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2015
04.30

謝罪と赦し ―ユダヤ人・アーミッシュ・イスラム法―

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〈4月26日、絶好の好天のもとで、お花見が無事、終わりました〉

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 最近、新聞でよく目にする「謝罪」について少々、考えてみたい。
 
1 謝罪の当事者

 中国や韓国の人々は、70年前の太平洋戦争で自分たちへ被害を与えたことを謝れと要求し続けている。
 日本は国際法上、決着済みであるとの立場だが、両国は、納得できるような謝罪を得られるまで永久に要求し続ける構えを崩さない。
 では、そもそも謝罪とは何か?
 評論家曽野綾子氏は、4月26日付の産経新聞に『当事者でない者の謝罪』を書いている。

謝罪ということは、直接の被害を受けた人と、与えた人とが、現在地そこに当事者としている場合にしか、なし得ないことではないだろうか。
 仮に私個人に、70年前に起きたことを今でも言い立てる人がいたら、付き合いたくないと思うに違いない。
 70年前、顔も見たこともない私の曽祖父が犯した悪事を、今普通の市民として生きている私に責められても、私としては謝りようがない。」

「ユダヤ人は、謝罪という点では私たちよりもっとはっきりした認識をしている。
 謝罪は、直接の加害者と被害者の間でしか成立しない。
 あるドイツ人が、一人のユダヤ人に『戦争中ナチスに加わった同胞の罪を赦してください』と言った。
 するとユダヤ人は答えた。
『私はあなたを裁くことも赦すこともできません』
 もし当事者でない者が謝ることができるなら、私たちは仮に殺人を犯しても、容易に代理人を立てて、謝罪をさせておけば済むようになるからであろう。」


 確かに、個人と個人の間では曽野氏やユダヤ人の考え方が妥当なのだろう。
 悪行を実行した〈罪の意識〉なしには真の謝罪が成り立たない以上、加害者本人以外の誰かが成り代わることはできない。
 血塗られた手に、倒れた相手に、愕然としてこそ贖罪の意識が生ずる。

 しかし、二つのできごとは忘れられない。

2 アーミッシュの悲劇と赦し

 平成18年10月2日、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡において、アーミッシュの運営する学校が地元に住むトラック運転手チャールズ・カール・ロバーツ4世容疑者(32才)に襲われ、女子児童5人が射殺されるという事件が起こった。
 男は事件後、自殺した。
 死亡した13才の少女に次いで、11才の妹も「私から撃って。ほかの子は解放して」と男に告げていた。
 そして、現場へかけつけた男の妻マリー・ロバーツさんと3人の子供たちは、罪を許すアーミッシュたちに抱擁して慰められ、妻は葬儀にも招かれたという。
 妻は共犯者でなく、事件そのものに関わりはなかった。
 しかし、駆けつけて詫びた。
 夫が犯した取り返しようのない罪を詫び、子供や仲間を殺されたアーミッシュたちは赦し、慰めた。
 それだけではない。
 男の葬儀に参加した75人前後のうち約半数はアーミッシュであり、妻と3人の子供たちなど遺族へ赦しの言葉をかけた。
 その様子は全米へ報道され、大きな反響を呼んだ。
 後に、マリー・ロバーツさんは書簡を発表した。

「わたしたち家族は皆さんの愛で、強く求めていた癒しを得ることができた。
 皆さんの贈り物に、ことばで表せないほど感動した」


 アーミッシュであるヘンリー・フィッシャー氏(元農夫)は語っている。

「怒りは私たちの手段ではありません。
 怒りは無意味です」


 同じくアーミッシュのフラン・ベイラー氏。

「アーミッシュの共同体は疑いを持たず外部から銃で襲撃することなど考えません」
「私達は赦したい。
 そのように育ってきましたから。
『善をもって悪に答えよ』です」


3 イスラムの掟と赦し

 平成26年4月、イラン北部ヌールで、死刑囚が公開処刑される寸前、殺人事件で殺された被害者の母親が公衆の面前で罪を許したため、彼は首からロープを外され、禁固刑となった。
 平成18年にけんか相手を殺し、死刑判決を受けた男が公開処刑を受けるため、絞首台に立った時、被害者の母親が公衆へ赦しの言葉を告げ、男を平手打ちし、夫と2人で首のロープを外した。
 夫は元サッカー選手で指導者、死刑囚は教え子だった。
 イスラム法(シャリア)は、被害者の家族側からの求めがあれば、刑の執行延期や軽減が認められると定めている。

 なお、イスラムの「眼には眼を」の掟に関しては、こうしたできごともある。
 平成23年7月、イランにおいて、求婚相手アメネ・バフラミさんに断られた大学の同級生が腹いせに顔へ硫酸をかけ、失明させた罪により、同じく失明させられることになった。
 しかし、実際に手をくだす直前、国際人権団体からの申し入れもあり、アメネ・バフラミさんは男を赦した。

「この7年間、硫酸をかけた者はキサースの罰を受けるべきだと思い続けてきました。
 でも私は今日、自分の権利を行使して彼を許しました。
 神はコーランの中でキサースを説かれましたが、キサースより許すほうが立派なことだとも説かれています。
 私のしたことは国のためでもあります。
 いろんな国が、私たちがどうするか見守っていましたから」


 アメネ・バフラミさんの母親も語った。

「娘を誇りに思います。
 彼を許すことができたアメネは強い子です。
 おかげで娘も私たち家族も心の平安が得られることでしょう」


3 結論

 謝罪と赦しは、法的問題以前のところに発し、法律を超えた範囲で私たちの心へ大きな影響を及ぼす。
 謝罪は、犯罪者そのものであろうとなかろうと、〈自分は人間として罪を犯しつつここまで生きてきた存在である〉という意識があれば、何らかの形で、いつでも行われ得るのではないか。
 そして、「赦し」も、そこに〈根〉をもっているのではないか。
 だから、当山の修法はここから始まる。

「我れ昔より造りし所の諸(モロモロ)の悪業(アクゴウ)は
 皆な無始(ムシ)の貪瞋癡(トンジンチ)に由(ヨ)る
 身語意(シンゴイ)より生ずる所なり
 一切我れ今、皆な懺悔(サンゲ)したてまつる」


 謝罪は、愚かな自分が行わないではいられないし、相手のためは、そうするしかない。
 赦しもまた、愚かな自分が赦さぬ者ではいられないし、相手のためを思えば、そうするしかない。
 よく考えてみたい。




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2015
04.29

ヨーロッパ初の神社に想う ―調和と共生を生きる日本人―

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〈向かって右から二人目がマンリオ・カデロ閣下〉

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〈向かって右に建つ木碑には「私のためでなく、あなたのためでなく、皆のために」とある〉

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 平成26年6月22日、サンマリノ共和国において、ヨーロッパ初の神社が建立された。
 ひとえに、特命全権大使として永年日本で活動してきたマンリオ•カデロ大使の熱意による。
 閣下は著書『だから日本は世界から尊敬される』において、その経緯を書かれており、当山はブログ「【現代の偉人伝 第198話】 ―『だから日本は世界から尊敬される』を書いたマンリオ・カデロ閣下―」で紹介した。

 このたび、宮城県川崎市在住の佐々木裕氏と真幡善治氏より神社建立時の写真、及び同著をいただいた。
 カデロ閣下の言葉である。

「私は敬虔(ケイケン)なローマンカトリックの信者です。
 それでも神道のすばらしさはわかります。
 神道は自然を神と崇めて大事にしつつも、他の宗教に対しても寛容であるので、広い視野で物事を捉えることができる宗教だと思います。
 そのような神道神社を母国に建立できることは望外の幸せでもあります。」


 ここに、神道の世界的意義と日本文化の基盤が示されているのではなかろうか。

 思えば、私たちは基本的に、個人の信仰を社会へ及ぼそうとしない。
 自分の宗教で世界を地ならししようという発想がないのは、八百万(ヤオヨロズ)の神々を敬い、太陽にも山にも神的なものを感ずる私たちの心性による。
 太陽を「お天道様」と思う人は、山へ畏怖の念を持っている人に違和感を感じないし、自分のご先祖様を大切に思う人は、他人のご先祖様へも同じ気持で手を合わせる。
 人が〈それぞれ〉の人生を歩むように、信じるものも〈それぞれ〉であり、自分自身をもそうした人々の一人であると客観的に眺める視点を失わない。
 自然に神を感じる感性と俯瞰的視点は、私たちを謙虚にさせる。
 自分が何か〈絶対的〉で〈特別〉な存在であるかのように錯覚し、あたかも正義の権化のごとき尖鋭な姿勢で、周囲の人々の信仰や思考を変えさせようとする高慢さは薄い。

 こうした私たちは、歴史が育んだ慣習や習俗に馴染み、宗教的行為についても、社会的には緩やかな円滑剤として尊ぶ。
 その典型がおであり、ご葬儀である。
 おの際には、自分は観音様信仰の篤い仏教徒だからお神輿を担がないなどと角張って主張せず、一緒に汗を流し、担ぐ人も観る人も個人的信仰が何であれ、一体となって非日常的高揚感を堪能する。
 ご葬儀の際には、自分は八幡神社の氏子だからといってお焼香を拒否するなどということはなく、〈郷(ゴウ)に入っては郷に従え〉の心で周囲と同じ作法で故人を悼み、偲ぶ。
 こうして個人の内面にある信仰や信念がゴツゴツとぶつかり合って社会がギスギスすることなく、穏やかな社会が保たれている。

 カデロ閣下はこうした日本独特の精神風土に気づかれ、神社がその源泉になっていると悟られた。
 精神風土は神社へ詣で、仏閣へお参りし、クリスマスを楽しみ、教会で結婚式を挙げ、僧侶の導きでご葬儀を行うライフスタイルとなって顕れている。
 神社建立にあたり、カデロ閣下は「このスタイルは欧州の人間にも必要ではないか」と言われた。
 その裏には、宗教の違いがさまざまな社会的問題を生み、自由の実現という理想が、自由を求める意志のぶつかり合いという深刻で不幸な形をもたらしつつあるヨーロッパの不安が隠れているのではなかろうか。

 日本には、あらゆる神々を拝む神道と、あらゆる仏神を拝むマンダラの密教がある。
 情報処理研究家白鳥則郎博士は、未来の理想を語られた。
「人と人、国と国、地域と地域の関係において効率や利害を超えた公(みんな)と私(自分)の調和に価値をおく『共生社会』
 サンマリノ神社を訪れる人々に、こうした日本人の精神風土を感じてもらえるよう祈りたい。




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2015
04.28

私利私欲、怒り、そして喜びの泉 ―ダライ・ラマ法王著『思いやること』について―

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 ブログ「チベットを救う道はあるのか? ―ダライ・ラマ法王の悲痛―」を書いた日、平成26年10月2日に発売されたダライ・ラマ法王著『思いやること こころを育てるための小さなコツ』が届いた。
 以下、編者であるヴァージニア大学のジェフリー・ホプキンスチベット学・仏教学名誉教授の「序文」から抜粋した。

ダライ・ラマ法王がある国に招聘(ショウヘイ)されている、という話題が持ち上がると、北京の中国共産党政権は、その国の指導者に異議申し立てを行います。
 するとたいていの国は、法王の訪問を不都合なものととらえ、訪問の規模を縮小したり、『個人的な』訪問に変えてしまいます。
 中国政府は、いったい何を恐れているのでしょう。
 ダライ・ラマは軍隊も、経済力も、政治的な切り札も持っていません。
 ただ非暴力と思いやりを説いているだけです。
 彼らは、何を恐れているのでしょうか。」


 案の定、と言うしかない。
 各国の政権は中国の意向に気兼ねし、国内でダライ・ラマ法王の存在が大きく注目されないようさまざまな手を打〉、きっとマスコミへも睨みを効かしていることだろう。
 すべては中国政府の〈恐れ〉による。 

ダライ・ラマ法王は、、チベット以外の国々でチベット文化を再建すべく、影響力を及ぼしています。
 世界中の宗教的・政治的指導者たちに、『私利私欲を超えて、もっと大切なことに目を向けてほしい』と訴えてきました。
 思いやりと優しさの大切さを説きながら、宗教にしろ政治にしろ、『すべての人の最小限の要求に目を向けてほしい』と主張してきたのです。
 これが恐れられている理由でしょうか。」


 共産党政権は人間の集団である。
 チベット侵攻の目的が国家規模の私利私欲にあったことは史実が証明しており、半世紀以上にわたって殺人や拷問や略奪や破壊を重ねてきた事実は、かかわってきたすべての人々の胸中から消しようがない。
 チベット人はもちろん、農民や少数民族などが求める人間として「最小限の要求」を多分に無視しつつ国策を進めてきた人々に良心の呵責のないはずがあろうか。
 ダライ・ラマ法王の〈良心への呼びかけ〉によって世界中の人々が実態に気づき、人権蹂躙を糾弾する声が広がることを恐れているのだろう。

「毛沢東は『政権(パワー)は銃から生まれる』と言いましたが、ダライ・ラマはこうおっしゃっています。
『もっとも大きな力は、あなたの心に宿る思いやりから生まれる』と。
 その力があれば、世界中で少しづつ調和や平和をつむいでいくことができます。」


 銃で奪い銃で維持される政権は、やがて銃で倒されるだろう。
 お釈迦様は説かれた。

「人間が他の動物より上に立つ理由は、他の動物を冷酷に苦しめる力を持っているからではない。
 彼らを哀れむことができるからである」

 人間が他人を力でねじ伏せる時、人間として他の動物よりも勝れているのではない。
 力を放出して他人のためになれる時、真に人間たり得るのである。
 

「人々は法王の話に気づきをもらって、『ほかの人たちの幸福のために尽くしたい』という気持になるのです。
 世界史を振り返っても、これほど多くの人たちに、これほど多くの本を『一緒につくりたい』と思わせた指導者は、ほかにいないのではないかと思います。」


 他人のためになろうと思う時、虐(シイタ)げられている人々や、うちひしがれている人々の存在に気づく。
 あるいは、虐げられている人々や、うちひしがれている人々の存在に気づく時、〈見捨てられない〉心が起こる。
 ダライ・ラマ法王は、そうした気持にさせる。
 ダライ・ラマ法王は、世界中の人々が人間本来の思いやりを発揮することにより、すべての人々が救われ、結果的にチベットも救われることを願っておられる。

「ダライ・ラマ法王を思うとき、私たちは、法王が体現するおもいやりをすぐ思い浮かべます。
 法王は思いやりに、生涯を捧げてきたのです。」


 ダライ・ラマ法王は、まさに、観音菩薩の化身である。

 以下は、本文中にあるダライ・ラマ法王ご自身の言葉である。

「愛情と思いやり怒りに支配されるのを許せば、人間の知性の中でもっとも素晴らしい『智慧』を犠牲にすることになります。
 智慧とは善悪を判断する力のことです。
 怒りは利己主義と並んで、今日の世界が抱えているもっとも深刻な問題のひとつです。
 怒りは、アジアや中東、アフリカ、されには先進工業国と開発途上国との間で起こっている対立を主導しています。
 こうした対立が起こるのは、お互いの間にどれほど多くの共通点があるか、理解できていないからです。」


 金銭トラブルを起こした少女が、友人を殺すよう少年たちに頼む。
 対立する勢力に家族を殺された人が、復讐のテロを起こす。
 不正や不実を暴かれた政治家が、相手を社会から抹殺しようとする。
 いずれも怒りによって智慧が覆われ、人間として、社会人として、あまりにも不適切な行動に走っている。
 こうした形が暴力的紛争や戦争にまで及んでいる。
 お互いが〈苦しみを離れることと、幸せをつかむことを求めている人間同士〉であるという真実が見えなくなり、〈平穏な日常生活を求める人びとによって成り立っている国家同士〉であるという真実を忘れている。

「世界の指導者たちを含め、誰もが、人類や文化、イデオロギーの違いを超えるすべをそろそろ学ぶときです。
 人類は共通の課題を抱えているわけですから、お互いを大切に思うべきなのです。
 そうすることで、個人も、家族も、地域社会も、国家も、世界全体も、向上していきます。」


 私たちはいかに〈違い〉を競い、誇り、主張し、ぶつけ、争っていることか。
 紛争や戦争は、「違いを超える」智慧がはたらかねば解決しない。

「チベット仏教の経典によると、利他主義を身につけるには、幸せなときはあまり有頂天にならず、幸せを生むよいカルマを、命を持つすべてのものの幸福に捧げること。
 そして苦しいときは、ほかの者たちの苦しみをすべて引き受けることです。
 人生にはよいときも悪いときもありますが、このようにすれば、勇気が保てますし、運不運に心の平和を乱されずにすみます。
 幸せすぎず、悲しすぎず、安定していられるでしょう。」


 私たちはともすると、幸運は自分だけのものにしておきたい。
 そして、利己主義と煩悩の肥大が幸運の女神を追いやる。
 だから幸運は喜んで誰かへ回し向けること。
 私たちはともすると、不運を誰かに引き受けてもらいたい。
 そして、他人へ不幸を回し向けたい心は不運の力を強め、新たな不運を招きかねない。
 だから、不運の苦しみを知った時こそ、他人の苦しみを放置せぬこと。
 こうした心構えで生活すれば、運不運に一喜一憂せず、周囲の人々と信頼関係を築きながら落ち着いた日々が送られる。
 国家間も、民族間も、異なる宗教間も同様である。
 ダライ・ラマ法王の「幸せすぎず、悲しすぎず」は至言である。

