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2014
11.30

平成26年12月の行事予定 ―例祭・書道教室・寺子屋・瞑想会・居合道場など―

201411290005.jpg
お焚きあげは、不動堂の裏にある専用炉にて行われます〉

 平成26年12月の行事予定です。

[第一例祭 2014/12/7(日)午前10:00~11:00

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

書道・写経教室] 2014/12/7(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 今年最後の書道教室になります。
 今月も、『舎利礼(シャリライ)』という72文字のお経を4文字づつ書きます。
 今月は、書き初めの稽古もしましょう。
 書道の基本を学び、100文字の写経も行います。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第十二回新法楽塾] 2014/12/7(日)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第五十八回寺子屋『法楽館』 ―DVD「ダライ・ラマ法王『般若心経の解説』を観る会─]
 2014/12月13日(土)午後1:30~3:30

 今年最後の寺子屋になります。
 ダライ・ラマ法王は説かれました。
もし、仏教が単なる儀式だけのものになってしまい、釈尊の教えの本当の意味を知らずにいるとしたら、仏教に対する信心と毎日の日常生活が別々のものになってしまって、仏教は何の役にも立たないということになってしまいます。
「健康な身体を維持するためには、心が健全であることが絶対に必要です。
そして、健全な心は精神的な訓練によって育まなければならず、他に方法はありません
21世紀の仏教徒とは何でしょうか?
仏教は、私たちにとって何でしょうか?共に考えてみましょう。
・映  画 ダライ・ラマ法王14世金沢講演「般若心経の解説―希望へのみちしるべ―」
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第二例祭 2014/12/20(土)午後2:00~3:00

 護摩法を行います。
 今年最後の例祭になります。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所 大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第十三回新法楽塾] 2014/12/20(土)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 今年最後の瞑想会になります。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

お焚きあげ 2014/12/27(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、お不動様の前で「供養会」を行い、「お焚きあげ」を行います。
 今年最後のお焚きあげになります。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、いつでも結構です。

[機関誌『法楽』の作製] 2014/12/29(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第300号、『ゆかりびと』は第163号となります。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っています。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター

◎清掃奉仕の日

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。
・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2014
11.29

プロフェッショナル高倉健が語った「仕事の流儀」 ―ありがとう高倉健―

201411290002.jpg

 高倉健はいまだ、去らない。
 彼はいったい、何者だったのか?
 平成24年、NHKテレビ『プロフェッショナル 仕事の流儀』において彼が語った言葉をふり返っておきたい。
 ブログ「NHK『プロフェッショナル 仕事の流儀』から」の項目と、彼の主な言葉だけを再掲したい。

○現場ではほとんど坐らない

 81才の彼は、撮影の現場でほとんど座らず、柔軟体操をしているらしい映像もあった。

「坐るとだんだんファイトがなくなるような気がして……」

○作品の背景となる地域を肌で感ずる

 空気や風や、あるいは人情などをつかもうと、彼は、地元の墓地を巡ったりする。

○彼の真骨頂は最小限の演技で心を表現すること

 彼は役柄の人物になり切れば「必ず滲み出るもの」があると考え、「何よりも大切なのは本当の気持を表現すること」を心がけてきた。

○本番を演じるのは基本的に一度だけ

 彼は「最高の気持には何度もなれるものではない」とし、撮影のたびに「一度きりを生きる」という真剣勝負を重ねてきた。

「自分の中で感じられないことってできないよね。
 心の中の話だからね」
「たぶん最高のものは一回しかできないって黒沢監督もおっしゃってたからね。
 二度やれったってできないね」
 
○生き方が芝居に出る

 彼は、撮影の合間の多くを地元の人やスタッフに声をかけて過ごす。
 人の人生を演じる俳優として肝に銘じているのは「生き方が芝居に出る」という一点である。

「芝居に一番出るのは、その人の普段の生き方ではないですかね」

「やってる役は皆、好きになる」

○同じ理髪店へ40年間通っている

 彼は、撮影のない日は必ず都内の理髪店に通い、彼専用の個室で憩う。

○俳優にとって身体は唯一の資本
 
 彼は酒を飲まず、タバコも30年以上前に止め、毎朝ナッツ入りのシリアルにヨーグルトをかけて食べ、ウオーキングを欠かさず、朝食後は、夜までほとんど食べ物を口にせず、何十年もの間、ウェイトは70キロを絶対に越していない。

○心をいつも感じやすい状態にしておく

 彼は台本の最後に、東日本大震災で被災した地域の子供がペットボトルを運ぶ一枚の写真を入れておく。
 会津八一の短歌を書き取ったメモと共に。
「あめつち に われ ひとり ゐて たつ ごとき この さびしさ を きみ は ほほゑむ」

○一つの作品を終えるたび、人前から姿を消す

「内容もスタッフもギャラも納得できる映画だけをやる。
 そのため、最も厳しい環境で自分を磨く」

○生き方が芝居に出る(その2)

 彼はいつも、優れた先輩に学んできた。
 老いた笠智衆が坂道をゆっくり上りながら現場へ向かっていた時、誰かが後から押しました。
 もちろん、いたわるつもりだったのでしょうが、笠智衆は、時間には十分間に合いますと言って、支える手を敢然と断わる。
 この毅然とした態度が、彼の見習うところとなった。

「捨ててるもんだと思いますね。
 別に捨てなくたってやれるもんでしょうがね」

「その人のやっぱり、人生体験と言うか、それが俳優さんの価値なんでしょうね」

「大事なのはお金などでなく、身を捨てても構わないっていう人間に出会えるかどうかです」

○「久しぶりにきれいな海ば見た」に泣く

 遺作となった『あなたへ』において、海の男を演ずる大滝秀次が「久しぶりにきれいな海ば見た」との一言を発する決定的場面がある。
 それきり背中を見せてしまう大滝秀次に、強く心を動かされる場面が続き、カットの後、高倉健はスタッフに隠れ、ハンカチを手にした。

「いつもきれいな海ばかりではないということでしょう」

○人のいのちは限りがある

 撮影が終わり、役の中の人生とも、撮影を通して出会った人々とも別れる時がやってくると、彼は、見学に訪れるファンも含め誰とでも、気さくに言葉を交わす。

「やめたくないんだよね」
「気心が知れたら終わりなんだから……」
「いろんな人と別れる。
 そういうことが重なると、人のいのちは限りがあるってことを感じるよね」

○お疲れさま

 彼の205本目の作品はこのセリフで終わり、背中の残像と言葉の余韻が残る。

「自分は今日、鳩になりました」

 そして、彼は現場を去った。
 文字どおり、最後の言葉を遺して。

「お疲れさま」

○プロフェッショナルは生業(ナリワイ)

 彼は試写会に参加し、観た後は、又、意欲が起こると言う。

「とってもやりたいね。
 とってもやりたいと今日、思いましたね」
「まだ、わかんないですよ。
 まだ、わかんないですけど……」

 番組の最後に「プロフェッショナルとは?」と問われ、足元を踏み固めながら生きてきた人間が得た確信を込めて答える。

「プロフェッショナルは生業(ナリワイ)だと思います」

 続く沈黙には、誰にも有無を言わせない鋼鉄のような力と、底知れぬ大海のような深さがあった。
 ありがとう、高倉健

 詳しく観たい方は以下のブログをどうぞ。
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3375.html
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3376.html
 http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-3378.html




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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2014
11.28

今の苦労は水子やご先祖様のせいなのか

201411280001.jpg

 ご質問です。

「病気の子供や水子や生活などの苦労について、『供養がまちがっている、仏壇に家系図に基づく過去帳を入れていなかったり、お墓を建てて納骨していないせいだ』と言われましたが、納得できません」

 お答えしました。

 私たちは、嬉しいできごとにも、悲しいできごとにもぶつかります。
 前者においてはあまり、因果を考えません。
 せいぜい、自己中心的な方はいくらか高慢になるかも知れないし、謙虚な方は周囲へ感謝するかも知れないという程度です。
 後者が問題です。
 たとえば、お腹の子をとても大切にしていたのに、頑張ってはたらいているさなか、ふとしたはずみで流産してしまった場合、「どうして?」という疑問にとりつかれ、周囲の誰かのせいにしたり、あるいは自分のせいにしたりと、苦しみます。

 原因と結果の糸をすべて結びきれない私たちは、答の出ない疑問と後悔の念に悶々としている時、思いもよらぬ言葉を耳にする場合があります。
 家系に水子があったから、悪事をはたらいたご先祖様がいたから、あるいはお墓や仏壇や神棚や家相に問題があるから、などなど。
 藁にもすがる思いでいると、「そうか!」「当たっている……」と思いたくなるでしょうが、ここでは、深呼吸して客観的に考える必要があります。
「本当にそうだろうか?
 この推論に自分も心から納得できるだろうか?
 ご託宣をのたまう人は、慈悲心にあふれ、因果応報の糸をすべて見透せる仏神のような聖者だろうか?
 そもそも、水子のいない家系や、悪事をはたらく人がいなかった家系などあろうか?」

 そうすると、先亡の御霊に対する感謝や供養に欠けたり不足したりといった忸怩たる思いを持っていることに突き当たる程度がほとんでではないでしょうか。
 その場合は、自分なりにできることを行えばよいし、この時点で〝自分には恥じるところがない〟と思えれば、言った相手が誰であろうと、聞き流せばよいだけのことです。

 そもそも、猫や稲といった他の生きものでなく、精神を持った人間としてこの世に生まれ出ることは、ほとんどゼロに近い確率の難事です。
 稀少な機会が現実のものとなるためには幾多のチャレンジが当然、必要であり、水子とは貴重なチャレンジを一つ体験した存在です。
 そうした水子が怨んだり祟ったりするはずはありません。
 だから、このように励まして、供養しましょう。
「今回はごめんね。
 この次は、誰かのご縁で、きっと成功してね」

 ご先祖様については、自分がしっかり、まっとうに暮らし、生まれ持った過去の因縁を清めて行くしか、私たちの生きようはないので、ご先祖様方へ回向(エコウ…自分が積んだ功徳を回し向ける)する気持があり、自分にできることを実践していれば充分です。
 それ以外のことごとは、参考にして納得できれば実行し、納得できないなら聞き置くのみです。
 そもそも、私たちを必ず見守ってくださっているはずのご先祖様が、供養の仕方がどうこうという理由で私たちへ悪しきできごとをもたらすとは考えられません。 
 ただし、供養や納骨などの大切なことごとを、自分でやらねばとわかっていながらやらないままにしておけば、それは心の引っかかりとなり、どこかでマイナス要因を生んでいるかも知れません。

 お釈迦様は説かれました。
「善いことを行いなさい。
 悪いことはしなさんな。
 良心に従い、汚れをまとわぬように生きましょう」
 こう生きていれば、乗りこえられない難事はありません。
 皆様のご誠心に仏神のご加護がありますよう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2014
11.27

三つの縁について

 仏教では、について三つの方向から考えます。

不動なる

 すべてのものは、原因があって生じています。
 大昔からあった山も、今、誕生したばかりの赤ん坊も、同じです。
 神様か誰かが、こうしようと意志をはたらかせ、勝手に創り出しているものではありません。
 このことをお釈迦様は説かれました。

「これがあるから、これが生じる」


 前の「これ」とは、山や赤ん坊を生じさせる原因です。
 後の「これ」とは、山や赤ん坊です。
 カラスも、車も、まったく同じです。
 カラスが生まれる原因と、車が出来上がる原因とはまったく異なるものであり、全部をひっくるめて神様か誰かのせい、と言ってみても仕方がありません。
 特定のものが生じるためには、必ず特定の原因があるということは古今東西、いつの世も変わりません。
 こうした不動のありようを「不動」と言います。

無常なる

 すべての存在に原因がある以上、自分自身でまったく自立しているものは何もありません。
 いかにどっしりとしている富士山も少しづつ変化しており、もしも噴火すれば一気に姿を変えます。
 赤ん坊もいつまでも赤ん坊ではいません。
 子供になり、大人になり、やがて必ず死にます。
 自分の力で「常」に存在するものは「無」く、無常なるありようを「無常なる」と言います。

能力

 噂話が広がると、こう言われます。

「火の無いところに、煙は立たない」


 もやもやした煙が生じたならば、どこかに必ず、煙をもたらす火があるはずであって、火以外の水や土などがいくらあっても、煙を生じさせることはできません。
 煙がある以上、燃やす性質を持った火と、燃える性質を持った紙などのモノがあります。
 リンゴの実は、リンゴの木として育つ種があり、木となって初めてリンゴがなるのであり、リンゴの実をつける能力を持たない梨の木をいくら育てようと、決してリンゴは得られません。
 このように、特定の結果をもたらす特定の原因には必ず、結果をもたらす能力があるというありようを「能力の縁」と言います。

 今から1600年以上も前に、インドの天才アサンガ無着)は、こうした真理を見つけました。
 お釈迦様の「これがあるから、これが生じる」に始まる仏法の探求は、今も続いています。
 よく学び、原因と結果を考えながら、自分の人生や人格や行動をふり返ってみたいものです。
 きっと、眼前に広がるこの世の景色がこれまでとはいささか、違って見えることでしょう。
 生き方もいささか、変わるかも知れません。




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2014
11.27

平成26年12月の運勢に応じた留意点 ―陰に還る流れを使う―

 平成26年12月の運勢に関する留意点です。

 今月は、火が消されるような〈陰に還る〉流れに要注意です。
 もちろん、消えることがすべて凶事ではありません。
 火事が放水で消えればよく、家庭を壊す気ままな浮気の虫が冷静な判断と自制心によっていなくなればよく、圧制者の権力が民衆の抗議によって取り除かれればよいのです。
 ここで肝腎なのは言葉です。
 言葉を適切に用いて、還って行かせたいものをしっかり還せば、抑圧がはずれ、持っている力を十分に発揮できるかも知れません。
 相手へ適切な言葉をかけたり、相手から適切な言葉をかけられたりすることは、決して小さくないできごとです。

 元大リーガー松井秀喜氏は、河北新報に連載してきた『野球考』の最終回で、不振のおりにヤンキースのトーリ監督から言われた一言について記しました。

「選手は監督に言葉を期待するべきでないと思う。
 『何か言ってほしい』と考えるのは甘えにすぎない。
 だがそれでも追い込まれたときの一言には助けられる。」
「あの時は技術的な話の前に、数字に表れない貢献を見ているといわれ、心が動いた。」


 徹底的に自分へ厳しい松井氏は、他人からもらう言葉に期待したり、甘えたりはしません。
 それだけに、自分が発する言葉についても、連載の最後で「どこまで意図が伝わっているかという不安は常にあり、言葉を選ぶ難しさをあらためて感じた。」と書いています。
 そんな松井氏の「心が動いた」のはなぜか?
 そして、なぜ、いきなり「その試合で二塁打3本と本塁打を放つことができた」のか?
 それは、監督がいつも自分を〈信頼の目〉で見てくれていることを察知しており、それが言葉によって確かなものとして迫ってきたからではないでしょうか。
 人は〈本当に〉信じてもらえる時、勇気も覇気も自信も湧いてきます。
 問題なのは〈本当に〉であり、〈心の受け手〉をごまかすことはできません。

 また、元小結舞の海秀平氏は、あまりうだつの上がらない、それでいて人情家の先輩から聞かされた一言が今でも忘れられません。

四股を踏むときはな、一つ父ちゃんのため、二つ母ちゃんのため、三つばあちゃんのため…と思いながら踏むんだ


「実践すると地味で単調な稽古に自然と身が入った」そうです。
 小柄な舞の海氏は、自分より100キロも重い力士と対戦する日々にあって、こうした思いのこもった稽古を重ねているという自信が不安や恐怖心を払い、あれだけの活躍をもたらしたのでしょう。

 松井氏は監督の誠意が表れた言葉によって、スランプの雲をうち払いました。
 舞の海氏は先輩の人情味ある言葉によって、地味で単調な稽古に邁進できました。
 今月は、迂闊な言葉によって肝腎なものを失わぬよう、しっかりした言葉によって去らせるべきものを去らせるよう、自他の言葉に留意したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
11.26

高倉健が言った「人間のことを想う美しさ」はなぜ、私たちの心をとらえているのか?

