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2015
03.31

み仏の戒めを受けた時(その1) ―貪る心に流される人は何をすればよいか?―

201503310002.jpg

 今月の〈お大師様の聖語〉です。

「たまたま如来の警(イマシメ)に遭いぬれば、菩薩(ボサツ)の寛(イツクシミ)に廻心(エシン)す」


(たまたま、み仏の戒めを受けたと感じたならば、菩薩のお慈悲におすがりしよう)

 人生は、いつも順風満帆というわけにはゆきません。
 〝ああ、み仏のお叱りを受けた〟あるいは〝今、弱い自分が鍛えられている〟としか思えない場面があります。
 そうした時は怠けていたり、恩知らずだったり、思い上がっていたり、必ず何か思い当たるフシがあるものです。
 懺悔し、愚かなままではいられないと気づけば、お地蔵様や観音様など、私たちの身近に顕れて有くださる菩薩(ボサツ)のお慈悲にすがりましょう。
 至心におすがりすれば自分にも又、不思議に、思いやり慈しむ心が生じます。

 もしも自分を省みて、貪り・怒り・愚かさという「三毒(サンドク)」のどれかにやられているなと感じたならば、こんなことを実践してみましょう。
 古来、仏教徒は三毒が私たちの苦の源になっていると考え、その対策を研究してきました。

201503310001.jpg
松井冬子氏の『浄相の持続』より)

1 貪って止まない場合

 自分が〈飽くを知らない〉心になっている時は「不浄観(フジョウカン)」という瞑想法を行いましょう。
 死んだ美人が腐敗し、鳥や獣に喰われ、骨になり、やがてはそれも風に散ってしまう成り行きを観想するのです。
 インドやチベットでは実物をじっと眺める修行が行われ、日本でも「小野小町九想図(オノノコマチクソウヅ)」という9枚の絵が瞑想の対象として用いられました。
 この世では、ありとあらゆるものが生・住・異・滅(ショウ・ジュウ・イ・メツ)の「四相(シソウ)」を免れません。
 芽が出て咲く花がある一方で、咲いていた花が萎み、落ちているのです。
 吉田兼好は『徒然草』に書きました。

「生住異滅の移り変はる実の大事は、猛(タケ)き河のみなぎり流るるがごとし。
 しばしも滞らず。
 直(タダ)ちに行ひゆくものなり。」


 変化に「待て」は効きません。
 たった今の変化を免れる何ものもありはしないのです。
 財欲や色欲や飲食欲や名誉欲や睡眠欲に流され、お金や異性やごちそうや名声や惰眠の何にしがみつこうと、それらがいつまでも〈そのまま〉で止まってはいないだけでなく、お金を使える自分も、セックスを楽しむ自分も、ちやほやされていい気になっている自分も、たらふく食べている自分も、安らかに眠っていられる自分も、いつまでも〈このまま〉ではいられません。
 こうした無常を実感する時、初めて、自分そのもののありようが最大の問題として意識に立ちのぼってくることでしょう。
 その時、もしも〝このままでいいや〟と思う人は果てしなく堕落し、何をいくら得ようとも、ついに、まっとうな人間にはなり得ないことでしょう。
 貪る自分の浅ましさに身震いする人は、何が得られなくとも、まっとうな人間として与えられた命分をまっとうできることでしょう。
 そのことをお釈迦様は説かれました。

「財物も名誉も家族も何一つ、あの世に持ってはゆけない。
 あの世に持って行けるものはただ、人間としての徳のみである」


 すべてをお金に換算し、すべてを損得という定規で計りながら生きる人は、他人様を邪魔者扱いしながら霞をかき集めているようなものです。
 早く、その空しさに気づきたいものです。
 人類の叡智がもたらした「不浄観」に学びたいものです。 
 



 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





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2015
03.30

4月の守本尊様と真言

201503300001.jpg

 4月は、清明(セイメイ)と穀雨(コクウ)の卯月(ウヅキ…4月5日より5月3日まで)です。
 4月は辰(タツ)の月なので、守本尊普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

 普賢菩薩様は、『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、苦を解決し心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩(ボンノウ)は、自分を迷わせ、他から邪魔される魔ものを呼び込み、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって煩悩を菩薩(ボサツ)の大欲(タイヨク)へ転換させ、自分と周囲を清め、よき運命の創造に障害となる魔ものを祓いましょう。

 また、普賢菩薩様は、辰己(タツ・ミ)年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、心豊かで無事安全に過ごしましょう。

「普賢(フゲン)の勝徳(スグレル)は○大日如来の三昧(メイソウ)に○住(ジュウ)し菩提(サトリ)の心から○生きとし生ける一切の○衆生(ショジョウ)の為に利益(リヤク)する○共利(キョウリ)群生(グンジョウ)実践の○仏の願いと活動(ハタラキ)を○究竟(モクテキ)とすることにあり。」


普賢菩薩の勝れた徳は、大日如来の瞑想に入り、悟りの境地から、生きとし生けるものすべてのためになろうとする願いとはたらきを目的として活動することにある)

普賢菩薩(フゲンボサツ)は三摩地(メイソウ)の○境地に入って大悲から○普(アマネ)く衆生(シュジョウ)の救済を○願い行う菩薩(ボサツ)にて○その方便(ハタラキ)の究竟(モクテキ)は○衆生(シュジョウ)の利益(シアワアセ)実現す○慈悲の心の実践に○あるを信じてこの菩薩(ボサツ)○ただ誠心(ヒタスラ)に帰依(キエ)をして○己(オノレ)の罪障(ザイショウ)懺悔(サンゲ)して○菩提(サトリ)求める心持ち○普賢(フゲン)の真言(シンゴン)誦持(ジュジ)すべし」


普賢菩薩は瞑想の境地に入り無限の慈悲心から普く生きとし生けるものの救済を願い実践するみ仏である。
 そのはたらきの目的が生きとし生けるものの幸せの実現にあることを信じて普賢菩薩に心からおすがりし、自分の罪障を懺悔してまっとうに生きる意志を持ち、普賢菩薩の真言を念じ唱えるべし)

21080819 010

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた普賢菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 4月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時、あるいは感謝したい時は、合掌して普賢菩薩様の真言(真実世界の言葉)を唱えましょう。
 たとえ一日一回の行でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 続けて行う回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ)

「おん さんまや さとばん」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

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2015
03.29

平成27年4月の運勢です ―キーワードは「育成」―

20150329100 (1)

20150329100 (2)

 平27年4月の運勢を記します。
 今月はものごとを順々に伸ばして行く心がけが大切です。
 たとえばブルーベリーの木へいきなり大量の肥料を与え、急に大収穫を求めても無理であるのと同じく、対象が持つ本来的な能力や性質や周囲の条件などを熟慮してやりましょう。
 自分の勝手な思いこみや欲望に相手を合わせさせようとすれば、相手を潰すことになりかねません。
 
 相手が人間ならばなおさらです。
 そもそも、「」という文字の冠となっている部分は「子」が逆さまになって生まれ落ちる姿を表し、下にある「月」は肉を意味します。
 肉と言ってもステーキや焼き肉などではなく、祭祀において神前へ捧げる乾いたもので、際肉と呼ばれる神聖なものです。
 だからつとは、母親の胎内からこの世へ現れた人の子が、尊き者として段々に心と身体ができてゆくことを意味します。
 また、「」には、妨害する魔ものをうち祓いながら就へ向かうという意味があり、ここにも聖なる何ごとかが含まれています。
 人をすることは、する側にとっても、される側にとっても、生半可なものではありません。
 それは人間以外の動植物においても同じであり、大いなるものから与えられ、生まれ持った価値を顕現させてゆく尊厳に満ちた過程と言えましょう。

 組織もまた、出発時の理念や理想へ向かって進めばこそ、健全に保たれます。
 いささか長くなりますが、仙石病院理事長神部廣一医師が掲げる方針です。

「日本では低い医療費にもかかわらず全体的に高い医療水準が維持されており、これがさまざまな医学的な指標で国際的に高い水準にあることは、高く評価されています。
 これを支えたのは医療関係者、特に病院の医療職の献身的な貢献があったからです。
 しかし、個人の献身に頼りすぎたために現場が疲弊し、専門職が病院を離れていく事態が進んでいます。
 この事態に対応すべく効率のみを重要視した施策がうちだされ、中核病院と周辺病院といった色分けのもとに、ますます管理された医療の方向に向かっているのは憂慮すべき事態です。

 公的病院では種々の補助金が投入されているために、最近は医療が経済活動と位置付けられ、本来医療の素人である行政の介入を招いた結果、専門職の自由な医療活動が束縛されたり、誇りが傷つけられる結果になっているのは残念なことです。

 私的病院の最大の特徴は何ら公的補助を受けていないことにあります。
 したがって全職員で自分たちの目指す医療に向かって知恵をしぼりながら医療を展開してゆくことができます。
 医療水準、看護水準の維持は当然として、職員の士気と向上心、さらにある程度の余裕などが混然となって醸し出される雰囲気が病院のカラーになるのだと思います。
 
 私たちの病院はこういった方針を一貫して貫きながら運営していますが、地域住民に高く評価していただいていると自負しています。
 日本の医療が迷走しているこの時代に、これからの医療職に就こうとしている皆さんにぜひ参加していただきたいと思います。」


 要は、〈医療行為は商売ではない〉ということではないでしょうか?
 いつからか、医療も教も、あるいは宗教までもが、儲かるか儲からないかの世界へ入ってしまいました。
 患者や生徒・学生や信者を〈お客さん〉と観たら、おしまいです。
 医者は患者とは共に病魔と闘い、教師は生徒とは共に長し、僧侶と信者とは共にこの世の苦へ立ち向かう同志であり、病院も学校も寺院も本来、そうした意味で真剣勝負が行われる一種の道場ではないでしょうか?
 道場なので当然、師たるプロはいます。
 しかし、師は魔切りの剣を持つ先導者ではあっても、その力を頼りとする人々を利用したり、儲けの対象としたりはせず、〈共に切り拓いて行く者〉です。
 ある医師は「自分の医療行為の力でなく、患者さんは自己快癒力で治る」と言います。
 ある教師は「自分がてるのではなく、生徒が持っている力を伸ばせるようお手伝いしているだけだ」と言います。
 ある僧侶は「自分の力でどうこうなはく、信徒さんの仏性がきちんと輝けば最良の結果を得られる」と言います。
 当山も又、「法灯により、法友と共に、法楽に住せん」との誓願を持ち、ご縁の方々(法友)と共に「この世の幸せとあの世の安心」が得られる場を創り守って行きたいと念じています。
 
 いささか脱線しましたが、生きものも組織も、本質や本分などを見極め、じっくりと、しっかりとててゆきたいものです。
 また、そうした方向性を変更するに当たっては、目先の計算だけでなく、多様な意見へ謙虚に耳を傾け、腰を据えてとりかかり、確かな安泰と発展を得たいものです。




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2015
03.28

プラットホームと懺悔 ―佇む時の不思議な心理―

201503280001.jpg

 新幹線のプラットホームに立っていると、無性に懺悔(サンゲ)する気持になる。

 初めは、何がどうというわけでもない流離(リュウリ)の気分が起こる。
 島崎藤村が『椰子の実』で「実をとりて胸にあつれば新たなり流離のうれい」と書いたのはこのことなのかと、想像したりもする。
 乗客たちは来る人と行く人なのだが、なぜか皆、行く人と思える。
 一人残らず視界から去って行くせいなのか。
 それならば街角に立っても同じはずだが、そうはならない。

 やがて時間の流れがゆったりとしてくる。
 足早に去る人々の歩みは同じでも、立っている自分を包む時間は徐々にスピードを落とす。
 仙台駅の13番線にたどりつくまでは、どこか急(セ)いていたが、あとは列車の到着を待つだけ、となってしまえば、ただ、佇んでいるしかなくなる。
 急いている時と佇んでいる時とでは、時間の流れが違う。
 そう言えば、佇むという字の〈つくり〉は貯金の「貯」であり、そもそもは箱を表す。
 ならば佇む人は異時間の流れる異次元の箱に入った人なのかも知れない。

 聖者の遺体がなかなか腐らない例があることは、世界中で指摘されてきた。
 死ぬ前に異界の住人となっていれば、異界の影響を受けた遺体は、ゆっくりとした時間で形を変えるのかも知れない。
 かぐや姫はその反対である。
 神界の存在である姫が、あたかも時計の針が早回しされるようなこの世に来れば、忽ちに成長してしまう。
 ならば、佇む時、私たちは神界という異次元の箱に入ってしまうのか。

 この世から流離した心の眼は眺める人々の多様性をとらえるが、顔が丸く、長く、四角く見えると、〝不完全だ〟という感覚に陥る。
 背が高くても、低くても、身体が太っていても、痩せていても、同じである。
 こうした観方は明らかに、余計な分別(フンベツ)につかまっており、悟りから最も遠いパターンなのだろうが、凡夫なので仕方がない。
 そして、〝不完全感〟は我が身にも及ぶ。
 身から心にも及べば、行く先は一つしかない。
 不完全で愚かしい未完成の自分はこれまで、何をやってきたか……。
 あの件にも、この件にも始末をつけず、あの人を相手にして、この人を相手にして、どれだけの〈未完結〉を積み上げてきたか。
 そして、あるいは相手が冥界へ旅立ち、あるいは自分にお金や時間や体力などさまざまなものがな足りず、〈未完結〉はついに解消されない。
 ――もはや方法は残されていない。
 こうして行き詰まる時、自然に懺悔へと行き着く。
 
 懺悔といっても、イタリアの異才ブッツァーティの小説『この世の終わり』に出てくるような、天国へ生まれ変わるための告解(コクゲ)などではない。
 この世の終わりに際し、天国へ生まれ変わろうと聴罪司祭(チョウザイシサイ)を求める心とはまったく無関係だ。
 そうした目的など何もなく、ただただ、自分の愚かさを悔いずにはいられなくなる。
 ここでもまた、仏も神も登場せず、悟りとはほど遠い凡夫がいるのみである。

 しかし、電車の到着を予告するアナウンスが流れると、自然に、〈懺悔する異次元の箱〉が消える。
 去り行く人々も消え、視界は、自分と同じ目的でやってくる人々に埋め尽くされる。
 流離の気分も消える。
 車中の人となった時にはもう、東京で受ける伝授や修行へと心は切り替わっている。
 資料や本やボールペンが準備されれば、過去はどこにもなくなり、未来だけが待っている。

 プラットホーム懺悔はどこへ行ったのか?
 何の役に立ったのか、あるいは何の役にも立たなかったのか?
 わからないが、こんなことをいくたびも繰り返している。
 そして、日々、懺悔の文を唱えている。
「我れ昔より造りし所の諸(モロモロ)の悪業(アクゴウ)は皆な無始(ムシ)の貪瞋癡(トンジンチ)に由(よ)る身語意(シンゴイ)より生ずる所なり。
 一切(イッサイ)我れ今、皆な懺悔(サンゲ)したてまつる」




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「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
03.27

北島三郎に見るプロの出処進退 ―プロの矜恃とは?―

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 3月26日、NHKテレビは、【ザ・プレミアム「〝まつり〟にかけた演歌道~北島三郎 最終公演~」】において、北島三郎が46年間にわたる座長公演に幕を閉じた模様を伝えた。
 北島は78才にして2時間の自作劇を演じ、さらに20曲を唄うというパターンで1日2回、合計8時間の公演を行う。
 通算講演回数は4578回にわたるが、北島は、1日に3回やった頃に比べれば今は楽だと言う。

 エネルギッシュな舞台を観る限りにおいては、「まだ、やれるのではないか?」と思えるが、北島はやめる理由を端的に述べた。
「私も倒れるまでやりたいという気持はある。
 しかし、お金をいただいているプロだから」
 お金を払い、期待してやってくる観客へ対して、期待通りの〈北島三郎〉を演じなければならない。
 それができなければプロと言えない。
 年令も疲れも決して言いわけにはならない。
 プロは、支えてはもらうが、プロの領分に情けをかけられるわけにはいかない。
 観客に対して〈見てくれ〉を繕うなどという小手先の仕事では失礼だ。
 外科医は〈小手先〉が通じるか?
 プロとしてのレベルから下がっているかどうかは自分がわかり、わかる自分をごまかす方法はない。
 腕の落ちた外科医は患者を救えるか?