「明らかに、地上のあらゆるトラブルは結局、エゴイズムと自分だけを慈しむ心から生じています。
 心に留めておいてほしいのです。
『自分に親切にしなくては』などと思わなくとも、あなたは自然と自分自身を大切にしています。
 人生を大切にしているからこそ、『苦しみから解放されて、幸せを手にしたい』と望むのです。
 同じように、命を持つものはすべて、当然ながら自分を大切にしています。
 それを見れば、彼らも苦しみから解放されて、幸せを手にしたいのだとわかります。
 私たちはみな同じなのです。
 違いがあるとすれば、他者はたくさんいるけれど、あなたはたった一人だ、ということ。
 自分の目的を果たすために、ほかのすべての者を利用したところで、幸せにはなれないでしょう。
 しかし、たった一人しかいないあなたが、全力で他者に尽くしたとしたら、その取り組みは、あなたの心の中で喜びの泉となってくれるでしょう。」


 私たちはいかに「自分の目的を果たすために、ほかのすべての者を利用」しようとしているか。
 いかに「すべての人の最小限の要求」が見えなくなっているか。
 自他の心中に真の喜びをもたらすため、何をすべきか、よく考えつつ、かけがえのない一日、一日を生きたい。




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2015
04.27

チベットを救う道はあるのか? ―ダライ・ラマ法王の悲痛―

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 4月23日付の朝日新聞は、ダライ・ラマ法王との単独会見記事『敵もまた同じ神の子』を掲載した。
 以下、「」内が記事内容、『』内がダライ・ラマ法王の言葉である。

「ノーベル賞を受けた年にベルリンの壁は崩れた。
 冷戦後の世界について、ダライ・ラマは『第3次世界大戦の恐れは基本的に薄れ、はるかに安全になった』との認識を示す。
 だが、すぐに続けて宗教がらみの地域紛争やテロが広がる現状に言及。
 『とても、とても悲しい』と二度繰り返した。」


 自由主義国家群と共産主義国家群という対立の構図が消え、イデオロギーによって地球を二分する大戦が起こる可能性は消えた。
 しかし、今度は宗教同士の争いが間断なく続き、銃声と流血は絶えない。
 悲しみと怒りの連鎖が地球上を覆い、誰にも止められない。
 政治的な得、経済的な得、宗教的な正義を誰もが主張し、強者は強者の論理と方法で相手を潰そうとし、弱者は弱者の論理と方法で対抗する。
 憎しみと暴力が主人公の世界は実に、悲しい。

「憂うのは中東情勢ばかりではない。
 例えばミャンマーやスリランカでは近年、仏教徒による少数派イスラム教徒への襲撃事件が起きている。
 暴力とは縁遠い仏教のイメージを揺るがす出来事だ。」


 非暴力的方法で中国政府の暴挙を正し、チベットの自立を回復しようとするダライ・ラマ法王の〈方法〉は揺るがないが、チベットが刻一刻と消滅に向かっている今、亡命政府内でも、他の〈方法〉を模索すべきではないかという声が強まっている。

「『私たちチベット人も《仏教こそが唯一の真理》と言うことがある。
 しかし地球上には数多くの宗教伝統があり、何千年も人類に寄与してきた。
 私たちは《いくつもの真理》を認めなければならない』。
 一神教の論理まで用いて説く。
『敵もまた神が創造したもので、同じ神の子ではないか。
 敵への怒りは神への怒りと同じだ』
 とはいえ、ISの蛮行の前では、そうした言葉はきれいごとではないか。
 武力で封じ込める以外に手立てはあるのか――。
 こうした問いには『暴力的な手段は人の肉体を押さえつけるだけで、精神をコントロールすることはできない』と信念を語る。」


 日本ではどうなっているか?
 宗教がからんだ戦争は〈他人ごと〉でしかないのか?
 悪と戦うと言って拳を振り上げるアメリカと限りなく同調し、「断固、許せない」と声を張り上げてアメリカ軍へ後方支援しようする政府以外、責任ある方策の提示はほとんど力を持てていない。
 ましてや、「精神をコントロール」するという事態解決の根源的方法を説く人間など、どこにいようか。
 チベットやインドの亡命政府周辺には、こう言う子供も珍しくはないのに。
中国人は憎い。
 しかし、同じ人間であると思えば、可哀想になります」
 彼らは、憎い人と、好きな人と、どちらでもない人とをじっと観想する慈心観(ジシンカン)という密教の伝統的修行法によてって見事に、憎しみを克服しているのだ。

「『容易ではないのは承知している。
 しかしテロリストたちを人間として、信仰を持つ者として受け入れ、対話の道を探るしかない。
 そのための長期的な戦略と説得工作が必要だ』。
 武装組織の中に、考えを変える者がいずれ現れることに希望をつなごうというのだ。
 そう語る理由の一つには2001年の米同時多発テロがある。
 ダライ・ラマは事件の翌日、当時のブッシュ米大統領に書簡を送り、『暴力は暴力の輪を広げるだけだ』と武力行使に慎重であるよう求めた。
 しかし結局はアフガニスタン戦争、イラク戦争と続き、ISが生まれてしまった。」


 アメリカを中心とする多国籍軍がイラクを空爆する根拠とされた〈サダム・フセインの命によって作られた化学兵器〉はとうとう見つからず、同じ理由で同盟軍として自衛隊を派遣した小泉首相(当時)の判断についても詳細な経過調査やその発表が行われないまま、イラクなど中東の混乱は広がり、爆弾テロの発生はほとんど日常化し、ついに新たな国家を名乗るIS(イスラミック・ステート)の誕生にまで至ってしまった。

「長期的に重要と指摘するのは教育だ。
 『教育は、自分を取り巻く世界の全体像についての《知》を与えてくれる。
 それによって現実的な行動を取れるようになる』。
 人々が過激な考えに走る背景には、国家間や一つの国の中での経済格差もある。
 『自分は不幸だと感じている者はたやすく思想的に感化されてしまう』」


 教育により、自分と世界についての知識を得るだけでなく、客観的で複眼的な視点を持てば、いつしか自立した〈主体〉が確立され、周囲のできごとに対して柔軟で真実に即した判断や行動が可能になる。
 同時に、他者と〈納得〉を共有しやすくなり、円満な人格と円滑な人間関係がもたらされる。
 事実を知らず、真実をつかめない人は、自分で気がつかなくても不安を抱え込み、それを〈上書き〉するための無理で極端で〈納得〉の共有を放棄した主張や行動に走りがちである。
 それが「不幸と感じ」「たやすく思想的に感化される」タイプの人々である。

「テロや地域紛争には、宗教だけでなく政治や経済などの問題が絡み合う。
 それに対処するため、世界の英知を結集した組織づくりを提唱する。
 『国々が集まる国連では対応できない。
 科学者や作家、各国政府と利害関係のない指導者……。
 純粋に人類の幸いを追求する組織が必要だ』」


 重要で深刻な問題提起である。
 ダライ・ラマ法王は、チベットの救済を世界へ訴え続けた挙げ句、政治的解決への絶望を抱かれたのではないか?
 自由や人権を尊重する文明の盟主であるアメリカやドイツや日本といった国々は皆、中国との関係に腐心しつつ、経済的つながりの強化をはかっている。
 中国に煙たがられ、経済的関係の悪化を招くリスクを負ってまで、チベットにおける国際法や人権の蹂躙を咎め立てしようとする国はない。
 国民が損する施策を行う政権は国民に選挙で拒否され、政権政党の政治家は落選の淵に立たされる。
 だから、現状では、世界的政治力がチベットの惨状を救うことはないと見極められたのだろう。
 テロリストをも〈人間として、信仰を持つ者として受け入れ、対話の道を探る〉のは、政治家の仕事ではない。
 それにしても、「科学者や作家、各国政府と利害関係のない指導者」による「純粋に人類の幸いを追求する組織」の構成は可能なのだろうか?
 そうした組織は、政治的、経済的権力の不作為や妨害に負けぬいかなる力を持ち得るのだろう?

 暗澹たる気持になってしまう。
 何ごとかが起こり、チベットが地上から抹殺される前に救われるよう、み仏にただただ、祈りたい。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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2015
04.26

6年目の納骨と生き直し ―阿閦如来(アシュクニョライ)のお導き―

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 亡きご子息の七回忌を迎えるAさんが久々にご来山された。
「ようやく決心がつきました。
 納骨をさせてください」
 お墓を建て、ご子息が描いていた夢の世界を表現したかったが、断念し、共同墓法楽の礎』二人分の契約をされた。

 6年前のあの日からAさんは落胆のあまり体調を崩し、安定した仕事になかなか就けなくなった。
 それでも幾度か〈一念発起〉を繰り返し、福祉関係の資格も取得したが、生活の維持は困難を極めた。
 四十九日忌、一周忌、三回忌と納骨の機会はありながら、とうとう、お墓を造ることは叶わなかった。

 一ヶ月ほど前、七回忌供養会の日程を申し込まれたAさんへ、電話口でお伝えした。
「七回忌をご守護くださるのは阿閦如来(アシュクニョライ)様です。
 三回忌はゆっくりと安心世界で憩う西方浄土の阿弥陀如来様でしたが、阿閦如来(アシュクニョライ)様は太陽が昇る方位である東方の浄土におられる方なので、私はいつも、ああ、転生(テンショウ)になるのだなあと思いながら修法を行っています。
 ようやく、悟りの境地を固め、煩悩(ボンノウ)の誘惑に負けない御霊となったので、今度は以前よりもしっかりした存在としてこの世へ修行の旅に来る準備を始めておられるはずです。
 供養会では、Aさんのまごころでしっかり後押ししてください」

 暗い顔でご来山されるAさんはいつも、多くを語らない。
 今回も言葉は訥々(トツトツ)としている。
 しかし、対坐して契約内容の説明を受け、「はい」と答えるうちに、かがんでいた胸が少しづつ開かれ、前へ落ちていた肩が上がり、萎んだ花のような気配が消えて行く。
「わかりました。
 お願いします」
 契約書に黙々とサインし終わり、あまり大きくないため息を一度ついた。
 そして、言葉を紡ぎながらゆっくりと頭を上げる。
「ようやくここまで来ました。
 これで私もちゃんと生きられそうです」
 50才前の女性らしく、いのちの勢いが感じられる顔の光と声の潤いだった。
 初めて感じる明るさだった。

 お骨を目の前に置きながら暮らしてきたAさんの日々が偲ばれ、声をかけた。
「――長かったですね」
 反応は早かった。
「でも、私にはこの年月が必要だったのでしょう」
 そこにあったのは諦念(テイネン)ではない。
 生き直しを始めた一人の人間が発するいのちの力だった。

 Aさんはこれから、善悪こもごものカルマを積みながら新たな人生を歩まれることだろう。
 ダライ・ラマ法王が説かれるとおり「どのようなカルマが積まれるかということを決定する鍵は、それぞれの人の動機にある」(『実践の書』より)のなら、この先、当山の祈りは二つとなる。
 一つは、ご子息の御霊の供養とよき転生(テンショウ)、そしてもう一つは、Aさんに嬉しく善き〈動機〉がたくさん生ずること。
 やはり、行き着くところは「あの世の安心とこの世の幸せ」である。
 ご納骨がその二つを確たるものにするよう、しっかりと法を結びたい。




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2015
04.25

自分探し ―探せば見つかるのか?―

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〈泥に咲く夢のような蓮華は小野寺善秋氏(仙台市在住)の作品〉

1 自分で見つけられない〈自分〉、わからない〈自分の価値

 私たちは自分の価値を実感できなくなることがある。
 取り返しのつかないような失敗をしたり、他人から酷く痛めつけられたり、人生をかけていた信念や積み上げてきたものが崩壊したり、心が咀嚼(ソシャク)できないほどの理不尽さに圧し潰されたりすると、自分の歩むべき道も、自分そのものも文字通り、見えなくなる。
 そして、自分探しをしたくなる。
 しかし、そういった心理状態の時は、自分をどこから矯(タ)めつ眇(スガ)めつしようと、なかなか、〈生きている自分〉に納得できないものだ。

 そもそも、自分の価値を判断する基準は自分にあるのだろうか?
 たとえば、パン屋の価値は、店主が判断できようか?
 それはお客様へ委ねるしかない?
 いかに凄い酵母を使おうが、どれほど丹念に手をかけようが、お客様が自主的に「うまい!」と喜び顧客になってくれない限り、店の評価は上がらず、存続もできない。
 それは、屋号を掲げた以上、パン屋は社会的存在であり、店主は一好事家(コウヅカ)や一研究者ではなくなるからだ。
 人間も似ているのではなかろうか。

 母親の胎内から生まれ落ち、名前をもって届け出が行われた時から社会的存在となる。
 まず、両親にとっての子供である。
 家族と親族にとっての新しい構成員。
 地域社会にとっても同じ。
 保育所や幼稚園の児童であり、小学校や中学校や高校の生徒であり、大学の学生であり、会社の社員。
 必ずそれらの〈誰か〉として社会は存在を認め、さまざまな面から評価する。
 
 サッカーに熱心なA君、心優しいBちゃん、成績の良いCさん。
 こうした人々となるが、それぞれの意識の中心にあるものは外的評価と大きくずれていたり、まったく別だったりする場合も多い。
 A君は、体力がない劣等感から必死に走り回っていたり、Bちゃんは、親からの虐待を隠して健気にふるまっていたり、Cさんは、奨学生にならなければ学校へ行けないので必死だったりする。
 そして、身体の弱い家族と自分に対する気持から、密かに医者を志望しているかも知れない。
 内心と外面の葛藤から、とんでもない破壊願望が育っているかも知れない。
 さしたる能力がありそうでもないのに、家系や資産によって地位や豊かな生活を手に入れている人々への嫉妬や軽蔑や対抗意識を持っているかも知れない。

 こうした場合、どのレベルの自分が本当の自分なのだろう?

2 必要とされている〈自分〉

 難問を解く一つのヒントがある。
 NHK総合テレビの「おはよう宮城」は4月24日、「リポート(盛岡)『被災地で見つけた希望』」を放映した。
 関東在住のDさんは、仕事場での人間関係に悩み、自分がどこでどう生きたらよいかわからなくなり、悶々としていた。
 そこに東日本大震災が起こり、ボランティアとして現地入りした。
 たくさんの人々から感謝され、自分が人々と清々しい気持で〈同じ空間に居る〉ことの価値が実感できた。
 そして被災地のために生きる決心をした時、もう自分を探し、道を探す必要はなくなっていた。
 生き直しが実現し、自分探しが終わっていたのである。

 自分のありように悩み、周囲との関係にも悩み、内心のありようも外的ありようもあやふやに崩れてしまった時、他者から自分が〈必要な存在〉とされてようやく〈確かな自分が見つかる。
 Dさんは、被災地の方々から菩薩(ボサツ)と観られているかも知れない。

3 いつでも観ていていただける〈自分〉

 では、そうした他者がうまく出現しない場合はどうだろう。
 たとえば尾羽打ち枯らした落伍者Eさんが、人知れず道路のゴミ拾いをしていたとしよう。
 誰一人、感謝の言葉をかけてくれないかも知れない。
 Eさんはもう、価値がないのか?
 小生は、かつて、自衛隊がイラク戦争に派遣されたおり、安全を祈りつつ靖国神社を目ざして歩いたが、その途中、関東地方のある公園で早朝、公衆トイレの落書きを黙々と消しているジャンバー姿の年配男性に出会ったことがある。
 彼はたとえ誰に祝福されなくても、仏神に祝福されていた。
 Eさんも同じである。

 小生はこれまで幾度も窮地に陥った。
 ある時は、前日にご葬儀を行ったおばあさんが戒名どおり無限の光を放ちながら瞑目する小生の瞼の裏側に現れ、無事、脱した。
 また、ある時は、共に祈ることを願った遠隔地の行者が、自分の顔の前で合掌する姿で小生の瞼の裏側に現れ、別の手を小生の身体へ伸ばしてくださり、無事、脱した。
 いずれも千手観音様のご来臨と確信した。
 たとえ愚かで至らなく、欠点だらけであろうと、まっとうに生きようとし、まっとうな願いを持っていれば、仏神も御霊も観ていてお守りくださることが実感できる。

 いかに〈自分〉が見つからない場合でも、そもそも空(クウ)なる〈自分〉にはあまりこだわらず、周囲へ目を向け、人としての〈自分の役割〉を探すことが大切なのではなかろうか。
 忍耐の象徴である花々が、見られていようがいまいが雨風に耐えて自分なりの花を咲かせるように、精進の象徴であるお線香が自分を燃やし尽くして芳香を残すように、何かを淡々とやり通すしかないのではなかろうか。

4 人の役割

 ただし、いわゆる有用な人以外は無用であるというわけではない。
 いかに老い、病気になり、他人様の手を借りなければ生きて行けなくなっても、必ず役割はある。
 小生はある時、入院し、貴重な体験をした。
 隣室の老患者(男性)が、夜中じゅうずっと、「足が痛い」「痰が詰まる」「早く来てくれ」などとあたりかまわず大声で騒ぎ続けている。
 明らかに淋しい人であり、他人の迷惑を考えられない哀れな人なのだ。
 当直の担当者も、他の入院患者も気の毒でならなかった。
 もちろん、眠れない小生は参ったが、〝ああ、これが某医師の言っていた「死が近づくと否応なく本当の姿が顕わになる」ということなのだろうな〟などと考えながらウツラウツラしていた。
 怒りもせず、ていねいに対応する若い看護師には、ほとほと感心し、〝日本は大丈夫だ〟とも思った。
 たくさんいるはずの入院患者の誰も、彼を責めたり、眠れなかったと病院へ損害賠償請求することはなかろう、穏やかで許し合える日本に生まれてよかったとも考えていた。
 翌朝、声もおとなしくなった隣人へ、看護師たちが「Fさん、調子はどうですか?」と代わる代わる優しく明るい言葉をかける様子に、ハッと気づいた。
 困り者の彼は、看護師たちを鍛え、成長させている。
 もしかすると、看護師たちは感謝しているのではないか。
 非常識で我がままな人にも、彼でなければ果たせない役割があるのだ……。

