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2015
01.31

130万人デモの真実 ―私たちを縛るものは?―

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〈計算されつくした撮影により、この画像があたかもデモの先頭であるかのごとく世界中で報道された(よく見るとプラカードは一枚もない!)〉

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〈世界各国が同一の意図で首脳たちを参加させた撮影現場は、みごとにデモから隔離されていた〉

 仏週刊新聞シャルリー・エブドがイスラム過激派に襲われた事件に対し、1月11日、フランス全土で370万人ものデモが行われた。
 パリでは、40カ国以上の首脳たちがスクラムを組み、「私はシャルリー」と書かれたプラカードを掲げた130万人ものデモ隊の先頭に立ったがごとく報じられた。
 フランスのオランド大統領、ドイツのメルケル首相、イギリスのキャメロン首相、イタリアのレンツィ首相、トルコのダウトオール首相、ヨルダンのアブドラ国王、イスラエルのネタニヤフ首相、パレスチナ暫定自治政府のアッバス議長なども参加し、後に、アメリカのオバマ大統領が参加しなかったことについて議論が起こったほどの熱狂ぶりだった。
 フランスのメディアはこぞって「第2次大戦でナチスドイツからパリが解放されたとき以来の歴史的なデモ」などと報じた。

 日本のマスコミも大々的に報じたが、光景は異様であり、当山は河北新報へ「他者傷つけない行動を―言論の自由と宗教」の一文を投稿した。
 たやすく〈正義〉を標榜し、戦士となれば、斃すか斃されるかの渦中でのたうちまわるしかなくなる。
 国家の第一の責務は国民を餓えさせないことと、そして、戦争で殺さないことである。
 その点からすれば、アニメや日本食や科学などで世界をリードし、幅広い国々から信頼されている〈今の日本〉は、世界史上まれにみる状況にあると言えよう。
 日本がこの状態を維持すれば、世界から貧困と病気と戦争という三大苦を取り除くモデルとして、最大の役割を果たせるのではないか。
 一文では、そのために第一義とする価値は何であるかという問題提起をしたつもりである。

 さて、1月29日付の朝日新聞は、作家森達也氏の「『対テロ』多様な視点示せ」において、デモ報道の裏に隠された真実を明らかにした。
 各国首脳たちがスクラムを組む様子は、デモの大群衆とは別な完全に警護された場所で特定の角度から撮影されており、決して首脳たちは〈ジャンヌダクル〉だったわけではない。
 すでに英インディペンデント紙、英ファイナンシャル・タイムズ紙、ドイツ経済ニュースなどは写真付きで〈意図的につくられた現場〉の実態を暴いているが、日本ではなぜか、黙殺されたままである。

 こうした意図的な報道が地球規模で行われ、日本政府もまた、その一員であることを私たちは肝に銘じておきたい。
 森達也氏は稿の最後に述べた。
「世界中が対テロで一体化しつつある現在だからこそ、メディアは多様な視点を提供しなければならない。
 たとえ売国や国賊と呼ばれても。」
 同感である。
 人は、思想であれ、宗教であれ、一色に染められ思考停止に陥るほど危険な状態はない。
 それは、人が〈人でなし〉になる最短経路である。
 真に人を思い国を思うならば、頼るべきは偏狭なドグマでなく、もちろん感情でなく、人を人たらしめている霊性(レイセイ)であり、仏性(ブッショウ)である。
 私たちは、霊性や仏性を覆うものをこそ、恐れるべきではなかろうか。

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 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
01.30

2月の守本尊は虚空蔵菩薩様です

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 2月は立春(リッシュン)と雨水(ウスイ)の如月(キサラギ…2月4日より3月5日まで)です。
 2月は丑(ウシ)の月なので、守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様です。

 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力を与え、行くべき道をお示しくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、四季の廻りが始まる月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。
 虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様は、丑(ウシ)・寅(トラ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる一代守本尊でもあります。
 また、身体では、主として両脚をお守りくださいます。

虚空蔵菩薩讃歎経』には、以下のように説かれています。

「宇宙に比すべき大いなる○真理と智慧と福徳の○無量の法宝(タカラ)を無尽なる○蔵の中より取り出して○求める衆生(シュジョウ)に施され○諸願を成就させ給(タマ)い○仏の法(オシエ)の真髄と○利益(リヤク)を受ける喜びを○与え給(タマ)う」

「大なる慈悲の心から○生きとし生ける一切の○衆生を危険な難(ヤクナン)や○災などから救い出し○或いは如何なる重罪(ジュウザイ)を○犯せし者にも救済の○光を差し伸べ給(タマ)うなど○決して衆生を見捨てざる○その働きは偉大なり」

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 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた虚空蔵菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 2月の守本尊虚空蔵菩薩(コクゾウボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼり そわか」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2015
01.30

平成27年2月の行事予定 ―厄除祈祷・例祭・書道教室・寺子屋・瞑想会・居合道場など―

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 平成27年2月の行事予定です。
 当山の法務時間は午前9時~午後5時(お通夜などを除く)ですので、その時間帯にご連絡、ご来山ください。
 なお、本堂にてのお詣りは自由ですが、人生相談やご供養などは完全予約制です。必ず事前に日時のお約束(022-346-2106)をお願いします。

[春祭厄除千枚護摩祈祷 2015/2/1(日)午前10:00~

 立春の到来を前に、午前十時より千枚の護摩木を焚いて一年間の厄除けを行います。
 千は無限を意味し、厄除け開運のために、それぞれの方の、立春から翌年の節分まで一年間をお守りくださる守本尊様へ最高のまごころを捧げてご供養します。
 私たちは毎年、運勢が変わり、お守りくださる守本尊様も変わります。
 たとえば八方塞がりの年には地蔵菩薩様、本厄年には千手観音様、前厄祓いでは勢至菩薩様、後厄祓いでは大日如来様へ祈るのです。
 祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』でも厄除け祈祷拝受となり、当山経由で祈祷札と御守が送られます。

【年齢別運勢表】年齢は数え年で見てください。※詳しい運勢表は当山にあります。
●● 八方塞がりの年…守本尊は地蔵菩薩様…天地は通じ、開く。
 1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100才
○● 種蒔きと開運の年…守本尊は阿弥陀如来様…積徳には開運あり。
 2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101才
●○ 歓喜と散財の年…守本尊は不動明王様…質素倹約を第一に。
 3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102才
○● 運命変化の年…守本尊は虚空蔵菩薩様…悲運を打開するチャンスあり。
 4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103才
○○ 前厄の年…守本尊は勢至菩薩様…虚実が明鏡に映る如く、明らかになる。 
 5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104才
●● 本厄の年…守本尊は千手観音様…外は穏でも、内には乱の危険あり。
 6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105才
●● 後厄の年…守本尊は大日如来様…再び、陽が廻りくる。
 7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106才
○○ 仮の縁多い年…守本尊は文殊菩薩様…善悪虚実を見分けて安全と発展あり。
 8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107才
○○ 良縁多く盛運の年…守本尊は普賢菩薩様…良縁多く、福が来る。
 9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108才

 参加は自由です。
 どうぞ、厄除け開運の祈りが込められる護摩の火に当たり、よき一年となりますよう。
・場  所  大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第一例祭] 2015/2/1(日)午前10:00~

 今月の第一例祭は、春祭と一緒に行います。

[書道・写経教室] 2015/2/1(日)午後2:00~午後3:30

 髙橋香温先生は津波で被災されても書道一筋でがんばっておられます。
 先生の熱意と誠意を感じられる貴重な時間です。
 立春を期して、心新たにやりましょう。
 今月も、『舎利礼(シャリライ)』という72文字のお経を4文字づつ書きます。
 イス席もありますので、お気軽にご参加ください。
・場  所  大師山法楽寺
・指  導  高橋香温(温子)先生
・ご志納金 1000円(未成年者500円)
(毎月第一日曜日午後2時から開催します)
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第六十一回寺子屋『法楽館』 ─宮城の先駆者の系譜~林子平―横尾東作―岩崎卓爾―]
 2014/12月13日(土)午後1:30~3:30

 今回は「宮城ビジョンの会」を主宰する渡辺ひろし師のご講話をお聴きします。
 これまで「宮城偉人講座」を開催してきた師の言葉です。
「歴史の積み重ねがあって今があります。私達の郷土が輩出した偉人が、当時どの様な思いで生きてこられたのか。
 今を生きる私達に何を託したかったのか。史実に基づいてそれらを理解し、偉人の遺志を正しく受け取る努力をしたいと思っています」

○林子平(ハヤシシヘイ)
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 師の林子平に関する講義を聴いた川崎町議会議員的場かなめ先生は、ブログでこう述べておられます。
「林子平松下村塾・吉田松陰が林子平の影響を大きく受けていたというお話は鳥肌が立ちました。また、渡辺さんの人柄がよく表れた素晴らしい講演でした! 『海国兵談』を説いた偉人『林子平』を宮城県人として誇りに思います。」
○横尾東作(ヨコオトウサク)
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 加美町で生まれ、幕末から明治を駆け抜けた横尾東作は桁外れの快男児で、「東洋のコロンブス」と呼ばれ、晩年は足尾銅山鉱毒事件の被害難民と共に南洋の島々を開拓を夢見ました。
○岩崎卓爾(イワサキタクジ)
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 岩崎卓爾もまた、現在の価値観とはかけ離れた信念に生きた郷土の大先輩で、気象観測によって縁となった沖縄県八重山地方のありとあらゆるものをこよなく愛し、ついには「イワサキゼミ」など、昆虫の命名まで行うに至りました。

・講  師 渡辺ひろし師(仙台市生まれ、仙台一高・早大法学部卒業・防衛大学校大学院修了。外資系コンサルティング会社・外資系保険会社・防衛省防衛大学校特別研究員を経て「歴史復興会議」代表。総合危機管理士・防災士)
・場  所 法楽寺講堂
・参加費 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第二例祭] 2015/2/21(土)午後2:00~3:00

 護摩法を行います。
 お経の多くが読み下し文なので、内容がとても感じやすく、理解しやすくなっています。
 み仏と万物と万霊をご供養し、願いをかけましょう。
 その月の守本尊様をお讃えする「讃歎経(サンタンキョウ)」は、リズムが良くとても読みやすく、何度も口にしているうちに、だんだんと有難味がわかってきます。
 太鼓と共に般若心経を唱えましょう。
 自由参加です。
 み仏の智慧が輝く護摩の火に身を近づけ、悪しきものは焼き祓い、善き願いへ大きなご加護を受けてください。
 (願い事を書く護摩木供養は1体300円です)
・場  所 大師山法楽寺
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[第十六回瞑想講座] 2015/2/21(日)午後4:00~午後5:30

 清浄体操から、梵字の「阿」と一体になる阿字観(アジカン)まで、正統な瞑想法を伝授します。
 お大師様は経典を根拠にして、阿字観こそがお釈迦様の悟りへ入る最終的な方法であると説かれました。
 しかも、難しい本格的な方法のみならず「光と一体」の観想だけという略法でも、み仏そのものになれるのです。
 身体を整え、心を正す修行を実践しましょう。
 身体を締めつけず、ご本尊様の前で修行するにふさわしい服装でおでかけください。
 いつからでも始められます。
 イス席もご用意しますので、座れない方などもどうぞ心配せずにおでかけください。
 なお、正式な伝授なので、録画・録音はできません。
 清浄な姿と心でご参加ください。
 資料の準備などの関係上、参加される方は、事前に電話やファクスやメールなどでお申し込みください。
・場  所  大師山法楽寺
・ご志納金 1000円
・送迎申込 開始30分前に地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡ください。

[お焚きあげ] 2015/2/28(土)午前10:00~11:00

 お不動様のご縁日に、お不動様の前で「供養会」を行い、「お焚きあげ」を行います。
 人形や仏壇や写真など、燃えるものも、燃えないものも大丈夫です。
 一緒にお不動様のお経を読み、真言を唱えましょう。
※お焚きあげをご希望の方は、必ず電話などで日時を連絡の上、お品をご持参、あるいはお送りください。
 当日とは限らず、受け付けは毎日、行っています。

[機関誌『法楽』の作製] 2015/2/23(月)午前9:00~

 講堂にて、機関誌『法楽』を作り、機関紙『ゆかりびと』と共に発送しますので、ご協力をお願いします。
『実語教・童子教』も共に学びましょう。
 おかげさまにて、『法楽』は第301号、『ゆかりびと』は第164号となりました。
・場  所 法楽寺講堂
・日  時 毎月、最終月曜日に行っています。

[隠形流(オンギョウリュウ)居合道場]

 仏法に生きる身と心をつくるために行います。 
 九字を切り、守本尊様のご加護をいただく密教独自の剣法です。
 高齢者の方々や女性が多く、厳しいながらも和気藹々(ワキアイアイ)と稽古しています。
 入門ご希望の方は、事前に連絡の上、まず、見学してください。
・日  時 毎週金曜日 午後7:00~9:00
・場  所 仙台市旭ヶ丘青年文化センター

◎清掃奉仕の日

 毎週金曜日、ご縁の方々が最も多くおでかけになられる土曜・日曜の前日に、境内地などの清掃や草取りなどを行います。
 皆さんのご都合に合わせて、何時でも自由にでかけられ、大きな徳積みをされてはいかがでしょうか。
 その日ごとに作業のポイントを貼り出しますので、ご覧の上、どうぞご参加ください。
 どなたでも参加できます。
・日  時 毎週金曜日午前9時~午後5時
・場  所 法楽寺境内地など




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2015
01.29

「人を殺してみたい人」の誕生 ―失いつつある空気を考える―

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 名古屋市昭和区のアパートで、77歳の女性を殺したとされる女子大生は「子どものころから人を殺してみたかった」と供述した。
 どうして最近、こうしたわけのわからない考え方で事件を起こすようになったのか?
 数人の議論になって思い出したのが「維新の十傑」と呼ばれる横井小楠(ヨコイショウナン)である。

 勝海舟は、「生涯で出会った恐るべき人物」として西郷隆盛と横井小楠を挙げている。
 彼は、中国北宋時代の儒学者程明(テイメイドウ)の句(ミチ)用に就(ツ)けば是(ゼ)ならず」をあちこちへ貼っていたという。
 およそ、「」というものは、「用」によって考えてはならないと言うのである。

 この場合の「用」とは、「利害の私心」で「智術の計策」に陥る姿勢である。
 利害というものさしを用いて知恵をはたらかせ、こうやればうまく行くといった計算や策略をめぐらせることを指す。
 小楠はさらに厳しく指摘する。
 ここで言う「私心」とは「事の成否を見るの利害心」であり、成り行きを見て損が無いようにふるまう、あるいは、うまくやれそうな方向を選ぶ、といった小賢(コザカ)しい考え方を言う。
 真理や真実を第一の価値としない考え方、身の処し方である。
 当世風なら、勝ち馬に乗る、目先の結果を第一とする、などと言えば近いかも知れない。

 では、そうした「用」を離れたとは何だろう?
「天地の間、第一等のほか第二等第三等のこれなく」
 真のは最も根本的なもののみであり、そこから外れたものにかまけてはならない。
「第一等」の道は、真理を第一とし、真理に至る道を至心に探求し続ける勇猛心によってのみ見つけることができる。
 しかもそれは、天と地の間で生きる人間にとって普遍的なものである以上、そうして心を修めて行けば、老若男女を問わず、おのづから現れてくる。

 だから小楠は、学校を建てて有能な人材を育成しようといった意見になかなか賛同しなかった。
 最後に「どうしても学校は要らないのか」と詰問され、本心を語った。
「学校を建てるのは道を行うためである」
「人材養成などという功利的思想を捨てねばならない」

 今、こうした〈恐るべき人物〉はどこにいるだろう?

 さて、冒頭の事件が起こった遠因は、〈空気の喪失〉ではなかろうか?
 思い起こせば、自分の子供時代(昭和20年から30年代)は、太平洋戦争に負けて価値観がすべて喪失したとされているが、無軌道で自暴自棄で気まま勝手な人々があふれていたわけではない。
 むしろ、淡々と、黙々と、人々は助け合いながら汗を流していたという印象が強い。
 人々は戦前と変わらぬ共通の空気を吸い、室町時代や江戸時代にも遠源を遡られる共通した価値観が知らぬ間に心の血肉となっていたのではなかろうか?
 そうした空気を色濃く染めていたものの一つが功利的思想や自分本位に走る恥ずかしさであり、人がまっとうな人と成るための障害を排除する智慧だったのではなかろうか?
 だから、貧しくとも「我利我利亡者(ガリガリモウジャ)」になることを恥じた。
 大人も子供も周囲の人のためになり、助け合うのが当然であり、勉強であれ、商売であれ、出世であれ、自分のことにばかりかまけていると見なされることは恥だった。
 途方もなく儲けた人は決してそのことだけで称賛されず、高位高官に昇った人もまた、肩書だけでは称賛されなかった。
 どこに住み、年収がいくらあるといったことのみで堂々と憧れの対象となる時代が来るなど、思いもよらなかった。
 人々は、空気を吸うように誰しもが、人として〈してはならないこと〉と〈すべきこと〉を子供のうちから心へ染み込ませていた。

 もしかすると、敗戦によってではなく、敗戦から奇跡の復興を成し遂げた後、進み過ぎた功利主義や個人主義や弱肉強食思想によって、たった今、日本人は大きく変質しようとしているのではないか?
 ご先祖様も吸ってきた空気が薄くなり、別な空気が人を殺してみたいという新たな人格のパターンを生み出しつつあるのではなかろうか?
 殺してみたいから殺す、ムシャクシャするから殺す、目立ちたいから殺す、……。
 この先を想像してみたい。
 ドナルド・キーン氏は指摘した。
「もし書道の授業がなくなれば、日本画の消滅も時間の問題だろう」
 もし、ご先祖様が遺してくれた空気をすっかり失えば、日本人は今度こそ、本当の根無し草になるだろう。
 ――根無し草は何でもやる、何でもやれる。
 立ち止まって考える必要があると思えてならない。




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2015
01.28

バイク泥棒と自転車の二人乗り ―尾崎豊から加藤雅利へ―

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 昨年暮れ、加藤雅利氏著のライトノベル『【急募】賢者一名(勤務時間は応相談)』が宝島社から発行された。
 賢者鳥居千早が勇者鈴木ミカゼを自転車に乗せ、勇者がモンスターを倒す場所へと案内する話である。
 千早とミカゼは同じ高校に通っている。

 道路交通法では、幼児などの場合を除き、二人乗りは原則、禁止となっている。
 年配者などは心配するかも知れない。
「交通違反を平気で犯すなど、だいじょうぶかな?」

 30年以上前、14才の尾崎豊が『15の夜』で唄った歌詞を思い出す。

「落書きの教科書と外ばかり見てる俺
 超高層ビルの上の空 届かない夢を見てる
 やりばのない気持の扉破りたい
 校舎の裏 煙草をふかして見つかれば逃げ場もない
 しゃがんでかたまり 背を向けながら
 心のひとつも解りあえない大人達をにらむ
 そして仲間達は今夜家出の計画をたてる
 とにかくもう 学校や家には帰りたくない
 自分の存在が何なのかさえ 解らず震えている
 15の夜

 盗んだバイクで走り出す 行き先も解らぬまま
 暗い夜の帳りの中へ
 誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に
 自由になれた気がした 15の夜」

 かつてこの歌を熱唱したAさんは今、国家の安全を守る仕事に就き、家庭を持ち子供を育てておられる。
 東日本大震災の直後、尾崎豊ばりに盗んだバイクで家出中の少年が避難所で大活躍し、ことが発覚したおりには罪を減じる嘆願書が作られ、少年も社会の役に立ちたいと決意を語った。
 小説も歌も、あるいは絵画などの芸術も、世間で考えられる道徳に添った内容や表現であるかどうかということより、魂へ覆い被さっているものを取り外してくれるかどうかが役割として大切である。
 仏教徒としては、万人に生来、具わっている仏性(ブッショウ)という宝ものが、真に解放された魂の底から霊光を放つと信じてもいる。

 加藤雅利氏は「あとがき」で語った。
「編集部の皆様、本作の改善、改良のためのご指導ありがとうございました。」
 めったに見られない謙虚なもの言いではないか。
 氏は、結末の部分で苦しみ抜いたらしい。
 脳髄の汗ががみごとに結実し、ジャンルは〈ライト〉だが、純文学的で奥行きのある印象深いラストシーンとなった。
 若い方だけでなく、広く多くの方々に、楽しく、ドキドキし、たまに切ないこの傑作をぜひ、読んでいただきたい。
 29才のまじめな新人、頑張れ!