 つまり、傍目には「まだやれる」と思われるうちに、レベルの下がらないうちに、身を引くのがプロ出処進退であるという信念が北島に決断させたのである。

 北島は何度も「この身体」と言う。
 プロとして役立つ身体があるうちはやる、という意味だろう。
 楽屋には両親の写真がある。
 稽古し、鍛えているうちに〈両親からもらった身体〉という感覚が強まったのではないか。

 プロとは身体をはった仕事師なのだ。

 北島は、いつからか、楽屋で鏡に向かっている時、本名の大野穣(ミノル)に見られているという意識を持つようになった。
 楽屋から舞台へ向かう途中では〈大野穣〉が影のように前を行くが、舞台に立てばもう〈大野穣〉はいなくなり〈北島三郎〉そのものになる。
 北島は解説をしなかったが、鏡の中野大野穣はきっと、こうささやきかけていたことだろう。
「お前は所詮、大野穣だぞ。
 思い上がるなよ。
 さあ、〈おかげさま〉と、死力を尽くせ」
 事実、演じきった北島は、何度も何度もお礼を述べた。
「ありがとうございました。
 足を運んでくださった皆様のおかげです。
 支えてくださったスタッフ、関係者の皆様のおかげです」

 プロとは〈おかげさま〉と死力を尽くす専門家である。

 とてつもない仕事に一区切りをつけた北島は、光る眼で言った。
「終わりは始まりです」
 座長公演に幕は下ろそうと、まだ、プロである。
 プロであるうちは、最後までプロとして生き抜くのだろう。
 観客も自分もごまかさず、自分を甘やかさず……。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
03.26

映画鑑賞会『イラク チグリスに浮かぶ平和』  ―第六十二回寺子屋『法楽館』―

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 今回はイラク戦争後の10年間、ジャーナリスト綿井健陽氏が通い続けたイラクの〈現場〉と〈人間〉を描いたドキュメンタリー映画「イラク チグリスに浮かぶ平和」を観ます。
 この作品は数々の受賞に耀き、NHKテレビ「クローズアップ現代」でも紹介されました。
 綿井健陽氏の言葉。

「この戦争を日本が支持したことを覚 えていますか?」
「生き残ったイラクの人々は、終わることのない戦乱に疲れ果てていた」

 フォトジャーナリスト広河隆一氏の言葉。

イラク戦争が何を奪ったのかを、正面から、人間の視線で描ききったドキュメンタリー作品が、とうとう現れた。
 誰もがやろうとしてなしえなかった仕事を、綿井氏は10年かけて完成させた。
 硝煙と傷だらけのレンズで記録したためか、見終わって長い間、激しい衝撃と、深い悲しみが、心を揺さぶり続ける。
 複雑なイラク情勢を読み解く視点は、こんなに身近なところにあったのだ。」

 翻訳家池田香代子の言葉。

「見終わったこの虚無感を埋めるのは、はらわたが引きちぎられるような悲しみ。
 綿井がかけがえのない友人たちの痛みから痛みへと、10年かけてたどることにより浮び上がらせた蛮行、世界の衆人環視のなか、もっともらしい政治のことばが飛び交うなか、行われた愚行が、この世界の自画像として、私たちにつきつけられる。
 花のような子どもたちを乗せたイラクという舟が、笹舟のはかなさを、断ち切るのはいつの日だろう。」

・日 時:4月11日(土)午後1時30分~3時30分
・場 所:大師山法楽寺講堂 黒川郡大和町宮床字兎野1ー11ー1
・送 迎:午後1時に泉中央駅近くの「イズミティ21」前より送迎車が出ます。乗車希望の方は必ず前日午後5時までにお申し込みください。(022-346-2106 9時~17時)
・参加費:1000円(中学生以下は500円)飲物付
寺子屋は毎月第二土曜日に開催します。




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2015
03.25

誰もが等しく宝ものを持っていることに気づけるか? ―テロリストの思考、仏教の思考(その1)―

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 3月24日付の産経新聞は「
テロリストの軌跡・チュニジア襲撃(下)」において、実行犯の心が急変していた様子を報じた。

「『あなた方は本当のイスラム教徒ではない』。
 チュニジア博物館襲撃事件を実行して射殺されたジャーベル・ハシュナーウィ(19)が、家族に言い放った。
 聖典コーランに極度に傾倒するようになって間もなくのことだ。

 イスラム過激派が広く共有する思想に、『タクフィール(不信仰者宣告)』がある。
 たとえ同じイスラム教徒でも、信仰が足りない人や『敵』に協力的な人を不信仰と決めつけ、殺害さえ正当化する。

 高校生のジャーベルは『普段は家族と言い争うことはなかった』(兄のムラード)。
 が、こと宗教に関しては家族さえも一方的に断じる教条的な言葉には、過激思想の萌芽(ほうが)がある。」

「後にジャーベルとともに射殺されるヤシン・アビーディ(27)にも、似た傾向があった。

 昨年、ヤシンの近所に住む幼なじみはガールフレンドとお茶を飲んでいたところ、ヤシンから『男女交際はハラーム(宗教上の禁忌)だ』と難詰された。
 周囲との交際を絶っていたヤシンから聞いた久しぶりの言葉は、極めて攻撃的なものだった。」

「比較的ゆとりのある家庭で不自由なく育ち、真面目との評価も受けてきた2人。
 だがその性格は、信仰心が強くなるに従い他者への不寛容につながっていった。」


 狂信者が他の価値観を認められなくなる典型的なパターンである。
 肉親の情や恩さえもが、たやすく見えなくなり、忘れ去られる。
 心の目に頑強なフィルターがかかったのである。
 このフィルターはどこから来るか?
 難問を解くカギが、お釈迦様の悟りにある。
 仏教思想の根幹をなす十二因縁である。

 密教研究の専門誌『密教メッセージ NO20』(「密教21フォーラム」発行)において、北尾克三郎師は、難解とされているこの理論をわかりやすく説かれた。

1 無明(ムミョウ)
 人間と生きとし生けるものはみな生存欲(個体維持と種族保存の欲求:呼吸・睡眠・飲食・生殖・群居・情動など)をもって生まれてくるが、生の始まりにおいて知識はない。
2 行(ギョウ)
 だからまず、その生存欲にもとづいて活動する。
3 識(シキ)
 活動することによって学習し、世界を識別する。
4 名識(ミョウシキ)
 識別された世界がイメージとなったファイルされる。
5 六処(ロクショ)
 それらの識別されたイメージファイルによって、眼・耳・鼻・舌。身体・意識がはたらく。
6 触(ショク)
 眼は色・かたち・動き、耳は声・音と音のリズム・メロディー、鼻は匂い、舌は味(甘味・辛味・苦味・酸味・塩味)、身体は感触(動作の機敏さと強さ、物質の重さと軽さ、硬さと軟らかさ、熱さと冷たさなど)、意識は意味をとらえる。
7 受(ジュ)
 感受されたイメージが快・不快を生む。
8 愛(アイ)
 その快・不快が対象への愛憎を生む。
9 取(シュ)
 愛憎が対象への執着(煩悩)を生む。
10 有(ウ)
 その執着があるから生存が生じる。
11 生(セイ)
 生存があるから生が生じる。
12 老死(ロウシ)
 その生があるから老いて死ぬ。


 その結論である。

「以上の考察によって、釈尊は『人間の煩悩が識別を因とし、執着を果としている』(縁起論)とし、そのことによって『印と果をもたらす識別は人間の意識がつくりだしたものに過ぎないから、もともとはなかったものである。因がなければ果は生じないし、果がなければ因もない』(縁滅論)と結論づけた。
 しかしまた、果としての執着があるから、その執着が因となって人間は生きることができると結論づけた。
 その『縁起論』と『縁滅論』が〝方便〟であり、また、執着によって生きることを認め、その執着を許す心が〝慈悲〟である。
 仏教の根幹がここに誕生した。」


 この世に生まれた私たちは否応なく、このように生きている。
 変えようのない事実であり、ここに観られるのが人生の真実である。
 お釈迦様はまず、この理を悟られた。
 しかし、私たち凡夫はなかなか理解できないので、身近に起こる事象に応じて、理解できる範囲をわかりやすく説かれた。
 それが対機説法(タイキセッポウ)である。
 事象は膨大であり、説法の解釈も時により、所により、人によりさまざまなので教典も膨大なものとなった。
 この全体像をまとめたのがお大師様の「十住心論(ジュウジュウシンロン)」である。
 「十住心論」の解説書としてお勧めなのは、古くは文豪菊地寛著「弘法大師とその宗教」(大東出版社刊)であり、最新かつ最奥と思われるのが、高野山開創1200年を記念して出版された満福寺住職長澤弘隆師著『空海の総合仏教学』(ノンブル社刊)である。

 さて、重大なポイントはここにある。
「執着によって生きることを認め、その執着を許す心が〝慈悲〟である」
 お互いが、生まれた瞬間から否応なく識別行為と執着によって生きている以上、同じ存在パターンを持ち、同時に、それぞれが皆、異なった心といのちで異なった人生を生きているという事実をそのままに観れば、自他の生はおのづから〈等しく〉〈愛しく〉感じられるではないか。
 また、ものごとが因縁によって起こる(縁起論)以上、起こって欲しくないものごとは原因を滅すればよい(縁滅論)という原理は、よりよい自分、よりよい世の中を創るための適切な方法を見つけ出そうという意欲をもたらす。
 この方法こそ、真の意味での「方便」である。
 方便を見つけ出させるはたらきを智慧という。
 だから仏教は慈悲と智慧の宗教である。
 心の目に頑強なフィルターがかからぬよう予防し、治療する方法が慈悲と智慧にありはしないか?

 以下、(その2)としたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
03.24

故人のお導きで人間の誕生を想う ―法楽庵の福祉葬―

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 旧知のAさんが逝き、葬儀堂法楽庵』使用の第一号となった。
 夜、葬儀屋さんに調えられて明かりのついた法楽庵は、昔、托鉢から帰った時と同じく、この世の聖なる止まり木として待っていた。
 独り暮らしとなり、生活保護を受けていたAさんは白いお柩の中で、相も変わらぬ端正なたたずまいのまま血色を保ち、口を結んで眠っていた。
 死という苦を乗りこえたばかりの人とは思えない。
 むろん、この世での悪戦苦闘からも、もはや、離れきっている。
 まさに涅槃(ネハン)入りした〈ホトケサマ〉である。
 般若心経を唱え終わると、ご本尊様の加持力(カジリキ)に包まれた法楽庵は静謐(セイヒツ)な安寧(アンネイ)に満たされた。
 かつて、護摩法によって天井も壁もススだらけだったこの道場は、ご祈祷やご加持のエネルギーが渦巻いていた。
 天井も壁も明るく衣替えを行った聖地が動から静へと役割を変えたことがつくづくと実感され、葬儀堂としての活動再開へご本尊様からお墨付きをいただいたようで安心した。

 かねてAさんから送られてきていた小さな段ボールを4つ、開けてみた。
 中身はすべて本。
 語学が堪能だったAさんらしく、駄本とおぼしきものは一冊もない。
 目が不自由なのでラジオからの情報に基づいて選択したのだろう。
 生活に困り果てた人が、誰かに好きな本を読み聞かせてもらいつつ老後を過ごせる日本のすばらしさに、あらためて舌を巻く思いだった。

 供養にと一冊、手に取った。
 初めて名を知ったイタリアの作家ディーノ・ブッツアーティの『神を見た犬』という短編集である。
 トップにある「天地創造」は、神が世界を創るにあたり、天使たちへ生きものの設計図を描かせた物語。

 神が生命を誕生させたのは、「果てしない宇宙に浮かぶ小さな点のごとき惑星のうえで、多くの生命が誕生し、成長し、実を結び、死んでゆくというアイディアは、なかなか愉快に思われた」からである。
 やがて「厄介者にには永遠につきまとわれる運命」の創造主のもとへ、「新惑星制作実行委員」を命ぜられた数百万もの天使たちから「実物大」の上質紙へ記されたデザインが次々と提出された。
 クマムシは委員の誰からも相手にされなかったが、「どんなに小さなこともけっして見逃さない神」が片目をつぶり、OKとなった。
 恐竜類には「いっせいに意義が唱えられた」が、「一生懸命に考えた優秀なデザイナーたちをがっかりさせたくなかった神」は承認した。
 犬とバラと蚤には「輝ける長い未来を与えることが満場一致で可決された」という。

 やがて、右往左往していた一人の「うとましい」天使から人間の図面が提出される。
「どう考えても気持の悪い姿をした動物で、見ていると嫌悪感をもよおすほどだった」ため、「全能の神」は初め「美しいとは言えないな」と言い、「だが、おそらくなにか特別な役に立つ動物なのかもしれない」と「辛い評価を和らげるように、やさしい口調で言いたした」。
 しぶとい天使は食い下がる。
「厚かましいのを承知で言わせてもらいますと、わが主よ、なんとかあなたに似せて創ろうとしたものなのです。
 ありとあらゆる創造物の中で、理性を持ち、あなたの存在を理解し、崇めることのできる唯一の生物となるでしょう。
 主を讃えるために壮麗な神殿を建立し、主の御名のもとに血なまぐさい戦いも辞しません」
 知識のある動物すなわちインテリに疑いを持つ神は応える。
「インテリなどというものはろくなことをせぬ」。
「おまえの言うとおり、並はずれた資質があるのかもしれぬ。
 だが外見から判断するに、厄介ごとを際限なく招くような気がしてならないのだ」。
「こいつらは、ちょっとでも好きなことをさせたら、いつの日か多くの難題を引き起こす。
 いや、よそう。
 やめておくべきだ」。

 地球が生まれる前夜、「神の承認を得ることができたデザイナーたちは、満足げな顔で思い思いの方向へ散って」ゆき、神は「心地よい疲労とともにひとり残され」、「心穏やかに、眠りにつこうとしていた」が、あの天使が「しぶとく挑戦に」やってきて、マントの裾をかすかに引っぱった。
 彼は「自分の設計をもういちど説明し、すがる眼差しで神を見つめる」。
 神は思う。
「人間だなんて!
 なんてたわけた発想なんだ。
 これほど危険な思いつきはない。
 だがよくよく考えてみると、実に魅力的な賭けでもあり、耐え難い誘惑を感じずにはいられなかった。
 もしかすると、やってみるだけの価値はあるのかもしれぬ。
 なるようになるだろう……。
 天地を創造するからには、楽観的な発想も必要だ」。
 そして言う。
「こっちに寄こせ」
 決定的な一瞬がやってくる。
「全能の神は宿命の設計図をつかむと、承認のサインをしたためた」のである。

 この快作を読み聞かせられ、斜に構えるところのあるAさんは〝我が意を得たり〟と感じたのではなかったか。
 Aさんの気持を想いながら、ご本尊様へ祈り、戒名をいただこう。
 引導を渡す時はきっと、導師しかいない。
 でも、ご本尊様と故人と導師とが一体になれば、ご葬儀は成り立つ。
 しっかり法を結びたい。
 そしてAさんの希望どおり、共同墓でお守りさせていただこう。
 Aさん、ご苦労様でした。合掌




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2015
03.23

樹木からの呼びかけ ―「まだいるからね」―

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 作家柳田邦男氏の次男洋二郎氏は、自死する一年ほど前、日記にこう書いていた。

