は、一人一人の健気(ケナゲ)な営みを根本から破壊する人間世界の自死とも言える蛮行です。
 今の日本では内外共に対立と戦争の気配が漂い始め、多くの方々が不安を感じ、戦争を避けたいと考え、願っておられることでしょう。

 このたび、当山は、不戦を目ざす宗教的活動として、「不戦日本」を百万返唱え、願いを同じくする方々のお心を(木簡モッカン…小さな板状のもの)へ書いて祈り、壁一面が木簡に覆われる「不戦堂」を建立するという願を発しました。
 日本は、団塊の世代から若年層へ年代を下るに従い、経済的にも社会保障的にも厳しい環境となり、そして、団塊の世代はこの世を去りつつあります。
 昭和の復興と経済成長の時代を生きた世代であり、何を後世へ残すべきかと熟慮してきた一宗教者として、最後の務めは、半世紀以上にわたり国の内外で一人の戦死者も出さずにきた戦わ不(ザ)る日本、すなわち「不戦日本」の姿勢を貫くことであると考えるに至りました。

 平成の不戦堂は、四国霊場のようにオープンとし、訪れる善男善女がいつでも自由に不戦を祈るだけでなく、自分の心から争いの種となる我欲(ガヨク)や、高慢心や、怒りや、怨みなどをとり除くよう祈ることもできます。
 また、心から修羅(シュラ)を滅する一人一人の精進(ショウジン)が積み重ねられることにより、おのづと平和が保たれてゆくことでしょう。

 この発願(ホツガン)は、政治的行動ではありません。
 なぜなら、いかなる立場の方であれ、不戦を願うことは人倫の基礎であるとの確信に基づくものだからです。
 天災は自然的災厄であり、戦争は人為的災厄です。
 東北に不戦堂を建立する趣旨をご理解いただき、ご賛同とご助力をたまわりますよう、心よりお願い申しあげます。
 共に戦わ不(ザ)る日本を守り、不戦を貫こうではありませんか。

平成26年9月9日 重陽(チョウヨウ…菊の節句)の佳き日に


 なお、百万返の祈りは、9月23日(火)午前11時より、当山境内地に建立中の「仮不戦堂」にて開始します。
 ご志納金は以下のとおりにお願いします。

・一口一万円
・ゆうちょ銀行:法楽寺不戦堂建立基金 02270-3-115292





「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2014
09.09

すぐにキレる、我慢できないならば、こうしてみよう ―生活を変える―

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〈赤根彰子師手書きの栞〉

 私たちは、怒れば呼吸が荒くなります。
 焦れば呼吸が浅くなります。
 そして、荒く、浅い呼吸思考情緒をさらに不安定にさせ、ついには愚かしい行動にまで駆り立ててしまいかねません。

 私たちは、高慢心から、あるいは正義感から、怒りを発します。
 私たちは、自分の過ちから、あるいは不意のできごとから予定が狂い、焦ります。
 こうした状況は人生のあちこちで生じます。
 そこで最も必要なのは、一旦、落ち着くことですが、簡単ではありません。
 なぜなら、呼吸の状態が落ち着かせないからです。

 だから、怒ったり焦ったりしたならば、「落ち着こう」と自分に言い聞かせ、深呼吸をしてみましょう。
 気持を変える方法として呼吸を変えるのです。
 目を閉じ、お腹を少しづつ慎重に引っ込ませながら、できるだけ時間をかけ、ゆるゆると口から細く長い呼気を行いましょう。
 お腹がもうこれ以上背中へ近づけないところまで行ったなら、自然に鼻から空気を補充しましょう。
 これも、意識してお腹を少しづつ膨らませながら、ゆっくりと行います。
 慌てて吸わなくても死にはしません。
 余裕のある範囲でこれをくり返せば心拍数が収まり、思考の範囲が格段に広がります。
 情緒の波も穏やかになってきます。
 自分で自分を追いつめた状態から離れ、すでに、一つの危機を脱したのです。