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2015
01.28

春祭厄除千枚護摩祈祷のお知らせ ―厄年の注意事項―

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 厄年とは何でしょうか?
 それは、自然の運行に春夏秋冬などのリズムがあるように、自然の一部である私たちの運気にもリズムがあり、そのうちの〈鍛えられる時期〉に当たる年回りのことです。
 米も、柿も、大根も、天地自然の恵みと試練によっておいしくできあがるのと同じです。

 1才が最初の体験となる八方塞がり」においては、〈塞がる〉という流れにあって、伸ばしたい手が思う存分伸ばせない虞(オソレ)があります。
 5才が最初の体験となる「前厄」においては、〈明らかになる〉という流れにあって、隠しておきたいものごとが露呈してしまう虞(オソレ)があります。
 6才が最初の体験となる本厄においては、〈あるがままに見られない〉という流れにあって、努力どおりの結果が出しにくくなる虞があります。
 7才が最初の体験となる「後厄」においては、〈足枷(カセ)がかかる〉という流れにあって、いつもより時間を要する虞があります。
 9年に1度、必ず廻ってくるこうした試練の時期を無事安全に乗り切り、人間として一段と成長できるよう、その年回りにご守護くださる守本尊様へ祈り、自分の努力と周囲の縁の力に加えて仏神のご加護もいただき、敬虔ですなおな心となって万全を期したいものです。

 もちろん、17才や18才など、運気の盛んな時期も、追い風をいいことに有頂天になれば転んでしまうかも知れません。
 厄年は必ず悪いことが起こり、そうでない年は必ずよいことが起こるわけではありません。
 雨の日には傘を差し、晴れた日には帽子をかぶるように、人生の向かい風や追い風それぞれを上手に生かし、自然の一部としての人間生活をリズムよく過ごしたいものです。

 運気の流れとしての1年は立春から始まります。だから、私たちは必ず「春夏秋冬(シュンカシュウトウ)」と言い「冬春夏秋」などとは言いません。
 当山では、立春の到来を前に、千枚の護摩木を焚いて1年間の厄除けを行います。
 千は無限を意味し、厄除け開運のために、それぞれの方の、立春から翌年の節分まで1年間をお守りくださる守本尊様へ最高のまごころを捧げてご供養します。
 運気の強い年回りの方も、弱い年回りの方も、どうぞ、この春夏秋冬をお守りくださる守本尊様をご供養するために、おでかけください。

・日  時:2月1日(日)午前10時~12時
・場  所:法楽寺講堂
・申  込:ファクス(022-346-2107)やメール(ryuuchi@hourakuji,.net)や電話(022-346-2106)
・必要項目:住所・氏名・生年月日
・ご志納金:数え年19才以上の方…5000円 数え年10才~18才の方…3000円 数え年9才以下の方…2000円
・振込口座:ゆうちょ銀行 普通預金 02260-3-4604(宗教法人大師山法楽寺)
・授与品等:御札、御守など(送付希望の方へは発送します)
・送迎申込 開始30分前に、地下鉄泉中央駅そばの『イズミティ21』前へ送迎車がまいります。
 乗車希望の方は前日午後5時までに必ずご連絡下さい。



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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2015
01.27

日本のタクシードライバーと韓国の警察官 ―国境を越える学び合い―

2015012100092.jpg

 春間近を思わせる柔らかな陽光に包まれた東京駅からタクシーに乗った。
 客待ちの先頭にいる車は「大和」の提灯をつけており、大和町に住む自分としては何となく小さな期待を持ちながら車中の人となった。
 案の定、道路は空いており、地下鉄に乗り換えるよりずっと早く目的地へ着きそうだ。
 物腰が柔らかく、ゆったりと話す40才前後のドライバーへさりげなく質問する。
「日本人が人質になった問題は困ったものですね。
 最近の外人さんはどうですか?」
 客の様子を慎重にうかがっていた彼は、「そうですね」と、意外なできごとを語り始めた。

 東京駅で乗り込んだ一人の韓国人から、目的地と経路を示された時のことである。
 明らかに遠回りだときづいた彼は、別なルートを示し、「こちらが近いから、早く着きますよ」と説明した。
 客は心底、驚いた様子。
 どうして自分の儲けにならない走り方を教えるのか、理解できないと言う。
 彼は、客のためにできるかぎりのことをするのがタクシードライバーの使命であり、知っていて遠回りするドライバーはいないだろうと答えた。

 客は考えこんだ末に述懐した。
韓国との教育の違いだろうか。
 日本人には感心した」
 氏は、私たちもあなた方に学ぶものがたくさんありますよと応じた。

 四つ辻に警察官が立ち、国会議事堂近くは特に、ものものしい警護。
 人質事件以来、右翼の街宣車が増え、一般車両は乗り入れられない道路もあるらしい。
 赤信号で止まると、大音量の声が窓を通して聞こえる。
 不思議に、遠いのか近いのがわからない。

 お返しに、去年、ソウルで行われた日韓親善弁論大会で、日本大使館を警護している韓国の若い警察官ハン・スンホ氏が最優秀賞となった話をした。
 雨の中に立つ自分の役割に疑問を感じたが、日本でも警察官が同じように韓国大使館を護っていてくれることに思いが至り、納得できたのだ。
 ドライバーは全身を耳にし、以後のハン・スンホ氏がますます仕事に励み、日本人へ思いやりをかけるようになったという結末に深く頷いた。
 
 人として分を尽くす姿は美しい。
 分を尽くすためにはたらく智慧はその人を磨き、必ず周囲へよき香りをもたらす。
 私たちは、余分なガードを心から外しておけば、そこここで、香りに接することができる。
 心に沁み入った人は、同じような香りを発する人になりやすいのではないか。

 日本のタクシードライバー韓国警察官、市井の人々が教えてくれる真実を大切にしたい。
 香りの体験談を誰かへ語りたい。




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
01.26

イスラムにおける思想と信教の自由 ―「イスラームとキリスト教間初の会合」小考―

201501260001.jpg

 ジャパン・イスラミック・トラスト発行の「イスラーム:包括的な生活様式」を読んだ。
 アハマド・ファリード・ムスタファー博士が1978年にメルボルンで作り、2005年に改訂された70ページに満たない小冊子である。
 しかし、副題に「イスラームとキリスト教間初の会合」とあり、「イスラームの主要な諸側面を直接かつ集中的にお見せしよう」という目的で綴られた貴重な資料は、世界各国で翻訳されている。
 この中にある思想、信教の自由に関する文章の一部をとりあげてみたい。

1 思想の自由

「聖クルアーン(聖典)は一人一人が天地創造と、見聞きする事柄どもを考えてみるように求めている。」

 その典拠である。

『かれらに《アッラーに啓示されたところに従え》といえば、彼らは《いや、私たちは祖先の道に従う》と言う。
 なんと、彼らの祖先は全く蒙昧で、(正しく)導かれなかったではないか。』(雄牛章2:170)


 確かに、自分で考えるように勧めている。
 しかし、神の言葉を聞かないうちは愚かなままであるという前提がある。
 つまり、ここで言う自由には方向性が定められている。
 事実、こう述べる。

「人間は際限なく好きなように物事を考える自由がある。
 しかし誠実で有徳な事柄を思考するように勧められ指導されているのである。」

 私たち欧米流の「自由」という観念にあっては、どの方向へであれ「際限なく」広がるイメージがある。
 しかし、イスラムでは、神が定めた「誠実」で「有徳」な方向へと歩む自由意志こそが「自由」の中身なのだろう。

 では、そうした自由ではない方向へ思考が進んだ場合はどうなるか?

「従ってもし人の考えが間違って悪に向かう場合でも、シャリーア(イスラム法)はその考えが行動に現れない限りは処罰することは求めない。」

 心の中まではチェックされないが、神の定めた方向に向かわない行動は「悪」となり、「処罰」される。
 では、無制限ではない自由の中で、なぜ、科学をリードできたのか?
 イスラミック・センター・ジャパン発行の「図解イスラームガイド」は指摘する。

「イスラームは人々に知性と観察力を駆使するように教えている。
 それゆえイスラーム拡大期のわ僅か数年で、偉大な文明や研究施設が隆盛を見た。
 東洋思想と西洋思想の統合、新旧思想の統合は医学、数学、物理学、天文学、地質学、建築、芸術、文学、歴史などの学問に多大な進歩をもたらした。」

 確かに、代数やアラビア数字やゼロの観念など、私たちが恩恵をこうむっている無数のものがイスラム文化から生まれた。
 自由というものについてイスラムの方々と話をしてみたい。

2 信教の自由

「シャリーアは信教の自由を宣言し認め、その保護を確保した最初の法的制度である。
 非ムスリムはその信教を選ぶ自由があり、それに従って信仰生活を展開できる。
 イスラームに帰依するのは、強制ではなく自発的な改宗によってである。」

 その典拠である。

『宗教に強制があってはならない。
 まさに正しい道は迷誤から明らかに(分別)されている。
 それで邪神を退けてアッラーを信仰するものは、決して壊れることのない、堅固な取っ手を握ったものである。
 アッラーは全聴にして全知であられる。』(雄牛章2:256)


 神は善悪を明確に示すが、それを「強制」的に信じさせようとはしない。
 こうした点からすれば、暴力的、軍事的に人々へローラーをかけるイスラム原理主義の行動には、正統性に問題がある。

 次に、信者が迫害された場合に移住するという考え方を見よう。

『自分自身を損なっているところを天使に召された人々に(天使は)言う。
《あなた方はどうしていたのか。》
 かれらは(答えて)言う。
《わたしたちは地上で弱く、痛めつけられていました。》
 その時かれら(天使は)言う。
《アッラーの国土は広大ではなかったのか、あなた方はそこに移り住めたではないか。》
 これらのものの住まいは地獄であろう。
 何と悪い帰りどころであることよ。
 ただ(本当に)弱かった男女と子供たちは別である。
 かれらは(自ら避難する)手段を見出すことも出来ず、また道へも導かれなかった。』(婦人章4:97、98)


 博士は主張する。

「もしもイスラームの本来として信教の自由を阻害するということであったならば、すべての宗教的少数派はこの14世紀間に一掃されていたことであろう。
 しかしそのような事例は一つも伝えられてはいない。
 預言者(平安あれ)は一度も侵攻を開始したことはなかった。
 彼とその初期の信者たちは、マッカの偶像崇拝者たちに激しく迫害され、また社会的に疎外されていた。
 しかし、武器を手にするのは、武器で挑戦されたり、その家族や信徒と共に住まいから追い出されようとしていた時に限られていた。」

 その一方で、自省もしている。

「以上のようなすばらしい歴史にもかかわらず、中には不正のムスリム支配者も居たことは認めざるを得ず、またこの不正は調査研究し分析もされるべきであろう。
 それらについての真実は明らかにされ、公表されるべきだ。
 ただしそれはイスラームが推進し信者の心の中に植え付けようとする正義と寛容の精神とは、無縁のものなのである。」

 この本が書かれた後も「不正のムスリム支配者」であろう指導者が世界中で非人道的な行動を煽り、戦乱と混乱は膨大な人々をしませ、死に追いやっている。
 彼らは非ムスリムによる神への冒瀆やムスリムへの差別などを戦いの根拠としているが、その根には地球規模の格差社会があり、抑圧から抜け出しようのない人々の怒りがある。
 いつの世も貧困と病気は人間の二大であり、それがイスラム原理主義のみならずさまざまな極論的思想や行動を生み、果ては最悪のをもたらす戦争へとつながり、戦争は人々を必ず二大へ陥れ、悪循環は後を絶たない。
 何としてもムスリム社会が本来の「正義と寛容の精神」を取り戻されるよう、世界中がよくよく考えねばならないのではなかろうか。



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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
01.25

平成27年2月の運勢 ―立場、教育、ドナルド・キーン氏を考える―

 今月は和を尊び、横に連帯を深めると共に、補佐役的な役や、つなぎ役などの立場やはたらきを重視し、上下それぞれが〈立場なりに〉分を尽くして邁進しましょう。

○教育の現場について

 埼玉県教育委員会は、一月九日の通知「教職員の不祥事防止について」をもって県立学校の全教員に対し、生徒との適切なコミュニケーションに徹するよう指導しました。 具体的には、生徒との私的な電話、メール、ラインなど無料通信アプリによる連絡の禁止、一対一の指導やマイカー同乗の禁止などです。
 昨年末、生徒へのわいせつ行為が相次ぎ、県立高校の教諭四人が懲戒免職になったことを受けたものですが、免職処分では退職手当が普給になる、停職処分では生涯賃金が五百万円少なくなる、などの警告も発しています。

 当山はかねて、服装と言葉は、立場にふさわしいものでなければならないと考え、人生相談においても、アドバイスをしてきました。
 教師が、生徒を導く指導者すなわち師としての覚悟も誇りも、服装と言葉使いにきちんと表現していれば、おのづから自分の心持がシャンとし、生徒も又、必要な緊張感をもって師へ対するはずです。
 法に触れれば賃金が減るといった面よりも、教師は「生徒を教える役割に自分の存在をかける師」であるという自覚が重要であり、それがふるまいと、服装などの準備に反映されていなければなりません。

 もしも、教師と生徒が似たような服装と同じ言葉使いで触れ合えば双方に無用の気安さをもたらし、師弟であることを忘れた友人や恋人という関係へ堕落する危険性を高めます。それは教師から魂を抜く過程に他なりません。

 欧米には欧米流の文化があり、イスラム諸国にはイスラム教に支えられた文化があるように、日本には、立場を重んじ、各種の敬語などを適切に用いる繊細で奥行きの深い文化があります。
 それが生きる教育の成否は教師の自覚と覚悟にかかっています。
 打算ではなく、国のゆくえを左右する〈教育のプロ〉としての矜恃をもって、まず、服装と言葉をふり返っていただきたいものです。

ドナルド・キーン氏の危機感について

 1月15日付の読売新聞は、日本文学研究者ドナルド・キーン氏の「伝統忘れた日本に『怒』」を掲載しました。
 日本人よ、自分たちが受け継いだ宝ものの価値に気づいて欲しい、という氏の人生をかけた呼びかけです。

「日本の文化は現在、世界の勝者になった。
 漫画や映画、和食は産業として成功し、日本の小説は数多く翻訳され、ベストセラーにもなる。
 美術、建築、さらにせいかつのあらゆる場面で、日本的なセンスと造形は、世界的な美の基準になりつつある。」

「合理的で洗練され、自然と響き合うこの国の美的センスを、すでに多くの欧米人が共有する。」

「今では海外の大学らしい大学ならば当然、日本語を教えている。」


 これほどのレベルに達した文化を呼吸していながら、私たちは、今、どうやって暮らしているのでしょうか?

「小学校から英語が推奨され、自国語の教育を圧迫している。」
「『源氏物語』の悲哀を行間に味わう暇も与えず、中学、高校では文学ではなく文法を教え込む。」

「大阪市は文楽協会へ補助金を出すかどうか、観客数で判断した。
 関西を代表する伝統芸能に対する何という冒瀆(ボウトク)か。
 要するに海外でこれほど価値が認められつつある日本文化を、当の日本人は粗末に扱い続けてきた。
 そんな70年間でもあった。」


 私たちは、遠く室町時代、あるいはもっと遙かな過去にさかのぼる独自の文化の泉を用いながら、時代なりに洗練の度を加えてきました。
 今の日本人は世界に通用する文化を享受しています。
 しかし、その泉のありがたさを忘れているのではないか、このままでは泉を涸らしてしまうのではないか、と氏は指摘します。

「戦争に古来の文化が援用された反省や嫌悪は長く続いた。
 類を観ない高度成長を実現し、多忙だったろう。
 とはいえ日本人は、過去の歴史や慣習を簡単に手放しすぎたのではないか。」

「今はただ、近代文学の絶頂期に居合わせた幸福を想う。
 当時はわからなかった。
 50~60年代の日本文学は、平安王朝の女流、そして近松、西鶴、芭蕉らがいた江戸元禄記と比肩する、隆盛期だったのを。」

「世界的水準の戦後文学は、古書店に並ぶ遺物とされ始めている。」


 氏が言う「絶頂期」の川端康成、三島由紀夫、安部公房などの文学に育てられたのは、団塊の世代でした。
 作家たちが逝き、世代が去りつつある今、早くも「遺物」になり始めているとは……。

 ではどうすればよいか?