「ぼくは行きの電車で、孤独な自分を励ますかのように、『樹木』が人為的な創造物の間から『まだいるからね』と声を発するかのように、その緑の光を世界に向け発しているのを感じた。」


 邦男氏はこの件について後日、書いた。

「重い病気を背負っている人や死を間近に察知している人は、他者の内面を鋭く読み取ってしまうばかりか、自然界の山や森や木々の語りかけまでも、霊感的に聴き取ってしまう。」

洋二郎は最後には、死への旋回をしてしまった。
 心の病は本当に難しい。
 それでも私は、今なお洋二郎の心に『まだいるからね』という言葉を感じさせた『樹木の緑の光の力』を信じている。
 あれは忘れられない福院の時間だった。
 あの言葉を語った洋二郎は、今では再生した姿で私の心の中で生きている。
 そして、そういう時間があったことは、私を絶望のクレバスに転落させない歯止めの一つになっている。」


 決して忘れられないフレーズである。
「まだいるからね」
「まだ」「いる」とは、避けられない死へ向かっているが、今はまだ、〈猶与〉の時間内で生きているという意味である。
 そして「ね」はたった一文字なのに、発信、語りかけ、思いやり、つながり、など決定的な意味を含んでいる。
 この「ね」を感得した洋二郎氏の心に、同士の発見、悲嘆と勇気の共有、奇跡的救済、など、生きる方向へと向かわせる力が生じたことは想像に難くない。

 それにしても「いる」とは何と悲痛な言葉だろう。
 ビルなど無機質で「人為的な創造物」たちに占領された空間で、ようやく息をついている。
 それも〈滅び行く抵抗者〉として。
 はかなく、勝利のあり得ない抵抗……。
 あまりにも切なく、哀しい悲嘆を帯びていっそう鮮烈に輝く「緑の光」は、洋二郎氏の心から、深い共感、共鳴を呼び起こした。
 共感、共鳴が邦男氏の言う「福音」だろう。
 逝った子供にとって、だけでなく悼む親にとっても。

 惨状と悲嘆に満ちているかのようなこの世界が発している慈光と福音を見聞きする心こそ、仏教徒の目ざすものである。
 惨状と悲嘆が〈見捨てられぬ〉という慈悲の思いを起こさせる。
 思いを抱いて離さぬ者は智慧が動き、実現する方法すなわち方便を必ず見つけ、実践する。
 この慈悲智慧による救済者こそ菩薩(ボサツ)である。

 洋二郎氏はまぎれもなく、菩薩道の入り口に立っていた。
 あと少し自力の回復があれば、〈方便〉へと進めたことだろう。
 邦男氏が「絶望のクレバスに転落」せずに済んでいるのは、洋二郎氏の「再生した姿」が菩薩の光を帯びているからに違いない。

 ちなみに『大日如来讃歎経』は説く。

「宇宙の真理象徴(シメ)すなる○大日如来の働きは○人や獣をはじめとし○山川草木一切が○生命(イノチ)を燃やし活動す○その姿にぞ証(アカ)される」

「われら衆生(シュジョウ)が自らの○心の実相(スガタ)知るならば○この世のすべての存在が○共に一つの生命(セイメイ)を○生きていること悟られて○宇宙の生命(イノチ)を自らの○生命(イノチ)としてぞ生きること○そこにこの世の一切が○大日如来の現象(アラワレ)と○捉える曼陀羅(マンダラ)精神の○教えの根本(モト)を見出さん」

大日如来の真言を○至心に念誦(ネンジュ)するならば○大宇宙との一体の○神秘な境地が現れて○自我の意識(ココロ)が消滅し○宇宙の中に生を得し○われらの実相(スガタ)気づかされ○一切衆生(シュジョウ)に平等の○生命(イノチ)と価値を授けらる○大日如来の深秘(ジンピ)なる○慈悲の心の存在と○その加持力(カジリキ)を感得す」


 常に「緑の光」を感じつつ生きることができれば、もう、大日如来の世界の住人であると言えよう。
 洋二郎氏の御霊があの世でそうなっておられるよう祈りたい。




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2015
03.22

切り放つもの、結びつけるもの ―オウム真理教に学ぶ心の危機―

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 オウム真理教は信者の思考を書き換えた。
 麻原彰晃は、家や社会、そして自分への不満や不安を解消するには、心のありようを変えねばならないと説いた。
 その結果、信者は家や社会、そしてそれまでの自分からも切り離された。
 行く先はどこだったか?
 み仏の世界ではなく、麻原彰晃の頭の中だった。

 正統な仏教経典も高度な修行法も、思いつきの似非科学的修行法も、あるいは監禁やLSDまでもが〈切り放ち〉に使われた。
 浮遊する心は、仏教経典の中身から外れ、教祖の妄想と欲望の世界へ引きずり込まれた。
 たとえば、本来「転移」を意味するポアである。
 迷いの世界から悟りの世界へと心を昇華させる修法は密教の根幹をなすものの一つだが、他人の心を強制的に動かそうという仏教とはかけ離れた用い方が説かれ、ついには、心がよりどころとしている肉体を苛め、破壊しようという虐待や殺人へと進んでしまった。
 オウム真理教末期の時点では仏教経典を正しく読める人間が教団内に一人もいなかったものと思われる。
 むしろ、仏教経典から離れて教祖の言葉と一体化することが強制され、そのためには教祖の頭髪や血液や風呂の水までもが神聖で救済力のあるものとして授けられ、売られた。
 仏教経典を学ぶ者として、「道具は使いよう」という古人の言い伝えに深く頷く。
 鋭利な包丁を本来の使用目的である調理に用いるか、それともまったく予定していなかった殺人に用いるかは、手にする人の心一つにかかっている。

 人生相談を受け、現代の世相を眺めていると、似たようなパターンがあちこちにあると気づく。
 子供たちを縛りつけるゲームの問題である。
 無料で誰とでも、何時間も際限なく遊び続けられるゲームが開発され、子供が一旦、ゲームを始めると思考も感情もすべてが動員され、時間が経つのを忘れるばかりでなく、止めに入る親や家族は邪魔ものでしかなくなる。
 自分がゲームを止め、ネット上の仲間たちから切り離されるのは何よりも耐え難いという心理になっているからだ。
 その結果、親は、思いがけない力と怒りで抵抗し、いつの間にか〈別人〉になってしまった我が子の様子に愕然とする。
 やがて、すなおだった我が子は気ままになり、凶暴になり、食事も勉強も疎かになり、部屋に閉じこもり、心身が成長すべき人生の時間を延々と空費してゆく。

 本来の居場所から〈切り離され〉、貴重な人生が〈費やされて行く〉状態と過程は、オウムのマインドコントロールに似てはいないか?
 オウムに我が息子を奪われ、親子の会話が通じなくなった父親は呻いた。
「すなおだった我が子はどこへ行ったのか?」
 これはそっくり、ゲームに毒された今現在の親子の姿ではないのか?

 オウムにおいては、切り離された信者の心は教祖の妄想へと吸収された。
 では、ゲームにおいてはどうか?
 親や兄弟や家庭や友人などと住む五感六根によって感得できる現実世界から、自分の欲望と感情のみの世界へ吸収される。
 中止させようとする親も家族も邪魔者となり、ゲームによって解放された欲望と感情は果てしなく膨張する。
 ゲームの道具と時間を確保するためには何でもやる。
 親に逆らい先生に逆らい、大人の言うことを聞かない。
 節度を失った欲望と感情は人間関係を損ない、粗暴な子供たちを近づけ、粗暴な集団では当然、ありとあらゆる悪事が行われ得る。
 欲望が爆発すれば万引きや強盗を行うだろう。
 感情が爆発すれば暴行や殺人を行うだろう。
 いずれもが、正常な思考の停止した状態で起こる。
 思考停止は何によってもたらされたか?
 ゲームの〈切り離し〉によってである。
 ゲームの弊害としてもう一つ深刻なのは依存症に陥ることである。
 異常な繰り返しは思考も行動も強烈に習慣づけ、潜在意識がゲームを避けられないように形づくられてしまう。
 人間がゲームロボット化するのである。

 私たちがオウム真理教事件に学ぶべきものはあまりにも大きく、多い。
 よくよく考えてみるべきであると思う。




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2015
03.22

葬儀堂『法楽庵』がスタートしました

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 好天に恵まれ、堂内いっぱいに集まられた善男善女と共に、葬儀堂法楽庵』がスタートしました。
 納棺師武藤由香さんの講話は忘れられません。
 特に、奥さんを亡くされたご主人が、お柩の横で奥さんと並んで横たわり、写真を撮ってくれるよう依頼したお話には涙しました。
 ご主人の願いです。
「自分が死んだなら写真を棺へ入れてください。あの世でも妻と一緒に暮らします」
 
 お堂の管理は「ほこだて仏光堂」様へ依頼していますが、業者様を含めどなたでもお使いいただけます。
 お通夜や、法要法事などのみでも使えます。
 022(739)8541へ、お気軽にお電話ください。 




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2015
03.21

出家と家出 ―オウム真理教に学ぶ危険な宗教の見分け方・宗教の落とし穴―

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 地下鉄サリン事件から20年となり、オウム真理教に関する報道が増えた。
 あの事件やオウム真理教から教訓とすべきことは多々あるが、出家(シュッケ)と家出(イエデ)の違いを見分けることは重要である。

 出家とは目的を持って家を出ることであり、専門的仏教者を目ざす者は一時的に日常生活を離れ、修行一筋の生活へ入る。
 家出とは家を捨てることであり、家庭での生活を続けたままでは自分の抱えた問題を解決できないと諦めて親兄弟を見限る。

 両者の決定的な違いは家や家族との関係にある。
 出家において家を離れ、家族や友人から離れるのは、あくまでも途中経過であり、やがてはそうした人々と共によりよい世界を創ることが不動の目的となっている。
 ところが家出は、家を見限り、家族や友人を切り捨ててフリーになりたいがために行う逃避行動であり、再びそうした人々と共生しようという積極的な意志はない。

 仏教で説く修行者は、以下のとおりである。
「今の自分のままでは親や社会やご先祖様などの恩に報いられないので、愚かさを離れ、真に役立てる人間を目ざす者」
 つまり、菩薩(ボサツ)を目ざすのである。
 地蔵菩薩も観音菩薩も、釈迦如来や阿弥陀如来に匹敵する悟りを開いていながら、私たちのおそばに顕れ、お救いくださることを願いとしており、救う相手を選ばず、〈見捨てる〉〈見限る〉という行為ほど菩薩から遠いものはない。

 オウム真理教や、その末裔である「アレフ」や「光の輪」はどうか?
 家や社会への不満を逆手に取り、「ここへ来れば大丈夫」とばかりに教団内へ引き込み、一旦、入信したならば決して帰そうとしない。
 手放さない方法として、信者へ家や社会の恩を忘れさせ、国家を含め外部の一切を憎悪させ、軽蔑させ、敵視させるマインドコントロールを行う。
 教団の内部は一切が善であり、外部は一切が悪であるという独善的な妄想の帰結が地下鉄サリン事件を始めとする数々の犯罪行為である。
 麻原 彰晃は明言している。
「対立する者は消せばよい」
 これが誤ったポアであり、現在の「過激派組織IS=イスラミックステート」などに共通する過激思想の終着点である。

 まっとうな宗教と怪しい宗教の見分け方が明らかになった。
1 出家は方法としてあり得るが、家出をさせるものは疑うべきである。
2 信者を囲い込み、教団外の仏神や人間を憎悪させ、軽蔑させ、敵視させるものは疑うべきである。


 問題のある様相は現在、宗教団体に限らず、一般的にも散見される。
 専門的な機関は別として、「いつでもおいでなさい」と子供や若者に家出を勧め、〈我が家〉へ留め置こうとするものは疑うべきである。
 家出者が気ままにできる場所を天国と誤認させてマインドコントロールし、社会から孤立させ、あげくの果ては犯罪へ巻き込むケースがどれだけあったろうか。

 最後に確認しておきたい。
 自分や家族や社会などへの落胆や失望や絶望から出家することはあり得る。
 そこでまっとうな指導者は必ず〈恩〉を説く。
 ちなみに現在、伝統仏教においては、出家の時点で「親や、社会や、生きとし生けるものや、仏法僧への恩に報いる」ことをご本尊様の前で約束せねばならない。
 憎悪し、軽蔑し、敵視する者は真の出家者として認められない。

 いかに有名であろうが、大きかろうが、すばらしい人道を掲げていようが、〈内部にのみ真理がある〉と説くものは危険である。

 西暦2000年を期してできあがった「地球憲章」にはどう書かれているか?
「平和とは、自分自身、他人、他の文化、他の生命、地球、そして全てがその一部を構成する、さらに大きな全体との間の、適切な関係によって創られた総体であることを認識しよう。」
 万物に真実を見出す柔軟で親和と思いやりに満ちた人間となるよう精進するのが、これからの時代に求められている真の宗教ではないか?
 高野山開創1200年目を迎える真言宗では、ご縁の方々と共にめざしている。
相互礼拝 相互供養」
(互いに尊び合い、互いに思いやろう)
 この「互いに」から除外される人は誰一人いない。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





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2015
03.20

スマホに文明の凶器性を考える ―7時間スマホの女子高生と中学生レベルの学力―

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 3月18日付の朝日新聞は「女子高生 スマホに潜む危険」と題し、女子高校生は1日平均7時間をスマホや携帯電話に費やしていると報じた。
 なお、男子高校生は1日平均1日4・1時間である。

 インタビューに答えた千葉県の高校2年生(17才)である。
「友人とのコミュニケーションはLINE抜きでは考えられない。
 メッセージを読んだら2分以内に返信、学校の休み時間もメッセージのチェックを欠かさない。
 密封できる袋に入れて入浴中も音楽を聴き、芸能人の動画を楽しむ。」
 そして言う。
「これでも友達と比べたら短い方だと思います」

 記事は、スマホの使用にまつわるトラブルを取りあげ、警鐘を鳴らしている。
 無料で動画を配信できるツイキャスを運営するモイ社は「不適切な配信の監視を強化し、個人情報公開が危険であることへの注意も呼びかけていきたい」としている。
 また、鎌倉女学院中・高(神奈川県)の佐藤正二教諭はインターネットに関する学習に取り組んできた立場から提言する、
スマホの全面禁止は現実的でないし、頭ごなしに警告しても思春期の子は受け入れない」
「親もサービスを知り、気持ちに寄り添うのがポイント」
「『使ってみたいから教えて』と親が言えば意外と教えてくれる。
 コミュニケーションをはかりつつ、危険性について話してほしい」
 つまり、中傷、強迫、プライバシーの侵害、その他不適切な情報の発信などへ警告を発している。

 しかし、本当に恐ろしい問題はもっと別なところにありはしないだろうか?
 24時間しかない1日のうち7時間をネット上のやりとりに費やし、誰かから届いたメールへただちに返信せねばならないとは、〈依存症〉あるいは〈中毒〉のレベルではなかろうか?