 こうしたことが可能になるためには、日頃、火事や雨や津波などに対して防災訓練を行っているように、備えをきちんとする意識と、実際のトレーニングが必要です。
 お釈迦様は、自分自身と人生のままならなさを克服するためには八つ方法があると説かれましたが、そのうち、二つがここでは特に有効です。
 一つは正命(ショウミョウ)です。
 これは、規則正しい生活を行い、まっとうななりわいによって生きることです。
 もうひとつは正定(ショウジョウ)です。
 これは、きちんと心身の手入れをした上で、瞑想を行うことです。
 そして、二つに共通しているのは、背骨が伸び、あごを引いたよい姿勢とゆったりした呼吸です。
 座ろうが、腰掛けようが、歩こうが、よい姿勢はそれだけでパワーを蓄え、パワーを発するものです。
 ゆったりした呼吸は心身にむだな負担をかけず、意識することによってさらにゆったりした呼吸を行うことを可能にします。
 これに慣れていれば、とっさの場合、切り替えが容易にできます。
 切り替えれば、自分がおかれている状況と、自分自身の状態が正確に判断できることでしょう。

 9月7日に放映されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』に象徴的な場面がありました。
 天下人となった秀吉から黒田家へ与えられた領地の旧主宇都宮鎮房(ウツノミヤシゲフサ)が頑として服従しないことに焦っていた官兵衛の長男長政は、鎮房の罠にはまり、血気に逸って出陣します。
 長政を守る又兵衛が、落ち着いて官兵衛の判断を待ちましょうと進言しても、今こそうっぷんを晴らすチャンスとばかり沸き立った若手や幹部を止めることはできません。
 自分がおかれている状況と、自分自身の状態とを正確に判断できないままに行った決断は、あまりにも危険なものでした。

 どなたにとっても大切な生きるポイントですが、とりわけ、自分はキレやすく我慢できないタイプだと思う方は、まず、よい姿勢とゆったりした呼吸を心がけてみましょう。
 そして規則正しい生活をし、時折、ひときわ長い腹式呼吸をしながら瞑想を行うことです。
 1日はどう生きても24時間です。
 24時間の使い方を変えれば、生活が変わるだけでなく、自分の生き方そのものも徐々に変わります。
 これまでと異なった生き方をしたいならば、時間の使い方を変えるしかありません。
 やろうではありませんか。




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2014
09.08

魂の交流に時間の制限はない ―別れの形について―

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 Aさんは父親を送る席で挨拶した。
「父は一筋に50年やりました。
 私はまだ25年。
 まだまだ、教えてもらうことがありました。
 残念です。
 勉強しながら残りの人生を生きて行こうと思います」
 まだ若いAさんが訥々(トツトツ)と絞り出した「残りの人生」は、父親から日々、薫陶を受けた〈これまでの人生〉がいかに濃密なものであったかを物語る。

 そんなAさんに心残りなできごとがあったという。
 ずっと手を握って看病していたが、ちょっと離れた隙に父親は他界していたのだ。
「もう少し一緒にいれば、最後のやりとりができたのに……」
 悔いがのしかかっている。

 小生に起こったできごとの話をした。
「娑婆にいた頃、臨終間際の義父に添い寝し、夜中に異変を感じて起き上がったところ、急に顔をこちらへ向け、カッと見開いた目と視線が合いました。
 そのまま息を引き取ったので、最後のやりとりは文字どおり一瞬でしたが、『娘を頼んだぞ!』というメッセージは明確に届いてきました。
 それ以来、波風はあっても別れず、もちろん、暴力などふるわず、気持だけは『守ってやる』という意識で今日まできました」

 話はそこまでで、慌ただしく場面が変わってしまった。
 これだけでは、何のために私的な体験を持ちだしたのかわからない。
 本当はその先を言いたかった。
「心がつながっていれば、必ずメッセージはお互いに届いているはずです。
 その手紙はすぐに開けないかも知れませんが、やがて、心中で開く時がきます。
 こんなできごともありました。
 共稼ぎをしていたBさんは、急な成り行きで、おしどり夫婦だった夫と死に別れました。
 とても、すぐに仕事へ復帰する気にはなれません。
 親戚や友人たちも、喪に服すべきだと言います。
 しかし、会社からは一日も早くと求められ、迷ったあげく、人生相談にご来山されました。
 ご本尊様と一体になる法を結び、念じた世界の中へBさんを招き入れました。
『どうですか?』
 やがてBさんは静かに涙を流し、ゆっくりと言いました。
『夫は、早く仕事に復帰してもらいたいと希望しているように思えます』
 言葉を添えました。
『私の胸にある判断と同じです。
 ご主人のご親戚などからいろいろ批判されても、これは夫婦間のことだと腹を決め、いちいち言い訳などせず、ただ黙々と仕事をすればよいのです。
 ご主人はきっと、これまでと変わらずに活躍する貴女の姿に喜び、見守っていてくださることでしょう』
 時は刻々と流れます。
 瞬間、瞬間は色とりどりです。
 しかし、の感応は消えません。
 Aさんが手をつないであげた故人から、おりおりに〈無言の伝授〉を受けるのはこれからです。
 どうぞ、心配せずに、ご精進ください」