 自分は謙虚に自分の役割を見つけ、黙々と果たそう。
 しかし、そうしていると見えない人を軽々に批判したり、軽蔑したり、罵倒したりはせぬよう気をつけよう。
 アリの社会に一定比率で怠け者のアリがいるのは、過労死した仲間に代わってはたらくためであることを忘れないようにしよう。

 あまり〈自分探し〉の観念にとらわれず、ゆったりと周囲を眺め、ピンと来たところへそっと手を伸ばしてみたい。




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2015
04.24

ご葬儀は卒業式 後輩へ何を受け継ぐか

Category: □救われる道
201504240001.jpg
〈この世とあの世をつなぐかのような小野寺善秋氏(仙台市在住)の作品〉

 最近、A氏のご母堂様をお送りした。
 それは自宅を開け放ってのご葬儀だった。
 ひ孫のお別れの言葉は、朝の「行ってらっしゃい」と、帰宅しての「お帰り」に対する感謝が圧巻だった。
 ひ孫を産んだ孫は、自分をさて置いて若い者のためになろうとしてくれたことに涙し、言葉が詰まった。
 ごく普通の暮らしをしておられたご一家の慎ましい〈家族葬〉だったはずなのに、人又人、五月晴れを思わせる好天のもと、外に立ったままの参列者も少なくなかった。
 お線香を捧げる意味などの短い法話は、誰もが身を乗り出し、あるいは頷きながら真剣に聴いてくださった。
 人と人との〈まごころのつながり〉という私たちの手から零れ落ちつつつある宝ものが、あまりにも神々しく輝いていた。

 今の日本社会では、他者を自分以外の〈異物〉と感じ、カタツムリのように殻へ閉じこもって自分を守ろうとする過剰な〈個我〉の意識が肥大化し、結果的に誰しもが生きにくくなっている。
 人はバラバラになっているだけではない。
 不安な人々は敵を仮想する単純なイデオロギーや排他的な宗教を頼り、熱病に浮かされたように集まり、虚しい花火を打ち上げ、周囲の人々に火傷を負わせ、自分たちも花火が消えた後の闇に呑まれる。

 個人の心が乾き、社会もまた乾いてきたこの時代をどう生きればよいかは、とても難しい問題である。
 殻の中にいる〈楽〉を味わってしまった私たちは、容易に殻を手放せない。
 しかも、時流に乗る宗教学者や評論家たちなどは、もっとうまく〈楽〉が味わえそうなレシピを競って提供する。
 しかし、思いのままに味わえるのは一部の恵まれた人々だけであり、ほとんどの場合、自己流を通そうとする頑なな人々の周囲にはありがたくない影響に悩む膨大な人々が生じる。
 社会に生まれ落ちた私たちは、社会というネットワークの中でしか生きられないので、その糸から超然としようする人は、ネットワークにとって困りものの〈異物〉となりがちだからである。

 誰にとっても救いとなる解決法は、まずネットワークのありがたみに気づくことであり、究極的には、個我の殻そのものが空(クウ)であると気づくことではなかろうか。
 こうした気づきそのものはたやすく手に入っても、実際に自分の気分とぶつかるものに対しては反射的に戦闘的、あるいは逃避的になりがちではないか。
 私たちは子供の頃から、世代や思考や生活感覚の異なる多様な他者たちと自然に接し、鍛えられて柔軟で適応力に満ちた心性を育てる環境にない場合が多くなっている。
 だから、他者との具体的なやりとりの現場で、〈ネットワーク内存在〉であることに即した行動をとるには、自省と根気が欠かせない。
 失敗しても、失敗しても、諦めず、おかげさまとつぶやきながら殻を自在に出入りできる習慣をつくってゆくしかない。
 それには、まず家族、そして友人の存在は欠かせない。

 長澤弘隆師は『空海の仏教総合学』へ書かれた。
「葬儀とは、故人にとっては、家族や親しい人と別れあの世へ旅立つ式、この世の卒業式。」
「葬儀とは、故人が遺した物心両面のものを受け継ぐ式。」
 A氏のご母堂様は、練磨された美しいお人柄にふさわしい卒業式を終えられた。
 ご家族方は、「物」もさることながら、「心」を確かに受け継がれた。

 いったい何が本当に幸せで、何が本当に不幸なのか?
 今つかんでいるつもりの幸せは、欺瞞やその場しのぎの産物でなく、決して色あせない本ものなのか?
 今感じている不幸は、自分の勘違いや利己主義に気づかせてくれるきっかけではないのか?
 A氏のご母堂様は、90年にわたる人生の最後の最後に、送る人々へ人生の真実を見せ、一人一人の胸へ問う思いを起こさせてくださった。
 深く、深く感謝し、ご冥福を祈りたい。

 ひ孫さんからいただいたお別れの言葉の原稿(一部)である。
 慎んで記録しておきたい。
「~学校に行く時、げんかんまで来て、笑顔でみおくってくれたね。
 そのおかげで毎日楽しく学校に行けたよ。
 そして、帰って来た時も、大きな声で『おかえり!』って言ってくれてありがとう。」
「私が今宝物にしている物は、私が小さい時に家族でじょうげさんに言った時にばあちゃんに買ってもらったピンクのバックだよ!
 買ってもらった時、すごいうれしくて、どこにいくにもあのバッグをさげて出かけてたんだ。
 これからもずーっと大事にするね。」
「これからは空の上で私達を見守ってね。
 毎日仏だんにかんかんしにくるね
 本当にいままでありがとう。
 ばあちゃんのこと大好きだよ。
 私はばあちゃんのひまごでとてもうれしいです。」

 お孫さんからいただいたお別れの言葉の原稿(一部)である。
「小さい頃、髪が長かった時に、ばあちゃんが毎日、髪飾りを変えながらゆってくれたり、廊下でひなたぼっこをしながらぬい物を教えてもらい、台所では二人で料理を作り、農協祭の料理部門で銀賞をとり、大喜びをしました。」
「一番の思い出は~号(※車)です。
 学校の送迎はもちろん、買い物にでかけたりしましたね。
 学校では~ちゃんのばあちゃんが来たよ!!って友だちが教えてくれるくらい~号は有名でした。」
「いくつになっても、ばあちゃんはばあちゃんのままでした。」 
「~育ててくれてありがとう。
 いっぱいの愛情をありがとう。
 そして、ばあちゃんの孫に生まれてきて本当に良かったと、今、心の底から思ってます。
 ばあちゃんが私達に教えてくれた事、それから先もみんなに伝えていきます。
 いつも笑顔でいてくれたばあちゃんが大好きです。」
「長い人生、お疲れ様でした。
 そして私達の『これからの人生』をばあちゃんの優しさで見守っていてください。」 




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2015
04.22

お母さんは何でしょう? ―教育について―

201504220001.jpg

 作家柳田邦男氏は、評論『言葉が立ち上がる時』に「関係性喪失の病」を書いている。
 ある知的発達に遅れのある少女が医師のテストを受けた。
「お父さんは男です。
 では、お母さんは何でしょう」
 少女は答えた。
「お母さんは大好きです!」

 このエピソードを思い出すたびに、さまざまな光景がよみがえってくる。
 最近では、仙台市の霊園で両脇を抱えられた障害者に会った。
 両腕を左右から若い女性スタッフに支えられた50前後の女性が大きな造花を手で振り回しながら、歌を唄っているかのように口を開けて歩いてくる。
 誰か身内のお墓参りをしたのか、それとも、五月晴れと言いたくなる陽気なので、スタッフが散歩に連れ出したのか。
 車を運転してすれ違う一瞬では無表情としか見えなかったが、決して大きくない身ぶり手ぶりは、クルクル回る白い菊花とあいまって、心中の踊りを感じさせた。

 驚いたのは、左右の二人にも同じような印象を受けたことである。
 女性は黄色のジャンパーに白いスカート、二人は、ほとんど印象に残らない地味な色合いのジーパン姿。
 しかし、三人は明らかに心中の踊りを共有しつつ、霊園を出ようとしていた。
 おまりできてよかった、なのか、いいお天気だね、なのか、中身はわからない。
 ただ、三つのいのちが一つのメロディを奏でていたことだけは確かに思えた。

 さて、冒頭のできごとである。
 少女の答は、○か×かのテストでは当然、×とされる。
 知的問題があることの証拠ともなろう。
 しかし、少女の心のありようとしてはどうか。
 母親に守られているという大きな安心感の中で暮らしているものと想像できる。
 もちろん、母親の心中はとうてい偲びきれないが、少なくとも少女にとっての母親は観音様そのものではないか。
 ならば、テストでは×であっても、少女の暮らしそのものは花丸がつけられるべきだろう。
 柳田邦男氏はこう評した。
「女の子は知識より大事な真実を答えたのである。」
 そして、○か×かと分ける知識にばかり傾きがちな学校教育を、「生活やいのちの本質にかかわる関係性の大切さ」を教える方向へ向けて欲しいと指摘する。

 今、少子化や、大卒者の一年以内の離職率が3割超という状況にあって人手不足に悩む企業は、社員教育に乗り出している。
 企業への帰属意識を高め、やる気を出させるために皆で山登りをするなどの方策がとられている。
 一方では、社員一人一人の〈状態〉をしっかり把握し、複数の部署でその〈情報〉を共有し合い、一人一人に適した教育を行いつつある。

 日本は、いわば〈教育力〉によってここまで来た。
 物理的には小国であっても、侮られない国家としての歩みを続けてきた。
 これからも、繊細さを失わない教育によって、一人一人のいのちが生かされる国でありたい。
 ゆめゆめ、〈不要者〉を切り捨て、人間を便利な〈道具〉扱いすることのない国でありたい。

○今日から3日間、出張となります。
 次回のブログは2、3日後となるかも知れません。
 また、お会いしましょう。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2015
04.21

ギブアンドテイクと宗教あれこれ

2015042000012.jpg

 お一人で暮らしておられるAさんがご兄弟たちと二度目のご来山をされた。
 お兄さんは、なかなか歯切れの良い方だ。

「妹からご住職の方針を聞いて思ったのは『そんなうまい話はないだろう』ということでした。
 私たちは娑婆でずいぶん苦労をしてきました。
 だから、世の中はギブアンドテイクだと身に沁みています。
 きちんともらうべきものをもらえないと、とんでもないことになります。
 人がよいと泣きを見るのです。
 ご住職のところと共同墓永代供養契約をしても、年間管理料はないし、檀家にならなくてもいいし、何十万円出してくれといきなり請求も来ないなら、いったい、どうやって妹は守ってもらえるんですか?」

 お応えした。

「私も娑婆で失敗してこの道へ入ったので、疑うお気持ちはわかります。
 しかし、お寺は娑婆ではありません。
 行者である僧侶は出家者です。
 そして、み仏は契約する相手ではないのです。
 そもそも、お釈迦様はどうやって教えを伝え、修法したのでしょう?
 あちこちと歩いては教えを必要とする人々と出会い、感謝の表現としての食べものや着るものや寝床を受け取り、また、歩かれました。
 お大師様も同じく、托鉢が出発点でした。
 小生もそうです。
 托鉢は、ギブアンドテイクではありません。
 ご縁となる方のために、ただ祈り、法を説き、法を修するというギブあるのみです。
 それを受けて〈救い〉と感じる方の心にある仏心(ブッシン)が動けば、おのづから、行者にとって必要なものを与えないではいられなくなります。
 ご縁の方と行者の間には何らの契約もありません。
 ご葬儀でも同じです。
 当山の修法によって死後が安心であると考え、生前に、あるいはご不幸の発生後に申し込まれた方のため、ただただ、お大師様から伝わるやり方で引導(インドウ)を渡すのみであり、一連の修法に値段のつけようはありません。
 人は皆、み仏の子であり、仏心が魂の中核にあるので、人間社会のお寺は結果的に成り立ち、今日も法務を続けていられます。
 み仏の〈おかげ〉で皆さんは救われ、救いの場も保たれる、ただ、それだけです。
 もしも、こうした宗教の場がなくなるとすれば、それには二つの理由しか考えられません。
 一つは宗教者がギブアンドテイクという方法に走り、み仏の〈おかげ〉を信じなくなること。
 もう一つは、娑婆の方々が、み仏の〈おかげ〉を感じなくなること。
 いずれも宗教心の消滅を意味します。
 お大師様が説かれたとおり、宗教は心によって興り、心によって滅ぶのでしょう。」

 ただし、宗教といってもさまざまである。
 4月19日付の産経新聞『読書』の欄で、情報学者吉田一彦神戸大名誉教授は、森本あんり著『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』について書いている。

「アメリカに移植されたキリスト教は、神と人間が対等な契約関係に立つというところから出発した。
 そうなると互いに権利と義務を有する結果になる。
『つまり、人間が信仰という義務を果たせば、神は祝福を与える義務を負い、人間はそれを権利として要求できる』(24ページ)。
 神の前で人は全て平等であり、学歴や教会の認知がなくても伝道者になれる。
 これがアメリカの反知性主義の根源である。」

 こうして「信じる者には必ず願う結果がもたらされる」と考え、〈結果〉が得られるまでお金も武器もいのちもかけて、どこまででも突っ走る。
 ――明るく、希望に満ちながら……。
 何しろ、約束してくれる相手は信用ならない人間ではなく、神なのだから、無敵の戦車に乗っているのと同じく、どこまで行こうと心配はないのだ。
 何とわかりやすい道筋だろう。
 日本でもこれまで、似たようなパターンで人々を熱狂させつつ新興宗教が勃興した。

 その点、仏教寺院は娑婆の方々から疑われて当然だ。
 娑婆的な契約と無縁の世界なのだから。
 すぐには理解していただきにくいが、理解してくださる方々がおられるので成り立っているだけのことである。
 み仏の〈おかげ〉と言うしかない。




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「おん あらはしゃのう」
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https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





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2015
04.20

天皇陛下の「4つの日」、弘法大師の「6つの心」 ―悼む心とお斎(トキ)―

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 昭和56年、時の皇太子殿下(当時47才)は記者会見で「日本人として忘れてはならない4つの日がある」と述べられた。

・8月6日の「広島原爆の日」
・8月9日の「長崎原爆の日」
・8月15日の「終戦記念日」
・6月23日の「沖縄戦終結の日」


 今上天皇となられたこんにちも、陛下ご夫妻は「お慎みの日」として御霊を悼み続けておられる。
 そこには、日本国憲法に定められた「日本国の象徴」及び「日本国民統合の象徴」である天皇はどうあらねばならないかという深い洞察がおありになったのだろう。
 日本国という一つの共同体が存続し続けるために生じる〈国民の死全体〉を、国民全体の代表として悼む資格は天皇陛下にしかない。
 その思いを定め、生きてこられたからこそ、パラオにおける晩餐会でのお言葉が発せられたのではないか。

「先の戦争においては 貴国を含むこの地域において日米の熾烈な戦闘が行われ多くの人命が失われました。
 日本軍は貴国民に安全な場所への疎開を勧める等 貴国民の安全に配慮したと言われておりますが、空襲や食料難、疫病による犠牲者が生じたのは痛ましいことでした。
 ここパラオの地において私どもは先の戦争で亡くなったすべての人々を追悼し、その遺族の歩んできた苦難の道をしのびたいと思います。」


 こうした具体性を伴った言葉に陛下の真摯な思いが滲み出ている。
 陛下は東日本大震災の被災地を訪れた際も、各会場で膝を屈し、一人一人、国民の目を見ながらお言葉をかけてくださった。
 決しておざなりではない。
 これからも、天皇陛下にはずっと、悼み、祈る者であっていただきたいと願う。
 日本国民へそのお心が届いていれば、国民がお心を感じとれるならば、〈国家による国民の死〉をもたらす戦争の抑止力となるのでないだろうか。
 私たちは「不戦日本」の覚悟を強固にできるのではないだろうか。

 さて、悼み、慎む心を表す日常生活的態度とは何だろう?
 食べなければ生きられない生きものとして最大の慎みは、食べ物を質素にすることであり、宗教的な段階では潔斎(ケッサイ)となる。
 潔斎とは、戒めを守って心を清浄にするだけではなく、清らかなもののみを口から体内へ摂り込み、沐浴をするなどによって身体を外側からも清め、仏神や御霊と交感する者にふさわしい心身をつくることである。
 お大師様は『大日経』を典拠とする「六心」によって心構えを示された。
 長澤弘隆師は『空海の仏教総合学』に書かれた。

・種子(シュジ):節食(粗食)によって少量の食事でも満足し、欲張らなくなり、食欲に執われなくなる。(種)
・牙種(ガシュ):節食による経済的な節約で、「六斎日(ロクサイジツ)」に父母等に食事をふるまえることにより、孝養の喜びを知る。(芽)
・疱種(ホウシュ):孝養の喜びを他人にも向け、誰にでも平等に、施す徳を知る。(茎)
・葉種(ヨウシュ):それをとくの高い人にも向け、施し供養する相手を選び、正しい道理に出会う。(葉)
・花種(カシュ):音楽家や長老にも供養し、施しの喜びを大きくする。(花)
・成果(セイカ):施しの行いを通じて心が純粋になり、我欲から離れることを知る。(実)