 そもそも、誰かへ手紙を出し、メールを送り、電話するのは、自分の都合によって〈相手の人生の時間を分けてもらう〉行為である。
 だから、手紙は必ず、「拝啓」などの頭語から始まる。
 いかなる相手であろうと、「慎んで申しあげます」「まことにすみませんが……」とへりくだり、恐縮する気持を伝えなければ申しわけないのである。
 最後が「敬具」など、「心より敬い、申し述べました」と結語で終わるのは当然である。

 暇無しに膨大なメールのやりとりをするとは、互いに相手の人生を削り取り、削り取られている状態であり、しかもそれが自覚されていないと言えないだろうか?
 そして、メールが来なくて淋しいとは、もはや、自分で自分の人生を充実させられなくなっている状態であるとは言えないだろうか?
 モダンジャズやクラシックの室内楽1曲を聴くだけで数分かかる。
 一篇の詩を読み、印象にたゆたうのもまた数分かかる。
 しかし、その間もメッセージは届き、すぐに返信をしなければ人間関係が怪しくなるとは、あまりに恐ろしいではないか。

201503200001.jpg
〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

 同日、朝日新聞はもう一つ、「高3英語力 中学並み7~8割」という驚愕すべきデータを掲載した。
 3月17日に文部科学省が発表した調査によれば、高校生の7~8割が、卒業時に目標とされている「英検2~2級程度」に達していない。
 日常の範囲で単純な情報交換ができるレベルであるA2(英検準2級程度)に達した生徒は1~2割、英語圏で暮らせる「B1」(2級程度)は最大で2パーセントしかいない。
 非英語圏で中学レベルとされる「A1」(3~5級程度)に分類される生徒が7~8割である。

 文科省の担当者の話である。
「特に『書く』『話す』は課題が大きい。
 授業改善につながるよう、いい授業の事例をまとめて配るなどして後押ししたい」
 彼がこう言うしかないのはわかる。
 しかし、それは、火付けを放置したまま消化の練習をするようなものではないか?
 生徒が自主的に勉強する時間も、自分の頭で考え想いを深める時間も少ないまま、与えられるもののレベルが上がっただけでは、できる子とできない子の格差は広がるばかりだろう。

 かつて、ゲームの問題についても、文明の刃が子供たちを傷つけないよう、大人たち、経済界の人々が熟慮せなばならないと書き、経済人が集まる場でも繰り返し、お話ししてきた。
 今回も同じく、子供たちを集団夢遊病にかけつつ莫大な利益を上げるスマホなどの関連会社も、政府も、よくよく考える必要があると思う。
 ここまでくればもはや、一家庭だけではどうにもならない。
 〈生身(ナマミ)の人間〉と円滑な人間関係が結べず、反射的に思考停止し、怒りや怨みや欲望などに流された無謀な行動に走るのは、人生の時間が神経症的に削り取られていることと無関係であるとは思えない。
 早くこの恐ろしさに気づいていただきたい。
 危機感をより多くの方々と共有したい。
 もうすでに、文明という川で流されるままに滝壺へ落ちる若者たちがいるのだ……。




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2015
03.19

たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無りし花の咲ける見る時 ―人生の楽しみとは―

201503190001.jpg

 3月14日の寺子屋『法楽館』において、講師藤原範典(ノリスケ)博士は橘曙覧(タチバナアケミ)の歌を紹介した。
 およそ政治・行政の要諦は、人々の何気ない暮らしを保つところにあるという。

「たのしみは朝おきいでゝ昨日まで無(なか)りし花の咲ける見る時」


(人生の楽しみは、朝起きて、昨日まではなかった花が咲いているのを目にした時にある)

 福井県福井市の商家に長男として生まれた橘曙覧(タチバナアケミ)は、年若くして両親と死別し、28才で隠遁生活者となり、歌の道へ入った。
「藁屋(ワラノヤ)」と称する質素な家で寺子屋などをしながら過ごし、正岡子規は「源実朝以後、歌人の名に値するものは橘曙覧ただ一人」と高く評価した。
 冒頭の一首は平成6年、天皇皇后両陛下が訪米した際、ビル・クリントン大統領によって引用された。
 この一首を含め全部で52首ある『獨樂吟(ドクラクギン)』のうち数首を読んでみたい。

「たのしみは草のいほりの筵(ムシロ)敷(シキ)ひとりこゝろを靜めをるとき」
(人生の楽しみは、質素な家にムシロを引き、一人でじっと心を静めている時にある)

 本居宣長を崇敬していた彼は、古代人になったような気持で過ごしたのだろうか。
 清貧がもたらす静謐(セイヒツ)は神のようだ。

「たのしみは紙をひろげてとる筆の思ひの外に能くかけし時」
(人生の楽しみは、紙を広げて書く歌や書などが思いの外、うまくできた時にある)

 仕事の達成感がこのように得られる人はどれだけいるだろうか?
 「よし、これでいい」と思える時を持ちながら仕事ができれば、まぎれもなく幸せだ。

「たのしみは妻子(メコ)むつまじくうちつどひ頭(カシラ)ならべて物をくふ時」
(人生の楽しみは、妻子が仲良く食卓を囲み、頭を並べて食事する時にある)

 心身に甲冑(カッチュウ)をまとわず、寝て、起きて、共に飯を喰う。
 かけがえのない時間と空間をもたらす家族の価値は、ここに言い尽くされているのではなかろうか。

「たのしみは空暖かにうち晴(ハレ)し春秋の日に出(イ)でありく時」
(人生の楽しみは、暖かな空気に包まれた春や秋の日に、外出する時にある)

 四季が廻る365日のうち、〝おお寒い〟でもなく〝うわあ、暑い〟でもなく、何とも心地良い暖かさを感じる日が何日かある。
 たまたま、そうした日に外出して心身が嬉しくなれば、生きものとしての喜びは極みと言えそうだ。

「たのしみは書よみ倦(ウメ)るをりしもあれ聲(コワ)知る人の門(カド)たゝく時」
(人生の楽しみは、書物を読み疲れたおりもおり、知った声の人が玄関を叩いて訪れてきた時にある)

 相手は友人か知人か門人か。
 いずれにしても、人と〈会う〉ことがかけがえのない価値であった時代ならではの嬉しさがある。

「たのしみは錢(ゼニ)なくなりてわびをるに人の來(キタ))りて錢(ゼニ)くれし時」
(人生の楽しみは、お金がなくて侘びしい思いでいるところに誰か訪ねて来て、お金をくれた時にある)

 哀しい安堵(アンド)ではあるが、小生の妻などにとっては「これで支払いができる」という最高の救いであろう。
 出家者の小生は、成り行きをご本尊様へお任せしているので、訪れてくださるご縁の方々へただただ、感謝あるのみ。

「たのしみはとぼしきまゝに人集め酒飲め物を食へといふ時」
(人生の楽しみは、たとえ貧窮していても、集まった人々とあるだけのものを飲み食いし、語り合う時にある)

 これは、そう感じられるタイプと感じられないタイプとがあり、普遍性は怪しいが、こうできる人にとっては最高に心が盛り上がるひとときである。
 毎月開かれる『ゆかりびとの会』役員会や、春のお花見、秋の芋煮などは貴重な機会である。

「たのしみは神の御國(ミクニ)の民(タミ)として神の敎(オシエ)をふかくおもふとき」
(人生の楽しみは、神の国である日(ヒ)の本(モト)に生まれた者として、神の教えを深く考え、感じる時にある)

 彼は、本居宣長の諡(オクリナ)「秋津彦美豆桜根大人(アキヅヒコミヅサクラネノウシ)」を床の間へかけておくほどの人だった。
 今の世の考え方からではなく、神の代に生きた古人の心になって『古事記』を読まねばならないと説いた本居宣長の魂と交感していたのだろうか。

 最後に、上記の世界とまったく異なる作家辺見庸氏の『自分自身への審問』から抜粋しておきたい。
 なお、これは、脳出血による後遺症を抱え、ガンの手術を受ける前後に、死を意識しつつ病院のパソコンに打ち込んだものである。

「早寝早起きと犬連れの散歩を励行、定期健康診断をしっかり受けて、眠剤がわりに『失われた時を求めて』をたった三十頁読んではうとうとと眠りにつくような日々をなぜ送れなかったのだろう。」
「特別ミサからそれほど時を置かすにおびただしい数の巡航ミサイルが洋上から発射され、貧乏な兵士たちだけでなく抗議する術をもたない多数の生活者の五体を破壊し、着弾現場近くの赤ん坊や母たちの精神を狂わせる。
 投資家たちの眼が輝く。
 戦争は〝買い〟だ。
 明々白々たる不正と非道と狂気はフランクルが生き延びたナチスの時代だけでなく、どっこいいまももっともっと大きな規模になって存続している。」
「変哲もない平穏な家庭というものが実は血なまぐさい世界に一番近い、と私は思っている。
 平穏無事な家と血まみれの世界を分かつ境界なんかない。」
「罪も恥も、もうどこにも顕在しない。
 かつてよりますます日々の風景にさりげなく融けこんでしまっている。
 公園の樹の幾枚かの病葉(ワクラバ)が昼下がりの風に舞い飛び、別の葉たちとカサコソと交わって留めている小さな闇のようにさりげない。
 その闇を、辛うじてほんの一瞬、遠い罪や恥辱を宿すものとして見咎(トガ)めるのは、誰でもない、自己の内奥(ナイオウ)の眼でしかないのではないか。」
「顔を鬼のように歪(ユガ)めて怒り、粗野な声を張り上げて訴えることをためらうべきではないころあいというものがあるだろう。
 どうしても諾(ウベナ)うことのできない時がある。
 これからも、私が生きてはいないかもしれないこれからも、憤怒はそのわけではなく醜さゆえにこの世から蔑(サゲス)まれるだろうけれど、そうであればこそ抑えてはならない。」

 橘曙覧(タチバナアケミ)の眼も、辺見庸氏の眼も、人間は持ち得る。
 さて……。




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2015
03.18

一代墓と墓じまい

201503180002.jpg

 「一代墓」へのご質問が相次いでいます。

Q:どういうお墓ですか?
A:お墓に定型のものはありません。
  大きさは0.49㎡のものから4㎡のものまでさまざまな区画がありますから、皆さんのイメージと予算に応じて、どういうものでも造られます。

Q:いくらかかるのですか?
A:お寺は墓地を永代に使用していただくだけで、その分としては10万円から25万円までです。
  また、管理料が1年間に5000円かかります。
  建てるお墓については石屋さんと相談してください。

Q:普通にお墓を建てるのと変わりませんね。
A:そうです。
  ただ、「一代墓」として用いるためには、建ててから何年間、供養されることを望むかによって、その期間の年間管理料を払っておけばよいのです。
  また、最終的に墓石を撤去して共同墓へ改葬するための費用も払っておけば、あとの心配はなくなります。
  つまり、将来、どこかの時点で〈墓じまい〉をしたい方のためのお墓です。

Q:いったん「一代墓」にしておいて、だれか継続して使いたい人が現れたら使えますか?
A:もちろん、使えます。
  当山では社会通念上、問題がある場合を除き、継承者に一切、条件をつけていません。
  だから、すでに当山の墓地では、友人同士で、あるいは、娘さんの嫁ぎ先と一緒にお墓を造る方も増えています。

Q:たとえばどういう方の例がありますか?
A:仲の良い夫婦のどちらかが亡くなったら残った方が供養し、最終的に一定期間、二人だけで一緒に眠りたい方。
  自分が生きた証(アカシ)として、あの世の家も自分なりに気に入った形で準備したい方。
  今ある墓地が遠くてなかなかお詣りに行けず、自分の代ではきちんと供養する意志があるけれども、後継ぎがないために改葬できずに困っていた方。
  若い人の収入が少ないので、建てた後の一定期間、一切の経費がかからず、安心できるようにしておいて、最終的に誰かが後を嗣ぐかどうかは〈お任せ〉という方。




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2015
03.18

肝臓移植を断ったジョブズ氏 ―【現代の偉人伝】第205話―

201503180001.jpg

 3月14日付の河北新報は、故ジョブズ氏がアップル社の跡継ぎとなったティム・クック氏からの臓器提供を断っていたと報じた。
 以下掲載する。

「故ジョブズ氏に肝移植申し出 アップル後継クック

 米アップル共同創業者で2011年に死去したスティーブ・ジョブズ氏が闘病中、後を継いだ現最高経営責任者(CEO)のティム・クック氏から肝臓の一部移植の申し出を受けていた、と米メディアが13日報じた。
 今月24日発売のジョブズ氏の伝記『ビカミング・スティーブ・ジョブズ』で紹介されているという。
 血液検査でジョブズ氏が自身と同じ珍しい血液型と知ったクック氏の申し出はすぐに断られた。
 医師の診断書も見せ『私は健康体だし、危険にさらされてもいい』と食い下がったが、ジョブズ氏はベッドから跳び起きて『絶対にだめだ』と怒鳴りつけたという。」


 今さらジョブズ氏を英雄扱いしたとてあまり意味がないとも思えるが、事業で大成功した人間としてではなく、自分のいのちよりも会社の存続を優先させたかに思えるできごとを看過してはおけなかった。
 結局ジョブズ氏は、別の人物から提供された腎臓を使って事業を続けたが、手術の2年後にクック氏との共同代表を降り、2ヶ月後に亡くなっている。
 ジョブズ氏の亡き後は自分が一人で世界有数の巨大企業を動かす超特権的立場にありながら、「自分が危険にさらされてもいいい」と食い下がったクック氏共々、このできごとは人々の胸に残ることだろう。




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2015
03.17

魂入れって何ですか?お焚きあげって何ですか? ―〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉の世界へ―

201503170001.jpg

〈笑いかけてくる花〉

 これまで最も多いご質問の一つが「魂入れって何ですか?」でした。

 お墓を建てたり、ご本尊様やお位牌を作ったりした善男善女は「魂入れをしてください」とご来山されます。
 そして、修法が終わると皆さんとても安心され、修法した小生も「ご安心なことでしたね」と、我がことのように嬉しくなります。
 どこにあるお墓であれ、どのように入手されたいかなるご本尊様であれ、特別な支障のない限り、分け隔て無く法を結びます。
 では、魂入れとは何でしょうか?

1 一つのモノに二つの世界を共存させる

 イメージとしては、一つのモノに二つの世界を共存させることです。
 たとえば、お墓は、いかに丹念に造られたとしても、できあがったままでは、目に見えるモノという世界の存在に過ぎません。
 法を結んだお墓は、モノであると同時に、目に見えぬみ仏の世界にある存在となります。
 だから、開眼供養(カイゲンクヨウ)が終わると、このように申しあげたりします。
「これでお墓は、み仏に守っていただく聖地になりました。
 ここで眠る御霊が守られるだけでなく、訪れ合掌する方も、あるいは遠方の地にあって瞼の裏へ思い描きつつ合掌する方も、等しく守られます。
 どうぞ、末永く、大切にしてください」

 もしも「一つのモノに二つの世界」がイメージできない方は、身近にある何かを考えてみてください。
 たとえば、長年、そばにおいた人形は、いつしか自分が眺めるだけでなく、人形も自分へ視線を向け、励ましてくれるように思われたりします。
 それが小さなお地蔵様だったりすると余計に、相手の存在感が増すものです。
 もはや、一般的商品としての人形、お地蔵様ではありません。
 そこに観じる〈かけがえのなさ〉は、単なる愛着心を超え、ある種の〈聖性〉をまとう場合もあります。
 この〈聖性〉こそがモノとは異なる世界の顕れであり、自分の霊性がはたらいて〈聖性〉をきちんと感じとった方にとっては、人形もお地蔵様も、決してうち捨てにしてはおけません。
 大切に扱い、どうにもならぬ状況になれば、お焚きあげを申し込まれます。

2 聖性の付与が魂入れ聖性を抜くのがお焚きあげである

 つまり魂入れとは、修法の世界でみ仏と一体になった行者による〈聖性〉の付与に他なりません。
 お焚きあげとは、〈聖性〉を抜き、単なるモノとなった仏像やお位牌を燃やして天地へ還す修法なのです。
 相手が亡くなった人間の場合には、火葬炉へ入れる前に必ず、この修法を行います。
 人間が人間たる尊厳そのものをきちんと〈その世界〉へ還した後、モノとなった身体を燃やすのです。
 それなのに、大震災から4年が過ぎた昨今、またまた、大震災以前のようにあれも要らない、これも要らないと、経済第一の世相に合わせた論調を振りかざす人々が増えました。
 そして、便利に、簡単に、お金をかけないで済まそうと、火葬する前の大切な修法までもが疎(オロソ)かにされ始めました。

 皆さんによく考えていただきたいのです。
 いつも自分をじっと眺めてくれていた人形を、もう要らないと焚き火へ放り込めますか?
 心が乱れた時に合掌し、深呼吸してはお救いいただいたお地蔵様を、もう要らないとゴミ収集に出せますか?
 有名な人がああ言ったから、こう言ったから、と他人の話や流行の情報に流されず、胸に手を当て、ご自身の頭でよく考えていただきたいのです。

3 宗教の発祥を想う

 母を失い、友人を失い、恩人を失い、日々、大切な人を失った方々の側に座る小生は、人間が宗教心に目覚めたのは、人の死がきっかけであったに違いないと感じています。
 私たちの「誕生」とは、まぎれもなく、どこからか〈やって来た〉できごとです。
 また、私たちの「死」とは、まぎれもなく、どこかへ〈還って行く〉できごとです。
 それに気づき、送り、悼む心が歴史と共に深まり、宗教が形成されました。
 送り、悼む行為が、民族なりに、地域なりに、宗教なりに洗練され、現在の日本において結実したのがご葬儀であり、ご供養です。
 そこにあるのは、縁者たちが心から同じ〈行為〉を行うことによって、亡き人の安心を願うと同時に、互いを思いやる尊い時間です。
 この〈行為〉を気まぐれに行うか、それとも歴史と文化をふまえた伝統的方法で行うか、もしくは何もやらないか。
 これは私たち一人一人の心のありようにとって、あるいは文化や社会のありようにとって、あるいは国の未来にとって小さくない分かれ目ではないでしょうか?

