--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2015
02.28

平成27年3月の運勢です ―キーワードは「争い」と「親密」―

201502280001.jpg

 平成27年3月の運勢です。

1 今月のキーワードは「争い」と「親密

 今月は、個人的には争う気分が高まり、国家的には政治、あるいは軍事面において大きな動きが出るかも知れません。
 争いの多くは、当事者のどちらに正義があるかの競い合いです。
 そして私たちの社会的行為において普段、第一とするように求められるのが〈正しさ〉です。
 正しさとは、決まり事に準じる徳であり、基準とされるものは法律、道徳、戒律、あるいは地方や地域ごとの取り決め、また、慣習なども含まれます。

2 親密さを壊すものは何か

 気をつけねばならないのは、親密さの減少が、本来、生じないはずの不穏な空気を招いてしまう、あるいは問題の解決を遠ざけてしまう点にあります。
 相手がよくわからないための疑心暗鬼、相手が気に入らないという気分、これらが嵩じると、ふとしたはずみで双方が引くに引けないところへ迷い込んでしまう場合があります。
 最近、記憶に残るできごとが3つありました。
 一つは、2月11日の産経新聞に掲載された曾野綾子氏のコラム「『適度な距離』保ち受け入れを」が、南アフリカ駐日大使など各方面から人種差別であるとの攻撃を受けたできごとです。
 批判の的になった部分です。

「もう20~30年も前に、南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに、分けて住む方がいい、と思うようになった。
 南アのヨハネスブルグに、一軒のマンションがあった。
 以前それは、白人だけが住んでいた集合住宅だったが、人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。
 ところが、この共同生活は、間もなく破綻した。
 黒人は、基本的に大家族主義だ。
 だから彼らは、買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。
 白人やアジア人なら、常識として、夫婦と子供2人ぐらいが住むはずの1区画に、20~30人が住みだしたのである。
 住人がベッドではなく床に寝ても、それは自由である。
 しかし、マンションの水は、1戸あたり、常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
 間もなくそのマンションは、いつでも水栓から水の出ない建物になった。
 それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
 爾来、私は言っている。
『人間は、事業も研究も運動も何もかも、一緒にやれる。
しかし、居住だけは別にした方がいい』」


 もう一つは、同志社大学大学院教授内藤正典氏が著書『イスラム戦争 中東崩壊と欧米の敗北』の中で、人種や民族や宗教で差別することを禁じているヨーロッパ各国において実質的なムスリム排除が進んでいると指摘したことです。
 ドイツの例です。

「モスクには小さい子供たちの補習をする塾のようなものが併設されているところがあります。
 これもテロ組織の温床になっているとヨーロッパ諸国ではこぞって非難されますが、決してそんなことはありません。
 クルアーン教室もありますが、おもにドイツ語、英語、数学、コンピュータの使い方などを教えていました。
 そこで若者は上野世代だけではなく、目を輝かせて自分たちを慕ってくれる子どもたちとも出会いました。
 ただ、それだけのことです。
 こういう出会いが若者たちを善行に駆り立て、根無し草のような生活から救っていくことは少なくありません。
 移民の若者が信仰の中に心の安らぎを得たというのはこういうことなのです。
 街に出て、非行少年になっていくのも一つの道ですし、たいへんな努力をして大学に進学し、運良く、エリート社会への切符をつかむことも一つの道です。
 しかし、どちらも、ドイツ社会の中で心の平安をもたらすものではありませんでした。
 後者の青年たちでも難しかったのは、たいへんな努力をしても、そのままドイツ社会でエリートになっていくにはさらなる関門が待ち受けていたことです。
 就職での差別、居住に関する差別。
 名前を言うと、トルコ人であることはすぐにわかりますから就職の際に不利になってしまう。
 ある程度、経済的にも余裕ができて移民街からでようとマンションを探しても、とたんに管理組合から拒絶されることも珍しくありませんでした。
 こういうことを繰り返していると、みな、故郷が同じトルコ出身者が多い地区から出るのをためらうようになります。
 その方が気楽だからです。」


 イギリスの例です。

「イギリスの移民政策の特徴は、移民たちの文化を尊重する多文化主義型を採用してきたことです。
 一見すると、イギリス社会との共生にとって良い方法に見えますが、そう簡単ではありません。
 多文化主義型の移民政策の場合、特定の地区に出自を同じくする移民たちが集中することをむしろ奨励します。」
政府からみれば、移民たちが自主的に移民街に集中したことになるでしょうが、移民からみれば、ほかのところに住む選択肢がなかったということになります。
「もともと第一世代の移民たちがついた仕事は、白人のイギリス人がやりたがらなかった仕事です。
 しかも、不況になるたびに先に移民から仕事を失っていきます。
 そのような社会的・階級的な格差の拡大をイギリスが新自由主義経済のなかで放置したことは、若いムスリム移民たちの間に憎悪をふくらませる原因となりました。
 そういうことも含めて、我々は今、この世界の成り立ちというものを再考すべきときに来ているのだと思います。」


 そしてもう一つは、2月26日付の朝日新聞「論断時評」で紹介されたヴォルテール著『寛容論』の一節です。

「われわれの虚弱な肉体を包む衣服、どれをとっても完全ではないわれわれの言語、すべて滑稽なわれわれの慣習、それぞれ不備なわれわれの法律、それぞれがばかげているわれわれの見解、われわれの目には違いがあるように思えても、あなたの目から見ればなんら変わるところのない、われわれ各人の状態、それらのあいだにあるささやかな相違が、また『人間』と呼ばれる微少な存在に区別をつけているこうした一切のささやかな微妙な差が、憎悪と迫害の口火にならぬようお計らいください」

 
3 『悼む人』について
 
 さて、直木賞を受賞した小説で映画にもなった『悼む人』の主人公坂築静人は、見知らぬ死者がかつて愛した人、愛された人、誰かに喜ばれた行為などを訊ね、亡くなった場所で、「あなたがこの世にいたことを忘れません」と死者へ誓います。
 人は誰でも人生のどこかで誰かに愛され、誰かを愛し、この世で人間らしい何かをしてから去るのであり、それを確かめて心へ刻む人に起こる心の変化は、音叉のように人々へ感応を広げ、一見、勝手で無意味とも思われる行為によって周囲の人々の心が徐々に変わります。
〈あなたにあった愛〉が〈私の愛〉となり〈私たちの愛〉となります。
 そこへ至る時、過去の愛憎や悲惨な経緯はすべて霧消し、生者も死者も、共に霊性を持った同士として触れ合えます。
 争いの空気に流されず、大切な親密さを保持するために、「悼む」ことについて考えてみたいものです。

4 むすび

 ここで危険なのは、〈自分の正義〉に閉じこもり、思考停止になってしまうことです。
 相手を〈不義〉と断じ、いきり立って断罪した瞬間から、親和の醸成や回復は遠くなり、考えてもみなかった結果へと転がり落ちる可能性があります。
 戦争のほとんどが、互いに主張する正義と正義とのぶつかり合いであり、防衛意識から始まることを忘れないようにしたいものです。
 叡智に学び、霊性の伴った想像力をはたらかせ、親密さを失わないことによって、何としても不毛な争いを避けたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



スポンサーサイト
2015
02.27

紛争地における真実 ―「いま〝世界〟のためにできること」について―

2015022400010.jpg

〈4月11日、寺子屋にて上映する映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』〉

20150224001012.jpg

 2月26日の「NHKクローズアップ現代」は、「いま〝世界〟のためにできること ~紛争地 それぞれの眼差し~」を放映した。

 過激派組織ISイスラミックステート)による日本人殺害事件などが起こった今、長年、紛争地での人道支援や報道に携わってきた人々に深い自問自答が始まっている。
「いま自分たちに何が出来るのか」

 平成24年、シリアで取材中に殺害されたジャーナリストの山本美香氏は、日本における最後の講義においてこう語っていた。
「思いやりのある人間になってください」
 実に、見捨ててはおけないからこそ、ジャーナリストやカメラマンは悲劇が起こっている〈現場〉へ身を投ずる。

 危険のまっただ中では、臆病であることが大切だと言う。
 蛮勇は何もならない。
 故後藤健二氏もそう語っていた。
 臆病で注意深く行動してなお、簡単に殺害される状況とは……。

 イラク戦争開始後、10年間にわたってイラクの人々を撮り続け、昨年、映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』を完成させた綿井健陽監督。
「現地の人々の悲劇に思いを致し、伝えていくことが大切だ」
 同映画のプレス資料はこう結ばれている。
「イラク戦争で亡くなったすべての人たち、すべての負傷した人たち、そしてこれからのイラクを生きざるを得ない、それでも生きていく、すべてのイラク人たちにこの映画を捧げる」

 紛争地で子供たちへの支援を続けてきた「イラク医療支援ネットワーク」の佐藤真紀氏は、こうした状況でもなお、「危険地域から離れた難民キャンプなどで日本人が担うことは多い」としてイラクへ向かう。

 平成16年、イラクでサマーワの自衛隊駐屯地に立入許可証を受け取りに行き、バグダードへ戻る途中に殺されたジャーナリスト故橋田伸介氏の妻幸子氏は、募金を集め、イラクに病院を造った。
 病院一体は今、ISイスラミックステート)に支配されているが、「報復よりも人々に寄り添うこと」を大切にして欲しいと願う。

 立教大学教授で「NPO法人難民を助ける会]理事長長有紀枝氏のコメントも重要である。
「かつて、ボスニア・ヘルツェゴビナで活動していた頃は、日本の国旗を掲げていれば安全だった。
 日本が紛争の当事者にならず中立的であることが広く認められており、私たちは日章旗に守られながら活動できた。
 今は違う」
「人情を人道へ変える仕掛けが大切だ」
「世界には、暴力はなくとも貧困に苦しむ人たちも膨大にいる。
 そうした人たちへの支援は欠かせない」

 当山では、4月11日(土)、映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』の上映が決まっている。
 綿井健陽監督のご来場はないが、108分にわたるこのドキュメンタリー映画を皆さんと共に鑑賞し、戦争といのちについてデイスカッションしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.27

般若心経のご唱和を

201502270001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 東日本大震災で犠牲になられた御霊をご供養し、復興、復旧を祈る般若心経百万返の供養会は、いよいよ明後日に迫りました。
 先んじて、ユーチューブの映像を公開(http://youtu.be/vlPQvtL_iXU)しました(ので、どうぞ、108返のご唱和をお願いいたします。
 当日でなかろうと、どこであろうと、供養の誠心は仏界へ届き、この世とあの世へ大きな安寧をもたらすことでしょう。合掌

201502160001.jpg




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.26

み仏へおすがりする際の考え方

201502260001.jpg

 最近、相次いで三つのご質問がありました。

1 人生の生き苦しさに負けそうでご加護を求める気持はあるが、祈り方がわからない

 こうした場合は、まず、ご縁の仏神へ心を向ければよいのです。
 たとえば近くの神社へでかけ、本殿の前に佇(タタズ)み頭を垂れるだけでも、心には必ずよい変化が起こっています。
 別に、何かの影が見えたり、お告げが聞こえたりしなくても構いません。
 むしろ、そうした〝見えた気がする〟〝聞こえた気がする〟という感覚をすぐに〈見た〉〈聞いた〉と実体化してしまう方向へ流れるよりは、深閑とした空気と一体になる無為の時間を過ごす方が、健全な変化に至る場合が多いものです。
 画家岡本太郎は、沖縄県久高島の御獄へ行き、天降るとされている聖なる場所を訪れました。
 そこで彼が目にしたのは「森の中のわずかな空地に、なんでもない、ただの石ころが三つ四つ、落ち葉に埋もれてころがっているだけ」の光景でした。
 しかし、彼は「これこそわれわれの文化の原型だと、衝撃的にさとった」そうです。
 私たちの感性には、〈無〉の中に無限の豊饒さや聖性をつかむ力があります。
 神社へでかけると、何となく清められ、何となくリフレッシュした気持になるのはそのせいです。
 この「何となく」そのものに重要な意味と意義があるのではないでしょうか?