201411260001.jpg

 高倉健の言葉が静かで大きな反響を巻き起こしている。

「人間が人間のことを想う、これ以上美しいものはない」


 それは、「美しいもの」が危うくなっている社会的状況のせいではないか。

 労働環境があまりにも無慈悲で、人間が人間扱いされなくなりつつあるのは厳然たる事実である。
 目の下にクマをつくり、憔悴しきって人生相談に訪れる若者たちの話を聞いていると、疑問がわいてくる。
 そもそも、人材派遣業という商売は社会正義上、許されるのだろうか?
 つい30年ほど前までは禁止されていた職業紹介業や労働者供給業がなぜ、大手を振って儲けてよいというきまりがつくられたのか?
 はたらき手と職場の間にはさまり恒常的に利益を上げる商売に漂う社会的不正義の匂いはもはや、誰も感じなくなったのか?
 これほど情報が共有され、職安も整備された時代に、いったい誰が、何のために、人材派遣業者を必要としているのか?
 今の仕組が正当なものならば、なぜ、これほど多くの人々が生活苦に喘ぎ、未来に希望を持てないでいるのか?
 
 国際労働機関(ILO)が昭和19年に行ったフィラデルフィア宣言の根本原則は以下の四つである。

(a) 労働は、商品ではない
(b) 表現及び結社の自由は、不断の進歩のために欠くことができない。
(c) 一部の貧困は、全体の繁栄にとって危険である。
(d) 欠乏に対する戦は、各国内における不屈の勇気をもって、且つ、労働者及び使用者の代表者が、政府の代表者と同等の地位において、一般の福祉を増進するために自由な討議及び民主的な決定にともに参加する継続的且つ協調的な国際的努力によって、遂行することを要する。


 そして、平成11年には新しい世紀を迎えるにあたり、「21世紀におけるILOの目標」を掲げた。

「すべての人へのディーセント・ワーク(働きがいのある人間らしい仕事)の実現」
 つまり、人間が行う労働はモノのような商品ではなく、国家社会は人間が労働を通じて人間らしく生きて行ける仕組みを探求すべきであり、欠乏や貧困に対しては国家社会が断固、解消をはからねばならない、ということではないか。
 これは自由競争や自己責任とはまったく異なる理念であり、国家社会はこれを実現すべきであるという国際的共通認識が表明されている。
 国連最初の専門機関であるILOはノーベル賞を受賞し、日本もアメリカも加盟している。

 それにもかかわらず、今や、労働市場は派遣業者に牛耳られ、労働はコンピューターで数値的に管理される〈商品〉となっている。
 人間は労働という〈性能〉のみが求められる機械と見なされている。
 若者たちの嘆きも不安も、その根源はここにある。
 今や日本の労働者の約3割、24才以下では約半分が、簡単に取り替えのきく非正規雇用である。
 ちなみに韓国では労働者の半数がすでに非正規雇用であり、このまま進めば、9割の労働者が非正規雇用のまま、生涯を終えるという。
 そんな韓国の人々には日本を敵視する雰囲気があり、日本の人々には韓国を蔑視する雰囲気がある。
 あまりに哀しく、虚しく、耐え難い。

 高倉健が言う「人間のことを想う」は、ただ「思い出す」といったことではない。
 ある人間の存在がいつも心に留まっており、それが「想う」という形で顕わになるたび、切なく、やるせなくなるという状態である。
 こうした情緒の活動は、情緒へ何かの形を与えさせないほど強い他の使命感や責務に生きる行動によって抑制される時、いっそう、輝きを増す。
 想いを胸に秘めたまま、口を真一文字に結んで死地へも赴く高倉健が演じた主人公たちの世界である。
 このあたりを知りたい方はまず、DVD『冬の華』を観られればよい。

 一方、使命感や責務を感じにくい労働環境と窮乏生活にあっては、情緒の高揚や深まりもなかなか得にくいのではないか。
 だから、哀しくも、冒頭の言葉が多くの人々の心をつかむのではないか。
 人間のことを想わない社会だからこそ、人々は真実をつきつけられ、ハッと我に返るのではないか。
 また、11月22日に起こった長野北部地震において死者が出なかったのは、互いを「想う」地域だったからではないか。
 当山はご葬儀後の法話でいつも、申しあげている。
「人は生きて人々のためになり、最後は死をもって周囲の人々を立ち止まらせ、人間にとって大切なことごとについて深く考える貴会を与えてくださいます」
 高倉健はまぎれもなく、私たちを立ち止まらせている。
 よく考え、ふり返り、「人間のことを想う」人になり、じっくり「人間のことを想う」ことのできる社会にしたいと、強く願う。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
11.25

古き代の呪文の針のきしむ壁(篠原鳳作)

20141125000122

〈紅葉をまとう共同墓『法楽の礎』〉

 明治39年生まれの俳人篠原鳳作は、東大卒業後、中学校で英語と公民を教えていたが、美術の指導も行ったところ、美術は大ブームとなった。
 無季の俳句を探求しつつ、30才で世を去った。

「古き代(ヨ)の呪文の針のきしむ壁」


 鳳作は神社か寺院か、あるいは古民家の古い壁に小さく開いた釘の穴を見つけたのだろう。
 そして、釘で留られたであろう呪の書かれた紙と、釘を打つ音と、呪う思いを感じとった。
 紙は塵となり、釘は崩れ落ち、人もいなくなったが、壁はいまだに打たれた時の軋(キシ)みを失っていない。
 なにしろ、穴は開けられたままなのだ。
 呪いをかけた人間の心に分け入ろうとするのでなく、釘を打たれる際の壁そのものにまで達している感性のはたらきには驚嘆する。
 もしかすると、鳳作の心にもこうした〈穴〉があったのかも知れない。

「うるはしき入水図あり月照忌(ゲッショウキ)」


 僧月照は、幕末期に生きた法相宗の僧侶である。
 西郷隆盛が薩摩藩主島津斉彬の死に伴い殉死しようとするのを止めたが、安政の大獄にからみ、錦江湾で入水した。
 『十善戒歌』を作り、十善戒に生きた。
 第一不殺生戒である。
 「世の中に 生きとし生けるものは皆 ただ玉の緒の 永かれとこそ」
 いのちあるものはすべて、生きたいという切なる願いを持っているというストレートな表現だが、それだけにいっそう、〈願い〉を漏らさず映し出す月照の純粋で温かな心がありありと感じられる。
 月照を悼む供養会で入水図を目にした鳳作には、僧侶でありながら西郷を高く評価して動乱に身を投じた月照の思いが「うるはしき」と偲ばれたのだろう。
 麗しい死の場面。
 やはり、鳳作の世界である。

「我も亦ラッシュアワーのうたかたか」


 大正時代のラッシュアワーとはいかなるものか見当もつかないが、「うたかた」とは、ただごとではない。
 今から100年も前、通勤バスや電車に揺れる人々が〈運ばれる大衆の一人〉という意識を持っていたのだろうか。
 水に浮かんでは消えるアブクとして自分を観ている鳳作は、生徒たちの心へ何を与え、美術への関心を高めたのだろうか?

「ふるぼけしセロ一丁の僕の冬」


 セロは今で言うチェロである。
 宮澤賢治の『セロ弾きのゴーシュ』でわかるとおり、当時はセロと呼ぶのが一般的だった。
 冬のガランとした居室は殺風景で、相棒は古いセロ一丁しかいない。
 セロの巨大さが他の小物たちを背景へ追いやり、空間がガランと感じられる。
 セロの持つ古さ、時間の積み重なりが作者の孤独をやや、和らげている。

「しんしんと 肺碧きまで 海の旅」


 鳳作の句として最も有名なものである。
 海を眺めている作者の「心」でなく「肺」へ碧さが浸透するという感覚と表現は凄まじい。
 肺から息が出て行き、新たな空気が肺へ入って来る一息ごとに、碧さが全存在を染めて行く。
 仏教の瞑想に、ありありと観る「観」の方法がある。
 鳳作はどこかで体験したのだろうか。

 自分と世界の存在をどう、とらえるか。
 鳳作の視点には考えさせられる。




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2014
11.24

この国の魂と相撲の神様に認められた白鵬 ―【現代の偉人伝】第201話―

 横綱白鵬が32回目の優勝を飾り、ついに大鵬の記録に並んだ。
 君が代を聴きつつ涙を堪えきれなかった白鵬は、感想を簡潔に述べた。

「この国のと相撲の神様が認めてくれたからこの結果があると思います」


 言葉に驚嘆し、考えさせられた。

 平成22年の暮れまで白鵬は63連勝し、谷風の記録に並んだ。
 双葉山が谷風の記録を破ったのは、157年後のことである。
 それから71年後、白鵬が双葉山の記録を破るかと注目されたが、64連勝はならなかった。
 敗れた後、こう告白している。

「やっぱり休場も考えた
 心と体がひとつにならないんじゃないかとも考えたし、中途半端な気持ちで臨んではいけないからね」


 これは、神の領域へ踏み込まねばならず、逡巡している者の思いではないか。
 双葉山の偉業はもはや、神の次元にあるととらえられている。

 こうした思いの延長線上に今回の言葉がある。
 それにしても「この国の」とはどういうことか?
 白鵬は大相撲という世界に息づいている日本の、自分に具現している日本の、をありありと感じている。
 日本はもはや、意志となる心であり、肉体にみなぎるいのちであり、一息ごとに存在を許す空気である。
 そのはたらき全体がとなっている。
 律するものは「相撲の神様」であり、〈個〉の意志などは意識されなくなっている。

 かつて、小林一茶は詠んだ。

「日本と砂へ書きたる時雨かな」


 冬の気配が濃くなる頃、うつろう気配に日本(ヒノモト)という言葉が浮かび、砂へ二文字を書いたおりもおり、時雨がやってきて、見る間に文字を消してしまう。
 文字は消えても、心に浮かんだ日本という観念は、佇んでいる自分のと感性のすべてをとらえきっている。
 白鵬流に言えば、俳句の神様が詠ませたのです、ということになろうか。

 白鵬はついに〈畏れ〉をつかむに至った。
 自分の心技体をあるいは認め、あるいは叱ってくれる者の前では、畏(カシコ)まる他ない。
 特定の〈道〉に精進する者は、多かれ少なかれこうした〈畏れ〉を感得するのではないか。

 本居宣長にとって何かが「なる」とは、大いなる者が自然におりなすことごとの結果として生まれ出ることだった。
 また「むすび」とは「ひ(霊威)」が「むす(産出する)」ことである。
 注連縄(シメナワ)も俳句も、見えぬ世界のできごとが見える形をとったものである。
 松岡正剛氏はこう述べている。

ウツからウツロイをへてウツツが派生してくるという光景」


 ウツとは「虚(見えぬ世界のことごと)」であり、ウツツとは「現(現象世界のことごと)」である。
 白鵬は土俵の注連縄に、日本の神のなせるわざを感じ、一茶も又、おのづから成ってくる俳句に、日本の神のそれを感じたのではなかろうか。
 
 白鵬は横綱としてむすびの一番をとる。
 その一番の勝敗は、神様が心技体を認めれば勝ちと成り、認めなければ負けと成る。
 だから白鵬は、大鵬に並ぶ今回の結果について「神様が認めてくれたから」と言った。
 相撲道に邁進する白鵬は、畏れ、畏まりつつも、清明な心で別世界へ溶け込みつつあるのではなかろうか。




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2014
11.23

パチンコ依存症(その2) ―吉村昭著『夜光虫』と変えがたい自分―

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 パチンコ依存症が抱える問題について「パチンコ依存症―始まった克服への取り組み―(その1)」で実態を見たが、今回は、生き方を変えることについて考えてみたい。

 私たちの生活は、ほとんど、習慣的な繰り返しによって紡がれている。
 昨日、生きたように、今日も生きる。
 もちろん、時々刻々と新たな事態がやってきて、その都度、受けとめ、判断し、行動するが、新たな事態に対応するやり方は、あまり変わらない。
 布団からの起き上がり方、トイレや洗面所の使い方、朝食の摂り方、などなど、ほとんどは無意識に近い形で行われることを見ても、人生は実に、繰り返しであると思える。

 故吉村昭に『夜光虫』という短編小説がある。
 図書館が行っている読書感想文のコンクールで優秀作に選ばれた田川は前科者である。
 出所後も女性に近づいては借金を繰り返しているという。
 そんな田川が、受賞をきっかけに、図書館主宰の読書会へ入会する。
 会の担当者松浦は危うさを感じたが、拒む理由がない。
「田川は、拘置所に勾留されたことで十分に反省しているとは思えるが、それは一時のことで月日がたてば再び同じ動きに出ることが十分に予想される。
 それは田川という人間の奧深く根ざしたもので、かれ自身にも抑制できぬ習性に近いものかも知れない。」
 やってきた田川について、係員速見は朴訥な感じで目だったところはないと報告し、松浦は懸念を深める。
「朴訥で口数も少ないらしい田川には、女は少しのためらいもなく近づき、身がまえるようなこともしないにちがいない。」
「朴訥さが女性を無警戒にさせ、そこに田川は巧みに入りこんでゆくのではないだろうか。」
 やがて退職し、新しい職場へ移った松浦を見知らぬ女性が訪ねてくる。
 読書会で知り合った田川が急に転居したが、行く先を知らないかと問う。
 松浦は知らないと答え、お互いに子細について話さないまま、女性は去る。
「その顔には田川に欺かれているという色は少しもうかんでいない。」

 決して前科者への偏見を助長するわけではないが、私たちは実に〈変わりにくい〉存在である。
 吉村昭が喝破したとおり、いかにも異性を惹きつけるような容姿や風貌を持った人だけが、異性との間で人生模様の彩りを深めるわけではない。
 何の変哲もないタイプの人でも、ふと、異性との関係の持ち方に気づき、自分なりのパターンをつかむと、よきにつけ悪しきにつけ、いつしかそれを続けていたりする。

 私たちは、このままの自分ではいけないと気づいたなら、強く意図して変えない限り必ず、いけないことを又、行ってしまいがちである。
 どうしても暴力的傾向を持った男性に近づいてしまい、離れるのに苦労する方。
 離婚が縁でパチンコと手を切ったはずなのに、再婚で生活が安定した途端に又、破綻へ向かった方。
 危険な目に遭ってアルコール依存を断とうとしながら、変わらぬ生活のリズムから又、アルコールへ手を出してしまった方。
 人生相談に来られたこうした方々のほとんどは、真の問題のありかに気づいておられない。
 それは、自分という「人間の奧深く根ざしたもの」が観えていないということである。
 観えてすら変えがたいのに、観えていなければすべてが対症療法でしかなく、大火事を起こしかねない埋もれ火はいつまでも消せないことになる。
 人生をふりかえり、繰り返してきた問題があれば、自分という「人間の奧深く根ざしたもの」をしっかりと問いたい。
 ただし、「朴訥さ」すらもが悪しき行為を生む原因の一つになりかねないのだから、ことは容易ではない。
 たとえば、今、手にしているものの範囲でことを行うタイプと、未来をあてにしてことを行うタイプがある。
 前者はお金を貯めてから家を建て、後者は借金して家を建てる。
 こうした人生への姿勢や感覚は容易に変えられないが、根ざしたものを観てゆくと、ここまで考えねばならない可能性もある。
 これでいいのか?これでよかったのか?これで大丈夫か?これをどうするか?