 もう一度、問わせてください。
 あなたは、使わなくなった人形やお地蔵様をどう、処置しますか?
 あなたは、かけがえのない家族や友人の亡骸(ナキガラ)をどう、天地へ還しますか?
 本当に「どうせモノだから」と思えますか?

4 魂入れお焚きあげ、ご葬儀、ご供養はつながっている

 上記のように、魂入れ、お焚きあげ、ご葬儀、ご供養はつながっています。
 モノの世界以外に、私たちが〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉を感じる世界があり、その世界こそ私たち人間にとって霊性の故郷であり、わたしたちが人間としてまっとうに生きるには、その世界を忘れてはならないと思います。
 時として、私たちの心にこうした疑問が湧いてはこないでしょうか?
「どうしてこんな世の中になったのか?」
 その時はまず、自分自身が〈かけがえのなさ〉や〈聖性〉を感じる世界にどう向き合っているか、考えてみましょう。
 世の中を変えようとするならば、世の中に変わって欲しいと願うならば、そこが第一歩ではないでしょうか?




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2015
03.16

原子力と綱渡り ―私たちへ突きつけられている道徳の問題―

201503160001.jpg
〈一輪の花が咲く不思議〉

 3月15日付の河北新報は、今を去る55年前の昭和37年、「キューバ危機」のおりに、人間の機転が紙一重で戦争を避けたと報じた。
 以下、全文を掲載しておきたい。

米軍、誤って発射命令 ―沖縄部隊 現場判断で回避―

 冷戦下の1962年、米ソが全面戦争の瀬戸際に至ったキューバ危機の際、米軍内でソ連極東地域などを標的とする沖縄のミサイル部隊に攻撃命令が誤って出され、現場の発射指揮官の判断で発射が回避されていたことが十四日、同部隊の元技師らの証言で分かった。

 キューバ危機で、戦争寸前の事態が沖縄でもあったことが明らかになったのは初めて。
 ミサイルは、搭載の地対地巡航ミサイル「メースB」で、62年初めに米国施政下の沖縄に配備された。
 運用した米空軍第873戦術ミサイル中隊の元技師ジョン・ボードン氏(73)=ペンシルベニア州ブレイクスリー=が証言した。
 別の元米兵も取材に応じ、誤った発射命令が出たことを認めた。

 ボードン氏によると、メースBは配備以降、読谷村の発射基地で、同氏らが連日検査して24時間体制で発射命令に備えた。
 62年10月28日未明、嘉手納基地ミサイル運用センターからボードン氏が担当するミサイル4基の発射命令が無線で届いた。

 しかし、4基の標的情報のうち「ソ連向けは一基だけだった」ため、「なぜ関係ない国を巻き込むのか」と疑問の声が上がった。
 別の標的国を同氏は明らかにしていないが、2200キロ超のミサイルの射程から中国とみられる。

 また米軍の五段階の「デフコン(防衛準備態勢)」が1(戦争突入)でなく2(準戦時)のままだった。
 不審に思った発射指揮官が、発射作業を停止させた。
 後に命令は誤りと分かったという。

 誤った命令が出た経緯は不明だが、28日(米東部時間27日)はキューバ上空で米軍偵察機が撃墜され、緊張が最も高まった時期で、米軍内に混乱があったとみられる。 (共同)
 
キューバ危機
 ソ連は1962年、米国が打倒を目指すキューバのカストロ政権を支援しようと、中距離ミサイルを搬入。
 10月16日に報告を受けたケネディ大統領は22日に事態を公表、ミサイル基地撤去を求めキューバを海上封鎖した。
 米国はキューバからのミサイル攻撃への報復も宣言、核戦争の緊張が高まった。
 秘密交渉を経て米国はキューバ不可侵と、トルコからの対ソ攻撃用のミサイル撤去を約束。
 ソ連は28日に基地撤去を通告し「13日間」の危機は去った。

<沖縄の核兵器>
 1972年5月に本土復帰する前の沖縄は米国の施政権下にあり、核兵器が大量に配備・貯蔵された。
 米公文書によると、50年代半ばに搬入が始まり、ベトナム戦争ピーク時の67年には1300発近くに上った。
 代表的なのが射程2200キロ超の核巡航ミサイル「メースB」で、読谷村など沖縄内4カ所の発射基地に配備、計32基のミサイルがソ連極東や中国を射程に収めた。
 69年の日米首脳会談で「核抜き返還」が決まり、メースBはじめ核兵器が順次撤去された。


 人類を破滅の危機から救ったのは、「発射指揮官」の判断だった。
 最後は現場のたった一人がすべてを決した。
 彼こそ真の英雄である。
 およそ軍の指揮系統にあって、国家の命運を決める〈最後の一人〉に指名された人物がここまでの判断力を求められていたとは思えない。
 これほど権限が認められていたとも思えない。
 なぜなら、その権限は、命令を発する大統領に匹敵するものだからである。
 あらゆる情報をもって最終決断する大統領と同等の判断力と権限が神ならぬ現場の一人に求められることはあり得ない。
 ボタンを押すか押さないか、大統領と発射指揮官と双方が決する二重の仕組みはあり得ず、指揮官は明らかに命令違反という扱いになろう。
 しかし、事実として、彼はアメリカもソ連も人類も救った。

 私たちは最近、同じようなできごとを体験した。
 原発事故における吉田所長の行為である。
 福島第一原子力発電所事故の収束作業を指揮したおりに、所長も又、〈命令違反〉によって日本を救い、世界を救った。
 官邸も東京電力本店も壊れた原発への海水注水を認めていない中、所長は独断で始めた注水作業を継続した。
 ウィキペデイアは原子力安全委員会委員長を務めていた班目春樹東京大学大学院工学系研究科教授の証言を記している。
「所長の吉田が東京電力本店の命令に反して注水作業を続けていなければ、東北・関東は人の住めない地域になっていただろう」
 また、原子炉建屋の大爆発にもかかわらず核燃料プールが無事で、しかもたまたま大量の水が残っており、なぜかうまい具合に流れこんだという奇跡的偶然が重なり、最悪の事態を避けられもした。
 後に、吉田所長が「ここで本当に死んだと思ったんです」と証言したほど切迫した状況にあって、あたかも生き仏のように粛々と「地獄のような」現場に向かった男たちがいたことも特筆しておかねばならない。

 危機一髪と言うにも程がある。
 これまで、私たちは幾度、こうした危機を〈たまたま〉乗り越えてきたのだろうか。
 この〈たまたま〉は現場におられた方々に対して失礼かもしれないが、人間の営みを広く客観視してみれば、ほとんどあり得べからざる確率で起こった行為やできごとによって、決定的危機が回避されたことは確かである。
 その証拠に、もしも再び同じような事態にたち至った場合、誰が同じ行動をとれるのか、誰が人類を救えるのか、神ならぬ人間には準備のしようがない。
 つまり、普通に考えれば、今度はダメだろうと思うのが理の当然ではないか。
 こうした事実は、たった一つの真実を告げてはいないか?
核は人類が安全に用いられる代物ではない

 3月14日の寺子屋で藤原のりすけ先生は指摘された。
「子供の高齢化、孫の高齢化を真剣に考えましょう。
 社会保障や公共サービスを通じて政府から受ける受益と、税金や社会保険料により政府に支払う負担と差額は以下のとおりです。
 60歳以上の世代は約4000万円の得、20代は約1100万円の損、それ以降の将来世代は約8300万円の損となります。
 これはもはや〈道徳の問題〉です

 私たちが今、核の問題をきちんとしておくのはまさに〈道徳の問題〉ではなかろうか?
 風の吹き加減次第で一気に燃え広がり、何もかもを焼き尽くすかも知れない埋もれ火を消さず、今、ささやかな暖かさを楽しんでいる私たちは、あまりに罪深い人々ではなかろうか?




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「おん あらはしゃのう」
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2015
03.15

お葬式って何ですか? ―お葬式が必要な理由―

2015031500111.jpg
〈3月14日の寺子屋では、経済学博士・宮城県議会議員藤原のりすけ先生の講義が行われました〉

 これまで最も多いご質問の一つが「お葬式って何ですか?」でした。
 ご年配の方よりも、むしろ、親を送らねばならない状況に至った若年や中年の方から真剣な問いが問われました。
 それは、「本当のところ、住職は何を信じてお葬式をしているのですか?」という厳しい目で見られるということでもありました。
 国会の答弁で散見されるような通り一遍の〈公式的な文句〉や〈その場しのぎ〉は通じません。
 答える側の人間そのものが観察され、答が、本当に答える人間の存在をかけて発せられたものであるかどうかは、必ず見抜かれます。

 最近は、こんなふうに応じるケースが増えました。
「この世で開ききれなかった仏心を開くこの世で最後のチャンスです」

 私たちには善い心も悪しき心もあり、善悪こもごもの言葉を用い、善悪こもごもの行動をとります。
 誰かを深く怨みもすれば、見ず知らずの人の善行(ゼンギョウ)に目を瞠(ミハ)らされたり、唸らされたり、恥ずかしくなったり、希望を持ったり、発奮したりもします。
 そうした自分の心中をよく観察すると、人間の善き姿に接すれば心は爽やかで明るくなり、悪しき姿に接すれば心は乱れ暗くなることに気づきます。
 心身は明るい方向へ向かってこそ健全に保たれ、人間関係において互いの信頼感が増大します。
 つまり、私たちの心には、草花が自然に陽光へ向かって伸びるような〈ある力〉が具わっているのです。
 それが小生一人だけのありようだとは到底、思えません。
 この事実は、「万人の心中にみ仏がおられる」と説く仏教が真実であると信じさせます。
 もちろん、そうは思われない方もおられでしょうし、科学的に証明できるわけではなく、論理的に導き出せる結論でもありません。
 仏教を学び、実践し、考え続ける一行者の信念でしかなく、誰かと客観性を競うつもりはなく、誰かと議論して言い負かそうとするわけでもありません。

 こうした私たちは、仏心に添って善く生きる場面もあり、仏心を覆う煩悩(ボンノウ)に引っぱられて悪く生きる場面もあります。
 そういう一生の最後の最後に、複雑極まりない心の最奥にある仏心の扉を開け放ち、心の故郷へ還るチャンスが訪れます。
 それが死です。

 だから、お大師様は説かれました。

阿字(アジ)の子が 阿字の古里たちい出て またたち還る阿字の古里」


 梵字(ボンジ)の「阿」に象徴される大日如来の世界を心の古里とし、この世へ修行の旅にやって来た私たちは、死によって古里へたち還り、輪廻転生(リンネテンショウ)を繰り返すのです。
 ダライ・ラマ法王も説かれました。

「自分の死は、修行の成果や信念を確認する貴重な機会なので楽しみである」


 さて、私たちは、母胎に宿ってからずっと、無数の人々のおかげ、自然のおかげ、社会のおかげでいのちを長らえます。
 最初は親が、そして家族や先生や先輩などが〈師〉となって導いてくださればこそ、人の間の存在すなわち人間としてまっとうに生きられます。
 生意気盛りになったり、少々、富や地位や名声を得たりすると自分の力だけで生きているような錯覚を起こす時期もありますが、あらゆる動植物も含めて〈師〉ならざるものはありません。
 踏まれても咲くタンポポに教えられ、堂々たる楠に教えられ、子を守るヒヨドリやスズメダイにも教えられます。
 思い上がった錯覚のままでは必ず、人生を誤ります。
 思い上がった人は、よしんば富や地位や名声を失わずとも、〈地〉を見抜いた人からは尊敬されず、軽蔑され、せいぜいが、利用したい人から仮そめに持ち上げられるのみであり、棺に冷たい視線を浴びるかも知れません。
 
 迷い、誤りつつ生きる私たちは、その原因となっている肉体の束縛を離れる時、本来の「阿字の子」そのものになるチャンスを迎えますが、〈おかげ〉をきちんと理解し感得し、〈おかげ〉なるものに導かれるすなおな心を失わなければ、爽やかで明るい世界へと溶け込んで行けることでしょう。
 これが「仏心を開くこの世で最後のチャンス」の意味です。
 導き手はみ仏であり、み仏と去り行く人との糸を強化するのがお葬式導師です。
 だから導師を務める行者は、み仏の世界への扉を開けるため、先んじてその世界へ入る力をつけねば役割を果たせません。
 
 では「み仏と去り行く人との糸」は具体的にどうやって強化されるか?
 それが引導(インドウ…引き導く)という作法です。
 導師は、お釈迦様が養母マハー・プラジャパティーを送るご葬儀で説かれた教えをお伝えし、一瞬で開扉します。
 扉の先はお釈迦様が悟られた境地であり、それは「阿」で表される大日如来の世界です。
 扉がしっかりと開く瞬間は、大日如来と行者が一体になっていなければなりません。
 これができるうちは導師としての資格があり、できなくなれば引退あるのみです。
 引導を渡す作法は単なる形式ではなく、誰をごまかせようと、み仏はごまかせず、逝く人もごまかせず、もちろん自分もごまかせません。

 群馬大学医学部附属病院で腹腔鏡手術を受けた患者8人が平成22年から26年までの間に8人もに死亡し、3月3日、40代の男性医師が行った手術の「すべての事例において過失があった」という恐るべき調査報告が発表されました。
 この医師は手術前、いつも「すごく簡単な手術だから大丈夫」と言っていたそうです。
 目に見える科学の世界ではこうした〈その場しのぎ〉が明確な形で発覚しますが、目に見えない宗教の世界ではわかりにくいものです。
 しかし、ご遺族などが判別する方法はあります。
 それは、ご葬儀の現場で導師が法を結び創り出す異次元世界を感得することです。
 あるいは導師を務める僧侶と会って質問し、人物を確認することです。
  
 私たちは人間なので、〈おかげ〉が理解でき、感得もできます。
 仏神、自然、社会、あらゆるものの〈おかげ〉でこの世を生き抜く私たちは、あの世へ行く時も同じであり、〈おかげ〉によらず自分一人だけの力で行けるはずはありません。
 最後まで感謝を忘れず、〈おかげさま〉と手を合わせつつ、み仏のお導きによって安心世界を目ざしたいものです。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
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 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
03.14