「他の国は一流芸術だけがあり、第二、第三はない。
 素人が参加できる第二芸術がこれほど豊かな国を知らない。
 格式ある家元から地域の集いまで、多種多様な組織が共存し、老若男女が研鑽(ケンサン)を積み合う。
 それが日本の美意識を支えている。」


 俳句も短歌も、踊りや太鼓も、私たちは身近なものとして生きていますが、氏の言う「円熟を重ねる高齢者は若い世代を感化する」ところまで行っているかどうかはわかりません。

「能、文楽、歌舞伎のファンは世界中で増え、茶道、華道、書道など、日本人の向上の源である『道』は、世界へ広がるだろう。
 それぞれの土地で翻訳、アレンジされ、21世紀の人類共通の喜びとなる日が、やがて来るのではないか。
 その時、本家日本の文化はどれほどの水準を維持しているか。
 楽観せず、見守りたい。」


 92才になった氏は、やがて、あの世からも「見守りたい」と願っておられるのではないでしょうか。
 私たちは、〈今すぐ役立てたい〉〈今すぐ儲けたい〉〈今すぐ能力アップしたい〉といった功利主義にとらわれているように思えます。
 子供たちの新鮮な驚きや疑問や意欲を上手に導き、ご先祖様から脈々と受け継いできた感性や感覚を目覚めさせることよりも大切な教育があるでしょうか?
 学生が深い懊悩や懐疑や探求心を抱き、世界や人間や自分の存在と対峙する貴重な人生の時間を、すぐに〈腕を上げる〉ため、あるいは〈就職しやすい肩書をつける〉ために用いさせ続けるならば、「本家日本の文化」は危ういかも知れません。
 お金を生まない「第二芸術」が不要なものとされ、庶民の生活から消えれば、危機はいっそう深まることでしょう。

○「立場なりに」を考える

 だいぶ横道にそれました。
 誰であれ、自分が社会的に何者として生かされているかを考えれば、〈何者でもない存在〉は気まま心が要請する幻想に過ぎないことに気づくことでしょう。
 今ここで生かされている自分なりのあるべき姿にも目覚めることでしょう。
 そこに表れる言葉や服装や仕種は必ず「形」を伴っています。
 この形こそが文化そのものです。
 万事、〈のっぺらぼう〉に流れやすい今月は、このあたりに気をつけながら、心豊かに過ごしたいものです。




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2015
01.24

死者と会う僧侶、死にゆく者の眼になる写真家

2015012400012.jpg
辺見庸著『私とマリオ・ジャコメッリ』よりお借りして加工しました。光を放射している老婆の向こうには老人たちがいます〉

 導師者と会わずして引導(インドウ)を渡すことはできない。
 ご葬儀における途中の作法は、まず、者とお会いするまでの準備であり、後半は、引導を渡し終わってのご供養である。

 初めに「おーん」と唱え四方からみ仏のご加護の光を受ける声明(ショウミョウ)において、無性に懺悔(サンゲ)の思いにかられる時がある。
 行者として一座をまっとうできるようお護りいただく護身法(ゴシンポウ)を行ってからやっているのになぜ、そうなるのか?
 やはり、結界(ケッカイ)と辟除(ビャクジョ)は真実であると思う。
 鎧兜(ヨロイカブト)をまとうように結界された行者の内部から、汚れたものが辟(サ)けられ除かれるのである。
 懺悔は、良心によるその認識過程にちがいない。

 重ねて降三世明王(ゴウザンゼミョウオウ)の結界を張ったりしているうちに、者の気配が正面に凝縮されてくる。
 戒律を授ける頃はもう、一方的ではあるが対話の態勢となっている。
 散杖(サンジョウ)を使って空中に阿字(アジ)を描く時、相手の位置が不明ではどうにもならない。

 そして、「かーっ」と引導を渡す。
 その直後から者の気配は急速に遠のく。
〝ああ、また、弟弟子を送った……〟
〝ああ、また、妹弟子を送った……〟
 自分より後から仏道へ入った人々を、自分より先に送のは容易ならざる仕事である。

 作家辺見庸氏は、マリオ・ジャコメッリの連作写真『が訪れて君の目に取って代わるだろう』について「にゆく者の側から撮られた風景」という一章を書いた。
 一人の老婆を中心とした写真に、氏は決定的なものを感じた。

「最初にこの映像を見たときから、私のなかに、ある途方もない想像がわいてくるのをおさえることができずにいる。
 すなわち、この映像はこれから死にゆく老婆の眼もしくは意識の側から撮られたのではないか、切れかかる意識のなかでうすれゆくまわりの光景を見ているのではないかという、ありうべからざる想像である」


 こうも吐露した。

「『死が訪れて君の目に取って代わるだろう』の前に長く立ちつくしていると、私はジャコメッリ作品の鑑賞者から、映像のなかの、死にゆく老人たちのひとりにいつしか転移してしまうのだ」

「表現をする人間、表現芸術をする者はだれもが、そのことに気づかなければならないだろう。
 虫を描こうが動物を描こうが、むこうも見ているぜということに」


 これが〈通じる〉という状態である。

 芸術家が生と死のあわいに立つのは、宗教者と同じである。
 芸術家はたぐいまれな感性をもって行い、宗教者は定められた修行に培われた法力(ホウリキ)よって行う。
 私たちは芸術作品によって人生の真実にうたれ、宗教行為を行ったり、l引導の場に参加したりして真実体験に震える。

 だから、「ご葬儀は要らない」という主張は「芸術は要らない」に通じている。
 そこでは何か大切なものが失われはしないだろうか?
 お金に換算されない何ものかが――。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
01.23

共時性の不思議とありがたさ ―意味ある偶然が意義ある人生を創る―

201501230001.jpg

〈冬日の松 皮剝げやすし 一人居む 吐天〉

 精神科医にして心理学者カール・グスタフ・ユングは、私たちが〈不思議な偶然〉と感じている現象に「共時性」という名前をつけました。

 そう呼ばれるには三つの条件があります。
 第一に、原因と結果が結びつかないこと。
 たとえば、かつて見た狸の親子を思い出しながら外へ出たところ、ちょうど二匹揃ってヤブから顔を出した。
 第二に、同時に起こった別々なできごとが深い心理的な意味を持っていると感じられること。
 たとえば、メロンを食べたいなと思っていたところに、久しく会っていない遠方の友人からメロンが届いた。
 第三に、心の世界とモノの世界がつながっていると感じられること。
 たとえば、片思いに悩みながら四国八十八か所を巡礼していたところ、相手にそっくりのお地蔵様が笑顔で路傍に立っておられ、告白の後押しをしていただいた。

 こんな、ありそうでなさそうなできごとが最近、続きました。

○石像が届いた話

 ちょっとした問題のある石像を、どうしようかとしばらく放置しておきました。
 昨年末、決心し、直していただくために彫刻家のA先生へお願いしました。
 いつ、進行具合をお訊ねしたらよいものか、時をはかり、〝今だ〟と思って電話を入れました。
 受話器を取った奥さんは開口一番「不思議ですねえ」。
 めったに外出しない先生が今年初めて明日、外出するので、完成した石像をその帰りに当山へ届けるため、ちょうど電話口に来たところだったそうです。
 翌日、恐縮ながらお届けいただいた石像は、まことに見事な出来上がりでした。

桑田佳祐の話

 桑田佳祐が苦衷にあるだろうと思い、ブログに書いた「ありがとう桑田佳祐」を関係者B氏の事務所にメールしました。
 間もなくB氏からメールが来ました。
 着信音で目覚める直前まで、ちょうど小生の夢を見ており、何だろうと思いながらメールを開いてびっくりしたと言うのです。
 氏がかつて大切にしていた桑田佳祐の恩を思い出し、励ますための作業をしていた頃、氏はなぜか、小生の夢を見ていたとは……。

胸騒ぎの話

 C氏の母親は、医師から覚悟してくださいと告げられながら、半年以上、頑張っていました。
 いつものとおり見舞い、帰宅した夜、どうしても晩酌をする気になれず素面(シラフ)で床に就きました。
 急な知らせが入ったのは、その夜中でした。
 C氏は言われます。
「もう何ヶ月も、誰が来たかわからず、話もできない状態でしたが、あの夜は、どこがどうというわけでもないのに〝今日のおふくろはいつもと違う〟と感じたのです」

 そう言えば、内藤吐天にこんな一句があります。
「向日葵咲く地球のどこか発火して」
 ヒマワリが勢いよく咲いたのを見て、俳人は地球のどこかで噴出する火のエネルギーを感じました。
 自然の火山でしょうか、それとも、人間による戦争でしょうか?
 私たちは、偶然、起こるできごとに何かを教えられ、何かを想像させられ、周囲の世界から〈意味〉を感じる時、世界もそして人生も〈意義〉を増すのではないでしょうか。
 共時性の豊かな日々でありたいものです。




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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





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2015
01.23

ジャスタウェイとジェンティルドンナ ―世界一と日本一―

2015012300002.jpg

〈三冠馬オルフェーブル(手前)を制したジェンティルドンナ

 1月20日、国際競馬統括機関連盟はロンドンで表彰式を行った。
 平成26年度世界一に選ばれたのは日本のジャスタウェイ、第二位が同じくエピファネイアだった。

 3月29日、ジャスタウェイは、ドバイ・メイダン競馬場で行われた「ドバイ・デューティーフリー」(4歳上・GⅠ・芝1800メートル・13頭・1着賞金300万米ドル)において、2着馬に6馬身以上の差をつけて優勝した。
 しかも従来のレコードを2秒以上更新するという信じられないタイムでの圧勝だった。
 11月30日、エピファネイアは、GⅠ優勝馬が実に12頭も揃った「第34回ジャパンカップ」(3歳以上・GⅠ・2400メートル) において、ジャスタウェイや海外から参戦した猛者たちに4馬身もの差をつけて優勝した。
 最後は楽に流す余裕さえ見せたスミヨン騎手は、「自分が乗せてもらった日本馬の中では、いちばん強い」と語っている。

 あのシンザン、ディープインパクト、オルフェーブルもなし得なかった世界一の評価は、現役を退いたジャスタウェイに最高の勲章となった。
 第2位も日本馬とは、世界一を悲願としてきた関係者各位の喜びようが想像される。

 さて、同年の日本における年度代表馬は、牝馬ジェンティルドンナだった。
 同馬は一年間で6戦2勝、3着以下も3回あるが、3月29日に「ドバイ・シーマクラシック」で優勝し、ドバイミーティングのGⅠに勝利した日本初の牝馬となった。
 そしてもう1勝は、12月28日、ジャスタウェイエピファネイアも参戦して行われた有馬記念である。

 ドバイは文字どおりの死闘だった。
 スタートして間もなく他馬に当てられ、直線ではすっかり前を塞がれ、これまでかと思われる状況に陥った。
 しかし、ほんのわずか右横に開いた空間へヒラリと超人的進路変更を行ったライアン・ムーア騎手の神業で再びエンジンがかかり、先行する2頭を差し切った。
 有馬記念も辛勝と言うしかなく、エピファネイアをどうにか交わし、追い込むゴールドシップやジャスタウェイといった歴戦の猛者たちを抑えた。
 この馬の根性にはこれまで幾度も兜を脱がされた。
 平成24年のジャパンカップでは前方に待機し、鋭く抜け出しにかかったオルフェーブルの直後から一瞬、前に出てそのまま首の上げ下げを競い、鼻差の勝利だった。
 平成25年のジャパンカップでも横一線から先頭に立ち、抜群の末脚で迫った若きデニムアンドルビーをまたしても鼻差、制した。
 華麗な逃げ足で影を踏ませないわけではないし、直線で圧倒的な鬼脚を発揮するわけでもない。
 とにかく他馬より首1つであろうと前へ出て、後から来る相手には決して抜かせず先頭でゴールするという根性と執念で牡馬たちを退ける見事な戦いぶりだった。
 人間が「女性の活躍!」と言挙げする騒ぎなど、どこ吹く風といった強さで、実力勝負の世界を戦い抜いた。

 ジャスタウェイの「世界一」はきっと、最も早く走る能力を持ったサラブレッドという称号なのだろう。
 それに対してジェンティルドンナの「年度代表馬」はきっと、最も勝負強いサラブレッドへの称号だったのだろう。
 何かのおりに「もはやこれまでか」と気力が萎えそうになったなら、ジェンティルドンナが懸命に走る姿を観ていただきたいと思う。
 昨年限りで引退した日本の競走馬2頭に心から敬意を表したい。
 エピファネイアには日本の頂点、世界の頂点へと駆け上がって欲しい。




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2015
01.22

ありがとう桑田佳祐 ―東北人は「宮城ライブ~明日へのマーチ!!」を忘れない― 

2015012200012.jpg

 最近、桑田佳祐が難しい立場におかれているという。
 しかし、東北人は、大震災から半年後に身をもって励ましてくれた彼のまごころを忘れてはいない。 
 平成23年9月15日、当山は「【現代の偉人伝】第134話 ─ありがとう!復活した桑田佳祐─」を書いた。
 全文を再掲し、ささやかな応援としたい。

 大震災からちょうど半年の9月11日、サザンオールスターズの桑田佳祐(五十五才)は、宮城セキスイハイムスーパーアリーナで「宮城ライブ明日へのマーチ!!」を開催した。
 午後2時46分、彼は大震災発生の時刻にリハーサルを中断し、会場の八千人も不動の姿勢になった。
 会場は遺体安置所だった場所であり、淡々と登場した彼は深々と低頭してからご当地ソング「青葉城恋歌」を唄い、「あれから半年。黙祷を捧げさせてもらいます」と直立した。
 黙祷に続いてドボルザークの「新世界より」が流れ、「復興への長い道のりをほんのわずかな時間ですが、心からステージを楽しんでほしい」という彼とスタッフからのメッセージが大型ビジョンに映し出された。

 去年の8月2日に食道ガンの手術を受け、紅白歌合戦で復活した彼は約3時間、27曲を唄いきった。
 途中、何度も感謝の言葉をはいた。
「辛いことがあったと思います。
 私自身もいろいろありましたが、みなさんの声援もあり帰ってこられました。
 私にとって再スタートの日にもなりました」
 そして、「復興と、子供たちの未来と、原発の収束を願い」と音頭をとり、一本締めを行った。
 アンコールのラスト曲は『希望の轍』だった。

夢を乗せて走る車道 明日への旅
通り過ぎる街の色 思い出の日々
恋心 なぜに切なく胸の奥に迫る
振り返る度に野薔薇のような Baby love

遠く遠く離れゆくエボシラインoh my love is you
舞い上る蜃気楼巡る巡る 忘られぬメロディライン
oh my, oh yeah, Gonna run for today oh,oh,......

風の詩よ 黄昏よ ためらいの道
波の音は今宵もブルー
愛しい君の名を誰かが呼ぶ
ため息の中にほのかなあこがれが寄りそう
愛されるために羽ばたくような Baby love

熱く熱くこみあげる涙にoh my love is you
たわむれの放射線揺れる揺れる 面影は哀しく
oh my, oh yeah, Be the one for tonight

情熱の重さは夜の凪 さまよう夏の日は陽炎

遠く遠く離れゆくエボシライン oh my love is you
舞い上がる蜃気楼 Di di di......
oh my,oh yeah Let me run for today

 会場が遺体安置所だった頃、見覚えのある顔を求めて通った方々の記憶にはまだ、死の世界のイメージが生々しく残っていることだろう。
 耐えきれなくなりかけた幾人もの方々が、当山を訪れて涙を流し、祈り、また現場へと向かった。
 死者を捜すために、捜す人を支えるために。
 そうした〈死が主人公〉だった場で、つかの間、人びとは熱狂し、〈生が主人公〉となった。
 空気を反転させることが許されたのは、ガンを克服し、被災者のために1年半ぶりの本格的なライブを決断した中年男桑田佳祐だったからだろう。

 唄った彼は、病気を克服したとはいえ明らかに人生の折り返し点を過ぎており、死の影を濃くしつつ今を歩んでいる。
 ネットに流れているライブ版『希望の轍』で汗をしたたらせながらシャウトする彼は、なぜか切なそうに見えた。

 思えば、青春時代に感じた切なさは、死を現実と感じるところに起こる切なさに通じているのではないか。
希望の轍』は、「明日への旅」と始まり、「蜃気楼」「黄昏」「陽炎」などの言葉を経て、「Let me run for today」と終わる。
 夏の終わり、今日の終わりに唄いながら、明日のためではなく今日のために走ろうとする。
 彼が登場するまで存在した音楽のジャンルを超え、新しい流れを発生させた歌は、思いがけなくも空(クウ)を孕んでいる。
 空は切なさとなって、圧倒的に乱舞する音たちを操っている。

 彼は唄うべき場で、唄うべくして、唄うべき歌を、希なる〈唄う資格者〉として唄ってくれた。
 死と生が交差するエネルギーで熱唱された歌は確かに、死者の魂へも生者の魂へも届いた。
 ありがとう!桑田佳祐


 東北人の小生は、桑田佳祐のまごころを決して忘れない。




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2015
01.21

よその家の仏壇で自分のご先祖様を拝める? ―仏壇はお堂―

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 戦前生まれのAさんは子供の頃、母親から何度も言い聞かされた。
「ご先祖様のお墓参りに行けない時は、どこでもいいから、ご近所さんの仏壇の前に座らせてもらって拝みなさい」
 両親と夫を失い、運転できないのでなかなかお墓参りはできないが、我が家の仏壇で拝めるのがありがたいと言う。

 初めて耳にした慣習だが、考えてみれば実に、理に叶った信仰をもたらす叡智が含まれている。

 仏壇は小さなおである。
 伝統的な仏壇は、四角い箱に入っていても、ご本尊様をお祀りする棚は須弥壇(シュミダン)であり、その上が屋根風になっていたりする。
 おに必須の香炉、仏華、灯明があり、水やお茶、ご供物が供えられる。
 お位牌はご本尊様より一段、下に安置する。