 あらゆる生きものに共通する生存欲の根源を抑えることによって、無条件にはたらこうとする我欲にふりまわされない状態を知る。
 さらに、他へ施すことによって、徳のある行為を知る。
 そこにこそ、私たちは人の人たるところを感じ、〈清浄〉というイメージが実感される。
 み仏へ、神様へ、御霊へ、何のわだかりもなくさっぱりとした気持で手を合わせられる。
 心には青空が広がる。
 そうして、悼む心は深まる。

 悼む心で手を合わせ、慎みつついただくのが仏事後に催されるお斎(トキ)である。
 陛下の「4つの日」、お大師様の「6つの心」、共に忘れないようにしたい。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
04.19

便利な環境で長生きしつつ危機を招く私たち

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 4月15日の産経新聞は、曽野綾子氏のコラム『生活水準と少子化の関係』を掲載した。
 その中で、日本の人口減少傾向は危険な水準に達しているが、その原因が果たして巷間言われているように、生活水準や児童保育施設などの問題にあるのだろうかという根源的疑問を呈している。
 世界中を歩いてきた氏は証言する。

「昔、東南アジアの田舎で働いている日本人たちが一様に話していたのは、当時、人口の急激な増加に悩んでいたアジア各国で『一番いいのは、早く村に電気を引いてテレビを入れることですよ。そうすれば夜することがないなんてことはなくなるわけですから。確実に人口は減りますよ』だった。」


 だから氏は、「停電の夜」を増やせばいいが、それはもうできないと言う。
 また、「貧困になれば、もっと子供を産まなくなるだろう、というのは、恐らく間違いなのである。」とも指摘する。
 不便だと人は盛んに身体を使うので性欲も旺盛になるし、機械化されなければ働き手としての子供も自然に求められると言う。
 そして締めくくる。

飢餓で人がばたばた死んでいるような土地の現状も見たが、そこで医師たちから聞いたもっとも驚くべき話は、飢餓状態になると人間の受胎率は上がるという話だった。
 おなかが空けば、セックスどころではなくなるだろう、と私は思っていたのだが、体の方はきちんと種の消滅の危機を察して増える方向に働くのだという。
 繁栄が人口を減らした、とすれば、私たちはどう方針を変えればいいのだろう。」


 日本家族計画協会が平成26年9月に行った「男女の生活と意識に関する調査」によれば、日本におけるセックスレスの男女は未婚・既婚を問わず増え続けている。
 既婚男性で一ヶ月以上性交渉がない人は36・2%、女性は50・3パーセントに上っている。
 その理由として男性は「仕事で疲れている」、女性は「面倒くさい」を第一に挙げる。
 また、性交経験率が50%を超える年令は男性29才、女性28才。
 性交への関心では「関心がない」又は「嫌悪している」が男性17・9%、女性45・2%、特に、25才~29才の男性が20・3%に急増した。

 曽野綾子氏の観察とこれらのデータは、暗い夜がなくなり、便利になると人間は、種を保存する生きものとしての存在から離れてゆくことを意味しているのだろうか?
 最近、東京都の豊島区が消滅可能性自治体とされた。
 若年女性の減少率が50・8パーセントに達したためである。
 1日に200万人の乗客数を誇る池袋駅を抱えていてすら、危機は忍び寄っている。

 病気や天災から逃れて長生きし、便利で楽な暮らしをしようと文明を進めて来た私たちは、それらが得られつつある状況で自分たちの数を減らし、生活の場を崩壊させつつある。
 人間は自然を相手にどこまでも勝者であり続けると思ってきたが、それはとんでもない勘違いだったのではなかろうか?
 人間が〈生きもの〉としての根源的ありようから離れることはきっと、何ものかが許さないのだろう。
 私たちは、私たちの危機から何を学び、どう乗りこえてゆけばよいのだろうか?




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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2015
04.18

罪と懺悔に悩む方へ

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1 罪人であると気づいてから

 Aさん、私たちが皆、罪人であると気づいてしまった人は苦しいものです。
 ただし、苦しいと感じるところにこそ、救いの手が潜んでいます。

 お釈迦様は、そこで「なぜ、こうした存在なのか?」という疑問に耐えられず娑婆を離れました。
 そして、こうした存在であることに無頓着な態度こそが根本原因であると気づかれました。
 また、疑問を突き詰めると、解があることにも気づかれました。
 解は誰かに与えられるのではなく、私たち全てがもっており、問題は気づくかどうかであるとも気づかれました。

 さて、人間を含め、生きものは、何らかの形で他の生きもののいのちを奪わねば生きて行けません。
 獣も鳥も自然にそうして生き、生きられなくなれば死んで行くだけです。
 しかし、人間だけは、奪う際に〈ごめん〉〈済まない〉〈ありがとう〉という気持になります。
 罪を感じ、懺悔し、感謝するのです。
 それは、いつしか罪人であると知ってしまったことを意味します。
 また、罪→懺悔→感謝の流れが救いとなり、他の生きもののいのちを奪わねばならないという苦に苦しめられず、〈他のいきもののためになりながら生きられる道筋〉を知ったことをも意味します。

 私たちは仏教という宝ものを与えられているので、上記のように考えますが、誰からも解を与えられていないお釈迦様はまず、徹底的に苦しまれました。
 苦しむ実存を「一切は皆、苦というありようを離れては存在しない」と端的に述べ、その原因と解決法と苦を克服した世界とを説かれました。
 私たちを生かす力が持っている〈過剰性〉とでも言うべきものを瞑想により抑制しようとされました。

 その存在論に導かれ、修行法を実践する後代の弟子たちはやがて気づきます。
 お釈迦様が解に気づき、私たちも気づくということは、私たちは本来〈気づき得る〉存在ではないか?
 つまり、仏と成る性を持っているのではないか?
 そして、よくよく眺めてみれば、山も川も草木すらも、何もかもが気づきのきっかけとなり得るのではないか?
 存在するものの本質的ありようは、私たちへ執着させ、苦をもたらすのではありません。
 ありのままに救いの手を差し伸べているのです。
 こうして大乗仏教へ至りました。

 今や、行者たちの積極性はその先へと達しています。
 私たちは、食べ物を得て生きられれば嬉しい。
 誰かから奪っても生きられれば嬉しいが、一方では、罪人であるという辛い気持が起こる。
 しかし、誰かに与えて喜ばれれば無条件に嬉しく、心の暖かさは持続し、さらなる〈与え〉のきっかけともなる。
 そして、〈与える者〉となっている時、〈奪う者〉としての苦しみはどこにもない。
 こうして、生存を持続させる力は抑制されるべきものであるよりも、こうした真実を理解し〈与える者〉として生きるため、積極的に活用されるべきものであると気づかれました。
 密教大欲(タイヨク)思想です。

 また、私たちの気づきは全て、文字や言葉によるのであり、そこから生まれるイメージを突き詰める過程はすでに〈そのもの〉と成りつつあることを意味しており、たとえば〈与える者〉としての権化(ゴンゲ)である菩薩(ボサツ)のイメージを深めて行けば菩薩に成れることがお大師様によって詳しく説かれました。
 奪っても嬉しいが、与える喜びにはかなわない。
 奪えば奪われた者に悲しみや怒りが生じ、奪った者には後ろめたさを感じるが、与えればそうしたものは生じない。
 ならば、〈与える者〉のイメージに合わせた生き方をすることによって苦は消え、罪人でなくなる。
 こうして身体で善き行いをし、言葉を善く用い、心の内容を善くして苦を脱する即身成仏(ソクシンジョウブツ)の思想と方法が確立しました。
 
2 懺悔について
 
 私たちは、ふとしたおりに懺悔の心が起こります。
 他人が悪行の報いを受けたなどの情報に接し、我と我が身をふり返って自分の悪行に身震いする場合もあり、悪運や大病などに襲われて〝なぜ自分がこんな目に遭うのか?〟と考え、思いもよらぬ因縁に思い至り、愕然とする場合もあります。
〝ああ、何ということを……〟と後悔の念に引きずり込まれ、胸が冷え冷えとなってきたり、慟哭の思いが噴き出したりします。
しかし、いくら相手に対して〝済まない〟と思っても、謝って済む問題ではないケースが多いものです。
人を人とも思わぬ輩は別として、まっとうな人は、そうできるなら、それで解決するなら、とっくにそうしているからです。

心情として謝りきれなかった。
相手との人間関係上、タイミングを失した。
謝る力を失った。
相手が亡くなったなど会う手段がない。
こうして私たちは、取り返しのつかない行為により発生した消せない懺悔を抱えて生きます。

 では、万人を救うお釈迦様はどう説かれたか?

「もし過って悪行をなしても、悪業(アクゴウ)が悪しき結果をもたらさぬよう善行に精進するならば、やがては人を救い導く智慧と慈悲の灯火をともすこともできるであろう」。


  過去の悪行が悪業という〈悪しき結果を招く力〉を持っているという事実は消しようがありません。
しかし、善行によって生ずる善業(ゼンゴウ)という〈善き結果をもたらす力〉を強めるならば、悪業のはたらきは相対的に小さなものとなり、罪人が救済者にもなり得ます。
事実、空(クウ)の教えを最高度に深めた龍樹菩薩(リュウジュボサツ)は娑婆で迷っていたおり、悪行によって殺されかけましたが、懺悔し、生き直し、ついには菩薩と称されるほどになりました。
 つまり、懺悔の心が起こったならば、愚かで罪深い自分のままで自他のためになる善行に勤しむしか、救われる道はないのです。
 こうして〈善行〉は清めであり、向上であり、救いでもあります。

 では、私たちは自力だけで救われるのか?
 み仏のご加護はどうなっているのか?
 お大師様は明快に説かれています。

「心は即ち本尊なり」。


 み仏は私たちの心におわす満月であり、自己中心など煩悩(ボンノウ)の群雲がその光を遮っていますが、清浄な行為と言葉と心とのはたらきによって群雲が払い去られれば、私たちはいつでもみ仏そのものになれます。
 教典も、仏像も、そして、澄んだ心で気づきさえすれば、風や鳥の声や街のざわめきまでもが、この真理を説いています。

 救い主は私たちの心を離れたどこかにいるのではありません。
 それは同時に、罰する者もまた、いないことを意味します。
 私たちはともすると、他人の悪行を暴き立て、罰したくなります。
 罵る、土下座させる、陰口をする、仕返しをする。
 これらは全て、自分を正義の権化に見立て、悪しき者を罰しようとする行為ですが、はたして私たちの誰がそうした資格を持つ〈善の結晶体〉であり得ましょうか?
 み仏ならぬ私たちは必ず、一生のうち幾度も、幾度も、取り返しのつかぬことをやらかしてしまいます。
 もしも、生き仏ほどの人格者でない誰かが「自分には何一つ思い当たるフシがない」と言うならば、その〈気づかぬ迂闊さ〉できっと、周囲の人々を傷つけていることでしょう。

 でも、絶望する必要はありません。
 冒頭に書いたとおり、私たちが皆、罪人であると気づいたところにこそ、人間が人間として成長して行くきっかけがあるからです。
 別に特定の宗教を信じなくても、心を澄ませば自然に「罪→懺悔→感謝」の流れは起こることでしょう。 
 最後にもう一つ。
 70年近く生きて来た者の拙い体験からすると、誰かを責めるという方法によって正義の実現を得られたという喜びよりも、誰かを許すという方法によって得られた円満解決後の安堵感や達成感の方が、数倍も、双方へ安心と笑顔をもたらすものです。
 もちろんこれは社会的問題ではなく、個人間の問題についての個人的感想です。

 Aさん、気づきと煩悶は必ず、人間のまっとうさを深めるスタートとなります。
 苦しみのエネルギーは必ず、喜びの爆発をもたらします。
 これからも、共に考え、進みましょう。
 あなたのエネルギーに圧され、乱筆乱文になってしまったことをお許しください。
 み仏のご加護を祈っています。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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2015
04.17

原発事故の現場を漫画で知らせる竜田一人氏 ―【現代の偉人伝】第206話―

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 1年前の4月29日、福島原発廃炉作業に従事する漫画家竜田一人氏(当時49才)の話が朝日新聞の「廃炉現実」へ掲載された。
 氏は現場での体験を描く漫画『いちえふ』を平成25年の秋から雑誌へ連載中であり、「連載を終えたら再び、現場で働きたい」と願い、顔を公表していない。
 それ以来、ずっと気になっていた方である。

 氏は「もともと福島には何の縁も」なく、「被災地のために何かできないかと仕事を探して」いて福島第一原発(通称1F)の作業員募集を知り、「好奇心とちょっぴりの義侠心から」就職した。
 以後、さまざまなプロたちがはたらくさまに「あこがれ」ているが、「40年かかると言われる廃炉完了まで、こうした『原発職人』を確保し続けられるかと考えると、不安」であるという。
 理由は年間20シーベルトとされる被曝量の制限である。
 そこに達した人は現場から外され、年度替わりを待つしかない。
 そうして実働時間が限られ、リセットが繰り返されると廃炉作業は危うくなる。

「職人たちの技術を生かしきれないうえ、後継者を育成する時間も足りません。
 1Fの中だけで技術者や作業員の技量を維持するのは、無理なんです。
 いま日本の原発は全部止まっていますが、私は原発作業の技量と人員を確保するために、当面、安全な原発の再稼働は必要だと感じています。
 稼働する原発があれば、1Fで線量がいっぱいに近づいた技術者や作業員は線量が少ない他の原発で働いて食いつなげるし、若手を連れていって修業もさせられます。
 原発事故後、一部のメディアや市民団体は放射線の危険をあおり、収束について悲観論を言い募りました。
 でも、どんな意見を持つ人であれ、日本に暮らす人はみな、廃炉に挑まないといけない事実は変わりません。
 脱原発の理念を振りかざすだけではなく、1Fの現実に向き合うべきだと思います。」

「自分ができることは知れているし、廃炉を見届けられないかもしれない。
 それでも1Fにかかわり続けたい。
 若い人たちにも放射線を過剰に恐れず、福島の再生にかかわってほしいですね。」

 一年経った今年の3月10日、氏は毎日新聞のインタビューで語っている。

「うそは書かないように徹底しています。」

「大所高所からの物言いはしないようにしよう。」

「作業員としての『下から目線』は外さないようにしています。
 あくまで私個人の視点で語れればと思っています。」

「あそこで働いた者の誰かが、何らかの形で(記録を)残す必要があると感じています。」

「マスコミの方が見学ツアーで来て、東京電力さんにバスで一周させられて『いまだに大変だ』と言われても、あなたたちが見たところはそうかもしれないけど、他にもいっぱい現場はあるんだよって言いたくなります。」

「東京では想像できなかったけど、1Fで働く人と補償を求める人がすっぱり分かれているわけではない現実があります。
 避難して交渉している人の中に、あそこで働いている人もいるんですよ。」

「雇用主(東電)を徹底的に悪者にするのも違うし、だからといって事故を起こした企業ですから、その相手に対して、仕事をくれてありがとうと感謝するわけでもない。
 人間の気持ちはそんなにきれいに分けられないと思う。」

「自分の中にはよそから来ているという自覚は常にありましたよ。
 自宅が避難区域にあり避難した人、津波に遭った人、余震に遭った人……。
 自分は同じような経験をしたわけではないので同列には語れないですよね。」

「日本に住む人なら皆事故とは無縁ではないと思いますが、福島や被災地を代表して何かを語れる当事者ではないということです。
 半年間、働いたからといって自分が何かを代弁できるとはまったく思えません。」

「とかく二極化された論争になりがちですが、そういった論争に拘りすぎて、現場がないがしろになるのだけは避けてほしいと思います。」

「作業員の年間被ばく限度量を20ミリシーベルト弱に定めている会社が多いので、線量をきちんと管理しないとすぐに人が足りなくなってしまいます。」

「放射線よりも直接的に身体にこたえるのはなんといっても暑さです。
 とくに夏場は熱中症が頻出します。」

「1Fで作業する人数だけなら待遇が良ければ確保できるでしょうが、このままでは経験や技術のある作業員が足りなくなるというのが一番の問題なんだと思います。
 新しい職人を育てようにも、高線量の建屋内では、ネジをゆるめる仕事でも1時間でその日の作業は終わりです。
 1Fで技術の継承は難しい。
 東京でも建設的な議論がなされるといいと思っています。」

「ここまで漫画をちゃんと描くと分かっていたら、現場をもっと丁寧にいろんな角度から見てきたのにと思っています。
 覚えていないところを想像では描けないですから。」

「1人1人が期待する原発像がありますよね。
 ある新聞はいかに労働環境が悲惨だったかを徹底的に聞こうとしました。
 確かにひどい目にも遭いましたけど、個人的にはそれでも面白い経験だったと言えます。
 語弊があるかもしれないけど。
 あとはやたらと身体を心配する質問ばかりだったり、再稼働や原発推進と言わせようというご質問もいただくこともあります。
 皆さん、いろんな読み方をされますよね。
 いかに原発を巡る議論が複雑化しているかを身をもって思い知りました。」

「『真実』が何かなんて私にはわからないし、現場にぱっと行って『真実』を私が掴んでしまうなんてことはあり得ないと思います。
 繰り返しになりますが、この漫画においては『真実』を探ることよりも、私が見てきたことを描くことが重要だと思っています。
 福島なり1Fの一側面を記録することが全てなんです。」