 どうにかして変えたいと願う方には、まず、生活上の小さな行為を意図して変えるようをお勧めする場合がある。
 食事の仕方や歩き方や話し方など、日々、繰り返す小さな行為を意図して変えてみることはバカにできない。
 努力を続けること、変えられる、変わった、という実感を持つことが肝腎。
 それは過去世の因縁、生まれと育ちの因縁、生き方の因縁などに対する小さな、しかし確かな挑戦である。
 



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2014
11.22

地域の宗教と個人の宗教 ―周囲からの押しつけが我慢できません―

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 ご相談がありました。
「嫁いだ先の地域が一つの宗教で固まっており、否応なしにさまざまな形で参加させられるのがたまりません」
 以下のとおり、お答えしました。

 考えるべきポイントは三つです。

①一心の自由は何ものにも替え難い

 自主的な選択が許されないところに真の宗教心はありません。
 宗教は心を縛るものではなく、解放するものだからです。
 目をつむった時、好きな人の顔がすぐ思い浮かべられるように、お地蔵様のお顔などが自然に思い浮かべられ、その状態に留まることが心の安寧ならば、それがその人の宗教心の核であると言えます。
 この安寧こそが解放状態です。
 だから今、周囲で習慣的に行われ、貴方様も参加している宗教行為が、貴方様にとって真の宗教として救いとなっているかどうか、調べてみましょう。

②宗教的慣習はどこにでもある

 戦争に負けた日本は、国家神道が戦争をリードしたことにかんがみ、教育の現場などからあらゆる〈宗教的〉なものが徹底して排除されたため、世界的に異様なほど自称無宗教の人々がたくさん暮らす国となりました。
 それでも私たちは、お祭やご葬儀の時は、伝統的作法によって喜びや安心を得ています。
 そこには宗教心があります。

③あまり〈正しさ〉を優先させず、優雅さや穏やかさを優先させる

 個人的宗教と地域的慣習の二つは重ならない場合が多くあり、問題や悩みが生じたりします。
 具体的な選択肢としては、まず、社会的儀礼と割り切って慣習的宗教行為に従い、心には誰も踏み入ることのできない自分の世界をきちんと保つ意識になってみること
 。論語に「君子は和して同ぜず」とあります。
 和することは、同じになり、自分が融けてしまうことではありません。
 どうしても自立心を保てず、和することもできず、苦しい気持が募る場合は、問題が起きるたびに、自分なりの験直しなどを行い、一件落着とするよう、工夫してみましょう。
 また、正しさばかりを優先させず、優雅さや穏やかさを優先させる気持でことに当たることも大切です。
 世の中は正しくないことだらけです。
 それは、正しさの基準が人それぞれ千差万別であり、正しさは人の行動をうながす要素の一つでしかないからです。
 誰しもがそうして社会を生き、社会に生かされています。
 柳眉を逆立てず、おりをみて新住民としての意見を発しつつ、穏やかな慣習の変化を待つことがベストです。
 いのちは無常であり、主役は必ず入れ替わります。
 この理をよく観て、何とか自立心を保ちながら慎重な判断をされますよう。




「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2014
11.21

「大雨が教えてくれた使命」(ハン・スンホ)全文 ―スピーチ最優秀賞に輝いた22才の韓国人警察官―

2014112000052.jpg

 11月15日、ソウルにおいて行われた「日韓交流スピーチ大会」で韓国人ハン・スンホ韓昇コウ)氏が最優秀賞に選ばれました。
 主宰は在韓日本大使館公報文化院及び一般財団法人自治体国際化協会(CLAIR)です。
 この全文は日本国内未発表であり、以下の方々のご尽力により、当山へ送られました。

○駐仙台大韓民国総領事館様 
○一般財団法人 自治体国際化協会
Council of Local Authorities for International Relations (CLAIR)
総務部 企画調査課 主事 高坂 真理子(Mariko Kosaka)様
○在韓日本大使館公報文化院様

「私は警察の機動隊で働いています。
 外国の大使館や政府機関など公的重要施設の警備、そしてデモや集会の管理が私たち機動隊員の主な仕事です。
 本日は夜明けの頃、大雨の中で日本大使館を警備しながら感じたことについてお話ししたいと思います。

 6月のその夜は梅雨で雨が降りしきっていました。
 バスの中で休憩する時、天井を叩く雨の音で一睡もできないほどでした。
 勤務時間になっても大雨が続きました。
 視野は灰色の雨脚でいっぱいになって、足元は雨水で溢れていて、羽織っていた雨着や靴の中はすでに濡れてじとじととしていました。
 気温も湿度も高い大変な状況にもかかわらず、私はじっと立っていなければなりませんでした。
 私は後ろに建っている日本大使館を肩越しに見ながら、なぜ自分がこの大使館の前に立っていなければならないのかと考え始めました。

 上の指示に従うしかないからだろうか、ウィーン条約によって外国の大使館を守るのが義務だからだろうか、いくつかの理由を思いついたのですが、どれもその状況を乗り切るための動機にはなりませんでした。
 ちょうどそう感じた時、前の方にあった電光掲示板に連日悪化している日韓関係についてのニュースが出ていました。
 それを見た途端に思い出した二つは、反日デモ隊から日本大使館を警備した時の経験と、反韓デモ隊から韓国大使館を守るために苦労しているはずの東京の警察のことでした。
 東京にも韓国大使館の前で私と似たようなことを思う警察官がいるかもしれないと思うと、東京の警察との間に仲間意識さえ感じられました。
 それから私は、我々ソウルと東京の警察が、日韓関係という舞台の片隅で一番目立たないけれど絶対欠かすことのできない役を共に担っていることを、誇らしく思えるようになりました。
 悟りのようなものを得たと一人で感心していると、いつの間にか終わりそうでなかった大雨もやっと止み始めて、夜が明けようとしていました。
 なんとなく、これからはしっかり仕事に打ち込めそうな気がしました。

 それ以来、日本大使館勤務のときはいつもその夜を思いながら元気を出しています。
 そして常に日韓友好を念頭において、勤務中会う日本の観光客の方にはいつも笑顔で丁寧に対応するように努力しています。

 そして何より、今も私の仲間たちが責任感と使命感を持って日本大使館を守っているということを、本日の私の話で皆さんにわかっていただけると本当に嬉しいです。
 今まで私の話をお聞きくださりありがとうございました。」


 ハン・スンホ氏のプロフィールです。
・年令:22才
・身分:ソウル大学3年。徴兵制により現在は休学し、警察の機動隊に配置。在韓国日本大使館の警備などを務める。
・日本語学習期間:3年6ヶ月
・日本滞在経験:なし

 スピーチの文章は、教科書に掲載されてもよい内容ではないでしょうか。
 公開にご協力くださった関係者各位様へ、心よりお礼申しあげます。合掌





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2014
11.20

思いやりの実践者に学ぶ ―仙台青葉ライオンズクラブにて―

 ご縁があり、「仙台青葉ライオンズクラブ」で講和を行うことになりました。
 善き行い、悪しき行い、いじめなどにどう対処するか、救いはどこにあるか、などについてお話させていただく予定です。
 善き行いは挙げきれませんが、中国や韓国との関係の難しい時期でもあり、これまでブログで紹介した「駐仙台韓国総領事李凡淵氏」「中国人留学生厳俊氏」「『日韓交流スピーチ大会』で最優秀となった韓昇コウ氏」、そして「サンマリノ共和国特命全権大使マンリオ・カデロ氏」及び「駆逐艦『雷』艦長工藤俊作中佐」のことごとをご紹介します。

 こうした方々は、どなたもが、我(ガ)から離れた「思いやり」の心を強く持っておられるように思えます。
 世界が平和であるためのカギは子供たちへ思いやりの心を育てることではないでしょうか。
 そのためには、まず、大人たちが思いやりの心で生きねばなりません。

 平成二十六年四月七日、ダライ・ラマ法王は仙台市で講演を行い、講演に先立って行われた神道儀式において、神道古来の作法どおりに礼拝をされました。

「宗教はすべて、人々に救いや癒しをもたらすためのものですから、私はどの宗教にも深い尊敬の念を抱いております。」


 そして、私たちへ語りかけられました。

「もし悲劇が起こっても希望を捨ててはいけません。それをより良い方向への機会に変えてください。」
「私は十六才の時に自由を奪われ、二十四才の時に国を奪われました。難民生活が五十五年も続いていますが、希望を失ったり悲観的になったりすることはありません。人には誰でも助けにきてくれる兄弟、姉妹の存在があります。日本人の皆さんは、今日の世界に生きる、皆さんと同じ感情や体験を持つ七十億人の一部なのです。」
「自分が望むことが本当に実現可能か、吟味してください。目標にしていることをよく調べ、現実的なアプローチをしてください。最善を望み、最悪に備えてください。正直に、誠実に、そして他の人の幸せを考えてください。自己中心的になれば恐れと疑いを生み、最後には孤独を味わうことになります。」

 
 最後に、シャーンティデーバの言葉を紹介されました。

「宇宙が存在する限り、そして衆生が存在する限り、この世の悲惨を消し去るために、その時まで私もまた留まりますように」


 たとえ悟りを得ても自分だけが安寧の境地へ入ってしまわず、幾度でも、この苦の娑婆へ生まれ変わり、最後の一人までも救い尽くそうというこの菩薩(ボサツ)の祈りは、お大師様の祈りでもあります。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃(ネハン)尽きなば、我が願ひも尽きむ」


 ちなみに、菩薩(ボサツ)の基本的な戒律は、「三聚浄戒(サンジュジョウカイ)」です。

「摂律儀戒(ショウリツギカイ)………悪行をしない。
 摂善法戒(ショウゼンポウカイ)……善行にいそしむ。
 摂衆生戒(ショウシュジョウカイ)…他のためになる。」


 思いやりにあふれた方々の善行に学び、互いに菩薩を目ざして生きたいものです。




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2014
11.19

スピーチ最優秀の韓昇コウ氏について ―【現代の偉人伝】第200話―

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 11月15日、ソウルにおいて行われた「日韓交流スピーチ大会」で韓国人韓昇コウ氏が最優秀賞に選ばれた。
 主宰は在韓日本大使館公報文化院及び一般財団法人自治体国際化協会(CLAIR)である。
 以下、共同通信社の記事を転載する。

 ソウルの在韓国日本大使館で24時間警備を続ける警察の機動隊員の一人、韓昇コウさん(22才)が、日韓交流スピーチ大会で最優秀賞に選ばれた。
 大雨の中で警備に立ちながら、東京の韓国大使館を守る日本の警察官に仲間意識を抱いた経験を話し「一番目立たないが絶対欠かせない」両国の警察と自分の任務を誇らしく思えると語った。
 ずぶぬれで警備しながら任務の意味を自問した時、大使館向かいの聯合ニュース本社の電光掲示板に日韓関係の悪化を伝えるニュースが流れた。
 それを見て、同大使館前で反日デモ隊と向き合った記憶と、東京の韓国大使館前で同じ苦労をしているはずの警視庁の警察官への思いが浮かび、仲間意識を感じたという。
 取材に対し、日韓がもめているのは「相手をよく知る努力をしない人が多いからでは」と話した韓さん。
 スピーチの最後に「今も仲間たちが責任感使命感を持って日本大使館を守っていることを分かってもらえるとうれしい」と述べた。


 同じ任務を担って努力している人は、世界中で似たような苦労をし、似たような喜びを味わい、似たような感慨を持つ。警察官としてはたらく人々は、その典型と言える。
 韓昇コウ氏のように、自分の責務を省み、想像力をはたらかせることによって、見知らぬ〈同志〉への親近感や連帯感が心中に生まれ、それが国家やイデオロギーや宗教を超えた互いの絆に成長すれば、国家やイデオロギーや宗教の違いや立場による無用な軋轢、不毛な対立、勘違いによる憎悪などを抑止し、消滅もさせ得るに違いない。
 韓国において「責任感使命感を持って日本大使館を守っている」警察官の心は、日本において韓国大使館を守っている警察官の心に通じている。
 制服をまとう誰もが、同じ生きがいと誇りと情熱を持った「仲間たち」なのだ。
 私たちは、こうした交流や絆に学び、「相手をよく知る努力」を続けねばならない。
 その努力は決して互いを不幸な方向へは導かず、必ずや信頼感を醸成し、さまざまな〈違い〉による困難を克服させることだろう。
 その時、〈違い〉は活発な創造力をかき立て、互いの心を成長させることだろう。




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2014
11.18

パチンコ依存症―始まった克服への取り組み―(その1)

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〈NHK様よりお借りして加工しました〉

 10月20日、厚生労働省は、日本人のギャンブル依存症に関して、最新の調査結果を発表した。
 ギャンブル依存症の疑いがある人は成人男性の8・8%、女性の1・8%で、全体では4・8%。
 536万人(男性438万人、女性98万人)がギャンブル依存症を疑われるという。
 ちなみに、カジノ大国アメリカでは、大学生の6パーセントが依存症とされている。

 11月17日のNHKテレビ「クローズアップ現代」は「パチンコ依存症~始まった克服への取り組み~」を放映した。
 以下、要点をメモしておきたい。

・パチンコは射幸心を煽るハイリスク、ハイリターンのギャンブルである。

・気晴らし、憂さ晴らしのつもりでいても、依存症になる危険性があり、WHO(世界保健機関)はかねて「ギャンブル依存症は治療の必要な病気である」と警告を発している。

・深刻なのは、〈本人に自覚がない〉まま、依存症の問題が年々、深刻化し続けていることである。

・依存症と戦っているAさんの証言
「負ける時と勝つ時の大きさの差が大きいほど快感度合いが大きい」
「生活が破綻しかけてもなお、自分はいつでもやめられる」と考えている」
「パチンコで勝つという頭ができてしまい、どうしてもそれを再現したくなる、刺激がもう一度、欲しくなって衝動を止められない」

篠原菊紀教授(諏訪東京理科大学)はパチンコ依存症のメカニズムを突きとめた。

1  パチンコをしているうちに分泌される快楽物質ドーパミンが興奮状態にさせる。
2  興奮を鎮め、身体を安定状態に保つコルチゾールも分泌を増す。
3  パチンコの大きな興奮により、コルチゾールもより多くなる。
4  一気に沈静化した身体には、快感欲求が生まれる。
5  本人の意志とは関係なく身体が快感を求め、衝動が抑えられなくなる。

・依存症を克服しつつある主婦Bさんの証言

「夫と子供を送り出すと、パチンコ屋へ足が向いた」
「子供が下校する時刻になっても止められず、『えいっ!』とその時を越えてしまうともう、帰れなくなった」
 Bさんは夫と別れ、中学校を卒業した娘も家に寄り付かなくなり、ガンが見つかってようやく止めた。
「やめ続けて行きたい」

・精神科医岩崎正人(岩崎メンタルクリニック院長)氏の証言

「依存症患者は現在、一ヶ月に20人ほどである。
 右肩上がりに増えており、8割が男性、そのうち半数が30台、40台である。
「依存症は、わかっちゃいるけどやめられない、心の病気である」

 ギャンブル依存症の診断基準(アメリカ精神学会)は以下のとおりである。

1  止めようと思うができない
2  やめているとイライラする
3  するために嘘をつく
4  賭け金が増えていく
5  頭から離れない
6  資金を得るために違法行為にも走る
7  他人のお金にまで手を出す
8  仕事をさぼる
9  嫌なことがある度に行く
10 損をした分をギャンブルで取り戻そうとする

 5項目以上が該当すれば依存症だが、岩崎正人氏は、「止めようと思うができない」が根本であり、派生的にさまざまな問題が起こると指摘する。
「愛好家と依存症の別れ目は、『負けたことが受けとめられず、悔しくてまた、やる』『負けるはずがない、正しい理論を掴んでいたいためであると考える』『借金しても、一発当てればいつでも返せる、どうにかなるさ』に陥るかどうかである」
多くの場合、状況を深刻に受けとめられるまでは平均、十数年を要する。
 周囲も、本人もなかなか病気であると考えられないことが深刻である

「苛立ち、自分を責めてうつ病などに陥るとより、深刻である」
「ここまで深刻化した理由は二つある。
 一つは、個人的問題であり、対人関係がうまくできない人が癒しを求めてパチンコへ走りがちなこと。
 もう一つは社会的問題であり、ハイリスク・ハイリターンの機械により、射幸心を強くかき立てる環境が周囲にあること」

パチンコ一人当たりの消費額は平成元年51万円だったのが。16年には160万円にまでなっている。

 当山にはこれまで、パチンコ依存上になった多くの方々、あるいはご家族の方々が人生相談に訪れた。
 話をし、祈祷やご加持を行い、あるいは弁護士や精神科医の紹介もした。
 ギャンブル依存症の1人は周囲に10人前後の〈被害者〉を生じさせると言われているとおり、家族などの悲惨さは目に余る。
 患者の割合が主な先進国の5倍から10倍という危険な社会問題がこれまで、放置されてきたことはあまりに情けない。

 世界中のギャンブルマシン約724万台のうち約460万台(60パーセント以上!)は日本にある。
 平成22年の統計は以下のとおりである。(GTA/The Gaming Technologies Associationによる)
 異様ではないか?
 何がこうさせているのか?