2015012100012.jpg

 おの中心はご本尊様である。
 ご本尊様は大日如来でも、お地蔵様でも、お釈迦様でもすべて、無限の仏界へ通じる扉を開いていてくださる。
 だから、仏壇の本質はドラえもんの〈どこでもドア〉に似ている。
 また、手を合わせる人の心を願う相手へと通じさせるという意味では、ご本尊様は〈万能アンテナ〉とも言えそうだ。
 そして大切なのは、おである以上、「これはウチの仏壇(実はお)」として守る人はいても、拝みたい人を拒めないことである。
 日本で最初の本格的仏教寺院は蘇我氏の氏寺(ウジデラ)として造られた飛鳥寺だが、門戸は開かれており、現在も、伝統仏教のお公器としての役割を果たしている。

 こうした仏壇とお堂の真実に立ち、冒頭の言い伝えが残された。
 だが、現在、そうした意識で仏壇を守るお宅は少なくなり、ご近所さんという言葉もまた、死語になりかけている。
 寺院がすべて、公器であるという意識で守られているかどうかも疑わしい。
 せめて真実を知り、心のどこかへ留め置き、誰かへ言い伝えもしておきたいものである。
 いつの日か、人口が減少し、戦争を経ずに〈競争と格差〉から〈持続と平等〉へと価値観を変えた穏やかな日本になった頃、すっかり減少した寺院と仏壇が、今よりももっと本来の役割を果たすかも知れない。
 



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2015
01.20

わたくしのうしろを殺す氷柱かな(柿本多映)

 昭和3年に生まれた柿本多映(カキモトタエ)氏の俳句です。

「わたくしのうしろを殺す氷柱かな」 


 去年の3月にもとり挙げた俳句ですが、この時期になると、どうしても思い出されます。

 私たちは、自分で見えない「」へ一種の怖れを感じています。
 そもそも、「」という文字は、足が小さいために遅れるというところから出発しており、不安を宿しています。
 それが、神様のお力でに迫る邪悪な者を祓っていただく祈りの意味も持つようになりました。
 ちなみに、「先」や「」には、足を清め、爪を剪って方を守っていただくという意味が含まれています。
 最初はこのように〈自分にとっての〉という空間を指しましたが、やがて「継者」などと、時間的な意味合いも持つようになりました。

 さて、氷柱へ落ちるので何ら問題はなさそうなのに、なぜ、ハッとさせるのでしょうか?
 それは、述の「後」が持つ意味から少々ずれた私たちの心理に関係しています。
 
 たとえば、「後ろめたい」と言う場合の空間と時間の感覚です。
 後にいる相手は自分から見えていないのに、相手からは知らぬ間に自分が見られている。
 自分の過去や、他者との関係で生じた心や行為などを隠しておきたいのに、それを知っている自分からは逃げられない。
 こうした「後」は何ともやっかいなものです。

 冒頭の一句は、このやっかいなものを、一瞬にして殺してしまいます。
 だからよかった、というわけには行きません。
 やっかいなものの、本当のやっかいさは、その存在が決して自分にとって「快」をもたらすものではないので、無になればありがたいようなものなのに、そうではないところにあります。
 後がカラリと真っ白になれば、その瞬間に、もきっと真っ白になってしまうことでしょう。
 過去が消えればきっと、未来も又、消えてしまうに違いありません。
 冒頭の「祈り」が「後」と「」とでセットになっているように、私たちは「後」を考える時には無意識のうちに「」があることを前提にしており、「過去」は「未来」を前提にしてのみ、成り立つ観念なのでしょう。

 こんなわけできっと、小生は「うしろを殺す」と言われて立ちすくんだのだろうと思われます。

 氷柱もまた、よく観ると不気味なものです。
 決して先が刃物のように鋭く尖ってはいませんが、遠目からは明らかに凶器です。
 雪国では実際に事故が起こっているそうです。
 寺院である当山の講堂には樋も雪止め金具もないので結構大きな氷柱ができる方角があり、以前は出入りに注意が必要でした。
 
 かつて、ブログ「不安に苛まれる方へ」にはこう書きました。
「氏は氷柱の鋭く容赦ない殺気に、自分はまだ殺されていないけれども、後はもうやられてしまっていると感じました。
 次は自分の番であり、逃れようもありません。」
 表現が「殺す」となっているので、実際はまだ、やられていないうちに詠んだのかも知れませんが、やられた瞬間を感じたのかも知れません。
 ならば、「次は自分の番」と感じても不安、あるいは、〈後〉がやられたならば〈前〉もまた揺らいだ、と感じても不安です。

 こうした繊細な感覚には参ってしまいますが、以下の句も挙げておきましょう。

「草が生え濡れはじめたる春の寺」 
「てふてふやほとけが山を降りてくる」


 ホッとして今回の稿を終わります。




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2015
01.19

「狸のお祭り」に大震災を想う ―東日本大震災被災の記(第160回)―

201501190001.jpg

 大正から昭和の前半にかけて活躍した仏文学者にして小説家の豊島与志雄(トヨシマヨシオ)の作品に『狸のお祭り』という児童文学がある。
 狸を撃とうとした猟師が狸に化かされるのだが、最後は大団円となる。
 以下、あらすじである。

 猟師次郎七と五郎八が八幡神社のまわりにある森へ入り、高い椋(ムク)の木の上で腹鼓(ハラヅツミ)を打っている狸を見つけて撃とうとしたが失敗した。
 悔しい二人は翌日もでかけたが、またもや失敗し、今度は、獲ったはずの椋鳥(ムクドリ)が家に帰ったら皆、椋の葉になっていた。
 二人に相談された長老は、一緒に森へ出かけ、椋の木へ声をかける。
「それ、木の葉が小鳥になった!」
「それ、狸が姿を現わした!」
「それ、狸が腹鼓をうちだした!」
「それ、狸が死んで落っこった!」
 長老は、狸は人の言うとおりになるという言い伝えを実行したのだ。
 そして、狸に問う。
「お前は人間を化かして不都合な奴だ。
 だが今度だけは助けてやってもいい。
 まあ、何でこの二人を化かしたか、その理由(ワケ)を言ってごらん。
 そのままでは人間の言葉が喋れないだろうから、人間に化けて言うがいい」
 お婆さんの姿になった狸は答える。
「どうも悪うございました。
 けれども、もとはこの人達の方がいけないのです。
 私が月にうかれて腹鼓をうってると、いきなり鉄砲でうとうとしましたから、つい化かす気になりました。
 でもあまりしつこく化かしたのはすみません。
 どうか助けて下さいませ」
 長老は指示する。
「お前がそう言うなら、この二人と仲直りをさしてやってもいい。
 けれども、それには何か手柄をしなければいけない。
 三日の間猶予をしてやるから、そのうちによいことをして私の家へ来なさい。
 そしたら、この二人と仲直りをさしてあげよう。
 もし約束を違えたら、村中の者で狸狩りをするから、よく覚えていなさい」

 その翌日から八幡様の周囲で不思議なことが起こった。
「今まで荒れ果てていたお宮の中が、綺麗に掃除されました。
 屋根は繕われ、柱や板敷は水で拭かれ、色々の道具は磨き上げられました。
 お宮のまわりの森も、草が抜かれ枯枝が折られ、立派な径(ミチ)まで出来て、公園のようになりました。
 朝と晩には、神殿の前にお燈明があげられました。
 しかも、誰がそれをしたのか更(サラ)にわかりませんでした。」

 三日目に長老を訪ねた立派なお婆さんへ言う。
「あなたは狸さんですね。
 約束を守ってほんとによいことをして下さいました。
 村のお宮が綺麗なのは何よりも気持ちのいいものです。
 これから長く、村の人達と親しくして下さい」
 そして、大団円となる。

「老人はすぐに、村中の者を集めました。
 そして狸のお婆さんを皆に紹介して、一部始終のことを話し、八幡様を綺麗にしたのもこの人だと言ってきかせました。
 村の人達は、始めはびっくりし、次には大喜びをして、やがてうちとけてしまいました。
 それからは、八幡様が村人の遊び場所となり、昼間皆がたんぼに出ますと、その間狸が子供達を守りしてくれました。もし狸に仇するような獣が来ますと、次郎七と五郎八とが鉄砲で打ち取りました。
 毎年一回、秋の月のいい晩に、村中の人が八幡様に集まりまして、酒宴(サカモリ)を開きました。
 それを『狸のお祭』と言いました。
 男も女も子供も、大勢の子狸や孫狸と一緒に踊り騒ぎました。
 御隠居がいろんな唄を歌いますと、それに合わして大きな狸が、腹鼓のちょうしを合わせました。
 ポンポコ、ポンポコ、ポコポコポン、
 ポンポコ、ポンポコ、ポコポコポン。」

 他愛のない童話と言ってしまえばそれまでだが、あくまでも人間中心でありながら、私たちが普段〈思う通り〉にはゆかない世界があることを示している。
 自然の奥深さと、そこに棲むものの力は侮れないし、私たちが見聞きする能力にも限りがある。
 それに気づき、人間が自然と真の意味で共生するには叡智が必要である。
 人間も生きものたちも輪になって生きる世界の象徴がお祭であり、その場は本来、神社である。
 お祭は年に幾度もないが、その日のために神社は守られ、人々も又、日々、神社に護られている。
 長老のさり気ない一言は、私たちが大切にすべきものを示した。
「村のお宮が綺麗なのは何よりも気持ちのいいものです」

 東日本大震災直後から津波に流された地域を訪れると、まず、倒れたり流されたりしていた小さなお地蔵様やお宮様がいち早く手をかけられ、やがてお祭が復活し、地域の復興が進むようになった。
 路傍に立つ小さなお地蔵様の首にかけられる紅い布が増えるのを見るたび、しゃがんでいる背後を次々に通り過ぎるトラックの風を感じながら涙し、感謝してきた。
 震災から2年半後となる平成25年11月、多賀城市にある東北歴史博物館において「神さまと仏さまの復興」と題する「東日本大震災復興祈念特別展」が開催された。

「歴史をふり返ると、いつの時代も、神さまや仏さまは地域コミュニティとともにあり、地域コミュニティは神さまや仏さまとともにあります。
 両者は決して引き離すことのできない関係といえます。」
「あの日、多くの像が失われたり傷ついたりしました。
 それが今、無数の善意や努力によって修復が進み、神さま仏さまが復興を迎えつつあります。
 これは、地域との関係から言い換えると、地域の復興への灯りが徐々にではありますが耀きを増してきたということができそうです。
 その灯りはまだほの暗く、地域によって明るさに違いがあるようにも感じられますが、地域が復興へと歩みを進める一つの『』としての意義が修復にあることを県民の皆さまが感じてくだされば幸いです。」


 阪神・淡路大震災から20年が経った。
 東日本大震災からはもうすぐ、4年となる。
 中国の凄まじい大気汚染を見るまでもなく、私たちは失って初めて、これまで普通に在ったかけがえのないものに気づく。
 大切にしてこなかったことに気づく。
 気づいてハッとしたなら、立ち止まろうではないか。
 私たちが真に忘れるべきでないのは、その瞬間につかんだ真実ではないか。
 私たちが本当に立ち直り、繰り返すべきでないものを繰り返さないためには、この真実をこそ、忘れないようにしたい。
 



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2015
01.18

相撲に武士道を見せた元小結・豊真将 ―【現代の偉人伝】第203話―

201501180001.jpg
〈「雑草ポエム」様よりお借りして加工しました〉

 1月16日、元小結・豊真将(ホウマショウ・33才)は、師匠の錣山(シコロヤマ)親方(元関脇・寺尾)同席で引退会見を行った。
 ケガや番付の不運などと真正面から戦ってきた漢(オトコ)がついに矛を収めた。

「懸命にリハビリ、稽古に頑張ってきたんですが、応援していただいたみなさんに申し訳ありませんが今場所限りで引退させていただきます」


 平成16年、日大相撲部を退部し、小柄ながら気っ風のよい相撲で人気を博した元関脇・寺尾の懐へ飛び込んだ豊真将は、ふり返る。

「新弟子検査の時に親方と、2人でこれから頑張っていこうと話したことを思い出します」


 そして、14連敗で迎えた千秋楽、ついに一勝を挙げた一番が、最も思い出深いと言う。

「あの時のお客さんの温かい声援が忘れられません。
 あの一番があったからがんばれました」


 親方は評した。

「横綱、大関といった強い力士にはなれませんでしたが、相撲道で一番、大切なに始まりに終わるを体現した数少ない力士だと思っております
 
「本人は復帰に向けて最後の最後まで頑張ってきましたが、願いかなわず引退となりました。
(右膝は)1、2年で治るけがではありませんでした。
 ただ、稽古場では常に体を動かすことをやめませんでした。
 わが弟子ながら尊敬しています」


 師弟は拍手に送られ、深くお辞儀をして両国国技館の会見場を去った。

 朝日新聞の抜井規泰記者が書いた文章(1月17日付)に目を奪われた。
 以下、一部を掲載しておきたい。

「この2年間、けがに泣き続けた。
 2年前には左肩の動きをつかさどる腱板(ケンバン)を断裂。
『俺たちの根性とプライドを見せてやろうじゃないか』と背中を押してくれた師匠の声を励みに、はい上がってきた。
 だが、もう一度、三役を狙える地位まで戻った矢先の大けがで、土俵人生を断ち切られた。
 引退会見の少し前、豊真将は私の手を握り、『あの記事を読みまして……』。
 豊真将が負傷した翌日、こんな記事を書いた。
全力士の手本と評される所作の美しさ。
 分け隔てない優しさ。
 古武士のようなド根性。

 豊真将の復活を願っている》
『根性を……絶対に……僕は……』。
 言葉が続かず、豊真将の目からぼろりぼろりと涙がこぼれた。
 豊真将の土俵が、好きだった」


 私の目からも涙が流れ、この記事で書かれた大けがの場面を思い出した。
「昨年名古屋場所の5日目。
 日馬富士に潰され、豊真将の右ひざが、あり得ない方向に曲がった」。

 ――そうだった。
 7月、真夏の場所からずっと、再起をかけて治療とリハビリに励んでいたのか。
  
 これまであまり関心を持たない力士だったが、ネットで平成23年11月14日付の日本経済新聞に載った記事を見つけた。
 幾度、読んでも、その度に心が新鮮かされる記事である。
 以下、全文を転載しておきたい。

○歴代4位の高齢昇進、故郷に凱旋

 3大関を総なめにするなど、4度目の東前頭筆頭で初の勝ち越しとなる10勝を挙げた。
「(三役の壁を)払拭しないといけないと思っていた。長かった」と実感を込める。
 山口県出身の豊真将にとって、九州場所(13日初日、福岡国際センター)は準ご当地。
 30歳6カ月と歴代4位(1958年以降初土俵)の高齢で悲願の三役(小結)昇進を決め、堂々の凱旋だ。

 4年前に昇進していても不思議ではなかった。
 2007年春場所では東前頭5枚目で11勝を挙げる活躍を見せたものの、東筆頭に留め置かれた。
 同年秋場所では上位総当たりの西前頭筆頭で8勝7敗と勝ち越したのに、またも東筆頭に「半枚」上がっただけ。
 いずれも三役に届く成績ながら、他の力士との兼ね合いで見送られた。
 豊真将は「勝負弱かった」と振り返るが、不運だけで片付けるのはあまりに気の毒だった。

○「もう上に行けないよ」 陰口も乗り越えて

 その後は左手の負傷や頸椎(ケイツイ)捻挫で休場するなど、けがにも苦しんだ。
 番付を駆け上がったころの勢いはすっかり影を潜め、年齢を重ねた。
「豊真将はもう上にいけないよ」。
 上位力士からそんな陰口も聞こえてきた。
 そこからはい上がっての三役昇進。
 守りから攻めの相撲へと変貌を遂げ、秋場所では敢闘精神あふれる相撲をファンが評価するマークシート調査で、稀勢の里に次ぐ幕内第2位の評価を得た。
 30歳は成長を続ける。

 幕内土俵入りで、豊真将はひときわ大きな声援を浴びる。
 支持される理由は、けれん味のない相撲内容はもちろん、「に始まり、に終わる」という大相撲のよき伝統文化が所作から伝わってくるためだろう。

 相手と呼吸を合わせる土俵の上がり方や、蹲踞(ソンキョ)の姿勢、顔の前でかしわ手を打つ塵浄水(チリチョウズ)や、懸賞を受け取る前に切る手刀など、所作といっても実に幅広い。
 豊真将はその一つ一つを丁寧に行う。

 相撲教習所で幾多の新弟子を指導してきた大山親方(元幕内大飛)は「教えた通りにやっていて、所作は全力士の中で一番いい。立ち居振る舞いが立派だ」と高く評価する。

 中でも心地よさを覚えるのが、取組後に深々と頭を下げてをする姿だ。
 感情をあらわにして、相手を敬う態度があまり見えない力士も目に付くだけに、潔さが際立つ。

○正々堂々とした所作は力士を大きく見せる

 大山親方は言う。
負けても不満ありげな顔で帰ることもなく、素直に受け止めている。
 武士道の精神でしょう。

 土俵の上では心技体が出ていないといけない」

 04年の入門時から師匠の錣山親方(元関脇寺尾)の教えを守る豊真将は「所作をきっちりやって正々堂々としていれば、相手に大きく見せられる」と話す。
 いかなる時でも心を内に秘めて深々と頭を下げるのは、簡単なようで実は難しいこと。
 苦労を重ねた人生。
 豊真将の真摯な姿勢が、土俵ににじみ出ている。



 大相撲はニュースでしか観られないが、〈武士道の精神〉が感じられる場面にはあまり、お目にかかれない。
 正々堂々の勝負、勝者と敗者が対等の、賞金をありがたく、しかしさり気なく手にする微妙な仕種や表情、引き上げる花道でのふるまい。
 番付の位置にかかわらず、いかがなものかと思うことがたまたま、ある。

 ネット上で「羽黒蛇」氏が鋭い指摘をしている。

立合い変化、張り手、かち上げ。
 この三つが『相撲の美』に反するのは、多くの相撲ファンが合意すると思う

 そこで氏は、二つの提案をしている。
「一つは、相撲の美に反する技を反則とする方法である」
「もう一つは、相撲の美に反する技を禁止しないで、美しい相撲を番付で優遇、変化・張り手・かち上げは勝っても番付に反映しない」
 そして例を挙げる。
「例えば、豊真将のように所作の美しい力士は、7勝8敗でも番付を下げない。
 張り手で勝ち越した力士は、8勝7敗でも番付を上げない」