科学に期待し、科学を怖れる ―線虫・エンケラドス・中国の原発―

 12日、13日と、立て続けに科学的発見や発表が相次いだ。
 大きな希望と不安をもたらされたできごとについて記しておきたい。 

1 線虫ガンを見つけてくれる話

 現代人が最も怖れる病気の一つがガンであることは論を待たないだろう。
 尤も、ある医師によれば、ガンになると人生の終いがちゃんと見通せ、それなりの準備できるので、いきなり脳卒中になったりするのよりは嬉しいと言う。
 さて、3月13日河北新報は、線虫というごく小さな虫を用いたガンの早期発見法について報じた。

「九州大などの研究グループは、体長1ミリの線虫に人間の尿の臭いを嗅がせ、その反応から高い精度でがんの有無を判定できることを突き止め、11日付の米科学誌電子版に発表した。
 費用は検査1回100円から数百円程度、約1時間半で結果が出る。
 日立製作所などと組んで装置の開発を進めており、2019年にも実用化を目指している。
 従来の検査では分からなかった早期がんを発見できる可能性もあり、受診率向上や早期の治療が期待できそうだ。
 グループの広津崇亮助教(神経科学)は『自宅で採った尿1滴を検査機関に送れば、がんを発見できる。医療費の抑制にもつながる』と説明している。」


 そこで、さっそく、九州大学の「PRESS RELEASE」(20 15/03/12 03/12 )を読んでみた。
 以下はそこに記されている効果である。

■効果
 線虫の嗅覚を用いたがん診断テスト(n-nose)は、以下の優れた利点を全て合わせ持った、従来にない画期的な技術です。
①苦痛がない:尿サンプルを解析。必要な尿はわずか1滴!
②簡便:尿の採取に食事などの特別な条件は定めていません。通常の健康診断などで採取した尿を使えます。また医療機関に行く必要がないため、地域間格差もありません。
③早い:診断結果が出るまで約1時間半です。
④安価:1検体あたり数百円で検査できます。機械化されればより安価に。検査システムの立ち上げコストも安価であり、開発途上国での導入も期待できます。
⑤すべてのがんを1度に検出可能:これまでに調べた10数種類のがんについてすべて検出可能でした。その中には早期発見が難しい膵臓がんも含まれています。
⑥早期がんを発見できる:ステージ0、1の早期がんや、従来の検査では見つけられなかったがんについても検出可能でした。
高感度:感度95.8%という結果が得られています。



 なんと素晴らしいことか。
 最近、ご来山されたAさんは二種類のガンに罹ったが、いずれも早期発見により退治して、80才を超えた今なお、四国八十八霊場へでかけたりしておられる。
 Aさんは、それ以外にも腹部大動脈瘤など三度、大きな手術をしているが、意気軒昂である。
「大病をやるたび、元気になっています。
 これまでの無理が昂じて定年後、どっといろいろな不調が押し寄せました。
 でも、一つ始末をつけると胎内のモヤモヤが一つ晴れ、弱った部分を人工物に入れ替えるともう死ぬまでその部品は壊れないし、医者がしっかりやってくれさえすれば、何とかなるものですよ」

 日本ではここ30年ほど、ガンが死因の第一位であり、2人に1人がガンを経験し、3人に1人がガンにより死亡している。
 毎年数兆円に上る治療費は国家財政上も深刻だが、ガン検診受診率はいつも3割ほどである。
 経費も時間もかかり、安い方法は精度に疑問があったりして、受診率はなかなか上がらない。
 しかし、数百円で済み、95パーセントの発見確率があるのなら状況は一変することだろう。
 ありがたいと言うしかない。

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〈朝日新聞様よりお借りして加工しました〉

2 土星の衛星「エンケラドス」に生命誕生の条件が発見された話

 3月12日、朝日新聞は「土星衛星、生命が育つ環境 海底の熱水でできた物質確認」と報じた。

「土星の衛星の一つ『エンケラドス』に、生命が生息できる環境が存在する可能性が高いとする研究結果を日米欧チームが発表した。
 探査機の観測などで衛星の地下にある海の底での熱水活動でできた物質を確認した。
 地球の海底で熱水が噴出している場所には多様な微生物が生息し、生命誕生の場の一つと言われ、エンケラドスにも似た場があると考えられるという。
 論文が12日付の英科学誌ネイチャーに掲載される。

 エンケラドスは、直径約500キロ、氷に覆われ、一部から水蒸気が噴き出している。
 研究チームは、米航空宇宙局が1997年に打ち上げた土星探査機『カッシーニ』が、2004~07年に得たエンケラドスからの噴出物のデータを詳しく分析。
 二酸化ケイ素の微粒子(ナノシリカ)が含まれることを突き止めた。
 ナノシリカは、岩石が高温の水に溶けてから急冷するとでき、地球では温泉や海底に湧き出す熱水に含まれる。

 観測成果をもとに、東京大や海洋研究開発機構(JAMSTEC)などが10~13年末にかけてエンケラドスの海を模擬した実験を行い、ここでナノシリカができるには90度以上の熱水が必要だとわかった。

 この結果、地下海には生命が生存のために必要な水や炭素、窒素などの元素だけでなく、熱などのエネルギーもそろい、現在も生命を育める状態があると結論づけた。
 ただ、熱源となるエネルギーは、土星の重力による衛星内部の加熱などが考えられるが、十分に解明できていないという。

 研究チームは、地球以外で生命を育みうる環境の現存を初めて実証した、としており、メンバーの関根康人・東京大准教授は『生命がいる可能性は高く、いなくても生命に近い複雑な有機分子が合成されているのではないか』と話している。(小池竜太)

■生命発見へ一歩

 渡部潤一・国立天文台教授(惑星科学)の話

 宇宙での生命の発見に一歩近づく成果だ。
 これまで、宇宙の生命の存在は、間接的な証拠による想像で語られてきた。
 今回は探査機の観測と実験で、生命が存在する地球の深海に似た条件があることを裏付けた。
 将来、エンケラドスのサンプル採取で、生命の存在に迫る痕跡が見つかるかも知れない。」



 何とも嬉しく胸躍る話である。
 各国が軍事面や衛生面で警戒し合ったり、領土面や産業面で策略が絡み合ったりするかも知れないが、未知の生命との邂逅にあたっては友好・親和を旨としたい。

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〈産経新聞様よりお借りして加工しました〉

3 中国が原発の大増産に入った話

 3月12日付の産経新聞によると、日本の原発事故から4年、ついに日本海を挟み、偏西風上風上にある中国が沿岸部での原発増設を再開した。
 この先、当分、日本にとって最大の脅威が増大し続けることになる。

「11日付の中国紙、第一財経日報によると、中国政府は遼寧省大連市で稼働中の紅沿河原発に対し、100万キロワット型原子炉2基の増設計画を認可した。
 2011年3月の東京電力福島第1原発の事故後、中国で新たな原子炉建設が認められたのは初めて。
 火力発電所が一因という大気汚染問題への対応とともに、原発輸出を目指した動きとみられる。

 紅沿河原発はフランスから供与された技術をベースに、中国が国産化したとしている加圧水型軽水炉(PWR)を使用。
 100万キロワット型2基が稼働しており、同2基が建設中。
 これに加えて同2基を増設する計画が今回新たに認可された。

 許認可権をもつ中国国家発展改革委員会は東日本大震災の後、国内ですべての新規原発プロジェクトを見直し、安全管理に関する調査を行ってきた。
 同紙によると、沿岸部に集中している中国の原発は現在18基が稼働。
 さらに28基が建設中という。
 ほかに四川省など内陸部も含む27カ所で原発の新規建設計画がある。


 中国は大気汚染対策や二酸化炭素(CO2)の排出削減をにらみ、今後5年間で3千億元(約5兆8千億円)を投じて原発建設プロジェクトを進める方針。

 一方、11日付の中国証券報によると、PWR型原子炉の中国製「華竜1号」を年内にも英国に輸出する方向で交渉している。
 新たな原子炉の建設認可にカジを切ることで、国産化した原発の技術を内外に示す意図もありそうだ。」



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〈産経新聞様よりお借りして加工した現在の福島県浪江町〉

 日本政府はどうするのか?
 脱原発の文明転換を促すメルケル首相(独)の呼びかけにもどこ吹く風で、このまま経済第一で突っ走るのか。
 もしも中国の原発が事故を起こした場合、日本は決して無傷ではあり得ず、事故の規模によっては日本列島が死の島と化す可能性すらある。
 平成26年2月18日、ブログ「東日本大震災 ─東北関東大震災・被災の記(第148回)中国の原発事故に勝る国防上の脅威はない─」へ書いた。

「日本の国防上、最大の脅威は何か?
 中国の原発ではなかろうか。」

「ほとんどが中国東側の海岸や河川沿いにある。
 しかも、この地域は有数の地震地帯である。
 一旦、原発事故が起きれば、偏西風に乗って飛来する放射能の被害は、最近、日本でも警戒が強まっているPM2・5などの比ではない。
 日本全体が避難指定区域になりかねない。
 それは日本の滅亡を意味する。

 こうならないという保証はどこにもないどころか、福島原発の現実と中国の現状(各種管理体制の不備、権力者の資産の海外移転、動乱の予兆、などなど)を考えれば、あまりにも〈現実的な危険〉であると言わざるを得ない。」

「究極的方法が一つだけある。
 原発先進国である日本が原発を放棄し、世界中の国々が原発を許さなくなるよう、粘り強い行動を続けることである。
 千年万年単位で「豊葦原瑞穂(トヨアシハラミズホ)の国」を護るためには、先んじて身を斬る覚悟がなければならない。
 目先の損得を考えたへっぴり腰では、とても勝負にならないほど、相手は強大だ。」

「原発廃絶は、政治論、経済論としては成り立ちにくいだろうが、文明論、国防論としては決して念頭を離れさせられない大問題であり続けるだろうし、原爆を落とされ、原発事故を起こした日本人が決して見失ってはならない大目標であり続けるのではなかろうか。
 これは日本を救うだけでなく、中国をも救い、世界を救う道ではないか。
 今、原発の廃絶をやり始めなければ『遅きに失した』となりかねない。
 もっとも、そう気づいた時はもう、逃れようのない破滅の渦に巻き込まれていることだろうが……。」

 科学は夢を与えるだけでなく、新たな危険も生む。
 科学を用いる〈人の心〉が厳しく問われ、人間も自然の一部であり、これ以上の環境破壊は人類の自殺行為であると激しく警鐘が鳴らされ始めて久しいが、各分野で先端グループにいる日本の現状はどうだろう。
 人心を食(ハ)む無慈悲な資本主義とグローバリズムの中で、私たちは人倫の感覚を失わずに生き続けられるのか? 
 たとえ自然界の小さな線虫に助けられて生き延びようと、人力の抗(アラガ)いきれない原発事故にやられれば、エンケラドスに棲む〈生きもの〉との交感は夢のまた夢でしかない……。




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2015
03.13

触れるってどういうこと?(その2) ―日常生活に発見する菩薩の世界―

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 前回、書いた。
「触れるのは存在の確認作業であり、全神経がその最前線ではたらいている!
 神経がはたらいている事実はそっくりそのまま、自分という意識の存在を告げている。」
 
 世界と自分の存在感の絶対性が「触」というまごうかたなきものによって証されている。
 絶対性そのものになっている時は、世界も自分もない。
 お大師様は『理趣経(リシュキョウ)』の一節「〈触〉清浄句是菩薩位(触れるという清浄な世界は菩薩の位にある)」の〈触〉を含む「欲・触・愛・慢」の経文について説かれた。

普賢菩薩(フゲンボサツ)の仏徳を示す四菩薩の境地を明らかにしたものである」


 つまり、「欲・触・愛・慢」の4つはそれぞれ、「欲金剛」「触金剛」「愛金剛」「金剛傲(金剛慢)」という菩薩の境地である。
 では「欲・触・愛・慢」はどういう菩薩なのか?

 今回の〈触〉体験は、それをつかむカギとなった。
 感じた絶対性は、かつて光明皇后が悲田院(ヒデンイン)においてハンセン病の患者を手づから看護された時の感覚に通じているのではないか?
 小生のごとき凡夫は瞬間にしかわからないが、生き仏でおられた皇后は菩薩として〈触〉を通じ、み仏の手で看護しておられたのではないか?
 まさに、金剛のように不壊で不退転の菩薩である。
 凡夫には〈触〉体験が真実の実感でしかないが、皇后にとっての〈触〉は、それを通じてみ仏の智慧と慈悲が具体的にはたらく時であり場でもあったのだろう。
 皇后は「触金剛」そのものだった。

 ならば「欲金剛」とは、生きものとしての人間に付随する根源的意欲が、み仏の智慧と慈悲によってはたらく菩薩に違いない。
 凡夫は、喰う、寝る、儲ける、誉められる、などに汲々としているが、皇后は、一人でも多くの患者を救いたいとの尽きぬ意欲を持つ菩薩だったのだろう。
 そして「愛金剛」とは、無限の包容力と慈悲によってはたらく菩薩に違いない。
 凡夫は、異性に執着し、好き嫌いを尺度として他人を救ったり見捨てたりするが、皇后は、たった一人をも見捨てなかったことだろう。
 そして「金剛慢」とは、哀しみを潜めた微笑に顕れるような深い喜びをもってはたらく菩薩に違いない。
 凡夫は、怒り、泣き、時には笑顔にもなるが、皇后は変わらぬ穏やかな喜悦の相貌によって、常に周囲の誰をも喜びの笑顔にさせ、感謝の心を起こさせたことだろう。

 石屋さんの中には、真冬でも素手で仕事をする方がおられ、作業の様子に思わず合掌してしまう。
 「こうしてお墓が造られるという真実を知ってもらいたい」と願いもする。
 ちなみに、経文「触清浄句是菩薩位」は漢音で「ショクセイセイクシホサイ」と呼ぶ習わしになっている。
 真言宗の寺院で「~クシホサイ」と何度も繰り返すのを耳にしたならば、「ああ、私たちが本来、菩薩であると唱えているんだ」と思っていただければよい。

 司馬遼太郎が『空海の風景』にこう書いたのは、『理趣経』に依って自他が実際に救われる世界で生きている者にとって、あまりの違和感に驚くのみである。
理趣経に性愛のなまなましい姿態的説明が書かれ、それがとりもなおさず菩薩であるということは、経典が唐音で音読されているためにわれわれはその極彩色的情景を思い描くことなしに済んでいる」
 私たちはキューピットが矢を持っているからといって、実際に矢で射抜かれると想像し、恐怖感を感じるだろうか?
 密教で用いる法具には、昔、インドで武器だった形が採り入れられているものがある。
 しかし、誰も、それで戦をしようとは思わない。
 それを手にする行者によってのみ、その〈形〉は意義を持ち、法具が生き生きとはたらき、修法の場におられる方々は何かを感じられる。

 あと一回、この件について述べてみたい。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
03.11

東日本大震災被災の記(第162回) ―被災地の現実、原発事故と原発政策の現実―

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 今年も3月11日を迎えた。
 遠く首都圏からの献花も受け、東日本大震災あるいは原発事故関連でいのちを落とした方々のご冥福を祈り、供養会を行った。
 また、影響から抜けきれず苦しむ数十万人にものぼる方々の安寧をも祈った。
 新聞に載った文章のうち、三つを記録しておきたい。
 なお、原文にはアンダーラインなどがない。

一、 3月11日付の河北新報に掲載された「いまだ手の届かぬ希望」(編集委員寺島英弥氏)

「作るほど赤字。誰が担えるのか」。
 昨年12月の衆院選の最中、石巻市北上町の農家の落胆を聴いた。
 2011年3月11日の津波から復田事業は進むが、大半の人が営農を諦め、農家は70戸の水田を背負った。
 だが、昨年産米の米価(概算金)が暴落。
 農業復興の支え手たちは苦境に陥った。