1 日  本  4590246
2 アメリカ   752520
3 イタリア   330000
4 イギリス   248000
5 スペイン   246651

 知人のジャーナリストは、マカオで取材したおりの衝撃を語ってくれたことがある。
カジノで一番の上客は誰だと思いますか?
 中国の成金です。
 二番目は、中国の政治家や官僚などの、いわゆる腐敗分子です。
 どの施設も、裏で仕切っているのは当然、マフィアです」


 台湾でも韓国でも、パチンコは禁止されている。
 平成18年、韓国で禁止となった理由は明確にされている。
「人間を怠惰にして、人生を狂わせる」

 事態はまことに深刻である。
 日本がこのままでよい理由はどこにあろうか?





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2014
11.17

戦争がないなら死んでもいいですよ ―鳴戸奈菜の世界―

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 恐ろしい句に出会った。

戦争がないなら死んでもいいですよ」(鳴戸奈菜


 人は皆、死ぬ宿命にある。
 それなのに「死んでもいい」とは、死に対する主体性を持つということであり、宿命への挑戦である。
 普通に言い換えれば、「私は、戦争などで死にはしません」となる。
 さらりと読む限り、平凡な会話の一部が切り取られたかのようである。
 死も戦争も相手としては巨大過ぎて、表面的にはいささかドン・キホーテ的滑稽さすらあるこの句は、いわゆる〈名句〉には選ばれにくいかも知れない。
 しかし、数度、口の中で繰り返しているうちに、句の奧に屹立している容易ならぬ精神が姿を顕し、絶句する。

 凡人の考え方で言い換えず、このままに受けとめればどうなるか。
戦争をなくすためならば、私はたった今、ここで死んでも、一向に構わない」
 NHK大河ドラマ『軍師官兵衛』にも登場した備中高松城主清水宗治は、いかなる好条件を出されても官兵衛側に寝返らず、講和を条件に自決した。
 まさに、この一句はそうした世界をはらんでいる。
 しかもさり気なく、あまりにさり気なく……。
 さり気ないが故に、本気としか思えない。
 ――〈本気〉とは。
 口先の反戦思想と異次元のところにあるの強靱さに凝然となった。

 仰天して、他の句を読んでみた。

「枯野出て枯野に入りぬちんどん屋」


 人生は人気(ヒトケ)の絶えた枯れ野を背景にどこからともなく表れ、いつの間にか枯れ野へ消えて行ってしまうチンドン屋ではないか。
 厚く化粧し、華やかで安っぽい鳴り物を抱えて賑やかしに懸命だが、チンチン、ドンドンという耳を刺激する音に伴っているのは哀感でしかない。
 本人の〈実態〉を隠し切ったチンドン屋は、そもそも、本人の〈実体〉など、すでになくしているのではなかろうか。
 まさに無常であり空(クウ)である。

「生涯を土手より眺む西日かな」


 西日のもの哀しさは、生老病死の四苦(シク)のうち、三つに関わっている。
 子供の頃、大病を患った私は、湿布の包帯でグルグル巻きにされたまま、じっと仰臥し、西側の障子が橙色になり、電灯が点される頃にはその向こうが漆黒に変わって行く様子を毎日、眺めていた。
 西日は病気と死に、あまりにも似つかわしい。
 そして、鳴戸奈菜氏は淡々と詠んだが、老いた眼は沈む夕日をなかなか追いきれない。

 一方、こうした句もある。

「冬うらら隣のが寄りかかる」


 托鉢行の途中で見かけた墓地では必ず手を合わせたが、当然のことながら、寂寥感に包まれつつの祈りだった。
 だから、自坊が墓地を用意できるようになったなら、いささかなりとも、和やかさや温かさが感じられるようにしたいものだと願うようになった。
 おかげで、当山の墓地法楽の苑』では時折、「あまり淋しくありませんね」と言っていただける。
 空いたスペースでご家族がブルーシートを広げ、おにぎりなどを食べておられるのを見かけると、本当に嬉しい。
 だから、冬の寒気の中で陽光が射し、麗らかな温もりを感じる俳人には、おの縁で隣人となった同士もまた、温もりに優しい気持をうながされていると感じられたであろうことは、理解できる。 

「生きている人がたくさん初詣


 自分も〈生きている人〉の一人である。
 自分も〈たくさん〉のうちの一人である。
 初詣という文化が持つ力と、人々の胸に流れる讃歌を見事にとらえきった。

 鳴戸奈菜氏は、昭和18年、現在の韓国ソウルに生まれた英米文学者である。
 ご生涯については知らない。
 ただ、あまりの透徹さと温かさに圧倒されるのみである。




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2014
11.16

共同墓、改宗、マンリオ・カデロ大使のこと

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 最近、こうしたお申し出が相継いでいます。
「今年なくなった親のお骨を今年中に自然へ還したい」
お骨を家に置いたままで年を越しては申しわけないから、預かって欲しい」
 そして、共同墓へ納骨をしたり、安骨堂へお骨を預かったりされます。

 その際に、よく出る質問があります。
「真言宗に改宗しなければなりませんか?」
「家にあるご本尊様はそのままで、法楽寺の宗教に改宗できますか?」

 当山では、こちらから改宗をお勧めすることはありません。
 それぞれの宗教にはそれぞれの存在理由があり、信じている方々にもそうなった理由や、そうして安心を得られる理由があってこそ、ここまでこられたからです。
 また、人それぞれ特定の名前を持ち、千差万別にしか存在できないように、心のありようやはたらき方も又、千差万別であり、因縁のつながりによって仮そめに存在し、時々刻々と変化し続けている人間に、「これが唯一絶対である」などという判断はできようはずもないからです。
 だから、基本的にはこう、お応えします。
「当山で行っている法務に納得、共鳴されるのなら、それはありがたいことです。
 しかし、今、お宅でお祀りし、手を合わせているご本尊様はそのままでも、一向に構いません。
 お大日様、お不動様、お地蔵様、観音様、お釈迦様、阿弥陀様と、み仏はのお姿や役割は多様ですが、どなたも、相手を選ぶことなく分け隔てせずにお救いになられるからこそ、み仏なのです。
 自分の好き嫌いや都合や損得などで相手を選ぶのは、私たち凡夫のやり方でしかありません。
 もし、特段の問題がなければ、どうぞ、これまでどおり、家ではそのご本尊様に手を合わせてください。
 どうしても、というご事情があれば、魂抜きの修法を行い、新たにご自身が信じられる方へ魂入れを行います。
 なお、その際に大切なのは、本当に自分が手を合わせたい気持になれるかどうかです。
 ご自身の感覚や感性にピッタリ来る方をお選びになってください。
 四国八十八か所のご本尊様は多種多様です。
 この方が一番、などということはありません。
 まっさらな心で考えていれば、きっと、み仏の方から貴方を選んでくださることでしょう。
 私自身、こうして特定の修行道へ入り、特定のご本尊様をお祀りしている成り行きのすべては、み仏が提示してくださった道をすなおに歩んでいるだけ、という感じがしています」

 とは言え、一般的に、新たな信仰へ入る際に気をつけた方がよい点を三つ、挙げておきましょう。

○自分の心的傾向に合っているかどうか

 仏教は造物主としての神を想定しない宗教ですが、「~だけ」といった形を好む方にとっては、そうした一神教的な宗教が性に合う場合もあるはずです。
 大切なのは、他人へ迷惑をかけない限り〈人それぞれ〉を認め合うことです。
 一つの宗教で国家や地球を地ならししようなどという発想は思い上がりであり、周囲にとって、迷惑でしかありません。

○自分の生活圏にある文化的傾向に合っているかどうか

 たとえば、里山にある部落の人々が皆で氏神様を大切にしている地域に住み込み、神社をないがしろにして一神教的な宗教を周囲へ勧め始める人は、一個人が持つ権利の問題としてどうかという議論より先に、地域の人々が創り守ってきた文化的雰囲気の破壊者となることが、まっとうな人間の行いであるかどうかを謙虚に省みるべきでしょう。
 それはもちろん、内心の信念を周囲へ合わせねばならないということではありません。

 当山では、「これをこう信じなさい」などと個々人の内心へ入り込みません。
 たとえばこんなふうにお話しします。
「どうぞ、ご自身のお心におられる阿弥陀様を大事にしてください。
 そして、ここへ来られて安心できるならば、どうぞ、ご一緒に阿弥陀様の真言をお唱えください。
 気が向けば、般若心経なども唱えたり、護摩の火へ合掌したりしてください。」
 同じように、もしも、氏神様以外の神様を信じるようになった方は、ご自身の心中でそうされればよいだけのことです。
 皆で行う氏神様のお祭にどう関わるか、関わらないかは、常識や良識や感性の問題であると言えましょう。

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 サンマリノ共和国特命全権大使マンリオ・カデロ氏は、神道に深い共感を覚え、敬虔なクリスチャンでありながら、カトリック教徒が9割を占める母国へ神社本庁公認神社を建てました。
 一心の信仰、一身の文化的共鳴、そして母国の宗教というパズルを見事に解いて、国家間の友好や文化的交流の大きな礎をつくられました。
 きっと、氏のすばらしい常識や良識や感性や知性が総動員されたに違いありません。
 我を張らず、破壊者にならなくても、一心の信仰は保たれることを肝に銘じておくべきではないでしょうか。

○我を張らない、他者を認める、あるいは互いを思いやるといった宗教の違いを超えた広い心になっているかどうか

 マンリオ・カデロ氏は、著書『だから日本は世界から尊敬される』において、「靖国神社を救ったのはカトリック教会」と指摘しています。

「第二次世界大戦後、GHQ(連合国最高司令部総司令部)内には、靖国神社を軍国主義の象徴と見なし、焼き払った上に跡地をドッグレース場にしようとした動きがあったそうです。」


 司令官マッカーサーに諮問されたローマ教皇庁の臨時駐日代表ブルーノ・ヴィッテル神父は答えました。

いかなる国も、その国に準じた兵士に対して、敬意を表す権利と義務があり、それは戦勝国、敗戦国問わず平等である。
 もし、アメリカ陸軍が靖国神社を焼却したならば、米陸軍の歴史に永久に消すことのできない汚点を刻むことになるだろう。」


 アメリカン・カトリック教会のパトリック・バーン神父も手紙に書きました。

国家神道は愛国心の表明以上の何者でもない。
 それはプロテスタントとカトリック、ユダヤの教徒がアーリントンの無名戦士の墓で花輪を添えるようなものだ。


 そして、マンリオ・カデロ氏は感慨を述べました。

「このような経緯があったことを考えると、クリスチャンである私たちヨーロッパ人がサンマリノに神社本庁公認の神社を建立できることは本当に感慨深いものがります。」


 こうした広い心をつくる宗教にご縁を結んでいただきたいものです。




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「おん あらはしゃのう」
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2014
11.15

神と僕、そして「おもてなし」

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〈ジゼッペ・ペノーネの『小径1』 歩いているのは人間か、植物か?〉

 11月8日のNHKテレビ「ジャパンブランド(第一回)」は、ショッピングモール、回転寿司、外食店、100円ショップ、旅館、美容院などの「日本式サービス」が世界中へ広がっている実態を報じた。

 大阪の「サカモト セミナー」は坂本英雄氏が一人で行う小さな学習塾だが、アジアに進出して1万人もの生徒を擁するまでになった。
 それは、一人一人を徹底してレベルアップさせる坂本式という独特の勉強法が支持されたためである。
 氏は、生徒が学力をつけて喜ぶよう精魂を傾け、工夫し続けている。

 旅館の経営者星野佳路氏は、西洋式のサービスと日本式サービスの根本的違いを見つけ、出迎えから見送りまで一人のスタッフが客へ対してすべてのサービスを行う方法で事業を展開している。
 考えに考えた末、氏は気づいた。
 信頼される西洋式ホテルは、世界中どこでも同じサービスを確実に受けられ、客が上でスタッフは下という上下関係が徹底されている。
 それに対して、日本式旅館は、客とスタッフは対等で、客が期待するのは、スタッフのもてなしに表れる旅館と主人の〈文化度〉である。

 番組では、一人の女性スタッフが一組の夫婦をもてなすシーンが放映された。
 出迎えたスタッフは、筆を用い、カタカナで名前を書く体験を勧め一言、添えた。
「日本では古来、『書は人を表す』と言われています」
 そして夫婦が外出中に、一人、残った部屋でイスの位置を変えるなどあれこれと気を配る。
 最後に、奥さんがカタカナで名前を書いた短冊を色紙で包み、そっとテーブルへ置いた。
 戻った夫婦の驚き、そして「――イロガミ……」と呟きつつ開いて見た奥さんが泣きそうなほど感激し、続けた言葉は耳から離れない。
「オー・マイ・ゴッド!ソー・ビューティフル!」
 別れの時が来て、スタッフは感謝を込めた笑顔でちぎれんばかりに手を振り、客を送った。
 夫婦はきっと、日本で過ごした時間を忘れられないだろう。
 スタッフの心にも、かけがえのない手応えが残ったことだろう。

 西洋式にあっては、客は王であり、スタッフは僕(シモベ)である。
 客の〈王様気分〉をつくれるかどうかが勝負であり、客とスタッフの距離は、神と人間のように遠ければ遠いほど、客の満足度が高まる。
 こうした方法は、世界中のどこでも効果を発揮できるので、スタッフは便利で使いやすい〈道具〉となり切ることを求められ、訓練させられる。

 日本式にあっては、その〈場〉に責任を持つ〈主人〉としてのスタッフが客を迎え入れる。
 主人は客の意志に忠実なだけの僕でなく、客に真の満足を得てもらうために客をよく観察し、客の内心から新鮮な喜びを引き出す方法を主体的に考え、実践する。
 客が反応し、深い満足を覚えてくれるかどうか、人と人との魂をかけた勝負である。
 そこには基本的な接客態度の準備はあっても、従っておけば成功を保証するマニュアルはない。
 一期一会(イチゴイチエ)は常に白紙である。
 スタッフにとって厳しいと言えば厳しいが、道具としてでなく、想像力と創造力を持った人間として仕事ができ、仕事は知性と感性に磨きをかけ、人間性を豊かにする。