 相撲はなぜ、国技であり続けられるか?
 それは、生存競争に勝たねば生き続けられない宿命にある生きものでありながら、〈美しく勝負を行い、結果を美しく受け容れる〉という人間にのみ許された可能性を、鍛え上げた心技体で目の当たりに見せてくれるからではなかろうか。
 勝利とは何ものかの奪取である。
 奪取する者がいれば、必ず奪取される者がいる。
 人間以外の倫理なき生きものにおいては過酷な結果しかなく、自分と全体を観る視点がなければ、真善美もない。
 私たちは戦場を「いくさば」と読み、武士を「もののふ」と読み、兵を「つわもの」と読む。
 松尾芭蕉は詠んだ。
「夏草や兵どもが夢の跡」
 こう読み、詠まずにおられない私たちの霊性は、たとえ生き死にをかけた場においても、人間には真善美が宿っていて欲しいと願う。

 豊真将は実に、人としての真(マコト)を尽くし切ったのではないか。
 実に、精進という善き道を見せてくれたのではないか。
 実に、所作とまごころによって勝負の場ならではの美しさを体現したのではないか。
 豊真将が相撲に武士道を映し出した最後の力士とならぬよう、祈ってやまない。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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2015
01.17

仏教を身近に感じてもらうにはどうすればよいか

201501170001.jpg

 経営者Aさんから人生相談があった。
「社員へ教的な素養をつけさせたいのですが、どうしたものでしょうか?」
 お答えした。
「そうですね。
 歴史や理論などについて聴いていただくよりも、みを身近に感じる経験をしていただいく方が役立つかも知れませんね。
 教に興味のある方々はすでに、お寺巡りや巡礼や文化講座など、熱心にやっておられますからね」

 こんな例を挙げた。
 当山で読経を勧められたBさんは、毎日、熱心にやっているうち、ふと、疑問が起こった。
 朝は、ご本尊様とご先祖様へ「今日も一日、しっかりやります。どうぞお見守りください」と願い、夜は、「今日も一日、おかげで無事に過ごせました」と感謝しているが、誰かから聞いた一言が妙に、気になり出した。
は供養せよ。には願え」
 ――様に願いをかけてはいけないんじゃなかったかな……。
 そして当山へご来山され、お答えした。

「ご本尊様としてお導きくださるみとは、まず、悟りを開いた方です。
 人間が生き、死ぬ上での根本的な智慧と、人間らしく生きるための慈悲をすっかり兼ね備えたのです。
 いわば人間の理想像なので、そうした方へ憧れ、目標とするならば、それはすなわち〈あのようにありたい〉という願いをかけていることに他なりません。
 私たちが至心にご本尊様の前に額づくならば、無意識のうちにもう、清らかな願いをかけているのです。
 その延長上で具体的で身近なさまざまな願いが生じます。
 四国八十八か所の霊場がすべて祈願寺であるのを見てもわかるとおり、み仏へ願いをかけるのはごく自然な心のはたらきというしかありません。

 次に、私たちより先に、み仏の世界へ還り御霊となった方々について考えてみましょう。
 やがて貴女が年老いてあの世へ行く時、どんな気持でいるか想像してみてください。
 この世にいる夫や子供や孫や友人などの幸せを願い、この世が平和であるよう願ってはいないでしょうか?
 そして、あの世に行ったならば、きっと、同じ気持でこの世の人々を見守り、見ていられない時は手助けをしたいと思うことでしょう。
 私にはそうしたイメージ以外のものは想像できません。
 ならば、私たちが御霊を想う時、お見守りください、お助けください、と願うのは当然ではないでしょうか?
 み仏は私たちの故郷であり、親です。
 時として、み仏となった御霊へ幼子のようにまっさらな心でおすがりするのは尊い姿です。
 そして、この姿は、社で様へ祈る姿と何ら変わりはありません。
 み仏へ願いをかけるのはごく自然な心のはたらきというしかないのです」

 また、こんな例も挙げた。
 Cさんは経典を読誦しているうちに、自分の心がどこにあるかわからなくなった。
 娘が受験合格するよう、娘の一代守本尊である千手観音様へ祈っていたのだが、願いと経文の内容が交錯したという。
 お答えした。

「順番をはっきりと意識すれば大丈夫です。
 まず、心にイメージする千手観音様のお像や梵字へ、娘さんの受験合格をしっかり祈ってください。
 そして、経文や真言を唱え始めたならば、一心不乱に経文や真言と一体になるのです。
 そうしている中で、合格を思うのは、今夜のおかずを何にしようかなと考えることと同じく〈余分な夾雑物〉でしかありません。
 貴女が唱えつつ千手観音様の世界へ近づけば近づくほど、入りこめば入りこむほど、貴女自身が清められ、願いはきっと、より届きやすくなっていることでしょう。
 お経を唱える際の『お次第』があるのは、このように、ものには順番があるからなのです。
 まじめにやっていると、必ず自分の姿、自分のやっていることが見えきます。
 そして疑問が湧いてきます。
 それは一段、深く学び、深く血肉にするチャンスです。
 どうぞ、これからもお励みください」
 
 こうした〈現場の真実〉に耳を傾けていただき、何かを感じとられた上での質疑応答や、あるいは参加者同士の討論などがあれば、きっと内容のある時間になることだろうとお話し申しあげた。
 Aさんは何度も頷かれたが、さて、どうなることか。




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2015
01.16

昨日が明日をつくる? ―パルソとカルとアージ、そして覚悟と心映え―

201501160001.jpg

 インドの公用語として広く用いられているヒンディ―語では、「明日」も「昨日」も同じく「カル」と言う。
 明後日も一昨日も「パルソ」、今日は「アージ」である。
 誰かが「カル」と言った瞬間、聞き手は、前後の話などから明日か昨日かを判断する。
 もしも、会話の最初に「カル」が出てくれば、明日と昨日とを同時に思い浮かべ、身がまえて次の言葉を待つのだろう。
 こうした文化圏では、過去と未来から切り離された、〈ただの現在〉という感覚はなかろう。
 現在は常に、〈過去と未来とに挟まれたもの〉として意識される。

 お釈迦様は生涯、「今、実践せよ」と説かれた。
 しかし、それは、巷間で言われる「今でしょ!」の「今」と似ているが、同じ「今」でも、膨らみが違う。
 決して「今さえよければ……」の「今」ではないし、「いつだって今さ」と単純に〈その時〉を指すのでもない。

 数々のエピソードに満ちた仏教説話を読むと、実践の機会を自ら手放す残念な場面が、そこかしこに出てくる。
 なぜ残念なのかは、善き行いを実践しないことが原因となって必ず善からぬ結果が出るにもかかわらず、因果応報をよく考えないがゆえに、運命を明るい方向へと動かすことができないからである。
 また、今の苦しみをもたらした原因が過去にあることをよく知らないがゆえに、苦しみから逃れる手段を見つけられない、あるいは手段を脇へ置くからである。

 タバコや酒や博打やゲームの依存症にはまって行く過程を見ればすぐにわかる。
 やめれば運命が転換するのに、やめられない。
 体調不良も、仕事や勉強の不調も、窮乏も、これまでの悪しき生活パターンがもたらしたものなのに、漫然と同じパターンを続けてしまう。
 実に私たちは、〈そのまま〉という惰性に弱い生きものなのだ。

 NHKの木曜時代劇「風の峠~銀漢の賦~」にも出て来た場面だが、葉室麟著『銀漢の賦』にはとても印象的な言葉がある。
 亡き夫の後を追うつもりの妻が、子供たちへ諭す。
「人にとって大切なのは覚悟と心映(バ)えなのです」

 私たちは、瞬間瞬間に思ったり、感じたり、考えたりはするものの、なかなか心を定められない。
 次々と眼や耳などへ届く外的刺激、あるいは、習慣となった心身の欲求に身を任せがちである。
 実に、「覚悟」という生き方の切り替えは難しい。
 また、自分の心からあふれ出しているもの(心延え)や、心というスクリーンに映し出されるだけでなく、時には他人のスクリーンにも顕れ、態度にも滲み出る心の内容(心映え)を観ることも容易ではない。
 それを放置したまま、他人や社会の景色にばかり肉体の目も心の目も奪われ、好き嫌いや損得でそれらと距離を定めつつ、日々を暮らす。
 実に、美しい「心映え」はつくられにくい。

 さて、「カル」と「アージ」に戻ろう。
 昨日があったのと同じく明日があり、その中間的なものとして現在がある。
 昨日のない明日はなく、明日のない昨日もない。
 こうした途切れない時間の流れは因果応報と共にある。
 流れの中に現れるのはすべて因であり果である。
 途切れない因と果は、生まれ変わり生き変わりする輪廻転生(リンネテンショウ)をもたらしている。
 お釈迦様が「今」の実践を説いて止まなかったのは、せっかく過去の因縁が熟して善き果をもたらすところまで来ているのに「覚悟」ができないと、それを未来に生かせないからである。
 お釈迦様が過去の因縁話を重ねられたのは、過去の「心映え」に学び、よき「心映え」をつくり、善き転生をへと向かわせたかったためであろう。

 まず、「今日」が「昨日」と切り離されたものではないことをよく観てみよう。
 そうすれば、あるべき「明日」が観えてくるのではなかろうか。
 藤原のりすけ著『人生ぬくもりノート』でも紹介されているが、聖徳太子はこう説かれた。
「あるいは一国に生まれ、あるいは一郡に住み、~、一樹のもとに宿り、一河の流れを汲み、~、一日の夫婦、一所の夫婦、~、一言の会釈、一坐の飲酒、~、皆これ先世(センゼ)の結縁(ケチエン)なり」
 今、今日、自分がこうしていられるのは、因と果の間で、無数の縁の糸が結ばれたからである。
 それを具体的に考えてみよう。
 明日への気持がきっと変わることだろう。
 感謝と共に、覚悟を持つ勇気、心映えにつながる矜恃(キョウジ)が動き出しはしないだろうか……。




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2015
01.15

表現の自由と宗教的信念の〈戦争〉を超えさせるものは何か? ―人類の叡智を思う―

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〈他を害さず、自他のためになり、己を清める祈り〉

 1月14日、仏週刊新聞「シャルリー・エブド」は、特別号にイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画「涙のムハンマド」を掲載した。
 フランスのバルス首相が宣言した「戦争」は、第2幕を開けようとしている。

 1月7日に発生したイスラム過激派によるテロ事件は、「フランスの9・11」と称されるほど衝撃的な事件だった。
 方や言論の自由、方や宗教上の信念、この二つが二者択一を迫られる事態となり、一方では西洋的自由に馴染まないイスラム教への排斥、一方では神聖な神を冒涜する者への攻撃と、互いに相手を許せない迷路へ入りつつあるように見える。
 自由の実現を価値観の筆頭として文化を紡いできたヨーロッパ文化圏の国々では、偏狭なナショナリズムの台頭に拍車をかける気配があり、イスラム教を絶対の真理とする文化圏の国々においては、より先鋭な宗教国家の樹立へと国家や国境を変える動きが強まり、国際的火種がばらまかれつつある。

 1月12日付の河北新報は、パリ政治大学院教授パスカル・ペリノー氏のコメントを報じた。
「フランス共和国の民主主義に不可欠な表現の自由を攻撃した初めてのテロだ。
 フランス革命や人権宣言以来、表現の自由、思想の自由は全ての自由の基盤であり、民主主義の契約に必要な要素。
 表現の自由は、政治権力と宗教権力を分離するという『政教分離』の意志と結び付く。
 民主主義は過去、ファシズムや共産主義という全体主義からの挑戦を受け、現在はイスラム過激派の挑戦に直面している。
 (民主主義の伝統がある)パリは、人権と自由の象徴。
 事件はフランス人にとっての9・11といえる」。

 フランス人のみならず、ヨーロッパの歴史が挑戦を受けていると感じる人々も少なくないことだろう。
 さて、言論の自由が西洋文化圏の人々にとって絶対的価値であり、またそれが実現される社会のために行動することが正義ならば、イスラム文化圏の人々にとっては、経典に示された神の意志にのみ絶対的価値があり、それに合わせて生きることが正義である。
 それがぶつかる場合、二つの正義のどちらかに軍配を上げる一段次元の高い存在は想定し得るだろうか?
 いずれもが<絶対>と信じて疑わない以上、軍配はあり得ない。
 それなら、巷間言われるように、対話が突破口になるのだろうか?

 仏教徒である小生は、<正義以前のもの>があると考える。
 それは「他者を傷つけない」という人間社会が存続して行く上での暗黙のルール、人間が人間として生きるために欠かせないベースとでも言うしかない万人共通のふるまい方である。
 サルの世界にも、メダカの世界にも、アリの世界にも必ずそうしたものがあるからこそ、それぞれの世界が成り立ち、存続している。
 サルがメダカのふるまいに走り、アリがサルのようにふるまうことはない。
 生きものそれぞれの世界におけるルールは〈おのづから〉存在に伴っており、誰かが決めたわけではなく、すべての生きものは、そうした目に見えぬルールに従って存在している。
 当然、人間という生きものにもそれがあって当然であり、おのづからなるものは、決して人間が多数決などで決められはしない。

 そもそも、人間社会のいかなるルールも、決められる際にエゴを離れることはできない。
 たとえば、平成4年、G10によって突然、決められたBIS(国際決済銀行)規制により、日本の金融機関は貸し出しの縮小に走らざるを得なくなり、経済が大打撃を受けた。
 また、平成10年の長野オリンピックで日本選手が抜群の成績を残した直後から、スキー板の使用にさまざまな国際ルールが設けられ始め、結果的に体力に劣る日本人選手を直撃した。
 いかに正義を標榜しようと、ルールづくりは必ずエゴが主導権を握り、結果的に強者が得をし、弱者が損をする。
 反対の結果は出ようがない。

 しかし、傷つけられたい人がいない以上、「他者を傷つけない」ふるまい方は否定し得ず、傷つけない行為によって得する人も損する人もおらず、エゴがしゃしゃり出る幕もない。
 人間が定めたルールではなく、法律的な罰則もないので、どの程度のふるまい方をするかは個々人の自由である。
 また、その程度は、社会の成熟度を示すバロメーターとも言える。
 なぜなら、互いに傷つけ合わない社会へ向かうことは、誰にも否定できない一つの理想的方向だからである。

 それならば、この問題の根本的解決法が一つ、見えて来はしないか。
 すなわち、表現の自由は、表現によって傷つけられる可能性のある人の気持を具体的に想定した上で慎重に行使され、宗教上の信念は周囲の人々を傷つけない範囲で表現し、行動に反映させればよい。
 当然と言うしかない方法だが、ここにある〈おのづからなるリミッター〉にはまぎれもなく人類共通の叡智がはたらいている。
 対話もさることながら、正義や理論を携えて相手との妥協点を見出す努力をするよりも先に、自分の心をふり返り、「傷つけたくない」という良心の声に耳を傾け、他者を傷つけない存在であろうとすることの方が、早く、確実に事態を沈静化させるのではなかろうか?

 ちなみに仏教徒の基本的な三つのふるまい方はこうである。
 まず、他を害さない。
 できれば他のためになる。
 そのために清らかな心をつくる。
 他を害しようとする、あるいは害しても恬淡としているなら、いかなる修行に励もうと仏教徒たる資格はない。

 しかし、この際、仏教という宗教を持ち出すまでもない。
 何を信じていようといまいと、とにかく、互いに傷つけられず安心な日常生活を送るため、自己中心的で他者を傷つけようとする心や、自分の言動が他者を傷つけることに鈍感な迂闊さを見つめようではないか。
 その大切さは、自分が害意を向けられたり、鈍感さのゆえに傷つけられたりする場面を想像してみれば、すぐにわかるはずだ。
 共に、傷つけない存在、害さない存在であるよう努力しようではないか。
 頑なな正義の蓋を外し、魂の内奥から発せられる良心の声に耳を傾けながら……。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
01.14

イスラム教徒も菩薩(ボサツ)になれる? ―『安心章』について―

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〈ユダヤ人をテロリストから救ったイスラム教徒ラッサナ・バシリー氏〉

 1月10日に開催した寺子屋のテキスト『安心章』の第八章「女人(ニョニン)成仏(ジョウブツ)」について、簡単に記しておきます。

 今回は、一部の経典によって女性が往生しにくいとされていた問題がテーマです。
 あまりにも当然ながら、お釈迦様にも女性の弟子がおり、お大師様も又、男女の分け隔てなく、ご縁に応じてお救いになられました。
 お釈迦様については、我が子を失って半狂乱になった母親キーサゴータミーが悟りを開いた話が有名であり、お大師様については、修行しても悟られずに苦しむ真井御前(マナイゴゼン)を救われた話が広く知られています。
 かつて、ブログ「仏法と男女の区別について」(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4087.html)に書いたとおりです。
 み仏は、生きとし生けるものを「一子のごとく」区別なく救われ、仏法は男女の別なく救う教えです。
 
 そもそも論としては、一切のものは根本的に平等な存在であることが挙げられます。
 経典は説きます。

「一切衆生の色身(シキシン…物質的な身体)は常に此れ毘盧遮那(ビルシャナ…大日如来)の智身(チシン…精神的な心)と判し、男女(ナンニョ)等しく菩提(ボダイ)の益(ヤク)を被(コウム)る」


(一切の人々の身体と心は常に、大日如来のすべてを平等に観る智慧の顕れであり、男性であると女性であるとを問わず、平等に悟りを得られるという救いの中にある)

 地・水・火・風・空・識の六大(ロクダイ)によって成立している根本のありようをみ仏の目から見れば、人は等しく仏性(ブッショウ)を有する存在であって、転迷開悟(テンメイカイゴ…迷いを転じて悟りを開く)する資格や資質において何ら差別はありません。

 お大師様は説かれました。

「もし、信修するあれば、男女を論ぜず皆其人なり」


(もしも、信じ修行する者があれば、男であろうと女であろうと、等しくみ仏の子である本姿が顕れる)

 興教大師様は説かれました。

「破戒の僧尼も必ず往生を得、造悪(ゾウオ)の男女(ナンニョ)も定めて極楽に生ず」


(戒律を破った僧侶や尼僧も心がけと努力次第では、必ず苦を脱し、悪行を犯した男女にもまた、極楽へ行ける可能性が必ずある)

 なぜ、「根本的に平等な存在」であるのかは、在るものを在りのままに観ればわかります。
 お大師様は、在りようを3つの面から明らかにされました。
 一つは、存在するものの〈構成要素〉です。
 もう一つは、存在するものの〈姿〉です。
 もう一つは、存在するものの〈はたらき〉です。