 被災地の浜でも、売り上げが震災前の「8割に回復した」という水産加工業者はわずか40%-との調査結果が7日の本紙に載った。
「工場を再建したが、市場を失い、人も増やせない」と石巻市で取材した業者は語った。
「同業者と手を組んで商品をパックにし、共同で販路開拓中だ」とゼロから荒波に立ち向かう。

 三陸特産のワカメや昆布は昨春の収穫期、値段や注文が落ち込んだ。
 東京電力福島第1原発事故に伴う「風評の影響」と宮城、岩手両県内の漁協関係者は口をそろえた。
 根強い風評は被災地の南も北も巻き込む。

 福島第1原発では先月、新たな汚染水流出が明るみに出た。
 建屋屋上にたまった雨水が海に流れ、東電や経済産業省は事実を1年公表しなかった。
「コツコツ積み重ねた試験操業への信頼を崩された」と相馬双葉漁協の人々は抗議の意味を込め、待ちかねた春のコウナゴ漁を延期した。

 除染土の黒い袋があちこち野積みになった福島県飯舘村。
 家々や農地の除染は進むが、復田の多難さ、風評への諦め、米価暴落が村民の帰村意欲を揺るがせる。
 仮設住宅の生活は4年を数え、「帰れない」「帰らない」の葛藤が続く。
 避難先に新居を求める人も増えた。

 5度目の3月11日を迎えた被災地の風景だ。
 かさ上げ工事や公営住宅の建設は進むが、生業はいまだ戻らず、人の流出は止まらず、福島第1原発の廃炉、汚染水問題は先が見えない。
 苦しさを抱えながら、誰もが希望を手探りしている。


「復興をどんどん進めていくには、日本の経済を強くしていかなければ」。
 昨年12月、安倍晋三首相は衆院選の第一声を相馬市の漁港で上げ、経済政策アベノミクスの成果と効用を説いた。
「廃炉」「汚染水」に一言も触れず。
 ある漁業者は「よその世界の話のようだった」と振り返った。
 被災地が求めるのは、アベノミクス景気のおこぼれではない。
 絡み合い山積する難問解決への責任ある支援だ。


・アベノミクスは新自由主義と呼ばれる経済政策であり、「自由競争により先頭に立つ者がどんどん成功を重ねて行けば、やがてはその恩恵が裾野へも広がる」という発想による。
 被災地に必要なのは「おこぼれではない」。
 今日を生き、やがて死んで行く被災者へ手を差し伸べることがこの4年間、毎日、悲痛な叫びを伴って求められてきた。
 寺島氏の訴えは、果たしてしかるべき立場の人々へ届くのだろうか。


二、 3月10日付の朝日新聞に掲載された「原発の危険性に向き合う社会を」(元政府事故調委員長・畑村洋太郎氏)聞き手は長野剛氏、質問の欄は「――」で表示した。

――原発を動かすなら「事故は起こる」とはっきり言うよう主張されています。

 以前から「事故はない」と言うのはおかしいと薄々思っていました。
 そしたら、やっぱり起こった。

 社会全体が、原発の問題を自分の問題として考えようとしてこなかったのです。
 事故がないから大丈夫、審査しているから安全だ、とみんな自分の見たいところだけを見ていた。
 そういう文化をつくっておきながら、事故が起きたら誰かを悪者にして、終わりにするのは間違っている。


・私たちは、本当に、心から、私たち自身の姿勢を省みなければならない。
 ごく一握りの覚者を除いてほとんどの人々が、事故は〈ないはず〉と思ってきたのではなかったか?
 警鐘を発していた研究者もジャーナリストも詩人も隅へ追いやられ、私を含む一般国民は、産業界と政府が示すバラ色の恩恵にしか意識を向けていなかった……。
 ああ、何ということだろうか。
 何度、悔い、嘆き、被害者となった方々へ詫びても足らない。
 こうした私たちは今、万が一〈もう一度〉があったなら日本はなくなるだろう、と本気で考え、怖れ、語り、行動しているだろうか?


 どんなに準備しても,想定から外れたことを原因とする事故はこれからも起こります。
「起こりません」といい切るよう求めるのも間違いだと思います。

――事故調報告書では、関係者の危機感の希薄さも指摘されました。

 事故対策の仕組みはあっても、目的の共有が全くできていませんでした。
 規制やマニュアルをつくったら、おしまい。
 決めたことが実行されなければ意味がない。

 炉心を冷やす非常用復水器が動かせたと思いこんだこともそうです。
 雷のような轟音(ゴウオン)が響くはずなのに、現場はその知識すらもっていなかった。
 作動させる訓練をしている国では常識だったのに、東電はやらず国も文句をつけなかった。
 技術に向き合う当たり前のことをしていません。
 なんで「安全です」といえたのか不思議でしょうがない。

 原発は外国からもってきた技術で、日本は生みの苦しみを経ていない。
 JCO臨界事故(1999年)を調べた米専門家は「日本の技術者に自分の考えをいくら聞いてもいわない。本質的なことを見る人がいない」と事故を心配していた。
 そのとおりになった。

――委員長当時、事故の再現実験が必要と言いながら実現しませんでした。

 当時、世の中は反応しなかったし、予算もとれていない。
「先生、それなら自分でやってください」と事務局に言われ、途中で断念の宣言をしたんです。

 実験はいまからでも必要です。
 なにが起きたのかをきちんと確かめなければ。
 新たな視点に気づき、対策に役立つことがあるはずです。

 事故調は、事故の被害の実態に迫り切れなかった。
 放射線の被害も積み残しになりました。その後の検証も不十分です。

――事故調の提言は生かされているでしょうか。

 全然生かされていない。
 今は規制のハードルが上がったほかは、事故前と同じ状況に思えます。
 避難計画も実施可能かはわからない。
 実際に30キロ圏の住民全員を計画通り動かしてみるくらいのことをやったうえで、原発を動かすというべきです。


・そもそも「安全」とは、事故が起ころうと、担当者は適切に対処し、周辺住民は避難し、やがては事故を収束させる準備ができているということではないか?
 その準備は〈確認〉されていなければならないのではないか?
 ならば、〈避難訓練の伴わない避難計画は、その時点ではまだ、ほとんど机上の空論に近い〉と考えるべきではなかろうか?
 これまでの4年間で、原発周辺30キロ圏内の住民が避難する訓練を行った自治体は一つでもあるか?
 実際は首長をはじめ多くの住民が実現可能性を疑っているにもかかわらず、「避難計画ができたから大丈夫です」といったい、誰が責任を持って宣言できるのか?


 原子力を続けるのなら、危ないものは危ないと正面から向き合う社会をつくる必要があるはずです。


 ・国民の意識と発言と行動が問われている。
 悲惨であり惨(ムゴ)いと言うしかない境遇におられる方々と向き合い、巨大な不条理を前にすると、自分たちの安全は自分たちで構築し、守らねばならないと強く思う。


三、ジャーナリストの志と良心を示した3月11日付の「河北春秋」

 書棚がひっくり返って雑多な本が波打っているのを片付け始めたのは、震災からだいぶたってからだった。
 かすかに見覚えのある本を見つけた。
 土木学会が出した新書判の『津波から生き残る-その時までに知ってほしいこと』
▼奥付を見ると2009年の発行だった。
 津波の恐ろしさと生き延びる知恵が、震災の1年半前に出たこの小著には、研究者たちの手でほとんどすべて書いてあった。
 震災後に言い尽くされた迅速な高台避難の重要性はむろんのこと

東日本大震災の翌未明、徐々に明るみを増してゆく早朝の平野に、惨たる光景を見た。
 思い出すだけで、4年たっても胸の動悸(ドウキ)が速さを増す。
 無数のがれきと汚泥の中に、大勢の犠牲者が冷たくなって横たわっていた被災地
▼言語に絶する状況を前に、家族にまだ会えない不安と共に、悔しさと敗北感で立ちすくんだ。
 土木学会の本のような警告に接しながら、津波襲来の可能性と災害への備えを訴える記事を十分に書けなかった。
 そのふがいなさ

さまざまな思いに白い灰をそっとかぶせ、埋(ウヅ)み火のようにして生きている-被災者の多くの感慨に違いない。
 何年たっても、壮絶な体験への心の整理などつくはずもなく、原発の廃炉と被災地の復興という進行形の大震災の中で、今日を迎える。


・地方紙の魂ここにあり、と思う。
 がんばれ、東日本大震災の翌朝も届いた河北新報!





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2015
03.11

触れるってどういうこと? ―日常生活に発見する菩薩の世界―

201503100003.jpg
〈菊池寛著『十住心論』の裏表紙は堂本印象の筆によります〉

 新幹線のイスに腰を下ろし、左手の甲へ右手の掌を載せて出発を待った。
 その時、両方の手が〈れている〉という動かしがたい事実に戦慄が走った。
 れるのは存在の確認作業であり、全神経がその最前線ではたらいている!
 神経がはたらいている事実はそっくりそのまま、自分という意識の存在を告げている。

 これまでこうした気づきがなかったのは、自分の手が何か他の対象物へれるという形しか意識になく、その時、意識のほとんどは対象物に奪われていたからである。
 今回は、れるのもれられるのも同じ自分だったので、接そのものが強く意識された。
 最も明らかに対象物へ飛んでしまうのが異性との接触である。
 意識は異性に奪われてしまい、接触している自分そのものの存在感は、恐らく、相手の存在感の10分の1もないだろう。
 パソコンのキーボードを叩くのも同じであり、叩く行為とディスプレイとの関連以外はほとんど、意識にのぼらない。

 ところで、丸山圭子が昭和51年に唄った『どうぞこのまま』はこう始まる。

「この確かな 時間だけが
 今の二人に 与えられた
 唯一の あかしなのです
 ふれあうことの 喜びを
 あなたの ぬくもりに感じて
 そうして 生きているのです」

 今から約40年前の作品だが、男女の愛がテーマなのにどこか聖なる感じが伴っており、忘れられずにいた。
 なぜ、聖性があるのか?
 それは、二人が等価だからではないか。
 触れる自分と触れられる相手との間に〈区別〉はない。
 触れるという真実はまぎれもなく〈二人〉によってもたらされており、〈自分が相手に触れている〉という分別も、〈相手の存在感を確かめる〉といった貪りもない。
 触れ合うところに真実の時間が流れ、それは二人の存在を証(アカ)している。
「喜び」「ぬくもり」「生きている」これらはすべて、真実体験によってもたらされた宝ものである。

 ようやく『理趣経(リシュキョウ)』の一節「触清浄句是菩薩位(触れるという清浄な世界は菩薩の位にある)」を理解する糸口がつかめたようだ。
 この『理趣経(リシュキョウ)』は真言宗の根本経典であり、最もよく読誦されるが、師より与えられ、読み方は習っても、意味は基本的に教えられないことになっている。
 修行を積みつつ生きて行く中でいつ、「そうか!」と腑に落ちる時がくるかどうかわからない最奥の経典である。
 また、読誦することそのものにご利益があるとされている唯一の密教経典でもある。
 
 行者は「とにかく読誦せよ」と与えられても、「はい」にはとどまれない。
 何が書いてあるのだろうと調べないではいられない。
 そして、途惑う。
 言葉は密教辞典をひけども理解しにくく、文章をようやく現代語にしてみると言葉の意味としてわかっても結局、何を説いているのかは見当もつかない。
 しかも、17の章節それぞれがマンダラ化する空間意識を要請している。
 だから、行者はずっと、3つの修行を続ける。
 読誦し、調べ、〈真理真実をつかみたい〉と祈りながら生きる。
 
 70才近くなり、ようやくたった一節の世界へ入る扉の鍵らしいものが見つかったと感じてこの項を書いている。
 そう言えば、何かの本にこうあった。
理趣経はそもそも秘密経典であり、昔は、臨終間際になってようやく、口伝(クデン)の部分が伝授された」
 何てことだ、と思いつつ、一方では、死ぬ間際まで修行してみなければきっとわからないのだろう(特に自分のように娑婆でさんざんやらかした罪深い人間には)、と納得もしたものだ。

 さて「触清浄句是菩薩位」に何を感じとったか、次回、書いてみたい。
 なお、故司馬遼太郎は「伝記とも評伝ともよばれうる要素を根底に置いている(大岡信の言葉)」『空海の風景』にこう訳している。
「男女が相手を触れあうことは本質として清浄であり、菩薩の境地にある。」
 また、氏は、お大師様について同著に書いた。
「人間における性の課題をかれほど壮麗雄大な形而上学的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術としてふったび地上におろし、しかもこんにちなおひとびとに戦慄的陶酔をあたえつづけている人物が他にいるであろうか」
 当代一流と目された氏のベストセラー作品なのに、内容はあまりにも不思議でならなかった。
 伝授された経典と、お大師様が書き残された文章をたどたどしくたどりつつ生きている愚かしい一行者としては、お大師様がいつ、どこで「性の課題」を「形而上学的世界として構成」したのか、痕跡も見つけられない。
 むろん、仏像や法具を単なる「造形芸術」として眺めたこともなく、自覚の瞬間はあっても、「戦慄的陶酔」など一片の体験もない。
 さて、どうなるか。




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2015
03.10

私がここに居るってどういうこと? ―文豪菊池寛のマンダラ―

201503100002.jpg

菊池寛著『十住心論』の表紙です。描いたのは堂本印象。〉

 夫も子供もいながら大病を抱えたAさんがご来山され、真剣に問われました。

「私がここに居るってどういうことでしょうか?」

 密教は、世界を4種類のマンダラと観ます。
 昭和10年、文豪菊池寛はそのことについて書きました。

「簡単に例えてみれば、まず、僕の身体が全体として成り立っているので、大マンダラと言います。
(世界も、国も、ネコも、メダカも、人間も、それぞれが一つのまとまりあるものとして存在しています)
 作家である僕が手にするペンや原稿用紙などは、作家である僕の存在意義を象徴するのでサマヤマンダラと言います。
(大工さんならカンナ、警察官なら警棒などによって明らかです)
 菊池寛という僕の名前や、本の名前などの固有名詞は、他から区別して特定するために欠かせない唯一のものであり法マンダラと言います。
(夏目漱石、三島由紀夫、安部公房という名前による特定が文学界全体を構成しています)
 一生懸命に参考書を読み、徹夜して原稿を書くといったはたらきによって作家として存在していることになり、それをカツママンダラと言います。
(魚屋さんは魚をさばき、八百屋さんは野菜を並べるからこそ、魚屋であり八百屋です)」

 お大師様は、私たちが生きている世界の姿を4つの方面からとらえ、1つの方面には必ず他の3方面がつき従っていると説かれました。
 たとえばプロ野球広島カープの黒田博樹投手は一人の独立した人間ですが、同時に名前があり、グラブを持ち、ピッチャーとしてマウンドに立ちます。
 あるいは、ピッチャーという仕事を持っている人なら誰もが、一人の人間であり、名前で呼ばれ、投球を行います。
 4つの方面は決してバラバラになりません。
 どれかが欠けている人もいません。

 また、お大師様は、特定のものが持っている4つの面は、他のものが持っている4つの面と互いに共通し合い、バラバラにならないと説かれました。
 ある人が独立した存在としてそこに居るのと同じように、無数の人々がそれぞれ独立して、存在しています。
 黒田博樹という名前があるなら、則本昂大も大谷翔平もいます。
 黒田博樹がピッチャーなら、則本昂大も大谷翔平もピッチャーです。
 黒田博樹が投げれば、則本昂大も大谷翔平も投げます。
 4つの方面それぞれは無数の同類を網羅しています。

 Aさんに当てはめると、Aさんはまず、一人の自立した存在として、ここにおられます。
 そして、Aという自分だけの名前を持っています。
 そして、妻であり母親であり、あるいは親からすれば娘であり、誰かにとっては友人であり、知人です。
 そして、今、生きて悩み、当山を訪れています。
 Aさんとは、こうした4つの面から特定されるかけがえのない人です。

 また、4つの面それぞれを考えてみましょう。
 一人の独立した人は、ご主人も、お子さんも、親も友人も知人もそうです。
 名前を持っているのも、同じです。
 それぞれが人間社会の中で、それぞれなりの形で存在意義を持っています。
 そして、存在意義に応じて一瞬一瞬を生きています。

 視野を広げてみましょう。
 玄関前にいたミケ子は、時折、新たなライバルと縄張り争いをしつつ、一匹の尊厳あるネコとして当山周辺を歩いています。
 いつしかミケ子と呼ばれ、他のネコと区別されるようになりました。
 鋭い爪と牙を持ち、ネズミや鳥を追うしなやかなジャンプ力も、甘える鳴き声も具えています。
 そして、まぎれもなくネコとして生きています。

 Aさんがここに居られるのは、こういうことです。
 4つの面から〈世界中でただ一人〉として特定される存在であり、その尊さは〈仏〉と言うしかありません。
 Aさんが仏ならミケ子も仏、今、お話ししている私も、恥ずかしながら本当は仏なのです。
 お大師様が説いておられるのでまちがいありません。
 何と嬉しく、ありがたいことでしょうか。
 何か考えるヒントになりましたか?