 そもそも、日本式の「おもてなし」とは、相手の喜びと満足感を創造し、相手の喜びと満足感を自分のそれと感じるところに生まれるのではないか。
 最近、外国人と接する機会の多い経営者から聞かされた。
「日本に来た人々が一様に驚くのは、どこででも、誰でもきちんと並ぶ姿です」
 それは、駐車場にある車イス用のスペースが、施設の入り口近くにあってとても便利なのに、見事なほど空けられていることに通じている。
 見張りがいるわけでなく、罰則もないにもかかわらず、自然にそうする。
 寒風の中で長い行列に並び整然と建物へ入る時、あるいは、遠くに駐車し、空っぽになっている車イス用のスペースを横目に見ながら建物へ入る時、心には、ほとんど意識されないほど微かな矜恃や、誇りや、納得感や、満足感などが生じている。
 それは、まぎれもなく倫理的行動をとったせいであろう。

 日本人は、〈社会内的存在〉としてのふるまい方を独自の文化として創ってきたのではないか。
 自分は常に他者と共にあり、社会にあっては自分も〈他者〉の一員であるという感覚は、私たちが真に誇るべきものではなかろうか。
 こうした感覚が、各種の商売においても生きており、その価値が世界に認められることは本当に嬉しい。
 相手の気持を真剣におもんばかり、真剣に工夫を重ね、相手の喜びを心から喜ぶ文化が世界的に共有されつつあることはすばらしい。
 私たちが誇るべきもの、守るべきものは何であるか、よく考えてみたい。




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2014
11.14

イライラを消す方法 ―忙しいドライバーの小さな実践―

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〈法楽農園は、ようやく、「冬水たんぼ」の準備ができました〉

 イライラが消えない、あれこれと不平不満が溜まっている、いろいろなものに違和感を感じる、こうした気持になっている時は、ちょっとした引き金で強い怒りや怨みや妬みが起こりかねません。
 だから、爆発する前に、落ち着いて分析してみる必要があります。
「自分は何に対してイライラしているのか?
 そもそも、いつから、どんなきっかけで、こうなっているのか?
 塩をすり込まれて痛い傷口のようなものが自分の中にありはしないか?
 外から来る塩だけが悪いのではなく、傷を治さなければ、ずっとこのままではないか?
 こういう気持になっていて嬉しいか、嬉しくないか?
 自分はどういう時に嬉しいのか?」
 イライラしがちな自分を客観視するだけで、すぐに、感情の波頭は低くなってゆきます。

 たとえば、いつもセカセカと急いで行動している私は、情けないことに、追い越し車線をゆっくり走る車がなかなか許せませんでした。
 妻からは何度も「ハンドルを握ると人が変わる」と呆れられてきました。
 このイライラが克服できたのは、特に難しい経文を暗誦したり、高度な瞑想をしたからではありません。
 たった三つの方法に納得し、実践したからです。

○自分と他人とを置き換えてみる
 
 チベット仏教の修行法『菩薩(ボサツ)の実践三十七頌(ショウ)』にこうした教えがあります。

「あらゆる苦しみは自らの幸せを追い求めることより生じ、
 悟りは他者のためを思うことより生ずる。
 それゆえ、自己の幸せと他者の苦しみをまさしく交換する、
 それが菩薩の実践である」


 そうか、と膝を打ち、自分が急いでいる時ほど、広い車道へ出られなくて困っている車に道を空けたりするようになりました。
 楽に運転している自分と困っている他者を置き換えるのです。
 すると、不思議にスムーズな流れになって予定より早く目的地へ着いたします。
 少なくとも、〈譲った〉ために遅れたことは一度もありません。

○状況を分析してみる

 ゆっくり走る車の後で、深く腹式呼吸を一回、行ってから、いろいろ考えます。

「運転手は初心者か、年配者か、体調の勝れない人かも知れない。
 誰の人生にも、自分の人生にも、そういう時期はある。
 自分が前の車の運転手であるとしても不思議はない」
「眠い人なら要注意だ。
 事故を起こすかも知れない」
「ここは天下の大道で、前の車は別に違法な走行妨害をしているわけではない」
「もしも自分の車がスピードの出せない古く小さな車だったなら、前の車のように走っていただろう」
「急いでいるのは自分の勝手であって、他者には関係なく、時分のセカセカしている状態は周囲に迷惑をかけているかも知れない」
「スピードが出ていないおかげでゆっくり音楽やお経が聴ける。そうだ、お経の確認をしよう」
「スピード違反を注意しなくていいから楽だ」

 考える内容はつまらぬことでも、イライラは消えてくれます。

真言を唱える

 自分の干支の守本尊様は阿弥陀如来、生まれ星の守本尊様は勢至菩薩、「不戦日本」の祈願をしているのは胎蔵界大日如来、……。
 いろいろ唱えていると無用な感情が起こらず、あっと言う間に目的地へ着きます。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「この二つの対象(自己他者)をより明確に分化させたなら、それに比例するように『怒り』は明確になってしまいますし、この『怒り』を表出することによって、『怒り』はより鮮明になっていきますね。
 これは自分にとっても他者にとっても、あまり役立つことではありません。
 それよりも、この『怒り』が落ち着くまで、放っておいた方がいいでしょう。
 そして、冷静になったときを見計らって、『怒り』の原因や、なぜそのような感情に支配されたのかを論理的に調べるべきです。
 その考えを相手に伝えることが、お互いにとって有益と思われたなら、説明する必要がありますし、また説明しても相手が納得できないようであれば、いつまでもそのことにこだわらずに、忘れてしまった方がいいでしょう。
『怒り』というのは唐突にやって来る性質のものですから、忘れようとしていれば、ある時期がきたら忘れられるのです」


 イライラ、ムカムカしたならば、「この野郎!」と「自己と他者」を切り離さず、少なくとも「ああ、又、始まったか」程度は自分自身へ小さな省察を行ってみましょう。
 そうすれば、容易に暴発はしません。
 そして、こうしたことごとは気づかぬうちに習慣となって、反射的な怒りは起こらなくなります。
 経典は説きます。

「慣れて容易(タヤス)くならないものは
 どこにもない
 それゆえ小さな苦難に慣れることにより
 大きな苦難をも忍べ」


 小さなできごとで心が乱されないようになっていれば、いつしか、大きなできごとにも動じなくなることでしょう。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2014
11.13

祈祷と回向について ―三つの封印、三輪清浄など―

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 人生相談では、こんな質問がよく、出されます。
「ご祈祷もご供養も同じ祈りに思えますが、どう違うのでしょうか?」

 人は誰でも「よかれ」と願いつつ、生きています。
 遠足へ行く子供はてるてる坊主を吊し、はたらく人は「今日も元気でやれますように」と出勤し、病人は「絶対、治そう」と決意します。
 願いが極まって仏菩薩や神々のお力までも請いたくなる時、それは祈願となり、明確な形をとる祈祷にもなります。
「未熟な私は精いっぱいの努力をします。
 不足なところをどうぞ補っていただき、何としても、よき願いを叶えてくださるよう」

 一方、三回忌供養などの廻向(エコウ)は、文字どおり「回し向ける」ことです。
 何をそうするかと言えば、善根(ゼンコン)です。
 善根とは、〈善き花が咲くための善き根〉であり、具体的には、因果の法則によって将来に必ず善き結果をもたらす原因となる善き行為がもつ善き影響力です。
 たとえば、学校で一生懸命掃除をして先生に誉められ喜ぶ子供が、こうした心で合掌すれば、それは立派な廻向です。
「お祖父ちゃん、私、善いことをして誉められたよ。
 この嬉しい気持をお祖父ちゃんにも分けてあげるね。
 私だけに善いことが起こるのでなく、お祖父ちゃんにもきっと、善いことが起こりますように」

 だから、寺院で行われるご祈祷は、自分や他人によきことが起こり、それが自他のためになって行くことを願う、純粋な未来への祈りです。
 それに対して、廻向は、これまでに行った善行の功徳がなければなりません。
 では、極悪非道な死刑囚には、亡き母親の十三回忌供養を行う資格がないか?
 そんなことはありません。
 優しかった母親を思い出し、「母ちゃん、ごめん……」と自分の罪を深く懺悔するならば、立派な善根が生まれています。
 心の涙、悔いる清浄な心、その思いのすべてを込めて合掌する時、廻向は立派に成立しています。

 ところで、ダライ・ラマ法王は、回向の心として「三つの界による封印」を説かれました。
 それは、回向する自分自身も、回向される御霊も、そして回向の材料となる善根も皆、確固たる実体を持たない空(クウ)なるものであると考え、〈回向したぞ!〉と執着する心を起こさないことが大切であるということです。
 自分は、たまたま身体も心もしっかりはたらいているから今はここにいますが、一瞬後にそうした働きに異変が生じれば、どうなるかわからない存在です。
 前掲のお祖父ちゃんも、母ちゃんも、イメージに浮かぶ実体のない存在です。
 そして、掃除や懺悔の影響力も、信念の世界に生じたものでしかありません。
 こうした空なる世界でまごころの交流は起こり、よき心が育てられているのです。

 なお、誰かのためになることを無心で行う布施(フセ)行にも「三輪清浄(サンリンショウジョウ)」が必要です。
 たとえば、ボランティア活動を行う人が「俺はこんなにしてやっているぞ」と、高慢になってはいけません。
 ボランティアで掃除をしてもらっている人が「これしかしてくれないなんて」と、不満に思ってはなりません。
 もちろん、掃除そのものが、いい加減では問題外です。
 寺院ならば、お布施を差し出す方の心も、受ける僧侶の心も、受け渡される金品や労力などもすべて、強制や損得勘定などを離れたまごころの世界でのやりとりでなければなりません。

 祈祷も、廻向も、よりしっかりと人の道を歩むための善き心を育て、自他を明るい方向へと導く方法です。
 おりにふれて、み仏の前に、御霊の前にぬかづき、合掌したいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
11.12

怒りっぽい孫を放置できません

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 最近多くなった年配者からの人生相談です。

「孫が怒りっぽく、親はあまり気にしていないようですが、放置できません。
 どう導けばよいでしょうか?」

 具体的にどういう言葉や生活方法で対処すればよいかということは、人それぞれの生まれや育ちや環境によって異なるので、正式な人生相談でないと安易には答えられません。
 祖父母なり、親御さんなりが考えておいた方がよい、ポイントだけを大まかに書いておきます。

怒りは自己中心的な感覚から発している
 
 甘やかされて育つと、どうしても自己中心的になりがちです。
 その反対に、あまりに抑圧を受けて育っても、表面からはわかりにくい〈自己を守る強い意志〉や、〈世間をとり繕う仮面〉などを固めてしまう場合があります。
 前者の心は怒りっぽいという形で日常的に表れ、後者の心は何かのおりに誰も想像できないほど異様な形で顕れたりします。

怒りに囚われるのは、空(クウ)を知らないからである

 私たちは、好きなものは貪り、嫌いなものへは怒りを発します。
 こうした心は、無限の過去から受け継がれており、結局は苦をもたらさずにおかない煩悩(ボンノウ)と呼ばれます。
 いかに好きなものでも、水のアブクのような一時的な現象でしかなく、必ず自分の手を離れる時が来ます。
 執着していればいるほど、〈その時〉の耐え難さは大きくなることでしょう。
 いかに嫌いな相手でも、水のアブクのような一時的な現象でしかなく、必ず自分の前から消える時が来ます。
 もしも、〈そうした存在〉であると見透せない時は、距離を置いて客観的に観る必要があるかも知れません。

暴力行為などを制止するのは、それ以上、相手に悪業を積ませないためである

 悪しき行為を放置せず制止するのは、相手にそれ以上、悪業(アクゴウ)を積ませないためです。
 悪業を重ねる者は哀れであり、放置できません。
 たとえば、こうした経典もあります。
「いかに世間的な成功や名声を得た者でも、晩年になって酒色に溺れれば、この世で積んだ功徳をすべて失い、恐ろしい来世を向かえかねない。
 子たる者は、地獄行きなどを止めるため、人の道を忘れかけた親へそれを説くのが最高の慈悲行である。」
 悪や不生に対して怒りを発しても、制止する者としては、怒りではなく慈悲を根本に置きたいものです。
 たとえば、ダライ・ラマ法王は、祖国チベットが滅亡の危機に瀕するほどの非道な扱いを受けてなお、中国の人々に対して慈悲の心を持ち、粘り強い交渉を続けておられます。

暴力行為などに対しては、仮の悪縁なら〈正しさ〉を第一にして対処し、実の悪縁なら〈優雅さ〉を第一にして対処する

 暴力的である者へは、毅然として正しい道を説く必要があり、暴力沙汰を起こす者へは、心のゆとりを持ち、かつ、距離感を鋭敏にして対処しましょう。
 悪しき芽は早く摘む必要がある一方で、火に油を注ぐ愚を犯してはなりません。
 相手に合わせた智慧をたはらかせて対処する必要があります。

アスペルガー症候群なども疑ってみる
 
 昔は、叱ってもなかなか言うことをきかない子供を性格や不真面目さなどによるものとして強く矯正しようとしましたが、今は〈心の病気もそうさせる〉ことがわかっています。
 決して〈病人〉を苦しめないよう、家族も周囲も気をつけたいものです。

 上記のポイントを参考にされ、お孫さんへ適切な対応を考えていただければと思います。
 個別具体的には、日時をお約束の上、ご相談におでかけください。 




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
11.11

あの世への贈りもの ―相互供養とお焚きあげ―

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〈夜中に出張から帰ったところ、タニシの親子が盛んに活動中でした〉

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〈タニシのクルクルダンス?〉

 お焚きあげを希望される方々は、さまざまな願いを込めて人形や写真や時計や指輪や仏像やお位牌などを送って来られます。
 その中に、「故人へ贈りものを届けたい」という願いのこもったものもあります。
 では、いったい、どうやってあの世へ届けるか?
 もちろん、モノ自体は届けられません。
 そもそも、死とは、あらゆるモノや肩書などから離れ、この世で積んだ善業(ゼンゴウ…未来に善き結果の出る影響力)と悪業(アクゴウ…未来に悪しき結果の出る影響力)のみを抱えて旅立つことだからです。
 届けられるのは、〈モノに託した心〉です。

 私たちが合掌して故人を想う時、電話のようにつながっていることを耳で確認できはしません。
 しかし、問いかけや、安心して欲しいなどの思いの吐露は、応えが返って来るかどうかと関わりなく自然に行われ、そうしたひとときは私たちの精神へ潤いを与えます。
 たとえ思いが感謝や喜びでなく、哀しみや辛さが伴うものであっても、魂はその人らしい色合いを深めます。
 色合いの深まりは、あの世からの贈りものではないでしょうか?
 私たちは、モノに託して目に見えぬ思いをあの世へ届ける時、いつしか知らぬ間に、故人からも目に見えぬ贈りものをいただいているのです。
 これを相互供養と言います。

 先にいただく相互供養もあります。
 なかなか解消できない壁にぶつかって悩んでいる時、ふと、思い出された経典の文章や、もう会えない聖僧方のひとことで、一気に心へ青空が広がったりします。
 ああ、贈りものをいただいた、供養していただいたと、強く感じます。
 ちなみに、当山で修法の最後にお唱えしている祈願文の一つは、江戸時代に活躍された慈雲尊者(ジウンソンジャ)が遺されたもので、文字をチラッと目にした瞬間に魂へ印字され、「ああ、慈雲様、ありがとうございます!」と感謝の涙が溢れました。

「いまだ苦しみを離れざる者には、願わくは苦しみを離れしめ、
 いまだ楽しみを得ざる者には、願わくは楽しみを得せしめ、
 いまだ菩提心(ボダイシン)を起こさざる者には、願わくは菩提心を起こさしめ、
 いまだ悪を断じ善を修せざる者には、願わくは悪を断じ善を修せしめ、
 いまだ成仏せざる者には、願わくは成仏せしめん」(一部、原文に手を加えてあります)