 構成要素は、前述のとおり、地・水・火・風・空・識の六大(ロクダイ)です。
 このうち、「地・水・火・風・空」は目に見える現象世界を構成し、「識」は精神世界を表しています。
 現象世界を徳という宗教眼で観たのが胎蔵界マンダラであり、精神世界を観たのが金剛界マンダラです。
 また、両方の徳、すなわち、考えられる限りのあらゆる徳を集めて供養するために作るのがお塔婆です。
 だから、お塔婆の表面には必ず「地・水・火・風・空」を示す梵字(ボンジ)の「ア・バ・ラ・カ・キャ」が書かれており、裏面には「識」を示す「バン」が書かれています。
 こうした世界へ通じる真言が大日如来の「オン ア ビ ラ ウン ケン バザラ ダト バン」なのです。

 姿は、4種類のマンダラで表されます。
 まず、全体は「大マンダラ」です。
 すべてが普遍的なものとして、あますところなく網羅されています。
 もう一つは、それぞれの特殊性を表した「三摩耶(サマヤ)マンダラ」です。
 私たちの個別的な願いや理想が、み仏の持ちものに象徴されています。
 もう一つは、価値や意味を表した「法マンダラ」です。
 それらは文字に象徴されています。
 もう一つは、活動や作用を表した「羯磨(カツマ)マンダラ」です。
 それらはポーズや手に結ぶ印などで象徴されています。

 はたらきは、身体の面と、言葉の面と、心の面に表れています。
 宇宙万物をお身体とするみ仏の三つは、私たち凡夫にとってうかがい知ることが困難です。
 お身体も秘密、お言葉も秘密、ご意志も秘密なので、それを三密(サンミツ)と言います。
 一方、私たちの三つは、それぞれに善悪こもごもの内容で、善き結果をもたらす影響力も、悪しき結果をもたらす影響力を秘めています。
 だから三業(サンゴウ)と言います。
 仏道修行は何のために行うかと言えば、凡夫の三業をみ仏の三密に合致させるために他なりません
 その境地が入我我入(ニュウガガニュウ)と言われるもので、正しい修行をしていると、ご本尊様が行者へ入りこみ、行者も又、ご本尊様へ入りこみます。
 これが即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。
 それはすなわち、〈構成要素〉と〈姿〉と〈はたらき〉において、み仏の世界が凡夫の世界となり、凡夫の世界がそのままみ仏の世界となることを意味します。

 こうした真理からすれば、男女の別や、国籍や人種の別、あるいは信仰や思想の別によって成仏できる人、できない人などと区別のできようはずがありません。
 迷いを転じて悟りを開く転迷開悟(テンメイカイゴ)は万人に可能なのです。
 1月7日にフランスで発生したイスラム過激派によるテロ事件は9日のユダヤ人向けスーパーに拡大しました。
 テロリストが侵入したことを知った店員イスラム教徒ラッサナ・バシリー氏(24才)は勇敢にも、客たちを地下の冷蔵庫へと誘導して救いました。
 氏はその時、まぎれもなく、身体と言葉と心のすべてが他のためにならんとする菩薩(ボサツ)であり、即身成仏しておられたに違いありません。
 この世の〈構成要素〉と〈姿〉と〈はたらき〉、そして、ともすると悪業(アクゴウ)をつくりがちな私たちはどう生きれば良いのか、よく考えてみたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
01.13

寺子屋『法楽館』のご案内 ―渡辺ひろし師の講話『宮城の先駆者の系譜~林子平ー横尾東作ー岩崎卓爾』について―

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〈地域の方々によって近くの神社へと運ばれる当山の門松〉

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〈小さなどんと祭〉

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〈守られてきた八幡様〉

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〈大切な役割を終えて帰るのは親子か夫婦か〉

 2月14日(土)午後1時30分から3時30分まで行う当山の寺子屋において、「宮城ビジョンの会」世話人渡辺ひろし師のご講話をお聴きします。
 題名は『宮城の先駆者の系譜~林子平横尾東作岩崎卓爾』です。
 これまで、「宮城偉人講座」を開催してこられた師はホームページにおいて信念を述べておられます。

「歴史の積み重ねがあって今があります。
 私達の郷土が輩出した偉人が、当時どの様な思いで生きてこられたのか。今を生きる私達に何を託したかったのか。
 史実に基づいてそれらを理解し、偉人の遺志を正しく受け取る努力をしたいと思っています。」


 師のプロフィールです。
○昭和51年生まれ仙台育ち
○仙台一高卒業(47回生・応援団副団長)
○早稲田大学法学部卒業
○防衛大学校大学院修了
○外資系コンサルティング会社・外資系保険会社・防衛省防衛大学校特別研究員を経て「歴史復興会議」代表
○総合危機管理士,防災士

 かつて、師の林子平に関する講義を聴いた川崎町議会議員的場かなめ先生は、ブログでこう述べておられます。
林子平松下村塾・吉田松陰が林子平の影響を大きく受けていたというお話は鳥肌が立ちました。
 また、渡辺さんの人柄がよく表れた素晴らしい講演でした!
『海国兵談』を説いた偉人林子平』を宮城県人として誇りに思います。」
 加美町で生まれ、幕末から明治を駆け抜けた横尾東作は桁外れの快男児で、「東洋のコロンブス」と呼ばれ、晩年は足尾銅山鉱毒事件の被害難民と共に南洋の島々を開拓を夢見ました。
 岩崎卓爾もまた、現在の価値観とはかけ離れた信念に生きた郷土の大先輩で、気象観測によって縁となった沖縄県八重山地方のありとあらゆるものをこよなく愛し、ついには「イワサキゼミ」など、昆虫の命名まで行うに至りました。

 平成26年2月、小生が初めて沖縄の戦場跡を訪ねたおりに、師は、カンテラのついたヘルメットをかぶって匍匐(ホフク)前進し、一瞬後に崩落しかねない洞窟を案内されました。
 師の「大丈夫であります!」との声を頼りにメンバーは真っ暗な洞窟を進み、ご遺骨、ご遺品にお会いしたい一心で足下を掘りました。
 まっすぐな実践家渡辺ひろし師のご講和に宿る言霊は、きっと、皆さんの心から温かで震える何かを流れ出させることでしょう。

・日 時:平成27年2月14日午後1時30分より3時30分まで
・場 所:法楽寺講堂
・参加費:千円(中学生以下五百円)
・送 迎:地下鉄泉中央駅そば「イズミティ21」前から無料送迎車が出ます、乗車希望の方は、必ず、13日午後5時までの間に電話やメールにてお申し込みください。




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2015
01.12

シジュウカラガンを呼んだ呉地正行師

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 宮城県化女沼に飛来するシジュウカラガンがついに千羽となった。
 新聞やテレビがこぞって報道した。
 「日本雁(ガン)を保護する会」の呉地正行会長からメールが来た。

「1983年以降、仙台市八木山動物公園と日本雁を保護する会は、シジュウカラガンの羽数回復事業に取り組んできました。
 近年やっと成果が上がるようになり、ここ数年羽数が増加し、今シーズンついに1000羽を超えました(12月22日 1070羽:宮城県化女沼、観察;池内俊雄)。
 1000という数は個体群を維持するのに最低限必要な目安となる数で、絶滅の危機から一歩遠ざかった事を意味します。
 そこで1月8日に、日本雁を保護する会と仙台市八木山動物公園が雁の里親友の会の協力も得て、シジュウカラガンの群れが観察された化女沼の湖畔で共同記者発表を行いました。」


 平成25年10月12日、当山は会長をお招きしてシンポジウム「ガンの渡りとふゆみずたんぼ」を行った。
 会長は「生きものの賑わいは、なぜ必要か」という一節において、白人との平和共存を願うアメリカインデイアンの酋長が発した『酋長シアトルからのメッセージ』を引用された。

「亡き祖母の声は、こう語った
 おまえが教わってきたことを、おまえの子らに教えなさい。
 大地はわたしたちの母であることを。
 大地にふりかかることはみな、大地の息子とむすめにも、ふりかかるのだということを。」

 
 今、地球上の生態系は、どんどん不安定な方向へと向かっている。

「建てることや所有することへのきりのない欲求のために、
 私たちは、かえって、持っているもののすべてを失いかねない。」


 会長は、万葉集においてホトトギスの次に多く題材とされたガンを呼び戻すことが、失われつつある生態系の回復につながると考え、東北大学を去って活動家になられた。
 生きる手段としてはこう考えたと述懐しておられる。
「塾の講師をすれば食べるのに困らない。」
 小生が托鉢時代、歩けばみ仏が生かしてくださると信じていたことを思い出した。
 著書『雁よ渡れ』の中で書かれた。

「大局から見れば日本のガンは滅亡への道を確実に進んでいるが、彼らが滅ぶのを一日でも引き延ばし、日本各地にガンを呼びもどすことは、現代の日本人に課せられた歴史的義務であろう。」


 そして、ロシアなどと協力してガンを保護する一方、ガンが渡ってこられるよう冬期間、田んぼに水を張っておく「ふゆみずたんぼ」を推進し、ついに結果を出した。
 以下、河北新報の記事である。

「化女沼は国内に飛来するシジュウカラガンのほとんどが羽を休める最大の越冬地。
 昨年12月22日に保護する会が行った調査で1070羽を数え、25日に1035羽、31日には1050羽と安定して1000羽を超えた。
 シジュウカラガンは35年ごろまで、仙台市近郊でも観察できた冬の渡り鳥。
 ところが、38~62年まで観察記録が途絶え、絶滅したと考えられた。
 繁殖地のアリューシャン列島や千島列島で毛皮目的のキツネの放し飼いが行われ、捕食されたのが原因とされる。
 63年にアリューシャン列島で再発見され、83年に八木山動物公園が米国から9羽を譲り受けて繁殖事業を開始。
 95年にロシア科学アカデミーと共同で千島列島北部のエカルマ島で放鳥を開始し、2010年までに551羽を自然界に戻した。
 05年度ごろから日本への飛来が目立つようになり、09年度は97羽、10年年度には161羽、11年年度には248羽が確認された。
 放鳥事業に携わってきた八木山動物公園の阿部敏計飼育展示課長は『苦労が報われた。失われた自然を元に戻すのがいかに大変かしみじみと感じた』と振り返る。
 保護する会の中心メンバー池内俊雄さんは『病人で言えば集中治療室を出た段階で、油断はできない。シジュウカラガンの餌場となる農地の保全も大切だ』と訴えている。」


 会長は、初めてお会いしたおりに教えてくださった。

農業者がガンと長い付き合いをして行けるような取り組みが必要である


 志波姫町の米「おすそわけ」は、不耕起、ふゆみずたんぼ、無農薬、無化学肥料、無施肥で作られる。
 会長は著書で紹介する。

「雁をはじめとした様々な田んぼの生きものの力で生み出された自然の恵みの『おすそわけ』を人間がいただこうという考えで作られたお米です。」


 当山の『法楽農園』もようやくこの冬、ふゆみずたんぼへと切り替えた。
 ふゆみずたんぼには、5668種類もの生きものたちが住むという。

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〈「ふゆみずたんぼ」となった『法楽農園』〉
 やがては、『法楽米』でおいしいお酒を造りたいという同志もいる。
 春が楽しみである。 

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〈ご寄進いただいた奇跡の酒『伊勢乃穂明』〉




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
01.11

御霊も生者も救われる真の供養とは ―回向(エコウ)はあの世への応援―

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 ご葬儀と百か日までのご供養を終え、行った法話です。
 
「ただ今、行った修法について、少々、ご報告をさせてください。

 まず、引導(インドウ)をお渡ししました。
 引導の引は『誘引(ユウイン)』の引です。
 導は『勧導(カンドウ)』の導です。
 み仏が極楽へと引き寄せ、勧めてお導きくださるお力へおすがりし、迷わずに、この世からあの世へと逝き切っていただくための修法です。

 そもそも、私たちは、この世に生まれ落ちて後、誰かのお導きなしにこの世を生きることはできません。
 親や親戚縁者、学校の先生、ご近所さん、先輩、上司、あるいはご縁となった各種の師、こうした方々のおかげで一生をまっとうに過ごせます。
 埼玉県川口市のアパートに住む祖父母を殺害し、現金などを奪った18才の少年に対して平成26年12月25日、懲役15年の実刑判決が下りました。
 信じがたいことですが、実の母親から命じられるままに強盗殺人を実行したのです。
 少年は居場所が特定できない居所不明児であり、自分で是非善悪の判断をして行動することが不可能な学習性無力感の状態にありました。
 少年が述懐した『自分のような存在をつくってはいけない』という言葉には、鉛のように重くのしかかってくるものを感じます。
 真の導き手がいなければ、私たちはまっとうに生きられません。
 こうした〈導き手の欠かせない存在〉である私たちが、この世からあの世へと居場所の次元を変える死に際して、自分の力だけで行くべき方向を定めることができましょうか?
 古来、人間はその不安に対して、祈るという方法を講じ、祈り方を工夫し、手順を練ってきました。
 祈りのリーダーは祈りに人生を捧げるプロであることが求められました。
 人種、国家、時代を問わず、文化の根底に死と祈りの問題があったことは否めません。

 現在の日本で行われている仏教の一派として、真言宗では引導の作法が伝えられており、亡くなった方へ引導を確かに渡せるよう修行が続けられ、導師は全身全霊をかけてその一瞬に臨みます。
 外科医が患部を切り取る瞬間にかけるのと何ら変わりありません。
 引導に際し、導師はこうした偈文(ゲモン…詩の形で説かれた教え)を逝く方へお伝えします。

『一切の行は無常なり
 生ずる者は必ず死することあり
 生ぜざれば死せず
 この滅を最楽となす』


 そもそもは、お釈迦様が、育ての親である叔母マカハジャハダイの火葬に際して説かれた教えであるとされています。

 次は、百か日までお導きくださるみ仏の法を結びました。
 それは、初七日のお不動様、二七日のお釈迦様、三七日の文殊様、四七日の普賢様、五七日のお地蔵様、六七日の弥勒(ミロク)様、四十九日のお薬師(ヤクシ)様、そして百か日の観音様です。
 三回忌の阿弥陀様が待っておられる極楽浄土へと確かに進んで行けるよう、祈りました。
 この供養には二つの面があります。
 一つは、お導きくださるみ仏のご加護です。
 もう一つは、皆さんがまごころで行う回向(エコウ)です。

 回向とは回し向けることですが、一体何を御霊へお渡しするのでしょうか?
 それは、功徳(クドク)です。
 功徳とは、因果応報の理によって善き行いの結果として善きことを引き起こす〈徳ある行為の影響力〉です。

 私たちがまっとうに生き抜くためには、三つの方法が欠かせません。
 一つは、しっかり、まっとうに生きようと揺るがぬ決心をすることです。
 もう一つは、そのためのよりよき方法を求め、実践することです。
 そしてもう一つ欠かせないのは、相手がこの世にいる人や生きものであれ、御霊であれ、誰かのために功徳をふり向けること、すなわち回向することです。
 なぜ回向が欠かせないかと言えば、自分のよりよき未来のために行う善き行為には、自己中心という根源的迷いが潜んでいるからです。
 いわゆる大乗仏教(ダイジョウブッキョウ)の要点はここにあります。
 それは、自分だけが乗れる小さな舟で迷いの岸から悟りの岸へ渡ろうとするのではなく、できるだけ多くの生きとし生けるものと共に、大きなでに乗って旅立とうとする仏教です。
 真言宗も曹洞宗も、現在の日本で実践されているほとんどの伝統仏教は、大乗仏教の流れの中で生じた宗派です。

 では、善き行為の実践方法とは何か?
 これから皆さんがご縁に応じて行う供養のすべてがそれに相当し、僧侶もまた、修行として同じ実践を続けています。
 まず、お線香を捧げるのは、お線香に象徴されるお精進を誓い、精進する姿をあの世から見て安心していただくためです。
 お花を捧げるのは、お花に象徴される忍耐を誓い、耐え忍んで人の道を踏み外さない姿をあの世から見て安心していただくためです。
 お水を捧げるのは、お水に象徴される布施を誓い、見返りを求めず、分け隔てなく誰かのためになる姿をあの世から見て安心していただくためです。
 お灯明を点すのは、お灯明に象徴される自己中心でないみ仏のお智慧をはたらかせ、困った人を見捨てない姿をあの世から見て安心していただくためです。
 食べ物を捧げるのは、食べ物として自分のいのちを差し出す生きとし生けるもののいのちに感謝する姿をあの世から見て安心していただくためです。
 そして、善き行為によって生まれる功徳を、御霊がより安心な世界へと溶け込んで行けるよう、祈りと共に回し向けるのです。

 こうした回向は本当に可能なのか、この世からあの世へ届くのかと、疑問に思う方もきっとおられることでしょう。
 どうぞ、応援を想像してください。
 スポーツであれ、受験であれ、選挙であれ、私たちは『頑張れ!頑張れ!』と誰かを応援します。
 それは、握手をしたり、御守を渡したりする直接的なものに限りません。
 何の縁もない選手が遙かな外国で試合に臨んでいる時、私たちが手に汗を握りながら、あるいは声を嗄らして応援するのはなぜでしょうか?
 心のどこかで〈思いが届き、力になる〉と信じているからに他なりません。
 つまり、応援は、時間や空間を超えて届く思いがあることを信じていればこそ行うのであり、回向もそれとまったく変わりはないのです。
 心の底から、『安心して欲しい』、『成仏して欲しい』と願うならば、目にした一輪の花に忍耐を誓い、『この淋しさ、切なさ、苦しみに負けずしっかり生きて行くから安心してお眠りください』と忍耐の功徳をもって応援すればよいのです。


 こうした宗教行為の大切さや奥深さは、回向によって私たちも又、救われることにあります。
 親や祖父母の死は、ものの順番という無意識の意識によって、ある程度受け入れやすいものです。
 一方、伴侶を失うのは自分の半身を引き裂かれるようなものであり、まして、我が子や孫を失えば、生き方がわからなくなったりもします。
 どうしたらよいかわかりません、という切ない言葉を幾度、耳にしたことか……。
 しかし、きっと、震える手でお線香を点し、涙に霞む目でお位牌の戒名を追いながら合掌することでしょう。
 その時に、み仏の教えを思い出してください。
 辛いけど、このお線香のように何とか精進して行くから、どうぞ安心しておくれ、と心で呟いてみてください。
 きっと、福寿草が咲けば、ああ、生きていれば一緒にこの花を見て、春が来るよ、と言葉を交わせたのにと思うことでしょう。
 その時に、み仏の教えを思い出してください。
 辛いけど、この花のように何とか耐えて立ち上がるから、どうぞ安心しておくれ、と心で呟いてみてください。
 その時、私たちは、先に逝った人が用意してくださった供養という尊い行為の実践によって、確かに救われているのです。
 生きる力を確かに回復させることができるのです。
 実に、供養は、互いに互いを救い合う尊い宗教行為であり、知らぬ間に私たちを損得や好き嫌いといった日常的に起こる煩悩(ボンノウ)から離れさせる根本的救いとなっているのです。