 もしも、祈りを具体的に実践をしたい場合は、どうぞ、人生相談をお申し込みください。
 その方に応じた正統な祈り方をお伝えします。

2 今の状態から脱したいのでお寺へご祈祷に行きたいが、自分自身に関する悩みが多く、どう願えばよいかわからない

 まず、第一に押さえておきたいのは、自分そのもののありようについて真剣に悩むのは、人が人である証拠であるということです。
 お金がない、人間関係に躓(ツマヅ)く、気に入った仕事に就けない、結婚できない、などは他者との関係における悩みですが、自分の性格に困っているが、どうすれば変えられるのかがわからない、打たれ弱く、このまま人生を過ごせるかどうか不安でたまらない、など、自分そのものに関する悩みもあります。
 後者は影法師のようなもので、環境や相手が変わろうと、どうにもなりません。
 そうした場合は、因縁解脱や転迷開悟、あるいは運命転化を祈りましょう。
 因縁解脱とは、無限の過去世から連なる悪因縁の影響力から離れ、生き直すことです。
 転迷開悟とは、迷って救いの明かりを求めるいのちと心の力により、真理・真実の方向へ向かうことです。
 運命転化とは、過去世からの因縁と、今の身体と言葉と心のはたらきとによって時々刻々と創り続けている運命の方向を変えることです。
 こうした願いの成就に必要なのはまず、自分自身の努力ですが、自分の姿をよく観て悩むことがすでに立派な努力です。
 次に縁の力ですが、自分が社会内存在として生きていることそのものが、皮膚によって肉体が守られているようなものであり、縁の力によって守られているという真実を示しています。
 もう一つは仏神のご加護ですが、これもまた、気づきさえすれば確かにあるのです。
 善男善女のよき願いを体して祈る行者としては、実践的にも〈在る〉という真実を確信しています。

3 お寺へ相談に行きたいが、勝手に住職の時間をもらうのは申しわけない

 当山では、真剣に悩む方を相手にしての世間話はしません。
 未熟な行者としては、皆さんの人生に関わる問題について、み仏と一体になる法を結ばずに対応することはできないからです。
 もう一つの理由としては、1日が24時間しかない中で、ご縁を求める方々への対応はすべて法務であり、法務に対してまごころからお納めいただくご喜捨によってのみ成り立つ寺院としては、各種催しの後などに設ける自然なお茶会は別として、ダラダラと時間を費やせないからです。
 そして、会話とは互いに相手の人生の一部を分けいただくことだからです。

 考えてみましょう。
 自分が誰かに話を聴いてもらっている時、相手の人生は時々刻々と休みなく減り続けているのです。
 もしも自分の都合でダラダラとしゃべっているなら、誰かの人生を捨てさせているだけの時間かも知れません。
 それは人生そのものへの不誠実というものではないでしょうか?
 当山は、スマホに束縛され、1日のうち何時間も交信に費やしている文化に危うさを感じています。
 互いが意志疎通を円滑にしていると言えば結構ですが、言い換えれば、別の観点ならすれば、1日24時間しかないいのちを毎日、互いに数時間づつ奪い合っているのです。
 ――自分の都合や気分や不安によって。
 一方的な問いかけにすら返事をすることが誠実さの表れであるという強迫観念に囚われている精神、すぐに返事をしないと即、人間関係がおかしくなる文化、いずれも異様ではないでしょうか?
 発信は、受け手の人生を分けいただく神聖なものです。
 だから当山における人生相談では、袈裟衣を着け護身法を結び、心して皆さんの発信を受け止めます。
 小生はどなたと、いかなるやりとりをする時も、相手様の存在に伴う人生の砂時計を意識しています。

 小難しいことを書きましたが、皆さんの真剣な求めに応じて人生相談を受けるのは寺院の法務であり、行者の務めなので遠慮は要りません。
 人生相談で確保できる時間は30分から1時間です。
 どうぞ、問題点をまとめ、日時のお申し込みをしてください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2015
02.25

渡世と度世 ―この世の渡り方と彼岸への度し方―

201502250001.jpg

 高倉健のヤクザ映画では「渡世義理」が描かれた。
 渡世とは「世」を「渡る」ことであり、渡り方にはその人の価値観が顕れる。
 高倉健が演ずるヤクザは、親分と子分、あるいは義兄弟同士といった人間関係における「義」すなわち正義と、「理」すなわち条理を第一として、家族や男女の情愛に目を瞑(ツム)る生き方を示した。
 不正を許さず、筋目を通すために、主人公はいのちをも捨てた。

 私たちは、正義も条理も知っている一方で、情愛や人情がこまやかにはたらく世界のぬくもりから離れられない。
 そこに葛藤が起こり、前者と後者の板挟みになった場合、いずれを選んでも罪悪感や後悔が生じて苦しむ。
 高倉健が演ずる花田秀次郎は、常に前者を選び、一身の滅びを避けなかった。
 苦渋をぐっと呑み込み、決然と、堂々と、私たち凡人が歩みきれない道を歩んでみせた。

 渡世はこのように、常に二律背反を孕(ハラ)み、「彼方(アチラ)を立てれば此方(コチラ)が立たず」となりやすい。
 英語圏の人々も「It is hard to please all parties.」と悩み、ついには「両方立てれば身が立たぬ」という袋小路に迷い込むかも知れない。
 荒波の立つ海に比されるこの世を渡りきるのは容易でなく、私たちは皆、理と情のはざまでたった一幕のドラマを演じながら一生を生きる。

 一方、仏教には「世を度す」という言葉がある。
 僧侶になるための門を得度(トクド)と称するのは、彼岸すなわち悟りの世界へ度ることを得るからである。
 ご本尊様の前で決意を述べ、戒律に従って生き直すよう誓い、仏弟子としての新たな名前(僧名=法名)を授かる。
 それは、世間的価値観から離れ、み仏に成りきる道であり、生きる指針は二つない。
 仏道という一本道を歩む者には〈理と情のはざま〉は生じない。
 とは言え、いかに山奥で何年修行しようと、それはプロとしてのトレーニングに過ぎず、実践はあくまでも娑婆で救いを求める方々と共に無限の問題に取り組み続ける現場にしかなく、訪れる善男善女の苦悩を共有しようとすれば、波風は立つ。
 たとえば、我が子を失い、四十九日の法要後、黙って涙を流しておられる母親を前にして、いったい、何ができようか。
 自分の心と口から〈み仏の言葉〉が一言、漏れ出るか、あるいは黙ってそばに立てば傷心の方にとって何ごとかであり得るか、あるいは、結局はみ仏へおすがりした修法以外、何もできないか……。
 たった一つの正解など得られようもなく、かつ、求めずにはいられない現場の連続である。
 刃の上を渡りつつ、常に自分の未熟さを思い知らされるのがプロの日常である。
 一本道とは、滑れば足を斬るしかない鋭利な刃の上に用意された決して後戻りできぬ刃渡りである。

 さて、こんな逸話があるという。
 ある時、豪商が一攫千金を狙い、たくさんの手下を引き連れて海へ乗り出す際に、心構えを求めて高名な行者を訪ねた。
 行者は縷々(ルル)、注意を述べ、最後に「もしも心得たものをすべて用いてもどうにもならぬ場合は、瞑目して、み仏を想いなさい」と教えた。
 一同が航海中に、荒天の中で恐ろしい形相の魔ものが現れ、「私よりも恐ろしいものを示すことができなければ、お前たち全てを喰ってしまう」と告げる。
 窮した豪商は教えを思い出し、黙って目を閉じ、やがて魔ものを見つめながら思いもよらぬ言葉を口にする。
「人の心は恐ろしい。
 怨み、憎む心の恐ろしさと比べれば、お前の顔など可愛いものだ」
 魔ものは退散したという。

 二律背反を超え、み仏と一体になる世界では、この世の魔ものは通用しない。
 だからこそ正統な行者は、み仏にすがり魔除けや厄除けや運命転化の修法を行う。
 娑婆の方々もまた合掌し、み仏の世界を想い真言や御宝号を口にする時、逸話の主人公と同じく、二律背反を超えた何かが兆したり、得られたりすることだろう。
 娑婆の「渡世」に迷った時、疲れた時、み仏の「度世」におすがりしてはいかがであろうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.24

真智の開発をめざして(その17) ─素直な心とは─

201502240001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事をがためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

1 有の人を尊敬する

 人の間にある人間である私たちが安心や喜びを得、同時に周囲の人々へ安心や喜びをもたらすためには、心にゆったりと穏やかな部分がなければなりません。
 ギスギス、ピリピリ、カリカリしたままでは自分が成長できないだけでなく、周囲へもよからぬ気配を漂わせ、安心や喜びの縁を自他から遠ざけます。
 こうした人は、もちろん、グループの指導者を務める資格もありません。
 打算でなく自然に人垣ができるタイプの人には必ず、太陽のような穏やかさがあるものです。
 こうした穏やかさを持った人が人を高め、深め、その人がまた優雅で大らかな心をつくるというよき循環をもたらすもの、それが素直さです。

 糸の束を染める際に、元のところで強く結ぶので、全体が染まっても結ばれた部分の内側は白いままで残ります。
 それが「素」です。
 目という文字は、目の縁と眼球を線書にしたものが縦に置かれています。
 それに飾りが付くと「直」になり、「正しく見る」というのが元々の意味です。
 直の上部にある十文字は呪力を表す飾りなので、正しく見て悪や邪を祓うという深意も含んでいます。
 だから、「素直」とは、何ものにも染められていないまっさらな目でものごとをありのままに見ることであり、そこではおのづから霊性がはたらきます。
 古人は霊性のはたらきが悪や邪を祓うことを知っており、〈直(ナオ)い人〉こそが神に仕え、神の意を問い、祓う力を持つと考えました。

 素直な人は必ず、周囲にいる有者を見つけます。
 周囲とは、向こう三軒両隣、あるいは学校の先生や先輩などとは限りません。
 魂がブルブルッと震えれば、書物の中にも、新聞やテレビの情報からでも発見できます。
 発見し、尊敬が生まれれば少しでも近づきたいという願いが起こり、学び、同化をイメージしているうちにいつしか自分のも高まります。

 よき同化の反対が悪しき感化によるカルトへの、のめり込みや、犯罪への傾斜です。
 同化のイメージが狂った方向へと向かわないようにするためには、〈ものごとをありのままに見る〉真の素直さが必要です。
 そこにこそ科学や芸術や宗教の出発点があります。
 素直でない余分なものが科学を歪め、芸術を堕落させ、宗教を思考停止の狂信や盲信へ追いやります。

 さて、自分は大切な素直さを失ってはいないか、素直さが錆び付いてはいないか、時折、調べてみたいものです。
 方法は簡単で、「自分は誰を有の人として尊敬しているだろうか?」と問うだけです。
 もしも、「徳のあるやつなんていない。友人も先輩も先生も親も尊敬できないし、本当に徳がある人になんか会ったことがない」と思うならば危険です。
 それは周囲の誰にも霊性の光を発見できないということであり、「素」の部分に〈(ガ)〉という余分な色が濃くついているか、「直」の目に〈好き嫌い〉という煩悩(ボンノウ)のフィルターがあまりにも強くかけられている可能性が高いからです。
 バカな友人は、本当にバカなだけなのか?
 意地悪な先輩は、本当に意地悪なだけなのか?
 居丈高な先生は、本当に居丈高なだけなのか?
 口うるさい親は、本当にう口うるさいだけなのか?
 実は、それらの人々が持っているまごころや徳に、自分が気づいていないだけではないのか……。

 ここで言う有徳の人とは絵に描いたような聖人君子だけではありません。
 有徳の人を尊敬するとは、言い換えれば、「他人様に徳を発見し、それを尊敬できる」という意味なのです。
 小説であり映画化もされた『悼む人』の主人公坂築静人は、亡くなったいかなる人にも愛し愛された人生の一幕があり、誰かに喜びを与えた一瞬があることを信じ、そうして生き、死んだ人を忘れないと誓うことによって死者を悼みます。
 悼みつつ、いつしか自分が救われ、周囲の人々も自然に救われます。
 これも又、〈徳の発見〉と言えるのではないでしょうか?

 素直な心を取り戻しましょう。
 誰かの徳に感応する心が穏やかになり、安心と喜びを得られますよう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.23

真智の開発をめざして(その16) ─観音様と勢至様がおられるわけは?─

201502230002.jpg

〈20120618162912f4f様よりお借りして加工した洞泉寺の弥陀三尊像。向かって右が観音様、左が勢至様です〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、私たちの心からもみ仏の光が発せられ、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、「正しさ」は、五つの恩を深く想う時に実現されます。
 それは、国家社会の恩、親とご先祖様の恩、人間や生きとし生けるものの恩、や教え導いてくださる方の恩、仏法僧(ブッポウソウ)の恩です。
 今回は、「の恩」についてもう少し考えてみましょう。

2 出世間的な

 前回、「人によって、人として育てられなければ、霊性を持った人として成長することはできません」と書きました。
 ノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ・ユスフザイさん(17才)の言葉です。
「教育は人生の恵みの一つであり、人生に欠かせないものの一つでもあります。
 これは私の人生、17年間の経験で分かったことです。」
 実に、導かれることは人生に欠かせません。

 さて、「仏の十号」という言葉があり、悟りを開いたお釈迦様は十種類の名で呼ばれますが、その中に以下の二つがあります。
 一つは調御丈夫(チョウゴジョウブ)といい、指導(調御)をする勝れた人(丈夫)です。
 もう一つは天人(テンニンシ)すなわち、神々や人々のです。
 このように称される世間を離れたはどのように導いてくださるか?
 ヒントは観音菩薩と勢至菩薩にあります。

 弥陀三尊(ミダサンゾン)として阿弥陀如来の向かって右におられるのが観音様、左におられるのが勢至様です。
 それぞれ、阿弥陀様が持っておられる〈慈悲〉の化身、〈智慧〉の化身とされますが、とてもよく似ておられます。
 ずっと拝んでいるうちに気づきました。
 まず、観音様は、私たちが休まねばならない時に、絶対肯定をもって受け容れてくださる方であること。
 そして、勢至様は、私たちが進まねばならない時に必要ないかなる力をもお与えくださる方であることです。
 
 病人にとって第一に必要なのは休息です。
 深く傷ついた子供は、休校させるのもやむを得ません。
 健康な人なら第一に必要なのは勉励(ベンレイ…努力を重ねること)です。
 元気な子供は、気分にかかわらず、登校させねばなりません。

 観音様は前者を導きます。

「この世のなかの諸々の○苦しみ受けて悩めども○観音菩薩の在るを聞き○その名至心に称(トナ)うれば○観音菩薩はその音声(コエ)を○即時に観じ応現(オウゲン)し○皆の解脱(ゲダツ)を得せしめん」


 困り果てた極限のところであっても、観音様は苦を離れさせてくださいます。

 勢至様は後者を導きます。

勢至菩薩に帰依(キエ)するは○われら衆生(シュジョウ)が菩提(サトリ)への○道を求めて精進し○貪・瞋・癡(ムサボリ・イカリ・オロカサ)の○三毒離れて大いなる○仏の教えを受け止めて○智慧に目覚める驚愕の○心を自ら開発(カイホツ)し○己(オノレ)を超えた存在の○真理に気づくことにあり」


 べったりと貼りついた煩悩を離れる智慧の力をお授けくださいます。

 このように、み仏は、いかなる時も私たちをお導きくださる最上の師です。
 これで「正しさ」の項を終わり、次回は「優雅さ」へ進みます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.22

大震災へ立ち向かった消防士たち ―舞台『ORANGE』のチケットを少数枚さしあげます―

201502220001.jpg

2015022200022.jpg

 平成17年1月17日、阪神淡路大震災が発生しました。
 私たちは、あらためて、地震国の住民であること、人間の営みの限界、そして、いかなる場合も人々は助け合うことを実感しました。
 あの時、さまざまな現場で最善を尽くそうと心身をかけた100人以上の消防士へ取材し、創られたのが舞台『ORANGE』です。

阪神淡路大震災・・・。
 あの時、現場で何があったか知っていますか?