 Aさんは瞳に力を取り戻し、帰られました。
 最後に菊池寛の原文を挙げておきます。
「手っとり早く喩へて云ってみれば、先(マ)ず僕の身体を大曼荼羅(マンラダ)とする。
 僕が手にするペンおよび原稿用紙が三昧耶(サマヤ)曼荼羅である。
 菊池寛(或は十住心論《ジュウジュウシンロン》)といふ固有名詞が法曼荼羅である。
 一生懸命に参考書を読み、徹夜して原稿を書くといふ如きが羯磨(カツマ)曼荼羅である。」




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2015
03.10

東日本大震災の供養会と桜の植樹は終了しました

201503100001.jpg

 3月1日、皆さんと共に般若心経を108返お唱えし、東日本大震災供養会は終えております。
 いまだにお問い合わせをいただいておりますが、11日は当山だけで祈りますので、供養会はありません。
 お間違いのないようにお願いいたします。

 3月8日、おかげさまにて、植樹を無事、終えました。
 ご助力くださった皆様へ心よりお礼申しあげます。
 周囲から隔離された『法楽農園』は土壌も陽当たりもよく、たちまちに花を咲かせてくれることでしょう。

 皆さんのご協力にあらためて感謝申しあげます。合掌




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2015
03.09

人生に悩む、人生を悩む ―こんがらかった悩み―

201503090002.jpg
〈春の花々が笑いかけていることに気づきましょう〉

 あれこれ悩んでいるうちにこんがらかってしまった、というご相談がありました。
 人生相談にご来山される方は、大きく二つに分けられます。
 人生に悩む方もおられれば、人生を悩む方もおられます。

 人生に悩むとは、人が生きていく過程において生じる、他人との軋轢(アツレキ)や、病気や、貧困などで困る状態です。
 これをAとしましょう。
 人生を悩むとは、人が生きていることそのものについて、意味や意義や理由など、あれこれと思いを廻らして答が見つからない状態です。
 これをBとしましょう。

 Aの解決において必要なのは、知識や才覚や人のつながりなどであり、昨今、大流行のスキルアップや思考の傾向を変える訓練などが役立つ場合もあります。
 要は、自分を含め、何か因果関係が明らかな力で解決し得ます。
 最もわかりやすいのは、病院へでかけて病状を明らかにしてもらい、治療を受けて快癒することです。

 ところがBには、Aのように、誰かにケンカの仲裁をしてもらうとか、気に入らない職場でも気持を入れ替えて頑張るといった根本的あるいは具体的解決法がありません。
 自分がわからないだけでなく、誰にも教えてもらえません。
 生きていればやがて〈その時〉が来て、〈気づき〉があるとでも言うしかありません。

 だから、まず、悩みがある方は、AとBとどちらを悩んでいるか、悩みそのものをよく見つめてみましょう。
 これが案外、はっきりしているようで、そうでもないのです。
 だから、昔から、宗教で信者を獲得するには病気の人や貧困の人へアプローチすればよいとされており、事実、そうして巨大化した宗教団体もあります。

 また、科学がほとんど信仰的にまでなった現在、科学的な装いをした〈思い込ませ〉により、事業に成功する例も散見されます。
 Aの状態なのに、知らぬ間にBの状態であると思い込まされ、効かない薬を信じて病状を悪化させたりします。
 だから当山では、ご本人に、いかなる状態にあるかをまず、自覚していただくよう気をつけています。

 もしもAならば、心がけなどについてお話しし、場合によっては医者や弁護士などをご紹介もします。
 もしもBならば、話をよく聴かせていただき、当人と一緒に悩みの形を見つけ、それに合った宗教的思考や実践方法などをお伝えし、場合によってはご祈祷やご加持といった提案もします。
 当然、AとBが入り交じり、ウェイトが変化して定まらないケースもあります。

 たとえば、職場の人間関係が悪化して人間不信に陥り、世の中も自分もわからなくなってしまう。
 幼い頃に体験した家庭内のDVが、大切な人間関係に微妙な影を落とし、いざという時になかなかうまく行かない。
 夢中で仕事をしてきたのに、病気になって休んだ途端、仕事の意義が感じられなくなってしまう。

 こうした場合は、共に考え、共に祈り、世間的方法と宗教的方法とによって根気強く解決を目指すことになります。
 世間的方法はほとんど「~である」という形で力を発揮し、宗教的方法はほとんど「~と感じられる」あるいは「~と思える」などという形で力を発揮します。
 たとえば薬が効くと思えるだけでは安心できず、効くことが立証されていなければ怪しく、一方、祈りによってよき心になったように感じられるなら一歩、前進ですが、大金をお布施すれば大丈夫ですと断定されてもやはり、怪しいのです。

 私たちは悩む時、いつしか呼吸が細くなっています。
 この呼吸を胸でなく、腹で行うようにしてみましょう。
 意識的にお腹を引っ込ませながらゆっくりと吐き、吐ききったならば、反動でふくらむお腹へゆっくりと吸うのです。

 そうすると、いつしか悩みが対象として客観的に観えてくるかも知れません。
 いつしか〈自分〉が、〈観る者〉としてゆったりと〈居る〉のです。
 こうした時間の体験はきっと何かの役に立つことでしょう。

 その上でなお行く先が不安な方はどうぞ、人生相談へおでかけください。




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2015
03.08

ポジティブ思考に疲れたら ―強迫観念から解放世界へ―

201503080001.jpg

 ポジティブ思考に疲れた方からの人生相談です。
 以下、簡単に述べてみます。

 私たちにとって、「~と思う」という状態と、「~と思わなきゃ」と自分に言い聞かせている状態はまったく違います。
 前者には開放感が伴い、後者には圧迫感が伴っています。
 最もわかりやすいのがこの二つです。
A:「自分はこの仕事に向いていると思う」
B:「自分はこの仕事に向いていると思わなきゃ」
 Aの状態で仕事をしていれば、多少、辛いことがあっても乗り切る力が湧いてきて、峠を越えた後は、歩む脚が一段と丈夫で逞しくなっています。
 Bの状態で仕事をしていれば、ちょっとの問題でも大きな負担に感じ、ストレスと闘いながらふうふう言ってようやく峠を越え、超えた後はフラフラになっていたりします。

 ところが私たちは、Aの状態で仕事ができることなど、あまりありません。
 だから、実際はBなのに、Aであると自分に言い聞かせながら頑張ろうという〈訓練〉法がいろいろあります。
 しかし、〈実際はB〉であると知っている自分をごまかしきれず、表面の心と潜在意識とがずれた葛藤からなかなか離れられないので、訓練は大変です。

 仏教では、思い込みを排除します。
 経典も作法も修行もすべて師より伝授されますが、その時点では、ただ〈知った〉ということでしかありません。
 例えば、「一切の現象世界は、本質的に清浄であり、自分も又、本質的に清浄である」という内容の観想があります。
 これを与えられたならば、どういうことなのか?と自分で考えつつ、修行としては誤りなく観想を続けます。
 そうするとある時、〈そうなのか!〉と気づき、一気に心の視界が開けます。
 もちろん、そうなりにくい、あるいはならない人もいて、それは仏縁の問題としか言いようがありません。

 さて、大切なのは、この修行のどこにも強迫観念がないということです。
 経文としては「思え」となっていても、それは、手順としてこうなっているという意味でしかなく、強要はせず、現実感と経文の内容とのギャップを無理になくす必要はないのです。
 そもそも、経文とは、み仏の世界そのものや、み仏の世界へ入る方法を説くものであって、私たちが不通に生活している現実世界とかけ離れているのは当然です。
 しかし、かけ離れているという事実認識がちっとも苦にならないのは、経文の向こう側が、苦から離れた解放の世界だからです。
 臨死体験をした人が見るお花畑は常に魅力的で「行きたい」と思わされています。
 そのように、経文の世界は〈知らぬ間に〉よき世界をかいま見せ、眺める窓が広がれば嬉しく、自分の中にある霊性が活性化されるので、開放感は増すばかりです。

 だから、ご縁のお寺を探し、信頼できると感じた僧侶から経文を授けられてはいかがでしょうか?
 きっと「信じなさい」とは言わないはずです。
 効率を上げようと強迫観念で自己改造をはかるのではなく、努力は続けつつも、じっと〈時を待つ〉のが仏教のありようだからです。
 ちなみに、お釈迦様は、自分の名前すら覚えられないチューラパンダカさんを導く際に、お掃除をしながら「塵を払わん、垢を除かん」だけを唱えるよう指示し、長年かかりましたが彼はとうとう悟りを開きました。
 皆さんよくご存じの茗荷は、「名」を「荷(ニナ)う」という意味があり、この草は、自分の名前すらも重い荷物として一生、荷い続けた彼のお墓に生えていたとされています。
 だから、食べ過ぎると物覚えが悪くなるという言い伝えがあるのです。

 どうぞ、「~と思わなきゃ」に疲れた時は、無心に経文を唱えてみてください。
 よき運命転化をされ、自然にポジティブ思考がはたらきますよう。




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2015
03.07

恩への感謝と束縛からの脱出 ―今月の聖語─

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 この世はに満ち、「こんまり流ときめき整理収納法」を編み出し、世界中で著書が読まれている近藤麻理恵氏は、アメリカでもこうした指導を行い、話題となっています。
「捨てようかどうかと悩む前に、山となったモノたち一つ一つへありがとうございましたと感謝してください。
 そうすると、不要な罪悪感が消えて、すんなりと不要なものの仕分けがつきますよ」
 日本人にとってごく自然な感謝の披瀝が、アメリカの人々にとっては新鮮な視点や姿に感じられるようです。

 を感じ、に応えることは人の道であり、「知らず」は「ろくでなし」と並んで、〈どうにもならない困り者〉の別称です。
 だから、隠形流(オンギョウリュウ)居合の道場では、稽古の前にこうした誓いも立てます。
を着せず、恩を忘れない」

 しかし、どうしても自己中心的になりがちな私たちは、自分の利や立場を重んじて、「~してやったのに」と恩を着せたくなります。
 一方では、気ままにしたいので、たやすく恩を忘れます。
 親子げんかの典型です。
「育ててやったのに、恩知らず!」
「勝手に生んでおいて、今さら恩で縛ろうとするな!」
 また、気の弱い人や優し過ぎる人は、恩の鎖によってがんじがらめにされる場合もあります。
 あるいは、思い切って方向転換をしようとする際に、これまでに受けた恩が足を引っぱる場合もあります。
 お釈迦様もお大師様も、それぞれ親や境遇に感謝しつつ、〈小さな自分〉にまつわる恩の束縛から離れ、真理によって生きる無限に広い道を選びました。

 お大師様はそのことをこう示されました。

「生死(ショウジ)の河は恩によりて深広(ジンコウ)なり。」

 執着心がまといつく恩やにより、この世の河は、渡りにくいほど深く広いものとなっています。
 家族間の親密な恩は強い絆となって心を育て、いのちを守りますが、そこで生じる執着心は同時に、真理・真実を探求する際に強いブレーキとなり、行く手を阻む場合もあります。

 そこから離れ、 幾度も輪廻転生(リンネテンショウ)を繰り返すうちに積み上げる福徳と智慧の宝ものは、やがて高く大きな山となって悟りの世界へ導きます。

「涅槃(ネハン)の山は福智を積んで高大なり」

 だから、ご葬儀においては、あの世へ旅立つ方が執着心によって迷われないよう、必ずこの法を結びます。

「恩を棄てて無為(ムイ…悟り)へ入ればこそ真実の報恩者ならん」

 死した今こそ、恩の鎖を離れて悟りを目指し、この世で修行させていただいたことに対する真の報恩を行おうと呼びかけるのです。

「生死(ショウジ)の河は恩によりて深広(ジンコウ)なり。
 涅槃(ネハン)の山は福智を積んで高大なり」


 この教えは実に深い世界を含んでいます。
 私たちの人生を彩る恩と
 そして、そこにまつわる執着心のありよう。
 こんまり先生流の感謝執着心の克服。
 ご葬儀の意義。
 いろいろと考えてみましょう。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2015
03.06

永代使用料を定めない「福祉墓」を建立しました

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 当山はこのたび「福祉墓」を建立しました。
 永代使用料は皆さんの良識へお任せし、年間管理料もありません。
 諸事情で困っておられる方など、宗教宗派を問わず、どこにお住まいのどなたでもご安心いただけます。
 お守りくださるのは、最高の瞑想に入っておられる大日如来様です。
 み仏に救い漏れはありません。
 どうぞご相談、お申し込みください。




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2015
03.06

3月の守本尊様と真言

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〈『福祉墓』の守本尊大日如来様〉

 3月は、啓蟄(ケイチツ)と春分(シュンブン)の月(ウヅキ…3月6日より4月4日まで)です。
 3月は(ウ)の月なので、守本尊文殊菩薩(モンジュボサツ)様です。

 文殊菩薩様は、『過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)』をもって、過去から現在を通り未来へと連なる因と縁と果とのつながりを見極めるお力をくださり、悪しきことをせず良きことを行うようお導きくださいます。
 文殊菩薩様は、年生まれの善男善女を一生お守りくださる守本尊でもあり、身体においては、主として腕や手をお守りくださいます。
 また、数え年8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107才の方々を今年一年、立春から節分までお守りくださいます。
 ご供養し、ご守護いただき、暖かさが嬉しい月を心豊かに、無事安全に過ごしましょう。

般若(ハンニャ)の智慧を本誓(ホンゼイ)と○為(ナ)され菩提(ボダイ)の母として○われら衆生(シュジョウ)の虚妄(イツワリ)の○戯論(ゲンロン)分別(チシキ)を断滅し○菩提(サトリ)の道を示されり」
文殊菩薩様は、大いなる智慧によって悟りへ導き、私たちの誤った考え方を正し、行くべき道をお示しくださいます)

「文殊は貧窮や○病気の人に身を変えて○この世に現われ人々が○真(マコト)の慈心(アイ)と悲心(オモイヤリ)○その心から福業(ヨキコト)を○なさんとするかを試されて○福祉の心を証(アカ)されり。」
文殊菩薩様は、困難を抱えた人の姿となり、私たちが慈悲心によって善行に励むよう、お導きくださいます)

21080819 009

 写真は、永代供養を行ってご加護を受けるため、当山の講堂へ納められた文殊菩薩様です。
 総丈は約35㎝あり、日本で唯一、護摩を焚いてできた灰が体内へ納められたご本尊様です。(奉納受付中)

 3月の守本尊文殊菩薩(モンジュボサツ)様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「おん あ ら は しゃ のう」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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