 どうぞ、このことをお心のどこかに留めておき、真の供養を行ってください。
 み仏のご加護がありますよう」




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2015
01.10

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─普段の救いと死ぬ時の救い─

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〈絶滅の危機を脱しつつあるシジュウカラガン(河北新報様よりお借りして加工しました)〉

 平成26年8月9日の「第五十四回寺子屋法楽館』」において「懺悔と救い」と題し、短いテキスト『安心章』についてお話ししましたが、今回は、12章に分かれた詳しいテキストについて、わかりやすいお話と自由な質疑応答などを行います。

・日   時:平成27年1月10日(土)午後1時30分より3時30分まで
・場   所:法楽寺講堂
・ご志納金:千円(中学生以下は五百円)
・送   迎:午後1時に地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ます。乗車希望の方は、必ず前日午後5時までに電話などにてお申し込みください。

 今回は『安心章』の第六章と第七章について、簡単に記しておきます。

6 加持(カジ)感応(カンノウ)

 前回まで、大日如来と阿弥陀如来のお救いについて述べましたが、次に、その道筋、道理について書かれている章を読んでみます。
 

「仏と同等に住することを得るは、これ偏(ヒトエ)に大日如来の加持力(カジリキ)による」


 私たちが、み仏の子である本来的な存在になって救われるのは、根本仏である大日如来が加持(カジ)してくださるからです。
 加持の「加」は「往来摂入(オウライショウニュウ)」と言い、み仏の光明が凡夫へと入りこんでくださることです。
 また「持」は「摂持不散(ショウジフサン)」と言い、信心する私たちがそれを受け取り、しっかりと保つことです。

 こうした一連の流れは三力(サンリキ)として説かれます。

「我が功徳力(クドクリキ)をもってのゆえに、如来の加持力(カジリキ)をもってのゆえに、及び法界力(ホウカイリキ)をもってのゆえに、速やかに不思議の業用(ゴウヨウ)を成就すべし」


 み仏に対する純粋な信心という自分の徳がなければ何も始まりません。
 そうした徳ある者は、み仏から発せられている加持のお力を感得できます。
 こうした因縁に加わってよき願いを成就させる決め手となるのが「法界力」です。
 それは地・水・火・風・空・識の6つが互いにつながり溶け合って醸し出す宇宙的エネルギーとも言うべき力です。
 つまり、精進すれば、み仏は見捨てず、周囲の不思議な縁も力となり、大願成就へと進めるのです。

 そうした状態になれば、「心」すなわち真実世界を目ざすまごころと、「虚空」すなわちあらゆるものを妨げず汚さない無限の場と、み仏の無限の智慧が一つになります。

「心と虚空(コクウ)と菩提(ボダイ)と無二なり」


 そして、ありありとみ仏のご加護を感じとる瞬間が来るのです。

 私たちが至心に真言を唱えれば、知らず知らずのうちに、み仏の慈悲心と感応し合い、ご守護を得て、無限の過去から積み重ねてきた罪業や悪行の汚れも自然に消滅します。
 無限の慈悲心に満ちたみ仏の世界が、本来の仏心を活性化させた自分の心へ、あたかも満月が澄んだ湖水へ映るように顕れます。
 これが、影から現れてくださるようなみ仏のご来臨(ライリン)です。

 また、死ぬ間際に真実世界を目ざすまごころそのものになれば、無明(ムミョウ)や煩悩(ボンノウ)から解放され切ったみ仏の広大でお慈悲に満ちた世界を感得し、お迎えに来てくださるみ仏のお姿を見ることさえあり得ます。
 これが来迎(ライゴウ)のみ仏とされるもので、昔は阿弥陀様がお迎えに来られる様子を書いた掛け軸などを枕元へ掛け、時には掛け軸や仏像から伸びた紐を握って臨終を迎えました。

「我等が念唱(ネンショウ)する一返の真言も知らず識(シ)らず諸仏の大悲(ダイヒ)と相応し、護持せられて、永劫(エイゴウ)の罪垢(ザイク)もおのづから消滅し、大悲(ダイヒ)法身(ホッシン)の影、自心本覚(ホンガク)の心水(シンスイ)に浮かぶを影向(ヨウゴウ)の仏と言い、臨終(リンジュウ)一念の浄心(ジョウシン)に無尽(ムジン)の境界(キョウガイ)を感見(カンケン)するを来迎(ライゴウ)の仏と言う」


 仏教経典に書かれている話から、古来、とても稀なできごとは「盲亀(モウキ)の浮木(フボク)」と言われてきました。
 大海の底に住んで百年に一度だけ海面へ姿を見せる亀が、たまたま、浮かんでいた木片に開いていた穴へ頭を突っこむというできごとは、想像を絶するほどゼロに等しい確率でしか生じません。
 私たちが万物の霊長としてこの世へ生を承け、こうした教えに巡り会うのは、盲亀の浮木に等しいほど稀なできごとであるのかも知れません。
 だから、この機会を逸することなく、学び、考え、精進したいものです。

7 最後用心

 私たちは必ず死を迎えます。
 のほほんと暮らし、いざ、〈その時〉が来てから慌てても、何もかもが間に合いません。
 自分の過去を常に省み、善悪もろもろの業(ゴウ…行いにふさわしい結果を必ず生じる影響力)がいかなる未来をこの世で、そしてあの世で、あるいは来世でもたらされるか、よく考えてみる時間を持ちたいものです。
 因果応報(インガオウホウ)の道理は、この世とあの世とを問いません。
 因果応報のはたらきからは誰も、何一つ、逃れられず、この世でやったことが、あの世へ影響を及ぼさないはずはなく、私たちが特定の存在としてこの世に生まれた原因は過去世にしかないのです。

 私たちは因と果の糸をすべて見通す能力を持っていないがゆえに、平気で悪行(アクギョウ)に走ります。
 この愚かさや未熟さや限界をよく見つめる人は必ず、謙虚で、精進する人になります。
 1月8日付の朝日新聞は、京大iPS細胞研究所長山中伸弥氏の「開発止まった薬を『』させたい」を掲載しました。
 目の難病でiPS細胞を用いた治療を成功させ、再生医療元年とまで称された技術について、氏は慎重です。
 

「体内の細胞でも、遺伝子の配列は徐々に変わっていくことがわかってきている。
 その中で(安全かどうか)判断を求められる。
 どこまでが許され、どこからがダメか、まだ誰も答を知らない。」

「ゲノム(全遺伝情報)のデータから腫瘍(シュヨウ)の危険性を予測するのは、まだ誰も答を知らない現在進行形の科学。」


 そして、全く違う病気の薬が難病に効く可能性をiPS細胞で見出していることについても舞い上がりません。

「薬はゼロから出発すると莫大な費用と時間がかかる。
 これを契機に。既存の薬に加え、安全性に問題はなかったが効果があまりなくて開発が止まった薬を試していきたい。」


 小保方晴子氏の問題についても、まったくぶれません。

「科学に対する信頼が、かなり失われているかもしれない。
 そういうものを払拭していくには、ちゃんといい成果を出すことしかない
 時間はかかるが、着実にがんばりたい。」


 自分の愚かさや未熟さや限界を見つめれば、〈その時のこと〉や〈後のこと〉を考えないではいられません。

「生者必滅(ショウジャヒツメツ…生まれた者には必ず死が訪れる)は娑婆の理、会者定離(エシャジョウリ…会った者とは必ず別れる時が来る)は人生の常なれば、明日をも知れぬこの命ゆえ、深く後生(ゴショウ)の大事を心にかけざるべからず」


 さて、死を迎えた自分がどのような状態になるかは、誰にもわかりません。
 常に何も考えないで暮らしている人はもちろん、自分は心構えができていると思っている人でも、いざ、〈その場〉になれば惑乱の暴風に翻弄されるかも知れません。

「最後臨終(リンジュウ)の時分は断末魔(ダンマツマ)の苦あれば、心身共に乱れて念誦(ネンジュ)相続意(イ)のごとくならざるものなり。」


 乱れの中で、光明真言も、大日如来の真言も唱えられないかも知れません。
 ではどうすればよいか?
 答は密教瞑想の阿字観(アジカン)にあります。

「阿字(アジ)の如来は法爾(ホウニ)これを摂取(ショウジュ)して洩らすことなければ、我等はただ、この阿字を観すべきなり。」


 阿字で表される大日如来は、常にこの世のあるがままで真実世界を表しておられ、一人ももらさずお救いくださるので、私たちはとにもかくにも「阿」を心に思い浮かべれば、必ず安心世界へ入られます。
 そもそも、私たちが生きているのは呼吸をしているからであり、吐く息にも吸う息にも、大日如来たる宇宙生命のいのち、無限の過去から未来へとつながるいのちが宿っています。
 無始無終の真実世界を表す阿の文字を思い浮かべ、最後に吐き出す息へも阿の文字を託せば、その息は真実世界へ溶け込み、大空にかかる満月のように光り輝きます。
 だから、私たちは平生(ヘイゼイ)から呼吸に阿字が伴っていることを感得しておきたいものです。
 その稽古、修行が「阿息観(アソクカン)」であり、「阿字観」です。
 こうして、阿字観の瞑想は、普段の心に安心とおさまりをもたらすだけでなく、臨終の時にも又、大いなる救いをもたらすことでしょう

 なお、ダライ・ラマ法王は、輪廻転生(リンネテンショウ)の原因として、より大きな影響力を持つのは、より死に近い瞬間における心の状態であると説かれており、その意味でも最後に自分の呼吸を阿字と一体にすることは重大な意味を持つものと想われます
 興教大師もまた、説かれました。

「一切の生きとし生けるものを救うため、至心に発願し、功徳(クドク)による救いを深く信じて回向(エコウ…回し向ける)せよ。
 臨終の者へは、何としても極楽往生を遂げさせるため、あらゆる善根(ゼンコン…善き結果をもたらす影響力)をもって回向せよ」


 引導(インドウ)を渡し善根を回向するご葬儀の意義は、実に大なるものがあります
 臨終に間に合わなかったご家族がようやく駆けつけた枕元で光明真言の法を結んだ瞬間、死者が大きく息を吐く音が聞こえ、一同、驚き、ありがたさに涙したことがあります。
 自らいのちを断った方のために阿字をお授けした瞬間、お骨の周辺から射した後光に、皆さん思わず合掌されたこともあります。
 ご葬儀は決して単なる儀式でなく、当然、行っても行わなくても同じであるはずはありません。
 福祉葬、骨葬、家族葬、密葬など、いずれの形であろうと、戒名を受けようと受けまいと、当山では必ず、等しく引導を渡します
 まごころを込めて逝く人を送る宗教行為とはいかなるものか、よく考えてみたいものです。




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2015
01.09

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─安心はどこから来るか(3)─

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 次に、第三章について、簡単に記しておきます。

3 大日悲願

 根本仏である大日如来は、無限の過去から未来までずっと絶え間なく悟りの世界そのものを説いておられ、生きとし生けるものをお救いくださっています。
 『大日経』にはこう説かれています。

「無量衆生(シュジョウ)のために種々の趣(シュ)、種々の性欲(ショウヨク)に随いて、方便道(ホウベンドウ)をもって、各々(カクカク)に彼(カ)の言音(ゴンノン)に同じて、種々の威儀(イギ)に住(ジュウ)し、一切智々(イッサイチチ)を宣説(センゼツ)す」


 大日如来は、はかり知れぬほど多様で多数の生きとし生けるもののために、それらがそれぞれに住む世界、それぞれの性根や欲望に添った最適の方法をもって、それぞれが意味も形も理解できる姿となり、必要な智慧をお授けくださっています。

「教主如来の大悲(ダイヒ)深重(じんジュウ)にして上根(ジョウコン)上智(ジョウチ)にかたよらず下根(ゲコン)下劣の輩(ヤカラ)までも洩らすことなく摂取(セッシュ)して斉(ヒト)しく華台(カダイ)の楽を与えんとの普門(フモン)広大の御誓願なり。」


 大日如来の計り知れないお慈悲は限りなく深く、重く、徳の高い者だけでなく、性根のよろしからぬ者までも誰一人救い洩らすことなく斉しく極楽の安楽をあたえようとの偏らぬ広いご誓願となっています。
 なお、興教大師は、上根とは、み仏の世界を求める者、上智とは悟りを求める者であるとしておられます。
 また、苦界に喘ぐ者が悟りを求めて人間修行する向上の道は「上転門(ジョウテンモン)」、悟りを開いた者が慈悲心を発揮し、苦しむ者を救うために下りてこられる救済の道は「下転門(ゲテンモン)」といいます。

 私たちはなかなか自己中心的態度を離れられず、すべてが因と縁によってかりそめに存在し無常であるという空(クウ)の理に立ってものごとを観たり、考えたりすることもできません。
 だから、我(ガ)にとらわれない時間を持ちたいものです。
 大日如来真言「あびらうんけん」を至心に唱えるのは、その貴重な時間を過ごすことであり、大日如来の説法を心の耳で聴ける機会にもなります。

「もし一返を誦すれば、蔵経一千返を転ずるごとし」


 もし「あ び ら うん けん」の5文字を心から唱えれば、必ずや大日如来の光明がふりそそぎ、無限の経典類を読み、念ずる功徳と同じだけのご加護があるとされています。
 この真言法身仏(ホッシンブツ)という宇宙そのものをお身体としているみ仏を拝むものであり、よく耳にする「南無阿弥陀仏」や「南無地蔵菩薩」や「南無大日如来」とは異なります。
 私たちもみ仏の一部なので、身体としてのおはたらきを感得しても、言葉としての教えを聴いても、意をこらす観想でイメージしても、すべてが念仏となります。

「我等、今、かかる殊勝(シュショウ)の悲願に遇(ア)えるは、宿福の感ずるところと深く歓喜して、もろもろの執着を離れ篤く帰命信心をこらし、勉めて決定往生の善根を増長すべし」


 私たちがこうしたみ仏による無上の願いに会うのは、福をもたらすすばらしい因縁によるものと深く喜び、つまらぬ執着心を離れて篤く修行に没頭し、必ずや安心世界へ入れるよう、善き影響力のある行動にいそしみたいものです。
 一人たりともも、一匹たりとも、漏らさず救わずはいられないという大いなるお慈悲と、必ず救おうという大いなる悲願に発する教えを聴けるのは、み仏の子であるがゆえです。
 このありがたさを実感できれば、すでに救われていると言えるでしょう。




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2015
01.09

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─安心はどこから来るか(2)─

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 次に、第二章について、簡単に記しておきます。

2 深信(ジンシン)決定(ケツジョウ)

 私たちは、生き死にを繰り返して来た無限の過去からずっと、貪り、怒り、真理に反する考え方から離れられず、悪しき業(ゴウ)を積んできましたが、いつもみ仏がご加護くださり、内なる仏心もあるので、まっとうに生きることを心の底から願うならば、おのづから苦を脱する時がやってきます。
 また、生き直すという不退転の覚悟を固めれば、すでに、み仏の救いの中にあると言えます。
 本当に自分がみ仏の子であると信じられれば、もう、極楽にいるようなものである反面、その心境がなければ、死を迎えて極楽往生を願っても難しいと言えましょう。
 大切なのは、普段の生き方をみ仏のお心に合わせることなのです。

「外には如来の加被(カヒ)あり、家には仏性(ブッショウ)の浄薫(ジョウクン)あり。
 この内外両薫の不思議力により、一旦、翻然(ホンゼン)覚悟して菩提心(ボダイシン)を諦信(タイシン)すれば、涅槃(ネハン)の安楽おのづから至るものにて、これを一念の往生(オウジョウ)と唱え、また、初発心(ショホッシン)の時に正覚(ショウガク)を成(ジョウ)ずとも言う」


 私たちはいつも、み仏の光明に照らされており、心の内には清浄な霊性のはたらきがあります。
 そうした力が動き、悟りに憧れ、悟りを求め、信じて精進すれば、心身爽快で、角張らず揺るがない円満な心になります。
 苦から離れ、他のためになりたいと心を定めれば、それは則ち、み仏の心になり、み仏の世界へ入ることでもあります。
 往生の内容は、「至心発願心(シシンホツガンシン…揺るぎない決心をする)」、「深信決定心(ジンシンケツジョウシン…深く信じ揺るがない)」「回向心(エコウシン…得た功徳を他のために回し向ける)」とされています。
 そもそも往生とは、死んでから極楽へ行くことではなく、この世で安心世界へ向かう決心をすることであり、決心が不動であれば、すでにその時点で極楽の住人になっていると言えます。
 こうした「平生往生(ヘイゼイオウジョウ)の人」になれれば、あの世へ行く際にいかなる不安がありましょうか?