 この作品は当時救助に当たった
 消防士100人以上にインタビューして作り上げられました。

 2015年は阪神淡路大震災が起きてから
 20年の節目の年になります。

 この物語を通して改めて震災が巻き起こす悲劇、
 そのときになって気づかされる命の大切さや人の絆を
 感じていただければとの思いから、
 舞台『ORANGE』を再演することにいたしました。
 命懸けで闘った消防士の魂の物語」

 
 オレンジ色の服を着ることが許されるのは、特殊な訓練を行った特別救助隊の隊員のみであり、それは全消防士のわずか3パーセントです。
 生死の分かれる被災地で〈救助〉にすべてをかける人々は菩薩です。
 1月19日にはテレビドラマ『テレビ未来遺産 ORANGE~1.17 命懸けで闘った消防士の魂の物語~』が放映されました。

 生き仏の姿に学びましょう。
 仙台市での貴重な公演のチケットが少数枚あるのでプレゼントします。
 どうぞ早めにお申し込みください。

・劇団 「PEOLE PURPLE]  主宰者脚本家宇田学氏
・日時 2月28日(土)午後6時より(開場は午後5時30分)
・場所 日立システムズホール仙台(仙台市青年文化センター) シアターホール
     仙台市青葉区旭ヶ丘3-27ー5 電話022(276)2110
・切符 一般席(6500円)←これをさしあげます!
・申込 法楽寺へ 電話022(346)2106 ※午前9時~午後5時




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.21

最も大切なのは自分のいのちそのものではない ―思いやりのある子供に育てる―

201502210001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 信徒Aさんから質問がありました。
「毎日の報道には驚くばかりです。
 どうして普段は優しいはずの子供がとんでもない犯罪へ走るのでしょうか?」
 一つの面からお答えしました。

一 お釈迦様は何と説かれたか?

 意外に思われるかも知れませんが、お釈迦様は、「いのちを大切にしなさい」と説いてはおられません
 お釈迦様には、輪廻転生(リンネテンショウ)にまつわる過去世の物語がたくさんあります。]
 それらは「本生譚(ホンジョウタン)」あるいは「本生経(ホンジョウキョウ)」と呼ばれ、主役であるお釈迦様は、動物や女性や国王などさまざまな姿で修行を重ねます。
 ここで実践される善行のどれもが、決して〈自分のいのち〉を大切にしてはいません。
 王子に生まれた時は、餓えた虎とその子供たち7匹のために、食べ物として我が身を崖から落とし、ウサギに生まれた時は、行者へ供養するために、やはり食べ物として我が身を火へ投じました。
 他の窮乏に耐えられず、尊き者へ供養しないでいられず、我がいのちを決然と捨てています。
 物語は、誰しもが最も手放したくない〈自分のいのち〉よりももっと大切なものがあることを教えています。
 それは何か?
 自分にある〈見捨てることができない心〉に従うこと、すなわち慈悲心と布施行です。

二 慈悲布施について 

 見捨てておけないならば、どうするか?
 自然に、自分の何かを差し出さないではいられなくなります。
 これが本当の布施です。
 日本人が世界から尊敬されるのは、地震や津波や台風などに遭っても自然に助け合い、戦争で空襲に遭っても自然に助け合い、平時に路傍で倒れても自然に誰かの手で病院へ運ばれ治療を受けられるからです。
 高倉健はよく、強さと優しさを兼ね備えていたと評されますが、義侠心を持っていたとも言えそうです。
 彼はヤクザとして、男として、人として、〈決して見捨てることのできない人〉を演じ続けたのではないでしょうか。
 私たちが彼に憧れ、救われたのは、見捨てる自分や逃げる自分に対して感じている後ろめたさや恥ずかしさや悔しさを、銀幕でスカッと解き放ってくれたからでした。

三 自分可愛さに負けない

 私たちは自分が可愛く、自分のモノ金が惜しく、周囲の誰彼を〈見捨てながら〉日々、暮らしています。
 持っているモノ金には限度があり、ましてや自分のいのちは一つしかないので、やむを得ません。
 大切なのは、〈見捨てることができない心〉を錆び付かせないことです。
 見捨てつつ、自分を中心にして生きる自分への後ろめたさや恥ずかしさや悔しさを忘れないことです。
 それには、誰かの喜びを自分の喜びと感じ、他者を〈そちら側〉へ置かないようにする必要があります。


四 他の喜びを喜ぶ

 恋愛が成就した、受験に合格した、結婚した、就職した、病気が治った、仕事がうまくいった、雪が融けて福寿草が顔を出した、ネコがおいしそうにご飯を食べた、などなど、誰の何でも「ああ、よかったね」と心底から思い、温かな言葉が口から漏れ出る時、その人自身にもよいことが起こっています。
 感激や幸福感や安堵感があり、自分の不満や不幸や苦しみを忘れているではありませんか。
 慈悲心が起こると同時に、救われてもいるのです。

 こうして生きていれば、知らず知らずのうちに〈見捨てることができない心〉が保たれ、小さな何かは実践できるでしょう。
 そして、いざという時にはきっと、思い切った行動がとれるはずです。
 私たちは慈悲と救済の中で一歩づつ、お釈迦様へ近づいて行けます。

五 自分を可愛がる危険性

 さて、親は誰でも我が子を愛おしみます。
 そして、こう願い、語りかけ、いくら辛かろうと何でもやりながら必死に育てます。
いのちを大事にしなさい」
 実は、この麗しい情愛に問題が潜んでいます。
 我が子を可愛がり、ガラス細工を扱うように育てていると、〈自分を可愛がる〉だけの子供ができあがってしまう可能性があるのです。
 そこで、小動物や草花などに接する機会をつくり、周囲にある〈いのちの尊さ〉を教えようとしますが、ネコやスミレが可愛らしく思えることと、慈悲心とはまったく別ものです。
 だから、周囲からは、あんなに優しいお子さんだったのに信じられない、と思われるような犯罪に走るケースが後を絶ちません。
 子供に分別がついてきたなら、どうか、いろいろな物語やできごと、あるいは親自身の実践を通じて、自分が持っているモノ金やいのちよりも大切なものがある、と教えてください。
 惜しむ心を抑え、他のために何かを差し出す喜びを実感させてください。

 その場しのぎの偽善的儀礼にとどまらず、本当に喜んでいるかどうか、よく観察してください。
 やがて、慈悲心による布施がなかなか思い通りに実践できないジレンマを体験することでしょう。
 そうすれば、大人をバカにせず、人間への信頼感を保ちつつ育って行くことでしょう。
 きっと、いくらかはお釈迦様に近づきつつ、大人になれることでしょう。

六 結論

 仏教は「いのちを大切にしなさい」といった単純な教えではなく、「他のためになるところに、人間が人間として尊いゆえんがある」と説いています。
 み仏が示す慈悲も智慧もここにあります。
 よくよく考えてみたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.20

退路を断ち責任を果たす作家辺見庸氏 ―【現代の偉人伝】第204話―

201502200001.jpg

 作家辺見庸氏(70才)は平成16年、講演中に脳出血で倒れ、翌年には大腸癌に罹っていることを公表した。
 その後も精力的に自らの血で書くような警世の文章を綴っている。
 2月11日、河北新報は、「戦後70年」と題したインタビューを行い、『暗転の兆し「五感で察知を」』を掲載した。
 前文である。
 

「瓶のふた」が開いたように、世界中で暴力が噴出している。
 冷戦時代の再来のようなロシアとウクライナの紛争。
 急速に勢力を伸ばす「イスラム国」の勃興。
 日本人人質殺害やフランス週刊誌銃撃に象徴される過激化するテロの恐怖。
 現代を「歴史的危機」ととらえる作家の辺見庸さんは、暗転の予兆をつかむためには「五感を研ぎ澄ませ」と語った。


 同感である。
 今や戦争が報じられない日はなく、防衛を含め日本が戦争の準備にとりかかる政策について触れられない日もない。
 一方で、私たちは毎日、お茶を飲みながら、あるいは食事を摂りながら、テレビの画面でイスラム国が発信した映像と、イスラム国が爆撃されている映像などを〈普通に〉眺めている。
 チャンネルを変えればもう、大口を開けた大笑いや、元気な人が語る健康食品のコマーシャルが流れ、人間同士が殺し合いをしている現実は一瞬にして意識の外へ放り出される。
 誰と話をしても「イスラム国はけしからん!」「中国はけしからん!」とは言うが、「日本が本当に戦争をしないでいられるだろうか?」と懸念する声はほとんど聞かれない。

戦後70年の意味をどう考えますか
戦間期という言葉がある。
 戦争と戦争の谷間にあって戦争のなかった時代という意味だが、第一次世界大戦が終わる1918年から第二次大戦が始まる39年までの約20年間を『第一次戦間期』としたら、第二次大戦が終結した45年から今までを『第二次戦間期』と言えるかどうかに興味がある。
 敗戦後70年たち、これから続く状態が戦争とは逆の平和かどうか、疑わしい。
 現代は日常の中に戦争が混入しているのではないかと思う。」


 私たちが吸う空気にはもはや、戦争が色濃く入りこんできている。
 日本の同盟国アメリカはいつもどこかで戦争を行っており、日本は戦争へ〈平和的に〉荷担する準備を粛々と進めている。
 あとは、国外か国内で自衛隊員がどこかの誰かと砲火を交えるか、もしくは国内でテロが起こるかどうかだけが、私たちの現実感を左右するのみである。

―どういうことですか。
「盧溝橋事件が起きて日中戦争が始まった37年に、世の中が急速に変わる。
 当時の近衛内閣が国民精神総動員実施要綱を閣議決定して、挙国一致で総力戦を戦う精神的支柱を形成する。
 これによって日本人の生き方とか国家観が変えられていくのだが、その始まりとなった37年が戦時として意識されていたかというと、そうでもない。」


 7月7日、日本が中国と実際に戦争を始めても、開かれた後楽園球場では水原茂が初のホームランを放ち、双葉山は横綱に昇進し、日本の空気は〈上昇気運〉一色だった。
 遥かスペインでは、4月26日、ドイツの空軍が古都ゲルニカを爆撃し、無差別空爆の走りとなった。
 3日後にフランス共産党機関誌ユマニテで事実を知ったピカソは5月1日から6月4日の2ヶ月で大作「ゲルニカ」を完成させ、7月のパリ博覧会に展示した。
 ちょうどそこ頃、日本では東京と神戸の間で特急「かもめ」が運行を開始し、沸き立っていたのである。
 それからわずか8年の間に、7000万超の日本人のうち200万を超える軍人と、50万から100万の民間人が死に、日本は連合軍に占領された。
 しかし――。

「当時の新聞紙上からは、戦争に急速に傾いていく危うさが感じられない。」

「日常というのは、急にこの日から崖っぷちですという変化の仕方はしない。
 暗転はゆっくり、大規模にいくわけで、その過程は見ることができない。
 でも敏感に耳を立て、目を見開き、五感を研ぎ澄ませていれば感じることはできると思う。」


 私たちは本当に、戦争をしないという強い意志でそのための方法を模索しているのだろうか?
 戦争をしないとは、敵をつくらないことではないのか?
 いかなる敵対姿勢を見せる者とも粘り強く和解をはかることではないのか?
 私たちはわずか半世紀前、〈悪しき者〉を指さし、「鬼畜米英!」と国を挙げて叫び、糾弾していた。
 今も、誰かを〈悪しき者〉と断定し、鬼畜のごとく蔑み、同じ人間同士という共通の土俵を自ら破壊してはいないだろうか?

「戦後と同じだけ、70才まで生きてきたからには、それなりに責任がある。」


 戦後の時代をずっと生きてきたからには、何らかの形で「責任」を果たしつつ死んでゆきたい。
 辺見庸氏は病身を引きずりながら、その真実を教え、先頭に立つ一人である。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.19

火葬炉の火は熱くない ─東北関東大震災・被災の記(第161回)─

201502190001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 東日本大震災で妻を津波に呑まれ、仮設住宅暮らしを続けていたAさんが亡くなられたとの一報が入り、海岸の町へでかけた。
 生きものの気配が絶えた荒れ地、あばら骨のように寒風を受けている鉄骨の枠組み、工事中の歩道や側溝、現場を行き来する車両、雰囲気は一年前とあまり変わっていない。
 安置された和室へ入ると、あの時、ご遺体が見つからないままのご葬儀で背筋をピンと伸ばし、視線に揺るぎのなかったAさんは今、遺影から同じ視線を投げかけてくる。
 父親をずっと守ってきた息子さんと嫁いだ娘さん方と三人だけで静かにお送りするという。
 あいにく予定がたてこんでおり、斎場まで同行できない小生は、斎場における前での修法も会館で行うしかない。
 修法後、三人へご説明申しあげた。

「残念ながらこの先、ご一緒できませんが、斎場で行う分もきちんと法を結びましたのでご安心ください。
 導師がの前で何を行うかと言えば〈解き放ち〉です。
 無明(ムミョウ)の離散と執着心からの解放をもたらす修法を行わなければ、前でのお焼香は単なるお別れの儀式でしかありません。
 この法を結ぶことにより、故人は肉体を失う苦から離れ、ご遺族も恩愛による執着心を克服できるのです。
 そうでなければ、御霊はこの世へ思いを残して成仏できず、ご遺族もまた、喪失感からなかなか抜け出せないかも知れません。
 私は、『の火は熱くない』と信じてお不動様へおすがりしています。
 の火はきっと熱くないのです。
 それは、ご葬儀で引導を渡され、御霊が肉体から明白に切り離されたことに加え、中に現れるお不動様に導かれるからです。
 火葬が引導より先になっても同じことです。
 二重の修法により、み仏の世界へ向かう足どりは確かなものになります。
 大日如来の使者であるお不動様が身にまとう猛火は、あらゆる迷いを解き放つ智慧の炎です。
 故人は、炉の火によってこの世で拠り所としていた肉体を天地自然へお還しすると共に、お不動様の火によって苦の元である執着心から離れさせていただけるのです。
 だから、今、お不動様の法を結んだ以上、故人にとって炉の火は熱くありません。
 どうぞ、ご安心の上、お送りください。
 もしも、皆さんが何か心の中でお唱えしたい場合は、どちらかの御宝号(ゴホウゴウ)お唱えください。
 南無転迷開悟不動明王
 なむ てんめい かいご ふどうみょうおう。
 もしくは、南無大師遍照金剛。
 なむ だいし へんじょうこんごう。
 お不動様の修法はお大師様によって日本へもたらされました。
 お唱えする御宝号(ゴホウゴウ)はきっと、故人を安心の世界へお送りする力になると共に、皆さんご自身の執着心も薄れさせ、別れの苦しみから離れる力にもなることでしょう。
 ご一緒にお唱えしましょう。
 なむ てんめい かいご ふどうみょうおう。
 なむ てんめい かいご ふどうみょうおう。
 なむ てんめい かいご ふどうみょうおう。
 なむ だいし へんじょうこんごう。
 なむ だいし へんじょうこんごう。
 なむ だいし へんじょうこんごう」