「一つ、これが『真実』と決めてしまうと他のものが見えなくなる可能性があります。」

「四六時中緊張して働いているわけではないですよ。
 ギスギスしてもしょうがないし、リラックスして働ける環境も大事です。
 やっぱり、廃炉作業を終わらせるためには誰かが働き続けないといけないので。」

「この漫画を通じて、現場で働いている人の顔が想像できるようになってほしいなと思っています。
 親近感とは違いますけど、どういう環境で働いているかは分かってほしいという思いは込めています。
 レッテル貼りをしたり、大所高所に立ったりしているだけでは解決しない問題が現場にはまだまだあると思うのです。」

「国の政策を議論するより先に、目の前の現場を片付けたり、作業員が自分の境遇をどうするかを考えるので精いっぱいという場所が1Fなんだ、と私は思っています。
 もう少し連載を続けて、また1Fに戻ろうと考えています。
 廃炉の行方を自分の目で確かめたいのです。」

 氏は「真実なんてわからない」と言うが、読む者は〈真実の声〉と感じる。
 確かな現実があることをそのまま告げている貴重な資料と言えるのではないか。
 現場を体験できない私たちは、こうした現場の報告によって日々、無事に処理作業を続けねばならない〈現実〉がいくばくかは想像できる。
 その先に、原発は何であり、どうあるべきかが、それぞれなりに考えられ、語られ、選択する行動が生まれるのではないか。
 理想だけで現実を無視すれば明日が危ういし、現実を言いわけにして理想を捨てれば未来が危うい。

 氏は平成26年4月23日、『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(1) 』を出版し、今年の2月23日、『いちえふ 福島第一原子力発電所労働記(2) 』を出版された。
 また、ぜひ1Fにかかわり、現実を広く伝えて欲しい。
(氏の漫画には、一部の医師などから、放射能の危険性に関する姿勢について批判がある)




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2015
04.17

東日本大震災被災の記(第163回) ―復興イノベーション―

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〈大きな幸せ感を届ける自然の恵み〉

 4月14日のNHK「クローズアップ現代」は『復興イノベーション ~被災地発 新ビジネス~』を放映した。

 被災地では今、震災をきっかけとして、復興への志を持った現地の若者と遠方から来た人びととの間で新たなネットワークが作られ、復興イノベーションが起きている。
 逆境が新たなビジネスを生み出しつつある。
 資金・人材・市場といった難問を解決しつつ前進する発想と力が生まれている。

 宮城県山元町の『農業生産法人GRA』は、3億円の復興資金を活用し、音度や湿度、太陽光、二酸化炭素などの数値を管理するイチゴ栽培により、1個千円で売れる高級イチゴを生産する。
 津波の塩害によって露地栽培はできなくなったが、これまで培われてきた農家のノウハウは生きており、熟練の技を分析し数値化し、理想のイチゴを作る方法を開発した。
 普通の農業では、人件費や施設の維持管理費に資金の多くを費やすが、GRAは研究開発やマーケティングに主力をそそいだ。
 そして、高い糖度、高級なパッケージ、新たなブランド名により、消費者は〈高級なイチゴ〉であると認識し、1個千円での流通が生まれた。
 代表の岩佐大輝氏(37才)は言う。
「既存のルールに縛られている余裕なんてないんです。
 自分たちでモデルを一回、示してみようじゃないかということになりました」

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〈海の幸と気鋭の人びとが輝いている〉

 震災後、ノリやワカメや銀ザケなど異なる産品を扱う宮城県内の若手漁師たちが出会い、それぞれの産品が高く評価されていることに気づき、漁業のあり方を変えようと『一般社団法人 フィッシャーマン・ジャパン』(宮城県石巻市)を立ち上げた。
 消費者のニーズに合わせて生産の現場を変え、三陸の価値あるものたちを集め、日本を代表するブランドをつくって価値を最大限に発揮しようとしている。
 現在、ワカメは震災前の2~3倍の値がつくなど、新ブランドへの評価が固まりつつある。
 ネット販売業者との協力によって香港など海外へ飛躍する準備にも余念がない。
 宮城の宝が東北の宝となり日本の宝として世界から認めれる日を目ざしている。
 共同代表理事の阿部勝太氏(29才)は言う。
「宮城の漁業、東北の漁業、日本の漁業。
 漁業の世界も震災があったから縁ができて、今後変わっていくひとつの大きなきっかけとなりました」

 彼らは、困難と闘う志を持ち、経済性・収益性をふまえ、全部を自分でやろうとせず、まわりの人びとを巻き込んでお互いの得意分野を集合することによる相乗効果を考えている。
『農業生産法人GRA』は、成功モデルを日本中へ横展開しようとしている。
『一般社団法人 フィッシャーマン・ジャパン』もまた、三陸に限らず、九州や四国にも同様のものができてよいと考えている。
 日本で最も厳しい状況から立ち上がる人びとの熱意と智慧が、日本の第一次産業に隠れていた大きな価値を輝かせようとしている。
 被災地のさらなる復興と日本の前進を祈りたい。
 



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2015
04.16

天空の魂、地界の魄 ―「千の風」は一面の真理―

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〈『福祉』のご本尊大日如来様〉

 私たちはよく魂魄(コンパク)と言う。

 (タマ)は「人間の。動植物のように生命あるもの、また自然物や特定の器物のうちにもあるもの」(白川静)である。
 そして「時にはそのものから遊離して遊行し、他のものに憑依することがある」と考えられてきた。
 動き、天空へ飛翔もする的存在が「」である。

 一方、(ハク)は「白」すなわち死者の白骨にまつわる文字である。
 ドクロの形が「白」となったとおり、形あるものの陰にあって留まる。
 動かず、地界で眠る的存在が「」である。

 人は死んでとなる。
 時には「千の風」になって自由にさまざまなところを訪れもしようが、常には、白骨を縁とする場所に安らう。
 だから古来、白骨を散逸させぬよう世界中で墳が造られてきた。
 また、頭蓋骨の代用品として依り代となったものが位牌であり、白骨のある場所を示す塔から派生した塔婆と共に、祈る心を向ける象徴的道具として用いられてきた。
 この世で拠り所としていた白骨が自然へと還ってゆく場所が魂魄の家であり、位牌やおがこの世の人びとと交信し合いつながり得る的アンテナであってこそ、「大きな空を吹きわたって」いても安心できる。

 お大師様は「日々の影向(ヨウゴウ)」を欠かさない。
 弥勒菩薩(ミロクボサツ)の兜率天(トソツテン)という天界におられながら、日々、祈る者のそばへ影のように顕れてくださる。
 お大師様は「処処の遺跡(ユイセキ)」をご覧になられる。
 お大師様が遺された祈りの場で弟子や信者がきちんと修行を続けているかと目をかけてくださる。
 長澤弘隆師は『仏教総合学』で示された。
「もし人生に疲れ、自分の心に仏を呼べない人がいたら、今すぐに高野山に行くことを勧める。
 そして、奥の院の大師御廟に詣で『今もおわしますなる』大師、すなわち空海に、生きる意味やどう生きればいいかを問いかけてはどうか。
 御廟の奧から低く太い声で答えが返ってくるだろう。
 それは、その人の心の奧に入った空海の声である」

 魂魄となる的存在へ想いをいたせば〈場〉の重要性に必ず気づくはずである。
 流行となった「千の風」は〈魂〉の面だけを歌い上げている。
 ゆめゆめ、〈〉の面をおろそかにしてはならない。
 御霊を〈根無し草〉にせぬよう、よく考えたい。




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2015
04.15

映画『日本と原発』の鑑賞会を行います ―第六十三回寺子屋『法楽館』―

201504150006.jpg

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 今回は、福島原発告訴団弁護団代表の弁護士・河合弘之氏が監督を務めたドキュメンタリー映画を鑑賞します。
 原発事故の現実を知り、子々孫々への責任をどう果たすか、よくよく考えたいものです。

河合弘之弁護士
「絶対に裁判官はあの福島原発の恐ろしさと被害の大きさを見て考えが変わったはずだ。
 目からうろこが落ちた筈だ。良心を呼び覚まされた筈だから、もう一回裁判を起こし直そうと日本全国の弁護士に呼びかけました。
 そうしたら300人の弁護士が集まったんです。そして日本中で裁判を起こすようになった訳です。」

・浪江町の馬場有町長
「私どものような犠牲にならない町を作っていただきたいと思いますね」
「避難経路も計画されていない、どこに避難するかも決まっていない、そういうやり方でいいのか」

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 そして4月14日、福井地裁はついに、高浜原発の再稼働を認めない決定をしました。
 以下、決定骨子です。

高浜原発3、4号機を運転してはならない。
○想定を超える地震が来ないとの根拠は乏しく、想定に満たない場合でも冷却機能損失による重大事故が生じうる。
○使用済み核燃料を堅固な施設で囲い込むなどの対策がとられていない。
○原子力規制委員会の新規制基準は合理性を欠き、適合しても、安全性は確保されていない。
○原発運転により、住民の人格権が侵害される具体的な危険がある。

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 ちょうど14日の朝、当山は弁護士の事務所へDVDの借り入れを申し込んでいました。
 再稼働を差し止める仮処分が決定した記念すべき日となりました。
 以下の要領で鑑賞しますので、どうぞお誘い合わせておでかけください。

・日 時 5月9日(土)午後1時30分~3時30分
・場 所 法楽寺講堂
・DVD 映画『日本と原発
・参加費 千円(中学生以下は五百円)




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
04.15

弥勒菩薩(ミロクボサツ)とお大師様 ―「人生の道」に想う(その2)─

201504150001.jpg
瞑想の印を結び五輪之塔(塔婆)を持った弥勒菩薩(ミロクボサツ)〉

 アメリカの哲学者チャールズ・モリスが昭和17年(1942)に書いた詩「捧げ」の後半である。
 その3年前、すでにドイツがポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が始まっている。
 そして、1年前に日本と戦争状態に入った最中(サナカ)、彼は、弥勒菩薩(ミロクボサツ)を人類の救世主として称賛した。
 この詩は、昭和41年に理想社から発行された『人生の道』に掲載されている。
 訳者の一文字一文字を正確になぞった。

「われらは物を見まいと目を盲にしてきました。
 われらは物を考えまいと急ぎつづけてきました。
 われらは実行を延ばそうとするただそのために思想をもちました。
 われらは感覚をにぶらせ、心をくもらせ、筋肉を飼犬のようにつなぎとめてきました。
 われらは恐れや偽りや歎きの子供です。
 われらは全一ではありません。
 われらは混乱しています。
 われらは弱きものです。

 われらのこの混沌の豊饒(ホウジョウ)を一点に集中したまえ。
 われらに一体性を、埃なき心を、憎しみなしに打擲(チョウチャク)する腕を、
 曇りなき眼を、敢行する勇気を与えたまえ。
 偽りの、作りものの、飾りたてた足場を引き裂き下ろしたまえ。
 われらに単純性を、偽らぬ謙遜を、永劫のヴィジョンを、
 一瞬に暖かさを失わぬ心を与えたまえ。
 われらからわれらの恐怖や仮面や逃避を取り去りたまえ。
 われらに弾力性を、このように生まれこのように死することの喜びを、正しい姿勢を、
 苦難にうちかつ強さを、離脱にたえる強さを、愛しうる強さを、与えたまえ。

 御身の出生がそのままわれらの出生となるよう。
 ふたたび法輪をめぐらしたまえ。

 われらもまた、我らの全一の姿で、宇宙の母の前に立つでしょう。
 御身の立つごとくそのようにわれらもまた立つでしょう。
 御身と同じように、縛られて、脅されず、遙かなるもの、愛するものとして。
 やすみなく笑いつづける母なる宇宙世界劇中の仲間として、
 永遠の劇の役者同志として、観客同志として、
 ひるみなく、自由に、遠く隔たるもの、愛するものとして。
 御身の影をわれらの前に投げかけたまえ、われらがいつまでも影のままでいないように。」


 弥勒菩薩の救済によって迷いから解き放たれ、力強く立ち上がる人びとのイメージが溢れている。
 弥勒菩薩は、お釈迦様が入滅されてから56億7千万年の後、この世へ下生(ゲショウ…降りる)し、まだ悟っていない人びとをすべて導く。
 有名な広隆寺の半跏思惟像(ハンカシイゾウ)は、下生の時期を待つ姿である。
 弥勒菩薩が「一生補処(イッショウフショ)」の菩薩とされているのは、「この一生の次に、仏の位処を補う」という意味であり、修行者の菩薩から成仏して弥勒如来(ミロクニョライ)となり、最高の導き手としてはたらくことが約束されていることを意味する。
 弥勒菩薩は成仏後、鶏足山(ケイソクサン)に登り、深い瞑想に入ったままでいるお釈迦様の弟子摩訶迦葉(マカカショウ)を目覚めさせ、お釈迦様から与えられていた大衣(ダイエ)を受け取り、お釈迦様の衣鉢(エハツ)を嗣ぐ者となる。
 そして、瞑想の状態で説法する時、手にお塔婆(トウバ)、あるいは舎利塔(シャリトウ)を持つこともまた、お釈迦様の後継者であることを示している。
 成仏後に下生して説法するのは、まるで龍が百宝を吐くように枝という枝に百宝の花を咲かせる龍華樹の下である。
 第一回目の説法で96億人、第二回目が94億人、第三回目が92億人が救われる。
 後白河法皇の撰になる『梁塵秘抄(リョウジンヒショウ)』には、こうした光景を詠んだものがある。

「迦葉尊者(カショウソンジャ)の石の室、祇園精舎(ギオンショウジャ)の鐘の声、醍醐の山には仏法僧(ブッポウソウ)、鶏足山には法(ノリ)の声」
「迦葉尊者あはれなり、付嘱の衣(コロモ)を頂きて、鶏足山にこもりゐて、龍華(リュウゲ)の暁(アカツキ)待ちたまふ」

 衣を弥勒菩薩へ受け渡すようお釈迦様から大役を命ぜられた迦葉尊者は、じっと石窟の中で瞑想を続けている。
 道場で撞かれる鐘の音や、ブッポウソウの鳴き声や、森羅万象の発する説法の声が聞こえる。
 そうしてじっと、弥勒如来が現れ龍華樹の花開く時を待っている。

 お大師様は弥勒菩薩を深く信じ、弥勒菩薩の浄土へ上られた。
 これを、弥勒菩薩が降りてこられる「下生(ゲショウ)」に対して、「上生(ジョウショウ)」という。
 お大師様は天長9年(832)11月12日から、五穀を断ち、弥勒菩薩と一体になる修法に入られた。
 そうしていながら、2年後には般若心経を読み解いた『般若心経秘鍵(ヒケン)』を著し、弟子円澄がトップとなった比叡山延暦寺へ上り、落慶法要を指導した。
 さらに翌承和2年(835)正月には、宮中において正月8日から一週間、最高のご加持(カジ)法である『後七日御修法(ゴシチニチミシホ)』を修法し、この伝統は今でも生きている。
 そして3月15日、弟子たちへ戒めを伝え、21日寅の刻、弥勒菩薩の兜率(トソツ)浄土へ旅立たれた。
 日々、そこから私たちを眺め、すがる者をお導きくださっている。
 弥勒菩薩と一緒に下生してこられる日までご加護は続く。

 チャールズ・モリスが弥勒菩薩へかけた思いとお大師様の願いとはまったく別ものだが、理想を持ち未来へ向かって精進する〈人間への信頼〉と、見捨てぬ〈大いなるものへの信頼〉とは共通している。
 モリスはすでにこう言っている。

「科学は進歩してやまない。
 そしてその進歩のうちにたえず〈人間性〉も新たな解明をもち、たえず〈人間〉の概念はより正しく修正されていくであろう」
「本来、仏教はどんな形而上学の体系とも無縁な宗教である。
 そして、人間や宇宙についての科学的知識が増すことには、原則として好意を寄せている」

 
 わたしたちにとって大切なのは、日々、生きながら「〈人間〉の概念を正しく修正」し続けることだろう。
 修正によって科学を暴走させないことだろう。

 最新の調査によれば、24時間スマートフォンをチェックするなどで睡眠不足に陥る若者が急増し、テクノストレスからうつ病になるなど、その経済損失は3兆4700億円に上る。
 原発事故と同じく、こうして計算された〈損失〉などを遥かに上回る心身的〈被害〉が私たちを追いつめている。
 人間は、社会は、科学技術の利用はいかにあるべきか、目前の損得や利便性を超えた視点から、声高な改革などでない謙虚な修正を続けねばならない。

 弥勒菩薩とお大師様の存在は、そうした私たちにとって不動の北極星であり、勇気づける。
 モリスは「享楽と活動と観照とのダイナミックな統一」こそが理想的人間像であるとし、そのイメージを弥勒菩薩へ投影した。
 前稿の一部を再掲する。
「私たちは、何かを楽しみ、何かに憩う。
 私たちは、何か意義ある行動をしないではいられない。
 私たちは、何かをしっかり確認し、考える。
 享楽と行動と観照とのバランスがうまくとれてこそ、人生を豊かなものとして築いてゆける。 こうした自分自身の内なる多様性に気づいていれば、自他の人生を破壊する狂気へは走らない。