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2015
01.09

ケイタイデンワで みんな 虫になっていく ―携帯電話・虫・幽霊・言霊―

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 平成17年に発行された水無田気流(ミナシタ キリウ)氏の詩集『音速平和』を読んだ。
 巻頭の作品『電球体』にいきなり、ノックアウトされた。

「~

 今日もケイタイデンワで
 みんな
 虫になっていく
 虫になってみる
 虫の思想の羽音が
 青い闇の沸点を突き抜け

 『言葉が電磁波ともにフルエルノダ』

 ~」


 ここで言う「虫の思想」とは、言霊を失った自己完結的な〈つぶやき〉のことではないか。
 そそかしくケイタイデンワに文字を打ち込んでみると、それは目に見えぬ膨大な情報の闇へ吸い込まれる。
 相手へ届くはずの電磁波とはなったものの、受け取られるか、それとも受け取られないか、自分の手を離れて二者択一のデジタル世界へ投げ込まれた孤独な言葉は、自らの生と死に何らの決定権も持たず、ただ、震えているしかない。

 東日本大震災の被災地でジャーナリスト奥野修司氏が行っている〈幽霊の取材〉を思い出した。
 1月4日付の河北新報上で氏は言う。

「岡部病院(宮城県名取市)の看取り医療の取材で『お迎え』の重要性に気づいた。
 いまわの際に、亡くなった両親や親類を見る人は死に方が穏やか。
 その延長線で霊を見た人が被災地に多いと聞いた。
『うちの患者は2割くらい見ている』と言う医師もいた。
 もう特殊な現象ではないと感じた。」


 決して「いまわの際」だけの問題ではない。
 お年寄りが、「死んだ妻が時々現れるようになりました。すぐ来いとは言いませんが、もうすぐ逝くことが怖くはありません」などと言う。
 会うことによって、あるいは語りかけられることによって、今を穏やかに生きられ、死を迎える気持にも惑乱がなくなる。
 奥さんを亡くし、独り暮らしをするAさんは、妻に語りかけられもするが、無言で教えられる場合もある。
 ある時、節変わりを迎えるので箪笥を開け、ゴソゴソやっていたら、誰かがドンドンと箪笥を叩く。
 また、妻か、と思った瞬間、時分がトンチンカンなことをやっているのに気づき、「お前がいないとこうなんだよな」と苦笑しながら作業をやめたという。

幽霊がいるかいないかを議論すると泥沼に入る。
 その人が見たという事実だけを素直に受け止めようと考えた。
 犠牲者と残された人の物語を、幽霊を軸に書きたい。」


 震災後たくさんの方々が霊的現象に悩み、ご来山された。
 幽霊を見たと怯える幼児たちへ大丈夫よと声をかけながら、本当は自分も見た恐ろしさに耐えられなかった保母さん。
 寺務所の奧に佇む幽霊の気配を所員皆が感じ、ご供養を申し出られた現場の所長。
 津波に母親が呑み込まれる瞬間のリアルなイメージから立ち直れない娘さん。
 ある橋へ車を乗り入れるたびにハンドルを取られる運転手さん。
 氏が言うとおり、皆さんが経験された「事実だけ」が真実なのだ。
 他者がとやこう言っても何ら救いにはならない。

「例えば、最愛の夫を亡くした妻の話。
 自暴自棄に陥り、死にたいと思う毎日。
 車で自損の重傷事故を起こしたりもした。
 ある時、夫の霊に会う。
 見守られている感覚が芽生え、お父ちゃんと一緒に生きようと思い直した。
 私はとても感動した。
 他にも犠牲者の霊の存在を感じ、生きる勇気をもらう話が多かった。」


 霊性を持ったあの世の存在を感得することは自然であり、その真実とどう向き合うかが、その後の生き方を動かす。
 もちろん、死に方をも動かす。

 幽霊との交感を行う人はきっと誰一人、〈虫〉になってはいない。
 言葉が介在しようとしまいと、言霊(コトダマ)が確かに行き来しているからだ。
 言霊は、この世の人々同士の間でも通じ、あの世とも通じ合う。
 言霊が伴う言葉には、孤独な「フルエ」がない。
 だからといって、ケイタイデンワを全否定する必要はないし、できもしない。
 ただ、すがる自分が〈虫〉の言葉しか知らなくなっていないかどうか、たまに、ふり返る必要はあるだろう。
 また、言葉に言霊を込め、霊性同士が交感できる言霊を用い、「青い闇」へ霧消しない言葉をきちんとキャッチできているかどうかも、考えてみる必要はあるだろう。
 
 平成18年、『音速平和』が第11回中原中也賞に耀いたことがとてもよく納得できた。




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2015
01.08

第五十九回寺子屋『法楽館』 ─阿弥陀如来と光明真言のお救い─

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 平成26年8月9日の「第五十四回寺子屋法楽館』」において「懺悔と救い」と題し、短いテキスト『安心章』についてお話ししましたが、今回は、12章に分かれた詳しいテキストについて、わかりやすいお話と自由な質疑応答などを行います。

・日   時:平成27年1月10日(土)午後1時30分より3時30分まで
・場   所:法楽寺講堂
・ご志納金:千円(中学生以下は五百円)
・送   迎:午後1時に地下鉄泉中央駅そばの「イズミティ21」前から送迎車が出ます。乗車希望の方は、必ず前日午後5時までに電話などにてお申し込みください。

 今回は『安心章』の第四章から第五章まで、簡単に記しておきます。

4 弥陀(ミダ)本誓(ホンゼイ)

 阿弥陀如来は、根本仏大日如来のおはたらきの一部を受け持たれ、この世で祈る私たちをお救いくださるのみでなく、死者を極楽浄土へお導きくださる主尊でもあります。
 大日如来を中心とし総体とする四仏のうち、西方におられ、私たちがそれぞれ異なる唯一の生を生きているさまをご覧になられます。
 無料寿如来(ムリョウジュヌオライ)とも呼ばれるのは、無始無終、永遠に説法しておられるからであり、誰でも、どこでも、身口意(シンクイ)を一つにして祈るならば、その時、その場で救われます。
 智の世界を示す金剛界のマンダラにおける阿弥陀如来は、存在するものの違いを見分ける徳を司り、理の世界を示す胎蔵界のマンダラにおける阿弥陀如来は、悟りを証する徳を司ります。

 阿弥陀如来を念ずる道は3つあります。
 一つは、応身(オウジン)の念仏といい、安心などを求めるこの世における私たちそのものの立場で祈ること。
 もう一つは報身(ホウジン)の念仏といい、悟りを開いて極楽浄土の主となられたことを信じて、その世界を目ざし、祈ること。
 もう一つは法身(ホッシン)の念仏といい、阿弥陀如来そのものを表す真言と一体になり、ただちに浄土の住人となること。

 阿弥陀如来の説法は自由自在です。
 まず、言葉の意味を知り尽くしておられます。
 また、仏界の教えを知り尽くしておられます。
 また、いかなる種類の言語も知り尽くしておられます。
 そして、願いに応じた救いとして最も適切な言葉を選べます。

 阿弥陀如来はいつも私たちの無明(ムミョウ)、煩悩(ボンノウ)を打ち砕く言葉をもって説法しておられるので、私たちが至心にその真言を唱えれば、必ずや智慧と慈悲の光明が心に射してくることでしょう。
 大切なのは、死んでから浄土へ行くことではありません。
 今ここで自分が浄土の住人であることを感得できれば、最も確実に救われます。

 経典は説きます。

「真言を誦(ジュ)すれば、則ち、如来の語と相応(ソウオウ)す」


 信じて祈る私たちの言葉は、そのままに、み仏の救いに満ちた言葉なのです。

 こうした阿弥陀如来であり、三回忌には極楽浄土へと直接、招き入れるみ仏なので、宗派を問わず、死者の成仏を願い祈られています。
 もちろん、いかなる宗教宗派を信じていようと、信じていまいと、まごころですがる人をお救いになられないはずはありません。
 だから、当山では相手様を選ばず、三回忌のご供養を求められる方々のため、至心に阿弥陀様の修法を行っています。
 また、よき人生であることを願う以下の方々のために行う修法を司ります。
 戌亥(イヌイ)年生まれの方。
 北西へ向かう方。
 2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101才の方。
 10月、11月に問題があったり、勝負をかけたりする方。
 戌の日や亥の日に引導を渡される方。
 足に不調のある方。
 行きたい場所へまちがわずに早く到達するよう望む方。
 御霊の供養を願う方。

5 光明真言(コウミョウシンゴン)

 第四章までに、み仏のご誓願を述べたので、今度は、あらゆる真言の徳が泉のようにあふれる光明真言(コウミョウシンゴン)へ移ります。
 経典は説きます。

「もしも人々がこの光明真言を自分の耳から聞くならば、一切の罪障が消滅する」

 
 光明真言はあらゆるみ仏の福徳智慧を網羅(モウラ)しており、この真言を聞いたり、光明真言マンダラを見たりすれば、無明と煩悩のために罪障を重ねている私たちに、それらを解消できるほど強力な善き影響力が生まれ、み仏の五智の光が輝き出して、生きているうちはもちろん、死後も、大きな安寧(アンネイ)が得られるのです。

 お大師様の師である恵果阿闍梨(ケイカアジャリ)は説かれました。

「円満なるみ仏のお救いがなかなか得られないのではなく、むしろ、お救いいただく確かな方法に巡り会うことが困難なのである」


 私たちは仏神のお力で苦を除いていただきにくいのではなく、本当にそうした願いが叶えられるための方法との縁が得にくいのです。

 密教中興の祖である興教大師(コウギョウダイシ)は説かれました。

光明真言をわずかに見る人も、聞く人も、この世において必ずやみ仏にお会いでき、教えを聞くことができる」


 たとえば、動けない親がいかに我が子の名を呼ぼうと、離れた所にいながら自分の足で歩けない子供を抱くことはできません。
 しかし、周囲の人々が子供を親のそばへ連れてくるならば、親子はしっかりと抱き合えるようなものです。
 光明真言にはそのようなお力があるので、大日如来と阿弥陀如来と両方の如来様の心中神呪(シンジュウシンシュ)と呼ばれています。
 仏界、神界に通じる真言の中心的真言であり、托鉢(タクハツ)行者はお寺やお墓の前だけでなく、神社でも唱え、あるいは、山や川や海へ向かっても唱えます。
 光明真言は、唱える先から文字の一つ一つが金色のみ仏となり行者の心身を照らすとされていますが、真冬や真夏の托鉢行、あるいは種々の場面でお救いいただいた真実経験は数えきれません。
 また、経文は説きます。

「亡者(モウジャ)菩提(ボダイ)のために光明真言を唱えて回向(エコウ)するならば、真言の光明は亡者の身を心身を照らして妄念(モウネン)や悪業(アクゴウ)を消滅させ、速やかに浄土へ導く」


 自分の家や病院で家族に見守られながら、穏やかな心境であの世へ旅立てる方々ばかりではありません。
 死はざまざまな形でやってきます。
 不意の、不如意の、無念の、あるいは絶望の中で旅立たれたと懸念される方々のために、この真言へおすがりして安置されたお骨の周辺に幾度、温かな明るさを感じ、修法後、送る方々の目に安心と感謝の涙を幾度、認めたかわかりません。

 人生相談に来られた方々へこの真言をお授けしたり、求められる方へ光明真言の法を結んだ「御加持(カジ)砂」をお渡ししたりするのには、こうしたわけがあるのです。

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2015
01.07

お寺にご葬儀やご供養などを頼むにはどうしたらよいか? ―宗教心が消えゆく危機―

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 Aさんからご質問がありました。
「親が亡くなった時、どうしようかと思い、それとなく家の宗派を訊ねても親そのものがよくわかりません。
 どうすればお寺に頼めるのでしょう?
 また、信者にならなければなりませんか?
 そもそも、信者になるとはどういうことなのでしょうか?」

1 ご葬儀とは何か

 親がだんだん年老いて心もとなくなって来ると、〈いざという時〉が心配になります。
 僧侶に頼みたいと思っても、どうしたらよいかわかりません。
 こうしたケースで最も大切なのは、当然ながら、亡くなった方の御霊をあの世へ渡す法を結ぶ導師になる僧侶の選択です。
 私たちは病気に罹ると、治したい一心で薬を選び、医者を選びます。
 家族などの死に際して〈送るプロ〉である僧侶へご葬儀を依頼するのはそれと同じです。
 〈誰でもよい〉はすはありません。


 また、葬儀を単なる儀式と考えるならば、結婚式を単なる儀式と考えるのと同じです。
 たとえ披露宴がどのような形になろうと、あるいは行うまいと、結婚式では、伴侶となる相手だけでなく、仏神やご先祖様など目に見えぬ方々や、場合によっては大自然や未来に対してまでも、伴侶となってくれる人を必ず幸せにしようと誓う純粋で思いやりに満ちた心になっているはずです。
 それならば、親であっても誰であっても、この世で精一杯の役割を果たし終えてあの世へ旅立つ人の人生を敬い、恩に報いようとする時は、告別式がどうであろうと、あるいは行うまいと、安心の世界へ行ってもらいたいというまごころをもって、できるだけのことを行わずにはいられないはずです。
 結婚式を吟味してご葬儀を軽視するならば、人の道にあったやり方、生き方であると言えるでしょうか?

 だから、葬儀導師として誰を選ぶかは、送る立場にたった人、あるいは生前に送られることを深く自覚した人の人生観が問われる重大場面です。
 具体的な方法としては、会ってみるしかありません。
 あるいは、いかなる寺院で、いかなる住職が、いかなる信念や方針で、いかなる法務を行っているか、ホームページなどで調べてみましょう。
 もしもブラックボックス状態であったなら、選びようがありません。
 そもそも寺院は住職のものでも宗派のものでもなく、社会の公器であり、その認識があれば情報を公開しているはずです。
 また、檀家になったり、高額なお布施を払ったりしない限りご葬儀を行わない寺院も当然、問題です。
 どこの寺院にも必ずおられるご本尊様は相手が誰であれ、すがる人を選ばずに救うことを誓いとしているみ仏です。
 寺院を守る僧侶が都合の良い条件をつけてすがる手を払いのけるなどあってはなりません。
 当山には、あらゆる生活困窮者の方の支援を行っているNPO法人「ワンファミリー仙台」様が建立した『一家族の墓』があります。

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2 仏教の信者になるとはどういうことか

 さて、仏教の信者になる、つまり仏教徒になる方法は、はっきりしています。
 仏法僧(ブッポウソウ)の三宝(サンポウ)に帰依(キエ)することです。
 ご本尊様の前で敬虔な気持になり、教えに深く道理を感じて生き方を変えたいと願い、菩薩(ボサツ)になろうとしている僧侶や、菩薩(ボサツ)のように他のために汗を流している人々を敬う気持になればもう、立派な仏教徒です。
 檀家になることや、高額なお布施を差し出すことそのものが仏教徒である証ではありません。
 心から仏法僧を大切に思えるかどうかだけが条件です。
 もちろん、すべてのみ仏が好きになり、すべての教えを理解し、菩薩を目ざすすべての人々を敬う必要はなく、そうできるはずもありません。
 縁の中での巡り会いにかけるのみであり、仏縁(ブツエン)とはそうしたものです。
 ちなみに小生が僧侶になったのも、み仏が手を差し伸べてくださった仏縁であると考えています。

3 ご葬儀から消えゆく宗教性

 ところで、年末、さる葬祭会館様へ家族葬にでかけたところ、かつて当山へご相談に来られたBさんご一家が偶然、隣の部屋におられました。
 長期間にわたる介護の末、事情が重なって福祉葬となったため、当山へ連絡もできず、まっすぐに火葬するしかないのです。
 時間は切迫していましたが、矢も楯もたまらず、故人の枕元へ駆け込んで肝腎な法を結びました。
 もうすぐ火葬場へ行かねばならないBさんは泣きながら、正月明けにご家族で当山へお骨を連れてこられ、ご葬儀とご供養と納骨を行いたいと言われました。

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 1月5日、河北新報の「新春トップインタビュー」において「心が乾きがちなご時世です。心といのちを考える仏教をもっと生かしてください」と訴えました。
 何人もの方々から同感の電話やお手紙をいただきました。
 凄まじい格差社会が人々から「葬」という死者を悼む尊い宗教行為を奪いつつあります。
 凄まじい経済合理性第一主義が本来、お金と異次元の宗教行為までをも〈安さ〉を競う自由競争の渦に巻き込み、物販同様、商売としての囲い込み合戦によって真の宗教的部分が排除されつつあります。
 本来、「葬」は、草の下へ死者を埋めて土に還すことのみを表した文字ではありません。
 孟子も指摘しているとおり、遙かな昔には死者を住居群から離れた荒野へ置くしかありませんでしたが、そのままではとても忍びないので、後にお骨をかき集め、あらためて祀る複葬(フクソウ)が行われていました。
 こうした〈何かをせずにはとてもいられないやるせなく必死の思い〉から宗教行為が起こり、「葬」という非日常的できごとに際して死者と送る人々の安心を祈るプロの宗教者が現れ、祈り方が研究されて葬儀の形が徐々に形成され、洗練されて今に至ったのではないでしょうか?
 しかし、今の日本では、格差とお金第一の感覚によって「葬」は単なる手続きと化し、遙かな昔、孟子の時代にすら行われていた本来の宗教行為から遥かに離れつつあります。

 こうしたことを書くのは、宗教者である小生が自分の立場を心配しているからではありません。
 やむを得ず何もせぬままお骨にしてから当山でご葬儀を行った方々の深い安堵と感謝の涙を幾たびも見せていただき、また、故人の魂を意識しながら引導を渡した時に生ずる霧が晴れたような清浄感を数知れず経験している者として、こうした宗教行為が行われない人間社会はいったいどうなって行くのか、あの世と輪廻転生(リンネテンショウ)の未来はどうなるのか、とてつもなく大きな危機感をもっているからです。
 驚くべきことに、ウィキペディアには、福祉葬についてこうした記述があります。
「政教分離原則から自治体が宗教行事を行うわけにはいかないので、本来の葬祭扶助は、『直葬』『火葬』のみであって、宗教的な形を踏んだ『葬儀』というのは正しくないという見方もある。」
 社会から果てしなく宗教を排除しかねないこうした理念や論理だけで、私たちは、まごころをはたらかせ、真に安心な死への対応が可能でしょうか?
 私たちの心に生ずる〈何かをせずにはとてもいられないやるせなく必死の思い〉が徐々に封印され、やがてはたらかなくなり、〈死〉が何ということもない日常的なできごととなり果て、そして死と連動する〈生〉もまた、そうなった時、私たちはまっとうな人間でいられるでしょうか? 
 もちろん、高額なお布施を請求するような宗教者の存在がこうした風潮をもたらした一因になっていることは否めない事実であり、それは宗教界全体が猛省せねばなりません。
 その上で、この文明的危機について諦めずに発言してかねばならないと考えています。
 当山は、福祉葬・骨葬・家族葬・密葬など、あらゆるご相談をお受けしています。
(http://hourakuji.net/sougi-bochi/jiinsou.html)

4 結びに 

 Aさん、寺院を訪ねるのはどうしても億劫に感じられることでしょう。
 しかし、病気になって医者を探したり、結婚式を挙げる場所を選んだりする時の真剣さを考え、逝こうとしている人のために、あるいは逝った御霊のために、まず、ネットで調べることです。
 真剣にやれば必ず、本来の公器として開かれている寺院が見つかります。
 思い切ってメールをするなり、電話をするなりといった先に、「ああ、よかった」というみ仏のお救いが待っていることでしょう。




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