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2014
09.07

友人にふりまわされる心の弱さをどうするか? ―hasunohaへの回答について(3)―

201409070001.jpg

 僧侶への質問コーナーhasunohaに寄せられた質問の骨子です。
「仲のよかった友だちからきつい言葉を投げかけられてとまどっています。
 私の心が弱いせいでしょうか?」

 当山からの回答です。
「心は刻々と変化して止まりません。
 相手の心も、自分の心も。
 自分が一瞬後に何を考えているのかが予測できないのだから、相手の心がどう動くかはより、わかりようがありません。
 だから、〈あてにできない〉のです。
 では、太宰治の『走れメロス』は空想でしかないのか?
 そうではありません。
 メロスのように、自分で意を固め、やり通すことは自分でできるからです。
 これも、結果が出るまで、どうなるか不明ではありますが、少なくとも意を保っている間は、揺るがぬものと共にあることはできます。
 私たちがどうにか〈あてにできる〉ものをと言います。
 これを持てれば、周囲の人々の変化に惑わされず、悩まされなくなります。
 それどころか、絶えざる変化は、知らぬ間に忍耐力を強め、人間というものの全体像を観察させ、勇気や感動を与え、をより堅固にしてもくれます。
 変化の中でこそ、私たちは成長できるのです。
 貴方様は、早めにこのことを知る機会に恵まれました。
 どうぞ、相手を怨まず、自信をなくさず、今の自分にとって、〈一人の人間として他ならぬ自分のなすべきこと〉は何なのかを考えてみてください。
 何しろ、あてになるのはそこに生まれる意だけなのですから。
 いかにささやかなものであれ、を持って生きていれば、事に応じ、状況に応じて、時には笑顔で語り、時には言い返し、時には黙って耐えられるようになることでしょう。
 一歩、一歩と向上の道を歩みましょう。
 誠実な貴方様へ仏神のご加護がありますよう。」

 筋金入りの志を1つ、追加しておきます。
 弁護士ガンジーは南アフリカで23年間も人種差別撤廃運動を行っていました。
 方法は無抵抗・非暴力です。
 80才になったトルストイは、ガンジーへ送る最後の手紙に書きました。

「あなたの雑誌『インディアン・オピニオン』を受け取りました。
 そこに書かれている無抵抗主義の人々のことを知り、喜んでいます。
 そこで私の心に生まれた考えをあなたに聞いていただきたくなりました。
 それは『無抵抗』と呼ばれていることは、愛の法則に他ならないということです。
 愛は人間の生活の最高にして唯一の法則であり、このことは誰でも心の奥底で感じていることです。
 私たちは子供の中にそれを一番明瞭に見出します。
 愛の法則はひとたび『抵抗』という名のもとでの暴力が認められると無価値となり、そこには権力という法則だけが存在します。
 ですから私はこの世の果てと思われるトランスヴァールでのあなたの活動こそ、現在世界で行われているあらゆる活動の中の最も重要なものと信じます。」


 ガンジーは第一次世界大戦中にインドへ戻り、農業労働者の待遇改善など地道な努力を重ねていましたが、転換点がやってきます。
 イギリスの植民地だったインドは、150万人ものインド人が戦争にかり出された代償にイギリスから自治権を与えると約束されていました。
 ところが、戦争が終わるや否や、掌を返したイギリス政府が民族運動を禁止する「ローラット法」を制定したため、1919年4月13日、北インドのアムリットサルにおいて、女性や子供も含めた非暴力の抗議行動が行われました。
 これに対して、イギリス政府に命じられたグルカ人やイスラム教徒の部隊は無差別発砲を行い、千人を越える死傷者が出ました。
 いわゆる「アムリットサル事件」です。
 抗議の意志を明確にするため、アジア人として初のノーベル賞受賞者となっていたタゴールは爵位を、ガンジーは勲章をイギリスへ返還しました。
 事件をきっかけとして、4月4日に最初の断食を開始していたガンジー非暴力(アヒンサー)を手段とする不服従運動は、インド全体へ拡大してゆきます。
 ガンジーの「魂の全力を暴虐なる意志へ対抗させる」との堅固な意志は、イスラム教徒とヒンズー教徒の対立などにも苦しんでいたインドの人々を〈独立〉という共通の目標へ向かって結集させました。
 目標と方法を定め、先頭に立って実践したガンジーの志は、今でも私たちの魂へ響いてきます。