 心の交流が細やかであればあるほど、執着心もまた、強い。
 二つの御宝号はきっと、大きな〈解き放ち〉となることだろう。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.18

真冬のアゲハチョウ

201502180002.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 の舞う日、Aさんの居間に突然、アゲハチョウが出現した。
 座っているちゃぶ台の上あたりをしきりに舞う。
 Aさんの驚きは胸騒ぎに変わった。
 ――もしやBさんの身に何か?
 親友Bさんは脳梗塞で倒れ、あまり回復が見られないまま、もう3年が経つ。
「そんなに頑張らなくてもいいのよ」
 声が届いたのか、アゲハチョウはAさんの側に降りて羽をたたんだ。
 生きものはこうして死ぬのかと思った頃、Bさんはこの世を去っていた。
 アゲハチョウは数日、飛び回り、どこかへ消えたという。

 Aさんは弔辞に書いた。
「Bさん、教えてくれてありがとう。
 誰かに思い出された人は、思い出した人の側に立つと言いますが、私は今、あなたがそこにいるのを感じています。
 あなたも私を思い出してね。
 遠からず、私もそちらへ行くことでしょう。
 それまで変わらぬ笑顔でいてね。
 私もそうします。
 では又……」




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.18

強かった父にふさわしい戒名を

201502180001.jpg

〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 Aさんの父親は脳溢血で倒れ、このまま、別れになるかと思われたが、「もうすぐ誕生日が来るよ!がんばって!来年は、百才だよ!」という家族の声が届いたらしく、病床で2ヶ月が過ぎた。
 父親は昔から優しく、大きな怒鳴り声など聞いたことのない娘Bさんは思った。
「病気になったお父さんは、別人のように強い。
 優しいだけでなく、本当はこんなに強い人だったんだ……」
 決して弱音をはかず、じっと痛みを堪えている。

 ある日、ついに家族が呼ばれ、子と娘が駆けつけた時にはをしていなかった。
 それでも看護師さんは人工呼吸をしながら、さかんに名前を呼んでいた。
 心電図はまだ、フラットになっていない。
 Bさんは、祈る思いで呼びかけた。
「お父さん!、吸って!、吸って!」
 声に応えるように数回、呼吸してから心肺停止となった。
 兄妹は黙って合掌した。
 Aさんは言う。
「延命治療ではありませんでしたが、お医者さんには最善を尽くしてもらいました。
 チューブなどがいろいろ取り付けられながらも毅然と生きている父の姿に、私は誇りを感じました。
 いのちを堂々と使い切った見事な最期でした。
 ぜひ、こんな父にふさわしい戒名をお願いします」
 口々に最期の様子を伝える二人の顔には確かに、遺影眼光が宿っていた。




 原発事故の早期終のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.17

み仏の光を目ざして ―阿字観を実践し、他の喜びを自分の喜びとしよう―

20150217001010.jpg

〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました〉

20150217001011.jpg

 真言密教の行者は、お釈迦様が悟られた境地を目ざす方法の一つとして「阿字観(アジカン)」という瞑想法を行う。
 開祖弘法大師に次いで、興教大師(コウギョウダイシ)もまた、この瞑想法を探求された。
 そして、出家修行者だけでなく、在家の方々も即身成仏(ソクシンボウブツ)できる方法としての阿字観を説かれた。

 綜藝種智院大学教授北尾隆心師は、興教大師における阿字観の特徴について指摘する。

阿字観を修すれば、浅観(センカン)の者でも現身往生(ゲンシンオウジョウ)でき、深修(シンシュ)の人は即身成仏(ソクシンジョウブツ)できるということ。
 つまり、阿字観こそが即身成仏することのできる修行方法であるということ。」


 ここで説く「浅観の者」とは、それほど深い段階まで修行が進んでいない行者であり、「深修の人」とは修行を深めた行者である。
 また、「現身往生」とは、ご本尊様と一体になることであり、「即身成仏」とは、この身このままで、本来のみ仏に成り切ってしまうことである。
 この世で絶対の安心(アンジン)を得るこうした心の段階に至れば、死後も地獄へ堕ちないのは確かであり、師は「死んだら確実に極楽へ行ける」と説かれた。

 興教大師の教えである。

「但一念の心に、阿字を観じ候(ソウロウ)程、疾(ト)く仏に成り候事は無く候」

 
(ただただ一心に阿字観を実践することほど早く、み仏に成り切ってしまう方法はない)

 北尾隆心師の指摘である。

「阿字観はすべての人が、どのような状態においても行い得る観法であり、その中核は息に阿を観じることであるとしたこと。」


 阿字観を実践するうちに、自分の呼吸そのものが「阿」であると気づく。
 そうなれば、死に臨み、もしも心が千々に乱れようと、救われる。
 興教大師の教えである。

「死する時には、出づる息によせて阿と観ずるなり。
 若(モ)し最後の時に、悪業(アクゴウ)身をせめて、心を忘れて正念(ショウネン)を乱さむ時には、只(タダ)口を開いて、息を出入すべきなり。
 出入共に阿の字なり。
 阿字を唱うる功徳(クドク)、不思議なるが故に、妄念(モウネン)暫(シバラ)く息(ヤ)んで、正念に住するなり。」


(死にそうになった時は、吐く息に阿をイメージすればよい。
 もしも、今際〈イマワ〉の際〈キワ〉になり、悪しき業〈ゴウ〉をつんだ報いによって心が乱れ、正しい観想ができなくなったならば、とにかく、口を開いて息を出し入れすることに集中すばよい
 出る息も入る息もすべて阿の字以外のものではない。
 呼吸は阿字を唱えていることに他ならず、その不思議な功徳の力はやがて執着心を消し去り、乱れた心は阿字の世界へと収まってゆくことだろう)

 北尾隆心師の指摘である。

「阿字観を修すのは『衆生を利せんが為』であり、密教者の修行とはすべて利他のためであるということ。」


 密教の行者が修行する理由は菩薩(ボサツ)になるためであり、菩薩とは、利他にかける者である。
 利他を実践するための最高の方法は、慈悲と智慧を兼ね備えたみ仏に成ることである。
 だから、即身成仏を目ざす。
 それが達成されたならば、決して到着点へ至ったのではなく、ようやく真のスタートがきれる資格を得たのである。
 お釈迦様は、悟られたからこそ、救済の旅へ進まれた。

 弘法大師興教大師も、悟られたからこそ後代の者たちへ無限の救いをもたらし続けておられる。

 出家者も、在家も、阿字観を修行する場合は等しく、ある願いをもって瞑想へ入る。

「自他法界同利益(ジタホウカイドウリヤク)」


自分も、ありとあらゆる生きとし生けるものたちも、真実世界において、共に輝こう

 阿字観を行っている行者の吐く息には、阿字に象徴される大日如来の光が伴い、吸う息にも又、光が伴い、行者が大日如来になれば世界は光に満ちる。
 正統な真言密教の行者も、真剣に学ぼうとする在家の方々も、こうして修行を行っている。

 2月15日の河北新報に作家高村薫氏の「21世紀の空海」が掲載された。
 氏は元オウム真理教の元信者3人へ取材を行い、稿の最後に、彼等の神秘体験と弘法大師の体験は似たものであると断じた。
「高知県・室戸崎で『明星来影(みょうじょうらいえい)す』の圧倒的体験をした若き空海とオウム真理教たちの違いは、自身の体験を言語化せんとする宗教者としての強固な意志の有無だけだとも言える。」

 お大師様と同じく、この虚空蔵求聞持法(コクゾウグモンジホウ)を実践した小生としては、菩薩を目ざして成満(ジョウマン)した密教行者と、麻原の思いつきに指導されて神秘体験をしたオウム真理教の信者とが同じことを行い、同じような心理状態になったという判断にただただ、開いた口が塞がらないとしか言いようがない。
 小生は取材されなかったが、弘法大師真言密教を学び、ご縁の方々と共に日々、実践している現場の一行者として、2月16日、智山伝法院(東京都港区)において北尾隆心師より伝授された内容を元に、この稿を書いた。
 お釈迦様は説かれた。

「過ちを犯した者も、悔い改めてまっとうに生きれば、やがては世の中の灯ともなれる」


 これからも善男善女と共に祖師方の教えを至心に学び、すなおな心と柔軟な思考を何とか保ちつつ、小さな光の放てる者を目ざし、修行を進めたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2015
02.16

慰霊と祈願の般若心経を唱えましょう

20150216000100.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が撮影しました。当日、講堂の大画面に流れます〉

20150216000101.jpg

20150216000102.jpg

20150216000104.jpg

20150216000105.jpg

 東日本大震災からもうすぐ4年になります。
 世論調査では、政府へ期待する施策として震災からの復旧・復興を挙げる人はもう、10人に1人もいません。
 知事も嘆くほどの人手不足にあって、もはや産業界の意志はオリンピックやカジノといったプロジェクトたちへ移っています。

 元請けから何段階か下で原発事故の現場へ社員を派遣しているA社長の話を聴きました。
「当社で請け負っている現場では、労働者のほとんどが入れ墨を背負った人かその周辺の人々です。
 大きなお風呂へ入るのですぐわかります。
 だから、社員の心構えの第一は当然、作業中あるいは通勤中の事故に遭わないことですが、それと同じくらい人間同士のトラブルに巻き込まれないよう注意させています。
 元請けへは信じられないほど高額な日給計算で人件費が支給されており、いったいいつまで続くのか見当もつかない状態だと、いろいろ考えさせられます。
 一旦、原発事故が起こればどうなるか、実態が明らかにされるまではまだまだ、月日がかかるんでしょうねえ」

 当山では、今年も般若心経108巻をお唱えします。
 御霊のご供養はもちろんですが、同時に、被災地が一日も早く復興・発展するよう、被災者の方々に真の安寧が一日も早く訪れるよう祈ります。
 どこにおられようと、どうぞご唱和ください。
 参加は自由、途中参加、途中退席も可です。

・日時:3月1日(日)午前10時より午後12時30分まで
・場所:法楽寺講堂(黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1)
・送迎車:午前9時30分にイズミティ21前より発車(必ず前日午後5時までに申し込んでください)
・授与品:般若心経御守
・受付中:写経・塔婆

201502160001.jpg




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.15

サツマイモによる供養 ―戦争で生き残った親の思いを継ぐ―

201502150001.jpg
〈渡辺ひろし師の寺子屋における講話では、熱のこもったお話と活発な質疑応答がありました〉

201502150002.jpg

 ご母堂様の月命日を迎える前日、大雪をものともせず、手紙を手にしたAさんがご来山された。
 印象的なことごとが縷々、綴られている中で、ぜひ、書きとめておきたい一事があった。

 A家では9月9にサツマイモを仏壇にお供えするというくだりに、をめでる重陽(チョウヨウ)の節句でイモも供える習わしがあったかと目を瞠った次の瞬間、さらに目は大きくなった。
 その日は、太平洋戦争中、亡父が南方の激戦で戦友を失った日であり、やがて米軍に投降した日でもあったという。
 父親は飢餓状態で逝った戦友のため、毎年一度、欠かさずサツマイモを供えて供養し、その心を継いだ母親も逝った今、Aさんご夫婦も同じ形で供養を続けておられる。

 重陽の節句において愛でられるは、中国伝来のものだが、後一条天皇が「花第一」とされ、藤原敏行は詠んだ。

「ひさかたの雲のうへにてみるはあまつほしとぞあやまたれける」


 宮中いっぱいに飾られたの花々は、まるで天空に広がる星々のようだ。
 なお「久方の」は雲にかかる枕詞であり、「雲の上」は、宮中を天上界になぞらえた表現である。
 源氏物語にもある。

「色まさるまがきのもをりをりに袖うちかけし秋をこふらし」


 ひときわ美しい籬(マガキ)のも、昔、共に舞ったあの秋の日を恋しく思っていることだろう。
 平安人は菊に深い情緒を覚え、菊は〈やまとだましい〉の形成に大きな役割を果たした。
 秋に咲く菊は春の桜と並んで、女花の代表とされている。
 英語の菊はchrythanthemum、〈MUM〉すなわちママが含まれており母の花でもあるのだ。

 さて、作家大岡昇平は『レイテ戦記』に書いた。

「人間の中の動物的なものの領域は広大である。
 平時の社会はそれを制御することによって成り立っているが、戦争はむしろそれを奨励し解放する」


 ここで言う「動物的なもの」とは、一つには、敵や競争相手を殺して自分が生き延びること、もう一つには、何としても自分の腹を満たして自分が生き延びることだろう。
 戦争で実際に殺し合いを行った兵のほとんどが黙して語らずにこの世を去りつつあるのは、自分にも戦友にも訪れた〈あの事態〉がとうてい言葉にできないからである。
 だから、自分なりのやり方で御霊へ語りかけ、思い余った人だけが最小限度の言葉で生者へ事実を伝え、「やっと俺も来たよ」と御霊の元へ逝く。
 確かに戦勝国による一方的な裁判はあったが、誰が殺したか、殺さなかったか、奪ったか、奪わなかったという膨大な事実は、現場を共にした戦友と仏神だけにしか、ほとんど知られない。
 私たちは感性と想像力を鈍らせず、こうして逝きつつある方々の思いを想わねばならない。
 さもないと再び戦争を繰り返し、〈あの事態〉が後の世代によって悲しくも追体験されることだろう。