 毎日、唱えていると、修法後、こうしたご意見をくださる方もおられます。
「『いまだ成仏しない方々に成仏して欲しい』という言葉を聴いてハッとしました。
 なかなか決心がつかず、夫のお骨をずっと自宅へ置きましたが、どうぞ、お墓へ入れてください」
 贈りものに感謝し、経典を読み、ご本尊様や聖僧方へ感謝の祈りを捧げる毎日です。

 お互いがこの世とあの世と、住む世界を隔てていても、贈りものは確かに届きます。
 まごころの贈りものをしたい方は、どうぞ、お焚きあげをお申し出ください。




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2014
11.10

核兵器の非人道性に関する国際会議 ―アメリカの初参加―

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〈映画「ひめゆり」を観た日、高野山より木簡(モッカン)が届きました〉

 11月7日、アメリカの国務省は、12月にウィーンで開催される『核兵器の非人道性に関する国際会議』へ参加すると発表した。
 平成25年3月にノルウェー政府がオスロで初会議を行い、平成26年2月にはメキシコで第二回会議が催されたが、これまで核兵器を保有する米・英・仏・露・中の五大国はいずれも参加を見送ってきた。
 国連加盟国の75パーセントが参加する国際会議へ、最も責任の重い〈当事国〉がまったく参加しないという恐るべき状態は、解消へ向けてようやく一歩を踏み出すことになる。
 
 河北新報の報道である。

オバマ政権は来年4~5月の核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けて、核保有国としての核軍縮への取り組みをアピールし、『核兵器なき世界』を目指す決意を再確認する必要があると判断した。
 日本政府も参加をはたらきかけていた。」

オバマ政権は、核兵器廃絶には段階的で現実的な取り組みが必要だとの立場。
 核兵器を非合法化する核兵器禁止条約の推進論が、今回の会議を舞台に国際社会で加速するのに歯止めをかけたい思惑もある。」

「米国の核兵器に詳しい関係者によると、フランスは米国に参加見送りを働きかけてきた。
 非人道性の議論に乗れば核兵器禁止条約の流れにつながりかねず、5大国として欠席の〝結束〟を崩すべきでないとの論理だ。」


 平成25年11月の国連総会において、国連加盟国の三分の二が第四回『核兵器の人道的影響に関する共同声明』に賛同し、それまでは、アメリカの核の傘で庇護されている以上、賛同することはできないという立場だった日本も初の賛同国となった。
 主導したニュージーランドのデル・ヒギー大使が読み上げた「核兵器の人道的結果に関する共同声明」の一部である。

「過去における実際の使用ならびに実験は、これらの兵器の持つ甚大かつ制御不能な破壊力、そしてその無差別性がもたらす受け入れがたい惨害を十分に示しています。」

「専門家及び国際機関が発した主たるメッセージは、いかなる国家あるいは国際機関であっても、核兵器爆発がもたらす短期的な人道上の危機に対処しえず、被害を受けた人々に十分な支援を提供できないというものです。」

「128か国の政府、赤十字国際委員会(ICRC)、いくつもの国連人道機関、そして市民社会を含めた同会議における広範な参加は、核兵器による壊滅的な人道的結果が根源的かつグローバルな懸念であるとの認識を反映しています。」

「核兵器による壊滅的な結果が影響を与えるのは政府のみならず、この相互につながった世界において一人ひとり、すべての市民に影響を与える問題であるからです。
 それらは人類の生存、私たちの環境、社会経済的な発展、経済、将来の世代の健康を左右しうる問題です。」

「核兵器のもたらす凄惨な人道的結果はそれが最初に使用された瞬間から明白なものあり、その瞬間から人類はそうした脅威の存在しない世界を切望してきました。」

「著名な核物理学者たちは1955年の時点ですでに核兵器が人類の継続的な生存にとっての脅威であり、核兵器戦争が人類の終焉につながりうる旨を警告していました。
 1978年の第一回国連軍縮特別総会(SSOD-1)は、『核兵器は人類ならびに文明の生存に対する最大の脅威である』と強調しました。」

核兵器がふたたび、いかなる状況下においても、使用されないことに人類の生存がかかっています。
 核兵器爆発の壊滅的な影響は、それが偶発的であり、計算違いによってであれ、あるいは計画的であれ、十分な対応を行うことは不可能です。
 すべての努力はこれらの大量破壊兵器の脅威を取り除くことに割かれなければなりません。」

市民社会は、政府と連携しながら核兵器の壊滅的な人道的結果についての意識を啓発するという死活的役割を担います。
 核兵器が呈する脅威を取り除くために協働するという責務を、私たち次世代に対してまさに負っているのです。


 アメリカ議会において、オバマ大統領の率いる民主党は上院・下院、共に少数派となった。
 オバマ大統領は、ここでアメリカが核軍縮へ大きく舵を切っておかねばならないと決断したのだろう。
 地球上に暮らすほとんどの人々は「核兵器は人類ならびに文明の生存に対する最大の脅威である」という共通認識を持っている。
 今回の行動が脅威を解消するための第一歩であって欲しいとひたすら、願う。
 核爆弾にも似た「甚大かつ制御不能な破壊力、そしてその無差別性がもたらす受け入れがたい惨害」に今、苦しむ人々の一人として。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2014
11.09

歴史の証言者たち ―「映画『ひめゆり』を観る会」が終わりました― 

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〈廊下まで開け放ちました〉

 講堂いっぱいになるほどたくさんの善男善女が参加され、およそ2時間半に及ぶ映画『ひめゆり』の観賞会を行いました。
 当時、女子高生の年令だった方々がいかに精いっぱい生き、亡くなられたか、また、今をいかなる気持で生きておられるか、22人の証言はあまりに重いものでした。
 とても〈総括〉など、できはしません。
 強く残った印象の一つは、若い女性としての情緒がはたらく余裕もないほど想像を絶する修羅場にあってなお国のため、そして〈その場〉にいる互いのために全力を尽くしきられたであろうという確信です。
 Bさんの証言です。

「壕の入り口に小さな箱が一つありました。
 休んでよし、と言われるとようやく腰を下ろせます。
 先に座る上級生は下級生のためにすぐ、腰を上げようとします。
 私はそんな上級生のために、大丈夫ですと言って近くに落ちていた棒にすがり、立ち寝をしました」


 Cさんの証言です。

「米軍の攻撃が激しくなり、解散命令が出て、どこへでも逃げ延びるよう言われました。
 壕の人々と一緒に死ぬことしか考えていなかったので、誰も壕を出ようとしませんでした。
 強く指示された時、足元が崩れた感覚に陥りました。 
 そして何の感情も忘れていたの突然、家族を思い出し、母を思い出し、会いたくなりました。
 童謡『ふるさと』が口をついて流れました」


 血の海と遺体と硝煙と爆音の中にあって、最後の最後までそれぞれの分をつくしてはたらき、あるいは死に、あるいは生き残られた人生の先輩方に、ただただ頭を垂れるのみです。
 鑑賞後、短いご挨拶をいただいた渡辺ひろし師が指摘されたとおり、米軍が上陸して本土決戦となれば、ひめゆり学徒隊の方々がおられた沖縄と同じく、ここ宮城でも爆弾と銃弾と火炎放射器によって街も村も破壊し尽くされ、住民の多くが死んでいたはずです。
 宮城からも多くの軍人が沖縄戦に加わり、米軍にたやすく降服せず、文字どおりいのちをかけて米軍に本土決戦を思いとどまらせました。
 後衛に引っ込めばたらふくステーキが食えた米軍兵士たちは、満身創痍でも夜中に突っこんでくる日本の兵士たちが本当に怖かったと述懐しています。

 証言の内容はどfれもが悲惨であり、結果はすべて無惨なものでした。
 しかし、どの方のお話にも、生き切り、死に切った方々の真実が感じられ、圧倒されました。
 皆さんの〈真実〉がもしも平和な世の中で発揮されていたなら、と思うと、涙を禁じ得ませんでした。
 私が行法の最中に聴いた「死なないで!」という声は、映画の証言には出て来ません。
 きっと、看護に当たった隊員たちに共通する日々の〈心の叫び〉だったのでしょう。
 乙女たちのいのちと心をあまりにも悲しい形で鋭く輝かせ、そして消し去りもした戦争というものを、さらに考え、戦争をせぬ日本であり続けられるよう「不戦日本」の祈りを深めます。




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2014
11.09

雑草は友 ―「法楽米をいただく感謝祭」が終わりました―

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〈今朝、採れた野菜の瑞々しさ〉

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〈次々と出されるご質問へ丁寧に答えられる大枝師〉

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〈女性陣の活躍にはただただ、感謝です〉

 ブログ「里山医療と里山資本主義、そして法楽米」に書いた東日本大震災関連の記述「個々の〈その時〉を救ったのは、当てにならない『大きなシステム』ではなかった。」についてご意見をいただきました。
 これは事実でなく、〈『大きなシステム』が動き、全国からの公的・私的支援あってこそ復興へ向かえたのではないか〉というものです。
 もちろん、『大きなシステム』そのものを全否定するわけではありません。
 家族も会社も国家も本来、人間のいのちと心が通い合う有機体のようなものでなければならず、そこにこそ、精神を持つ人間が生きる場にふさわしい意義も価値もあるはずです。
 たとえば一つの人体にあって、右手は勝手に指揮棒を振り、左手は勝手にリンゴをつかみ、右足は勝手に前をめざし、左足は勝手に退がろうとすれば、混乱とストレスの暴風に見舞われ、破滅するしかありません。
 言いたかったのは、共通の問題に対して互いが〈自分のこと〉と認識し、思いやりと工夫と誠意によって対処できる小さな縁を大切にしてこそ、また、そうした小さな縁が大きな力を発揮できるシステムがあってこそ、人間は心のあたたかさを発揮しつつ安心して生きられるのではないかということです。
 喜びも悲しみも、楽しみも苦しみも共有できる単位を大切にしたいのです。
 そうした単位の営みが尊ばれず、営みを無視した論理で一気に押し潰してしまいかねない大きなシステム任せにはできません。

 さて、11月8日の感謝祭では、自然農法大枝邦良師と高弟の方々が手作りしてくださった野菜サラダや煮物やお茶と共に、炊きたての法楽米をいただきました。
 自然農法では〈大量〉の収穫は望めません。
 しかし、安心な食べ物を感謝しながらいただくと、充分過ぎるほどの満足感が得られ、工夫して育て調理してくださった方々と天地自然への感謝は否が応でも深まります。
 会へ参加されたAさんからメールをいただきました。

「自然の理法に沿って、農業を営む。
 自然の力を『お借りして』その成果をいただいて生きていく。
 真に理に適った本質的な在り方だと感じました。
 いただきました食事も、滋味深く、本当の味だと感じました。」


 大枝邦良師は言われます。

「雑草を排除するのでなく、ちょっとだけ除けてもらって、周囲の土に天日が直射して乾燥せぬよう、よいバクテリアたちが活躍できるよう、役立ってもらうのです」


 だから、師の農園はいつも青々としており、バクテリアたちの天国なのでいつもフワフワで耕す必要がなく、排水も保水もバランスが維持され、蒔かれた種たちは自在に本来の生育をします。
 大雨で表土を流されもせず、農地は保たれ、鉄砲水も防がれます。
 農薬や化学肥料に頼らず、智慧と工夫によって自然と共存するミニ農地が増えれば、自分たちで空腹を満たしつつ、忍び寄る食料危機を乗りこえて行けることでしょう。
 自然の一部である人間が〈親〉である自然に抱かれつつ生きる安心感と充実感も、個々の人生と社会を潤すことでしょう。




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2014
11.08

里山医療と里山資本主義、そして法楽米

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 里山について考えさせられた。

1 医師小串輝男氏のこと

 10月30日付の産経新聞は、「地域で完結する『里山医療』」と題し、第2回「日本医師会 赤ひげ大賞」を受賞した医師小串輝男氏(69才)について紹介した。

 小串医院の院長(滋賀県東近江市)を務める氏は、近江商人の「売り手よし、買い手よし、世間よし」にちなんで

「患者よし、医療機関よし、地域よし」

を掲げてきた。
 毎月一回、研究会を開催しており、「医師、看護師、歯科医師、保健師、薬剤師、管理栄養士、社会福祉士、ケアマネジャー、リハビリ療法士、行政職など」が百人超も参加するという。
 氏の開業医に関する理想像は明確だ。

「1人で医療をする時代は終わった。
『一国一城の主』なんて言っとったらいかん。
 医者が地域包括ケアを理解し、威張らんこと。
 専門職の仕事をじゃませず、『みんなで仕事をしよう』と言うのが、これからのいい医者です。」

地産地消。相互利他。お互いに他人を利するのが里山の発想。三方よしも同じ。
 地域で完結する地域包括ケアをつくっていく」


 記事である。

「地域包括ケアは来年度以降、本格稼働する。
 医療と介護だけでは住民・患者の生活は立ちゆかない。
 例えば、地域の見守りをもっと密にしたい。
 認知症の人が出歩くことができ、迷子になっても、誰かが声をかけてゆるやかに見守るネットワークを作ること。
 老々や独居の世帯で人が孤独死せずに済むように、医療や介護の網の目からこぼれている人を拾うシステムも作りたい。 
 それは、町づくりでもある。」


 こうした工夫、努力により〈自分たちで自分たちの生活を守る〉ことが今、何よりも求められている。
 それは、おおよそ、顔の見える人たちがさまざまな形の連帯を形成しつつ実生活を生きることである。
 言い方を変えれば、グローバル経済の網にからめとられることを拒否し、自分たちが自分たちの運命の主人公になる決意を固めることでもある。

2 『里山資本主義』のこと

 平成26年の新書大賞を第一位となった『里山資本主義』は書く。
 著者は日本総合研究所の藻谷浩介主席研究員とNHK広島取材班である。

「2011年3月11日、東日本大震災が日本を襲った。
 いざとなったらマネーなど何の助けにもならない、そういう世の中が、突然目の前に現れた。
 スイッチを入れると電気が使える当たり前の暮らしも、突然ストップした。
 どこか遠くで大量に作られるエネルギーに頼ることが、いかに不安なことか、計画停電で真っ暗になった都会で思い知った。
 生きることのすべてが、自分の手の届かない大きなシステムの中に完全に組み込まれることのリスクが、一気に顕在化したといってよい。」


 私たちは、あの時、目の前に突きつけられた真実をもう、忘れかけていはしないか?
 法楽農園の主役となっておられる地域住民の八嶋さんは、灯油と薪の両方を使える古いボイラーでお湯も風呂も用意し、家族もご近所さんも救われた。
 里山では水道に代わる清浄な水が流れ、米の備蓄があるだけでなく、牛乳も鶏卵も放出され、人々は大難を小難にして過ごせた。
 個々の〈その時〉を救ったのは、当てにならない「大きなシステム」ではなかった。

 そもそも、資本主義社会における「大きなシステム」は、それに関する人々の利益を目的として構成されており、自分たちの利益にならなければ、はたらきはしない。
 そして〈関する人々〉がより少なければ少ないほど大きな利益を得られるので、システムの増殖や拡大化を放置すれば、社会的格差は広がるばかりである。
 今から6年前、サプライムローン問題で勃発した金融危機を乗り切ろうと米連邦準備制度理事会(FRB)は金融の量的緩和を続け、アメリカの失業率はほぼ10%から6%まで改善されたが、パート従業員の割合は依然として高く、増えた所得の95%は上位1パーセントの富裕層へ集中したと見られる。
 事実、FRBは10月、講演で述べた。
「格差は過去100年で最高水準に近づいている。」
 何のことはない。
 格差と金融資本の暴走によってもたらされた金融危機は乗り切ったが、危機を起こしたシステムそのものは微動だにしていない。
 むしろ、危機によって1パーセントの人々はより、利益を膨らませたのではないか。