 ガンジーの志の前では、いつしか、宗教対立も民族対立も消えてしまいました。
 実に、志こそが〈あてになるもの〉であり、私たちは自分の全存在をそれにかけることすらできます。
 まず、何か、身近なことからでも、こうありたいというよき変化を求め、決めて実行することを始めようではありませんか。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
09.06

観音も地蔵も泣く。もし、不動なかりせば……。

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 今朝は、まるで枕元にいるようなコオロギの強い訴えかけに起こされてしまった。
「――おい、おい、まだ早いんじゃないか」
 見知らぬ彼に声をかけながらベッドを離れ、時計を見たらまだ午前2自30分。
 やれやれと呟きつつ作務衣に袖を通した。
 闇の向こうでは、幾種類もの虫たちの声が重なり重なって合奏している。
 おそらく数センチあるかなしかであろう彼らの身体がなぜ、これほど一匹一匹の存在を明瞭に主張できるほど大きな音を出せるのか、不思議でならない。
 人間界が発する余分な雑音のないところでは自然界の豊かさがわかるということなのか。

 さて、火葬炉の前はいつも辛い。
 炉の火は不動明王の炎であり、いのちを失った肉体が灰になると同時に、空(クウ)の真実が観えずに起こる執着心もまた智慧の炎によって消えてゆく。
 しかし、そうした理は99・9パーセントのご遺族に無縁であり、もし、理を知っていたとしても、扉の奧へ入って行く近親者を目にすれば強い愛着の心が動くことは禁じ得ない。

 Aさんは、見聞きする中でこれと思った言葉をマメに書きとめ、筆で清書し、心の糧としていた。
 いつも、人の道を踏み外さないようにと努力していた。
 入院した夫を気の済むまで看病した。
 お通夜では、明るく思い出話を語り、夫の好きだった音楽を流すなど、健気にふるまった。
 しかし、斎場で最後のお焼香が終わり、会葬者と一緒にゾロゾロと炉の前へ進む段になってとうとう頽(クズオ)れた。
 車イスのまま最前列に導かれたAさんは、動き出した棺へ叫ぶように呼びかけ、追いすがる姿勢を見せた。
 炉の蓋が閉まり、不動明王の真言を唱え終わった私の耳に、すすり泣く声があちこちから聞こえてきた。
 炉前のお焼香をどうにか済ませて後方へ退がった私も涙を催した。
 壁際に立ち、瞑目しながら思った。
観音地蔵も泣く。
 もし、不動なかりせば……」

 古来、仏教は四摂法(シショウボウ)を重んじてきた。

1 布施(フセ):施すこと。分かち合うこと。
2 愛語(アイゴ):思いやりのある言葉づかい。相手を傷つけず、相手の心に響く言葉づかい。
3 利行(リギョウ):相手のためになること。十善戒の実践。
4 同事(ドウジ):誰にでも平等に接すること。周囲の状況を理解し、調和を壊さないようにふるまうこと。


 これは、集団の中で生きる人間としての基本的ふるまい方であると同時に、集団がまとまり、互いを生かし合うよき集団になるための方法でもある。
 人間が霊性をはたらかせ、この世が極楽へ近づくための方法である。
 その中心となっているのは他者への思いやりであり、思いやりは他者の気持になるところから生まれる。