 忘れられかけている先人、偉人方がいのちがけで守られたこの日本を物理的精神的に、いかにして守るか、文字どおり、叡智のすべてがかけられねばならない時に立ち至っているのではなかろうか。
 Aさんが言外に当山へ託されたものをよく考え、今日も不戦堂で祈りたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.14

過去が悔やまれて仕方がない時は? ―土木工事と真言―

201502140001.jpg
浄蓮花

 過去が悔やまれ、にうなされもするがどうしたらよいか、というご質問がありました。

 私たちは不完全な生きものです。
 常に、自分の耳目を用いて掴む限られた情報の中から、自分の能力や好き嫌いなどによって取捨選択したものを用いて判断し、行動しているので、後から〈過ち〉と判断せざるを得ないような行為をとってしまうことはやむを得ません。

 また、は一瞬も休むことなく変化し続けており、たとえば、昨日まで痩せ形の女性が好みだったのに、豊満な女性と親密になってからは、すっかり変わったなどということが起こるほどです。
 太平洋戦争、あるいはベトナム戦争などを挟んで思想や主張が180度変わった学者や評論家や文化人は山ほどいます。
 だから、確かに〈あの時はよかった〉はずのできごとが、〈なぜあんなことを行ったのか〉という後悔をもたらす場合があるのは、ある意味、当然と言うしかなく、むしろ、後悔をせず常に前向きなどという人は、若干、注意しておつき合いする必要があります。
 人生に起こる自他のマイナスをしっかり見つめるところからしか、の確かな成長はもたらされにくいからです。
 川村敏明医師は、を病んだ方々と共に考えてこそ「人間が生きることの本質が見えてくる」と言われ、日々、人生相談を行っている当山もまったく同感です。

 最新の土木技術は、コンクリートの擁壁を用いず、水平に踏み固めた地面へ先が90度以上反り返った鋼鉄の網を敷きつめ、反り返った高さの分だけまた土を盛って踏み固めて同じように網を敷くという工法を編みだし、垂直に近い崖が安全に造られるようになりました。
 この工事現場を眺め、の成長もこうしてもたらされるという強い実感を持ちました。
 もちろん、には瞬時の大転換もありますが、そのためには、自覚しないところできっと、デコボコをじわじわと踏み固める工事が行われていたはずです。

 こうしてはたらくを別ものにすることはできません。
 変化していればこそ、心はいつも新鮮でいられるからです。
 問題は、変化によって心が塞がったり迷路へ迷い込んだりしたままにならず、どうやって成長できるか、言い換えれば心の工事はどうすればきちんと行われるかということに尽きます。

 答の一つは、自分を省みるのと同じく、他者の心もよく観たり感じとったりすることです。
 それは現実の人間を相手にしても、小説や音楽などの芸術に接してもできます。
 そうすると、そこここに〈自分と同じような人々〉がいて、〈自分と同じような苦楽〉を生きている真実に目を瞠らされることでしょう。
 そのできごとは必ず心を楽にしてくれます。
 もう一つは、無心に真言や経文を唱えることです。
 それは知らぬ間に、落ちた穴から陽光の当たる平地へと引き上げてくれることでしょう。
 まず、うなされた時に、自分の守本尊様の真言を唱えるようをお勧めします。
 当山を訪れる善男善女が、そうしてあらたな歩みを初めておられます。
 ご加護を祈っています。合掌




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2015
02.13

映画「降りてゆく生き方」について

201502130001.jpg
〈公式サイトよりお借りして加工しました〉

降りてゆく生き方」という映画がある。
 縁あって、映画ができるまでの成り行きを知った。

 DVDの冒頭、武田鉄矢氏が言う。

「私たちは天下国家の話をしたがるが、一番大切なのは、ここちよい人と出会い、ここちよい会話ができるかどうかではないか」

「ミニチュアサイズの理想のモデルをつくれない人はどんな大型のモデルもつくれないという言葉を聞いたが、そのとおりだと思う」


 ここ黒川郡大和町に「寺院サービス」という神社仏閣専門の建築会社がある。
 そこで何度も〈ミニチュア〉の寺院を見た。
 四方八方から何度も眺め、どう造るかを決めてゆく。
 当山の講堂も、そうしてできた。
 全高五メートル近い当山のご本尊様もまた、10分の1の〈ミニチュア〉で表情や印の形などを考慮した上で発注し、途中で幾度も成り行きを確認し、理想のイメージどおりにできあがった。

 人の関係においてもそうではないか。
 信頼感を持てる者同士がいつしか集まり、周囲へ自然に輪ができる人であって初めて真のリーダーたり得るのではないか。
 小さな人間関係においてまっとうな人が社会という大きな人間関係をまっとうに動かしてこそ、人々は安心できるのではないか。

「この人の生き方、考え方、つくるもの、それが私にとってここちよい。そこに人がつながる。
 その手応えがあればよい」


 身近にある安心や信頼を大切にしようというところから、平和への思いが本当に湧いてくるのではないか。

 この映画のキーワードである。

「さまざまな場所で 空の下で さまざまな人人人 少しでも 暮らし つながる 生きる 活きる 日本 感性 いのち」


 映画の冒頭に登場するのは、車椅子のまちづくりリーダー清水義晴氏である。

「世の中をよくするのも、悪くすすのも、ただ、この一人からです」


 氏は病院のベッドで絶望し、ただただ神に祈っていたおり、奇跡的な出会いがあって、生きる世界を得た。
 今、人につながり、世界につながっているという不動の手応えがある日々を生きている。
 氏の姿勢は仏陀の姿勢そのものである。
 自らをどうするか、それがすべての始まりであり、そこからしか本当の救いへは入れない。

 最後に登場するのは、北海道浦河赤十字病院精神科神経科部長川村敏明医師である。

「病人をただ正常な人に近づければよいというものではなく、もっと複雑です。
 ただ治すのではなく、今の状態の中に苦しみがあるからこそ、何が大事かがが見える。
 彼等と一緒に考えていくことの中に、人間が生きることの本質が見えてくる」

「病気でない人だけが集まっても、表面的な見方しかできない。
 健常者自身が、表面的なことしか見ない中で行き詰まっているのではないか」


 病気の人と一緒に生きてみてようやく、本当に我が身がふり返られる場合がある。
 我が身に潜み、表面化していないだけのさまざまな心の病気が観える。
 行き詰まってなお生きる人の姿に、自分がまだまだ甘いことを知らされる。

 落ち着いて考えてみよう。
 私たちの誰一人として、姿形も心も〈理想型そのもの〉として存在してはいない。
 人気アニメどおりの肉体を持ち、同時にみ仏そのものの心を持った人は誰もいない。
 ヒットラーは、誰の目にも明らかな美や、混じり気のない純粋な血や、鉄の如く強い国家を求めた。
 そこではさまざまな〈理想的でないもの〉が排除された。
 私たちの社会は、はてしなく財物に恵まれ、健康を維持し、英語を駆使して世界のどこででも思いのままに生きられる人間像を理想としているように思えるが、同じ島国日本で生きている皆がそうした理想的存在になれると本気で思い、真剣にそこを目指しているだろうか。
 誰もがそうした方向を理想と信じているだろうか?
 一本道で競争していれば、やがてきっと皆が幸せがつかめると確信しているだろうか?
 そして、この世のそこここに、そうした成功例があるだろうか?
 あるいは、やがて成功者だらけになると思えるだろうか?
 今、現に苦しみ、悩み、夢が持てず、辛い日々を送っている多くの人々の思いにこそ、「何が大事か」、「人間が生きることの本質」は何か、が感得できるのではないか。

 最後に武田鉄矢氏が言う。

「私たちは、昇ってゆく生き方を探し求めてきて、その中にあまり幸せはないぞ……、真逆の降りてゆく生き方の中に、自分のいのちが輝く瞬間があるような気がする。
 人のいのちが燃えるような瞬間があるのではないか。
 この方角はきっとまちがっていない。
 この映画を通じて、降りてゆく生き方の気づきになればと思う」


 ご縁の方々と共に観たい映画である。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.12

地獄と極楽を生じさせるもの ―願いをかける人と、修法する行者の心あるいは教団に姿勢について―

201502120001.jpg

 当山がかつてブログと機関紙『法楽』へ載せた文章を、ご縁の方から示された。
舘釋貢次さんの著書『宗教経営学』の冒頭で住職が書いた文章を読みました。
 忘れられません」
 今から15年も前の拙文をあらためて読んでみる。
 人生相談にご来山される方々は、この世の地獄極楽もありのままに見せてくださる。
 現に苦や楽という結果が出ていることは厳粛だ。
 主たる原因となったものは逃げようがない。

「信仰心をあまり持っておられなかった医師が大病に冒され、ご家族が新宗教に救いを求められた。
 仏典を奉ずる名のある団体だったので、最初に言われた『全財産をかける覚悟がなければ治らないでしょう』にも不信を抱かず、言われるがままに蓄えが底をつくほど大金を納め続けたが、効なく、風が吹くように医師はこの世を去られた。
 最後に『この世には神も仏もない』と嘆かれたという。
 家風もあり、どん底に堕ちたお子さんたちは、〈宗教は恐ろしい、近づきたくない〉と考えている。」

「『おすがりする思いを金銭で表わせ』といって新宗教は大金を集め、たちまち勃興する。
 典型的な〈尊い経典の用〉である。
 縁の人を地獄に堕とし、死の恐怖を利用する死神となった自分たちもまた、因縁によって地獄に堕ちるであろう。
 この世の地獄である。」

「み仏の名を借りた似非(エセ)宗教のつくり出す地獄と、強い信仰心を持たなくとも自分の心の裡におわしますみ仏の心に導かれて温かくしみじみと生きられる方々の住まわれる極楽と両方を教えていただいた。
があって があって がある いずれも心がつくり出すさまを説き明かそう〟 ―『法句経』双要品―」


 当山が御霊と参列者の方々の心へ届くようお通夜で読誦する経典に慈雲尊者の『十戒』がある。
 そこではとの正体が明確に説かれている。

「仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすをといい、これに背くをという。
 本性(ホンショウ)に身口意(シンクイ)相応すれば十おのずから全きなり。」


 自分の心におわすみ仏のお心にそって自分の心がはたらけば善であり、み仏のお心に背いた心がはたらけばである。
 揺れ動き、定まらない心を司る根本のところに合わせて身体と言葉と意志とがはたらけば、十の善き戒めは自然に達成される。


 では、冒頭の問題はどうなるか?
 当山も善男善女のお申し込みに応じてご祈祷を行っている。
 まだ死ぬわけにはゆかない、何としても今しばし、生きてやるべきことをやり遂げたい。
 こうした方々の思いと一体になって、み仏のご加護を祈る。
 自分自身がこれまで幾度となく救われた体験上、結果はみ仏にお任せするしかないが、祈りは必ず通じ、好転する可能性は確かにあると信じている。
 だから、修法し、「必ずご加護があります」と励ます。
 しかし、大切なのは、お金でモノを買う交換経済とは異なり、かけたものと受け取るものとのバランスは、質量共にわからないという点にある。
 たとえば当病平癒(トウビョウヘイユ)を祈った場合、結果はさまざまだ。
 奇跡的によくなる方もあれば、あまり変わらない方も、あるいは、医者の宣告とそれほど違わない形で旅立つ方もおられる。
 問題は、それぞれの結果を受け、あるいは結果が出る過程にあって、病人がいかなる心で日々を過ごすかにより地獄極楽も現れること、そして、当人がそれをいかに自覚するかということである。
 まず、奇跡的に快癒した場合、感謝し、み仏へ帰依(キエ)する心が強まり、自然と十善戒にそった生き方をするようになる場合もあれば、また、お金を納めれば何とかなるだろうと、日常生活での交換経済における〈便利さ〉というレベルでしか受けとめられない方もおられる。
 前者は生き方が変わり、後者は次の機会にも同じように祈願をかけ、もしも〈ご利益〉がなければ、たやすく他の便利な仏神を求めて彷徨い、生き方は何ら変わらない。
 病状にあまり変化がなかったり、好転しなかったりする場合も、同じような現象が現れる。

 だから、宗教における祈りの大切さは、祈りを通じてよき心になることであり、それは慈雲尊者の説く「仏性」や「本性」がよくはたらくことを意味する。
 よき願いをもって正しく祈るのは決して欲張りではなく、煩悩に後押しされた欲が清らかな大欲(タイヨク)へと昇華する過程なのだ。
 善に向かうのである。
 その手助けをするためにこそ、行者は、願主と共に祈る。
 ここで、行者にとって最も大切な条件が明らかになる。
 一つは、願主の願いを我が願いとして祈ることであり、もう一つは、行者はみ仏すなわちご本尊様と一体化せねばならないということである。
 後者は、行者行者たる資格すなわち本当にプロであるかどうかが問われる。
 それは能力の問題だけでなく、〈私心〉がないかどうかが問われることでもある。
 
 ようやく冒頭の問題ににつながった。
 小生が指摘したのは、自分のため、あるいは教団のため、一気に大金を集めたい、世間的な力を持ちたいという私心が、み仏へおすがりするしかなくなった人の心を踏みにじりかねないし、実生活に悪しき影響をも及ぼしかねないということだった。
 つまり、〈私心〉によって、あるいは〈私心〉に負けつつ宗教的活動を行う者たちがおり、それが世間的には成功者となっている場合もあることに警鐘を鳴らしたつもりである。
 舘釋貢次氏も、ここを衝くべく、拙文を引用されたのだろう。