里山資本主義』の「あなたはお金では買えない」という項目には、こう書いてある。

「お金だけを貯め込んでも、それだけで誰かがあなたのことを『かけがえのない人だ』と言ってはくれない。」

「持つべきものはお金ではなく、第一に人との絆だ。
 人としてのかけがえのなさを本当に認めてくれるのは、あなかたからお金を受けとった人ではなく、あなたと心でつながった人だけだからだ。」

「持つべきものの第二は、自然とのつながりだ。
 失ったつながりを取り戻すことだ。
 自分の身の回りに自分を生かしてくれるだけの自然の恵みがあるという実感を持つことで、お金しか頼るもののなかった人びとの不安はいつのまにかぐっと軽くなっている。


 人間が人間の尊厳を自分たちで守りつつ生き、死んでゆける社会をつくるカギは〈里山〉にあるのではなかろうか。
 今日、当山では、法楽農園で採れた無農薬・無肥料の法楽米を主食とした一汁一菜の食事会を行う。
 集まってくださる善男善女の笑顔が楽しみである。




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2014
11.07

私たちの仏教、輪廻のポイント、心の供養、お墓の移動 ―「マイベストプロ宮城」講演会―

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 11月6日、以下の要領にて、「マイベストプロ宮城」秋の生活相談会を行いました。
 以下、簡単におさらいをしておきます。
 いつもこの欄を読んでいてくださる方々にとっては「又か」と思われるかも知れませんが、行きたいのに出席できなかったという方々のためにまとめました。

1 お釈迦様の時代の仏教と私たちにとっての仏教
2 輪廻(リンネ)を信ずる者としての心構え
3 供養の真実
4 お墓の問題

1 お釈迦様の時代の仏教と私たちにとっての仏教

 お釈迦様は、〈苦〉なる輪廻(リンネ)から脱しようとして苦悶し、苦闘し、成就して仏陀(ブッダ…悟りし者)となられた。
 輪廻を脱した以上、もはや再び生まれないし、死にもしない。
 如来となった以上、苦界であるこの世とは永遠におさらばである。
 自分は何者であるか、自分とこの世を存在させている根本的ありようはいかなるものであるか、という生存にかかわるすべての真理をつかんだ智慧は、もはや欠けるところがないので、一切智(イッサイチ)と呼ばれる。
 一切智を得るための方法として、お釈迦様は、凡夫が独力でつかめるはずのない真理を披瀝し、それを徹底して思考し、納得し、生きる血肉にもする修行法を指導した。
 おそらく、高弟たちは、人知れず仏陀となり、この世を去りきったであろう。
 なお、心が乱れていれば智慧を獲得するために行われる瞑想修行の邪魔になるので、慈悲心を持つ有効性も説かれた。
 慈悲はあくまでも、輪廻から脱するための手段だった。

 こうしたお釈迦様の教えは完ぺきであり、遊行しながら教えを説き、人生問題を解決するお姿も神々しいものだったので、教団は拡大した。
 ところが実際に出家し、悟れるのは当然、一握りの人々でしかなく、長い年月が経つうちに多くの人々は、〈この世から永遠に去る修行をしない限り、決して苦から救われないのか?そもそも、この世を永遠に去ることが本当に自分の究極的望みなのか?〉と疑問になったと思われる。

 現に、私自身、出家する際に不生や不死を望んだのではなく、自分の愚かさを去り、罪滅ぼしをし、ご縁だった人々や社会へ恩返しをしたいというのが理由だった。
 お釈迦様が説かれた「この世はままならず、それには原因があり、原因がなくなればままならぬ状況も克服でき、その方法は確かにある」という根本原理は、それ以外ありようはずがないと思える。
 原因と結果として示した十二因縁も納得できるし、修行法としての八正道もありがたい。
 輪廻転生も、すべてを貫く因果の道理も真理とわかる。
 それらをふまえた上で、〈自分がまっとうに生き、まっとうな社会にしたい〉からこそ、自分は修行し、僧侶として生きている。

 解脱して如来になることではなく、まず自分がよりよく生きて、輪廻転生する娑婆をよりよいものとしたいという人々の偽らざる願いが、菩薩(ボサツ…限りなく如来に近いが仏界へ入らず、娑婆と仏界の橋渡しとして人々を救う存在)という観念を生んだのだろう。
 お釈迦様はご存命中に人々へ「菩薩になれ」とは説かなかったが、お釈迦様が説かれた真理を信じて生きる人々が百年、千年をかけて〈菩薩という生き方〉に気づき、熟成させてきたのだろう。
 その過程において、西洋心理学に遥か先立って唯識(ユイシキ)という思想が生まれ、空(クウ)の思想も又、仏教を深めた。
 だから、お大師様は決して、お釈迦様の時代に説かれた仏教を否定せず、そうした仏教をよく学んだ上で菩薩を目ざす大乗仏教を学び、それらの素養を持った者として密教を学べと説かれた。
 当山でも、お釈迦様のナマの言葉に近い『法句経(ホックキョウ)』を数年かけて皆さんと共に学び、今でも法話に生かしている。
 決して自分だけの安寧を求めず、他のためになるところにこそ生きがいも人間の尊厳も見いだす仏教徒でありたい。

2 輪廻(リンネ)を信ずる者としての心構え

 インドで消滅する前の仏教の最後の姿を忠実に受け継いだチベット密教における最高指導者であるダライ・ラマ法王は、輪廻の決め手について端的に述べておられる。
 まず、第一には、〈より後の行い〉が、輪廻へより強い影響を持つことである。
 たとえば、いかに功成り名遂げて社会へ貢献した人でも、晩年にストーカーになったり、暴力事件を起こしたりすれば、社会的立場を失うだけでなく、死後の行く先も危ういものとなることだろう。
 第二には、〈より慣れ親しんだ生き方〉が、輪廻へより強い影響を持つことである。
 たとえば、戦士が戦場で敵を斃した場合、殺生という悪事と、救国という善事と、善悪正反対の行為のどちらがより重いかと言えば、常々の生きようが問題となる。
 人殺しも厭わない荒んだ心で戦場に出た者と、虫も殺せぬ優しい心で生活していたのに、国難に当たって心ならずも戦場へ出た者では、まったく違う。
 第三には、死の瞬間に悪しきものを心に浮かべれば、人生で積み上げてきた善悪こもごもの平衡が一気に崩れ去るほどの影響力を持つことである。
 もしも、人格者で通り、看護師さんへいつも「ありがとう」と言っていた模範的な患者でも、最期になって気にいらない嫁へ憎しみを抱いたままこの世を去れば、恐ろしい結果となる。
 より安心な世界へ転生(テンショウ)したいという功利的な考え方ではなく、輪廻転生を信じようと信じまいと、最期まで人間としてまっとうに生きる努力をするための指針として心しておきたい。

3 供養の真実

 いつもと同じく、五種供養のクイズを出した。
 供える物とその心の関係である。
○線香…精進
○花……忍辱(ニンニク…忍耐)
○水……布施
○燈明…智慧
○飯食…禅定(ゼンジョウ…心身のおさまり)
 見ていると、なかなか左の欄と右の欄が結べず、苦労しておられる。
 いかに、供養が形式的になっているか、いつもどおり、実感させられる。
 それだけに、このクイズと解説の必要性を痛感する。
 この頃、最も皆さんの反応が強いと感じるのは、花についての話である。
 高価な花をいつも仏壇やお墓やご本尊様へお供えすることはできない。
 しかし、真の供養は、必ずしも花というモノを手にせずともできる。
 野辺の花を目にした時、「ああ、私もこの花のように雨風に耐えて生き抜き、自分らしい花をきっと咲かせます。だから、お母さん、安心していてください。見守っていてください」と心で祈れば、立派な花の供養になるのである。

4 お墓の問題

 時間の配分が悪く、ここまで到達できなかった。
 時間外のご相談でも提起された〈よくある人生相談〉に二つだけ、お答えしておきたい。

○お墓、あるいはお骨を遠くへ移動すると、ご先祖様は嫌がるか?

 そんなことはない。
 立場を変えてみればすぐにわかる。
 もしも自分がお墓を依り代としている御霊である場合、「子供の頃からここにいたから動きたくない」などと思うだろうか?
 あるいは、お墓参りに来たいのになかなか来れず、悶々としている子や孫をそうさせたまま、「元々いた所だから動きたくない」などど我を張るだろうか?
 子や孫の近くで、無理なくお詣りしてもらった方がどれほど安心で嬉しいことか。
 我を張るのはこの世の私たちである。
 御霊を見くびってはならない。
 お墓の移動に関する人生相談はとても多い。
 ご遠慮なく相談の申込みをしていただきたい。
 皆さんが確かな安心を得られるために。

○本家でもないのに、仏壇でご先祖様を拝んではならないか?

 そんなことはない。
 そもそも、仏教が広大なインド中へ広がったのは、アショーカ王がお釈迦様のご遺骨を分骨したことに始まる。
 だから、分骨して複数の人々が供養するのも、お位牌を複数作ってあちこちの家で供養するのも、すべて尊い行為である。
 また、仏壇はそもそも、ミニ寺院であり、どなたでも、どこへでも用意してご本尊様やお位牌へ手を合わせるのはすべて尊い行為である。
 こうした諸問題については、誰かからこう言われた、ああ言われたと悩まず、プロである寺院へ相談することをお勧めしたい。

 以上です。
 次は来春の生活相談会になることでしょう。
 また、河北新報社の会議室でお会いしましょう。
 皆々様へみ仏のご加護がありますよう。合掌




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2014
11.06

死で終わる哲学から、よき生を繰り返す宗教へ ―この世を脱するか、この世へ戻るか―

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〈膨大なお塔婆に込められた善男善女の尊いお心に圧倒される思いでペット霊園『やすらぎ』さんの供養会を行いました〉

 前回、ブログ『輪廻(リンネ)思想は仏教の根幹』へ、「輪廻からの脱却を目的とするからこそ仏教の修行は成立しており、輪廻を意識しない出家者つまり、僧侶もあり得ない。」と書いた。
 問題意識は、「自分の中にあるつまらぬ考え方や悪しき欲望や愚かしい発言や行動、そして、傷つけ、騙し、殺し合い、自分勝手に生きる人間が構成する社会の様相は、〈これが永遠に繰り返される〉と思えば、限りなく恐ろしい。」というところにある。
 そして、お釈迦様は、輪廻から解かれ脱すること、すなわち解脱(ゲダツ)を目指して修行し、成功して仏陀(ブッダ…悟った者)となられた。
 だから、釈迦如来となったお釈迦様は再び、この世へ戻っては来られない。
 優れた弟子たちもまた、望みどおりに〈愚かしい自分〉から脱し、〈厭わしいこの世〉へ戻って来てはいないことだろう。
 現在もまた、同様に信じ、望み、実践している仏教徒がいて法灯は絶えない。

 さて、大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)の行者である自分を省みると、お釈迦様の背中を追いながらも、相当に異なる道を歩んでいることを自覚せざるを得ない。
 宮元啓一博士が「歴史的に見れば、大乗経典というのは、ゴータマ・ブッダその人に源を発することのない、新たにこしらえたもの」であり、「『大乗非仏説』(大乗はゴータマ・ブッダが説いた教えとは無関係である)との、当然の批判が浴びせられました」と指摘したとおりである。
 では、お釈迦様が残されたナマの言葉と教えに近いとされる原始仏教(小乗仏教(ショウジョウブッキョウ))と、お釈迦様の入滅後300年ほどして起こってきた大乗仏教は、どう違うのか?

 博士は、著書「わかる仏教史」において大乗仏教の特徴を9つ挙げた。
 おおよそ、以下のとおりである。
1 超人的、超越的な仏菩薩(ブツボサツ)が衆生を救済する
2 無数の現在仏(ゲンザイブツ…現在、仏国土におられるみ仏)が衆生を救済する
3 悟りを開く途上の人々も菩薩とする
4 等しく仏性がある
5 在家者も仏教にかかわる
6 経典読誦などの功徳によって救われる
7 名号や真言を唱えて災厄を逃れる
8 無思考の瞑想で智慧が得られる
9 一足飛びに悟れる
 そして、「大乗仏教の起源につきましては、いまだにはっきりとした学問上の定説はありません」とした。
 おおまかには「救済主義的な民衆宗教として成功を収めつつあったヒンドゥー教にあこがれた仏教の在家信者たちが、同じような救済主義的民衆宗教としての、自分たちのための新しい宗教をつくろうとした」と見ている。

 博士のご見解には納得しつつも、今の時代に、ご縁の方々と共に仏法を実践している者として、四つほど、異なる点を述べておきたい。

1 大乗仏教の担い手は民衆でなく、卓越した能力を持ち優れた境地に達した仏教の天才的行者たちであり、そうした人々の感得した世界が新たな仏典として示され、その象徴として数多くのみ仏方が生まれたのではないか。
 経典を読誦し、祈っている者としては、民衆の〈作為〉ではなく、時代の空気を吸いながら修行する行者の霊性がもたらすイマジネーションこそが、新たなタイプの仏教を創造したと思える。

2 仏教に救いの可能性を感じる人々は、お釈迦様や高弟たちの「解脱」に憧れつつも、自分自身の問題として、解脱の内容である「不死(再び死なないこと)」と「不生(再び生まれないこと)」を望まなかったのではないか。
 二度とこの世に生まれないことは、ほとんど死のイメージと重なり、生きていられないほど追いつめられた特殊な状況でしか、明確なイメージとして望みきれない。
 一行者として生きている自分自身も、自分がそうした解脱の世界へ入るために修行し、ご縁の方々と接しているわけではない。
 悪しき因縁からは脱しなければならないが、理由は、それを放置したままで誰かのためになることなどできはしないからである。
 尊いお布施によって生きながらえることが許されないからである。
 因縁解脱の目的は決して自分の不死や不生にあるのではない。

3 行者であれ、民衆であれ真に望むこと、つまり仏教へ求めるものは自分が輪廻転生から脱して〈再び苦である生を得ない〉ことではなく、〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉ことではなかったか。
 宮元啓一博士は説く。
「目覚めた人となったということは、当然ながら、根本的生存欲を断ち切ったということにほかなりませんから、ゴータマ・ブッダは、生きることに意味を見いださず、生きる意志をもたないという状況に入ったわけです。
 したがって、かれは、そのまま、朽ち木が倒れるように死んでいくはずでありました。」
 それでもお釈迦様は「みずからが体得した境地、その境地をもたらした智慧、さらにその智慧をもたらした修行法を、なんとかして人に伝えてみたいという気持もありました」という。
 そして梵天(ボンテン)に請われ、説法の旅を始めた。
 お釈迦様は博士が指摘するように、「慈悲というのは、それ自体が目的なのではなく、あくまでも、修行をよりすみやかに完成させるための手段であると、ゴータマ・ブッダは考え」て修行したのだろう。
 しかし、いつしか、慈悲は単なる手段ではなくなっていたのではないか?
 悟って苦を脱すること、しかし、それは自分だけの問題ではなく周囲の人々にも苦を脱してもらいたいこと、そして、〈共に苦を脱しようとする生き方〉にこそ、この世に生を承けた者としての究極的喜びがあること。
 お釈迦様が入滅してから3百年の年月は、人々へこうした方向を探求させ、たとえ悟りを開こうと自分だけが安寧(アンネイ)の仏界へ入ってしまわず、幾度でもこの世へ転生しながら万人を救いたいという菩薩のイメージに人間の理想像を発見したのではなかったか。
 この積極的なイメージが2千年の時をかけて育てられたのが現在の大乗仏教であり、私自身、現に仏教の行者でありながら〈再び苦である生を得ない〉ことを望まず、〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉のみを望んでいる。

4 不死と不生である解脱を望まなくても、お釈迦様の説かれた仏教を信じ、修行することは可能であり、そこに、硬直したドグマから脱しにくい他の世界宗教と仏教との違いがある。
 お釈迦様が説かれた輪廻転生も因果応報もふまえつつ、大乗仏教の根幹をなす如来像思想も唯識哲学も中観哲学も成り立つ。
 この先、幾世紀か経つうちに、仏教はさらに深化し、発展するだろう。
 未来に生まれる行者も、信者も、その時代の空気を吸いながら、共に〈生きながら自分もこの世もよりよいものにする〉方向を目ざすことだろう。
 