 思いやりの権化(ゴンゲ…形をとって現れたもの)を菩薩(ボサツ)と言う。
 観音菩薩などは思いやる余り、人間や獣や食べものなど、何ものにも変化(ヘンゲ…変身)してくださる。
 地蔵菩薩などは思いやる余り、身代わりにまでなってくださる。
 いずれも、困っている者、苦しんでいる者、悲しんでいる者、悩んでいる者、淋しい者、辛い者の気持になればこその思いやりであり、変化であり、身代わりである。
 泣かぬはずがあろうか。
 呻かぬはずがあろうか。
 苦しまぬはずがあろうか。
 文殊菩薩にも負けぬほどの悟りと神通力を持った維摩居士(ユイマコジ)が体調を崩して寝込んだ時、「あなたほどのお方がなぜ、病気になどなるのですか?」と質問され、「衆生(シュジョウ)が病気で苦しんでいるから、私も病気になるのだ」と応えている。
 菩薩が私たちの身近でお救いくださるとはこういうことであろう。
 まず、気持を同じくし、思いやり、そして、自己中心ではない智慧のはたらきから生まれる救済の方法を実践する。

 私たちの心には菩薩がおられる。
 他者を思いやる思いそのものに流され、負けてしまいかねない者を奮い立たせるための不動明王もおられる。
 不動明王は、菩薩になりきれず自己中心で自他を苦しめ続ける者を目覚めさせもする。
 そして、如来(ニョライ)は慈光の光源であり、智慧の泉であろう。

 誰かのために泣けてくる時は泣いて菩薩になろう。
 そして気持が負けそうな時は、不動明王へ祈ろう。
 慈悲と救済の慈救呪(ジクジュ)を唱えよう。
「のうまく さんまんだ ばざらだん せんだ まかろしゃだ そわたや うん たらた かんまん」
 南無観世音菩薩。
 南無地蔵菩薩。
 南無不動明王
 南無大日如来




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2014
09.05

河北新報社「潮路はるかに」の受賞に思う ─東北関東大震災・被災の記(第157回)─

201409050001.jpg

 9月3日、河北新報社の連載「潮路はるかに」が編集部門で新聞協会賞を受賞した。
 以下は、日本新聞協会発表の受賞理由である。

河北新報社は、仙台藩主・伊達政宗の命で派遣された慶長遣欧使節船の出帆から400年の節目に、支倉常長ら使節団の足跡を追った写真企画を2013年2月1日から10月25日まで、計39回にわたって朝刊特集面で連載した。
 慶長遣欧使節船の造船と使節派遣が、慶長三陸地震の津波被害からの復興策だったという新説を、東日本大震災の被災地の読者に届け、復興の羅針盤とすることを目指した写真企画は、被災地に夢と希望を与えた。
 使節団に関する歴史的資料が少ないなかで、登場人物の心象風景を写真で表現していく手法は斬新で、記事を含めた企画の総合力で読者に使節団の旅を疑似体験させ、過去と現在を結び付けて大震災を捉え直すきっかけを与えた。
 読者を勇気づけた一連の写真企画は、被災地元紙ならではの作品と高く評価され、新聞協会賞に値する。」


 平成25年春のスタート時は、とにかく驚いた。
 プロローグにはこうあった。

「大航海時代の新知識を得た政宗は、太平洋交易に乗り出す機会をうかがっていた。
 1611年12月2日、彼の背中を強く押す大事件が発生した。
 慶長三陸地震。
 マグニチュード8・5以上と推定される巨大地震は大津波を伴い、仙台領に死者5000人とも伝えられる深刻な被害をもたらした。
 関ケ原役の後、領国経営に取り掛かったばかりの政宗にとって、まさに国難と言える出来事だった。
『今こそ』。
 政宗は立ち上がった。
 黒船の建造は被災地を潤す公共事業となるだろう。
 スペインに冷淡な姿勢を取り始めていた徳川幕府にしても、復興のための交易には『否』と言わないはずだ。
 津波を浴びた三陸の浦々が、南蛮船を迎えて堺や長崎のように大発展を遂げるかもしれない-。」


 これまで、慶長三陸地震の巨大さは、歴史学者の間で「ありえない」と無視されてきた。
 しかし、ちょうど400年後の平成23年、マグニチュード9・0という、より巨大な地震が発生した。
 この現実を前にして、慶長三陸地震のわずか2年後にサン・ファン・バウティスタ号を出帆させた政宗の思いが被災地で暮らす専門家たちの胸に蘇った。
 宮城県慶長使節船ミュージアム館長浜田直嗣氏の〈新見解〉である。