 実に、宗教者と名乗る者の私心(=我欲)のありなしは、他者からわかりにくいし、当然、うまくオブラートに包まれてもいる。
 しかし、原因は必ず結果をもたらす。
 また、行者は永遠の修行者であり、永遠の未熟者なので、修法した結果に対して敏感でなければならず、そこから自分の心を省みるという手順を絶対に怠ってはならないと肝に銘じている。
 もちろん、それは〈効き目〉があったかどうかとご本尊様のおはからいをチェックするのではなく、願主が宗教に触れてよき変化を得てくださったかどうかという一点の問題である。
 だから、受験合格を祈願し、受かってお礼参りにご来山されるのも嬉しいが、志望校に落ちてなお、ご来山されることはいっそう嬉しい。
 実にこの世の地獄も極楽も、「善があって 悪があって 善がある いずれも心がつくり出す」ことによって生じる。
 願主の心と行者の心とがあいまって、この世は地獄にも極楽にもなるのである。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.11

「うごけば寒い」 ―橋本夢道の句を読む―

201502100005.jpg

 厳しい寒波が来ている今、寒い外と暖かな内(ウチ)をあたふたと行き来しているうちに、橋本夢道の句を思い出した。

「うごけば寒い」


 私たちは普通、じっとしていると寒いから身体を動かして温めようと思うが、暖房のない獄中では、鳥や猫が丸くなっているように、動かずにいる方が寒さを感じないで済むという。
 滝行では、じっとしたまま一心に真言を唱えているので耐えられる。
 水の中を一定時間、漫然と歩いて来いと指示されたなら、なかなかやり通せないと思われる。
 太平洋戦争がまさに勃発しようとしていた時、38才の夢道は左翼思想を持った危険人物として投獄されていた。
 そのおりに詠んだ凄まじい句である。

 夢道は26才で弟を亡くしている。

「泣くまいたばこを一本吸う」


 何と直截な表現だろう。
 こうした感性の持ち主には、現象世界のすべてが簡明だったのではないか。
 あらゆるものが素(ス)のままに立ち顕れたのだろう。
 ただし、光景がカメラで写し撮られるように言葉が流れ出るわけではないはずだ。
 結果はサラリとしていても、組み立てる際の呻きは相当のものだったのではないか。
 その証拠に、昭和49年秋、臨終間際に句を作り、「推敲したい」と言ったきり旅立った。

「桃咲く藁屋から七十年夢の秋」


 徳島県の小作農家に生まれた夢道は向学心があったものの、高等小学校卒業を卒業してすぐ、15才で奉公に出された。
 人生の幕をまさに閉じようとしていた時、70年の一生が甦っていたのだろうか。
 病苦が緩み、ふと詠んだ一句でも、納得できるまで推敲したいという意欲を持っていた。

 夢道の代表的な句はこれだろうか。

「無礼なるよ毎日馬鹿げたるものを食わしむ」


 昭和22年、敗戦直後の貧しさの中では、一生懸命に炊事をしようとするへさしたる食材も与えられなかった。
〝お前はそんなに健気(ケナゲ)なのに、お前の思いとはあまりにもかけ離れたものしか作らせられないなんて……〟
 後姿に合掌しつつ詫びていたのではなかろうか。
 一軒家を本堂とし、トイレも水道もないボロボロのプレハブで寝起きしていた時代、小生もに深く詫びたことがある。
 真冬、ご縁の方々からいただいた食材で作った夕食をプレハブへ運ぶ途中、雪に足を滑らせたは、食器を載せたお盆を落としてしまい、泣いた。
 二人は言葉もなく、お賽銭箱などから小銭をいただき、ラーメンを食べにでかけたのだった。
 あの時ほど、愚かな自分を悔い、へ詫びたことはない。
 俳人は表現した。
 しかし、何の才能もない凡人は、しかも営利活動から離れた一介の行者は、何もできず、ただ、歯を食いしばるだけだった。
 そう言えば、歯医者から「奥歯がめり込んでいますよ」と指摘されたことがある。
 全身全霊で引導を渡しているからだろうが、その他の原因もあって不思議ではない。

 最後にもう一句、挙げておきたい。

「一生を棒に俳句や阿波踊り」


 普通、「一生を棒に振る」と言えば、取り返しのつかない大失敗などによって、それまでの人生がすっかり台無しになることを意味する。
 しかし、ここでは、潔く人生を賭けきってしまうという不動の姿勢が「阿波踊り」とあいまって、やや客観的で硬さを離れたダイナミックな句に結晶した。
 自問したくなる。
 自分は一生を〈棒に振っている〉と確信しつつ生きているか?

 夢道は『銀座 若松』に務めていたおりに蜜豆を考案した。

蜜豆をギリシャの神は知らざりき」


 皆さんも蜜豆を食べながらゆっくりとふり返ってみてはいかがでしょうか。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.10

転んだ子供に手を差し伸べる母親は観音様 ―『クローズアップ現代』と愛着障害―

201502100001.jpg

 待ちに待った立春を過ぎたのに、春はまだ名のみに過ぎず、雪空にかかる雲はあまりにも分厚い。
 弱々しい陽光を頼りにガソリンスタンドへ向かう朝、ジーパン姿で子供を抱いた母親と、少し後から焦茶色をした熊のぬいぐるみにすっぽりと包まれた小さな女の子が、左横前方の歩道を歩いてきた。
 三人を視界に認めた次の瞬間、母親を追おうとしたぬいぐるみの子がバタンと前のめりに転び、膝をついたまま万歳して母親を呼ぶ。
 ウィンドウガラスを閉めているので声は聞こえない。
 思わずスピードを緩め、心で「待ってくれ!」と叫んだ。
 振り向き、ゆっくりと方向を変えるショートカットの母親の顔に「しょうがないわねえ」という観音様の気配を感じたまま、通り過ぎた。
 女の子の安堵感が胸にこたえ、無性に嬉しくなった。
〝これで、この世を信頼しつつ大人になれる……〟

 その夜、NHKテレビの『クローズアップ現代』が「少年犯罪・加害者の心に何が ~「愛着障害」と子供たち~」を放映した。
 聞き慣れない愛着障害とは、「幼少期に親から虐待などを受けることで、自分の感情や行動をうまくコントロールできなくなる」状態で、「自分のことを大事に思うことができない、他者への想像力が働かないなど基本的な社会性を持つことができず、人とのコミュニケーションがいびつになる」結果をもたらす。
 親と子の間で結ばれるべき〈無条件の信頼〉が構築されないほど酷い扱いを受けた子供の心は、大きく歪んでしまう。
 少年院に入る男の子は2割、女の子は4割が幼少時に虐待を受けているという調査もある。
 平成25年、広島の呉市において16才の少女を7人がかりで殺害した事件における首謀者と目される少女(当時16才)に対し、懲役13年を言い渡した広島地裁は、減刑の理由として「持続的に受けてきた虐待による愛着障害」を挙げた。
 少女は「家で生活することが苦痛だった」と述べており、その結果、あまりに幼く、粗暴な人格が形成された。

 愛着障害を持った子供は少年院などで、あまりにべたべたしてくるかと思えば、ふとしたことで凶暴になり、基本的な人間関係が築けないので教官も苦労する。
 こうした人格的不具合は、虐待による愛着障害か、それとも先天的発達障害によるものか。
 判断はとても難しいが、福井大学医学部附属病院友田明美教授などの研究により、愛着障害に陥った子供の脳に著しい特徴があることは明らかになった。
 一つは、「反社会的行動を抑制する信号を発する」前頭皮質の体積が減少していること。
 もう一つは、「前頭皮質からの信号を受け行動を起こしたり抑止したりする」線条体のはたらきが低下していることである。
 逆ギレする、パニックになる、よいことをして誉められても反応しない、悪いことを指摘されるとフリーズする、これらは脳の状態と密接に結びついており、薬を用いた治療も研究され始めてはいるが、あくまでも人間対人間のやりとりによる改善が基本である。

 岐阜大学医学部精神神経科准教授高岡健氏は指摘する。
 親や家族のいる家は港のようなものであり、子供は船のようなものである。
 港がしっかりしていればこそ、安心して船出ができる。
 しかし、港で裏切られた経験が積み重なると、常に警戒信号を発し、ちょっとしたことにも過剰に反応する。
 誉めてくれる相手すら信用できず、周囲を試そうと、他人の嫌がることをわざと行うなどの異常な行動に走ったりもする。
 大切なのは、長く一緒にいてやるという時間そのものよりも、子供からのアプローチに対する応答性であり、とにかく〈きちんと応えてやること〉が最も大切である。
 子供が自然に〈船出〉し始める3才までが勝負である。
 ただし、家庭環境について、子供の心を発達させる大切な要因であると考えることは欠かせないが、虐待と脳と犯罪とを因果関係として胆略的に結んでしまってはならない。

 少年院の教官は述懐する。
「子供がマイナスの状態から出発するので大変だ」
「赤ちゃんを抱いているような感覚で接しなければならない」
「親を孤立させず、子供に自身を持たせたい」
「ここでは、〈これまでと違った大人がいる〉とわかってもらいたい」
「子供がやがて自分の気持や考えを語り出すと、ああ、自分を大切にし始めている、と嬉しくなる」

 今朝、目にしたのは救いと希望の光景だった。
 どうしようもなくすがりたい時、目を向け、心を向け、手を差し伸べてくれる相手がいてこそ、真の希望が持てる。
 子供を持った親はすべて、子供によって、菩薩(ボサツ)になるきっかけを与えられている。
 やはり、この世はマンダラそのもの、大日如来の世界であると合掌しつつ眠りに就いた。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.09

祈りで伸びる死者の腕 ―看取る人も納棺師も―

201502090001.jpg

 納棺師Aさんは、祈りを欠かさない。
 仏様のお姿を整えるのは、自分の力だけではまっとうできない仕事だからだ。
 状態は多種多様、ご遺族の視線もあり、一瞬の気も抜けない。
 たとえば、死後硬直のため、お柩へきちんと入らないほど腕が曲がっている場合もある。
 その時は心中の祈りに一段と力を込める。
 すると、仏様の腕が徐々に柔らかく動き、まっすぐになってくれたりする。
 人知れず〈伝家の宝刀〉を磨いておかないと、納得できる仕事はできない。

 誰にでもこうした伝家の宝刀があるのではないか。
 たとえば小生の場合は、南無大師遍照金剛というお大師様のご宝号(ホウゴウ)や、お不動様の慈救呪(ジクジュ)、大日如来の光明真言、お地蔵様の真言、あるいは守本尊様の真言などである。
 善男善女の不安や迷いを取り除く際に、お大師様は必ずお力をお与えくださる。
 窮地に陥った時、幾度、慈救呪によって脱することができたか、数え切れない。
 光明真言のないご葬儀やご供養はあり得ない。
 最後のよりどころを求める方々をお地蔵様は必ず、母親のように包んでくださる。
 太平洋戦争で幾度となく出撃した戦闘機のパイロットBさんは、仲間たちが「母ちゃん!」と叫んだことを知っており、Bさんもまた、そう叫んで死地をくぐり抜けた。
 街の片隅で静かに不戦を説いた亡きBさんの面影は、「不戦日本」の祈りを支えてくださっている。
 時代劇の斬り合いで「なむさん!」という唸り声のようなものを発する場合がある。
 あれは「南無三宝(ナムサンポウ)」の略であり、「仏と法と僧へ帰依(キエ)します」という救いを求める誓いの言葉である。
 死を覚悟しつつ生きている侍も、もはやこれまでかという瞬間には、思わず、祈りが生ずるのだ。
 伝家の宝刀はありがたい。

 看護職のCさんは、最期に誰かへ何かをつぶやき、安心したように去る方が多いと言う。
 つぶやきを聴く瞬間は尊厳に打たれる。
 看取りは、仏様になって行く過程を目撃することであり、「ご苦労様でした」「お疲れ様でした」と労(イタワ)らずにはいられない。
 どなたもが、その人なりの形でこの世での人生修行をまっとうし、仏様となる――。
 等しく尊い。
 やはり、Aさんと同じく、祈りが欠かせない。
 そうでないと、ことの重さや大きさに圧倒されてしまいかねない。

 中島みゆきは『命のリレー』で唄っている。
「この一生だけでは辿(タド)り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ
 この一生だけでは辿り着けないとしても
 命のバトン掴んで 願いを引き継いでゆけ」

 心身を引き締め、願いを持って生きている人のいのちは、何らかの形でバトンタッチされ、終着点のない願いもまた、引き継いで行かれることだろう。
 願いと祈りの伴ったいのちは、もはや、一人の人間という身体的な限定条件を突破して、広大無辺ないのちの世界に通じている。
 そこはもはや、み仏の世界でもある。
 AさんもBさんもCさんも、即身成仏(ソクシンジョウブツ)の実践者である。
 今日も密かに伝家の宝刀を抜きつつ、法務に励みたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.08

真智の開発をめざして(その15) ─人も自然も師である─

201502080002.jpg
〈家具職人増野繁治が今年最初に作った作品です〉

201502080005.jpg
は、「形はすべて過去にあった」と言われます〉

201502080006.jpg
〈いかなる美女の脚線美もかなわないのでは……〉

201502080007.jpg

201502080001.jpg
藤原正彦は何者にも阿(オモネ)ません〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、私たちの心からもみ仏の光が発せられ、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、「正しさ」は、五つの恩を深く想う時に実現されます。
 それは、国家社会の恩、とご先祖様の恩、人間や生きとし生けるものの恩、や教え導いてくださる方の恩、仏法僧(ブッポウソウ)の恩です。
 今回は、「の恩」について考えてみましょう。