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2014
11.05

風花やなほ哀歓の長子われ(楠本憲吉)

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 楠本憲吉は、天保元年(1830年)創業の老舗料理店「灘萬」に長男として生まれた。
 大正11年師走、場所は大阪船場である。
 慶大生のまま太平洋戦争に従軍し、俳句の道へ入る。
 昭和20年8月15日、天皇陛下の玉音放送がラジオから流れ、国民は敗戦を知った。
 その年、冬を迎えて憲吉は詠んだ。

「風花(カザハナ)やなほ哀歓の長子(チョウシ)われ」


 冬の晴れた日、陽光に煌めきながら雪が舞う。
 上空から花のように舞い降りる。
 寒さと静けさの中に、奇跡のような華やぎはある。
 しかし、それはあまりに儚い。
 ああ、と起こった感興(カンキョウ)に浸るまもなく止んでしまえば、何のこともない青空が広がっているのみである。

 23才の憲吉が風花へ思いを託した一句には、まるで、その後の人生を見透してしまったかのような苦悩と哀感がある。
 金銭に不自由はないが、やがて〈当主〉とならねばならぬ鎖はあるのだ。
 事実、「慶大俳句」を組織したり、「青玄」の同人になったりして大車輪の活躍を始める一方、冒頭の句を納めた第一句集『隠花植物』に寄せられた文章は、あまりにも暗い。
「俳句作家の楠本憲吉は、僕の日常の目に届かぬ隠密な場所で、苦汁に満ちた時間をかけて独自な仕事にいそしんでいたのである」(菱山修三)
「憲吉はよほど暗い星の下に生まれた奴に違いない」(こしば・じゅん)

 その後の憲吉が見せた溢れんばかりの才能に輝く俳句や評論や、テレビでの洒脱なやりとりには、ほとんど「苦汁」や「暗い星」は感じられない。
 しかし、こうした句はどこから生まれるのであろうか。

「寒雲の片々(ヘンペン)たれば仰がるる」

「寒スバル裁かるがごと振り仰ぐ」

 雲も星々も、心中の鬱屈(ウックツ)を知っている。
 雲やスバルを見上げる時、雲の白さや星団の光は、〈真実ならざるもの〉を抱えたまま、その状態に蓋をしている自分へ微かな救いを与える。

 志望どおりの道へ進めなかった私は商売に精を出し、表面的には成功しつつも、心の浮き草のまま、破滅した。
 真実ならざるものを抱え、それに甘えもしたまま本当に成功できるほど世の中は甘くない。
 やがて仏道が幻は消し去ったが、過去の罪は消せないまま、どうにか生きている。
 友人に典型的な理科系の男がいる。
 当然、大学の理系に悠々と合格すると思っていたのに、紆余曲折の末、金融関係の企業へ入り、定年まで役割をまっとうした。
 愚痴はひとことも漏らさず、黙々と勤め上げ、親を送り、あまりにも早く、妻までも送ってしまった。
 通勤のおり、哲学者のような風貌でやや下を向き、いつも同じタイミングで黙々と歩く彼の姿は神々しかった。
 彼に山ほど懊悩はあったろうが罪はなかったのではないかと思うと、我が身を省みて忸怩たる思いになる。

 私たちは多かれ少なかれ、何かを〈抱えつつ〉生きている。
 生い立ちや環境や生きざまが、知らぬ間に招かざるものを抱えさせる。
 そして、それと気づいた時、心中にもまた生来、招かざるものを抱えていたことを知る。
 ままならぬ世に、生死のままならぬ存在として生まれた者の宿命である。

 11月1日、末期ガンを公表した米国人ブリタニー・メイナードさん(29才)が自死した。
 当然、賛否両論だが、人間としての尊厳をかけた決断であったろうと想像はできる。
 11月3日、線路へ一升瓶を置いた池田直樹容疑者(56才)が逮捕された。
 自供によると「幸せな人を見ると妨害したい気持ちになった」という。
 前者は、いのちをかけて、抱えたものから飛翔した。
 後者は、抱えたものを暴発させ、自滅した。

 楠本憲吉の最期はどうだったのだろうか。
 辞世の句である。

「失いしことば失いしまま師走」




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2014
11.04

苦しい時の「神頼み」から「おかげさま」へ

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 ご質問がありました。
苦しい時の神頼みって、いいんですか?
 いつもは信仰心なんかない母親が、退院してから、いろいろ拝みはじめたんですが……」

 仏神は私たちの〈親〉であり、普段は何の連絡もしない息子が、お金がなくなった時だけ連絡をしても、親は、心で苦笑しつつお金や米などを送ってくれるのと同じで、こうした神頼みに咎(トガ)はありません。
 ダライ・ラマ法王著「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」にある、ややショッキングな項目を参考にして、少し、考えてみましょう。

【絶望からの信仰は、正しい態度ではない】

 以下、「」内は法王の言葉であり、読み解いてみます。

「~、今日、物質的に恵まれない人々に信仰心の篤い人が多く見られ、豊かな人々があまり宗教を顧みないと思われる場合が多々ある。
 そこで、信仰心、宗教的献身と物質について考えてみよう。」


 昔から「病気と貧困が信仰に向かわせる」と言われ、実際、新興宗教の多くがそうした方々へ強いアプローチをかけて急激な膨張を成し遂げてきた。
 その一方で、恵まれた環境で生活している方々は別に〈神頼み〉をする必要もなく、自力で結果を出しているという認識があれば、信仰はあまり意識されないのではないか。

「貧しい人々、しいたげられた人々が宗教に帰依するとき、純粋な信仰心からというよりも絶望から身を信仰に捧げる場合がある。
 これは正しい態度だとは言えない。」


 あまりに貧しく、あまりに虐げられると、意志するものが何も実現されず、無力感や絶望感などに陥る場合がある。
 法王は、そこで信仰へ逃れることに問題があると指摘する。
 厳しいようだが、罠へ堕ちないためには、ハッとする必要がある。

「もし、あなたがたいへん貧しく、物質的にひじょうに窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう。
 まるで何も持たずに、すべて所有していると信じるのは愚かだろう。
 あなたが今、現在、その手のうちに所有するものが不足していて、より多くのものを望む、その望むことの中に信仰の意味を見出しているなら、あなたの信仰とは、それが満たされている状態のことである。」


 法王は、〈苦しい時の神頼み〉がもたらす錯覚について説かれる。
 たとえば、お金がなくて困り、物質的ご利益があるとされている神様へ熱心に祈る心の状態はいかなるものか?
 宗教心があり「拝んでいるから、もう大丈夫」と考えるなら、それは本当の安心ではなく錯覚に過ぎない。
 客観的状況は変わっていないからである。
 そもそも、〈お金がない〉→〈お金を手にする方法を試みる〉→〈何をやってもお金が手に入らない〉→〈最後の方法として神様へ祈る〉となっている。
 ならば、目的はあくまでもお金を得ることにあり、祈ってもなお、お金がないなら、問題は解消していない。
 しかし、宗教団体によっては、熱心に拝むことを勧め、「拝んだから大丈夫ですよ」と暗示をかけて〈安心〉が手に入ったと思わせ、信者にする場合がある。
 それを、「窮乏しているにもかかわらず、『私は満たされている』と言うのは奇妙だろう」と指摘された。

 では、拝んだ結果、何かの成り行きでお金が手に入って喜んだなら、そこにある満足は〈宗教的安心〉と言えるだろうか?
 事実として、満たされたのは信仰の世界(心)ではなく、お金の世界(モノ)である。
 ただし、拝んだことが満たされた原因の一つだろうと判断すれば、お金のない時にはまた、拝むかも知れない。
 これでは、どこまで行っても、目的は、お金を手にするというモノの世界にあり、心の世界にはない。
 だから、もしも〈二匹目のドジョウ〉がいたとしても、〈三匹目のドジョウ〉がいなければ、拝む対象は、たやすく他の神様へ移行してしまう。
 より、効果がありそうな手段を求めるのは当然だ。
 かくして、〈拝んでいれば大丈夫〉ではないし、〈拝んで成果があれば真の信仰心が深まる〉わけでもない。
 だから、困っている時に、誰かから、拝めば安心と勧誘されたなら要注意である。
 また、ご利益があるからと手を合わせているだけなら、本当の安心は得難い。

 当山では、心願成就を祈るご祈祷を〈入り口〉と考えている。
 自分を超えた存在に対して真摯な気持になり、善き願いを心から祈るならば、願ったとおりに成就しようがしまいが、宗教的行為という観点からは、目的の半分が達成されていることになる。
 取るべき手立てのすべてを尽くしてあとは大いなるものへお任せするという姿勢そのものが、普段の自己中心的な態度ではないからである。
 そして、成就すればすなおに感謝の気持が起こり、不首尾に際しては自分の未熟を知ったり、願いそのものに対する反省が起こったりする。
 こうして、目的の残り半分も達成される。
 だから、藁(ワラ)にもすがる思いになった時は、本当の信仰心が目覚めるチャンスであり、そうした方向へと向かっていただくのが、ご祈祷に携わる宗教者の役割である。

 さて、「本当の信仰心」をもう少し考えてみよう。
 それは、まず第一に、どうしようもない壁にぶつかることによって自分の矮小さ、未熟さなどを知り、同時に、大自然やご本尊様などに対して自分と異次元の何かを感得する心である。
 この世の無情、非情、不条理、そして情けない自分などに心の奥底から呻きつつ、自暴自棄にならず、〈人でなし〉にもならず、歯をくいしばる時、具体的対象があろうがなかろうが「神様!」「お母さん!」などという心の叫びが生ずることである。
 お不動様に親しんでいれば「お不動様!」となり、お地蔵様に親しんでいれば「お地蔵様!」となることだろう。
 自分が当てにならなければ、自己中心的な我執(ガシュウ)は消えている。
 第二には、成就における感謝と不首尾における反省である。
 成就に際しては、今の自分が最大の力を発揮してなお、届きそうにないところへ届いたのだから、感謝の気持が起こるのは当然である。
 心の底から「おかげさま」と手を合わせたい。
 また不首尾に際しては、大いなるもののお力にすがりながらなお、届かなかったのだから、〈そもそも〉のところをふり返ってみる必要がある。
 自信過剰だったのではないか、高望みだったのではないか、力を出し切っていなかったのではないか、あるいは方向が狂っていたのではないか……。
 がむしゃらに前へ、という姿勢だったところに立ち止まる時間が生じ、自分自身を冷静に省みると、気づかなかった事実が見えてきたりする。
 これもまた「おかげさま」なのである。
 日々、「おかげさま」で生きる宗教者も、敬虔な信者さん方も以心伝心で、すがる方々の心にある「おかげさま」という心の音叉へ共鳴を起こさねばならない。

「あなたがまだ物質的な充足の限界を知らない、信仰の限界も、心的世界の限界も知らない、それこそが正しい状態だと言えるだろう。」


 私たちは、本当に〈満ち足りている〉という状況がなかなかわからない。
 それは、欲しいモノが無限に手に入るということではないからである。
 信仰についても、本当に〈救われている〉という状況がなかなかわからない。
 たとえ、祈ることによって一種の安心感を持てたとしても、それが、思い込まされているだけかも知れないし、いつ、いかなる場合でも揺るがないという保証はないからである。
 心的世界についても、本当に〈モノの原理とは異なる流れである〉ことは理解し難い。
 モノは目に見えて納得が簡単でも、心は目に見えず、理性と感性を総動員した省察や感得がなければ納得へたどりつきにくいからである。
 だから私たちは、自分がまだ、よくわかっていないと自覚しつつ学び、考え、実践したい。
 たとえ恵まれていようと、いまいと、本当の信仰心は、〈可能性〉として等しく与えられていると言えよう。
 苦しい時の神頼みは、可能性が現実となるチャンスである。




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2014
11.03

お釈迦様はなぜ、中道によって悟られたか? ―お釈迦様の三つの智慧と凡夫の三つの智慧―

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 お釈迦様が悟られた時のありさまが、明解に説かれた。
 宮元啓一博士の「苦楽中道」に関する文章である。

「快楽主義に従う世俗生活とその極端な対極である苦行主義との両者を離れた、いわゆる苦楽中道こそが修行の本道だということをしっかりと自覚した。
 そして静かに瞑想に入り、ほどなくして目覚めた人、ブッダになった」(以下の参照文は『ブッダが考えたこと』による)


 お釈迦様は、煩悩という苦の元を何とかしないではいられず、欲望を滅しようと苦行に邁進したが、得られたものは〈モグラ叩き〉的感想でしかなかった。
 苦行の間は抑えられても、離れた瞬間に、また、何かを求める気持も、何かを厭う気持も起こってしまう。
 お釈迦様は、無の境地を求める思考停止的な瞑想も、とっくに捨てていた。
 思考停止的な平安状態は、知性の自然なはたらきとして起こる「なぜ自分はままならぬ人生を繰り返すのか」という問いへ究極的回答を与えず、瞑想から離れて他人と接触すれば、相変わらず何かを求める気持も、何かを厭う気持も起こってしまうからである。

 では、なぜ、お釈迦様は苦行を離れて再び、瞑想に入り、間もなく悟りを開かれたか?
 この成り行きについて、博士は目の醒めるような見解を披瀝した。

「ゴータマ・ブッダは、苦行に根本的な疑問を抱きはじめたとき、すでに真理を、顕わにではないが鋭く直感していたと考えるのが自然というものではないか」
苦楽中道こそが本道であると自覚したとき、その真理を確信し、その確信のもとに瞑想に入り、その確信を不動のものとなし終えた、そのとき、もはや疑念や迷いを完全に払拭して目覚めた人、ブッダになった」


 真理をつかむ智慧は、聞慧(モンエ)・思慧(シエ)・修慧(シュエ)の「三慧(サンネ)」という三段階の修行によって得られるとされており、仏教の学び方の基本である。 

1 聞慧(モンエ)
 まず、教えを正しく、すなおに受けとらねばならない。
2 思慧(シエ)
 得た情報を自分自身で熟慮せねばならない。
 世間的権威や名声、あるいは自分の好き嫌いなどにとらわれず、論理的思考や感性や直感などを総動員する。
 その真剣さは、アメーバが、触れたものを食べられるか食べられないかを自分で判断し、それによって生死が分かれる峻厳さと何ら変わりはない。
 オカルト的なものにはまるか、はまらないかは、自己責任である。
3 修慧(シュエ)
 納得できた内容を、納得できる方法で修行、実践し、深く確認できれば真の智慧が得られる。
 
 天才であるお釈迦様は、自らの閃きの中で第一の聞慧を得られたのだろう。
 そして、思慧により、ほぼ確信できた。
 それから、スジャータの差し出す乳粥を食してゆったりと瞑想に入り、直感した内容を隅々まで確信できて智慧が完成した。
 博士は、この第三段階について指摘した。

「その瞑想は、アーラーラ・カーラーマ仙人やウッダカ・ラーマプッタ仙人たちが追い求めていたような、『思考停止を目指す瞑想』ではなく、『徹底的に思考する瞑想』でなければならない」
「やみくもに菩提樹の下に坐って瞑想に入ったのではなく、きわめてはっきりとした成算があったからこそそうしたのである。
 だからこそ、ゴータマ・ブッダは、驚くほど速やかに、目覚めた人、ブッダになることができた」


 お釈迦様が悟られたおりの状況について、実に納得できる。
 凡夫である私たちが、聞・思・修によってお釈迦様の後を追えることは、たとえその背が遥かに霞んでいる程度ではあれ、あまりにもありがたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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