「使節船の建造は、被災地を潤す公共事業となったはずだ。
 スペインとの交渉が実を結んで太平洋交易が実現していたなら、津波に打ちのめされた浦々が、長崎や堺のように大発展を遂げたろう。
 政宗は、単なる復興ではなく、被災地の飛躍を見すえていたのだ。」


 津波でボロボロになったサン・ファン・バウティスタ号の復活を求める人々だけでなく、河北新報社の人々も奮い立ち、「潮路はるかに」が企画された。
 写真部の長南康一氏は、受賞を受けてこう述べた。(9月4日付河北新報より)

「『ブツがない』『場所がない』『人がいない』。
 史実資料が非常に少なく、写真撮影は苦心の連続だった。
 とにかく400年前に生きた伊達政宗や支倉常長ら先人たちの心象風景を写真で表現する。
 ひたすら記者の原稿を丁寧に読み解き、現場の空気感から写真の構図を考えた。
常長はこの海原をどう見たか』。
 頬をなでる冷たい風もあれば、心地よい風、いや無風もある。
 あらゆる条件を想定し、撮影地に何時間もたたずみ、時には数日間通った。
 連載は準備段階で、掲載写真を毎回1枚にするか、あるいは複数枚にするか議論した。
 結局1枚としたのは『政宗はこう考えただろうが、こんな考え方もしたかもしれない』と逃げ道をつくることは潔いと思わなかったからだ。
 毎週金曜日に掲載された1枚の写真。
 それは実は読者への手紙だったと思っている。
『古里の〈今〉を包み隠さず伝え、明日を生きる励ましになればいい』と思った。
 だから連載の各写真を見てほしい。
 常長らが見たであろう海外の光景だけでなく、被災地の傷ついた現状に目を背けず、あえてそれも写し込んだ。

 河北新報社は何十年後かに『慶長遣欧使節船』に絡んだ特集を掲載するかもしれない。
 その時は必ずや使節団の事跡に希望の光を見いだすに違いない。
 使節団の意義は何年たっても色あせず、未来のカメラマンは新たな発想で写真を撮るだろう。
 その時、私たちの写真が少しでも参考になれば望外の喜びである。」


 執筆者野村哲郎氏(現大崎総局長)は、こう述べた。(9月4日付河北新報より)

「『潮路はるかに』のような写真企画に取り組む場合、少なくとも1カ月分の原稿を先出ししなければならない。
 写真部員はその文章を読んで作画のイメージを膨らませる。
 先出しは、撮り手の心の余裕につながる。
 文章と調和する写真が提稿された時は、達成感を共有することができた。
 絶対的な1枚をものにするために、再トライしたこともあった。
 例えば『潮路はるかに』の31回目。
 担当の写真部員は、ミカン畑にたたずむ石塔に400年前のドラマを語らせようと、長崎県諫早市の郊外まで、はるばる撮り直しに出掛けた。
 文章も読者の厳しい鑑識眼にさらされる。
 頭から煙が出る思いで文章を練り直したのも、一度や二度ではない。
 われわれが労力を惜しまないのは、読者に伝えたいことがあるからだ。
 慶長遣欧使節が派遣された背景に、仙台藩領を襲った大津波があったという。
『被災した浦々に南蛮船を入港させ、交易拠点に発展させよう』。
 そんな先人の気概を紙上によみがえらせ、東日本大震災からの復興に挑む勇気に変えたい。

 この写真企画に込めたわれわれの思いは、読者に伝わっただろうか。」


 氏のきまじめで妥協できないお人柄からすると、この連載期間中は、文字どおり「頭から煙が出る思い」の日々であったと思われる。
 平成26年3月13日、津波の3年後に出版された『潮路はるかに』を手にした時、表紙の常長像と氏の姿がダブり、涙腺の緩みを覚えた。
 400年前の気概、今の気概……。
 400年前の雄途は、スペインよりもイギリスやオランダとの関係を重視する徳川幕府の政策により結実を見なかった。
 今の復興も、政府の政策を見ると、事実上の後回しにされていると思えてならない。
 被災地東北は、何をもって立ち上がるか。
 何を揺るがぬ志とするか。
 震災の翌日も新聞を届けてくれた河北新報社の方々の思いを共有し、自分たちの足で立ち上がり、自分たちの足で進みたい。
 政宗のように、常長のように。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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