1 世間的な

 人は、人によって、人として育てられなければ、霊性を持った人として成長することはできません。
 今から約100年前、インドのジャングルで精神障害を持った二人の少女が発見され、保護されましたが、ついに人になりきることができないまま、若くして亡くなりました。
 人は実に、人の〈間〉にあってこそ、人間になれるのでしょう。
 そうした意味では、この世に生まれた私たちにとって、人間以上の師はありません。
 まず、乳を与え、世話をする母と、母子を守る父との庇護によって最も不安定な生後を乗り切り、その間に言葉を含む文化という空気に慣れます。
 だから人生で最初の師は、両です。
 特に、言葉を教えられ、ふるまい方の基礎を身につけることが決定的に重要です。
 次の段階では、学校教育が行われ、教師が文字どおりの師となります。
 最近、政府や産業界を挙げて「英語ができなければ世界で通用しませんよ」と宣伝していますが、実際に小学生や中学生に接している身としては、強い疑問を持っています。
 数学者藤原正彦氏が週刊新潮の2月5日号へ「グローバル人材という幻想」を寄稿しています。
 アメリカ留学の体験者であり世界的に通用する数学者である氏がなぜ「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数」と強調してやまないのか、私たちは自分の頭でよく考えてみたいものです。

「我が国の学問水準の高さは、日本語で学習し研究できるという土壌によるものであり、日本語という言語の素晴らしさと深く結びついている。」

「元外交官のO氏は私に『外交交渉』において勝負は結局のところ『教養と人間的魅力』と言った。
 要するに、国際的に活躍するには、話す言葉ではなく話す内容である。」

「学校教育で英語に狂奔することの恐ろしさは、英語教育と人間の内容を充実させることとの両立が限られた授業時間内で難しい点にある。
 とりわけ小学校からの英語は罪が深い。
 日本人としての自覚、人間としての情緒、日本語による論理的思考などを育てる時期だからだ。」


 いささか、脱線しましたが、ふるまい方や言葉を体得し、先輩や上司や、各方面における師の導きによって私たちは一生、成長し続けます。
 勝れた人は真似をしたい教師となり、愚かな人はああなりたくないという反面教師になり、広い意味ではあらゆる人間が師であると言えます。

 また、謙虚な心で生きていれば、自然も生きものも、すべてが師となり得ます。
 かつて、托鉢修行に精を出していた頃、出会ったヘビに金縛りの法をかけたことがありました。
 真夏の灼けた石積みの間でじっとこちらを向いたまま動かなくなったヘビの忍耐強さには感心しました。
 あちこちの墓地で開眼供養や納骨の修法を行う時、光明真言法を結び大日如来の真言をお唱えするあたりで必ずと言ってよいほど、陽光が射してきます。
 お大師様の「修法は天地へ通じ、仏界へ通じる」という教えが真実であることを、おりおりに経験させていただき、感謝しつつ日々、法務を行っています。

 このように、人も生きものも自然も、師として私たちを24時間、導いてくださいます。
 何とありがたいことでしょうか。
 次回は、この世で私たちの師となってくださる守本尊様について記します。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.07

真智の開発をめざして(その14) ─悲劇と大日如来─

201502070004.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、私たちの心からもみ仏の光が発せられ、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、「正しさ」は、五つの恩を深く想う時に実現されます。
 それは、国家社会の恩、親とご先祖様の恩、人間や生きとし生けるものの恩、師や教え導いてくださる方の恩、仏法僧(ブッポウソウ)の恩です。
 今回は、「人間や生きとし生けるものの恩」について考えてみましょう。

1 生きものの世界と根本仏大日如来

 言うまでもなく、私たちは生きものです。
 生きもののほとんどは、他の生きもののいのちをもらって自分のいのちをつないでいます。
 霊性と知力のある人間は、この事実を知れば、おのづから感謝の念が湧いてきます。
 稲も、大豆も、白菜も、ブリも、鶏も、黙っていのちを差し出し、私たちを生かしてくれます。
 もしも、こうした事実に対してありがたいと思えなければ、心のどこかが錆び付くか壊れかけているのではないかと強く疑ってみなければなりません。
 きっとこの先、まっとうに生き続けられはしないからです。

 経典は、鳥の声も虫の音も、小川のせせらぎや草木のざわめきも、すべて大日如来の説法であると説いています。
 そう聴き取れるかどうかは、私たちの心が曇らず、美しい鏡面のようになっているかどうかにかかっています。
 では、ケンカする猫の唸り声や、台風で大波が打ち寄せる音などはどうなのか?
 血が流れ、船が壊れても、等しく〈説法〉なのか?
 耐え難い悲劇としか受け取れないものまでもありがたい説法であるとはどういうことか?

2 人間の限界と悲劇

 故福田恒存は書きました。

「行動といふものは、つねに判断の停止と批判の中絶によって、はじめて可能になる。」


 たとえば、私たちがフグを食べる時、きちんとした店で出してくれるのだからきっと大丈夫だろうと思って注文しますが、実際は、フグの安全自体に関する情報をほとんど得ておらず、もちろん、現物を調べるといった確認などしてはいません。
 たとえば、おつき合いしている彼女へ「頃はよかろう」と思ってプロポーズする時、実際は、彼女が、親の勧めで心ならずもお見合いした男性に惹かれ始めていたとて、何ら不思議ではありません。
 つまり、私たちは状況のすべてを知った上で判断し、行動できるはずはないのです。
 あり合わせの情報で一旦、思考を止めないと行動へ移れません。

「不十分な資料によってのみ、行動している。」

「資料は無限にあり、刻々に増しつつあるものであり、のみならず、行動によってのみ、あるひは明かされ、あるひは新しく発生するからだ。
 私たちは認識のためにも、行動しなければならぬ。
 そして失敗するであらう。
 それが悲劇の型である。
 喜劇は、このいきちがひからの脱出を描く。
 それだけのちがひだ。」


 私たちは、あり合わせの情報と、あり合わせの判断力で行動します。
 そこには必ず〈あり合わせ〉という限界によってもたらされる失敗が付きものです。
 善意が裏切られ、傷つき、あるいは破滅させられる悲劇が生まれます。
 こうした構造で生きている私たちの目に映る世界から悲劇はなくなりません。
 では救われようがないかと言えばそうではありません。
 私たちは、悲喜劇の〈主人公〉であるだけでなく、〈観客〉でもあり得るからです。

3 悲劇を超えさせるもの

 私たちは小説や映画や舞台などを通して何を観るか?
 それは、できごとの全体です。
 そこでは、ヒーローもヒロインも悪役もすべては、あるいは意のままに行動し、あるいは行動が意のままになりませんが、すべては全体を構成するからこそ、意味を持ちます。

「個人は全体を自己に奉仕せしめることはできず、自己を全体に奉仕せしめなければならない。
 必然性といふものは、個人の側にはなく、つねに全体の側にある。」


 スパイダーマンがビルからビルへ飛び移っても、そのこと自体は彼がそういう存在であることを示すのみであり、囚われた美女が泣いていても、同じです。
 成り行き全体の中にあって初めて、飛び移ったことが美女を救うために必要なできごとであり、彼の超能力が耀き出すためにこそ、美女の涙は必要なのです。
 私たちは、日常生活にあっても、無意識のうちに、全体を観る目があると感じているからこそ、個々の悲しいできごとや辛いできごとにも意義づけをし、耐えつつ生きられます。

4 個々への合掌を通じたいのちの世界全体への合掌

 私たちは、カラスが子育てをしているのを見ると微笑ましくなりますが、カラスがネズミを咥えているのを見ると目を背けたくなります。
 しかし、いずれもが、いのちの世界全体を成り立たせている〈部分〉として平等であり、それらのすべてが時々刻々と〈全体〉を存続させています。
 生と死とは全体のために必要であり、歓喜も悲嘆もすべてが全体を成り立たせています。
 また、私たちは全体の構造の全体像を知り得ませんが、無限の多様性こそがいのちの世界が存続するための必要条件であることは感じとっています。
 ウグイスの声や梅の花に合掌し、ついばまれるミミズや人の足で踏みつけられるタンポポに合掌し、いのちの世界全体への感謝を忘れず、多様性を破壊する人間の営みに抗しつつ、まっとうに生きたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.07

春昼堂さんが移転オープンしました

201502070001.jpg

201502070002.jpg

 2月6日、骨董店『春昼堂』さんが、おなじみの八幡町に再度、オープンしました。
「東北に埋もれている『古き良き物』を次世代に手渡す」という信念は不動です。
 どうぞ、お立ち寄りください。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.06

映画『紙の月』とイスラム国

201502060001.jpg

 映画『紙の月』(原作:角田光代著『紙の月』)は、何不自由ないのに〈満たされない〉女性銀行員が、ふとした成り行きで不倫のために横領し、破滅する物語である。
 人は善悪を知り、悪意もないままに、取り返しのつかない行動に走る場合がある。
 しかも、最初は〈大丈夫〉だったはずなのに……。

 宮沢りえが演じた主人公梅澤梨花には、子供の頃から解けない疑問があった。
 ミッション系の中学校に通っている頃、貧しい国の子供たちへ全校挙げて募金運動を行っていた。
 与えることをこそ喜ぶという精神で始まり、実際に救われた現地の子供たちから手紙が届いたりもして、善意は高まっていた。
 しかし、運動が下火になった時、梨花は父親の財布から盗んだお金を募金箱へ入れる。
 シスターは当然、叱るが梨花は退かない。
 シスターから教えられたはずの大切な精神を仲間たちが忘れてしまっているのに耐えられず、クラスとしての目標達成を目指してやった行動は赦されないのかという。
 お題目を唱えるものの、実態が薄れてしまっている信念や善意を暗に批判している。
 大きな〈善〉のために小さな〈悪〉は赦されるのではないか?
 場合によっては、悪を敢えて行うところにこそ、信念や善意に中身を伴わせる人間の真実があるのではないか?
 すぐに薄れる信念や善意など、結局は偽ものではないか?

 こうした疑問を抱きつつ大人になった梨花は、人も羨む私生活や仕事ぶりにもかかわらず、依然として〈偽もの〉に囲まれていた。
 そこに生じた年下男性との不倫は本ものと思え、銀行の金を使い込み、カード地獄に堕ちながらもひとときに賭けたが、男は去り、悪事も露見した。
 調査した上司隅より子(小林聡美)と二人きりになった対決の場で、梨花は、お金で得られるものなどたかが知れていると言われ、行くべきところへ行くと脱走を決意する。
 そこで、ふり返りながらより子へ投げつけた言葉は鮮烈だ。
「一緒に行く?」
 上司から煙たがられるほどのはたらき者でありながら退社を求められ、それでも部下の不正を暴き、権利を行使して銀行員のイスにしがみつこうとするより子へ、言外に「貴女も偽ものを捨ててごらんなさいよ!」と挑戦状を叩きつけたのだ。

 では、梨花はどこへ行ったか。
 かつて中学生の頃、募金を送り、お返しにお礼状と写真をくれたタイの少年を探し、露店で見つけた相手はそれと気づかぬままに、子供が落としたいくつかのリンゴを拾ってくれたお礼として言葉も通じない中でリンゴを一個、梨花へ渡す。
 それをかじった梨花は黙って雑踏の中へ消えて行く。
 真実を確認した人生の勝者として。

 さて、イスラム国への戦闘員流入は止まらない。
 外国人戦闘員は1万5千人、出身国は80カ国を超えている。
 北大准教授中島岳志氏は指摘する。
「生きている実感が乏しいために、死に直結するような極限状況を求めている」
イスラム国への流入はこれからも続くのではないか。
 若者が生の実感を得るには、小さな場所でいいので社会とつながっていくしかない」
 きっと、流入する戦闘員は梅澤梨花と同じく、彼等なりに心身で実感でき、行動によってつかめる人生の真実を求めているのだ。
 つかんだ先に破滅や死が待っているかどうかは重大な問題でない。
 そもそも〈先〉がないからこそ、今、求めているのだ。
 同感だが、別な危惧もある。
 宗教が遠ざけられ、自由思考、自由意志が保証された社会で、私たちは善と悪とをきちんと判別して行けるのか?
 格差が拡大し、政治的にも経済的にもごく一握りの人々が動かすようになった社会において、無慈悲で乾いた空気はどのようにすれば潤いを取り戻せるか?
 
 イスラム国が「許せない」という敵意と、「滅ぼす」という害意と、その実行手段である武力とによって地上から抹殺できるという考えには錯覚、もしくは隠された意図が伴っているのではないか。
 過激な行動をさせないためには、彼等の心の核となっている部分を一時、地上で共存させ、時間をかけて穏やかに変質させるしかないのではないか。
 いつの時代も完全主義的な教団や社会に溶け込まない狂信的教団はあった。
 真の問題は、それらが武器を手にし、害意を伴う行動へ走るところにある。
 イスラム国の出現が何かの始まりでないよう祈りたい。
 また、梅澤梨花に似た〈個人的反乱〉が多様化、普遍化して頻発しない潤いのある日本であるよう祈りたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.05

ムーミン・スナフキンに救われる話 ―北川美由季氏のトーヴェ・ヤンソン―

2015020500022.jpg

 午後5時はもう暗い。
 原稿の執筆中、遠くでウーウーウーとサイレンが鳴り、爆音も聞こえる。
空襲だ〟と思い、戦慄が走った。
 緊張した表情で頭を屹立させた様子に気づいた職員の森合さんが、帰り支度の手を休め、「パトカーに追いかけられているのかしら、ヘリコプターも飛んでいますね」と言った。
〝――そうか、ここは日本だ〟
 音楽を聴きながら暴走し、前方へ回り込んだ白バイに「聞こえなかったのですか?」と呆れられたことを思い出したが、苦笑は起こらない。
 瞑目する。
〝一瞬、魂がワープした〈あそこ〉はどこだったのか?〟
 すぐに、中東の光景が甦った。
 かつてイラク戦争へ出征した自衛隊員の無事を祈る日々、夢で隊員の一人になった自分が歩いている〈あの町〉である。
 手を止めた原稿は、大震災と原発事故による犠牲者を供養するものだった。

 その夜、夢を見た。
 巨大な樹木の枝が一本、根元から折れ、垂れ下がっている。
 どうしたのだろうと、根元近くへ入り、枝葉によって薄暗くなっている上方を見上げた時、ゆっくりと樹木全体が倒れ始めた。
 まずいと思い、逃げようとしたが、もう背中は、押し潰しにかかる圧力を感じた。
 這いながら枝葉の切れ目となっている明るい方向へ急ぐが、かまぼこ型をした明かりの窓は次々と閉じられる。
 ようやく一か所残っている隙間をくぐり抜けようとして眼が醒めた。