 ご守護くださる弥勒菩薩とお大師様へ祈ろう。
「おん まいたれいや そわか」
「南無大師遍照金剛」




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2015
04.14

弥勒菩薩(ミロクボサツ)的人間とは? ―「人生の道」に想う(その1)─

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 昭和17年(1942)、アメリカの哲学者チャールズ・モリスは、「人生の道」を発表した。
 驚くべきは、アポロンの神話や、キリストの思想や、マホメットの思想など、彼が分類した13種類にわたる思想のパターンを世界中の学生たちへ示し、好ましいものを選択させたところ、7番目の道への支持が以下のとおりとなったことである。

・アメリカの男子大学生:36パーセント
・アメリカの女子大学生:47パーセント
・インドの大学生:2番目に多い
・中国の大学生:3番目に多い
・日本の大学生:5番目に多い

 この7番目の道こそ「マイトレーヤ弥勒)への道」である。
 マイトレーヤすなわち弥勒菩薩(ミロクボサツ)は、広隆寺の半跏思惟像(ハンカシイゾウ)で有名だが、普段、私たちにあまり馴染みはない。
 この菩薩はイランなどで最も古くから信仰された菩薩であり、お釈迦様が入滅されてから56億7千万年後にこの世へ降りて来られ、私たちを救い尽くす役割を負っておられる。
 中国では昔、権力の衰退が弥勒菩薩出現への期待となり、王朝の交代をもたらしたりもした。

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 チャールズ・モリスは、そんな弥勒菩薩へ一つの人間像を託した。

「われわれはさまざまの時代に、さまざまのやり方で他のすべての人生の道からも何ものかを受け入れるべきであって、一つの道だけに固執してはならない。
 ある瞬間には幾つかの道のうちの一つに好意が寄せられ、また他の瞬間には別の道が最上のものとして承認される。
 生は享楽と行動と観照とをほぼ等しい度合いだけ含んでいなければならない。
 もし、そのどれかが極端なまでに追求されるとき、われわれは生にとって貴重なものを失うことになる。
 そこでわれわれは柔軟な態度を養い、われわれ自身のうちにある多様性を容認し、その多様性がひきおこす緊張に堪え、享楽と活動のさなかにあってもそのようなものから身をひくだけの心のゆとりを保っていなくてはならない。
 人生の目標は、享楽と活動と観照とのダイナミックな統一の中に、したがってまた、人生のさまざまな道のダイナミックな交流の中に見いだされるのだ。
 ひとはみすからの生を築くにあたってそれらすべてを使用しなくてはならない。
 そのうちのただ一つだけに頼ってはならない」


 私たちは、何かを楽しみ、何かに憩う。
 私たちは、何か意義ある行動をしないではいられない。
 私たちは、何かをしっかり確認し、考える。
 享楽と行動と観照とのバランスがうまくとれてこそ、人生を豊かなものとして築いてゆける。
 こうした自分自身の内なる多様性に気づいていれば、自他の人生を破壊する狂気へは走らない。

 彼は『捧げ』と題した詩を書いた。

「ミロクよ、神人よ、未来の人間像よ
 宇宙の多情な母胎にやどれる子よ、
 神々や銀河や人間の創造者の戯れよ、
 産みの苦しみに悩む宇宙鳥の喜びよ、
 彼女と、彼女の産みし神々や人間とから生まれて、
 まだらの宇宙卵の殻の中にうごめく芽よ――
 われらは御身に、御身の出生の苦しみに、われらの身を捧げる、われらもまた己が産みの苦しみに堪えられるように。
 われらは御身を呼び出す、われらもまた己自身を呼び出しうるように。

 御身の御影をわれらの前に投げかけたまえ、われらがいつまでも影のままでいないように。
 われらの内部に解放を求めてやまぬ縛られた力を解き放ちたまえ。
 われらの硬くなな糸をも妨げるように、われらの指をしなやかにしたまえ。
 われらの最大の巌をも動かしうるよう、われらの腕をなくしたまえ。

 われらは弱く、物の豊かさにかえって当惑しています。
 われらの四肢は社会の巣のなかで休らいを知りません。
 われらはまとえる衣装に不安であるくせに裸を怖れます。
 われらは高い山を見ながら、登りもせぬうちにわれらの脚はふるえるのです。
 われらの眼はは広く見えるそのために、鋭くは見えません。
 多数の神々の声が一人の生き神の声をぼかしてしまったのです。

 真理の名においてわれらが築き上げたのは、言葉の塔ばかり、その塔の中で真理は死んでいます。
 われらは実物で指を傷つけないよう、言葉ばかりを玩んできたのです。
 愛の名において、われらは愛の形成力を裏切ってばかりきました。
 われらはただ取り引きに損しまいとする愛の商人になってしまったのです。
 親切の名において、われらは外部に伸びる自我の力をみずから抑えてしまったのです。
 われらは己が卑しさを見せかけの謙遜で飾ってきたのです。
 神の名においてわれらは神を求める人びとを十字架にかけてきました。
 われらは己が貧しさに敬神の衣でかくしてきたのです。」


 以上は詩の前半部分である。
 この詩が書かれた1942年、シカゴ大学において、実験用小型原子炉シカゴ・パイル1号は世界で初めてウランの核分裂を連鎖反応させた。
 イタリアから亡命し開発に携わった物理学者エンリコ・フェルはこのマンハッタン計画にも参加し、わずか3年後には広島と長崎へ原爆が落とされた。
 未来を保証する弥勒菩薩に導かれつつ、原爆と原発へのスタートが切られていたとは……。




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2015
04.13

ご葬儀のお布施はどうやって決めるのか? ―お布施に込められるもの―

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 ご葬儀の際に「失礼ですが、お布施はおいくらほど用意すればよいでしょうか?」と、よく訊かれます。いつも答は同じです。
「ご葬儀の価値をどう考えるか、そして懐具合がどうか、ポイントは二つです。
 お布施は請求されて支払うものではありません。
 まごころから、自主的にご本尊様へ差し出されるものです」
 これで普段は終わりますが、ご尊家様からのお話が深まると、そもそも、ご葬儀のお布施にはどういう意味合いがあるのか?というところまで行く場合があります。
 葬祭会館ではしばしば「それでは読経をお願いします」とアナウンスされますが、お布施は〈読経料〉なのでしょうか?
 お布施の意義を考えるポイントは大きく二つに分けられます。

一 ご葬儀とは何か?

 これまで何度も書いたとおり、ご葬儀とは、み仏のお導きにより、感謝と尊崇をもってこの世からあの世へと確実に旅立っていただくための儀式です。
 この儀式は文明のスタート以来、世界中でずっと深められ、洗練され続けてきました。
 たとえば、日本では、古墳への副葬品が宝器から祭器へと変化しますが、それは死に際して〈この世の幸せをあの世までそのまま持って行きたい〉という願いが、〈あの世できちんと霊界や仏界や神界へ行きたい〉と変化したことを意味します。
 この世とあの世はつながっていても同じではなく、あの世への切り替わりによって霊的感覚が高まるという意識の飛躍があり、宗教心が深められてきました。
 宗教行為の役割は潔斎(ケッサイ)すなわち、仏神の世界にかかわるために心身を慎みつつ日々を過ごす宗教者へ委ねられました。

 現代の日本では、お釈迦様が養母を送るご葬儀で説かれた教えをお伝えし、故人の心にある〈み仏の世界へ入る扉〉を開けて安心世界へお導きする修法を行うところまで来ました。
 導師となった行者は、ご本尊様と一体になる法を結び、ご本尊様のお力で扉を開き、御霊が安心の世界へ飛翔されるよう全身全霊をかけます。
 ご葬儀で聞かれる「かーっ」という気合の瞬間がそうです。
 出家し、生涯にわたって潔斎の生活を送るのは、プロとしての能力を高め続け、守り続け、役割を果たすためです。読経はこの修法を支える力であり、〈お経の朗読〉は決して、お葬式の主役でも根本でもありません。

 故人となられた方がご本尊様に導かれるのは、新入社員が責任者によって会社員としての心構えやふるまい方を指導されるのと似ています。
 この世で親や家族や先生や先輩や各種の指導者たちに導かれ、〈おかげさま〉によって生き抜く私たちが、あの世へ行けば急に超能力者になり、極楽行きなど何でも意のままになるとは到底考えられません。
 この世で人としての道を踏みはずさぬよう精進するのと同じく、あの世でもまた〈おかげさま〉によって迷わぬよう気をつけたいものです。


二 送る人の心はどうか? 

 私たちは、身近な誰かが亡くなった時、いかに嘆こうが、悲しもうが、悔やもうが、御霊へ直接つながる何ごともできません。
 死は普段の生活で用いるいかなる手段をも超えた世界です。
 故人の御霊に安心世界へと〈渡っていただく〉ご葬儀の修法は、日々修練を積み、み仏の世界やあの世と感応できる法力を持った行者のみに可能な仕事です。
 だから思い余った近親者は、感謝や懺悔や称賛や慰撫や追悼や慚愧など、自分ではどうにもならない煩悶を抱えながら行者へお布施を渡し、安心世界への導きを依頼します。
 やるせなく、どうにもならない思いはプロへ委ねるしかありません。

 たとえば我が子が重い病気に罹った時、たとえ親といえどもどうすることもできず、信頼できる医師や病院を探すのと同じです。
 何が何でも回復させたいと願い、託すではありませんか。
 死者に何が何でも安心の世界へ旅立って欲しいと願うならば当然、同じような思いになるはずです。
 医師というプロを探すのと同じく、行者というプロを求めるのは当然です。


三 結論

 このように、お布施は決して読経の手数料などではありません。
 もちろん、料金として計算する根拠もありません。

 近親者の死を前にした人は人間性が問われており、いかに願い、いかに託すかは、まごころと財布の事情とによって考えるのみです。
 もしも誰かの〈死〉を、早く、安く、簡単にといった便利な作法のみでサラリとやり過ごすならば、それは〈生〉をも軽んずることであり、心から大切なものが滑り落ちてしまうのではないでしょうか。

 目に見えない部分をすべて削ぎ落とし、〈ご遺体とお骨を適法に処置すればそれでよい〉という〈モノの世界ですべてを処理する〉風潮には大変恐ろしいものがあります。
 御霊やみ仏に尊さを感じない心は畏れを知らず、自分の浅知恵とささやかな体力のみを頼る高慢な生き方をすれば、誰しもの人生に伴う根源的哀しみを知り得ず(み仏の微笑は哀しみの池に咲く蓮華です)、真の思いやりもまた知らぬままに自他を傷つけながら生き、死んでしまうからです。
 何と情けない干からびた人生でしょうか?

 当山は以上の理由により、何よりも人の死、自分の心、おかげさま、などをよく考えていただくようお勧めし、金額を決めた請求は行っておりません。

四 最後に

 最近多くなっている「自分と伴侶の死後を自分たちで」という形について触れておきます。
 子供などへ負担をかけないため、お墓の準備や共同墓での永代供養契約はもちろん、生前戒名やご葬儀費用の前納などを行う方が増えています。
 人口減少となる後の世代は、収入や社会保障といった面において、現在、高齢者に分類されている方々よりも厳しい時代を生きねばならないと予想されており、とうとう「終活」という流行語まで登場しました。
 もしも、ご自身と伴侶の生涯をふり返り、「ご本尊様のお導きで、ぜひ安心世界へ送って欲しい」と願うならば、そのために行われる修法の価値を身近なものに置き換えてみてはいかがでしょうか。

 こうしたご自身なりの価値判断と財布の事情を勘案してご自身が決められれば、それはその方なりの尊い宗教行為になるはずです。
 死と向き合い、あの世の向き合って行うことごとは、決して単なる経済行為ではなく、人間の尊厳をかけた宗教行為に他なりません。
 まごころをこめて行えば、必ず、み仏は安心世界へお導きくださることでしょう。




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2015
04.12

『孤独地獄』と家族の救い

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 芥川龍之介が『孤独地獄』を書いたのは大正5年2月、24才の時である。
 主人公は、母親がその大叔父から聴いた話として、ある禅僧の述懐を記した。
 嫖客(ヒョウカク…遊び人)となって遊びほうける破戒僧禅超は言う。

「仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡(オヨソ)先(マヅ)、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つことが出来るらしい。
 それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしゆうのしもごひやくゆぜんなをすぎてすなわちじごくあり)という句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなっていたのであらう。
 唯(タダ)、その中で孤独地獄だけは、山間荒曠野樹下空中(サンセンコウヤジュゲクウチュウ)、どこへでも忽然(コツゼン)として現れる。
 云(イ)はば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱(クゲン)を現前するのである。
 自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。
 一切のことが少しも永続した興味を与えない。
 だから何時(イツ)でも一つの境界から一つの境界を追って生きている。
 もちろんそれでも地獄は逃れられない。
 そうかといって境界を変えずにゐればなお、苦しい思いをする。
 そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるやうな生活をしてゆく。
 しかし、それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまうよりも外(ホカ)はない。
 昔は苦しみながらも、死ぬのが嫌だった。
 今では……」


 主人公は「一日の大部分を書斎で暮らしている」ので、禅超や大叔父とは「全然没交渉な世界に住んでいる人間」であり、「孤独地獄」という言葉によって彼らへ同情する気持が起こる。
 しかし別世界から彼らを眺めて憐れんでいるわけではない。
 短篇は「或(アル)意味で自分も亦(マタ)、孤独地獄に苦しめられてゐる一人だからである」と結ばれている。

 孤独地獄は本来、場所が特定できない地獄という〈空間的〉分類の意味合いが強かった。
 芥川の天才は、何をやっていようと、いつでも現れるという〈時間的〉面からとらえ、恐怖感を身近なものにした。

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 4月11日、映画「イラク チグリスに浮かぶ平和」の上映会を終えた。
 アメリカの無差別空爆で孫たちなどを失った老父は、秩序の失われた社会でその後、息子たちまでも失って行く。
「もし自殺が罪でなければ、そこで息子たちに会えるのであれば今すぐに死にたい。
 神よ、私の罪をお許しください」
 カメラを向けている綿井監督は言葉を絞り出す。
「生きてください」
 老父の言葉が静かに返ってくる。
「どうかいつまでも、私たちのことを忘れないでください」

 老父が共に暮らす家族は、戦火と混乱に負けない最後のより所である。
 家族と母を重んじるイスラム教が、戦争とテロで破壊される殺伐とした社会にぬくもりを与えている。
 西洋文明的個人主義が限りなく利己主義へ傾きつつある現代にあって、イスラム教が拡大の一途をたどっているのはなぜか?
 決して消えない悲しみを共有しながら信頼の言葉をかけ合う家族の様子は、その答の一つを教えているのではなかろうか?

 老父は明らかに孤独地獄と共に生きている。
 表情は地獄に耐えている人そのものだ。
 しかし、地獄は決して彼だけのものではなく、イラク国民のものだけでもなく、イラクを「解放するため」と称して侵略したアメリカ軍兵士だけのものでもなかろう。
 よくよくふり返ってみたい。

 互いが地獄と共に生きていればこそ、本当の思いやりが生まれるのかも知れない。

 自分の身体と言葉と心のはたらきが他人様へ地獄をもたらさぬよう、何とか自分の愚かさと戦い抜きたい。
 ――社会的悪業(アクゴウ)とも……。




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2015
04.11

「卯月来ぬ自分に飽きてゐる自分」(三橋 鷹女) ―4月の不安―

201504110001.jpg

 四月は卯月(ウヅキ)と呼ばれてきた。
 何と言っても、卯の花が咲く時期である。
 卯の花空木(ウツギ)に咲く花である。
 アジサイの仲間である空木は人の丈を遥かに超える植物なのに茎は中空。
 空っぽなので空木と呼ばれるようになった。

卯月来ぬ自分に飽きてゐる自分」(三橋 鷹女


 この句は、そこをふまえ、空っぽな自分に嫌気がさしている気分をそのまま詠んだ。

 卯の花の白色は緑色の葉を背景にして輝く。
 耀きには、緑色に含まれる黒色のはたらきが大きくかかわっている。
 この時期に日陰で紫色の小さな花を咲かせる青木の葉などは、まるで背景の闇を自分の身にまとったかように黒光りする見事な緑色を見せる。
 空木は緑色の不思議さを際立たせながら白い卯の花を結ぶ。
 桜の花は桜色であろうが白色であろうが紅色であろうが、見られた以上、〈そこにいる〉だけというわけには行かない。
 私たちの心へ、希望や安堵や、あるいは不安など、何かを生じさせる。
 しかし、空木は違う。
 じっと眺めていても、細やかな白たちは特に何を主張するわけでもなくじっと〈そこにいる〉。
 そうした空木のありようも鷹女に「飽きてゐる」と詠ませたのだろうか。

 鷹女にはもう一句ある。

卯月来ぬましろき紙に書くことば」


 4月卯月と呼ばれるようになった理由について、上記とは別の学説もある。
 ものごとが始まる「初(ウブ)」や「産(ウブ)」によるという。
 私たちは確かに、学校も会社も4月をスタートとする文化の中で生きている。
 4月になって桜が咲くと、多くの人々の心に「さあ、これから」という気持が漲る。
 鷹女は、どのような運命も創り得る〈原初の状態〉を白色で表現したのだろう。
 真っ白なカンバスには何でも描けるのである。

 しかし、冒頭の句を読んでしまうと、必ずしもそうした希望的張り切りようだけでは済まないような気もしてくる。
 どこかボンヤリとした気分にまつわれ、「ましろき紙」が目の前にあるのに「書くことば」が出てこないのかも知れない。
 何しろ、三橋鷹女の心には一筋縄ではゆかない尋常ならぬものが潜んでいるのだ。