 昨夜、就寝前に読み返したのは、平成26年8月に出版された『ユリイカ』の「特集ムーミントーヴェ・ヤンソン 戦争から生まれたもの」である。
 トーヴェと同じ月日に生まれた執筆者北川美由季氏は、戦争と作品の関係を丹念にたどっている。
 1929年、15才のトーヴェが描いた風刺画は風刺雑誌『ガルム』に掲載される。
 対ソ戦の最中もトーヴェは苦悩しつつ描く。

「息の詰まる時代の中、トーヴェはおとぎ話を書こうとするが、うまくいかない。
 王子様やお姫様が出てくる物語は書けなかったという。」


 その後、書き始められたムーミン・トロールの物語は1948年の『たのしいムーミン一家』にたどりつく。

「これ以後、物語からは不安が影を潜めてゆく。
 パパがいて、ママがいて、仲間たちがいて、時に事件があり、日々を重ねる。」


 ここへたどり着く前の1941年、トーヴェは親友への手紙に書いている。

「私は、どうせ戦争でぶち殺される子どもなんか産みたくない」


 北川美由季氏は、最後に書いた。

「トーヴェは、小国の国民、言語的少数派、子どもを産まない女性、レズビアンとして生きた。
 戦争からムーミンの物語を生み、マイノリティの視点を加えて、物語の世界を理想郷に変えた。」


 トーヴェのように、戦争と戦いつつ生き残った人は、お釈迦様が説かれたように自分との戦いの結果〈この世を照らす〉存在になれる場合もあるが、それは稀でしかない。
 多くは苦悩と共に生き抜くか、否応なく苦悩が断ち切られるような死を迎える。
 ムーミンはどんなできごとにぶつかっても、どこか茫洋としており、心の重心を失わない。
 スナフキンは〈世間一般の視点〉にとらわれず覚醒している。
 苦の海を悠然と渡るかのごとき二人は、文字どおり「理想郷」の住人である。
 好んで争いを求めず、多数派として勢い込むことなく、少数派として絶望せず、進みたい。
 二人は、戦争の郷(サト)の正反対である理想の郷からそのことを示している。
 あらためて二人を眺めさせられ、合掌した。
 



「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IvMea3W6ZP0





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村
 
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン

 

2015
02.04

お見合いにでかけた話 ―人は皆死に逝くものと知って春が来る―

201502040001.jpg

 ある日、ところどころ凍結した道に注意しながら業者様の事務所でお見合いをした。
 もちろん、相手は異性でなく、仏縁を求めるAさんご夫婦である。
 当山へお見合いにおでかけになる方々は毎月、絶えないが、出張はあまり、ない。
 しかし、ご事情があるとのことで、でかけた。

 予定の時刻よりかなり早く現場へ到着し、仕事の邪魔をしてしまうかな?と心配しつつドアを開けたら、小柄なご夫婦はすでに、待っておられた。
 机上には当山のスナップ写真が数枚、重ねられている。
 業者様が事前に墓地や本堂などを撮ってくださったものであり、感謝の念が一気に強まった。
 立ち上がり、おでかけいただいてすみませんと繰り返すお二人がようやく腰を下ろされ、室内の明るさと暖かさが身に沁みてきた。

 遠方の出身者であるご主人はバリバリと仕事をしておられたが偶然、ガンの宣告を受け、大手術をきっかけにして人生行路が変わった。
「本当の救いは宗教にあるんですよね?」
 15年間、ずっとご自身なりに宗教を勉強してこられたそうだが、にこやかで面長なお顔からは謙虚さしか読み取れない。
 机をはさんで対面しながら、やや、ご主人よりも背を低め、幾分かイスを引いて座っている奥さんは視線を落としたままである。

 15年間かけて仏教を選びとり、墓地も用意し、今は救われていると感じているらしい。
 残った問題は自分たちを送ってくれる安心な僧侶と巡り会えるかどうかだけになったと率直に言われる。
「自分の寿命ってわかるものですよね?」
 奥さんも、立ち会った従業員さんも「そんなことないわよ」とやんわり応じたが、私は黙っていた。

 昭和13年、従軍の体験者である作家石川達三が書いた『生きてゐる兵隊』を思い出した。

「彼らが無傷で戦ってゐるあひだはどれほど戦友が斃れようとも覚醒するときのないはげしい夢遊状態のやうであった。
 むしろ戦闘がはげしくなればはげしいほど彼等の昏迷はふかかった。
 そしてひとたび敵弾が彼等の肉体に穴をあけたとき、卒然として生きてゐる自分を発見し死に直面してゐる自分をさとるもののやうであった。」


 私たちは、いつ「肉体に穴をあけ」られ、いつ「斃れようとも」不思議でない存在なのに、「無傷で戦って」いる日常生活にあっては、なかなか、その真実に気づかない。
 実際に身体に穴を発見するまで……。

 目の前で慎重に言葉を紡いでおられるご主人は、死や、死に逝く者(自分を含め)を〈そちら側〉へ置いたままにできないが、死ねばそれっきりさと〈そちら側〉へ置く人々は、果たして、自分のいのちを大切にできようか?
 上記の本にはこう書かれている。

「敵の命をごみ屑のやうに軽蔑すると同時に自分の命をも全く軽蔑してゐるやうであった。
 それは身を鴻毛(コウモウ…おおとりの羽毛)の軽きに置くといふほどはっきりした意識をもって自己にその観念を強制したものではなくて、敵を軽蔑してゐるあひだにいつの間にかが命をも軽蔑する気になって行くもののやうであった。」


 戦場で敵のいのちを軽んじるようになると、「いつの間にか」自分のいのちをも軽んじてしまう。
 自己中心で無夢中になっている私たちの日常生活でもまた、他人を軽んじ、死や、死に逝く人を軽んじていはしないか?
 それが実は、自分のいのちをも軽んじているという真実に気づかないのではないか?
 今生きている自分だけを大切にして生きるなどということがとんでもない錯覚であると知らず、幻の(ガ)に操られる夢遊病者のように過ごしていはしないか?

 Aさんご夫婦は、大病によって人生の真実と向き合うようになられた。
 穏やかな笑顔はもう、み仏の世界におられることを証している。
 救われている方々に救われ、次の修法を行う場へ向かった。
 雲にも福寿草にも、春がそこまで来ていることを知らされた。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.03

善と悪とを分ける人生の薬はさまざまである ―今月の聖語─

201502030001.jpg

 お大師様の言葉です。

「薬に貴賤あることなし、病(ヤマイ)を差(イヤ)すを即ち妙となす」


 お大師様は、あらゆる宗教の根源をたずね、密教を最高レベルのものとした一大体系を作り、今日にその修法のお次第が伝えられていますが、他の宗教宗派を否定することはありませんでした。
 それぞれ異なった視点から世界と人間をとらえ、異なった方法で苦しみや悲しみを解決しようとするのは当然です。
 誰しもがそれぞれの人生を生きており、苦しみも悲しみもそれぞれであり、教えの理解力も実践力もそれぞれだからです。

 たとえば、善と悪について考えてみましょう。
 世界的数学者であると同時に華厳宗の篤信者であった故岡潔博士は「敗るるも、またよき国へ」に書きました。

「善とはわかるが言えないものである。
 だから黙って実例を指し示すよりない。
 わかる人にはわかり、わからない人にはわからないのであるが、これが善である。
 仏教倫理は唯三行である。

 諸悪莫作(ショアクマクサ…諸々の悪を為すなかれ)
 諸善奉行(ショゼンブギョウ…諸々の善を行え)
 自浄其意(ジジョウゴイ…自ら心を浄めよ)

というのである。
 倫理を唯三行で言ってしまう所に、仏教の面目躍如たるものがある。
 その広大無辺さを知るべきである。
 諸悪莫作
 善とは悪の反対ではない。
 初めは善はわからないのであるが悪はわかる。
 だから悪はするなというのである。」

「善は一つわかり始めると次々にいくらでもわかって来る。
 そのすべてをたたえて、少しでもそちらに向かって向上しようとしなければいけない。」

「だれかが、つまらない絵の掛け軸を知らずに大切にしているのを見せて呉れると、自分も知らず知らずその気になって、作意なく、結構でございますな挨拶する。
 これが真我(シンガ…自己本位の小さな我を離れた心)の意志である。
 こう行けばよい。
 もしひっかかるものがあればそれは意(ココロ)に濁りがあるからだとすぐ気付いてそれを取り去れというのである。」


 博士にとって日本人が真に手本とすべきは応神天皇(オウジンテンノウ)の末子である菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)でした。
 応神天皇が跡継ぎを定めないまま崩御されたため、衆望が優秀な稚郎子(イラツコ)へ集まりました。
 稚郎子は、長子で思いやりある大鷦鷯尊(オオサザキノミコト…後の仁徳天皇)が嗣ぐべきであると主張しましたが、混乱は収まりません。
 そこで、稚郎子は黙って自決しました。
 稚郎子を推しながら、自決によって即位した仁徳天皇は、民家から煮炊きする煙が少ししか上っていないのを見て生活が苦しかろうと3年間、租税を免除し、その間は宮殿の屋根の葺き替えさえ行わず、質素倹約を率先垂範(ソッセンスイハン)しました。
 博士は稚郎子こそ「日本民族の中核の人」であると説かれました。

 どうでしょうか?
 稚郎子は自分が即位すべきでなく、それは〈悪〉であると考え、至心に兄を推しました。
 当時の社会にあって、賢明な弟としては当然の判断です。
 博士の言うとおり「悪はわかる」のです。
 では、〈善〉がどこにあるかと言えば、たくさんの人々の考え方や立場や思惑がからんだ社会的大問題をどう収めるか、ことは決して簡単ではありません。
 行き着いたところが、自分の存在を消すという方法でした。

 これは仏教が渡来する前のできごとでした。
 歴史に学び、み仏の教えに学びつつ善と悪とを考え続けて行けば、恥ずかしくない判断をし、恥ずかしくない行動を選ぼうとするようになります。
 このように、私たちの苦しみや悲しみを解消する心の薬となるものはたくさんあり、どれが万能薬であるなどということは誰にも断定できません。
 私たちを悪へ向かわせず善へ向かわせ、浄めてくれるさまざまなものと感応する心の新鮮さだけは失いたくないものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=4OCvhacDR7Y





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2015
02.02

日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の緊急声明は日本の宝 ―報復の連鎖を離れよう―

201502020001.jpg
〈善男善女が唱える守本尊様すべてのお経に後押ししていただき、1000枚の護摩木を焚く厄除け祈祷は無事、終了しました〉

 湯川遙菜、後藤健二両氏の殺害情報を受け、2月1日、日本ビジュアル・ジャーナリスト協会は、日本語、アラビア語、英語による緊急声明を発表した。
 全文は以下のとおりである。

後藤健二さんら人質殺害を受けての緊急声明
 
 私たち日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)は、日本人人質事件の発覚後、2通の声明文とビデオメッセージを通じて、 後藤健二さんと湯川遙菜さんの解放を関係者に求めてきました。
 しかし湯川さんに続き、後藤さんを殺害したとする映像が公開され、私たちは深い悲しみでいっ ぱいです。
 
 後藤さんはこれまでに世界各地で苦しむ人びとの側に立ち、事実を伝えることでジャーナリズムの役割を果たしてきました。
 公開された映像が事実であるならば、後藤さんが否定してきた理不尽な暴力により、命を奪われてしまったことになります。
 
 なぜこのような事件が起き、そして繰り返されるのか、報復」は憎しみと対立を煽るばかりです。
 暴力による負の連鎖を断ち切るために、原因を追求し、私たちは賢明な平和的手段で解決することを訴えます。
 
 今も世界各地では戦闘や空爆が続き、犠牲者は増え続けています。
 暴力から尊い命を守ること、それが後藤さんがジャーナリストとして命をかけて伝えたかっ たことではないでしょうか。
 後藤さんと湯川さんのご冥福を祈ると同時に、彼らの犠牲が最後となることを祈ります。

 2015年2月1日
 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)


 この声明文は、日本の宝である。
 日本中が「決して許せない!」「強い憤りを覚える!」「悪を許すな!」と沸き立っている時、同僚を殺され、自分たちもまた同様の危険性に身をさらす最も危険な立場にありながら、「報復」を拒否し「原因」を追求することと、「賢明な平和的手段」による事態の解決を訴えている。

 平成26年4月、イラン北部ヌールにおいて、死刑囚が公開処刑される直前、殺人事件で息子を殺された母親が罪を赦したため、目隠しされた死刑囚は首からロープを外され、禁固刑となった。
 報復と死の場は瞬時にして、赦しと生の場に転換し、世界中の人々に強い感銘を与えた。
 被害者と加害者と、双方の母親同士が共に泣く写真は忘れられない。

 平成18年10月、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡において、キリスト教の一派であるアーミッシュが運営する学校で暴漢が5人の女子児童を撃ち殺し、自殺するという事件があった。
 その際、かけつけた暴漢の妻と3人の子どもたちは罪を許すアーミッシュたちに抱擁して慰められ、妻は葬儀にも招かれた。
 自分から先に撃ってくれと申し出た少女たちの記憶と共に、ランカスター郡においてのみならず、世界中の心ある人々によって語り継がれることだろう。

 ヒンズー教のインドがイスラム教のパキスタンと深刻な紛争に陥ったおり、ガンジーは平和の回復を訴え断食に入った。
 そこへ、イスラム教徒の子供を殺したヒンズー教徒がやってきて、ガンジーへ生きてくれと頼む。
 ガンジーは「貴方が地獄から抜け出す方法を教えよう。それはイスラム教徒の孤児を自分の子供として育てることだ。しかも、イスラム教徒として」と応えた。

 日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の声明文は日本人の良識を示した。
 お釈迦様が「この世から怨みをなくすには、自らの心から怨みをなくさねばならない」と説かれた真理は不滅の耀きを放っている。
 当山は『不戦堂』に掲げ、日々、「不戦日本」を祈る際の力としたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。