「この樹登らば鬼女(キジョ)となるべし夕紅葉(ユウモミジ)」


 夕陽に包まれ血の色さえも帯びつつある紅葉を眺めているうちに、紅葉の樹と同化して鬼女になってしまいそうだという。
 樹に手をかければもう人間ではなくなるギリギリのところに人知れず佇んでいる。
 こうした俳人が、始まりの時期だからさて、どうしようかなどという、我々のように凡庸な気持でいるわけはない。
 きっと、空木に通じる空虚さや何でもでき得る自由の不安に立ち止まっているのだろう。

 いずれにせよ、4月は実に複雑な時期である。
 鷹女の句はそこを表現してあまりにも秀逸だ。
 だからこそ没後半世紀になろうとしている今なお、こうして読まれているのだろう。
 ボンヤリと飽きていないで、何かを書いてみたい。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2015
04.10

人は死んでも〈無〉にはならない ―パラオにおける天皇皇后両陛下と倉田洋二氏―

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 4月9日、天皇皇后両陛下はついに、パラオにおいて戦没者すべてへの慰霊を行われた。

 生き残った倉田洋二氏(88才)は自分で作った戦友1200名の名簿を携えて立ち会った。
「生きている者だけが陛下にお会いしたのでは申しわけない」
 天皇陛下からお言葉をいただき、応えた。
「本日はありがとうございました。
 戦友に代わって厚くお礼申しあげます」

 天皇皇后両陛下は、日本人、アメリカ人を問わず、慰霊のご意志を示された。
 黙祷するお姿は、地球上の誰も代わることができない。
 日々、持斎(ジサイ)の生活を送り、日本人の祈りを体現する者として崇高な役割を果たされた。
 
 広辞苑は持斎を定義する。
「①戒律を守って身心を清浄に保つこと②八戒を守ること」
 長澤弘隆師は「身をつつしみ心を正し神妙に手を合わせること」が持斎であり、ご葬儀や法事やお墓参り、仏壇でのお参り、本山参拝、霊場巡拝、古寺巡礼、祈願寺への参詣などで実践されると説いた。

 身をつつしみ心を正し神妙に手を合わせることは、対象なしには実践されない。
 天皇陛下にとって、パラオでの対象は戦争で亡くなられた人々の御霊である。
 倉田洋二氏にとって、パラオでの対象は戦友たちの御霊である。

 定年を迎えた時、倉田洋二氏は意を決してパラオへ移住した。
「この島で亡くなった戦友たちの安住の地を早く造りたい。
 生き残った者のつとめとして」
 きちんと慰霊される場がなく放置されたままでは、戦友たちが浮かばれないと信じて疑わなかった。
 倉田洋二氏など志ある人々と現地の人々の協力によって「安住の地」は着々と造られ、守られ、ついに、この日を迎えた。

 天皇皇后両陛下をはじめ慰霊する人々のたたずまいが得も言われず崇高なのは、目に見えぬ存在と感応し合っているからではないか。
 御霊の崇高さが、目に見える人々の姿へ映し出されているからではないか。
 こうして〈存在と崇高さ〉が確認され、御霊はようやく安らげるのではないか。
 そして、天皇陛下も倉田洋二氏も口にされた「忘れない」という思いこそ、御霊の安寧を確保するキーワードであろう。
 私たちが「忘れない」ことは、〈平和をつくる手段〉ではない。
 まず、目に見えぬ御霊に対する尊崇の心を持ち、手を合わせ、黙祷し、感応する心のありようをこそ捨てぬようにしたい。
 その先に平和を希求する思いが湧いてくれば、それこそが本ものではないか。

 人は断じて、死んでも〈無〉にはならない。
 死者に対する持斎の心こそが平和への道である。
 御霊を供養し、悼む心こそ平和の礎である。
 肝に銘じておきたい。




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2015
04.10

4月11日に映画「イラク チグリスに浮かぶ平和」の上映会を行います

こちらをご覧ください。http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-4536.html
2015
04.09

本当に「戦争をしない」と決心しているか ―『敗戦国ニッポンの記録』と天皇陛下のパラオ訪問―

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〈「DDTの散布を受ける復員兵〉
 これは銃を向けられているのではない。ノミやシラミなどを駆除するため、DDTによる消毒をありがたく受けている。学校でDDTをかけられた子供たちは皆、頭を真っ白にして笑い合った。その後、危険な薬物として禁止された。

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〈「戦没者の葬儀」〉
 生還できなかった戦士のため、一族郎党うち揃っての膨大な葬儀が行われた。
 お骨として帰郷できない御霊も多かった。

 平成19年9月20日、米国国立今文書館(NARA)に所蔵されている写真をもとに編集した『敗戦国ニッポンの記録』が発売された。
 編著者となった昭和史研究家半藤一利氏は「はじめに」で述べた。

「昭和20年(1945)8月、昭和天皇の『聖断』によって、連合国の降伏勧告であるポツダム宣言を受諾、大日本帝国は、3年9カ月に及んだ太平洋戦争を終結させた。

 このポツダム宣言第7項に、軍国主義的な権力が除去され、軍事力の完全破壊が確認されるまで、『日本国領域の諸地点は……占領せらるべし』とあった。

 つまり、連合国による日本全土の軍事占領が明記されていた。

 さらに第10項には『俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加えられるべし』とあり、戦犯に対する軍事裁判がはっきりと予告されていた。
 
 このすべて絶望的な情勢のなかにあって、かすかならが希望があるとすれば、ドイツやイタリアと違い、日本は天皇と政府が軍部を抑えこみ、統一政府を維持したまま降服したことにあった。
 結果として、連合国による分割支配を回避することができたのである。


 とはいっても、歴史上初めて体験する〝降服〟であり、あたりは満目蕭条たる焼け野原である。
 この国の運命がどうなるか、われら一人ひとりの明日がどうなるか、日本人には、ただただ暗澹たる想いのみがあった。
 その上に飢餓が襲ってきた。
 敗戦の8月15日から11月18日までの3カ月間に東京では733人の餓死者がでる。
 毎日毎日をいかに生き延びるかが大問題であった。
 さらに海外からの引揚者と復員者が670万人も……。

 そうした惨憺たる敗戦ニッポンを想起すると、どうやってその廃墟から立ち上がり、世界史にも稀な経済大国として復興、平和国家建設ができたのか。
 ほとんど奇跡と思いたくなる。
 が、決して奇跡でも夢物語でもなく、それは現実であった。
 日本人はほんとうによく働き、頑張ったのである。
 この米国国立今文書館所蔵写真集『敗戦国ニッポンの記録』にはそうしたわれら日本人の国家再建復興のための奮闘の原点がある。
 過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである。


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〈「捕虜の結婚式」〉
 半藤一利氏のコメントである。
「まだ戦時中である。捕虜となった一等兵と従軍看護婦が結婚式をあげた。米軍の司祭花嫁の付き添いをするハワイ生まれの女性通訳に、米兵のアコーディオン伴奏がついている。 昭和20年4月 沖縄」

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〈「子ども好きの海軍兵士たち」〉

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〈「マレーの虎」〉
 後に戦勝国による横暴であると評されるかなり不当な東京裁判だったが、将たちは武士のたたずまいを見せ、たじろがなかった。 
『史記』 を出典とする言葉がよく用いられた。
敗軍の将は兵を語らず」
 失敗した責任者は、行った仕事について弁解しないという趣旨であり、その点では見事だった。
 現在も、東北楽天ゴールデンイーグルスの大久保監督などは敗戦の責めを一身に負う姿勢を貫いている。
 ただし、ここでとどまったことが、戦後日本の成り行きに大きな影響を及ぼしたのではなかろうか。
『史記』 にはこう書かれている。
敗軍の将は以(モッ)て勇を言うべからず。
 亡国の大夫(ダイフ)は以(モッ)て存(ソン)を図(ハカ)るべからず。」

(敗れた戦さを率いた責任者は、途中経過などについて言いわけをしたり、武勇を誇ったりしてはならない。
 責任者を補佐し力を発揮した者は、その後の立て直しなどに携わってはならない
 日本人はずっと、「以て存を図るべからず」について甘かったのではないか?
 たとえば、これほど〈未曾有〉の大災害を引き起こした原発事故について、安全神話をつくり政財界で推進の旗振りをした責任者のうちいったい、誰が、どう責任をとり、どのような教訓のもとで、いかに体制を刷新し、これまでとどう異なる方向転換を行ったのか?
 新しい言葉「ベースロード電源」が錦の御旗となっただけで、原発依存度について方針や数字は公にされず、停止中の原発は実質的な再稼働へ向けて走り出している。
 これから先も、私たち日本人はこうした〈なし崩し〉を続けて行くのだろうか?

 半藤一利氏は万感の思いを最後の一文「過去は懐かしむためのものではなく、未来のために用意された教訓なのである。」へ託したのではなかろうか?
 平成18年、氏は『昭和史〈戦後〉』の「あとがき」で述べている。

「語り終わっていま考えることは、幅広く語ったつもりでも、歴史とは政治的な主題に終始するもんだな、ということである。
 人間いかに生くべきかを思うことは、文学的な命題である。
 政治的とは、人間がいかに動かされるか、動かされたか、を考えることであろう。
 戦前の昭和史はまさしく政治、いや軍事が人間をいかに強引に動かしたかの物語であった。
 戦後の昭和はそれから脱却し、いかに私たちが自主的に動こうとしてきたかの物語である。
 しかし、これからの日本にまた、むりに人間を動かさねば……という時代がくるやもしれない。
 そんな予感がする。


 日本人は昼夜を問わず懸命にはたらき、奇跡の復興を成し遂げた。
 しかし、私たちは今、「未来のために用意された教訓」をどれだけ意識しつつ生きているだろうか?
 慌ただしく、花火のように打ち上げられる〈改革〉や〈方針〉は、教訓を踏まえたものだろうか?
 そもそも、あの敗戦による教訓とは何だったのだろう?
 私たちは簡単に「平和の大切さ」と口にするが、それは、戦争によって打ちのめされた人々の心中の苦渋を我が胸の苦みとして漏れ出た言葉だろうか?
 そして、その言葉には、子々孫々にわたって戦争の苦渋を体験させないという〈不戦の覚悟〉を伴っているだろうか?

 教訓が何なのかは、誰かに教えてもらうものではない。
 私たち一人一人が自分で感じ、調べ、考え、「そうか!」と気づかねば所詮、役には立たない。
 いざという時、「むりに人間を動かさねば」と迫り来る力に抗し得ない。
 天皇陛下はパラオの御霊へ向かって述べられた。

「祖国を守るべく戦地に赴き、帰らぬ身となった人々のことが深く偲ばれます。」


 私たちも、できるかぎりの方法で深く偲びたい。

「このような悲しい歴史があったことを、私どもは決して忘れてはならないと思います。」


 私たちも忘れぬようにし、自分なりの教訓を客観的に検証しつつ堅持したい。
 二度と戦争はすまい。
 我が子にも孫にも、日本人の誰にも戦争をさせまい。
 何としても「不戦日本」を貫きたい。




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「おん あらはしゃのう」
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2015
04.08

人間から切り離された人間の行き先は? ―不戦を説かれたお釈迦様―

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 お釈迦様が誕生された4月8日、天皇、皇后両陛下はペリリュー島にある日米双方の慰霊碑で献花さfれる。
 お釈迦様の血を吐くような平和への訴えに耳を傾けてみたい。

 お釈迦様の時代には、強い武器を持った民族が都市国家をつくり、平和に暮らしていた種族の共同体が破壊されて行った。
 強固だった部族が種族としてすら成立しなくなり、種族社会の地縁血縁が薄れ、人が人から切り離されて流民化し、伝統的な叡智に抑制されなくなった欲望の肥大化は戦争を繰り返させた。
 戦争の元凶は根源的な生への執着心に発する無明(ムミョウ…盲目的状態)の集団化であり、死と破壊に対する想像力の欠如である。
 小さな個人のエゴイズムが貪りや怒りや愚かさとしてはたらき、それらの業(ゴウ)が積み重なって国家的共業(グウゴウ)となる時、戦争に至る。

 慈悲の「慈」はインドの言葉でメッターであり、与楽(ヨラク)と訳される。
 誰かに幸せをもたらさないではいられない心である。
 また、「悲」はカルナ-であり、抜苦(バック)と訳される。
 他者の苦しみを見捨ててはおけない心である。
 そして、両方共に女性名詞である。
 母親が我が子にかけないではいられないような慈しみの心を思い出させる智慧の宗教が仏教である。
 お釈迦様は、バラバラになった人々が階級ごとに一まとめで国家に動かされ、血で血を洗う時代に根本的救済の教えを説かれた。

「母親がいのちがけで我が子を守るように、すべてのいきものを限りなく包容する心を養うべし」
「世界全体に対して、限りない慈しみの心を養うべし。
 上下左右へ向かって無制限に、憎しみも敵意も離れた心を養うべし」


 お釈迦様は、戦争をもたらす恐るべき共業へ立ち向かうには、一人一人が悪しき業をつくらぬことであると明解に説かれた。
 無明を離れた智慧がはたらかない限り、戦争は止まず、人間界から最大の苦は取り除けない。

戦争で百万人に勝つ者でなく、自分の心に克つ者こそが真の勝者である」


 貪る勝者、怒る勝者、愚かな勝者は所詮、他者の苦しみを我が糧とする仮そめの勝者でしかなく、自覚しようとしまいと自他へ苦しみをもたらしながら生き、死ぬしかない。
 

「すべての者は暴力を怖れる。
 すべての者は死を怖れる。
 自分をよく省みてそうした真実を知り、他者を殺すなかれ。
 他者をして殺させるなかれ」


 殴られ、蹴られ、切られ、いのちを危うくされることを本当に喜ぶ者はいない。
 犬や猫であろうとも。
 自分自身がそうであるならば、他者も同じであると想像できてこそ人間である。
 そこを忘れなければ殺せなくなる。
 殺させることもできない。

 お釈迦様は、あらゆるものが因と縁によって生じ、滅することを見通された。
 怨みや怒りなどの悪しき心は必ず争いに結びつき、悪しき結果をもたらす。
 他を思いやる善き心は必ず救いに結びつき、善き結果をもたらす。

「戦いの勝者は怨みを生じ、敗者は怨み悩んで暮らす。
 静安を得た者は勝敗を捨てて安らかに暮らす」


 生死を繰り返す生きとし生けるものが免れない因果の理法は、この世だけでなく当然、あの世へも及ぶ。

「生きとし生けるものは安らぎを欲する。
 他者を暴力で殺害して自分の安らぎを求める者は死後、安らぎを得られない」


 お釈迦様は呼びかける。

「我々は、怨みある者たちの間にあって、心安らかに生きよう。
 我々は、怨みある者たちの間にあって、怨みを抱かずに生活しよう」


 2500年前、すでにインドの地において、地域も家族も破壊された人々はバラバラになって迷い、国家は戦争を日常としていた。
 きらびやかな都市文明の光を浴び、仮そめの勝者として悦楽を享受する僅かな人々がいる一方で、多くの人々は苦の闇を濃くしていた。
 まるで今の世界と同じではないか。
 このままで推移すれば、イスラム教は世界の人口の3割を呑み込むという。
 イスラム教の特徴の一つは、いわゆる過激派であれ、穏健派や世俗派であれ、家族を重んじるところにある。
 教典クルアーンは説く。
「我は、両親への態度を人間に指示した。
 人間の母親は、苦労にやつれてその子を胎内で養い、更に離乳まで2年かかる。
 我とあなたの父母に感謝しなさい。」
 ロヨラ大学のマルシア・ヘルマンセン教授はイスラム教を選び取ってムスリムとなり、指摘する。
「崩壊した家庭の中にいる女性は、特に宗教に惹かれるかも知れません。
 というのも宗教は、家族に価値を置いているからです。」
 私たちは人類最大の愚行である戦争を何としても避けるため、終結させるため、自分たちの心のありようと生活ぶりをよくよく省みる必要があるのではなかろうか。
 明らかなのは〈このままではいけない〉ことではなかろうか。

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〈『米国国立公文書館所蔵写真集 敗戦国ニッポンの記録』(編著半藤一利)より「「釜山で福音船をつ日本兵 昭和20年」〉

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〈「お帰りなさいませ」〉

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〈「夫婦の再会」〉

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〈「復員兵と家族の笑み」〉

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〈「焼け跡と真新しいタライ」〉




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2015
04.07

時を切り取る鬼と写真の力 ―出会った土門拳―

 ちょっとした不注意から頭を縫うはめになり、待合室で土門拳の写真集『土門拳昭和』を見つけた。
 時を切り取る写真には、真実を屹立させる力がある。

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 パラパラとめくっているうちに「ヒロシマ」の項で、被曝し、頭部の手術を受けた少年に出会った。
 小生などとは次元の異なる事情によって頭皮を縫った彼の目は何を見ているのか?
 それは一種の肖像写真ではないか。
 土門拳は言っている。
「肖像写真は、歴史的、社会的存在としての個人を記録するものである。」

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 次のページには「原爆の後遺症で13年寝たきりの人」。
 吊られた蚊帳の向こうには動かぬ13年があり、座っている子供たちの姿はこれまでの13年を示している。
 全体が、共に生きてきた〈家族〉の証ではないか。

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 その右ページには「胎児で被曝した少年梶山健二君の死」。
 遺影は13才になった少年の顔をかいま見せ、右端にあるオモチャの箱が痛々しい。
 彼の死と父親らしい人の慟哭はまぎれもなく人間のしわざによってもたらされた理不尽なものだが、いったい、誰が、どう、責任をとれるのか。

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 あらためて写真の一枚一枚をよく観た。
 太平洋戦争で足を負傷したらしい二人の傷痍軍人(この言葉を知っている人はどれだけいるか?)がギターをつま弾き、義援金を募っている。
 箱には「傷痍者更正のための音楽」書かれ、小銭を箱へ入れた少女の視線は彼らから135度離れている。

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 その右ページには、「銀座のシューシャインボーイ」と「浮浪児とグラジオラス」。
 精いっぱいの威勢を張る少年も、花の香りを無心に香りを喜ぶ少女も、今の日本では見られないほど貧しい姿である。
 人々は、募金し、靴を磨いてもらい、花を与えつつ、あの時代を過ぎ、少年少女はもう〈後期高齢者〉となった。
 土門拳は言っている。
「いい写真というものは、写したのではなくて、写ったのである。
 計算を踏みはずした時にだけ、そういういい写真ができる。
 僕はそれを、が手伝った写真と言っている。」
 が見せる写真は、見る者を立ち止まらせもする。
 もしも立ち止まらなければ、神力の示す真実が心へ届かぬまま、人生を終わるのではなかろうか。




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2015
04.06

アレルギーと瞑想 ―生の全体性をいかに保つか―

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アレルギーと無縁なアーミッシュの人々〉

 アレルギーの問題は、人間が自然の一部であることを思い出させる。
 バクテリアや細胞など肉眼では見えないさまざまな生命体が複雑なバランスのもとに身体の〈全体〉をようやく保たせている生きもの、それがウグイスでありネコであり、人間でもある。
 その全体性はまるで自然界の全体性を凝縮したようだ。

 生きものの多様性が失われれば、自然界は崩壊の危機にさらされる。
 人体もまた、自然界の一部としての〈自然な状態〉から離れれば、私たちの知らないところで全体性が崩れ、不調に苦しまざるを得なくなる。
 現代人に急増している膨大な種類のアレルギーはその典型と言える。

 4月5日のNHKテレビ「新アレルギー治療~鍵を握る免疫細胞~」は、アレルギー症状と格闘する科学の最前線を報じた。
 自然と共に暮らす農耕生活から離れる都市文明の発達により、現代人の身体は、体内へ入る異物を排除するはたらきが異常にならぬよう調整する「制御性T細胞(Tレグ)」を弱めた。
 その結果、私たちは、ありとあらゆるアレルギー症状で悩むようになった。
 今は、さまざまな方法でTレグを吸収することによって苦しみから離れられつつあるという。
 アレルギーが発生する仕組みとその克服方法を眺めてつくづく思った。
 人体の異常と科学的療法によるイタチごっこの終着点はどうなるのだろう?
 ちなみに、牧畜を基本とするアーミッシュの人々がアレルギー症状とほぼ無縁なのは、子供の頃から家畜と共に暮らす生活によってTレグがしっかりはたらいているからである。

 アーミッシュの名を聞くたびに9年前のできごとを思い出す。
 学校へ乱入した暴漢によって女子児童5人を射殺されたアーミッシュの人々は、犯人の家族を許し、葬儀にまで招いた。
 アメリカのメディアは「慈悲の深さは理解を超える」とし、自分を先に撃てと立ちはだかった「女の子の驚くべき勇気」を報じた。
 暴力を排し、隣人を愛し、神や自然に対して畏敬の念を持ちつつ生きる人々の身体が、アレルギーとの戦いをも必要としないことは象徴的事実ではなかろうか?

 私たちはいつも戦士である。
 学校では成績、社会では成果を競い、昇進を争い、やがて病魔と闘い、老いまでも克服しようとする。
 こうした闘争心が過剰になると、いつしか心が生じる。
 思い上がる。
 仏教は、貪りや怒りと並んで思い上がりの危険性を察知し、解毒の瞑想法がさまざまに実践されてきた。
 それが「」を克服する「界観(カイカン)」である。
 座禅し、み仏の姿になった人体を6つに分け、それぞれの部位に自然界のモノと人体の構成要素を当てはめる。

・地:尾てい骨付近…大地・土・樹木…骨・肉・皮
・水:腹付近…川・池…血液・分泌物・尿
・火:胸付近…太陽・月・星…体温・消化
・識:心臓…自然界のものはない…心
・風:喉…風…呼吸
・空:額…穴・空洞…目・鼻・口


 かつては「識」がなく「地・水・火・風・空」の五大だったが、お大師様は「地・水・火・風・空・識」をもって、み仏の六大とされた。
 じっと座り、この瞑想を行うと、自分の心身と自然界とみ仏の徳の世界とが一つになる。
 三つが一つになっている時、思い上がりはどこにもない。

 この瞑想はどこでもできる。
 自宅だけでなく、山でも海でも川でも、神社仏閣でも、そして都会の公園でもできる。
 思い上がりの薄い意志は真の勇猛心をもたらす。
 誰かにぶつけ、誰かを打ち倒すという小さな戦いなど超越した純粋な心身のエネルギーが湧いてくる。
 きっと〈全体性〉が本来の姿と形で力を発揮しているのだろう。

 アレルギーは苦しい。
 ここでこそ、全体性というものをよく考えてみたい。
 人間が自然の一部であることも思い出したい。
 科学文明の恩恵と同時に、危険性も察知したい。
 そして時には、叡智に導かれ、瞑想の時間も持ちたい。
 



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2015
04.05

明治を描いたフランス人画家ビゴー ―明治から平成へつながる時間―

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 医師A氏から蔵書をお借りした。
 平成14年に発行され、翌年第2刷となった「明治の面影・フランス人画家 ビゴーの世界」(山川出版社)である。
 日本美術の研究を目的に来日したビゴーは、幅広いテーマで活躍し、戦場にまで足を運び、報道画や風刺画でも大きな足跡を残した。
 「日本のドイツ志向、イギリス志向は戦争への道であることを早くから予見し、風刺画で警告していた」という。
 190ページに及ぶ画集をつぶさに眺めると、江戸から明治に切り替わってスタートした新しい日本の姿が朧気に見える。
 そして、その後の成り行きが〈現在〉に結実していることも納得できる。
 しかし、成り行きの〈続き〉として私たちがどこへ行こうとしているかを考えてみると、心穏やかではいられなくなる。

 平成17年に出版された『逝きし世の面影』において、著者渡辺京二氏は江戸という文明が滅んだことを明らかにした。
 同時に、同じ文明の息を吸いつつ生きていた日本人から「親和力」が失われた事実を衝いた。
 かぎりなくバラバラになり、最近では家族無用論さえ登場した日本はどこへ行くのか?
 親和を失って社会的に孤立し、安定した心理と社会人としての基礎ををつくる家族からも切り離されるならば、バラバラの日本人は国家という大きな意志によって丸ごと、どこかへ連れて行かれるかも知れない。

 ビゴー入魂の7枚を選んでみた。

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〈大船渡市は明治時代にも津波で壊滅的打撃を受けた。自然には抗し得ない〉

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〈いつの時代であろうと、戦争はまぎれもなく、引き裂き、奪うものである〉

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〈誰がいつ、一人一人の死を望んだのか〉

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〈イギリスは明治の日本と清国と両方へ武器を売っていた。今の世界でも、国家と手を結んだ武器商人は世界中で戦火を煽っているではないか〉

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〈血塗られた手で勝ち誇ろうと、戦争が殺人であるという真実からは逃れられない〉

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〈女性や子供が銃を撃つ姿を私たちは最近、どこかで見てはいないか?〉

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戦争ごっこに興じる心理を引きずった大人はいないか?インドのチベット人学校のすべてに「平和地帯」が設けられており、争う子供たちは静かに自分の心と向かい合うひとときによって修羅の毒から脱するというのに〉




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2015
04.04

行く人に とどまる人に 花吹雪 ―桜を詠んだ三つの句―

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 当山では白梅が満開となり、の開花宣言も聞こえてきた。
 に関する現代俳句を読んでみたい。

 「行く人に とどまる人に 花吹雪」(富安風生


 待たれていた花が咲いたと見る間に散ってしまうの時期は、人間にもまた大きな動きがある。
 哀歓のうちに、行き、来たり、とどまる。
 受験した子供は、あるいは万歳して入学し、あるいは悲嘆のうちに望まぬ道へと歩み入る。
 かつては受験戦争と言われたが、今は想像を絶する就職戦争である。
 今年の1月、人材派遣の業界団体が開いた新年会に招かれた厚労省職業安定局の富田課長は、つい、本音を吐いた。
「これまでは派遣労働というのが、期間がきたら使い捨てだったというふうなモノ扱いだったのが、ようやく人間扱いするような法律になってきたんじゃないか」
 労働者派遣法改正案を担当している立場から協力を仰ぎたいと考えた発言であろうが、官界と財界の姿勢がよく表れている。
 自然の節理によって廻(メグ)る季節の中で、自由意志を持つ私たち人間は何をやっているのだろう。
 私たちは右往左往しつつ、祝福するかのごとく頭上から舞い降りる花びらたちに恥ずかしくない文明を生きているだろうか。

「はればれと わたしを ころす かな」(四ツ谷龍


 暖まってきた空気の中で爛漫と花開くは天下無敵である。
 二本足で危うく地上に立つ人間などが抗し得るしろものではない。
 視界の〈そちら側〉でたちまちに咲き、たちまちに散ってしまうので、と人間という異次元のものたちが交錯する時間は短く、いかに圧倒されても、その印象はあまりにも儚く薄れ去る。
 しかし、この詠み手は違った。
 人間界では望みようもない桜の晴れやかさと、まともにぶつかってしまった。
 ノックダウンされるのは当然であろう。
 あまりにも明らかで、もはや笑うしかないような状況なので、「殺す」という深刻な言葉さえドン・キホーテ的な軽みを帯びている。
 そのカタストロフィは何かを清め、リセットする力を発揮してくれるのではなかろうか。

「風を聴く さくらは おどろなる木なり」(大木あまり)


 桜にいのちを感じてしまうと、こうなる場合がある。
 晴れやかさに伴っている禍々(マガマガ)しさの力は死界からやってきており、咲く花々の一輪一輪が死の翳を帯びているからだ。
 花たちは、自分にとって死に神となる風の到来にいつも聴き耳を立てている。
 咲くことは散ることと宿命的に一体なので、花たちは怖れない。
 むしろ、〝さあ、来い!いつでも散ってやろうではないか〟とめいっぱい甘美な笑顔で待っている。
 おどろおどろしいと言うしかない。




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2015
04.03

み仏の戒めを受けた時(その3) ―独断や偏見に走る人は何をすればよいか?―

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 私たちは時として、〝ああ、お諭(サト)しを受けた〟と感じる場合があります。
 そして、〝こういう目に遭う原因は私のどこにあるのだろう?〟と謙虚に自分自身をふり返ってみると、多くの場合、貪り、怒り、愚かさのどれかに毒されているものです。
 貪欲(トンヨク)、瞋恚(シンニ)、愚癡(グチ)という三毒のうち、今回は愚癡にやられている場合を考えます。

3 客観的な〈ものの道理〉をよく考えず、独断や偏見で決めつけやすい場合
 
 愚癡といってもいわゆるグチだけではありません。
 私たちが普段用いるグチという言葉は、言ってもどうにもならないことなのに、いつまでも「たら、れば」などの話をし続ける状態を指します。
 いわゆる「死んだ子の歳を数える」などがこれに当たります。
 しかし、仏教用語としての愚癡、私たちを誤った思考へ導き、自他へ苦をもたらす原因となる毒はもっと広範囲な意味を持っています。

 お釈迦様が説かれた十善戒の最後にある「不邪見(フジャケン)戒」は、この愚癡(=邪な見解)を離れようという意味です。
 さて、愚癡の正体は〈因果応報などの根本的道理をわきまえない思考〉です。
 たとえば、「こんな亭主と結婚したばっかりに……」と嘆くグチには、一つには、時計の針は巻き戻せても時間は元に戻せないことを忘れている愚かさ、結婚したのは自分なのに自分の責任を忘れている愚かさなどの愚癡が含まれています。
 因果応報をわきまえていれば、こうしたグチでダラダラと人生を無駄に費やしはしません。

 だから、勝手な独断や偏見に走りやすい人は、「縁起観(エンギカン)」という瞑想を行いましょう。
 これは、お釈迦様が説かれた「十二因縁」をじっと観想するものですが、そう簡単ではありません。
 修行に修行を重ねたお釈迦様がやっとたどりついた悟りの内容なので難しいのは当然です。
 ここでは、高野山開創1200年を記念して出版された長澤弘隆師の『空海の仏教総合学』から抜粋しておきます。

1 無明(ムミョウ)

 人間には生まれながらに生命活動としての本能的な生存欲(無明)があり、我執・我欲に溺れて存在や事象の真実の相(すがた)がわからない。

2 行(ギョウ)

 その「無明」は、人間の潜在意識のなかに虚構の固定観念やパターン化された心の志向(=「宿業」)を残す。

3 識(シキ)

 その「行」がもとになって、人間は存在や事象を虚構の固定観念やパターンで識別する。

4 名識(ミョウシキ)

 さらに、存在や事象を精神的なものと物質的なもの(「名識」)に区別する。

5 六処(ロクショ)

 「名識」によって眼・耳・鼻・舌・身と意の「六根(ロッコン)」がはたらく。

6 触(ショク)

 眼・耳・鼻・舌・身と意がその対象(「六境(ロッキョウ)」)と接触する。

7 受(ジュ)

 眼・耳・鼻・舌・身と意がその対象(「六境(ロッキョウ)」)を感受する。

8 愛(アイ)

 そこに、存在や事象への愛着・渇愛(カツアイ)が生じる。

9 取(シュ)

 それによって、自分中心の我執・我欲が強くなる。

10 有(ウ)

 また、自分の生存や存在に固執する。

11 生(ショウ)

 このようにして、「無明」の連鎖は「宿業(シュクゴウ)」として人間の潜在意識に残り、次の「生」においても同じようにくり返される。

12 老死(ロウシ)

 「生」があればかならず「老死」があり、人間は「宿業」から脱することができない。


 お釈迦様はきっと、「なぜ自分は〈このようなもの〉としてここにいるのだろう?」と考えぬかれたことでしょう。
 その結果「そうか!」と全てを見透され、これ以上遡れない根源として無明を発見されました。
 長澤弘隆師は、こう述べておられます。

「『無明』とは意識下で「宿業」(サンスカーラ)を生むものである。
 なので筆者は、『本能的な生存欲』としばしば言うのだが、仏教の瞑想心理学は人間の生存の原点にまで思いを及ぼしていることからして、当たらずとも遠からずの言い換えだと思っている。」

「そもそも『無明』は『宿業』を生むものであるから、人間の生の営みの深い部分(脳で言うと、大脳新皮質ではなく脳の進化で言う古い部分の大脳など)に触れてくる問題なのである。
 釈尊は、現代人がうかつにも『無知』などと言い換える問題ではなく、人間の生の根本問題を問うているのである。
 釈尊が定めた戒律の最初に『不殺生』を挙げるのも、『無明』と同じく人間の生の営みに前世からの『宿業』が深くかかわっていることを問題にしたのである。
 これは、深い瞑想のなかの洞察から出たことで、釈尊は人間の生命活動のはじまり、何億年も前からはじまった地球上の生の営みを見ているのである。」


 私たちはすべて〈生まれついたもの〉としてこの世にやって来ています。
 ありとあらゆるものごとはそこからしか始まりません。
 そして、生まれついた以上、必ず、生きようとし、必ず、他の生きもののいのちをもらいます。
 つまり、無明と殺生は切り離せません。
 お釈迦様が、苦から離れるための方法として「十善戒」を説き、その冒頭に「不殺生」があるのは、〈妄りに他の生きもののいのちを奪うことのできない者〉こそが〈無明を克服した者〉だからです。
 仏教は「欲をなくそう」ではなく、「欲を正しく生かそう」へと深化しました。
 密教の菩提心(ボダイシン)や利他行(リタギョウ)の大欲(タイヨク)思想へたどりついたのは、生を尊びつつ穢れなく生きねば、安心と共に生き通せないからです。
 私たちは、本能的な生存欲を敵視するのではなく、智慧と慈悲とで清め、エネルギーを昇華しつつ生きる思想と方法を手にしているのです。

 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は説かれました。

「邪見、数多けれど、要をとらば、断常(ダンジョウ)の二見(ニケン)に期帰す。
 断見に種々有れど、まず、善を為して善の報いなく、悪を為して悪の報いなく、神も仏も、今現に見るべきならねば、これもなきことと思い定むるを断見という。」


(誤った邪な見解はたくさんあるが、根本的には、因果をつなげない「断見」と、無常でないものがあるとする「常見」の二つにまとめられる。
 断見にはいろいろあるが、まず、善行に善果が伴わず、悪行に悪果が伴わないという考え方と、目に見えないから神も仏もないと決めつける考え方が挙げられる)

 十二因縁をじっと考えていると、こせこせした思考が離れて行きます。
 自分は何とつまらぬ考え方をしているのかと気づかされもします。
 愚かで否応のない〈この生〉、一方では数限りないおかげさまに生かされている〈この生〉。
 独断や偏見でいきり立ち、ぶつかり、傷つけ、傷つけられつつ生きてなどいられないではありませんか。


 〝ああ、み仏のお叱りを受けた〟あるいは〝今、弱い自分が鍛えられている〟としか思えない場面では、自分にある貪り、怒り、愚かさの三毒をチェックしましょう。
 そして、三回にわたって述べた「不浄観」「慈心観」「縁起観」を参考にしていただければ幸甚です。




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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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